#大野一雄舞踏研究所
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月1日(金曜日)
『中国の代理人』、最後の『パンダハガー』の大物
怪物キッシンジャー、毀誉褒貶のなか、百歳の大往生
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1971年、世界に孤立していた中国に「利」を説いて近づき、反米路線を大胆に修正させたリアルポリティックスの体現者は、その北京秘密訪問が劇的だったので、なぜかアメリカ外交の立役者のように言われた。
じっさいに現在のホワイトハウスの対中影響力よりヘンリー・キッシンジャーの立場は強いと評価された(台北タイムズ、12月1日)。なお中国語のメディアはキッシンジャーを基辛格(環球時報、連合報)、季辛吉(台湾『自由時報』)と書く。
キッシンジャーは1969年から1977年までの八年間、米国外交の舵取りを担った。ロックフェラ-の外交顧問だった彼を政権に招き入れたのはリチャード・ニクソン大統領だった。
ニクソンとキッシンジャーが、外交で重視したのはリアリティであり、モラルやイデオロギーより優先し、力の均衡で冷戦構造を形成した文脈では戦後米国外交の立役者ニクソンと並ぶだろう。
ところがFBIの工作でウォーターゲート事件のスキャンダルに襲われたニクソンがレイムダック入りした時���に、キッシンジャーはするりと外交の主役の座をもぎ取っていた。
従来の歴史学に重点に置いて学説、地政学の伝統に囚われてき外交を、リアルポリティックの実現に結び、米中関係の回復、ソ連の孤立化を導き出した。これは元来、ニクソン大統領の発想だった。ところが、北京秘密訪問を演じたキッシンジャーにスポットが当たった。
当時、NYタイムズにでた風刺漫画を筆者は鮮明に記憶している。
ニクソンとキッシンジャーがホワイトハウスの庭を歩いている。柵外からみていた見物人が言う。
「ところでキッシンジャーのとなりにいるのは誰だい?」
キッシンジャーは泥沼に嵌まっていたベトナム戦争を早期終結されるため、ラオス、カンボジアのホーチミンルートに秘密爆撃をなして圧力をかけ、ベトナムと交渉し、停戦をもたらす「功績」があった。
これでノーベル平和賞をうけたのが、彼の絶頂だったのではないか。
「あのノーベル賞はいかがわしい」とする世評をよそに、トニー・ブレア元英国首相などは「外交を芸術にした」などと褒めあげた。「和製キッシンジャー」と言われた若泉敬(佐藤栄作時代の沖縄返還の密使)は、「キッシンジャーの著作に書かれたことを信用するな」と言っていた。
NYタイムズのコラムには「偽善者」というコラムが掲げられた(11月30日)。
キッシンジャーは中東和平でもエジプト、シリアを説得し、中東地域の秩序と安定を優先させたが、最大の成果はサウジアラビアとの密約で「ペトロダラー体制」を構築したことである。
▼リアリスト外交官の光と影
一方でキッシンジャーはチリの軍事クーデターへの介入など暗い面も多く、セイモア・ハーシェ、オリバー・ストーン等はキッシンジャーを「戦争犯罪人」と呼んだ。ニクソンを継いだフォード政権下で引き続き米国外交を担い、ときに大統領よりパワフルだった。
「中国は一つ」という幻影を作り上げたのはキッシンジャーであり、北京訪問は百回を超えたが、台北へは一度も足を踏み入れなかった。『中国の代理人』の面目躍如だ。
「台湾問題は解決不可能。戦争を避けるには時間の経過をまって、米中の話し合いでしか前進はない」などと台湾を不快にさせる発言が連続した。台湾はキッシンジャーを評価しないのも当然である。
1977年に理想主義を掲げたジミー・カーター政権が誕生すると、晴れ舞台をさった。替わって安全保障担当の大統領補佐官となったのはポーランド系ユダヤ人のズビグニュー・ブレジンスキーというグローバリスト、中国礼賛学者だった。
大統領当選前の1976年にカンザスシティで開催された共和党大会で、ロナルド・レーガン「キッシンジャーとフォードの下でこの国は、二番手になることは致命的ではないにしても危険な世界で、軍事力で第二位になった」と指摘していた。
米国の保守派はキッシンジャーを首肯していなかった。
1981年から82年までのレーガン政権では、キッシンジャーは共和党主流派から遠ざけられた。レーガンの支持者の多くがキッシンジャーを蛇蝎の如く嫌った。「反共」の信念が希薄だと言うのである。
このため、かれはロビィ活動と著作活動で、外野席からの影響力を保持した。
キッシンジャーは1982年に親中ロビィ団体「キッシンジャーアソシエイツ」を設立し、スコウクラフトら歴代大統領補佐官を政権中枢の送り込み、事実上の中国外交を舞台裏で担う。最大の顧客は北京だった。
晩年にニクソンは言った。
中国の不気味な台頭に「われわれの意図に反して、フランケンシュタインをつくってしまったのではないか?」。
米国外交は道を誤った。
キッシンジャーは、結果的に「中国の代理人」だったことを忘れてはならないだろう。だから中国はキッシンジャーが訪中すると特別待遇で報い、五月の百歳誕生日にはわざわざ王毅外相がNYの国連本部に近いキッシンジャーのオフィスに挨拶に訪れ、七月の訪中でも習近平がじきじきに会った。
▼米国が中国の脅威を認識するに時間がかかった
中国が軍事大国としてのしあがり、アジアの脅威となると、対中国スタンスを徐々に変えたのはオバマ政権後半からだった。
だが、オバマ政権は外交的手腕のないブレーンで周りを固めたため、大胆な方針の切り替えは出来ず、トランプの登場を待たなければならなかった。
トランプは就任前にキッシンジャーをNYのトランプタワーに呼んだ。しかし彼の言うことを「聞き置く」だけで、はっきりと安全保障方面では中国敵対路線に切り替えた。
この基本方針だけはバイデンも踏襲した。つまり、トランプ政権誕生でキッシンジャーの神通力は消えていたのだ。
キッシンジャーが拘わった各国は如何なる反応をしたか?
中国は「中国を理解した最大の友人を失った」とし、「米中時代の終わり」という論調が華字紙に溢れた。
インドは「彼は一度、インドを蹴飛ばし、やがて近寄ってきた」(『ザ・��イムズ・オブ・インディア』、12月1日)と評価は冷たい。
イスラエルは「ユダヤ人ならびにイスラエルにとって、キッシンジャーは英雄であり、また悪人である」(『ハーレツ』、11月30日)
米国は「毀誉褒貶甚だしいが、かれが冷戦構造を形成した」(NYタイムズ)
「権力こそが最大の媚薬であると信じた世界情勢の巨人」(英紙『タイムズ』)
キッシンジャーは反日家だった。日本での講演はべらぼうな額をふっかける「商売人」の側面が強くあった。
それはともかくとして、現在のブリンケンもサリバンも、最後のパンダハガーの威圧的風圧に比べるとその力量たるや、軽い、軽い。
平林たい子が中曽根を評して「鉋屑(かんなくず)のように軽い」としたが、バイデン政権における米国外交の担い手たちの軽きこと!
▼ロシアはいかなる反応を示したか?
モスクワタイムズは次のように報道した(11月30日付け)
「キッシンジャーは、冷戦時代に米国のソ連との緊張緩和の主要な立案者として、米国の外交政策だけでなく、ロシアの外交政策にも消えない足跡を残した。ウクライナ戦争中、ロシアと米国の対立が激化していることに深い懸念を表明する一方で、ウクライナのNATO加盟支持を途中から(23年5月から)主張するようになった。」
英誌『エコノミスト』で、「もし私がプーチン大統領と話したら、彼もまた、NATO加盟国であるウクライナのほうが安全だと言うだろう」とし、ロシアと中国の関係の将来については懐疑的だった。
キッシンジャーは同誌のインタビューで続けた。
「両国間の制限のないパートナーシップの公式宣言にもかかわらず、北京とモスクワ双方での相互軽蔑を感じた。私は中国について良いことを言ったロシアの指導者に会ったことがない。そして、ロシアについて良いことを言った中国の指導者に会ったことがない」
クレムリン宮殿は下記のプーチン談話を発表した。
プーチンはキッシンジャー氏を「優れた外交官、賢明で先見の明のある政治家」と評し、「外交政策への現実的なアプローチはヘンリー・キッシンジャーの名と密接に結びついており、国際的な緊張緩和を実現し、世界安全保障の強化に貢献した最も重要なソ連・アメリカ協定を締結することを可能にした」と評価した。ホンネとはとれない。

最後にキッシンジャー路線とは距離をおく情勢の流動化のなか、米国の「レーガン基金研究所」が11月30日に発表した世論調査では「中国が台湾侵攻した場合、アメリカ国民の72%が台湾独立を支持する」とした。
NYタイムズは台北総督府で蔡英文総統にインタビューを行った。これも異例の珍事である。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志���載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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[2024-05-20] 賴清德總統就職演說:打造民主和平繁榮的新台灣【全文】
蕭美琴副總統、各位友邦的元首與貴賓、各國駐台使節代表、現場所有的嘉賓,電視機前、還有線上收看直播的好朋友,全體國人同胞,大家好:
我年輕的時候,立志行醫救人。我從政的時候,立志改變台灣。現在,站在這裡,我立志壯大國家!我以無比堅定的心情,接受人民的託付,就職中華民國第16任總統,我將依據中華民國憲政體制,肩負起帶領國家勇往前進的重責大任。

回想1949年的今天,台灣實施戒嚴,全面進入專制的黑暗年代。1996年的今天,台灣第一位民選總統宣誓就職,向國際社會傳達,中華民國台灣是一個主權獨立的國家、主權在民。
2024年的今天,台灣在完成3次政黨輪替之後,第1次同一政黨連續執政,正式展開第3任期!台灣也揚帆進入一個充滿挑戰,又孕育無限希望的新時代。
這段歷程,是這塊土地上的人們,前仆後繼、犧牲奉獻所帶來的結果。雖然艱辛,但我們做到了!
此時此刻,我們不只見證新政府的開始,也是再一次迎接得來不易的民主勝利!
許多人將我和蕭美琴副總統的當選,解讀為「打破8年政黨輪替魔咒」。事實上,民主就是人民作主,每一次的選舉,虛幻的魔咒並不存在,只有人民對執政黨最嚴格的檢驗、對國家未來最真實的選擇。
我要感謝,過去8年來,蔡英文前總統、陳建仁前副總統和行政團隊的努力,為台灣的發展打下堅實的基礎。也請大家一起給他們一個最熱烈的掌聲!
我也要再次感謝國人同胞大家的支持,不���外來勢力的影響,堅定守護民主,向前走不回頭,為台灣翻開歷史的新頁!
在未來任期的每一天,我將「行公義,好憐憫,存謙卑的心」,「視民如親」,不愧於每一份信賴與託付。新政府也將兢兢業業,拿出最好的表現,來接受全民的檢驗。我們的施政更要不斷革新,開創台灣政治的新風貌。
一、行政立法協調合作,共同推動國政
今年2月上任的新國會,是台灣時隔16年後,再次出現「三黨不過半」的立法院。面對這個政治新局,有些人抱持期待,也有些人感到憂心。
我要告訴大家,這是全民選擇的新模式,當我們以新思維看待「三黨不過半」,這代表著,朝野政黨都能分享各自的理念,也將共同承擔國家的種種挑戰。
然而,全民對於政黨的理性問政也有很大的期待。政黨在競爭之外,也應該有合作的信念,國家才能踏出穩健的步伐。
立法院的議事運作應該遵守程序正義,多數尊重少數,少數服從多數,才能避免衝突,維持社會的安定和諧。
在民主社會,人民的利益至上,這是民主的根本;國家的利益優先於政黨的利益,這是政黨的天職。當朝野政黨推動法案,都能夠合乎憲法,秉持「人民至上」、「國家優先」的精神時,國政自然順利推展。
行政院卓榮泰院長率領的內閣團隊,也將優先解決對社會有益、朝野有共識的議題,以積極行動、創新思維,解決民瘼,來回應民意、服務人民。
目前,0403災後的復原工作正在進行。我要再次向罹難者表示哀悼、慰問家屬。我也要感謝所有協助救災和重建的國人,以及再次感謝國際社會的關心和支持。
中央政府已經規劃投入285.5億元,來協助重建及產業振興,幫助花蓮民眾可以儘早恢復正常生活。
我對未來中央和地方的互相合作、行政和立法的協調運作,寄予厚望,也希望跟所有國人攜手努力,一起深化台灣的民主,維護印太的和平,促進世界的繁榮!
二、民主台灣,世界之光
各位國人同胞,民主、和平、繁榮是台灣的國家路線,也是台灣與世界的連結。
台灣是「世界民主鏈」的亮點,民主台灣的光榮時代已經來臨!
台灣自從總統直選以來,已經成為全球最蓬勃發展的民主國家之一。我們持續提升人權,向世界展現民主自由的價值。
台灣是亞洲第1個同性婚姻合法化的國家。台灣示範了,民主防疫可以優於專制防疫。台灣不論是民主指數,或是自由度的評比,在亞洲的排名都是數一數二。民主台灣已經是世界之光,這份榮耀屬於全體台灣人民!
未來,新政府將持續善用台灣的民主活力,推動國家發展,也加深國際合作。
對內,我會用人唯才清廉勤政,並落實民主治理,建立開放政府,以「公開透明」、「人民作主」的精神,鼓勵大眾參與公共政策,繼續推動18歲公民權,共同實踐國家的願景。
對外,我們將持續與民主國家,形成民主共同體,彼此交流各領域的發展經驗,一起對抗假訊息,強化民主韌性,因應各項挑戰,讓台灣成為民主世界的MVP!
三、民主台灣,世界和平舵手
和平無價,戰爭沒有贏家。明年,第二次世界大戰結束就滿80年,台灣和各國都一樣,走過戰後艱辛的復興道路,才有今天的發展成果,沒有人願意讓戰爭摧毀這一切。
如今,俄烏戰爭和以哈戰爭持續衝擊全世界,中國的軍事行動以及灰色脅迫,也被視為全球和平穩定最大的戰略挑戰。
台灣位居「第一島鏈」的戰略位置,牽動著世界的地緣政治發展。早在1921年,蔣渭水先生就指出,台灣是「世界和平第一關的守衛」,在2024年的今天,台灣的角色更加重要。
國際間已經有高度共識,認為台海的和平穩定,是全球安全與繁榮不可或缺的要素。
為了因應當前複雜的國際情勢,世界各國已經展開積極的合作,來維持區域的和平穩定。
就在上個月,美國也完成了「印太安全補充撥款法案」的立法,將提供印太區域額外安全援助,支持台海的和���穩定。
我們感謝世界各國對台灣的重視和支持,我們也要向世界宣告:民主自由,是台灣不可退讓的堅持,和平是唯一的選項,繁榮是長治久安的���標!
由於兩岸的未來,對世界的局勢有決定性的影響,承接民主化台灣的我們將是和平的舵手,新政府將秉持「四個堅持」,不卑不亢維持現狀。
我也要呼籲中國停止對台灣文攻武嚇,一起和台灣承擔全球的責任,致力於維持台海及區域的和平穩定,確保全球免於戰爭的恐懼。
台灣人民熱愛和平與人為善。我始終認為,如果國家領導人以人民福祉為最高考量,那麼,台海和平、互利互惠、共存共榮,應該是彼此共同的目標。
因此,我希望中國正視中華民國存在的事實,尊重台灣人民的選擇,拿出誠意,和台灣民選合法的政府,在對等、尊嚴的原則下,以對話取代對抗,交流取代圍堵,進行合作,可以先從重啟雙邊對等的觀光旅遊,以及學位生來台就學開始,一起追求和平共榮。
各位國人同胞,我們有追求和平的理想,但不能有幻想。在中國尚未放棄武力犯台之下,國人應該了解:即使全盤接受中國的主張,放棄主權,中國併吞台灣的企圖並不會消失。
面對來自中國的各種威脅滲透,我們必須展現守護國家的決心,提升全民保家衛國的意識,健全國安法制,並且積極落實「和平四大支柱行動方案」,強化國防力量,建構經濟安全,展現穩定而有原則的兩岸關係領導能力,以及推動價值外交,跟全球民主國家肩並肩,形成和平共同體,來發揮威懾力量,避免戰爭發生,靠實力達到和平的目標!
四、民主台灣,世界繁榮推手
台灣需要世界,世界也需要台灣!台灣不只是打開世界的大門,台灣已經走到世界舞台的中心!
展望未來的世界,半導體無所不在,AI浪潮席捲而來。現在的台灣,掌握半導體先進製程技術,站在AI革命的中心,是「全球民主供應鏈」的關鍵,影響世界經濟發展,以及人類生活的幸福與繁榮。
各位,當我們主張中華民國台灣的未來,由兩千三百萬人民共同決定。我們決定的未來,不只是我們國家的未來,也是全世界的未來!
我們要走對的路,產業要大展身手做世界繁榮的推手,讓台灣每前進一步,世界就向前一步!
過去,我擔任行政院長、副總統,到全國各地的產業拜訪,我了解產業的潛力和需求。未來,政府會跟產業界密切合作,把握3大方向,推動台灣的發展。
第1個方向是「前瞻未來,智慧永續」。
面對氣候危機,我們必須堅定地落實2050淨零轉型。面對全球智慧化的挑戰,我們站在半導體晶片矽島的基礎上,將全力推動台灣成為「人工智慧之島」,促成人工智慧產業化,加速人工智慧的創新應用,並讓產業人工智慧化,用人工智慧的算力,來提升國力、軍力、人力和經濟力。
我們也必須發展創新驅動的經濟模式,透過數位轉型,以及淨零轉型的雙軸力量,來協助中小企業升級轉型,追求包容性成長,打造智慧永續新台灣,創造台灣第2次的經濟奇蹟。
除了投資新創,培育新世代隱形冠軍之外,無論是量子電腦、機器人、元宇宙或精準醫療,各領域的前瞻科技,我們也都要大膽投資,讓年輕人可以追逐夢想,也確保台灣在未來世界的領先地位。
第2個方向是「競逐太空,探索海洋」。
我們立定目標,要讓台灣成為無人機民主供應鏈的亞洲中心,也要發展下一個世代通訊的中低軌道衛星,進軍全球太空產業。
我們更要探索海洋,發揮海洋國家的優勢,豐富人民的海洋生活,並且投入海洋科技研究,推動海洋產業發展,提升國家競爭力。我們要讓台灣的經濟與產業,往更多面向發展,無遠弗屆。
第3個方向是「布局全球,行銷全世界」。
台灣已經申請加入CPTPP,我們會積極爭取加入區域經濟整合;跟世界民主國家簽訂雙邊投資保障協定,深化貿易夥伴關係;並解決碳關稅問題,進一步開拓發展空間。
我們也要站穩全球供應鏈的關鍵地位,好好把握地緣政治變化所帶來的商機,發展半導體、人工智慧、軍工、安控,以及次世代通訊等「五大信賴產業」,並且持續改善投資環境,歡迎台商回台投資,鼓勵在地的企業擴大投資,根留台灣。
我要向各行��業的朋友保證:各位有雄心壯志,追求頂尖,政府也有決心鼎力相助,讓台灣的產業能夠立足台灣、布局全球、行銷全世界!
台灣絕對有能力成為「經濟日不落國」,無論太陽從哪裡升起,都可以照到台灣的企業,造福當地的發展,也讓台灣人民能夠有更富足的生活!
五、樂民之樂,憂民之憂
我深信,經濟發展的果實應該為全民所共享。未來,在推動「國家希望工程」、擴大社會投資之下,我要建立一個有愛和道德勇氣的台灣社會。年輕人可以看見希望,壯年人可以實現夢想,老年人可以擁有幸福,弱勢者可以得到照顧。每一個人在人生的每一個階段,都能夠獲得政府的支持。
未來,幼托、長照、社會住宅等服務要延續擴大;物價、房價、貧富差距等問題,要不斷改善;食品安全、道路安全、校園安全、社會安全網等保障,要持續強化;對於教育、司法、轉型正義等改革工作,也都要持續做下去!
我也了解國人對生活的煩惱和期待,凡是各位關心的議題、社會需要的改革,政府都會積極以對,全力以赴。
大家希望收入更高,我會推動產業升級,創造更好的薪資環境。大家期待治安更好,我會積極打擊黑金、槍、毒和詐騙。大家需要供電穩定,我會推動第二次能源轉型,發展多元綠能、智慧電網,強化電力系統的韌性。
大家關心勞保財務,我要再次強調,只要政府在,勞保絕對不會倒。大家重視交通安全,我會打造符合人本的交通環境,擺脫「行人地獄」的惡名。大家期待政府能夠幫助家庭照顧者減輕���擔,以及協助產業改善缺工的困境,這些問題,我都會積極解決。
迎向未來,我們都期待一個更強韌的台灣,可以妥善因應傳染病、天災地變等各類型災害,以及加速都市更新,解決危老建築的問題。
我們也期待一個更健康的台灣,我期許自己發揮醫師專業,集結各界的力量,打擊癌症,以及成立「體育暨運動發展部」,推展全民運動,並且確保健保永續經營,讓國人活得長壽又健康。
未來的台灣,要保有多樣性的生態環境,多元族群的文化,以實踐環境永續、文化永續,讓國家更美好。
未來的台灣會有更多元發展的創新經濟,會有更普及的數位科技應用,會有更好的競爭力和雙語力,會有更強大的公共支持服務體系,也會有更尊重性別平等的環境,讓每一位國民的權利受到保障。
未來的台灣更要讓每一個縣市依據特色發展,推動地方創生產業,落實「均衡台灣」的目標,處處可以安居,人人可以樂業!
六、團結力量大,繼續壯大國家
親愛的國人同胞,國家的未來發展需要每一分力量。面對全球化、全面性競爭的時代,沒有一個國家可以單打獨鬥,也沒有一個分裂的社會能夠成功面對。
團結一致,我們的腳步就更穩;相互扶持,我們的足跡就更遠。為了國家的生存發展,我將透過民主的力量團結所有國人,壯大國家。
我們都知道,有主權才有國家!根據中華民國憲法,中華民國主權屬於國民全體;有中華民國國籍者為中華民國國民;由此可見,中華民國與中華人民共和國互不隸屬。
每一個人,都要團結、愛護國家;任何一個政黨,都應該反併吞、護主權,不可為了政權犧牲國家主權。
當世界上有越來��多國家,公開支持台灣的國際參與,在在證明了,台灣是世界的台灣,台灣是全球和平繁榮值得信賴的力量。
全體國人不分族群,也不論先來後到,只要認同台灣,都是這個國家的主人。無論是中華民國、中華民國台灣,或是台灣,皆是我們自己或國際友人稱呼我們國家的名稱,都一樣響亮。就讓我們不分彼此,大家一條心,大步走向世界!
七、台灣新世界,世界新台灣
當台灣走進世界,我們也歡迎世界走進台灣。許多新住民朋友、外籍友人,從世界各地來到台灣,寫下屬於台灣的新篇章。我要感謝你們,也要向你們致敬!
今天現場,也有千里來訪的國際友人,有歸國的僑胞朋友,以行動支持台灣。我們是不是用最熱烈的掌聲歡迎、感謝他們!
今晚,我們接待國內外賓客的國宴,選擇在台南舉辦。1624年,台灣從台南出發,開啟台灣全球化的開端。站在「台南400」的歷史時刻,台灣更要展現自信,勇敢航向新世界,讓世界迎接新台灣。
我也要邀請每一位國人,和我一起為孕育你我的母親台灣喝采,我們一起用行動守護她、榮耀她,讓世界擁抱她,讓她成為國際上令人尊敬的偉大國家!謝謝大家!
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Ready, Go! ٩(◕‿◕)۶

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大名单:大公鸡报晓采访的143位民间中医名单和联系方式
83、踏访100位民间中医(83)桂林赵红萱:把人体当成微雕作品!
探索一种摸骨刮骨正骨的祖传绝活
赵红萱老师的联系方式——
电话:18007888622
微信:18007888622
84、踏访100位民间中医(84)桂林荔浦莫家友:独创绝活,治颈肩腰腿痛,用事实说话!自成一派,屡创奇迹
莫家友老师的联系方式——
电话:13737345938 15078312258
微信:M13737345938
85、踏访100位民间中医(85)广西柳州刘小燕:大隐于市,低调朴素!
神秘的36脉+奇门遁甲+独家鲜采野生药材!
救治大病重病无数
刘小燕老师的联系方式——
电话:15978247026,18611469166
微信:18611469166,18078255483
86、踏访100位民间中医(86)广西南宁覃桂杰
泌尿系统、前列腺问题,��他有绝招!
还有颈椎推拿复位,高血压治疗等
覃桂杰老师的联系方式——
电话:13597176938
微信:Q15994414719
覃桂杰老师个人网页:
www.qinguijie.com
87、踏访100位民间中医(87)广西博白庞宗雄
大爱!78岁老中医救死扶伤63年医疗经验无私分享!
独家妇科妙招、奇难杂症、中风肿瘤研究。
很遗憾,
采访两年后,庞老师仙逝。
88、踏访100位民间中医(88)广西玉林覃针超:网诊奇人!
后起之秀,新的思路,
调理重病大病疑难杂症,
这个九哥不简单。
覃针超老师的联系方式——
电话:13635022195
微信:rrf8888888
89、踏访100位民间中医(89)郑州雷执信:眼病,眼病!快,这有个厉害的老中医!
隐藏在物流公司的80岁大医
雷执信老师的联系方式——
因雷老先生年事已高,请各位联系时尽量言简意赅,且因为老人家不太会用微信,请直接电话联系或加助理微信。
雷执信老师电话:15238087696
微信:Leizhixin1
助理微信:gezi18538751156
女儿雷春芳电话:17703843873
90、踏访100位民间中医(90)广西北海杨明坤:低调瑶医绝招多!
杨氏脉法辩证,
擅用植物本草方剂、暖茶、手法、针法、灸法
杨明坤老师的联系方式——
电话:13737896188
微信:13737896188
91、踏访100位民间中医(91)湖南永州陈涛:药王谷里藏大医!
培养中医娃娃军,一群父母当义工
陈涛老师的联系方式——
电话:1877464####
微信:1877464####
92、踏访100位民间中医(92)侠医张胜林:病毒飞舞中的敢死队员!
哪有疫情去哪里,誓与新冠斗到底!
关键词:在多年的诊疗工作中,积累了丰富的呼吸系统疾病、肠胃病、高血压、心脑血管病、肥胖症、肿瘤及癌症等奇难杂症的治疗经验。
张胜林老师的联系方式——
电话:16603574589
93、踏访100位民间中医(93)湖北阳新县成名:有品有格!30年不收1分钱诊费,1副药仅几十元,堪称民间中医形象��言人!
关键词:胃肠道病、肝病、肾病、呼吸道病、心脑血管病、风湿骨病、妇科病、不孕不育等多种疑难病。
成名老师的联系方式——
成名老师之弟“成吉”先生电话:18696289218
94、踏访100位民间中医(94)浙江嵊州马中龙:山顶奇人,灵感诊断!
探索一种神奇的未知领域!
关键词:脑肿瘤、脑昏迷、脑外伤、癫痫、脑中风、各种癌症、重病大病
浙江嵊州马中龙老师联系方式——
电话:13968087899
微信:13968087899
95、踏访100位民间中医(95)浙江临海蒋文:医中侠客,好评如潮!万变书生,能医能武!都赞他家的药顶呱呱!
蒋文老师被当地称为“烧伤科的华佗”,圈粉无数。
至于带状疱疹(缠身龙)、脚气、牛皮癣、褥疮、痔疮等,他也能用祖传药方,涂涂抹抹,手到病除。
另外,他还有专门对付腰椎、颈椎、关节酸痛的祖传药水、膏贴。
浙江临海蒋文老师联系方式——
电话:13819676785
微信:13819676785
96、踏访100位民间中医(96)宁波李国伟:快!带状疱疹患者看过来,这有一位良医!
关键词:主攻缠身龙、面瘫、腰三横突综合征、颈源性头眩晕、阴暑及各类内外科疑难杂症。
宁波李国伟老师联系方式——
电话:13858288612
微信:13858288612
地址:宁波市江北区孔浦街道卫生服务中心
97、踏访100位民间中医(97)河南济源段新社:奇!天外飞石调理健康
关键词:陨石!主攻颈、腰椎间盘疼痛、坐骨神经、耳聋耳鸣等
段新社,这个原本是中医药的外行,愣是凭着自己的觉悟,依靠“天外飞石”——能量强大的陨石,自立门户,自创一派,多年来帮助患者救死扶伤,疗愈各种疾病,在当地的名气越来越响。
这,就是民间中医!
这,就是千奇百怪、各领风骚的民间中医绝活!
河南济源段新社老师联系方式——
电话:16639786611,0391-6698585
微信:16639786611
98、踏访100位民间中医(98)河南洛阳郭建宗:让民间中医走向合法职业!
一个很会看病的好律师,
一个会帮人打官司的好中医!
关键词:全科中医,涉及各种肿瘤、肌无力、精神类疾病、抑郁、癫痫、妇科、不孕不育等
邻居们说起郭建宗来,基本属于:
“一个很会看病的好律师!”
“一个会帮人打官司的好中医!”
“人品好,德行好,医术好!”
这就是一位律师行业中的民间中医!
这就是一位民间中医中的法律工作者!
河南洛阳郭建宗老师联系方式——
电话:13603963069
微信:13603963069
助手电话:15036985261
助手微信:15036985261
99、踏访100位民间中医(99)马鞍山蒋继金:魔高一尺道高一丈,看81岁老中医的降癌绝活!
“本人研究癌症五十多年,自拟验方,绝大多数患者,可在一个月见到效果,再巩固一个月,绝大多数患者即可告别死亡,重返健康!”
“癌症是人命关天的事,谁也不能说大话!”
“因为,中医博大精深,堪称世界医学的脊梁。”
“我这样说的主要目的,是为了挽救更多癌症患者的生命。”
安徽马鞍山蒋继金老师的联系方式——
电话:18611332384
微信:18611332384
100、踏访100位民间中医(100)陆广莘老师(已故):太震撼!中医泰斗曝实情:���医生不如信自己!这篇采访,患者要看,中医要看,西医更要看
他不是民间中医,他是国医大师!
中医界的泰山北斗级人物。
迄今为止,尚无几人敢声言能超越他。
陆广莘先生,也是大公鸡对中医“路转粉”的引路人,也是对大公鸡影响最深的人之一!
“有句话叫适者生存,其实应该是稳者生存,什么意思呢?就是敌军围困万千重,我自岿然不动!”
“所谓‘正气内存,邪不可干’,当人体内正气充足时,防御力就强,犹如铜墙铁臂,邪不可侵,什么病菌、病毒、外来的、内在的疾病干扰,都可以阻挡。”
他强任他强,清风拂山岗,他横由他横,明月照大江,他自狠来他自恶,我自一口真气足!
人体会对外来的侵略和内在的压力产生积极的自然的抵抗,我们叫做适应和对抗!
你是否有这些亲身经历,比如:
1、你一不小心,切水果时割伤了手指头,你去医院又上药又消毒又包扎,大概一个星期左右,好了。但是,你不可能每次都会去医院吧,偶尔有一次,你不包扎不上药,是不是也就一个星期左右,伤口就愈合了?
2、脸上生了个疥疮,很难受,但三四天后,疥疮是不是莫名消失了?
3、得了感冒,你去医院打针吃药挂水,三天左右就好了。你不打针不挂水不吃药,三天左右是不是也好了?
希波克拉底说��“无论是谁,要想治好自己的病,最好依赖自然治愈力”。
“再举个小例子,假如你不小心把皮肤蹭破了,还出了血,这时候怎么办?在你着急的时候,你会发现,血已经止住了,然后伤口自己结痂了,一段时间过去,痂脱了,皮肤就会基本恢复成原来的样子,一点痕迹都没有。”
“这一切之所以可以在我们不知不觉中完成,就是因为人体有强大的自我修复的本能——自愈能力。”
“而怎么样才能调动人体自身的自我康复本能?
中医!
中医的长项,就是干这个的!
大公鸡由此感悟:万物归宗,天下大同,是谓中医也!
可惜,陆广莘先生已故。
这一盏明亮的烛光,用尽一生照亮我们之后,自己却悄然湮灭。
永远感谢、永怀感恩陆广莘老先生,带我认知到中医的伟大!
101、踏访100位民间中医(101)穷人的大夫!西安武耀成:扎耳聋耳鸣、脑瘫、脑梗等有绝活
曾有几位粉丝朋友向大公鸡推荐:
1、“西安的武耀成老师,是一位真正的民间中医,对耳聋独树一帜,教授徒弟几百名,对穷苦病人一律免费,很有医德,杨老师,你可以了解一下!”
2、“通过网络了解了一些情况,通过我所了解到的东西,我的结论是:西安针炙大夫武耀成先生可以说是真正做到了大医精诚!”
3、38年耳聋,三分钟,一针定乾坤!14岁时中耳炎手术导致的左侧耳聋,1针后3分钟,重新找回儿时的听力!
4、穷人的大夫武耀成,一针针到见效,6岁孩童右耳躲过安装人工耳蜗的命运!
有学生说:“见过针灸的,没见过这么针灸的。武老师的扎针方法和教科书上讲的有很大差别,疗效却出奇的好。”
“甚至让我们的内心有那么点小纠结,因为从疾病的严重性来看,感觉病好的太快了。”
在央视拍摄的专题片《针灸功夫武耀成》里这样介绍:
他没有豪言壮语,却用最朴实的行动诠释着一名针灸大师最美的誓言;他30余载如一日,心系百姓,始终用最廉价的医疗成本、最传统的武氏针灸功夫呵护百姓健康,他就是百姓心目中的健康保护神、全国十��杰出青年志愿者、被誉为穷人的大夫武耀成……
西安武耀成老师的联系方式——
电话:17766923111,13488116357
微信:13488116357,17766923111
102、踏访100位民间中医(102)河南新郑尚飞:大爱大善!12透针绝活秘诀+独家处方公开!擅中风偏瘫、心脑血管、男科妇科不孕不育
“河南新郑有个乐善好施的好中医!”
“每次乡亲们有灾有难,尚飞医生都会捐款捐药!”
在踏访100位民间中医的路上,大公鸡听到如此消息。
为此,大公鸡按图索骥,慕名而来,寻访这个好中医。
河南新郑尚飞老师联系方式——
电话:18768883312
微信:13633740227
103、踏访100位民间中医(103)台州谭理祥:我辗转两年才见到的奇人!综医疗法,破关糖尿病、红斑狼疮、各类癌症、不孕不育
拜见浙江台州奇人谭理祥老师,有点不容易。
从两年前开始,台州的珠珠鱼女士就已经和大公鸡联系,简单介绍了谭理祥老师。
但因谭老师在黑龙江、北京和浙江地区来回跑,行踪不定,实难安排见面时间,再加上后来疫情阻碍,这一耽搁,就是辗转两年时间。
此前,外界有个关于谭理祥老师的传闻,就是他30多年来,在寒冬腊月里依然穿着短袖短衫,谈笑风生,无惧寒风冰雪。同时,他也是游走于上流与民间,不问贫富贵贱,为各种患者治病的传奇人物。
浙江台州谭理祥老师的联系方式——
电话:16268728888
微信:13179655888
104、踏访100位民间中医(104)安徽蚌埠杜秉乾:这个厉害了!治血液病、再障性贫血,好评如潮!他用大量事实向世界证明中医之伟大!
目前,全国各地的血液病患者(含再生障碍性贫血、纯红细胞再生障碍性贫血、各种血小板减少症及骨髓增生异常综合征等)不计其数。这类血液病治疗难度大,周期长,更有常年与死神苦苦抗争的重症患者,面对随时将与世界说再见的危险。
患者往往在各大医院采用西医治疗方案,主要是长期服用免疫制剂和激素治疗,严重者只能靠住院输血小板和红细胞维持生命,医疗费用高,治标不治本,依赖性强,最终可能还会面临输注无效的后果。而由此还可能发生用药期间的肝肾功损伤,副作用特别大,往往血液病没治好,还衍生出其他疾病,令患者崩溃不已……
这一趟,从上海专程驱车来这里,是值得的,尽管气候寒冷,但心里很温暖,因为我又找到了一个好中医,而且是专治血液病这种世界疑难杂症的民间中医!
安徽蚌埠杜秉乾老师的联系方式——
电话:13585106951
微信:13585106951
105、踏访100位民间中医(105)常熟屈建明:他救治了大量医院治不好的慢性肾病、肾衰竭、尿毒症、肾功能不全者
采访常熟的屈建明老师,是因为他能治疗慢性肾病、肾衰竭,且疗效显著,有口皆碑。
从人类医学进程来说,这是一个荒唐的时代:
有证有头衔的治不好病,却又不让能够治好病的民间中医行医,理由是他们没有证。
不会治病的人,偏要去做会治病的民间中医的主考官,就因为他们有证有头衔。
此番常熟不虚此行,因为我又发现了一个好中医,一个可以调治慢性肾病、肾衰竭、肾功能不好的好中医,一个可以叫板专家教授的民间大医。
常熟屈建明老师的联系方式——
电话:15150397480
微信:15150397480
106、踏访100位民间中医(106)山东商河昝圣旭:给精神病、抑郁症患者一个希望!
“精神病的发病机理非常复杂,既有内因,又有外因。既有五脏六腑的失调,又有脑神经的紊乱。内外因素,相互作用,脏与脑互相影响。”
“所以,如果在治疗过程中只治脑神经的紊乱,不治疗脏腑的失调,顾此舍彼,那一定是徒劳无功的”。
“而治疗精神病的化学药品,虽然可以穿透脑血屏障,取其暂时的抑制和兴奋,但是,服用久了,使脑神经麻痹迟钝,失调的脏腑气机更失调。”
“所以,现在有些地方治疗精神病,靶向只瞄准脑神经的治法,不仅仅是治此舍彼,更严重的弊端是治此伤彼,最后导致身心俱废,成为残疾是必然走向。”
“精神病人不再是残疾人! ”昝圣旭老师斩钉截铁的说。
精神类疾病医学的一角,终于亮起了一束炬火。
山东商河咎圣旭老师联系方式——
电话:18865419557
微信:18865419557
地址1:山东省潍坊市昌乐县济德医院
107、踏访100位民间中医(107)山东烟台宋玉明:奇术移疮,妙治脑梗,针灸扎新冠,绝活正脊骨,一位低调的抗疫英雄
这是一篇非常难写的采访报道。因为宋玉明老师的低调,因为他的不善言辞。
在民间,宋玉明老师因“把脉准、手法奇、针法绝、秘方(祖传)灵”,被誉为民间隐士高人。
除此之外,宋玉明老师还是扁鹊脉学传承人。
据了解,宋玉明老师在武汉率先大胆的使用古老的针灸,来对付这个���初令医生们都闻之色变的新冠肺炎病毒,成功救治了许多患者,他用铁一般的事实,向世界证明了中医的伟大!
宋玉明老师说:“那些都是在祖传的基础上,创立的宋氏手法、13579针灸、药物三联法,老祖宗的宝贝就是好使,在实际使用过程中,往往效如桴鼓,治愈了很多疑难杂症病人。”
烟台宋玉明老师联系方式——
电话:13356971632
微信:13356971632
地址1:北京宋玉明国际疑难病医学研究院
108、踏访100位民间中医(108)烟台全然道长:上古医之传承布道者
向中华文明的灿烂文化致敬!
向上古医传承布道者致敬!
向全然道长致敬!
烟台全然道长联系方式——
电话:18660557209,15066787368
微信:18660557209,15066787368
109、踏访100位民间中医(109)民医侠客于锦江:震撼,太敢说了!民间中医案件审理,建议采用中医的鉴定报告!
于锦江老师在民间中医圈子里颇有名气和威望,因为他的古道热肠,热心助人,敢说敢当,曾多次担任多起民间中医诉讼案的代理人。于锦江老师对民间中医案件的亲力亲为,尽心尽责,令大公鸡深为钦佩。
于锦江老师还经常在群里发一些自己的独特感悟和心得,对我们这些支持民间中医却又不甚了解的媒体人来说,实在是一份难得的资粮:
不用二甲双胍治病就是非法行医?
你西医不会治的病,为什么又不允许中医治?
中医为什么没有处理医疗纠纷的话语权?
中医的治疗方案,为什么要由西医来判定对错?
中医是我们的国医,为什么不能用?为什么要附属于西医?
什么叫延误了最佳治疗时机?到底是谁延误了谁?
在大公鸡眼里,于锦江老师像极了一个身披蓑衣仗剑走天下,为民间中医披肝沥胆的大侠。
于锦江老师联系方式——
电话:15927626479
微信:13104314782
110、踏访100位民间中医(110)山东潍坊苑娥:我要让大家都高兴!民间秘方的一次成功转化
对于民间中医将自己的绝招、绝活,以及祖传秘方转化为普及率更高的产品形式,进行规范化、合法化经营,大公鸡是非常支持的。
大公鸡认为,对于民间中医药瑰宝来说,这是一种非常良好的传承方式,且更有利于将民间中医的秘方验方推广到人民群众中去,让普罗大众都能够因此获益。
山东潍坊苑娥女士联系方式——
电话:18765683841
微信:18765683841
111、踏访100位民间中医(111)新疆杨嘉玲:天山一��医学瑰宝传奇!杨氏奇台接骨,骨折、腰椎、颈椎救治绝活
之所以来采访杨嘉玲老师,是因为听说她有祖传的接骨绝活,来自于新疆一脉的神秘传说——奇台中医接骨。
“奇台中医接骨”不但可以把折断的骨骼合拢起来,还可以使脱臼的关节恢复原位。
“奇台中医接骨”可以用推拿的手法复位功能障碍;
“奇台中医接骨”能用按摩的手法使闭塞的气血畅通,具有很好的效果。
“奇台中医接骨”主要是指奇台县杨氏骨科杨家祖传的中医接骨,其手把复位医术和外敷骨伤药独步中医药界,尤其是外敷中药,是奇台中医接骨第四代传承人杨万明、杨嘉玲、杨嘉欣的祖传秘方,是传统中医药中的瑰宝。
目前,奇台中医接骨的非物质遗产保护内容,主要囊括了两大绝活:
1、对闭合性骨折不做手术,手把复位,凡是闭合性骨折,基本上都能手把复位,手到病除;
2、祖传秘方,用祖传秘方自制骨伤外敷药膏敷于患处,疗效好。
杨嘉玲老师的联系方式——
电话:13999921850
微信:13999921850
112、踏访100位民间中医(112)上海林信德:大开眼界,上海奇人!探索中医真正的远程医学
和民间中医身份不同的是,林信德老师是学理工的科班毕业生,毕业于上海科技大学。
另一个不同是,他出生在西医世家。
他的代表成就是——疑难杂症的非药物自然疗法。
林信德老师说:“我们推崇的,是无药自然康复。”
“人体是一个自愈系统,由受精卵储存的3D数据,通过受孕妇女的子宫‘打印’出各种功能的组织、器官,当然,这里面有实芯或空芯,还有血管、神经网络、控制系统等。它的制造不是通过各种材料的裁剪、拼装等低端工艺制作出来的。人体的制造是在一个相对封闭的生态圈中,由生命信息数据通过人体的内在环境,被无缝、立体、一次性打印完成的,这里面,是没有组装过程的。”
林信德老师说:“意念炁功,真实还原、践行了古中医的智慧,遵循‘道’的智慧,让疾病调理过程摆脱痛苦,转化为徒手、安全、绿色的调理方法,尤其是被西医无从下手、放弃的各种疑难杂症的调理。”
上海林信德老师的联系方式——
电话:18917832223
微信:18917832223
113、踏访100位民间中医(113)山东济宁马庆生:罕见的76脉脉学传承!红斑狼疮等疑难杂症调理绝活
“马庆生老师的号脉堪称一绝,在中国的脉法中属于比较高的一种境界,无论是医院的仪器查得出或查不出的病症,马老师都能号出来,即使是以前得过的疾病已经康复了的,也能号出来。”
“这里有两家大医院,经常会邀请马老���去替那些住院的病号去会诊,那里的医生都感觉很神奇,感觉马老有透视功能似的,什么病症都能看到,其实这是通过家传的76脉脉学诊断出来的!”
在进行了初步的周边考察后,大公鸡觉得这位马庆生老师,非常值得去现场看一看。
也因为他治疗过多例红斑狼疮等疑难杂症。此前,曾有不少这方面的患者向大公鸡求助。
山东济宁马庆生老师的联系方式——
注:因马老师不会使用微信,需要联系者,可与马老师女儿马赫鸿老师联系(请在白天联系,夜间不接电话)
电话:18653702011
微信:17662136767
114、踏访100位民间中医(114)山东曲阜苏中堂:全身是病祸不单行,自学中医全部治好!在自我救治道路上成才的全科中医
他从18岁开始全身得病,在自我救治的道路上走向中医药之路,先后治好了自己的严重鼻炎、咽炎、股骨头坏死等多种疾病。
这是一篇与往不同的采访,全程充满了探索与思考。现在,欢迎您与大公鸡一起,看一看这个曾经的老病号自学成才为老中医的艰辛历程,以及他在疾病治疗中感悟到的宝贵经验和思辨过程。
山东曲阜苏中堂老师联系方式——
电话:13021781450
微信:13021781450
115、踏访100位民间中医(115)上海金山宋礽镛、顾娟花:上海金山一对夫妇用传承绝活拯救了无数患者,但谁来拯救他们?
宋老师的悠久家族传承,可以上溯到王阳明先生一脉。
2022年10月14日,大公鸡前往金山枫泾某乡村,找到了宋礽镛老师家。屋里有几个患者正在做针灸调理,其中有位非常年轻的女性,大公鸡感到比较意外。因为在年轻人的健康意识里,往往已经受到西方医学的引导,对中医比较陌生,能够来找宋老师和顾老师,并且能够亲身体验针灸,真是一件难得的事,也可一窥宋礽镛老师和顾娟花老师之医术医德,在当地已经口口相传。
“我们家传的此项针灸的核心技术,在于清除患者内体中隐匿的、现代医学难以找到的疑难杂症的病根、病史,给病患者消除隐患,带来健康长寿。”
“让我们引以为傲的是,至今为止,针对许许多多难以解决的疑难杂症的众多病患者,我们从没有医患纠纷事件及不良后果情况。”
上海金山宋礽镛老师、顾娟花老师联系方式——
电话:18964810995
116、踏访100位民间中医(116)陕西安康吴风平:至德至善,民医典范!九代传承,独门秘诀!
各种癌症、糖尿病、中风、类风湿、强直等高疑难杂症
吴风平老师曾经通过大公鸡报晓公众号,针对各地疫情,无私的献策献方,深受大家喜爱。
在我们群里,吴风平老师也谦虚低调,备���群友好评。
吴风平说:“中医不能断代,不能出现传承危机,更不能后继无人。”
“我们要让喜欢中医的人了解中医,让学习中医的人热爱中医,让从事中医的人感受中医药文化的魅力和润泽。”
“我们要让世界看到,中医才是人类健康真正的保护神!”
陕西安康吴风平老师联系方式——
电话:13991517253
微信:13991517253
QQ:876743073
117、踏访100位民间中医(117)广东惠州陈法古:发现岭南怪医!既效仿古贤,奉天法古,又不循常规,出奇制胜!
采访广东惠州的陈法古老师,完全是一个惊喜,因为他不仅有才,有德,有品,还有料。
其实陈法古老师早就在我们群里,大公鸡和其神交已久。陈老师的慷慨仗义,在我们群里是有口皆碑的,他曾经数次无私的帮助过困难的群友,还出资帮助过民间中医同行,解救过数位民间中医的危难。
“治好多少人我不知道,但有很多人我治不好。这是事实!”
“治好了人,没什么了不起的,你当医生的,治好几个人难道还要告诉全世界吗?难道这不是你应该做到的吗?”
“80年代前的医生配得起救死扶伤这个词,80年代后的医生变质了,也就是社会改变了人性,并非科学,有道德没良心,有良心没道德!”
”作为一个民间中医,你只有跟着患者才能学好中医!”“在所有的患者面前,我永远都是一个学生!”
广东惠州陈法古老师联系方式——
电话:13631939889
微信:13631939889
118、踏访100位民间中医(118)广东东莞黄波洋:亲见绝招!独门筋骨调治秘法,独家蛇伤秘方及罕见中医绝活
黄波洋,又名黄朝明,是祖传5代老中医,是“骨草堂中医馆”的创始人,出生于江西赣州中医世,9岁开始跟祖父学医采药,19岁开始独立为患者看病,拥有40多年行医经验,用自家的中医手法和秘方救治了数万患者。
黄波洋老师以专治医院放弃的各种疑难杂症而出名,具有多种传承绝活,包括独家中医手法、亲自上山采摘的草药、独家熬制配药等与众不同的看家宝贝。
黄波洋老师以及骨草堂中医馆的联系方式——
东莞:广东东莞市长安镇建安路长安花园商铺
电话、微信:13712022937 黄小姐
赣州:江西赣州市信丰县新田镇新田街
119、踏访100位民间中医(119)南京张宏强:高人有绝活,此处却不留‘爷’!中医骨科、接骨,针灸调理颈腰椎医术特长:中医骨科,中药接骨,针灸调治颈腰椎。调治颈腰椎间盘突出及压迫性疼痛,风寒湿腰腿疼痛有特效。对老年性腰椎压缩性骨折,股骨、颈骨骨折、闭合性、稳定性骨折等,调治手法独到,效果非常显著。80岁以下患者,治愈时间比常规治疗方法提前约三分之二,功能恢复期也提前约三分之二时间。串雅堂特色——效、简、廉、轻、灵、巧,患者痛苦少,费用少,康复快。
南京张宏强老师联系方式——
电话:13951653464
微信:Z13951653464
120、踏访100位民间中医(120)安徽灵壁陈树鹏:与众不同,自悟奇方妙招!痛风、各种疼痛、孩子近视、咳喘、月子病、心脏病...
他是个与众不同的民间中医,所有高招、绝活、妙方,全是自己融汇古今悟出来的……
而且,陈树鹏老师曾经多次无私奉献出他的治病方要,包括对于他比较拿手的痛风疾病、青少年视力调理等方面,都有独到的研究,且其人品医德让人信服。
而大公鸡前来采访的目的,是因为有大量的痛风疾病方面的粉丝求助,而陈树鹏老师恰好在痛风研究方面颇有心得体会。
结合不同恩师所教的不同的治痛方法,研究出了这种“治痛不在痛处”的方法,无需针灸师证,以指代针,无痛苦、恢复快!
“这样的创新,使得我们在治疗疼痛时,能做到不扎针,不吃药、不推拿、不按摩、不刮痧,不艾灸、不理疗、不挑疔,安全舒适、无痛苦,针对头颈肩腰腿足的近百种痛疼,尤其是腰椎间盘突出,椎管狭窄,或者椎管滑脱等疑难症状,90%可在五分钟内搞定,极少复发!”
安徽灵璧陈树鹏老师联系方式——
电话:18726250811
微信:18726250811
121、踏访100位民间中医(121)珠海都坤炼:现场见证中华绝技,无痛拔牙、骨伤奇招
珠海都坤炼老师联系方式——
电话:18249494849
微信:18249494849
122、踏访100位民间中医(122)北京顺义周玉清:带功治病、快速疗愈奇观。闭气功之颠覆创新,内气按揉五脏六腑显奇迹
北京顺义周玉清老师联系方式——
助手:东方红13263116581(微信同号)
周老师:13716609868 (微信同号)
123、踏访100位民间中医(123)云南澜沧拉枯族张扎思:用嘴吸出患者病气(包括各种结石) 的怪医!
张扎思老师联系方式——(无)
124、踏访100位民间中医(124)石家庄姜春艳:中医秘术宝库,牛皮癣、皮肤病等
石家庄姜春艳老师联系方式——
电话:18612482336 18603112336
微信:18612482336 18603112336
125、踏访100位民间中医(125)德州良医巷吴森博士:了不起的台湾大医!按他的水平和名望,诊金可以收几万!却甘愿在此免费义诊!
关于台湾吴森博士的联系方式,请直接联系其助理——
电话:0534-3698999,19953416855
微信:19953416855
126、踏访100位民间中医(126)北京房山王泳焺:���北京传说中的王氏正骨整脊、脏腑推拿秘术传承
徒手探病胜CT,意透之力驱病气!
北京王泳焊老师联系方式——
电话:13811265782
微信:13811265782
127、踏访100位民间中医(127)浑源赵贵富��挖呀挖!天下好黄芪在哪?名老中医、中药房都问他
恒山老药农赵贵富老先生联系方式——
因老药农赵贵富先生的工作精力一直在指导采挖工作,无法为大家一一提供“客服”服务,为了不打扰他老人家,有需要联系的朋友,不妨联系赵老师的助理——
助理电话:13363425269,0352-6060996
微信:13363425269,18914210097
128、踏访100位民间中医(128)苏州严医生:从病人到医生,从亲历到思辨,他的诊病角度与众不同
联系方式——(无)
129、踏访100位民间中医(129)河南焦作刘山:别把癌症当癌治!专攻晚期癌症、脾胃病
河南焦作刘山老中医的联系方式——
电话:13939165013,17539179927
微信:13939165013,17539179927
130、踏访100位民间中医(130)江苏邳州房继全:湿疹?银屑病?问问良医巷的皮肤病高手
“我自幼经常看到祖父辈用草药碾碎治疗皮肤病,有奇效,都是乡邻之间相互介绍,也不收费。”
“很多乡亲都一抹就好了,但传承了三代我们都并未以此为业,虽然我也经常跟着父辈学习,参与诊断治疗,并在工作之余,也会给前来寻求治疗的乡亲治疗,但直到退休后,发现老祖宗传下来的药方特别灵验,才下定决心推广房氏中药皮炎疗法。”
德州良医巷,房继全老师联系方式——
电话:18251778819
微信:18251778819
地址:1、山东德州良医巷
2、江苏省邳州市戴庄镇邮政局对面
——已采访完毕的未发布名单——
以下,是因为公众号《大公鸡报晓》被中医黑恶意投诉封号后,未来得及发布的民间中医老师。
131、踏访100位民间中医(131)良医巷刘景昭:风湿病研究
刘景昭老师联系方式——
电话:13465342765
微信:13465342765
地址: 山东省德州市良医巷中医院(永庆寺院内)
132、踏访100位民间中医(132)深圳孙建峰:道医研究
深圳道医孙建峰老师联系方式——
电话:13058193896
微信:13058193896
地址: 深圳市第二人民医院内银华大厦18楼深圳市道医堂
133、踏访100位民间中医(133)安徽陶长年:脑伤研究
安徽陶长年老师的联系方式——
电话: 13965908080
微信: 13965908080
地址:安徽省池州市青阳县新河镇石全石美店
134、踏访100位民间中医(134)潢川邹丙义:全科
潢川邹丙义老师联系方式——
电话:13837623680
微信:13837623680
地址:1、河南省潢川县火车站广场西侧京宁花园楼下邹丙义中医门诊
2、河南省信阳市光山县弦山街道弦山南路金色弦城小区西邹丙义中医诊所
135、踏访100位民间中医(135)唐山魏老师
魏老师学识渊博,胸怀抱负,但因采访后,相关材料一直未曾采集到,故此迟迟未发布。
唐山魏老师联系方式——(无)
地址: 河北省唐山市路北区
136、踏访100位民间中医(136)山东滨州高山老师:牛皮癣研究
高山老师实践经验丰富,可惜已经退隐,不再行医,主要原因是因为“无药源” ,因此我们无法提供高山老师的联系方式。
滨州高山老师联系方式——(无)
137、踏访100位民间中医(137)武医王宽:武术与中医的探索和研究
武医王宽老师联系方式——
电话:13920807223
微信:13920807223
地址: 广东省珠海市香洲区水湾路368号
138、踏访100位民间中医(138)太白山草医许建强:药王茶研究
陕西太白山草医许建强老师联系方式——
电话: 13809180183
微信:药王茶yi_ran_d
地址:陕西省宝鸡市太白县咀头镇北环路药王茶产业园
139、踏访100位民间中医(139)抗疫仁人义士:郭炜、李刚
郭炜老师联系方式——
电话:15267495468
微信:15267495468
李刚道长联系方式——
电话:19332294673
微信:19332294673
140、踏访100位民间中医(140)抗疫仁人义士:陈柏松、张新国等
陈柏松老师(道医陈宗松)联系方式——
电话:18967993688
微信:18967993688
地址: 杭州萧山螺山医院 浙江省杭州市萧山区青年路50号
张新国老师联系方式——
电话:18058413248
微信:18058413248
地址:浙江省绍兴市柯桥区东环路与柯北大道交叉路口东侧金柯·壹号街(金徕旺商贸中心店)1号楼开元M酒店8楼804室。
141、踏访100位民间中医(141)武当山杜佰鸿道长:中医文化之圆融
杜佰鸿老师乃方外之士,为不打扰杜老师清修,我们无法列出联系方式。
杜佰鸿老师联系方式——(无)
142、踏访100位民间中医(142)甘肃奇人真元子:捡拾失落的古中医绝技
真元子老师乃方外之士,为不打扰真元子老师清修,我们无法列出联系方式。
甘肃真元子老师联系方式——(无)
143、踏访100位民间中医(143)深圳黄宗堂博士:高科技生物干细胞研究:
黄博士是高科技人才,做的是自体干细胞穴位注射研究,对恢复长期新冠后遗症的失眠、疲劳,做了很多研究。
大公鸡已经亲身体会到了干细胞科技的魅力,相关采访报道和亲历体验文章已经撰写完毕,敬请期待。
黄博士的研究和突破,可谓用现代化生物高科技,发扬了中医经络理论,堪称今古结合,中西结合的典范。
黄宗堂博士联系方式——
微信:18688991538
注:因黄博常在开学术会议,或者在实验室工作,可能会无法及时接听电话。
——
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大公鸡奇闻
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今行くぞーっ と 一心で歩く
届けーっ と 笛を吹く 歌う
表現すること 生活すること
大切なことに気づかせてくれた人がいる
子どもたちが恐れや不安を抱くことなく
眠ることができる 静かな夜を…
踊る 笛を吹く 歌う 描く
それは祈り
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There will never be another Butoh sensei for me.
Please rest in peace Yoshito Ohno sensei.
心より御冥福をお祈りいたします。
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Anohni_大野慶人 William Klein x 大野一雄 寺田倉庫でのパフォーマンスと展示、たしかな心と眼、アノーニと大野慶人さんのアンプラグドライブ共演は中川幸雄さんと大野一雄さんの天空散華を憶わせる夢のような時間。VR体験やライブラリーの充実、会場構成も素晴らしい。 #Anohni #大野慶人 #Williamklein #大野一雄舞踏研究所 #寺田倉庫 #tokyo1961 #花と鳥 #anthony (寺田倉庫 TERRADA)
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では最後の党中央委員会と、その後の流れをまとめていく。最初から割と暗雲立ち込めてる感が強かった戦前の日本共産党もいよいよクライマックスを迎えていく。この時代の出来事や事件の多くは、戦後の日本社会に影を落とすことになる。
1933年12月 宮本・袴田・逸見による会合により、大泉・小畑へのスパイ査問を行うことで同意。宮本が査問委員長を務める。
11月に検挙された野呂が大泉を信頼して庇っていたために野呂時代では大泉の査問は出来なかった。野呂が逮捕されたことで宮本・袴田が党内のスパイ摘発へ本格的に取り組んでいくことになる。しかしその過程で疑心暗鬼に陥り、スパイでないものにも嫌疑をかけてしまう…。
1933年12月15日 大泉・小畑を査問するアジト設営に失敗。
1933年12月16日 「大串雅美リンチ事件」 10月の印刷所手入れの情報を流したスパイとして大串雅美を監禁した事件。大串は隙を見て逃走、当局に自首をした。
1933年12月23日 「大泉・小畑リンチ事件」 党中央部の大泉と小畑にスパイの嫌疑がかけられてリンチされた事件。大泉は自らも認めるスパイだったが、小畑はスパイではなかったとされる。小畑が疑われた理由は「天皇制打倒」の綱領を降ろした頃の全協のキャップが彼だったから(党の方針は正しいのだから、それに反対するのはスパイである小畑に全協が操られているからに違いないという理屈)というスパイ認定するには弱いものだった。結果として小畑は死亡し、大泉は逃走の後に自首している。大泉が逃走する前にでたらめにあげた党内のスパイの中に全協の小高保委員長・東京市委員会のキャップ荻野増治・そして小畑の3人がいた。
1933年12月26日 宮本顕治検挙
前日に宮本・逸見と会った荻野が2人の様子から自分もリンチされると察知して自首後に宮本を当局に売り渡した。これにより党内では大泉のでたらめスパイリストが信憑性をもち、党内清掃活動が活発化する
1934年1月7日〜(37日間) 「波多然リンチ事件」 大泉スパイリストにあった波多然にスパイの嫌疑がかかり、リンチされた事件。37日間3つのアジトを転���とされ、自らも「死ななかったのが不思議」と言うくらい凄惨なリンチをうけた。そして波多然はスパイではなかった。
1934年1月11日〜(37日間) 「大沢武男リンチ事件」 財政部で小畑の下にいた大沢武男にスパイの嫌疑がかかり、リンチされた事件。波多然同様、彼も凄惨なリンチを受け、そしてスパイではなかった。
このリンチ事件の数々をきっかけとして党組織は瓦解してゆく。元々中央部以外の党員は組織に関して限られた情報しか持っていなかった。それは当局に誰が捕まっても漏れ出す情報を制限するためだった。党員はお互いに"党"というだけでお互いを信頼していたが、リンチ事件が明るみに出ることで自分が繋がっている党員がスパイではないかとの疑心がつのり、党員同士の連絡が断ち切れてしまった。
1934年1月15日 大泉が査問アジトを逃亡。これにより「大泉・小畑リンチ事件」が発覚する。
1934年2月 党は全協に大泉・小畑の査問を説明し、2人と関わる人物を全協の中央から追い出し、党が全協の権力を握るようにすると通告。全協は反対し、結果全協委員長小高保がスパイとして疑われる。
1934年2月17日 党中央委員候補木島が検挙される。木島は党と全協を繋いでいた最後の線だったため、これ以降2つの組織は連絡を取れなくなる。
小高保の査問ができなくなった党は赤旗で全協を激しく批判する記事を掲載し、それに全協も応酬し対立してしまう。
1934年2月19日 野呂栄太郎極中で病死
1934年2月 プロレタリア作家同盟(ナルプ)解体。蔵原惟人・小林多喜二・宮本顕治らの指導した「政治の優位性」を批判し、みずから解体を決議した。
「政治の優位性」が指導されたことで、文学団体なのに政党・労組の活動という危険なことをやらされたり、文学的活動をしない人間が入ってくるといった事態になった。結果創作活動の低下を招いた。「政治の優位性」は事実をもってその破綻を証明されたとしてナルプの解体を決議した。
1934年2月27日 逸見重雄検挙
1934年3月 共産党系の大衆団体としてまだ力を残していた全農全会派が「△△××細胞会議」の声明文を発表。賛同団体が集まる。
リンチ事件のとき、会員のなかに紛れ込むスパイを見つけ出すため逸見が全農全会のキャップである宮内勇に詳細な会員名簿を提出するように指示した。しかし宮内はこれにより情報が漏洩することを危惧、これを拒否する。その後大泉の脱走から宮本は党中央にいまだスパイがいるのではという疑いを強くもつ。
同じように名簿提出を拒否して切られた団体や、そもそも名簿提出の指令が届かなかった団体が集まり「多数派」になっていく。
1934年4月2日 党中央委員秋笹政之輔検挙。党中央は袴田だけになってしまう。
1934年5月20日 中央奪還全国代表者会議(多数派)結成。「△△××細胞会議」を読んだ全国の団体が結集し、党中央を奪還しようと試みる。
1934年10月〜11月 多数派一斉検挙。これにより多数派は勢力を落とし、唯一残った関西の組織が活動を受け継いでゆく。
1934年3月4日 袴田里見検挙。中央委員会は壊滅し、戦前最後の日本共産党は終わりを迎える。
1935年7月25日 コミンテルン第7回大会 反ファッショ人民戦線方針決定。
ナチス・ドイツが独裁を成立させたことで、彼らがソ連に対して侵略行為をしてくる危険性が生まれた。それに伴いコミンテルンはファシズムに対抗するため「反ファッショ」の一点が一致するあらゆる政治勢力と手を組む方針に切り替えてゆく。階級闘争は民主主義擁護に、プロレタリア国際主義は民族主義に切り替えられた。
1935年8月 野坂参三、多数派運動を分派と批判。全ての分派組織の即時解散を命ずる。
1935年9月 多数派関西地方委は会議を開き、解散を決議。袴田が逮捕されているため共産党関西地方委と名を変え活動を維持してゆく。
1936年2月20日 野坂参三・山本懸蔵「日本の共産主義者へのてがみ」発表。コミンテルン第7回大会を踏まえて「天皇制打倒」スローガンを「セクト主義的誤謬」と自己批判。あらゆる大衆団体の中に入り、反ファッショ人民戦線を作る方針をとること。全協の非合法活動は無意味なので解体して全員が合法労働組織に入り、日常要求闘争をし、その左翼化を勝ちとっていくべきとした。
1936年2月26日 「二・二六事件」 皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが起こしたクーデター事件。その影響で陸海軍大臣現役制が復活し、軍部が内閣の生殺与奪権を握る。
1937年7月7日 「盧溝橋事件」 中華民国北京西南の盧溝橋で日本軍と中華国民革命軍が衝突した事件。これを機に泥沼の日中戦争が始まってゆく。
そして日本は本格的に軍事国家となり、日本共産党は表舞台から姿を消してゆく……。
感想的な 長かったけどやっと終わったー!それにしても急な坂道を転げ落ちるようにどんどん状況が悪化していって、本を読んでいるときも暗い気持ちになってしまった。リンチ事件の章で作者も書いていたけど、リンチしてもしなくても党が壊滅してしまうのは避けられないあたり、本当に「詰み」だったんだなぁと。その後分派した方が勢力が大きかったり、国内の事情を知らないモスクワから好き勝手言われたりと災難しか起きない。「日本の共産主義者へのてがみ」は本当に遅すぎて、もう今更そんなこと言われてもどうするんだよ感しかない。
この本を読んでまとめて思ったのは、誰がどんな政治信条を持とうが自由だけどその信条に対して責任感を持つべきなんだなということ。戦前の共産党も右翼勢力もソヴィエトなり国体なりを盲信してたけど、思想や象徴に盲信するとそれに対する責任転嫁が発生しやすい。「自分はこの理論(または国家)に従って行動しただけで自分に責任はない」というような。そうして結局は「この理論は完璧なんだから間違えるはずはない、現実がおかしいのだ」とか「お国のために戦う我々が負けるはずはない。戦場の兵士がだらしないからだ」と現実を正しく認識出来なくなってしまう。その先に訪れるのは悲惨な結果しかない。
長々と書いたけど、これで「日本共産党の研究」全3巻のまとめはおしまい。次回からはまただらだらと日常を書いていきます。では
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第35話 『旧き世に禍いあれ (3) - “猟犬の追尾"』 Catastrophe in the past chapter 3 - “Tracking hounds”
その黒い犬は、長い舌を口からだらしなく垂らしていた。太く曲がりくねったそれは、舌というよりも針のように尖っている。
褐色の闘犬に似た四肢を持っているが、頭の部分は妙にぼやけて見える。形がなく、いくつかの鋭い触手のようなシルエットのひとつが、長い舌のように見えてうねっていた。
その全体的に鋭利なシルエットは、狩猟犬を連想させた。
「何だこいつは……」
ゴットフリートの声だったのか、自分の声だったのか、それともふたりの声か。臭気と混乱で、フィリップには判断が出来なかった。
猟犬、なのだろうか。4つ足の黒い影はその太い四肢で地面にしっかりと立ち、周囲の様子を探っているように見えた。その異様な姿は生理的な嫌悪感が込み上げてくるものだったが、目を逸らすことができずにいた。こいつは一体何者なのか? どこから来た? 何故ここに? 仮にこいつが猟犬なのだとしたら、一体何を狩るためのものなのか。 何一つわからないにも関わらず、なぜか「こいつの狙いは自分だ」という説明不能な確信が強まっていく。
猟犬はゴットフリートには見向きもせず、フィリップの位置を見定めると、迷わず飛び掛かって来た。
やはりこちらに来たか、と心中で考える間もなく猟犬の舌先は首元まで迫っていた。先程受けたゴットフリートの攻撃より速い。
フィリップは即座に短距離のテレポートを行う。吐き気が込み上げるが、避ける方法は、フィリップの持つ術ではこれしかない。連続して転移を行って、魔力を使い過ぎた。
空間のブレが収まり視界が明瞭になった瞬間、フィリップは激しい痛みに苦痛の声を上げる。
「なっ!?」
確かに転移は成功したはずだった。
痛む左腕を見れば、注射針のような舌が刺さっている。
猟犬が傍らに突き立った最初とは別の盾から這い出てきている。長い舌は盾から半身だけを乗り出した猟犬の胴体から繋がっている。
フィリップはそれを引き抜こうと腕を振り回すが、抜けない。
攻撃をかわすために数歩距離を取って転移したのに、転移先の足元ですでに待ち構えていたかのような……。
猟犬は両足で地面をしっかりと捉え、頭部を振るってフィリップを引っ張る。
ゴットフリートは離れたところから、目と口を開けて呆然とその様子を見ている。
(まさか……こいつも短距離転移したのか?)
猟犬の下肢は傍の盾の影から伸びているように見えた。斜めに地面に突き刺さった盾の影から、隠れていた下肢の先が這い出してくる。
テレポートしたため、ゴットフリートとフィリップの間にはかなりの距離がある。
この距離をただ跳躍してきたとは思えない。この一瞬でそんな動きをしていたら、正確に左腕を狙う事もできそうにないし、その勢いでそのままフィリップに体当たりした方が早いだろう。人型ではない魔物で、転移術を使えるものはほとんどいないはずだ。覇王の軍勢の中でも、そんなやつは見たことがなかった。
転移でなければ説明がつかない。
(追尾するように転移して、土の地面と盾の間の空間から這い出てきた……? そんな、まさか……)
フィリップが振りほどけず、まごついている間に、舌を突き刺された左腕の変化がはじまった。
舌が刺さった周囲から、どんどんと左腕がしなびはじめたのだ。
「く、クソ……ッ!」
信じられないことの連続でパニックになりかけたが、フィリップはぐっと奥歯を噛みしめて正気を保つ。
ベルトのホルダーからナイフを取り出し、その舌を思い切り切り払った。舌は容易に切れ落ち、断面から暗い青灰色の液体がぼたぼたと垂れ落ちた。
すかさず後ずさって距離を取る。舌を切り落とされて喘いでいるように見えた猟犬は、今度は距離を保ったまま、すぐにこちらに飛んでくる様子はない。刺された左腕は、もう原型をとどめていなかった。
(腕が……なくなった……!?)
舌が抜けた後も左腕は、ミイラのように乾燥しながらどんどん細くなっていく。
ミイラというには、元の骨を無視した縮み方だった。水気を失いカラカラに乾いた野菜カスのようになっているが、内側の骨まで同様に萎縮したとしか説明がつかない。
痛みはない。すでに左腕の感覚は全くなくなっていた。かえってそれが異様に恐ろしく、フィリップは額に噴き出した冷や汗を袖で拭った。
あの舌はなんだ? 一体、何が起きた? 何かを吸われたのか? あの猟犬はどうやって足元に移動してきた? 左腕は諦めるしかないか? ぐるぐると脳をたくさんの言葉が駆け巡る。
(逃げろ……)
本能が叫ぶ。その通りだ。
逃げるしかない。ゴットフリートでさえ手に負えないのに、突然現れた襲撃者は、それ以上に危険な存在だった。この場に留まって状況を解決する術など、自分は何も持ってはいない。
じり、とフィリップがさらに後じさると、猟犬がそれを見て体を低くした。
再び、先ほど感じた刺激臭が強くなる。
ぼうっと青黒い煙が、あちこちに落ちている遺品の盾や剣、鎧といった角のあるものから幾筋も立ち上る。それぞれが凝って、どれもが同じように猟犬と同じ形状を取り始めた。左腕を奪ったはじめの一頭よりはいずれも小さいものの、やはり姿はそっくりで、姿を成すや、すべてがフィリップに敵意を向けて周囲を取り囲み始める。
(何だこれは……)
フィリップは頭の中で今まで読んだすべての文献や図録の記憶をひっくり返す。こんな怪物は、見たことも聞いたこともない。神話の類にもこのような存在が示唆された試しもなかった。
とにかく、とにかく逃げなければ。だが、どうやって?
すっかりと左腕は、押さえた右手で隠せるほど小さくなってしまった。
フィリップが駆け出す。同時に猟犬たちが地を蹴る軽い足音が響く。
「――……どうやら、てめえの飼い猟犬じゃなさそうだな」
低く太い声。
絶体絶命か。これほどの生物を前にして、さらにゴットフリートまで相手にする事など、不可能だ。
だが、ゴットフリートは、フィリップを追撃しようとする猟犬たちのいる方に剣の切っ先を突きつけて、がははと無遠慮に笑った。非常に愉快そうにその瞳の奥に紅蓮の炎が立ち上る。
「魔術師なんかよりも、数段面白そうじゃねえか! 猟犬!」
咆哮に近い怒号を上げ、剣を振りかざした。
その剣圧は風を切り裂く音を伴い、猟犬に襲い掛かる。離れたところにいたフィリップまで風圧が迫るほどの力強さ。
ゴットフリートの剣先は猟犬の一頭を切り裂く。それをはじまりにいくつもの猟犬を切り飛ばして、はじめに現れた個体に向かって行く。
猟犬たちはフィリップを追う邪魔をされて、すぐさま別方向に跳ねた。
ゴットフリートはその動きを読んでいたように、振り下ろした剣を真横に一閃する。
切っ先がかかりそうになるも、猟犬が避ける方が紙一重で早い。
大股に踏み込み、ゴットフリートが今度は大きく剣を突き出す。
小型の猟犬が何体も切り裂かれ、霧のように消える。逃げ惑う猟犬たちは、最大の個体を守るようにゴットフリートを取り巻く。群れの鼻先は、すでにその全てがフィリップから逸れてゴットフリートに向けられていた。
一閃、二閃、迫る取り巻きの小型を次々なぎ倒し、首を落とされた小型の胴を蹴り飛ばして、大型の猟犬の腹部に強かに打ち込む。大型はその衝撃によろめき、間髪入れずゴットフリートは蹴り抜いた足を踏み込み、大剣の先が轟音を立てて唸る。
「おらぁ!!」
怒号。
最後に残った猟犬は、すんでのところで体勢を整え、身を翻してゴットフリートに飛び掛かる。ゴットフリートは構わず迫る猟犬の頭部目掛けて大剣を振り抜いた。
一瞬の、そして突然の静寂。猟犬がいない。すっかり気配までなくなった。息遣いすらも。
歴戦の猛者であるゴットフリートでさえ、大剣が命中する直前に突然姿を消した猟犬を目で追うことはできなかった。
「ああ? 犬っころめ! どこに行きやがったぁ!」
夜の雪山に、野太い声が響く。
ゴットフリートは消えた猟犬たちを探すために、見開いた眼で周囲を見渡す。そこには、膝をついたフィリップとゴットフリートの姿しかない。
けれど、ゴットフリートは警戒を解かない。手応えがなかった。これで退く相手ではないと彼は理解していたし、フィリップも同様に理解していた。
「ふんっ」
気合を入れなおし、ゴットフリートは柄を握る手に力を込めた。どこから飛び出してきても、一振りで仕留める。その巨躯と同じほどの丈の剣を、それだけの速さで振るえる者は、トラエに彼を置いて他にはいない。
辺りを窺っているゴットフリートの背後から、突然現れた大型が飛びかかる。ゴットフリートは殺気のみからその出現を察知し、反転して剣を振り抜く。
反応されることを予期してか、猟犬は剣先の手前で空を蹴って退き、振り抜かれた剣先をやり過ごしてから再び地を蹴ってゴットフリートに向かって飛ぶ。
それに応じ、振り抜いた剣の勢いに任せて回転、跳躍し、飛来する猟犬に自ら飛び込んで二撃目を狙う。
満月の空に、飛び掛かる猟犬と剣を構えた英雄の影が浮かび上がる。
「これで決まりだ!」
猟犬の尖った舌と、ゴットフリートの剣先が交差する。
猟犬は何も貫くことなく着地した。
さきほどまでゴットフリートが立っていた場所に、そっくりと足の跡があるだけだった。
突然、目の前から獲物がいなくなり、墓石の影から小型の仲間たちもそろそろと出てきた。全頭が戸惑ったかのように辺りを見渡し歩き回る。
本来の獲物であった筈のフィリップも、邪魔をしてきたゴットフリートの姿もなかった。
今度は雪の上に、奇妙な猟犬たちだけが取り残されていた。
周囲をしばらくうろついたあと、鼻をクンクンを動かす。
静かに、一頭が墓石の影に消えていく。
また一頭、また一頭とその後に続き、やがて全ての猟犬が、戦場から姿を消した。
残されたのは、戦死者たちを覆う雪だけだった。
猟犬の頭をたたき割るために剣を振るったその刹那、世界が光に包まれた。
直後に、体の重心がブレた感覚に襲われ、ゴットフリートは反射的に目をつぶった。
1秒と経たずに体の重心が元の位置に戻り、目を開ける。
猟犬はいなかった。
まるで夢だったかのように、自分ひとり、小汚い部屋の中心に立っていた。
肩当てには、剣圧で舞い上げて浴びた雪が、まだ薄く積もっていた。剣先にも、あの薄気味悪い生き物の返り血がこびりついたままだ。
「……ったく、興が冷めるぜ」
満月の照らす雪の斜面ではなく、見慣れた兵舎の中だ。誰かが置き忘れたであろうシャツで剣の血を軽く拭い、鞘に戻す。兵舎は狭すぎる。抜身の剣を手に歩けるほどの幅もない。
久々に、心の底の方から沸き立つような敵と相対した興奮は、まだ体の底にくすぶっていた。
「やってらんねえな!」
ゴットフリートは、転がっていた誰かの飲み残しの木製ジョッキを蹴り飛ばした。ジョッキは棚に当たり、耳障りな音を立てる。何もかもが苛立たしく、やり場のないフラストレーションがゴットフリートの内に燻っていた。
「助けたつもりかよ、あの野郎め……俺は勝ってたッ」
兜を小脇に抱えてバリバリと頭を掻いて、フンと大きな鼻息を吐いた。
また酒保にでも行くか、今日の分はもう飲んだけど若ぇ奴の分をふんだくるか、などと考えながら歩きはじめたゴットフリートは、異変に気が付いた。
「んだぁ? うるせえなぁ」
遠くから音がする。建物の外か。すぐにそれが何か、感づき、目を見開く。
この音を、ゴットフリートは知っている。身近でずっと聞き続け、その中を走り抜けてきた。
戦の気配。命を奪い合う者たちが放つ、独特の気配。ゴットフリートが生きる場所だ。魔術師、猟犬。次々降って湧いた獲物を前におあずけを食らって行き場をなくした”飢え”が、再び首をもたげた。
にやりと口角を上げて、ゴットフリートは胸を張った。
「仕事の時間か」
扉を蹴破り開けて飛び出す足取りは、子供のように無邪気だった。
(自分がしたことは、本当に許されることなのだろうか……)
スヴェンは何度も何度も繰り返した疑問に、自ら押しつぶされそうになっていた。
とんでもない過ちを犯したのではないだろうか。
真実は追い求めてきた。時空を遡行するという研究の真相に魅せられた心はまだ輝きを失っていない。
だが、それはあくまで自分の手で引き寄せたかった奇跡のはずだ。自らが完成してこそ意味を持った奇跡だったのではないか。
それでも、自分の人生で成し遂げられないというのなら、せめて知りたいと願ってしまった。
スヴェンは泣きたいような叫びたいような、複雑な心を噛みしめた。
ぶんぶんと首を振る。
「これでいいのだ……吾輩が自分で決めたことだ……」
そう思いながらも、机の上の本を開くことは出来なかった。
フィリップから、警備の情報と引き換えに得た本。
真実を目にしてしまえば、知る前には戻れない。
(未来からもたらされた知識……)
本来は今、ここには存在しないはずの知識を、自分が詳らかにしてしまってもよいのか。自分のためだけに使うのであれば、問題はないと言えるのか。意図せず自身のものとして世界に放り出されてしまわないか。自問する言葉はいくらでも心の底から浮かび上がってくる。
「……しばらく何か違う本でも読もう……」
再び窓の外を見ると、兵士たちが駆け出し、叫び合う声がした。敵襲……? 今、敵襲と言っていなかったか? 背中を汗が���う。
窓の外に身を乗り出して、メガネを押し上げる。目を細め必死で夜闇を見た。
斜面を敵がやってくる。しかし、何か妙だ。あの集団はどうしたことか、どいつもこいつも大きく頭を左右に振り、各々が方方によろめき歩いて、統率が取れていないように見える。雪に足を取られ倒れる、しかしその横から、また別の兵士が立ち上がる。そうして、起き上がった者が列に加わり、数が見る間に増えていっている。ラウニやソルデの進軍にしては、不自然過ぎる集団だ。
「あれは……?」
深いため息を漏らし、背後の物音にスヴェンは振り向いた。
室内に、フィリップが立ち��くしていた。昼間に姿を消した時とは打って変わってげっそりと痩せこけた印象で、左肩を押さえている。
「おお……」
「ここはもう危険だ」
フィリップは微かに震えた声でスヴェンに告げた。
「何が起きてるんだ?」
「襲われた。ゴットフリートに出くわして、そ���後どこからか猟犬のようなものが現れた」
「ゴットフリートと?!」
スヴェンは思い出した。ゴットフリートは酒を飲んでは城外を機嫌よく散歩することがある。そんなに頻繁ではないので失念していが、まさか、今日に当たるとは……。伝えなかった事に対する罪悪感がほんの一瞬だけ芽生えたが、すぐにそれは顔を隠した。
スヴェンを見つめて、フィリップは右手を離した。その下には、あるべきものがない。
「腕、が……」
切断されているわけでもない。ただ、不自然なほど委縮し、形を変えていた。
恐ろしくて息を飲む。
「分からない。猟犬に刺されたあとで、こうなった」
スヴェンは目を白黒させて、カチャカチャとメガネを直した。
「刺されたんだ。あの長い舌で……肘の上の辺りをやられたと思ったら、腕がこうなった」
「し、知らない!そんなおかしな犬がこの雪山に出るなんて聞いた事がない!私は知らなかった事だぞ!? ご、ゴットフリートの事だって…!」
スヴェンは必死に、大げさな身振り手振りで弁明した。
フィリップは探るようにスヴェンを見ていたが、やがて息を吐いて項垂れた。
「……ゴットフリートの方に猟犬の注意が向いて、その隙に長距離転移の準備が出来た。今頃、ゴットフリートも城塞のどこかに移せたと思う」
「なんてことだ……今、外が大変なことになっているようだ。君が何かしたわけではないのか?」
スヴェンのどこか切羽詰まった様子に、フィリップは首を傾げた。それを見て、スヴェンは腕を突き出して、研究室の窓の外を指差した。
フィリップは、山の斜面から兵士たちの屍体が起き上がる光景を目にした。
そして、慄いた。
遠くから音がする。うめき声が重なり合い、波のように城塞に押し寄せている。
「これ、は……」
「信じられないだろうが、ここから見る限りでは、斜面の戦死者が起き上がっているように見える。そうとしか思えん。雪の下から出てきて、城塞に向かってくる……お前がやったんじゃなかろうな?」
「……屍体が、起き上がった……? それは…」
スヴェンは不服そうにメガネを押し上げた。
「死体が起き上がって、この城を攻めてきている」
スヴェンの言葉を聞きながら、フィリップも窓の外に身を乗り出した。
信じられない。
さきほどまでフィリップは、ゴットフリートとあの猟犬と共に斜面にいた。猟犬に襲われ、命からがら城塞まで転移してきた。
しかし……、斜面からやってきているものは、猟犬ではない。先程雪の下から掘り出した兵士の屍体と同じ防具を着込んでいることが、月明かりに照らされて垣間見える。
「外で何があった? 一体何が起きている!? 未来から来たのなら、この城塞の歴史は知っているのだろう? 何があったのだ、あれはなんなんだ、このあと何が起きる!?」
「そんな…… 知らない、こんな事、僕は…」
城内では悲鳴まで上がり始めている。
フィリップは真っ直ぐと城塞に向かう屍者の群れを見る。ひとつひとつ小さな点に見えるが、それが幾千も動き始める。
ありえない。
だが、フィリップは屍者がひとりでに動くことがある前例を知っている。
世界の秩序が崩壊した日から、覇王の呪いを受けた屍者たちが立ち上がり、人々を襲い始めた。フィリップとグレーテルは、その屍体たちとこれまで戦ってきたのだ。
全てが始まったあの日の情景によく似ている。
ただ、ありえない。フィリップが知っている歴史では、この時期は人間同士の小競り合いこそあったが、まだ覇王は目覚めていなかったはずだ。屍者たちも、まだ起き上がってきてはいなかったはずだ。
だから、今こうして屍者がひとりでに動くなんてことは起こりえない。
「どうして……」
フィリップは言葉を飲み込んだ。
間違いない――あれは覇王の呪いを受けた者達だ。始めこそふらつきながら斜面を這い上がってきてた屍者たちの動きは見る間に活性化されていき、兵士たちの数倍も速く、そして生身の人間では考えられない力強さで兵士たちを易易となぎ倒す。兵士たちは木の葉のように簡単に弾き飛ばされていく。ただの屍者操作、ゾンビの類でできる芸当ではない。Buriedbornesの術を受けた者だけに見られる、人間を超えた動き。
屍者には感情がない、痛覚もない。限界を超えて動き、破壊され動けなくなるまで何度でも立ち上がる。
人間は疲弊する。今までの戦場とはかけ離れている事態に混乱している。倒れても何度でも起き上がる怪物に対して抱かれる感情は、恐怖でしかない。訳も分からず、城の者達は圧倒的な力を持った屍者たちに蹂躙されていく。悲鳴がブラストフォート城塞を支配している。
これは、あの日と同じではないか。
忘れることのできないあの日に。
「フィリップ、何が起きているんだ!」
「僕には分からない、何も知らない」
狼狽し、迫るスヴェンを突き放した。よろめき驚いて目を見開いたスヴェンに、フィリップは胸が痛んだ。まだ何も確信はないが、他に理由が考えられない。これは覇王の呪いだ。フィリップたちが立ち向かっている困難とあまりにも酷似している。
まさか、自分がここに来たことで、自分が受けている呪いをこの時代に広めてしまったのではないか?
それをどう伝えれば良い?また伝えたところで、何ができる?
「……ん? 何か臭わないか?」
スヴェンが怪訝そうに声を上げた。
フィリップは、心臓の鼓動が跳ねるのを感じた。
この臭いを、フィリップは一度嗅いでいる。
咄嗟に周囲を見渡して、机の角から青黒い煙が細く漏れ始めたのを見つける。
(いけない……! あの猟犬がくる!)
フィリップは確信した。これ以上、この時代にいることはできない。
全ての謎に、この場で答えを出す時間はもうない。閉鎖時空間を開く呪文の詠唱を始める。
「フィリップ!」
発生させた時空の”扉”に、自ら飛び込んだ。
「これから何が起こるかだけでも…!」
スヴェンの悲痛な叫び声がこだましたが、最後まで耳にする事はできなかった。
――何かを考えている暇もなかった。
フィリップには、スヴェンを置き去りにし、現在へ逃げ帰る以外の選択肢はなかった。

~つづく~
原作: ohNussy
著作: 森きいこ
※今回のショートストーリーはohNussyが作成したプロットを元に代筆していただく形を取っております。ご了承ください。
旧き世に禍いあれ(4) - “悔恨”
「ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸いです。
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大野一雄 魂の糧 大野慶人+大野一雄舞踏研究所 フィルムアート社
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中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。 しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。 河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。 一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した」などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。 ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。 嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた「愛国虚言」ゆえか、本多氏のルポルタージュ「中国の旅」(1971年)以来、「南京大虐殺」は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。 ■ そもそも「南京事件」とは何か 支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う通州事件が起きる。8月9日には上海に拡大した。 「中国に深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。 9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。 他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。 日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。
5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。 蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。 その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。 日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。 松井方面軍司令官は9日1600に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日1300に攻撃を再開した。 日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。 日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。 城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」と宣言する(「アサヒグラフ」昭和13年1月26日)。 「南京事件」と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、「城内における日本軍の暴行」をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。 従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。 しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。
事実、南京戦以前は100万人いた市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。 残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。 しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。 この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。 しかし、大虐殺は「あった」派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。 また、歴史家で「日本『南京』学会」理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の「南京安全地帯の記録」を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で「兵士」と書かれているのを一方的に「日本軍兵士」とする恣意的誤訳などを指摘している。 ■ 本多氏『中国の旅』での記述 日本軍が南京に近づく状況を本多氏の『中国の旅』は、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いている。 日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。 そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる・・・大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。 日本軍は「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、・・・と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。・・・このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」と記している。 本多氏に語る姜根福氏は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」と語る。 続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語るのである。
このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。 「(日本兵は)逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた」 「・・・下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」 「(化学工場では)強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食った」 残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。 中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。 なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でもある。 ■ ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論 「週刊文春」(2014.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇・・・」を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客��教授の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけていた。 このコメントに対し、「週刊金曜日」編集部から「週刊文春」編集部に「公開質問状」が届く。 両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の「週刊金曜日」からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。 これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。
藤岡氏が「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の『A記者』なるものと討論することを承諾した事実はない」から「心底驚き、呆れた」「卑怯であり卑劣である」「責任逃れ」だと詰るのも頷ける。 平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。 当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われた。 こうした資料が「南京事件」を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は「なかった」という最大の傍証ではないだろうか。 筆者がJBpress『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」―「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く』に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという「本多ルポルタージュの破産」(殿岡昭郎氏)ではないだろうか。 ■ 記者たちは真実の報道を怠ったのか 南京城を陥落させるまでの数日間は城外で激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。 20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。 石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。・・・(自分が以前書いた)あの話は私は今も信じてはおりません」と否定している。 当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。 しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。 戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。
前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。 一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として「虐殺」など語らなかったのだ。 松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。 主旨は南京には歴史遺産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。 しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。 南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で「虐殺」には言及していない。 のちに政権を取る毛沢東も「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。 「虐殺」ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、「一切しなかった」、いや「できなかった」のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。 ■ 暴虐を働いたのは支那兵だった 1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。 本多氏の「中国の旅」は、中国にとっては「飛んで火にいる夏の虫」を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。 宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は「南京大虐殺記念館」の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。 大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、「負傷兵締め出し」「非人道極まる支那軍」の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。
日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。 同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。 それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。 日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。 同紙はまた、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。 それによると、「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」というのである。 「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」からだという。 そして「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」とも述べる。 日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。 このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。 日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。 姜根福が語った「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。
■ 全体的に平穏な南京城内 同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、「まだ戦闘は終わってはいない。城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」と相手のタフネスについてもしっかり記録している。 そして「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」(『戦争の流れの中に』)と書いている。このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。 当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、「南京事件」を報じていなかった。先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。 当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。 そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人(特に米国人宣教師など)や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。 戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。 今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。 南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。 危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。 午後は残敵掃討戦になる。 「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」と前田記者は記す。 また「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」とも述べている。 前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。
「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」という。 報道写真からもそうした情景をみることができる。 14日の状況について、東京朝日新聞(12月16日付)はどういう報道をしていたであろうか。 「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」 しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。 その後、下関の挹江門に回ると「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」場面に出くわす。 また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。 翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。 翌日、再度城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした「夥しい中国兵の死体の山が(揚子江岸に)連なっている」のを目撃している。 市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。 戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。 前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。 前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多氏が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然ではなかろうか。
森 清勇
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〜稽古場に行く道と稽古場の中で〜
舞踏の稽古場に行く途中に何本も
みかんの木と柿の木がある
毎年毎年 実がなるんだ
変化は突然起きる
それでもって 思考が始まって
試行錯誤も始まって
変わらないことに安心したり
変わってよかったこともあったり
ぐずぐずちまちま繰り返しながら
のびてく感じ
【大野一雄舞踏研究所は聖地と呼ばれるほど、
階段をのぼる。階段を降りる時に目の前に広がる
空は美しく、晴れの日も雨の日も、
学びが自分を包み込む】
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en dansant... in the light... 何か と 踊りたく ひかり と 踊りたく。。
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#8「世界大戦とレジスタンスの記録」
世界大戦におけるレジスタンスの記録は世界に様々にあります。では、日本の演劇において存在したのか? 戦後新劇や総力戦体制下の移動演劇に焦点に当てながら、日本の演劇人が満州事変から始まる世界大戦の中で何を見、考え、行動していたのかを探りました。 下記は、講義の概要をまとめたものです。 -- 講義では、「ジャガイモを掘るベケット石を投げるサイード」にまず触れました。「ジャガイモを掘るベケット」とは、第二次世界大戦におけるナチスドイツに対するレジスタンスの諜報員であったベケットがパリから逃げる時に、畑のジャガイモを食べながら生き延びたエピソードを指しています。(それが「ゴドーを待ちながら」の原風景となっていると、幾つかのベケット伝に書かれています。)また、「石を投げるサイード」は、パレスチナのインティファーダを指します。圧倒的に不利な状況にあっても侵略行為を犯すインスラエルに石を投げるサイードの姿勢。こうした世界大戦におけるレジスタンスの行為としてのささやかな振る舞いというものが、実は演劇活動とか、あるいはサイードのような思���家としての活動としての根拠になっているのではないか、と鴻さんは考えます。 そしてまた、こうした状況下での作家の姿勢について、戦後日本の新劇復興という活動も視野に入れながら、日本の演劇人について考えたとき、一体どういったことが起こっていたのでしょうか? ◼︎ドイツの、そして日本の戦争責任 鴻さんは、まずドイツの思想家カール・ヤスパースは『我々の戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫)について触れました。その著書の中で、ヤスパースは、「我々」すなわちドイツ人の戦争責任とは何かについて語っています。その中で、戦後の裁判についての言及がこうあります。 -- ……「この裁判は全てのドイツ人にとって、国民的な恥辱である。せめてドイツ人が判事であれば、少なくともドイツ人がドイツ人に裁かれることになるであろうに。」とある論者がいう。
これに対してはこう答えることができる。いわく、「裁判が国民的恥辱なのではなく、裁判を招来したゆえんのもの、[なぜ裁判が行われることになったのか?] すなわち、そのような政府が存在してかくかくの行為をしたという事実こそ、国民的恥辱なのである。国民的恥辱という意識はドイツ人にはどっちみち逃れられないものだが、それが裁判に対しての意識であって、裁判の起こるもととなった原因に対する意識でないとすれば、それは方向を誤っている。 さらにまた戦勝国がドイツ人の法廷といったものを構成させるか、あるいはドイツ人を陪審判事に任命したとしても、事情は少しも変わらない。 -- この部分を、ドイツ人を日本人として読み替えた時、それはそのまま東京裁判の話のようだと鴻さんは言います。また、ここで重要なのは、ヤスパースは戦勝国と敗戦国という区別をしている点でもあると指摘します。ヤスパース自身はドイツ人なので敗戦国の人間。この本は敗戦直後1946年にそうしたことを考えながら書かれているものです。 -- 戦勝国が敗戦国の人間による法廷といったものを構成させたり、あるいは、敗戦国の人間を陪審員に任命したとしても、事情は少しも変わらないのではないか。ドイツ人が法廷にいるのは、ドイツ人の自己解放力によるものではなく、戦勝国の恩恵によるものである。してみれば、国民的恥辱に変わりはないはずだ。裁判は、我々が犯罪的な政権から自己を解放したのではなく、連合国に敗北したことによって解放されたという事実から裁判が生じている。こうした状況の中から、戦後が出発しているということをどう認識するのかということが、実は大きな問題なのであるにもかかわらず、この裁判はインチキであるというような、要するに、戦勝国が敗戦国を裁くという絶対的に有利な立場から、法的な機関というものを無視することもできるような形で裁きの無効性を主張するような議論もよく起こるのだけれども問題は自らの力によって敗戦に追いやられた政権を、つまり、その独裁的な権力を倒すことができなかったということが、後々の我々に大きな禍根を残しているのだ。 -- ヤスパースは、世界大戦における戦争責任の問題は、過去に遡り、問題を様々な形で考え直していかなければならないのではないか、という提言を1946年にドイツの人たちに向けてしていた。この本の解説を書いている加藤典洋は、こういうような明瞭な提言というものが、悲しいかな、日本にはなかったと書いていると鴻さんは語ります。 ヤスパース自身は、ナチスの政権下でユダヤ人の妻がいました。ナチス党から離縁を勧告されたとき、それを拒否して大学を去りました。ヤスパースはそうした形で具体的な抵抗を示していたのです。しかし一方で、ヤスパースは殺されることがわかっていながら、それでも抵抗して死んでいくべきであるとは言いませんでした。ではどこまで抵抗するべきなのか? ��こに、道徳の問題が絡んでくるとヤスパースは書いてる。そして、そこでは、ある種の抵抗をした人たちと、また多くの抵抗しなかった人たちを含めた、罪の問題をどう考えていけば良いのかという分類がなされている、と鴻さんは解説します。 ◼︎ 満州事変から第2次世界大戦へ、その歴史的局面 ヤスパースは、著書の中で、ナチスの政権が1933年に政権を取ったところで、後戻りのできない状況になっている、そこが一つの転換点だったと分析しています。第一次世界大戦が終わってから15年、新たな戦争を避けるための様々な局面もあったというのです。 例えば、日本軍の満州侵略という暴力行為がなかったなら、それに対する適切な国際的な対応というものがなされていたならば、ナチス的な政権の独裁というものも防げるような方策を考えることができたと書いています。 そのこと自体の検証はできないけれども、世界がどのように動いていくのかということを考察するときに、ドイツの思想家が1946年の敗戦の直後に、ドイツがこういうような状況に向かっていくのを阻止できなかった原因の一つに日本軍の満州侵略を上げていることは興味深いことであると鴻さんは考えます。 また、鴻さんは、満州事変が世界大戦へ向けた一つの転機であるというような発言をしているのは、ヤスパースだけではないと言います。フランスの思想家シモンヌ・ヴェーユは『フランス支配圏内における植民地の新たな主要件』という論文の中で、帝国主義社会における人間の大きな問題である植民地をどのように扱えば良いのか? と問い、日本について言及しているそうです。 フランスは、ドイツに対するレジスタンスをしながら、しかし、一方で植民地政策を続けていました。この頃、イギリスの植民地は南アフリカからアフリカ大陸を南北縦断するように、フランスの植民地は西アフリカからアフリカ大陸を東西縦断するように、それぞれが植民地展開をしていた。その縦横がぶつかるところで、植民地戦争が起こり、フランスはイギリスに負けたけれども、まだ植民地を持っていたのです。 シモンヌ・ヴェーユは、基本的には、植民地に関しては具体的な方策を考えながら解放を目指すべきであると考えていました。植民地住民は彼ら自身の利益を目指して、彼らの政治的経済的生活に関与すべきである、しかし、実際はそうではない。そうした政策が実際に遂行されるのであれば、あらゆる植民地問題が解決へ向かう。部分的な解放であれ、それによる自由が完全な解放へとつながる可能性がある、と1938年に語っています。 しかしながら、フランスはそうした解放への動きは全くしなかった。こういう状態で、もし日本が今、インドシナを奪おうとしたとき、日本がベトナム人(フランス植民地)を利用することは大いに考えられる。フランスが少しの自由を保障していれば、日本がそれを習うことは難しい。フランスは植民地解放へと動き出すべきであるとシモンヌ・ヴェーユは主張していたと鴻さんは説明します。 このようにシモンヌ・ヴェーユも、1938年に日本がフランス植民地インドシナをフランスから奪い取りに来るだろうことを予測していました。日本は、実際3年後の41年に真珠湾攻撃と合わせて、上陸作戦を開始します。37年盧溝橋事件をきっかけに、日本の中国大陸への具体的な侵略が開始されたとフランスの知識人たちは見ていたのです。 ◼︎ 外の世界がなかった日本 ー 総力戦体制と移動演劇 鴻さんは、1927年にヨシフ・スターリンは、中国革命は3段階で起こるだろうと予測していたと言います。 第1段階は、ブルジョワジーが革命を支持する形で外国帝国主義に対する戦いが開始される。第2段階は、ブルジョワ民主主義革命が起きて、それ以降はブルジョワは革命から離れていたにもかかわらず、農民の革命に対する支持が開始される。第3段階でソビエト的な革命が起こる、こうした将来が必ずやってくるとスターリンは考えたのです。そして、中国では実際に共産革命が起こりました。 また、スターリンは日本についても言及していると鴻さんは引用します。 -- 西欧で我々の敵である者たちは、皆もみ手をしながらこう言っている。中国で革命運動が起こった。これはボルェヴィキ(ソヴィエト)が中国人民を買収したのだと悪口を言っている。これはロシア人が日本人と戦う道へと導くであろうと皆が言っている。こんなことはデタラメである。中国の革命運動は信じられないほどである。我々は帝国主義者どもの束縛から中国を解放し、中国を単一国家にするために戦っている。中国革命に共鳴している。日本もまた、中国の民族運動の力を考慮する必要があることを理解する。 -- このスターリンの日本に関する予測は当たりませんでしたが、しかし、こうした裏には、自分たちの国以外の国がどのようになっているのか、その人たちが何を願い何を考えているのか、もしかしたら事態はこうなるかもしれないということを考えながら、スターリンが記述していることがわかる、戦後、ヤスパースは我々(ドイツ人)の戦争責任を考えていたけれども、日本人はそう言ったことは考えていなかったのか。では何を考えていたのか? と鴻さんは問います。 こうした日本の盲目性に関して、森秀男が「戦中と戦後をまたぐ――『女の一生』の場合――」という論文を書いています。鴻さんたちが、『シアターアーツ』で「戦争と演劇」という特集を組んだ時に、掲載された論文です。 これは、今も繰り返し上演されている文学座の『女性の一生』という作品について書かれたものです。作者である森本薫が『女の一生』を執筆時は戦中でした。戦時中に上演されたということは、それは“反戦”演劇ではなかったということです。戦時下で上演された『女の一生』の台本は、戦後の台本とは異なります。初演台本と戦後の改定された台本、そして定本として読まれている台本がそれぞれいろんな形で違っているのです。この初演台本は長いこと簡単には読めませんでした。この経緯についてよく知っている文学座の戌井市郎などに、森秀男さんが話を聞きながら、変更箇所について調べたことがこの論文に書かれているそうです。 『女の一生』が、どのように戦前の演劇から戦後の演劇へと変わったのか? 例えば、主人公のけいが想いを寄せるが、中国へと姿を消す栄二という登場人物は、戦後の改定において、最初は左翼的な人間だったのが、転向して情報員として戦争協力する仕事などをしながら、敗戦後、帰国する、という設定がなされたりしている。 1961年の『女の一生』パンフレットで、森本薫から杉村春子に当てた敗戦前後の私信の抜粋が公開されました。また、当時舞台女優に宛てた森本薫の手紙が残っています。そこでは、森本薫が次のように言っています。 -- 1945年8月3日付 『怒涛』や『女の一生』がダメなのは、描くことだけに力を入れて自分を込めるというか、なんといったらよいかわからんが、ともかく作家自体が芝居の中で求めているものがはっきりしない。あるいはないことだ。 -- 1945年10月11日付の手紙 とにかく皆誰かなんとかしてくれるだろうという他力本願を捨てて本当に一生懸命準備しなければならん。僕は『田園』から『女の一生』までの文学座を省みて、岩田豊雄に逃げられたり、戦争にいじめられたりしながら、我々自身大して自信もなく歩いて来た道は、そう無駄な道ではなかったと思う。我々は我々が到達したところからしか出発できない。しかも我々は率直に楽しめる現代劇から真面目に社会を考える現代演劇への第一歩を踏み出している。僕は色々と取り越し苦労をしているように見えるかもしれないけれども、今回の出発に関して新しい風は左翼演劇からは現れないということを断言する。左翼演劇ではなく、自分たちのやろうとしている演劇から新しい風が吹き始める。 -- 森秀男は、「森本薫は8月15日を境に、戦中と戦後という時代をほとんど苦労なしにまたぐことができたようだ。戦争中、時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉は見当たらない」と書いています。 この時、「時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉」がどういう風に語られるのかについて問題にしているのがヤスパースであり、その道徳的罪であるとか、政治的罪についてを『我々の戦争責任について』で書いている。戦争犯罪を実際に犯すことと、その国の政権が独裁的で侵略戦争をしていからという理由でそれに抵抗できなかった人間は、戦争犯罪人ではない。ただし、道徳的罪はあるだろうとヤスパースは言っている。そこで、自責の言葉がどういう風に語られるのかが問題である、と鴻さんは展開します。 ◼︎日本戦時下の移動演劇 ー その問題性と魅力 ここで、鴻さんは「だんだん日本の演劇人の戦争中の行動と、それに対する戦後の自責の念のなさという私の批判が始まるのではないかと思う人もいるかもしれないのですが、こういうことを踏まえた上で、私はいま全く違うことを考え始めている。」と、日本の移動演劇の歴史について語り始めます。 例えば、戦時下の演劇が孕む問題性とその魅力が同居するときにどうしたら良いのか? ー日本では戦中、移動演劇が盛んでした。演劇をより多くの人に見せるために、農村地帯や漁村、山村など様々な場所に展開しました。有名なのは、移動演劇の部隊であった桜隊が1945年8月6日広島にいたということです。その時に、原爆が落とされて、桜隊のメンバーが原爆で亡くなっています。(そのことを巡って、井上ひさしは『紙屋町さくらホテル』という作品を書きました。新国立劇場のこけら落としに執筆され、1997年に上演。鴻さんが劇評を執筆しています。) そして、戦争が終わり、他の移動演劇も敗戦とともに消えていき、なくなってしまいます。 演劇評論家の茨木憲は、『昭和の新劇』という本のなかで、戦後の新劇人たちは、戦時下において自分たちがやってきたことの反省において新劇活動をしなかったということを告発していると鴻さんは参照します。 日本の戦後新劇のはじまりを告げたのは、1945年12月に文学座と俳優座の合同公演として上演された、アントン・チェーホフの『桜の園』でした。1940年に国の一斉検挙があり、新協や新築地の両劇団は国情に適しないから解散するようにと命令された時、当局の推奨を受ける形で存続していた文学座は「国情に適した」劇団だったのでしょう。そして、戦後の合同公演で直ちに、雰囲気劇としてチェーホフを上演したのです。 ここには、森秀男によって詳細に分析された『女の一生』の改ざんの問題における日本の戦後新劇人の自覚のなさと共通するものが見られると鴻さんは考えます。 そして、茨木憲が著者の中で戦時下の空白期と書いているところに、実は移動演劇がありました。 戦時下に移動演劇連盟が作られたのが1941年6月。その後、1943年2月に再編成されます。この移動演劇の活動初期1年半で動員した観客の数は約450万という膨大な数に上ります。農村、山村、漁村、工場、鉱山などを周り国民に観劇の機会を与えることを目的に公演回数は3,500回を数えました。 時は真珠湾攻撃の直前。ビラ広告のキャッチコピーは「米英撃滅 今このとき!」。勇ましい宣誓文が続きます。 -- 我々は文化領域における翼賛運動の一助たる我らの職域を明瞭に自覚する 我々は協力一致の精神と誠実明朗の態度をもって我々の使命に奉仕する -- 移動演劇は、東京毎日新聞などの資本を得つつ、主に公的な資金で運営されていました。入場料は無料です。移動演劇は商業演劇のような単なる娯楽ではなく、教化=教え諭すことで、正しい国民を作っていくことを目的に上演されていたのです。 移動演劇連盟の委員長は、岸田國士。大政翼賛会の文化部長であった岸田國士が個人の資格で委員長になりました。そして、副委員長が伊藤熹朔、事務局長も兼任していました。伊藤熹朔は千田是也の兄です。このように、演劇界の重要人物たちが移動演劇連盟を仕切っていたのです。 伊藤熹朔は、昭和18年に『移動演劇の研究』という本を書いています。移動演劇は、劇場がないような場所でも上演をするので、ときには劇場作りから始めなければならず、巨大な装置は使えないという点から色々な工夫がなされていました。 ここで重要なのは、国民全員が見る体制を作ること、単に楽しむためだけでなく、国民が考える場所を提供することを目的に移動演劇が作られたと書かれていることだと鴻さんは指摘します。 いろいろな場所で上演できるような一種の実験的な試みを展開しつつ、新しい創意工夫のもとに移動しながら演劇を上演していく、こうした移動演劇という新しい様式を作り上げていったと伊藤熹朔は書いています。 鴻さんは、この研究書を読みながらロシア・アヴァンギャルドのアジプロ演劇を想起したそうです。ロシアでは、1918年にボルシェビキのプロパンダ演劇のための劇場が列車となり移動し上演するアジプロ列車というものができました。アジプロ船もありました。 当時の日本ではアジプロ列車についてどの程度知られていたのか不明ですが、移動演劇では、舞台美術家である伊藤熹朔が中心を担って、プロセニアム劇場ではない形の舞台で、どういう演劇を、具体的に作っていくのかが模索されました。 このように、劇場なしでの上演を巡って移動演劇に新しい可能性があると考えた人たちがいて、それが国策で行われました。非常事態において行われていたことが、重要な演劇的な意味合いを持っている可能性があると鴻さんは論じます。 研究書の中で伊藤熹朔は、移動演劇の起源はギリシア演劇の起源にあるテスピスの車輪だと書いています。そうした歴史的な起源にまで遡りながら、伊藤熹朔は自分たちがやっていることは芸術的な革新運動であると思っていた。それを国策演劇であるということで切り捨ててしまうと、その面が見えなくなってしまう。一方で、独裁政権化の軍事政権ファシズムが演劇による総力戦化という中でそういうことが行われていたことは事実です。この2つの歴史的事実をどう繋げて考えていくことができるのか? さらに、植民地主義の抱える矛盾。ソビエト科学アカデミーの中の歴史書シリーズの中に、「植民地に対する侵略と略奪がなければ資本主義の成長はありえない」という一文があります。資本主義がなければ私たちはいないのだけれども、その植民地をいかに解放するのかというシモンヌ・ヴェーユの悩み。 それらの文脈の中に、日本の移動演劇がどう位置付けられるのか? 鴻さんは、日本の植民地主義や戦争責任を巡る議論と移動演劇の活動を参照しながら、それを演劇論として論じるのは非常に困難な作業であるが、そうした探求を進めることこそ演劇研究の役割であると言って講義を終えました。 参考文献: カール・ヤスパース『われわれの戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫、2015年)[ドイツ語原典は、1946年出版、初訳は、1950年桜井書店から『戦争の責罪』として刊行され、その後『責罪論』、『戦争の罪を問う』などのタイトルで幾度も出版されている]。 伊藤喜朔『移動演劇十講』(健文社、1942年) 伊藤喜朔『移動演劇の研究』(電通出版部、1943年) シモーヌ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』(春秋社、1968年) スターリン『スターリン全集』7、10(大月書店、1952、53年) 文/椙山由香
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2022年12月9日

田中雄大選手 ブラウブリッツ秋田より完全移籍加入のお知らせ

運転60年超の原発、世界で実例なし 設計時の耐用年数は40年 配管破れ、腐食で穴...トラブル��発(東京新聞)
8日の経済産業省の有識者会議で議論を終えた原発活用の行動指針案は、運転期間の制限は維持した上で「最長60年」との現行規定を超える運転を可能にし、将来的な上限撤廃も視野に入れる。しかし、原発が60年を超えて運転した実例は、世界中に一つもない。国内では設備劣化によるトラブルが相次ぎ、原子力規制委員会も「未到の領域」の規制に手間取っている。(増井のぞみ)

国際原子力機関(IAEA)によると、既に廃炉になった原発を含め、世界最長の運転期間はインドのタラプール原発1、2号機の53年1カ月間。同原発から約1カ月遅れで運転を始めた米国のナインマイルポイント1号機とスイスのベツナウ1号機が続く。4基とも現役だ。
米国も日本と同じく運転期間を40年と規定するが、規制当局の審査をクリアすれば20年間の延長が可能で、延長回数に制限はない。80年運転を認められた原発も6基ある。英国とフランスは運転期間に上限はなく、10年ごとの審査が義務付けられている。
ただ、多くの原発は設計時、耐用年数を40年間と想定して造られた。老朽化が進むと維持管理コストも高くなり、事業者が長期運転よりも廃炉を選択するケースが多いとみられる。
国内では40年に満たない原発でも、劣化によるトラブルが起きている。
運転年数37年の関西電力高浜3、4号機(福井県)は2018年以降、原子炉につながる蒸気発生器内に長年の運転で鉄さびの薄片がたまり、配管に当たって傷つけるトラブルが相次ぐ。定期点検で6回も確認され、蒸気発生器を洗浄しても再発した。

高浜原発4号機の蒸気発生器内の配管(右下)に刺さった鉄さびの薄片(中央の三角形)=福井県で(関西電力提供)
さらに深刻なのは、点検漏れだ。原発の部品数は約1000万点に上るとされ、見落としのリスクはつきまとう。04年には、運転年数が30年に満たない美浜3号機で、点検リストから漏れて一度も確かめられなかった配管が経年劣化で薄くなって破れ、熱水と蒸気が噴出して5人が死亡、6人が重傷を負った。
東京電力柏崎刈羽原発(新潟県)では、福島第一原発事故後まもなく停止した7号機タービン建屋の配管が11年間点検されず、腐食で穴が開いたことが今年10月に判明した。
井野博満・東京大名誉教授(金属材料学)は「劣化状況を調べる超音波検査は、配管の陰では測定が難しい。長期運転で劣化が進むと、点検漏れした時のリスクが増し、重大な事故につながる」と警鐘を鳴らす。

運転延長の可否を安全性の側面から審査する規制委は、60年超の原発をどのように規制するのかについて、具体策の検討を始められないでいる。
大きなハードルとなっているのは、原子炉が実際にどう劣化していくのか、データが不足していることだ。運転延長の審査で先行している米国とは、劣化具合のとらえ方が異なるという。山中伸介委員長は記者会見で「(60年超は)未知の領域。日本独自のルールをつくる必要がある」と、検討の難しさを認める。
規制が不透明なまま、60年超を可能にする仕組みだけが先行していく。井野氏は強調する。「日本は地震が多く、人口密度も高い。外国とは状況が違う。原発の運転は設計目安の40年を守るべきだ」

ベルギー、原子炉稼働10年延長で仏エンジーと合意(ロイター 2023年1月10日)
[ブリュッセル 9日��ロイター] - ベルギーのデクロー首相は9日、国内の原子炉2基(ドエル4号機とティアンジュ3号機)について、稼働時期を10年延長することでフランス電力大手エンジーと合意に達したと明らかにした。2025年に計画していた脱原発は、ロシアのウクライナ侵攻を受けたエネルギー戦略の変更により、覆されることとなった。
2機はベルギーの原子炉7基のうち、1985年に稼働を開始した最新のもの。25年に恒久的に停止する予定だったが、今回の合意を受けて必要な作業を行った後に26年11月に再稼働し、そこから10年間稼働を続けることとなった。
デクロー首相は閣議後の記者会見で、「稼働延長は、エネルギー安全保障のために極めて需要だ」と訴えた。ベルギーは、脱原発に伴い天然ガス依存を増やす計画だったが、ウクライナ侵攻を受けて方針の変更を余儀なくされた。
ベルギーの電力網運営会社は、2基の稼働を延長しなければ、26年の冬から27年にかけ、大幅な電力不足に直面すると警告していた。
ティアンジュ3号機は、昨年にすでに稼働を停止。稼働中の6基も、25年に停止の予定だった。
世界原子力協会によると、6基の発電���量は500万キロワットと、全体のほぼ5割を占める。
ファンデルストラーテン・エネルギー相によると、延長する2基は、政府とエンジーが折半出資する合弁企業が運営するという。

麻生氏「原発で死亡事故はゼロ」 飯塚市の会合で発言(西日本新聞 2023年1月17日)
自民党の麻生太郎副総裁は15日、福岡県飯塚市であった国政報告会で「原発で死亡事故が起きた例がどれくらいあるか調べてみたが、ゼロです」と述べた。関西電力美浜原発(福井県)で計11人が死傷した蒸気噴出事故などが起きており、発言の真意を問う声が上がりそうだ。
麻生氏は、国政課題の一つとしてエネルギー問題を挙げ、太陽光などの再生可能エネルギーは安定的な供給が難しいと指摘。その上で「(原子力は)最も安くて安全。原子力と原子爆弾の区別がついていない人もおられ、原発は危ないと言う人もいる」として、原発の活用を訴える中で「事故ゼロ」に言及した。
2004年8月の美浜の事故では、蒸気を浴びた点検準備中の作業員5人が死亡、6人が重軽傷を負った。東京電力福島第1原発事故では、収束作業に従事していた男性が肺がんを発症し死亡。その後、労災認定されている。(坂井彰太、坂本公司)

その原発は安全か、温暖化との闘いが耐用年数超える長期稼働を促す(ブルームバーグ 2023年1月26日)
カーボンフリー発電の魅力が一段と高まっている。二酸化炭素(CO2)排出の削減と気候変動対策の目標達成に必死で取り組む各国は、伝統的な化石燃料の不足にも直面。こうした矛盾した状況で導き出された回答は、原子炉の想定を超える長期稼働だ。
実際どれくらい長期にわたり、原子炉が運転され続けるのか。多くの原子炉が一般的な耐用年数である40年間を大きく超えて稼働し続ける方向だ。一部の原子炉については最長80年間の稼働を探るという動きもある。100年にわたり発電し続けることが可能かという研究すら行われ始めている。

2030年までに世界で現在稼働している原子炉の3分の2が、設計または認可されていたよりも長期にわたり運転を続けることになる。
「これほど長期に及ぶ稼働は見込まれていなかった。100年前にできた原子炉の隣に住みたいとは思わないだろう」とブルーバーグNEFの原子力担当主任アナリスト、クリス・ガドムスキ氏は言う。米国人の平均寿命は77年だが、一部原子炉の一生はそれより長くなる。
リスク評価
数年前であれば、1世紀前に建設された原子炉での発電というのは考えられなかった。だが、米国と欧州連合(EU)は30年までに温室効果ガスの排出量を少なくとも50%減らすと表明。70カ国余りが炭素排出「ネットゼロ」の目標を掲げている。こうした状況で、早期の目標達成に向けた具体策を見いだすよう各国・地域に対する圧力は強まりつつある。世界はコントロール不能な気候変動と自然災害に見舞われ、CO2を排出しない電子力発電のリスク評価が喫緊の課題となっている。
英国は現在、発電全体の約15%を原子力で賄うが、50年までにこの比率を25%にまで引き上げたい考えだ。米国は老朽化が進む原子炉を維持するため60億ドル(約7800億円)を原子力関連の補助金に投じている。

フランスは原子力発電所を新設する計画。ベルギーやフィンランド、スロバキアなどは既存原発の延命を図る。ドイツは22年に閉鎖予定だった原子炉を使い続けており、11年の東日本大震災で東京電力福島第一原発の事故を起こした日本ですら原発の運転期間延長に向けて動いている。
過去数十年にわたり原発への批判や反対は、特に欧米で強く、閉鎖を余儀なくされた原子炉も多い。業界からの投資も細り、新規の原発建設は減少。今すぐ着工したとしても、大規模な原発建設には10年以上を要することが多々あり、30年までの炭素排出削減目標の達成には寄与しない。つまり原子力発電の復権は、老朽化しつつある原子炉なしではあり得ないということだ。
稼働の長期化に伴う最大のリスクは明白だ。老朽化が進む原発が適切に保守・修理されていない場合、事故の危険性は高くなる。公平を期して言えば、第2次世界大戦終結から10年の間に商業運転が始まった原子炉の事故はごくわずかしかない。だが、可能性が極めて低いとしても、いったん原発事故が起きれば大惨事となる恐れがある。

1986年のチェルノブイリ原発事故では直接的に数十人が死亡し、何百万人もの人々ががんの原因になり得る放射線にさらされた。ニューヨーク市の3倍という広大な土地が汚染され、何世紀にもわたりそこに住むことはできない。その25年後に起きた福島第一原発事故では10万人余りが避難を強いられた。復興には長い時間と巨額の費用が必要となる。
温暖化との闘い
原子炉運転の長期化は、未踏の領域だ。そのことはまた、安全性を巡り激しい議論が交わされてきた原子力発電のリスクを一段と高めることを意味する。
原子炉から出る廃棄物を処理する施設に絡むリスクもある。世界初の原子炉稼働から約70年たつが、多くの国が危険な放射能を何千年にもわたり帯び続ける廃棄物の最終処分場をまだ建設していない。
これら全てが、最近まで原子力発電が着実に減ってきた理由を説明している。90年代半ばには世界の発電の約18%が原子力だったが、今では10%程度だ。

ロシアがウクライナで2022年に始めた戦争が長期化し、その影響も顕著だ。原子力エネルギーを巡り激しい論争が続いていたドイツは、ロシアからの天然ガス供給が限定され一段と厳しい状況に追い込まれている。
米カリフォルニア州で昨年夏に起きた停電や欧州のエネルギー価格急騰で見られたように、風力・太陽光・水力発電は扱いにくい。こうした再生可能エネルギーと違い、原子力の有用性の一つは天候に左右されず夜間ですら24時間発電し続けることが可能なことだ。
専門家の多くは、原子力発電を増やさない限り50年までのネットゼロ目標の達成はほぼ不可能だとみている。低炭素電源は21年に世界の電力供給の約40%を占めたが、その比率は20年前と比べわずか4ポイント程度の上昇に過ぎない。再生可能エネルギーが普及したものの、原子力が減り、一部はガスプラントに代替されたが炭素排出を増やした。
国際原子力機関(IAEA)のグロッシ事務局長は長期稼働に耐える原子炉について、「地球温暖化との闘いを陰で支えるヒーロー」だと述べている。

【本日(12/9)の広島県内の感染状況】(広島県)
新型コロナ 広島県 3549人が感染 1人が死亡 9日発表(NHKニュース)
広島県では9日、新たに3549人が新型コロナウイルスに感染されていることが確認され、1人が亡くなったと発表されました。
感染が確認されたのは、広島市で1388人、福山市で734人、呉市で299人、東広島市で213人、尾道市で193人、三原市で130人、廿日市市で127人、府中町で70人、庄原市で61人、三次市で55人、府中市で52人、安芸高田市で33人、海田町で29人、竹原市と世羅町で28人、大竹市と江田島市で22人、熊野町で17人、神石高原町で12人、坂町と安芸太田町、それに北広島町で11人、大崎上島町で3人のあわせて3549人でした。
1週間前の金曜日より773人多く、県内での感染確認はのべ56万5591人となりました。
また県内では、患者1人が亡くなったと発表されました。県内で新型コロナウイルスに感染し、その後、死亡した人は900人となりました。
【新型コロナ 厚労省まとめ】228人死亡 12万7090人感染 (9日)(NHKニュース)
厚生労働省によりますと、9日発表した国内の新たな感染者は、空港の検疫などを含め12万7090人となっています。また国内で亡くなった人は228人で、累計5万1290人となっています。
東京都 新型コロナ22人死亡 1万3556人感染確認 前週比2312人増(NHKニュース)
大阪府 新型コロナ 9人死亡 新たに7076人感染確認(NHKニュース)大阪府内の感染者の累計は234万2193人となりました。府内で感染して亡くなった人は合わせて6811人となっています。

新型コロナ 新規感染者数の1週間平均 全国横ばい 西日本で拡大(NHKニュース)
新型コロナウイルスの新規感染者数を1週間平均で比較すると、全国では横ばいとなっていますが、九州など西日本を中心に28の都府県では前の週より多くなっています。
NHKは厚生労働省が発表した感染者数をもとに、1週間平均での新規感染者数の傾向について前の週と比較してまとめました。
全国 全国では、▽先月10日までの1週間では前の週に比べて1.30倍、▽先月17日は1.24倍、▽先月24日は1.08倍、▽今月1日は1.27倍と7週連続で増加が続いていましたが、▽8日まででは1.00倍(1.003倍)と、ほぼ横ばいとなり、一日当たりの全国の平均の新規感染者数はおよそ11万1000人となっています。
一方、九州や四国、関西など西日本を中心に28の都府県では前の週より多くなっていて、▽宮崎県では1.24倍、▽熊本県では1.19倍、▽愛媛県と兵庫県では1.17倍などと増加の幅が比較的大きくなっています。
一方で、▽北海道では0.79倍、▽山形県と長野県では0.85倍、▽岩手県では0.87倍などと、北海道や東北などでは減少傾向が見られています。
宮城県 人口当たりの感染者数が最も多いのは宮城県で、▽先月24日までの1週間は前の週の1.18倍、▽今月1日は1.17倍と7週連続で増加が続いていましたが、▽8日まででは0.93倍と減少に転じています。
一日当たりの新規感染者数はおよそ3285人で、人口10万当たりの感染者数は999.05人となっています。
1都3県
【東京都】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.06倍▽今月1日は1.37倍▽8日まででは1.01倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ1万2137人となっています。
【神奈川県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.10倍▽今月1日は1.26倍▽8日まででは1.02倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ7274人となっています。
【埼玉県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.07倍▽今月1日は1.34倍▽8日まででは1.07倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ6421人となっています。
【千葉県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.14倍▽今月1日は1.44倍▽8日まででは1.02倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ5102人となっています。
関西
【大阪府】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.10倍▽今月1日は1.29倍▽8日まででは1.08倍で、一日当たりの新規感染者数は5779人となっています。
【京都府】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.14倍、▽今月1日は1.40倍▽8日まででは1.09倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ1785人となっています。
【兵庫県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.10倍、▽今月1日は1.31倍、▽8日まででは1.17倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ3574人となっています。
東海
【愛知県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.13倍▽今月1日は1.36倍▽8日まででは0.94倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ6940人となっています。
【岐阜県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.06倍▽今月1日は1.33倍▽8日まででは0.97倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ2226人となっています。
【三重県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.22倍▽今月1日は1.13倍▽8日まででは1.09倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ1535人となっています。
その他の地域
【北海道】 ▽先月24日までの1週間は前の週の0.93倍▽今月1日は1.03倍▽8日までは0.79倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ6311人となっています。
【広島県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.15倍▽今月1日は1.02倍▽8日まででは1.08倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ3037人となっています。
【福岡県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.06倍▽今月1日は1.41倍▽8日まででは1.16倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ3581人となっています。
【沖縄県】 ▽先月24日までの1週間は前の週の1.17倍▽今月1日は1.47倍▽8日まででは1.15倍で、一日当たりの新規感染者数はおよそ579人となっています。
東邦大 舘田教授「変異ウイルスへの置き換わり 感染状況注視」
新型コロナウイルス対策にあたる政府の分科会のメンバーで、東邦大学の舘田一博教授は現在の感染状況について「一時期、増加傾向が目立っていた北海道や東北、北陸では、新規感染者数が前の週を下回った一方、九州など西日本では前の週を上回り、地域差がはっきり出ている。年末年始にかけて感染状況が各地域でどう推移するか、見ていく必要がある」と評価しています。
そのうえで「いま主流となっているオミクロン株の『BA.5』だけなら爆発的な感染拡大につながらないかもしれないが、別の『BQ.1』系統の新たな変異ウイルスへの置き換わりが、急激な感染拡大のリスクとなっている。『BQ.1』は東京都内などで徐々に増えていることが確認され、今月末から年明けにかけて、本格的に置き換わっていくとみられるので、そのときに感染状況がどうなるか注視しなければならない」と指摘しました。
そして「1日の感染者数は第7波のピーク時に比べてまだ少ないが、医療の現場では病床の使用率が高まって、院内感染も発生していると報告されていて、この状況が続くだけでもかなりの負荷となる。また、死亡者が1日に200人を超える日が続き、感染拡大が進めば、これまでのピークを超えるペースで増加すると見込まれる。高齢者や基礎疾患がある人はワクチンを打っていても、一定の頻度で重症化したり、死亡したりしてしまうので、年末年始の帰省などで、高齢者と会う機会がある人は、若い人であっても、▽ワクチンを接種すること、▽事前に検査を行うこと、▽体調管理の徹底、▽寒くても換気の徹底など基本的な感染対策を行い、感染を広げないような行動が重要だ」と話しています。
一方で新型コロナウイルスの感染症法上の扱いの見直しをめぐり、国は判断にあたって考慮する要素として▽「病原性」▽「感染力」▽「今後の変異の可能性」を挙げています。
これについて舘田教授は「新型コロナはワクチンや治療薬が普及し、検査キットも薬局やオンラインなどで購入できるようになり、死亡率はおよそ0.1%とインフルエンザに近づいているが、感染対策が徹底され、インフルエンザの感染者がほぼ出なくなった状況でも、コロナは広がり、感染力が高いウイルスであることは確かだ。しかし、全国で1年間に2000万人以上の感染が確認される中、『2類相当』の位置づけで就業制限や入院勧告、外出の自粛要請を続けたり、一部の医療機関しか診療できなかったりする状況が続くのは現実的ではない。『5類相当』への移行を目指す上で、医療だけなく、社会経済への影響も含めて議論を進めることが大事だ」と話していました。
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