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#入江崇史
titosuzu · 1 year
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18日の日曜日に下北沢K2シネマにて 片山享監督『 #道草 』 売れない画家の道雄。世間からは認められないが趣味で 残しておきたいと思う時に絵を描いていた。 ある時 捨ててある抽象画に惹かれ自分の絵として展示してもらうが… 時代、周りの人から決められる価値。周りに影響されずに生きていたが 本人は変わっていないのある時から周りの評価、価値観も変わり 戸惑う。いや〜しかし #田中真琴 さん演じるサチが良い子すぎて! 舞台挨拶では監督から #青野竜平 さん、 #山本晃大 さん、 #谷仲恵輔 さん、 #入江崇史 さん、へ価値に関しての質問だったりと深いトーク。楽しい時間でした。 しかし劇中の絵は青野さん御本人の作とは驚き! 変わらずにそっと後押しするマスター、変わらない友人の画家。道雄は周りには恵まれていたよな。 パンフレットも読み応えありすぎです! https://www.instagram.com/p/CmbqHZqSvJQ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yamada50 · 1 year
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式内社比定を論じる中で式外社の通達を受けた真備の穴門山神社 明治5年に神祇省の後継として教部省が発足しましたが、社格制定のために明治3年に『式社崇敬社調書』『大小神社取調書』など編纂し調査を行ったうえで明治4年に官国幣社以下の社格が規定されました。 しかしながら一旦社格が制定されたものの、式内社や国史見在社に無格社となるなるものがあり衰微衰退を教部省が憂慮し明治9年からより精緻な調査を行った『延喜式神名帳』の注釈書『特選神名牒』が完成します。 さて当社についてですが、岡山県真備町の穴門山神社は記紀に名がみえる日本武尊の妃吉備穴門武媛命を祀る神社で延喜式神名帳の備中国下道郡穴門山神社の比定論社です。 創建は不詳ですが同名の高山村の穴門山神社は崇神天皇の御代の豐鋤入姫命による備中国名方浜宮に比定され、当社も同様に比定を論じられています。 戦国時代に当社が戦災で焼亡した際に高山村の穴岩戸神社に遷座したともいわれますがはっきりしたことは不詳だそうで、当社が再興するのは江戸時代中期享保年間吉田家による再興の命を受けるまで時代は下ります。 両社によって式内穴門山神社を論じられますが、まず当社は明治5年に小田県から式内社と定められました。 さらに明治8年7月高山村含めた両社とも式内とする通達があり、その翌月に真備の穴門山神社は式外と再通達があったとのことです。 この教部省の調査と当社の行政からの通達時期がほぼ合致するので、そうやって翻弄された神社が全国各地にあったんでしょうね。 結果として当社は郷社、高山村の穴門山神社は県社となりました。 #穴門山神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 穴門山神社(岡山県倉敷市)(あなとやまじんじゃ) 鎮座地:岡山県倉敷市真備町妹895 主祭神:穴戸武姫命 社格:国史見在論社 郷社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社 #神社巡り #神社好き #神社好きな人と繋がりたい #神道 #神社仏閣 #shrine #shinto #日本の風景 #参拝 #神社巡拝家 #recotrip#神社建築 #神社仏閣 #パワースポット #岡山県 #倉敷市 #式内社 (倉敷市真備町) https://www.instagram.com/p/CopCPFDP5i3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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jujirou · 9 months
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おはようございます。
秋田県湯沢市川連は、曇り空です。
#Repost @fei.art
本日より「日本×台湾 現代漆藝交流展」が始まりました。
2018 年よりスタートした台湾作家と日本作家による漆交流展も、6回目を迎えることになりました。
漆は自然と人間を繋げ、自然の鼓動に包まれた、ゆったりとした心地よい時間を与えてくれます。
脈々と繋がる漆の歴史の中で、新世代の作家は漆作品の創造において、伝統に囚われない表現を模索しています。漆も生きている、人間も共に成長していきます。
この創造的な交流が継続し、次世代へ伝えられ、友情が育まれていくことを望みます。
今回も台湾の漆藝作家を交えた創造的な作品をご覧頂けます。漆藝の奥行きを会場にてぜひご体感下さい。
【出品作家】
日本:岩田俊彦/伊能一三/いらはらみつみ/梅津奈保子/江村忠彦/大塚智嗣/小田伊織/小林秀俊/佐藤史幸/高田光彦/ 髙宮ヨウコ/中静志帆/中島靖高/藤田薫/柗井圭太郎/松島さくら子/松田環/三好かがり/村本真吾/吉田真澄/横田千明
台湾:張森洋/王賢志/謝袖妤/歐慧宜/趙崇源/賴明淳/吳明媛 /葉曉陵/廖勝文/陳衍志/蔡彥承
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展覧会名:日本×台湾 現代漆藝交流展
会  期:2023年10月3日(火)~10月19日(木)※月曜休廊
開廊時間:10:00~19:00 ※最終日は17:00まで
料  金:入場無料
会  場:FEI ART MUSEUM YOKOHAMA(フェイアートミュージアムヨコハマ)
住  所:〒221-0835神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町3-33-2 横浜鶴屋町ビル1F
TEL:045-411-5031 FAX : 045-411-5032 
E-mail : [email protected] 
共同主催:台湾漆研究会/台中市漆藝協会/FEI ART MUSEUM YOKOHAMA
URL: https://hfg-art.com
Facebook:https://www.facebook.com/feiartmuseum
Instagram:https://www.instagram.com/fei.art
Twitter:https://twitter.com/fei_yokohama
[ACCESS]
 *各線「横浜駅」西口 より徒歩6分
 *横浜駅西口地下街[南12番出口]より出て左
 [鶴屋町3丁目交差点]前方左角
お伺いする事が出来ませんが、ご興味の有ります方は是非、ご高覧頂けましたら幸いです。
そして今日もこれから秋田市出張。
今日もアレヤコレヤと有りますが、一つ一つコツコツ頑張ります。
皆様にとって今日も、良い一日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec/
#秋田県 #湯沢市 #川連 #川連漆器 #川連塗 #寿次郎 #国指定伝統的工芸品 #秋田工芸 #秋田工芸品 #秋田クラフト #秋田の物作り #秋田のものづくり #髹漆 #寿次郎 #日本台湾現代漆藝交流展 #現代漆藝交流展 #feiartmuseumyokohama #秋田川連塗寿次郎 #佐藤史幸 #Kawatsura #Akita #Japan #Urushi #japanlaquer #JapanTraditionalCrafts #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro
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hachikenyakaiwai · 1 year
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【かいわいの時】享保十四年(1729)四月二十日:将軍吉宗御用の象、尼崎から大坂に到着。南組惣会所に逗留。
1728年(享保13)6月、将軍徳川吉宗に献上される象が2匹、交趾国〔ベトナム〕から長崎に入港した。うち1匹が長崎で病死したので、残る1匹を江戸まで無事に届ける事が、通行道筋に当たった領主達の負担となった。翌年3月13日長崎を出発した象行列の一行は、4月19日尼崎別所村に一泊した。翌日大坂へ送り出したが、長崎出発から1か月余りは、尼崎藩���町村役人・一般住民を含めての情報収集と受入れ準備に奔走することとなった。象の大きさ・飼料の種類と量、小屋の造り、象使いの待遇など集められた情報からは、この珍獣を好奇と驚異の目で送迎した様子が知られる(山下幸子)。
この象がやってくるという情報は早くから大坂に伝わっており、河内の人たちもこの巨大な珍獣を一目見ようと待ちかねていました。四月二十日には到着ということで、その前日には芝村(現石切)・日下村・善根寺村から村人がぞくぞくと大坂へ向かいます。
いよいよ二十日になり、象は尼崎から神崎・十三へ向かい、天神橋筋を通り、大坂城の南西にあった南組惣会所へ到着します。沿道では大坂人のみならず、近郷の村人が馴染の宿屋に泊りこんで象を見物しています《略》象は南組惣会所で四日間を過ごし、四月二十六日に京都に到着し、天皇に拝謁します。しかし御所に上がるには位が必要ということで、「広南従四位象」という位が与えられ中御門天皇の上覧に供したのです。宮中では象をお題とする歌会まで開かれました。その時の天皇の御製が、
時しあればひとの国なるけだものもけふ九重にみるがうれしき 
というもので、天皇ばかりでなく、この時象を見た文人は和歌・俳句・狂歌などの作品を残しています(日下古文書研究会)。
(写真)池田正樹『難波噺 後編四』(写)より「大象の次第」 同書によると、オスの象は全長約3m、高さ約1.8m、胴回り約3m。耳はコウモリの羽に似ており、約40cm、鼻は約1mと記されています。また六、七百年も生きると思われていたようです。1日に草3荷・大豆8升、水6~7升を食し、好物は芭蕉〔ばしょう〕の葉・根だったようです。蟻〔あり〕は大の苦手で、鼻で砂を吹き散らすのはそのためだと記されています。また象遣いは45歳ぐらいの男性で、中国人とは違った服装をしていたこと、鳶口〔とびぐち〕と手綱〔たづな〕で象を自由に扱っていることなどが記されています(岩城卓二)。《Web版 図説尼崎の歴史》より。画像は国立公文書館より。
(参考文献) 山下幸子「享保の象行列」『地域史研究』第2巻第2号 1972、Web版尼崎地域史事典『apedia』 石切崇敬会広報誌『いしきりさん 夏号 Vol.11』2012
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ari0921 · 1 year
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我が国の未来を見通す(67)
『強靭な国家』を造る(4)
「世界で最初に飢えるのは日本」なのか(その2)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
米国の雑誌「タイム」が岸田首相のインタビューの
特集記事として、「日本を軍国大国に変える」して
いた見出しを「平和主義だった日本を国際舞台でよ
り積極的な役割をもたせようとしている」と変更し
たが、記事そのものは「軍事大国」としたまま変え
ていないとした記事がニュースになっていました。
当然、アメリカも言論の自由が保障されている国な
ので、だれが何を言ってもよいのですが、「タイム」
誌の記者たる者が、この日本を「軍事大国」と呼称
するぐらいの見識しか持ち合わせていないことに愕
然とします。
GDP比2%の防衛費年額約10兆円はようやくN
ATOに肩を並べる水準ですし、アメリカは約85
80億ドル(約114兆円)〔2023年度〕、中
国の約1兆4505億元(約26兆3000億円)
〔2022年度〕には遠く及びません。その上、未
だ憲法にも明記されておらず、反撃能力を保有する
としても「専守防衛」という不可思議な防衛政策を
堅持している我が国です。
この記者は、日本に対する「ビンの蓋」的な発想と
か、「平和主義」の原点である「日本憲法はアメリ
カがつくった」などの思想を保有しているのでしょ
うか。このような時にだけ、「さすがアメリカ」と、
“それが何を意味するかもロクに考えないまま”国
内の同調者がことさらに騒ぎ立てることも問題なの
です。
本当に困ったものですが、個人的には、様々な話題
を世界に発信したい「タイム」誌なれば、もう少し
“賢い記者”を抱えてほしいと願うばかりです。
▼「食料自給なくして独立なし」
前回の続きです。鈴木宣弘氏も引用している言葉で
すが、食料に関してまさに“身につまされる言葉”
を送りましょう。まず「食料を自給できない人たち
は奴隷である」とのキューバの著作家ホセ・マルテ
ィの言葉です。我が国でも、明治時代、高村光太郎
が残した言葉として「食うものだけは自給したい。
個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」
との有名な言葉もあります。
鈴木氏は、「日本に独立を名乗る資格があるのか」
として、現政権などの政策に「食料自給率」の言及
がないことを取り上げ、「日本には『食料安全保障』
が存在しない」とも指摘します。
ゴールデンウイークを利用して、『安倍晋三回想録』
を読破し、改めて諸所に感銘を受けましたが、農業
政策に関する記述はほとんどありませんでした。安
倍元総理は、財務省とはかなり喧々諤々の議論を重
ねたようですが、「経産省政権」と揶揄する向きも
あるように、経産省主導の政策が多かったことは事
実でした。鈴木氏は、「かつては農家が自民党の票
田だったが、農家が減ったことで票田の価値が下が
ってしまったことなどが積み重なって、農政全体に
『ゆがみ』が生じてしまった」と指摘します。調べ
てみると我が国の戦後の農業政策についても意外な
事実があることがわかりました。その概要を紹介し
ておきましょう。
▼我が国の自給率低下と農業離れの要因
 
私たちは一般に「日本は島国で国土が狭いために農
地面積も限られている。よって、食料の自給率は低
くて当然である」という考えを持っていますが、長
い歴史を振り返ると、我が国は、(現在より人口が
少なかったとは事実ですが)、伝統的に食料自給率
100%を維持してきました。
だからこそ、江戸時代は鎖国政策を採用できました
し、外国から資源の輸出入ができないような情勢下
にあっても、様々な工夫で再生可能な植物資源を活
用する独自の「循環型社会」を築き上げてきたとい
う歴史があります。
戦後の歴史を紐解くと、意外にも我が国の食料自給
率が下がった原因は、「貿易の自由化」と「食生活
改善政策」にあったことがわかります。もっと具体
的にいえば、自動車などの関税撤廃を勝ち取るため
に農産物の関税引き下げと輸入枠の拡大を認めたの
でした。そこに、アメリカやヨーロッパが自国の農
家に補助金をジャブジャブ出してダンピングを仕掛
けてきたため、日本の農家は壊滅的打撃を受けてし
まったのです。
特にアメリカは、当時、小麦の生産過剰が問題にな
っていましたので、日本人の食生活を無理やり変え
させてまで、我が国をアメリカの農産物、特に“小
麦の一大消費地”に仕立て上げようとしました。
様々な宣伝・情報工作の中で、当時、影響が大きか
ったのが1958年に出版された『頭脳─才能を引
き出す処方箋』(慶応大学名誉教授・林たかし著)
でした。本書には「米食国民は一歩遅れる」として
「米を食うとバカになる」「日本人が欧米人に劣っ
ているのは、主食の米が原因である」などの主張が
掲載されていました。本書はまた、発売3年で50
刷を超える大ベストセラーになり、その影響は計り
知れないものがありました(ちなみに、本書は現在、
アマゾンの中古本として、最低価格が4758円、
中には1万円を超える価格で売られているものもあ
ります)。
当然ながら、この主張は科学的根拠が全くない「暴
論」のようですが、慶大名誉教授の肩書も手助け
し、当時は“正しい学説”としてまかり通りました。
これが「洋食推進運動」に発展して、「日本人の食
生活近代化」のスローガンのもと、和食を「排斥」
する運動まで拡大しました。この結果、本来、洋食
に反対するはずの農家の人々まで洗脳され、欧米型
食生活を崇拝するようになりますが、「これほど短
期間で伝統的な食文化を捨てた民族は世界史上もほ
とんど例がない」と鈴木氏は指摘します。
この背景には、「日本農業を米国農業と競争不能に
して余剰農産物を買わせる」というアメリカの「し
たたかな食料戦略」があったことは疑いなく、19
73年、当時のバッツ農務長官が「日本を脅迫する
のなら、食料輸出を止めればよい」と豪語したとの
記録も残っています。
終戦後の占領時代の初期、「日本が二度と武器を持
って米国に立ち向かうことができない国にする」と
のトルーマン大統領の「降伏後における米国の初期
の対日方針」が発出され、マッカーサーの占領政策
の方針になります。1970年代と言えば、日本が
オイルショックから一早く立ち直り、ホンダやトヨ
タがアメリカ進出を果たした頃でしたが、その報復
というべきか、1970代あたりでも、トルーマン
大統領の「対日方針」がくすぶったままとはいえ、
まだ生きていたのでした。冒頭の「タイム」記事を
読むと今でも一部に残っていると感じざるを得ませ
ん。
▼その結果が「減反政策」や「酪農」を危機に
伝統的に、米を主食としてきた日本人にとって米の
安定供給は大きな課題でした。特に、戦後の“食糧
難”を経験した日本は、「米の生産量引き上げが国
全体の問題である」といっても過言でない時代があ
りました。
そして、この問題を解決するため、戦後まもなく過
ぎた頃、肥料や農業用機械の導入が進むなど技術革
新が起こり、米の生産量を大きく引き上げることに
成功し、米が名実ともに家庭の主食になりました。
個人的な体験で言えば、小学校の低学年の頃まで、
近所の農家はみな、農作用の馬を飼育していました。
兄が耕運機を購入して我が家から馬がいなくなった
のは小学校4年生の頃、つまり昭和36年だったと
記憶しています。その後の農作業の風景が様変わり
し、我が家も近くの畑や牧草地などを改良して田ん
ぼの面積を大幅に拡大するとともに、兄は、精米に
加工するためのライスプラントを建設し、近所の米
の精米を支援していました。
そのような折、前述の「洋食推進運動」が広がり、
「主食=米」の常識が徐々に崩れ出し、日本人の食
卓の欧米化が進行し、「米離れ」が加速しました。
この結果、米が生産過剰になり、生産量を調整する
ために、政府は「減反政策」を導入しました(昭和
44〔1969〕年に試験的に開始、1971年本
格導入)。これに対して、農家は当初は激しく反発
しますが、政府は、米農家の転作を支援するために
補助金を支払うことで農家を納得させ、事後「減反
政策」は約50年間続けられ、平成28(2018)
年、ようやく終わりを迎えます。
2018年に終了した理由は、高く販売できるブラ
ンド米を耕作する農家が増えて、業務用の米が不足
するようになったのが原因の一つと言われています。
食料増産を目的として米生産は、終戦時の900万
トンから20年後の1967年に1400万トン超
まで拡大しますが、「減反政策」以降の50年間で
半減し、最近は700万トンを切ってしまいました。
つまり、餓死者が出た終戦時より人口が1.7倍に
増えているのに、米生産は当時よりも少なくなって
しまったのです。
1960年以降、中国もアメリカもインドも、米の
生産を3倍以上に増やしていますし、世界全体では3.
5倍に増加している中で、日本のように、米が主食
にもかかわらず、米の生産を減少させている国は極
めて稀でした。
▼“米離れ”が招いたもの
 
2011年の総務省「家計調査」の結果、日本の一
般家庭におけるパンの消費額が米を上回ったと話題
になりました。1世帯(2人以上世帯、農林漁家世
帯除く)あたりの米に対する年間支出額2万742
8円に対し、パンは2万8318円と逆転したので
した。これは昭和21年(1948年)に始まる
「家計調査」史上、初めてのことだったようです。
現に、我が国の小麦の2016~20年(5年間)
の平均流通量は、国産82万トン(14%)のみで、
488万トン(86%)が輸入、その内訳は、アメ
リカ(49.8%)、カナダ(33.4%)、オー
ストラリア(16.8%)で、この3カ国でほとんど
を占めています。
ここでとても興味深い事実に気がつき、私自身は唖
然としました。ほとんどのパンやめん類には「小麦
粉(国内製造)」と書いてあります。実は、外国産
小麦を“国内で製粉した小麦粉”だからこのような
表記になっているのだそうです。
小麦の需給と価格の安定を図るために、政府が外国
産小麦の輸入と売り渡しを行なっており、製粉会社
は国が決めた“売り渡し価格”で小麦を購入して小
麦製品を作っています。小麦や小麦加工品(小麦粉
など)を輸入すると最大で1kgあたり158円の
関税がかかりますが、国が輸入する小麦には関税は
かかりません。
小麦粉は食品スーパーなどで、1kg100円ほど
で特売されていることもありますが、わざわざ高い
関税を払って小麦や小麦粉を輸入する人はいないの
で、外国産小麦から製造された小麦粉は“国内製
造”なのだそうです。
 
さて、米農家が「減反政策」で向かった先は様々で
した。その1つとして、「酪農」について取り上げ
ておきましょう。
我が国が「酪農」に力を入れたのは、我が国がGA
TT(関税及び貿易に関する一般協定)に加盟した
1955年以降でした。つまり、貿易・資本の自由
化が進められて、日本経済の開放体制のなかで、日
本農業の零細性の克服や生産性向上が求められたこ
とが始まりでした。
それを受けて、1961年、政府は「農業基本法」
を制定し、新しい農業と農業政策の方向を示し まし
たが、 経済成長に伴う所得上昇によって牛乳・ 乳
製品の消費量増大が予想されたため,「酪農」は
「農業基本法」の“選択的拡大”部門として位置づ
けられました。
そして、酪農支援策(低利融資、補助金、技術普及
等)の結果、1960年代から70年代、「減反政
策」で米作を諦めた農家が酪農に転向したこともあ
って、酪農農家は飛躍的に増加します。しかし、そ
の形態は、大半が水田の裏作や転作で飼料作物を生
産する 「水田酪農」と呼称される稲作と酪農の複合
経営に留まったという一面もありました。
一方、日本の酪農は、国内の飼料基盤が不十分 なま
ま輸入飼料に依存して急速に発達した ところに大き
な特徴があり、1970年には49.3%であった
飼料自給率は低下の一途をたどり、2007年には
32.8%まで低下します。
時を同じくして、人口増加に伴い、乳製品の消費量
も増加しますが、折からの乳製品 の輸入自由化、関
税率低下、円高もあって乳製品の輸入量も増加しま
す。事実、牛 乳・乳製品の自給率は,1960年で
は89%であ ったものが90年には78%に低下し,
2007年には66%まで低下します。また、飲用
乳の消費量も1994年をピー クに減少に転じます。
その後も、継続的な減少局面に転じ、現在に至って
います。
これらを背景に、酪農農家、特に経営規模が小規模
の「水田酪農」は減少に転じ、1970年代に、3
0.7万戸もあった酪農家は2022には1万33
00戸にまで減少してしまいます。こうして、酪農
と水田農業の結びつきが弱まった とはいうものの、
酪農家の5 割が米を生産しているといわれます。
残った酪農家も最近はコロナ禍やウクライナ戦争の
影響で生産資材価格が上昇し、特に200頭以上の
牛を飼育する大規模経営が赤字に陥っており、この
ままでは赤字がさらに膨らみ、連鎖的に酪農家が倒
産する可能性もあるといわれ、現に北海道ではかな
りのハイペースで倒産が相次いでいるようです。
コロナ禍などの理由以外に、北海道の酪農家は、輸
入している脱脂粉乳を国産に置き換えるための差額
として乳代1キログラムあたり2円以上の負担金が
課せられているようで、酪農家に重くのしかかって
いるのが実態です。
政府が主導した「畜産クラスター事業」(畜産の収
益向上のために、畜産農家を核として地域の関係事
業者が連携・結集していく体制をいい、これによっ
て、補助金として機械や設備導入時に本体価格の2
分の1の国庫補助を受けられる)の結果、全国的に
牛乳余りが生じ、酪農家は経営危機に直面している
一方で、海外からの乳製品輸入は据え置き、酪農家
には「乳製品が過剰だから、生乳をしぼるな、牛を
処分しろ」という矛盾しているではないかと疑問も
沸き上がり、「人災としての危機」と批判されてい
ます。
子牛も値下がりし、生後1カ月の雄子牛がだいたい
1万円ほどでコロナ前の10分の1に下がっている
ようです。餌代にもならない価格に、一斉に酪農家
がいなくなるとの危機感も叫ばれています。
ふたたび、個人的な経験ですが、「減反政策」で米
の生産を諦めた兄は、「水田酪農」に転じますが、
今度は「乳余りのあおり」を受けて、多額の借金を
抱えたまま酪農を諦め、その後、和牛の飼育に転じ
ます。その和牛飼育も12年前の福島原発事故の影
響で再びあきらめざるを得なくなりました。多額な
借金を息子の代(私の甥)になって完全返済したの
はようやく昨年でした。
第2編でも紹介しましたが、「政治家と農林省の官
僚(の愚策)によって、50年前に農業を奪われた」
と今なお、事あるごとに口癖のように語る兄ですが、
実際にこのような被害を受けたのは決して我が家の
みではなさそうです。次回、「日本の農業は過保護
なのか」について、諸外国と比較して“見える化”
してみましょう。意外な事実に気がつくことでしょ
う。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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katuo1130 · 6 months
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蔡英文秘史 家史
先祖告誡我們——
瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。
蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。
據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。
濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。
據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。
明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。
蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。
蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號
蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。
行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。
此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。
乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。
臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。
乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。
三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。
林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。
嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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約伯記10
第三十八章 38:1 那時,耶和華從旋風中對約伯說, 38:2 是誰用無知的言辭使我的旨意暗昧不明? 38:3 約伯呀,束起你的腰帶,打起精神來,像個勇士。我將要指示你,你可以表明你的想法。 38:4-7我定下大地的尺度、安置大地根基的時候,那時晨星一同歌唱,神的眾子也都歡呼。你在哪里呢? 這幾節的意思是說,地球是誰造的,有多大,地球是怎樣穩定在空中的。但是古代的人聽不懂,所以神就換了個說法。
38:9-12 太陽從大海的東邊升起,從大海的西邊落下,神為其確定晨光出現的時刻。大地崇山峻嶺,陽光普照,萬物色彩斑斕。你知道其中的奧秘嗎? 38:13-15 約伯啊,邪惡的人內心陰暗,強權的人必不得善終。你能將惡人從人群中篩選出來嗎? 38:16-20 你可知道陰陽兩界邊界在哪里?你能知道陰間的的事情嗎? 38:21-23 四季更替,秋去冬來,寒來暑往,風霜雨雪,電閃雷鳴。你都知道這其中的原理嗎? 38:25-30 江河滔滔不絕,大海潮汐漲落。植物千奇百怪,生長而又凋零。動物種類繁多,繁衍生息。這都是誰在掌控呢? 38:31-33 天空星羅棋佈,南箕北斗,鬥轉星移。你知道天體運轉的規律嗎? 38:36 還有,人類的聰明和智慧是誰賦予的呢?
第三十九章 39:1-30 在動物世界裏,每種動物都有它的秉性。 在荒野裏,獨角獸和牛、雄鷹和麻雀、野驢和駿馬、孔雀和鴕鳥、山羊和母鹿、老虎和獅子,各行其道。 牛被套繩籠在犁溝之間,為人服務,馱運糧食。獨角獸卻無法被馴服。 雄鷹在高空翱翔,窺探獵物。麻雀只能在地上蹦跶,尋找食物。 駿馬能夠如疾風般奔騰,聽到號角聲便勇猛無畏,馳騁沙場,從不退縮。野驢只能為主人拉磨。 孔雀能夠展示它華麗的羽毛,鴕鳥只能光著屁股狂奔。 山羊和母鹿只能被老虎和獅子追逐。
神所造的動物,千差萬別,有著不可思議的奇妙。
第四十章 40:1-24耶和華又說:約伯呀,全能者的做工何其神妙!你覺得人可以在全能者的面前自以為是嗎? 於是約伯回答耶和華說:我是卑微的,我是愚癡的,我能用甚麼回答呢?我已理屈詞窮,無話可說,只好用手捂嘴了。 於是,耶和華又從旋風中對約伯說:你要像勇士一樣束腰。我要指示你,你可以表明你的想法。 約伯啊,神的大能、尊榮、威嚴,神的創造、榮耀、莊嚴。 你看,神造的貝希摩斯,它與牛一樣吃草。它龐大無比、力大無窮,它喝幹一條河也不在話下。但是,神也有利器馴服他。它從不攻擊其他的動物,百獸可以在它的旁邊遊玩。 這個貝希摩斯是神造的一種怪獸,也叫比蒙怪獸。
第四十一章 神接著說, 41:1-34你看,神造的利維坦,它的眼睛好像黎明的天邊,它的目光就像閃電。口中噴火,拖出長長的火焰,可以點燃煤炭。從它鼻孔噴出的汽,就像燒開的鍋一樣。 它那堅固的鱗甲長得像盔甲一樣嚴密。它的每塊肌肉都非常的結實,緊密相連。它以鐵為乾草、以銅為爛木。它的內心無比強大,人揮舞刀槍的聲音令他發笑。 利維坦經過有堅硬、鋒利石頭的地方,就仿佛巨大的鐵輪碾壓過一樣。它攪動大海時,翻騰得像滾開的油鍋。它飛過的深淵,留下一條光帶,如同一根長長的白髮。 在全地上,被造的動物沒有像他那樣無所畏懼的。在所有驕傲的生物中,它是王者。無論多麼神勇的人指望捉拿它,只是徒然。只有神有利器馴服它。它承諾,願意為神做永遠的奴僕。 利維坦也是神造的一種海怪,像鯨一樣巨大。根據神的描述,很像中國人所說的海龍王。
神接著說:天下萬物都是我創造的。誰能阻礙我的旨意呢?神制伏驕傲的人類,使他們屈從,變得卑微。神把惡人踩在腳下摩擦,將他們消滅,埋入土中,關入陰間。約伯呀,你能拯救自己嗎?難道你可以質疑我的審判和裁決嗎?難道你可以自以為是、自以為義嗎? 神並沒有給約伯講什麼大道理。神知道,即使給他講,他也聽不懂。神只是向約伯展示了他的大能,展現他所造世界的神奇和不可思議,讓約伯臣服,不再自以為是,不再自以為義。
第四十二章 42:1 約伯回答耶和華說: 42:2 我知道您萬事都能作,您的旨意不可能被攔阻。 42:3 我所知的人世間的道理非常的膚淺,我所說的人世間的真相也是非常的表面。我的義舉和善行得到了神的護佑和應許,但是,我的傲慢、貪求、自私等罪念,我並沒有覺察。我現在的報應是罪有應得。 神所造的一切,沒有隱藏,完全展現。但是,真理太過奧秘,太過神妙。我確實非常的無知,我根本不懂,根本不明白。 42:4-6我懇求您,聽我說,然後,請求您指示我。我從前風聞有你,現在親眼所見。因此我深感愧疚,我在塵土和爐灰中懺悔。
42:7 耶和華對約伯說話以後,就對提幔人以利法說:我要譴責你和你的兩個朋友,因為你們說的那些大道理都是從你們先輩那裏聽來的。你們根本不明白其中的奧義,只是鸚鵡學舌而已。 你們所說的安慰和勸告,根本不在要點上。憑著你們的德行,根本就沒有資格去譴責約伯。然而,我的僕人約伯說的比你們好得多。和你們相比,約伯真誠、不虛偽、敢說心裏話,是對神更有信心的表現。他敢於追求智慧,敢於探求萬事萬物之真理和真相。這樣的勇氣是值得讚歎的,是我所喜悅的。 42:8 現在,你們要取七只公牛、七只公羊,到我的僕人約伯那裏去,為自己獻上燔祭,我的僕人約伯就為你們祈禱。我因悅納他,就不按你們的愚蠢的想法懲辦你們。你們要向約伯學習,學習他完全正直、敬畏神、遠離惡事的品德,學習他追求智慧、探求真相的精神。
42:9 於是,提幔人以利法、書亞人比勒達、拿瑪人瑣法,照著耶和華所吩咐的去行,耶和華就悅納了約伯的禱告。 42:10 約伯為他的朋友祈禱,耶和華就使約伯從困苦中轉回,並且耶和華賜給他的,比他從前所有的加倍。 42:11 約伯的弟兄、姐妹、和以先所認識的人都來見他,在他家裏一同吃飯。又談論到耶和華所降與他的一切懲罰,都為他哀歎,並且安慰他。每人也送他一塊銀子和一個金環。 42:12 這樣,耶和華後來賜福給約伯,比先前更多。他有一萬四千只羊、六千駱駝、一千對牛、一千對驢。 42:13 他也有七個兒子、三個女兒。 42:15 在那全地的婦女中,找不著像約伯的女兒那樣美貌。她的父親讓她們從弟兄中分得財產。 42:16 此後,約伯又活了一百四十年,得見他的兒孫,直到後四代。 42:17 這樣,直到約伯年紀老邁,壽終正寢。
好,約伯記講完了。
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第一,不管是哪個宗教,哪個派別,只要信主,信上帝; 第二,相信輪迴,去惡行善,懺罪悔改; 這樣的人都是我們的弟兄姊妹,這樣的教派都是和我們志同道合的教派。我們要聯合起來,團結起來,傳播真理。
Kristen,來自東方的牧師,對東西方宗教、文化都有非常深刻的研究。 在其牧師生涯中,尤其註重考證,澄清歷史事實,探尋聖經深意,兼收博採,不分門戶派別。 延續耶穌精神,不與世俗妥協,引領基督徒回歸真理、造福社會。
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lilinyu-22 · 5 months
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家史
先祖告誡我們—— 瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。 蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。 據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。 濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。 據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。 明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。 蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。 蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號 蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。 行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。 此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。 乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。 臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。 乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。 三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。 林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。 嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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zxingxing-33 · 5 months
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家史
先祖告誡我們—— 瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。 蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。 據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。 濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。 據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開泰運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。 明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。 蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。 蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號 蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,��自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。 行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。 此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。 乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。 臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。 乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。 三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。 林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。 嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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sskyt · 11 months
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『「呪術」の呪縛』上巻読書ノート
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江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(上)リトン、2015年。
 今、呪術がかつてないほど注目されている。近代西欧に成立したreligionに対して、劣位に置かれるmagic概念を所与のものとして前提とすることなく、改めて問い直し、概念史や各国の事例研究といった観点からその諸相に光を当てる書。
 以下、所収論文についての読書メモ。 江川純一・久保田浩「「呪術」概念再考に向けて:文化史・宗教史叙述のための一試論」
 全体の導入論文。日本語の「魔法」と「呪術」、学問的概念としてのmagic、西洋文化史におけるmagic、そして、本書の背景と構成が論じられる。「魔法」(1474)が室町中期に現れているのに対して、「呪術」は『続日本紀』(699)に言及がある。  とはいえ、「呪術」は近世・近代において人口に膾炙しておらず、20世紀後半にフレイザーのmagicの訳語として定着した(それ以前は「魔法」)。また、学問的概念としてのエティックな次元と日常言語としてのイーミックな次元の区別の重要性が指摘される。  学問的概念としてのmagicで要注目なのはタイラーとフレイザーであり、特に後者のmagic→religion→scienceという図式が重要。その後のmagic研究の系譜はある意味ですべてここから始まった。他方で、イーミックな次元で見れば、magicの語源は古代ペルシア語に由来するギリシア語のμάγοςに発する。  すなわち、magic概念には、そもそもペルシア由来という他者性が付与されており、つねに地理的他者(非西洋)、歴史的他者(古代)、宗教的他者(異教)という含意がある。近代的なreligionとscienceは、他者にmagicという名を与えることで、自己を正当化してきた歴史的経緯がある。 第一部 呪術概念の系譜
藤原聖子「アメリカ宗教学における「呪術」概念」
 ウェーバー以来、ピューリタンは「世界の脱魔術化」として位置づけられてきたが、1980年頃からピューリタンも呪術を実践していたとする研究が盛んになった。これらの研究を島薗進の新宗教研究(呪術と近代化は背反しない)と比較対象する論文。  アメリカにおけるピューリタンの呪術実践研究では、呪術と近代化の関係は問題とならず、呪術の感情面が重視され、信仰と理性の対立図式、すなわち、アメリカの知性主義対反知性主義というナショナル・アイデンティティの問題へと引きつけて理解されている。  たしかに考えてみれば、アメリカのホラー映画は、魔女、魔法、霊、占い、ゾンビと呪術に事欠かない。むしろ合理性の反作用としての呪術に取り憑かれているようにさえ見える。それはアメリカという国のアイデンティティに関わる問題で、非常に興味深い。  ちなみに、アメリカの呪術総決算的なホラー映画として「キャビン」おすすめです! この『呪術』論集は、「宗教」概念批判を経た後で、「宗教」周辺の重要概念をアプリオリに前提とせず、反省的にその概念の意味を問い直すという点で、『ニュクス』第5号「聖なるもの」特集と双子のような存在ですね。
竹沢尚一郎「イギリスとフランスにおける呪術研究」
 エヴァンズ=プリチャードのアザンデ研究における妖術論とグリオールのドゴン研究における占い論の検討を通じて、呪術を複雑な世界の「縮減」(ルーマン)の仕組みであるとする仮説を提唱する。
 注で触れられている、レイモン・ファースの師マリノフスキーへの問い「もしすべてがすべてに結びついているとすれば、どこで記述を終えたらよいのでしょうか」は、いかにもラトゥール的な問いのように思える。 横田理博「ウェーバーのいう「エントツァウベルンク」とは何か」
 この論文は何度読んでも面白い。ウェーバーのEntzauberung(脱呪術化、魔術からの解放)は有名な概念で、様々な論者によって援用されるにもかかわらず、ウェーバー自身はこの概念を定義しないために、その内容は実は不明確である。  著者は丁寧な読解によって、「脱呪術化」が『プロ倫』における「救いの手段としての呪術の否定」と、『職業としての学問』における「世界の意味づけの否定」という二つの意味をもつことを明らかにする。また、前者が呪術から宗教への移行であるのに対して、後者は「世俗化」を意味する。  ちなみに、私が『現代思想』のウェーバー特集に寄稿した「世界に魔法をかける」の元ネタはこの論文です。「脱呪術化」という概念でひとつ気になるのは、この語はつねにEntzauberung der Weltと「世界の/世俗の」という言葉を伴っていること。この点も「脱呪術化」を援用する論者に見落とされがちだ。
高橋原「初期の日本宗教学における呪術概念の検討」
 日本の宗教学の歴史の中でmagicの訳語としての「呪術」が定着していった過程を跡付ける。明治時代はmagicの訳語として「呪術」は用いられていなかったが、日本の宗教学の確立とともに大正時代にフレイザーの影響の下、「呪術」が定着していった。 谷内悠「呪術研究における普遍主義と相対主義、そして合理性:分析哲学と認知宗教学から」
 「呪術は合理的である」と言われるときの「合理性」について、タンバイアの普遍主義/相対主義の議論を批判的にアップデートさせることで解決しようとする。概念図式/メタ概念図式の議論はガブリエルの「意味の場」の議論を想起させる。  ただ、普遍主義と相対主義の対立をメタ概念図式によって解決するというのは、問題を一段先送りにしただけのような気もするし、最後に出てきた「生物的合理性」は素朴な自然主義のように思えて、正直なところ、肩透かしの感がある。 第二部 事例研究:アジア
鈴木正崇「スリランカの呪術とその解釈:シーニガマのデウォルを中心に」
 スリランカで最も呪力の強いとされるデウォルについての神話と実際の呪術実践から、呪術の特徴を探る。呪術は「外来」「異人」といった境界的状況に対する意味付与・統御として発生するのであり、現在のグローバル化による変動もまた呪術が力をもつ場である。  たしかにマゴスの語源的意味にしても、フェティッシュにしても、文化的・地理的・時間的な境界において、あるいは、他者との界面において、「呪術」(なるもの)は発生するように思われる。個人的には、障り、罪、穢れ、害、悪を意味するシンハラ語の「ドーサ」という概念が面白い。 木村敏明「プロテスタント宣教師の見た「呪術」と現地社会:ヨハネス・ワルネック著『福音の生命力』をめぐって」
 スマトラのバタックに宣教したヨハネス・ワルネック『福音の生命力』に基づいてキリスト教から見た呪術の意義と効用を検討する。ワルネックは、インドネシアの宗教をアニミズムとして特徴づけたが、その評価は両義的である。  著者はこれを「世界観としてのアニミズム」と「エートスとしてのアニミズム」に分類し、前者が称賛されるのに対して、後者は現世利益を追求する自己中心的な呪術実践であるがゆえに非難されるとする。しかし、ヨハネスはこうした呪術を逆手にとって宣教が可能となるとして、利用価値も認めている。 池澤優「中国における呪術に関する若干の考察:呪術という語の呪術的性格」
 面白かった。呪術を「非人格的な法則性に基づく宇宙の操��」と定義すると、人間の作為が宇宙の経営に関与するという点で、陰陽五行説のみならず、古代中国思想全般が「呪術」になってしまうが、これは概念の使い方として非生産的である、という。  古代中国宗教研究における「呪術」の用例として、『詩経』研究が取り上げられ、そこではおおむね「呪術」が素朴な宗教を指す語として用いられ、特に言霊信仰のようなものが想定されている、と指摘される。  私は特に、グラネ『中国古代の祭礼と歌謡』の解釈が面白かった。詩は個人の感情を歌ったものではなく、慣習によって定められた集団の感情を表出したものであり、慣用句は「興」という強制力をもって、自然を循環させる力をもつ、という。詩はいわば礼のような宇宙の形式なのだろう。
川瀬貴也「近代朝鮮における「宗教」ならざるもの:啓蒙と統治との関係を中心に」
 朝鮮における近代化、日本の植民地支配という観点から、「宗教」と「宗教」ならざるもの(呪術・迷信)との区別が何を意味しているかを示す論文。特に、今村鞆、村山智順による植民地下の民俗学的調査の視線が見つめる「迷信」が興味深い。  近代化・啓蒙によって退けられた「��俗」が宣教師たちによって朝鮮宗教の本質と捉えられ、さらに、朝鮮民族のナショナリズムへと結びつき、現代韓国社会において伝統と見なされるようになった、という指摘が面白い。この辺りの話はどうしても「コクソン」を思い出さざるをえない。 第三部 事例研究:日本
井関大介「熊沢蕃山の鬼神論と礼楽論」
 近世日本儒学における鬼神の問題を、白石・徂徠・蕃山を中心に、主に「礼」の観点から検討する。蕃山にとって、祭祀儀礼の意義は、人心を無意識裡に統御し、社会を統治することにあったが、それは天人相関論によって宇宙の運行を正しく経営することでもあった。  蕃山によれば、鬼神祭祀の礼は、社会が経済的に豊かになって人心が堕落し始めたとき、富の余剰を有益無害な仕方で蕩尽させるために整備された、とのことだが、これはまんまバタイユの社会的蕩尽の理論と同じですね。 一柳廣孝「魔術は催眠術にあらず:近藤嘉三『魔術と催眠術』の言説戦略」
 明治期の催眠術ブームのベストセラー、近藤嘉三『心理応用魔術と催眠術』にしたがって、明治期の「魔術」イメージを検討する。近藤によれば、魔術とは心の中の霊気を通じて感通する手法であり、睡魔術と醒魔術に分けられ、前者は催眠術からは区別される。  魔術は、感通によって、施術者の意思が被術者へと影響を与えることであり、催眠術とは睡魔術のの導入部分にすぎず、近藤は催眠術による治療は有害であるとさえいう。ここら辺は黒沢清の「CURE」っぽい話ですね。 宮坂清「科学と呪術のあいだ:雪男学術探検隊、林寿郎がみた雪男」
 これは面白い。1959~60年の雪男学術探検隊に参加した動物学者林寿郎の記録から、雪男に関する科学的視点と呪術的視点の関係を問う。学者が探求していた「雪男」とシェルパにとっての「イエティ」が、実は同じではなかったことが判明する件がハラハラして特に面白い。  日本の雪男ブームの出発点は、今西錦司(1952年のマナスル登山隊が雪男の足跡を目撃)だったんだね。知らなかった。あと、雪男探検隊って、川口浩探検隊みたいなものかと思ってたら、ちゃんとした科学的調査隊が派遣されていたのも知らなかった。 今井信治「「魔法少女」の願い」
 1960年代の『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』から現代の『魔法少女まどか☆マギカ』まで、魔法少女アニメを時系列順にたどりながら、そこで描かれている「魔法」表象があとづけられる。  東映魔女っ子シリーズが女子の人気を博したのは、当時、女子向けのテレビ番組がなかったからで、別に魔法でなくてもよかったとの分析だが、そうはいっても「セーラームーン」の継続的な人気や、映画「マジカル・ガール」を見ると、やはり女の子にとって魔法は特別な意味をもっているようにも思われる。 堀江宗正「サブカルチャーの魔術師たち:宗教学的知識の消費と共有」
 アニメやライトノベルで人気の「魔術」を分析することを通じて、データベース消費型のサブカルチャーがその消費者にとって「宗教」よりもリアリティをもつようになった現状を明らかにする。  「魔術」関心層は20~30代の男性であることと、魔術・宗教的語彙をもったメディア作品の受容者は自分を能動的に魔的キャラクターを使役する存在(つまり魔術師)として同定しているという分析を組み合わせると、なかなかに痛い実態が見えてくるような気がする。
 魔術を扱った代表的な作品として『とある魔術の禁書目録』が挙げられているが、現在(2023年)に改めて同様の問題を扱ったら、おそらく代表的な作品は『呪術廻戦』が挙げられることだろう。また、作中では錬金術はあくまでも「科学」であって「魔法」ではないとされるが、実態としてはどう見ても「魔術」を扱っている『鋼の錬金術師』がまったく言及されないのは不思議。
追記
藤原聖子「「呪術」と「合理性」再考:前世紀転換期における〈宗教・呪術・科学〉三分法の成立」『思想』No. 934、2002年、120-141頁。
 呪術は、科学と比べて「非合理的」とされる場合(フレイザー)と、宗教と比べて「合理的」とされる場合(ウェーバー)があるが、これは両者で「合理性」の意味が異なるためである。著者によれば、さらに第三の失われた合理性概念がある。  すなわち、呪術は、理論ー合理的な科学に対して、理論ー非合理的であるが、実践(合目的的)ー非合理的な宗教に対しては、実践ー合理的である。この2種の合理性に加えて、呪術には「ゾッとさせる」という意味での「実体的非合理性」が含意されている(デュルケーム、オットー)。  奇跡論においては、古代末期か~中世末期、奇跡は「聖」に結びついていたが、19世紀末には「超自然」と結びつくようになった、という話(マリン)が面白かった。つまり、キリスト教では奇跡が聖人の業として呪術に対置されていたが、近代以降、科学と対立するがゆえに超自然と結合した、ということ。
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yamada50 · 2 years
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神代に創建したとされる関東最古の社 鷲宮神社 国史見在社ではありませんが社伝では天穂日命と武夷鳥命が出雲族を率い神崎神社に大己貴命を祀り創建とされたと伝わります また崇神天皇の御代には太田々根子命が司祭を行ったと云われ大神神社とも関連があるかもしれません 江戸時代には埼玉の由来ともなる式内社、前玉神社二座を名乗っていたようですが明治以降は行田市の前玉神社に比定され、それ以降は式内社を論じてないようです 瑞垣内に二棟の本殿が並んでいますが流造の方は大己貴命を祀る神崎神社、入母屋造の方は鷲宮神社の本殿です 明治初期には准直祭社十二社の一社とされました 神社入り口の鳥居は平成30年に腐食により突然倒壊しましたが令和3年12月に漸く再建された模様です #鷲宮神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 鷲宮神社(わしのみやじんじゃ) 鎮座地:埼玉県久喜市鷲宮1丁目6番1号 主祭神:天穂日命、武夷鳥命、大己貴命 社格:県社 別表神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #鳥居#神社仏閣 #パワースポット #久喜市 #神社巡拝家 (鷲宮神社) https://www.instagram.com/p/Cjve3PAvF9S/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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jujirou · 9 months
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おはようございます。
秋田県湯沢市川連は快晴で、今朝も肌寒い感じです。
#Repost @fei.art さんより。
10月3日(火)より「日本×台湾 現代漆藝交流展」を開催いたします。
長きに渡るコロナ禍自粛の反動か、画廊にも人が戻ってきて活気付いて参りました。2023年も変わらず漆作品による台湾との交流を深めたいと思います。
2018 年よりスタートした台湾作家と日本作家による漆交流展も、6回目を迎えることになりました。
漆は自然と人間を繋げ、自然の鼓動に包まれた、ゆったりとした心地よい時間を与えてくれます。
脈々と繋がる漆の歴史の中で、新世代の作家は漆作品の創造において、伝統に囚われない表現を模索しています。漆も生きている、人間も共に成長していきます。
この創造的な交流が継続し、次世代へ伝えられ、友情が育まれていくことを望みます。
今回も台湾の漆藝作家を交えた創造的な作品をご覧頂けます。漆藝の奥行きを会場にてぜひご体感下さい。
【出品作家】
日本:岩田俊彦/伊能一三/いらはらみつみ/梅津奈保子/江村忠彦/大塚智嗣/小田伊織/
   小林秀俊/佐藤史幸/高田光彦/ 髙宮ヨウコ/中静志帆/中島靖高/藤田薫/
柗井圭太郎/松島さくら子/松田環/三好かがり/村本真吾/吉田真澄/横田千明
台湾:張森洋/王賢志/謝袖妤/歐慧宜/趙崇源/賴明淳/吳明媛 /葉曉陵/廖勝文   
/陳衍志/蔡彥承
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展覧会名:日本×台湾 現代漆藝交流展
会  期:2023年10月3日(火)~10月19日(木)※月曜休廊
開廊時間:10:00~19:00 ※最終日は17:00まで
料  金:入場無料
会  場:FEI ART MUSEUM YOKOHAMA(フェイアートミュージアムヨコハマ)
住  所:〒221-0835神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町3-33-2 横浜鶴屋町ビル1F
TEL:045-411-5031 FAX : 045-411-5032 
E-mail : [email protected] 
共同主催:台湾漆研究会/台中市漆藝協会/FEI ART MUSEUM YOKOHAMA
URL: https://hfg-art.com
Facebook:https://www.facebook.com/feiartmuseum
Instagram:https://www.instagram.com/fei.art
Twitter:https://twitter.com/fei_yokohama
[ACCESS]
 *各線「横浜駅」西口 より徒歩6分
 *横浜駅西口地下街[南12番出口]より出て左
 [鶴屋町3丁目交差点]前方左角
2018年よりお誘いを頂き、今年も参加をさせて頂く事となりました。
毎年漆器だけの参加となり、申し訳ありません。
お近くにお住まいでご興味の有ります方は是非、ご高覧頂けましたら幸いです。
今日もアレヤコレヤと有りますが、一つ一つコツコツ頑張ります。
皆様にとって今日も、良い一日と成ります様に。
https://jujiro.base.ec/
#秋田県 #湯沢市 #川連 #川連漆器 #川連塗 #寿次郎 #国指定伝統的工芸品 #秋田工芸 #秋田工芸品 #秋田クラフト #秋田の物作り #秋田のものづくり #髹漆 #寿次郎 #日本台湾現代漆藝交流展 #現代漆藝交流展 #秋田川連塗寿次郎 #佐藤史幸 #Kawatsura #Yuzawa #Akita #Japan #Urushi #japanlaquer #Lacquerware #JapanTraditionalCrafts #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro
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tadaisihironori · 1 year
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デスメタルのリフを遅くして、ハードコアパンクの形式にザクザクと刻みを入れてみる(ビートダウン)。またはツービートや横山やすし・西川きよしの漫才のテンポを遅くし、ザクザクと分節した時間を引き延ばしてみる(ダウンタウン)。みたいな書き方をしてみるのはどうか。またはベルンハルトのようにダラダラと思考を冗長に垂れ流すのはどうか。That’s life.
『極道たちの野望』のエスタブリッシングショットが面白い。タイトルからして一見ヤクザ映画だと思うかもしれないが、いや、ヤクザ映画なのだが、これはジャンルとしてはヤクザVシネである。ヤクザVシネを見たことが無いという方は一度動画配信サブスクに入ってワンシーンでもヤクザVシネを見て欲しい。いや、見なくてもいい。見たところで思う何かは人生にとって重要なものとなるにはあまりにも時間が短すぎる。私たちは呆然とする時間などない日常で、剰余価値生産のほんの僅かな間隙を縫って作った政治活動の時間までコンテンツ消費に使わなければいけない。どうせ死ぬのだからと、右翼の街宣車をハイジャックしストサベのHardcore Prideを轟音で鳴らしながら財務省に投石、火炎瓶、そのまま突っ込み身体に巻いていたダイナマイトで爆死する心積もりならば、こんな駄文を読んでいる暇などない。早く行け。俺はやることが他にあるからそれをやってから行く。と、ある友人にメールを打ってからというもの、以下のようなメールが絶えない。急なDM失礼します。ママ活をしたい女性からの問い合わせが多く男性が足りておりません。綺麗な女性が沢山いますので是非この機会に参加してください。ご質問等ある方もLINEを追加してご連絡ください。募集中のママさんを公開していますのでよかったら見てください。今日から募集の方も何名かいらっしゃいます。ご連絡お待ちしております。 ヤクザVシネの見つけ方として、まず動画サブスクの検索バーに「小沢仁志」、「中野英雄」、「清水健太郎」、Fuck「中条きよし」、「白竜」などと打ってクリックすると、怖い顔のジャケがずらっと並ぶと思う。その中でタイトルがどうも「臭う」ものを選んで再生ボタンを押してみよう。またはレビューの星の数が3ないし2以下のものを選ぶとより高い確率でヤクザVシネに辿り着けるはずだ。まずは3分見てみる。すると自分の映画鑑賞史の中で培った映画的感覚が妙な違和感を示すはずだ。何かがおかしい…。アナーキーな整音、虚無な照明、身体性がハイのカメラ、アウトオブコントロールな役者、RAWハードコア解像度、shit美術などなど、カチッと何かにハマってない、どこか外れた感じがあるだろう。非芸術的な粗雑さと細部の欠陥、冗語気味な展開、これがVシネの持つ特有のコンテクストである。俺はこれを多大な賞賛を含んだ意味で「映画の外道」と呼んでいる。その中でもヤクザVシネは「映画の外道」の看板ジャンルである。他にエロVシネや金融系、麻雀系、ヤンキー系、パロディ系のVシネなど色々ある。Vシネとは何なのか?ネットにこう書いてあった。
《Vはvideo(ビデオ)の頭文字》東映が平成元年(1989)に発売を開始したオリジナルビデオ映画。 映画館公開のためではなく、最初からビデオとして発売したり、レンタル店に配給したりするために作った映画作品。 商標名。
1989というとベルリンの壁崩壊、昭和天皇崩御、ジョージ・H・W・ブッシュが大統領就任、天安門事件、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!が放送開始など日本然り世界的にも歴史の転換期となった出来事が起こった年だ。そんな激動の裏っ側でレンタルビデオショップに卸されるためだけに作られたビデオテープの映画作品がVシネというわけだ。今はデジタル化に伴いソフトはDVDとなり、主な販売先は多分ネット配信サービス会社だろう。
『極道たちの野望』は2016年に作られた正統なヤクザVシネだ。竹内力主演で、1997年に竹内力が設立したRIKIプロジェクトが製作、販売?はオールイン エンタテインメントを引き継いだライツキューブである。内容はヤクザ社会の勢力争いと内部抗争がセットになったものと、跡目レース、ヤクネタ、御法度の凌ぎ(シャブ)話がプラスされたものだ。これはヤクザVシネで形式化された話の型の一つだろう。これ系のヤクザVシネはごまんと作られたはずだ。ヤクザVシネにはこうした話の型があるので、その微妙な切り口の差異を「撮影」で見て楽しむ、というのは私の鑑賞方法だが、ヤクザVシネ好きは結構そういう人が多いんじゃないか?例えばハードコア(パンク)も大体の形式があり、その範囲内で微妙な違い、またはパターンや要素の組み合わせを楽しむ音楽ジャンルなので、似ている面がある。ただ、ハードコアは特にメタルと融合することで水平的に発展していった歴史があり、いくつもの派生ジャンルが生まれている。逆に初期のUKハードコアの形式(D-beat)の攻撃性やスピード感はスラッシュメタルに影響を与えている。のちにクロスオーバースラッシュというスラッシュメタルとハードコアが融合したジャンルが生まれるが、パンクとメタルが融合してハードコアに派生ジャンルが生まれまくったその原点は初期のUKハードコアの形式=D-beatおよびDischargeにあると言えるんじゃないか。ヤクザVシネはどうだろう。見ている本数はそこそこあるが、というか沢山見る必要性も感じていない、時代的に時間が有限すぎてとても見尽くせない、けれども、水平的にあらゆるジャンルが派生していった、ということは聞いたことがないし、自分が見ている限り何を見ても全て大体同じではないか?と感じる。先に書いた型を発展をさせずにずっと守り続けているのが、ヤクザVシネということだろう。
撮影技術の極端な洗練されてなさがヤクザ映画のアンダーグラウンド、「映画の外道」の真髄であると言ったら怒られそうだが、洗練されてなさ、愚鈍、crass的な要因は低予算=時間をかけられないという背景にもあるだろう。そのためまだ予算がある程度潤沢だったであろう90~00年代より、(ピンク映画監督の江尻大 a.k.a EJD曰く) 2010年以降予算が付かなくなってからがVシネ業界を非技術によるAnything goesが席捲し、ファン側からするとより益体の無いマニアックな見方ができるようになったという点で「映画の外道」の全盛期と言っていい。以前であれば非技術によるAnything goesのようなものを「映画の(素材の)拡張」と書いていたが、自分の作品でもよく使っていた言葉だが、どこかグローバリズム臭がするんですよね、ローカルを守り楽しむ方法を考えたいと、マニアしかわからなくていいじゃないすか?というかグローバルに誰でもわかることなんかやってねーよってことで使用禁止にしてます。 一方でVシネは無名な俳優が沢山出ていることから雇用を生み出す役目も果たしているように見える。というか、製作側からするとエンターテインメントとしての需要もあるだろうが、雇用を創出することが本来の目的なのではないだろうか。昔からヤクザVシネくらいでしか見ない俳優が沢山いる。しかもあらゆるヤクザVシネが大体同じメンツ、しかもギラついた男のような人間しか出ていないので、非常にホモソーシャルなコミュニティの中で経済が回っているようである。その人たちを食わすためにヤクザVシネが未だ滅びずに存続しているのではないか。また、そのために型を守り続けている、ということではないか。型が発展しサブジャンルが生まれると必要な人材も変わってくるし、元のジャンル自体の資本が分散してしまい、自ずと分配も減る(んじゃないのか?)。ただでさえ日本の映画界はーまあ知らんけどー資金集めに苦労しているのだから。ハードコアのライブに行くとNYHCやビートダウン、パワーバイオレンス、メタルコアなどのモッシュ主体のジャンルや激情系には若い人がチラホラいるが、クラスト、ノイズコア、グラインドにはジジイババアしかいない。というのと同じことで、派生ジャンルが発展すると古いジャンルは淘汰される。この変化や発展を食い止めるための型の保守なんじゃないすか?もしや。大ヒット作『日本統一』シリーズはそんな連綿と続く「終わりなき古き良き労働」の一端から商業的に確変をものにした作品だろう。
先日ヤクザ映画のオーバーグラウンド『新・仁義なき戦い』(2000年)を見返したが、岸部一徳、豊川悦司、松重豊と等価に映る大地義行はやはり凄味がずば抜けている。俳優としてのではなく、魔のような地の凄味だ。大地義行のあのやさぐれた狂犬が魔物に取り憑かれたような威圧感は同じくヤクザ映画のオーバーグラウンド『新・仁義の墓場』(2002年)で菅田俊に詰め寄る時のジャケットのボタンを外すシーンがクローズアップされたカットに集約されていると思っている。なぜあのカットを撮ったのか?多分撮影を指示したのは監督の三池崇史だろう。だがどうでもいい。あのシーンの現場にいる誰もが大地義行のボタンを外す仕草に震えたはずだ。大地義行は京都の自宅にいた内縁の妻を放火で殺した罪により無期懲役になり、今刑務所にいる。罪状が真実であれば鬼畜の所業だ。EJD a.k.a 江尻大から大地義行が嫁を殺して逮捕された!と知らされたのはもう20年前のことだ。現在は無実を訴え再審請求を目指しているようだ。2000年前後、あらゆるヤクザ映画のバイプレーヤーとして活躍していた大地義行が今も娑婆にいられたなら(少しでも尋常さがあったならいられたはずだ)、当時同じく名舎弟役として売れまくっていた山口祥行と「映画の外道」を盛り立てていたに違いない。しかし、今の日本社会または映画界に大地義行のような無頼の塊のようなはぐれものが生きられる場所はどこにもないだろう。この世で生きていくためには地獄へ足を踏み入れるしか術がない人間がいる。リベラルが望む「平等」はこの世に生まれ持った魔物が存在する限り叶うことはないだろう。
なげーから続きは次回。
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oniwastagram · 2 years
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📸湯島天神(湯島天満宮)庭園 / Yushima Tenjin Shrine Garden, Bunkyo-ku, Tokyo 東京・湯島の『湯島天神』(湯島天満宮)の庭園が素敵…! 東京の合格祈願と梅の名所🌸創建は古墳時代と東京屈指の古さをほこり、徳川家康ら徳川将軍家にも崇敬された神社…その日本庭園は現代の庭師の巨匠 #安諸定男 が2010年代頭に作庭。戦災を免れ江戸初期から残る大鳥居は東京都指定有形文化財。 東京・湯島天神(湯島天満宮)庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/yushima-tenjin-tokyo/ // 【存続のためのお願い】 庭園情報メディア「おにわさん」存続のため、新オーナー(組織)を募集しています。詳しくは「おにわさん」で検索し、ウェブサイトよりご覧ください。 \\ ...... 「湯島天神」の通称で知られる『湯島天満宮』は“学問の神様”菅原道真をまつる、東京を代表する天満宮(天神さま)。徳川将軍家に崇敬された江戸時代に建立の表鳥居が東京都指定有形文化財。 境内には現代の作庭家・安諸定男さん(安諸庭園)により2010年代に作庭された梅園・日本庭園があります。 . 東京在住だった頃に一度訪れた記憶はあるけど「庭園」を見た記憶がなかった湯島天神…2022年7月に久々に訪れました! . その歴史は古く、古墳時代の458年に雄略天皇の勅命により創建。そこからだいぶ時間を経て南北朝時代の1355年、地域住民の懇願により菅原道真を勧請し合祀。天満宮となったのはこの時から。 . 一層の発展を遂げたのは徳川家康が江戸に入ってから。1591年に家康が社有地を寄進したほか、江戸時代中期に火災で社殿を焼失した際には五代目将軍・徳川綱吉が金五百両を寄進するなど徳川将軍家に保護されました。 東京都指定文化財の「大鳥居」は鋳銅製で、その焼失から幸運にも逃れたもの。(なお現在見られる社殿は平成年代の1995年に総檜造りで改築されたもの。) . “学問の神様”として多くの学者や民衆に親しまれたほか、歌川広重の『名所江戸百景』など文化的な舞台としても描かれた湯島天神。 『太宰府天満宮』や『北野天満宮』と同じく梅の名所でもあり、その梅園の中には池泉回遊式の日本庭園があります。 . 海外の日本庭園作庭も手掛けられ、過去には大物実業家の出入り庭師でもあった現代の巨匠のひとり・安諸定男さんの広く公開されている庭園としては代表作の一つ。その庭園のテーマは“道真公の理想郷”。 続く。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #tokyogarden #zengarden #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #bonsai #japanshrine #landscapedesign #ランドスケープ #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #東京庭園 #造園 #東京神社 #寺社仏閣 #東京観光 #おにわさん (湯島天神) https://www.instagram.com/p/Ch3kEPXvmzq/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 2 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和四年(2022)7月26日(火曜日)
    通巻第7414号
 カリスマ性ゼロ、教養の浅薄さ。嘘の情報しか入らない孤独
   習近平はいずれ中国現代化の成果をすべて破壊するだろう
************************
 重慶にはよく行った。山あり谷あり。奇岩、高い崖の間に深い谷間、天然の要害都市だ。古代の「巴」という王朝は、この谷間のような空間に成立した。
現代では、孫悟空が空を飛ぶように崖と台地を高い鉄塔を組んだ道路が立体的につなぎ、未来都市のような空中回廊のごとき建築構造物の塊となった。メトロよりモノレールが発達し、橋が交通渋滞の原因。高速道路が無数に交錯する。
 四川省の名物は麻婆豆腐。猛暑で湿気が強く、食べ物は腐りやすいから猛烈に辛い香辛料を使用し、味をごまかす。重慶人は火鍋が得意。何回か食べたが、なじめない。胃袋がよじれる。
巴という古代王国は太陽信仰、成都の北で発掘された三星堆遺跡は古代史常識をがらりと変えた。中華四千年の歴史というのは黄河文明史であり、黄河より遠大な長江には、もっと古い文明があった。河母都遺跡などが戦後しられるようになった。
 地形的には嘉稜江に幾本もの河が合流し、三峡ダムが近いため長江の運搬ターミナルとしても重要な戦略拠点である。駐在員こそすくないが重慶には日本領事館も置かれている。
 蒋介石はこの重慶に臨時首都をおいて、終戦後は共産党と延々と「国共合作」の交渉を行った。会談の場所は重慶に残っているが、蒋介石は最後に毛沢東に巧妙に欺された。重慶は喜びが重なるという意味で政治都市としての機能を果たした。
1997年、この重慶市が四川省から分離独立し「特別市」扱いを受ける。人口が3100万、北京、上海、天津とならぶ四大重要拠点、したがって重慶市党委員会書記は、共産党に序列でも高位、現在は習近平の茶坊主、陳敏爾がトップに居座っている。そのまえは共青団のホープといわれた孫政才が赴任したが、醜聞に巻き込まれ、失脚した。
 前置きがながくなった。
重慶市書記として薄煕来が大連市長から商務部長をへて赴任したのは2007年だった。筆者はたまたま、重慶を二回ほど連続して取材したタイミングと重なり「唱紅打黒」の現場を何回も見たのだ。
 公園に市民が集まってジャズや社交ダンスにふけるのではなく革命歌を唱う。ぎこちない合唱団の時代錯誤、薄気味が悪いが、共産党員は競って歌声大会に邁進した。というのも、薄煕来が奨励し、これが「共同富裕」の合い言葉となって、個人的野心を実現し、政治局常務委員を狙っていた。当時のチャイナウォッチャーの間では、長身でハンサムでカリスマ性に富んでいた指導者として薄の政治局常務委員入りは確実と読んでいた。
 ▲クーデタ未遂、公安vsマフィア
当時の政治情勢をいえば、習近平なぞ、「どこぞの馬の骨」でしかなく、対比的に同じ太子党でも、薄煕来には、明らかなカリスマ性があった。薄は薄一波の息子、かたや習は習仲勲の息子で、ともに親の七光りで異例の出世街道にあった。薄が先輩格であり、習は兄貴分として仰ぎ見ていた。
薄は大連市長から遼寧省省長、2004年に商務部長。そして07年に重慶特別市書記に栄転し、マフィアを相手に綱紀粛正、反腐敗キャンペーンで地元やくざをかたっぱしから逮捕し、重慶市民の喝采をあびた。大連からひきつれてきた公安局長の王立軍が大活躍し、実際にマフィア十数名を処刑した。
この王立軍が、土壇場で薄煕来���裏切り、成都の米国領事館に機密書類とともに駆け込んだ。亡命を希望したが、オバマ大統領は決断が出来ず、多くの権力闘争の機密が漏れて、薄は立場を失った。
2011年に薄煕来は夫人の谷開来が英国人を毒殺したことがばれ、突然、失脚した。カリスマに飛んだ指導者が消え、木偶の坊のように体格だけは良い男が、院政を敷いていた江沢民の眼鏡にかなった。この間に北京ではクーデタ未遂事件が起きたというが、戦車が動いたのは事実で、それがクーデタだったのか、どうかは謎である。
しかし習近平は僥倖に恵まれた。最大のライバルだった薄が不在となって、権力基盤を固めるには、反腐敗キャンペーンという武器を浸かって政敵を潰していく。最大最強の協力者が王岐山だった。
しかし軍と公安をてなづけたとはいえ、習近平に何かがかけている。
それは、カリスマ性だ。薄煕来にはあった。安倍元首相には強いオーラがあったという人が多い。トランプにもカリスマ性があり、オーラを感じた人は多いだろう。いまのバイデンにはない。
過去十年の習近平のパフォーマンスを映像で追う限り、まるでオーロがないことに気がつくだろう、また教養のかけらを感じさせない。
偉そうに思想をかたるときなど、薄気味が悪く鳥肌がたつ。個人崇拝だけを求め、中国の夢をたたえるとき、ぞっとするものを感じないか。
江沢民の三個代表論も、胡錦濤の科学的発展観も、何が何だか正確には分からないが、市場経済を発展させ、中国人の生活水準を豊かにしようとしていることだけはわかった。
 習近平は、「中国的社会主義市場経済」をぶちこわし、トウ小平路線を基本から否定した。この暴走を誰も阻止できない。諫言できないとう皇帝支配のぬきがたい体制は、間違いなく中国経済を根底的に破壊する。
その兆候が銀行の取り付け騒ぎ、不動産ローン支払いボイコット、若者たちの何もしないいう無言の抵抗。解答がすでに出始めている。
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