#一代宗師
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boardsdonthitback · 6 months ago
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Chang Chen - The Grandmaster (2013)
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addictivecontradiction · 2 years ago
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一代宗師, 2013
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beyourselfchulanmaria · 2 years ago
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「 我爹常說,
習武之人必有三階段,
見自己,見天地,見眾生。」
一代宗師 /The Grandmaster
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chanretom · 5 months ago
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高雄網紅店太古里串串麻辣火鍋旗艦店
睽違一年,真的…久等了!因為店家重視每項細節,所以來店時會眼睛為之一亮感受,走進太古里串串麻辣鍋就像穿梭1400年,進到唐代風情,到所裝盛的瓷器,就來自景德鎮,轉頭看,就是清明上河圖。還有很多的不可思議,等著來發掘~還有更多故事。
結合正宗四川成都串串香麻辣鍋,這就是成都,無法被模仿的味道-意境餐廳詹翔霖副教授
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yoga-onion · 9 months ago
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[Image above: D. T. Suzuki (11 November 1870 - 12 July 1966) was a Japanese Buddhist scholar and doctor of literature. ]
A message from 23 nights temple Q&A: Part 2 [Part 1]
Next question was, want to know more about Tendai Buddhism and how to do face-to-face learning outside of Japan:
More than 1,400 years after its introduction, Buddhism in Japan was born from the founders of sects in Japanese history and culture. Today, about 13 major sects exist, including the Tendai sect. Of these, three are Zen sects: the Soto, Rinzai and Obaku.
Among them the most representative are, Saicho, founder of the Tendai sect, whose head temple is Enryaku-ji on Mt. Hiei; Kukai, founder of the Shingon sect, who brought esoteric Buddhism to Japan, whose head temple is Kongobu-ji on Mt. Koya; and Dogen, author of the Shobogenzo, a philosophy book said to be a manual for Zen meditation practice and originator of mindfulness. Founder of the Soto sect, whose main temple is Eiheiji Temple.
Buddhism means 'Buddha's teachings'. In the beginning, everything was transmitted orally and it was only after Buddha's death that documents and scriptures were created. All of the Buddhist scriptures that remain today were described by the memory of Buddha's disciples. In the meantime, it underwent various transformations through the views of translators and other factors, and representative gurus from different countries established and divided into sects. The Tendai sect is one of these sects, founded by Master Saicho. Incidentally, my trusted teacher is a Zen monk of the Soto sect, and he says that one should not be confined to a sect. It is because Dogen, the founder of the Soto sect, taught that the Buddha's teaching is one and that we should not be obsessed with sects.
Those wishing to study face-to-face or Buddhist thought outside Japan should visit your local Buddhist temple or Zen centre. You can easily find one by hitting the usual keywords. However, not all are good teachers. It is recommended to search patiently for a teacher or centre that suits you. For international learners, books by Japanese Buddhist scholar D.T. Suzuki are relatively accessible. He wrote on Zen in English and introduced Japanese Zen culture to the rest of the world. He was also a prolific translator of Chinese, Korean, Japanese, Vietnamese and Sanskrit literature.
In fact, the teachings of Zen that we are learning are not like there is a holy scripture that says this is the absolute truth, nor is there a founder who says that this is the absolute truth.
And it is best not to decide on a teacher based on sect or culture, but to knock on the door of a person you can identify with. More importantly, he or she may not only be in the temple.
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二十三夜堂からのメッセージ Q&A: その2 [その1]
次の質問は、天台宗についてもっと知りたい、日本国外で対面で学ぶ方法を知りたいというものでした:
伝来から1400年余りの年月を経て、日本の歴史文化のなかで、宗派の開祖たちから生まれたのが「日本の仏教。 現在、大きな宗派として存在しているのは、天台宗を含め約13宗派。その中で禅宗は、曹洞宗、臨済宗と黄檗宗の3宗。
中でも代表的なのは、天台宗の開祖の最澄、総本山は比叡山延暦寺、日本に密教をもたらした、真言宗の開祖の空海、総本山は高野山金剛峯寺、そして、坐禅修行のマニュアルとも言われている哲学書「正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう)」の著者でマイン���フルネスの元祖、曹洞宗の開祖の道元、大本山は永平寺など、が挙げられる。
仏教とは「ブッダの教え」という意味である。当初、全ては口頭で伝えられており文書·経典ができたのはブッダ没後のことだ。今日残っている仏教経典はすべて、ブッダの弟子たちの記憶によって記述されたもの。その間訳者の見解などを通して様々な変形を繰り返し、各国の代表的な教祖が宗派を立ち上げ分かれていった。天台宗はその一つで、最澄が立ち上げた宗派である。因みに私の信頼できる先生は曹洞宗の禅僧だが、彼は宗派に囚われるべきではないと言っている。というのも曹洞宗の開祖である道元禅師が「ブッダの教えは一つであり、宗派に執われるな」と教えていたからだ。
国外で対面学習や仏教思想を学びたいとご希望の方々は、ローカルの仏教寺院、または禅センターを訪ねてみると良いと思います。お決まりのキーワードを叩けば、すぐに見つかります。但し、全てが良い先生とは限りません。自分に合った先生やセンターを根気よく探すことをお勧めします。海外の方々は、日本の仏教学者、鈴木大拙氏の本が比較的手に入りやすいと思います。彼は英語で禅に関する著作を発表し、日本の禅文化を世界に紹介し、また中国語、韓国語、日本語、ベトナム語、サンスクリット語などの多作な翻訳者でした。
実際、私たちが学んでいる「禅」の教えは、これが絶対の真理だという聖典があるわけでも、これが絶対の真理だという教祖がいるわけでもありません。
宗派や文化で師を決めるのではなく、ご自分が共感できる門を叩くのが最良かと思います。もっと言えば、その人はお寺にのみいらっしゃるとも限りません。
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moment-japan · 9 months ago
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京都・願徳寺 如意輪観世音菩薩半跏像(国宝)
京都の洛西、ホテルエミナースを真っすぐ西に進んだ京都・大原野の山の麓にある天台宗寺院「願徳寺」。
そこに佇むのは観音菩薩の変化身の一つで六観音の一尊である国宝の如意輪観音菩薩。
如意輪観音菩薩は六道すべての衆生の苦しみを取り除き、世間に利益を与えることを本位とする仏です。
世間(せけん)とは、もともとインド発祥の仏教用語で、サンスクリット語で「ローカ(砕く)」という意味を持ち、移り変りや破壊を免れられない迷いの世界の事を世間といいます。
こちら願徳寺の如意輪観世音菩薩は、無彩色のカヤの木一木造りで日本の仏像彫刻史上最高傑作といわれる滋賀・向源寺の十一面観音菩薩と並び、見たほとんどの人が、ため息を漏らすといわれる美しい造形美で鎮座しています。
如意輪観音は一般的に六臂ですが、こちらの腕は2本で、衆生の願いを聞く「与願印」と煩悩や畏れを取り去る「施無畏印」を結び輪王座で鎮座しています。
頭のてっぺんから指先、衣の襞に至るまで繊細な彫刻で表現されており、菩薩の髪型では比較的珍しい単髻を七条の山型に形づけた「七山髻」の宝髻が特徴的です。
1200年前の平安時代に彫られた仏像で制作者は不明ですが、何処から見ても造形に破綻する箇所が見当たらないので、相当な腕前の彫刻師であったことは間違いないと個人的に思います。
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ryotarox · 6 months ago
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「コーチング」批判 - Fetal skeletal dysplasia forum
ところが例の「自己啓発セミナー」もこのヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントの流れからでているのです.ですから「自己啓発セミナー」も「コーチング」も基本思想は同じです.それをかんたんにいうと「人間には無限の可能性がある」,「常識や身についた考えかたがじゃまをしてそれらを発揮できないだけだ」というものです. 「自己啓発セミナー」は日本においても1980年代末に爆発的に流行したのですが,高額な受講料や暴力的なセミナー,信者を使った執拗な勧誘などが大きく社会問題となり,マスコミに「人格改造」,「洗脳セミナー」などと批判され,90年代以降はだいぶ斜陽化してしまいました. 現在の日本における「コーチング」の最大手はA社ですが,その前身はB社といって,80-90年代に「自己啓発セミナー」を主に行っていた大手セミナー会社だったのは有名な話です.2000年に起きた世田谷一家殺害事件の被害者夫婦がこのB社の関係者で,事件の背景にB社内部での怨恨が当時噂されていたのを覚えています.もともとB社は80年代に自己啓発セミナーでは最大手であったC社から派生してできた会社です. 80年代末の最盛期には100以上あったという自己啓発セミナー会社でしたが,その後急速に衰退し,宗教化,カルト化するもの(たとえば成田ミイラ化遺体事件で有名な「ライフスペース」や,X-JapanのTOSHIを洗脳した「ホームオブハート」などが有名)が続発するなかで���B社の代表者は,自己啓発セミナーから企業内カウンセリングである「コーチング」の資格発行や出版にシフトし,商売の鞍替えをして成功しました.さらに最近ではビジネスの対象を企業研修やセールスマン研修にしぼっているようです.コーチング最大手が自己啓発セミナーの会社を前身としていたのはけっして偶然ではなかったようです. もちろん上記で述べた歴史的背景などよりもだいじなのは「コーチング」の中身です.しかしその内容も心理臨床理論の俗流解釈だったり,「血液型」性格分類とどっこいどっこいの人間のタイプ分類だったりと,「コーチング」理論それ自体に独創的なものがあるかといわれれば首をかしげてしまいます.これまでの理論や方法論の折衷でしかありません. コーチングの特徴のひとつは,指示や命令をしないことです.相手にじょうずな質問をなげかけることで,相手がじぶんで気がつき,自分でこうやろうと行動をおこす,行動がかわっていくとされています.強制されてではなく自発的にするのだと相手になかば誤解させる,あるいは相手に気づかれずにコントロールする手法です. コーチングは,畢竟,あいてを操作する技術であり,一種の洗脳教育なのではないでしょうか.暴論のようにも聞こえますが,なぜなら人格のもっとも基礎となるべき部分を,「コーチング」は「スキル」によって左右できると考えるからです.ひとは他人に必要な知識を教える権利はありますが,他人のモチベーションや好悪を植えつける権利はないでしょう.すくなくともわたし自身は他人に「コーチ」されたくはないと感じます. そもそも「コーチング」は,高額な費用を出し,専門の講師を派遣してもらって学ぶほどのものなのかというのが正直なわたしの思いです.「コーチング」は現在いわゆる資格商法となっていて,「専門コーチ」も資格が細分化され,うえに行こうとするとすればさらに費用がかかるシステムになっているようです.しかし高いお金をはらってコーチングスキルを勉強しても,実生活で役にたつことはあまりないかもしれません. もちろんここで「コーチング」を批判するのは,「コーチング」がインチキだからとか効果がないからというわけではありません.条件しだいでは有効性はあるのだろうと思います.そうではなく,わたしの感じていた違和感の正体は,「コーチング」が本質的にもつ欺瞞性にたいしてだったと思います.おそらくコーチングは目の前の問題の本質をすりかえているのではないか.それは問題の真の解決ではないのではないか. このことは実は「コーチング」に限ったことではなく,自己啓発系のさまざまな発想法スキルに共通した欺瞞性です.そしてそれは本丸の「カウンセリング」そのもの��たいする根源的批判に通じていくのかもしれません.しかしそのあたりのことはもうすこし考えて,いずれあらためてまとめたいと思います.
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太字は引用時に強調
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shihlun · 2 months ago
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風景的螢幕實踐 第4回 若松孝二與Chantal Akerman的密室=風景論
風景的螢幕實踐 佐佐木友輔
映像創作者暨媒體研究者佐佐木友輔,以電影、攝影、美術、動畫中的「風景」與承載其影像的「螢幕」為主軸,自由橫跨各種作品進行討論的連載系列。本連載以1970年前後曾引發激辯的「風景論」為起點,嘗試進行當代更新。在第四回中,將聚焦於以「密室」作為舞台的兩部電影──導演若松孝二的《胎兒在密獵時》與導演Chantal Akerman的《Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles》。一方是粉紅電影的大師,一方則是聚焦女性日常生活的藝術家……這兩人之間,關於「密室」的觀點,究竟有何共通與差異之處?
松田政男〈作為風景的性──若松孝二與密室的烏托邦〉(1969)
人們聽到「風景」這個詞時,腦中浮現的往往是山川河海或城市街景等戶外場景。但若將「風景」定義為:透過將場所經驗物化為「值得觀看之物」的過程中所產生的產物,那麼建築物的內部空間也就能成為風景。事實上,曾引領風景論爭的松田政男,在其重要論文〈作為風景的性──若松孝二與密室的烏托邦〉中,就將「密室」與「風景」這兩個關鍵詞結合起來,深入分析若松孝二的電影。
在本文中,筆者將從松田的密室=風景觀點出發,重新解讀若松電影,並假設Chantal Akerman的電影也可視為某種密室電影,進而進行比較與分析。
以粉紅電影大師之名聞名的若松孝二,與足立正生等人共同持續創作充滿性與暴力的作品,堅持反權威立場,並在國內外引發眾多爭議。1965年,其作品《壁中秘事》在第15屆柏林影展上映時,甚至遭到觀眾辱罵,在日本國內也被稱為「國恥電影」,飽受批評。但這些聳動風評與實際觀看若松作品時的印象,卻存在落差。實際上,他的電影中幾乎看不到刻意煽情的情色描寫,反而多是令人沮喪壓抑的��愛與暴力,經常在封閉的密室中展開。
松田引用矢島翠的話說:「只要有一間房、一個男人、一個女人、一張床,粉紅電影便能成立。」並據此將若松的電影定位為「密室的劇場」。當時,若松電影的主要觀眾群是年輕男性。他們並非如電影中人物般性解放者,而是閉門在自己房間苦讀至深夜,靠著廣播中女性播音員的聲音自慰──這樣一群擁有「被隔離的認真」特質的青年。對這樣的觀眾來說,若松電影並非為了釋放被壓抑的性衝動而存在,反而更像是「應被持續反覆思索的對象」,即是一面讓人凝視自身慾望的鏡子。
在這裡,松田將幾個密室結構性地重疊──電影院作為密室、若松電影中描繪的密室、觀眾所處的自家密室,以及他們的內心世界這座密室。
若松孝二《胎兒密獵時》(1966)──思辨的、概念化的密室
換句話說,若松電影中的密室,不僅是攝影機所進入、實際進行拍攝的物理空間,同時也是為了「反覆思索」而被建構出的、帶有高度思辨性與抽象性的概念空間。例如,足立正生擔任編劇、若松執導的《胎兒密獵時》(1966)所發生的場景,是一間為拍攝而被塗成全白的「白盒子」密室。主角丸木戶定男(由山谷初男飾演)不只是具有自身背景與故事的角色,他也承載了「施虐性」這一抽象概念。與他同住密室中的江守由香(志摩美波飾)則被設定為與定男前妻長得一模一樣。也就是說,這部作品中不僅是密室本身,連其內部的人物都經過「漂白」,喪失原本的個體性,轉而成為年輕男性觀眾內心投射的「螢幕」。
建築學家原廣司曾將近代社會主導的空間概念命名為「均質空間」。這類空間排除了自然環境、地域特性、文化意涵與宗教性,因其具備完全一致的屬性,因此可作為任何用途的「空白空間」。而《胎兒密獵時》中的密室,正是透過全白塗裝而構築出的均質空間。再加上如水波般閃爍的光照打在這空白空間上,進一步為其賦予了新的意義。這樣的密室,成為懷抱「反出生主義」思想的定男,投射其「回歸母胎願望」的場所。他對自己被生下此世感到怨恨,否定「家庭」這種再生產��系,卻又在這「母胎的烏托邦」中化身暴君,一次又一次地鞭打著被囚禁的由香。
密室的螢幕之上,映照出對家父長制與「母親」這一存在的扭曲慾望。
在〈作為風景的性〉中,松田分析了《壁中秘事》、《胎兒密獵時》,以及由若松企劃製作的《New Jack & Betty》(沖島勳,1969)中的密室。他指出:像是否定生育、肯定亂交等反權力與反家父長制的行動,只能在如此具有思辨性與母胎性的密室中實現。同時也指出,欲突破此種母胎烏托邦所面臨的「終末觀的缺失」──即無具體戰略去改變現況的無力感。總的來說,若松與沖島所描繪的密室,正是1970年前後那群年輕男性觀眾的閉塞感與退行慾望的映照,並藉由這些密室,促使觀眾省思自身處境,探索變革的可能性。
風景的對立語/同義語作為密室
接著,松田提到了若松孝二當時的最新作《二度處女GO GO GO》(1969)。他指出,在該片中,被封鎖出口的公寓屋頂成為廣義上的「密室」。四周所圍繞的不是住宅的牆壁,而是透過鐵網望去的藍天、東京鐵塔與高樓大廈等城市風景。���田從這些看似普通的風景中,看見了包圍我們、並與我們對立的國家權力的運作。
「若是國家權力,它會大膽切斷風景──例如直接貫通東名高速公路。我們享受暢快駕駛的那一刻,正是風景將我們緊緊束縛、〈權力〉將我們全面擄獲的時刻。」
在這個脈絡下,「密室」一詞獲得了對風景的雙重意涵。一方面,密室被看作是對抗作為國家權力的風景的私人領域──是個人內心與性慾的領域。然而另一方面,它也成為在四面被權力風景圍困、無處可逃的絕境象徵。根據文脈不同,密室既可以是風景的對立語,也可以是其同義語。
如果說躲進「母胎的烏托邦」中能暫時保身,那麼人終究無法永遠安於其中。總有一天,必須親手「粉碎那溫暖母胎的烏托邦」或「炸毀密室的牆壁」。當松田這麼說時,「密室」就已經被明確地視作「風景」的另一種表達。而他將真正試圖破壞密室牆壁的行動者,指向了連續槍擊殺人犯──永山則夫。
永山在東京、京都、函館與名古屋四地犯下四起殺人案。他的動機並非單純源自個人怨恨或家庭環境,松田反而認為,他是為了劃破��覆蓋全國、到處均質的風景=權力而扣下扳機……透過這種寫法,松田企圖將原本只能以「情境」或「密室」等抽象詞彙描述的概念,具體化為「風景」這一可視形象,從而更清楚描繪出應當對抗的敵人。
然而,在現實中,永山的子彈尚未撕裂風景,就已奪去了兩名保全與兩名計程車司機的性命。他的反抗行動最終以五名勞動者的死亡作結,包括被判死刑的永山自己──成了悲劇的終局。
同樣地,松田指出,在若松電影中與男性觀眾一同苦悶的主角們,也只能藉由選擇悲劇性的結局來逃離密室=風景。例如,在《胎兒密獵時》中,定男被奪走了原本用來虐待由香的刀子,接著被由香反過來刺殺致死。
這名出於自保而犯下殺人行為的由香,在密室中與定男建立起一種扭曲的共犯關係。她既拒絕被當作理想的「妻子」或「母親」,也試圖逃出這個作為母胎烏托邦的密室。然而,另一方面,也正因為由香的反叛與她撕裂密室=風景的行動,松田=若松試圖傳達的權力批判計畫得以完成,定男也在被殺死的同時獲得某種解放。
這個原本應該只是「被反覆思索之物」的思辨性、概念性的密室,實際上並非只有思考主體可以主導的自律空間。無論是在維持密室的階段,還是要破壞它的瞬間,「女性」這個他者總會被召喚而來,被迫同時扮演忍受暴力與施加暴力的角色。*
Chantal Akerman《Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles》(1975)──呈現「另一種觀看方式」
距〈作為風景的性〉發表約五年後,在比利時,Chantal Akerman完成了《Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles》(1975)。這部電影將攝影機帶進Jeanne Dielman(由Delphine Seyrig飾)與她的獨子同住的公寓中,觀察她的日常生活。正如本文開頭所提,這部作品同樣可被視為一種「密室電影」。
兩位導演對密室的處理,乍看之下截然相反。定男所打造的是一個將牆壁漆成白色、冷峻極簡的無機密室;而Dielman的房間則充滿了各種物品。僅在廚房一隅,就排列著食材、調味料、碗盤、圍裙、抹布、手巾、洗劑、刷具等家務用具。Dielman實際使用這些工具進行烹飪與清理。Akerman使用固定攝影機與長鏡頭,耐心地記錄她沉默而專注地重複著每日家務的模樣。相較於若松孝二透過思辨與抽象的密室,描繪作為應被思索對象的「性」與「暴力」,Akerman所描繪的家務,是一連串具體的動作與身體行為的累積。
電影理論家Teresa de Lauretis讚揚《Jeanne Dielman》提出了一種「不同的觀看方式」。早在當時,已經有不少理論試圖批判傳統男性中心的電影美學,或探索屬於女性的美學,但如果所依賴的理論本身仍是由男性所建構,那麼就難以真正脫離男性主導的世界。de Lauretis主張,與其沿用既有理論去正反辯證,不如從根本重新審視:「那些長久以來被認為不具美感價值的事物,是否真的就不具美感?」例如,《Jeanne Dielman》中的女性日常行為──煮飯、洗碗、打掃──在傳統以接吻或爆破為價值中心的電影中,根本被視為無足輕重的瑣碎日常,甚至長期被從銀幕中排除。但Akerman透過改變觀看視角,使這些原本「未及於美」的行為成為應被觀看、被重視的風景。她並未順從男性美學的語言進行否定或肯定,而是展現出「美」可以存在多種可能。
Jeanne Dielman與丸木戶定男
不過,《Jeanne Dielman》與《胎兒密獵時》之間,以及作為密室主體的Dielman與定男之間,並非僅存在對比,也存在數個重要的共通點。
Jeanne Dielman每日按部就班地執行例行公事,而這些日程中也包含了賣淫。第二天的下午,她如往常般接待客人,但從這裡開始,生活節奏開始出現失衡:客人逗留過久,使她不得不丟棄煮到一半的馬鈴薯;泡咖啡也泡不好;逛遍多家店也找不到想買的鈕扣;甚至平時常坐的咖啡館座位也被人搶先佔走……隔天,她用剪刀刺死當天的客人,滿手與滿身是血地癱坐在餐桌前,陷入恍惚。
電影中並未明確說明這起殺人事件的動機,但從她日常節奏逐步崩潰至最終衝動殺人的過程卻描繪得極為細緻,展現出異常的說服力。回頭看來,Dielman對秩序的堅持有些過頭──她總是極度在意既定順序與物品擺放位置。雖然目的與手段不同,但她與定男同樣是試圖建構一個排除不可控制他者的密室,並將自己封閉其中。
Dielman的「例行公事」不僅限於家務,也包含賣淫與外出行程。無論是洋裁店還是咖啡館,她總試圖消除所有偶發因素,並期待自己與他人都能維持一貫的行為模式──就如同松田政男對《二度處女GO GO GO》中的主角所指出的,她將私人的密室延伸到了戶外風景中。然而這樣的嘗試,最終被客人的意外行為打破,她也因此陷入必須「屈服於變化」或「排除他者」的二元選擇。Dielman與定男一樣,最終也走上了透過對他者施加暴力,��維持密室並走向自我毀滅的道路。
與都市節奏連結的密室
我們已經知道,在若松電影中,密室既可視為風景的對立語,也可為其同義語。而這一點,也可用於理解《Jeanne Dielman》。該片可被解讀為一部風景論電影,描繪資本主義與國家權力所建構的「均質風景」中人們無法逃脫的處境。
Jeanne Dielman的公寓到了夜晚,會被窗外光線照亮──那可能是霓虹燈、汽車車燈或其他無法明確分辨的燈光。不同於《胎兒密獵時》中水面般柔和的光影,Dielman屋內所接收到的光線節奏規律卻令人不安──近乎痙攣,喚起一種生理上的焦躁感。它彷彿象徵著Dielman的神經質與過度拘謹,但更像是來自外部世界的一種強迫訊息,促使她不得不那樣行動。
這種節奏,也可以被歸入電影史上一個視覺化都市節奏與人體機械化的譜系之中──像是《The Electric House》(Buster Keaton, 1922)、《Ballet Mécanique》(Fernand Léger, 1924)、《Modern Times》(Charlie Chaplin, 1936)等作品。在這些作品中,工業化社會的節奏滲入了人的身體。而Dielman所處的密室,也同樣成為了資本主義下無盡的生產與再生產鏈的一部分。她透過堅持日常規律來維持現狀、賦予其價值,進一步合理化變革的「不可能」。此外,她也順從市場邏輯,不得不販售自己的性來維繫生活。若定男是靠與他者的扭曲共犯關係來維持密室,那麼Dielman則是靠自我壓抑與勞動,努力維繫密室的秩序──但她依舊無法完全阻擋外界的侵入。
Chantal Akerman《Saute Ma Ville》(1968)與「密室=風景」的掙扎
Akerman在《Jeanne Dielman》中,一方面以深情凝視女性日常動作,另一方面卻也清楚意識到:這些活動隨時都可能被風景=權力吞噬與操控。這種自覺,也強烈體現在全片無可逃離的壓迫感與悲劇結局中。即便殺了一個男人,這一刀仍無法劃破風景;她與兒子的明日,只會更加艱難。這點與懷抱革命幻想、迎向死亡、對共犯由香之未來漠不關心的定男,形成決定性的差異。
回顧 Akerman 的首部短片《Saute Ma Ville》(1968),她親自飾演主角,完成家務與晚餐後,在鏡子上以美容霜寫下「Ça suffit!(到此為止!)」,接著點燃瓦斯,引爆整個房間。影片中對日常細節的描繪、自選悲劇性結局、手持鏡頭的拍攝���僅以聲音表現爆炸──都與若松電影互為呼應。不同的是,此作明確將殺意對準「城市」本身,正如其法文標題「Saute Ma Ville(炸毀我的城市)」。這正與松田政男風景論的「風景=權力結構」觀形成強烈共振。
從《Saute Ma Ville》到《Jeanne Dielman》的過程中,我們可以看到Akerman對「密室=風景」之不可切割性的絕望,以及儘管如此仍試圖開一條裂縫的苦苦掙扎。從歷史上來看,被囚禁於「密室=風景」中的主要受害者,多半是女性,是家庭主婦。從1970年代中期起,「風景論」的主題,也開始融入家庭劇與情感劇,轉化為對「主婦的一日」的各種變奏與再現。
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*補充說明:值得注意的是,在2000年代至2010年代間興起的所謂「零年代批評」(ゼロ年代批評)語境中,也反覆出現與「作為母胎烏托邦的密室=風景論」同構的論述。代表性論者如東浩紀在其著作《遊戲性寫實主義的誕生》(講談社現代新書,2007年,頁321)中為《Kanon》(1999)、《AIR》(2000)等美少女(色情)遊戲辯護,指出這些作品蘊含一方面展現父權主義男子氣概、另方面又對此抱持嫌惡與反省的雙重結構。
對此,宇野常寛在其著作《ゼロ年代の想像力》(早川書房,2008年,頁204)提出反駁,認為東所謂的「自我反省」實際上未發揮反省功能,而只是鞏固並延續男性佔有女性的欲望的表演形式。此外,宇野也追溯了男性御宅文化的源流至漫畫家高橋留美子,批判其所創造出的「如箱庭般的世界裡,被美少女角色包圍,過著樂園般重複日常生活的結構」,稱之為「母性ディストピア(母性反烏托邦)」(頁211)。
再如評論者てらまっと(Teramatto)於文章〈どんでん返しのヘテロトピア──『じょしらく』と震災後の日常〉(《週末批評》,2022年5月21日)中指出,動畫《じょしらく》(2012)描繪的五位美少女落語家的「樂屋」,看似與外界隔絕的烏托邦,但實則是社會性與政治性不斷滲透其中的怪異空間──他稱之為「滿是漏洞的樂屋」。這種對「密室」與「風景」模糊邊界的描寫方式,正可視為動畫領域中的密室=風景論,其與松田政男在若松電影中對密室既為風景的對立詞又為其同義詞的論述形成對應關係。
從這個角度來看,如何釐清1970年代初期的風景論爭與2000年代「零年代批評」之間的異同,無疑也是未來值得深入探討的重要課題之一。
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grossherzigkeit · 4 months ago
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“独裁”すらもできぬまま
私も一応、メディア���世界で衣食している人間なので、他メディアの人などに会えば「小川さん、最近何か面白いネタはありませんかね?」などと聞かれる。雑誌の編集者ともなれば、そうやってほうぼうに聞いて回るのが仕事みたいなところはあるので、自分などにもそういった声があいさつ代わりにかけられるのも当然のことだ。 それで先般発行した季刊『宗教問題』誌2024年冬季号に、私は曹洞宗、真宗大谷派、そして浄土宗という、3つの伝統仏教教団に関する騒動の記事を載せた。いずれも結構、珍妙なスキャンダルである。 曹洞宗に関しては、東京都港区の一等地にある教団本部ビルに移転計画が持ち上がっていたところ、そこにかなり不明瞭な形で外部の金融機関たる大和証券が食い込んできて、恐らく曹洞宗を手玉にとっての土地ころがしでも考えていたのではないかという疑惑が持ち上がったのである。幸い、この曹洞宗と大和証券の契約は一度リセットされはしたのだが、一体だれがどういう形でこういう座組を考え出したのだという謎は残っていて、ある種の責任問題に発展して宗門は今でも紛糾中だ。一応、『宗教問題』誌的にはある程度のシナリオは読み解いていて、「株などの投資が大好き」という世評がある曹洞宗の宗務総長(事務方トップ)に「宗教法人への食い込み方がすごい」という評判のある、業界ではかなり有名な大和証券のやり手営業マンが近づき、ようするに曹洞宗側をハメて落とそうとした話だったのではないかと、私のほうなどでは考えている。 浄土宗では先の宗議会(宗門の予算や方針を決める会議)で、教団としての規則改訂を審議したところ、本規程が否決されたのに補助規程だけ可決するといった、別に宗教どうこう関係なく、およそ「議会」というものではありえない椿事が発生。あきらかに事務方のミスであるとともに、そもそも議員が、自分たちが何の議案を審議しているのか、まともに考えていないのではないかという状況が露呈した。宗教法人の規則は(浄土宗のような教団組織の場合)文部科学大臣の認証をうけねばならないもので、この3月の年度内に何とか状況を改善しないと、筋の通らない規則を抱えた宗教法人が放置される状況になり、ようするに国のほうから問題視される恐れもある案件なのだが、取材してみても何か浄土宗には危機感がない。 真宗大谷派の話はかなり滑稽で、��の業務上の関係から大谷派の教団組織とやりとりのあったらしい、「大谷」という名字を持った損保ジャパンの社員が、いつしか大谷派の教義的象徴である「門首」職を世襲で務める、開祖・親鸞の子孫「大谷家」の一族であると吹聴して回るようになり(当然ながら名字が「大谷」というだけで、何の関係もないのだが)、いろいろな場所で「本願寺当主」などと名乗って講演活動をしたり、美術展の審査員などをして回っていたという事実が発覚した話を記事にしている。これについては大谷派はもらい事故同然ではあるのだが、この「謎の大谷氏」の言動は相当ずさんで、ちょっと調べればすぐ騙りの詐欺師と気付くようなものだった。これを受け入れて金など払うほうも何かがおかしく、大谷派は毅然と対応して抗議の一つもするべきと思うのだが、何を怖がっているのか、一切抗議などはしないという。 さて、それがここ数カ月くらいに、私などが見聞きした「宗教界の面白い話」だったのだが、正直言ってどれもこれも、「悪の野望によって動かされた大事件」というよりも、「情けなくてしょぼい話」なのである。野心あるお坊さんが、剛腕で巨悪をなそうとしたというより、単にどれもこれも、宗教界側の不手際、見識のなさ、決断心に欠ける態度などにより引き起こされた、本当に「どうしようもない話」なのである。一般メディアの方々も、これではちょっと扱いに困るようなところがあるらしく、話しても苦笑しながらどこかへ消えて行かれた。 思えば私も宗教界の周辺居住者となってから20年近い月日が流れたわけであるが、昔の宗教界には、――それこそ池田大作などを筆頭にして――よくも悪くも「デカい人」がいた。彼らはまったくの野心ある悪人で、壮大な悪の構図を描いて、本当にいろいろ悪どいことをしていた。私などは、本当にいいのか悪いのか、そんな宗教者たちの最後の光跡を見ることができた世代だった。しかし、最近の宗教界で起こる事件というのは、本当にそんなものではなくなった。その多くは、そんな地位に就く力量もないような人が、何かの間違いで重い肩書だけを付けてしまい、地位にあった能力を発揮することもできずに、おかしな失敗をしてしまうような話ばかりだ。これは実は伝統宗教、新宗教の別を問わない。昔の宗教界には「悪の独裁者」みたいな人が本当にいたりしたのだが、いまでは「独裁」をやる器量のある人すら失われてしまった。 それは別に、「悪人」に限った話でもない。ここ数日も人と話していたのだが、本当に宗教界には人がいなくなった。昔であれば、高田好胤や今東光、寺内大吉な��といった、「普通の人でも知っているお坊さん」がいたものなのだが、いまそういう人は本当にいなくなった。もっとも、今は政界でも経済界でも「大人物がいなくなった」と言われる時代なので、別にそれは宗教界に限った話ではないのかもしれないのだが。 しかし、能力のない人が失敗して、自分で転ぶだけならば自業自得なのだが、ここ最近になってそれこそ大和証券だの損保ジャパンだの、そういう「おかしな体たらくになった宗教界」に目を付けたハイエナたちが、怪しげな底意をもって宗教界を食い物にしようとしている事例が出てきているのではないか、などと、ここ最近の「宗教界の面白い話」を見て、私は感じてもしまったのである。 宗教心、教義といったものは、野に一人でも真剣にそれを奉じて生きている人がいれば、永遠不滅である。しかし、「寺」「教団」などといったものは、本当に内側がダメになるとあっさり立ち行かなくなるものなのかもなあと、ここ最近の「宗教界で起こる事件」の性質を見ながら、私はひそかに思う。まあ、そうしたものが本当に、守るに値するものなのかどうかも、わからなくなっている時勢なのですが。
2025年2月18日
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ari0921 · 3 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和七年(2025年)3月25日(火曜日)
    通巻第8709号 <前日発行>
「ドミニオニズム」とは何か
  トランプは何故、イスラエル大使にドミニオニストを選んだか?
*************************
 神が支配するキリスト教原理主義を「ドミニオニズム」と呼ぶ。分かりやすく言えば『アメリカのタリバン』である。
旧約聖書に基づき、キリスト教徒が統治する国家を樹立しようとする思想である。
 トランプ大統領自身はプロテスタントの長老会に所属するが、キリスト教福音主義のエバンジュリカルから圧倒的に支持されている。長老会は長老派、プレスビテリアンとも訳され、カルヴァンの教えに基づく。
ドミニオン主義とは、「支配神学」であり、原典と考えられるのは、神が人類に地球の「支配権」を与えたという欽定訳聖書の創世記 1 章 28 節にある。
「神は彼らを祝福して、彼らに言われた。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に這うすべての生き物とを支配せよ」
トランプ大統領が元アーカンソー州知事のマイク・ハッカビーを駐イスラエル大使に指名したのは2024年11月12日のことだった。ハッカビー氏はドミニオン主義者なのである。
ハッカビーはキリスト教福音派の牧師から政界に転身した親イスラエル派の急先鋒、トランプ第1次政権ではエルサレムに米大使館を移転したほど、イスラエル贔屓である。
そのうえ、ハッカビーの娘サラ・エリザベス・ハッカビー・サンダースは現在、アーカンソー州知事(第47代)。2017年7月から2019年7月までのトランプ第一次政権ではホワイトハウス報道官を務めた。
ドミニオン主義では、福祉制度も社会保障制度も「非聖書的」であり困っている人は教会が世話をするべきだと主張する。トランプが教育省解体を唱え、教育は州に戻せとする考え方の基礎は、この発想から来ている。
キリスト教再建主義者のなかにはさらに踏み込んで、政府に何らかの援助を頼るのは「偶像崇拝」に当たるため道徳的に非難されるべきだと断言する一派もあるが、保守的なキリスト教政治家のすべてが同意しているわけではない。
 ドミニオン主義者は「米国は宗教の自由という教義に基づいて建国されたのではなく、神権の媒体として中心的役割を担うキリスト教国家だ」と認識して��り、したがってイスラエル国家に対する強力な支持が生まれる。 
ドミニオニストは一時期、ティー パーティーの主導権を握り、元米国上院議員で 2012 年の大統領候補だったリック サントラム、上院で活躍中のテッド クルーズはティーパーティの支持を得て当選した。議会の異端児ランド・ポール、元大統領候補でアラスカ州知事のサラ・ペイリンらもドミニオン理論の理解者だという。
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nyantria · 3 months ago
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ワールドメイト教祖誕生会に国会議員10人が登壇、20人が祝花=立憲民主が過半数
2025年3月18日火曜日
 ワールドメイト教祖・深見東州氏の誕生日を祝う「第25回深見東州バースディ個展 宇宙に遊ぶ、能楽師のような個展と展示会!!」が18日、千葉県浦安市のホテル「ヒルトン東京ベイ」で開幕した。深見氏作の絵画や書などの個展、時計や宝飾品の即売会のほか、深見氏の料理教室などの企画も目白押しで1週間(24日まで)開催される。
 そんな教祖の「誕生会」に、与野党の国会議員10人が出席し登壇。国会議員19人と地方議員や市長が祝花を贈っていた。それぞれ、国会議員では立憲民主党所属が過半数を獲得した。
(中略)
 深見氏のバースデーイベントには例年、国会議員を中心に多数の政治家が出席、祝電、祝花の形で祝意を表明している。
関連記事(昨年の誕生会):
ワールドメイト教祖のバースデーに現職国会議員19名と柏市長が祝花
 毎日先着1000名に無料で弁当が配布されるほか、おにぎりとパンが食べ放題、ドリンク飲み放題で、入場も含め全て無料だ。信者でもないのにタダ飯目当てで来場したという都内の男性(50歳・ジャーナリスト)は、立民議員の多さに眉をしかめる。
「ワールドメイトは過去、高額なお布施などが問題視され、批判的な報道をしたメディアやジャーナリストを相手に訴訟を乱発した〝訴訟カルト〟として知られている。そんなワールドメイトの教祖の誕生会で、統一教会と自民党議員との関わりを追及してきたはずの立憲民主党の議員たちがわんさか登壇したり祝花を贈ったりしているのはどういうことか。立憲民主党の揚げ足を取りたがる人から見たら、メシウマなのではないか。しかも、そのメシがタダときている」
登壇、祝電、祝花を贈った政治家の一覧
◇登壇
鈴木宗男(参=無所属)
平沢勝栄(衆=自民)
海江田万里(衆=立民)
小沢一郎(衆=立民)
松木謙公(衆=立民)
多ケ谷亮(衆=れいわ)
佐藤公治(衆=立民)
北神圭朗(衆=無所属)
原口一博(衆=立民)
杉村慎治(衆=立民)
下村博文
◇祝電
鈴木貴子(衆、自民)
亀井��香
◇祝花
現職議員等
小沢一郎(衆=立民)
平沢勝栄(衆=自民)
前原誠司(衆=維新)
原口一博(衆=立民)
浅尾慶一郎(参=自民)
松木謙公(衆=立民)
萩生田光一(衆=自民)
世耕弘成(衆=無所属)
伴野豊(衆=立民)
高村正大(衆=自民)
牧義夫(衆=立民)
北神圭朗(衆=無所属)
鳩山二郎(衆=自民)
末松義規(衆=立民)
多ケ谷亮(衆=れいわ)
城井崇(衆=立民)
西川将人(衆=立民)
水野素子(参=立民)
池田真紀(衆=立民)
佐藤公司(佐藤公治=衆=立民の誤りか?)
太田和美(柏市長、無所属)
野澤哲夫(千代田区議会議員、維新)
元国会議員等
亀井静香
高村正彦
下村博文
西村眞悟
木内孝胤
舛添要一
川島智太郎
石川知裕
樋高剛
石関貴史
大西宏幸
谷川とむ
※高村正大衆議院議員が漏れていたため追加しました(2025年3月20日)
やや日刊カルト新聞: ワールドメイト教祖誕生会に国会議員10人が登壇、20人が祝花=立憲民主が過半数
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fukagawakaidan · 10 months ago
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ)  五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた)  猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。  この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。  轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」��「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下)  家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴��南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね)  長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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addictivecontradiction · 4 months ago
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一代宗师, 2013
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mvrider6 · 13 days ago
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萬福寺
京都府宇治市にある日本三大禅宗の一つ黄檗宗の大本山
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珍しい中国明朝様式の伽藍で京都ながら異国情緒が漂う。入り口となる総門は別名漢門とも呼ばれる
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総門をくぐったところにある放生池
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総門の先、暫し歩く中央に敷かれた菱形の平石は両側を石條で挟んだ特殊な形式であり、龍の背の鱗をモチーフ化したものとの事
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続いて三門。重層の楼門造りで、左右に裳階(もこし)、山廊があり、大棟中央に火焰付宝珠がある
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三門をくぐって内側から
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三門の正面には玄関とも言うべき国宝の天王殿
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この辺が凄く中国っぽい
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弥勒菩薩の化身たる布袋像
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四方を守護する四天王
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韋駄天
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珍しい布袋袋の祈願
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なんか良い感じの廊下が回廊となっている
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天王殿を出て正面に進む
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これまた国宝の大雄寶殿。萬福寺の本堂であり最大の伽藍
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整然な本堂の前庭
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ご本尊は釈迦牟尼佛
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周りには高僧たち十八羅漢像
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下は鐘楼
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伽藍堂
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300人が一堂に食事ができる斎堂(食堂)中央に八部衆の一人、緊那羅王菩薩が祀られている。木庵の書による額には禅悦堂と記されている
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斎堂前にある魚板🐟木魚の原型で行事や儀式の時刻を報せる時に打たれる時計の代わりの様なものデカい😅
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反対にある雲版は銅板製
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続きは以下から
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chanretom · 10 months ago
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小北百貨發跡傳奇IPO 策略管理與格局-管理領袖班研討個案MBA 講義
以人為本 以誠為商
「黃卜文是雜貨店大王也當之無愧!」
「做人家不想做的事」、「賣人家不想賣的東西」、「留人家留不住的人才」3大原則,讓小北百貨得以掌握機會迅速擴張。小北百貨店內的商品超過2.5萬種,商品可以說是琳瑯滿目,24小時���業的特性,也成為小北百貨一大賣點。而新設分店的重要職務,也是從優秀的員工中拔擢,甚至還開放員工認股,讓許多小北百貨的員工對自身企業有著無與倫比的使命感與歸屬感。
五金小霸王用叛逆經營學搶攻商機/李建興
一九八○年代末,黃卜文原是和家族幾位成員在台南市小北夜市一帶合夥開設海產店,在那個「台灣錢淹腳目」的年代,人人肯交際、消費,因此黃家的海產店,一度從台南開到了高雄,成了擁有五家分店的連鎖店。孰料,進入了九○年代,台灣的經濟開始走下坡,海產店的生意大不如前,眼看著幾個家庭賴以為生的事業拉出警報,讓身為負責人的黃卜文備感壓力,苦思突圍之道。
當時黃卜文不斷地問自己:「到底什麼才是最不受景氣影響的萬年行業?」一位友人不經意地回答他說:「景氣壞,大家在意的是,能不能用更少的錢買到同樣的東西,而不在於你賣了些什麼!」這句話給了黃卜文一記當頭棒喝,他忽然體會到:「在荷包緊縮的時代,惟有平價商品才是王道!」
因緣際會下,接觸到了某位五金大盤,在幾經評估下,黃卜文取得家族幾位合夥兄弟的共識下,決定改行賣起五金用品,試圖在景氣黑暗期,闖出一片天。
改行之初,由於隔行如隔山,黃卜文也只敢牛刀小試,他先把位於小北夜市的海產創始店收掉,花了新台幣一百萬元,就在原地搭起棚架,改名叫小北百貨,批了一些貨,就改行賣起五金來。
有別於其他人開店總是大刀闊斧地裝潢、搏門面,黃卜文深知自己要走的是「平價路線」,於是第一家小北百貨不但貨架用輕鋼架組成,地板也是簡易的水泥地,設備十足簡陋,但也就在設店成本降低,貨品才得以低價售出,搶食市場。以平價闖市的小北百貨,一開張就頗受好評,自此一炮而紅,於是幾年內,黃卜文將海產店的招牌一一換上了小北百貨,甚至還陸續增開店面,直至今日的五十家店規模。
不過,相對於其他的五金行至今多半只是小小的單店,小北百貨能成為連鎖集團,必有過人之處。問起其中的「眉角」,黃卜文的弟弟,也是小北百貨經營者之一的黃義弘雲淡風清地說:「因為我們總是做人家不想做的事情、賣人家不想賣的東西、留人家留不住的人才!」這一語道出了行事向來低調、反骨的黃卜文,成功的「叛逆經營學」。
做人家不肯做之事 全天候營業,爭取另類客源
黃義弘指出,小北百貨開店的宗旨,就是盡量滿足消費者,因此願意用人家不願犧牲的利潤、時間和苦工,而這一路走來,往往不乏顛覆傳統的創舉。首先,為了維持平價的特色,小北百貨貨源早在九○年代時期,當同業們還仰賴台灣貨時,黃卜文就已耗費工夫,前往大陸、泰國、東南亞各地尋找貨源,由於當時這些海外批發市場就已經貨品齊全,加上批發價往往是日製、甚至台灣本土製的半價,因此小北很早就抓準了這穩定又低廉的貨源,扎穩根基。
為了分散風險,小北同時也在台灣設廠加工生產,甚至從零售商跨足到批發,奠定了今日「五金王國」的地位。
然而,有別於一般平價商店,總給人「粗俗」、「隨便」的感覺,小北除了下苦工找貨源外,「花時間」經營,讓客人覺得「物超所值」,更是小北的成功之道。有一回深夜關門後,卻有顧客緊急敲門,要求黃卜文開店賣他東西,在客人百般請求下,黃卜文勉為其難開門應客,等到結帳時,只見客人感激地說:「還好你肯賣,以後只要急用,我都會來光顧!」
賣人家不願賣之物 不拒冷門品,增加來客意願
這句話提醒了黃卜文,他心想:「與其和別家搶生意,到不如簡簡單單地撿人家不肯做的生意!」因此,二十四小時營業成了小北百貨的慣例,也成了該連鎖店最無可取代的賣點。
黃卜文這個「撿人家不做的生意」哲學,除了實現在時間,還在品項上發揮得淋漓盡致。有別於其他百貨五金同業,為了節省採購成本以及降低庫存壓力,往往拒賣一些零星的冷門商品,但黃卜文則採取「只要顧客可能用得到的東西都進」的作法。於是在小北百貨裡,販賣的品項多達一萬多種。
事實上,黃卜文這項多元進貨的策略,一開始曾有人質疑,擔心占空間造成庫存,但後來證明,這些冷門商品卻使得一些原本不是小北的客人願意上門找貨,連帶帶動其他主流商品的購買率。「這就是小雞帶母雞效應!」
目前,黃卜文更將帶動效應進一步發展,現階段在小北百貨動輒一、兩百坪的店面裡,也會騰出空間,讓泡沫紅茶或檳榔攤業者進駐,以增加品項的多元化,也相互拉抬買氣,達到相乘效果。
留人家留不住之人 不自立門戶,店長也可參股
值得一提的是,小北的壯大,與該公司員工高度忠誠十足相關。
黃卜文在創業之初,就深深明瞭五金雜貨業創業門檻低,股東、員工很容易心生異動,想自立門戶,於是他和所有大股東約法三章,凡小北的大股東都不能自立門戶,就算要自行開創新業,也要以小北百貨的名義合資創立,而在這種「類共產」的制度下,讓小北直至今日免除了分家崩解的原因。
至於員工方面,為了獎勵優秀員工,每每小北百貨開設新分店,一定從既有員工中拔擢優秀的人才擔任店長,並讓新店長出資參股,以增加店長的使命感和歸屬感,這也是小北得以人事安定、績效卓著的主因。
「別看小北小,他們的很多作法,可都是大集團爭相仿效的喲!」小北不僅在平價中創商機,由於經營方法獨到,總能在平凡中見偉大,在許多連鎖同業的眼中,小小的小北,可是不可忽視的大哥大。
五金百貨年商機6百億!小北年營收逾30億:目標拚上市櫃
2019/04/24
小北百貨總部設在台南,目前全台有120家分店,光去年營收就高達30多億,下一步目標上市櫃。小北百貨公關吳澄彥:「訂定一個500家的目標,做為一個規模,當然未來達到這樣的一個規模的時候,也不排除做一個上市櫃的規劃。」
台灣有1300家五金百貨店,年市場規模達600億,不讓小北專美於前,寶雅也預計9月開設五金百貨連鎖店,取名「寶家」鎖定男性客群。
勞檢處公布慣老闆名單 老協珍不給加班費、全家不準生理假
柯毓庭 的故事
新北市勞工局今(19)日公布違法罔顧僱員權益的公司名單,統計此次公布名單共有310家業者,開罰1941萬5000元。其中赫見知名高級食品廠商老協珍讓員工超時加班還不給加班費,被裁罰13萬元外,全家便利商店也因拒絕員工請生理假被裁罰2萬元。
勞動檢查處分析指出,勞基法違規情形以未依法給付加班費最為嚴重,計有61家;其次為未依法置備工資清冊或未提供勞工工資各項目計算明細,有38家;至於未依法置備出勤紀錄或未逐日記載勞工實際出、退勤時間,則有37家。另外違反職安法部分,仍以未提供必要安全衛生設施最為普遍,計有112家。
其中知名高級食品老協珍,因延長工作時間超過法令規定,被裁處5萬元,又因延長工作時間未依規定加給工資,再被裁處8萬元;全家便利商店則是因為拒絕員工請生理假,被裁處2萬元。另外上榜的還有讓員工加班卻沒給費的賓航賓士汽車、沒給特休的達美樂披薩。
板橋知名美食油庫口小吃店,則因去年4月發生員工欲清洗烤網用鋼盆盛裝腐蝕性物質,鋼盆卻被腐蝕導致員工身體被腐蝕受傷的勞安意外,未依規定通報勞動檢查機構,被裁罰6萬;同樣因設備或措施不符合安全規定而被裁罰的,還有雲品國際酒店。
#詹翔霖老師#2024台灣連鎖加盟創業大展-台北連鎖加盟總部的建置與管理-詹翔霖副教授#詹翔霖詹翔霖老師#人力資源的管理與運用-有人斯有財講座-90-勞委會委員詹翔霖副教授#詹翔霖#小北百貨發跡傳奇IPO 策略管理與格局-管理領袖班研討個案MBA 講義#以人為本 以誠為商#「黃卜文是雜貨店大王也當之無愧!」#「做人家不想做的事」、「賣人家不想賣的東西」、「留人家留不住的人才」3大原則,讓小北百貨得以掌握機會迅速擴張。小北百貨店內的商品超過2.5萬種,商品可以說是琳瑯滿目,24小時#五金小霸王用叛逆經營學搶攻商機/李建興#https://www.businesstoday.com.tw/article/category/80408/post/200902190011/#一九八○年代末,黃卜文原是和家族幾位成員在台南市小北夜市一帶合夥開設海產店,在那個「台灣錢淹腳目」的年代,人人肯交際、消費,因此黃家的海產店,一度從台南開到了高雄,成#當時黃卜文不斷地問自己:「到底什麼才是最不受景氣影響的萬年行業?」一位友人不經意地回答他說:「景氣壞,大家在意的是,能不能用更少的錢買到同樣的東西,而不在於你賣了些什#因緣際會下,接觸到了某位五金大盤,在幾經評估下,黃卜文取得家族幾位合夥兄弟的共識下,決定改行賣起五金用品,試圖在景氣黑暗期,闖出一片天。#改行之初,由於隔行如隔山,黃卜文也只敢牛刀小試,他先把位於小北夜市的海產創始店收掉,花了新台幣一百萬元,就在原地搭起棚架,改名叫小北百貨,批了一些貨,就改行賣起五金來#有別於其他人開店總是大刀闊斧地裝潢、搏門面,黃卜文深知自己要走的是「平價路線」,於是第一家小北百貨不但貨架用輕鋼架組成,地板也是簡易的水泥地,設備十足簡陋,但也就在設#不過,相對於其他的五金行至今多半只是小小的單店,小北百貨能成為連鎖集團,必有過人之處。問起其中的「眉角」,黃卜文的弟弟,也是小北百貨經營者之一的黃義弘雲淡風清地說:「#做人家不肯做之事 全天候營業,爭取另類客源#黃義弘指出,小北百貨開店的宗旨,就是盡量滿足消費者,因此願意用人家不願犧牲的利潤、時間和苦工,而這一路走來,往往不乏顛覆傳統的創舉。首先,為了維持平價的特色,小北百貨#為了分散風險,小北同時也在台灣設廠加工生產,甚至從零售商跨足到批發,奠定了今日「五金王國」的地位。#然而,有別於一般平價商店,總給人「粗俗」、「隨便」的感覺,小北除了下苦工找貨源外,「花時間」經營,讓客人覺得「物超所值」,更是小北的成功之道。有一回深夜關門後,卻有顧#賣人家不願賣之物 不拒冷門品,增加來客意願#這句話提醒了黃卜文,他心想:「與其和別家搶生意,到不如簡簡單單地撿人家不肯做的生意!」因此,二十四小時營業成了小北百貨的慣例,也成了該連鎖店最無可取代的賣點。#黃卜文這個「撿人家不做的生意」哲學,除了實現在時間,還在品項上發揮得淋漓盡致。有別於其他百貨五金同業,為了節省採購成本以及降低庫存壓力,往往拒賣一些零星的冷門商品,但#事實上,黃卜文這項多元進貨的策略,一開始曾有人質疑,擔心占空間造成庫存,但後來證明,這些冷門商品卻使得一些原本不是小北的客人願意上門找貨,連帶帶動其他主流商品的購買率#目前,黃卜文更將帶動效應進一步發展,現階段在小北百貨動輒一、兩百坪的店面裡,也會騰出空間,讓泡沫紅茶或檳榔攤業者進駐,以增加品項的多元化,也相互拉抬買氣,達到相乘效果#留人家留不住之人 不自立門戶,店長也可參股#值得一提的是,小北的壯大,與該公司員工高度忠誠十足相關。#黃卜文在創業之初,就深深明瞭五金雜貨業創業門檻低,股東、員工很容易心生異動,想自立門戶,於是他和所有大股東約法三章,凡小北的大股東都不能自立門戶,就算要自行開創新業,#至於員工方面,為了獎勵優秀員工,每每小北百貨開設新分店,一定從既有員工中拔擢優秀的人才擔任店長,並讓新店長出資參股,以增加店長的使命感和歸屬感,這也是小北得以人事安定
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yoga-onion · 2 years ago
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Legends and myths about trees
Forest myths, Estonian traditional beliefs (7)
The world of the Estonians’ ancestors – Metsavana, the old man of the forest
Metsavana, also known as metsataat or metsaisa, is a forest deity in Estonian mythology. Metsavana is a compound of metsa ("forest") and vana ("old, ancient"). The names metsataat and metsaisa translate to "forest father" or "forest old man".
Metsavana is one of the many types of forest spirits found in Estonian mythology, such as Metsaema ("forest mother"Ref) and Metsik ("forest fairy" Ref2). Finnic folklore has links with Slavic mythology, shown in Metsavana's similarities with the Leshy and corresponding other spirits.
Estonian forest spirits are often seen as tricksters, generally benevolent but posing some danger to humans who stray from the path or act against them. In Komi folk religion, he is referred to pseudonymously to avoid catching his notice, using names such as "uncle" (djadja) and "old man".
Each forest has its own metsavana. Metsavana is described as a tall elderly man with an unkempt beard, overgrown with moss. His clothes are made of birch and he wears a large birch hat and boots. Metsavana rules over the forest, deciding how plentiful the hunters' harvest will be, and he can speak with the birds and animals. They can be the protectors of wild animals, for example bears, wolves, snakes and foxes.
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木にまつわる伝説・神話
森の神話・エストニアの民間伝承 (7)
エストニア人の祖先の世界 〜 森の老人メツァヴァナ
メツァヴァナとは、エストニア神話に登場する森の神である。メツァタートまたはメツァイサ とも呼ばれる。メツァヴァナは、メツァ は「森」とヴァナは 「古い、古代の」を意味する2語の合成語である。メツァタートとメツァイサは「森の父」または「森の老人」と訳される。
メツァヴァナはエストニア神話に登場する森の精霊の一種で、メツァエマ(「森の母」参照)やメツィク(「森の妖精」参照2)などがこれにあたる。バルト・フィン族の民間伝承はスラブ神話とのつながりがあり、メツァヴァナがレーシーやその他の森の精霊と類似していることからもわかる。
エストニアの森の精霊はトリックスター (悪戯者) として見られることが多く、一般的には善良であるが、道から外れたり逆らったりする人間には何らかの危険をもたらす。コミの民間宗教では、彼の目に留まらないように仮名で呼ばれ、「おじさん」や「老人」などの名称が使われる。
それぞれの森にはそれぞれのメツァヴァナがいる。メツァヴァナは背の高い老人で、髭は手入れされておらず、苔が生い茂っている。服は白樺でできており、大きな白樺の帽子とブーツを履いている。メツァヴァナは森を支配し、猟師たちの収穫の豊かさを決定し、鳥や動物と話すことができる。例えば、クマ、オオカミ、ヘビ、キツネなどの野生動物の保護者にもなれる。
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