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#島原・天草一揆
mvrider5 · 4 months
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島原城
島原の乱で有名な長崎県島原に1625年に築かれた安土桃山期の城
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残念ながら明治の廃城令で解体されたが1964年に復元
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青い空と有明海を背景に聳え立つ白亜の五層天守は当時も四万石の大名には過分の城だった。
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城内図
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1972年に復元された巽の櫓(西望記念館)
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三つの櫓は全て無料で内部も観覧できる
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1980年に復元された丑寅の櫓(民具資料館)
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三層の櫓も天守並みに壮麗😍
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内部の民具資料館
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最後は1960年天守より先に復元された西櫓と鐘
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観光復興記念館
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更に別アングルからの天守。どの角度から見ても素晴らしい👍
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本丸の外に出て西の櫓
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木々に隠れているが天守と観光復興記念館右手に西櫓。石垣が美しい
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更に歩いて二の丸の文化会館越しの天守と西櫓。此処から見た緑に覆われた石垣の連なりが見事
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こちらのお堀は夏場しょうぶ園になる。(お堀にはいつでも降りれる😁)
丑寅の櫓
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天守と巽櫓
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蓮池のあたりは水を湛える。
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最後に右から丑寅の櫓、巽櫓、天守の絶景
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島原城に来たら昼食はこちら💁
島原城の内部は以下から
島原に来たら雲仙温泉に
島原城下の武家屋敷は以下から
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oniaby · 1 year
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ここのところ、天草一揆関連および天草四郎さんを取り上げたドキュメンタリー番組が多くて嬉しい限り(*´︶`*)
史実をおにあびの世界観と絡めて、どんな形で「らしく」落とし込んでいくか。 そこをまだまだ納得できる形でまとめきれていなかったので、このタイミングで島原の乱全般のおさらいができたのはまさに幸運でした。
せめてフィクションの中だけでも、四郎さんは前線に出てガンガン指揮を執る有能な将でいてほしい(;´∀`)
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mvrider7 · 4 months
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具雑煮
島原名物具雑煮😋絶品の出汁で味付けされた餅とたくさんの具が美味
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なんと1637年の島原の乱の時、一揆軍の総大将であった天草四郎が、籠城した際、農民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、 山や海からいろいろな材料を集めて雑煮を炊き、栄養をとりながら約3ヶ月も戦ったと言われている。こちらはその元祖を詠う姫松
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材料は鶏肉、アナゴ、シロナ、レンコン、ゴボウ、凍り豆腐、椎茸、卵焼き、丸もち、春菊など十数種。まさに海の幸、山の幸の集大成
さらにこちらも島原名物のかんざらし
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島原の湧水で冷やした白玉団子に蜂蜜や砂糖の蜜で食べる。
どちらも胃腸に優しい味
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uro-9000 · 1 year
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大魯上人
大魯上人
鹿児島の浄土真宗の礎を築いた大魯和尚(だいろ)の墓は旧吹上町の光専寺の敷地内にございます。
大魯は幕末に本願寺で起きた教義上の論争(三業惑乱)で異端者として追放され、京都から肥後、天草を経て薩摩に逃れた。
当時藩では浄土真宗を厳しく禁じていた(※かくれ念仏のぺージ参照)
それでも大魯は煙草講(たばここう)などの名で人々を集め、洞穴に隠れて念仏の教えを説いた。
そして各地を回り30年、多くの人々に慕われながら天保7(1836)年上草田の辻の久保で没した。明治の初め、藩の政策で薩摩半島の技術者が大隅半島に移住したが、その中に大魯の影響を受けた念仏者がいて教えを伝えた。その後、明治22年にこの地に改葬した。やがて念仏禁制が解かれると浄土真宗は県全域に広まった。
鹿児島で浄土真宗がこれだけ広まっている事は大魯和尚の功績が大きいといえる。
大魯上人が本願寺から追放された理由
大魯上人が本願寺から追放された理由である「三業惑乱」というのは、江戸時代に浄土真宗本願寺派(西本願寺)において起きた法論(教えをめぐっての論争)のことです。
この騒動を寺社奉行として裁断したのが、龍野藩の第8代目藩主の脇坂安董(わきざかやすただ)であったというお話です。
『脇坂家譜』の安董についての欄には「同月(文化3年7月)十一日西本願寺宗意惑乱之ヲ裁断ス」と記されています。
善龍寺(龍野市)では龍野で出版された『真宗新義古義裁断実記』という書物も残っています。
この「三業惑乱」事件というのは異安心(いあんじん)論争で、異安心とは真宗の安心(「あんじん」と読みます。救いの境地)と相違した誤った安心を言い、どちらが正意の安心かをめぐっての論争です。救いとは究極は各自の心の問題なので、本来なら安心自体を判断裁定することは無意味でもあるし不当なことと思いますが、安心がその人の思考をともない教相(教え)として外面化し他人に説いた場合、多くの人に影響を及ぼしてしまいますので、看過するというわけにもいかなくなったのです。
安心と教相(教え)とは密接不離な関係にありますので、教えが違えば迷信、邪信を生み出すというような可能性もはらんでいるのです。
ですから厳密には、「安心論争」「異安心論争」というよりは「教義論争」といったほうが妥当だと思われます。
そして教義は真宗の場合は溯れば開祖である親鸞聖人にあり(その本源は阿弥陀如来の「本願」にありますが)、その著述に基づいて、教義論争が行われます。
この事件が発生したのが寛政9年(1797)で一件落着したのが文化3年(1806)で、実に10年の歳月を要しています。安董が寺社奉行として幕政に参与していた期間が寛政3年(1791)から文化10年(1813)までの22年間ですから、安董はこの「三業惑乱」事件の発生から落着まで寺社奉行として見届けていたことになります。
そして最期に落着させました。本願寺派の教義は安董によって守られたという歴史的側面も多分にあると思います。面白いことに、脇坂家の始祖の甚内安治(じんないやすはる)は、天正6年に豊臣秀吉の命を受けて石山合戦(織田信長対本願寺の戦争)で本願寺側であった三木城を攻めたとき、抜群の手柄を立てたそうで、いわば本願寺の敵であったのですが、その本願寺の窮地を子孫の安董が救ったということになるのですから、脇坂家と本願寺とは順逆の違いはあれ縁深いと言えます。
安董は「三業惑乱」事件の裁断によって、その手腕が高く評価されたこともあり、天保8年(1837)には老中に就任しました。
この事件の発端は、寛政10年(1798)に行なわれた蓮如上人(真宗の中興上人、本願寺第8代法主)の300回法要のあと、その前年の寛政9年(1797)に学林(僧侶の修学道場)の第7代能化(「のうけ」と読みます。
宗派の教義を研鑚し人を教化する学寮の責任者)に就任した智洞が門主の文如上人に代わって『無量寿経』の講説を行ない、この中で「三業帰命」の説を唱えたことにあります。
この説は溯れば第2代能化の知空(ちくう)、及びその弟子の峻諦(しゅんたい)などより発し、第6代の能化となった功存(こうぞん)が『願生帰命弁』という著書を著わして「三業帰命」の説がますます鮮明に示され、その後を継いで能化となった智洞に至った頃には、本願寺派の真宗安心の規準とまでなっていました。
「三業帰命」とは「三業安心」ともいわれ、「帰命(きみょう)」の曲解より起こった異安心です。
すなわち、「三業帰命」とは、「阿弥陀様助けてください」と意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることで、三業に帰命の相がともなっていなければならないという説です。
「これだけ阿弥陀様のことを思っているから救われる」「念仏を称えていれば助かる」「これだけ仏壇の前で拝んでいるから救ってくださる」といった自己の三業(行ない)を阿弥陀仏にさしむけることで救いの助けにしようとしたり、三業で帰命していることを救いの証拠にしようというのですから、とどのつまり、その計らい心、自惚れ心(自力)は阿弥陀仏の救済を絶対的に信知していないことから生じるのであって、三業による「たすけたまえ」という「帰命」はその表われの何物でもありません。阿弥陀仏の本願に不足があるから、その不足分を三業で補おうとする心が働くのです。
これは結局は阿弥陀仏の本願を疑っている姿です。機の深信に徹していないから救われるための手段が自分にあると自惚れ、法の深信に徹していないから本願力に不足を思うのです。
どうして功存が『願生帰命弁』という著書を著わして、「三業帰命」説を強調したかというと、当時、北陸を中心に「十劫安心」という異安心が広まっていました。また京都では「土蔵秘事」という異安心が広がっていました。
功存は特に「十劫安心」を正すために『願生帰命弁』を著述した��思われます。 「十劫安心」という異安心は、「十劫秘事」とも「十劫正覚の秘事」「十劫領解」とも呼ばれ、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏されたときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという邪義です。「十劫安心」は必然「無帰命安心」であり、仏に帰命せずともよい、帰命の安心を不要とします。そこで、功存は帰命の安心の欠けた「十劫安心」を正すために、著書の中で「たのむ一念」の帰命を力説したのです。本願寺派で真宗の教化に絶大な能化の取り締まりにより、「十劫安心」は一応の収まりをみせましたが、その教化が未徹底なままで功存は病死してしまいました。
また、功存が能化だった頃には、「本尊論」についての法論も起こりました。
播州の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』を著述して学林を問い質した法論でした。 明和4年(1767)5月のことです。本山は両者を戒告して事件を解決しようとしました。
同年の6月には学林は裁決を不服として本山に乱入したりしました。
また功存の『願生帰命弁』に記された「三業帰命」説に対しては多くの批判が上がっていました。
安永4年(1784)7月、大麟(だいりん)が『真宗安心正偽編』などを著述して功存の『願生帰命弁』を批判、安永7年(1787)4月、宝厳(ほうげん)が『興復記』を著してこれまた功存の説の批判を展開しました。
功存が『願生帰命弁』を刊行してからというもの本願寺派内は法論が頻発に起きていました。
功存が能化の時代に「三業惑乱」という爆弾の導火線にすでに火がついていたのです。
功存は「阿弥陀仏をたのむ」こと「帰命」することに力を入れて説いたために教化が「三業帰命」に傾きましたが、それをより徹底して教化すべく、智洞は「三業帰命」説を前面に出して説きました。そして全国の僧侶・門信徒が集まる法要のときにも、智洞が公然と「三業帰命」説を唱えたものですから、この説に不審を抱いた安芸の大瀛(だいえい)、河内の道隠(どうおん)などの在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)と対立し、ついに寛政・享和・文化にまたがる10年間にわたって、西本願寺教団内部をはじめ、24カ国に及ぶ未曾有の大紛争となってしまいました。
大瀛は智洞の説の誤りを明らかにするために『横超直道金剛ベイ』を執筆しました。教義の解釈上の対立、相違問題は政治的な紛争へと発展し、混乱と暴動事件を引き起こし、ついには幕府の裁断を受けなければならなくなり、そこで寺社奉行であった安董の出番ということに相成ったわけです。
「三業安心」説の是非をめぐっての争論が各地でまきおこり、ことが「後生の一大事」、救いに関わる問題ですから、門信徒は動揺し、その是非を手次寺に糺すものの埒があかず、嘆願書で本願寺派本山に問い合わせても、本山はこれをとりあげようとしません。
享和元年(1801)になると、門信徒の中には示威行動に出る者も現れて、京都の町々は動揺する門信徒であふれ、奉行所から内々で注意を受けることになります。
大瀛は享和元年(1801)5月に『横超直道金剛ベイ』を刊行しましたが、翌月には販売禁止にされてしまいました。本山は混乱するだけで事態を収拾することができず、翌年の1月になって美濃国大垣領の門信徒の百姓たちが一揆のいでたちで、本山に詰め掛けようと河原に集結しました。このことを知った領主の戸田采女正は当時の老中で、百姓たちの動揺を静めるために本山に対して、宗旨を整えて門信徒の不安を一掃するようにと要請しました。それにも関わらず本山は何ら手段を講じないまま7月に入り、大垣領の門信徒は再び集結しましたが、代官に鎮圧されました。
事態を重く見た戸田采女正は事件を幕府に届け、もはや一宗門内の紛争ですまなくなりました。
7月の終わりには、江戸築地の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行脇坂淡路守役宅へ呼び出され、留守居役星野鉄三郎から事情聴取されています。
幕府は従来、寺社に対し、教義や宗門の紛争などは余程のことがない限り、黙認する方針でした。しかし、ことが「一向一揆」に似た社会的に不穏な行動であったため介入せざるを得なくなってしまいました。
この事件を担当した寺社奉行師匠番脇坂安董は享和2年(1802)11月、本願寺派本山に対し幕府の厳しい警告書を突き付けたため、本山役人は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになりました。翌年の享和3年(1803)1月、三業安心派の僧侶・門信徒は巻き返しのために本山に押し寄せ、安心(往生)の権限を学林へ一任せよと強要し、ついに槍を持って門主の室近くへ侵入するなどの狼藉を極める暴挙に出て、宗門はますます混乱してしまいました。
これに対して諸国の古義派の門信徒、特に安芸門徒の学僧たちは大瀛を中心にして、智洞の誤りを全国に訴え、何度も公開討論を申し込んだり、門主の権限を回復するように本山にせまりましたが、本山はこれを黙殺しました。享和3年(1803)2月には、能化智洞の退職を求めました。
大瀛とそれを支持する石見の履善(りぜん)、京都の春貞(しゅんてい)、河内の道隠などは上洛して本山に論戦を挑んだために京都は騒然となりました。
4月になると学林は本山の休講措置を無視して安居講会を開こうとして古義新義の2派が対立したため、本山はこの処置に窮して京の町奉行所へ訴えてしまいました。
町奉行所はこの時とばかりに両派の取り調べを開始し、5月には智洞、大瀛をはじめとする、この騒動に関わった中心人物たち40人余りの入牢を命じました。
翌年の文化元年(1804)1月に幕府は取り調べのため智洞・道隠・大瀛らを江戸に連行しました。
智洞はこのときすでに罪人として鶤鶏籠(とうまるかご)で江戸へ護送されています。
そして2月2日より寺社奉行役宅にて取り調べを受けました。
5月には正義派の中心的存在であった大瀛がこの事件の結末を見ることなく獄死しました。
智洞もまた獄中にあって死に、その他の者も遠島に処せられた。
学林の僧はこの事件が宗門の教義のことだからと安心していましたが、安董は寺社奉行の中でも、また歴代の奉行の中でも仏教に通じていて、しかも、安董の陰には真宗大谷派の宗学を大成した大谷派講師の香月院深励(こうがついんじんれい)師が控えておりましたから、突っ込んだ取り調べを行ないました。
文化3年(1806)7月11日、安董は「三業帰命」は不正義とする判決を下して、本願寺派本山に対して、宗門不取締の責を問い100日間閉門という寛大な処分を行ないました。そして、8月21日登城し、老中の松平伊豆守より、今度の宗論裁断について、勲労の論旨を賜わるとともに御調役の星野鉄三郎に銀10枚、西田金次郎・清水兵蔵両名に銀7枚を賜わりました。
閉門が解除された11月、門主の本如上人は、『御裁断御書』を発表して宗門内としても事件は一件落着しました。
「三業惑乱」事件が契機となり、能化職制度は廃止され、本願寺派の宗学は、学轍分裂に至り、行信論に三業を論じることを嫌うあまりに、極端な離三業の所行説が発展しました。
その代表的学轍が空華轍で、現在の本願寺派宗学の筆頭勢力となっています。
ちなみに智洞一派の徒は、三業惑乱後もまだ智洞の遺響を守っていたことから、如何に智洞の異説が教界内に一大勢力を持っていたかが窺われます。
また、三業惑乱後も三業だのみ説を強く誡めている説法がしばしば見られたことからも、如何に三業惑乱が本派にとって一大苦難であったかが知られます。
本派の三業惑乱は隣山の大派にも影響を及ぼし、大派でも三業帰命説、及びそこから派生する異説、諸問題について研究されることとなりました。
「三業惑乱」以降、本願寺派に属する僧侶たちは三業を論じない傾向になりましたが、「無帰命安心」に堕してもいけなくなり、困惑が続いていたようです。
「三業惑乱」後に、本山は全国の本願寺派僧侶から各自の信仰の申告書を集めたそうです。
そこには、蓮如上人の言葉を書写して自分の信仰を表わす人が多かったということです。「信心」に関しての無難な回答をすることで自己の信仰が糾弾されることを免れたのでしょう。
ちなみに脇坂安董は、この「三業惑乱」事件の他にも、延命院事件といって延命院住持日道の不行跡を糾弾しました。ことは大奥にも関係する難事件でありましたが、断固として日道を斬罪に処して寺僧をふるえあがらせたという。
三業惑乱終結後、龍野に帰った安董に、八十歳の母が「三業惑乱はなんと治まった」と尋ねた。それに答えて安董は、「何もほかのことではなかった。阿弥陀様は真実の親であった」と答えた。
母は、「噫(ああ)そうであったかそうであったか。親子の仲なら、かれこれ云うことはいらなんだのう」と喜んだという。
浄土真宗光専寺
仏事・法事等で不明点あればご連絡下さい。
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kitasango · 2 years
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❇️天草四郎時貞とは⁉️ 「神の子」として崇められ、わずか16歳で日本最大の一揆と呼ばれる「島原の乱」を総大将として戦った天草四郎‼️ 派手なひだ衿に黒いマント、この神秘的な佇まいとカリスマ性は人々の想像力を刺激し、「海の上を歩いた」、「盲目の少女の視力を回復させた」といった数々の奇跡のエピソードとともに、「実は天草四郎は豊臣秀吉の孫だった⁉️」 という驚愕の噂も生みました💁 #天草四郎 #島原の乱 https://www.instagram.com/p/Cp6wBS3ukCi/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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mamawaru · 2 years
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気の向くままに知らない土地をときどき旅してみたりするのですが、何歳になっても誕生日は冬の真ん中、寒すぎてもはや修行、となるあたりがザ・わたくしの人生といった感じで愛おしいです(今日はあったかくてラッキー)
近くから遠くからお世話になっているみなさまいつもありがとうございます。
ひとりでできることはどうにかこうにか、どうにもならないことはお力添えをいただいたり、あきらめることも許しながら、健やかに生きていきたいです。
近年の詩の活動としては〈ことばをすくう〉と〈くるくるみくじ〉がなかなかの発明だと思っていて、涙の出るほどうつくしい景色を見ることもありました。また、昨年の個展をきっかけに大分で子ども絵画講座を担当することになり、試行錯誤しながらも大切な視点を持てる場だなとありがたく感じています。
ひとりひとりに人生の役割があるならば、わたしは、わからないこと、不思議なこと、恥ずかしいこと、手間のかかることをのびのびとおもしろく遊んでいられる大人でありたいです。いろんな場所や人に会いに行くのと同時に、胸のうちに深く潜って書く時間もつくれたら。
年末年始に向けて寒い日がつづきます。みなさまウルトラミラクルご自愛のうえ、よいお年をお迎えください。
(個別のお返事はゆっくりしますね)
キリシタン大名、南蛮貿易、天正遣欧使節、島原天草一揆、潜伏キリシタン・カクレキリシタンの信仰、信徒発見までの歴史はもちろんですが、「信じる」の根っこ、見えないもの(心)のために見えるものはどうにかやること、どうにもできないこと、葛藤。土着の似たものに心をかさね、見立てて祈ること(マリア観音や貝殻など)人間の生きるための、ひと筋縄ではいかない真っ直ぐさといいますか、もっとじっくり思考したくて、天草・島原を歩けてよかったです。﨑津集落はまたいつか。
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yuechocolate · 3 years
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推しと推しが出るとずっとずっと大騒ぎしていた「静かの海のパライソ」。 これを拝む為にこの日まで心を粉にして労働してきたと言っても過言ではない。
推しと推しが出る上に題材、そして前評判から、だいぶハイカロリーな話であることは想像に容易かったのですが、ちょっと流石についったーで騒いでどうにかなるレベルの物量じゃなかったのでここで喋らせてもらいます。
賢い考察はいっこもありません。考えたことを思いつくまま書いてます。まだ1回しか観ないで書いてるので台詞とかだいぶ怪しいです。 後から思いついたらちょこちょこ直すかもしれないし、いきなりバッサリ消してしまうかもしれない。
・パライソでの鶴丸と大倶利伽羅
今回の編成は全員が鶴丸が希望したメンバーである訳なんですが、伽羅はみんなを集めるのを手伝ってるので、多分一番最初に声を掛けたんじゃないかと思われるのですよ。
今回の行き先を聞かされ、どのメンバーで向かうのが最適か考え、真っ先に思い当たったのが伽羅だったと。ここ、とてもとても大事な所です。パライソのサビだと言っても過言ではない。
選んだ大きな理由としては「自分の扱いをよくわかっている」ことと「みほとせを経験してる」ことだと思うんですよ。 過酷な任務が予想される出陣先で、ミュつるはあの通りホウレンソウなしですぐ行動に起こすやつなので、(��回の任務では特に)自分には干渉してこない、冷静な目で見ててくれる刀が側に居た方が良いと思ったんじゃないかな…と私は思うのですよ。
そして鶴丸はみほとせの任務について知っている訳で、大倶利伽羅の元来の性質をよく知るであろう鶴丸は、あの任務を経て大倶利伽羅がどんな風に成長したのかもよく分かってると思うんですよ。そこの信頼がめちゃめちゃ大きかったんじゃないかなと。
実際、彼は鶴丸の動向について一切言及しないまま浦島くんに「あまり干渉しすぎるな」って助言したり、まだ息がある弟に一番遠くから誰より早く駆けつけて抱き上げたり、今回終始憎まれ役に徹してた鶴丸には出来なかった働きをしてるんですよね。
一方の大倶利伽羅としては、最初に言ってた「俺にもわからん。だが今までそれでどうにかなってきた」っていうスタンスを最後まで貫き通す。どうせ聞いてもはぐらかされるので、鶴丸の思うように事が運ぶように黙って側に仕えて、ただみほとせの石切丸が誰にも相談できずに危ない目に遭ったことを彼は知ってるので、同じことにならないようにちゃんと釘を刺して。
ていうか伽羅が石切丸のことを「心根が優しい男」って……お前……お前……そういうことはちゃんと本人に言って……???みほとせのみんなめっっっちゃ喜ぶぞ………他のみんなの事はどう思ってんのよ…………
二人の強火オタクの感想としては、あんなにも自分のことを顧みない鶴丸が側に置くことを選んだのが、あの「戦うには感情が邪魔になる」って苦しんだ優しい彼であったことが何より嬉しい。今回一番の救いだったと思う。伽羅もそんな鶴丸に、ただ黙って側に居てくれる男だったことがとても嬉しい。ミュの鶴丸にあの大倶利伽羅が居てくれて本当に良かったと思う。
・今回の任務について
ていう強火オタクの戯言だけならいつもどおりついったに叫び散らして終わってたと思うんですが、今回の任務について思うことがありすぎてこのようになりました。
今回の大まかな任務は「島原の歴史を守ること」。ところが出陣した先で島原の乱の総大将・天草四郎が既に殺されてしまった後だったため今回課せられたのが、天草四郎に成り代わり、一揆を集めて歴史どおりに島原の乱を遂行すること。すなわち、人間として人間と殺し合いをするということ。正しい歴史がそうである以上、それは仕方のないことで。
んなわけあるかよ。刀剣男士に就業規則はねえのかよ。
そもそも、歴史を変えようとしてくる敵と戦う戦士として人の身に顕現されたのが刀剣男士で、つまり行く先で敵と戦うことが主な役割なんであって、出陣した先で既に守るべき対象が亡き者にされてしまっていたことについて、彼らに何の落ち度もないじゃないですか。なのに今回その割を全部彼らが食わされてしまってる。現場に丸投げ。政府の怠慢じゃねえのか。
なんぼ「皆殺しにされた家臣の代わりに徳川家康を史実どおりの武将に育てよ」とかいう、ちょっと冷静に考えたら訳のわからんことを任務としてさせられてる本丸だとはいえオーバーワークが過ぎるわ。
数年に渡ってまがりなりにも彼らと生活を共にしてきた審神者の一端として、彼らがそんなブラック企業の末端社員みたいな扱いをされるのはとても耐えられず、鑑賞直後はめちゃめちゃに怒っておりました。 でも彼らは誰も怒ったり訴えたりせず、自分達の使命として黙って受け入れるんです。
あの子たちが言わないなら私が政府にガツンと言ってやんよってんで、そもそも刀剣男士の位置づけってどうなってんのよと公式の文章を見ても、どこにもはっきりしたことは書かれてないんですよね。みんな大丈夫?ちゃんと就業規則もらってる?はっきりしとかんと揉めた時大変やぞ?
ただ思えば、どのメディア展開でも「歴史を守ること」が自分達の大義名分であると理解していて、たいていの理不尽は全てそれで飲み込んでるんですよね。
そこで他の賢い方々は今回の任務についてどう思われてるのか見解を探してみたら、だいたいが「辛いけど歴史を守る為には仕方がない」って感じなんですよね。
そこで私もいっぺん冷静になって、松平さんが言ってた「後の世に戦はいかんと知らしめる為に、皆殺しは行われなければならない」っていうのを考えてみたんです。
島原の乱で幕府側にいた刀として部隊に配属された松井江は、今回任務としてもう一度島原の乱に参加することになります。武器としてではなく、民に直接手を下し一揆を滅ぼす幕府そのものとして。
島原の乱に参加するのは同じなのに意味合いが全然変わってきますよね。道具として使われるのではなく、それが歴史の辿る道だからというだけで人を殺す、人の身じゃなかった頃には知らなかった葛藤が生まれる。
上手い表現が見つかりませんが、後世の為に民を皆殺しにするように、歴史を守る彼らが、自分で考えて行動できる人の身として戦に加わり、本来救いたい命をその手で奪い、本来の歴史を守るっていうのはどういうことなのか今一度考え直すことに今回の意味があったんじゃないかと思えるようになってきたんです。
と、ここまで考えてみたけど、やっぱそんなややこしい話はいっぺん上の方でちゃんと方針を固めてから下に下ろしてこいや。丸投げすな。
花丸本丸を見なさいよ。初陣にはお守り付きでベテラン男士を同行させた上で強い敵の居ない所に出陣させ、行方不明の子が出たら本丸に居ながら居場所を特定し、新歓鍋パーティーや海水浴も付いてくる。(全員分の水着まで手作りで用意してくれる)おんなじ刀剣男士の話やぞ。格差があり過ぎるわ。ていうかこうして見ると花丸審神者まじで仕事が出来過ぎるな。刀剣乱舞界の理想の上司殿堂入りでいいと思う。
そんで、苦しむのは自分だけでありたい鶴丸は何の説明もしないので、みんななんでそんなことをせないかんのか全然わからないはずなのに、誰も鶴丸を責めないんですよね。鶴丸も任務のため、島原の歴史を守るために憎まれ役を買って出てるのがわかってるので。
今回の編成の子たちみんな、優しく聡明でこんな理不尽な状況にも全然怒ったりしないので余計辛かった…… なので松井くんが終盤でつるをブン殴ってたのとてもスカっとしました。ええぞ。ええぞ。みんなもっともっと怒っていい。
・浦島くんと日向くん
ところで日向くん、私が解釈してたのとだいぶ違ったのが私の中で今回一番の意外でした。レベリングで戦闘中のセリフしか聞いてなくて怪我ばかりさせてたので、なんかこう、見目麗しいビジュアルに似合わず瞬間湯沸かし器的な子だと思ってたのですが(CV.梶裕貴なだけに)なんかすごい冷静にその場に順応してましたね。 どっちかというと実写剣心みたいな感じで、怒る時は静かに激怒しそう。ミュの日向くんだけの特性かもしれないけど、(村正みたいな例もあるので)本丸のセリフもちゃんと聞いて今一度見直した方が良い子だなと思いました。
で、浦島くん。今回の無垢担当。 海を眺めながら「そろそろ傷つく頃だな…」てつぶやいたり、どうにもさせてやれない状況に「ごめんな」って謝ったり、今回鶴丸が一番傷つけて辛かったのが浦島くんだったんだろうなって。何の説明もしなかったのも、最初から騙して協力させる為っていうのもあるけど、皆殺しにする為の人を集まろって二人には言えなかったんじゃないかなと。
それでも今回の編成に加えたのが、寺を焼き討ちにしたり自分達の正当性だけで人を傷つけたり、そんな人間の浅ましさ惨さに触れさせてなおそれを乗り越えて成長させたかったのかなって思うんです。綺麗ごとだけでは済まされない現実に直面させて、優しいだけじゃない強さを育ててあげたかったのかなと。 でも結局は皆殺しの現場からは遠ざけたり、誰のことも疑わない優しい彼のことを大事にしたい気持ちも最後まであったんだろうな。めっちゃわかるぞ。可愛い子には強くあって欲しいけどできるなら辛い目に遭わせずにいたいよな……優しい世界でずっと笑ってて欲しいよな………
・豊前江という男
触れるもの全てを夢女にしてしまうあまり、「彼氏の付喪神」とか言われてしまってる彼。男前なのはルックスだけではなかった。 鶴丸があまりに松井江に過去をえぐるような役割ばかり強いるのでてっきり詰め寄るのかと思いきや、「……あんがとなぁぁぁ!!!」と叫ぶ彼。
あいつは前に進む為に、自分の歴史と向き合わないといけない。それに今回は自分が側に居てやることが出来る。だから有難うと。
こんなにも出来た人間いる???(※人間ではない)
どんな風に育てたらこんな風に育つのか、親御さんに教育方針についてご教授頂きたいのですが???(※親御さんなどいない)
声色的に、身内を苦しめてる鶴丸に対する怒りは多分にあったと思うんです。でも彼は多分鶴丸の隊長としての立場を理解し、みんなからわざと憎まれるようにしか振る舞わない鶴丸に、怒りのかわりに有難うと叫ぶんです。
そんなに男前なこと、ある?????
ケチのつけどころがいっこもないどころか、掘れば掘るほど高尚なところしか出てこないのですが、豊前江に落ちてしまったオタクはほんまに気の毒だなと……源氏兄弟とは別ベクトルで一度落ちたら抜け出せる気がしない………
・最後の鶴丸と三日月
ここについては文章にするほど考えもまとまってなければ訳もわかってないので置いといていいんではないかって感じなんですが、今回の重要どころっぽいので一回触れておこうかと。
最後に鶴丸がなんかめっちゃめっちゃに怒ってたシーン、恥ずかしながら誰に向けて怒ってんのかわかってなかったんですが、三日月に向けた怒りだったんですね。
三日月には歴史を救済する「機能」が備わってて、今までもそれを行使してきてる。なのに今回、一揆の人々は史実どおりに死なせ、最後に運よく生き残った弟のみをもののべに託した。そうして三日月がまるで万物の神のように救済の対象を選別したことに、鶴丸は怒っていた。 だいぶざっくりしてるし間違ってるところもあるかもしれないけど、だいたいこのようなことだったと理解しました。
ミュの三日月ってステちか以上に、どんな力を持っててどういう目的でそれを行使してるのかわからなすぎて、なんかもう、考えるのを脳が諦めるレベルの遥か遠くの概念みたいな感じに私の中ではなってしまってて、鶴丸の怒りはもっともだと思うんですが、それについて一緒に考えて怒りに寄り添うことができねえ……あほさにわですまねえ……… ついでに言うと、わたしミュの鶴丸についても何考えてんのか全っ然わかってない気がするんだわ…………
三日月はほら、刀剣男士として原点回帰するために、そろそろ編成に参加して出陣とかしてみないかい???
じゃないとこのまま出番がなく概念として登場し続けてたら、私の中で三日月が鹿目まどかになってしまう。円環の理に導かれてしまう。
とか私があほな事を言ってる間に、なんかすごい目からウロコ級の考察を見つけてしまい、ちょっと次回見るときにちゃんと確認したいので鶴丸と三日月についてはまた色々足すかもしれない……本当にそうなら私が色々怒ってたこととかも全部ひっくり返るぞ。やっぱりみなさん頭がよすぎる。
・まとめると。
こんなうすらボケた話で終わるのはあまりにあんまりなので無理やりまとめに入ると、今回のパライソをみほとせ、葵咲から続く三部作だとおっしゃってた方がいたんですが(理由は忘れた)、私も今回の話はみほとせに通ずるものがあったなと感じました。
みほとせは優しい神様たちが人間の歴史を守る話だったけど、パライソは優しい神様たちが人間の歴史に翻弄される話だったなって感じてます。 歴史を守っていきたいのは嘘じゃないし、それが自分たちの使命だって理解もしてるけど、守る歴史全部が正しく美しいものだけじゃないっていう、あまりに当たり前で残酷な話だったなと思います。 みんなあんなに人間を無条件で守ろうとしてくれるのに、その人間があんなにも愚かで、ほんと、ごめんな……ってなってしまう……………
今回のみんな、みんなだけじゃなくてあの本丸にいるみんな、健やかで強くあってほしい。もっと言えばおいしいものをお腹いっぱい食べて、綺麗なものをいっぱい見て触れて、楽しいことを知って、人の心なんて重いものを授けてしまったせめてもの救いとして、人の身で謳歌できることを知り尽くしてほしい……
やっぱり今こそ花丸本丸の福利厚生力が必要とされてるんではないか???
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suan-suan · 4 years
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許章潤 〈憤怒的人民已不再恐懼〉 全文:
豕鼠交替之際,九衢首疫,舉國大疫,一時間神州肅殺,人心惶惶。公權進退失據,致使小民遭殃,疫癘散布全球,中國漸成世界孤島。此前三十多年「改革開放」辛苦積攢的開放性狀態,至此幾乎毀於一旦,一巴掌把中國尤其是它的國家治理打回前現代狀態。而斷路封門,夾雜着不斷發生的野蠻人道災難,跡近中世紀。原因則在於當軸上下,起則鉗口而瞞騙,繼則諉責卻邀功,眼睜睜錯過防治窗口。壟斷一切、定於一尊的「組織性失序」和只對上負責的「制度性無能」,特別是孜孜於「保江山」的一己之私而置億萬國民於水火的政體「道德性敗壞」,致使人禍大於天災,在將政體的德性窳敗暴露無遺之際,抖露了前所未有的體制性虛弱。至此,人禍之災,於當今中國倫理、政治、社會與經濟,甚於一場全面戰爭。再說一遍,甚於一場全面戰爭。此可謂外寇未逞其志,而家賊先禍其國。老美或有打擊中國經濟之思,不料當軸急先鋒也。尤其是疫癘猖獗當口,所謂「親自」云云,心口不一,無恥之尤,更令國人憤慨,民心喪盡。
是的,國民的憤怒已如火山噴發,而憤怒的人民將不再恐懼。至此,放眼世界體系,揆諸全球政治周期,綜理戊戌以來的國情進展,概略下述九項,茲此敬呈國人。
首先,政治敗壞,政體德性罄盡。保家業、坐江山,構成了這一政體及其層峰思維的核心,開口閉口的「人民群眾」不過是搜刮的稅收單位,數目字管理下的維穩對象和「必要代價」,供養着維續這個極權政體的大小無數蝗蟲。公權上下隱瞞疫情,一再延宕,只為了那個圍繞着「核心」的燈紅酒綠、歌舞升平,說明心中根本就無生民無辜、而人命關天之理念,亦無全球體系中休戚相關之概念。待到事發,既丟人現眼,更天良喪盡,遭殃的是小民百姓。權力核心仍在,而低效與亂象並生,尤其是網警效命惡政,動如鷹犬,加班加點封鎖信息,而信息不脛而走,說明特務政治臨朝,國安委變成最具強力部門,雖無以覆加,卻已然前現代,有用覆無用矣。其實,老祖宗早已明言,防民之口甚於防川,哪怕網信辦再有能耐,也對付不了十四萬萬張嘴,古人豈余欺哉!蓋因一切圍繞江山打轉,自以為權力無所不能,沈迷於所謂「領袖」之自欺,而終究欺瞞不住。大疫當前,卻又毫無領袖德識,捉襟見肘,累死前方將士,禍殃億萬民眾,卻還在那裏空喊政治口號,這個那個,煞有介事,令國人齒冷,讓萬方見笑。此亦非他,乃政體之「道德性敗壞」也。若說七十年裏連綿災難早已曉瑜萬眾極權之惡,則此番大疫,更將此昭顯無遺。惟盼吾族億萬同胞,老少爺們,長記性,少奴性,在一切公共事務上運用自己的理性,不要再為極權殉葬。否則,韭菜們,永難得救。
其次,僭主政治下,政制潰敗,三十多年的技術官僚體系終結。曾幾何時,在道德動機和利益動機雙重驅動下,一大批技術官僚型幹才上陣,而終究形成了一種雖不理想、弊端重重、但卻於特定時段頂事兒的技術官僚體系。其間一大原因,就在於掛鉤於職位升遷的政績追求,激發了貧寒子弟入第後的獻身衝動。至於乘勢而上的紅二們,從來尸位素餐,酒囊飯袋,成事不足敗事有餘,在此不論。可惜,隨着最近幾年的不斷整肅,紅色江山老調重彈,只用聽話的,自家的,其結果,技術官僚體系的德性與幹才,其基於政績升遷的那點兒衝動,不知不覺,乃消失殆盡。尤其是所謂「紅色基因」的自家人判準及其圈定,讓天下寒心而灰心,進而,離德離心。於是,這便出現了官場上普遍平庸而萎頓委瑣之態。鄂省亂象,群魔亂舞,不過一隅,其實省省如此,舉朝如此矣。其間原因,就在於這個後領袖時代,領袖制本身就在摧毀治理結構,口言現代治理卻使整個國家治理陷入無結構性之窘境。此間癥狀,正為「組織性失序」和「制度性無能」。君不見,惟一人馬首是瞻,而一人暝朦,治國無道,為政無方,卻弄權有術,遂舉國遭罪。百官無所適從,善者只堪支應,想做事而不敢做事,惡者混水摸魚,不做事卻還攪事,甚而火中取栗,遂劣勝優汰,一團亂象矣。
再次,內政治理全面隳頹。由此急轉直下,遂表現為下述兩方面。一方面,經濟下滑已成定勢,今年勢必雪上加霜,為「風波」以來所未有,將「組織性失序」和「制度性無能」推展至極。至於舉國信心下跌、產權恐懼、政學憤懣、社會萎縮、文化出版蕭條,惟剩狗屁紅歌紅劇,以及無恥文痞歌功頌德之肉麻兮兮,早成事實。而最為扼腕之處,則為對於港台形勢之誤判,尤其是拒不兌現基本法的普選承諾,着着臭棋,致使政治公信力跌至谷底,導致中國最為富庶文明之地的民眾之離心離德,令世界看清這一政體的無賴嘴臉。那邊廂,中美關係失序,而基於超級大國沒有純粹內政的定律,這是關乎國運之犖犖大端。恰恰在此,當軸顢頇,再加上碰到個大洋國的特沒譜,遂一塌糊塗。網議「帝國主義亡我之心不死」,想做而沒做成的事,卻讓他做成了,豈只調侃,而實錐心疼痛也哉。另一方面,幾年來公權加緊限制與摧毀社會發育,鉗口日甚,導致社會預警機制疲弱乃至於喪失,遇有大疫,便從封口而封城,死心覆死人矣。因而,不難理解的是,與此相伴而來的,便是政治市儈主義與庸俗實用主義蔓延政治,無以覆加,表明作為特殊時段的特殊現象登場的「知青政治」,早已德識俱亡。可以說,上上下下,他們是四十年來最為不堪的一屆領導。因而,此時此刻,兌現《憲法》第35條,解除報禁,解除對於網絡的特務式管控,實現公民言論自由和良心自由,坐實公民遊行示威和包括結社在內的各項自組織權利,尊重全體國民的普遍人權,特別是政治普選的權利,而且,對於病毒的來源、隱瞞疫情的責任人及其體制性根源,啟動獨立追責機制,才是「戰後重建」之大道,也是當務之急也。
復次,內廷政治登場。幾年來的集權行動,黨政一體之加劇,特別是以黨代政,如前所述,幾乎將官僚體制癱瘓。動機既靡,尾大不掉,遂以紀檢監察為鞭,抽打這個機體賣命,維續其等因奉此,逶迤着拖下去。而因言論自由和現代文官體制闕如,更無所謂「國王忠誠的反對者」在場,鞭子本身亦且不受督約,覆以國安委一統轄制下更為嚴厲之鐵腕統領,最後層層歸屬,上統於一人。而一人肉身凡胎,不敷其用,黨國體制下又無分權制衡體制來分責合力,遂聚親信合議。於是,內廷生焉。說句大白話,就是 「集體領導」分解為「九龍治水」式寡頭政制失效、相權衰落之際,領袖之小圈子成為「國中之國」,一個類似於老美感喟的隱形結構。揆諸既往,「1949政體」常態之下,官僚體系負責行政,縱便毛時代亦且容忍周相一畝三分地。「革委會」與「人保組」之出現,打散這一結構,終至不可維持。晚近四十年裏,多數時候「君相」大致平衡,黨政一體而借行政落實���旨。只是到了這幾年,��始出現這一最為封閉無能、陰鷙森森之內廷政治,而徹底堵塞了重建常態政治之可能性也。一旦進路閉鎖,彼此皆無退路,則形勢緊繃,大家都做不了事,只能眼睜睜看着情形惡化,終至不可收拾之境。置此情形下,經濟社會早已遭受重創,風雨飄搖於世俗化進程中的倫理社會不堪托付,市民社會羸弱兮兮,公民社會根本就不存在,至於最高境界的政治社會連個影子都沒有,則一旦風吹草動,大災來臨,自救無力,他救受阻,必致禍殃。此番江夏之亂,現象在下,而根子在上,在於這個孜孜於「保江山,坐江山」,而非立定於人民主權、「以文明立國,以自由立國」的體制本身。結果,其情其形,恰如網議之「集中力量辦大事」,頓時變成了「集中力量惹大事」。江夏大疫,再次佐證而已矣。
第五,以「大數據極權主義」及其「微信恐怖主義」治國馭民。過往三十多年,在底色不變的前提下,官方意識形態口徑經歷了從「振興中華」的民族主義和「四化」的富強追求,到「三個代表」和「新三民主義」,再至「新時代」云云的第次轉折。就其品質而言,總體趨勢是先升後降,到達「三個代表」拋物線頂端後一路下走,直至走到此刻一意赤裸裸「保江山」的「大數據極權主義」。相應的,看似自毛式極權向威權過渡的趨勢,在「奧運」後亦且止住,而反轉向毛氏極權回歸,尤以晚近六年之加速為甚。因其動用奠立於無度財政汲取的科技手段,這便形成了「1984」式「大數據極權主義」。緣此而來,其「微信恐怖主義」直接針對億萬國民,用納稅人的血汗豢養着海量網警,監控國民的一言一行,堪為這個體制直接對付國民的毒瘤。而動輒停號封號,大面積封群,甚至動用治安武力,導致人人自危,在被迫自我審查之際,為可能降臨的莫名處罰擔憂。由此窒息了一切公共討論的思想生機,也扼殺了原本應當存在的社會傳播與預警機制。由此,「基於法日斯主義的軍功僭主政治」漸次成型,卻又日益表現出「組織性失序」和「制度性無能」,其非結構性與解結構性。職是之故,不難理解,面對大疫,無所不能的極權統治在赳赳君臨一切的同時,恰恰於國家治理方面居然捉襟見肘,製造大國一時間口罩難求。那江夏城內,鄂省全境,至今尚有無數未曾收治、求醫無門、輾轉哀嚎的患者,還不知有多少因此而命喪黃泉者,將此無所不能與一無所能,暴露得淋漓盡致。蓋因排除社會與民間,斬斷一切信息來源,只允許黨媒宣傳,這個國家永遠是跛腳巨人,如果確為巨人的話。
第六,底牌亮出,鎖閉一切改良的可能性。換言之,所謂的「改革開放」死翹翹了。從2018年底之「該改的」、「不該改的」與「堅決不改」云云,至去秋十九屆四中全會公報之諸般宣示,可得斷言者,中國近代史上的第三波「改革開放」,終於壽終正寢。其實,這一死亡過程至少起自六年前,只不過至此算是明示無誤而已。回頭一望,二十世紀全球史上,但凡右翼極權政治,迫於壓力,皆有自我轉型的可能性,而無需訴諸大規模流血。縱便是「蘇東波」,尤其是東歐共產諸國等紅色極權政體,居然亦且和平過渡,令人詫異而欣慰。但吾國刻下,當局既將路徑鎖閉,則和平過渡是否可能,頓成疑問。若果如此,則「興,百姓苦;亡,百姓苦」,夫覆何言!但願此番大疫過後,全民反省,舉國自覺,看看尚能重啟「第四波改革開放」否!?
第七,由此順流直下,中國再度孤立於世界體系,已成定局。百多年裏,對於這個起自近代地中海文明、盛極於大西洋文明的現代世界體系,中國上演了多場「抗拒」與「順從」的拉鋸戰,反反覆覆,跌跌撞撞。晚近三十多年裏,痛定思痛,「低頭致意」以及「迎頭趕上」,乃至於「別開生面」,蔚為主流。惜乎近年再度犯二,犯橫,表明「改開」走到頭了,左翼極權「退無可退」,無法於和平過渡中完成自我轉型,因而,也就怪異於現代世界體系。雖則如此,總體而言,幾番拉鋸下來,中國以其浩瀚體量與開放性態度,終於再度躋身現代世界體系,成為這個體系的重要博弈者,重新詮釋著所謂「中心—邊緣」的地緣敘事,也是事實。但是,與國力和時勢不相匹配、太過張揚的外向型國策,尤其是內政回頭���日益「法日斯化」,引發這個體系中的其他博弈者對於紅色帝國崛起的戒慎戒懼,導致在高喊「人類命運共同體」之際卻為共同體所實際拒斥的悲劇,而日呈孤立之勢,更是眼面前的事實。事情很複雜而道理卻很簡單,一個不能善待自己國民的政權,怎能善待世界;一個不肯融入現代政治文明體系中的國族,你讓人怎麽跟你共同體嘛!故爾,經濟層面的交通互存還將繼續存在,而文明共同體意義上的孤立卻已成事實。此非文化戰爭,亦非通常所謂「文明衝突」一詞所能打發,更非迄今一時間數十個國家對中國實施旅行禁限,以及世界範圍的厭華、拒華與貶華氛圍之悄悄潮漲這麽簡單。——在此可得提示者,隱蔽的「黃禍」意識勢必順勢冒頭,而買單承受歧視與隔離之痛的只會是我華族同胞,而非權貴——毋寧,關乎對於歷經磨難方始凝練而成的現代世界普世價值的順逆從違,而牽扯到置身列國體系的條約秩序之中,吾國吾族如何生存的生命意志及其國族哲學,其取舍,其從違。在此,順昌逆亡,則所謂孤立者,全球現代政治文明版圖上之形單影隻、孤家寡人也。扭轉這一局面,重建負責任大國形象,擔負起應擔之責,而首先自良善內政起始,必然且只能皈依人類普世文明大道,特別是要坐實「主權在民」這一立國之本。在此,內政,還是內政,一種「立憲民主,人民共和」的良善政體及其有效治理,才是擺脫孤立、自立於世界體系的大經大法,而為國族生存與昌盛之康莊大道也。那時節,順時應勢,中國加入G7 而成G8,亦且並非不可想像者也。
第八,人民已不再恐懼。而說一千道一萬,就在於生計多艱、歷經憂患的億萬民眾,多少年裏被折騰得一佛升天二佛出世的「我們人民」,早已不再相信權力的神話,更不會將好不容易獲得的那一絲絲市民自由與三餐溫飽的底線生計,俯首帖耳地交還給僭主政制,任憑他們生殺予奪。毋寧,尤其是經此大疫,人民怒了,不幹了。他們目睹了欺瞞疫情不顧生民安危的刻薄寡恩,他們身受着為了歌舞升平而視民眾為芻狗的深重代價,他們更親歷了無數生命在分分鐘倒下,卻還在封號鉗口、開發感動、歌功頌德的無恥荒唐。一句話,「我不相信」,老子不幹了。若說人心看不見摸不着,最最無用,似乎經驗世界早已對此佐證再三,也不無道理。這不,萬民皆曰可殺,他卻坐享天年,如那個人人唾罵之李大鳥者,令人感慨天不長眼,天道不公,可實際上,天是苦難本身,與我們一同受罪。但是,假如說人之為人,就在於人人胸腔裏跳動着一顆人心,而非狼心狗肺,其因生老病死而悲欣交集,其因禍福義利而恨愛交加,其因落花而落淚、流水而傷懷,則人心所向,披荊斬棘,摧枯拉朽矣!人心喪盡之際,便是末日到來之時!至於腦殘與歲月靜好婊們,一群烏合之眾,歷史從來不是他們抒寫的,更不因他們而改變奔流的航道,同樣證之於史,不予欺也。
第九,敗象已現,倒計時開始,立憲時刻將至。戊戌修憲,開啟邪惡之門,集權登頂之際,恰恰是情勢反轉之時。自此一路狂奔倒退,終至敗象連連。撇開人心已喪不論,則前文敘及之港台應對失策與中美關係失序,以及經濟下滑之不可遏止、全球孤立,表明治理失敗,違忤現代政治常識的強人政治事與願違。大家面對悶局而恐懼其已成僵局,苦思焦慮其開局與再布局,期期於內部生變式與自下而上式之破局猶如水中撈月之時,港台形勢發展實已自邊緣捅破鐵桶,而開辟出一線生機。此種自邊緣破局、而漸進於中心的和平過渡之道,或許,將成為中國式大轉型的收束進路。此時,吾友所說之「難城」,或為華夏舊邦新命之耶路撒冷。換言之,邊緣突破意味着現代中國的立憲時刻再度即將降臨。當此關口,天欲曉,將明未明,強權抱殘守缺,不肯服膺民意,則崇高之門既已打開,可得預言者,必有大量身影倒斃於黎明前矣。
以上九點,呈諸國民,均為常識。而一再申說,就在於國家治理未入常態政治軌道,國族政治文明有待現代轉型,而於積善前行中,期期以「立憲民主,人民共和」收束這波已然延續一個半世紀的文明大轉型。正是在此,我們,「我們人民」,豈能「豬一般的茍且,狗一樣的奴媚,蛆蟲似的卑汙」?!
行文至此,回瞰身後,戊戌以來,在下因言獲罪,降級停職,留校察看,行止困限。此番作文,預感必有新罰降身,抑或竟為筆者此生最後一文,亦未可知。但大疫當前,前有溝壑,則言責在身,不可推諉,無所逃遁。否則,不如殺豬賣肉。是的,義憤,如西哲所言,正是義憤,惟義與憤所在,惟吾土先賢揭櫫之仁與義這一 「人心人路」之激蕩,令書齋學者成為知識分子,直至把性命搭進去。畢竟,自由,一種超驗存在和行動指歸,一種最具神性的世界現象,是人之為人的稟賦,華夏兒女不能例外。而世界精神,那個地上的神,不是別的,就是自由理念的絢爛展開。如此,朋友,我的億萬同胞,縱然火湖在前,何所懼哉!
腳下的這片大地啊,你深情而寡恩,少福卻多難。你一點點耗盡我們的耐心,你一寸寸斫喪我們的尊嚴。我不知道該詛咒你,還是必須禮讚你,但我知道,我分明痛切地知道,一提起你,我就止不住淚溢雙眼,心揪得痛。是啊,是啊,如詩人所詠,「我不要溫和地走進那個良夜,老年應當在日暮時燃燒咆哮;怒斥,怒斥那光明的消逝。」因而,書生無用,一聲長嘆,只能執筆為劍,討公道,求正義。置此大疫,睹此亂象,願我同胞,十四萬萬兄弟姐妹,我們這些永遠無法逃離這片大地的億萬生民,人人向不義咆哮,個個為正義將生命怒燃,刺破夜瘴迎接黎明,齊齊用力、用心、用命,擁抱那終將降臨這片大地的自由的太陽!
庚子正月初四初稿,初九定稿,窗外突降大雪
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lastscenecom · 5 years
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<飛鳥時代> 1 大 化  645 大化の改新 2 白 雉  663 白村江の戦い 3 朱 鳥  672 壬申の乱 4 大 宝  694 藤原京に遷都 5 慶 雲  701 大宝律令制定 <奈良時代> 6 和 銅  710 平城京に遷都 7 霊 亀  712 古事記が完成 8 養 老  720 日本書紀完成 9 神 亀  723 三世一身の法 10 天 平  729 光明子が皇后に 11 天平感宝 741 国分寺建立の詔 12 天平勝宝 743 墾田永年私財法 13 天平宝字 752 東大寺大仏開眼 14 天平神護 754 唐から鑑真来日 15 神護景雲 ― 「万葉集」成立 16 宝 亀  781 桓武天皇が即位 17 天 応  784 長岡京に遷都 <平安時代> 18 延 暦  794 平安京に遷都 19 大 同  802 坂上田村麻呂東征 20 弘 仁  804 最澄、空海が唐へ 21 天 長  806 最澄、天台宗開く 22 承 和  810 唐招提寺五重塔 23 嘉 祥  816 検非違使を設置 24 仁 寿  823 空海、真言宗開く 25 斉 衡  860 石清水八幡宮創建 26 天 安  866 応天門の変 27 貞 観  869 貞観の大地震 28 元 慶  878 元慶の乱 29 仁 和  888 仁和寺金堂建立 30 寛 平  894 遣唐使を廃止 31 昌 泰  ―  平仮名が現れる 32 延 喜  901 菅原道真が失脚 33 延 長  905 古今和歌集編纂 34 承 平  935 平将門の乱 35 天 慶  939 藤原純友の乱 36 天 暦  947 北野天満宮建立 37 天 徳  949 村上天皇の親政 38 応 和  955 後撰和歌集成立 39 康 保  968 東大寺?興福寺 40 安 和  969 安和の変 41 天 禄  ―  浄土教が流行 42 天 延  974 道綱の母「蜻蛉日記」 43 貞 元  ―  日宋貿易始まる 44 天 元  984 最古医術書「医心方」 45 永 観  985 源信「往生要集」 46 寛 和  ― 「日本往生極楽記」 47 永 延  987 宋の商人が来日 48 永 祚  988 尾張国郡司百姓等解 49 正 暦  990 藤原道隆摂政に 50 長 徳  ―  清少納言「枕草子」 51 長 保  ―  紫式部「源氏物語」 52 寛 弘  ― 「和泉式部日記」 53 長 和  ―  拾遺和歌集成立 54 寛 仁  1016 藤原道長摂政に 55 治 安  1019 刀伊の入寇 56 万 寿  1027 藤原道長が死去 57 長 元  1028 平忠常の乱 58 長 暦  1036 後朱雀天皇即位 59 長 久  1040 長久の荘園整理令 60 寛 徳  1047 浄瑠璃寺が創建 61 永 承  1051 前九年の合戦 62 天 喜  1053 平等院鳳凰堂完成 63 康 平  1063 源頼義鎌倉に八幡宮 64 治 暦  ―  孝標の女「更級日記」 65 延 久  1069 延久の荘園整理令 66 承 保  1075 延暦寺?円城寺 67 承 暦  ―  末法思想の流行 68 永 保  1083 後三年の合戦 69 応 徳  1086 白河上皇の院政 70 寛 治  ―  熊野信仰が盛んに 71 嘉 保  1095 北面の武士設置 72 永 長  1105 平泉に中尊寺建立 73 承 徳  1107 源義親の乱 74 康 和  ―  今昔物語集 75 長 治  ―  源氏物語絵巻 76 嘉 承    77 天 仁    78 天 永    79 永 久    80 元 永    81 保 安    82 天 治    83 大 治    84 天 承    85 長 承    86 保 延    87 永 治    88 康 治    89 天 養    90 久 安    91 仁 平    92 久 寿    93 保 元    94 平 治    95 永 暦  1152 平清盛厳島神社修復 96 応 保  1156 保元の乱 97 長 寛  1159 平治の乱 98 永 万  1160 源頼朝伊豆配流 99 仁 安  1167 平清盛が太政大臣 100 嘉 応  1169 後白河上皇が出家 101 承 安  1171 清盛の娘徳子入内 102 安 元  1175 法然が浄土宗開く 103 治 承  1180 源頼朝伊豆で挙兵 104 養 和  1181 清盛が熱病で死去 105 寿 永  1183 倶利伽羅峠の戦い 106 元 暦  1185 壇ノ浦で平氏滅亡 107 文 治  1189 源義経討たれる 108 建 久  1192 頼朝鎌倉に幕府 <鎌倉時代> 109 正 治  1195 東大寺大仏再建 110 建 仁  1199 頼朝53歳で死す 111 元 久  1202 源頼家が征夷大将軍 112 建 永  1203 北条時政執権就任 113 承 元  1204 頼家が暗殺される 114 建 暦  1205 新古今和歌集完成 115 健 保  1212 鴨長明「方丈記」 116 承 久  1213 源実朝「金槐和歌集」 117 貞 応  1219 実朝暗殺、源氏断絶 118 元 仁  1221 承久の乱 119 嘉 禄  1224 親鸞、浄土真宗開く 120 安 貞  1227 道元、曹洞宗伝える 121 寛 喜  1231 寛喜の大飢饉 122 貞 永  1232 御成敗式目制定 123 天 福  ―  京都で猿楽流行 124 文 暦  1235 小倉百人一首 125 嘉 禎  1235 霧島連峰が大噴火 126 暦 仁  1239 人身売買を禁止 127 延 応  1242 「東関紀行」完成 128 仁 治  1244 越前に永平寺建立 129 寛 元  ―  琵琶法師「平家物語」 130 宝 治  1247 宝治合戦 131��建 長  1253 日蓮、日蓮宗開く 132 康 元  1255 東福寺創建される 133 正 嘉  1259 正嘉の大飢饉 134 正 元  1261 日蓮が伊豆に配流 135 文 応  1268 北条時宗執権就任 136 弘 長  1269 モンゴル使者来着 137 文 永  1274 文永の役 138 建 治  1276 博多湾岸に防塁設置 139 弘 安  1281 弘安の役 140 正 応  1285 霜月騒動 141 永 仁  1293 鎮西探題を設置 142 正 安  1297 永仁の徳政令 143 乾 元    144 嘉 元    145 徳 治    146 延 慶    147 応 長    148 正 和    149 文 保    150 元 応    151 元 享  1321 院政を廃止 152 正 中  1324 正中の変 153 嘉 暦  1324 大徳寺創建される 154 元 徳  1330 兼好法師、徒然草 <南北朝時代> 南 元 弘  1331 楠木正成が挙兵 南 建 武  1332 後醍醐天皇流刑 南 延 元  1333 鎌倉幕府が滅亡 南 興 国  1336 湊川の戦い 南 正 平  1338 足利尊氏が征夷大将軍 南 建 徳  1339 後醍醐天皇が没す 南 文 中  1368 足利義満が3代将軍 南 天 授  ―  太平記 南 弘 和  ―  義経記 南 元 中  1391 明徳の乱 北 正 慶    北 暦 応    北 康 永    北 貞 和    北 観 応    北 文 和    北 延 文    北 康 安    北 貞 治    北 応 安    北 永 和    北 康 暦    北 永 徳    北 至 徳    北 嘉 慶    北 康 応 <室町~戦国時代> 181 明 徳  1392 南北朝が合体 182 応 永  1397 金閣寺造営 183 正 長  1399 応永の乱 184 永 享  1419 応永の外寇 185 嘉 吉  1428 正長の徳政一揆 186 文 安  1438 永享の乱 187 宝 徳  1441 足利義教殺害 188 享 徳  1454 享徳の乱 189 康 正  1456 応仁の乱 190 長 禄  1482 銀閣寺造営 191 寛 正  1488 加賀で一向一揆 192 文 正  1493 明応の政変 193 応 仁  1543 鉄砲伝来 194 文 明  1549 ザビエル布教 195 長 享  1553 川中島の戦い 196 延 徳  1560 桶狭間の戦い 197 明 応  1568 織田信長が入京 198 文 亀  1573 室町幕府滅亡 199 永 正    200 大 永    201 享 禄    202 天 文    203 弘 治    204 永 禄    205 元 亀 <安土桃山時代>    206 天 正  1582 本能寺の変 207 文 禄  1600 関ヶ原の戦い <江戸時代> 208 慶 長  1603 徳川家康江戸幕府開く 209 元 和  1614 大阪冬の陣 210 寛 永  1615 大阪夏の陣 211 正 保  1633 鎖国が始まる 212 慶 安  1635 参勤交代制 213 承 応  1636 長崎に出島完成 214 明 暦  1637 島原・天草一揆 215 万 治  1651 由井正雪の乱 216 寛 文  1685 生類憐れみの令 217 延 宝  1702 赤穂事件 218 天 和  1732 享保の飢饉 219 貞 享  1774 解体新書出版 220 元 禄  1782 天明の飢饉 221 宝 永  1783 浅間山大噴火 222 正 徳  1787 天明の打ち壊し 223 享 保  1825 異国船打払令 224 元 文  1828 シーボルト事件 225 寛 保  1833 天保の飢饉 226 延 享     東海道五十三次完成 227 寛 延  1837 大塩の乱 228 宝 暦  1841 天保の改革 229 明 和  1853 ペリー浦賀来航 230 安 永  1854 日米和親条約 231 天 明  1858 日米修好通商条約 232 寛 永     安政の大獄 233 享 和  1860 桜田門外の変 234 文 化  1864 禁門の変 235 文 政  1866 薩長同盟の密約 236 天 保    237 弘 化    238 嘉 永    239 安 政    240 万 延  1867 坂本龍馬暗殺 241 文 久     大政奉還 242 元 治  1868 鳥羽伏見の戦い 243 慶 応     江戸城無血開城 <近現代> 244 明 治  1904 日露戦争 245 大 正  1914 第1次世界大戦 246 昭 和  1945 太平洋戦争終戦 247 平 成  2011 東日本大震災
248番目の新元号発表 大化から平成まで一覧(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
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amiens2014 · 2 years
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お食事処千里/長崎県南島原市【ランチ】口之津港〜原城と車で走って新鮮刺身をガッツリいただく
原城 2021年11月16日、この日は鬼池港(おにいけこう)からフェリーで長崎県南島原市の口之津港(くちのつこう)にやってきた。 https://niyodogawa.org/blog/outdoor/walking/japan/44413/ そこから車で、原城(はらじょう)に向かう。 原城(はらじょう)は、長崎県南島原市南有馬町丁(ながさきけんみなみしまばらしみなみありまちょうてい)にある城跡だ。 島原の乱では3万人以上のキリシタン・農民が命を落とし、原城一帯で後に多くの遺骨が出土されました。散乱していた遺骨を敵・味方の区別なく拾い集めてその霊をなぐさめたのが、このほねかみ地蔵です。 島原・天草一揆の舞台「原城跡」を巡る | モデルコース | 【公式】長崎観光/旅行ポータルサイト ながさき旅ネット…
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mvrider5 · 4 months
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島原城天守内
天守と三つの櫓が復元された壮麗な島原城
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その天守内に
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復元城なので内部は展示物が
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島原らしい観音様に似せられた聖マリア像
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キリシタン侍のクロスを模した鍔
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島原の乱の時、南部各村の一揆勢に襲われたが、堅固な作りで持ち堪えた。
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当時の模型や絵図
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実物の甲冑と大筒
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最上階
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最上階からの景色
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同じく最上階から駅方面の景色。中央に見える駅舎も歴史ある趣
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西櫓
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丑寅の櫓
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巽櫓
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これは丑寅の櫓にあった諫早門
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本丸から三の丸まで縦に並び総構えだった島原城
そして島原といえば天草四郎
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本丸を出て、お堀沿いの此処らは菖蒲園(勿論今はただの草っ原😅)
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最後にもう少し本丸の石垣
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deusnatura · 6 years
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日本史学者・呉座勇一が選ぶ日本の戦の本6冊 戦後、日本の歴史学界は、太平洋戦争の勃発を防げなかったことへの反省から、反戦平和主義を唱えるようになった。それじたいは結構なのだが、軍事や戦争を研究対象に据えることを避けるようになった。  真に平和を望むのであれば、軍事や戦争を思考の外に置くのではなく、かえってそれらを正面から検討し、戦争回避の方法を真摯に考察する必要がある。近年は日本史学界でも、右の問題意識から、軍事史研究や戦争論が盛んになっている。ここでは、そうした研究成果のエッセンスが詰められた一般書を紹介する。  まずは古代史。古代には、貴族が謀略をめぐらす陰湿な雰囲気がつきまとうが、実際には多くの政治抗争に武力行使が伴った。藤原氏が他氏との権力闘争に勝利できたのは、自らの私的武力を公的武力に組み込み、また公的武力を私物化することで巨大な軍事力を掌握したからである。【1】『古代国家と軍隊』(笹山晴生・講談社学術文庫)はこの分野の古典的名著で、朝廷の武力機構の変遷から古代史を描く。  続いて中世史。中世戦争論の先駆けとなった【2】『源平合戦の虚像を剥ぐ』(川合康・講談社学術文庫)を押さえておきたい。「平家は貴族化し軟弱だったので負けた」「武士たちは基本的に一騎打ちで戦った」といったステレオタイプな源平合戦像を覆した画期的な書である。しかも鎌倉幕府の政治機構が源平合戦という戦争の中で形成されたことを解き明かしたことが素晴らしい。戦争研究は軍事マニアが趣味的にやるものではなく、政治史を正確に理解するために不可欠なのだ。  戦国時代の合戦についても、研究が急速に進展し、通説を塗り替えつつある。この分野に先鞭をつけたのは、鈴木眞哉氏や藤本正行氏など在野の歴史研究者だったが、最近は黒田基樹氏や平山優氏など、アカデミズムの研究者も参入し、百家争鳴である。【3】『戦国の軍隊』(西股総生・角川ソフィア文庫)が騎馬隊・鉄砲・足軽・兵站・兵農分離など主要な論点を整理しており、入門書として最適である。 近世史では島原の乱を取り上げる。江戸時代は平和な時代という印象があるが、武士が戦闘者から治者へと転換するのは島原の乱以降である。【4】『島原の乱』(神田千里・中公新書)は、同乱を「中世から近世への移行を象徴する出来事」と捉え、島原一揆は戦国大名の軍隊と同質の武力と主張する。また島原一揆が寺院や神社を焼き払うなど「異教徒」を攻撃したことを強調し、一揆を美化してきた戦後歴史学を批判する。【4】に批判的な大橋幸泰『検証 島原天草一揆』(吉川弘文館)も併せて読みたい。  近代史は、日露戦争と太平洋戦争に注目したい。一般の方が抱く日露戦争像はおおむね司馬遼太郎の『坂の上の雲』によって形作られていると思う。日露戦争を祖国防衛戦争として活写する司馬史観は魅力的だが、同戦争の意義はそこに留まるものではない。���年は日露戦争を第一次世界大戦の原型と位置づけ、「第零次世界大戦」と呼ぶ研究者も現れてきている。【5】『世界史の中の日露戦争』(山田朗・吉川弘文館)は、日露戦争を世界史の中に位置づけた好著である。  当時、日露戦争を世界の新聞がどう報道したかを詳細に紹介しており、非常に興味深い。また、日本のアカデミズムでは、「銃後の生活」とか「戦争の記憶」のような切り口が好まれ、日露戦争を純粋な軍事史の観点から論じたものが意外に少ないので、その点でも貴重である。ロシアの対日外交の迷走に関しては、横手慎二『日露戦争史』(中公新書)が詳しい。  太平洋戦争に関しては膨大な著作があるが、軍事史的な研究は月並みなものになりがちである。敗者である日本陸海軍の戦略・戦術を後知恵で評価すると、ダメ出しの連続になってしまうからである。  その点、【6】『日本軍と日本兵』(一ノ瀬俊也・講談社現代新書)は視点が新鮮である。太平洋戦争時、日本の主敵であるアメリカ軍が日本兵と日本軍をどのように評価していたかを、米軍内部で配布されていた広報誌を利用して明らかにする。バンザイ突撃など狂信的イメージが強い日本兵だが、実は防御陣地の隠蔽や機関銃による十字砲火など、米軍も感心するほど有効な戦術も用い、撤退できる場合は陣地を捨てることもあった。問題の本質は、将兵・火力が不足し降伏厳禁という条件下での合理性、ごく狭い意味での〈合理性〉の追求に固執した点にある、という著者の指摘は重い。  戦後歴史学が軍事史研究を忌避した結果、世間では日本の戦に関する俗説が根強く残っている。右に紹介した書籍を入り口にして、知識を更新してほしい。
日本史学者・呉座勇一が選ぶ日本の戦の本6冊 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180424-00000004-pseven-life
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peterchiublack · 5 years
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許章潤新作,《憤怒的人民已不再恐懼》 
豕鼠交替之際,九衢首疫,舉國大疫,一時間神州肅殺,人心惶惶。公權進退失據,致使小民遭殃,疫癘散布全球,中國漸成世界孤島。
此前三十多年「改���開放」辛苦積攢的開放性狀態,至此幾乎毀於一旦,一巴掌把中國尤其是它的國家治理打回前現代狀態。而斷路封門,夾雜著不斷發生的野蠻人道災難,跡近中世紀。原因則在於當軸上下,起則鉗口而瞞騙,繼則諉責卻邀功,眼睜睜錯過防治窗口。壟斷一切、定於一尊的「組織性失序」和只對上負責的「制度性無能」,特別是孜孜於「保江山」的一己之私而置億萬國民於水火的政體「道德性敗壞」,致使人禍大於天災,在將政體的德性窳敗暴露無遺之際,抖露了前所未有的體制性虛弱。
至此,人禍之災,於當今中國倫理、政治、社會與經濟,甚於一場全面戰爭。再說一遍,甚於一場全面戰爭。此可謂外寇未逞其志,而家賊先禍其國。老美或有打擊中國經濟之思,不料當軸急先鋒也。尤其是疫癘猖獗當口,所謂「親自」云云,心口不一,無恥之尤,更令國人憤慨,民心喪盡。    是的,國民的憤怒已如火山噴發,而憤怒的人民將不再恐懼。至此,放眼世界體系,揆諸全球政治周期,綜理戊戌以來的國情進展,概略下述九項,茲此敬呈國人。
首先,政治敗壞,政體德性罄盡。保家業、坐江山,構成了這一政體及其層峰思維的核心,開口閉口的「人民群眾」不過是搜刮的稅收單位,數目字管理下的維穩對象和「必要代價」,供養著維續這個極權政體的大小無數蝗蟲。
公權上下隱瞞疫情,一再延宕,只為了那個圍繞著「核心」的燈紅酒綠、歌舞升平,說明心中根本就無生民無辜、而人命關天之理念,亦無全球體系中休戚相關之概念。
待到事發,既丟人現眼,更天良喪盡,遭殃的是小民百姓。權力核心仍在,而低效與亂象並生,尤其是網警效命惡政,動如鷹犬,加班加點封鎖信息,而信息不脛而走,說明特務政治臨朝,國安委變成最具強力部門,雖無以覆加,卻已然前現代,有用復無用矣。其實,老祖宗早已明言,防民之口甚於防川,哪怕網信辦再有能耐,也對付不了十四萬萬張嘴,古人豈余欺哉!蓋因一切圍繞江山打轉,自以為權力無所不能,沈迷於所謂「領袖」之自欺,而終究欺瞞不住。大疫當前,卻又毫無領袖德識,捉襟見肘,累死前方將士,禍殃億萬民眾,卻還在那裡空喊政治口號,這個那個,煞有介事,令國人齒冷,讓萬方見笑。此亦非他,乃政體之「道德性敗壞」也。若說七十年裡連綿災難早已曉諭萬眾極權之惡,則此番大疫,更將此昭顯無遺。惟盼吾族億萬同胞,老少爺們,長記性,少奴性,在一切公共事務上運用自己的理性,不要再為極權殉葬。否則,韭菜們,永難得救。
其次,僭主政治下,政制潰敗,三十多年的技術官僚體系終結。曾幾何時,在道德動機和利益動機雙重驅動下,一大批技術官僚型幹才上陣,而終究形成了一種雖不理想、弊端重重、但卻於特定時段頂事兒的技術官僚體系。其間一大原因,就在於掛鉤於職位升遷的政績追求,激發了貧寒子弟入第後的獻身衝動。至於乘勢而上的紅二們,從來尸位素餐,酒囊飯袋,成事不足敗事有餘,在此不論。
可惜,隨著最近幾年的不斷整肅,紅色江山老調���彈,只用聽話的,自家的,其結果,技術官僚體系的德性與幹才,其基於政績升遷的那點兒衝動,不知不覺,乃消失殆盡。尤其是所謂「紅色基因」的自家人判準及其圈定,讓天下寒心而灰心,進而,離德離心。於是,這便出現了官場上普遍平庸而萎頓猥瑣之態。鄂省亂象,群魔亂舞,不過一隅,其實省省如此,舉朝如此矣。其間原因,就在於這個後領袖時代,領袖制本身就在摧毀治理結構,口言現代治理卻使整個國家治理陷入無結構性之窘境。此間癥狀,正為「組織性失序」和「制度性無能」。君不見,惟一人馬首是瞻,而一人暝朦,治國無道,為政無方,卻弄權有術,遂舉國遭罪。百官無所適從,善者只堪支應,想做事而不敢做事,惡者混水摸魚,不做事卻還攪事,甚而火中取栗,遂劣勝優汰,一團亂象矣。
再次,內政治理全面隳頹。由此急轉直下,遂表現為下述兩方面。一方面,經濟下滑已成定勢,今年勢必雪上加霜,為「風波」以來所未有,將「組織性失序」和「制度性無能」推展至極。至於舉國信心下跌、產權恐懼、政學憤懣、社會萎縮、文化出版蕭條,惟剩狗屁紅歌紅劇,以及無恥文痞歌功頌德之肉麻兮兮,早成事實。而最為扼腕之處,則為對於港台形勢之誤判,尤其是拒不兌現基本法的普選承諾,著著臭棋,致使政治公信力跌至谷底,導致中國最為富庶文明之地的民眾之離心離德,令世界看清這一政體的無賴嘴臉。那邊廂,中美關係失序,而基於超級大國沒有純粹內政的定律,這是關乎國運之犖犖大端。恰恰在此,當軸顢頇,再加上碰到個大洋國的特沒譜,遂一塌糊塗。
網議「帝國主義亡我之心不死」,想做而沒做成的事,卻讓他做成了,豈只調侃,而實錐心疼痛也哉。另一方面,幾年來公權加緊限制與摧毀社會發育,鉗口日甚,導致社會預警機制疲弱乃至於喪失,遇有大疫,便從封口而封城,死心覆死人矣。
因而,不難理解的是,與此相伴而來的,便是政治市儈主義與庸俗實用主義蔓延政治,無以覆加,表明作為特殊時段的特殊現象登場的「知青政治」,早已德識俱亡。可以說,上上下下,他們是四十年來最為不堪的一屆領導。因而,此時此刻,兌現《憲法》第35條,解除報禁,解除對於網絡的特務式管控,實現公民言論自由和良心自由,坐實公民遊行示威和包括結社在內的各項自組織權利,尊重全體國民的普遍人權,特別是政治普選的權利,而且,對於病毒的來源、隱瞞疫情的責任人及其體制性根源,啟動獨立追責機制,才是「戰後重建」之大道,也是當務之急也。
復次,內廷政治登場。幾年來的集權行動,黨政一體之加劇,特別是以黨代政,如前所述,幾乎將官僚體制癱瘓。動機既靡,尾大不掉,遂以紀檢監察為鞭,抽打這個機體賣命,維續其等因奉此,逶迤著拖下去。而因言論自由和現代文官體制闕如,更無所謂「國王忠誠的反對者」在場,鞭子本身亦且不受督約,覆以國安委一統轄制下更為嚴厲之鐵腕統領,最後層層歸屬,上統於一人。而一人肉身凡胎,不敷其用,黨國體制下又無分權制衡體制來分責合力,遂聚親信合議。於是,內廷生焉。
說句大白話,就是 「集體領導」分解為「九龍治水」式寡頭政制失效、相權衰落之際,領袖之小圈子成為「國中之國」,一個類似於老美感喟的隱形結構。揆諸既往,「1949政體」常態之下,官僚體系負責行政,縱便毛時代亦且容忍周相一畝三分地。「革委會」與「人保組」之出現,打散這一結構,終至不可維持。
晚近四十年裡,多數時候「君相」大致平衡,黨政一體而借行政落實黨旨。只是到了這幾年,方始出現這一最為封閉無能、陰鷙森森之內廷政治,而徹底堵塞了重建常態政治之可能性也。一旦進路閉鎖,彼此皆無退路,則形勢緊繃,大家都做不了事,只能眼睜睜看著情形惡化,終至不可收拾之境。
置此情形下,經濟社會早已遭受重創,風雨飄搖於世俗化進程中的倫理社會不堪托付,市民社會羸弱兮兮,公民社會根本就不存在,至於最高境界的政治社會連個影子都沒有,則一旦風吹草動,大災來臨,自救無力,他救受阻,必致禍殃。此番江夏之亂,現象在下,而根子在上,在於這個孜孜於「保江山,坐江山」,而非立定於人民主權、「以文明立國,以自由立國」的體制本身。結果,其情其形,恰如網議之「集中力量辦大事」,頓時變成了「集中力量惹大事」。江夏大疫,再次佐證而已矣。 第五,以「大數據極權主義」及其「微信恐怖主義」治國馭民。
過往三十多年,在底色不變的前提下,官方意識形態口徑經歷了從「振興中華」的民族主義和「四化」的富強追求,到「三個代表」和「新三民主義」,再至「新時代」云云的第次轉折。就其品質而言,總體趨勢是先升後降,到達「三個代表」拋物線頂端後一路下走,直至走到此刻一意赤裸裸「保江山」的「大數據極權主義」。相應的,看似自毛式極權向威權過渡的趨勢,在「奧運」後亦且止住,而反轉向毛氏極權回歸,尤以晚近六年之加速為甚。因其動用奠立於無度財政汲取的科技手段,這便形成了「1984」式「大數據極權主義」。緣此而來,其「微信恐怖主義」直接針對億萬國民,用納稅人的血汗豢養著海量網警,監控國民的一言一行,堪為這個體制直接對付國民的毒瘤。而動輒停號封號,大面積封群,甚至動用治安武力,導致人人自危,在被迫自我審查之際,為可能降臨的莫名處罰擔憂。由此窒息了一切公共討論的思想生機,也扼殺了原本應當存在的社會傳播與預警機制。由此,「基於法日斯主義的軍功僭主政治」漸次成型,卻又日益表現出「組織性失序」和「制度性無能」,其非結構性與解結構性。職是之故,不難理解,面對大疫,無所不能的極權統治在赳赳君臨一切的同時,恰恰於國家治理方面居然捉襟見肘,製造大國一時間口罩難求。那江夏城內,鄂省全境,至今尚有無數未曾收治、求醫無門、輾轉哀嚎的患者,還不知有多少因此而命喪黃泉者,將此無所不能與一無所能,暴露得淋漓盡致。蓋因排除社會與民間,斬斷一切信息來源,只允許黨媒宣傳,這個國家永遠是跛腳巨人,如果確為巨人的話。 第六,底牌亮出,鎖閉一切改良的可能性。換言之,所謂的「改革開放」死翹翹了。
從2018年底之「該改的」、「不該改的」與「堅決不改」云云,至去秋十九屆四中全會公報之諸般宣示,可得斷言者,中國近代史上的第三波「改革開放」,終於壽終正寢。其實,這一死亡過程至少起自六年前,只不過至此算是明示無誤而已。回頭一望,二十世紀全球史上,但凡右翼極權政治,迫於壓力,皆有自我轉型的可能性,而無需訴諸大規模流血。縱便是「蘇東波」,尤其是東歐共產諸國等紅色極權政體,居然亦且和平過渡,令人詫異而欣慰。但吾國刻下,當局既將路徑鎖閉,則和平過渡是否可能,頓成疑問。若果如此,則「興,百姓苦;亡,百姓苦」,夫覆何言!但願此番大疫過後,全民反省,舉國自覺,看看尚能重啟「第四波改革開放」否!? 第七,由此順流直下,中國再度孤立於世界體系,已成定局。
百多年裡,對於這個起自近代地中海文明、盛極於大西洋文明的現代世界體系,中國上演了多場「抗拒」與「順從」的拉鋸戰,反反覆覆,跌跌撞撞。晚近三十多年裡,痛定思痛,「低頭致意」以及「迎頭趕上」,乃至於「別開生面」,蔚為主流。惜乎近年再度犯二,犯橫,表明「改開」走到頭了,左翼極權「退無可退」,無法於和平過渡中完成自我轉型,因而,也就怪異於現代世界體系。雖則如此,總體而言,幾番拉鋸下來,中國以其浩瀚體量與開放性態度,終於再度躋身現代世界體系,成為這個體系的重要博弈者,重新詮釋著所謂「中心—邊緣」的地緣敘事,也是事實。但是,與國力和時勢不相匹配、太過張揚的外向型國策,尤其是內政回頭,日益「法日斯化」,引發這個體系中的其他博弈者對於紅色帝國崛起的戒慎戒懼,導致在高喊「人類命運共同體」之際卻為共同體所實際拒斥的悲劇,而日呈孤立之勢,更是眼面前的事實。
事情很複雜而道理卻很簡單,一個不能善待自己國民的政權,怎能善待世界;一個不肯融入現代政治文明體系中的國族,你讓人怎麽跟你共同體嘛!
故爾,經濟層面的交通互存還將繼續存在,而文明共同體意義上的孤立卻已成事實。此非文化戰爭,亦非通常所謂「文明衝突」一詞所能打發,更非迄今一時間數十個國家對中國實施旅行禁限,以及世界範圍的厭華、拒華與貶華氛圍之悄悄潮漲這麽簡單。在此可得提示者,隱蔽的「黃禍」意識勢必順勢冒頭,而買單承受歧視與隔離之痛的只會是我華族同胞,而非權貴—毋寧,關乎對於歷經磨難方始凝練而成的現代世界普世價值的順逆從違,而牽扯到置身列國體系的條約秩序之中,吾國吾族如何生存的生命意志及其國族哲學,其取舍,其從違。在此,順昌逆亡,則所謂孤立者,全球現代政治文明版圖上之形單影隻、孤家寡人也。
扭轉這一局面,重建負責任大國形象,擔負起應擔之責,而首先自良善內政起始,必然且只能皈依人類普世文明大道,特別是要坐實「主權在民」這一立國之本。在此,內政,還是內政,一種「立憲民主,人民共和」的良善政體及其有效治理,才是擺脫孤立、自立於世界體系的大經大法,而為國族生存與昌盛之康莊大道也。那時節,順時應勢,中國加入G7 而成G8,亦且並非不可想像者也。 第八,人民已不再恐懼。
而說一千道一萬,就在於生計多艱、歷經憂患的億萬民眾,多少年裡被折騰得一佛升天二佛出世的「我們人民」,早已不再相信權力的神話,更不會將好不容易獲得的那一絲絲市民自由與三餐溫飽的底線生計,俯首帖耳地交還給僭主政制,任憑他們生殺予���。毋寧,尤其是經此大疫,人民怒了,不幹了。他們目睹了欺瞞疫情不顧生民安危的刻薄寡恩,他們身受著為了歌舞升平而視民眾為芻狗的深重代價,他們更親歷了無數生命在分分鐘倒下,卻還在封號鉗口、開發感動、歌功頌德的無恥荒唐。
一句話,「我不相信」,老子不幹了。若說人心看不見摸不著,最最無用,似乎經驗世界早已對此佐證再三,也不無道理。這不,萬民皆曰可殺,他卻坐享天年,如那個人人唾罵之李大鳥者,令人感慨天不長眼,天道不公,可實際上,天是苦難本身,與我們一同受罪。但是,假如說人之為人,就在於人人胸腔裡跳動著一顆人心,而非狼心狗肺,其因生老病死而悲欣交集,其因禍福義利而恨愛交加,其因落花而落淚、流水而傷懷,則人心所向,披荊斬棘,摧枯拉朽矣!人心喪盡之際,便是末日到來之時!至於腦殘與歲月靜好婊們,一群烏合之眾,歷史從來不是他們抒寫的,更不因他們而改變奔流的航道,同樣證之於史,不予欺也。 第九,敗象已現,倒計時開始,立憲時刻將至。戊戌修憲,開啟邪惡之門,集權登頂之際,恰恰是情勢反轉之時。
自此一路狂奔倒退,終至敗象連連。撇開人心已喪不論,則前文敘及之港台應對失策與中美關係失序,以及經濟下滑之不可遏止、全球孤立,表明治理失敗,違忤現代政治常識的強人政治事與願違。大家面對悶局而恐懼其已成僵局,苦思焦慮其開局與再布局,期期於內部生變式與自下而上式之破局猶如水中撈月之時,港台形勢發展實已自邊緣捅破鐵桶,而開闢出一線生機。此種自邊緣破局、而漸進於中心的和平過渡之道,或許,將成為中國式大轉型的收束進路。此時,吾友所說之「難城」,或為華夏舊邦新命之耶路撒冷。換言之,邊緣突破意味著現代中國的立憲時刻再度即將降臨。當此關口,天欲曉,將明未明,強權抱殘守缺,不肯服膺民意,則崇高之門既已打開,可得預言者,必有大量身影倒斃於黎明前矣。
以上九點,呈諸國民,均為常識。而一再申說,就在於國家治理未入常態政治軌道,國族政治文明有待現代轉型,而於積善前行中,期期以「立憲民主,人民共和」收束這波已然延續一個半世紀的文明大轉型。正是在此,我們,「我們人民」,豈能「豬一般的茍且,狗一樣的奴媚,蛆蟲似的卑汙」?!
行文至此,回瞰身後,戊戌以來,在下因言獲罪,降級停職,留校察看,行止困限。此番作文,預感必有新罰降身,抑或竟為筆者此生最後一文,亦未可知。但大疫當前,前有溝壑,則言責在身,不可推諉,無所逃遁。否則,不如殺豬賣肉。是的,義憤,如西哲所言,正是義憤,惟義與憤所在,惟吾土先賢揭櫫之仁與義這一 「人心人路」之激蕩,令書齋學者成為知識分子,直至把性命搭進去。畢竟,自由,一種超驗存在和行動指歸,一種最具神性的世界現象,是人之為人的稟賦,華夏兒女不能例外。而世界精神,那個地上的神,不是別的,就是自由理念的絢爛展開。如此,朋友,我的億萬同胞,縱然火湖在前,何所懼哉!
腳下的這片大地啊,你深情而寡恩,少福卻多難。你一點點耗盡我們的耐心,你一寸寸斫喪我們的尊嚴。我不知道該詛咒你,還是必須禮讚你,但我知道,我分明痛切地知道,一提起你,我就止不住淚溢雙眼,心揪得痛。是啊,是啊,如詩人所詠,「我不要溫和地走進那個良夜,老年應當在日暮時燃燒咆哮;怒斥,怒斥那光明的消逝。」因而,書生無用,一聲長嘆,只能執筆為劍,討公道,求正義。置此大疫,睹此亂���,願我同胞,十四萬萬兄弟姐妹,我們這些永遠無法逃離這片大地的億萬生民,人人向不義咆哮,個個為正義將生命怒燃,刺破夜瘴迎接黎明,齊齊用力、用心、用命,擁抱那終將降臨這片大地的自由的太陽!
   庚子正月初四初稿,初九定稿,窗外突降大雪
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kitasango · 2 years
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❇️天草四郎時貞とは⁉️ 「神の子」として崇められ、わずか16歳で日本最大の一揆と呼ばれる「島原の乱」を総大将として戦った天草四郎‼️ 派手なひだ衿に黒いマント、この神秘的な佇まいとカリスマ性は人々の想像力を刺激し、「海の上を歩いた」、「盲目の少女の視力を回復させた」といった数々の奇跡のエピソードとともに、「実は天草四郎は豊臣秀吉の孫だった⁉️」 という驚愕の噂も生みました💁 #天草四郎 #島原の乱 https://www.instagram.com/p/Cm5OLnlvSTf/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kachoushi · 5 years
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各地句会報
花鳥誌令和2年2月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
令和元年11月7日 うづら三日の月句会
小春日も心配事も窓の外 さとみ 病む兄の泣き顔背には小春かな さとみ 秋深し見知らぬ人と船に乗る 都 蔵の戸をきしませ開き新酒出る 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月7日 花鳥さゞれ会
師と僧と旅の我等に雁渡る 雪 山国の黒きばかりの赤とんぼ 雪 冬桜なつかしや人なつかしや 雪 大根引く太さを笑ふ女たち かづを 大根干す風は乾ける匂ひして かづを 老杉が静寂深めし神の留守 かづを 石仏と頭巾と袈裟と冬に入る 匠 みくじ引く神無月とは知りながら 匠 料亭も跡形もなく冬日濃し 清女 茶の花や蓮如の道の道しるべ 千代子 何と無く書店をのぞく神の留守 啓子 神の留守社の木々も痩せ果てり 希 渡り来て水尾美しく鴨泳ぐ 天空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月8日 鳥取花鳥会
岡田順子選 特選句
午後の日を傾け綿虫のしきり 栄子 冬晴や鎮木に番の鳩留り 益恵 老いし身に糶の活気や冬の浜 すみ子 山茶花の今日咲く花と散る花と 都 木には木の記憶のありて紅葉散る 佐代子 この杜の心音刻みけらつつき 都 神の留守とて松替へて拝む夫 史子 冬用意山の官舎に軍手干し 悦子 唐臼の杵の一端冬日置く 悦子 針を持つ縁の隅より秋の声 立子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月9日 枡形句会
栗林圭魚選 特選句
陽子師を偲ぶ秋蝶ふはと舞ふ 和代 晩学に俳句習ひて石蕗の花 美枝子 錦秋の映る足湯を揺らしをり 白陶 人波に乗りつ辿りて酉の市 美枝子 年尾忌や最期看取りし人も逝き ゆう子 母訪ひて帰る不安や神の留守 百合子 堂裏を見守る大樹蔦紅葉 多美女 師の墓参暗闇坂は冬めきて 教子 おほやうに蝦夷語る声消えて冬 ゆう子 柿一つ眩しく照らす陽子晴 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月9日 零の会
坊城俊樹選 特選句
一陣の紅葉五重塔を巻く 順子 冬帝の傷無き空へ念仏を 光子 百段は小春浄土へ登る数 梓渕 冬晴や胸に罅抱く仁王像 慶月 文豪の寂土を指せば綿虫も 順子 円柱の影踏む人の冬あたたか 和子 鐘楼を去りかねてゐる冬の蝶 悠紀子 霜晴のちりとりに幸田家とあり 光子 小春日の水煙はるか雲の行く 眞理子 人間���餓鬼も屯す寺小春 美佐子
岡田順子選 特選句
冬帝の傷無き空へ念仏を 光子 小春日の墓所を巡れば塔婆揺れ 瑠璃 七五三五重塔の下敷に 俊樹 幸田家のちりとり冬の土の上 小鳥 国菊のにごり酒売る低き軒 眞理子 綿虫は露伴の墓を湧きしてふ 俊樹 露伴墓所露の五重塔を背に 梓渕 乳母車に小春日和をさし入れむ 和子 恍惚の刀自に連れられ七五三 俊樹 寒き刃を牛革で研ぐ理髪店 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月11日 なかみち句会
栗林圭魚選 特選句
冬日和ペットショップへ廻り道 あき子 冬日和リュックの老女たくましく 迪子 レシピすら知らぬや父の大根漬け 聰 手締めして小さき熊手も売られゆく ます江 電球の光集めて大熊手 秋尚 冬日和波をはるかに島光る 怜 大根漬日干しの香り閉ぢ込めて 秋尚 隙間なく沢庵樽の幾何模様 ことこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月12日 萩花鳥句会
面影の静かに浮かぶ小夜時雨 小勇 菊日和ティアラ煌めくオープンカー 祐子 七五三口とんがらせ紅をさす 美恵子 空と海ピンクに染めて神の留守 吉之 肝心な話は神の旅の後 陽子 秋空や火葬で昇天首里の城 健雄 山茶花や新たな命娘は宿し ゆかり 由布岳をすつぽり覆ひ時雨雲 克弘
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年9月13日 芦原花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
古錨虹屋の跡に秋の風 よみ子 萩しだれ小さき花つけ坂の道 寛子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月16日 伊藤柏翠記念館霜月抄
坊城俊樹選 特選句
菊の香にゐて菊の香をふと忘れ 雪 此処に果つ一向一揆曼珠沙華 同 時雨るるや山里小さくなるばかり みす枝 冬の月よろづの影の沈みけり みす枝 神座る石につつじの返り花 たゞし 菊花展きれいなままで枯急ぐ 富子 石庭のすき間すき間の草紅葉 清女 秋の声一乗谷にあふれをり かづを
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月19日 風月句会
坊城俊樹選 特選句
七五三兄は普段着にて並ぶ 秋尚 朝の日へ懸崖菊のはみ出でて 同 参道の黄菊一人に濃かりけり 久子 大日堂灯して昏く冬紅葉 斉 仁王門出でて一礼冬ぬくし 三無 一拍に鳴り龍冬を立ち上る 斉 大綿の霊峰富士を過ぎりけり 圭魚
栗林圭魚選 特選句
法の山札所露に冬に入る 斉 冬ぬくし丈六不動の黒き肌 佑天 鬼門守る花柊の古木かな 斉 朝の日へ懸崖菊のはみ出でて 秋尚 開け閉てに津軽林檎の匂ひくる 久子 大日堂灯して昏く冬紅葉 斉 足袋の子の鼻緒にぐづる七五三 久子 奥多摩も富士も指呼なる冬日和 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月20日 福井花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
大根を洗ふ人らは尻向けて 世詩明 初時雨軒に梯子を掛けしまま 世詩明 をの子の手ふと触れたしや星月夜 令子 仮の歯入れ鏡見てゐる小六月 令子 コルセットきつめに締めて小六月 清女 鉄路なきふるさと歩く小六月 よしのり 柊の花に幼帝祀る宮 雪 それぞれの鍵に鳴る鈴秋深む 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月21日 鯖江花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
濃紅葉の陶あかりなる幽石庭 昭子 あやとり橋紅葉明りに行き戻り 昭子 草紅葉鋤き込まれつつ田の眠る 紀代美 六腑もう三つを切りて冬に入る 一涓 花の名を男に聞かれ女郎花 雪 揺れてゐる揺れてをらざる猫じやらし 雪 天高く金の鯱そびえ立つ やすえ 千尋なる谷へ落葉の幾万枚 みす枝 落葉踏めば山の深さを語りをり みす枝 石蕗の花野仏瞼円らなる 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月23日 武生花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
男女ゐて何も起らぬ近松忌 世詩明 枯野ゆく川面に日矢の幾筋も さよ子 近松忌女の嘘の徒ならず 世詩明 遠き日の恋も忘れし木の葉髪 英美子 嚔出てわれを罵る人は誰 世詩明 小夜時雨静かに落ちる夢の淵 昭子 薪能舞台そのまま返り花 利栄 寒晴や命の電話海に向く 錦子 手足自由動く勤労感謝の日 みす枝 諦めて諦め切れず神の留守 靖子 高西風や舟屋早々灯を点す 昭女 重力で長く伸びたる糸瓜かな 三四郎 時雨るるや茅葺き重くなるばかり みす枝 紅葉して峙つ山をやさしくす 信子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月27日 九州花鳥会
時雨懇親句会
坊城俊樹選 特選句
飴色の街灯続く小夜時雨 愛 水旨き里に嫁ぎて寒造 孝子 檻握る猿の冷たき指紋かな 愛 まつ黄色ならぬ銀杏の潮傷み 由紀子 女一人拝礼長く冬茜 勝利 鮫干さる眼に残る冬の海 由紀子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月28日 九州花鳥会
名護屋城址・唐津吟行句会
坊城俊樹選 特選句
花八手古塁の石は無言なり さえこ 陣跡の石みな尖り石蕗の花 かおり 冬ざれや野望はかなき陣地跡 成子 神渡玄海の波荒ぶらせ 勝利 天守台傾ぐ古木に群千鳥 順子 軍船か壱岐か対馬か冬怒涛 千代 旧邸の玻璃戸に冬の海うねる 愛 冬萌や官兵衛ふれし野面積 寿美香 もののふの声解き放つ冬怒涛 かおり 杉戸絵の蛍火ともる冬館 由紀子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年11月29日 九州花鳥会
定例句会
坊城俊樹選 特選句
淋しらに転がりてみる枯野原 美穂 方舟にユダ紛れ込む開戦日 寿美香 にほどりのまやかしものの水面かな 愛 歳月は水に映らず枯柳 朝子 冬の日の胸の奥まで照らしけり 孝子 かひつぶりそしらぬ貌で浮き上る 阿佐美 冬の濤さらに激しき次を待つ 美穂 あかときの光まとひて鳰 阿佐美 太閤の野望くだきし冬怒涛 睦子 冬芽立つ石垣のみの夢のあと 光子 大根の真つ白な音おろしけり 寿美香 天から降りそそぎたるごと石蕗の花 光子 チラシより軽き新聞漱石忌 寿美香
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
さくら花鳥会
岡田順子選 特選句
容赦なく大根洗ふ滴飛ぶ あけみ 桜紅葉樹齢五百を彩りて みえこ 炉開や心の澄みて茶を点てる 寿子 身に入むや高架の下の弾き語り 登美子 遠目にも鳥休む岩秋白し 登美子 信楽の大火鉢にてもてなされ 寿子 冬近し気情な父の小言増え あけみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和元年10月11日 芦原花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
公報の声風に乗る野分雲 よみ子 くつきりと山巓晴れて秋の川 同 人住まぬ生家の跡の金木犀 孝子 ひとしきり犬の遠吠え野分雲 よみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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熊本県天草市には祇園橋という橋があります。見た目は普通の石橋です。しかしながらら国の重要文化財に指定されている貴重な橋なのです。 石造桁橋と呼ばれる様式の橋で、同じ種類の橋の中では国内で最も大きい橋なのだそうです。 島原天草の一揆で戦いの場となった場所です。 https://ift.tt/2VafouC #熊本 #天草 #橋 #観る #観光 tags[undefined] https://ift.tt/2ErF00L
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