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#大倉陶園
catdoll007 · 1 year
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🐧🐴🦉🐹🐻🧸🦮🐇🦌🦊
謎のCHRISTMAS✨🎄✨
どうやら 大倉陶園 というメーカーの クリスマスイヤープレートらしい🍽️
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arakawalily · 2 years
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「お疲れさま」を言ってくれるインテリア❗️美味しいコーヒーをもっともっと美味しくしてくれる大倉陶園&ロイヤルコペンハーゲンのカップ☕️おいしい料理をもっとおいしくしてくれるプレート❗️ そこにいる瞬間を特別な体験にさせてくれる不思議な“空間の力”があるお店 自由が丘『アンセーニュダングル』さん 苦味の効いた正統派のフレンチコーヒーがいただける、大人の雰囲気漂う喫茶店です。ハンドドリップで丁寧に淹れていただきました❗️ フードメニューはチーズケーキとクロックムッシュでどちらもコーヒーに良く合います❗️店内にはアンティーク家具やランプが置かれ、食器や小物は大倉陶園、ロイヤルコペンハーゲンで揃えられています。薄暗くジャズピアノのBGMが心地よい。東急大井町線の列車が、窓から見えて、絵になります。 創業35年
アンセーニュダングル 自由が丘さんは、食べログ百名店
ランチ後に立ち寄りました
レンガ造りが落ちつきます❗️ 
東京都目黒区自由が丘1-13-6 
鳥井ビル1F

#カフェアンセーニュダングル自由が丘店 喫茶店巡り 
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#自由が丘喫茶店
喫茶店巡り#荒川リリー#lilystudio
#カフェアンセーニュダングル
#自由が丘カフェ 喫茶店#カフェ巡り#ロイヤルコペンハーゲン #大倉陶園#洋食器好き #器選び#老舗喫茶店 #陶磁器デザイナー荒川リリー (カフェ・アンセーニュ・ダングル 自由が丘店) https://www.instagram.com/p/Cnk20vISK51/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tutai-k · 2 years
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安心して波に乗る
昨日から新刊の紙書籍の予約をはじめた。 試し読みを昨日投稿した。自分ではもうこれが最善で、これ以上どうすることもできない物語だが、世界に開くとなるといまだもだもだと悩んでしまう。 大きなことを語りすぎていないか、単純な日数計算のミスをしていないか、不安はたくさんあるが、「性愛や恋愛を必要としない人」の物語を書いたから、これでいいのかが不安で仕方がない。試し読みではその部分に触れるところまでをいれられなかったので、なおさらだ。 読まれるまで、じっとしているほかないのだけれど、ずっとそわそわしている。
先週、通院の帰りに事故をした。詳細は省くが車がダメになってしまい、修理に結構お金がかかる。新車を買うのはもっとお金がかかるし……。 とにかくこの突然降ってわいたピンチをなんとかしてもらうべく、安乗神社にお参りに行った。 わたしは信仰心のある人間で、宗教は神道なので、困ったことや人生の岐路に立たされたときにはとりあえず神社に参拝にいく。(信仰と情勢、政治的なスタンスで引き裂かれることがないとは口が裂けても言えない。信仰と自分自身の信条についてのことは友人に勧められて読んだ『呻きから始まる』のことと絡めていつか言語化できればいいなあと思う) 安乗神社は小さな神社だ。拙作『浜辺の村でだれかと暮らせば』のモデル地のうちの一つの灯台とカフェがある公園のすぐ近くにある。 参拝客はそのときだれもいなかった。 参拝のときにほかに客がいないと、その神社の神様に歓迎されているとかいう俗信もある、ありがたいことだ。 懇ろに世界平和と、小説を書き続けられること、それから車のことがなんとかできるようにと、来年からの新しい仕事の波にも乗っていけますようにと祈る。 祈り終えて、お守りを授けてもらおうとしていたらちょうどそこに人が歩いてきた。挨拶をすると、神主さんらしい。 年末のお祓いに氏子の家々を回っていたが、雨が降ってきたので引き返して来ました、とのことで、本当にタイミングがいい。 こう言うとき、信仰心というのはふっと香るようにはじけるもので、偶然にせよなんにせよ、神様はこの神社にちゃんといるんだなあと思う。
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波乗守(「安」全に波に「乗」るお守りとしてサーファーから信仰が篤いのと、漁師・海運の波に乗りたいというひとなどからも信仰を集めている)を授けてもらう。フグが有名な土地なので、おみくじがフグの陶器の人形だった。かわいい。おみくじも引く。
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実は前回愛知県の大縣神社で引いたおみくじに「旅行はよろしいが、交通事故には注意しなさい」と書かれていた。 事故は旅行の直後のことで、当たるものだなあと思った。 フグおみくじの内容は、前回とほとんど変わらず「人を助けることで、良い運が開かれる」とのことなので、これがわたしの基本的な「現在の運勢」なのだろうと思う。
その後、雨は降っていたが、家族を病院へ連れて行き、時間があったので先週の探鳥会のルートを一人で回る。前回は会えなかったカワセミを見つける。じっとしていて、独り占めだった。
家族の病院が終わると、ナルミの陶器市へ。 家の近くにナルミのファクトリーがあり、年に二回、倉庫市が開かれる。 素敵な食器が特価(カップとソーサーセットで300円!とか、サラダボウル4枚セットで1000円!とかある)で買えるので、一年に一度は行く。 今回は、前回購入して割ってしまったスープカップの代わりを探しに行く。緑色で、鳥が書いてあるのがあったので、これをえらぶ。明日からはこれにスープを入れて毎朝飲むのだと思うとワクワクする。
帰宅してから、事故の保険の申請書などを書く。 遠い昔につくった実印を探していたら、一ページしか読んでいなかったカズオ・イシグロの『遠い山なみの光』が出てきた。これも縁だ、年越し読書本はこれにする。
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kachoushi · 27 days
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各地句会報
花鳥誌 令和6年9月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和6年6月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
切り通し省線吹きし若葉風 軽象 蜘蛛の囲に閉ざす社の狐たち きみよ ことごとく夏蝶となる水飛沫 緋路 白あぢさゐ女ばかりに愛でられて 和子 黴の間の亡者に点るシャンデリア 光子 夏の子はジャングルジムに天下とる きみよ 飛鳥山生まれ育ちの蟻の列 三郎
岡田順子選 特選句
乾きたる蛇口の先は夏の雲 緋路 黒南風やおづおづ開くみくじ歌 昌文 南天の花棲み古りし街の隅 美紀 黴の間の亡者に点るシャンデリア 光子 途切れなき列車音聴く四葩かな 風頭 ががんぼ来オルガンの鳴り止みてより 緋路 葉脈の青き稲荷の額の花 小鳥
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月1日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
たてがみに綺羅したゝらせ競べ馬 かおり 負馬の負けを恥ぢざる眼の涼し たかし ユーミンの曲初夏の競馬場 美穂 負馬の誰にともなく息一つ 成子 鬼瓦の鼻ふくらめる若葉風 愛 熱砂駆け鼻息荒し佐賀競馬 たかし 競べ馬シャガールの馬天を駆く 修二 薔薇園にダイヤモンドのやうに雨 愛 勝馬に寄り添ふ笑顔女騎手 久美子 楽屋口より美しき絽の裾捌き かおり バンクシー赤い風船追ふ少女 修二 萍の沈黙にある水一枚 朝子 鞍壺に託す一戦競べ馬 久美子 蟻は蛾を人は柩をかかげゆく 睦子 早苗田の水の世界を行く列車 愛 紫陽花やすこしはなれて宇宙船 睦子 ひつそりと咲くこと知らず濃紫陽花 たかし
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月3日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
短夜の沖に生活の灯のともり かづを 短夜や和尚偲びて尽きぬ宿 笑子 黒南風の精舎を昏め沈めをり 希子 十薬や花明りして父祖の墓地 匠 網を引く明易き浜声合はす 同 悠久の光を溜めて滴りぬ 泰俊
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月6日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
麦の秋鳥の旋回しばし見ん 喜代子 黄金を刈り取る如き麦の秋 由季子 短夜に一夜の旅の用意せる 都 麦秋の大地を分ける鉄路かな 同 逝きし人思ひ起せる虹の橋 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月7日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
体内のおほかたは水田水張る 都 湯上りの鏡を閉ぢて蛍見に 美智子 麦秋の金波を運ぶ風頰に 宇太郎 春雨にすつかり濡れて泣黒子 悦子 杜深しすだまの降らす花樗 美智子 校庭に名札を付けたミニトマト 佐代子 南天咲く早世力士悼みては すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月8日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
空晴れて植田始まる農学部 亜栄子 一村に水ゆきわたり植田かな 百合子 としあつ師偲ぶ薄暑の石仏 教子 枡形の山気を吸ひて蝸牛 三無 下闇や気づけば猫の傍に 白陶 紫陽花の青き滴を受ける句碑 三無 月光をのせて十薬母の逝く 幸子 奥信濃瀬音まじりに河鹿鳴く 美枝子 故郷は懐深く初夏の旅 教子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月10日 なかみち句会
老鶯の声高らかに姿なく 廸子 老鶯や森の静けさ澄み亘る 聰 網戸開け小さき一匹逃しけり 貴薫 書を開く網戸の風の良き加減 三無 緑陰の􄼱間の光踏み遊ぶ のりこ 緑陰や刹那休らふ盲導犬 美貴 緑陰の森歩す空気異次元へ ます江 緑陰に入れば降るもの香るもの 怜
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令和6年6月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
風鈴を今年は出さうかと思ふ 昭子 石庭の砂紋に僧や水を打つ 時江 麦秋や己は小作小百姓 世詩明 万緑の真つ只中で友となる 三四郎 玻璃に付く守宮の目玉大きかり ただし ぬけぬけと嘘吐く男草虱 世詩明 堰音の六月の水裏返す ただし 田植済み静かな寝息一村に みす枝 一望の青田や下校チャイム鳴る 時江 野仏の一重まぶたや著莪の花 ただし サングラス外して白き歯を見せる 昭子 音もなく崩れる雲の峰一つ ただし 僧逝きて幾年寺の木下闇 英美子 緑蔭の不開の門や鐘響む 時江 菖蒲の湯頭脳ゆつくり休ませり みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月11日 萩花鳥会
久々の娘とのドライヴ花菖蒲 祐子 夢誘う伊豆の旅寝の夕河鹿 健雄 薫風に一味添へてウイスキー 俊文 能登思ふ絆の祭始まりて ゆかり 太陽の恵み包みし枇杷すゝる 吉之 夕立の雲が覆ひし我が旅程 明子 鮎解禁河原で塩焼き白むすび 美恵子
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令和6年6月11日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
黒い線行つたり来たり蟻の道 紀子 内緒話浜昼顔がそつと聞き 同 初夏や日々の葛藤過ぎゆきて 光子 畳紙に包まれし物黴にほふ あけみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月16日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
紫陽花のしづくを朝日移ろへる 千種 木道の谷戸田の隅に余り苗 幸風 木下闇これより先は獣道 慶月 夏草や弥生時代の息遣ひ 三無 水無月の木霊に道を迷はされ 千種 里山の道標なる立葵 ます江 濃あぢさゐ彩を増す夜半の雨 幸風 半夏生白く人声遠くせり 千種 夏蝶の白の大きく森に消ゆ 慶月 木道に釣り糸垂らす夏帽子 経彦
栗林圭魚選 特選句
鳴き交はす鴉に梅雨の森深く 要 滑り台順番を待つ夏帽子 経彦 今年竹撓ひて風の行方追ひ 三無 雨上るもりの朝やねむの花 芙佐子 紫陽花や森の匂ひに深呼吸 ます江 万緑や森に命を繋ぐ雨 亜栄子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
露草に一輪挿の織部かな 雪 白鳳の野々宮廃寺跡 同 僧偲ぶ僧の手描きに絵団扇に 同 夏蝶の祈るが如し辻地蔵 同 終電の汽笛編戸を通し聞く 英美子 竹落葉散る音を聞く真昼時 同 毛虫焼く南無阿弥陀仏唱へつつ みす枝 咲いてをり咲きかけてをり七変化 かづを 白寿まで闘志抱きて更衣 清女 鷺一羽思考してをり青田中 やす香 売れ残る金魚に疲れ見えにけり 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月19日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
青葉木菟夜を鳴かねばならぬかに 雪 五右衛門の煙管煙を吐ける山車 同 籠枕夫の遺せし油の香 清女 短夜を添ひ寝の犬に鼾きく 同 蜘蛛の囲の細きにかかるものは何 啓子 懐しき人に逢ふ夢明易し 笑子 風鈴の音とはならぬほどの揺れ 希子 短夜や星を眺めて聴く話 隆司 浴衣着て祭囃子の音に酔ふ 同 風鈴もそれぞれの色兄妹 和子 雨欲しきあぢさゐに色無かりけり 同 今夜だけ風鈴しづか話さうよ 令子 短夜や時の静かに広��りて 千加江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和6年6月21日 さきたま花鳥句会
刺身盛り紫蘇一枚の境界線 月惑 路地裏の暮色に媚びる七変化 八草 夏見舞幼き文字に磯の風 裕章 草刈りの終へて現はる地平線 紀花 麦秋の風入れカフェの読書会 康子 梅漬けの重石に亡夫の酒の瓶 恵美子 たまゆらの時をあづけて啼く河鹿 みのり 麦の秋うねる大地の広々と 彩香 地に影を一瞬黒く夏つばめ 良江
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令和6年6月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
白鬼女の渡しと伝へ草茂る 雪 欠け初めし月に崩るる白牡丹 同 尻重な返事のいまだ梅雨に入る 同 山笑ふ声に呑まれてしまひさう 同 高層のビルに飛び込む夜這星 世詩明 夏旅に背中合せの駅の椅子 同 風遊ぶままに青田の百面相 同 極楽の風吹く寺に夕端居 ただし 朝倉の水の音する青蛙 同 音もなくむくりむくりと雲の峰 みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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arakawalily · 2 years
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先日行きましたSCAJのブラジルブースでいただきました、ゲイシャをフレンチプレスで淹れてみました❣️華やかで甘く香り高く、どこまでもまろやか〜〜☕️🌰友人のお土産のケーキと良く合いました❗️#santuario#santuariosul #ブラジル#geisha#ゲイシャ#ゲイシャコーヒー #フレンチプレス#フレンチプレスコーヒー #大倉陶園 #ブルーローズ #lilystudio https://www.instagram.com/p/Cj6WQItyoF5/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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milehighdad · 1 year
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豊臣秀頼、淀君ら自刄(じじん)の地。 1615年8月5日、大坂夏の陣にて落城。火を放って自害したため誰であるかはわからない状態だった、吉光の短刀(秀吉から与えられたもの)のそばにあった首のない遺体を秀頼と確認した。 昭和55年、大坂城西側、外堀北側(豊臣時代の二の丸京橋口前の郭)発掘中に頭蓋骨を発見。貝(当時は身の入ったもの)を敷き、織部焼や唐津焼の陶器(当時の高級品)。などの副葬品も出土。鑑定の結果、20−25歳の男性と判明。さらに大型馬の骨も見つかっている(170センチ以上のアラブ系の馬だった。当時の馬は蒙古系で現在の仔馬程度、徳川秀忠の馬でも160センチ。)。豊臣秀頼は大柄で180センチ以上の大男だったと言われている。江戸時代の書物、明良洪範(めいりょうこうはん)には、197センチ、161キロという記述がある。秀頼は当時太平楽という大型の馬に乗っていた。この頭蓋骨は、豊臣家ゆかりの京都清涼寺に首塚が作られて埋葬された。 薩摩、琉球に逃亡したという生存説もある。
大坂の陣の後にうたわれていたわらべ歌。 花のようなる秀頼さまを鬼のようなる真田がつれて退(の)きも退いたよ加護島へ。 鹿児島の谷山には、秀頼の墓がある。当時、「谷山の酔喰(えいぐら)」と呼ばれていた、常に酔っ払って無銭飲食を繰り返す男がいたが、国主から手出し禁止というお達しが出ていて、住民から秀頼ではないかと噂されていた。 秀頼の兄弟 羽柴秀勝(石松丸 −1576)。実子か養子か不明。 長浜の曳山祭(4月15日 ひきやま、京都の祇園祭、高山の高山祭と並んで、日本三大山車祭りに数えられる)は、1574年に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたという伝承がある。 豊臣鶴松(−1591)。淀殿が生んだ長子。3歳で病気で亡くなる。 秀頼の正室。 千姫。徳川秀忠。江(信長の妹、お市の娘。淀殿の妹)の娘。7歳で秀頼と結婚。大坂城から脱出。天秀尼(秀頼の娘)を養女にして命を助ける。本多忠刻(ただくに 1596−1626 姫路藩藩主、本多忠勝の孫。宮本武蔵が師事)と再婚。姫路城に移り、播磨姫君と呼ばれた。夫が亡くなった後、江戸城に移り、70歳まで生きる。千姫事件。 秀頼の子供。 国松(母親は側室の伊茶)。6歳の時に初めて秀頼と面会。8歳の時に、捕らえられて市中引き回しの上斬首。 国松生存説。 真田大助(幸村の嫡子)と共に九州に逃亡、生存説あり。 木下延由(のぶよし-1614)=国松説。 木下延俊(ねねの兄の息子)。豊後国(大分県)日出(ひじ)藩初代藩主。国松を四男の延由と名前を変えさせ、息子として育てた言い伝えがあるという。 木下延由の位牌には俗名「木下縫殿助豊臣延由」と記させている。四男という立場で5千石の領主に抜擢、上級旗本にも命じられ、羽柴姓も与えられている。
他の秀頼の子供 天秀尼(てんしゅうに)、鎌倉にある東慶寺で仏門。 求厭(ぐえん -1688)。増上寺の僧。80歳でなくなる前に国松の弟、秀頼の次男であると明かす。
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keenywong · 1 year
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作家曹長青先生三年多以前發表文章,題為���中國成立以來殺人記錄——不能忘記,不能饒恕》。曹長青先生通過各方資料的匯集和自己的研究,認為中共建政以來非正常死亡人數可能多達八千萬。曹長青先生這裡所說的非正常死亡,沒有包括至少多達三億六千萬在強制計劃生育中被虐殺的胎兒和嬰兒。
以下請聽幾位研究者分別就他們的研究範圍,談談這69年裡的一些非正常死亡。
*阮銘:“三年大饑荒”和“文革”是毛澤東生前對老百姓損害最大的時期*
曾經參與起草《中共十一屆三中全會公報》的原中共中央黨校理論研究室副主任、後在台灣淡江大學任教的美國普林斯頓中國學社研究員阮銘先生接受我採訪時談到,毛澤東時代“大躍進”、“三年大饑荒”和“文化大革命”對老百姓的損害和其間的非正常死亡。
阮銘:“毛澤東生平對老百姓損害最大的,一個就是'三年大饑荒',一個就是'文化大革命',在歷史上是不可以原諒的。
這樣的'文化大革命'不但犧牲了許多共產黨的干部,實際上犧牲更多的是老百姓,特別是1968年的武鬥,犧牲了多少老百姓! '大饑荒'主要是餓死人,三分天災七分人禍。人禍中最根本的就是毛澤東的'大躍進',到現在, 統計數字中共也沒有公佈,現在估計有兩、三千萬人,當然也有估計到四千多萬的。” *丁抒:“大躍進”的“大饑荒”究竟餓死多少人,難以準確計算*
在美國一所大學任教授的中國當代史研究專家、著有《陽謀》和《人禍》兩部書的丁抒博士公佈了有關“大躍進”、“大饑荒”期間中國大陸餓死人數的研究報告。 丁抒:“'大躍進'期間中國究竟餓死了多少人,真實的死亡人數很難準確計算,因為當時在死亡數字上弄虛作假是普遍現象。那時候,河北省張家口地委第一書記胡開明,每天早晨第一件事就是詢問本地區死人的情況。下屬向他請示'餓死人的數字是不是可以少報一點?'原因是有的地方死了人不報告,結果不但受到了上邊的表揚,而且死人的那份口糧還可以繼續領,這叫吃空額。而張家口報一個死亡,減一份口糧,報一次死亡,受一次批評,因而各省上報國家統計局的死亡數字,已經是縮了水的。 當時擔任國家統計局局長的賈啟允說:'全國各級統計部門都在各級黨政機關領導下工作,統計數字直接受到各級黨政領導人主觀隨意性影響,計劃部門可以修改統計數字,統計數字很難搞得準確。由此可見,全國各地真實的死亡人數很難準確計算。'” *丁抒:幾個餓死人較多的省份、地區* 安徽省—— 丁抒教授談到當時幾個餓死人較多的省份。
丁抒:“安徽作家張萬舒曾經這樣記述'一九六零年,雖然風調雨順,由於生產力受到嚴重摧殘,田園荒蕪,大批人口外逃死亡。據定遠、鳳陽、嘉山三個縣1961年的統計,共減少了四十多萬人。' 1990年中國農業部政策法規司司長郭書田說:'根據我們八十年代初考察過的安徽鳳陽等縣的情況,當時餓死的人大約佔全縣總人數四分之一左右,即有近十萬人餓死在那場人為的饑饉中。其中有一個人民公社,每三個人死了兩個。' 1958年9月,毛澤東視察安徽的時候,曾經對無為縣最早實行'供給制'大加誇獎,可是就在一年以後,無為縣竟成了人間地獄,該縣餓死約二十萬人。 《儒林外史》的作者吳敬梓的老家全椒縣,1960年���口非正常死亡四萬餘人,每六個人中就死了一個。
北京大學現在一位教授當時在全椒中學讀書,1995年他對友人回憶道'我1960年上初中時,是在縣城上學,每月有三十斤口糧,而我的養父母在我上初中時都餓死了。我家所在的村是個大村,村里至少餓死了三分之一。我的同齡夥伴,沒(在縣城)上學的,差不多都不在了。' 這裡要說明一下,當時,凡是在縣城裡上中學的,都有定量口糧,所以餓不死,而沒有上學在村里的,差不多都餓死了。
這位教授還說'我上中學的時候,路邊全是死人,有的還有氣,沒人管,有的村人都死光了。'” 甘肅省—— 丁抒:“1986年時的中共甘肅省委第一書記李子奇說'三年困難時期,甘肅有很多人死於飢餓,主要集中在隴中地區。' 作家麥天樞在作了大量調查以後,得出結論說'隴中大饑饉餓死近百萬居民。'實際上,甘肅非正常死亡的下限是一百三十萬,接近二百萬。” 河南省、山東省——
丁抒:“當時,河南有幾個事件,其中最嚴重的是信陽事件。全國第一個人民公社出在信陽,餓死人信陽也是第一。信陽地區的非正常死亡數,如今官方公佈的是五十萬,但這與各縣分別披露的數字不符合。值得一提的是,中國第一個人民公社——河南遂平縣查岈山人民公社餓死了四千人。六個縣的非正常死亡人數接近五十萬人。而在信陽地區,這樣的縣、市還有九個。 1960年11月12日,副總理李先念和中南局第一書記陶鑄率領工作組到達信陽。調查五個月以後,陶鑄在一次講話中說'我看死亡數字就不要再統計下去了,已經一百多萬了。' 山東的情形與河南差不多,餓死人在二百五十萬到三百萬之間。” 貴州省——
丁抒博士的報告中說“被稱為革命聖地的遵義成了人間地獄。” 丁抒:“遵義是所謂革命聖地,以1935年1月中共在此地開會,毛澤東奪得領導權而聞名。但是,毛澤東革命成功十年以後,遵義地區卻成了人間地獄。農民成批成批的餓死,有的地方全家全家的死絕,成堆成堆地埋人。遵義縣僅僅在1960年內就死了七萬一千八百多人。 1960年春,貴州省檢察院將遵義分院報告的餓死人、人吃人的情況寫進簡報,向最高人民檢察院反映。省委一聽說,立即下令收回,可是晚了一步。所以北京還是知道了'遵義事件'。
四月間,中共中央監察委員會副書記帥孟奇曾經打電話,要貴州省委監委匯報遵義死人的情況。七月三日,省委書記李景膺向國務院副總理譚震林匯報遵義事件說,遵義地委存在著嚴重的官僚主義。可是,當李景膺親自去遵義處理'遵義事件'時,只是將幾個縣委書記撤職了事,而將遵義黨委書記李蘇波上調到省裡,當了省計委副主任。” 四川省——
丁抒:“'天府之國'四川死人最多。四川是'大躍進'人禍危害最烈、災難最嚴重的省份之一。 1958年3月21日,毛澤東在成都主持會議、發動'大躍進'的時候,曾經興致勃勃地驅車到蓮花村和都江堰參觀,感嘆道'灌縣是個好地方嘛,山清水秀呦'。拜都江堰所賜,灌縣兩千年來一直旱澇保收,就在這個從來不曾被饑饉光顧的好地方,四萬人餓死,成了'大躍進'的犧牲品。 1958年3月16日,毛澤東曾經視察過郫縣紅光合作社。'紅光社,開紅花,毛主席到了我們的家...'這是當時郫縣乃至全四川的學童都得會背誦的歌謠。可是兩年以後,就是這個紅光社,人口竟減少了一千二百四十五人!佔該社人口的百分之三十一。多少唱過《毛主席到了我們家》的學童,成了毛澤東人禍的犧牲品,活活被餓死! 1959年曾經宣布糧食要平均畝產萬斤的富順縣,餓死十萬餘人,每七個人中就死了一個。長江三峽以巫山神女聞名的巫山縣,每六個半人裡就餓死一個人。大邑縣死亡率更高,每五個人裡就死了一個。四川榮縣六十萬人口,有四分之一餓死在那場空前的大饑荒中... 全國的人口,四川第一,非正常死亡人口遠遠超過任何一個省份。整個'大躍進'期間,四川餓死的人數高達八百一十萬,每九個人裡就死了一個。” 廣西壯族自治區—— 
丁抒先生說,'魚米之鄉'一樣餓死人。他以1958年曾經放出'水稻畝產十三萬斤'的全國頭號'高產衛星'的環江縣為例。
丁抒:“環江縣1960年餓死了三萬人,不少人家絕戶,不少村莊絕村。最後居然出現活人吃死人,活人吃活人的事件,甚至在街上有人公開擺賣人肉!” 江蘇省—— 丁抒:“從南京往南不到一百公里,在石臼湖與固城湖之間,有個很富庶的高淳縣。從1959年上半年起,高淳就已發生了嚴重的餓死人事件,省公安廳廳長洪沛霖親自赴高澄調查後,回到南京談起高淳的情況說'農民一家家死亡,有的村莊人都死得差不多了,還剩幾個人,何等慘哪!' 長江北邊的江都縣,這個富庶的水鄉,三年間餓死了三萬八千四百人。江蘇北面的高郵縣,餓死了三萬七千多人,其中一萬七千多是兒童。全國到處餓死人,哪個省都不例外。” 黑龍江省——
丁抒:“地廣人稀的糧倉黑龍江省,當時的所謂'右傾機會主義分子'、原水電部副部長李銳,在虎林縣興華村勞動。據他回憶,1960年秋收前後,村中就開始死人。他說'有一個同我一起駕牛車拉草回來的老漢,第二天沒有起來,躺在炕上走了。有一個同我很談得來的老頭,去世前只說'我想喝一碗稠稀飯'。1961年年初,我離開興華村時,村中已經餓死了二、三十人。' 北京通縣—— 丁抒:”偉大領袖所在的北京也不例外,郊區農民是被犧牲的一群。從天安門前的長安街向東,出了城就是通縣,縣委第一書記劉柘事後這樣承認說'當時,通縣的大鎮永樂店有'三多',墳頭多,墳上白紙錢多,穿白鞋的多。'” *丁抒:引用歷年學者公佈的數字*
丁抒:“首次提及大饑荒的'非正常死亡數字'的是叢進的《曲折發展的歲月》一書。他說當時'非正常死亡和減少出生的人口數在四千萬人左右'。 1993年,上海大學社會學系辦的學術刊物《社會》刊登了一篇金輝的《三年自然災害備忘錄》,公佈了他以中國國家統計局發布的數字為依據分析的結果——'僅僅中國農村的非正常死亡數就可能達四千零四十萬人'。 1996年英國記者貝克出版的《餓鬼》這本書裡說,中國當時'至少有三千萬人飢餓致死'。 我又根據中國政府新公佈的人口統計數字,重新作了計算,我得出的結論是,中國在'三年大饑荒'中至少餓死了三千萬人。” *丁抒:文革“紅色恐怖”,死亡人數最集中的第一個時期*
丁抒博士說到“文革”中的非正常死亡者。
丁抒:“'文革'中死人有幾個高潮。第一個高潮是1966年的'紅色恐怖',從六月到八月那一段,伴隨著抄家的是拷打,進而殺戮以'黑五類'分子為主的牛鬼蛇神。在中國大地上,從來不曾有那麼多人在那麼短暫的時期內,死於最古老的刑具——棍棒和皮帶。全國在這場'紅色恐怖'中被殺的,應該不下十萬人。” *丁抒:中國史、世界史上空前的自殺高峰*
丁抒:“更多的人自殺了。在中國,甚至世界歷史上,還從不曾有過如此多的人在那麼大的範圍內,用那麼多的法子結束自己的生命。 8月24日,作家老舍在(北京)太平湖投水自殺。接著,許多人選擇在太平湖了結了自己。短短的一個星期之內,有成十上百的人在這裡投湖。估計'文革'初期自殺的人數在十萬到二十萬之間。” *丁抒博士:“文革武鬥”是“文革”非正常死亡第二波高峰*
丁抒:“1967至1968年的'武鬥',是'文革'期間非正常死亡的第二波高峰。有的地方群眾組織之間的武鬥引起當地軍隊鎮壓,造成大批傷亡。武鬥需要武器,許多情況是在軍隊支持下明搶暗送,半送半奪,或者乾脆就開放兵器庫任意拿。 毛澤東、周恩來知道軍隊發槍支持武鬥—— 丁抒:“所以,毛澤東1872年6月28日,毛澤東會見斯里蘭卡總理班達拉奈克夫人的時候對客人解釋說'武鬥,兩邊都發槍,一共發了一百萬支槍吧。這一派軍隊支持這一派,那一派軍隊支持那一派,打。'。周恩來在旁邊解釋'名義是搶槍,實際上是發槍。' “文革”武鬥虐殺俘虜——
丁抒:“虐待俘虜是'文革'中武鬥的一大特色,武鬥中死亡者相當大一部分是被虐殺的戰俘。比如,河北雄縣三十八軍支持的那一派,動用大砲攻打對立面。攻克對方據點後,將婦孺用鐵絲串起來,男的穿肩胛骨,女的從肛門穿進,從陰戶穿出。遊街之後,全部槍殺。 陝西安康縣武鬥中,亂打亂殺俘虜二百八十六人,包括用長矛殺戮,用刀砍,用石頭砸,用槍打,以及絞死;還有讓被殺者背炸藥包、手榴彈自己炸死。安康縣甚至在一次審訊中活埋了十三個人。 武鬥使人變野,視人命如草芥——
武鬥使人變野,視人命如草芥。四川內江市竟然有人因為與人交換毛主席像章而發生爭執,拉響了一顆手榴彈,炸死二人,炸傷四十九人。
兩年多的武鬥期間,全國非正常死亡的人數應該在三十萬以上。” *丁抒博士:清理階級隊伍——文革中死人最多的時期*
全國兩千餘縣,平均每縣有一百人死於“清理階級隊伍”—— 丁抒:“1968年至1969年的'清理階級隊伍'是毛澤東和周恩來聯手'橫掃一切牛鬼蛇神'的高潮,是文革中死人最多的時期。全國兩千餘縣,一個縣平均有一百多人死於'清理階級隊伍'。在'清理階級隊伍'中有幾個大案子,每個案子都死了相當多的人。” 內蒙抓“內人黨”—— 丁抒:“1968年2月4日,康生指示在內蒙古抓'內人黨'(內蒙古人民黨),在整個內蒙古地區和內蒙古軍區有三十四萬六千餘人被審查,揪鬥和關押,其中四分之三是蒙古族人。因刑訊逼供而終身殘廢的多達八萬七千一百八十多人,被整死的有一萬六千二百二十二人。 江西省萬年縣“群眾專政指揮部”酷刑—— 丁抒:“按照毛澤東'專政是群眾專政'的指示,各地都層層建立了所謂'群眾專政指揮部'。以江西萬年縣為例,'群眾專政指揮部'所採用的刑罰種類有:捆綁、吊打、壓槓子、站凳頭、跪瓦片、坐老虎凳、坐噴氣式、銅鐵烙、灌吃大糞、開水澆頭、大熱天反穿羊皮大襖、太陽曝曬等數十種。 大黃公社一位女醫生被誣衊為現行反革命,被揪出來,用電觸奶頭、用開水澆陰道,當場昏死。 據縣公安局統計,全縣被打死和迫害致死的有二百一十四人。
在'清理階級隊伍'中被整死的人數多於武鬥和文革初期的'紅色恐怖'。粗略估計,死於'清理階級隊伍'中的人數應當在五十萬以上。” *丁抒博士“一打三反”——“文革”期間另一個死人高潮*
丁抒:“1970年代'一打三反'運動是另一個'文革'期間死人的高潮,是當局所謂'依法'槍決反革命分子的高潮,也是文革十年間官方殺人的集中期。所以,'文革'結束後,最高人民法院向中共中央報告說,1970年代'一打三反'運動中錯判死刑最為突出。寧夏錯殺的七十人中,一九七零年判處的就有六十八人。天津市錯殺的二十八人中,一九七零年判處的就有二十二人。” 槍決“反革命分子”之前使其發不出聲音—— 丁抒:“槍決'反革命分子'之前,使其發不出聲音的作法在全國大行其道。上海交響樂團指揮陸鴻恩因為塗寫《毛主席語錄》,在'一打三反'中被槍斃,在押往刑場前,他的喉管被割斷。 海南島白沙縣槍決女醫士官明華之前,用一節竹筒塞進她的嘴裡,穿上鐵絲,扎在腦後,使她發不出聲音來。當局在槍斃遼寧省女幹部張志新前,也割斷了她的喉管。 獄中晨四點拉鈴,放“樣板戲”,用手點人拉去殺—— 丁抒:“據被誣為'里通外國'的畫家韓美林回憶他當時在安徽淮南市,監獄中一殺人,就清晨四點鐘拉鈴,然後幾個高音喇叭同時播放樣板戲,凶神惡煞般的劊子手就進來拉人,(用手一個個點):'你!','你!','你!',而後是驚天動地人的哭叫,隨著是一陣懾人魂魄的槍聲。” 文革期間三場運動非正常死亡數在十萬至二十萬之間—— 丁抒:“'清理階級隊伍'、'一打三反'和'清查五一六'這三場運動,一個連著一個,幾十萬無辜的干部、群眾被打成'叛徒'、'特務'、'現行反革命'和'五.一六份子',成千上萬人被致傷、致殘、致死。這場運動的'非正常死亡數'也應當在十萬至二十萬之間。 以上談的僅僅是'文革'中幾個大事件的非正常死亡,概而論之,'文革'中非正常死亡人數至少在二百萬,或許高達三百萬。”
*陳光誠:數以億計在強制計劃生育中被虐殺的胎兒、嬰兒*
聽眾朋友!在以往談及中共建政以來非正常死亡的時候,很少談到那些因強制計劃生育而被虐殺的胎兒、嬰兒和連帶被波及失去生命的母親,或其他親人。
現在在美國天主教大學等機構從事研究工作的中國盲人人權活動人士陳光誠先生多年反對強制計劃生育,並且作過大量調查研究。
陳光誠先生說:“這個邪惡的反人類政策是從1979年開始,算起來有39年了。中共曾經通過衛計委有一個公開的說法,說他們這三十幾年的計劃生育在中國一共虐殺了三點六億多胎兒。這個數字當然是非常非常驚人的,在現實當中我相信數字遠遠比這個要大。因為有很多數字……因為這個政策死亡的都沒有被統計進去,這個(數字)只是被他們通過強制墮胎殺掉的這些孩子。”
*陳光誠:不被准許出生的生命和他們被株連戕害的親人們*
陳光誠:“事實上中共在執行這個邪惡政策的時候由於推行株連的政策,所以就導致了很多懷孕夫婦的親人也遭到株連,有些也就搭上命的,經常聽到。除此以外,中共在強制執行這個政策的過程中,有時也對懷孕的婦女……甚至她家裡的人……比如說,他要你去墮胎你不去,有的就開著拖車或者大型拖拉機,就把你的房子拴上鋼絲繩拉倒,在這個過程中,有的人為了保護自己的家,以為中共你總不能把我砸死在裡邊吧。但現實中還真就有這樣的事情,你不出來,中共他就把房子拉倒,家人就被砸死在房子裡……
像這樣的一些人的死亡,完全就不在共產黨公佈的這個數字裡。
還有的直接就去抓別人,抓她的親戚,'因為你的親人違反計劃生育,那我就把你也抓起來'。別人就覺得'你憑什麼抓我呀?這又不是我的事情!'然後就反抗,反抗過程中被中共整死的也時常會聽說。”
*陳光誠:“暴力計生”如何殘殺在母腹中生存三個月以內的胎兒*
陳光誠:“中共對自己統計的這超過三點六億孩子的虐殺方法,描述起來當然是非常殘忍的。
一般懷孕三個月以下的婦女被強制拖到'計生委'以後,就逼著她們簽署一份《知情同意決定書》。然後就通過一個專門墮胎的機器插到婦女的子宮裡把孩子攪碎,然後吸出來。”
*陳光誠:“暴力計生”如何殘殺已在母腹中生存三至六個月的胎兒*
陳光誠:“一般來說,超過三個月以上的孩子他們就採取一種叫'引產',就是打針。當然這個方法也有不一樣,有的是打催生針把孩子催下來,有的直接把毒藥打到孩子頭上,讓孩子在胎裡就死了,然後再生下來。”
*陳光誠:“暴力計生”如何殘殺在母腹中生存六個月以後離開母腹還活著的嬰兒*
陳光誠:“對於(懷孕月份)更大的,有一點不一樣。因為超過六個月的孩子一般都能活,有時就直接採取催生。催下來孩子還活著,醫院再採取手段把孩子殺掉。比如有的孩子生下來,醫生或護士不給把他嘴裡的東西清出來,然後裝到塑料袋裡把口��上悶死他。有的孩子生命力非常強,生下來你不給他清理,他自己也喘氣了,肺(的功能)也打開了。這個時候'計生'們就會採取一些……比如說,抓著孩子的頭,抓住孩子的身體一擰,把脖子擰斷了,孩子就死了。有的就頭朝下扔到一個水缸裡淹死。還有一個非常殘忍。事先弄一個小小的、淺淺的有點像盆子那樣的東西,裡邊放一些酒精,孩子如果比較大被催生下來還活著,就把孩子的臉、鼻子嘴往酒精裡一按,一下子就嗆死了,那是非常非常殘忍……”
*陳光誠:母親懷胎數月後,看一出生即被虐殺的孩子被擺在自己身邊的心痛*
陳光誠:“共產黨做這樣的事情,在這個過程當中已經……讓那些醫生護士殺人就覺得是很正常了。用他們的話說就是,'絕對不能讓孩子活著從醫院出去',這就是他們的'責任',如果有的人違反了這個,或者說沒有做好,那這個醫生或者護士受處分,這'資格'就保不住了。所以這個計劃生育辦公室對他們要求是非常非常嚴的。而且沒有《準生證》的人到那裡都不准接,大人小孩哪怕有危險你都不准接,那就讓他們等死吧。
這就是共產黨這樣一個殺人的政策,其實很多孩子的(母親)……我調查的時候她們描述,當時把孩子弄下來放在她的床邊,那種內心的痛苦,那種糾結是無法忍受的,而且看著那個孩子都長全了,身體……頭髮都有了,唉呀!……後來共產黨在我們調查以後,我把她的資料拿過來準備曝光的時候,共產黨又去找她'我給你多少錢,給你多少錢……你別再說了'你說'這個事是假的'。或者'我再給你多少錢,你就說這些事都是假的,是陳光誠自己編出來的,他教給我這樣說的'。但是人家老百姓並沒有按照共產黨的做法去做。人家覺得那樣做與天理不符吧。”
*陳光誠:那用水桶挑的和用卡車拉的…… *
陳光誠:“這樣悲慘的事情在當時是非常多的,而且有人給我描述。我聽到這麼兩個描述——
第一個是在醫院後面……是我們村書記告訴我的,說他去看一個……當時1980年代最瘋狂的時候,把婦女抓去醫院完全住不下,整個走廊裡靠一邊全都搭上長長的鋪,(這個我去過、見過)。人都住在那裡,住不下了。他說他看完被流產的人就轉到醫院後面,看到後面……用他的話說就是,小死孩呀,大的小的;長鼻子的,沒長鼻子的;長耳朵的,沒長耳朵的,各種各樣的,就堆在那裡。從附近村子裡僱一個老頭,挑著兩個桶,拿這個鐵鍬把這些孩子都鋤起來,扔到桶裡,然後用鐵鍬往下拍拍,拍滿了就挑到某個地方去處理掉。
他說,看到這這些以後,他就覺得'什麼人命關天',什么生命不生命……
後來我在調查的時候,郯城有一個人就告訴我說,實際上在臨沂因為這個階段那麼厲害……墮胎的這些孩子就用卡車往外拉,不再用人挑了。”
*陳光誠:”人命關天”理念被顛覆,社會老齡化、獨子、失獨……幾十年難恢復正常*
陳光誠:“ 總之這些都是非常慘無人道的,給中國造成了嚴重的後果。最嚴重的後果就是中國現在由於這個政策的執行,讓人幾千年來根深蒂固的'人命關天'的理念被全部顛覆了。原來覺得,殺人還了得?出人命還了得?現在就無所謂了。對人的生命的尊重基本上在社會上就喪失了。
當然社會上其它的問題也相應的就都出來了。比如,社會老齡化啊,獨子的問題啊,失獨家庭的問題啊……都紛紛湧現出來。我覺得代價可能以後要花幾十年甚至更長的時間……在中共被掃進歷史垃圾堆以後,能夠恢復就不錯了。”
*天下興亡多少事,炎黃子孫志未酬*
聽眾朋友!在中華人民共和國成立69週年的時候,回顧中國人民走過的道路,看國人今天的處境,觀世界民主潮流浩浩蕩盪,長江黃河之水千迴百轉終歸匯入浩瀚的海洋。此時此刻,很想和聽眾朋友一起聽一段由蘇叔陽作詞,王立平作曲,廖昌永先生演唱的歌曲《江河萬古流》。
(演唱錄音選段)
“長江流,黃河流, 滔滔歲月無盡頭。 天下興亡多少事, 茫茫我神州。 情悠悠,思悠悠, 炎黃子孫志未酬。 中華自有雄魂在, 江河萬古流……”
*主持人張敏致每一位聽眾的深摯感謝和衷心祝愿*
聽眾朋友!��現在收聽的是自由亞洲電台“心靈之旅”節目的最後一集,我是主持人張敏。
非常感謝聽眾朋友在漫長的二十年零兩個月時間裡,在有乾擾和“防火牆”時代,克服各種困難通過短波和網絡收聽節目,給予我鼓勵和支持。
更感謝每一位受訪者,尤其是牆內的受訪者,冒著風險、承受壓力,講述自己的人生故事,說出當下事件的真相……在此請接受我深摯的感謝!
願已經播出的“心靈之旅”節目和文字稿借助網絡多種平台的傳播和保存方式,成為留給歷史的一份特定時代的證詞。
願中國的新聞自由和憲政民主早日實現!
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kentarouchikoshi · 1 year
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 是非鑑賞してみたい興味深い展覧会ですねφ(・_・”)
 以前にも申しましたが,笠間市は茨城県でも特に美術の盛んなところと言えるでしょう。笠間焼の窯元が数多く存在することは非常に有名でそれらの作品を展示販売するギャラリーも少なくありません。それだけではなく,笠間には「茨城県陶芸美術館」と「笠間日動美術館」という2つの大きな美術館があり,心ゆくまで美術に浸ることの出来る街であるといえるでしょう。因みに前者は県立ですが後者は茨城県では珍しい私立の美術館で,東京にある日動画廊が母体となった公益財団法人「日動美術財団」によって設置運営されています。
 これら2つの美術館のうち茨城県陶芸美術館はその名のとおり陶芸作品やガラス工芸作品などを専門に展示しているのに対し,笠間日動美術館は絵画に力を入れているなと感じています。設立母体が画廊ということもあり,また同じ市内に陶芸を専門とする美術館が存在するということもあるのでしょう。そんな笠間日動美術館で,今回は陶芸をテーマにした展覧会が開催されていると知り,僕としては最初「おやまぁ!(。・о・。)!」と感じてしまいました。とはいえ「生誕140年記念 北大路魯山人展」という展覧会と伺い「あぁ,そういうことか(◍•ᴗ•◍)」と大いに納得です。笠間日動美術館は北大路魯山人(1883〜1959)と深い繋がりを有しており,同美術館の分館「春風萬里荘」が鎌倉市にあった魯山人の邸宅を笠間市に移築したものであるのは有名なお話ですね。こちらでは魯山人の晩年の暮らしぶりについて偲ぶことが出来るのと同時に,日本庭園や魯山人自らの設計による茶室「夢境庵」などを鑑賞することが可能です。
 今回開催されている展覧会においても,世田谷美術館(東京都世田谷区)所蔵の「塩田コレクション」の他,笠間日動美術館自身の所蔵する作品が数多く展示されているということです。北大路魯山人は劇画「美味しんぼ」の登場人物である海原雄山(作中では「魯山人の孫弟子」と言う設定です)のモデルになった人物であることからも伺えるとおり料理研究家にして陶芸家として知られていますが,その他にも書画も手掛けてそちらでも高い評価を得た人物です。随分と波乱万丈の人生を送った人のようですが,それと同時に芸術家としても実に幅広い活躍を見せた人です。しかもそれなりに長生きしたので彼の芸術の全貌を知ることはなかなか困難ですが,今回の展覧会では陶芸の他に書についても展示されるということで,北大路魯山人の芸術の一端について学ぶ絶好の機会ではないかと感じています。
 2023(令和5)年7月9日まで開催中の北大路魯山人展,鑑賞のために笠間を訪ねたいものです♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪
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arakawalily · 2 years
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グラムな空間でエナジーチャージ❣️藤原紀香様のエレガントでラグジュアリーな空間コーディネート。ほぼご自宅のリビングを再現されているそうです❗️ グラムとは、グラマラスの略で華やかな、魅力あふれるを意味するそうですね❗️ 30周年の豪華ゲスト 藤原紀香さんのコーディネートは、インパクトがありました❗️ 紀香様こだわりのドレッサーや鏡、絵画、大切に集めてきた食器空間をつくりあげたそうです。 常連の、黒柳徹子さん&田川啓二さん、石坂浩二さん、東儀秀樹さんや、辺見エミリさんの空間も見応えあります。 和洋食器13万点が出揃い、アンティークのものや、おもてなしのテーブルウェアが一堂に介していますよ❗️ もう一つの特集企画❗️ Galerie de Paris ~パリを巡る~ 世界の人々を魅了し続けているフランスのテーブルウェア。クラシカル、モダン、様々なデザインに溢れ、いつの時代も華あり、今のPARISを彩る魅惑のテーブルウェアを、パリの街を巡るようにご紹介されています。 大倉陶園さんの至高のおもてなしも素晴らしかったです❗️ #テーブルウェアフェスティバル #おもてなし #空間 #テーブルウェア #コーディネート #インテリア #食空間 #tablewear #interior @tablewarefestival #黒柳徹子 #石坂浩二 #田川啓二 #東儀秀樹 #辺見エミリ #藤原紀香#テーブルウェアフェスティバル2023 (東京ドーム) https://www.instagram.com/p/Cn_tym4SQRI/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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