#編劇
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夢幻紳士 2 活劇編 高橋葉介 アニメージュ コミックス 63 徳間書店
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cherimahoanime X 14nov2024 ⊹˚.┈┈┈┈ 「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」 特別編集版 12月13日(金)全国劇場公開 メインビジュアル解禁 ┈┈┈┈‧⁺ ⊹˚.
TVアニメで描かれた2人の関係性の変化を感じさせるビジュアルです✨ 公開まであと1か月! メインビジュアルを使用した ムビチケカードが明日より発売開始となります❣️ https://cherimaho-anime.com
チェリまほアニメ
⊹ ˚ ┈┈┈┈ "Parece que si permaneces virgen hasta los 30 años, puedes convertirte en mago". Edición especial que se estrenará en cines de todo el país el 13 de diciembre (viernes) Se revela el visual principal ┈┈┈┈ ‧ ⁺ ⊹ ˚.
Esta es una imagen que te hace sentir el cambio en la relación entre los dos como se muestra en el anime de televisión ✨ ¡Queda un mes para el lanzamiento! Las tarjetas de Mubichike que utilizan el visual principal estarán a la venta a partir de mañana ❣️ https://cherimaho-anime.com
チェリまほアニメ
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【チェリまほ】「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」特別編集版 本予告【2024年12月13日(金)より全国劇場公開決定!】 avex pictures youtube
cherimahoanime X 14nov2024 ⊹˚.┈┈┈┈ 「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」 特別編集版 12月13日(金)全国劇場公開 予告映像解禁 ┈┈┈┈‧⁺ ⊹˚.
安達&黒沢の"魔法の恋"の軌跡、そしてTVアニメでは描かれなかったエピソードの新規シーンも一部チラ見せ❣️ 本作のエンディング主題歌「ラブキャンドル」の音源も予告内で初解禁となります🎵
チェリまほアニメ
⊹ ˚ ┈┈┈┈ "Parece que si permaneces virgen hasta los 30 años, puedes convertirte en mago". La edición especial se estrenará en cines de todo el país el 13 de diciembre (viernes) Tráiler lanzado ┈┈┈┈ ‧ ⁺ ⊹ ˚.
También se muestra la trayectoria del "amor mágico" de Adachi y Kurosawa y algunas escenas nuevas de episodios que no fueron representados en el anime de televisión ❣️ La fuente de sonido del tema final de este trabajo, "Love Candle", también se publicará por primera vez en la vista previa 🎵
チェリまほアニメ
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Nuevo vídeo promocional para la película recopilatoria del anime "30-sai made Doutei dato Mahoutsukai ni Nareru Rashii". La cinta, a cargo de los estudios Satelight, se estrenará en Japón el próximo 13 de diciembre.
Y en la cuenta oficial del proyecto en X de (@ cherimahoanime) También se revelo una nueva imagen visual para la película.
La trama se centrará en la historia de Adachi y Kurosawa hasta el momento, y tendrá nuevas escenas/contenido que no se mostraron/adaptaron en el anime.
#cherimahoanime#チェリまほアニメ#kurosawa#adachi kiyoshi#kurosawa yuichi#kurodachi#【チェリまほ】「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」特別編集版 本予告【2024年12月13日(金)より全国劇場公開決定!】#Youtube#cherimaho#kurosawa x adachi#adachi#チェリまほ#cherrymagic#CherryMagic#cherrimaho#cherry magic#Cherry Maho#Cherry Maho Anime#CherryMagic Anime#tx_cherimaho twt#cr. a cherimahoanime en X#cr. a toyotayou
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#Demon Slayer#Kimetsu no Yaiba#鬼滅の刃#Demon Slayer: Kimetsu no Yaiba - The Movie: Mugen Train#Kimetsu no Yaiba Movie: Mugen Ressha-hen#劇場版 鬼滅の刃 無限列車編#anime#anime wallpaper#anime 2023
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改編自日本漫畫家伊藤潤二漫畫
主演為梁詠琪、陳姸霏。
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Happy National Comic Book Day Here are my 4 favorite mangas: Kirby Manga Mania, Chocobo Mysterious Story, Kaze no Klonoa 4Koma Manga Gekijou, and Soreike!! Bomberman Jetters.




#superkitties#スーパーキティ#kirby manga mania#星のカービィ デデデでプププなものがたり デデデ編#Chocobo Mysterious Story#チョコボのふしぎものがたり#Kaze no Klonoa 4Koma Manga Gekijou#風のクロノア 4コママンガ劇場#Soreike!! Bomberman Jetters#それいけ!! ボンバーマンジェッターズ#Coro Coro Comics#enix
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Himiko Yamatai.
#Himiko Yamatai#Himiko_Yamatai#Keio Flying Squadron#Keio_Flying_Squadron#KeioFlyingSquadron#Keio Yuugekitai#Keio_Yuugekitai#KeioYuugekitai#慶応遊撃隊#Keio Yuugekitai Katsugekihen#Keio_Yuugekitai_Katsugekihen#KeioYuugekitaiKatsugekihen#慶応遊撃隊 活劇編#Keio Flying Squadron 2#Keio_Flying_Squadron_2#KeioFlyingSquadron2#Sega#Sega Saturn#Sega_Saturn#SegaSaturn#HimikoYamatai#hermanniwork
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談天說道 之 應用戲劇──應用於互動交流、體驗及生命教育的戲劇
孩子們,我們愛弟兄,不要在言語和舌頭上,而要在行動和真理上。(約翰壹書3:18《環球聖經譯本》) 文:郭卓靈│明光社項目主任(傳媒及生命教育) 「劇場」不單有其藝術的可觀性,也可讓人參與其中,讓個人或特定群體聚在一起,實在地成為可供人介入,提供溝通、發展、賦權與表達等方式的平台;帶有教育及讓參與者「做中學」(learning by…

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#環球天道傳基協會#編作劇場#過程劇#郭卓靈#長者弱勢社群被賦權演繹自己故事#香港演藝學院戲劇藝術碩士#論壇劇場#劇場可讓人參與其中#劇場可以在任何地方#口述歷史劇場#嘗試改變劇中狀況及給予援手#應用戲劇#應用於互動交流體驗及生命教育的戲劇#戲劇教育#明光社#有機會反思行動及回應#一人一故事劇場#人種誌劇
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猿の演劇論特別編@無為フェス/BUoY#2
#2 「アガンベンの錯乱−監獄から収容所へ、で、その先は・・・」
『ホモ・サケル』から、コロナ禍での論考まで哲学者ジョルジョ・アガンベンの思想に寄り添いながら、「収容所の愉楽」とこれからの演劇について考えます。
下記は、講義の概要をまとめたものです。
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今回の講義の「アガンベンの錯乱−監獄から収容所へ、で、その先は・・・」というタイトルは、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンのコロナ禍での発言が問題視されたことからきていると鴻さんは言います。
コロナ禍におけるアガンベンの思想
鴻さんは、杜撰な言い方をすると、前置きしつつ、アガンベンはコロナなんて大したことないのだから、こんなふうに規制をするのはおかしい、こんな規制をされるくらいなら死んだ方がマシだというようなことを書いたのだと説明します。それに対して、とんでもないことを言う思想家だということで、発言が炎上するわけです。アガンベンはそれに応戦しますが、アガンベン批判の方が圧倒的多数でアガンベンの発言がだんだんと消えていく。その問題の発言は2020年2月26日に発表されたものです。その後は、ちょっと言い過ぎたのではないか、とか、考え方は変わりましたか?とか、あの時言った事は間違っていたというふうに言ってくれませんか?と、インタビューを受けたりします。そうした一連のアガンベンの言説が一冊にまとめられたものが、『私たちはどこにいるのか?政治としてのエピデミック』という本になっていて、そのなかでのアガンベンの最後の発言が2020年7月13日です。
鴻さんは、この本が出た時に読み、半信半疑という形でちゃんとした検討はしていなかったと言います。しかし、その後にコロナの感染状況はさらにひどくなり、事態は悪化していく。そうした中で、アガンベンの発言を探したけれども、見つからなかった。アガンベンの専門家に来てもらって話を聞きたいと思っていたけれど、それもできなかった。今回はまだ検討が終わっているわけではないけれど、鴻さんの考えるアガンベンの発言の解釈を話したいと言います。
この本の翻訳者の高桑和巳さんは、タイトルについて、日本語訳を「私たちはどこにいるのか?」としたことに関して、イタリア語原文の「A che punto siamo?」は、私たちは歴史的な展開過程のどの点にいるのか、つまり、展開に対する調査、認識を踏まえ、今こういうところにいるのであれば、その後どこへ展開するのか、それは間違っているのではないか、こうした方が良いのではないのか、という展開過程においてどの地点にいるのか、という意味があると説明しています。つまり、歴史と地理を考え、ある地点を特定し、その場の意味について自覚させられるような事がコロナにおいて起こった、それに対する自覚がないことが問題なのではないか、ということです。アガンベンはコロナによって顕在化してきた出来事は耐えがたいと言っている、ことに鴻さんは共感を持ってこの本を読みました。
そして、今回の講義タイトル「アガンベンの錯乱」は、このことに由来すると言います。この耐えがたい状態、それは、権力が私たちに馴染ませてきた例外状態が通常のあり方になったということをエピデミックが明らかに示したということ。コロナ禍において日本ではニューノーマルという言葉が盛んに使われました。コロナ禍において私たちは新しい日常、ニューノーマルを生きなくてはいけない、それに対して、多くの人たちが「わかりました」という構図になった。2020年から世界で、日本で起きている状態をニューノーマルと呼んだメディアや提案した人の問題ではなく、それを大多数の人たちが受け入れたことに問題があったと鴻さんは言います。
「ニューノーマル」という実験
この異常事態にどう対応するかという提案ならば、それを一緒に考えようということになるけれども、それを異常事態ではなく、ニューノーマルというふうに名付けて大多数の人が受け入れてしまう、そういうことが現実に起こり、これ対して、鴻さんは大きな拒否の態度を取り続ける必要があると思いながら、それが具体的にうまくできないままこの3年が過ぎてしまったと振り返ります。アガンベンも、皆がニューノーマルと言い始めた事はおかしい、それに対して抵抗しなくてはいけない、と書いています。パンデミックによって、世界の移動が禁止される、感染して死亡したものの葬儀の場に立ち会うことができない、こうした事は異常事態だけれど、この蔓延している例外状態がニューノーマルとして認定され、我々が受け入れること、それは、今の世界の監視社会の性格そのものを受け入れていくということが起きているのだ。このことをアガンベンは何度も言っている。この発言において、アガンベンが言っている事はそんなにひどいことではない。より深刻なパンデミックは過去にもあったが、今回のように私たちの移動まで阻止することまで考えた者は今までいなかった。監視と規律、移動の禁止など様々な禁止がこれほど容易にできた社会は今まで存在しなかった。私たちは永続する緊急事態を生きることに、これほどまでに慣れてしまった。自分の生が純全とある生物的なあり方へと縮減され、社会的、政治的な次元のみならず、人間的、情感的な次元の全てを失った。例えば、死者を前にしてそこに供えに行って悲しんではいけない、それを耐え忍ばなければならない。ニューノーマルという言葉を使うことで、そうしたことを受け入れる人たちは、自分たちが人間的、情感的な次元の全てを失ったということに気づいてすらいない。ニューノーマルという言葉が普通に使われることに対する危機意識を表そうともしなかった。そういう事態がどのように展開しているのかというのが、この2020年以降の世界の姿を見るなかで、いろんな形で検証できる。そして、実は、ここで展開されているのはシミュレーションなのではないか。ニューノーマルを実験として考察している人たちがいて、しかし、その人たちが何を考えているのかに対する分析を我々はすることさえしていない、そのために、思想家は思想家としての役割を意図的ではないにしろ、放棄しているに等しいのではないか。
アガンベンの収容所論
この事は、前回のエドワード・サイードの「帝国の愉楽」と似ています。例えば、大英帝国の人たちは、インドの社会システムに対するちゃんとした知識を持っていて、カースト制度を利用する事で最も安易な形で手をかけない形でインド全体を統治できる。それを持続させるために、イギリス人の子供たちにそうした知識を学ばせた。インドで生まれた少年キムは、まずインドで教育され、ある段階で、ロンドンに留学し、再びインドに帰ってきて、ラホールの博物館に滞在し、インドとはどういうところなのかを知る。インドを調査する喜びを感じながら、その喜びとともに統治する能力を身につけていく。これが帝国主義の喜びです。この喜びを知らないで戦っても勝てない。
サイードはパレスチナ人なので、自分たちを支配している帝国主義者、あるいはユダヤ人、について考える。イスラエルという国にユダヤ人を住まわせる事で、欧米が湾岸地区の石油を自在に収奪できるようになる。そのためにイスラエル建国が必要とされているという事は知っておかないといけない。帝国主義の愉楽というものを知る事なくして、植民地の独立運動はあり得ないというのが、サイードの考えです。
では、アガンベンがコロナ禍になぜこのような考えに至ったのか。鴻さんは、アガンベンの考察した20世紀の社会そのものがそう言った方向性を持っていて、このような発言に至った。つまりアガンベンの収容所論と関係があるのではないか、と説明します。
2010年代には、コロナウィルスによるパンデミックなど全く予測できなかった。その頃に書いた『ホモ・サケル』では、私たちが収容所化する世界という例外状態にいる、その危機において私たちは抵抗しなければならないと書いていた。この当時、アガンベンはその例外状態が新しい日常になり、コロナのパンデミックによってそのことが検証されるとは思っていなかっただろうと言います。
アガンベンの代表作『ホモ・サケル』が出版されたのは1995年、その翻訳が日本で出版されたのは2003年です。翻訳に時間がかかった理由はわかりませんが、あまりアガンベンが知られていなかったことがあったのかもしれません。
この収容所論における、収容所とはアウシュビッツ、ソ連の強制労働収容所が2つの重要な参照例です。1995年に近代的なノモスとしての収容所と書いたときに、アガンベンは西洋近代の社会構造の本質は結局アウシュビッツのような場所で展開された収容所に帰結する、我々の社会がそこへ向かって修練していく、そうならないための努力をどのようにすれば良いのかというのが問題であると書いている。そのときは、我々はそういう危険性に包囲されているけれども、それとの抵抗のなかで人間の生は存在していると考えているわけです。
これとほとんど同じようなことが、20年前にあたる1975年にミシェル・フーコーによって書かれています。この年に『監獄の誕生』を書くわけです。近代的なものの生政治的判例としての監獄というような形で書いています。
監獄が誕生するのは、ヨーロッパにおいては、1800年から1850年くらいの間にほぼ全ての国で監獄のシステムが出来上がる。フーコーは、近代社会の本質は監獄にある、その本質は規律訓練であると言う。監視と処罰において規律訓練を生み出し、そして従順な身体を作り上げていくというのが、監獄の役割であり、このシステムは近代社会の決定的なモデルであって、これは教育、労働などの社会システムが監獄のシステムを踏襲する形で世界が確立していく。ここからいかに脱出するのかということが、『監獄の誕生』のテーマです。
このフーコーの監獄の誕生に対して、アガンベンが収容所の誕生を『ホモ・サケル』と言う本の中で書いた。
ビオス・ポリティコスを考察する
アウシュビッツが参照例とされる、近代的なノモスとしての収容所。その収容所的な世界観からいかにして脱出するのか、いかにしてそういうシステムを壊し、人間が新しい共同体なり、姿なりを作り出していくのかということが問われている。その事例として、ギリシャのビオス・ポリティコスという言葉をアガンベンは幾度も使います。ビオス・ポリティコスとは、ポリスにおける生き方を意味します。ビオスとは人間の生という意味です。それは、古代ギリシャにおける何らかの新しい人間のより良い生のあり方として取り上げられている。しかし、ギリシャのポリスにおける人間の生のあり方が実際にどうであったのかという事は簡単にはわかりません。それを調べるための1つの非常に重要な事例が演劇です。古代ギリシャの演劇を観ることによって、ビオス・ポリティコスというものがどういうものであったのかがある程度推測できるわけです。
ギリシャ演劇、例えば『アンティゴネ』が初演されたのは、紀元前441年です。アンティゴネが生きていたのは、推定で紀元前1220年頃です。つまり、紀元前441年に上演された演劇の物語は、それから7-800年前くらいに起きたとされる出来事の伝説が芝居になっている。物語として、叙事詩として伝わってきているけれど、テーバイ伝説を聞いている人たちはその場にいたわけではないし、その辺りのことを必ずしも知らないのになぜ聞くことができるのか。それは、800年前の出来事なのに、聞いた人たちがわかるように物語が組み立てられているからです。だから、我々が今ギリシャ演劇を観て何が何だかさっぱりわからないとはならない。元々がある出来事の伝説を800年後の人が聞いている。さらに、2500年後の我々が見ても納得できる。芝居を観て、その時代の人たちの間で何が問題になっているのかがわかる。ポリスの生、ビオス・ポリティコスがどういうものであったのかが分かるのです。アンティゴネを死へと追いやったクレオンのような振舞いをする専制君主に対して、ポリスの民衆たちが何を考えたのか、ということを研究していくと、古代ギリシャのポリスにおける生の形態というのを我々はいろんな形で考察できる。
ビオス・ポリティコスを英語に訳すると、Political lifeです。ナチス・ドイツがユダヤ人を収容所に送っていくその最中に暮らしている人たちのPolitical life、これが1943年のドイツのビオス・ポリティコスであり、スターリン時代のソ連で『収容所群島』で描かれてい��ような実態がビオス・ポリティコスである。ポリス的な生のあり方がどういうふうに展開していったのか、それが歴史というものなのです。
ゾーエー「剥き出しの生」のあり方
一方で、ビオスに対して、ゾーエーがあります。「剥き出しの生」と翻訳されています。ビオス・ポリティコスは、ポリスがあるからこそ可能にしている生の形態です。そうではなく、いわゆる社会的だとか、人間的だとかいうものと関係なく「剥き出しの生」はただ生きているだけです。ここで、もう1つ、「ホモ・サケル」という言葉があります。文字通り訳すると「聖なる存在」。古代ローマにホモ・サケルと呼ばれる人たちがいて、聖なる存在で、人を殺しても殺人罪に問われない、そういう社会規範において例外的な存在がいたのです。アガンベンは、このホモ・サケルを「剥き出しの生」とつなげています。
ところが、今回のパンデミックにおいて、埋葬したい人がいても埋葬をしたいという感情を一切剥奪され埋葬はできないとか、旅行したいと���ってもウィルスを撒き散らすかもしれないから移動してはいけないとか、全てを剥奪されて、いわゆる人間として社会的活動とか、感情的・情緒的な活動を含めた一切が剥奪されてしまった、そうした人間をアガンベンは「剥き出しの生」としている。ここで、鴻さんは、アガンベンのこれまでの主張とズレを感じると話します。
収容所化した世界が、ビオス・ポリティコスの新しい形式の1つだとすると、そのビオスの中に「ただ生きている」よりもひどい形式というものがあって、つまり、悪き生へ負の連鎖の中に入ったときのビオス・ポリティコスに対して、ゾーエーは、いわばそうした社会の価値基準か離脱した存在そのものとして、潜在力を持つものとして考えられると以前は書いていたように思う。ビオスが壊れるとビオスの下に潜在力としての存在のゾーエーがある。ゾーエーは何者でもないけれども、何かになる存在、それに対して、何者かになってしまった、それは不完全で魅力的でもないかもしれないし、あるいは魅力的だったりするかもしれないビオス・ポリティコスをいかに、より良いものにしていくのかということを考える。コロナ禍におけるニューノーマルを受け入れた人たちは、そのことが、ビオス・ポリティコスのあり方を、潜勢的なゾーエーというものから生み出された1つの形式を、さらに悪い方向へ向けていく、世界を収容所化していくそういう形なのだと考えることで、『ホモ・サケル』を読み直すことで、アガンベンの言おうとしている真意を読み解いていく必要があるのではないかと、今鴻さんは考えています。
身振りについてー収容所化する身体への抵抗
また、鴻さんが『ホモ・サケル』を読むきっかけになったのは、2000年に翻訳がでた『人権の彼方に』を先に読んでいたことでした。『人権の彼方に』収められている「身振りについての覚え書き」という章において、アガンベンは、西洋ブルジョワジーは19世紀の終わりから20世紀の初めに身振りを失ったと書きます。要するに、監獄という社会の中で、監視と処罰のシステムの中で、行動を規制され、従順なる身体へと移行していったという考え方からすると、そうした従順な身体は身振りを奪われたと言うのです。しかし、20世紀初頭の演劇ほど身振りを再発見したものはないのです。セリフ劇ではなく空間と身体の動きによって生み出された演劇は19世紀末から20世紀初めに起こるわけです。アガンベンは、続けます。社会的に身振りが失われたそういう人たちの中から抵抗として身振りを蘇らせるような活動をしていた人たちが芸術家であったと言うのです。例えば、ロシア・アバンギャルドの演出家フセヴォロド・メイエルホリドは、コメディアデラルテに学び、舞台上で跳躍するような垂直的な動きを取り入れて空間をダイナミックにしました。20世紀初頭に映画が登場した初期の頃のサイレント映画は身振りによって表現されます。しかし、ロシア・アヴァンギャルドが社会主義リアリズムへと移行していくとき、身振りの演劇がリアリズムの言語的な演劇に回収されていく。そうした動きが世界の収容所化です。一方でさらに、1960年になると、それに抵抗する新たな演劇の動きが出てきます。パリの五月革命なども身振りの復権への動きかもしれないし、その身振りの復権こそが収容所化する身体への抵抗であるとアガンベンは書いています。
20世紀の芸術、その問題性を収容所論から解き明かす
こうしたアガンベンの翻訳を鴻さんが読んでいた2000年から2005年にかけては世界的にも演劇はダイナミックでした。2001年から鴻さんがアフリカ・アジア・南アメリカを転々としながら演劇を観ていました。抵抗の姿勢としての演劇についての考察を唆すような言説が溢れていた。収容所化した空間に対する抵抗としての演劇、人間の新たなるより良き生を目指すためのビジョンについて考えるための事例として収容所についてアガンベンは語っていました。ところが、そう言う戦いそのものが2015年くらいに敗北に終わるのです。サイードの悲しみでは、1993年から2003年の10年間の経緯の中での悲しみがどんどん深くなっていくことを話しました。今のパレスチナの状態を予感しながら、絶望的な文章を『オスロからイラクへ』で綴っています。ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは、2007年にポストコロニアル批評は失効したと言います。アガンベンは2020年の前までは、20世紀の非常に重要な核としての収容所という言い方をしながら、しかし、世界の収容所化をいかに防ぐか、これに対する提案をしながら書いています。それが、『私たちはどこにいるのか?政治としてのエピデミック』では、収容所化したということを確認するためのシュミレーションモデルが作られ、それが実行され、実験が終わって、収容所化していたということがわかったと書いているのです。
演劇においては、タデウシュ・カントルが『I shall never return』という作品で収容所的な世界を書いています。この言葉を言って連れて行かれるのはガス室です。自分が殺されることを知っている。明日は仲間か、自分かもしれないと思いながら、この言葉を言って見送る。そういった人たちが、舞台上にいるカントルを前に「どうしてくれるんだ」となどと言うのです。彼らの言葉が耳からこびりついて離れない。カントルはポーランドのクラクフで活動をしていましたが、そこはアウシュビッツから車で1時間ほどの都市です。その場所で生まれて学生時代を過ごし、アウシュビッツのことを思いながら作品を作ってきた。そのときに「Nothing ahead」と頻繁にカントルは口にしていた。「先には何もない」、でもその言葉を呟きながら私の心は明るい軽い気持ちだった、肝心なのは断念しないことだ、とカントルは言っています。アウシュビッツで「私はもう帰らない」と言った、そうして殺された人たちが舞台に死者として出てくるような作品を作り続けていくときに、断念しない。そうした新しい世界像へ向けての死との直面の仕方であるというカントルが言うときに、鴻さんはゾーエーとビオスのことを考えていました。それを文章にしたものが、2006年の現代思想に掲載された『死と身振り』という鴻さんの論考です。アガンベンの『身振りについての覚え書き』を引用しながら書きました。
アガンベンは、以前は収容所について問題にするときは、世界は収容所化に向かっているけれども、そうなってはいけないという警告として書いていました。しかし、コロナ禍で世界は収容所化してしまったと書いた。そこで、アガンベンの錯乱なのです。収容所化してしまったことをアガンベンは許せない。監獄に入れられた人は監獄からの脱出を願う。収容所に入れられた人は収容所からの脱出を願うわけです。ところが、収容所の愉楽から、今や収容所的世界にいることに喜びを感じているという形に移行しているということが、コロナ禍において我々に突きつけられたことなのです。そのことをアガンベンは様々な言い方でした後で消えてしまった。戦い続けているとした��戦っている姿が見えない。世界の収容所化について、収容所分析をすることは、収容所化への抵抗であった。それが、もうそうなってしまったとい言い方になった。それは嫌だと最初は言ったけれど、そこで諦めて沈黙してしまった。この姿勢は批評家として問題ではないかと鴻さんは感じています。収容所を問題にすることは、それを掘り起こしてくることで人間存在の本質に迫ることであって、受け入れることではない。20世紀の芸術、その歴史を掘り起こそうとするとき、その問題性に迫り、より良い展開を可能にするにはどうすれば良かったのかを考える。存在の意味をゾーエーさえもが思考する。ビオスは良い、ゾーエー(剥き出しの生)は良くないという言い方をする人たちも多いが、ビオスに問題がある場合もある。ビオスがゾーエーを不可能にしている。完全な監禁状態において、スラヴォイ・ジジェクがいうところの「監視と処罰ですか?はい、お願いします。(Surveillance and punishment? Yes Please.)」が、今の収容所の愉楽におけるキャッチフレーズのようであると鴻さんは言います。
『カラマーゾフの兄弟』でイヴァン・カラマーゾフの話す大審問官の伝説では、スペインの広場で治癒能力を持った青年が現れ、病気を治したり、死者を蘇らせたり、様々な奇跡を起こします。それを大審問官が困るから捕まえてこい、という。なぜか? 人々は皆幸せに生きていて、こんなに幸せな世界はないと思いながら従順に暮らしている。それにも関わらず、奇跡を起こすことで、何か違った夢をみたり、夢が実現しなくて今までに感じなかった苦痛を感じて、世界が混乱するかもしれない。そのような存在はいないほうが良いと言う。そうすると、その青年は大審問官のそばに立って、ひざまずいて、口づけをすると静かに立ち去っていく。つまり、収容所の愉楽をかき乱すことはやってはいけません。こうした統治論の1つの例がドストエフスキーによって与えられている。こうしたモデルを色々と知った上でアガンベンのように収容所論というのを厳密に解き明かしていく作業が必要だろうと鴻さんは言います。
フーコーもまた、『監獄の誕生』を1968年のパリ学生反乱の敗北とその反省として書きました。なぜ敗北したのか?それは統治システムの巧妙な仕組みについて考えていなかったのだと言います。近代という構造に対する批判的な分析とそれに対する戦いの方法がなかった。そのことに、68年の敗北の後に気づいた。フーコーは1984年に亡くなります。そこから10年して1995年にアガンベンが『ホモ・サケル』を書きます。
芸術の世界では、ピナ・バウシュもまた収容所的世界を描いています。ピナ・バウシュはゾーリンゲンという小さな街で生まれ育った。そこで生まれ育ったもう1人の有名人はナチス・ドイツのアドルフ・アイヒマンです。そして、自分がダンスの勉強をし始めた1960年にアイヒマン裁判が始まり、その報告記事がニューヨークタイムズに掲載されます。そうした事態の経緯がピナ・バウシュには大きく影響している。1986年に作った『ヴィクトール』という作品は、全体が大きな墓穴になっている。墓穴の底には人がいて終始踊っている。��番上の地面では、スコップで泥を使って墓穴を埋めている。それは死の舞踏であり、アウシュビッツの収容所で生き埋めにされた人たちを表現している。そうした状況でさえも、ゾーエーさえもが、ビオスというものを捨てない、という動きが展開されていく作品です。自伝的な作品『カフェ・ミュラー』では、アウシュビッツのような歴史の最中に投げ込まれて、それについて何も語ることができない少女が舞台に登場します。盲目で、目を瞑ったまま現れ、去っていく中で、幻のように頭に浮かんだ光景が舞台で展開される。この作品ではアウシュビッツの記憶がピナ・バウシュにのしかかっている、しかし、そのような中でも生というものが、いかに可能かが舞台化されている。カントルもピナ・バウシュもアガンベンの収容所論の前にこうした作品を作っている。20世紀の現実を踏まえながら作られた作品を見るときに、アガンベンの収容所論は意味を持ちます。鴻さんが『死と身振り』を2006年に書いた時は、アガンベンを読みながら、世界の収容所化とそれに抗する演劇について議論し、分析することが可能でした。それが現在どうなっているのかということに関して問題が複雑化している、ビオス・ポリティコスとゾーエーに関するアガンベンのポジションについて確認しなければならない、と鴻さんは考えています。
文/椙山由香
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更新❗️
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5月末にとある劇団が幕を下ろされた。最後の舞台撮影に携われたことに嬉しくもあり、寂しくもあり、編集をしながら複雑な気持ちになっている。劇団代表との出会いは、別の劇団のお芝居の集合写真の際に、あまりの大人数と、経験が浅かったこともありガチガチに緊張していたところ、人を笑顔にする『魔法の言葉』を教えてやる。と声をかけられ、そこから懇意にして頂いている。ちなみに撮影で『魔法の言葉』を使ったものの、場の空気は凍りついていた事は懐かしい思い出だ。それから、自劇団の撮影や、その他の仕事の依頼、自分ごとでは退職し写真で挑戦している事などなど、事あるごとにメールや電話での叱咤激励をくれる仲となった。最後の撮影が終わり、撮影のお礼がてら僕が今挑戦していることへの報告を入れた後の一通の連絡。そこには、��君ならやれるだろう。さらに気合を入れてその道を進め。何故だ���分からんが、我には確信がすでにある。理屈抜きで頑張れ。』と。迷いを悟られたのか、その言葉に後押しされている自分がいた。自分の強みないし自分の事すら未だに分からない。分からないからこそ経験を重ねて重ねて、いずれ死ぬ時に僕自身が現れればいいな。それまで感動は大事に取っておこう。
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【完全新作劇場版】 『LUPIN THE IIIRD THE MOVIE』(仮)2025年公開決定!
アニメ「ルパン三世」の完全新作となる劇場版『LUPIN THE IIIRD THE MOVIE』(仮)の2025年全国公開が決定しました!※正式タイトルは後日発表予定となります。
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この新作劇場版公開決定を記念し、現在公開中の『ルパン三世 カリオストロの城』通常版の本編上映後に、特報のロングバージョン(約2分)が上映されています。いち早く新作の世界観に浸る、またとないチャンスをお見逃しなく!(※同作のIMAX版では特報の上映はございません。予めご了承ください。)

『ルパン三世 カリオストロの城』上映劇場の詳細は、映画公式サイトまたは各劇場公式サイトをご確認ください。 映画公式サイト:https://lupin-cagliostro45.com/
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Puella Magi Madoka Magica: Walpurgis no Kaiten & Madoka Magica Magia Exedra set to feature in aniplex's new event held on Monday, 16th September.
Note: Walpurgisnacht: Rising's release date has officially been postponed to Winter 2025
#puella magi madoka magica#madoka magica#mami tomoe#magia record#tomoe mami#pmmm#puella magi#holy quintet#madoka magica rebellion#manga#walpurgisnacht rising#walpurgis no kaiten#magia exedra#puella☆
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