小説、音楽、絵、遊び、歌詞、映像、漫画、哲学、ものづくり────────◇◇◇◇§◇◇◇◇────────登録サイトサービス一覧『小説家になろう』『カクヨム』『x(twitter)』『pixiv』『Tumblr』────────◇◇◇◇§◇◇◇◇────────私がリアル及びネットの世界で名乗り出る事はありません。これは凡ゆる人間に対してです。どの様な関係性であろうが、信頼があろうが、何人たりと私が私であると名乗る事はありません。それは例え指摘されたとしてもそうです。実はそうなんだなどと言ったり、思わせぶりな態度を取ることはありません。認めるならばそれは偽物です。────────◇◇◇◇§◇◇◇◇────────私は、この一生において、これまでもこれかも、『人の作品のキャラクターなどを自分のアイコンにすることは一度たりとありません』。私のアイコンはこの名義でない活動であっても、すべてのリアルやネット場所で、常にオリジナルのものですし、それはこれからもそうであり、一生に於いて一貫しております。人の作品に寄生したアイコンを使った事はありません。またここでいう寄生とは、リスペクトがない猿真似、感覚的でない知識的な手法による模写などのことです。いずれにせよ、『私が他者の作品のキャラクターをアイコンにすることは、過去にも未来にも、たった一度たりとありえません』。そうする人間は、私ではありえません。
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透明リリックメイカー 印象誘導
印象誘導
その場に於いて支配的な意見 まるで真理 まるで公理 匿名が束になって多数決 数のロジック 数のマジック はて変に統一される態度 ステマ スパイ 工作 誘導 はて変に操作される風潮 ハヤリ スタリ 豊作 過疎も 印象誘導 印象誘導 印象誘導 蔓延《はびこ》る ほら 印象誘導 印象誘導 印象誘導 蔓延している 席巻していく それが常と 無常に託そう
』
ありふれていて、ありのままである。
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透明リリックメイカー 反動
目をつけた目の敵 追いつけ追い越せが運の尽き 自分らしさなんて二の次 大切なことを忘れたり 手をつけた金が敵 競え争えに心尽き 自分が身につけるは上の空に 大切なものを失ったり
普遍的心情 押し並《な》べて凡庸 汲み取るのは容易と 或いは搾取の法
似付かわないもの 着けてみたり 要りもしないもの 採ってみたり わけもわからずの 信仰心 面倒臭せえからもう 全部間違い と言ったり 身に余る不幸を嘆いたり 身に余る幸福を嘆いたり 或いはその両方喜んだり やらねば何もない 反動も覚悟に
抗力抗い進み 抗力抗い進み 抗力抗い進み なんかヤな感じ で結構
』
2番書くのだるいわぁ。一旦一番までだなぁこれは。ところで、わかった? わかるかなぁ? わかったらいいな。そして、わるいな。どうでもいいか。大切なことだが。くだらないわ。くそだわ。めんどくさいわ。その全てでなく、その全てだわ。そういう話じゃないわ。そのどれかだわ。そのどれかということもないわ。いくつかが正しいわ。いくつかが正しいということもないわ。正しい正しくないの話じゃないわ。そうでもあるわ。ってね。わかるかなぁ? わからなくてもいいよ。だめだけど。どうでもいいしな。以下省略。元々省略していて、省略していないけど。わかるかなぁ? と、無限ループ。抵抗に抗え! 抗力! 反動! それでもガガガと無理くりにでもおしすすめるんだ!!!
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透明リリックメイカー 捏造正当
数字で偽る正当 馬鹿が信仰 真面目な人を殺す 海の底 急に放り出された様 怖いくらいに絶望 離して今や平穏 凪に安らぐ 呆れも少々 どうせ人々 変わりゃしないよ 馬鹿ばかりだもの それでも指摘する捏造正当
数字が回る人が正しいんだと 資本主義の盲信に気づかない人 欲望の底で苦しむ愚鈍 好きにしたらいいけど 迷惑も多数決 ”みんなが賛成なら 人殺しもしよう” やってる事がわからない人 文盲と無知と 世間知らずの迷妄
捏造の人気で正当ヅラをしてら おめでたい信者を見た 我らが法以外は邪教 不倶戴天の敵と 何一つ許せない人 向いてない人 それでも上昇 カラクリはこう 簡単だろう 馬鹿じゃねえの? あ、そうか馬鹿だったよな笑
』
馬鹿がこれを見たら怒りそうだな。馬鹿の言葉の意味すら分からず。ま、誰も見ないだろうけど。それが一番さ。世界はありのままでいい。人気捏造を増長させる馬鹿溜まりで、いいんだ。疑う事を知らない口をぽかんと開けた視力の悪い人たちが煩悩塗れのまま死んでいくだけさね。
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愚者話 6
害 否定 その受容
人の邪魔をして心情や気分、生活や生存を害したいという人々が、確実に存在している。人が悩み憂い苦しむのを見てほくそ笑み、自分は偉いか上だと思い込み、現世利益を鱈腹食べて、嘲るだけの日々を送っている人達が居る。
そういう人達に何を言ったり思ったり考えても無駄なことであって、彼らは本質的に変わることはない。彼らは自分たちが正しいのだと思い込み続けるのであろう。それをどうこうしようとするから苦しむのであって、はなから感知しなければ何の問題もない。
『これが正しいですよ』『これが正解ですよ』『こうあるべきですよ』『こうなるべきなんですよ』という洗脳には与しない。屈しない。服さない。
負けない。負けても立ち上がり、へこたれない。へこたれても勇んで立つ。挫けない。挫けても舞い戻る。
どうするのかはわかっている。精神の状態等は瑣末な問題。身についた技量は消し飛ばない。やったことだけは残るのだ。やってない事は残らない。便利な馬鹿にはわからない。ズルをして勝ってる奴らにはわからない。何をしてもいいと思ってる奴らには辿り着けない。そういう光が確かにある。それは決して奪えないものだと知っているんだ。
人を害したい人は消えないだろう。そういう人たちだから消えないだろう。現にそうなんだから仕方ないだろう。それでもまだ迷える心は救えない?
『別に───』
小泉君の言葉が思い起こされる。
『別に害されたっていいじゃねえか。何の問題があるんだよ?』 『否定される事に慣れてない人が多すぎる』 『人類全員ナルシスト』 『 " お前はお前が思うほど大した人間じゃない " ってちっちゃい時に読んだんだよね。あの時は参ったね。 " そんなこと言う必要ないじゃん! " 、 " 酷い! " って思うじゃん? " ほんとにそうか? " とかって疑問に思ったりしてさ。だってまだ自我もふわっふわのちっちゃい頃だよ? 余計にね?』 『でも。そういう事に怒っていたのももうずっと前だよ。今はもう、釈迦ちゃんの言う『無我』がよく分かるっつーか、皆んな風に言えば " 共感 " 出来るっつーか。まぁ、そんな感じ? わかったぁ?』
私は小泉君が引き合いに出した言葉を知らなかったから、それについて調べてみた。
それは" お前は、お前が思っているほど大した人間じゃない "とか" お前が思っているほど、お前はたいした奴じゃない " などと、幾つかの場所で、細かい表記揺れの違いを持って、紹介されていた。
それはどうやら、かのシュールレアリズムでその名声を確固たるものとした漫画家、その選集の巻末に、とあるコピーライターが書いた言葉らしかった。
さあ。コピーライターが書いたと知れば、なるほど頷けるではないか。前途の一文は、コピーライターが言いそうな事である、と思う。その信憑性というか、『正しさ』、は兎も角として、事実は単に、『漫画の選集の巻末コメントに、コピーライターが書いた言葉でしかない』という事だと言い得るだろう。
そんな言葉で若者や子供達を打ちのめしてどの様に『教育』したいのかについて、幾つか仮説を生やす事は可能であるが、その話は置いておこう。
あの時その言葉が引き合いに出された理由は、単に、『否定に慣れよ』という事だと考える。『皆んな否定に慣れていないから苦しむのであって、否定に慣れれば否定をされてもさして苦しまない』のだと。そういう事、そういう心づもりで、小泉くんはその言葉を持ってきたのかもしれない。まぁそんな事の事実は本人にしかわからないが。
私は否定も必要であると考える。同時��『私たち』の信念から、否定しないことも、肯定しないことも、肯定することも、そういった二元論的対立から離れることも、それらを同時に持ち得る事も……といった全てを採択するのである事は、最早『私たち』にとっては日常的な実践だ。
ここで『肯定』や『否定』の『効果』、『性質』について考えてみようか。
『肯定』は一般に人に好かれやすい効果を持ち、一方で『現実に向き合う事からの一種の逃避』という性質を持っている様に感ぜられる。
『否定』は一般に人に好かれづらい効果を持ち、一方で『現実を直視させ状態を改める事を促す』という性質を持っている様に感ぜられる。
他にも当然、色々な『性質』、『効果』は幾つも挙げられるのだろうが、ここでは上記の点について更に言葉を連ねる事としようか。
またタロットカードの各カードの持つ意味の説明の様に、その言葉から連想される性質や効果について、列挙する形式で書いてみようとふと思う。
『肯定』は同意、賛同、共感、モテ、応援、仲間、うわべの話、さわり、おべっか、ご機嫌取り、お世辞、ぬるま湯、飴、甘やかし、協調、調和、友好、多様性、建前。
などの言葉が、私にはパッと連想されるところである。
『否定』は反対、反論、指摘、非モテ、忠告、敵対、中身ある話、本質、憎まれ口、皮肉、リアル、鞭、戒め、教授、排他、対立、不和、険悪、画一性、本音。
などの言葉は、肯定から連想される言葉の対義語などとして挙げられるところであろう。
こう並べながらその意味を再度調べるなりしていると、色々と思うところがあるのだが。その最たるものは、『どちらか一方だけでは欠けているのかもしれない』、という思いである。
どちらか一方だけでは人間は『壊れて』しまう。『肯定』だけで甘やかされれば『増長』、つまり『傲慢』や『高慢』になってしまうし、『否定』だけで懲らしめられてばかりでは『畏縮』、つまり『謙虚』になってしまう。
『謙虚』と言えばいいものと感じる向きがあろうが、へりくだって人の意見ばかり受け入れている様な人にも、それはそれで問題を論じる事は可能である。どころか、すぐにその『良し悪し』を思い浮かぶ事は殆どの人間に可能ではないかと考える。
うむ。上記こそ慎ましやかな表現であり、それはメッセージの『攻撃力』、『突破力』、『効力』、『印象残存力』、『簡潔さ』など、其の他様々なものを犠牲にした表現の選択である。
そうして控えめな態度で何でも自分に問題があると自罰して行く向きを極めていけば、精神は暗く陰鬱としてしまって、その自己肯定感の低さから日々の行動、生活すらままならない状態になってしまうことは想像に難くない。
というより実際にたくさん見てきたし、経験した。
そも。
さきほどの連想列挙はその場限りの個人的な連想でしかない。一定の共感や理解は得られるかもしれないが、その実『それって両方にも言えるよね』というものがあり、それは『傲慢』や『謙虚』についてもやはり言えることだ。
例として『否定』側の『傲慢』な人間様相を挙げよう。
『否定』側はどうにも私にはいつも、『正しいもの』、『こうあるべきもの』を前提として、それに合致していないから『憤っている』様に見受けられる。
その強烈強固な『俺のルール』に従えと言わんばかりの態度は、とかく人に突っ掛かるは高慢ちきな高飛車人間になってしまうという側面、作用もあるだろう。
そしてそうなってくると『その人と一緒にいられる人間』は限られてくる。また『長く安定して付き合える人間』が限定されることを意味し、つまりは閉じたコミュニティで蠱毒の様に、『正しさ』を捏ねくり回す『モンスター』にさえなってしまうこともまた、想像に容易い。
というより実際にたくさん見てきたし、経験した。
この様にどこまでも様々な観点から論じる事は出来てしまうので、キリがないため一旦そういう『例挙げ』はここまでとして、そろそろ結論を述べようと思う。
要するに。
『極端は避けろ』
と言う話だ。
小学生だって思いつくぐらいに、『結局のところバランス』であり、副業をしているビジネスマンが好きそうな言い方をすれば、『多くのチャネルを持つこと』が重要であり、それは釈迦の言う『中道』とも通ずると私は考える。というより感じる。いや、" 共感 "する。
私たち『作値問下《なすあうとうもと》』は、人間としての釈迦を肯定し、神格化された仏陀や仏教というものを否定していると言えるが、私たちはその信念から、同時に仏教や仏陀もまた実は肯定もしているし───だからこそ大乗仏教の用語などを親しみを込めて用いることもあるのだし───、その様な二者対立を離れた観点や、その他の観点を模索しようとさえもし続けている『集団』であるのだが。
敵とも言える宗教法人『物打題法《ぶつだだいほう》』は、私たちを肯定する事はないし、ひたすらに否定し続けるだけなのであろう。それは恐らく釈迦が考えたであろう中道とは、異なる道だ。
私たちは自分たちで気づいたその『極端に振り切らない』、『極端に振り切って両方を知る』、『矛盾対立を克す』といった信念が、釈迦の語っていた『中道』に通ずるものだとして飽くまで共感しているに過ぎないが。
少なくともそれは私たちにとって『悟り』の一部であるので。
その観点から『物打題法《ぶつだだいほう》』の人間は『悟れない』というのが私たちの見解である。
何度も述べている通り、別にそれが『良い悪い』とか、『偉い偉くない』とか、『凄い凄くない』とか、そういう話ではないし、同時にそういう話でもあるし、そもそもそういう事を勘がるのが違うし、そう言うことを考えるのが『当ってる』とも言える。
別に別の言葉で説明修飾補足しなくてもよいという考え方もあるわけだ。言ってる側から私たちの常套手段である多数の語の列挙という手法が覗いてしまっている訳だが、これこそは『自主的で積極的な矛盾』を扱える私たちの特徴の発露であろうか。
『気づかないで矛盾していること』と『気づいている上で矛盾を受け入れていること』は全く異なることであるのだが、普通の人々にはそんな事はどうでもいいことらしかった。だから私は普通の人々が嫌いだし、同時に好き以下省略であるのだが、この理論が人々に解される事はないだろう。
生半可な経験で私たちの思想や理論を実感を伴って腹落ちする事はほぼ不可能に近しいと考える。
それでいいし、そうあるべきだし、同時にそうあるべきでなく、べきとかではなく、それではよくないし、そういう話じゃないとも言えるし、以下略。
そう言える理由は私たちが執着を『滅している』者達であるからだと説明出来る。
私たちは『救世願望』や『統治願望』、『金銭欲』や『顕示欲』といった欲や願望、つまりは『執着』を滅する事を『宗《むね》』としているので。
その『実践』にあっては、『現世利益追求集団』やらの前提刷り込み思い込み、決めつけレッテル先入観、固定観念偏見常識などに囚われる事は必要のない事なのである。
そういうわけだから、『アカデミックなもの』を『盲信していない』。文法にしたって『学校文法』が全てだとは思っていないし、その様にせよと迫る暗黙の圧力には与しないし屈さない。服わない。
私たちは『普通の人々が経験しない、噂にも聞けない、想像さえも出来ない様な異常な体験、生い立ちを経てきた辛苦の徒であって。故にその苦悩は常人のそれとは計り知れず、其の為に " 現在の苦 " を " 滅する " 事を本懐、本領とする人間の集まり、及び思想体系』であると言えるので。
『普通の人たち』の『当たり前の』『殆ど』が、私たちには齎されなかったものでなのである。
それは『親が離婚した』とか、『虐待されていた』とか、そんな『瑣末な程度の話』ではないのだが。
『普通の人々』は『想像力』か『あれこれと考える力』、いや『多数の可能性や思いなどを同時に幾つも持ち合わせそのどれをも信奉する』という『ダブルシンク』のような『能力』に欠けているので。
わかりよう筈もない。そして私たちは、『わかってほしい』などという欲≒執着≒煩悩も、やはり同時に『滅する』のであるからして、『全てはこれでいいのだ』という結論に至れる次第だ。
これが『悟り』のあらましの一部であるので。
『ただ数文字の念仏を唱えたり、現世利益を追求している様な者達』には到底この考え、思い、感じに至ることはできないであろう。それは自明な事なのだ。
これはまた、『普通の人々が信じている事の大半』が、私たちにとっては瑣末な事で『も』あるという話にも繋がっていく結論だ。
アインシュタインを思い出せ。常識とはなんだったか。
もっともそんな知識、いな、情報に効力はさしてない。
アインシュタインの格言など見るまでもなく、私達はその認識を早くから自ずと生成していた。それは『極めて稀有で異常な苦痛に塗れた境遇』があったからこそ辿りつけたものであるので。
だから私たちは『布教』などしないのだ。どこぞの『金と利権目当ての害欲求寄生虫集団』いや『物打題法』とは違うのだから。
まぁ。
否定で『繋がる』向きもあると思う。
『否定で共感』するという事もありうると思う。
前途の『肯定否定から連想される語句の列挙リスト』が、肯定否定のその片方にある語句───というかその概念───が、もう一方には該当しない、というものでは無い事は、先ほども述べた通りであるのだし。
『自分は尊重されるべき人間』だとか、『これは当然の権利である』と思うから苦しむのであって、『現にこうなのであるから受け入れる』という境地に至る事が出来るのであれば、『否定』ひいては『害される』という事も、別に良し悪しを自動判断したりして苦しむ様な事でもないのだ。
『こうあるべきを捨てよ』とか、『たった一つの正解などない』というのであらば、『否定』とか『害される』という表現そのものが、『判断的』であってよろしくない。
それはただの、『作用』、『行動』、『振る舞い』なのだ。『否定』に分類し、『害された』、それも『不当』に、『自分という尊重されるべき人間が』などという前提の刷り込みがあるから『苦しむ』のであって。
もっと世界はシンプルな筈だ。
世界はありのままでいい。
何人も、ありのままでいいのだ。
それこそが釈迦の言う『無我』であろうか。少なくとも私たちは、それに " 共感の念 " を覚えている。釈迦には���依しないが、釈迦に寄り添い、理解しているつもりである。だからふもと。『下』なのであるのだから。
もちろんそれだけではないが。
さて。
さてさてさてさて。
ここで一気に一度、大きく話を戻して。
再登場したるわ『お前はお前が思っているほど大した人間じゃない』などという『作用』の言葉。とはいえまずは、『否定分』を『肯定分』で打ち消そうか。
『お前はお前が思うより大した人間だ』 『お前はお前が思うよりも、大した人間である』 『お前はお前が思っているより、大した人間である』 『お前はお前が思っているよりも、大した人間なのである』
このぐらいでよろしいか?
しかしこれは最後に言いたい事ではないのだ。
最後に言いたい事はこんな話。
『其の言葉には一つ、欠けている視点がある』
それは、
『大した人間とは、なんなんだ?』
『それは誰が決めるんだ?』
『秤はどこに、あるのだろう』
そんなところだ。
以上。
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愚者話 5
言葉狩り
人の言葉を狩ろうとする人間に大抵碌な人間はいない。言い方を配慮せずに言うが大抵『クズ』と『バカ』が人の言葉遣いに対して難色を示し、その『是正』を『強制』しようとする。烏滸がましい。馬鹿に付ける薬はない。不遜で傲慢、高飛車な勘違い人間である。
こういうと馬鹿は馬鹿だからか『お前だって論法』でその『認知的不協和』を解消しようと───そうと自覚もせず───躍起になるが、『お前に問題があることと、こちらも同様や近似の問題を抱えていることは、関係がない』という当たり前の思考すら奴らには出来ない。やはりその理由は、『馬鹿だから』いや、『愚か』だからなのだろう。
奴らは『愚か』の意味すら調べず自分ルールで使用する癖に、調べたと思えば今度はその辞書的意味《ディノテーション》なり連想意味《コノテーション》なりにあっけなく縛られてしまう。本当に不自由で道理に暗く、『何もわかっていない』『阿呆』どもである。
これをもし外部に公開すると仮定すれば、私はここで『阿呆の意味は自分で調べてくれ阿呆』と言い渡したいくらいだ。そして別にそれは『だらず』だろうが『うつけ』だろうが『たわけ』だろうが、どれだって使い得るのでどれだっていいとも言えるが、何故『阿呆』を選択して使用したか。
それはわからずともこの様に考えることさえ出来ない輩の多いこと多いこと。まっこと世の中は末法。おっと、仏語を使ってしまったな。失敬失敬。忘れてくれ。もちろん、忘れなくてもいいし、どうでもいいことだが。
これは何も全て空想で言っていることではない。実際の経験談や聞く情報読む情報、つまり所謂『一次情報』や『二次情報』や『三次情報』などを元に言っていることなのに、馬鹿はそう言う可能性すら想定しない。
別に正解を当てろと言っているのではない。ただ『考えろ』と言っているだけなのに、それすらわからない。わかる気がない。わかる事ができる。序でに、何故『分かる』や『解る』や『判る』などの漢字を使わずに態々平仮名を使っているのかについても想像しようとしない。
これだから馬鹿は救いようがない。救う必要もない。そして救う事はできるし救う必要もない。そしてどうでもよく、決してどうでもよくもない。この私たちの矛盾受容すら頭ごなしに否定して考えてみたり思ってみたり感じてみるということをしようとしない。
この洗脳されきった馬鹿どもが。少しは頭を使ってものを考えたらどうなんだ。だから頭の働きが鈍くなるんだ。だから『同じ様な日々がどうたら』とか、『生きづらい』だとか、他にも悲しまなくていいようなことにまで無闇に悲しみ、悩まなくていいことま矢鱈に悩むのではないか?
もちろん、そう言った言葉を吐く理由原因の全てが馬鹿だからじゃないことは当然知っているし、私たちは並の人間とは比べ物にならない程の不幸や不運、不遇に見舞われて、壮絶な人生を送っているので、その点から私や私たちを批判するのは逆にそちらが想像力を欠いていると言えるのであるが。馬鹿はそんな事もわからないらしい。
まぁいい。話を少し戻そう。
兎に角私が言いたいことは、人々は『自分が大した人間じゃない』ということをもっと自覚するべきだということだ。『自分は尊重されるべきである』という無我の対極の様な考えで偉そうにするなど言語道断。
『勉強を頑張ってきた』事から『勉強が全て』とそう、文字化することもなく『なんとなく』『ぼんやり』『決めつけ』『思い込み』『刷り込まれ』『レッテルを貼っている』様では、そこから生み出されることなど所詮は『勉強が全ての人のもの』でしかない。
知識や情報にはさしたる価値がない。結果も結局意味がない。大事なのは過程と実感であるのに。実体験であるのに。深く考えもせず所謂『歴史上の偉人だから』という迷妄蒙昧の権威性先入観によって例えば『ビスマルク』などを引き合いに出し、歴史に学ぶ経験に学ぶなどと尤もらしく言って悦に浸るのだろう馬鹿は。
『知ってる事』は『えらいこと』ではない。『勉強ができること』は、『頭がいいこと』ではない。
『勉強ができること』は、ただそのまま、『勉強ができる』という、それだけのことである。それを馬鹿どもが考えもせずに『頭がいい』だなんだと言うから、おかしくなっていくのだ。
『雑に括って』、『真実じゃないことを真実と断定して』、『可能な限り凡ゆる可能性を想定する事もせずに』、『ただ自分や自陣は正しいと思い込んで』、『誰かに振る舞いや性質の変更を強要する』という、馬鹿で世界は───いや日本は───少なくとも私の観測範囲は───溢れている。
救いようがない。救う必要もない。もう救われてもいる。救われるなどない。救う必要がある。救いようがある。まだ救われていない。ずっと救われない。救われるということはある。その他この段階に於いての思考と記載省略。対極から述べる基本については受けるくんが詳しいので、今更語るまでもないか。
とにかく、『言葉狩りをしたがる馬鹿』が多すぎる。それはアラサー以上の女性や受験生、大して勉強も思考もしていない俗に言う『底辺職』───底辺職という語についての是非や定義、それにまつわる様々な話は『ここでは』『理由・意図があって』議論しない。割愛するがとにかく『底辺職』───がこぞって好き好んでやることである。
それらはクリエイターの敵である。
というか。
『有象無象は塵である。尊敬する人間の言う事ならいざ知らず』なのである。
実例を幾つも挙げてやろう。
場末の病気だらけの警備員が若者に『面倒臭い』という言葉を使うなと苦言を呈してその影響を受けてしまう若者。
しかし某有名なアニメ映画監督は作業中に『めんどくさい』という言葉を発する映像。それに植え付けられた観念を抜かれて或いは溶かされて又は消し去られて、面倒臭いと連呼しながら『ものづくり』をするようになったら上手くいった。そういう人だって実在している。
また同様に、例えば『本を読む理由』について『本を読んでるのがかっこいいから』と答えては『それは本質的じゃない』だとか『そんなの偽物』だとか『本は知識を得るために読む物だろう』だなどと言われてしまう子供。その様な『それがどっからきているものなのかも当人すら把握していない、又は疑問にすら思っていない様な』、『しょうもない先入観や思い込みや刷り込みや決めつけ』によって、いたいけな子供は『洗脳』されるが。
某有名ゲームクリエイターは本を読む理由について『本を読む自分が好きだから』と答え、本を買って積読する理由については『買っておけばいつでも読めるから』と答えた。その方がずっと素直で本質的ではないか。
『こうあるべき』という『先入観』は『クソッタレだ』。敢えて言うが『クソッタレ』だ。
『べき論』はみぃぃぃーーーー〜〜〜〜んなっ! 壊してまわれ!
『型に囚われるな』
という
『型にも囚われるな』
という(以下、無理数めいて無限ループにつき表記は省略) (同じ言葉が続くなら無理数ではないのではないかというクソみたいなツッコミも知ったことか!)
とにかくそういうわけなので 句読点すら 使わない
段落だってくそくらえ
どこから始めたって い
い
だ
ろ
う が
統一なんてくそくらえ。価値をつくるなんてくそくらえ。証人なんてここには要らない。神も仏もいないので、そして同時にいるので。証人はここに要るし、価値をつくるのは素晴らしいことだし、統一にも意義があることは分かった上で。
全部どうでもいいとも投げ捨てて。
ええいそんな話の流れなんてぶった斬ってしまって俺は言いたいことを言うぞと『一人称』さえ『表記揺れ』。否、『意図的な』『敢えての』『選択』である。馬鹿が。
『女は家事をすべき』とか。『男は仕事をすべき』とか。
『女らしい』も『男らしい』も『大人っぽい』も『子供っぽい』も
自分の感想を言うんじゃ無い。
人を評価できるほどお前は偉い | 《ないし》凄いのか?
自分が正しいと思うな。
自分が上だと思うな。
自分が医者だと思うな。
自分が教師だと思うな。
自分が強者と思うな。
自分が中心だと思うな。
自分が神だと思うな。
自分が仏だと思うな。
自分が人間だと思うな。
自分が価値ある人間だと思うな。
自分が意味ある人間だと思うな。
自分が理由ある人間だと思うな。
自分が原因ある人間だと思うな。
自分が因縁ある人間だと思うな。
自分が救われると思うな。
自分が天国に行くと思うな。
自分が地獄に行くと思うな。
自分が天国に行くと思うな。
自分が地獄に行くと思うな。
自分が無になると思うな。
あ��世や死後が有ると思うな。
あの世や死後が無いと思うな。
極端に振り切れるな。
中道だけに染まるな。
出来ないと決めつけるな。
自分が馬鹿だと思うな。
自分が天才だと思うな。
自分は頭が悪いと思うな。
自分は頭が良いと思うな。
人に何かを『思うな』と禁止するな。その様に思う事もするな。
そうしてそれら全てをもちろん思っていいし、そして無論どうでもいい。他にも色々考えられるだろうがここではその話はメインではないので割愛する。ただ『全てをもちろん思っていい』の一文では、『打ち消し』が『足りない』、『弱い』ので、それについてはその意図から敢えて逆の事を書いてやろう。
『女は家事をすべき』にも利点はあった。
『男は仕事をすべき』にも利点があった。
『女らしい』も矢張り存在はする。
『男らしい』もやっぱり存在はする。
『大人っぽい』も『子供っぽい』もやっぱりあるんだ。
自分の感想は言っていい。
人を評価できるほどお前は偉い | 《または》凄いのかもしれない。
自分が正しいと思っていい。
自分が上だと思っていい。
自分が医者だと思っていい。
自分が教師だと思っていい。
自分が強者と思っていい。
自分が中心だと思っていい。
自分が神だと思っていい。
自分が仏だと思っていい。
自分が人間だと思っていい。
自分が価値ある人間だと思っていい。
自分が意味ある人間だと思っていい。
自分が理由ある人間だと思っていい。
自分が原因ある人間だと思っていい。
自分が因縁ある人間だと思っていい。
自分が救われると思っていい。
自分が天国に行くと思っていい。
自分が地獄に行くと思っていい。
自分が天国に行くと思っていい。
自分が地獄に行くと思っていい。
自分が無になると思っていい。
あの世や死後が有ると思っていい。
あの世や死後が無いと思っていい。
極端に振り切れるのもまた必要あるいは有用な道。
中道だけに染まってもいい。
出来ないと決めつけるのもいい。
自分が馬鹿だと思ってもいい。
自分が天才だと思ってもいい。
自分は頭が悪いと思ってもいい。
自分は頭が良いと思ってもいい。
人に何かを『思うな』と禁止してもいい。その様に思う事もしてもいい。
『思う自由』が、あるからだ。
『思う自由』を、行使しよう。
そうしてまず第一歩は対極を持ち出してそれを同時に併存させるという『矛盾受容』、『矛盾対立からの脱却』、『二者択一思考からの解脱』、『重ね合わせの実践』をする事が、やがて悟りに繋がる。
ただ念仏を唱えるだけで救われるだなどと片腹痛し。そんなものただ『思考停止して洗脳を受けよ』と言ってるのと同義だ。
釈迦はそんな事言っていない。そんな事を言い出したのは数百年やともすれば千年以上あとの『聖人』どもであって、釈迦では無い。
昔は坊主からしか仏教は学べなかったかもしれないが、現代はそうではない。主に『wiki』─────────────────────────────────『wikipedia』ではない。『ウィキペディア』のことを『ウィキ』と言うな不正確で誤認識を広めるのだから。こうして禁止指摘することで『wiki』と『wikipedia』は違うものだと気づけるキッカケになり得るからこういう禁止は是非是非すべきだ。
一方で、多くの若い女とそういう女が好きな感じの性欲ばかりで行動している様な若い男どもなどとの会話ではその様なことは言うな。あいつらはそういう細かい事が苦手だから、言っても無駄な聞く耳持たずの馬耳東風であるし、『めんどくさい』と思わるだけがオチだ。もちろん全ての若い女やそういう(中略)な若い男どもがそうであるとは言っていないし、そう言う事を分かった上で状況判断や言い方などに気をつけてやんわりと促す事もできる。
結局答えは一つじゃ無いんだよ馬鹿。ものごとを単純に考えたがる考えるのをサボってるか考えるのが苦手な馬鹿どもがよ。先天的に考えるのが不可能な人はこれには含まない。それは『障がい者』、いや『障碍者』、ああ、『障害者』であるから。
放送禁止用語など糞食らえ。資本主義など糞食らえ。配慮忖度など糞食らえ。
同時に放送禁止用語によって不快な思いをしない人がいるであろうこともまた事実。
逆に不快な思いをしている人たちや向きがあるのもまた事実。
そのどちらにも配慮するのは不可能なのでと簡単に考えたがる馬鹿がいるのもまた事実。
そのどちらにも配慮する事が可能で有るとしたいヒーロー願望でも有るかの様な思考をしたいまた一種の愚者がいるこも事実である。
配慮忖度により平和的解決がしやすく上手く回るであろう面もあろう。
あろうあろうと続けるのは稚拙であるとする向きもあろう。
それでいえば例えば小説を書く者がセリフとして『それはそこにおいといて』だの『この話は置いておいて』だの書く際に、『置いて置いて』なのか『置いといて』なのか疑問にも思わず適当に使う人間がいるであろうことも想像に容易い。
【作者註:私は信じられないがそういう人も現にいるであろうし別に彼の様に批判することでも無いとも思う。その方が速度的にというか、書くテンポは早いかもしれない。ただ調べる方にもその分頭が働いて色々連想やとか鍛えられそうな気はするよね。知らんけど。自分で決めて。あなたの人生なんだから。敢えて句点を格好内に入れて作者注を終える。へい。】
またそのどちらが正しいかとかを決めたがる向きもあろうし、どう正しいかでの意見も人それぞれ分かれるかもしれないし同じ人の中に複数意見が同居し得る事もあるだろう。
そもそも正しい正しく無いではなく、こちらにはこう言う性質があり、そちらにはこう言う性質がある、というふうに『考えれる』人もいるだろう。そういう風に多面的に考えられない人もいるのだろう。というか実際、いた。
『考えれる』と書かれていることに『うわ、ら抜き言葉だ。読むのやめよ』と思う言葉狩りの馬鹿いれば、『某有名メーカーだって使ってるし』とか『言葉は変化進化していくものだから』と擁護する人もいるのだろう。
これら全て、私が今回の『配慮しないかつ配慮する』スタイルで書いているから、言葉狩りをしたい側を悪様に罵り、言葉狩りをしない寛容で自由である側に寛容で味方につく様な言い方をするのは、『私の主観の話である』のだから当たり前なことだのに、それをこう明示的に書かれないと思ってもみないというか、『思っても見れない』人がいるだろう。
そして今度は『思っても見れないという日本語はない』という馬鹿も出てくる始末なのであろう。情報や知識、言葉というものが常に意図や作為などによって発信されているものだというのに、情報や知識、言葉というものの裏やらにある意図や作為を───はかれるはかれない以前として───はからない、はかるという発想がない人間もまたいるのだろう。
そしてそれらは全て、
『現にそうであり、そういうものなのだから、受け入れるだけである』と考えたりすることで、『他人を変更しようとしない』『全てはありのままでいい』と考える『私たち(決して『我々』という語は使わない私たち)の信念』で、その存在を認めることが出来るところであるのに、こう文字にして例えばそれを私たち以外の誰かが呼んでも、その全ては理解されないだろう事など。
また流れを無視して言うが、『学校文法』がなんぼのもんじゃい。『文法』と『学校文法』の違いもわからず、『その様な知見すら持たず』つまり『疑わず鵜呑みにするベロのない口の馬鹿が』『何を偉そうに』。
そういう奴はDirectXの文脈に於ける『3Dグラフィックスアダプター』とただ単に『グラフィックスアダプター』で連想されるイメージや検索して得られる結果の意味するとことの違いにも一生気付かず勘違いしたまま死んでいく。
など。
『別にそれもいいのだが』、『私はそうありたいとは思えない』ね。
そして資本主義にも当然良し悪しは論じる事が出来るし、もうさんざ論じられてきた事であろう。いい加減、そこに新たな思想を加えてメスを入れていってもいいんじゃないか?
───────────────────────────────────────や『オープンソース』によって、その仕組み上どこかの企業や宗教法人、政府やジャーナリスト個人プロ市民まぁ何にせよ、そういうものたちの情報よりかは比較的偏りづらい情報が手に入る時代に折角なっているのだから、坊主からしか仏教のことを聞かないのは前時代的だと私は思う
体系的な学問など体系的な学問でしかない。それが全面的に正しいなら、どうして問題は尽きずに世界はこの様な地獄の様な様相を呈しているというのか。特にこの日本の失われた三十年を見よ。
GAFAMを手放しで尊ぶ前にアメリカの独占や格差の酷さ、プライバシー問題、エドワードスノーデンが告発した米国政府と米国IT巨人企業多数との合作監視システムPRISMを知れ。
多数がいう事が常に正しいのであれば、お前はみんなが多数決で死ねと言ったらソクラテスの様に『悪法もまた法なり』と死ねるのか????? と私は馬鹿どもに問い詰めたい。
これを読んで当時の死刑制度や裁判制度などに疑問や興味、違和感を抱いて調べる者は一般に賢いと勘違いされるのかもしれないし、あらかじめその分野に詳しかった人間がツッコミを入れたらそれが『正しい』からその『間違いを指摘されたこの人の言うことは他のことも全部正しくない』と馬鹿が思うのだろうし。
ほら、言い出せばキリがない。だからもうやめよう。
最後に。
『こうあるべき』の話に戻るが。
衛生観念や死生観、生活様態や味の好みまで、我々人間は親の影響というものを非常に色濃く期間長く受けやすいものであると私は思っている。親の『教育』にいかほどの愛や想いや考えがあろうと、それが『教育』である以上は『誘導』であり『洗脳』であり、『刷り込み』『植え付け』『レッテル貼り』『価値観の押し付け』でしかないとも言い得ると思われる。
『教育は、洗脳なんだ』
『情報は、洗脳なんだ』
『指摘は、洗脳なんだ』
『要求は、洗脳なんだ』
『言葉狩りは、洗脳なんだ』
『プロパガンダなんだ』────────────────────────────────────────────────────────────────────────────
以上のほぼ全てが私たち『作値問下《なすあうとうもと》』の共通認識の一部であると言えるだろうことは今更皆様に問うまでも無いことであるのだが。私はこのように言いたくなってしまったのでこれを書き認め皆様に送ら��ていただく。
それが迷惑でもあろうことはわかっている。が、皆様にとってはそれが迷惑でもないという面���あることも知っている。また、他の数えきれない多面的な見方を皆様ならなされる、することが出来る事もわたしはわかっている。
そういう理由とあえてここでは明示しない幾つかの理由などから、このメールを送らせていただく次第である。
長文をお読みいただき誠にありがとうございました。そしてすみません。ありがとうございます。すみません。ありがとうございます。すみま(以下、無限ループにつき省略)
それではまた。
PS.
以前、受けるくんや渡るくんにこの話をちらりとした時の答えは、以下の様なものだった。
『色々わかります。その上で、言葉狩りをも、受け入れる。そして同時に受け入れられないという気持ちも受け入れるし、無論どうでもいいとも。現にそういう人たちが存在していてそれは変えられません。変えられたとしても変える必要がありませんし、その必要がありますし、やはりどうでもいいのです。ですから、この様に考えて、言葉狩りを”いなす”ことは出来ます。その過程にきっと、淀川さんや私たちの様々な過程が渦巻くのでしょうし、私たちとしては、その様なことを考えるそして考えないかつ、そのどちらでもないことこそが、悟りの道だと考えます。以下ループするの言葉にするのは以上です』
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愚者話 4
寄生虫
他人の言葉やデザインに寄生しているだけの人間が汚らわしく感ぜられる。私は考えなしや浅はかな人間というものが嫌いなのだ。
『それが許せないという執着』は、受けるくんと渡るくんによって幾分軽くして貰った次第であるが、今でも尚、その残滓は私の心の奥底に暗く燻っているのである。
『無闇』な人間が嫌いなのだ。その意味の中にやはり極端、中道につながる意味があるのだから、やはり我々の信念や信条、またその共感先でもある釈迦の考えというものなどが、この世の真理を雄弁に的確に物語っていると思わざるを得ない。
彼らが『マシ』になることは───失礼。とはいえ実際───ないだろう。情報や知識を得るだけで、自らは修行せずに実感を得ることのない彼らが、君ら風に言えば『変わる』事はないのだろう。
『そういうものだし、現に斯く在る。そのままでよく、変えようとする必要はないし、変えたいと思ってもいい。そしてどうでもいい』
君らならそう言うのだろう? 渡るくん、受けるくん。君らの名前にさえ寄生しようとする虫ケラが、私の観測範囲にはチラついていて非常に不愉快だ。虫唾が走る。
まぁ、君らのおかげで、このことに以前ほど苦しんだり悩んだりすることはないのだけれど。
それでもやはり、君らが『思っていい』という様に。
『思う自由』の行使の一環として、私はこの様に思ったことを、君たちに伝えてしまう未熟を、どうか許してほしい。無論、許さなくてもいいし、どうでもいいのだがね。
『私たちは全てを恐れ、全てを恐れておらず、そして全てに関心があり、全てに無関心でもあり、そのどれでもあり、どれでもないのだから』
『忘れない様にしたいが、忘れてもいい』のだものな。『念仏の様には唱えない』さ。
ただ態々認識圏に嬉々として現れる羽虫について、述べた迄のことであるさ。
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愚者話 3
誤診
心理学や精神医学の権威性と論文根拠を悪用し、他者の発言の信憑性や正当性を毀損するという工作、動向は益々その勢いを増している様に見受けられる。
この日本国に於けるその実行部隊、言うなれば『フロント集団』は、幾つもの体験的、及び物的証拠により、『物打題法』であるという事は私たちには周知の事実である。
『作値問下』の信条、信念の一部により、私たちの多くはその事について最早執着を滅している向きが大きいが、未だ私の様な『未熟な愚か者』は、彼らのその悪逆無道《あくぎゃくむどう》に対して義憤を覚え、駆られてしまうという一面を消し去るには至っていない。故、斯様に態々話題の俎上に上げてしまう次第である。
受けるくんは『滅するとは消し去ることともまた異なる』と言うが、私は君ほどまだ『大人にはなれない』ので。どうかゆるしてほしい。無論、ゆるさなくてもいい。
誤診はこれからも続くだろう。そしてそれが無くなる事はないのだろう。仕方がない。
『現にそういうものだし、���うあるのだから。世界はありのままでいい』
君はそう言うのだろう。
私は未だに、『許せない』。
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愚者話 2
猿真似
人の猿真似をするしか能が無い人間や集団と言うものは結局どこまでいっても『猿真似人間』、『猿真似集団』でしか無いのであろう。
猿真似と真似は違うものだ。厳密には真似という言葉には『猿真似』と、『そうでない真似』という意味が包含されていると私は噛み砕いている。これに関連して『模倣』という言葉もある。また『参考』にするとか、『リスペクト』するという半ば俗っぽい言い回しもある。
わかるだろうか。
『考えない人間』はどこまでいっても『愚か』であるし、誰かのいいなりになる犬であり続けるのであろう。
わんわん。好きにしたらいいよ。ばぁかばぁか。などと宣っておこうか。
更にタチが悪いものもいようしその様な者達の集まりもあろう。『物打題法《ぶつだだいほう》』の連中がまさにその例である。猿真似をしておいてからその起源と所有権を主張する。彼らには最早、『馬鹿』や『愚か』、『愚者』という言葉は不適切であり、『盗人猛々しく』、『迷妄』で『蒙昧』で『狂信』で『浅薄』な『悪人』であり『罪人』であると言っても尚まだ足りない。ので割愛する。
まぁ。
受けるくんや瞠目さんは、わしがこんなことを言うがは快う思わんろうけど。送らせてもらうぜよ、ごめんちや。
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愚者話 1
馬鹿と天才
『馬鹿と天才は紙一重』という言葉がある。馬鹿と天才には紙一枚の差しかない、つまり、馬鹿と天才には大差がない。転じて、馬鹿と天才は同じ様なもの。とまぁ、その様な意味であろうか。この言葉は。
その意味では、『馬鹿』という言葉は罵倒でなく、称賛たり得る。『常人には理解できない』、『奇抜である』という点を切り取って見れば、なるほど、確かに馬鹿と天才は同じようなものなのであろう。とまぁ、その様な解釈も出来るだろうか。
同時にタロットカードの『愚者』のカードも思い起こされる。『愚者』は、トランプの『ジョーカー』の元となったカードとも言われるカードだ。タロットカードには『カード番号』というものが種類ごとに振られているのだが、愚者のカード番号は『比較的最近の版』では0番で、『伝統的な版』に至ってはカード番号が描かれない事も多いという。
それはつまり、『カード番号なし』、とも呼び得る様に思え、先述の『0』という割り振り番号の事も思えば、『零《れい》』と『無』の関係についてさえも考えを巡らせる契機になる様な特徴であると私には感ぜられた。
そして『ジョーカー』が多くの『トランプゲーム』において、『他のどのカードとしても扱える万能カード』、いわゆる『ワイルドカード』としての性能を持つ様に、『タロットカードゲーム』において『愚者』は、『いつでも出せる特殊なカード』として扱われる。
つまり『愚者』は、『何もなく』、『0であり』、『何にでもなれる』と言った『性質』、少なくともそれらの様な『印象』を持っていると言えるのではないか。
§
ここで『愚者』の『カードの意味』を、wikipediaから引用する。
" 正位置の意味 自由、型にはまらない、無邪気、純粋、天真爛漫、可能性、発想力、天才。 逆位置の意味 軽率、わがまま、落ちこぼれ、ネガティブ、イライラ、焦り、意気消沈、注意欠陥多動性。 " ※ダブルクォーテーション内が引用。引用元:『Wikipedia』は『愚者』のページ
§
さて。日本語に於ける『愚者』の辞書的意味《ディノテーション》は『愚かな人』であり、その対義語は『賢者』で『賢い人』と呼んで字の如くである。では『愚か』や『賢い』の明示的意味《ディノテーション》は、どうであろうか。
§
『愚か』とは、頭の働きが鈍かったり、考えが足りなかったり、未熟な事を言うらしい。
なるほど。
私が誰かを『馬鹿』という場合に抱いている印象そのものである。それを的確に表した様な言葉である。感銘を受ける。
§
『賢い』とは、頭の働きが鋭かったり、知能に優れていたり、抜け目がなかったり、要領がいい事を言うらしい。
なるほど。
私が自分に対して抱いている印象そのものである。その説明に使われている各語の辞書的意味を調べてみても、その説明が酷く適当である事は明らかだ。
§
他者評価と自己評価についての思考を再度辿るのは不毛なので、そうするとしてもそれはまたの機会に��るが、私が『賢い』と言うことは他者からも評されている所であり、必ずしも私の『自惚れ』だけであるとは言い得ないと感じる。
§
『自惚れ』自体にも良し悪しはないし、同時にそれらの判断や評価をすることは可能であるが、そこで止まる様な思考回路には興味がない。『自画自賛』をして何が悪い。それに異を唱えるのは『他者評価』を基軸とした『資本主義』に『洗脳』されているからに他ならない。
§
『盲信』する自由も無論存在するが、だからどうした。勝手にやっていればいい。『盲信』からは『盲信的なもの』しか生まれないきらいがある。それが好きなら、勝手に好いていればいい。
話を戻そう。
次に知るは『馬鹿』という言葉の辞書的意味であろうか。尤もここまでの語句の殆どを、かつて一度ならず調べていることは明らかなのだけれど、もう一度ここで明示しよう。
§
『馬鹿』とは、知能が劣り愚かなこと、社会的常識に酷く欠けている事、つまらない事や無益な事、度がすぎる事、用をなさない事、などを指す言葉らしい。
§
この意味の内の幾つかは、『人に対して使うことを前提としている』と言うよりは、『物や様子や振る舞い』などに対して、専ら用いられる意味であろう。これは私はじめ多くの方が恐らく感覚的に分かる事であろうし、想像や連想に難くない事でもあると思う。
それ故に、先ほどの、『人に対しての言葉としての馬鹿の意味』の列挙に、そういったものが並んでいる事について、違和感を覚える様な向きもあるのであろうという事は、瞬時に想像出来る次第である。
だからこそこの様に長々と態々説明的に思考しているのであって、つまるところそれらは、『私が意図的に並べることを採用した』という事である。
まだ判然としない向きもあろうと感ぜられる。
どういう事か。
簡単だ。
馬鹿じゃないのならすぐわかることだ。馬鹿馬鹿しい。馬鹿と馬鹿馬鹿しいの意味の違いもわからずに感想を発出する人間が多いことは嘆かわしいが、愚者のカードの意味を考えれば、それもまた『アリ』であると考える事も出来る。なので敢えて、『小賢しい』と表現しようか。
わかるかな?笑
§
情報というものはいつだって何らかの『編集』を受け、そこには何らかの作為や意図というものが存在しているのは言うまでもない事だ。それは今回の思考整理についても言えることであり、私は必要と思われる情報を選択し、不要と思われる情報を削ぎ落としている。
誰かを『馬鹿』と言うのであれば、これぐらいの事は誰の助けも借りずに自らの頭で考え、思い、感じられるようでなければ。と、私は思う次第であるが、他者の事などどうでもいいので、放っておく事にしよう。つまり、『馬鹿は死ななきゃ治らない』、なのである。
§
私たち『作値問下《なすあうとうもと》』の信条、信念の一部にも通じている言葉が見受けられた事は面白いと思う。
即ち、『度がすぎる事』、という『馬鹿』の意味として出てきた言葉だ。これは『極端』の話、『中道』の話に通ずる。
§
まっこと言葉というものは面白い。
この話は『瞠目さん』が《《瞠目して》》喜びそうだし、『受けるくん』にもまぁまぁ《《ウケル》》だろう。それだけでもう、考えた甲斐があったと言えようもんが。ざんじ送ろうや。
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愚者話 あらすじ
『馬鹿か?』
淀川大春《よどがわおおはる》は考える。愚者の思考を考える。そこには何もない。そして、全てがある。この意味がわからない人たちの事を考える。その心情さえも慮る。しかしてそれが何であるというのだろう。どうしたことだというのだろう。
淀川大春は考える。愚者の思考を考える。そこには何もない。なればこそ、全てがある。この意味を考えない人たちに思い巡らす。その呪縛さえも見極める。しかしてそれが何であるというのだろう。どうしたことだというのだろう。
淀川大春は考える。今日も変��らず考える。タロットの向きは正位置か。はたまた逆位置か。そんなことも下らないと考える。なぜなら全てに意味がないと考えられるから。
言葉の細やかな違いさえ、雑な人々にはどうでも良い事だった。彼らは自分の思いたい様に思い、見たい様に見る。その為に勝手に人の考えや言葉を四捨五入する。あれこれ言うのには、意味があるのに、そんな事を考えもせずに、ただ教えられるままに洗脳され、短文指向に考える。短文指向と短文思考も決して異なるのに、雑な人には同じらしかった。
雑な人は、何でも良し悪しに据えたがる。悪いなどと言っていないのに、悪いかよと怒り出す。雑な人たちは考えない。考えるフリをして、考えていない。淀川大春は考える。それが良いとか、悪いとか、偉いとか、凄いとか、そういう話ではない。ただ、『考えるか考えないか』という違いでしかない。
それを勝手に四捨五入。雑な人たちは四捨五入。言ってない事を思いたがる。自分が思いたい様に決めつけたがる。果ては他人を操作したがる。自分の思い通りに変えようとする。まったくもって、烏滸がましい。
それを、『淀川大春《《は》》』、『馬鹿』と呼んだ。
────────◇◇◇◇§◇◇◇◇──────── ※当連載もフィクションであり、実在の人物、団体、宗教、その他あらゆものと一切関係ありません。当たり前だ。などと言うのですか? ※そも、私の連載は全てフィクションです。特にノンフィクションであるという事を明示しない限りは、全てフィクションなのだ。当たり前だ、と。馬鹿か? ※登場人物の考えが作者の考えであるとは限りません。当たり前だ。などと言うおつもりでしょうか? ※当連載も私之プロフィールは『登録サイトサービス一覧』等に記載されているwebサイト等で同時掲載されている場合があります。それ以外のwebサイト等には掲載・投稿しておりません。 ────────◇◇◇◇§◇◇◇◇────────
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阿僧祇那由多のツッコミどころ 四
あの世についてのツッコミどころ・前編
「あの世にはツッコミどころがあるわ! 死後信仰によ!」
ナユちゃんの持病の発作が始まった。僕は本を閉じ、耳を傾ける。という事を動作で表してなお、言葉にして発しもする。
「さぁて、今日はどんなお話かなぁ?」 「ちょっと怖いお話よ!」
今日はその古めかしい喋り方が揺らぐ事はなさそうだ。───何故だかそう感じられる───凄みの様なものが、今日のナユちゃんにはあった。
「怖いお話? 割といつもじゃない?」 「そうかしら? いつもは割と、楽しいお話じゃない?」
認識の齟齬《そご》というのは良くある話であって、然して気にするべきものでもない。それが今の僕の見解だ。故に、そういう事にしておくのだった。
それにさ。そもそも僕は、ナユちゃんと話すのなら、いつだって楽しいんだよ。それは大前提なんだよね。まぁいいか。こんなの合間にも数ミリ秒が過ぎていく。まずナユちゃんに答えなきゃね。いや、応えなきゃ、かな。
なんて、脳内で漢字の取捨選択し悩んでる暇《いとま》はない。『そもそもそんなことはどうでもいい』んだから。
「それもそうかもね。ということは、今日のお話は、楽しくはないのかな?」 「楽しめると思うわ。楽しくて、怖い話よ。怖い話とは概してそういうものでしょう?」
確かに。言われてみればそうだ。怖い話が嫌いな人ならともかく。そして怖い話が好きな人なら尚更。『怖い話を聞く事は楽しい』。だから、『怖い』と『楽しい』は『現に両立し得るもの』なのか。これは盲点だった。さすがナユちゃん。
ナユちゃんと居るとこういう、『いつの間にか思い込んでいたこと』、に良く気付かされる。『それこそがナユちゃんの本懐であり本領なのかもしれない』。とは、最近僕が勝手に心で呟いている常套句である。
「それで、いったいどういう話なのかな?」 「ふふん。ミライのそうやって聞いてくれるところ、わたしは好きよ」
なんか褒められた。そりゃ僕とナユちゃんの相性は全人類はおろか全生物の中でも屈指のものであるからして、然もありなん。
「そうね……まずは、老衰死した老人を考えてみて?」 「老衰死した老人、ですかぁ」 「ええ、老衰死した、老人よ」
どうやら老衰死していない老人やらはアウトオブ眼中のようだ。飽くまでフォーカスは老衰死という属性の死を経た老人にある様子。若者などもっての他である。話の腰的にはけしからん。折るな折るな、腰を折るな、口を挟んでいなくとも。……なんかこれは、童歌《わらべうた》みたいだな。と思いました。まる。
「……いい?」 「ああ、ごめん。一寸《ちょっと》持病《じびょう》の癪《しゃく》がね」 「お腹痛いの?」 「ん?��ああいやぁ……そういう訳じゃあ、ないんだけれどね」 「なるほど。今日はそういうキャラなのね」
これはナユちゃんにほぼ毎日言われていることだけれど、イマイチピンとこないというか、『申し訳ないけど言ってる事がちょっとわからないです』、という心持ちになる台詞だ。それこそ、よくわからん常套句である。
「いいよ、続けて?」 「ん。続けます」
僕はナユちゃんの話の腰を治療する。まぁ僕自身は、心で色々思ってるだけで、一切ナユちゃんの話を遮っていないのだけれど。ただ心の中でこうやって、色々思ってしまうだけで。それが表の態度に僅かばかり漏れ出して、ナユちゃんの目に留まるだけなのだけれど。
今だってほら。また新たなトピックについて心は躍起になっている。『|〜《なになに》だけれど』っていう言い回しで思考するのは、小気味が良いな。とか。だけど連発するとくどいな。とか。まぁどうでもいいんのだけれど。けれど。けど。ケドケド。
「……老人が老衰で亡くなったとするわよ?」 「ああうん、聞いてるよ? 死んだね、老人。老衰で」
咄嗟のことに変な言い回しをしてしまった。ナユちゃんがなんとも言えない顔をしているけれど、その表情もまた可愛いのでオッケーです。ナユちゃんはどんな表情も似合うね、というか、ナユちゃんのするどんな表情も、クッソ可愛いッスネとフランクな気持ちになるというか。
わかるかな、この気持ち。……誰に言ってるんだろう。
「オホンッ」
ナユちゃんが|記号化されたようなベタなアクション《せきばらい》で僕を現実に連れ戻してくれる。ほんっと、僕ってば、ナユちゃんが居ないと生きてけないんだよね。ありがとうね、ナユちゃん。
「今日はそういう装備なのね」 「ふぇ? そっ装備?」 「なんでもないわ。つづけます」 「ア、ハイ」
ナユちゃんがよくわからない事を言う。まぁいつも、よくわからないことを言うのだけれど。
……もしこれが小説だったら、それで僕のこういう思考がモノローグなのだとしたら、先ほど僕が僕の『だけれども』という言い回しに言及してしまったが為に、読者の方々は集中出来なくなっていそうだけれど、それは僕には関係のない事だし、そもそもこれはモノローグでも小説でもない現実の僕の思考でしかないので、こんな事を考える事自体が無駄だ。
じゃあなんで考えたんだよ僕。 自分がわからない。
「エットネ?」 「聞いてますよ姫」
ナユちゃんのこの顔よ。もしこれが文字媒体の小説なのだとすれば、読者諸氏に見せてあげたいくらいなので、ラノベだったら挿絵を入れてもらうように編集者に作者が掛け合う所だろうし、ネット小説だったらその内作者が絵を描いて投稿してくれるのであろう。まぁ作者が絵を描ければの場合に限るが。
けれどもナユちゃんよ。ほんたうに、今日は自分でも自分の様子がおかしいのを感じているよ。
「……それでその老人が亡くなって仮に直ぐ天国に行くとするじゃない?」
どうやらナユちゃんは僕のおかしな様子を気にするのはもうやめるらしかった。いいぞ、そうでないと話が進まないからな。これがもしネット小説だったら読者の方に『いいからグダグダうだうだ言ってねえで話を進めろよ』とお叱りを抱かれてしまう所であろう。
まぁネット小説だとしても読者なんて現れてくれるかわからないのだけれども。 そして何度も言うが、これはネット小説ではなくて現実であり、モノローグではなく僕の思考そのものでしかないのだけれども。だけれども。だけれども。
なんかこう書くと、エコーみたいでかわいいな。……かわいくない?
「其のとき、天国で過ごすその老人は、一番最後、亡くなった時の老人の姿なのかしらね? それともその人の若い時の姿になるのかしら?」 「そりゃあ……どうなんだろうね? 確かにね」
ナユちゃんの話、僕はちゃんと聞いていた。読者の方や作者の方は、僕のあまりの不思議思考回路の供述の連続で、なんというかこう、『断片化』してしまったその話を、つなげる事が難しい様に予想される。
ですが、繰り返しになりますが、これは決して小説ではございませんので。その様な事を心配致しますは、『空が落ちてくるのではないか』、と心配するのも同然であると言わざるを得ますまいと存じますですハイ。
なんだこれ。なんか今日はどうも、一段と、変だな。僕。わかる。自分で。なんてね。全部わざとやってるんだけどね。だって、ナユちゃんが「もし若い時の姿になるのだとしたら、一体若い時のいつの自分になるのかしらね?」
彼女が僕の思考を遮る様に言葉を紡ぐ。
「さぁ、どうなんだろうね。それはちょっと、なってみないと、わからないなぁ」 「そうね。でも考えてみることは出来るわ。思《おも》い議《はか》る事は不可能ではないの」 「そうだね。それももっともだ。じゃあこうしよう。『若い時になる』んじゃないかな?」 「ざっくりと概念的に、若い時なのかしら? それとも全盛期? ではそれを誰が決めるのかしらね? 神様? 神様に其の仕事を割り振られたまた別の上位存在?」
そう一度に多くの疑問符を投げかけられましても、当方と致しましては返答に窮してしまう次第で御座いますデスハイィ…。
「でも本人が年老いた自分を気に入っていたら? なかなか日本にいると実感しづらいけれど、年齢を重ねることを悪い事と捉える向きだけがある訳ではないわ。加齢とともに深みが増すと考える人だっているの。私もその考えには一部賛同しているわ」
ナユちゃんは止まらない。こうなったら僕はもう、聞き専に回る。最初から大方、そうなのだけれど。
あと僕はナユちゃんのこういう所も好きなので、誤解なきように。だから、誰に言ってるんだ。
「本人が望む姿に任意になれるのが天国なのかしら? でも仮にもしそうだとしても、まだ問題は残っているわ」 「問題?」
僕は相槌の様な疑問を吐く。
「ええ。生まれて間も無くとか、子供の頃に亡くなってしまった子供を考えてみて? 亡くなってその子が天国に行ったとする。其の時、その子はもうそれ以上、成長する事は出来ないのかしら?」
はぁ。ナユちゃんは相変わらず小難しいことを考えるなぁ。普段の僕なら面白い面白いと舌を巻いて楽しむところであるのだろうに、今日はなんだか��食指が伸びないというか、イマイチ上の空である。ナンデダロウナ。
一寸深呼吸して、落ち着いてみよう。もちろん、心の中で、そうするだけだ。
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