帰ってきた者
ザクザクと草を踏む。
少しずつ色付いた葉が風でお互いを擦り合わせて乾いた音を鳴らしている。随分と涼しくなったこの山も、秋模様になりつつある。
スーッと大きく息を吸うと、新鮮な空気が肺を満たすのがわかった。とても気持ちがいい。
「ヤスヒコ」
数歩先を進んだヒナギがこちらを振り向いた。杖を支えに、比較的いうことを聞くようになった足をゆっくりと動かし彼に近づく。私が後ろを付いてきているのを確認した彼は、再び獣道を前に進んだ。
「ヒナギ、どこに行くの」
「そうだな、この先に少し開けた景色のいい野原がある。そこで昼でも食おうか」
私はヒナギの右手にある風呂敷の中身を想像してへらっと笑うと、それに気づいたヒナギもによっと口元を上げた。
本日、晴天なり。最高の散策日和である。
暫く歩くとヒナギの言った通り開けた場所に出た。どっしりと構える大きな木があり、彼は今は枯葉をつけているがそれは見事な桜の木なのだというのを教えてくれた。
その木の根元に座ると、彼は風呂敷を開けながら私に手を出すように言われた。両手を差し出すとポンと白い握り飯が手渡された。私の手の大きさをゆうに超えるそれは少しだけ歪な形をしている。口に含むとほのかに塩っけがあり、噛めば噛むほど米特有の甘さが広がった。
「おいしい」
「そうか」
私が食べ始めるのを確認したヒナギも手に持っていた握り飯を一口食べた。うんと1回深く頷く所を見ると、今日も満足のいく味のようだ。
とても長閑だ。小鳥が合唱をして、雲はゆっくりと流れ、色付いた木葉が時々風に吹かれて踊る。気持ちよさに目を細めた。そのままぼうっと森の方を見ると、キラキラと何かが輝いているのが見えた。何かが反射しているのだろうかと思ったが、それにしては不規則だし、何しろ動いている。
ヤスヒコ、と声をかけられ私は再び彼を見た。握り飯に手を付けずただ先をぼんやりと見つめる私を心配したらしい。ヒナギにお昼の後に向こうの方に行きたいと伝えれば、何か見えたのかと聞かれた。なんて表現すればいいのか分からずまごついていたが、どうせ一緒に行くんだからそんなに今わざわざ説明しなくてもいい、と彼は笑った。
こくりと頷いて、握り飯を再び口に含み、そういえばまだ光ってるのだろうかと森に目を向けたが、いくら眺めても再び煌めくことはなかった。ううん、と首を傾げるも変わらない視界。狐に化かされたような気分だ。
まぁ後であちらの方に歩くのだし、今は別にいいかと、最後の一欠片を口の中にほおり投げた。
昼も食べ終わり、ヒナギの手を引いて森の中に入った。入ってみれば、先程彼が先導した所とは違い、何やら普通の森とは違う、何かがズレているような雰囲気に少しだけたじろいだ。
「ヤスヒコ、お前は一体何を見たんだ」
「なにか、キラキラしてるもの。いきものみたいに、うごいてた」
目の前で光るものが通った。ほら、今みたいにと彼の手を離し指さしたが、ヒナギの反応がない。後ろを振り向くと、濃い霧が出ていて彼の姿が見えなかった。
彼の名前を呼んで見たが返事がない。
……何かがおかしい。
気付けば辺り一面に霧が漂っていて、先も見えないような状態だった。
その中でポツポツと光るものや、ぼんやりとした鬼火のようなものが漂い、光の筋を作っている。
確かに、私が見たものだ。
攻撃してこないのを見ると悪いものではなく、ただ空中を漂っているだけのようだが、突然1人になったせいで心細い。逃げるように何歩か後ずさりすると、トンッと背中に何かがぶつかった。
もしかしたらヒナギかも。希望を胸にくるっと振り返ろうとしたその瞬間、
「ばぁ!」
突然、2本の大きな角が生えた逆さまの幼女の顔が私の鼻先に現れた。
喉がひきつり、悲鳴も出ない。驚いて腰を抜かすと、空中にふわりと浮かんだ彼女は悪戯っ子のようにケタケタと笑った。
「わぁ、とっても可愛い山の子がいる!」
「山の子……って私?」
「他に誰がいるの?」
「……ヒナギは?」
「あぁ、彼? ほんの少しだけ山を迷ってもらってるだけ! 心配しないで」
それよりもお話しましょうと馴れ馴れしく私の腕を取る彼女。見知らぬ人、いや妖のあまりの図々しさに少し顔を顰める。
「あ、その顔は私に誰って顔だな?」
違う。
「私はこの森の妖精! あー、名前はないからお隣さんって呼んで」
「……おとなりさん?」
「そう、お隣さん。私達は山の中に、水の中に、里の中に、そして人の隣に閴暮らす悪戯好きなお隣さん」
サクかな。
「多分君の想像しているそれは違う子かなぁ……」
「なんでわかった」
「いや、君結構顔に出やすいよ。しっぽも揺れてるし」
そう指摘され、私は気まずそうに横を向いた。すると、ふわふわと私の周りを漂うだけだった筈の光の粒が、いくらか増えているのに気づいた。いくつかは私にくっ付いたりしたかと思えば離れたりと、不思議な動きをしている。嫌な感じは、しない。
「ふふ、君はとても精霊に好かれてるんだね」
「精霊……?」
私が不思議そうにしているのを感じ取ったのか、光の粒を指さした。
彼女曰く、精霊とはこの世に溢れる力の元で、生命そのもの。本能で生き、理性はもちあわせておらず、ただそこに在るだけのもの。場所によって増減し、特にこの山は神殺しの一件で、激減したことがある。
「精霊が突然激減すると、精霊を糧とする私たち妖精は存在が出来なくなるの。漸く山が立ち直ってきたってツグモネから聞いたから帰ってきたんだよ」
だいぶいい空気になったと、大きく息を吸った後、彼女は勢いよく私の腕をぐいっと引っ張った。前のめりになった体のまま、何をするんだと避難するように目前で浮いている彼女を睨めば、きししっと歯を見せ笑い、まるで森の奥へ奥へと誘っているかのように何度も腕をくいくいと引っ張る。
「この先に私たちの仲間がいるの。一緒に遊ぼう」
「だけど、ヒナギが」
「大丈夫大丈夫、彼が迷ってる間だけ! そんなに遠くないよ。それに今から行くところはこの山の中でも特別な場所なんだよ、気にならない?」
そう言われると気になってしまう。彼女の仲間がもっと居る。そして山の中でも特別な場所。好奇心が疼くのを感じ、けれどヒナギに対しての申し訳なさも感じてきゅっと握り拳を作った。
――ちょっとだけ。そう、ちらっと見て帰ればいい。あわよくば話も聞きたいけど、ちょっとだけ。
結局誘惑に負けた私は、ゆっくりと彼女の誘導を頼りに奥へと歩みを進めるのであった。
霧はどんどん深くなっていく。
あんなに美しく色づいていた筈の木の葉も、この霧の中では見えない。が、幸い、行先が先なのか精霊が先ほどよりも多く、ぼんやりとした視界の中光がゆらゆらと浮かんでは消え、震え、飛び回り、跳ねる光景は幻想的でもあった。
前で私の手を引っ張る彼女は随分とおしゃべりで、その口が止まることは無い。私は口下手であまり話すのが得意でないからほとんど聞くだけだったが。
そういえばどこに行くんだろうと、彼女に聞いてみたが、彼女はとっても楽しい場所としか答えない。
かなり歩いただろうか。最早先の道は見えず、夜のように暗い。精霊のおかげで所々はゆらゆらと蠢く異次元の光に照らされているが、それでも見えづらいのは変わりなく、私の手を握る彼女を頼りに進むしかない。
そんな中、ふと彼女の足が止まった。
「ねぇ、もしこの先あらゆる苦しみや悩みから解放されて、気ままに自由に楽しく生きられるとしたら、君はどう思う?」
「どういう、こと」
彼女がゆっくりとこちらを向いた。紅葉のごとく紅い瞳が暗闇の中でゆらゆらと怪しく揺れた。
「記憶もなく、傷だらけ。足はまともに動かないし、それに人間にも妖にもなりきれない。可哀想な可哀想な、山の子、我らの子」
掴まれている手から何かが這い上がってくる感触がして目線を手の方に向けると、彼女の手はいつの間にか木の根に変化し、私を飲み込まんとしている。木の根が太いからか、振りほどこうにも振りほどけない。地面から生えてくる植物は私の足に絡みつき、身動きを取らせないようにしている。
彼女の細い指が私の頬を撫でる。嬌笑を浮かべて迫ってくる彼女は美しいが恐ろしい。
「さぁ、私の目を見て。そして連れて行ってと一言だけ言えば、君は全てから解放される。自由になれる。
私たちと一緒に山へ帰りましょう、ねぇ?」
最早私の体は草木に絡め捕られ動かない。
私は彼女の視線から逃げるようにしてぎゅっと目を瞑った。
苦しみもなく、悩みもないだなんて。どれだけ素晴らしい世界だろう。
それでも、私は……――。
ゆっくりと目を開け、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。
期待心からか、彼女瞳をさらに煌めかせて私を見つめ返した。
その様子を見て、私は口元を少し上げて、彼女に告げる。
「わたしは、行かない」
「どうして? 君はとっても辛いんでしょう? そんな状況から抜け出せるというのに?」
意味が分からない様子で、彼女は首を傾げた。絶えずその瞳は誘惑するかのようにゆらゆらと輝いている。
「たしかに、辛いことのほうがおおい。きおくはないし、ちゃんとあるけないし、にんげんなのか、あやかしなのかもよく分からない。先がみえなくて、こわいときもある。だけど、わたしはおもってるよりも、この生活をたのしんでる。わたしは何も知らないから、見えるものすべてが、あたらしくて、きれいで、うつくしくて、それに……」
少しだけ、今度は軽く瞼を閉じる。脳裏で風に揺れる緋色が揺れた。
「わたしは、まだあの人のとなりにいたい」
「……怪我が��るまでなのに? その後はどうなるかわからないのに?」
「それでも。……それに、わたしはまだ、あの人になにもしてあげられてないから」
苦笑いを零すと、目の前の彼女はやはり理解できないのか困ったように眉を顰め、今度は反対側に首を傾げた。
「やっぱり人間って変」
「そう……?」
「そうだよ、どうして辛い所にずっといようとするの」
「ツグモネも同じこと言ってた……なんでだろう、わたしにも分からない」
「変なの」
普通なら苦しい事とか辛いことから逃げたいって思うでしょ~、とそうぼやいた彼女は私自身に絡みついていた草木をほどいた。私は自由になった両手と両足を軽く揺らした。うん、痛くない。大丈夫。
「ヤスヒコ!」
私の後ろから聞きなれた力強い低い声が響いた。パッと後ろを振り向く。
少し離れた場所から、精霊の光を帯びつつこちらへ向かってくる大柄な人間。
「……ヒナギッ!」
言う事の効かない足を必死に前へ動かし、彼の元へ飛び込んだ。ぎゅっと私を抱きとめた彼の胸元に顔を擦り付ける。あぁ、安心する匂いがする。
「すまない、少し探すのに手間がかかった」
ふるふると首を振る。そんな私の頭を軽く撫で、ぐっと抱き上げた。
「森の妖精の一人か。悪いがこいつをお前さんらに渡すつもりはない」
「そのようだね。ざーんねん、熊みたいに強い保護者が来ちゃったし、打つ手なしか。ま、今回は諦めることにするよ」
「今回は、か」
「山の子が辛い思いをするのは嫌だもの。逃げ場を作ってあげるのは大切でしょ?」
「一生出てこれん逃げ場か」
「一生辛い思いをしてここで生きるよりは、あちらに行って生きるほうがいいもの……断られちゃったけどね」
残念そうに溜息を吐き、彼女はふわりと空中へ浮いた。
向こうのほうで、なにやら騒がしい声が聞こえる。笑い声だろうか。それと何かを呼ぶ声だ。よく見ると、木々の間から光が漏れているのが見えた。恐らく精霊の光だが、沢山いるのか非常にまばゆい。
「あーあ、呼ばれちゃった。私もう行かなきゃ。連れて帰れなかったって言ったらなんか言われるだろうなー」
「え」
「ヤスヒコ、気にしなくていいぞ」
「そう、気にしなくていいの。
……ねぇ、君。もしこれから先逃げたくなったら私たちを呼んでね。いつでも君をあっちに連れて行ってあげるから。私たち山に住まう妖精はいつだって君の味方だよ」
私の方へ飛んできて、両手で頬を優しく挟んで彼女は笑いかけてきた。そして軽く額に口付けを落とすと光のほうへ飛び立とうとする。
そんな彼女の手を私はとっさに掴んだ。びっくりした様子で紅い目を見開く彼女。これだけは伝えておかねば。
「おとなりさん。わたし、かわいそうな子じゃないよ」
「!」
「だってわたし、今がとっても、たのしいから」
零れ落ちそうなくらい見開かれた瞳が、ゆっくりと元の形に戻る。にんまりとした笑みを作った彼女は「君がそう言うなら」、と一言そう言って、勢いよく光の向こう側へと飛んで行った。すると光が消えると同時に精霊がパッとはじけ、あたりに散らばった。
暗闇の中できらきらと光りながら浮かぶ精霊たちは、まるで夜空に光る星のようだった。
精霊の光が見えなくなったころ、徐々に元の景色が見えてきて、最後には赤黄橙と葉にお化粧をした森の姿へと戻った。
思ったよりもあの不思議な空間に長くいたのか、それとも時間の流れが違う所にいたのかは定かではないが、朝早くに家を出たはずなのに何時の間にか日は大きく傾いており、目に入ってくる西日が眩しい。酷使してしまった足はもう使い物にならず、大人しくヒナギに抱き上げてもらい、帰路を辿っている。
「おとなりさんは、わたしをどこにつれて行くつもりだったんだろう」
「彼らが住まう世界だ。……確かにあちらには苦しみも何もないというが、そもそも時間の流れが違うからな、人間がそこで生きるには姿かたちを変えねばならん……帰ってこれなくなるというのはそういう意味でもあるんだ」
「でも、どうして」
「単純にお前さんを助けたかったんだろうよ。彼女達なりの親切心だ。あいつらは山を大事にする者に対しては優しいからな。お前さんはその尻尾のせいかどうかは定かではないが、山の気を多く体に含んでいるようだし……まぁ、そういうことだろう」
私は歩くたびに振動で揺れる自身の尾に目をやった。ツグモネによれば山の主とそっくりだというそれ。今回の事といい、何かとても重要なもののようだが、やはり思い出そうとするとその先は誰かに黒く塗りつぶされたかのように思い出せない。
ここの山主がもし生きていたなら、私の問題なんか直ぐに解けていたろうに。
そんな叶いもしないような事を思いながら、私はヒナギの肩に顔を傾けた。
「だが、あいつらも悪気はないんだ。許してやんな」
「ん、わかってる」
「しかし見つけるのに苦労した。いや、その前にちゃんとヤスヒコの手を離さず握っておけって話だな。俺が迂闊だった」
「だいじょうぶ、きにしないで。……そういえば、どうやってわたしをみつけたの」
「ん? んー……秘密だ」
ニッと笑ったヒナギは、私をもう一度抱きなおし、あやすようにぽんぽんと背中をたたいた。
疲労が溜まっていたせいか睡魔が襲ってきたのはその後直ぐで。
少しはぐらかされたような気もしたが、私はそのまま彼に身を任せるようにして目を瞑った。
瞼の裏で、あの暗闇の森の中でみた精霊の幻想的な光がきらきらと瞬いた。
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連作:小学生審神者と刀たち
第参話「蜂須賀、主にとある進言をせし事」4
それより二週間後。ついに大改装の時がやってきた。住人たちはこの日に備え、暇を見つけては荷造りを進めたが、なかなかどうして大変な手間であった。
この本丸が稼働してから一月が経とうとしているのだ。ヒトとして生きていくには何かと物が必要だ。程度の差こそあれど私物はそれなりに増えている。
すべての荷の梱包を終えたのは当日の朝のこと。当然ながらさあこれで一段落、とはいかない。屋敷の外へ荷を運び出す作業が待っているのだ。
家事を担う式神たちの手も借りながら、風呂敷や段ボール箱に詰め込まれた品々をすっかり庭先に運び出したときには午近くになっていた。ここから先は、審神者の仕事である。
屋敷の庭に立つ少女の前には、新屋敷の小型模型が立体投影されていた。デフォルト設定の屋敷をいったん霊子にまで分解し、設計図に沿って再構築するのだ。
今日の彼女はいつもの白衣緋袴の上に無地の千早を重ねている。本来は奉納舞に用いる衣装であるが、この場では審神者の霊力を高め、霊子操作を補助するために小道具として機能する。くわえて左手には榊の枝に紙垂(しで)をとりつけた大幣(おおぬさ)を、右手には神楽鈴を携えていた。
練度の高い審神者は祝詞や祭具が無くとも霊子を操ることができるというが、少女の技量にはまだまだ不安がある。ゆえに、できる限り神職の正装に近い装身具が用意された。
特別な装束を身につけた少女は深く長く息を吐いた。大仕事を前に、緊張していないと言えば嘘になる。それでも、あの日、蜂須賀虎徹を顕現させた折の様な不安は無い。静かに精神を統一し屋敷を構成する霊子を少しずつ収束する。その中には、馴染み深い刀剣たちの気配が混じっていた。
少女の第六感は、彼らの痕跡を様々な色彩を放つ光の粒子として知覚する。この金色のは蜂須賀虎徹、白銀のは五虎退、桃色は宗三左文字・・・・・・。それらの粒子一つ一つに、ここで過ごした彼らのとの記憶が宿っている。
いつしか少女は微笑���を浮かべていた。大丈夫、みんなの気配が背中を押してくれている。
屋敷の輪郭が徐々に薄くなり、両手の祭具に宿る霊子が濃度を増していく。薄眼を開けて手首を返す。右手の神楽鈴が立てるシャリンという澄んだ音が辺り一面に響きわたった。その鈴音に導かれて、収束した霊子が分散し、新しい形に再構成されていくーー。
どれほどの時間が経っただろうか。少女が肩から力を抜いたとき、一同の前には前庭をそなえた屋敷が姿を現していた。
その屋敷は、正面から眺めると乳白色の化粧煉瓦が美しい洋館に見える。玄関には優美なアーチを描く白いドア。その上部にはステンドグラスが嵌め込まれている。向かって右手にあるテラスが目を引く。大きな窓が温室を連想させるのだ。
洋館部分は主に審神者の執務や本丸の管理、訪問者の接待といった公的な目的に利用する。山伏国広と、それに続くであろう者たちの為に設けたフィットネルームもこちらだ。鳴狐が希望した娯楽室もある。半地下にせり出す広間に、書架のみならず机やソファを並べたそこは、もはや図書館に近い。
この洋館の裏手に回れば数寄屋風の家屋が見える。こちらは主屋であり、少女や刀剣たちの居住空間だ。坪庭を囲む板張りの廊下で繋がれた造りを採用した。中庭に面した硝子戸や、幾何学的に組まれた木枠が、どこかモダンな風情を感じさせる。宗三の様に料理を好む者のために設けた大厨房と食堂はこの主屋に設けた。
実はこの主屋、和室と洋間が混在している。そのうちの一室、マントルピースのあるホールは以前の大座敷に代わる会議室だ。大浴場とは独立したタイル張りのバスルームもある。少女の居室は主屋三階の洋間だが、刀剣たちの居室は和室と洋間を同数用意した。南に面した部屋を選べば、以前と変わらぬ知泉回遊式庭園を望むことができる。
浮島の「ゲート」や、楠の大樹、そして未だ使用されたことのない茶室も据え置きだ。鍛刀部屋と道場は、利便性を考慮して、屋敷から独立した別棟として設置した。ことばもなく立ち尽くす一同を前に、近侍として主の相談に乗っていた蜂須賀虎徹が口を開く。
「皆の要望を考えると、和式と洋式の意匠を兼ね備えた屋敷がいいのではという話になってね」
この屋敷を作り出した張本人である少女は、『気に入ってもらえましたか?』 と書かれたページを開き、そろそろとスケッチブックを頭上に掲げた。その目はぎゅっとつむられている。
刀剣たちの反応を見るのが少女には殊更おそろしい。みんなの顔に失望が浮かんでいたらどうしよう? 蜂須賀には「サプライズの楽しみは大切だ」と説得されたけれど、やっぱり断りを入れておくべきだったのではないか。そんな疑念と不安に、少女は身を縮こませる。
けれどもいつまで経っても誰の声も聞こえてこない。さすがにこれは・・・・・・反応が鈍すぎる。何かあったのかと不審に思った少女がついに顔を上げようとしたそのとき、不意に何か柔らかいものが胸元に跳びついてきた。驚いて目を見開けば、そこには鳴狐のお供の姿。
「すばらしいです!主さまぁ!」
「これは面白い。予想外だ。最高」
混乱する少女の前にキツネの主人がいつの間にか現れて、彼女髪をくしゃくしゃにかきまぜる。先手をとられた堀川国広は、「抜け駆けはずるいですよ!」と叫びながら駆け寄ってきた。
「粋なお屋敷ですね! 兼さんも山姥切の兄弟もきっと気に入ってくれます。ありがとうございます」
真正面からの賛辞を捧げられて少女は耳まで赤くなった。次にやってきたのは五虎退と虎たち。頬を紅潮させた五虎退が 「主様! すごいです!」と喝采を上げれば、虎たちが歓声をあげながら跳びついてくる。それに対抗心を燃やしたキツネも加わって、少女は彼らに揉みくちゃにされた。
助けを求めて蜂須賀を見やっても、彼は悪戯に成功した子どもの様な笑顔で微笑むばかり。あれは駄目だ、助ける気がまるでない。「覚えてなさい」と唇を動かせば、彼はやれやれと肩を竦めて見せた。
興奮冷めやらぬ獣たちから少女を助け出してくれたのは山伏国広だった。軽々と少女を抱き上げた彼は「主殿、お見事!」と言ってニッと微笑んだ。その野性的な外見を裏切る繊細な動きで芝の上に降ろされた少女の前に、宗三左文字が現れる。物憂げな目をわずかに緩めて、青年は口を開いた。
「誰にも文句などはつけさせませんよ。あなたはよく頑張りました」
柔らかな声音で告げられたことばに、少女の目が潤んでいく。コクコクと何度も首を縦に振る彼女は、無意識に彼の袖を摘まんでいた。宗三左文字はそれを咎めない。彼はよく知っているのだ。少女が表にはしなかった葛藤を。刀剣たちの為に苦心した時間を。
最後にやってきた蜂須賀虎徹は主の涙に気づかぬ振りで、「さあ、屋敷の中を見せようか!」と一同に呼びかけた。少女の周囲から賑やかな歓声が上がるなか、蜂須賀の温かな手が肩に添えられた。ーーわたしの神様たちは、こんなにも優しい。
ーーー
荷運びも終わり、皆が新しい居室にに落ち着いた頃。荷ほどきにいそしむ刀剣たちとは裏腹に、主たる少女は新たな自室で大きな溜息を吐いていた。
審神者に就任するまでずっとマンション住まいだったから、居室兼寝室であるこの部屋は洋間にした。木製のベッドに、作業机、鏡台、クローゼット。小ぶりのソファ。センスのよい壁紙やカーテンは蜂須賀の手によるものだ。
この居心地の良い部屋には何の不満も無い。少女の眉を曇らせるのは、ベッドの上に広げたワンピースだ。この、見るからに仕立ての良いお洒落着を、これらから身につけなければならない。それがどうにも憂鬱で仕方が無い。
着飾った主を真ん中にして、新しい屋敷の前で記念撮影をする。それが蜂須賀虎徹の願いなのだ。
審神者に支給される白衣とあくまで袴は新人向けの装束であって、常日頃から着用を義務づけられている訳ではない。神楽鈴や大幣と同じく、 文字通り審神者という役職に「形から入る」ための装置なのだ。練度が上がればこうしたお膳立ても必要がなくなる。
顕現の様な神経を使う儀式は別として、今の少女にはこの装束を纏う必要も義務もない。けれども、彼女はこれまで、ただの一度も私服を身につけた試しはなかった。
そんな主に、蜂須賀は「この機会に俺の見立てた衣装を着て欲しい」とねだったのだ。もちろん、日頃から蜂須賀を頼みにしている少女が断れないと知った上で、だ。
少女は蜂須賀の言うところの「お仕着せ」に身を包むことに抵抗はない。むしろ今まで袖を通したこともない類の可愛らしいワンピース、こちらの方がよほどハードルが高い。鏡の前で何度か体に当てたはしたものの、すぐにベッドに放り出した。事の発端となった蜂須賀の提案が恨めしい。他ならぬ彼の頼みでなければ絶対に却下していた。だって、まるで似合う気がしないのだ。
審神者に就任する前、俗世では母親が選んだ服を疑うこともなく身につけていた。服だけではない。ペンケース、ノート、食器、鞄、靴、ありとあらゆる日用雑貨すべては母の趣味によるものだった。髪型も同じだ。いつもショートカットに髪を整えていた。顎にまで毛先が伸びてくると美容院に連れて行かれた。彼女の頭には、娘に好みを尋ねるという選択肢は無いようだった。
お母さんが今のわたしを見たらきっと怒るだろうなと、少女はぼんやり考える。あの人はわたしが女の子らしい装いをすることを嫌がっていたから。少女は陰鬱な思考を放棄して、ぺたんと尻もちをつく。ベッドに広がるワンピースの柄をじっと見つめていた。
「・・・なんです、そんなところに座り込んで」
何の前触れもなく降ってきた艶のある声に、少女は大いに狼狽した。驚いてふり仰げば、そこには物憂げな雰囲気をまとう青年、宗三左文字が建っていた。
身振り手振りでなぜノックをしなかったのかと抗議をする少女は、何度もドアを叩いたが返事は無く、そのうえ最初からドアは開け放たれていたと言われてがっくりと肩を落とした。「床に座り込んで宙を眺めている主の姿を見たら、心配にもなります」と告げる彼のことばは、まったくの正論だ。反論の余地も無い。
ぐうの音も出ない立場に置かれた少女は、潔く降伏することにした。宗三にソファを勧めて、自らも備え付けの椅子に腰掛ける。妖艶な青年は遠慮なくソファに沈み、長い足を組んだ。海外誌のトップを飾るモデルのように様になっている。美しい。
『何のご用ですか?』
「皆、新しい部屋に落ち着きました。気の早い連中は荷ほどきを終えて玄関先に出ていますよ」
宗三の言に驚いて柱時計を見れば、新居に足を踏み入れてから優に二時間が経っている。想像以上に長い時を呆けたままに過ごしていたようだ。
「主は女性ですから、支度には時間がかかるだろうと噂していましたけれど、何となく気がかりで」
「……」
足を組み替えた宗三左文字は、ベッドに投げ出されたままのワンピースを 流し目で見遣る。ペパーミントグリーンの、愛らしいそれ。
「なるほど。あなたの気鬱の原因は、アレですか」
見事に頭痛の種を言い当てられた少女は目を丸くする。蜂須賀以外の刀たちには、身支度を調えてから記念写真を撮るとだけ説明している。この本丸に就任してより初となる洋装を披露することは知らせていない。塞ぎ込む少女とワンピースを結びつける手掛かりはなかった筈だ。そんな少女の反応を見た宗三の顔には「腑に落ちた」と書いてある。
「それで? 何がご不満なんです? わが主様は」
不機嫌さを隠そうともしない宗三の態度に少女は抵抗する気力を失った。蜂須賀にも告げていない想いを、のろのろと文字にする。
『この服は、わたしには、にあわないです。髪も、ずいぶん伸びちゃった』
「まだ袖を通してもいないのに、なぜわかるんです」
にべもない青年の言に少女は黙り込む。ギュッと袴を握り込み、無言を貫く主の姿を前にして、宗三は盛大な溜息をついた。
駄目だ。刀剣たちの前では気を張って、主人らしくふるまおうと務めてきたのに。今日はどうも旗色が悪い。これではまるで駄々をこねている様だ。この胸の内には重苦しい感情が渦を巻いているのに、ちっとも伝えられやしない。
「そうですね。これを纏った姿が好ましいか否か。それはあなたが決めることです。第三者の意見はどうであれ」
「・・・・・・?」
主の態度に苛立ちを隠そうともしない宗三が言い放ったのは、幼い主の意向を尊重することばだった。しかし目を見ればわかる。理屈としては納得しても彼の感情��そうではない。事実、彼が続けたのは少女の懊悩を否定することばだった。
「これはあくまで僕個人の意見ですが、なかなか良いと思いますよ。そのワンピース」
『そうかな』
「ええ、そうですとも」
『でも、無理に着せようとはしないんですね』
「それは僕の主義に反しますから」
主たる彼女にこうまで歯に衣着せぬ物言いをするのは、今のところ宗三左文字くらいだ。その嫋やかな出で立ちに反して、少女が顕現させたこの打刀は直情的で血の気が多い。
実を言えば、そんな率直な言動を見せる彼のことを少女は少しばかり羨ましく思っている。だからだろうか。気がつけば、言わずにおこうと決めていた疑問を口にしていた。
『宗三、あのとき、どうして本当の願いごとをいわなかったの』
「おや、どうしてわかったんです」
『宗三の嘘はわかりやすいです』
「あなたも言いますね」
ふぅ、と細く長い息を吐き出して、宗三左文字は天を仰いだ。もしも映画であったなら、ここは主演俳優が優雅に紫煙をくゆらせる場面だ。
「僕の本当の願いは、誰かに頼んで叶えられる類のものじゃありませんから」
『宗三は、カゴの鳥でいるのはいや?』
「ええ、あなたと同じ様に」
向かい合う二人の間に沈黙が落ちる。主従は互いの目をじっと見つめた。そこに甘やかな空気などは微塵も無い。殺気すら感じさせる無言の応酬の後で、先に動いたのは宗三左文字の方だった。
「あなたも、この本丸という籠から出ることはできないのでしょう?」
「・・・・・・」
「そんな風に睨まずとも、無理に事情を聞き出しやしませんよーーあなたが僕に踏み込んでこない限りは、ですが」
この辺りが話を切り上げる頃合いだと考えたのだろう。胸に渇望を秘めた青年は「そろそろ失礼します」と口にして腰を上げた。少女はそれを黙って見送る。ドアノブに手をかけた宗三はしかし、そこで主の方へ振り返る。
「髪が気になるなら、堀川国広にでも頼むことです。くれぐれも僕に切ってくれなんて言わないでくださいね。僕らは刀の付喪神であって、鋏じゃないんですから」
脈絡の無い宗三の発言に、少女は首を傾げる。彼の意図を理解するまでには数秒を要した。・・・・・・思い返せば、彼に何が気にくわないのかと尋ねられたとき、この服と髪に違和感があると答えた。あれは話の枕だとばかり思っていたが、違ったようだ。
確かに、自分で髪を切る自信はないから、誰かに頼もうとは考えていたけれど。 髪が話題にのぼった時からずいぶん間が空いている。なぜ今頃になってわざわざ蒸し返す必要があったのか。
そん��疑問が顔に出ていたのだろう。少女の訝しげな態度を前にして、宗三左文字は憂鬱そうに呟いた。
「写真を撮るというから前髪を少しばかり整えてみたら。見て下さい、この様です」
そう言って彼が持ち上げた一房は、言われて見れば実にざんばらだった。真面目くさった声音のまま「どうやら僕は、思っていたよりも不器用だった様です」と悲し気に呟いた。
その情けない表情と先ほどまでの傲岸な彼の落差たるや。少女は思わず吹き出した。肩を震わせる主に、そんなに笑うことはないでしょうと拗ねて見せるものだから、ついに少女は腹を抱えた。
もしも声が出せていたなら大声で笑っていただろう。先ほどまで張りつめた空気はすっかり緩んで、霧散していった。泣き笑いをしながら少女は悟る。
宗三左文字は彼なりに気をつかってくれたのだ。彼の言うとおり、ひどく不器用なやり方で。
少女は乱れた呼気を整えながら、子どものように膨れる彼をおいでおいでと手招きする。向かう先は鏡台だ。ここには蜂須賀が必要だと言い張って集めさせた小物が詰まっている。
抽斗から何かを取り出した少女は、宗三に手を出せとジェスチャーする。怪訝そうな色を浮かべる青年の手のひらに載せられたのは、金属製のヘアピンだった。
鳥の羽根を模した装飾が控えめに施されている。摘まみ上げたそれをしげしげと眺めた彼は、やがてニヤリと微笑んで見せたのだった。
この日、幼い少女を主と仰ぐ刀剣たちは新たな屋敷を得た。引っ越し作業を一段落させた彼らは玄関先に集う。ペパーミントグリーンのワンピースを纏った少女がそこに登場すると、彼らは多いに湧き上がった。
晴れやかな衣装に身を包んだ主を囲んだ刀剣たちは、記念写真を撮影した。本丸の初期部隊の面々が顔を揃えたその一葉は額に納められ、少女の執務室に飾られている。
主の隣を陣取った宗三左文字が見慣れないヘアピンをしている理由は、少女と彼だけの細やかな秘密である。
了.
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