Text
GUI上で管理者権限でファイル操作をする
Raspbian の標準ファイルエクスプローラーは PCManFM、CUI上でのファイル操作に慣れない間はGUIを使いたくなる。 その場合、ターミナルに
sudo pcmanfm
を打ち込むことで解決するが、リモートデスクトップ環境では 「ディスプレイをオープンできません」と表示されうまく行かない。 この場合
xhost +
を唱えることでうまく行く。
ラズパイ(Raspbian-GUIでのファイル操作をroot権限で行う-)(https://kimama-na-tomo-no.blog.ss-blog.jp/2020-05-23)
1 note
·
View note
Text
締切まわりリンク集
「『締め切りが守れない人』に共通する甘い考え〜ラストスパートでは帳尻を合わせられない」https://toyokeizai.net/articles/-/122677
0 notes
Text
「反知性主義」と子どもたちに伝えたいこと - 森本あんり(神学者、アメリカ学者)×出口治明(ライフネット生命保険会長) (後編)
太字加工しました。このシリーズ面白い。
出口:むかし、面白いエピソードを聞いたことがあります。ある実業家が大成功して母校に大金を寄付した。学長が喜んでランチに招待し「寄付をありがとうございます。ついては、ひとことお言葉を」とお願いしたら、その実業家は「僕は母校からたくさん後輩を採用しているけれど、全然役に立たない。キャッシュフロー表も作れない。もっと企業に役立つ教育をやってくれ」とのたもうた。しかし学長はこう答えました。「お安いご用です。役に立つものならすぐに教えられます。でも、そんなものはすぐに役に立たなくなりますよ」と。
森本:やっぱりそうでしょう。
出口:森本先生がおっしゃる通り、社会は日々進化していくので、今役に立つものはすぐに陳腐化していく。必要なのはそういうものではなく、考える力です。僕は還暦のときにライフネット生命を始めて、スタートから数えて10年になるのですが、何かにつけ思うのはダーウィンです。
補足: ”ダーウィンの進化論のように「世界はすべて、運と適応だ」と。要するに、強くても大きくても生き残っていくとは限らない。何が起こるかもわからない。適当なときに適当な場所にいることが運なのでそれに適応していかなければならない。”(出口)
森本:大学もそうあるべきです。今の日本社会では、大学に入ってくる学生はみな同質です。トップの大学は、同じトップの高校から何十人何百人と入っていく。同じ人たちばかりと会っているわけです。そうすると、異質なものに出会うチャンスがありません。
僕は、アメリカの大学の学生選びを見ているのですが、点数を0.1刻みに並べて上から順に採るなんていうことは絶対にしません。このグループから何人か採って、そうではないところからも採って、経済的な背景や人種の違いなど、いろいろなことを考え合わせながら一人一人を見て採るんですね。
出口:一種のクオーター制ですね。
森本:それから、「レガシー」というのですが、親や祖父母が同じ学校の卒業生など、伝統も大事にしています。日本でそんなことをしたら「不正行為」だ「裏口入学」だって言われると思いますが。
出口:入学者が100人いるなら、たとえば6割は点数通り、あとは推薦入学とか、枠をつくって意識的にダイバーシティはつくったほうがいい。互いに刺激を受けますから。
森本:その通りです。一緒に学んでいる教室に異質な人がいるだけで、大きな学びがあります。そういうことをアメリカは昔から知っているのですが、日本の大学はいつまでもそういうことをやりません。
出口:僕は、アズハル(アル=アズハル大学)の3信条が大好きなんです。世界で一番古いカイロにある大学で、創立は970年。ボローニャ大学よりも古いんです。3信条とは、「入学随時」――勉強したいと思ったらいつでも来てください。「受講も随時」――自分の好きな、知りたいと思う講義だけ受けてください。「退学も随時」――自分で疑問が解けて、勉強したいことがわかったらいつでもやめて結構です。すごくイージーな理念なんですが、大学の理想だという気がしています。
出口:もし日本でそんなことをしたら、東大に殺到するかもしれませんが、卒業できないとなれば、マーケット原理が働いて誰も行かなくなります。やはり大学は勉強するところだということを徹底するためには、入学は誰でもOKで、勉強できない人は卒業証書をもらえない、というほうがはるかに正しい気がします。
日本の大学は、早い時期から自分は医者になるとか、弁護士になるとか決めさせるでしょう。そうして、受験のときに医学部や法学部を選ばせる。でもそれは卒業後の話なので、在学中にその学生がどう変わるかわからないのです。大学としては不誠実だなと思います。
出口:どこから変えたらいいかというと、僕はやっぱり企業社会、出口から変えるべきだと思いますね。
森本:そういうことを言ってくださると、力強いですね。
出口:普通の学生は、ちょっとでもいい大学に入ったら、いい企業に就職できる可能性が高まるというイージーな気持ちの人が大半です。それでいいと思うんですよ。でも、企業のほうが「大学で必死に勉強をしなければ採用しません」と言えば、大学で勉強するはずですよね。そこを文部科学大臣にもわかってほしいなあ。
森本:といっても、日本の大学はなかなか改革できません。私立大学ではしばしばビジネス界のリーダーが理事になります。そうすると、大学に来て驚かれるんですよ。企業なら当然なされていることが、大学でどうしてできないのか、と。
出口:大学予算って、今2兆円くらいですね。それを文科省が分配している。世界から優秀な留学生を集めてくると国が決めたら、秋入学にするしかないと思っているんですが、それもなかなか変わりません。秋入学にしないと予算をつけないと一言言えばすぐ実現するのに。世界中の大学を春入学にする力は日本にはないのですから、世界標準に合わせるしかありません。
森本:知性を身につけるために、子どもたちには自分が見知っている世界と違うものに触れてもらいたいですね。違う世界、広い世界に触れると子どもは成長します。
出口:本当にそうです。僕は本が好きなのですが、今まで読んだ史上最高の読書論は、皇后陛下の『橋をかける』に尽きると思っています。インドのニューデリーでのビデオ講演が元になっているんですよ。
森本:わあ出口さん、ご存じでしたか。僕もよく知っています。日本語でも英語でも講演なさっていますが、どちらも素晴らしいんです。しかも、もっと素晴らしいのは、ご自分で読むよりも前に、お母様に読んでもらった本のことを話されていることです。読書体験というのは、読み聞かせから始まるのでしょう。それが、幼い子どもに想像力の翼を与えるのだと思います。目の前の現実を離れて、自由に世界を飛び回る力をもつというのは、知的にも心の成長にも、とても大事なことだと思います。
出口:外国の人に「日本ってなに?」と聞かれたとき、あの講演録を渡して「これが最良の日本人だから読んでみて」と渡すと、ほとんど全員が感動しますね。
何に橋をかけるかというと、子どもたちが本を読むことで、自分と広い世界との間に橋をかけるという意味と、心の中で自分を見直して自分と向き合うために橋をかける、という意味があります。子どもたちには、世界は広くいろいろと面白いことがあるんだから、自分の興味や関心を、自分の内にも外にも向けてほしいと思いますね。
0 notes
Text
時代を憲法に合わせなければいけない - 木村草太(憲法学者)×出口治明(ライフネット生命保険会長)
太字加工しました。 2017年の記事。この頃はニュースこそ見ていた(ホルムズ海峡の話を延々とやっていた記憶)が、あんまり考えてなかった。
出口:個別的自衛権は「外国の侵略から日本を守る」ということですっきり説明がつきますが、集団的自衛権はどう考えたらいいんでしょう?
木村:まず、これまで日本政府は、日本が集団的自衛権を���使することはできないと考えてきました。憲法13条はあくまで「国民を守れ」ということで、「外国政府を守れ」とは書かれていません。集団的自衛権は外国を守る権利なので、9条の例外を認めることは、今の憲法ではできないというわけです。
集団的自衛権については、9条以外にも深刻な問題があります。日本国憲法には、外国に自衛隊を派遣するときの基準や手続きが書かれていないのです。たいていどの国でも、自衛隊に相当する軍隊や実力組織を海外に派遣するとき、責任者や手続きの方法、どういう場合に行くか、という基準が憲法でコントロールされています。
出口:つまり、他の国の憲法は貼紙になっているんですね?
木村:そうです。だって海外に軍隊を送るのは、すごく大事なことじゃないですか。
国によって「議会の承認が必要」とか「首相や大統領が責任を負う義務がある」とか、きちんと書いてあります。しかし日本国憲法は海外への派兵をしない前提で作られているので、手続きが全く書かれていないんです。今のままでは「議会の承認なんかいらないよね。現場判断でやっちゃっていいよね」と、運用されかねません。大変危険なのでやめておこう、となるわけです。
2015年の安保法制では集団的自衛権を一部容認したとされますが、条文上は、あくまで13条で説明がつく範囲にしようとしています。国民の生命の自由の権利が根底から覆されるときにそれを守る範囲でだけ使ってもいい、という条文になりました。もちろん、国民の生命を守るためであれば、集団的自衛権である必要はないという批判も非常に強くあります。
出口:なるほど。今、認められている集団的自衛権は、13条に引っかかるほんのわずかな部分だと理解していいんですね?
木村:そうです。ただ、それがどういう範囲なのか、政府の説明がはっきりしていません。ホルムズ海峡云々という話がありましたが、13条の事例を守るためのケースかと言われると、「そうかな?」と思う人が多いでしょう。条文自体の意味がよくわからないんです。9条違反だと議論する前に、「そもそも意味がわからないから憲法違反と言わざるを得ない」というのが私の立場で、国会でも話をしてきました。
出口:もし集団的自衛権を行使するのであれば、憲法を変えなければならないとお考えですか?
木村:はい。やる場合は、きちんとしなければ。単に行使できると書くだけでなく、誰の責任で、どんな手続きでやるのかを書き込まなければいけないと考えます。たとえばドイツでは、「海外派遣をするときは必ず議会が関与する」「集団的自衛権を行使する場合は、守りに行く国とドイツとの間に国際条約の基礎がないといけない」という基準が作られています。
木村:日本国憲法は70年間改正されていないので、「時代に遅れた古い憲法」だと言われることがあります。でも一方で、「70年も経っているのに実現できていないところはないのか」という考え方もあるんです。憲法に書いたからといって、その理念がすぐ実現できるわけではありません。
たとえばアメリカでは、南北戦争の後に奴隷が解放され、「白人と黒人は平等に扱う」と憲法に書き込まれたのですが、20世紀の半ばまで黒人用小学校と白人用小学校が分かれている州があったし、公衆トイレ、プール、ビーチ、あらゆるところに黒人と白人の分離がありました。この差別的制度は憲法違反だからやめよう、となったのが、憲法改正から100年後でした。
日本国憲法はまだ70年。できていないことがたくさんあると考えるのが普通です。時代に遅れた憲法ではなく、むしろ時代のほうを憲法に合わせなければいけないという意識が必要ですね。
出口:書かれていても、できていないことがたくさんありますね。たとえば子どもの6人に1人が貧困であることも、憲法が実現できていないと言えます。世界的な流れで言えば、同性婚の問題もそうですね。
木村:日本国憲法は、実は同性婚を禁じているわけではないんです。ただ「個人の尊厳に基づいた家族を作らなければいけない」と言っているので、LGBTにも配慮した家族法を作らないと憲法違反だという議論はできますね。
出口:両性の合意、というのは?
木村:憲法24条の「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」。この条文は「両性の合意」で成立する婚姻、つまり異性婚についての規定で、同性婚については何も言っていないんですよ。
出口:なるほど。
木村:ですから、憲法24条を丁寧に読んでみると、同性婚を禁止しているようには読めないんですよ。
出口:そうか、その視点が僕にはありませんでした。
木村:なぜ、憲法24条ができたかというと、昔の民法では、結婚に戸主の同意が必要だったからです。「戸主の同意はいらない。愛し合っている男女が合意をすれば結婚できます」という条文なので、同性婚を禁じる趣旨はなかったのです。
あの時代は家庭の中での女性の地位が非常に低く、男女の平等が必要だということで作られた。同性愛者から憲法24条を見ると、「かわいそうな異性愛者のために作られた条文」というふうにも言える。同性婚の場合、家庭の中に男女の不平等などないので、24条のような条文はいらないんですよ。
0 notes
Quote
九坪ハウスと《イームズ邸》の共通性という点では、手軽な組み立て感覚が挙げられるかもしれない。よく知られているように、実験的なイームズの自邸は、すべての部材をカタログから選ぶことによってつくられた。これはコストの削減、工期の短縮、建設の簡易化につながる合理的な方法であると同時に、カタログの時代におけるデザインの方法も提示している。各々のパーツは既製品だが、住宅用ではない工場用の規格品を使うなど、選び方によって独自性を獲得した。また現場に鉄骨が到着してから、二階建てに計画を変更した際、鉄骨の梁を一本追加しただけで済んだというエピソードも、限られた部材をもとにしたパズル的な操作を示すだろう。イームズ夫妻は、そうした編集的なセンスに長けていた。
五十嵐太郎(九坪ハウス考)(http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1313/)
0 notes
Text
モダニズムまとめ
R・ヴェンチューリ 『ラスベガス』
要するに、”あひる”とは象徴そのもののことであり、”装飾された小屋”とは象徴で装飾された建物のことである。 このふたつのうち、両方の正当性を認めながらも、本書では後者を支持する。
近代建築批判の理由として、以下のように書く。 「近代建築が折衷主義を放棄した時、近代建築は象徴主義も消去してしまった」「近代建築は、空間、構造、平面上の純粋な建築的要素を執拗に分節化することに没頭した挙句、その表現は空虚でつまらなく、無責任でさえある無味乾燥な表現主義になってしまった。」 ここでは近代建築が装飾を排したことで、どのようなものになっていったかについて書かれている。 「近代建築は、後方にあったものを前方に持ち出してきた。彼らは自分たちのヴォキャブラリーを創造するために、小屋の格好の象徴化を図りながら、一方実際に自分たちがしていることを理論上は否定した。」 ”装飾された小屋”から装飾を排除したことにより、「小屋の格好の象徴化」がはじまる。 つまりは、近代建築は明白な象徴を用いることを拒否しながら、じつは建物全体をひとつの大きな装飾と化してしまっているというのだ。 ここに「近代建築=全体が装飾」という図式が成り立つ。 ”あひる”は象徴そのものを意味し、また装飾とは象徴のことでもある。 つまり、「近代建築=全体が装飾=”あひる”」という事実に気づかぬまま、近代建築は”あひる”を批判してきたのだと主張する。
(6/28 閲覧)
0 notes
Text
「形態はアイコンに従う(Form follows icon)――情報化時代に適合する新しい建築をめざして」メモ
気になったところを、抜き出し・太字にしただけでなんにもメモは書いていないんだけれども。何度も読みたい文章、するめ文か? https://baby-theory.hatenadiary.org/entries/2014/06/28
「形態はアイコンに従う」(Form follows icon)と前節で書いた。これは本論のタイトルでもある。では、もう少し詳しく書く。ゲームクリエイターのZUNは『PLANETS vol.7』(二〇一〇年)の対談で、「こういうキャラクターだからこういうシステム(中略)という方が俄然面白い」「遊ぶ側だけではなくて、キャラクターを付けることは作る側にも優しいんですよ。何もないところから新しいシステムを考えようと思っても、機械的なシステムしか出てこない。でもキャラクターがあると『このキャラクターだったらこうするんじゃない?』となって、アイデアが出しやすくなる」等々と語っている。興味深い。特に「キャラクターを付けることは作る側にも優しいんですよ」と語っているところが興味深い。「キャラクター」と「アイコン」はほぼ同義であるので書き換えると、「アイコン」から建築形態を考えるプロセスは、「作る側」である建築家や建築学生にとっても「優しいんですよ」ということになる。もっと言えば、僕が掲げた「形態はアイコンに従う」(Form follows icon)の言葉の最大の効力はこの「優しいんですよ」にあると言っても過言ではない。また前節ではジェイムズ・ジョイスの『若き芸術家の肖像』から引用して、「叫びとか韻律とか気分」こそが私たちの出発点であると書いたが、「叫び」や「気分」などからそのまま建築を起こすのは正直きつい。というか、それはほとんど不可能である。しかし、「アイコン」から建築形態を考えるプロセスを用いることで一気に優しくなる。今日の建築では相変わらず「きつさ」が奨励されているが、それはもはや時代遅れの観念である。これからの建築に必要なのは「優しさ」なのである。
視点をズームアウトしてみよう。都市計画家のケヴィン・リンチは「分かりやすさ」(Legibility)という概念を提唱している。ケヴィン・リンチは『都市のイメージ』(一九六〇年)で、「鮮明なイメージは、人間の行動をなめらかにし、すみやかにするにちがいない」と述べている。それに対して同書で「分かりにくい都市」として挙げられているのが、ニュージャージー州東部に位置するジャージー・シティである。日本で言えば「ファスト風土」みたいな都市だろうか。同書から少し引用すると、ジャージー・シティでは「それ自身の中心的活動はほとんど見当たらない」「人間が住むための場所というよりはむしろ通過するための場所であるかのような印象を与える」「個々のスケッチや面接調査を検討したところ、この都市について包括的な概念といったようなものを持ち合わせている者は、長年ここに住む被面接者の中にもひとりもいないことがわかった。彼らが描く地図は断片的で、空白の部分が大きく、自分の家のまわりのせまい部分に集中しているのが多かった」「かれらが抱いているイメージが、知覚によって得られた具体的なものではなく、概念的なものだったことである。とくに印象的だったのは、視覚的なイメージによらずに、通りの名まえや用途の種類によって説明する傾向が強かったことである」等々と述べている。要するに、都市に「視覚的なイメージ」がないと、行動範囲が「自分の家のまわりのせまい部分に集中」するなど極めて断片的なものになってしまうということである。よって、都市に「アイコン」となるような建築があると、「人間の行動をなめらかに」するだろう。そのヒントは前述のアラン・ケイのGUI(ディスプレー上に操作対象が「アイコン」等の絵で表現される)の話にある。
認知科学、実験心理学を専門にする研究者のコリン・エラードは『イマココ――渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』(二〇一〇年)で、「人間は空間を飛躍して、自分のニーズに合わせて頭の中で空間をつくり直してしまう」「私たちは頭の中で、距離と方向はあきれるほど無視する一方、位相的な関係についてははっきり示そうとする。(中略)伸びるゴムのシートの上に描かれた位相地図は、ゆがんではいても、空間の関係についてはいくつもの情報を伝えている」「私たちの頭の中にある地図は、物理や数学で説明できるものとはまったくことなっているが、ある意味、生きのびるために空間を支配したいという私たちの欲求と、記憶の限界をすり合わせたものだ」「頭の中で空間を思い描き、様式化し、変容させることができる能力を持つ人間は、他の動物にはできない方法で自らを解き放ったのだ」と述べている。ここからまず分かることは、二〇世紀のモダニズムの空間観は、私たちの頭の中にある地図や空間認知の方法とは全く異なるということである。物理的な空間と人間(脳)が再構成する空間は異なるのである。その再構成された空間は、むしろ前節で書いた「情報化時代」の空間観に近いのではないだろうか。都市に「アイコン」となるような建築があると、空間の記憶は容易になるだろう。更に、そのような建築はリアルな都市の位相地図を変容させる力を持つことになるだろう。また、本論からやや外れるがブレーズ・パスカルは「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている」と述べている。解明されるべきは、私たちの感覚や心情が持つ仕組みである。やがてリアルな都市とバーチャルな場という対立は崩れて行くに違いない。
価値(美術論)の項はまだ理解できていない。再読すべき。
0 notes
Quote
私たち人間は、神ではない。私たちは無から何かをつくり出すことはできない。私たちにとってのクリエイティビティとは、合成の営みであり、創造したり合成したりするためには刺激が必要なのである。その刺激によって、既存の枠組みを解体し、乗り越えながら、一つひとつばらばらなものをいままでにない新しいやり方へとまとめ上げるのだ。アインシュタインも『組み合わせ遊び』と呼んだように、選択の幅を最大化したい、新しいものを常に探し求めていたいという欲求は、奇妙な組み合わせを思いつく可能性を高めるがゆえに、クリエイティブな考え方に本来的に備わっているものだと私は感じている
リチャード・フロリダ(都市経済学者)
0 notes
Text
3Q2 設計メモ
メモリアル空間を設計する上でのリファレンス
ダンテウム計画案 Il Danteum, 1938-40, Roma

ジュゼッペ・テラーニによる、ダンテの神曲をモチーフに作られたアンビルト建築。厳格な数学比による平面(非人間的?いい意味で)。ヴァーチャルな計画で人の介在しない「絶対空間」を示す。 (ファシズム政権下で計画されていたが敗戦により頓挫?(詳しく調べていない))
¥
0 notes
Quote
ある意味、もう変わっているんだと思うよ。僕たちは文字中心の文化にいたけど、今は映像中心の文化にいるのだからね。音楽にだって同じことが言えるはずさ。音楽は '80~'90年代にかけて、MTV を通して映像化されていったよね。それで、ある意味、音楽を制作するための資金は映像を作る資金へと流れていったんだ。つまり、音楽は二の次になったというわけさ。イメージというものが本当に重要になって、今はみんな後ろで流れている音楽をただ聴き流しているだけなんだ。
Karl Bartos(https://www.higher-frequency.com/j_interview/karl_bartos/index.htm)
0 notes
Text
マネの放棄は「学びの放棄」と同意義である
Nao Tokui / 徳井直生@naotokui
何も模倣したくないと思う者は、何も生み出さない - サルバドール・ダリ
自分がじっくり鑑賞するのは、盗めるところがある作品だけだ - デヴィッド・ボウイ
ほんとこれ.
0 notes