#事業所狭山から北関東へ移転
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generalwonderlandpeace · 7 months ago
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kennak · 3 months ago
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「横浜に住むのは情弱」と言われて久しいが 横浜移住を考えている友人に向けた、中の人(都心勤務の西区住民。ただしみなとみらいではない。居住歴20年)からの所見。 多数の間違いや偏見があると思う。ブコメやトラバでつっこまれることで、錬成されることを期待してみる。 横浜といっても18区あるため、それぞれの区によって状況は異なる。 ・西区、中区(みなとみらいを擁する)→みんなが想像するヨコハマ。海に面した大都市のイメージ。ただし本牧を除く。   ↑こっちと↓こっちの中間領域な神奈川区 ・鶴見区、都筑区、港北区(川崎属国エリア)→人口が爆発的に伸びた都内通勤族の街。子育て世代にうれしい商業施設が多い一方で、インフラが追いついていない。保育園の倍率が高く、どこにいっても人と車が多い。 ・青葉区、緑区(だいたい町田)→小田急と東急が高度経済成長期からバブル期にかけて必死に開発した結果、小田急と田園都市線の混雑に悩まされることに。横浜中心部とのアクセスが弱いため、横浜市民という自覚が薄い。 ・旭区、瀬谷区、緑区、泉区(山と森)→神奈川県全体で東高西低の格差が問題になっているが、横浜市内でも同様。このエリアは少子高齢化の傾向があり、横浜市の行政が正直手薄になっている感がある。もうちょい西に進んで大和市や海老名に住んだ方が幸せになれる。だからこそ上瀬谷花博でドカンと一発大きな花火をあげようとしているが、嫌な予感しかない。相鉄が代わって必死に都市開発をすすめており(そうしないと相鉄自身が死ぬ)、このエリアの住民はそうにゃんを尊師として崇めることになる。逆に言えば、都心へのアクセスを確保しつつ自然と暮らせる地区とも言える。 ・それ以外(それ以外でまとめると怒る人が出てきそうだ)→元々は高度経済成長期に横浜都心部の郊外として���展したのち、インフラの老朽化や世代交代問題に直面しているエリア。目立った特徴はないが、特異なパラメータがないぶん平均的に住みやすいかも。 小学校レベルの地理の話だが、横浜市の区は、東京都の区とは根本的に異なる。 ・東京都の区は行政権があるが、横浜市の区は市の出先機関。横浜市のあらゆる施策は横浜市全体に適用される。たまに混同している人を見かける。 ・港区や江東区などのリッチな区の補助金ニュースが横浜市と比較されて「横浜市に住む奴は情弱」と言われたりするが、横浜市は市民375万人を平等に扱わないといけない。 ・夜間人口が企業立地に対して多すぎるので、どうしても行政サービスは薄く広くなる。 ・給食がその象徴。これから市内500の小中学校全てに給食を整えるのは永遠に不可能。仕方なくハマ弁で誤魔化している。誤魔化しではあるが、ハマ弁の内容は割とよくできており、給食化した方がたぶんQOLは下がる。 ・図書館や公民館は基本的にボロい。 ・東京の財政力が桁違いに強いので、教育費の無償化や住宅の補助金などで差があるのは事実。 ・公園の遊具にも財政力の差が現れている。公園自体は多いもののどこも遊具がしょぼい。都内の友人近くの公園にいくと概ね横浜市より遊具が綺麗で充実している。 ・まあその分都内は住宅が高いんですけど。都立大学(都民は学費無償)に進学しない限りペイできないのでは? ・川崎市との行政サービスの格差についてはゲフンゲフン。あっちは製鉄所と発電所もってるもんな〜うらやましいな〜(鶴見にあるのは知ってるけど規模が違うもんな〜) ・横浜市+給食+図書館ー文化=川崎市 ・とはいえ、さいたま市や千葉市と同等レベルの給付や福祉はキープしている。賄うべき人口から考えれば相当がんばっている。 ・なので「特別市」という政令指定都市を超えた枠組みを作り、神奈川県からの独立を目論んでいる。 交通の便について。 ・東京〜横浜間のアクセスは超極太。これがさいたまや千葉に対する優位性。 ・鉄道ならJR3路線、東急、京急線と多数に分散しており、どこかの路線がグモっても家に帰れる。 ・高速も横羽線、湾岸線、第三京浜、東名がある。 ・JR東海道線は朝の通勤ラッシュが殺人的だが、それ以外は(都心通勤ソルジャーからみれば)常識的なレベル。 ・田園都市線はもうダメです。こんなこと言ってごめんね。でも��当です。 ・地下鉄については当たり前だが東京が圧倒的。横浜は代わりにバスで市内移動を賄うことになる。 ・自動車。平均的に都心と比べると道路が広くて運転しやすい。ただし横浜町田ICとR1の保土ヶ谷橋交差点はものっそ渋滞するので、このエリアを通過するような生活圏の選択は避けた方が良い。 ・首都高とNEXCOと高規格道路が交差しているので高速道路網の把握が難しい。ジャンクションを間違えるのは横浜市民あるある。 ハザードマップについて ・横浜市は元々神戸市みたいに丘陵と海が近いエリアだったのを埋め立ててきた歴史があるので、埋立地とそうでない箇所の高低差がすごい。「横浜は坂が多い」と言われる所以。 ・この坂のエリアは崖崩れが起きやすい。横浜市の最大の地理的弱点だと思う。 ・そして単純に坂のある地域は住みにくい。子供がキックボードやストライダで死にかける。 ・ハザードマップを見ると崖くずれ注意のエリアが点在しており、この付近の住民は大雨のたびに避難指示発令に悩まされる羽目になる。 ・埋立地のエリアも大きく2つに分かれており、昭和以前に技術の未熟な西区や中区の中心地(横浜駅〜関内エリア)を埋め立てたところは海抜が低く、地盤が弱く、大雨の時の内水や液状化の恐れがある。ここに住む増田は大雨のたびに毎回ヒヤヒヤしている。ただ横浜市にとってこのエリアは経済と行政の中心地なので、必死に土木工事をして改善中。 ・みなとみらいエリア(新しい埋立地)は十分な高さの盛り土、地盤改良、排水設備が揃っており、内水や液状化の心配は少ない。ただみなとみらいエリアはコンビニが少なくOKストアーが殺人的に混雑する(ハザードマップ関係ない話題)。 ・山手や浅間台、野毛山エリアのような高台エリアはハザードマップ的には最強。ただし地価も最強。 ・まとめると 坂の上 > 新しい埋立地 > 古い埋立地>>> 坂 横浜市西区、中区はチートレベルで住みやすいと思う。 ・住宅が都心よりも安い(除く高台エリア)割に、横浜駅エリアや関内エリアの文化施設や商業施設を利用でき、カーシェアリングやLUUP、UBERなどサービスも充実しているので、自宅に必要な機能を都市のなかにアウトソーシングできる。 ・その割に夜間人口が少ないので、保活は楽勝。川崎属国エリアのような教育戦争に巻き込まれることもない。もちろん積極的に中学受験をやることもできる。 ・とにかくあらゆることに対する選択肢が多い。でかいショッピングモールで便利に過ごすもよし、ローカルな店を探して商店街をうろうろするもよし。電車でもバスでも自家用車でもカーシェアでもLUUPでも移動できる。急な雨が降ってもアイカサがある。 市長が山中氏になってから変わったこと (今夜追記する) それでお前がこれから家を買うならどこにする ・西区、中区は引き続きオススメだが、地価が上がっちゃったからな… ・二俣川駅の南側。新横浜線ができてアクセスが改善し、相鉄がジョイナスを作ったので買い物もしやすくなった。こども自然公園というバカでかい公園がある。まだ世の中は「免許を更新しにいくところ」で認識が止まっているので狙い目。 ・鶴見川の氾濫で形成された平野のあたり。具体的には港北、新羽、北新横浜、大倉山、綱島。広大な平野なので「坂の横浜」とは無縁。昔はそれこそ内水の心配があったが、いまは日産スタジアム(という名の貯水池)が俺たちを守ってくれる。だが既に地価は高い。 ・センター北とセンター南。もはやセンターの意味を知る住民は少なめ。地下鉄が2路線あり、第三京浜と東名の両方が使える。ここも地価は高め。 ・星川。保土ヶ谷というとマイナスイメージしかないが星川だと急にイケてるイメージになる。 ・蒔田駅と南太田駅に挟まれた領域。蒔田公園が素晴らしい。歴史的経緯から外国の人も多い。 ・なんか細かく地区ごとに書いてくとキリがないな。 横浜の良いところ書いてなくね? すまんかった。横浜の良いところは「手薄な行政を補ってあまりある民間の活力、選択肢の多さ」だと思う。 ・東急、京急、相鉄といった私鉄の開発力。 ・商業施設の集積。一大観光地でもある。 ・文化やスポーツイベントも多数ある。金がなくても参加できるものも多い。 ・賑やかな商店街が多数あり、ローカルなお店探しは永遠に楽しめる。 ・そのわりに東京より過密度が緩い(過去に高円寺に住んでいたので、ここで東京は狭いという偏見が強化された) ・半官半民、NPO的な施設も充実している。息子が発達が遅めなのだが、近所に発達支援施設がすぐに見つかったのは助かった。 ・うまく文字に出来ないが「東京とか川崎より横浜!」という郷土愛みたいなものも地域全体から感じる。 ・海の存在。海と都市が近い。東京川崎千葉は湾岸が工業地帯で埋まってしまった。 まあ つらつら書いたけどコンビニとまいばすけっとが徒歩圏内にあることが普段の生活を左右する最大のパラメーターだったりする。
横浜の住みやすさについて
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shintani24 · 1 year ago
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2024年1月9日
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サッカー元日本代表 J1・サンフレッチェ広島の青山敏弘選手が母校の作陽学園高校で練習始め【岡山】(RSK山陽放送)2024年1月9日
サッカー元日本代表でJ1・サンフレッチェ広島の青山敏弘選手が、母校の作陽学園高校で練習始めを行いました。
昨年津山市から倉敷市に移転した作陽学園高校に初めてやって来た青山敏弘選手が、新たなシーズンに向け練習始めを行いました。
高校卒業後の2004年にサンフレッチェ広島に入団した青山選手はワールドカップにも出場しています。
37歳で臨んだ昨シーズンは8試合の出場にとどまりましたが、新しいグラウンドで後輩たちと練習し、来シーズンへの意気込みを新たにしていました。
青山敏弘選手 「みんなのピッチの上からもう1回再スタートして、またグラウンドで輝きたいと思ってます」
倉敷市出身、サンフレッチェ生え抜きのレジェンドは、15日からチームのキャンプに参加する予定です。
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広島県でも大地震が起きる可能性があるのか? 広島周辺の活断層について専門家が徹底解説(広島テレビ)テレビ派 2024年1月9日
1月1日に発生した能登半島地震ついて研究されており、広島大学で活断層を研究されている後藤秀昭准教授にお話を伺います。
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地震のメカニズムについて
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Q.「広島でも同様の地震が起きる可能性があるのか」という点を中心にお伝えしていこうと思うんですけれども、改めて今回の地震のメカニズムから教えてください。
広島大学 後藤秀昭 准教授 地震は断層運動によって起こります。今回の地震は、活断層が引き起こしたと考えています。
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地震発生の主なメカニズム
Q.2つのメカニズムがあるということですけれども。
後藤 准教授 「海溝型」というものと「活断層による地震」という2つのタイプがあります。「海溝型」の方は、東日本大震災を引き起こしたような断層です。もう1つは「活断層」ですけども、阪神淡路大震災や熊本地震を引き起こした断層運動になります。
能登半島の断層
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紫色の部分が、能登半島周辺の活断層
Q.今回が「活断層による地震」に当たるということで、活断層というのを見ていこうと思います。
後藤 准教授 紫色で示したのが活断層で、斜めにいくつも延びているかと思います。能登半島辺りを見ていただくと、半島の海岸からすぐ近いところに、斜めに延びてるのが分かります。この断層が動いて地盤が隆起をして、それが活断層ですから、繰り返し動くことによって、能登半島ができてきたというわけです。
Q.断層が近いので、今回の津波が非常に早く来たというのは、そこも関係ありますか。
後藤 准教授 はい。断層が近いというのは、津波の伝搬(伝わる速度)が速くなってくるということです。
Q.そして、この地域には2020年から地震が多発していたというようなデータがありました。
後藤 准教授 はい。短期間でそれだけくさんの地震が起こるというのは、非常に珍しい現象だと思います。
広島県周辺にある活断層について
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中国地方の活断層
Q.地震を引き起こす活断層が、広島県の周辺にもあるということですよね。
後藤 准教授 はい。中国地方の活断層の分布を示したものを見ると、中国地方の西部に割と活断層が多いんですけども、広島県辺りだと福山とかにもありますが、西部の広島市周辺から山口にかけて、斜めに延びるたくさんの断層が分布しています。
Q.福山の方にも、北部の方にもありますけれども、やはり広島県西部にたくさん断層が多くなっているというのが目立ちますよね。
後藤 准教授 そうですね。広島辺りには多くの断層が延びております。
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「岩国ー五日市断層帯」は広島市安佐北区にまで延びている
Q.広島県西部の活断層を取り上げます。
後藤 准教授 広島市から岩国を通って、周南の方に向かっている「岩国ー五日市断層帯」と非常に長いものが延びております。全長約78kmというものです。
Q.長ければ長いほど地震の強さというのは、いかがでしょう。
後藤 准教授 地震の規模は、マグニチュードで表示されておりますが、断層の大きさがマグニチュードの大きさに比例しますので、断層長いですから、非常に大きなマグニチュードになろうかと思います。
Q.地震後経過率という数字についてもお願いします。
後藤 准教授 1000年間隔で繰り返し繰り返し動くのが活断層です。もし、1000年間隔で動いてて、最後に1000年前に動いてれば、地震後経過率「1」という数字になります。ですから「1」になると、そろそろ地震が起こるという数字になるわけです。この辺りだと「0.6から1.2」ということで、かなり差し迫っているという数字と言えます。
Q.少し幅のある数字にも見えますけれど、もう差し迫ってる状況ではあると。
後藤 准教授 地質の情報からなので誤差が大きいんですけど、断層も決まった間隔というのが、多少前後することもありますので、差し迫ってると言えると思います。
断層をインターネットで確認
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「活断層データベース」→「起震断層・活動セグメント検索」で開く地図
断層図などは、インターネットでも調べられます。インターネットの検索窓のところで、「活断層データベース」と入力すると、「活断層データベース」の画面にたどりつきます。そして、ページの左側にある「起震断層・活動セグメント検索」というボタンをクリックすると、地図が開きます。
Q.全国的にも本当にたくさんの断層があると、この図からも見て取れますよね。
後藤 准教授 はい。中国地方はそれほど多くはないんですけども、西部に多くて、広島周辺にはたくさんの赤い線が引かれています。
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断層が延びているのがわかる
Q.広島周辺を拡大すると、太田川の西側に赤いラインがありますが、これが広島周辺の断層ということでよろしいですか。
後藤 准教授 はい。「己斐断層」とか「五日市断層」と呼ばれるような、北から北東、南西方向に延びる斜めの線がたくさんあるかと思います。
Q.いくつか赤い線が見られますが、線の太さや位置から読み取れること、また検索する上で注意をしていく必要があること、どういったことがあげられますか。
後藤 准教授 断層そのものは非常に幅の狭いものなんですけども、その場所を詳しく特定するのは難しい仕事で、この地図では、やや概略的な線が引かれていると理��していただきたいと思います。
Q.広島の地形から注意しないといけないこととして、どういったことが考えられますか。
後藤 准教授 広島の平野があるところは、過去数千年に溜まった、非常に若い軟弱な地層です。まだ十分に固まっていない地層なんですね。ですから、地震が起こると非常によく揺れる、長く揺れると、そんな地盤条件のところになります。
Q.活断層の真上でなくても注意をしておく必要があるということですよね。
後藤 准教授 そうですね。活断層の近くはもちろんよく揺れますけども、離れていても地盤によっては、大きな振動になるということです。
南海トラフ地震について
Q.もう1つ、「南海トラフ地震」の発生も懸念されるかと思いますけれども、こちらについていかがでしょう。
後藤 准教授 南海トラフの地震は、過去の記録を見ると100年とか150年に1回、地震が起こっています。最後に起こった地震が1946年ですので、そろそろ次の地震が迫っているんではないかと危惧しています。
広島県で言いますと、今後30年でほぼ全域で震度5弱以上に見舞われるという予測もあります。
<視聴者からの質問>
Q.南海トラフ地震はいつ起こりますか?これからも日本では頻繁に大地震が起こりますか?
後藤 准教授 そのことについて皆さん知りたいと思うんですけど、結構予測するのは非常に難しいですが、プレートの境界については、境界の地震が起こる前後に、日本列島全体で大きな地震が起こってきたという過去の記録がありますので、差し迫っている南海トラフ地震ですので、日本列島まだまだ揺れるのではないかと思います。
Q.南海トラフ地震での瀬戸内海に予想される津波について、どの程度の津波が来るのでしょうか?
後藤 准教授 過去の記録から見てみると、2mぐらいのものが記録されています。実際にどのような浸水状況になるかということについては、広島県の防災ウェブの「津波ポータルサイト」や「重ねるハザードマップ」などで、具体的に想像、想定していただければと思います。
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相次いだ建物倒壊「広島県内でも今回規模の地震なら同様被害」(NHKニュース)
最大震度7の揺れを観測した能登半島地震では、激しい揺れで木造住宅などの建物が相次いで倒壊しました。
専門家は「広島県内でも今回の規模の地震が起きれば、同じような被害が起こりえる」として、それぞれの家庭でできる備えを進めるよう呼びかけています。
1月1日の能登半島地震では、石川県の各地を震度7や震度6強の激しい揺れが襲い、木造住宅を中心に建物の倒壊が相次いで多くの犠牲者が出ています。
建物の被害が相次いだ要因について、地震工学が専門で広島大学大学院の三浦弘之准教授は揺れの「周期」と地域の「地盤」が影響したと分析しています。
このうち「周期」は1回の揺れにかかる時間のことで、今回の地震では、木造の建物に大きな被害を与えるとされる1秒から2秒程度の比較的ゆっくりとした揺れが観測されたということです。
また、大きな被害が出た平地が比較的、軟弱な地盤にあったため、周期が1秒程度の揺れが大きくなった可能性があると分析しています。
三浦准教授は「地盤の揺れ方が建物に大きな影響を及ぼす揺れ方だったことも、被害が大きくなった要因だと考えられる」と指摘しました。
三浦准教授によりますと、こうした軟らかい地盤の特徴は広島県内でも広島市や福山市など南部の都市部にあるということです。
そして、「今回の規模の地震が起きれば、同じような被害が起こりえるかもしれない。特に広島市の沿岸部の埋め立て地盤が広がっている地域は、非常に軟弱な地盤と言われており、地震の時に揺れが大きくなりやすい傾向がある」と注意を呼びかけています。
広島県内では、2001年3月の「芸予地震」を最後に震度6弱以上の揺れは観測されていませんが、三浦准教授は「20年起きていないから“今後も安全”ということではない。県内にもいくつか活断層があり、今回の地震のように、想定されていなかった断層もあるかもしれない。大きな地震がいつ起きても大丈夫なように備えを進めてほしい」と話しています。
具体的には必要に応じて自宅の耐震補強を行うほか自宅周辺の揺れやすさをハザードマップで把握しておくとともに、日常的な避難場所の確認や持ち出し品の点検・準備といった備えを、それぞれの家庭で進めてほしいとしています。
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防災備蓄品 売れ行き8倍の商品も 広島市のホームセンター(NHKニュース)
能登半島地震の発生のあと、広島市のホームセンターでは水や食料、簡易トイレなど災害に備える備蓄品を買い求める人が増え、多いものの売れ行きは去年の同じ時期の8倍にのぼっています。
広島市西区のホームセンターでは防災グッズの専用コーナーを設けていて、店によりますと、1月1日の能登半島地震の発生のあと問い合わせや買い求める人が増えています。
1月1日からの1週間では、特に、家具が倒れないようにするためのポールやマットなどが去年の同じ時期と比べておよそ5倍、水や食料、簡易トイレなどの備蓄品は、多いものでおよそ8倍の売れ行きだということです。
また、寒さ対策のシートや寝袋なども例年になく売れているということです。
カインズ広島LECT店の相嶋彩恵子さんは「帰省のタイミングなどふだんより家族が多く集まる時にも備えて、備蓄品は多めに買いそろえておいてほしい」と話していました
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1月9日 17:59 震度5弱 震源:佐渡付近 M6.0 深さ約10km この地震による津波被害の心配はありません。
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hangorin · 3 years ago
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なんと!2024年夏季五輪開催予定都市であるパリから、反オリンピック国際集会が呼びかけられています。
2019年7月に世界中の反五輪運動が東京に集結した国際連帯行動以来の重要なイベントになることは間違いないでしょう。
反五輪の会からの参加はコロナ状況を見極めて判断したいと思っていますが、ぜひ多くの人にこの集会の存在を知っていただければと思います。以下の呼びかけ文を読むだけでも、世界中でいかにオリンピックが人々の生活や環境を破壊し続けてきたのかよくわかります。
ご注目を!
反オリンピック国際集会 2022年5月21-22日にセーヌ=サン=ドニで会おう
ロンドンで私たちは、500名以上の入居者を抱えていた英国最大の特定目的住宅協同組合、クレイズレーン団地が破壊されるのを見た。そして、たくさんのジャガイモやアーティチョークやカリフラワーが植えられていたマナー市民菜園(Manor Garden Allotments)が破壊されるのも見た。
ソチで私たちは、ソチ国立公園の広大な土地が破壊されるのを見た。そこは手付かずの国有森林保護地区だったが、無人の地に新都市を建設するため開発された。
リオで私たちは、ヴィラ・アウトドロモが破壊されるのを見た。オリンピックパークの端っこに位置する、数十年の歴史を持つその漁村には800世帯が住んでいた。2016年までにリオで強制退去の憂き目にあった22,000世帯に、その800世帯は含まれている。また、私たちは、戦車がやって来てファベーラの公有地を簒奪するのを見た。自然保護区がゴルフコース建設のために売り飛ばされるのも見た。
ピョンチャンで私たちは、スキー場建設のために500年の歴史を持つ神聖なカリワン山の森林保護区域が破壊されるのを見た。
東京で私たちは、霞ヶ丘アパートが破壊されるのを見た。そのアパートは1964年の東京オリンピックの際に立退を強いられた住民の移転先となった公営住宅だった。
北京で私たちは、乾燥した山間部に人工雪を降らせるために貴重な水資源が奪われるのを見た。この地域に確立されたウィンタースポーツ産業は、将来にわたり資源を吸い尽くしていくだろう。
ミラノ・コルティナで私たちは、東アルプスが破壊されていくのを見ている。ユネスコ・ドロミテ財団が罪深くも沈黙を守っているのをよいことに、オリンピックが次第に環境破壊の機会となっている。
ロサンゼルスで私たちは、エコパークレイクの破壊をすでに見ている。この公園でテント生活をしていた200名もの人々が暴力的に排除され、公有地の囲い込みと軍事化が進行した。
そして、私たちは、ロサンゼルスに現存する数少ない黒人地区、イングルウッドが破壊されていくのを見ている。新しく建設されるスタジアムが家賃を高騰させ、地域経済を破壊し、環境汚染を撒き散らしている。
私たちは、オリンピック開催の旗の下、公共空間、緑地、住宅、コミュニティが破壊されるのを何度も見てきた。
これらの怒りをそれぞれの都市でおのおのが孤独に抱えておくにはあまりに荷が重すぎるので、世界中の仲間たちがパリにやってくる。私たちの中には家を失った人がいる。生活基盤、コミュニティ、権利を失った人もいる。私たちがパリに集まるのは、未来に向けて力を蓄えるため、それぞれの経験に耳を傾ける必要があるからだ。国際オリンピック委員会(IOC)とオリンピック推進派は、国境を越えて組織されている。連中を止めるには、私たちもそうする必要がある。こうした会議を実現させるために労力を費やすことで、私たちは明白なメッセージを送ることになる。私たちはこの闘争にコミットしており、運動に加わるあらゆる人と連帯している、と。私たちを局所の闘争に孤立させ、孤独な闘争へと私たちを閉じ込めようとするのは、資本家階級のお馴染みの手口だ。彼らにとって最大の脅威が、私たちが互いに力を合わせて闘うのを選ぶことであると、私たちは知っている。それぞれの都市においてだけでなくオリンピックそのものに有意義かつ力強い方法で抵抗する、いかなる戦争機械を私たちは作ることができるだろうか?
パリ五輪組織委員会はこう言っている。「われわれは過去大会の問題に気づいており、パリ大会はこれまでとは異なり、簡素化された控えめなモデルを提供します」。パリ市長はこう言っている。「より環境への配慮が行き届いた制度への移行をオリンピックは加速させます」。フランスでは少なからずの人がこうした言葉を鵜呑みにし、パリ2024は「史上最も環境に配慮した大会」になるだろうと信じた。このことは、少なくともある程度は、パリの人々がボストン、ハンブルグ、ブダペストで五輪招致を拒否した人々の後に続かなかったことの説明となっている。
しかし大会を2年後に控えた今日、こうした約束は維持不可能な幻想となった。
私たちは、ADEFという非営利団体がサン=トゥアン市で運営していた労働者向け住宅が、選手村のために破壊されるのを見た。現在��ところ、全員が移民労働者である元入居者たちは狭い仮設住宅に押し込められ、次にどこに行くことができるかわからないままでいる。
私たちは、レール・デ・ヴァン公園が破壊されるのを見た。保護区域となっている生態的回廊の一部である県立公園に、「メディア村」建設のためコンクリートが流されるのである。その必要性にはIOCすらも疑問を挟んでいた。
私たちは、オーベルヴィリエの労働者菜園が破壊されるのを見た。ロンドンのマナー市民菜園同様、コンクリートの下に土壌が消えてしまうのだけど、それは大会に使用されることすらない「練習用」プールのためなのである。
タヴェルニーとサン=ルー=ラ=フォレでは、目下完璧に機能している二つのプールを取り壊してオリンピックサイズのプールが建設される。シャン・ド・マルス公園では、また別のオリンピック関連プロジェクト(グラン・パレ・エフェメール)のため緑地がコンクリートに変貌した。エランクールでは、マウンテンバイク競技のために木が伐採されることになっている。
私たちは認めなくてはならない。パリ五輪はこれまでと異なる五輪などではない、と。少数の人たちにとっての好機、市井の人たちにとっての災厄。利益の民営化、負債の国有化。近年の大会と比べれば、パリ五輪は範囲や規模においていくらか小さいかも知れないが、オリンピックが開催地にもたらすものは何処も変わらない。
2022年5月21、22日に、パリ近郊で反五輪国際ウィークエンドが開かれる。イングランド、ロシア、ブラジル、日本、米国からの参加者が出席し、各自の視点と経験を共有する。土曜日(21日)にはパリ五輪に伴う都市「再生」プロジェクトの中心近くで集会が行われる。日曜日(22日)にはラ・クールヌーヴやオーベルヴィリエのオリンピック災害を被った土地を訪れ、共同で闘争の準備をする。この国際集会は、過去の経験から学ぶこと、そして何よりもこうしたオリンピック災害に抗って闘うことを望むあらゆる人に開かれている。
オリンピックを廃止するための戦いは無益である、と信じる人々がいることを私たちは知っている。昨年夏の「パンデミック・ゲーム[=東京五輪]」に対しては、日本人の8割が反対していたにもかかわらず強行開催され、その後日本では記録的な感染拡大が起こったのである。COVIDにすらオリンピックが止められないなら、誰に止めることができるだろう?
他にはこう考えている人々もいる。仮にオリンピックを止めたところで、もっと広範に及ぶ資本主義の構造は破壊をもたらし続ける、と。オリンピックは石油や銀行とは異なる。オリンピックの消滅だけではこの腐敗した世界秩序の中枢に打撃を与えることはない。
でも考えてみてほしい。直近の開催国のほとんどの人々に嫌われ、いかなる意味においてもエッセンシャルとは言えない運動会すらなくすことができないとしたら、どうやって石油や銀行のない世界を夢見ることができるだろう?
IOCは困難の中にある。日本人の8割が東京大会に反対する前、リオ大会ではブラジル人たちが路上に出て「排除のゲーム」を非難した。2013年以降、開催候補地が招致の是非を問う住民投票を行えば、答えはつねに「NO」である。IOCに10億ドル以上も払っているアメリカのテレビ局、NBCは視聴率急落のために東京大会の後で広告主に補償を行う羽目になった。
これは勝算のある闘いだ。開催を希望する都市がなくなればオリンピックは終わる。それが可能に思えるなら、このプロセスを加速させない理由があるだろうか? 私たちにはまだ、札幌やピレネー=バルセロナ(スペイン)を2030年冬季五輪から、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方を2034年冬季五輪から救うことができる。
5月に会おう。みなさんと会えるのを楽しみにしている。今後関連情報は以下で発信される:
ウェブサイト:https://saccage2024.noblogs.org/
SNS:@saccage2024 (Twitter: @2024saccage)
連絡先:[email protected](フランス語、英語に対応可能)
追伸:この集会には大量の英仏通訳ボランティアが必要とされる。お手伝いしてくれる方は、ぜひご一報を。
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tezzo-text · 5 years ago
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201202 十・十一月の読書など
10月も忙しかった…。11月も……。そしておそらく12月も…。あんまり忙しい忙しい言ってるとモテないという説もあるが、事実だからしょうがない。そしてモテないのも事実。ところで全然関係ないが、先日ツイートした内容に誤りがあったので訂正したい。 https://twitter.com/TezzoSUZUKI/status/1327190105656705025?s=20 ここでは、いつ行ってもすいてるタイ料理「バーンリムパー」と、元バイト先のカレー屋「草枕」が新宿でのわしの飯どころ…と書いたが、もう一つ、大塚家具の近くの「達磨」という中華もよく行くのだった。あと西新宿だったらタイ料理「ピッチーファー」か、靖国通りだとケンタッキー・フライドチキンとか、その近くのタイ料理(タイ料理好きすぎ?)とか、あとは適当なそば屋とか。決まったところで飯を食い続けるのは、新しく入ったところで失望したくないからなのだ。この前草枕が並んでたので新宿通りの向かいにある小さいとんかつ屋に入ってみたが、まさにそういうことが起きたのだった…。
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201024
高坂正顕 西谷啓治 高山岩男 鈴木成高『世界史的立場と日本』 中央公論社(1943)
先月からずっと半藤一利『昭和史』を読んでて中断していたが、クライアントの学芸員の方が仕事の資料として送ってくださったので読む。これは京都学派の4人の学者による座談会の書き起こしであり、彼らは同時期に並行して海軍からの依頼でブレーントラスト的な会合に出席していた。陸軍派の統制が��まっていた時期だったこともあってそれは秘密会合だったが、こちらに収録されているのは「中央公論」に載ったもので、この戦争を思想面から論じ、援ける目的のもの。収録されている1942年1月の「世界史的立場と日本」、同4月の「東亞共榮圈の倫理性と歷史性」、43年1月の「總力戰の哲學」のうち、真ん中はとばして最初と最後だけ読んだ。
正直「世界史的立場と日本」は、普通に戦争と直接は関係のない世界史の話もかなりあって、素直に読めたところもあったが、「總力戰の哲學」になるとかなりノリが変わって空虚な印象だし、抽象的な議論が続くのでしっかり理解できたとは思わない。わしの感想は以下のような感じだ。
7月に読んだ『独ソ戦』には、ドイツにおける対ソ戦は「通常戦争、収奪戦争、世界観戦争(絶滅戦争)」の三つの性格のうち、42年ごろから収奪戦争、絶滅戦争の比重が大きくなり、43年後半にはその二つが通常戦争としての形式を完全に飲み込んだ、とあった。その理解からいくと、この座談会は収奪戦争としてはじまった日中戦争が太平洋戦争へ移行し、名実のうち「名」が先んじて世界観戦争へ突入したのに合わせて、思想的に、つまり「実」の部分からも戦争の性格を変質させようとする企て、というふうに思える。ここで取り上げられている大東和共栄圏、総力戦、国防国家というスローガンは、政治的に、先に打ち出されたものであって、それらを後から、裏側から論理づけすることが彼らの仕事だったように読めた。
では説得力あるロジックが組み立てられているかというと、しかしそうは思えない。暗に今の情況は植民地戦争に過ぎないといい、真の総力戦、真の思想戦だとするならこうではなく、ああでなければならない、という話を延々してはいるが、その核心で具体的な説明を常に欠いている。例えばこんな感じ。
高山 だから共榮圈總力戰といふことになれば、さつきも議論のあつたやうに、植民地だ、搾取だ、などといふことは出てこない。かういふ意味の總力戰があくまで今度の戰爭の特色だと思ふ。今度の戰爭を本當に遂行してゆけば、どうしても、從來のやうな利益功利の次元を越えた高い道義の次元のものが、秩序の原理として出てくる。
こういうのをずっと読んでいると、悪の多様さ…というようなことに思い至ってくる。
そもそもただ経済的な動機での戦争、収奪することで成り立っている植民地帝国というのものはとことんおぞましく思える。しかしそうでないもの、ナチス・ドイツのように国民の他人種排斥感情からあらゆる戦争犯罪がガッチリと一貫したイデオロギーのもとに連動している状態というものを考えると、それこそ悪の極みに思える。ではそういう体制が一貫してなければいいのかと言えば、曖昧なスローガンを当時最も知的な人々が後から論理的にしかしあやふやに補強せざるをえない無残と言ってもいい状況こそ悲惨とも思える。
それぞれの悪は比較できず、つまり、どうであれば最も悪か、あるいはより悪でないかということは一貫して言えない。
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201116
入江曜子『紫禁城』 岩波新書(2008) https://www.iwanami.co.jp/book/b225929.html
世界のいろんな城とか王宮とかについて知りたい、見に行きた〜い、という好奇心があるが、故宮には並ぶものない特別な関心があって、それは紫禁城が世界で最も複雑で大袈裟な宮城だったからかもしれない。
とにかく、常に宮廷・宦官・官僚が腐敗しまくっている描写、火事防止のため湯沸かしが一箇所にまとめられてるので常にお湯をいつも宮殿外から運んでいたこと、水はそもそも北京から離れたところの名水を深夜に車で毎日運んでいたこと…など、大袈裟であればあるほどなんか惹かれる。しかしただすごければいいというのでなく、わしが王宮というものに惹かれるのは多分、異常に複雑な伝統・装飾・機構にくるまれて、その一番奥の芯の部分に、その権威の起源に関係する、ものすごく原始的でシンプルなものが純粋な形で保存されている、というコントラストがあるからだと思う。皇居でいう賢所のようなもの。
そしてやはり紫禁城におけるそれは、プリミティブさにおいて賢所の比ではなかった…。後宮の中軸線上最も北、つまりある意味紫禁城の最も奥にある、坤寧宮について読んでたまげた。他の殿舎が漢民族様式なのと違って、ここは清朝祖地の満洲様式で内部が改装されていて、毎朝4時からシャーマンが踊りながら豚2頭を生贄に捧げる儀式をしていたらしい。そしてそれをずっと茹でといて、夕方になったら今度は部屋を真っ暗にして裸で儀式をして、その後で豚を食うのが習慣だったとのこと。清…というか中国という国のはかりしれなさに圧倒される話である…。
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201121
大橋良介『京都学派と日本海軍』 PHP新書(2001) https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=4-569-61944-4
海軍の依頼による京都学派の秘密会合の内容を、当時の京大文学部副手大島康正がメモしたものがそのまま収録されている。それがこの本の第3部で、これは本当にメモなので結構読みづらいが、中国における塩の専売を日本が押さえる戦略とか具体的な話もとびとびにあって興味深い。
第1, 2部はそれに絡むいろんな人の話で、海軍と京都学派を結びつけた海軍軍人高木惣吉、陸軍におけるカウンターパートの矢次一夫、ウルトラ国粋主義者蓑田胸喜、三木清、近衛文麿、東條英機、下村寅太郎などについて。
『世界史的立場と日本』の裏話的に読めたところもあった。「デモクラシーは一つの思想となってゐるが、八紘一宇は未だ思想ではない。日本人は誰でも漠然と具体的には解ってゐても、具体的に人から訊かれて説明する事は殆どの人が出来ない。」「所が今日右翼の人々はその思想化を嫌ってゐる。」云々とあるように、京都学派は海軍をバックに秘密裏に陸軍・国粋主義者たちの批判をしていた。それに対し蓑田一派は猛烈な攻撃を加えていて、それは「国粋ピューリタニズムともいうような偏執狂的なエネルギーに燃える」ような明らかに破綻した論理にもとづいていたようだが、実際に『中央公論』が解散させられたり(1944年)、京都学派周辺の大学人が退官させられたりと、その迫害は政治的には成功している。
そういう時代の中でも、「京都学派がその行動において内的なモチーフとしていた、植民地戦争の方針是正など、もはや夢のまた夢だった。戦争方針はますます硬直化し、戦局は泥沼へと進み、無条件降伏という見通しは、実際の無条件降伏の少なくとも半年まえには、京都学派のメンバーには分かっていた。」とあるように、実際は京都学派の人々は会合で「現実的な」議論をしていたわけで、後に大島は、攻撃に晒され身の危険を感じている状況では、公刊物では「總力戰の哲學」のような内容にならざるを得なかった…と書いている。芯を食ったことを言ってないように見えるのにはそういう理由があったのだった。
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201122
諸富徹『グローバル・タックス』 岩波新書(2020) https://www.iwanami.co.jp/book/b539117.html
租税回避の具体的なテクニックの一つを初めて知る。すなはちグローバル企業内部で開発したパテントとか商標とかの無形資産を、タックスヘイブン所在の子会社Aの所有にして、売り上げの多い先進国の別子会社Bが、あらかじめ高額に設定しといたその使用料・特許料などをAに支払うことでものすごく経費がかさむ状態にしておき、B国内で課税対象になる収益を極限まで減らす…というもの。『ザ・ランドロマット -パナマ文書流出-』とかを見ても全然理解してなかった…。
有形資産と違って無形資産は比較できる市価が曖昧なので、恣意的に価格を操作でき(その価格を移転価格という)、それがこのテクを可能にしているらしい。この秋、わしもアマゾン・ファッションのオンデマンド・サービスのキャンペーンに参加したが、あのシステムももしかしたらケイマン諸島とかバミューダの子会社が権利持ってたりするのかも…。
移転価格が確実に租税回避目的と判断されれば利益に課税できるが(移転価格税制)そう簡単には��捉できなくて、先進国が所得税や法人税を下げることで税源の流出を防ぐ租税競争、国内では高所得層の所得税負担が軽くなる逆進化はとどまることをしらない…とのこと。
後半はそれを解決するためのアイデアとしてのタイトルのグローバル・タックス(一国では限界があるので、国際機関がグローバル企業に対する課税権力を持つ)について書いてあって、これが税の分野の理想主義か、という感じ。OECD主導の(事実上の)グローバル・タックス実現に反対しているのは主にトランプ政権だけで、Googleとかフェイスブックのトップはどういうわけか前向きだそう。これは今月発売の本なので、政権委譲後にどういう方針になりそうかは特に書いてなかったけど興味深い。
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201127
アンゲラ・メルケル『わたしの信仰 キリスト者として行動する』 新教出版社(2020) http://www.shinkyo-pb.com/2018/08/24/post-1309.php
ウィキペディアかなんかでメルケル首相は東ドイツ出身で理系だった、中道右派の与党(CDU)政治家になったことを意外と思われていた、というの読んでへ〜と思っていたが、お父さんが牧師ということを読み飛ばしていて、この本見つけてそんなバックグラウンドがあったのか、と思った。
これはマニフェスト集ではないので、そこまで明確に個人的な主張が載っているわけではないし、まあ飛ばして読んだところもあった。でもこどもみたいな感想だが、ドイツの歴史とか政治の文脈で当然のものとして頻出する用語で知らないことがいろいろあって、それを知ったのでよかった。知らなかった言葉は「ショアー」。ヘブライ語の一般名詞だけどホロコーストのこと。
「補完性原理」もたくさん出てきた。メルケルは何度も中道保守らしく家庭が大事と言い、家族を「両親が子どもに対して、子どもが両親に対して人生の始めから終わりまで担う責任」とまで表現してるが、政治が「家族がどう生活すべきかを規定すべきではない」とも言っている。あと自由についても「「〜からの自由」ではなく「〜のための自由」」、「自分のため、しかし常に他者との関係においても責任を担う自由」みたいなことを、これは社会的市場経済(Soziale Marktwirtschaft)にからんで何度も言っている。ヒト胚の医療目的の利用については「最初から原則を疑問視すべきではなく、むしろ例外規則を求めるべき」と言っている。
全体をずっと読んでると、政治の担う範囲をあるときは狭く、あるときは広く、しかし明確に厳格に決めて、それが及ばないところではキリスト教的な(というのはこのスピーチのほとんどが教会関係の場でのものだからだと思うけど、そうでなければモラルとしての)方向づけが下から社会を支えている、というようなメルケルの整理している図が頭に浮かんでくる。日本だと政治以外全て市場、という認識が強い気がして、政府がカバーする範囲を狭めれば、経済的なインセンティブや趣味的な選好が支配する(保守的に言えば生き生きとした、リベラルに言えば殺伐とした)世界になる…という感じがするが、ヨーロッパにおいてはそういう感じにならないために宗教が大きな役割を果たしてるんだな~と思った。
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xf-2 · 6 years ago
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中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。  しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。  河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。  一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した」などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。  ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。  嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた「愛国虚言」ゆえか、本多氏のルポルタージュ「中国の旅」(1971年)以来、「南京大虐殺」は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。 ■ そもそも「南京事件」とは何か  支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う通州事件が起きる。8月9日には上海に拡大した。  「中国��深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。  9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。  他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。  日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。
5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。  蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。  その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。  日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。  松井方面軍司令官は9日1600に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日1300に攻撃を再開した。  日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。  日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。  城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」と宣言する(「アサヒグラフ」昭和13年1月26日)。  「南京事件」と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、「城内における日本軍の暴行」をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。  従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。  しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。
 事実、南京戦以前は100万人いた市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。  残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。  しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。  この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。  しかし、大虐殺は「あった」派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。  また、歴史家で「日本『南京』学会」理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の「南京安全地帯の記録」を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で「兵士」と書かれているのを一方的に「日本軍兵士」とする恣意的誤訳などを指摘している。 ■ 本多氏『中国の旅』での記述  日本軍が南京に近づく状況を本多氏の『中国の旅』は、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いている。  日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。  そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる・・・大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。  日本軍は「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、・・・と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。・・・このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」と記している。  本多氏に語る姜根福氏は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」と語る。  続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語るのである。
このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。  「(日本兵は)逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた」  「・・・下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」  「(化学工場では)強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食った」  残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。  中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。  なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でもある。 ■ ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論  「週刊文春」(2014.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇・・・」を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客員教授の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけていた。  このコメントに対し、「週刊金曜日」編集部から「週刊文春」編集部に「公開質問状」が届く。  両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の「週刊金曜日」からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。  これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。
藤岡氏が「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の『A記者』なるものと討論することを承諾した事実はない」から「心底驚き、呆れた」「卑怯であり卑劣である」「責任逃れ」だと詰るのも頷ける。  平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。  当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われた。  こうした資料が「南京事件」を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は「なかった」という最大の傍証ではないだろうか。  筆者がJBpress『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」―「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く』に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという「本多ルポルタージュの破産」(殿岡昭郎氏)ではないだろうか。 ■ 記者たちは真実の報道を怠ったのか  南京城を陥落させるまでの数日間は城外��激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。  20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。  石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。・・・(自分が以前書いた)あの話は私は今も信じてはおりません」と否定している。  当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。  しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。  戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。
前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。  一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として「虐殺」など語らなかったのだ。  松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。  主旨は南京には歴史遺産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。  しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。  南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で「虐殺」には言及していない。  のちに政権を取る毛沢東も「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。  「虐殺」ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、「一切しなかった」、いや「できなかった」のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。 ■ 暴虐を働いたのは支那兵だった  1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。  本多氏の「中国の旅」は、中国にとっては「飛んで火にいる夏の虫」を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。  宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は「南京大虐殺記念館」の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。  大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、「負傷兵締め出し」「非人道極まる支那軍」の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。
日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。  同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。  それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。  日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。  同紙はまた、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。  それによると、「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」というのである。  「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」からだという。  そして「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」とも述べる。  日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。  このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。  日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。  姜根福が語った「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。
■ 全体的に平穏な南京城内  同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、「まだ戦闘は終わってはいない。城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」と相手のタフネスについてもしっかり記録している。  そして「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」(『戦争の流れの中に』)と書いている。このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。  当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、「南京事件」を報じていなかった。先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。  当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。  そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人(特に米国人宣教師など)や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。  戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。  今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。  南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。  危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。  午後は残敵掃討戦になる。  「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」と前田記者は記す。  また「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」とも述べている。  前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。
「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」という。  報道写真からもそうした情景をみることができる。  14日の状況について、東京朝日新聞(12月16日付)はどういう報道をしていたであろうか。  「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」  しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。  その後、下関の挹江門に回ると「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」場面に出くわす。  また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。  翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。  翌日、再��城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした「夥しい中国兵の死体の山が(揚子江岸に)連なっている」のを目撃している。  市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。  戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。  前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。  前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多���が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然ではなかろうか。
森 清勇
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theatrum-wl · 7 years ago
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【劇評】【レポート】どこにもない演劇のまち、西和賀:東北の湖畔の町で見た演劇の風景
第26回  銀河ホール地域演劇祭(2018/09/01-09/02) 片山 幹生
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〔西和賀町文化創造館銀河ホールの空撮。手前は錦秋湖〕
岩手県と秋田県の県境、奥羽山脈のただ中にある西和賀町は人口5000人ほどの小さな町だ。この町には客席300ほどの公営の劇場、西和賀町文化創造館  銀河ホールがある。この劇場では1993年の開館以来、毎年地域演劇祭が開催されている。第26回銀河ホール地域演劇祭は2018年9月1日(土)と2日(日)に開催され、4団体4作品が上演された。今回上演された4作品はすべて宮沢賢治の作品だった。本稿ではこの4作品の舞台評のほか、銀河ホールというユニークな地方公共劇場の活動と地域演劇祭の様子について紹介していきたい。
劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』
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〔劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』〕
銀河ホール地域演劇祭の最初の演目は、島根県松江市の公設民営劇場〈しいの実シアター〉を拠点する劇団あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』だった。あしぶえは2016年に創設50年を迎えた長い活動歴を持つ劇団だ。『セロ弾きのゴーシュ』はあしぶえが28年にわたって上演し続けている劇団の最重要レパートリーであり、アメリカ、カナダの演劇祭でいくつかの賞を受賞している。
『セロ弾きのゴーシュ』の筋立てはごくシンプルなものだ。しかしあしぶえの公演ではそのシンプルな物語が、ミニマルな舞台美術とストイックな演出によって、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。徹底的に磨き抜かれた鉱物の結晶のような美しさを持つ舞台だった。張り詰めた緊張感が最初から最後まで維持され、冗長さはまったく感じられない。
自尊心を徹底的に打ち砕かれ、絶望で自暴自棄の状態に陥りそうになりながら、ぎりぎりのところでゴーシュは破滅への転落をまぬがれた。夜中にゴーシュの家にやってきた何匹かの動物の前で演奏することで、ゴーシュのセロは上達し、自尊心を回復する。次の演奏会でゴーシュはそれまで自分を罵倒していた指揮者から賞賛を受ける。彼はそれまで自分がどれほど傷ついていたことさえ気がついていなかった。演奏会が終了し、帰宅して一人になったときになってはじめて、ゴーシュは自分を絶望の淵から救い出してくれた動物たちの無償の優しさに気づく。
劇の最後で彼の口から漏れる感謝の言葉の真実に、私は強く心打たれた。
俳優の表現のあらゆるディテールにまで注意が払われていることが感じとることができた舞台だった。きびしくコントールされた俳優の演技は、ゴーシュの情念の動きを精密に、ダイナミックに描き出している。ゴーシュの絶望ともがき、いらだちが、舞台から豊かなニュアンスとともにまっすぐ観客席に伝わってくる。ゴーシュ役の俳優の演技にひきこまれ、観客の多くはゴーシュの重苦しさを共有していたに違いない。
なぜゴーシュが動物たちの出会いによって停滞から抜け出せすことができたのか、動物たちはなぜゴーシュの家にやってきたのか、そしてゴーシュが最初にやってきた猫に対して謝罪しなかったのはなぜなのか。いくつもの「なぜ?」に対する回答はあしぶえの舞台でも宙ぶらりんのまま提示されない。『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドの物語だろうか。ゴーシュに感情移入していた観客は、ゴーシュの演奏の成功にカタルシスは感じた者もいるだろう。終幕のゴーシュは確かに絶望からの解放を味わっていた。しかしその解放感は愚かで未熟な自分へのいくばくかの悔恨を伴っている。彼は喜びよりは、深い虚脱感をあのとき味わっていたのではないだろうか。そんなことを感じさせる演出だった。
物語を舞台化するにあたって、雑多な情報を持つ俳優の身体や舞台空間が、作品を過剰に説明的なものにし、そのノイズによって語りの持っていた本質的な魅力を損なってしまうことがままある。あしぶえの『セロ弾きのゴーシュ』は、これとは逆だ。俳優の存在と舞台空間の抽象性が、物語の純度をさらに高め、作品に内在する象徴性を際立たせることに成功している。ほぼ唯一の具象的美術であるチェロの存在が、この舞台ではなんと雄弁なことか。28年に渡る上演のなかでテクストと真摯に向かい合ってきたからこそ、到達することができた表現の逆説だろう。強くて美しい舞台だった。(9月1日14時開演@銀河ホール)
劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』
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〔劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四月』〕
地域演劇祭、二本目は西和賀在住の〈田中直樹と仲間たち〉による『水仙月の四日』を見た。この公演は田中ひとりよって語り、演じられる人形芝居だった。
田中直樹はもともとは地元の劇団ぶどう座に所属していたが、考え方の違いからぶどう座を離れ、ソロで公演を行っていると聞いた。会場は銀河ホールに隣接するUホール。Uホールの建物は円錐形のとんがり屋根と赤い壁の可愛らしい建物で一階は図書館になっている。二階のUホールは円形平面で、リハーサル室・会議室として利用されている場所とのこと。観客は床に座って見るが、今回の公演では後ろの壁際に何脚かパイプ椅子が用意されていた。
『水仙月の四日』は吹雪の一夜を雪原でやり過ごす少年の話だ。舞台が始まる前に田中から、タイトルの「水仙月」と作品冒頭で出てくる「カリメラ」という語についての説明がある。これらの語はいずれもは宮沢賢治の造語で、水仙月は2月から3月の雪深く寒い時期、「カリメラ」は「赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮る」とテクストにあるので、おそらく「キャラメル」を指す。
『水仙月の四日』は日��有数の豪雪地帯であるこの付近の人々にとっては、とりわけその情景がはっきりと思い浮かぶ作品に違いない。田中直樹は赤いケット(毛布)をかぶった少年とその少年を見守る雪童子を15センチほどの小さな人形に演じさせた。これに対して吹雪のアレゴリーである雪狼は人間の顔と同じくらいの大きさの仮面、そして大吹雪のアレゴリーの雪婆は人間をすっぽり覆い尽くす大きさの紙製の面で表現していた。雪婆が登場する場面では照明が暗くなり、蛍光ライトで雪婆の巨大な顔が白く照らし出される。小さい子供たちは狭い舞台を走り回る雪狼と雪婆を怖がっていた。
少年と雪童子を小型の人形にしたことで、白くて厳しい大自然に翻弄される人間の様子が強調された。また白い美術のなかでの少年の着た鮮やかな赤のケットの色彩の対比も印象的だった。小品だが配慮のいきとどいた工夫の数々によって、大人の観客も子供の観客も異世界に誘う、優れた演出の公演だった。人形と紙製の大きなオブジェ、紙吹雪といった材料はこの作品の上演を考えると定番的な素材だが、そのスペクタクルが作り出す幻想は、宮沢賢治の物語を冗語的に説明するのではなく、その語りの美しさをより印象的に引き立てるものになっていた。(9月1日15時半開演@Uホール)
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』
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〔栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』〕
銀河ホール地域演劇祭の二日目(9/2)の最初の演目は、文学座の栗田桃子によるソロ朗読劇『銀河鉄道の夜』だった。
会場は銀河ホール。舞台にはいくつものキャンドルが並べられ、中央に椅子が一脚置かれている。背景には静止画の映像が映し出される。栗田はときおり、椅子を立ったり、座ったり、あるいは歩き回ったりしながら、声色で人物を演じ分けて朗読する。
動きもスマートだし、朗読も達者ではあるが、その動作や声色の変化がことごとく定型的で、テクストに書いてあることをそのまま冗語的、説明的になぞっているに過ぎない。テクストの記述に反射的に反応するような中途半端な工夫は、かえってテクストの世界を矮小化し、観客が世界に入り込むことを妨げてしまう。あれなら座ったまま普通に読んだほうがまだ聞き手の想像力を刺激することができるだろう。広い間口の舞台で栗田の芝居が空回りしていた。栗田桃子という魅力的な女優を使った朗読劇がこんなありさまなのはいかにももったいない。演出家あるいは演者の作品に対する思い入れや独自の解釈などを感じとることができない退屈な朗読劇だった。「朗読劇ってこんなものだろう」という演出家の作品に対する取り組みの甘さを感じてしまう。
演出の単調さと照明の暗さで、五分もすると猛烈な眠気の波が襲いかかってくた。私の周囲の観客にも観客も落ちていた人がかなりいた。公演後のアフタートークで宮沢賢治記念館の学芸員と演出の西本由香の話があったが、このアフタトークでも西本の話ははなはだ曖昧模糊としていて、学芸員の語る興味深いエピソードとの対比で、演出家の作品への関心の薄さが露わになっていた。(9月2日14時開演@銀河ホール)
劇団ぶどう座『植物医師』@ぶどう座稽古場
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〔劇団ぶどう座『植物医師』〕
銀河ホール地域演劇祭で最後に見た演目は、この地を拠点に1950年以降活動を続けているぶどう座の『植物医師』だった。これは他の上演作品のような翻案ではなく、宮沢賢治の書いた短編戯曲の上演だ。私はこの戯曲を読んだことがなかったし、上演を見たことがなかった。ぶどう座は、近年は主宰の川村光夫が高齢(現在96歳)のため実質的に引退状態で、かつてと比べると活動力が大幅に衰えているという話を聞いていたのが、この『植物医師』の公演はその衰退ぶりを感じさせない充実した内容の公演だった。
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〔ぶどう座稽古場〕
公演会場は1960年代に建てられたというぶどう座の稽古場である。まさに芝居小屋といった風情の公演会場に、芝居が始まる前から心が浮き立つ。稽古場は北上線の踏切のすぐそばに、踏切の番小屋のように建っている。舞台の間口は6メートルくらいか。舞台奥の壁はさまざまな色の大きな布で覆われている。客席は板間平面と三、四段の段状、詰めれば40人ぐらいは座れると思う。
芝居の始まる前に、劇のオープニングで歌われる宮沢賢治作詞の《花巻農学校精神歌》の練習があった。観客もこの歌を一緒に歌うようにうながされる。これは楽しい趣向だった。
『植物医師』は上演時間30分ほどの小篇だ。岩手のとある村に《植物医師》を名乗る人物が引っ越してきて、植物病院を開業する。しかしこの植物医師の専門家としての知識はどうもいい加減なもののようで、いかにもうさんくさい人物だ。開業した植物病院に村人たちが次々とやってきて、枯れてしまった稲の治療法を訪ねる。植物医師はでまかせのいい加減な対処法を村人たちに伝え、お金を取る。いんちき治療法で易々とお金を稼いだ植物医師だが、彼の処方では稲の被害は収まるどころか、ますます拡大していく。村人たちが医院に戻ってきて植物医師を詰問する。植物医師は口舌でなんとかそれらの非難を丸め込もうとするが、最後には言い返す言葉もなくなり、村人たちの怒りの言葉にうなだれてしまう。善良でお人好しの村人たちはうなだれた植物医師を見て、彼に同情しはじめる。そして先ほどまでの怒りを収め、植物医師を許すのだ。その許しの言葉は、植物医師にとっては怒りにまかせた批判の言葉よりもはるかに重く感じられた。植物医師はますます打ちひしがれてしまう。
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〔ぶどう座稽古場内部〕
村人たちが入れ替わり立ち替わり植物医師のもとを訪れ、アドバイスを求める場面では、民話によく見られる同種のやりとりの反復とそのエスカレートが、笑いの効果を作り出している。岩手弁のユーモラスな響きがさらに場面の喜劇性を高めていた。不正に対する怒りと非難よりも、不正に行った人間への大らかな優しさと許しこそが力を持つという宮沢賢治らしい倫理が結末で提示されるが、最後の場面の急転が作り出すドラマの力強さと素朴さに心打たれた。村人たちの許しのことばが発せられるたびに、かがんだ体がどんどん下がり、苦悶と戸惑いの表情が深くなっていく演出と演技は見事だった。
芝居小屋の雰囲気もこの作品の上演にいかにもふさわしいものだった。まさに岩手で岩手の人たちによって演じられることによって、この『植物医師』はいっそう味わい深い作品となっていた。この地でのぶどう座の活動の歴史が染みついた稽古場で、この作品を見られて本当によかった。
終演後には稽古場内で打ち上げがあり、私も短い時間ではあったが、出演メンバーとぶどう座の旧メンバーの方々と座を囲んだ。『植物医師』は主宰の川村光夫演出でもかつて公演をおこなったが、それは27年前のことだと言う。今回の公演の演出を担当した菊池啓二さんに「今回の上演は川村さんの演出を蹈襲したものなのですか?」と聞くと「いや、前の上演はもうだいぶ昔の話で、私も見ていないし。まあ川村風にはやりました(笑)」と仰っていた。
今回のキャストには二十歳台の青年も二名参加していた。彼らは昨年から活動を始めた銀河ホール演劇部の部員だと言う。銀河ホール演劇部は、アートコーディネイターの小堀陽平氏の主導で昨年から活動を始めたサークルだ。小堀さんは「ぶどう座の表現は、この地域の人たちの身体と言葉、感覚に根ざしたものなので、銀河ホールで演劇部を作って活動をはじめましたが、外からやってきた僕たちが作る演劇が、ぶどう座を引き継ぐものにはなり得ないように思うのです。やはりぶどう座は土地の人が継承していくものだと考えています」というようなことを言っていたが、実際に公演を見るとそれが実感できる。
地域演劇祭の締めくくりでこの公演を見、そして短い時間ながらぶどう座の人たちと交流の時間を得ることがでいたのは私にとってはとても有意義なことだった。(9月2日17時開演@ぶどう座稽古場)
地域演劇祭と西和賀町文化創造館 銀河ホールの���動
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〔銀河ホール(後側)とUホール(手前側)〕
西和賀町文化創造館 銀河ホールのことを私が知ったのは二年ほど前のことだ。この劇場が、年に一度の地域演劇祭のみならず、地域に根ざした様々な演劇活動を積極的に行っていること、この地を本拠とする60年以上の伝統を持つぶどう座という劇団があること、劇場の活動の軸となっているのが東京出身で日芸OBのまだ若い青年であることなどを知ったことで好奇心をかき立てられ、いつか訪ねてみたいと思っていた劇場だった。演劇は都市のものという固定観念があった私にとって、東北の山間にある小さな劇場で多彩な演劇活動が行われていることが驚くべきことのように思えたのだ。
銀河ホールはJR北上線ほっとゆだ駅から歩いて数分のところにある。ほっとゆだ駅は北上駅から50分ほど。東京駅から北上駅までは東北新幹線で2時間半から3時間かかるので、東京からだと4時間ぐらいで銀河ホールに行くことができる。地図からの印象より案外近く感じられる。
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〔北上線ほっとゆだ駅。駅舎に公衆温泉が附属している〕
西和賀町文化創造館は、銀河ホールのある本館とUホールの別館からなっている。約三百席の銀河ホールの客席はゆったりとしていて、舞台までの距離も遠くない。暖かみのある落ち着いた木製の内装で、芝居を楽しむには理想的な空間だ。劇場の背景に広がるダム湖、錦秋湖の風景が美しい。錦秋湖の湖畔には、野外ステージもあった。
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〔銀河ホールの裏手にある野外湖畔ステージ。後ろは錦秋湖〕
人口5000人程度の自治体でこんな立派な公共劇場を持っているところはそんなにないのではないだろうか。西和賀町で演劇が特権的な文化活動になっているのは、この町で60年以上活動を続ける劇団ぶどう座の存在に負うところが大きい。ぶどう座は川村光夫という優れた演劇人のもと、地域演劇の担い手として充実した活動を行い、戦後日本演劇史に重要な足跡を残した。このぶどう座の活動実績があったからこそ、銀河ホールという公共劇場の建設が可能になったのだ。
西和賀町文化創造館(当時はゆだ文化創造館)は1993年に開催された〈第8回国民文化祭いわて’93 〉の会場として建設された。この国民文化祭を兼ねたかたちで〈第1回銀河ホール地域演劇祭〉が行われ、以後、地域文化祭は毎年秋に開催されている。当時、湯田町(2005年に沢内村と合併して西和賀町となる)の役場の職員で、この劇場運営の中核だった新田満氏に話をうかがったのだが、開館から2000年代半ばまでの銀河ホールの活動は目覚ましいものがある。毎年の地域演劇祭の開催のほか、町民を対象とした演劇学校、小中学校での音楽劇制作、行政的区画を超えた高齢者による演劇公演、そしてロシアとアメリカの演劇人を招聘し三週間にわたって行われた大規模な国際的演劇交流事業など、地方の小さな町の公共劇場としては驚異的な活動を展開していく。
しかしこの初期の黄金時代は、こうした活動に熱意をもって取り組んできたキーパーソンの退職とともに終焉を迎える。地域劇団として銀河ホールの活動に大きな影響を持っていたと思われるぶどう座も、主宰の川村光夫の高齢化とともに、活動力が低下していった。おそらく湯田町が沢内村との合併で西和賀町となり、役所内の組織にも大きな改編があった2005年以降、銀河ホールの活動は停滞期に入ったように思われる。
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〔銀河ホール内部〕
西和賀が演劇のまちとして再活性化しはじめるのは2011年以降のことだ。きっかけは2012年以降現在まで継続的に行われている《ギンガク》という学生演劇合宿事業だ。この事業の立ち上げで中心的な役割を果たしたのが、当時、日芸の大学院生だった小堀陽平さんだ。今回の滞在では小堀さんからも彼と西和賀町との関わり、銀河ホールの活動について話を聞いた。
彼は2014年以降、地域おこし協力隊の一員として西和賀町に移住し、《ギンガク》の活動のみならず、銀河ホールを核としたさまざまな演劇事業を企画・遂行していく。地域おこし協力隊の3年の任期が終了した2017年度以降、西和賀町は「銀河ホール アートコーディネーター」という職を小堀さんに用意し、彼は西和賀の嘱託職員として採用された。町の彼に対する信頼と期待の大きさがうかがわれる。
アートコーディネイターとして彼が担当する業務は文化事業全般に関わるものだが、演劇に関わる事業としては、地域演劇祭のほか、学生演劇の合宿《ギンガク》、小中学校での公演・ワークショップ、高校演劇アワード、地域中学への演劇指導、銀河ホール「演劇部」の活動、そして貸し館業務など多岐にわたっている。今後やりたい事業としては、シニア演劇、温泉・観光と組み合わせたイベント、アーティスト・イン・レジデンスなどを挙げていた。
ほっとゆだ駅から銀河ホールにかけての道に「どこにもない演劇のまちをつくろう」と書かれたのぼりが立ち並んでいるが、町外からこの町にやってきた地域おこし協力隊の青年たちがもたらす刺激によって、西和賀は演劇のまちとして新たな一歩を踏み出そうとしている。
第26回銀河ホール地域演劇祭
2018年9月1日(土)- 9月2日(日)
会場:西和賀町文化創造館(銀河ホール・Uホール)/劇団ぶどう座稽古場
主催:銀河ホール地域演劇祭実行委員会
後援:西和賀町観光協会・西和賀町芸術文化協会・西和賀町教育委員会
総合舞台監督:内山勉
テクニカルスタッフ:アクト・ディヴァイス
宣伝美術:髙野由茉 小堀陽平
特別協力(記録撮影):森山紗莉
劇団あしぶえ/島根『セロ弾きのゴーシュ』
9月1日(土) 14:00~@銀河ホール
出演:松浦 優海、門脇 礼子、上田 郁子、有田 美由樹、伊達 生、有田 美由樹、門脇 礼子、原田 雅史、上田 郁子、川村 真美、牛尾 光希、岩田 和大
演出:園山 土筆
舞台/照明:稲田 道則、岡本 敦、門脇 礼子、長見 好高、原田 雅史
音響:福井 健吾 前村 晴奈
小道具:上田 郁子
衣装:有田 美由樹 川村 真美
制作:前村 晴奈
劇団田中直樹と仲間たち/西和賀『水仙月の四日』
9月1日(土) 15:30~  総入替え2回上演@Uホール
出演:田中 直樹、田中 宏樹
演出/美術:田中 直樹
照明:小堀 陽平(銀河ホール)
雪布操作:田中 真理子
協力:湯田ドライブイン
栗田桃子(文学座)ソロ朗読劇/東京��銀河鉄道の夜』
9月2日(日)14:00〜@銀河ホール
出演:栗田 桃子(文学座)
演出:西本 由香(文学座)
照明:賀澤 礼子(文学座)
映像・音響:西本 由香(文学座)
美術:米澤 純(Jun's Light Candles)
劇団ぶどう座/西和賀『植物医師』
出演:真嶋 実、池田 慣作、菊池 啓二、高橋 節子、高橋 守、三浦 勇太
���出:菊池 啓二
舞台美術:内山 勉、新井 真紀
音響/照明:真嶋 陽
小道具:髙野 由茉
●片山 幹生(かたやま・みきお)1967年生まれ。兵庫県神戸市出身、東京都練馬区在住。WLスタッフ。フランス語教員、中世フランス文学、フランス演劇研究者。古典戯曲を読む会@東京の世話人。
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tohoku-youth-orchestra · 7 years ago
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浪江町から遠く離れて(フルート菅野桃香さんの場合)
いつもは福島市での合同練習会の合間にせわしなく行う団員へのインタビューなのですが、8月の夏合宿までしばらく期間があることもあり、あらためて二人の団員に時間を取ってもらって話を聞きました。二人に共通するのは、東京電力福島第一原発に一番近い場所で約4kmしか離れていない町、福島県浪江町(なみえまち)出身であること。昨年の3月31日には町の一部の避難指示が解除されました。しかし、団員の二人はともに現在は東京の音楽大学に通い、ご家族も浪江町にお戻りにはなっていません。
今年の3月の東北ユースオーケストラ演奏会2018では、初めて団員の作曲作品をステージで演奏する試みを行いました。現代音楽の作曲家として世界から注目を集める藤倉大さんが、実は昔からの坂本龍一監督ファンという関係であったがために、昨年末に藤倉さんによる団員向けの作曲ワークショップが実現し、希望する6名はその成果を演奏会で披露することができました。
フルート担当の菅野桃香さんもそんな作曲家の一人でした。リハーサルで「福島県いわき市出身、大学1年生」と紹介したら、入団申し込み時のデータだったようで、後から「わたしは実は浪江町出身で、いま実家は取り壊され、避難していわき市に住んでいます。浪江町での紹介をお願いします」と明るく言ってきてくれました。彼女のつくった作品のタイトルは「当たり前の幸せ」。この東北ユースオーケストラを通じて表現したい気持ちがあるのだなと受け止めました。いつかまとまった時間を取ってインタビューさせて欲しいと頼んだところ、「聞いてもらったら何でも話しますよ。むしろ話したいです。」と応じてくれました。
東京音楽大学のフルート専攻の2年生として埼玉に住み、池袋の学校に通う忙しい菅野さんと時間を合わせて、平日朝の新宿のファミリーレストランで1時間半しっかり話を聞きました。
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今日は忙しいところわざわざ出てきてくれてありがとう。なぜ学校の近くではなくて埼玉に住んでいるの?
防音設備の整った部屋は高いんです。でも学校までは電車で一本だから便利なんです。来年から校舎が代官山に移ってしまうのですが。
それは音大生ならではの悩みだね。お洒落な代官山近くの防音の部屋を借りるとなると、また高くつきそうだね。
たぶん引っ越せないと思います(笑)
今日はあらためて311の時のこと。それ以降体験したことを伺いたいと思います。思い出したくないこともあると思うし、嫌だったら正直に答えたくないと言ってください。どうぞよろしくお願いします。菅野さんは何年生まれですか?
1999年生まれに実はいわき市で生まれてすぐに浪江町に引っ越しました。だから浪江町出身と言っています。
99年生まれということは震災の時は12歳ですね。
浪江小学校六年生で、その日は卒業式の練習をしていました。子どもしかいない三階の教室にみんなでいたら、午後2時46分に突然揺れ出し、「机の下に隠れて」と構内放送が流れても、あまりの揺れに机は動くし、立っていられないしで、そのまましゃがみ込むのが精一杯でした。教室の窓から周辺の家がバタバタ崩れていく風景を目にして大きな衝撃を受けました。今でも脳裏にしっかりと刻まれています。
校庭に避難するように指示が出たのですが、いつもの避難訓練とは違って、構内のいろんなものが散乱した状態で、下駄箱は倒れていて、よじ登ってなんとか校舎に出ることができました。
立て続けに起こる余震の怖さと寒さにおびえていたら雪が降ってきました。もともと福島県の浜(通り地区)は冬でも雪が積もるようなことは滅多になく、もちろん3月に雪が降るようなことは無かったので、とても不吉な思いになりました。その頃、海辺のほうでは津波が来ていたんですね。一番海に近い小学校は跡形もなく流されました。
津波のことを知ったのは夜になってからです。なにしろ停電していましたから。うちの両親はともに小学校の教師でした。発災時は自分たちの受け持つ生徒のケアで手一杯だったようです。
実は姉は中学校の卒業式を終えて、高校受験も終わったことだし家でのんびりしているところ地震に襲われたそうです。うちが瓦屋根の一軒家で、家に飛び出す時に瓦がいっぱい落ちてきて、危ない目にあったらしいです。
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(3年後の一時帰還の際に撮影された実家から落ちた屋根瓦の様子)
そのあとご家族はどのように会えたのかな?
幸い両親は姉とは連絡がとれて安心していたようです。姉は隣の比較的新しい分譲アパートに住むピアノの先生のところで避難できていました。
夜の7時くらいに大熊の小学校の教員だった父が学校まで迎えに来てくれました。一緒に学校で避難していた友達が電話で親と「(自分たちが住んでいた)アパートは全壊して潰れてしまった」と会��しているのを聞き、それなりの覚悟はしていましたが、うちの家は最悪ながら建ってはいました。それを確認して、お腹が空いていたので、市役所の体育館で炊き出しの豚汁をいただきに行きました。
家では親の寝室だけが無事で、わたしたち姉妹は両親のベッドで寝かせてもらいました。両親は居間で一晩過ごしました。いつ家が崩れるかもしれないとの不安はありましたね。
その頃、原発はすでに危ない状況にあったよね?
次の日、朝6時に、血相変えた両親に起こされました。「避難するよ、原発が心配だから、町ごと避難するよ」と。人口2万人の浪江の人たちが、なぜ渋滞しながら山の方に向かうのだろうと思いました。近所に住んでいた祖父母もあわせて6人が車に乗っていました。わたしは毛布とお菓子だけを持っていました。町の中心部から内陸のほうに北上した津島地区へと逃げました。
避難所は人一杯であふれかえっていました。実は後からその頃の津島が一番線量が高かったと知るのですが。そこで、ひさしぶりに津島の親戚のおばあちゃんの家へ行きました。昼に素麺をいただいて、テレビで震災の報道中継を見ていたら、福島第一原発が爆発しました。実際、おばあちゃんの家で「ボン」という爆発音を聞きました。二基が爆発し、これは、やばいこと起きているぞと実感しました。親は「逃げるぞ」と、夜の9時には車を出して、郡山市まで向かいました。あてもなく向かったのですが、原発近隣住民を受け入れている避難所を調べ、たどり着いたのですが、浜の人たちがすごいいっぱいいてびっくりしました。
その次の日、3月13日は、新潟からいとこが郡山の避難所に来てくれたのが心強かったです。なんでもない励ましというか、会うだけで安心できたんですね。そして、浪江のおじいちゃんおばあさんを新潟に連れて行ってくれました。残った家族4人は着る服が無いので、「しまむらで買おう」となり、郡山の店舗に行ってみたら店員さんもお客さんも普通にいて、なんで自分たちだけこんな目にあっているのだろうと強く思いました。同じ県内なのに過ごし方があまりに違い過ぎて。
避難所でパン配給受けて、携帯の充電をして、足りない毛布を買って、ガソリンスタンドで1〜2時間並んでと、とてもせわしなく動き回りました。そして、前日の避難所に戻ってみると、自分たちの毛布3枚だけになっていて、たくさんいた人たちが誰一人いません。避難所が閉鎖されたことを知りました。民間のスーパー銭湯でしたからしょうがないですよね。
それから慌てて避難先探しです。浪江町から避難する人たちを受け入れてくれる郡山の聾学校の避難所を知り、そちらに移動しました。夜なのに職員の方々が親切に出迎えてくださり、とてもほっとしたことを覚えています。味噌汁、おにぎり。ひさびさにあったかいものをいただきました。しかし、その避難所も狭い和室に、3、4組の家族がいて、3日間はなんとか過ごしましたが、これはしんどいねとなり、いとこの家のある新潟へ移動しました。一泊だけ先に祖父母が避難したいとこの家に泊まらせてもらったのですが、次の日には両親が手配してくれた六畳一間のアパートを借りて、一週間くらい過ごした。時々いとこが気分転換にと近くのイオンモールに連れて出してくれるのですが、そこにあるあまりの日常とのギャップがショックで、わたしたちはいったい何なんだろうと思いました。
その頃も小学校の卒業式が気になっていました。浪江町の小学校の卒業式は中止との連絡は受けていて、しかし、4月の頭には浪江に帰れると思っていたんです。それなのに「しばらく帰れない」と親に言われ、それまでは涙も出なかっのですが、初めて号泣しました。友達がどこにいるかもわからなかった。
311の日、待機していた小学校で当時一番仲が良かった友達と、「またね、明日ね。でも明日は学校の片付けをしたり、忙しいんだろうね」と言って別れました。でも、その友達とはもう会うことはありませんでした。
その後、中学2年の時に一回だけ仙台で会いました。会ってみると頭がフリーズしてしまいました。ほんとうはこの子と同じ中学校の生活を過ごすはずだったんだなあって。今は違う制服を着て、別々のところに離れて暮らしている。同じ浪江町の地元の中学校の制服もジャージも買っていたのに。それを一緒に着ることができなかったんだなぁ。そんなことを思いながら3時間、311の後にお互いが体験したことを話し合ったことを覚えています。彼女はおばあちゃんのいる山形の家へ引っ越して、それっきりです。
姉がいわき高校に合格していたので、いわき市にアパートを借りようということになりました。わたしは全く知らない中学校に通うことになりました。入学式の日、学校の教室に連れて行かれ、自分のサイズの制服を選んでと言われるがままに中学校の制服に着替え、そのまま入学式となりました。当初は、原発事故の被害の大きかった地区の子どもたちが集められたクラスで、それは心強かったですね。
浪江町の実家には震災後に帰ったことはある?
今までに2度、一時帰宅で帰りました。初めては2014年の3月23日でした。線量が高いので15歳以上でないと入れなかったんです。ひさびさに帰ることはうれしかったけど、自分の家に入って、その荒れ果てた姿にショックを受けました。周りは太ったネズミが走り回っていました。自宅には明らかに泥棒が入った痕跡がありました。小学生の時に、親に「もっと大きい家に引っ越したい」とか言っていたことを後悔しました。
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(初めて防護服を着て一時帰還した際に撮影された実家の外観)
いつも団員インタビューではお決まりで聞いている質問です。311の経験は菅野さんをどう変えましたか?
今になれば被災地の人たちは「震災を経て成長した」と言ったりされているけど、テレビやメディアなんかで報道されている話は嘘くさいです。震災を通じて学んだことと言えば、「当たり前ということほど幸せなことはない」です。住む家も無くなった、お金も無くなった。実際は津波で人がたくさん亡くなった。よく知っていた先生の生まれたばかりの娘さんはおばあちゃんと一緒に津波で流されてしまいました。震災で身近な人を亡くした方の前で「震災を通して成長しました」とはとても言えないです。中には原発事故のせいで精神的に追い詰められて亡くなった人もいます。
「震災を経て成長した」。 そんな、さらっとした一言は言えないです。
わたしにとっては、とてもたいへんな目にあったけれど、そこで親がかんばってくれたことが有難いです。中学、高校時代のわたしのモットーは、「この子、被災したんだと言われたくない。」でした。浪江町の子として避けられるのも嫌だった。実際、最初に避難先の郡山で受けた放射線量の検査ではひっかかりましたし、中学生の時の甲状腺検査でもひっかかりました。友達で不登校になった子もいます。原発に対してそんな知識は無いけど、その必要性とか言っている人がよくわからないです。まだ原発があること自体が意味わからないです。
普通に過ごすためには、たいへんでした。でも、こんなことは頑張りにはならないと思っています。すべて親に用意してもらった。何不自由なく過ごせる環境を整えてくれた親にはただただ感謝しかありません。いま、音大に行けているって、本当に毎日親には感謝しています。
音大に行きたいと思ったのはいつ?
いわき市での中学2年の時に、お医者さんのたちによるアマチュアの復興コンサートを聴く機会がありました。それが、なぜかまるで自分のためだけに演奏してくれたかのようで心に響き、感動たんです。その時に、自分がプロの演奏家になったら、いつか誰かの力になれるかもしれないと思ったのです。小学校からのフルートとピアノはやっていました。いわきの高校の部活で吹奏楽に入り、とても熱心な学校だったので、フルートに一所懸命に打ち込みました。
東北ユースオーケストラでこれから何をしたいですか?
たまたま高校三年の時にスマホで検索していたら東北ユースオーケストラの存在を知りました。趣旨を読んで「自分にぴったりなオーケストラがある!」と思い、うれしかったです。それまでオーケストラの経験も無かったですから。東京音大を受験し合格できて、事務局に電話で「東北ユースオーケストラに入りたいと、団員募集はしているのですか」と問い合わせて、昨年度の第3期から団員になることができました。
団員のみんながみんなわたしのような体験をしていないですから、機会があれば団員の人たちにこの経験を話してみたいと思います。こんなことがあった同じ地方の人として、東北ユースオーケストラとして意味を持って活動しやすくなるのではと思います。わたしは話すことが苦にならないので。たまに泣きたくなる時もありますけど。
菅野さんにとって311の後、音楽ってどんなものでしたか?
音楽を通じて発信できることがあると思っています。思えば日本で世界でも前例のない事故に巻き込まれて貴重な経験をしました。こういうことがあったんだと伝えることは、戦争のことを言い伝えるように、もちろん言うことも楽しいことではないけど、伝えることの大切さを感じています。何万人かのうちの1人としての責任でしょうか。少し話すだけでも、意味があるのかなって。東北ユースオーケストラは、坂本監督のような世界に知られている人のもとで活動している訳ですから、発信しないのはもったいないと思います。わたしは望まれれば震災のことを語らせていただきます。震災で避難して、今はこういう気待ちになったんだ、ということを。
言葉だけではなく、音楽でも伝えることもできると思っています。だから、震災に逢った人の立場を思って演奏したい。
これまでにわたし自身、復興していると思ったことは一回も無いです。
東北ユースオーケストラは自分が成長できる場だと思います。 震災のことを伝えていきたい。家には戻れず、友達に会えなくなった。あの自分の大好きだった町に帰ることができない。
でも、あえて言うと自分の心が復興してるかな、強くなったかな。
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学業とバイトで忙しい合間をぬってしっかり時間を取ってくれた菅野さん。話しづらいことも多々あったと思いますが、どうもありがとうございました。
「わたし自身、復興していると思ったことは一回も無いです。」
この一言がとてもとても強く心に残りました。
ひとの命自体がかけがえ無く、どんなに輪廻転生を信じようとも、このいまここに授かっている、この生きる人生は一回限りのものです。しかし、命に限らず、すべての事物や感情も含めて、一度失ったものは取り戻せないのだなと。
今やパソコンの誤操作を簡単なキー操作一つで取り消したり、失ったデジタルデータをバックアップから復元したりしていますが、実はそんなことは現実の世界においては無いのです。一度落ちた屋根瓦は割れたままです。別の似た屋根瓦がそれに取って替わることができたとしても、それは前とは違う物に過ぎません。友情などの人間関係においてもそうでしょう。一度離れたり失われたりした感情は戻らない。紀元前の世の東西の哲人が言ったように、「同じ川に2度入ることはできない」のです。
ひょっとすると「復興」という考え自体に無理があるのではとも思えてきました。元に戻す「復元」や「復興」ではなく、むしろ新たに共につくる「再興」や「再共創」という考えに立ったほうがいいのではないか。
菅野さんは自身の経験を経て、音楽を通じて発信できることがあると言ってくれました。音楽にできることは何なのか。そんなことを考えている時に、京都大学の霊長類研究所で長年チンパンジーの研究を続けられた松沢哲郎さんの新刊『分かちあう心の進化』という本をたまたま手にしていました。野生チンパンジーは、声やドラミングで仲間とリズムやテンポを呼応させながら「ともに何かをする」「息を合わせる」ことで、音に乗せて何かを伝えている。音が情報を運んでいる。その結果、送り手も受けてもお互いが「想像するちから」をはたらかせて、目の前の見えないものを心に思い浮かべます、と指摘されています。音楽の他にも言語や絵画、料理の例を引き合いに出しながら、芸術とは「想像するちからを伸ばすこと」であり、「分かちあうもの」だとの考えを述べられています。
東北ユースオーケストラは、311を3県で体験した同世代という条件だけでつながった混成オーケストラです。今いる環境や立場も違う団員たちが、お互いの体験や思いを想像しながら、ひとつの音楽をともに奏でる。その偶然の喜びを団員たちだけでなく、この演奏をサポートし聴いていただける方々と分かちあうこと。このこと自体がすでにメッセージであるのだということにあらためて気づきました。もちろん演奏内容の質的向上も伴ってのことですが。
ともあれ浪江町出身の団員の体験談と現在の思いを深く聴くことで、東北ユースオーケストラを続けていくことの意義を再確認できた確かめられた。そんな気がしています。近々もう一人の浪江町出身の団員のインタビューをご紹介する予定です。
末筆ながら今月の西日本豪雨で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。東北ユースオーケストラで何かお力になれそうなことがありましたら、どうぞお気兼ねなくご連絡をいただければと思います。 どうか当たり前の暮らしに早く戻られますように。
引き続き東北ユースオーケストラへのご支援もどうぞよろしくお願いします。
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rayme-synk · 4 years ago
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想起-新潟
新潟駅は現在高架化事業中ですが、暫定開業直後一瞬だけ見られた組み合わせがあります。
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国鉄の汎用型気動車キハ40系列と高架駅。
この組み合わせというと、単行や2両編成は旭川とか佐賀とかでも見られますが、4両連結となると新潟が唯一と言ってもいいのではないでしょうか。
高架駅になってから新潟駅構内の保安装置がATS-P更新され、ATS-Sとその上位互換であるPsしか搭載していない車両は半ば出禁状態になったため、車両不足を補うために対応している車両を両端に据えた4両編成が組まれ、主に磐越西線方面のラッシュ運用に充てられました。(馬下と新潟の間をひたすら往復していたと思います…。)
GV-E400系が先行投入された後もしばらくは走っていましたが、単行の車両が新津に搬入された段階で、代役が立ったということでついにお役御免となりました。
��回の記事中の東三条に移動する前に写真には納めていましたが、乗っておくべきだったかなぁ…。
前回の続きです。宿泊先最寄りの燕三条駅から新潟へ向かいます。
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上越新幹線開業時に設置された燕三条駅。一般的な『国鉄時代に建設された新幹線の途中駅』という感じでしょうか。
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さすがにサイン類はJR仕様に更新されていましたが、駅構内は誘導音が鳴り響くだけのちょっと寂しい感じ。
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在来線である弥彦線の改札口は開設当初は有人だったのですが、民営化後に無人化されました。
新幹線は有人で立派な自動改札だけど在来線は無人(もしくは時間限定で有人)で簡素な改札口のみというのは、地方に行くとよくあったりします。同じ駅舎内に改札があるというのも、実は当たり前ではないことが多く、場合によっては一度駅舎の外に出て乗り換えるなんてパターンも…。
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弥彦線の主力はE127系。都市向けのロングシート仕様でワンマン設備を持っていたこともあり、かつては新潟駅を中心に活躍していましたが、えちごトキめき鉄道にほとんどを譲渡したため、中越地域では希少な存在に。所属元の新潟車両センターへの出入りのために越後線を走る以外は基本的に弥彦線を行ったり来たりしています。
ちなみに数年前までは専用の塗装が塗られていた115系が専任されていました。
現在も115系が運用されていますが、基本的にはラッシュ輸送用で、朝夕がメインです。
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※地上駅時代の新潟駅にて 左が通称『弥彦色』の115系。2両でトイレ無しの異色編成でした。
目的の列車まで時間があるため一度燕へ。
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燕市燕地区の中心駅。かつては新潟交通の鉄道路線が伸びてましたが、廃止になり、駅舎跡地は交番(奥の丸い建物)になっています。
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吉田寄りの跨線橋より。右の道路が廃線跡です。地図で見てみると田圃の中まで細長い道が続いており、廃線跡っぽさが残っています。
折り返して東三条駅まで戻り、そこから乗車したのは…。
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数少なくなった115系の最後の花形運用ともいえる信越線快速。信越線内ではえちごトキめき鉄道へ乗り入れる快速絡みで運用が残っており、前日夕方に新潟からえちごトキめき鉄道経由で新井へ→折り返しで直江津に戻り直江津運転センターに入庫→翌朝の快速で長岡へ向かい一旦長岡車両センターに入庫→小休止ののち昼前の快速で新潟へ���というサイクルになっています。
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ちなみに現在新潟にいる115系はすべて長野からの転属組で、新潟地区生え抜きはすべて廃車になっています。
現在は、リバイバルカラーとして複数あった新潟色や弥彦色など、往年の姿を見せているとのこと。しなの鉄道の残存組共々先は短いでしょうから、早いうちに各色収めたいところです。
新潟駅下車後は散策。
まずバスで古町へ。
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新潟市民のソウルフード 新潟タレカツ丼の発祥の店。
とんかつながら濃くない味は新鮮でした。
列は長いながら回転もやや速かった記憶。
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新潟といえば「ドカベン」「あぶさん」で有名な漫画家・水島新司の出身地。
商店街ではこんな感じで、代表作の銅像が建てられています。
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白山神社。旧県社格で、総本山は加賀国一宮こと 白山比咩神社。
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メインは白山大権現ですが、いろいろと合祀した関係で、いろんな神様が祭られています。
ちなみに新潟市内にはほかにも複数白山神社があるとか。
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新潟市役所ではこんな幟も。なぜか釜石のパブリックビューイングで観戦しましたがいい試合でした。
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信濃川のほとりを歩き、白山駅へ。
ちなみに新潟と新発田を結ぶ白新線の「白」はこの白山からとったもので、現在の新潟市役所が旧県庁というからも分かるように、本来は白山周辺が中心でした。
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新潟に移動。2番線がめっちゃ狭い。はよ本格開業して。
新潟からは新幹線で東京へ。
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駅舎が大規模改装されている中、ちょっと昔の面影を残す新幹線ホーム。屋根の形が『雪国』って感じです。
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実は2021年3月の改正でしれっと消えたE4系16両の全線通し。座席数の暴力。
そろそろ消えるしということで、長岡~大宮ノンストップの速達型をチョイスしたのですが、これがいろいろな意味で乗り納めになるとは思わなんだ。
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Maxは今年10月で引退することが発表されています。
新幹線ラッシュ輸送の申し子と呼ばれたオール2階建て車両も、気が付けば四半世紀近く走っていました。
「平成」がまた一つ表舞台から去りますね。
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東京で隣の乗り場にいた新旧こまちの並び。すでにE3系は秋田新幹線には入れませんが、本線ではこうした並びも見られました。
こちらも昨秋に定期運用から外され、今はどうなっているのか…。
ちなみにこいつには東北に異動してからしばらくはお世話になりました。(
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AIさくらさんはいいぞ
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ラストは弁当買い込んでひかりに飛び乗り、帰路に着きました。
しれっとイレギュラー停車駅。
この後新潟はあと2回行くのですが、それはまた今度。
えちごトキめき鉄道で国鉄急行色が復活したとのことですので、それも早いとこ乗りに行きたいところです。
ちなみに上越から東海道に乗り継ぐ間の時間でアキバに行っていたのですが、何を見に行ったかというと…。
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\アズールレーン!!!!!/
レパルスちゃんはいいぞ ボルチモアちゃんもいいぞ 今度はアイマスとコラボするらしいぞ
…2周年イベをやっていたそうです。着いたころには撤収間際でしたが。
それでは
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generalwonderlandpeace · 11 months ago
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健太郎居候現在限定の無い中型自動車第一種運転免許証ございます。普通二種MT・中型二種限定無し・大型二種限定無し運転免許証取得するからには中型一種限定無し運転免許証を最低3年無事故無違反徹底して行動していなければ第二種運転免許証取得出来ない為、うろたえて居られなくなります。深田恭子・真喜志智子・美山加恋・三倉未来・吉野紗香・内田莉紗・熊田美香・橋本明日香だって実際に普通二種MT運転免許証取得されてますから、健太郎居候自衛隊採用試験不合格やら人工大理石加工兼マンション向けシステムキッチン製作全般に従事していたとしても会社都合並びに製品受注者減少による人員削減受けられ一方的に退職されていたのは理解して参ると確信致します。
Nack-5ジングル『No.1HotStation,Nack-5.』となってますので、健太郎居候雰囲気変えて行動しなければならないのと、結婚授かりもの両方出来なくては継父継母入れ墨/首吊り/金属バット/デッキブラシ/ボディーブロー/ビンタ/膝蹴り/つま先蹴り/平手打ち/フルボッコ/吐血へ至らせるほどのケンカ/ぶん殴りに依る体罰を覚悟しなければなりません。
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short-span-call · 4 years ago
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#044 ボーイ
 日本国千葉県市川市塩浜二丁目にある市川塩浜というなにもかもが中途半端な駅の安っぽいベンチに、その男の子は座っていた。毎日いた。毎晩いた。日がな一日そこにいた。あるときは、菓子パンを頬張っていた。あるときは、ペットボトルを握っていた。あるときは、電車のドアが閉まるタイミングに合わせてフエラムネを鳴らしていた。あるときは、ぶんぶんゴマを回転させていた。どこで湯を調達したのか、カップヌードルに蓋をして、三分、じっと待っていることもあった。だいたいは小ぶりのリュックサックを背負っていたが、コンビニのビニール袋だけを持っているときもあった。紙袋を横に置いているときもあった。いつも、何も持っていないような顔をして、そこにいた。  市川塩浜駅の利用客は、周辺の工場や倉庫に努めている会社員や契約社員やアルバイトがほとんどだった。あとは、周辺の工場や倉庫に視察にきた本社の人間。男の子はそのことを知らない。なんだかみんな、一様に、具合の悪そうな顔で電車から出てくるな。男の子はそう思っていた。  ごくまれに、駅のホームで電車を待っている人が、男の子に話しかけてきた。ぼく、どうしたの? 学校は? お母さんは? 話しかけてくる人は、なぜかほとんどが女性だった。小さなツヤツヤしたバックを肩から下げ、パンプスかヒールを履いているような。視察の人間。男の子はそのたび、相手をじっと見つめ、意味ありげなジェスチャーと、意味ありげな口パクをした。自分の耳の辺りを指したり、言葉にならないうめきのような声をかすかに出した。そうすると、だいたいの人は黙り込んだ。困った顔もした。そしてそのあと、大抵の人が慌てた様子でカバンから紙とペンを、あるいはスマホを取り出した。男の子はそれを受け取り、毎回、こう書いた。 「ひとを まっています だいじょうぶです ありがとう さよなら」  相手は安心と困惑とバツの悪さが入り混じった顔をして、手を降って男の子から離れる。だいたいそんな感じだった。  男の子は考える。どうして話しかけてくるとき、最初にぼくが付くんだろう。なんだか、名前みたいだ。マイネームイズボク。男の子は不思議だった。僕はただここにいるだけなのに、話しかけてくる人は、どうしてみんな学校のことや親のこと(それも、なぜか必ず、お父さんじゃなくて、お母さんのこと)を聞いてくるんだろう。どうしたの? と言われても、答えようがなかった。そっちこそ、どうしたの? と、逆に聞いてみたかった。みんな、どういう答えを求めているのだろう。  男の子はその日、小さな巾着袋を持っていた。中にはパインアメが袋いっぱいに詰まっていた。男の子はパインアメを舐める。眼からじわじわと湧き出る涙で、男の子はこの駅にも春がやってきたことを知った。男の子は、花粉症だった。 「最近悪夢ばっか」  男の子のとなりに男が座っていた。男の子は男がしゃべりだすまで、男が近づいてきたことにも、となりに座ったことにも気がつかなかった。男の子は横目で電車の発着を告げる電光掲示板を見て、自分がほんの少しの間、眠っていたことを知った。 「この前見たのは、嵐の二宮とピアノコンサートをする夢。ステージ上にヤマハのグランドピアノが二台置い��あって、客席から見て俺は右、ニノは左のピアノの前に座って、演奏したんだ。俺はその楽譜を、そのとき初めて見た。知らない曲だった。当然、弾けない。それでも俺は頑張った。でもダメだった。コンサートは大失敗だった。俺は曲の途中でステージ上から逃げ出して、ペットショップで犬用のトイレを買った。それからあとは、覚えていない」  男は、男の子の方を見ながら、オーバーな表情と身振りで話し続けた。 「そのさらに前は、映画を撮る夢を見た。俺は寂れた小学校みたいなところで寝泊まりしていて、隣の部屋で寝泊まりしていたカメラマンみたいな奴にカメラを渡されるんだ。で、こう言われる。『俺の代わりに映画を撮ってくれないか』俺はカメラを渡される。録画機能のない、古いタイプのデジタル一眼レフカメラだった。俺は写真を撮りまくった。写真を撮るっていう行為が、つまりは映画を撮るってことだった。それから色々あって、俺は幼なじみと二人で、サバンナみたいな場所を、大量のチューバを担いで、幼なじみは引きずって、歩いていた。それからあとは、やっぱり覚えていない」  男は缶コーヒーを持っていた。プルトップは開いていない。熱くてまだ飲めないのだ。男は、猫舌だった。 「昨日は、ヤクザになった友達から逃げ続ける夢を見た」  男は、あらかじめ決められていたかのように背中を曲げて、男の子の顔をのぞきこんだ 「なあどう思う?」  男の子は男の方を向き、あらかじめ決められているジェスチャーと口パクをした。耳の辺りを人差し指でトントンと叩き、うめき声をあげた。男は眼を少しだけ見開いて、笑いを堪えるように口を尖らせた。それから、缶コーヒーのプルトップを開けて恐る恐るコーヒーを口に入れた。 「ふうん」  缶コーヒーの中身は男の舌でも味が���かるくらいぬるくなっていた。男は缶コーヒーを、今度はさっきより勢いをつけて飲み、男の子の耳元に顔を寄せた。 「つくば山に、喰いつくばあさん」  男はささやいてから、吹き出すのをこらえるような顔をして、缶コーヒーに口をつけた。男の子はそれが、駄洒落だということに遅れて気づく。男の子の脳裏に、つくば山を食い荒らす巨大な婆さんの画が浮かんだ。男の子は、自分の顔が歪むのをなんとか堪えた。 「あの、人を、待ってるから」  男の子は、口を開いた。なんだかもう、嘘をついてもどうしようもないような気がした。 「係長がさあ」男は男の子の言葉を無視して言った。 「係長が、俺に言うんだよ。『社員にならないか』って。冗談じゃねえって話だよな。部長だか支店長だか知らないけど、とにかく係長より偉いおっちゃんもそれに賛成しているふうでさ。たまったもんじゃないよな」  男は缶コーヒーを飲み干した。 「どうしたもんかしらね。やんなっちゃう」  男は立ち上がり、缶コーヒーをホームの白線の上に置いて、助走をつけて思い切り蹴飛ばした。缶コーヒーは向かいのホームの壁に当たり、地面に落ちてころころと転がった。向かいのホームにも、男の子と男がいるホームにも、男の子と男以外に人はいなかった。向かいのホームの電光掲示板とスピーカーが、電車がまもなく到着することを簡潔に伝えていた。 「みんなさ、忘れてるんだよ。俺、ちゃんと言ったんだよ。面接のときに『半年で辞めます』って、ちゃんと。忘れてるんだよな。半年。頑張ってると思うわ」  男はジーパンの尻ポケットからぱんぱんに膨らんだ長財布を取り出した。 「なんか飲む?」 「いらない」 「あ、そう」男は立ち上がり、自販機に向かった。「てか耳、聴こえてんじゃん」  男はさっきと同じ銘柄の缶コーヒーを買って、男の子のとなりに戻ってきた。男は男の子に爽健美茶のペットボトルを渡した。男の子は、それを左手で受け取った。  向かいのホームに電車が止まり、しばらくして、また動き出した。電車に乗る人も、降りる人もいなかった。男は缶コーヒーを右手から左手に、左手から右手に、何度も持ち替えながら、缶コーヒーが冷めるのを待っていた。最初からつめた〜いの方を押せばいいのに、男はそうしなかった。男は、ぬるい缶コーヒーが好きだった。 「どうしたもんかしらね……。やんなっちゃう」  男の子は、それが男の口癖なのだと知った。 「だから、なーんか今日、起きたときから行く気、しなくって。こんなところにいるわ」  男はジーパンのポケットからiPhoneを取り出し、男の子に見せた。 「ほらこれ、係長、しつこいんだから」  男はiPhoneを男の子のほうに向けながら、指で画面を下にスライドさせた。 「こんなに。連絡しない俺も俺だけど。どんな病気がいいかなあ。風邪って言えばじゅうぶんかな? どういう咳ならそれっぽいかな?」 「なんの仕事」 「いつの時代も、流行り病は仮病だよ。係長、困っちゃってんだよ。俺がいないと仕事、回んないから。大幅にペースダウンよ。結局、ペースダウンするだけよ。代わりなんていくらでもいるって。やんなっちゃう。いいんだけど」男は言った。「仕事? 倉庫だよ倉庫」 「どこの倉庫」男の子は言った。 「どこだっていいよ」男は言った。「あっちのほう。海の近く」 「海沿いなのに潮の匂いがしないって、やんなっちゃうよな。この駅もそうだよ。もっと漂ってきてもいいだろって。いいけどさ。山派だし」 「耳が悪いのは、ほんとだよ」男の子は言った。 「仮病?」男は缶コーヒーを振った。缶コーヒーは、着々と温度が下がってきていた。 「ちがう」 「いやでも、あの演技はなかなか。将来有望なんじゃないの」 「ちがう」男の子は言った。「きいて」 「やなこった」男は缶コーヒーのプルトップを開けた。「さっきの駄洒落、最高じゃない?」 「もっといいの、知ってる」 「ほーん」男は恐る恐るコーヒーを口に入れた。「言ってみ」 「ブラジル人のミラクルビラ配り」 「それは早口言葉だ」男は言った。「ブラジル人のミラクルビラ配り! しかも、あんまり難しく、ない!」 「おやすみなさいを言いに行くと、ママ、いつも戦争してる」  男の子と男がいるホームの電光掲示板とスピーカーが、電車がまもなく到着することを簡潔に伝えていた。その電車は、東京まで行くらしかった。男の子は、眼をこすった。主に眼にくるタイプの花粉症だった。 「去年の大晦日はひどかったな。普段は五、六個の駅も二〇とか三〇だし、舞浜なんてただでさえいつも出荷数が断トツで多いのに、一五八だぜ。一五八。やんなっちゃったよ。ほんと。シールの束がこんな量、あんの。あれは戦争だった」男は缶コーヒーをぐびぐび飲んだ。 「それで、だんだん、耳がおかしくなった」男の子は言った。「戦争って、うるさいから」 「俺も俺の周りのバイトもひーこら言いながらカゴにひたすらダンボール積んだよ。いや、言ってないけど。実際は黙々としてたよ。静かなもんだったよ。うるさいのは係長とそのとりまきの契約社員どもだけ」  男の子と男がいるホームに電車が止まり、しばらくして、また動き出した。電車に乗る人も、降りる人もいなかった。電車は二〇分ほどで東京に着く。東京駅には、電車に乗る人も、降りる人も、たくさんいた。 「今思えばあれはバケツリレーみたいだった。あんまり数が多いもんだから、みんなカゴ持っておんなじ場所に集まっちゃうんだよ。とてつもない流れ作業で、なんとか普段通りの時間に帰ることができたけど。でももう、無理だね」男はタバコが吸いたかった。「無理だね、もう」  男の子は、巾着袋からパインアメを取り出し、口に入れた。 「あ、ずる」男は言った。「ちょうだい」  男の子は、男にパインアメを一つあげた。  男は、それを口に入れた。  パインアメが溶けてなくなるまで、男の子と男はほとんど口を開かなかった。男の子と男は、それぞれ違うものを見つめていた。男の子は向かいのホームに転がっている缶コーヒーを、男は男の子のうなじを見つめていた。男の子の髪は陽を浴びて、輪っか状に光っていた。天使の輪っか、と男は思い、そんなことを考えてしまう自分が気持ち悪いとも思った。駅のホームには男の子と男以外誰もいなかった。男の子と男以外、みんなみんな、工場で、倉庫で、コンビニで、それぞれの場所で働いていた。係長はいつものように奇声を発しながら嬉しそうにフォークリフトでパレットを移動させている。バイトや契約社員はカゴ台車で、あるいはローリフトにパレットを挿して、駅構内の売店へ出荷するための飲料水が詰まったダンボールを駅別の仕分けシールを見ながらどんどん積み上げている。シールの束を口に加えて全速力で倉庫の中を端から端まで走り抜けている。そのことを男は知っていた。男の子は知らない。  男の子と男がいるホームを快速列車が通過したとき、男の子と男の口からパインアメはなくなっていた。男は空になった缶コーヒーを両手でもてあそんでいた。男の子は右手で両眼の涙を拭った。男は、花粉症ではなかった。 「将来の夢は?」男は言った。缶コーヒーをマイクに見立て、男の子の前に差し出す。 「ふつう」 「ふつう、て」男は缶コーヒーを下げた。「どうしたもんかしらね」 「たのしいよ」 「うそつけ。ママの戦争でも終わらせてから言いな」  男は立ち上がり、伸びをした。 「んーあ」 「ママ、神様が死んじゃったことに気づいちゃった」 「へえーえ」あくび混じりの声で男は言った。「そいつはすげー。もはやママが神様なんじゃないの」 「ある意味、そう」男の子はパインアメを舐め始めた。「ママ、なんでもできるよ」 「ある意味?」男はまたベンチに座った。 「うん。……うん」  男の子は、神様が死んだときのことを思い出していた。つい最近のことだ。男の子が家に帰ると、神様はリビングのホットカーペットの上で、あお向けの状態で小刻みに震えていた。男の子は震える神様を両手でうやうやしくすくいとり、テーブルの上にティッシュを二枚重ねて、その上に神様をそっと寝かせた。朱色だった身体は見る間に灰色に変わっていき、柔らかな尾ひれは押し花のようにしわしわに乾燥していった。男の子は神様の前で手を合わせ、しばらく眼を閉じてから、ティッシュで神様をくるんで持ち上げ、近所の公園の隅に小さな穴を掘って埋葬した。線香が無かったので、台所の引き出しから煙草を一本抜き出し、それに火をつけて、埋めたばかりでまだ柔らかい土にそっと差し込んだ。男の子は、もう一度神様に手を合わせた。 「僕が勝手に埋葬したから、怒ってるんだと思う」  向かいのホームに箒とちりとりを持った駅員がやってきて、掃除を始めた。男と男の子は、それを黙って見つめていた。ここからでは何かが落ちているようにも、汚れがあるようにも見えないけれど、きっといろんなものが落ちているのだろう。男は思った。駅員はこっちのホームにも来るのだろうか。何かが落ちているようには見えないけれど、きっとやって来るのだろう。駅員は階段のそばの点字ブロック付近を執拗に箒でなぞるように掃いていた。  男は、自分がまだ男の子だったころのことを思い出していた。朝が苦手で、ドッチボールと給食の牛乳が好きで、放課後はランドセルを武器にして誰かとしょっちゅう戦っていた。まあだいたい、今とさして変わんないな。男は兄のことを思い出した。 「兄妹は?」男はもう一度缶コーヒーを男の子の前に差し出した。 「いない」男の子は言った。 「一人っ子ぉ〜」男は言った。「ま、俺もそんな感じだけど」  男がまだランドセルで戦っていたころ、男の兄は家からいなくなった。車の免許を取ったあと、親の財布から抜き出したお金を使って北海道まで飛び、ネットで知り合った人の家や車を転々としながら徐々に南下し、今は沖縄本島の小さな民宿で、観光客に広東語やフランス語を教えてもらったりしながら住み込みで働いている。お金が無くなったら自殺するつもりで家を出たんだ。一年ほど前、カメラ通話で外国人みたいな肌の色をした兄が笑ってそう言うのを、男は白けた気分で聞いていた。 「行かなくていいの」男の子はパインアメを舌で転がしながら言った。 「ん? 何?」缶コーヒーが男の子の前に差し出された。「仕事?」 「そう」 「何をいまさら」男はふふんと笑う。「そのセリフ、そっくりそのままお前にお返しするわ」 「僕は人を待っているから」 「いつまで?」 「いつまでも」 「そうですか」男は缶コーヒーをベンチの下に置いた。「やんなっちゃう」 「帰らないの」 「帰ってもいいよ。でも」男はベンチの上であぐらをかいた。「でもお前が待ってた人って、実は俺のことなんじゃないの」 「……」 「あ、それ、わかるよ。絶句、ってやつだ」男は男の子を指さして笑った。 「人を待っているから」男の子は繰り返した。溶けて薄くなったパインアメを歯でガリガリと砕く音が、男の子の耳にだけ響いた。 「ああ、ほらこれ、係長からラブコール」男は震え続けているiPhoneを取り出し、男の子に見せた。「係長も、どうやら人を待ってるらしい」  やがてiPhoneの震えは止まり、男はiPhoneをジーパンの尻ポケットに押しこむようにしまった。  男と男の子は、喋りながらまったく別々のことを考え続けていた。男は兄と、兄がいたころの自分を。男の子は、神様について。思い出し、考えていた。ほんとうはどうするべきだったのか。何か間違ったことをしたのだろうか。何か決定的な間違いをおかしてしまったのだろうか。男と男の子は、それぞれが何を思って、考えているのかを知らない。ふたりは知らない。  ふたりのホームに鳩がやってきて、数歩ごとにアスファルトをついばみながらベンチの前を横切った。鳩の片足には短いビニール紐のようなものが絡まっていて、鳩が歩くたびにカサカサと微かに音が鳴った。 「帰ろうかなあ」男は男の子の左手にある未開封の爽健美茶のペットボトルを見た。「次の電車で帰るわ」 「これ」男の子は爽健美茶を男の鼻先に掲げた。「いらない」 「パパにでもあげな」男は言った。「最後の質問。お名前は?」 「ボク」 「は」気だるそうに立ち上がりながら男は短く笑った。「ママの戦争が終わるといいね」 「待ってる人が来れば、終わるよ」 「うそ。お前次第だろ」男は腰に手を当てて線路を見た。腰の形に沿ってシワができたTシャツを見て、この人ちゃんと食べているんだろうか、と男の子は思った。 「あーあ、俺も行きてえ〜、南の島」  男はあくびを噛み殺しながら、線路を見つめ続けていた。
 ○
 男の子は、日が暮れて夜になっても、市川塩浜駅のホームのベンチにずっと座っていた。帰宅ラッシュでホームが人で溢れ、ベンチがすべて埋まっても、男の子は座ったままだった。ラッシュも終わり、駅のホームがふたたび廃墟のような寂れた静けさを取り戻したころ、男の子は立ち上がった。巾着袋をベンチに置き、ベンチの下にある缶コーヒーを拾ってゴミ箱へ捨てた。左手に爽健美茶のペットボトルを、右手に巾着袋を持って、男の子は二三時五六分発の東所沢行きに乗った。  人の少ない電車の中で、男の子は少しだけ眠り、少しだけ夢を見た。夢の中で、男の子は大学生だった。数人の友人と数人の先輩に囲まれて、お酒を飲んだり煙草を吸ったり、笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだり、走ったりうずくまったりしていた。それは夢にしてはあまりにもありふれた、だけどどこか切実な、現実の延長線上にあるような夢だった。  目が覚めた男の子は、停車駅の看板を見てまだ電車が二駅分しか移動していないことを知る。男の子は夢を見たことすら覚えていなかった。男の子は発車ベルを聞きながら、眠っている間に床に落ちてしまった爽健美茶を拾った。  男の子は想像する。駅のホームを行き来する電車のこと、その電車に乗る人のこと、駅員のこと、そして今この電車に乗っている人のこと。みんなの家のことを。その神様のことを。そして自分の家を思う。新しい神様を見つけないといけないのかもしれない。母親を戦場から引っ張り出すには、それしかない気がした。男の子は頭を窓にくっつけて、眼を閉じた。今度は、夢を見なかった。
 ○
 男の兄は、何かと繊細なやつだった。人混みや集団行動が苦手で、電車に乗ったり、ひどい時は家から外に出ただけで歩き出せなくなるほどだった。ネット上には大勢の友人がいた。変なところが凝り性で、パソコンのマインスイーパーやタイピングゲーム、パズルゲームをひたすらやりこんでいた。肉が駄目で、馬のように草ばかり食べていた。首筋と腕の関節部分にアトピーのような肌荒れがあり、四六時中かきむしってフケのような皮膚のかけらをあたりにばらまいていた。男が兄について知っていることは、それくらいだった。  男はアパートに帰ってから、敷きっぱなしの布団の上でしばらくボーッとしていた。係長はもう、男に電話をかけてこなかった。誰も男に電話をかけてこなかった。それでいいと男は思った。 「ブラジル人のミラクルビラ配り」  男はあお向けに寝転び、眼を閉じて呪文のように何度もつぶやいた。簡単すぎるな、そう思った。つぶやき続けているうちに男の口はしだいに動かなくなり、静かに息を吐いて、眠りはじめた。  日付が変わる少し前、男は起き上がった。頭をかきながらしばらく時計と窓を交互に見つめ、水を飲み、トイレに行ったあと、兄に電話をかけた。自分から兄に電話をかけるのは初めてだな、と男は電話のコール音が鳴ってから気づいた。 「おお」 「よお」 「もしもし?」 「うん。もしもし」 「急にどうしたの。めずらしい」兄の声は穏やかだった。 「沖縄は今、何℃だ」 「えっと……えーっとね」兄の声がくぐもって聞こえる。iPhoneを顔から離して、天気情報を見ているのだろう。「22℃っす〜」 「元気か」 「まあ元気」 「焼けてんのか」 「そりゃもう。こんがり」 「野菜ちゃんと食ってんのか」 「それ俺に言う?」 「もう死なんのか」 「そうだね」兄は間髪入れずにそう言った。「まあなんとか、生きてみようと思ってるよ。今んとこ」 「つまんね」 「なんだそれ」兄は笑った。「そっちはどう?」 「何が」 「元気か」今度は兄がインタビュアーだ。 「ノーコメント」 「家賃とかちゃんと払ってんのか」 「ノーコメント」 「野菜ちゃんと食ってんのか」 「ノーコメント」 「話にならねー」兄はまた笑った。「両親は元気か」 「しらん」男は間髪入れずにそう言った。「知ってたとしても、お前には教えないね」 「そりゃそうか。ま、いいや。とりあえず生きてるでしょ、たぶん」  男と兄はしばらく黙った。通話口からは、よくわからない言葉で笑い合う人の声が聞こえた。沖縄語も外国語も、同じようなもんだな。そして兄の言葉も。男の部屋は、静かだった。隣の部屋の生活音も聞こえない。 「電話出て大丈夫だったのか」 「いまさら。大丈夫。宿泊客と酒盛りしてただけだから」 「タノシソウデナニヨリデスネ」 「なんだよ。もしかして酔ってる?」 「ノーコメント」 「めんどくさいなー」笑いながら兄は言った。 「来週の日曜日、ヒマか」 「ヒマかどうかはわかんないけど、まあ、この島にはいるよ」 「そうか」 「何?」 「俺、お前んとこ、行くよ」 「あ、ほんとに?」 「お前をぶっ殺しに行くわ」 「わ、殺害予告」 「通報でもなんでもすりゃいいよ」 「しないよ。ワターシノアイスルブラーザーデスカラ」 「つくづくお前はつまんねえ」 「知ってるよ、そんなこと」 「逃げるなよ」 「逃げないよ」兄の声は優しかった。兄が家にいたとき、こんな声で話したことがあっただろうか。男は思い出せなかった。「まあ、おいでよ。待ってるよ」 「ファック」  男は電話を切り、電源も切ってからiPhoneを放り投げた。男は本気だった。部屋を出て、コンビニへ行き、ATMで残高を確認した男は、これから自分がやるべきことを考えながら、昼間と同じ缶コーヒーを買った。まずは、包丁。
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 男の子がグランハイツ東所沢の四〇五号室の玄関扉を開けたのは、日付が変わってからおよそ一時間半後のことだった。男の子はリビングのテーブルの前に爽健美茶のペットボトルを置いた。床に散らばっていた不動産のチラシを一枚手に取り、テーブルの上に無造作に転がっていた赤ボールペンでチラシの裏に大きく「パパへ」と書いて、爽健美茶のペットボトルの下に挟んだ。  男の子はキッチンでお茶碗に炊きたてのご飯をよそい、フライパンの中からサンマの照り焼きを小皿によそい、リビングのテーブルの上にそれらを置いて、立ったまま食べた。男の子は、少食だった。それから男の子はお茶碗と小皿を簡単に洗い、自分の部屋から着替えを取って風呂に入った。男の子は、風呂が嫌いだった。浴槽に浸からずシャワーだけ浴び、男の子は風呂を出た。それから洗面台の前で入念に歯を磨き、綿棒二本と竹の耳かきで両耳を入念に掃除した。男の子は、きれい好きだった。それから男の子は、風呂場と洗面台と、リビングとキッチンの電気を消し、玄関へと続く狭い廊下の途中にある白い扉の前に立った。部屋の中からは、銃撃、爆撃、悲鳴、ファンファーレなどの音が絶えずとてつもない大きさで聴こえていた。男の子は、扉をノックした。それから、返事を待たずに扉を開けた。男の子は部屋の中に入る。 「おやすみなさい」  男の子は、この言葉が好きだ。
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monqu1y · 5 years ago
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索引
 
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高校生が描いた夢の施設Homedoorが作る、ホームレス状態脱出の仕組み  ICC サミット FUKUOKA 2019に登壇する企業のひとつ、Homedoorは、大阪市北区を拠点にホームレスの人たちへの生活支援を続けています。14歳の頃からホームレス問題に関心を抱き、川口加奈さんが2018年に設立した施設「アンドセンター」を、今回ICCサミット運営チームメンバーとともに初訪問。活動の内容と、実際に施設に暮らし、再出発を目指す方にお話をうかがいました。  ICC サミット FUKUOKA 2019のカタパルト・グランプリで登壇する川口加奈さんが、19歳で設立した Homedoor は、今年で9年を迎える。  誕生から現在までの道のりは、ぜひ当日のプレゼンテーションやホームページをご覧いただきたいが、大阪市北区を拠点とし、「ホームレス状態を生み出さない日本の社会構造をつくる��をビジョンに、ホームレスの人や生活困窮者への就労支援、生活支援を行っている。  2018年は、ホームレス状態で危険な生活を続ける人たちが駆け込める「アンドセンター」を設立した。この宿泊機能を備えた、ホームレス状態からの脱出をサポートする施設は、14歳の頃からホームレス問題に関心を抱いていた川口さんが高校3年生のときに描いた絵が基になっている。   ICCパートナーズ と運営スタッフメンバーは、「アンドセンター」を訪問し、川口さんや実際に住んでいる方にお話を伺った。 川口さんが高校3年生のときに描いた、夢の施設の間取り図  
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「アンドセンター」の外観
 大阪市北区の「アンドセンター」入り口から入ると、冷蔵庫、キッチン付きのリビングルームのようなスペースが広がる。川口さんは、ホームレスの人たちを親しみを込めて”おっちゃんたち”と呼ぶが、おっちゃんたちが訪れて、食事をしたり、交流したり、ゲームを楽しんだりすることができる場所だ。訪問したときには、インターネットをしていたり、お湯をもらいにきたおっちゃんがいた。  
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正面ドアから入ったところ。温かいお湯やお茶、軽食が用意されている  「ここでは、ごはんを作って食べてもらえます。今日はおっちゃんが鴨そばを作っていましたね。食品は企業から賞味期限が迫ったものをいただいたり、一般の方からご寄付でいただいたりしています」  奥にはこじんまりとしたキッチンがあり、さまざまな備品が部屋を囲むように収納されている。生活感のあふれる食卓テーブルのある空間は、この時期、寒い外から入ってくると、温かく感じられる。  川口さん「ずっと施設を作りたいという目標があり、土地を探していました。2年前にこの物件は一度空いたのですが、そのときは私たちも準備ができていませんでした。それに一度、住居提供をトライアルしてみて、本当に宿泊施設が必要かどうか試したかったのです。  それでやっぱり住居提供が必要だと判明し、物件を探していたのですが、2年前に見たこの物件以上のものがなく、悔しがっていたところ、昨年(2018年)の2月にまたここが空いたので、逃すまいと思いました。  一般的にNPOはこういう場合に助成金を取るのですが、間に合わず自費です。1970年に建てられたビルなので暖房が古く、使い物にならないので改めて設置しています。完備できた部屋から入居していただいています。  現在、年間で300名ほど新規で、路上で生活している方をはじめとする生活にお困りの方々からご相談いただいています。今日も1人入居して、3人が次のステップにと退去されました。部屋は多めに用意しているので、待機が生じることは今の��ころありません」  
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衣類や防寒具、救急箱や食品の備蓄など  この建物は5階建て。隣の敷地と合わせて借りた家賃は月100万円だ。以前は韓国人留学生用の寮で、全室が同じタイミングで空いたため、一般のアパートよりも借りやすかったという。1階と2階の共有スペースはリフォームし、個室は短期利用が5室、長期利用が15室用意されている。ベッドや布団は一般の人からの寄付によるものなので、各部屋ばらばらだ。  
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現在空室のある3階。階段の奥に��共同利用の洗濯機がある  うかがったときは10室に入居者がいて、そのうち長期利用している方が半数。長期利用については、その人の収入に合わせて家賃をもらっているという。その一人、4階に住む吉岡さんの部屋を見せていただいた。 長期利用者に聞く  
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お話をうかがった吉岡さん  吉岡さんが住んでいる部屋は、4.5畳程度の居住スペースに、シングルベッド、小さな棚、テレビ、冷暖房にユニットバスがついている。整頓された部屋からは、几帳面に暮らしている様子が伝わってくる。  吉岡さん「ここに来るまでは西成のドヤ(簡易宿泊所)にいました。1泊1,000円でしたが、暖房もなく、お風呂も別だったのですが、ここは暖房、ユニットバス付き。居心地は最高です」  吉岡さんは西成からHomedoorまで往復540円かけて通い、自転車の啓発員として働いていた。そのうち上に住んでもらうのはどうかということになり、2018年9月から長期利用第一号として住み始めて半年近くになる。  吉岡さん「ぶっちゃけの話、西成のドヤにはおりとうなかった。  1000円はそんなに高くなかったから、金だけのことを考えたらいいけど、環境がよくない。隣がやかましいし、部屋はこれより狭く、汚い。あげていったらきりがない。  啓発員としての仕事は、自転車が道路にはみ出ていたら、通行人の邪魔にならないよう片付けたり、不法駐輪があったら警告の紙を貼ったりします」  
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個室にはユニットバスや石鹸類が備えられ、すぐ生活をスタートできる  吉岡さんは72歳。岡山県出身で、技術系のサラリーマンを3年、パチンコ店勤務を10年などずっと働いてきた。最後の10年は住宅リフォームの営業マンとして勤務し、最終的に支店長を務めた。家族もいたが、現在は一人。ホームレスになってもうすぐ2年になる。  Homedoorを知ったのは、川口さんたちが行っている夜回りでチラシを見たことから。夜回りは冬の間は毎月2回、ボランティア、Homedoorのスタッフ、元ホームレスの人など約20人で4つのルートを回る。路上に暮らしている人に声をかけ、お弁当と、路上からでも仕事があることを知らせるチラシを渡す。  
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冬は毎月2回、お弁当や寝袋を持って夜回りを行っている  吉岡さんは、お弁当をもらった翌日にHomedoorを訪れた。その頃、路上で生活するようになって1ヵ月ほどたっていた。吉岡さんのいた梅田は、大阪市で2番めにホームレスが多いが、とくになりたての人が多く、そういう人たちに訴求したいと川口さんたちは夜回りしている。  吉岡さん「私はまだ短いけれど、もう10年近く無職で路上生活の人もいる。なかにはもう自分はいい、普通の世界の人と関わりを持たないといって、声をかけても逃げていく人も多い。そういう人は心を開くのは難しい。  西成のドヤには半年いたけれど、隣の部屋のおっちゃんとは交流が一切なかった。お互い避けるというか、挨拶すらない。ほかの階の人の顔もようわかりません。  三畳一間の汚いところで、生活保護をもらいながら生活するだけです。仕事もやることもないから、結局飲むか、ギャンブルに行くしか楽しみがなくなります。生活の向上自体が絶対ありえない」  路上のコミュニティのほうが実際仲がよかったりするそうで、一旦生活保護を利用してドヤに入っても、孤独を理由に半分ぐらいがホームレスに戻るそうだ。  「アンドセンター」では、忘年会、餅つき、節分など季節のイベントが企画され、再出発を目指す利用者たちの間で交流がある。吉岡さんも、30代や50代の入居者と仲がいいそうで、夜回りのお弁当を作ってくれるおっちゃんに、一緒にごはんを作ってもらって食べることもあるという。  吉岡さん「なんとか、2月いっぱいには出られるようにします! もう年ですから、これからはなんとか年金内でやっていこうと思います」  
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2階にある入居者たちが共有するキッチン&冷蔵庫  快適に暮らすことができ、交流もある。すると、この場所から出たくないとはならないのだろうか?  川口さん「一応最初に2週間が期限だと決めるのと、相談員が何度も面談を重ねていって次の進路を見つけていくことになるので、あまり出たくないということはないですね。むしろ、早まったりする人のほうが多いです。  ただ職員が5名と少ないので、キャパ的にも年間300人が精いっぱい。もう少し体制が整ってきたら、宿泊数がもっと増えるのではと思っています。  出戻りはまだないですが、一度うちで働いて次で働いたけどうまくいかず、戻りたいという人はいます。プライドもあると思いますが、気にせず戻っておいでよということにしています」 6つのチャレンジでよりよい支援を目指す  
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施設を一通り見学したあと、Homedoorの取り組みをさらに詳しく伺うことにした。現在は5割がネット検索、3割が夜回り、2割が口コミでHomedoorの存在を知り、ドアを叩く。  川口さん「私たちは6つのチャレンジと読んでいますが、ホームレス支援を6段階に分けていて、毎年アップデートしています。  よりよい形を模索して、ゆくゆくは行政に制度として取り入れてもらうようになる支援のあり方を考えていきたい。  1つ目のチャレンジは『届ける』。  存在を知ってもらうために、従来は夜回りを行っていました。昨年度の新しい取り組みとしては、電通さんと新しいキャッチコピーを考えていただいています。  電通でコピーライターとして活躍されている並河 進さんたちが手がける、人工知能の コピーライターAICO というのがあります。AIは人の仕事を奪うといわれがちですが、その逆はできないだろうかというコンセプトで一緒に考えてくださっています。  ネット検索のリスティング広告や、ネットカフェにポスターやバナー広告を掲示いただいたり、イートインスペースのあるコンビニに地道に営業に行ったりしています。  
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いろいろな質問に答えてくれた川口さん(写真右)  2つ目のチャレンジは『選択肢を広げる』。  Homedoorに来てくれれば、路上生活を脱出できるいろいろな選択肢があります。さきほどの吉岡さんのように、ここに住まれながらお金をためて次の家を探すとか、生活保護を利用するとか、年金を受けられるように住民票を設定するなど、その人に応じた選択肢を提供します。  最近は、女性や親子での相談者もおられました。  昨年は289名が新規で相談に来てくださって、平均44.6歳。女性が全体相談者の11%ぐらいです。  ちなみに厚労省が出しているホームレスの人の平均年齢は、61.5歳です。日本だとホームレスの定義にネットカフェ難民、24時間のファストフード店で夜を明かす人などは含まれていません。  ▶ ホームレスの実態に関する全国調査(生活実態調査):結果の概要 平成28年 – 厚生労働省  私たちはそういうところにアプローチしているので若くなっています。諸外国と比べると、日本のホームレスの定義は狭く、路上で寝泊まりしているのを確認されないと、そう認定されないのです。  行政がテントを撤去しているので、わかりづらくもなっています。それで余計支援の手が届かなくなるというのがあります」 HUBchariなど4種類の仕事を提供  取り組みの幅の広さと、問題の深さに驚かされる。川口さんの説明は続く。  川口さん「3つ目は『暮らしを支える』。生活の形を整えていくということで、イベントを実施しています。衣服や食事、シャワーの提供をやっています。  人気なのがカットモデルの生活支援。近くの理容師の専門学校にご協力いただいて、専門学校生のカットモデルになってもらい、モデル料ももらえるので人気です。  
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カットモデル募集の告知などが1階の冷蔵庫に貼られている  相談には来ていないけど、カットモデルには行きたいとか、シャワーは使いたいとか、そういうことでうちを知ってもらえるので、関係性がスタートするきっかけになります。  4つ目は『”働く”を支える』。  就労支援として現在、4職種を提供しています。吉岡さんのような啓発員と、商業施設の駐輪管理の受託、大阪市内86箇所で展開しているシェアサイクル HUBchari (ハブチャリ)のメンテや再配置、内職などの軽易な作業です。相談に来た人全員が働くわけでなく、働きたいという方にご提供しています。  
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自転車修理講習なども行っている  仕事の合う合わないは必ず出てくるので、配置換えもしやすいように、いろいろ職種は広げていきたいと思っています。  一方、有料の職業紹介の資格も得ているので、次の職業へのマッチングもしています。ただ、有効求人倍率が上がっているので、うちもおっちゃん不足で悩んでいます(笑)。若いホームレスの人が増えていますが、家族関係が原因の人がほとんどです。虐待を受けてきて、精神疾患を抱えてしまい、すぐには就業できない状況にある人も多いです。  
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「アンドセンター」の隣にあるHUBchari拠点  5つ目は『再出発によりそう』。  家を探すお手伝いをし、引っ越しのサポートもしています。相談者は、家賃や初期費用をためることで精一杯なことも多く、家具家電は極力プレゼントやレンタルできるように、リサイクルショップさんと提供して モノギフト というサービスをしています。ボランティアさんに手伝ってもらいながら、引っ越しのサポートもしています。  また、うちの特徴としては、Homedoorを卒業した相談者たちが、ボランティアで夜回りなどのサポートを支えてくれています。季節のイベントに、卒業後は顔を出してもらい、ゆるやかな関係性を継続して築いていきたいと思っています」  6つ目は、「伝える」。  川口さんは講演やワークショップで全国を飛び回っている。こうして訪問した私たちのさまざまな問いに答えてくださることも、現場を知る人が正しく伝えるという意味で非常に大きい。 過酷な生活環境を支える  
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アンドセンターでは、元料理人のホームレスの人が夜回り用のお弁当を作る  ホームレスの人の6割近くが、精神や知的障害を持っている方が多いことから、路上生活者が「アンドセンター」を訪れたときの相談員として、精神病院に勤めていた専門家をスカウト。他の団体とも連携しながら、相談者に向き合っている。  川口さん「毎月第3木曜日に健康相談会をやっていて、訪問看護の看護師グループにきてもらい、必要であれば病院につなぐこともしています」  環境を整えても、夜回りでいくら顔見知りが増えても、みんながすぐに利用してくれるわけではない。はじめはシャワーや仮眠室だけの利用から関係を築き、ふと会話の中で出た体調不良の言葉などから、相談につながるケースもあるそうだ。この冬、毎日お湯をもらいにだけやってくるおっちゃんは、知り合ってから通うようになるまで3年かかったという。  
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川口さん「70〜80歳ぐらいの人で、公園で寝泊まりしている方の中で、足は骨と皮のようなおっちゃんがいます。寝ているそばで炊き出しがあるので食いつないでいるのですが、先日寝床を撤去されてしまいました。うちから提供していた寝袋もすべてです。  そのあと夜回りで会ったときは、公園の奥のスロープで、冬だというのにダンボールだけで寝ていました。認知症を患われているようで、意思疎通はほとんどとれません。  
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夜回りの様子  現在、看護師さんにもボランティアで夜回りに参加いただいていますが、いずれはお医者さんにも関わってもらい、もっと医療体制も整えられたらと思っています」  公園だけでなく、他の場所でも路上生活者の寝床を撤去されることは多い。時間がたって廃棄される弁当を目当てに集まられないように、薬剤を撒く店もある。かくいう自分も、路上でホームレスの人を見ると、反射的に目を反らしてしまう。  淡々と話す川口さんだが、活動を続けるなかで、憤りを感じることも当然あるだろう。しかし、40代の女性が病気のために就業が難しく、翌日の生活費も尽きたため生活保護を申請すると「女性ならできる仕事がある」と窓口の人に告げられたエピソードを話した時が、唯一わずかに感情の揺れがうかがえた時だった。  結局、川口さんは弁護士を呼び、その場を解決したという。個人の感情よりも、自分の責任ではないのに大変な現実に向き合っている人たちがいるという意識のほうが強いのだろう。  
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おっちゃん手作りのHUBchariの看板。手先が器用な人も多いという  お話をうかがったあと、別の席で川口さんとお会いした。Homedoorでやるべきこと、実現したいことをたくさん伺ったが、あえて、今の仕事でなかったら、何をやりたかったかを尋ねてみた。  「私、スタジオジブリが大好きなので、大学を卒業するときに、就職しようかと思っていたんです」  意外な回答。実際応募はしたのですか?と聞くと、  「どう思う?と、おっちゃんに聞いてみたら、『ハヤオはスタジオジブリに入りたがる奴は採用したくないと思うで』と言われて『それもそうだな』と思ってやめました」  「知り合いでもないのに、呼びすて」と笑いながら、あっさりとそう答えた川口さん。この見極めの速さ、そしておっちゃんたちと築く信頼関係が、Homedoorをより強固なものにしていくのだろう。  ホームレス問題は、海外の問題や子ども関連の支援活動に比べると、人気や注目度も低く、本人に問題があると考えられがちで、世間からの風当たりも強い。そんな「誤解と偏見」を「理解と関心」に変えるべく、川口さんたちはひとつひとつ課題に取り組み、再出発する人たちを増やしていく。  「 アンドセンター 」が初めて迎える冬。「 家賃に加え、光熱費がどれだけかかっているか怖い 」とのこと。
 
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 「最近、このあたりからおっちゃんたちが、一掃されたんですよね」  人気のない広い公共施設のエントランスをぐるりと一周し、隅々まで目をこらした。駐輪場の端や建物の裏側などで暖をとっているおっちゃんがいないか、確認するのである。「おっちゃん」とはホームレスの人のことだ。
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 焼き鳥屋、居酒屋、百均ショップにたこ焼き屋。庶民的な店が軒を連ねる、大阪の中心部から歩いて20分の商店街。  週末の夜、安く飲ませる店の軒先はくつろぐ人たちで賑わうこの商店街から、脇に抜けた公共施設の前でのことだ。  現在、路上で暮らす人の数は全国に4555人(2019年1月、厚生労働省調査)。  病気、人間関係のトラブル、家族の介護などで仕事を失うことは珍しくない。現金収入が途絶え、家賃が払えなくなり、住む家を追われ、路上に居場所を求める —— 。それは誰にでも簡単に驚くほどあっけなく起こり得る。  そしてこの人は、路上生活に陥った人が再び生活を立て直すまでを、5つのステップによって支える活動を行っている。川口加奈、29歳。 就職せずにホームレス支援の道を  
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川口がホームレス支援に関わって15年になる。  川口がホームレス支援を始めたのは14歳のときだ。  中学から私立ミッションスクールに通うような恵まれた家庭に育った女の子が、大学卒業後も就職せず、ホームレスの人たちと関わり続けている。  19歳、大学2年で任意団体「Homedoor(ホームドア)」をつくった。大阪駅やその周辺など、北区に暮らす路上生活者を支援する。  現在は認定NPO法人となり、事務局スタッフが6人、当事者スタッフが20人、相談ボランティアは15人、ボランティア登録者は1158人にのぼる。ビジョンは「ホームレス状態を生み出さない日本の社会構造をつくる」だ。  川口はいつものように、弁当を持って夜回りを始めようとしている。  本格的な冬を迎えようとする、夜9時。 「よかったら遊びに来てください」  
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川口はボランティアとともに早足で大きな公園に向かった。東京ドームがすっぽり収まる広い敷地にはジャングルジムや長い滑り台などの大型遊具、卓球場、充実した施設に、芝生、噴水まで備える。  商店街の喧騒とは裏腹に静かな公園内をひんやりとした夜露が覆う。  ずんずんと歩いて行く川口の前方に、荷台にこんもりと荷物を積み上げた自転車が見えた。自転車の脇のベンチで中年の男性が仰向けになって文庫本を読んでいる。  「お弁当、渡しましょう」  川口がささやき、ボランティアがバッグの中から弁当とスナックを小分けに入れた袋をそっと取り出した。  「こんばんは」  ゆったりとした関西弁で川口が声をかけ、男性が身を起こした。がっちりとした肩は、50代に差しかかった頃だろうか。  「何の本、読んではるんですか?」  穏やかな川口の口調につられるように、  「東野圭吾は全部読んだよ」  と返した男性の言葉には南国の訛りがあった。  ひとしきり言葉を交わし、「Homedoor」の案内を書いたニューズレターを手渡した。  「体に気ぃつけてくださいね。よかったら、うちにも遊びに来てください。推理小説とかいっぱいあるし」  「ありがとう。寄らせてもらいます」 弁当は知ってもらうための手段  
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公園の内外のどこに誰の棲み家があるのか、川口の頭の中には顔と名前と場所が一致する地図ができあがっている。  歩道橋のたもとや商店街の端に寝床を敷いて暮らす人たちは、川口を見ると笑顔になった。  「今日のおかず、何?」  と、ヤマさん。路上生活歴は10年を超える。  「ヤマさん、爪伸びとるなあ。お風呂、入りにきてくれたらええなあ。爪切りもあるし」  噛み合わないかけ合いが、どこかあたたかい。  「もうすぐ、カレーが食べられる忘年会なんで、よかったら来てくださいね」  安否確認をしながらこうして弁当を配り、声をかけ、別れ際にはHomedoorに来てみないか、と誘いの言葉は忘れない。  出発して1時間半、夜10時半を回る頃、20個の弁当はすっかりはけた。これからの厳しい寒さをどのようにしのぐのか。2時間の夜回り「ホムパト」は路上生活者の立場を具体的に想像させる体験だった。  弁当はおっちゃんたちにHomedoorを知ってもらう手段だ。  食事、寝る場所、仕事、人との関わり。Homedoorにはホームレスが生活を再建するために必要な手段がさまざまな形で用意されている。この仕組みを川口は8年かけて整えた。ホームレス支援の団体がさまざまあるなか、トータルな仕組みはホームドア独自のものだ。  だが、Homedoorとつながって生活を変えるかどうかは、本人の意思に委ねられている。 それぞれに事情ある人たち  
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キビキビと弁当づくりの場を仕切る弦さん。  玉子焼き、煮物、魚の切り身の唐揚げ。テーブルいっぱいに並べられたおかずとバットに広げられた白飯を、10人ちょっとのボランティアが流れ作業で詰めていく。米は寄付、食材はフードバンクからの提供だ。ごはんにシャケのふりかけをかけて、焼き海苔を被せると完成する。  ホムパトに出かける1時間ほど前、Homedoorの事務所にはこんな風景があった。  おかず作りに腕をふるった弦さん(仮名)は、60代の後半、元料理人だ。  関東のある町で生まれ、中学卒業後に都内で料理の修業をした。結婚して名古屋に移り住んだが、愛妻を亡くし50歳目前でひとり大阪へ流れた。興した事業がうまくいかず、数年前から川に近い路上に生活の場が移った。  「ホムパト」中の川口に出会ったのは2年前。弦さんは、後日Homedoorの事務所を訪ねた。そこで路上生活から抜け出るための「相談」をするようになり、Homedoorに「居場所」を得て、また、食事のサポートを受けた。ほどなく、自転車整理やビラ配りの仕事を紹介され「働く」ことが可能になった。住民票登録や保証人のサポートを受けて、現在住むアパートの契約にこぎつけた。  ホムパトのある日、弦さんはアパートから45分かけて電車を乗り継いで事務所へやってくる。Homedoorに集まる人たちと冗談を言い合い、料理に腕をふるって感謝されるひとときは、弦さんにとって大切な時間だ。  川口のそばでホームレスの人たちを眺めていると、それぞれのホームレスがひとりの人として立ち上がってくる。「ホームレス」という単語ではくくることのできないそれぞれの事情や生い立ちの物語があることが、ぐっと身近に思えてくる。
ご批判、ご指摘を歓迎します。 掲示板 に  新規投稿  してくだされば幸いです。言論封殺勢力に抗する決意新たに!
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ya-sojiro-blog · 5 years ago
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しなの鉄道に新型車両「SR1系」がやって来た!
 2020年3月26日、新潟県にある総合車両製作所から、しなの鉄道の新型車両「SR1系 ライナー用車両2両×3編成」が出場し、JR信越本線→えちごトキめき鉄道 妙高はねうまライン→しなの鉄道 北しなの線→JR信越本線→しなの鉄道線を経由し、翌3月27日の深夜にかけて甲種輸送されました。牽引機はEH200-15号機でした。
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※おことわり:写真のサイズが、1枚当たり20MBを超えるとアップロードができない仕様なので、一部画質をかなり落として投稿しているものがございます。予めご了承ください。
長野駅~安茂里駅(沿線から撮影)
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 長野駅を翌27日の0時4分に出発し、終点の屋代駅へ上りました。
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 機関車と新型車両が連結している面は、ブル���シートで厳重に保護されていました。
屋代駅(SR1系の外観を詳しく見る)
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 屋代駅に到着後、機関車は切り離し、篠ノ井方面に下っていきました(手前)。その奥が今回新造されたSR1系。さらに奥に現行の115系がいます。ここから時間に余裕ができたので「SR1系」の外観を詳しく見ていきましょう。
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 今回新造された車両はライナー用車両であり、有料快速「軽井沢リゾート」を走らせるために導入されました。ライナー向け車両はS101編成、S102編成、S103編成の1編成2両、計3編成の6両体制となりました。
 2020年3月14日から「軽井沢リゾート」が運行を開始しましたが、現在は115系で運転されており、2020年7月までは追加料金なしで乗車することができます。7月からは全車指定席となり、事前予約で軽食などの商品を販売するサービスも始まる様です。
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 車体はステンレスでできていますが、この車両はフルラッピングが施されています。ロイヤルブルーを基調とし、4本のシャンパンゴールドのラインが旅の上質感と高級感を演出、さらに水色と緑のラインは沿線の山並みと渓流を表現しているようです。夜になると、ブルートレインの様にも見えます。
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 SR1系のロゴマーク。12枚のリーフは沿線の11市町と長野県を象徴し、各市町と県が繋がることで地域を輝かせる太陽をイメージしているとのことです。
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 機関車と連結されていた面。傷や汚れが付かないように、ブルーシートで厳重に保護されているのが分かります。
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 一方反対側は保護されておらず、顔が見えるようになっていました。SR1系なかなかかっこいいですね。しなの鉄道初の新造車ということもあり、社員さんたちが見守ります。なかにはチェックしている方、写真や動画を撮られている方もいました。
参考:しなの鉄道のSR1系は、2014年から走り始めたJR東日本のE129系という車両と、顔や側面などほぼ同じ設計となっています。
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JR東日本 E129系
まさかの連結!?
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 なにやら準備が始まりました。どうやらこのSR1系と現行の115系を連結して、奥に移動させるようです。営業運転が始まってから見れるか分からない光景を、見れてしまう貴重な光景となります。
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 奥で待機していた現行の115系S27編成が、ゆっくりとやってきました。
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 ゆっくりと接近し、何度か停止しながら確認作業を行っています。
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 「ガッチャン...」  
 大勢の社員さんやカメラマンたちに囲まれている中、ついにSR1系と115系が連結完了です。まさかの初日から連結が見れるとは思ってもいませんでした。連結器の形が異なるので、専用のアダプターを装着し作業を行っていました。
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 約15分後、115系に引っ張られる形でSR1系の入れ替え作業が始まりました。
近くの踏切から確認
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 顔がブルーシートで覆われている車両が先頭になり、こちらに向かってきました。ある意味少し怖い雰囲気が漂っていました。
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 軽井沢方から、クモハSR112-101+クモハSR111-101...
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 クモハSR112-102+クモハSR111-101...
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 長野方にクモハSR111-103+クモハSR112-103となっていました。すべてモーター車両となりました。車両と車両の間には転落防止幌が装着されています。
 また、パンタグラフ(集電装置)は、シングルアームパンタグラフで、クモハSR111に2台設置されています。ひし形マーク(◆)が付いているので、中央本線の狭小トンネルに対応してい���す。
 さらに、このSR1系から初となるバリアフリートイレが設置されました。115系にもトイレ設備は存在しましたが、車庫に排水設備が無かった為、使用中止となっていました。場所はロゴマークの場所、クモハSR112側にあります。
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 115系に押され、屋代駅にある工場前まで入ります。何気にしなの鉄道では初?の8両編成の誕生です。
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 再び屋代駅の外から確認しました。この後は特に動きが見られなかったので、撮影離脱しました。すでに時間は2時を過ぎていました。しなの鉄道では初となる新造車両、社員さんもカメラマンも夜遅くまでお疲れ様でした。そして7月の営業運転開始がとても楽しみです。
 2019年度のライナー用車両は出揃いました。2020年度からは、一般車両用のSR1系(赤色)の増備が始まるとのことですが、コロナウイルスの関係で導入規模を縮小する可能性があるとのことです。果たして115系を置き換える事が出来るのか、将又置き換えられずに115系を延命工事するのか注目です。
 最後まで閲覧ありがとうございました。
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xf-2 · 6 years ago
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本当に解決したかったのか?
5年前の今週、2014年2月18日、安倍晋三政権は当時の沖縄県知事の仲井眞弘多氏に、普天間飛行場の5年以内の運用停止について検討することを約束した。
その発表は多くの人々にショックを与えたが、沖縄関係の動きを長年、研究者や在日米海兵隊幹部として真剣にフォローする筆者にとっては驚きではなかった。なぜなら、日本政府は、沖縄に対して守ることもできなければ守る予定もない約束をいつもしているからである。
その約束は、数多くの理由で間違ったものだった。
1つには、勝つはずがなかった知事選を意識したものだったこと。
2つ目は、政府はそもそも閉鎖できる計画もないし、実行可能なコンセプトをつくる知識もなければ想像力もない。
3つ目、そもそも、海抜90メートルの高台に座り、世界最大級の飛行機が対応できる、戦略的な普天間飛行場を必要以上に早く閉鎖してはいけないからだ。
4つ目、どの実施でも沖縄県の協力が必要だが、基地をめぐる政策に対する支持を得るのは難しい。これは一応保守系の県政ですらそう言えるので、私は沖縄を「NOKINAWA」と呼んでいる。「Noとしか言わない沖縄」。基地に反対して、協力や妥協をしない革新系の昨今の知事たちとは、支持を得るのはほぼ不可能。
5つ目、互いにや総合的に日米沖の対話がない中で、日米沖にとって納得するものが生れるはずがないからだ。
以上の問題はあるものの、自殺行為をするくせのある政府は、5年以内に普天間を閉鎖しようと思えば、実現できたのである。基地削減を行い、辺野古も埋め立てず、日米同盟も傷つけずにである。
しかし、そのためには哲学をはじめ、戦略、想像力、そして勇気が必要だった。さらに、普天間が実は日本政府のものであり、あくまで、米軍に貸している施設だという認識が必要だった。
ところが、日本政府はこのどれも持っていないのである。
普天間問題の背景と争点の不条理
実は、普天間の運用停止、つまり閉鎖を短期間で実現しようと思えば、3つプラスアルファの現実的で可能な選択肢はあった。それぞれは違っていたのが、異なる方法論を反映したからだ。
だが、3つとも、「何を解決しようとしているか」という同じ前提を共有している。
一方、長年の間、政府の関係者は、何を解決しようとしているのかを分かっていなかった(今もそうだが)。
この問いこそが、「沖縄問題」の複雑さ��真相をめぐる誤解を象徴している。
「沖縄問題」とは何かをきちんと定義できる人もおらず、そもそも「沖縄問題」が存在しているかさえ答えられない。
多くの人は「沖縄問題」は、「基地問題」の別の言い方で、そして米軍や自衛隊の基地は沖縄での諸悪の根元だと批判している。しかし、そのような議論は事実に反するだけではなく、基地が果たす安全保障上の機能や経済的、社会的、そして文化的な役割の客観的な(もちろん肯定的も)評価を反映していない。
この「沖縄問題」を、私は以前から「結び目」だと説明している。複雑に絡んでいる紐を辛抱強く丁寧に対応したら結び目を割合簡単に解くことができるが、無理やりに引っ張ったら、その結び目はより固くなる。
15年前頃の2004年から06年に行った在日米軍再編協議の際、米政府の関係者は、沖縄問題を「基地問題」として偏狭かつ一方的に定義したが、実際には沖縄問題は数多くの課題からできている。基地問題は確かに大きくて目立つ。だが「沖縄問題」の全てではない。
基地問題に関する誤解は、私がかつての論文や複数の本で、沖縄問題の「神話」と呼んでいるものだ。神話ではあるが、メディア、学者、活動家や政治家は、嘘(例えば、既存のキャンプシュワブの拡張だけなのに、辺野古は「新基地」という)を繰り返すことによって、新しい「真実」が生れ、政府は決して勝利できない対応に追われる。
その結果が、間違って「世界一危険な基地」と言われることで始まった普天間返還問題だ。
でも、73年以上前の建設から今日に至るまで、亡くなった県民、ケガされた県民は1人もいない。そもそも普天間飛行場は本当に世界一危険なのだろうか。
過去23年間、日米両政府の関係者は、この間違った認識に基づいて、宜野湾市の約4分の1を占める普天間の重要な機能を(県内で)移設しようとしてきた。
23年という歳月は、いうまでもないが、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日から沖縄返還が実現した1972年5月15日までの20年間より長い。しかもまだ実現していない。
1施設の移転だけで、こんなに長くかかっているのは、やはり問題を孕んでいる案だからだ。
普天間を返還するという決定は、1996年初期に、当時の橋本龍太郎総理とクリントン大統領との間の首脳会談で議論され、そして同年末、前年の1995年11月に設置し、訓練や基地の整理縮小や普天間の条件付き県内移設に伴う返還などによって沖縄の負担軽減について提言を纏める、1年間の任期のあった「沖縄に関する特別行動委員会」の勧告書を受けて日米の外交・防衛関係の閣僚会議である、いわゆる2+2で承認された。
橋本総理の要請は、長年、沖縄の関係者が要求したものに基づいて行ったのだが、特に95年9月に、キャンプハンセンを抱えている金武町で発生した海兵隊2人を含む3人の米兵による12歳の少女の誘拐、暴行の事件に対する政府の対応に怒りを覚えた当時の大田昌秀沖縄県知事は、強く要請したその1人であった。
それ以降、数多くの勧告が実施され、沖縄県内の「負担」は名実共に軽減されてきた。
普天間飛行場に関して言えば、合計14機の輸送機(KC-130)を2014年夏に、新しい滑走路や格納庫が完成したばかりの山口県にある海兵隊岩国飛行場に移転した。時々、1機、2機が訓練や隊員やその装備を移動するために普天間に一時的に戻ってきている。
それは地元のメディアなどが批判しているが、これが運用上必要な措置であることは最初から皆分かっており、それを批判すること自体は論外だ。
これは、軍が分散することがあまり良くないと典型的な事例だと言える。特に、半世紀以上活用している海兵空陸任務部隊(MAGTF)という作戦概念に基づいて行動している米海兵隊にとっては。真の統合組織である海兵隊として、歩兵、兵站、輸送手段、そして司令部機能が隣か、近くにないと、有効かつタイムリーに機能できない。
例えば、火事やその他の緊急状態への対応を考える場合、消防士を1ヵ所に、彼らの車(消防車)を別のところに、装備品はまた違う場所に、そして、消防署がさらに別の場所にあったら大変なことになる。
同じように、日米同盟、安全保障条約を維持すると言うことが大前提である限り、アメリカや日米同盟にとっての即応対応部隊であり、強力で統合的な組織である海兵隊を、必要以上に、複数の都道府県を跨って、展開するために再結集せざるを得なく貴重な時間を失ってしまうような状態をつくってはダメだ。
沖縄の海兵隊が朝鮮半島から南シナ海までカバーしている以上、この条件を満たす日本国内の別な場所に集約出来る場合以外、やはり沖縄県の地政上の優位性を捨てるわけに行かない。これは日米の安全保障協力を放棄することになる。
これは有事の際だけではなく、自然災害の対応でも言える。そのため、米海兵隊は2011年3月に東日本大震災の直後から、沖縄に配備していたMV-22Bオスプレイを2013年11月発生したスパー台風の直ぐ後、初めて投入し、フィリピンに対して迅速に救援活動を展開できた。
2011年の前に、オスプレイが日本に配備されていたら、我々の対応はさらに早かった。前に使用していたCH-46は、飛行速度が遅くて、空港に定期的に降りて給油する必要があるため仙台まで3日間かかったが、空中給油できるオスプレイなら3時間で東北まで行くことができる。
以前から予定し、米側が一生懸命に情報公開をしていた、2012年夏から秋にかけてのオスプレイの最初の中隊の配備に対する、極めて煽動的でネガティブな報道にも拘わらず、搭載できる量の多く、飛行機のように静かに飛べる、速度が速い、航続距離が遠い、高度が高い、空中給油できる、室内のシミュレーターで多くの訓練を済ませるMV-22は、普天間の「負担」を具体的かつ大幅に軽減している。
しかし、悲しいことに、こうした事実は日本や日本にいる外国のメディアで紹介されていない。
本当に5年以内に運用停止したかったのなら
逆説的だが、普天間は、最もうるさく、最も危険な飛行場ではない。最も混雑している基地でもない。しかし、普天間は、戦略的に極めて重要な施設であるので、中国など、日米同盟の敵しか勝たない政治的なゲームにおける「歩」とか「兵」として扱ってはならない。
これを行ってきた、日本政府の関係者も、米政府の関係者も罪がある。
残念だが、現在や過去の政権でのワシントンの官僚たちは、全ての政党の日本の政治家とは、これだけの共通点を持つわけではない。何十年間も、真実を言う勇気も欠如し、戦略的なビジョンと知的誠実性も持っていなかった。
日米安全保障条約の体制を維持するためにと先に述べたが、この前提を崩さず、辺野古も埋め立てず、普天間も返還する方法はいくつもあるのだ。
そもそも、普天間の閉鎖に合意すること自体がおかしな話である。その前提、政治的な要求、誤解はいくらでも反論できるものだ。
少なくとも、1996年の段階の普天間と、現在の普天間を巡る状況は全然違っている。これは、先ほど見てきたように、普天間飛行場の運用に関してはもちろんそうだが、国内、日米間、そして地域での政治、外交、安全保障関係も大きく変わっている。
しかし、1996年の辺野古の合意以来、三十数名の外務大臣、35人ぐらいの防衛大臣、40人前後の沖縄担当大臣を経ても、全く同じ政策を追求しようとしている。
この致命的な問題だらけの辺野古案は古いものだ。20世紀の同盟のための90年代の考えであり、そのボディーとなるキャンプシャワブは、1950年後半の建設だ。しかし、今、必要なのは、21世紀や22世紀までも通用する近代的な体に前向きな案だ。
しかし、最も重要なのは、日米両国民に広く支持され、地元で政治的に堅持され、財政的維持可能、環境に大きな被害を及ぼさない、そして国際的に信用されている、つまり脅威国へ抑止力になり、同盟国などに対して友人としてちゃんと機能する、この日米の同盟を、真に持続可能なものにすること。辺野古案は、このどの条件を満たしていない。
次に示すのは、日本政府が普天間を5年以内に閉鎖しようとしたら使えたはずだった、そしてほんとうにその気になれば、辺野古移転を行わず、普天間から海兵隊を移設させることの出来る、現実的な3つの解決策だ。
良かろうが、悪かろうが、日本政府には考える力がなく、それを実施する先見性を持っていなかった。
今後、意味のない辺野古案を完成まで10年から14年の間、凧、風船、レーザー、高いタワーの建設などのテロ的な行為を含む事故や、新世代の政治家たちによる基地への集中的な攻撃がない限り、普天間は使用し続くことができる。これはもちろんいいことだが、一方で数多くの機会が失われた。
解決策その1 勝連構想
日米同盟における相互運用性を高め、合同や共同使用の基地の可能性を最大限にする最も効果的な案は、勝連構想だ。
この案は、那覇基地、那覇軍港、キャンプキンザ―、そして普天間飛行場を、うるま市の勝連半島(与勝半島)に新たに埋め立ててつくる集約基地に纏め、自衛隊の管理下に置くもの。
それによって膨大な土地返還ができ、なおかつ基地が人工島にあり完全に海側にあるため、危険性や騒音の問題は全くない。
一番近い住民は、2.5km離れた場所に住んでいる。実は以前に相談され、条件付きで計画を了承済みであった。
この構想は、普天間問題の一番大きいな教訓を盛り組んでいる。すなわち、人が住んでいる、あるいは住めるところで飛行場をつくることは出来ないと言うことだ。
このことは、辺野古案が根本的に間違っている理由の1つでもある。つまり、辺野古の飛行場、将来の「海兵隊名護飛行場」で飛行運航が始まれば、翌日、「ウルサイ!」「キケン!」という抗議の電話が、私が以前勤めていた海兵隊のオフィスで必ず鳴るだろう。
このような抗議を受けないためという理由で、日米両政府は普天間の移設を決めた。これでは基地の移転をしても、何も変わらないし、何の解決にもならない。
しかも、辺野古と違って、勝連は軍民共用の施設になるため、民間機も利用できる。それによって、爆発的に増えている観光者の対応がしやすくなり、そして特に中部、北部への貨物の対応もできる。
那覇空港の混雑や那覇の渋滞は著しく緩和できる。辺野古案に100の問題点があるように、勝連案は100のメリットがある。詳細を知りたい読者に、拙著「緊急政策提言 沖縄の基地問題への実行性のある、包括的かつ長期的な解決 および日米同盟の真の強化へ」をご覧いただきたい。
もともと勝連構想は、日米両政府が普天間の代替施設の再検討をしていた2005年に私が提案した。
しかし、両政府とも、一旦死んだ辺野古案を、救急救命士のように一生懸命生き返す事を目指しており、国防総省の長官室の関係者が勝連構想は「ベスト・ワン」と認めていたにも関わらず新しい提案を受け入れようとしなかった。
国防総省の日本上席部長の文書の返答は、「日本政府が提案しないといけない。だが、日本政府が提案するのに、沖縄県が提案しないとだめ」というものだった。
勝連構想の利点の1つは、建設のスピードだ。少なくとも40年もかかる辺野古案と違って、勝連はおよそ3年しかかからず、しかも、僅かのコストで済む。
これは、沖縄市泡瀬案や那覇空港の第2滑走路のような埋め立て事業であるが、埋め立てには周辺の砂と死んだ珊瑚などを吸い上げて利用する。
沖縄の他の地域、日本本土あるいは、検討されていた中国から輸入しなくていい。その近くにある宮城島と平安座島(両方とも、うるま市)の間にある広大な人工島と同じ工法を使ってつくる予定だ。
何もかも一から建設するもので、全ての電気、下水道、その他のパイプラインなどは、最新の製品、最新の方法でつくりながら埋めていける。
辺野古案のキャンプシュワブでは、50年代以降から作ったものが多いため、全てのものが取り壊してから再建しないといけない。それによって、コストと時間は倍どころか、3倍、4倍かかる。
さらに、地形が斜めであるため、基地の地盤が完全に作り直す必要がある。地盤沈下や地面が固める時間がかかるなどの問題が以前から出ている。また、大浦湾は、35~38メートルぐらい深いところがあるため、埋め立てた部分が固まらないとその上の工事が始められない。
それに対して、勝連構想の予定地(浮原島と南浮原島の間とその周辺)の海は浅く、砂や死んだ珊瑚は直ぐセメントのように固まる。埋め立て工事は1年で終わり、基地の工事は2か年。
本島と埋め立て地をつなぐ2つか3つの橋(その1つは弾薬専用のため)は、同時並行で建設できる。橋の問題があった場合、基地に軍港もついているのは、船で人、車、荷物の移動ができる。先述した既設の人工島にあるCTS(石油中継・備蓄基地)からパイプラインを引く約束が獲得されているので、燃料の補給の心配もない。
解決策その2 那覇基地活用案 
第2の解決策は、中国やロシアの領空侵犯などのためにスクランブル(緊急発進)する航空自衛隊のジェット機を宮古列島にある下地島空港に移転させてから、海兵隊は那覇基地に移動するとの案だ。
伊良部島が隣接し、そこから宮古島に近年、橋でつながるようになったため、宮古列島で生活し、観光するのはかなり便利になった。
下地島の3000㍍の滑走路は、長年、日本の民間航空会社が操縦者の訓練地として使っていたが、フライト・シミュレーターが利用されるようになって、滑走路は十分に利用されていない。
1960年代から地元住民は自衛隊を誘致しようとしており、結果として空港ができたが、運営者である沖縄県庁と運輸省(当時)との間で、軍事転用をしない合意を1971年に締結した。
その後、災害対応などのために使用できることが認め、合意が改正されており、海兵隊は、ヘリの燃料補給のために使用したことがある。
宮古島には、既に航空自衛隊のレーダー基地は既にあるが、中国軍による海や空の行動に鑑みてより大きな自衛隊のプレゼンスが必要だ。
この関連で、2016年1月に那覇基地にある南西航空方面隊所属の戦闘機中隊を倍にしたが、スクランブルの必要性は大きく減ったと残念ながら言えない。
同じ年では、那覇基地から発進するスクランブル数は過去最高の803回に達した。つまり、那覇は遠すぎ、かつ不便だ。中国軍こそ、それを分かっている。
さらに、那覇空港には、現在、1つの滑走路しかなく、民間飛行機が優先されている。もし中国との有事が発生したとして、中国の民間機が「故障」して、滑走路の真上に居座ったら、航空自衛隊の戦闘機は離陸でき無くなってしまう。要するに軍事基地として不十分なのである。
尖閣諸島が焦点として、遠い那覇基地からの発進は、飛行機及び操縦者に疲労をもたらしている。ところが、より近い下地島空港よりの発進だったら、日本にとって極めて有利な状態をつくる。
最終的に、日本が今まであった南西諸島の上空の穴を見事に閉じることができ、中国は領空侵犯を控えるようになる。仮に中国がその行動を取りやめない場合、毎回、日本からは速いかつ強い対応で対抗し、もし必要があれば、下地島空港(基地)からさらにブルーサムライたちが来ることを覚悟しないといけない。
那覇基地が少し空くことになるため、海兵隊の航空機(オスプレイなど)は空いている格納庫やエプロンを使用することができる。
これらの航空機は、まだ沖縄本島内に、他の海兵隊の部隊と一緒にいるので、先述したMAGTFの完結性は維持したまま、テナントとして日本の基地の一部を利用することになる。
これによって、米軍の活動に対して多少不満のある日本政府にとって米軍の透明度が上がり、財政上の節約や合理化、(海兵隊は1つ少ない基地の運用をするので)地元との政治摩擦の削減、(海兵隊の姉妹組織である陸上自衛隊の第15旅団もいるので)軍事的の相互運用性が高まり、そして、世界や地域の両国の敵に対して、「日米同盟は強い」という極めて重要な戦略的なメッセージを発信できる。
また、那覇空港で建設している第2滑走路の目的の1つは普天間で失ったその機能の代替であるので、今から海兵隊が那覇基地にいることは意義深い。予算化されたら、移転は1年でできるほど簡単だ。
日本、アメリカそして沖縄にとってwin-win-winだが、勝連構想ほどよくない。また、海抜4㍍にある那覇基地には津波リスクがある。
解決策その3 沖縄県管理下の普天間防災拠点化
最後に提示する解決策は、私が内々で提言してきたもので、普天間を沖縄県の管轄下に置く共同使用の防災拠点として位置付ける。
この解決策には、運用上、現状維持に近いものと、かなり大胆のものの、2つのオプションがある。
何れのオプションにしても、同解決策は、普天間飛行場の重要性を強調し、責任感のある日本や沖縄のリーダーたちが、そうした認識から普天間を維持し丁寧に運用するとの希望を抱いているものだ。
現状維持に近いオプション1によれば、沖縄県(もしくは日本政府)と共同使用にし、沖縄県の管轄に置く。
海兵隊の飛行場としての今の機能をそのまま維持するか、嘉手納基地に一部あるいは全ての機能を移動するかは今後の議論の対象となる。
後者の場合であれば、事実というより政治問題である騒音と危険の懸念が減らされ、沖縄県が管轄しているため、摩擦も少なくなる。
ポイン��は、いずれの場合、普天間の滑走路や一部の格納庫などは、海兵隊が有事などの時に支障なく使える状態を維持するということだ。
共同使用は即時にできる。実現するのは簡単。だが、1950年から53年の間の朝鮮戦争で活躍した普天間飛行場は、休戦後、日本で設立された国連軍後方司令部の使用施設に指定されているので、新しい管轄を、国連軍地位協定第5条に基づき報告する義務が発生する。
広大な面積のため、県庁は、飛行場の運用を協力するために普天間内に事務所を新たに設置必要がある。
普天間飛行場はいずれ閉鎖される予定だったため、長年、整備予算がついておらず、設備がボロボロになっている。県庁の管轄下に置けば、建物の再建もでき、中止になる辺野古の工事で仕事を失った建設会社などは、普天間の工事のために契約を再締結できるはずだ。
より大胆なオプション2は、1と同じく、滑走路や格納庫を使える状態を維持しながら普天間にある海兵隊の機能の一部か全てを嘉手納基地に移転する上、普天間の中心的な役割は沖縄県の管轄下の防災拠点にすることだ。
この場合、新しくできた海軍病院は直ぐ近くにあり、普天間飛行場とその病院の両方の施設は高台にあるので、津波などの被害は全く心配がない。その2つの機能を連携させることで、沖縄県や宜野湾市は、日米沖の協力のもとで、頻繁に襲うインド太平洋地域における自然災害に対して大変大きな人道上の役割を果たせる。
問題は、上記で説明しているより簡単かつ重要だ。要するに、有事の際、複数の選択肢をもつ必要があるので、日米同盟は2740㍍の戦略的な滑走路を持つ普天間を失ってはダメだ。何らかの形の普天間を維持すべきなのだ。
キャンプシャワブで1800㍍しかない滑走路(両側に305㍍ずつの安全地帯があるため、実際に使えるのは、1190㍍だ)をわざわざ建設して普天間飛行場を閉鎖するのは、自殺行為そのものだ。
同様に、那覇空港の第2滑走路は、有事の際、自衛隊も使用しており、場合によって、避難のために、民間飛行機やチャーター機が利用しているため、普天間ほどよくない。那覇空港は混雑な状態になり、敵にとって最高の的になる。普天間は既に返還され、使用できず、那覇空港が被害を受けたら、1つの使用できる飛行場しか残らない(嘉手納空軍基地)。
最終的に2つ目の解決策である那覇基地は、上記で説明したように、大変リスキーであるため、あまりいい選択ではないが、辺野古より遥かにベターだ。
結論から言えば、普天間をそのまま維持(か解決策3という防災拠点化)するか、あるいは解決策1の勝連構想を建設するかしかない。
現状維持の場合、「普天間が世界一危険な基地」であり、その「固定化」をさけるべきという感情的な議論に対して積極的に反論しなけらえばならない。何れにしても正常に判断できる人は辺野古案を採択するはずがない。
日本政府が逃げ続けた後で
しかしながら、多くの日米の政治家や官僚たちは辺野古に固執している。それとも、事なかれ主義的に黙従してきた。時間や資源の無駄はすご��。彼らは辺野古が「ベスト」だとか、「唯一の解決策」というとんでもないウソを言い続けてきた。ベストでもなければベターでもない。ワーストだ。冒頭で質問した「何を解決しようとしているのか」がわからないから。
彼らは一貫して透明性や説明責任のある形で、真の再検討作業するのを避けてきた。
小泉純一郎首相に様々な誤報を伝えながら、当時の防衛庁が私の勝連構想を拒否した理由は「(ブッシュ大統領の来日を控えて)再検討する時間がない」ということだった。それは2005年9月だった。今から14年前(!)。時間はあった、十分にあった。
今だと反論はきっと、「もう砂の投入が始まったから、時間がない」となるだろう。しかし、今のところ工事は簡単なほうだ。まだ水深が浅いだから。大変な部分はこれからだ。先日、地盤軟弱の問題が出てきているが、それは大昔から分かっていた。にもかかわらず、実行しようとしたのだから無責任極まりない。
この官僚たちは、沖縄で他の案に対して「反対があるから」できないという。それは多少、事実だ。しかし、沖縄では必ず「反対」がある。
重要なのは、反対の最も少ないところを探すこと。日本政府はその努力をしていなかった。その結果、歴代の政権は、ますます深刻になる混雑を引き継ぎ、そして安倍政権は、この週末で行う、普天間移設をめぐる県民投票に直面している。
この問題は、10年前の勝連構想、2015年の下地島・那覇基地構想、あるいは、2014年の普天間防災拠点構想の何れの私案でも解決できた。
日本政府は哲学、想像力が欠けているだけでなく、時間や歳月を管理する時計やカレンダー、支出を管理する元帳もない。
アメリカをはじめ、日本、沖縄そしてインド太平洋地域のために、普天間を閉鎖してはいけない。
だけど、どうしてもやるというなら、何を解決しているかをしっかり理解して日米沖の総合的な観点に立って勇気を覚悟があれば実現はできる。
しかしもっと悪いのは、守るつもりがない約束をすること。約束を破るのは、信頼関係の崩壊につながる。こうした不信関係は、沖縄問題の本質そのものだ。普天間飛行場などの基地問題だけではない。
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「消費減税」の可能性も? 新型コロナウイルスの経済対策「何でもあり」 安倍晋三首相は2月29日の夕方、緊急の記者会見を開き、新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けた政府の取り組みなどを説明した。 2月27日夕に、全国の小中高校に対して3月2日から春休みまで臨時休校するよう要請したことについて、 「何よりも子供たちの健康、安全を第一に、多くの子供たちや教職員が日常的に長時間集まる、そして、同じ空間を共にすることによる感染リスクに備えなければならない」 とし、国民に理解を求めた。 起死回生を狙った会見 学校の一斉休校については、安倍内閣に批判的なメディアや野党から批判の声が上がっている。休校することによる働く保護者の負担急増や、経済的な損失が指摘され、文部科学省などの慎重論を退けて「政治決断」した安倍首相が「強権発動」したからだ。 しかしむしろ、批判の集中砲火を見越したうえでの、起死回生を狙った会見だったとみていい。 というのも、「桜を見る会」の問題に加え、黒川弘務・東京高等検察庁検事長の、法令解釈を変更しての定年延長問題が、ジワジワと安倍政権を追い詰めていた。 実際、安倍政権寄りとみられている『産経新聞』と『FNN』(フジテレビ)が2月22、23日に実施した世論調査では、内閣支持率が8.4ポイントも急落。支持率が36.2%、不支持率が46.7%と一気に逆転。これにはさすがに与党内でも驚きの声が上がった。 新型コロナへの政府対応について「評価しない」とする回答が45.3%に及び、「評価する」の46.3%に迫るなど、「後手後手」の印象が強まっていた安倍内閣の新型コロナ対策の不手際さが、内閣支持率に影を落とし始めていたことは間違いない。 特に、加藤勝信・厚生労働相が、2月25日に打ち出した「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」が、手洗い・うがいの実施や、テレワーク・時差通勤の要請などにとどまり、スポーツ、文化行事の開催については、 「全国一律の自粛要請を行うものではない」 としたことから、ネット上などで批判が噴出していた。 それだけに、さらなる批判を承知で安倍首相が「強権発動」したのは、ウイルスの感染経路が分からず、重症化のプロセスもみえない中で、このまま今後の対策が「後手に回っている」と国民に判断されれば内閣の死活問題になりかねない、との危機感を覚えたからだろう。 政権の行方も考えて行った判断とはいえ、「前のめり」と批判するのは難しい。一斉休校などへの批判は早晩、沈静化していくに違いない。 政策的には「禁じ手」 むしろ29日の会見で注目すべきは、「新型コロナ対策」を理由に、「何でもあり」の景気対策に道を開いたことだ。 学校の一斉休校に伴って保護者が休職した場合の所得減に、「新しい助成金制度を創設」し、 「正規・非正規を問わず、しっかりと手当てしてまいります」 と明言している。また、 「業種に限ることなく雇用調整助成金を活用し、特例的に1月まで遡って支援を実施します」 とも述べた。 さらに、中小・小規模事業者の強力な資金繰り支援なども行うとした。 政府が個人や企業に直接、所得補填するのは政策的には「禁じ手」で、平時ならば「ばら蒔き」との批判を受けかねない。 今後、制度や法律を作る段階で、どこまでを新型コロナによる影響とするかなど、難題が出てくるが、それも「非常時」ということで、「大盤振る舞い」されることになるのだろうか。 実のところ、新型コロナ対策を「理由」にできることは、深刻な景気減速に直面しつつあった安倍内閣にとっては、救いの船とも言える。 2019年10-12月期の実質GDP(国内総生産)の成長率は、年率換算でマイナス6.3%と大幅なマイナス成長になった。前の消費増税直後である2014年4-6月期はマイナス7.1%、東日本大震災の影響が出た2011年1-3月期はマイナス6.9%だったので、これに次ぐ激震に見舞われたことになる。 もちろんこの段階では新型コロナの影響は出ていない。2019年10月からの消費増税に伴う家計消費支出の大幅な減少が響いた。 そうでなくても弱い国内消費が、消費増税によって一気に悪化した格好になったのである。 そこに、さらに新型コロナによる経済停滞が加われば、国内消費は「底が抜ける」。消費を下支えする「唯一の期待」だったインバウンド消費が激減することは火を見るよりも明らかだ。 目も当てられない悪化ぶり たとえば、日本百貨店協会が発表した1月の全国百貨店売上高は、前年同月比3.1%の減少となったが、それでも春節による中国人訪日旅行客の増加で、免税売上高は20.9%も増加した。1月の全体の売上高は4703億円で、そのうち免税売上高が316億円なので、6.7%を占めたことになる。もちろん免税対象品以外も買われているので、インバウンド消費の効果は大きい。 逆に言えば、免税売上高が2割も増える中で、全体は3.1%も減ったわけで、昨年10月の増税から4カ月たってもいかに国内消費が弱いかということが分かる。 また、春節期間(1月24日〜30日)の免税売上高は2ケタのマイナスだった百貨店が目立ったと報道されたが、それでも1月全体のインバウンド依存は大きかったわけだ。何せ、1月の中国からの訪日旅行客は92万4800人と、前年同月に比べて22.6%も増えている。 ちなみに、春節後の2月1日まで、日本政府が武漢を含む湖北省などからの旅行者受け入れを停止せず、その後も中国からの旅行者を規制していないことにも批判が集中している。 だが、仮に春節前に中国からの旅行客をブロックしていたら、消費は目も当てられない悪化ぶりになっていたことは容易に想像が付く。 なお、昨年は2月に春節があったので、対前年同月比では2月のインバウンド消費が落ち込むのはもちろん、これに新型コロナ問題が加わったことで激減することになった。百貨店大手4社が3月2日に発表した2月の売上高速報は、大丸松坂屋百貨店が21.8%減、三越伊勢丹が15.3%減など、軒並み2ケタのマイナスになった。 また、様々な行事が中止になっている3月は、訪日客が激減していることもあってさらに消費が落ち込む懸念が強い。 乗数効果が下がる経済対策 インバウンド消費で最も影響が大きいのは、4月だ。ここ数年、中国などアジア各国の人たちの間で、日本の桜を見るツアーが人気を博してきた。4月の訪日客は、実は春節の月よりも多い。 たとえば2019年の場合、春節の2月は260万人だったが、4月は292万人。多くの国が夏休みの7月(2019年は299万人)に次いで、4月がインバウンドの稼ぎ時なのである。 現状では、4月の旅行計画を組むのは難しいだろうし、今年の「桜の時期」は例年になく外国人観光客が少なくなるに違いない。 2019年の訪日外国人旅行消費額は、観光庁の推計によると4兆8113億円。うち36.8%に当たる1兆7718億円が、中国からの旅行者だ。まだ訪日客も増えてインバウンド効果もあった今年1月はともかく、2月以降の数値では、確実にインバウンド効果が減少しているはずだ。しかも、いまや訪日客減は中国からだけではなく世界傾向であるため、仮に全体の旅行消費が半減したとすると、2019年実績数値から単純計算すれば、2月からの3カ月間で6000億円の消費が消えることになる。 こうした消費の減少で中小企業の収入が激減し、資金繰りが悪化した場合、政府がそれを支援する、というのが今回の会見で安倍首相が示した方針だ。これを融資で支援するのであれば通常の危機対応でもあるので、それほどの混乱はないかもしれない。 だが、収入の減少や雇用の確保に向けた人件費の負担を政府が行うことになれば、その財政負担は大きい。それでも考えられる限りの支援を安倍首相は行うつもりに違いない。 経済が猛烈な勢いで縮小しかねない時に政府が財政支出をするのは、伝統的な経済対策だ。しかし、土木工事を中心とする公共事業では経済を底上げする力が弱くなってきていることは明らかだ。政府の支出額以上に経済効果が大きくなる「乗数効果」が下がっているのである。 経済全体のサービス化が進み、消費がGDPの55%近くを占める中で、土木や建築などの工事に従事する人の数も減り、全国的に消費を押し上げることが難しくなっているのである。 今回、「非常事態」ということで、消費産業や働く個人に直接、国の財政支援が行われる仕組みができれば、予想外に景気下支えの効果を引き出すことができるかもしれない。 さらに新型コロナが終息した直後からの景気の立ち上げを力強くするためには、本格的な消費支援策を打ち出す必要が出てくる。 もっとも効果があるのは、時限的な「消費税の減税」だろう。 れいわ新選組代表の山本太郎氏が「消費税率ゼロ」を主張したり、立憲民主党などとの野党連携を想定して消費税率5%への引き下げを議論するなど、野党から出ていた「奇抜な案」は実現不可能とみられていたが、「非常時」に乗じれば、安倍政権が実行に移すことも可能になるはずだ。  磯山友幸 1962年生れ。早稲田大学政治経済学部卒。87年日本経済新聞社に入社し、大阪証券部、東京証券部、「日経ビジネス」などで記者。その後、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、東京証券部次長、「日経ビジネス」副編集長、編集委員などを務める。現在はフリーの経済ジャーナリスト。著書に『2022年、「働き方」はこうなる』 (PHPビジネス新書)、『国際会計基準戦争 完結編』、『ブランド王国スイスの秘密』(以上、日経BP社)、共著に『株主の反乱』(日本経済新聞社)、『破天荒弁護士クボリ伝』(日経BP社)、編著書に『ビジネス弁護士大全』(日経BP社)、『「理」と「情」の狭間——大塚家具から考えるコーポレートガバナンス』(日経BP社)などがある。 関連記事 「水際」で失敗して「モグラ叩き」:「新型肺炎」医療インテリジェンスで適正な対策を 北朝鮮「外貨保有減少」と「注目人事」 LNG市場で波紋を呼ぶ「新型肺炎」中国の「不可抗力」免責 「世界経済」占う「スイス時計」新型肺炎は影響するか 「新型肺炎」で石油需要「大幅減」油価「下押し」か (2020年3月3日フォーサイトより転載) 「消費減税」の可能性も? 新型コロナウイルスの経済対策「何でもあり」 「消費減税」の可能性も? 新型コロナウイルスの経済対策「何でもあり」 {$excerpt:n} {$inline_image}
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