#フィクション
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okuribikasou · 9 months ago
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lofimurphy · 5 months ago
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2025.2.5 水 26:50
本を買うなら、どっちの本がいいですか?
読みやすい本と、情報ぎっしり系の本。
私はどちらかと言うと後者の本の方が好きです。理由はたぶん、けちだからです。笑
小5くらいのときから、松本ぷりっつさんの 『うちの3姉妹』 が大好きで読んでいました。ちょうどクラスの中でも流行していて、本というか、漫画的なものを貸し借りした最後の時代だったかもしれません。
今でもぷりっつさんの連載を追っていて、最近は4コマ形式の連載が多くなっています。もちろんそれも面白さには変わりがないし大好きなのですが、やっぱり��ログ形式の元祖『うち3』が好きです。だから『ぷりっつさんち』も好き。
元祖『うちの3姉妹』と『ぷりっつさんち』に共通したいるのは、文章+絵で構成されているところ。これがブログならではの部分だと思います。
文章で説明をしていって絵で落とすとか、絵でふって文字のツッコミで落とすとか、文字の大小、色、大きさや太さ、顔文字の使いどころ…全てが完璧で(上からの言い方になってしまってすみません)、笑わずに読むのは不可能と言っていいくらいに面白いんです!
だからクラスのみんなも大好きだったし、ここが面白いなんて見せ合いっこしたり。小さい頃にお笑い番組はほとんど見ていなかったけど、『うちの3姉妹』のおかげで、大袈裟に言うと”面白いとは何か?” みたいな部分を学んでいたと思います。それが身になっているかどうかは一旦傍に置いておきます。
あと何より、ブログに特徴的な「文章」のパートがあることによって格段に情報量が増えるし、時々あった「感動回」的な話題のときにも、特にお母さん視点の心境の変化が詳細に描かれるので、より読み手としては没頭できました。
単行本が出るたびに 「絶対に買おう!」 と思って買っていたのは、そういう 「面白さと情報がぎっしり」 の部分を魅力に感じていた、というのも理由の1つだと思います。
雑誌もそうです。『音楽と人』とか、『ロッキンオンジャパン』でよくある、1つのグループや歌手の一万字インタビューなんかが載っていると、俄然買いたくなります。写真が綺麗、かっこいいみたいなことだけだと少し迷うけど、インタビュー記事が濃厚そうだとなれば、雑誌も買って読みたいと思っちゃいます。
だから、TV Brosで1冊丸ごと永野さん特集がされた知った時には、まんまと(?)購入して読みました。brosのxのアカウントのアイコンがそれに伴って永野さんになっていて、その状態でPerfumeの連載のまとめ本の告知がされていました。sns上の小さすぎる現象(?)とは言え、まさかの推しの共演に1人歓喜しました。スクショばっちり撮れました。
読みやすい系の本の素敵な部分もありますが、物価高騰で例に漏れず本も値上がり続けているので、情報ぎっしり系の本がますますほしくなる今日この頃です。
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fuyuu-suru-uzuki · 2 years ago
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Inspired by that scene in canon where high-school boys attempt to bully young Shigeo and he ends up saving them from his posse. There, he isn't yet sure how to defend himself without causing others physical harm. Here, he's managed to figure something out...
‘In future, I need you to come and ask for help, Shinkai-kun. No one expects you to know this system already; you’re new here. It’s not just your ass on the line.’ Shinkai hangs his head. ‘Yes, senpai.’ ‘All right, then. This one, this one… this drawer, too?’ ‘Yeah… and then those three, over there.’ Shinkai looks almost as if he wants to say more, but holds his peace and nods instead. His kōhai has almost certainly misfiled more accident documentation elsewhere; he would bet actual yen on that. But they’ve got to start somewhere, no? He has his own investigation to get back to. ‘So. This one, uh… this one over here too, and… was it this bin, here?’ He calls out each drawer with a tilt of his chin. One by one, they wiggle free of their steel moorings and sail out of the wall cabinet, coming to rest in orderly stacks of two at Shinkai’s feet. His hair, set afloat at this, falls neatly back into place over his eyebrows. ‘Start there.’
read more here.
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epixlog · 1 year ago
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Junk
どっちでもいいよ。フィクションでもノンフィクションでも。説明されたくない。文章なんて勝手に妄想させてなんぼでしょう。ちなみに僕のはジャンクションだから。
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moko1590m · 2 years ago
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人間は現実が過酷な場合、しばしばフィクションを捏造して正気を取り戻す。
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hanginiswith · 1 month ago
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kokoroyume-iesora · 2 months ago
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愚者話 6
害 否定 その受容
 人の邪魔をして心情や気分、生活や生存を害したいという人々が、確実に存在している。人が悩み憂い苦しむのを見てほくそ笑み、自分は偉いか上だと思い込み、現世利益を鱈腹食べて、嘲るだけの日々を送っている人達が居る。
 そういう人達に何を言ったり思ったり考えても無駄なことであって、彼らは本質的に変わることはない。彼らは自分たちが正しいのだと思い込み続けるのであろう。それをどうこうしようとするから苦しむのであって、はなから感知しなければ何の問題もない。
『これが正しいですよ』『これが正解ですよ』『こうあるべきですよ』『こうなるべきなんですよ』という洗脳には与しない。屈しない。服さない。
 負けない。負けても立ち上がり、へこたれない。へこたれても勇んで立つ。挫けない。挫けても舞い戻る。
 どうするのかはわかっている。精神の状態等は瑣末な問題。身についた技量は消し飛ばない。やったことだけは残るのだ。やってない事は残らない。便利な馬鹿にはわからない。ズルをして勝ってる奴らにはわからない。何をしてもいいと思ってる奴らには辿り着けない。そういう光が確かにある。それは決して奪えないものだと知っているんだ。
 人を害したい人は消えないだろう。そういう人たちだから消えないだろう。現にそうなんだから仕方ないだろう。それでもまだ迷える心は救えない?
『別に───』  
 小泉君の言葉が思い起こされる。
『別に害されたっていいじゃねえか。何の問題があるんだよ?』 『否定される事に慣れてない人が多すぎる』 『人類全員ナルシスト』 『 " お前はお前が思うほど大した人間じゃない " ってちっちゃい時に読んだんだよね。あの時は参ったね。 " そんなこと言う必要ないじゃん! " 、 " 酷い! " って思うじゃん? " ほんとにそうか?  " とかって疑問に思ったりしてさ。だってまだ自我もふわっふわのちっちゃい頃だよ? 余計にね?』 『でも。そういう事に怒っていたのももうずっと前だよ。今はもう、釈迦ちゃんの言う『無我』がよく分かるっつーか、皆んな風に言えば " 共感 " 出来るっつーか。まぁ、そんな感じ? ���かったぁ?』
 私は小泉君が引き合いに出した言葉を知らなかったから、それについて調べてみた。
 それは" お前は、お前が思っているほど大した人間じゃない "とか" お前が思っているほど、お前はたいした奴じゃない " などと、幾つかの場所で、細かい表記揺れの違いを持って、紹介されていた。
 それはどうやら、かのシュールレアリズムでその名声を確固たるものとした漫画家、その選集の巻末に、とあるコピーライターが書いた言葉らしかった。
 さあ。コピーライターが書いたと知れば、なるほど頷けるではないか。前途の一文は、コピーライターが言いそうな事である、と思う。その信憑性というか、『正しさ』、は兎も角として、事実は単に、『漫画の選集の巻末コメントに、コピーライターが書いた言葉でしかない』という事だと言い得るだろう。
 そんな言葉で若者や子供達を打ちのめしてどの様に『教育』したいのかについて、幾つか仮説を生やす事は可能であるが、その話は置いておこう。
 あの時その言葉が引き合いに出された理由は、単に、『否定に慣れよ』という事だと考える。『皆んな否定に慣れ���いないから苦しむのであって、否定に慣れれば否定をされてもさして苦しまない』のだと。そういう事、そういう心づもりで、小泉くんはその言葉を持ってきたのかもしれない。まぁそんな事の事実は本人にしかわからないが。
 私は否定も必要であると考える。同時に『私たち』の信念から、否定しないことも、肯定しないことも、肯定することも、そういった二元論的対立から離れることも、それらを同時に持ち得る事も……といった全てを採択するのである事は、最早『私たち』にとっては日常的な実践だ。
 ここで『肯定』や『否定』の『効果』、『性質』について考えてみようか。
『肯定』は一般に人に好かれやすい効果を持ち、一方で『現実に向き合う事からの一種の逃避』という性質を持っている様に感ぜられる。
『否定』は一般に人に好かれづらい効果を持ち、一方で『現実を直視させ状態を改める事を促す』という性質を持っている様に感ぜられる。
 他にも当然、色々な『性質』、『効果』は幾つも挙げられるのだろうが、ここでは上記の点について更に言葉を連ねる事としようか。
 またタロットカードの各カードの持つ意味の説明の様に、その言葉から連想される性質や効果について、列挙する形式で書いてみようとふと思う。
『肯定』は同意、賛同、共感、モテ、応援、仲間、うわべの話、さわり、おべっか、ご機嫌取り、お世辞、ぬるま湯、飴、甘やかし、協調、調和、友好、多様性、建前。
 などの言葉が、私にはパッと連想されるところである。
『否定』は反対、反論、指摘、非モテ、忠告、敵対、中身ある話、本質、憎まれ口、皮肉、リアル、鞭、戒め、教授、排他、対立、不和、険悪、画一性、本音。
 などの言葉は、肯定から連想される言葉の対義語などとして挙げられるところであろう。
 こう並べながらその意味を再度調べるなりしていると、色々と思うところがあるのだが。その最たるものは、『どちらか一方だけでは欠けているのかもしれない』、という思いである。
 どちらか一方だけでは人間は『壊れて』しまう。『肯定』だけで甘やかされれば『増長』、つまり『傲慢』や『高慢』になってしまうし、『否定』だけで懲らしめられてばかりでは『畏縮』、つまり『謙虚』になってしまう。
『謙虚』と言えばいいものと感じる向きがあろうが、へりくだって人の意見ばかり受け入れている様な人にも、それはそれで問題を論じる事は可能である。どころか、すぐにその『良し悪し』を思い浮かぶ事は殆どの人間に可能ではないかと考える。
 うむ。上記こそ慎ましやかな表現であり、それはメッセージの『攻撃力』、『突破力』、『効力』、『印象残存力』、『簡潔さ』など、其の他様々なものを犠牲にした表現の選択である。
 そうして控えめな態度で何でも自分に問題があると自罰して行く向きを極めていけば、精神は暗く陰鬱としてしまって、その自己肯定感の低さから日々の行動、生活すらままならない状態になってしまうことは想像に難くない。
 というより実際にたくさん見てきたし、経験した。
 そも。
 さきほどの連想列挙はその場限りの個人的な連想でしかない。一定の共感や理解は得られるかもしれないが、その実『それって両方にも言えるよね』というものがあり、それは『傲慢』や『謙虚』についてもやはり言えることだ。
 例として『否定』側の『傲慢』な人間様相を挙げよう。
『否定』側はどうにも私にはいつも、『正しいもの』、『こうあるべきもの』を前提として、それに合致していないから『憤っている』様に見受けられる。
 その強烈強固な『俺のルール』に従えと言わんばかりの態度は、とかく人に突っ掛かるは高慢ちきな高飛車人間になってしまうという側面、作用もあるだろう。
 そしてそうなってくると『その人と一緒にいられる人間』は限られてくる。また『長く安定して付き合える人間』が限定されることを意味し、つまりは閉じたコミュニティで蠱毒の様に、『正しさ』を捏ねくり回す『モンスター』にさえなってしまうこともまた、想像に容易い。
 というより実際にたくさん見てきたし、経験した。
 この様にどこまでも様々な観点から論じる事は出来てしまうので、キリがないため一旦そういう『例挙げ』はここまでとして、そろそろ結論を述べようと思う。 
 要するに。
『極端は避けろ』
 と言う話だ。
 小学生だって思いつくぐらいに、『結局のところバランス』であり、副業をしているビジネスマンが好きそうな言い方をすれば、『多くのチャネルを持つこと』が重要であり、それは釈迦の言う『中道』とも通ずると私は考える。というより感じる。いや、" 共感 "する。
 私たち『作値問下《なすあうとうもと》』は、人間としての釈迦を肯定し、神格化された仏陀や仏教というものを否定していると言えるが、私たちはその信念から、同時に仏教や仏陀もまた実は肯定もしているし───だからこそ大乗仏教の用語などを親しみを込めて用いることもあるのだし───、その様な二者対立を離れた観点や、その他の観点を模索しようとさえもし続けている『集団』であるのだが。
 敵とも言える宗教法人『物打題法《ぶつだだいほう》』は、私たちを肯定する事はないし、ひたすらに否定し続けるだけなのであろう。それは恐らく釈迦が考えたであろう中道とは、異なる道だ。
 私たちは自分たちで気づいたその『極端に振り切らない』、『極端に振り切って両方を知る』、『矛盾対立を克す』といった信念が、釈迦の語っていた『中道』に通ずるものだとして飽くまで共感しているに過ぎないが。
 少なくともそれは私たちにとって『悟り』の一部であるので。
 その観点から『物打題法《ぶつだだいほう》』の人間は『悟れない』���いうのが私たちの見解である。
 何度も述べている通り、別にそれが『良い悪い』とか、『偉い偉くない』とか、『凄い凄くない』とか、そういう話ではないし、同時にそういう話でもあるし、そもそもそういう事を勘がるのが違うし、そう言うことを考えるのが『当ってる』とも言える。
 別に別の言葉で説明修飾補足しなくてもよいという考え方もあるわけだ。言ってる側から私たちの常套手段である多数の語の列挙という手法が覗いてしまっている訳だが、これこそは『自主的で積極的な矛盾』を扱える私たちの特徴の発露であろうか。
『気づかないで矛盾していること』と『気づいている上で矛盾を受け入れていること』は全く異なることであるのだが、普通の人々にはそんな事はどうでもいいことらしかった。だから私は普通の人々が嫌いだし、同時に好き以下省略であるのだが、この理論が人々に解される事はないだろう。
 生半可な経験で私たちの思想や理論を実感を伴って腹落ちする事はほぼ不可能に近しいと考える。
 それでいいし、そうあるべきだし、同時にそうあるべきでなく、べきとかではなく、それではよくないし、そういう話じゃないとも言えるし、以下略。
 そう言える理由は私たちが執着を『滅している』者達であるからだと説明出来る。
 私たちは『救世願望』や『統治願望』、『金銭欲』や『顕示欲』といった欲や願望、つまりは『執着』を滅する事を『宗《むね》』としているので。
 その『実践』にあっては、『現世利益追求集団』やらの前提刷り込み思い込み、決めつけレッテル先入観、固定観念偏見常識などに囚われる事は必要のない事なのである。
 そういうわけだから、『アカデミックなもの』を『盲信していない』。文法にしたって『学校文法』が全てだとは思っていないし、その様にせよと迫る暗黙の圧力には与しないし屈さない。服わない。
 私たちは『普通の人々が経験しない、噂にも聞けない、想像さえも出来ない様な異常な体験、生い立ちを経てきた辛苦の徒であって。故にその苦悩は常人のそれとは計り知れず、其の為に " 現在の苦 " を " 滅する " 事を本懐、本領とする人間の集まり、及び思想体系』であると言えるので。
『普通の人たち』の『当たり前の』『殆ど』が、私たちには齎されなかったものでなのである。
 それは『親が離婚した』とか、『虐待されていた』とか、そんな『瑣末な程度の話』ではないのだが。
『普通の人々』は『想像力』か『あれこれと考える力』、いや『多数の可能性や思いなどを同時に幾つも持ち合わせそのどれをも信奉する』という『ダブルシンク』のような『能力』に欠けているので。
 わかりよう筈もない。そして私たちは、『わかってほしい』などという欲≒執着≒煩悩も、やはり同時に『滅する』のであるからして、『全てはこれでいいのだ』という結論に至れる次第だ。
 これが『悟り』のあらましの一部であるので。
��ただ数文字の念仏を唱えたり、現世利益を追求している様な者達』には到底この考え、思い、感じに至ることはできないであろう。それは自明な事なのだ。
 これはまた、『普通の人々が信じている事の大半』が、私たちにとっては瑣末な事で『も』あるという話にも繋がっていく結論だ。
 アインシュタインを思い出せ。常識とはなんだったか。
 もっともそんな知識、いな、情報に効力はさしてない。
 アインシュタインの格言など見るまでもなく、私達はその認識を早くから自ずと生成していた。それは『極めて稀有で異常な苦痛に塗れた境遇』があったからこそ辿りつけたものであるので。
 だから私たちは『布教』などしないのだ。どこぞの『金と利権目当ての害欲求寄生虫集団』いや『物打題法』とは違うのだから。
 まぁ。
 否定で『繋がる』向きもあると思う。
『否定で共感』するという事もありうると思う。
 前途の『肯定否定から連想される語句の列挙リスト』が、肯定否定のその片方にある語句───というかその概念───が、もう一方には該当しない、というものでは無い事は、先ほども述べた通りであるのだし。
『自分は尊重されるべき人間』だとか、『これは当然の権利である』と思うから苦しむのであって、『現にこうなのであるから受け入れる』という境地に至る事が出来るのであれば、『否定』ひいては『害される』という事も、別に良し悪しを自動判断したりして苦しむ様な事でもないのだ。
『こうあるべきを捨てよ』とか、『たった一つの正解などない』というのであらば、『否定』とか『害される』という表現そのものが、『判断的』であってよろしくない。
 それはただの、『作用』、『行動』、『振る舞い』なのだ。『否定』に分類し、『害された』、それも『不当』に、『自分という尊重されるべき人間が』などという前提の刷り込みがあるから『苦しむ』のであって。
 もっと世界はシン��ルな筈だ。
 世界はありのままでいい。
 何人も、ありのままでいいのだ。
 それこそが釈迦の言う『無我』であろうか。少なくとも私たちは、それに " 共感の念 " を覚えている。釈迦には帰依しないが、釈迦に寄り添い、理解しているつもりである。だからふもと。『下』なのであるのだから。
 もちろんそれだけではないが。
 さて。
 さてさてさてさて。
 ここで一気に一度、大きく話を戻して。
 再登場したるわ『お前はお前が思っているほど大した人間じゃない』などという『作用』の言葉。とはいえまずは、『否定分』を『肯定分』で打ち消そうか。
『お前はお前が思うより大した人間だ』 『お前はお前が思うよりも、大した人間である』 『お前はお前が思っているより、大した人間である』 『お前はお前が思っているよりも、大した人間なのである』
 このぐらいでよろしいか?
 しかしこれは最後に言いたい事ではないのだ。
 最後に言いたい事はこんな話。
『其の言葉には一つ、欠けている視点がある』
 それは、
『大した人間とは、なんなんだ?』
『それは誰が決めるんだ?』
『秤はどこに、あるのだろう』
 そんなところだ。
 以上。
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umifani · 3 months ago
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オーダーメイド家具のかなでものでラバーウッドテーブルを購入して組み立て。
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johoomoku · 4 months ago
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異世界転生の恒例行事について考察しました
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kinemekoudon · 8 months ago
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【1話】 はじめて大麻を吸ったときのレポ 【さいばーひっぴーができるまで】
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―――小学校からの幼馴染である“しのはる a.k.a. BUDDHA ON SHROOM”(以下“しのはる”)が、当時留学していたカリフォルニアから日本にいる僕に電話をかけてきては、大麻の使用の煽り・唆しをしてきていた。 
彼の話を聞いているうちに、僕は大麻を吸ってみたくて仕方がなくなっていたので、大麻の使用を目的として、しのはるが住んでいるカリフォルニアの家に居候しに行くことにした。 
そうして日本を離れ、しのはるの家に到着するなり、しのはるは「初めての人は吸い方が悪いのか、効いてるかわからないって人が多いから、肺に死ぬほど煙を溜め込むイメージで吸って、少し息を止めてから吐くといいよ」などと僕に忠告をすると、「景気づけにいっちゃってください」とか言いながら、早速ジョイントを渡してきた。 
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僕は少し不安を抱えながらも、不慣れな手つきでジョイントの先に火をつけ、忠告通りに大量の煙を肺に溜め込んでみたのだが、急に肺に苦しさを覚えたために、息を止める間もなく強烈に咳き込んでしまった。 
咳き込みすぎてもはや吐きそうになりながら過呼吸的な浅い呼吸を繰り返している僕を見ながら、しのはるはニヤニヤと可笑しそうに「うわー吸ったねーこれ絶対ハイになるやつじゃん」などと言いながら、残りのジョイントをゆっくりと吸っていた。 
5分ほど経ってようやく肺が楽になってきた頃、僕は座禅を組みながら、大麻の効果が効いてくるのを神妙に待っていたのだが、さらに15分ほど経過してもとくに変化がなかったので、「全然効いてる感じしないなー���などと言って残念がっていた。
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しかし、気づくとなぜか上半身が右に傾いていたのだ。僕は上半身が倒れそうになったところでハッとして姿勢を直したのが、それでもまた徐々に上半身が右に傾いてしまっていた。僕のその様子を見ていたしのはるは、「時計の秒針みたい」などと何の気なく僕を茶化してきていたのだが、僕はその言葉を受けると、まるで暗示にかかってしまったように、1秒ごとに1秒分の角度で小刻みに上半身が右に傾いていってしまった。 
僕は秒針になるのをやめるために立ち上がってみたのだが、今度は沼地に立っているかのように足がカーペットに沈んでいく感じがしてきた。その感覚はとても愉快で、僕は幼児のようにはしゃぎながら左右交互に足踏みをしていたのだが、次第に足踏みをするのを止められなくなってしまい、しかもその途中で、“ただのカーペットの上で成人男性が足踏みをしてはしゃいでいる”という状況の可笑しさに気づいてしまったので、止められない足踏みをしながら腹を抱えて笑っていた。 
すると、壊れたおもちゃのようになってしまった僕を見ていたしのはるも、まるで伝染したかのように笑い転げ出したので、それにつられて僕もさらに笑いが止まらなくなった。何が面白くて笑っているのか、もはや途中で忘れてしまっていたのだが、なにが面白くて笑っているのか分からないのに笑っていることがもはや可笑しくて、ヒステリックに笑い狂っていた。 
そうして大麻のハイの愉快さを知ると、僕は毎日のように大麻を喫煙したくなり、2週間ほど滞在していたカリフォルニアでは、ほぼ毎日大麻を喫煙する生活を送っていた。 
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―――しかし帰国してから2年間ほどは、大麻とは無縁の生活を送っていた。旅行に行った時などには大麻を吸いたくなることもあったが、わざわざ日本でリスクを犯してまで吸おうとは思わなかったし、当時は周囲の交友関係の中に大麻を嗜む人がいなかったのもあって、大麻のない生活に特に支障を感じていなかった。 
そんな中、しのはるが日本に帰ってきた。しのはるは、「間違えてポッケにTHCグミを入れたまま飛行機に乗ってたみたいで、図らずも密輸入しちゃった」などというメッセージと共に、トリッピーなデザインをしているグミの写真を送ってきて、その数時間後には、「もう食べちゃったんだけど、日本でハイになるの色んな意味でおもしろいわ」などと羨ましくなることを言ってきた。 
しのはるのせいで大麻を吸いたくてうずうずしていると、数日後にしのはるから電話がかかってきて、「あのグミはもう食べちゃったんだけど、weed調達できたから、今日一緒に吸わない?」などと誘ってくれたのだが、僕はそのありがたさはさておいて、ツテがなくても日本で大麻を入手できることと、彼がひとりでに行動に移していたことに仰天した。 
当時はまだ珍しかったのだが、Twitterで「都内 大麻 手押し」などと検索をして出てきたプッシャーとDMでコンタクトを取って、新宿駅の構内で落ち合って引いてきたらしい。 
僕は意図的に法の外に出る経験は実質初めてだったので、少し不安に思ってもいたのだが、再び大麻の感覚を味わえることを想うと、多少のリスクを冒してでも大麻を吸いたいと思ったし、日本で吸ったらどういう感覚や気持ちになるか興味があったので、ありがたくいただくことにした。 
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そうして、僕は少し緊張しながらも集合先の公園で待っていると、しのはるはニヤついた顔でやってきて、早速ポケットからパケに入った大麻を取り出しては、「こちらが乾燥大麻らしき植物片です」などと言いながら、なんの悪びれもなく大麻を僕に見せつけてきた。 
日本で大麻を見ること自体もそうだが、しのはるが違法行為である“大麻所持”をしていることの非日常性というか異常性が可笑しくて、僕はなんだか精神が昂った。 
それから早速、その大麻で作ったジョイントを一緒にまわしたのだが、2年ぶりということもあってか、「本当にこれは大麻なのか?」と勘繰るほどにサイケデリックなトビ方をした。 
あとでその時の僕の様子をしのはるに聞いたら、ついに頭がバグってしまったんじゃないかと不安になったくらいには、様子がおかしかったらしい。 
実際、せっかくだから日本ならではの食事をしようということでくら寿司に行ったのだが、なぜか店内でインド風のBGMが流れていて、僕はその要因だけでインドのくら寿司にいると思っていたし、普段は割と苦手なとろサーモンを口に入れたら、脳細胞の多くが死滅したのではないかと思うほどに、2分くらい「美味い」ということしか考えられなくなっていて、店を後にする頃には、美味��ぎたことによって心身ともに疲弊しきっていた。 
アメリカでハイになるのとはちがって、馴染みのある環境でハイになると、“シラフのときとハイのときとでは感覚や情報の捉え方が違う”ということがよりハッキリと分かったし、法律で禁止されている日本でハイになるというのは、背徳感がスパイスされた解放感があった。 
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それから、僕は大学を卒業して東映株式会社に入社し、寮生活の元に社会人として初めての労働を行っていた。ただ、ゆっくりと大麻を嗜む生活とは無縁だったために、(寮でこっそり吸っていたこともあったけど)苦しくなってしまい、あっさりと会社を辞めて、もう少しゆるい会社に転職した。 
時間に余裕を持てるようになると、僕としのはるは頻繁に大麻を吸って遊ぶようになり、僕は一人でも大麻を引きに行くようになった。そうして、しのはるとプッシャーの情報を共有し合ったり、一緒に引きに行ったりする中で、僕らにはお気に入りのプッシャーができた。 
そのプッシャーはLSDなるものも持っていて、LSDのことを「大麻の8倍くらい凄いヤツ」とかいうテキトーな説明をしていたのだが、僕らはそれを聞いて、俄然やってみたくなっていた。 
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つづく(この物語は雑誌「さいばーひっぴー」の「さいばーひっぴーができるまで」に載っている内容とほぼ同じものです)
この物語はフィクションです。また、あらゆる薬物犯罪の防止・軽減を目的としています( ΦωΦ )
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kamoshirenainikki · 1 year ago
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2世と器
・第1話 / 2世と器 - 戸ヶ谷新 | FEEL web|
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lofimurphy · 3 months ago
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2025 4.3 木 26:16
本当に思っていることとか、今まで感じたこととかを書きたいという衝動に駆られる時があります。でも怖くてできない。ここに書いていることが嘘だというわけではありませんが、ちょっとは話題を選んでいる感覚があります。これはこれで楽しいのでいいのですが、ちょっと違う感じの書き方はできないかな?と考えたりします。
誰も見てないなんてわかってるけど、万が一誰かが読んで、悪い意味で「何これ?」みたいな気持ちにさせてしまったり、そう思われたりするのは嫌ですし、だからと言って超オブラートに包んで綺麗に美しく書くのもなんか大変そうです。第一そんな技術が私に備わっていないし。
この間「一億総被害者社会」なんていう言葉を見た時若干悲しくなりました。最近は特に悲しい気持ちになった時に「悲しい」ということすら難しくなっている気がします。勿論、悲しかったことや嫌なことを人にぶつけるなんていうのは迷惑行為にもなりうるから(と言いつつやってしまっている時があるけど)、「みんなポジティブでいようよ!」っていう感覚で過ごした方が心地いいだろうとは思います。だからこそ、そのもやもやした何かの消化の仕方を考えるようになりました。
悲しい、悲しかった、みたいな感情を書くのって難しいです。だって、「一億総被害者社会」に則って、自分が本当に何かの「被害者であるだけ」なら単純に悲劇を書けばいいので話は簡単ですが、自分が「加害者」である(あった)ときも絶対にあるから、だからこそ難しい。悲しい辛い、そんなことは誰にだってある、しかも誰かにとってそう感じる原因が自分にある時だってある。そんなことを考えたり配慮しながら書くのは大変だけど、でも....うーんなかなか折り合いがつきません笑。
実験的に、「これは日記っぽいですが嘘の話です」的なコンセプト(?)で違うサイトとかで書いてみるものいいかも、と思い始めました。なんなら自分の設定(??)とかも変えちゃったりして。
なんだかよくわからない話になってしまいましたが、今日はこんな気持ちでした笑。
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fuyuu-suru-uzuki · 2 years ago
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NEW CHAPTER NEW CHAPTER NEW CHAPTER NEW CHAPTER AAAAAAAAAAAAAHHHHHH
A lone figure jogs past, ball of sentient companion fluff in tow. Another pair of figures stumble through the darkness, clinging to each other for dear life, presumably heading home from the bar to sleep off an excess of beer. Still another figure emerges from his right, bearing gifts for the morning garbage collectors. Yet another, unseen and thus ignored by the rest, no longer alive, crouched on the ground, head and arm buried under the hedges in search of something it remembers not what. Or he would take notice of these things—all pleasures from his thrice-weekly evening runs—if only he could turn down this infernal noise inside his skull. He squints hard, pleading with his mind to cooperate. Shaking his head a bit, as if to clear it, doesn’t help; Teruki notices and rubs his upper back, which does. Just a little. He likes that Teruki seems neither to mind this silence nor to feel an urge to fill it, and leans into that hand, just a little. Teruki’s turning his head now towards something. Or someone…? And he’s scowling Why What’s hap— but the squall in his own head rushes in quick to fill up all the empty space and he can't hear himself think anymore. The night closes in round the pair. They walk on.
read more here.
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trans-medbiz · 10 months ago
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あるコージーミステリ訳例への違和感
「英国ちいさな村の謎」というコージーミステリ・シリーズ中の一巻(一部抜粋)を課題とした講習(英文和訳)に参加しました。当シリーズの和訳を担当されているベテラン翻訳家による全体的な講評および日本語訳例を拝見して感じたことを、後学のためになんとかまとめておきたく思いました。
この件については、事務局、講師と連絡を取りましたが、その後、訳例と講評はそのまま公開されています。当ミステリの和訳もいずれそのまま出版されるかもしれません。それはいいのですが、このままでは英語・翻訳学習者に対して無責任すぎないでしょうか。あとからでも、訂正なり注釈の追加をお願いしたいものです。
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最初に当課題に取り組むに当たり、あらかじめ講師から以下のようなメッセージがありました。 「原文は短いので、そこで誤訳があると致命的です。不安な箇所は徹底的に調べましょう。〜状況などすべてを想像し、頭の中でその人物の姿をしっかりイメージしてください。」
このメッセージを指針として虚心坦懐に課題に取り組み、訳例を読んだところ、どうしても説明がつかない、辻褄が合わない箇所が出てきたのです。
まず、訳例に沿って簡単に状況を説明しておきます(下記「6. 原典の再確認」参照)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー主人公のAgathaが、知人を尾行しています。「薄暗い教会の中」(1行目)に入り、「姿をかろうじて見分けることができ」(2行目)る状況になります。その知人、そして「神父も告解室に入っていった。」(4行目)。Agathaは、「壁に耳を押し当てて中の話を聞きとろうとした。」(8行目)。
そこへ「『いったい何をやっているんだ?』と大声が響いた。」(9行目)。「ぎくりとして目を向けると、教会に男が入ってくるのが見えた。」(10行目)。
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私が違和感を感じたのは、10行目の後半「教会に男が入ってくるのが見えた。」です。日本語だけ読むと、それほど不自然とは感じないで、ほとんどの読者は読み飛ばしてしまうかもしれません。しかし、原文は以下のようになっています。
Agatha caught a frightened glimpse of a man who had just entered the church.
さて、英語も読む方々、翻訳に興味がある方々、読書(特にミステリー)好きの方々はどう感じられるでしょうか。大いに興味があります。私は以下のように感じました。
原文のニュアンスは、「教会に入ってきたばかりの男(教会内に男がいるの)が目に入り、ぎくりとした。」あたりに近いのではないかと。
動詞は「had just entered」と過去分詞なので、「入ってくる」と現在進行形に訳すのは無理がありそうですし、その場合は以下のような英語になるはずです。
Agatha caught a frightened glimpse of a man entering the church.
訳例のままであれば、この男は教会の入り口付近ですべてを見通し(状況を察し)て、警告の大声を発し、その後アガサが振り返って「男が入ってくるのが見えた」という時系列になります。言い換えれば、「大声が響いた」後、男が「入った」と解釈されているようです。
しかし、一般的な文法解釈からは、「roared」と「had just entered」の時系列は逆になりますつまり、「大声が響く前に、男はすでに入っていた」、「男は入ってから大声を上げた」という事実関係になります。
原文の状況描写、現実的な時間関係、文法のいずれの観点からも、訳例のままででは齟齬が生じます。男が告解室、すなわちAgathaの近くとは言えないまでも、ある程度入口から内部に入って近づいていなければ、状況の把握も困難で大声で言い咎めることはできないはずです。
このような疑問点ついて、以下のような趣旨で説明されています。
ここは問題ない。前の動詞が過去形なので、従属節は時制の一致で過去完了形になっている。見たときと、入ってきたときはほぼ同時のはず。見たときにちょうど入ってきたと考えられる。
あなたが時制の一致と気づかなかったので、違和感を感じたのではないか。
文法どおりに訳すと、「ちょうど入ってきたのが見えた。」が正確かもしれない。
Agathaの視点からは、(状況から判断して)動作も進行しているはずなので、「入ってくる」と表現した方が生き生きした感じになるのではないか。動詞によっては進行形ではなくても進行形で訳すことも多い。
ネットにも以下のような時制の一致例がある: Anna told her boss she had been busy all week.(アンナは1週間ずっと忙しかったと上司に伝えた。)
この説明について、いくつか疑問を感じざるを得ませんでした。
1.「見たときと、入ってきたときはほぼ同時のはず。見たときにちょうど入ってきた」 (この点は、4.の前半「Agathaの視点からは、(状況から判断して)動作も進行しているはず」とも共通する論旨)
入ってきたのと、見たのが「ほぼ同時」とは、この状況では現実には考えにくいと言わざるを得ません。原文では、男の「大声が響いた」あと、Agathaが男に「目を向ける」(振り返って見た)順序になっています。現に、講評では
「大声で怒鳴られたので、アガサがぎくりとして、そちらに目をやった、という流れです。」
と明記されています。これ以外の時間の経過は考えられませんが、後から考え方を変えられたのでしょうか。
男が大声を上げながら入ってくるという状況(声を上げるのと歩くのが同時)は考えにくいでしょう。なぜなら、ごく短い言葉ですし、この男が教会に「入りながら」告解室近くの状況を瞬時に判断し、その場で大声を上げるのは難しいからです(しかも、1〜2秒でAgathaが振り返って見るのに間に合うよう)。入口との間に座席の列もあるはずですし、かりに告解室の前に人がいたとしても、これからそこへ入ろうとしている人の場合もありえます。
このような状況であれば、この男は教会に入ったあと一瞬立ち止まり(歩いているかどうかわからないくらい歩みを緩め)、告解室近くに人がいる状況、Agathaが何をしているのか様子を伺い、盗み聞きをしていると確信した後に大声を上げた可能性が極めて高いと思われます。
お互いを知らない人間同士の心理として、このような緊迫した状況では、警告を発した男がなんの躊躇もなくずかずか近づくことは考えにくいのではないでしょうか(知り合い同士であれば、「あいつまたあんなことしてる」とそのまま近寄ってくるかもしれませんが)。
このように薄暗い教会内の状況描写にそぐわず、二人の行動などにも齟齬が生じるので、私はかなり違和感を感じます。これが最初の「メッセージ」に従って読み込み、検討した私の感じ方なのですが、深読みしすぎなのでしょうか。
2.「時制の一致と気づかなかった」 小説などの地の文の基本は過去形になるので、その一つ前の時制を表現するにはおのずから過去完了になります。かりに、地の文が現在形で、その一つ前の時制として現在完了が使われていても、本件の問題はそのまま引き継がれます。本件の問題は時制の一致とは無関係だからです。
おそらく講師は時制の一致に気づかないレベルの質問をこれまで多く受けてこられて、「これが目に入らぬか」とこの用語を持ち出すと、ほとんどの人が煙に巻かれたように退散してきたのでしょう。しかし、今回は当てはまりませんし、逆に勘違いされているようです。
問題の本質はそこではなく、時制(完了形)の訳し方が問題なのです。時制の一致に伴う完了形を「入ってくるのが見えた。」と進行形にした表現が、状況描写にそぐわないのです。
観点を変えると、ある動作の完了形を「状態」と捉えるか、「動作」と捉えるかの問題とも言えます。
3.「文法どおりに訳すと、『ちょうど入ってきたのが見えた。』が正確かもしれない」 元の訳例「教会に男が入ってくるのが見えた。」と今回頂いた(文法どおりに訳した)代替案「ちょうど入ってきたのが見えた。」とでは極めて大きな違いがあります。180度方向転換されているのです。前者は(進行中の)「動作」でしたが、後者で基本的に「状態」と解釈し直されていらっしゃるようです。
これを拝見したとき、個人的には驚くと同時に、肩透かしを食らわせられた気がしました。元の訳例を変えたり、代替案を持ってきたりせず、実際の英語や文法、状況描写に即し理路整然とした説明で論破されるのを覚悟していたのです。
原文に沿ってないことを認め、言い方は微妙ながら(おそらく)方向転換されたことがすべてを語ってい���、その他のご説明は付け足しに過ぎないと感じました。
4.「『入ってくる』と表現した方が生き生きした感じになるのではないか」 常にそうだとおしゃっているのか不明瞭ですし、この場合は当てはまりません。理由は様々な角度から検討し、上に詳述したとおりです。
例えば、「見やるとそこに男がいるのに気付いた」、「見ると男が中に入っていた」(状態)あたりの表現も同様に生き生きした感じになりそうです。「自分の行動を見られていたんだ」と、主人公の受けた衝撃の大きさも伝わるのではないでしょうか。やはり、問題は時制(完了形)の訳し方です。
好みの表現を使う場合も、あくまでも原文や文法を逸脱して誤解を与えたり、辻褄が合わなくなるのを防げる範囲内にすべきと思います。
5.「Anna told her boss she had been busy all week.(アンナは1週間ずっと忙しかったと上司に伝えた。)」 この「時制の一致例」を見て、問題の本質を把握されているのかどうか、かえって不安になってきました。
この例は、講師がよしとされている(いた?)進行中の「動作」ではなく、「状態」の描写なので本件の状況とは異なります。違うものを持ってくることによりむしろ反証材料になりかねません。
これが例えば、今回問題になっている要素をそのまま引用して以下のような英語だったらどのように訳されるのでしょうか。
Anna told her boss she had just entered the meeting room.
アンナはちょうど会議室に入ってきていますと上司に伝えた。(?) アンナはちょうど会議室に入っているところですと上司に伝えた。(?)
なにか違和感を感じるのではないでしょうか。しかし、これがよしとされている(いた?)訳し方そのものです。変に感じる理由は、現在の「状態」ではなく、進行中の「動作」として捉えているからにほかなりません。
一般的な訳例としては下記あたりになるのではないでしょうか。
アンナはちょうど会議室に入ったところですと上司に伝えた。 アンナはちょうど会議室に入りましたと上司に伝えた。
このように(動作が完了した)「状態」として訳せば、自然ですし違和感も感じません。完了形なので当然過ぎますが。
問題の原文「Agatha 〜 a man who had just entered the church.」についてもまったく同じことが言えます。
これが訳文としての違和感の原因、本件の問題の本質ではないでしょうか。
6. 原典の再確認 原文「a man who had just entered the church」という英語を素直に解釈すれば、「教会に入ってきている、入りつつある男〜」というより「教会に入って(すでにそこに)いる男」、「ちょうど入ってきた男」(上記別案)と取るのが一般的かと思われます。
なぜなら、原文はあくまでも完了形であり、先に私が例に上げた「a man entering the church」や「a man who was just entering the church」などではないからです。残念ながら、英語の観点からのご意見はございませんでした。
かりにネイティブにこのフレーズをリライト、パラフレーズしてもらっても決して上記2例のような英語にはならないはずです。「entered」を別の動詞にするくらいしか書き換えようがないと大半の人は困惑するでしょう。この「(was) entering the church」と「who had just entered the church」とでは、事象の捉え方、文章の組み立て方などに根本的な違いがあるからです。
7. 「原文からはどちらともとれます」 上述の「動作」と「状態」との違いに関連する重要なことなので、補足させていただきます。
上記の問題の英文の数行前に以下の英文が出てきます。
She ducked down in a pew as a priest appeared and went into the confessional.(「課題」2行目〜3行目の英文)
この英文について、かなりの「講評」スペースを割いて、「原文からはどちらともとれます」とされていらっしゃいます。しかし、この英文は「状態」ではなく、前の文を受けての、「動作」の描写なので、訳例で採用された時系列(「神父が現れた」→「しゃがみこんだ」)以外の可能性はなく、迷う要素もまったくありません。
これが、かりに「She was down in a pew when a priest appeared and went into the confessional.」などであれば、確かに迷うかもしれません。
失礼を承知で申し上げると、この部分の受講者への説明は必要ですが、彼らをかえって惑わせかねないような講評部分は割愛すべきだったと思われます。
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講師が当ミステリを出版される際にも「生き生きした」進行形を堅持されるのか気になります。いずれにしても、今後のご活躍を期待していることに変わりありません。最終判断としての訳文を、おそらく現在翻訳中であろう本シリーズ第22巻目の和訳版で拝見することを心から楽しみにしています。
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moko1590m · 1 month ago
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吉本隆明の「共同幻想」の中でも、特に**「神話的な虚構性」「虚妄性」、つまり集団が信じる物語や規範が、実は根拠のない作り物(虚構)であること、あるいは幻想に過ぎない(虚妄)ことを強調した学者ですね。これは、単に社会構造が虚構に規定されるというだけでなく、その虚構が持つ非合理性や、ある種の欺瞞性、あるいは真実の代替物としての側面**に注目する視点です。
以下に、そうした傾向を持つ学者を世界と日本で挙げていきます。
世界の学者
フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche, ドイツ: 哲学)
関連概念: 「神は死んだ」「権力への意志」「永劫回帰」「道徳の系譜」。ニーチェは、これまでの西洋文明を支配してきたキリスト教的価値観や理性、真理といったものが、実は人間の「権力への意志」によって作り出された虚構であると喝破しました。特に『道徳の系譜』では、善悪の概念がいかにして構築されたかを批判的に分析し、神話的な価値観の虚妄性を暴きました。
ジークムント・フロイト (Sigmund Freud, オーストリア: 精神分析学)
関連概念: 「幻想の未来」「トーテムとタブー」。フロイトは、宗教や文化が、人間の無意識的な願望や葛藤、特に親殺しや近親相姦といった原始的なタブーに対する集団的な反応として形成された「幻想」であると論じました。彼は宗教を「集団的な神経症」と呼び、その虚妄性を鋭く指摘しました。
カール・マルクス (Karl Marx, ドイツ: 経済学、哲学)
関連概念: 「イデオロギー」「虚偽意識」「物象化」。マルクスは、資本主義社会における宗教、国家、法などが、支配階級の利益を正当化するための「イデオロギー」であり、人々を欺く「虚偽意識」であると批判しました。特に貨幣や商品が持つ「物象化」の力は、あたかもそれ自体に価値があるかのように見せる虚構性を示します。
ジャン・ボードリヤール (Jean Baudrillard, フランス: 思想家)
関連概念: 「シミュラークルとシミュレーション」「記号価値」「消費社会の神話」。ボードリヤールは、現代社会が「シミュラークル」、つまりオリジナルを欠いたコピーやイメージによって構成され、現実そのものが虚構化されていると論じました。メディアや広告によって作り出される消費文化の「神話」は、まさに虚妄の極致であると見なしました。
ジョルジュ・バタイユ (Georges Bataille, フランス: 思想家)
関連概念: 「呪われた部分」「供犠」「聖なるもの」。バタイユは、社会が機能するためには、排除された「呪われた部分」や「供犠」の存在が必要であり、それが「聖なるもの」という形で共同体に共有される虚構として機能するとしました。その非合理性やタブーが社会秩序を裏から支えるという視点は、共同幻想の虚妄性を深くえぐります。
ルネ・ジラール (René Girard, フランス: 思想家)
関連概念: 「模倣の欲望」「スケープゴート」「供犠のメカニズム」。ジラールは、人間の欲望が他者を模倣することから生じ、それが集団内の暴力と紛争を引き起こすとしました。この暴力を鎮静化するために、共同体が作り出すのが「スケープゴート」(生贄)であり、それが「神話」や「儀礼」として虚構的に秩序を回復させると論じました。
エリック・ホブズボーム (Eric Hobsbawm, イギリス: 歴史学者)
関連概念: 「伝統の創造」。ホブズボームは、ネイション(国民国家)の形成において、「伝統」や「国民の歴史」といったものが、実は近代になって人為的に「創造」されたものであることを明らかにしました。あたかも古くからあるかのように見せかける「虚構」が、国民意識を形成する力となります。
日本の学者
大塚久雄 (Otsuka Hisao: 経済史)
関連概念: 「共同体的規制」「共同体主義」。吉本隆明も大塚を意識していましたが、大塚は、日本社会に根強く残る「共同体的な慣習」や「村落的規範」が、経済合理性を阻害し、個人の自由を抑圧する「虚妄」な秩序として機能することを指摘しました。彼の分析は、共同体が持つ拘束力と非合理性を強調します。
梅棹忠夫 (Umesao Tadao: 民族学者、情報学者)
関連概念: 「文明の生態史観」「情報文明」。梅棹は、独自の視点から各文明が持つ「情報処理システム」や「価値観」が、その文明圏の人々の思考や行動を規定すると論じました。特に、古い文明が持つ「枠組み」が、新しい時代に適応できないまま、あたかも普遍的なものとして機能する「虚妄」を指摘する場合があります。
加藤典洋 (Kato Norihiro: 文学批評家)
関連概念: 「敗戦後論」「物語論」。加藤は、戦後の日本社会が、戦争責任や天皇制といった問題をいかに「物語」として処理し、虚構の上に平和や繁栄を築いてきたかを批判的に分析しました。特に「ねじれの言動」は、現実と虚構が混じ��合う日本の精神構造を鋭く指摘します。
小室直樹 (Komuro Naoki: 社会学者、経済学者)
関連概念: 「超法則」「日本人の構造」。小室は、社会現象や人間の行動の背後にある「目に見えない法則」や「構造」を解明しようとしました。彼は、日本社会の特殊な人間関係や集団行動を規定する「暗黙のルール」や「感情的な結びつき」が、しばしば合理性を超えた「虚妄」として機能することを指摘しました。
内田樹 (Uchida Tatsuru: 思想家、武道家)
関連概念: 「共同体論」「物語」。内田は、現代人が依拠すべき確固たるものが失われ、人々が「物語」や「共同体」を渇望していると論じます。彼が探求する「物語」は、人々に生きる意味を与える一方で、それが必ずしも合理的な根拠を持つものではないという、ある種の「虚妄性」をも含意しています。
これらの学者は、それぞれの専門分野やアプローチは異なりますが、人間社会や個人の意識が、神話的・虚構的・虚妄的な物語や構造によって深く規定されているという認識を共有している点で、吉本隆明の「共同幻想」と特に強く共鳴するでしょう。彼らは、その虚構が持つ力、そして時にその欺瞞性や非合理性を暴こうと試みてきました。
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wan-wan-wanko · 11 months ago
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「驚異の速さと美しさを兼ね備えたシベリアン・ラーチャーの魅力!」
シベリアン・ラーチャー、よく聞かれますが「本当にそんな犬種が存在するの?」と。実は、この犬種はフィクションで、標準的な犬種名鑑には載っていません。しかし、もしも「シベリアン・ラーチャー」という犬が存在した場合、そのマナーに関するガイドラインを真剣かつエンターテイニングにご紹介しましょう。こちらはあくまで架空の犬種に基づいた内容ですが、どんな犬にも適用できるユーモラスかつ役立つアドバイスが含まれています。では、楽しんでお読みください!🐾 ### シベリアン・ラーチャーのプロフィール📜 まず、シベリアン・ラーチャーの特徴をざっとご紹介しましょう。想像してみてください:雪原を駆け巡る雄大な姿、優れた嗅覚、そしてこころ温まる忠誠心。シベリアン・ラーチャーは大きな体躯と優れた筋力を持ち、家族に対する愛情もひとしお。では、この犬種とともに過ごすときのマナーについて見ていきましょう。 ###…
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