外伝
1940年代後半。ウディ・ハーマンのバンドには、こういったミュージシャンがいた。
スタン・ゲッツ
ズート・シムズ
サージ・チャロフ
また、サックス・セクションではなくアレンジャー/作曲家として、ジミー・ジェフリーがいた。
ジミー・ジェフリーの活動拠点は西海岸だったが、やがてジム・ホールなどと独特の編成をしたトリオを組むことになる。当時の演奏は、映画「真夏の夜のジャズ」で見ることができる。
また、その数年前、ジェリー・マリガンはカリフォルニアに拠点を移しチェット・ベイカーとピアノレスのカルテットを始めた。
これらは、ウェストコースト・ジャズというジャンル付けをされることがある。「真夏の夜のジャズ」は1958年だが、ニューヨークでは、チャーリー・パーカーが亡くなって数年であり、マイルス・デイビスがプレステッジにまだいた頃である。西海岸も東海岸もパーカーの影響は強かったが、モードには至っていなかった。
このウェストコースト・ジャズというのが、演奏もするタイプのジャズ・ファンに、すこぶる人気が薄い。演奏しないタイプには人気で、特にジジイに人気だ。若い人ではフルバン出身者でないかぎり難しいだろう。
例えば、ポール・デズモンドはテイク・ファイブの作曲者であるのにかかわらず、両方でも十分話題になるが、バド・シャンクの話が出ることは、まずない。
1959年8月。マイルスが「Kind of Blue」をリリース。
その数年前。1953年、いや、まだチャーリー・パーカーが存命だった1950年代初め、カナダ、モントリオール出身の若いピアニストが、チャールス・ミンガスの手引きで、アート・ブレイキーとトリオのアルバムを録音する。ピアニストの名前はポール・ブレイ。一説では、オスカー・ピーターソンを追い出した男。いや青年。
ポール・ブレイは実験的なピアニストだった。カナダ在住時はチャーリー・パーカーを招き、共演、録音をし、50年代中ごろは、あまりにも個性的な演奏をしているため西海岸で貧乏周りを余儀なくしていたオーネット・コールマン、ドン・チェリーともバンドを組んだ。
しかし、超ド級エロいソロ・アルバム「Open To Love」のリリースはまだまだ先である。
1959年12月。ビル・エヴァンスは、ポール・モチアン、スコット・ラファロとのトリオでライブ・アルバムを録音。翌年リリース。
なお、「Waltz for Debby」は1962年。
1961年ごろ、ジミー・ジェフリーはもう独特の編成のトリオはやってなかった。新しいメンバーはポール・ブレイとスティーブ・スワロウだった。
ジミー・ジェフリーはこのトリオではアレンジャーではなく、インプロヴァイザーだった。またメンバーのオリジナル曲も演奏したが、ポール・ブレイの若い妻の曲も演奏した。彼女の名前はカーラという。カーラはジャズ・ミュージシャンになることを志し、17才単身でニューヨークに来たが、ウェイトレス等をしながら食いつないでいたところを夫に拾われた。
アルバムは数枚リリースされているが、西海岸では録音されていない。殆どニューヨークである。ライブ録音が1990年代に発掘され、ディスクになったが、いずれもヨーロッパである。
1962年、ビル・エヴァンスとジム・ホールの2人だけのアルバムが録音、リリースされる。アルバムのタイトルは「Undercurrent」。録音場所はニューヨークのスタジオ。
ニューヨークのマンハッタンとブルックリンを結ぶウィリアムズバーグ橋上の3年の孤独から戻ったソニー・ロリンズは、1962年初めにアルバムを録音した。カムバック前は、「サキソフォン・コロッサス」からの3年で、18枚のリーダー・アルバムをリリースしていた。
橋上のブランクを経たアルバムにはピアニストを使わず、ギタリストを採用した。ギタリストはジム・ホールだった。
ソニー・ロリンズは自分のバンドにピアニストを入れないことが昔から多かった。むしろトリオでの活動が目立った。
ソニー・ロリンズは、生粋のインプロヴァイザーだった。1986年には「The Solo Album」という、60分間無伴奏ソロライブ・アルバムが録音、リリースされている。
ジェリー・マリガンも既に西海岸にはいなかった。1950年代初めに西海岸でチェット・ベイカーと組んだカルテットはピアノレスだったが、��様にピアニストがいないカルテットはメンバーを変えながら継続していた。最後のパートナーはボブ・ブルックマイヤーだった。1963年に録音されたアルバム「Night Lights」ではピアニストではなくギタリストを入れた。やはりジム・ホールだった。
マイルスのバンドから脱退したジョン・コルトレーンは、マイルスのバンドで学んだモードを元に、1961年「My Favorite Things」を録音した。この後、Impulse レーベルに移籍していくつかのアルバムを録音し、自己のカルテットのメンバーを固め、1964年末に「至上の愛」を録音、リリースする。
コルトレーンは極めて真面目でストイックだった。1曲の演奏が数十分に及ぶこともあり、演奏の自由度はモードの範囲を越えることもしばしばだった。その人となりを含め、多数のフォロワーが現れた。
高校卒業後、軍楽隊員となりフランス駐在も経験したアルバート・アイラーは、除隊後はアメリカに戻ったが、まもなくスウェーデンに移住する。ファースト・アルバム「My Name is Albert Ayler」は現地で録音された。ベーシストはデンマーク出身のニールス・ヘニング・オルステッド・ペデルセン(Niels-Henning Orsted Pedersen)。このベーシストはオスカー・ピーターソンとの共演が多いが、ポール・ブレイとデュエット・アルバムがある。
1960年代に入り、再びアメリカに戻ったアルバート・アイラーは、1965年に「Spiritual Unity」を録音する。ベーシストはゲイリー・ピーコック(ドラマーはサニー・マレイ)。
アルバート・アイラーの音楽はコルトレーンの影響下にありつつも、むしろオーネット・コールマンやセシル・テイラーに近かった。
1964年、ブラジルのミュージシャンと共同で制作したアルバムがブレイクしたスタン・ゲッツは、ギタリストを探していた、しかしバンドに入れたのはゲイリー・バートンというヴィブラフォン奏者だった。ゲイリー・バートンはピアニストであるビル・エヴァンスの和音を徹底的に研究していたが、自分の楽器がピアノより音数の制約があるため、ギターの和音についても研究していた。
当時、スタン・ゲッツのバンドにはスティーブ・スワロウがいた。
ペンシルバニアの小さな町の、旅館兼レストラン兼ライブハウスで、高校生までハウス・ドラマーとして演奏活動をしていたキース・ジャレットは、ピアニストとしてブラームスを入学試験で弾き、まだ大学として認可されていない頃のバークリー音楽大学に入学をする。
卒業するまでもなく、拠点をニューヨークに移し、貯金を切り崩しながら食いついないでいた頃、毎週通っているのになかなか順番が回らないジャム・セッションの、ベーシストがいないセットでの演奏を、たまたま奥で聴いていたアート・ブレイキーが、この20才そこそこの無名ピアニストを、すぐにバンドに招き入れた。
数ヶ月後、キース・ジャレットはアート・ブレイキーのバンドを離れ、チャールス・ロイドのカルテットに入る。ブレイキーのバンドから抜けた理由は、予め言われたとおりのギャラを貰えないことが頻繁に起きた、からだった。
チャールス・ロイドのライブ・アルバム「Forest Flower」では、キース・ジャレットが加入した1966年のモントレー・ジャズ ・フェスティバルの演奏が収録されている。ドラマーはジャック・デジョネットだった。ジャック・デジョネットはシカゴ出身で、AACMを経験していた。
1967年、ライブ活動を休止したThe Beatlesが「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」をリリース。
同じく1967年、ゲイリー・バートンは、スタン・ゲッツのバンドの同僚と、当時はロック・ギタリストだった永遠のギター小僧、ラリー・コリエルとともに「Duster」というアルバムを録音、リリースする。
1969年8月。マイルス、「ビッチェズ・ブリュー」を録音。
1969年8月。Woodstock Music and Art Festivalが開催される。音楽祭の様子は映画化され、ポール・バタフィールド・ブルース・バンドのホーン・セクションにデイヴィッド・サンボーンがいることを、確認できる。
同じ年、ベルリンでコントラバスを弾いていたマンフレート・アイヒャーは、ジャズのレコード・レーベルを設立した。レーベルの名前はECM。Edition of Contemporary Musicの頭文字から取られた。
前年、チェコスロバキア出身のベーシスト、ミロスラフ・ヴィトウス、スタン・ゲッツ・カルテットでもドラマーを務めたロイ・ヘインズとともに「Now He Sings, Now He Sobs」を録音した、プエルトリコ系アメリカ人のアーマンド・アンソニー・コリアは、1970年、マイルス・バンド在籍時の同僚、デイブ・ホランドと「サークル」を結成する。ドラマーはバリー・アルトシュル。このバンドにはやがて、シカゴ出身でAACMを経験したアンソニー・ブラクストンが加入する。
1970年11月。アルバート・アイラーが、ニューヨークのイースト川に、動かない身体となって、浮かぶ。
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これは、日本でジャズに関わる人々だけの共通認識なのかもしれないが、ジャズには、メインストリームにあたる歴史認識がある。
[1]19世紀末、アメリカ南部の農場で働く人々が、黒人霊歌や教会音楽から派生してブルースを歌う。さらに派生して、ごく初期のジャズが生まれる。
[2]工業が主要産業として台頭すると多くの労働者が北へ向かう。例えばミズーリ川を遡上する。
[3]南部で演奏されたジャズも遡上し、北全体へ広がる。ジャズ・バンドは大型化し、編成が確立し始める。また、器楽奏者の他、歌手や作曲家、アレンジャーも専属化する。
[4]禁酒法が施行され酒場が儲かる。
[5]トーキー映画が主流となり、映画音楽が現れる。弦楽器を含むオーケストラを使うため、オーケストラ・アレンジの素養がある、欧州からの亡命作曲家が関わるようになる。映画やミュージカルのテーマソングがスタンダード・ソングとして、ジャズの素材となる。
[6]酒場での演奏後、メンバー同士で新しい奏法について意見交換するようになる。
[7]業後のジャム・セッションが注目され、小編成でインプロヴィゼーションに力点を置いたバンド、ミュージシャンがピックアップされだす。Bebopが興る。
[*]チャーリー・パーカー氏、西海岸ツアー中に、ビバリーヒルズのイゴール・ストラヴィンスキー邸をピンポンダッシュ。
[8]ニューヨーク、ブロードウェイ52丁目のクラブ「バードランド」にて、1954年2月、アート・ブレイキー氏を筆頭としたライブが行われる。ライブは後にレコードとしてリリースされる。実質ハードバップの幕開け。
[9]1955年3月。チャーリー・パーカー氏死去。
[10]1959年。マイルス・デイビス氏により「Kind Of Blue」が録音され、リリース。モード奏法の確立。
[11]1961年、オーネット・コールマン氏「フリー・ジャズ」をリリース(録音は前年末)。
[12]1964年、ジョン・コルトレーン氏「至上の愛」を録音、リリース。
ここまでは概ね共通認識で、その後、ジミ・ヘンドリックス氏がウッドストックで「星条旗よ永遠なれ」を弾いたのとほぼ同時に、マイルスが様々な人的準備により、「ビッチェズ・ブリュー」を録音し、リリースした頃には、ジャズの歴史は大樹の枝葉のように、ある枝は青葉が芽吹き、ある枝には花が咲き、ある枝には実が宿り、ある枝は枯れて落ちようとしていた。2、3年後に、グローバー・ワシントン・ジュニアが、ソウル・ミュージックをサックスで歌う。
先に僕が書いたジャズの歴史は【外伝】である。しかし、メインストリームと共通しているのは、、、ジャズの歴史はインプロヴィゼーションの進化、、、という点である。
人はなぜ音楽を求めるのか。生命活動における憩いを、あるいはアガることを求めるからである。大概の人は二十歳前後で、毒物の摂取を法的になんとなく認められるが、その頃には生活に少しずつブルースが必要になる。ブルースというとひとつのジャンルのように聞こえるが、これは、ある国ではサウダージと表現され、ある国では演歌的な何かとされる。
話をわかりやすくするために、この、人間が求める感覚を「ブルース」と言うとして、音楽理論上、ブルースを端的に説明すると
Cというコードにおける、ミの半音下、または、レの半音上
ミの半音下もレの半音上も同じ音だが、実際に演奏されるさまざまな理由により、異なる。
やっぱり話がわかりにくいな(笑)
とにかく、
ブルーな感覚は人類誰にもあり、それを表現する権利も誰にでもある。
その際、ミの半音下を演奏しても、レの半音上を演奏してもいい。また、出ている音は同じである。
しかし、様々な事情で、扱われ方が全く違う。
という事象が発生するのだ。
もちろん僕はレイシズムの話をしているのではない。ここまでで出てきたミュージシャン達の多くは白人だけれど、黒人にルーツが無いミュージシャンがブルースを含む音楽をやるとき、どうやって自分の"ブルー"を、自分に、聴き手に響かせるか、その様々について年を追って書いている。
もしこの気づきが正しいのなら、僕はフランス人のピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニを聴いたときに、気づいた。
ミシェル・ペトルチアーニのピアノにどことなく憂いがあるのは、人種や出身、自分の身体に関係なく、"ブルー"を弾ききっているからだと、考えている。
話を戻す。
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1972年、ポール・ブレイはオスロのスタジオで、ソロピアノのアルバム「Open To Love」を録音。リリース。
同年、キース・ジャレットは、同様にソロピアノで「Facing You」を録音し、リリース。
いずれもレーベルはECM。
同じ年、ゲイリー・バートンのライブの楽屋に、18才のギタリストが訪れる。彼は、ゲイリー・バートンのバンドに憧れ、参加を願ったが、当時、ミック・グッドリックというギタリストがいたため、ゲイリー・バートンはこれを断った。
しかしゲイリー・バートンは、教鞭を取っていた認可後のバークリー音楽大学に、講師として、彼を招いた。彼の名前はパット・メセニーという。チャーリー・パーカーが亡くなる前年の1954年に、チャーリー・パーカーの出身地、ミズーリ州カンザスシティからクルマで30分もかからない町で生まれた。パット・メセニーはチャーリー・パーカーの再来ではない。これは偶然である。
表現の可能性と市場のニーズ、ECMのマンフレート・アイヒャーとの親和性によりキース・ジャレットはソロピアノでの活動を続けた。1975年、重なるツアーと体調不良の中で弾いたケルンでのソロ・コンサートはレコード化され、ヒット・アルバムとなる。キース・ジャレットはチャールス・ロイドのカルテットの後、マイルス・デイビスのバンドにも在籍しており、チック・コリアとツイン・キーボードでライブをこなしていた。
同年、12弦ギターを弾くことでゲイリー・バートン・バンドのメンバーになっていたパット・メセニーは、ウェザー・リポート加入直前のジャコ・パストリアスと、最初のアルバムをリリースする。レーベルはECMだった。
ECMレーベルも、他のレーベル同様、所属するミュージシャンをミックスしてアルバム制作することがあった。固定したバンドを持つ前のパット・メセニーの二番目のアルバムでは、ベーシストとして、ドイツ人のエバーハルト・ウェーバーが参加した。またピアニストとして、ノーステキサス大学の One O'Clock Lab Band で学んだライル・メイズが参加している。
ノーステキサス大学の同バンドにはかつてジミー・ジェフリーが所属しており、ビル・エヴァンスの最後のトリオのベーシスト、マーク・ジョンソンも出身者だった。近年では、アリ・ホーニグが出身者である。またノラ・ジョーンズもノーステキサス大学を卒業している。
ジョン・ゾーンやビル・フリゼルがニューヨークで活動し始めたのはこの頃らしいのだが、僕はよく知らない。
またギル・エヴァンスのオーケストラにデイヴィッド・サンボーンが参加していたのはこの頃である。これはわかる。
1974年にバークリー音楽大学を卒業したジョン・スコフィールドは、卒業後は正しくミュージシャンとして活動していた。「LIVE 77」ではピアニストがリッチー・バイラークだった。リッチー・バイラークはスタン・ゲッツのカルテットでデイヴ・ホランドやジャック・ディジョネットと演奏していた。
1978年。パット・メセニー、アルバム「PAT METHENY GROUP」を発表。
このグ���ープは2000年代中頃まで続く(解散はしていない)。その間、ライル・メイズのみメンバーは変わっていない。
1975年-1980年の間、マイルスは活動を休止していた。その期間はソニー・ロリンズより長い。
1980年、ウィントン・マルサリスがアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに加入(1982年脱退)。
1984年、パット・メセニーはECMでの最後のアルバム「First Circle」をリリース。翌年、ゲフィン・レコードに移籍。最初に着手したのはオーネット・コールマンとの共演アルバムだった。
その後、1997年にワーナー・ジャズに移籍するが、2004年にワーナー傘下のノンサッチに移籍する。
ゲフィンもノンサッチもジャズのレーベルでは無い。パット・メセニーはインパルスやブルーノート、ヴァーブといったジャズ・レーベルに所属したことがない。
1990年、Naked Cityが活動を始める。
翌年、デイヴィッド・サンボーンが「Another Hand」をリリース。レーベルはエレクトラ。
1996年~2000年の間、ワーナー・ジャズにてブラッド・メルドーは、7拍子のAll The Things You Areを含むトリオ作を、連続して録音していた。
1999年、ジョン・スコフィールドがメデスキー・マーチン&ウッドとレコーディング。「A Go Go」をリリース。
2007年、ジャズのフォーマットでヒップホップを弾くピアニスト、ロバート・グラスパーが、「In My Element」に7拍子のBeatriceを収録する。ただし、これは【正伝】だろう。
この翌年、リーマンショックが起こり、その翌々年、バラク・オバマが大統領となり、つい数年前にドナルド・トランプが大統領になった。
多くのミュージシャンがバークリーに入った。
エスペランサ・スポルディングは歌い、カート・ローゼンウィンケルは10年かけたアルバムを出した。
チャールス・ロイドは、間にジョン・アバークロンビーを挟んだが、スティーブ・キューン~キース・ジャレット~ボボ・ステンソン~ミシェル・ペトルチアーニ~ブラッド・メルドーと続いた起用ピニストの変遷がジェイソン・モランで落ち着いた。
ジョン・スコフィールドはMM&Wとの関係を続け、デイヴ・ホランドは自己のカルテットから多数のサックス奏者をデビューさせた。
パット・メセニーはPMGでの活動を長く行っていないが、UNITY BANDを起こした。
デイヴ・ダグラスはリー・コニッツやジョー・ロヴァーノを迎えて、リンダ・オーやジョーイ・バロンと演奏している。
2019年現在、パット・メセニーはロバート・グラスパーの影響下にあると思われるジェイムズ・フランシーズとライブをしている。
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ここまでが外伝である。
あとがき的に、もうひとり、この外伝にぜったい出てくるべきなのに一度も名前が出なかったミュージシャンの名前を書いておきたい。
チャーリー・ヘイデン(ベーシスト:1937-2014)。
この人の名前を出すと、全てで出さなきゃなくなり、完結する。特に「American Dreams」はわかりやすい。
しかし、活動において、カルテット・ウェストが特異で、説明がつかない。そういう意味では、外伝においてもう一つの外伝、スムース・ジャズの歴史と、唯一リンクするのがカルテット・ウェストなのだと思う。
僕が気にしていることは、西部でも東部でもない、中部をルーツとしているというだけなのだろうか。
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