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2025/04/04 思念遊戯(Mind Game)
BGM: Aphex Twin - Girl/Boy Song
今日は休みだった。今朝は実を言うと、お恥ずかしいことに早朝の英会話関係のZoomミーティングをサボってしまう。その代わりに、昨日のこの日記でも書いたとおり次週の木曜日友だちといっしょにおこなうZoomミーティングでプレゼンテーションとして発表する企画のための草稿を練ることにつとめた。プレゼンテーションのタイトルは比較的かんたんに決まった。「Better Out Than In」というもので、「溜め込むより吐き出したほうがいい」というような意味になろうか。ぼくが惹かれ続けているイギリスの覆面アーティスト・バンクシーが過去におこなった彼の個展のタイトルを拝借してしまった。いったいどうして、よりによってこんな「イタズラ書き」をおっぱじめたりしたのか。あれこれ思い出す。まず、市内のブックカフェのオーナーとお会いして、その方の薦めで絵を描くことをはじめたのだった……といったことをまとめてみた。まだまだ練らなければならないだろう。
そうした草稿の作成が一段落して後、午前中は図書館に行く。そこで2冊本を借りる。ぼくがさいきん惹かれているフランスの作家ル・クレジオの『地上の見知らぬ少年』など。その後イオンに行き、そこで時間もあったので今日の「イタズラ書き」に精励する。ただ、恥ずかしいがそこは素人の悲しさで今日はなんだか高い壁にぶち当たってしまい、はやい話がまったくもってはっきりしたアイデアを思い浮かべられず、したがって真っ白になった頭の中を苦しまぎれにあれこれまさぐる羽目になる。そこから文字どおりやけっぱちになってひねり出したのが今日の絵ということになる。たぶんにル・クレジオの本のことも思い出したりして、子どものころに自分がどんなことを考えてほっつき歩いたりしたのか、その頃から惹かれていた哲学的なアイデアについて思い出したりして描き上げた。もちろん、描き続けるためにはもっともっと研鑽が必要。その意味で、学ばされる1枚ともなったと思う。
午後になり、ローソンで買い求めた冷やしうどんを食べる。その後、なんだか眠くなってやることもなかったのでグーグーと昼寝。そして午後になりまったくの白紙の予定のまま思いつきにのっとって、こないだ遊びに行ったばかりの市役所にまた行ってしまう。お目当てはそこで開かれている「NAKAMA展」を楽しむためだった(さっき書いたブックカフェのオーナーが仕掛け人として主宰しているのだった)。イアフォンであれこれブライアン・イーノやロジャー・イーノのアンビエント・ソングを楽しみつつ、さまざまなアーティストたちが書いた絵画をあらためて満喫した。老若男女、さまざまな画家の表現に刺激されてぼくも描き続けたい、そしてこのやっかいでなんだかくだらない人生をいろどりたいと思う。その後はイオンにまた行った。文庫化されたばかりの國分功一郎『中動態の世界』と、あとは仁平千香子『読めない人のための村上春樹入門』という本が目を惹いたので買い求めてしまった。
その後、市役所の近くにある公園に足を運ぶ。そこで、こないだつぼみが開きはじめたばかりの桜がどんどん花を咲かせているのを目にする。まだ満開にはちょっと遠いにしろ、見頃となるのも時間の問題だろう。グループホームに戻って、そして夕食の時間まで今朝なんだかんだで書けなかった昨日の日記を書き書き、アップロードする。夜になってやることもなくなって、それでコクトー・ツインズやサンデイズなんかを楽しみながら谷川俊太郎とブレイディみかこの往復書簡集『その世とこの世』をひもといてボチボチ読みふけったり、あとはただ瞑想の真似事(ただ目を閉じてぼんやりしただけ)したり。なんだか疲れが取れてないような、歳を感じる日々だったがこれでちょっとでもラクになれるだろうか。

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2025/04/04 Draw Like A Child
BGM: Aphex Twin - Girl/Boy Song
I had a day off today. This morning, I couldn't join the daily English Zoom meeting. Instead, as I wrote yesterday, I started writing the draft for the coming presentation I am going to hold on Zoom next Thursday. The title of this presentation is "Better Out Than In", which is also the title which Banksy had used this as his exhibition. Why did I start this "doodling" activity? At first, I met the owner of a book café in this town, and then he recommended that I should try to draw my pics, so I started this, etc… I wrote these things.
After that, during this morning, I went to the library. There, I borrowed two books. Then, I went to AEON to draw today's new pic. However, I'm just an amateur so (even though it's very embarrassing to tell you) I faced a high wall to draw something. In other words, I noticed that I had nothing special to draw. Finally, I remembered how had been my childhood (as I drew in this pic, when I was a kid, I was already attracted to so-called philosophical ideas). Of course, I need more training to keep drawing my ones steadily.
This afternoon, I had a lunchbox. After that, I had afternoon nap time. Then, I went out from my room to the city office, at where I enjoyed the "NAKAMA exhibition" the owner of the book café (as I've mentioned above) held. With my earphones, while enjoying the pictures at there, I enjoyed Brian Eno's ambient songs. Several artists tried to create each one's precious art, that stimulated my soul certainly. After that, I went to AEON again to buy some books.
After that, I went to the park near the city office. There, I saw many Sakura trees were having plenty of flowers even though they weren't blooming fully. After coming back to my group home again, by the dinner time, I wrote my bilingual journal about yesterday. This evening, I spent doing nothing special to enjoy, but with several ethereal music such as Cocteau Twins and The Sundays, I lied my body on the bed reading a book. I wish this fatigue would fade away.

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2025/03/31 芸術は爆発だ
BGM: Cornelius - Point of View Point (Yann Tomita Mix)
今日は休日だった。5連勤のあとで疲れがまだ身体に残っていたのだけど、ゆっくり・ダラダラ寝そべって過ごすわけにも行かない。今朝は月イチの総合病院に通院し、精神科の先生にいろいろお話しする日だったので、朝早くから総合病院におもむく(今日はなさけないことに、早朝の英会話関係のZoomミーティングをサボってしまった)。そこで、先生に昨日の「フラッシュバック」の1件やさいきんはじめてしまったイタズラ書きのことなどを話す。河合隼雄と村上春樹の対談に刺激されてはじめたこと、などなど。その後いろいろあり、薬を処方してもらえてつつがなく終わった後はイオンに行く。あとは取り急ぎ今日はやることもなかったので、晴れてヒマな午前をまったり過ごす腹づもりでいたのだった。
さいしょはいつもやっているように、いろいろ音楽を聴きながら(今日は坂本龍一や、その他には小山田圭吾つまりコーネリアスの音楽をあれこれ適当につまみつつ)英語を用いつつ心の中のゴミをフリクションペンとマルマンのメモパッドを使って書いていく。でも、説明はまったくつかないのだけれど、あるいはさいきんイタズラ書きを友だちに褒めてもらったりしたことで舞い上がっていたせいか、単純に春の陽気からくる気まぐれなのかいずれにせよとつぜん「白紙に、上手い下手関係なく(いや下手なのだけれど)ともかく、なぐり書きでイラストで『心のゴミ』を叩きつけて書いてみるのはどうだろう」と思い立ってしまった。そうなるともうこの発達障害特性というやつは居ても立っても居られない。イオンの3階にあるダイソーで落書き帳を買い求め、そしてフリクションペンであれこれサラサラ書きなぐっていった。
それが終わると、DiscordやWhatsApp、Facebookなどさまざまなソーシャルメディアなんかを通して友だちに見せる。LINEでも自助グループのメンバーたちに見せたりする。すると、英語学習でお世話になっている海外の知人がなんだかサン=テグジュペリの不朽の名作『星の王子さま』みたいと言ってくれたりして、それが生々しく心に残る。昼弁当を食べて、午後も引き続きやることなんてなかったので(そういう日もある)、ならばと思って『星の王子さま』を読み返すことに決めた。読み返せばなにか得られるものがあろう、あるいはココロをリフレッシュさせて「あの子どものころ」「少年時代」に戻れるかもしれない、とも思ったりした。それで、さっそく未来屋書店で買い求め粛々と再読にふけった(管啓次郎などいろんなヴァージョンの訳があって、迷った挙げ句池澤夏樹の訳を選んだ)。
ぼくは実を言うと、この『星の王子さま』を夢中になって読みふけった記憶はまったくない。むしろ、軽蔑というかなんというか「ナメていた」「あなどっていた」とも思う。たぶんそれはぼくが読書についてこうした良質の本を少年時代「洗礼を受ける」というか「浴びるようにたのしむ」ことなく育ったからかもしれない(ほんとうに本を読むようになったのはたぶん中学生のころ、スティーブン・キング『スタンド・バイ・ミー』なんかを姉の影響で読んだりしたせいだ)。なので、こんかいはたぶんはじめて読んでなんら感興が湧かないままポイと投げ出してそれっきりになってから30年後ぐらいの再読になるかなとも思う。なにはともあれ、読み返してそれで驚かされたのはことし50になるぼくでさえも確かにこの『星の王子さま』の影響で心の中のなにかが「共感」「共鳴」する感覚を禁じえなかったという事実だ。ぼくの中にもまだ子どもの心が残っているのか? なにはともあれ、この本を読み終えるとぼくもなんだか本が描写している自然(本書では薔薇の花や砂漠、その他さまざまな自然が実にみずみずしく・活き活きと描かれている)に触れたくなり、そうすると居ても立っても居られずイオンを出て近所の公園に行ってしまった。それがこの本の「底力」「パワー」だと思った。
さっきも書いたが、ことしぼくは50になる。でも、なんだかこんな感じで実に無軌道に・無計画きわまりなくガキの心で生きている。いいのかなあ、とも思いつつそれを恥じる気もなかったりする。なにはともあれ、公園にてテーブルがあったのであれこれ手持ちのフリクションペンとメモパッドを使って英語であれこれ筆を走らせ、アイデアを文字でなぐり書きしていく。小山田圭吾に触発されてクラウトロックの雄のノイ!なんか聴いてみたりしつつ……そして書いたことというのは、この『星の王子さま』がたしかに人をおおきく・おおざっぱに2分化しているということだった。大人と子ども、だ(後者には「大人になりきれない大人」、つまりぼくのような人間もたぶんにふくまれよう)。でも、ぼくが仮に子どもだとして、ならばどうしたらいいんだろう。大人になるべきか、成熟した「まろやかな子ども」になるべきか(なんじゃそりゃ……)。
夕飯をいただいた後に消灯時間まであいかわらずダラダラと、やることなんてなかったせいもあり手元にあった毛利嘉孝の平凡社新書『バンクシー アート・テロリスト』を再読する。そんな感じで1日を終えた。すこしは精神が快復したかな?

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2025/03/31 Better Out Than In
BGM: Cornelius - Point of View Point (Yann Tomita Mix)
I had a day off. This morning, I went to a hospital to see my doctor for a monthly meeting about my autism (BTW, this time I couldn't join the daily English meeting). I shared yesterday's "flashback" and also one of my recent activities, "doodling" with him. After that, I went to AEON to spend the rest of the free morning time.
At first, with Cornelius's music, I tried to write down the several inner "garbage" of my mind onto the memo pad in English as usual. However, suddenly I started thinking about drawing my instant idea on a blank paper, therefore, I went to a DAISO shop in AEON. After I got a cheap notebook, with a frixion pen I started doodling.
After finishing it, I shared it with my friends on WhatsApp, Facebook, and other social media platforms. Then, a friend said that it certainly reminded them of Saint Exupéry's timeless classic, "The Little Prince." So, I spent this afternoon reading "The Little Prince" again to refresh my mind, or to try to go back to my childhood.
TBH, I didn't like this classic (maybe my stubborn bias which said it must have been too childish) before reading it again this time. However, after reading it, I could have felt that actually there was something that empathized with this book in my mind. Is it saying that I still have a "childlike" mind? After that, anyway, I went to the park near AEON because my instinct whispered to me to do so. I think this is a power of this book.
Is it Okay (for me) to keep such a childish mind in myself? At that park, with my frixion pen running on the memo pad to write down my ideas in English (with the music by NEU!), I thought about this. This "The Little Prince" seems to me to be trying to divide people into two types. Adults (the ones who have their adult mentality) and children (I belong to the latter). Yes, I am childish, I guess… Then, what should I do next? Is it possible for me to try to become a "mature child"?
After having dinner, by the time I turned the light off to go to bed, I spent my evening time with Yoshitaka Mouri's book "Banksy". Yes, I adore Banksy, even though I can't keep such a tough artist's spirit in my mind…

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2025/03/27 青春はいちどだけ?
BGM: Trashcan Sinatras - Obscurity Knocks
今日は早番だった。今朝方、いつものように英会話関係のZoomミーティングに参加し、さわやかに英語脳をきたえる。この英会話グループに参加して、こうして参加できる時にいそいそとZoomミーティングに参加するようになってかれこれ2年かそこら経つだろうか。これはお世辞やおべんちゃらではなく本気で書くけれど、このグループにぼくはたしかな居心地の良さを感じる。というのは、やはり参加されている方々が英語力を向上させる熱意を示されていることがぼくのような「ぼんくら」にも刺激として伝わるからだろう。ぼくはどうだろうか……何度もこのミーティングに参加するうちにぼくもそれなりに・少しばかりスキル(技量)を向上させられたかなあとは思う。いやもちろんまだ完成形にはほど遠いし、そこに至るまで(そんなところにぼくが存命中にたどり着けるかどうかわからないが、いずれにせよ)もっと頑張らないといけないことはたしかなのだけれど。なんにせよ、このミーティングを実現されている方々の尽力には文字どおり頭が下がるし、「足を向けては眠れない」というものだ。ありがとうございます。
今朝のミーティングのテーマは、ぼくたちが満腹の状態であったとしても砂糖(糖分)を欲しがってしまう、つまりは「別腹」と呼ばれる心理状態がどう生起するかというメカニズムについてだった。そこから偽薬効果(プラシーボ効果、というやつです)の話などいろいろ多岐にわたって話が展開した。いろんな側面からこの現象を解き明かして説明することはできるのだろう。でも、ぼくは(さっきも書いたがいかんせん「ぼんくら」なので)これが非理性的でバカげたことのようにも感じる。でも「別腹」と呼ばれる心理状態とぼくはもちろん無縁ではない。脳が砂糖を欲しがる、その欲求に逆らえない心理は痛いほどわかるつもりだ。だから今朝方の仕事中はそもそもぼくという人間それ自体がとても理性的とは言えない、合理的に説明がつかないことばかりしてしまったり時間やカネの無駄としか思えないことをやめられなかったりすることについてあれこれ考えてしまった……というか、「こんなこと」を考えること自体およそ理性的ではないのである。もっと考えることがあるだろうとも思うが(4月からの身の振り方をどうするかとか)、こんな性分なのだから「笑って許して」としか言いようがない。
たとえば、これまたいつも書いていることをおさらいすることになるけれど、ぼくはコロナ禍のころに始めた「英語メモ」を日々の生活の中でつけることを欠かさない(というか、やめようと思ってもついつい書いてしまうのだ)。もちろんここは日本でぼくは日本人なのだから、そんなことに意味はとくにない。でも、英語はぼくにとってなぜか「心の中のゴミ」を外に吐き出してしまい、アウトプットするための良き触媒というかツールであり続けているようだ。そして、気取った言い方をするがマルマンのメモパッドと手頃なフリクションペンはぼくにとってそうしたアウトプットのための「デバイス(機器)」である(それらがないと、この気まぐれな脳はすぐに考えたことをきれいさっぱり忘れてしまい、思い出せなくなる)。ぼくはチャットGPTのようなAIではない。矛盾に満ちた、ランダムとさえ言える存在だ。いや、人間とはおしなべてそうであるんだろうとも思うけれど。
ここまで書いて、メモパッドを開き英語メモを読み返す。そして、さっそく大事なことをきれいさっぱり忘却してしまっていたことに気づく。というのは昨日の話になるが、職場でせっせと仕事をしていたときにある大事な友だちとふと出くわしたのだった。彼はぼくに対して、いつも英語メモを書き書きしていることについて、そこからぼくの熱意を読み取られたらしく「いつも励まされています」「頑張ってください」とおっしゃった。もちろんそれは非常に面映ゆいことで、他人とこうして結べたコネクション(絆)のありがたみをあらためて感じさせられ、それがとりもなおさずもう人生も後半戦にさしかかっているはずのぼくをあらためて前へ前へと進ませるブースターになっているのかなあ、とかなんとか思っちゃったりした。というか、もうぼくも今年で50になるのにこんな友情をたしかめられるのだから人生というものはわからないと思う。
その後、仕事もなんとか終わり部屋に戻り、夕飯に酢豚をいただいた後に7時半から毎週木曜日恒例のZoomミーティングに参加する。こんかいのミーティングでは小イベントとして「ビブリオバトル」を楽しむ。各メンバーがそれぞれ好きな本を持ち寄り、5分間のプレゼンテーションをおこなってそれでそれをもとにワイワイとディスカッションに興じるという企画だった。この日記でも折に触れて書いてきたが、ぼくは袖川裕美『同時通訳はやめられない』という平凡社新書を紹介する。他の方々の本から、それぞれのメンバーの個性がうかがえ楽しい会となったと思った。ありがとうございます。
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2025/03/27 Three Cheers For Our Side
BGM: Trashcan Sinatras - Obscurity Knocks
I worked early today. This morning, I joined the daily English Zoom meeting. Probably, about 2 or 3 years have passed since I joined this English group. I like this group because the members certainly show their eagerness to improve their English skills more and more. Through these morning sessions, I must have been able to improve my skills too, even though I should train myself more to achieve the so-called "completed state (if it could be reachable while I am alive)".
This morning's meeting theme was the mechanism by which our brains need sugar more even though our stomachs are full. Even though it can be explained by several aspects, I tend to think of this phenomenon as an irrational, even stupid one. Therefore, this morning I thought about how I am so irrational that I tend to do various irrational actions, even though they can end as a sort of "waste of something (mainly, time and money)".
For example, I can't stop writing English notes on my memo pad in my daily life, even though I'm Japanese. This means I need English as one of my tools to output my "mind trash" to the outside with a device called my memo pad and a pen (without them, I will forget my precious ideas completely). I am not a perfect AI like ChatGPT, therefore, I must admit I am so paradoxical, even so "random".
I want to keep this as a piece of my memories… Yesterday, I saw a friend at my workplace, and he said that he has always been embraced by "your eagerness (he said this to me so)". I have been so glad to hear that, and this sort of connection I can have with others has certainly empowered me so much to go/progress forward. BTW, is this sort of "adult" friendship possible even though I will be 50 this year? Oh, life is so mysterious.
After coming back to my room, I had dinner. Starting at 7:30 p.m., I joined the weekly Zoom meeting. Today, we enjoyed the event called "Biblio Battle", at which each member introduced their favorite book. I introduced a Japanese interpreter, Hiromi Sodekawa's non-fiction. Every book showed each presenter's unique character, therefore, I could have enjoyed the event a lot. I really appreciate it!
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2025/03/21 未来のカケラ

BGM: Manic Street Preachers - La Tristesse Durera (Scream To A Sigh)
今日は(なぜか)休みだった。今朝、英会話関係のZoomミーティングにいつもながら精を出す。その後、これまたいつもながら朝活をこなすためにイオンまで遊びに行く。そこで、ここさいきん再読し始めてしまった村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を読んでみたりあるいは英語メモを書いてみたりしようとあれこれ悪戦苦闘する。でもなんでかわからないけれど、今日はそうしたことにまったくもって気分が乗らず集中できず、そうなってくるとチリチリ・ジリジリと無為に時間が過ぎるのが耐えられなくなってしまい落ち着かない。やっぱり無駄に時間を過ごさないためにも資格試験を受けてみたり別の活動をこなすことを考えてみたりしたほうがいいのかなあとかあれこれ考え、けっきょくなんら収穫もないままにぶらりと市役所に行ってしまった。暇つぶしに行くべきところでもなかったのだが、カンが働いたとしか言いようがなかった。開放されているロビーにて読書にいそしめたらとも思ったのだ。
その市役所にて、ふと興味を惹く展示がなされていたのを見かける。なんでも今月はとくに政府が自殺防止に力を注いでいるらしく、メンタルヘルスケアの重要さと命のかけがえのなさをさまざまなイラストや図解、資料や文の提示を通じて訴えかけていた。もちろん、自殺を防ぐためのメッセージも添えられていてそれがとりわけぼくのような万年にわたって慢性的に生きづらさを持て余す人間の目を惹く。ロビーでは机と椅子が用意されていたので、そこで座って「ぼくだったらどうやって命が大事でかけがえがないことを訴えられるだろうか」とかなんとかガラにもなく考えてしまった。そうしたことを考えさせられるだけの力のある展示だった。あれこれ、有線のイヤフォンでSpotifyをとおしてロジャー・イーノとブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックを聴きつつ考える。
あらためて考えてみればこれはなかなか難物だ。どういうメッセージがはたして彼らに伝わるのか。彼らを助けるために、そして絶望の淵にこれ以上突き落とさないように。いや、そもそも一般論として(つまり、ぼく個人の不徳・無能とかそんな問題以前に「一般的に」「概して」)メッセージで人を救うなんてことができるんだろうか。いや、これは言うまでもなくこの展示のあら捜しをしたいわけではない(ほんとうです)。こうした試みがなければこんな問題についてあらためて本腰を入れて考えることもなかっただろうから、その意味でこの展示の誠実さは貴重であると思う。だが、もし仮にぼくがとても絶望していて、そして「もうよくやったじゃないか」「生きていてもいいことなんてない」とまで追い詰められて、とてもガッツなんて持てる状況じゃないとしたら、文による(したがって、主に脳に訴えかける)メッセージが生きさせるために効くんだろうか。屁のツッパリにもならないんじゃないか……いやもちろん、こんなことを考えていけばそれこそ「ケース・バイ・ケース」になるんだろうけれど。なにはともあれ、そんなことを英語を駆使して書いた。
その会場において、ホワイトボードがそうした展示区画の一角に設置されておりそこでさまざまな人たちが彼らのメッセージを用意されていた紙片にしたため、寄せ書き風に貼りつけられる「メッセージ・ボード」というものが用意されていたのが目を惹いた。さまざまな人たちのイラストや文が紙片に書きつけられ、そうしたメッセージたちがまぎれもなく誠実・親身に自殺志願者や絶望した人たち・苦難を生きる人たちに寄り添わんとしていると思った。そうなってくるとぼくも居ても立っても居られない。いったいなにが書けるんだろうか……とこの半世紀生きた脳を振りしぼり、ただなんだか文だとあまりにも嘘くさくなってしまうような気がしてだから絵で伝えたく思って、書き記してしまった。ぼくは神でもないし聖者でもない。あたりまえの事実だ。だから人を正しい方向に導けるわけなんてないが、「オルタナティブ」というか「まあ、こんな人生もある(反面教師としてであれなんであれ)」ということは示せると思った。
その後はとくにやることもなく、なんだかいろいろさいきんあったことで金属疲労的に知らず知らずヘタっていたみたいで、だからグループホームに戻ってそこで昼ご飯を食べてうたた寝したあとはなんらやりたいこともなく、なのでいっそのこと心を「充電」するかと開き直る。それで午前中に読めなかった村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を開き、しばし再読・復習にはげむ。思えば大学生の頃にリアルタイムで新刊としてこのメガトン級の小説を買い求め・読み込み、爾来30年ほどこの作品と折に触れて付き合ってきた計算になる。いま、実に雑駁に語ってしまうとこの作品はそれこそ失業中の男の主人公がぶらぶら猫探しをしたり、なんだかんだで謎に巻き込まれていったりして、そんな感じでこの社会に存在するエア・ポケットを生きる状況を描いているように映る。いや、ベストセラーになる作品だからいろんな読み方もあるが、少なくともぼくは主人公たちのように社会からはじき飛ばされて生きるしかない人たちに共感を持ち、ぼくだってまさにこの男主人公のように生きていてもいいのかなあとか思いつつ読みふけったものだ。たぶんだから、ぼくが誰かに人生の大事さを語るとするなら、これほどの「多言」(それこそ村上春樹がやってのけたように「小説」を書くほどの「多言」)を要しないと伝わらないかなあ……と思ったりもした。
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2025/03/21 This Is My Truth Tell Me Yours

BGM: Manic Street Preachers - La Tristesse Durera (Scream To A Sigh)
I had a day off. This morning, I joined the daily English Zoom meeting as usual. After that, I went to AEON to do my morning activities such as reading books and writing my English memo. However, even though I can't tell the reason why, anyway I couldn't concentrate on anything so I went to the city office without any purpose.
There, I found that the office was holding an exhibition: It told us about how mental health was important for our lives and also how each one's life must be so precious. They also tried to tell us sincerely not to commit suicide. In that city office's lobby, some chairs were there so I sat on one and started thinking about how "I" could tell someone how precious their life must be (by enjoying the ambient music Brian Eno and Roger Eno created on Spotify). It was a brilliant exhibition.
What messages can I tell others to help them, and not let them become desperate anymore? Is it possible or not? Generally, if I were so desperate and couldn't find out enough vitality to live this life anymore, messages (so literal to work for my brain) could work for my mentality enough to have any "spirit" once again to stay alive? I wrote these questions on my memo pad using English.
There was a "message board", which was gathering several people's text messages and illustrations trying to deliver their sincere/heartful ones to the desperate people. What could I write to them? I used this odd and old-fashioned brain a lot, and finally drew a picture. As you can see so easily, I am never God or a saint who can guide someone in the right direction. Instead, I can share my life as a sort of "alternative/possible one".
After that, I went back to my group home. This afternoon, I spent my time doing nothing special. I opened Haruki Murakami's "The Wind-Up Bird Chronicle" and enjoyed reading it for a while. Since the period when I was a college student (at the beginning of my 20s, therefore since about 30 years ago), I have enjoyed reading this "mega" novel. In my opinion, it certainly writes how several "outsiders" had to live in a sort of "empty" air pocket in this society (at least, I accept it like that). Maybe, to tell someone how life can be so important, I should spend my letters so much as Haruki has done in this novel.
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2025/03/17 壁と情熱
BGM: Paul Weller - Has My Fire Really Gone Out?
今日は遅番だった。今朝、いつものように英会話関係のZoomミーティングに顔を出す。いつもこのミーティングでは興味深いテーマが日替わりで供給されているのだが、今日のテーマはことのほか身近なことがらだった。昨今若い世代の働き手が管理職になることを拒み、仕事よりも彼ら・彼女たち自身の私生活を充実させるほうに主眼を置く傾向がある、というのがその骨子だった(俗に言う「ワーク・ライフ・バランス」の問題と言えるのかもし���ない)。つねづね書いてきたように、ぼくのいまの立場としては市内のとある会社で発達障害者として(つまり、言い方を変えれば「精神障害者枠で」)勤務させてもらっているというもので、だからけっしてマネージャーやその他管理職でもなんでもない、つまりはただのしがない小市民だ。ただ、その立場(ブレイディみかこ風に言えば「地べた」)からこそ見えるものもある。そんなことを今日のミーティングでは他の方々と話し合った。ちなみに、いまはぼくは社でエラくなろうとかなにかでかいことを成し遂げようとか、そんなことはあまり考えていない。社の中ではぼくはただの「よくわかんない」はみ出し者というかはぐれ者でしかないだろう。それより、仕事をそれなりに手堅くこなしつつプライベートで趣味として英語学習を続けて市内のボランティア活動でこの語学力を活かせたらなあ……と甘い夢を持っているというのが正直なところなのだった。
そのミーティングが終わったあとは朝食を摂り、そしてイオンまで赴く。昨日、この日記でも書いたが英語研究会でぼくは参加者の1人としてJ・K・ローリング『ハリー・ポッター』の原書を読み進めた。なので身体がまだ暖まっているうちに復習をしておきたいと思って、あらためてページを開き読み返した。ただ、突如としてこんなことを自問自答してしまう。自分の英語力というものはほんとうに・たしかに向上しているんだろうか、と。あきらかなこととして、この種の語学力というのはそんなに一朝一夕に・急激に伸びたり縮んだりしない。静かに、そしてゆっくり伸びはじめる。だからこそ日々、ねばり強く学んで「仕込み」というか「下ごしらえ」をしてあとは伸びてくれる日がくることを祈るしかない。でも今日はなんだか「ほんとうにこんなんでいいんだろうか」と不安になったのだった。なんだか、まったくもって間違った学び方をしてるんじゃなかろうか……そう思うと不安で居ても立っても居られない。チャプターハウスの音楽を聴きながら、そんな不安と向かい合った。
なんでそんなことをしてしまったのかいまになってはわからないのだけれど、とにかくそんな感じで「居ても立っても居られない」となるととにかく見境なく動いてしまうのがぼくのクセで、昼前にインドネシアに住んでおられるぼくの友だちの(そして、ためらわずに言えることとしてぼくのだいじな「英語の師匠(メンター)」でもある)ジュディスさんにこの不安についてテキストをWhatsAppでしたためて送る。すると即座に、ジュディスさんはぼくの書いたテキストを読まれてそして、「バーンアウト(燃え尽き)」に陥っているのではないですか、とおっしゃった。そしてフラッシュカードなど別のメソッドを試してみてはどうか、とも言われた。たしかに毎朝の英会話関係のZoomや英会話教室、英語研究会やこの日記やDiscordでのチャットなどを日々楽しんではいるもののなんだかそうしたことは「マンネリ」というか、「ルーチンワーク(決まり切った繰り返し)」になってしまっていたかもしれないなと反省する。それで「壁」というか「ブロック」にぶつかったのかなあ、と。フラッシュカードや、前にそのジュディスさんが薦めてくださっていたEpisodenを使ってみることも視野に入れたいと思った。
それはそうと、こうして書いてきたことをたわむれに読み返して、そして思う。なんと自分の中にはタフな情熱というかスピリットというか、よくわからないがアントニオ猪木ばりの「闘魂」があるように思う。いったいなんでここまでしてぼくは英語に情熱を燃やしてしまうんだろう、とあきれてしまう。バカだなあ……と。過去、アルコールに溺れてドロドロになって生きていたころはほんとうにいったい日々なにをやったらいいんだかわからず、資格を取ることを薦められたり転職を誘われたりもしたがけっきょくなんらモチベーションも湧かず、だからなんにもせずビールを煽るのが関の山だった。まさに負け犬だった。でも、なんだかんだでいまはこうして幸せに生きている。もしこの英語や読書への情熱をぼくの人生から差っ引けば、なんだかあとにはなんにも残らなくなっちゃうかなあとも妄想してしまったりしたのだった。ただ、いまは多様性の時代だ。人の生き方はいろいろ。こんな人生だってあってもいい。ぼくはそう信じる(というか、そう信じるっきゃないと思っている)。そして学びは続く。
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2025/03/17 Are You Passionate?
BGM: Paul Weller - Has My Fire Really Gone Out?
I worked late today. This morning, I joined the daily English Zoom meeting. Today's topic was interesting: Nowadays young workers don't want to become managers because they want to treat their private time as more important than their jobs. TBH, as I've written in these journals, now I belong to a company as an autistic person (in other words, as a handicapped person). So I have never been a manager or any high-class worker like a president or a chief. From that position, I shared my thoughts with the other members (now, I also don't want to become a manager or achieve any big things, but I just want to enjoy learning English as a private hobby).
After that meeting, and having breakfast, I went to AEON. There, I started reading "Harry Potter", the text I had gotten from the English Studying Club, once again. I asked myself: Have I been improving my English abilities certainly? As you can see clearly, this sort of ability must be improved so quietly and slowly. Thinking about this, I felt a huge anxiety about it. Am I doing a completely wrong way to learn it? With Chapterhouse's music, I thought about this.
I sent a text message about this toxic emotion to an Indonesian friend (also, one of my important/respected English teachers), Judith san on WhatsApp. Then, she read my text and said I must be facing a so-called "burnout", therefore, I need to do other activities such as flashcards. Certainly, I usually join the morning meetings, attend the English conversation class, and write these journals. However, maybe now I'm struggling with a high "wall" or a so-called "block". I want to google the flashcards and also try other methods to keep learning more and more.
BTW… Reading the thing I've written above once again, I am impressed by the passion/spirit I have in my mind. Why am I so passionate about learning English like this? As I once wrote, when I was a heavy drinker I got completely lost in the middle of my life (literally, I had nowhere to go and just drank a lot of beer every day). Now, without this passion for learning English and reading books, my life would become so empty. However, now is the so-called diversity era so this sort of life must be approved/accepted as a possible option. At least, I believe so. The learning process goes on…
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2025/03/14 Speak Like A Child
BGM: Underworld - Something Like A Mama
I worked late today. This morning, after having breakfast, I went to the main house of my group home. As (probably) once I wrote in the previous diary, next Sunday I will attend the English Studying Club's meeting to read the "Harry Potter" in English, so I wanted to re-read it to prepare for that. However, I couldn't concentrate on that. So, finally, I gave up. Instead, I wrote some text messages as responses to my Discord friends.
One of those friends recommended that I should use some AI-based chat systems such as Chat-GPT, because they respond in proper English so rapidly. So after writing those responses, I tried to use the Chat-GPT and Grok (on Twitter). In English, I wrote some silly questions such as "How would it be if Donald Trump were female?" and "Am I so empty because I can't think of any creative questions to ask you?". Then, those systems answered me quickly and also really crisply. I was impressed by its brilliant smartness.
Of course, I need to get used to those Chat systems' brilliant smartness step by step to think about this issue more precisely. However, maybe I'm too old-fashioned dude to use it casually as the young generation usually does because for me, those conversations I enjoyed were "too automatic" and even a little bit "too-weird". You would say I must be too strict. Yes, I have to admit that I tend to enjoy several human, rhythmical, and even comfortable "rags" or "pauses" during conversations with others. However, Chat systems tend to respond to me so quickly that I can't "read" its thinking method/process.
Now, I'm enjoying a great British techno group, Underworld's bangers on Spotify. Their music is based on well-constructed techno sounds, but it also certainly "seduces" my instinctive feelings (with their melodic groove, I naturally move my body back and forward). So, like this, the more I get used to those mechanic/automatic systems' marvelous rhythm, the more I can feel it as a pleasant essence… I think so.
I can't tell whether getting used to those automatic AI systems' responses is basically/essentially good or bad. All I can "guess" at least now is just that my senses are quietly/certainly changing bit by bit. Then, later, I would tend to enjoy even chitchatting with those systems as if they were my doctors or nurses?
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2025/03/13 力への意志
BGM: 佐野元春 - Rock & Roll Night
今日は早番だった。今朝、実を言うといつもどおり眠剤を服用したはずではあったけれどもっと頓服など飲むべきだったのか、それともぼくのうっかりミスで飲み忘れていたのか、いずれにせよ3時間ほどしか眠れず中途覚醒のあとはまんじりともせず朝を迎えた。そうなると眠れなかったことにたいして不安がつのり、その不安とあとは根っからの怠惰な性分もあって朝の英会話関係のZoomミーティングもサボってしまう。でもだからといってゆっくり二度寝することもできず、けっきょく10時からいつもどおり仕事をはじめたはいいもののまったくもって仕事に対するモチベーションも湧かず、さながらガス欠の車のように空っぽの心のままうろうろ職場を徘徊して過ごすこととなった。職場から逃げたいとか、この町から逃げたいとか、あるいはもっと悪いことに「死にたい」とまで思った。俗に言う希死念慮というやつで、こうなったらあとはなんとかやり過ごすしかない(いまは大丈夫です。ごめんなさい! そして、ありがとうございます)。
希死念慮はそれこそ妄想(つまり幻聴や幻覚といったある種の「たわごと」)と同じなので、だから真面目に向き合っても時間をムダにするだけだ。でも、今朝はけっきょくその「たわごと」を振り払えるだけのできごとも起こらず、だから睡眠不足の頭をかかえたまま「なんで生きているんだろう」「なぜ生きなくちゃいけないんだろう」とも考えた。いや、書いていてこのぼく自身あらためて気が滅入ってきた。あまりにも「アブない」ことがらでみなさんもげんなりされたり、あるいは心配されたかもしれない。でも、この日記でもつねづね書いてきたようにぼくは基本的にネガティブで厭世的な性格の持ち主なのでこんな感じで衛星が惑星(だったか)のまわりを常にグルグル回るしかないように、希死念慮のことが頭につきまとって離れなかったりするのだった。
そこから派生して思い出したこととして、ぼくが高校生だったころに鶴見済が『完全自殺マニュアル』というそれこそ実に「アブない」本を世に問うたことがあった。文字どおりそれこそさまざまな自殺についてやり方を紹介した本で(もっと紹介すべきかと考えたが、内容をかんがみてこの程度に留めたほうがいいはずだ)、当時ぼくはすでにいじめに遭ったり生きづらさを味わったりして絶望的なアイデアに浸って過ごしていたので、だからこのマニュアルをあまつさえ買い求めたりしてしまった(いま思えばそこまで生きづらかったのだったら、ぼくはあのころから医師につながったほうがよかったのだ。精神科の門を叩くとかそれこそWAISを受けるとか。まあ、あとの祭りではあるが)。でもその10代のころ、心のどこかではぼくはもっと楽天的というか「ナメた」考えも同時に持っていた。というのは、大学に入るかなにかして環境がごっそり変わってしまえばこの生きづらさもいずれ落ち着くというか、ドラスティックに改善すると思っていたからである。すべては発達障害と診断される「以前」の話で、思えば世の中だっていまのように「発達障害とはなにか」とか真剣に議論したりしていなかったはずだ。
なぜ自殺してはいけないのだろうか。そのことについてあれこれ考えるが、ぼくには(あたりまえだが、ぼくは凡夫なので)なんらこの難問に「効く」「役立つ」答えを示しようがない。ただ、いま暫定的に・とりあえずの答えとして考えていることとしては「ぼく」がこのぼくの生死を決める立場にはないということかなあ、ということだ。「生きるべきか死ぬべきか」ということがらは(オカルト的な、あるいはたんにバカバカしい言葉遊び的な話でしかなくなるが)ぼくの中のなにかが決めるということになろうか。それをどう呼ぶべきかはわからないが、たぶんそれは言語化できないけどそこにあるとしかいいようのないもので、強いて言えば「肉体」「本能」「無意識」といったつかみどころのないものだ。それをぼくなりにひらたく言えば、食欲が湧くとか性欲を感じるとかいったぼくの中から「ぼく」を衝き動かすなにかがぼくを活かしている。なんだか申し訳ない。今日はこんな不条理で、それこそ「たわごと」を書くことに終始してしまうこととなった(これを書いている3月14日のいまはそんな「希死念慮」は感じていない。ただの睡眠不足が原因だったようだ)。
仕事が終わり、7時半より毎週恒例のZoomミーティングに友だちと一緒に参加する。日本語で他人(とりわけ外国人)になにかを伝達することがいかにむずかしいか、それゆえに「やさしい日本語」を使うことがいかにたいせつかといった話が主軸に据えられ、さかんに意見交換が行われる。楽しいひと時を過ごせたと思った。もちろん、終わったあとはそそくさと眠ってしまった。
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2025/03/13 Lust For Life
BGM: Motoharu Sano - Rock & Roll Night
I worked early today. TBH, this morning I couldn't sleep well (I just had done for about 3 hours. I should have taken more sleeping pills). So, during the morning, I couldn't feel well about doing anything (yes, literally, I had no motivation at all, like a car with no gasoline). I even thought that I could run away from this workplace, or even from this town… Or, worse, I even wished I could die (now, I'm alright, so no worries).
Why am I still living? Why do I choose to live? This morning, probably because of the shortage of sleep, all I could think of were these really terrible ideas. Sorry if it sounds too sensitive, but basically (maybe as this serial journal would tell you about this already), I'm so negative/pessimistic that my ideas ALWAYS tend to go around this sort of wish for death like a satellite goes around a planet.
When I was a high school student, a popular Japanese columnist Wataru Tsurumi published a dangerous, provocative manual for committing suicide (鶴見済『完全自殺マニュアル』). At that period, I was already "haunted" by that sort of desperate idea (I should have gone to any trustworthy doctors to consult about this issue). So, actually I bought the manual. However, at that teenage era, somewhere in my mind I had an alternative idea/dream, which said I could get better if I could enter any university (because it meant that the environment around me would be changed drastically). Yes, everything was "before" the era of being diagnosed as autistic.
Why shouldn't I commit suicide? TBH, I can't afford any "actual" answers to this ultimately difficult question. But now, I'm thinking that I am not the one who can judge whether I should live or die. Instead, even though this must sound too occult or irrational, maybe something in me (my body, my instinct, or my unconsciousness… anything that I can't verbalize) chooses to let me live more and more. Sorry! Today I've written too absurd or simply completely nonsense stuff.
After today's work, I had dinner. At 7:30 p.m., I joined the weekly Zoom meeting with my friends. We discussed how difficult it is even for us (Japanese native speakers) to use "easy" and "plain" Japanese to deliver our wills to others. It was a pleasant time.
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2025/03/12 丘の上の愚者の定見
BGM: The Beatles - Yellow Submarine
今日は休日だった。今朝、実は早く目が覚めてしまいそれでうだうだして、頓服を服用し直して眠りについたところそれが功を奏したのはいいがこんどはすっかり寝過ごしてしまい、つまりはいつもの毎朝の英会話関係のZoomには参加できずじまいで終わってしまった。それはもうしょうがないので気を取り直し、朝食を摂った後に私的な朝活をこなすために(裏返せば、ほかに用なんてこれっぽっちもなかった)イオンに赴く。実を言うとぼくは並行してさまざまな本を読むくせがあり、だからいま読んでいる本としては先述したユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史』以外に日本の名高いリベラリスト・清沢洌の日記『暗黒日記』(市の図書館の岩波文庫の所蔵コーナーにあった)を読み進めている。これは太平洋戦争の時期に戦争について批判的な目線から書かれた私的な日記を抜粋して集成したもののようで、実にいま読んでも示唆に富む瞠目すべき見解が書かれており参考になる。ぼくにとってはからウロコがポロポロと落ちる1冊だ。
日本語には興味深い言葉として「定見」というものがある。他人の意見によってそうかんたんに左右されず・ブレず、はっきり一定の固定された見解を責任持って保持し続けることなんだろうとぼくは受け取っている。でも、どうしたらそんな固定された見解を持ち続け「ブレない」「腰の座った」態度を保つことが可能なのかなあ、とふと(それこそ清沢洌の「ブレなさ」「定見」に舌を巻きつつ)思ってしまった。とりわけ、戦争やなんらかの非常事態によって浮き足立ったりしないようにするには……もちろんぼくはただのしがない凡庸な小市民。さかしらぶるのはもちろん滑稽というものだが、でもそれでも言えそうなこととしてはぼくの「定見」(そんなものがあるとしたら、という話になるだろうか)はひとりで沈思黙考して生み出したものではまったくもってありえず、他人とコミュニケーションをかさねて練り上げたものだということになる。言い換えれば他者の存在はどうしたって「定見」を編むために不可欠で、あなたが存在することこそぼくの「定見」のたしかさを保証するとさえ言えるのではないか。
この日記を読まれるみなさんにはすでに周知のとおり、ぼくの気分というのはほんとうにとてもかんたんに・速攻で変わってしまうたぐいのものだ。いや、芯の部分ではぼくはいまもってなお発達障害の「がんこ」で「古くさい」日本人だが、そんな感じで液状化されたかたちのないぼくのとりとめない考えというものはつねに移ろいゆく。だから、そんな気まぐれにこのぼく自身常日頃から悩まされている(ほんとうです)。でも他方では、そんな感じであっちこっち考えが飛び散ったり乱高下したりする気持ち・感情にみごとに振り回されつつも他人と信頼関係をそれなりに固く結べているとするなら、それはぼくが「身体の」ささやきに耳を傾けているからかもしれない。身体はいつだって変わることなく「定見」を示す(たとえば、どうしても上司の指示にうなずけない場合違和感や不調といったかたちで教えてくれたりする)。ここから見えるのは、ぼくはたぶんロジカルシンキングにそんなに重きなんて置いたりしない、知性派・頭脳派ではない肉体派の男ということかなあ、と思ったりする。
午後になり、Twitterにて興味深い議論に飛び込み参加して自説(「定見」?)を語る。ご多分に漏れず、なかには意見交換よりぼくの人格攻撃に終始・腐心する暇な人もいたりしたがぼくは可能な限り平静さを保つことにつとめた(ただ、こうした友好的に建設的な意見交換をめざす場合はどうしたってDiscordやLINE、MeWeの哲学的な専門グループのほうが分があるが)。その後、昼下がりを鶴見俊輔のエッセイ(随筆)に目を通しつつ夕食時が来るまでリラックスして、自部屋でだらだら過ごす。鶴見俊輔が書いていることはどれも示唆に富むが、とりわけ「もしもこうだったら(英語で言うところの『if』)」という視点を仮定して置かれているシチュエーションを相対化・客観視して俯瞰・鳥瞰しつつとらえることがどれほどむずかしいかが語られていることが目を引く。鶴見に賛同し、ぼくもそんな感じで自分を遠目から見る姿勢を試したいなと思った。これはたぶん上述した清沢洌『暗黒日記』ともつながる考え方だ。
どのようにして「もしもこうだったら」シチュエーションを仮定してこのぼく自身をすっぽり覆っている堅い・がんこな思い込みを打破・相対化すべきなんだろうか。そして、さっき書いた「定見」を鍛えてマジョリティ(多数派)に惑わされず、異端呼ばわりされても「定見」をつらぬくべきか(いや、そんなことできるのか否か)。そんなことをあれこれ考えたりしつつ今日が終わった。
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2025/03/12 From An Autistic Japanese Fool On The Hill
BGM: The Beatles - Yellow Submarine
I had a day off today. This morning, TBH I couldn't have woken up so early that I had to miss the daily English Zoom meeting. After having breakfast, I went to AEON to enjoy the morning activities as usual. Besides reading Yuval Noah Harari's "Nexus", I had been reading a Japanese legendary liberalist Kiyoshi Kiyosawa's diaries "Darkness Diaries [清沢洌『暗黒日記』]", which were written in the Pacific War era (1942-1945). This morning, I enjoyed reading it a little.
In Japanese, there is an interesting word "定見", which means one's certain opinions which can't be changed easily by any other factors. How can I have such "permanent", "firm" opinions even though war or any other emergency event happens? I can't tell you about this, but it seems to me that my certain opinions can have been built and purified by several opportunities to communicate with others. In other words, I need other people to train my opinions. More briefly, I need "you" at first.
As this journal says, my mind can change very rapidly/easily. Even though I guess I can be an autistic, "stubborn", and "old-fashioned" Japanese guy, that sort of "liquid" and "shapeless" idea in my mind always annoys me. However, on the other hand, I can swear that I've always been trying to listen to my hunches murmuring so carefully/dutifully. This means I am never a logical, brainy guy who tends to put the priority of the so-called "logical thinking" upon my physical feelings.
This afternoon, I joined some interesting discussions on Twitter. Even though some users tried to cause anger in me, I tried to stay calm and exchange my opinions with them. After that, I enjoyed reading some essays by Shunsuke Tsurumi (a favorite philosopher of mine) by dinnertime's coming with a relaxed/loose mind in my cozy room. Tsurumi says in one of these essays that how it can be difficult to have an alternative point of view as imagining the "if" situations to gaze their situation from any distant/possible state. I agree with Tsurumi.
Then, how can I have that sort of "if" idea to simulate possible situations to "relativize" my stubborn biases? Also, how can I make my opinions firmer even though other so-called majorities try to criticize me as if I am a heresy?
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2025/03/09 ベストソリューション
今朝から満を持して、英会話関係のZoomミーティングにふたたび顔を出し直した。まだ声が鼻声なのが悩ましい。毎週日曜日はいわゆる「フリートーク」の日でメンバーたちが思うところを気軽に・自由にリラックスして話せる日である。ぼくはさいきん風邪を引いてしまいクリニックに行ったことや床に臥せって過ごしたことなどを話した。その後10時から、今日の仕事をなんとかいつもどおり始めることができた。
ぼくが思うに、おそらく人の人生においては単純に言って「ツキに見放されている」としか言いようのない時期というのも何度かあるはずと思う。ときおり、なにもとりたてておかしなことをしたり態度を変えたりした記憶なんてなくても、「悪運」「運の尽き」としか言いようのない「その時」というのは来てしまったりする。そうした時はプロのギャンブラーがそうするように、「負けまい」「ツキを呼び込もう」とあせるべきではない。その「負け」がかさまないようにうまく「負ける」ことを考えないといけないのだろう。今朝、ぼくはいつものように仕事をしていた。いつも職場で仕事中感じているフィーリングやカンを握りなおすのはむずかしかったけれど、それでもなんだか午前中はうまく行っているように思えた。だが、とつぜんひどい失態をさらしてしまうこととなった。ここで詳細をつまびらかにすることは職場にも迷惑になりかねないので避けるが、なんとかとりつくろうまでにずいぶん時間がかかった。なんたるか! しかし、信頼できる先輩がこの失敗についてフォローしてくださりたいへん助かった。
この日記でも何度も折に触れて書いてきたが、日本の哲学者でぼくが好きな人と言うと柄谷行人や野矢茂樹、三木那由他や永井玲衣や中島義道といった人たちがいるがその筆頭というかたぶんもっとも理論的に気が合うのは鶴見俊輔なんだろうと勝手に思っている。その鶴見俊輔は彼の仕事の中で「可謬性」という言葉を使っている。人はかならずしもいつだって完全無欠というか完璧というわけではなく、むしろその立ち居振る舞いや行動、アイデアにおいて間違いをしでかすことがあたりまえであるということだ(すくなくともぼくはそのように解している)。ぼくが犯した間違いもありえることというか「想定内」のことで、それはぼくが望む望まないを問わず人間だからしてしまうことである。したがってその不完全さを是認し、あとは同じパターンの失敗を繰り返さないよう再発防止策を自分なりに練るしかない。でも、それが正しいとしても、恥ずかしさややりきれなさは消えない。それでも長年この仕事を曲がりなりにもやってきて体得してきたことを駆使して、なしうる「ベストソリューション(最適解)」をはじき出しそしてとりつくろったとは思う。あの時はもうああするしかなかった、とは言える。
その後、まだ心のなかが混乱していて落ち着かなくなって剣呑だったものの、なにはともあれ昼休みになったので昼弁当を食べてそれから昼休みを満喫する。その後なんとか仕事を終わらせ、部屋に戻りリラックスして「じぶん時間」を過ごす。時間はあったのでなにか本を読むのもよかったのかもしれないが(昨日読みかけていたダグラス・マレー『大衆の狂気』や、ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』なんかが控えていた)、でもなんだか気が乗らずあきらめる。LINEで元ジョブコーチに今朝の失態について明かしてしまう(下品な言い方をすれば「ゲロって」しまったとも言える)。すぐ返事が返ってきて、それがとてもありがたかった。ここでは詳細は書けないがそうしたつながりが肌に沁みる。ぼくは発達障害者であり、その障害が見えなかったり思われている以上にひどくおおきな障害であることで日々生きづらさを感じている。人から誤解されることも多々ある(ぼくだって他人を誤解する。仕事で失敗だってしてしまうように。むしろ「日常茶飯事」かもしれない)。でも日々、その時その時できる「ベストソリューション」を繰り返していくしかないのかなあとも思った。
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