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#福岡市東区美容院
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shikisaisha · 2 years
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ART FAIR ASIA FUKUOKA 2022 アーティスト紹介 田尻周也 @shuyatajiri ■over view 人という存在の抽象性をテーマに制作している。 都内で生まれ育った田尻の目には人々が無機質に流動しているように幼少期の頃から映っていたという。 彼は自身の精神性を群像を使い表現している。 描かれた群像は鑑賞者を容易に受け入れない。 作品に、あたかも「人」と対峙したかのような不安感と好奇心を含ませることで、 絵画との間に一定の緊張感を保ち、作品を通して、人と絵画の在り方の抽象性について再認識をするいう試みをしている。 ■bio 1993 東京生まれ 2019 東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻 首席卒業 2021同大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻日本画修了 ■cv 2019 サロンドプランタン賞、台東区長賞 2021 第7回神山財団奨学生成果展 優秀賞 - 2020 「日本画五人展」羅針盤アートスペース 2021 第7回神山財団奨学生成果展 AXIS GALLERY 2021 Primary colors &MONO 四季彩舎 2022 F/ART Hotel sui 2022 角谷紀章 × 田尻周也 / 四季彩舎 2022 ART FAIR ASIA FUKUOKA 2022 - ART FAIR ASIA FUKUOKA 2022 【ARTIST】 瀬戸優 @yu_seto1222 角谷紀章 @kishokakutani 田尻周也 @shuyatajiri ホテルオークラ福岡 918号室 会場 ホテルオークラ福岡 918号室 福岡県福岡市博多区下川端町3-2 博多リバレイン 期間 9/30(Fri) 16:00 – 19:00(※12:00-16:00はVIP View) 10/1(Sat) 12:00 – 19:00(※11:00-12:00はVIP View) 10/2(Sun) 12:00 – 19:00(※11:00-12:00はVIP View) - #アートアジア福岡2022 #artasiafukuoka2022 #afaf2022 #瀬戸優 #yuseto #artfair #contemporarysculpture #contemporaryart #四季彩舎 #shikisaisha_gallery (at ホテルオークラ福岡 - Hotel Okura Fukuoka) https://www.instagram.com/p/CjJugPjPh-B/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kurokabochan-blog1 · 5 years
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やっと美容院行けた💇‍♀️マサラも久しぶり🍛そしてそのまま西鉄電車へ🚃遠足みたいで楽しい♩ #美容院 #美容院帰り #tuulhairdesing #マサラキッチン #ラムキーマカレー #ひよこ豆 #野菜盛り #タンドリーチキン #ヨガ #姿勢と呼吸と歩き方 #ヨガインストラクター #ヨガインストラクターaya #ヨガルーム #ヨガルーム碧 #福岡県 #福岡市 #福岡市ヨガ #福岡市博多区 #福岡市南区 #福岡市東区 #春日市 #大野城市 #乳がん #ホルモン治療 (マサラキッチン:博多スパイス料理とカレーの店) https://www.instagram.com/p/BuVJnyFHfSe/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1qy1b5wbeqvqg
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xf-2 · 4 years
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1989年(平成元年)7月、韓国当局に対して、 韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯29名の釈放を求めるという趣旨の要望書が、 当時の日本社会党、公明党、社会民主連合、無所属の議員有志133名の署名とともに韓国政府へ提出された。 日本社会党 衆議院 阿部未喜男、五十嵐広三、池端清一、石橋大吉、石橋政嗣、伊藤茂、伊藤忠治、稲葉誠一、井上泉、井上一成、井上普方、岩垂寿喜男、上田哲、上田利正、上原康助、大原亨、大出俊、緒方克陽、岡田利春、小川国彦、奥野一雄、小澤克介、加藤万吉、角田堅次郎、河上民雄、河野正、川崎寛治、川俣健二郎、木間��、上坂昇、小林恒人、左近正男、佐藤観樹、佐藤敬治、佐藤徳雄、沢田広、沢藤礼次郎、渋沢利久、嶋崎譲、清水勇、城地豊司、新村勝雄、新盛辰雄、関山信之、高沢寅男、田口健二、竹内猛、田中恒利、田邊誠、田並胤明、辻一彦、土井たか子、戸田菊雄、永井孝信、中沢健次、中西績介、中村茂、中村正男、野口幸一、野坂浩賢、馬場昇、早川勝、広瀬秀吉、細谷治通、堀昌雄、前島秀行、松前仰、水田稔、三野優美、武藤山治、村山喜一、村山富市、安田雄三、山口鶴男、山下八洲夫、山花貞夫、吉原栄治、渡部行雄 参議院 青木薪次、赤桐操、穐山篤、秋山長造、一井淳治、糸久八重子、稲村稔夫、及川一夫、大木正吾、大森昭、小川仁一、小野明、梶原敬義、粕谷照美、久保亘、久保田早苗、小山一平、佐藤三吾、志苫裕、菅野久光、鈴木和美、高杉延恵、千葉景子、対馬孝且、中村哲、野田哲、浜本万三、福間知之、渕上貞雄、松前達郎、松本英一、丸谷金保、村沢牧、本岡昭次、八百板正、安恒良一、安永英雄、矢田部理、山口哲夫、山本正和、渡辺四郎 公明党 衆議院 小川新一郎、鳥居一雄、西中清 参議院 猪熊重二、塩出啓典、和田教美 社会民主連合 衆議院 江田五月、菅直人 参議院 田英夫 無所属 衆議院 安井吉典(社会党系) 参議院 青島幸男、宇都宮徳馬、喜屋武真栄、山田耕三郎 要望書の内容 私どもは貴国における最近の民主化の発展、とりわけ相当数の政治犯が自由を享受できるようになりつつあることを多とし、さらに残された政治犯の釈放のために貴下が一層の主導権を発揮されることを期待しています。 在日関係のすべての「政治犯」とその家族が希望に満ちた報せを受け、彼らが韓国での社会生活におけるすぐれた人材として、また日韓両国民の友好のきづなとして働くことができる機会を与えて下さるよう、ここに心からお願いするものであります。 1989年 大韓民国盧泰愚大統領貴下 日本国国会議員一同 北朝鮮工作員・辛光洙について、 原敕晁さん拉致容疑の主犯として、また横田めぐみさん等の拉致の実行犯。現在は北朝鮮で英雄としての待遇。 辛容疑者、関与4人目 めぐみさんも拉致 曽我さん証言 昭和五十二年の横田めぐみさん当時(13)拉致事件について、 帰国した拉致被害者の曽我ひとみさん(46)が、実行犯の一人は北朝鮮元工作員、 辛光洙(シン・グァンス)容疑者(76)警察庁が国際手配だと 関係者に証言していたことが五日、分かった。 辛容疑者が関与、もしくは関与の疑いが浮上した被害者は四人目。 これまでの捜査や被害者の証言などから一連の拉致事件の構図がより鮮明になってきた。 政府は改めて北朝鮮側に辛容疑者らの身柄引き渡しを求める方針。 めぐみさんの翌年に拉致された曽我さんは、めぐみさんと同じ招待所で暮らし始めた。 関係者によると、招待所で二人の朝鮮語や思想教育を担当したのが辛容疑者で、 曽我さんはその際、辛容疑者から直接、「横田めぐみを連れてきたのは私だ」と聞かされたという。 警察当局もこの情報を把握している。 辛容疑者は五十五年六月、大阪市の中華料理店員、原敕晁(ただあき)さん同(43)を拉致。 原さんに成りすまし、旅券を取得したとして、平成十四年七月に警視庁が旅券法違反容疑などで 逮捕状を取り、警察庁が国際手配した。 また、地村保志さん(50)、富貴恵さん(50)夫妻が帰国後の福井県警の事情聴取に 「実行犯の一人は辛容疑者だった」と証言したことから 警察当局は国外移送目的略取容疑を視野に捜査している。 蓮池薫さん(48)、祐木子さん(49)夫妻は、警視庁が六十年三月に旅券法違反などの容疑で指名手配した 「朴」と名乗る極東地区工作員の写真を見て、実行犯の一人であることを指摘。 五十二年九月の久米裕さん同(52)拉致を指揮したのは 朝鮮労働党元幹部で工作員の金世鎬容疑者(76)だったことが判明している。 欧州で拉致された有本恵子さん同(23)ら三人の拉致には 「キム・ユーチョル」と名乗る工作員とよど号犯や妻の関与が指摘されている。 (産経新聞) - 2006年1月6日2時35分 日本の警察は2006年2月23日、国外移送目的略取と国外移送の疑いで再度逮捕状を取得、 同3月3日、重ねて辛光洙を国際指名手配し、北朝鮮に身柄の引き渡しを求めている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E5%85%89%E6%B4%99 http://nyt.trycomp.com/hokan/0025.html
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bijutusanpo · 4 years
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大庭  豊
なぜ、いま、その絵を描くのか。
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1979年夏、画家の卵だった大庭豊さんは、フランスの小さな町、コールマールの修道院にいた。
「その修道院にグリューネヴァルトの『キリストの処刑』っていう、イバラが全身に刺さって、血がしたたり落ちてる作品があって、うーん!すごいな!と見惚れていたんです。
そこにドイツ人の家族が来て、男の子が『もういい!行かない!』って泣き出したんですね。小学二、三年生ぐらいの。お父さんはいい絵だから見なきゃって言うんだけれど、男の子は絵の迫力に圧倒されて『行かない!行かない!』って駄々こねて床に座り込んでる。そういう場面を直接体験して、作品って凄いんだな!って思いました。
芸術の凄さ。芸術がある時には恐怖になり、ある時には希望になり、ある時には物凄い喜びになっていくっていうのを、直接フランスに行って、体験して、自分が一端でも担えればという気持ちになったんです。」
それから20年以上、大庭さんはフランスで画家として過ごし、1999年、福岡県那珂川市南畑の南面里(なめり)地区にアトリエジョンヌを構える。
室内に飾られているのは抽象画。見ても「分かる」という感じにはならない。「これで人とコミュニケーションをとれるなんてすごいな」と思っていたら、大庭さんは熱を帯びた口調で、こんな話を聞かせてくれた。
「作品っていうのはコミュニケーションじゃなくて、見る人がそれを鏡にして何を感じるかなんです。自分の鏡なんで、見えない人にはなんにも見えない。ところが見える人には、ものすごい深さを持っていて、自分をどんどん発見させてくれる。」
実は全く同じ話を、別の作家さん(抽象作品をつくる石川幸二さん)のところでも聞いていた。期せずして繰り返された鏡の話に「僕も見てみたい!」という気持ちがふつふつと湧く。
見える人にはどこまでも自分を映す鏡。いったい、どうしたら、そんな鏡がつくれるのだろう。
この問いに対し、大庭先生は、ある生徒さんとのやりとりを教えてくれた。
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「僕の生徒がこんなの描いてましたって、まるで印象派のような作品を持ってきたことがあったんです。で、『あーうまいですねぇ、でも、ここまで描けたらもうちょっとなんとかできなかったかなあ』って言うと『えっ、どうしてですか。みんなからいいって言われる。先生はそう思わないんですか』って聞いてくる。」
印象派というのは、19世紀後半にパリで起こった芸術運動。素人の僕でも、マネ、モネ、ルノワールといった作家や絵のことは知っている。
まるで印象派のように描けているというのは、相当上手なはずだ。なのに、どうしてその絵を大庭さんはいいと言わなかったのか。
「印象派に見えるのがいいと思うんだったら、あなたは150年前に生きてるんだよ。そう話したんです。印象派の絵は、印象派の時代に、印象派の人たちがやったことなので、あなたが描いてるのは、あなた自身ではないんじゃない?と伝えました。」
いまの時代に生きているあなたが描くのは、そんな絵でいいのか?
そう問われた生徒さんは、激しく葛藤したそうだ。みんなからいいと言われていたのだから、容易には受け入れがたかっただろう。
けれど、彼女は三年ほど大庭さんに付いて問答を繰り返した後、いまは全く違った「いい絵」を描いているという。
「うまいのといい絵とはぜんぜん違うんですね。これを説明するのは大変なんですけど、でも、やっぱりいい絵を僕は描きたい。僕自身は時代を捉えることができるかどうかによって、作家であるのかないのかが試される気がするんですよ。」
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作家であるかどうかを左右する「時代」。その例として先生は、東日本大震災の頃の出来事を話してくれた。
「震災から3年後に生徒たちを連れてローマに行って、お茶を飲んでたんです。そしたら、恰幅のいい御老人がとっとっと近づいてきて『イタリア語わかりますか』って。『わかりますよ。大丈夫ですよ』って答えると『このたびはご愁傷様でした。』って直接言われたんですよ。『今度のことは、我々イタリア人もものすごく心配してる』って。
ビッッックリしましたー! 
僕の中では日本で被害があって、日本の中だけで話すことなのかなと思っていたら、世界中が震災のことを話して、心配している。これが時代なんですよ!世界中がおなじなんです!」
世界中がおなじように感じていること。それが時代。 作家は、その時代をどう見ているのかを描く。
大庭さんの描いた東日本大震災の絵は、なんとも言えない迫力があって、悲しくて、じっと見ていると仕事が続けられなくなり��うだった。
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と、思いのほか硬派な記事になっていることに気づいて、驚いている。話をうかがったときの大庭さんの感じと、合わない。
お話を聞いていて本当に楽しかった。 時間があっという間に過ぎて、何度も大声で笑ったし、芸術を語る時のあふれんばかりの情熱にこちらも胸が熱くなった。
そして、そうそう、これは「南畑」美術散歩のインタビュー。 作家さんみんなに南畑の魅力を聞いていて、大庭さんも家を決める前、老婦人に丁寧にお辞儀された話や不在時に竹の子やじゃがいもの袋が置いてあった話なんかを面白おかしく語ってくれたのだけれど、僕がいいなあと思ったのは、インタビューが終わってコーヒーを飲んでいたときの、このやりとり。
――フランスに帰ろうと思ったことはないんですか。
「帰りたいです。」
すがすがしいほどの即答。そういう人もいるよなあと思った。
南面里の山の上に吹く風も心地よく、僕は大庭さんのことがますます好きになった。
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写真と動画: 川嶋 克  インタビューと文: 澤 祐典
アトリエ ジョンヌ 那珂川市南面里 787-1 ☎092-951-5866 ⼯房HP:ohba-yutaka.com
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iafshop · 2 years
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素粒子のフィジカル-現実の描画距離
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素粒子のフィジカル-現実の描画距離
作家名:近藤拓丸 会期:2022年3月22日(火)~3月27日(日) 時間:15:00‐23:00 料金:入場無料 場所:IAF SHOP* 福岡市中央区薬院3-7-19 2F TEL:090-5475-5326(佐藤) http://iafshop.tumblr.com/
〇展覧会内容 1993年 福岡出身。 2018年 多摩美術大学院美術研究科博士前期課程(修士)絵画専攻油画研究領域卒業。 現在は東京都と福岡県を拠点に活動。 3DCGのモデリングソフトやゲームエンジンを用いて、絵画や映像作品、インスタレーション、パフォーマンスなど多岐に渡り制作している。 2019年以降、3年かけて二階建ての木造建築をスタジオ兼住居としてフルセルフリノベーション。建物の骨組みを残してすべて解体し、手作業を通して構造設計や電気系統など、古い日本家屋の建築空間を学ぶ。 近年は、身体を介した直接的なコミュニケーションが社会的に抑圧される状況で、交換可能な身体、メタバースと現実世界の相互作用、バーチャル空間と絵画空間の関係性に関する作品を制作している。 本展ではPhysicality(身体性、物性)という切り口で、バーチャル空間における素粒子化した身体、現実の描画距離について、絵画、映像、疑似立体映像で構成されたインスタレーションを展開する。
〇展示ステートメント 「身体的距離-フィジカルディスタンス」の「フィジカリティ(Physicality)」には「身体性」と「物性」という意味が込められている。 近年、身体的接触が抑圧されていく中で、この「身体性」と「物性」にはどれほどの親和性があるのだろうか。 バーチャルリアリティの世界では、自分の身体は自分で選択することができる。一個体としての物性というより、素粒子的に像が結ばれては霧散するという、流動的な身体性がある。「私の身体は私で決める(My body my choice)」ことができる。 また、バーチャルリアリティの世界はゲームエンジンによって成立している。ゲームエンジン上での風景の描写や身体の動きは、プログラミングによって再現されている。 ただ、その風景や現象は全てに細部があるわけではない。適度に簡略化(ローポリ化)された風景であり、描画できる範囲には限界がある。身体を中心として、世界の描画範囲は有限化されているのである。
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theatrum-wl · 6 years
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【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回  銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生
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〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館  銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
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〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプルな物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びよりは、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なってしまうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたからこそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
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〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日本有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光ライトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
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〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだほうがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
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〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような翻案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。
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〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はでまかせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。
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〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜劇性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの活動
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〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、年に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているの��東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。
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〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。
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〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという公共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域文化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演劇人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
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〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして新たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山勉
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
宣伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@���河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~  総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京『銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
演出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
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jaguarmen99 · 2 years
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2009年(平成21年)11月5日、名古屋市内の美容形成外科医院が、過去に美容形成術を行った患者カルテの顔写真を整理していたところ、男性には珍しいほくろの除去を不審に感じ報道された市橋との一致部分を確認し、病院スタッフが通報した。県警は骨格などから市橋と断定。顔写真を公開した。市橋はすでに整形していて、一重だったまぶたが二重になっているほか、鼻は高くなり、下唇は薄くなっていた。新たに公開された指名手配の顔写真は同院提供の顔写真に差替えられた。なお、同院は、手術前にすでに市橋が顔を整形していたため、実際の施術にあたって気付かなかったとしている。 建設会社からの通報 この手術後の新しい指名手配の報道を見て、同年10月ごろまで大阪府茨木市の建設会社において同市橋が住込みの土木作業員に従事していたとして、雇用主の建設会社が警察当局に通報した。2008年2月29日から6月26日までの間、「井上康介」という偽名を使って神戸市の建設会社で勤務し、8月20日から10月10日までは大阪府茨木市内の建設会社で勤務した[6]。ともに会社の寮で生活していたが、無断で退去していた。なお、同建設会社は市橋を雇用する際に、あいりん地区に社有車を派遣して求職者を募集し、その場で雇用したという経緯から、当初は同事件の市橋であるとは気付かなかったとしている。 イギリスの被害者両親にも市橋発見の報道は届いたが、既に建設会社を出奔した後だったので、日本の警察への不信感はより強まる結果となったと家族は述べている。市橋は福岡のホテルに滞在中にその報道を知った。雲隠れするためにオーハ島(後述)に行くために鹿児島まで移動したが、警察の警備を恐れて神戸からのフェリーで沖縄に移動することを選択した。この過程で警察官より職務質問を受けているが、逃走に成功している。 フェリー乗り場からの通報 同年11月10日、神戸市東灘区の六甲船客ターミナルにおいて、同社の従業員が、沖縄行き航路に搭乗しようとしていた乗客の中に、市橋に似た不審な男性を発見した。当日は、神戸発・沖縄行きの航路は欠航であったため、同日も同航路に就航していた大阪南港発の沖縄行き便を案内すると、市橋と思われる人物が乗船のため大阪南港に向かう旨の発言をしたことから、不審に思った同港担当者は警察当局ならびに大阪南港担当者に通報。 大阪南港フェリーターミナルに先回りし待機していた警察官により身柄を確保され、移送された大阪府住之江警察署において同事件容疑で逮捕、さらに東海道新幹線を経由して千葉県行徳警察署に移送された。市橋が到着した東京駅は一時騒然となった。市橋が逮捕された2009年11月10日は、俳優森繁久彌逝去の報道と報道日時が重複したこともあり、当日夜のニュース番組の視聴率が軒並み20%を超えた[18]。
リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件 - Wikipedia
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yasuboy · 3 years
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私のアカウントのリーチ数の統計です。 30日間 95万7000人です。 都市で言えば、例えば、 福岡の北九州市とか 東京都の世田谷区、 大阪府の堺市と言った都市の 人口と同じぐらいの方達が見てくれている ということになります。 結構いってますね😃‼️ フォロワーは、3万3000人ほどですが、 見られているのは、 もっと沢山の人に見られているようです😃 東洋医学健康アドバイザー 松本康男 #リーチ #統計 #インサイト #インスタ #インスタグラム #イベルメクチン #インド #ペルー #内海聡 #うつみん #内海聡先生 #抗寄生虫薬 #寄生虫 #ねえねえ尾身さん 尾身さんの逮捕まだ ? ーーー ねえねえ尾身さん早く教えてよ😆 @omi.shigeru 尾身茂さんのアカウントはこちら あまり侮辱的過ぎるコメントを書くと、インスタの規約違反になって、ペナルティーを受けますのでそこは注意して下さいね。 ねえねえ尾身さん 尾身茂 尾身会長 分科会 コロナ専門家有志の会 こびナビ 反コロナ 反コロナ共闘委員会 ★スペシャルサンクス★ 相互紹介 ♪ グループC @gengroup_follow GEN GROUP 真の健康 健康美容 @hiromu_investor 紘夢 健康オーガニック 次世代を守る @enjoyuko.1 自律神経ケア小顔スクール代表 東京 @yukineisan1985 ゆき姐 ワクチン水道民営化反対! @nomask_no_n 日本人を守ろう!ノーマスクのN @ryusei_healthydesigner 龍青ヘルシーデザイナー @yumiko_yoga_ ゆみこ ヨガティーチャー 子宮筋腫克服 @katsuo_saori いつまでマスクするの?コロナと闇 @kgo_takasaki 高崎圭吾 コロナ関係などYouTuber @ykr0216 ゆかり マスク強要無し美容院 梅田茶屋町エル @yumotoyuuki ダイエッター 105kg→70kg diet 成功 関連ワード 内海聡 脳梗塞 不正出血 予防効果 副反応で発熱 ワクチンパスポート ワクチン拒否 デマ太郎 河野太郎 アメリカ ビルゲイツ アナフィラキシー アナフィラキシーショック 血栓症 不正出血 流産 コミナティ コロナワクチン接種後 #コロナはただの風邪 #コロナは茶番 #コロナは嘘 ワクチン関連 ワクチン推進派は、製薬会社の広告塔 https://www.instagram.com/p/CQjvXZDrD4N/ 重篤な副反応があっても厚労省の報告書には載らない https://www.instagram.com/p/CQhicVar8Kx/ コロナワクチンは、治験段階の劇薬‼️ https://www.instagram.com/p/CQdinLSLqlG/ ワクチン2回目接種後に死亡 https://www.instagram.com/p/CQezD9grlD1/ ワクチン副反応でも認められず 自己責任 https://www.instagram.com/p/CQgBQkvr7Ko/ 全国的に膨大な数の死亡者が出ているが調べきれない https://www.instagram.com/p/CQYcdDZrzM8/ ワクチンもうちょっと様子見てみようよ https://www.instagram.com/p/CQUIlpTrb4I/ コロナはただの風邪 自己免疫で十分 ワクチン危険 https://www.instagram.com/p/CPHQdVZrBQN/ #ワクチン危険 #ワクチン拒否 #ワクチン副作用 #ワクチン副反応 #インスタ医療団 #インスタ医療団_予防接種 #コロナワクチン接種 mRNAワクチン #遺伝子ワクチン #コロナ脳 家畜 家畜化 陰謀 陰謀論 内海聡 #コロナワクチン #ワクチン #ワクチン接種 ワクチン不要 ワクチン不要論 血栓症 不正出血 人口削減計画 人口削減 薬害 反ワクチン ノーワクチン 自然派 自然派ママ #近藤誠 https://www.instagram.com/p/CToi0C8v82B/?utm_medium=tumblr
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xf-2 · 4 years
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1人が死亡し18人がけがをした福島県郡山市の飲食店の爆発事故で、死亡したのはこの店で行われていた改装工事の現場監督だった仙台市の50歳の男性と確認されました。警察と消防はプロパンガスによる爆発とみて詳しい状況を調べています。
30日午前9時前、福島県郡山市島2丁目にある飲食店、「しゃぶしゃぶ温野菜郡山新さくら通り店」で爆発がありました。 店の中で男性1人の遺体が見つかり、警察が身元の確認を進めたところ、仙台市太白区の会社員、古川寛さん(50)と確認されました。 警察などによりますと、爆発が起きた店は新型コロナウイルスの影響で4月から休業し、その期間中に店舗の改装を行っていたということです。 古川さんが勤務する仙台市の設計施工会社によりますと、古川さんはこの店の改装工事の現場監督で、壁紙を塗装したり床を貼り替えたりする作業を行い、ガス関係の工事は請け負っていないということです。 今回の爆発では、このほか周辺の銀行のATMを使っていた人や近くの会社の事務所にいた人など、20代から80代の男女18人がけがをしました。 このうち40代の女性2人が重傷ですがいずれも意識はあり、残りの16人は軽いけがだということです。 消防によりますと、爆発が起きた建物の敷地にはプロパンガスのボンベが6本倒れていて、このうち3本でガスが漏れ、バルブが壊れていたということです。 警察や消防はプロパンガスが爆発の原因とみて詳しい状況を調べています。
仙台市にある設計施工会社の小西造型は、今回爆発が起きた現場の店舗で壁の塗装や床の張り替えなどの工事を請け負っていました。
この工事は、今月23日から始まり、30日は、店の看板を補修する予定だったということです。
古川さんは30日朝、宮城県内の自宅から会社の車で現場に向かい、午前8時10分ごろ、現場に着いたことを会社に連絡していました。
契約している警備会社に、古川さんが午前9時の数分前に現場の建物の鍵を開けた記録が残っているということで、それ以降は連絡が取れていないということです。
当時現場にいた社員は、古川さん1人だったということです。小西造型は「古川さんは仕事熱心で、誰よりも現場に詳しい優秀な方でした。事故の原因は分かりませんが、亡くなってしまったことは非常に残念です」としています。
爆発による衝撃 数百メートルにわたる
爆発現場となった郡山市島2丁目付近は、郡山市役所から西に1キロほど、JR郡山駅から、西に3.5キロほど離れています。
市の中心部で、商業施設や住宅地が広がる地域です。
爆発による衝撃は、数百メートルにわたって伝わったとみられ、周辺の店舗や住宅に、窓ガラスが割れるなどの被害が出ています。
このうち、現場から南に150メートルほどの離れた桑野協立病院では、職員が地震と間違えるような震動を感じ、1階から4階までの窓ガラスがあちらこちらで割れているということです。
また、現場から東に370メートルほど離れた郡山女子大学付属幼稚園でも、ドンという大きな音とともに窓ガラスが1枚割れる被害が出ています。
爆発は改装工事中のフランチャイズ店
「しゃぶしゃぶ温野菜」の運営会社を傘下に持つ外食大手の「コロワイド」によりますと、爆発があった「郡山新さくら通り店」は直営店ではなく、いわゆるフランチャイズ経営の店舗だということです。
平成18年に開業し、これまでに店側からガス漏れのトラブルが報告されたことはなかったということです。
この店舗は、ことし4月23日から新型コロナウイルスの影響で休業していて、今月21日から31日までの予定で改装工事を行っていたということです。
隣の電気工事会社 5人けが
爆発があった飲食店の東側にある、電気工事の会社に勤務している65歳の男性によりますと、当時、社内では100人ほどが勤務していたということで、男性は天井から落ちてきた照明が頭にぶつかりけがをしました。
また、この男性も含め合わせて5人が割れた窓ガラスが当たって首に切り傷を負ったり、崩れてきた壁で背中を打ったりするなどの軽いけがをしたということです。
男性は「とても大きな衝撃で、飛行機が墜落したかと思いました。事務所の窓ガラスが数多く壊れて、突然落ちてきた照明に頭をぶつけ、けがをしました。会社が再開できるように、いち早く復旧したいという思いです」と話していました。
100メートル余り離れた高校では
爆発が起きた飲食店から南へ100メートル余り離れた高校では、爆発の衝撃で教室の窓ガラスが割れ、けが人はいませんでしたが、生徒たちの間には動揺が広がっていました。
郡山女子大学附属高校は、夏休みが短縮された影響で31日までが登校日で、爆発が起きた当時は朝8時40分から全校で試験が行われていたということです。
学校によりますと、爆発による爆風や揺れで30枚ほどの窓ガラスが割れたりひびが入ったりしたほか���天井の配管がずれたり、ドアが壊れたりする被害があったということです。
けが人はいませんでしたが、被害を受けて、その場で泣きだしたり、過呼吸になった生徒が少なくとも10人はいたということで、担架や車いすを使って保健室に運び、休ませたということです。
もっとも被害が大きかった2年1組のクラスでは、校舎の北側にあたる窓ガラス2枚が大きく割れ、すぐ近くの机の下に落ちていました。
窓側から2列目の席に座っていたという生徒は「耳が痛くなるくらいの大きな音がして、同時にガラスが割れ、すぐに体を投げ捨てるようによけました。とても怖かったです」と話していました。
また、隣のクラスにいた40代の男性教諭は「窓が揺れるような風圧がものすごく強く、試験中だったが、生徒たちも動揺し、自分自身も恐怖を感じた。生徒には大きなけがの報告はないが、非常に動揺している」と話していました。
約120メートル離れた病院では
現場から北におよそ120メートル離れた病院に併設されたリハビリ施設でも爆発で大きな衝撃がありました。
施設の中にある浴室の脱衣場では天井の一部が崩れ、火災報知器が垂れ下がった状態になっていました。
また、リハビリなどを行う部屋でも天井についていたエアコンのカバーが2つ外れたということです。
そして、施設の中にある時計は8時55分のままで、爆発の衝撃で止まったものとみられます。
爆発当時、リハビリ施設で勤務していた理学療法士の海藤寛喜さんによりますと、施設には利用者とスタッフおよそ30人がいましたが、けが人はいなかったということです。
海藤さんは「耳が痛くなるような大きな音と地震のような大きな振動を感じ、最初は何が起こったのか分からなかった。利用者の安全性の確保を最優先に考えました」と話していました。
現場近くの病院看護師「爆発音が2回 すごい音と風圧だった」
爆発があった現場から南に100メートルほどの桑野協立病院では、現場側の病室などの窓ガラス、およそ90枚が割れ、さらに病棟内の一部の電灯も落ちる被害があ���ました。
当時、病院には入院患者およそ80人と看護師などのスタッフおよそ120人の合わせて200人余りがいましたが、けがをした人はいなかったということです。
病室にいた看護師は「突然、爆発音が2回して、すごい音と風圧だった。窓が粉々になって、外を見ると辺りは灰色の煙に覆われて見えなくなっていた。何が起きたか分からず、必死に患者の安全を確認した。振り返ってみるととても怖く全員が無事だったのは奇跡だと思う」と話していました。
病院は、30日は外来診療を休止し、31日からは一部を除いて再開する予定だということです。
美容院で働く女性「建物の近くの道路に人が倒れている様子確認」
福島県郡山市で爆発があったとみられる現場から東側に450メートルほど離れた美容院で働く女性は、当時の様子について「ドンという爆発音を聞いたので急いで店の外に出てみると、建物から煙があがっていました。建物の近くの道路には人が倒れているような様子も確認できました」と話していました。
また、この美容院の周辺の店舗などでも窓ガラスが壊れ���など被害がでているということです。一方、この美容院には被害はなかったということです。
郡山市が避難所を開設
福島県郡山市は、爆発の影響で住宅に被害を受けた人などを受け入れるため、午前10時から、市内の亀田1丁目にある「桑野地域公民館」に避難所を設けています。
総務省消防庁 現地に職員派遣
総務省消防庁は原因の調査を支援するため、消防研究センターの職員を現地に派遣することを決めました。
また、消防庁の職員も管轄の消防本部に派遣することにしていて、爆発が起きた状況などを詳しく調べることにしています。
専門家「漏れたガスの量もかなり多かったのでは」
東京消防庁のOBで、市民防災研究所の理事、坂口隆夫さんは「映像を見るかぎり、プロパンガスが室内に漏れて、何らかの原因で着火して爆発したと考えられる。店の天井や壁が全体的に吹き飛んでいて、骨組みだけになっている。周囲も4つの方向すべてで被害を受けている。漏れたガスの量もかなり多かったのではないか」と指摘しています。
そのうえで、「これだけ激しく建物が壊れているので、建物は耐火構造ではなく、簡易的な構造だったのではないかと推測される。耐火構造であれば、壁などがすべて吹き飛ぶということは、よほどの圧力が加わらないと起きないと思われる」と分析しています。
この飲食店は新型コロナウイルスの影響で4月から休業していて、その間に改装を行い、31日から営業を再開する予定だったということです。
こうしたことも踏まえ、爆発の原因については、「通常の状態であれば、ガス漏れはそう簡単に起きるものではない。営業再開に向けて改修工事をしていたならば、ガスの配管、あるいは器具の近くで工事などが行われていた可能性があり、それによってガス漏れが発生したのではないか、ということがまずは考えられる」としています。
また、長期の休業を経て営業を再開するほかの飲食店についても「ガスの元栓を閉め、店舗内にガスが供給されないような状況にしてほしい。ガスの元栓や配管の点検をしっかり行うことが必要だ」と注意を呼びかけています。
過去の主な爆発事故
建物が突然、爆発し死者やけが人が出た事故は過去にも相次いでいます。
おととし7月の西日本豪雨では、岡山県総社市のアルミ工場に近くの川からあふれた水が流れ込んで爆発が起きました。
周辺の住民数十人が骨折などのけがをしたほか、飛び散ったアルミで住宅が焼けるなどの被害が出ました。
また、おととし12月には、札幌市の不動産会社の店舗で爆発があり、周辺の住民など40人以上が重軽傷を負ったほか、まわりの建物の窓ガラスが割れるなどしました。
この事故では、店舗内で除菌消臭用スプレーを大量に噴射したことで可燃性ガスが充満し、給湯器のスイッチを入れたことで爆発が起こったとみられています。
さらに、今月5日には、静岡県吉田町の工場の倉庫から火が出て爆発的に燃え広がり、消防隊員3人と警察官1人の合わせて4人が死亡しました。火元を調べていた4人が、突然、爆発のようなものに巻き込まれたとみられています。
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toshihikokuroda · 3 years
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オスプレイ訓練やめよ 米軍超低空飛行 共産党、青森県に要請 2021年7月7日【政治総合】
 日本共産党青森県委員会と同県議団は6日、米軍オスプレイが東北町の小川原湖(約62平方キロ)上空で実施した超低空飛行に抗議し、米軍に訓練の中止と情報公開を求めるよう三村申吾知事宛てに申し入れました。
 日本共産党の、さいとうみお衆院1区候補、安藤晴美、松田勝両県議、市川俊光東北町議が県庁を訪れ、県危機管理局の簗田潮(やなた・うしお)防災危機管理課長に要望書を手渡しました。
 要望では、6月30日と1日に小川原湖で低空飛行した米軍オスプレイ訓練の詳細を公表し、14日から実施予定の在日米海兵隊の普天間基地所属のオスプレイによる三沢対地射爆撃場(三沢市、六ケ所村)での訓練の中止を求めました。
 市川町議はオスプレイ訓練に対し、「住民にとって生活の糧であり、観光地として親しまれている小川原湖を踏みにじる行為だ。再発を許してはならない」と怒りを込め抗議しました。
 さいとう氏も「米軍が小川原湖を“基地”の一部とみなし、好き勝手に使うことは許されません」と強く抗議しました。
 簗田課長は、県は3日に東北防衛局長へ説明や事実確認を求めたと報告し、「回答を踏まえて適切に対応していきたい」と答えました。
 安藤県議は「米軍オスプレイの問題が解決しないままに、14日からの訓練実施はするべきではありません」と重ねて求めました。
(しんぶん赤旗、2021年7月7日)
米軍実弾演習するな 宮城 平和団体が防衛局に要請 2021年7��7日【政治総合】
 宮城県の陸上自衛隊王城寺原(おうじょうじはら)演習場=大和(たいわ)町、色麻(しかま)町、大衡(おおひら)村=で、15日から24日まで米軍の実弾射撃訓練の実施が予定されているのに対し、米軍移転・日米共同演習反対県実行委員会は5日、東北防衛局の市川道夫局長に対し、訓練中止を求める要請をしました。
 高橋正行代表委員が、応対した職員に要請書を手渡し、佐藤春治事務局長が趣旨を説明。演習が年に複数回実施されるなど地元住民への負担が増大し、環境汚染の恐れのある非人道的兵器の白リン弾使用で、住民に大きな不安が広がっていると指摘しました。
 6月23日には、滋賀県饗庭野(あいばの)演習場で120ミリ迫撃砲が場外に着弾する事故を起こすなどの問題を指摘し、実弾演習はすべきではないと強調。演習の中止を求め、実施するとしても午後6時以降や土曜・日曜は訓練をしないこと、感染症予防や住民の安全の観点からコンビニなどへの米兵の立ち入りを許さないなどの要請をしました。
 同団体は同日、村井嘉浩知事に対しても同様の要請をしました。
(しんぶん赤旗、2021年7月7日)
市民「五輪合宿受け入れやめて」 広島・福山 市長に申し入れ 2021年7月7日【政治総合】
 広島県福山市の市民らが1日、地元でメキシコなど東京五輪の選手団の事前合宿が始まるのを前に、受け入れ中止を求める申し入れを同市の市長あてに提出しました。申し入れには福山市などの市民27人が賛同しました。
 申し入れ書では、入国後に新型コロナウイルスの感染が確認されたウガンダの選手団にふれ、空港の「水際対策」は極めてずさんで、万が一感染拡大が起こった場合、自治体に多大な負担が生じると指摘。選手にとっても制約の多い状況では存分に実力を発揮できないとしています。
 福山市では今月8日から11日間、メキシコとパラグアイの選手やスタッフら15人が合宿する予定です。
 呼びかけ人の僧侶・坂田光永さんは「市民と選手の交流はできず、1人でも陽性者が出ると選手は練習もできません。もはやメリットが何もないオリンピックは止めるべきです」と話しています。
(しんぶん赤旗、2021年7月7日)
熱海へ救援募金訴え 北海道留萌で はたやま氏 2021年7月7日【政治総合】
 「土石流で被災した静岡県熱海市のみなさんへの救援募金にぜひご協力ください」―。北海道内を回るキャラバン行動を繰り広げている日本共産党の、はたやま和也前衆院議員は4日、留萌市内の街頭から呼びかけました。
 はたやま氏は、3年前の北海道地震で全国から熱い支援を受けたとし、「熱海では安否不明者が依然として多く、一人でも多くの方の命が救われることを心から願うばかりです。日本共産党として責任を持って被災地に届けます」と訴えました。
 小沼清美留萌市議とともに、大型商業施設で演説中、広い駐車場の向こう側から女性が寄ってきて、「少しですが」と財布から千円札を募金しました。
 「音が聞こえたから来ました」という別の女性(80)は、以前に住んでいた苫小牧市で畠山(はたけやま)忠弘元党市議に世話になったと言い、「それ以来ずっと共産党を応援してきました」とうれしそうに話しました。
 留萌市でも3年前、豪雨に襲われ、斜面がえぐられてしまった土地に住む市民から「早く復旧を」との声が上がり、小沼氏らと現地調査を実施。国が管理責任を認め、復旧が始まったと述べ「都議選で示された“五輪より命”との審判をしっかり受けとめ、市民と野党の共闘勝利と日本共産党の躍進で政権交代を実現します」と力強く表明しました。
(しんぶん赤旗、2021年7月7日)
学童労組に謝罪文 大阪 共立メンテナンスが手交 2021年7月7日【政治総合】
 大阪府守口市の学童保育不当労働行為事件をめぐり、共立メンテナンス(本社・東京都千代田区)は6日、大阪市北区のグリーン会館で、守口市学童保育指導員労働組合に対し、大阪府労働委員会決定に従って謝罪文を手交しました。6日から2週間、同社の関西支社と守口営業所でも掲示されます。
 同社担当者は謝罪文を読み上げ、同労組からの団体交渉申し入れに応じなかったことが、府労委に不当労働行為に当たると認められたことを受けて「今後、このような行為を繰り返さないようにいたします」と謝罪しました。
 労組委員長で雇い止めされた水野直美さんは「誠実に謝罪文の内容を守ってください。この30数年、1年更新で働いてきました。突然雇い止めにされた気持ちわかりますか。雇い止めの件も早期に解決したいです」と謝罪文を受け取りました。
 大阪自治労連の有田洋明委員長は「団体交渉に臨む方向に持ち込めたことは一定の到達です」と話しました。
 共立メンテナンスは、2019年4月から児童クラブの運営を守口市から業務委託されていましたが、20年3月末に、「会社に反抗した」などを理由に学童指導員13人の雇い止めを強行。同社は、同労組からの団交申し入れを拒否していました。
(しんぶん赤旗、2021年7月7日)
長野・高森町議選 共産党3氏 無投票当選 2021年7月7日【政治総合】
 長野県高森町議選(定数14)が6日告示され、定数と同数の立候補で無投票となりました。
 日本共産党の北沢幸保氏(72)、原敏明氏(68)=いずれも現=が2期目、佐々木あきら氏(73)=新=が初当選し、現有3議席を維持しました。
 議会新分野は次の通り(カッコ内は前回)。
▽共3(3)公1(1)無10(10)、議席占有率21・43%(同)
(しんぶん赤旗、2021年7月7日)
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所���撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いに��り拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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ryuseisato · 3 years
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New Fragrance Brand "çanoma"
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この度BIRTHDAYの一角をリニューアルし、ファッションに纏わる美容やスキンケア、フレグランスなどのご提案を行う部門、
FLAVOR dept.をインショップとして展開。
その中でも今週末からスタートする新進気鋭のブランドçanoma(サノマ)をリリース。
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日本の感性とフランスのテクニックにより生まれた 「日本人のための香水」
「上質な日常」をテーマとして、2020年9月パリにて産声を上げたニッチフレグランスブランド。
クリエーター渡辺裕太がディレクションを取り、フランス人調香師Jean-Michel Duriez(ジャン=ミッシェル・デュリエ)とともに、既存の香水にはない新しいアイディアと熟練した技術による調香を兼ね備えた、日本人が日常使いできる香り作りを志向。
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「日本人は香水を使わない」と言われるのは、香水業界に欧米のクリエーターばかりで、日本人の好みに合ったものが作れていないからではないだろうか?
そう考えたブランドディレクターである渡辺裕太氏は「日本人が日常使いできる、日本人好みの香水を作りたい」という想いから、ブランドを設立。そこにJean PatouやDolce & Gabbanaのフレグランスを手掛けるフランス人調香師ジャン=ミッシェル・デュリエの知識と経験が加わり、日本の感性とフランスの調香技術が織りなす「日本人のための香水」が誕生しました。
香水の「上質な日常を提供するもの」であるという位置づけを、日本的概念に置き換えたとき、渡辺氏が思い浮かんだ「茶の間」と「茶道」という言葉。その共通した「茶」の字の発音を入れ替えて、sanoma という言葉を着想。ブランド名「çanoma(サノマ)」は、そこにフランスが培った香水文化のエッセンスを添えるため、 sa の代わりに 「ça」 と表記しています。
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Director / Yuta Watanabe 
çanomaブランドディレクター。東京大学大学院卒業後、外資系金融、投資ファンドにて勤務したのち、香水業界で働くべく2015年に渡仏。調香師 Jean-Michel Duriez 氏に師事する。香水業界が欧米及び中東マーケットにのみフォーカスしている現状を目の当たりにし、日本人のための香水を作るべくフランスにて起業、2020年秋、çanomaをローンチ。
ジャン=ミッシェル・デュリエ Jean-Michel Duriez
çanomaパフューマー。調香歴32年のベテラン。フランスの歴史ある香水ブランド Jean Patou 及び Rochas のハウスパフューマーを務めるほか、 Dolce & Gabbana、Escada、Lacoste、Yohji Yamamoto の香水も手がける。2016 年 12 月、自身の名前を冠したブランド「Jean-Michel Duirez Paris」をスタート。
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”日本人に合った”と言うブランドコンセプトを掲げるçanoma。
昨年秋からスタートし、銀座にある高級百貨店ginza sixでは合同展の売り上げの半分以上がçanomaであったという最高の立ち上がりを見せるほどの偉業を成し遂げています。
フレグランスの種類は4種類。
週末から店頭に並びますので是非お試しくださいね^^
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shintani22 · 2 years
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2022年2月23日
JリーグYBCルヴァンカップ グループステージ B組第1節 徳島ヴォルティス 0-3 サンフレッチェ広島@鳴門・大塚スポーツパーク ポカリスエットスタジアム 2632人/24分 住吉ジェラニレーション、33分 永井龍、48分 杉森考起(ハンドの反則で取消)、57分 東俊希
広島がルヴァン杯GL初戦で快勝! 住吉、永井、東の3得点で徳島に完封勝利(ゲキサカ)
徳島ヴォルティスとサンフレッチェ広島の対戦は、広島が3-0で勝利。第2節は3月2日に行われ、徳島は敵地で清水エスパルスと、広島はホームで名古屋グランパスと対戦する。
昨季は最終節で対戦し、広島が4-2で勝利。徳島はJ1リーグ17位でJ2降格が確定し、広島は11位に終わった。その両者が、ルヴァン杯で再び相まみえた。
徳島は開幕節からスタメンを全員変更。4-1-4-1の布陣で、GKは後東尚輝、4バックは右からDF石尾崚雅(←金沢)、DFカカ、DF石井秀典、MF川上エドオジョン智慧が並ぶ。中盤のアンカーにMF長谷川雄志(←大分)、2列目は右サイドにFWオリオラ・サンデー(←福知山成美高)、インサイドにMF児玉駿斗(←名古屋)とMF玄理吾(←静岡学園高)、左サイドにMF杉森考起が入る。トップにはFWムシャガ・バケンガが起用された。
広島は開幕節から9人を変更。3-4-2-1の布陣を敷き、GKは大迫敬介、3バックは右からDF住吉ジェラニレショーン、DF荒木隼人、DF佐々木翔を配置。ボランチ2枚はMF野津田岳人(←甲府)とMF川村拓夢(←愛媛)。右WBはMF茶島雄介、左WBはMF東俊希を起用する。2シャドーはMFエゼキエウとMF森島司、1トップはFW永井龍が入った。
広島は序盤から攻勢を強め、早い時間から得点を奪う。前半24分、野津田の右CKはファーに流れるが、走り込んだ住吉がスライディングシュート。加入後初ゴールで先制点を挙げた。
さらに広島は前半33分に追加点。右サイドから森島がボールを追走。GK後東までプレスを仕掛けると、パスミスを誘発する。PA内に詰めた永井が冷静にゴールに流し込み、2-0と点差を広げた。
2点ビハインドで前半を折り返した徳島は、後半から反撃に出る。後半3分にはバケンガが右サイドを突破。PA右から折り返し、杉森がゴールを挙げた。しかし、佐藤隆治主審は副審と話し合い、バケンガの突破シーンでハンドがあったことを確認。杉森の得点はノーゴールとなった。
そして、広島が畳みかける。後半12分、右サイドから仕掛け、パスを受けた川村が左足ミドルを放つ。GK後東にセーブされるが、こぼれたところを東が決め切り、ダメ押しの3点目とした。
徳島は後半17分に2枚替え。玄とカカを下げ、MF坪井清志郎(←新潟シンガポール)とMF藤田征也が入った。一方、広島も19分に2選手を交代させる。佐々木と森島に代え、DF野上結貴とFWジュニオール・サントスが出場した。
後半27分には、両者ともに2選手交代。徳島はバケンガとオリオラを下げ、FW藤尾翔太(←C大阪)とMF藤原志龍が入る。広島は永井と荒木に代え、FWドウグラス・ヴィエイラとMF松本泰志が投入された。39分には徳島が長谷川に代えてMF大森博、広島はエゼキエウに代えてFW満田誠(←流通経済大)を出場させている。
試合はそのまま終了。広島が3-0で勝利を収めた。
2試合中止も…ルヴァン杯が開幕! 激戦の大阪ダービーを制したセレッソ、攻撃陣が躍動した広島、湘南が白星発進(サッカーダイジェストweb)
ルヴァンカップは2月23日、開幕節8試合が予定されていたが、大分トリニータ対鹿島アントラーズ、FC東京対ジュビロ磐田が中止となり(大分とFC東京において、それぞれ複数名がコロナ陽性診断)、6試合が開催された。
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共政会系の組織、小規模化し増加 広島の流川・薬研堀地区、複数同居も(中国新聞)
中四国地方最大の歓楽街、広島市中区の流川・薬研堀地区に拠点を置く指定暴力団共政会系の組織が小規模化し、増加傾向にある。広島県警によると現在、18団体あり、県暴力団排除条例が施行された2011年以降、4団体増えた。一方で構成員が数人の団体も増え、複数の団体が一つの組事務所に同居するケースも目立つという。暴力団対策法(暴対法)も背景に組員の離脱や高齢化が進む中、県警は「新たな組の幹部へと引き上げて中堅や若手の組員をつなぎ留め、勢力の維持を狙っている」とみる。
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広島駅前の移り変わり写真に 理容師親子が撮影、70年前の写真も(中国新聞)
広島市南区松原町の理容師秋信隆さん(73)が、再開発によって急速に姿を変えるJR広島駅一帯の写真を撮り続けている。猿猴橋近くで120年続く理容店を営み、店内には1950年代から近年までの写真を収めたアルバム約20冊が並ぶ。「駅前の移り変わりを伝えたい」。地域への愛着があふれる。
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【本日 (2/23)の広島県内の感染状況】(広島県)
広島県 新型コロナ 10人死亡 新たに801人感染確認(NHKニュース)
広島県では23日、新たに801人が新型コロナウイルスに感染していることが確認されたと発表されました。これで広島県内での感染確認は延べ7万888人となりました。また県内では新型コロナウイルスに感染した10人が死亡したと発表されました。県内で新型コロナウイルスに感染し、その後死亡した人は374人となりました。
「BA.2」国内で94件報告 オミクロン株全体の約0.6%に 感染研(NHKニュース)
新型コロナウイルスのオミクロン株の一種「BA.2」について、国立感染症研究所などの調査で、国内ではこれまでに少なくとも94件報告されていて。オミクロン株全体のおよそ0.6%となっています。
国立感染症研究所などが行っている新型コロナウイルスの遺伝子解析による調査によりますと、今月16日時点の発表で、オミクロン株の「BA.2」のウイルスは、去年の年末から先月30日までに、全国で合わせて94件報告されているということです。
一方、現在、流行の主流になっている「BA.1」のウイルスは、同じ期間に1万6000件余りが検出されていて、オミクロン株全体に占める「BA.2」の割合はおよそ0.6%だということです。
専門家「今後、十分に監視強めていく必要」
オミクロン株の一種「BA.2」の国内の状況について、海外の感染症に詳しい東京医科大学の濱田篤郎特任教授は「調査結果を見るかぎりは、今の時点では国内で『BA.2』が広がっている状況では無いと考えられる。海外からは『BA.2』によって、重症者が増えたり、ワクチンが『BA.1』よりも効かなくなったりしたという報告はなく、対策としては変わらないと考えられる。ただ、『BA.2』が広がる国とそうなっていない国があり、どうして違うのか詳しい理由はまだ分かっておらず、国内でも広がると流行が長引くなどの可能性は否定できないため、今後、十分に監視を強めていく必要がある」と話しています。
新型コロナワクチン3回���接種 全人口の15.3%に(NHKニュース)
政府が22日に公表した最新の状況によりますと、国内で新型コロナウイルスワクチンの3回目の接種を受けた人は1938万3692人で、全人口の15.3%となっています。
3回目を接種日別に見ると、一日の接種回数がこれまでで最も多いのは今月12日の79万9875回でした。実際はこれ以上に接種が進んでいる可能性があり、今後増加することがあります。
また、ワクチンを1回接種した人は合わせて1億162万6424人で全人口の80.2%、2回目の接種を終えた人は1億13万402人で全人口の79.1%です。
全人口にはワクチン接種の対象年齢に満たない子どもも含みます。
【国内感染】新型コロナ 246人死亡 8万364人感染確認(18:45) (NHKニュース)
北海道 新型コロナ 14人死亡 新たに2393人感染確認(NHKニュース)
岩手県 新型コロナ 1人死亡 過去最多の305人感染確認(NHKニュース)
【速報 JUST IN 】東京都 コロナ 1万4567人感染確認 先週水曜より2700人余り減(NHKニュース)
富山県 新型コロナ 新たに602人感染確認 過去最多(NHKニュース)
愛知県 新型コロナ 新たに6042人感染確認(NHKニュース)
大阪府 新型コロナ 49人死亡 新たに1万1472人感染確認(NHKニュース)
香川県 新型コロナ 2人死亡 新たに490人感染確認(NHKニュース)
徳島県 新型コロナ 新たに402人感染確認 過去最多(NHKニュース)
高知県 新型コロナ 新たに225人感染確認(NHKニュース)
岡山県 新型コロナ 3人死亡 新たに710人感染確認(NHKニュース)
福岡県 新型コロナ 14人死亡 新たに3513人感染確認(NHKニュース)
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被爆イチョウの生命力、無残な姿に新たな芽吹き 広島市東区の明星院(中国新聞)
真言宗御室派の明星院(広島市東区)の被爆イチョウが参拝者たちの間で話題となっている。原爆投下に耐え、その後の度重なる台風や落雷で枝をすべて失ったが、それでも昨秋に力強く新芽を出した。腐った幹の一部をくりぬき、住職の八木恵生さん(66)が仏頭を安置したところ、「強く生きる姿から勇気をもらえる」などと訪れた人から声が上がっている。
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オタフクソースが11月100周年 限定グッズやパッケージでPR(中国新聞)
お好みソース製造のオタフクソース(広島市西区)が、11月に迎える創業100周年の発信に力を入れている。記念グッズを用意し、限定パッケージの商品も発売。新商品の開発やお好み焼き店向けの催しも企画している。
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GoToトラベル予算7200億円、国庫返納も 再開のめど立たず(毎日新聞)
政府の観光支援事業「GoToトラベル」が新型コロナウイルス感染拡大によって中断している影響で、2020年度予算に計上した7200億円の給付金が使い切れず、近く国庫に返納される見通しが強まっている。政府は返納後も事業が継続できるよう予算を別に約8300億円確保しているものの、再開のめどは立っていない。
返納の対象となるのは、20年度1次補正予算と予備費で計上された計1兆4368億円のうち、20年12月の事業中断で執行されていない7200億円。財政法では、予算の繰り越しが翌年度までしか認められないため、執行期限の3月10日を過ぎると返納しなければならない。
政府は変異株「オミクロン株」の感染拡大前、22年1月末の事業再開を目指し、3月10日までに7200億円のうち4600億円程度を使う想定だった。しかし、感染急拡大で21年度中の再開が見通せなくなり、国土交通省は7200億円を22年度に再び繰り越す特例措置をとれないか財務省と協議。しかし、財務省は財政法の趣旨に反することから拒否した。
国交省は窮余の策として、20年度3次補正予算に計上され、本来は22年度に繰り越せない給付金約5600億円について、事業主体を国から都道府県に変更。21年度中に予算を都道府県に配分することで、22年度へ事実上繰り越す。このほか、21年度補正予算に計上した約2700億円も22年度に繰り越し、再開に備える。【中津川甫、袴田貴行】
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ステージ4のがんと闘うオリビア・ニュートン・ジョン、症状緩和目的で「医療用大麻」を使用
現在73歳のオリビア・ニュートン・ジョンが3度目の再発となる乳がんと闘っている。
初めて乳がんと診断されたのは1992年のこと。2013年に再び治療を受けて完全に寛解したが、2017年にがんが脊椎に転移したことが発覚。ほとんどの人なら受け入れがたい事実に苦しむところだが、彼女は持ち前の楽天主義と大麻の助けを借りて闘っている。
『Daily Mail』によると、彼女は「私はどんな困難に直面しても、物事のプラス面にフォーカスするようにしているの」とオーストラリアの雑誌『Who』に語った。それが、自ら財団を設立して、がん患者の支援に尽力している理由だ。
オーストラリアが拠点の財団は、オリビア・ニュートン・ジョン・キャンサー・ウェルネス・アンド・リサーチ・センターの経営や植物性生薬のメリットを研究する活動を行っている。
彼女は、夫ジョン・イースターリングがカリフォルニアの農場で栽培を始めたことをきっかけに、大麻には癒やしの効果があることを知った。
現在、オリビアは病気の「症状緩和」に非常に役立つとして、オーストラリア政府に医療用として大麻を合法化するようロビー活動を行っている。彼女は『Who』に、「大麻は癒やしの植物で、慢性的な病気や痛みを経験しているすべての人が入手できるようにすべきものだ」と語っている。
オリビアは以前から大麻を賛美し、そのメリットをよく公言している。2020年にはアンディ・コーエンの『Watch What Happens』のインタビューで、「大麻は非常に重要。痛みの緩和や睡眠、不安解消、炎症緩和にとても役立った」と説明している。
彼女がその恩恵を受けている一方で、それを可能にしているのは夫のジョンだ。『Good Housekeeping』によると、彼は1990年にAmazon Herb Companyを創業して植物性生薬ビジネスに参入。後にTriVitaと合併している。
現在、彼は21種類の異なる大麻を栽培し、妻のために、かなり特別なあらゆるタイプの植物性生薬を開発しているという。
「私は精神に作用する感覚が好きではないので、最初はちょっとナーバスになったわ。でも、徐々に使い始めて慣らしていったら、とても効果があった」と2019年に『Good Housekeeping』に語っている。
がん治療に大麻を使用することについて、総合的な科学的研究は行われていないが、アメリカがん協会によると、化学療法によって生じる吐き気やがんによる神経線維の痛みに効果的だという研究があるという。
それだけで、オリビアが活動を続けるには十分だ。彼女はこの病に打ち勝つと決めている。
「そう決心したの。一旦そう決めると、脳がある種訓練されてそこで留まるから、それが普通になる。私は体に話しかけて、少しでも改善するたびに感謝する。とにかく私は感謝しているのよ! 自分の考え方ひとつで世界が規定されてしまうから、まさに訓練することが大事なの。当たり前だと思っていることに感謝しなきゃね」
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