Tumgik
miyae-ika · 6 years
Text
新年
また実感も湧かないうちに年が明けていた
とりあえずは あけましておめでとうございます
なんだか時間の手触りが年々薄くなっていくようで心許ないので 今年はできるだけじっくり日々を紡ぎ、織っていく努力をしようと思う
言葉であらわそうとしないほうがいいんじゃないかなどと考えることもあるのだけれど、言葉で残しておきたいこともある
インプットするだけではなくて、アウトプットすること 自分の中だけにとどめておかないこと
表現することをあきらめない年にしたい
今年もよろしくお願いします
(もう年が明けて3日目とはいえ、ひとまず新年らしいことが書けた)
2018.01.03
0 notes
miyae-ika · 6 years
Text
雑記 2017.12.23
文章を書く。
饒舌すぎないように、説明不足にならないように。
淡白すぎないように、感情過多にならないように。
一般論だけで終わらないように。
自分の話で終わらないように。
枠にとらわれないように。
踏み外さないように。
注意深く文章を書く。
もっと、鼻唄でもうたうように何かについて語りたいとも思う。
何かを見聞きしたときの感覚や感情を、いっそ言葉であらわそうとしないほうがいいのかもしれないと考えることが、1週間に2度か3度ぐらいある。
1 note · View note
miyae-ika · 6 years
Text
たべること・たべもののこと
ここ最近読んだ本についてのメモ。特にたべることに関して。
水上勉『土を喰う日々』
子どもの頃にお寺で精進料理を学んだ著者は、軽井沢で、その土地で採れる旬のものをつかって料理をつくる。その1年間の記録。
こういう暮らし、いいなあとも思うけれど実際に1年間続けるとなるとしんどそうだなあと正直思ってしまう。わたしはどちらかといえば健啖家なので。
とはいえ、くわいを丸ごと焼く時のにおい、筍の生えているさま、高野豆腐の味わい、きのこの香りなんかを思い浮かべながら読んでいくと楽しい。「土を喰う」というのは、たべることを通して自分と自然とを繋げていくことなのだ、野菜やきのこや木の実の強さを知ることなのだという気がする。作中で引用されている『典座教訓』で言われているのも、あるいはそういうことになるのかもしれない。
平野紗季子『生まれた時からアルデンテ』
「食べること」は生きていくために絶対に必要なことのひとつ、という点で、音楽を聴くことや書物を読むこと、美術作品をみることとはちょっと違うと、わたしは思う。
のだけれど、一方で、料理にストーリーを見出だしたり、対象を味わうことに全神経を集中させようとしたり、食べ物とその周りのものごとに、生活とは離れて意味を付与できるような人もいるのだ。
料理と文化の関係を追究する「ガストロノミー」というものがあるらしい。なるほど何を食べるか、何を美味とするか、料理をどう評価するかというのはその背景にある文化、ひいては人間によって違う。
料理を通して、それを食べる人と繋がることを意図する、コミュニケーションをとろうとする人もいる。
料理をすること、食べることとは何だろう。
「自分の舌で味わったひとの言葉は強い」「他人の舌で味わったひとの言葉は弱い」(『生まれた時から~』p.93)
ああ、これはまさしくその通りだと思った。食べることに限らず。でも、映画やら何やらのネタバレをあまり気にしない人間としては、食べる前にその情報をネットかどこかで仕入れているのと映画のネタバレとはちょっと違う気がするぞ。どちらかといえば、映画評論なんかを先に読んで、「これはこういう作品なのね」と頭から決めてしまって観るというケースに近いのだろうか。ネタバレされた筋書やら人の言葉だけで判断するなら凡庸だということになるとしても、「自分で味わう」余地は他にもあるはずだし。撮り方、演出、台詞回し、俳優さんの表情、エトセトラ。まあいいか。
そういえば、最近読んだ本でもう1冊。ドリアン助川『あん』。これもある意味たべものに纏わる物語ではある。
(ただし、たべもののこと・たべることそのものがメインテーマというわけではなくて、ハンセン病患者の話であるとか、もっと大きな問いかけとして「生きる意味」のようなものについても語られている小説なのでそちらについて先に触れるのが筋かとも思うけれど、今回はたべものの話から繋げてしまったのでご容赦願いたい。)
物語の序盤、徳江さんというおばあさんが小豆を炊く場面がすごく印象的だった。徳江さんが小豆を見つめる眼差しには恭しささえ感じられる気がしたし、読み進めるうち、彼女���手によってできあがっていく餡から、ふんわり湯気が立つのが見えるようで。後から知ったのだけれど作者の方は製餡を学んだことがあったようで、そのリアリティある描写も効果的だったのかもしれないけれど。
料理すること、たべること、たべものにふれること、というのは、どうやらまだ奥が深い。
2017.12.19
0 notes
miyae-ika · 6 years
Text
「星降る夜になったら」という曲はとてもずるいと思う
どういうところが“ずるい”かというのは以下の通り。なお、異論は歓迎します。
・イントロの一番最初のギターと、短いドラムロールに否が応でも高揚を覚えてしまうところ
・歌詞の最初は「真夏の午後」なのにサビのメロディとアレンジから冬の夜を感じるところ
・「雷鳴は遠くへ/何かが変わって」のところではずむピアノがきらきらしているところ
・ただしこのきらきらは星空のそれではないと思われるところ
・サビの直前、ベースの音だけになる小節が挟まれているところ
・そのベースの音が1番と2番とで違っているところ
・「星降る夜になったら」「いくつもの空くぐって」「星降る夜を見ている」「輝く夜空の下で」にコーラスが加わるところ
・「覚めた夢の続き」「言葉の先」そのものについて語られないところ
・フジファブリックの曲の中で金澤・志村という二人の合作がこの1曲しかないところ
・歌のうしろで鳴っているオルガンの音が独特なあたたかみを持っているところ
・「僕は駆け出したんだ」に続いてピアノが上っていくところ
・最後のサビだけオルガンのうごきが違うところ
・最後の最後、大きく跳躍して着地するみたいに終わるところ
2017.12.07
1 note · View note
miyae-ika · 6 years
Text
空白
小川洋子さんの『不時着する流星たち』を読んだ。
読みながら、「あ、わたしはこういう文章、こういう物語を読みたかったんだな」という気分になる。すっと流れ込んでくるようでいて、なまあたたかい血の感じを残していくような。ふと見つけた空洞を覗いたら、その中の空気の冷たさにびくっとするような。そんな文章。大袈裟な表現やわざとらしい堅さのない、滑らかだけれど饒舌ではないことばたち。
物語の中の人々は、一見するとどことなく、「ごく普通の世界」から外れたところにいるように思える。何か大きな欠落を抱えているようにみえる。それは、現実的には不可解なことが彼らの周りで起こるから、というわけでは、おそらくない。むしろ、彼らの周囲にそういう空白がある気がするので、現実に起こったら信じられないようなできごとがえがかれていても「ああ、そういうことがあったんだな」と受け入れてしまう。現実と夢か、此岸と彼岸かわからないが、境目が曖昧になる。ちがう平面どうしがねじれて、メビウスの環のようにつながっている。ねじれは、始めからそうだったかのように、当然のような顔をしてそこにある。ほんとうに元からあったのかもしれない。
物語の中の人々には、一方で妙なリアリティもある。
わたしはいくつかの短編を読みながら、自分が好きな小説や歌詞の一節をノートに書き写すとき、それらのことばをより近くに引き寄せているように感じているということに気づいたり、幼い頃、耳の中に象を飼っていたことを思い出したりした。
(説明しておくと耳の中の象というのは、なんのことはない、当時たびたび中耳炎を発症していたわたしが生み出したものだ。彼、あるいは彼女かもしれないが、とにかくその象は時折耳の中で騒ぎだしたり、音の通り道を塞いだり、どこからか仲間を連れてきて行進したりしていた。)
誘拐の女王も、同志を探す少女も、サー叔父さんを慕うあの子も、わたしはどこかで知っているような気がしてくる。
もうひとつ、この短編集にわたしがリアリティを感じるところがある。逆説的にも思えるが、「不時着」というタイトルに象徴されるように、ひとつひとつのお話がはっきりした結末を持たず、ふっとフェードアウトしていくような形で終わってしまう、そのことがかえってほんとうらしく思える。
伏線がすべてどこかに繋がっていて回収されて事件が解決したり、大団円を迎えたり、登場人物が何かを明確に手に入れたり失ったり、そういうストーリーもわたしは好きだ。ちゃんと感動できるし、安心できる。
けれど、実際に起こるできごとというのは、はっきりした解決とか結末を持たずに続いていくことのほうがずっと多いという気がする。そういう区切りや決着がないほうがいいことだって少なくない。なにもかもがすっきり理解できるわけではない。
だから、物語の中の彼らが、説明しきれない部分や、外から見る限りでは埋めようがなさそうな空白、欠落を抱えながら、それに対して特に答えを示すわけでもなく、彼らなりの居場所にとにかく不時着するのを見て、わたしはその先を案じる半面安堵する。そこに空白はあっていいのだと。境界線のわからなくなるような部分があってもいいのだと。それは紛れもなくじっさいにあるものなのだから。
それにしても、一読目は文章の流れ込んでくるままに読み進めてしまった。あたためた牛乳をゆっくり、ひとくちずつ飲み下すように、読み返してみたい。
2017.12.05
0 notes
miyae-ika · 6 years
Text
そういえば
Tumblrに雑記を置いておくようにし始めたのが去年の今頃だったのを思い出した。
雑記というぐらいだから、ちょっと思いついたことをポンと投稿してしまえばいいと思っていたのだけれど、結局、やはりある程度は体裁の整った文章を載せたいという気持ちはある。
それでどうなったかというと、タイトルと一言二言見出しのようなメモだけ書かれた下書きがそこそこの数保存されっぱなしになっている。あとできちんと書き上げて投稿しようという意図でそうしているもの���あるのだけれど、ちょっと手をつけて、時間がないからと後回しにしてそのままというのもある。後者のほうは、下手をすると書きたかったことのほとんどがどこかへ紛れ込んでしまった。「このことについて書こう」という熱意もすっかりさめてしまった。
文章にしても、書きたいと思わせる心の動きがあったら、その時に掴まえておかないと、そしてそれを形にしておかないといけないんだろう。そもそも、そのためにこういう場所に文章を投稿していくことにしたのだ。
こんなことを、去年の今頃にも書いた気がするのだけれど、ともかくもっとこの場所をとりとめのない文章で埋めていくようにしてみたいとおもう。
2017.11.27
0 notes
miyae-ika · 6 years
Text
ちなみにプルシャンブルーがどういう色かはよく知らない
言葉というのは知っていれば知っているだけ便利ではあると思う。
語彙が豊富なら、それだけなにかを表現したいときの選択肢が増える。表したい対象になるべく近い単語を選べる。たとえば研究者なら、研究対象のことをなるべくはっきり理解したり、記述したりするために、そのための言葉を知っていたほうがきっとやりやすい。そんなに専門的な話でなくても、誰かに自分の見たものの色をできるだけ正確に伝えるために、「青」というのでは不十分で「群青色」「浅葱色」「瑠璃色」とか、はたまた「プルシャンブルー」とか、どんな種類の「青」なのか、なるべく細かく分けられたものの名前を言う必要があるかもしれない。
その言葉によって表されているものの幅がなるべく小さくなるようにすれば、自分が言いたいことと相手がそこから理解すること、思い描くこととの差も小さくなる。だからなるべく言葉を知っていたほうが便利、という場面は、もちろんあると思う。
ただ、そればかりでもない。全部言葉で細かくきっちり区切って、私が言いたいのはここからここまでです、と示すのが常に最善かというと、そうでもないとも思う。ひとつには、当たり前だけれど、言葉は、それを知らない人にとっては意味をなさないのとほとんど変わらない。そうして、細分化された言葉というのは表す対象が狭くなるぶんそれを知る人もたいてい少なくなる。もうひとつには、どれだけきっちり区切ろうとしても、言葉の意味にはどうしたって揺らぎが生じる。
それに、知る人の少ない難解な言葉をわざわざ選ばずに、むしろ、できるだけ誰もが知っている言葉で表現して、それでもって自分の感じたものと同じイメージを受け手に抱かせることができた方がいいことだってあるだろう。
たとえば音楽や詩の世界。もちろん敢えて難解な言葉を選んで並べる表現だってあって良い。ただ、つかわれているのは誰でも知っていて普段からつかうような平凡な言葉で、それでいてその人にしか書けない・語れない表現がそこにあって、それを受け取った人の眼前に間違いなくこれだと思えるようなイメージを浮かばせることができるような作品を、私はほんとうにすごいと思う。
この前、フジファブリックを聴きながら考えたこと。
2017.11.26
0 notes
miyae-ika · 6 years
Text
ジョギングしながら写真はなかなか撮れないので
試しに文字で残してみようと思った。
冬の晴れた日の夕暮れは、このあたりの景色が一年の中でいちばんうつくしくなる時間なのかもしれないという気がする。近くの紅葉や銀杏の葉はだいぶ散ってしまった。すこし行くと、何もなくなった田圃と、ぽっかりと青い空と、ただそれだけになる。これぐらいからっぽの空間はかえってすがすがしい。
走り始めた時には吸い込まれそうに青かった空が徐々に淡くなる。北東の空を見ると、青から白へと移る冷たそうなグラデーションのいちばん下に、だんだんと橙色がさしてくる。西のほうに目をやると山並みと雲のあいだから光の帯が広がっている。運が良ければ富士山が見える道なのだけれど、今日は見えなかった。
このあたりの川は流れがおだやかなので、空の色をとてもうまく写している。小さいかたまりではあるけれどそれなりに重たそうな雲が、橙色やピンク色に染まる。東の空まで淡くにじむ。
不意に自分も橙色に包まれた気がして、前を見るとさっきより濃く、長くなった影がわたしの先を走っている。信号で立ち止まって振り返ったら、山の上から雲がなくなって夕日が照らしていた。坂を上りきってもう一度振り返った時には、ピンク色しか残っていなかった。
2017.11.23
0 notes
miyae-ika · 6 years
Text
「ペダル」の光景
青。
青。どこまでも青い。
澄んだ青い色。
高い空の下を歩く。どうやら今朝はこの服ではすこし寒すぎた。日向に出たら、ちょっとはまし。
道の脇の花壇。こんな季節に咲いている花をみる。勝手に生えてきた雑草なんだろうか。そうはいっても、だいだい色、そしてピンクのそれらはどうも僕の目には眩しいみたいだ。それもしょうがないのかい。
そんなことを、誰に訊ねようか。
いつも歩く道。いつもと���わらない今日。平凡な日々を繰り返す。同じ歩幅のまま、同じリズムのまま。それにもちょっと好感をもって、毎回のこの景色にも愛着が湧いた、そんな今日この頃。
そんな近況を、誰に話そうか。
目に映る青。いつもの光景。僕には眩しすぎる色。いつかのあこがれ。あのひとのおもかげ。
あの角を曲がっても、消えないでよ。
無限に続く青に視線を投げた。青のなかをのびていく白線がある。飛行機雲が、僕が向かう方向と垂直になった。白の行く先を目で追いかけた。線は徐々に霞んで曲線になった。
あの飛行機はどこへ向かったんだろう。
青のなかに見えなくなった。
足元に視線を下ろすと、何軒か隣の犬が僕を見つけてすり寄ってきたところ。ちょっとめんどうなんだ、この子の相手は。
そんな愚痴を、誰に話そうか。
目に映る青。いつもの街並み。駆け出した自転車。通り過ぎる風。あのひとのおもかげ。いつかのあこがれ。あの角を曲がっても。
消えないでよ。
僕は立ち尽くしたままで追いかける。
青。
青い。青のなかを追いかける。追いつけないよ。
どこまでも昇っていく。
天地がなくなる。
青のなかをどこまでも潜っていく。
青に呑み込まれていく。
自転車はどこかへ見えなくなってしまった。
消えないでよ。
澄んだ青い色。
僕は高い空の下を歩く。
そういえば、いつかきみが語ってくれた話の続きは、この間ひとから聞いてしまった。きみから聞きたかったけれど。次に会えたらその話を聞きたかったんだけれど。次にきみと会う口実にしていたんだけれど。
でも、もうきみと会うことはないのかもしれないな。
2017.11.22
1 note · View note
miyae-ika · 6 years
Text
雑記
自分がこの世からいなくなる時には――いつそれが来るのかわからないしまだ当分の間は来ないでもらいたいところなのだけれど――自分の意識というのは、おそらくだけれど消えてしまうのだろうということをふと考えた。
自分がこうしていま考えているものごとも、そうしたらその瞬間に消えてしまうことになる。いま好きなものやこと、人について思うこと、それらをどれだけ好きかということも、やはり消えてしまう。自分の頭の中にあったものごとを、もう誰にも伝えることはできない。誰もそれを知ることはない。
そう考えて、おそろしく寂しい気持ちになる。
だって、私がこの音楽にどれほどときめいているか、この感情にどんなことばをあてはめるのか、あの光景をどう記憶しているか、あの人がそこにいることがどれほど嬉しいか、いま確かに私のなかでこれほど強く脈打っているものが、その瞬間にすべて、はじめからなかったのと同じことになってしまう。
この世からいなくなった後は、意識が消えてしまうんだからその人自身はなにも悲しいともつらいとも感じなくなるんだろうと漠然と思っていた。けれども、自分のなかにあるものたちが跡形もなく消えてしまうこと、そのこと自体が、あまりにも悲しいじゃないか。とても耐えられないことじゃないか。
だからいまこうして文章を書くのかもしれない。誰かが見るでなくとも記録したいと思うのかもしれない。拙くとも表現したいと思うのかもしれない。私のなかにどれほど強いあこがれがあるのか、私がみた世界にどんな素敵なものがあるのかを、私がいなくなった後ものこしておけるように。
2017.11.09
0 notes
miyae-ika · 7 years
Text
大切にしたかった ―― 「カタチ」について・2
フジファブリックは全員が作詞も作曲もする人たちなので、曲を聴きながらそれぞれの歌詞を比べてみたりもする。
「カタチ」は山内総一郎作詞・作曲。タイトルからしても「形」、それから歌の中でも《色や形を見ることができるのなら》と歌われている。何の色や形かというと、どうやら「愛」とか「優しさ」とか、そういうものらしい。
《それなりに忘れられないことも/どれくらい好きと言う感情も》《この目で見えたとしたら/色や形を見る事ができるのなら/ずっと大切にできただろうか/ずっと近くにいれただろうか》
《気付かずに通り過ぎてしまった/変わらない君がくれた優しさも》《暗闇で伸ばしたこの手で/温もり感触掴めたのなら今度は/そっとしまっておくのだろうか/また潰してしまうのか》
何かに対する心の動き、いっときの感情、誰かの優しさ、そういうものが目に見えたら、手でさわれたら。
「それなりに忘れられない」とか「気付かずに通り過ぎてしまった」という言葉、「~としたら」「~のなら」という仮定、「今度は」「また」という表現には、そういうものを大切にしてこられなかったという意識、ほんとうは大切にするべきだった、大切にしたかったのにという後悔が滲んでいる気がする。
それができなかったのは、その色や形、手触りや温度がわからなかったからなんだろうか。もし見えていたら、その感触を知っていたら、もっとだいじにできたんだろうか。
でもこの人は、そう思いながらも同時に「愛というものの形を見ることはできない」「見えたからって大切にできるかどうかはわからない」という事実を心底受け入れていそうでもある。受け入れているんだけれどそれでも、自分の中におこる何かを好きという感情にも、ひとが自分に向けてくれた愛情や優しさにも、その時その時ちゃんと気づいて大切にしたいと思っているのかもしれない。
だからかはわからないけれど、この人は別の曲でこうも歌っている。
《LOVE ME/言葉だけじゃどうも伝えきれないけど/LOVE YOU/少しでも君に届いたらいいな》
(「LIFE」)
少なくとも自分の知っている言葉では、自分の伝えたいことをあらわすのに足りない。それでも、それぐらい伝えたいことを持っているから、少しでも届いたらいいなと願って歌う。健気だし真面目だ。
そんなことを考えながら「カタチ」を聴いていると、「バウムクーヘン」を連想してしまう。こちらは志村正彦作詞・作曲。
《僕は結局優しくなんか無い/人を振り回してばかり/愛想をつかさず僕を見ていてよ》
《大切に出来ずごめんね 僕の心は不器用だな/冷めた後 ようやく気付く 僕の心は不器用だな だな》
この人はこの人で、「優しくなんかない」自分をわかりながら、大切にできなかった対象に向かって「ごめんね」と語りかけている。
《言葉では伝えられない 僕の心は臆病だな/怖いのは否定される事 僕の心は臆病だな だな》
こちらは「伝えきれない」のではなくて「伝えられない」のだという。伝えようとしてできなかったのか、はじめから「言葉では伝えられない」と諦めているのか、それとも「臆病」だからごまかしているのか。どうだろう。
なんとなく、なのだけれど、この人は言葉で核心に触れるのを避けているのかなと思うことがある。
《僕じゃきっとできないな できないな/本音を言うこともできないな できないな/無責任でいいな ラララ/そんなことを思ってしまった》
(「茜色の夕日」)
《曖昧なことだったり 優しさについて考えだしたら/頭の回路 絡まって 眠れなくなってしまうよ》《そうしたら本を読んでも 哲学について考えてもダメだね/そんな日にゃワインを飲むんだ/赤くなっちゃって チャッチャッチャッチャ》
(「ロマネ」)
避けているというと聞こえが悪かったかもしれない。きっと伝えたいことは持っているんだろうし、どう伝えたらいいかも考えているのだ。考えすぎてしまうぐらいに。
優しさだったり、自分の感情だったり、そういう「曖昧なこと」について考えるあまり、身動きがとれなくなってしまう。自分の言葉がどんな風���相手に届くか怖くなって、伝えるべき言葉も出てこなくなってしまう、そういう人なのかもしれない。
そうしてさんざん迷って、結局「大切にできずごめんね」というところに行きつく。こちらはこちらで、実直さが過ぎて不器用なのだ。
そういえば、「大切にする」っていう文句をさっきから繰り返し使ってきたけれど、つまりはどうすることを言っているんだろう。相手に誠意をもって向き合うこと、その時その時の思いをちゃんと伝えようとすること、相手から自分に向けられた優しさに気づくこと、みたいな話だろうか。
そんなことに思いを巡らせながら、もう一度「カタチ」と「バウムクーヘン」を聴いてみる。
行きつくところに違いはあるのだけれど、どちらも他者から自分が知らず知らず受け取っていたものだとか、ちゃんと言葉にしてこなかった感情だとか、そういうものに目を向けていて、それはほんとうに健気で、正直で、不器用なまでにまっすぐな、それでいて気高いことなのかもしれない。
だからどちらの曲もこんなに愛おしいのだろうなと、そんなことをぼんやり考えている。
二人とも心根の優しい人なのはきっと間違いない。
2017.10.20
1 note · View note
miyae-ika · 7 years
Text
思い出す光景 ―― 「カタチ」について
このところの気温差のせいか調子が悪く、寝てしまいたいのだけれどどういうわけか寝つけないので、とりあえずいつものごとく音楽を聴く。
寒くなってくると聴きたくなる曲というのがあるのだけれど、今年はフジファブリックの「カタチ」がそういう曲として思い浮かぶ。去年11月にアコースティックライブで聴いたのを思い出すからなのかもしれないが、この曲の、何かに包まれているようなやわらかさ、あたたかさがそう思わせるところもある気がする。
そういえば、カタチを聴いているとき、思い浮かぶというか思い出すというか、そんな光景がある。
秋の終わり、ぐっと寒さが強まった頃。よく晴れているけれどかわいた北風の吹く日。わたしはまだ小さな子どもで、外から帰ってきて、出したばかりの炬燵に潜り込んでテレビを観ている。母親は夕飯の支度をしながら、時々こちらに来て他愛もないことをわたしと話す。夕方のチャイムが鳴る。父親もそろそろ仕事から帰る時間。外の空気はぴんとつめたそうだけれど、まどからみえる空はほんのりだいだい色で、わたしのいるところはとてもあんぜんであたたかい。わたしはなんとなくしあわせだったとおもう。
まもられているような感覚のなつかしさと、断片的な記憶のたよりなさとが、どこかであの曲と結びつくのだろうか。オルガンとアコースティックギターのやさしいかさなりの間でわたしは目を閉じる。
2017.10.17
1 note · View note
miyae-ika · 7 years
Text
金木犀の心象
きんもくせいの咲く頃は
ふとくちずさむ歌がある
記憶を甘くくすぐる風が
こころ小さくただ揺らす
夕日の匂いがかわるとき
少女はまちをぬけだして
おもいだせない景色へと
いつかのみちを帰るのか
きんもくせいの咲く頃は
あのひとの声を風に聞く
ただ吹き抜けて何もなし
言葉をしらぬこころには
おもいだせない景色へと
少女はひとりかえりゆく
かたむいた陽に影も溶け
風のおもかげさがすだけ
きんもくせいの咲く頃は
あのひとの歌を思い出す
吹き抜ける風からっぽの
こころ小さくただ揺らす
2017.10.11
2 notes · View notes
miyae-ika · 7 years
Text
無題
1週間ばかり前には街のあちらこちらで漂ってきていた甘い香りが、ぱたりとしなくなって、ああ今年は早かったんだなと思っていた。それが、今日の帰り道、ひんやりとした風にのって微かに薫ってきたので、ふと顔をあげたら薄い橙色の花が目に入った。
金木犀の花は1年に何度か開花することもあるという。今日みたのは咲き終わりのものだったのか、これからもう1度満開を迎えるのか、わたしには区別できなかった。後者であってほしいとも思う。
秋は短い。短いだけに、この空気が名残惜しくなってしまう。
これだから秋は困る。
「無題」と題された作品をみると、それが文章であれ絵画であれ何であれ、その題に何かしら意味がある気がしてしまうのだが、この文章に関しては特にそこに意味はない。
肌寒くなるにつれて人恋しさが募るものなのかわからないが、この季節になると普段聴く音楽も、歌の向こうにそれを歌う人のすがたをみとめられるような(気のする)ものを選んでしまう。ここ数日は気がつくとフジファブリックの『CHRONICLE』ばかり再生している。
作り手自身が「ノンフィクションの歌詞」と評していただけに、歌の向こうにその人がいるというのが「わかりやすい」作品なのだと思う。
ふと、「茜色の夕日」のなかで《本音を言うこともできないな できないな/無責任でいいな ラララ》と歌われていた、その行間をようやく歌にしたのがこのアルバムなのだろうかと考える。
考えながら、歌の向こうにいる人のことを、自分は何も知らないと今さらのように思い出す。
知らないけれど、ただ、きっとその人もさみしいんだ��うと思う。
何かとセンチメンタルになるから秋は困る。
2017.10.06
1 note · View note
miyae-ika · 7 years
Text
フジファブリック「バウムクーヘン」にまつわるひとりごと
好きな音楽はたくさんあるのだけれど、その中でもどこか「この曲は特別いとおしい」と思わされるものがいくつかある。
子どものころ、おもちゃのアクセサリーやらきらきら光るビーズやらをしまっていた宝石箱みたいなものに、その歌詞のことばひとつひとつ、音のひとつひとつを入れておいては、なにかと取り出して眺めたくなるような。あるいは、もしもその曲が寂しそうな顔をして目の前にいたら、家にそっと招いて、肩に暖かいブランケットをかけてあげて、おいしいコーヒーの一杯でも振舞いたくなるような。
二つ目のたとえ、曲をひとりの人のように扱うのも変な話かもしれないが、人の作った、血の通った曲なら、そんな風に接してみるのも悪くない。なんなら、そんな曲を相手に見立てて、話をしてみるのもよさそうだ。独りよがりな妄想なのは承知の上で。
今日のわたしは、そんな曲の中のひとつ、「バウムクーヘン」という曲と、話したいことがあるのだ。
****
  何をいったいどうしてなんだろう
  すべてなんだか噛み合わない
  誰か僕の心の中を見て 見て 見て 見て 見て ※
いきなり「どうしてなんだろう」なんて聞かれてもこっちも困るんだけれど。まあいいや。とにかく、自分のことなのに噛み合わない、わからない、誰か見てほしい、そういうことでいいのかな。
ありがちといえばありがちな話かもしれない。わたしにも思い当たる節はあるよ。自分の体のこともちゃんとわかってなくて、ここぞという日に高熱出して寝込んだり。それはちょっと違うか。軽い失敗が続いてなんだか今日は調子が悪いなと思ったり、人と話をしながら、あ、ちょっと今ほんとは違うこと言いたかったんだけどなと思って、あとで悶々としたり。
自分で自分のことを全部わかっているていで過ごしているとしても、もしかしたらわからない部分には蓋をして見えないようにしておいて、その上に見える部分だけを指してわかったふうでいるのかもしれないなと、わたしは思ってるよ。わかっていなくてもとりあえず、日常生活にはそんなに困らないし。
それを、わからない、何をいったいどうしてなんだろうと、初っ端から認めるきみは、なんとまあ正直な。聴いてるほうがどきっとしちゃうね。
  僕は今まで傷を作ったな
  自分でさえも分からない
  歳をとっても変わらないんだな
傷っていうのはどこに、誰に作ったものなんだい。自分に、それともほかの誰かに。自分でさえもわからないというんだから自分で自分につけた傷なんだろうか。
でもそれもわからないのかもしれないね。両方ってことにしとこうか。違うかな。まあまあ、とりあえず。
  僕は結局優しくなんか無い
  人を振り回してばかり
  愛想を尽かさず僕を見ていてよ
「結局」優しくなんかないってことは、優しくあろうとした、優しいふりだとしてもそうしようとしたけど、上手く行かなかったのかな。そうか、それで自分も傷を作って、ほかの人に対しても同じで。
それでもやっぱり見捨てられたくない、自分勝手だなきみは。いや、人のこと言えないんだけど。自分のだめなところをさらけ出して、それでもこんな自分を受け入れてくれる人、心の中を見てくれる人、誰かいないかなとか。あなたはそういう人でいてくれるかなとか。
いやあ、耳が痛いな。
  言葉では伝えられない 僕の心は臆病だな
  怖いのは否定される事 僕の心は臆病だな だな
言葉では伝えられないって、歌の中でそれはなんともずるいじゃあないか、なんてね。
「僕は臆病だな」じゃなくて「僕の心は臆病だな」なんだね。「僕の心は」のところで音がポーンと上がるでしょう。曲の中でいちばん盛り上がるところで、とてもきれいなんだけれど、どこかくるしそうにも聞こえてさ。そんなに思いつめなくていいのにさあ、勘弁してよ、黙ってたって素敵なメロディーなのに。
否定されるのは、そうだよな、怖いよね。無視されるのも広い意味では「否定されること」になるのかな。行為そのもの、存在それ自体の否定。いや、わかったようなこと言ってしまったな、ごめん。
最初から何もしなければ、それをほかの人から否定されることはないけれど、それでも結局、自分で自分を否定していることになるんじゃないかとか考えてみたんだけど。難しいね。
  すぐに泣いたら損する気がして
  誰の前でも見せません
  でもね何だか複雑なんです
またそうやって意地を張る。でもその気持ちはわかる気もするよ。自分はそんなに弱っちい人間じゃないって思ってるし、そういう人間だと思われたくないし。実のところ、それでもいま平気だし。
とはいっても結局、さっきも言ったけど、だめな自分を見てくれる人いないかなって思っちゃってるんだもんなあ。
  嘘をついたら 罰が当たるから
  それはなるべくしませんが
  それもどうだか分からないんです
だって自分のこともよく分からないのに、ねえ、そりゃ嘘かどうかだって分からないさ。
  大切に出来ずごめんね 僕の心は不器用だな
  冷めた後 ようやく気付く 僕の心は不器用だな だな
つらいなあ。大切にできなくて、後から気づく。何にしたってそういうことはあるものね。人に対してもそう。ものごとに対してもそう。あれもこれも中途半端にしてしまった。わたしもいろんな人に、いろんなものに、いろんなことに、謝ってきたいぐらいだよ。でもきみみたいにすんなり認められないんだよなあ。
そういえば、最初に聴いた時からずっと長いこと、きみは恋愛の歌だと思っていたんだ。それはそれでたぶん間違ってはいないと思うんだけど、それだけでもないのかもしれないな。
冷めた後、何に気づいたんだい。大切にできなかったものの大切さ、いや、大切にできていなかったっていうそのことかな。
不器用なのは「僕の心」なんだね、「僕は不器用」ではなくて。表面的には、いろんなこと器用にこなそうと思えば、それなりにできなくはないんだよね。でも心のなかではあれこれほったらかしたり、わからないままにしていたりっていう。うん、ある。
間奏で歌と同じメロディーをなぞるギター、かわいらしいフレーズだけど、やっぱり何か言いたげに聞こえるよ。有り体に言ってしまえば、寂しそうだ。
ああでも、弱々しいとは思わない。きっときみはそれで大丈夫なんだと思う。   チェッチェッチェ うまく行かない
  チェッチェッチェ そういう日もある
  チェッチェッチェ つまずいてしまう
  チェッチェッチェ そういう日もある
投げやりなのか前向きなのかわからないやつだな。きらきらした楽しげな音をまとっているきみのことだから、うまく行かない、そんな日もあるさって笑い飛ばして、つとめて明るくいようとしているのかなとか、考えてしまうよ。
でもうまくいかない日もつまずいてしまう日もある、それはわかる。事実だからしょうがない。
そういえば、きみは「バウムクーヘン」という名前だったね。怒らないでよ、忘れてたわけじゃないんだから。美味しいよね、バウムクーヘン、なんて。それはともかく、あれって木の年輪に見立てたお菓子でしょう。生地を何層も重ねて。きみもそんな風に、いろんなことが何層にも何層にも積み重なってできてるんだろうね、なるほど。
  言葉では伝えられない 僕の心は臆病だな
  怖いのは否定される事 僕の心は臆病だな だな
あれこれ話したけど、結局ほとんどよく分からないままだなあ。しょうがないか。きっときみだけでなく、わたしだけでもなく、結構な数の人が同じようなこと思ってるよ。みんなどこかしらでちょっとは自分勝手だし、そういうもんだ。大げさかな。
というか、一般論を言ったところでしょうもなかったか。そうだったね。
臆病な心、不器用な心のままでも、多少は解決しないままでも、それも含めてぜんぶ肯定してくれる人がいたらいいんだよね。出会えるといいね。
少なくとも、きみを聴いておやっと思って、こんな風に話したがってる人はおおぜいいると、わたしは思うよ。それだけでもわたしはきみが羨ましいんだ、正直に言うとね。
コーヒー飲み終わったかな。散歩にでも行こうか。
2017.09.10 ※「バウムクーヘン」作詞・作曲:志村正彦 本文中の引用は全て同曲から。
3 notes · View notes
miyae-ika · 7 years
Text
雑記・この夏のこと
だいぶ前の話になるが、7月10日に富士吉田を訪れた。
今さら言うまでもないかもしれないが、フジファブリック・志村正彦の故郷である。
新宿からバスに揺られること1時間半。雲の向こうにほんの少し顔を覗かせる富士山に迎えられて、その町に着いた。
彼の初期の曲「浮雲」で《いつもの丘》と歌われている長い階段を上り、忠霊塔越しに見た富士山は、頭のほうが雲に隠れてしまっていた。今日は見せてくれないんだな、でもまあ、志村さんもこういう日があったかもしれないし、と思いながら階段を下りて街へ向かった。
富士吉田の街は、どこか自分が子供のころの地元の空気と似たようなものが流れているようにも感じられた。いつもの丘から市街地に向かう途中でくぐった幹線道路。田んぼや畑の合間を縫って続く細い道。どこかの家から漂ってくるかおりに、ふと祖父母の家を思い出したりもした。 けれどもその一方で、山あいの、街のどこからでも富士山が見える、富士山に見守られているような感覚というのはやはり独特だった。
よく晴れた日で日射しは強かったけれど、あまりじめじめした感じはなく、歩き回るには良い気候だったように思う。下吉田の駅の周りから、月江寺駅、富士山駅のほうまで、あちらこちら寄り道しながら歩いた。 路地裏を歩きながら、また神社で蝉の声を聞きながら、あるいは誰もいないまっすぐな道でふと立ち止まっては、「陽炎」や「茜色の夕日」の光景は、そうか、これだったんだなと、少しわかったような心持ちになった。
帰る時間が近づいたころ、ふと富士山の方を見ると、天辺の雲がなくなっていた。思わずいつもの丘に走った。 18時。街の防災無線から流れる「若者のすべて」を、忠霊塔の向こうに富士山をのぞみながら聴いた。凛として見えた。
****
夏が終わる空気を感じたので、夏の富士吉田に自分がいたあの日のことを書いておこうと思ったのだ。 あの街で見た光景も感じた空気も、まさしく「陽炎」や「浮雲」「茜色の夕日」を聴きながら想像をめぐらせていたものだった。 志村の曲、少なくとも初期の曲には、あの街の風景が息づいている。
もうすぐあの街も、金木犀の季節になるだろう。
2017.09.04
1 note · View note
miyae-ika · 7 years
Text
アルフォンス・ミュシャとスラヴの声
これまた少し前の話(というか、先月の話)になるのだが、国立新美術館で開催中のミュシャ展に行った。
アルフォンス・ミュシャはチェコ出身の画家。パリでデザイナーとして活躍し、女優サラ・ベルナールの出演作ポスターや広告のデザイン等で知られている。 しかしその後半生は自身のルーツであるスラヴ民族の歴史を描くことに費やされた。その連作「スラヴ叙事詩」が初めてチェコ国外で公開されるというのが今回の企画展の目玉だそうだ。
私は数年前のミュシャ展で華やかな女性の描かれたポスターを見てミュシャの絵を好きになった口なのだが、確かその時にもスラヴ叙事詩について紹介されていて、いつか見てみたいと思っていた記憶がある。だから今回、20枚に渡る大作全てを見ることができたのは嬉しいことだ。
この作品の中で、スラヴ民族の歴史は、他の民族や大国による侵略・抑圧とそこからの解放を目指す歩みとして描き出されている。 絵を見ていてふと気づいたのが、連作中には戦いを題材とした絵が多くあるにも関わらず、描かれているのは他民族の襲来を象徴するような一場面や、戦いの後の人々の表情であって、血が流れる描写はないということだ。ミュシャは戦いそのものよりも、その場にいる人びとに焦点をあてることで、平和への願いを絵に託したのだろうか。
スラヴ叙事詩を描くにあたって、ミュシャは街に住むごく普通の人びとをモデルとして写真を撮り、それを元に絵の中の人物を描いたという。歴史上名の知られた王族や革命家のような人物だけではなく、民衆の一人ひとりにもモデルがいる。だからだろうか、描かれた人物はそれぞれ説得力をもってこちらに訴えかけてくる。 非常に大きな作品(最大で8m×6mだったと記憶している)であるのも、その大きさで描くことによって人物を等身大に表現することを意図したのではないかという解釈があるようだ。
20作それぞれに、その時代のスラヴの人びとの声がしるされているようにも感じられたのは、そういうミュシャの姿勢の賜だろう。
スラヴの人びとを描くこと、それを通じて民族の自由と平和への希望をつなぐことがミュシャの思いだったのかもしれない。
スラヴ叙事詩だけでなくパリ時代の作品も勿論今回も見ることができる。こちらでは緻密に描かれた草花や華麗な装飾、女性の優美さを堪能できた。草花の一本、一輪や装飾の模様の細部、女性の髪の毛の一束に至るまで計算されたかのようなバランスと細やかさには目を見張るものがある。対象を丁寧に真摯に描くミュシャの姿勢はこの時から変わっていないのを感じた。
ミュシャの二つの側面、そして彼が描いたスラヴの声に触れることができる企画展だと思う。
2017.04.23
1 note · View note