Tumgik
cvhafepenguin · 9 months
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海石
海石は海に入るのが好きだ。
彼女の名前は海石と書いて「いくり」って読む。
海中の石って意味らしい。かわいいけど、なんだか暗くて冷たい響き。
そんな彼女の名前が僕は好きだ。
海石は度々海に入っては僕に海中で拾った石をくれる。夏は素潜り、夏が過ぎても磯や浅瀬で拾ってくる。
その石のいろやかたちはまちまちで、どうやらそれは海石のその時々の心情に対応しているらしかった。
僕と喧嘩した次の日は鋭利に角張っててスカスカの石。
海石の家で介護しているおばあちゃんにいじめられた日は海藻だらけでぬめぬめの石。
初めてキスした日は薄くて平らな灰色の石。
初めてセックスした日はフジツボだらけのいびつな石。
日にひとつ、海石は僕に石をくれる。
僕はそれを持ち帰って部屋にかざる。
海石が海に入り出してから7年、僕の部屋は海石だらけになっていた。
潮に侵食された独特な形の、貝や海藻がひっついたそれらに囲まれ、
部屋にいながらにして僕は海石の作り出した海の底に沈んでいるみたいだった。
そしてそんな想像にふけると時間が止まり、ふさぎがちな僕の心は休まるのだった。
僕は時折それらの海石を眺め、愛撫し、味わってみる。
するとその石を拾ったときの海石の心を、海石のゆらぎを感じる。それからやがて朝靄のように、海石の体温が、匂いが、あらわれる。
背筋がぞくっとして鳥肌が立つ。射精のそれとは質が違うけれどたしかにそれは甘いエクスタシーだ。それは脊柱をひた走る潮騒のメロディだ。
海石が産み僕が奏でるフレーズ、僕と海石は混ざり合いひとつとなる。
僕は両親の言うまま来年の冬に東京の大学を受験することにした。
両親のいない海石は、要介護者のおばあちゃんを残して島を出て東京に越すことはできない。
僕が合格すれば僕たちははなればなれだ。けれど「これからどうしようか」というふうな話をすることを僕と海石は無意識に避けている。
僕たちはいつもそうだ。2人ははかない影法師のように、所在なくゆれていた。
つばさは海に入るのを嫌う。
それはつばさが8歳のとき、飼い犬のチロがつばさの目の前で高波に攫われてしまったから。
それ以来、つばさは海を遠ざけてしまった。
つばさが1歳のときにチロはつばさの家へやってきた。友達も兄妹もいないつばさにとって、チロは唯一無二の友だちだった。
そしてつばさ同様に兄妹も友達もいない私は、いつもそんなつばさとチロの後ろをなんとなくついて回っていた。
私も私の両親もチロが大好きだった。けれど私は海に入る。私は海が好きだ。
初めて海で石を拾ったのは小学4年生のときの7月、両親が私とおばあちゃんを棄てて行った日。
朝、両親の書き置きを読んだおばあちゃんは、居間の安楽椅子で壊れたロボットのように両親と私への恨み言を繰り返していた。
私は頭の奥がじいんと痺れて何も考えられなかった。家を飛び出しひたすらに海岸沿いを歩いた。
両親のことやおばあちゃんのことを考えようとしても、それは読みかたがわからない漢字のように、私の心の表面のところでぱちんと弾かれてしまう。 
がむしゃらに歩いていると、いつの間にかつばさがついてきていた。
「ついてこないで」
そう言って突き放してもつばさはついてくる。
私はそのときチロが死んでしまってから私に依存して付き纏うようになったつばさのことが急に疎ましくなった。
自分にはお父さんとお母さんがいるくせに、犬1匹死んだくらいでいつまでもしょげてるつばさが憎かった。
私はつばさから逃げるために海へ走った。
自分のなかのどろどろがけがらわしくてたまらなくて、つきまとうものを振り切るように浜から海へ飛び込んだ。
海は私を抱き、眼と耳を塞いだ。
瞼の裏で光を、肌で波を感じた。
ゆらゆら静かに手脚を遊ばせる。
ながれていたじかんが、とまる。
海から顔を出すとつばさが所在なさげにこっちを見ている。
「つばさも海に入れば」
呼びかけてもつばさは困惑した表情でただ立ち尽くしている。
私は足下の掌大の石を拾い、つばさ目がけて投げつけてやった。石はぼとんと鈍い音を立てつばさの足下に落ちた。
つばさは両手でそれを拾い、取り憑かれたようにまじまじと見つめていた。
その様子を見ているとふいに「「海石」という名前には海底から出ずる石という意味があるんだよ」と囁くお母さんの声を思い出した。
そして両親が出て行ってから初めて私は泣いた。
産声のような大きな声で、いっぱい泣いた。
つばさは石を持っている両腕を真っ直ぐにのばし、泣いている私にそれを重ねてじっと眺めていた。
いつものように僕と海石はほとんど話さずに、ただ海を見ている。
今日も海石は海に潜り石をくれた。それは灰と白のマーブル模様の、円くてすべすべの石だった。
僕はそれを受け取り海石の濡れた頬にキスをする。
「つばさは私がいなくなっても寂しくないよ」
横に座る海石が海を眺めながらぼそりと呟く。
それは僕に向けた言葉なのだろうが、海石自身に言い聞かせる調子を帯びているようにも感ぜられた。
しばらく間を置きまた海石は呟く。
「私、私がなぜ生きているのかずっとわからないんだ」
「だって私の世界には、私だけがいない」
僕はただ黙って海を見つめながら、海石の声を聞いていた。
夕陽が水平線に没しようとしている。
世界の終わりのような黄昏が僕たちを染めていた。
海石を見ると、その頬に涙の筋が光っている。
僕はきれいなそれを吸おうと、海石の頬に唇を寄せる。
海石は驚いて身体を逸らす。
とっさに僕は海石を逃がさまいと海石の両の手首を掴む。
僕のしるしを海石に残したい。
掴んだ両手にぐっと力を入れると、海石から「んっ」って声が漏れる。
それから僕は海石の耳を噛み、それから顔に、身体に、たくさん口付けをする。
そうしていると強張っている海石の身体がだんだんとほぐれていく。
海石はほんとうにかわいい。
僕はそんな海石を傷つけてやりたい。
海石の手首についた僕の指の跡を愛撫しながら、暗雲のように広がっていくそんな欲望に酔った。
いつの間にか黄昏は去り、潮は満ち、波の音はうるさくて、僕たちの頭上には明るい星空が広がっていた。
「ねえ海石」
「ん」
「僕が来年東京に越しても、僕に海石を拾って送ってくれないかな」
「受かってから言え」
僕と海石は膝を抱え、星空の下の明るい海をぼんやり眺めていた。
「私つばさがいらないって言ってもずっと渡すつもりだよ」
「いつかうっとうしくなって捨ててしまうかもしれないけど」
「海石は私が生きた証なんだ。いま、急にわかった」
「たとえ私が死んでしまっても、私が拾った海石はずっと地上にあるでしょう」
「そうだね」
「海石。僕、海石のことがすきだ」
「なにそれ初めて聞いた」
海石はそう言って照れ隠しのように僕抱きしめ口付けをした。
寄せては返す波の音と、いびつな僕たちの舌の絡む音だけが、夏の夜の匂いのなか響いていた。
私はたびたび海石を添えてつばさに手紙を送る。
その内容は簡潔だ。
「今日は海鳴りが聞こえました」
「しけで戸沢さんの漁船が転覆して大騒ぎでした」
「大きなマテ貝にたくさんのかにがむらがってました」
「昨日おばあちゃんが死にました」
「ダイビングライセンスを取ろうと思います」
「最近つばさの夢をよく見るよ」
 
つばさが東京に行ってから2年間、たびたび私はこんな日記のような手紙を拾った海石を添えて送った。
つばさからの返事はあったりなかったり。
つばさを思って手紙を綴るとき、私は海を感じる。そのことは私の生活をそっと撫でる安寧だった。
私とつばさは深い海の中で繋がっている。そしてだれも知らないところで互いの息遣いを感じている。
それが始まったのは梅雨のことだった。
朝、どうしても起きるのが嫌でベッドから出られなくてその日の講義をさぼった。
その次の日も何もやる気がなくてご飯を食べることすらしなかった。
そして僕は学校やバイトに行くのをやめた。
頭に冷たい砂がたくさん詰まっているような感覚があって何もできない。
僕から色と音が遠のいていく。世界はモノクロになってしまった。
母に促され精神科に行った。医者にありのままを話したところ、自立支援を受けることを勧められた。大学は休校することにした。
頭のなかの砂は東京に出たきた頃から徐々に詰まっていったように思う。
何が原因かはわからないし、興味はなかった。ただ砂はぼくの体温を奪い、それから筋肉を硬直させ表情も奪い、次第に五感を麻痺させていった。
全てがどうでもよかった。
なにもかも古い絵本のように色褪せていた。
僕の当事者性は影の裏の月のように隠れてしまった。
海石へ手紙を返すのも億劫で、ほったらかしにしていた。
けれど海石は僕に海石を添えた手紙を送り続けた。
そのことを考えるとなぜだか僕は悲しくなって泣いてしまう。
そんな時は海石をひとつ胸に抱いて寝た。冷たくて、ずしんと重くて、たましいを感じる。
まどろみのなかゆめとうつつがないまぜになり曖昧になっていく。
ずっと外へ出ずに最低限の用事だけしてあとは薬を飲んで泥のように眠っていた。
昼も夜もなく意識は暗いもやのなかを彷徨っていた。
ひねもす海石に囲まれた孤独な海の底で本を読むようにその海石ごとの海石のことを回想した。
それは自分自身の記憶よりリアルで、現実世界よりも色彩が豊かだ。
やがて僕は海石の海に溶けて散り散りになっていく。
インターホンが鳴っている。
実家から食糧と水の仕送りだろうか、玄関まで移動するのも億劫だけど重い身体を引きずって何とかドアを開ける。
そこに立っていたのは配達員ではなく海石だった。
「手紙もメッセージもぜんぜん返ってこないからつばさのお母さんにどうしたのって聞いたよ」
「今日ずっと寝てたの?」
「部屋真っ暗だね」
「上がっていい?」
海石は部屋に入るなりリュックから水筒とコンビニのおにぎりをテーブルに出し座って食べ始めた。
「今日何も食べてなくておなかすいてたんだー」
「海石、髪伸びたね」
「つばさもね、短いのと長いのどっちが好き?」
海石は自分のもみあげをひょいと摘んでにこやかだ。
「いまのほうがいい」
「じゃ、このままにしとく。仕事のときうっとうしいけど」
「最近仕事のほうはどう」
「楽しいよ、私海に入るの好きだし。スキューバ体験の人を海に案内するのってなんだか友達を私の地元に案内するような気分。私は沢山のことを海の中で考えたから、故郷みたいなもんだね」
「うん、そうだね」
「つばさの部屋に入るなんていつぶりかな」
「薄暗いし私の石の囲まれて海底みたいだね」
「たしかに」
「今日泊まっていい?」
「うん」
海石と少し近所を歩き、鄙びた商店街のスーパーで買い物をして、2人でカレーを作って食べた。
海石はじゃがいもやにんじんの皮を剥かずに入れた。
そのことを知って海石の海がまた少し深くなる。
部屋のまんなかにマットレスを敷き、そこに海石を寝かせた。
僕はその隣に毛布を敷き仰向けになる。
薄暗い部屋で2人呆然と天井を眺めていた。
暗闇に徐々に眼が慣れてくる。
遠くでかすかに電車の走行音が聞こえる。
部屋に配置された海石がぼんやりと光っている。
隣で海石は起きてるのだか眠っているのだか、よくわからない感じ。
僕の心にだんだんと淡い感情が降り積もっていく。
僕は海石をひとつ指差して「あれは初めてキスをした日の海石」と呟いた。
それからぼくはぽつりぽつりとそれを続けて行く。
 
「あれは2人乗りで「みけや」にラーメンを食べに行った日の海石」
「あれは喧嘩のあと仲直りした日の海石」
「あれはダイビングライセンスを取った日の海石」
「あれはおばあちゃんが亡くなった日の海石」
「あれは海石が僕に最初にくれた海石」
僕は人差し指で星座を結んでいく、その星座にはかすかでほわんとした物語がある。
「よくそんなの覚えてるね」
「私ぜんぜん覚えてないや、つばさ、きもちわるい」
「全部覚えてるよ」
僕は心の中でそうとなえた。
海石から生まれたささやかな海の水底に僕たちは沈んでいる。
やがて海石は微かな潮騒のような寝息を立て始めた。
僕は水底で色々なことを思い出す。
海石とチロと浜を歩いたこと。
チロが目の前で波に攫われたこと。
海石の両親やおばあちゃんのこと。
あの日黄昏に染まる海石の泣く顔がとてもきれいだったこと。
それらはみな、彼方へ去り永遠となったものたちだった。
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cvhafepenguin · 2 years
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ツキヨタケ
いるの部屋はいつも夜だった。
分厚いカーテンは一日中締め切られ、無造作に配置されたいくつかのすらっと長いキノコみたいなランプだけが、部屋の壁をぼんやりと照らしていた。
いると一緒に外に出たことはなくて、僕たちはいつも彼女の部屋の闇の中ですごした。
いるの部屋を後にして、いるを抱いていた僕の胸からいるの甘い匂いが香るのが、みえない花束を抱えているみたいでうっとりする。暗闇のなかで鋭敏になった僕の嗅覚に、いるの匂いはそのシルエットを象る鮮烈な夜の稲妻だった。僕はいつもいるの家から帰る普通電車に揺られながら、微熱と芳香に抱かれ、それから記憶と夢の境はどんどんなくなっていって、意味なんか、それこそ名前のない、透明な花言葉みたいに溶けていってしまえばよかったなんて
まとまらない気持ちをいつもいるに伝えたいけどなんだかいるといるとわすれてしまうからうまくいかなくっているのところにいるとただ眠たくて切なくてふわふわおかしなきもちで明日なんかこなくたってきっといまなら2人とも幸せだなってそしているもそう思ってくれていたらいいなっていままでこんな気持ちになったことがないそれほどの
「何か食べたいものある?」
「ん〜ケンタにする?いるは何が食べたい」
「ケンタでいいや、でもお腹すいてないからビスケットだけで」
「わかった」
「2人でさ、バンドやらない?」
「いいけど、俺楽器できないよ」
「練習しよ、私ベースならちょっとできるからつかさはギターね」
「私アコギ持ってるからそれ使って」
その日から僕たちはバンドの練習を始めた。
僕はいるが添えた冷たくて細いゆびに導かれて、暗い部屋でコードをひとつずつ覚えていった。暗闇のなかで滑らかに踊るいるの白くて細いゆびはろうそくの炎のみたいに儚かった。ぼくはそれを愛撫して口に含んでみる。深海魚か幽霊か、いるの血の気のないひんやりとしたゆびはその類の透明なものを僕に連想させた。そう、この部屋は水底。だれも触らないぼくたちだけの国。
練習を始めて2日で僕は簡単なコードなら続けて弾けるようになった。
「じゃあセッションで曲作ろっか」
「つかさは覚えたコード適当に弾いててよ。私がそれにベースと歌を乗っけていくから」
「わかった」
僕はGやDやCやAm7を心の赴くままに鳴らした。
和音を綺麗に鳴らせるようになって、ギターを弾くのは楽しいということに気がついた。たどたどしい僕の進行に、いるがフレーズを添えていく。弾いてるうちに、呼吸が合ってきて僕といるはだんだんと近づいてきた、と思いきやまた離れたり、そういうことを繰り返しているうちについに、いるが僕にぴたっとくっついた。僕はうれしくなって少しはずしてみたりもする、するといるは音をはためかせて僕に追いついてくる、僕たちはまるで水中の魚みたいだ。鳴らす音は僕たちの世界を泳いで捉えるための見えないひれだった。すがるように、僕たちはグルーヴを展開する。僕たちに言葉や光なんてもういらなかった。僕は恍惚を覚えた。音楽ってこんなに素晴らしいものだったなんて。
やがて時が満ちて、いるが小さなかすれた声でコードに合わせて口ずさむ。
僕たちのグルーヴはどんどん高まり、ついにピークに達した。世界は静かで、時間が止まったのを僕はたしかに感じた。気がつくと痛いほどに僕の性器は勃起していた。その充血の、どくんどくんという脈動が、真っ白な世界を上書きしていった。これにより万象は更新された。
「曲ができたね」
「いい感じ、曲名とか歌詞はどうする?」
「一緒に考えよ」
「いるはよく曲作るの?」
「たまに、ね」
「そうなんだ、バンドとかやってたの?」
「ううん、私人付き合いとかないから」
「そっか」
僕たちはさっきの演奏の録音を聴きながら歌詞を考えた。
歌詞も曲名も1時間くらいでまとまった。「ツキヨタケ」2人で考えたこの曲は愛しい宝物だった。
「「ツキヨタケ」って私たちそのものだね」
「そうだね」
社会という昼間からはぐれ、生きたくない者同士だから出会えた僕らを表す言葉。月明かりを浴びて夜に光るツキヨタケ。もし運命というものがあるのなら、いるとこの曲を作るために僕のこれまではあったんだと思う。そしてそんな思いを、僕たちがこの曲に込めたかわいい毒はさらに、どんどんと僕たちに滲ませていった。もうどこにも帰れない。
それから僕たちは会うたびに「ツキヨタケ」を演奏した。
酒と薬と音楽で、僕たちは暗闇のなかでもはや輪郭すら失っていった。時間も言葉も忘れ2人で叫び続けた。やがて2人は、この部屋とともに溶けて、外界の光も熱も攫って、ふたりの鼓動だけの世界へと漕ぎ出していった。もうどっちが僕でどっちがいるなのか、僕たちにはわからなかった。そこでは七色の音と光が弾けて混ざり合い、さかいなんかなくって僕たちはほんとうにふたりでひとつだった。僕のなかにいるがいて、いるのなかに僕がいた。
それに気がついて、涙が頬を伝った。
僕たちは言わなきゃいけないことを思い出して、口を開いた。でも舌がなくて言葉が出ない、腕を伸ばそうとしても腕がない、歩こうとしても脚がない、想おうとしても、心がもつれる、むこうから何かが押し寄せてくる。光の洪水だ…飲み込ま、つぶ…れる………!!!!
ものすごい爆音が、背後から聞こえた。
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cvhafepenguin · 2 years
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脂と糖
まるで絵に沿って心が動くように、いかにも画用紙に滲む色彩のように、物語は、はじまった。
寂れたショッピングモールを行き交う顔のない人々、どこから来てどこへ行くのだろう。
宙ぶらりんのたましい、液晶越しに見たままの御霊、モールの最寄り駅から海まで3駅だ。そう、人は陸で営み、犯しながらも心は海の元へ未だに囚われている。
たまたま海に侵されていないだけだ身体は、何を求める?
モールの中心部にぽっかり開いた空洞、それはがらんどう。
こういう建築様式はなんてったっけ?
僕はここで誰かを待っている。それは男でも女でもないかもしれない、そもそも人ですらないかもしれない。
コートのポケットに入れていたはずのスマホが無いことに気づいた。誰かが拾って警察に届けてくれているだろうか。
なんとなく切なくなってきたのでもう海だけ見て帰ろうと思う。
駅から海までふらふらと歩き埠頭に立つと、そこに見覚えのあるひとがいた。
「おそい」
その女は少し怒っているように見えた。
「ここに来ると思ったよ」
「僕のことを知ってるのか?」
この返しはなんだか映画みたいな台詞だな、と我ながら思った。
「飛行機を見に行こうよ」
「え?」
「モールの屋上から飛ぶところがよく見えるよ」
女は当惑している俺の手を引きぱたぱたと早足で歩き出した。
「知ってる?夜空の星ってみんな脂と糖でできているんだよ」
女はそう言って破顔した。
「びんか」
そのとき女の名前が俺に降りてきた。それはまるで天啓をさずかったような心地だった。
「変わった名前でしょ?」
女の笑い方はさっきとは違って少し恥ずかしそうだった。
その仕草は俺に浮遊感を与えた。ねがわくばそれに陶酔していたい、いつまでも。
モールの屋上は静かだった。もうすっかり夕暮れで、海に浮かぶ空港に飛行機が発着するのを二人で缶ビールを飲みながらぼんやりと眺めていた。びんか の肩越しに宵の明星が寂しそうにちかと光っている。
「夜がくるよ」
そう びんか が低い声で言った。すると、まるでびんかが呼んだように、どんどんと夜は僕たちの背後から海にかけ世界を覆っていった。
海の空港の誘導灯は、闇に灯した火だ。
夜空は人の力の及ばないグノーシスの深淵で、海に浮かぶ頼りない灯のみが人々のよすがとなる。そして陸の安寧を得た人間は営み、犯す。
やがてその輪廻から逃れようとまた海や空へときおり放たれる。
その反芻は、およそ無限の宇宙と相対した人の全てを現しているといってもよかった。
僕は溶けてないまぜになってしまいたい。夜の海と空のように びんか と僕のちがいもなくなってしまうほど、まざりあいたい。そしてまた僕に逢いたい、そのとき僕はどんな顔をしてくれるだろうか?
そんなことはお互いに、きっといい刺激になるに違いないから。ねえ、わかるだろう?
馬だ、白馬がいつのまにか僕と びんか の間に立っていた。立派な白馬は びんか に撫でられて気持ちよさそうに震えながら小さなぶるるという音を発している。
「見える?」
びんか は上を指差している
「脂と糖 だ」
僕は感動して言った。
夜空にはたくさんの脂と糖が白い光を発して瞬いていた。パラレルの点描がぼくたちを祝福している。
「エコーズ」
「うん?」
「この子の名前。さあいっておいで」
びんか は白馬のおしりをぽんと叩いた。
するとエコーズはさっと跳び上がって僕たちの僕たちのちっぽけなうっかり踏み砕いてしまいそうなほんとうにそうなってもおかしくなかった頭を飛び越して夜空を駆け回り出した。
「エコーズ」
僕は思わず震えてエコーズの名前を呟いた。そしてその感嘆は僕の中でクレッシェンドを記した楽譜のようにどんどん増幅して強くなっていった!
「どこまでも駆けて行けよエコーズ!」
叫んだ反動と感動でぼくの眼に涙が滲む。
びんか がそれを察して手を握ってくれた。 びんか は僕の涙には言及しない「わかってるよ」のそぶり。僕は少しの勇気を込めてその機微を飲み込んで、うなずく。
エコーズが駆け回る。夜空が攪拌される。星々それに伴い廻る、廻る、廻る夜空はだんだんとめちゃくちゃな虹色に輝き出す。その事象はやや粗暴な印象だったがかまわない。
こんなにも素晴らしい景色なのだから。
やがて走り回るエコーズもぐるぐると色に溶けていく。脂と糖でできた星々が攪拌され遠心力を受け、あの絵、昔見た「星月夜(!)」のようにその輪郭を崩し、滲む。
全てが許される。
「いや、抗わないと だよ」
僕の心を読んだ びんか が呟いた。
「人々は脂と糖を以って挑まないといけない 下されたその劫罰ゆえに」
「何に挑む?」
僕はいらいらしながら問うた。
身体に熱の火照りを感じる。
肉欲の疼きが僕をちくちくした。
びんか は何も応えずに口笛を吹いた。
するとエコーズが虹色になったまま戻ってきた。 びんか はそれにひょいと飛び乗る。
そして風よりも速く夜の渦のさなかへ飛び込んでやがて"浸透"していった。
脂と糖が燃えている。
夜を支配するなぐさめとして。
脂と糖が燃えている。
僕の中でただGPS受信機のように。
もうそこには僕も びんか もエコーズもモールもなかった。たちまち全ては虹色の星月夜に飲み込まれてそのあとは限り無く消えてしまうほどに(それは無限大と同じだ)収縮し、やがてひとつのありふれた直感にいたった。
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cvhafepenguin · 3 years
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たそがれ
「イザナさん、海に行きませんか」
ふくろうに誘われた。藪から棒だった。ちかごろ物事はすべからく唐突だ、それは私がぼうっと生きているせいなのかもしれない。いやもしかしたら、このごろ世界のほうが少し速すぎるのかもしれない。
そしてそんなことはおかまいなしに、ふくろうの翳りはいつでもそこに宵闇を湛えている。
私はその翳りの2間後をいつも顔を伏せ気味に歩いている。
何もせず待っているだけでも夜は当然やってきてくれる。そのことはとても美しくて、私はほのかに満たされる。ふくろうは私にとってそのようなことの象徴であり、暗示でもあった。
夜に香る花のようにふくろうは私にたずねる。
「イザナさん、暑くないですか」
「少し」
少し眼が悪い私が日傘越しに見るふくろうの輪郭はぼやけている。まるでふくろうが纏う見えないヴェールが太陽の光線を歪ませているようだ。白、白、鮮烈な白。光線にあてられて私は少しくらっとする。
「イザナさん、あそこの影のほうを歩きませんか」
ふくろうと私は交差点を渡り裏路地の影を縫うように歩く。
とても暑い日だった。
蝉の声が頭の割れそうなほどうるさい。
私の汗のかき慣れない細く白い肘や膝の裏にじわりと滲む汗を不快に感じだした時頭上ではしろい飛行機が犇めく煩わしい雑居ビルのくろい輪郭と電線でグロテスクに裁断されそれはもう眺めているとなま欠伸が出るほどいびつで卑屈な空を轟音で震わせ切り裂き私の視界を一直線にアルファからオメガへとそれは結実の条件を満たし長く伸びる真白の雲をくっきりと刻んで消え(点は結ばれた)(こわれそうだ)不意に微かなきずがあわのように疼き胸を打つとそれはもう果てしない止まらなくてじわと拡がり傷の赤あの子なんだっけあの子の腕のアムカの滴ってきらめいていた傷の赤見せてくれたやつが空のあの飛行機雲のように空のあの鮮烈な眩しい青に刻まれるイメージが痛くて痛くて痛くてもう痛くてあの子どうなったっけ男に殴られて捨てられてその男の子を堕ろしてそれからどうなったっけ映画でもスプラッタより爪を剥ぐような生々しい拷問シーンの痛みの方がよりリアルでそしてそれはそれゆえに耳を塞ぎ目を背ける姿勢に私をさせて迫る私を責めるその透明な苦痛はそこらへんに落とされたありふれた蓋を開くと皮一枚隔てたところもうたくさん蠢いていてそれに触れるとたちまちまどろんでたそがれに似たまるで冷たい泥を触ったときみたい快とも不快ともつかない模糊としていてしているのは私でされているのも私でまあいいやこのままどこかに行きたいどこか遠くへ吸わなくなった煙草の味が懐かしい郷愁に似た
「イザナさん、あそこでお昼にしませんか」
ふくろうが指を差した横断歩道の向こうに小さな吉野家があった。色褪せたロゴが古いやつで年季の入った店舗らしかった。
私とふくろうはカウンターに並んで座る。
私はビールとキムチを、ふくろうは牛丼並2杯と玉子を4個注文した。
ふくろうは綺麗に真っ二つに割って落とした2個の玉子に醤油をぴぴと垂らして丹念に溶き、それを牛丼にどばとかけさらさらとかっこんだ。
ふくろうは牛丼を音もなく、あっというまに1杯吸い込みもう1杯も同じように食べ出した。
ジョッキに口をつけながらそのさまを見ていると、私も生卵で牛丼を食べたくなり同じのを注文してふくろうと同じように食べた。
ふくろうは牛丼を食べる姿も綺麗でさまになる。それに比べて私はどうしても牛丼をかっこむだらしない女の姿になってしまう。うまくいかない、ふくろうのようには。
店を出てしばらく歩くと晴れているのに雨が音もなく降っていた。ふくろうが小走りになるので私も後ろからついていく。
「イザナさん、私、イザナさんのジョッキを両手で持つしぐさかわいくて好きです」
走りながらふくろうがこちらを見ずにそう言った。
平易な口調で。
私たちはバスで海に来た。雨はバスに乗る前には止んでいた。
私は少し丘の上の浜を見渡せるベンチに腰掛け、ふくろうが浜を歩き海に浸るのを見ていた。静かな海。ふくろうも静かで、調和の中揺れているのは私のこころだけ。
こころってなんだろう、生きているってどういうことだろう、連続する今の総体が生きているということだなんて今の私にはぴんとこなかった。それはなんだか暴力的だしつまらないと思えた。パラレルも永遠もない、今こうしている私だけが、「今」だけが世界であり私なんだ、それはもうかなしいほどに。
寄せては返す漣にそんな想いを重ねていると次第にうとうととしてきた。
「イザナさん、これみてください」
風が気持ちよくて少し眠ってしまっていたみたいだ。ふくろうの手のひらには小さなカニが乗っていた。カニは、ふくろうから逃れようとするもののかえってふくろうの袖の方へ歩いてしまう、けなげであわれな生き物だ。
「かわいいね、海に返してあげよう」
ふくろうはうなずき、私たちは並んで浜を歩いた。いつのまにか日は暮れていて、まるいオレンジは海へ落ちようとしていた。
私はふくろうの左手をきゅっと握った。
ふくろうは依然として平易だった。
夜になろうとしている。ふくろう以外の全ても、夜になろうとしているんだ。
ふくろうはしゃがんで、カニを海に返した。私もふくろうの手を握ったまましゃがんでカニを見ていた。カニは漣に前後に揉まれゆらゆら揺れながらも、段々と沖のほうへ運ばれていき、じきに見えなくなっていった。
そうやってカニは私の目の前に広がる海になった。それを受けた私はにわかに「今」の汎瀾を感じ、胸がぞくっと疼いた。
そしてふくろうは私よりずっと向こうのほう、海も太陽も「今」をも超えて、誰も知らないところを見つめていた。ただ、見つめていたんだ。
そして手を握っている私にはそれが微かに伝わるのだった。
「イザナさん、たそがれってせつないですね」
一条の光を残して太陽の沈んだ海はもうがらんどうだった。
「ん」
私は頷いてふくろうの手を引き海を背にし歩き始めた。
空を見ると夜は山を越え既に背後から広がり始めていたのだった。
たそがれはもう、終わってしまう。
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cvhafepenguin · 3 years
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顔のない
私には顔がない。顔がない人は人を愛することができない。顔というのはいわばアイデンティティで、それを欠いていては人に対する自分の感情に絶対の確信を持てない。揺蕩っている。故に私には愛するべき人がわからなかった。
顔がない私をまともに雇ってくれる企業などそうなく、私はただ5体満足であれば使ってくれるような日雇いを斡旋所に紹介してもらい転々と現場を渡り歩いて暮らしていた。肉体労働ばかりできついこともあったが、私が大きなマスクをすっぽり被りっぱなしで働いてもこういう職場の上司や同僚は一切干渉してこなかった。そんなある日、イベント会場のセッティングの現場で斗瀬さんと私は知り合った。
斗瀬さんは顔がない私を面白がった。
「面白いな!顔のない人間なんて、あんたの親もそんななのか?」
「いえ、私の両親も妹も普通の顔を持っています」
私は無愛想に答えた。
「突然変異ってやつか」
私は首をかしげた。かしげて、斗瀬さんにはかしげた様子がわからないことに気づいたけどどうでもよかった。
「食事はできんのか?」
「できます。普通に物を口に入れて噛んで、飲み込めます」
私はない顔の口元を指差した。私の顔は物理的に「ない」のではなくて、どうやら私含め人間には視認できない性質のもののようだ。その証拠に、他人からも触れる上、目も鼻も耳も口もあってしっかり機能しているし、呼吸も摂食も発声も発汗も泣くことも人並みにできる。しかし「ない」顔は、汗や涙よりも透明だ。
「そうか、じゃあ今日現場終わったら斡旋所で待っててくれ。俺がメシ奢ったる」
なにが「そうか」なのかわからなかった私は焦ってとっさに頷いた。しかし私の顔が見えない斗瀬さんは私が頷いたのに気づかなくて私の胸のあたりをじっと見たまま硬直していた。そしてそれに気づいた私は手でオッケーサインを出した。たまに現場で会うから断るのも気まずいし、とりあえず今回は付き合おう。斗瀬さんは「じゃ」と言って手を振りながら向こうへスキップしていった。
「愉快な人だな」と私は思った。
斗瀬さんは私より30分遅く仕事から上がり、18時過ぎに待ち合わせ場所の斡旋所にやってきた。いつの間にか外は雨だった。私は傘を忘れてきたので、斗瀬さんの傘に2人で入って歩く。アスファルトを打つ雨の匂いと、少しがに股で歩く斗瀬さんの着古したジャケットのつんとした匂いが混じってなんだか頭がふわふわする。世界の輪郭が少し、私好みに崩れた気がした。
雨は好きだ、雑踏を行き交う人々は傘で顔が隠れ匿名性が普段より増して、顔がない私でも少しだけ気後れせず街を歩くことができる。それから雨の日は人々の感情も静かで心地がいい。
「あ、あそこだよ。定食屋でもいいか?そういえば酒は飲める?」
「大丈夫です」
斗瀬さんに連れてこられたそこは駅前の商店街の「お多福」という老舗の定食屋だった。
私がなんでも食べれますよ、と伝えると、斗瀬さんはビールの大瓶と枝豆とたこわさともつ煮と鯛のかぶと煮をすらすらと注文した。
「とりあえず飲もか、ほれ」
斗瀬さんは私にコップを渡してお酌してくれた。私もお返しに斗瀬さんのコップにビールを注ぎ、乾杯して飲み干す。
「口が見えないからビールが消えたように見えて不思議だな、ああ、こういうのはデリカシーなかったな、すまん」
「いえ、大丈夫です」
私は斗瀬さんに顔がないことについて関心を持たれるのはなぜか嫌じゃなかった。他の人に突っ込まれるとああまたか、めんどくさいなあっていつもうんざりするのだけど。
「そういえば名前はなんて言うの?」
尋ねられて、名前を言ってなかったことに私も今更気がついた。
「佃 岬」
「佃って佃煮の?漢字で書くと苗字と名前のバランスが綺麗だな」
私たちは大瓶2本を空けて、シメに差し掛かっていた。私はにゅうめんで斗瀬さんはきざみうどん。斗瀬さんはあまり酒に強くないらしくて、もう赤ら顔で虚な眼をしている。
「そういえば、顔のない人は岬ちゃん以外にはいないの?」
「さあ…見たことないですね、ネットで調べても出てこないし、ただ、母によるといざってときは行政の支援も受けられるそうです。私は、あまり顔がないことに甘んじたくないのでわざとそういうのは調べないようして、一人でこういう生活をすることにしたんです。つまらない意地かもしれないけど」
「いや、つまらなくなんかない、やれるとこまでやってみようってことだよな。気に入った」
私は斗瀬さんがあまり深掘りしてこないところが好きだな、と思った。
「俺も実は産まれっていうか…家庭に反目して飛び出してきたクチでさ、そういうところ身につまされるな、まあ、一緒にすんなって思うかもしれないけど」
「そんな、とんでもない、そうだったんですね」
「少しだけ長いしつまらない身の上話になるけど俺はさ、6っつの時に母が家から出て行ってそんで12の時に父が再婚した継母に育てられてさ、そんでその継母には俺より小さい連れ子が2人いてとにかく彼女に可愛がられなかったんだよ。俺だけめし抜きとかざらだった。しかも親父は見て見ぬ振りさ、でもあのときは俺自身も仕方ないなって思ってた。それどころか、悪いのは自分だと思い込むところまできてしまってた」
独立する前の私に似ている。あの頃の私は私だけが周りと違うという理不尽をいつからか受け入れ、卑しく従ってしまっていた。そしてそれは自然なことで、どれだけ歪でも置かれた環境に適応するように生き物やその心はデザインされているのだ。でもだんだんと成長した私は、そんな摂理に抗いたくて、顔がないお前に居場所なんかない、一人で暮らせるわけないとひき止めてくる親に反発して家を飛び出してきたのだ。別にそんなことで自由が得られると信じていたわけでも、特に決定的な出来事があったわけじゃない、ただ、漠然とした不安だとかモヤモヤした気持ち、そんな灰色のものが私の中にごちゃごちゃに蓄積してついに爆発した、そんな感じ。
「親父の実家は酒造をやっていた。そしてもちろん長男の俺に継がせる気でいたんだ。親父の願い通りに高校生になった俺は学校の合間に酒蔵で働き出したよ。俺も親父は好きだったし、このまま地元で骨を埋める気でいた。でもそれは俺が18の時のときだった。継母がずっと浮気をしていたことが継母の妊娠で解ったんだ。そしてあろうことか相手は俺と殆ど歳の違わないうちの酒蔵の若い従業員だった。俺や俺の義弟ともいつも仲良くしてたやつさ。でもそれを知っても親父は何も言わなかった。先妻に捨てられたあげく、再婚した妻にも不貞を働かれたのを村の人たちに知られるとなるとたちまち嘲笑の的だ、そして恥さらしになって、この先商売を続ける上でそれは不利になると判断したからだ。おそらく継母はそこまで計算に入れていた。女っていうのは心底恐ろしいものだね。結局親父は継母も密通の相手も責めずに、家の中だけの問題に収め、なかったことにした。そしてそういったことを目の当たりにして俺の中で何かが壊れたんだ。このままここにいてはおかしくなってしまうっぞって。そのことを実感してはじめてさ、いままで頭の隅にやってた怒りっていうか、言いようのない衝動が湧いて黙って村をおん出てきた。全く情けない話さ。それから30年間ほど日雇とかアルバイトで食い繋いでこのザマってわけ」
はじめてだ、
「私たち、はぐれものどうしですね」
斗瀬さんと私は、
「はは、そうだな」
同じように…
「岬ちゃんは、俺より多分若いだろうし自分さえ大事にできればこの先いろいろ楽しいことがあるよ」
「私今年で24です」
初めて自然に他人に私の年齢を知ってほしいと思った。顔がない女の年齢なんて男にとってはほとんど意味がないのに、あぁ、身体はどうだろう、私の身体の成長は18歳くらいでぴたと止まってしまっている。しかしそれは一般的にそういう人もいるのか、それとも顔がない人間特有のものなのかはどちらのもサンプルがないのでわからなかった。
外に出ると雨は止んでいた。私は斗瀬さんにきゅっと腕組みをした。斗瀬さんの身体は見かけよりがっしりしていて、火照っていて暖かい。
そしてそのままどちらから誘うでもなく、ホテルに入った。好きな人の前では顔がなくてよかったなと思う、これは初めて見つけた感情だ。私に顔があったら、照れて初めてデートする男に腕なんて組めなかっただろうから。
それと顔がないから、私に覆い被さって動く斗瀬さんの感じている顔を照れずにはっきりと見られる。
斗瀬さんのこめかみ、脂でつやがかって白髪が混じっている。
皺の多い唇。
豊かなまつ毛。
悩ましい表情。
まばらに生えた胸毛。
胸のしみ。
斗瀬さんの全てが、透明な私のなかへそそがれていく。
斗瀬さんには私の顔はどう映っているの。
やがて斗瀬さんは果て、私を優しく抱きしめる。私は斗瀬さんの汗ばんだ首筋に、キスをする。
「意外だな、失礼だけど、岬ちゃんは初めてだと思ってた」
「男は顔がなくても気にしない人が意外にいるんだなって独立してから気付きました」
「まぁ、そんなもんかもな」
今まで付き合った数人の男たちは、顔がない私とセックスするのに特別な興奮を覚えているだけの変態ばかりだった。私はそれにどうしても気づいてしまうのでいつもすぐ冷めてしまい、身の上話なんて彼らにはほとんどしなかった。けれど斗瀬さんは違う。私は斗瀬さんのことを知りたいし、斗瀬さんにも私のことを知ってほしい。斗瀬さんにこれからの私を見てほしい。
私は今初めて、恋をしている。
それから私たちはたびたびデートするようになった、告白は斗瀬さんからだった。
「岬ちゃん、こんなんでよければ付き合ってくれませんか」
いつもの斡旋所の帰り道、私はオッケーサインで快諾した。
それから5ヶ月が経った。
その日、斗瀬さんはおでん屋でいつものように杯を重ねて赤ら顔になっていた。
そして、やにはにこんな話を切り出した。
「昨日の夜、むこうの俺の義弟から連絡があってさ、おやじが倒れたらしいんだ」
「えっ」
「末期の膵臓がんでね、もう長くないみたいなんだ…」
斗瀬さんの表情はいつものように口角を微かに上げた笑顔だったけれど、その変わらなさが反対に動揺を隠しているように見えた。
「それでこんなこと岬に頼むのも不躾だと思うんだけど、一緒におやじに会いに行ってくれないか」
「はあ…」
唐突なお願いに私はおずおずと返したが、正直なところ嬉しかった。私には顔がないけど斗瀬さんがいる。もう何も、怖くない。
「なんていうかさ…」
斗瀬さんはそう呟きながら首を傾げて右のこめかみをぽりぽりと掻く。私は斗瀬さんが決まりが悪い時にするおやじくさいこのしぐさが可愛くて好きだった。
「ほんっと勝手な話なんだけど正直に言うと、俺にとって岬は欠けていた一部みたいなもので、それを見つけた俺を、岬を死ぬ前に親父に見せたいっていうか…」
「なるほど」
それから私たちは無言になった、そして無言のまま2人で大瓶を一本空けた。それから私はもう一本注文した。
「いいですよ、その代わり条件がある」
「うん?」
聞きながら斗瀬さんは私に酌をする。
「私を婚約者としてお父さんに紹介して」
その言葉を言った瞬間、私の世界の全ての音が遠くなった。せっせと歩き回る店員も、向こうで宴会をしているサラリーマンたちも、みんなスローモーションになり、そして、ぼやけた私の世界に、今向かい合っている斗瀬さんだけが鮮烈に存在していた。斗瀬さんだけが、私を見ていた。
太腿がじんわりと冷たかった。石のように固まった斗瀬さんの持つ瓶から注がれぱなしになっているビールがコップから溢れて、テー���ルを伝い私の脚を濡らしている。斗瀬さんは瓶を置き、私の透明な頬を流星のように流れ落ちていく涙をぴんと伸ばした震える人差し指で不器用にそっと拭う。
「岬は泣くと、顔の形が少しわかるね」
斗瀬さんのお父さんは私たちが様子を見に行ってから53日で亡くなってしまった。
実は継母とは15年前から別居かつ絶縁状態で、たまに斗瀬さんの義弟が様子を見にくる以外はほとんどお父さんは一人で過ごしていたらしい。酒造は経営不振からとっくに廃業しており、商売を畳む時に抱えていた負債は、実家とは離れた酒蔵の土地を開業医に売却することによって賄っていた。そんなもろもろを、これまで一切実家に連絡を入れなかった斗瀬さんは30年ぶりにお父さんに会って初めて知ったのだった。
斗瀬さんとお父さんは毎日これまでの時間を取り戻すように睦まじく、たくさん話した。斗瀬さんはお父さんの実家の土地を継ぐこととなった。
そしてしばらくして、斗瀬さんの実家には籍を入れた私と斗瀬さんとで住むことになった。
私は村の郵便局の窓口でアルバイトをした。斗瀬さんは林業に従事した。
村の人たちは、印象とは違い都会の人より顔がない私に偏見を抱かず、むしろフラットに接してくれた。そしてなにより嬉しかったのは、みんな斗瀬さんが帰ってきたのを懐かしんでいるようだったことだ。その暖かさの理由には、家の事情をみんな知っていたので同情によるものもあったのかもしれない。
郵便局の横に住んでいる私の職場の先輩の日野さんの奥さんなんかは、頻繁に家に野菜をダンボールいっぱいに詰めて持ってきてくれた。私は日野さんの奥さんともすぐに打ち解け、仲良くやれた。
「岬ちゃんって寝る前ちゃんとフェイスケアしてる?顔がなくて関係がなくても、女でいるためにそういうのやっておいたほうがいいわよ?」
「女でいるために」
「そう、女でいるためにね」
私は日野さんの奥さんと軽口を叩くのが心地よかった。あっちにいた頃は、同性ともこんなに仲良くなったことはなかった。これは都会がどうとかではなく、斗瀬さんが私を見つけてくれて、2人で私たちの居場所を作ったから得られたものだ。私は村の人たちと関わるたびに、斗瀬さんと出会うことができてほんとによかったなあとしみじみ思う。
斗瀬さんの義弟たちとその家族とも私たちはうまくやれた。むしろ、ある種の蟠りがあったぶん、深い仲になれたふしもある。
斗瀬さんと私は、ゆっくりとした時間をこの村でたくさんの想いを与えたり与えられたりしながら生きた。
「親父は、最後嬉しそうだったよ」
不意に斗瀬さんは夕食の煮っ転がしをつつきながら呟いた。
縁側から秋の冷たくて寂しい風が吹き込んでくる。
身体が冷えるから、私は少しだけ開いていたガラス戸をゆっくりと閉めた。
「親父も俺と一緒で、自分の空っぽを埋めようって思いながら足掻いて生きていたのがな、俺と岬がこっちに来た時の親父��同じくらいの、この歳になってわかってなあ。そしてそれに気づかせてくれたのは岬、君なんだ。本当に感謝しているよ」
斗瀬さんの頭はもう真っ白で、頬もこけ、身体の殆どが亡くなる前のお父さんと瓜二つになっていた。
「そんな、私こそ斗瀬さんに見つけてもらえなかったら今ごろどうしてるか想像もできないよ。こちらこそ、ありがとう」
私は想いを噛み締めながら斗瀬さんに伝えた。透明な私の中にある、しっかりとした、色彩豊かな想いを。けれど、それはうまく言葉にできなかった。
私は斗瀬さんを背後からぎゅっと抱きしめた。斗瀬さんの身体は、あの日2人で傘の下で身体を寄せ合った時と違って、薄くて頼りなくてひんやりとしていた。しばらくそうしていると、じんわり目頭が熱くなってきた。
斗瀬さんは私の頭を撫でて、私の涙に応えるようにはかない声でうんうん、と微笑を浮かべて呟くと、寝室へとぼとぼと歩いて行った。この頃斗瀬さんは21時にはもう寝てしまう。斗瀬さんはごはんもお菜も殆ど残していた。私は食べ残しにラップをかけ、冷蔵庫に入れた。私の身体は斗瀬さんに会った時とまるで変わらない、顔がない私は老けないのだ。たぶん、脳も若いままなのだろう。冷蔵庫の前で立ち尽くしてそんなことを考えていると、たくさんの涙が、わたしからあふれてきた。
斗瀬さんが死んだのは3月の晴れた暖かい日だった。病室の窓の外では、山桜が風にふわふわと揺れていた。
葬儀には村のみんなが来てくれた。
これから大変だねえ、なんかあったら家にいつでも相談に来なよ、助けになるから。とみんな優しく私に声をかけてくれた。
とても心強かった。この村に来てよかったと私は心底思った。
私は今年で150歳になる。斗瀬さんも斗瀬さんの義弟もとっくに死んでしまい、今は斗瀬さんの義弟の兄のほうの曽孫のさらに孫夫婦とその娘さん(つまり斗瀬さんの…何になるんだろう……)や村のみんな(もうはじめ来た時とは何世代も変わってしまった)と相変わらず仲良くやっている。やはりどうやら私は顔のある人より寿命が長いらしい、もしかしたら不老不死なのかも知れない。
斗瀬さんがいなくなってから私自身について気付いたことがある。
それは、もしかしたら私のような(ほかにいるのかまだ見たことないけれど私は私と同じような人が何処かにいると信じている。特に根拠はないけれど)顔のない人は顔のある人の想いを保存する役目を負っているのかもしれないということ。私は、斗瀬さんの、斗瀬さんのお父さんの、継母さんの、義弟さんたちの、そしてこれから出会ういろいろな人の想いを、透明のなかにこぼさないように注いで行く。私は斗瀬さんや、斗瀬さんとこの村に来た時に知り合った人たちがくれた想いを今でも鮮明に思い出すことができる。そこにはたしかに戸惑いや、悲しみもあったけれど、どれも宝石のように美しく輝いている。そしてそんな人の想いが在る限り、顔のない私は歩き続けるだろう。
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cvhafepenguin · 3 years
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コーポ川
「それ」は透明な膜で覆われていた。大きさは人の頭くらい、俺は「それ」を水を張った浴槽から取り出して、軽く口づけをする。毎朝のルーティンだ。この冷たい胞衣に包まれた胎児のようなものが、果たして生命と呼べるものなのかどうか、俺には理解しかねるが、人間が一般的に、自分より矮小な生物に抱く愛着と言うものを俺はこれに対してうっすらと抱いていた。そして、そんな感情を獲得し行使することは、スポンジで皿を洗う程度には造作ないことだった。全くもってすべてはあっけらかんと、それでいて円滑に運行する。
俺はしばらく持っていた「それ」を浴槽に再び浸け、支度する。ソファに無造作に散乱した作業着(つなぎ)に四肢を通し、それからテーブルの上にストックしてあるゆでたまご、業務スーパーで買ってきたにんじんのピクルス、厚切りのハム、スライスしたトマト、8枚切りの食パン1枚をプレートに乗せ、それら全てにマヨネーズとマスタードを塗ってフォークで串刺しにしてがつがつ食べ、ペットボトルの水で流し込む。今日の現場は少し遠いらしいから、ドアを開けて廊下に出た時に、結奈に今日は会えないとメッセージをしておいた。外はまだ暗かった、風が冷たい。薄明るい路を歩きながら俺は人を殴る妄想をする。別になにかに苛立ってたり憎い人間がいるわけじゃない、車窓の向こうのガードレールに忍者を走らせるような、子供のときからの妄想。私見だけど、こういった手癖のような妄想には自分を調律する役目があるに違いない。すくなくとも、俺にとっては、これは意識をニュートラルにする所作。
「それ」は家の前の土手の河岸に漂着していたのを、タバコを吸いに行ったときにたまたま見つけた。ぶよぶよしていて、最初はクラゲか何かだと思ったけれど、仔細に観察すると、あきらかに別の異様なものだった。「それ」は生物としては何処か確信を欠いているし、無生物にしては生々しすぎた。まるでこの世に有らざる物。写真だけ撮って、ほうっておこうとも思ったけれど、俺は何故か衝動的に「それ」を部屋まで持ち帰っていた。もしかすると、何処かから来て事故で動けなくなった「それ」に俺は操られていたのかもしれない。しかし何故か悪い気はしない。俺はぶっきらぼうで友達もいないが、冒険は好きだ。
「それ」は毎日浴槽の中で徐々に大きく成長していっている。
現場は長丁場になり、結局終電まで残業になったので、車で来ていた後輩の山本に家まで送ってもらうことになった。山本も俺も無口で、俺が煙草を蒸す音だけが走行音と溶け合う。ふいに「生きることは呼吸なんだ」という言葉が頭に過ったから、俺はスマホのメモにそれを打ち込んだ。親に無断で大学を辞めて家をおんでてこんなところにいるのも存外悪くない。寧ろ孤独に思考するためには割と良い環境だ。俺は冒険が好きだ。
帰ると勝手に部屋に入った結奈がベッドに寝転んでスマホをいじっていた。
「あの丸いやつ、だんだん大きくなってるね」
俺は何も言わずに服を脱ぎ、シャワーを浴びて、ビールを流し込む。それから一発やってベランダに出てタバコを吸う。セックスの後ベランダで全裸でタバコを吸うのは気持ちがいい。結奈も横でパーカーだけ羽織って俺から盗んだタバコを蒸している。
「私あの子の名前考えたよ」
あの子と言うのは「それ」のことだ。
「コーポ川」
「私にとってはこのアパートの象徴だから、同じ名前のコーポ川って呼ぶことにする、マスコット的なね」
俺は何も言わずに部屋に戻った、ソファに座っていると、結奈がパーカーを羽織ったままの格好で俺に跨り、貪るようにキスをする。由香は自分の手で俺のを再び挿れる。
「コーポ川」
俺は結奈を突きながら頭の中で反芻していた。
目が醒めると昼過ぎだった。結奈はいなかった、もう帰ったようだ。
「コーポ川」は以前にも増して膨らんでるように見えた。そのうちこの浴槽いっぱいになって溢れてしまうかもしれない。いつものように軽くキスをする、「コーポ川」も俺のことをいつも快く受け入れてくれる。冷蔵庫を開け牛乳とトマトジュースとオレンジジュースをパックから直に飲む。セックスの次の日の朝食はこれと決めている。精を出して渇いた身体が、また潤っていく。
「循環ー呼吸ー生きること」
「コーポ川」を拾ってからの俺のテーマだ。フィロソフィーと言ってもいい。今日は夕方から現場入りだから、それまでパチンコで時間を潰すことにした。
作業が終わるともう明け方だった。顔しか知らない同僚に24(にーよん)のスーパー銭湯に行ってから、早朝営業している風俗に行かないかと誘われたが断った。俺は早く帰って寝たかった。「コーポ川」に触れたかった。帰りがけ、現場長にうちの息子と今度釣り堀に行かないかと声をかけられた。俺は曖昧に返事をした。
それから数日が経った。「コーポ川」はどんどん成長していき、たまにもぞもぞと寝返りを打つようになった。そんな「コーポ川」を結奈は少し気味悪がるようになる。俺のことも少し心配しているようだ。反面俺は「コーポ川」への関心がどんどん強くなっていく。その関心はときおり不意に疼くようになった。俺と「コーポ川」は、静電気のような感情で繋がっている。共生と呼べるような関係を築いたのかもしれない。
人を殴る妄想は、四六時中俺の頭の中で展開するようになっていた。しかもその状況と対象は具体性を帯びるようになり、山本を、結奈を、顔しか知らない同僚を、俺は殴り続けていた。しかしこれは以前からそうなんだが、妄想の中では殴っても相手には効かず、血は出ないし痛がる素振りさえない。いつも人の形をした寒天だか何か柔らかい無機質なものをただただ殴り続ける感覚。これは俺が他人に興味がないことの証左なのか、一考の余地あり。そして俺はこういった所感をいつものようにスマホのメモにまた打ち込んでおいた。
またしばらく経ち、いつものように夜勤を終え、朝帰って「コーポ川」の様子を見ると、それはついに浴槽から出ていた。これは初めてのことだった。そして「コーポ川」は急激に膨張していた。もはや体積は浴室からはみ出さんばかりに巨大化し、膜の中の毛細血管の色は濃くなり、どくどくと脈打っているのがわかった。悪夢的なそれはまるで毒々しくて巨大な性器のようだった。俺はこの「コーポ川」の姿を見て、これは俺の心の欠損した部位なのだと直感した。その瞬間、「コーポ川」は一瞬で天井まで伸び、ばっと俺に覆い被さってきた。ぬめぬめとした触腕が全身に絡みつき動けない。それから「コーポ川」は、その軟体を駆使して万力のような剛圧でゆっくりと俺を締めだした。まさにタコに捕まった魚だ、このまま俺はこいつに捕食されてしまう。もがいて抵抗するも、その度に食い込んだ触腕に気管を圧迫され続け、段々と意識が朦朧としてきた。
もうブラックアウト寸前に、いきなり空を裂くような叫び声がした。そしてはっとした俺の意識が戻った。声の正体、異変に気付いて駆けつけた結奈が、叫びながら俺に覆い被さった「コーポ川」を包丁で滅多刺しにしていた。
ぐさぐさと刺された「コーポ川」の力が少し抜け、肺に十分酸素の入った俺は、すかさず身を捩り脱出した。そして半狂乱の結奈から包丁を取り上げ、床でうねうね動いている「コーポ川」に今度は俺が覆い被さり深く包丁を刺した。俺は冷静に、毛細血管が集中してる箇所までぎちぎちと包丁を食い込ませていく。包丁が深く食い込むごとに俺の思考が、感覚が、冴えていくのがわかる。「コーポ川」の力は弱まり、もはやピクピクと小刻みに痙攣するばかりだ。俺はこいつの命を冷徹に直視していた。やがてつっかえたところで包丁の柄尻に空いている左の手の平を当てて、梃子の容量で抉ると「ぶちん」という手応えがあった。すると「コーポ川」の身体から力が消え、だらんと伸びて停止した。俺にはこいつが死んだのがわかった、拾ってきた生命をこの手で絶ったのだ。
俺には自分の中の何かが損なわれたのがわかった。そしてそれはたしかに喪失だけれど、夜空の恒星がひとつ消えたのを知ったときのような、当事者意識を欠く奇妙な感覚だった。結奈は、浴槽の入り口で茫然とつっ立ったまま俺を見ていた。「コーポ川」から赤黒い血が放射状に伸び、真っ直ぐ床を滑っていく。そして、そのうちの一本が結奈の(真っ白で、かぼそくて、綺麗な、口に含みたくなる)足の親指の先に触れるのを俺は見ていた。結奈はパンツ1枚の姿だった。俺はその時初めて(本質的に)結奈に惹かれ欲情し、(根っこから)勃起していた。
浴室は止めどなく溢れる「コーポ川」の血で満たされつつあった。
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cvhafepenguin · 4 years
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静かのうた
何も起こらない
熱は遠のいて行く
そのあとに指が続く
引き留めようと
過ぎ去ることばを
引き留めようと
         
        
         漣
夜が揺れている 微かに聞こえる車の湿った走行音 遠くの波紋のように
まるでそれは(忘却)
感じている
静かのうたを
闇のほとりの漣を
ゆるやかな諦念を
恋のほてりも
いつでもここにいるよ ここで呼んでいるよ
ごちゃ混ぜの感情のうずまきを見つめている
それは優しくて怖い それは深くて浅い
混沌そのもの
怖い夢を見ないように音もなく踊る 
踊って
踊って
踊って
ステップを崩さないで
その絶妙な緊張を決して暴かれないで
裁かれないで
それでいて静かで いて
コンビニへ行く道すがら アパートの窓の灯りを数える 数えるそばから忘れて また数え直す
まるで遥か彼方で輝く星の一生に想いを馳せるような心地
        
       かそけき幻
今日感じたことはあまり思い出せない
明日感じることもいまいちわからない
今はただ、静かのうたがたなびいている
今はまだ、静かのうたのなかゆれている
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cvhafepenguin · 4 years
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山に行って穴を掘ろう。でも何を埋めるかはまだ決めていない。そもそも何故穴になにかを埋めることにしたのか、それすら覚束無い。この前巧にふられたからだろうか。しかしそれはきっかけにしても、全てではないような気がした。
世界は私の内側に拡がっている。私にはそんな感覚が小さいときからある。私が失くしたもの、得たもの、知らないもの、これから���るもの、それら全てが私の内側の向こうでひとつとなり微かに揺れている。それはまるで、水面を漂うとりとめのないひかりのよう。そういった認識へのひとつの解が、穴になにかを埋める行為であると私は何故だか直感していた。
その日は朝からずっと静かな雨が降っていた。山は霧深く、道中誰ともすれ違うことはなかった。私はローカル線の山の麓の駅から暫く歩いて出た山沿いのひっそりとした国道のガードレールを跨ぎ、さらに少し歩いたところに広がる草むらを見つけ、その中心部で、リュックから取り出したむき出しのシャベルを振るった。かん、と硬く鋭い音が雨に包まれてくぐもる。レインコートのフードから大きな水滴がしたたる。湿った土の匂いが鼻をつく。私は恍惚に浸りながら汗をかき、無心でシャベルを何度も、何度も、何度も、振るう。やがて私は雨に溶ける。私が私でなくなる。私は風になる。私は山のものになる。掘り続けた底から這い上がった私の足元には、直径1メートルほどの薄暗い虚が穿たれていた。 「穴」 それは、ちょうど私がすっぽり入るほどの深さだった。私は穴の周りをゆっくりと一周歩いてみた。衝動に身を委ね大地にシャベルを突き立て自分の痕跡を直接残すということは、今まで得たことのない充足を私に与えた。
帰りの電車に揺られる46分間、私の心は穏やかだった。なにかを成したという暖かい満足感があった。家に帰ってシャワーを浴びありあわせの料理を作って食べ、日本酒を少し飲んで寝た。
さて、何を埋めようか。朝起きて私は考える。
半年前に買ったきり放置しているゲーム機?中学生の頃、私を虐めていたグループの中心人物の有坂優子の卒業写真とかも良いかもしれない。いやいや、巧が私の誕生日にくれた、趣味じゃないけど無理をしてつけていた香水か。それとも私の知り合いと浮気をしたのちに私を捨てた当の巧自身か。
もう10月なのに何故か道端に転がっているセミの死骸とか、子犬などを貰ってきて埋めるのも儀式じみていていいかもしれない。
しかしそんな呪いみたいなネガティブな行為ではなく、あえて自分が今大事にしているものを埋めるのが建設的かもしれないな、とも思う。
私の大事なもの。
口座の預金全額、唯一付き合い��ある大学の同級生であり貴重な飲み友達のエリ、巧が私の部屋に忘れていった3本残っているマルボロの箱とライター、一昨々日酔っ払ってガチャガチャで引いたシモダイロウミウシのフィギュア、母の遺品のアメジストリング、部屋で飼育しているミシシッピアカミミガメのぼくたく、など。
考え出したらきりがないが、決めているルールはある。それは、埋められるものは1つということと、それを写真に撮って毎日1回は見る、ということ。それ以外は未定だ。
今はただ私と穴だけがある。そしてそのことは私の心を穏やかにした。あの穴が在る限り、私はどこまでも拡がっていけるのだ。
穴。私の穴、毎日は私と穴の間に過ぎていく。ひんやりとした痕をわずかに残しながら。
穴を掘ってから2週間後、巧から会わないかと連絡が来た。私は二つ返事で承知した。
久しぶりに会った巧は少し痩せていた。
「俺、振られちゃったんだ」
巧はお通しの小鉢の中の小芋の煮付けを箸で弄びながらまるでなんでもないようにそう呟いた。
私は黙ってビールを一口飲んだ。ビールは、苦手だ。
「それで」
私は一応聞いてみた。
「いやべつに、それだけ」
「ふうん」
私たちは黙々と杯を重ねていった。酒に弱い巧は最初のビールを空けてすでに赤ら顔になって眠たげな表情をしていたけど、私に続いて飲み続けた。
「そういえばここ、久しぶりに来たね」
「そうだな」
「巧は瑞木さんにふられてつらい?」
「どうかな」
巧は終始伏し目がちで、その様子はテーブルの上の半分骨になったほっけと話しているといった感じだった。
「私にこうやって会うことについて恥ずかしいとか、思わないの」
私はいつの間にかテーブルに手を付いて前のめりになっていた。
「それは、少しあるけど」
巧はそう言ってほっけをひっくり返す。それから遠慮がちに、ほっけに醤油をぽたたと垂らした。
それから、私たちはまた無言になり飲み続けた。巧は今にも寝そうな様子でついに船を漕ぎ出した。
「ねえ巧」
「うん?」
「私ね、穴を掘ったの」
「穴?」
「そう、穴。私の穴があるの」
「うん」
「私ね、その中に何を埋めるかずっと迷っていて」
「うん」
「それでね、一度巧を埋めてみたいと思うの。しっくりくるか確認したくて」
「そうなんだ」
巧は身のなくなったほっけの骨を箸でずっと突いていた。
「いいよ、その穴まで連れてってよ」
居酒屋を後にした私は巧を穴まで連れてきた。夜の山は暗く、2人のスマホのライトだけが頼りだった。穴にたどり着くと、私はリュックに入れていた折り畳みショベルを取り出して、巧に穴に入るよう指示した。
巧はすんなりと、あまりに呆気なく穴に収まった。巧がいいよと合図をしたので私は巧の入った穴にせっせと土をシャベルで放り込む。穴が、満たされていく。しかし私の心は特段変化がないように思われた。神に生贄を捧げるのってこんな感じなのかな、だとか漠然と考えながら手を動かしているうちに、気付くと巧は完全に埋まっていた。このまま帰ってしまってもいいかなと思ったけれどなんだかそれもつまらないし、一人で置いていくのは巧も寂しそうで不便だったから掘り出してあげた。掘り出された巧は相変わらず眠たげだった。
「どうだった」
私は巧に聞いてみた。
「地面のなかは、暖かかったよ」
「それだけ?」
「あとなんだか懐かしかった。胎内に回帰したような心地」
「ふうん」
「こんどエリも埋めてあげようか」
「気が向いたらね」
「エリは俺を埋めているときどうだった」
「特になにも」
「そうなんだ」
「でもその特になにも感じなかったということが、巧と私の関係に由来するものなのか、それとも人間を埋めること自体がつまらないものなのか、ということは穴のことを知る上で一考の余地があるよ」
「なんだそれ」
巧は笑いながらそう言った。このとき、私は巧の笑顔が好きだったことを肉体的に思い出した。
「もう終電だし今日はうちでシャワー浴びて泊まりなよ」
私は無性に巧を家に連れて帰りたくなった。
「そうする」
無人駅発の終電は私と巧以外誰も乗っていなかった。
アパートに着き、私は巧の土まみれの服を脱がして全てゴミ袋に入れた。そして巧にシャワーを浴びせ、優しく身体についた泥を手で落としていった。巧のはかない輪郭に添ってこびりついた泥を中指と人差し指で拭う。巧の汚れが落ち、蘇る。自然と指先に籠る慈しみを、私は無視できなかった。それはなんだか不思議な心地だった。祈りに似ているかもしれない。不意にひとすじの涙が頬を伝う。気づいてほしくなかったけれど、巧がそれに無言で答えているのがその表情からうっすらとわかった。私もいつか巧に同じようにしてほしいと思った。
それから私たちは朝までセックスした。巧は激しく私を抱き、私もそれに応えた。
いつのまにか寝ていた私たちは昼に目が覚めそれからまた日が暮れるまでセックスをした。私たちはまるで付き合い出してからから少し経った頃のように激しくお互いを貪り尽くした。
そしてその日の晩も巧は私のスウェットを着て泊まった。
巧は仕事があるから、と言って朝早くに私のスウェットを着たまま出て行った。私はそれを見送りだらだらと出勤の支度をした。
こんど私を巧に埋めてもらおう。私は自然とそう考えていた。
「ねえ巧、私を穴に埋めてみてよ」
「いいよ」
ベッドに寝転び裸で私を背後から抱きしめながら巧が卑猥な甘い声で囁く。それに伴いさっき果てた巧の性器がまた復活してむくむくと膨んでいく。それは、とても熱い。
身を捩り振り向くと薄闇の中で巧の豊かな睫毛に散りばめられた雫がきらきらと輝いていた。巧の睫毛はいつも私に魔術的な砂漠の夜を連想させる。
その夜私は、巧と2人で穴に入り、さなぎの中身のように溶けそして混ざり合い、ひとつの新しい生き物として産まれ変わる夢を見た。深く安らかな夢だった。
それからまた1週間後、私と巧は手を繋いで穴まで歩いた。あたりは薄暗くて、ほのかに土の香りが立ち昇っている。とても落ち着く香りだ。
私は穴にすっぽりと入り巧に「いいよ」と促した。巧は返事をせず、シャベルを上手に使って私を穴に埋め始めた。あまりにもその動作がスムーズなので、シャベルはまるで巧の身体の一部のように思われた。土が足元から腰のあたりにかけてどんどん積もっていく。ついに私が穴と1つになるときがくる。私と穴との距離が物理的にも精神的にもゼロになるのだ。そしてそれはすなわち私自身がゼロになるということ。
気がつくと私はすっかり地中に埋まっていた。きっちり埋まっているので指先すら1ミリも動かすことができない。巧の言った通り、穴の中は心地よく、身体に触れる暖かく湿った土は、私の身体の一部のような気がした。
そう、そうだったのだ。還るべくして還った胎内。それは私が掘るべくして掘ったこの穴だったのだ。
耳を澄ますと「とっとっと」と一定の振動が聴こえることに気が付いた。地中を伝わり私を震わす律動。それは私の心音が土に響き帰ってくる音なのかもしれない、いや、よくわからない。もしかしたらそれは、巧が走り去る音かもしれなかった。けれど、それもいいかもしれないな。と私は思い、それからゆっくりと目を閉じた。
深い微睡が私の内にひろがる。
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cvhafepenguin · 5 years
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ミコとマチ
 リビングで目が醒めた瞬間あわてて手元のスマホで時間を見た。5時31分、やばい、40分には家を出ないとバイトに遅刻する。渾身のスピードで歯を磨いて顔を洗い自室に駆け込みばたばたとスウェットを脱ぎ床に脱ぎっぱなしの縒れたデニムを穿きYシャツを全力で着て一張羅の苔色のカーディガンを羽織ってほとんど空っぽのリュックを背負う。化粧は諦めて大きめの風邪マスクでごまかすことにした。幸い原稿を作成してるうちに座椅子に座ったまま寝落ちしていたので髪は乱れていなかった。平日ならマチが起こしてくれるのに、今日は土曜日だから私の部屋の向かいの彼女の部屋で、マチは一週間分の疲れを取るべく昼までおねんねだ。私は「いってきます」とぼそっと呟いて全力でドアから飛び出しオレンジのチャリに跨がり立ち漕ぎで駆けた。早朝の澄んだ空気を抜ける冷たい風が私の全開のおでこに当たる。三月の霞がかった曖昧な風景を私は右、左、右、とぐっとペダルを踏んで追い越して行く。それにつれ眼がだんだんと冴えて来た。息を切らしぐんぐんと駅までの道を走りながら私は書きかけの原稿の続きのことを考え出していた。どきどきと小さな心臓が高鳴り血が巡り、私の身体に熱が漲ってくるのを感じる。まだ人がまばらな駅前のロータリーを抜け、高架を潜り、なんとか出勤時間ぎりぎりに店に着いた。ドアを開くとコーヒーの温かくて甘い香りがふわっと鼻を突く。これを嗅ぐと私の頭はたちまちだらしがなくてうだつの上がらないワナビー女から「「鯤」のウエイトレスモード」にかちっと切り替わる。「おはようございますっ」私は店に入るなり弾丸のように一直線にバックヤードに突っ込みエプロンを着る。「おー、毎度のことながら作家さんは朝に弱いねえ」店長の蓮さんが茶化す。「朝まだなんだろ?これ食っちまえ」蓮さんは厨房からカウンター越しに私にロールパンを投げ渡した。「いただきます」私は風邪マスクをぐいとずらし、拳大のそれを口に詰め込んだ。それから蓮さんに渡された水をぐっと飲み干す。「鯤」は駅前の喫茶店なので、平日は開店するなりモーニングをしにくるサラリーマンなんかがぞくぞくと来て大童なのだが、今日みたいな休日は最初の30分なんかはかなり暇だ。コーヒーにつけて出すゆで卵もいつもならあらかじめいくつか小皿に分けて置くのだけど、今日はカウンターのバスケットにまだこんもりと盛ってある。その光景はまるで平和の象徴のような安心感を私に与える。しばらく待っても客が1人も来ないので、私はトイレで簡単な化粧を済ませ、カウンターにかけて蓮さんが淹れてくれたアメリカンをゆっくりと飲んだ。「原稿はどんな感じ?」「うん、方向性はだいぶ定まってきたからあとはそれを形にしていくだけかな」「なるほど、ついに俺の息子がミコが手がけたゲームをやる日がくるんだなあ、あっ今のうちサイン貰っとこうかな、店に飾るわ」「蓮さんってば気が早すぎ」蓮さんはことあるごとに茶化すけど、芯のところでは私のことをそのつど気にかけてくれているのが私にはありありとわかった。嬉しいことだ。
 そうしていると、程なくして客がちらほらと入り出した。休日の朝は老人ばっかりだ。常連のみんなはお話し好きで、四方山話や身の上話を滔々と聞かせてくださる。いつものように私は給仕や食器洗いをこなしながらそれにふんふんと頷いた。でも頭の中は原稿の続きのことでいっぱいだった。先週、駆け出しライターの私に初めてクライアントからSNSのダイレクトメッセージで、ソシャゲのシナリオの執筆依頼が来たのだ。それは聞いたことないような小さな会社で、その依頼されたゲームも予算的にみてメインストリームに敵うポテンシャルがあるとはとうてい思えなかったが、なにせ執筆の依頼が来ることなんて初めてだったので、私は半端ない緊張ととめどなく沸いてくる意気込みでここ一週間ギンギンだった。原稿のことを考えると下腹のあたりがヒュンとする。これは誰もが知っているRPGのシナリオを手がけるという私の夢への第一歩だし、なにより、就職せずに創作活動に専心することにした私の決意が報われた心持ちだった。それはどう考えてもぜんぜん早計なのだけれど。とにかく、私は今とても浮かれていた。
 正午前あたりから客足が徐々に増しなかなか忙しなり、あっという間に15時になった。退勤まであと1時間だ。
「いらっしゃい。おっ荘くん」だしぬけに蓮さんの朗らかな声が厨房から客席に向け広がる。荘くんが来ると、蓮さんは私を茶化す意味でわざと私に呼びかけるような声音で叫ぶのだった。これもいつものことだ。
 私はお気に入りの窓際の2人がけのテーブルにギターケースをすとん立てかけて座る荘くんのところへ注文をとりにいった。心臓の音が高鳴るのが荘くんにばれている気がした。
「いらっしゃい、今日はスタジオ?いよいよ来週だね。」
「そうだな、あっ、チケット忘れんうちに今渡しとく」
荘くんにひょいと渡された黄色いチケットにでかでかと、
「jurar 初ワンマン!」と書いてあった。その楠んだチケットのデザインは全体的に少し古くさい気がした。
「ついにだね」
「うん、絶対に成功させるよ、やっとここまでこれたんだ。そろそろ俺たちもプロへの切符を勝ち取りたいな」
「うん、私応援してるから」荘くんの襟足から煙草とシャンプーの混じったえも言われぬ匂いがかすかに漂う。それは、ほんとうのほんとうに良い匂いだ。
「サンキュな、ミコちゃんも頑張ってるもんな、俺も負けてらんないよ。あっ、そうそう、そういえば…明後日柴さんにアクアマターのライブ来ないかって誘われたんだけど、ミコちゃんあのバンド好きだったよね、もし暇だったら一緒に来る?蕗川ビンテージだよ。柴さんももう一人くらいだったらチケット用意できるから連れて来ていいって」
「いいの?行きたい!」
「よっしゃ、じゃあまたラインするわ」
「まじか…」私は心中でひとりごちた。まさかのまさか、こんな地味な女が荘くんにデートに誘われたのだ。注文伝票をレジに持って行き蓮さんのほうをちらと見てみた。すると蓮さんははにかみながらしゅっと素早く腰のところでガッツポーズを出した。私は心中でもう一度、「ま、じ、か…」と丁寧にひとりごちてみた。
 荘くんはブレンドを急いで飲み干して会計をし、「じゃあ」と去って行った。そうこうしているうちにやがて退勤時間となり、出勤してきた蓮さんの奥さんに引き継ぎをして、私はタイムカードを切った。「お疲れさまです」挨拶をして表口から店を出ると、スプリングコートのポケットに両手を突っ込んで含み笑いしているマチが立っていた。目が合った私たちはそのまま見つめ合った。一瞬、時間が止まったようだった。ピィ、ピィ、とけたたましい鳥の声が、狭い路地裏にこだました。
「オハヨ」マチは宣誓のように右手をしゅっと突き出してそう言った。
 マチの手は真っ白で、春のひかりをぼんやりと帯びていた。ぼんやりとその手を見ていると、なんだか眠くなった。
「マチ、何してたの?」
「さんぽ」
「起きたばっかり?」
「寝すぎちった」
 私は自転車を押してマチととぼとぼと散歩した。外は朝は肌寒かったけれど、今は歩いていると少し汗ばむほどの気温まで上がっていた。電線と雑居ビルたちに乱雑に切り取られた街の高い空を、鳴き交わしつつひっきりなしに飛び交う春の鳥たち、私たちはゆっくりと歩きながらそんな風景を見るともなく見ていた。
 私たちはそれぞれあたたかい缶コーヒーを自販機で買い、駅から少し離れたところにあるたこ(多幸)公園へたどり着いた。私とマチは予定のない天気のいい日にはよくここで何となく過ごす。
「そういえばさ」
「ん?」
「さっき店に荘くんが来てね」
「なになに?」ブランコに座っているマチは両足をばたばたとせわしなく蹴っている。
「「明後日アクアマターのライブに誘われたんだけど一緒にこないか」って」
「デートか!」
「そういうこと」
「やったー!」マチはブランコからたんっと飛び降りて両腕を上にぐんと伸ばして叫んだ。
「いや、誘われたの私だし」
「わがことのようにうれしいっ」
「よーし今日はなべだー」マチは私に背を向けて起き上がった猫のように盛大なのびをした。
「なべ、若干季節外れじゃない?」
「めでたい日は鍋パって相場がきまってるのよっ。ミコの恋愛成就を祝って今日は私のおごりで鍋だー」
「マチってば気が早すぎ」
私たちはスーパーでたくさん鍋の具材と酒とつまみを買って、大きなレジ袋を2人で片側ずつ持って帰った。2人でわいわい作った鍋は多すぎて全然食べきれなかった。飲みまくって酔いつぶれた私たちはリビングでそのまま気を失い、翌朝私は風邪を引いていた。私がなにも纏わず床で寝ていたのに対して、マチが抜け目無く毛布を被ってソファーを独占していたのが恨めしかった。
 荘くんは待ち合わせの駅前のマクドナルドへ15分遅刻してきた。10分でも20分でもなく15分遅れるというのがなんだか荘くんらしいなと私は妙に感心した。「蕗川ビンテージ」は私の家の隣町の、駅のロータリーから伸びる商店街の丁度真ん中のあたりにある。私はこの街に来たことがなかったのでライブハウスまで荘くんが先導してくれた。風は強く、空は重く曇っている。商店街や幾本かの路線でごちゃごちゃしたこの街は、私とマチが住んでいるところに比べてなんだか窮屈な感じだった。前を歩くやや猫背の荘くんに付いて駅からしばらく歩くとやがて「蕗川ビンテージ」に辿り着いた。荘くんが「あそこ」と指を指してくれなかったら私はそれ��そうだと気付かなかっただろう。「蕗川ビンテージ」はどう見てもただの寂れた雑居ビルだった。よく見ると、ぽっかりと空いたビルの地下へと続く入り口の前に「アクアマター」のワンマンの掲示があった。その入り口の前に、いかにもバンドマンといった出で立ちの5人の男女が談笑していた。若いのか、それとも私たちよりずっと歳上なのか、いまいち判然としない風貌の人たちだった。その5人はやって来た荘くんを認めると手を振り、荘くんはそれに応えて私をほったらかしてポケットに手を突っ込んだまま5人に駆け寄った。荘くんが1人の男の横腹を肘で小突く、するとその男は笑いながら荘くんにヘッドロックを決め、ほかの人たちもげらげらと盛り上がった。どうやら荘くんととても親しい人たちらしい。少し話すと荘くんは突っ立っている私のほうに戻って来た。それから私の手を引いて、地下への階段を降りて行く。荘くんが近い、かつてないほどに近い荘くんのうなじから、シャンプーと煙草が良い塩梅に混じった私の好きな匂いが漂ってくる。匂いはたしかに近いけれど、暗すぎて当の荘くんの姿がよく見えない。なにかがずれている気がした。私たちは、どこか歪な気がした。私たちが、というか私だけが明らかに場違いだった。「マチは今どうしているだろう、そろそろ帰ってる頃かな、晩ご飯は私がいないから今日は外食なんだろうな」好きな男に手を引かれているというのに私の頭に浮かんで来るのはマチのことだった。やれやれ。
 2人分のチケットを荘くんが受付の初老の男に手渡す、そして荘くんはまたその男としばらく談笑し始めた。「ちょっとお手洗い行ってくるね」と私はその間に用を足した。戻ってくると受付の前に荘くんを中心に人だかりが出来ていた。荘くんの周りにおそらく10人以上はいたが、その中の誰1人として私の知っている顔はなかったし、荘くんを含め、そこに誰1人として私のことを気にする人はいなかった。私はまるで透明人間にでもなったかのような心持ちだった。あそこで人の輪に囲まれ楽しそうに話しているあの人はいったい誰なんだろう。いつも「鯤」に来て親しく話してくれるあの人。私がいつか「アクアマター」が好きだとこぼしたことを覚えてくれていて、デートに誘ってくれたあの人。でも冷静に考えると当たり前のことだったのだ。界隈で突出した人気を誇る若手バンドのフロントマンの荘くんと、街の隅でこそこそと暮らしている私みたいな誰も知らない地味な女なんて、そもそもステージが違うのだ。私は知らないライブハウスの柔らかくて厚い防音材の壁にもたれながら、誰にも知られず夜空でひっそりと翳りゆく月のように、緩やかに卑屈になっていった。誰か��こから連れ出してくれないかな、これがまさしく「壁の花」ってやつね。卑屈の次にやってくる自嘲。思えば幾度も覚えたことのある感覚だ。いままでに縁のあった男はみんな、折々こんな風に私のことをないがしろにした。
 ほどなくしてライブが始まった。ライブは、よかった。横にいた荘くんは頻繁に何処かへ消えた。たぶん、知り合いの誰かと話しに行っているのだろう。そう、ここでは私以外のみんなが知り合いなのだ。ライブの終盤、ストロボが瞬くクライマックスの轟音の中荘くんは強く私の手を握ってきた。私はそれを知らんぷりした。スモークの甘ったるい匂いがやけに鼻についた。ライブ自体は、本当によかった。
 外に出ると小雨が降っていた。荘くんはライブの終わりからずっと私の手を握ったままで、駅の方へ私を引いて歩いていく。私はなにも考えずにそれに従う。疲れて、頭がぼーっとしていた。商店街の出入り口のアーチの辺りで、荘くんは「じゃあいまからウチで飲もっか」と切り出した。私はまっぴらごめんだと思い「えーと今日はもう帰ろうかな、明日も朝早いし…」と丁重にお断りした。
「別にいいじゃん、ご近所さんなんだしバイトは朝、俺の部屋から出勤すれば」荘くんはしつこかった。
「いやーやっぱ何だか悪いしルームメイトもいるんで今日は家に帰ります。今日はほんとにありがとう」
 私は返答に窮して言い訳にならない言い訳を口走っていた。そのとき私ははっと息をのんだ。荘くんは怒っていた。彼の表情こそ変わらないが、私なんかにプライドを傷つけられたこの男が激怒しているのがわかった。
 それから突如荘くんは声を荒げ
「んだよ、俺とヤりたいんじゃなかったのか?」
 と今まで私が聞いたことのない荒荒しい声音で言い放った。そのとき私は頭が真っ白になった。私はこの人が何を言ってるのかわからなかった。信じられなかった。この人も自分が何を言っているのかきっとわからないに違いない。そうであってほしい、と私は願った。
 私はいつの間にか私の肘を強く掴んでいた彼の手をばっと振り切り、夢中で駅まで走った。後ろであの人がこっちに向かってなにか喚いている気がした。私はそれから逃げるために全力で走る。とつぜん視界がぐにゃあと歪んだ。音のない雨は、いつのまにか本降りになっていた。頬を伝って落ちる生温いものが春の雨なのかそれとも涙なのか、わからなかった。
 マチは私に何も訊ねなかった。あの夜ずぶ濡れで帰ったきた私の
様子を見て何となく察したのだろう。お風呂から上がってきた私に何も言わずに中華粥を作ってくれた。荘くんはあの日以来鯤に来ることはなくなった。蓮さんは
「まあ今回は縁がなかったってだけさ。月並みな言葉だが男なんて星の数ほどいるんだぜ」と慰めてくれた。
 でもそれを言うならば女だってそうだ。それこそ私は荘くんにとって星の数ほどいる「都合のいい女候補A」にすぎなかったんだ。私はまた卑屈になっていた。このことをマチに話すと「処置無しね」の表情をされた。マチの「処置なしね」の表情。白いつるつるの眉間に少し皺が走りいたましげに私の顎辺りに視線を落とすこの仕草が私は密かに好きだ。ソシャゲの依頼はなんとか納期に間に合ったが、私は次の賞に挑む気力が沸かなかった。スランプに陥ってしまったのだ。なんだかどうしても力が入らなくて、私は湯葉のようにふやけてしまっていた。このままなんの意思も目的も持たず、たゆたうクラゲのように何処かへ攫われてしまいたかった。あの失恋で、まるで私とこの世界とを繋いで私を立たせているピンと張った一本の糸が、ぷつりと切れてしまったようだ。私は休みの日のほとんどを寝て過ごすようになった。
 私が一ヶ月以上もそんな状態だったので、放任主義のマチもさすがに見かねたらしく、「ミコ、餃子をやろう」と私に切り出した。パジャマの私はソファでクッションを抱いて寝転びながら「うぇえい」と曖昧に返事した、ミコが「マチはかわいいなあ」と言って後ろから抱きつこうとしてきたが私はそれをひょいと躱し、勢い余ったマチはフローリングでおでこを打ち「ぎゃっ」と叫んだ。そのとき私に被さったミコの身体はとてもひんやりとしていた。
 餃子の買い出しから仕度まで殆どミコがやってくれた。私はソファに寝転んで夕方のニュースを見ながらミコが手際よく餃子を包んで行くのを背中で感じていた。辛い時は甘えられるだけ相手に甘えるのが私たちの生活の掟なのだ。私とマチは、いまままでずっとそうやってきた。
「いざ!」待ちくたびれて私がうつらうつらし出した時にマチは意気込んで餃子を焼き出した。しゅわあと蒸気が立つ音とともに、むわっとした空気がリビングに立ち込めた。私は薄目でせかせかと餃子を焼くマチの背中を見ていた。「このまま帰りたくないな」そんな素朴な気持ちが不意に、去来する。私たちには他にいるべき場所があって、いつまでもこの生活が続くわけないのはお互い、何処かで理解していた。けれど私たちはそれに気付かないフリをしている。
 マチの背中って小さいんだなあ。そんなことを考えると何だか目頭が熱くなってきたので、私は寝返りをうち、狸寝入りを決め込んだ。クッションに顔を埋めてきゅっと眼を瞑っていると、まるで幽霊になって、空中を漂いながらミコのことを見守っているような、ふわふわと暖かくて寂しい気持ちになった。
「ほらほら引きこもりさん、餃子が仕上がって来たわよ。テーブルにお皿とビール出しといて」
「あいさー」
テーブルの皿に綺麗に連なって円になっているマチの餃子はつやつやでぱつぱつだった。マチは餃子の達人だ。マチよりおいしい餃子を作る女を私は知らない。
「じゃあ、餃子にかんぱーい」
「かんぱーい」
最初の一皿を私たちはあっという間に平らげた。
「じゃあ第2波いきまーす」
「いえーい」
マチは餃子をじゃんじゃん焼いた。私がもう食べられないよと喘いでも取り合わず焼きまくった。マチは何かに取り憑かれたようにワインを呷りつつ、一心不乱に餃子を焼き続けた。「餃子の鬼や…」私がそう呟くとマチはこっちを振り向いてにいっ、と歯を出して笑った。
 餃子パーティも無事に終わり、私たちはソファで映画を見ながらワインをちびちびと飲んでいた。
「ミコ、この映画つまらないね」
 マチがずっと見たいと言っていたから私がバイト終わりに借りてきてあげた映画だった。
「たしかに、脚本は悪くないけど演出が単調だね」
 マチは冷蔵庫から新しい缶チューハイを持って来てぐびと勢い良く飲んだ。それから酒の勢いを借りたようにこう言った。
「ミコ、屋上に行こうか」
 私は缶ビール、マチは缶チューハイを片手に最上階の廊下のフェンスを跨いだ。マチは私の手を引いて真っ暗で何も見えない中、屋上へと続く鉄骨階段を上がっていく。あれだけ餃子を焼いたにも関わらずマチの手は冷たかった。たん、たん、と微妙にずれたふたつのゆっくり階段を踏む冷たい音が闇の中密やかに響く。酒気を帯びたマチのにおいがする。なんだか懐かしいにおいだ。毎日のように嗅いでいるはずなのに。私はマチをぎゅっと抱きしめたかった。
屋上は無風だった。しんとしていて、まるで世界が止まったみたいだった。私たちの住むマンションは台地のてっぺんに建っているので、屋上からは街が良く見渡せる。酒の缶を持った私たちは並んで囲いの柵に凭れて、街の灯をぼんやりと眺めていた。不意にささやかな音で聞き覚えのあるイントロが流れ出した。最初はか細い月明かりのような調子のその曲は、やがて雲の隙間から抜け出して鮮烈な満月となる。
「Tomorrow never knows」
 私はこの曲を聴いた時にいつもこんな印象を受ける。いつかマチはこの曲のことを夜の森の奥で誰にも知られずに燃える焚き火みたいと言っていた。思えば、性格がまるで違う私たちを繋ぐきっかけとなったのはこの曲だった。
 あれは私がまだ大学一年生のときの冬だった。私はサークルの先輩に合コンに来てくれと頼まれて不承不承承知した。相手は同じ大学の違うサークルの連中だった。明らかに人数合わせで参加した合コンだ、面白いはずもなく、私はうんざりした。いつ「じゃあ私はこの辺で…」と切り出そうかずっと迷っていたが、二次会のカラオケにも流れで行くことになってしまった。そしてそのカラオケに遅れてやって来たのがマチだった。先輩の説明によると、マチは男側の知り合いだそうだ、それで先輩とも面識があったので呼ぶ運びとなったのらしい。部屋に入って来たマチを見て私は「きれいな女の子だなー」とうっとりとした。マチは空いていた私の横にすとんと座った。思わず頬が緩むようないいにおいがした。スキニーを穿いた華奢な脚のラインが綺麗で、横に座っていると、私の若干むくんだそれと比べずにはいられなかった。マチは終止にこにこしていた。男たちは明らかにみんなこの場で一番綺麗なマチを狙っていた。私は半ばいやいや参加したとはいえ、やはりみじめな気持ちだった。下を向いて鬱々としていると私にマイクが回って来た。あまり歌は得意ではないのだが…と思いつつ私は渡されたマイクを掴み、ええいままよとミスチルの「Tomorrow never knows」を歌った。歌っている時にマチがじっとこっちを見ていたのを不審に感じたが私は気付かないふりをして歌いきった。合コンはつつがなく終わった。解散してターミナル駅のコンコースを歩く私たちの集団は1人ずつ空中分解していき、やがて私とこの初対面で良く知らないマチという女の子だけが残った。私たちは無言で微妙な距離を保ちながら並んでしばらく歩いた。
「私って合コンとか苦手なんだ~」やにはにマチが間延びした調子で呟いた。それからふわあと大きなあくびをした。私はその様子を見てなんて美しいひとなんだろうとうっとりした。合コンのさなか、表面上は取繕っていたが、明らかに退屈そうにしていたのも見て取れたので、私はマチに好感を抱き始めていた。
「なんか私同世代の男の子って苦手だな、何話したら良いかよくわからないし」
「私もああいう場は少し、苦手」
「ねえ、お腹空かない?」
「ちょっぴり」
「ラーメンでも食べにいこっか」
「うん、いいよ。この辺?」
「うん、北口からちょっと歩いたところにおいしいラーメン屋があるんだ。塩ラーメンなんだけど、大丈夫?」
「大丈夫、塩ラーメン好きだから」
「それではお嬢さま、エスコートいたします。」
 とマチは腰を落として片足を後ろに引く紳士の挨拶のポーズをした。
「で、では、よろしく」
 私もコートの腰のところを両手でつまんで膝を曲げ淑女の挨拶でぎこちなく応じる。
 私たちは改札の前で踵を返し、ラーメン屋へと向かった。
「ミスチル、好きなんだね」
「うん、親の影響なんだけど」
「私も好きなんだ。だから、君がさっき歌ってたとき嬉しかった。周りに音楽の趣味が合う人がいなくってさ、ミスチルとか今の若い人もうあんまり聴かないもんね」
「うん、カラオケとか行くとみんな今時の曲ばっかり歌うもんね。特に合コンなんかだと顕著」
「男も女もなんだかんだ言っても最終的に画一性を自分に強いたほうが楽なのだということなのかも知れんね。ところで君、名前は?」
「私はフジサワミコ。あなたは?」
「私も名前二文字なんだ。湊マチ」
「みなとまち」
「マチでいいよ」
「わかった、私のこともミコって呼んでよ」
「そうだ、ハタチになったら一緒に飲みにいこうよ。ライン交換しよ」
 それがきっかけで私たちはことあるごとに2人でつるむようになった。私がこっぴどく振られた時も、マチの就活が難航を極めていたときも、いつも酒なんかを飲みながら互いに慰め合った。ルームシェアをしようと言い出したのはマチのほうからだった。それは私が就職を諦め夢を追うことにするとマチに打ち明けた次の日だった。
「私はミコがどんなでもそばにいてあげるよ」
 マチはことあるごとにこんなことを言うのだった。
「どんなのでもって、もし私がアメーバみたいな真核生物でも?」
「アメーバでも好きだよ」
「私も、マチがアメーバでも好き」
 赤ら顔の私たちは屋上で「Tomorrow never knows」を歌った。
「はーてしなーいやみのむーこうへーおっおー てをのばそー」
呂律の回らない舌で私たちは叫びながら柵の向こうへ両手をぴんと伸ばした。伸ばした指の先に、滲んでぼやけた街の灯りたちが、きらきらと輝いていた。
 私はそのプロポーズを受けることにした。相手は麗さんという人で、マチの紹介で知り合った10歳上の高校の生物の教師だった。マチはあの失恋以来落胆している私を励ますために、荘くんとは真逆のタイプの男を紹介してくれたのだった。交際は、以前の私ではとても考えられないくらいにうまくいった。私は素敵な男をあてがってくれたマチに心の底から感謝した。彼はとても良く尽くしてくれたし、私も彼のことがとても好きだった。彼と付き合い出してから、彼の家に泊まって部屋に帰らないこともしばしばあった。そして私と対照的にマチはその頃からだんだんと不安定になっていった。なにかといらいらしてたまに私にあたるようになったのだ。私は何故そうなったかマチに聞くこともなかった、何となく察しがつくだけに余計聞く気がしなかった。喧嘩も私が帰らなくなった日のぶんだけ増えていった。
 ある日3日間麗さんの家に泊まってから帰ると、私の部屋のものが全部廊下に放り出されていた。
「なにこれ」私はこっちを振り向きもしないリビングでソファにかけてテレビを見ているマチに問いかけた。
「もう出て行くのかと思って部屋を片付けといてあげたよ」
「ばかじゃないの?ほんとガキだね」
 なんてみっともないんだ。私にいつまでもこだわって、ばかばかしい。
 ずかずかと歩いてリビングに入ると不意にマチが振り向いてこっちをきっと睨みつけたので私は立ち竦んでしまった。
「ミコ、ミコの夢は、努力は何だったの?なんで…そんなに簡単に諦めるの?」
 マチの声は掠れていた
「前にも言ったけど私には才能がないんだしもう筆を折ったんだよ」
「なんでも手に入れることのできるマチには私のことはわからないよ。知ったような口を聞かないで」
 私はいつしか心の何処かで自分の夢と、マチから解放されたいと思い始めていた。
「そういえば言ってなかったんだけど私あの人にプロポーズされたんだ」
マチはまたテレビの方を向いて石像のように固まって何も言わなかった。
「おめでとうとか、ないの?」
マチは依然としてだんまりだった。
 そのとき、私の頭のなかでぐわん、という音がした。誰かに後頭部を殴られたような衝撃だった。それから涙が、とめどなく溢れてきた。私は泣きながら廊下に放り出された荷物を出来る限りまとめた。それから麗さんに電話をしてワゴンを出してもらい部屋の私の家具や持ち物を全て、3往復して麗さんの家に運んだ。それっきり、あの部屋には二度と戻らなかった。それはあまりにもあっけない幕切れだった。麗さんは「人のつながりなんて、そんなもんさ」とやけに達観した口ぶりで私を慰めてくれた。3ヶ月後に披露宴の招待をマチにラインしてみたが既読すら付かなかった。
 「もう、終わりにしよう」
 別れを切り出したのは英治のほうからだった。英治はセックスが終わってしばらくして呟くようにそう言った。実のところ私は、英治のほうからそう言ってくれるのをずっと待っていた。いかにも安ラブホテルの調度品といった感じのチープなガラスのテーブルの上の、パフェ皿の底に残って溶けたソフトクリームがピンクの照明を反射しててらてら光るのを、私は裸でシーツも被らずに茫然と眺めている。英治がシャワーを浴びる音が聞こえる。英治が上がったら私もシャワーしなくちゃ。…どうしてこうなっちゃったんだろう…どうして。やにわにテーブルに起きっぱなしのスマホが震え出した。ガラスの上でがちゃがちゃ騒ぎ立てるそれに私はいらっとして。ぱっと手に取った。その画面には「麗さん」と表示があった。
「来月の裕太の体育祭どうする」
 メッセージの内容はこれだけだった。私はスマホの画面を暗転させて枕元にぽんと投げ捨てベッドに潜り込んだ。麗さんと英太にはもう一年以上会っていなかった。毎日仕事���けで夫と子供を捨てて出て行き、愛人と日中に安ラブホにしけこんでいる私のような女が今更どの面下げて元伴侶と息子に会いに行けばいいんだ。いやだ、このままなにもしていたくない。この地の底のような穴ぐらで、誰にも干渉されずにずっと踞っていたい。
「ミコ、ミコ、ミーティングに遅れちゃうよ。起きて」
そうだ、私は次の作品の企画ミーティングに行かなければならない。何せビッグタイトルのナンバリングだ。集中しなければ。
ミーティングはかなり難航したもののなんとかまとまった。私も英治も、いつものようにメンバーに振る舞った。私たちの関係に気付いている人は、どうやら1人もいないようだった。帰りがけに私と英治は小さな居酒屋に寄った。ここは私たちが関係を持ちだしたころ英治が教えてくれた店だ。
「今度のプロジェクト、うまく行くといいな」英治は燗を呷って少し上機嫌になっていた。昼間のラブホテルでの言葉を取繕うためなのかもしれない。
「なんたってミコには実績があるもんな。大丈夫、ミコならこの先一人でもうまくやっていけるさ」
「聞きたくない…」
「え?」
「「聞きたくない、そんな言葉」」
 私は思わずそんなことを口走りそうになったが、かろうじてそれを飲み込んだ。
「英治はどうなの」
「どうって?」
「この前も辞めたがってたじゃん。この仕事、自分に向いてると思う?」
 そうだ、私が英治の仕事や家庭の愚痴を聞いてあげるようになったのがこの関係の始まりだった。
「うーん…向いていようが向いてまいが、俺にはやるしかないな。やっぱり何度も言ってるけど、自分の夢のために邁進してきたミコと俺はスタンスが違うよね、それに俺…」
「俺?」促しても英治は先を言うのを躊躇うので私はいらいらした。握りしめた水割りを私はぐいっと飲んだ。
「俺…2人目ができたんだ…」
「ふうん、おめでとう、ね」
「そうなんだ、だから、この関係もそろそろ潮時なのかなって。」
 私はカウンターに万札を叩き付けて店をあとにした。なにも英治に腹が立った訳ではない。私は全てがいやになってしまったのだ。夢も、仕事も、家族も。
「違う…私は…私は…」
 私は無意識にそう呟きながら明後日の方向へ駆け出していた。後ろで英治が私を呼びかけながら付いてきていたが私はその声がしなくなるまで走り続けた。走って走って、私は知らないバーに駆け込んだ。それからジャックダニエルのロックを注文した。なにも考えたくなかった。ぼうとそれをちびちびなめていると、やにはにスマホがポケットのなかで震えた。英治がなにか取繕うためのメッセージを送ってきたのかと思い私はうんざりしながら画面を見た。しかしそこに表示されていた名前は「英治」ではなく「マチ」だった。
私は反射的にスマホをカウンターに伏せて置いた。そしてウイスキーを飲み干しておそるおそる画面をタップして内容を確認すると。
「久しぶり、突然ですみません。今度会えませんか。」とあった。
私は胸がざわざわした、けれどもう何も考えないことにした。すぐにマチに「いいですよ」と返信した。
 待ち合わせは2人が分かりやすい場所が良いとのことで「鯤」にした。私は待ち合わせの時間より少し早くに鯤に来た。
「いらっしゃい。おお、ミコ」
 蓮さんは最近白髪が増えたものの相変わらず元気だった。私は鯤には昔のなじみで今でもたまに来るのだ。
「ごぶさたじゃないか。仕事忙しいのか。なんか、顔が疲れてるぞ」
「うん、ちょっと最近いろいろあって、でも大丈夫だよ、ありがとう」
 蓮さんはいつでもぶれずに蓮さんなので話していると私は安心する。蓮さんって私にとってオアシスのような人だ。
「今日ね、マチと会うんだ。ここで待ち合わせしてるの」
「マジで!すごいな、何年振りだ?」
「10年振り…」
「そうか、あれから10年も経つのか…なんかあっというまだな」
「うん、いろいろあったね」
本当にいろいろあった。でも、私とマチの時間はあの時のまま止まっている。私が部屋を飛び出したあの日のまま…マチはいったいどうしていたのだろう。
 私は緊張してテーブルにかけて俯いていた、しばらくしてドアに取り付けたベルがからん、と鳴った。顔を上げると、入り口にスプリングコートを着たマチが立っていた。そのシルエットは背後から射す春の陽射しに象られていた。
「おおお、マチちゃん!久しぶりー!」
「マスター、お久しぶりです。」
「相変わらずべっぴんさんだね。ここに2人がいるとなんだかあの頃に戻ったようだな。ゆっくりしていってな」
「マスターも相変わらずみたいで。ありがとうございます」
マチははにかんだように微笑みながら、私の向かいに掛けた。私は気恥ずかしかった。何を話したらいいのか全くわからない。マチもそうなのだろう。ずっとそわそわして後ろを振り向いたりしていた。私はマチが少しだけふくよかになっていることに気が付いた。
しばらくしてマチが話し始めた。
「最近いろいろあって考えたの…私どうしてもあのときのこと謝っておきたくて…寂しくてミコを傷つけることしかできなかった。ミコがいないとだめなのは自分のほうなのに、そして、そう思えば思うほど心細かった。こんな風にミコを呼び出して謝るのも独りよがりだけど。どうしてもそれだけは伝えたくて、ほんとにごめんね、ミコ」
そう言ったマチの眼から涙がひとすじ流れ落ちた。
 そうか、みんな寂しかったんだ。私とマチだけじゃない。麗も、英治も、それから荘くんだって。ミコの涙を見て私のなかで何かがはらりと落ちていった。それはたぶん、いつの間にか私の心に巣食っていた「あきらめ」のようなものだった。
「いいんだよ、マチ、もういい」
「あ、あり、ありがとう、ミコ、うわーん」
 マチはぐしょぐしょに泣いてバッグから出したハンカチで顔を抑えていた。ほかの客もびっくりして、カウンターに掛けているおばあちゃんも「あれあれ」と茶化してきた。私もつられて泣きそうになったがこらえてマチの手をとって店の外へ出た。
 私は泣き止んできたマチの手を引いてしばらく歩いた。
「見てマチ、ここのスーパーでよく買い物したよね」
「あっこの公園覚えてる?よくブランコ漕ぎながら酒飲んだよね」
 マチは鼻をすすりながら「うん、うん」と相槌をうつ。
春の気持ちのいい暖かい風が、懐かしい気持ちを呼び起こす。マチの手は、あの頃と同じで冷たい。
 私はマチの手を引きながらマチとの部屋を後にしてからのことを吶吶と話した。結婚して間もなく、昔穫ったグランプリの作品を目にしたディレクターに大手ゲーム会社のシナリオライターとして抜擢されたこと…麗さんとの子供が産まれたこと…仕事が多忙なのが原因で離婚したこと…仕事が忙しすぎて疲れていること…同僚の不倫相手との関係が終わったこと…
 マチは私のところどころくすりと笑いながらただ聞いてくれていた。
「ぜんぶミコだね」
「え?」
「恋愛でポカするのも、仕事や夢に疲れて参っちゃうのもぜんぶあの頃と同じミコだ。ミコは私が知らない間もミコをやってたんだね」
「たしかに、全部わたしだ。わたしらしい…わたし」
 そしてマチもずっとマチだ。あの頃と同じ、強い肯定も否定もせずただ私に寄り添ってくれる。そんなマチを見ていると今日の朝までずっと私を苛んでいた罪の意識や漠然とした憎悪が緩やかに解れていった。
「ねえマチ」
「ん?」
「屋上に行かない?」
私たちの住んでいたマンションはまるでタイムスリップしたかのようにあの頃と同じで、どこも全く変わっていなかった。
 いけないことと知りつつ、私はマチの手を引きそうっと忍び足で、屋上への階段を昇る。
 私たちは昔のように並んで囲い柵によりかかり街を見渡した。
「どこもかしこもなーんにも変わっていないね」
「そだね、あ、でも私は少し変わったかも」
「どんなところが?」
「私、結婚するんだ。式は挙げないことにしたんだけど。それでね、今お腹に赤ちゃんがいるの」
「え?」
私は不意をつかれて唖然とした。
「何ヶ月?」
「3ヶ月」
「えーっと…夫さんはどんな人?」
「優しい人だよ、今の職場で知り合ったの」
「おめでとう、マチ」
「ありがとう、ミコ」
私たちは手を繋いだまま顔を見合ってくしゃっと笑った。
「これ、覚えてる?」
 私はスマホのプレーヤーを開いて再生をタップした。
「うわ、懐かしい、私今でも聴いてるよ」
「私も聴いてる」
 あの夜この屋上でマチと一緒に歌った…そしてマチと私を繋ぐきっかけになったこの曲。
「Tomorrow never knows」
 私たちはあの頃を思い出しながら小さな声で一緒に歌った。これまでと、これからの全てが、発酵するパン生地みたいに私のなかでふわり広がって行った。
 心のまま僕は行くのさ、誰も知ることのない明日へ
 そうだ、私とマチは私とマチのままで、あの頃のような万能感はなくともしっかりと歩いて行くんだ。癒えない傷を抱えながら。あらゆる柵に絶えながら。
 私たちの目の前には、霞がかってぼやけたなんでもない街が広がっていた。
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cvhafepenguin · 5 years
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ミコとマチ
 リビングで目が醒めた瞬間あわてて手元のスマホで時間を見た。5時31分、やばい、40分には家を出ないとバイトに遅刻する。渾身のスピードで歯を磨いて顔を洗い自室に駆け込みばたばたとスウェットを脱ぎ床に脱ぎっぱなしの縒れたデニムを穿きYシャツを全力で着て一張羅の苔色のカーディガンを羽織ってほとんど空っぽのリュックを背負う。化粧は諦めて大きめの風邪マスクでごまかすことにした。幸い原稿を作成してるうちに座椅子に座ったまま寝落ちしていたので髪は乱れていなかった。平日ならマチが起こしてくれるのに、今日は土曜日だから私の部屋の向かいの彼女の部屋で、マチは一週間分の疲れを取るべく昼までおねんねだ。私は「いってきます」とぼそっと呟いて全力でドアから飛び出しオレンジのチャリに跨がり立ち漕ぎで駆けた。早朝の澄んだ空気を抜ける冷たい風が私の全開のおでこに当たる。三月の霞がかった曖昧な風景を私は右、左、右、とぐっとペダルを踏んで追い越して行く。それにつれ眼がだんだんと冴えて来た。息を切らしぐんぐんと駅までの道を走りながら私は書きかけの原稿の続きのことを考え出していた。どきどきと小さな心臓が高鳴り血が巡り、私の身体に熱が漲ってくるのを感じる。まだ人がまばらな駅前のロータリーを抜け、高架を潜り、なんとか出勤時間ぎりぎりに店に着いた。ドアを開くとコーヒーの温かくて甘い香りがふわっと鼻を突く。これを嗅ぐと私の頭はたちまちだらしがなくてうだつの上がらないワナビー女から「「鯤」のウエイトレスモード」にかちっと切り替わる。「おはようございますっ」私は店に入るなり弾丸のように一直線にバックヤードに突っ込みエプロンを着る。「おー、毎度のことながら作家さんは朝に弱いねえ」店長の蓮さんが茶化す。「朝まだなんだろ?これ食っちまえ」蓮さんは厨房からカウンター越しに私にロールパンを投げ渡した。「いただきます」私は風邪マスクをぐいとずらし、拳大のそれを口に詰め込んだ。それから蓮さんに渡された水をぐっと飲み干す。「鯤」は駅前の喫茶店なので、平日は開店するなりモーニングをしにくるサラリーマンなんかがぞくぞくと来て大童なのだが、今日みたいな休日は最初の30分なんかはかなり暇だ。コーヒーにつけて出すゆで卵もいつもならあらかじめいくつか小皿に分けて置くのだけど、今日はカウンターのバスケットにまだこんもりと盛ってある。その光景はまるで平和の象徴のような安心感を私に与える。しばらく待っても客が1人も来ないので、私はトイレで簡単な化粧を済ませ、カウンターにかけて蓮さんが淹れてくれたアメリカンをゆっくりと飲んだ。「原稿はどんな感じ?」「うん、方向性はだいぶ定まってきたからあとはそれを形にしていくだけかな」「なるほど、ついに俺の息子がミコが手がけたゲームをやる日がくるんだなあ、あっ今のうちサイン貰っとこうかな、店に飾るわ」「蓮さんってば気が早すぎ」蓮さんはことあるごとに茶化すけど、芯のところでは私のことをそのつど気にかけてくれているのが私にはありありとわかった。嬉しいことだ。
 そうしていると、程なくして客がちらほらと入り出した。休日の朝は老人ばっかりだ。常連のみんなはお話し好きで、四方山話や身の上話を滔々と聞かせてくださる。いつものように私は給仕や食器洗いをこなしながらそれにふんふんと頷いた。でも頭の中は原稿の続きのことでいっぱいだった。先週、駆け出しライターの私に初めてクライアントからSNSのダイレクトメッセージで、ソシャゲのシナリオの執筆依頼が来たのだ。それは聞いたことないような小さな会社で、その依頼されたゲームも予算的にみてメインストリームに敵うポテンシャルがあるとはとうてい思えなかったが、なにせ執筆の依頼が来ることなんて初めてだったので、私は半端ない緊張ととめどなく沸いてくる意気込みでここ一週間ギンギンだった。原稿のことを考えると下腹のあたりがヒュンとする。これは誰もが知っているRPGのシナリオを手がけるという私の夢への第一歩だし、なにより、就職せずに創作活動に専心することにした私の決意が報われた心持ちだった。それはどう考えてもぜんぜん早計なのだけれど。とにかく、私は今とても浮かれていた。
 正午前あたりから客足が徐々に増しなかなか忙しな���、あっという間に15時になった。退勤まであと1時間だ。
「いらっしゃい。おっ荘くん」だしぬけに蓮さんの��らかな声が厨房から客席に向け広がる。荘くんが来ると、蓮さんは私を茶化す意味でわざと私に呼びかけるような声音で叫ぶのだった。これもいつものことだ。
 私はお気に入りの窓際の2人がけのテーブルにギターケースをすとん立てかけて座る荘くんのところへ注文をとりにいった。心臓の音が高鳴るのが荘くんにばれている気がした。
「いらっしゃい、今日はスタジオ?いよいよ来週だね。」
「そうだな、あっ、チケット忘れんうちに今渡しとく」
荘くんにひょいと渡された黄色いチケットにでかでかと、
「jurar 初ワンマン!」と書いてあった。その楠んだチケットのデザインは全体的に少し古くさい気がした。
「ついにだね」
「うん、絶対に成功させるよ、やっとここまでこれたんだ。そろそろ俺たちもプロへの切符を勝ち取りたいな」
「うん、私応援してるから」荘くんの襟足から煙草とシャンプーの混じったえも言われぬ匂いがかすかに漂う。それは、ほんとうのほんとうに良い匂いだ。
「サンキュな、ミコちゃんも頑張ってるもんな、俺も負けてらんないよ。あっ、そうそう、そういえば…明後日柴さんにアクアマターのライブ来ないかって誘われたんだけど、ミコちゃんあのバンド好きだったよね、もし暇だったら一緒に来る?蕗川ビンテージだよ。柴さんももう一人くらいだったらチケット用意できるから連れて来ていいって」
「いいの?行きたい!」
「よっしゃ、じゃあまたラインするわ」
「まじか…」私は心中でひとりごちた。まさかのまさか、こんな地味な女が荘くんにデートに誘われたのだ。注文伝票をレジに持って行き蓮さんのほうをちらと見てみた。すると蓮さんははにかみながらしゅっと素早く腰のところでガッツポーズを出した。私は心中でもう一度、「ま、じ、か…」と丁寧にひとりごちてみた。
 荘くんはブレンドを急いで飲み干して会計をし、「じゃあ」と去って行った。そうこうしているうちにやがて退勤時間となり、出勤してきた蓮さんの奥さんに引き継ぎをして、私はタイムカードを切った。「お疲れさまです」挨拶をして表口から店を出ると、スプリングコートのポケットに両手を突っ込んで含み笑いしているマチが立っていた。目が合った私たちはそのまま見つめ合った。一瞬、時間が止まったようだった。ピィ、ピィ、とけたたましい鳥の声が、狭い路地裏にこだました。
「オハヨ」マチは宣誓のように右手をしゅっと突き出してそう言った。
 マチの手は真っ白で、春のひかりをぼんやりと帯びていた。ぼんやりとその手を見ていると、なんだか眠くなった。
「マチ、何してたの?」
「さんぽ」
「起きたばっかり?」
「寝すぎちった」
 私は自転車を押してマチととぼとぼと散歩した。外は朝は肌寒かったけれど、今は歩いていると少し汗ばむほどの気温まで上がっていた。電線と雑居ビルたちに乱雑に切り取られた街の高い空を、鳴き交わしつつひっきりなしに飛び交う春の鳥たち、私たちはゆっくりと歩きながらそんな風景を見るともなく見ていた。
 私たちはそれぞれあたたかい缶コーヒーを自販機で買い、駅から少し離れたところにあるたこ(多幸)公園へたどり着いた。私とマチは予定のない天気のいい日にはよくここで何となく過ごす。
「そういえばさ」
「ん?」
「さっき店に荘くんが来てね」
「なになに?」ブランコに座っているマチは両足をばたばたとせわしなく蹴っている。
「「明後日アクアマターのライブに誘われたんだけど一緒にこないか」って」
「デートか!」
「そういうこと」
「やったー!」マチはブランコからたんっと飛び降りて両腕を上にぐんと伸ばして叫んだ。
「いや、誘われたの私だし」
「わがことのようにうれしいっ」
「よーし今日はなべだー」マチは私に背を向けて起き上がった猫のように盛大なのびをした。
「なべ、若干季節外れじゃない?」
「めでたい日は鍋パって相場がきまってるのよっ。ミコの恋愛成就を祝って今日は私のおごりで鍋だー」
「マチってば気が早すぎ」
私たちはスーパーでたくさん鍋の具材と酒とつまみを買って、大きなレジ袋を2人で片側ずつ持って帰った。2人でわいわい作った鍋は多すぎて全然食べきれなかった。飲みまくって酔いつぶれた私たちはリビングでそのまま気を失い、翌朝私は風邪を引いていた。私がなにも纏わず床で寝ていたのに対して、マチが抜け目無く毛布を被ってソファーを独占していたのが恨めしかった。
 荘くんは待ち合わせの駅前のマクドナルドへ15分遅刻してきた。10分でも20分でもなく15分遅れるというのがなんだか荘くんらしいなと私は妙に感心した。「蕗川ビンテージ」は私の家の隣町の、駅のロータリーから伸びる商店街の丁度真ん中のあたりにある。私はこの街に来たことがなかったのでライブハウスまで荘くんが先導してくれた。風は強く、空は重く曇っている。商店街や幾本かの路線でごちゃごちゃしたこの街は、私とマチが住んでいるところに比べてなんだか窮屈な感じだった。前を歩くやや猫背の荘くんに付いて駅からしばらく歩くとやがて「蕗川ビンテージ」に辿り着いた。荘くんが「あそこ」と指を指してくれなかったら私はそれがそうだと気付かなかっただろう。「蕗川ビンテージ」はどう見てもただの寂れた雑居ビルだった。よく見ると、ぽっかりと空いたビルの地下へと続く入り口の前に「アクアマター」のワンマンの掲示があった。その入り口の前に、いかにもバンドマンといった出で立ちの5人の男女が談笑していた。若いのか、それとも私たちよりずっと歳上なのか、いまいち判然としない風貌の人たちだった。その5人はやって来た荘くんを認めると手を振り、荘くんはそれに応えて私をほったらかしてポケットに手を突っ込んだまま5人に駆け寄った。荘くんが1人の男の横腹を肘で小突く、するとその男は笑いながら荘くんにヘッドロックを決め、ほかの人たちもげらげらと盛り上がった。どうやら荘くんととても親しい人たちらしい。少し話すと荘くんは突っ立っている私のほうに戻って来た。それから私の手を引いて、地下への階段を降りて行く。荘くんが近い、かつてないほどに近い荘くんのうなじから、シャンプーと煙草が良い塩梅に混じった私の好きな匂いが漂ってくる。匂いはたしかに近いけれど、暗すぎて当の荘くんの姿がよく見えない。なにかがずれている気がした。私たちは、どこか歪な気がした。私たちが、というか私だけが明らかに場違いだった。「マチは今どうしているだろう、そろそろ帰ってる頃かな、晩ご飯は私がいないから今日は外食なんだろうな」好きな男に手を引かれているというのに私の頭に浮かんで来るのはマチのことだった。やれやれ。
 2人分のチケットを荘くんが受付の初老の男に手渡す、そして荘くんはまたその男としばらく談笑し始めた。「ちょっとお手洗い行ってくるね」と私はその間に用を足した。戻ってくると受付の前に荘くんを中心に人だかりが出来ていた。荘くんの周りにおそらく10人以上はいたが、その中の誰1人として私の知っている顔はなかったし、荘くんを含め、そこに誰1人として私のことを気にする人はいなかった。私はまるで透明人間にでもなったかのような心持ちだった。あそこで人の輪に囲まれ楽しそうに話しているあの人はいったい誰なんだろう。いつも「鯤」に来て親しく話してくれるあの人。私がいつか「アクアマター」が好きだとこぼしたことを覚えてくれていて、デートに誘ってくれたあの人。でも冷静に考えると当たり前のことだったのだ。界隈で突出した人気を誇る若手バンドのフロントマンの荘くんと、街の隅でこそこそと暮らしている私みたいな誰も知らない地味な女なんて、そもそもステージが違うのだ。私は知らないライブハウスの柔らかくて厚い防音材の壁にもたれながら、誰にも知られず夜空でひっそりと翳りゆく月のように、緩やかに卑屈になっていった。誰かここから連れ出してくれないかな、これがまさしく「壁の花」ってやつね。卑屈の次にやってくる自嘲。思えば幾度も覚えたことのある感覚だ。いままでに縁のあった男はみんな、折々こんな風に私のことをないがしろにした。
 ほどなくしてライブが始まった。ライブは、よかった。横にいた荘くんは頻繁に何処かへ消えた。たぶん、知り合いの誰かと話しに行っているのだろう。そう、ここでは私以外のみんなが知り合いなのだ。ライブの終盤、ストロボが瞬くクライマックスの轟音の中荘くんは強く私の手を握ってきた。私はそれを知らんぷりした。スモークの甘ったるい匂いがやけに鼻についた。ライブ自体は、本当によかった。
 外に出ると小雨が降っていた。荘くんはライブの終わりからずっと私の手を握ったままで、駅の方へ私を引いて歩いていく。私はなにも考えずにそれに従う。疲れて、頭がぼーっとしていた。商店街の出入り口のアーチの辺りで、荘くんは「じゃあいまからウチで飲もっか」と切り出した。私はまっぴらごめんだと思い「えーと今日はもう帰ろうかな、明日も朝早いし…」と丁重にお断りした。
「別にいいじゃん、ご近所さんなんだしバイトは朝、俺の部屋から出勤すれば」荘くんはしつこかった。
「いやーやっぱ何だか悪いしルームメイトもいるんで今日は家に帰ります。今日はほんとにありがとう」
 私は返答に窮して言い訳にならない言い訳を口走っていた。そのとき私ははっと息をのんだ。荘くんは怒っていた。彼の表情こそ変わらないが、私なんかにプライドを傷つけられたこの男が激怒しているのがわかった。
 それから突如荘くんは声を荒げ
「んだよ、俺とヤりたいんじゃなかったのか?」
 と今まで私が聞いたことのない荒荒しい声音で言い放った。そのとき私は頭が真っ白になった。私はこの人が何を言ってるのかわからなかった。信じられなかった。この人も自分が何を言っているのかきっとわからないに違いない。そうであってほしい、と私は願った。
 私はいつの間にか私の肘を強く掴んでいた彼の手をばっと振り切り、夢中で駅まで走った。後ろであの人がこっちに向かってなにか喚いている気がした。私はそれから逃げるために全力で走る。とつぜん視界がぐにゃあと歪んだ。音のない雨は、いつのまにか本降りになっていた。頬を伝って落ちる生温いものが春の雨なのかそれとも涙なのか、わからなかった。
 マチは私に何も訊ねなかった。あの夜ずぶ濡れで帰ったきた私の
様子を見て何となく察したのだろう。お風呂から上がってきた私に何も言わずに中華粥を作ってくれた。荘くんはあの日以来鯤に来ることはなくなった。蓮さんは
「まあ今回は縁がなかったってだけさ。月並みな言葉だが男なんて星の数ほどいるんだぜ」と慰めてくれた。
 でもそれを言うならば女だってそうだ。それこそ私は荘くんにとって星の数ほどいる「都合のいい女候補A」にすぎなかったんだ。私はまた卑屈になっていた。このことをマチに話すと「処置無しね」の表情をされた。マチの「処置なしね」の表情。白いつるつるの眉間に少し皺が走りいたましげに私の顎辺りに視線を落とすこの仕草が私は密かに好きだ。ソシャゲの依頼はなんとか納期に間に合ったが、私は次の賞に挑む気力が沸かなかった。スランプに陥ってしまったのだ。なんだかどうしても力が入らなくて、私は湯葉のようにふやけてしまっていた。このままなんの意思も目的も持たず、たゆたうクラゲのように何処かへ攫われてしまいたかった。あの失恋で、まるで私とこの世界とを繋いで私を立たせているピンと張った一本の糸が、ぷつりと切れてしまったようだ。私は休みの日のほとんどを寝て過ごすようになった。
 私が一ヶ月以上もそんな状態だったので、放任主義のマチもさすがに見かねたらしく、「ミコ、餃子をやろう」と私に切り出した。パジャマの私はソファでクッションを抱いて寝転びながら「うぇえい」と曖昧に返事した、ミコが「マチはかわいいなあ」と言って後ろから抱きつこうとしてきたが私はそれをひょいと躱し、勢い余ったマチはフローリングでおでこを打ち「ぎゃっ」と叫んだ。そのとき私に被さったミコの身体はとてもひんやりとしていた。
 餃子の買い出しから仕度まで殆どミコがやってくれた。私はソファに寝転んで夕方のニュースを見ながらミコが手際よく餃子を包んで行くのを背中で感じていた。辛い時は甘えられるだけ相手に甘え��のが私たちの生活の掟なのだ。私とマチは、いまままでずっとそうやってきた。
「いざ!」待ちくたびれて私がうつらうつらし出した時にマチは意気込んで餃子を焼き出した。しゅわあと蒸気が立つ音とともに、むわっとした空気がリビングに立ち込めた。私は薄目でせかせかと餃子を焼くマチの背中を見ていた。「このまま帰りたくないな」そんな素朴な気持ちが不意に、去来する。私たちには他にいるべき場所があって、いつまでもこの生活が続くわけないのはお互い、何処かで理解していた。けれど私たちはそれに気付かないフリをしている。
 マチの背中って小さいんだなあ。そんなことを考えると何だか目頭が熱くなってきたので、私は寝返りをうち、狸寝入りを決め込んだ。クッションに顔を埋めてきゅっと眼を瞑っていると、まるで幽霊になって、空中を漂いながらミコのことを見守っているような、ふわふわと暖かくて寂しい気持ちになった。
「ほらほら引きこもりさん、餃子が仕上がって来たわよ。テーブルにお皿とビール出しといて」
「あいさー」
テーブルの皿に綺麗に連なって円になっているマチの餃子はつやつやでぱつぱつだった。マチは餃子の達人だ。マチよりおいしい餃子を作る女を私は知らない。
「じゃあ、餃子にかんぱーい」
「かんぱーい」
最初の一皿を私たちはあっという間に平らげた。
「じゃあ第2波いきまーす」
「いえーい」
マチは餃子をじゃんじゃん焼いた。私がもう食べられないよと喘いでも取り合わず焼きまくった。マチは何かに取り憑かれたようにワインを呷りつつ、一心不乱に餃子を焼き続けた。「餃子の鬼や…」私がそう呟くとマチはこっちを振り向いてにいっ、と歯を出して笑った。
 餃子パーティも無事に終わり、私たちはソファで映画を見ながらワインをちびちびと飲んでいた。
「ミコ、この映画つまらないね」
 マチがずっと見たいと言っていたから私がバイト終わりに借りてきてあげた映画だった。
「たしかに、脚本は悪くないけど演出が単調だね」
 マチは冷蔵庫から新しい缶チューハイを持って来てぐびと勢い良く飲んだ。それから酒の勢いを借りたようにこう言った。
「ミコ、屋上に行こうか」
 私は缶ビール、マチは缶チューハイを片手に最上階の廊下のフェンスを跨いだ。マチは私の手を引いて真っ暗で何も見えない中、屋上へと続く鉄骨階段を上がっていく。あれだけ餃子を焼いたにも関わらずマチの手は冷たかった。たん、たん、と微妙にずれたふたつのゆっくり階段を踏む冷たい音が闇の中密やかに響く。酒気を帯びたマチのにおいがする。なんだか懐かしいにおいだ。毎日のように嗅いでいるはずなのに。私はマチをぎゅっと抱きしめたかった。
屋上は無風だった。しんとしていて、まるで世界が止まったみたいだった。私たちの住むマンションは台地のてっぺんに建っているので、屋上からは街が良く見渡せる。酒の缶を持った私たちは並んで囲いの柵に凭れて、街の灯をぼんやりと眺めていた。不意にささやかな音で聞き覚えのあるイントロが流れ出した。最初はか細い月明かりのような調子のその曲は、やがて雲の隙間から抜け出して鮮烈な満月となる。
「Tomorrow never knows」
 私はこの曲を聴いた時にいつもこんな印象を受ける。いつかマチはこの曲のことを夜の森の奥で誰にも知られずに燃える焚き火みたいと言っていた。思えば、性格がまるで違う私たちを繋ぐきっかけとなったのはこの曲だった。
 
 あれは私がまだ大学一年生のときの冬だった。私はサークルの先輩に合コンに来てくれと頼まれて不承不承承知した。相手は同じ大学の違うサークルの連中だった。明らかに人数合わせで参加した合コンだ、面白いはずもなく、私はうんざりした。いつ「じゃあ私はこの辺で…」と切り出そうかずっと迷っていたが、二次会のカラオケにも流れで行くことになってしまった。そしてそのカラオケに遅れてやって来たのがマチだった。先輩の説明によると、マチは男側の知り合いだそうだ、それで先輩とも面識があったので呼ぶ運びとなったのらしい。部屋に入って来たマチを見て私は「きれいな女の子だなー」とうっとりとした。マチは空いていた私の横にすとんと座った。思わず頬が緩むようないいにおいがした。スキニーを穿いた華奢な脚のラインが綺麗で、横に座っていると、私の若干むくんだそれと比べずにはいられなかった。マチは終止にこにこしていた。男たちは明らかにみんなこの場で一番綺麗なマチを狙っていた。私は半ばいやいや参加したとはいえ、やはりみじめな気持ちだった。下を向いて鬱々としていると私にマイクが回って来た。あまり歌は得意ではないのだが…と思いつつ私は渡されたマイクを掴み、ええいままよとミスチルの「Tomorrow never knows」を歌った。歌っている時にマチがじっとこっちを見ていたのを不審に感じたが私は気付かないふりをして歌いきった。合コンはつつがなく終わった。解散してターミナル駅のコンコースを歩く私たちの集団は1人ずつ空中分解していき、やがて私とこの初対面で良く知らないマチという女の子だけが残った。私たちは無言で微妙な距離を保ちながら並んでしばらく歩いた。
「私って合コンとか苦手なんだ~」やにはにマチが間延びした調子で呟いた。それからふわあと大きなあくびをした。私はその様子を見てなんて美しいひとなんだろうとうっとりした。合コンのさなか、表面上は取繕っていたが、明らかに退屈そうにしていたのも見て取れたので、私はマチに好感を抱き始めていた。
「なんか私同世代の男の子って苦手だな、何話したら良いかよくわからないし」
「私もああいう場は少し、苦手」
「ねえ、お腹空かない?」
「ちょっぴり」
「ラーメンでも食べにいこっか」
「うん、いいよ。この辺?」
「うん、北口からちょっと歩いたところにおいしいラーメン屋があるんだ。塩ラーメンなんだけど、大丈夫?」
「大丈夫、���ラーメン好きだから」
「それではお嬢さま、エスコートいたします。」
 とマチは腰を落として片足を後ろに引く紳士の挨拶のポーズをした。
「で、では、よろしく」
 私もコートの腰のところを両手でつまんで膝を曲げ淑女の挨拶でぎこちなく応じる。
 私たちは改札の前で踵を返し、ラーメン屋へと向かった。
「ミスチル、好きなんだね」
「うん、親の影響なんだけど」
「私も好きなんだ。だから、君がさっき歌ってたとき嬉しかった。周りに音楽の趣味が合う人がいなくってさ、ミスチルとか今の若い人もうあんまり聴かないもんね」
「うん、カラオケとか行くとみんな今時の曲ばっかり歌うもんね。特に合コンなんかだと顕著」
「男も女もなんだかんだ言っても最終的に画一性を自分に強いたほうが楽なのだということなのかも知れんね。ところで君、名前は?」
「私はフジサワミコ。あなたは?」
「私も名前二文字なんだ。湊マチ」
「みなとまち」
「マチでいいよ」
「わかった、私のこともミコって呼んでよ」
「そうだ、ハタチになったら一緒に飲みにいこうよ。ライン交換しよ」
 
 それがきっかけで私たちはことあるごとに2人でつるむようになった。私がこっぴどく振られた時も、マチの就活が難航を極めていたときも、いつも酒なんかを飲みながら互いに慰め合った。ルームシェアをしようと言い出したのはマチのほうからだった。それは私が就職を諦め夢を追うことにするとマチに打ち明けた次の日だった。
「私はミコがどんなでもそばにいてあげるよ」
 マチはことあるごとにこんなことを言うのだった。
「どんなのでもって、もし私がアメーバみたいな真核生物でも?」
「アメーバでも好きだよ」
「私も、マチがアメーバでも好き」
 赤ら顔の私たちは屋上で「Tomorrow never knows」を歌った。
「はーてしなーいやみのむーこうへーおっおー てをのばそー」
呂律の回らない舌で私たちは叫びながら柵の向こうへ両手をぴんと伸ばした。伸ばした指の先に、滲んでぼやけた街の灯りたちが、きらきらと輝いていた。
 
 私はそのプロポーズを受けることにした。相手は麗さんという人で、マチの紹介で知り合った10歳上の高校の生物の教師だった。マチはあの失恋以来落胆している私を励ますために、荘くんとは真逆のタイプの男を紹介してくれたのだった。交際は、以前の私ではとても考えられないくらいにうまくいった。私は素敵な男をあてがってくれたマチに心の底から感謝した。彼はとても良く尽くしてくれたし、私も彼のことがとても好きだった。彼と付き合い出してから、彼の家に泊まって部屋に帰らないこともしばしばあった。そして私と対照的にマチはその頃からだんだんと不安定になっていった。なにかといらいらしてたまに私にあたるようになったのだ。私は何故そうなったかマチに聞くこともなかった、何となく察しがつくだけに余計聞く気がしなかった。喧嘩も私が帰らなくなった日のぶんだけ増えていった。
 ある日3日間麗さんの家に泊まってから帰ると、私の部屋のものが全部廊下に放り出されていた。
「なにこれ」私はこっちを振り向きもしないリビングでソファにかけてテレビを見ているマチに問いかけた。
「もう出て行くのかと思って部屋を片付けといてあげたよ」
「ばかじゃないの?ほんとガキだね」
 なんてみっともないんだ。私にいつまでもこだわって、ばかばかしい。
 ずかずかと歩いてリビングに入ると不意にマチが振り向いてこっちをきっと睨みつけたので私は立ち竦んでしまった。
「ミコ、ミコの夢は、努力は何だったの?なんで…そんなに簡単に諦めるの?」
 マチの声は掠れていた
「前にも言ったけど私には才能がないんだしもう筆を折ったんだよ」
「なんでも手に入れることのできるマチには私のことはわからないよ。知ったような口を聞かないで」
 私はいつしか心の何処かで自分の夢と、マチから解放されたいと思い始めていた。
「そういえば言ってなかったんだけど私あの人にプロポーズされたんだ」
マチはまたテレビの方を向いて石像のように固まって何も言わなかった。
「おめでとうとか、ないの?」
マチは依然としてだんまりだった。
 そのとき、私の頭のなかでぐわん、という音がした。誰かに後頭部を殴られたような衝撃だった。それから涙が、とめどなく溢れてきた。私は泣きながら廊下に放り出された荷物を出来る限りまとめた。それから麗さんに電話をしてワゴンを出してもらい部屋の私の家具や持ち物を全て、3往復して麗さんの家に運んだ。それっきり、あの部屋には二度と戻らなかった。それはあまりにもあっけない幕切れだった。麗さんは「人のつながりなんて、そんなもんさ」とやけに達観した口ぶりで私を慰めてくれた。3ヶ月後に披露宴の招待をマチにラインしてみたが既読すら付かなかった。
 
 「もう、終わりにしよう」
 別れを切り出したのは英治のほうからだった。英治はセックスが終わってしばらくして呟くようにそう言った。実のところ私は、英治のほうからそう言ってくれるのをずっと待っていた。いかにも安ラブホテルの調度品といった感じのチープなガラスのテーブルの上の、パフェ皿の底に残って溶けたソフトクリームがピンクの照明を反射しててらてら光るのを、私は裸でシーツも被らずに茫然と眺めている。英治がシャワーを浴びる音が聞こえる。英治が上がったら私もシャワーしなくちゃ。…どうしてこうなっちゃったんだろう…どうして。やにわにテーブルに起きっぱなしのスマホが震え出した。ガラスの上でがちゃがちゃ騒ぎ立てるそれに私はいらっとして。ぱっと手に取った。その画面には「麗さん」と表示があった。
「来月の裕太の体育祭どうする」
 メッセージの内容はこれだけだった。私はスマホの画面を暗転させて枕元にぽんと投げ捨てベッドに潜り込んだ。麗さんと英太にはもう一年以上会っていなかった。毎日仕事漬けで夫と子供を捨てて出て行き、愛人と日中に安ラブホにしけこんでいる私のような女が今更どの面下げて元伴侶と息子に会いに行けばいいんだ。いやだ、このままなにもしていたくない。この地の底のような穴ぐらで、誰にも干渉されずにずっと踞っていたい。
「ミコ、ミコ、ミーティングに遅れちゃうよ。起きて」
そうだ、私は次の作品の企画ミーティングに行かなければならない。何せビッグタイトルのナンバリングだ。集中しなければ。
ミーティングはかなり難航したもののなんとかまとまった。私も英治も、いつものようにメンバーに振る舞った。私たちの関係に気付いている人は、どうやら1人もいないようだった。帰りがけに私と英治は小さな居酒屋に寄った。ここは私たちが関係を持ちだしたころ英治が教えてくれた店だ。
「今度のプロジェクト、うまく行くといいな」英治は燗を呷って少し上機嫌になっていた。昼間のラブホテルでの言葉を取繕うためなのかもしれない。
「なんたってミコには実績があるもんな。大丈夫、ミコならこの先一人でもうまくやっていけるさ」
「聞きたくない…」
「え?」
「「聞きたくない、そんな言葉」」
 私は思わずそんなことを口走りそうになったが、かろうじてそれを飲み込んだ。
「英治はどうなの」
「どうって?」
「この前も辞めたがってたじゃん。この仕事、自分に向いてると思う?」
 そうだ、私が英治の仕事や家庭の愚痴を聞いてあげるようになったのがこの関係の始まりだった。
「うーん…向いていようが向いてまいが、俺にはやるしかないな。やっぱり何度も言ってるけど、自分の夢のために邁進してきたミコと俺はスタンスが違うよね、それに俺…」
「俺?」促しても英治は先を言うのを躊躇うので私はいらいらした。握りしめた水割りを私はぐいっと飲んだ。
「俺…2人目ができたんだ…」
「ふうん、おめでとう、ね」
「そうなんだ、だから、この関係もそろそろ潮時なのかなって。」
 私はカウンターに万札を叩き付けて店をあとにした。なにも英治に腹が立った訳ではない。私は全てがいやになってしまったのだ。夢も、仕事も、家族も。
「違う…私は…私は…」
 私は無意識にそう呟きながら明後日の方向へ駆け出していた。後ろで英治が私を呼びかけながら付いてきていたが私はその声がしなくなるまで走り続けた。走って走って、私は知らないバーに駆け込んだ。それからジャックダニエルのロックを注文した。なにも考えたくなかった。ぼうとそれをちびちびなめていると、やにはにスマホがポケットのなかで震えた。英治がなにか取繕うためのメッセージを送ってきたのかと思い私はうんざりしながら画面を見た。しかしそこに表示されていた名前は「英治」ではなく「マチ」だった。
私は反射的にスマホをカウンターに伏せて置いた。そしてウイスキーを飲み干しておそるおそる画面をタップして内容を確認すると。
「久しぶり、突然ですみません。今度会えませんか。」とあった。
私は胸がざわざわした、けれどもう何も考えないことにした。すぐにマチに「いいですよ」と返信した。
 待ち合わせは2人が分かりやすい場所が良いとのことで「鯤」にした。私は待ち合わせの時間より少し早くに鯤に来た。
「いらっしゃい。おお、ミコ」
 蓮さんは最近白髪が増えたものの相変わらず元気だった。私は鯤には昔のなじみで今でもたまに来るのだ。
「ごぶさたじゃないか。仕事忙しいのか。なんか、顔が疲れてるぞ」
「うん、ちょっと最近いろいろあって、でも大丈夫だよ、ありがとう」
 蓮さんはいつでもぶれずに蓮さんなので話していると私は安心する。蓮さんって私にとってオアシスのような人だ。
「今日ね、マチと会うんだ。ここで待ち合わせしてるの」
「マジで!すごいな、何年振りだ?」
「10年振り…」
「そうか、あれから10年も経つのか…なんかあっというまだな」
「うん、いろいろあったね」
本当にいろいろあった。でも、私とマチの時間はあの時のまま止まっている。私が部屋を飛び出したあの日のまま…マチはいったいどうしていたのだろう。
 私は緊張してテーブルにかけて俯いていた、しばらくしてドアに取り付けたベルがからん、と鳴った。顔を上げると、入り口にスプリングコートを着たマチが立っていた。そのシルエットは背後から射す春の陽射しに象られていた。
「おおお、マチちゃん!久しぶりー!」
「マスター、お久しぶりです。」
「相変わらずべっぴんさんだね。ここに2人がいるとなんだかあの頃に戻ったようだな。ゆっくりしていってな」
「マスターも相変わらずみたいで。ありがとうございます」
マチははにかんだように微笑みながら、私の向かいに掛けた。私は気恥ずかしかった。何を話したらいいのか全くわからない。マチもそうなのだろう。ずっとそわそわして後ろを振り向いたりしていた。私はマチが少しだけふくよかになっていることに気が付いた。
しばらくしてマチが話し始めた。
「最近いろいろあって考えたの…私どうしてもあのときのこと謝っておきたくて…寂しくてミコを傷つけることしかできなかった。ミコがいないとだめなのは自分のほうなのに、そして、そう思えば思うほど心細かった。こんな風にミコを呼び出して謝るのも独りよがりだけど。どうしてもそれだけは伝えたくて、ほんとにごめんね、ミコ」
そう言ったマチの眼から涙がひとすじ流れ落ちた。
 そうか、みんな寂しかったんだ。私とマチだけじゃない。麗も、英治も、それから荘くんだって。ミコの涙を見て私のなかで何かがはらりと落ちていった。それはたぶん、いつの間にか私の心に巣食っていた「あきらめ」のようなものだった。
「いいんだよ、マチ、もういい」
「あ、あり、ありがとう、ミコ、うわーん」
 マチはぐしょぐしょに泣いてバッグから出したハンカチで顔を抑えていた。ほかの客もびっくりして、カウンターに掛けているおばあちゃんも「あれあれ」と茶化してきた。私もつられて泣きそうになったがこらえてマチの手をとって店の外へ出た。
 私は泣き止んできたマチの手を引いてしばらく歩いた。
「見てマチ、ここのスーパーでよく買い物したよね」
「あっこの公園覚えてる?よくブランコ漕ぎながら酒飲んだよね」
 マチは鼻をすすりながら「うん、うん」と相槌をうつ。
春の気持ちのいい暖かい風が、懐かしい気持ちを呼び起こす。マチの手は、あの頃と同じで冷たい。
 私はマチの手を引きながらマチとの部屋を後にしてからのことを吶吶と話した。結婚して間もなく、昔穫ったグランプリの作品を目にしたディレクターに大手ゲーム会社のシナリオライターとして抜擢されたこと…麗さんとの子供が産まれたこと…仕事が多忙なのが原因で離婚したこと…仕事が忙しすぎて疲れていること…同僚の不倫相手との関係が終わったこと…
 マチは私のところどころくすりと笑いながらただ聞いてくれていた。
「ぜんぶミコだね」
「え?」
「恋愛でポカするのも、仕事や夢に疲れて参っちゃうのもぜんぶあの頃と同じミコだ。ミコは私が知らない間もミコをやってたんだね」
「たしかに、全部わたしだ。わたしらしい…わたし」
 そしてマチもずっとマチだ。あの頃と同じ、強い肯定も否定もせずただ私に寄り添ってくれる。そんなマチを見ていると今日の朝までずっと私を苛んでいた罪の意識や漠然とした憎悪が緩やかに解れていった。
「ねえマチ」
「ん?」
「屋上に行かない?」
私たちの住んでいたマンションはまるでタイムスリップしたかのようにあの頃と同じで、どこも全く変わっていなかった。
 いけないことと知りつつ、私はマチの手を引きそうっと忍び足で、屋上への階段を昇る。
 私たちは昔のように並んで囲い柵によりかかり街を見渡した。
「どこもかしこもなーんにも変わっていないね」
「そだね、あ、でも私は少し変わったかも」
「どんなところが?」
「私、結婚するんだ。式は挙げないことにしたんだけど。それでね、今お腹に赤ちゃんがいるの」
「え?」
私は不意をつかれて唖然とした。
「何ヶ月?」
「3ヶ月」
「えーっと…夫さんはどんな人?」
「優しい人だよ、今の職場で知り合ったの」
「おめでとう、マチ」
「ありがとう、ミコ」
私たちは手を繋いだまま顔を見合ってくしゃっと笑った。
「これ、覚えてる?」
 私はスマホのプレーヤーを開いて再生をタップした。
「うわ、懐かしい、私今でも聴いてるよ」
「私も聴いてる」
 あの夜この屋上でマチと一緒に歌った…そしてマチと私を繋ぐきっかけになったこの曲。
「Tomorrow never knows」
 私たちはあの頃を思い出しながら小さな声で一緒に歌った。これまでと、これからの全てが、発酵するパン生地みたいに私のなかでふわり広がって行った。
 心のまま僕は行くのさ、誰も知ることのない明日へ
 そうだ、私とマチは私とマチのままで、あの頃のような万能感はなくともしっかりと歩いて行くんだ。癒えない傷を抱えながら。あらゆる柵に絶えながら。
 私たちの目の前には、霞がかってぼやけたなんでもない街が広がっていた。
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cvhafepenguin · 5 years
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待ち人(ゲートのゆうれい)
朝から雨が降っていた。ビニール傘をさして待ちに向かう。雨の音、人々のさざめき、車の湿っぽい走行音、目を瞑り耳を澄ましてそれぞれの断片をとらえてみる。とらえたそれらは意味を成さず、足元の水たまりに立つ波紋のように実存のかなたへとすり抜けていく。どこもかしこも見たことのあるいつもの景色のはずだけれど、俺はなぜか奇妙な違和感を覚えた。分断されているような感覚があった。商店街のアーケードのゲートに備え付けられたベンチには人が疎らにいた。誰もがどこからかここへやって来て、やがておもむろにどこかへ去って行く、その退屈を持て余した幽霊のような人々の様子はまるで、自分自身が去るのを待っているかのよう。気が熟すまでみんな、虚ろな目をしてスマホを弄ったりタバコを吸ったり缶コーヒーを飲んで過ごしている。俺も皆と同様に呆けながらここで誰かを待っている。しかしその"誰か"が誰なのか���うまく思い出せない。恋人か、意中の女か、友達か、兄弟か、それとも親か、はたまた商談の相手か、俺は毎週土曜日の13時から適当な時間までここでこうして待っている。確かなのは、俺はこうやってここでぬけがらになって佇んでいると心が休まるということだけだ。煙草に火をつけるとたちまち濃い煙が立ち昇る。雨の日の煙草は、甘い。突如、ぼやけた記憶の輪郭が、レンズのピントを絞ったように徐々にはっきりとしてくる。それにつれ俺のまどろみは深くなる。やがて知覚できるものは雨と俺だけになり、いつのまにか眠りに落ちていた。目を覚ますとはす向かいに大きな白い犬を撫でている老婆が座っていた。老婆はこちらをじいっと見ている。その表情はなにやら怒っているようで、俺は居心地が悪かった。へどもどしていると、やにはに老婆が立ち上がりこっちにのろのろと歩み寄ってきた。賢そうな犬は律儀に座って待っている。老婆は俺をきっと睨みつけたまま色褪せた花柄のポーチをごそごそ弄りだした。老婆はポーチの中からビニールで包んだ大きなオレンジをようやく取り出し、それを無言で俺に差し出した。どうやら食えということらしい。俺はそれを両手で受け取って皮を剥いて食べた。はす向かいのベンチに戻った老婆はその間、犬を撫でながらずっと怒った顔で俺を睨んでいた。老婆の強張った表情とは対照的に、犬はずっと舌を出して笑ったような顔をしている。オレンジを食べ終わると発つ気分になったので俺は皮をゴミ箱に放り投げ、ゲートを後にした。いつのまにか雨は止んでいた。
私は見ている、アーケードのゲートの広場を見渡すことができるこの喫茶店の二階で、人々がゆるやかに入れ替わり立ち替わりする様子を。うらぶれた商店街のゲートにはモノクロの世界が展開する。そこにはまどろみはあれど緩急やドラマチックな出来事など決してない。私はこのゲートの様相を卒業制作の題材に選んだ。授業やバイトのない休日にここに足を運んではその都度観察し、スケッチを重ねている。ここでぼうと鉛筆を走らせていると、私がどんどん透明になっていくのを感じる。私を殴る恋人のことも、いけ好かないゼミの女どもも、ここでこうしていると一様にどうでもよくなる。ゲートの人々の流れは緩慢だが淀むことはなく、ひそやかなレーテーだった。いつのまにか私もモノクロの世界に埋没し、取り込まれていた。
その人はもしかしたら最初からずっといたのかもしれない。土曜日の13時にいつも同じ男がやってくることに私は気づいた。その人は虚空を見据えてただ呆然と座っている、その人はたまにタバコの煙を吐いてはまた固まって動かなくなる。その人は極端に華奢で、手足は長く、肌は透き通ったように白くて、なんだか輪郭がぼやけているように見える。その人はとくに理由なくゲートに現れては、突然何かに見切りをつけたように立ち上がり去って行く。滞在時間はまちまちだが、大体2時間、長くて2時間半くらい。きっと彼は何かを待っているに違いない。そして、報われないのだ。私はこの男を「ゆうれい」と名付け、作品の主要テーマに据えることにした。この「ゆうれい」を中心に、ゲートで交雑するモノクロの時間をキャンバスに描出するのが狙いだ。このテーマは、今の私の気分にぴったりに思えた。まずは観察を続け、一カ月分のスケッチを仕上げることにする。私がここに訪れるときには大抵天候が不順で、今日もしとしとと、音のない雨が降っている。
ゲートのベンチで今日もぼうと待ちながらタバコを吸っていた。緑の短髪の女が俺の背後で通話しているのがやけに耳につく。
「だから、そういうんじゃないって。」
「うん、うん」
「それは…わかるよ、でもだから前にも言ったじゃん」
「もうあいつには会わないでって」
「わかる?あいつ、次は何してくるかわかんないよ、マサヤなんか…違う!そういうことを言ってるんじゃなくて」
俺はそこで女の声を遮断した。ここでは聞こうとするとなんでも聞こえるし、聞きたくなければ自分の心の声だけしか聞こえない。ここでは全てのことがまぼろし、あるいは俺の記憶のようだ。背後の女はぺちゃくちゃ喋る俺の影みたいだった。また何かを思い出せそうで、でもやっぱり思い出せなかった。この前俺にオレンジを渡してきたあの白い犬を連れた老婆は今日は来ないようだった。少しほっとする。予報では晴天のはずなのに、どんよりと雲が厚い。雨が近い匂いがする、ひと雨来そうだな、と思っているうちに強い雨が降り始めた。傘を持ってきていない俺はゲートに閉じ込められてしまった。アーケードの中にあるコンビニに傘を買いに行ってもいいのだけれど、なんだか腰をあげる気力が湧かない。今の俺を何かに例えるならば、そうだな、気の抜けたぬるいコーラだ。広場の時計台を見上げるとその錆びた針は15時46分を指していた。俺は目の前の自販機で80円の温かい微糖の缶コーヒーを買い、もう一本煙草に火をつけた。背後の緑の短髪の女はいつのまにか消えていて、雨のゲートには俺一人しかいなかった。ここにはいろんな人がやって来るが俺が待っている誰かは今日も現れなかった。
今朝、新弥はまた私のことを思いきりぶった。きっかけは些細な口論だった。最近新弥が私を殴る頻度はどんどん増えている。新弥は私を殴った後にいつも私を強く抱きしめ泣く。私は切れた左の瞼から血を滴らせ、傷口が腫れてくるのを感じながら、ずっと新弥の頭を、ちょうど赤児を寝付かせるときにするように、撫でていた。私を殴った新弥の右手の甲に触れてみると、新弥はびくっと震えた。腫れ上がったそこは熱を持ち、どくどくと強く脈打っている。こうしていると、長風呂をしてのぼせたときのように、頭の奥がなんだかじいんとして、何も考えられなくなる。一日中暗い部屋…時間の感覚が曖昧で、カーテンの隙間から透き通った白い光が射し込んでいる…その温かなのは私たちの絶望をゆるやかに浮き彫りにする。まるでまぼろしのように…こんなこともうやめようと、幾度考えただろう。新弥から逃げないとだめだ、という気持ちと、この人(私)には私がいないとだめなんだ、という相反する気持ちが互いに入り乱れて私に去来する。このままでは私はばらばらになって消えてしまうんじゃないかーーいつもそんな思いに駆られながら、私はあのゲートへと向かう。そこにいるときだけ相反する感情を止揚し、今のありのままの私をスケッチブックにぶつけることができる。そうだ、もっともっと、透明になるんだ。あそこにいつも座っているあの「ゆうれい」みたいに。今日は予報では雨のはずなのに空には鉛のような雲が立ち込めている。まだ16時にもなっていないというのに外はまるで夜みたいに暗かった。やがて雨はだしぬけに降り出した。私は夢中で雨のゲートの様子をスケッチした。激しい雨は、ゲートを覆うベールだった。傘を持っていない「ゆうれい」は16時を10分過ぎてもまだゲートに座っていた。16時を回っても「ゆうれい」が去らないのは、私がここでスケッチを始めてから初めてのことだった。
自分でも一体どうしてこんなことになったのかわからない。私は「ゆうれい」の部屋で何かに取り憑かれたみたいに正座して壁を見つめながら、彼がコーヒーを淹れるのを待っている。私は無意識のうちに、何かの衝動に駆られ、まるでそうするのが当然とでもいうように、降りしきる雨の中傘もささずゲートから去った彼に走って追いつき、コンビニで買ったビニール傘を差し出していた。「あの…」と背後から声をかけても彼はなかなか気がつかなかったので、私は彼の前に回り込んで新品のビニール傘を差し出した。「ゆうれい」は面食らって私の顔というよりは私の左眼の眼帯を怪訝そうにじっと見つめていた。しばらく沈黙が続いた。その間、私たちの主観も客観も存在せず、ただ純粋に透き通る雨の音と匂いだけが確かだった。一瞬より長くしかし永遠よりは短い無色の時間が、私たちの間であぶくのように弾けて溶けた。頭上で不規則な数回の点滅を繰り返し、ようやく点灯した物憂い白色の街灯に「ゆうれい」の薄いもみあげにぶら下がる水の粒が照らされ煌めいた。「このままあなたの家に付いて行ってもいいですか?」私はまだ残っている私を彼のもとへ駆けさせた前のめりな熱の力を使いこう口走った。「ゆうれい」はきっと拒まない、私には確信があった。きっと「ゆうれい」は私が手がける作品にとっての私と同じように、彼もまた私の物語なのだと、私のこれまでとこれからのすべてが私に囁きかけていたからだ。それは理解を超えた感覚だ。不意をつかれた「ゆうれい」の顔がその刹那翳った。「いいよ…君、いつも喫茶店から見てたよね、雨で冷えるしコーヒーでもどう」きっと「ゆうれい」にも私と同じような確信があったに違いない。私はとぼとぼと歩く彼の後ろについて行った。「今財布持ってないから傘代は家に付いてから払うよ」彼は思い出してぼそっとそう呟いた。そう、「ゆうれい」はゲートへ訪れる際いつも右ポケットにわずかな小銭しかもっていない。私は彼のこの言葉を聞いて微かに胸が高鳴るのを感じた。しばらく歩いて「ゆうれい」の住むアパートにたどり着いた。「ゆうれい」の部屋にはパイプのシングルベッドとテーブルとラジオしかなかった。テレビはガラケーのワンセグでたまに見るくらいらしい。「ワンセグって、まだサービス終わってなかったんだ」驚いてそう言うと彼はこくりと頷いた、それは今にも消え入りそうな儚い動作だった。彼は本当に「ゆうれい」なのかもしれなかった。まあ私にはどちらでもいいことだけれど。
ーー私はずっと何か未知の流れに身を委ねたいと願っていた。そしてそれが今、始まっている。私はここでこの後彼に犯されてその後バラバラにされて山に埋められるかもしれない。けれど今の私は別にそれでも良いと感じてしまっている。いつも私は私以外になれないことが悔しかった。絵を描くのも、我という呪縛から解き放たれるための足掻きだ。私の逃避行はどこまで続くだろうか、それは今この瞬間に終わるかもしれないし老いて朽ちるまで達成されないかもしれない、わからないけれど、とにかく今だ、今なんだーー
今見ている壁の色も忘れるくらい強烈な想念が心にだんだんと滲んできて、私はめまいを覚えた。しばらくして「ゆうれい」がコーヒーカップを二つ持ってキッチンから現れた。私たちはテーブル越しに向かい合い、コーヒーを静かに飲んだ。飲んでる間も「ゆうれい」はずっと立ちっぱなしで、無言だった。「ねえ、今日はここに泊まっていってもいい?」私は自分の部屋にも新弥の部屋にも帰りたくなかった。「ゆうれい」はこくんと淡い相槌を打つ、それからまたキッチンの闇へと消えていった。私はその日、「ゆうれい」のベッドでこんこんと眠った。それは救いのような眠りだった。私はここ数年間ずっと不眠に悩まされていたのだ。「ゆうれい」のベッドに横たわっていると、眠りは静かに降る雪のようにさりげなくかつ優しく私の心を埋めていった。私にベッドを譲った「ゆうれい」は向こうの壁にくっついてこちらに背を向け静かに寝ていた。
目を覚ますと窓の向こうからゴミ収集車のメロディが、まだまどろみの薄い膜を纏った私の感覚器をつついた。私は一瞬自分の部屋で目を覚ましたのだと思ったけれど、目線の先のテーブル以外なにもない部屋を眺めているうちに、徐々に昨日のいきさつを思い出した。「そうだ、ここは「ゆうれい」の部屋なんだ」テーブルの上にはコンビニのレタスサンドとペットボトルの水が置いてあった。水には綺麗な細い字で「食べてください」と張り紙が貼ってあった。左眼の腫れはいつのまにか引いていた。私は眼帯を取りリビングとキッチンの敷居のところの掛け時計を見た。時計の針は、「14時11分」を指している、私は総毛立った。リュックを探ってスマホを取り出した。タップしても画面は真っ暗なままだ、バッテリーが切れている。すぐにモバイルバッテリーにつないで、電源が入るのに充分な電力がチャージされるのを待った。冷たい汗が全身に滲む。私の嫌な予感はやはり当たった、電源をつけると、新弥からの着信が61件あった。新弥に連絡をせずに今日の1限目を休んだからだ。新弥はストレスへの耐性が皆無の人間なのだ。とにかく新弥の部屋に行かなくては。私は顔を洗い歯磨きをし「ゆうれい」の部屋を飛び出した。
その日の新弥はいつにも増してひどかった。私が恐る恐る部屋に入ると、新弥は部屋の端で蹲り頭を抱えていた。その手の甲はタバコの根性焼きの跡で斑らになっている。私はリュックに入れたスマホの電源がいつのまにか切れていてそれに気づかずに眠ってしまったと弁明したが、新弥は聞く耳を持たず、私をめちゃくちゃに殴りつけた。私は殴られながら「ゆうれい」のことを考えていた。「ゆうれい」の部屋はなんだかとても居心地が良くて、リュックの中のスマホや新弥のことも忘れるくらい深く眠ることができた。もし「ゆうれい」の部屋に泊まらなかったら朝ちゃんと出席して新弥に殴られることもなかったのかな。そんなことを、考えていた。ふいに全てが馬鹿馬鹿しく思えた。それは突拍子もなく降りてきた。世界がひっくり返ったみたいだった。この瞬間、私の心は新弥を必要としなくなった。「もう、終わりにしよう」私はいつものように殴ったあとに泣きながら私に抱きつく新弥の頭を撫でながらそう呟いた。新弥は顔を上げて何も言わずに首を振り、私にくちづけをした。私は応じなかった。新弥は懇願するような顔をしている。その表情を見て私は初めて、この男を軽蔑した。「新弥、別れよう」私は新弥の顔を両手で持って真っ直ぐに眼を見つめてはっきりと言った。不思議と、怖くはなかった。この場で新弥に死なれたり殺されるかもしれない状況なのに、私の心はさわやかに晴れ渡っていた。新弥は私から眼をそらし視線を床に落とした。その視線の先には、カーテンの隙間からこぼれた光が陽だまりを作っていた。それは淡く揺れている。永遠を湛えた陽だまりは、私たちの知らないうちにこの部屋から消えてしまうだろう、忘却の渦に飲まれ捉えることのできないいつか訪れる刹那、それは確かに過去であり、また今この瞬間でもある。
私は新弥の部屋をあとにして「ゆうれい」の部屋へと向かった。逢魔時。すれ違うものは影ばかりで、確信めいたものといえば、天頂で光る一番星だけだった。無意識に私の足取りは速く、そして軽かった。なにかが終わりそうで始まりそうな予感が、私の心臓を子うさぎみたいに跳ねさせた。「明日はゲートへ行って絵に没頭しよう」私は自分にそう誓った。
次の日から私は「ゆうれい」の部屋へ通うようになった。一緒に過ごす間、私たちはほとんど会話もせず、ただ水槽の中の魚みたいに部屋の端と端に散ってゆらゆらと漂っていた。「ゆうれい」の部屋だと私はとてもよく眠ることができた。ここでは、幼い頃に感じたあのまるで海に抱かれているかのような、底の知れない優しいまどろみが私を包み、自分が自分であることを忘れてしまうほど深く眠ることができる。そんな眠りは雪解けを促す春の陽射しのように、私を私から解き放っていった。
「ねえ、あなたいつもあのゲートで何を待っているの?」
私はある日彼に問うてみた。彼はテーブルの上で落花生をパキパキと剥いていた。
「ぼくがあそこで何かを待っているってどうしてわかったんだい?」
「なんていうか、雰囲気。なにかを持て余した感じ…待ち人にしか纏えない雰囲気があなたにはあった」
彼は全部の落花生を剥き終え、敷いていた新聞紙でそれを包んでキッチンへと持ち去った。
「確かに僕はあそこで誰かを待っている…でもわからないんだ、誰を待っているのかが。恋人なのか友人なのか家族なのか、でもそれはどうでもいいんだ。そんなことは些事にすぎない。自分が誰にとっての誰であるかなんて本当に些細なことさ、僕はあそこで待つこと自体に魅力を感じているんだからね、日常には理由なんかなくたってカタルシスが必要なんだよ。君も僕と一緒なんじゃないのかい?」
その「ゆうれい」の言葉には逆らい難い妙な引力があった。私は頭の奥がじいんと痺れて何も考えられなくなった、この感覚は前にも覚えがある。「ゆうれい」は私の元へ歩いてきて、私の頭にそのしなやかな両手を添える。不意を突かれ私はどきっとした。「ゆうれい」はゆっくり首を伸ばしてきて、私のおでこに優しいくちずけをした。
「僕が待っていたのは君だったのかもしれない、ずっとここにいてもいいんだよ」
「ゆうれい」は存外キザなやつなのかもしれない。私はなんだか心外だった。私は彼に恋をしているのかな、と自分に問うてみたが、答えはなかった。
「ゆうれい」はしばらくして鶏とタケノコと落花生の炒め物を2枚の皿にたくさん盛って運んできた。「ゆうれい」の部屋へ通って彼に関してわかったことといえば、彼自身ゲートで誰を待っているのかわからないのだということと、コーヒーに凝っているのと、豆類の混ざった炒め物(これがおいしい)を良く作るということくらいだった。私は学校にもあまり行かなくなり、ひねもす「ゆうれい」の部屋でだらだら過ごすようになった。あっさりと別れを受け入れた新弥からはなんの接触もなく、今の私は自由だった。しかしその代わりに、絵が描けなくなってしまった。この前までガチっとハマっていたゲートの絵のイメージが散り散りになってしまい、どうしても下書きがうまくできない、もう少しでこのラフスケッチをキャンバスに持っていけると思っていたのに。「ゆうれい」に近づき彼のことを知れば知るほど、それとは反比例して絵の中の彼のイメージがあやふやになってしまった。絵の中心でありテーマの彼を描くことができなければ作品は完成しないのに。私は彼のベッドの上でスケッチブックに何回も彼を描いては消した。私は一度ゲートに座っている彼を直接スケッチしようと思い立ち、その旨を伝えると彼は快諾してくれた。
その日は朝から雨がしとしとと降っていた。私たちはとぼとぼ歩いてゲートに着いた。私は座っている「ゆうれい」を正確にスケッチする。「ゆうれい」はただこっちを見ていたり、見ていなかったりする。「ゆうれい」はぼうとしているのが得意だ。彼のイメージは、正確に描けば描くほど分からなくなっていく。私は彼に近づく前は一体彼の何を見ていたのだろう。思い出せなかった。「ゆうれい」の右斜め後ろにいる白い犬を連れた老婆がこちらを睨んでいるのが気になった。何か怒っているのだろうか。老婆は私のほうに近づいてきて、オレンジをひとつ私に差し出した。そしてそれを受け取りリュックに入れると、老婆はアーケードの中へ犬を引っ張って消えていった。「ゆうれい」のほうを見るとやれやれといった笑みを浮かべていた。無事スケッチも描け、私と「ゆうれい」はゲートを後にして傘もささず小雨の中を歩いた。
私は「ゆうれい」の手をそっと握ってみる、すると「ゆうれい」の小指がピクンと動いた。私と「ゆうれい」からゲートが遠ざかっていく。彼の冷たい指先は安らかだった。徐々に掴んだ「ゆうれい」の手が逡巡しながらもゆるやかに私の手を握り返しつつあるのを私は感じた。私たちは悠久の彼方へ行ってしまう…私も「ゆうれい」も、新弥も知る由もない、世界の果てへ…
そのときいきなりドンッという衝撃が私を貫いた。誰かに強く背中を蹴られた私は前方によろけ、危うく倒れそうになったが、ぎりぎりで踏ん張った。振り向くと背後には蒼白な顔をした新弥が呆然と立ち尽くしている。突如、右脇腹に形容しがたい違和感を私は感じた。触れるとそこは生暖かく湿っている。脇腹から放した右掌を見ると真っ赤に染まっていた。そのとき私は蹴られたのではなく新弥に背後から刺され���ことを理解した「新…弥…どう…して…」呻くような声を振り絞ると身体の力は一気に抜け、私はその場に倒れた。自分の身体が自分のものではないみたいだった。前を見上げるとぽっかり口を開いた新弥は呆然自身して虚空を見据えている。次いで遠ざかる視界にもう一人、肌の白い華シャナオトコガ…………………………
病室のベッドで目を覚ました。窓から射すオレンジの光が滲み、ぼんやりと空間満たしていた。薄靄がかった視界がだんだんと冴えてくる、どうやら私は死ななかったらしい。ベッド脇の棚のデジタル時計を見ると刺されてから丸2日以上経過していることがわかった。部屋の隅の机の上には、一輪の青い花と、スマホと、刺されたときに背負っていた私のリュックがそのままで置いてある。そこに封をした封筒が添えてあった。私はそれを取り出して読んだ。
「僕はこの街を去ります。
全てが片付いたら二度とあなたの前に現れないことでしょう。
あなたの「ゆうれい」」
と書いてあった。「ゆうれい」は私の知らないうちに、たまに彼のベッドに開きっぱなしで置いてあった私のスケッチブックのメモや下書きを覗いていたのだろう、私は理解した。この書き置きはきっと私にいらない気を使わせないための「ゆうれい」なりのけじめなのだろう。手紙をもとどうりに畳んでその封を閉じ直した瞬間、突如として私の脳内にこれまで観察してきたゲートのいままでの時間すべてがフラッシュバックした。それはビックバンのように爆発と収縮を繰り返し私の中に鮮烈に展開する曼荼羅。私は急いでリュックからスケッチブックとペンケースを取り出して、ラフスケッチの中心のゆうれいをごしごしと消した。力を込めると刺された脇腹がズキズキと痛んだ。しかしその痛みは、鼓動となり糧となった。苦くて酸っぱい味が口の中いっぱいに広がった。汗だくになり喘ぎながら私は全身の体重を乗せ必死でごしごしと「ゆうれい」を世界から削る。看護士がドアの傍で唖然とこっちを見ていたけれど知るものか。そして、ラフスケッチの真ん中には白い人型のもやだけが残った。その空白を基調としたラフスケッチは中心の空漠とその周囲を渦巻くゲートのタイムラインがうまく作用し、そのコントラストはかつてないほどに私の満足のいくものとなった。これで今直ぐにでも堂々とキャンバスに挑めそうだ。
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cvhafepenguin · 6 years
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ひばかり記
 私の住んでいるマンションに面したちいさな公園に、安藤さんは火のついていない煙草を咥えながら、平べったい青い蓋のプラケージを大事そうに両手で持って歩いて来た。八月の終わりにしては風が冷たくて少し肌寒かった。2人で公園の白いベンチに腰掛け、安藤さんが2人の間に置いたケージを開くと、湿った生暖かい空気がふわっと私の鼻をついた。深い森の中のような、なんだか懐かしい匂いだ。一面湿った苔で埋め尽くされたケージはしんとしていて、一見して中には何もいないようだった。安藤さんがそこに右手の中指と人差し指をすっと差し込み、それからくいっと第2関節を撓らせ苔を持ち上げると、驚いた二匹のちいさな茶色いヘビの顔が、ぴょこっと苔の中から右と左に交互に飛び出した。片方のヘビは、すぐにさっと苔の中へ潜ってしまったが、もう片方は少し頭��反らせた体勢で、私と眼を合わせてじっとしている。そのまま見つめ合っているとヘビは、綺麗な紅い火のようなちんまい舌をちょろちょろ出し入れしだした。ヘビのくりくりとした潤んだ黒い瞳は、私をしっかりと捕らえていた。
「なかなかかわいいだろ?ひばかりっていう日本のヘビなんだ」
 煙草を咥えているので安藤さんの声はくぐもっている。
「うん、なんだか安藤さんっぽい。落ち着く感じ」
「なんだよそれ?」
 安藤さんがプラケージの蓋をそっと閉じ、パーカーのポケットからごそごそとライターを出そうとするのを制して私は安藤さんの煙草に火をつけた。そして自分の煙草に火をつけようとすると、安藤さんは自分のライターを私の口元に差し出して火をつけてくれた。安藤さんが私の方に寄りかかったときに、ラベンダーのシャンプーと皮脂と煙草の匂いがいい塩梅にブレンドされた安藤さんの匂いが(私はこれを密かに安藤スメルと呼んでいる)その長く伸ばした焦げ茶色の襟足から漂って来て、私の心は不意に火照り、頭がぽやっとした。私たちはしばらく2人でベンチに腰掛けたまま無言で煙草を吸った。
「悪いな、急にヘビを預かってくれなんて。でもこんなことを頼めるのミウしかいなくってさ」
「ぜんぜんいいよ、ヘビ、嫌いじゃないし」
 私は動物がそこそこ好きなのだ。過去にイシガメやウーパールーパーやファンシーラットを飼っていたこともあるし、今はハリネズミのふぅちゃんが部屋にいる。
「ヘビってさ、一ヶ月くらいは絶食しても平気らしいんだけど、俺、いつ帰ってくるか決めてないからさ」
安藤さんはまるで人ごとのようにそう言った。
「どこに行くか、決めたの?」
「いや、千夏の実家以外決めてない。でもせっかくだから日本一周でもするかあー」
 そんな冗談を言うと安藤さんは大きく仰け反って、空に向かって綺麗な煙のわっかを立て続けにぽっぽっぽっと3つ吐き出した。わっかは3つとも均等な大きさで、ぴったりと連なったそれらはゆるやかに、それでいてまっすぐ空に吸い込まれていく。私も仰け反って安藤さんのまねをして口をぱくぱくしてわっかを吐き出そうとした。しかし絡まったイヤホンのように乱雑な煙の固まりは、私の口元ですぐに解けて視界の端から外へ流れて行った。
「ほんとにこんなことになるなんてさ、思わなかったよな」
 安藤さんが仰け反ったまま私に言ったのか自分に言ったのかいまいち判然としない、曖昧な感じに呟く。
「ほんとにねー」
 私も仰け反って空を見上げたまま安藤さんと同じように曖昧な調子で呟いて、ゆっくりと眼を瞑る。風の音がする。眼を開いているときは気付かなかった風の音。眼を瞑ると安藤さんは私の横にいるにも関わらず私の世界からいともたやすく消えてしまう。そんなことを考えると私は寂しくなる。でも寂しい反面、少し気が安らぐのだった。
 私たちはベンチでぼうと煙草を2本吸って、安藤さんはひばかりのケージを3階の私の部屋に持って来た。
 安藤さんは小さな長方形のタッパを、ひばかりのケージの端っこに設置した。そしてそこに買って来たメダカを10匹、水ごとビニール袋から放った。急に環境が激変したメダカたちは、パニックになってタッパの中を右往左往している。
「餌のメダカはさ、なくなったら補充するみたいな感じでいいから。床材の苔はさ、毎日霧吹きしてくれたら保つから。ケージの掃除は3日に一回くらいでいいかな」
 私はうんうんと頷いた。
「ありがとう。この埋め合わせはさ、絶対するからね」
「ぜんぜんいい、あっ、せっかく来たんだからごはんでも食べて帰る?」
「あー、そうしたいところだけど、いろいろやることがあってさ、明日の準備もしないとだし、今日は帰るゴメン」
「そっか、明日から大変だね。気をつけてね」
「うん、でもまあ自分で決めたことだから。ありがとう」
 今言った「大変だね」というのはそのことではないのだ。無論安藤さんはそれを知る由もなく、そしてそれを再確認した私の胸はちくりと痛む。安藤さんは、千夏のことが今も大切なのだ。それに比べ私は千夏の友達だったのにも関わらず、安藤さんのことばかり考えている。私はあと何回、こんなことを繰り返すのだろうか。 
 安藤さんはひばかりたちを私の部屋に置いてそそくさと出て行った。私はしばらく玄関に立ち尽くしたまま閉まったドアを眺めていた。いつの間にか陽は傾いていて、東向きのこの部屋は薄暗くなり、ドアの輪廓がぼやけていた。さてっと…と呟きリビングのひばかりのケージをふぅちゃんのケージの横に置いて、テレビをつけ、夕飯の仕度をした。「安藤さん」私は安藤さんのことを考える。考えるといっても、安藤さんのイメージを頭の中に描くだけだ。けれどそれだけでひどく、私の心は満たされる。かたや安藤さんはというと、1人でいるときに私のことなんかをわざわざ思い出すことはないだろう。ひばかりを案ずることはあっても。
 安藤さんは大学のゼミの先輩で、私は安藤さんにその昔告白してフラれている。安藤さんには好きな人がいたのだ。それは私の友達の、千夏だった。安藤さんは私をフッてほどなくして千夏と付き合い出した。それから私たちは大学を卒業し、私は勤め人となった。私は安藤さんにフラれてから3人の男となんとなく付き合った。しかしどの男もピンとこなくて、長続きしなかった。私は安藤さんのことがずっと忘れられなかった。千夏と安藤さんからは自分から距離を取り一切関わらないようにした。
そのまま別の恋もすること無く、気付くと私は社会人3年目となっていた。ある日、安藤さんから、やにわに電話が掛かって来た。出るとしばらくの間安藤さんは沈黙していた。私が「もしもし…安藤さん?」と話しかけると、安藤さんは通話しているのを思い出したかのように「あ…」と掠れた声を出した。それから「千夏が死んだ」と茫然と他人ごとのように呟いた。 
 千夏は自殺をしたのだった。それはよくある話で、ハードワークと職場のパワハラが祟り、千夏は鬱を発症したのだ。安藤さんは、一生懸命千夏のケアに献身したのだがそれも及ばず、ある日仕事から家に帰ると千夏はドアノブに掛けたタオルで首を吊って死んでいた。
 安藤さんは自分を責めた。もっとなにかしてやれることがあったんじゃないか。もしかするとあのときのあの一言が自殺を後押ししてしまったのではないか。フリーのライターをしている安藤さんはしばらく休職をして、気持ちを整理することにした。安藤さんは千夏の実家の静岡に四十九日の法要に出て、それからその足で何処かへあてどない旅に出ることにした。安藤さんはまだ千夏のことを愛している。そして私は、そんな安藤さんもろとも何処かへ消えてしまいたかった。2匹の「ひばかり」はかねてより爬虫類好きの安藤さんが、そういった類いが苦手な千夏を説得して、小さなヘビならいいよというところまで譲歩させて買ったものだった。
 私はご飯を食べ、風呂に入り、寝仕度をして、部屋の間接照明だけを点けてひばかりのケージをじっと眺めていた。苔の中の2匹のひばかりは出てこなかったが、私はケージを見つめていた。ずっと、ずっと、見つめていた。私の心が昼間見たひばかりの舌のように紅く、儚く、迸る。それはほのかに熱くてせつない。 
「安藤さん、好きだよ。知ってる? 私、安藤さんのことがずっと好きなんだよ」
私はひばかりの飼育日記を非公開のブログでつけることにした。
ブログのタイトルは「ひばかり記」とした。 
  ひばかり記 
   8月28日(火)
  午前晴れ 午後にやや薄雲がかる 夕方に遠雷が鳴る
 安藤さんに預かったひばかりたちは顔を出すことなく相変わらず苔の中でじっとしている。メダカも10匹欠くことなく「世はなべてこともなし」といった調子でタッパの中をちょろちょろと泳ぎ回っている。安藤さんが言うには、「環境が変わってからしばらくはへびたちは緊張しているので干渉せずそうっとしておいた方がいい」とのこと。なのでひばかりが餌を食べるまで放っておくことにした。安藤さんになにかメールを送ろうと思ったが、内容が思いつかなかったので寝ることにした。
   8月30日(木)
  終日快晴 風が強い 空に秋の兆し
 朝起きると、タッパーの中のメダカたちは忽然と姿を消していた。ひばかりたちは依然として姿を現すこと無く苔の中に潜んでいる。仕事帰りにメダカを10匹買ってきてタッパを洗い、メダカたちを補填した。
   8月31日(金)
  午前快晴 午後二時あたりから雨 雨は夜になると止む
 仕事から帰ってくると、ひばかりは二匹とも苔の上へ這い出していた。メダカがいなくなっていたので丁度食後に居合わせたのかもしれない。ひばかりたちは私をみとめると蛇に睨まれたカエルのようにぴたっと静止し、はっと驚いた顔でこっちを向いたまま固まっていた。私たちは薄暗い部屋でしばらく互いに見つめ合ったまま、固まっていた。「名前」そのときこの言葉が私の脳裏を掠めた。そういえば安藤さんにこの子たちの名前を聞いていなかった。私は安藤さんにひばかりたちの名前を聞くことにした。安藤さんにメールを送る動機ができて、嬉しかった。花金だったので、商店街の精肉店で買って来たサーロインステーキを焼いた。マッシュポテトとかぼちゃのスープにそらまめとエビのカクテルサラダもこさえ、ワインをいつもよりたくさん飲んだ。安藤さんから返信はなかった。私はほろ酔いにまかせて寝ることにした。夢にひばかりたちが出て来た。しかし夢の輪廓がぼやけていて、内容がうまく思い出せない。   
   9月1日(土)  
  終日雨 少し肌寒い   
 ケージの苔が糞で汚れていたので掃除をする。へびの糞のかたちはとりの糞に似ていた。一匹のひばかりは苔の上をゆっくりと這っていたので、ひばかりが手に乗って来てくれるのを期待してひばかりの向かう先へ手をそうっと差し出してみた。するとひばかりはぴたと停止し、しゅるるとその小さな舌を出し入れしだした。へびの舌はねこのひげや昆虫の触角のようなセンサーの働きを持ち、これを用いて彼らは置かれている状況を察知するらしい。用心深くゆっくりと私の指先へ近づいたひばかりは、私の中指にちょんと鼻先をつけるとぷいとそっけなく踵を返した。私はひばかりのおなかのあたりを優しく両手で掴み、持ち上げた。ひばかりの身体はひんやりとして気持ちよかった。掴まれたひばかりはびくんとして強張る。しかしひばかりはしばらく持たれて彼我の差を悟ったのか、しだいに雪解けのように緩やかに弛緩していった。掴んだひばかりを小さなケージに移して、苔をほじくってもう一匹も捕まえ同じ小さなケージに移した。苔の中はほのかに暖かくて、中にいたひばかりも同じくらいの温かさだった。ベランダで苔を揉み洗いして、ケージとタッパをゆすぎ、元通りにして、ひばかりたちを戻してあげた。戻されたひばかりたちはそそくさとまた苔の中へと潜った。ベランダで苔を揉んでいると、安藤さんのことを思い出した。安藤さんの匂い、安藤さんのしぐさ、千夏の話をしているときの安藤さん、少し翳った表情に、曲がった背中。けれど、その安藤さんの顔を何故だかうまく思い出せない。この日も安藤さんからの返信はなかった。  
  9月2日(日)  
 終日降ったり止んだり 
 夕方にひばかりの補食を目撃。最初ひばかりは欄としたまなざしをタッパの中へ注いでいた。やにわにひばかりの首がしゅぱ、と伸びて、水の中に入れた頭を右へ左へと振り、その頭にしては大きな顎で器用に逃げ惑うメダカを捕らえた。裂けるように開いた顎に捕われむなしく痙攣するメダカを、ひばかりはたちまちゆっくりと呑み込んだ。それからひばかりは同じ要領でもう3匹メダカを吞み下した。ひばかりの一連の所作は艶やかで、思わずうっとりと見とれた。安藤さんからの返信はなし。   
  9月8日(土)  
 終日晴れ 正午過ぎに空一面のうろこ雲 
 片方のひばかりの身体が白くなった。目も白濁している。どうやらこれは脱皮のきざしらしい。この間濁ったヘビの眼は見えなくなり神経質になるため、脱皮が終わるまでは干渉しないこと。白くなったひばかりは気だるそうにぐったりとしている。ヘビのことはよくわからないけど、今が古い皮が新しい皮にくっついてるような状態だったとしたら、相当気持ち悪いだろうな。それにしても全身の皮がつるんと剥けるってどんな感じ。ひょっとしたら想像を絶するほど気持ち良いのかもしれない。だって垢擦りとかも気持ちいいし。安藤さんからいつまでたっても返信が来ないので私は便宜的に白くなったほうを「シロ」白くなってないほうを「クロ」と呼ぶことにした。   
  9月12日(水)  
 午前曇り 午後快晴 乾燥がひどくて黄砂が飛ぶ 
 残業から帰ってくると、苔の上にシロのぬけがらがあった。抜け殻には欠け一つなく、すっぽりと脱げていた。それはきらきらと透き通っていて綺麗だった。ぬけがらを水でゆすいで、ぞうきんで拭い、真空パックに入れた。そしてラベルに「シロ 9・12」と書いて、棚のゼラニウムの一輪挿しに添えて置いた時に、テーブルの上のスマホの着信音が鳴った。画面には「安藤さん」と表示されていた。通話をタップすると私が「もしもし」を言う前に、安藤さんは開口一番「悪い、返信するの忘れてて、ひばかりに名前は付けてないんだ、せっかくだからミウが付けてやってよ」と言った。様々な想いが私に押し寄せて来たが、不思議と取り乱すことはなかった。安藤さんは事務的にぱたぱたと用件だけを要領よく話して通話を4分くらいで切り上げた。安藤さんは二日後に帰ってくるとのことで、その日の夜に飲みに行く約束をした。今日からひばかりの名前は「シロ」と「クロ」に正式に決まった。
 「千夏の親御さんは良い人だったよ。俺みたいなちゃらんぽらんに良くしてくれてさ」そう言って安藤さんは厚揚げを箸ですうっと丁度半分に切り、一気にほおばった。「熱ッ」「ちゃんとふーふーして食べないと」「ほひゅっはふう」四苦八苦しつつ安藤さんはなんとか厚揚げを飲み込んだ。ほんと、子供みたいな人だ。「いやー結局3日間は千夏の実家でお世話になっちゃったよ」「やっぱり千夏のことでお互いに負い目を感じていたってこと」「まあそういうことだね」安藤さんは旅の最初の3日間は千夏の実家の家業を手伝いながら、空いた千夏の部屋に泊まらせてもらっていたらしい。「千夏の親御さんや梨花ともいろいろ話し合ってさ」千夏の妹の梨花とは私も何度か遊んだことがある。千夏は4歳下の梨花ととても仲が良くて、梨花はときたま下宿している千夏の家に遊びに来て、その度に私と3人でお泊まり会をしたものだ。そういえば性格も顔もうり2つの姉妹だったなあ、と私は梨花の名前を聞いてしみじみ思い出した。「千夏も安藤くんと付き合えて幸せだったよ」「これも何かの縁だし気にせず家へまた遊びにおいで」千夏の両親はこんな感じで安藤さんを息子のように受け入れてくれたらしい。恋人を失った男と娘を亡くした両親の傷の舐め合いか、いやそんなものじゃないだろう。千夏の家族は安藤さんのことを純粋に気に入ったに違いない、安藤さんはほんとうに人たらしなのだ。そんな考えが頭をよぎり、私の心がちくりと痛む。居酒屋を後にして安藤さんは私の部屋にひばかりを引き取りにきた。そして安藤さんはそのついでのように私を抱いた。それから来た時と同じようにケージを大事そうに抱えて夜が空ける前に部屋から出て行った。
「安藤さん、すきだよ」 
 私は暗い部屋でベッドに横になって眼を瞑ったまま、音だけを頼りに去りゆく安藤さんの背中に向かってこんな言葉を小さな声で投げかける、その声は震えていて自分でも白々しく感じるほど、滑稽な調子を帯びていた。これが喜劇ならどうか、だれかに笑ってほしい。「うん」安藤さんはいつもの調子でそっけなくうなずく。ドアが閉まる冷たい音がした。それから私はそのまま浅い断続的な眠りに落ち、そして安藤さんと「シロ」と「クロ」の世話をする夢を見た。それはあたたかくて、幸せな夢だった。夢のなかで私と安藤さんは顔を向き合って笑っていた。目覚めるともう15時だった。昨日までひばかりのケージを置いてあった場所が空っぽになっていて、そこにカーテンの隙間から陽光が射していた。淡くゆれるそれをなんとなく眺めていると、私の右目からひとすじの涙がすうっと伝った。眠っている間に安藤さんからメールが届いていた。「昨日は本当にありがとう。もしよかったら今日も会えない」私は「いいよ、わたし、ピッツァがたべたいな」と返信した。私たちはこの先どんな関係を築いていけるのだろうか。今日は安藤さんと19時に駅前で待ち合わせすることにした。それまではだらだらしながらゆっくりと仕度をしよう。思うに、今の私は限りなく自由だ。そしてそれは安藤さんに与えられたもので、安藤さんと繋がっているかぎり、私はどこへでもいけるような気がした。たとえ天国だろうと、地獄だろうと。今日会ったら「ひばかり、たまに見に行ってもいいかな」そう安藤さんに言おう。
 トレンチコートを羽織って外へ出ると、少し肌寒かった。濃紺の宵の空は澄んでいて、吹き抜ける冷たい秋の風が私の心をくすぐった。「いつまでもこれが続けばいいのにな」そんなありきたりな言葉をロザリオのように握りしめ、バスに乗って私は駅まで揺られる。安藤さんは私のささやかな祈りに頷いてくれる気がした。バスを降りると安藤さんは薄着で寒そうに猫背になりながらバス停で待っていてくれた。バスを降り、私たちは自然に手を繋ぎ肩を寄せ合い夜の街を歩いた。
 梨花が安藤さんの子を妊娠したのを知ったのはその半年後のことだった。
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cvhafepenguin · 6 years
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空  -Thusness-
   魚たち
 魚の眼がたくさん、こっちを見ている。大きな魚は飛行船のように悠然と浮かんでいる。それに対して小さい魚は私の腰の辺りの高度をちょろちょろと機敏に泳ぎ回る。小さい魚に手を伸ばす。すると、それは慌てて泳ぎ去り、向こうの物陰にさっと隠れてしまう。私は魚たちにこうして見られているのが好きだ。魚たちに見られていると、私は恍惚を覚える。「なしのつぶて」私が人々のことを考えるときに一番最初に浮かんでくる言葉だ。人々のまなざしというものはとても濁っていて、それは注がれた私のなかに澱のように溜まっていく。対して魚のまなざしというものはこの上なく澄んでいる。魚のまなざしは倦んで淀んだ私を浄化してくれる。魚のまなざしに私の在処を訊ねること、それは山奥にひっそりと湧く水のようにささやかで、冷たく透き通ったカタルシス。私はそれを味わいに、この魚以外に何者もいない、この暗くてひんやりとしたホールに度々足を運ぶ。私と魚たちしかいないこのホール。果たしてここはほんとうに存在しているのだろうか?いや、そんなことはどうだっていいことだ。ほんとうに魚がいるかなんて、もし私がいなかったら世界はどんなふうになっていたのだろう?という空想くらいどうだっていいことだ。
 私は右ポケットから桃をとり出した。桃に鼻をつけて匂いを肺にいっぱい吸い込む。それから一思いに がぶ と一気に半分齧る。桃から甘い汁が弾け飛ぶ。私の膝や座っているベンチに飛沫がたたたと飛ぶ。指から手首にかけて、滴る桃の汁でべちゃべちゃになる。汁で服と右手を汚しながら桃を平らげた私は自嘲を込めて丁寧に右掌をしゃぶる。こゆび、おやゆび、くすりゆび、ひとさしゆび、なかゆび、の順番で、それは念入りにぴちゃぴちゃしゃぶった。桃の甘みと指のしょっぱさが丁度いい塩梅にブレンドされてきわめてアンビバレントな、どこか狂おしい味だ。指をしゃぶりながら私は、大きな五匹の魚たちが、いつのまにか半円状に私を囲んでいることに気が付いた。静止している5匹の魚の濁った眼は、澄んだまなざしを私に注いでいる。魚のまなざしは私に注がれているものであり、それと同時にまた、私を通過するものでもある。なんて触り心地のいい不条理なんだろう。人々の演出する条理では決して辿り着けない静謐。「調和」そういったものを魚のまなざしに私が見出すことに、私はいささかの懐疑も抱かない。いや抱けない。
 私は姿勢をすっと正して、右手で握りこぶしを作り、私の頭10個ぶん上の虚空を漂う五匹の魚のほうに、まっすぐ突き出した。衣擦れの音が暗いホールに響いた。私はこゆびをぴんと立て「ひかり」と唱えた。右端の魚に「ひかり」という名を付けたのだ。それから、おやゆび、くすりゆび、ひとさしゆび、なかゆび、の順番で指を立て「ねむり」「ゆめ」「いろ」「みず」と名付けた。私はそれらの名を点呼のように唱えた。呼び終えたとき、私の心の中で喝采が起きた。私は思い切りひろげた右掌に、徐々に熱が宿っていくのを感じた。そしてなんとなく得意になった私は、ベンチから立ち上がりホールを去ることにした。ホールの出口まで5匹の魚はその整った半円を決して崩さず宙をゆらゆら泳いで私についてきた。ホールの中を見渡してみると、あれだけたくさんいた魚たちは、いつの間にか私についてくる5匹を残して消えてしまった。もしかしたらもうみんな死んでしまったのかもしれない。私は右掌に宿った熱をまだ感じている。いずれ醒めてしまうこの熱を忘れたことすら忘れてしまったころ、私はまたこのホールへと足を運ぶのだろう。その思考は、覚醒と入眠の刹那を捉えようとしたときのあのとりとめのない感じに似ていた。彼岸と此岸をつなぎ止めるものがあるとすれば、それはきっと、丁度今みたいな、私という存在から湧出する泡沫の夢なのだ。
 ホールの敷居を跨いで向こうのほうへすたすた歩きやがて消えゆく私へ、5匹の魚はホールと外界の境のところにじっと留まりながら、いつまでも澄んだまなざしを注いでいた。いつまでも、いつまでも注いでいた。五匹の魚の名は「ひかり」「ねむり」「ゆめ」「いろ」「みず」という。
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cvhafepenguin · 6 years
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みずぐも
 それは水槽の中をさかさまに這っていた。なめらかに八本の脚を動かし水草を伝うみずぐもは、やがて野々宮さんが水槽に落とした水蠆に辿り着いた。みずぐもは足掻く水蠆をその脚でがっしと掴み、そして大きな顎で、ゆっくりと頭から齧っていった。みるみるうちに水蠆の頭はなくなり、やがて水蠆だったものはなんだかよくわからない食べかすになり果て、水槽の中をふわふわと漂っていた。全ては音もなく推移した。そのなかでは生も死も、水面に立つ波紋のようにあっけない静謐だった。
 私は野々宮さんの部屋にみずぐもを週に3回ほど見に来る。野々宮さんは去年に死んだ私の兄の友人で、その名を嶋田渚という。幼い頃、兄の書架から拝借して読み耽った、漱石の三四郎に登場する三四郎の同郷の先輩の野々宮宗八にどことなく雰囲気が似ているから、私はこの人の事を勝手に「野々宮さん」と呼んでいるのだ。兄と同い年の野々宮さんはこのみずぐもを私の兄の形見だ、と言って大切に育てている。  「水蠆を捕りにいこうか」  私と野々宮さんは村から少し離れた、山道をしばらく登ったところにある瞑池にみずぐもの餌の水蠆を捕りにいった。野々宮さんと会ってすることといえば、みずぐもを呆然と眺めるか、釣りをしたり、水蠆を捕りに行くくらいのもので、ほかには何もなかった。自殺した兄の話すら、ほとんどしなかった。「きみのお兄さんは絶望していたんだよ」そういえばいつか野々宮さんが私にこぼしたことがある。あれは私が街の大学を受け、もし合格したらこの村を出て行き下宿することになると、野々宮さんに告げたときのことだったか。  野々宮さんは水蠆を捕るのがへたで、坊主の日も珍しくない。いつも私が餌のぶんの殆どの水蠆を調達する。  「小夜は水蠆を捕るのがうまいな」  野々宮さんは私と池に来る度にまるで初めて知ったように私の捕りっぷりを褒めた。私は小さい頃よく兄とそこらへんの野池や草むらで虫や魚を捕まえて遊んでいたので、たしかに生き物を捕ることに関しては少し自信があった。そんな私や兄と池で遊んでいるときの野々宮さんは、普段のむっつりとした彼とは別人のように何処か生き生きとしていた。彼は決して態度や言葉には出さないが、いつもの張りつめた表情がこのときだけは何処か緩んで見えた。それは兄が死んでからもそうだった。私は私が村を出ていくと、みずぐもが餓えて死んでしまうんじゃないかと、少し気がかりだった。    みずぐもの大きくて強い顎と長くしなやかな脚は許さない。生にしがみつくものを、確実に捕らえ、死へと引きずり込んでいく。それはまさしく底なしの「絶望」兄もまた水槽の水蠆のようにその顎に捕われ食べ尽くされてしまった。そしてそれは確かに、私と野々宮さんの中にも依然としてあり、私たちはそれを兄の遺したみずぐもの世話をすることによって、確かめているように感ぜられた。膿んだ傷は、つい触ってしまうものだ。私と野々宮さんは妖しく輝く死のとりことなっている。野々宮さんと私は互いが互いに揺洩する兄のたましいを見出している。
 ある日野々宮さんは少し旅行に出ると私に部屋の鍵を渡し、みずぐもの世話を頼む。と言って行き先も告げず何処かへ消えてしまった。私が大学に無事受かり、下宿先に引っ越す一ヶ月前のことだった。  その三日後、瞑池に身投げした野々宮さんが病院に担ぎ込まれた。二日間野々宮さんの意識は混濁していた。野々宮さんはその間しきりに私の兄の名を呼んだ。  やがて野々宮さんはすっかり快復した。私は果物と花束を持って見舞いに行った。ベッドの上のやつれた野々宮さんは翳り、一気に10歳ほど老けたように見えた。このときはじめて私は野々宮さんに異様な恐怖を覚えた。 「の…嶋田さん、大丈夫ですか」  「うん、どうやらそうみたいだね」 「みずぐもは、元気です」私は野々宮さんにどう声をかけていいかわからなかった。 「そうか、ありがとう」 「迷惑をかけてすまない」そう言うと野々宮さんはゆっくりと眼を閉じた。まるで死んでしまうように。 「水蜘蛛を…」眼を瞑ったままうわごとのように野々宮さんが呟いた。 「あの水蜘蛛を捕ったところ、小夜は見てたんだろう?」 「…うん」  あの日、私たちは3人でいつものように瞑池に釣りに来ていた。兄と野々宮さんと私は自然と散り散りになった。しばらく各々で釣りをし、そろそろ日も傾いてきたので、2人と合流して帰ろうと元来た地点へ歩いていると、少し離れたところに2人の姿が見えた。思わず私はクーラーボックスを抱えたまま咄嗟に脇の薮に隠れた。2人は抱き合ってくちづけを交わしていた。紅い夕陽が、池の水面を悲しく照らしていた。長いくちづけだった。永遠に終わらないかと思うほどに。2人がすすり泣く声が静かな池に空しく響いていた。  やにはに、何かを見つけたらしい兄が、口を離し足下の瞑池の汀へすーっと右手を伸ばし、ちゃぷん、と掌を浸けた。それから兄はゆっくりと水から右手を引き上げた。兄の掌にはいっぱいの水草と、黒い何かが乗っていた。それは、夕陽の光線を反射してきらきらと輝いていた。兄はその何かを野々宮さんのクーラーボックスに入れてそっと蓋を閉めた。私はめまいを感じた。私は無性に泣き叫びたくなった。「こんなところにいたら、死んでしまう」何故かはわからないけれど強く感じた。今まではなんでもなかった池の汀や林の闇、それから葉擦れの音、私を取り巻く全てが急に恐ろしくなった。私は2人を置いて、そのまま走って家に帰った。兄は私より少し遅れて帰ってき、何事も無かったかのように普段と同じ感じに振る舞っていたし、何も私に尋ねなかった。それから二週間後、兄は家の納屋で首を吊っていた。家族の誰も兄が自殺するような原因には思い至らず、他殺の線でも捜査が行われたほどその自殺には脈絡がなかった。遺書には、家族へのあっさりした謝罪しか綴られていなかった。野々宮さんへのメッセージはなにもなかった。兄の自殺について野々宮さんは何も言わなかったし私も何も聞かなかった。理由はわからないが、決して聞いてはいけないことなのだという確信があったからだ。 「僕と君の兄は愛し合っていたんだ。わかるかい」 「…はい」なにもわからなかった。それから私と野々宮さんは口を噤みしばらく黙りだった。どちらかが次に何かを口にすると全てが壊れて元通りにならなくなってしまう。そんな気がした。病棟に18時のチャイムが寂しく鳴り響いた。 「僕は…」野々宮さんが口を開いた。その声は震えていた。 「僕は、怖いんだ。なにもかも。きみの兄のことも恐ろしいんだ、今でも」私は野々宮さんの顔を見ないように、ずっと床を見つめていた。視界がどんどん狭くなる。このまま倒れてしまうのかと思った。「みずぐも」私の心の中で声が響く「これはみずぐもなんだ」 「小夜、僕と一緒に死んでくれないか」私の心臓は早鐘のように打ち、呼吸がうまく出来なくなった。鳥肌が立ち、不快な冷たい汗が全身に滲む。このまま私は絶望にとらえられてしまう。兄のように頭から食べられてしまう。 「もう…帰ります。お大事に」そう言い放って私はばっと振り返り、夢中で走って病室を出た。そこから先の記憶は無い。確かなのは、私の心の中にずっとみずぐものイメージがあったことだけ。みずぐもが追ってくる。それ以外に何も、なかった。  私はそのあと野々宮さんに一度も会わなかった。野々宮さんのほうもあれ以来私に連絡をよこしてくることはなかった。
 村を出て下宿を始めて二年目の秋に、母が電話をかけてきた。そして開口一番「嶋田さんがね…亡くなっちゃったみたい」と知らせてきた。順調にキャンパスライフを過ごしている私はいささかショックだったものの、それはどこか他人事のような、当事者意識を欠いた衝撃だった。村から離れてしばらく暮らした今となっては、兄も野々宮さんもほんとうにいたのかどうかすら疑わしく、まるで3人で過ごした日々は夢だったかのように感ぜられるのだ。兄も、野々宮さんも、川の水の冷たさも、森に響く河鹿の嘶きも、ひっそりとした瞑池の翳りも、ずいぶんと遠くなってしまった。野々宮さんは、前と同じように瞑池に身投げして浮かんでいたらしい。死んだ野々宮さんの喉から、ひからびたみずぐもの死骸が出て来たそうだ。
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cvhafepenguin · 6 years
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貝殻
 「風が微笑んどる」
 雨が来る前によくおじいちゃんは俺にそう言った。 「それ、どういうこと」 「風は雨を告げる。雨の前の風は微笑むんだ。丁度獲物を仕留めることを確信した獣のようにな」 「獣」  その響きはまだ幼かった俺には少しぞっとするものがあった。おじいちゃんは戦時中だとか、自分が見た人殺しの現場などの恐ろしい話を好んで孫の俺に度々してくれたが、この風の話はそれらの類いとはまた異質の、何か底知れないものを孕んでいた。  がらんどうの縁側を吹き抜ける生暖かい風は、たしかにぬるくなった風呂のように弛緩して、微笑んでいた。おじいちゃんの話を聞いてからそうとしか感じられなくなってしまった。  刹那、微笑んだ風が連れて来た夕立が音もなく庭に降りはじめた。その光景はうっとりするほど静的で、まるで時間が止まったかのようだった。おじいちゃんの顔は翳り、口元とのどのあたりだけがきれぎれの夜空の雲みたいにぼんやりと薄闇に浮かんでいる。直立不動で庭を眺めているおじいちゃんの突き出た大きなのどぼとけが、翳りのなかでゆっくりと艶かしく、ごろりと動いた。いつの間にか立っていた樋からまばらに滴り落ちる水の音、その響きが、いまや思い出せない心の奥のなんらかの約束事に呼びかけている気がした。
 そこまで夢をみて知らない女に起こされた。一瞬なぜこんな女が部屋に、と考えたが徐々に霧が晴れるようにことのいきさつを思い出した。時計を見ると午前10時だった。知らない女は、小柄な彼女にはぶかぶかの俺の緑のジャージを着ている。昨日俺が泊まるならこれを着て寝てくれと渡したものだ。SNSで知り合ったこの女はたしか「Yu」というHNを使っていたような気がする。お互い本名は知らない。成り行きで会って、一緒に酒を飲んで、成り行きで家に連れ込んだ名前も知らないこの女は、冷蔵庫の有り合わせで昼飯にオムレツを作ってくれた。俺は女が料理をするのをベッドの上でタバコを吸いながらぼうと眺めた。丈の余りまくった袖を捲らずに小刻みにフライパンを振る彼女の後ろ姿は危なっかしくて好感が持てた。女はフライパンを振る度に大げさに前屈のような動きをする。それに合わせて余った袖がふわふわと弾む。妙な女だ。「私の得意料理なんだ」ハムとレタスの入ったオムレツは、確かに塩加減が良い塩梅で、バターの風味が効いていて美味しかった。女は俺の3倍くらいの量のタバスコを振ってうまそうにぺろりと平らげた。食後に俺は2人分のコーヒーを淹れた。俺はミルクのみで、女はミルクと砂糖を山ほど入れて飲んだ。昼飯を終えても女は帰る素振りを見せず、ベッドにうつぶせに寝転んで脚を交互にぱたぱたしながらスマホを弄っている。俺が起きる前に既にシャワーを浴びてさっぱりとしている女は��主の俺にはおかまい無しで、まるで自分の部屋にいるみたいに寛いでいる。俺と女はそのままベッドで横になって、バラエティの再放送をだらだらと無言で見た。休日の昼下がりの地上波はいつものそれよりもいっそう空虚で、現実を陽炎の向こう側へすっかり追いやってしまう。俺は唐突に訪れたこのゆがみ、すなわち非日常をはっきりと意識してめまいを感じた。バラエティのエンドロールが流れ始めると、女はうにゃーと甘い声を出しながら俺に絡み付いてきた。それから電気を点けたままでまた一発やった。俺は女にのしかかり散漫に腰を振りながら、この女は化粧を落とした顔の方が好みだな、などとぼんやりと考えた。セックスは昨日のよりも長かった。お互いがお互いのことを昨日よりいささか理解したためだろうか、ただ2人とも倦んでいただけだからなのかもしれない。わからない、なにも。俺も女もこの部屋もあらゆるものがめまいに委ねられぐにゃぐにゃ歪んで正体が曖昧になっていた。ようやく2人が果ててしまう頃には既に日が傾いていた。そしてことを終えた俺と女は曖昧に手を絡めたまま、レース越しにぼんやりと差し込む物憂いオレンジの光のなか、鈍くて深い眠りに落ちていった。    俺はおじいちゃんの夢をまた見た。今度はおじいちゃんの葬式の夢だった。あの日も昏い雨がじとじとと降っていた。おじいちゃんの死に顔は、青白くて、冷たそうで、安らかだった。柩には、いろいろな花と、先立ったおばあちゃんの顔写真だけが入れられていた。色とりどりの花とは対照的なセピアの写真はおじいちゃんの右耳のところに寄り添うように添えられていた。おじいちゃんの遺言に、副葬品はおばあちゃんの写真だけにしてくれと書いてあったそうだ。斎場には、蛙の合唱がうるさく響いていた。    目を覚ますと部屋は真っ暗だった。俺はとっさに時間を確認しようとスマホを見た。寝起きの眼にスマホの液晶の光がまぶしくて、なかなか時間がわからない。やっと眼が慣れてきて時間を確認すると、もう午前の3時だった。メッセージに「Yu」から「ありがとう、またね」とだけ打たれたショートメールが届いていた。いつの間にか女は帰っていた。ベッドの脇に、女に貸した緑のジャージが綺麗に畳まれて置いてある。そしてその上にうすぼんやりと光る、なにか見慣れない白いものがある。近づいてみるとそれは、巻貝の貝殻だった。闇のなかで光る拳大のそれを右手で掴むと、かり、と殻に爪が擦れる綺麗な音がした。その無垢なものは冷たくて透明だった。寝た男の部屋に貝殻を置いていくのがあの女の趣味なのか、それとも礼のつもりか。どちらにせよやっぱり妙な女だったな。俺の眼はやけに冴え、もう眠れなかった。シャワーを浴び、スーツに着替え、夜が開ける前に外に出た。そして午前4時から開いている駅前の喫茶店でモーニングを注文した。トーストとゆでたまごをゆっくりと食べ、コーヒーを飲みタバコをぷかぷか吸いながら女に貝殻のことについてなにかメールしようと思ったが、適当な文句が思いつかなくてやっぱりやめた。そして「あの女とは二度と会うことはないだろうな。名前も知らないあの女」と心中でひとりごちた。内ポケットに忍ばせた女の残した貝殻を左手で弄びながら、ぼうっと窓の外を眺めていると、やがて空がだんだんと白んでき、人通りも増えてきた。店内に流れているFMによると今日は波浪警報らしい。こんなにも晴れているのに。
 あの女と寝てからしばらく経った。俺はあの日以来ずっとあの貝殻をなんとなく内ポケットや鞄に忍ばせて常に持ち歩いている。こうすることによって、何かが変わるような気がした。もしかするとそれは、何かへの言い訳なのかもしれなかった。おじいちゃんの夢は、あの女が去ってからというものすっかり見なくなった。    今日は仕事後に大学時代の友人のリコとデートをすることと相成った。彼女とは恋仲だとかそんなんじゃなく、なんとなくメールのやりとりでそういう流れになったのだ。俺は特段デートという心持ちでもなかったのだけど、リコが「デート楽しみだね」という文言を用いたため、デートなんだと思うことにした。もしかすると俺は卑怯者なのかもしれない。どこからともなくそんな小さなトゲのような呵責がぽっと湧く。それは俺の心に沁みていってあざのようになるがそれもやがてノイズに紛れて消えていく。そうだ、俺はいつだってそうだ。  大学の卒業式ぶりに会ったリコは綺麗になっていた。リコと俺はミニシアターでロシアの映画を見た。観客は俺たちを含めて10人程度しかいなかった。映画は父性と死がテーマのロシアらしい辛辣なものだった。あらすじはだいたいこんな感じだ。母親と祖母と暮らしている兄弟のアンドレイとイワンの元へある日12年ぶりに父が帰ってくる。そして当惑する2人を連れて父は明日から旅に出ると言う。旅の最中寡黙で高圧的な父に弟のイワンは反感を覚え、鬱憤を溜めていき、旅の最期釣りをしにやってきた無人島で、ついにイワンの怒りは頂点に達し、櫓に昇り「ここから飛び降りてやる」と父にあてつけを言う。そしてイワンを助けようと父は櫓に昇るが、父の方がそこから落ちてあっけなく死んでしまう。兄弟は父の死体をボートに乗せ無人島から本土に持ち帰ろうとするが、父を乗せたボートは途中で沈んでしまう。そのとき兄弟は初めて心の底から「パパ!」と叫んだ。父の愛が、父を永遠に喪ってしまう段になって初めてわかったのだ。  リコはこの映画のラストがよかったと絶賛していた。俺は正直首肯しかねた。死によって他者へその魂を永久に刻印するということは、たとえそれが善性に依るものであれど、受け取る側にとっては呪いでしかないと感ぜられるからだ。どうせ避けられない死なら、出来るだけ何も残すことなく去りたいものだ。しかし俺はリコにはそんなことを話そうとは思わなかった。俺とリコは映画館を後にして近くのスペイン料理屋で飲んだ。 「ナツって学生の頃と全然変わらないよねー。なんだかきょとんとしていて、いつまでも何も知らない子供みたいな感じ」 「そうかな、よくわからないや。リコは少し大人になったね」 「そうかな?たとえばどんなとこ?」 「…うーん、服装とか、あとピアスもなんだかクールな感じ?になったし」 リコは学生の頃は当時ゆるふわ系と呼ばれていたような、なんだかふわふわしたクラゲだとかキノコを連想するような格好を好んでしていたが、今はそれとは対照的な、所謂キャリアウーマンっぽいシュッとした隙のない格好だった。 「まあ私も大人になったってことねっ。女は変わるものよ」 「なんだそれ」 「そういえばナツはユカリとはまだ続いているの?」 「ユカリ」というのは大学の4年のときに一瞬だけ付き合っていた同じゼミの女だ。そういえばそんなこともあったっけな。と人ごとのように思えるくらいにはテキトーな交際だった。 「とっくに別れてるよ。大学を卒業する前にフラれた」 いや、俺がフッたんだったかな。もう忘れた。どうでもよかった。 「えー残念。私絶対2人はお似合いだと思ってたのにな〜」 「ほんと?テキトーに言ってない?」 「うん、テキトー」 リコはそう言いながら笑い、その勢いでテーブルに少し乗り出した。いささか酔っているみたいだ。乗り出したときにリコのあまり主張のない胸の谷間がちらと覗き、不意に俺は欲情した。 「じゃあ今はどうなの、彼女とかいない感じ?」 「うん」 「リコはどうなの?」その言葉を俺は口に出す寸前で飲み込んだ。 俺はいつからか左手で内ポケットの貝殻を弄んでいた。ほろ酔いのリコはそれを気に留めなかった。 「そっか、でも焦らなくてもナツはいい男だからそのうちいい人が現れるよっ」 「それ、またテキトーに言ってるでしょ」  店を出て駅まで2人で酔い心地でふわふわと歩いているとリコはやにわに腕を絡ませて来た、それはあまりにも自然で、まるで女同士がそうするような感じだった。不覚にも俺は勃起した。俺はそれをリコに悟られまいと不自然じゃない程度にやや前屈みになってみたり苦心惨憺した。そして意識がそっちに向かうとせっかくの酔いは醒めていった。「このままホテルまで連れて行くか」俺はそう決心した。リコはさっきから無言で、眠たそうな顔をしている。駅の3つ手前の交差点に差し掛かり俺が「じゃあこのままホテルへいこうか」と切り出そうとした刹那、リコは「じゃ、私ここで右に曲がるから」と言い放ちぱっと俺の腕から離れていった。 「今日彼氏が出張から帰ってきてそのまま車で迎えに来てくれるんだ」 「そうなんだ、そりゃいいね。じゃあまた」 俺は無意識にそう言っていた。心は真っ白だった。 「ばいばい」 ひらひらと手を振ってリコは少しよろけながら雑踏のなかへ消えていった。リコの体温とバニラのような匂いがまだ右腕に残っている。依然として俺は勃起していた。リコは出張から帰ってきた彼氏と今日は何回もセックスするのだろう。何回も何回も、想像すると俺の勃起はさらに勢いを増していった。内ポケットの貝殻を潰れてしまえと本気で力を込めて握りしめた。しかし貝殻はびくともしない。痛む掌が熱い。不意にさっきの映画が頭の中でフラッシュバックした。すべてはきれぎれで、とりとめがなかった。狂騒が、俺の中で静かに燃える。全てを焼き払う炎で、俺の炎ごと焼き尽くしてほしいと俺は願った。「願う」でも、何に対して?
 俺は最近おじいちゃんの今際の言葉をたびたび思い出すようになった。病室のベッドの上ですっかり痩せて小さくなったおじいちゃんは俺にこう言った。それは俺が産まれた頃には既にこの世にいなかったおばあちゃんのことについてだった。 「わしはあれの死に立ち会えんかったことが心残りでな。ある日わしが仕事から帰ってくるとあれはぽっくりと居間で冷たくなっていたよ。わしは悲しくて悔しかった。しばらくは自分を許せなかったよ。わしはあれのことを考えると今でも死んでも死に切れん思いになる。思えばあれは随分とわしを人間らしくしてくれたもんだよ」 おじいちゃんはそう言って俺に背を向け窓の外をじっと眺めていた。窓の外には隣の棟のクリーム色の壁しか見えなかった。おじいちゃんは俺に背をむけたままか細い寝息を立て始めた、そしてそのまま目覚めることはなかった。
 リコとのデートから2週間が経った。あれからリコとは一度も連絡を取っていない。俺はまだ内ポケットに貝殻を忍ばせただ呆然と日々を過ごしていた。退社してオフィス街を幽霊のように歩く。様々な想いが言葉となる前に水面の泡のように弾けて消える。夏ももう終わりなのに街はやけに蒸し暑かった。
「風が微笑んどる」
 その言葉がふいに耳に飛び込んで来た。はっとした俺はとっさに振り向いていた。ビルの隙間から、かなとこ雲が恐ろしい形相で覗いていた。その声はたしかに聞こえたんだ。なのになぜだれも知らない振りをする?  すると唐突に激しい雨が降り出した。風が微笑んだんだ、そりゃそうだろう。猛烈な白い飛沫がアスファルトに火花のように走り、通りにいる人々は空襲警報を受けたかのように頭に鞄を被せ、一斉に散り散りに走り出した。俺も走った。走り出してすぐ眼に入ったコンビニに夢中で飛び込んだ。この勢いだとそんなに長いこと降らないだろうから、しばらく立ち読みでもしてやり過ごすことにした。少年雑誌を立ち読みしていると、カップルがじゃれつきはしゃぎながら店に入って来た。最初は気に留めなかったが、会話を聞いているうちに女のほうの話し方に聞き覚えがあることに気が付いた。まさかと思い少年雑誌を棚に戻して、カップルのいるスナック菓子の棚のほうまで歩き顔を見てみると、やはり女はあの貝殻の女だった。俺と女は目が合った。一瞬女の方もはっとしたのがわかった。しかし女は俺の存在をなかったことにして、連れのがっちりとした青いスーツのきまっている男性と談笑している。よく見ると女は俺と会ったときと随分雰囲気が違っていた。この前はどこか垢抜けない感じだったのに、化粧も、服装も、振る舞いも随分大人っぽかった。女がリコとダブった「女ってやつは…」俺は女たちを責めたがそれは自分を苛む痛みを伴っていた。俺はもう少し女のほうににじり寄った。すると女は男と話しながらも次は俺の顔をちゃんと見た。明らかに女��俺のことを警戒し出したのがわかった。男の方は話すのに夢中で俺に気が付かないようだ。俺は女と見つめ合いながら、内ポケットの貝殻をぎゅっと握りしめた。洋画で今にも拳銃を抜き出すときのポーズだ。女の表情が強張る。爪と貝殻の擦れる音が俺の胸から首筋を伝って昇り頭の中で冷たく砕けた。一瞬が永遠のようだった。そのとき、俺の中の何かが弾けた。  俺は大股に一歩歩き一瞬で女との間合いを詰め、貝殻をさっと差し出した。女はきゅっと眼を瞑って小さな声で「ひっ」っと漏らした。男はそこでやっと俺に気付き、呆然とした表情でこっちを見て「え?」と言った。俺は何も言わずそのまま貝殻を2人に向けていた。  「あっ、もう雨止んでるよ?はやく行こう」女が切り出した。「お、おう…」男のほうも俺のことを見なかったことにすることにしたらしい。2人は何事もなかったかのようにまたいちゃつきながら俺をスルーしてコンビニから出て行った。俺は掌の貝殻を見つめながら、おじいちゃんの柩に入れられたおばあちゃんの写真のことを思い出した。 もし今俺が死んだならば誰かが俺の柩にこの貝殻を入れるんだろうか。そんな妄想はなんだか俺を愉快にさせた。さっきのあの2人が付き合ってるのではないのだろうということは、何となく雰囲気から察せられた。今夜か明日、また彼女は男の部屋に貝殻を置いていくのだろうか。
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cvhafepenguin · 6 years
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マドカサマ
  風録町の束の間、とある部屋で
 まず必要なものは 15ℓくらいの水槽 ろ過装置 カルキ抜き 塩 榊の枝2本 榊立て そしてこれらを揃えてから、夏至の正午の少し前に和樹さんを部屋に呼んで「神饌」を占ってもらう。和樹さんは40の半ばにして俺の住むアパートの大家で、このアパートの向かいの一軒家で一人暮らしをしている。その年によって神饌は変わるそうで、占いに出た神饌を俺は毎朝5時に捧げなければならない。和樹さんは椀に盛られた米粒をテーブルの上に無造作にざばとひっくり返した。散らばった米粒のなかに小豆が一粒紛れている。和樹さん曰く、米粒のなかの小豆の位置から「相」を読むのだそうだ。和樹さんはテーブルの上に散乱する米粒をしばらく凝視して、やにはに低い声でぼそっと「はんぺん」と呟いた。そして、俺のスマホから正午にセットしたアラームが鳴ると、和樹さんは掌に収まるほどの小さな古びた木箱から、おもむろに薄い紙の人型をすっと取り出した。開かれた木箱から何ともいえない、温泉のような心地のいい香りが漂った。和樹さんは人型を神棚の上の水槽に並々と注がれてある塩で清めた水の上にちょんと浮かべた。それから和樹さんは水槽にまっすぐ伸ばした手をかざし、眼を瞑り下を向きながら「ナラクバ ナラクバ ナラクバ」と唱えた。その声は何かに取り憑かれているかのようで、和樹さんがこんな声をだせるなんてと俺は少しぞくっとした。すると、風も吹かないのに水槽の両脇に立てた榊の葉がふわっと揺れた。そしてだしぬけに水槽の底から大きなあわがひとつ現れ、それはゆらゆらゆっくりと昇っていく。上昇するその完璧な球はさながら、夜明けの太陽だった。そのあわは水槽のちょうど真ん中に留まった。次いで水面にうずまきが現れた。うねりながら水面から下へと伸びていくうずは螺子のようにあわを穿ち、そしてそれに巻き込まれた人型はくるくるとうずを降り、水中のあわのなかにすぽんと引きずり込まれた。人型があわのなかにすっかり収まると水面のうずまきは消えた。それから、あわのなかをしばらく漂っていた人型はまるで意思を持っているかのように、おもむろに頭を下げてくるんと丸まり、ちょうど胎児のような姿勢になった。そして人型は膨張して広がっていき、やがて人型はあわのなかでいっぱいになった。そして人型でいっぱいになったあわは、俺の肌と同じような色にだんだんと変わっていった。それからあわはみるみるうちにぐにゃぐにゃと歪み、それはとうとう、まるで毛と頭のない馬のような異形のものへと変身した。そののっぺりとした首の断面らしき部位から、静脈のような濃紺の管が一本飛び出していて、それはその胴体の2つの股を潜ってお尻らしき部位へと帰結している。和樹さんは呆然と口をあんぐり開いている俺の顔を見てにやりと笑い、いつもの飄々とした調子で言った。「これがマドカサマです」マドカサマというのはこの風録町の地主神で、3年に1度の夏至の正午にこの町の何処かの家に降りてきて、その年の冬至の0時に去っていく。この町に点在している大家は皆世襲で、その全ての家がマドカサマのかんなぎとしての任を預かっているらしい。今年のマドカサマは俺の部屋を選び、和樹さんの元に宮司から通達があったとのことだ。
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cvhafepenguin · 6 years
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 津波さんは少し不思議な人だった。「つなみ」じゃなく「つは」って読むんだぜ。と東條さんは言った。津波さんは沖縄の人で、口数の少ないもの静かな男性だった。俺は大学のサークルの先輩の東條さんと、東條さんが学生の頃バイト先で知り合ったという津波さんと3人でルームシェアをしている。それまでまるで面識のなかった俺たち2人を、東條さんは半ば強制的にルームシェアに誘った。「だってなんか面白そうだろ」が東條さんの学生の頃からの口癖だ。俺はいつもそんな飄々とした東條さんのペースに巻き込まれてしまう。津波さんと最初に会ったときも、最初に沸いて来た気持ちは同情だった。「この人もバイト先でずっと俺みたいに東條さんにふりまわされてたんだろうな」やりたいことも特になく無内定で大学を卒業し、フリーターとしてふらふらしていた俺は、一緒に住んでいる親への負い目から逃れるために、東條さんの誘いを受けることにした。東條さんがそのことを見越した上で俺を誘ったのがわかるので俺はしゃくだった。3LDKに暮らす俺たちの生活リズムはてんでバラバラだった。俺は夜中にコンビニでアルバイトをしている。津波さんは短期の派遣やら引っ越し業者やらいろいろやっているようで、出勤時間が日によって全然違った。出て行ったきり2、3日間帰ってこないこともしばしばあった。東條さんはフリーランスのwebデザイナーで、休みの日以外は殆ど部屋に篭りきりだった。夜勤から帰って来て、夜が明け始める時間の薄明るい廊下で、東條さんの部屋からデスクトップパソコンのファンの「フウーーン」という無機質で清潔な感じの音を聞くと俺はとても落ち着いた。それは知らない街を1人で旅をしているときの、快い心細さに似た安らぎだった。そんな生活の歩調のまるで合わない俺たちだったけど、毎月の第三土曜日だけは三人一同リビングで合して朝まで飲むことと、東條さんが唯一の規則として定めた。その日は、男3人で買い出しをして、男3人で朝まで映画を観たりしながらひたすら飲む。東條さんは張り切ってオリジナルのアテをたくさん拵えてくれた。東條さんの料理の腕は、なかなかのものだ。俺たちは東條さんがこさえた厚焼きやエビのガーリックマヨネーズ和えに舌鼓を打った。そして食べ終わると各々酒を片手にリビングに散らばって思い思いの時を過ごす。東條さんは酒が入るといつにも増して饒舌になる。上機嫌でマシンガントークを俺たちに浴びせてくるが、いかんせんアルコールに弱く、すぐに撃沈してしまう。俺はこういうときに東條さんがアルコールに弱くてよかったなと思う。東條さんが寝入ると、この家はとても静かだ。津波さんと俺はお互いテーブルに向かい合って粛々と泡盛を飲む。ひっそりとした部屋で、津波さんがノートにすらすらとペンを走らせる音だけが聞こえる。最初に津波さんがそれをやりだしたとき俺は少しびっくりして、「どうしたんですか」と津波さんに訊ねた。「酔うとくせでやってしまうんです。自分でもこれをいつやり出したのかわからないんですが、ノートはこれで62冊目です」そっと後ろから覗くと津波さんは綺麗な半径3㎝ほどの大きさの◯を、おそろしいほど正確に、開いたノートの左上から右下にかけてびっしりと描いていた。「こうしていると落ち着くんです」津波さんの長くてつやのある濃いまつげが揺れていた。津波さんが描くような綺麗な◯を、コンパスを使わずに描くことは俺には不可能だった。そしてそんな調和のとれた完璧な◯を描くことは、心の中でも無理なことに俺は気が付いた。津波さんは、綺麗な◯を心の中に描ける人なんだ。東條さんなんか、きっと俺より下手な◯を描くに違いない。と、なんとなく俺はそう確信した。津波さんの心の中を覗いてみたい。口数が少なくていつもぼうとしている津波さんの心。俺はいつも津波さんがノートにすらすらと○を埋めていくのを聞いているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。ルームシェアを始めて丁度1年が経ったころ、いつものように第三木曜日に3人でのんでいると津波さんはやにはに「父が倒れたので明後日の朝沖縄に帰ります」と俺と東條さんに切り出した。東條さんはそっか寂しくなるな、と言ったきりそのことをそれ以上追求はしなかった。その日もいつもと変わらず特にしんみりすることもなく俺たち��粛々と飲んだ。東條さんがソファーに横になって鼾をかき出した頃、津波さんは○をノートに描き始める。「津波さんは恋ってしたことありますか」無意識にこんな質問が俺の口をついて出た。「幾度か、ある」「そうなんですねー」「いまも、してる」俺は何故かどきっとした。「相手は、どんな人なんですか」「秘密」「秘密、かー」俺は天井を仰いだ。この部屋の天井を俺は初めて見た気がした。視界の先に吸い込まれていきそうな感覚が不意に襲う。涙が、こぼれそうだった。津波さんがいなくなるのが寂しいのではなく、俺は自分が自分以外になれないことが無性にかわいそうだった。俺はトイレに行って、涙を拭った。そして津波さんと、日が昇るまで泡盛を飲み続けた。小鳥の囀りが聞こえてきて、もう夜明けだと気が付いた。津波さんはいつの間にか座ったまま静かに眠っていた。だらんと垂れた掌に乗ったノートは俺に差し出しているように見えた。その開かれたページには、最期の◯だけが欠けていた。俺は津波さんの膝の上に落とされたペンをそうっと手に取って、◯をひとつ、開かれたページの最期にそうっと描いた。俺の○は歪で、やっぱり津波さんのようにはうまく描けなかった。俺はふっと笑い、おもいっきりのびをして、自分の部屋に戻り、眠った。
 津波さんが帰ってからもう1年が経つ。俺はあれから職に就いて、東條さんとのルームシェアも解消した。津波さんと東條さんと暮らしていたあの時間を思い出そうとしてもなんだか夢のようで、どうにもはっきりと思い出せない。本当に会ったのかどうかすら曖昧だ。けれど今でも酒を飲んで酔うといつも津波さんの◯が心の中に浮かんでくる。それは1人で飲むときも会社の宴会の席でもそうだった。俺の心の中に開かれたノートの左上から右下まで性格に描かれていく◯。それは調和のとれた、完璧な◯だ。
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