さよならはキスのあと、(文庫再録版)
「うわぁ。今のシュート、すっげーな」
「っていうかその前のあれ。大柴にパス出したやつって……マネージャーじゃなかったっけ?」
「ああ、一組の君下だろ? 確かに一年の頃はそうだったけど、いつの間にか練習に混ざるようになったな。何でも中学の頃はスゲェ選手だったらしいぜ」
「へぇ〜そうなんだ」
「って、誰だよお前」
へぇ、そうか。君下くんとキーチマンが幼馴染とは聞いてはいたけど、なるほどな。都選抜にいたという噂の彼女が、まさかこんなにも近くにいたなんて。
給水していたらしい野球部員に混ざり、風間はにい、と白い歯を見せて大きく笑う。それと同時に両隣から大きく咳込む音がする。あれ、どうしたの? もしかして君下くんのパンツでも見えちゃった?
「風間ぁ! テメェ、サボってんじゃねぇ」
「サボってないよ〜」
「さっさと戻って来ねぇと外周追加するからな!」
遠くのサッカーグラウンドから、聞き慣れた怒鳴り声が聞こえる。やべ、怒られちゃった。ぺろりと舌を出しながら笑ってみせると、野球部員は苦笑いをしていた。
伝統ある聖蹟サッカー部には、他の部とは別に専用のグラウンドを与えられている。それが後から増設されたのか知らないが、専用グラウンドから給水所までがちょっとだけ遠いのだ。今も外周の合間に、先輩の目を盗んで給水しに来たって訳だけど……視力のいい俺には、黄色のビブスを着た君下くんが、鬼のような形相でこちらを睨んでいるのがよーく見える。あーあー、女の子がそんなに眉間に皺寄せちゃダメだよ。
「ふふ。それにしても、本当に俺はラッキーマンだな」
「いや、だからお前誰だよ……」
⌘ ⌘ ⌘
桜の花びらもほとんど散ってしまった四月。
俺がサッカー部の部員として少しずつ練習に復帰するようになって、あっという間に半年が過ぎた。
冬の選手権敗退と同時に三年生が引退し、卒業して、俺たちも無事進級して二年生となった。毎年恒例の大量の新入部員の面倒も見ながら、マネージャーと選手の両立……これが慣れないうちは本当に大変だった。
新キャプテン・水樹を筆頭に何かと個性派揃いの三年。幼馴染のバカとまとまりのない二年。それに加えて、今年の一年には期待のスーパールーキーもいれば、運動自体が全くの初心者もいるという。一気に倍近くに増えた洗濯物を目の前に、何度溜息が出たことだろうか。
それでもストレスもフラストレーションも全てキックの力に変え、思いっきりボールを蹴った日は、心地の良い疲労感に包まれ熟睡することができた。ひどく懐かしいこの感覚に身を委ね、目を閉じればあっという間に夢の中だった。
「ラスト1周! おい来須! 顎が上がってんぞ、気合入れろ」
「がんばれつくしー」
「ちょ、なんで俺だけ……っていうか風間! お前も走れ!」
カチリ。ストップウォッチの左側を押し、手元のボードにラップタイムを記録する。ピピッ。短い電子音に左手首に嵌められた、ラバー製の腕時計をちらっと見やれば、午後五時を過ぎた頃であった。二、三年のいるメイングラウンドはそろそろ基礎練に入った頃であろうか。
「おい、風間」
ぎろり、と横目で隣に立つ黄色いジャージを睨みあげる。
一年生に聖蹟サッカー部指定の黒ジャージが渡されるのは、たしか五月の合宿以降だったと記憶している。それまでは学校指定のジャージを代わりに着用するのが普通だ。そう、普通だったら。
「ん?」
「ん、じゃねぇよタワケ。スーパールーキーは外周免除、ってか?」
「さあ、俺は監督に好きにしろって言われてる」
へぇ。低い声でそう呟けば、肩まで伸びた金髪を降らしながら、にこにこと顔を覗き込む。悪気のない笑みが逆に恐ろしく感じた。
聖蹟高校サッカー部には毎年多くの入部希望者が訪れる。スポーツ推薦で入学したものだけではなく、名門という名に憧れて入部した者も多数いるのだ。それらをふるいにかけるかのように、新入部員たちには仮入部期間が設けられ、初日からシャトルラン百本という過酷な練習を強いられる。かくいうこいつも例外ではなく、初日こそは他の一年に混ざって真面目に練習に参加していたはずだ。
だが正式に入部届を出してからというものの、いつしかこうやって俺の隣で一年の練習を見学するのが日常になっていた。たった数日で随分と偉くなったものだと思うが、三年や監督ですら厳しく注意できないのには理由がある。
「ねえ君下くん、ちょっとだけ俺と蹴らない? タイムはキャプテンが見てくれるっていうから」
「ほへ?」
「……ああ、いいぜ」
じゃあ頼むわ、と未だ状況を理解していないであろう水樹へストップウォッチを手渡せば、笛を咥えたまましょんぼりとした表情で見つめられる。
そりゃそうだよな。キャプテンだって、この噂のルーキーと早くサッカーしてぇよな。
「アンタはまだ怪我治ってねぇんだから、もう少しだけ我慢してくれ。治ったら血反吐吐くまで蹴らせてやるからな」
「わーお、それって愛の鞭ってやつ?」
「うるせぇ! さっさと行くぞ」
ぴゅー……と萎れた音色で返事をした水樹には目もくれず、隣でクスクスと笑う金髪に蹴りを入れてやった。
「あ、そうだ。ついでに洗濯干してもいいか?」
「えー仕方ないなぁ〜」
外周のスタート地点である校門前から、サッカー部専用のグラウンドまではそう距離はなかった。向かう途中で洗いあがった洗濯物を干すために部室に寄ると、明らかに部のものではないサッカーボールの跳ねる音がした。どこからか持ってきたのであろうそのボールは、風間の髪色と同じく派手な黄色をしている。それをうまくつま先で転がして、ビブスを干している俺の周りをドリブルしながらくるくると回り始めた。器用なもんだ。
「俺はいつからカラーコーンになったんだ」
「あはは。だって暇なんだもん」
「少しは手伝えバーカ」
手にしていた洗濯バサミをつまんで開き、通り過ぎた金髪に向けて手を放す。ぱちん、と子気味の良い音がした。
「あっ?! いてててて! 絡まった」
「ざまあみろ」
春の暖かな風が吹き、干した色とりどりのビブスが揺れる。鼻腔を擽る、清楚なせっけんの匂い。左手でビブスの裾を洗濯紐へと巻き付け、片方を挟んで止める。もう一個、と新しい洗濯バサミを取ろうと手を伸ばした瞬間、指先に感じる鈍い痛み。ぱちん。
「あっおい!」
「お返し」
「この野郎……」
「ねぇ、なんでサッカー辞めたの?」
どきり。久しぶりに感じる、背筋が凍りつくような感覚。
練習に復帰して以来、このことについて触れて来る者など誰一人いなかった。あえて触れてはこないが、それでも現二、三年は君下がマネージャーに専念していた時期を知っている。
だが百歩譲っても入学したばかりの一年生に、それを問われる筋合いはない。それでも頭の中である一つの仮説が浮かび上がると同時に、目の前のこいつに限ってはあり得る話なのかもしれないと思った。
「……お前は俺のこと、どこまで知ってんだ?」
「んー、ある噂なんだけどね。俺らの一個上の都選抜に、すげぇうまい女が居たって話」
「やっぱりか」
「はは、当たりかな?」
こくり、と頷いて見せると、そのまま俯いた。こいつに悪気はないのは十分に分かっている。まだ一か月も一緒にはいないが、なんとなくこいつは人を馬鹿にするようなタイプではないことだけは、その柔らかな雰囲気から感じ取っていた。
サッカーっていうのは性格がプレーに大きく反映するのだ。ボールの扱いでそいつの女に対する扱い方が分かるぞ、だなんて、親父がよく言っていたっけ。
「辞めてぇねよ」
「そうなんだ」
それだけ言うと風間は、再びボールを足先で突き始めた。手前に戻して、軽々と足の甲へと乗せてみせる。しばらくキープしたかと思えば、今度は軽く蹴り上げて首の後ろへと持ち上げた。
ふん、スーパールーキーだか何だか知らないが、見たところリフティングじゃあ俺には遠く及ばない。だがしかし、大したやつだ。まるでボールが笑っているかのように、風間の身体へ自ら吸い付いてゆくのがわかる。相当蹴っているのだろう。ビブスを干しながら横目でこっそりと様子を見ていた。
「なんか噂で聞いてたのと印象違うなって思った」
「……」
「もっとこう、噂よりも女の子らしいっていうか」
「はあ? 俺が?」
思わず手が止まってしまった。女の子らしい……? いやちょっと待てよ、そもそもその噂って何なんだ? まさか噂の中の俺は、ゴリラみたいな屈強で厳つい女とでも思われていたのであろうか。それではあまりにも失礼だ。失礼すぎる。
「あり得ねぇ……」
「え? どっちの意味で?」
「は? いや、その質問こそどういう意味だよ」
「きみした、終わったぞ」
噛み合わない会話に、お互いの頭の上にクエスチョンマークを浮かべていると、君下の後ろから声がした。開けっ放しのドアのさらに向こう側から、ひょこり、と顔を出したのは水樹だった。先程渡した記録用のボードをひらひらと揺らして見せている。
「あ、ああ。サンキュ」
「なんだ、蹴ってないのか?」
「君下くん、なんか洗濯しなきゃってさー遅いんだよね」
「テメェが手伝えば早く済んだだろうが」
ごつ。受け取ったボードで頭を叩いてやると、思ったよりも鈍い音が響いた。奇人な見かけによらず中身のいっぱい詰まったお脳をしてやがる。これがキャプテンや喜一だったらぽこ、と間抜けな音がしていたに違いない。
「ほら、さっさと練習に戻れ。そのうち相手してやるから」
「へーい」
「アンタはウエイト行ってこい。とりあえずいつものメニューやって、終わったら柔軟付き合うから呼んでくれ」
「うん」
俺の指示にぴょこぴょこ跳ねながら走ってゆく様はまるで二匹の犬だ。いたずらっ子だが賢いゴールデンレトリバーに、アホだが忠実な柴犬。やはりフォワードという生き物は扱いやすいな、と心の中で漏らすのと同時に、もしも俺がこのチームで司令塔ができたらどれほど面白いだろうと想像して、少しだけ笑った。
⌘ ⌘ ⌘
初めて迎えた冬の選手権は、インターハイと同じくあと一歩のところで敗れてしまった。
まただ。一年唯一のレギュラーだった俺は、夏と同じで、やはり何もできないまま試合が終わった。あと一歩のところだった。それでも負けは負けだ。
この試合で三年は引退する。特別親しかった先輩が居たわけでもないが、それでも涙ながらに会場を後にしたあの寂しげな背中は、いつまで経っても忘れることができないだろう。
そして二度目の、夏のインターハイを賭けた都大会決勝——……
対桜木高校戦、前半終了時でスコアは一対一。下馬評では相手校のほうが有利とは言え、復帰したキャプテンも加わった聖蹟イレブンだって決して負けてはいない。
息を切らしてベンチへ戻ると、唇を噛み締め、不安げにこちらを見つめる君下と視線が合った。何か言いたげな複雑な表情。だが突然隣に立っていた柄本に、君下よりも先に泣かれてしまい、その場にいた全員が度肝を抜かれてしまった。
「俺たちは勝つ、それだけだ」
そういって泣いている柄本へと、得意の頭突きをかましてやった。あれは本当は柄本だけでなく、あんな泣きそうな顔した君下や、何よりも俺自身に言い聞かせていたのかもしれない。
俺自身が俺の意思でこいつをフィールド上へと戻したというのに、その君下がいないと試合では勝てない。俺は自分の才能に胡坐を掻いていたことにようやく気がついた。
だが本当はそうじゃない。君下がいなければ、俺は何の役にも立ちやしない。あのパスがなければ、俺は百パーセントの力を出し切れないのだと、この敗戦で嫌というほど思い知らされた。
「大柴! Bチームのセンターに入れ」
「ウッス」
監督の声に、ふと我に返った。今は全学年を交えたミニゲームをしているところだった。Bチーム——オレンジのビブスのほうか。このチームの右サイドはルーキーの風間、左にはキャプテン、そしてトップ下には君下がいる。聖蹟伝統の三本の矢。後に控える冬の選手権は、恐らくこのメンバーで戦うことになる。
風間や柄本が加わった新体制になって暫くが経ち、怪我で一時離脱していたキャプテンがいない間も様々なフォーメーションでずっと練習はしてきた。あとはいかに質のいい攻撃バリエーションを増やせるか。それが今後を戦い抜くカギとなるだろう。
相手ボールからキックオフ。すかさずプレスをかけてボールを持たせない。自信のない体力面の心配をして、結局攻めきれないなら意味がない。体力なんてものは、少し走って今すぐに付くわけでもない。どうせ途中交代になるのだったら、一つでも多く仕事をせねば。与えられたこのポジションだって、今までの練習だって意味がない。
そうだ。スコアボードに残らねば、努力することすら何の意味も持たないのだ。
「貸せ! こっちだ」
積極的に相手に当たってボールを貰いに行く。生まれ持ったポテンシャルを使いこなせていないというのが、自分なりに分析した敗因だった。身体が大きくても足元が手薄にならないのが俺の才能であって、おまけに人よりも何倍も身体は丈夫だ。どんな高い球にでもヘディングで合わせることができるし、味方が上がってくるだけの時間稼ぎだってできる。あとはゴールにボールを押し込むだけだ。
得意のルーレットを仕掛け、振り向いた先には大きく空いたシュートコース。思いっきり右膝を振りぬけば、インパクトの瞬間に手ごたえがあった。これは、入る。そう思った時には、どこからか現れた相手チームのディフェンダーにボールをトラップされていた。
「くそっ……!」
「惜しい。だが今のはいい攻撃だったぞ、大柴」
「臼井先輩……」
大きくクリアーしたのは、聖蹟の守備の要・臼井だった。汗を拭う素振りを見せる割に、汗などどこにも掻いていないように見える。
この男はいつもそうだ。守備が誰もいない手薄なところに現れて、鮮やかにボールを奪い去ってゆく。味方であることは頼もしいが、敵である今はいちばん厄介な存在であった。
「開始早々お前がこんなに走るだなんて、珍しいな。何かあったのか?」
「や、別に」
「そういえば一年の頃のあだ名、何だっけ。ふてくされ王子だったか」
「やめてくださいよ。俺は大統領以外呼ばれたことなんてない」
「はは、誰が呼ぶんだよそれ」
ボールの流れに合わせ自陣へと緩やかに走れば、珍しく臼井が並走してきた。普段からゲーム中ではなくとも、俺に話しかけてくることなどまずない。一体何に目を付けられたのだろうか。ちらり、と横目で見やるも、いつもと同じキノコのような頭をしているだけで、それ以外に特段おかしい様子はない。これがクラスの女子の言っていたポーカーフェィスってやつなのだろうか。
「喜一、マーク振り切れ!」
「あ? んなこと言っても、誰もいねぇぞ!」
「チッ」
いつの間にか、臼井は並走をやめてどこかへと去っていた。君下に言われた通り、念のため辺りを見回すがマークになど着かれていない。むしろ俺は絶好のポジションにいて、しかもフリーだ。
君下のやつ、コンタクトしてねぇのか? いや、もしかするとこの場合、逆に見えてはいけないものでも見えてんじゃねぇの? コートの中のオレンジのビズスを数えてみるが、やはり自分を含めて十一人しかいない。良かった、ホラーのほうじゃなかった。
「おいコラ! 俺にパスだ! 浮き球のパス!」
デカい身体でぴょんぴょんと飛び跳ねてみるが、いつもより視界が広がっただけでボールは回ってこない。それどころか、敵のフォワードまでもがボールを奪いに戻ってきているというのに、いつまでも君下がキープしている始末だ。
風間には二枚のマーク、速瀬先輩には一枚。どう考えても俺以外にパスコースはない。
あいつ、ちょっと腕が訛ったんじゃねぇのか? そう思っているうちに、先にマークを振り切った風間へとパスが通る。生意気なルーキーはボールを持つとすかさず切り返し、あっさりとディフェンダーを躱してゆく。放ったボールは綺麗な弧を描き、ネットの中へと吸い込まれた。
「ナイス! 風間ぁ!」
「危なかったぁ! 灰原ちゃんがあと五センチ背が高かったら取られてたわ」
「いや、小さくねぇし!」
練習試合でもないというのに、風間の周りには敵味方関係なく人だかりができている。輪に入れないまま、その場に立ちすくんで上がった息を整えていると、後ろから背中を蹴られて思わず一歩踏み込んだ。
「ってぇな……」
「テメェの目は何見てたんだよ」
「お前こそ、俺が取り憑かれてるだとか言って脅かすなよ」
振り向けば、こちらをきつく睨みあげる黒い瞳と視線が合った。あれから俺はもう少しだけ背が伸びて、ついにはこいつとの身長差は竹の物差し一本分を超えた。自分の胸ほどの高さで膨れる頬をつついてやると、ぶぅ、と間抜けな音を立てて頬がしぼんだ。
「誰がそんなこと言ったか? あぁ?! ずっと臼井先輩にマークされてただろうが」
「は? どこにいたんだよあの人」
「知らねぇよ! ずっとお前の周りにいたのに気づきもしなかったのかよ。目ぇついてんのか」
「ンだとコラぁ!」
「はいはい二人とも、そこまでにしような」
見かねた臼井が間を割ってきた。
ここ最近はずっとこんな調子だった。いつしか犬猿の仲は復活していて、特に君下なんかは一年が入ってきてからというものの、毎日生理じゃないのかというほどに荒れ狂っていた。そういえば、二年に上がってからというものの、俺も君下と共に自主練することもぱったりとなくなった気がする。
「俺、交代します……こんなんじゃパスの出し甲斐がねぇ」
「いいのか? ゲームに入るの久しぶりだろう?」
「ハッ、そりゃいいわ。お前よりも来須のほうが多少はマシだぜ」
俺の���うは見向きもせずに、ベンチの監督のほうへと真っすぐ駆けてゆく黒髪を、ただ見送ることしかできなかった。思ってもいない愚痴をこぼしながら。
「おい、大柴! お前も交代だ」
「は?」
声のするほうを見やると、既にビブスを脱いで部室へと向かう小さな背中が視界に入った。その手前で監督は立ち上がり、俺へ向かって手招きをしている。
もしかして今の言い争いでレッドとか、練習試合でもねぇのにそんなことはないよな……? 不満げに眉を顰めて駆け寄れば、もう君下の姿は見えなかった。
「なんで俺まで交代するんすか」
「いや、今のは確実にお前が悪いぞ。とてもじゃないが、最適な状況判断とは言えなかった」
「それは……」
「ちょっと頭冷やしてこい。最近のお前は、なんていうか……お前らしくないプレーをしている。君下だって、少なからずそのことには気付いているが、ただでさえマネージャーの仕事との両立は大変だ。お前が支えてやらないでどうするんだ」
俺が支えてやる……どうしてそんなこと、この人は知っているのだろう。
俺があの日、君下の背中を押した日。俺は誰にも言わなかったが、君下のことを支えてやろうと一人で決めた。女性らしくなりゆく事に怯え、大好きなサッカーも満足にできないこの弱い生き物を、俺が守ってやると決めたのだ。
そう決めたはずなのに、今の今までずっと忘れていた。そんな大事なことを忘れるぐらいに、俺は自分の結果が出ないことに焦り、気を取られてしまったのも事実だ。ああ、なんて情けない男なのだろう。
「監督、ありがとうございます」
「お、おう……そんなかしこまられると気味が悪いな」
大きな体を深々と折り曲げれば、さっさと行ってこいと強めに叩かれた。なんでもないそのパンチは、今の俺にとって痛いほどの感覚を残した。
「君下……何してんだ?」
まだ自分のロッカーを持たない新入部員たちの鞄が山積みになっている部室の奥に、目当ての彼女の姿はあった。俺らの予想に反して、いつも通りのなんともない様子で掃除をこなしている。流石に泣いてはいねぇか。内心でほっと胸を撫でおろした。
「あ? お前もうへばって交代かよ」
「ちげぇよ。監督命令だ」
「違わねぇじゃん」
「ったく、勝手に言っとけ」
君下の周りに積み上げられた、埃の被った大量のフォルダ。どうやら今までの対戦校のデータなんかを整理していたようだ。足の折れかかったパイプ椅子を引きずって持ってくると、それらを崩さないように君下の正面を陣取り、どさり、と腰かけた。
「へぇーこんなのあったんだな」
「一応はな。だがただ記録して取っておくだけじゃ、宝の持ち腐れってやつだろう」
「確かになぁ」
一番上にあった緑色のファイルを手に取って、パラパラとめくって見る。古びて角が丸くなったそれは、主に新聞記事の切り抜きが挟まれており、見出しだけを読めばどうやら卒業生でプロになったものの記事だと読み取れた。流石は伝統ある名門校なだけあって、かなりの量のページ数があった。なんとなく昔テレビで見たことのある顔もちらほらいる。
「なあ」
「ん?」
「俺ってその……女の子らしいと思うか?」
「はぁ?」
思わず聞き返してしまった。顔を上げればバツの悪そうな君下と視線が合う。いつの日か見た、茹でだこみたいに頬を真っ赤に染めて。
「いや、その……言われたんだ。思ってたより女の子っぽいって」
「誰にだよ」
「風間……」
「ふーん。俺からは、お前はお前だと思う、としか言えねぇな。何があったか知らねぇけど、お前のことはガキの頃から知っている俺にとっちゃ、そんな感じだ。性別っていうよりか、お前は君下敦って感じ」
「そうか……」
バカでもわかるほどに沈んだ声を無視した。自分でも訳の分からない返しをして、手元のファイルに視線を戻す。ごく自然に、動揺を悟られないように。君下の口から出た意外な人物の名前に、正直ノーマークだったなと言葉を噛み殺した。
「ん?」
相変わらずペラペラとめくり続けていた手元のファイルの最後のページをめくると、よく見知った顔が載っている切り抜きが目に入った。それは俺もいつかの朝刊で目にした記憶のある、まだ新しい記事だった。
聖蹟二年・水樹寿人 十傑入り J鹿島と契約へ
「そういやいつの間にかプロだもんな……やっぱすげぇわあの人」
「お前だって目指すだろう、プロ」
一瞬ちらり、とこちらを見上げた瞳。汗を吸ってくるりと外側に跳ねた髪の毛を耳にかけながら、まるで俺の心を刺すかのように真っすぐに向けられた眼差しにドクリ、と心臓が跳ねた。
「あ、ああ」
「なんだよその気の抜けた返事は……まあお前にそのつもりがなくても、俺が連れてくからな。お前に俺の夢は託した」
こつん、と音を立てて、君下の拳が俺の膝小僧へとぶつけられた。何やってんだよ俺は。俺がこいつを支えなきゃいけないはずなのに、結局はこいつに助けられてばかりだ。ピッチの中だけでなく、こんなときまで頭が上がらないだなんて男として情けなさすぎる。
「ったく、お前はいつも勝手なんだよ」
サッカーを辞めると言った時もそうだ。
俺に夢を託しただなんて確かにそんな話をガキの頃してはいたが、君下が辞めてからは聞いたことすらない。小さく呟いた言葉は、こいつに届いたのかすらわからない。だが今はそれでいいと思った。
結局のところ、俺にできることはただ一つ。それだけは変わらない、決定事項だった。
⌘ ⌘ ⌘
「俺たちにはまだまだ課題が山積みだ。水樹、」
「ああ。選手権まで時間がない。そのために今日俺たちは、全力で勉強する」
チッ。思わず漏れた舌打ちは、静まり返った空間にやけに響いた。状況を呑み込めていない様子の面々を無視して、俺は半年前まで使っていた懐かしいテキストをパラパラとめくっていた。
それにしても、この大きな家に上がるのもずいぶん久しぶりだ。壁一面に張り巡らされた水槽のポンプが、後ろでポコポコと心地の良い音を立てるのに耳を傾ける。
「なぜですか?! 元素記号を覚えれば勝てますか?!」
「それは君がバカだからだ、来須」
「諦めろバカ」
「テメェらもバカだから呼ばれてんだよ!」
ギャアギャアとバカが騒ぎ立てる。失礼ながら俺にとっちゃ、ここに集められた奴はどいつも同じレベルの馬鹿だ。
文武両道を掲げる聖蹟高校では、毎年赤点を取った者は夏休みに勉強合宿へと強制送還されるのだ。スポーツ特待生も特進クラスも関係ない。去年もこうやって先輩らが勉強を見てくれたお陰で、勉強合宿行きをギリギリで逃れた喜一は、文句も言わずに自らテキストを開いているようだった。ちったぁあのバカを見習え、バカ共が。
「君下先輩、なにメガネして賢ぶってんすか」
小馬鹿にしたような顔でこちらを覗き込んでくるのは来須だった。確かに、特に後輩マネージャーの生方が入部してからというものの、選手として部活に参加する機会のほうが多かった。だから眼鏡をしていない俺を見慣れないのも頷ける。が、目の前のその生意気ヅラには一発お見舞いしてやらねぇと気が済まない。
「君下は二年の学年トップだ」
「え?!」
「え、じゃねぇぞタワケ共が」
胸倉を掴み持ち上げ、来須の背にあったソファーに突き倒し、そのまま馬乗りになって殴りにかかった。男と女の対格差じゃ、俺は力でこいつに勝てるわけがない。できるだけ体重をかけるように腰の上に乗り上げ、抵抗する手首を捕まえる。来須は俺が重いのかそれとも恥ずかしいのか、顔を真っ赤にして足をバタつかせながら逃げようとする。
「いやっ、ちょ、君下先輩! その、あ、当たってるから!」
「は? 何わけわかんねぇこと言ってんだよ」
「キャー君下くんのエッチぃ」
「風間、お前も後でシバく」
ふざけた声のするほうをキッときつく睨むと、テレビゲームのコントローラーを握る風間と視線が合った。というか、こいつはいつからここに居たんだ? 俺が事前に臼井先輩に聞いたメンバーには、確か風間は含まれていなかったような気がする。
「っていうか遊んでんじゃねぇバカ!」
「えー俺勉強できるし」
「嘘つくな!」
ほら、とどこからか持ってきたのか小テストらしきものを出してくる。来須の手首を掴んでいた手を離して皆で囲む。数枚あったそれらは全てに赤字で丸が付けられて、どの解答用紙にも名前の横に1の文字。まさか。皆が驚きの表情に満ちているあいだ、既に興味をなくしたかのように、風間の視線はデカいテレビ画面に釘付けだった。
「帰れ!」
来須から飛び退き、風間の首根っこを掴むと、そのまま玄関までずりずりと引き連れ外へと放り出した。相変わらずへらへらと笑うこいつに悪気がないのが伺える。だがこいつは、いくら頭が良くても人にものを教えられるタイプでもないし、どちらかというと積極的に邪魔しにいくタイプだった。残念ながら今日この場には必要ない。
「何で来たんだよ」
「だって俺に内緒で楽しいことしようとしてたでしょ」
俺の腕の中で首を絞められながら、ぷう、とふくれっ面をする風間はまるで子供のようだった。喜一やキャプテンとは違うタイプの子供だ。だがこいつは他の子供よりも勘が鋭かった。そしてそれを探るようなことも、知らぬ顔して平気でやってのける。
つい先日も、柄本を連れて閉店前の君下スポーツへと尋ねてきたこともあった。扱いやすいがその分相手にしにくいところがある。
「何が目的だ?」
「えーそんなんじゃないよ」
「気持ち悪いな、はっきり言えって」
「じゃあ聞くけど君下くん、キーチマンと何かあった?」
「は?」
意外な質問に、心の底からヘンな声が出た。こちらを見上げるキラキラとした大きな瞳と視線が合う。髪も長くて顔立ちも綺麗だし、こいつのほうが俺よりもよっぽど女らしいんじゃねぇの。いつかこの男に言われた言葉を思い出した。
「んなの聞いてどうすんだよ」
「別に、大した意味はないよ。ただ俺が聞きたかっただけ」
「……何にもねぇよ。あいつはただの幼馴染だ」
「ふーん」
先程から質問攻めだというのに、聞いているのかわからないような声がする。なんだか腑に落ちなくて、首を絞める腕をもう一段上へと引き上げるとぐえ、と潰れたカエルのような声がした。
「ねえ」
「あ? まだ何かあんのかよ」
「さっきから、俺の頭におっぱい当たってる」
「……っ!」
「やっぱり君下くんって着痩せするタイプだよね。まな板生方とは違うわ、ってあれ?」
ドサリ。ショックのあまり、何も言わずに風間を絞めていた腕を解くと、踵を返して玄関のほうへと歩き出す。中に入るなりバタン、と勢いよく閉めたドア。バクバクと跳ねる心臓が嫌にうるさい。
いやいやいや、何してたんだ俺は。男勝りな性格なのは自他共に認めている。だからとは言え昔からの癖でつい、いつも喜一にやるようなことを、気を許した部員たちに平気でやってしまった。先程の来須の一件も、恐らく今と同じことだろう。
ということはつまり、喜一もあえて俺に言わないだけで、今まで同じ思いをしてたってことか? いや、考えすぎるのはよくないぞ、敦。あいつは風間や来須以上に馬鹿なんだ。それに今更俺の事なんか、女として思ってなんかいないかもしれない。俺だってあいつの事、あいつの……。
「ふう……」
考えを打ち消すように、ドアに凭れたままその場��大きく深呼吸した。その静けさに徐々に冷静さを取り戻し、俺は今日一体何のためにここに来たのかを思い出す。
そうだ、この馬鹿共の勉強を見ねば。
長い廊下を歩きリビングへと戻ると、既に学年ごとに纏まりテーブルへと着いていた。
一年の三馬鹿には生方と柄本と俺、一番やばいと噂の水樹には臼井がつくことになった。喜一は……まぁ放っておいても家庭教師の先生や、秀才な姉が何とかしてくれるだろう。それに今はなんとなく、あいつの顔を真正面から見れる気がしなかった。ソファに腰を下ろし、愛用しているシャープペンをくるくると回しながら、一年前に終えた数学の教科書へと視線を落とす。
「とりあえず、ここからここまで十五分で解け。一問でも間違えたらコロス」
「え……なんでこんなにキレていらっしゃるの……?」
「いいからさっさと解け」
午後五時をまわり、とっくの昔に集中力の切れた来須たちは、働かない頭を必死に捻り唸っていた。人に教えるというのは案外疲れるもんだな、と同じく頭を抱える生方を横目で見て思う。柄本だけはいまだに根気強く粘ってはいるが、皆そろそろ限界だろう。
「腹減った……」
「そうだな。台所借りていいことになっているから、カレーでも作ろう」
そう言って、真っ先に立ち上がったのは臼井だった。あの宇宙人相手に長時間勉強を見てて、流石に嫌気がさしたのであろうか。この場に女が二人もいるというのに料理を押し付けないのは、女子だけに任せないという優しさなのか、それとも自分がこの場から抜けたいだけなのか。どちらにせよ臼井先輩なら安心だ、とリビングを出ていく先輩の背を見送っていると、臼井は急に思い出したかのように振り返った。
「そうだな……君下、手伝ってくれるか?」
「あ? 俺?」
「流石に俺一人でこの人数分は時間がかかるからな……さて、行こうか?」
ああ、この人は間違いなく何か企んでいる。薄い笑みを貼り付けた顔を見て、己の頬が引きつるのがわかった。どうやら拒否権はないらしい。
重い腰を上げて立ち上がれば、毒とか入れそうというヤジが聞こえる。誰かわからないが検討はついていたので、とりあえず来須の頭に思いっきり拳骨を落としておいた。
「なんで俺なんすか」
広いキッチンの奥で、臼井は玉ねぎの尻を落として慣れた手つきで皮を剥く。ずるり、と乾燥した茶色が剥け、中から艶々と輝いた身が現れた。なんてことないそれさえも、この家にあるだけで高価な物かと錯覚してしまうほどに、ここのキッチンはいつ来ても慣れなかった。
「ん? ああ、本当は生方でも良かったんだが、あいつに包丁を握らせるのは俺が怖くて、な」
「……」
「っていうのは冗談だ。ちょっと君下と話がしたくてさ。それに、この家の事なら当の本人より、お前の方が詳しく知ってそうだしな」
「はは……まあ幼馴染なんで」
ピーラー、取ってくれる?そう言ってにこやかな笑みを浮かべる臼井の顔は、とてもじゃないが俺には穏やかには見えなかった。
きっと何も知らないクラスの女子たちは、この貼り付けた笑顔でイチコロなのだろう。俺がまともな女じゃなくて良かったな、と改めてこの状況を客観的に見た。俺はまだ冷静だと、自分に言い聞かせて。
トントントントントン……半割にした玉ねぎをリズムよく刻んでゆく。うちの切れない出刃包丁なんかじゃなく、ここのナイフはいつも新品のように手入れのされた素晴らしい切れ味だった。涙腺を刺激する厄介な汁も、今は飛び散ることがない。繊維の押しつぶされる音はなく、ただひたすらに、まな板と刃のぶつかる音。
トントントントン——……
「へぇ。きっと料理ができるとは想像してはいたが、うまいもんだな」
「まあ、俺んち父子家庭なんで……こういうの慣れてるっていうか」
隣のシンクの上ででジャガイモの皮を剥く臼井が、覗き込むようにして俺の包丁さばきを見ていた。いつ見ても綺麗に整えられた、シルバーに近い髪の毛がふわりと揺れる。
何だこの人……女の俺よりもいい匂いがしやがる。それに思えば俺は今まで、臼井先輩にこんなに近づいたことはなかったことに気付く。妙な距離感に、不自然に心臓が跳ねる。クールだと言われる目元はもちろん、形のいい鼻、ピンク色の薄い唇なんかはセクシーだとさえ思う。
いや、何を考えているんだ俺は! 普通、男の人にセクシーだなんて言葉を、しかも高校生相手には滅多に使わないだろう。動揺していることに気付かれまいと、玉ねぎを切る手元は緩めない。端まで切り終えると、まな板の脇に用意していたボウルにそれを入れた。
「あ、あの……ニンジンとか入れますか?」
「そうだな。じゃあ俺が皮を剥くから、先にこっちを切ってくれないか」
そう言って臼井は、ずっと手の中にあったのであろう、綺麗に皮の剥かれたジャガイモを手渡してきた。受け取ったとき、不意に指先が触れた。それは驚くほど冷たくて、思わず臼井の顔を見やれば避けていた視線が合ってしまった。
「今、大柴の事考えただろう?」
にやり、と三日月のように歪めた瞳がこちらを見ている。相変わらず冷めた瞳からは、何の感情も読み取れそうにない。確かにあの一瞬、臼井の指に触れたとき……喜一の体温を思い出してしまったのは事実だった。
太陽みたいに大きくて、あたたかな掌の温度。自分は表情一つ読み取らせない��に、俺のちょっとした感情の変化にはすぐに気づいてしまう。ああこれだから、俺はこの人が苦手なのだ。
「いや、そんなこと」
「なんだ。お前たち、付き合ってるんじゃないのか?」
「なっ……!」
その言葉に、思わず持っていたジャガイモを落としてしまった。まな板の上で何度かバウンドし、スリッパを履いた俺のつま先に当たり大理石の床を不規則に転がってゆく。丸く整えられてはいるが、きちんと芽まで処理されたそれはいびつな形をしており、真っすぐには進まない。転がるジャガイモを身体が反射的に追いかける。食べ物なので流石に足でトラップはしなかったものの、食器棚にぶつかって止まっていたそれを屈んで拾い上げる。ここの床は綺麗に掃除してあるし、洗って煮込めば問題ないだろうか。
「少なくともお前は大柴の事、好きなんだろう?」
「それは……」
それは、よくわからない。
これは本心だ。思い出せないほど遠い昔から、喜一は俺の憧れであり、ライバルであり、そして何より幼かった俺がサッカーを本格的に始めるきっかけでもあった。あの日、あの場所で大柴喜一という男に出会っていなければ、今の俺は存在しなかったと言っても過言ではないほどに。
「……っ」
思わず指で触れた、己の唇。
あの日、喜一の濡れた唇に塞がれて、そして自分も黙って受け入れてしまった。
「それは、俺にもよくわからないんです。本当に」
「そうか。最近あいつの様子が変なのは、君下、お前も分かっているだろう」
確かに最近の喜一はどこかおかしい。
喜一らしくない、というのが一番合っている気がする。黙っていれば、それを肯定と取ったらしい臼井は話を続けた。いつの間にか火にかけられた鍋のなかで、玉ねぎが焼けてジューっと音を立てている。
「俺はいくら副キャプテンであろうと、部員のプライベートに首を突っ込む気はない。顧問だろうと、後輩だろうと。それはわかるな?」
「ああ」
次第にしんなりとして、黄金色に色づきはじめた具材をかき混ぜながら、臼井は続ける。伏せられた睫毛さえも美しい。全ての材料が揃い、あとは順番に炒めて煮るだけだ。手持ち無沙汰になった俺は洗いあがった器具をひとつずつ、時間をかけて拭いていた。
「お前と大柴が付き合っていよう��、そうじゃなかろうが、結局のところ俺はどちらでもいいと思っている。いくら知っている仲とは言え、そんなことに口出しするのは野暮だからな。だがこれが部に悪影響を及ぼしていると判断すれば、俺だってそうはいかないんだ」
「悪影響、ですか」
「まあ、そんなに悪く捉えないでくれ。言葉を選ぶのは、頭のいいお前にとって失礼だと思っただけだ。下手に隠されるよりは幾分かマシだろう?」
確かにその通りだと思った。俺は下手に本音を隠されるのは好きではない。そんな回りくどいことをするのなら、傷つこうが真実を述べてもらうほうがマシだった。学年も違えば、普段は戦術の面でしか話す機会がないというのに、本当にこの人は俺をよく理解している。
全てが程よく炒まると、臼井はあらかじめ測っておいた分量の水を加えた。そして底から削るように大きく掻き回して、木べらを取り出し中火にして重い陶器の蓋を落とした。腰に手を当てた臼井の視線がこちらへと向く。夕日に照らされたシルバーは光を反射してキラキラと輝いているかのように見えた。
「それで、俺はどうすればいいんですか。まさか本当に付き合えとでも?」
「まさか。その気がないお前に、そんなこと言うつもりはない。ただ俺たちにとって、お前も大柴も大事なウチの戦力だというのは事実だ。特に大柴は、今では聖蹟伝統の三本の矢の一角を担っている。あいつの出来が今後を左右することは、お前だって百も承知だろう?」
「ああ……」
ポコポコと音を立て、鍋の中身が沸騰したことを知らせた。重い鍋の蓋の隙間から湯気が上がることも気にせず、臼井は手元のボタンを操作してさらに弱火に落とす。
「そこでだ。俺が言いたかったのは、マネージャーのお前にもう少し気持ちの面でもコントロールしてやって欲しいってことだ。選手だったお前ならこの言葉の意味、わかるだろう?」
「マネージャーの俺、か」
「さて、あとはルーを入れるだけだ。ここは君下に任せるから、俺は少し向こうの様子を見てくるよ。生方だけじゃ、今頃手に負えなくなってると思うし」
そう言うと、ぽん、と俺の肩に手を置いた臼井はキッチンを後にした。
静けさを取り戻したキッチンに小さく響く、カタカタと陶器の蓋の震える音。テーブルの上には、既に人数分の皿とスプーンが用意され、その手前にはスーパーでお馴染みのパッケージのみが取り残されていた。へぇ、喜一もバーモントカレーを食って育ったのか、それとも今日の献立を決めた臼井が事前に買ってきたのか。この家に不似合いなそれが少しだけ可笑しかった。
⌘ ⌘ ⌘
夜十時を回ったところで、勉強合宿初日はお開きとなった。お開きとは言え、ホストである俺はこの豪邸を哀れな部員たちの勉強の場として貸していただけで、あとは普段通りにドリルを持ったまま部屋をうろついていただけなのだが。
「さて、今日はこのぐらいにするか。夜更かしは美容にも良くない」
「うわ、なんか軍曹が言うと説得力あるな」
ピンポーン——……
それぞれがテキストを片付けていると、急に玄関先の明かりが灯り、来客を知らせるベルが鳴った。こんな夜分に誰だろう。
「俺出るんで、交代で風呂入ってください」
そう言い残して、俺は足早に玄関のほうへと歩き出した。
今日はお手伝いさんも随分前に帰ってしまい、両親は出張で一週間ほど帰らないと聞かされている。陰から水樹を見ていた姉の姿は確認したし、訪ねて来たのが身内ではないことは確かだった。誰だろうと脳内で考えを巡らせていたが、擦りガラス越しに見えたシルエットで大体の見当がついてしまった。
「何しに来た、風間」
インターホンで出ればよかったな、とこの時思ったが後の祭りだ。スリッパを履き替えずに、土禁部分から長身を伸ばしてドアを押し開ければ、思った通り風間の姿があった。脇にへんてこな形の枕を抱え、そいつの髪色と同じ派手な黄色のビニール袋をいくつもぶら提げている。
「こんばんわ。今日泊まりなんでしょ? 俺も加わりたいなーって」
ダメかな? にこり、と笑う姿は、どう見ても許可を待っているようには思えない。するり、と大きく空いた脇から中へと入り、スリッパも履かずに素足をペタペタと鳴らしてリビングへと進んでゆく。全くこいつは、頭が空っぽのようでそうでない。まるで読めないやつだと思った。
合宿と称されたこの会は、泊りがけで行われることになっている。それなりに大きな家なので客間はあるものの、ここにいる全員が止まるには少しばかり狭く感じた。それに女子を同じ部屋に泊めるのは流石に気が引ける。そう話さずとも、マネージャー二人は自主的に自宅に帰ると言うし、母子家庭だという柄本も母が待っているからと帰っていった。順番に風呂に入ったあとは、特にやることもなく何も言わずに皆が居間へと集まっていた。
「この大画面でAV見たいわ〜持って来ればよかった」
「大柴先輩持ってないんすか」
「あー俺の部屋にあったかもしれねぇ。二階の角だ、入っていいぞ」
「大柴の部屋か、汚そうだな」
それを聞いた来須と新戸部が、走って二階へと駆けあがってゆく。それ以外は適当に風間が持ち込んだ大量の菓子とジュースを広げ、テレビゲームをやったり本を読んだりと、皆が思い思いに過ごしていた。まあ野郎が集まったところで特にやることなんてない。水樹キャプテンに至っては、ソファーの裾に足を引っかけて、風呂上りにも関わらず一人黙々と筋トレをしている。どういう神経しているんだろうか。
「ねー、キーチマンは何フェチ?」
ここに来てからコントローラーを握りっぱなしの風間が仰け反り、ソファーに腰かけていた俺を見た。今はゾンビのゲームをやっているらしく、ドロドロに溶けた血色の悪い人のようなものが近づいてくる。げ、薄気味悪ぃな。というか、こんな悪趣味なゲームが果たしてうちにあっただろうか。
「フェチというか、へそのラインが好きだな。だがデブはダメだ、話にならん」
「うわーいきなりキモいの来た」
「そういう風間はどうなんだ?」
同じく長いソファーの反対側に座っていた臼井が、前かがみに座りなおして話に乗ってきた。思わぬ人の食いつきぶりに、危うく飲んでいた炭酸飲料が鼻から出るところだった。ゴホッ、ゴホッと少し咽て、涙の浮かんだ目頭を押さえる。
「おっぱい一択でしょ」
「はは、言うと思った」
「でも生方みたいな小さいおっぱいには人権はないぞ! 君下くんぐらいだったら全然アリだけど」
ブフォッ!
もう一度飲み物に口を付けた、数秒前の自分を呪い殺してやりたい気持ちになった。勢いよく吹き出すと、母が気に入っていたトルコだかインドだかで買ってきたという絨毯にポタポタ、とシミを作った。透明なので乾けばバレることはないだろうが、念のため明日お手伝いさんが来たら真っ先に伝えよう。うん、そうしよう。
「な……おまっ」
「お前、いつの間に生方だけでなく君下先輩のまで……揉んだのか?」
「揉んだわけではないかな。でも見りゃ分かるじゃん。君下くんは明らかに着痩せするタイプでしょあれは」
こいつ……いつの間に君下にそんなことしたんだ?!
それにしても、それををよくあいつが許したなと思った。許しが出たとしても、きっと後で酷いタコ殴りにされたに違いない。それほどまでに俺の想い人は、女扱いされることにコンプレックスを抱いていた。俺だって最近は、普通のスキンシップでさえ触れることもできないというのに。
歯ぎしりが鳴りそうなほどに力んでいると、パタパタと足音がし二階から探索隊が戻ってきたようだった。
「ああ、確かにあれはデカかった」
「えっ来須まで?!」
「そうなのか?」
「いやいや水樹……お前は去年のこともあるだろ」
「え、何すかそれ」
一年が目を輝かせて興味津々というように臼井のほうを見やる。副キャプテンが言っているのは、恐らくあの砂浜ダッシュの日のことであろう。
だがよくよ考えて見れば、あの時近くにいたのは俺とキャプテンだけだったはずだ。俺がこんなことを言いふらす訳がないし、だとしたらまさかキャプテンが喋ったのか? 少しの疑心を持って未だ腹筋をしている水樹をちりと盗み見る。仮にもしこの人が臼井先輩に言ったとしても、きっと悪気はないのだろう。
「いや、君下が怒りそうだからやめとく。なあ、大柴? というか流石だな。尻派の俺には分からなかったな」
「軍曹のその顔は絶対嘘だな……」
「で、新戸部。大柴の部屋には何かあったか?」
一瞬、臼井と目が合った。俺の心を読んだかの如く、この好奇心旺盛なサル共の気をうまく話を逸らしてくれたらしい。やっぱり何か知っているに違いない。こんなときはいつも、俺の嫌な勘は絶対に当たるのだ。
「それが、とりあえず一本しか見当たらなくて……見ろよこれ」
「うわぁリアルだな」
「わ、悪かったな悪趣味で」
「いやむしろ安心したッス。医者の息子もこんなの見るんだって」
臼井の言葉に思い出したかのように、新渡戸は後ろ手に持っていたパッケージを見せた。それはエッチなガーターベルトを嵌めたナース姿の女が、患者らしき服を着た男の上へと跨っているような、そんなよくあるパロディー物のパッケージだった。うわ、こいつら懐かしいの見つけてきたな。思わずゴクリと唾を飲み下した。
「せっかくだから、この後ろのデカいスピーカーつけていいっすか? あ、でも大柴先輩のお姉さん、上にいるんだっけ」
「あーうちは全部屋防音だし、よく知らんがそんなにデカい音にしなきゃ大丈夫じゃねぇか?」
「よっキーチマン! さすが七光り!」
「え、なに? 怖い映画大会?」
不意に一年の誰かが、パチン、と部屋の電気を消した。来須がDVDをセットする様子を、皆が後ろからじっと見守る。男子高校生なんて所詮は猿だな、なんて思いながらリモコンを手にし、何度も見たはずのそれに少しだけ期待に胸を躍らせながら、再生ボタンを押した。まあ俺も大概猿だなと思う。
LOADINGの文字の後。映ったのは、いかにも安っぽいセットの部屋。お決まりの診察台にベッド、それにどこに使うのかさっぱりわからない折り畳みのパーテーションに、こういうビデオでよく見る偽物の観葉植物。今見れば馬鹿っぽく映るそれでも、まだ幼かった自分も当時は期待に目を輝かせていたのだろう。
「え、みんな抜くの?」
「わかんねぇ。状況次第だろ。俺は看護婦長に期待」
「ねぇこれゾンビなの?」
「俺は無理だな。水樹がこれじゃあそれどころじゃないよ」
医者姿の男と看護婦、それに患者らしき男が出てきてチープな診察の演技が始まる。外来患者であろう男はなぜか既に病衣を纏っている。
だがそれ以上に、俺には気になる点があったのだ。
「なんかこの子、君下くんに似てない?」
ぴくり、と肩が跳ねた気がした。が、それを誤魔化すかのように、すぐにソファーの上で身動ぎして体重移動をした。隣には臼井が座っている。暗闇だから顔は見られないとしても、きっと些細なことで臼井には感づかれてしまう。そう思った判断だった。
風間め……今俺が必死に違うことを考えようとしていたのに、まんまと核心を口にするとは。
確かにこの女は、黒髪のショートヘアを外に跳ねさせたような髪型をしていた。背丈は君下よりも随分と小さいものの、切れ長の目は少しだけ目つきがきつくて、上唇がやや尖がってぷっくりと突き出していた。普段であれば最初の小芝居をすっ飛ばして本番から見てしまうのだ、ろくに女優の顔なんて覚えているはずがないことを、今は少しだけ後悔した。
『はぁっ……や、あ、せんせぇ……っ、み、見ないで』
「やべ、お前が変なこと言うから君下先輩に見えるじゃねぇか」
「そう? やっぱ違うわ」
「な、おま……なんて無責任な」
タイトな服を捲し上げられ、患者役に見せつけるようにして股を開かせる医者。なぜこんなシチュエーションになったのかすら、今の俺の頭ではストーリーを拾えなかった。
脳内で響く、甲高い高い声。
ちがう、こいつは君下じゃない。
君下のほうがもっと柔らかくて、肌がきれいで、引き締まっていて、それから、それから……記憶の中の姿を思い出す。ほら、やはりどこも似ていない。君下のほうが、俺にとっては何百倍も魅力的だ。
それなのに、羞恥心を堪えて必死に声を出すまいと我慢する、画面の中の女優の顔から視線を外すことができなかった。
折角客間に布団の用意をしたというのに、結局は俺以外の誰もがリビングから動くことはなかった。
あの後AVに飽きたと言い出した風間が、どこからか持ってきたDVDを流し始めてそのまま映画鑑賞会となった。最近リリースされたらしい地球滅亡系のハリウッド映画や、こんなの良く知っていたなと言いたくなるほど古いSFムービー。結局二本目で俺以外の全員が寝落ちしてしまい、テレビを消して全員分のブランケットをかけて回るという始末だ。俺が他人の世話を焼く日が来るだなんて、夢にも思ってもみなかった。
最悪だ。
いくら新しい映画を見ても、俺の興味がそちらへ向くことはなかった。目を閉じれば、瞼の裏側にこびりついた君下に似た女優の姿。その後にも何人も出てきたのだが、最初のインパクトが強すぎてそれどころじゃない。
正直に言うと、勃起した。クッションで隠してはいたが、俺の熱はそれを見終える最後まで硬いままだった。他の奴らがいて抜くこともできずに、結局はそのまま持ちこたえた。そして皆の世話が終わり、一人自室に戻ると猿みたいに自身を擦りつけた。記憶の中の映像と、現実のあいつを思い出して何度も、何度も。
⌘ ⌘ ⌘
勉強合宿二日目。
どうせ馬鹿共は遅くまで騒いでいたのだろうと予想し、開始を十一時にしようと勝手にこちらで話を進めた。駅前で集合し大柴邸への道のりを歩き、たどり着けば出迎えてくれたのは喜一ではなく姉の美琴だった。
「あ、おはようございます」
「おはようみんな。ごめんね、まだあいつら寝てるみたいなの」
そういう美琴は困ったような笑みを浮かべている。それで中がどうなっているのか大体察しがついた。生方と顔を見合わせて溜息をつけば、さっぱりというような柄本が慌ててキョロキョロと交互に俺たちを見やった。
「み、みなさんおはようございます……」
「うわ、なにこの屍共」
「生方、片っ端から叩き起こすぞ」
リビングのドアを開けると、まず目に入ったのは屍の如く眠る男たち。丸めて放られたブランケットに、テーブルの上に散乱するスナック類、使いっぱなしでジュースの色の染み付いたグラスまである始末だ。あのミスター聖蹟とも呼び声の高い臼井ですら、ソファーに横たえて綺麗な寝顔で眠っていた。
俺たちが起こしに回っている間、柄本はブランケットをきれいに畳んで部屋の隅へと集める。流石は家事を手伝っているだけあるな、と少しだけ関心をした。
「ふぁ……おはようマナミちゃん」
「誰だよその女」
いつの間に合流したのだろうか、風間の襟元を掴んで揺さぶれば、シャツが伸びただけで肝心の本人には全く起きる気配がない。それどころか全く知らない女の名で呼ばれた。呆れて言葉が出ないでいると、後ろから生方の見事な回し蹴りが飛んできて、風間の脇腹へとめり込んだ。
「うぐっ……これは、貧乳だな」
「誰が貧乳だ、ああ?」
サッカーには使えないが、なかなかいい蹴りだ。ぐりぐりと足の甲を骨の間にめり込ませようと回す姿に、聖蹟の未来は明るいなと勝手に思った。
「あれ? そういえば大柴先輩はいないんですか?」
洗い物を回収している柄本が急に声を上げた。そう言われれば、たしかに今朝は喜一の顔をまだ見ていない。あいつのことだ、雑魚寝などできん! などとぬかして一人キングベッド���ある自室へと籠っているに違いない。
「ああ、そういえばそうだな」
「臼井先輩! お早うございます」
「おはよう」
いつの間にか起きて着替えを済ませたらしい臼井がキッチンへと向かった。急いでいたのか、後頭部のほうが一束だけまだ寝ぐせがついたままだ。奥で冷蔵庫から牛乳を漁っている水樹キャプテンの姿も見える。
「そうだな、柄本は俺と朝食の準備……いや、この時間ならブランチかな。生方に片付けは任せて、君下は大柴を探してきてくれ」
「あ? いや、男の部屋に俺が行くのは」
「だがお前しか、この家の間取りが分からないんだ。ただ起こすだけでいい。行ってくれるか?」
臼井がそう言うと、一瞬、新戸部がなにか言いたそうな顔をしたが、臼井が目で何かを言ったらしく大人しく口を閉ざした。いつもに増して柔らかな臼井の笑みも怪しい。なんだかそれが気に食わなかったが、どうやったってこの場の誰もが喜一を起こしに行く気はないらしい。
ただ起こしに行くだけだ。ここまで言われて断る理由もないし、さっさと行って帰ってくればいいだけの話だ。
「い、行けばいいんだろ、行けば!」
「ああ、頼んだよ。そうだ、今朝はパンケーキだけど、君下もどうかな?」
パンケーキというお洒落な言葉に、一瞬心が揺らぐ。朝食はいつも通り食べてはきたが、もう昼も近かった。
それに皆に言ってはいないが、俺は甘いものに目がない。たまになら自分で作ったりもするが、人の作ったスイーツはなぜだか妙に美味しいものだ。違うからな、俺は決して食べ物なんかで釣られたりはしねぇぞ。頬が緩みそうになるのを堪えて小さく呟く。
「……食う。いちごも、欲しい」
「はは、わかったよ。買ってこよう」
ぺた、ぺた、と音を立てながら、半螺旋の階段を上ってゆく。見慣れた階段のはずなのにどうしてだろう、今はやけに長い道のりに感じた。
頭の中では昨日の臼井の言葉がリフレクションする。
『マネージャーのお前にもう少し気持ちの面でもコントロールしてやって欲しい』
あれから家に帰ってからも、この言葉の意味を考えていた。
臼井の性格から考えれば、単に選手のモチベーションを上げるような言葉をかけるだとか、そういう次元の話をしているわけではなさそうだ。俺が思うに恐らく臼井が言いたいのは、今回の喜一が変なのは、俺との不仲が原因なんじゃないかということだ。今は特に大きな試合前ではないからいいものの、これが選手権の前だとチーム全体の迷惑となる、とでも言いたいのだろう。
だがどうしろというのだ。もしこの場を、喜一との仲直りの場だとして提供されたとしても、それでは根本的な問題の解決とは言えないだろう。それに喜一とは今までいろんなことがあったが、俺もあいつもいつも肝心なことは何一つ言わないのだ。本当は自分でもわかっている。俺の憧れが、この関係が壊れるのが嫌で、俺は自分の気持ちに正直になりきれていないことを。
コンコン、
深いブラウンの大きな扉をノックしてみるが、思った通り返事はない。
臼井の言う通り、この家のドアはどれも同じ形と色をしていて、おまけによくある下げ札などされていないので見分けがつかない。この家には何度も来たことはあったが、部屋に入ったのは果たしていつぶりだろうか。変わっていなければ、今立っている目の前のこのドアの向こうのはず。
「おーい、喜一」
斜め向かいの部屋は確か、姉の美琴の部屋だった。闇雲に廊下で叫んでも迷惑になるだけだ。それにこれだけノックして起きないのなら、外から何を言おうが無駄だろう。
意を決してドアノブに手を駆ければ、がちゃり、と音を立てて重く高級感のあるドアが開いた。
「うわ、相変わらず汚ねぇ部屋だな」
そこはゴミというゴミはないものの、溢れかえった物が散乱して十分な足の踏み場が確保できなかった。スリッパを履いたつま先で軽く避け、一人が通れるぐらいの道を作りながら歩き進める。昨日喜一が歩きながら読んでいたドリルも、足元に転がっていた。
恐る恐るベッドのほうへ近づいた。ブランケットを頭まで被った大きな塊は、ぐうぐうと音を立てて規則正しく上下に動いている。デカい芋虫め。声をかけるも反応がない。それどころか俺の声が鼾にかき消されているほどに、こいつは熟睡しているようだった。昨夜は相当遅くまで起きていたのだろう。
「おい、起きろ馬鹿」
「……」
強めに揺するが、風間同様になかなか意識は戻って来ない。無駄にデカいベッドの端っこで寝ているので、力を入れようにも腕が届かない。片膝だけ乗り上げていたのを今度は完全にベッドに乗り上げて、おまけにブランケットもめくって耳元で大声で喋ってやった。
「おい! いつまで寝てんだボケ!」
「ウっ……るせぇー」
鼓膜に響いたのか、肩眉を上げて顔を歪める喜一。ざまあ見やがれ。
喜一はいつも寝起きが悪い。低血圧なのか知らないが、意識が戻ってから動き出すまでにかなり時間がかかる。とりあえず反応はあったことだし、あとはこいつのお粗末な脳が起きるまでここで待つのみだ。己の身体を反転させ、大きな身体を背もたれ代わりにして座り、そこら中に散らばるものを積み上げてタワーを作っていた。
「何でこんなに物があるのに、こいつの部屋には収納がないんだ。無駄にお洒落にしやがって、デザイナーの設計ミスだろ」
ブツブツ文句を言いながら偶然手にしたのは、ナースの格好をした女が映るDVDのパッケージ。その姿に医療関係の何かかと思い、ろくに見もせずにタワーの一番上に重ねた。
「は? いやいやいや……」
そもそもいくら医者の息子だからって、喜一の部屋に医療関係のDVDなんてあるわけがない。ここに腐るほど積んでいるサッカー関連のものならまだわかるが、それ以外に興味を示したことが今まであっただろうか。不審に思い、もう一度それを手に取って裏を見れば、どうやら様子が違うことはすぐに分かった。
ナースの格好はしてはいるが、靴下が腿の上まであったり、下着が丸見えだったりと如何わしいものばかりだ。それに誰のか分からない性器にモザイクがかけて映っている。
うわ、こいつ、こんなのが趣味だったのかよ! 見慣れないものに思わず視線が釘付けになっていると、後ろから伸びていた逞しい腕に気が付かなかった。
「おわっ?!」
もぞもぞと起きていた喜一に、アダルトなパッケージに夢中になっていたところを後ろから抱き竦められた。ちょうど腹のあたりを太い腕に巻き付かれ、ブランケットの中に招き入れらる。ふわり、と鼻腔をくすぐる喜一の匂い。もう一年も前になるあの合宿の日も、こうやって同じベッドで抱きしめられていたことを思い出した。
「ちょっ、喜一!」
「うるせぇな、耳元で叫びやがって」
「やめ、耳元でっ……しゃべん、なァ!」
背中を丸めて距離を縮めた喜一の、熱い吐息が耳元にかかる。仕返しなのだろうか、だが喜一は絶対にわざとやってやがる。避けようと首を竦めるが、大きな体にホールドされて身動きが取れない。寝起きの余計に低い声が直接鼓膜へと響き、腹の奥がじんわりと痺れる感覚がした。びりびりと震える肩。な、なんだこれは。
「何見てたんだ?」
「べ、べつに……あっちょっと!」
するり、と大きな手が伸びて、俺が左手に握っていたDVDを取り上げた。こんなものを異性の幼馴染に見つかるだなんて、俺は被害者じゃないが、俺だったら絶対に御免だった。
それに、その、なんというか……さっきから俺の尻のあたりに、喜一のモノが当たっている……気がする。朝だしこれが生理現象気なのは、保健体育の授業で習っていて頭では理解してはいる。だがこの状況では、それとは違う気まずい空気が流れる。
パッケージをじいっと見つめる喜一は黙りこくっていた。やばい、流石に怒っただろうか。
「……」
「えっと、き、喜一」
「あーやべぇわ、思い出しちまった」
「え?」
そう呟く前に、俺の唇は喜一の熱い唇で塞がれていた。
⌘ ⌘ ⌘
眠りにつけないまま朝日を拝み、気がつけば心地の良い微睡みの中にいて——
ああ愛しい声がする。
俺の名を呼ぶ、愛しい声が……。
「おい! いつまで寝てんだボケ!」
「ウっ……るせぇー」
ゆさゆさと身体を揺さぶられ、誰かが俺の睡眠を邪魔しようとしている。寝不足の脳にはまだ酸素が行き渡らない。鼓膜の強く震える感覚。ったく、誰だよこんな人の耳元で叫ぶバカは。
被っていたはずのブランケットは首元まで引きずり降ろされ、閉じた瞼越しに太陽の光を感じた。眉間に皺を寄せていると俺を掴んでいた手が離れ、代わりに脇腹のあたりに寄りかかる一人分の体温。ひどく懐かしく、そしてあたたかい。次第に頭が働き始めると、俺様をソファ代わりに凭れている女のぶつくさ言う小言が聞こえてくる。聞こえてくるのは君下の声だけで、コイツ以外はこの部屋には誰もいなようだ。そうか、それならいいだろう。
「おわっ?!」
腕を伸ばして抱き寄せれば、何かに夢中だったらしく驚いたのかヘンな声がした。相変わらず可愛げねぇな。細身の身体をしっかり抱え、ブランケットの中まで引き込めば抵抗はしなかった。黒髪に鼻を埋めると、ほのかに感じるいつもの君下の香り。最近はこうやって触れることもなかったので、随分と久しぶりに感じる。そういえば、俺が合宿で同じようなことしたのも、もうそろそろ一年前になるんだな。
「ちょっ、喜一!」
「うるせぇな、耳元で叫びやがって」
「やめ、耳元でっ……しゃべん、なァ!」
仕返しとばかりに、身体を曲げて耳元で話しかけた。とびっきり低い、甘い声を出して。それに身体が反応したのか、震えるように絞り出された抵抗する気のないような声。
あーかわいい。お前はそうやって素直にしてりゃ、他の女なんか目に入らないほどに可愛いのに。きっと今さえも顔を真っ赤にして、涙目を必死にこらえているのであろう。
ふと見やれば、ブランケットの端からはみ出ている、小さな手に握られたパッケージ。なんとなく嫌な予感がしてそれを奪い取ろうと手を伸ばす。
「何見てたんだ?」
「べ、べつに……あっちょっと!」
軽々と取り上げたそれを見て、一瞬息をのんだ。昨夜リビングの大画面で、皆でで見ていたナースもののDVD。その中に出てくる君下に似た女優。そして風間が何気なく言ったあの一言。そしてそれをオカズにして猿のように抜いてしまったことも全部。
「……」
「えっと、き、喜一」
「あーやべぇわ、思い出しちまった」
全部、思い出してしまった。
「んっ……!」
気が付けば、目の前のその唇を塞いでいた。
あの日以来、見ないようにしていたふっくらとした唇。薄く開かれたそれに視線が釘付けになり、こくり、と俺の喉仏が動くと同時に頭の中の何かが切れる音がした。
少し驚いたように見開かれた瞳と、至近距離で視線が合う。相変わらず抵抗はない。舌なめずりをするように君下の下唇を舐めてやれば、ほんの少しだけ開かれたその隙間にぬるりと舌を滑り込ませた。
「ん、んああっ……だめ、」
流石にがっつき過ぎたのか、顔をぷい、と逸らせて絡めていた舌を避けられてしまった。伏せられた睫毛には心なしか涙の雫がついているように見える。
果たして本当に嫌だったのだろうか。君下が強く握りしめているシャツの下、俺の心臓のあたりが少しだけ痛い。
「今更ダメって、夜這いしてきたのはどっちだよ」
「はあ? なんだよ夜這いって……それにもう昼前だぞ」
「関係ねぇ」
そう言��てそっぽを向く小さな顎を掴んで、こちらへと向けさせる。涙で潤んだ瞳に、ほんのり赤い目尻。唇は俺の唾液で艶めかしく光っている。寝起きだということもあり、すっかり硬くなっている下半身を擦るように君下に押し付ければ、不安気に瞳が揺れる。
チッ。君下でもないのに、俺の口から思わず舌打ちが漏れた。
「あーやめた。お前にそんな顔されちゃ、こっちは何にもできねぇよ」
「えっ」
解放してごろり、と君下に背を向けて横になった。胸のあたりまで落ちていたブランケットを再度引っ張って頭の上まで被る。やってらんねぇ。なんだよ、お前から来たくせに、あんな不安そうな顔しやがって。やっぱり俺じゃ嫌だってことかよ。
「風間には触らせたんだろ」
「な……」
「あいつは良くて、俺はダメなのかよ」
ああ嫉妬とは、なんて醜いものだろう。そんなこともお構いなしに感情に流されるまま、腹の底から出た低い声で問う。
そうだ、俺は風間やキャプテンに嫉妬している。自分の気持ちに気付いていながら、それをどうしたってうまく伝えられずにいて。月日だけが延々と流れてゆき、それでいて他の男たちに絡まれる君下に、俺は焦っていたのかもしれない。
結局は一年前から何ら変わっていないのだ。ふて寝した俺の背の後ろ側で、突き放された君下が今どんな顔をしているのか知る術もなかった。
「なんだよそれ。お前、本っっ当に馬鹿じゃねぇの」
地の割れそうなほどの低い声が鼓膜に響いた。馬鹿という、今はもう聞き慣れた言葉にピクリと身体が反応したが、何も言い返す気になれなかった。というよりも、何も言えないほどにその低い声に恐怖している自分がいた。
「お前、昔から語彙が足りなすぎるんだよ。風間がどうとか、そんなのは今はどうでもいい。俺はお前の気持ち一つすら聞かされずに、こ、こんな事されんのかよ」
背中に痛いほど刺さる、君下の言葉。
ああそうだ。確かに俺たちには圧倒的に言葉が足りない。長い年月を共に過ごしているうちに、知らないことが知っていることよりも少なくなってしまったのも事実だ。何も言わずに傍に居れる関係でも、言わなきゃ分からないこともある。たとえば、この話だってそうだ。
「なんだよそれ……お前だって何にも言わねぇじゃねぇかよ! あの日だって普通にキスも受け入れるし、俺はその気があるんだと……そしたら来須には跨るし、風間には身体触らせるし……俺の勘違いだったんじゃねぇかって思うと」
言い終える前に、気持ちが先に走り出した。言葉にしながら勢いよく振り返れば、タイミングよく飛びついてきた君下の唇と俺の唇がぶつかった。がり、と歯のぶつかった、色気のない接吻。その痛みさえも全て包み込むように、君下の身体へと腕を回して唇を貪った。
「ふっ、ん……敦、あつし……好きだ、すき」
「ん、あっ、いま、しゃべんな……ばーか」
一瞬、お互いの視線が絡み合い、ふふ、と笑いが漏れる。
ああ、さようなら。俺の殺して埋めてきた初恋も、いまは温かな太陽の下、こうして二人でくだらない事として笑いあえるのだから、きっと少しは救われるだろう。再び口づけを落とせば、示し合わせたかのようにそっと瞼を閉じた。
「あ、まって、おい敦……んっ」
「はッ……もう、待たねぇよ……っ」
「ちょ、あっ……ほんとに、待てって!」
「あ?」
先程までの恥じらいが嘘のように、積極的に舌を入れてくる君下を制した。俺の理性がなくならないうちに引き剥がせば、とろん、と蕩けさせた瞳を不思議そうに潤ませてこちらを見ている。少し折れかかっていた己の熱がぐんと質量を増すのを感じながら、小さく苦笑いした。
「俺、まだ肝心なこと聞いてないんだけど」
「へ……?」
わけが分からないという顔を向けてくるが、俺は騙されない。今日こそは絶対に吐かせるという意気込みを込めて、座りなおした胡坐の上に君下の身体を持ち上げて乗せる。いつもは身長差のせいでちぐはぐな視線だが、こうして座ればもっと近づけるし、何より今は同じ目線の高さに君下の瞳がある。真っすぐにその瞳を見つめると、心当たりがあったのか少しだけ視線を逸らされた……ような気がする。
「お前は俺のこと、その……どうなんだよ」
「まさかここまでさせといてわざわざ言わせるのかよ」
「俺だけ言うのはずるい」
なあ、と顔を突き出せば、君下の上半身は少しだけ後ろに仰け反った。手で支えてやれば、俺の前に胸を突き出すような体勢になる。なるほどな、確かに風間が言う通り、思ったより君下の胸は大きいようだ。まるい弧を描く双丘のあいだに、ぽふ、と顎を乗せてやれば、やわらかな感触が当たる。
「へんたい」
「もう俺のだ、何とでも言え。それで?」
「う……」
抱きしめる腕に力を籠める。どこにも逃げ場なんて今更ないっていうのに、それでもささやかな抵抗をしようとする腕の中の存在が愛しくてたまらない。寝起きでボサボサであろう俺の髪をいじりながら、気を逸らそうとしたって無駄だ。もうこの手は放してやらないのだから。
「キスしてくれたら、教えてやってもいい」
彼女いない歴十七年に別れを告げるのは、どうやらキスのあとらしい。
⌘ ⌘ ⌘
「好き……俺はずっと、喜一のこと、好きだった」
言葉にすれば、それはあっという間に空中に消えてしまいそうで。少し泣きそうになりながら、俺はありのままの気持ちを正直に告白した。ばくばくとうるさい心臓が、ぎゅう、と締め付けられたように苦しく、切ない。これがきっと、恋をしているということなのだろう。
「んっ……すき、きいち……んん、すき」
好きという気持ちと共に、ぼろぼろと溢れて止まらない涙。頬がつめたく濡れるのも構わずに、俺は夢中で喜一の唇に吸い付いた。この胸を渦巻く気持ちを表すのに、言葉だけじゃ本当はちっとも足りていない。唇から唇へと、想いがそのまま伝わればいいのに、なんて。非科学的なことを考えてしまうほどには、今の俺には余裕なんてなかった。
「ん、分かったから、泣くなって」
「あっ……ばかぁ、すき、だから……っ」
熱い指先が俺の頬を撫でた。涙を擦り付けるように何度か軽くこすり、そのまま指は滑り俺の唇へと差し込まれる。しょっぱいのは、涙の味なのか。舌でしゃぶっていると、喜一の顔が近づき、涙を拭うようにべろりと頬が舐め上げられた。
「ふふ、犬みたい。バカ犬」
「うるせぇ。バカだとか好きだとか、忙しい女だな」
再び唇に口づけられる。何度も、何度も角度を変えて重なる唇。気持ちいい。触れるたびに、甘く切ない痺れが下腹部に集まる。もっと、もっと欲しい。胡坐をかいた喜一の上に跨っていることも忘れて、快楽に任せて下半身を擦り付けようと勝手に腰が動いた。いつのまにか、涙は止まって頬は乾いていた。
「うわ、やらしー」
喜一のとびきり低い声が、耳元で鼓膜をびりびりと揺らす。こいつ、わかっててやっているのだろうか。煽られているようでそれが余計に興奮させる。再び口付けながら、喜一の逞しい首に両腕を回せばそのまま後ろへと押し倒された。背中に触れた、やわらかなクッションの感覚。見上げれば、そこには余裕のなさそうな顔をした、俺の愛しい人。真っすぐと俺を見つめるその瞳は熱を帯びていて、まるで獲物を狙う獣のようにぎらついていた。
ああ俺はこの男に、今から抱かれるのだ。
⌘ ⌘ ⌘
「ん、はぁ、ああ……っ、あ、あ」
「敦、好きだ……すき、ん、っ」
お互いの唾液で柔らかくなった唇を吸い続ければ、敦のブラウンの瞳はどろどろに溶けきったようだった。時折秘部を擦り付けるかのように揺れる腰が、気持ちがいいと訴えているようで。焦る気持ちを抑えようにも、俺の理性だってもうギリギリだった。快楽に溺れそうな好きな女を目の前にして、それはいつ切れてもおかしくはない。
唇を味わいながら、震える指で胸の前のボタンを外してゆく。センスのない星柄のブラウスも、今はもう目に入らない。それにどんなにダサい服を着ていようが、脱がしてしまえば同じことだ。
「あ……やだ、恥ずかしいから……」
すべて外し終えれば、真っ白な日焼けしていない肌があらわれた。真っ先に視線が行くのは、風間の言う通り着痩せするタイプらしい豊満な胸。やわらかそうな双丘を包む下着まで柄物かと思いきや、意外にも黒のレースのついたシンプルなものだった。敦の白い肌によく映える。やっぱり黒の下着ってエロいな。それにしても。
「なんか、アレだな。窮屈そうだな」
「あ、いや……それは最近急にデカくなってきて……」
「まさか買い替えてねぇっていうのか」
両腕で顔を隠されて表情が見えないが、恐らくは当たりだろう。今度なにかのタイミングでちゃんと敦に合ったサイズの下着でもプレゼントしてやろう、と頭の隅で考えつつ、背中に腕をまわしてパチン、とホックを外した。
「あっ」
意外にも簡単に外れたホックに、俺は内心で少しだけ安堵した。緩んだ布を剥ぎ取るようにして敦の腕から引き抜けば、今度は両手で大きな胸を抱えて隠していた。
「なんで隠すんだよ」
「……恥ずかしい」
「全部、見せろよ。俺はお前を……敦を俺だけのものにしたい」
そう言えば、顔を真っ赤にしてそっぽを向く敦。……そりゃそうだよな、つい最近まで女であることを誰にも見せたくなかったのだ。ここまでしておいて、俺は急に冷静になりはじめていた。
何を急いでいるのだろう。まだやっと、お互いの気持ちに気付き合えたばかりではないか。こいつを誰にもとられたくなくて、それで必死になって心だけでなく、身体まで手に入れようとして。頭は冷静でも、俺の下半身は今にも射精してしまいそうなほどに張りつめていた。それが情けなくて鼻で笑って誤魔化すことしかできない。
「悪い……こんなことするの、俺たちにはまだ早すぎたよな……」
「ちが、っ……そうじゃない」
「敦?」
声は震えて泣き出しそうだったが、未だ横を向く顔から表情は読み取れない。焦らずに、敦が自分から口を開くのを待とう。そう決めて、敦に覆いかぶさっていた身体を避けようとすれば、胸を隠していた腕を解いて両手で顔を挟まれた。少しだけ潤んだ瞳とまっすぐぶつかる視線。
「……」
「俺も、お前に全部見て欲しい。全部だ。お前だけの女にして欲しい……」
「敦……」
そう言って今度は、俺の手を取り敦の心臓のあたりへと触れさせた。手のひらから伝わる、とく、とく、と波打つ心臓の音。ああこいつも俺と同じで、緊張しているんだな、なんて当たり前のことをぼんやりと思った。
「嫌だったらすぐ言えよ?」
それが今できる、俺がこいつにしてやれる精一杯の優しさだった。
⌘ ⌘ ⌘
恐る恐る自分の身体に触れる喜一を見るのは、なんだかとても新鮮だった。
壊れ物を触るかのようにやさしい指先は、普段のガサツなあの喜一とは思えないほどに丁寧で、俺を怖がらせないように気遣ってくれているのだと感じた。両手で包むように双丘に触れられ、なんだかふわふわした気持ちになる。感触を確かめるかのように何度も揉む姿に、ああこいつも初めてなのだなと確信を強めた。
そう思うと急に愛おしくなって、喜一の首に腕を回して手繰り寄せ、半開きの間抜けな唇にキスを落とす。ちゅ、ちゅ、と短いリップ音をわざと立てて、何度も啄ばむように唇を咥えた。
「ん、ああっ……それ、だめぇ……っ」
「あ、ダメか?」
「やぁ、ちが……」
キスに気を取られていると、やわやわと触られていただけの胸の頂を喜一の指が引っ掻いた。思わずビクリ、と腰が跳ね、喘ぎ声のようなもの��漏れてしまった。下着がまた濡れたのが分かる。とっさにダメとは言ったものの、そこはどちらかと言えば気持ちよくてダメ、なのだ。
「ここ、気持ちいいんだろ?」
「ひっんぅ……」
にやり、と笑った喜一は、今度はそこを親指の腹で押すように擦ってきた。わざとらしく耳元で囁く声が余計に子宮に響く。背を仰け反れば、余計に胸を突き出すような形になった。その反応に満足したかの様子の喜一は、顔を近づけて赤い舌先でその飾りを舐め上げた。
「ひぁっ! き、ちぃ……」
舌先を尖らせ何度も執拗に転がされれば、徐々にそこは色を濃くして勃ちあがる。ぷくり、と存在を主張する乳首に吸い付き、きつく吸われると背筋をあまい電流が走り抜けた。
「お前、ちょっと感度良すぎるんじゃねぇ? こんなエロい体して、今更やめる気なかっただろ」
「んぁ、あ……喋ら、ないでぇ……」
敏感になったそこは僅かな吐息にさえ反応する。羞恥と快感で頭がおかしくなりそうだ。喜一は右胸だけを、子供のように吸い付いたり、まるで俺にその様を見せつけるかのように舌で転がしてみせる。左は大きな右手で揉みながら中心を撫でまわされている。じわり、と濡れる下半身がより一層主張するかのように動いた。
もう我慢できない。このむず痒い欲を解放したくて仕方がない。早く、はやく。
「きぃち……っ、もう、やめてぇ……」
「あ?気持ちいのに?」
「ちが……! もう、ほ……欲し、いからっ……ん」
「何を?」
「へ……?」
一瞬、力が抜けてしまった。
欲しい。言葉だけではなく、先ほどから全身でそう言っているのに。
先程まであんなに余裕がなさそうだったのに、今は俺の胸をしゃぶりながらにやにやとたくらみ顔でいる。どうやらこいつはすっとぼけたふりをして、俺に言葉で言わせたいらしい。急に絶望感が込み上げる。なんて言えば満足してくれるだろうか。なんて言えば、喜一の欲しがっている言葉を伝えられるだろうか。
「あ……ぅっ、きーち、」
「ここ、触ってほしいのか?」
「んああっ」
股の間に、硬い何かが押し付けられた。それが喜一の勃起したペニスだということに気付いたのは少し遅れてからであった。スカートは押し倒されたときに既にめくれていて、秘部は実質下着のみを纏った状態だ。薄い布越しに押し付けられる、スウェット越しでも十分に硬いとわかるペニス。大きくグラインドするように押し付けられ、ちょうど気持ちの良いところを引っ掻かれて、切ない声が零れ落ちる。
「あ、そこっ……きもち、ぁあっ……んんん」
「触っていい?」
「あぅ……ん、はやくぅ」
どっちか分かんねぇじゃん。そう言いながらも右手は胸から離れ、指はショーツ越しの濡れた割れ目をなぞり上げた。背中を駆け上がる快感に、腰をガタガタと揺らして堪えようとした。指の腹で割れ目を何度も往復され、その度に陰核への甘い刺激が与えられる。
「ずっげぇ濡れてる……そんなにここで感じてたのか? それとも、キスから?」
視線をこちらに合わせたまま、ちゅ、と軽く乳首にキスを落とす。ああはやく、俺は目の前のこいつが欲しいのに。もどかしい気持ちをどうにもできなくて、堪えきれずに喜一の襟足を握りしめていた手を腹のほうへと伸ばした。
「わっ……敦?」
「俺も、喜一のに触りたい……これ、」
「え……いや、俺のはいいって……うっ」
喜一の硬くなったそれに指先が触れれば、スウェットの中で一瞬、ピクリと跳ねるのがわかった。かたちを探るように手のひらでなぞるそれは、びっくりするほど熱かった。返事も聞かないまま下着ごとずるり、と下ろすと、喜一の勃起したペニスが勢いよく飛び出した。そこまでしてようやく腹を括ったらしい喜一は、俺の上から動くと膝立ちになって手招きをする。
「無理してんじゃねぇよな」
「してない。俺だって、お前に気持ちよくなって欲しい……」
顔を赤らめながら正直な気持ちを言葉にすれば、伝わったのか喜一の頬も少しだけ紅潮しているようだった。なんだかそれが嬉しくて、喜一の見ていないところで俺の膣がきゅう、と切なげに締まるのを感じていた。
⌘ ⌘ ⌘
「きもちい?」
「……っ、ああ……」
敦の細い指が竿に絡みつき、拙い動きで上下に擦れば俺の口からも自然と声が漏れた。
気持ちいい。初めての、しかも好きな女とのセックスで興奮していないわけがない。正直キスだけでもやばかったというのに、まさか、敦が俺のモノを触りたいと言い出したときには気を失いそうになってしまった。不安げにこちらを伺いながら、一生懸命に俺のイチモツを握る姿に眩暈がする。
「ひぇっ?! ちょっ、喜一! 何触って……んん、」
「折角だから一緒に気持ちよくなりてぇだろ?」
「ばかぁ……っん」
俺だけやられっぱなしってのも性に合わない。前かがみになっていた敦の尻に指を這わせて、未だ脱がせていない下着の隙間から指を差し込んだ。濡れているそこをさらに滑らせ、指先は勃起した陰核を捉える。やさしく擦れば敦は背を跳ねさせて反応した。
「それ、だめぇ、ヘンに、なっちゃうぅ……」
濡れた声が余計に股間に響く。秘部への刺激に敦の手は先程から止まっていた。
「ほら、手、止まってるぜ」
もう一方の手で敦の手ごと竿を握って、上下に動かしアシストしてやる。根元から絞るように裏筋を擦り上げ、亀頭をぐりぐりと撫でまわせばすぐにでも達してしまいそうだった。もう我慢できない。これ以上耐えていると俺のほうが気が狂いそうだ。このまま擦って先に一発出してもいいかもしれない。手の動きを速めて、込み上げる射精感に堪えていると、亀頭を生暖かいものが包んだ。
「え? あ、敦?」
「ひかえひ」
俺は思わず両方の手の動きを止めてしまった。モゴモゴと喋る敦は、俺のペニスを頬張っていた。亀頭にぱくりと吸い付き、溢れ出た先走りを拭うように割れ目に舌を這わせられる。それだけでも今にも射精してしまいそうだというのに、さらに咥えられない部分を小さな両手で挟むようにして擦り上げられた。
チクショウ、こんなのどこで覚えて来るんだよ。不意打ちのフェラチオに、俺のペニスはこれ以上持ちそうにはない。
「やべ、敦、はなせ……!」
「ん、んぐっ……やらぁ、あ、んん、」
「くっ!」
目の前の艶のある黒髪を握りしめれば、敦は俺の言うことに反してペニスを喉の奥まで飲み込んだ。全部は入らなかったがやわらかな上顎の先は狭く締まっていて、亀頭へ刺激を与えるのには十分だった。
あ、もう出る。そう思った時には既に射精は始まっていて、慌てて引き抜こうもぴっちりと締まった喉から引き抜くのは容易ではない。結局そのまま敦の咥内で射精し、喉の奥に勢いよく出た精液に、敦の綺麗な顔が歪められた。
「っふ、ゲホッ、ゲホっ……んん」
「すまん……出してくれ」
「……」
口元を両手で押さえ、目尻に涙を浮かべた敦は無言でふるふると頭を振った。
どうしたのだろう。俺の前で吐き出すことが恥ずかしいのだろうか。少し硬度をなくした己の息子と同様に不安げに見つめていると、しばらくしてこくり、と白い喉が動いた。
「え、まさか、飲んだ?」
「ん」
「俺の精子を……?」
「何回も言うな、ばか」
なんだろう、この胸の内を満たす満足感は。涙目でこちらを見つめる小さな存在がどうしようもなく愛おしい。抱き寄せて、敦の濡れた唇へと口づけた。俺の精子がついていようが構わない。もう一度、もう一度と、触れた唇からびりびりと小さなあまい電流が走る。唇を挟んで、吸って、内側を舐めるように舌でなぞれば、俺の下半身はすぐさま元気を取り戻した。溶けだしそうな瞳に見つめられて、俺の理性ももう消えてしまったと悟る。
「きーち……?」
キスをしたままその小さな体を押し倒して、俺は着ていたパーカーを乱暴に脱ぎ捨てた。
⌘ ⌘ ⌘
薄暗い部屋に、喜一の半裸が晒される。昔から見ているというのに、いつのまにかほどよい筋肉がついた男らしい身体に思わず見とれてしまった。
「何見てんだよ……俺の裸なんて、今更だろ」
「ん、でも、トレーニングサボってる割には、いい身体してるよな」
「それ、褒めてんのか」
真っ赤な髪が近づいてきて、ちゅ、と鼻先にキスが落とされた。ふわり、と香る、喜一の匂い。そういえば、香水とか使っているのかな。だが思い返せば、出会った時から喜一はこんな匂いがしていた。清潔感があるすっきりとした匂いなのに、それでいてどこか甘い香りがする、不思議な匂い。この部屋だって、喜一の甘い匂いで充満している。先程から握りしめているこのブランケットも、枕も、全部喜一の香りだ。
「あっ……ん、やだ、そこばっか……!」
「じゃあどこがいいんだよ」
ここか? そう耳元で囁かれて、ぞくぞくと鳥肌が立った。欲しいと思った場所を、喜一の指が的確に掠める。堪らずに震えながらも漏れる吐息。ああはやく、はやくお前のすべてが欲しい。
「もうぐちゃぐちゃだな……ここも、全部」
いつの間にか下着は剥ぎ取られ、俺の右足に引っかかったままになっていた。喜一の長い指が割れ目をなぞり、そのうちの一本が体内へと侵入してくる。身体を割られるはじめての感覚に、目尻に生理的な涙が浮かんだ。
「痛いか?」
「んん、痛くない、けど……なんか、へん」
「じゃあ泣くな。痛かったらすぐ言えよ」
ちゅ、と落とされる眉間へのキスに、少しだけ緊張が和らいだ。それを見計らったかのように、狭い中を引っ掻きながら指はさらに奥へと進む。腹側を擦りながらゆっくりと出し入れされれば、むず痒いようなもどかしい感覚に襲われて、自然と腰が前後に動いてしまう。もうとっくに我慢なんてできなくなっている。喉の奥に絡まっている、喜一の精子の味を思い出しながら、これから起こることに期待して淫らな姿を晒しているのだから。
「腰、揺れてる」
「ぁ……もっと、欲しい、きーち……」
「もうちょっと待っていろ」
指をもう一本増やされて、さらにもう一方の手で陰核を触れられれば、抑えていた声は自ずと漏れてしまう。
気持ちいい。遠くでじゅぷ、じゅぷと膣がかき乱される音がする。羞恥と快感で頭がどうにかなってしまいそうだ。腹の奥がきゅう、と収縮するのを感じる。もっと奥まで欲しい。もっと、もっと。
「あっあっんん、ん、きいち、き、ぁあっ……あ、」
「敦……もう我慢できねぇ」
「ん、おれ、も……」
ちゅぷ、と音を立てて、指は勢いよく引き抜かれた。圧迫感がなくなったそこは物寂しさだけが残り、余計に切ない気持ちにさせた。俺の愛液がたっぷりと絡みついたその指を舐めながら、喜一はあたりをきょろきょろと見回してある一点で視線を止めた。ほとんど物置と化した学習机の二番目の引き出しの中、いつも使っているブランド物の財布を取り出すと、その中から見慣れないパッケージを取り出した。
銀色の包みをしたそれの端っこを口で咥え、びり、とパッケージを引き裂くと、中に入っていたゴム製のものを手にする。反対の手で喜一の反り返ったペニスを何度か扱き、スキンを亀頭にぴたりと貼り付けた。
なんだこいつ、思ったより手慣れてるな。一連の流れをあっという間にやり終えたのをぼんやりと眺めながら、ちょっとした嫉妬心が芽生えた。何度か入り口のあたりをなぞられ、ぴたり、と膣口に亀頭が宛がわれる。
「挿れるぞ」
だがそれ以上の思考は許されなかった。次の瞬間、喜一の大きなペニスがゆっくりと侵入してきて、裂けるような痛みが下半身を襲った。
「いっ……ぁ、痛ぁ、ん、」
「ごめん、ごめんな、敦」
「だ、大丈夫、だからぁ……全部、ちょうだ……ああっ!」
全部言い終える前に、喜一の腰はぐん、と奥まで突き進み、俺の膣は喜一のモノでいっぱいになった。痛くて苦しくて息ができないほどだったが、やっと大好きな喜一と繋がれたことがそれ以上に嬉しくて。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざりあって、悲しくなんてないのに、自然と涙が次から次へと零れ落ちた。
「ごめん、敦……痛いよな」
どうやら俺が痛くて泣いていると勘違いしたらしい。喜一が心配そうに、俺の頭を優しく撫でた。普段はちっとも気を遣えない馬鹿が、こんなときだけ優しかったりするのはずるすぎる。ちょっとだけ悔しくて、意地悪を言ってやりたい気持ちになる。
「すっげぇ痛い。ばか。デカすぎるんだよ、ばか」
「わ、悪かったなデカくて」
「ばか、すき。だいすき……」
喜一の首に両腕を回して引き寄せると、自分から口づけをした。ああ愛おしい。
やっと気持ちが通じ合えて、そして体まで繋がって。まるで心まで通ったような気持ちになるのは気のせいだろうか。ゴム越しにはじめて感じる喜一のペニスは、驚くほどかたくて、そして熱かった。
⌘ ⌘ ⌘
「ん、っあ、あっ、あっ、んぅ、きーち、ぃ」
止まんねぇ。止められねぇ。敦に負担を掛けたくないと頭では分かっているのに、動く腰を止めることができなかった。
やっとの思いで繋がった身体は、思っていた以上に具合が良くて。理性を失った今の俺には止めてやることができなかった。だが痛みだけだった最初の頃とは違い、次第に快感のほうが勝ってきているのか、ほとんど悲鳴のようだった敦の声にも色っぽい響きが混ざっていた。
ちゃんと気持ち良くさせてやれてるだろうか。眉間に皺をよせ、シーツを握りしめている敦が少しだけ気がかりだった。
「っ、敦……声、ちょっと抑えられるか?」
「ふぇ……? ん、んっ、ぁっ」
「ん、いい子だ」
目の前のことに夢中ですっかり忘れていたが、一階には勉強会で集まった皆がいるのだった。唇で敦の唇を塞げば、少しくぐもった声になったが、到底抑えられそうにない。それにこの大きなベッドが、先程からギシギシと激しく音を立てていたので、これ以上何をしてもあまり意味がないのだと悟った。
敦のナカは思った以上に柔らかくて、今にもペニスが溶けてしまいそうなほどに熱かった。ゴム越しに伝わる体温が愛おしい。動くたびにきゅう、きゅうと締め付けてくる狭い膣を行き来すれば、そのたびに切ない声が漏れだした。もっと、もっと、と俺の本能を煽る声。反動で揺れている乳房に手を伸ばし、頂を指で弾けば一層甘い声が漏れる。ぎゅう、と締まって俺を離さない膣に、意識が飛びそうなほどの快楽を与えられて。
「やば、締めすぎ、だろっ……」
宙に浮いていた敦の脚を抱えて、俺の肩の上に乗せて挿入すればより深く繋がった。角度を変えながら何度も中を擦るように動かして、腹側の入り口近くのある一点を亀頭が突き上げた途端、敦の細い腰がビクビクと跳ねあがるのを俺は見逃さなかった。
「あうっ、な、だめぇっ……! なんか、へん……っ」
「ここ、いいんだろ?」
「だめっ……アっ、んんんっ……あっ、あっ、ア、んんぅ、あンっ」
腰を掴んでそこを重点的に攻めれば、枕やブランケットを握り締めて必死に快楽に耐える姿が視界に入った。はじめて与えられる大きすぎる快楽に、身体が追い付いていないのだろうか。腰は連続して痙攣し、元から狭い膣は俺のペニスを食いちぎらんばかりに締め付けている。
あ、も、持ちそうにない。少々乱暴になりながらも、打ち付ける腰が止まらない。敦の咥内でイったばかりなのに、またしても敦のナカでイキそうだ。
「ひぁっ……あっ、んんン〜〜〜〜っ!!」
「うッ、きっつ」
驚くほどきつい締め付けと共に、敦は果てた。細い腰をこれでもかと浮かせ、うっすらと割れた腹筋はビクビクと小刻みに痙攣している。まるで俺の精子を搾り取ろうとしているかのような、うねるような膣の収縮の波にのまれ、俺もあっけなく敦のナカで果てた。
「敦……好き、好きだ……っく、」
「ぁう、んんっ……ん」
抱き寄せれば、しっとりと湿った肌が重なる。どくん、どくんと脈打つ心音を聞きながら、俺は敦のナカで思いっきり射精した。それは長く長く、永遠に続いているかのような時間だった。
⌘ ⌘ ⌘
「なぁ、開けてもいいと思うか」
「うーん……やっぱり止めたほうがいいんじゃないかな」
君下先輩が大柴先輩を起こしに行って、恐らく三時間は経っただろうか。未だに降りてくる様子がない二人にちょっとだけ心配になった僕と、いかにも好奇心に目を輝かせている来須くんの二人が調査隊として二階へと派遣された。
部屋を見つけるなり僕がノックをしようとすると、ちょっと待て、と来須くんに止められた。すると彼はドアに耳を貼り付けて、中の様子を窺っているようだった。こいこい、と手招きをされて、少しの罪悪感を持ちつつも耳をドアに宛ててみたが、中からは何も聞こえなかった。もしかして、二人でどこかに行ってしまったのだろうか。困惑した表情を浮かべた来須くんは、同意を求めるかのように僕に質問した。
「いや、やっぱり開けようぜ、柄本。もし居なくなってたら探さなきゃなんねぇし」
「でも……」
「いーから。どうせ怒られんのは俺だ」
そう言うなら僕にわざわざ聞かなくてもいいのではないだろうか。そうは思ったが口にはしなかった。
きっと彼には、この中の状況に大方検討が付いているのだろう。それでも自分の目で確かめたい何かがきっと、ここにはあるのだと僕は悟った。それなら仕方がない。来須くんの責任ってことで、僕も付き合うことにするよ。
「でもノックはしたほうがいいんじゃ」
「構うかよ、今更だ」
そう言った来須くんは、ドアノブを勢いよく回して扉を開けた。昼間だというのに薄暗い部屋は、電気もついていなければ、さらには遮光カーテンも引かれていた���物が溢れ返り、散らかった部屋の角には、大きなベッドの上で一定のリズムで動くブランケットの山。それに、甘い香りに混ざっている、独特の、なんというのだろう……何とも表現し難い匂いがした。
「来須く……」
「戻るぞ」
「え、でも」
そう言って、足を踏み入れることなく扉を閉めた来須くんのほうを見て、僕は言葉の続きを失った。
何と言ったらいいのだろう……これも表現に困ってしまうのだが、そのときの来須くんは、今までに見た事のないような複雑な表情を浮かべていた、と思う。
そしてくるり、と後ろを向いて、すぐに階段を下りて行ってしまった。階段の下で待っていたらしい、新戸部くんや白鳥くんと話す声が聞こえてくる。いつも通りの来須くんだ。僕はどうしてもあの表情の意味が気になってしまった。何事もなかったかのような振舞いの意味も、きっと何かあるに違いないと直感で思った。
「ごめんなさい、君下先輩、大柴先輩……!」
小さな声で謝りながらも、僕はドアノブに触れて勢いよく押し開けた。恐る恐る一歩足を踏み入れると、すう、すうと穏やかな寝息が聞こえてきた。
なんだ、二人とも寝てしまったのか。そう解れば少しだけ緊張がほぐれた。もうお昼はとっくに過ぎていて、きっと二人ともお腹を空かせているだろう。僕らは先程臼井先輩が作ったパンケーキと、昨日の残りのカレーをみんなで頂いてしまった。二人を起こしたほうがいいかな、そんな親切心でベッドまで近寄って、僕は固まってしまった。
「来須くん……ごめん」
僕はなんとなく、来須くんの表情の意味を理解してしまったような気がした。
幸せそうな二人の寝顔。それに肩までしか見えていないけど、ブランケットの下は二人とも裸のようだった。
僕は慌てて視線を逸らして、音を立てないように静かに扉を閉めた。この話を、あとでみんなになんて説明しよう。そんなことを考えながら、僕は元来た階段をゆっくりとした足取りで降りて行った。
(さよならはキスのあと、)
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