2024年7月26日
8月15日に終わった戦争などない 「平和報道は9月にシフトを」(朝日新聞)
毎年8月にメディアにあふれる風物詩的な戦争・平和報道は、半ば揶揄を込めて「8月ジャーナリズム」とも呼ばれてきた。加害性の視点の欠如や、内容の定型化も指摘されて久しい。そもそも「8月15日=終戦日」という日本の常識自体が内向きの8月ジャーナリズムの産物で、国際的には非常識であり、世界との対話を阻んでいる――。そんな刺激的な議論を世に問うたのが、佐藤卓己・上智大教授(メディア史)だ。それなら本来の終戦日はいつなのか。先の戦争が人々の「記憶」ではなく「歴史」に変わりつつあるいま、私たちはそれをどう論じていけばよいのか。8月ジャーナリズムは乗り越えられるべき過去の遺物なのか。疑問をぶつけた。
「終戦の日」は8月ジャーナリズムの産物
――今年も8月を迎えます。8月15日をピークとした日本メディアの戦争・平和報道「8月ジャーナリズム」は、他者の存在と降伏の事実を忘却したものだと指摘し続けてきました。
「1945年8月15日に終わった戦争は存在しないからです。日本が連合国にポツダム宣言受諾を伝えたのは8月14日ですが、15日は、どの前線でも戦闘が続いていました」
「『終戦』は相手国のある外交事項です。米戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印した9月2日が国際法上の終戦日であり、翌3日をロシアも中国も対日戦勝日としています。交戦国ではなく、あくまでも『臣民』に向けた昭和天皇による終戦詔書の放送、いわゆる『玉音放送』があったに過ぎない日を節目としていること自体、極めて内向きの論理に基づいています」
「そもそも、千島列島や旧満州は8月15日以降もソ連軍の侵攻を受けており、終戦どころではない。放送局が破壊され物理的に『玉音』体験が困難だった沖縄も同じ。ゲリラ戦を続けていた残存在沖日本軍が降伏文書に調印したのは9月7日で、アジア各地の日本軍が降伏したのも9月2日以降です。『8.15=終戦記念日』は、沖縄や外地の邦人、南方の戦地に取り残された兵士らの記憶を捨象し、周縁化することで成立しているのです」
「8月15日が終戦日と明記されたのは1963年の閣議決定で、その正式名称『戦没者を追悼し平和を祈念する日』が決まったのは、連合国軍総司令部(GHQ)が廃止されてから30年も経った1982年です。今ではそのことを知らない人がほとんどでしょう」
「創られた記憶」に基づくエモい報道
――「8.15=終戦の日」という日本人の「記憶」自体、8月ジャーナリズムの産物だとも指摘しています。
「8月ジャーナリズムが確立されたのは戦後すぐではなく、多くの新聞が終戦10年特集を組んだ1955年です。この時の紙面に掲載された、玉音放送を流すラジオの前でうなだれたり泣き崩れたりする国民を写したとする新聞写真は、実は撮影日時や状況が不確かなものや、『やらせ』も含まれていました。宮城(皇居)前でひざまずく人々の姿を伝える1945年8月15日の記事も、見てきたように書かれているものの、多くは予定稿に基づくものでした」
「また日本人の多くは、あの日を『じりじり照りつける太陽の下』の出来事として記憶しています。『暮しの手帖』の花森安治は『あの日は誰でも知っているように日本じゅうがたいへんな晴天で(略)非常に暑かった』と書いています(『一億人の昭和史』第4巻)。ですが、東北は曇りだったし、北海道の一部は雨でした」
「記憶のウソは『8.15』だけではありません。8月6日も、国民的な平和反核運動の起点となるのは戦後すぐではなく、独立回復で原爆報道の統制が解かれた後、1954年の第五福竜丸事件以降です。広島市生まれの私の記憶では、被爆者への差別はかなり後々まで残っており、被爆体験は完全に自由な語りの中にあったわけではなかった。しかし、放射能雨や放射能マグロの恐怖とともに、広島と長崎という地方都市の悲劇が突如、国民的な原水禁運動の『起源』に据えられたのです」
「8月前半に集中する戦争回顧の報道をつぶさに調べてみると、いかに『創られた記憶』が多いかに、驚きます。通常の報道をする際には当たり前の真偽の検証すら不十分という点で、8月ジャーナリズムは『ジャーナリズム』の名にも値しないものが少なくありません。昨今、ネット上の『エモい』記事に対する批判が高まっていますが、伝統芸能化した8月ジャーナリズムの多くも、残念ながらそれに陥ってしまっている」
「戦後長らくメディアが作り上げた『記憶』は、引用や孫引きが繰り返されることで、国民の集合的記憶=体験として歴史化していく。それはもはや『神話』と言えます」
「8月革命論」と「記憶の55年体制」
――その「神話」が浸透・定着したのには、戦後の政治・思想空間が大きく作用していたようですね。
「戦後憲法に深く共感した政治学者の丸山真男は、1945年8月15日に日本が国体の呪縛から解放され、人民主権への変革が起きたとする『8月革命論』を唱えました。一方、保守派は天皇の御聖断によって戦争が終結し国体も護持されたという物語を信じてきた。これらは正反対に見えて、左右のイデオロギーが背中合わせにもたれかかる心地よい均衡であり、双方が『降伏』に目を背けることで一致した『記憶の55年体制』とも言うべきものです」
「『8.15』を境に日本に『自由なる主体』が生まれたというのは、明らかに虚妄です。丸山はそれを承知のうえでその虚妄に賭け、8月ジャーナリズム最大のイデオローグとして戦後言論界に君臨しました」
「しかし、戦前と戦後の断絶を設定する『8.15神話』は、両者の連続性を隠蔽する効果をもたらしてきました。その意味で、8月ジャーナリズムは『戦争の記憶』ではなく、『戦後の忘却』の上に存在しているのです」
「戦前」と「戦後」の断絶史観、世界と乖離
――世界との対話を阻む障害となっている8月ジャーナリズムではなく「9月ジャーナリズム」を展開すべきだと提唱しています。
「私はメディア論の学者なので、報道や言論の『内容』だけでなく『効果』に関心があります。内容の真偽や善悪を問題にするジャーナリズム論に対し、効果の程度や射程を問題にするのがメディア論です」
「終戦の日に首相や天皇が反省の弁や世界平和を口にしても、靖国神社に閣僚が参拝する報道とともに伝われば、本心では反省していないと世界からは見られます」
「8.15終戦記念日は、周辺国との歴史的対話を困難にしてきました。いくら私たちが戦後の象徴たる平和憲法にコミットする姿勢を示しても、その前提となる内向きの『あしき戦前』と『良き戦後』の断絶史観は外国と共有されていない。外部の他者に開かれていない空間で、いくら自己反省を繰り返しても、対話なきゲームです。『8.15』をリセットタイムとする日本史���おいて、『戦後』は世界史との経���を遮断され、その記憶は自閉化されています」
「本当に世界史への接続を考えるなら、7月7日(盧溝橋事件)や12月8日(真珠湾攻撃)を国家的記念日にしてもよいでしょう。でも、そんな試みはほぼありません。だったら、8月ジャーナリズムを9月にシフトし、世界標準の終戦日である2日、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の調印日である8日、そして満州事変が勃発した18日まで、新学期の教室でも議論できるものにすべきです」
「もっと言うなら、私の提唱する9月ジャーナリズムは、8月29日から始まります。何の日かご存じですか?」
――……。
「日韓併合記念日です。この日を国恥日としている朝鮮半島だけでなく、戦後しばらくは日本人もみな覚えていましたが、今やすっかり忘却されています。9月1日の関東大震災後の朝鮮人虐殺も、植民地支配を背景にしたものです。戦争と平和についてさらに広く考えるなら、米同時多発テロが起きた『9.11』や、戦後70年の節目だった安保法制の成立日(9月19日)も射程に入れてもよいでしょう」
戦没者追悼と歴史的対話、記念日の分離を
――8月ジャーナリズムは内容的にも、被害や受難の語りに偏重してきたと言われています。
「8月6日や9日、あるいは空襲や引き揚げ、特攻や玉砕の体験は、紛れもなく悲劇の記憶です。それを前提にする限り、報道やドラマの内容が『犠牲』に偏るのは避けられない。侵略や植民地支配の加害性を見つめなくてはいけない、といくら主張しても戦災者には響かないし、この語りの傾向を変えるのは難しいでしょう。お盆の8月15日は、戦前から慰霊と供養の日としても定着していました。宗教的追悼と政治的議論を同時に行うことは、ふつうの人にはなかなかできることではない」
「だから私は、終戦の日を二つに分け、8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にすべきだと訴えています。8月15日はこれまで通り死者に祈りを捧げ、9月2日は戦争責任や加害の事実に冷静に目を向け、諸外国と歴史的対話をする日にする。政教分離の観点からもそれがよいでしょう。その意味では、9月ジャーナリズムは8月ジャーナリズムの全否定の上にあるわけではなく、その内向きさと情緒性を省みたうえで、理性的で対話的な新たなジャーナリズムを構築する試みです」
歴史対立踏まえ、未来志向のジャーナリズムへ
――戦後生まれが人口の85%を超え、戦争の記憶の継承が課題です。「新しい戦前」というきな臭い言葉も飛び交っています。
「今は『記憶の歴史化』の潮目です。平均寿命に近い80年という時間の経過は、生存者の反証を物理的に不可能にします。そのため、『戦争の記憶』は『記憶の戦争』の中で再編されていく。それは、事実関係よりも表現の効果に人々の関心が向けられていく時代に、今後は突入するということです」
「すでに近年、終戦や戦争をめぐる『歴史のポリティクス』は過熱しています。中国は従来、靖国参拝問題などで歴史カードを切れる8月15日を重視してきましたが、日中の経済力が逆転した2010年代以降、改めて9月3日を抗日戦争勝利記念日と明確に定めました。ロシアも昨年、9月3日を『軍国主義日本に対する勝利と第2次大戦終結の日』と名称変更し、ウクライナを支援する日本を強く牽制しました。歴史戦や情報戦という不穏な言葉を使うのは適切ではないでしょうが、私たち自身が内向きな『記憶の55年体制』に閉じこもっている限り、こうした他国の功利的な歴史利用に対峙することはできません」
「情緒的で紋切り型の8月ジャーナリズムがもたらしてきたものは、現代の戦争や安全保障問題に対するイメージの貧困化です。日本人は『豊かで平和な戦後』において、米国の核の傘の下、周辺国との敵対性を無視することができました。しかし、国家利害の対立が深まるなか、現実に目を背けることは、あまりに反政治的です」
「外交とは、敵対性を討議性へと開く技術です。歴史の対立が存在することを前提に、それならどのような対話が可能なのか、私たちは模索し続ける必要がある。戦争の記憶の問題にメディアが果たす役割とは、本来そうした未来志向のものでなければならない。だからこそ、他者と向き合うための9月ジャーナリズムが必要なのです」(聞き手・石川智也)
佐藤卓己 さとう たくみ 1960年生まれ。上智大教授、京大名誉教授。専門はメディア史、大衆文化論。著書に「『キング』の時代」「言論統制」「八月十五日の神話」「輿論と世論」など。
広島原爆の日��式典、周辺での「平和運動」を締め出しへ 公園一帯で「入場規制」、プラカードやのぼりは禁止(東京新聞)
8月6日の広島市の平和記念式典で、原爆ドーム周辺を含めた平和記念公園の全域に入場規制を広げる市の方針が波紋を広げている。メイン会場から離れたエリアも手荷物検査を受けないと入れず、プラカードやのぼりの持ち込みを禁止。安全対策を理由とするが、法的根拠はなく行きすぎた表現規制との懸念も。背景には近年の平和行政の変質も指摘される。(山田雄之、山田祐一郎)
◆物議を醸した「園内での禁止行為」
広島市は5月、平和記念式典で、入場規制エリアを昨年まで対象外だった原爆ドーム周辺を含む公園全体に広げる「安全対策」を発表した。当日午前5〜9時に入場規制し、6カ所のゲートで手荷物検査を行うとした。
広島市の平和記念公園で、松井一実広島市長(左から5人目)から説明を受けるG7首脳ら=2023年05月
これに加えて物議を醸したのが園内での禁止行為。「式典の運営に支障を来す」としてマイクや拡声器のほか、プラカードや横断幕の持ち込み、はちまきやゼッケンの着用まで禁じ、従わなければ退去を命令することがあるとした。
規制強化の理由としたのは昨年の式典の際、原爆ドーム周辺で市職員に活動家の集団が腕を組んでぶつかるなどした「衝突事案」だ。5人が暴力行為法違反の疑いで逮捕、起訴された。
松井一実市長は記者会見で「参列する市民の安全を最優先に考えての措置」と強調。「原爆ドームや供養塔の周辺で毎年、慰霊に関する行事をしている団体もあると思うが」と問われると、「今までのような集会はできなくなるかと思いますね」と淡々と応じた。
◆「核廃絶の思いを自由に伝えたいと考える人は多い」のに
被爆者たちの受け止めはさまざまだ。広島県原爆被害者団体協議会の箕牧(みまき)智之理事長(82)は「こちら特報部」の取材に「騒動を起こす人がいることも事実。犠牲者を追悼するために厳粛に式典を行いたい。規制は仕方ない」と理解を示す。一方、もう一つの県被団協の佐久間邦彦理事長(79)は「祈る場所は必要以上に制限されるべきではない。反戦や核廃絶の思いを自由に伝えたいと考える人は多い」と話した。
6月上旬、日本ジャーナリスト会議(JCJ)広島は「ゼッケンなどの着用禁止は表現の自由に抵触する。取り消すべきではないか」と市長あての質問状を出した。JCJ広島幹事の難波健治さん(76)は「そもそも式典を巡る問題は騒音だった。いつのまにか安全の問題にすり替わった」と強調する。
◆「条例は関係なく法的根拠はない」
どういうことか。会場周辺のデモで拡声器が使われたことを受け、市が2019年に参列者に行ったアンケートでは、音が聞こえたという人の約6割が「式典に悪影響がある」と回答。市議会は21年、議員提案された「市民の理解と協力の下に、厳粛の中で行う」と定めた市平和推進基本条例を賛成多数で可決した経緯がある。ただ「厳粛」の具体的な規定はなく、県弁護士会などは「市民の表現を萎縮させる」と懸念を示していた。
公園からの退去などを市民に強制できる根拠はあるのか。市の市民活動推進課の担当者は取材に対し、手荷物検査や禁止行為による退去命令について「条例は関係なく法的根拠はない」と断言。「安全な式典にするための必要最小限の規制。表現の自由を制限するとは思わず、あくまでご協力いただくもの」と述べた。プラカードなどを使って平和や核廃絶を訴えたい人については「規制終了後や公園外でしてほしい」と話した。
◆「ここまであからさまな表現の自由の制限は…」
デモの音量に対する「騒音規制」の問題だったはずが、いつの間にか目的が「安全対策」にすり替わったという今回の出来事。広島大の田村和之名誉教授(行政法)は「別の場所から大音量が発せられる可能性があり、騒音問題の解決になるのか疑問だ」と話す。
「式典が安全に行われることに異論はないが、論理の飛躍だ。差し迫った危険の発生が具体的に予見されるわけでないのに、短時間とはいえ拡声器やプラカードといった表現活動を禁止するのは言論の自由や集会の自由の制限に当たる」と憲法違反を指摘する。その上で「ここまであからさまな行政による表現の自由の制限は最近、目にしたことがない」とあきれる。
松井市長は5月の会見で、衝突事故の再発防止のため、式典会場外の区域も式典会場と位置付けて規制する考えを説明した。田村さんは「式典として使用実態がない場所は自由利用が原則であり、市長の説明は詭弁だ」と批判。都市公園法の原則に反し、正当な理由なく住民の公共施設利用を拒んではならないとする地方自治法にも違反するとした上で「屋外の平和公園で式典を行う以上、騒音は避けられない。行政が必要以上に規制すれば、異を唱える人を排除することになる」と危ぶむ。
◆広島の平和行政が変質していないか
2023年度に差し替えられる前の平和教材の「はだしのゲン」のページ
近年、広島の平和行政を巡っては平和団体が懸念を示す問題が相次いできた。広島市教委は、平和学習教材に引用掲載してきた漫画「はだしのゲン」や、1954年にビキニ環礁で米国の水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」の記述を2023年度から削除。市民団体が実施したオンライン署名では、約半年間で削除に反対する声が5万9000筆以上寄せられた。
昨年6月には広島市の平和記念公園と、旧日本軍の真珠湾攻撃を伝える米パールハーバー国立記念公園が姉妹協定を締結。同年9月の市議会で市幹部が、米国の原爆投下の責任議論を「現時点では棚上げにする」と答弁し、被爆者団体などから批判を受けた。今年の式典を巡っても、パレスチナ自治区ガザへの攻撃を続けるイスラエルを招待する方針を表明。ウクライナ侵攻以降、招待していないロシアへの対応との違いを「二重基準」と会見で指摘された松井市長が声を荒らげて否定する場面もあった。
「根拠やプロセスを説明しないという松井市長の政治姿勢が年々、顕著となっている」と指摘するのは広島市立大の湯浅正恵教授(社会学)。「行政は法律や条例の規則に基づいて政策決定をするべきなのに、納得できる説明がない状況が続いている」。7月には突如、来年以降の式典招待国の基準も見直す考えを示した松井市長。湯浅さんは「近年にない特殊な状況」と受け止める。
◆「アメリカのご希望に沿う岸田首相、追従する広島市」
平和記念公園で記念撮影に納まるG7首脳ら=2023年5月
「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」は先進7カ国(G7)広島サミット後の昨年7月、「広島市平和行政の変質を問う声明」を発表し、現状への危機感を訴えた。
共同代表を務める森滝春子さん(85)は「広島市の平和行政の変質は、原爆被害が見えなくなることを望む米国に沿った岸田首相の政策に、市が追従していることによって起きている」と危ぶむ。「G7の広島ビジョンも米国の核の傘の下での核抑止論を肯定する内容。その場所に広島が利用された」と批判する。
今回の入場規制が原爆被害の実相を伝える上での悪影響を及ぼすのではないかと懸念する。「世界や日本から原爆被害者を悼みに来るのに、法的根拠なく入場を厳しく規制すれば、近づかない方がいいという人が出るかもしれない。被爆者が減る中、マイナスの効果しかない。それを止められないのは歯がゆい思いだ」
◆デスクメモ 前に公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に足を運んだ。日本は米国の原爆の被害者だが、アジアとの関係では加害者でもある。立場の違いも含め原爆の実相を知り、犠牲者を悼み、核なき世界を願う場と思ってきた。戦後79年の夏空に「NO WAR」と掲げられる公園であってほしい。(恭)
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×××
「ごめん、そこ譲って!」
瑠真とアンドリューが角から転がり出てきた。それでそのとき、望夢とシオンの間にあった緊迫と予期された動きは破壊された。
シオンが距離を取り、英語でなにかアンドリューとやり取りする。アンドリューも言葉少なに返す。にやりと笑ったシオンが再び地形の影へと消えていった。瑠真は体勢を立て直すと同時、激しくアンドリューを狙撃するが、アンドリューは手に持っていたものを裏返した。
地形カードだ。突然周囲が飛び石の水辺になり、滑る。バタバタとパネルが��を立てた。
パネルを見て、目を疑う。いつの間にそれだけの点差がついていたのだ 地形変更はおよそ四度目だったが、ゴースト撃破数の桁が文字通り変わっていた。
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「望夢、あいつカード狙いで動いてタイミング見て切って、ずっとこっちの邪魔狙い」
すれ違いざまに瑠真が囁いた。
「ムカつくから本人トバそうとしてるんだけど、その間に雑魚ばっかり撃って稼いでる」
「……バトンタッチ」
「うん」
ペアと視線が交錯する。
「私じゃジリ貧になる。音楽の解除はもうできる」
「ああ」
一度目で解析は済んだ。曲が変わっても上辺が影響されるだけだ。根本の解除方法は変わらない。最初の分担に戻ったほうがいい。瑠真がいくら相手の音楽戦法の乗りこなしを覚えてもそれは相手のフィールドで踊っているだけだ。
フィールド││物理的なフィールドカードも同時に思い出す。キングという苗字が似合いだ。音楽と地形を支配する青年。
瑠真の言葉を改めて思う。
フィールドカードを使うのは、本当に「こっちの邪魔」││撹乱のためか 彼は周囲に音楽を聞かせたいのだとシオンは言っていた。音楽と重ねて、全く別個の攪乱を行う意味とは
望夢は離れていく瑠真の背中に、インカムを構えて語り掛けた。
「瑠真、できるだけ長引かせて」
「了解」
特にためらいのない返事。言葉を交わすのと同時、それぞれが、今来たのと反対側に飛び出した。瑠真はシオンへ、望夢はアンドリューへ。
アンドリューが狙うゴーストを、彼の発砲と同時に撃った。アンドリューが振り向く。こちらに注目が向く。
まずはアンドリューを継続的に狙った。青年は小刻みにこちらの照準を避けながら移動を始めるが、撃ち返してはこない。
望夢は気合を入れ直した。戦術解析なら得意分野。レーザーガンもペタル式のため、望夢の干渉操作系能力の範囲内だ。
会場全体のペタル銃へ、そして周りのすべての状況に感覚を巡らす。自分自身の動きも感知のコントロール下に置くことで、照準を繊細に調整していく。
「……ああ、やっぱり狙ってるな。こいつでどうだ」
そして、少し遠くにいたゴーストを二体ほど、連続して撃ち抜いた。
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協会側のスコアパネルがパタパタ言う。アンドリューがまとめて点数を入れるときよりは、よほど控えめな数だ。
なのに、アンドリューは先ほどより露骨に嫌な顔をした。自分が狙われたときより反応が大きい。こちらが彼のゴースト狩りの邪魔をしていると気づいたのだろう。
「いい反応」
にやりとして銃を構え直す。
「もうちょっと、その顔見せてくれ」
仮説更新。奴はプレイヤーを狙わない代わりに、ゴースト狩りをできるだけ意味あるものにする方策を練っている。では、その方策とは ゴーストは地形に紐づいたものだ。望夢は今度は地形を形成するペタルを探る。
正直集中対象が多すぎて、地形のような広い範囲を対象にすると何がなんだか判断できない。だが、だからこそ浮かび上がってきたものがあった。
地形に影響されない地点が会場内にいくつかある。
その正体はすぐにわかる。カードの配置だ。
カード台の周りはペタル流が止まっているのだ。理由は単純。物理的な感触を『ペタルで形作っている』各地系とは異なって、カードとカード台は実際に物理だ。であれば、それが完全に見えなくなるような地形セットは発生しない。どんな地形の変動が起こっても、そこだけペタルの地形には覆われない形になる。
アンドリューは音楽とゴースト、そしてカードを使って、何をしたいのだ
彼が向かっている先を見極める。カード台はその先にあるか 向かうならこれだろうという方向の台には当たりがつくが、アンドリューは真っ直ぐそこに向かっているわけではない。周囲のゴーストを狩りながら、不規則に回り道している。
「……、」
不規則だろうか。──実は法則性があるのではないか。
移動しながら望夢は途中でアンドリューを追うのを辞め、横道に飛び込んだ。その先には別のカード台がある。それを取って切ろうとしたとき、「ヘイボーイ」シオンの声が響いた。
思わず首をすくめた望夢の頭の傍を通って、レーザー光が岩の形をした壁に当たる。
「うわっ」
思わず身を隠す。近くをシオンと瑠真がそれぞれ走り去っていった。巻き添えを食らうところだった。通りすがりに見つけてこちらの邪魔をしたのだろう。
その間にアンドリューが別のカード台に辿り着いたらしい。バタバタバタと、また点数パネルが捲れた。今度は火山口のような、殺風景な凹凸地形が開けた。
そろそろ気がついていた。
アンドリューが地形を組み替えるごとに、動く点数が大きくなっていく。
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地形自体には元々、フレーバー程度の要素しかないはずだ。なのにこれだけ点数が変わるのは明らかに設計ミスではないか。あくまで地形による凹凸で、無理な位置になるエネミーの発生キャンセル分だけのはずだ。
エネミー発生キャンセル──望夢は横切っていくゴーストを睨みつけた。
「よう、お前、消えたら何秒後に再生するんだっけ」
撃つ。
しばらく何も起きなかった。
また瑠真とシオンが横切るのを危惧する空白のあとに、ぼこり、と同じ位置に煙霧の発生。それが人の形になり、ゴーストになって歩き去っていった。
「四秒……ってとこかな」
あるいは。アンドリューが鳴らす音楽で言うと、八拍程度。
望夢はインカムをつけた。直接の会話の邪魔になるからと仕舞っていたが、これは一応味方との通信に使える。
「瑠真」
『だぁ今集中してるとこなのぉーっ、何』
「俺たちが控室で見るより前から、地形バリエーションって公開されてた」
『はぁ』
瑠真が怪訝な声をあげた。
『当たり前でしょ。あの説明映像、選手には開会前からずっと渡されてるわよ。くじ引きでここになっただけなんだから、当たり前でしょ』
ビンゴ。
角から飛び出してきたアンドリューと目が合った。今はカードは持っていない。再びゴースト狩りのターンだろう。
アンドリューがあえて、撃てるゴーストを見逃すことがあることに、望夢は気がついていた。だから嫌がらせが効くのだ。
「仕掛け合戦なら俺も得意だぜ、バンドマン」
どうせ通じない日本語で煽る。
あとは、正しく盤面を読むだけだ。
×××
幼少期、自分のいた場所にこんな立派な音響設備はなかった。タイラー・ドレイクはしみじみと思う。
タイラーは、一九四八年生まれのありふれた男だった。
実家はスラム。ジョンは路地裏で物心ついた。家賃を払う金がなく、そこにたむろしているホームレスの一員だったのだ。
あるとき暮らしていた街は政府の掃討に遭い、「きれいに」された。当時の福祉施策で金を受け取った。路地裏を追い出され、代わりに立った公営住宅に押し込められたところでタイラーにも家族にも、お仕着せの生活は似合わなかった。
ただ、スラム時代の路上で聞いていた、カセットの音をよく思い出していた。
ある戦争で異能の存在を知った。
悪名高い戦争だった。母国は国際条約を破って侵略し、化学兵器を用い、そのうえで明確な勝利を収めず撤退したというもの。国内でも反対の声が噴出し、平和活動というものが目に見えて動き始めた。
しかしその頃ずっと現地にいたタイラーにとって、それらは実感のない話だ。代わりに覚えているのは、むせかえるような雨の匂い、土の感触、怒号、血の味。
ゲリラ戦が行われていた時期だったのだ。そして民間の力を投入していた当時の敵対国には、まだ存在が表に出ること自体貴重だった、自然開花異能者がいた。
少女だった。
ピンク色のスカーフを腕に巻いて、静かな瞳で彼女はアメリカ兵を殺した。
念動力使いだった。宙に固定された仲間の腕や足がおもちゃのように折られるのを確かにタイラーは見た。彼女の存在は恐慌を生んだ。初期作戦にはいなかった戦力として彼女は投入され、その正体を理解できる者はあまりに少なかったのだ。
ある日、彼女を集中的に排除する作戦行動が取られた。
他のゲリラ兵に何人撃たれても彼女に到達するという目標の下、たくさんの仲間が犠牲になった。少女は三方向からの追撃を受け、ついに念動力での対応をし切れずに斃れた。
「たすけて」
その時、彼女を撃てるのはタイラーと隣の同僚だけだった。
タイラーは彼女を撃てなかった。
代わりに同僚が彼女を撃って終わらせた。
✕✕✕
「ニューヨーク一帯の防音設備がある建物」では広すぎる。翔成は調べ始めてすぐに、考えるまでもなくそのことに思い至った。
『ホムラグループの足の数でもダメなのか』
「正直言いますね おれ、下っ端なのでホムラグループに情報共有したとこで、全体を動かす力はありません」
宝木隼二の純粋な疑問に、翔成は電話越しに白状した。他人事の高校生はそれを聞いて少し笑った。
『でも君のお嬢様のことだろ 動かせる人がいるでしょ』
「いー……そう言われたら一人、おれが頼んだら繋いでくれそうな人が思いつく……」
ホムラグループで莉梨のお目付け役をしている青年を思い浮かべ、翔成はこっそりと溜息をついた。個人的に苦手なのだ。
と、ふいに翔成のSMSの通知が響いた。
「お」
『情報更新』
電話の向こうの宝木の声が弾む。その通り。現場で聞き込みを行っている帆村式の妖術師たちから、思念調査情報が送られてきていたのだ。誘拐時間と場所がわかったらしい。
脅迫状が来るまでの時間を鑑みて、ほぼ間違いなくNYから出てはいない、という推論が述べられていた。目撃情報からして、NY中心を北上していった可能性が高いということだ。
宝木のために読み上げかけて、覚えのある文字列に目が止まる。
「誘拐場所は││あ」
『何だ』
「協会のホテルの、リネン室だ。宝木さん、泊まってますよね」
宝木が通話の向こうで唖然とした。
『なんでホムラグループのお嬢様がうちのホテルで攫われてるんだ 現地に先に来てたって言わなかったっけ うち、何か巻き込まれてる』
「い、いやぁそれが事情が複雑でして」
リネン室、である理由も翔成は薄々察していた。半ばお忍び、半ば以上お遊びでメイド服を来ていた帆村莉梨の姿が思い浮かぶ。何を思ってか今朝もまたメイド服で協会補欠メンバーと合流しようとし、そこで不意を打たれたというわけだ。
ホムラグループの既定の滞在場所であれば彼女の護衛はごまんといたはずだ。知っていた自分もホムラグループ内で怒られるような気がしてきて翔成は天を仰いだ。
「て、力抜けてる場合じゃない」
慌てて連絡を読み返す。莉梨はおそらく意識を奪われた状態で、車で三〇分ほどの距離を北上させられ、どこかに監禁されてから脅迫状に接触した可能性が高いとのことだ。その監禁場所が、先ほど宝木が予測した通りに防音設備のある施設であるなら、探索範囲はホテルから十数km圏内に絞れる。
『まだ足で探すには広いな』
「うん。でも、だいぶマシにはなる。話してみる」
正直聞いてもらえる気はしないながら、翔成は一度、宝木に断って電話を切る。
代わりに繋ぐ対象は、ホムラグループ社員にして妖術師・児子操也。莉梨のことであれば、翔成が個人的に連絡をつけられる範囲で最も力を持っている。
彼もまた莉梨に続いてアメリカにいるはずで、発信番号は国内宛てになった。
『なんだい、小姓くん』
二コールですぐに電話に出た青年の声は、さすがに荒んでいた。彼が傍目にも入れ込んでいるお嬢様に無法者の手出しを許してしまったのだ。仕方がない。
翔成はお疲れ様です、と挨拶もそこそこに本題に入った。初対面の記憶が最悪だっただけに、との会話は最低限にしたい。
「ええと、これは大変類推に類推を重ねた、ワトソンの提言なんですが……」
『何がワトソンだって』
「言葉の綾です」
すぐに説明に入る。莉梨を誘拐する可能性があるのが、旧秘匿派だけではないこと。やり口からしてヒイラギ会シンパの一般人ではないかと思うこと。一般人であれば、ある程度の防音機能を持った設備は必須であるということ。
『……ふむ。妥当な線……と言ってあげなくはないけど、秘匿派に先立って潰す意味はあんまりないんだよね』
相手の反応は色よいとは言いがたかった。
『俺たちってほら、組織的に嫌いじゃん、他の秘匿派』
「ですよねー……」
予想通りだ。莉梨の捜索先が即座にNY秘匿派アジトに決定したのは、おそらく組織的な事情もある。これを理由にホムラグループが海外の秘匿派事情に頭を突っ込む動機。いざとなれば、寵愛しているお嬢様も切り捨てて利用する組織であると、翔成自身もよく知っていた。
「おれができる範囲で総当たりするので……せめて児子さんの声が届く範囲だけでも、人動かしてもらえたら」
それでも食い下がる。こと話が帆村莉梨の身の安全におよぶのだ。翔成が児子を苦手だからとか、組織の都合があるからと、引き下がってはいられないのだ。
『や、君が動く必要はないんじゃない 興味あればエリアに移動しとくくらいでいいよ』
と、児子が突然言った。
「え でも、さっき組織は動かせないって」
『俺たちの組織はね』
児子操也が含み笑いした。翔成がその意味合いを受け取れずにいるうちに、説明が続く。
『高瀬式には、君の一件で横槍入れられた貸しがあってね。秘匿派狩りなら協力するって。NYに来てるらしい分隊から連絡があったとこだよ。
それなら、秘匿派狩りより、君のヒントをまとめて渡して、莉梨の発散を感知して辿らせたほうが早くない あの猟犬たち、鼻の良さが強みでしょ』
×××
試合は合計一〇分以上続いていた。
動き続けた身体はアドレナリンが出ているとはいえ疲労を訴えている。アンドリューが攪乱のために流す音楽は、傾向が分かっているとはいえ曲が変わるたびに望夢には負荷を与える。最初に瑠真に教えられた曲から数えて三曲目に突入し、そのたびに遠くにいる観客たちが湧いていた。やはりファン向けのライブの役割もあるのだろう。
今のところ瑠真も自分も落ちていない。それが救いだった。
会場の地形は洞窟のような、入り組んだ迷路じみたものに戻っていた。望夢がそういうカードを切ったのだ。視界が封じられるということもある。有利な地形カードを見つけ、保持して、アンドリューやシオンに狙われたタイミングで使う。それで持久戦に食い下がっている。
それでも日本とアメリカの点差はまだ圧倒的にアメリカ優位だった。もはや日本チームは、アメリカ側の二人を落とすしか勝ちの目がない。残りの地形カードをかき集めてギリギリ間に合うかどうかという点数差だ。
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制限時間は一五分。終了が刻々と近づいてくる。
望夢としてはできれば、それらすべてを理解したうえで、手あたり次第の地形カードを積極的に切りたくはなかった。
『望夢』
インカム越しに瑠真が叫んだ。
『アンドリュー、そっち向かってる』
「……サンキュー」
望夢やアンドリューにとっては、視界が封じられる地形だが、瑠真やシオンにとっては違う。
壁と壁の間や高いその稜線を身軽に駆け回る彼女たち身体強化系術師は、それぞれのチームの目としても活躍している。昔の瑠真なら時間を稼げ、見張りをやれと言ったら嫌がっただろうが、今の彼女は能力に貪欲だ。インカム越しに二つ返事で分担を聞いてくれた。
最初こそ目になってもらわなくても、望夢が自分でアンドリュー自身の発散を感知して戦っていたが、今は、集中すべき対象が変わっている。それどころではない。
壁の一つに身を隠す。アンドリューが気づかず通り過ぎていく。その行き先を思い浮かべた。全身の感覚でペタルを辿る。
「……あの台か」
制限時間も、未使用カードの残り枚数も少ない。そろそろ勝負どころだ。
試合時間、残り四分ほど。アンドリューが流していた前の曲が終わり、また曲が変わった。今までの曲と音の感じは変わらないが、静かな曲調のギターイントロ。遅いテンポ。
『さっきのバンドのボーカルの、ラストソング』
瑠真が早押しのようにインカムで叫んだ。
『時間的にも最後だと思う。狙って組んでるのね』
「ありがとう」
残り時間ぴったりまで流す気だ。そのつもりでセットリストを用意しているのだろう。
望夢は迷路を構成するペタルを辿りながら、アンドリューの元へと走った。いくつかの曲がり角の先で、アンドリューが振り向く。その手はすでにカード台のボタンを押している。
彼はこのフィールドの王者だ。切るたびに増えるフィールド切り替え時の点数は、もはや日本チームにとってはオーバーキルだ。残り少ない時間で、日本に逆転の目はもはやない。観客はそう思っているだろう。
それでも席を立たないのは、純粋にアンドリューが鳴らし、シオンが踊るこのステージを楽しみにしているのだ。
俺たちは誰にも注目されていない。
──そういう状況が望夢は得意だ。
アンドリューの頭の周りを撃つ。背後にいたゴーストが弾けて消えた。アンドリューはもはや反応しなかった。別に必要のない小さな的の一つや二つ、望夢に書き換えられても仕方がないと思っているのだろう。
立ち位置は丁度、アンドリューが壁に据え付けられたカード台を背に、望夢を見据えている形になっていた。こちらにはアンドリューとシオンの両方を狙って落とす程度しか抵抗の方法はない。狙われるとわかっていても、自身も狙うために迷路から飛び出さざるを得ない。
間に合わない。この距離で間に合うわけがない。アンドリューの手が、開いた強化ガラスの間に入り込み、カードを取る。最後の図柄──真っ平に続く床面に何種類かの縦方向の足場だけが用意された、シンプルで見通しのいい地形。
望夢との相性は最悪だ。
曲はまだ続いている。痛々しげな訴えに似たボーカルが叫ぶ。そしてアンドリューはまだカードを切らなかった。こちらに銃口を向ける。とっさに避けようとしたとき、インカムの瑠真が何か言った。
『危ない』
「わかって──」
『違う、こっち』
望夢が飛び出したばかりの岩場の上から、軽やかに金色の影が舞い降りた。シオンだ。
「お──」
「キミ、何するか怖いから」
すれ違いながら彼女はそう言った。
「最後まで邪魔させてね」
言いながら、彼女がまばたきする。瞬間、視界が狂った。何らかの光術を使われたのだ。
反射で解除したとき、向かいの壁から瑠真が飛び出して、シオンを牽制した。シオンは舌をぺろりと出して再び路地に消え、瑠真もそれを追う。
そこで気が付いた。銃がない。
「え」
足元に望夢の銃が転がっている。……自分で取り落としたのだろう位置。
本当に取り落としたのだ。おそらくシオンはこちらの銃の位置を錯覚で狂わせていった。完全に奪えば試合の根本ルールに差しさわり、ルール違反だ。こちらが勝手に手を放すよう、あるいはそこまで行かなくても少なくともアンドリューやシオン自身に銃口を向けられないよう、望夢の視界が銃を認識する位置を軽く前後させて混乱させてきたのだ。
「うわ」
それ以上考える前に危機感が頬を叩いた。とっさに自分の銃の上に転がるように倒れたとき、アンドリューの放ったレーザーが背後の壁を打ち抜いて行った。
「Don’t you give up, boy」
青年が何か言った。煽られていることはわかる。ギブアップと聞こえた。諦めろ。
完全に座り込み、相手を見上げるだけの姿勢になった望夢に、アンドリューが一歩ずつ近づいてくる。
「It’s singing ”You Know You’re right”」
どうせ望夢は答えないのだ。彼は世界に向けて話している。
「You are right, ah I know everybody says so. We don’t deny. But cannot live together, just like lovers in lyrics, you know We are not hysteric lovers, just compete in game instead of quarrels. That’s the slogan of this tournament and also what “they” said」
背後には彼の稼いだ圧倒的な点数差のボードが見えている。
もはや何を言われようと勝ち目がないことを印象づけるだけだ。彼はわかってて話している。曲が終わりに向けて盛り上がる。これは、演出だ。彼らが美しい勝利を収めるための。
「History is written by the victors」
目の前で足が止まる。
「And today you are the loser」
こちらに銃口を向けたまま。
アンドリューは、軽やかな動作でカードを裏返す。
最後の地形が発動する。小細工をする望夢には相性最悪で、そして観客からは最も見通しやすく演出性が高い、まっさらな平地。
それによりまたスコアパネルが回る音が響き、アンドリューは曲の終わりとともに、最後に望夢を撃ち抜く。
││そのはずだった。それをアンドリューは企図していただろう。
アンドリューが戸惑った。
地形が変わる。灰色の壁がなくなり、周りが明るくなった気がする。それでもパネルが回る音が響かない。
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さらに言うなら。
この地形変化で開けた視界に、大量のゴーストが佇んでいる。いくつも、尋常じゃない数。最初にこれだけ同時発生はしていなかっただろう密度で。
沈黙の中に、曲が最後の一節を響かせる。
「Why──」
望夢は笑って、手元にもう一つだけ残っていたカードを裏返した。
「っ」
青年が怯えたように身を引いた。
当然のことだ。その瞬間、再び景色が変わったからだ。最初の地形と同じもの。高い壁とステップを持つ見通しの悪いものだ。観客席もシオンや瑠真の姿も見えなくなる。
バタバタバタと、見えない視界の向こうで、スコアパネルが回った。言うまでもない。音を立てたのは、協会のパネルだ。
「What……」
「陣地を変えれば、発生エネミーの位置と回数が変わる」
望夢は言いながら立ち上がった。アンドリューはこちらを狙う気概も失せている。
なぜなら、そこはもう彼が敷いた演出の中ではないからだ。
「発生時に誰かのカードで地形変化により発生をキャンセルされたエネミーは、カードを切ったプレイヤーの手柄になる」
使用済みのカードを放り投げる。どうせもう試合は終わる。
「地形はあらかじめ公開されてる。ゴーストの初期位置はランダムとは言うが、自分のペタルから出てるんだ。俺みたいに多少感知系が使えれば読める。お前はどう把握してたんだろうな。これはただの推測だけど、音楽の一部として発生テンポを見てたんじゃないかと思う」
エネミー消滅から再発生まで四秒。あるいは八拍。
曲によっても違うが、あるいは音楽というのは経過時間の秒単位の管理にも使える。
誰かに撃たれるたびに、そして地形変化のたびにゴーストは消え、そして四秒後に再生する。次に自分が使う地形がわかっていれば、その地形上でキャンセルされる位置にゴーストを誘い込み、それらが揃ったタイミングでカードを切ればいい。彼らの移動ルートは単調な直線だ。法則性を掴めば、各地形で何秒後にどこにいるかの計算は比較的容易だ。
アンドリューは最初から、手に入れた瞬間にはカードを使わず、保持していた。
こちらの攪乱のためかと思ったが、おそらくゴースト位置が揃うのを待っていたのだ。
最大の演出、それは影の人型もすべて消し去り、広いフィールドの真ん中で敵を撃ち抜くこと。計画を崩されたアンドリューは、青い顔で口を動かす。どうやって、という顔に見えた。
「得意だからだ。悪いな、姑息で」
望夢が方針を決めてからの試合の間中、走り回りながらやっていたこと。アンドリューが撃ったゴーストを四秒後の再発生で再度撃ち、全てのゴーストの位置を四秒ずつずらすこと。
結果、アンドリューが『必要な位置に揃えた』と思い込んで切った地形カードは、全て空振った。
四秒後、望夢が彼の揃えた条件を乗っ取った。いや、正確にはさすがに全てのゴーストの位置を踏まえて乗っ取ったわけではない。望夢自身も同じ方法で、自分が最初に見た地形にゴーストを揃え続けていたのだ。偶然そのカードが手に入って助かった。
「俺はヒイラギ会式になったつもりなんか一度もない。真正面から、あんたの策に乗っからせてもらっただけだ」
アンドリューに聞こえないことは承知だ。彼に聞こえなくても変わらない。この試合は全世界放映だ。
ヒイラギ会が「己の心に従う」という、ある意味での「自分自身らしさ」を追求するのなら、望夢たち高瀬式というのはほとんど最も遠い世界解釈だろう。高瀬式の役割の最も重要な部分は、自身の解釈ではなく他者の解釈への介入だ。それぞれの世界認識を他人の言葉でしか語ることがない。それを世界に伝えなくてはならない。
アメリカチームはパフォーマーだ。「夢を叶える」に重きを置いている。
それを反対側から揺さぶって「打ち消す」のが望夢の勝ち筋だ。
簡単なことだ。
彼らが作った舞台に乗った上で、その夢の主役を乗っ取ればいい。
舞台の真ん中で、望夢は自分のレーザー銃を拾い上げ、相手の額に突き付ける。
「覚えとけ」
浅い息を吐きながら望夢は汗を拭った。動いたことというよりも緊張が極致を超えたことにより出たものだった。
「他人の夢のダシにされるほど安くない」
遊んでいる場合ではない。望夢にこれができても、ペアにできるとは到底思えない。
その瞬間、正々堂々とアメリカチームのパネルが片方、戦闘不能で落ちた。
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×××
「あいつら、銃持ってる」
翔成が電話越しに言うと、宝木は『さすがアメリカ』と言った。
『どういうレベル 拳銃』
「それが……かなりゴツい武装ですよ。何人もいる。軍っぽい」
『民間軍事会社』
「そういうのもあるのか……」
翔成はホムラグループ社員から送られてきた画像を見る。高瀬式が突き止めた誘拐犯の潜伏地の画像だった。
高瀬式は秘匿派の警察という性質上、民間人には手出しができない。帆村莉梨の発散の報告と同時に、「他には異能の気配がない」ということを伝えてきた。その時点で高瀬式の出番は終わりだった。あとは直接お嬢様を攫われているホムラグループの問題だ。
翔成は先に行動を始めていたこともあり、かなり近くに来ている。このままであれば突入隊に混ざれる位置にいる。
『陽動撹乱、君がやってみる 洗脳の基本だよ』
先ほど連絡してきたホムラグループの青年は言った。
『まあ、もちろん君以外に十分、カバーできる戦力がある状態で、だけど』
教育くらいの軽い口調だった。ホムラグループのお嬢様に付き添ってきただけのことはある、荒事慣れした青年である。
自分がやるかどうかは置いておいて、とにかく翔成も現地に向かっていた。まずは最速で到着した妖術師が報告を寄越してきている。それによると、待機している武器持ちの見張りたちに害意はない。銃を持ってはいるが、テロ目的などの攻撃的な意志はない。であれば翔成も交ざっていい、というのが児子の判断で、そのため画像等の共有も受けているのだった。
とはいえ自分一人ではあまり落ち着いていられる自信がない。まだ電話は切れなかった。
「……ん」
翔成は電話を片耳に、画像の一部に目を留めた。
「なんかみんな、カメラとかスマホ手に持ってる」
『パフォーマンス目的 誘拐の助けが来たら配信したいとか』
「趣味わる……」
辟易したが、無くはない気がする。ヒイラギ会の支援者ならヒイラギ会本体と似たようなことをするかもしれない。不意に思い出す。莉梨の「騙されないで」。
あれはこういった話なのではないだろうか。うかつに踏み込むと不祥事にされかねない。
「……おれ、行かないほうがいいかな」
『翔成くんの歳なら、そうかもな……。もし本当に撮られるとしたら、顔が映る。親御さんが心配する』
脳裏をぐるぐると予感が渦巻き始めた。
「もしかして、あいつらの目的、わかったかも……」
『え』
「莉梨さんが攫われた理由。『おれたち』じゃないですか」
翔成は電話に力を込めた。
「何故莉梨さんなのかって……ヒイラギ会の関係者だとしたら、『おれたち』がヒイラギ会と対立してるのも知ってておかしくない」
『おびき出されてる』
「はい。それに……丹治さんが試合に出られなくなった理由、偶然だって話したじゃないですか。本当なら、莉梨さんを助けに行く人の中には『瑠真さんや高瀬もいておかしくなかった』」
『……』
考え込むように宝木は黙った。
「あいつらがパフォーマンス目的でカメラ持ってるとして、映ったら一番まずいのはあいつらですよね。宝木さんの言うとおり、あいつらっておれと同じでただの学生だから。今までの事件も流されちゃってるんだったら、合わせて何て言われるかわからない」
『……とりあえず、来てないから良かったじゃないか』
「まあね だけど、たとえばこの誘拐犯がアメリカチームと連携取ってるとしたら」
宝木が息を止める気配があった。
『アメリカを勝たせるために、日本を邪魔してるって』
「ちょっと違う。あいつらが莉梨さんを助けに向かったらそれを暴いて、不祥事にする。万一向かわなかったら会場で、協会の不祥事取りざたして暴く。そういう二段構えだとしたら」
『……君は、アメリカ代表チームが誘拐犯とグルだとか、そういう話をしてる?』
翔成は少し黙った。
「そこまでは保留です。でも、どっちに転んでも損な状況に変わりはない」
電話機を持つ手に力を込める。
「ともかく、『あいつら』が狙われてる可能性は全然ある。そうしたら、今どっちかっていうと奴らの本命は試合会場にある! やっぱりこのまま試合を続けさせるのは良くない。試合中はおれじゃ通信を取れません……誰かそれを教えて。運営に今の異常さを伝えて止めさせて」
『できるかはわからない。この分じゃ大会ごとアメリカのグルだ。だけどオレが戻る。どこに何を言えばいいかくらいはわかってる』
頼りになる高校生は決然と言った。翔成はまだ胸のざわめきを消すことができない。
「それに。おれの役目が、みんなの見落としてることを拾い上げる役目だとしたら……。これで終わりだと思えないのが怖い。試合が続いてること自体怖いよ。暴くだけじゃなくて、その先の目的があったら? そこにヒイラギ会が噛んでたら尚更だ」
宝木に断って電話を切り、翔成はすぐに電話を児子にかけなおした。連続使用で熱くなった筐体が悲鳴のようにコール音を鳴らす。
『翔成くん?』
児子が出た気配がある。翔成は息を急ききる。
「会場、会場が不安なんです! 今ってホムラグループも高瀬式も、パークから離れてる状態になってますよね? 誰かが仕掛けるなら手薄すぎる!」
『待って、順番に話して』
児子は決して翔成に対して友好的な青年ではないが、この時ばかりは親切だった。翔成が混乱しているのを見て取るや、冷静な聞き手になって翔成の懸念を解きほぐしにかかる。
翔成がひとしきり、会場で戦う二人の先輩への心配を吐き出したとき、児子は肯定した。
『間違っちゃいないと思うよ。手薄なのは困る。こちらの規模ももう概ね分かったところだしね。高瀬式の犬たちとうちの役に立てない警備要員は戻させよう。君の懸念がアタリでもハズレでも、どいつにとっても都合のいい偏りができるのは困る』
ありがとうございます、と翔成は乱れた呼吸で感謝する。電話越しに児子が指示を飛ばしている声が聞こえる。さすがは莉梨のお目付け役だけあって、こうしたときの指揮系統ではかなり上に来るらしい。
──その声が、面白そうに「ちなみに」と言った。
『今から莉梨の救出なんだ』
「え」
翔成は一瞬、自分がどこにいるべきなのか逡巡する。ホムラグループ警備隊や高瀬式、それに宝木がパークに戻ったのであれば、非力な翔成がいる理由はないのだろうか。
見ろと言われた理由が気になった。目下の主である莉梨のこと。
『偵察ウサギを行かせたんだ。交代で出入りしてる敵グループの一人が捨てたタバコを使って、「感染」、連中にウサギのぬいぐるみが味方だと誤認させた。手紙を持たせて、嘘の二枚目の脅迫状を用意して、彼女にまた生存確認を仕込ませようという架空の任務を持たせてね』
児子はすらすらと自身の妖術のからくりを語る。彼の妖術にいい思い出を持たない翔成は少々背筋を震わせる。
『脅迫状カッコ嘘が帰ってきて、無事に莉梨とコミュニケートできたよ。今から彼女が脱出するから、銃持ちの連中の攪乱、手伝ってくれ』
「おれが……」
『今日は戦力足りたらそうするって言っただろ。これもレッスンだよ。──ああそうだ』
青年は愉しげに言った。
『俺、君の心配、結構当たると思ってるんだけど。探偵としてはヘタクソだと思うんだよなあ。論理性ないもの。
多分ね、俺たちのお嬢様なら全部わかってるから、まあ脱出させられたら訊いてみようよ』
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