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ある場所から、もうひとつの場所へ ー 1995 映画へのまなざし、ペドロ・コスタの声 ー Vol.3 (聞き手:ジャック・ルミエール/ヴァスコ・カマラ) 赤坂大輔 ■『血』で最も恐ろしいことの一つはイザベル・デ・カストロの演じる人物のシーンです。『溶岩の家』でも、ある短いシーンで、彼女は看護婦をベッドに引きずり込もうとする瀕死の女を演じていますが、『血』では…...。 ペドロ・コスタ(以下P.C)そう。『血』のイザベル・デ・カストロは私にとって重要な何者かだ。(『溶岩の家』の)病院のシーンでは言う以上に感覚のうちに行っている多くのシーンがあった。不詳なもののうちに起こる、土地の、兆候、悪夢の予感。他のシーンには、苦痛があり、だがある種の高みに死体の場所を定めることのよりよい感覚があり、この映画の女性側から見て最もショッキングなイメージがある。リスボンにイザベル・デ・カストロの身体を残していくのは重要だった、なぜなら彼女が唯一『血』から来ていたからだ。映画の女たちの間にはある「共謀」がある、もはや彼らを見分けないようなやり方で。災厄の連鎖と記憶の喪失の中で、私にはすべてが互いに見分けがつかないか、姉妹のように見える。最初に戻ろう。イザベル・デ・カスト口は私が未だ深く突き詰めていなかった50代の病気の女性の物語に由来する別の何かだ。それは長い間パウロ・ローシャの映画に惹かれていたことに由来するものだ。それは意図してのものでは全くないが、私が恐れを抱いていた場所、そこで生活して、時を過ごしたかもしれないが、よく知らない家と結びついている。要するに、この映画(『溶岩の家』)にはイザベル・デ・カストロの二つの画面がある。血まみれの手と死体、『血』の女の残骸だ。エディット・スコブの演じる人物もその一部なんだ。私はある一人の女がかつて間違えられて、殺されかけたこと、彼女の年齢、だいたいのことを知っている。でもまだ多くは知らない。彼女はそこ(カーボ・ヴェルデ)に、隠れ家にいて、その歴史は何なのかを知るためにやってきた人だということはありうるんだ。 ■もし『血』から『溶岩の家』までにフィクションの希薄化があるとすると、思考、言葉、サウンドとともにある一連の映像ですが、遺体の存在がそれ自体独創的なシーンだとすると、あなたの映画は広がりと深さとともにある......。 PC おそらくね。『溶岩の家』は一つの開かれた口だ、すべての距離が保たれたままで、『アナタハン』の反対なんだ。そして人々は、追っていかなければならない主題があると感じるが、それはますます遠ざかっていく。そしてまるでカーボ・ヴェルデは迫害に疲れ病んだ島であり、血縁の人々に占められていて、一連のヴィジョンを持ち、回復途中の国であり、すべてはとてもあやふやで、人はそこに共謀があるがそれが自分たちに反対しているのかどうかわからず、突然頭に恐怖がもたげる。「もし私がここで唯一の男で、この人々に災厄をもたらしているとしたら」すでに人はよいことをする仮説を立てないから、悪いことをする仮説に混乱してしまう。そしてその恐れはここから逃げなくてはならないほど大きく関係している。生々しくなるほどにね。ただ私はエディット・スコブと少女といっしょにこの映画を終えるだけだ、と言い聞かせる。そしてまるで彼女たち二人が私をボートに乗せて遠くに送り出すかのように。その旅は続くだけだ、と。そういうわけでカーボ・ヴェルデはまるで奇跡のように、『血』の後にもしかしたらダメになったかもしれない私を救い出して生気を与え、映画の病を治癒してくれたんだ。 ■結局『血』の何が悪かったんでしょうか? P.C『血』の欠点はシネマテークや名画座に浸かっているかのような骨董品的であることなんだ。でも映画というものがよび起こした、私好みだったもの以上に十分な「刺激」を持っていなかったわけじゃないように思える。より開かれ、全ての物事に降りていき、1本の映画のすべてが変わらなければならない。すべての準備され、撮影され編集されたアクシデントが映画の中に入っていかなければならない。そして『血』には、強さと資金の限界があったにもかかわらず、多くの効果やリリシズム、とりわけ無邪気な誤りによって巧みにごまかされていた。全て後でわかったことだが、我々はあまりに多くの映画を見すぎていて、その種のジャンルに由来することをすることによってね。それはやってはいけないことだった。今ではもう不可能な映画だ。 ■かつてあなたが言ったのは、「政治的なものは興味がない」ということです。でもその一方でこの映画には最も強然な政治的側面があります。 P.C タラファルの基地の十字架とリスボンの病院のベッドを結ぶ線は、強制収容所の死者と足場のカーボ・ヴェルデ人の死者を結ぶ鎖を思わせる。それはある種の映画作家なら、政治的に続く死者の鎖のうちにより力を尽くそうとする作業だ。私にはポルトガルを見るのにより正しい方法だった。私にとって、政治とは刑務所や強制収容所の地下牢や何かだ。それはほとんど「演出」なんだ。どのようにしてある女優をしてタラファルと今日の手術室を行き来させるのか。そのためにカーボ・ヴェルデ人の医者や、ピルケナウのロベール・デスノス(シュルレアリスム運動に加わった時人で、ナチスに捕らえられ強制収容所に送られた)や、ベント・ゴンサルヴェス(ポルトガル共産党書記長でサラザール独裁政権に逮捕され1942年タラファルの強制収容所で獄死した)に書かれた葉書がある。それは同じ葉書だ。私にとっての政治はとりわけそれだ。言わば私が興味のない政治的なものとは、(ナンニ・)モレッティにとっての政治的なものという意味だ。 (訳・構成 あかさかだいすけ 映画評論家) "De um lado para o outro" Jaques Lemière, January 1995 "Convalescer na Ilha dos Mortos" by Vasco Camara, Público 10/02/95
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cocodorillaverdequesi · 8 months
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“夢の住人たち” にとって主要なテーマを為しているのは、時間であり、過去である。だから画家であるヴァルザーや、生粋の “幻視者” たるブレイクには、“時間” は存在しない。
それでは何をもって、“時間” とするのか? それは生きられた者の夢の時間である過去が、“現在” を凌駕するとき。
カフカ は睡りながら夢を観ているのではなく、夢を観ながら、睡っているのである。ゼーバルトはより意図的であり、夢を観ながら、睡ったふりをしている。だから最も“巧く” 、書くことができる。
(唐突ではあるが、) それではキャサリン・マンスフィールド についてはどうだろうか?
彼女はシルヴィア・プラス (ナラティヴ) と同じく、ある構図を描くが、統一した像を結べないでいる。
そしてそれは、ノーマ・ジーン・ベイカーにとっても、同じことなのである。
30092023
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Karl Walser, Sommernachtstraum (Summer Night's Dream)
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cocodorillaverdequesi · 8 months
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画家である作家は誰だろうと思いを巡らせてみても、そこにはローベルト・ヴァルザーしかいない。
ヴァルザーから多大な影響を受けたカフカやゼーバルトにしても (私にとってはむしろ)、彼等は夢のヴィジオネール (住人) であって、画家とは言い難い。
ヴァルザーに一番近い作家は誰だろう? 思い浮かぶ中で一番近いのは (詩人ではあるが)、たぶんウイリアム・ブレイクなのであろうが、ブレイクもまた、自身の主要な職業であるイラストレーターを抜きにしても、画家というよりはむしろ (“夢の住人”であるかは兎も角として)、幻視者 (ヴィジオネール) なのである。ヴァルザーを読むと、必ずしもヴァルザーが意図したのではない、様々な画家たちの構造が浮かび上がってくる。そしてそれらはその都度、幸福な微笑みを湛えている。ヴァルザーが意図したものでは勿論ない。
30092023
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cocodorillaverdequesi · 9 months
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Spleen
“Les roses étaient toutes rouges,
Et les lierres étaient tout noirs. ”
Paul Verlaine
木蔦がやさしく雨の戸を叩く 私は待ちくたびれて そっと耳を傾けるだけ 私は待ちくたびれて そっと耳を澄ませている 木の葉が色づくのは 散る間際だなんて 誰にも思わせないため 秋が黄金色に色づくのは 何のため? 私はそっと 耳を傾けている 木蔦がやさしく雨の屋根を彩る 恋人の些細な身じろきにも 心ふるえるおまえ おまえは頬に手を当てて 緩慢そうに振る舞う ありとあるおまえの振る舞いに 心乱れる 木蔦がやさしく色づくのは 何のため? おまえの心変わりに気づかないのは おまえなのか私なのか 木蔦がやさしく雨の戸を叩く 私は耳を澄ませて ただ聴いているだけ ありとあるおまえの身じろきに 心乱れる 17032023 Serge Gainsbourg n’est pas Charle Baudelaire ni Arthur Rimbaud pour moi, il est Paul Verlaine qui n’était pas un des poets plus musicals mais l’unique poet plus musical, incomparablement dans l’histoire de la literature française.
Et puis, il est aussi comme Salvador Dali - les masques plurals, personas que porte quelqu’un si délicate pour protéger soi même du monde.
L’exhibitionnisme, le narcissisme et la timidité. 04-06092023
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cocodorillaverdequesi · 10 months
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ゲンズブールの (歌の) 本質を最も理解しているのは、フランソワーズ・アルディーだと思う (次いでジュリエット・グレコ) 。挑発的でも扇情的でもない、リュシアンの (魂の) 神髄。大抵の人は酔っ払った彼か、演じている彼しか見ていない。そのどちらもが彼であるのに。だからこそブリジット・バルドーは言ったのだ、「最低で最高」 と。
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cocodorillaverdequesi · 10 months
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去年の夏に辻邦生の著作を集中的に読んだ。といっても、全集を図書館で借りてきて、『夏の砦』 と 『廻廊にて』 を、ただ立て続けに読んだに過ぎないのだが。それでもその夏の記憶は、いつに変わらず不毛なものであるのに、その読書体験と相俟って、それが夏であろうと冬であろうと、決して読み易いとは言えない、辻邦生の濃厚なエクリチュールの背後にある、なにか仏教の無常感とユダヤ=キリストの永遠とが混在しないままに、否応なく立ち尽くしている、そのような状況に、これまでの私自身を見い出すのである。
『夏の砦』 第一部を読んで、真っ先に思い浮かんだのは、三島由紀夫の『仮面の告白』 であった。その後、編集者が同一の坂本一亀であると知り、なる程と思い至った。
三島に導かれるようにして、学習院に辿り着いたものの、そこでの存在理由を見い出せなかった。在学中に、辻邦生なりその他大勢の先達に、もう少し興味を示せていたら、そのような事態は起こらなかったのか。
いや、辻邦生を読むのは、去年の夏が絶好のタイミングであったに過ぎぬ。その後導かれるようにして、宮脇愛子を巡って、地元S-HOUSE ミュージアム (偶然にも宮脇愛子の命日であった) 、奈義町美術館へと辿り着いたではないか。
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My second experience with Pedro Costa since ‘No Cuarto da Vanda’ (2000).
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私は彼に言った。「ロベール、なぜ私にやることを残しておいてくれないんだ? 任せてくれれば、巨大な部屋だという感じを伝えることができるのに。これで、どうしろっていうんだ」 。「ああ」 と彼は言った。「だけど私は単純で簡素にしたい。目を楽しませるものは欲しくない」 。
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三島がトラークルを受容していたかどうかは知らない 。(ヘルダーリン経由で? 大いにあり得る。) だが私にとってのこれは、『花ざかりの森』 の公威少年である。そしてデヴィッド・ボウイはといえば、妹のいないトラークル 、或は三島少年(青年)である。
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「僕は剥いても剥いても芯の無い、辣韮のようなものだ。」
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トラークルの自画像。
以下はリューディガー・ゲルナーによるトラークル評であるが、トラークルを三島と言い換えても差し支えないだろう。
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“Regardez, la fin du monde.”
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映画は回帰することから始まります。私たちは見出された時から出発する。そして失われた時で終わるのです。文学は失われた時から始まり、見出された時で終わる。それは同じものなのですが、二つの電車に乗っているようなもので、たえずすれ違っている。ぼくが大好きになって、より親しみやすいと思ったのは、あなたやパニョルのように出発する電車に乗りながらも、時々、回帰する電車に乗るのを楽しむ人々、自分の本のためにそのことを必要とした人々です。…… あなたは、ガレルやユスターシュや他の人々がいつものやり方でいくらやっても撮影できなかったものを作ってしまった。しかも、いつものやり方でね。いや、走りながら、飛び跳ねながら、とすら言えるやり方でね。
『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』 シリル・べジャン 編 福島 勲 訳
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ええ、だってぼくは言葉が好きなんですよ。それらはシェイクスピア劇に出てくるいたずら好きの小妖精みたいなものです……。とはいえあなたやべケットの作品では、それらは王様です。
『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』 シリル・べジャン 編 福島 勲 訳
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それからあなたは、 わたしの弱い視力を強く照らし、 わたしの中へ押し返されました。 そしてわたしは 愛と怖れによって はげしくふるえました。 そのためわたしは、 自分があなたから遠くにいて、 似ても似つかない境位にあることを、 見出しました。 その時わたしは、 高い所からあなたの声を聞きました。 「わたしは大いなるものの糧です。 成長しなさい。 そうすればわたしを 食べられるでしょう。 あなたがわたしを あなたの肉の食物のように、 変えるのではなく、 あなたがわたしに変わるのです」。
アウグスティヌス『告白録』宮谷宣史 訳
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〈生の形式〉、本来の意味で人間的な生とは、生きもののもろもろの種的な働きと機能を働かなくさせることによって、それらをいわば空転させ、このようにしてそれらを可能性へと開くもののことなのだ。この意味においては、観想と働かないでいることとはアントロポゲネシス[人間の発生]の形而上学的操作子であって、生きている人間をあらゆる生物学的および社会的な運命とあらゆるあらかじめ決められた任務から解放することによって、わたしたちが「政治」および「芸術」と呼ぶのに慣れている特別の働きの不在状態に利用できるようにするのである。政治と芸術とは任務でもなければたんに「働き」でもない。それらはむしろ、もろもろの言語的および身体的な活動、物質的および非物質的な活動、生物学的および社会的な活動が不活性化され、そのようなものとして観想されて、それらのなかに囚われたままになっていた、働かないでいることを解き放つ次元を名指ししている。そしてこのことのうちにこそ、哲学者[スピノザ]によると人間が希望することができるという最大の善、すなわち、「人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生まれる喜び」は存しているのである。
上村忠男『アガンベン《ホモ・サケル》の思想』内、 ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』より
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