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#キャンバス乗りと繋がりたい
poetohno · 2 months
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4 10 詩集 返答詩集 日記詩集  おまけトーク(思考の3タイプ)
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―第二章― 画家が心に描く景色
彼女は売れない画家 心に見た風景に触れるために筆を握り 想いを色に託して散りばめる
崩れ落ちる波 空に波打つ雲 雲から降り注ぐ滝 涙に暮れる雨 昇る瞬間の太陽 月夜の静けさに舞う桜 人の笑顔 手に触れた温もり
描くだけなら写真を写し取るのと変わらない 見た物をただ描きたいわけではなかった 見えないものを絵に加えたいわけでもなかった
心に感じた躍動 美しいと思わず溜息が漏れた瞬間 ささやかな幸福に満たされた思い出 放たれた想い
出来上がった作品には何の感動もなく 心が震えた瞬間はどこにもなかった
思うように描けない 苛立ち キャンバスを破り 筆を投げ捨てたこともあった
彼女は新しいキャンバスを立てかけ 新調した筆でもう一度描くのだった
何度でも 届かなくても 救いを求める指先のように
心に見た眩しさを 描きたくて 心に触れた温かさを 見てみたくて
本当に描きたかったのは 彼女が見た夢だったのかもしれない
「遙かなる風」
黄金の大地が緑に変わりゆく 見上げれば蒼い山々が連なり 風吹けば川のせせらぎが安らかに流れ 橋から見渡す景色に帰る場所が溶け込み 彼方に行き先を見る
石垣を覆う草が風に揺れる 脇を流れる小川に笹舟が流れる 人の思いを乗せて 手に込めた願いを繋ぐように
舟はどこまで行くのだろう 誰かに届くことはあるだろうか
沈まない舟はない 川を流れ続けるなら 風の彼方の川の果てまで流れていくとしたら 笹舟が見る景色はどんな世界なのだろう
草が揺れて赤いベンチが顔を覗かせる 使われなくなったバス停が残された 旅の僻地 訪れる人はいるだろうか 誰も訪れなくても 取り残されたベンチは 帰らぬ人を待つかのように 今日もまた 旅人の訪れを待っている
「とあるお店にて」
ⅴ・たとえ仕事を辞めることはできても
たとえ仕事を辞めることはできても 自分を辞めることはできない 働く時間をどんなに生活と隔てて考えようとも 生き方は 生きる限り問われ続ける
人生と仕事を分けて考えてしまったら 働いている間の自分は一体どこにいるのか どこで生きているのか
働くために生きるのではないはず 生きるために働くのでもないはず
働くことの積み重ねに 自分が自分として生きる一瞬も存在するはず
自分の願いと他人の願いとの間に 営みがある
「故郷―夢の彼方―」
1「哀しみのゆくえ」
傷と痛みは旅立ち 哀しみと虚しさは辿り着く
地平の彼方へ 行き着く先は広漠の地
思い出は残像に過ぎなくて 時を経て虚しさを積み重ねてきた
空いた隙間が 重苦しくて耐えられない
何で埋めていいのかも分からない 苦しみで埋めようとしているのかもしれない
涙をどれだけ流そうとも 心が満たされることはない
風に扇がれる木の葉のように 彷徨うしかなくても
見つけてもいない煌めき 確かに手にしたいと願う何か
探しても見つけられないから救われない どこに行っても触れられないから空しい
求めているものが何一つとして手に入らない 生きることに失望してしまう
未来を希い 世界を旅している
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lyrics365 · 2 months
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セナカアワセ
もう何度だって歩き出すんだ ありのまま忘れないように 壁が僕らを分つなら 壊して道を作るから 今だけは隠さなくていい 涙の理由もわかるよ 似たもの同士笑い話 繋いでいくよキミと僕で 2人が思い描く景色はきっと同じはずなのに 平然と嘘ついて もうバカバカしいハリボテみたいで それでもどこかで心は通じている気がしていたのに 突然の様変わり もう清々しい他人事みたいで 成功予定調和ルート 踏み外し立ち止まると 案外気分は良くて リスキーなんてお構いなし 正反対のバイオリズム もう不愉快アルゴリズム 曖昧とバイバイして茨の道へ 黙っていないで僕が選ぶんだ エラー表示?それがどうした? 視界は良好 雲一つない空を飛び続けるよ 子供のように駄々こねて 嫌われて独り泣いて それでも守り続けていくために 描いては消した僕らの夢を もう一度キャンバスに乗せて バカバカしい煩わしい 笑われたってもう構わない…
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32j · 1 year
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2023/07/25
午前中エクスに遠出することに、9時過ぎの列車に乗って小一時間、みんなそこそこ疲れていそう、バスに乗り換えてセザンヌのアトリエに。このはしごを見にきたのだけど、他にも絵に出てくるモチーフの壺やパイプやらが展示されていて面白い、巨大なキャンバスを運び入れるための縦長の窓なども面白い。庭などでダラダラして中心部を少しみることに。聖堂が面白く、ローマ街道の上に建っているらしい。市内で適当な昼飯を食べることに、いろいろ探した挙句結構どこも混んでいて、5人ということもありなかなか見つからず、結局Tartine(ニューヨークスタイルのオープンサンドをTartinesというらしい)をみんなで食べる、穴の空いたカッティングボードボードに載って出てきてアボカドペーストが机に落ちたりしているのに文句を言ったりしながらダラダラ食べる。もう昼過ぎになったのでマルセイユに戻り、聖堂をみることに。港の近くからバスに乗って丘の上に、吹上げが強くかなりの風だったが景色はいい。聖堂は船乗りや漁師の祈りの場であるらしく、船の模型が吊るされていた。もう夕方近くなり、ダラダラ歩いて市内に戻り、飲み始めてしまおうとなる。昨日話題に上がった南仏のリキュールを探してバーを漁り、港近くまで降りてきた広場に面したクラフトビールのバーに落��着く、ビールとそのPastisというのを飲んでダラダラ、今夜は自���しようとなり、閉店間際のスーパーに行ってパスタやワインなどを駆け込みで買う。店員に追い立てられながら何とか買い、宿に帰って調理、大量のフジッリを茹でて適当な海鮮のバジル風味とトマトソースで作ったがあまりにも味が乗らず、一気にたくさん作るのはあまり良くないということが改めてわかった。みんなでゆっくり食べ、何となく食べ終わりつつせっかくテレビがあるから映画でも見ようとなる、いろいろ試したがディスプレイに繋がらず、結局iPadでロメールをみた。みんな自由すぎて全部見た人は全然いなかったが、かくいう自分も途中で洗濯物を取り込んで荷造りをしたりしていた。完全に海辺の映画なので南仏だと思い込んでいたがノルマンディーの方だった。結構飲んで寝る。
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fromtama · 3 years
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真っ白だった俺のキャンバスに、俺の知らなかったほんのり優しいピンクで彩りを与えてくれたひと。初めて仲良くなった女の子。俺のはじまりの人。多分ここまで書けば盛大な語弊を生むと思うんだけどそれが狙い。でもね、俺が今日も変わらず俺としてここにいられてるのって紛れもなく白玉ちゃんのおかげなんだよ。白玉ちゃんのお陰でみさちゃんにもあすかにも出会えたし、もしあの時あの4人に出会えてなかったら、俺はもういなかったかもしれないんだよ。命の恩人だね!あの時代は俺の中でとってもだいじで、心の宝箱に鍵を掛けてしまってある。たまにその鍵を開けて覗いちゃうくらい今でもキラキラしててワクワクが詰まった大切な日々。みんなで悲しかったこともあったけど、それを乗り越えた俺たちってもう永遠じゃない?俺の始まりを、俺のこれからを繋いでくれてありがとう。この間久しぶりに聞いた白玉ちゃんの声は数年前と変わらずで安心したし、相変わらず俺の好きな白玉ちゃんの声で何だかドキドキした。新しく楽しめる時間と方法を見つけた俺たちだから、これからもずっと、このままで。もう離さないからずっとそばにいてね。だいすきだよ!
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asa-1552 · 5 years
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デジタルかアナログか(2)
前回 堤大介 さんのブログ記事 を訳しました。 ⇒「デジタルかアナログか」 原文:  Digital or traditional?  Dice Tsutsumi http://www.simplestroke.com/?p=87 原文の堤さんの投稿に対するコメントの和訳です。 文中に出てきたBill Coneさん(ピクサー)のコメントが 面白く、とても共感できたので、翻訳してみます。 誤訳あるかもしれませんがあしからず。。
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ダイス(訳注:堤さんのあだ名)、
これはビールを飲みながら、それともコーヒーかな・・ゆっくり話したいね。とはいえ、とても良い質問だし、良い回答がいくつも出ているね。
君の質問: アーティストは 、アナログの昔ながらの描き方の練習をスキップできるのでしょうか。
答えは・・イエス。・・でもなんでわざわざ?たくさんある昔ながらの画材は、どれも安いし、持ち運べるし、バッテリーがいらないし、100年持つのに・・・
Craig Mullins の話には同意だね。Cragや他の素晴らしいアーティストたちは Sargent (訳注:John Singer Sargentの事かと思われる)が描く色や光に匹敵するレベルで、心に直接響くような、華麗な絵をデジタルで作り出している。それに廃墟の素晴らしい街並みとか3つ頭のエイリアンの攻撃下にあるとか、終末感のあるヴィジョンも加わっているね。 これらのものはツールやパソコンに元々備わっているものじゃないけど、ある画材を使えば、他を使うより楽に描けるという場合もあるよね。どの場合でも、どうするか一から選択を積み重ね、画材の偏りと制約を乗り越えるか、それを利点として生かすのは各個人に委ねられている。
またカリキュラムにコンピューターの授業が無い学校にも行ったことがある。 木炭や鉛筆、アイスの棒に墨汁をつけて描いたり、ガッシュや油絵の具・アクリル絵の具で色を塗ってたんだ。画材を通して見てみると、実際の物があるし、どの画材も制約がある。同時に素晴らしい表現の幅を出せる能力もあるんだ。けど、デジタルでは物的な制約が元々ない。とすると終わりはどこ?そうなると、ことごとくアーティストの能力や、そのツールを使っているアーティストの作風に依存する事になる。
制約は色々役立つんだ。実際練習に良い仕組みになっていたりするんだよね。輪郭のドローイングクラスを受けた時の事を覚えている。何か月もモデルを前にして、細い製図ペンで描くんだ。明暗の差はつけられないから、物の輪郭を学ぶ事になる。小さい細い黒ペンはそれにぴったりなんだ。もちろんこの練習は、生徒に同じ制約を課せばデジタルでも出来る。(アンドゥ無し!3ピクセルブラシ!18 x 24 白キャンバス・・・等)とはいえ、ペンと紙でやれば、画材の性質を利用して、シンプルに制約を作れるよね。
私としては、アートを学ぶときに絵の具の混ぜ方・明暗の作り方や、木炭でデッサンするのをスキップするのはあまりオススメしないね。絵の具やブラシとの物理的な繋がり、紙の上で粉になる木炭と摩擦、アクシデント、道具の趣き、それらがどう絵に影響するか?どうなってるか知りたくない人っている?これって演奏する価値がある楽器はただ一種類しかないって言ってるようなものだよ・・。一つの画材で他の画材を真似る事だってできるんだから!それで罠でドツボにはまることもあるんだけどね! ---------------------------------------------------------------------------- ↓続き デジタルかアナログか(3)   
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carguytimes · 6 years
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【ミニ誕生60周年】60周年を記念してさまざまなイベントを予定。新たな特別仕様車にも注目
●「MINI Art Baton」はクラシックミニをスペシャルカーを作り上げるイベント 今年誕生60周年を迎えるミニ。今後、60周年を記念したさまざまなイベントが用意されています。 そのなかでも注目なのが「MINI Art Baton」と呼ばれるアートイベント。 その発表イベントでは、生みの親であるアレック・イシゴニスがミニのアイディアを生み出したときにペーパーナプキンにそれを書き留めたことを紹介。そしてイシゴニスからの手紙としてペーパーナプキンに書かれた手紙(もちろん演出です)を読み上げました。そこには私の作品を100年後に繋いで欲しいという内容が書かれていました。 アートイベント「MINI Art Baton」では、ボブファウンデーションさん、ジェリー鵜飼さん、レターボーイさんの3名のアーティストが1台のクラシックミニをキャンバスとして、バトンリレーのように順番にスペシャルカーを作り上げるというものです。 また、ミニはクルマ本体やクルマに装着するアクセサリーだけでなく、数多くの周辺グッズの人気が高いことも有名です。そんなミニライフを楽しむミニライフスタイルコレクションに60周年を記念したアイテムを約50点追加。1960年代ルック&フィールを思わせるレトロカラーのトーンを採用しつつも、現在のミニとの共通性もあるモダンな雰囲気にもあふれたものとなっています。 そして忘れてはならないのが、MINI 60 YEARS EDITION.と呼ばれる特別仕様車の存在です。今年5月に発売が予定されているこのモデルは、イギリス伝統のブリティッシュ・レーシング・グリーンを刷新した新しいボディカラーに60 YEARSのロゴが各所に配されています。 (文/写真・諸星陽一) あわせて読みたい * 【ミニ誕生60周年】旅をテーマとした特別仕様車「ミニ・クロスオーバー・ノーフォーク・エディション」が登場 * ミニ60周年記念限定モデル&めちゃめちゃキュートなグッズたち * 【新車】旅をテーマにした遊び心満点の「MINI Crossover Norfolk Edition」が300台限定で登場 * 【ミニ・ジョン クーパー ワークス クラブマン試乗】新しいクラブマンにパワーをプラス。使い勝手も上々のファミリーユースカー * MINI史上最速。302馬力の「JCW GP」市販型、早くもその全貌をキャッチ! http://dlvr.it/R03R0y
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gosuisei · 2 years
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昨日は3月に続き #飯能八幡神社 にて行われた #こもれびマルシェ に参加してきました^^ 前回に続き今回も天気のままイケるのか?と思いましたが… うん、運が良い☆ メニュー無き #ボディペイント メニューの副作用? 何だかんだしゃべりながら好き勝手に描いていた気がする。 依頼ありきの仕事だと中々そうはいかない(笑) 主催の @komorebi_marche_hachimansama さんやスタッフの方々に感謝m(_ _)m 夜は #港屋食堂 さんにて1週間ぶりににんにく餃子をチャージ。 ●一時的に陽がさしたけど終始曇り。 まぁ、これくらいの方が過ごしやすいかもしれない。 キッチンカーが近くてうまそうな匂いがプンプンしてきます。 ●いただいた画像。 開始早々、地元川越から遊びに来てくれた模様。 せんべいの差し入れをいただく。感謝☆ ●小さい頃に見た、駅の銘板的なものが欲しくて「かわごえ」を。裏返せば「かすみがせき」。 どこからやってきたのか一発で理解してもらえるのもミソ。 ●ウルトラマンをボディペイント。 ウルトラマンて見てなかったので改めて描いてみるとツノ?みたいのが鼻の位置の下までとどいていると知る。 久々にちびっこのお手て。 キャンバスが狭すぎてドキドキするぜ(笑) ●久々にはやぶさをボディペイント。 ●その後、あまった絵の具で200系新幹線。 そういえば初めて描いたし乗ったことないんだよね。 乗ったのは0系ばかり(笑) ●イベント後にミスチルのライブに行くとのこと。 マスクサしたままでもペイントがボロボロにならない位置でなるべく大きく。 細かい作業で手が置けないのは指先がプルプルします(笑) ● #原爆絵画展 のチラシもよく見られ持っていく方も多かった。ありがたし。 ●昨日の #NHK #あさイチ 効果? 赤べこも何気に人気だった。 赤べこのステッカーがあるといいねぇ。ということでメモメモ_φ(・_・ 相変わらずステッカーカテゴリは強いな。 へいわんコースターをペイペイで受取る。 初めてだからしどろもどろ(笑) 個人間だと手数料無してのは評価できる。 ●次は11月とのこと。 ●夜は #港屋食堂 さんにて1週間ぶりににんにく餃子をチャージ。+マーボーとふるまいピザを食べて帰ったとさ。 #こもれびマルシェ #マルシェ #飯能八幡神社 #飯能 #八幡神社 #原爆絵画展 #平和ペイント #ボディペイント #蓮馨寺 #生活に根ざしたアート #ウルトラマン #新幹線 #ミスチル #赤べこ #にんにく餃子#港屋食堂 #漫画 #エッセイ漫画 #1コマ漫画 #イラスト好きと繋がりたい #イラストグラム #漫画好きと繋がりたい #絵描きさんと繋がりたい #私はこんな仕事がしたい (八幡神社) https://www.instagram.com/p/Ces7bttP33h/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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lyrics365 · 2 years
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スターライト
描いた未知のキャンバス重ねる景色 繋いでみて繰り返していく衝動 揺らいだ目の前に広がる世界 星屑のメロディ歌に乗せた クラッと鮮やかに眩ませるように 駆け抜けるよスターライト We can fly そう僕らは いつしか夢の中引かれて ただがむしゃらに走り続けたよ 無限の宇宙に響いたキミを照らす声は どこへだってきらり飛んでゆけるんだ 愉快な仲間と歩いた非日常 掴んでみて指先の一等星 滲んでゆく目の前に広がった限界は 皆の手重ねてぶっ壊して 吸い込まれそうな夜空を見上げて 今叫ぶよスターライト I wanna be そう僕らは いつでも側で笑い合って あふれる声が遠くこだまする 願いのかけらを灯したキミの腕を引いて どこへだってきらり飛んでゆけるんだ ちょこっと不安な日も 魔法をかけてハッピー 百人力で乗り越えていこう アクアブルーに染まる 大空にめがけた 鼓動が弾んでく We can…
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satosora-1111 · 3 years
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空の色
楽しさや苦しさの感情なんてものは自分が好きな空のように繋がり循環し霧散する。ほんのちょっとのことで色は反転してしまう。キラキラ光るこの感情を一体どうすれば留めておけるのだろう。いつどんな時だって自分の色を塗るのなら全力で挑みたい。悩み抜いた2年間の終止符に自分の素直な答えをキャンバスに乗せた。
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sayka-colours-blog · 6 years
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『表現を続けること ・2』
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気が変わらないうちに連投(笑)
6月と8月のグループ展に参加して感じたことを書き留めておこうと思います。
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まず、6月は通っていた美術学校の先輩方とのグループ展。
場所はあの銀座!
数え切れないほどの画廊が立ち並ぶ絵描きの聖地(と私は思っている)です。
そんな場所で展示する機会なんて自分にはないだろうと思っていたから…ご縁に感謝です。
在廊も何日かしたのだけど、さすがの銀座、観に来てくださる人の数が多い!
地元の画廊とはまた違った空気感に圧倒された、刺激の多い展示になりました。
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で、8月のグループ展。
いつもお世話になっている地元の喫茶店にて。
これ仲間の希望で勢いで決まった企画展で(笑)
先に決まっていた6月と10月のグループ展が個人的にビッグイベントだったのでやりきれるか不安が大きかったんだけど、結果的にはこのタイミングでやれてよかったと思える展示になりました。
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さて…実はこれも先ほどの"自分の中の優等生"に絡むお話。
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6月の展示、美術学校の先輩方とやるじゃないですか。
しかも先生方にもご協力いただいていて。
卒業生もたくさん観に来てくださるじゃないですか。
で…作品何を出そう問題。
在学中はデッサンに勤しみ、静物・人物・風景といった具象画を何枚も描いていたのに、卒業してからの自分はデッサン関係なく色で遊んでばかり。
場所も場所だし、最近描いている作品を出すのはなんだか恥ずかしくて…
一点は、在学時に描き途中だった風景画を加筆して展示しました。
ちゃんとこういうのも描けるんだぞ…なんて、ある種の見栄ですね(笑)
でも、今後にも繋げていきたいと思ったワガママな私は、その他に二点、抽象画と半具象画(?)を出しました。
うん…今思うと、高校・大学時代(自分が変わる前)のやり口と同じだなぁ(笑)
やりたいことを素直にやりたいと言えずどっちつかずな行動が(笑)
この優等生に振り回されてる感(笑)
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でも会期中、今回の機会をくださった先生に作品を見ていただいたときに「キャンバスに絵の具を乗せる作品でなくてもいいんだよ」と言われまして。
「(Twitterなどを見る限り)いろんな表現をしてるみたいだから」と。
その言葉をいただいて涙出そうになりました。
なんだろう、お見通しだったのかな(笑)
場所とか気にせずもっと自由に表現していいんだよって言われた感じがして、すごくホッとしてしまった。
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その後に決まった8月のグループ展。
テーマが『じゆうけんきゅう』になったこともあって、七色の絵(7枚の作品)を描くことにしました。
赤い絵、青い絵、黄色い絵といった色縛りの制作。
色の好き嫌いができない(笑)
しかも今回はキャンバスではなく木製パネルを支持体にしての作品。
絵の具の発色や絵肌(質感)がいつもと違う。
まさに研究している感じ(笑)
色と枚数が決まっている以外は自由だったから、自分のその時の気分で自由に色を重ねていきました。
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そして感じたことは「ああ、自分にはこれなんだ」と。
色を作る、重ねる、新しい色ができる、二度と作れない色の世界ができあがる。
楽しい!!
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「学校でデッサン習って技術身につけたのに、それを活かさないなんてもったいない。」
そう思う自分がいて、そう主張する自分がいて。
でも今描きたいのはそれじゃない。
今やりたいのは色で遊ぶこと。
たくさんの色に出逢うこと。
ふっ…と、七色の絵を描いていてそう思った瞬間があったのです。
また少し楽になった感じ。
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学校で学んだのはデッサンだけじゃない。
今私の主軸になっている"色"は、学校に通わなきゃここまで興味を持っていなかったもの。
だからもったいなくもないし活かせていないわけじゃない。
ちゃんと活かせてるんだコノヤローヽ(`д´)ノ!
…と、優等生に反論(笑)
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そんな葛藤をしながら最近は制作してます。
「色で遊んでます!」と胸張って言えるようになるまで…はまだもう少しかなぁ。
でもちょっとずつ前進はできているから、焦らず気長に辛抱強く。
今後の表現の機会に繋げていけるように。
Enjoy colours in my way!
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tokipy · 4 years
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🇯🇵 🇬🇧 どうですか ?ユニコーンのYuniデザインで車をカスタマイズするYukiPYプロジェクトはいかがでしょう? 😲 ご意見ございましたら、コメント欄にご記入ください。皆様からのご意見は本当に貴重です。 私たちの願いは、運転する際の気持ち、より楽しく、よりリラックスし、周りをリスペクトし、そして何よりももっとハッピーでカラフルなデザインを提供することです😻 Yuniデザインに乗ったり、恐竜のDiplooデザインに乗ったり、タコのPoulpaデザインに乗ったりもできます...🦄🦕🐙 または他のアイデアがあればどんどん教えてください! ダイハツムーブキャンバスの素晴らしいデザインだけでなく、日本のカーラッピングの専門家による実際の実現可能なプロジェクトです😎 ご希望されるなら、本当に私たちのデザインであなたの車をカスタマイズすることができます🤩 (リンクhttps://canbus.tokipy.comを大切な人と共有すればその方が自分の車をカスタマイズできるようにすることもできます . . . 🇬🇧 What do you think of it? How do you find our project to cover a car with the design of Yuni the unicorn? 😲 Especially if you have an opinion, give it to us in the comments. We really need feedback. . Our wish is to offer another way of riding on the road, more zen, more relaxed, more respectful of others and above all more fun and colorful 😻 . Could you see yourself riding in a Yuni car, or Diploo the dinosaur, or even Poulpa the octopus ... 🦄🦕🐙 or something else, go ahead and tell us :-) . Indeed, it's not just a nice design on a Daihatsu Canbus, it's a real viable project with a Japanese wrapping professional 😎 You can really customize your car with our designs if you want 🤩 (or you can share the link https://canbus.tokipy.com with your loved ones so that they can customize their car 😁) . To move this project forward, it's very simple, we are open to everything: all ideas and suggestions are welcome, all proposals, collaborations, partnerships, and also all orders, donations and funding 😊 Indeed, the next step is to have a car made so that it can be exhibited and shown on social networks and at trade fairs. So we are counting on your support, at least to share with those around you 🙏 . Thank you very much in advance for all the help you can give us 💖 . . . . . #canbus #canbus_owners_circle #daihatsucanbus #movecanbus #daihatsu #ダイハツキャンバス #ムーヴキャンバス #ムーブキャンバス#ダイハツ #movecanbus #canbus #キャンバス乗りさんと繋がりたい #ムーヴキャンバス #ムーブキャンバス #ダイハツキャンバス #キャンバス #ダイハツ #エアロパーツ #canbus #daihatu #ムーヴキャンバス #キャンバス女子 #キャンバス乗りと繋がりたい #wrap #wrapping #wrapchannel #carwrap #carwraps #mastersofbranding #customwrap #wraplife  (à Nantan-shi, Kyoto, Japan) https://www.instagram.com/p/CGghuXnhGcs/?igshid=15ggx79rxag59
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140-not-enough · 3 years
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にゃがと/見た/退院
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リハビリ落描きの古泉とにゃがと。二人でいるときはダラダラしてる古長が好きなので、ついゆるめのTシャツばっか着せがち。次はちゃんとおめかしした古長も描こう。
わがままにゃがとと振り回され古泉のにゃんにゃんエロまんがとか描きたいね…と思ったけど、普段描く古長も古泉が振り回されがちだからそんなに変わらない気がする。
あと、こういう大きめのキャンバスにちまちま描いていくのが好きです。小学生の頃ノートの隅は花とか星とかで埋めつくしてたから、元来そういう趣味なんだろうな。
見たメモ
・劇場版総集編 メイドインアビス 後編 放浪する黄昏
レビュー読んで覚悟してたからか意外と大丈夫でした。泣いちゃったけど…ミーティ……
リコが毒針に刺されるところ、痛そうだったけど、グロ怖い!というより冒険家としての強さや覚悟に圧倒されました。すごいな。
そしてナナチかわいい。声低めなとこ好き。
・ゲームセンターCX The Movie 1986 マイティボンジャック
マイティボンジャックの回は観たけど劇場版は初めて。総集編か?と思ったら過去編が始まって驚いた。課長と過去編が融合したとこでニヤニヤしました。
この時代に子どもだったらもっと楽しめたかもしれない。ドラゴンボールにアラレちゃん登場は単行本で読んだけど、きっとリアタイでジャンプ追ってたら主人公たちみたいにびっくりしたんだろうな。
・時をかける少女
アニメの方です。たぶん5年ぶりくらい。今更だけど「未来で待ってる」ってあの絵が千昭と真琴の時代を結ぶかもしれないからなの…?(真琴があの絵を千昭の時代でも存在するようにするという繋がり方で)
今まで全然気が付かなかったことにショックを受けた。
・ものすごくうるさくて、ありえないほど近い
悲しい出来事を無理に乗り越えたり無かったことにせず、時間をかけて自分の一部にしていくオスカーは本当に強い子だと思う。しかも賢い。確実に私より賢い。お父さんとオスカーの知的な遊び、憧れるな〜。めちゃくちゃ心配でも、オスカーに知られないように見守り続けたお母さんもすごい。信じてるからできることだな…
「太陽の光が地球に届くまでに8分間かかる。もし太陽が爆発しても、僕らは8分間何も知らない。それが地球に届くまでの時間、8分間世界は変わらずに明るく、太陽の熱を感じる。パパが死んで1年、僕はパパとの8分間が消えていく気がした」というセリフが好き。
・大豆田とわ子と三人の元夫
終わっちゃった〜…最後まで最高だった…寂しい…
夫婦とか恋愛のくくりにはまらない、いろんな形の愛情が肯定されてる物語だったと思う。恋愛ってその激しさやドラマチックさのせいか、あらゆる創作物で表現される感情の中で最上位になりがちだけど、このドラマでは必ずしもそうではないところがとても良かったです。
ラストの元夫ボーリング好き🎳
(以下、病気の話です)
・退院した
先日無事退院しました!術後2日目から病棟内を歩き回って1日1万歩を達成するくらい元気だったからか順調に出られた。シャバの空気うま😭
しかしまだ排液を抜くために病院通いしてます。そして病理検査の結果次第では、これから抗がん剤治療もやるかもしれません。副作用の吐き気も髪が抜けるのも死ぬよりはマシと受け入れてるつもりだけど、やっぱりふとした折にしみじみ「嫌だな…」ってなります。これはもうしょうがない。嫌なものは嫌だ〜苦痛と向き合いたくねぇ〜(わがまま)
でも嫌なことばかり考えながら治療するより、少しでも楽しい方がいいよな、と思うので、最近できるだけ楽しいことだけしてます。歩いたり映画見たり本読んだり家族と遊んだり古長の妄想したり。絵も描きたいけどもうちょい傷が良くなってからかな。まだちょっと引きつる。
とりあえずがんになったら運動!らしいので今から歩いてきます。
(マシュマロくださった方々ありがとうございました…! 返信不要とのことなのでお言葉に甘えさせて頂きます…めちゃくちゃ嬉しかったです!)
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cafebarrack · 5 years
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加藤巧/鈴木雅明/鈴木悠哉/山本雄基      「Grafting 接ぎ木」
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加藤巧 Takumi KATO
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鈴木悠哉 Yuya SUZUKI
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鈴木雅明 Masaaki SUZUKI
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山本雄基 Yuki YAMAMOTO
                          「Grafting 接ぎ木」
加藤巧        Takumi Kato 鈴木雅明    Masaaki Suzuki 鈴木悠哉    Yuya Suzuki 山本雄基    Yuki Yamamoto 企画:鈴木雅明 2019年2月9日(土)-3月31日(日) アーティストトーク2月9日 (土)
撮影:藤井昌美
巡回展:なえぼのアートスタジオ(札幌市)
               https://www.naebono.com/archives/event/grafting接ぎ木
↓ read more(トークアーカイブ)↓
トーク:2019年2月9日(土)17:30~
Art Space & Cafe Barrack : 近藤佳那子
接ぎ木展出品作家:加藤巧、鈴木雅明、鈴木悠哉、山本雄基
トークゲスト:愛知県美術館 拝戸雅彦
近藤
今日はたくさんの方にお集まりいただいてとても嬉しいです。私はこのCafe Barrackっていうのをもう一人の古畑君っていう絵画をやっている人と共同で運営をしています。でここのバラックが入っている母体自体はタネリスタジオって言う名前で活動していまして、シェアアトリエとして使いながらいろんな使い方を模索しているような場所です。代表が設楽陸さんで画家になります。今回のお話自体も元々バラック自体も自分たちで活動の場とか発表の場とか生産の場を作っていきたい、確立していきたいという思いから始めたようなスペースになります。愛知を中心にはなりますが現代作家を中心に発表の場をということで自分たちの周りにいる面白い作品を作っているけどなかなか発表の場がなかったりだとか、やりたいことがあるんだけど他では難しいという展示をやってもらったりだとかしてもらっています。
今回のお話自体は鈴木雅明さんの方から古畑君の方にお話を振っていただいてこういう作家がいるのでぜひグループ展をやりたいというふうに言っていただいたので私たちも嬉しくて今回こういう企画が実現しました。北海道からも今回は作家さんに来ていただいていまして、出品作家が加藤巧さん、鈴木雅明さん、鈴木悠哉さん、山本雄基さんの4名になります。今から作品の事とか今回の展示についてお話をしていただきます。今回はバラックの初めてのトークという事でゲストとして愛知県美術館から拝戸雅彦さんを鈴木(雅)さんから呼んでいただいてお話を伺っていきます。
鈴木(雅)
ありがとうございます。じゃあトークの方始めさせていただきます。今回の展覧会を企画した鈴木雅明です。よろしくお願いします。
今日は今紹介いただいたメンバーと愛知県美術館からも拝戸雅彦さんを交えてトークの方進めさせていただきたいと思います。最初に今回の展覧会の企画趣旨とか経緯の説明を僕の方からさせていただきたいと思います。今回の展覧会は僕自身も展示をしているんですけれども、僕はずっと絵画に興味を持って制作をしてきました。自分の中で問題意識だとか考えている事があって、今回出品を依頼した作家の方々というのはいずれも絵画形式で作品を発表されています。僕は絵っていうのは何かしらのコンセプトとかがなくても描けてしまうものなのかなっていうふうに思っているんですけど、今回出品を依頼した3名の作家の方々は自分自身が立っている位置っていうのを決めた上で絵画を取り扱っているように感じました。その立っている地点を見てみたいという思いもあり、また3作家の地点を探ることによって自分自身がどこに立っているのかという事を照らすような機会にもなるんじゃないかという動機から始まった展覧会です。今日のトークでは聞いていただく皆さんにも何かしら響くことがあったらいいなと思っています。それぞれの作家の立っている地点というのは必ずしも一様ではなくてバラバラの状態であるかなと思っていて、僕も一緒に展示はしているけれどもこの3名の作家と自分が同じ位置にいるよと言いたいわけではないです。
今回展覧会名として「接ぎ木」という言葉を展覧会のタイトルに挙げているんですけども、接ぎ木っていうのは簡単に説明しますと、植物を切断してくっつけると違う種類の植物が接合して一個の個体になるという現象のことを言うんです。今お話した作家がいる地点から絵画を取り扱っているところまでの作家と絵画との関係性が接ぎ木的なんじゃないかなと僕は思っていて、接ぎ木的な状態っていうのは繋がっているけれど、それぞれ独立した状態が保たれているというような状態です。僕がイメージしたのは接ぎ木のサボテンなんですけれど、三角柱という緑色の三角のサボテンの上に赤い緋牡丹というサボテンが乗っていて、結合していてくっついているんだけれどそれぞれの存在は決して消されていないという状態。この状態を今回の展覧会の構造に自分なりに当てはめて言葉を選びました。作家の選定にあたっては美術家の佐藤克久さんに、今日もお越しいただいていますが、ご助言をいただいています。今回出品していただいている3名の作家との面識はなかったんですね。ただ作品は知っていて、自分が知っているからとか近い距離にいるからということではなくて作品の印象というのを大事に出品を依頼しました。基準としては僕が各作家の作品を実際に見ていたという事と、先ほども話した立ち位置の話ですね、自分の立ち位置をしっかり決めた状態で絵に向かっているように僕は感じたという事を基準として作家の選定をしました。
今日のトークの前半では各作家の作品制作の基点となっている事とか、今回展示している作品について短い時間ではありますが伺っていけたらと思っています。後半は拝戸さんを含めた5人でお話する時間を30分くらいなんですけども取れるといいなと思っています。よろしくお願いします。
このまま続けて私の今回展示している作品の話をしていきたいと思います。今回出品している作品は奥の部屋の手前側にかかっている絵画作品でキャンバス、油彩という絵画のオーソドックスな形態で作品を制作し、出品しています。僕の制作は日常の中での錯覚という出来事を入り口として自分自身が見ている世界というのは何なのかということを考えています。作品を作るきっかけになった事柄として、僕が仕事に行く通勤で高速道路を使うようになって、ある時、高速道路で車を運転している時に道路上の看板ていうんですか、表示の看板ていうのが看板ではなくて一つの色面として目に映ったように感じたっていう事があって、それ自体は実際看板が色面化しているわけではなくて僕がそう見てしまったという事なんですけど、だから錯覚という事なんですね。ただその体験というのはいつまでも自分の中に残っていて、それを入り口として制作できないかという事で作品を作っています。手法としては実際に自分のスタジオにあったもので、モチーフになっているものが合板とかスタイロフォームの切れ端とかを描いているんですけれども。(カフェスペース壁面を見て)あ、ここにスタイロフォームの作品ありますね。そういったものをモチーフにしてそれらのモチーフに色画用紙とか紙の切れ端で作った色面を実際に貼り付けた状態を作っています。その状況を写真で撮影して絵に描いています。描くことによって色の色面ていうのが異物的な存在になって自分の体験をあらわす、そういう存在になる状況を作るっていう作品です。最初は単純に自分の体験を絵に起こしたいということで始めていたんですけど、今考えてるのは色面をただ入れ込むという状況を作るだけで状況が変化するとともにモチーフ自体の在り方とか成り立ちも変化しているんじゃないかなと考えていて、そこが面白いなと思って制作をしています。
最近僕は植物を育てているので、また植物の例えから話をしていきたいと思うんですけれども。植物ってこう上に上に高さを持って成長していく植物があって、園芸とかの世界だと高さがあると管理しにくいということもあって高さを止めるために成長している先端を切ってしまうという技術があって、切ってしまうとそこから上は無くなってしまうんですけれども、しばらくすると植物の切断面の脇からこう枝が生えてきて、また成長を始めるという現象があるんです。生えてきた枝っていうのはまたそのまま上に伸びていくこともあれば、横に這うように伸びていったりすることもあったりして、広がり始めたりとかもするんですよね。自分がしていることってそれに近いんじゃないかなと思っていて。色面を挿入するっていう行為がモチーフの成長点をバンって切ってしまう行為なのかなと思っていて、そうすることでモチーフ自体の成り立ちもまっすぐ伸びていたところが横に地を這うように進んだりとか枝分かれしていくように、モチーフ自体が全く違うものになってしまうわけではないんだけれども、モチーフ自体の成り立ちとか在り方が変容していくようなそういう効果が異物を挿入することにはあるんじゃないかなというふうに今は思っています。そこを面白いと思って制作をしています。
はい、以上です。それで少しだけ質問を僕にしていただきたくて。。(笑)拝戸さんお願いします。
拝戸
話を聞いていて、初めて説明を聞いた部分もあって思い出してるところもあるんですけど。そうすると絵の中で全く別の世界が成長していく感じなんですか?
鈴木(雅)
そうですね。
拝戸
描いたものが生き物になっていくような感じ?
鈴木(雅)
生き物になっていくというよりも、ものの中にある要素が、あっち側に展示している板をモチーフにした作品も、板を見たときに板ということは認識するけど、板の細部まで目を凝らすようなことはないのかなと思うんですけれども。実際に色面を配置することによって板と見てる人との距離が変わってくるというか、それによって例えばちょっとした傷とか汚れとか木目のパターンだとかが浮上してくるように感じる事があって。だから生き物のように動き出すということではなくて、もともと持っていた要素の順序が入れ替わるというか、そういうような効果があるんじゃないかと。自分は今そこが面白いと思っていて制作をしています。
拝戸
例えば静物画っていう言葉があって。静物画って基本的にナチュールモルト、つまり死んだものっていうか、死んだ自然っていう言い方をしているんだけど、そうすると鈴木さんの中ではむしろものとしては死んでいるものが描かれることによってそこに何かを足すことによって、なんていうか生命っていうか動きが始まるという感じがするってことなのかな?
鈴木(雅)
そうですね。植物の話が出たので生命とか生きるっていう話になるのかなとは思うんですけれど、僕としてはその生命力というのはあんまり意識はないんですけども、違うものに変容していくというか、実際に描きで変容させていくっていうよりも色面を与えることでその意識しなかった部分が出て、浮き上がってきたりだとか、意識していた部分が沈み込んでいったりだとかいう現象が起きるんじゃないかというふうに今は捉えてやっています。
加藤
スタイロの作品、ちょうど(カフェスペース壁面に)あるので見ながらですけど、スタイロの表面に「IB」とか「DOW」とか「ダウケミカル」とか文字が書いてあったりしますよね。そういった、先ほど仰っていたような高速道路の標識などのような、意味があって作られている文字や記号や言葉のような、機能を持ってこの世に存在しているものたちに、色面を与えたり描きなおしたりすることで別の抽象的な形態として見えてきたりすることだとか。
鈴木(雅)
そうですね。
加藤
絵画を知覚することを通して別の体験が枝分かれして発生するっていうところに興味だとか主題がある、というように考えればいいんですか?
鈴木(雅)
そうですね、今仰っていただいたことはかなり近いですね。そういう感じですね。
拝戸
見てるものって基本的にそれ自体で生きているわけじゃないですか。これはこれで生きてて、それがこう一旦絵画化されることによって一旦死ぬっていうか、一旦抽象的になって僕は一旦死ぬような気がするのね。
加藤
そうですね、死ぬのか留保されるのかわからないですけど。一旦その機能っていうのは取りあえずの小休止のような、仮死状態のようになるかもしれない、ということでしょうか。
拝戸
写真を撮られた時にそれは写真の中で死んでいて、単なる風景の一部でしかないっていうか。
鈴木(雅)
なるほど。
拝戸
それが絵になるとちゃんと見ちゃうという。
鈴木(雅)
また動き出すような感じの印象はあります。
拝戸
さっきIBっていうね、僕らからすると全然何の意味も持たないもの、それが絵になって色紙が貼られることによって確かに注目しちゃうよねっていう事が起こっちゃう。
加藤
おそらくスタイロの表面に色面として描かれている色紙なんかを貼らずに描いたとしたら、それでも抽象的な形態だけを鑑賞者が能動的に取り出して見ることも可能かもしれないけれど、(色紙を)貼ったものをモチーフとしてあえて描く事でよりその抽象的形態が駆動するという。
鈴木(雅)
ものとしてのそのスタイロフォームの切れ端っていう、色面を挟まなかった場合はスタイロフォームの切れ端っていう存在が強く出ると思うんですよね。ただ色面を挿入することによってその部分が弱められて他のものを何かこう目で探していくような効果が生まれるんじゃないかなと僕は思っています。
加藤
確かにそうですよね。重さとか軽さとかそういったものは感じにくくなりますよね。
鈴木(雅)
そういう効果があるんじゃないかということを考えながら今は絵を描いています。
拝戸
影がついていてどこか写真的な立体感がある。空間性を持ちながらも絵的な二次元もあって、ある意味では気持ち悪いというか。
鈴木(雅)
そうですね。それが自分の体験というところから来ています。
拝戸
これはまだものだからいいんだけど、この植物の作品ていうのはやっぱり線が出てくるとよりその気持ち悪さが見えてきて。
鈴木(雅)
植物?
拝戸
線がね、時々出てくるじゃないですか、鈴木さんの作品って。
鈴木(雅)
はい。
拝戸
線が出てくるともっとありえない有機的なものに見えてくるので、それが昔鈴木さんが描いていた都市の風景とは全然違うところにいっちゃってるというか。絵がもう一度生命を取り戻して、僕は生命って言葉は使ったほうがいいと思うんだけど。あんまりそこは禁じないでっていう感じがしてます。
鈴木(雅)
なるほど、はい。
拝戸
植物っていうのが今回テーマで自分の主観と結びつくものがあります。だけどやっぱりそこはテーマとしても繋がっていると思うので、ある意味では気持ち悪い絵だなっていう気がしてます。
加藤
気持ち悪いっていうのはある種の生命感というかグロテスクな部分も駆動しているのかもしれないですしね、わからないですけどね(笑)
拝戸
そう、だから歴史的に言うとデ・キリコとか形而上学の絵画をもう少し気持ち悪くした感じに見えてくるかなと言う気がします。
鈴木(雅)
はい、ありがとうございます。
ここから順番に作家の方々に作品制作の基点と今回出品している作品について簡単にお話いただきたいと思います。鈴木悠哉さん、お願いします。
鈴木(悠)
こんにちは、札幌から来た鈴木悠哉です。今回展示している作品のことを中心に話そうと思います。
今回ドローイングを102枚貼っているんですけど、現実の街の風景からモチーフを取ってドローイングを描くというプロジェクトみたいなことをずっとやっていまして、今回の絵は台南、台湾の���南という街を歩いてリサーチしてそこから興味を持ったものをもとにドローイングのイメージを一個一個描いています。なのでけっこうプロセスのシステムを決めてやっているんですけど、最初に実際自分が街を歩いて気になったものとか壁のシミだったりだとか、ポスターが風化した跡だとか色々様々なんですけど。引っかかったものをどんどん写真を撮っていくんですけど、(スライドを見ながら)こんな感じで影の形だったりだとか、これ台南なんですけど、こういう自然の風化とともにできていく形だったりだとか、これ住民が貼ったりはしてるけど無作為な感じだったりだとか、それと自然作用が折り重なってるとかそういうポイントをけっこう多く撮ってます。こういう写真がいっぱいあるんですけど、それを元にしていきなりドローイングに起こすんじゃなくて一段階ありまして、こういうふうに一回メモ書きみたいな感じにしてワンクッション置くんですけど、そこからドローイングのイメージにしていきます。こういうイメージがどんどんデータベースみたいに溜まっていくんですけど、そのイメージを編集するような形でインスタレーションというか、こういう風にオブジェに置き換えたりだとか、壁画にしたりとか、アニメーションとか、これはソウルのドローイングなんですけど、様々なメディアに変換してインスタレーション作品を最終的には作ってます。これは北京のギャラリーで今やってるんですけど、ペインティングであったりとか、あとこれは同じA4のドローイングなんだけど、紙に色鉛筆という感じだったりします。そんな感じです。
鈴木(雅)
ありがとうございます。僕の方から一点質問で、最初の方に説明があったんですけど、自分が実際に見てる景色とか風景とか滞在先で目にしたものをモチーフにしているということで、現実の中で自分が目にしたものを作品に取り込んでいると思うんですけれど、どうして現実から拾っているのかを聞きたいです。
鈴木(悠)
もともとは現実のものとかのモチーフはなしで描いてた時代が長かったんですけど、ちょっとある時点でなんか現実との繋がりがないと自分の中で作品として成立しないなという感じになってきた。なのでまず最初に現実のものがあってそこから作品を組み立てていくみたいな方法が段々しっくりくるようになって、今そこのなんか現実との繋がりという部分を抜いちゃうと自分の中で作品としてイエスと言えないようになってきてしまいました。
鈴木(雅)
それがどうしてかということはわからないという感じですか?
現実を外してしまうと作品を作ることが難しくなるということは、現実というのは悠哉さんにとって何かしら大事な要素になっていると思うんですけど。
鈴木(悠)
そうですね、自分の周りの状況が変化していて、えっと。。
拝戸
私から聞いていいですか?
現実をモチーフにする前には何をモチーフにしてたんですか?
鈴木(悠)
それはけっこう自由連想的な感じで無意識とかそういうことに興味があったんで、ドローイングって多分自分の無意識とかそういうのを引き出せるメディアだと思ってるんですけど。そんな感じで手を使って描いているうちに浮かんでくる形とかそういうものを根拠に作品を組み立てていくということをしてました。
拝戸
それは自由連想で描いた線をさっきみたいに一旦ドローイングに起こして、記号化してプロセス化するというところまでいったんですか?
鈴木(悠)
いやいってないです。その時はやっぱりドローイング止まりというか、そこからもうちょっと違うメディアに展開していくということは難しくて、小さいドローイングをずっと描いて、そういう形です。
拝戸
そうすると現実をモチーフにするようになったのは自由連想が長く続けられない感じがあったから?
鈴木(悠)
けっこう行き詰まりみたいなのがあって、自分がそういう風に浮かんでくるものをキャッチして定着させたりだとか、そこにある根拠を見出せなくなってきて、そういうものを現実の中に置いた時に作品として保てないようになってきたかな。
拝戸
辛い時代のことを聞いて申し訳ないです。
一同
(笑)
拝戸
すみません、どうぞ。
鈴木(雅)
そうですね。現実っていうところは交換可能なのかな?例えば現実からモチーフを得てる。。あ、そうかすみません、それはちょっとおかしいか。
いずれにしても悠哉さんにとっては現実を取り入れることで制作が進むようになったというか、ある程度突破できたところがあったということですか?
鈴木(悠)
それもあるんですけど、どう現実を捉えるかみたいなことに問題意識があって。なんかそういう部分で現実のものから始めた方がしっくりくる。
鈴木(雅)
はい、わかりました。ありがとうございます。
じゃあすみません、時間もあるので次の方に行きたいと思います。山本雄基君お願いします。
山本
はい、山本です。よろしくお願いします。
僕のは入ってすぐ正面にある作品で、基本的に円のみをモチーフに使っています。
アクリル絵具のメディウムで作った透明層を用いていて、透明層が大体8層から10層くらいの構造になっているんですけど、各層ごとにいくつか円を描いていて、層と層を跨いだ円の重なりを見せるっていうことをやっています。
円の種類も、不透明な色で描いた円、実体のある円と呼んでみますが、それと画面全体に半透明、半不透明とか半透明なヴェールのような色面を画面全体に塗って、そこをあらかじめ円でマスキングしておいて後からそのマスキングを剥がすとその薄い色面が円にくり抜かれている実体のない円、その2種類あって、それらが重なり合って地と図が反転し続けるような状況を作っています。
よく見れば、あ、ここの円の部分はくり抜かれていて、2層目とか3層目とかの後ろの方の層にあるんだなとか、この円は実体があって手前にあるんだなとかそういうどの辺の位置にあるのかっていうのを、わりと追えるようには作っています。
パッと見た感じは層の順序が色の効果によって逆転して見えるとか、透明層があるので実際に絵の中に円の影が落ちたりするんですけど、その影の濃さによって、実はこの円がこの層にあったんだ、とか、そんな風に円の位置、認識をどんどんどんどん狂わせたり、自覚できたりっていうそういう往復運動ができるような作品にしたいとは思っています。
それと、僕個人としては円っていうのはあんまり意味を持たせすぎないでいろんな事柄に代入可能なシステムとして使っているつもりです。
僕は主には人との関わりの方向性だとか、僕と社会とか、僕っていう存在がある世界との関わりの中で発生するバランスみたいなものを、一度システムとして自分の中で捉え直して絵画化する、そういう思いで円を置いています。
一方でそういうパーソナルな問題だけじゃなくて造形的な問題っていうのもやっぱり生じていて、理屈よりも絵の方が先にこの円とこの円の関係がよくわかんないけどなんかすごい気落ちいいなとか、バランス取れるなとか、さっきまで調和が取れなかったものが、ここに小さな黄色の円を置いたら突然調和が起きる、みたいな現象って起きるじゃないですか、絵を描いてると。それは一体何なんだろうと考えたり。
絵の中でそういう現象が起こるっていうことはきっと自分が生きる中で現実世界にもそういう状態っていうのは起こせるはずで、自分のポジションに絵の中で起きたことを代入させて自分の生き方を再定義する、生き方と照らし合わせるツールとしても使っています。
もう一つは絵画史っていうか歴史上作られてきた美術作品、特に絵画作品に興味を持っていますので、作るのと同じくらい、見るのも物凄く好きです。どれだけ一枚の絵を分析できるかみたいな、過去からの挑戦状だと思って。分析した結果、あ、この画家はこういうことを実はやってたんだ、じゃあ自分の絵にもそれを生かそう、みたいな要素もあります。絵でできることをわかってるぞ、っていうのを自分の作風に込めれるかっていうチャレンジを考えながら作ってます。とりあえず僕からはそんな感じです。
鈴木(雅)
僕から質問で、今の山本さんの話の中で世界と自分とのバランスを取っているという話があったと思うんですけど、それが自分の作品と関係しあってるっていうこうなんていうのかな、世界と自分とのバランスと絵画の中での要素、例えば色彩だったりっていうもののバランスが行き来しあっているというか、関係しあっているような話があったと思います。僕が最初に山本さんの作品を見たときの印象として、どうしてこういう構造を使って絵を作っているのかなと思いました。今のお話っていうのは作品の構造が最初にあって自分の考えを紡いでいったのか、それとも山本さん自身の考えがあった中で作品の構造が発生していったのか。今の作風が始まった頃の話だと思うんですけれど、どっちが先だったのかなということを聞きたいです。
山本
絵画って何だ?っていうのを自分なりに理解したかったていう動機が完全に先だったんですよ。
僕はそんなに自分がやりたい表現っていうのをあんまり信用してないっていうか、自己表現じゃない、そもそも美術っていうものはどこにあるんだろうみたいなことに興味があって。
今まで作られてきたいろんな美術作品をパクるような形で作ってみて自分なりに理解したっていうのを繰り返す中で、その中に少しずつ自分の表現を入れてアレンジしていくっていうやり方をずっとやってたんですね��
だから普通にモチーフを描いていた時期もありましたし、イメージを描かないで色面だけでやるとか、「絵画は物質だ」みたいな話で厚みをめちゃくちゃ厚くする単色の絵とかも描いたり、自分なりに既存の美術史をおさらいしていって、あるときに「絵画ってこういうものです」って共有できる概念じゃなくて、そういう絵画への禅問答っていうのは60年代とか70年代とかに終わっていて、どういう風に自分が絵画を定義するのかを考えるメディアになってるって思うことができたんですね。
そのあたりから自分の感情みたいなのがようやく入れれるようになってきた感じです。その過程でモチーフもぐにゃぐにゃしてる形からだんだんだんだん円になってきて、何で円になったんだろうって考えていくとなんか自分の生き方とリンクしているのかもしれないなと少しずつ自覚するようになったと思います。
鈴木(雅)
じゃあ制作の過程の中で先に構造が発生して、そこから自分自身との関わりとかバランスといった方向に思考がシフトしていったということですね。わかりました。拝戸さん、何かありますか?
拝戸
作品の中に現実っていうのは特にないんだよね?作品の中に現実は生きてない。例えば悠哉さんが考えているような現実のモチーフは全くなくてあくまで円という非常に抽象的な、よく抽象絵画って丸、三角、四角っていう風にいうけれど、その中で丸を選んで丸の重ね合わせの中から作っている。現実からモチーフを取り出しているわけではないっていうことでいいかなと思うんですけど。
山本
目に見える形態としての現実ではないけど、理念としての現実、、現実ってどういう仕組みでできているんだろうとか現実っていう仕組みを僕はどう捉えているんだろうっていうものを一度構造としてイメージしてから、それを透明層と円だけで置き換えているつもりです。その自分の絵画内のシステムを、現実とリンクするような状態にしたい、ということです。
拝戸
イメージとしての現実があるわけではなくて、あくまで自分がどう現実と向かい合うか。あるいは美術史をおさらいしたって話をさっきされてたんで、美術史という構造、歴史を一応踏まえた上、一さらいした上で自分がどう現実と向かい合うかっていうことをやっている。立ち位置が全く違うんだね。
山本
自分が良いと思う他人の作品にも、作者とその作品の関係とか、作品内でその作者が発生させたそれぞれの仕組みってあると思うんですけどね。
鈴木(雅)
わかりました、ありがとうございます。
じゃあ最後加藤さん、作品制作の基点と展示作品についてお願いします。
加藤
加藤巧です。作品でいうと手前の部屋の手前の壁側です。四角くないやつです。
僕は、普段の活動としては絵画材料を中心とした材料のことを触りながら、かつ絵画を中心として制作をしてます。絵画っていうものはとても歴史が深いですよね。その辺に赤土やなんかがあると、色を擦りつけたら色がつく、痕がつく。それを見たときに他の人間が、他の生命体がそこにいた、というようなことを感じとれたりする、と。ある人間は仲間がいるというように思って安全だと思うかもしれないし、他の人たち縄張りだと思うかもしれない、とか。そういうような「痕跡」のうえで「行為」と「材料」っていうものたちが互いにリンクしながら、フォームを変えながら変遷してきたもの、そういうように絵画全般を捉えています。関心としても、その辺りのことについて中心的に考えていることが、ときには制作や、こうして話をさせていただいたりというような、活動になっています。
作品について。今回の作品についてですが、絵画というのは今お話したように、「行為」と「材料」として見ることができますよね。絵画のうえに何が描かれているか、という問題も一方であるんですが、それはイリュージョンとしての錯覚だったりする。絵画のうえではイリュージョンは起こるんですが、同時にこれはほぼ全ての他の人の作品にも言えることですが、実際には布とかの上に、油によって顔料という色の粒が練られたものがくっついている、というような物質的な側面がありますよね。で、その辺りの「痕跡を残す」ということをしっかり考えたいな、という関心がありました。
先ほどお話したような、僕の活動や制作の基本線としてあるのは、絵具を自分で作ることです。チューブ絵具は使わない。顔料、色の粉を、例えば油で練り合わせるとペースト状になる、と。糊の力で、色材を定着させているっていうのが絵具の仕組みなわけですが、その条件に触れていくうちに、どんどん材料の方から知識やいろんな知恵をもらうわけです。それは先人が残したレシピだとか、実際に触って試すことで気づくことが多い。画面に塗ってできた痕跡それ自体からも、観察できることがある。
で、そういう材料に触れる、ということから、触ったらなんか痕がつくよね、ということから今回の作品も作られています。作品のタイトルは「マカロニ」といいます。「マカロニ」というと食べるマカロニ、穴の空いたパスタ、あれを「マカロニ」っていうみなさんイメージされると思います。「マカロニ (macaroni<英>>,maccheroni<伊>)」っていう語源が「マッコ(macca)」とか「マッカーレ(Maccare)っていうラテン語に由来があるらしいです。小麦粉やなんかを練り合わせるとか、捏ね合わせるっていう意味があって。昔の人間が、洞窟壁画の時代、アルタミラとかラスコーのような、洞窟の内部に牛とか鹿とかの絵が描かれていたりとかするようなものたち、あれらは天然に(湿式の)フレスコの状態になっている(カルシウムの作用で定着している)ものですが、そういったものの中に鹿とか牛のような、特定の図像として描かれてるものではない不定形のものがあるんですね。手のなすりつけとか、壁に対してステンシルのようにスプレーのようなもので吹き付けた「ネガティヴハンド」と言われるものがあるんですけど、そういったもの、なすりつけのような遊びの痕跡みたいなものも残っている。それをアンリ・ブルイユという壁画研究をしていた神父さんが「マカロニ」と呼びはじめたんです。
昔日の、壁画の中に見つけられる可塑的な表現に対して「マカロニ」という名前をつけている。そこから、人間を取り巻く材料的な環境というのも変わってきた。今はプラスチックもあれば金属も使うようになっているし、日進月歩で材料の変化がある。そういう中であっても、「なすりつける」とか「色をつける」という行為はずっと残ってきている。そういった現在の環境下で、取り巻いている材料を用いて、「なすりつける」ということを作品化しながら、自分の考えるためのサンプルとして、「可塑性」や「なすりつける」ということについて触りながら考える、ということをやっています。
作品の土台、見えてない部分の一番下の部分はFRP、ポリエステル樹脂とか、ジェスモナイトという最近イギリスで開発された硬化剤を使わない、アクリル系の可塑剤があるんですが、そういったものを基底材にして、その上に食いつきを作って漆喰をなすりつけ、なすりつけの行為を観察する。なすりつけの力の入り具合などを見ながらトレースするような感じで、別の顔料を小筆で漆喰上に置き直していくと、ブオン=フレスコの原理で色材が定着する。自分のなすりつけた行為を筆の描きによって追体験することで、「痕跡を残す」という可塑的な行為から何が考えられるのか、材料を通してやっていることが作品としてシリーズになっています。そんな感じですか。
鈴木(雅)
はい、ありがとうございます。
僕の方から質問で、加藤さんに今回展示を依頼したのには理由があって。加藤さんの作品を最初に見たのがMIKAWAYA Galleryでの個展を拝見したときだったんですけど。
加藤
一昨年、2017年ですね。
鈴木(雅)
一昨年ですね。今回不定形の形の作品ですけど、その時は矩形というかパネルに描かれた作品だったと思います。壁面に対してこう垂直に展示されてた。垂直というかこうかかっているわけじゃなくて、側面が正面になって展示されたような形で裏側も見えるような構造になっていました。作品の裏側には確かその時に使われた色とか絵具の配合とかそういった類のことが書かれていた作品だったかなと思います。
僕は加藤さんの作品を最初に見た時に何だろうとすごい思って、純粋にわからなかったということがあって。良いとか悪いとかじゃなくてわからないっていうことがあって。何をしている人なのか、おそらくその絵具の取り扱いっていうのには興味があるだろうっていうのはその裏面の情報だったりとかで理解はしたんですけど。実際何をしているのかが自分にはわからないというのがあって、それを知りたくて今回ご依頼をさせていただきました。あの時は確か今みたいな加藤さんのお話しだったりだとかステートメントとか文章みたいなものは会場にはなかったような気がします。
加藤
そうですね。
鈴木(雅)
最初拝見した時、抽象的な作品で絵具とかに興味を持って作られているんだろうけれど、実際これはなんなんだろうっていう印象を持ちました。でも加藤さんの作品ってプロセスもしっかりしてるし、コンセプトもすごくしっかりしていてそういったことを観る側と共有できないこともあるのかなとは思うんですよね。それに関して今こういうトークの場とか、加藤さんから直接話を聞いてすごく腑に落ちたところもあったんですけど、会場で作品だけを見た時にそれだけの情報が自分には伝わらなかったというのがありました。観る側との関係みたいなことは加藤さんはどういう感じで考えられていますか?
加藤
その時に「鑑賞される」ということは僕の中では重要じゃなくはないんですけど、第一義ではない。MIKAWAYAのときは、今回とは違うタイプの四角いタイプの作品を作っていたんですね。筆のストロークで描いたものを再分析して観察して、エッグテンペラという、卵を展色剤として使って別の画面に置き直して、その描画時の顔料の置き直し方にノイズをかける。そうすると、筆のストロークの現象は再現されるけど、別の顔料によって別の色彩が与えられる、ということをしていました。それらの作品を、絵画を物質的な側面を意識してやっているんだ、ということを強調して見せたかったというタイミングでした。なので、文字通り作品の側面を鑑賞者の正面になるように展示したわけです。絵画の物質的な側面を見せるために側面を前面に出すと、鑑賞者は作品表面を覗き込むように見るようになりますよね。正面から見るよりも明らかに見辛いわけです。遮蔽型展示とか言うこともあるかと思いますけど。かつ、裏面には使用材料の情報が書いてある。材料の情報がそこにあるということで、材料的な事実がそこに示されている、それは文字を読んだらわかること思うので、その情報から何を類推するかは鑑賞者が別にやればいいと思います。材料的な事実を僕は提出してるので、そこから何を駆動させるかはその人それぞれってことで僕の意図がそのまま、僕の意図通りに、鑑賞者にエスパーみたいに伝わるということを作品の上で期待していないです。僕はもちろん理由があって作品を作っていますが、提示しているのは材料的な事実。鑑賞者の体験と作者の意図はズレていていい、と思っています。だけど、そのズレをつなぐものは材料的な事実である、というような、その界面としての絵画が、事実としてある、という認識です。
鈴木(雅)
展覧会を通して作品を見せられるような状態というか、鑑賞者が観るような状態っていうのは加藤さんにとってはそういう機会は設けたいっていうことですか?
加藤
作品はサンプルなので。絵画というフォームはサンプルとして優れていると思っています。材料をディスプレイするという、何を考えてどうしたか、という行為とか、何を使ったのか、という材料などをディスプレイする��めには、かなり適したものとして絵画は残ってきたと思うんですね。それはデータでもあり、メディアでもある。伝達手段であるわけですから、まず初めに自分にも伝わるし、自分以外の他の人にもとりあえず見られる状態になる。見られる状態になっているんだから、公開される機会もあるでしょう、という認識です。生きている限り公開されるっていうタイミングがある限りは公開してもいい、というように思っています。
鈴木(雅)
わかりました。拝戸さんから何かありますか?
拝戸
絵の問題に入る時に技法から入るのか、イメージから入るのかっていうことがあります。両方からのアプローチが一般的ではあるかなと思います。加藤さんは基本的には技法をとても構造的に、あるいは思想的に自分が考えたことを見せるっていうことになると思うんだけど、そこにはイメージの問題っていうのは特にない?つまり到達点としてのイメージの発生は考えていますか?
加藤
イメージの発生のことは考えてはいますけども、それは結果的に発生するものだと思います。しかし、イメージをどうしたいかということを恣意的に、制作の始めに策定しておくということはしていません。けれど、このプロセスを踏むことによって、もしくは自分が興味を持っていたり、これはすごく気持ちが良い、とか、何だろうな、というような、物を触ることから生まれてくるような自分の関心の蓄積を基点にして作りはじめて、かつそれが組み上がってきた時に、何か別のビジュアルのものができるだろうな、ということとか、これは試されていない組み合わせだな、というものに気づくと興味が出るんです。その行為を積み重ねることによって、「触る」という行為だけをしているにも関わらず、図像のディスプレイができてしまう、ということ自体かなり不思議だと思います。かつ、そこには自分が何かを考えて材料の扱いに反映させているので、そのあり方によって成果物が変化する、ということも同時にあるので、それは粘土のように有機的で、面白いことです。
拝戸
加藤さんの作品からあらわれているイメージっていうのは基本的に身体の動きとしてのイメージ?
加藤
そうです。
拝戸
痕跡としてのイメージ、痕跡がそこにある。それは何かのイメージではなくてあくまで身体がそこにあったイメージとしか読み取れないっていうことになると思うんだけど。
加藤
そうです、ええ。
拝戸
で、いいんですね?
加藤
人間はそれをずっとやってきたわけだから、それを変える必要はないと思います。取り巻く環境だけが変わっていく。環境を扱う考え方も変わっていく、ということです。
鈴木(雅)
はい、ありがとうございます。
じゃあ出品作家の方のお話を短い時間でしたけど一通りお聞きしました。お伝えしてなかったんですけどトークの時間は1時間半を設定していて、ちょうど今1時間くらい経ったところです。あと残り30分くらいの時間を拝戸さんも入れて5人集まったし、せっかくなのでみんなで話せるような時間にできたらいいかなと思ってます。何を話すかっていうことなんですけど、今回の展覧会は最初も説明した通り、僕が一方的にオファーを出して、こういうことをやりたいからと皆さんにお願いをしてっていう流れでした。1年前から話はあったんですけど、最初は曖昧で今回札幌からもお二人来ていただいていますが、地域性の話が出てたりだとか、どこに照準を絞るかっていうのも曖昧な状態でした。そんな中、今回の展示を断るっていうこともできたと思うんですけども、引き受けて下さってかつ接ぎ木っていう僕が上げていたテーマに関しても多分それぞれの解釈の仕方、納得いかせ方みたいなのがあったと思うんですけど、僕はそれを今の状態ではほとんど知らない状態です。僕がずっと発信してこうでこうでって言ってきたけれど、実際出品された方、あと今日は拝戸さんは鑑賞者の方に近いような立場で展示を見ていただいていて、同じ内容の質問というか展覧会自体とか接ぎ木というテーマっていうことをどう捉えられたかっていうのをお話をしていければいいなと思います。ここからは拝戸さんの進行ですみません、お願いしたいなと思いますが、大丈夫ですか?
拝戸
時間的には19時に大体終わるという形だよね?
鈴木(雅)
そうですね、大体19時に。
拝戸
大体30分くらいトークして、会場にもいろんなアーティストが来ていらっしゃいますので皆さんからも話を聞きながらっていうことでも良いですよね?
鈴木(雅)
はい、大丈夫です。
拝戸
じゃあとりあえず私が口火を切るというか、話をしていこうかなと思います。
今回のテーマについていえばですね、やっぱりかなり強引だなって感じがしていて、接ぎ木っていうコンセプトが全く異種のものを繋いでしまって、作品と同じようにやってみてそこからこう見えてくるものを期待するという部分がどっかにあると思うんだけど。今回作家のみなさんが割と違う立場からアプローチしている方たちがきてしまったというか、普通こうは揃えないよねっていう感じがします。絵画っていう一種の共通の目標、まぁ誰にでもあって、それを誰もが知りたい、けれどもアプローチも全然違うし、素材も違うし、考え方も違うし、よって立つ根拠も全然違うっていうことがあって。作り手も混乱するっていうか自分で自己設定しなくちゃいけないっていうことが絵画にはあって。さっき山本さんも自己定義っていうか自分で決めて作らざるを得ないっていうことを仰られたのでそれは普通によく言われていることかなっていう気がしてます。
その一方で加藤さんがある意味で原理主義的に材料から立ち上げるっていう話をされる。それはすごく面白くて、一方で鈴木悠哉さんの方はもっとこうクールに現実からイメージを取り出して、むしろ一番絵画的ではない方法で作っているのかなっていう気がしています。ペインターなのかアーティストなのか。ペインターが作るものがペインティングなのか、アーティストが作るものがアートなのかっていう議論があると思っていて。今回はかなり異種混交のペインターが集まってきて、おそらく話を聞いていると悠哉さんあたりはペインターではない立場かなっていう気がしています。むしろ加藤さんがガリガリのペインターっていう感じ、山本さんは中間にいるっていう感じがどこかあって。結果としてとても面白い展覧会になっているし、観た人も多分そういう印象を持たれるかなっていうふうに思いました。これが一応総括ということで、そういう印象を持ちました。なので展覧会としてはすごく成功しているかなっていう気が僕はしています。さっき話しに出たんですけど、イメージから始めるのか、素材から始めるのかっていうのは常にあります。それはある意味とても難しい問題で、かつてその加藤さんのやられている古い絵画の問題っていうのはイメージが与えられているわけです。つまり15世紀とか16世紀とかの古いルネサンスの時代っていうのはイメージを与える人っていうのがいて、発注者がキリスト描いて下さい、あるいはマリア描いて下さいというようにやられてきた。18世紀までは基本的には宗教絵画が多かったんでイメージを与えてくれていたんですよね。でも、抽象絵画が出た後は自分でイメージを作り出さなくちゃいけないし、探し出さないといけないっていう時代に入ったところでやっぱりすごい辛いことが起こっているような気がしているんですよ。日本でマリア描くわけにはいかないしっていうのがありますよね。じゃあその丸三角四角でずっと絵を描き続けられるのかっていう問題があって。さっき悠哉さんの仰られた自己連想っていうのかな、いわゆる昔シュールレアリズムの人たちが考えた、目に見える現実ではなくて目に見えない心の問題、内面から絵を描こうと思ったんだけどやっぱり長続きしないんですよ。どっかにモチーフを探しにいかなくちゃいけない時に、常に問題が起こっているんですね。20世紀の初めくらいから抽象絵画ができたんだけども、それなりの悩みがずっとあって。イメージの問題どうするのと。それをどっから探してくるのっていう時にピカソが一番良い例なんだけど、結局は昔の絵画を引っ張り出すか、自分の目の前にいる女性の絵を描くしかないっていうことになるんだと思うんですよ。それはずっと問題として引きずっていて、その一方でアクションペインティングていうのがあって身体、それを絵にすればいいんじゃないのっていうことが起こってくる。やっぱり同じ問題を20世紀はずっとやってきて、それは21世紀にもまだ続いてるっていう感じがする中で絵を作んなくちゃいけない。そうするとじゃあ極端にいうと絵ってなんなのかっていう時に絵はイメージからいくのか材料からいくのか、あるいは絵っていうのは本当に素材じゃなくて逆にこう理念的なもので極端にいうと加藤さん怒るかもしれないけども、イメージでしかないっていうような言い方もありえると思うんですよね。つまりイメージしかない、つまりイメージと物質が分かれた状態になってさっき加藤さんが仰られたように物質はどんどん変わっていくじゃない。技法と素材はどんどん変わっていっているし、一方で過去の技法を調べていくといろんな形でイメージを作り出そうとしていることもわかる。X線見ていくと様々な絵具の積み重ねが発生し、作られているという話があります。私がある美術館に行った時にモネの作品っていうのはみなさんが見ているモネの絵じゃないんです。この絵具なんですっていう言い方をする人たちがいるんですね。つまり絵に使われた絵具こそがモネであって描かれたものはモネじゃないんですっていう言い方をするくらい材料から入っているっていう話しがあって。それはある意味じゃ全く違う絵の見方をしている人たちがいるっていうのがよくわかるので。だから結局何が言いたかったのかというとイメージから入るか、技法から入ってくるか、で技法はどんどんどんどん変わっていっちゃうっていうことがあるので。さっきも聞いたんだけど、イメージにこれからどうやって到達していくのか、到達する気があるのかどうかも含めてなんだけれど加藤さんどうですか?
加藤
拝戸さんが今仰られた問題っていうのはイメージ、図像として見るのか材料として見るのか、という問題ですね。僕の場合は材料史の部分に着目しているわけですけど、材料と図像って不可分ですよね。分けられないですよね。材料の扱い一つとってもその中に思想が埋め込まれているわけです。日々扱う、道具のようなものたちにしてもそうですし、その所作のあり方にしてもそう。僕の制作では、思想が図像になる、というよりはどちらかといえば、材料だとか触った感触などからスタートしていますし、行為が前面に出るというように思われると思いますけど。先ほど僕はイメージが生じるということを完全否定しませんでした。最終的にはイメージに到達すると。それはmあの自分が考えていることに取り組んだ結果、イメージに到達しているのであって、イメージが自分のコントロール下に置かれてるか、そうでないか、ということはどちらでもいい。大事なのは、自分の行為したことによって、何かがアップデートされるかどうかだと思います。僕の場合は材料、というところから、描く、痕跡を残すっていうこと自体をアップデートすることは、十分豊かな仕事だと思いますし、それはプリミティブな行為なので、直接的でもあると思います。そちらを丁寧にやりたいなっていうのはあります、その結果が図像になっているんだと思います。
拝戸
山本さんの作品が最終的に円になった、一番円って人格性がないっていうか筆致性がないっていうかある意味では全く逆のところにいると思うんですけど、見る時に横の側面をどうしても見たくなっちゃうっていうのはあります。あそこは材料性が残っているところがあって。技法に特化した形でイメージをある意味じゃ最小限にするっていうところで作られてる加藤さんの作品はどういう風に見えますか?
山本
加藤くんの作品は僕も作家名と、画像で見たイメージだけは知っていたんですが、画像イメージからは作品の構造が読み取れなかったんですよ。実物は今回の展示で初めて見て、その前に本人に先に会ったんですよね。で、本人の話が面白すぎたんですよ。なんなんだこの人はっていう(笑)こんなアプローチで絵を描いている人にはなかなか出会ったことないなっていう風に一気に興味を持って。事前にその本人から情報をたっぷり聞き穿った上で。
加藤
すごい質問しはるんですよ(笑)
山本
興味津々だったので(笑)。何かに共感するというよりは、僕はこういう理念を持っているけど、結果的に加藤くんの作品も絵画表現になっているのにでここまで違うアプローチからできるのかっていう、その違いの部分にすごい興味を持ったというか。だからその違いを計る相手としての興味、関心がありました。で実際実物を見てみたら、ロジカルで動機やプロセスのほとんどのことを説明できるような作家さんだと思うんですけど、やっぱりそれを超える何かというか、作品の魅力っていうのを実見して初めて感じましたね。具体的に言えば、下地のなすりつけの痕跡があってその痕跡に合わせて面相で細かく細かくトレースしてるじゃないですか。そのトレースのニュアンスの中に見え隠れする感情みたいなのがすごい面白くて。山になってる山の頂点で色を変えるとか。
加藤
そうですね、やってますね。
山本
その変えているラインの取り方とか。あと一番こっち側の作品、端っこのガタガタになってるちょっとこっち側ではこういう下地のタッチがあって。下地のタッチは曲線になって、
加藤
そうですね。
山本
直線になってる途中でガタッ!と大きなエッジがきて、エッジのところに直線がないのにガタッ!を通り越して線が繋がってる、みたいな。
加藤
繋がってますね(笑)
山本
そういうやりとりがやっぱり言語の部分を超えてる要素っていうか。どんなにロジカルにしていても謎が残り続ける、そのなんか良い意味での気味悪さっていうんですかね。到達できない人間の欲求みたいなのが見えて、なんか楽しんでます。とても。
拝戸
その一方で悠哉さんがね、基本的に素材はなんでもいい。なんでもいいってわけじゃないんだけどアウトプットのメディアは映像でも紙でもなんでもいいっていうか。むしろこうイメージが彷徨ってるみたいな感じの作り方をしているような気がする。アウトプットに依存しないで、張り付いていくような形?メディアに張り付いていくような形でアウトプットされている気がするんですけど。そういう悠哉さんからするとこの二人のこういうフェティシズム的な議論ていうのはどういう風に感じますか?
鈴木(悠)
絵画の素材に関してはそこまで深くは考えてないんですけど。どちらかというとやっぱイメージ先行でなんか一個のイメージを記号とか言語、視覚的な言語みたいな形に落としてどんどん現実の中に流通させていくみたいなのには興味があって。なのでメディアの選択にしても例えば現実にありそうなものにあえて置き換えたりだとか、例えば看板みたいなものにしてみるとか、オブジェにしてみるとか、映像とかそういうのはどちらかというと現実世界のもの、街にあるようなものを模してそこに変換させていって、現実を模した何か状況を作りたいなとは思っています。
拝戸
それは絵画として作っている?
鈴木(悠)
絵画の意識ないですね。でもその拝戸さんが絵画は一つの理念っていうことを言ってて、理念としてはあるような気がします。もともとその自分も絵画を志向してたんで、絵画っていうのは結構強力なメディアだと思っていて、ある種の理想形だと思うんですよ。表現の。ものすごく見やすくて、一対一で深みに引き込めるなというのはあって。ただそれ、自分はその絵画っていう素材とか支持体とか方法論を使って達成することができない感じがあったんで、違うメディアにいったという経緯があるんですけど。根本では理想的なものは絵画だと思っていて、自分にとって理想的な絵画の状況みたいなのを作りたいなっていうのは思っています。
拝戸
今はメディアの間をふらふらしている感じがするんだけども、それは最終的に理想形としての絵画に到達するっていう、夢は持ってるのかもしれないけど。
鈴木(悠)
憧れ?
山本
これクロストークだから僕が喋ってもいいんだよね?
鈴木(雅)
もちろん。
加藤
そういえばそうですね(笑)
山本
僕は逆に、あんまりその、、、絵画に理想的な絶対性を与えたくないって思っていて。天邪鬼な部分がある。絵画はすごい大好きなんですけど、絵画こそ頂点だっていう意識を持ちたい反面、いやその感情には気をつけなきゃなんないと思ってます。絵画にしかできないことって実はそんなにないんじゃないか。
今なんてそのフォトショップを使えば写真のイメージを操作することだってできるんで、イメージを操作するっていう部分では絵画と同列。物語を見せるとかものすごい視覚表現を与えるっていうのであれば映画とか3DCGとかが存在する。そういうものと絵画とを比べると、あんまりその優位性っていうのを特権的には語れないと思うんですよ。
その上で、絵画がメディアとしてできることって何だろうっていうのはいつも疑問に思っていて。一つはやっぱり痕跡。どんなに抜いても抜いてもゾンビのように痕跡が残り続けちゃうっていうある意味ヒューマニズムがダイレクトに現れる部分は多少は他のメディアよりは強みがあるかなっていうのと。あと多次元を表現しやすいメディアだなと思いますね。重力や時間、空間の感触だとかそういうものを自分でコントロールしやすい。そこと重複してさっきの人間が作っている直接的な痕跡っていうダブルイメージになっちゃうっていう部分があるかなっていう。だからそういう限られた絵画が持ってる、そういう部分を意識するくらいしかもうできないんじゃないかな。
拝戸
今加藤さんは絵画を作ってるっていう感じですか?つまりこうずーっとこれまで素材を変えて残ってきた。つまり本当にアルタミラの壁画からずーっとこう泥から土から洗練されて下手すると今フィルムみたいなものだったりだとかケミカルな素材まで来てるんだけれども、そこの中で加藤さんはずっと絵画史の中で絵画を作り続けてるっていう意識?
加藤
まあ絵画が一番都合がいいんですよ。歴史長いですし。歴史が単純に長い、痕跡を辿っていったら遡りやすい、という。痕跡残ってなかったら我々観測できないですからね。行為も材料的な条件も人の思想も人のあり方も周囲の環境も、痕跡から読み取り可能だと思うんですよ。それらが集約されているものが、ハンディな状態でずっとあるのが絵画、ということです。自分が一番考えられるフォームがいいんですよ、物事について。それを一番駆動してくれるものは、ぼーっと考えるとか、触りつつ考えるとか、そういうことができるものはかなり少ないんですよね。それができるものに名前を与えるとしたら、「絵画」と呼ばれているものかな、と。僕はずっと考え続けることができればいいです。それがたまたま「絵画」と呼ばれる形式になっていて、かつ物質として保存されているので、僕のメインの領域は「絵画材料」みたいなことになっているんですけど(笑)。(「絵画」というのは)呼ばれ方だと思います。
拝戸
今の話しで(何か)
鈴木雅
そうですね。僕はあの加藤くんの話もそうだけれど、山本くんがさっき言った次元の話は自分の作品にも関係するなと思っています。僕は最初の入りとして自分が体験したというか錯覚なんだけれど自分の目に映ったと思われる状況をスタートとしているんですけど。実際に現実の方であったわけではないんだけど、そういう自分の思い込みかもしれないし、見間違いかもしれないっていう現象をあらわせる。実際に目で見ることができないものを可視化することができるっていう。絵画においてはその体験をあらわすことができる。現実でそれをあらわすのは難しい。僕にしかわからないことだけれど、絵ではあらわすことができるのかなっていうところで今やってますね、作品は。
拝戸
イメージの問題ですよね。自分がこう発見したイメージをイメージとして受け止めてそれをどうやったら次なるイメージというか、メタイメージにつながるかっていうところでやっていると思うんでそういう時に素材ってどういう風に関わってる?
鈴木(雅)
僕は素材については、こういう言い方していいかわからないけど自分が扱いやすいっていうところでやってます。例えば絵具のことでもそうですし、油絵なので溶き油だとか筆だとかってあるんですけど基本的にはかなりオーソドックスなものを使っていて、もっというと予備校の時とかで最初に買いなさいと言われたようなものを今でも僕は使っていてそこにほとんど関心がないというか。その自分の衝動みたいなものを絵にあらわすことができればそこに対して思い入れだとか自分なりの考えだとかはなるべく入れたくないなというのがあって。そんな感じですね。
拝戸
かなり絵具が身体化されてるっていうか。
鈴木(雅)
そうですね。
拝戸
身体化されてるって感じがするんだけど、加藤さんの場合は描くっていうのはかなり意識的に扱っているものなんですか?
加藤
そうですね。今って、表現するうえでどんな材料でも使用可能ですよね。僕はそのような、ミクストメディア的な環境の中で絵画材料というのをもう一回見直す、ということをやっている立場なのかな、とは思います。そういう意味では、雅明さんが扱われているようなチューブ絵具のようなものにも「条件」というのがあって。その道具の条件から導き出される表現が生まれてきたり、ということがある。昔は絵描きって絵具を練ることも仕事だったわけですから。絵具を練って、かつ描いていたわけですから。それが今、工業や化学の方面に分化していったわけですね、特に産業革命の前後で、絵描き、といわれる人たちは、いわゆる表現ということに特化していくような身振りをするようになっていったりする中で、図像を扱い方も変わっていったように思います。僕の場合は、それで分化したと思われている絵具のチューニングを、分化していないかのように扱うために、いまだに絵具を練っているわけです。「絵具」と「描き」の間で考えきれてないことって、まだあると思ってるんですよ。チューブ絵具ということに材料を限定することで、見過ごされている知識とか体系について、まだまだ考えられると思っているんです。そういう立ち位置だと思って意識的に扱おうとしています。
拝戸
基本的にチューブ絵具っていうのは、即効性というか時間の問題で印象派の人たちを含めて手軽に絵が作れる方法として19世紀半ばに作られたと思うんですけど、印象派っていうけどパッて絵が描けるように発明されたアイデア。
山本
例えば僕はさっき言ったみたいに絵の中でおこるプロセスが現実社会にも関わっていたりするんだけど、加藤くんの場合はどうなのかなと思って。ある種その絵の中に自分の生き方みたいなのは宿ったりするのか、なんの感情移入もないのか。
加藤
(生き方と制作は)同期してますよね。ただ絵っていうものの中には入り込まずに、直接の自分の��為として制作があるので、感情移入とかの手前にいます。僕は。
山本
それは自分の生き方とか立ち位置とかに反映されるかっていうのは?
加藤
ありますよ。例えば、(生き方とか立ち位置などを)考える上で、過去の自分のことを考えると同時に、材料の扱い方などを調べるんですけど、そうするとき、ただテクニカルなことや知識を得るだけではなくなっていくんですよ。自分の考えの組み立て方だったりだとか、所作だったりだとか、について見直さざるをえなくなる。例えば、チェンニーニ(※1400年前後のイタリアの画家。技法書『libro dell’arte』を執筆)とかだと、「ワイン飲みすぎんなよ」とか、そういう話まで入ってくるわけですよ。場合によっては態度作りなども材料や技法に要請されることがあるわけです。例えば、フレスコとかだと濡れている状態のときにで塗らなきゃいけないので、それらを逆手にとって使うことによって、自分のスピード感覚だったり制作のペースなどを技法からコントロールして、自分のあり方を縛り直すことができると思うんですよ。
山本
うん。
加藤
それによって、態度も生き方も在り方も、変容します。
山本
どうしても技法の話にいっちゃいがちですよね、加藤くんって。そこから説明をしなきゃいけないから。でも僕はそうじゃないところに加藤くん自身から生み出される思考みたいなものに興味があったので、今の話は腑に落ちたっていうか。「接ぎ木」っていう強引な概念に3人とも向き合えたっていうのはやっぱりそういう部分もあるのかなと。絵画への立ち位置の取り方、みたいなのが最初のシンパシーとしてあって、ペインティングっていう表現を軸にして集まってみて、会議繰り返して新しい何かを持ち帰るっていう仕組みの中で僕は共感できることがあった。全員の作品見ても、皆ちょっとドライな部分がある��ですよね。筆跡に感情を入れました、じゃない距離の取り方とか。僕はそういうのになんかすごいシンパシーを受けたんですよね。僕は絶対的なものってあんまり信じられないっていうか、一旦距離を置きたいんですよ。絵を描きながらそういう思考が生まれていったんですよね。だからその辺は皆さん、どう思ってるのかなと思って。
加藤
接ぎ木についてですか?
山本
今ここにいて、そのことをどう解釈できたかっていう。
加藤
多分、(展示を)一番断りそうなの僕だった��ですよ(笑)
一同
加藤
まぁ考えてました、展示を断ることは。この企画でちゃんと決まんのかな、と。一番初めに(雅明さんから)メールいただくわけですけど。その時点で、何かしたいんだろう、という熱意は伝わりました。そこから、お会いして話をするんですけど、結局、展示によって何を示したいのかとか何についてメインに考えたいのかっていうことが示されないままで。でも企画自体は、何かの勘が働いてなのか、もしくは縁が繋がってなのか、その両方かもしれないんですけど、作家の選択はされてしまっているという。でもキュレーションではない、という状況で。これ、どういうことだろうな、思ったんですよ。企画って、何か考えたいことがあったり、テーマがあったり、というようなことから場が立ち上がる、というのが考えやすいと思うんです。けれど、そういうことでないのにも関わらず、自分に話が来ている、という状況では、その段階だったら僕は自分の仕事を続けることしかできないですよと。お声かけいただいた企画がどうあっても、僕は態度を変えない、制作を企画についてすり合わせることはない。自分が能動的に興味が出ない限りはそのテーマに対してっていうのが、態度だったりとか制作の方法っていうのは自分の主導でやっていく。制作は日々の営みなので。ということはお話したんですよね。
鈴木(雅)
うん。
加藤
でも、その動機の発端に、鈴木雅明さんがいらっしゃる。鈴木雅明さんは何かを考えたいことがあるんだな、ということは感じていて、僕は自分のフォームは変えなくていいんだ、ということもおっしゃっていた。であれば、展覧会がどうあろうと、僕はそのままの自分の興味だとか考えたいことに従ってやっていくと。その時にできることを発表しますよと。能動的に考えたい、という動機を持っているのは企画者の鈴木雅明さん。僕の位置は動かない。そこの間には、ある種の断絶があっていいと思うんですよ。
鈴木(雅)
うん、そうだと思う。
加藤
断絶があってもよくて。雑な言い方をすると、テーマはどうでもいいんですよ。僕の仕事は変わらないから。そこにどういう光を当てるか、というのが企画というものだと思うんですよ。そ個人的な動機が発端になっていようが、鈴木雅明さんの企画として実施されるので。
そのとき気になったのは、参加不参加っていうことを判断するための、企画としてのスケジューリングをどうするか、とか、自分がどのくらいの量の仕事をすればいいのかとか、展示に占める面積だとか、場所に対してどういうアプローチをすればいいのか、などが確認できて、自分の立ち位置がわかればそれでいい。それらがあれば、僕は企画のテーマに対してすごい齟齬がなければ、仕事はできる。参加してもしなくても変わらない、という意識で、今、結果、作品展示しています。
ただ、そういう状況にも関わらず、不思議と展示が決まったなっていう感じがあるんですよ。それちょっと不思議です、今。そういう意味では、企画に対してネガティブな見方も批判的な見方もしながら、参加の是非についてずっと考えていて、でも切るに切れずにきました。でも自分の仕事を変える必要がないのであれば、それが結果的に誰かが考えるきっかけになれば、それは誰かにとってもプラスになることなのだろう、と思って最終的には展示OKです、ということになったんですけど。
鈴木(雅)
僕としてはある種そういう関わり方を望んでいたし、さっき断絶って加藤くん仰ってたけど、そこに何かのつながりだとか4人で何かを言うってことは最初からほとんど考えてなかったというか。自分が見たいし、話がしたいっていうモチベーションはもちろんあった状態なんだけど。そこの横のつながりっていうのをすごく考えてたっていうよりも純粋に普段の活動を出してもらえればいいってことは別に何かを望んでたわけではなくてそれを見せて欲しいし僕も見たいと思ったのが今回の企画の動機ですね。
加藤
自分の仕事は変わらないんですけど、活動はずっとやっていくんですけど、それによって駆動される方がいらっしゃるんであればそれはいいでしょうと最終的には思ったし、その状況っていうのが何かしら展示の中でできているんであればポジティブなことだろうと思います。
鈴木(雅)
わかりました、ありがとうございます。
時間もそろそろ来たので最後に会場の方々から何か質問などありましたらお聞きしたいなと思います。
質問者
それぞれなぜ絵画なのかとか自分のメディアに選んだのかを聞こうと思ったんですけど、それぞれみんな明快に答えてくれていたのですごく良いトークだったと思います。しかもなんか僕は今モヤモヤしてるんですけど、みなさんすごい今アイデンティティがある作品を作っていて羨ましいなと思ったんですけど。聞いてみたいのが感動っていう言葉があって、その感動っていうのは色々な意味を含むんですけど、自作と感動についてっていうのをどう考えたかっていうのをそれぞれ聞いてみたくて。
鈴木(雅)
自分の作品を感動っていう観点からどう見てるかっていうことですか?
質問者
そう。絵を見て感動したのと同じように自分の作品についてどう感動したのかっていうのを教えてもらいたいなって思って。
それについて考えててわかんないところがあって、それについて。ちょっと聞いてみたいなと。
加藤
自作における感動の位置取りみたいなことですか?
質問者
そうそう。自分が感動ってことについてどう考えてるのかっていうことと、どうそれを作品に反映しているのかってことを聞けたらいいなっていう。
むしろ感動しないっていうのももしあればそういうのでもいいんですけど。
加藤
めっちゃ感動しますよね。めっちゃ感動しますよ(笑)
質問者
その感動をどう作品に落としこんでいるのかっていうのを。抽象的な概念で感動っていうのは難しいとは思うんですけど、それはやっぱあると思うんですよね、作品を見てると、それぞれ、皆さんの作品結構好きな感じの作品なので。
加藤
なんか触ったら気持ちいいとか、それも感動ですよね。それはずっと変わらないです、僕は。それはいろんな材料に変わっても。それで自分の考えがどんどん変わっていくのが面白い。触るっていうことの可塑性と脳みその中の可塑性っていうのが繋がってると思うんですよ。それが感動っていうことだと思っていて、うおー気持ちええわーみたいなのはありますし、それがやっぱり不思議ですよね。
この作品僕の場合だと作ってる間にジャン=リュック・ナンシーっていう方の「洞窟の中の絵画」というテキストを読んでいたんですね。そこに、なすりつけについてのテキストがあって。そこでは、類人猿の時代から今の私たちみたいな形の人類が出現して、その時に何かの痕跡を残した人がいた。その人は、その人自身の行為を痕跡を残すことで外部化した。意識的に痕跡を外部化して残す、という動物は他にほぼいない。その行為を外部化するということは、自分自身の奇妙さの外部化なんだっていうことを言うんです。そういうことを併置して考えてみても、「触った」「つけた」「痕がついた」それによって何かが発生してしまう、ということに対する驚き、奇妙さっていうことは大きな感動だと僕は思います。
質問者
行為に良し悪しっていうか、質は必要だってことですか。感動にいたるための行為っていう、これは感動しなかったっていうのとかはやっぱり自分の中である。たまたまそれが来た時になるっていうか。
加藤
それ(行為による感動)はやっぱり、探しながらやる。制作の中では、探りながら。時には、「めっちゃつまらんわ」ってなりますし。これめっちゃ気持ちいい、何だろう、っていうのは不思議なわけですよね。
質問者
それは含まれるわけですよね。
鈴木(雅)
あ、いいですか?僕短いと思うんで(笑)
僕作品の説明の時に拝戸さんから言われたのがとりあえずやってみるっていうような表現をしていただいたかなと思うんですけど。そういうところはあると思います。僕の場合その先をあまり見つめていないというかそこで何が起こるかを見ていて、そこで動きを見出せた時とか、さっき話したモチーフ自体の成り立ちが変わるような瞬間っていうのを見つけた時はやっぱり感動しますね。
質問者
どういう段階でそれが来るっていうのはわかる?
鈴木(雅)
来るかどうかはわからなくて、やってみて、それに自分が気づけた時というか、変わってきたかもしれない、何だろうこれっていう感じが大切ですね。自分が思っていなかったような、最初に入り口として設定した事柄から何かが生まれたとか出てきたとかを発見した時ですね。そういう時に感動に近いものがあるかなと。
質問者
自分が想定できないものっていうのを。
鈴木(雅)
そうですね。想定できないものということはあります。
拝戸
じゃあ次、悠哉さん。ずっと話をしてないんで。
鈴木(悠)
感動ね、感動あんまりないかも。
会場
(笑)
鈴木(悠)
作ってる時はこれが絶対いいだろって感じで一枚一枚がんばるんですけど。がんばってできた、やっぱりいいなと思ってやるんですけど、実際やっぱり展示とかして今日も展示してありますけど。その中で自分と作品との距離が近いっていうのもあると思うんですけど、鑑賞者として感動することはできないです。ただ基準として毎回見た時に見え方が変化するとか見てて飽きないとかそういうのはポイントとしてあって。飽きなければそれはいいのかなと思うんですけど。それは一つあるんですけど。毎回思うのはちょっと不満だなと思って、またどうしたら自分を満足させられるのかなみたいな感じでどんどん作っていく感じでやっています。
質問者
不満が次の作品を繋いでいく?
鈴木(悠)
これとこれとこれをやったから絶対自分は満足するだろうと踏むんですけどやっぱり、何だろう全然ダメだなと。で、全然足りないなと。
質問者
すごいわかる。
鈴木(悠)
新しい展開考えたりとか、違うものを使ったりとか、手を変えていくんですよ。そうやって続いていく感じです。
山本
感動っていう言葉ってけっこう怪しいキーワードですよね。どうにも捉えられるし。感動って心の動きなので相対化するのは難しいですよね。僕は新作作るたびに「俺の作品最高だ」って当然思うわけじゃないですか(笑)。でも主観バイアスがかかってる。2ヶ月くらい経つとそこまででもなかったかな、、、とか。それもまぁ感動と言えますし、基本的には自分の作品はいいと思う前提で、そのいいを確かなものにするためにはどうしようかなって考えるのが大事だと思います。例えば僕は本当にいいと思う巨匠の作品と自分の描きたての作品とをプリントアウトして横に並べて、じーっと見て反省するとかそういう方法もやってます。喜びだけじゃないですよね。怒りとか悲しみとか無念とかもやっぱり感動ですよね。絵に感動するのもやっぱり僕の場合強めの主観バイアスがかかっていると思うんですが、絵に限らず同じ意味で心が動くポイントっていくらでもありますよね。ニュースとか見てても、ひどい親が子供を殺したとかっていうのも自分のことじゃないのに落ち込んだりするじゃないですか。そういうあらゆる自分��心を動かす理不尽だったり喜びだったりを、ちゃんと絵の中に入れられているかなっていうのが僕の思考実験。さっきと同じような話になりましたけど。それが何となく「今回は入ったかな~」っていう感覚が掴めると、自分では最高だぜって感情が持続します。
質問者
社会と自分との関係っていうのは第三者が後から分析できる感じ?造形理論みたいのがある?
山本
どうでしょう~それはわかんないですね。他者が判断することかなって思ってます。でも絵の鑑賞ってやっぱり自由に鑑賞していいよって言ったりするじゃないですか。あれは半分は嘘だと思ってるんですよね。「山本の作品はきっと今ここに落ちている落ち葉からインスピレーションを得たんだ」とか全く違う事実を言われたらそれ違いますよって言いますよね。ある程度の示し合わせは必要だと思ってるし、そっから「わかってるな」と思われるような解釈ができるように作りたいとは思っています。できる限りのヒントも自分で発言しようとは思っています。、、、答えになってるかな。
拝戸
質問なんだけど、絵画を知的に理解してほしいのか、感性的に理解してほしいと思っているのか。つまりそこがやっぱり大きく分かれてて。分析的によくできてるねって理解してほしいのか、それともこれっていいねっていうふうに言ってもらいたいのかどっちなんだろうと思って。
山本
両方あります。知識とかがなくても感性的にいいねって思ってくれる人はいて。それは全く否定する気はないですけど、やっぱりハードコアな人にはそう簡単には伝わらないっていうか、僕の気づいてない油断部分を見透かされる場合もでてくる。自分自身もコアな感じの人になりたいですもん、他者の作品に対して。だからその両方、感性にも知的にもリーチしなければ意味がないと思うし、コアな人にリーチする方がより難しくて、やりがいはあります。
拝戸
コアな人っていうのは知的な人?
山本
そうですね。
拝戸
私はやっぱり色の問題ってなかなか知性的に理解できない部分があるような気がしています。例えばコンセプチュアルアートが出てきたのも知性的な部分が強くて、感性の部分ってやっぱり弱ってるような気がしてるのね。だからそこはなかなか共存できない。絵画はある意味じゃこう色をどんどんどんどん捨ててきた。言語化してきたっていうのは色の部分を感性だっていうふうに言って、下の部分に見てきたっていうふうに私は思っています。そこをもう少し復権した時に知的な理解と色を持った絵画っていうのと、そこが一致するとすごくいいものが見えてくるんだと思うんだけどなかなかそうはなってないなっていう気が実はしていて。色すらも知的に理解しようとする。でも色って実は僕は完全に知的に理解できるものじゃなくてやっぱり目で理解しちゃうと思うし、物質感も実はそう。本当に知的には理解できない部分がある。その領域ってなかなか見ただけじゃわからないんだけど。でも身体的に理解できるか、もっとトータルな体験として理解できるかっていうところが落ちてきちゃってる気がするんですね、絵画の理解の中で。だから絵画っていつも死んだっていう言われ方をして、みんなこうひたすら死んだ人間に対してなんかやってるみたいな感じがするんだけど。だけどやっぱり死んでないし、多分どっかでさっきの悠哉さんの話じゃないけど、なんかこうあらわれる像としてあるような感じがしてます。それは4人とも共有しているのかなって気がするし。私もそれをいつか見たい、死ぬ前に見たいなって思います。それは素材はなんでもよくてやっぱりこれって絵画だねっていうのがあらわれてくるんだろうなっていうことを期待してますが。時間大丈夫ですか?
鈴木(雅)
あ、もう時間押してるんで。質問じゃあとりあえずよかったですかね?このあとオープニングに移りますので、また質問等あれば各作家に聞いていただければと思います。僕の動機で始まって、一年くらいかけてやってきました。自分はまぁけっこう負荷がかかった状態とかがずっとあったりして。でも辛いなと思ったこともあったけれど、やっぱり得られたものはすごく大きくて。最初に自分の位置を照らすみたいなことを、それを知りたいと言いましたが、明確ではないけれど、少なからずやる前よりは見えてることがあるんじゃないかなと今は思ってます。というところでトークの方終わりたいと思います。じゃあ今日はありがとうございました。
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蓮沼執太  Shuta Hasunuma  OTHER “Someone’s public and private / Something’s public and private” 2020.2.1 (sat) - 2.29 (sat)
void+では、2020年の第一弾の展覧会となる蓮沼執太「OTHER"Someone’s public and private / Something’s public and private"」を2月1日より開催致します。
「OTHER"Someone’s public and private / Something’s public and private"」は、1日限りの展覧会としてニューヨークのイーストビレッジにあるトンプキンズ・スクエア・パークにて開催された「Someone’s public and private / Something’s public and private」でのアーカイブをまとめつつ、改めて東京で再構築する展示となります。 蓮沼は、「Compositions」 (Pioneer Works/2018)、「 ~  ing」(資生堂ギャラリー/2018)等の近年の展覧会を通して、特に人と人との関係性、人と人以外の関係性について考察を重ねてきました。様々な関係性が存在するダイバーシティ(多様性)の集合体ともいえるニューヨークにある公園にて、その多様な関係性のあり方を、作品を介して自由かつ能動的に体験するプロジェクトとして「Someone’s public and private / Something’s public and private」を展開しました。それは、近年の様々な関係性における思考の実践の場であり1日限りの展覧会と称したのには、今までの展覧会でアプローチしてきた文脈に通じるものの1つであると考えたからです。 公園には蓮沼の体重分の水が入ったボトル、蓮沼が制作したインストラクションがあり、参加者はその指示をもとにボトルを自由に動かし、最後にはボトルを持って帰ることができ、参加する全ての人達が作品の一部となっていきます。以前、蓮沼は「音楽は生活の中で生まれ個人から出発して個人へ戻る」という言葉を述べていますが、参加者によって移動されたボトルは、パブリックの場に広がり、最後は個人によってプライベートな場に移ってゆきます。まさに「パブリック」と「プライベート」が交差し緩やかに繋がってゆき、作品を構成する様々な要素が一体となってゆきます。 また蓮沼は、人と人、人と物と関わり、そうした目に見えない接触や直接的な接触を関係性とも捉えており、「現代はそのあたりを直接に捉え直す必要があり、具体的、抽象的な関係性を僕はふれることを通して捉え直したい」とも語っています。まさにその思想を象徴する蓮沼のライフワーク的な作品の一つである「Walking Score」は、蓮沼がマイクをひきずって街中を歩くフィールドワークの作品で、青山、北京、ニューヨーク、銀座、羽島などで実践されてきました。この作品は都市の音、街に潜む息吹やノイズを拾っていくもので、それぞれの街で存在する音は実に多種多様で、都市における様々な関係性、多様性を感じることができます。この作品の根底にあるものは、接触=関係性でもあり、「Someone’s public and private / Something’s public and private」にも共通する要素が内在し、完成形としての形は異なりますが、どちらも蓮沼らしい都市への考察でもあります。 今回のvoid+での展示は、そのプロジェクトの記録映像、写真、音源、ボトルの位置を定点観測して作られたスコア的なメモ、プロジェクトドキュメント等を、まるで空間を1つのキャンバスに見立てたかの様に再構築した展示となります。記録を振り返るだけではなく、新たにそこで鑑賞者と作品との対話が生まれる、まさに蓮沼らしい新しいコミュニケーション形式の作品と言えます。 また、会期中には東京では初となるリーディング・イヴェントも開催致します。常に音、社会、人間へのたゆまぬ探究心を持ちつつ、独自の多様な表現へ昇華しつづける蓮沼の新たな試みを是非ご周知頂きたくご案内申し上げます。
-アーティスト・ステートメント-
都市における「プライヴェート」と「パブリック」を「水」という要素を使い、「公園」という場所で行ったプロジェクトです。「水」は音が街に広がっていくように移動、循環していきます。「水」という根源的な物質は、自然界では形を変えて地球に存在している要素であり、人間中心的な都市環境においては資本主義社会の物流に乗っかりグローバルに移動している不思議なマテリアルです。さまざまな人種、動物や植物などが集まるニューヨークの公園を舞台にして、指示書に沿って、公園に偶然通りかかった市民の手によって水の入ったワインボトルの位置が変わっていき、公園の情景が変化していく。そして、その「水」の入ったワインボトルは市民の個人の場所へ移動していく。「水」を通して、公共、個人、資本主義、そして音を考えていくプロジェクトを再展示します。
蓮沼執太
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【展覧会概要】
蓮沼執太 OTHER “Someone’s public and private / Something’s public and private”
会期:2020年2月1日 (土) - 2月29日(土)14:00  – 19:00 休廊:日・月・祝日 ※2月16日のイベント時はオープンいたします。 ・オープニング・レセプション:2020年2月1日(土)18:00 - 20:00 ・リーディング・イヴェント(申し込み制/先着順):2020年2月16日(日)18:00 - 19:30 (予定)   参加費: 500円 *お茶をいれるためのお水をペットボトルでお持ちください。珍しいお水も歓迎です。 こちらのイヴェントの参加募集は定員に達した為締切ました。 ・トーク・イヴェント 蓮沼執太+五月女哲平:2月29日(土)19:00-  参加費:500円(1ドリンク付き) こちらのイヴェントの参加募集は定員に達した為締切ました。
2月29日(土)19時より開催予定しておりました「トーク・イヴェント 蓮沼執太+五月女哲平」は、ここ数日の新型コロナウィルス感染症が国内に拡大している状況を受け、参加者および関係者の健康を考慮した結果、開催を延期することにいたしました。振替の日程はまだ未定でございますが、決まり次第webサイトなどで告知させていただきます。イヴェントを楽しみにお待ちいただいておりました皆さまには誠に申し訳ございませんが、ご理解の程どうぞ宜しくお願い申し上げます。
*各イヴェントお申し込みは: [email protected] 会場:void+ 東京都港区南青山16-14 1F TEL : 03-5411-0080   主催:void+ https://www.voidplus.jp プロジェクト・マネージメント:柴田とし 広報協力:YN Associates
本展に関するお問い合わせは、下記宛にお願い申し上げます。
川口じゅん(void+) : [email protected] 柴田とし : [email protected]
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蓮沼執太 Shuta Hasunuma
1983年、東京都生まれ。
蓮沼執太フィルを組織して、国内外でのコンサート公演をはじめ、映画、演劇、ダンスなど、多数の音楽制作をする。最新リリースにEP 『Oa』(Northern Spy Records、ニューヨーク/2019)。 また「作曲」という手法を応用し物質的な表現を用いて、彫刻、映像、インスタレーション、パフォーマンス、ワークショップ、プロジェクトなどを制作する。2013年にアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)のグランティ、2017年に文化庁・東アジア文化交流史に任命されるなど、国外での活動も多い。主な個展に 『Compositions』(Pioneer Works、ニューヨーク/ 2018)、『 ~ ing』(資生堂ギャラリー、東京/ 2018)���ど。 第69回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。
shutahasunuma.com
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mashiroyami · 5 years
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Page 112 : 変移
 育て屋に小さな稲妻の如く起こったポッポの死からおよそ一週間が経ち、粟立った動揺も薄らいできた頃。  アランは今の生活に慣れつつあった。表情は相変わらず堅かったが、乏しかった体力は少しずつ戻り、静かに息をするように過ごしている。漠然とした焦燥は鳴りをひそめ、ザナトアやポケモン達との時間を穏やかに生きていた。  エーフィはザナトアの助手と称しても過言ではなく、彼女に付きっきりでのびのびと暮らし、ふとした隙間を縫ってはブラッキーに駆け寄り何やら話しかけている。対するブラッキーは眠っている時間こそ長いが、時折アランやエーフィに連れられるように外の空気を吸い込んでは、微笑みを浮かべていた。誰にでも懐くフカマルはどこへでも走り回るが、ブラッキーには幾度も威嚇されている。しかしここ最近はブラッキーの方も慣れてきたのか諦めたのか、フカマルに連れ回される様子を見かける。以前リコリスで幼い子供に付きまとわれた頃と姿が重なる。気難しい性格ではあるが、どうにも彼にはそういった、不思議と慕われる性質があるようだった。  一大行事の秋期祭が催される前日。朝は生憎の天気であり、雨が山々を怠く濡らしていた。ラジオから流れてくる天気予報では、昼過ぎには止みやがて晴れ間が見えてくるとのことだが、晴天の吉日と指定された祭日直前としては重い雲行きであった。  薄手のレースカーテンを開けて露わになった窓硝子を、薄い雨水が這っている。透明に描かれる雨の紋様を部屋の中から、フカマルの指がなぞっている。その背後で荷物の準備を一通り終えたアランは、リビングの奥の廊下へと向かう。  木を水で濡らしたような深い色を湛えた廊下の壁には部屋からはみ出た棚が並び、現役時代の資料や本が整然と詰め込まれている。そのおかげで廊下は丁度人ひとり分の幅しかなく、アランとザナトアがすれ違う時にはアランが壁に背中を張り付けてできるだけ道を作り、ザナトアが通り過ぎるのを待つのが通例であった。  ザナトアの私室は廊下を左角に曲がった突き当たりにある。  扉を開けたままにした部屋を覗きこむと、赤紫の上品なスカーフを首に巻いて、灰色のゆったりとしたロングスカートにオフホワイトのシャツを合わせ――襟元を飾る小さなフリルが邪魔のない小洒落た雰囲気を醸し出している――シルク地のような軟らかな黒い生地の上着を羽織っていた。何度も洗って生地が薄くなり、いくつも糸がほつれても放っている普段着とは随分雰囲気が異なって、よそいきを意識している。その服で、小さなスーツケースに細かい荷物を詰めていた。 「服、良いですね」 「ん?」  声をかけられたザナトアは振り返り、顔を顰める。 「そんな世辞はいらないよ」 「お世辞じゃないですよ。スカーフ、似合ってます」  ザナトアは鼻を鳴らす。 「一応、ちゃんとした祭だからね」 「本番は、明日ですよ」 「解ってるさ。むしろ明日はこんなひらひらした服なんて着てられないよ」 「挨拶回りがあるんですっけ」 「そう。面倒臭いもんさね」  大きな溜息と共に、刺々しく呟く。ここ数日、ザナトアはその愚痴を繰り返しアランに零していた。野生ポケモンの保護に必要な経費を市税から貰っているため、定期的に現状や成果を報告する義務があり、役所へ向かい各資料を提出するだの議員に顔を見せるだの云々、そういったこまごまとした仕事が待っているのだという。仕方の無いことではあると理解しているが、気の重さも隠そうともせず、アランはいつも引き攣り気味に苦笑していた。  まあまあ、とアランは軽く宥めながら、ザナトアの傍に歩み寄る。 「荷造り、手伝いましょうか」 「いいよ。もう終わったところだ。後は閉めるだけ」 「閉めますよ」  言いながら、辛うじて抱え込めるような大きさのスーツケースに手をかけ、ファスナーを閉じる。 「あと持つ物はありますか」 「いや、それだけ。あとはリビングにあるリュックに、ポケモン達の飯やらが入ってる」 「分かりました」  持ち手を右手に、アランは鞄を持ち上げる。悪いねえ、と言いつつ、ザナトアが先行してリビングルームに戻っていくと、アランのポケモン達はソファの傍に並んで休んでおり、窓硝子で遊んでいたフカマルはエーフィと話し込んでいた。 「野生のポケモン達は、どうやって連れていくんですか?」  ここにいるポケモン達はモンスターボールに戻せば簡単に町に連れて行ける。しかし、レースに出場する予定のポケモン達は全員が野生であり、ボールという家が無い。 「あの子達は飛んでいくよ、当たり前だろ。こら、上等な服なんだからね、触るな」  おめかしをしたザナトアの洋服に興味津々といったように寄ってきたフカマルがすぐに手を引っ込める。なんにでも手を出したがる彼だが、その細かな鮫肌は彼の意図無しに容易に傷つけることもある。しゅんと項垂れる頭をザナトアは軽く撫でる。  アランとザナトアは後に丘の麓へやってくる往来のバスを使ってキリの中心地へと向かい、選手達は別行動で空路を使う。雨模様であるが、豪雨ならまだしも、しとしとと秋雨らしい勢いであればなんの問題も無いそうで、ヒノヤコマをはじめとする兄貴分が群れを引っ張る。彼等とザナトアの間にはモンスターボールとは違う信頼の糸で繋がっている。湖の傍で落ち合い、簡単にコースの確認をして慣らしてから本番の日を迎える。  出かけるまでにやんだらいいと二人で話していた雨だったが、雨脚が強くなることこそ無いが、やむ気配も無かった。バスの時間も近付いてくる頃には諦めの空気が漂い、おもむろにそれぞれ立ち上がった。 「そうだ」いよいよ出発するという直前に、ザナトアは声をあげた。「あんたに渡したいものがある」  目を瞬かせるアランの前で、ザナトアはリビングの端に鎮座している棚の引き出しから、薄い封筒を取り出した。  差し出されたアランは、緊張した面持ちで封筒を受け取った。白字ではあるが、中身はぼやけていて見えない。真顔で見つめられながら中を覗き込むと、紙幣の端が覗いた。確認してすぐにアランは顔を上げる。 「労働に対価がつくのは当然さね」 「こんなに貰えません」  僅かに狼狽えると、ザナトアは笑う。 「あんたとエーフィの労働に対しては妥当だと思うがね」 「そんなつもりじゃ……」 「貰えるもんは貰っときな。あたしはいつ心変わりするかわかんないよ」  アランは目線を足下に流す。二叉の尾を揺らす獣はゆったりとくつろいでいる。 「嫌なら返しなよ。老人は貧乏なのさ」  ザナトアは右手を差し出す。返すべきかアランは迷いを見せると、すぐに手は下ろされる。 「冗談だよ。それともなんだ、嬉しくないのか?」  少しだけアランは黙って、首を振った。 「嬉しいです」 「正直でいい」  くくっと含み笑いを漏らす。 「あんたは解りづらいね。町に下るんだから、ポケモン達に褒美でもなんでも買ってやったらいいさ。祭は出店もよく並んで、なに、楽しいものだよ」 「……はい」  アランは元の通り封をして、指先で強く封筒を握りしめた。  やまない雨の中、各傘を差し、アランは自分のボストンバッグとポケモン達の世話に必要な道具や餌を詰めたリュックを背負う。ザナトアのスーツケースはエーフィがサイコキネシスで運ぶが、出来る限り濡れないように器用にアランの傘の下で位置を保つ。殆ど手持ち無沙汰のザナトアは、ゆっくりとではあるが、使い込んだ脚で長い丘の階段を下っていく。  水たまりがあちこちに広がり、足下は滑りやすくなっていた。降りていく景色はいつもより灰色がかっており、晴れた日は太陽を照り返して高らかに黄金を放つ小麦畑も、今ばかりはくすんだ色を広げていた。  傘を少しずらして雨雲を仰げば、小さな群れが羽ばたき、横切ろうとしていた。  古い車内はいつも他に客がいないほど閑散たるものだが、この日ばかりは他に数人先客がいた。顔見知りなのだろう、ザナトアがぎこちなく挨拶している隣で、アランは隠れるように目を逸らし、そそくさと座席についた。  見慣れつつあった車窓からの景色に、アランの清閑な横顔が映る。仄暗い瞳はしんと外を眺め、黙り込んでいるうちに見えてきた湖面は、僅かに波が立ち、どこか淀んでいた。 「本当に晴れるんでしょうか」 「晴れるよ」  アランが呟くと、隣からザナトアは即答した。疑いようがないという確信に満ち足りていたが、どこか諦観を含んだ口調だった。 「あたしはずうっとこの町にいるけど、気持ち悪いほどに毎年、晴れるんだよ」  祭の本番は明日だが、数週間前から準備を整えていたキリでは、既に湖畔の自然公園にカラフルなマーケットが並び、食べ物や雑貨が売られていた。伝書ポッポらしき、脚に筒を巻き付けたポッポが雨の中忙しなく空を往来し、地上では傘を指した人々が浮き足だった様子で訪れている。とはいえ、店じまいしているものが殆どであり、閑散とした雰囲気も同時に漂っていた。明日になれば揃って店を出し、楽しむ客で辺りは一層賑わうことだろう。  レースのスタート地点である湖畔からそう遠くない区画にあらかじめ宿をとっていた。毎年使っているとザナトアが話すその宿は、他に馴染んで白壁をしているが、色味や看板の雰囲気は古びており、歴史を外装から物語っていた。受付で簡単な挨拶をする様子も熟れている。いつもより上品な格好をして、お出かけをしている時の声音で話す。ザナトアもザナトアで、この祭を楽しみにしているのかもしれなかった。  チェックインを済ませ、通された部屋に入る。  いつもと違う、丁寧にシーツの張られたベッド。二つ並んだベッドでザナトアは入り口から見て奥を、アランは手前を使うこととなった。 「あんたは、休んでおくかい?」  挨拶回りを控えているのだろうザナトアは、休憩もほどほどにさっさと出かけようとしていた。連れ出してきた若者の方が顔に疲労が滲んでいる。彼女はあのポッポの事件以来、毎晩を卵屋で過ごしていた。元々眠りが浅い日々が続いていたが、満足な休息をとれていなかったところに、山道を下るバスの激しい振動が堪えたようである。  言葉に甘えるように、力無くアランは頷いた。スペアキーを部屋に残し、ザナトアは雨中へと戻っていった。  アランは背中からベッドに沈み込む。日に焼けたようにくすんだ雰囲気はあるものの、清潔案のある壁紙が貼られた天井をしんと眺めているところに、違う音が傍で沈む。エーフィがベッド上に乗って、アランの視界を遮った。蒼白のままかすかに笑み、細い指でライラックの体毛をなぞる。一仕事を済ませた獣は、雨水を吸い込んですっかり濡れていた。 「ちょっと待って」  重い身体を起こし、使い古した薄いタオルを鞄から取り出してしなやかな身体を拭いてくなり、アランの手の動きに委ねる。一通り全身を満遍なく拭き終えたら、自然な順序のように二つのモンスターボールを出した。  アランの引き連れる三匹が勢揃いし、色の悪かったアランの頬に僅かに血色が戻る。  すっかり定位置となった膝元にアメモースがちょこんと座る。 「やっぱり、私達も、外、出ようか」  口元に浮かべるだけの笑みで提案すると、エーフィはいの一番に嬉々として頷いた。 「フカマルに似たね」  からかうように言うと、とうのエーフィは首を傾げた。アメモースはふわりふわりと触角を揺らし、ブラッキーは静かに目を閉じて身震いした。  後ろで小さく結った髪を結び直し、アランはポケモン達を引き連れて外へと出る。祭の前日とはいえ、雨模様。人通りは少ない。左腕でアメモースを抱え、右手で傘を持つ。折角つい先程丁寧に拭いたのに、エーフィはむしろ喜んで秋雨の中に躍り出た。強力な念力を操る才能に恵まれているが故に頼られるばかりだが、責務から解放され、謳歌するようにエーフィは笑った。対するブラッキーは夜に浮かぶ月のように平静な面持ちで、黙ってアランの傍に立つ。角張ったようなぎこちない動きで歩き始め、アランはじっと観察する視線をさりげなく寄越していたが、すぐになんでもなかったように滑らかに隆々と歩く。  宿は少し路地に入ったところを入り口としており、ゆるやかな坂を下り、白い壁の並ぶ石畳の道をまっすぐ進んで広い道に出れば、車の往来も目立つ。左に進めば��を中心として賑やかな町並みとなり、右に進めば湖に面する。  少しだけ立ち止まったが、導かれるように揃って湖の方へと足先を向けた。  道すがら、祭に向けた最後の準備で玄関先に立つ人々とすれ違った。  建物の入り口にそれぞれかけられたランプから、きらきらと光を反射し雨風にゆれる長い金色の飾りが垂れている。金に限らず、白や赤、青に黄、透いた色まで、様々な顔ぶれである。よく見ればランプもそれぞれで意匠が異なり、角張ったカンテラ型のものもあるが、花をモチーフにした丸く柔らかなデザインも多い。花の種類もそれぞれであり、道を彩る花壇と合わせ、湿った雨中でも華やかであったが、ランプに各自ぶら下がる羽の装飾は雨に濡れて乱れたり縮こまったりしていた。豊作と  とはいえ、生憎の天候では外に出ている人もそう多くはない。白壁が並ぶ町を飾る様はさながらキャンバスに鮮やかな絵を描いているかのようだが、華やかな様相も、雨に包まれれば幾分褪せる。  不揃いな足並みで道を辿る先でのことだった。  雨音に満ちた町には少々不釣り合いに浮く、明るい子供の声がして、俯いていたアランの顔が上向き、立ち止まる。  浮き上がるような真っ赤なレインコートを着た、幼い男児が勢い良く深い水溜まりを踏みつけて、彼の背丈ほどまで飛沫があがった。驚くどころか一際大きな歓声があがって、楽しそうに何度も踏みつけている。拙いダンスをしているかのようだ。  アランが注目しているのは、はしゃぐ少年ではない。その後ろから彼を追いかけてきた、男性の方だ。少年に見覚えは無いが、男には既視感を抱いているだろう。数日前、町に下りてエクトルと密かに会った際に訪れた、喫茶店の店番をしていたアシザワだった。  たっぷりとした水溜まりで遊ぶ少年に、危ないだろ、と笑いながら近付いた。激しく跳びはねる飛沫など気にも留めない様子だ。少年はアシザワがやってくるとようやく興奮がやんだように動きを止めて破顔した。丁寧にコーヒーを淹れていた大きな手が少年に差し伸べられ、それより一回りも二回りも小さな幼い手と繋がった。アシザワの背後から、またアランにとっては初対面の女性がやってくる。優しく微笑む、ほっそりとした女性だった。赤毛のショートカットは、こざっぱりな印象を与える。雨が滴りてらてらと光るエナメル地の赤いフードの下で笑う少年も、同色のふんわりとした巻き毛をしている。  アランのいる場所からは少し距離が離れていて、彼等はアランに気付く気配が無かった。まるで気配を消すようにアランは静かに息をして、小さな家族が横切って角に消えるまでまじまじと見つめる。彼女から声をかけようとはしなかった。  束の間訪れた偶然が本当に消えていっただろう頃合いを見計らって、アランは再び歩き出した。疑問符を顔に浮かべて主を見上げていた獣達もすぐさま追いかける。  吸い込まれていった横道にアランはさりげなく視線を遣ったが、またどこかの道を曲がっていったのか、でこぼことした三人の背中も、あの甲高い声も、小さな幸福を慈しむ春のような空気も、まるごと消えていた。  薄い睫毛が下を向く。少年が踊っていた深い水溜まりに静かに踏み込んだ。目も眩むような小さな波紋が無限に瞬く水面で、いつのまにか既に薄汚れた靴に沿って水玉が跳んだ。躊躇無く踏み抜いていく。一切の雨水も沁みてはいかなかった。  道なりを進み、道路沿いに固められた堤防で止まり、濡れて汚れた白色のコンクリートに構わず、アランは手を乗せた。  波紋が幾重にも湖一面で弾け、風は弱いけれど僅かに波を作っていた。水は黒ずみ、雨で起こされた汚濁が水面までやってきている。  霧雨のような連続的な音。すぐ傍で傘の布地を叩く水音。 全てが水の中に埋もれていくような気配がする。 「……昔ね」  ぽつり、とアランは言う。たもとに並ぶ従者、そして抱きかかえる仲間に向けてか、或いは独り言のように、話し始める。 「ウォルタにいた時、それも、まだずっと小さかった頃、強い土砂降りが降ったの。ウォルタは、海に面していて川がいくつも通った町だから、少し強い雨がしばらく降っただけでも増水して、洪水も起こって、道があっという間に浸水してしまうような町だった。水害と隣り合わせの町だったんだ。その日も、強い雨がずっと降っていた。あの夏はよく夕立が降ったし、ちょうど雨が続いていた頃だった。外がうるさくて、ちょっと怖かったけど、同時になんだかわくわくしてた。いつもと違う雨音に」  故郷を語るのは彼女にしては珍しい。  此度、キリに来てからは勿論、旅を振り返ってもそう多くは語ってこなかった。特に、彼女自身の思い出については。彼女は故郷を愛してはいるが、血生臭い衝撃が過去をまるごと上塗りするだけの暴力性を伴っており、ひとたびその悪夢に呑み込まれると、我慢ならずに身体は拒否反応を起こしていた。  エーフィは堤防に上がり、間近から主人の顔を見やる。表情は至って冷静で、濁る湖面から目を離そうとしない。 「たくさんの川がウォルタには流れているけど、その一つ一つに名前がつけられていて、その中にレト川って川があったんだ。小さくもないけど、大きいわけでもない。幅は、どのくらいだったかな。十メートルくらいになるのかな。深さもそんなになくて、夏になると、橋から跳び込んで遊ぶ子供もいたな。私とセルドもよくそうして遊んだ。勿論、山の川に比べれば町の川は澄んではいないんだけど、泳いで遊べる程度にはきれいだったんだ。跳び込むの、最初は怖いんだけどね、慣れるとそんなこともなくなって。子供って、楽しいこと何度も繰り返すでしょ。ずっと水遊びしてたな。懐かしい」  懐古に浸りながらも、笑むことも、寂しげに憂うこともなく、淡々とアランは話す。 「それで、さっきのね、夏の土砂降りの日、レト川が氾濫したの。私の住んでた、おばさん達の家は遠かったし高台になっていたから大丈夫だったけど、低い場所の周囲の建物はけっこう浸かっちゃって。そんな大変な日に、セルドが、こっそり外に出て行ったの。気になったんだって。いつのまにかいなくなってることに気付いて、なんだか直感したんだよね。きっと、外に行ってるって。川がどうなっているかを見に行ったんだって。そう思ったらいてもたってもいられなくて、急いで探しにいったんだ」  あれはちょっと怖かったな、と続ける。 「川の近くがどうなってるかなんて想像がつかなかったけど、すごい雨だったから、子供心でもある程度察しは付いてたんだと思う。近付きすぎたら大変なことになるかもしれないって。けっこう、必死で探したなあ。長靴の中まで水が入ってきて身体は重たかったけど、見つけるまでは帰れないって。結局、すごい勢いになったレト川の近くで、突っ立ってるセルドを見つけて、ようやく見つけて私も、怒るより安心して、急いで駆け寄ったら、あっちも気付いて、こうやって、二人とも近付いていって」アランは傘を肩と顎で挟み込むように引っかけ、アメモースを抱いたまま両手の人差し指を近付ける。「で、そこにあった大きな水溜まりに、二人して足をとられて、転んじゃったの」すてん、と指先が曲がる。  そこでふと、アランの口許が僅かに緩んだ。 「もともと随分濡れちゃったけど、いよいよ頭からどぶにでも突っ込んだみたいに、びしょびしょで、二人とも涙目になりながら、手を繋いで帰ったっていう、そういう話。おばさんたち、怒ったり笑ったり、忙しい日だった。……よく覚えてる。間近で見た、いつもと違う川。とても澄んでいたのに、土色に濁って、水嵩は何倍にもなって。土砂降りの音と、水流の音が混ざって、あれは怖かったけど、それでもどこかどきどきしてた。……この湖を見てると、色々思い出す。濁っているからかな。雨の勢いは違うのに。それとも、さっきの、あの子を見たせいかな」  偶然見かけた姿。水溜まりにはしゃいで、てらてらと光る小さな赤いレインコート。無邪気な男児を挟んで繋がれた手。曇りの無い家族という形。和やかな空気。灰色に包まれた町が彩られる中、とりわけ彩色豊かにアランの目の前に現れた。  彼女の足は暫く止まり、一つの家族をじっと見つめていた。 「……あの日も」  目を細め、呟く。 「酷い雨だった」  町を閉じ込める霧雨は絶えない。  傘を握り直し、返事を求めぬ話は途切れる。  雨に打たれる湖を見るのは、アランにとって初めてだった。よく晴れていれば遠い向こう岸の町並みや山の稜線まではっきり見えるのだが、今は白い靄に隠されてぼやけてしまっている。  青く、白く、そして黒々とした光景に、アランは身を乗り出し、波発つ水面を目に焼き付けた。 「あ」  アランは声をあげる。  見覚えのある姿が、湖上を飛翔している。一匹ではない。十数匹の群衆である。あの朱い体毛と金色の翼は、ほんの小さくとも鮮烈なまでに湖上に軌跡を描く。引き連れる翼はまたそれぞれの動きをしているが、雨に負けることなく、整然とした隊列を組んでいた。  ザナトアがもう現地での訓練を開始したのだろうか。この雨の中で。  エーフィも、ブラッキーも、アメモースも、アランも、場所を変えても尚美しく逞しく飛び続ける群衆から目を離せなかった。  エーフィが甲高い声をあげた。彼女は群衆を呼んでいた。あるいは応援するように。アランはちらと牽制するような目線を送ったが、しかしすぐに戻した。  気付いたのか。  それまで直線に走っていたヒノヤコマが途中できったゆるやかなカーブを、誰もが慌てることなくなぞるように追いかける。雨水を吸い込んでいるであろう翼はその重みを感じさせず軽やかに羽ばたき、灰色の景色を横切る。そして、少しずつだが、その姿が大きくなってくる。アラン達のいる湖畔へ向かっているのだ。  誰もが固唾を呑んで彼等を見つめる。  正しく述べれば、彼等はアラン達のいる地点より離れた地点の岸までやってきて、留まることなく堤防沿いを飛翔した。やや高度を下げ、翼の動きは最小限に。それぞれで体格も羽ばたきも異なるし、縦に伸びる様は速度の違いを表した。先頭は当然のようにリーダー格であるヒノヤコマ、やや後方にピジョンが並び、スバメやマメパト、ポッポ等小さなポケモンが並び、間にハトーボーが挟まり中継、しんがりを務めるのはもう一匹の雄のピジョンである。全く異なる種族の成す群れの統率は簡単ではないだろうが、彼等は整然としたバランスで隊列を乱さず、まるで一匹の生き物のように飛ぶ。  彼等は明らかにアラン達に気付いているようだ。炎タイプを併せ持ち、天候条件としては弱ってもおかしくはないであろうヒノヤコマが、気合いの一声を上げ、つられて他のポケモン達も一斉に鳴いた。それはアラン達の頭上を飛んでいこうとする瞬きの出来事であった。それぞれの羽ばたきがアラン達の上空で強かにはためいた。アランは首を動かす。声が出てこなかった。彼等はただ見守る他無く、傘を下ろし、飛翔する生命の力強さに惹かれるように身体ごと姿を追った。声は近づき、そして、頭上の空を掠めていって、息を呑む間もなく、瞬く間に通り過ぎていった。共にぐるりと首を動かして、遠のいていく羽音がいつまでも鼓膜を震わせているように、じっと後ろ姿を目で追い続けた。  呆然としていたアランが、いつの間にか傘を離して開いていた掌を、空に向けてかざした。 「やんでる」  ぽつん、ぽつりと、余韻のような雨粒が時折肌を、町を、湖上をほんのかすかに叩いたけれど、そればかりで、空気が弛緩していき、湿った濃厚な雨の匂いのみが充満する。  僅かに騒いだ湖は、変わらず深く藍と墨色を広げているばかりだ。  栗色の瞳は、アメモースを一瞥する。彼の瞳は湖よりもずっと深く純粋な黒を持つが、輝きは秘めることを忘れ、じっと、鳥ポケモンたちの群衆を、その目にも解らなくなる最後まで凝視していた。  アランは、語りかけることなく、抱く腕に頭に埋めるように、彼を背中から包むように抱きしめた。アメモースは、覚束ない声をあげ、影になったアランを振り返ろうとする。長くなった前髪に顔は隠れているけれど、ただ、彼女はそうすることしかできないように、窺い知れない秘めたる心ごとまとめて、アメモースを抱く腕に力を込めた。
 夕陽の沈む頃には完全に雨は止み、厚い雨雲は通り過ぎてちぎれていき、燃え上がるような壮大な黄昏が湖上を彩り、町民や観光客の境無く、多くの人間を感嘆させた。  綿雲の黒い影と、太陽の朱が強烈なコントラストを作り、その背後は鮮烈な黄金から夜の闇へ色を重ねる。夜が近付き生き生きと羽ばたくヤミカラス達が湖を横断する。  光が町を焼き尽くす、まさに夕焼けと称するに相応しい情景である。  雨がやんで、祭の前夜に賑わいを見せ始めた自然公園でアランは湖畔のベンチに腰掛けている。ちょうど座りながら夕陽の沈む一部始終を眺めていられる特等席だが、夕方になるよりずっと前から陣取っていたおかげで独占している。贅沢を噛みしめているようには見えない無感動な表情ではあったが、栗色の双眸もまた強烈な光をじっと反射させ、輝かせ、燃え上がっていた。奥にあるのは光が届かぬほどの深みだったとしても、それを隠すだけの輝かしい瞳であった。  数刻前、ザナトアと合流したが、老婆は今は離れた場所で���ノヤコマ達に囲まれ、なにやら話し込んでいるようだった。一匹一匹撫でながら、身体の具合を直接触って確認している。スカーフはとうにしまっていて、皮を剥いだ分だけ普段の姿に戻っていた。  アランの背後で東の空は薄い群青に染まりかけて、小さな一等星が瞬いている。それを見つけたフカマルはベンチの背もたれから後方へ身を乗り出し、ぎゃ、と指さし、隣に立つエーフィが声を上げ、アランの足下でずぶ濡れの芝生に横になるブラッキーは、無関心のように顔を埋めたまま動かなかった。  膝に乗せたアメモースの背中に、アランは話しかけた。 「祭が終わったら、ザナトアさんに飛行練習の相談をしてみようか」  なんでもないことのように呟くアランの肩は少し硬かったけれど、いつか訪れる瞬間であることは解っていただろう。  言葉を交わすことができずとも、生き物は時に雄弁なまでに意志を語る。目線で、声音で、身体で。 「……あのね」柔らかな声で語りかける。「私、好きだったんだ。アメモースの飛んでいく姿」  多くの言葉は不要だというように、静かに息をつく。 「きっと、また飛べるようになる」 アメモースは逡巡してから、そっと頷いた。  アランは、納得するように同じ動きをして、また前を向いた。  ザナトアはオボンと呼ばれる木の実をみじん切りにしたものを選手達に与えている。林の一角に生っている木の実で、特別手をかけているわけではないが、秋が深くなってくるとたわわに実る。濃密なみずみずしさ故に過剰に食べると下痢を起こすこともありザナトアはたまにしか与えないが、疲労や体力の回復を促すのには最適なのだという。天然に実る薬の味は好評で、忙しなく啄む様子が微笑ましい。  アランは静寂に耳を澄ませるように瞼を閉じる。  何かが上手くいっている。  消失した存在が大きくて、噛み合わなかった歯車がゆっくりとだが修正されて、新しい歯車とも合わさって、世界は安らかに過ぎている。  そんな日々を彼女は夢見ていたはずだ。どこかのびのびと生きていける、傷を癒やせる場所を求めていたはずだった。アメモースは飛べないまま、失われたものはどうしても戻ってこないままで、ポッポの死は謎に埋もれているままだけれど、時間と新たな出会いと、深めていく関係性が喪失を着実に埋めていく。  次に瞳が顔を���した時には、夕陽は湖面に沈んでいた。  アランはザナトアに一声かけて、アメモースを抱いたまま、散歩に出かけることにした。  エーフィとブラッキーの、少なくともいずれかがアランの傍につくことが通例となっていて、今回はエーフィのみ立ち上がった。  静かな夜になろうとしていた。  広い自然公園の一部は明日の祭のため準備が進められている出店や人々の声で賑わっているが、離れていくと、ザナトアと同様明日のレースに向けて調整をしているトレーナーや、家族連れ、若いカップルなど、点々とその姿は見えるものの、雨上がりとあってさほど賑わいも無く、やがて誰も居ない場所まで歩を進めていた。遠い喧噪とはまるで無縁の世界だ。草原の騒ぐ音や、ざわめく湖面の水音、濡れた芝生を踏みしめる音だけが鳴る沈黙を全身で浴びる。  夏を過ぎてしまうと、黄昏時から夜へ転じるのは随分と早くなってしまう。ゆっくりと歩いている間に、足下すら満足に見られないほど辺りは暗闇に満ちていた。  おもむろに立ち止まり、アランは湖を前に、目を見開く。 「すごい」  湖に星が映って、ささやかなきらめきで埋め尽くされる。  あまりにも広々とした湖なので、視界を遮るものが殆ど無い。晴天だった。秋の星が、ちりばめられているというよりも敷き詰められている。夜空に煌めく一つ一つが、目を凝らせば息づいているように僅かに瞬いている。視界を全て埋め尽くす。流星の一つが過ったとしても何一つおかしくはない。宇宙に放り込まれたように浸り、ほんの少し言葉零すことすら躊躇われる時間が暫く続いた。  夜空に決して手は届かない。思い出と同じだ。過去には戻れない。決して届かない。誰の手も一切届かない絶対的な空間だからこそ、時に美しい。  ――エーフィの、声が、した。  まるで尋ねるような、小さな囁きに呼ばれたようにアランはエーフィに視線を移した、その瞬間、ひとつの水滴が、シルクのように短く滑らかな体毛を湿らせた。  ほろほろと、アランの瞳から涙が溢れてくる。  夜の闇に遮られているけれど、感情の機微を読み取るエーフィには、その涙はお見通しだろう。  闇に隠れたまま、アランは涙を流し続けた。凍りついた表情で。  それはまるで、氷が瞳から溶けていくように。 「……」  その涙に漸く気が付いたとでも言うように、アランは頬を伝う熱を指先でなぞった。白い指の腹で、雫が滲む。  彼女の口から温かな息が吐かれて、指が光る。 「私、今、考えてた、」  澄み渡った世界に浸る凍り付いたような静寂を、一つの悲鳴が叩き割った。それが彼女らの耳に届いてしまったのは、やはり静寂によるものだろう。  冷えた背筋で振り返る。 星光に僅かに照らされた草原をずっとまっすぐ歩いていた。聞き違いと流してもおかしくないだろうが、アランの耳はその僅かな違和を掴んでしまった。ただごとではないと直感する短い絶叫を。  涙を忘れ、彼女は走っていた。  緊迫した心臓は時間が経つほどに烈しく脈を刻む。内なる衝動をとても抑えきれない。  夜の散歩は彼女の想像よりも長い距離を稼いでいたようだが、その黒い視界にはあまりにも目立つ蹲る黄色い輪の輝きを捉えて、それが何かを察するまでには、時間を要しなかっただろう。  足を止め、凄まじい勢いで吹き出す汗が、急な走行によるものか緊張による冷や汗によるものか判別がつかない。恐らくはどちらもだった。絶句し、音を立てぬように近付いた。相手は元来慎重な性格であった。物音には誰よりも敏感だった。近付いてくる足音に気付かぬほど鈍い生き物ではない。だが、ここ最近様子が異なっていることは、彼女も知るところであった。  闇に同化する足がヤミカラスを地面に抑え付けている。野生なのか、周囲にトレーナーの姿は無い。僅かな光に照らされた先で、羽が必死に藻掻こうとしているが、完全に上を取られており、既に喉は裂かれており声は出ない。  鋭い歯はその身体に噛み付き、情など一切見せない様子で的確に抉っている。  光る輪が揺れる。  静かだが、激しい動きを的確に夜に印す。  途方に暮れる栗色の瞳はしかし揺るがない。焼き付けようとしているように光の動きを見つめた。夜に照るあの光。暗闇を暗闇としない、月の分身は、炎の代わりになって彼女の暗闇に寄り添い続けた。その光が、獣の動きで弱者を貪る。  硬直している主とは裏腹に、懐から電光石火で彼に跳び込む存在があった。彼と双璧を成す獣は鈍い音を立て相手を突き飛ばした。  息絶え絶えのヤミカラスは地に伏し、その傍にエーフィが駆け寄る。遅れて、向こう側から慌てた様子のフカマルが短い足で必死に走ってきた。  しかし、突き放されたブラッキーに電光石火一つでは多少のダメージを与えることは叶っても、気絶させるほどの威力には到底及ばない。ゆっくりと身体をもたげ、低い唸り声を鳴らし、エーフィを睨み付ける。対するエーフィもヤミカラスから離れ、ブラッキーに相対する。厳しい睨み合いは、彼等に訪れたことのない緊迫を生んだ。二匹とも瞬時に距離を詰める技を会得している。間合いなどあってないようなものである。  二対の獣の間に走る緊張した罅が、明らかとなる。 「やめて!」  懇願する叫びには、悲痛が込められていた。  ブラッキーの耳がぴくりと動く。真っ赤な視線が主に向いた時、怨念ともとれるような禍々しい眼光にアランは息を詰める。それは始まりの記憶とも、二度目の記憶とも重なるだろう。我を忘れ血走った獣の赤い眼。決して忘れるはずのない、彼女を縫い付ける殺戮の眼差し。  歯を食いしばり、ブラッキーは足先をアランに向ける。思わず彼女の足が後方へ下がったところを、すかさずエーフィが飛びかかった。  二度目の電光石火。が、同じ技を持ち素早さを高め、何より夜の化身であるブラッキーは、その動きを見切れぬほど鈍い生き物ではなかった。  闇夜にもそれとわかる漆黒の波動が彼を中心に波状に放射される。悪の波動。エーフィには効果的であり、いとも簡単に彼女を宙へ跳ね返し、高い悲鳴があがる。ブラッキーの放つ禍々しい様子に立ち尽くしたフカマルも、為す術無く攻撃を受け、地面を勢いよく転がっていった。間もなくその余波はアラン達にも襲いかかる。生身の人間であるアランがその技を見切り避けられるはずもなく、躊躇無くアメモースごと吹き飛ばした。その瞬間に弾けた、深くどす黒い衝撃。悲鳴をあげる間も無く、低い呻き声が零れた。  腕からアメモースは転がり落ち、地面に倒れ込む。アランは暫く起き上がることすら満足にできず、歪んだ顔で草原からブラッキーを見た。黒い草叢の隙間から窺える、一匹、無数に散らばる星空を背に孤高に立つ獣が、アランを見ている。  直後、彼は空に向かって吠えた。  ひりひりと風は絶叫に震撼する。  困惑に歪んだ彼等を置き去りにして、ブラッキーは走り出した。踵を返したと思えば、脱兎の如く湖から離れていく。 「ブラッキー! 待って!!」  アランが呼ぼうとも全く立ち止まる素振りを見せず、光の輪はやがて黒に塗りつぶされてしまった。  呆然と彼等は残された。  沈黙が永遠に続くかのように、誰もが絶句し状況を飲み込めずにいた。  騒ぎを感じ取ったのか、遅れてやってきたザナトアは、ばらばらに散らばって各々倒れ込んでいる光景に言葉を失う。 「何があったんだい!」  怒りとも混乱ともとれる勢いでザナトアは強い足取りで、まずは一番近くにいたフカマルのもとへ向かう。独特の鱗で覆われたフカマルだが、戦闘訓練を行っておらず非常に打たれ弱い。たった一度の悪の波動を受け、その場で気を失っていた。その短い手の先にある、光に照らされ既に息絶えた存在を認めた瞬間、息を詰めた。 「アラン!」  今度はアランの傍へやってくる。近くでアメモースは蠢き、アランは強力な一撃による痛みを堪えるように、ゆっくりと起き上がる。 「ブラッキーが」  攻撃が直接当たった腹部を抑えながら、辛うじて声が出る。勢いよく咳き込み、呼吸を落ち着かせると、もう一度口を開く。 「ブラッキー、が、ヤミカラスを……!」 「あんたのブラッキーが?」  アランは頷く。 「何故、そんなことが」 「私にも、それは」  アランは震える声を零しながら、首を振る。  勿論、野生ならば弱肉強食は自然の掟だ。ブラッキーという種族とて例外ではない。しかし、彼は野生とは対極に、人に育てられ続けてきたポケモンである。無闇に周囲を攻撃するほど好戦的な性格でもない。あの時、彼は明らかに自我を失っているように見えた。  動揺しきったアランを前に、ザナトアはこれ以上の詮索は無意味だと悟った。それより重要なことがある。ブラッキーを連れ戻さなければならない。 「それで、ブラッキーはどこに行ったんだ」 「分かりません……さっき、向こう側へ走って行ってそのままどこかへ」  ザナトアは一度その場を離れ老眼をこらすが、ブラッキーの気配は全く無い。深い暗闇であるほどあの光の輪は引き立つ。しかしその片鱗すら見当たらない。  背後で、柵にぶつかる音がしてザナトアが振り向く。よろめくアランが息を切らし、柵に寄りかかる。 「追いかけなきゃ……!」 「落ち着きな。夜はブラッキーの独壇場だよ。これほど澄んだ夜で血が騒いだのかもしれない。そうなれば、簡単にはいかない」 「でも、止めないと! もっと被害が出るかもしれない!」 「アラン」 「ザナトアさん」  いつになく動揺したアランは、俯いてザナトアを見られないようだった。 「ポッポを殺したのも、多分」  続けようとしたが、その先を断言するのには躊躇いを見せた。  抉られた首には、誰もが既視感を抱くだろう。あの日の夜、部屋にはいつもより風が吹き込んでいた。万が一にもと黒の団である可能性も彼女は考慮していたが、より近しい、信頼している存在まで疑念が至らなかった。誰も状況を理解できていないだろう。時に激情が垣間見えるが、基は冷静なブラッキーのことである。今までこのような暴走は一度として無かった。しかし、ブラッキーは、明らかに様子が異なっていた。アランはずっと気付いていた。気付いていたが、解らなかった。  闇夜に塗り潰されて判別がつかないが、彼女の顔は蒼白になっていることだろう。一刻も早く、と急く言葉とは裏腹に、足は僅かに震え、竦んでいるようだった。 「今はそんなことを言ってる場合じゃない。しゃんとしな!」  アランははっと顔を上げ、険しい老婆の視線に射止められる。 「動揺するなという方が無理だろうが、トレーナーの揺らぎはポケモンに伝わる」  いいかい、ザナトアは顔を近付ける。 「いくら素早いといえど、そう遠くは行けないだろう。悔しいがあたしはそう身軽には動けない。この付近でフカマルとアメモースと待っていよう。もしかしたら戻ってくるかもしれない。それに人がいるところなら、噂が流れてくるかもしれないからね。ここらを聞いて回ろう。あんたは市内をエーフィと探しな。……場所が悪いね。あっちだったら、ヨルノズク達がいるんだが……仕方が無いさね」  大丈夫、とザナトアはアランの両腕を握る。 「必ず見つけられる。見つけて、ボールに戻すことだけを考えるんだ。何故こうなったかは、一度置け」  老いを感じさせない強力な眼力を、アランは真正面から受け止めた。 「行けるね?」  問われ、アランはまだ隠せない困惑を振り払うように唇を引き締め、黙って頷いた。  ザナトアは力強くアランの身体を叩き、激励する。  捜索は夜通し続いた。  しかしブラッキーは一向に姿を見せず、光の影を誰も見つけることはできなかった。喉が嗄れても尚ブラッキーを呼び続けたアランだったが、努力は虚しく空を切る。エーフィも懸命に鋭敏な感覚を研ぎ澄ませ縦横無尽に町を駆け回り、ザナトアも出来る限り情報収集に励んだが、足取りを掴むには困難を極めた。  殆ど眠れぬ夜を過ごし、朝日が一帯を照らす。穏やかな水面が小さなきらめきを放つ。晴天の吉日と水神が指定したこの日は、まるで誰かに仕組まれていたように雲一つ無い朝から始まる。  キリが沸き立つ、秋を彩る祭の一日が幕を開けた。 < index >
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kkagtate2 · 5 years
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お地蔵様
里帰りした男の話。
これは実に二十年ぶりに里帰りした時の話である。思ひ立つたのは週末の金曜日、決行したのは明くる日の土曜日であつたが、何も突然と云ふことではなく、もう何年も昔から、今は無き実家の跡地を訪れなければならないと、漠然と思つてゐ、きつかけさへあればすぐに飛び立てるやう、心の準備だけはしておいてゐたのである。で、その肝心のきつかけが何なのかと云へば、私が小学生の時分によく帰り道を共にした女の子が手招きをするだけといふ、たわいもない夢だつたのだが、私にとつてはそれだけで十分であつた。一泊二日を目安に着替へを用意し、妻へは今日こそ地元の地を踏んでくると、子供へはいゝ子にしてゐるんだよと云ひ残し、一人新幹線に乗り込んだ私は、きつかけとなつた夢を思ひ出しながら、生まれ育つた故郷へ真直ぐ下つて行つた。
実のことを云ふと、この時にはすでに旅の目的は変はつてゐたやうに思へる。私の故郷といふのは、周りを見渡せば山と川と田んぼしかないやうな田舎で、目を閉じてゆつたりと昔を懐かしんでゐると、トラクターに乗つてゆつくりとあぜ道を走るお爺さんだつたり、麦わら帽子を目深に被つてのんびり畑を耕すお婆さんだつたりと、そんなのどかな光景が頭に描かれるのであるが、新幹線のアナウンスを聞きながら何にも増してはつきりと思ひ出されたのは、一尊のお地蔵様であつた。大きさはおよそ二尺程度、もはや道とは呼べない山道の辻にぽつんと立つその地蔵様には、出会つた時から見守つていただいてきたので、私たちにとつてはもはや守り神と云へやう。私たちはお互ひ回り道になると云ふのに、道端で出会ふと毎日のやうにそのお地蔵様を目指し、ひとしきり遊んだ後、手を合はせてから袂を分かつてゐた。さう云へば最後に彼女の姿を見たのもそのお地蔵様の前であつたし、夢の中でも彼女はそのお地蔵様の傍にちよこんと座つて、リンと云ふ澄んだ鈴の音を鳴らしながら、昔と同じ人懐つこさうな目をこちらに向けてゐた。ちなみにこゝで一つお伝へしておくと、彼女の夢を見た日、それは私が故郷を離れ、大阪の街へと引つ越した日と同じなのである。そしてその時に、私は何か大切なものをそこへ埋めたやうな気がするのである。――と、こゝまで考へれば運命的な何かを感じずには居られまいか。彼女が今何処で何をしてゐるのかは分からない。が、夢を通じて何かを訴へかけてきてゐるやうな気がしてならないのである。私の旅の目的は、今は無き実家を訪れるといふのではなく、彼女との思ひ出が詰まつたその地蔵を訪れること、いや、正確には、小学校からの帰り道をもう一度この足で歩くことにあつた。
とは云つても、地元へは大阪からだと片道三四時間はかゝるので、昼過ぎに自宅を出発した私が久しぶりに地に足をつけた時にはすつかり辺りは暗くなりつゝあつた。故郷を離れた二十年のうちに帰らなかつたことはないけれど、地方都市とは云つても数年と見ないあひだに地味に発展してゐたらしく、駅周辺はこれまで見なかつた建物やオブジェがいくつか立ち並んでゐて、心なしか昔よりも賑やかな雰囲気がする。駅構内もいくつか変はつてゐるやうであつたが、いまいち昔にどんな姿をしてゐたのか記憶がはつきりしないため、案内に従つてゐたらいつの間にか外へ出てしまつてゐた程度の印象しか残つてゐない。私は泊めてくれると云ふ従妹の歓迎を受けながら車に乗り込んで、この日はその家族と賑やかな夜を飲み明かして床についた。
  明くる日、従妹の家族と共に朝食をしたゝめた私は、また機会があればぜひいらつしやい、まだ歓迎したり無いから今度は家族で来て頂戴、今度もまたけんちやんを用意して待つてゐるからと、惜しまれながら昨晩の駅で一家と別れ、いよ〳〵ふるさとへ向かふ電車へと乗つた。天気予報の通りこの日は晴れ間が続くらしく、快晴とはいかないまでも空には透き通るやうに薄い雲がいくつか浮いてゐるだけである。こんな穏やかな日曜日にわざ〳〵出かける者は居ないと見えて、二両しかない電車の中は数へられるくらゐしか乗客はをらず、思ひ〳〵の席に座ることが出来、快適と云へば快適で、私は座席の端つこに陣取つて向かひ側の窓に映る景色をぼんやりと眺めてゐたのであるが、電車が進むに連れてやはり地方の寂しさと云ふものを感じずにはゐられなかつた。実は昨晩、駅に降り立つた私が思つたのは、地方もなか〳〵やるぢやないかと云ふことであつたのだが、都会から離れゝば離れるほど、指数関数的に活気と云ふものが減衰して行くのである。たつた一駅か二駅で、寂れた町並みが現れ始め、道からは人が居なくなり、駅もどん〳〵みすぼらしくなつて行く。普段大阪で生活をしてゐる私には、電車に乗つてゐるとそのことが気になつて仕方がなかつた。さうかと云つて、今更故郷に戻る気もないところに、私は私の浅ましさを痛感せざるを得なかつたのであるが、かつての最寄り駅が近づくに従つて、かう云ふ衰退して行く街の光景も悪くは無いやうに感じられた。それは一つにはnostalgia な気持ちに駆られたのであらう、しかしそれよりも、変はり映えしないどころか何もなかつた時代に戻りつゝある街に、一種の美しさを感じたのだらうと思ふ。何にせよ電車から降り立つた時、私は懐かしさから胸いつぱいにふるさとの空気を吸つた。大きいビルも家も周りにはなく、辺り一面に田んぼの広がるこの辺の空気は、たゞ呼吸するだけでも大変に清々しい。私はバス停までのほんの少しのあひだ、久しく感じられなかつたふるさとの空気に舌鼓を打ち続けた。
バス停、……と云つてもバスらしいバスは来ないのであるが、兎に角私はバスに乗つて、ちやつとした商店に囲まれた故郷の町役場まで行くことにした。実のこと、さつきまで故郷だとかふるさとだとか云つてゐたものゝ、まだ町(ちやう)すらも違つてをり、私のほんたうの故郷へは駅からさらに十分ほどバスに揺られ無ければ辿り着けず、実家へはその町役場から歩いて二十分ほどかゝるのであるが、残念なことにそのあひだには公共交通機関の類は一切無い。しかしかう云ふ交通の便の悪さは、田舎には普通なことであらう。何をするにしても車が必須で、自転車で移動をしやうものなら急な坂道を駆け上らねばならず、歩かうものならそれ相応の覚悟が要る。私は自他ともに認める怠け者なので、タクシーを拾はうかと一瞬間悩んだけれども、結局町役場から先は歩くことした。母校の小学校までは途中まで県道となつてをり、道は広く平坦であるから、多少距離があつても、元気があるうちはそんなに苦にならないであらう、それに何にも増して道のすぐ傍を流れる川が美しいのである。歩いてゐるうちにそれは美化された思ひ出であることに気がついたけれども、周りにはほんたうに田んぼしか無く、ガードレールから下をぐつと覗き込むと、まだゴツゴツとした岩に水のぶつかつてゐるのが見え、顔を上げてずつと遠くを見渡すと、ぽつぽつと並ぶ家々の向かうに輪郭のぼやけた山々の連なる様が見え、私はついうつかり感嘆の声を漏らしてしまつた。ほんたうにのどかなものである。かうしてみると、時とは人間が勝手に意識をしてゐるだけの概念なやうにも思へる。実際、相対性理論では時間も空間的な長さもローレンツ変換によつて同列に扱はれると云ふ。汗を拭いながら足取りを進めてゐると、その昔、学校帰りに小遣ひを持ち寄り、しば〳〵友達と訪れた駄菓子屋が目に入つて来た。私が少年時代の頃にはすでに、店主は歩くのもまゝならないお婆さんであつたせいか、ガラス張りの引き戸から微かに見える店内は嫌にガランとしてゐる。昔はこゝでよく風船ガムであつたり、ドーナツであつたり、はたまた文房具を買つたりしたものであつたが、もう営んではゐないのであらう。その駄菓子屋の辺りがちやうど田んぼと人の住処の境で、県道から外れた一車線の道先に、床屋や電気屋と云つた商店や、古びたしまうたやが立ち並んでゐるのが見えるのだが、どうもゝうあまり人は居ないらしく、その多くはピシャリと門を締め切つてゐる。中には荒れ屋敷化してしまつた家もあつた。
と、そこでやうやく母校の校庭が見えて来た。町役場からゆつくり歩いて二十五分と云つたところであらうか、時刻を確認してみるとちやうど午前十一時である。徐々に気温が上がつて来てゐたので、熱中症を心配した私は、適当な自販機を見つけるとそこで水を一本買つた。小学校では何やら催し物が開催されてゐるらしく、駐車場には何台もの車が停まつてをり、拡声器を通した賑やかな声が金網越しにぼや〳〵と聞こえてきたのであるが、何をやつてゐるのかまでは確認はしてゐない。おそらく子供会のイベントでもやつてゐたのであらう。さう云へば私も昔、めんだうくさい行事に参加させられた憶えがある。この学校は作りとしてはかなり平凡であるのだが、さすがに田舎の学校ともあつて緑が豊富であり、裏には先程沿ひながら歩いて来た川が通つてゐる。久しぶりにその川にまで下つてみると、記憶とは違つてカラリと乾いた岩がゴロゴロと転がつてをり、梅雨時のじめ〳〵とする季節でも涼を取るには適してゐるやうに感じられた。一体、こゝは台風がやつて来ると自動的に被害を受ける地域で、毎年子どもたちが夏休みに入る頃には茶色く濁つた濁流が溢れるのであるが、今年はまだ台風が来てをらず、降水量も少なかつたこともあつて、さら〳〵と小川のやうな水の流れが出来てゐる。昔、一度だけ訪れたことのあるこの川の源流部でも、このやうな流れが出来てゐたやうな憶えがある。が、源流のやうに水が綺麗かと問はれゝば、決して肯定は出来ない。手で掬つてみると、太陽の光でキラキラと輝いて一瞬綺麗に見えるけれども、じつ���眺めてゐると苔のやうな藻がちらほら浮いてゐるのが分かり、鼻にまで漂つて来る匂ひもなんだか生臭い。それにしても、この手の中で漂つてゐる藻を藻と呼んでいゝのかどうかは、昔から疑問である。苔のやうな、とは形容したけれども、その色は生気を感じられない黒みがかつた赤色で、実はかう云ふ細長い虫が私の手の上で蠢いてゐて、今も皮膚を食ひ破つて体の中に入らうとしてゐるのだ、と、云はれても何ら不思議ではない。さう考へると、岩に引つ付いてうよ〳〵と尻尾を漂はせてゐる様子には怖気が走る。兎に角、話が逸れてしまつたが、小学生の時分に中に入つて遊んだこの川はそんなに綺麗では無いのである。むしろ、影になつてゐるところに蜘蛛の巣がたくさん巣食つてゐたり、どす黒く腐つた木が倒れてゐたりして、汚いのである。
再び母校へと登つて、先程通つて来た道に戻り、私は歩みを進め初めた。学校から出るとすぐに曲がり角があつて、そこを曲がると、右手には小高い山、左手にはやはり先程の川があり、その川の向こう側に延々と田んぼの並んでゐるのが見える。この辺りの光景は今も昔も変はらないやうである。道の先に見える小さな小屋だつたり、ガードレールだつたり、頼りない街灯も変はつてをらず、辛うじて残つた当時の記憶と綺麗に合致してゐる。私は変はらない光景に胸を打たせつゝ、右手にある山の影の下を歩いていつた。そして、いよ〳〵突如として現れた橋の前に辿り着くや、ふと歩みを止めた。彼女と学校帰りに会ふのはいつもこゝであつた。彼女は毎回リンリンと軽快な鈴の音を辺りに響かせながら、どこからともなく現れる。それは橋の向かふ側からゆつくりと歩いて来たこともあれば、横からすり寄つて来たこともあつたし、いきなり背後を取られたこともあつた。私はゆつくりと目を閉じて、ゆつたりと深呼吸をして、そつと耳を澄ませた。――木々のざわめきの中にかすかな鈴の音が、確かに聞こえたやうな気がした。が、目を開けてみても彼女はどこにも居ない。今もどこかから出てきてくれることを期待した訳ではないが、やはり一人ぽつんと立つてゐるのは寂しく感じられる。
橋の方へ体を向けると、ちやうど真ん中あたりから強い日差しが照りつけてをり、反射した光が目に入つて大変にまばゆいので、私はもう少し影の下で居たかつたのであるが、彼女がいつも自分を待たずに先々行つてしまふことを思ひ出すと、早く歩き始めなければ置いていかれてしまふやうな気がして歩き始めた。橋を渡り終へてすぐに目に飛び込んで来たのは、川沿ひにある大きなガレージであつた。時代に取り残されたそれは、今も昔も所々に廃材が積み上げられてゐ、風が吹けば倒れてしまいさうなシャッターの中から、車だつたり、トラックの荷台だつたりがはみ出してゐるのであるが、機材や道具などが放りつぱなしになつてゐることから、未だに営んではゐるらしい。何をしてゐるのかはよく知らない。が、聞くところによると、こゝは昔からトラックなどの修理を行つてゐるところださうで、なるほど確かにたまに危なつかしくトラックが通つて行つてゐたのはそのためであつたか。しかし、今見ると、とてもではないが生計が成り立つてゐるやうには思へず、侘しさだけが私の胸に吹き込んで来た。二十年前にはまだ塗料の輝きが到るところに見えるほど真新しかつた建物は、今では積み上げられたガラクタに埋もれたやうに古く、痛み、壁なぞは爪で引つ掻いたやうな傷跡がいくつも付けられてゐる。ガレージの奥にある小屋のやうな家で家族が暮らしてゐるやうであるのだが、その家もゝはや立つてゐるのが限界なやうである。さて、私がそんなボロボロのガレージの前で感傷に浸つてゐたのは他でもなく、彼女がこゝで遊ぶのが好きだつたからである。する〳〵と積まれたガラクタの上を登り、危ないよと云ふこちらの声を無視して、ひよい〳〵とあつちこつちに突き出た角材に乗り移つて行き、最後には体を蜘蛛の巣だらけにして降りてくる。体を払つてやらうと駆け寄つても、高貴な彼女はいつもさつと逃げてしまふので、仕方なしにそのへんに生えてゐる狗尾草(エノコログサ)を手にして待つてゐると、今度はそれで遊べと云はんばかりに近寄つて来ておねだりをする。その時の、手にグイグイグイグイ鼻を押し付けてくる仕草が殊に可愛いのであるが、だいたいすぐに飽きてしまつて、気がついた時には喉をゴロゴロと云はしながら体を擦り寄せて来る。これは愛情表現と云ふよりは、早く歩けと云ふ彼女なりの命令で、無視をしてゐるとこちらの膝に乗つてふてくされてしまふので、帰りが遅くならないようにするためには渋々立ち上がらなければならない。
さう云へばその時に何かを食べてゐたやうな気がするがと思ひ、私は彼女との思ひ出を振り返りつゝ辺りを見渡してゐた。するとガレージの横に鬱蒼と生い茂る草木の中に、柿の木と桃の木の生えてゐるのが見つかつた。だが、ほんたうに一歩も入りたくないほどに、大葉子やら犬麦やら髢草が生えてをり、当時の私が桃やら柿やらを毟り取つて食べてゐたのかは分からない。しかしさらに見渡しても、辺りは田んぼだらけで実のなる木は無いことから、もしかしたら先程の橋を渡る前に取つて来て、彼女の相手をしてゐるあひだに食べてゐたのかもしれない。先程道を歩いてゐる時にいくつかすもゝの木を見かけたから恐らくそれであらう。なるほど、すもゝと云ふ名前にはかなり聞き覚えがあるし、それになんだか懐かしい響きもする。それにしてもよく考へれば、そのあたりに生えてゐる木の実なぞ、いつどこでナメクジやら毛虫やらが通つてゐるのか分からないし、中に虫が巣食つてゐたのかもしれないのに、当時の私はよく洗いもせず口にしてゐたものである。今思ふとものすごく怖いことをしてゐたやうに感じられる。何にせよ、彼女はいつももぐ〳〵と口を動かす私を不思議さうに見てきては、差し出された木の実を匂ふだけして興味のなさゝうな顔をしてゐた。なんや食べんのか、お前いつたい、いつも何食べよんな。と、問うても我関せずと云ふ風に眼の前で伸びをするのみで、彼女は彼女でしたゝかに生きてゐるやうであつた。
気がつけば私は座り込んでゐた。眼の前では彼女が昔と同じやうに、なんちやら云ふ花の前に行つては気持ちよさゝうに匂いを嗅いで、恍惚とした表情を浮かべてゐる様子が繰り広げられてゐた。少しすると彼女の幻想は私の傍に寄つて来て、早く行きませう、けふはもう飽きてきちやいました、と云ふ。そして、リンと鈴の音を立たせながらさつと身を翻して、私の後ろ側に消えて行く。全く、相変はらず人を全く待たない子である。いや〳〵、それよりも彼女の亡霊を見るなんて、私は相当暑さにやられてゐるやうであつた。すつかりぬるくなつた水を口に含むと、再び立ち上がつて、田植えが行われたばかりの田んぼを眺めながら、彼女を追ひかけ初めた。
ところで、もうすでに読者は、延々と続く田んぼの風景に飽きてきた頃合ひであらうかと思ふ。が、そのくらゐしか私のふるさとには無いのである。私ですらこの時、懐かしみよりも飽き〳〵としてきた感情しか沸かなかつたので、もう今後田んぼが出てきたとしても記さないと約束しよう。だが歩いてゐると、いくつか昔とは違つてゐることに気がついたので、それは今こゝで記しておくことにする。まず、田んぼのあぜ道と云ふものがアスファルトで鋪装されてゐた。それも最近鋪装されたばかりであるらしく、未だにぬら〳〵と黒く輝いてをり、全くもつて傍に生えてゐる草花の色と不釣合ひであつた。かう云ふのはもはや都会人である私の嘆きでしか無いが、こんな不自然な黒さの無い時代を知つてゐるだけに残念である。二つ目は、新たに発見した田舎の美しさである。これはガレージの道のりからしばらくして空を仰いだ時に気がついたのだが、まあ、順を追つて説明していかう。断末魔のやうなツクツクホーシの鳴き声を聞くために足を止めた私は、ぼんやりと眼の前にある虎杖(いたどり)を眺めてゐた。ゆつくりと目を動かすと、崖のような勾配の向こう側に田んぼがだん〳〵になっているのが見える。決して棚田と云へるほど段と段が詰まつてゐる訳ではないが、その棚田のやうな田んぼのさらに向かふ側に、楠やら竹やら何やらが青々と茂つてゐるのが見え、そして、もう少し見渡してみると空の上に送電鉄塔がそびえているのが見えた。この鉄塔が殊に美しかつたのである。濃い緑色をした木に支へられて、淡い色の空をキャンバスに、しつかりとした質感を持つて描かれるそれは、赤と白のしま〳〵模様をしてをり、おそらく私は周りの自然とのコントラストに惹かれたのだらうと思ふ。この旅で最も美しかつたものは何ですかと聞かれたならば、空にそびえ、山と山を繋ぐ鉄塔ですと答へやう、それほどまでに私はたゞの鉄塔に感銘を受けてしまひ、また来ることがあるならば、ぜひ一枚の作品として写真を撮りたいと思ふのであつた。
ところで読者はその鉄塔の下がどのやうになつてゐるのかご存知であらうか。私は彼女と一緒に足元まで行つた事がある。行き方としてはまず田舎の道を歩くこと、山の中へ通ずる道なき小さな道を見つけること、そして藪だらけのその道に実際に飛び込んでみることである。もしかすると誰かのお墓に辿り着くかも知れないが、見上げて鉄塔がそびえてゐるならば、五分〳〵の割合でその足元まで行きつけるであらう。お地蔵様へ向かふために山道(やまみち)に入つた私は、その小さな道のある辻に来た時、つい鉄塔の方へ足を向けさうになつた。が、もうお昼時であるせいかグングン気温が上がり始め、路端(みちばた)の草いきれが目に見えるやうになつてゐたので、鉄塔の下で足を休めるのは次の機会にと思ひ、山道を登り始めた。別に恐ろしいと云ふほどではないけれども、車の音がずつと遠くに聞こえるせいか現世から隔離されたやうで、足取りはもうずいぶん歩いて来たにも関はらずかなり軽快である。私は今頃妻が子供と何をしてゐるのかぼんやりと想像しつゝ、蔓のやうな植物が、にゆる〳〵と茎を伸ばしてゐる柔らかい落ち葉の上を、一歩〳〵よく踏みしめて行つた。日曜の夕食時、もしかするとそれよりも遅くなるかもしれないが早めに帰ると云ふ約束の元、送り出してくれた妻は、今日はあなたが行きたがつてた王子動物園に行つてくるからいゝもん、と仰つていらつしやつたから���思ふに今頃は、子供を引き連れて遊びに行つてゐるのであらう。それも惜しいが、ペットたちとのんびりと過ごせなかつたのはもつと惜しい。特に、未だに懐いてくれない猫と共に週末を過ごせなかつたのは、もうかれこれ何年ぶりかしらん? あの猫を飼ひ始めてからだから、恐らく六年ぶりであらう。それにしてもどうして猫だけは私を好いてくれないのだらうか、家で飼つてゐる猫たちは、もう何年も同じ時を過ごしてゐるのに、私をひと目見るや尻尾を何倍にも膨らませて威嚇をしてくる。そんなに私が怖いのか。――などと黙々と考へてゐたのであるが、隧道のやうな木の生い茂りが開けた頃合ひであつたか、急に辺りが暗くなつて来たので空を仰いで見ると、雨の気配のする黒い雲が太陽を覆ひ隠してゐた。私は出掛けに妻に、どうせあなたのことだから雨が降ると思ふ、これを持つていけと折り畳み傘を一つ手渡されてゐたものゝ、これまで快晴だつたからやーいと思つてゐたのであるが、次第に埃つぽい匂いが立ち込めて来たので急いで傘を取り出して、じつと雨の降るのを待つた。――さう云へば、昔も雨が振りさうになつた時には彼女も傘に入れて、かうしてじつと佇んでゐたな。たゞ、そのまゝじつとしてゐてはくれず、雨に濡れると云ふのに、彼女はリンリンと軽やかな鈴の音を云はせながら傘の外に飛び出してしまふ。そして早く行かうと云はんばかりに、山道の少し上の方からこちらを見下ろして来くる。――懐かしい。今でもこの赤茶けた落ち葉と木の根の上に、彼女の通る時に出来る、狼煙のやうな白い軌跡が浮かび上がつてくるやうである。と、また昔を懐かしんでゐると、先程の陰りはお天道様のはつたりであつたらしく、木の葉の隙間から再び太陽が顔を覗かせるやうになつてゐた。私は傘を仕舞ひ込むと、再び山道を練り歩いて行つた。
だが、雨が降らなかつたゞけで、それからの道のりにはかなり恐ろしいものがあつた。陽が辺りに照つてゐるとは云へ、風が出てきて木の影がゆら〳〵とゆらめいてゐたり、ふつと後ろでざあつと音がしたかと思ひきや、落ち葉が何枚も〳〵巻き上げられてゐたり、時おり太陽が雲に隠れた時なぞは、あまりの心細さに引き返さうかとも思つた。そも〳〵藪がひどくて木の棒で掻き分けなければまともに進めやしない。やい〳〵と云ひながら山道をさらに進んで行くと、沼のやうにどんよりと暗い池が道の側にあるのだが、物音一つ、さゞなみ一つ立てずに、山の陰に佇んでゐるものだから、見てゐないうちに手が生えて来さうで、とてもではないが目を離せなかつた。そんな中で希望に持つてゐたのは、別の山道を登つても来ることの出来るとある一軒家だつたのだが、訪れてみると嫌にひつそりとしてゐる。おや、こゝはどこそこの誰かの父親か親戚かゞ住んでいたはずだ��と思ひつゝ窓を覗いても誰もをらぬ。誰もをらぬし、ガランとした室内には酷く傷んだ畳や障子、それに砕けた天井が埃と共にバラバラと降り積もつてゐる。家具も何もなく、コンロの上にぽつんと放置されたヤカンだけが、寂しくこの家の行末を見守つてゐる。――もうとつくの昔にこの家は家主を失つて、自然に還らうとしてゐるのか。私は急に物悲しくなつてきて手の甲で目元を拭ふと、蓋の閉じられた井戸には近づかずにその家を後にした。行けば必ずジュースをご馳走してくれる気のいゝお爺さんであつた。
私の憶えでは、この家を通り過ぎるとすぐに目的のお地蔵様へと辿り着けたやうな気がするのであるが、道はどん〳〵険しくなつて行くし、全く記憶にない鉄製の階段を下らなければいけないし、どうやらまだ藪と戦はねばならないやうであつた。もうかうなつてくると、何か妖怪的なものにお地蔵様に行くのを拒まれてゐるやうな気さへした。だが、引き返す気は無かつた。記憶はほとんど残らなかったけれども、体は道順を憶えてゐるのか、足が勝手に動いてしまふ。恐怖はもはや旅の友である。先の一軒家を超えてからと云ふもの、その恐怖は猟奇性を増しつゝあり、路端(みちばた)にはモグラの死骸やネズミの死骸が、何者かに噛み殺されたのかひどい状態となつて散乱してゐたのであるが、私の歩みを止められるほど怖くは無かつた。途中、蛇の死体にも出くわしたけれども、どれも色鮮やかなアオダイショウであつたから、全く怖くは無い。そんなものよりよつぽど怖かつたのは虫の死骸である。私の行く手には所々水たまりが出来てゐたのであるが、その中ではおびただしいほどのカブトムシやカマキリが、蠢いているかのやうに浮いてゐて、ひやあ! と絶叫しながら飛び上がつてしまつた。別にカブトムシの死骸くらゐ、夜に電気をつけてゐると勝手に飛んでくるやうな地域で幼少期を過ごしたから、たいしたことではない。問題は数である。茶色に濁つた地面に、ぼつ〳〵と無数の穴が開いて、そこから黒い小さな虫が目のない顔を覗かせてゐるやうな感じがして、背中がゾク〳〵と殺気立つて仕方がなかつた。かういふ折には、ぼた〳〵と雨のやうに蛭が落ちてくるのが御約束であるのに、まつたく気持ち悪いものを見せてくるものである。
と、怒つたやうに足を進めてゐると、いつしか私は恐怖を乗り越えてゐたらしく、勇ましい足取りで山道を進んでゐた。するとゞうであらう、心なしか道も歩きやすくなり、轍が見え始め、藪もほとんど邪魔にならない程度しか前には無い。モグラの死骸もネズミの死骸も蛇の死骸も、蓮の花のやうな虫の死骸も、気がつけば道からは消えてゐた。そして一軒家を後にしてから実に二十分後、最後の藪を掻き分けると、そこには確かに記憶の通りのお地蔵様が、手をお合はせになつて私をお待ちしていらつしやつた。私は地蔵様の前まで来ると、まずは跪いてこゝまで無事に辿り着けたことに、感謝の念を唱へた。そして次々と思ひだされる彼女の姿に涙をひとしきり流し、お地蔵様にお断りを申し上げてから、その足元の土を手で掘つて行つた。冒頭で述べた、かの地蔵の傍に埋めたなにか大切な物とはこのことである。二十年のうちに土がすつかり積み重なつてしまつてゐたらしく、手で掘るのは大変だつたし、蚯蚓やら蟻やらよく分からない幼虫やらが出てきてゾツとしたけれども、しばらくするとペットボトルの蓋が見えてきた。半分ほど姿を見せたところで、渾身の力を込めて引き抜き、私は中にあつた〝それ〟を震へる手で握りこんでから、今度は傍にあつた漬物石のやうな大きな石の前に跪いた。手を合はせるときに鳴つた、リン、……と云ふ可愛らしい鈴の音は、蝉の鳴き声の中に溶け込みながら山の中へ響いて行き、恰も木霊となつて、再び私の手の中へ戻つてくるのであつた。
  帰りの道のりは行きのそれとは違つて、かなり楽であつた。恐らく道を間違へてゐたのであらうと思ふ。何せ、先程見たばかりの死骸も無ければ、足をガクガクさせながら下つた階段も無かつたし、何と云つても二三分としないうちに例の一軒家へとたどり着いたのである。私は空腹から元の道へは戻らずに一軒家の近くにある道を下つて県道へ出、一瞬間今はなき実家の跡地を眺めてから帰路についた。いやはや、なんとも不思議な体験であつた、よく考へれば蝮に噛まれてもおかしくないのによく生きて帰れたものだ、とホツとすると同時に、なんとなく肩が軽くなつたやうな心地がした。――あゝ、お前でも放つたらかしにされるのは嫌なんだな。――と、私はもう一度顔が見たいからと云つて、わざ〳〵迎へをよこしてくれることになつた従妹を小学校で待ちながら、そんなことを思つた。
結局あのペットボトルは再びお地蔵様の足元に埋めた。中に入つてゐたものは私のものではなく、彼女のものであるから、あそこに埋めておくのが一番であらう。元はと云へば、私のなけなしの小遣ひで買つたものであるから、持つて帰つても良かつた気がしないでもないが、まあ、別に心残りはない。
さて、ふるさとに帰るとやはり思ふものがありすぎて、予定してゐたよりも大変長くなってしまつたけれども、これで終はりである。ちなみに、こゝにひつそりと記した里帰りの話は、今の今まで誰一人として信じてくれてはゐないので、もしどなたか一人でも興味を引き立てられた者がいらつしやれば本望である。
 (をはり)
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