#ヒマだからネット個展
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クソクレーマー「殺処分するなんて、クマがかわいそう!」 私「本当に可哀想なのは、クマに侵入され、従業員が襲われて怪我させられ、商品を食い荒らされ、この年末の書き入れ時に消毒清掃などで休業を強いられるハメになった『スーパーいとく土崎みなと店』さんと、あなた方クソクレーマー連中による業務妨害レベルのカスハラに付き合わされて、精神的に疲弊されている役場職員の皆さんのほうじゃないですかね」 人里に出没したクマを駆除するたびに、無関係な場所に住むクソクレーマーたちが「クマが可哀想!」「なぜ山に帰さなかったのか!?」などとバカな抗議電話を役所にかけ、職員の皆さんが困り果てている展開をよく目にしますね。 直近にあったケースでは、長電話によって通常業務に支障が出たり、「責任者の名前を言え!」などと強く迫られたり、ハンター個人を非難したり、電話口に出た職員さんに対して「お前も死んでしまえ!」と暴言を吐いたりするなど、クソさに輪がかかっているようです。 私が窓口担当職員なら、 「分かりました。次回から捕獲した熊は駆除せず保護し、そちらにお送りしますので、お名前とご住所をお教えください」 と言い返したいところですが、現実的には自動音声対応にして、 「今般クマを駆除するに至った事情を説明した資料を送付しますので、お名前とご住所をピー音の後に録音してください」 みたいなテープを流すのがいいんじゃないですかね。どうせクソクレーマーたちは単なるヒマ潰しか鬱憤晴らしで電話してきてるだけですから、身元を明かさないといけなくなったら自分から電話を切るでしょう。 あと、迷惑電話が長時間に及んだり、執拗にかけ続けてきたり、脅迫的な言動がなされたりしたら、職員の方はもう真面目に取り合う必要ないですよ。偽計業務妨害罪か脅迫罪でクソクレーマーを逮捕してもらいましょう。 とはいえそもそもの話でいえば、マスコミがクマ駆除の件をいちいち現地までリポーターを派遣して全国ネットで報道し、無関係の外野の「可哀想!」なんて声をことさらに流したりするから、さらに余計なクソクレーマーが寄ってきて、役所の職員の皆さんがその対応で疲弊するハメになるんですよ。そういう地域の事情は地元の広報紙とか地方新聞の小記事くらいに留めておき、大手メディアは静かにしておけば平和になるはずです。
Xユーザーの新田 龍さん: 「クソクレーマー「殺処分するなんて、クマがかわいそう!」 https://t.co/sVDVicPMwZ」 / X
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#愛する人へふたたび #愛する人へ2 #ヒマだからネット個展 #ギャラリー . . . 2019年夏の8月1ヶ月間でした。 三重県津市一志町田尻の松尾表具店内、 松尾画廊にての、 岸野雅樹・第11回個展『愛する人へ 2 』 来場者こそ少なかったものの、私の精神は最高潮でした。 この広い世界ではじめての1があり、2のある、シリーズものの個展。 『愛する人へ 2 』 僕は個展開催中はひたすら家で呑んだくれてました。 会場ほったらかして。 まぁ、見る限りの作品が並びました。 マスターカラーはみどり。 この個展で、最終的に僕の個展や絵を反省すると、 『💦僕ってみどり色しか使ってないな』 インターネット化された今の時代では、ネットで個展を見る事もできますけど、その個展の空間表現を3D化して、個展会場にまるで居るかのようなネット3D個展って、画期的でもないほど、普通に考えたら可能性ありますよね。 このインスタでは2Dでしか無理ですけど。 まぁひとつご覧になって行ってください。 火の鳥の絵が、僕が第1回の時に、21歳でデビューした個展の主役でした。 その火の鳥を踏まえて、みどり色で様々な世界を彩った個展が、2019年、三重県津市一志町田尻の松尾画廊で開かれて居ました。 松尾画廊では、マンスリーギャラリーと言って1ヶ月間会場を貸し切る事も可能です。 丁寧な店主夫人と、少しいやらしい画廊主である、松尾表具師が今でも経営しています。 松尾表具店には長年お世話になりました。 もしこの投稿を見かけて(♡ᴗ͈ˬᴗ͈)、松尾画廊で個展を開きたいという方は、美術大艦で調べてご一報ください。 個展や、様々な展覧会、大きな会場での絵の展示など、テレビ番組などのドラマでそれが紹介されるより、お客様にとっては華やかな世界には見えるでしょうけれども、 個展、展覧会、ともに、本当に毎日の地味な努力の集積で、その華やかな舞台は成り立って居ます。 その舞台がお客様に華やかに見えれば見えるほど、その下積みや準備作業は果てしなく地味なものです。 たとえば、僕がMaco氏を描いたS50号の『ゼフュロスとフローラ』がありますが、あの1枚は、コピー用紙の3000枚〜5000枚の線の練習から成り立って居ます。 5000枚も線を練磨すると、Maco氏の写真の姿の線をキャンバスに描いた時、線だけでもう充分に愛らしく可愛いものでした。 いま、いろいろあって、僕は今そのMaco氏にこの世界というよりもまずこの日本の広さから思い知らさ���て居ます。 タブレットの𝐓𝐢𝐤𝐓𝐨𝐤で配信系🈁アプリ美女図鑑を作って居るのですが、もうひとつの配信アプリをマラソンして駆けずり回るだけで、様々な女性と出会い、様々な人間を見ました。 ほんの、まだ元旦バージョンとBIGO LIVE.大阪女子編を作っただけなんですけど。 そのタブレットの𝐓𝐢𝐤𝐓𝐨𝐤のアカウントは@kyary_0413 です。 まぁ、でも、いいんじゃないスか? 井戸の中の蛙大海を知らずとはさ、言うものの、カエル🐸って淡水生物やろ?? 海の塩水にカエル🐸が飛び込んだらカンピンタンになって干からびるねん。 この世界は広いけど、全てを知ろうとすると全てを失うから、 この世界の広さすべてを知る必要なんか無いねん。 あなたが見てる世界を少しずつ広げていけばいいだけ。 あんまり極端に世界の広さを思い知ると疲れるだけだから、 とりま、このネット個展の『愛する人へ 2 』だけでも見てって??? まぁ、この広い世界のひとカケラとして、こんな世界もあるねん。 . . . . . #一般社団法人亜細亜美術協会 #一般社団法人社員画家 #亜細亜現代美術展 #ワンセブンライブ奏蒼 #17ライバー奏蒼 #ほとんどの配信アプリでキャリさん #美女たちの森と沼 #奏蒼マジック #変態枠 #世界のピンク枠 #broadcast #livestreaming #BIGO #REALITY #ゲーム配信 #宮崎県産まれ三重県育ち #統一を諦めない精神は多様性を称揚する #否定ほど芸術に多くを与えるものはない #似顔絵 #ギリシア神話画 #世界一の画家になるために #ミルダム顔出し配信キャリさん #もうすぐ𝐓𝐢𝐤𝐓𝐨𝐤ライブ始めます https://www.instagram.com/p/CnTy4FnO6bE/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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インターネットからの脱出
2018/4/25発行 ZINE"霊界通信 2018 S/S Issue"収録 by gandi
Escape from the Internet
ぼくが初めてインターネットに触れたのは15年ほど前のことだ。ちょうど21世紀になりたてくらいの頃だろうか。当時出来たての情報カリキュラムの授業での出来事だ。少し起動に時間のかかる箱型の機械のスイッチを入れると、テレビ型のモニターの向こう側から世界中のあらゆる情報が飛び込んでくる。その斬新さに、ぼくは舌を巻いた。しかもその情報がすべて生々しい。なにかがテレビとは明らかに違う。 ぼくはテレビが嫌いな子供だった。今でこそ落ち着いてきたものだが、当時のテレビの演出はとにかく過剰で、ギラギラした悪趣味なセットの前で空疎な会話をする芸能人たちの姿にはとにかくウンザリするばかりだった。人の車を壁にぶつけて壊して喜ぶようなノリにも全くついていけなかったし、ディレクターの指示で拉致同然に、突然半年間も海外を旅させるような嗜好にも「こんなことが許されるのか」と子供ながらに怒りを覚えた(たとえそれが口裏合わせ済みのことだったとしてもだ)。そしてそれらの行動に何一つ意味はない。彼らの行動原理は「ノリ」だけで、洞察に基づいたものがない。徹底的に空疎なのだ。 空疎なテレビの世界の中でも、群を抜いて空疎だったのはひな壇の芸人たちだった。彼らは空疎さという一点において洗練されつくしていた。「なんでやねん」と投げられる言葉に、タイミングよく再生される乾いた観客の笑い声。「なんでやねん」。彼らが本当にそう思っているのか、かなり疑わしかった。「なんでだよ?」でもその「なぜ」を正面切って考えようとする人間は、そこには一人もいないように見えた。 (※もっとも、その空疎さこそなんでも重苦しく考えたがる彼らの前の世代への意図的反抗なのだと分かったのは、ずっと後になってからの話だ) しかしインターネットは違った。誰もが手作りの簡素なホームページを作り、それぞれが勝手なことを論じていた。そこには「なんでやねん」というツッコミを入れる人間はいない。それゆえ誇大妄想としか思えないことを100ページ以上に渡って、延々と書き連ねているような人も少なくなかった。誇大妄想。 テレビだったら芸人の「なんでやねん!」の一言でかき消されたに違いない。しかし人の誇大妄想の中には、社会を抜本的に変革してしまうような考えがしばしば含まれている。たとえば革命家。革命家は周囲の冷笑を意に介さず、空気も読まずに延々と妄想を深め続ける。すると次第に感化される賛同者が出てくる。保守派からすれば狂人に思えない賛同者たちが。 息苦しい日々の中で、ぼくはインターネットに光を見出した。 ぼくはテレビと同じくらい学校の雰囲気というものが嫌いだったが、それは教室がテレビの相似形のように見えたからだ。 端っこの席で、目立たないが誰も思いつかないようなことを考えているヤツの考えは、いつだって声がデカくてノリがすべての野球部の声にかき消される。その身も蓋もない事実に、ぼくはホトホトウンザリしていた。この構造はずっと変わらないに違いない。きっと大学でもそう。社会に出てもそう。死ぬまでそう。いつか全部叩き壊す。そうでなければ刺し違える。そんな風に自分に何度も言い聞かせなければ、グレてしまっていただろう一少年に、インターネットはこっそりナイフを渡してくれたのだ。ぼくは友人たちへ 「テレビよりインターネットの方が全然面白いぞ」と触れ回った。友人たちは興奮するぼくの話を、肯定するでも否定するでもなく聴いてくれた。インターネットが面白いということは少しずつ広まり始めていた。 率直に言って、ぼくはインターネットの「世界中の情報がリアルタイムで入ってくる」という側面は、そこまで重要ではないのではないかと思う。それは既存のメディアでも出来ていたことなのだ。インターネットの本当にクリティカルな点は「人間の生々しい声が、誰にも検閲されないまま聞ける/言える」という点にある。それも平等にだ。どんなに虐げられていた者にも、数千円のスマートフォンさえあれば平等にその機会はやってくる。
誰がジャンクな記事を量産しているのか
だから生々しい声が聞こえなくなったら、そこでぼくのインターネットへの関心は尽きる。聞いたこともないような考えや、社会によって巧妙に隠された呼び声を聞くために、ぼくらは本を読みネットを見る。決して誰かが仕込んだ一般論を聞くためじゃない。ぼくは「失敗しない生き方をするための十の方法」なんて記事を見かけるたびにいつもウンザリしているが、こういう記事は一体誰が書いているのだろう?全く失敗しなかった人だろうか。それとも派手に失敗した人だろうか。 あまりに不思議に思って周囲にこぼしていたら、知人の大学生が書いていた。同級生やサークルの仲間も結構な割合でやっているという。 バイト感覚で家計の足しにしているのだそうだ。 1文字0.1円。2000文字程度の記事を10個仕上げて2000円貰うんです、と彼は言う。プロのライターが最低1文字3円からということを踏まえると信じられない値崩れだ(もっとも最近はプロの現場でも1文字1円というケースが珍しくなくなったが)。 そんな金額ならスーパーでレジ打ちした方がずっと効率がいいように思えるのだが、仲間内のパーティに出席できたり、就活のときネットメディアに関わっていたことが有利に働いたりと、色々とメリットはあるらしい。「ちょっとした承認欲求や仲間内で意識の高さを演出するために、」 場合によっては損得度外視で引き受けることもあるという。 しっかり見ていれば分かることだが、中には高校生が書いているケースもある。記事の最後に「この記事を書いた人」というツイッターリンクが付いていて、そこに行くと高校生だということが分かる。 なるほどこれらの記事は(誰もがうすうす気づいてはいるだろうが)プロではなく文章の素人がタダ同然で書いているものなのだ。インターネットの記事が人に見てもらえるようにするには、内容よりもグーグルのロボットから高い評価を受けるためだけにとにかくコストを抑え、量産することが大事だ。そして言うまでもないことだが1文字0.1円では、一つ一つの記事に真剣に向き合う時間はない。 必然的にすでにインターネットに載っている文章をコピー&ペーストし、適当にリライトするという作業になる。もちろん直接取材や、図書館に行って原典を確認するなんてことはあり得ない(つまり、何かのきっかけで一度間違った情報がインターネットに掲載されると、永遠に誤情報がコピーされ続けるということになる)。著者は自分の考えを述べようにも、記事が問題としている内容に、真剣に向き合って考えているヒマはない。そもそも書かせている側が、著者に対して端から何も期待していないのだ。 こうした記事が、毎日数千、数万とインターネット上にアップされている。多くの場合は記事と見せかけた広告で、そうでなければ広告収入のために書かれたテキストだ。記事の書き方はこう。「ランキング形式のまとめ記事にしてください。まず1位と2位に、定番のA社とB社のアイスクリームを挙げます。そして3位くらいにクライアントさんのこの新作アイスクリームをランクインさせてください。1位だと広告だって思われてしまうので、3位くらいがよいでしょう。4位以降は適当でいいです」。もちろん、ぼくは必ずしも広告が悪いと言っているわけではない。問題は企業が、あたかも主流的意見であるかのような記事もどきを、ジャンクのように量産することにある。 ぼくらは日々これらの量産されたジャンク記事に囲まれて生活している。好もうと好まざろうと、スマートフォンにニュースアプリやツイッターをインストールしている限り、絶対に目にすることになる。グーグルで何かを検索しても、個人のサイトやブログにたどり着くケースは今や稀だ。インターネットの笑ってしまうような(しかしひょっとすると社会を揺るがすかもしれない)誇大妄想は、十年の月日をかけて、当たり障りのない一般論を装った、どこかの企業広告へとすり替えられたのだ。 こうしたゴミのような広告の山から逃れたい人はひょっとするとインスタグラムのような、社会性とあまり関係のないメディアだけを見るようになるのかもしれない。インスタグラムはアカウントのジャンク化を恐れて、拡散機能をあえて弱めにするなどの対策をしているようだ。だが言ってしまえば、それは騒がしい広告記事から耳を塞いだだけのことで、決して生々しい声を取り戻したというわけではない。 そしてこうしたジャンクな記事は、恐らくあと五年もしないうちに人工知能が書くことになるだろう。人工知能なら、もっとうまくやるに違いない。ビッグデータから得た集合的無意識──当たり障りのない一般論や、何かのきっかけでセレブが発言した、流行の考え方──を、それらしい言葉でまとめて無限に生産するのだ。しかしそれは、あの、テレビや雑誌といった旧メディアが作っていた空疎な時間と、一体何が違うというのか。
メリークリスマス!と言えないアメリカ
ジャンクな��事が生まれる要因は他にもある。世界的なポリティカル・コレクトネスの流行だ。ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)とは「 政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと(Wikipedia)」とある。 ポリティカル・コレクトネスの観点からすると、たとえば「看護婦」という言い回しは男性がその職業につけないイメージを与える可能性があるので間違っており、男女ともにイメージすることができる「看護士」と言い換えるべきということになる。同様に「保母」は「保育士」とすべきだし、「肌色」は人種的配慮に欠けるので「ペールオレンジ」に言い換えるべきとするのがポリティカル・コレクトネスの考え方だ。 この考え方は確かにある程度まで間違っていないように思えるのだが、少し考えると行き過ぎは文化を破壊しかねないということが安易に想像つく。例えば「メリークリスマス」という言葉は、宗教的配慮に欠けるという観点からすでにアメリカでは 「ハッピーホリデイズ」と言い換えられている。 クリスマス飾りににキリスト像やマリア像などを持ち込むのもご法度だ。十字架なんて問題外。宗教色を一切葬り去らねば、イスラム教徒や仏教徒に失礼じゃないか、というわけだ。そのうちクリスマスに赤色を使うのもNGになるかもしれない。赤はキリストの血を表すからだ。 しかしそのようなものを果たしてぼくらはクリスマスと言えるのだろうか。これは「政治的な正しさ」を盾にした、キリスト教文化への破壊行為ではないのだろうか。なぜポリティカル・コレクトネスの人たちはこんなに偏屈な考え方をするのだろう?これではまるでポリティカル・コレクトネス原理主義だ。ポリティカル・コレクトネス教以外のあらゆる宗教は絶対に認めないという原理主義的一神教だ。 たとえあなたが仏教徒だっとしても、笑顔で「メリークリスマス!」と言えばよいではないか。実際日本人はずっとそうだったのだ。キリスト教の人たちが宗教的に大事にしている行事ならば、わざわざそれに目くじらを立てることはない。むしろ「楽しそうだからぼくらも参加させてほしいのだが、仏教徒なんだけど構わないかね?」と言うのが本当の寛容ではないだろうか。それとも一神教徒の人たちには、そういう考え方は難しいのだろうか。 しかしポリティカル・コレクトネスの人々はそうは考えない。頑固に公の場でメリークリスマス!ということを許さない。「そんなに偏狭な態度をとっていれば、かえって息苦しい社会になってしまわないだろうか」「むしろ反動が起こって事態はよっぽど悪くならないだろうか」などと考えていたら、案の定バックラッシュがやってきた。2016年のアメリカ大統領選の時にドナルド・トランプ現大統領が「自分が大統領になったら再びメリークリスマスと言えるようにする」と公約したのだ。大統領選の結果はご覧の通りだ。トランプ大統領は、メリークリスマス!すら堂々と言えなくなってしまった息苦しい社会に不満を持つ人たちの支持を得て当選したのだ。 言うまでもなく、本来あらゆる文化的伝統行事は民族性や宗教性と密接に関わりあっているのであって、そこから宗教色を徹底して排除しようとすれば、ただの無味乾燥で無秩序な騒ぎになってしまう。宗教や民族にまつわる文化的行事が、現代的価値観からすれば理不尽としか言いようのないものを含んでいるのは当然のことだ。伝統行事は、むしろ常にその時代の価値観と全面的には折り合わなかったからこそ、時代が変わったからといって廃止されることはなく、時代を超えてずっと尊敬され続けてきたのだ。それを現代人の価値観にそぐわないからと言って安易に排除をしようとするのは、今の時代の価値観が未来永劫続くと考える現代人の傲慢であり、次の世代への想像力の欠如ではないだろうか。 日本よりはるかに多民族・多文化社会であるアメリカでポリティカル・コレクトネスの考え方が発展したということはある程度理解できなくもない。あまりに価値観が多様過ぎて、「寛容」や「思いやり」でカバーできる範囲をとっくに超えているのだ。ある人々にとって帽子を被ることが礼装であり、またある人々にとって帽子を脱ぐことが礼装である社会では、ポリティカル・コレクトネスがなければ一方的に少数派が追いやられるばかりなのかもしれない。だが、日本は全く状況が違う。常に周囲と価値観を合わせたがり、少数派になることを恐れがちな日本人は、アメリカとは性格が逆で、少数派が自ら少数派であることを捨て、自発的に多数派になりたがる傾向がある。そのような価値観だから世界的にも類をみない寡民族・寡文化社会になってしまったのだ。 有り体に言えば、我々の社会は空気を読むことが��好きだということだ。互いに周囲の顔色を見回して、自分が人とズレてはいないか、誰かが変わった考え方をしていないか、絶えず監視し続ける。今のインターネットは、テレビのような旧メディアと変わらない。これはもはや「ムラ」社会だ。特異な考え方は、誇大妄想が広がる前に「ツッコミ」をして「修正」する。これをポリティカル・コレクトネスの考え方が加勢する。今時の言葉で言えば「炎上」というのかもしれない。そして最後には「まとめ」として「総括」されるのだ(なるほど「総括」とはどこかで聞いたような言葉だ!)。 「炎上」は一見、正しい意見が間違った意見を修正する、社会の自己浄化作用のように見えなくもない。しかしその一方で、特異な発想の芽を潰していると言える。この調子だとそのうちわざと「ボケ」る者が出てきて、毎度お約束のように「炎上」させるようになるかもしれない。人と違うことが怖い私たちは、そうやって永遠に続く終わりのない日常に「お祭り」というリズムを作るのだ。やがて「ボケ」と「ツッコミ」は、「なんでやねん!」(=なぜなのか)という言葉本来の意味を失い、次第に儀礼化していくことだろう。その裏で、本当に特異な考えをする人の声はどんどん見えなくなっていく。社会は変化することなく終わらない日常となり、まるであのバラエティ番組のように、空虚な戯れが延々と続いていくのだ。
本物の共産主義社会が到来する
更に悪いことに、こうしたインターネットの記事たちは各ユーザーに合わせ最適化され、そのユーザーが関心を持っていそうなことばかりをサジェストするように出来ている。例えばあなたがあるニュースアプリでLGBTについての記事を読んだとしよう。そのアプリは次からLGBTについての話題で一杯になるのだ。するとあなたは思う。「今、社会はLGBTに相当な関心を持っているに違いない」。こうしてそれぞれが勝手に「北朝鮮問題が」「仮想通貨が」「アイドルが」「ネコ画像が」社会的関心事の中心であると考え始めるのだ。自分でフォローする人を選べるSNSはもっとひどい。「反安倍政権の世論が盛り上がっている」ように見える人と「安倍政権の高支持率が続いている」ように見える人のタイムラインは永遠に交わることがない。一体なんでこんなことが起こるのだろう。 本来、インターネットというプラットフォームは、「インターネットエクスプローラー」という名前が示す通り、欲しい情報を自分から「探検」することによって手に得るというツールだった。インターネット全体の記事が少ないときは、確かにそれで機能していた。欲しい情報に達するためには色んなページを回らなければならなかったし、必ずしも耳に聞こえのよくない情報も触れなければならなかったからだ。まさにそれは山あり谷ありの探検のようだった。今はどうだろう?ネットには異常な量の記事が溢れかえっている。ぼくらはそれを、到底すべて読み切ることはできない。こんな状況では、誰も冒険などしたがらないだろう。探さなくても、自分にとって気持ちのいい(都合のいい)当たり障りのない情報にすぐ触れることが出来るのだから。 こうした理由から、インターネットの記事が爆発的に増加することに反比例して、ぼくらが新しい世界に触れる体力は日に日に減っていっているように思われる。誰も好き好んで不都合な意見を聞きに行ったりはしない。大量の記事が出回ってあれもこれも読まなければならない中で、誰かの言葉と真剣に向き合う時間も多くはないだろう。ぼくらは気付かぬうちに少しずつ心の体力を奪われているのであって、自分を肯定してくれる安全・安心な言葉だけを聞き続けるようになっている。 そしてそんな世界すらももうすぐ終わる。もうすぐ人工知能がぼくらを真綿にくるんで、いびつな現実を視界から追いやってくれるに違いないからだ。近い将来、ぼくらは全く違う価値観の人と話して不愉快になることも、ほとんどなくなるだろう。アルゴリズムが話の合わなそうなフォロワーを、初めからミュートしておいてくれるからだ。イラストや音楽の才能のなさに思い悩むこともない。内輪のコミュニティの住人、いわゆる「界隈」と呼ばれる人々が、あなたを先生、先生とどこまでもチヤホヤしてくれるからだ(もっともそのアカウントの「中の人」が本物の人間であるという保証はどこにもないのだが)。当然恋人ができないと思い悩む必要もない。本物の人間よりずっと美しいホログラムと恋愛をするのは、今や普通のことだからだ。しかもその恋人は、あなたの過去の発言をデータベース化しているから、絶対にあなたの嫌がることを言わず、あなたが喜ぶことしかしないのだ。 さらに言おう。恐らく近い将来、人間は一切の仕事もする必要がなくなる。人工知能が自己発展する農場や工場を作り、自動運転カーで勝手に出荷してくれるからだ(驚くべきことに、アメリカのGM社はすでにこのシステムを運用し始めているという)。レジも無人だからバイトもいらない。経営も人工知能がビッグデータに基づいてやるのが一番効率的だ。 機械に職を奪われ、失業率は上がるのに生産力も上がり続けるから、先進諸国はベーシックインカム導入を余儀なくされるだろう。なんのことはない、共産主義社会の到来だ。それも前世紀の不完全な共産主義ではなく、マルクスが予見した本物の共産主義だ。ほとんどのことを機械に任せ、人はクリエイティブな仕事、もとい「趣味」しかしなくなるのだ。そのクリエイティブな「趣味」だって、本当に行われるのかどうか随分怪しいように思える。全てが満たされた世界で、クリエイションをしようと思う人間なんて本当にいるのだろうか。 まるで夢物語だが、そういう世界は必ず来る。それも数十年以内に。その世界では人間にどこまでも優しくて都合の良いコンピューターという名の天使が、寿命が来るまでぼくらを甘やかし続けるのだ──まるで真綿で首を絞めるように。そんな世界では、特異な意見も、ラディカルな発想も必要ない。誰一人不満がないので、そもそも社会が変革する必要がない。 怒りも悲しみもなく、誰一人傷つかない世界。そこで天使のような、あるいは幽霊のようなホログラムが、残り少なくなった人間たちに奉仕している。人間は恋愛対象に何かと面倒な同じ人間よりも人工知能を選ぶようになり、人口もどんどん減ってゆくだろう。
"BLACK IS BEAUTIFUL."
建築家であるぼくの父はもう80を超えているのだが、生まれつきの難聴で、ぼくが幼いころから話がなかなか通じなかった。どのくらい聞こえないかというと、ちょうど携帯電話の着信音が聞こえない、というくらいだ。大きな声で向き合って話すと半分くらい伝わる。ハッキリ言うと、身体障害者だ。 しかし父は一度も自分を障害者だと認めなかった。確実に貰えるはずの障害手帳も障害年金も、絶対に受け取らなかった。破産して、収入がゼロになり、家族の食い扶持を繋げなくなった時でさえだ。「なに、誰だってハンディキャップの一つや二つあるんだ、それをいちいち騒ぎ立てるなんてみっともないことだ」それが父の口癖だった。そして父は自分を「ツンボ」であると自称していた。「ツンボ」は差別用語だからやめなさい、といくら母が言っても「ツンボがツンボで何が悪い!」と絶対に聞かないのだ。 父の発言は無茶苦茶だ。第一、本当に障碍で苦しんでいる人に対するシンパシーがない。それに「ツンボ」なんて言ったら、ポリティカル・コレクトネスの人々からは避難轟々だろう。 だが、一方で父は障碍者に対して全く差別的ではなかった。車椅子で困っている人がいれば助けたし、その一方で車椅子でも態度が悪ければその場で怒鳴り合いの大喧嘩していた。外国人に対してもそうだ。父には中国人の友達がたくさんいた。酒が入れば毎回、歴史問題の議論で怒鳴り合いになるくせに、ずっと仲良しだった。二、三か月すると、何事もなかったかのようにまた飲んでいるのだ(そうしてまた喧嘩になるのだが)。 父は女性に対しての考え方も、世代から考えれば相当リベラルだった。あれだけ父権的なくせに、結婚当初、父が食べるまで食事に手をつけようとしなかった母に対して「そんな下らないこと今すぐやめろ」と叱りつけたのだという。家族の風呂に入る順番についてもそうだ。ぼくが生まれてからはいつも父と母は喧嘩ばかりしていたが、よく考えれば父と母はずっと対等だった。父はいつだって対等な喧嘩相手が欲しかったのかもしれない。 当時はわからなかったが、父が「ツンボ」を自称していた理由が、今ならなんとなく分かるような気がする。父はきっと「ツンボ」を忌避するのではなく、自分が「ツンボ」を格好いいものにしてやる、と考えたのではないだろうか。 この考え方はマルコムXの言う「 Black is beautiful. 」に似ている。かの有名なアメリカ黒人公民権運動の活動家だ。マルコムは、黒人は白人と平等、とは言わなかった。そうではなくて「"黒"こそ美しい」と言ったのだ。 話によると、幼いころは「ツンボ」のことで相当ひどくイジメられたらしい。しかし父は社会に同情を買うような態度を取りたいとは思わなかった。思うに父は「ツンボ」である自分が圧倒的に凄い建築を作ることによって「ひょっとしてツンボだったからこそ、この人はすごい建築家になれたのではないか?」と、人に思わせるような、価値観の転倒を引き起こそうと企んだのではないだろうか。 ポリティカル・コレクトネスの人たちにとっては「ツンボ」は永遠に良くないものであって、忌避されることはあっても、凄いものとして日の目をみることは未来永劫ない。果たしてそれで問題は本当に解決したと言えるのだろうか。「ツンボ」な自分を「ツンボ」と断言する父のやり方は、テレビではもちろん流せないし、インターネットだったら炎上間違いなしだ。けれどもぼくは、ハッキリ言ってテレビよりも、今のインターネットよりも、父のやり方は圧倒的に「クールなやり方だ」と感じてしまう。
インターネットからの脱出
しかしこのような「クールなやり方」は決してインターネットでは出来ないだろう。 ぼくらは薄々気づき始めているが、インターネットにはそのシステム自体に欠陥がある。リンクシステムが、情報のシェアを容易にしすぎたため、一人ひとりが考えることを放棄し始めたのだ。このような社会では父やマルコムXのような革命家気質の強力な個人はお呼びではない。むしろ自分では考えず、薄い情報をまき散らし続けるような人間(インフルエンサー)が影響力を持つ。集団主義の時代だ。多数派はポリティカル・コレクトネス一神教を盾に、他のあらゆるマイノリティが、自分の力で立ち上がろうとする膝を折ろうとする。「『黒は美しい』なんて言わなくていいの、黒も白もなく、みんな平等なの」と。それは「ブラックの血が流れていることに誇りを持つな」と言っているに等しいということに、彼らは気づかない。その考えは、ぼくには、すべての人間を根無し草にしようとしているようにすら思える。そうしてこのように作られた一見当たり障りのない「正論」が、「拡散」機能によって無限に増殖してゆくのだ。 抵抗する方法がある。全てのリンクを一度切ってしまえばいい。インターネットには「罪」もあるが、それ以上の「功」がある。インターネットは個人の発信したいという欲望を爆発させ、流通経路を用意し、個人が本をつくるハードルを劇的に下げた。だったらもう一度紙の本にすればいい。紙の本にはRTもシェアもない。ただ、一対一の読者と書き手がいるだけだ。書き手は読者に差し迫ってくる。逃げ場はどこにもない。RTして他人に共感を求めることはできない。目の前の相手と一対一で対峙するしかない。もしも読んでいて、本当に思うところがあるならば、自分で、自分なりのやり方で発信するしかない。やり方は文章でも動画でも音楽でもなんでもいい、ただ自分だけの力で、やり遂げるしかない。 ぼくはアナタと一対一で話したいのだ。隣の誰かに「ねーどう思う?」なんて聞いてほしくない。ぼくは今、他ならぬアナタと話しているのだ。(了)
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REV エロくない例がエロゲ絵師作で草 ninosan キモいだかキモくないだかgdgdとどんだけヒマなんだこいつらと思いつつ、これが成人コーナーに置いてあっても違和感はないなと思うところである。 NOV1975 web 社会 店頭に平積みしづらいくらいには十分エロいのでなんとかしろとは思うが、キモいのは絵よりもキャッチの方だよな。わきまえてない感がすごい。 hidamari1993 確かにこの帯は勘弁してほしいと思う。てかデパートの大型書店とかだとこの手の帯してる作品は平積みされてない気がする。 wapa 単なる主観のぶつけ合いなのに、登場人物がみな主語がでかい。 white_rose “エロが平気な人しか生きていけない世の中のどこが寛容なんだ?” adramine togetter lightnovel …… 『スレイヤーズ』の絵師がエロ漫画家のあらいずみるいだったし、今に始まった事ではないが、『境ホラ』の事かと思ったら、それ以外にも沢山あるなぁ…… T_Tachibana 職質の持ち物チェックで最初の3冊のどれかが出てきたら解放に時間がかかりそう|エロい表紙で釣ろうとするから一般書店からAmazonやアニメイトに流れてるっての無いのかな? BL含め一般書店で買うの恥ずかしいだろ。 nakakzs togetter ライトノベル つかこの問題、キモイと個人がその主観で思うことやその思想的自由と、それを規制する動き(ゾーニングや自主規制という名目での事実上の強制含む)は分け、後者の危険性を認識しないといけない。 K-Ono というかこの感情を「キモい」と表記するのかいま、というところでわりと戸惑っている。 houyhnhm # |‿‿ ◕人\…… 昔は、挿絵でエロが入ってたけど、挿絵減って扉絵や表紙でエロ出すように。なお、平積みが中心になり、タイトルが長かったり区別がつかなくなって表紙になったのもあるだろう。/貧乳不遇の時代になりつつある。 zaikabou BLがゾーニングされてるのと同程度にゾーニングされれば、というか、実際されてるとこ多くない?あと、シュナムル先生は通常運転なのに数倍燃えてるのは、子供をダシに自分の主張をするというゲスなことをしたから hebomegane_sun そう言われてみればラノベ読んでた頃は周囲に配慮してカバーかけて読んでたし、挿し絵部分は隠すようにしてた気がする……。 rAdio 戦争するしかないんじゃなーい(ハナホジ watapoco はてなやツイッター見てると、スポーツ、祭り、クラブなど外でやる趣味嗜好は愛好者そのものを全否定、むしろ滅べと言うのがマナーにすら感じるくらいだから、こういう絵大嫌いくらいは気軽に言ってこうと思うわ。 rgfx wideangle 結局このようにネットでフラットに展開するからこんなものが溢れてるんだ! となるのかな。リアル書店で買い物だとそんなに事故らない気はする。昔はこうでなかったというのなら何となく見えない感じだったんだと。 FFF あとで読む
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■MV「エキセントリック」のメモ
▼欅ちゃん「エキセントリック」MVを観る。「なんたるカッコよさよ!」と圧倒された。ホントは「仮面��イダーアマゾンズseason2」の感想を書こうと考えをまとめていたのに…観たばかりに手につかなくなってしまったw
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▼なので「エキセン」MVの感想を先にまとめたい。
▼楽曲を聴いた時は「既存の社会を受け入れず抗うレジスタンス感」と、その裏面である「既存の社会を受け入れないが故に汚れないプリズム感」とが同居した欅らしい「レジスト-プリズム曲」だと思った。
▼「レジスト-プリズム」と勝手に必殺技風に造語してみたが、これが自分の中の欅のイメージだ。そしてこの「レジスト-プリズム」のうち「レジスト感」を強く出せば「サイマジョ」「和音」系になり、「プリズム感」を強く出せば「セゾン」系になる。「セカアイ」はその中間で「エキセン」に近く「ナチュラルな欅」。だからファン人気が高いんだろう、というのが自分の頭の中の分類法(その1)。
▼ただ、「セカアイ」には近いが、疾走感のある曲の中で静かにつぶやいてる感じと、叩きつけるようなピアノの音により、クリスタルが冷たく輝きながらも、静かに燃えているイメージが浮かび、そこが「セカアイ」以上に好きで、何回もリピートしてしまう。
▼とはいえ、楽曲の世界観からするとなんとなく「撤退戦」ぽい感じもしていた。レジストするよりも「やれやれ」という感じでクールに戦線離脱するというか。そこが「ゲスの乙女っぽい曲」と言われる理由でもあると思っていた。
▼しかし「THE MUSIC DAY」を観てぶっ飛んだ!「凄い凄いとは聞いていたがこんなに凄かったか!」と。撤退どころか攻めに攻めに攻めまくってるではないか!と狂喜した。
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▼「ダサい/カッコいい」「イタい/神すぎる」の基準をまるごと書き換えようとする挑戦的なダンスにシビれた!その特異な「中二病の美学」により、目立ったヤツはネットにさらしてツッこんで草を生やせばクールだと思い込んでいる「2ちゃんマインド」=「二厨病の美学」を塗り替えようとする野心的な姿勢に心をつかまれた。
▼「これをやれば確かに目に留まる。でもダッセーって言われて大恥かいたらどうしよう」と、ふつうなら尻込みしてしまう。そこを「0か100か」の100を目指し、確信を持って足を前に踏み出した。個々のダンス以上に「その一歩」に、心揺さぶられた人が多いだろう。だから「ダサい」「土俵入り」は織り込み済みなのであって「それは批判にはあたらない(菅官房長官風)」。
▼ともあれ、MVの感想だ。
▼映像は沸騰するお湯の音が聞こえるほど静かな部屋で、物憂げに横になっている「ねる」の姿から幕を開ける。窓越しの太陽の上り具合からみて、おそらく彼女は不登校状態なのだろう(まさに、先日のshowroom問題そのもののタイムリーさだ :注1)
▼そこから推測するに、それ以降の映像は、ねるの登校時の記憶と心象風景が入り混じった「心の世界」だと基本的には考えられる。
▼「手つな」「また会ってください」のMVからも分かるように、ねるは「寝る(横になる)」の力で、登場人物たちを異世界に引きずり込む特殊な能力を持っているw(おそらく「残酷な観客」も夢オチかはさておきそのパターンだろう :注2)。
▼00:15からのピアノの音も映画「インセプション」における「Non, Je Ne Regrette Rien」のごとく異世界に人を引きずり込む「音の通路」なのだろう。
▼なお、心の中のことだから映像は断片的に現れる。言い換えれば、物語の順番どおりに出てこない箇所がある。なので、物語の順番に直して書く。
▼ねるが通っていた学校。そこは「あいつがああだと言ってた」「そいつがそうだろうと言ってた」という差出人のない噂の類が、確証ないほど拡散する「閉じた世界」だ。
▼体育館では椅子がバリケードのように並べられ閉塞感が余計に増している。
▼そんな世界では、確証こそないものの何かの拍子で「噂」が拡散すれば、「本人も知らない僕」ができあがる。そして「僕」のイメージが「倒れていく悪意のドミノ」により増幅され「あいつは悪だ!」と「確定」されれば、彼女(僕)の存在は地に落ちる。対して「僕」を「悪だ」と名指した方は逆に「善だ」とされ「モナ王」のようにスクールカーストのトップに上り詰めることができる。そして、その「悪意のドミノによる悪者倒し」に加担できれば「まなカースト」(土生ちゃん、ぺー、りさ、みーちゃん、しーちゃん、米さん?)の一員にしてもらえる。
▼しかし、その噂は確証や実態のないものだ。だから、別の方向から新しい噂が流れ「空気の流れ」が変われば、カーストの下層でフワフワと風になびくように踊っているメンバーたちのごとく、右から左へとすぐに形成は逆転。
▼発信者不明の影(不在のずーみん)のように「元のネタはどこにある」のか定かでない噂であっても、「推測だらけの伝言ゲーム」が始まって尾ひれがつくと、積み上げられた「まなカーストピラミッド」でさえ、すぐさまガラガラと崩れてしまう。
▼そして、その「形成逆転の伝言ゲーム」に貢献したメンバーを中心に今度は「ぽんカースト」が実現(虹花、なーこ、もん、尾関、オダナナ、ねる)。
▼それでも、安心してはいられない。「最強のぽんカースト」に所属していようと、また別の「伝言ゲーム」が始まれば、すぐさまいじめのターゲットになってしまう。そしてねるはターゲットとなり、学校に行けなくなってしまうのだった(2:16)。
▼こうして「閉じた空間」からはじき出され部屋にこもるようになったねる。だが部屋にこもったからと言って「閉じた空間」から出られたわけではない。意識の中では「自分はカースト最下層のそのまた下に落ちた」と思っているはず。つまり心はまだ「閉じた空間」から切断されていない。窓の格子戸が「牢獄」のようだ。
▼もちろん、ねるだけでなく誰もこの「閉じた空間」が心地よいとは本心では思っていない。しかし、みんなここ以外に世界を知らない。
「この世界に外はないのか?」
▼と、その時、プールに突然の夕立が。
▼「夕立」は人々を足止めしてしまうもの。だが、欅の曲にとって「夕立」は「予測できない未来への通路」。「未来=この世界の外」へとつながる道だ。
▼その夕立を部屋の中から浴びながら、「未来=この世界の外」を感じ取ったねる。すると、彼女の脳裏にある光景が一瞬だけ映る!
▼それは、天を見上げ「世界の外」を思いながら「閉じた空間」からの脱出を決行するてちの姿(2:03)。
(映像上は、ねるが雨に打たれた後、「靴回し」のシーンになっているが「物語の順番」では今書いた展開の方が「エモいw」と思う。おそらく「干された靴下」→「脱いだ靴を回す」というイメージの連なりを作りたかったことや、サビのシーンだからインパクトが欲しかったことから「靴回し」が先に来たのだと思う。)
▼そして、決起したてちの姿は「現実」のものだった。つまり、現実の学校でもてちは「もう、そういうのうんざりなんだよ」と「閉じた学校空間」からの脱出を行っていた。
▼ねるの「心の空間」に「現実」の光景が侵入してきた。こうして「心の空間」と「現実の空間」に通路ができる。
▼そして「決定的な一瞬」がねるの心に到来したことで、彼女の想像力も変容していく。
▼それを履いて地面をしっかりと踏みしめるためのものだった靴は、宙に浮かびクルクルと不安定に回転を始める。自分たちを規律正しく縛り付けるものだった「髪ゴム」は、閉鎖空間の拘束から自分たちを解き放つ武器になる(跳ね返った髪ゴムに期せずして当たってしまうぽんがなんとも愛おしい)。
▼右へ左へと風任せに漂うフワフワとしたダンスは「外の世界」から「風」や「予測できない未来への通路」である「夕立」を呼び込む「風呼び」のダンスとなる。想像力の中で、地に天に「外の世界」から風や夕立を呼び込む。すると心の中の教室には窓から嵐が吹き込んでくる。その中でエキセントリックに舞う少女たち。
▼その風呼びのエキセントリックダンスの力が、「想像」→「現実」の通路を通ってリアルの学校にも波及。ここでも生徒たちの「閉じた空間」からの脱出劇が展開する。
▼もちろん、脱出は必ずうまくいくわけではない。学校の外までは出られるが「行き止まりの柵」に突き当たり立往生する、ちゃぷてん(悪い空気が支配するネットワークから「あと1歩」が踏み出せない様子を表すのだろう)。
▼脱出する仲間を前に「自分だけ出て行くのか」と立ちはだかるりさ。だが…
「友達から縁を切るとは普通じゃない。普通って何か分かる?」と問うりさに
「僕は普通と思ってる。みんなこそ変わりもんだ」と狂喜の笑みで返すぺー。
(ゾッとするほどクレイジーな表情に狂喜!こんな「ベリカ3号」を隠し持っていたとは!)
▼それでも。自分を縛りつけていた髪ゴムを投げ捨て、半分裸足のエキセントリックスタイルで脱出を敢行する少女が。オーディションの時から「燃え上がる恋のレジスタンス」を歌っていたナチュラル・ボーン・レジスタンスアイドル「てち」だった。
▼昼の田舎道を、車が次々と走り抜ける夜の公道を、ひたすら前へ前へ、「閉じた世界」の外へ外へと進むてち。もう「今の日本でこの人よりカッコイイ人はいるのか!?」というくらいカッコイイ!
▼そして、夜明け。半分裸足で歩き続けたてちは、海辺に立つ。その対岸にはもう一つの街(外の世界)が見えていた…。
▼想像力による美学の塗り替え(エキセントリックダンスの創案)が、現実の「閉じた世界」からの脱出を導く。そう「ダサさ/カッコよさ」「イタさ/神さ」のセンスの基準が変われば売れる商品も変わる。そうなれば生産の在り方も変わる。そして経済も変わる。「カッコイイ政治家/醜い政治家」の基準が変われば、選ばれる議員も変わる。そして政治も変わる(ホントかよ!)。
▼そんな「新しい美学」の創出に向けた一撃としてこの作品を読み取りたい。
注1)
▼世代論はだいたいズサンだが「SRねる騒動」をみるにつけ「SNS世代っていうのは、無視されることや、レスを返してもらえないことが、七つの大罪ばりに悪だと思ってるんだな」と世代論を言いたくなる。たぶん「無視」が琴線に触れたんだと思う。俺など家族に何か言っても大半無視されるけどなあ…
▼いや、「ひらがなBRODY」読んで「ねるよくデキたコ」言うてたやん!「悪夢の握手会」の後のブログ読んで「ねるの優しさに泣いた」言うてたやん!なんで、そんな一夜にして変わってまうのよ!もう怖いわ!
▼だいたい、ひらがなのツアーもやったうえに、大きな音楽番組に連日出演して、疲れてるのに仲のいいちゃぷてんが「出てよ」っていうから出てみただけやないか。基本疲れてるから頭も回らんやろうに「まあ喜んでくれるならいいか」と思ってよかれで出ただけやん。
▼それをあんなにフルボッコにされたらやる気なくすよ。
▼「ねるいじめ説」というが、そんなにねるが腹黒いなら何万人も観てる前でい��めない。裏でいじめてるはず。そして、ちゃぷてんが裏でいじめられているなら、そんなやつを自分のSRに呼ばない。よって「いじめ説」など破たんしている。
▼そう言うと「そんなこと言ったって観てて不快に感じたんだもん!視聴者を不快にさせないのがプロなんだもん!」という。ずいぶん厳しいなあ。「みんな社会人2年目でそんなプロ意識持ってたんだ。これから社会人になる人は、2年目でプロ意識満々になる自信があるんだ」と嫌味の一つも言いたくなるが、「正しい」か「正しくない」かで言ったら「正しい」だろう。
▼ならば、「2年目だから至らぬところもある。次から気をつけましょうね。以上!」でよいのではないか。
▼それをいつまでも粘着的に言うから「ラーメン大好き」ならぬ「悪口大好きサイゾーさん」にまでネタにされてしまったじゃないかw
▼本当なら毎日1個ねるのいいところをUPして「毎日起きてもねる生活365日カレンダー」を作り名誉を回復してあげたいが、そこまでヒマではない。誰かヒマな人にやってもらいたい(ちなみに自分はてち、ちゃぷ、りさ、しーちゃん推し。なので「ねる推しのねる���護」ではないのであしからず)
注2)
▼ずいぶん以前、「手をつないで帰ろうか」の感想をメモしていたものの載せるタイミングを逸したので以下に張り付ける。ねるが「寝るの力」で異世界に引き込むとはこういうことを指す。
●「手つな」MV感想
▼「付き合っていることが仲間たちに知れたらイジられちゃうよ。だから2人の関係は秘密にしておこう!」…そんな「学校ルール」という「閉じた世界」にいた男子が、彼女を怒らせてしまったことで覚醒w。クラスメイトたちの暗黙の空気が生み出した「学校ルール」なんてどうでもいい!そんな世界からは脱出し、誰かに見られたっていいから手をつないで帰り、街角でキスをしよう!という歌。欅の曲は「閉じた世界からの脱出」が世界観の核となっているが「仲間ルール」「学校ルール」という「閉じた世界」からの脱出を歌うこの曲もその例に漏れない。
▼だが、楽曲は3段跳びで言えば「ホップステップ」。MVがつくとここに「ジャンプ」が加わる。
▼MV冒頭。ラジカセから曲が流れる中、「ちょっと待って!いやだ!行きたくない!」という女の子の悲鳴にも似た声が聞こえてくる。
▼そこに、「私たちが望んだことだったのに」「私達は不安で仕方がない」「これはきっと夢なんだ」の文字が重ね合わされる。
▼そして、ラジカセが誰かの手によりガチャッと止められるや…場面は変わって廃校のような「閉じた部屋」に。
▼そこには倒れて眠っている20人のメンバーの姿が。しばらくして目を覚ますが、皆、自分が置かれた状況が呑み込めない。ここは、一体どこなのか…?なぜ、ここで眠っていたのか…
▼そして壁には血で書かれた「犯人は誰だ?」の文字が。その「犯人」が自分たちをここに連れてきたというのか?謎が謎を呼ぶままメンバー達は「犯人」を捜すため、そして、時が止まった廃校のような「閉じた世界」から脱出するため周囲の探索を開始する。
▼かつて理科室だったと思しき場所を覗く者、仲間たちと話し合ううち意見が合わなかったのか1人を残して去っていく者、口論の末メンバーと対立する者…さらに誰かが非常用のベルを鳴らすと再びメンバーの多くは眠りに落ちてしまう(犯人は寝る。つまり…)。様々なドラマが交錯する中、手をケガして寝込んでいたメンバーの一人(てち)は、手当てをしてくれた仲間(ずみこ)の絆を感じるや、あることに思い当たる。
▼指で数えながら「5」、さらに1つ指を出して「6」、そしてその指でピアノを弾きながら「(7,8,)9」…そして確信する「1人足りない」。
▼「5.6.9」は1thシングルの1列目(5人)、2列目(6人)、3列目(9人)の編成。そのフォーメーションで「大人社会」からの脱出を始めた「欅革命軍w」だったが、それでは1人足りないのだ。
▼本来、この隊列に加わるはずだったあるメンバーが!「いい高校に入ったんだからいい大学に入って、いい会社に入れ!アイドルなんぞやってる場合じゃない!」という「大人社会のルール」によって、グループから引きはがされてしまったメンバーが!
▼彼女こそが、フライング気味に進軍を始めた欅革命軍を、ラジカセを一時停止させるように足止めさせた。そして廃校のような「閉じた異世界」に20人を引きずり込んだ。「まだ進まないでほしい」と。
(なんだか、ねるのご両親が悪者みたいだが、そういうことが言いたいのではない。言いたいのは「大人社会のルール」のことだとご理解願いたい)
▼だから「大人社会のルール」によって連れ戻されてしまったメンバーを奪還しなくてはならない。そして欅坂46の元に、彼女と「手をつないで帰ら」なくてはならない!
▼そのことに気づいた時…眠らされていたメンバーは目が覚め、大人社会のルールが発生させた「閉じた異世界」から見事脱出。これらは、全てねるの夢だったことが判明する。目が覚めたねるの前には、てちが。
▼そして、どんな夢を見ていたかを聞きつつも「犯人は?」と問うてちに、ねるは答える「わたし、かな」。
▼しかしながら、これまで書いてきたことから考えるなら犯人は、ねるというよりも、「大人社会のルール」だというべきだろう。
▼ということで、「仲間ルール」「学校ルール」に加えMVでは「大人社会のルール」からの脱出も描かれた。よって本作は「サイマジョ」に連なる曲となった。
(ちなみに「私たちが望んだことだったのに」「私達は不安で仕方がない」「これはきっと夢なんだ」の文字の意味だが、おそらくは、自分たちが了解して20人でデビューしたものの、21人そろっていなかったのでどこか不安で仕方がなかった。「何かが足りない」と思っていた。だからきっと「これは夢なんだ」…と思うようになった…ということなのだろうと思う)
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プレミアムフライデーは誰の為のもの?
プレミアムフライデー、ついに先週の金曜日に開幕?されたね。 でも結果は思い通りの不発だったね。 そりゃそうだ。当然だよ。 世間は世の中のサラリーマンの過酷さを何も分かっていない。 だいたいプレミアムフライデーと題してお店側はいろいろとサービスを用意したにも関わらず 結局それを利用したのは、ヒマな主婦だったっていうこの現実ね。 ターゲットはサラリーマンじゃなかったのか? 主婦は一年中自由な時間があるんだからサービス必要ないでしょ…。 なんで主婦がプレミアムフライデーのサービスを利用するんだ? 安いからとかお得だからとか、利用したくなる気持ちは分かるけど。 てか、スーパーとかはわざとそういう主婦向けのサービスを展開していたりするけど。 つまり、時間のないサラリーマンは利用できず、時間のある主婦だけが得をする。 なんという無駄なサービスw 無駄な制度ww これってさ、専業主婦を奥さんに持つサラリーマンからしてみたら、もう痛手でしかないよね。 自分は普通に仕事をしていて、稼ぎも今までと同じなのに、 月末の金曜日に自分の奥さんが「安いから」「お得だから」って言って散財してたら。 スーパーの食料品とかそういう生活用品が安いって言って散財される分にはいいけど、 エステとか高級な嗜好品とか、いくら普段より安い、お得だからって言っても 結局は高くつく無駄なもの、必要のないもので散財されたらカチンとくるよね。 まあ国からしてみたら、散財するのは主婦だろうがサラリーマンだろうがどっちでもいいんだろうけどね。 要は国民がいっぱい金を使って消費してくれたらそれでOK、結果オーライって思っているだろうから。 でも、それってサラリーマンの残業を減らすことには全くと言っていいほどつながってないし。 定時退社を促すことにもなってない。根本的におかしい。 ただただ主婦に無駄なサービスをバラまいて、サラリーマンとサービスする側を苦しめて終わり。 どうしてこんな基本的なことが国の偉い人たちは理解できないんだろ? いくら机上の空論でも、それくらいのこと分からないかなあ? もう来月からでも撤廃してもらいたい。 消費を促す制度じゃなくて、ちゃんとサラリーマンの残業を減らせる制度を考えろ!! 人間、どんなにお金があってもそれを使う時間がなかったら結局は同じなんだから。 現代人、お金も無ければ時間も無いっていう人多いんだよ。 特にサラリーマンはね。 主婦は……お金もあって時間もあるのか。 ま、金は旦那の稼ぎにもよるけど、少なくとも時間は十分あるよね。 なんかズルいな。 てかさ。なんでこの世の主婦って「忙しい」「時間ない」って言うのかな。 ホントにそう?こっちからしてみたら、絶対時間あるだろ!!って思うんだけど。 私の気のせいかな。ただの偏見? なんかスマホばっかりいじってるからそう感じるだけじゃない?って思ってしまう。 やってみると分かるけど、例えばInstagramって写真撮ってそのままアップしても、 一言添えたり、ハッシュタグつけたり、なんだりっていろいろやるから、結構それなりに時間かかるんだよね。 まして、写真を修整したり、何枚かまとめて1枚の写真にしたりっていう作業をするとなおさら。 で、アップしたらアップしたで、今度はイイネやコメントがどれだけついているか気になって、またちょくちょく見ちゃうし。 「○○でランチどう?」とかそういう連絡が来てやり取りしているだけでも、ああでもないこうでもないって連絡が次から次へと来て それだけでものすごい時間をつぶしていたりとかさ。 あるいはいい写真を撮ろうと何枚も何枚も似たような写真ばっかり撮っていたり。 で、それを加工してまたインスタとかTwitterとかに上げたりね。 結局スマホやパソコンっていう文明の利器が発達したからこそ、 本来ならヒマなはずの時間が忙しく思えて「忙しい忙しい」って錯覚してしまっているんだよね。 それに現代人はワガママで自分優先だからね。 ちゃんと自分が満足できるだけの時間が確保できないとすぐ「忙しい」って言う。 つまりは、そういうことなんじゃないの? これだけ科学の進歩した世の中で家事にかかる時間なんてたかが知れてるよ。 ご飯作るの30分、食器洗うの5分、掃除15~30分、洗濯はボタン押すだけだから1分もかからない。 その洗濯は乾燥まで自動でやってくれるから取り出すだけだし、洗濯物を取り出して片付けるのだって5分もあれば全部終わるし。 食材を買ってくるのだってネットスーパーだから、選ぶ時間って意味で10分くらいかなあ? あとは時間になったら家で待っていればいいわけだし。 って考えると、すべての家事って1時間ちょっと、多くても2時間あればすべて片付くんだよ。 ってことは、あとは全部ヒマな時間でしょ?いくらでも自由に使えるじゃん。 24時間のうち7時間を睡眠に費やしたとして、残り17時間。 うち2時間を家事に費やしたところで残り15時間。 私は個人的に8:30~17:30までは仕事で、拘束9時間。 移動は…往復でも10分あれば十分だからここではカウントしないでおくけど、約6時間弱は自由な時間があるんだよ。 食事やお風呂の時間を除いても結構自由な時間はあるよ。 電車通勤している人でも(家事の時間を除いて)4~5時間くらいはみんな時間あるでしょ。 これ、ちゃんとフルタイムで働いている人でこうだからね。 専業主婦なんてその拘束時間、全部自由な時間なんだからさ。何が忙しいんだ?って話だよ。 忙しくしているのは自分自身でしょ?単純に要領が悪かったりとか。 あとはSNSやったり、スマホでゲームやったりさ。 そういう、いつの間にか時間があっという間に過ぎ去ってしまうように感じるものばかりやってるからそう思うんじゃないの? なんでそんなヤツらにばっかりサービスして、働いている側には何のメリットもないんだ? ホント、プレミアムフライデーとかマジでやめてほしい。 それに、テレビやネットのニュースを見ていても、サービスを受ける側のことが一方的に報じられているように思うんだよね。 気のせいかな。私が見てないだけ? 唯一見たのは、東京丸の内みたいなオフィス街の飲食店のことだけなんだよね。 その記事によると、そういうオフィス街の飲食店ではプレミアムフライデーが導入されて、 サラリーマンたちが15時に退社してしまうと、売り上げが下がってしまう可能性があるんだって。 そりゃそうだよね。15時に仕事終えて「さて、ご飯食べに行こう!!」「飲むぞ!!」ってなかなかならないもんね。 オフィス街にある飲食店っていうのは、基本的に仕事を終えて一息…とか、今週も一週間よく働いたなあって思って「じゃあ一杯!」 ってなるから行こうと思うのであって、そんな15時に上がったところで行くかって言われると……正直微妙だよね。 ホントに15時に上がれるのであれば、それこそまっすぐ家に帰るとか、趣味に費やすとかで、そのオフィス街からは出て行っちゃうからね。 ま、今のところ15時に退社できる会社はあまりなく…多分売上的には大丈夫なんだろうけど。 でも、そうは言ってもお店側は15時からちゃんとサービスを提供できるように人員も増やすだろうし、 増やせなければ1人当たりの仕事量が増えるしで、結構大変になると思うんだよね。 変な話、お店の営業時間を変更する分人件費はかさむのに、15時で退社できるサラリーマンがいなくて売上はイマイチで結果赤字… ってなる可能性だってあるわけだし。 (いくら時間持て余している主婦でもオフィス街までわざわざ出向くかって言うと微妙だし。) だからやっぱりサービスを提供する側の意見もちゃんと聞いた方がいいと思う。 サービス業、お店と一口に言ってもいろんな業種があるわけで。 飲食店のサービス業、洋服とか雑貨とかそういう買い物っていう意味のサービス業、美容院とかエステとかのサービス業。 全部違うでしょ。 絶対それぞれにそれぞれのいろんな問題抱えてるって。 てか、もう直ちに撤廃しろ!! 今の状況だと、プレミアムフライデーは誰の為のもの?主婦の為のもの?ってなってるから。 まったくもって意味ナシ!!
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