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#遠州木綿
yamadaemi · 2 years
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新作の半幅帯が出来ました! 今回のテーマは 飴玉&おはじき! 飴玉の中に 昭和の柄を染めていく。 ちょっと懐かしい色合いと、 おはじきで遊べそうな配列。 丸くくりぬいた中に 一色染め、 また少しずらして もう一色染めます。 それから、丸の中に 様々な草花の型染めをしていきます。 手間のかかることですが、 イメージと それを手に取るお客様お一人の為に 惜しむことなく 丁寧に染めます。 もう片面は遠州木綿の美しい織地を全面に 帯締め、帯留めで 無限に楽しめるものになる、 お客様と作り上げる帯でもあります! アイデア次第で広がる半幅帯だからこその生成り色。 お楽しみください。 ミンネとクリーマで販売員開始です。 #型染め #半幅帯 #飴玉 #おはじき #虹色 #ミンネ #クリーマ #ミンネで販売中 #クリーマで販売中 #遠州木綿千織さん https://www.instagram.com/p/CpG56rXPTjL/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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abeya38 · 13 days
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この世を去ったと思っていた子どもに 再会できた母親チンパンジー ---------------------------- 個体は親の子であり、その親達もそれぞれの親の子であり、親なくして個体は存在し得ない。仮に人工授精だらうとなんだらうとそこには確かに親から子への繋がり、命脈がある。 「そんな事は当り前だ!」と思ふ人が大半であるとは思ふし、私自身も嘗てはさういふ一人であつた。しかし、本当に当り前と片付けられる程簡単な事なのだらうか?「子の思ふ当り前」と「親として思ふ当り前」では大きな隔たりがある。一世代だけ見てもさうであるのに、私達の命脈の大元はいつ、どこから続いてゐるのだらうか? 今存在してゐる私達にとつては当り前な事実といふものは、奇跡に等しい偉業であると分かる程度まで突き詰めると軽々しく「当り前」とはいへなくなる。 格差社会である現代では子の親と成れる割合は少なくなつてゐるのだらうし、好ましくない親を持つ子も少なくはないだらう。しかし、ヒトは社会的な動物なので血の繋がりだけ、養育される環境だけが親子関係といふべきでもない。 血縁のあるなしを問はず、環境の良し悪しを問はず、親子の情とは本能として人類の中にある。これの欠落や機能不全を人でなしといふ。 それこそヒトとチンパンジーとの祖先が本当に共通するのであれば、その分岐はおよそ600~760万年前と推定されるらしいので、これより遥か以前から神代の昔から連綿と絶へる事なく繋がる親と子の世代循環、命脈。 この動かぬ現実に対する感謝と報恩、それが神道では祭祀といふ形で今世の私達にも伝へられてゐる。これこそ正に「天壌無窮の神勅」であらう。 これを以て「大日本は神國なり」とするのは当然であり、これこそが『國體』といふものの本質である。 そして、神代の昔から遠つ御祖の積み上げてきた社会、その時々の時代や環境により形は様変はりしてゐるだらうが、その本質は一貫してゐる。 祖の御恩への感謝と、受けた御恩を子孫へと報恩。 個人的な感想かも知れないがヒトとチンパンジーとの差と、皇國臣民と近代的な価値観との差とを比ぶれば、皇國臣民と近代との差異の方が大きいだらう。 (蛇足だが、異なるといつてゐるだけであり、優れてゐる劣つてゐるといつてゐるのではないのだが、レイシストはそのやうに感ずるらしいので。) 皇國臣民の方がヒトの本質たる本能が強いので、近代的価値観の人々よりもチンパンジーに近いので真つ当な生き方をしてゐるわけだ。 意識のある生物でも生命の本質は睡眠状態であるらしく、覚醒は生命を維持し繁栄するための手段であり、即ち本能こそが命の本質であり、理性とはそれを助ける手段に過ぎない。 本能と理性といふ事柄もよく誤解されるのだが、本能が悪であるなら、理性を持たぬ生命はとつくの昔に絶滅してゐなければ話が可怪しい。 話を戻すが、皇國臣民を近代的価値観の人々とは「別の種」であると考へてみるといふのは思考実験として有意なのかも知れない。 皇國臣民といふ種では「御祖への感謝として、祖の遺し伝へて下さつた事を、出来る限りそのまま、別種からもたらされた文物も取り入れつつ、歴史的研鑽を経てより良い形を発見できればそれを後世へと報恩してゐる」といふのがこの種の本能的な特徴だらう。 ・・・このやうに書くと字面が綺麗事のやうだらうか。感謝と報恩の発露は眞心(大和心)によると思ふが、そこには社会を弱体化��ぬための間引きや、我が身を殺してでも仇に報ゆといふ苛烈さと表裏一体であらう。 先に挙げたチンパンジーやライオンではオスによる「他の父を持つ子殺し」といふ間引きがあるが、その結果として必ず生存に有利な遺伝子が残るかといへばそれは別の問題かも知れないが、それで種は今も存続してゐる。 またある種の魚類では群れを襲ふ外敵に対してオスは我が身を盾として特別攻撃、詰り特攻を掛ける。興味深いのはオスが全滅するとメスがオス化してまた特攻兵となるらしい。 これは余談かも知れないが武士道が大和男兒の道であるとするならば、面白い事になる。天孫・邇邇芸命の妻である木花之佐久夜毘売は一夜にして身籠り、誰が本能の父であるか問題になつた。木花之佐久夜比売は産屋に火を放ち、身の潔白を証明した。天孫であつても男は自らの腹から生まれるわけではないので、その子の父が自分であるか知る事はできないわけだ。無論、それを悪用されては困るので、女性には産屋に火を放つ位の覚悟を持つて頂きた��。 結局のところ、実の父子であるかといふよりは家督や技術の継承こそが重んじられる事にもなり、そもそもわからぬなら我が子と認め、また種全体の危機であれば同種の子らを護るために、外敵に対して玉砕もする。 まさに大和男兒の本懐で御座る。いやぁ~乱世乱世!血湧き肉躍り候。 話を戻し、そんな皇國臣民といふ種は、近しい(?)別種である列強各国による植民地支配に対し、自存自衛のみならず、これらを解放し、自立の道を示す大東亜聖戦を完遂した。歴史的かつ客観的事実として大東亜聖戦の前後で植民地と独立国を比較してみると良い。 誰が事実を述べてゐるのかよく分かる。 しかし如何な皇國臣民であれど列強諸国を相手に八面六臂の死闘を続け、有史以来最悪の死者数(一度の攻撃に於ける)を出した戦争犯罪である大空襲や2度もの原爆投下を受け 「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍󠄁ヒ難キヲ忍󠄁ヒ」て皇軍の降伏を受諾し停戦に応じたが、この時点で世界各地の植民地支配は継続できない状態であり、この点での戦争目的は達した。 だが 「惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固���リ尋󠄁常ニアラス」どころではなく停戦後の侵略占領下は堪へ難いものであつた。最たる例はポツダム宣言の條文では「全日本國軍の無條件降伏」であり「占領下で制限はあれど主権が認められた」はずであるのに実際にはさうでなかつた点だらうか。 誤解を恐れずにいへば侵略者である連合国・占領軍は皇國臣民を牛のやうに扱つたといふ事になる。どういふ事かといへば、皇國臣民種の特徴を破壊し、文字通りに家畜化するため、御祖からの國體の精華といへる大東亜聖戦を否定し、それを可能とした皇國社会の背骨「稜威奇しき法(大日本帝國憲法)」と大和魂「御祖と子の歴史の眞心」を抜き取り、他の骨身を粉として、皇國臣民の餌だと細工し「日本國憲法といふ名の肉骨粉」を喰はせたのだ。 制定過程を見れば明らかだが、軍事侵略中の占領下にその侵略者達との多国間合意により制定されたのが「日本國憲法」であるから、これは明らかに講和に向けた條約群の一つであり、国際法の範疇でしかない。 無論、皇國の力を削ぐ目的であるから、その真意を隠さずに「ジャップ家畜化條約」といふ名称にするはずもなく、オレオレ詐欺・成りすまし詐欺・架空請求詐欺の走りとして「日本國憲法」といふ名称にしてゐる。 牛の餌桶に飼料として「肉骨粉」が入つてゐれば、それが「日本國憲法」といふ名称であれば「それはさういうものか」として受け入れるのが被占領國の「尋常ならざる苦難」であり、公職追放や報道規制により「真実はかうだ!」と知らぬままにそれを摂取し続ければ、プリオンが脳に侵入し、牛ならば狂牛病、皇國臣民ならば日本国民といふ脳みそスカスカのスポンジ頭が生じる事になるのは必然である。 ここまでくれば、いつそスポンジ頭が好都合かも知れぬ。 そのスカスカの脳みそに玉音放送として知られる「大東亜戦争終結ノ詔書」を最後の部分だけでも叩き込め!沁み込ませよ! そしてただ反芻せよ!脳がやられてゐるのだからあれこれ考へるな! それがどういふ意味なのかは、本能と脳がやられてない者が正しく理解する! ・・・原状回復に到るまでには再び歴史的研鑽が必要かも知れないが、直ちに教育を糺せば数世代で済む(占領期以降の期間と同等)かも知れない。 ---------------------------- 宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道󠄁遠󠄁キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建󠄁設ニ傾ケ道󠄁義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進󠄁運󠄁ニ後レサラムコト���期󠄁スヘシ 爾臣民其レ克ク朕󠄂カ意󠄁ヲ體セヨ 御名御璽 昭和二十年八月󠄁十四日 內閣總理大臣男爵󠄂鈴木貫太郞 ---------------------------- 猿にも劣る「戦後日本人」! 御祖に対して、子孫に対して恥ずかしいと思はぬのか! ■ 國體護持總論 http://kokutaigoji.com/books/menu_kokutaigojisouron.html
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wangwill66 · 1 month
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光怪陸離
H:嘗鮮,是對食物而言。對事物的新奇體驗,以光怪陸離,五光十色,甚至五彩繽紛,五花八門。看一些奇幻異聞,鬼怪仙俠的古書。新鴛鴦蝴蝶「花花世界鴛鴦蝴蝶,在人間已是癲;何苦要上青天不如温柔同眠。」形容的很好,人間處處有桃花源,何苦想那青天上的仙境。美好的事物不必遠求,只在你我身邊周圍。
知足常樂得享天堂仙境「一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。如果你不給自己煩惱,別人也永遠不可能給你煩惱。因為你自己的內心,你放不下。若能一切隨他去,便是人世間自在人。」20240816W5
網路字典
光怪陸離
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成  語光怪陸離
釋  義「光怪」,離奇怪異的樣子。語出《吳書》。「陸離」,參差錯雜的樣子。#語出戰國楚.屈原〈離騷〉。「光怪陸離」形容現象離奇怪異,色彩參差錯雜。典故說明「光怪陸離」係由「光怪」及「陸離」二語組合而成。
「光怪」是出自《吳書》。孫堅家族的祖墳在富春城東,墳上屢次出現怪異的光景,上頭時常飄著五色雲彩,連綿數里不斷,吸引很多人前去觀看。凡是看過的鄉親父老都說,孫氏要興旺了!後來孫堅出生,果真長相不凡,生性闊達,擁有不凡的操守。
「陸離」則是出自〈離騷〉。戰國時楚人屈原,遭靳尚等人毀謗,被懷王放逐漢北時,作〈離騷〉表明忠貞愛國之心。文中,屈原因為無法解開對現實和理想之間的矛盾,於是上天下地找尋解脫之道。他幻想駕鸞凰、鳳鳥乘風飛升,翱遊天際。一路上有望舒、飛廉、鸞凰、雷師、鳳鳥、雲霓等眾多仙人及侍從伴隨,色彩繁雜而絢麗。後來這兩個典源被合用成「光怪陸離」,用來形容現象離奇怪異,色彩參差錯雜。用法說明
成語用法
成語釋義
光怪:光彩奇異;陸離:開卷參差。形容奇形怪狀,五顏六色。[1]
成語出處
戰國·楚·屈原《離騷》:“紛總總其離合兮,斑陸離其上下。”《三國志·吳志·孫堅傳》裴松之注引《吳書》:“冢上有光怪,雲氣五色,上屬於天,曼延數里。”[1]
解釋:
形容現象怪異、色彩繽紛。參見「光怪陸離」條。《孽海花》第八回:「見船上紮著無數五色的彩球,陸離光怪、紙醉金迷。」
五光十色
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成  語五光十色注  音ㄨˇ ㄍㄨㄤ ㄕˊ ㄙㄜˋ漢語拼音wǔ guāng shí sè釋  義形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。語本南朝梁.江淹〈麗色賦〉。後亦用「五光十色」比喻內容豐富,變化萬端。
△「五彩繽紛」典故說明「賦」是傳統文學體裁之一,形似散文,但內含詩的韻律,是一種介於詩歌與散文之間的文體。盛行於漢魏六朝,魏晉南北朝時,因應新興的駢偶文風而發展出「俳賦」,此體多採四六對仗的句式,講求嚴格的平仄音律,並喜用典故。江淹為當時著名作家,〈麗色賦〉即其作品之一,內容描繪一位絕色美女的容貌、姿儀。其中一段,文曰:「其始見也,若紅蓮鏡池;其少進也,如綵雲出崖,五光徘徊,十色陸離。」大意是:初見佳人,如見生長於無波如鏡之池中的紅蓮,佳人一動,則如絢爛的雲彩自崖間飄出,色彩鮮麗,燦爛奪目。短短數語,即生動呈顯了麗人的綽約風姿。後來「五光十色」這句成語就從這裡演變而出,用來形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。亦用來比喻事物的內容豐富,變化萬端。用法說明一、
語義說明
形容景色鮮麗複雜,光彩奪目。
民俗,就是世代相傳的民間生活風俗。世界民俗,就是關於世界各地的民俗。
五花、八門各指古代兵法中的五行陣、八門陣。 後比喻形形色色、變化多端。 如:「這家超商的食品種類真是 五花八門 。」 《儒林外史》第四二回:「那小戲子一個個��了貂裘,簪了雉羽,穿極新鮮的靠子,跑上場來,串了一個 五花八門 。」
光怪陸離偵探社
《光怪陸離偵探社》是連載於起點中文網的一部懸疑類網絡小説,作者是吾即正道。[1]
該小説講述了陸離面對一扇詭秘之門,門後邪惡低語,奇異生物蠢蠢欲動。怨念之眼、黏糊粉腦、黃衣觀察者、墨綠污泥等奇異存在競相登場,它們以各自的方式發出邀請,共赴一場瘋狂派對。陸離在誘惑與危險交織中,毅然決然地踏入未知領域。
博客來介紹:
巷說異聞錄:光怪陸離的民國軼事
作者:檀信介
語言:繁體中文
出版社:好讀
出版日期:2019/03/01
【奇幻又真實,是故事也是人生】
  本書兼具歷史、名人、志怪、懸疑、推理等多種吸引人的閱讀元素於一身,還能了解到民國初年,民間許多不為人知的神異傳說和風俗習慣。
  ●深受喜愛的志怪故事,引起廣大歡迎與討論,給熱愛志怪小說的讀者帶來一場文化盛宴。
  ●腦洞大開的異聞怪談,天馬行空的奇異想像,感受與眾不同的故事閱讀體驗。
  ●深得中國傳統志怪小說精髓,描繪一個個詭異奇幻的世界,反映人間百態。
  ●魔幻詭譎的故事反映現實中人們對財、色、長生不老的癡求,極具諷刺意味。
 
  【精彩故事】
  〈斬龍角〉:清朝末年,亂世中仍保持桃花源般安靜祥和的袁寨,收留一位能掐會算的「靈卦張」,袁家的運數因此受到巨大影響……
  〈既濟壺〉:北宋末年,汴梁城裡有位小韃子,踢得一腳好球,年過四十依然健美英俊。傳說其家中有個寶物「既濟壺」,因此得以青春不老、容顏永駐……
  〈陰陽魚〉:明朝末年���張獻忠屠蜀,一隊難民發現一處世外桃源,偌大的村莊只有一對形影不離的男女。圍繞這對男女,譜寫一曲哀婉的亂世悲歌。
 
  【導讀賞析】歷史作家、譯者/廖彥博
  檀信介帶著讀者一頭闖進近代史恢弘大敘事裡的小角落,看看那些「魔神仔」如何在辛亥革命、日軍侵華、國共內戰裡存活下來,繼續魅惑人心。
收回
目錄
●破地獄
●斬龍角
●買竹籌
●賣鬼記
●斬鬼嬰
●金簪記
●既濟壺
●陰陽魚
【導讀賞析】近代史縫隙裡的魔神仔:《巷說異聞錄》/廖彥博
導讀賞析
近代史縫隙裡的魔神仔:《巷說異聞錄》
廖彥博(歷史作家、譯者、《一本就懂中國史》作者)
  對中國大陸的讀者來說,民國是一個既陌生又熟悉的時代。
  鴛鴦蝴蝶,旗袍馬褂,上海十里洋場,南京梧桐森森,我揮一揮衣袖,他達達的馬蹄,凡此種種,共同在影視作品裡構成人們心中對於民國風華的美好想像。可是民國也是神秘而落後的,甚至是迷信而妖魔橫行的。原因很簡單:不這麼著,很難突顯出「當今」橫掃一切牛鬼蛇神之後的現代和進步。
  對台灣的讀者而言,民國則是一個既熟悉又陌生的時期(注意和前者的排序)。
  鈔票硬幣上、公家文書上、報紙刊頭上,民國還是進行式,就在我們生活呼吸之中。可是民國也是截然兩分的:屬於歷史的那一大段,曾經顏色鮮明的、氣壯山河的存在過的民國歲月,四海歸心、堅苦卓絕的激戰年代,大多數台灣人已經不復記憶。
  檀信介的《巷說異聞錄》替我們把既熟悉又陌生的歷史連接起來,而且還開啟了一扇魔幻又真實的觀景窗。中國文學的傳統裡,一直有著「志怪文學」的傳統。《山海經》以降,漢晉的《淮南子》、《搜神記》,唐傳奇、宋元話本、明清筆記小說,我們在荒山野嶺,感覺到陰風陣陣,或是捅破紙窗,看見女鬼畫皮,不管你的出身籍貫、政治立場,相信文化基因裡都有著妖怪活躍的身影。
  而檀信介則帶讀者一頭闖進近代史恢弘大敘事裡的小角落,看看那些「魔神仔」如何在辛亥革命、日軍侵華、國共內戰裡存活下來,繼續魅惑人心。故事光怪迷離,看官們不禁眼花撩亂,可是驚魂甫定,卻又嘖嘖稱奇:誰能說這些「魔神仔」不存在?
  《巷說異聞錄》由〈破地獄〉、〈斬龍角〉、〈買竹籌〉、〈賣鬼記〉等幾則故事組成,故事的舞台,正是清末到民國、抗戰勝利那段熟悉又陌生的歲月,幾個歷史上響噹噹的大人物,比方做過大總統、也登基當過八十三天皇上的袁世凱,還有我們台灣讀者算是相當熟悉的「蔣故總統經國先生」,在故事裡也出奇不意,客串亮相。看他們出場的時��,扮���的角色,起到的作用,一定會讓讀者們會心一笑。
  留學蘇聯、篤信唯物主義的「太子」蔣經國,如何運用起茅山道術,去摧破汪精衛政權的秘密金庫?又怎麼會引來一場多年無法偵破的連續命案呢?且讓我們翻開這部《巷說異聞錄》。
維基文庫
麗色賦
作者:富嘉謨 唐本作品收錄於《全唐文/卷0235》
姊妹計劃: 數據項
客有鴻盤京劇者,財力雄倬,誌圖豐茂,繡轂生塵,金羈照路。清江可涉,綠淇始度,拾蕊歲滋,摘芳奇樹。錦席夜陳,苕華嬌春,瑤台吐鏡。翠樓初映,俄而世姝即,國容進,疑自持兮動盼,目爛爛兮昭振。金為釵兮十二行,錦為履兮五文章,聲珊珊兮佩明璫,意洋洋兮若有亡,蹁躚兮延佇,招吾人兮由房。凝釭吐輝兮明燭流注,願言始勤兮四坐相顧,時峨峨而載笑,唯見光氣之交騖。夜如何其夜遲遲,美人至止兮皎素絲,秉明心兮無他期。引鄉何其夜已半,美人至止兮青玉案,之死矢兮無彫換。既而河漢欲傾,琴瑟且鳴,餘弄未盡,清歌含韻。歌曰:「涉綠水兮采紅蓮,水漫漫兮花田田。舟容與兮白日暮,桂水浮兮不可度。憐彩翠於幽渚,悵妖妍於早露。」於是覽物遷跡,徘徊不懌,起哀情於碧湍,指盛年於光隙,擊節浩歎,解珮嘉客。是時也,楊雄始壯,相如未病,複有鄒、枚,藉藉荀令。鹹娛座客,嬉妙情,灑豪翰,動和聲。使夫燕姬趙女,衛豔陳娥,東門相送,上宮經過。碧雲合兮金閨暮,紅埃起兮彩騎多,價奪十城之美,聲曼獨立之歌,況複坐弦酌而對瑤草,當盛明而謂何?
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新鴛鴦蝴蝶夢創作背景
在1992年10月的一個晚上,黃安抱着女兒到樓下去散步,突然他聽到一段旋律,黃安趕緊回家迅速記下了這段旋律。這是一段中國五聲音階的旋律,琅琅上口,於是便有了《新鴛鴦蝴蝶夢》的原始素材。有了曲子後還需有詞相配才可以���黃安覺得那段旋律頗有古風,於是他翻開唐詩,一翻便翻到李白與杜甫的詩。在李白的《宣州謝朓樓餞別校書叔雲》中,有這樣一段描述,“棄我去者,昨日之日不可留,亂我心者,今日之日多煩憂,抽刀斷水水更流,舉杯消愁愁更愁,人生在世不稱意,明朝散發弄扁舟”,黃安僅是稍加修改便有了《新鴛鴦蝴蝶夢》的第一段歌詞。[2]
歌曲歌詞
昨日像那東流水
離我遠去不可留
今日亂我心多煩憂
抽刀斷水水更流
舉杯消愁愁更愁
明朝清風四飄流
由來只有新人笑
有誰聽到舊人哭
愛情兩個字好辛苦
是要問一個明白
還是要裝作糊塗
知多知少難知足
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱
人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠
昨日像那東流水
離我遠去不可留
今日亂我心多煩憂
抽刀斷水水更流
舉杯消愁愁更愁
明朝清風四飄流
由來只有新人笑
有誰聽到舊人哭
愛情兩個字好辛苦
是要問一個明白
共2張
歌曲MV
還是要裝作糊塗
知多知少難知足
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠
看似個鴛鴦蝴蝶
不應該的年代
可是誰又能擺脱人世間的悲哀
花花世界鴛鴦蝴蝶
在人間已是癲
何苦要上青天
不如温柔同眠。
博客來介紹:
知足常樂
作者:林高樂
語言:繁體中文
出版社:大拓文化
出版日期:2011/09/08
內容簡介
  一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。
  如果你不給自己煩惱,別人也永遠不可能給你煩惱。因為你自己的內心,你放不下。
  若能一切隨他去,便是人世間自在人。
  禪不清高,穿衣吃飯是禪;
  禪不脫俗,柴米油鹽是禪;
  禪不深奧,世間萬物皆是禪。
  禪,不是要我們放棄責任,出家以求自我解脫。一個人身在俗世,勇於承擔,保持佛心,就是禪;即使身處鬧市,只要心中寧靜,就是佛。
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目錄
第一章  一花一世界,一木一浮生
昔時佛祖拈花,惟迦葉微笑,既而步往極樂。從一朵花中便能悟出整個世界,得升天堂,佛祖就是佛祖,誰人能有這樣的境界?佛曰:一花一世界,一木一浮生,一草一天堂,一葉一如來,一砂一極樂,一方一淨土,一笑一塵緣,一念一清靜。這一切都是一種心境。參透這些,一花一木便是整個世界,而整個世界,整個人生也便空如花木。
1.眾生平等
2.慧能收徒
3.達摩是個老和尚
4.老和尚是寶
5.生命如琴弦
6.俗眼無珠
7.聖人無名
8.物極必反,盛極必衰
9.淡泊以明志
10.人生的底線
11.美在靈魂
12.一切皆同
13.玉缽
14.一個無法滿足的人
15.財富、成功、愛
第二章  緣起即滅,緣生已空
佛說:修百世方可同舟渡,修千世方能共枕眠。前生五百次的凝眸,換今生一次的擦肩。今生的一次邂逅,定然孕育前世太多甜蜜或痛苦的回憶。萬發緣生,皆系緣分!偶然的��遇,驀然回首,注定了彼此的一生,只為了眼光交會的剎那。
1.生與死
2.怨也是緣
3.境由心生
4.一切都是緣,要學會包容
5.愛是生命最好的養料
6.心中有路
7.緣起緣滅,泥濘留痕
8.人生有個檸檬就做杯檸檬汁
9.不要為明天的落葉操心
10.因緣
11.一切皆隨緣
第三章  大悲無淚,大悟無言,大笑無聲
生活不一定是轟轟烈烈的,有時平平淡淡才是真!
功名利祿樣樣俱全,固然求之不得,但現實生活中的大部分人,還是與其不擇手段,換取名利雙全,不如平平淡淡,粗茶淡飯來得更真真切切。
1.超越生死的境界
2.忘我,不被世俗所束
3.普化圓寂
4.愛的回報
5.沒有什麼不能做
6.沉默人生最可貴
7.弦緊弓斷,學會放鬆
8.自然是福,自然最美
9.從容是一種人生智慧
10.人生如過客
11.隨遇而安
12.享受平淡的生活
13.過程比結果重要
14.真正快樂的生活
15.幸福是一種感覺
16.生活的境界——順其自然
第四章  心不動,人不妄動,不動則不傷
人生在世如身處荊棘之中,心不動,人不妄動,不動則不傷;如心動則人妄動,傷其身痛其骨,於是體會到世間諸般痛苦。
充滿誘惑的塵世間,你的心是否堅不可摧,是否能抵擋得了這一重又一重的衝擊?
1.天堂地獄一念間
2.放下包袱
3.保持一顆寧靜的心
4.快樂是自己的事
5.放下是一條解脫之道
6.「偷」來快樂
7.愛的責任
8.心境不同
收回
前言
  一方古剎、一尊佛像、一襲衲衣;化緣為生、清貧孤獨、無慾無求,青燈木魚常伴左右。世人心中禪者的佛門生活就是這樣的不食人間煙火。
  如果你也這麼想,那麼,就大錯特錯了。
  佛曰:「普度眾生。」眾生為何意?很簡單,就是全人類。自從釋迦牟尼創立佛教到達摩初祖歷盡艱難曲折將佛教帶入中國的那一天起,它就與我們的生活息息相關。
  禪不清高,穿衣吃飯是禪;
  禪不脫俗,柴米油鹽是禪;
  禪不深奧,世間萬物皆是禪。
  禪,不是要我們放棄責任,出家以求自我解脫。一個人身在俗世,勇於承擔,保持佛心,就是禪;即使身處鬧市,只要心中寧靜,就是佛。
  沒有錢的時候,我們煩惱;有了錢,我們空虛。——窮得只剩下錢。
  沒有愛情的時候,我們失落;有了愛情,叫人頭疼。——愛情價雖高,自由更可貴。
  不出名沮喪,出了名鬱悶。——人怕出名,豬怕壯。
  近在我們身邊的禪,能幫你化解所有這些問題。
  菩薩心腸,有容乃大。
  再厚的寒冰,太陽出來都會溶化;再冷的飯菜,柴火點燃都會煮熟。要做太陽,溫暖別人;要做柴火,成熟別人。遇事學會換位思考,你會發現,你的人緣會越好,你也會越快樂。
  知足常樂,無慾則剛。
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oldflowerking · 2 months
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May 2024 Vacation in Hokkaido- 2 of 7
II.  景點
札幌是北海道第一大城,但是想以後很可能會再來,加上那一天太冷,我們沒有去太多地方。上午隨意逛逛市區就急著去吃午飯了。四、五月份到日本一定是賞櫻。依據北海道官網的預測,我們去的那段時間正好是吉野櫻盛開。但是在札幌的圓山公園 Maruyama 和神宮只看到十幾棵櫻花,雖然粉的美麗但不是很驚艷,猜大概尖峰時段已經過了。
早上四點鐘天就亮,加上我們生理時差還沒調整過來,不到五點就起床了。吃完早餐搭火車到小樽也才八點多鐘,這個城還沒醒呢!小樽百年以前是個很繁華的商港,離碼頭不遠有一條運河供穀麥和貨物運輸。河岸仍然留著一排一排磚砌的儲貨倉庫,除了一些空在那裡,大多數已改裝為商店。一早街上已經有不少的遊客沿著運河照像、買紀念品。沿運河走到底有一幢三層樓歷史建築,樓下像普通的紀念品商店,但樓上像一個博物館,收藏了很多機械音樂盒和模型建築。
沿途開車時常常遠望到許多民宅前院種的芝櫻。芝櫻 (學名 phlox subulata) 是蔓延在地面的五瓣櫻花,各種鮮豔的顏色非常醒目。網走 Abashiri 南方的東藻琴芝櫻公園 Higashimokoto Shibazakura Park 滿山遍野的盛開, 像替大地上舖了一層地毯。老婆想買些種子帶回去送兒子,想波士頓地區氣候與北海道差不多,應該能種活。公園前有商店賣苗, 卻沒有人賣種子。我的評分:5。
層雲峽 Sounkyo 在北海道中部的大雪山北邊。看字面原以為是一個峽谷, Google Map 帶我們到半山腰就宣稱已到達目的地了。繼續盤旋開了十分鐘的單線山路,竟然沒有一個可下來看風景的停車點。好不容易看到一處巴士侯車站,儘管插著不准泊車的標誌,看四處無人就借它一用。小溪沿著公路流過,還有一座發電站,但是橋上卻設鐵閘門,鎖上不准進入。照了幾張相繼續驅車前往黑岳 Mt. Kurodate。有䌫車上山,遠眺大雪山脈群峯仍積雪綿綿。在山上小徑殘雪中走著走著,兩人都感覺這地方像以前在美國去過的一座山頭,卻想不起來是何年何處。
下山後彎回39號公路繼續往東就是另一景點- 層雲峽雙瀑。有稱銀河和流星的雌雄雙瀑,如白絲緞帶似的由百米落差流下。停車場後方是到雙瀑台的山徑入口,牌子上標示只有2公里,卻爬得腿軟。我們第二次坐下休息後起身準備往回頭走,一位正下山的日本母親竟然要求她兒子回身來告訴我們只剩下十米就到山頂,勸我們堅持爬上去。果然轉過小樹叢就到頂端觀景台,由這𥚃遠望銀河流星在不動石的兩邊飛舞,水聲瀧瀧,更是精緻。特別錄製兩分鐘影片留念。我的評分:4。
在這次旅行之前我還沒見過紅狐狸,但經過南部鄉下小路會見到像狗似的動物在路旁。在北見因為下雨得找一個室內的地方去,查到附近有個日本唯一的紅狐收容所,名字卻叫 Fox Farm,可能也是個培育中心吧?園內中間草地上放養了差不多三、四十隻狐狸,幾乎都有淡褐色的毛,中型犬般的大小。一些懶在草地上晒太陽,也有的躲在地上設置的樹洞𥚃。園區設計是讓狐狸養在野外自然生態裡面,但園內只有幾顆樹,草地也是秃秃的。前面籠子裡另外養了幾隻長得不一様的動物,短耳朶比狐狸可愛,標示說是日本浣熊狗 Japanese Raccoon Dog,卻一點也不像美國的浣熊。狐狸有它在日本神化中的地位,也是很可愛的動物,也但是園區設施卻陳舊不堪,急需整修翻新。 我的評分:2。
北海道山多,湖也多。我們此行一共去了大約九個湖。
洞爺湖在札幌西邊大約一百公里,但是坐火車得繞著海岸線走。我們大清早就離開札幌的旅館, 卻到快要中午才到達湖畔。洞爺因為2008年 G8 在這𥚃舉���高峰會而出名。湖四周環境很商業化,也整理的很好。岸邊設有公園步道,擺了很多現代雕塑藝術品,有很多温泉旅館和幾家小餐廳。我們吃了中飯之後搭一條裝飾得像歐洲城堡的遊覧船到湖中心的大島。𡷊蠻大的,看標示圖可以環島走一圈7.6公里。島上還有博物館,要收費就不進去了。在𡷊上閒逛坐下吃了橘子,停留半小時後搭下一班船回湖岸。我的評分: 2.
著名的知床五湖 Shiretoko Goko Lakes 在國立公園𥚃。我們離開芝櫻公園後,由斜里 Shari 沿鄂霍次克海岸 Okhotsk Sea 到知床。天氣好,海面平靜無浪,搖下車窗讓陽光晒進來,風暖洋洋的,這一路開得舒服。吃完中飯後先到國立公園自然中心。很漂亮的建築,有很多展示介紹知床斜里的自然生態,後面有一段步道引到一個山泉流入海灣的瀑布 Furepe Fall。走五分鐘就看到一大群鹿,安靜的散佈在林間吃草。鹿早已經習慣人類的入侵,見到人來只看看你,低頭走開或跳過木欄離開步道。
服務處告訴我們五湖因為可能有棕熊出末,除了一小段之外必須參加有執照的導遊團體才能進去。導遊藍小姐在電訊內再三警告:3小時路程沒有上廁所的機會。第二天早餐不敢喝咖啡了。
知床這一帶從前是林場,愛奴族人在這裡砍樹蓋房子。成立國家公園之後區內除了小徑之外,儘量不外力干涉,保持為自然森林。我們十幾個遊客一邊走一邊拍手嚇熊。走到第一湖,小小的,心想這湖跟咱家佛州後院的蓄水塘也差不多。還好二湖、三湖漂亮多了!三湖最大,最美。我們到的時間正好陽光讓遠處雪山倒影映在湖水中。三湖到四湖的距離比較遠,得過一個山坡,遠遠的看見一隻狐狸懶在樹林草叢中晒太陽。四湖也不錯。五湖有幾個人用橡皮艇撈湖內生長過盛的浮萍。導遊也說不清為什麼這樣地方會產生生態不平衡。走了三個小時沒有遇到熊,回旅館的路上倒是看到一隻棕熊在車子前方不到三十公尺過馬路。動作很快,沒等我拿出手機照相就消失在路另一邊的林子裡了。我的評分:3+。
吃中飯時鄰桌是一家台灣來的遊客,我用南部台語結結巴巴的跟那位爸爸聊天。他們也是自駕,但是朝與我們相反的方向走。我提���明天的計劃是去阿寒湖,媽媽插嘴說值得彎到摩周湖去看看,但是最好能一早就到。
一早離開,設定摩周湖 Lake Mashu 為第一站。接近時眼角已經𣈴到邊上有湖水反光, Google Map 卻引導我一路上山。一直到達目的地的大停車場仍然看不見四周有湖的跡象。下車又遇到說中文的同胞,指點我往台階上去。半信半疑的爬上頂端才發現湖是在下面的群山之中。典型的火山湖,像奧瑞崗州的 Crater Lake。碧藍的湖水,半邊被稀疏的白雲掩蓋著。美則美矣,卻因尿急沒心情待久。我的評分:4, 但因無公共設施扣一點。
停了琉璜山 Mt. Io, 再往下開是屈斜路湖 Lake Kusshiro,網路上推薦的景點是所謂「砂湯」,形容在湖邊挖個坑就可以泡熱温泉。 真的有這種好地方?到達停車場竟然没有一個游客,湖邊只有一家小店,𥚃頭賣些木雕纪念品、冰琪琳。碼頭上散放了幾艘天鹅船,漆都斑斑駁駁的。我不死心,往上走到一個像露營區的地方,招牌寫著 Recamp, 我不懂這個字。亭子間𥦬戶都鎖上了,有一些劈好的木柴擺在地上賣,前頭擺了幾把大小鐵鏟出租。湖邊砂灘上的確有不少淺坑,但是沒水。這地方怎麼回事?離開臨上車前終於看到一輛遊覽車轉入停車場。我的評分:1。
阿寒湖是另一個火山湖,湖底生長綠球藻 Marino,被宣告為「國家特別自然紀念碑」。乘遊覧船可以到湖中小𡷊上的自然觀察展示中心看到球藻如何在湖底從漂流的絨毛藻,漸漸結合在一起為圓球狀,再經過幾十年長大像足球那麼大的綠色毛絨球。可惜中心只有繪圖解釋和在一個玻璃缸內裝幾個球藻供遊客觀賞。太可惜了,我倒認為這種特別的生態應該開發用玻璃底船或深入湖底隔著玻璃窗讓遊客近距離觀察。我的評分:4。
住在阿寒湖的隔天,原本計劃只過境釧路 Kushiro 吃過中飯就到帶廣 Obihiro 的。繞了許多鄉間小道,好不容易到了鶴居村卻沒有看到一隻丹頂鶴,只好繼續往下開,進入釧路濕原國家公園。
看到路邊有標示「溫根內訪客中心 Onnenai Visitor Center」,原來只想停下來休息一下再走,卻發現後方有整理的很漂亮的木步道,就留了下來。環繞沼澤區一圈需一個半小時,有非常開闊的原野,包括丹頂鶴在內的許多候鳥都會來這裡休憩過冬。
繼續南下幾公里順道探訪濕原展望台,在樓下吃了頓咖哩簡餐後再走小徑參觀北斗史跡展示館 Hokuto Historic Site Exhibition。北斗是繩紋時代 (BC 8000 - AD 800) 的遺跡,顯示此地在10000年前已經有人居住。但是現在展示區只有四、五幢籚草牆頂的仿造類帳蓬建築,𥚃面擺了些鑄鐵鍋示意而已。看板解釋北斗史跡發生在石器時代,百思不解。回家後看到資料提到日本的石器時代同時是中國的秦漢!我的評分:4。
因為在知床五湖沒能看到棕熊,我們到了十勝後又特地彎到北邊的棕熊保護區 Sahoro Resort Bear Mountain。經過多年的特區保護而北海道棕熊的數目卻愈來愈少,日本現在對熊的保護政策轉變到「共存」。2006年熊山成立為一個特定棕熊自然觀察園區。現在有1 1隻成年棕熊在15畝大的森林裡生活。我們先搭乘巴士,近距離觀看這500磅的龎然大獸。上車前還盤算著該坐那一邊才好看熊,但一看到有兩隻熊在水塘邊上,刷的一下,全車的小孩、大人通通都站起來湧到一邊的窗口了。三隻熊徜徉在樹林裡不慌不忙的邊嗅邊走,兩隻在水塘裡吃漂浮的果莓,蠻自在的。不像動物園關在鐵柵欄後的水泥房���那般可憐。
車道之外有一段步道供遊客在5公尺高的圍籬後面看熊生活,進出都得經過兩道鋼欄柵門,這大概是最接近電影侏羅紀公園的地方了。我的評分:5。
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caress-a-sad-tree · 2 years
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血雨腥風的夜
昨日,我所外出居住的內蒙小旅店裡,發生了暴力事件,在我的隔壁,在我午睡夢境香甜的時間,在一個無人問津的地方。男人喊著要打死誰,鬧的天翻地覆,女人在哭喊,牆壁在流血,木門還在開開合合地叫著,我報了警,等待警察來的時候,我望向窗外的那群飛翔的灰鴿子。後面大概知道事情的原委,一個男人出來找女人,但女人是和自己丈夫合伙騙錢的,得知被騙後想要拿回錢於是被打的滿地血。這件事,他們的事,我不會再過度敘述,那不是我的事,也不會事我筆下的事。只是在正午時分這個使人慵懶並沈浸於自我或音樂的時間,與我只有一牆之隔,他們三個人在不到幾平米的小房間里連罵帶打。後面與板娘聊天才逐漸意識到,我的生活早已被對情緒情感的追逐包裹,其中純淨的痛苦與幸福使我感到格外欣慰。逐漸回憶起來,這高三一年我離開學校只做了三件事,行走,追憶,寫作。我行走於各個地方,我閱讀,我傾聽,我向前行走的同時,發現行走並非易事;我追憶於古老的童年,追憶於母親溫柔的微笑,追憶於生我當天所開放的那朵窗外的香花;我寫作為我生存,腦海中巨大的巨大的思想泡沫與情感的無處流淌,終究在山腰間形成了這樣一個小水潭,我常在裡面浸泡,悲傷是溫暖冒泡的泉水,悲憫是水面上悠悠飄蕩的水霧。我所認知的生活,在目前,簡直就是一個深藍色的升空氣球,裡面充滿憂鬱、悲傷或憤慨,可是純淨的沒有縫隙。我,我的愛人,我腳下的路,似乎想水下島嶼被氣泡包裹那樣,獨立的安靜的存在於這個世上的某處,雖說人們傷心欲絕,悲哀的生活著,可是空氣里是有音樂的,雨天是有緩慢的踢踏舞,春天與���天則遍布了大自然獨有的香水味。我們低著頭哭泣,在溫暖的書燈下,堅實的木桌上,書書點點或敲擊鍵盤書寫著此時難以言喻的憂傷與憐憫。換言之,雖說我們痛苦,可是卻絕不否認痛苦的價值,雖然我也琢磨不清那究竟是什麼,但它會將我從不刊的污水里拉扯進入那舒適的水中氣泡,我不知道那終究是什麼?你是什麼?是窗外偶然快速飛過隨後停留在老小區窗前的那群飛鴿嗎?是偶然間闖入孩子們做吹起的繽紛泡泡中蝴蝶嗎?是你嗎此時以游走至遠方的雲?是你嗎跟隨秋水順流而下的魚?我究竟在哪,這是否是年輕/孩童時期最後的稚嫩了,如果是,我則會疲憊地輓留你,請似圍巾那樣綿細地纏繞過我的頸部,我依賴你,你救我於充滿紛擾污漬的水中,拯救我於這個骯髒的世界。近些日子,我愈發認為保持天真 是種生存中極為困難的成長,我的寫作本身,雖仍似未長成的茉莉花(我曾在許多年的某個清晨,在上學途中摘下了一朵被杭州清雨所打濕的茉莉花),在雨中慢慢發芽,或許它並不會長大,或者被強勁的冷風吹落,無論如何,那一刻的清晨之雨水落在上面,我捧著它,花香仍舊飄散,雨珠卻經由我的晃動而隨著上花瓣的曲線滑動,不一會就落入花芯里去了。前年的春天,我同愛人走過夜間無人的西湖;去年的秋天,我在城市中穿梭,告別與歡迎是一場沒有窮盡的夢;不知不覺,春天又來了,我獨自坐在那安逸的水下泡泡中哭泣,哭泣什麼?哭我還有你,黃昏。
癸卯年二月廿九
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kachoushi · 2 years
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各地句会報
花鳥誌 令和5年2月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和4年11月5日 零の会 坊城俊樹選 特選句
秋風や日覆ひの色褪せしまま 秋尚 のつそりと冷ゆるがままの地蔵かな 軽象 ��煮屋間口小さく秋灯す 三郎 神水を掬へば木の実溢れ出る はるか 残菊やまことに細き路地ぬけて きみよ くつくつともんじや躍らせ小春人 眞理子 欄干に頬杖をつく鯊の竿 はるか 猫じやらしいづれも佃生まれなる 和子 小鳥来て路地の少女の消えてゐる 同 晩秋に釣糸たらす女かな きみよ
岡田順子選 特選句
初冬の海月は川の色をして 小鳥 のつそりと冷ゆるがままの地蔵かな 軽象 大正の風沸く交番神の留守 小鳥 もんじや屋の高き箆音小六月 眞理子 てつぺんへ鳥入れ替る柿の空 千種 産土神の留守の月島一号地 いづみ 朝寒し江戸の醤油の煮詰まれり ゆう子 佃とは小鳥姦し婆もまた 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月5日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
鷹匠の脈打つ腕畏鳥 美穂 襟元を直す鷹師の指女性 勝利 風の待つ鷹一点を凝視して 孝子 鷹匠の血脈誇り隠れ棲む 美穂 白樺の空ふかぶかと鷹柱 朝子 りんりんと月呼びよせて虫の声 成子 七五三背中をあふれさうに帯 美穂 隼の一閃に散る鳥の群 由紀子 風も日も包みて蓮の枯れにけり 孝子 あまたなる祈り睡らせ枯蓮 かおり 前を行く心変りの時雨傘 久美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月7日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
石蕗の黄飛ばねばをれぬ蝶一つ 雪 赤とんぼ飛んで昔の空の色 同 この晴を授けて神は旅に出し かづを 幾千里子連れの鴨の渡り来し 匠 在りし日や歴史は遺る左内の忌 千加江 潮風や句碑は礁に柏翠忌 同 霙るるや獄舎の左内穀然とし 千代子 天高く貫ぬく像や左内の忌 笑 街路樹の一夜に痩せて神渡 希
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月8日 萩花鳥会
石蕗の花段段段と崖ぷち 祐子 コロナ禍の波乗り上手に冬構 健雄 小春日の暮れて待たるる燗一杯 俊文 風に揺れ森の囁き木の葉散る ゆかり 会釈から世間話に小春の日 陽子 ただふるへ明日を求めぬ木の葉かな 吉之 流星の如く零れし小夜時雨 明子 南窓微睡む父や冬ぬくし 美惠子
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令和4年11月5日 さくら花鳥俳句会 岡田順子選 特選句
袖揺らし拙く歩く七五三 あけみ ��のない大根抱へ師を訪ひぬ 登美子 面取りの暇なき夕の煮大根 実加 徒歩多き歴史ツアーや椎の秋 紀子 細路地に並ぶ地蔵や朝時雨 実加 葛湯して今夜は静かすぎる母 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月10日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
凩や気にしても今猫背かも さとみ 句をよんで名を知れるなり石蕗の花 同 手の先に触れ行く物の冬に入る 都 廃船のたゆたふ河や冬めきて 同 前山に人の呼び合ふ小春かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
蒼穹へ差し出されあり鵙の贄 都 トタン屋根黒く被ひて山葡萄 史子 迷ひ来し犬は小春の匂ひして 都 神名備へ舞ひ降りて来し渡り蝶 宇太郎 冬籠老いて小さくなるままに 悦子 遠き日の灯台の下大根畑 すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月12日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
欠礼の葉書一通冬に入る 恭子 大綿の飛ぶ一角や時ゆるむ 同 朝の日に虻を待ちゐる花八手 三無 初時雨移ろへる景厨より 和代 蒼天に柿の朱色の映り込み 三無 大綿の抱へる影の漂へる 秋尚 想ひ出は些細なはなし花八手 ゆう子 木々の葉の手さわり厚く冬来る 恭子 綿虫のふうはり中子師の化身 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月14日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
こつこつと振子の音や冬灯 時江 残菊に風の別れか纏ひつく 同 丁寧に描く絵手紙曼珠沙華 ただし 神なびの落葉時雨や岩を打つ 時江 花八手午後の日早も翳りゆく 昭子 職人はなべて無口や日短 同 落葉踏む音にも山の深さあり みす枝 踏み入りて銀杏落葉に呑まれたる 信子 マネキンの衣裳着膨れしてゐたり 世詩明 初霜の夜なりオリオン瞬きぬ 信子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月14日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
山茶花の掃きたるあとに二三片 廸子 ものの影長く濃くなる冬めきて 三無 隼の腹白じろと急降下 怜 街路樹の風音乾き冬めける 秋尚 夕散歩我が影長く冬めきぬ 怜 箒持ち山茶花散るを楽しめり ことこ 青空を切るビルの影冬めける 秋尚 立ち話続く山茶花日和かな 和魚 冬めきて木立の空の広くなり 廸子 蒼天を蹴りて隼矢となりぬ 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月16日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
字余りの句をつくりたる文化の日 世詩明 桟橋も浚渫船も冬に入る 千代子 神の旅紅く際立つ大鳥居 笑子 茅葺の千古の家に散る紅葉 希子 玉砂利の中に���つけし木の実かな 和子 存問もせずしづむ身に石蕗の花 数幸 せめて欲しうすばかげろふ程の翅 雪 人の世を仏の流転秋の風 同 だんまりを通しきれずに蚯蚓鳴く 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
人の世に蓑虫鳴くと誰が云ひし 雪 火取虫飛ばざれば灯も淋しきか 同 寺小春上品上生仏仰ぐ 千代子 ぼてさんは越前蟹を売り歩く 同 銀杏散り大樹の影の細りゆく かづを 千年の古都の時雨にあひにけり 同 潮風に磨きあげられ石蕗の花 眞喜栄 腕白も今日は神の子七五三 みす枝 秋風に揺れてゐるかに弥陀の耳朶 やす香 冬ざれや星をつけたる兵の墓 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月18日 さきたま花鳥句会
参道を江戸小紋なる散紅葉 月惑 冬凪や島のなぞへの墓の群 裕章 麦稈のロールどすんと冬を待つ とし江 藤袴やさしく撫づる福禄寿 ふじ穂 あかあかと冬田息づく日の出かな 康子 神無月何事もなく老いの日々 静子 美女と言ふ嘘を重ねて冬鏡 良江
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令和4年11月20日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
照紅葉ここは武蔵野ど真ん中 三無 黄落の熄み変哲もなきベンチ 千種 落葉して三面恐し馬頭尊 慶月 重さなき影を揺らして枯尾花 三無 藁屋根に落葉降り積み主留守 慶月
栗林圭魚選 特選句
冬枯や蚕飼の匂ひふと間近 炳子 冬灯しコルクのもろき薬瓶 久 初時雨お薄いただく森の庵 久子 雲割れてゆく黄落の激しさに 千種 大根の髭剃られあり品評会 久子 山茶花や雨の重さも散り敷きて 亜栄子 黄落の熄み変哲もなきベンチ 千種 白銀の手摺り冷たく磴下る 炳子 乾びたる音の遠のく冬木道 眞理子 ちりちりと咲き揃ひたる冬桜 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
秋祭皮張り替へし大太鼓 雪 而して九十一の菊膾 同 七福神旅立たれたる村静か みす枝 百地蔵に散華の如く紅葉舞ふ 同 湯豆腐の正面に座す強面 昭子 掃き終へし箒立て掛け花八手 同 季は今し厳き面となる猟夫 一涓 還り来し神をねぎらふ祝詞かな ただし 百鉢の菊の位を競ひけり 世詩明 一寺置く知恵の文殊の山眠る 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月27日 月例会 坊城俊樹選 特選句
皇のげに隙のなき白障子 昌文 身を包むコートの中が愛国者 いづみ 箒目を真直ぐに神を迎へけり 光子 陸士らの祈りの長き神迎 はるか 今にして見えてくるもの綿虫も 千種 大前��小春は人を歩かせて はるか 孤独なる鴨の水脈とはもつれざる 光子
岡田順子選 特選句
桜もみぢ防大生の整列へ 眞理子 狛犬の阿吽おそらく息白し 俊樹 黄落す絵画の中に居るやうな 政江 参道の冬日の中へ防大生 同 幾そ度落葉の艶を神の池 幸風 すれ違ふ男冬野の匂ひして 千種 大前へ小春は人を歩かせて はるか すめらぎの濠へ映りて柿たわわ 眞理子
栗林圭魚選 特選句
冬蜂のとどまるところ香の濃ゆし 光子 ハーレイの枯葉舞ひ上ぐ九段坂 要 靖国は黄金色に神迎 千種 枯蓮の影縮こまる濠深き 秋尚 日を溜める力残せし枯尾花 同 すれ違ふ男冬野の匂ひして 千種 孤独なる鴨の水脈とはもつれざる 光子 紅葉散る城跡になほ地の熱り 千種
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年11月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
蓮根掘る胴長干して昼餉時 光子 蓮根掘り母のがめ煮の待つてをり 美穂 目貼せし仏間に母と長話 愛 黄落やへうたん池を膨らませ 由紀子 手の窪に在はす仏や霜の声 成子 蓮根掘るまぶしき泥の太古まで 睦古賀子 冷たき掌胸に合はせて百度石 かおり づぶづぶと臍まで沈む蓮根掘 千代 抜き足は得意技なり蓮根掘 美穂 蓮根掘るこのまま脚の根付きさう 愛 冬銀河泳ぎ止まざる大魚達 ひとみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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rong-lu-li · 2 years
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《春節合集|玩轉榕鷺鯉第二波放送來囉》(下) 榕城的新春名片又又又來啦~ 上期介紹的景點多是具有歷史文化氣息的 而這期的主角卻擁有自然魅力 一起來體會一下吧 春節去哪玩?且看福州城! 1、 江濱公園 福州江濱公園分為南北兩園,隨閩江逐水而建,佔地三十多工勤,是中國最長的都市江濱公園。園內風景宜人,自然與人工的美在其中極其融洽,相互交映,是適宜放鬆之所。 作為都市內的開放性公園,江濱公園因其獨特的地理位置和美景被譽為福州的「外灘」,偌大的公園由七個景區組成 不僅有現代化建築的摩登感,也有別樣的異域風情,亞熱帶植物點綴其中,給高樓大廈旁的公園增添了幾絲自然之美,棧道與帆船遙遙相望,遠處華樓城堡散髮光芒。 江濱公園不僅具有人文性,還集親水性、生態性、藝術性為一體,創造福州現代化城市的親水空間和閩江濱水區的新型旅遊區。 【地址】:福州市台江區西江濱大道1號 【交通】:公交7路5路22路14路33路38路100路111路112路113路118路75路29路86路85路77路16路均可到 【時間】:全天開放 2、 福道 福道長約19公里,貫穿五個公園,在其中自然與建築相映成趣,富有自然韻味,也不乏人工智慧,這裡環境清幽寧靜,人們常常來此歡度時光。 福道建築設計極富特色,供人行走的「橋」面由鋼格柵板鋪設而成,其創意設計來自新加坡亞歷山大城市森林步道設計團隊。作為福州市首條城市山水生態休閒健身走廊,它採用全國首創鋼架鏤空設計多結構、多層面的設計理念,帶給榕城別緻的「一道景」。 福道的設計極具人性化與實用性,主體採用空心鋼管桁架橋面採用格柵板其中還有範圍在1.5釐米以內的間隙既可滿足行人、輪椅的通行也給步道下方的植物最大限度的生長空間。 在景點觀光的設計上,福道在步道的蜿蜒打造之間,串起了十幾處人文自然景觀,展現獨特的風貌。 【開放時間】: 夏季 7: 30—18:00 冬季 7: 30—17:30 【交通路線】: 公交可乘坐16路、112路、113路公交車至洪山梁厝站下車,再往北走150米到金牛山出入口 3、 梅園 馬限山建築群位於馬限山景區內,是福州市文物保護單位。建築群離昭忠祠很近,隔著船政官界碑,與中坡炮台遙遙相望,建主要包括英國領事分館、梅園監獄、聖教醫院三個部分。 晚清時期,英帝國主義者陸續在馬限山麓設立貨物轉運站,而後又設立馬限監獄、副領事署、醫院等機構。1942年民國海軍部接收英國副領事署及馬限監獄,並在山上遍植梅樹,命名為「梅園」。 梅園內不僅有傳統西式宮廷建築,也有祖國反侵略鬥爭留下的榮耀。 【地址】福州市馬尾區昭忠路昭忠祠景區內 【門票】:昭忠祠景區門票20元(包含昭忠祠、中法馬江海戰烈士碑亭、梅園監獄舊址、福州英國領事分館舊址等) 【開放時間】:8:00——17:30 【交通】 公交 從公交仁德站乘坐73路、兩馬航線定時班車到「港口路」站下車 鼓山下院乘坐58路到「船政文化博物館」站下車 從台江乘坐37路到「馬尾區委」站下車 4、 南公園 福州南公園原為清初靖南王耿茂的別墅花園,是真正的「皇室花園」,但因它位於當時福州城的南部,故稱為「城南公園」,簡稱「南公園」。 南公園由於是王室的「御花園」,因此不僅有珍貴稀有且芬芳馥郁的花草樹木,更有雕工精緻的亭台樓閣,園中佈局也是十分精妙,真品寶藏之多,數不勝數,1000多幅彩畫及各式亭子,是這座王府花園的最大特色。 南公園也是目前福州內,唯一以皇家園林風格為主的公園,裡面有很多具有歷史故事的景點。南公園自誕生以來,不僅經歷了百年風霜,還頑強挺過了日軍肆虐的磨難,它不僅具有皇家園林的風範,還蘊含著豐富的歷史人文價值與堅韌的民族氣質。 2016年,南公園進行全面景觀改造,打造成了繼西湖公園後又一大型園林,還融合了現代的建設理念——「海綿城市」,利用滲透路面與生態草溝,形成於雨水、排放、淨化系統,公園內的湖水均採用生物和人工淨化以保證公園內的生態。 【地址】:福州台江區國貨西路309號 【交通】乘坐公交8路、29路、60路、77路、81路、101路、109路、112路、169路、173路、179路、301路、313路、315路均可到「南公園」站,接著步行即可抵達。 #福建 #海上絲綢之路 #福州 #廈門 #泉州 #榕鷺鯉 #海絲瓜 (在 Fuzhou, Fujian) https://www.instagram.com/p/CoABdG6B3HC/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yamadaemi · 2 years
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新選組マルシェでの新作🎵 袖章柄なんでも文房具入れ~! はさみ、カッター、色鉛筆、メガネ などのなんでも入れたいものを入れてねっていうがま口です。 バッグに着けて取り出しやすく! この生地はだいぶこだわりのあるもの。 遠州木綿の千織さんのものです。 経糸綿100% 緯糸マニラ麻の和紙100% 天然繊維で、ちょっと和紙の糸、紙の糸⁉️ マニラ麻の強くて軽くて、無農薬の麻。 燃やしても有害物質がでない環境に優しい糸。 そんなすごい糸と遠州木綿がコラボっていったら、使うしかない!と思い、 作りました!染めました! まだまだやりたいものあるのですが、 今回はこの生地、袖章の形でバッグに付けたらgoodじゃないかと、まずは この「なんでも文房具入れ」。 文房具入れってレトロな表現でしょうかね。 リバーシブルにしてあり、裏は浅葱色の土方家紋。遠州木綿です。 よろしくお願いいたします✨ #型染め #遠州木綿千織さん #新選組 #新選組マルシェ #新マルシェア #土方歳三 #家紋 #袖章 #文房具 #文房具入れ #天然繊維 https://www.instagram.com/p/CoeEEcfr0fz/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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wangwill66 · 5 months
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春夏秋冬
H:南宋無門慧開禪師的一首詩「好時節」: 「春有百花秋有月,夏有涼風冬有雪,若無閒事掛心頭,便是人間好時節。」 春夏秋冬四季,在我們平常人心中是無感的,除了農人的「春耕、夏耘、秋收、冬藏,四者不失時,故五穀不絕,而百姓有餘食也。」我們只知道寒冷冬天過後,春天覺得暖和,百花也開了。夏天來熱呼乎,秋天有點涼,落葉也多了。冬天來了又冷。其他無言。詩人作家寫四季,詩情畫意隨筆來,美美的意境詠嘆,無聊就念念解心煩。20240420W6
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正月期間,今天就介紹南宋無門慧開禪師的一首詩,它告訴我們甚麼是「好時節」: 「春有百花秋有月,夏有涼風冬有雪,若無閒事掛心頭,便是人間好時節。」 春花秋月,夏風冬雪,一年四季都可以是好時節,但最讓你能夠感到好時節的,不是外在的春夏秋冬,而是「若無閒事在心頭」,也就是說,心中沒有掛慮,沒有恐懼,那麼任何時候都是好時節。2021年3月1日
荀子王制:
聖主1之制也:草木榮華滋碩之時,則斧斤不入山林,不夭其生,不絕其長也。黿鼉魚鱉鰍鱣孕別之時,罔罟毒藥不入澤,不夭其生,不絕其長也。春耕、夏耘、秋收、冬藏,四者不失時,故五穀不絕,而百姓有餘食也。汙池淵沼川澤,謹其時禁,故魚鱉優多,而百姓有餘用也。斬伐養長不失其時,故山林不童,而百姓有餘材也。
作者:朱自清
1933年7月
姊妹計劃: 數據項
 參閱維基百科中的:春季 閲文言維基大典文
盼望着,盼望着,東風來了,春天的腳步近了。
一切都像剛睡醒的樣子,欣欣然張開了眼。山朗潤起來了,水長起來了,太陽的臉紅起來了。
小草偷偷地從土裏鑽出來,嫩嫩的,綠綠的。園子裏,田野裏,瞧去,一大片一大片滿是的。坐着,躺着,打兩個滾,踢幾腳球,賽幾䠀跑,捉幾回迷藏。風輕悄悄的,草軟綿綿的。
桃樹、杏樹、梨樹,你不讓我,我不讓你,都開滿了花趕䠀兒。紅的像火,粉的像霞,白的像雪。花裏帶着甜味;閉了眼,樹上髣髴已經滿是桃兒、杏兒、梨兒!花下成千成百的蜜蜂嗡嗡地鬧着,大小的蝴蝶飛來飛去。野花遍地是:雜樣兒,有名字的,沒名字的,散在草叢裏,像眼睛,像星星,還眨呀眨的。
「吹面不寒楊柳風」,不錯的,像母親的手撫摸着你。風裏帶來些新翻的泥土的氣息,混着青草味,還有各種花的香,都在微微潤溼的空氣裏醞釀。鳥兒將窠巢安在繁花嫩葉當中,高興起來了,呼朋引伴地賣弄清脆的喉嚨,唱出宛轉的曲子,與輕風流水應和着。牛背上牧童的短笛,這時候也成天在嘹亮地響。
雨是最尋常的,一下就是三兩天。可別惱。看,像牛毛,像花針,像細絲,密密地斜織着,人家屋頂上全籠着一層薄煙。樹葉子卻綠得發亮,小草也青得逼你的眼。傍晚時候,上燈了,一點點黃暈的光,烘托出一片安靜而和平的夜。鄉下去,小路上,石橋邊,撐起傘慢慢走着的人;還有地裏工作的農夫,披着蓑戴着笠的。他們的草屋,稀稀疏疏的在雨裏靜默着。
天上風箏漸漸多了,地上孩子也多了。城裏鄉下,家家戶戶,老老小小,他們也趕䠀兒似的,一個個都出來了。舒活舒活筋骨,抖擻抖擻精神,各做各的一份兒事去。「一年之計在於春」,剛起頭兒,有的是工夫,有的是希望。
春天像剛落地的娃娃,從頭到腳都是新的,它生長着。
春天像小姑娘,花枝招展的,笑着,走着。
春天像健壯的青年,有鐵一般的胳膊和腰腳,他領着我們上前去。
說夢
作者:朱自清
1925年10月
姊妹计划: 数据项
  偽《列子》里有一段夢話,說得甚好:
  “周之尹氏大治產,其下趣役者,侵晨昏而不息。有老役夫筋力竭矣,而使之彌勤。晝則呻呼而即事,夜則昏憊而熟寐。精神荒散,昔昔夢為國君:居人民之上,總一國之事;游燕宮觀,恣意所欲,其樂無比。覺則复役人。……尹氏心營世事,慮鐘家業,心形俱疲,夜亦昏憊而寐。昔昔夢為人仆:趨走作役,無不為也;   數罵杖撻,無不至也。眠中啽囈呻呼,徹旦息焉。……”
  此文原意是要說出“苦逸之复,數之常也;若欲覺夢兼之,豈可得邪?”這其間大有玄味,我是領略不著的;我只是斷章取義地賞識這件故事的自身,所以才老遠地引了來。我只覺得夢不是一件坏東西。即真如這件故事所說,也還是很有意思的。因為人生有限,我們若能夜夜有這樣清楚的夢,則過了一日,足抵兩日,過了五十歲,足抵一百歲;如此便宜的事,真是落得的。至于夢中的“苦樂”,則照我素人的見解,畢竟是“夢中的”苦樂,不必斤斤計較的。若必欲斤斤計較,我要大膽地說一句:他和那些在牆上貼紅紙條儿,寫著“夜夢不祥,書破大吉”的,同樣地不懂得夢!
  但庄子說道,“至人無夢。”偽《列子》里也說道,“古之真人,其覺自忘,其寢不夢。”——張湛注曰,“真人無往不忘,乃當不眠,何夢之有?”可知我們這几位先哲不甚以做夢為然,至少也總以為夢是不大高明的東西。但孔子就与他們不同,他深以“不复夢見周公”為憾;他自然是愛做夢的,至少也是不反對做夢的。——殆所謂時乎做夢則做夢者歟?我覺得“至人”,“真人”,畢竟沒有我們的份儿,我們大可不必妄想;只看“乃當不眠”一個條件,你我能做到么?唉,你若主張或實行“八小時睡眠”,就別想做“至人”,“真人”了!但是,也不用擔心,還有為我們掮木梢的:我們知道,愚人也無夢!他們是一枕黑甜,哼呵到曉,一些儿夢的影子也找不著的!我們徼幸還會做几個夢,雖因此失了“至人”,“真人”的資格,卻也因此而得免于愚人,未嘗不是運气。至于“至人”,“真人”之無夢和愚人之無夢,究竟有何分別?卻是一個難題。我想偷懶,還是摭拾上文說過的話來答吧:“真人……乃當不眠,……”而愚人是“一枕黑甜,哼呵到曉”的!再加一句,此即孔子所謂“上智与下愚不移”也。說到孔子,孔子不反對做夢,難道也做不了“至人”,“真人”?我說,“唯唯,否否!”孔子是“圣人”,自有他的特殊的地位,用不著再來���“至人”,“真人”的名號了。但得知道,做夢而能夢周公,才能成其所以為圣人;我們也還是夠不上格儿的。
  我們終于只能做第二流人物。但這中間也還有個高低。高的如我的朋友P君:他夢見花,夢見詩,夢見綺麗的衣裳,……真可算得有夢皆甜了。低的如我:我在江南時,本忝在愚人之列,照例是漆黑一團地睡到天光;不過得聲明,哼呵是沒有的。北來以后,不知怎樣,陡然聰明起來,夜夜有夢,而且不一其夢。但我究竟是新升格的,夢盡管做,卻做不著一個清清楚楚的夢!成夜地亂夢顛倒,醒來不知所云,恍然若失。最難堪的是每早將醒未醒之際,殘夢依人,膩膩不去;忽然雙眼一睜,如墜深谷,万象寂然——只有一角日光在牆上痴痴地等著!我此時決不起來,必凝神細想,欲追回夢中滋味于万一;但照例是想不出,只惘惘然茫茫然似乎怀念著些什么而已。雖然如此,有一點是知道的:夢中的天地是自由的,任你徜徉,任你翱翔;一睜眼卻就給密密的麻繩綁上了,就大大地不同了!我現在确乎有些精神恍惚,這里所寫的就夠教你知道。但我不因此詛咒夢;我只怪我做夢的藝術不佳,做不著清楚的夢。若做著清楚的夢,若夜夜做著清楚的夢,我想精神恍惚也無妨的。照現在這樣一大串儿糊里糊涂的夢,直是要將這個“我”化成漆黑一團,卻有些儿不便。是的,我得學些本事,今夜做他几個好好的夢。我是徹頭徹尾贊美夢的,因為我是素人,而且將永遠是素人。
  (原載1925年10月《清華周刊》第24卷第8號)
揚州的夏日
  揚州從隋煬帝以來,是詩人文士所稱道的地方;稱道的多了,稱道得久了,一般人便也隨聲附和起來。直到現在,你若向人提起揚州這個名字,他會點頭或搖頭說:“好地方!好地方!”特別是沒去過揚州而念過些唐詩的人,在他心里,揚州真像蜃樓海市一般美麗;他若念過《揚州畫舫錄》一類書,那更了不得了。但在一個久住揚州像我的人,他卻沒有那么多美麗的幻想,他的憎惡也許掩住了他的愛好;他也許离開了三四年并不去想它。若是想呢,——你說他想什么?女人;不錯,這似乎也有名,但怕不是現在的女人吧?——他也只會想著揚州的夏日,雖然与女人仍然不無關系的。
  北方和南方一個大不同,在我看,就是北方無水而南方有。誠然,北方今年大雨,永定河,大清河甚至決了堤防,但這并不能算是有水;北平的三海和頤和園雖然有點儿水,但太平衍了,一覽而盡,船又那么笨頭笨腦的。有水的仍然是南方。揚州的夏日,好處大半便在水上——有人稱為“瘦西湖”,這個名字真是太“瘦”了,假西湖之名以行,“雅得這樣俗”,老實說,我是不喜歡的。下船的地方便是護城河,曼衍開去,曲曲折折,直到平山堂,——這是你們熟悉的名字——有七八里河道,還有許多杈杈椏椏的支流。這條河其實也沒有頂大的好處,只是曲折而有些幽靜,和別處不同。
  沿河最著名的風景是小金山,法海寺,五亭橋;最遠的便是平山堂了。金山你們是知道的,小金山卻在水中央。在那里望水最好,看月自然也不錯——可是我還不曾有過那樣福气。“下河”的人十之九是到這儿的,人不免太多些。法海寺有一個塔,和北海的一樣,据說是乾隆皇帝下江南,鹽商們連夜督促匠人造成的。法海寺著名的自然是這個塔;但還有一樁,你們猜不著,是紅燒豬頭。夏天吃紅燒豬頭,在理論上也許不甚相宜;可是在實際上,揮汗吃著,倒也不坏的。五亭橋如名字所示,是五個亭子的橋。橋是拱形,中一亭最高,兩邊四亭,參差相稱;最宜遠看,或看影子,也好。橋洞頗多,乘小船穿來穿去,另有風味。平山堂在蜀岡上。登堂可見江南諸山淡淡的輪廓;“山色有無中”一句話,我看是恰到好處,并不算錯。這里游人較少,閒坐在堂上,可以永日。沿路光景,也以閒寂胜。從天宁門或北門下船。蜿蜒的城牆,在水里倒映著蒼黝的影子,小船悠然地撐過去,岸上的喧扰像沒有似的。
  船有三种:大船專供宴游之用,可以挾妓或打牌。小時候常跟了父親去,在船里听著謀得利洋行的唱片。現在這樣乘船的大概少了吧?其次是“小划子”,真像一瓣西瓜,由一個男人或女人用竹篙撐著。乘的人多了,便可雇兩只,前后用小凳子跨著:這也可算得“方舟”了。后來又有一种“洋划”,比大船小,比“小划子”大,上支布篷,可以遮日遮雨。“洋划”漸漸地多,大船漸漸地少,然而“小划子”總是有人要的。這不獨因為价錢最賤,也因為它的伶俐。一個人坐在船中,讓一個人站在船尾上用竹篙一下一下地撐著,簡直是一首唐詩,或一幅山水畫。而有些好事的少年,愿意自己撐船,也非“小划子”不行。“小划子”雖然便宜,卻也有些分別。譬如說,你們也可想到的,女人撐船總要貴些;姑娘撐的自然更要貴囉。這些撐船的女子,便是有人說過的“瘦西湖上的船娘”。船娘們的故事大概不少,但我不很知道。据說以亂頭粗服,風趣天然為胜;中年而有風趣,也仍然算好。可是起初原是逢場作戲,或尚不傷廉惠;以后居然有了价格,便覺意味索然了。
  北門外一帶,叫做下街,“茶館”最多,往往一面臨河。船行過時,茶客与乘客可以隨便招呼說話。船上人若高興時,也可以向茶館中要一壺茶,或一兩种“小籠點心”,在河中喝著,吃著,談著。回來時再將茶壺和所謂小籠,連价款一并交給茶館中人。撐船的都与茶館相熟,他們不怕你白吃。揚州的小籠點心實在不錯:我离開揚州,也走過七八處大大小小的地方,還沒有吃過那樣好的點心;這其實是值得惦記的。茶館的地方大致總好,名字也頗有好的。如香影廊,綠楊村,紅葉山庄,都是到現在還記得的。綠楊村的幌子,挂在綠楊樹上,隨風飄展,使人想起“綠楊城郭是揚州”的名句。里面還有小池,叢竹,茅亭,景物最幽。這一帶的茶館布置都歷落有致,迥非上海,北平方方正正的茶樓可比。
  “下河”總是下午。傍晚回來,在暮靄朦朧中上了岸,將大褂折好搭在腕上,一手微微搖著扇子;這樣進了北門或天宁門走回家中。這時候可以念“又得浮生半日閒”那一句詩了。
  (原載1929年12月11日《白華旬刊》第4期)
夏日田間即景(近沙士頓)
作者:徐志摩 1922年寫於1922年2月,原載於1922年3月14日《時事新報·學燈》,並未錄入徐志摩在世時出版的4本詩集中。
版本信息
姊妹计划: 数据项
柳林青青,
南風薰薰,
幻成奇峰瑤島,
一天的黃雲白雲,
那邊麥浪中間,
有農婦笑語殷殷。
笑語殷殷——
問後園豌豆肥否,
問楊梅可有鳥來偷;
好幾天不下雨了,
玫瑰花還未曾紅透;
梅夫人今天進城去,
且看她有新聞無有。
笑語殷殷——
「我們家的如今好了,
已經照常上工去,
不再整天的無聊,
不再逞酒使氣,
回家來有說有笑,
疼他兒女——愛他妻;
呀!真巧!你看那邊,
蓬著頭,走來的,笑嘻嘻,
可不是他,(哈哈!)滿身是泥!」
南風熏熏,
草木青青,
滿地和暖的陽光,
滿天的白雲黃雲,
那邊麥浪中間,
有農夫農婦,笑語殷殷。
想��
作者:徐志摩 1925年收錄於散文集《自剖》
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假如這時候窗子外有雪──街上,城牆上,屋脊上,都是雪,胡同口一家屋簷下偎著一個戴黑帽兒的巡警,半攏著睡眼,看棉團似的雪花在半空中跳著玩……假如這夜是一個深極了的啊,不是壁上掛鐘的時針指示給我們看的深夜,這深就比是一個山洞的深,一個往下鑽螺旋形的山洞的深…… 假如我能有這樣一個深夜,它那無底的陰森捻起我遍體的毫管;再能有窗子外不住往下篩的雪,篩淡了遠近間揚動的市謠;篩泯了在泥道上掙扎的車輪;篩滅了 腦殼中不妥協的潛流……
我要那深,我要那靜。那在樹蔭濃密處躲著的夜鷹,輕易不敢在天光還在照亮時出來睜眼。思想,它也得等。
青天裡有一點子黑的。正衝著太陽耀眼,望不真,你把手遮著眼、對著那兩株樹縫裡瞧,黑的,有排子來大,不,有桃子來大──嘿,又移著往西了!
我們吃了中飯出來到海邊去。(這是英國康槐爾極南的一角,三面是大西洋)。勖麗麗的叫聲從我們的腳底下勻勻的往上顫,齊著腰,到了肩高,過了頭頂,高入了雲,高出了雲。
啊!你能不能把一種急震的樂音想像成一陣光明的細雨,從藍天裡衝著這平鋪著青綠的地面不住的下?不,那雨點都是跳舞的小腳,安琪兒的。雲雀們也吃過了飯,離開了它們卑微的地巢飛往高處做工去。上帝給它們的工作,替上帝做的工作。瞧著,這兒一隻,那邊又起了兩!一起就衝著天頂飛,小翅膀活動的多快活,圓圓的,不躊躇的飛,──它們就認識青天。一起就開口唱,小嗓子活動的多快活,一顆顆小精圓珠子直往外唾,亮亮的唾,脆脆的唾,──它們讚美的是青天。瞧著,這飛得多高,有豆子大,有芝麻大,黑刺刺的一屑,直頂著無底的天頂細細的搖,──這全看不見了,影子都沒了!但這光明的細雨還是不住的下著……
飛。「其翼若垂天之雲……背負蒼天,而莫之夭閼者;」那不容易見著。我們鎮上東關廂外有一座黃泥山,山頂上有一座七層的塔,塔尖頂著天。塔院裡常常打鐘,鐘聲響動時,那在太陽西曬的時候多,一枝艷艷的大紅花貼在西山的鬢邊回照著塔山上的雲彩,──鐘聲響動時,繞著塔頂尖,摩著塔頂天,穿著塔頂雲,有一隻兩隻,有時三隻四隻有時五隻六隻蜷著爪往地面瞧的「餓老鷹」,撐開了它們灰蒼蒼的大翅膀沒掛戀似的在盤旋,在半空中浮著,在晚風中泅著,彷彿是按著塔院鐘的波蕩來練習圓舞似的。那是我做孩子時的「大鵬」?
有時好天抬頭不見一瓣雲的時候聽著貌憂憂的叫聲,我們就知道那是寶塔上的餓老鷹尋食吃來了,這一想像半天裡禿頂圓睛的英雄,我們背上的小翅膀骨上就彷彿豁出了一銼銼鐵刷似的羽毛,搖起來呼呼聲的,只一擺就衝出了書房門,鑽入了玳瑁鑲邊的白雲裡玩兒去,誰耐煩站在先生書桌前晃著身子背早上上的多難背的書!
啊!飛!不是那在樹枝上矮矮的跳著麻雀兒的飛;不是那湊天黑從堂匾後背衝出來趕蚊子吃的蝙蝠的飛;也不是那軟尾巴軟嗓於做集在堂簷上的燕子的飛。要飛就得滿天飛,風攔不住雲擋不住的飛,一翅膀就跳過一座山頭,影子下來遮得陰二+畝稻田的飛,要天晚飛倦了就來繞著那塔頂尖順著風向打圓圈做夢……聽說餓老鷹會抓小雞!
飛。人們原來都是會飛的。天使們有翅膀,會飛,我們初來時也有翅膀,會飛。我們最初來就是飛了來的,有的做完了事還是飛了去,他們是可羨慕的。但大多數人是忘了飛的,有的翅膀上掉毛不長再也飛不起來,有的翅膀叫膠水給膠住了,融拉不開,有的羽毛叫人給修短了像鴿子似的只會在地上跳,有的拿背上一對翅膀上當鋪去典錢使過了期再也贖不回……真的,我們一過了做孩子的日子就掉了飛的本領。
但沒了翅膀或是翅膀壞了不能用是一件可怕的事。因為你再也飛不回去,你蹲在地上呆望著飛不上去的天,看旁人有福氣的一程一程的在青雲裡逍遙,那多可憐。而且翅膀又不比是你腳上的鞋,穿爛了可以再問媽要一雙去,翅膀可不成,折了一根毛就是一根,沒法給補的。還有,單顧著你翅膀也還不定規到時候能飛,你這身子要是不謹慎養太肥了,翅膀力量小也再也拖不起,也是一樣難不是?
一對小翅膀馱不起一個胖肚子,那情形多可笑!到時候你聽人家高聲的招呼說,朋友,回去罷,趁這天還有紫色的光,你聽他們的翅膀在半空中沙沙的搖響,朵朵的春雲跳過來擁著他們的肩背,望著最光明的來處翩翩的,冉冉的,輕煙似的化出了你的視域,像雲雀似的只留下一瀉光明的驟雨──「 Thou art unseen,ut yet I hear the shrill delight.」──那你,獨自在泥塗裡淹著,夠多難受,夠多懊惱,夠多寒傖!趁早留神你的翅膀,朋友。
是人沒有不想飛的。老是在這地面上爬著夠多厭煩,不說別的。飛出這圈子,飛出這圈子!到雲端裡去,到雲端裡去!那個心裡不成天千百遍的這麼想?飛上天空去浮著,看地球這彈丸在太空裡滾著,從陸地看到海、從海再看回陸地。凌空去看一個明白──這本是做人的趣味,做人的權威,做人的交代。這皮囊要是太重挪不動,就擲了它,可能的話,飛出這圈子,飛出這圈子!
人類初發明用石器的時候,已經想長翅膀,想飛,原人洞壁上畫的四不像,它的背上掮著翅膀;拿著弓箭趕野獸的,他那肩背上也給安了翅膀。小愛神是有一對粉嫩的肉翅的。挨開拉斯(Icarus)是人類飛行史裡第一個英雄,第一次犧牲。安琪兒(那是理想化的人)第一個標記是幫助他們飛行的翅膀。那也有沿革──你看西洋書上的表現。最初像一對小精緻的令旗,蝴蝶似的粘在安琪兒們的背上,像真的,不靈動的。漸漸的翅膀長大了,地位安準了,毛羽豐滿了。畫圖上的天使們長上了真的可能的翅膀。人類初次實現了翅膀的觀念,徹悟了飛行的意義。挨開拉斯閃不死的靈魂,回來投生又投生。
人類最大的使命,是製造翅膀;最大的成功是飛!理想的極度,想像的止境,從人到神!詩是翅膀上出世的;哲理是在空中盤旋的。飛:超脫一切,籠蓋一切,掃蕩一切,吞吐一切。你上那邊山峰頂上試去,要是度不到這邊山峰上,你就得這萬丈的深淵裡去找你的葬身地!
[這人形的鳥會有一天試他第一次的飛行給這世界驚駭,使所有的著作讚美,給他所從來的棲息處永久的光榮]啊!達文西!
但是飛?自從挨開拉斯以來,人類的工作是製造翅膀,還是束縛翅膀?這翅膀,承上了文明的重量,還能飛嗎?都是飛了來的,還都能飛了回去嗎?鉗住了,烙住了,壓住了,──這人形的鳥會有試他第一次飛行的一天嗎?……
同時天上那一點子黑的已經迫近在我的頭頂,形成了一架鳥形的機器,忽的機沿一側,一球光直往下注,硼的一聲炸響,──炸碎了我在飛行中的幻想,青天裡平添了幾堆破碎的浮雲。
(一九二五年十月六月)
故都的秋(郁達夫)
  秋天,無論在什么地方的秋天,總是好的;可是啊,北國的秋,卻特別地來得清,來得靜,來得悲涼。我的不遠千里,要從杭州赶上青島,更要從青島赶上北平來的理由,也不過想飽嘗一嘗這“秋”,這故都的秋味。
  江南,秋當然也是有的;但草木雕得慢,空气來得潤,天的顏色顯得淡,并且又時常多雨而少風;一個人夾在蘇州上海杭州,或廈門香港廣州的市民中間,渾渾沌沌地過去,只能感到一點點清涼,秋的味,秋的色,秋的意境与姿態,總看不飽,嘗不透,賞玩不到十足。秋并不是名花,也并不是美酒,那一种半開,半醉的狀態,在領略秋的過程上,是不合适的。
  不逢北國之秋,已將近十余年了。在南方每年到了秋天,總要想起陶然亭的蘆花,釣魚台的柳影,西山的虫唱,玉泉的夜月,潭柘寺的鐘聲。在北平即使不出門去罷,就是在皇城人海之中,租人家一椽破屋來住著,早晨起來,泡一碗濃茶、向院子一坐,你也能看得到很高很高的碧綠的天色,听得到青天下馴鴿的飛聲。從槐樹葉底,朝東細數著一絲一絲漏下來的日光,或在破壁腰中,靜對著象喇叭似的牽牛花(朝榮)的藍朵,自然而然地也能夠感覺到十分的秋意。說到了牽牛花,我以為以藍色或白色者為佳,紫黑色次之,淡紅色最下。最好,還要在牽牛花底,教長著几根疏疏落落的尖細且長的秋草,使作陪襯。
  北國的槐樹,也是一种能使人聯想起秋來的點綴。象花而又不是花的那一种落蕊,早晨起來,會舖得滿地。腳踏上去,聲音也沒有,气味也沒有,只能感出一點點极微細极柔軟的触覺。掃街的在樹影下一陣掃后,灰土上留下來的一條條掃帚的絲紋,看起來既覺得細膩,又覺得清閒,潛意識下并且還覺得有點儿落寞,古人所說的梧桐一葉而天下知秋的遙想,大約也就在這些深沈的地方。
  秋蟬的衰弱的殘聲,更是北國的特產;因為北平處處全長著樹,屋子又低,所以無論在什么地方,都听得見它們的啼唱。在南方是非要上郊外或山上去才听得到的。這秋蟬的嘶叫,在北平可和蟋蟀耗子一樣,簡直象是家家戶戶都養在家里的家虫。
  還有秋雨哩,北方的秋雨,也似乎比南方的下得奇,下得有味,下得更象樣。
  在灰沈沈的天底下,忽而來一陣涼風,便息列索落地下起雨來了。一層雨過,云漸漸地卷向了西去,天又青了,太陽又露出臉來了;著著很厚的青布單衣或夾襖曲都市閒人,咬著煙管,在雨后的斜橋影里,上橋頭樹底下去一立,遇見熟人,便會用了緩慢悠閒的聲調,微歎著互答著的說:
  “唉,天可真涼了─—”(這了字念得很高,拖得很長。)
  “可不是么?一層秋雨一層涼了!”
  北方人念陣字,總老象是層字,平平仄仄起來,這念錯的歧韻,倒來得正好。
  北方的果樹,到秋來,也是一种奇景。第一是棗子樹;屋角,牆頭,茅房邊上���灶房門口,它都會一株株地長大起來。象橄欖又象鴿蛋似的這棗子顆儿,在小橢圓形的細葉中間,顯出淡綠微黃的顏色的時候,正是秋的全盛時期;等棗樹葉落,棗子紅完,西北風就要起來了,北方便是塵沙灰土的世界,只有這棗子、柿子、葡萄,成熟到八九分的七八月之交,是北國的清秋的佳日,是一年之中最好也沒有的GoldenDays。
  有些批評家說,中國的文人學士,尤其是詩人,都帶著很濃厚的頹廢色彩,所以中國的詩文里,頌贊秋的文字特別的多。但外國的詩人,又何嘗不然?我雖則外國詩文念得不多,也不想開出賬來,做一篇秋的詩歌散文鈔,但你若去一翻英德法意等詩人的集子,或各國的詩文的An-thology來,總能夠看到許多關于秋的歌頌与悲啼。各著名的大詩人的長篇田園詩或四季詩里,也總以關于秋的部分。寫得最出色而最有味。足見有感覺的動物,有情趣的人類,對于秋,總是一樣的能特別引起深沈,幽遠,嚴厲,蕭索的感触來的。不單是詩人,就是被關閉在牢獄里的囚犯,到了秋天,我想也一定會感到一种不能自己的深情;秋之于人,何嘗有國別,更何嘗有人种階級的區別呢?不過在中國,文字里有一個“秋士”的成語,讀本里又有著很普遍的歐陽子的《秋聲》与蘇東坡的《赤壁賦》等,就覺得中國的文人,与秋的關系特別深了。可是這秋的深味,尤其是中國的秋的深味,非要在北方,才感受得到底。
  南國之秋,當然是也有它的特异的地方的,比如廿四橋的明月,錢塘江的秋潮,普陀山的涼霧,荔枝灣的殘荷等等,可是色彩不濃,回味不永。比起北國的秋來,正象是黃酒之与白干,稀飯之与饃饃,鱸魚之与大蟹,黃犬之与駱駝。
  秋天,這北國的秋天,若留得住的話,我愿把壽命的三分之二折去,換得一個三分之一的零頭。
  一九三四年八月,在北平
  
冬天(朱自清)
  說起冬天,忽然想到豆腐。是一“小洋鍋”(鋁鍋)白煮豆腐,熱騰騰的。水滾著,像好些魚眼睛,一小塊一小塊豆腐養在里面,嫩而滑,仿佛反穿的白狐大衣。鍋在“洋爐子”(煤油不打气爐)上,和爐子都熏得烏黑烏黑,越顯出豆腐的白。這是晚上,屋子老了,雖點著“洋燈”,也還是陰暗。圍著桌子坐的是父親跟我們哥儿三個。“洋爐子”太高了,父親得常常站起來,微微地仰著臉,覷著眼睛,從氤氳的熱气里伸進筷子,夾起豆腐,一一地放在我們的醬油碟里。我們有時也自己動手,但爐子實在太高了,總還是坐享其成的多。這并不是吃飯,只是玩儿。父親說晚上冷,吃了大家暖和些。我們都喜歡這种白水豆腐;一上桌就眼巴巴望著那鍋,等著那熱气,等著熱气里從父親筷子上掉下來的豆腐。
  又是冬天,記得是陰歷十一月十六晚上,跟S君P君在西湖里坐小划子。S君剛到杭州教書,事先來信說:“我們要游西湖,不管它是冬天。”那晚月色真好,現在想起來還像照在身上。本來前一晚是“月當頭”;也許十一月的月亮真有些特別吧。那時九點多了,湖上似乎只有我們一只划子。有點風,月光照著軟軟的水波;當間那一溜儿反光,像新砑的銀子。湖上的山只剩了淡淡的影子。山下偶爾有一兩星燈火。S君口占兩句詩道:“數星燈火認漁村,淡墨輕描遠黛痕。”我們都不大說話,只有均勻的槳聲。我漸漸地快睡著了。P君“喂”了一下,才抬起眼皮,看見他在微笑。船夫問要不要上淨寺去;是阿彌陀佛生日,那邊蠻熱鬧的。到了寺里,殿上燈燭輝煌,滿是佛婆念佛的聲音,好像醒了一場夢。這已是十多年前的事了,S君還常常通著信,P君听說轉變了好几次,前年是在一個特稅局里收特稅了,以后便沒有消息。
  在台州過了一個冬天,一家四口子。台州是個山城,可以說在一個大谷里。只有一條二里長的大街。別的路上白天簡直不大見人;晚上一片漆黑。偶爾人家窗戶里透出一點燈光,還有走路的拿著的火把;但那是少极了。我們住在山腳下。有的是山上松林里的風聲,跟天上一只兩只的鳥影。夏末到那里,春初便走,卻好像老在過著冬天似的;可是即便真冬天也并不冷。我們住在樓上,書房臨著大路;路上有人說話,可以清清楚楚地听見。但因為走路的人太少了,間或有點說話的聲音,听起來還只當遠風送來的,想不到就在窗外。我們是外路人,除上學校去之外,常只在家里坐著。妻也慣了那寂寞,只和我們爺儿們守著。外邊雖老是冬天,家里卻老是春天。有一回我上街去,回來的時候,樓下廚房的大方窗開著,并排地挨著她們母子三個;三張臉都帶著天真微笑地向著我。似乎台州空空的,只有我們四人;天地空空的,也只有我們四人。那時是民國十年,妻剛從家里出來,滿自在���現在她死了快四年了,我卻還老記著她那微笑的影子。
  無論怎么冷,大風大雪,想到這些,我心上總是溫暖的。
  (原載1933年12月1日《中學生》第40號)
白馬湖之冬
夏丏尊
在我過去四十餘年的生涯中,冬的情味嘗得最深刻的,要算十年前初移居白馬湖的時候了。十年以來,白馬湖已成了一個小村落。當我移居的時候,還是一片荒野,春暉中學的新建築巍然矗立於湖的那一面,湖的這一面的山腳下是小小的幾間新平屋,住著我和劉君心如兩家。此外兩、三里內沒有人煙。一家人於陰曆十一月下旬從熱鬧的杭州移居於這荒涼的山野,宛如投身於極帶中。
那裡的風差不多日日有的,呼呼作響,好像虎吼。屋宇雖係新建,構造卻極粗率,風從門窗隙縫中來,分外尖削。把門縫窗隙厚厚地用紙糊了,椽縫中卻仍有透入。風颳得厲害的時候,天未夜就把大門關上,全家吃畢夜飯即睡入被窩裡,靜聽寒風的怒號,湖水的洴湃。靠山的小後軒,算是我的書齋,在全屋子中是風最少的一間,我常把頭上的羅宋帽拉得低低地在油燈下工作至深夜,松濤如吼,霜月當窗,饑鼠吱吱在承塵上奔竄。我於這種時候,深感到蕭瑟的詩趣,常獨自撥劃著爐火,不肯就睡,把自己擬諸山水畫中的人物,作種種幽邈的遐想。
現在白馬湖到處都是樹木了,當時尚一株樹都未種,月亮與太陽卻是整個兒的,從山上起直要照到山下為止。在太陽好的時候,祇要不颳風,那真和暖得不像冬天。一家人都坐在庭間曝日,甚至於喫午飯也在屋外,像夏天的晚飯一樣。日光曬到那裡,就把椅凳移到那裡。忽然寒風來了,祇好逃難似地各自帶了椅凳逃入室中,急急把門關上。在平常的日子,風來大概在下午快要傍晚的時候,半夜即息。至於大風寒,那是整日夜狂吼,要二、三日才止的。最嚴寒的幾天,泥地看去慘白如水門汀,山色凍得發紫而黯,湖波泛著深藍色。
下雪原是我所不憎厭的。下雪的日子,室內分外明亮,晚上差不多不用燃燈。遠山積雪,足供半個月的觀看,舉頭即可從窗中望見。可是究竟是南方,每冬下雪不過一、二次,我在那裡所日常領略的冬的情味,幾乎都從風來。白馬湖的所以多風,可以說是有著地理上的原因的,那裡環湖原都是山,而北首卻有一個半里闊的空隙,好似故意張了袋口歡迎風來的樣子。白馬湖的山水,和普通的風景地相差不遠;唯有風卻與別的地方不同。風的多和大,凡是到過那裡的人都知道的。風在冬季的感覺中,自古占著重要的因素,而白馬湖的風尤其特別。
現在,一家僦居上海多日了,偶然於夜深人靜聽到風聲的時候,大家就要提起白馬湖來,說「白馬湖不知今夜又颳得怎樣厲害哩!」
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wangwill66 · 10 months
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寒士
H:以前「出身低微的讀書人,寒士」,現在寒士的另解,寒士(單媽、街友、社會邊緣人)。名詞隨時代而改變。20231206W3
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寒士
家境貧寒、身分卑微的人。《晉書.卷三七.宗室傳.高密文獻王泰傳》:「雖為宰輔,食大國之租,服飾肴膳如布衣寒士。」《儒林外史》第三六回:「你是個寒士,單學這些詩文無益;需要學兩件尋飯喫本事。」
基本釋義
[a poor scholar]∶出身低微的讀書人
大庇天下寒士俱歡顏。--唐. 杜甫《茅屋為秋風所破歌》
[poor people]∶貧困的人
詳細釋義
指衣單身寒的士兵。
《文選·潘岳<馬汧督誄>》:“霑恩撫循,塞士挾纊。” 李善 注:“ 左氏 傳曰: 楚子 伐 蕭 , 申公巫臣 曰:‘師人多寒。’王巡三軍,拊而勉之。三軍之士,皆知挾纊。”
魏 、 晉 、 南北朝 時稱出身寒微的讀書人。
《晉書·儒林傳·范弘之》:“下官輕微寒士,謬得廁在俎豆,實懼辱累清流,惟塵圣世。”《南史·袁粲傳》:“ 袁濯 兒不逢朕,員外郎未可得也,而敢以寒士遇物!”
多指貧苦的讀書人。
唐 杜甫 《茅屋為秋風所破歌》:“安得廣廈千萬間,大庇天下寒士俱歡顏。”《明史·海瑞傳》:“ 瑞 無子。卒時,僉都御史 王用汲 入視,葛幃敝籯,有寒士所不堪者。” 丁玲 《母親》四:“我呢,雖說可以自主些,我又是個寒士。我們想為國家盡一分力,說錢是沒有希望的。”
百科解釋
寒士,指出身低微的讀書人,泛指天下貧窮的百姓,也指指衣單身寒的士兵。語出《文選·潘岳》:“沾恩撫循,寒士挾纊。”
茅屋爲秋風所破歌
作者:杜甫 唐本作品收錄於《全唐詩/卷219》
八月秋高風怒號,卷我屋上三重茅。
茅飛度江灑江郊,高者掛罥長林梢,下者飄轉沈塘坳。
南村羣童欺我老無力,忍能對面爲盜賊。
公然抱茅入竹去,脣焦口燥呼不得,歸來倚杖自歎息。
俄頃風定雲墨色,秋天漠漠向昏黑。
布衾多年冷似鐵,嬌兒惡臥踏裏裂。
牀牀屋漏無乾處,雨腳如麻未斷絕。
自經喪亂少睡眠,長夜霑溼何由徹!
安得廣廈千萬間,大庇天下寒士俱歡顏,風雨不動安如山!
嗚呼!何時眼前突兀見此屋,吾廬獨破受凍死亦足!
新制布裘
朝代:唐代作者:白居易
同類型的詩文:言志
原文
桂布白似雪,吳綿軟于云。
布重綿且厚,為裘有余溫。
朝擁坐至暮,夜覆眠達晨。
誰知嚴冬月,支體暖如春。
中夕忽有念,撫裘起逡巡。
丈夫貴兼濟,豈獨善一身。
安得萬里裘,蓋裹周四垠。
穩暖皆如我,天下無寒人。
人安基金會
寒士吃飽30
30年來,我們以辦桌吃尾牙的方式服務了數十萬人次的寒士朋友,讓街友、獨居長輩、清寒單親媽媽、社會邊緣人等窮困的朋友,能在過年前感受一場溫馨的團圓飯。
寒士服務
無論城市多麼進步,都可以見到一群被漠視、被孤立的族群身影,居無定所,過著沒有「家」的生活,這些流落於社會邊緣的人,稱為「街友」。
創世基金會關注寒士(單媽、街友、社會邊緣人)。街友及社會邊緣人服務,對象
街友:無家可歸、夜間露宿街頭者。
社會邊緣人:未露宿卻生活困頓,可能成為街友的潛在人口
維基文庫
儒林外史◀上一回第三十六回 常熟縣真儒降生 泰伯祠名賢主祭下一回▶
  話說應天蘇州府常熟縣有個鄉村,叫做麟紱鎮。鎮上有二百多人家,都是務農為業。只有一位姓虞,在成化年間,讀書進了學,做了三十年的老秀才,只在這鎮上教書。這鎮離城十五里。虞秀才除應考之外,從不到城裏去走一遭,後來直活到八十多歲,就去世了。他兒子不曾進過學,也是教書為業。到了中年,尚無子嗣。夫婦兩個到文昌帝君面前去求,夢見文昌親手遞一紙條與他,上寫著《易經》一句:「君子以果行育德。」當下就有了娠。到十個月滿足,生下這位虞博士來。太翁去謝了文昌,就把這新生的兒子取名育德,字果行。這虞博士三歲上就喪了母親,太翁在人家教書,就帶在館裏,六歲上替他開了蒙。虞博士長到十歲,鎮上有一位姓祁的祁太公包了虞太翁家去教兒子的書,賓主甚是相得。教了四年,虞太翁得病去世了,臨危把虞博士託與祁太公。此時虞博士年方十四歲。祁太公道:「虞小相公比人家一切的孩子不同,如今先生去世,我就請他做先生教兒子的書。」當下寫了自己祁連的名帖,到書房裏來拜,就帶著九歲的兒子來拜虞博士做先生。虞博士自此總在祁家教書。
  常熟是極出人文的地方。此時有一位雲晴川先生,古文詩詞,天下第一。虞博士到了十七八歲,就隨著他學詩文。祁太公道:「虞相公,你是個寒士,單學這些詩文無益,須要學兩件尋飯喫的本事。我少年時也知道地理,也知道算命,也知道選擇。我而今都教了你,留著以為救急之用。」虞博士盡心聽受了。祁太公又道:「你還該去買兩本考卷來讀一讀,將來出去應考,進個學,館也好坐些。」虞博士聽信了祁太公,果然買些考卷看了。到二十四歲上出去應考,就進了學。次年,二十里外楊家村一個姓楊的包了去教書,每年三十兩銀子。正月裏到館,到十二月仍舊回祁家來過年。
  又過了兩年,祁太公說:「尊翁在日,當初替你定下的黃府上的親事,而今也該娶了。」當時就把當年餘下十幾兩銀子館金,又借了明年的十幾兩銀子的館金,合起來就娶了親。夫婦兩個,仍舊借住在祁家。滿月之後,就去到館。又做了兩年,積趲了二三十兩銀子的館金,在祁家傍邊尋了四間屋,搬進去住,只僱了一個小小廝。虞博士到館去了,這小小廝每早到三里路外鎮市上買些柴米油鹽小菜之類,回家與娘子度日。娘子生兒育女,身子又多病,館錢不能買醫藥,每日只喫三頓白粥,後來身子也漸漸好起來。虞博士到三十二歲上,這年沒有了館。娘子道:「今年怎樣?」虞博士道:「不妨。我自從出來坐館,每年大約有三十兩銀子。假使那年正月裏說定只得二十幾兩,我心裏焦不足,到了那四五月的時候,少不得又添兩個學生,或是來看文章,有幾兩銀子補足了這個數。假使那年正月多講得幾兩銀子,我心裏歡喜道:『好了,今年多些!』偏家裏遇著事情出來,把這幾兩銀子用完了。可見有個一定,不必管他。」
  過了些時,果然祁太公來說,遠村上有一個姓鄭的人家請他去看葬墳。虞博士帶了羅盤,去用心用意的替他看了地。葬過了墳,那鄭家謝了他十二兩銀子。虞博士叫了一隻小船回來。那時正是三月半天氣,兩邊岸上,有些桃花、柳樹,又吹著微微的順風,虞博士心裏舒暢。又走到一個僻靜的所在,一船魚鷹,在河裏捉魚。虞博士伏著船窗子看,忽見那邊岸上一個人跳下河裏來。虞博士嚇了一跳,忙叫船家把那人救了起來。救上了船,那人淋淋漓漓一身的水,幸得天氣尚暖,虞博士叫他脫了濕衣,叫船家借一件乾衣裳與他換了,請進船來坐著,問他因甚尋這短見。那人道:「小人就是這裏莊農人家,替人家做著幾塊田,收些稻,都被田主斛的去了,父親得病,死在家裏,竟不能有錢買口棺木。我想我這樣人還活在世上做甚麼,不如尋個死路!」虞博士道:「這是你的孝心。但也不是尋死的事。我這裏有十二兩銀子,也是人送我的,不能一總給你,我還要留著做幾個月盤纏。我而今送你四兩銀子,你拿去和鄰居親戚們說說,自然大家相幫。你去殯葬了你父親,就罷了。」當下在行李裏拿出銀子,秤了四兩,遞與那人。那人接著銀子,拜謝道:「恩人尊姓大名?」虞博士道:「我姓虞,在麟紱村住。你作速料理你的事去,不必只管講話了。」那人拜謝去了。
  虞博士回家,這年下半年又有了館。到冬底生了個兒子,因這些事都在祁太公家做的,因取名叫做感祁。一連又坐了五六年的館。虞博士四十一歲這年鄉試,祁太公來送他,說道:「虞相公,你今年想是要高中。」虞博士道:「這也怎見得?」祁太公道:「你做的事有許多陰德。」虞博士道:「老伯,那裏見得我有甚陰德?」祁太公道:「就如你替人葬墳,真心實意﹔我又聽見人說,你在路上救了那葬父親的人。這都是陰德。」虞博士笑道:「陰騭就像耳朵裏響,只是自己曉得,別人不曉得。而今這事,老伯已是知道了,那裏還是陰德?」祁太公道:「到底是陰德,你今年要中。」當下來南京鄉試過回家,虞博士受了些風寒,就病起來。放榜那日,報錄人到了鎮上,祁太公便同了來,說道:「虞相公,你中了。」虞博士病中聽見,和娘子商議,拿幾件衣服當了,託祁太公打發報錄的人。過幾日,病好了,到京去填寫親供回來,親友東家,都送些賀禮。料理去上京會試,不曾中進士。
  恰好常熟有一位大老康大人放了山東巡撫,便約了虞博士一同出京,住在衙門裏,代做些詩文,甚是相得。衙門裏同事有一位姓尤,名滋,字資深﹔見虞博士文章品行,就願拜為弟子,和虞博士一房同住,朝夕請教。那時正值天子求賢,康大人也要想薦一個人。尤資深道:「而今朝廷大典,門生意思要求康大人薦了老師去。」虞博士笑道:「這徵辟之事,我也不敢當。況大人要薦人,但憑大人的主意﹔我們若去求他,這就不是品行了。」尤資深道:「老師就是不願,等他薦到皇上面前去,老師或是見皇上,或是不見皇上,辭了官爵回來,更見得老師的高處。」虞博士道:「你這話又說錯了。我又求他薦我,薦我到皇上面前,我又辭了官不做:這便求他薦不是真心,辭官又不是真心。這叫做甚麼?」說罷,哈哈大笑。在山東過了兩年多,看看又進京會試,又不曾中。就上船回江南來,依舊教館。
  又過了三年,虞博士五十歲了,借了楊家一個姓嚴的管家跟著,再進京去會試。這科就中了進士,殿試在二甲,朝廷要將他選做翰林。那知這些進士,也有五十歲的,也有六十歲的,履歷上多寫的不是實在年紀﹔只有他寫的是實在年庚,五十歲。天子看見,說道:「這虞育德年紀老了,著他去做一個閒官罷。」當下就補了南京的國子監博士。虞博士歡喜道:「南京好地方!有山有水,又和我家鄉相近!我此番去,把妻兒老小接在一處,團圞著,強如做個窮翰林!」當下就去辭別了房師、座師,和同鄉這幾位大老。翰林院侍讀有位王老先生,託道:「老先生到南京去,國子監有位貴門人,姓武,名書,字正字﹔這人事母至孝,極有才情。老先生到彼,照顧照顧他。」虞博士應諾了。收拾行李,來南京到任,打發門斗到常熟接家眷。此時公子虞感祁已經十八歲了,跟隨母親一同到南京。虞博士去參見了國子監祭酒李大人,回來陞堂坐公座。監裏的門生,紛紛來拜見。虞博士看見帖子上有一個武書。虞博士出去會著,問道:「那一位是武年兄諱書的?」只見人叢裏走出一個矮小人,走過來答道:「門生便是武書。」虞博士道:「在京師久仰年兄克敦孝行,又有大才。」從新同他見了禮,請眾位坐下。武書道:「老師文章山斗,門生輩今日得沾化雨,實為僥倖。」虞博士道:「弟初到此間,凡事俱望指教。年兄在監幾年了?」武書道:「不瞞老師說,門主少孤,奉事母親,在鄉下住。隻身一人,又無弟兄,衣服飲食,都是門主自己整理。所有先母在日,並不能讀書應考。及不幸先母見背,一切喪葬大事,都虧了天長杜少卿先生相助。門生便隨著少卿學詩。」虞博士道:「杜少卿先生向日弟曾在尤資深案頭見過他的詩集,果是奇才。少卿就在這裏麼?」武書道:「他現住在利涉橋河房裏。」虞博士道:「還有一位莊紹光先生,天子賜他元武湖的,他在湖中住著麼?」武書道:「他就住在湖裏。他卻輕易不會人。」虞博士道:「我明日就去求見他。」武書道:「門生並不會作八股文章,因是後來窮之無奈,求個館也沒得做。沒奈何,只得尋兩篇念念,也學做兩篇,隨便去考,就進了學。後來這幾位宗師,不知怎的,看見門生這個名字,就要取做一等第一,補了廩。門生那文章,其實不好。屢次考詩賦,總是一等第一。前次一位宗師合考八學門生,又是八學的一等第一,所以送進監裏來。門生覺得自己時文到底不在行。」虞博士道:「我也不耐煩做時文。」武書道:「所以門生不拿時文來請教。平日考的詩賦,還有所作的《古文易解》,以及各樣的雜說,寫齊了來請教老師。」虞博士道:「足見年兄才名,令人心服。若有詩賦古文更好了,容日細細捧讀。令堂可曾旌表過了麼?」武書道:「先母是合例的。門生因家寒,一切衙門使費無出,所以遲至今日。門生實是有罪。」虞博士道:「這個如何遲得?」便叫人取了筆硯來,說道:「年兄,你便寫起一張呈子節略來。」即傳書辦到面前,吩咐道:「這武相公老太太節孝的事,你作速辦妥了,以便備文申詳。上房使用,都是我這裏出。」書辦應諾下去。武書叩謝老師。眾人多替武書謝了,辭別出去。虞博士送了回來。
  次日,便往元武湖去拜莊徵君,莊徵君不曾會。虞博士便到河房去拜杜少卿,杜少卿會著。說起當初杜府殿元公在常熟過,曾收虞博士的祖父為門生。殿元乃少卿曾祖,所以少卿稱虞博士為世叔。彼此談了些往事。虞博士又說起仰慕莊徵君,今日無緣,不曾會著。杜少卿道:「他不知道,小姪和他說去。」虞博士告別去了。
  次日,杜少卿走到元武湖,尋著了莊徵君,問道:「昨日虞博士來拜,先生怎麼不會他?」莊徵君笑道:「我因謝絕了這些冠蓋,他雖是小官,也懶和他相見。」杜少卿道:「這人大是不同,不但無學博氣,尤其無進士氣。他襟懷沖淡,上而伯夷、柳下惠,下而陶靖節一流人物。你會見他便知。」莊徵君聽了,便去回拜。兩人一見如故。虞博士愛莊徵君的恬適﹔莊徵君愛虞博士的渾雅。兩人結為性命之交。
  又過了半年,虞博士要替公子畢姻。這公子所聘就是祁太公的孫女,本是虞博士的弟子,後來連為親家,以報祁太公相愛之意。祁府送了女兒到署完姻,又賠了一個丫頭來。自此,孺人纔得有使女聽用。喜事已畢,虞博士把這使女就配了姓嚴的管家。管家拿進十兩銀子來交使女的身價。虞博士道:「你也要備些床帳衣服。這十兩銀子,就算我與你的,你拿去備辦罷。」嚴管家磕頭謝了下去。
  轉眼新春二月,虞博士去年到任後,自己親手栽的一樹紅梅花,今已開了幾枝。虞博士歡喜。叫家人備了一席酒,請了杜少卿來,在梅花下坐,說道:「少卿,春光已見幾分,不知十里江梅,如何光景。幾時我和你攜樽去探望一回。」杜少卿道:「小姪正有此意,要約老叔同莊紹光兄作竟日之遊。」說著,又走進兩個人來。這兩人就在國子監門口住,一個姓儲,叫做儲信﹔一個姓伊,叫做伊昭。是積年相與學博的。虞博士見二人走了進來,同他見禮讓坐。那二人不僭杜少卿的坐。坐下,擺上酒來,喫了兩杯。儲信道:「荒春頭上,老師該做個生日,收他幾分禮,過春天。」伊昭道:「稟明過老師,門生就出單去傳。」虞博士道:「我生日是八月,此時如何做得?」伊昭道:「這個不妨。二月做了,八月可以又做。」虞博士道:「豈有此理!這就是笑話了!二位且請喫酒。」杜少卿也笑了。虞博士道:「少卿,有一句話和你商議。前日中山王府裏,說他家有個烈女,託我作一篇碑文,折了個杯緞表禮銀八十兩在此。我轉託了你。你把這銀子拿去作看花買酒之資。」杜少卿道:「這文難道老叔不會作?為甚轉託我?」虞博士笑道:「我那裏如你的才情?你拿去做做。」因在袖裏拿出一個節略來遞與杜少卿,叫家人把那兩封銀子交與杜老爺家人帶去。家人拿了銀子出來﹔又稟道:「湯相公來了。」虞博士道:「請到這裏來坐。」家人把銀子遞與杜家小廝去﹔進去了。虞博士道:「這來的是我一個表姪。我到南京的時候,把幾間房子託他住著,他所以來看看我。
  說著,湯相公走了進來,作揖坐下。說了一會閒話,便說道:「表叔那房子,我因這半年沒有錢用,是我拆賣了。」虞博士道:「怪不得你。今年沒有生意,家裏也要喫用,沒奈何賣了,又老遠的路來告訴我做嗄?」湯相公道:「我拆了房子,就沒處住,所以來同表叔商量,借些銀子去當幾間屋住。」虞博士又點頭道:「是了,你賣了就沒處住。我這裏恰好還有三四十兩銀子,明日與你拿去典幾間屋住也好。」湯相公就不言語了。杜少卿喫完了酒,告別了去。那兩人還坐著,虞博士進來陪他。伊昭問道:「老師與杜少卿是甚麼的相與?」虞博士道:「他是我們世交,是個極有才情的。」伊昭道:「門生也不好說。南京人都知道他本來是個有錢的人,而今弄窮了,在南京躲著。專好扯謊騙錢。他最沒有品行!」虞博士道:「他有甚麼沒品行?」伊昭道:「他時常同乃眷上酒館喫酒,所以人都笑他。」虞博士道:「這正是他風流文雅處,俗人怎麼得知?」儲信道:「這也罷了﹔到是老師下次有甚麼有錢的詩文,不要尋他做。他是個不應考的人,做出來的東西,好也有限,恐怕壞了老師的名。我們這監裏有多少考的起來的朋友,老師託他們做,又不要錢,又好。」虞博士正色道:「這倒不然。他的才名,是人人知道的,做出來的詩文,人無有不服。每常人在我這裏託他做詩,我還沾他的光。就如今日這銀子是一百兩,我還留下二十兩給我表姪。」兩人不言語了,辭別出去。
  次早,應天府送下一個監生來,犯了賭博,來討收管。門斗和衙役把那監生看守在門房裏,進來稟過,問:「老爺,將他鎖在那裏?」虞博士道:「你且請他進來。」那監生姓端,是個鄉裏人﹔走進來,兩眼垂淚,雙膝跪下,訴說這些冤枉的事。虞博士道:「我知道了。」當下把他留在書房裏,每日同他一桌喫飯,又拿出行李與他睡覺。次日,到府尹面前替他辯明白了這些冤枉的事,將那監生釋放。那監主叩謝,說道:「門生雖粉身碎骨,也難報老師的恩。」虞博士道:「這有甚麼要緊?你既然冤枉,我原該替你辯白。」那監生道:「辯白固然是老師的大恩,只是門生初來收管時,心中疑惑,不知老師怎樣處置,門斗怎樣要錢,把門生關到甚麼地方受罪。怎想老師把門生待作上客。門生不是來收管,竟是來享了兩日的福!這個恩典,叫門生怎麼感激的盡!」虞博士道:「你打了這些日子的官事,作速回家看看罷,不必多講閒話。」那監生辭別去了。
  又過了幾日,門上傳進一副大紅連名全帖,上寫道:「晚生遲均、馬靜、季萑、蘧來旬﹔門生武書、余夔﹔世姪杜儀同頓首拜」。虞博士看了道:「這是甚麼緣故?」慌忙出去會這些人。只因這一番,有分教:先聖祠內,共觀大禮之光﹔國子監中,同仰斯文之主。畢竟這幾個人來做甚麼,且聽下回分解。
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wangwill66 · 1 year
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清朝首富財產清單
H:古人的寶藏清單,首推和珅。20230607W3
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查抄和珅家產清單
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查抄和珅家產清單 清
漚磯釣叟
1870年
姊妹計劃: 數據項
  欽賜花園一所亭□□台二十座新添十六座 正屋一所十三進共七百三十間 東屋一所七進共三百六十間 西屋一所七進共三百五十間 徽式新屋一所七進共六百二十間 私設檔子房一所共七百三十間 花園一所亭台六十四座 田地八千頃 銀號十處本銀六十萬兩 當鋪十處本銀八十萬兩號件未計
  金庫 赤金五萬八千兩
  銀庫 元寶五萬五千六百個 京錁五百八十三萬個 蘇錁三百一十五萬個 洋錢五萬八千元
  錢庫 制錢一百五十萬千文
  以上共約銀五千四百餘萬兩
  人參庫 人參大小支數未計共重六百斤零
  玉器庫 玉鼎十三座高二尺五寸 玉磬二十塊 玉如意一百三十柄 鑲玉如意一千一百零六柄 玉鼻煙壺四十八個 玉帶頭一百三十件 玉屏二座二十四扇
  玉碗一十三桌 玉瓶三十個 玉盆一十八面 大小玉器共九十三架未計件
  以上共作價銀七百萬兩
  另又 玉壽佛一尊高三尺六寸 玉觀音一尊高三尺八寸(均刻雲貴總督獻)
  玉馬一匹長四尺三寸高二尺八寸
  以上三件均未作價
  珠寶庫 桂圓大東珠十粒 珍珠手串二百三十串 大映紅寶石十塊計重二百八十斤 小映紅寶石八十塊未計斤重 映藍寶石四十塊未計斤重 紅寶石帽頂九十顆 珊瑚帽頂八十顆 鏤金八寶屏十架
  銀器庫 銀碗七十二桌 金鑲箸二百雙 銀鑲箸五百雙 金茶匙六十根 銀茶匙三百八十根 銀漱口盂一百零八個 金法藍漱口盂四十個 銀法藍漱口盂八十個
  古玩器 古銅瓶二十座 古銅鼎二十一座 古銅海三十三座 古劍二口 宋硯十方 端硯七百零六方
  以上共作價銀八百萬兩
  另又 珊瑚樹七支高三尺六寸 又四支高三尺四寸 金鑲玉嵌鐘一座
  以上三件未作價
  綢緞庫 綢緞紗羅共一萬四千三百匹
  洋貨庫 大紅呢八百板 五色呢四百五十板 羽毛六百板 五色嘩嘰二十五板
  皮張庫 白狐皮五十二張 元狐皮五百張 白貂皮五十張 紫貂皮八百張 各種粗細皮共五萬六千張
  以上共作價銀一百萬兩
  銅錫庫 銅錫器共三十六萬零九百三十五件
  磁器庫 磁器共九萬六千一百八十四件
  文房庫 筆墨紙張字畫法帖書籍未計件數
  珍饈庫 海味雜物未計斤數
  住屋內 鏤金八寶床四架 鏤金八寶炕二十座大自鳴鐘十座 小自鳴鐘一百五十六座 桌鐘三百座 時辰表八十個 紫檀琉璃水晶燈綵各物共九千八百五十七件 珠寶金銀朝珠雜佩簪釧等物共二萬零二十五件 皮衣服共一千三百件 綿夾單紗衣服共五千六百二十四件 帽盒三十五個帽五十四頂 靴箱六十口靴一百二十四雙
  上房內 大珠八粒每粒重一兩 金寶塔一座重二十六斤 赤金二千五百兩 大金元寶一百個每個重一千兩 大銀元寶五百個每個重一千兩
  以上均未作價
  夾牆內 藏匿赤金二萬六千兩
  地窖內 埋藏銀一百萬兩
  另又 家人六百零六名 婦女六百口
  尚有錢店古玩等鋪俱尚未抄
  《國朝野記》最少,即有之,多不著名氏,蓋恐涉筆不謹,致取咎戾,蹈《西征隨筆》等書覆轍耳。此書大概抄自邸報,亦不具名,於和珅未敗以前事概不書,即劉、馬二家人名俱逸之,殊為簡略。曾聞故友姚春木上舍(椿)云:「和珅性警敏,讀書不多,而能強記。初官拜唐阿,值高宗駕出,於輿中默誦《論語朱注》,偶不屬,垂問御前大臣,無以應,珅時提燈輿左,謹舉下文以對,即日擢侍衛,不數年,珅涉大僚。既貴,延吳白華(省蘭)諸公於家,日與講論今古,故於詩文亦粗解;有所作,私倩彭文勤(元瑞)、紀文達(昀)為之潤色,二公慮被齮齕,恆為捉刀;獨劉文清(墉)時與抗,人傳文清門庭清峻,而不知性喜詼諧,數以謔語刺珅,珅不能堪,飾詞以訴,高宗亦知二人不相洽,每以溫言解之。
  有傳珅元夕獄中作五律云:「夜色明如許,嗟余困未伸,百年原是夢,廿載枉勞神,室暗難���暮,牆高不見春,餘生料無幾,空負九重仁。」詩殊不佳,足覘其概。珅有寵妾長二姑,所稱二夫人者,珅引帛時,賦七律二章挽之,並以自悼云:「誰道今皇恩遇殊,法寬難為罪臣舒,墜樓空有偕亡志,望闕難陳替死書,白練一條君自了,愁腸萬縷妾何如?可憐最是黃昏後,夢裡相逢醒也無。」(其一)「掩面登車涕淚潸,便如殘葉下秋山,籠中鸚鵡歸秦塞,馬上琵琶出漢關,自古桃花憐命薄,者番萍梗恨緣艱,傷心一派蘆溝水.直向東流竟不還。」(其二)
  又傳有吳卿憐者,蘇人,先為平陽王中丞(亶望)妾,王坐事伏法吳門,蔣戟門侍郎(錫棨)得之以獻於珅��珅敗,卿憐沒入官,作絕句八章,敘其悲怨云:「曉妝驚落玉搔頭(正月初八日曉起,理鬟驚聞籍沒),宛在湖邊十二樓(王中丞撫浙時,起樓閣飾以寶玉,傳謂迷樓,和相池館皆仿王苑)。魂定暗傷樓外景,湖邊無水不東流。」(其一)「香稻入唇驚吐日(和處查封有方餐者,因驚吐哺),海珍列鼎厭嘗時(王處查封,庖人方進燕窩湯,列屋皆然,食厭多陳幾上,兵役見之,紛紛大嚼,謂之「洋粉雲」)。蛾眉屈指年多少,到處滄桑知不知?(其二)「緩歌慢舞畫難圓,月下樓台冷繡襦,終夜相公看不足,朝天懶去倩人扶。」(其三)「蓮開並蒂豈前因,虛擲鶯梭廿九春。回首可憐歌舞地,兩番俱是個中人。」(其四)「最不分明月夜魂,何曾芳草怨王孫。梁間燕子來還去,害殺兒家是戟門。」(其五)「白雲深處老親存,十五年前笑語溫、夢裡輕舟無遠近,一聲款乃到吳門。」(其六)「村姬歡笑不知貧,長袖輕裾帶翠顰。三十六年秦女恨,卿憐猶是淺嘗人。」(其七)「冷夜痴兒掩淚題,他年應變杜鵑啼。啼時休向漳河畔,銅爵春深燕子棲。」(其八)
  珅死時年未六十,先患足軟,每夜半生剝犬皮一,縛兩膝上,始入朝,雖盛暑不能去。
  又長樂梁芷林中丞(章鉅)《歸田瑣���》述珅事云:「和珅之敗,余適在京師,而尚未登朝,無由悉其罪狀,後二十年入軍機,乃從檔簿中得其梗概,與外間所傳頗無歧異,此本朝一大案,不可不 列之以為負國營私者戒也。嘉慶四年正月初四日,恭值純廟升遐,和珅方為總理大臣,意得甚。次日即有御史廣興疏發其罪,初八日奉旨拿問,下刑部,並下各直省督撫議罪,直隸總督胡季堂請依大逆律凌遲處死;並列其冀州城外墳塋前有石門樓,石門前開隧道,正屋五間,稱曰享殿,東西廂房各五間,稱曰配殿,大門稱曰宮門,外圍牆二百丈,圍牆外設堆撥,士人稱曰和陵;牆西房屋二百一十九間,定製,親王墳塋,圍牆不得過百丈,和珅倍之。籍其家,更多人臣不應有之物,於是始將其大罪二十,宣示中外。其宅中太監呼什圖,時稱內劉,籍其家亦十餘萬,且為其弟劉寶梧捐納直隸州知州,劉寶榆守備銜,劉寶杞州同銜,則和珅之貪縱狂妄,除大罪外,已難悉數。時大學士九卿文武大臣翰詹科道公擬罪名,奏上如胡議,上以時當諒暗,不忍使大臣棄市,乃令和珅自裁。尤可怪者,籍沒後,續查出真珠、朝珠一掛,訊其家人,言往往燈下無人時,私自懸掛,對鏡徘徊,窺其心又不僅封殖貪黷之可罪矣。其金、銀庫內帳及大櫃內珠玉等項雜物帳簿,有好女子四名掌管,每年太監羅玉持出查對一次;四女子名香蓮、蕙芳、盧八兒、雲香也。籍珅之家人劉全、劉陔、劉印、胡六家,除金銀外,當鋪八座,內監呼什圖家,得米麥谷豆雜糧一萬一千六十五石;時文安大城兩處被水,分給兩縣作為口糧籽種。又分和珅之第,半為和孝公主府,半為慶親王府。及嘉慶二十五年王薨,五月十五日,管府事阿克當阿代郡王(諱綿慜)呈出毗盧帽門口四座太平缸五十有四,銅路鐙三十六對,此皆親王所不應有之物,而和珅有之,且銅路鐙較大內所陳,尤為精緻,今分設於景運隆宗兩門外雲。」
  竊又聞之先君子云:「先王父牧寧羌時,有州人張某以守備罷歸,言其壯日充陝西撫轅巡捕官巡撫某令齎二十萬金饋和珅,投書數日,偵探不得耗,費銀五千餘,始見一少年麗服奴出,問白者黃者,某以銀對,奴顧左右收外庫,授一名柬,曰以此還報,答書另發矣,某意奴非司閽,即和珅心腹,或笑曰,此重珅耳,其心腹司閽,豈數千金能見顏色。是時天下承平久,物力殷富,獻媚者誇多爭勝,如以數萬金進,不值一盼也。籍沒時,人參多至六百餘斤,彼侈言胡椒八百石者,未免寒陋。然高宗、仁宗英明神聖,珅雖當國久,亦不能大肆威福,固不如唐之元載輩,並不敢如鰲拜之橫,僅能潛通信息,藉圖自肥而已。」錄前志竟,並識於此。時同治九年冬十一月漚磯釣叟識。
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