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6月18日(水)open 12-18
私ごとですが、久々の歯科治療が今日から始まりました。 なかなかの工事を午前中にしたので、ちょうど開店時間頃に麻酔が切れる…とドキドキしていたのですが、もらった痛み止めを飲む事もなく、現在に至ります。 先生の腕が良いのだなぁ…と感謝。 暑くて歯が痛いなんて、ちょっとグレちゃうよね、良かった。
今日もたくさん本が届いたので黙々と棚し出ししました。 今日もストーリーズでなく、こちらに投稿します。 届くのを今か今かと待っていた高研さんの『隙間』完結4巻が届き、喉から手が出て、読了。 しばし放心。 何度も何度も読むだろう漫画作品です。 私の初めての投票は、緊張こそはしたけれど、こんなに切実ではなかった記憶。胸に迫る… 映画になったらいいなぁ…動いているヤンちゃん(主人公)に会いたい。 そしてきっと、音楽も素敵なものになるだろうと想像します。
早速届いたばかりの本をお会計に持ってきてくださった方もいて、嬉しい定休日明け。 今週もよろしくお願い��たします。 とにかく暑い毎日となりそうです。 どうぞ皆さまお気をつけて、無理なくお出かけくださいね。 出口かずみさんの新作絵本『ビーバーのギイコははこびたい』原画展は29日(日)まで!
#新再入荷の本#隙間4#こうの史代鳥がとウサギもはねて花ゆれて走ってこけて長い道のり#私が私らしく死ぬために自分のお葬式ハンドブック#わたくしがyes#記者が発達障害児の父となったら#ひらめちゃん#転職ばっかりうまくなる#世界は一冊の本#とても小さな理解のための#体の贈り物#天国ではなくどこかよそで#私運転日記#わたしを空腹にしないほうがいい#生活は物語である雑誌クウネルを振り返る#デザインのひきだし55#猫が食べると危ない食品植物家の中の物図鑑#ひとりぶんのビリヤニ#私とお隣さん#お山のライチョウ#にぎやかなおでん#たくはいびーん#ラッテとふしぎなたね#しろくまきょうだいのセイウチまつり#せかいいちのいちご#まるがいいっ#本屋#松本市#本中川
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猫が食べると危ない食品・植物・家の中の物図鑑 誤食と中毒からあなたの猫を守るために 監修:#服部幸 構成:#ねこねっこ neco-necco刊 室内飼いで猫も人と同じ住居でさまざまなものに囲まれる生活になり、猫が本来口にしない誤食が増えているとのこと。 間違えてメガネ拭きを食べたりソーセージのフィルムを食べたなんて事例も。 高額医療費にならないためにも未然に防ぐ予防に対応した飼い主さん向けの実用書。 中身は東京猫医療センター院長による詳細解説ですが、 表紙が可愛すぎる、飾っておけると話題に😻 価格も税込2222円とシャレがきいてます。 ・ ・ ・ LIScafeに並べてます📕 オンラインショップご購入は画面タップより #ブックスはせがわ #書店 #本屋 #移動本屋 #移動販売 #移動販売車 #bookknock #読書 #雑誌 #書籍 #単行本 #児童書 #エッセイ #小説 #magazine #book #comic #新潟県 #長岡市 #bookstore #猫本 (ブックスはせがわ/移動本屋BookKnock) https://www.instagram.com/p/COK08GHLtUW/?igshid=ftivbgjly8x5
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@neco_necco_net(猫の本専門出版🐈ねこねっこ🐈3/12新刊発売予定)
『猫が食べると危ない食品・植物・家の中の物図鑑』は飼い主さん向けの本ですが…
•猫の譲渡、販売に関わる
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方にもおすすめです
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第2章 認識過程の意識化とその組み換え
2-1 生活を捉える授業理論の考察
2-1-1 戦後国語教育と主体の問題
水平的メタ認知は、生徒たちの具体性の中で培われる。具体性、つまり生徒ひとりひとりの生活を捉える学習のためには、それぞれに固有の視点と言葉をもって日常を描き出すことが最初の課題になる。何よりも大事なのは、主体的態度で対象に向き合うことだ。ここでの主体とは、答申が示す「学ぶことに興味や関心を持」ったり、「自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら」課題に取り組んだりする態度とは異なる。それは、学校や社会で共有される価値観に従属することなく、自らのパースペクティブを通して対象に接触しようとする態度を指している。
こうした主体の問題は、戦後間も無くの国語教育、とりわけ文学教育においても取り上げられている。アメリカによる日本の植民地化を危惧する時代に、生徒が抱える生活上の矛盾を前景化させることが要請されたのである。伊豆利彦は1952年の論文で、そうした立場から当時の教育界の状況を次のように批判的に説明している。
かつて、侵略戦争のイデオロギー教育をもっとも忠実にはたした反動的な日本の教育界は戦後もなお健在であり、ことにこの二、三年は急激にその反動性を露骨にして、生徒のあらゆる自主的なうごき、社会批判の芽生えを、さまざまな理由をつけておしつぶして来ている。このことは生徒のもっているなやみをぬけ道のないものにし、内訌させている。彼等は自己の理想をおしつぶすか、それともはてしない泥沼のような希望と絶望の交錯した苦悩の中にのめりこんでゆくかすることを余儀なくされている。
(旧字体は新字体に改めた。以下同じ。)
戦後の急速に変容する社会を前に、生徒たちは様々な矛盾を自己と社会の間に感じ取ってい��と予想される。しかし、当時の学校教育ではそうした矛盾を肯定し発露させることなく、むしろ抑圧していると伊豆は批判した。このような、生徒が社会に吸収される潮流の中で、伊豆が求める文学教育は以下のように示される。
文学教育は生徒が体験を通して自分のものとしている現実認識-生徒の世界と文学の世界とを結合することであるといってもいいすぎではない。この作業はもちろんコトバの障碍をとりのけることも含むけれどそれがすべてではない。それ以上に、文学作品を現在の問題、生徒が直面しているさまざまの問題と結合し、読ませることなのである。
(前略)文学は(中略)具体的に形象的に現実の種々相を追求し、表面的にではなくその底にある社会の本質、人間の本質といったものをえぐり出して、読むものの心にこれらのものを抽象的、観念的にではなく、具体的、現実的に、いきいきと認識させ、そのことによって、この矛盾にみちた、唾棄すべき、変革すべき現実に対する抵抗の意識を読者の心によびさまし、それとたたかうたたかいの道を教えるのである。
社会に適合するだけの人間を生産するのではなく、文学教育によって生徒個人の内面を抉り出し、社会に抗う主体を育成しようとするのが伊豆の主張である。これは、文学を科学的な客観性と生徒の主観性のどちら側に位置づけて教授するかという問題に通じている。伊豆のいう、戦前の「イデオロギー教育」に加担したことへの反省もあり、1950年代を境に生徒の主観による文学教育理論は盛んに提唱された。その中でも指標となるのは、荒木繁の「民族教育としての古典教育」だろう。
荒木の授業スタイルは、「一人の生徒に三つか四つずつ歌を分担させ語釈、歌の意味を調べさせ、教壇に出てそれを説明させ、最後に感想なり批評をいわせ、それに対して皆から質問や意見をいわせる」といった、今日のアクティブ・ラーニングにも重なるものだった。しかし、この活動ではクラスによっては意見が出ないまま討論が不活発になってしまうことが多くあったという。そこで荒木は、授業のスタイルよりも生徒の内面を表明させることを優先している。荒木が授業で重視するものは、以下の通りである。
訓話註釈それ自体に意味があるのではなく、究極の目標は作品を鑑賞することにあることはいうまでもありません。(中略)この場合、すぐれた歌というものの、なにがすぐれているかが実は問題です。それは難しい点では作品評価の基準の問題になりますが、そんな意味でではなくとも、たとえば教師が人麻呂を憶良よりすぐれていると考えかたにしても、その���えをおしつけるべきが〈原文ママ〉どうかは問題だということです。これは生徒の年齢の関係もあります。たとえば近代短歌を例にとると、このくらいの年頃の生徒は茂吉や左千夫よりも牧水や啄木を好みます。その際、左千夫の方が牧水よりいいのだというような教え方をすることは、たとえ万一それが正しいにせよ問題だと思うのです。私の考えでは、むしろ生徒が自ら感じいいなと思うのならそれに任せるべきだと思います。
伊豆が「変革すべき」とした「現実」は、ここではよりミニマルに「教師」として示されている。荒木は、柿本人麻呂や伊藤左千夫に絶対的な優位性を付与する教師を否定し、文学作品の価値を決定するのは生徒の感覚だと主張する。つまり、荒木の狙いも伊豆と同様に、教師の中に用意された正解に導くのではなく、生徒たちが抱える内面の問題を持ち出すことで予定調和を逸脱させることなのである。
この荒木の理論は、戦後の国語教育(文学教育)で持ち上がった主体の問題に対する1つの解答だろう。しかし、「民族教育としての古典教育」は同時に次の問題を内包している。それは、荒木の報告が「民族教育としての」と形容されるように、既存の状況の外側にある世界もまた、唯一の全体性をもったものとして現れる危険性である。荒木はこの問題に自覚的で、「民族教育」を強調することによって「古典偏重」に陥ることを「逆コース」と呼び、これを否定している。けれども、荒木の理論は確かに戦後の状況下で、アメリカやロシアと日本を対立させる形で生徒が「民族」を意識するよう組み立てられており、多文化の共生が前提の現代社会においては十分ホリスティックな思想といえる。「社会の本質、人間の本質」を措定する伊豆の主張も同様である。
社会で共有される一般的な価値観からの逸脱を図りながら、表面的で抽象的な学習を拒む主体的態度は、指導者が「変革すべき」現状を梃子にしてあるべき本質を規定してしまえば、すべて水泡に帰すことになる。主体的態度による学習は、どこまでも本質を迂回し続ける運動なのである。
2-1-2 大河原忠蔵「状況認識の文学教育」の展開と問題
戦後国語教育では、荒木の他にも西尾実や太田正夫などによって、生徒の主体的態度を重視する授業理論が多く提出された。その中で、生徒の生活と文学教育の連結を最もラディカルに実行したのは、大河原忠蔵だろう。田近洵一の言葉によれば、「文学作品を仲だちとして、生徒に自分の現実を認識させるにとどまらず、作品の全然ないところでも、自分と自分をとりまくものを状況として認識する力を身につけさせる」ことを志向したのが大河原の特異性である。現実を自らの問題意識と重ねながら認識することを、大河原は「文学的認識」と呼ぶ。それは以下のように定義される。
文学的認識といういい方をすると、すぐに文学作品に対する認識と混同されやすい。たしかに、作品に書かれて��ることを、読みながら認識していくことも、認識にはちがいない。(中略)しかし、ここでいう文学的認識というのは、作品に向かってはたらく認識作用(鑑賞)を指すのではなく、作品を離れてしまった生徒が、作品の全然無いところで、自分をとりまいている外部の状況や、それに対応している内部の状況を、言葉でとらえていく認識過程のことである。
荒木らの理論が生徒の問題意識を文学作品の読み方と結びつけたのに対し、大河原は生徒の問題意識を現実の見方、捉え方に繋げた。したがって、大河原理論における文学作品は、現実の捉え方の1つのモデルとして提示される。ここでは、作品と読者の緊張関係から状況と主体の関係へと問題の中心点が移行しているのである。
以上のように、作品の鑑賞ではなく、作品に至るまでの作者の状況認識過程を学習の目的とする大河原理論は、作家のように生徒が自身の「思想」に基づいて経験を記述することを希求している。この「思想」とは、「理性でも、感性でも、欲望や衝動でも、特有の感受性でも、また倫理的思考でもな」く、それらと関連しながら「人間の行動に直接結びついているもの」であり、本稿で掲げた主体的態度に通じている。ここで大河原が「思想」という概念を用いるのは、「客観性よりも主観性」といったスローガンに厳密さをもたせるためである。大河原は生徒の主観性を「思想」として、それは「認識と価値意識の結合」によって立ち上がるものだと規定している。「認識」とは、視覚や聴覚によって外界を知覚する���とで、「価値意識」はそうして内面に反映した対象によって動く生徒固有の意識を指す。つまり、客観的な「認識」と主観的な「価値意識」が結合することによって「思想」が現出し、その「思想」によって現実を捉えることが「状況認識」なのである。
「価値意識」は生徒個人のものであり、人間一般に適用されるものではない。例えば、芥川龍之介の『くもの糸』を読んで「カンダタ」のエゴイズムを普遍的に拡大して認識したり、夏目漱石の『こころ』における「先生」の罪悪感をすべての人間に共通する問題として引き出したりする読み方を、大河原は次のように否定している。
それは、けっきょく「人間性とはこういうものである」という、あの歴史はかわっても人間性の本質はかわらないという観念的発想の地固めをすることによって、一九六〇年のシチュエーションに必要な具体的な人間理解の視点を追い出してしまっている、ということなのだ。
(前略)三十年前も今も、青年の気持の根は変っていないというような非分析的な人間性把握にわたしは賛同しない。
大河原は、土地や時代を超越する人間の本質に生徒の問題意識を回収することを峻拒する。その理由は、本質へ回収することで人間の具体性が消失してしまうからに他ならない。このように、生徒の主体的態度、大河原の言葉でいえば「思想」を維持するために、本質へとつづく道程は避ける必要がある。
大河原のこうした主張は、「コブシ型」と「テノヒラ型」という「思想」の分類にも表れている。「コブシ型思想」は、「個物A、B、Cから、共通にはたらく価値意識の対象が抽象的な概念としてぬき出され、その抽象的な概念と価値意識の結合とが」一つのまとまりになったものを指している。「人間の本質」はまさに「コブシ型」に当てはまる。その他にも、「民主化」や「女性解放」といった大きな標語、また、法則やことわざなどもそこに含まれている。上の引用からもわかるように、大河原はこうした演繹性をもった「思想」から距離をとり、具体的状況と結びついた一回性の「思想」に重点を置く。それが「テノヒラ型思想」である。「テノヒラ型」について大河原が述べている箇所を引用する。
テノヒラ型思想は、(中略)一定の状況のなかでの、一回的な、特殊的な事物、関係、構造を把握したコトバのかたちをとって、そこにあって、そこからうごかない。
「テノヒラ型」の言葉が「うごかない」というのは、その言葉が作者以外の人間には決して適合しないことを意味している。つまり、「テノヒラ型思想」に基づく言葉は、状況と結びついた具体的で一回的な作者のオリジナルでなければならない。また、大河原はそうした言葉で構成される作文を、以下のように作者の「秩序」と表している。
コトバが、状況にはめこまれていながら、同時に、作者の価値意識によって状況からはぎとられ、作者のつくりだす新しい〈秩序〉の有力な構成単位になっていなければいけないということだ。そういうコトバが、テノヒラ型思想になる。
状況の中で作者は言葉、すなわちイメージを選択し、選び取った複数のイメージをさらに配列して新しい独自の「秩序」を構成することで、状況に対して強固な主体を打ち出す。このイメージの選択と配列が作者にとって必然に実行されたとき、そこに「テノヒラ型思想」が立ち上がるのである。
大河原が引用する准看護婦養成所の生徒の作文では、彼女が勤める病院の医師に対する嫌悪が、立場の弱い准看護婦としての「思想」によって生々しく描かれている。患者の診察を受けるかどうかを「先生」に訊きに行った際、生徒の視線は「先生」の部屋のテーブル上にある「食べちらかした」サラダを捉える。その描写で選ばれたイメージについて、大河原は以下のように述べる。
「食べ残した」とも「食べ余した」とも書かず「食べちらかした」という言葉でイメージを切り取ったその言葉の構造自体に、すでにいつも使用人には喧しいことをいいながら、自分たちはだらしのないことを平気でやっている医者の人間内容に対する社会的な抵抗感や批判精神を含んでおり、それは金に夢中になって困るという最後の言葉に、有機的に連続している。
生徒が中途半端に残ったサラダを認識し、そこから「食べちらかした」というイメージを引き出したのは、日頃から「先生」に抱いていた批判的精神の結実であり、これは「食べ残した」や「食べ余した」に変換することができない。つまり、この准看護婦の生徒にとって、中途半端に残ったサラダと「食べちらかした」というイメージの結合は必然なのである。
ここまで見てきたように、大河原は抽象性を慎重に敬遠しながら、価値意識と現実の結びつき、具体的で一回的な状況の認識を可能にする理論を組み立ててきた。しかし大河原理論には、��まりに主観性を重く見すぎるために実感信仰に陥り、かえって生徒は状況の認識力を失うのではないかという批判もある(例えば、浜本純逸「「状況認識の文学教育」論の展開とその方向」『日本文学』(日本文学協会、1973年12月)では、大河原の「テノヒラ型」への傾倒に向けて、「人間が積みあげてきた知識や抽象化された思想との相互媒介的な往復思考をしないかぎり、実感信仰による状況認識の狭さを越えきれない」と批判している)。荒木の理論が現実の外側に本質的な「民族」を措定してしまったのに対し、大河原の理論は個人の認識が絶対化され、生徒たちが自己中心的にしか現実を捉えられなくなってしまうリスクを抱えている。荒木に見られた全体性の問題は、一転してここでは個別性の問題として現れるのである。
大河原理論が、生徒の主体的態度の抽出に特化することは広く認められる。その点は、具体性の発露と維持を重視する本稿の授業構想でも有効だろう。ただ、そこでの主体は他の主体から隔離された、孤独な主体となる。それは、他にいつでも同を見てしまうような、極めて強固であると同時に脆弱な主体である。そこで、ここからは第2の段階として、具体性の中でその隔絶した主体と主体を線で結ぶ方法を検討しなくてはならない。
2-2 客体操作による大河原理論の更新
2-2-1 大河原理論における客体の位置づけ
大河原が開発した「状況認識の文学教育」を水平的メタ認知育成のために再び持ち出すためには、主体的態度(「テノヒラ型思想」)による作文の先に、もう1つの作文を設定する必要がある。それは、「認識」−「価値意識」−イメージの3つが結合する認識過程に意識を向けながら、1度目とは異なる主体への「転移」を経た視点によって書かれる。ここで改めて宣言すると、本稿が目途とするのは、まさしくその「転移」と、その後の作文をこれからの学校教育において有効なものとして実現するための授業理論を提示することである。
そのためにまず、大河原理論における主体が変更可能であることを確認していく。ここでは、主体に対する客体について大河原が言及した部分に注目する。「状況認識」では、認識する作者、生徒が主体であり、現実、状況、自然は認識される客体として位置づけられる。前節の最後に挙げたのは、客体がすべて主体の主観的認識によって汲み取られてしまう問題である。ただ、「状況認識の文学教育」が成立した背景には、戦後から高度経済成長期にかけての状況に完全に埋没してしまった主体の存在があり、「状況認識」によって以上の問題が示す客体から優位性を奪取した主体を確立することは、大河原の狙いそのものであったと考えられる。
けれども、大河原による主客の格付けには若干の曖昧さが見られる。例えば、雷鳴を預言者が二輪車に乗って空を駆け回る音として認識する老婆の「状況認識」を大河原は、「老婆が自分をとりまく状況とのかかわり合いの関係のなかで、対象を主体化して、もしくは、自己を客体化してとらえたために、はじめて可能になったもの」と説明している。また、「自己運動するのは、たえず意識ではなく状況であり、意識はその状況と不可分の関係」であるという記述もある。ここでは、認識対象が主体に包摂される客体ではなく、むしろ主体のあり方を決定するものとして設定されている。「自己運動」を行うのが意識ではないという表現は、「テノヒラ型」の言葉が「うごかない」のと同様に、抽象的にイメージだけを状況から切り取ってしまうことの否定として読むことができるが、状況を上位に置くようなこれらの記述は、状況に抗う主体を標榜する大河原にとっては正確さを欠いた言説として受け取れる。
この曖昧さを、大河原の恣意的な表現として受け流すこともできるだろう。しかし、このような主客の関係の曖昧さにこそ、新たな主体を生成する契機が隠れているのではないだろうか。老婆が雷鳴を神話的に認識したのは、自然の現象が科学に基づく安定性の外側に脱去したことを意味している。そうした知識や理性では説明不能な不安定な対象を前にしたとき、人間は自己の中にそれを説明しうる固有の「価値意識」を見い出すことができる。認識する主体は、その「価値意識」を発見することでようやく対象から優位性を奪えるのである。田近が「状況認識」の作文の特徴について分析した以下の記述からもそのことは読み取れる。
状況認識の作文の第一の特質は、自分の体験を題材としながら、その過去のできごとを現在の時点から回想するのではなく、過去の時点に立ち、今の体験としてイメージ化しているという点にある。すなわち、書き手は、そのできごとを体験した時点に立ち、その時点で、今見ていること、耳にしていること、自分がしていることを、虚構の現在としてイメージ化する。そこで出会ったもの・ことをイメージ化することで、過去の時を生きる。言うならば、虚構の視点に立ち、書くことで、過去の時を虚構の現在として生きる、のである。
書き手は、現実の体験を描きながら、視点を過去のある時点に移すことで、虚構の主体となる。虚構の主体として過去の体験を再現する。過去のもの・ことを現在進行の事実として見る。つまり、現在進行の体験として仮構するのである。
主体が現在の視点から過去の経験を叙述するのでは、「状況認識」の作文は成立しない。現在の主体からすれば、過去の対象はすでに認識が完了した安定的な客体だからである。前述したように、主体の中に生々しい「価値意識」を付与するのは、既存の概念で捉えようとすれば齟齬が生じる不安定な対象に他ならない。したがって、大河原が目指した状況に優位な主体の成立は、主体を脅かす不安定で強い客体の存在を前提としていることになる。言い換えれば、主体と客体は対立するのではなく、相互に包摂し合う形で成立しているのである。
このように考えれば、主体を絶えず変容の可能性の内に留めるものは、主体の「価値意識」から逃亡を続ける客体だということができる。1度は自らの「価値意識」によって認識した対象も、そこでのイメージから外れてしまえば、再び不安定に主体を脅かす存在として現れる。そうすれば主体は、自身の内側にそれまでとは異なる「価値意識」を探し出す、もしくは、内側には存在しない「価値意識」を物語の形式を採って新たに創造することになるだろう。つまり、主体と客体の序列を反復的に入れ替えることで、無数の「価値意識」を生成し続ける可塑的な主体を立ち上げることが可能になるのである。
2-2-2 イメージの組み換えによる「価値意識」の生成
主体は客体に伴って変容する。それでは、客体の操作はどのように行うことができるのだろうか。
ここでは、「価値意識」と結びついて客体を表象��るイメージに手を加える。「価値意識」は主体が対象を自らのイメージで認識するために不可欠な要素であり、「価値意識」に依拠したイメージの選択と配列は、その主体にとって必然的に実行されるという大河原の主張は2-1-2で示した通りだ。サラダを「食べ残した」や「食べ余した」ではなく、「食べちらかした」というイメージで捉えた准看護婦の生徒は、日頃から医師への嫌悪を抱いているがゆえに、そのイメージしか選択することができなかった。では、外部からの操作によって、そのイメージが「食べ残した」に変更されたらどうだろうか。また、「きれいにとってある」や「ペットの餌のような」というイメージに組み換えられたらどうだろうか(物事の多義性については論を俟たない。「ルビンの壺」や「ネッカーの立方体」が意味する通り、地と図はさまざまなバリエーションに転回する)。その生徒は、自己の内側にそれらのイメージを必然として捉える「価値意識」が存在しないことに気づくだろう。そこでようやく、新たな「価値意識」を仮構する課題が生徒の実感の中で現れてくる。
このような、先行する言葉を誘因とした主体の変容可能性は、諏訪正樹・藤井晴行による「からだメタ認知」の研究でも示されている。諏訪・藤井は、情報化社会での記号と身体の乖離を指摘し、現実と対峙した際に生じる身体的感覚を言語化する営み(「からだメタ認知」)の重要性を提示する。「からだメタ認知」の理論は、外界の事象や身体の内部での出来事を分節化し表象する「ことばシステム」と、身体の中で生起する感覚である「身体システム」を対置して、その「共創」が起こることで身体の感覚が新しく生成されていくというものである。
段階としてはまず、ある言葉を起点として、それに関連するいくつもの言葉が誘発される。諏訪・藤井は「まちかどで猫に相対した」場合を例に挙げて以下のように説明している。
まちかどで猫に出逢うと、「猫」ということばだけではなく、さまざまなことばや概念を連想します。「みゃおん」と「かわいい」声色で鳴くとか、簡単にはひとに「気を許さず」、遠くの「物陰」からこちらを「偵察」する行動をとるとか、「のっそりと」歩くとか、「」で囲ったひとつひとつのことばや概念が、「猫」から連想できます。ことばがことばを生むのです。
ここで列挙されたのは「連想」による言葉の増幅だが、「状況依存的」や「知識に基づく推論」などのメカニズムによっても言葉の連鎖的生成は行われる。物理的属性である「毛並み」や「丸い瞳」が原初的に知覚され、それらは体感とリンクするが、その間にも言葉は拡散的に誘発されていく。
そこで対象を認識した主体は、新たに登場する言葉を体感とつなぐ「意識的努力」をすることで、言葉と連結する新規の体感を獲得することが可能になる。諏訪・藤井によれば、言葉に比べ、身体の感覚は習慣に埋没しやすく意識するのが難しい。したがって、それまで無意識の内に消費された体感を意識するための、言葉による方向づけが有効なのである。
では、この「ことばシステム」と「身体システム」を大河原の「状況認識」と重ねるとどうなるだろうか。街角で遭遇した猫の鳴き声から誘発される「かわいい」や「醜い」などの言葉と、それに適合する身体的な実感の結合は、選択されたイメージとそれを必然とする「価値意識」の関係と同じ形式だといっていい。そう考えれば、猫の鳴き声から「かわいい」というイメージが引き出され、それを体感とリンクさせた場合、准看護婦の作文と等しく鳴き声のイメージとして同時に現出する「醜い」や「卑しい」といった言葉は捨象されることになる。つまり、「ことばシステム」の中で増幅していくイメージと「身体システム」における体感との結合パターンは有限であり、体感とリンクするイメージは主体固有の感覚に依拠して必然的に選択される。そして両者の接続は、変更がなされない限り、何度か繰り返される中で安定的で排他的なものとして確立されていく。例えば、いくらかの経験から猫の鳴き声は「かわいい」と決まった回路で慣例的に認識するようになると、「醜い」と認識する他者の存在が見えなくなってしまう。
このように、「ことばシステム」と「身体システム」、選択された言葉と「価値意識」の接続は、その過程で捨象されたイメージを無視すれば絶対化されてしまう。すなわち、身体的感覚が習慣に埋没する傾向が強いという諏訪・藤井の指摘は、生徒の認識の絶対化をもたらすという大河原理論が内包する問題にそのまま繋がっているのである。そこで、体感が志向する言葉を「食べちらかした」から「きれいにとってある」に、「かわいい」から「醜い」に組み換えることで、反対にその言葉に見合う習慣から逸脱した体感を要請する。こうしてイメージを組み換えることで、対象はバランスを失い、安定的な客体から主体に新たな「価値意識」の生成を促す不安定な対象となって再び出現するのである。
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