2024年8月8日
南海トラフ地震の想定震源域と今回の震源
南海トラフ地震臨時情報の対象の1都2府26県707市町村はこちら(朝日新聞)
気象庁は8日、初となる「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表した。対象となった1都2府26県707市町村は次の通り。同庁は今後1週間程度、地震や津波への注意を呼び掛けている。(内閣府の資料から)
茨城県 水戸市、日立市、ひたちなか市、鹿嶋市、神栖市、鉾田市、東茨城郡大洗町、那珂郡東海村
千葉県 銚子市、館山市、旭市、勝浦市、鴨川市、富津市、南房総市、匝瑳市、山武市、いすみ市、大網白里市、山武郡九十九里町、同郡横芝光町、長生郡一宮町、同郡長生村、同郡白子町、夷隅郡御宿町、安房郡鋸南町
東京都 大島町、利島村、新島村、神津島村、三宅村、御蔵島村、八丈町、青ケ島村、小笠原村
神奈川県 横浜市、横須賀市、平塚市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、茅ケ崎市、逗子市、三浦市、秦野市、厚木市、伊勢原市、海老名市、座間市、南足柄市、三浦郡葉山町、高座郡寒川町、中郡大磯町、同郡二宮町、足柄上郡中井町、同郡大井町、同郡松田町、同郡山北町、同郡開成町、足柄下郡箱根町、同郡真鶴町、同郡湯河原町
山梨県 甲府市、富士吉田市、都留市、山梨市、大月市、韮崎市、南アルプス市、北杜市、甲斐市、笛吹市、上野原市、甲州市、中央市、西八代郡市川三郷町、南巨摩郡早川町、同郡身延町、同郡南部町、同郡富士川町、中巨摩郡昭和町、南都留郡道志村、同郡西桂町、同郡忍野村、同郡山中湖村、同郡鳴沢村、同郡富士河口湖町
長野県 岡谷市、飯田市、諏訪市、伊那市、駒ケ根市、茅野市、南佐久郡川上村、同郡南牧村、諏訪郡下諏訪町、同郡富士見町、同郡原村、上伊那郡辰野町、同郡箕輪町、同郡飯島町、同郡南箕輪村、同郡中川村、同郡宮田村、下伊那郡松川町、同郡高森町、同郡阿南町、同郡阿智村、同郡平谷村、同郡根羽村、同郡下條村、同郡売木村、同郡天龍村、同郡泰阜村、同郡喬木村、同郡豊丘村、同郡大鹿村、木曽郡上松町、同郡南木曽町、同郡大桑村、同郡木曽町
岐阜県 岐阜市、大垣市、多治見市、関市、中津川市、美濃市、瑞浪市、羽島市、恵那市、美濃加茂市、土岐市、各務原市、可児市、山県市、瑞穂市、本巣市、郡上市、下呂市、海津市、羽島郡岐南町、同郡笠松町、養老郡養老町、不破郡垂井町、同郡関ケ原町、安八郡神戸町、同郡輪之内町、同郡安八町、揖斐郡揖斐川町、同郡大野町、同郡池田町、本巣郡北方町、加茂郡坂祝町、同郡富加町、同郡川辺町、同郡七宗町、同郡八百津町、同郡白川町、同郡東白川村、可児郡御嵩町
静岡県(全域)静岡市、浜松市、沼津市、熱海市、三島市、富士宮市、伊東市、島田市、富士市、磐田市、焼津市、掛川市、藤枝市、御殿場市、袋井市、下田市、裾野市、湖西市、伊豆市、御前崎市、菊川市、伊豆の国市、牧之原市、賀茂郡東伊豆町、同郡河津町、同郡南伊豆町、同郡松崎町、同郡西伊豆町、田方郡函南町、駿東郡清水町、同郡長泉町、同郡小山町、榛原郡吉田町、同郡川根本町、周智郡森町
愛知県(全域)名古屋市、豊橋市、岡崎市、一宮市、瀬戸市、半田市、春日井市、豊川市、津島市、碧南市、刈谷市、豊田市、安城市、西尾市、蒲郡市、犬山市、常滑市、江南市、小牧市、稲沢市、新城市、東海市、大府市、知多市、知立市、尾張旭市、高浜市、岩倉市、豊明市、日進市、田原市、愛西市、清須市、北名古屋市、弥富市、みよし市、あま市、長久手市、愛知郡東郷町、西春日井郡豊山町、丹羽郡大口町、同郡扶桑町、海部郡大治町、同郡蟹江町、同郡飛島村、知多郡阿久比町、同郡東浦町、同郡南知多町、同郡美浜町、同郡武豊町、額田郡幸田町、北設楽郡設楽町、同郡東栄町、同郡豊根村
三重県(全域)津市、四日市市、伊勢市、松阪市、桑名市、鈴鹿市、名張市、尾鷲市、亀山市、鳥羽市、熊野市、いなべ市、志摩市、伊賀市、桑名郡木曽岬町、員弁郡東員町、三重郡菰野町、同郡朝日町、同郡川越町、多気郡多気町、同郡明和町、同郡大台町、度会郡玉城町、同郡度会町、同郡大紀町、同郡南伊勢町、北牟婁郡紀北町、南牟婁郡御浜町、同郡紀宝町
滋賀県(全域)大津市、彦根市、長浜市、近江八幡市、草津市、守山市、栗東市、甲賀市、野洲市、湖南市、高島市、東近江市、米原市、蒲生郡日野町、同郡竜王町、愛知郡愛荘町、犬上郡豊郷町、同郡甲良町、同郡多賀町
京都府 京都市、宇治市、亀岡市、城陽市、向日市、長岡京市、八幡市、京田辺市、南丹市、木津川市、乙訓郡大山崎町、久世郡久御山町、綴喜郡井手町、同郡宇治田原町、相楽郡笠置町、同郡和束町、同郡精華町、同郡南山城村
大阪府 大阪市、堺市、岸和田市、豊中市、池田市、吹田市、泉大津市、高槻市、貝塚市、守口市、枚方市、茨木市、八尾市、泉佐野市、富田林市、寝屋川市、河内長野市、松原市、大東市、和泉市、箕面市、柏原市、羽曳野市、門真市、摂津市、高石市、藤井寺市、東大阪市、泉南市、四條畷市、交野市、大阪狭山市、阪南市、三島郡島本町、豊能郡豊能町、泉北郡忠岡町、泉南郡熊取町、同郡田尻町、同郡岬町、南河内郡太子町、同郡河南町、同郡千早赤阪村
兵庫県 神戸市、姫路市、尼崎市、明石市、西宮市、洲本市、芦屋市、伊丹市、相生市、加古川市、赤穂市、宝塚市、三木市、高砂市、川西市、小野市、加西市、南あわじ市、淡路市、加東市、たつの市、加古郡稲美町、同郡播磨町、揖保郡太子町
奈良県(全域)奈良市、大和高田市、大和郡山市、天理市、橿原市、桜井市、五條市、御所市、生駒市、香芝市、葛城市、宇陀市、山辺郡山添村、生駒郡平群町、同郡三郷町、同郡斑鳩町、同郡安堵町、磯城郡川西町、同郡三宅町、同郡田原本町、宇陀郡曽爾村、同郡御杖村、高市郡高取町、同郡明日香村、北葛城郡上牧町、同郡王寺町、同郡広陵町、同郡河合町、吉野郡吉野町、同郡大淀町、同郡下市町、同郡黒滝村、同郡天川村、同郡野迫川村、同郡十津川村、同郡下北山村、同郡上北山村、同郡川上村、同郡東吉野村
和歌山県(全域)和歌山市、海南市、橋本市、有田市、御坊市、田辺市、新宮市、紀の川市、岩出市、海草郡紀美野町、伊都郡かつらぎ町、同郡九度山町、同郡高野町、有田郡湯浅町、同郡広川町、同郡有田川町、日高郡美浜町、同郡日高町、同郡由良町、同郡印南町、同郡みなべ町、同郡日高川町、西牟婁郡白浜町、同郡上富田町、同郡すさみ町、東牟婁郡那智勝浦町、同郡太地町、同郡古座川町、同郡北山村、同郡串本町
岡山県 岡山市、倉敷市、玉野市、笠岡市、井原市、総社市、備前市、瀬戸内市、赤磐市、浅口市、和気郡和気町、都窪郡早島町、浅口郡里庄町、小田郡矢掛町
広島県 広島市、呉市、竹原市、三原市、尾道市、福山市、府中市、大竹市、東広島市、廿日市市、安芸高田市、江田島市、安芸郡府中町、同郡海田町、同郡熊野町、同郡坂町、豊田郡大崎上島町
山口県 下関市、宇部市、山口市、防府市、下松市、岩国市、光市、柳井市、周南市、山陽小野田市、大島郡周防大島町、玖珂郡和木町、熊毛郡上関町、同郡田布施町、同郡平生町
徳島県(全域)徳島市、鳴門市、小松島市、阿南市、吉野川市、阿波市、美馬市、三好市、勝浦郡勝浦町、同郡上勝町、名東郡佐那河内村、名西郡石井町、同郡神山町、那賀郡那賀町、海部郡牟岐町、同郡美波町、同郡海陽町、板野郡松茂町、同郡北島町、同郡藍住町、同郡板野町、同郡上板町、美馬郡つるぎ町、三好郡東みよし町
香川県(全域)高松市、丸亀市、坂出市、善通寺市、観音寺市、さぬき市、東かがわ市、三豊市、小豆郡土庄町、同郡小豆島町、木田郡三木町、香川郡直島町、綾歌郡宇多津町、同郡綾川町、仲多度郡琴平町、同郡多度津町、同郡まんのう町
愛媛県(全域)松山市、今治市、宇和島市、八幡浜市、新居浜市、西条市、大洲市、伊予市、四国中央市、西予市、東温市、越智郡上島町、上浮穴郡久万高原町、伊予郡松前町、同郡砥部町、喜多郡内子町、西宇和郡伊方町、北宇和郡松野町、同郡鬼北町、南宇和郡愛南町
高知県(全域)高知市、室戸市、安芸市、南国市、土佐市、須崎市、宿毛市、土佐清水市、四万十市、香南市、香美市、安芸郡東洋町、同郡奈半利町、同郡田野町、同郡安田町、同郡北川村、同郡馬路村、同郡芸西村、長岡郡本山町、同郡大豊町、土佐郡土佐町、同郡大川村、吾川郡いの町、同郡仁淀川町、高岡郡中土佐町、同郡佐川町、同郡越知町、同郡梼原町、同郡日高村、同郡津野町、同郡四万十町、幡多郡大月町、同郡三原村、同郡黒潮町
福岡県 北九州市、行橋市、豊前市、京都郡苅田町、築上郡吉富町、同郡築上町
熊本県 宇城市、阿蘇市、天草市、阿蘇郡高森町、上益城郡山都町、球磨郡多良木町、同郡湯前町、同郡水上村、同郡あさぎり町、天草郡苓北町
大分県 大分市、別府市、中津市、佐伯市、臼杵市、津久見市、竹田市、豊後高田市、杵築市、宇佐市、豊後大野市、由布市、国東市、東国東郡姫島村、速見郡日出町、玖珠郡九重町
宮崎県(全域)宮崎市、都城市、延岡市、日南市、小林市、日向市、串間市、西都市、えびの市、北諸県郡三股町、西諸県郡高原町、東諸県郡国富町、同郡綾町、児湯郡高鍋町、同郡新富町、同郡西米良村、同郡木城町、同郡川南町、同郡都農町、東臼杵郡門川町、同郡諸塚村、同郡椎葉村、同郡美郷町、西臼杵郡高千穂町、同郡日之影町、同郡五ケ瀬町
鹿児島県 鹿児島市、鹿屋市、枕崎市、阿久根市、指宿市、西之表市、垂水市、薩摩川内市、日置市、曽於市、霧島市、いちき串木野市、南さつま市、志布志市、奄美市、南九州市、伊佐市、姶良市、鹿児島郡三島村、同郡十島村、薩摩郡さつま町、出水郡長島町、姶良郡湧水町、曽於郡大崎町、肝属郡東串良町、同郡錦江町、同郡南大隅町、同郡肝付町、熊毛郡中種子町、同郡南種子町、同郡屋久島町、大島郡大和村、同郡宇検村、同郡瀬戸内町、同郡龍郷町、同郡喜界町、同郡徳之島町、同郡天城町、同郡伊仙町、同郡和泊町、同郡知名町、同郡与論町
沖縄県 名護市、糸満市、豊見城市、うるま市、宮古島市、南城市、国頭郡国頭村、同郡東村、島尻郡与��原町、同郡渡嘉敷村、同郡座間味村、同郡南大東村、同郡北大東村、同郡伊平屋村、同郡八重瀬町、宮古郡多良間村
猛暑のせい?広島の夏の交通事故、死者数が倍に 警察が注意呼びかけ(朝日新聞)
7月以降に広島県内で起きた交通死亡事故数が、昨年の同時期を大幅に上回っている。県警によると、連日の猛暑による集中力や注意力の欠如が原因の一つと考えられるといい、注意を呼びかけている。
県警交通企画課によると、7月1日~8月4日の交通事故死者数は12人で、昨年同時期の5人から倍以上に増えている。
このうち、バイクや自転車、歩行者の死者数は計9人。日中の事故で亡くなった人は9人で、夜間は3人だった。
同課は、気温が高くなり、運転などに集中できないことが事故につながっている可能性があると分析。運転する場合はこまめに水分補給したり休憩をとったりし、体調に異変を感じる時は運転を控えるなどの対策が必要としている。
担当者は「交通事故を防ぐためにも、熱中症警戒アラートが発せられるような暑い日は不要な外出を控えて」と呼びかけている。
気象庁によると、広島市内では35度以上の猛暑日が8日まで10日間続いている。(遠藤花)
「1990年に天皇の戦争責任を論じ始めたとき不安はなかったか、ですか? なかったと言えばウソになります」=吉本美奈子撮影
(インタビュー)昭和天皇の戦争関与 歴史学者・山田朗さん(朝日新聞)
「昭和天皇は戦争への主体的な関与をしなかった」「最後まで対米英戦を回避しようとした」。こうした昭和天皇像に、実証的な研究を通じて見直しを迫ってきた歴史学者がいる。明治大学教授の山田朗さんだ。「天皇の戦争指導」の実態はどうだったのか。その歴史を直視してこなかった戦後日本社会とは。
――昭和天皇(1901~89)が戦争中にどう行動し、そのことを戦後にどう考えていたのか。実証的に調べる研究を30年以上も続けていますね。
「きっかけは、昭和天皇の健康が悪化した88年から日本社会を覆った『自粛』現象でした」
「天皇が戦争にどうかかわったかについての先行研究はすでにありましたが、私には『昭和天皇には戦争責任がある』という結論ありきの研究に見えました。他方には『戦争責任などない』との意見もあったけれど、どちらも戦争中の実態を踏まえた議論とは思えなかった。史料を踏まえた実証的な研究が必要だと思いました」
――日本が米英に対する戦争を始めたのは41年12月でしたね。「昭和天皇は最後まで日米開戦を避けようとしていた」という話が広く信じられていますが、事実でしょうか。
「違います。41年9月6日に開かれた御前会議の時点までは、確かに天皇は開戦を躊躇していました。しかし側近の日記や軍の記録などから見えてきたのは、そのあと天皇が戦争への覚悟を決めていく姿でした」
「10月には宣戦布告の詔書の作り方を側近に相談しており、11月には軍の説く主戦論に説得されています。最終的には天皇は開戦を決断したのです」
――昭和天皇は戦争に主体的に関与することがなかった、という理解も広がっていますね。
「事実ではありません。大日本帝国憲法では天皇は大元帥、つまり日本軍の総司令官でした。形式的発言をするだけだったというイメージが広がっていますが、記録によれば、大元帥として出席した大本営御前会議では活発に発言しています。軍幹部への質問や注意を通じて作戦に影響を与えていた実態も、史料から見えてきました」
――昭和天皇が具体的に変えた事例を挙げてください。
「42年のガダルカナル島(南太平洋ソロモン諸島)攻防戦で、航空部隊を現地へ送るよう天皇は3回にわたって、出撃をしぶる陸軍に督促していました。3度目の督促の翌日、陸軍は派遣を決めています」
「45年の沖縄戦では『現地軍は何故攻勢に出ぬか』と言って、積極的な攻撃に出るよう要求しました。現地軍は持久戦でいくと決めていたのですが、天皇の意思が現地まで伝わったため中途半端な攻勢が行われ、無用な出血につながりました」
「天皇の言葉が作戦を左右する影響を与えた事例は、満州事変から敗戦までの間に少なくとも17件確認できます。国家意思に影響を与えていた形です」
――作戦指導だけにとどまらず「戦争指導」も行っていたと著書で主張していますね。
「ええ。戦争指導は単なる軍事作戦指導とは異なり、外交などの政治戦略と軍事作戦を束ねた、より高次の指導です」
「昭和天皇は43年のソロモン諸島などの攻防で、戦い方が消極的だと侍従武官長を厳しく叱責し、こんなことでは敵国の士気が上がって第三国にも動揺が広がってしまうと言って積極攻勢を求めました。国際情勢をにらんだ上で国家としてどう作戦を立てるかという戦争指導の領域にこのとき昭和天皇は立ち入っていたと、私は思います」
――昭和天皇はなぜ作戦指導や戦争指導をしたのでしょう。
「大日本帝国という国家の抱えていた構造的な問題が背景にあってのことだったと思います。天皇を好戦的な指導者だったとみなすのは間違いです」
――構造的な問題とは?
「ガダルカナル戦で天皇が指導に踏み込んだのは、どちらが航空機を出すかでもめていた陸軍と海軍の対立を解くためでした。大日本帝国では陸軍も海軍も天皇に直属していて、両者を統合して指揮する統合幕僚長のような指導役が不在でした。陸・海軍の対立を調整できるのは当時、天皇だけだったのです」
「軍事戦略と外交戦略の双方を統括しえたのも天皇だけでした。軍の最高指揮権にあたる『統帥権』は天皇にあり、統帥権は行政から独立していました。首相ですら軍事行動の詳細を知ることはできない構造です。外交や予算をつかさどる行政が軍部と分立していた中で、両者を架橋しえたのは実質的に天皇だけだったのです」
――「昭和天皇は戦争指導をしたのか否か」と問う以前に、「そもそも戦争指導をできる指導者は当時いたのだろうか」と考えさせられる話です。
「ええ。戦況の悪化に直面したことで昭和天皇は大日本帝国が抱えた構造的欠陥の深刻さに気づき、自らが動くしかないと考えた可能性があります。陸軍と海軍が持つそれぞれの経験値では解決できない事態があり、政治が軍事を制御できる仕組みも見当たらない。そんな状況下での戦争指導だったのです」
――昭和天皇に戦争責任はあった、と主張していますね。
「実態を踏まえれば、昭和天皇には戦争責任があったと考えるべきだと思います。あれだけの悲惨な結果を招いた戦争において、大日本帝国の軍事と政治の双方を統括できる国家指導者だったのであり、すべての重要な政策決定の場にいたのですから、およそ責任がなかったと言えるものではありません」
――連合国が戦後に日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)で、昭和天皇は訴追されませんでした。米国が占領統治のコストを下げるために見送ったとされます。
「裁判が始まる前から日本国内では、昭和天皇は平和主義者であって戦争責任を問われるべき人物ではないとのイメージづくりが、政府などによって進められました。天皇を守るためだったと語られがちですが、それだけではなかったと思います」
「戦争は陸軍の強硬派が進めたものであって天皇には止める権限がなかったというストーリーをつくることで、海軍主流派や外務省・内務省の官僚らは自らを『天皇の側にいた者』とし、責任追及を回避できました。その人たちが戦後日本の権力を担っていったのです。このシナリオを最終的に追認したのが米国主導の東京裁判でした」
――その歴史は現在に何か影響を与えているでしょうか。
「責任をとるべき人がとっていないという巨大な前例が今も生き続けています。宮内庁が編纂して今から10年前に公開された『昭和天皇実録』も、天皇は平和主義者だったというイメージを強化する内容でした」
――ウクライナ侵攻などが起きた影響もあって、今、日本政府はかつてない規模での防衛力増強に乗り出しています。
「戦争期の近代日本史が教えるのは、軍を政治的にコントロールすることの難しさです。軍事は軍事の専門家だけが理解できるものだという論理のもと、閉じられたサークルの中で『自己展開』していってしまう傾向が、軍事にはあるからです」
「昭和戦前期と違って今は一応、行政府が外交も安全保障もあわせて統括できる体制には変わっています。しかし、国民の代表である国会のチェックが安全保障政策に反映されているかといえば、答えはノーです」
――5年前に公開された新史料「拝謁記」に注目するよう訴えていますね。なぜですか。
「昭和天皇があの戦争のことを『戦後に』どう考えていたのかを、今までにない生々しさで伝えている史料だからです。拝謁記とは、初代宮内庁長官だった田島道治が昭和天皇の戦後の肉声を記録したものです」
――何が分かったのですか。
「昭和天皇の中で戦後、『誰がどうやっても戦争の流れを止められなかった』という考えが次第に強まっていった事実です。田島の耳に最後には言い訳だと聞こえてきたほどでした」
「陸軍が戦争の牽引者だったのは事実です。しかし昭和天皇はブレーキの壊れたジェットコースターの単なる乗客だったのではなく、操縦する側でした。ブレーキが壊れていたわけでもなく、実際、天皇の聖断という形で戦争は終わっています」
――その歴史からどんな教訓をくみとるべきでしょう。
「戦前は天皇が国家の主権者でした。その主権者が戦後、『自分にはどうしようもなかった』という考えに至っていた。現在の日本では国民が主権者です。再び戦禍に見舞われたあとで『自分にはどうしようもなかった』という総括をまた繰り返すのか。主権者としての選択が問われていると思います」(聞き手 編集委員・塩倉裕)
やまだあきら 1956年生まれ。専門は日本近現代史。軍事史や天皇制論に詳しい。著書に「大元帥 昭和天皇」(94年)、「昭和天皇の戦争認識」(2023年)など。
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西武百貨店の『全国✕味の逸品会』が昨日まで、東武百貨店の『大北海道展』が今日までだったので、思いきって遠征?してきました。
目的はイートインの🍜🍥&高田蒲鉾さんのサラダちくわ&岩崎本舗さんの角煮まん&もずキムさんのもずく、そして北菓楼さんの開拓おかき等々。今回も物欲丸出しです。
まず向かったのはイートイン。今回は京都の麺屋猪一✕麺屋猪一離れさんと錦糸町の真鯛ラーメン 麺魚さんが出店されてます。チラシに載ってた限定の🍜🍥がどちらも美味しそうで、正直どちらを食べるか迷ってましたが、現地入りしてみたら限定食はどちらも売り切れ。お店でも通常販売されているメニューの提供でした😭ならば迷うことはない。錦糸町なら、ちょっと頑張れば明日にでも食べに行ける。でも猪一さんは言うなれば一期一会!!
……ということで、出汁そば(白)の赤玉味付け玉子添えです。今回もあっさり系。
メンマの代わりに、たけのこがひと切れまるっと入ってるー😍🎶それと🥚が赤玉だから、黄身の色が濃厚!!食べてもいないのにテンション爆上がりですw
更に一緒に出されたのはとろろ昆布と黒七味。後で味変するのにお使いくださいとのこと。こんなに沢山のとろろ昆布を味変用にするとは太っ腹な!!お店の口コミでもこの出汁そばの評判高かったんで、更に期待が膨らみます。
という訳でとにかく先ずはスープをひと口。鰹出汁の香りがフワーッと頬の内側を突いてきます😊すぐ後に麺を啜りました。
鰹節も入っていたので、次のひと口はそれも絡めつつ。はーー、美味しいぃーー😋本当に料亭で出されるような鰹節のよく効いた出汁ですよ。麺は細麺ですがもっちりしててスープとの相性は抜群。お互いに味を高めあってる。2口、3口と味わったところで、麺がなくなってしまう前にとろろ昆布と黒七味を投入。
このとろろ昆布がほんのり甘いんですよ。特有の臭みもほとんど無いし、更に黒七味も出汁や柚子の香りを邪魔しない。これ、多分胡椒だったら台無しになるところじゃないかな。図に乗ってガッツリ黒七味をかけまくりました。後でどうなるか考えずに😂
叉焼の薄切りも意味があるんですね。厚切りだと豚の風味が勝ってしまうけれど、この位なら細切れにしながら麺と和えられるからちょうどいい。
そして。最後にスープが3/1ほど残りました。レンゲでゴクリと飲んだ途端……
盛大に噎せましたw
駄目じゃん。後先考えないで黒七味入れるから、そういう羽目に陥るんだよ😅いや、黒七味の効いたスープも美味しかったです。
という訳で今回も完食。ご馳走様でした🙏
その後は買い出し。実は今週末にコロナワクチン接種を控えてるので、少しでも備蓄しておける食べ物が必要なんですね。お陰で結構冷蔵庫の中が潤いました😊💕
北菓楼さんの開拓おかきは4種5個購入して、ポーチをGET✌️狙ってなかったと言えば嘘になります💦
そして夜ご飯用にごえもんカドヤさんのどんどん焼きともずキムさんのもずく&海ぶどうと高田蒲鉾さんの天ぷら詰め合わせを購入😋他に岩崎本舗さんの角煮まんじゅう、小樽洋菓子舗ルタオさんのプティフロマージュラムレザン、富良野牧場さんのエゾ鹿ソーセージ&ハム等も。うわぁ物欲の権化w
どんどん焼きはミックス(海老、豚、ほたて等)と豚。サラダちくわはプレーンと海老。🦐が2品被ってて夜ご飯は超豪華でした。どんどん焼きにはオタフクソースが2袋付いてましたが、1袋だけで事足りちゃった。今これを書きながら画像を見返してますが、もう一回食べたーいwサラダちくわは食べ切れなくて今朝のごはん用に2個残してあるんで、楽しみです!!海ぶどう(好物)は前回迷って結局買わなかったんですが、昨日はプライスダウンだよと悪魔の囁きを頂きあえなく陥落😂このプチプチした食感が堪りません。数年ぶりだ~💕
GW明けということもあり、お客さんもほとんどいなくてサクサク買い物が出来て助かりました🎵
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こころの時代~宗教・人生~「地域がつなぐ“こころとこころ”精神科医・高木俊介」
https://vimeo.com/541201456
♬~
精神科医の高木俊介さん。
高木さんは 医師や看護師
精神保健福祉士などと チームを作り
重い症状を抱える精神障害者が 地域で
生活できるよう支援を続けています。
どうも おはようございます。
高木さんが
この活動を始めたのは 2004年。
患者の多くは 「統合失調症」という
幻覚や妄想が特徴的な
精神疾患を抱えています。
差別や偏見のため 自宅ではなく病院での
長期入院を強いられるケースも多い中
高木さんは 自宅での生活を優先し
地域との接点を保つことが
重要だと考えています。
(読経)
今回 高木さんに話を聞くのは
僧侶の 釈徹宗さん。
宗教学者としても 幅広く活動しています。
地域のつながりを大切にしながら
統合失調症への支援を続ける
高木俊介さん。
その半生に迫ります。
♬~
ここは 高木さんが 在宅訪問医療の
拠点としている 京都のクリニックです。
本日は おつきあい
どうぞ よろしくお願いいたします。
こちらこそ よろしくお願いします。
このお部屋っていうのは どういうふうに
普段 使われてるところなんでしょうか?
このお部屋はですね
普段のスタッフの会議とか
それから改まって 当事者さんや
その ご家族が来られた時に
ゆっくり話をするための お部屋ですね。
その他にも 勉強会に使ったり
スタッフ以外の よその人たちを呼んで
ここで勉強会を行ったりしてます。
高木さんの 現在の活動について
少し お話を伺いたいんですが。
重度の精神障害を持った人に
訪問診療っていうのを行ってます。
その訪問診療も ただ往診行って
診察するっていうんじゃなくて
福祉と医療を総合して いろんな
多職種の人がいるチームで 訪問して
生活の現場で その障害に
なっているものを 取り除いていったり
外に出られない人と一緒に出たり
それから 病気が急に悪くなった時の
応対をするということで
24時間 365日の体制で
やるんですけれども
これは アメリカで始まった方法で
アメリカが
大きな精神病院を 解体していく中で
地域に戻って 支えがなくなってる人を
どうするかということで始まった
「ACT」っていう やり方なんですね。
地域に積極に出ていく
「Treatment」支えですよね 支援。
そういう やり方を取り入れた
活動をやってます。
ACTとは
患者が 地域で生活できるよう
医療と福祉の両面から
支援する仕組みです。
高木さんは 一人の患者に対し
医師 看護師の他
生活に必要な能力を回復させる
作業療法士や
社会への自立をサポートする
精神保健福祉士らと
チームを作って ケアに当たっています。
スタッフが
それぞれの専門性を生かすことで
多彩な支援ができるように
しているのです。
治療や支援の方針は
高木さんが指示するのではなく
それぞれが 話し合って決めます。
20人ほどのスタッフで 京都市内を中心に
およそ150人をケアしています。
いろんなスタッフでやる。
医者なら医者の見方
医者は その病気っていうのは
薬で何とかなるもんだと どうしても
思っちゃってるから 薬だけになる。
でも例えば ケースワーカーは
この人は こういう経済的なことの不安で
困ってるなということが
見れるわけですよね。
そうしたら 医者が薬を出さなくても
その経済的な不安なところを
手当てしてあげるだけで
幻覚や妄想の世界にまで
行っちゃわなくてすむ。
あるいは 幻覚や妄想があっても
とりあえず 現実生活が安心できる。
そしたら 一緒に
やっていけるじゃないですか。
そういうことを考えてます。
在宅訪問医療を受けている人のほとんどは
統合失調症を抱えています。
何を言うてんの?
あっ もう何をするのよ。
ふざけやがって。
統合失調症とは
幻覚や妄想が特徴的な精神疾患で
100人に1人は
発症すると言われています。
周りの人には
理解しづらい症状に苦しみ
誰のことも 信用できなくなるといいます。
統合失調症の人は
現在 80万人いると言われ
地域で生活するための
理解や支援を受けられないことで
病院での長期入院を
余儀なくされる人もいます。
統合失調症というような病気
どのようなものなんでしょうか?
まず分かりやすいもので言えば 幻覚。
つまり 目の前にいない人の声が聞こえる。
それから妄想ですね。
自分は 何かに いじめられている。
何か自分を襲ってくるものがあると。
自分の家の部屋の中にいても
そういう感覚が起こってくる。
特徴的なのは 何か分からない世の中の
全てから 自分が排斥されてる。
世間の何か大きな組織があって
そこが 自分を狙ってるとかですね
何かこう 世の中 組織
世界っていうものに対して
何かこう
すごくこう 不信感があるんですね。
だから世の中 社会から籠もってしまう。
それ以外で言えばですね
思考のまとまりが悪くなるし
我々が 物事を順序立って
考えていったり
冷静に 周りのことを認識するって
いうことが すごく しにくくなります。
そのためもあって
感情的に すごく不安定になりますね。
そういうことも含めて
統合失調症というんですけれども
これ 決して 珍しい病気ではなくて
今 現在 100人に1人はいるだろうと
言われてます。
おおよそ1%くらい。
1%ぐらいの人が。
今 お話伺ってると
人間社会という 大変複雑なゲームの中に
放り込まれてる 我々としましては
一度や二度 精神の変調を起こしたり
あるいは
バランスを崩したりっていうのを
恐らく ほとんどの方が
経験するような事態じゃないかと。
例えば 山で遭難したりしたら
みんな 幻覚 見るわけですよ。
それから 何も刺激のない部屋に
ず~っと 2日3日 監禁されたら
幻覚 妄想 起こります。
そういう誰もが経験して
誰もが ちょっと おかしくなる。
誰もが ちょっと世の中から
引き籠もりたく
なってしまうことに対して
我々以上に より過敏なところがある方
じゃないかなと思いますね。
そうなってくると その方の人生全般を
見なきゃいけない部分もあるでしょうし
その症状だけを 何かでグッと抑えると
うまくいくっていうもんでも
なさそうな気がするんですけど。
ないですよね。 例えば その人が
ほんとに何か言いたいこと
ほんとに苦しいことがあって 病状が出る。
で 周りが あっ これは大変だと思う。
何とかしなきゃと思う。
それを 薬で
その病状の部分だけ抑えちゃうと
じゃあ 周りは これでよかった。
薬をのんでさえいれば
それで いいんだと思うと
今度は その背後にある問題や
その人の人生の 全部の生きづらさとか
そういうことを ほったらかしにしちゃう。
そういうことに対して
目が向かなくなるから
その人にとっては 余計に苦しいですよね。
あっ また再発しちゃったと。
やっぱり これは再発して どんどん
悪くなる病気なんだっていうふうに
本人も 周りも思っちゃう。
統合失調症の経過というのは
非常に バラエティーに富んでて
本当に 予測もつかないし
一人一人 違うんですよね。
中には 幻覚や妄想が全く消えてしまって
外から見たら 全く病気じゃない
治ってるなと
思えるような時もあります。
そういうふうなのが 続く人もあれば
また不安定になるという人があって
ほんとに 非常に
それぞれなんですけども
どんなに悪い人でも すごく落ち着いて
穏やかな時が来るわけですよ。
そういう時っていうのは
どういう時なのかなと思うと
何者からも脅かされずに
安心してるところなんですね。
もし 自分が ちょっとでも頑張って
自分が 「これをしたい」っていうことを
言った時に
すっと受け入れてくれる人が
周りにいる そういう安心感を得てる時
それで穏やかでいる時っていうのが
統合失調症の人が 楽にいられる
よくなってる時じゃないかと思いますね。
完全に
症状がなくなってるわけじゃなくても
症状があっても 安心して暮らせる。
そうですよね。
それが いわば 目指すべき方向
ということでしょうか。
安心して暮らせるし ほんとに
自分のしたいことが言える自由ですよね。
1957年 高木さんは
広島県 因島に生まれました。
医師だった父が 開業することになり
一家は 岡山に移ります。
母は 病院を懸命に支え
高木家は 地元の名士と
うたわれるようになりました。
うちが 病院
内科と小児科の開業医だったんですね。
家は 家と病院が一緒で 1階が全部病院で
2階に家族が住んでて
高度成長に乗って どんどん
町も大きくなって 病院も大きくして
ちょうど開業医が ほんとに
いくらでも お金が
入ってくるっていう時だったですね。
だから 大当てして おやじは
そのお金を 湯水のように使って
まず 写真が趣味で
そこら辺じゅう 写真機だらけで
車は 車も趣味だから
外車が 5台ぐらい並んでるわけですよ。
診察は 患者さんと看護婦さんだけが
何か話してて
親父は 庭で 大きな池つくって
錦鯉 飼ってて
その錦鯉に バンバンって
餌やっているという 田中角栄ですよね。
おふくろはですね 東京の人なんですね。
東京から岡山に来て 知り合いいなくて
棟梁の娘で
気位は すごく高かったですよね。
どうも その岡山という土地が
水に合わなかって
自分は 都落ちしてきたんだと。
しかも 結婚したはいいけど
ものすごい
道楽者の夫でしょう。
でも その開業だから 夫婦でその
妻としては その
経営 守らなきゃいけないわけですよ。
岡山に住んでるっていうことを
すごく何か悔やんでるところがあって
おふくろは それを嘆いてるのしか
聞かないじゃないですか。
自分の人生が うまく
自分の不本意だったことを
全��� 僕に
ぶつけてきてたようなとこがあって
僕は そっから
逃げたかったですね すごく。
もう ず~っと おふくろから
逃げることばっかり考えてた。
だから おふくろや おやじとも
口をきかないっていうのが
ほぼ何年も続いて
今になってみればね
感謝するしかないですけどね。
自分を取り巻く環境から逃れたかった
高木さんは 岡山を離れ
1977年 京都大学 医学部に進学します。
大学に入ってからも そういう医学が
やりたくて入ったんじゃないんで
文化人類学の教室に入り浸って
アフリカに行ったり
それから 友人に 水俣病の告発する会
いうのを やってる人がいて
それに誘われて 水俣に行って
ちょっと その支援に のめりこんでたり。
授業とか 大学の授業なんて
ほとんど出たことないですよね。
医学部に進学したあと
精神科医を 目指すことになるんですが
この辺りは 個人的な思いというのは
おありだったんじゃないですか?
京大の精神科と東大の精神科だけが
当時も学生運動の時のやり方を守ってて
教授を追い出して 自分たちで
自主運営を供出してたんです。
もう そういう学生運動も かなり下火に
なってる頃じゃないかと思うんですが。
そうですね 下火でした。
でも 京大は ちょっと特殊で
まだ昼休みになると
ヘルメットとマスクで ゲバ棒 持って
軍事訓練 やってましたけどね。
そういう連中とも
何だか知り合えるわけですよね。
その彼らが
医学部で そういう活動をしてて
勉強して 精神医学をやることは
精神障害者に対する抑圧になるから
精神科に行って遊べと言われたんですよ。
すごい理屈ですね。
本気で言ってるんです 向こうも。
京大の精神科っていうところ
入ってみると
ものすごく牧歌的なところで
広~い敷地があって 庭があって
真ん中に噴水があって
病棟は 開放化されてるから
で 古~い患者さんたちが多いんですよ。
そういう患者さんと
散歩しながら のんびり遊んでて
あっ これは精神科って いいところ
じゃないかって思ったんですね。
高木さんが 医師になって すぐの1984年。
精神医療を問う
衝撃的な事件が起きます。
宇都宮市の
900床ある大きな精神病院で
看護職員の暴行によって
2人の患者が死亡した
いわゆる「宇都宮病院事件」です。
病院内での日常的な暴力や
患者を強制的に働かせていた事実なども
明らかになり
国際的にも 大きな批判を浴びました。
日本では まだ
病院に 完全に収容主義で
その病院は 完全に密室で
その中では 医者や スタッフからの
患者さんへの暴力っていうのが
もう日常茶飯事だった。
それまでも 小さな事件は
いっぱい あったけど
表沙汰にならなかったですね。
で まあ そういうことが 他の病院でも
同じようなんだよっていうことが
どんどん明らかになって
日本は 精神医療 このままでいいのかって
いうのが 宇都宮病院事件で分かって
それはね ちょっと やっぱり
ショックでした。
戦後の高度経済成長期
労働需要が高まった都心に
人が集中します。
同じ頃 精神障害者の 病院への���離
収容が 国策として進められ
病床数は 増加の一途をたどりました。
1950年代に 戦後の復興から
高度成長が始まって
その高度成長が始まる中で 障害者を
どんどん隔離していくようになった。
これは 産業構造が変わって
地方にいた労働力を
都会に集めなきゃいけない。
そのために 地方で 家族や
コミュニティーが障害者を見てたら
そういう人口移動が できないんで
国策としてやったんですよ。
精神障害者は 特に
そのころは 精神病だから
施設ではなくて
病院が必要だということで
日本中に ばく大な数の
精神病院つくったんです。
いっぺんに 10年~20年で
それまで 1万 2万という
ベッドしかなかった精神病院が
35万ベッド できるんですね。
病院全体の病床数の 4つに1つです。
宇都宮病院事件で
衝撃を受けた 高木さんは
京大病院を出て
大阪の病院に勤務します。
そのころは
精神病院を いかに開放化するか。
その閉鎖的な精神病院で
患者さんは 一歩も外に出れない。
そういう病院から 患者さんが
自由に外に出てもいい
病院にしようという動きが
全国に ようやく広まった頃なんですね。
精神障害者の人権を守ろうということを
考えて
活動している病院というのがありまして
そこの病院に就職したんです。
そこで ちょっと精神医療改革について
やっぱり 自分 ちょっと やろうと。
これ やらなきゃ駄目じゃんかと。
ご自身も志を持って 勤務に着任された。
行ったんですね はい。
で びっくりしました。
着任して すぐに
鍵の束 持たされるわけじゃないですか。
各病室の鍵ですか?
病棟の鍵の束。
で この鍵を 絶対になくしたらいかん
というようなことから
教えられるわけですね。
で 開放的な病院のはずなんだけど
そういう鍵のかかってるところは
まだ たくさんあって
で その鍵を 自分は開けて
病棟に まずは新人ですということで
紹介されに行くんだけど
まあ その病院でも 閉鎖病棟っていうのは
ものすごく何というか 狭くて
においもするし 「えっ これが病院?」
というような感じですよね。
その病棟の中に入れば 狭いところに
ベッドが ずらっと並べられてたり
そのベッドと ベッドの間は ほんとに
野戦病院みたいなもんですよね。
カーテンも何もない
ベッドがある部屋は まだましで
多くの部屋は 畳部屋ですよね。
大きな畳部屋で
10人以上の人が 雑魚寝してる。
当時 あとで知ったんですけども
「超過入院」っていって
病床の120%ぐらいの患者さんを
入れているのが 当たり前だったんです。
もう定員を超える人を 入れている。
そうです はい。
畳部屋の中では
そこも 私物を置く場所ないから
押し入れのとこに
それぞれの人の固まるようにして
自分の乏しい私物を
置いてるわけじゃないですか。
どこに 誰が布団敷くかも
決まってないから
しょっちゅう 場所の取り合いとかで
ケンカが起こっちゃうわけです。
私物を取った 取られた 触ったって。
廊下で寝てるような人もいるんですよね。
そういうところで 当然 すごい もう
密なんてもんじゃないですよね。
ものすごいところに 閉じ込められてて
自由に 出入りはできない。
しかも たばこ一本もらうにも
看護師さんに 頭下げなきゃいけない。
そういう状態だと 精神疾患を
持ってない人でも 大変なストレスで
異様な行動に走ってしまいそうな
気もしますけども。 なると思います。
大変だったのは そんな中で
勤め始めて すぐの頃の当直で
ケンカがあって
頭が割れちゃった人がいて
救急車を呼ぼうかというような
今だったら すぐ そうするような
看護の人も平気で 「けが人が出ましたから
先生 縫って下さい」って言ったんですね。
医学部の学生だったからといっても
今でも縫えるわけじゃない。
そこで 本人の処置をするけど
これ 家族に言わないわけに
いかないじゃないですか。
ところが 次の日の朝に
その加害者 被害者の家族が
両方とも飛んでくるわけですよ。
ああ 来た。 どうしようと思ってたら
こっちが何か言う前に 家族の方が
「先生 お願いですから
病院を追い出さないで下さい」と。
「このことは 絶対に責任も問いませんし
公にもしませんから
この病院に置いて下さい」って。
どっちの加害者の方も被害者の方も
それ言うんですよね。
もう何が起ころうが
捨てられた人たちなんだなと思った。
しょっちゅう暴力沙汰が起こったりしてて
ちょっと聞いたら
「なんだ やっぱり精神障害者って
怖いんじゃない」って
思われる方が いるかもしれないけど
僕が辞める前ぐらいに
病院が きれいに改装したんですね。
それで 超過入院というのもなくなって
どこも ちゃんと プライバシーが
ちゃんと保たれたベッドの部屋になって
そういう病棟に
5~6年目でしたかね なったんですよ。
もう見事に 暴力沙汰が減ったんです
なくなりました。
患者さんが そうやって荒れている。
ほんとに 荒れた状況というのは
実は 環境のせいだったんだなって…。
患者を取り巻く過酷な環境を
目の当たりにした 高木さん。
疑問を持ちながらも 患者に対して 次第に
強い態度をとるようになったと言います。
そのころは 往診に行って
患者さんを連れてくるわけですけど
入院のための往診というのは
たくさんしました。
入院して治療することは
いいことだと思ってたから。
で そういう時でも 自分で
自分で まずは患者さんの家に入って
そこで 最終的に
連れていく時は 自分で手を引っ張ると。
そうやって 自分は いいことをするために
そうやって 力を使ってると思うから
いい気になっちゃうんですね。
だんだんと。
いい気になるとは どういうことですか?
自分は いいことしていると。
自分は
これは暴力じゃなくて
必要な力だと思ってるから。
必要なことなんだと。
こうやって 治療に乗せたら
それで 薬のんでくれたら
患者さん よくなって 家族からも
それから地域の その頑張ってた
保健師さんたちからも
お礼 言われちゃうじゃないですか。
ああ 大変な往診だったけど
してよかったなと。
中には 患者さん自身も あの時 先生に
無理やり 連れてきてもらわなかったら
自分は 大変なことになってましたって。
どれだけ嫌がってても 無理やりでも
入院させるのが 家族のためでもあり
本人のためでもある。
そうそうそう。
そういう信念で 自ら先頭に立って
やっておられたということ。
そうですよね。
でも 自分が辞める時に
自分が連れてきて
急性期の病棟で治療して 収まったから
慢性期の病棟に行ってもらった人って
いうのが たくさんいたんです。
そういう人は みんな
例えば 薬は 絶対のまないとか
看護者とも 誰とも話さない。
うずくまって じ~っとしてたり…。
そういう人を 自分が
いっぱい作っちゃってたなというのを
気付いたんですよね。
じゃあ 僕が やってたことって
何だったんだろうなってね。
誰かが誰かに 何かをしないと
いけないっていうことは
それが 病院の中でもあるんだと思って
やってたけども
そういう力っていうのは
本来 英語で言えば forceであって
人を動かす力 人間同士の中で
お互いに使う力なんですね。
ところが それを病院の中で 十分な
説明もなく それをする時っていうのは
同じ力でも violenceになる。
この violenceは
一方が 一方的に振るう力。
日本語では
同じ「力」になっちゃうんだよね。
病院という「力」を利用して
個人に バイオレンスしてたんだなと。
1993年 日本の精神医療に
大きな転機が訪れます。
「精神分裂病」という病名は
差別的として
精神障害者の家族会の全国組織が
学会へ 病名の変更を要請します。
当時 精神医療の在り方に
疑問を抱いていた高木さんも
この運動に 参加しました。
私が 精神科医になった頃には
統合失調症というのは 精神分裂病
というふうに言われてたんですね。
この用語に じゃあ問題ありというふうに
お感じになられたんですね?
そうですね。
もともと その感じた きっかけは
統合失調症の人たちの
家族会の活動でしたね。
精神障害者家族連合会っていうのが
当時ありまして 1992年ぐらいに
いろんな精神障害に対する
差別をなくそうという運動の中で
精神分裂病という名前を変えてほしい
という要望書を 家族会が出したんです。
精神が分裂してる。 「あなたは
精神分裂病ですよ」って言ったら
「俺の精神は 分裂してるのか?」でしょう。
「あの人 精神分裂病だよ」と言ったら
「あっ 分裂してるんじゃ
ちょっと 話はできないよね」って。
そうですね。 何かもう
コミュニケーション不可能のような
印象を持ちますが。
精神分裂病などという
病名を付けられたことによって
本人も家族も
病気の苦しみと 病名の苦しみの
二重の苦しみを負ってるんだと。
自分たちは こういう病気を持ってます。
自分たちは こういう家族を持ってます
ということを
誰にも言えないっていう。
で それが出た時って
「インフォームド コンセント」っていうのが
日本で言われだした頃だったので
インフォームド コンセントを やっていけば
当然 どの医療でも
患者中心っていうこと。
患者自身が
自分の病気について 自分で知っていく。
自分は こういう病気である
ということを知って
医学を利用していかなきゃ
いけないですよね。
これからは そういう時代になると。
で 医学の病名も
我々が いろんなところで聞く
一つの情報になるはずだと。
大事な情報になるはずなんですね。
差別をなくすとかと同時に
これは 研究者 学者 医者としても
その名前を使って
インフォームド コンセントが できるように
ならなきゃ おかしいだろって。
2002年 「精神分裂病」という名称は
「統合失調症」に
変更されることになりました。
さまざまな誤解や偏見をなくしたいという
家族たちの思いが 実を結んだのです。
僕たち人間っていうのは みんな
常に常に 感覚に入ってくるものを
何らかの その場に そぐった形で
統合してるんですね。
統合っていうのは
世界を まとめ上げてい���ことなんですね。
今 ここが こういう場所で
今 前にいるのが釈さんだということも
ほんとは 僕の刺激に入ってるものが
声も目も バラバラじゃないですか。
それを 今ここで 釈さんという
人間として まとめ上げているのは
僕たちの 精神の働きですよね。
そういう統合を
常に常に していってるわけ。
ところが その統合って
例えば 僕たちは 酔っ払った時に
ふにゃっとなりますよね。
何か いろんな原因で
実は崩れるんですね。
はい。
統合失調症っていう病気は
何かの原因で その統合が
いきなり崩れちゃうことがある。
そうすると
世界に裂け目が出来ちゃって
今 目の前にあるもの
ここにあるものが何なんだと。
こういうふうに 釈さんだったら
釈さんとして まとまってる以外の
いろんなものが入ってきて
どう まとめ上げていいか分からない。
自分の経験の中に
ないものになってしまうんですね。
それを 何とか
言葉で まとめ上げようとすると
妄想になったり
「何か とても不気味なことが起こってる
大変なことが 世界で起こってる」に
なったりするんですね。
そういう統合が
何らかの原因で 崩れてしまったもの。
そこに見える世界が
統合失調症の人が見てきた
世界じゃないかなと…。
ただ 統合失調症っていうのは
ず~っと そうじゃないから
やっぱり戻るんですね 元に。
元に戻って
また あっ 現実 こう
釈さんじゃないかって分かるわけです。
そういう 一貫して
ず~っと あるわけじゃなくて
「失調」っていう言葉だから
失調する時と しない時がある。
崩れる時と 崩れない時があるんですね。
そういう 一貫して
この人が ず~っと そんな状態。
精神分裂の状態なんではないよ
という意味が 「失調」にはある。
私たちも 常に
物事を統合しようとしてる。
でも 時々 その統合が
意識せずに外れることがある。
そういう意味では
僕たちも 統合失調症の人も
ず~っと 薄~く 連続してるはずですね。
統合失調症の人の見てる
世界っていうのは
全く 僕たちと別だ
僕たちから隔絶してるわけじゃなくて
どっかで連続してて 言ってしまえば
みんな 浅く統合失調してると うん。
明確に こう 線引きができるもんじゃ
なさそうな気はいたします。
そういうことも
統合失調症という名前と共に
広まってくれたらいいなと
思いますね。
2004年 高木さんは
統合失調症の在宅訪問医療を始めます。
統合失調症の人を
病院に入院させるのではなく
自宅での生活を続けながら
地域が支えていく仕組みを
作りたいと考えたのです。
♬~
おはようございま~す。
(一同)おはようございます。
高木さんは
より多彩な支援ができるよう
医師や看護師だけでなく
社会への自立をサポートする
精神保健福祉士などを集めました。
それぞれが 専門性を生かしながら
24時間365日 支援ができます。
高木さんは 患者と
信頼関係を築くことを大切にしています。
出会った当時 高木さんの問いかけに
全く反応をしなかった男性に対して
高木さんは ある行動に出ます。
妄想などからくる 緊張で こわばった体を
ほぐしてもらう男性。
その隣で 目線を合わせて話しかけます。
男性の心は 少しずつ解きほぐされ
その後 高木さんと一緒に
食事や外出を楽しめるまでになりました。
では どうも失礼します。
一人一人に合った
寄り添い方をすることで
患者が 心を開くきっかけを
探しているのです。
統合失調症の方にとって
こう 望ましい環境っていうのは
どういうものを
考えられるもんなんでしょう?
やっぱり その人が住み慣れて
その人が ちゃんと自分で
コントロールできる そういう環境。
その中で 病気と対決するのが
いいんだっていうことを
言ってるんですよね。
世界も そうだけど 日本の精神医療は
特に 全然やらずにきたんですね。
で そういう 暮らし慣れたところで
自分が顔見知りの
自分の歴史やら
自分の いろんなことを知ってる
なじんだ人たちが 周りにいる中で
自分が安心できる生き方っていうのを
見つけていく。
幻覚や妄想があったとしても
それと つきあいながら
現実も現実として
ちゃんと見ていけるような生活を
探していくっていうことだと思いますね。
どうも おはようございます。
高木さんたちが
在宅訪問医療を始めた当初に出会った
育子さん。
中学生の頃のいじめが きっかけで
精神的に不安定になり
高校に進学して すぐ
病気が明らかになりました。
(泣き声)
支援を受けるまでの育子さんは
絶えず襲ってくる 妄想や幻覚に苦しみ
何度も 自ら命を絶とうとするなど
入退院を繰り返していました。
おはようございます。
は~い。
しかし
高木さんたちが
在宅ケアを続ける中で
少しずつ変わっていったといいます。
♬「約束を守れたなら」
♬「願いを叶えてあげる」
育子さんっていう方なんですけれども
中学生の頃に 発病されたんですね。
それまでの 発病前の写真を見ても
もう とっても はつらつとして
笑顔がよくて スポーツマン。
中学生の発病っていうのは
早い方になるんですね。
ちょっと早いですね。
まあ 最初… 発病の 初めの頃かな…
で 中学生ぐらいの発病っていうのは
思春期で 自分とは何かっていうことに
すごく悩んでる。 誰でも。
そういう時代じゃないですか。
そこに そういう悩みは
誰でも持ってるところに
統合失調症の人の
統合が 一度 崩れるっていう
衝撃的な感覚を持たれたんですね。
それによって ものすごく こう
興奮したり 感情不安定になったり
興奮したり もう訳が分からないから
暴れるしかなくてって症状が激しくて
何回も
入院を繰り返されてる方なんですが
入院を繰り返しても
なかなか ほんとに合う薬もなくて
合う環境もなくて
入院すると 症状が激しいから
まあ え~… 隔離されちゃうわけですね。
でも 入院になると
ず~っと個室に閉じ込められてる。
で あるいは 大量の薬で
ボーッと なってしまってる。
お父さん お母さんも
そういう娘の姿に見かねて…
で もう 病院で まだ保護室…
病院からの隔離室の中から
出れないような状況でも
もう 自分たちも耐えられない
ということで 退院させるんですね。
病院は とても退院なんて無理だろう
ということで 言ってたんだけども
おうちに戻られて
で もう お父さんお母さんが
それぞれ寝ずに
うん 交代で 付きっきりで
見ておられたんです。
付きっきりで見てても
まあ 本人が興奮したりすると暴れて
壁には 穴は開くわ
夜中でも飛び出すし
それから 何か
その辺にあるもの 危ないものでも
すぐに 口に入れてしまうっていう
病状があって。
育子さんの書いた詩があるっていうふうに
伺ってるんですけども
ご紹介頂けますでしょうか。
はい。
この育子さんの詩は
彼女が発病して… 発病の初期ですから
最初は 非常に また よくなる…
一度 よくなったり
また再発したりですけど
再発して すぐの頃かな
再発して すぐの頃に
よくなった時に書いた詩なんですね。
恐らく 彼女が
病気が発病した時に見た世界
統合が崩れてしまった時に見た世界の
孤独感
そういう世界を
自分しか持ってない孤独感。
そして今でも こういう世界を
ほんとは 抱えてるんだと思うんです。
ただ それを
僕たちに通じる言葉で 今は言えない。
何とか言葉にしたのが
この詩だと思います。
で ちょうど その時に
私が ACT 始めるということで。
我々 私も含めて
おうちに行くんですけど
それは大変で まずは ちゃんと
話をしてくれるなんてないですよね。
というか 言ってることが
何を言ってるのか さっぱり分からない。
で 突然 こう
ピュッと どっかに飛び出しちゃうから。
でも まあ あの…
お父さん お母さんも含めて
もう一緒に
とにかく 見きろうということで
うちの いろんなスタッフが
交代交代で行って
とにかく 何があっても
じっと そばにいると。
で 「大丈夫よ」と安心させてあげる。
そういうことを繰り返してて
ようやく 少しずつ言葉が
何か月も繰り返して
言葉が よくなったのか
こちらが 彼女の言葉を
少しでも 分かりやすくなったのかな。
そういうことですか。
うん 小さな言葉も
小さなことが
少しずつ 分かるようになって。
それが出てくるまで 皆さんが
こう じっと そばに居続けたっていう
この期間が 恐らく 相当大事。
相当だったと思います。
ご家族は その間
大変だったと思いますけどね
そこから だんだんと
いろんなことが できて
もちろん 病気も
相当 悪い時もあったり
薬にも かなり頼らなきゃいけない時も
あったりしたんだけども
だいぶ よくなってから
今度は また 2年後3年後かな
「何がしたい?」っていう時に
「成人式」 ポロッと出たんですよね。
成人式 じゃあ二十歳の時に
出られなかった? してない。
病院の中ですよ。
病院の中だったんですね。
で 彼女に着物を着せて 化粧もして
何人かのスタッフと一緒に
成人式だけど 4月にやりましたけどね。
成人式で 桜の下でね パチッとこう…
そしたら もう ほんとに満面の笑顔で。
そうですか。
このように
具体的な事例を お伺いすると
ACTの活動っていうのが
うまく こう…
我々も こう
イメージすることが できてきました。
例えば 病院にいると
しなくてもいい苦労が
自宅 あるいは在宅で暮らしてると
さまざま 襲ってくるんじゃないか
そんな気もするんですけども。
病院にいると
確かに苦労はないと思いますよね。
3食 ベッド付きで。
でも その分
管理されてる者に従えばいい
そんな生活に どんどん慣れてきたら
病院の中にいてすら
その中で起こることに
対処できなくなってくるじゃないですか。
人間というのは やっぱり
生活する場の中で
いろんな苦労が 襲いかかってきて
それを じゃあ
どうしようかということで
乗り越えなきゃいけないもの
ほったらかしとかなきゃ
しょうがないもの
誰かに 助けを求めなきゃ
いけないものって
そりゃ いろいろ あるわけで
じゃ それを それぞれ どうしていくか
っていうことで成長していく。
「成長」っていうことが おかしければ
それが 人生の生きがいみたいな
何か 生きてるっていう感じに
つながっていくわけでしょう。
苦労が なかったら
生きてる感じもないですよね。
暮らしていれば
当然 引き受けなければいけない苦労を
病院は奪ってしまってる。
奪ってしまってると思いますね。
で もちろん その苦労は
統合失調症のような病気を
持ってる人にとっては
大きすぎる苦労だったかもしれない。
病院で守ってあげることが
よいかもしれない。
でも 生活の場の方に
「じゃ それだけの苦労でも
一緒に苦労しましょうよ」いう人がいたら
いいわけですよ。
一緒に苦労する
一緒に乗り越え方 考えよう
あるいは そこは ちょっと
こっちが取ってあげるから みたいな。
何でもいいんだけど そういう人たちが
一緒にいるっていうことが
大事なんじゃないかと思いますね。
そう考えますと
家族だけが 全て負担するっていうのも
かなり 困難なことになりますね。
そりゃそうだと思いますね。
よく 病院の人が言うのは
退院させたいけど
退院させようとしても
家族が受け入れないよっていうことが
よく言われますよね。
で 例えば ACTの活動
大変 すばらしいと思うけども
もう 入院してくれた方が
楽なんだっていう ご家族も
恐らく おられるんじゃないですか?
たくさん いますね。
それだけの苦労をしてきたし
恐らく 今の日本の精神医療の体制が
ご家族には そういう苦労を強いてきたと
思うんですけども
あの… だから
ご家族も 実は SOSを持ってるんだと。
その ご家族に対する支えが
必要なんだっていうことを
していかなきゃいけないけども
病院に…
病院は そこまでのね 生活の…
家族は 病院の外側にいるから
病院は そこまでのことができないし。
そのために
いわば 地域が関わるっていう
そういう面が
必要となってくるわけですね。
ACTが ご家族の支援を
同時にしてもいいし
ご家族を支援するような…
支援できる人や 組織を
私たちが 家族のもとに
引っ張ってきてもいいし。
お話を聞いてると 何かこう
病気を 何とか治さなきゃいけないって
いうような
何か 結果を出そうというよりは
むしろ そのままで暮らしていけば
いいじゃないかという
そういう方向に聞ける…
お伺いするんですが
私 認知症の方の介護に
関わってるんですが
最初に 認知症って
自分でも知識もありませんし
経験もないんで
ものすごい怖いものだって
思ってたんですよね。
山の斜面に お寺 建ってるでしょ?
はい。
釈さんは 2003年
寺の裏にある古民家を利用して
認知症の人のための
グループホームをつくりました。
昔ながらの
木造の日本家屋での共同生活は
地元の人が遊びに来たり
中学生が
ボランティアに来たりするなど
一つの大きな家のようです。
釈さんが目指すのは
認知症の人も 地域の中で
共に暮らせるような施設です。
とにかく まあ
「認知症だけにはなりたくない」
そのぐらいの気分だったんですけども
ず~っと関わってるうちに
ある日 ふと
「あれ 認知症 あんまり怖くなくなってる」
っていう自分に気が付いて
ちょっと びっくりしたんですよね。
認知症を ひたすら見ないようにしたり
隔離したり
あるいは 恐れるのではなくて
認知症になったら
認知症者としての暮らしがある。
あるいは 統合失調者は
統合失調者としての暮らしがある。
そういう こう ものの見方といいますか
取り組みの在り方っていうのは
ACTにはあるんじゃないかと
思うんですが…。 そうです。
だから 「これは 病気の症状だから
それを取ってしまおう」というのとは
違うし
また
取ってしまおうとして
取れるもんじゃないんですね。
今 いろんな薬が出てて
「この薬で 脳の この活動を抑えれば
病気の活動を抑えれば 治りますよ」と
いうふうに 製薬会社は言うけども
それで治ってる人は
僕は いないと思うんですね。
治ってる人は いろんな偶然
いろんな いいことが
いろんな うまくいくことがあって
薬も含めて
その偶然の いろんな出会いの中で
たまたま よく いってる。
で 僕たちが関わってる重度の人
つまり 今まで
よくなりたいと思ってきたけども
そうじゃなくて
この病気と つきあっていかんといかん
この障害を抱えて
生きていかんといかんというふうに
腹くくった
そういうふうにせざるをえない
そういう方に対しては
僕たちが その人が 少しでも楽になる
少しでも 現実を うまく受け止めて
現実の中で やっていくための
僕らの関わりも含めて
たくさんの偶然を こう寄せ集める。
地域での生活 家での生活
いろんなことがある。
先ほど おっしゃった
かえって苦しいこともある。
そんな生活の中で
偶然の力を集めていく。
その偶然の力が どっかで
彼 彼女を楽にする。
それを 僕らは
引き寄せることを
仕事にしてる感じですね。
さまざまな出会いや
人との関わり合いから生まれる 偶然の力。
高木さんは この偶然の力を
母の看取りで実感したと言います。
実は 私の母も認知症で
最期まで 家で看取ったんですね。
その時の話を
ちょっと させて下さい。
気位の高い母でしたから
介護者に対しても
ものすごく 被害的になったり
攻撃的になったりして
大変だったんですけど
経験や知識もあるケアマネージャーさんと
一緒にやってて
そういう ケアマネージャーさんに
いろいろ組織してもらって
で 24時間体制にしたんですね。
そうしていくと だんだんと こう
ケアを受け入れてくる中で
気位の高い人でしたから
かえって いろいろ ズバズバ
物 言ったりするのが 好かれちゃって。
例えば ヘルパーさんたちが
自分の自宅に うちの親を連れていって
パーティーやったり…。
そうなんですか。
そういうことを
してくれるようになったんですね。
でも それから がんになって
まあ 最期を看取るいう時に
まあ だんだんと
胃がんで食事が入らなくて
水分だけで
見ていってるわけですけども
最期まで すごく機嫌がよくて
ニコニコして
ヘルパーさんたちや 訪問看護の人たちに
かわいがられる存在。
で いよいよ最期だなっていう
時がきて
まあ 呼吸が 下顎呼吸になって
ちょっと乱れてきたと。
これは もう 息子さんを
呼ばなきゃいけないというふうに
皆 思ったらしいんですね。
僕としては すごく もう覚悟はしてたし
みんなが これだけ
よくやってくれるんだから
いつ 亡くなっても そりゃいいよねと。
別に 死に目にあわなきゃいけない
というような考え方 なかったから
のんびりしてたんですよ。
だけど ケアする方は
気が気じゃないわけ。
「息子さんが帰ってくるまで
死ねないわよね」みたいな。
よくある話ですけど。
それで みんなで 「頑張れ お母さん
頑張れ もうすぐ来るから」つって。
「もうすぐ 息子さん来るよ」つって。
で こっちは のんびり行って
まあ そろそろ もう駄目なのかなって
思って パッて開けたら
「ようやく来た~」っちゅうことになって。
で 僕が 母の前に行くんですけども
まあ 母は こっち見たような
見てないような 僕は よく分かんない。
だけど そこで
ことっと 息が切れたんですね。
僕には よく分かんないんだけど
でも 周りから見たら
やっぱり 「息子さんの顔を見て
安心して逝かれました」つって
「すごく穏やかに にっこりしました」。
来るのを待ってた!
「待ってましたよ お母さんは」って
言うんですよ。
どう見たって そうじゃなくて。
たまたま?
偶然 今 僕が…。
でも それ ほんとに偶然なのか
どうなのかって考えるんですよね。
もしかしたら 周りの 緊張して
「これは もう あなたは 息子さんに
会わなきゃいけない 会うべきだ
息子さんが間に合うように来てる」って。
「頑張って 息子さんも 今 走ってるよ」
みたいな
そういう 何か場の力がですね
彼女の… 母の命を
生かしてきたんじゃないかと そこまで。
ところが
僕が パッと入っていった途端に
周りの人たちの方が安心しちゃって
その 命を支えてた力みたいなものが
ふっと緩んだんでしょうね。
で 母も一緒に緩んで
ふっと 逝ったと。
じゃあ その場に集った全員で
その臨終の場を演出したっていう。
そうでしょうね。 それには もう
死んだ時刻まで関わってるっていう
すごい偶然だと思います。
偶然の力が そういう必然の物語を
呼び込んだんだと思うんですね。
♬~(ピアノ)
高木さんたちが支援し続ける
育子さんです。
♬~(ピアノ)
終わり? (育子)うん。
終わりか そうか。
ヘルパーの支援を受けながら
1人暮らしを始めています。
これまで面倒を見てきた
父は3年前
そして 母は
5か月前に 病気で入院しました。
重い症状を抱える育子さんが
1人でも この家で暮らしていけるよう
福祉分野の専門家も
支援に加わりました。
今 福祉制度を利用することで
ヘルパーが2人 24時間交代制で
育子さんの暮らしを支えています。
わ~… やややや~!
高木さんたちが出会った 17年前には
親しい人以外には
心を閉ざしていた育子さん。
地域とのつながりを持ちながら
歩み始めています。
偶然でしか うまく いかないんだけど
偶然を待ってるだけではいけない。
で 偶然は起きるんですよね。
うまくいった時には
必ず 偶然 いい結果をもたらす偶然。
いい結果をもたらす偶然というのは
僕は 奇跡と言っていいと思うんだけど
それは起きるけども
それが起こった時に
それを ちゃんと次に また同じことを
少しでも同じことをできる
そういう見極めが
できる力がないといけない。
♬~
♬~
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