#朝霞米軍基地
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txtmatango · 1 year ago
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『アメリカ兵 パンパンと僕ん家』 朝霞米軍基地の兵士たちとの交流を描く紙芝居
田中 私の家は「貸席」という、今日のラブホテルでした。戦後、朝霞にキャンプドレイクという基地ができて第一騎兵師団、4千名が入ってきた。同時に全国から米兵を相手にするおねえさんたちが押し寄せてきた。その人たちは住むところも何もない。うちはたまたま、戦前、戦中、貸席をしていた。当初は当時公民館も何もないので、会合のある時使わせて、そのうち地方まわりの芝居が、駅前に舞台を開き、うちへ来て、安く泊めてと。あと、東京から来る芋掘りの人たちがうちで作業着に着替えていく。いつの間にか、いくらか部屋代ももらう貸席業になる。おねえさん方も来る。するとそういうおねえさん方が兵隊を連れて来て仕事をするところになる。一般の人は来れなくなり、そればかり集まるところに。
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僕が子どものころは、よくいじめられた。遊び仲間や同級生にいじめられるのではなく、そのお母さんとかにいじめられた。「パンパン屋の子、淫売屋の子と遊ぶんじゃないよ」と。
              〜中略〜
独立記念日にキャンプが開放
田中 7月4日のアメリカの独立記念日にはキャンプが町民に開放されました。ゲートは4つあり、一番大きいのが南ゲートで、昔南栄と言ったところで、キャバレーやバーやあやしいところがいっぱいあった。そこからも入れるけれど、僕たちが入ったのは駅前通りの、今の市役所近くの郵便局のところに、北ゲートというのがあった。そこから入って、独立記念日の会場に押しかけた。
何があったかというと、まず子供たちは食い放題、飲み放題。飲んだことのないコカ・コーラ、それからアイスクリーム、コーン、サンドウィッチはある、ジュースはある。アメリカのお姉さんが、こういう格好をして、キャンデーを配ってくれる。皆々は我れ先に馳け寄ります。もちろん大人も押しかける。人、人、人で溢れます。毎年7月4日が楽しみでした。
興味深かった女の子のダンス 自由なアメリカ
ここで一番興味深かったのは、刈り込まれた芝生広場で、アメリカンスクールの生徒でしょう、僕たちと同じ年ごろの女の子が、ダンスをする。今で言うチアリーディングというやつ、おそろいのお尻が丸見えの短いスカートで、 エイヤッと脚が上がり、きれいで可愛くて、ぼく達は声も無く、魅入るだけです。
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僕はこの時初めて、アメリカはなんでこんなに自由なんだろうと思ったのです。日本なら子ども達が運動会で何かをするとき、体格のよい順にぴしっと並べる。上手な子、可愛い子を前に出すとか、きれいなものを着ている子を前に出すとか。当時は貧しかったので小汚い恰好をしている子ばかりだった。どうしてもそうなる。アメリカはそれがない。デコボコで構わない。下手な子も上手な子も一緒に並べている。上手な子はピンと足が上がる。太った子がいて、足が上がらない。でも一生懸命やっている。日本の僕が行っている小学校なら、あの子は一番後ろに下げるはずだ。ところがその足の上がらない太った子は一生懸命やっていて、アメリカはすごいなあと。ダンスが終わり、一人一人名前を呼ばれ、お辞儀をする。足の上がらなかった子が一番拍手をもらっている。
いじわるだったのは日本人の守衛
ここにMPが立っている。この姿は色もほとんど正確です。他に、日本人の駐留軍労務者という、守衛のような人たちがいました(青い服)。その人たちがえばっていました。やたら入ってくる人出ていく人に、向こうではタダで配っているのに、ものを持ち出していないかと因縁をつけたり、わざわざ子どものポケットを探ってみたり。日本人の守衛さんにはずいぶんいじめられた。
              〜中略〜
田中 その頃は、子どもが進駐軍をこわがったり、一方で「ギブミーチョコレート、チューインガム」と言いながら追いかけたという話をよく聞くんですが、僕はその経験はまったくないです。アメリカ兵の方から、寄ってきてくれた。たまたま僕はこわいという気持ちがないから、呼んでいるとわかる。行くと、ポケットから出していろいろなものをくれる。するとあいつもらったと、みんな寄ってくる。兵隊もみな若い。自分たちのあんちゃんみたいなもの。弟みたいのが寄ってくれば、可愛いでしょう。
特にうちには、当時秋田から中学校終わって東京に出てきてたまたまパンパンになってしまったおねえさんがいた。その人は、ベリーさんという名を黒人兵からもらって、うちの貸席に長期滞在していた。その人にも可愛がってもらって、その��リーさんの特定の相手、当時オンリーさんといいましたが、黒人兵で年中スティックをお尻のポケットに入れていて軍楽隊のドラマーだったトニーさんにもずいぶん可愛がってもらった。
ベリーさんは結局は殺されるんです。同業者、パンパングループから殺される。トニーさんとベリーさんのお話を描いた「ベリー嬢奇譚」というのが独立した紙芝居になっています。その話はかなり長いことやっており、自分では一番好きな話です。
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ベリー嬢奇譚
ベリーさんは、中学終わってすぐ、秋田県北秋田郡米内沢村というところから出てきた。米内沢にいても仕事などなかった。大きなお宅の女中や子守に行くとかが関の山なんですって。家も貧しかったらしく、子どもも大勢いて、中学を終わって、東京へ行けば何とかなるだろうと出てきた。最初上野に着いた時、東京に出てはきたが何をしてよいかわからない。右も左もわからない。歩いていたら「女中入用」と貼ってあった。それは上野の地下道のしなソバ屋だった。とにかくいいや、使ってくださいと。物置みたいな中二階しか空いていないがそこでいいならと。
そこに2、3ヵ月いたらしい。わずかな給料もらって十分満足していたが、上野は売春婦の本場で、そういうおねえさんたちがご飯を食べに来る。おねえさん方はみないい格好をして、話しているうちに、「あんたここでいくらもらっているの。こんなところにいてもつまらないよ。私たちと同じ仕事したら」。うっすらどういう仕事かわかっていたので迷っていたら、「大丈夫。私たちがちゃんと教えてあげる」。ところがあまり��田舎者過ぎて上野ではうまくいかなかったらしい。そしたらそのうちの一人が「朝霞に行けば」と。その気になって、朝霞に着いた。朝霞駅に着いて困った顔をしていたら、私の家に貸布団を入れているおじさんがいたんです。大宮から来るおじさんで、今でもそのお店はあります。そのおじさんとたまたま会って、どこか泊まれるところを知らないと言ったら、それなら「俺がいつも行っているところに頼んでやるよ」と、最初にうちに来た。おふくろも話を聞いて、うちも商売をしていてお手伝いさんがほしいから、うちで少し働いてみるかい、と言った。そうしてください、ということになった。
その人がうちの使いで通りに出た時、黒人兵とぶつかった。その時、何となくこの人はいいひとだなと思ったそうです。その黒人兵は、片言の日本語ができ、話しているうちに、どこにいるのか、私はこの家で働いている、住んでいるのか、住み込みです、夜遊びに行っていいか。私の一存では返事できない、お母さんに聞いてくる、と。おふくろは、元々アメリカ兵と付き合っていい暮らしをしたい、国にもカネを送りたいと思ってきていることがわかっていたから、黒人兵もいい人だと見たんでしょう。ということで付き合いが始まって、中学を終えたばかりでトニーさんのオンリーに成ります。 トニーさんは色白のベリーさんが大好きでした。オンリーになってもアメリカ兵はずるかった。適当に遊んで、うっちゃって、また他をと。その黒人兵トニーさんはベリーさんをすごく可愛がった。ベリーさんは、当時朝霞で誰も着ている人がいなかったチャイナ服をいっぱい持っていた。成増と下赤塚の間にグランドハイツという米軍の住宅があり、その前に中国人の経営するテーラーとかドレスメーカーがいっぱい並んでいた。そこへ連れて行ってチャイナ服を作らせた。最初はもったいなくて着られなかったが、トニーさんは毎日着ろと。ベリーさんがそれを着て駅前に出ると、当時乞食パン助と言われたくらい兵隊をつかまえるのに必死になっている子たちばかりだから、ろくなものを着ていない。そういう子たちから見ると、あのやろうなんだ、たまたまいい兵隊見つけたからと言ってでかい面するな、といじめられたらしい。そこではいつもおふくろが出て行ってかばった。
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ベリーさんも、おふくろのところから離れられなくなって、結局4年ほどうちにいることになるんです。結局、トニーが所沢の基地に転属になります。それでベリーさんも狭山に住むことに。狭山に行ったんだけれど、どこに行っても縄張りがある。朝霞にも白百合会というグループがあり、よそから来る女の子をみな一回おどかしてグループに入れて上納金を取る。拒否するとリンチを加える。ベリーさんもその土地のグループに目をつけられ、殴ったり蹴ったり、内臓破裂で死ぬ。しばらくしてから、風のうわさというか、朝霞にも流れて来て。朝霞では、「あの黒人がベリーさんを殺したに違いない」と言われた。おふくろは「違う、トニーは決してそんなことをする人ではない」と言い張っていたそうです。
結局は、土地のパンパングループに殺されたということがわかった。それからしばらくしいて、トニーさんがうちに来た。「お母さん、僕のモーニングスター、ベリー死んだよ」と、おふくろにしがみついて泣いたんです。僕はその時学校から帰ってきて、ランドセルしょったままそばにいて。いつもトニーに遊んでもらう時はトニーのベルトに指2本突っ込んで振り回してくれる。その時も同じことをしてくれたのですが、トニーが泣いたんで、よくわからないが僕も泣いちゃって。ここが、紙芝居のラストなんですが、必ず僕は泣いてしまいます。
女性紙芝居師が引き継いでくれる
昨年、浅草の吉原のこうした話ばかりを集めているカストリ書房という本屋さんから朝霞のパンパンがいたころの紙芝居をやってくれないかと声がかかった。その時、たまたま本職の紙芝居屋さんも何人かいて、その中の女の紙芝居屋もっちぃさんが、「金ちゃんが泣いちゃってできないなら、私にやらせてくれないか」と。それでその人が、今やってくれています。
―田中さんはパンパンと呼ばれた女性たちをおねえさんと呼ぶ。
田中 可愛がってくれたおねえさん方です。みんなはパンパンとかパン助とかパンパンガールと言ったけれど、おふくろは僕に決してそんなことばを使ってはいけない、おねえちゃんと言えと。おねえちゃんと言われると向こうもうれしく、弟みたいに可愛がってくれた。いろいろな、珍しいものをもらった思い出がある。おねえさま方に対して、僕はいやな思い出、悪い思い出がないです。何かがあったら、味方をします。
富山の薬売りだったおねえさん
うちに、僕が赤ん坊の頃から来ていたという富山の薬売りのおねえさんがいたんですよ。ゆきちゃんといいました。その人がある時から突然来なくなった。箱に薬を詰めたままでお金も取りにこないし。おふくろが心配していたら、ある時突然アメリカ兵と来て、「私今度メアリーになったんよ」と。薬売りではきれいなドレスを着られない。だからハニーさんになった。ハニーさんも僕が勝手につけた名で、パンパンという呼び名をなぜか女の人はいやがる。どうしたらよいかと思っていたら、アメリカ兵はおねえさんを呼ぶ時に例外なく「ハニー」と呼ぶ。ああハニーさんと呼べばよいと、それからハニーさんにしたんです。薬売りのおねえさんもハニーさんになり、当時いい思いをしたおねえさんもいっぱいいる。ただ、どうしちゃったわからないおねえさんもいっぱいいますが。
―田中さんは記憶力がすごいです。
田中 僕が中学・高校(獨協中学・高校)に入った時、3年生に美濃部という珍しい名の先輩がいたんです。その子が休み時間になると重量挙げをやっていた。僕もいつも見に行っていたら、ある時、持ってみろと。後で聞いたら50キロだったらしいですが、それを僕は挙げた。美濃部先輩は「すごい。坂田金時の再来だ」と言った。同級生が聞いて、最初は「金時さん」と呼ばれていた。それが「金ちゃん」になり、中学から高校を終わるまでずっと「金ちゃん」で通した。いまだに、「金ちゃん」。美濃部先輩は後の古今亭志ん朝です。
―これからも紙芝居を。
田中 他にすることもないし、何とか続けたいです。
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wangwill66 · 18 days ago
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散我心中意難平
H:憂愁在古人有多樣貌,
「憂愁不能寐,攬衣起徘徊。」只是煩惱,卻成千古名言。「沒輸過你絕對不會贏!愈年輕失敗,就愈早遇見成功。」「失敗帶給人們的負面影響可能是毀滅性的,但是,只要你從積極的角度看待它,下次必能反敗為勝。」「失敗是成功最大的朋友,放棄是成功最大的敵人。」「成功成為記事,失敗成為故事。」從小「失敗為成功之母」都能上口,現在有個新名詞「正確犯錯」,修仙成神成佛的必經之路。
快快失敗,快快學習,散去憂愁。「成功的道路上必然會有失敗。如果你沒有失敗,那麼你就沒有進入新的領域。」20250609W1
網路資料
願許秋風離別意,散我心中意難平,願與時光落落為安,只記歡喜不記憂。
表達了一種尋求理解、釋放煩惱的心態。將心情寄託於無形的風中,希望秋風能夠理解自己的心情,並將心中難以平靜的思緒和情感吹散。
願我們與時光落落為安的意思就是希望我們能和時光一樣獲得瀟灑自然,豁達開朗。 只記喜歡不記憂的意思是記住自己喜歡的東西,把令人煩惱的東西拋之腦後就行。
阻風泊歸舟游淨眾寺
宋代:孫應時
日落風更起,江頭船不行。
淒涼大夫宅,蕭瑟故王城。
一醉重樓晚,千秋萬古情。
愁邊動寒角,夜久意難平。
明月何皎皎
朝代:兩漢
作者:佚名
明月何皎皎,照我羅牀幃。
憂愁不能寐,攬衣起徘徊。
客行雖雲樂,不如早旋歸。
出戶獨彷徨,愁思當告誰!
引領還入房,淚下沾裳衣。
愁眉不展
釋  義
雙眉緊鎖,很憂愁的樣子。※���或出唐.姚鵠〈隨州獻李侍御〉詩二首之二。
△「愁眉苦臉」典故說明「愁眉不展」這句成語的意思是雙眉緊鎖,很憂愁的樣子。它的典源可能來自於唐朝詩人姚鵠寫的〈隨州獻李侍御〉詩。其中第二首中有二句是:「舊隱每懷空竟夕,愁眉不展幾經春。」此詩敘述一個仕途不順,被貶遠放的人,懷���著重展抱負的希望,卻每每落空,心情憂愁而雙眉緊鎖,幾年來始終鬱鬱不得志。後來「愁眉不展」被用來指雙眉緊鎖,很憂愁的樣子。「愁眉不展」的「眉」是眉毛的意思,我們常可從眉毛在臉部的樣子,看到一個人心情的好或壞。例如:「眉飛色舞」、「眉開眼笑」、「吐氣揚眉」,雙眉分開上揚,可見心情暢快。如:「當他聽到自己通過考試的消息時,不禁眉飛色舞,喜形於色。」;而「橫眉豎目」、「愁眉不展」、「直眉瞪眼」,就是眉毛揪成一直線,皺著眉頭,表示表心情陰霾不開朗的樣子。如《西遊記》第九四回:「觀見那唐僧在國王左邊繡墩上坐著,愁眉不展,心存焦燥。」用法說明。
隨州獻李侍御二首
朝代:唐代
作者:姚鵠
彩筆曾專造化權,道尊翻向宦途閒。端居有地唯栽藥,
靜坐無時不憶山。德望舊懸霄漢外,政聲新溢路岐間。
衆知聖主搜賢相,朝夕欲徵黃霸還。
再刖未甘何處說,但垂雙淚出鹹秦。風塵匹馬來千里,
蓬梗全家望一身。舊隱每懷空竟夕,愁眉不展幾經春。
今朝儻降非常顧,倒屐寧惟有古人。
失敗帶給人們的負面影響可能是毀滅性的,但是,只要你從積極的角度看待它,下次必能反敗為勝。
維基文車
西遊記/第094回
西遊記
←第九十三回
給孤園問古談因
天竺國朝王遇偶西遊記
第九十四回
四僧宴樂御花園 一怪空懷情慾喜
作者:吳承恩第九十五回
假合真形擒玉兔
真陰歸正會靈元→
姊妹计划: 数据项
話表孫行者三人隨著宣召官至午門外,黃門官即時傳奏宣進。他三個齊齊站定,更不下拜。國王問道:「那三位是聖僧駙馬之高徒?姓甚名誰?何方居住?因甚事出家?取何經卷?」行者即近前,意欲上殿。傍有護駕的喝道:「不要走,有甚話,立下奏來。」行者笑道:「我們出家人,得一步就進一步。」隨後八戒、沙僧亦俱近前。長老恐他村魯驚駕,便起身叫道:「徒弟啊,陛下問你來因,你即奏上。」行者見他那師父在傍侍立,忍不住大叫一聲道:「陛下輕人輕己。既招我師為駙馬,如何教他侍立?世間稱女夫謂之貴人,豈有貴人不坐之理。」國王聽說,大驚失色,欲退殿,恐失了觀瞻。只得硬著膽,教近侍的取繡墩來,請唐僧坐了。行者才奏道:
「老孫祖居東勝神洲傲來國花果山水簾洞。父天母地,石裂吾生。曾拜至人,學成大道。復轉仙鄉,嘯聚在洞天福地。下海降龍,登山擒獸。消死名,上生籍,官拜齊天大聖。玩賞瓊樓,喜遊寶閣。會天仙,日日歌歡;居聖境,朝朝快樂。只因亂卻蟠桃宴,大反天宮,被佛擒伏。困壓在五行山下,饑餐鐵彈,渴飲銅汁,五百年未嘗茶飯。幸我師出東土,拜西方,觀音教令脫天災,離大難,皈正在瑜伽門下。舊諱悟空,稱名行者。」
國王聞得這般名重,慌得下了龍床,走將來,以御手挽定長老道:「駙馬,也是朕之天緣,得遇你這仙姻仙眷。」三藏滿口謝恩,請國王登位。
復問:「那位是第二高徒?」八戒掬嘴揚威道:
「老豬先世為人,貪歡愛懶。一生混沌,亂性迷心。未識天高地厚,難明海闊山遙。正在幽閑之際,忽然遇一真人。半句話,解開孽網;兩三言,劈破災門。當時省悟,立地投師,謹修二八之工夫,敬煉三三之前後。行滿飛昇,得超天府。荷蒙玉帝厚恩,官賜天蓬元帥,管押河兵,逍遙漢闕。只因蟠桃酒醉,戲弄嫦娥,謫官銜,遭貶臨凡;錯投胎,托生豬像。住福陵山,造惡無邊。遇觀音,指明善道。皈依佛教,保護唐僧。徑往西天,拜求妙典。法諱悟能,稱為八戒。」
國王聽言,膽戰心驚,不敢觀覷。這獃子越弄精神,搖著頭,掬著嘴���撐起耳朵,呵呵大笑。三藏又怕驚駕,即叱道:「八戒收斂!」方才叉手拱立,假扭斯文。
又問:「第三位高徒,因甚皈依?」沙和尚合掌道:
「老沙原係凡夫,因怕輪迴訪道。雲遊海角,浪蕩天涯。常得衣缽隨身,每煉心神在舍。因此虔誠,得逢仙侶。養就孩兒,配緣姹女。工滿三千,合和四相。超天界,拜玄穹,官授捲簾大將,侍御鳳輦龍車,封號將軍。也為蟠桃會上,失手打破玻璃盞,貶在流沙河,改頭換面,造孽傷生。幸喜菩薩遠遊東土,勸我皈依,等候唐朝佛子,往西天求經果正。從立自新,復修大覺。指河為姓,法諱悟淨,稱名和尚。」
國王見說,多驚多喜:喜的是女兒招了活佛,驚的是三個實乃妖神。正在驚喜之間,忽有正臺陰陽官奏道:「婚期已定本年本月十二日壬子辰良,周堂通利,宜配婚姻。」國王道:「今日是何日辰?」陰陽官奏:「今日初八,乃戊申之日,猿猴獻果,正宜進賢納事。」國王大喜,即著當駕官打掃御花園館閣樓亭,且請駙馬同三位高徒安歇,待後安排合巹佳筵,著公主匹配。眾等欽遵,國王退朝,多官皆散不題。
卻說三藏師徒們都到御花園,天色漸晚,擺了素膳。八戒喜道:「這一日也該吃飯了。」管辦人即將素米飯、麵飯等物,整擔挑來。那八戒吃了又添,添了又吃,直吃得撐腸拄腹,方才住手。少頃,又點上燈,設鋪蓋,各自歸寢。
長老見左右無人,卻恨責行者,怒聲叫道:「悟空,你這猢猻,番番害我。我說只去倒換關文,莫向彩樓前去,你怎麼直要引我去看看?如今看得好麼,卻惹出這般事來,怎生是好?」行者陪笑道:「師父說:『先母也是拋打繡毬,遇舊緣,成其夫婦。』似有慕古之意,老孫才引你去。又想著那個給孤布金寺長老之言,就此檢視真假。適見那皇帝之面,略有些晦暗之色,但只未見公主何如耳。」長老道:「你見公主便怎的?」行者道:「老孫的火眼金睛,但見面,就認得真假善惡,富貴貧窮,卻好施為,辨明邪正。」沙僧與八戒笑道:「���哥近日又學得會相面了。」行者道:「相面之士,當我孫子罷了。」三藏喝道:「且休調嘴。只是他如今定要招我,果何以處之?」行者道:「且到十二日會喜之時,必定那公主出來參拜父母,等老孫在傍觀看。若還是個真女人,你就做了駙馬,享用國內之榮華也罷。」三藏聞言,越生嗔怒,罵道:「好猢猻!你還害我哩。卻是悟能說的,我們十節兒已上了九節七八分了,你還把熱舌頭鐸我。快早夾著,你休開那臭口;再若無禮,我就念起咒來,教你了當不得。」行者聽說念咒,慌得跪在面前道:「莫念,莫念。若是真女人,待拜堂時,我們一齊大鬧皇宮,領你去也。」
師徒說話,不覺早已入更。正是:
沉沉宮漏,廕廕花香。繡戶垂珠箔,閑庭絕火光。鞦韆索冷空留影,羌笛聲殘靜四方。繞屋有花籠月燦,隔空無樹顯星芒。杜鵑啼歇,蝴蝶夢長。銀漢橫天宇,白雲歸故鄉。正是離人情切處,風搖嫩柳更淒涼。
八戒道:「師父,夜深了,有事明早再議,且睡,且睡。」師徒們果然安歇一宵。
早又金雞唱曉。國王即登殿設朝。但見:
宮殿開軒紫氣高,風吹御樂透青霄。雲移豹尾旌旗動,日射螭頭玉珮搖。香霧細添宮柳綠,露珠微潤苑花嬌。山呼舞蹈千官列,海晏河清一統朝。
眾文武百官朝罷,又宣:「光祿寺安排十二日會喜佳筵。今日且整春罍,請駙馬在御花園中款玩。」吩咐儀制司領三位賢親去會同館少坐,著光祿寺安排三席素宴去彼奉陪。兩處俱著教坊司奏樂,伏侍賞春景,消遲日也。八戒聞得,應聲道:「陛下,我師徒自相會,更無一刻相離。今日既在御花園飲宴,帶我們去耍兩日,好教師父替你家做駙馬;不然,這個買賣生意弄不成。」那國王見他醜陋,說話粗俗,又見他扭頭捏頸,掬嘴巴,搖耳朵,即像有些風氣,猶恐攪破親事,只得依從。便教:「在永鎮華夷閣裡安排二席,我與駙馬同坐。留春亭上安排三席,請三位別坐,恐他師徒們坐次不便。」那獃子才朝上唱個喏,叫聲:「多謝。」各各而退。又傳旨教內宮官排宴,著三宮六院后��與公主上頭,就為添妝餪子,以待十二日佳配。
將有巳時前後,那國王排駕,請唐僧都到御花園內觀看。好去處:
徑鋪彩石,檻鑿雕欄。徑鋪彩石,徑邊石畔長奇葩;檻鑿雕欄,檻外欄中生異卉。夭桃迷翡翠,嫩柳閃黃鸝。步覺幽香來袖滿,行沾清味上衣多。鳳臺龍沼,竹閣松軒。鳳臺之上,吹簫引鳳來儀;龍沼之間,養魚化龍而去。竹閣有詩,費盡推敲裁白雪;松軒文集,考成珠玉註青編。假山拳石翠,曲水碧波深。牡丹亭,薔薇架,疊錦鋪絨;茉藜檻,海棠畦,堆霞砌玉。芍藥異香,蜀葵奇豔。白梨紅杏鬥芳菲,紫蕙金萱爭爛熳。麗春花、木筆花、杜鵑花,夭夭灼灼;含笑花、鳳仙花、玉簪花,戰戰巍巍。一處處紅透胭脂潤,一叢叢芳濃錦繡圍。更喜東風回煖日,滿園嬌媚逞光輝。
一行君王幾位,觀之良久。早有儀制司官邀請行者三人入留春亭,國王攜唐僧上華夷閣,各自飲宴。那歌舞吹彈,鋪張陳設,真是:
崢嶸閶闔曙光生,鳳閣龍樓瑞靄橫。春色細鋪花草繡,天光遙射錦袍明。笙歌繚繞如仙宴,杯斝飛傳玉液清。君悅臣歡同玩賞,華夷永鎮世康寧。
此時長老見那國王敬重,無計可奈,只得勉強隨喜,誠是外喜而內憂也。坐間見壁上掛著四面金屏,屏上畫著春夏秋冬四景,皆有題詠,皆是翰林名士之詩:
《春景詩》曰:
周天一氣轉洪鈞,大地熙熙萬象新。桃李爭妍花爛熳,燕來畫棟疊香塵。
《夏景詩》曰:
薰風拂拂思遲遲,宮院榴葵映日輝。玉笛音調驚午夢,芰荷香散到庭幃。
《秋景詩》曰:
金井梧桐一葉黃,珠簾不捲夜來霜。燕知社日辭巢去,鴈折蘆花過別鄉。
《冬景詩》曰:
天雨飛雲暗淡寒,朔風吹雪積千山。深宮自有紅爐暖,報道梅開玉滿欄。
那國王見唐僧恣意看詩,便道:「駙馬喜玩詩中之味,必定善於吟哦。如不吝珠玉,請依韻各和一首如何?」長老是個對景忘情,明心見性之意。見國王欽重,命和前���,他不覺忽詠一句道:「日暖冰消大地鈞。」國王大喜,即召侍衛官:「取文房四寶,請駙馬和完錄下,俟朕緩緩味之。」長老欣然不辭,舉筆而和:
《和春景詩》曰:
日暖冰消大地鈞,御園花卉又更新。和風膏雨民沾澤,海晏河清絕俗塵。
《和夏景詩》曰:
斗指南方白晝遲,槐雲榴火鬥光輝。黃鸝紫燕啼宮柳,巧轉雙聲入絳幃。
《和秋景詩》曰:
香飄橘綠與橙黃,松柏青青喜降霜。籬菊半開攢錦繡,笙歌韻徹水雲鄉。
《和冬景詩》曰:
瑞雪初晴氣味寒,奇峰巧石玉團山。爐燒獸炭煨酥酪,袖手高歌倚翠欄。
國王見和大喜,稱唱道:「好個『袖手高歌倚翠欄』!」遂命教坊司以新詩奏樂,盡日而散。
行者三人在留春亭亦盡受用,各飲了幾杯,也都有些酣意。正欲去尋長老,只見長老已同國王在一閣。八戒獃性發作,應聲叫道:「好快活,好自在,今日也受用這一下了。卻該趁飽兒睡覺去也。」沙僧笑道:「二哥忒沒修養。這氣飽飫,如何睡覺?」八戒道:「你那裡知道,俗語云:『吃了飯兒不挺屍,肚裡沒板脂』哩。」
唐僧與國王相別,至亭內,嗔責八戒道:「這夯貨,越發村了。這是甚麼去處,只管大呼小叫?倘或惱著國王,卻不被他傷害性命?」八戒道:「沒事,沒事。我們與他親家禮道的,他便不好生怪。常言道:『打不斷的親,罵不斷的鄰。』大家耍子,怕他怎的?」長老叱道,教拿過獃子來,打他二十禪杖。行者果一把揪翻,長老舉杖就打。獃子喊叫道:「駙馬爺爺,饒罪,饒罪。」傍有陪宴官勸住。獃子爬將起來,突突囔囔的道:「好貴人,好駙馬,親還未成,就行起王法來了。」行者侮著他嘴道:「莫胡說,莫胡說,快早睡去。」
他們又在留春亭住了一宿。到明早,依舊宴樂。
不覺樂了三四日,正值十二日佳辰。有光祿寺三部各官回奏道:「臣等自八日奉旨,駙馬府已修完,專等妝奩鋪設。合巹宴亦已完備,葷素共五百餘席。」國王心喜,欲請駙馬赴席,忽有內宮官對御前啟奏道:「萬歲,正宮娘娘有請。」國王遂退入內宮,只見那三宮皇后、六院嬪妃,引領著公主,都在昭陽宮談笑。真個是花團錦簇,那一片富麗妖嬈,真勝似天堂月殿,不亞於仙府瑤宮。有喜會佳姻新詞四首為證。
《喜詞》云:
喜喜喜,欣然樂矣。結婚姻,恩愛美。巧樣宮妝,嫦娥怎比。龍釵與鳳釵,豔豔飛金縷。櫻唇皓齒朱顏,嬝娜如花輕體。錦重重,五彩叢中;香拂佛,千金隊裡。
《會詞》云:
會會會,妖嬈嬌媚。賽毛嬙,欺楚妹。傾國傾城,比花比玉。妝飾更鮮妍,釵環多豔麗。蘭心蕙性清高,粉臉冰肌榮貴。黛眉一線遠山微,窈窕嫣姌攢錦隊。
《佳詞》云:
佳佳佳,玉女仙娃。深可愛,實堪誇。異香馥郁,脂粉交加。天臺福地遠,怎似國王家。笑語紛然嬌態,笙歌繚繞喧嘩。花堆錦砌千般美,看遍人間怎若他。
《姻詞》云:
姻姻姻,蘭麝香噴。仙子陣,美人群。嬪妃換綵,宮主妝新。雲鬢堆鴉髻,霓裳壓鳳裙。一派仙音嘹喨,兩行朱紫繽紛。當年曾結乘鸞信,今朝幸喜會佳姻。
卻說國王駕到,那后妃引著公主,並綵女、宮娥,都來迎接。國王喜孜孜,進了昭陽宮坐下。后妃等朝拜畢,國王道:「公主賢女,自初八日結綵拋毬,幸遇聖僧,想是心願已足。各衙門官又能體朕心,各項事俱已完備。今日正是佳期,可早赴合巹之宴,不要錯過時辰。」那公主走近前,倒身下拜,奏道:「父王,乞赦小女萬千之罪,有一言啟奏:這幾日聞得宮官傳說,唐聖僧有三個徒弟,他生得十分醜惡。小女不敢見他,恐見時必生恐懼。萬望父王將他發放出城方好,不致驚傷弱體,反為禍害也。」國王道:「孩兒不說,朕幾乎忘了。果然生得有些醜惡,連日教他在御花園裡留春亭管待。趁今日就上殿,打發他關文,教他出城,卻好會宴。」公主叩頭謝了恩。國王即出駕上殿,傳旨請駙馬共他三位。
原來那唐僧捏指頭兒算日子,熬至十二日,天未明,就與他三人計較道:「今日卻是十二了,這事如何區處?」行者道:「那國王我已識得他有些晦氣,還未沾身,不為大害。但只不得公主見面,若得出來,老孫一覷,就知真假,方才動作。你只管放心。他如今一定來請,打發我等出城。你自應承莫怕,我閃閃身兒就來,緊緊隨護你也。」
師徒們正講,果見當駕官同儀制司來請。行者笑道:「去來,去來。必定是與我們送行,好留師父會合。」八戒道:「送行必定有千百兩黃金白銀,我們也好買些人事回去。到我那丈人家,也再會親耍子兒去耶。」沙僧道:「二哥箝著口,休亂說,只憑大哥主張。」
遂此將行李、馬匹,俱隨那些官到於丹墀下。國王見了,教請行者三位近前道:「汝等將關文拿上來,朕當用寶、花押,交付汝等,外多備盤纏,送你三位早去靈山見佛。若取經回來,還有重謝。留駙馬在此,勿得懸念。」行者稱謝。遂教沙僧取出關文遞上。國王看了,即用了印,押了花字,又取黃金十錠、白金二十錠,聊達親禮。八戒原來財色心重,即去接了。行者朝上唱個喏道:「聒噪,聒噪。」便轉身要走。慌得個三藏一轂轆爬起,扯住行者,咬響牙根道:「你們都不顧我就去了?」行者把手捏著三藏手掌,丟個眼色道:「你在這裡寬懷歡會,我等取了經,回來看你。」那長老似信不信的,不肯放手。多官都看見,以為實是相別而去。早見國王又請駙馬上殿,著多官送三位出城。長老只得放了手上殿。
行者三人同眾出了朝門,各自相別。八戒道:「我們當真的走哩?」行者不言語,只管走至驛中。驛丞接入,看茶,擺飯。行者對八戒、沙僧道:「你兩個只在此,切莫出頭。但驛丞問甚麼事情,且含糊答應,莫與我說話。我保師父去也。」
好大聖,拔一根毫毛,吹口仙氣,叫:「變!」即變作本身模樣,與八戒、沙僧同在驛內。真身卻幌的跳在半空,變作一個蜜蜂兒。但見:
翅黃口甜尾利,隨風飄舞顛狂。最能摘蕊與偷香。度柳穿花搖蕩。辛苦幾番淘染,飛來飛去空忙。釀成濃美自何嘗。只好留存名狀。
你看他輕輕的飛入朝中,遠見那唐僧在國王左邊繡墩上坐著,愁眉不展,心存焦燥。徑飛至他毘盧帽上,悄悄的爬及耳邊,叫道:「師父,我來了,切莫憂慮。」這句話只有唐僧聽見,那夥凡人莫想知覺。唐僧聽見,始覺心寬。不一時,宮官來請道:「萬歲,合巹嘉筵已排設在鳷鵲宮中,娘娘與公主俱在宮伺候,專請萬歲同貴人會親也。」國王喜之不盡,即同駙馬進宮而去。正是那:
邪主愛花花作禍,禪心動念念生愁。
畢竟不知唐僧在內宮怎生解脫,且聽下回分解。
正確犯錯:哈佛學者揭開成長心態的關鍵,分辨失敗類型與應對方式,駕馭不確定的未來
Right Kind of Wrong: The Science of Failing Well
作者艾美.艾德蒙森
原文作者Amy Edmondson
譯者黃庭敏
語言繁體中文
出版社天下雜誌
出版日期2024/04/02
編輯推薦
失敗的變數與複雜性
成功的書很多,但一本講述失敗同時論述清晰且邏輯清楚的著作,作者在《正確犯錯》就做到了這一點。閱讀本書前你需要做點心理準備,因為邊閱讀會一邊不自覺檢視自己過去的失敗,並從條列的項目中,在悔恨中重新檢視自己失敗的原因,或許也能糾正你對成功價值的誤解,但無論如何,閱讀完你都能重建面對失敗的韌性。除此之外,現代化的失敗情況其實往往遠比你想像中複雜,在現代資訊科技與組織系統日益複雜下,由一系列小錯誤複合效應造成更巨大的失敗,自我覺察已不足以應付失敗的代價,訓練自己打開視野注意整體,更是現代人要學習對抗的失敗。從簡易到複雜,系統化建立失敗在不同型態的樣貌,並試圖改變抗拒本能,為你創建一個正確失敗的環境。
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產品資訊
內容簡介
  《心理安全感的力量》作者  最新重磅力作
  ★Thinkers50管理思想家排行榜TOP 1
  ★榮獲年度行為科學家注目作品
  ★《金融時報》和麥肯錫年度最佳商業書獎
  每個人都會犯錯,但是每個錯誤的價值並不一樣,
  別讓不犯錯、規避失敗耽誤了你和團隊的成長!
  為什麼優秀醫療團隊一起協作反而出現更高的錯誤率?
  可口可樂瓶裝水怎麼陷入複雜型失敗,認列700萬英鎊損失?
  外科開心手術如何歷經智慧型失敗,發展為一年200萬例的成熟手術?
  在複雜且不確定的世界中,工作與生活經常充斥著出錯與失敗,傳統對待錯誤的態度又很苛刻,當事人飽受指責,使人普遍厭惡與恐懼犯錯,我們也就失去了從失敗中學習的機會。
  雖然操作或判斷失誤並不可恥、也不代表無能,這樣的想��日漸獲得認同,有不少新創企業還推崇起「快速犯錯,經常失敗」的文化,但仍有更多人與組織還是羞於犯錯與認錯,極盡所能避免失敗與被究責,因為他們不認為身處有心理安全感的環境。
  作者艾德蒙森是哈佛商學院教授,在全球最具影響力的 Thinkers50 名列第一,身為提出「心理安全感」概念的先驅,《正確犯錯》正是她累積25年來研究錯誤與失敗的成果。在這本新作中,她將暢談三種常見的失敗類型,指導我們辦別成因,重新架構,理性看待:
  基本型:通常有SOP,常因疏忽大意而犯錯,可善用清單工具來預防
  複雜型:最常出現在複雜的系統環境中,環環相扣,導致難以避免的災難結果
  智慧型:總發生在進入新領域,比如研發疫苗,是進步所必須的「好的失敗」
  只要你不犯第二回,智慧型失敗不算是錯誤,它需要縝密的思考,由於是犯盡可能小的失誤,不會造成不必要的傷害,且提供你寶貴的新知識,帶來新發現與新價值,還會產生有用的學習成果,增進我們的認知,這就是正確犯錯!
  針對三種失敗類型,作者提出三項最新思維,幫助我們不錯失成長良機,也不冒進,從容應對與防範非必要的失敗:
  自我覺察:藉由自我反省、謙遜、誠實和好奇的能力,洞察自身行為模式
  狀態意識:學習解讀特定情況的失敗可能性,掌握與判斷周遭情勢
  系統意識:學會觀察和充分理解家庭、組織、自然或政治系統的運作
  沒有清楚辨別失敗類型的魯莽行動,將帶來無意義的失敗,虛擲機會,浪費時間與資源;只有經過明智判斷的「正確犯錯」,才能創造有價值的經驗學習,真正學到東西,達到目標的最大效益。
目錄
前 言
成功的道路上必然會有失敗
緒 論
犯錯失敗不一定是壞事
第一篇
辨別三種失敗類型
第一章
如何正確犯錯
從好的失敗中學習,避免不必要的失誤,在合作中受益
第二章
智慧型失敗
智慧型失敗是發掘新事物的必要基石
第三章
基本型失敗
基本型失敗幾乎可在小心謹慎的情況下完全避免
第四章
複雜型失敗
複雜型失敗經常發生在相當熟悉的環境中
第二篇
從失敗中學習成長
第五章
戰勝本能與自我局限
自我覺察需要我們變得非常謙虛和好奇
第六章
因應不同失敗情境與後果
狀態意識能夠評���當前處境,採取適當行動
第七章
建立系統思維與設計策略
系統意識首要訓練自己注意整體,而非關注局部
第八章
犯錯難免,如何成長進步
塑造健康的失敗文化,汲取教訓改進成長將容易許多
 序
前言
成功的道路上必然會有失敗
  1993年6月,當時我是哈佛大學新開設的組織行為學博士班學生,我坐在威廉詹姆斯大廳(William James Hall)15樓辦公室的舊木桌前,傾身仔細觀察我那台笨重蘋果電腦上的黑白小螢幕。我衡量附近兩家醫院團隊合作情況的一疊問卷調查表被推到桌子邊緣靠著牆放著。六個月前,數百名護士和醫生填寫了這些調查表,讓我了解他們團隊的工作情況。透過對資料的分析,我知曉有些團隊的合作程度比其他團隊要好得多,現在讓我來看看他們犯了多少錯誤。在我手中的電腦小磁片裡,保存了過去六個月來護士辛苦收集、期待已久的各個團隊用藥錯誤資料。我所需要做的就是進行統計分析,看看團隊調查資料與醫院的錯誤資料是否相關。
  這是我面臨第一次重大研究失敗之前的時刻。
  我很快發現這不是我第一次思量,也許自己不適合攻讀博士學位。我對唸研究所一直態度很矛盾,我欽佩那些沒有高學位、卻能在世界上做出有意義貢獻的人。我認為一般人若是聰明又能幹,應該也能夠開闢一條獨特的前進道路,從事改變世界的工作。但大學畢業十年後,我必須承認自覺有些挫敗感。
  的確,那十年的大部分時間都是充滿創意的,而且從某些角度來看,還令人羨慕。我曾擔任富勒(Buckminster Fuller)的總工程師,富勒富有遠見,他發明測地線圓頂建築。之後,在與一家諮詢公司創辦人的偶然會面後,我從工程領域轉向組織發展領域,並且很快就著迷於組織及其所犯錯誤導致的失敗!我曾與美國一些歷史最悠久、規模最大的公司合作過。我在1980年代末遇到過美國汽車行業的經理,他們看到客戶想要省油、高品質的汽車,比如從日本進口的新汽車,但無法讓他們的大型組織重新調整生產方式。在我看來,深思熟慮的管理者們都在抱怨他們的組織無法適應世界所需的明顯變化。我非常喜歡這份工作,而我的挫敗感來自於我自認已經盡了最大的努力。為了在組織行為和管理的新領域發揮更大的能力,我必須重返校園。然後,也許我就能為我心中逐漸成形的目標做出有意義的貢獻:幫助人們和組織學習,以便他們能夠在不斷變化的世界中茁壯成長。
  我不知道如何研究這個問題,對於改變組織的運作方式,也不知道如何有所貢獻。但這似乎是一個值得解決的問題,我相信我可以向心理學和組織行為學教授學習,對於使人們和組織難以學習和發展的狀態,希望能找到方法來理解和加以改變,並能有所作為。
  由於我對組織如何學習感興趣,身為一名迎接嶄新身分的博士生,我欣然接受邀請,加入附近哈佛醫學院研究用藥錯誤的研究團隊,這個現成的專案幫助我學習如何進行獨創的研究。你小學一年級的老師可能告訴你,犯錯是學習的重要機會來源。在醫院待過的人都知道,用藥錯誤的情況眾多,而且後果嚴重。
  但突然間,這對於我的研究生涯來說似乎是個不祥的開端,我的假設顯然沒有得到支持。我曾預測,更好的團隊合作會減少用藥錯誤,衡量的方式是透過護士調查員每週多次到醫院檢查患者病歷,並與在那裡工作的護士和醫生交談。然而,結果卻顯示團隊合作愈好,錯誤率愈高,而不是愈低。我不僅錯了,還大錯特錯。
  當我開始重新質疑自己能否成為一名研究人員時,我發表研究成果論文的希望也隨之破滅。大多數人都為自己的失敗感到羞恥,所以我們更有可能隱藏失敗,而不是從中學習。組織中發生錯誤,並不意味著自然就會學習和改進。由於羞於犯錯,我不敢告訴我的指導老師。
  沒過幾天,檢視此次失敗的意外發現,輕輕地將我引向新的見解、新的資料和後續的研究專案,挽救並改變我的學術生涯方向。我根據這一項研究發表的研究論文,名為《從錯誤中學習,說得容易做起來難》(Learning from Mistakes Is Easier Said Than Done),這是我後來許多研究的前身,也是貫穿我一生心力和本書的主題。
  我也開始明白,身為一名研究人員,成功的道路上必然會有失敗。如果你沒有失敗,那麼你就沒有進入新的領域。從早先那段時間起,在我的腦海中,對「錯誤」、「失敗」和「不幸事件」等術語開始有更細緻入微的理解。現在我可以和各位分享了。
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harvardwang · 7 months ago
Text
曾黎
H:「星漢燦爛」飾演虎媽蕭元漪的曾黎「中戲 200 年一遇校花,卻怎麼都不紅?」,踏實的演戲,紅不紅是時勢,演技卻是永遠的。20241208W7
維基百科:
曾黎(1976年9月17日—),出生於湖北省荊州市沙市區[1],中國女演員,2000年本科畢業於中央戲劇學院[2],前榮信達影視藝人。曾與大學同學章子怡、梅婷、胡靜、秦海璐、傅晶、袁泉並稱中戲「七朵金花」[3],或與章子怡、梅婷、秦海璐、袁泉、胡靜、張彤、李敏(李馨雨) (頁面存檔備份,存於網際網路檔案館)並稱中戲「八大金釵」[4]。
主持作品
2002年《電玩GOGOGO》節目主持人
影視作品
電視劇
2000年《本家兄弟》飾 李倩
2001年《東西奇遇結良緣》飾 曹燕燕(崔鶯鶯)
2002年《江山兒女幾多情》飾 苗翠花
2002年《全時空接觸》飾 艾依羅
2003年《神捕十三娘》飾 梅姑
2003年《男才女貌》飾 顏如玉
2003年《歸途如虹》飾 蘇晴
2004年《月色撩人》飾 華樺
2004年《沉默的證人》飾 馮薇
2004年《秦淮悲歌》飾 李十娘
2004年《好想好想談戀愛》飾 張芊芊
2005年《神舟》飾 林兮
2005年《聊齋志異之畫皮》飾 梅三娘
2006年《此情可問天》飾 聶凱凱
2006年《別問我是誰》飾 趙靈
2006年《傳奇皇帝朱元璋》飾 郭寧蓮
2006年《罪之緣》飾 陶然
2007年《走出你的愛》飾 胡小錦
2007年《廖家》飾 廖曼芳
2008年《藍色檔案》飾 宋珍妮/沈亞奇
2008年《朝九晚無》飾 彭靜瑩
2008年《傷情》飾 姚紫菡/許珮珊
2008年《軍人榮譽》飾 蘇玲芝
2009年《花籃的花兒香》飾 柳紅梅
2009年《單親媽媽的苦澀浪漫》飾 墨菲
2010年《蝦球傳》飾 黑牡丹
2010年《火紅的年代》飾 潘雅文
2010年《唐琅探案》飾 羅蘭
2010年《母親心》飾 陳靜書
2011年《最後征戰》飾 沈尋香
2011年《人到四十》飾 白曉燕
2011年《傳奇之王》飾 黃黛柔
2012年《我的傳奇老婆》飾 金芝
2012年《特警突擊隊》飾 鄭霞
2012年《步步殺機》飾 鄭曉婉
2012年《妯娌的三國時代》飾 馮雪
2013年《1977年的愛情》(又名:青春不回首)飾 康雯
2013年《我的父親母親》飾 葉秀蘿
2014年《家宴》飾 馮小米
2014年《女人的抗戰/雪蠶》飾 松洋雪櫻子
2015年《為愛堅守》(原名:妻子不設防)飾 秦雪梅
2016年《姐妹兄弟》飾 唐小雨
2016年《旋風十一人》飾 鍾艷
2016年《謎砂》飾 關霞
2016年《青雲志》飾 金鈴夫人
2016年《真心想讓你幸福》飾 劉露
2017年《地火2之真金不怕火煉》飾 蔣英
2017年《射鵰英雄傳》飾 李萍
2017年《大唐榮耀》飾 楊玉環
2017年《主婦也要拼》飾 伊蘭
2017年《醉玲瓏》飾 蓮妃(客串)
2017年 《兒科醫生》飾 葉梅
2018年《老男孩》飾 蕭薇(客串)
2018年《玄門大師》飾 冷翠(客串)
2018年《陪讀媽媽》飾 夏天
2018年《古劍奇譚2》(網絡劇)飾 傅清姣
2019年《倚天屠龍記》飾 王難姑
2019年《七月與安生》飾 安靜
2019年《在遠方》飾 霍梅
2020年《下一站是幸福》飾 吳美音
2021年《玲瓏》飾 緋天
2021年《約定》(網絡劇)飾 林悅然
2021年《大浪淘沙》飾 李勵莊(客串)
2021年《紅旗渠》飾 馮筱怡
2022年《幸福二重奏》飾 付曉芬
2022年《了不起的D小姐》(網絡劇)飾 董紅玉
2022年《好好說話》飾 牛志玲
2022年《星漢燦爛/月升滄海》(網絡劇)飾 蕭元漪
2022年《浮圖緣》(網絡劇)飾 榮安皇后
2023年《縱有疾風起》飾 方總
2023年《偷偷藏不住》 飾 黎萍
2023年《玉骨遙》(網絡劇)飾 白嫣
2023年《白日夢我》飾 林芷
2023年《繁城之下》(網絡劇)飾 林四娘
2023年《樂遊原》(網絡劇)飾 蕭妃
2023年《以愛為營》飾 唐亦
2024年《與鳳行》飾 沈木月
2024年《又見逍遙》(網絡劇)飾 巫後
2024年《末代廚娘》(2019年拍攝)飾 端康太妃
2024年《迎風的青春》飾 牛玲玲
待播中《好女無雙》(2017年拍攝)(網絡劇)飾 國師 (原名:西遊記女兒國)
待播中《李白》(2009年拍攝)飾 趙紅塵
待播中《天下長安》(2017年拍攝)飾 尹德妃
待播中《客家人》飾 梅卿
待播中《愛我別走》
待播中《一曲三笙》(又名:南煙齋筆錄)
待播中《烽火流金》
待播中《珍品》飾 蘇迪
待播中《深海1950》飾 王碧奎
待播中《獻魚》(網絡劇)飾 司馬萼/太后
待播中《陷入熱戀的我們》(網絡劇)飾 連惠
電影
2002年《煙雨紅顏》飾 陳素雲
2005年《票友》(電視電影)飾 張娜
2006年《理髮師》飾 宋嘉儀
2015年 《娘家人》宋老師
2017年《我是誰的寶貝》飾 沈秋霖
2019年《一生有你2019/Miss Forever》飾 方瑤/袁靜
2021年《陽光姐妹淘》飾 林青
2023年《倍兒喜歡你》飾 秀芳
2023年《開國將帥授銜1955》飾 鄒靖華
待播中《一閃一閃亮晶晶》飾 麗雲
待播中《中國大飛機》飾 李曉鷗
歌曲
曾經
草木之骨
月半彎(翻唱)
廣告代言
2010年詩琳美容旗下SBAA│18科研活化青春中心(香港)[5]
2023年 QuasarMD 科施佳首位形象大使
參考
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kennak · 9 months ago
Quote
当時本土は激しい反米反基地運動をして米軍基地を沖縄に押し付けたんだよな。今頃になって地政学とか言い訳するけど。
[B! 読書] 「歯を食いしばってアメ公が果てるのを待つ」16歳で朝霞の「パンパン」となり86歳で壮絶な半生を語った女の矜持 50年前までキャンプ・ドレイクの周辺にいた娼婦たちは今どうしているのか
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kachoushi · 3 years ago
Text
各地句会報
花鳥誌 令和4年3月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和3年12月2日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
しとしとと雨しとしとと冬近し 喜代子 護りうけ思ひ絡まる毛糸編む さとみ 冬河や網打つ人は何を漁る 都 冬怒濤雄島は人を寄せ付けず 同 寂聴の過去は激しく榾燃える 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月2日 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
秋風や消えゆく物にますほ貝 雪 蓑虫の纏へる物の哀れさよ 同 亡き友の顔をかぞへて師走かな 匠 裘かくしに去年の映画の券 同 なんとなく交はす言葉にある師走 かづを こころして願掛けをせむ神還り 数幸 恋多き尼の死悼む歳の暮れ 清女 仲よしの三人の婆おでん酒 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
枯葉積む蝶のむくろを嵩として はるか 乃木将軍の墓ひとりぼち冬の蠅 佑天 枯葉舞ふ異人の墓は仰向けに 伊豫 赤信号ぬるき懐炉は胸の奥 ゆう子 冬霞あふひの墓の見つからず 佑天 黄落にころんと転び笑ひをり 久 坊城雀冬晴を祓ひに来 順子 十字墓影を寝かせて冬ぬくし 秋尚 冬の日に白装束の透きとほる きみよ
岡田順子選 特選句
百度石在らば祈らむ冬空に 炳子 墓一つ極月一つあるごとし 伊豫 冬晴や絵画館やや浮かみたり 佑天 塋域は枯野とならむ魂の黙 ゆう子 元勲の墓冬帝の貌をして 俊樹 極月の指墓碑銘を愛しみ 千種 冬晴や虚子の見守る墓一基 三郎 懐旧の情とは極月の男 千種 抱擁すマリアは寒き手を拡げ 俊樹 蝶も無き冬の墓標となりしかな 同 けふあたり上へと魂の日向ぼこ 慶月
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
面影山に半襟掛けて時雨虹 美智子 冬ぬくし赤子を丸く抱いてをり 栄子 冬ざれや修築の碑は沖を見て すみ子 ざらざらの風紋壁画冬日吸ふ 悦子 色鳥の木戸を飾りて飛び去りぬ 宇太郎 黄落の色に染まりて町の風 和子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月11日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
冬日落つ老いのひと日の終りけり 独舟 ペーチカやレコード針の飛ぶところ 晶子 君知るや時空を超える除夜の鐘 同 悴みて錠剤一つ転がりぬ 寛子 樽前山を背負ひ堂々たる雄鹿 のりこ 魔女の口笛かも知れぬ虎落笛 岬月 天空の乱れし夜の虎落笛 同 クロークに寒さ預けて席に着く 同 恋心捨てしを叱咤虎落笛 同 五稜郭兵を鎮める雪しきり 雅春 冬虹を翔け上らんと鳥一羽 同 榾爆ぜる音にも温みありにけり 慧子 故郷は遠し一夜の雪二尺 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月11日 ますかた句会 栗林圭魚選 特選句
みちしるべなき分かれ径枇杷の花 秋尚 中子師と歩みし坂ぞ枇杷の花 三無 杉樽に醤油の香り枇杷の花 ゆう子 新聞の折り目ずれなく漱石忌 同 枇杷の花不穏なること無き日々よ 同 布団干す母手作りの重さかな 多美女 立ち止まり見る人もなく枇杷の花 白陶 いぶかりつ人恋ふ猫や漱石忌 百合子 烏瓜色仕上りて句碑頭上 三無 日を回しながらゆつくり紅葉散る 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月13日 武生花鳥俳句会(十二月十三日) 坊城俊樹選 特選句
色鳥の風と光に遊びをり 中山昭子 色足袋をはいていよいよ籠りけり 上嶋昭子 落つるもの大地に還し山眠る みす枝 一灯のともる社や神の留守 英美子 極月にして捨つるべきもの何もなし 世詩明 冬麗やこの郷土にて生かさるる 信子 吾町に煙突のなきクリスマス ただし 時雨るるや振子時計の重き音 信子 天界の星座の見ゆる大枯木 みす枝 妻が留守する小春日でありにけり 世詩明 天帝の光射す庭冬の蝶 錦子 誰かれと言はず着ぶくれ句座にあり 英美子 身籠りてふくらむ夢や毛糸編む 同 街路灯夜霧のうるむ一直線 一枝 外套の襟立て警邏街の辻 三四郎 外海も内海も凪石蕗の花 中山昭子 何処見るでなき見つめゐる日向ぼこ 英美子 鴨一羽急に羽搏き黙破る みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月13日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
金色の曙杉や冬日向 美貴 お喋りは徐々に大声冬日向 あき子 松籟に静けさつのる炭手前 同 冬日向旧姓残る裁縫箱 美貴 山寺の燃える紅葉に冬日差し 迪子 ひと畝の冬菜を残し寺の畑 秋尚 彩りに冬菜を入れて中華粥 迪子 尉もまたかぐはしきもの桜炭 三無 晴れし日は富士仰ぎ見ゆ冬菜畑 貴薫 黒糖の飴舐め冬菜畑入る 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
乾きたる白杖の音や枯木道 登美子 初めての柚子湯子の手に一つづつ 裕子 冬タイヤ着け替へる音響く町 紀子 根深持ち友わが家を探し来る 令子 母と娘のふところ温め根深汁 同 甥つ子の来福めがけ霰降る 紀子 冬夜空指輪のやうな月蝕を 光子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月14日 萩花鳥句会
リハビリの迎へ待つ間や著ぶくれて 祐子 月蝕や三代並び膝毛布 美恵子 姿変へ伏兵地球を凍らせる 健雄 交差点スマホの生徒息白し 吉之 句仲間の声懐かしや忘年会 陽子 けたけたと笑ふみどり児日向ぼこ ゆかり まつしろな書類重ぬる年の暮 明子 彼の宿の達磨火鉢を懐かしむ 克弘
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
竜胆の花がこんなに似合ふ墓 雪 考へのあるとも見えぬ懐手 同 木犀の香にほころびの見えそめし 同 機嫌よく水の軽さや紙漉女 眞喜栄 音のなき竹百幹の霜の声 同 枯菊をくべ足し仕舞ふ畑仕事 同 マスクして美人の顔を半分に 清女 丸太棒の如き大根もて余す 同 嘗つて僧と梅見の宿の河豚料理 ただし 渡来仏残る若狭に牡蠣筏 千代子 越に棲み訛は二つ石蕗の花 同 青空に別れに来たか赤とんぼ 輝子 冬帝の足音もなく来る越路 かづを 黒手帳終へし師走の赤手帳 高畑和子 ふぐと汁喰べて睡むたくなりにけり ただし 鴨浮寝何れか父やら母子やら 玲子 酔漢の愚痴の繰り言忘年会 みす枝 大根を抜きて土の香漂へり 富子 虎落笛白きもの皆吹き飛ばす 山田和子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
重力の強くなりたる冬至前 久 遥か行く貉の怪や枯野径 三無 裸木の一木領す群れ鴉 菟生 寒鴉鳴くまだ釣果なき釣人に 佑天 神鈴を鳴らす冬帝鎮むまで 慶月 冬木立天は奪へるもの奪ふ 慶月 冬ざれの谷戸田貫く風太し 三無 径を問ふ人にやさしき頰被 亜栄子 むじな池人惑はせて氷りけり 久 焚火の香まさをな空へ消えゆけり 眞理子 古鏡なす日輪弾く冬の沼 菟生 燃えつきの悪き焚火やむじな池 千種
栗林圭魚選 特選句
痛きほどの青空尖る冬芽かな 斉 初霜の葉脈白く浮き立たせ 貴薫 霜枯の行く手阻みし杭一つ 炳子 女坂とても険しき水仙花 芙佐子 朝霜を畦の日蔭に消し忘れ 秋尚 田の氷罪あるごとく割られけり 千種 径を問ふ人にやさしき頰被 亜栄子 むじな池人惑はせて氷りけり 久 烏瓜空眩しみて破れけり 久子 霜光る崩るるままの藁ぼつち 炳子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月21日 鯖江花鳥俳句会
新米を上り框にどさと置く 上嶋昭子 難儀やなあと呟きて懐手 同 真砂女の句厨に貼れば時雨くる 同 実印を押して腕組む冬座敷 同 寒雀あやとりの子に近づきぬ 同 秋霜や左近の陣に残る石 同 床の間の螺鈿煌めき冬座敷 中山昭子 暖炉燃ゆ三重奏の楽豊か 同 蓑虫の蓑の衰へ如何にせん 雪 炉話や若き日の恋爆ぜてをり みす枝 船頭の笑はせ上手冬日焼 洋子 奈落とも思ふ夜更けの雪起し 一涓
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月22日 第四十四回近松忌記念俳句大会 坊城俊樹選 特選句
お歯黒をつけし女の近松忌 世詩明 男云ふ今際の言葉近松忌 雪 心中はむかしがたりや近松忌 遊子 近松忌雨の鳥語を供華として かづを 忍び泣くお初時雨や近松忌 ただし 近松忌盗人被りの成駒屋 道夫 南座の木戸に盛塩近松忌 同 あでやかな傘をすぼめて近松忌 上嶋昭子 しぐるるや胸のほのほは消えもせず 同 近松忌今も名残の七曲り 節子 許されぬ恋の道行き雪深し 同 近松忌皆口紅の濃かりけり 匠 日野山の晴れて時雨れて近松忌 同 手枕の味を忘れて近松忌 千代子 恋に燃えし寂聴逝けり近松忌 みす枝 人情の深まる里や近松忌 同 近松忌お初の恋はありのまま 千加江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年12月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
棘の威の死して残れる枯茨 洋子 クリスマス会果てまこと神の闇 古賀睦子 山の端にしたたる銀河神楽宿 佐和 独り三味線せめて一手間熱燗に 勝利 熱燗に火宅を忘れおほほほほ 美穂 棋士決めの王手の響き冬座敷 吉田睦子 スイミング二秒縮めて聖夜の灯 桂 北窓を塞ぎて画布の静かな絵 朝子 お尻立て鳰はするりと異次元へ 勝利 胴長と漁網干しゐる舟小春 由紀子 熱燗や三巡目なるあの話 成子 音楽会敢へて師走を忘れたく さえこ かりそめに置く一本の冬の薔薇 由紀子 凍星や阿修羅は泪とどめたり 久恵
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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ari0921 · 5 years ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
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令和2年(2020)7月31日(金曜日)参
 「アジアの巨星」。邪悪に挑戦した「台湾のモーゼ」=李登輝元総統
  「わたしは日本人だった」。「台湾人にうまれた悲哀」と歴史的な名言残して
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 何回もお目にかかった。その情景が様々な感慨とともに瞼に浮かんでくる。
 1996年に台湾初の直接選挙による総統選挙が行われ、中国がミサイルを撃って脅迫を続けていた。筆者は台北にいて、総統選挙を取材していた。
巷は騒然としていた。李登輝は「国民党は外来政権」と比喩したが、蒋介石に付いてきた外省人の一部は急ぎ財産を売り払って米国へ逃げた。
町の声は「逃げたい奴はとっと失せろ」だった。
 李登輝は96年ミサイル危機を目の前にしてこう言った。
「何も心配は要らない。わたしには十八の戦略がある」。
この剛胆とも言える総統の発言に本省人の多くは頼もしさを見出し、安堵感を得た。アメリカは親中派のクリントン政権だったが、空母を当該海域に派遣し、中国はすごすごと引き揚げていった。
 96年の総統選には民進党から「台湾独立運動のカリスマ」を言われた膨明敏が出馬していた。
多くの本省人は膨明敏支持だった。しかし同時に心情的には李登輝を応援した。結果は李登輝が55%。膨は25%。残りは林洋港(旧国民党強硬派。参謀総長、首相を歴任した赫白村が副総統候補)と陳履安(無所属)が出ていたが、旧勢力は惨敗だった。
 この選挙戦で、筆者は初めて李登輝氏の輝きを見た。この人の行くところ、後光が射しているかの如きで、じつは他の候補は霞んでいた。民進党は善戦したと言える。
 前後して日本側が中嶋嶺雄教授と住友電光の亀井正夫氏の呼びかけで毎年一回、台湾と日本を交互に「アジアオープンフォーラム」が開催されていた。私は台中会議から呼ばれるようになり、取材陣に加わった。毎回、李登輝閣下は出席して基調演説をこなし、懇親会にも顔をだされることがあった。
日本側の参加者を総統府に招かれ、ひとりひとりと握手された。筆者は初めて李登輝氏と握手を交わした。手に暖かみがあった。
 李登輝はキリスト教を信仰していたが、台湾のキリスト教は一神教の風情がまったくなく、台湾の風土と道教的な馬祖信仰の伝統に被さった、独特のキリスト教である。
なかでも長老会派の勢力が強いが、戒厳令の時代、教会が、じつは台湾独立派の集まる秘密集会の場所でもあった。
 ▼守旧派と千日の静かなる闘いに李登輝は勝利した
 李登輝の使命感は「台湾のモーゼ」。邪なものに挑戦し、正義を回復する。良いものは良いと評価し、一歩一歩、確実に改革に邁進するという政治信条をもち、蒋経国急死のあと、副総統から昇格したのち、守旧派と千日にわたる凄絶な戦いを続け、ついに戒厳令を撤廃し、蒋介石時代からの終身立法委員を廃止し、総統を民意で選ぶ民選にまでもっていく。
独裁政権だった国民党は大きく動揺し、李登輝を敵視する守旧派はあらゆる場面で李登輝を妨害した。
 李登輝は怯まなかった。
さずがに「台湾のモーゼ」を自称し、武士道を日本精神の中核とする信念は無私無欲、そして日本との繋がりを重視し、継続発展させるには、新幹線を日本に強引に発注する決断をなした。その後のメインテナンスで、日本との関係は継続され、深化するという独特の読みがあった。
 日台の民間交流はますます活発になった。
 1999年だった。筆者は竹村健一氏を誘って、李登輝総統への独占インタビューに出かけた。印象深かったのは、同席した「お目付役」の国民党幹部らの渋面である。同席の通訳が早業のように翻訳した紙切れを廻すと「え、こんなことを言っている」「なんとまぁ、こんなことを発言しているゾ」というあきれ顔、渋面、苦渋を浮かべる国民党幹部の顔色と、悠然と自由な会話を愉しむ李登輝総統の対比的な光景を観察しているだけでも愉しかった。
 当時、李登輝のまわりを囲んだブレーンの一人が蔡英文(現総統)だった。彼女が「中国と台湾は別個のくに」という二国論を起草した。
ドイツのラジオ局とのインタビューという形で出した「二国論」に中国は猛烈に反発したが、李登輝は自信を持って対応した。筆者は直後に『諸君!』に「猿でもわかる二国論」と題した文章を寄稿した。
蔡英文女史はその後、立法委員に当選し、いつしか党の重鎮となり、2016年総統選で国民党候補を破った。
 李総統が『台湾の主張』を出版されたときは、論壇の多くに呼びかけて発起人を引き受けて貰い、オークラに1500名が集まった李登輝出版記念会。大盛況だった。
 ▼李登輝氏とはその後も何回かインタビューに出向いた
 その後、台湾へ出かける度に、李登輝氏の台北の自宅、大渓の別荘、李登輝氏主宰のシンクタンクは淡水にあったが、そこにも三回か、四回は訪問している。
自宅を訪ねたときは花田紀凱、堤堯、中村彰彦氏が一緒だった。別荘に伺った時はたしか高山正之、花岡信昭氏が一緒だった記憶がある。
別荘の地下が書庫となっていて、その大半が日本語の書籍。哲学、思想関係のほかに日高義樹氏の著作もあった。最新の日本事情に詳しい背景がわかった。
シンクタンクへの訪問は最初、ラジオ番組収録のために、ミッキー安川と一緒だったが、このときは急遽入院されたので叶わず、後年、息子のマット安川との特別番組のインタビューの時は会えた。別の機会には、井尻千男、片岡鉄哉、藤井厳喜氏らが一緒だったこともあった。いずれも筆者が台湾側と交渉し、ツアーを組んだ企画だった。
 東京に来られたときも六本木の国際文化会館で開催された後藤新平賞授賞式では楽屋に訪ねた。日本李登輝友の会の懇親会では拙著への質問があり、氏の隣に呼ばれた。
 李登輝総統との幾つかの会話で、筆者は多くを発見した。
 第一に『武士道解題』をかかれた李登輝氏の武士道理解は『死ぬことと見つけたり』の山本常朝の武士道という悲壮な世界観に立脚するのではなく、新渡戸稲造的なキリスト教的コモンセン��の世界解釈だったこと。
 第二に、三島由紀夫に関しては、おそらく情報不足からか、一度も発言がなかった。
 第三は、李登輝世代は恋文も哲学も日本語でなしたので、大正から昭和初期にかけての日本的情緒、その奥ゆかしさを体現でき、思考の基礎を日本語で組み立てることだった。それも正調日本語である。
 或る時は駐日大使(台北経済文化代表処長)のお招きで芝のレスオランに筆者夫妻、阿川弘之夫妻、竹村健一夫妻が招かれ、懇談した。席上、阿川弘之氏が李登輝総統���会いに行くことになった。そのとき阿川氏は「断じて自費で伺います」と元日本海軍将校の基本姿勢を言われたのも印象深い。
 かくして日本李登輝友の会は初代会長を阿川弘之、二代目が小田村四郎、そして現在は渡邊利夫(拓殖大学学術顧問)となって地道な活動を続けてきた。
これからも李登輝総統閣下をカリスマとして、日台友好発展のための中核的組織として継続される。毎年7月30日の命日には追悼行事が組まれることになるだろう。
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xf-2 · 5 years ago
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第二次世界大戦で奇跡の生還を遂げ「戦艦大和の語り部」として講演活動などをしてきた八杉康夫氏が1月11日広島県福山市内で死去した。92歳。誤嚥性肺炎だった。
 著書『戦艦大和最後の乗組員の遺言』(2005年 ワック)は筆者の手になる聞き書きである。その生涯と言葉を振り返りたい。
八杉氏は福山市の豆腐店に生まれた。1943年、「街を颯爽と歩く水兵さんにあこがれて」15歳で海軍に志願。秀才の集まる横須賀砲術学校を2番で卒業。17歳で憧れの大和乗務員に抜擢された。
 担当は艦橋最上部での敵機の偵察。「司令官ら偉い人たちの居る場で狭い階段で最敬礼の連続でした」。
 敗色濃厚となった1945年4月7日、「天一号作戦」と呼ばれる沖縄海上特攻に呉港から出撃する。「温存されていた大和を使わないまま敗戦になれば国民の批判を受けることを軍部は恐れたのです。燃料は片道分と言われましたがそれは嘘で、十分���積んでいたはずです」
 乗り込む前夜、母まきゑさんと呉市の旅館で食事をし、当日は港近くまで送られた。「『長い間ありがとうございました』と敬礼し踵を返すと『あんた、元気でな』と言われましたが振り返りませんでした。これで会えないと覚悟していました」。
壮絶な少尉の割腹自殺と救助を拒否した高射長
 隠密行動のはずだったが米偵察機マーチンがさっと上空をかすめた。「すぐに察知されていたんですね」。いよいよ、敵機は近い。
「艦橋最上部で5メートルもあるニコン自慢の測距儀のレンズを覗くと米機の編隊で真っ黒だった。自慢の45センチ(内径)の主砲を撃つタイミングを今か今かと測っていると編隊はさっと雲上に消えたのです。真上から攻撃された大和は高射砲で応じましたが300機以上の米機はまるで雲霞(ウンカ)の大群。魚雷、250キロ爆弾などが次々と命中し為すすべもありません。大和は結局、主砲は一発も撃てませんでした」。当時、日本のレーダーはお粗末で基本は目視だが、運悪くこの日は空一面に雲が広がっていた。
 ちぎれた手足や首が転がり甲板は血の海。地獄絵図の中、八杉少年は衝撃的な光景を目の当たりにする。可愛がってくれた保本政一少尉が傾く甲板で軍服をはだけ、持っていた短刀で割腹自殺したのだ。「血がホースの水のように吹き出し、少尉は倒れました。私は震えて立ち尽くしました。前夜、褌をアイロンして届けると『ありがとう、明日は頑張れよ』と言われました。彼が秘密の上陸を母に密かに知らせてくれたから母に会えたのです」
 八杉少年は横転した大和の艦橋が海面に接する直前に海に飛び込むが大和が沈没し大渦に巻き込まれる。「洗濯機に放り込まれたように水中をぐるぐる回り、人にバンバン当たりました。息ができず苦しくてもう駄目だと思った時、水中がバアーッと黄色く光ったのです」。弾薬庫に引火した大和が水中で大爆発した。その勢いで運よくぽっかりと水面に浮かんだ。
 空を見上げるとアルミ箔のようにきらきらと光っていた。「きれいだなと思っていたらそれが落ちてきました。砕け散った大和の鉄片だったのです。近くで漂っていた人は頭を真っ二つに裂かれました」。重油の海で力尽きた仲間が次々と沈んでいった。
 沈みかけて思わず「助けてー」と叫ぶと偶然近くを漂っていた川崎(勝己)高射長が「そうれ」と丸太を渡してくれた。「自慢の髭は油まみれ��オットセイのようでした。『お前は若いのだから頑張って生きろ』と大和が沈んだ方向へ泳いで消えました。私は高射長、高射長と叫び続けました、川崎さんは救助を拒み、大和が沈められた責任をお取りになったのです」。
 4時間の漂流の末、八杉少年は駆逐艦、「雪風」に救助された。「赤玉ポートワインを飲まされ重油をゲーゲーと吐きました。引き揚げてくれた若い男は『お前、よかったなあ』と泣きながら私の顔を叩いていました」
 雪風が到着した佐世保は一面、桜満開の快晴だった。「『畜生、これが昨日だったら』と全員が男泣きしました」。40キロ以上飛翔する主砲弾が編隊の中で炸裂すれば米軍機10機くらいは一度に落とせたはずだった。
広島では自爆攻撃訓練
 大和の沈没は国家機密。生還者は佐世保にしばらく幽閉された。そして広島へ戻り、母にも再会できたが山中で米軍撃退の「肉薄攻撃」と呼ばれる「自爆攻撃」の訓練に明け暮れた。「棒の先の爆弾を戦車に踏ませるんです。部下は銃の扱いも知らない頼りない兵隊ばかりでした」。
 ある朝、空が光ったかと思うとものすごい風が吹いてきた。原爆だった。すぐに広島市内の現地調査を命じられた。水を求める少年に「後でやるからな」と去った。「水を与えるな」が命令だった。「人生、あれだけは心残りです」。
 音楽の才能の豊かだった八杉氏は戦後、NHKラジオの『のど自慢』のアコーディオン伴奏なども担当した。神戸で修業し、ピアノの調律師として生きたが、被ばくが原因で階段も上がれないような疲労に襲われることもあった。結婚もしたがすぐに離婚された。ヤマハの技師長にまで出世したが、退社後は楽器工房を営んだ。
みつかった戦艦大和
 1980年代に「大和探し」が始まった。調査三回目の1982年5月、指南役になり鹿児島県坊ノ岬沖に沈む大和をNHKスタッフらと探し当てた。戦後長く沈没位置は徳之島沖とされていた。「大和はそこまで到達しないうちに沈んだ。おかしい、という説はありましたが、毎年、徳之島で慰霊祭をやってきた地元出身の有力代議士の力でそのままになっていたんです」。
「潜水カメラの影響でしゃれこうべ(頭蓋骨)が浮かび上がって一回転し、スーッと沈んでいった時は船上の全員が涙を流しました。実は自衛隊の対潜哨戒機が上空から場所を教えてくれたんです」。その後、日本船舶振興会の笹川良一氏などが大和を引き揚げようという計画を立ち上げたが八杉氏は「仲間はあそこで静かに眠らせたい」と���対した。
名作『戦艦大和ノ最期』の嘘を著者に認めさせる
 朗らかな人柄だが事実には厳しかった。名著とされた吉田満の『戦艦大和ノ最期』には救助艇の「初霜」について海面から兵隊が這い上がると艇が沈むため、「ここに総指揮および乗り組み下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇(ひし)めく腕を手首よりバッサバッサと斬り捨て、または足蹴にかけて突き落す」とある。
 だが八杉氏は「初霜は内火艇と言って羅針盤の磁気に影響するため乗る時は軍刀を持ち込めない。そもそもそんなことする必要もない。艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それにそんな事実があれば幽閉されていた佐世保では『ひどい奴だ』とその話題で持ちきりになったはず。そんな話題は全くなかった」。
 筆者は子供の頃、『戦艦大和ノ最期』を読み、這い上がる兵隊の手首を斬り落としたという場面は衝撃的で鮮明に覚えている。八杉氏に会ってそれが嘘と知り、少しほっとしたが迷惑千万だったのは書かれた当人だ。実名は出していないが旧海軍関係者にはすぐに誰かわかる。兵隊の腕を切り蹴り落としたとされた初霜の総指揮は松井一彦中尉。戦後、東京で弁護士をしている松井氏に筆者も会い取材したこともある。松井氏は訴訟も検討したそうだが吉田氏は五十代で早逝した。
 作品では大和艦上で兵隊たちが議論していた時、臼淵磐大尉が「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。(中略)敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。(中略)俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」と演説している。この「名言」に八杉氏は鋭く疑問を呈した。「戦後民主主義教育を受けなくてはあり得ない。あの時は全員が『見ておれ、アメ公め』と燃えていたんです。敗れた自分たちが愚かだった、反省して国を再建しよう、なんて発想が出るはずもない」と。
 吉田満氏は東京帝大出身。大和には電測士として乗り込み、九死に一生を得た。「頭のいい吉田さんは鬼畜米英から戦後民主主義にさっと切り替えて、あたかも大和の乗組員が話したかのようにしたのでしょう」。八杉氏が吉田氏に会って問い糺すと相手はフィクションと認めた。「フィクションならどうして実名で書くんですか」と畳み掛けると黙ってしまったという。『戦艦大和ノ最期』は三島由紀夫、河上徹太郎、小林秀雄ら当代一流の文壇人が「ノンフィクションの最高傑作」とこぞって絶賛した。若い吉田氏は「あれ��作り事でした」とは言えなかったのだろう。だが名作の影響は大きい。「徳之島」も吉田氏の著作が根拠だった。
 八杉氏は後年、『男たちの大和』の作家辺見じゅんにも「それは嘘です。そうお書きになるなら小説になさい」などと厳しく指摘した。
 2005年に『男たちの大和』が角川映画になった際は、反町隆史ら出演俳優らに、高射砲の撃ち方などを実技指導した。その時は「娯楽映画だから主砲をぶっ放したのは仕方がないかな』と笑っていた。
 感動的な講演を続け、川崎高射長の場面では必ずしゃくりあげた。一年半前、久しぶりに福山市内の施設で会った時は認知症も進み、いつも「粟野先生」と呼んでくれていたダンディな八杉氏が筆者が��か判別も付かずショックを受けた。
「敗戦の象徴」の生き証人はいつもこう訴えた。「平和は向こうから歩いてはこない。自ら掴み取るのです」。
粟野仁雄(あわの・まさお) ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。
週刊新潮WEB取材班編集
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chikuri · 6 years ago
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去る4月、中国の温家宝総理が訪日した際に発出された日中共同プレス発表の第三項に、「台湾問題に閲し、日本側は、日中共同声明において表明した立場を堅持する旨表明した」という一文がある。ここでいう「日中共同声明において表明した立場」とは、具体的にどのようなものなのか。英語でInstitutional memoryという言葉がある。特定の組織が、当該組織に属したことがある個人ではなく、組織として継承している過去の記憶のことである。今年は、日中国交正常化35周年に当たる。35年前に国交正常化を合意した日中共同声明の主要な争点の一つであった台湾問題についての日本政府の当時の交渉記憶が正確なものかどうかを、この機会に改めて検証してみる必要があるように思われる。    「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」 右に引用したのが、台湾の地位について合意された日中共同声明第三項である。同項は、1972年9月、北京での国交正常化交渉において最後まで残った争点であり、また、共同声明の中で今日でも実体的意味を持っている唯一の規定なのである。(当時筆者は、条約課長として、田中総理、大平外相に随行し、高島条約局長を補佐して中国側との交渉に参画した。) そもそも、中国との国交正常化を公約に掲げて72年7月に登場した田中内閣が対応を迫られたのが、当時中国政府が国交正常化の前提条件として提示していた対日復交三原則であった。このうちの第一原則、すなわち中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府であると認めることは、戦後わが国が外交関係を維持してきた台湾に存在する中華民国政府との公的関係を、「一国一政府」という国際法の原則に従って終了させることを意味した。これは、日本政府にとって、大きな政治的決断を必要とする問題であったが、中華人民共和国との国交正常化を実現しようとするのであれば、いずれにせよ避けて通ることはできない関門であった。 対日復交三原則の第三原則は、わが国が1952年に中華民国との間に締結した平和条約は、不法、無効であり、廃棄されなくてはならない、とするものであった。この主張は、中華人民共和国 (1949年に樹立宣言) の立場からすれば当然とも言えるが、他方、わが国としても、戦後わが国の国際社会復帰の枠組みの一環であった日華平和条約が不法、無効と認めるわけにはいかないことは明白であった。この双方の立場の違いを克服するには、交渉当事者の現実主義と外交的智恵を要したが、決して不可能なことではなかった。実際にも、この問題は、共同声明発出直後に行われた記者会見において、大平外務大臣が「日華平和条約は、日中国交正常化の結果として、存続の意義を失い、終了したものと認められる」との一方的声明を行う(これに対し、中国政府が意義を唱えない)ことにより解決したのである。 第二原則は、台湾の地位に関し、先に引用した共同声明第三項の前段に述べられている中華人民共和国政府の立場を認めることを求めるものであった。この台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の立場を受け入れることには、三つの基本的問題が存在した。第一は、1949年に誕生した中華人民共和国は一度も台湾に実効的支配を及ぼしたことはなく、同地域は、中華人民共和国の支配を拒否する国民党政権 (当時) によって継続的に統治されてきている、という政治的現実である。第二は法的な問題である。台湾の法的地位に関しては、サンフランシスコ平和条約がわが国の領有権を含む「すべての権利、権原」の放棄を規定するに止まり、同地域の最終的帰属を定めなかったという経緯がある。これは、1949年以降の中国が、大陸を支配する中華人民共和国と台湾を支配する中華民国の二つに事実上分裂した事態の下で、サンフランシスコ平和条約の当事国である米国その他の連合国の間で、台湾をいずれの中国に帰属させるかについての合意が得られなかったことによるものである。そして第三が、日米安保体制に係わる問題である。 日中国交正常化に先立つ同じ1972年の5月に沖縄の本土復帰が実現したが、沖縄返還交渉において米国との間で最大の争点となったのは、返還後の同島の米軍基地に、安保条約に基づく��前協議制度が変更なしに適用されるのかどうか、という問題であった。これが、いわゆる「本土並み」返還の問題である。 事前協議制度の下では、わが国が攻撃されていない状況において、米軍が戦闘作戦行動を目的として在日基地を使用するためには、事前に日本政府の許諾を得る必要がある。日本政府は、当然この事前協議制度はそのままの形で沖縄の米軍基地にも適用されるべきである、との立場で対米交渉に臨んだ。しかし、韓国、中華民国(台湾)との間に相互防衛条約を結んでいる米国としては、万一朝鮮半島あるいは台湾海峡有事の際に、事前協議に基づく日本政府の許諾が得られず、沖縄の米軍基地の使用が著しく制約されれば、韓国、中華民国に対する防衛義務を効果的に果たせなくなることが懸念され、そのような事態は是非とも避けなくてはならない、という軍事上の要請があった。 そもそも安保条約は、日本防衛と同時に、条約上は極東と呼ばれる、わが国を含む東アジアの安全を確保する地域的安全保障システムの中核という性格を併せ持っている。しかし、この地域的システムは、朝鮮半島や台湾地域の平和と安全の重要性について日米両国が共通の認識を持たなくては機能しないことは明らかである。したがって、沖縄の「本土並み」返還を実現するためには、事前協議制度は維持しつつ、別途何らかの方法で、地域的システムとしての安保体制が、いざというときに機能不全に陥ることはないことを示すことによって、米国の懸念を取り除く必要があった。そのために考え出されたのが、1969年11月の佐藤栄作総理(当時)の訪米時に発出された日米共同声明である。(この間の経緯については、東郷文彦「日米外交三十年」に詳述されている。) 同共同声明の第四項において、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」と同時に、「台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとって極めて重要な要素である」との総理大臣の認識が表明されている。更にこれを受けて第七項は、次のとおり述べている。    「総理大臣と大統領は、施政権返還にあたっては、日米安保条約及びこれに関連する諸取決めが変更なしに沖縄に適用されることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日本の安全は極東における平和と安全なくしては十分に維持することができないものであり、したがって極東の諸国の安全は日本の重大な関心事であるとの日本政府の認識を明らかにした。総理大臣は、日本政府のかかる認識に照らせば、前記のような態様による沖縄の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではないとの見解を表明した。大統領は、総理大臣の見解と同意見である旨を述べた。」 すなわち、極東の平和と安全についての日米の認識の共有を確認することにより、日本側は、事前協議に際して「ノー」と言う(戦闘作戦行動のための基地の使用を認めない)権利を留保しつつも、実際にその権利を行使する可能性は極めて小さいという政治的保証を米側に与え、「本土並み」返還への合意を取り付けたのである。なお、訪中の一ケ月前の八月未にハワイでニクソン大統領と会談した田中総理は、中国との国交正常化は安保条約と関わりない態様で行う旨を述べて、同大統領の了解を得た経緯があるが、これは、右に触れた日米共同声明を念頭に置いてなされたものである。 以上の背景を踏まえながら、わが国として、台湾問題に関しどのような立場をとるべきであろうか。これが、当時の外務省事務当局に与えられた課題であった。 台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の主張を受け入れた場合は、台湾に対する中国の武力行使は国際法上内戦の一環(正統政府による反乱政権に対する制圧行動)として正当化され、他方、台湾防衛のための米国の軍事行動(中国の国内問題への違法な干渉)をわが国が支援する法的根拠が失われてしまう。これは、まさに地域的安全保障システムとしての安保体制の崩壊を意味する。わが国がこのような立場に立たされることは、中国が武力による台湾「解放」の可能性を排除しないとの立場をとっている以上、どうしても避けなくてはならないことは明らかであった。そこでわが方が中国側に提示した共同声明の台湾問題に関する原案は、まず前段において、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の立場を引用し、後段で、「日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」としたのである。北京の人民大会堂で開催された第一回外相会談において、日本側は共同声明案を提示し、高島条約局長(当時)が大平大臣の指示に基づいて逐条的に案文の説明を行った。台湾については、サンフラン シスコ条約の下で全ての権利、権原を放棄したわが国は、同島の地位について発言する立場にないとの認識を述べた。 日中交渉の七ヶ月前の二月にニクソン大統領が訪中し、米中和解を謳う歴史的な上海コミュニケが発出された���その中で台湾問題について、米側は、「米国は、台湾海峡の両岸のすべての中国人は、中国は一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを認識する(acknowledge)」と述べるに止まった。日本としては、この米国の立場から踏み出すわけにはいかない、というのが共同声明案を起草した外務省(条約局) の考えであった。(ちなみに、わが方の照会に対する米側の非公式の説明は、「アクノレッジ」とは、文字通りアクノレッジという意味であり、それ以上のものではない、とのことであった。すなわち、中国人が主張している事実を認めたのであって、主張そのものを認めたものではない、という意味であると理解されたのである。) さて、「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」とのわが方案に対し、中国側の回答は、「ノー」であった。このような厳しい反応は、台湾に対して強い影響力を有している国は米国に次いで日本との実情を考えれば、予想されないことではなかった。したがって、訪中前に条約局は、中国がわが方案を拒否した場合に備え、ぎりぎりの第二次案を考えておく必要があると判断したのである。そして、そのような案としてわれわれ事務当局がポケットに入れておいたのが、当初案の末尾につなげて「ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」との一文を加えたものであった。 わが国が降伏に際して受諾したポツダム宣言 (日本の降伏条件を規定した宣言として、1945年7月26日付で米・英・中華民国三国首脳により発出)は、その第八項 (領土条項)において、「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルべク」と規定している。そして、同じ三国の首脳が1947年11月に発出したカイロ宣言は、台湾、膨湖諸島は中華民国(当時)に返還することが対日戦争の目的の一つであると述べている。「一つの中国」という立場から、中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の正統政府と認めるのであれば、カイロ宣言にいう「中華民国」とは、中華人民共和国が継承した中国である。したがって、カイロ宣言の履行を謳っているポツダム宣言第八項に基づく立場とは、中国すなわち中華人民共和国への台湾の返還を認めるとする立場を意味するのである。 姫鵬飛外相を通じてわが方の第二次案を受け取った周恩来総理は、これを受け入れる決断をした。中国側の同意を知らされたわれわれは、筆者を含め、これで正常化交渉はまとまったと感じた。ポツダム宣言第八項に基づき、台湾の中国への返還を認めるとの立場は、次の二つのことを意味している。第一に、台湾の最終的地位は未解決であるとの認識である。これは、台湾が中華人民共和国の領土の一部になっているとする中国の立場とは異なるものである。しかし、中国にとってより重要な第二の意味は、台湾が中華人民共和国政府によって代表される中国に返還されるのをわが国が認めることであるから、「二つの中国」あるいは「一つの中国、一つの台湾」は認めない(すなわち、台湾独立は支持しない)、ということである。周総理は、この日本の第二次案を正確に理解し、台湾の地位に関する法律論よりも、日本が台湾の中国への返還にコミットしたことが持つ長期的かつ政治的意味を重視したものと思われる(すくなくとも筆者はそのように考えている)。また同総理は、結局台湾問題の鍵を握っているのは米国であり、その米国が譲れない線を越えて日本が譲歩することはあり得ない、と判断したのであろう。 このようにして合意された日中共同声明第三項については、時の経過と共にinstitutional memoryが薄れ、不正確な理解の侭に議論が行われる傾向がある。 誤りの第一は、同項の日本国政府の立場表明の重点は、後段のポツダム宣言への言及部分ではなく、前段の「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し」の部分にあり、かつ、その趣旨は、中華人民共和国政府の立場を受け入れたものとする解釈である。この解釈が正しくないことは、すでに述べたとおり、当該部分がまさに中国が拒否したわが方の第一次案であったという交渉経緯に照らせば明白である。中国は、「十分理解し、尊重し」の表現は不満足と考えたからこそ、受け入れなかったのである。 第二の誤りは、同項全体が中国の立場を認めたものであるから、台湾の地位をめぐる問題は中国の国内問題と認識されるべきであり、したがって、台湾は安保条約の対象外(同条約で言う「極東」 の範囲から除かれる) とする議論である。この点については、政府統一見解として行われた、次のような大平外務大臣の国会答弁(1973年衆議院予算委貞会議録第五号) があることに留意する必要がある。    「中華人民共和国政府と台湾との間の対立の問題は、基本的には (傍点筆者) 中国の国内問題であると考えます。わが国としてはこの問題が当事者間で平和的に解決されることを希望するものであり、かつこの問題が武力紛争に発展する可能性はないと考えております。なお安保条約の運用につきましては、わが国としては、今後の日中両国間の友好関係をも念頭において慎重に配慮する所存でございます。」 右の統一見解は当時慎重に準備されたものであり、これをより平易な表現に書き直すと次のようになる。    「台湾問題は、台湾海峡の両岸の当事者間の話し合いによって平和的に解決されるというのがわが国の希望であり、その結果、台湾が中華人民共和国に統一されるのであれば、わが国は当然これを受け入れる(それが共同声明第三項の意味である)のであって、当事者間の平和的話し合いが行われている限り、台湾問題は第三者が介入すべきではない中国の国内問題と認識される。    「���本的には」とは、そのような意味である。こうした認識を踏まえれば、武力紛争の可能性がないと考えられる現状では、台湾をめぐり安保条約の運用上の問題が生じることはない。しかし、将来万一中国が武力を用いて台湾を統一しようとして武力紛争が発生した場合には、事情が根本的に異なるので、わが国の対応については、立場を留保せざるを得ない。」 多少説明が長くなったが、以上が日中国交正常化に際して政府がとった立場であり、日中共同声明第三項の意味である。その後35年の間に二つの変化が生じた。一つは、米中国交正常化が実現し、米国の条約上の台湾防衛義務は消滅したことである。しかし、米国の行政府は、国内法(台湾関係法) によって、有事に際しては適切な対応を義務づけられているから、米台関係の問題の本質は変わっていない。二つ目の、そしてより重要な変化は、台湾における民主主義の定着である。その結果、台湾住民の圧倒的多数は政治体制に関する基本的価値観が異なる本土との統一を望まない、という現実を無視することの不条理が一層明らかになってきている。このような状況の下で東アジアの平和と安定を確保していくためにわが国がとるべき道は、一方において、本稿冒頭で言及した4月の日中共同プレス発表のとおり、日中共同声明に表明されている立場を今後とも堅持する(必要に応じ、わが国は台湾独立を支持しない旨を台湾当局に明確に伝えることを含む)ことであり、他方中国に対しては、台湾問題の平和的解決が日中両国が目指す「戦略的互恵関係」に欠かせない要素であることを訴え続けることであろう。 国際関係においては、時にはいかに努力しても解決できない問題が存在する。そのような場合の唯一の策は、無理に現状を変えようとせずに、辛抱強く時が経つのを待つことである。時間が現状を変え、当初は見えなかった解決策が浮かんでくることが期待できるようになる。台湾問題は、そのようなケースのように思われる。 (編集者注. この論文は『霞関会会報』2007年10月号に掲載されたもので、同会報および執筆者の了承を得て転載しました。)
台湾問題についての日本の立場-日中共同声明第三項の意味-栗山尚一(元駐米大使)JIIA -日本国際問題研究所-コラム/レポート
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moment-japan · 6 years ago
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後藤新平のデスマスク、台湾で発見!
nippon.com
内務大臣兼復興院総裁として、関東大震災で壊滅した帝都の復興に大きな役割を果たした後藤新平の没後90年にあたる2019年4月13日を前に、台北市のとある寺で後藤のデスマスクが一部メディア向けに公開された。
読者の中には、「なぜ台湾で?」と思われる人もいるかもしれない。
台湾は、日清戦争の勝利によって日本が初めて手にした海外領土だった。後藤は第4代台湾総督児玉源太郎を補佐する民政長官として、 1898(明治31)年から1906( 明治39)年までの8年間にわたって、植民地経営に携わった。当時、台湾の人々の間に広まっていたアヘン吸引の禁止や、鉄道・港湾など都市インフラの整備、製糖産業の育成など、矢継ぎ早に近代化政策を実行した後藤は、今も台湾で多くの人にその名を知られる日本人の一人なのだ。
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▲後藤新平(時事通信)
実は、私自身が後藤のデスマスクと対面するのはこれが3回目だ。2006年11月、私は神社遺跡の調査研究で訪れていた台北で、たまたま後藤新平のデスマスクに関する情報を入手し、台北市を走る地下鉄MRTの圓山駅前にある臨済護国禅寺を訪れた。臨済護国禅寺は児玉源太郎が仏教布教のために建てさせた寺で、本堂の建立にあたっては後藤も多額の寄付をするなど縁が深い。
彌陀(みだ)殿の2階に安置されているおびただしい位牌に交じって、黒塗りの厨子が大切に保管されていた。その扉を開くと、中に小さめの顔に自慢の口ひげと顎ひげを伸ばしたデスマスクがあった。左右の扉には次のように書かれていた。
昭和四年四月十三日於于京都府立病院逝去 天眞院殿祥山棲霞大居士 霊位 伯爵 後藤新平閣下像
献納 辜顕榮
台北に献納したのは辜顕栄
献納者として名前が記されていた辜顕栄(こけんえい)は台湾の実業家で政治家。日本統治下の台湾で度重なる抗日運動の鎮圧に全面的に協力し、後藤から絶対的な信任を得て、台湾総督府の専売事業だった樟脳(しょうのう)の製造・販売や塩田開発、アヘン、タバコ販売など譲り受け、巨富を築いた。1923(大正12)年には勲三等に叙勲され、34(昭和9)年7月に貴族院議員に勅選された最初で、唯一の台湾人である。後藤とは、個人的にも深い親交を結んでいたことが知られている。
後藤が倒れたのは、1929年4月4日早朝。講演の依頼を受け、東京発の夜行列車で岡山に向かう途中、滋賀県米原市付近でのことだった。後藤は京都駅で列車から降ろされ、京都府立医科大学付属病院に救急搬送された。
後藤急病の報は台湾にいた辜にもも��らされた。辜は、9日の近海郵船の大和丸で基隆を出発し、12日に京都に到着し病院に駆け付けたが、その時点で、後藤は既に意識不明となっていた。13日に危篤に陥り、そのまま息を引き取った。
4月13日付の読売新聞は次のように伝えている。
遥々(はるばる)台湾から見舞いに入洛 その贈物に絡む光栄も悲し 枕元に泣く辜顕栄氏 後藤伯の病勢愈々(いよいよ)重く今夜は只(ただ)時間の問題と医員から宣告された12日の午後3時頃、力なげな歩みを運んで伯の病室を訪れた白髪の一老人があった、その人は元中華民国財政顧問の軍職に在り、我台湾統治に就いても少なからず尽瘁(じんすい)した結果勲三等を賜はつたと云(い)う台湾人辜顕栄氏であるが後藤伯と氏とは民政長官時代から肝胆相照らす親交を続け辜氏が隠世後も伯を慕ふの余り四季を通じて心尽しの贈り物と音信を絶たぬ程であったが、突然の発病を聞き遥々上つて来たのである、今は片言さへ発し得ない伯を見て老眼には涙に濡(ぬ)れ ―中略― 伯の危篤の悲報を聞いたので急遽(きょ)入洛したのであるが時既におそくこの光栄を語り合う術(すべ)もない有様に余所(よそ)目も哀れな程嘆いてゐる。
さらに、後藤の死去に関連した記事としては、「家族の希望によりデスマスクを取ることになった」ことを複数の新聞が取り上げている。京都市内で理化学機器の製造をしていた上野製作所の技師が待機していて、臨終が告げられると間もなく病室に入り、マスクを取った。石こうの型から3つのデスマスクが作られたようであり、4月15日付の神戸新聞夕刊にはその写真が掲載されている。このうちの1つが、いまわの際に台湾から駆け付けた辜に託され、辜が臨済寺に献納したということなのだろう。
当初、臨済護国禅寺で対面したデスマスクが本物かどうか確信を持てずにいたのだが、2018年、決定的な新聞記事を発見することができた。
後藤死没翌年にあたる1930年4月12日付『台湾日日新報』に「故後藤伯 一周忌」と題して、後藤の妻・和子が設立した台湾婦人慈善会が主催して臨済護国禅寺で法要が執り行われることになったと書かれていたのだ。さらに、「同寺には昨年伯が京都府立大学病院で薨去(こうきょ)の際取ったデスマスク(死面)が辜顕栄氏の寄贈によって安置されてある」と記されていた。
後藤家は臨済宗妙心寺派の檀家で、辜も同じ信徒であったという。台湾の近代化に尽くした後藤に敬意を表し、台湾の地にぜひとも奉安したかったのだろう。
残念ながら、現時点で、残る2つのデスマスクのゆくえは分かっていない。後藤家の本家の菩提寺である岩手県奥州市の増長寺(臨済宗妙心寺派)や東京青山斎場で葬儀を取り仕切った青松寺など思い当たる場所を調べてみたが、いまだ発見には至っていない。
後藤は台湾民政長官を務めた後、南満州鉄道の初代総裁に就任、鉄道インフラの整備を核とした都市計画を進めた。これは、全く推測の域を出ないことだが、もしかしたら、3つのデスマスクは後藤とゆかりの深い、台湾、満州、日本に一つずつ納められているのではないだろうか。日本人の習慣として決して一般的ではないデスマスクが死後、手際よく製作されたのには、家族だけではなく、後藤が関係した人々の思いがあったのではないかと想像する。
ちなみに、台北の臨済護国禅寺のデスマスクは一般公開されていない。日本統治時代については、台湾の人々の間でも評価が分かれており、これまでは、反日的な運動の攻撃対象になることへの懸念があったのであろう。日台関係が深化する中、いつの日かこの貴重な文化財が完全公開されることを期待している。
金子 展也 【Profile】
バナー写真=後藤新平のデスマスク(筆者撮影)
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nagaterakimi · 6 years ago
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艦これ2019春イヴェント
はじめに
春って言ってもこの暑さ、熱いイヴェントになるといいけど。ギミックとか複雑そうでもう少し情報待ちつつかな。
とりあえず、金剛改二と赤城改二を用意しました。絵って巧い人でも上達するものなんだなって金剛の立ち絵見ると思いますね。赤城さんは1945モードってことで架空戦記読者としてはなかなか響くものが……。いま赤城は2隻目を準備中です。
今回の自分的な縛りとして、一応
各海域に1隻はケッコン艦を入れる
出来れば全部甲で攻略する
最終海域の旗艦は長良改で突破する
こんなところでしょうか。ただし、初っ端のE1からケッコン艦入れ忘れてます。結構難易度高いらしいので、縛りは採用しないかも。クリア優先なので参考程度です。
ちょくちょく更新していくので、ここらへんで切り
E1 艦隊集結地哨戒!単冠湾泊地
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最初からギミックいろいろ、ここ数日も北海道の名前をニュースなどで見ました。記録的な暑さだったようですね。深海勢力の影響でしょうか。
北方領土はまた別のことでも、ニュースで散見したし。艦これはいろいろとタイミングがおもしろい。米大統領が来日しているときに、ハワイ攻撃イヴェントというのも。
使用艦船:鬼怒、天竜、Z1、Z3、親潮、海風
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君ら仲いいね。この子たちはもう少し火力アップなど調整が来るといいなあ。
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あ、もう終わっちゃった。夜戦して終わりました。なんだあっという間じゃん。基地や支援なしでテキトーにやろうとしたら、バケツ随分使ってしまった。やはり準備の積み重ねが肝要ないつもの艦これだった。
北方から次は一気に南西諸島へ。何やら大和ドロップがあるそうなので、苛烈な戦いなのでは。今週後半予定の友軍を待ったほうがいいのか…。
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戦果任務を2つ使って、なんとか500位以内に入れた。少し前に鎮守府異動があったけど、佐伯湾に残留したのが良かった感じ。旧5-4時代には戻りたくないね。
有能攻撃機配られて本当に良かった。使えるものが増えると嬉しい。これからやるE2も多分サクサク終わるはず…。友軍艦隊も来るから。
E2 防備拡充!南西諸島防衛作戦
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E2から輸送と戦力のダブルゲージ。ここでは海防艦の石垣がドロップするほか、クリアすれば海防艦の八丈が合流すると。さらに大型建造のみだった大和もドロップするとか。
史実的なモチーフは南西諸島への輸送作戦や沖縄近海の米軍機動部隊を標的とした菊水作戦を支援する形の天一号作戦。でも、特効などを否定してきた艦これなので、基地航空隊と協力しつつのマップ構成でした。
輸送で使用した艦娘は、大和、隼鷹、龍鳳、矢矧、如月、涼月。如月に大発3積んで、TP36ずつ削っていきます。基地航空隊はボスに集中でやれば、支援なくとも割かし簡単でした。ここで石垣出てくれればと願ったんだけど、無理だった。
戦力ゲージをやるにはギミックがあり、空襲マスのBとCで航空優勢だったかな?こういう楽な感じでよいのだ。
戦力ゲージの編成は、輸送から大和、矢矧、涼月を。新規に、朝霜、磯風乙改、雪風を入れました。磯風は今後の海域で使うらしく、よくチェックしないで入れてしまった。致命的な失敗ではないとは思うけど。いわゆる史実編成です。
結構ここは沼っぽい感じになってしまった。途中の空襲マスで駆逐艦や軽巡に大破が出て、撤退を繰り返す感じ。最初はキラ付けせずにやったけど、三重キラを維持することが重要でした。剥がれたら1-1へみたいな感じで。
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基地も道中の空襲マスやル級の出るTマスへ出すことで安定させた。友軍艦隊や決戦支援を当てるつもりで道中突破に全力注ぐのが、ここの最適な戦術でしょう。
それでもバケツは60近く使ってしまった。北上や大井の当たり友軍編成を引き、雪風の魚雷CIが決まりゲージ割は一発だったのが救いか。
ここの報酬は強い局戦と海防艦「八丈」。
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あ”あ”あ”かわいい。そうだね、石垣は結局まだだけど、ドロップするJマスを潜水艦隊で基地に熟練つけつつ掘る方法を試していきます。次のE3も友軍艦隊が来る前までには、ゲージ割直前までもっていこうかな。
Jマス堀で熟練付け兼ねていたらあっさり出ました。石垣。伸ばした手がかわいい。
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E3 敵戦力牽制! 第二次AL作戦
ダブル戦力ゲージの海域でした。 第一ゲージはよく覚えてないくらいあっさりと。それくらい第二ゲージに苦戦でした。友軍待たずにできたのはネルソンのおかげ。あとロシア艦の特効も。
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もらった増設を早々に使ってしまったのでガングート高速化はできず、どうしても夜戦までに敵が3~4残ってしまう。そうなるとターゲットが分散して特効持ちの攻撃が巧く刺さらずのくりかえしでした。
やはり時代は特殊攻撃なのか。後段を甲で攻略するなら温存も必要だったのかな。
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敵がかわいい。Nタッチが3連発で直撃してくれた。従わないといえば、したがってくださーいと言う阿武隈が思いつく。ほかにも由来があるのだろう���。
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海外軽巡がまた合流。航空識別迷彩のかっこいいイタリア艦ですね。キリッとした表情が凛々しい。強い艦戦も手に入った。次から後段ですが、さすがに明日の友軍を待ちつつ、準備します。
使用艦娘:ネルソンリシュリュー金剛、雲竜天城鳳翔RJ祥鳳アークロイヤル、古鷹加古衣笠那智足柄、多摩木曽阿武隈ゴトランドガリバルディ、皐月タシュケントベールヌイ、福江日振
E4 第二次ハワイ作戦
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ここのギミックいろいろ面倒でした。ハワイ諸島といえば太平洋上の一大拠点だから、外堀内堀あるような設計のマップ。一つ一つ潰して、機動部隊で真珠湾のあるオアフ島の敵中枢を漸減してゆき、攻略部隊でせん滅すると。
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この敵は16春に登場したやつで、あの時どうしても甲クリアできなくて時間も足りなくなって泣く泣く丙にして終わらせてしまった。今回はそのリベンジということでがんばりました。その結果、なんと攻略中にフレッチャーに邂逅!
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クリア後堀やらずに済んでよかった。今回のイベやっていると特効持ちの艦娘なしでは堀もままならない。とくに甲難度だとなかなかきつい。強い友軍を引けば何とかなるし、実際何とかなった。
あとはE5だけだ…。
使用艦娘(機動):イタリア、蒼龍翔鶴葛城大鳳、鳥海最上三隈プリンツオイゲンポーラ、北上由良能代、リベッチオ島風初月谷風浦風江風吹雪
使用艦娘(水上):比叡霧島、加賀千代田千歳、鈴谷利根筑摩ザラ、大淀、秋月霞霰
E5 波濤の先に―――
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禍々しい穴が開いてるマップで、第一ゲージの敵を倒す。水上打撃部隊でもって、いわゆる胸熱砲を使い撃破。ここは友軍は来ないけれども、アメリカ艦に特効があるのでCI決まって何とかなった。陸上攻撃機で戦艦棲鬼を倒せたかどうかも重要だった。
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砲身がバラバラに動いて、砲塔が多重に見えてる感じがかっこいい。ながむつカットインの描写はけっこう好き。
その後、ギミック���いくつかこなすのだが、郵送護衛部隊でVマスB勝利に相当苦労した。航空巡洋艦を残しておかなかったので脆い補給艦を採用した結果、途中で大破撤退しまくって…。誰かがこのギミックは凶悪と言っていたがその通り。やっとVマスに到達しても警戒陣レ級を引いてC敗北。
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基地も熟練が取れてしまうので付け直しの出撃をしたり、少しイライラした。仕方ないのでダメコン積み、実際に速吸が消費しS勝利。防空とか空襲マスの優勢やほかのマスでの勝利を経て、ルートが追加されいよいよ第二ゲージへ。
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明るく歓迎してくれる敵。とりあえず機動部隊で削り、そのまま割できるかと、20数出撃。ぜんぜん無理でした。
ボスマスの手前のXマスが先制雷撃や開幕航空戦のできるレ級で最終編成では2隻になるという鬼畜仕様。機動部隊が相性悪いとはわかっていたけど、ダメコンの無駄うちまでしてしまって、完全に作戦が悪かった。
本当は長良改を旗艦でやりたかったのだけど、諦めて胸熱砲編成へ。
やっぱり特殊攻撃強い。友軍の引きも良かった。とどめは大井っちに。
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全部を甲で終えられた。艦隊育成や改修やら頑張っていこうかな。しかし今後時間が足りなくなりそう。とりあえず今月は500位以内狙いつつ、資源回復に努めたい。
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nemosynth · 6 years ago
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遠近法の次は魚眼レンズ
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24 年前に書いた文。じつは、北朝鮮から帰国当初に勢いで書いた文章。いま読むとこっぱずかしいが、記録なのでここに。 ------------------------------------------- 遠近法の次は魚眼レンズ  ベルリンの壁も見た。すでにソ連ではゴルバチョフがグラスノスチを進めていたとはいえ、共産体制は崩壊せずそのままに軟着陸するかに思えた。よもや壁が崩壊するどころか、私の目の黒いうちは絶対に崩れまいと思った。ナチスという求心力を失い、豊かさの中に我を見失った西側。我を見失うまいと、強大なイデオロギーの壁の向こう側に自らを封じ込めた東側。壁をめぐらせるだけで、周囲との差異が際立って見える。壁を用いるのは、自我を保つ古典的な手段。ヒステリックに自由を叫ぶ壁の落書きは、だが壁の向こうがわで展開する狂信的な体制礼讃と、奇妙なシンメトリーを成していた。  むしろ、なじみある土地から浮遊させられ、自己を相対化されたおびただしい数の難民こそが、二十世紀の真の主役ではないか。  それは両ドイツを訪れた時に私を圧倒した膨大な心象の、小さな結晶のひとつだった。私がそれを見たのは、十代最後のまぶしい夏のことであった。  帰国した日本も、そうとう不自然に歪んでいた。  樹木が巨木に育つには、何百年とかかる。どうやら、自分が植えた樹が大きくなるのを、己の目で見たい、と思ってはいけないものらしい。それは自分の死後、成し遂げられる。同様に、私たちの世代では完了し得ないことでも、5世代後に日の目を見るのかもしれない。未来を事前に知ることがかなわぬ以上、展開も見通しもないまま、じっと耐えるのも必要なキャリアであろう。  だが、日本では誰もが性急に答に、すぐ飛びつこうとしていた。  ワールドニュースが簡単に手に入り、すぐにも世界を知ったつもりになってしまう国。受け売りは受け売りを超えることが出来ないと言うのに、やたらと評論ばかりが多い国。言葉も所詮は道具にすぎないというのに、かっこいい言葉に捕われている国。 「自分の言葉で喋れ」 と言われてみたところで、今度は自分の言葉で喋ると称して、自分になじみある言葉でばかり解釈してしまい、本質を見失う。しかも、言葉さえ知っていれば他を批判するのは簡単だというのに、人は他を批判したがるばかりか、批判の対象も���虫色の言葉の影に隠れ、自在に趣旨を変化させて逃げ切ろうとする。  それもビジネスの一つの手段だというならよいが、それはビジネスマンの口から聞ける言葉であって、評論家の賢い口から出てきても不毛なだけ。  しかし、地球はまだまだ広い。  就職してから3年ないし4年毎に、精神的危機が訪れるという。それは、それまでの教育制度のおかげで、入学と卒業という、天から与えられる転機のサイクルに慣らされてしまっているからではないか。結局、自分の問題意識すら、自力でつかめない私たち。私たちの行動が、所詮、この国独特の教育体制によって刻印された様式美でしかないなら、��性を尊重した教育なんて存在するわけがない。せいぜい、自分で新しい様式美を構築するぐらいか。 「次の問いに答えなさい」 という質問ばかり与えられているうちに、いつのまにか我々は、宇宙のすべてに答があると思い込むようになり、性急に答に飛びつくようになった。答が不明瞭に思える時は、いらいらするようになった。こうして、全てを形に起こさないと満足しない現代人ばかりが、社会を動かすようになった。  無形の、あいまいなものを嫌がるようにしつけられ、気づかぬうちに己の思考自身が既に様式美となったのが、私たち共通一次世代。選択肢が無ければ答えすら思いつかない。形が無くては満足に思考することすら不可能。形無くして生きて行けないのなら、せめて自分を規定している形がどんなかたちをしているのか把握しておきたい。  何故なら、自分が自分である必然性は、どこにもないから。  無論、自分に生まれてしまった以上、自分を生きるしかないのも事実。だが、その真の意味を解している人間が、どれほどいることだろう。  様式美の中では視界も限られてしまう。曖昧模糊に見える大衆の中、紛れ込んでしまった自己の小ささ。でも消費に励めば、高嶺の自己実現も手に届きそう。流行という多数派閥にうずもれる安心と、複製がたくさん出回るというのに商品化された自己実現による差異化への試み。この二律背反を無批判で享受する私たち。  自己実現にはげむのは、決して悪いことではない。いや、むしろぐうたらな私より数倍も崇高な行動だ。  しかし、曖昧模糊とした大衆の中では、確固たる尺度がないから、己の分を知ることが出来ない。しかも近代科学のおかげで、答えを性急に求めたがるようしつけられ、確固たる尺度もないままでいることに神経が耐えられない。尺度がないと不安に駆り立てられ、尺度がないのを良い事に、ある者は言葉をたくさん仕入れ、検証される心配のない仮想領域ばかり語る評論家になることで、台頭しようとする。ある者は真面目に人生と期待に真っ正面から取り組み、取り組んだものの、自分の達成を測ることが出来ないが故に際限もない自己実現を迫られ、疲れ果ててしまう。  きっと相手は疲れ果てているだろうと察するからこそ、私は黙してしまう。  達成への強迫にまで肥大化してしまった自己実現至上主義。これを打破するには、どうしたらよいのか。自己実現の自己表現への転化も、一つの方法には違いない。オタクどもが、まさにそうだ。  私にあるのは、インプリンティングされた枠組みであり文脈であり、それをどこまで異化して眺めることができるかという分析力であり、自己を相対化してでもその分析をいとわない意志であり、ためらっている場合ではないという状況認識であり、自己を束縛する枠組みと付き合うことを考えることである。  さらに私には理解の種を蒔く努力と、発芽するまで待つ忍耐が加わる。そして時として全てを、めんどうだ、と言って放り投げてしまう。ついつい答を求めてしまうからいけないのだ。  だが世界には答が立派に用意されている国家が、今もなお存在する。  世界には奇跡のような版図が、今もなお、たくさん存在している。  そして私には、イデオロギーが生んだ分断国家を、もうひとつ、見る機会に恵まれた。  15万人が入るというスタジアムに案内された。  東京ドームもはだしで逃げ出すスタジアムの一角には、これまた十メートル四方以上もある��大な故金日成主席の肖像画が掲げられていた。その真下で、やっと見分けられるくらい小さく見える一人の男性が、一生懸命に両手で旗を振っていた。彼の旗の一振りが合図となり、5万人の学生が繰り広げるマスゲームが、そのパターンが、一斉に変化する。場内には金日成の息子、金正日将軍を高らかにたたえる歌が、巨大なスピーカー群も割れんばかりの大音量となって轟き、響き渡っていた。  初日に見たマスゲームには、子供のように目がくらんだ。15万人のどよめきは、関西大震災の地鳴りと、そっくりだった。それにもまして15万人の完璧な静寂は、身震いが止まらない無気味さだった。まさしく天変地異に等しいスペクタクル。壮大な無形文化財。   だが、三日目ともなると、人間を愚弄した演出の数々に、私達は憤りのあまり言葉もなかった。ただ、軍隊のようにデジタルな割り切りのはっきりした直線的で明解な動きだけでなく、波動を多用したアナログなたおやかな曲線美も演出するあたり、共産主義も90年代に入ったということなのだろうか、などと、かろうじて理性で考えることができた。それほどまでに、マスゲームは衝撃的で異質な演出であった。寒気がするほどすばらしい完成度だったが、一人でできる踊りは、一つもなかった。  演じるの中には幼い小学生の姿もあった。1万人の小学生たちが、一糸乱れぬ国家的シュプレヒコールを展開する。  あなたがいなければ私たちもなく  あなたがいなければ古里もない  金・正・日! 金・正・日! 金・正・日! 万歳! 万歳! 万歳!  そして死せる前主席、金日成を懐かしむ一万人の小学生たちが右手を挙げて敬礼し、一斉に、無気味なほどそろったタイミングで、一斉に号泣する。その声が、ただ、霞のように、飛蚊の雲の音のように、スタジアムを満たすばかり。しかも、泣きじゃくりながらも、彼らの手足はきっちりそろって行進しているのだ。  むごたらしいまでの完成度の高さ。  虚飾を排したデザイン。しかも巨大な建築ばかり。どれもこれも刑務所のような外観をした、偉大な建築の数々。鮮烈な配色を嫌うのはまだしも、そこは全てが統制された殺風景。センスもダサい。広告は一切なく、その代わりこうこうと夜も電飾で輝く政治的プロパガンダの数々。半島は一つ。偉大なる指導者・金正日将軍、万歳! 偉大なる首領金日成主席、万歳! 栄光の朝鮮労働党、万歳! 我々は絶世の偉人、金日成主席の革命戦士だ! 我々は金日成主席の人間爆弾になろう!  金日成が死去してまだ一年たらず、その巨大な肖像画は国のあちこちで共和国人民たちを見まもる。  色あせた北朝鮮では、どんなラフな格好をしていても日本人は派手。そして人民たちは、根深いひとみしりによって、絶対に目をあわせようとは、しない。  だが、住んでみたいとは絶対に思わないにしろ、言われているほど、北朝鮮は異国でもなかった。  たとえ黙り込むにしても素朴な人々の反応。裏を読むことを全くしない、すなおな田舎の心理。恐らく最近まで、東京でもこうだったはずだ。私たちが子供のころの東京や京都。今の日本でも、外国人に対して慣れていなくて構えてしまう人々はたくさんいるだろう。意外にも両国は共通項が多い。  かつてタイでみかけたのは、はにかむ上目遣いの視線だった。水気を含んでしっとりとした空気もあいまって、それはとても東洋的なセクシーさをたたえていた。北朝鮮は少し違い、乾き切った大陸の荒野そのままに、表情も荒涼としていた。それは紛れも無く偏狭で過敏な郷土愛に満ちた、ひとみしりの視線。彼らは無口でぶっきらぼうだが、物心つく前に離ればなれになって忘れ去られたままの兄弟に出会った気になったのも事実。それは帰国子女の私が、それだけ、ひとみしりする日本人に肉迫して来たと言う、個人的に感慨深い事実でもあったのだが。  しかし偏狭で繊細な郷土愛は、時に凶暴な警戒心にも転化しうる。監視され尾行され警告まで受けるのは、何度経験しても、みぞおちが堅くしめつけられる。旅を終え帰国してきた直後、我々は自由世界に帰還できたという気のゆるみから、名古屋市内の道端にへたばってしまった。ツアー・バッジを外した時の解放感は、仕事から帰宅してネクタイをはずしスーツから私服に着替えたときの気分にもまさるというのが、自分でも笑えた。  今回は、たまたま無事に帰ってこれた。だが次回、同じことをしたら、果たして帰って来れるかは未知数。最後には帰ってこれても、彼らが我々を交流することなく観光旅行を続けさせてくれるかは、未知数。生命の危険と言うだけでなく、たとえ彼らが言うところの「帝国主義陣営」の抗議により釈放してくれたとしても、そもそも釈放されなければならない事態に陥ること自体、一観光客にとってどれほどシビアな状況か。シンガポールでは、フィリピン人のメイドが故国とは違う法律によって処刑された。北朝鮮刑法でのスパイ罪は、最低7年の強制労働と修正教化である。修正教化! 皇民化教育の再来、いや仕返しか、パロディか。あとで無事帰国��きたとしても、あまりに大きな代償。今を思えば朝8時にホテルを出発し、夜10時以降にホテルに帰ると言うハード・スケジュールも、早朝から夜間に至るまで我々を管理しておきたいという意図があってのことではないか。単独行動を起こす時間を、極限まで無くしてしまいたいという狙いではないのか。郷土愛は、時に凶暴な警戒心に転化する。  それにしても彼らがお膳立てしてくれたコースは、往々にして哀しくさせた。古都、開城(ケソン)の遺跡展示がつまらなかったのは、単に展示が貧相であったというだけではない。安らかに眠るはずの遺跡をたたき起こし、今なお血気盛んな共産主義の偉大な歴史背景として演出する意図に満ちているからだ。封建支配に叛旗をひるがえす農民一揆の展示に力を注ぐあたり、どこまで思想は皮肉なものなのか。抗日英雄たちの霊廟も同様、抗日戦争は素直に受け止めるにせよ、それが個人崇拝に至るなら、興ざめである。  忘れた兄弟にめぐりあえた気分にしてくれる、偏狭で繊細な郷土愛のまなざし。だがそれは、時に相手が自分よりすぐれているか劣っているかでしか判断しない。  ただ、帰国したその時、かすかだが確固たる疎外感を感じたのも事実。何を体験したか、そのシビアさは実際に行った人間でないと分からない、というだけではない。  警告するにしても目をそらすにしても、彼らは我々が眼前にいることを、はっきり認めていた。帰国直後、名古屋の道端でへたばっていた我々を見ようともしない日本人の群れの中、我々は背景の景色の一部品でしかなかった。せいぜい、その他大勢。曖昧模糊とした大衆。  私たちは、監視され VIP 待遇まがいの特別警戒を食らうことに、あまりにも慣れてしまって、人から視線を浴びない事には自我を保てなくなってしまったのだろうか。寂しいような、しかしこれが、あるべき姿でもあるという実感なのか。  そして全体主義が海をはさんで隣接しているのも意識せず、眼前に我々が存在している実感も認めさせてくれぬまま、日本はどこへ行こうとしているのか?  尾行される緊張にみなぎった行動と、背後に広がるプロパガンダ。  出発前の私は正直言って興味本位だった。地球最後のワンダーランド。目の前に、現実に展開するスペクタクル。国家権力の壮大なパロディ。北朝鮮が半世紀も続いたのは驚異だが、大日本帝国とて四分の三世紀も続いたことを考えると、それは歴史の隙間としてあり得る数字なのかも知れない。哀しいのは、それがちょうど1世代まるごと飲み込む時間であること、その中で生まれ死する世代がいるということ、他を知らずに。  しかし大日本帝国には、大正デモクラシーというリベラルな一コマもあった。極端な管理社会は極端な自由放任同様、絶対に長続きし得ない。それは判断を放棄した社会であり、そもそも純粋な体制などあり得ない。北朝鮮は国家のパロディとしか思えなかった。  だが、それは北朝鮮を理解する入口でしかなかった。決して悪くない入口ではあったが、いつまでもそこにとどまることは、できなかった。  めくるめく圧政の中、極めてまじめに生きる素朴な人たちがいたからである。  姿勢正しい人々の、礼儀正しく、まっすぐな視線。なにごともけじめを大切にする礼節厚い人々。「一人の一生で終わる生物学的生命より、世代を越えて伝わる政治的生命に自己を捧げる」などと心底ほこらしげに語って聞かせる人々。暖衣飽食の人生よりも、歴史に名を残すことを重んじる気高い人々。曇りなき自己の純粋さを尊ぶ人々。管理することで初めて得られる安心。  恐らくは儒教精神に根ざしているであろう、それら感覚や価値観は、だが日本人にとっても少なからず馴染みあるはずであり、時に基本的なしつけだったりもする。欧米にもマスゲームはあり、軍隊式マーチングバンドが盛んであり、何よりも軍では自己犠牲が叩き込まれる。集合美、組織美は、東洋の特権ではない。そして管理は生活の保障を生む手段であり、それ自体は善し悪しではない。手段の一つに過ぎないはずの管理という言葉が日本では嫌がられるのは、非本質的な管理が多いからだ。  根底の発想はまるで異質に思えても、その上に立脚し構築し見せてくれる演出は、実に念入り。一挙手一投足にいたるまでが、彼らの高い理想と純粋な使命感に裏打ちされている。そして機械に頼らず生身の人間を大量に現場へ投入する人海戦術。この彼らの誇る究極のテクノロジーを駆使することで、むごたらしいまでに高い完成度をめざす。しかし、身の毛もよだつほどむごい向上心と全体主義が、じつは日本の高度成長期の滅私奉公会社人間と比べ、いかほどの違いがあるのだろう。街中をひるがえるイデオロギッシュなプロパガンダと、日本の吊り広告の中で物質文明の享楽に溺れる決まり文句の洪水と、いかほどの違いがあるのだろう。北朝鮮と日本とは、同じものの両極にいるに過ぎない。  マスゲームに参加した学生たちが退場するとき軒並み号泣するのは、演出によるものとはいえ、あながちこの社会で育った者なら、涙腺が金日成に感じるようにできているのかもしれない。  小学生たちは罪ない声で指導者たちを賛美しながら、一生懸命に踊りを踊ってくれる。褒めてあげれば、ほんとうに嬉しそうな顔をする。完全無欠の表情をつくってくれる優等生もいれば、本心から恥ずかしそうに嬉しい顔をする正直な子もいる。この年代なら、誰だって認められたいものだ。ネタがネタだっただけで、大人が嬉しがることを素直に実践する彼らに、罪も曇りもなかった。私たち観光客に授業参観させてくれたばかりか、雨をもろともせずに濡れながら純真に手を振って観光バスを追いかけて見送ってくれた小学校の子供たちの笑顔に、なんの罪も曇りもなかった。  その笑顔がこころを刺して痛かった。思わず泣けてきた。  それは私がなし得た、数少ない共感であった。彼らと私との、ダークだがれっきとした他者理解の成功例であった。北朝鮮と日本は、同じものの両極にいるのだ。  だがそれはダークだった。何も外の世界を知らず一生をまっとうできれば幸せという意見もあったが、それは、自分の価値観と使命感とを一点の曇りもなく疑わず猛烈に働きつづけ過労死するサラリーマンの一生を幸せというのと、同じかもしれない。そもそも、人民はそこまで意識できるよう教育されているのか。純粋な気持ちで子供たちが歌うのは、大政翼賛の歌。降りしきる雨に濡れながら私たちの観光バスを追いかけてくれた子供たちの背後には、校長先生だという太った中年女性が、部下に雨傘をささげさせ、かっぷくある手ぶら姿で微笑んでいた。北朝鮮では、すべてがパロディには違いなかった。しかしそれは、私たちの日常を実感として再検討させてくれる、極めてシリアスで重いパロディでもあった。  その明快さから、とかく遠近法こそが真実に忠実な画法とされがちだが、注意深ければ、視野は自分の眼を中心とする球面上に展開していることが分かるはず。だが、球面上に広がる視野を平坦な紙の上に転写すれば、それは見なれない像を結ぶ。  象徴的なまでに、すべてが単一の消失点へ収束する遠近法の技法、一点投射法。極めて単純明快、かつ熟練すれば複雑で柔らかな像を描くこともできる。だが、どこまで卓越しつづけても、遠近法は魚眼レンズのように発想の転換を迫ることはない。この国の数々の偉大なる建築を可能にせしめた一点投射法、その中心には、つねに金さん親子が燦然と輝いていたのだろう。だが、中米の先住民は世界最大のピラミッドを石で建設したが、ついぞ車輪を思いつかなかった。  人が意外な忘れものをしがちな存在なら、私たちもまた。  理解は、だがそこまでだった。桁外れの人みしりの向こうは熱烈な郷土愛で満ちていて、いったん心が融けると猛烈な勢いでお国自慢が始まる。出生にコンプレックスを持った田舎者が急に自信を持ち出したような、お国自慢。程度の問題かも知れないが、さすがに、かくも自尊心高く排他的な感情の奔流に、私はついていけなかった。吐露させることが理解への遠くて近い道と分かっていても、それは一方的に行われるコミュニケーションにさらされる苦痛であ��、さらに偏狭な感覚から解放されたいという欲求との戦い。  アイデンティティーの名の下に、許されてしまっている我がままなヘゲモニー。南朝鮮との違いにヒステリックなまでにこだわる北韓。そんなに声を高くしないでも、北朝鮮は充分にユニークな国。共産主義(彼らは独自性を出そうとし金日成主義と呼ぶが)国家という名の儒教国家なんて、いまどきここにしかない。だのに自他の違いを徹底的に強調した舌の根も乾かぬうちに、今度は同じ民族だ、自主統一に向けて��北は一致団結しようと言い出す矛盾。  自他の差異は、じつはささやかなものでしかなく、ただそのわずかな差異すら人間には満足に乗り越えて相互理解できないばかりか、たとえ相互理解できる状況であっても、わずかな差異がありさえすれば、それは人間にとってこだわりがいのあるある差異なのか。それは、なじみある分析の筈だったか文化相対論を突き詰めたとき、今までに出会ったどの普遍論よりも広大な海原が姿を表わしたという点で、再発見に等しかった。  相対論は小気味良い思考道具であり、普遍論は桁外れに大きい。  彼らに国を憂うことが許されているのだろうか? それを私が憂うことは、主体を重んじる人々にとって、おせっかいな内政干渉になるのか? EU のように誰もが国境を自由に横断できるようになれば、なにもいま統一を急ぐこともないのか? だが、日本人である私が、他国の行く末を口にして良いのだろうか?  派遣に留まらない働きを発揮して下さった現地人ガイドさんには、是非とも訪日いただき、きれいなところもきたないところも、ぜんぶ案内してさしあげたい。何のトラブルもなく行き来できる日が、ほんとうに早く来てほしい。  しかし、ひとみしりは危険な警戒意識をも生み出す。たびたび尾行され、一時はフィルムまで没収された前科者の我々は、果たして再入国させてもらえるのだろうか。あるいは無事帰国させてもらえるのだろうか。その答は風の中。 '95年5月
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hiyoko-channnel · 3 years ago
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【悲報】プーチンが核ミサイルで狙う「日本の大都市」の名前が判明!「おいおい福岡は落とすんじゃねえよ怖いだろうが」
プーチンが狙う「日本の大都市」の名前 https://i.imgur.com/Rbse5Yc.jpg  上の図の通り、東京はほぼ全域、神奈川、千葉、埼玉の主要部も焦土となる。図では便宜上、10個の核の爆発しか記載しておらず、実際の被害はさらに広く、半径100km圏内に及ぶ。  すべての抵抗手段を完膚なきまでに叩き潰すため、自衛隊の基地は「死の手」の標的だ。朝霞や習志野、木更津、横浜といった駐屯地や、ヘリポートを備えている府中基地にも核は容赦なく襲い掛かる。  必ず狙われるのは在日米軍基地も同様だ。米海軍の空母や潜水艦にとって重要な役割を果たしている横須賀基地、同じくキャンプ座間や横田基地も格好の標的となる。  「熱線と爆風だけで数百万人単位の死者が出るのは確実。熱傷などの被害も含めれば、首都圏の死傷者は1000万人を超えるでしょう」(別の防衛省関係者)  当然ながら、「死の手…
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xf-2 · 5 years ago
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米軍の弱体化
 いざとなったら米軍が助けに来てくれる──。そんな戯言を言える時代は過ぎ去りました。いまや米軍を〝スーパーマン〟のごとく頼ることはできません。
 米軍は現在も世界最強の軍隊ですが、その力はこの20年で低下しています。また中国軍が急激に力をつけ、いまやアジア太平洋地域のパワーバランスは逆転しつつあるのです。
 現に8月、シドニー大学米国研究センターによる報告書では、米国は太平洋における軍事的優位性をすでに失っており、同盟国を中国から防衛するのは困難になる恐れがあると警告しています。
 冷戦の真っ只中だった1980年代、アフガニスタンを侵略し、北海道をも奪おうとしたソ連に対して、当時のレーガン政権は圧倒的な軍事力と経済力を背景に、日本やドイツなどの同盟国と連携して立ち向かいました。「侵略は許さない」という態度を示すだけでなく、軍事力を徹底的に強め、ソ連を心理的に屈服させようと考えたのです。その戦略は的中し、ソ連は侵略を断念。冷戦は終結しました。
 その後、米国は国内問題に専念しようとしますが、9.11同時多発テロが起こります。米軍の戦略は「テロリストたちをやっつけない限り、米国の平和は守れない」と主張するネオコン勢力に引きずられ、ソ連や中国といった「大国相手の戦い」から「テロとの戦い」へとシフトしました。米軍の役割が「正規軍との戦い」から、イスラム過激派らのテロを防ぐことに変わったのです。この戦略転換が、今日の米軍弱体化を招く一つの要因となりました。
 ところが、米軍がいくら中東の紛争に関与しても平和と安定は訪れず、紛争は拡大するばかり。兵士たちも自爆テロなどで死傷し、国民の不満も高まった2009年、「対外戦争で米国の若者を殺さない」と主張したオバマ〝民主党〟政権が誕生します。
 オバマ大統領は「米国は世界の警察官ではない」と広言し、急激な軍縮を実施。世界の平和と安定を維持するための努力も怠(おこた)りました。米軍関係者が自嘲的に〝米国封じ込め政策〟と呼んでいたのが印象的です。
 息子ブッシュ〝共和党〟政権時代の「テロとの戦い」への方針転換と、オバマ〝民主党〟政権による〝米国封じ込め戦略〟によって、米国の軍事戦略から中国やロシアの脅威は軽視され続けてきました。特に急速に国力をつけた中国に対しては、国内のパンダハガー(Panda Hugger:パンダを抱擁する人)と呼ばれる親中派によって、軍拡に対応するどころか、中国と組んでテロを防ぐ方向に誘導されていったのです。
 かくしてこの20年間、政党は関係なしに、米国は「世界各地のパワーバランスを維持しながら紛争を抑止する」というレーガン政権の外交・安全保障戦略を見失っていました。
 思い返してみれば米軍は1991年の湾岸戦争以来、正規軍と血みどろの戦争をしていません。いまの幹部も正規軍との戦争経験がない人がほとんどで、正規軍、しかも大国の正規軍との戦争をできるのか、米軍内でも多くの人が不安を持っている実情です。
同盟国を守る「能力」の低下
 危機感を抱いたトランプ大統領は政権発足後、「国家安全保障戦略」で中国とロシアを「現状変更勢力」、いわば〝敵〟として位置づけました。さらに「国防戦略2018」でも中国を念頭に、「大陸間角逐」こそ最大の脅威であると再定義し、軍事費を毎年7兆円程度増やして懸命に軍拡しています。大国との戦争を念頭に置いた軍事戦略に回帰させたのです。息子ブッシュ政権以来となる国家戦略の全面的な転換でした。
 トランプ氏が当選した直後のマスコミの論調を思い出してみてください。「トランプは安全保障の素人だ」「孤立主義を採用しアジアへの関与が失われ、日本も危うい」などと不安を煽(あお)っていたでしょう。実体は正反対で、トランプ政権はまともな対外政策に回帰させたに過ぎないのです。
 しかし一度、軍縮した影響は計り知れません。まず国防産業が衰退しています。トランプ政権は現状から80隻増となる350隻の軍艦をつくると明言しましたが、製造を急いでもつくり終えるのは2050年になると言われています。そこでアジア太平洋地域に兵力を優先的に振り分けるべく、トランプ政権はシリアからの撤兵などを断行したわけです。
 2019年10月27日、米国特殊部隊の奇襲作戦によって、ISの指導者アブ・バクル・バクダディが死亡しました。この作戦についてトランプ大統領の発言と記者会見の内容がホワイトハウスより発表されましたが、それを読むとトランプ大統領は「私は兵士たちが(シリアやトルコから)家に帰ってほしいし、何か意味のあることと戦ってほしい」とはっきりと言っています。トランプ大統領は限られた兵力を「意味ある戦い」に振り分けたいと明言しているのです。
 さらに米国のインテリジェンス能力も落ちていて、トランプ政権は必死に立て直しを行っています。オバマ政権時代、予算削減のため情報収集の担当者を次々とクビにして、情報収集体制はボロボロになりました。平壌の空爆と金正恩の「斬首作戦」が実行されなかったのも、インテリジェンス能力の低下によりミサイルや核が保管されている地下の軍事秘密基地、さらに金正恩の居場所や本人確認のDNA情報の入手ができなったことが理由の一つだと言われています。
 いまもマスコミでは「トランプは日本を守る気がない」「同盟関係を重視していない」との声が支配的ですが、このようなトランプ大統領の姿勢は「意志」ではなく、「能力」の問題なのです。トランプ大統領がいくら同盟国を守りたいと思ったところで、現実に同盟国を助ける能力を失いつつあるというのが正しい見方でしょう。
 もちろん、圧倒的な核戦力によって中国軍が米軍に手出しできないのは事実で、日米同盟は「抑止力」として機能しています。しかし、いまや米軍が「通常兵器」で中国に対抗できなくなりつつあるという現実を踏まえ、同盟国である日本は防衛体制を全面的に見直さなければなりません。
「在韓米軍不要論」の深意
 もう1点、日本が直視すべきなのは米韓関係です。
 米国側は韓国に対する嫌悪感がこれまでにないほど高まっています。日米間で北朝鮮をめぐる協議をしているときも、「慰安婦問題で日本は謝罪をしていない」「日本大使を韓国に戻さないのはおかしい」と難クセをつけてくるのですから当然です。
 米国は七十年前、韓国の赤化を防ぐために朝鮮戦争を戦いました。その記憶がある米軍の幹部たちは、「我々は北朝鮮から韓国を守ろうとしているが、もし韓国で被害が出たら〝米軍のせいで犠牲になった〟と言ってくるに違いない。こんな連中を助ける必要があるのだろうか」と思い始めているのです。
 米国も当面は韓国への影響力確保の観点から米韓同盟を維持していくでしょうが、米軍を韓国に駐留させておくリスクが高まってきていることも無視できません。
 戦闘機などの整備の一部は現地、つまり韓国企業が担いますが、文在寅政権は発足直後、北朝鮮のスパイを取り締まる国情院(国家情報院)の長官に極左の徐薫氏を起用しました。その結果、北朝鮮のスパイを取り締まる機能は麻痺し、韓国企業には労働組合を通じて北朝鮮のスパイが入り込んでいると思われます。そうなると、もはや韓国企業に在韓米軍の艦艇や戦闘機などの整備を任せることはできません。
 軍事戦略面からも、米軍が韓国に駐留する必要性は低下してきています。米国にとって最大の脅威は、中国海軍のSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)です。いまのように軍事バランスが不均衡なままでは、SLBMを搭載した中国の原子力潜水艦が太平洋へ進出し、米国本土を核攻撃できるような状況が生まれかねません。すでにそうなっているという分析さえあります。このままでは、核戦力の優位すら危ぶまれることになります。
 そこで日本・ベトナム・フィリピンに地対艦ミサイルを配備し、中国海軍を抑え込む「ミサイル・バリア構想」を在韓米軍が担う方向で議論が進んでいます。在韓米軍の一部がベトナム、フィリピンなどに展開していく、という話です。台湾海峡危機に対応するためにも、限られた部隊を韓国に置いておくよりは日本に戻し、日本・台湾ラインで中国海軍を抑え込んだほうが効果的と考えられています。
圧倒的な物量不足
 冒頭でも指摘しましたが、とにかく米軍はいま、中国軍と比べて物量で劣勢に追い込まれているのです。
 北朝鮮漁船による瀬取り、台湾海峡や尖閣諸島など東シナ海の問題、南シナ海における「航行の自由作戦」を主として担当するのは、駆逐艦です。現在、これらを担う米海軍の第7艦隊の駆逐艦はわずか8隻、潜水艦を含めても艦艇は70隻しかありません。日本の海上自衛隊の兵力は135隻で、日米両国の兵力を合計すると約205隻となります。
 一方、中国海軍の駆逐艦は公表しているだけで33隻、潜水艦を含めれば750隻あるといわれ、艦艇の数だけを見ても中国の兵力は日米両国の約4倍もあるのです。
 しかも中国は「ロケット軍」というミサイル専門部隊をつくっていて、いわゆる〝空母キラー〟といわれる対艦弾道ミサイルなどを次々に開発しており、その膨大な、かつ高性能のミサイル攻撃を仕掛けられたら、現在の日米両国のMD(Missile Defense:ミサイル防衛)体制ではとても対応できません。
 昨年来、英国・フランス・オーストラリア・ニュージーランドなどが南シナ海と東シナ海に軍艦や飛行機を派遣しているのも、米国一国では中国海軍を抑止できないからだと見るべきでしょう。
「ハイブリッド戦争」に備えよ
 中国の軍拡の源は、潤沢な資金です。資金が枯渇(こかつ)すれば軍の整備ができなくなり、動かない戦闘機や艦船が増える。物量で劣っているのなら、まずは貿易戦争で経済力を徹底的に奪うしかない──米中貿易戦争は、物量で劣る米国の〝時間稼ぎ〟という側面もあります。
 またトランプ政権が最も警戒しているのは、中国の「ハイブリッド戦争」です。ハイブリッド戦争とは、電磁波、プロパガンダ、サイバーなど、ネットワークや通信を破壊する手法で2014年、ロシアがクリミア半島を占領したときに用いられました。ウクライナの国会議員の携帯電話を使えなくさせたり、フェイクニュースを流したりして抵抗能力を徹底的に排除したのです。
 実際に習近平政権は台湾などを念頭に、ハイブリッド戦争を実行するため、準備を進めています。2015年12月、人民解放軍の大改革を行い、陸海空とロケット軍の4軍に「戦略支援部隊」を加え、5軍体制としました。戦略支援部隊は通信機能を麻痺させるために通信の基幹部分を抑えたり、プロパガンダを行う専門部隊で、ハイブリッド戦争遂行のために創設されたのではないかといわれています。
 ハイブリッド戦争に対抗するには、敵国の通信技術が自国に流入することを防ぐ必要があります。だからこそトランプ政権は徹底してファーウェイを締め出しているのです。さすがに防衛省は『防衛白書』などで中国のハイブリット戦争について注意を喚起していますが、日本の経済界の反応は鈍いと言わざるを得ません。
 今年はトランプ政権が宇宙軍を創設する法案を提出したことも話題になりました。これも中国の軍拡に対抗するものです。中国はミサイル戦や通信戦を念頭に、宇宙軍を強化しています。中国の宇宙空間での覇権を許してしまえば、いざというとき米軍の通信機能は麻痺させられ、中国の攻撃に全く対応できなくなってしまうのです。
日本海の争奪戦
 マスコミが大々的に取り上げることはありませんが、日本海の争奪戦はすでに始まっています。
 東シナ海では中国の軍艦や公船による尖閣諸島周辺への領海空侵犯が常態化、中国軍機を対象とした航空自衛隊のスクランブル(緊急発進)回数は過去最多を更新しようとしています。
 日本海では2017年、対馬海峡を中国軍機が初めて通過し、昨年度は7回通過、過去最多を更新しています。2019年に入ってからは中国軍機とロシア軍機が竹島上空を合同飛行し、ロシア軍機は領空侵犯しました。そして空自機と韓国軍機がスクランブルしています。
 そんななか、韓国の国防費が日本の防衛費を上回ったというデータが公表されました。経済不況に苦しんでいるにもかかわらず文政権は国防費を増やし、昨年は日本が約5兆3999億円、韓国が約5兆5310億円と初めて追い抜かれました。
 さらに「緊張緩和」と称して38度線に配備していた韓国軍を減らし、『国防白書』からも「北朝鮮は主敵」という文言を削除、来年度の国防予算には「周辺国に対抗する戦���を確保する」という項目を新設しています。「周辺国」には当然、日本も含まれます。文政権は「李承晩ライン」の復活を狙っているでしょう。
 1952年、当時の李承晩大統領は国際法に反し、竹島も含む漁業管轄権を一方的に主張しました。韓国はその後、日本と国交を回復する1965年までに約4000人の日本人漁師を拘束し、8人を死亡させています。先日、鹿児島に出張した際に李承晩ラインで拿捕された枕崎の漁師の親族の方とお会いしましたが、拿捕された漁師たちはヒドい虐待を受けたと聞きました。
 今後、文政権は日本の漁船や輸送船への嫌がらせを行い、尖閣と同じように「サラミ戦略」で対馬海峡を含む日本海を〝韓国の海〟とすべく、動き始めるでしょう。
 一方、日本海の豊かな漁場である大和堆では北朝鮮漁船が違法操業を続けています。そしてその北朝鮮漁船をロシアが拿捕した──すでに韓国、北朝鮮、ロシア、そして中国による〝日本海の争奪戦〟が始まっているのです。
 一体、どれほどの人が、日本海が尖閣諸島海域のような「紛争海域」になると想定しているのでしょう。「北朝鮮の違法操業はけしからん」程度の認識のままでは、ますます危機に追い込まれていくことになります。
継戦能力低き自衛隊
「日本の自衛隊は優秀だから、韓国軍相手ならば大丈夫」という声も聞かれますが、もし一触即発の事態になったとき、憲法9条に縛られた自衛隊法の解釈では初動の遅れでやられてしまうでしょう。
 実際に2016年には元空自航空支援集団司令官の織田邦男氏が、東シナ海上空で中国軍の戦闘機が空自機に対し「攻撃動作を仕掛け、空自機がミサイル攻撃を回避しつつ戦域から離脱した」とする記事を発表しました。攻撃動作を仕掛けられたことは、冷戦時ですらありませんでした。
 事実関係は防衛省幹部も大筋で認めたようですが、萩生田光一官房副長官、河野克俊統合幕僚長(ともに当時)はこれを否定しました。あくまで推測ですが、空自機が攻撃動作を仕掛けられながら戦域から離脱したことが判明すれば、同盟国である米国から「何という弱腰」と批判されることになるからだと思われます。
 しかし中国の戦闘機と日々向かい合っている空自としては、攻撃動作を仕掛けられた場合に「戦域を離脱し領空侵犯を容認する」のか、「阻止するために反撃する」のか、政府に方針を決めてもらわなければ困ります。だからこそ、あえて情報を漏らしたのかもしれません。
 領空侵犯を容認したら、「領空侵犯しても反応してこなかった」と中国に制空権主張の根拠を与えることになります。「撃墜もやむなし」と指示するには国際的な世論戦で負けないための宣伝能力の強化、日米連携の深化、敵基地攻撃能力の保持が不可欠です。
 中国は「世論戦」を重視し、米国をはじめ主要先進国に中国が有利になるようなニュースを流す体制をつくり上げています。予算は1兆円とも言われ、米国のケーブルテレビで中国政府が作成したニュースを流したり、ニューヨーク・タイムズには中国共産党の機関紙『人民日報』の英語版が織り込まれているほどです。
 一方、慰安婦問題という例を挙げるまでもなく、日本の対外宣伝力の弱さは知られています。韓国に対する「ホワイト国除外」でも、広報不足により国際社会では「日本が経済力で劣る韓国をいじめている」と報じられていたほどです。いまの状態で中国や韓国との間で紛争が起これば、日本は「悪者扱い」される可能性が高いと言わざるを得ません。
 それだけでなく、中国は「日本政府から戦闘を仕掛けられた」と宣伝し、ミサイル攻撃を仕掛けてくる可能性すらあります。事実、米国務省の「中国に関する年次報告書2014」では、中国は短期激烈戦争(ショート・シャープ・ウォー)として「大量のミサイルを短期間に日本列島に発射し、米国の助けが来る前に日本を降伏させる」というシナリオが検討されているほどです。
 日本はMDシステムを導入していますが、これだけで日本全土を守れるわけではありません。MDシステムは2段階に分かれていて、第1段階ではミサイルが大気圏にいる間に海上自衛隊のイージス駆逐艦が察知し、迎撃します。第2段階では、イージス駆逐艦が撃ち漏らしたミサイルを大気圏突入段階で空自の迎撃ミサイル、ペトリオットPAC-3で対応する仕組みになっています。
 問題は第1段階では日本列島全体をカバーしていても、第2段階になるとPAC-3を配備している半径数十キロしか守れないことです。つまりPAC-3が配備されていない札幌を除く北海道、青森を除く東北、新潟などの日本海側、中国、四国、南九州はミサイル攻撃にまったく無防備なのです。
 そしてそもそも防衛費の関係で在庫を抱えておらず、対応する迎撃ミサイルの数も足りていません。ミサイルだけでなく弾薬や燃料も不足していて、元自衛隊の幹部が言うには「おそらく海上自衛隊の護衛艦などが戦闘状態に入ったとして、戦い続けることができるのはせいぜい十数分だろう。自衛隊の基地が相手から攻撃を受けずに戦い続けることができたとしても1カ月持つかどうか」とのことでした。
トランプを救った安倍外交
 米軍の弱体化と中国の軍事的台頭、米韓同盟の変質──日本を取り巻く安全保障環境の変化に、安倍政権はどう対応しようとしているのでしょうか。まずは外交戦略です。
 トランプ政権は当初、中国に対抗するためにロシアと組もうと考えました。ところが関係改善は進まず、アジア諸国と関係を強化する方針に転換します。しかしフィリピンのドゥテルテ大統領は反米、ベトナム戦争の記憶があるベトナム、さらに核武装に踏み切ったインドなどとも関係は良好とはいえません。さらに「一帯一路」による買収工作で、中国批判を口にできない国も多くなっていました。
 途方に暮れていたトランプ政権に救いの手を差し伸べたのが安倍首相だったのです。安倍首相は第二次政権が発足した2012年12月、英文で「アジアの民主的セキュリティ・ダイヤモンド構想」という英文の論文で、日米同盟を広げて東南アジアやオーストラリア、インドにいたるまでの連携網を構築する構想を発表しました。
 この構想に基づき「地球儀を俯瞰する外交」で当該国との関係を深化させていったのです。特にインドとは同盟関係と言えるほど良好な関係を保っています。
 一昨年、アメリカで会った米軍の元幹部は「セキュリティ・ダイヤモンド構想がなければ、南シナ海や東シナ海での中国の横暴はさらにひどく、紛争が勃発していたかもしれない」という認識を持っていました。
 安倍首相がトランプ大統領とゴルフをラウンドしたり、トランプ大統領が安倍首相の誕生日を祝う姿に「アメリカの言いなり」「対米従属」と批判する向きもありますが、安倍外交が米国の大統領から頼りにされていることの証明です。
 トランプ政権と日本との関係が良好でなければ今頃どうなっていたことか、想像するだけでゾッとします。
 こうした戦略的な外交ができたのは安倍首相個人の資質だけでなく、政治の仕組みを抜本的に変えたことも一因です。第二次安倍政権は、発足と同時に日本版NSC(国家安全保障会議)を創設し、軍事・外交・インテリジェンスを連動させた安全保障戦略をつくる体制を構築しました。
内閣人事局は「官僚いじめ」か
 これまで日本の安全保障戦略は、防衛省が策定してきました。しかし霞が関で防衛省は3流官庁といわれていて、防衛庁時代は他省庁から相手にされず、防衛費の折衝すら直接財務省とできなかったほどです。
 しかしNSCは内閣総理大臣直轄なので、安全保障戦略の主導権は官邸に移動し、ほかの省庁を巻き込んで安全保障政策を策定できるようになりました。そのような意味で、この改革は画期的といえます。
 防衛、安全保障は防衛省の管轄と思われるかもしれませんが、住民保護や通信なら総務省、軍需産業による武器・弾薬の補給なら経済産業省、自衛隊の移動や戦闘機の離着陸なら国土交通省、戦闘によるけが人の対応なら厚生労働省……基本的にすべての省庁に関わっています。
 NSCの話になると出てくるのが「内閣人事局」です。マスコミは内閣人事局を安倍政権批判の道具にして「官邸が好き勝手やるためにつくられた」「役人いじめ」というのですが、それは霞が関の現実を知らない人の謬論です。
 内閣人事局は総合的な国家戦略を策定するための〝道具(ツール)〟にすぎません。さらにいえば、国益を考える有能な官僚を守るための道具です。
 官僚たちにとって、守るべき最大の原則は「前例踏襲」──先輩たちが行ってきたことを守り、否定しないこと。これこそ出世の必須条件です。しかし「前例踏襲」では肝心の「国益」が守れないことも多い。
 そんななか、安倍政権が内閣人事局をつくったことで幹部官僚人事を左右できるようになり、おかげで「国益のため前例を変えたい」と考える幹部官僚たちは上司に対し、「内閣人事局のせいで官邸からの指示には逆らえないので、やむを得ず先輩たちのやってきたことを改革します」と〝言い訳〟ができるようになりました。官邸が〝悪者〟になることで、各省庁の「前例踏襲政治」を改革しようとする国益重視の官僚たちを守ることができるのです。
「省庁縦割りの前例踏襲政治」から「内外情勢に機敏に対応できる国益重視の政治」へと官僚機構を変えるための道具が、NSCと内閣人事局というわけです。
令和の「富国強兵」を
 NSCといえば9月、2つの大きな動きがありました。
 まずNSCの実務部隊であるNSS(国家安全保障局)局長が外務省出身の谷内正太郎氏から、警察庁出身で首相側近の北村滋氏に変わりました。北村氏はインテリジェンスのプロで、拉致被害者奪還のためにウラで動き回ってきた人物です。
 この人事はトランプ政権の方針と関係しているでしょう。トランプ政権はインテリジェンスに軍とCIAを使っていて、国務省をあまり関与させていません。というのも、国務省はパンダハガーだらけで情報がすぐ中国に漏れてしまう恐れがあるからです。国務長官にCIA出身のポンペオ氏を起用していることからも、トランプ大統領が国務省の官僚たちを信頼していないことはわかります。
 一方、日本で国務省のカウンターパートは外務省なので、トランプ政権は外務省や外務省出身の谷内氏にできるだけ情報をわたさずに、内閣情報官だった北村氏にわたしていたという噂(うわさ)を米軍関係者から何度なく聞かされました。
 外務省は谷内氏の後任にも同省出身者が就くことを期待し、谷内氏もそれを希望したようですが、外務省は外されることになりました。
 この人事について朝日新聞は「官邸主導が強まる」「官邸にノーを言う人が少なくなる」という論調の記事を掲載していましたが、外務省は自分たちがNSCの主導権を握りたい、朝日もパンダハガーが多い外務省に担わせたいという意志が伝わってきます。
 安倍政権としては北村氏をNSS局長に据えることでインテリジェンス重視を明確にし、トランプ政権との連携をさらに深めようとしているのでしょう。とはいえ、外務省などの抵抗が予想され、予断を許しません。
 もう1つは、NSSに技術流出や産業スパイに対応する専門担当部局として「経済安全保障部門」を設置するという報道が出たことです。これまで技術流出や産業スパイに関しては経済産業省が外為法(外国為替及び外国貿易法)や不正競争防止法などを通じて対応してきましたが、中国企業による知的財産窃盗問題などには十分に対応できずにいました。
 安倍政権としてはNSSに経済安全保障部門を新設することで、米中貿易戦争に対して的確、かつ迅速に対応しようとしているのでしょう。これらの動きにも大いに注目しておきたいものです。
 米国は一枚岩ではありません。アジアの平和のために日本は弱い方がいいと考える「弱い日本派(ウィーク・ジャパン)」と、強い日本がアジアに安定をもたらす「強い日本派(ストロング・ジャパン)」が存在します。これまで日本は米国の「弱い日本派」によって、軍事的に抑え込まれてきました。
 しかし幸いなことに、トランプ政権は中国の軍事的台頭に対抗するため、「強い日本」を求めています。危機はチャンスです。「強い日本」再建に向けた絶好のチャンスを生かすためにも、憲法改正だけでなく、デフレからの早期脱却、対米依存の是正を前提とした防衛費のGDP比2%増など、令和の「富国強兵」を断行したいものです。
江崎道朗(評論家・拓殖大学大学院客員教授) 1962年生まれ。九州大学卒業後、月刊誌編集、団体職員、国会議員政策スタッフを務め、安全保障、インテリジェンス、近現代史研究に従事。『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(PHP研究所)、『日本は誰と戦ったのか─コミンテルンの秘密工作を追及するアメリカ』(ワニブックス)、『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』(祥伝社新書)ほか著書多数。
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hangorin · 7 years ago
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平昌五輪(ピョンチャンオリンピック)に反対する7つの理由
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1、 原生林をふくむ広大な自然破壊
平昌冬季オリンピック・パラリンピックの準備の中でもっとも深刻な問題は、ガリワン山の原生林の破壊です。国際スキー連盟が要求する800メートル以上の標高差がある滑降会場(チョンソン・アルペン競技場)を造るために、貴重な山林保護地域の原生林が切り倒されました。伐採された樹木は、自然保護団体の現地調査によれば、21万~40万本。ボブスレー・リュージュ・スケルトンなどの競技が行われるアルペンシアスライディングセンターの建設でも、広大な山林が削られています。失われた自然は元に戻りません。ガリワン山は、日本軍が侵略し武器や資源調達のために森林を伐採した際も、民衆たちによって守られ、500年の原生林が残る唯一の場所でした。反オリンピックの連帯のために日本を訪問した韓国の文化・スポーツ市民運動の団体の活動家は、ガリワン山の原始林をわずか数日のスポーツ大会のために破壊したのはあまりにも大きい犠牲だと言いました。私たちはその人々の苦痛めいた言葉に深く共感しました。
2、 五輪による開発は常に強制的な排除をともなう
自然破壊だけではありません。平昌五輪のために造られた183万平方メートルにおよぶチョンソン・アルペンスキー場では、主に農業を営む50世帯の村が立ち退かされました。説明会も満足に開かれないまま追い出され、代わりに用意された場所は最低限のインフラ設備しかなく、住民の多くは散り散りになりました。このような追い出しは、平昌の住民だけの苦痛ではありません。東京では、東京五輪のメインスタジアムとなる新国立競技場建設による、都営霞ヶ丘アパート230世帯の立ち退きがありました。 ここでも、立ち退き・解体が一方的に決定され反対の声にかかわらず強行されました。住民の多くは一人暮らしの老人で、立ち退きの前後に10名近い人たちが亡くなりました。また、競技場周辺に住んでいた野宿生活者も暴力的に排除されました。2016リオ五輪では約7万7千人が追い出されるなど、世界中の五輪開催地で強制排除が行われてきました。五輪開催に伴う開発によって、コミュニティが一方的にバラバラにされ、住民が排除されることを許すことはできません。
3、 公費を貪り、財政を破壊する五輪
五輪は招致活動や会場・競技場建設費などに巨額の公費を使って開催されます。そして閉幕後、多額の負債が地元自治体の財政を長年に渡って苦しめています。犠牲になるのは住民の暮らしです。報道によれば、平昌五輪の総予算は約13兆ウォン(約1兆3500億円)。閉幕後もハコモノ施設の維持費に年間210億4900万ウォン(約22億円)の負担が続き、年間165億ウォン(約17億円)の赤字が発生します。韓国では2002年日韓W杯、2011年全羅南道F1、2014 年仁川アジア競技大会と、メガスポーツイベントのたびに莫大な財政負担を抱えています。特に仁川は借金が1兆ウォンに及び、増税と福祉予算の切り下げが行われました。そのため平昌五輪への巨額支出に強い批判が起こっています。1998年冬季五輪が行われた長野でも、地元自治体が約20年に 渡って返済に追われ、採算の取れない巨大施設が数多く残されています。2020年東京五輪も、元都知事が語った通りなら「世界一カネのかからない五輪」のはずが、既に2兆円を超えています。本来人々の暮らしのために使われるべき税金が、五輪のために湯水のように浪費されています。
4、 過酷労働を課す五輪
開催を延期できないオリンピック・パラリンピックは、会場や関連する現場にひっ迫した労働環境を生み出し、その結果、建設工事における事故や労災が多発しています。カンヌンアイスアリーナでは、クレーンが倒れ、一人の労働者が亡くなり、一人が重傷を負う事故が発生しました。ソウル-ピョンチャン間を短時間で結ぶ五輪用の新鉄道建設では、試運転中に列車が追突し、運転手が死亡、六人が重軽傷を負う事故が起こりました。また、平昌五輪関連で賃金未払いとなっている労働者は、2500人といわれています。東京では、ザハ案「白紙撤回」にもかかわらず再コンペで無理やり進められた新国立競技場建設工事で、工事開始から半年もたたない2017年3月、労働者が過労自殺に追い込まれたことが発覚しました。この1月29日には、晴海オリンピック選手村建設現場で31才の労働者がクレーンに挟まれ亡くなったと報道されています。オリンピック・パラリンピック開催は、労働者の人権よりも、工期を優先させるという、奴隷労働を強いています。
5、 国家主義を煽るオリンピック
日本に暮らす私たちが、決して忘れてはならないのは、過去に朝鮮を植民地支配し南北分断を招いたのは日本であるという事実です。にもかかわらず日本ではいま、五輪を盛り上げるためのニッポン賛美と、平昌五輪や 韓国人、朝鮮人民共和国人、在日朝鮮人の選手たちへの民族差別的憎悪コメントが氾濫しています。私たちは、五輪によって、人々が「平和」へと紡いできた糸をブツブツと断ち切られてしまうような恐ろしさを感じています。五輪による国威発揚に対し、民衆の側からもっともっと反対の声をあげていく必要があります。1936年ベルリン五輪の際、金メダルを取ったにもかかわらず当時の大日本帝国にメダルを貢献させられた朝鮮人マラソン選手がいました。日本に限らず世界的にナショナリズムがふたたび強まりを見せている今日、国籍で選手を国家に従属させる五輪をやめないかぎり、このような歴史は繰り返されるでしょう。私たちは五輪による国家主義への動員を拒否し、同じく五輪に反対する人々とつながることによって、真の平和をめざしたいと考えます。
6、 五輪は「平和の祭典」ではありえません
五輪は、スポーツの政治利用を拒むポーズを取りながら、「平和」の衣をかぶるきわめて政治的なイベントです。スポーツを国別対抗で競わせる五輪こそ、「平和」を脅かす火種です。半世紀を超える南北分断の歴史を強いられている韓国でいえば、2000年シドニー五輪開会式の「南北共同入場」など、幾度も「スポーツの力」による南北の「統一の機運」が演出されてきました。しかしそれは「難民選手団」やマイノリティにスポットを当てる演出同様、人々の苦難を都合よく利用するものです。昨秋、国連総会で「五輪停戦」決議が採択されましたが、これは、五輪の成功のために「平和」を担ぎ出しているに過ぎません。トランプ米大統領の挑発は続いており、反対世論にもかかわらず在韓米軍基地に「THAADミサイル」の配置は強行されました。各国の軍事強化が東アジアの情勢を絶え間なく不安にさせているのに、このような状況を暫く忘却させる「五輪停戦」が真の平和だと言えるでしょうか。東京五輪に浮かれる安倍首相は「日韓慰安婦合意」再交渉問題に対して、平昌五輪開会式出席をカードに圧力をかけています。このことは、五輪が掲げる「平和」の正体が、国家間の駆け引きに過ぎないことを如実に表しています。
7、国際スポーツイベントは腐敗の温床
FIFA(国際サッカー連盟)の汚職摘発が続く中、韓国では平昌五輪建設に関与するチェ・スンシル氏の利権スキャンダルで大統領が罷免されました。ブラジルではリオ五輪組織委トップが逮捕。東京五輪においても、巨額の賄賂でIOC委員を買収した不正招致疑惑が浮上しています。五輪選手村用地として、都有地が適正価格の10分の1の安値でデベロッパーに売却されました。通常なら議会で議決を得る必要があるにも関わらず、審議せずに秘密裏に価格決定しており、公正と��とても言えません。五輪は、莫大な経済効果をもたらすとして招致されますが、それ自体が詐欺的で、アテネやリオでは深刻な経済不況を招きました。スポーツの美名の下、庶民には無償奉仕を強要し動員する一方で、IOCには最高級のおもてなしを提供し、一部大企業と政治家が利権を享受する五輪に大義などありません。
私たちは、私たち民衆の生活と尊厳を守るために、オリンピック・パラリンピック反対の日韓連帯をつくりだしたいと強く願います。
2018年1月  反五輪の会 NO OLYMPICS 2020
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historysandwich · 5 years ago
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【mini war迷你戰爭】番外篇:Master(44) 歐陽鉅 X 三島悠亞 (本故事純屬虛構,與任何真實人物或團體無關,如有雷同,實屬巧合) 大量的血液,高速輸住陸文強的大腦中,激活了他的大腦運動。 他再一次想起自己身處在零式戰鬥機的機艙裏,正朝著一艘美軍巡洋艦的艦橋激撞過去…… 他大叫:「天皇は長生き!天皇萬歲!」 他雙手大力握著操縱桿,不讓機體偏離撞擊航道,可惜事與願違,在距離艦橋兩百米的半空,零式戰機左邊機翼中了流彈折斷。機身大幅摇擺,在半空不停旋轉,兩秒後在艦橋旁邊擦身而過,隨後直衝入太平洋海底中。三菱重工研製的零式戰機撞入水中巨大的撞擊力,將機艙內的他軀體所有骨骼和內臟完全撞碎,不足一秒的陣痛麻醉了他的大腦神經…… 死亡隨之發生,一切斷滅…… 眼前一黑。 噗。 再打開眼睛的時候,他卻看見智能電話的熒光屏裏沒有郭書哲的影象。 究竟發生了什麼事情? 陸文強應有或要有的惶恐,完全沒有展露出來,他只是非常輕鬆地笑一笑,關上電話,隨手遞給郭書哲。 「好。」 郭書哲也笑一笑,然後把智能電話收入懷中,説:「陸師傅,謝謝你的合作,我們繼續行程吧。」 陸文強説:「我想,我有很多問題應該問你……」 「不要心急,問題總有答案的,世界上沒有問題沒有答案。」 「等等,先問一個可以嗎?」 「你是客人,當然沒有問題。」 「似乎我眼中所見的,都不是真象。」 「陸師傅你似乎不是在問問題,而是在表達自己的感覺。所謂真和假,都是個人情緒的判斷。上帝是看不見的,所以如果你是一個基督徒,你需要藉著內心的靈性經驗,要在自己內心尋求上帝,並棄絶世界和其中的一切......16世紀有一個神學家叫Alacaraz曾經說過:『人內心對神的愛——便是神』。回到你剛才的問題,如果你眼中看見上帝,對你來說就有上帝,至於上帝是真還是假?和你是沒有關係的,而且基本上你永遠不會知道。」 陸文強説:「真的好有趣!」 郭書哲説:「生命只會比你想像更有趣……」 他大力拍拍手,向其他人說:「沒事了,大家當從來沒有發生過什麼事!繼續向前行,不要回頭。」 不要回頭?語帶相關。 其他人就好像最專業的演員一樣,回復正常狀態,繼續以一個「富豪們荒島探險之旅」形式繼續Dasha島上的行程,就好像什麼事也沒有發生過一樣。 唯一煞有介事的人是森美,他的表情再繃緊了一些,禁不住不停抽煙。 王霞拉一拉陸文強手臂,輕聲説:「好像怪怪的……究竟發生了什麼事噢?」 陸文強望望這個女人,忽然覺得她很可憐,她當然不明白發生什麼事情。 陸文強呼喚在前方的郭書哲,問他:「郭先生!」 郭書哲回首,説:「陸師傅有什麼事?」 陸文強説:「我的女朋友不想繼續行程,可以獨自沿路折返回到遊艇上等候嗎?」 驀然,郭書哲露出一個非常失望的表情,然後斬釘截鐵地說:「不可以。」 to be continued…… previous: https://www.facebook.com/281875755924996/posts/656859768426591/?substory_index=0 ❤【mini war】第一冊電子書下載 https://play.google.com/store/books/details?id=N3TLDwAAQBAJ一 https://www.instagram.com/p/B_Um5rmDYvL/?igshid=rrayu92fibzf
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ibestiz-blog · 6 years ago
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【2020西安旅遊自由行】4日遊最強攻略,所有行程花費這篇全部報你知
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西安是一個我做夢都想去夢幻之都,也有幸去過的地方。哈哈~所以說,建議的話我倒是一大堆,你在看看這篇是不是你的菜。 必備物品: 1.往返火車票:沒有它,你能上天入地又如何? 2.長安通:一卡在手,西安城任你走。 3.身份證、學生證:他們是你身份的象徵,上天入地需靠他。 4.手機以及充電寶:此項僅是建議,不帶也行,到時候媽媽再也找不到你不怪我喲~ 5.適量衣物:西安的天氣基本屬於春秋短,夏冬長,所以出發前查詢下當地天氣。重要提示:穿平底鞋。 6.洗漱用品:個人喜好和習慣,不帶也OK的哈。
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—進入主題— 交通篇 更正一點,西安的飛機不在西安哈而在咸陽,離市區有點遠,所以你可以選擇坐機場大巴,只需要25元,當然也可以選擇高鐵動車等。 土豪的話,就當以上我們看見過,可以直接打車,出租起步價9元,超出3km部分2.00元/km還是嘿便宜的,不要偷懶去坐黑車喲,安全很重要。
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【2020西安旅遊自由行】4日遊最強攻略,所有行程花費這篇全部報你知 住宿篇 一定要提前訂,西安是個熱門旅遊城市,就怕萬一沒房,只能住價格貴而且地段房子一般的酒店或者民宿了,這裡推薦民宿,以下是民宿的照片。(ps民宿名字評論可見)
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景點篇 市區玩的話2-3天就夠了,兵馬俑、華山、袁家村等這類景點需要一天或者半天的時間,大概需要4天左右,能逛完西安的熱門景點。 溫馨提示:景區門票都比較貴,學生黨的話,一定要帶上學生證啊~成人的話可以在網上買票比實體稍微便宜點。 推薦路線: 第一天:碑林博物館—書院門—回民街—明代古城墻—鐘鼓樓 第二天:陜西歷史博物館—大雁塔—大唐芙蓉園 第三天:秦始皇陵兵馬俑—華清池—驪山 第四天:華山
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碑林博物館 門票: 淡季:全票50人民幣/半票25人民幣 (12月1日-次年2月28日 周一-周日) 旺季:全票65人民幣/半票37人民幣 (3月1日-11月30日 周一-周日) 半票:1.2米-1.4米兒童、65歲以上老人;現役軍人須、現役殘疾軍人、現役士兵、殘疾人、學生,持有效證件。 免票:1.2米以下兒童免票。 注意:一定要請講解員,不然很多你都不知道。
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碑林博物館在文昌門附近,裡面有許多歷朝歷代的石碑和墓志。這些石刻本身很有歷史價值,還有一些是書法名作。像石臺孝敬、開成石經、顏家廟碑、大達法師玄秘塔碑等都是不可多得的珍品。 書院門 門票:免費
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書院門是一個賣文房四寶的地方,很多大書法家在此低調習作,這裡沒有年輕人,老書法家隨便一揮筆就是一個好看的打字,都是用時間打磨過的,深厚的功底,喜歡書法的朋友可以去看一下。 回民街 門票:全天
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我西安的朋友告訴我,當地人叫回民坊,遊客叫回民街。回民街不是一條街,而是由北廣濟街、北院門、西羊市、大皮院、化覺巷、灑金橋等十數條街道的統稱。
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在這裡面吃東西,不能看裝修,豪華不等於好味,這裡隱藏著很多傳承千百���的工藝,幾十年的老鍋、油膩的招牌,破舊的桌椅,那些燉著的大塊“寒肉”,一點兒一點兒掰著饃的大爺,烤馕的小哥,熱騰的湯料……從唇齒的留香才能品味出什麼是老味道,只有純粹的傳承才能做得到。 明代古城墻 門票:票價54元 學生半價 城墻各城門開放時間: (1)南門開放時間:8:00-24:00 (2)文昌門、和平門、尚德門、東門、西門、北門開放時間:8:00-19:00(5月1日-10月31日),8:00-18:00(11月1日-4月30日); (3)含光門開放時間;8:30-17:30。
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西安古城墻是我國保存最完整的古代城垣,始建於明代,這座古城墻是在隋唐皇城的基礎上建成的,遵循了明太祖“高築墻、廣積糧、緩稱王”的政策,曾經它保衛著長安城的君王和萬千子民。
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去城墻建議租個自行車(200押金,45單人自行車,90雙人自行車)一般下午黃昏時候開始上去,慢慢的天黑,燈開始亮起,拍夜景。 鐘鼓樓 門票:聯票(鐘樓和鼓樓)50元;鐘樓30元 ,鼓樓30元 開放時間:08:00-22:00 (4月1日-10月31日 );08:00-17:30 (11月1日-次年3月31日 ) 交通: 公交:市區乘坐7、8、601、611、618路等公交車“鐘樓”站下,步行2分鐘可達。 地鐵:乘坐地鐵2號線在“鐘樓”站下車,步行2分鐘可達。
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如果說大雁塔是西安的第一標志,那麼鐘樓和鼓樓就是西安的第二標志了。網上很多人都說去西安不用去鐘鼓樓,其實南妹覺得鐘鼓樓非常值得去看。
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鐘樓的景雲鐘在古代鐘樓最主要的作用是報時,顧名思義鐘樓裡面必須放有鐘,景雲鐘就是放置於鐘樓裡面的鐘,每年除夕,中央人民廣播電臺播放的辭舊迎新的“新年鐘聲”就是景雲鐘鐘聲的錄音,西安北大街報話大樓的巨鐘每小時以悅耳動聽的鐘聲像全市報時,也是景雲鐘的錄音,現在為了保護文物,景雲鐘已被放置於碑林博物館,現在鐘樓上的鐘為明成化年件鑄造的復制品。
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而鼓樓和鐘樓遙遙相望,建於明洪武十三年,是目前西安城內現存體量最大的古代建築,也是我國現存明代建築中,僅次於北京故宮太和殿、長陵祾恩殿的一座大體量古代建築。 鼓樓在元代稱為“敬時樓”,取“敬授人時”之意。古代在鼓樓山設置大鼓為的是夜間報時之用,當時社會生活簡單,城市保持“日出而作,日落而息”的習慣,城內十分安靜,高高在上的更鼓可以傳遍全城。 陜西歷史博物館 門票:免費 開放時間:09:00-17:30(淡季);停止入場時間:16:00 (11月15日-次年03月14日 周二-周日) 08:30-18:00(旺季);停止入場時間:16:30 (11月14日-次年11月14日 周二-周日) 推薦遊玩時間:3—4小時
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因《國家寶藏》而被越來越多的遊客們所熟知,同時也成功的被我列入了來西安一定要打卡的list。陜西歷史博物館位於大雁塔的西北側,1991年開放,館藏37萬多件,上起遠古人類使用的簡單石器,下至1840年前社會生活中的各類器物。不僅數量多 、種類全,而且價值高,其中的商周青銅器精美絕倫,歷代陶俑千姿百態,漢唐金銀器獨步全國,唐墓壁畫舉世無雙。
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溫馨提示:雖然說門票是免費的,但一天只有6000張,需要預約如果不預約是進不去的哦,親們可以在微信公眾號預約。 大雁塔 門票:大雁塔登塔旺季25元,淡季20元 開放時間: 08:00-18:30(旺季) (03月01日-10月31日 周一-周日) 08:00-18:00(淡季) (11月01日-次年02月28日 周一-周日)
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大雁塔是西安的旅遊地標,也是這座千年古城在時間上的地標,它是歲月的遺產,是盛唐的饋贈。也是現存最早、規模最大的唐代四方樓閣式磚塔,是佛塔這種古印度佛寺的建築形式隨佛教傳入中國,並融入華夏文化的經典之作。
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當然,現在的大雁塔,早已不是單單的指一個塔了,大雁塔現在是大雁塔旅遊景區的中心,是西安最美麗的曲江新區的核心。從大雁塔放射出去的大雁塔北廣場,有亞洲最大的音樂噴泉;大雁塔南廣場,有雁塔新樂匯這一綜合街區。當然還有去年的新晉網紅!大雁塔步行街!就是傳說中“西安年,最中國”的地方。 大唐芙蓉園 門票:旺季:不含《夢回大唐》120人民幣;淡季:不含《夢回大唐》90人民幣;套票:140人民幣 (1月1日-12月31日 周一-周日) 半票:身高1.2-1.4米購兒童,學生 免票:1.2米以下兒童,65歲以上老人。
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大唐芙蓉園,離大雁塔很近,一座仿照唐代皇家園林式樣打造的皇家園林。整個公園和頤和園類似,都沿著中間的湖泊延展開來,園內建有紫雲樓、仕女館、禦宴宮、杏園、芳林苑、鳳鳴九天劇院、唐市等許多仿古建築,是中國最大的仿唐皇家建築群,很多妹子們穿著漢服來拍照。 秦始皇陵兵馬俑 門票:普通票:120人民幣 (1月1日-12月31日 周一-周日) 開放時間: 08:30-18:00;停止售票時間:17:00 (3月16日-11月15日 周一-周日) 08:30-17:30;停止售票時間:16:30 (11月16日-次年3月15日 ) 注意:學生證購票:是需要景點售票2號窗口購票。建議在訂票的時候加個有講解的,如果沒有講解,去兵馬俑完全是走馬觀花。
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這是秦始皇陵園中一處大型從葬坑,以兵馬俑為基礎,在原址上建立的中國最大的古代軍事博物館。 共有3個兵馬俑坑。一號坑是戰車和步兵相間的主力軍陣,約有6000個真人大小的陶俑。二號坑由戰車、騎兵、弩兵混合編組。三號坑是軍陣的指揮系統。
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出土的兵馬俑分為將軍俑,武士俑,車士俑等。每個陶俑的五官神情各不相同。原本都有彩繪,但因火燒和浸泡,大多已掉色脫落。 銅車馬展廳展出的青銅車馬,使用了大量金銀,制作精巧,被譽為“青銅之冠”,對秦代學術研究具有重要價值。 華清池 門票: 普通票:120人民幣 (1月1日-12月31日 周一-周日) 半票:18周歲以下、本科及本科以下全日制學生持學生證 免票:身高1.2米以下兒童、65周歲(含)老年人、享受國家特殊津貼及省級以上突出貢獻的專家、勞動模范、現役軍人、殘疾人及殘疾軍人持本人有效證件 開放時間: 07:00-19:00 (3月1日-11月30日 周一-周日) 07:30-18:00 (12月1日-次年2月28日 周一-周日) 交通:市區乘坐遊5(306)路或307路公交在“華清池”站下車步行即到。
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華清宮自古以來就是皇家遊覽沐浴的勝地,據說曾經是楊貴妃沐浴的地方,相傳西周的周幽王就曾在這裡建離官。 這裡遺留有比較完整的周、秦、漢、唐、明、清等���代文化遺址、園林景觀、古建築及古樹名木等文物資源。
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尤以唐明皇與楊貴妃纏綿的愛情故事和震驚中外的“西安事變”而蜚聲天下。 驪山 交通:市區乘坐306路或307路公交在“華清池”站下車步行可到達。 門票: 普通票:150人民幣 (1月1日-12月31日 周一-周日) 半票:1.2米-1.4米的兒童、全日制在校學生(成人院校除外)憑相關證件半價。 免票:1.2米及以下的兒童、65周歲及以上的老人、現役軍人、殘疾人憑相關證件免票。 開放時間: 08:00-18:00 (1月1日-12月31日 周一-周日)
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每當夕陽西下,驪山輝映在金色的晚霞之中,景色格外綺麗,此乃“關中八景”之一的“驪山晚照”。 驪山是臨潼的賞秋名所,這次前來適逢驪山周側的草木漸黃,山間翠秀之中盤織著紅黃顏色的植被,美如錦繡,甚為好看。
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驪山自然景觀秀麗,山上文物勝跡眾多,遍佈著烽火臺、老母殿、老君殿、晚照亭、兵諫亭、上善湖、七夕橋、尚德苑、遇仙橋、三元洞等眾多著名景點。 華山 華山不用多說,體力好的童鞋請上!像我這種只有遠遠觀望了,畢竟體力有限。
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好了,以上便是我的建議,覺得有用的請點讚哦~ Source Link:  【2020西安旅遊自由行】4日遊最強攻略,所有行程花費這篇全部報你知 Read the full article
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