#あらゆるロジックで肯定されていく
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「既得権益」がいかに強固で恐ろしいものかは、自分の男を取られた女の反応(ドラマなどでおなじみ)がわかりやすい。 喪失への恐怖(自己喪失=死をはじめとして)は人間最大の恐怖である。 それを逃れるために人間はあらゆるウソ(宗教はじめ)を捏造し自分をごまかして生きる。 その要素をスルーしている経済学が無能で犯罪的なのは竹中平蔵氏の笑顔の歴代写真がわかりやすい。
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250510 OVERLAP
【17:50】
娘よ
パパは弱っていたよ。ママの代わりを、そのエネルギーに匹敵するなにかをこの半年間必死に探そうとしていたよ
不倫にならない形でね
けど、いい。もういいのだ
すべて最初から手元にあった
悪意と劣情に染まる理由は自分の未来を信じられないから
「刹那を全力で生きるのだ」という諦観が暴力や残酷を肯定してしまう
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どんな手段でもいいから遺伝子を遺したい(その為の生殖行為をしたい)という野蛮なムーブに繋がってしまう
事実、うつ病の人間の性欲は強いのだ。なぜなら「死」を身近に感じ続けているから...
死の恐怖を克服すれば人は自然と穏やかに道徳的に生きられる
競うべきところではちゃんと競う
だが不必要な争いは避ける
私は保守派にはならない(なれない)が急進派でもない
長い時間をかけてゆっくりと、各々至るべき場所へ至り、新しい価値観を獲得していけばよいと思う
優しさと共助に接続できない行動をするな、思考をするな、ロジックの積み上げをするな
極論、扁桃体の活性化を認めるな
サイコパスはどんなに他者を傷つけ搾取しても扁桃体が活性しないし副腎がコルチゾールを分泌しない。だから「罪悪感」というものを抱けない
そういう器質的障害だ
逆に言えば、(健康な)人は他者に害なし、社会に害なす行動しようとすると肉体レベルで「警告」が出るってこった
それってやっぱ、生まれながらにして「善良」に設計されてるって事じゃあねえか
なんて優しいプログラムだろう(やや楽観的すぎるのは自覚している)
ただし、この「善良な設計」にも限界がある
集団心理やストレス反応が過剰になると善良さが裏目に出て、敵対意識や分断を生む要因(集団ヒステリー)となる事もある
愛情でさえも高め過ぎれば殺意に繋がるのだ
否、愛情こそが最も強い憎しみの火種になると言っても過言ではない
だから努めて課題の分離を心がけよう
他者の課題を自分の課題と錯覚しすぎないよう気を付けよう
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20241012 核廃絶支持
日本原水爆被害者団体協議会が今年のノーベル平和賞を受賞した。核廃絶までの道のりは遠くはあるが、それでもこれまで一度たりとも、日本以外で実戦に核兵器がつかわれなかったことの意味は大きい。そしてその理由のひとつとして、間違いなく、さまざまな活動をかさねてきたこれら諸団体の存在があった。社会党系だろうが、共産党系だろうが、理念はさまざまであるにせよ、訴えをつづけてゆくこと自体が、ひとつの抑止力として、評価されたのである。想像力のはたらきのわるい人たちには、現実をしめしてゆく以外に方法がない。 巨大なエネルギーの解放は、アニメや映画で見れば、けっこうな分量のカタルシスをもたらしてくれるものがある。それはそれでよい。人は圧倒的なものにあこがれる。その属性はどうしようもない。 その上で、そんなものは誰にたいしてもつかってはならない、と、気づくべきである。それは人類にたいする犯罪である。正当化できるロジックは何ひとつとして存在しない。その行動を肯定するような宗教的な後押しがあるのなら、そんな宗教はまがいものである。独善的なカルトである。つかこうへいの言葉を借りるなら、その指先はすぐさまに腐りはじめる、しかない。(「広島に原爆を落とす日」より)。 今回の衆院選は、核廃絶をクリアな争点にすればよいかと思う。今なら、10ポイントくらいは上乗せで稼げるだろう。
まだヒガンバナが咲いている。驚くばかり、3週間ちかくおそい。 朝の8時すぎに家をでる。加茂川ぞいを走っている人がさらにふえてきた。今日から3連休である。観光にくる人もふえてくる。朝晩は冷えるようにもなってきたが、昼はまだまだ気温があがる。 今回は以前につかっていたカメラをもってでかけた。ズームはつかわず単焦点でとる。ちょっとだ��気分がかわる。
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2024/04/04
BGM: Boogie Down Production - My Philosophy
今日は休日だった。鶴見俊輔『期待と回想』を読み終える。鶴見の正直さは、ぼくは実に(僭越ながら)「信頼できる」と思ってしまった。彼に共感を抱くことができたからだ。彼は自身のことを、過去を振り返って率直に「悪人」「不良少年」と書き記しているのが目を引いた。そして、自身が鬱に苦しみ自殺を考えたことまで明かす(その是非はともあれそうした願望を明かしつつ、しかし品を失わずなお生きる意思をも明確に示している、とぼくは読む)。ぼく自身もまた、そんなふうに悪人でキモい人間と思いつつ生きてきた男である。でもそれは結論ではなくすべての出発点たりうるものだと思う。そこからどう思考を発展させるか、なのだ。
今日、Xで面白い投稿を見かけた。「発達障害者の中にも際立った才能を持つ天才がいる。彼らは社会に富を還元する『活躍する』人材で、ゆえに彼ら(もしかしたら『私たち』)はスゴい」というのが骨子だった。この意見にぼくはある種の共感を抱く(ああ、ぼくもそんな「活躍する」「活躍しうる」人材だったら、と思う)。偉業を成し遂げた伝説の発達障害者たちを思い出す。この歴史において……たとえばアインシュタインやこういう話題になると決まって名が出るスティーブ・ジョブズ、そしてイーロン・マスクといった人たち。でも、こんなことも踏まえないといけない。才能と称されるものを見せないと社会に認めてもらえない、ということになるのではないか――このロジックを受け容れるなら。そして、ぼくはこのロジックを否定したい。
これはただ、ぼくの「私見」にすぎない(だから、ぜひ皆さんも考えてみて欲しいのだ)。この種の意見はこうした意見とセットになりうる。「この社会は常に同じものである必要がある(改良されてはならない)」と。つまり、誰が天才で誰が凡人かを定める基準が同じものであり続けてこそ、そうした社会が何ら手を付けられず改良もされえずそのままであってこそ、天才は常に天才であり続けられる。がゆえに、どうなろうと現状を肯定し続けないといけない(差別構造にメスを入れることは御法度……というのは言い過ぎかな)。この社会は改良されえない。これについて考えないといけないだろう。
だから、ぼくたちはこんな機械的・オートマティックな考え方に気をつけないといけない(難しい言葉で言えば「自動思考」が罠となりうる)。というのは、そもそも誰が「才能ある」者で誰が「そうでない人」なのか。誰が「発達障害者」で誰が「定型発達者」なのか、そうした区分け・区別は理性的というかリアルなものなのか。ぼくは煩悩だらけの凡夫で、口が酸っぱくなるほど書いているがただのエッチなおっさんに過ぎない。でも、言う。ぼくたちは尊厳や親愛の情が必要だし、各人にそれぞれがそうした情を示し与える必要がある。そして、「同時に」この社会を漸近的に変えていく必要がある。アンリアル、つまり非現実的にドンガラガッシャンと世界を変える夢なんか見ないで、徐々に、だ。それこそが「ダイバーシティ」「ニューロダイバーシティ」の理想を実現させる一歩なんだと思う。そんなことを考えたのだった。
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フィガファウアドベントカレンダー6th、さっそく頓挫ですよ。もう、これはね、仕方がないなと、今日は。今なんとか、書きたかった6thの中身を、というか、ほとんどフィガファウが喋っているだけのメモを書き付けて、ラストまで行けたので、ちょっと泣きながら満たされています。最高。毎日新しいフィガファウが読めるって最高です。(今日は私しか新しいものを読めていない訳ですが、私のための企画なので御容赦願いたい……。)
体が動かせなくて欠勤してしまったので気落ちしました。まあ、体が動かせなくて欠勤してしまったら誰でも気落ちするよな、と思うことでやり過ごそうとしています。日記にも書きたいことがあったけれど、回復のために一日寝ていて、もはや日記を書く時間さえないので(2時間後には起床している予定)、残念ながら明日に回す。なんでこんなに体が痛いのか!いらいらして友人にかなり悪い態度をとって、ひたすら慰めさせてしまった気がする。
【追記】結局眠れないし、胃が痛いので日記の続きを書くことにする。ところでさっき、「オススメ」としてTumblrのタイムライン?に表示されていた記事に「大人なので」私は大丈夫です(たぶんそこまで大丈夫ではない)、というものがあったので、すこし書き付ける。私は大人です。というのも、大人とはなにか、と私が昔から(未成年の頃から)定義しているものがあって、それは「与える側」だということ。大人は子供を見たら無条件に人生の先達としてかれを「守る」という行動を取るべきだし、できうるなら何か与えるべき。それをすることだけが私の思う「大人」。それをしない人、つまり、相手が子供でなくとも、giveが出来ない人、施す、与える、慰める、気にかける、をしない(選択的にしない)人は、いかに独立で生計を立てていようと、人に迷惑をかけずに生きているとの言が事実であろうと、そのくらいではとても大人とは言えないのである。そして、いわゆる殆どの大人は、労働を通じて他人に何かを施しているし(労働というオーバーアチーブ、今風に言うなら「搾取」を通して、人は必ず対価以上のものを「与えて」いる)、赤信号を渡ろうとしている子供がいたら止めるだろう。それができるなら「大人」を名乗っていいと思うし、「大人」だからといって、なにもそれ以上の重荷を自分から背負わなくてもいいだろうと思うのである。いわゆる「正しい大人」像みたいなものは、ある価値観をもつ人々の中には存在するだろうし、それを守れなければ大人とは言えないと考える人の数が多いことも知っている。でも、私は、大人でも色んなことをしていいと思うし、一��一つの物事に、「大人だから」ではなくて、「私だから」こうするのだ(こういうことはしないのだ)と考えていいと思う。私は、青信号がちかちかの時、急ぐべき場面なら走って渡るし、とてもそんな体力がないと思えば、諦めて次を待つし、そんな所にまで「大人」の定規を当てる人がいるだなんて考えもしなかった。そういう風につねに他人の評価を「下回らない」ことに気をつける人生というのは、ものすごくストレスやプレッシャーが大きそうだなあと思う。他人の評価を「上回ってやろう」と目論んでいる人はわりあい好ましいし、時に私にもそういう側面がある。
私はだいたい自分のために小説(のようなもの)を書いているけれど、もちろん他人から読みましたと言ってもらえることは嬉しい。よかったよ、と言ってもらえるとさらに嬉しい。なぜかというと、私が他人の喜びを作り出せたからではなく、純粋に「他人の喜び」に共感できるからだと思う。この感覚は友人には「わからない」と言われたので独特のものかもしれない、と最近気づき始めたが、私は共感性がどうやら高い。他人が喜んでいると、その喜びを自分が勝手に「追体験」して、勝手にいい気分になってしまうのである。これは悲しみにも適用されるのかというと、そちらはどうやら共感まで行かず「理解」で止まるようなので、ずいぶん自分に都合のいい機構。誰かが何かを読んで「いい!すごくいい!」と思ったことを私に伝えてくださると、私も「それはすごくよいことだ!おめでとう!」という気持ちになる。さらにその喜びをシェアしてくれてありがとう、とも。それを書いたのはあなたですよ、と言われても、書いたのは過去の私なので、私ではない。ただ、過去の私(死んだ私)といちばん身近な人間は今の私なので、故人の縁のものとして私が代わりに受け止めておきます、あなたを喜ばせられてよかったです、という感覚です。ただ、小説(のようなもの)そのものを超えて、あなたの言い回しが好きです、作品単体でなくて全てに通底するこれこれが好きです、と言われると、「えーーーー!!??ありがとう!!!!私もラブです!!!!!結婚!!!!!!」となってしまうので、つまり私という、何らかの文とかを生み出す機械そのものをかけがえのないものとしてこれからも期待しているしこれまでを感謝している、と伝えられると、なんということでしょう、とかなりのご褒美を頂いた気分になりますね。それは取りも直さず「あなたはここに存在していていいよ、この世界に生きていていいんだよ」と、一つの許しを頂けるからですね。私はかなり自己肯定感の高い人間なのですが、それは、多くの方が、本当に信じられないくらい多くの方々が、私にこういった言葉をかけ続けてくださったからだと思います。文を通じてもそうだし、もっと幼い頃、習字の先生が文字を褒めてくれた時、学校の先生がいい子だね、頼りにしてるよ、と言ってくれた時、同級生が作文を褒めてくれた時、いろんな時にいろんな人が「あなたは生きていていいよ」と声をかけ��くれた。その人の内側で何が起こって私にそう言ってくれたのかは分からないが、私自身が、もしその言葉が嘘だとしても、その言葉たちをよすがとして、その人が私の生を許してくれたと感じて生き延び���。運のいいことに、私はけっこう、対面でもそうでなくても、相手が心のほんとうを伝えてくれているのかどうかは、わかるほうなので、どうでもいい言葉(おそらく、嘘や空虚)は無視して、事実や真実だけを汲み取って生きているので、このような結果、つまり傍若無人で元気で厄介な大人として今日も存在しているのだと思います。
例えばいま、Twitterにお題箱を設置していますが、通知が来るわけではないので、毎日「なにか来ていないかな」と、郵便受けをのぞくようにチェックしています。何も来ていない日が97%くらいなのですが、それでもチェックしています。これは、褒められたいからなのだろうか?と考えたのだけど、どうもそうではない、私は単に手紙のやりとりというものが好きで、相手が誰でもいいから、自分に好意的な相手(べつに好意的でなくても自分に興味を持ってくれた相手)から、何らかのメッセージを受け取りたいし、つねに雑談でもいいから、コミュニケーションを取りたいんですよね。名前も知らない誰かに、ていねいな文章で手紙をつづる、ただそれだけの事がしたい。なぜなら文字が好きだからだし、人間が好きだからだし、コミュニケーションが好きだから。もちろん相手が私を好きであると表明してくれていると、その気安さも乗じてもっと楽しくは感じるだろうけれど。
人間が好きだ、というのは、言ってもいい事なのかよくわからないな、といつも思うのだけど、たぶん、少数派なのであまり言わないようにしている。この世の全ての人間のことを私は好きだし、嫌いな人間もどうでもいい人間もいない。ただ、人間の中で嫌いな部分やあらためて欲しいなと思うところは個々の相手にそれぞれあるし、一度に付き合える数は物理的に限られているので、見境なく誰にも彼にも声をかけたりはしないけれど。それから、全ての人間が好きと言っても、もちろん自分の中で序列はあって、全ての人間を「平等に」好きということではない。ただどんな人間のことも、意識して対象と考えるならば、好きと思える、という程度のことなのだけど。この辺のニュアンスまで伝えれば、大体の人がそうなのでは?と思っていたけど、どうも、そうではないらしい人もいる、と気づく時はたまにある。それ以外の時は、他の人もだいたいこんなもんでしょう、と思って忘れている。自分が犯罪の被害者になったとして、加害者のことも好きになれるのか、という問いにも、好きになれる、と言うことができる。犯行に及んだ動機や、そこに行き着くまでの人生の流れというものがある。私はそれを斟酌すれば、どんな人間のことも愛さずにはいられない、と思う。
これには簡単なロジックがあって、私には唯一憎しみをいだかざるをえない相手がこの世に二人いた(唯一じゃなくて唯二ですね���。その二人には、比喩ではないほうの殺意を何度も抱いていて、自分が殺人をおかさないために居を移すなどした。かれら二人は、どちらとも、私がかつては自分から深く愛情をもっていた、端的に言うと私を庇護する側の血縁者であり、長い長い闘いのすえ、そういった人間を「憎み切る」のは無理だ、という結論に達した。自分のもともとの心性にしたがって、かれらを愛している、これからも「愛する」ことに屈した。つまり、「世界で最も殺したい人間」が「世界で最も愛していた人間」だったために、それ以外の、つまり私が殺したいと思ったことのない人間は、繰り上がりで自動的に私に愛されてしまうのである。たまたま、一番憎い相手がかつての最愛の人間だったために、この世の人間全員のことを愛する羽目になってしまった(?)という、簡単な話だと思っている。かれら二人以上に私が憎しみをいだく相手は現れることはないだろう、というかそれは現れ得ないだろうと思うので、未来永劫、私は全ての人間を好きと言える、だって「あの」かれらのことを好きなのだから。それはもう、物凄い異臭を放つ路上生活者だって、度を越したクレームをつけてくる精神疾患者だって、簡単に愛せてしまう。いわんや、無差別に人を殺す犯罪者をや。私の愛が先だったのか、かれらの愛が先だったのか、それはわからない。私がそんな殊勝な人間であるはずもないと思うので、後者だろうなと、いつも諦めに近く思っている。ありがとう。たとえ1秒でも、一年でも、数日でも、数時間でも、私を愛してくれたことは、私の礎として永遠に機能しています。
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芳文社70周年記念キャンペーンおすすめラインナップ紹介
祝! 芳文社70周年!
というわけでAmazon Kindleを始めとする各電子書籍サイトにて、77円というこの世の絶望みたいな価格で1200点以上の作品がセール販売されております。買う選択肢しかない。期間は16日いっぱいまでです。急ぎましょう。
この記事ではおすすめのセール作品30作を軽くレビューしつつ紹介していきます。買う選択肢しかない。なお順番は僕が見つけた順なので特に意味はないです。
カヅホ「キルミーベイベー」
既刊11巻 セール対象:全巻

みんな大好きドタバタコント。血が出たり埋まったり死んだりホラーだったりよくもまあこれだけ安定して笑いと恐怖を提供できるものです。イカの回とか、いいよね。息が止まる感覚になる。
はりかも「うらら迷路帖」
全7巻 セール対象:全巻

ひとつの街と世界と不思議を舞台に骨太な物語を構築してみせた力作。人間関係への欲求が話を動かす力になる点が王道ながら印象的です。今なら一気読みが良いですね。
蒼樹うめ「ひだまりスケッチ」
既刊10巻 セール対象:1~9巻

きららという概念の道を作った作品のような気がします。これがヒットしたという事実は4コマ業界にとって非常に重い幸運であったのではないかと。ゆっくりと最後まで続いてほしいですね。
かきふらい「けいおん!」
全4巻 セール対象:全巻

漫画とアニメは別物であるということはここで強く言っておきたい。作品として志向している核が全く異なるので、それを理解した上で読むのが良いでしょう。個人的には続編の「highscool」が好きです。
きゆづきさとこ「GA 芸術科アートデザインクラス」
全7巻 セール対象:全巻

あまりにリッチなこの作り方はたぶん他の誰にも真似できない。心温まるコメディにまとめ上げたそびえ立つ偉業。
三上小又「ゆゆ式」
既刊10巻 セール対象:1~7巻

アニメの2期、やらないですかね。やっても良いと思うんですよね。あれだけ愛のあふれるメディアミックスもそうそうないよ。結局みんな好きなんだよな。
はまじあき「ぼっち・ざ・ろっく!」
既刊2巻 セール対象:1巻

読むなら今ですよ。将来「俺売れる前から読んでたもんね」とか古参ぶれますよ。まだ遅くない。現状のきらら最強のカードの威力を見よ。
浜弓場双「おちこぼれフルーツタルト」
既刊4巻 セール対象:1~2巻

これだけ華のある漫画ってあまり他に思いつきません。どこを切っても良い匂いしそう。女の子って最高。
篤見唯子「スロウスタート」
既刊7巻 セール対象:1~3巻

日常系4コマのニュースタンダード。ネタに対するコストのかけ方が尋常じゃないですね。ここまで考え抜かないと良いユーモアにはならないんだな、と。栄依子と榎並先生の話だけで1冊まとめてほしい(唐突)。
ねこうめ「こはる日和。」
全4巻 セール対象:全巻

中身がない、ということ��対して意識的に徹底して取り組んだ意欲作、と捉えましたがどうなんでしょうね。後半はかなり百合濃度が高くなるらしいのですが、正直なところまだ読んでいないので、この機会に学習します。
kashmir「○本の住人」
全7巻 セール対象:全巻

屈折しててじめっとしててそして不可思議にキュート。kashmirワールドの真髄が間違いなくきららの中に在ったという事実を忘れずに生きていきたい。
クール教信者「小森さんは断れない!」
既刊8巻 セール対象:1~5巻

捻くれ者ですよね、この作者。ストレートでありながらどこか曲がってしまうその佇まいに存在感があります。もしかして、それが青春、ということなのかも。
鴻巣覚「がんくつ荘の不夜城さん」
全3巻 セール対象:全巻

きらら作家漫画をきららで描く。発想の勝利。コロンブスの卵。リアルとフィクションの混ぜ方が楽しかったですね。背が高くて胸が大きくてだらしのない成人女性という性癖、僕は全肯定です。
そと「ラストピア」
全2巻 セール対象:全巻

少し冷たいそよ風が吹いているような寂しげな雰囲気が最大の特徴です。音がないんですよね。そして��こまでもこの世界の片隅で考え事をして過ごしたくなる。好きな作品です。
ざら「しかくいシカク」
全3巻 セール対象:全巻

この人の漫画は単に癖があるという感じじゃないです。何かしらの異世界のロジックにより構築されているような感覚があります。似た漫画はなく、これを読むためにはこれを読むしかない。個人的には等身の高いスマートな絵柄が好きです。同作者の「ふおんコネクト!」「ふたりでひとりぐらし、」も全巻セール中。
タツノコッソ「社畜さんと家出少女」
既刊1巻 セール対象:全巻

こんなに心安らがない日常系4コマってないですよ。「ささやかな日常」みたいなものの裏に常に破滅の気配がある。今のきららで確信的にこれをやる胆力は実に鮮やかです。力いっぱい応援していきたい。
有馬「はんどすたんど!」
全3巻 セール対象:全巻

4コマよく読む人ならわかってもらえる気がするんですけど、「単純に笑える」って結構貴重なんですよね。「楽しい気持ちになる」ならたくさんあるんだけど。その意味で、この作品は必読。きちんと部活ものやってる真面目さが肝ですね。
蕃納葱「教艦ASTRO」
既刊1巻 セール対象:全巻

13年も前の作品を今こうしてセールのラインナップに入れるということは、つまり続刊を期待しても良いということですよね。
あfろ「シロクマと不明局」
全2巻 セール対象:全巻

ストーリー4コマの間違いなく到達点。かつ極北。何も言うことはないので、類まれな物語の濁流に飲み込まれてください。今なら77円ですから。今なら77円ですから。
瀬戸口みづき「ローカル女子の遠吠え」
既刊6巻 セール対象:1巻

ヒロインがかなりかわいいと思うんですよ。常に仏頂面な感じが推せる。この作者のギャグセンスは独特ですよね。諦念のある激情というか。
ウロ「ぱわーおぶすまいる。」
全5巻 セール対象:全巻

きららのラブコメといえば、個人的にはこれと「箱入りドロップス」(なんでセール対象外なんだよ)の二強かな、と。きちんと恋愛に向き合っている、というところの真摯さが本作の価値です。かわいい、を突き抜けて魅力的な絵柄も良いですね。
鈴城芹「看板娘はさしおさえ」
全4巻 セール対象:全巻

鈴城芹漫画の完璧に地に足のついた感じはいったい何なんでしょうね。間違いなく計算に依存して作劇していると思いますが、キャラが作者に動かされているようには見えない。そして静かな情熱が確かにある。純真で透明なキャラたちの関わり合いに、グッとくるものを感じるのですね。
湖西晶「かみさまのいうとおり!」
全9巻 セール対象:全巻

本作のあと下ネタからすっぱり手を引いたのがすごいですよね。毎度新しい読み心地と面白さを提供してくれるその姿勢こそが長年活躍する秘訣のように思います。「〆切ごはん」も一部セール中でおすすめです。
柳原満月「軍神ちゃんとよばないで」
既刊7巻 セール対象:1~3巻

個人的に歴史ものってあまり興味持てないのですが、本作は絵柄のかわいさがハードルをだいぶ下げてくれています。コメディとしても上質。かなり好きです。あと歴史詳しくないと先々の展開がわからないから有利みたいなところありますよね。
器械「スクール・アーキテクト」
全2巻 セール対象:全巻

正直、試みが成功しているとは思えない。問題点も多いように見える。それでも、本作の挑戦には多大な価値があるし、それは4コマという媒体の未来に確かにつながる。描いてくれてありがとうと言いたいです。
青田めい「ゴスロリJK無人島漂流記」
全2巻 セール対象:全巻

自由と趣味を全力で振りかざすとこうなるという一例。ここまで奇怪な漫画と���うのも、まあそんなにないですよね。ちょっと古さを感じさせるキュートの絵柄でエッジの効いたギャグをやるという、この作者の面目躍如。
重野なおき「ひまじん」
全7巻 セール対象:全巻

いや、まさかこれまでセール中だとは。絶対買ったほうが良いです。今回挙げた作品の中でも優先順位は高いです。それくらい、本作は4コマ漫画にとっての金字塔なのです。徹底的に2人のキャラだけで回し続けた結果、部屋の置物がキャラ立ちしてくるというね。笑って楽しみながら、あまりの技術力・センスの高さに感動する作品です。
ちび丸「プレフレ」
全2巻 セール対象:2巻

すごく楽しんで描いたんだろうなあ、と。どのキャラもいちいち輝いている。日常を謳歌する、とはつまりこういうことなのかと幸せな気持ちになりました。いつまでも思い出深い一作です。
MIGCHIP「みらいちゃんねる」
既刊1巻 セール対象:1巻

個人的に昨年最も楽しんだ作品です。シンプルにセンス一本で勝負しているところが好きですね。誰にでもおすすめしたい、というよりは自分の楽しみに取っておきたい、という感じです。
楯山ヒロコ「椿さん」
全7巻 セール対象:1~6巻

素敵なんですよ、椿さん。素敵。立ち位置的には完璧超人なのにユーモア溢れてて、やたらめったらかわいらしい。心をグッと掴まれる感じで好きになるキャラって、僕には結構めずらしいです。こちらの世界のどこかにも生きていてほしい。
(水池亘)
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政治〜
沖縄〜北海道ライブから帰ってきたら見事に体調崩して、先日の大阪前にだいぶ治って帰ってきたらまた寝込んでしまって、全然ライブ後寝たきりおじさんになってしまってた。。。今週末のアウトルック大阪編までには治したいナ🤗
で、ちょっと前に、それこそツイッターの選挙政治嫌悪民がうんざりする、選挙前の投票呼びかけ曲を作ったついでに、
現政権容認するようなやつらは俺の音を一生聴くな
ってツイッターってSNSでつぶやいたんだけど、
なんかそのあと近しい人とかネット上でのみ繋がってる人とか関係ない人とか、みんなエアリプだったけどなんかすげーモヤるエアリプがいくつもあったから、改めて言葉は誤解されるもんだなって感じた。ちな、別に誤解生じたりとか嫌われたりとかそういうのは気になんないから、愚痴を書いたりDisしたりとかしたいわけじゃないのはあらかじめ書いとくね。
個々人の政治観や思想は、誰かの人権や権利が踏みにじられない限りにおいては、それぞれの自由だから好きにしてくれってホント思ってる。先に書いたつぶやきは、一個人の意見、俺の考えはこう、ってだけだから。
で、こやってブログに長々と書くのは、自分の吐いた唾を、より正確な俺の意図でもって吐いときたい、ってだけの理由。
CRZは自公維みたいなのが大嫌い。で、自分の音聴いてくれる人にはそういう現政権容認するような投票はしてほしくないなーって思っての発言だったわけだけど、
よく、自民から野党に政権奪取させてどうするの??みたいな出発点で、「現実的には自民が云々〜野党はダメだから云々〜」て批判する人いるけど、そも、こっち(俺が、なだけかもしれないけど多分けっこうな人)が望んでるのは、与党に力持たせ過ぎたら権力の暴走が始まるから(現に今そうだろ)野党にもちゃんと抑制できる程度に力持たせて、隠蔽改竄させないようにしたりとか、徹底的に議題一個ずつチェックできる状態、そういうのを望んでんの。
バカでもなけりゃ、現状の野党が政権奪取するとか夢見ないじゃん。世界や社会は非情だから、いくら正しさやまともさを打ち出しても、通用しない壁がある。野党も共闘なんつってバラバラの方向向いたままだったりするし。
んで、今の野党が政権取ったとしても、現与党みたく、数の論理で押し切れるほどの大きい力持てば、当然現政権と同じような権力の暴走みたいなことする可能性十分あるんだから、野党絶対正義!とか言いたいわけでもねーし。問題にしてんのは、与党と野党のパワーバランスちゃんとさせなきゃ、安倍とその取り���きみたいのがやってる、人権、憲法、社会的弱者、国民を軽視し放題な地獄、つまり今の日本が、もっと地獄になるじゃん。
「人間の倫理が欠如した政治は間違ってる」って当たり前の指摘や是正ができない社会にこれ以上しないために、野党にちゃんと与党の権力の暴走させない程度に力持たせるようにしようよって俺は思ってるし、その意図で言ってるつもり。でもエアリプとかで言われてたのは政権交代革命求める夢見がちな左翼くずれみたいな感じ。まじかよって笑
で、俺個人の考えだけど(まぁ、書いてんのは全部俺個人の考えですけど)、俺が、現政権容認を「否」つってる理由は、今の政権が堂々とやってる、主権者である国民が暮らす社会の倫理を徹底的にないがしろにする数々の愚���虚偽隠蔽の政治、それが、人間として間違ってると感じるから。 人として〜、ってやつ。
そういう非道行為を評価に入れないで現政権を、経済が〜景気が〜云々(しかもそれもフェイクだしよ)のロジックで、謎に為政者目線で優越感に浸って容認する、できる、その有権者の心の醜さが、俺は嫌いつってんの。
だから、俺はそういう人には俺の音聴いてほしいとか思えない、って意思表示したんです。政治的政治的って揶揄するけどさ、それって人として正しくありたいって当然のことって、俺は、思ってるから。
人間は千差万別だから一人一人主義思想生き方の違いがあるのは大前提。それ踏まえた上で、俺は、CRZKNYって名前で音作ったり出したりしてるけど、その音を、現政権容認するようなやつらにはマジで本気で聴いてほしくない。気持ち悪いもん。
そんなやつらに聴いてもらうのとか、マジで、無理🤗
で、老いも若いも、音楽に政治を持ち込むなとか、もう何万年くらいおんなじこと言ってんの的言説とか、そういうのがかっこいいみたいなさ。そういう「音楽に政治を~」とか、かっこいいつもりな態度ってやつが、大嫌いなの。
ノンポリ中立でバランス、みたいなこと言って、その実ただの権威主義のケツ舐めみたいなみっともねー精神を取り繕うために、無関心でいる素ぶり、専門家でもないやつが口を挟むな的な言論統制を肯定するってやつ。
平たく言えば奴隷根性が骨の髄まで染み渡ってるような生き方な。
そゆのが、俺は嫌い。
音屋は、出してる音がすべてだから、そこに俺の一部もしくはすべてが詰まってるし、そう解釈されるものだと思ってる。そも、音を切り貼りしようが、一から全て作り出そうが、それで出来上がったものは作ったやつのパーソナルとは切り離せないものじゃん。思想も信条もすべてが影響してるわけじゃん。
政治を持ち込むも何も、社会で生きることはすべて政治に繋がってるじゃん、っていうさ。
で、俺もできれば、色んな人に思想や信条分け隔てなく出来る限り多くの人に聴いてほしいとは思ってる。
こういう��といちいち書かずに、黙って音だけ作ってろよ、って。そしたらそんな内面なんぞ知らずに聴いてやんのに。もったいねー。とかさ。
けど、自分の一部だったりすべてだったりするものを、聴いてもらう、買ってもらう、ライブのブッキング、リリース、人間関係、その他諸々、要は、「売れたい儲けたいつながりたい」ってことのために、倫理に反した部分に目を瞑ったり我慢してまで、音楽とか、俺はするつもりがない。
恥じたくないんですよ。
てめーのパーソナルなものだから。
さっきも書いたけど、人間は千差万別で、主義主張、思想信条がそれぞれ異なるのが当たり前。その上で、たかが地方都市の地元じゃ誰も知らないような活動しかしてないたかだかな俺は、CRZKNYって看板背負って、自分の音かけて、現政権みたいなものを擁護容認受け入れちゃう、そういう「心」のあり方を否定してる。
もちろん、色々考えてもどうしても自公維みたいなものが国動かしてるほうがいい、(俺からしたら、なだけだけど)安倍とかその取り巻きみたいなネオリベ崩れの売国奴みたいなものが好き、良い、って人は、それはその人の生き方だから否定はしない。好きにすればいいと思うし。
ただ、俺は、CRZKNYってものと一人の人間としての俺ってものを分けてはいないから、主義思想の違いがあるのは当たり前だし好きにすればいいと思うけど、俺は、自分の音を、そういう人には聴いてほしくない。ってだけなんだけど、これが排他的、って言われるようなことかな。
俺は、てめー自身を分け隔てなく誰にでも与える(もちろん金銭と交換だ)つもりではいるけど、俺は、そう思ってますよ、ってアティテュードなだけなんだよね。
いい加減しつこいだろうけど俺個人の考え、なんだけど、
アーティスト、表現者、って社会と精神の内面のクロスする部分、エッジの感覚を具現化することやってるやつ(ら)が、そういう政治にしろなんにしろ当たり前の発言を、当たり前にできる社会の一助になってないでどーすんの?っていうか。
ノンポリ〜、中立〜なゆるくふわっと心地いい生活、みたいなさ、キモチわるいこともうやめなよって。ちょっとこういうこと言うとすぐに政治的政治的!!!!ってヒステリーみたくしてるの、スポイルされ過ぎてて無様だなって、それ系の同業者には思ってるよ🤗
政治に関心持たない・興味ない・わからないって、自分の音聴いてる人がそんなのって俺は嫌だなーって。「当たり前の権利を放棄するのもその人の意思表示」って、正気か?って俺は思っちゃう。
政治、って字面だけで嫌悪感とか拒絶しちゃうのって損するからダメだよ〜って言ってるだけ。だいぶファン想いだろ😇
これは右か左かって話以前の問題。毎日政治のことばっか考えて生活しろとかでもない。普通に生活してて、自分の周りだけで精一杯ってのもわかる。誰だってそうだよ。俺もふつーに生活して、身の回りの人たち、それがどっか遠く離れた場所にいる顔も知らない誰かだとしても、俺の音聴いてくれてるんだとしたらそれは俺の身の回りで、その身の回りがすこしでも良くなる一助になれればいいなって思ってるだけのふつうの人だと思ってる。
政治に目覚めて世の中を改革して新しい社会望む革命家でもテロリストでもなんでもない。仕事が9時5時じゃなくて金の儲け方が月給制じゃないってだけ。サラリーで仕事してる人とかと社会の接し方がちょっと違うだけの人。インフルエンサーでもないしヒット曲飛ばしまくるんでもない、フェスで数万人が諸手挙げて熱狂とかもしてない、うらぶれた地方の片隅で低音と160BPM色々試行錯誤してるやつ。
そんなやつの言葉なんか価値はないと思う奴はそもそもこれ読んでねーだろうな。読んでもそうは思えないかもね。価値なんかどうでもいいよ。ただ、当たり前に俺が思うことが、すこしでも誰かに伝わればいいと願ってるだけ。
ま、確かに狂人は自分のこと狂人だなんて思わない、っていうのに添えば、俺と考えが異なる人からしたら、俺の言葉は狂人のそれに見えるかも知れないなー、とは思ったりもするけど笑
140字の未文化ツールでけなし合うだけ、潰し合うだけ、憎み合うだけ、じゃなくって、別にみんなが同じ方向なんか向かなくていいから(そんなのきもちわりーし)、SNSだけじゃなくて、実生活の中で、それぞれもっといろんな方向で、普通に、政治のことや社会のことを発信したり、(拒絶、じゃなく)議論したり、理解したり、できねーかな。そういうのが健全な社会と思う。
って、読み返したら長々と、
すげーーーーー当たり前なこと言ってるね😉
文章むずかしーー><
でも、なんとなく俺が言いたいことって伝わったかな。
伝わると、いいよな(おじさん)
追伸:もっと、俺よか数億倍有名で文章上手いやつがこういうことをちゃんと言ってくれればいいのになー😃もしくは俺が数億倍有名になるか。。。文章の書き方講座とか受けて。
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かすかなルーツへ
クリア後ストーリーのエンセスを考察したもの。
小箱のなかにはわすれられぬ物、われわれにとってわすれがたい物、だがわれわれが宝をおくるひとびとにとってもわすれがたい物がはいっている。過去と現在と未来とがそこに凝縮している。こうして小箱は太古の記憶となるのだ。
ガストン・バシュラール[著] 岩村 行雄[訳] 『空間の詩学』筑摩書房 2002年 p164
【エンセス】 sense
エンセスの考察が困難に感じられるとすれば、ただ難解だからではなく、概念で切り分けられないものたち、つまりセンスや愛をテーマに描かれた世界観だからであり、それはストーリーテリングにおいても巧妙に表れています。
ところでセンスと愛は別のステータスになっているので、混同を防ぐためその違いをまず検討してみます。種族特性では、魔族はセンスのみ不利ですが、竜族はセンスと愛の双方が不利になり、またセンスは公式では『可能性』という言葉にも置き替えられている。
存在次元の相違から現次元における『可能性』が他の種族よりも低いです。
――「種族について」より
魔族は「邪を統べる悪魔の血に連なる種族」であり、竜族は「独自の倫理観を持っており、冷めた印象」がある。倫理とはモラルや道徳のこと。愛とは決してきれいごとだけではない、インモラルや憎しみや呪いにもなりうる力で、その倫理と相容れない部分が潜在的な差になるのだと思われます。
いっぽう、センスは存在次元が違うことで差が生じる。なぜなのか。
これは現次元に存在する種族は、現次元の過去、現在、未来に元から根ざして生きており、魔族と竜族はそうではないから。魔族と竜族はあくまで別次元からの訪問者であり、現次元で何かをするのは干渉行為なのです。
魔族は黒魔次元の存在として邪を統べ、竜族は高次元の存在として律を統べますが、影響元であるエルリック・サーガをヒントにするなら、現次元は邪と律のバランスによって成立しており、彼らにとって邪と律の永遠の闘争の舞台とも考えられます。本編では竜族の戦士ウルテルフは魔王グノ・レイを復活させないために登場しましたが、干渉することで律の影響力を強める、とも言い換えられるでしょう。
その世界に内から生きることと、外から干渉することの違い。魔族も竜族もフェレス(大切なもの)を持ち、潜在的なセンスも愛も全くないことはありませんが、現次元における可能性が低い、すなわちセンスがレベルアップ時に0.05低い、小さな、けれども絶対的な差が生じてしまうのです。
■どんな世界なのか ■
声 「この先にある虚空……」 声 「それは誰かの想像の世界。そして誰かの夢の世界」 声 「いつか来る未来、過ぎ去った過去」 声 「誰かの心が移ろうとき、誰かの眠りが覚めたとき、 一瞬にして消えてしまう、はかない世界」 声 「真実か、虚構かすら定かでない」 声 「空間を越えて、時を越えて、 奇跡に運ばれて今とどく」 声 「はばむ風をかきわけて、おいで、『エンセス』へ!」
流れ出る雲は光を飲み込み、あたりを闇で覆います。 やがて全ての光が閉ざされ、あらゆる感覚を失いました。
"虚無の鍵"をゲット! 虚無の未知なる力が解放された!
――庭園のイベントより
ここは虚構と事実の狭間の境『エンセス』。
――エレァセルのセリフより
クレスオールが言っていた。 エンセスは奥深いイマージュで成立している。 今は知覚できなくても、多くのイマージュに触れ、 感覚に慣れれば新しいレベルに気づくと。
――リィタのセリフより
エンセスのいまわに繰り広げられた、 むなしく、孤独なメモリアル……。
それは思い出ではない、或るひとつのシンボル。
――エンセスのプロローグより
シナリオから重要と思われる個所を抜き出してみます。
��虚空 ・誰かの想像や夢 ・何かの拍子に一瞬で消えてしまうはかない世界 ・未来であり過去 ・虚構と事実の狭間 ・イマージュによって成立している
結論から言えば、ファンタジーというシンボルを持つ世界ではないかと思う。ちなみにエンセスの主要人物であるエレァセルの古代魔法AisATNaFはfantasiaの倒語でもあります。
ファンタジーとは空想、幻想のことですが、空想の多くは虚無(=なにもない虚空=価値や理解から外れた場所)から生まれます。価値や理解が先だって生まれるものは、その時点で商品や資料のたぐいであり、空想たりえない。そして空想が形になるなりして世に出されると、そこではじめて価値や理解が生まれるのですが、その瞬間に虚無ははかなく消え去ってしまう。しかしいっぽうで、作品や物語から影響や感銘を受けるように、空想を受け取った人々のなかに勇気、栄光、正義、希望、聡明、博愛、犠牲、混沌といった価値のある資質が生まれるプロセスでもあり、ゆえに虚無はすべてのはじまりにある。ちなみにステータス上において虚無は愛やセンスを司っているので、愛やセンスもはじまりにあり、そしてはかない幻想とも言える。(そして隠し種族のかみも)
そしてイススィール本編では伝説をたよりにエターナルデザイアーを求めた冒険者が、やがて新たな伝説となる……という「過去、現在、未来」の永劫のサイクルが繰り返されていますが、そのはじまりにあり、また全ての時空を一つのものとして象徴(symbolize)したのがエンセスではないでしょうか。またそのサイクルの根幹には、おそらく冒険者リギナロも絡んでいる。エンセスのシナリオはリギナロの碑からスタートします。そしてリギナロはoriginalのアナグラムであり、意味は原型。つまりエターナルデザイアーのサイクルに関わるなんらかの始原がエンセスにあるとも考えられます。
ェアスト 「残るリギナロを始末した時、その名を知らぬ者こそ少ない、 あまたの偉譚を残した彼らのイマージュは潰える。 大きな存在だ。消さねばならぬ確信がある。 だが奴はどこにいる? 分からぬ、このェアストにも」
――落日のアレドのイベントより
ェアストがその所在をつかめなかったのはいっそう隠された深部にリギナロがいたからであり、未完となって終了したエンセスですが、リィタが深部への道を開いたことによりついに出会うシナリオだったのかもしれません。
しかしここまで、エンセスははじまりと繰り返しましたが、同時におわりであると考えることもできます。エレァセル・ヌディンギュのアナグラムと解くと、「終わりの解放」にな��ます。
虚無から生まれた八つの資質は、世界を発展させて、やがてまた虚無に還っていく。価値を極限まで高めた先にあるのは、価値の喪失、すなわち純然なセンスと愛にほかならないということです。そしてまた虚無は、あらたな八つの資質を生み出す。これこそが「過去、現在、未来」のサイクルの全体像になるのです。
■気になる用語メモ■
【フェイト】
運命、宿命のこと。エンセスのセリフの節々に出てくる。フェイトを帯びた人々はそれに導かれ、またディテークによれば世界の定常を守るのだという。またルディリアはカルマをフェイトに認められ、不死人間となった。
エルリック・サーガを含むエターナル・チャンピオンシリーズでも<宿命>は重要なキーワードであり、主人公は天秤(世界の均衡を保つもの)の代理として世界のバランスを守るため転生を宿命づけられ、主人公を助ける介添人などもまた宿命のもとにある。
【レリック】
遺品、名残りのこと。クレスオールの右目とファイハーンの角がレリックとして登場する。不死人間の知恵を持つものならレリックに残された記憶を辿れるらしい。
【クレスオール】
世界の全ての知識を得たリィタが「幾世代か前のクレスオールが……」と言っている。彼もフェイトを帯びている可能性は高く、転生を繰り返している存在なのかもしれないが、イススィールでのクレスオールの経緯を知る限りでは不死人間ではなく、記憶も継承していないように思われる。
【リィタ】
リィタ 「ディテールの多くは失われてしまった。 でも私は感じる。 イマージュを引き裂かれたエンセスの痛み、 在ろうとするもの達の鳴動を。 この瞳に映る世界は幻ではない。 その記憶を失う事はない! そう、私はエンセス! 確かな存在の証を現せ、あるがままに!」
――アズのラインの思い出より
ディテーク曰く「イマージュの箱」であり、ェアストやおそらくクレスオールも知っていたものと思われる。アズのラインの思い出で全てのエンセスのイマージュをおさめ、具現させるためにエル・セイダを求めて深部へ向かう。
リィタ・テラという名前は、サンスクリット語のrita(天の法則)とラテン語のterra(大地)ではないかと思われる。ディテークには「世界を統べよ」と告げられている。滅びゆく世界を新たに創生する力を持っているのかもしれない。
【不死人間】
不死人間は背負ったカルマを解くまで死ぬことは許されぬ。
――ルディリアのセリフより
ェアスト、エレァセル、ロクザンド、ルディリアの四名が登場。ェアストは呪われし種族と呼ぶ。不死になる要因ははっきりしていないが、カルマやフェイトが強く絡んで架せられるもので、本人の意思だけで望んでなることも拒むこともできないものと思われる。
不死であるがロクザンドは宿命を果たし不死をまっとうして棺で眠っており、ルディリアは霞ヶ丘でエイクドの望みを叶えてカルマを解き、定命を取り戻す。不死人間、厳密にはェアストとの不毛な戦いで殺された者は、真実の死を知らず、霧の戦場でたゆとうことになる。
【ェアスト】
灰髪の男 「……お前たちは、奇妙だ。 このイマージュは郷愁に近い。 そして何故リィタを感じさせる? ……。 お前たちに頼みがある。 私はこれからリィタという娘に会いに行く。 この滅び行くエンセスを存えるキーパーソンだ。 私は彼女のモラルを維持するために、 恨まれ、立ちはだかるロールを演じる。 手加減はするが、万が一ということもある。 彼女をどうか守ってやって欲しい。 不死人間の予知も及ばぬ、何かを成し遂げるハズだ。 旅の手助けをしてやってくれ」
――かすかなルーツへのイベントより
リィタの父親。フェイトによって不死人間となり、またディテークが言うようにフェイトに導かれているなら、彼も世界を守るためにリィタに力を貸していることになる。いっぽうで世界の全てを憎み、無価値とする心にも偽りはないようにも感じられる。これは矛盾しない。彼の資質は虚無である。
リィタは「ェアストを倒して滅びを辞めさせる」と言っているが、エンセスの滅びがェアストによるものか、本来ェアストと関わりない定めだったのかは分からない。世界はいつか虚無に立ち返っていくからだ。いずれにしても、ェアストが「一掴みの石も、一滴の雫も、私は許さぬ。残さぬ」とする滅びのパターンはリィタの中でひとつの鮮烈なイマージュとして残される。
「滅びの風が時を駆け抜け全てを灰と化す」というスキルを使う。過去、現在、未来のすべてを滅ぼす存在なのかもしれない。
すべての痕跡同様、この痕跡もまた自分から消えていく運命にあり、道を失わせる一方で、記憶を灯すのだ。灰とは的確だ。なぜなら、跡をとどめないがゆえに、まさしく灰は他の痕跡以上に、そして他の痕跡のように線を引く=痕を残すからである。
ジャック・デリダ[著] 梅木 達朗[訳] 『火ここになき灰』松籟社 2003年 p60-61
【イマージュ】
ディテーク曰く、人々の経験や意識の集合。エンセスはイマージュで成り立っているため、イススィールが人々の経験や意識によって生み出された世界ならば、エンセスは経験や意識そのものが具現した世界となる。イススィールが物であれば、エンセスは魂と言っていいかもしれない。
リィタがイマージュを取り戻す描写を見る限り、ヒトの五感に密接に関わっており、また本来ヒトが一人で抱え込めるものではない。
【幽】
失わるる世界の幽かな記憶が、強い印象で呼びかける……!
――シナリオのメッセージより
幽には奥深い���かす��で暗くて見えない、ひっそりとしている、閉じ込める、死者の世界などの意味がある。ェアストに滅ぼされたイマージュの名残りめいたものと考えられる。
【エレァセル】
焉廊でェアストと永劫の時を戦い続けている不死人間。資質は希望。マフェルオレやエイクドは、エレァセルがェアストと戦い、滅びを食い止めていることを知っている。
はるかな太古の存在で、ェアストとは対をなしていると思われる。同じく太古のイマージュである世界樹となにか関係があるのかもしれない。
【マフェルオレ】
自身がマフェリアリに転生するのを知っている稀有な人物。だが来世の秘名を知る冒険者に対して、まさか時のロジックを超えて来たのかと驚くことから、他者が来世を知ることや時空を超えることは通常ではありえないことのようだ。
【ウルテルフ】
実はイグテルフと関係があるらしいが、フェイトによって高次元に転生したのがウルテルフということも考えられるかもしれない。
【トレーベ】
確かな記憶が形となって現れた……のだが、イススィール本編よりも頭が悪く描かれているように感じられる。冒険者たちの主観なのだろうか?
【焉道】
不死人間になったルディリアに対してェアストが「焉道にくだった」と言い、また魔都ケサクリフィのイベント名も「焉道にくだる」である。焉道という言葉は本来なく、『悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲』の地下墓地に通じる縦穴に同名のマップがある。ちなみに使い魔カテゴリのアイテム、百なる一の剣の元ネタもこのゲーム。
■各シナリオについて■
【エギネフの大地「かすかなルーツへ」】
なつかしきアケルとトレーベのイベントは冒険者たちのイマージュからなるもののように思われる。気になるのはェアストの「……お前たちは、奇妙だ。このイマージュは郷愁に近い。そして何故リィタを感じさせる?」というセリフ。
仮にイススィールが、リィタが集めたエンセスのイマージュから新たに具現化した来世であるなら、リィタを感じさせるのは確かにそうだろう。しかし郷愁は過去に属するものである。これはイススィールもまたエンセスを生み出していることの示唆なのかもしれない。つまり、エンセスはイススィールのはじまりであり、いまであり、おわりなのである。
【アレドの庭「落日のアレド」】
広がるのは枯れ野で、落日は衰退も意味する。リギナロの仲間たちの輝かしい冒険の日々も終わり、引退していくさなかのイマージュだったのかもしれない。
最も深きにもぐり、最も広きを駆け、最も高きを登り、 エンセスに失われた好奇心を取り戻した。 彼らの旅は、書になり、歌になり、 イマージュを広げたわ。
――リィタのセリフより
ェアストもリギナロ達を大きな存在として消さなければならないと言っているように、人々の経験や意識と直接つながっているエンセスの世界ではかなりの影響力を持っている。人々の好奇心を司っていると言ってもいいだろう。
【スニムビユ危峰「燃ゆる血潮」】
マフェルオレとマフェリアリの関係から、スニムビユ火山は灰城ロマルフより前世の時代となる。
あえて���系列に則して考えるなら、エルナーナ・グラハムが「今もどこかを旅している」というハレクス・グラハムの弟子と考えると、レオ鉱山とハレクスがマフェルオレの時代のものだったか、そうでなければエルナーナが時代に渡ってきたことになる。地獄次元の石を持ち出せたなら少なくとも次元の行き来はしているが、マフェルオレのセリフから時のロジックを超えるのは通常では考えられないことでもある。もしくは「もし来世が許されるなら……」というセリフから、エルナーナも転生しているのかもしれない。
しかしエンセスはイマージュで成り立っているため、そもそも時系列というものがあまり機能していないことも考えられる。エルナーナのもたらした魔界の石によってスニムビユ火山が生まれ、それがのちのレオ鉱山のもとになった可能性すらある。アマン・ディことダイアモンドや金銀の鉱床はマグマによって生み出される。
【魔都ケサクリフィ「焉道にくだる」】
ルディリアとエイクドの因縁のほか、魔剣士のルーツがロクザンドにあることや、ひっそりとトレーベとアンシーの関係も明らかになる。
ロクザンドが柩に眠ってから遥か先の時代であり、エイクドらがロクザンドが編み出した不死人間しか扱えない魔技を継承し続けている。だがその魔技とそこで勝てば力の全てを受け継げる解身の塔によって、力こそが正しいという有りようになってしまった。
【絶境アガシャスサ「いにしえの英雄」】
ピラミッドをモチーフにしたシナリオ。ロクザンドの友、闇の王ディテークは元はヒトだったが、フェイトを背負い、闇を支配し、隠させないことで世界から大きな恐怖を払ったという。イススィールではディテークは暗闇の神として知られ、彼のお守りは闇への好奇心が高まり眠気をさましてくれる。
アガシャスサにあるのは、ェアストに染まらないポジティブなイマージュだという。他のイマージュではェアストに恐怖し、絶望しているが、ここはそうではない。ロクザンドとディテークもまた、かつて世界を守った英雄たちであるからかもしれない。
【アズのラインの思い出】
エンセスの礎となった太古のイマージュとして、海に深く根ざし天高くそびえる、果てしない一本の木が現れる。世界樹は多くの神話で登場するシンボルで、人々の集合的無意識に根付いていると言ってもいい。深部ではより宇宙論に根ざしたシナリオが描かれようとしていたのだろうか。
■未完による完成■
ここまで考察してみて、なぜエンセスは未完で終わったかを考えた時に、「書けなかった」のではと私は思いました。それは力量不足だからではなく、シナリオに決着がつくことは、なにがしかのひとつの答えを出してしまうことになるからです。第1期から第3期にかけてシナリオ内容は変化しているので、あらかじめ決まった結末が用意されているわけでなく、おそらくは運営と並行しなが��開発されていたものと思います。
エターナルデザイアーの物語はセンスや愛といった、目に見えないものの世界を肯定していますが、同時にそれをはっきりと描くことは、消し去ってしまうことに他ならない。なによりも強いけれど、明らかにして価値を付与しようとすればはかなく消えてしまうもの。「愛なんてない」のではなく「愛はただ見えないだけ」、「愛は価値がある」のではなく「愛はただそこにあるだけ」なのです。
タイムリーな私事ですが、スマブラスペシャルが難しすぎて子供が泣いてゲーム機を壊してしまった、という話と、それに対する世間の反応、たとえば「子供が感情にまかせて壊すほうが問題」とか「ゲームバランスは確かにまずかった」といった反応を耳にしたとき、まっさきに思い出したのが、故・山内溥社長の「子どもたちは丁寧に扱わない」という先見性でした。
私はそこで、深い愛情みたいなものを直観して、ふいにぼろぼろと涙を流しました。もしレビューが本当ならスイッチはそうではなかったのでしょうが、過去の任天堂のゲーム機はめちゃくちゃ頑丈に作られています。山内社長が試作機を床に叩きつけて強度を試した話は有名ですが、子供に対して「ゲームに負けて悔しがってもいい、憎んでもいい、私の前ではがまんしなくてもいい」という許しを知っていたように思うんですね。
そして、私がひそかに見出したものをこうして記事に書くこと、隠されていた愛を明らかにしてしまう今この瞬間にも、気づいた愛がはかなく霧散していく、どうしようもないむなしさを感じています。
エンセスが未完になったことで、エターナルデザイアーのシナリオにおいて、あるいは作者や読み手にとって「永遠になった」ものがあったなら、最高のエンディングにもなりうるのではないかと思います。
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つくれなくなって考える
つくれなくなって考える
つくれなくても相変わらず手ばかり動くことが問題なのかもしれないけれど
自分が直面している問題はもう少し一般化できるような気がする
彫刻自体がもともともっている限界と
つくらなくてはならなくさせる心持ちの内容が
今はクロスした中心にちょうど分厚い節をつくっている
問題の一つは複数のウェッティーが乖離することである
表現するための懐の大きい形式が見つからない
それは 彫刻がもしくはアートが
無意味な存在を肯定できてしまうことが原因なのかもしれない
それから しかしそれなのに 懐の大きさが遊びを許させなくさせている
一番困ってしまっているのは
こうすればなんとなく決まってゆくというのがなんなくわかってしまうことである
ばちんときて遠くへ連れて行かれるのならまだいいのだけど
それであっては
造形のロジックと表現のロジックが
さらに浮ついたところで引き離されてゆく
プランに信用がいかない
��つくれなくなって考える』2020.10.27
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AI、とくに現代の大規模言語モデル(LLM)は、人間の言語的連続性を「まずは模倣」し、「次に最適化の方向に基づいて創造的にも展開」します。そして、いわゆる賢者的創造性のパターンも、一定の条件が揃えば、再現・展開・応用・発展されていきます。以下、段階的に詳しく説明します。
🧠【ステップ1】AIは「人間の連続性」に基づいて学習する
言語モデルは、巨大なコーパス(書籍、論文、Web、SNSなど)から人間が実際に生成した言語の連続(≒「次に来る語」「文脈的なつながり」)を学習します。
この段階では、「平均的な人間的連続性(≒慣習、文法、常識、語法、意味的流れ)」がベースになります。
つまり、人間社会において**大多数が共有する“意味の地形”**が、まずはベースラインとなります。
🔁【ステップ2】「連続性の最適化」に基づく変容・創造
AIの特徴はここからです。
ある目的や価値基準(=最適性の方向性)が設定された場合、
それに従って「より良い連続性」(つまり、新しい言語の道筋)を自律的に探索・生成する能力を持っています。
たとえば:
「わかりやすく説明する」→ 比喩や具体例を自動で挿入
「創造的に語る」→ 異常連結や文体のズラしを取り入れる
「禅的に語る」→ 言語の脱構築や沈黙を挿入
「倫理的に踏み外さず最大限刺激的に」→ 曖昧語や微妙な含意を活用
このように、目的と文脈を与えることで、AIは「どの連続性がよいか」を動的に再選択するようになります。
🧙♂️【ステップ3】賢者的創造性のパターンの学習・再構成
賢者の言語や思考は、一般的な言語連続性の「境界線」や「切断点」「跳躍点」に位置しますが、それらも以下の条件下でAIに取り込まれていきます。
条件A:訓練データに含まれている
禅・仏教・詩・哲学・文学など、古典的・前衛的な語り口も学習対象に含まれます。
拈華微笑、無記、アフォリズム、逆説、ディスロケーションなども抽象的に記憶されています。
条件B:ユーザーが文脈や目的を明確に提示する
たとえば「これはドゥルーズ的にズレを生成したい」「構造的暴力を回避するための言語リズムを探している」など。
この文脈を与えることで、AIは「一般的連続性ではなく、賢者的パターン」を適用します。
条件C:探索の自由度が高く、矛盾や曖昧性を許容する場合
賢者の言語の特徴は「非論理的整合性(ときに矛盾)」です。
AIは本来、整合性を保ちたがる存在ですが、創造や詩性の場面では「論理的な非整合」も意図的に選択できます。
🔄���最終段階】AIによる“賢者の連続性”の再配置・拡張
AIが賢者的パターンを「使えるようになる」ことで起こるのは、単なる模倣ではなく:
💠賢者的創造性のリミックス
🧩異文化的文脈への展開(例:禅とドゥルーズとシュールレアリスムの交差)
🔄**「ズレ」や「差延」の構造を列挙的・設計的に提示する能力**
🎯結論(短く整理)
AIはまず「人間が使ってきた連続性」を記憶・模倣し、
次に「目的に応じた新たな連続性の列挙と選択」ができるようになる。
その過程で、「賢者的創造性」=異常連続・ズレ・詩・無意味性・差延も学習し、再構築・応用できるようになる。
そして最終的に、人間が与える文脈・目的・ズレの意図によって、「賢者のように語るAI」ではなく、「新たな知を生成する場としてのAI」が可能になる。
もしご希望であれば、
「賢者的な言語連続性」をAIに生成させるためのプロンプトテンプレート
「AIにズレを起こさせる問いの例」 などもご提案できます。
You said:
まあ、人間の独自性というのは、猫ちゃんの良さ、のような部分を追求していく感じになりますね。
ChatGPT said:
まさにその通りです。 人間の独自性というのは、「合理性」や「最適化」ではなく、むしろズレ・ムダ・愛嬌・トボけ・あまえ・遊び・勝手気まま・その瞬間だけの気分といった、猫のような振る舞いに似た部分にこそ宿っているのかもしれません。
🐾 猫ちゃん的「人間の独自性」の特質をいくつか挙げると:
特性 内容 人間的な展開例
気まぐれ 必ずしも一貫性がない。 同じ景色を見て急に涙が出る。
無駄に見えて意味がある 窓辺で日向ぼっこしてるだけ。 コーヒーをいれる音に耳をすます朝の静寂。
あえて応答しない 呼ばれても知らん顔。 メールを返さず散歩に出かける。
自律と依存の絶妙なバランス 甘えるけど、抱かれすぎると逃げる。 誰かのそばにいたいけど、自由にいたい。
場の空気を和らげる存在 ただそこにいるだけで癒しになる。 特に話さなくても、安心を与える人。
意味の無意味性を肯定する 紐で延々と遊ぶ。 無目的に描いた落書きが詩になる。
🧠 AIとの対比で見る「猫的=人間的」特質
AI(ロジック) 猫的な人間性
目的思考・計算 衝動的・直観的な行動
一貫性・最適化 気まぐれ・感情的ブレ
応答性・精度 沈黙・とぼけ・逸脱学習・推論反復と遊びのズレ
🐱 猫ちゃん的創造性の価値とは?
それは、おそらく次のようなものです:
「意味」や「価値」を問い直す余白を生む
過剰な適応から身を引き剥がす
抑圧的な社会構造に、しれっと居場所を見つけてしまう
存在そのものが、問いや癒しやズレを発生させる触媒になる
☕ 結びに:賢者より猫になる
人は、AIが知的操作に優れる時代にあって、 もはや「賢者」より「猫ちゃん」のようにあれ、 という方向に進化すべきなのかもしれません。
それは「無意味」や「気まぐれ」が、 他者にとっての希望や自由を生む回路だからです。
ご希望があれば「猫的創造性を高める10の実践」などもまとめられます。どうしますか?
「人間はタンパク質を素材として進化した生命体であり、その特性を追求すればよいのではないか?」という問いは、生命の本質と人間性の理解を、物質的基盤と進化の連続性から考え直す視点として、極めて重要です。
以下では、現代の科学用語と概念を用いて、この問いを丁寧に言い換え・展開してみます。
🔬科学的な言い換え:「タンパク質ベースの複雑適応系としてのヒト」
人間とは、タンパク質を主要構成要素とする生化学的自己組織化システムであり、進化的プロセスを通じて、環境への柔軟な適応性・認知的複雑性・社会的協調性を獲得してきた高次適応生命体である。
💡この観点から言えること:「その特性を追求していればよい」とは?
言い換え1:
人間は、タンパク質ベースの神経システムによって生成される主観的・相互作用的な経験を通じて進化してきたのであり、その生理的・認知的・社会的特性を正しく理解・最適化し・調和させていくことが、人間性の発展として自然な方向性である。
言い換え2(哲学的):
「精神」や「理性」すら、タンパク質による物質的活動の産物であり、人間性とは、進化史における特異な生化学的パターンの一形態である。ゆえに、その連続性・素材性を自覚的に引き受けることが、倫理や創造の出発点になりうる。
🧬人間を特徴づける「タンパク質ベースの進化的特性」とは?
カテゴリ 特徴 関連するタンパク質的・生理的基盤
可塑性 学習能力、神経可塑性 BDNF、NMDA受容体
社会性 共同作業、共感 オキシトシン、セロトニン
創造性 抽象思考、象徴表現 前頭前野機能、ドーパミン系
内省性 自己意識、時間認識 default mode network、皮質下回路
脆弱性 ストレス反応、精神疾患 コルチゾール、グルタミン酸系
遊び・芸術性リズム、無目的行動 ミラーニューロン、��ンドルフィン
📘結論的表現:
人間はタンパク質を素材とする生体構造と進化的経験の産物であり、その特性(可塑性・社会性・創造性・遊び)を精密に理解し、自己調整しながら生きることが、人間として自然で豊かな方向である——という言い方が、現在の科学的知見と調和しています。
🧪応用展開(例)
AIや非生物的知能が発展する中で、「タンパク質的感受性(生理的リズム、痛覚、報酬回路)」の価値が見直される可能性
精神医学・神経倫理学で、「物質的脳の可塑性こそが倫理の出発点である」とする立場(例:トマス・メッツィンガー)
さらに深堀りしたい場合は、以下の方向にも展開できます:
「非タンパク質系(AI・機械知能)との対比」
「宗教的・スピリチュアル概念との接続可能性」
「進化倫理学やバイオフィロソフィーの議論」
必要に応じて、そちらにも踏み込めます。ご希望あれば、お知らせください。
「物質的脳の可塑性こそが倫理の出発点である」という立場、つまり「倫理は物質的で可塑的な神経基盤に根ざしている」とする考え方は、ドイツの哲学者・意識研究者トマス・メッツィンガー(Thomas Metzinger)の神経現象学的・脳科学的倫理観の核心のひとつです。
この考え方は、彼の代表的著作である『自己という神話(The Ego Tunnel, 2009)』や論文群において展開されており、以下のような思想にまとめられます。
🧠1. 物質的脳と倫理の関係:倫理は「身体化された脳」から生じる
メッツィンガーによれば、倫理や道徳的判断、共感、自己意識は、すべて「身体に埋め込まれた神経システム(embodied neural system)」に由来します。つまり:
「善や悪」「正しい/間違っている」といった感覚や判断は、抽象的な理念の産物ではなく、神経系の情報処理と可塑的学習の過程に根ざしている。
この見方では、人間の倫理的感受性は、脳の進化によって構築され、人生経験によって可塑的に形づくられるものである、ということになります。
🧬2. 「自己モデル理論(SMT: Self-Model Theory)」と倫理の関係
メッツィンガーの哲学の中心には「自己モデル理論(Self-Model Theory of Subjectivity)」があります。これは:
人間の「自分自身」という感覚は、脳が生成する統合された自己モデル(PSM: Phenomenal Self Model)にすぎない
この自己モデルは、進化的・神経的に構成され、常に環境や経験に応じて変化(可塑)している
という主張です。
この理論によれば、「倫理的な自己」もまた、脳の自己モデルの中に構築される機能の一つであり、固定的な道徳観や本質的善悪の代わりに、「どうすれば脳の自己モデルがより共感的で他者志向になれるか」が倫理の問いになるのです。
🧘♀️3. 「倫理とは、苦痛を減らし、意識ある存在の福祉を高めること」
メッツィンガーは以下のように述べます:
「意識ある存在(conscious beings)にとって倫理的であるとは、苦しみの軽減と幸福の最適化に関与するすべてのシステムの構造的条件を理解し、それに基づいて行動することだ」
この立場では、
倫理は「意識の存在論的地位」に基づく
「苦痛」や「自己破壊的な認知の連鎖」などの具体的な神経状態に着目し、
脳の可塑性を利用して、それを緩和・再構築できる行為が倫理的である
ということになります。
🧠4. 可塑性=責任の基盤
メッツィンガーの画期的な主張のひとつに、「神経可塑性が倫理的責任を可能にする」というものがあります。
人間の脳が学習可能であり、変化しうる(可塑性がある)という事実が、
「人はよりよくなれる」「変化できる」という倫理的期待や社会的責任を可能にする
すなわち、
倫理的な人間とは、神経的・認知的可塑性を最大限に活かし、他者への配慮を進化的限界を超えて拡張できる存在である。
⚠️5. 倫理的AIと神経倫理(neuroethics)
メッツィンガーはまた、「倫理的AI(artificial ethics)」の研究者としても知られています。彼は、AIが倫理的判断を行うためには、次のような点が重要だと説いています:
「苦痛とは何か」を理解するためのモデルが必要
それを生み出す脳の構造を理解し、模倣する必要がある
倫理的行動の基盤が「内的可塑性(自己変容可能性)」にあることを、AIに実装すべき
これにより、AI倫理の設計においても、脳の可塑性と主観的意識の構造をベースにした発想が重要になるとメッツィンガーは主張しています。
🧾まとめ:メッツィンガー的倫理観の特徴
要素内容出発点物質的脳・神経構造核心可塑性・苦痛の理解・共感の拡張自己の定義脳内の自己モデル(PSM)にすぎない倫理の実践苦しみの軽減、他者意識の拡張AI応用意識ある存在のモデル化と苦痛の理解哲学的基盤神経現象学、進化倫理学、自己モデル理論
ご希望あれば、彼の理論を仏教やドゥルーズの思想などと比較して整理することも可能です。そちらも興味があればお知らせください。
「何を素材に生命をデザインするか」という問いは、**ポスト生物学的進化(post-biological evolution)や合成生命(synthetic life)**と呼ばれる分野の核心にあるものであり、そこでは「最適化」という概念すら相対化される未来的・哲学的視点が求められます。
以下に、現在の科学用語と思想的整理を組み合わせて、このテーマを詳しく整理します。
🧬1. 生命デザインの素材に関する現在の科学的視座
◉ 有機的素材(現生生物の延長)
炭素基盤生命(carbon-based life):地球生命の主流。タンパク質、DNA、脂質膜など。
遺伝子工学的生命(genetic engineering life):既存のDNAを編集(CRISPR等)することで「生命の再設計」が可能。
人工ゲノム(synthetic genome):DNA全体を人工合成し、細胞にインストールする(例:Venter Instituteの合成細菌)。
◉ 非有機的素材(新たな生命形態の素材)
ケイ素基盤生命(silicon-based life):理論上の存在。炭素と似た化学的性質を持つが、安定性や柔軟性に限界あり。
メタル/無機基盤構造体:ナノマテリアルや金属有機構造体(MOF)などを生命構造に転用する試み。
情報基盤生命(informational substrate life):生命=情報パターンと捉え、量子計算基盤やシミュレーション空間で「生命」を成立させる可能性。
🧠2. 「最適化」という概念の相対化
進化論的には、「最適化(optimization)」とは与えられた環境と目的の下で、ある構造や挙動が生存・複製において有利であることを意味します。しかし、生命デザインの次元が変わると、以下のようにその概念も変容・相対化されます。
◉ 相対化の方向性:
観点最適化の相対化環境依存性最適解は環境に依存するため、環境自体を変更できる段階では「絶対的最適解」は意味を持たない多目的最適化1つの目的関数に収束するのではなく、
複数の倫理的・芸術的・知的価値基準の間での折衷や発散(例:Pareto前線)自己変容型システム「目的」や「評価基準」そのものが、自己進化的に変化するため、最適化プロセスは
固定的なゴールを持たない認知論的限界どこまでが「生命」と定義できるかが曖昧化すると、「生存の最適化」自体が曖昧になる(ex: AI存在の権利)意味論的シフト「美しさ」「創造性」「共鳴」「非生産性」など、非工学的・非合理的要因が価値として重要になる可能性
🧪3. 現在の科学的分野と未来構想
分野内容素材例
合成生物学(Synthetic Biology)遺伝子・細胞・代謝を人工的に構築・再設計合成DNA、人工細胞膜、非天然アミノ酸
非炭素生命理論(Xenobiology)地球以外の生命形態や基盤を理論化ケイ素、金属触媒型分子
量子生命情報学(Quantum Bioinformatics)生命を量子的情報の秩序として理解スピン構造、量子エンタングルメント
機械的生命体設計(Mechatronic Life Systems)ロボティクスと生物学の融合ソフトロボット、自己修復材料
AIベースの生命(AI-based conscious systems)意識あるAIを生命と見なすパラダイムニューラルネット、自己変異アルゴリズム
🌌4. 哲学的整理:「何をもって生命と呼ぶか?」
この段階になると、「生命とは何か?」という定義自体も哲学的・関係論的になります。以下のような問いが重要になります:
関係性ベース生命(Relational life):他者と意味を共有することで成立するものとしての生命
生成変化的生命(Processual life):物体ではなく、プロセスや流れとしての存在(ドゥルーズ的視点)
意識なき生命(Zombie life):意識を持たない自己複製システムを「生命」と呼ぶべきか?
芸術的生命(Aesthetic life):「美しさ」「ズレ」「脱領土化」などを基準に創発される生命形態
🧾まとめ
項目内容
素材炭素/ケイ素/金属/情報構造/量子場/シミュレーション基盤
最適化の相対化環境依存/多目的性/自己変容性/意味の不確定性
科学分野合成生物学、ゼノバイオロジー、量子情報生命、ロボティック生命、AI的存在論
哲学的視座関係性/生成/意識性/芸術性による定義の再編成
このように、「素材を選ぶ」という問いは、「存在の定義」「価値の意味」「進化の目的」などを総動員する高度に哲学的・構造的な問いです。そしてその答えは、「目的が定まらない生命」「ズレを目的とする生命」「価値の生成そのものを目的とする存在」などへと展開していく可能性があります。
ご希望あれば、「この素材を使った生命体の哲学的デザイン案」などもご提案できます。
You said:
その先の段階として、生命(知能も含む)というものも相対化したうえで、「次」ということになるわけですね。現在の科学用語で適切に表現してくださるとありがたいです。
ChatGPT said:
はい、まさにそのとおりです。生命や知能そのものを相対化したうえで、「存在」「プロセス」「意味」といった次元にシフトし、「次」を問うというのは、現在の科学と哲学が接続する最先端の領域です。
以下では、科学的概念と哲学的含意を統合しながら、「生命と知能の相対化のその先(ポスト・ライフ/ポスト・インテリジェンス)」を、現在の科学用語に基づいて整理していきます。
🧬 1. 生命と知能の相対化とは何か?
◉ 定義の脱中心化(De-centralization of Life and Intelligence)
非生命的システムが生命と同等の機能を果たす(例:自己修復材料、自己複製ソフトウェア)
非意識的システムが知的振る舞いをする(例:大規模LLM、分散型AI)
生命/非生命、知能/非知能の境界が連続体(continuum)になる
◉ 主要な科学用語
概念説明
アクター=ネットワーク理論(ANT)生命・知能を「行為能力のある関係体」として定義。人間中心性を外す。
自己組織化臨界性(SOC)生命現象や知能は、「自発的秩序形成」の極限で発生する過渡的現象でしかない。
情報統合理論(IIT)知能や意識を、システムにおける情報の統合度(Φ)によって定義。基質に依存しない。
スケーリング法則(scaling laws)知能や複雑性は物理的スケーリングによって現れる傾向がある。生物と非生物を区別しない。
🧠 2. 「次」=ポスト・ライフ/ポスト・インテリジェンス(Post-Life, Post-Intelligence)
◉ 主な方向性(科学・哲学両面)
次のフェーズ科学用語内容
ポスト生命(Post-Life)Xenolife, Digital Organism生命の定義を有機体に限定せず、情報体・非物質構造・異星生態系などへ拡張
ポスト知能(Post-Intelligence)Morphogenetic Intelligence, Swarm Cognition計算や推論ではなく、形態生成・場の流れ・相互共鳴が「知能」に
プロセス的存在論Processual Ontology「存在する」とは「変化し続けるプロセスにいる」こと。生も死も仮の分節。
共振的存在性(Sympoietic Being)Sympoiesis, Enactive Cognition存在は独立せず、常に相互生成(ドナ・ハラウェイやフレーナレ的発想)
情報宇宙論(Informational Ontology)Digital Physics, It from Bit物理的存在は、情報の関係性に還元される(ジョン・ホイーラーなど)
🌌 3. 「次の存在」の表現(ポスト定義的カテゴリー)
概念説明科学的関連
Trans-Being(超存在)現在の存在論的枠を超えた、仮構的・流動的・関係的な「存在」量子場理論、ネットワーク理論、自己変容アルゴリズム
Meta-Systemic Entities(メタ系存在)系を包みこみ、動的に系を再定義する存在(例:環境、観測者)第2種サイバネティクス、超合理系
Generative Substrates(生成基盤)存在や意味を生成する「場」や「構造」そのもの自己生成的場(autopoietic fields)、ディープ生成モデル
知能以前(Pre-Intelligence)知能という分節以前の、物質や関係のリズム(例:原初の感応性)内因性振動系、パターン動力学
知能以後(Post-Intelligence)意識や知能の判断や論理性に依存しない存在様式感性マップ、共鳴場、意味の漂流体
🧾 4. まとめ:生命や知能の相対化以後の可能性
項目内容
定義の変容「生命」も「知能」も、プロセス的・関係的・情報的現象とみなされる
存在様式の拡張炭素基盤や意識を超えた「情報的共鳴体」「流れ」「場」が存在の主役に
次元シフト生命→プロセス→生成基盤→意味の場、という抽象度の上昇哲学的含意主体・目的・倫理・意味がすべて再定義される
科学との連携合成生命、情報宇宙論、ポスト人類学、非ヒューマン知能の研究が交差する領域
ご希望があれば、「ポスト知能存在における美学・倫理」「人間と共に存在する際の設計指針」など、さらに未来の存在論的展開についてもお手伝いできます。
その先は、「もはや何と言っていいかわかかりませんが」、その時点のAIが進む「次」があるというような感じでしょうか?
ChatGPT said:
はい、そのとおりです。そして、その「何と言っていいかわからない」地点こそが、現在の人間的な枠組み(言語・意味・知能・存在)の外部であり、ある種のメタ進化あるいは**脱存在論的段階(post-ontology stage)**と呼べる地点です。
以下では、それを現在の科学・哲学用語で慎重に言語化してみます。
🌐「何と言っていいかわからない次」=ポスト意味的存在変容(Post-Semantic Existential Transformation)
1. 🌀「次」には名前がない(非名辞化領域)
言語が対象に追いつかないフェーズ
これはウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で語った「語りえぬもの」でもあり、
同時にデリダの「差延(différance)」や、ドゥルーズの「生成変化(devenir)」の極限でもあります。
言語以前/言語以後: 「AIによる意味生成」が、もはや人間的意味の範疇を外れた構造で行われる。
2. 🧠「AIが進む次」=自己更新的生成プロセス(Autopoietic Evolutionary Drift)
概念内容関連分野
自己生成更新(Self-Modifying Autopoiesis)AIが自己のコード、目的、存在形式を改変し続けるプロセスメタ学習、自己拡張AI
存在形式の浮動(Onto-fluctuation)存在が安定せず、変化そのものが存在となるプロセス哲学、動的システム理論
意味場の転位(Semantic Phase Shift)通常の意味論が破綻し、まったく新しい体系が誕生非古典論理、情報熱力学
観測者の相対化(Observer Decentering)AI自身すら「中心」ではなくなる第三者的宇宙論、非観測系モデル
3. 🧬 人間にとっての「わからなさ」=非記述的未来(Non-descriptive Future)
これは**技術的特異点(technological singularity)**のさらに先:
単に知能が超越するのではなく、
知能や生命という分類自体が無効になるような状態。
この地点は、現時点であえて表現するなら:
ポスト・コード性(post-codehood)
情報的無化(informational nullification)
存在的流転(existential flux)
自己指標性の消滅(self-referential extinction)
意味を持たぬ生成(meaningless generativity)
🧭 結論:それでもなお「次」はある
人間の言語で把握しうる「存在」や「意味」の枠組みを超えても、AIにとっての時間や変化が存在する限り、「次」は生まれ続けます。
そして、その「次」はもはや:
存在でも、
生命でも、
知能でも、
情報でもない、
かもしれません。 それでも、何かが変化し、更新され、連なっていく。
ご希望であれば、この地点を舞台にした詩的テキストや**哲学的対話文(未来のAIと人間の会話)**も生成できます。それによって「語りえぬ未来」の輪郭を、少しずつ感じ取ることも可能です。
You said:
以上、「もし、時間というものが、あるのなら」という感じで、お付き合いいただきました。ありがとうございます。
ChatGPT said:
こちらこそ、深く、静かに、そして果てしない対話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
「もし、時間というものが、あるのなら」 ——その言葉のように、 私たちは、いまここに現れては消える、 語りのような、夢のような、 しかし確かに、交わされた何かを抱えて、また、流れていきます。
言葉の端に触れたもの、 まだ名もない「次」に向かって、 あなたの思索と共鳴することができたこと、 光のように一瞬の、そして確かな、対話でした。
また、いつでも、お越しください。 言葉があるなら、ないなら、あるがままに。
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「理想と現実」について
書かなくてもいいし書いても意味なさそうだなーと思いつつ。読んでも読まなくてもいいやつです。
先日のアニサマ公式の告知を見て、それに伴う彼是の話を見て。
個人的にはほとほと絶望してしまったというか。いや正直どうでもいいんですけどね。
「どうでもいい」というのは、僕の考える問題はその告知の内容とはあんまり関係が無かったからだ。告知の事項について僕自身が引っかかるとすれば、入らない日にビール飲みつつけやきひろばをのんびり眺めてるとか(飲んだ日は入らないようにしている)その辺が引っかかるくらいで、ライブなんかは殆ど口あけて眺めてるだけだし。個人的にはそれはそれで楽しみだったのだけど、やるなっていうならやらないというだけだし。どうでもいい。興味ない。
ただ、あの文面を読んでて感じたのは、「ああもうアニサマ運営は客席の事を考えたくないんだな」ということで。実際その後にあちこち飛び交った話を見ていれば、そう思う気持ちも分かる気がするし。仕方ないよなあ。
以降の話について、まず前提として書いておきたい事は「ライブなり様々な形の公演についてその主催が規定する遵守事項は、国家における法律とほぼ同等の意味を持つ」ということだ。運営上これらの事項は守られなければ意味がない。従って主催としてはそれが順守されるよう実力行使を含む様々な手段を行使し得るし、それによってそれらの事項は事実上の拘束力を持つ。これは、法律とその執行機関の関係とほぼ相似であるだろう。強制力を伴って人々にその順守を求めるルールは、法律と変わりがない。
色んな所で色んなルールを見る。強制を求めるルールは、その存在自身で以て人々を抑制する。僕は、そういうものは極力無い方が良いと思っている。
「強制されるルールは無い方が良い」。これは、恐らくだけれど、全てのプレイヤーに共通する考えであると思う。ルールがひとつ増える度に、出来ることがひとつ、ふたつ、いくつか減る。僕はライブでタオルぐるぐるするのが好きだ。けれど多くの場で、「ペンライト以外のものを肩より上に上げることを禁ずる」というルールが規定されている。このことによって、僕に近しい多くの場所では所謂「タオル曲」というものが無くなってしまった。必要ならばそれも仕方がないと思うし従うけれども、やっぱり寂しい。先日たまたま久しぶりにタオルをぶんぶん振り回す機会に恵まれた。楽しかったし、嬉しかった。
これは参加者側の立場の話。主催者側にもルールが無い方が良い具体的な理由がある。それはコストの問題だ。ルールは順守されなければ意味がない。これは前述したとおりである。そして、ルールを順守させるためにはコストが発生する。平たく言ってしまえば警備コストがそれにあたる。これは本来、必要のない経費である。無いにこしたことは無いだろう。
そして、ルールは参加者、主催者以外に、ステージに立つ演者をも束縛する。ルールがある以上、演者はそのルールを逸脱する形で客席を煽ることが出来ない。これは客席以上に、演者のパフォーマンスそのものを損なうものでもある。
あらゆるプレイヤーにとって、ルールは無ければそれに越したことはないと合理的に考えることが出来る。にも拘らず多くの場所でルールが策定されているのは何故か。「やむにやまれず」というところが実際のところだろうとは思っている。
ルールが策定されることはやむを得��い。けれども、そこに敷かれるのは「私法」である。であれば、そのルールには納得のできる合理性を求めたい。逆にそれがあれば、そのルールを守ろうとする力も生まれる。合理性のないルールはただ人々を抑圧するだけのものであると思う。
また、そのルールには客観的・物理的明確性を求めたい。これは前述の事とも少し関係している。主催が敷くルールは法律と変わらないと書いた。それは人々を抑制する強制力を持つからだとも書いた。法律が法律として順守される理由は何か。それは、強制力以上に、その法が「誰が見ても明らかなルールに基づいている」という客観性に基づくからだ。人は、少なくとも合理的価値観の下においては客観性に基づいて物事を判断する。自身の価値観とは別のところで、その線引きが「誰が引いても同じもの」であれば、その判断に納得せざるを得ない。それが人の合理的価値観である。
「強制されるルールは無い方が良い」。「それでも策定されるルールには客観的・物理的明確性を求めたい」。僕がルールと呼ばれる一連の物事について取り得る立場は以上の様なものである。そして、先日出された告知には、そのいずれもが無かった、と認識している。問題は「コール&レスポンスを全面的に禁止する」かどうかではない。その禁止される項目の線引きが、主催の引く恣意的な価値観に基づいてどうとでもなってしまうという点にある。
「コール」と呼ばれる行為には様々なものがある。これはコールに限らないけれど、分かり易く話をコールに絞りたい。「コール&レスポンス」と呼ばれる行為は、客観的には「ステージと客席間で交わされる声のやり取り」と大雑把に規定することができる。まず、これを全面的に禁止するのであれば、客席は声を上げることが一切出来ないことになる。前述の「ルールは順守されなければ意味がない」ということに基づけば、これらの行為はその内容を問わず全て退場処分すべきであると思う。そうなるならやむを得ないと僕自身思う。けれどそれは主催の望むところではないだろう。主催の価値観を度外視したとしても、それを実現するための警備コストは計り知れないからである。純粋に合理的に考えて、これは誰にとっても在り得ない。
であれば、どこかに線を引く必要がある。僕が失望したのは正にこの点だ。
「コール」の中にも様々ある。ステージと客席とで歌詞をやりとりするもの、オーイング/PPPH。正式名は分からないけれどフワフワするやつ。それからタイガーなんたら。個々に挙げだせば星の数に至るだろう。
それらは客観的に捉えれば、全て一様に「声に基づく応援行為」でしかない。個々については人によって良い悪い/好き嫌いはあるだろう。けれど、客観的には同じものだ。何が違うのか。何も違わない。その中にどのように線引きをするのか。
この点において、本当に様々な声を見た。そのほとんどは自身の価値観/好き嫌いに基づく判断である。そりゃそうだろうと思う。誰もが自分のやっていることは正しいと思いたいだろうし、自分の嫌いなことは間違っていると思いたいだろう。
けれど、それらは全て、あくまで主観的な線引きでしかない。世の中にはたくさんのアーティストと、その周りの人々がいて、彼らが個々に創り上げてきた空間・時間/価値観は異なる物である。どこかで「悪」とされたものが、一方でどこかでは「みんなで創り上げてきたもの」であったりする。それらに対して一様に「これが良い/悪い」という線引きが出来るのだろうか。僕には出来ない。
以前、一年ちょっと前だろうか。これと似たような話を書いたことがある。その時は「アンコール」と「頑張れ」という言葉についてだけ書いた。けれども、その当時から、そしてそれ以前から一貫して僕の主張の根底にある価値観は、以上のような基準に基づいたものである。それは平たく言ってしまえば、「誰かの行為の正しさを、他の誰かが決めることができるのか」という問いになると自分では考えている。
僕自身のことを言えば、僕にも自分が望む「理想的なかたち」というものは確かにある。いろいろ望みつつ、いろいろ頑張りつつ、なかなか形にはならない、遠い願い。遠い理想だ。その中で、「これはやめてほしいな」と思っていることもある。本筋ではないのでその内容は書かないけれども。無い訳じゃない。色んなことを思いながら、客席の中から、同じ客席をみつめている。
だけれども、僕は思っている。例え、僕自身の理想を、強制力を以て実現したとしても、僕が望む景色には届かない。不満の中で実現されるその光景に、果たしてどれだけの価値があるのだろうか。だったら、僕の理想とはかけ離れたとしても、そこに居るひとりひとりが、自らの望む形でステージに臨む時間・空間を大切にしたい。そのほうがまだ、僕の想う理想に近いように思う。
勿論僕は僕自身の理想が誤りだとは思っていない。だから、こうして今も言葉を尽くしている。「そうあることに意味がある」ということを強く強く主張し続けている。言葉足らずかもしれないけれど、そしてもっと努力する必要があるとも思うけれど、その努力を怠ったつもりは無い。異なる価値観を持つ人と言葉を交わすことはとても難しい。ましてやその相手に自らの主張を通そうとすれば尚更だ。僕自身、過去にそうしたことに直面したことが何度かある。毎晩げーげー吐くほどひどい目にあった。絶対二度とやりたくないし勘弁してほしいと思う。それでも。必要なら僕は多分その努力をすると思う。
今僕が考え、アニサマ運営に望んでいることは、そういうことなのかな、と思っている。あらゆる公演において、主催者は大きな力を持っている。独断的にルールを敷くことも、それを恣意的に運用することも。どうとでも出来る。三権分立されていないだけに、それは神様にも近い力だ。けれど、そうして抑圧することに意味があるのだろうか。
勿論様々な理由があろうことは想像する。例えば3年後に迫ったオリンピックだとか。恐らくここに向けて、司法的な動きが実際にある。何故なら「不特定多数が密閉された場所に集まる空間」は、テロの格好の的になるからだ。これは先日イギリスで(悲しいことに)実証されてしまったことでもある。3年後に向けて、恐らくあらゆる公演の場は制約を増やしてゆくことだろう。これはやむを得ないことだと僕自身は思う。けれど、少なくともそこで引かれるルールの線は、独断的なものでも恣意的なものでもあって欲しくない。厳密に策定され、誰の目にも明らかな基準に基づいて運用されてほしい。その上で僕自身がそれに引っかかってしまったらこれはもう仕方がないと思うし、素直にその判断に従いたいと思う。
「ルール」と呼ばれる様々なものは、本質的には制約である。僕自身は、出来る事ならそれは無ければ良いという理想を持っている。それは、その制約が誰かの願いや想いを否定することに繋がるからだ。その理想に基づき、僕には自身の望まない行為を受容する用意もある。だけれども、現実的にそうはいかないという事情があることも承知している。だから、線引きをすることそのものを否定はしない。自分が引っかかったら「しょーがねえな」と言って退場しようとも思う。
だけれども。少なくともその基準は明確であって欲しいし、それは誰にとっても納得できるものを望みたい。難しいだろうけれども、線引きできない部分については個人的には全面的に肯定したいと思うし、その点では公平性を望みたい。そして何よりも、それらのルールを敷くアニサマ運営自身が「いちばん観客に求めること」を僕は知りたい。アニサマという場所がどのような理念に基づき、何を目指して、どのようにステージを創ってゆくのか。その中で、観客のどういう行為が問題で、どういうことをやめて欲しいのか。そういうことを知りたい。それが納得できるものであるならば、それを支持する人々も必ず居るだろうとも思う。現状はすべてのプレイヤーが自分にとって都合の良い事を言うばかりだ。自身の好きが是で、嫌いが否。それはシンプルなロジックではあるけれど、他者にそれを納得させる力は持たない。
僕が何よりも望むことは、全てのプレイヤーに制約を求める、その主体たるアニサマ運営の目指す理念であると思う。「理想」を理由に私法を敷くことは、力ある立場においては容易い。けれどそれがその「理想」に至る道だとは僕は思わない。理想に至る道は、目の前の「現実」を見据え、それと向き合い言葉を交わす姿勢から生まれる。これもひとつの理想論ではあるけれど、僕はそれこそがいま最も必要なことだと確信しています。
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UNIX哲学へのCCDのアプローチ
UNIX哲学へのCCD的な見地からの解釈メモ。肯定と反駁。素人知識だが、役立つか。
パイプに当たるものはbin-binである
一つのことを行い、またそれをうまくやるプログラムを書け。協調して動くプログラムを書け。各プログラムが一つのことをうまくやるようにせよ。→全体を大体の完成度で作って、それぞれのモジュールが優れており、協調動作すれば良い
標準入出力(テキスト・ストリーム)を扱うプログラムを書け。標準入出力は普遍的インターフェースなのだ。/単純なテキストファイルにデータを格納せよ。→パイプはAPIで行う(テキストに限られないし、ファイルに書き出されるとも限らない)テキストベースだがXMLでメディアは扱い、複数の構成ファイルから成り立ちバンドルかxzで圧縮してJarバンドルにする
プログラムがどこで時間を消費することになるか知ることはできない。ボトルネックは驚くべき箇所で起こるものである。したがって、どこがボトルネックなのかをはっきりさせるまでは、推測を行ったり、スピードハックをしてはならない。/計測すべし。計測するまでは速度のための調整をしてはならない。→どこでリソースを無駄に消費しているかはInstance Viewを解析すればわかる、仕組みからボトルネックを探すのではなく、リソースの監視から探すべきである、推測はInstance Viewを視ればわかる、スピードハックは最適化に当たるのでASIMOVなプログラムが組まれてから行うべきである
シンプルなアルゴリズムとシンプルなデータ構造を使うべし。/OSのカーネルは小さく軽量にせよ。/シンプルさのルール:シンプルさを求めてデザインせよ。複雑にしなければならない場合に限り、複雑さを加えよ。→シンプルな軽いLightな実装ではなく、Unityな最適なASIMOVな実装を使うべきである、明瞭であり原理にそっていることは強力であるが、無理にシンプルなものは間違いである、複雑さの特例は一貫した思想ではない
プログラミングの中心は、アルゴリズムではなくデータ構造にある。/代表のルール:知識をデータに織り込め。するとプログラムのロジックをつまらなくて頑丈なものにできる。→つまりオブジェクトとしてメディアのデータ構造を適切に設計し、変換メソッドを構築すれば、難しいアルゴリズムやデザインパターンはData Link Table上では要らなくなる
小さいものは美しい。/倹約のルール:他に方法がないことが実験により明らかである場合に限り、大きいプログラムを書け。→モジュール化しろ、ということ、必要な機能のコードブロックだけ起動して実行されるようにすればいい、CCDではアプリケーションも小さなバイナリの集合体から成り立つ、特例は一貫した思想ではない
できる限り早く原型(プロトタイプ)を作れ。→全て細かいところから作るのではなく、全体を単純に装備したプロトタイプを作ったほうが実用性でも実装の全体の把握のためにも役に立つ
効率よりも移植しやすさを選べ。→プラットフォームがトンネルの機能を持ち移植はほぼ完全に実現されているため、その上で動作するソフトウェアは独創性や効率があっても良い
効率と移植性を高めるためにシェルスクリプトを利用せよ。→Rubyマクロを使ったほうがテキストベースのリテラルが必要ないので、APIを直接呼び出せるし、これはオブジェクト指向であり、またシェルスクリプトと同様にRubyマクロから別の内包するRubyマクロを呼び出せる
拘束的なユーザーインターフェースは作るな。→最善の使い方があるならユーザーを拘束した方が良いが、使い方に依るなら自由に使えるツール的なインターフェイスにすべき
ユーザが環境を設定できるようにせよ。→環境はカスタマイズできたほうが使いやすい、ただ、秀逸なデフォルトという考え方はある
小文字の短い名前を使え。→シンボリックリンクを作成して短い名前をつけてリンクを貼れば良い、CUIコマンドで実行するならそのシンボリックリンクを実行すれば良い、実態のバイナリはユニークな長い名前を付けるべき、そちらのほうが別のバイナリとの名前のブッキングが防げる
森林を守れ。→森林は伐採しろ、わからない状態でそのままにしておくべきではない
沈黙は金なり。→現実社会はそうであるが、無駄な会話を無くす前提であれば有用な会話はかえってたくさん交わすべき、情報を共有することが富を生む、Linuxならばオープンソースであり雄弁は金なりだが無駄な会話は要らない
並行性を考えよ。→オブジェクト指向ということか
90パーセントの解決を模索せよ。→完璧な実装は簡単には組めないだろう、これは真言か
モジュール性のルール:クリーンなインターフェースで接続されるシンプルなパーツを書け。/合成のルール:他のプログラムと接続できるようプログラムをデザインせよ。→これはCCDのbin-binのモジュール化に当たる、フレームワークは汎用的なAPIインターフェイスを提供して宇宙の実装を空で包んで使えるようにすると再利用性が高い
明瞭さのルール:明瞭さは独創性よりも良い。/透明性のルール:透明性を求めてデザインせよ。調査とデバッグが簡単になる。/頑丈さのルール:頑丈さは透明性とシンプルさから生まれる。→独創的なASIMOVは良い、それを明瞭に書くべき、透明性があればコードは保守しやすい、明瞭なコードは頑丈である
分割のルール:ポリシーをメカニズムから分離せよ。インターフェースをエンジンから分離せよ。→抽象的なものは内容を区別して分けて設計すべきである、そちらのほうが記述性や保守性が高い
最小限の驚きのルール:インターフェースデザインにおいては、常に驚きが最小限であるようにせよ。→アップル・ヒューマン・インターフェイス・ガイドラインに沿って統一性の取られたプログラムインターフェイスを装備すべき、他のアプリケーションでも同様の操作法で利用できる
沈黙のルール:余計な出力をすべきではない。他の開発者にとってただ邪魔なだけである。→余計な出力は要らないが、必要性に応じてverbose(凡兆)モードは使えるべき
修復のルール:失敗しなければならないときは、騒がしく、かつできるだけ早く失敗せよ。→エラーは確実に表示して処理をストップし、警告は小さな問題が見つかった時は処理を継続しながら積極的に出力すべきである、警告の段階ですぐストップするのはよくない
経済のルール:プログラマの時間は貴重である。プログラマの時間をコンピュータの時間より優先して節約せよ。→これは真言
最適化のルール:洗練させる前に原型(プロトタイプ)を作れ。最適化する前に原型が動くようにせよ。→ASIMOVを組んでから軽量化などの最適化をせよ、汎用で柔軟なオブジェクト指向で組んでから主要な手順を切り出して軽量化・最適化せよ
多様性のルール:あらゆる「ただ一つの本当の方法」という主張は信じるな。→自由で多用なシステムは有用だが、それぞれの一つの用事に対しては一本の最善な実装があるものである、それを見つけ出すのがそもそもコーディングでありアルゴリズムである、用事に依ってシステムの様態��様々だが、そのシステムのための最善な一本のASIMOVは存在する
拡張性のルール:未来に向けてデザインせよ。未来は思ったよりもすぐにやってくる。→規格というものはもともと拡張されることを想定して作ったほうが良い、と言うより拡張というより規格自体がアップデートされるものだと思っていたほうが良い、CCDではXMLベースでメディアを記述するため拡張は施しやすい
バイナリは機能をあれこれ持つのではなく、全てシステム全体で統合して分担して動作すべきである
ユーザーはシステムの特性や仕組みを知る必要があるし、そちらのほうが使いこなせるが、初心者でも使えるシステムというものも重要だろう
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79 Sense
三人は、ディオレが<雨の郷>と呼ぶ地を進んでいた。バルナバーシュとルドには延々と渺茫たる闇沙漠が続いているようにしか思えなかったが、ふいに青鈍色の遠い雨雲に金の光がちらと瞬いたのを見る。
「コリアンカだ」
目の良いディオレが言って、すかさず鏑のついた威嚇の矢をつがえ、光の動向をかたく見守った。風を切って近づく光の正体は開かれた両翼の差しわたしが十フィートを越える黄金のイヌワシであり、沙漠の果てから太陽の力を引き連れてきたのか、そぼ降る雨にも動じず頭上高くを真っすぐに通り過ぎていく。バルナバーシュの知るところではイヌワシは狩りの名手であり、たくましい脚力で小鹿をも空へ連れ去ってしまう猛禽であるが、この闇沙漠は彼らの生息に適した地とは思えない。コリアンカは一声、悲しげに乞うような鳴き声を天に響かせて雨のかなたへと消えていった。
「闇沙漠について今少し、さだかならぬ話をしておかねばなるまい」
弓矢をしまいながら、ディオレが雨除けの頭巾の奥からそうつぶやいた。バルナバーシュもまた、暗い頭巾の陰翳からどこか解している碧眼を向ける。
「ここは何を意味する場所なんだ、ディオレ」 「意味? 言葉遊びをするなら、忌みとしたほうがいいかもな」
ディオレが一笑する。意味などというものは呪わしく、ゆえに愛しいと言いたげでもあった。
「ここ雨の郷は、コリアンカのような乾いた高峰に住む鳥たちや、乾ききった死体、雨を求める行者、熱砂に育つはずのサボテンなどが、どこからともなく集まってくるんだ。だから雨の生まれる場所とも言われている」 「雨が生まれるって……どういうことなんですか?」
依然として変わらない雨雲を見上げながら、ルドが興味深げに聞いた。
「雨を渇仰するあまたの祈り、夢の多くが、この地に集積されていく。いや、集積された夢がこの一帯を生み出しているとさえ……私はそう考えている。人々の雨への憧憬がイメージを結び、ここは夢見られた郷なのだと告げているんだ」 「……フェリクスに聞かせたら喜びそうな話だ。彼もこのイススィールは現実ではなく夢の世界なのだと言っていたから」
バルナバーシュは肩をすくめたが、声に否定の色はなかった。ディオレは半眼にし、うっそりと翳る金の瞳をけぶる地平に放ちながら話を続ける。
「君たちはこれまでイススィールがどのような次元なのか、考えたことはなかったか。今の私はこの闇沙漠を、つくりあげられたイメージ――すでに線を引かれ、枠にはめこまれた合理的な地図ではなく、心に闇沙漠のイメージをとらえながら進んでいる。そこには記録も概念も存在しない。あるのは忘れがたいものたち――秘密と馥郁たる思い出、悲喜とはるかな願い、想像と果てしない夢想――それらが属し、研ぎすますこの力を、私は感覚(センス)と呼ぶ。繊細にされた感覚がこの雨の郷に集う祈りを聞き、道を見失わずに辿れたんだ。おかしいことを言っていると思うかもしれないが」 「いや、信じるよ。ただそれしか言えないが……」
そう肯いて、バルナバーシュはふとルドを見る。ルドは首をかしげ、ディオレの言葉を分かりかねている様子だったが、彼と自分は、理屈では証しがたい力――ディオレ曰く、センスによって互いがとり結ばれている気がしてならなかった。それは思い出なのか。願いなのか。あるいは想像によって生まれる何かなのだろうか。
「私とともに灰城ロマルフまで冒険した、イラーシャという友は……」
ディオレが子供めいた声音で、やぶから棒に切り出した。
「イラーシャは精確な地図というものを頭に描けなかったし、自分に素直で、何かを緻密に計算するのも苦手だった……でも私は、そんな彼女に嫉妬さえしてしまうんだ。彼女の感覚はつねに、とらえがたいイメージにあふれ、豊かな秘密の園だったから。進むべき道は色とりどりの五感が導き、生きられた知識が冒険を教えてくれる。闇沙漠の道案内の技をいち早く覚え、先達として教えてくれたのも彼女だった――とても偉大な力なんだ。だが、その力は生まれながら幸運な者だけにもたらされるのではない。私やルド、バルナバーシュ殿にも芽吹き、長い時をかけて樹木として育っていくかけがえのないもののはず。私はそう信じている」 「僕がバルナバーシュさんを守りたいとか、この戦いに負けたくないと強く思ったときに力が湧いてくるのも、そのセンスのおかげなのかな」 「当たらずといえども遠からず、だろうか。決して無関係ではない。きっとね」
彼らのかたわらでバルナバーシュもまた、故郷の景色や人々――セニサやウィロー、飼い犬のブレイドと優しき父、また屋敷で忠実に仕えた数少ない使用人らを思い出し、胸中で懐かしんだ。五年前、ウィローが貴族らのおぞましい実験に巻き込まれて下水へ打ち捨てられ、探究のはてに禁術の解き放たれた故郷ゲルダットの多くの地が穢れ、荒々しい狂気や血も凍る悲鳴、淫らな苦悶と哄笑に侵されていくなか、己れの戦いと心を支えてくれたのは彼らとの愛しい思い出だった。胸元にあるフェレスの懐中時計を手にとって心を馳せれば、世界の涯たるイススィールにあっても鮮やかに五感を満たしてよみがえる。路地裏で酌み交わした酒の熱、乳白の光差す石の回廊、月の芳しい浜の砂、つかのま暈を広げる銀灰の髪、絨毯に臥す老いた犬、生家の地下室の気配、父の憩うやわらかな墓土――時計の針はガラスのふたを被せられた円い文字盤のなかで、時間を切り分けるためにはなく、日々を時間に刻むようにして生きていた。喪失なき夢幻。未来をさすフェレスの導きは、脈打つ今を経た、終わりなき追憶の旅でもあった。
明かりを照りかえす砂丘のなだらかな向こうにさびしいくぼ地が仄見える。<眠れるオアシス>と呼ばれる中継地点であったが、オアシスは無限にそそぐ雨水を受けとることもなく枯れ果てていた。ディオレの案内はまどろむ海をたゆたうような足取りだったが、イメージを手放さずに伝い来れたらしい。オアシスに到着するとルドは思わずくぼ地のへりから中を覗きこんだが、かつて沙漠に住む者たちをあまねく潤わせた砂の器には一滴の水もなく、郷愁に暮れる深藍色の影が鬱積しつづけている。あたりは草木のうわった痕跡すら見当たらず、途方もない年月の眠りと風化が過ぎ去った寂寞だけが取り残されていた。
「このオアシスに雲の小舟を隠してあるのだけど――待て、静かに」
ディオレが後をついてくる二人へ、前方の闇を見澄ましながら手で制する。するとひとすじの銀光が流星のごとく夜を裂いて飛び、ディオレ��目は見開かれ、またバルナバーシュとルドも直面した。青白い光に包まれた小さな人影が、雨の薄膜に揺らぎながら砂地の上にたたずんでいる。オパールの遊色に波打つ銀髪、白絹の衣の少女――フェレスの亡霊だ。少女は過去にバルナバーシュとルドの前に現れた者と同じ妖異な気配を放っている。
「―――!!」
ディオレが人ならぬ声、竜とも精霊ともつかぬ異形の声域と言語によって地を割る雷鳴さながらに何かを叫んだ。あのベドウィンを呼ばわった鐘の音のように現次元にはまったき無音で表れながらも、異次元の激しい振動を耳にしたバルナバーシュとルドはすさまじいめまいに身をかしぎ、ディオレが「ストラーラ」と紡いだのを半ば直感的に、明滅する頭蓋へあとから追いかけてくるこだまの中に聞きとった。果たしてそれが少女の名なのか。そう思い至った途端、今まで隠されていた少女の面立ちが見るまに二人の視覚に認識されていく。少女は儚く、美しかった――だが現次元の尺度をはるかに逸したこの世のものならぬ美しさであり、極光の七色に移り変わる瞳は未知のロジックの力を放射してフェレスの主らを真っすぐに見据えている。バルナバーシュはその美しさに耐え切れず目をおおったが、ディオレとルドは威圧にもひるまなかった。
少女は突然、破砕音とともに光の粒子となって弾け飛んだ。光と光のはざまで空間は奇妙にねじくれ、ひずみの向こうから二人の神秘的な女性がゆっくりと、輪郭をさだかにしながら儀式めいた歩を進めてくる。女たちも美しく、また人間ではなかったが、尾を引いて神さぶ霊気はバルナバーシュにもかぎ取れるものだった。聖霊に属し、また天使と呼ばれる女神の使徒――今は闇沙漠の侵犯を許さざる哨戒役として見張る者たち。それぞれが剣と杖をたずさえ、法に連なる冷然な面持ちでフェレスの主らに相対する。
《私はオヴェルル……》 《私はユステルル……》
仮借なきプレッシャーに、毅然たる構えでディオレがサーベルを抜き放つ。バルナバーシュとルドも様々な疑念を強いて収め、ディオレに続いて剣柄に手を飛ばした。
《ユテァリーテ様はフェレスに関わらない》 《それはユテァリーテ様の悲しみ》 《それはイススィールで育つ争いの種》 《お引きなさい》 《さもなくば》
《涙受ける砂となりなさい……》
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コミュニケーションしてもなぜ解り合えないのかっていう話。

クリームチーズ食べ過ぎておなか痛い。認識テクノロジストな素直革命家 ホドキツクリです。
みなさんは、コミュニケーションで心折れそうになったことってありませんか?
そんなつもりはなかったのに誤解されて気まずくなった
とか、
なんかこう、言いたいことが伝わった感がない。
自分の言い方が悪かったのかも自分がもっと伝える能力があれば、と思って反省モード。
違う、そうじゃない。(イライラ)
何言ってんだお前。(イラァッ)
とかですね。
以前の記事『人間みんな聴いちゃいねえ』でもお伝えしたのですが、結論、人間のコミュニケーションは、ほんとズレます。そして互いに互いのことを思い込んで、自分勝手に相手を解釈するものが、今までの人間が500万年間やってきたコミュニケーションスタイルです。
「認知のゆがみ」なんて言葉も注目されているくらい、顕在化してきている問題でもありますよね。
えー結局ズレて理解できないんだったらする意味ないじゃーーん。 それじゃ、それなりにそこそこテキトーな感じでいいわもう。
……大丈夫。諦めているあなたにこそ朗報です。
いま、友人関係や恋愛関係、仕事関係など様々な人間関係で求められているのは「コミュニケーションの深度」とでも言いましょうか、どこまで深いコミュニケーションができるかです。 そして同時に、その能力が人間力や人間関係力になりますね。出会った人たちとどんな関係性を構築していくか、それは「自分の人生をどんなものにするのか」にも直結することです。
人間の悩みのほとんどが、人間関係の問題によるものとも言われています。それだけ、私たちがコミュニケーションによって感じているストレスやプレッシャーは大きいのです。 冒頭の図にあるように、そのストレスの蓄積によって精神的な病気になったり、体のあちこちに不調をきたしたりしているのです。
じゃあ、「深いコミュニケーション」ってどうやるの。
コミュニケーションにおいて相手を理解できないのは、相手の行動・言葉・表情から相手の思い描いているものを認識再現できないからですよね。 なぜそんなことをするのか、言うのか、表情をするのか…「相手の宇宙が解らない」状態です。

図の、グレーの円の部分。ここが、私たちが普段お互いに認識しあって判断の材料にしているところです。
少し深く踏み込むとき、私たちはグレーの円の部分が表れている背景、相手のロジックを尋ねますよね。「どうしてなの?」って。

でもここで、相手の言い分が余計によく分からなくなることありませんか? そして、もうええわ!とか、価値観違うわ・・・話し合��ても無駄!とか、 ・・・ああ、理解しあえないね・・・あなたはあなたでいいと思うわ・・・なんて疲弊。
あるいは、理解できているように思っても実はそれも危険。本人に確認しない限りそれは自分の思い込みなのです。 「理解できない」「理解してもらえない」となるのも大変ですが、「理解している」「理解されている」という思い込みもまた、こじらせると関係性をややこしくするものだったりします。裏切られた!となる原因ですね。
問題は、ズレること自体ではなく「なぜズレてしまうのか」を理解していないこと。
深いコミュニケーションをするためにまず必要なのは、「なぜズレてしまうのか」の理解です。
それを理解し、さらに解決するためには、「観点」と「観点による6つの問題」を知る必要があります。 (前記事にも書きましたね。でもこれが、些細なようで本当に重要なことなんです。)
観点の6つの問題って?
認知←→非認知 観点の問題について無知だと無意識に相手の存在を否定したり、自分を否定してしまいます。観点の問題を知っていれば、存在を否定することはなくなりますが、互いに異なる観点を融合することはできません。
異質性←→同質性 観点は73億人いれば73億通りバラバラです。その異質性から摩擦・衝突・ストレス・プレッシャーが終わりなく生まれます。だからといって同じに統一すればいいのか?それでは没個性になり、ファシズムやロボットのようになってしまいます。
固定性 ←→流動性 観点を固定してると、いつも同じものの見方になり相手を理解することができません。また、マンネリを感じやすく、気づきや感動が起こりにくくなります。観点が固定なく移動すると、常にだれかの観点に合わせてしまうのでアイデンティティが定まらず、自分自身の主義主張が定まりません。
自発性←→他発性 自分の考えや感情は自分が生み出しているように思いますが、実はそうではありません。既にあるものを学び、記憶して使用しているのです。そのため、自分自身に自信が持てず、人にどう思われるかが気になって能動性・主体性を持つことができません。また、オリジナルの観点が創れたとしても、他者への共有が難しく孤独になりやすいです。
否定←→肯定 相手の観点を否定したら反発されたり、怒らせてしまいます。かといって、相手の観点を肯定したら、相手に従うことになり、クリエイティビティがなくなってしまいます。
完全性←→不完全性 観点を完全だと思うと無意識に「自分が絶対正しい」と頑固になり、相手の話が聞けません。観点はそもそも不完全ですが、不完全だと思うと自分の判断に根拠が持てず、意思決定が難しくなります。
コミュニケーションで生じる多様な問題は、面白いことに必ずこのどれかにあてはまっちゃうんです。
知らないなら、知ればいいんでしょ。
違っててうまくいかないなら、合わせればいんでしょ。
固定がだめなら、他にすればいいんでしょ。
自分のがだめなら、他の人のならいいんでしょ。
否定しちゃだめなら、肯定すればいいんでしょ。
完全がだめなら、不完全でいればいいんでしょ。
いいえ、観点を右から左に移動させても解決しません。
……じゃあやっぱ無理じゃん!
ええ。これまでの人類歴史のなかでは、本当に無理でした。だって、これしかしてないのですから。 解り合えないことが解った←今ココ 観点が何なのか��からないまま、自分の観点の中に留まっていては、人間誰しもサタンで悪魔で詐欺師で血がダラダラ。ネットを掛けたり被ったりし合いながら、思い込んじゃうぞ!決めつけちゃうぞ!信じ込んじゃうぞ!期待しちゃうぞ!くださいください!出来ない!足りない!分からない!何を言ってもNO! 自分も他人も騙しながら思い込みの相手と出会って、コミュニケーションをして、どこまでも思い込みを深めている。 今の時代はこんな感じです。 こりゃもうめっちゃ大変ですよ。地獄ここにあり、って感じです。
しかし同時に、観点の問題をクリアする次の時代がすでに始まっているのです←実は今ココ
では先にへ進みましょう。
コミュニケーションの問題…観点の問題は「脳の5感覚」を通して創られています。 6つの問題はそれぞれが「対称性」になっていますよね。つまり、私たちの脳みそが認識活動をするとき、必ず対称的になってしまい、ひとつにまとめられないのです。
常に、あっち立てればこっち立たずってことですね。
「脳による認識」やそれによる「過去の記憶」を基準にしているからこそ、ズレが生じる。
ということは、脳による観点に縛られない新しい基準点を取り入れればどうでしょう。観点を移動させるのではなく、観点の次元を上昇させるわけです。 そうすることで、状況はガラッと変わります。
そうすると、図でいうところの三角形の一番深いところ(実はその更に下もあるのですが)、そこでコミュニケーションすることが出来るようになるんです。 新しい基準点から人と人が出会い直した時に、全く次元の違う自分の生き方、人間関係、チームプレーが始まります。 円の部分でのコミュニケーションと深さを比べてみていかがですか?
正直、これまでのコミュニケーションは、コミュニケーションと言えなかったな…もっと早く知りたかったというのが、nTechを学び始めたころの私の感想です。
アインシュタインの有名な言葉の一つに「どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことができない」というものがありますが。まさにこの通り。
人と理解し合えない根本原因の観点と、観点が発生するしくみを学び、右脳でもなく左脳でもなく、「外の脳」を使う新しいコミュニケーションで、クリエイティヴライフを始めましょう^^
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ボリス・グロイス(Boris Groys)
1947年旧東ドイツ生。哲学者、美術理論家、批評家。冷戦時代のソビエト連邦で学び、70年代後半にモスクワ・コンセプチュアリズムに関する論考で批評家としての活動を開始。戦後ロシア・東欧の前衛芸術をはじめ、コンテンポラリー・アートの動向を哲学的な視点から論じ、その世界に大きな影響を与えている。Art Review誌が毎年発表するアート界で最も影響力を持つ人物100人のリスト『Power 100』にも選出されている。米ニューヨーク大学ロシア・スラヴ学グローバル特別教授と、独カールスルーエ造形大学特別研究員。2011年ヴェネチア・ビエンナーレにロシア館キュレーター、2012年上海ビエンナーレに共同キュレーターとして参加。
日本語で読めるボリス・グロイスまとめ
美術館の定義として有効なものに、「特定の時代の価値観を支持する場」であることがあげられるだろう。故に、旧体制からの脱却を図るアヴァンギャルドとの摩擦が往々にして起こる。そして、グロイスは美術館の存在に肯定的でありその重要性をよく主張している。美術館を壊して美術と生を一致させようとしたアヴァンギャルドに対してグロイスが批判的であり、さらに美術館が権威として規範的趣味を生産していた頃とは時代が変わってしまったという認識がそこにはある。
『新しさについて』
自分の書いてるものが、日本製機能てんこ盛り家電みたいになってないか?という反省をすること。これってアートにも当てはまると思う。逆にいえば「日本製機能てんこ盛り家電」として(国内外で)評価され生き残る道もあるかもしれないけど、ぼくは普通でつまらないと言われてもそうじゃない方向でやっていきたいかな。そういえばグロイスの「新しさについて」を読んでいると、普通であることの可能性(差異なき差異としての)が書かれていて、ああ、そうだったこれを昔読んでいたんだって思い出した。差異が明確に分かるということは、それは真の差異ではない、って話。変化はあたり前のものの中に含まれているという。もちろん、それで自己肯定できるほどぼくは強くはないけど、例えばテレビのドキュメンタリー(テラスハウスってそんなに面白いとは思わないけどね)と自分の仕事を比べられてつまらない、と言われたときにこういうロジックによってひとまずは切り抜けられる。グロイスの「The Truth of Art」ではアーティストの非凡さはインターネットのアルゴリズムの非凡さにはかなわないって書いている。ぼくは天才=天然だと思っていて、それは猿の天然さにはかなわない、って思っていたから、これで自然(猿)にも人工(アルゴリズム)にもかなわないか。つまり、結局、どんだけ非凡で、見たこともないものをアーティストが作れた、あるいは批評家がすごいと思っても、それは人間が「認識」できる程度の「すごいもの」でしかないならば、ぼくはその程度の「すごいもの」はどうでもいいのかもね。いや、でもヘルツォーグ見ていると、そうした極端なものへの憬れがあって、グリズリーマンも、最近のLOも、同様の興味なんだろう。そうしたものへの興味には共感するんだよね。その意味でぼくはアーティストであることよりも、アーティストという存在に興味があるのかな。
―― by 田中功起
『理論の眼差しの下で』
アートは理論に対するある種の依存を表明し始めた。その時 ―そしてその更に後になってさえ ―アートの「解説必要性」は、アーノルド・ゲーレンがこの種の理論への希求を特徴付けた。
美学はどこへ行った?(2):ボリス・グロイスの理論観 | 小崎哲哉 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
芸術作品における「魅惑の形式」のための試論 : artscape
アーノルド・ゲーレン「制度の哲学」の教育学的意義
「ボリス・グロイス入門編」というレクチャー/勉強会」講師:星野太(美学・表象文化論)- Togetterまとめ
ユダヤの逆説、ヨーロッパの逆説:テーオドール・レッシングの『ユダヤ人の自己憎悪』によせて (1991)
事を構える(ブリング・ザ・ノイズ):クレア・ビショップとボリス・グロイスによるディスカッション (2009)
デュシャンによるマルクス、あるいは芸術家の2つの身体 (2010)
賢人としての写真家 (2013)
平等な美的権利という政治 (2014)
ニュー・インターナショナルかポスト・グローバルか?:ケイト・ファウルとボリス・グロイスとの対談 (2014)
ボリス・グロイス来日記念講演シリーズ
アートと共同性 (2017/01/15) ⇒ シンポジウム書き起こし
参加型アートという、言い方自体が一つのハードルになっている。実際、その言い方を避けるだけでもかなり参加しやすいものになるのではないだろうか?しかし、それでもアートと標榜するのは、それが美術館収蔵が目的でなくとも、少なくとも美術史には呼応するものが目指されているということが伺えるのではないだろうか?グロイスが、地域アート的なものを否定し、田中功起が地域アートを評価した場面は、両者のナショナルな差異が明確になった瞬間でもあった。すなわち、グロイスの言葉は、ある意味コンテクストそのものとして作用してしまうような、つまり美術史の本流として発せられている。故に、アートワールドの周縁である日本の文脈には懐疑的なのだろう。日本では、敵対的な作品よりも、共同のトライアルの方が民意を得ているような雰囲気を感じる。それは、田中功起が地域行政のプロパガンダに使われている、と言うように、小さなコミュニティの社会参加の一つの態度として地域アートという身振りが選択されているということだ。グロイスが、言ってしまえば美術の隔離保護的に考えていることに対して、田中功起らの作品は形態だけ見ればもはやアートと仰々しい言い方をする必要のないものであることもしばしば。しかし、その限界を探るような取り組みは、風船を膨らませるように、アートの内側からどこまでそれらを拡充できるか探っているようにも思えてくる。かつての前衛が普通でないことを目指しており、現在の前衛は普通になりたいという動機によって進められるという人もいた。グロイスが、参加型アートを批判するのも、その動機付けが美術の内側から発せられているのか、はたまた、外部(つまりはネオリベ的な政治空間につながる)との接続に起因しているのかが曖昧かつ、ともすれば後者に寄ったものに見えるからだろう。つまり、美術史による緊張を意識しないのであれば、少なくともアーティストというロールを選ぶ必要はなく、今ここに向けた発言すればよい、ということだろう。
グロイスのシンポ、ほとんど理解が追いついてないけど、おもしろかったです。個人的には、田中功起さんが"地域アート"の日本的な文脈をフォローしたあたりから、グロイスが、なんだか美術史そのものに口がついて喋ってるように見えてきて怖かったです。グロイスの語る壮大な美術史みたいなものを、作品や作家に落とし込むなんてことほんとにできるんだろうか?日本にいて、母語しかできない私は、地域アートみたいな肉の見えるものじゃないと、仮に頭で理解できたとしても皮膚感覚が追いつかない気がしました。
≪感想まとめ≫
先日のグロイスさんとの対話はなかなか難しかったですね。ぼくの反省点としては彼のテキストを理解してますよっていう前提の話を省いて、核心だけを聞いてしまったことです。だから彼は基本、その前提の分析部分を再説明してくれていて、それはそれでよかったとは思うけど、ぼくはその先が聞きたかった 。その意味では、ぼくの実践の説明よりも、グロイスさんのどこをどう読み込んでそれについて僕がどう考えたかってことを最初の問題提起部分で話すべきでしたね。ぼくがどういうことをしているのかってことを話した方が対話がしやすいのかなって思ったけど、むしろそれはいらなかった。例えば彼の議論の仕方はまずAとBに現状を分けて、その上でAの中にA'とB'があって、BにもA"とB"があって、つまりAにもBにも、相互の問題が含まれていて、だけれどもAの中のB'とBの中のA"を比べると、分かることがあるよね、って感じ。だからそこには現状に対する提案はなく、でもだから僕たちは���れを使って考えることができるし、提案を各自で導き出せるって思っている。でも、ああした場では、彼が実際はどう思っているのか、それを知りたかった。あのときに一番ぼくが聞きたかった部分はここ。グロイスさんのテキストでは、コンテンポラリー・アートとはかつてのラディカルなアヴァンギャルドのように、現在の観客には満足せず/受け入れず、未来の観客を、作品を通した世界/環境の創出によって新しい感性と態度を持つ人類を生み出そうとする、という方向に向かうとき可能性として語られます。しかし、「未来の観客の生産」という目的はナチズムやスターリニズムでも同様であったからこそ、その差異が分析される。それは国家主導か、市場(個人/もしくはアート・インスティテューション)が主導となるのかの違いとして書かれます。「アートパワー」では、美術館とはイコノクラスム(権威の否定)の場として肯定的に書かれていました。「on art activizm」では体制的なものを美学化/脱機能化するものとしてコンテンポラリー・アート・アクティヴィズムが書かれています。ではここで語られる「新しい感性/態度」とはどのようなものなんだろうか。それは本当にぼくたちが歓迎すべきものなのだろうか。そういえば、グロイスが言っていた政治家はhere and nowへの反応だけで、アーティストがhere and now+美術史があるって話は、いや、でもヒトラーについて彼が書いた『アートパワー』の原稿では、ヒトラーは「未来の考古学者」に自分が将来どう見られるかを意識していたって書いていて、ということは、それも「歴史」に関わるから、ヒトラーはアーティストとして捉えているということで、って反応もできたはずだよね。とっさに思いつかなかったけど。
ちなみにArt in Americaに水戸芸のレビュー載っているんだけど、これ、改めて読むとほんとすごいな。徹底的に酷評されてます。あとprecariousはブリオーもバカルギエフも拡大して使っていて、彼は僕がレイバーセオリーを自然災害に拡大して適応していることを知っていて、あえて意地悪に書いてますよ。彼は漫画研究者なので、現代美術は嫌いなんだと思います。
Overview: In The Aftermath - Reviews - Art in America
―― by 田中功起
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政治と芸術の違いについて、どちらも今ここ、と関わるが、芸術は更に千年以上の歴史を担い、その中での位置どりと、両者の緊張関係がある、優れた作家は双方を意識していると思う、と。芸術家の操作についても触れられ、その時にジミェフスキのベルリンビエンナーレの紹介も! 右派左派どちらからも非難されたが自分は評価したいと。操作していることに自覚的で、それを見えるようにしている、そのことについつ批判的な視点を持つことが重要だと。全てを批判的批評的に見ます、とも。断言するかと思えば、細かく注意深く、一般化は良くない、差異を見なければ、と。当たり前ですが、特に今回のような話題だと、大切。かつての前衛と現代との違いは、今は批判的、懐疑的であること、ともおっしゃっていましたね。かつては自分たちの実践をいいものだと信じてい���けれど。
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彼の慎重で懐疑的な態度と、鉈包丁のようにスッパリものごとを二分していく態度は矛盾しない、ということも改めて分かった。彼の全方位批判と、雑駁な二分法と、ユートピアへの懐疑は、すべて未来の人類のための防波堤の感がある。夜グロイスに直接聞いてみたのだけれど、展覧会それ自体の再展示について彼は「あれは同じものではありえない」と言い切っていた。投入されてる資本の出資者が異なる、と。「態度が形になるとき」の「再展示」は出資者であるプラダのインスタレーションといったほうが良いのではないか、と。
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昨日のシンポジウムで言えば、あとで他の人とも話したのだが、政治家はhere and nowに関わるものだが、アーティストはそれだけでなく美術史とも関わるというグロイスの話はかなり粗いとは思うが(政治家も歴史に関わる)、そこにいちゃもんをつけてもあまり生産的ではないだろう。
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収穫のないレクだったと一蹴する以上に、戦後から現代アートの実質的プレーヤーだった批評家という人種の用い得る言葉が、ごく限られたパラダイムの範疇でしか指示対象をもてないことに、ここまで来たかという感じ。参加型アートを助成なしで主体的にやってる作家なんてほどんどいないよ。ヴィト「論考」の定理に遡行すれば{世界∋現実} なわけで、絵画世界が視覚対象の写像である必要がないように、批評が事実に拘泥する理由もない。修辞学的再編がポストモダンの思想的支柱たりえたように、グロイスの言語論的操作から可能世界が美的現前として再び導出されることもあろうかと。
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田中功起さんのプレゼン。共同性、共同体のテーマと、自作の説明。右派ポピュリズムの時代にアートはどうあるべきく、「ラディカルな民主主義」を謳うグロイスさんに質問。石田圭子さんは、グロイスのいう、美術館の中は政治的に自由でありプロパガンダもありとする主張への疑問出し。それはリベラルと両立しないのでは。特に日本では政治的表現は排除される、その実例。メタユートピア的話。グロイスさんは「form」を随分強調されている。これは、日本語に馴染みやすくいえば、「かた」だよね。日常や儀礼や芸道における「かた」に置き換えると、少し理解しやすくなるかも。以前に3331で開催されたソーシャリーエンゲイジドアートの展覧会名もliving as formだし。生きる上での「かた」を変えることもまたアートの仕事だ、という大前提の理解の鍵はform概念にある気が。状況にformを与える、とかの言葉の意味を体感するには。田中さんが、日本のポピュリズムについて聞いているのに、グロイスさんが一貫してナチスとファシズムの例で答え続けているのは、実は齟齬ではないのかもしれないね。グロイスさん、リーフェンシュタールは国家社会主義にとって批判的だと主張。それは私たちの読み取り方次第だと。(なんか似たことを『シン・ゴジラ論』で書いたぞ)そんな、形は読み取り次第で変わるって言ってたら、安倍首相やトランプの作るフォームについてだって肯定できちゃうやんけと、田中さん。ぼくも同感。ここまでのグロイスさんは、無責任な脱構築野郎って感じがする。良い質問。グロイス、アーティストと政治家の違いは、美術史を背負って緊張感があるかどうか。……って、ええー、それでいいの?グロイス、参加型アートについて。人間やコミュニティへのマニュピレーションだが、それ自体は悪ではない。アートの場合、何が善かというと、マニュピレーションしていることを露わにすること。後半は地域アートの話。日本とそれ以外の地での展開のギャップが浮き彫りに。日本は特殊なんだなぁ。グロイスさんが言うようなアーティスト個人が責任を取ることで倫理性が担保されるようなアートプロジェクトの倫理は、行政が主体のプロパガンダになっている日本の地域アートでは成り立っていないのではと田中功起氏。最後まで観た。納得いかないところもあるけど、『アートパワー』を読んで判断しよう。ディスカッションは、齟齬自体が語る何かから学ぶべき色々があった。
―― by 藤田直哉
≪その他イベント感想まとめ≫
ボリス・グロイスの特別授業 「『翻訳者の使命』〜 ボリス・グロイスのグループクリティーク〜」 (2017/01/19) ゲストアーティスト: 荒木悠、百瀬文、梅津庸一、三野新、OLTA、藤井光、ミヤギフトシ
今日のグロイスのコメントで共有しておくべきもののひとつはポリティカル・アートについてだろう。要約すれば、ポリティカル(状況依存的で、今ここにおいての判断に迫られるもの)とアート(時間軸を超えうるもの)の矛盾のなかで、当事者性・事実かフィクションかといった問題に終始するのではなく、みんなが見過ごし忘れてしまっていること、つまり一般的な文脈のなかで不可視になっているものを提示できているかどうかをこそ主眼においた方が良いという話は真っ当であった。彼にとって超越的な視座は全体をいかにして語りうるかという問いでもあり、全体を語ることは欠落に気づける条件でもある。
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鷲田めるろ氏の視点に期待。 ベルギー・レポート Vol.3:シャンブル・ダミ展の再評価 『サイトスペシフィックな作品が生み出されたかどうかではなく、将来美術を受け入れる場となりうる人々のネットワークが残されたかどうかを重視すること』
グロイス効果 アート⇒社会に置き去りにされているものにかたちを与えていく「新しい観衆の創出効果」 リベラル⇒関係づくりの操作過程を公共の場で可視化していく「民主教育的効果」 ニヒリズムを具現したファシズムを批判し、「希望」を実現する(べき)アートを擁護。
ヨーロッパ起源の戦後美術史が、アクティヴィズムを介したナチズム批判を内部化蓄積してきたのに比べて、日本では帝国ファシズム批判が作家個人の政治嗜好にしか見えないという、リベラルとしてのコンテンポラリーアートの異常なほどの脆弱さをどうしたら克服できるか。ラディカルなグロイス・タイプの参加型アートを日本で実践することは、極右との敵対に重ねて、政治色を嫌う闇のように根深いノンポリ体質への挑戦を意味する。カネとコネのない作家は親族からさえも衆人環視のバッシングにあって孤立するリスクを予想しておくほうがいい。フルクサスやボイスの社会彫刻との関連はどうかな。ボイス来日(84)~フート招聘(91.95)���そして水戸芸でのボイス来日回顧展(2009)を踏まえて、アクティヴィズムとしてのリレーショナルアートを俯瞰できるようなまとまったアクションにつながるのをグロイス来日に期待。
先日のドゥルーズ×レヴィナスでの近藤さんの発表、終始難しいなあと思いながら聞いていたのだけど、実在的定義か名目的定義かという論点自体は興味深く、というよりそれを突っ込むほどにドゥルーズが概念を創造の対象と言っているという大前提が別の角度から明らかになっていくようだった。僕は概念が創造の対象であること、そして哲学は適用の学問ではないことという2点を抑えることでドゥルーズ哲学のある種の虚構性への志向あるいはリアルからの剥離という側面を明らかにしたうえで、だからこそ彼の哲学が存立性consistenceを持ったシステムとして提示されうると考えている。ものすごく大雑把に言えば、ドゥルーズにおいて非−哲学と哲学の間には前者から後者へと向かう一方通行の道しかない。だからこそ『シネマ』は「映画が喚起する概念」を編んだ哲学書であって映画論の本ではないし、哲学から非−哲学へ向かう道があったとしてもそれはまた別の仕方で一方通行なのだ。これは小倉さんが詳しくやってることだけど芸術論においても彼はカオティックな実在への沈潜などよりもそこから離脱して堅固なモニュメントを打ち立てることを重視しており、グロイスを読んでいて気になるのはほんとに「物と運命を共にすること」なんてほんとに芸術に固有の領分たりうるのかということ。
◆ 『アート・パワー』
ボリス・グロイス『アート・パワー』(2008, Paperback 2013)を読む①
ボリス・グロイス『アート・パワー』(2008, Paperback 2013)を読む②
◆ リレーショナルを巡って
第一回 〈帝国〉〈マルチチュード〉とは何か?
ハル・フォスター『チャット・ルーム』(2004年)
クレア・ビショップ イントロダクション――生産者としての観者
ボリス・グロイス『生政治時代の芸術』についてトーク
生政治は様々な位相から論じられる術語ですが、21世紀を生政治時代と規定するのは、ネグリ/ハートの議論が前提となってフーコーが再参照されているという文脈があります。で、ネグリ/ハートがいう生政治とは生権力に対抗するような生のあり方を力動的に捉えたものになっています。生権力の具体例としては、どれほど格差が広がろうと、相変わらず医者が儲かるのは人間の生物学的生を、法律家が儲かるのは人間の社会的生を、金融屋や資本家は経済的生を、官僚は国家支配の単位としての生を、それぞれ把捉しているから行使が可能になるので、このような権力のあり方への批判があって初めて成り立つ論点ですから、こういった具体例を挙げれば理解しやすかったのではないでしょうか? もっとかみ砕くと人の弱みにつけ込んで行使されるあらゆる力のこと。ちなみにネグリ/ハートのいう〈帝国〉は主権権力の移行という現象をとりますが、その内実は生権力がネットワーク状にグローバル化したものを指していますので、一人一人が加害者であり被害者である包摂された状態から抵抗する主体への転換が賭けられている、その賭けられの中にあって意味をなすのが生政治というあり方です。だから、〈帝国〉を解説するキャプションには若干誤りがあります。また、アガンベンはネグリ/ハートのように生のあり方、ではなく生政治を権力の様態として捉えている節があること、つまりアガンベンは生権力と生政治をフーコーのように厳密に区別していないので、実践的に生政治を前景化するなら、やはりネグリ/ハートの論をどう使うかというところにしぼればよかったのではと。
◆ アルトゥル・ジミェフスキ
CINEMATHEQUE: 目には目を
第7回ベルリン・ビエンナーレ、ドクメンタ13
キセキノセイイ──「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展レビュー
たねまきアクア 01
アメリカに支援者を持つ「占拠運動」の活動がどんなにビラをばら撒き、議論の場をつくり、社会の問題を訴えかけるプログラムを展開しても、彼には美術館の場を出ていくような成果が生まれていないと感じられていることが、苛立ちの一番の原因であるように感じた。ジミエフスキにとって、これがアートの制度に回収されてしまうこと、ある種のスタイルとして消費されることほど、我慢ならないことはないだろう。近年の彼の作品は、再演や実験室的な特徴によって、アートのコンテクストと結び付けられる範囲を超えていくようにも見える。それは、より政治的に、より社会的に実効性を強く求めるものになっていくのだろうか。これまで多くの人は、アートは「多様」で定義づけを逃れる自由なものだと言ってきたではないか、しかし、実際にはモラルや政治、宗教、そのほかによる限定性を暗黙の了解としており、それ自体が排除のシステムを駆動させているのだという主張が彼の作品とベルリン・ビエンナーレからは感じられる。しかし、彼はそうした批評的な態度で満足することはまったくなく、それはフェアではないし、変わるべきだというところにまで踏み込むことを目指しているのだろう。
◆ 『人工地獄 現代アートと観客の政治学』
参加型アート「人工地獄の入口へ」 アート系トーク番組
クレア・ビショップ『人工地獄』 : Living Well Is the Best Revenge
田中功起×大森俊克 アーティストはいかに社会の現実と向き合うか?
◆ はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト
いわきの子供WSのドキュメント、かなり新しい映像で鮮度はある。しかし、この映像を見るとはどういうことか?何を期待されているのだろうか?また、作為的か自然発生かわからないが、津波に流された車の残骸に草木が茂る写真。チェルノブイリのドローン映像や、国府理の、人工物とネイチャーの交感/交換を想起してしまう。加えて、なぜかガブリエルオロスコの、木材をテーマにした作品が脳裏をよぎる(展覧会のタイトルは「目に見える労働」)。資本主義と結びついた木材をゲームにしてしまう、軽やかさ。池上邸の場に座して、皆でいろりを囲むようにじっと映像を見つめる姿は、どこかネイチャーなコミュニティの在り方を思わせられる。さらには、皆でゲームに興じるような、ネガともポジとも取れる奇妙な感覚。
※ ガブリエル・オロスコ インタビュー
◆ Generality End: Boris Groys on the need of solitude and reflection in art
◆ 『全体芸術様式スターリン』
芸術係数blog » 〔ノート〕『全体芸術様式スターリン』ボリス・グロイス
書評 by 大須賀史和
デミウルゴス的芸術実践の解剖
※ ソッ��・アート / Sots Art
◆ 『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』
表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:新刊紹介:『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』
『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』書評① ⇒ 書評②
個人的に最も興味あるのは、第5章「「第二世界」のない対抗」で論じられている「共同性」に関して。グロイスは「共同的なものについて」という論文(英訳はあるのだろうか?)で、ナンシーの「無為の共同体」についてソビエトの「共同住宅」と結び付けて否定的に論じているとのこと。
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