いきなり偉そうなことを書いて各方面から顰蹙を買いそうなんだけど、あえて言う。僕は自分の日記より面白い日記を読んだことがない。これはハッタリでもなんでもなくて、それくらいの気持ちがないと何処の馬の骨とも知れないチャリンコ屋の日記に1,500円や2,000円を出して購入してくれている方々に申し訳が立たない。ただし「自分より」と言うのには注釈が必要。『富士日記』や『ミシェル・レリス日記』みたいな別次元の傑作は対象外として、近年、雨後の筍のように量産されているリトルプレスやZINEを体裁とした日記やエッセイ群を見据えての発言と思って頂きたい。商売としての仕入れはさておき、個人的に興味があったので色々と手を伸ばして読んでみたものの、そのほとんどが「私を褒めて。私を認めて。私に居場所を与えて」というアスカ・ラングレーの咆哮をそのままなぞらえたような内容、若しくは「持たざる者同士でも手を取り合い、心で繋がっていれば大丈夫」的な似非スピリチュアルなマジカル達観思想で構成されているので、正直ゲンナリした。しかもタチの悪いことに、そういうものを書いている人たち、あわよくば商業出版の機を窺っていたりするものだから、出版社や編集者の立場からしたらまさに入れ食い状態。「ビジネス万歳!」という感じでしょう。晴れて書籍化の際には口を揃えて「見つけてくれてありがとう」の大合唱。いやいやいや、ちょっと待って、あんたら結局そこにいきたかっただけやんってなりません?これまでの人生をかけて手にした「生きづらさ」の手綱をそんなにも容易く手放すんかい!と思わずツッコミを入れたくもなる。現世で個人が抱える「生きづらさ」はマジョリティに染まらぬ意思表明と表裏の関係にあった筈なのに、どっこいそうはさせないとばかりにどこからともなく湧いてくる刺客たちの誘惑にそそのかされては、呆気なく自らの意志で握手(悪手)に握手(悪手)を重ねる。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。以前、僕もある出版社の編集長から「DJ PATSATの日記を当社で出版させてほしい」という誘いを受けたけれど、もちろん丁重にお断りした。僕は自主で作った300冊以上の読者を想定していないし、それより多くの読者に対する責任は負いかねるというような趣旨の言葉を伝えた。そもそもなぜ僕が友人(マノ製作所)の力を借りながらわざわざシルクスクリーンという手間をかけて制作しているのかを理解しようともしない。編集長は口説き文句のひとつとしてECDの『失点・イン・ザ・パーク』を引き合いに出してこられたのだけれど、いま思えばそういう発言自体が安易というか不遜だと思わざるを得ない。結局その方は僕を踏み台にしようとしていただけだったので、負け惜しみでも何でもなく、あのときの誘いに乗らなくて良かったといまも本気でそう思っている。まぁ、これは僕個人の考え方/価値観なので他者に強要するものでもなければ、共感を得たいと思っている訳でもない。逆に彼らも推して知るべしだ。誰もが商業出版に憧憬を抱いている訳ではない。昔から煽てられることが好きじゃないし、賑やかで華やかな場面がはっきりと苦手だ。だからと言って消極的に引きこもっているつもりもなく、寧ろ積極的に小さく留まっていたいだけ。かつては各地の井の中の蛙がきちんと自分の領域、結界を守っていたのに、いつしかみんな大海を目指すようになり、やがて井の中は枯渇してしまった。当然、大海で有象無象に紛れた蛙も行き場をなくして窒息する。そのようなことがもう何年も何年も当たり前のように続いている現状に辟易している。そんな自分が小さな店をやり、作品を自主制作して販売するのは必要最低限の大切な関係を自分のそばから手離さないためである。何度も言うているように自営とは紛れもなく自衛のことであり、率先して井の中の蛙であろうとする気概そのものなのだ。自衛のためには少なからず武器も必要で、言うなれば作品は呪いの籠った呪具みたいなもの。そんな危なっかしいものを自分の意識の埒外にある不特定多数のコロニーに好んで攪拌させたりはしない。多数の読者を求め、物書きとして生計を立てたいのなら、最初から出版賞に応募し続ける。だからこそ積年の呪いを各種出版賞にぶつけ続けた結果、見事に芥川賞を射止めた市川沙央さんは本当に凄いし、めちゃくちゃにパンクな人だと思う。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、天与呪縛の逆フィジカルギフテッドというか、とにかく尋常ならざる気迫みたいなものを感じた。なぜ彼女がたびたび批判に晒されるのか理解できない。それに佐川恭一さん、初期の頃からゲスの極みとも言える作風を一切変えることなく、次々と商業誌の誌面を飾ってゆく様は痛快そのもの。タラウマラ発行の季刊ZINEに参加してくれた際もダントツにくだらない短編を寄稿してくれて、僕は膝を飛び越えて股間を強く打った。
佐川恭一による抱腹絶倒の掌編「シコティウスの受難」は『FACETIME vol.2』に掲載。
ついでにこれまた長くなるが、かつてジル・ドゥルーズが真摯に打ち鳴らした警鐘を引用する。
文学の危機についていうなら、その責任の一端はジャーナリストにあるだろうと思います。当然ながら、ジャーナリストにも本を書いた人がいる。しかし本を書くとき、ジャーナリストも新聞報道とは違う形式を用いていたわけだし、書く以上は文章化になるのがあたりまえでした。ところがその状況が変わった。本の形式を用いるのは当然自分たちの権利だし、この形式に到達するにはなにも特別な労力をはらう必要はない、そんなふうにジャーナリストが思い込むようになったからです。こうして無媒介的に、しかもみずからの身体を押しつけるかたちで、ジャーナリストが文学を征服した。そこから規格型小説の代表的形態が生まれます。たとえば『植民地のオイディプス』とでも題をつけることができるような、女性を物色したり、父親をもとめたりした体験をもとに書かれたレポーターの旅行記。そしてこの状況があらゆる作家の身にはねかえっていき、作家は自分自身と自分の作品について取材するジャーナリストになりさがる。極端な場合には、作家としてのジャーナリストと批評家としてのジャーナリストのあいだですべてが演じられ、本そのものはこの両者をつなぐ橋渡しにすぎず、ほとんど存在する必要がないものになりさがってしまうのです。本は、本以外のところでくりひろげられた活動や体験や意図や目的の報告にすぎなくなる。つまり本自体がただの記録になってしまうわけです。すると、なんらかの仕事をもっているとか、あるいはただたんに家族がある、親族に病人がいる、職場に嫌な上司がいるというだけで、どんな人でも本を産み出せるような気がしてくるし、このケースに該当する当人も、自分は本を産み出せると思い始める。誰もが家庭や職場で小説をかかえている……。文学に手を染める以上、あらゆる人に特別な探究と修練がもとめられるということを忘れているのです。そして文学には、文学でしか実現できない独自の創造的意図がある、そもそも文学が、文学とはおよそ無縁の活動や意図から直接に生まれた残滓を受けとる必要はないということを忘れているのです。こうして本は「副次化」され、マーケティングの様相を帯びてくる。
ジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』(河出文庫p262-263)
僕は制作の際にはいつも必ずドゥルーズのこの言葉に立ち返っては何度も確認作業を繰り返し、ようやっとリリースにこぎつける。しかしそもそもが作品化を企んでいる時点で自分まだまだやなぁと思うに至る訳で、なんとも一筋縄ではいかない。そういう意味では滝野次郎という人がインスタグラムに投稿している日記のような文章には、はじめから読まれることを意図しているにもかかわらず、本来ならば読まれることを目的とした日記からは真っ先に削除されるような状況ばかりが羅列されていて、なかなかどうして凄まじい。馴染みの飲食店で見つけたお気に入りの女性店員を執拗に観察したり、断酒を誓った直後に朝から晩まで酒浸りであったり、謎の投資で10分間で40万円を失っていたり、銀行口座と手持ちの金を合わせても1,000円に満たなかったり、それでも「俺は俺を信じる」と闇���に自身を鼓舞していたり、そうかと思えば急に脈絡もなくひたすらに左手のハンドサインを連投していたりと、しっちゃかめっちゃか。比肩しうるは円盤/黒猫から出版された『創作』くらいか。あらゆる規範から逃れるべくして逃れ得た、いま最もスリリングな読み物であることに間違いはないが、同時に、これは断じて文学ではない……とも言い切れない不気味な何かが海の藻屑のように蠢いている。
(すでに何らかの隠喩ではないかと勘ぐったり……)
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トマス・M・ディッシュ「SFの気恥ずかしさ」
神を信じないあなたが贈るSFへの信仰告白
昨年国書刊行会から出たSF評論集。ディッシュのSF短編集「アジアの岸辺」をむかし読んで、すごく露悪的だし悪意に満ちてるけれど、どこかさわやかなところが印象に残っていたので買って積んでた。
同業他者の本をこう評す文章が楽しめる人は楽しめるとおもう。わりと楽しかったです。
この本は小説ではなくて治療的読書の英語で書かれた空想である。それが私にはうまく働かない。
ディズニーランドに行った疑り深い人間のように、私はつい本物でない細部に目が向かう。つまり椰子の木のコンクリートの幹だとか、すりきれた人工芝だとか、人造ライオンの生気のないうなり声だとか。しばらくすると旅行者ばかりが気にかかる。つまり、どこのどいつがこんなに手順通りのにせものを楽しめるのだろうか、楽しめるのだとしたら、本物でないから楽しいのだろうか、それとも、とても信じられないが、あえて虚構性に目をつぶっているのだろうか、と。
「SFの気恥ずかしさ」
実験・思弁小説としてではなく、いわゆる大衆小説としてのSF批判なんだと思う。現代日本に置き換えると需要層に向けてもっとピーキーになった「なろう小説」批判に近いように思える。
ただ、ここで批判される子供っぽい欲望や恨みという感情、さらにそれに対する複雑で変わりゆく眼差し自体を消費させながらすごい速度で大量の情報と欲望を集めて、メディアミックスを駆使しテキストをお金集約装置へと変えていくあまりにもファストなシステムを横目で見てると、本編は大衆小説批判としては少し古びてしまった印象
それとはまったく別にSFへの信仰告白としては100点
いまいったようなことは、どれも重要ではないと。そして、結局のところ、こういう調子で締めくくって、どこがいけないのでしょうか?たとえ完全な真実ではなくても、それは良い本をかこうとするものの信仰の祈りでなければならない。わたしはそれを信じます。みなさんもそれを信じるべきなのです。
「アイデア」「壮大なアイデアと行き止まりのスリル」
古今東西のさまざま文学と結びつけ、するどい言葉でさくさく刻んでいくのが読み物として楽しい。個別の作品がわからないので適切な批評かはよくわからない。ポーへの批判がすごい。ディックは高評価。
ポーは昔読んだきりだけど、これ聞いてなるほどと思うとともに、奇想と雰囲気いいのでポーっぽい一人称ホラー短編ゲームは楽しそうと思った。
「ポーのあきれた人生」「テーブルいっぱいのトゥインキー」
ポーとかブラッドベリとかに半分自己嫌悪に近い形で悪口言ってるときのが筆が乗ってていきいきしていて魅力的。以下、ブラッドベリの悪口から引用。
たくさんの大人たちにとってこうした短編は早すぎる埋葬をこうむった十一歳の自分に戻る戸口となり、子供たちは(ずっと昔、私がそうだったように)まるで本物であるかのようにこの魅力にとびつくのだろう。―ホステスのトゥインキーやキャンディー・コーンやストロベリーのクール・エイドが、どれもギラギラと火星のように赤色二号の怪しい光を放って並ぶビュッフェであるかのように。
「レイバーデイグループ」「聖ブラッドベリ祭」
二流作品(ディッシュ評)お焚き上げの会。文章も性格もわるくていいですね。
「ヴィレッジ・エイリアン」「最初の茶番」
ベストセラーとなったUFO連れ去り事件ノンフィクションor小説?についてのフィクション込みの論考。往年の高橋源一郎の文学探偵みたいで、嫌味と紙一重のもってまわった技巧含めて楽しかった。 ディッシュ、すごくSFを愛してるからこそSFづらして出てくるいい加減な作品のこと許せないんだろうな。
「『未知との遭遇』との遭遇」
スピルバーグの未知との遭遇の解題。宇宙戦争とかもそうだけど、結構宗教的だなあと思うスピルバーグをよく説明してくれている。最後の皮肉っぽさ、ディッシュだなという感じ。
それが本当に映画のサブテクストだとしたら、どうしてこんなにヒットしたのだろう。(中略)観客が映画の教訓に感銘を受けたからではなく、迫力ある映像、金色の仔牛としての神という、印象的な神の実像を描いてみせたからだ。我々は神の顔を見たいと渇望しても、神のために狂人になる覚悟はない。大勢の宗教者が狂気は神にいたる道だとくり返し説いてきたが、凡人にできることではない。しかし、それを映画のシミュレーションで見るなら楽しめるし、しかもその映像がSFのお約束のイメージで無菌化されていれば、なおさら考える必要はない。SFはその定義からして、重要なことを決して意味しないのだから。
「SF ゲットーへの案内」
欧米SFをくさすレムに、もっとちゃんと現代欧米SFを読んでくれ!という訴え
ディッシュは無神論者だったらしいけど、全体的にSF信仰を強く感じる。SFの価値を信じてて、SFかくあるべしというのが強固にあるからこそ、各作品をきちんと読んだうえで駄作という批判も傑作という賛辞も強く示していくそういう文章はきらいじゃない。
ディッシュの破綻してしまった人生最後の支離滅裂な小説「The Word of God」が、SFへの殉教だったのかなとSFロマンチストとしては考えてしまうところ。参照Wiki
ところで、マンハッタンについてのインタラクティブテキストであるところの「アムネジア」というテキストADVゲームの脚本書いていたのははじめて知った。
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。
安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。
「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。
「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。
(『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。
煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。
民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。
(吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ)
五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。
( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下
永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。
(『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。
肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。
湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。
アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。
『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。
一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた)
猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。
このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭
鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、
「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船
◇ 河童(『耳袋』)
江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。
◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵
深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く
反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた
◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』)
安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴り殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。
この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。
『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。
日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画��も多く描かれた。
一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。
男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。
ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。
轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。
日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。
轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。
鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。
松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。
「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。
ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。
長野県東筑摩郡教育委員会による調査資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。
東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋
「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。
「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。
(曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。
【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下)
家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選���で描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。
昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根
鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。
庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。
石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。文政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね)
長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。
同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。
管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。
(石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠
京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。
昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。
しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。
寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。)
紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。
新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。
島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。
(民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上
江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。
(『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。
石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。
『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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2023/10/2〜
10月2日
昨日ちゃんとレンジでスパイスカレーを作ることができて、ちゃんと美味しかった。誰にも報告してない。こうゆう時に写真を撮っていないので報告しがいがない。
あと少しでつみたてNISAの口座設定が完了する。マイナンバーカードの登録(また?)を残すのみ。いつもマイナンバーカードのところでつまずいてしまう。
午前中、東京の事務所の同期がこちらにきていて、今日こそは吉澤嘉代子ちゃんのポロシャツの真相を確かめたい、とそわそわしてしまった。
お昼で戻る同期を呼び止めて、ほとんど初めてくらいに仕事以外の話をした。なのでなんかお互いどぎまぎしていてたけれど、やっぱり吉澤嘉代子ちゃんを聴いている方だった!わーい!
そんな感じで今日の任務を終えた感で、でも午後もバタバタとお仕事をした。明後日の出張のこととか、これからの検査のこととか、来年度の異動希望のこととか、いろんなことを考えながら今日のところは結論を出せずに、また日が短くなってすっかり暗い道を歩いて帰った。
今日は(久しぶりに復活した?)内定式だったらしく、リクルートスーツの方々がちらほらしていた。なんと来年度も2人新しい方が今の部署に入ってくるらしい。
今期の朝ドラの主演は趣里ちゃんなんですね!
cosmosのPVとおとぎ話みたいをまた観たくなる。
10月3日
お金関係の手続きに一区切りがついて、でもまだよくわかっていない仕組みと、やっぱり写真展までの期間かなり使い過ぎていたことが判明したことで、ひりひりした日。
お金のことを考えるとどうしても、節約しなくては!将来の不安のために!と元気がなくなってしまう。そしてどんなに今日のところそう思ったとしても、来週くらいに起こった悲しいことを埋めるように、何かにお金を使ってしまうのだと思う。
節約したいものが何もないです。
明日は久しぶりに東京出張。雨予報が出ていて、確かに気圧の変化?で身体が重苦しい。でもそんなことも、お金のことを考えすぎてあまり感じられずにいる。
そういえば今朝はバス停が行列で久しぶりに歩いて出勤してしまったのと、お仕事もバタバタで忙しかったので、疲れてマイナス思考なのかもしれない。
睡眠負債も返済したい。
10月4日
また一つ季節が進んだ気がして昨晩、もう、いい加減休まないと!と思いながら衣替えをして正解だったな、と思った。
東京の現場へ出張してから、今住んでいる町を通り過ぎて職場へ戻って、帰る時間はすっかり真っ暗になった風景を見ながらまた戻って、移動時間が長い1日。
あわよくば途中でお金関係の手続きに銀行へ行きたか��たけれど、そんな余裕もなく、一瞬降り立った池袋でコジコジの催事がされているのと今日もポケモンカードの機械にメンテナンスが入って、並んで待っている人がいる様子を見ながら乗り換えをした。
なんとなく今持ち場でぬるま湯?的な心地よさを感じつつあり、結局、移動希望の意をはっきり示すことのない調書を提出した。
1番疲れる木曜日を目の前にふらふらで、やっぱり今日は出張先から直帰すればよかったかもしれない。
スーパーで今月から1000円お買い物ごとに一ポイントずつ貯めてピーターラビットグッズと交換できるキャンペーンが始まって、ぬいぐるみが可愛いので貯めてみようかな?と、このポイント・クーポン沼に入ろうとしている。
10月5日
もうエアコンを入れなくても一晩過ごせるようになった。
昨日からへとへとだったので、朝のバス停が長蛇の列だったけれど、乗れるのでは!と祈るように並んでみる。結果、私の前10人くらいを残して満員となり出発してしまった。職場まで5〜6kmの道のりを歩いて、前に並んでいた人を途中で見かけて、たぶん同じ様に絶望しながら歩いていた。
今日は久しぶりに細かい用事をこなして、自転車でくるくると移動した日だった。
今月から新学期が始まり、学生さんの自転車が乱雑に置かれる駐輪場に自転車を停めたら、取り出せなくなってしまい、隣の自転車のストッパーが外れて動き出してしまう。わたわた2台を抑えて動けずにいたら「バカな奴がいるんですよね、抑えてるから大丈夫っすよ」とたぶん学生さんがビーサンの足でストッパーをかけてくれる。普通に、かっこいい!と嬉しくなり「ありがとうございます…」とお礼した。
ふと視界に入ったちょっと困っている人を当たり前に助けられるのって、社会人であまりいない気がしていて、お仕事相手とか自分にとっての存在価値を自然と図って、ここで助けた結果までジャッジできてしまうからなのかな、と思った。
いつまでもかっこいい人でいて欲しい。
お仕事のことで、決定的な私だけのミスではないけれど、確実に自分にも起こってしまったことを防げたポイントがたくさんあったミスが起こってしまい、解決できたけれど少し落ち込んだ。けれど!それよりも!定時になったら全てをほっぽり出して帰りたかったり、今日初めて行った部署の温室の隣にあるプレハブ小屋みたいな事務室で猫を飼っていたこととか、そっちの方がずっと気になってしまうなんて、いつまでも本当の真面目にお仕事に専念なんてできない気がする。
明日は通院なのに今日まででへとへとを使い切ってしまった。
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映画『生きる』
U-Nextで黒澤明監督、志村喬主演の映画『生きる』(1952)を見ました。
その昔、母から話を聞いた映画です。母は本が好きな人でしたが、映画も好きだったのかな。おそらく母が話してくれた映画はこれだけだったと思います。
母曰くーーぼんやりと暮らしていた市役所勤務の男が胃癌で余命いくばくもないと宣告される。男は死ぬ前に何かを成し遂げようと、子どもたちのために公園を作ることにする。公園が完成して男は死んでいく。男が公園のブランコに乗って「いのち短し恋せよ乙女」と歌うシーンは名シーンだ。
まさにそれがこの映画の中核ですが、実際に見てみると当然ながらそれだけではなく、いろいろなものが付け加えられています。
主人公の渡邉(志村喬)が胃癌で余命いくばくもないというのはその通りなのですが、実際に医者にそう言われるわけではありません。病院の待合室で見知らぬ患者と雑談をして「胃癌というのは恐ろしいものです。医者は軽い胃潰瘍だと言い、特に消化の悪いものでなければ好きなものを食べていいと言うのですが、あっという間に悪化して死んでしまう」と聞いた渡邉は、医者にその通りのことを言われてショックを受けます。
直後のシーンで医者同士が「あの人はいつまでもちますかね」ーー「半年くらいかな」と言っているので間違いはないのでしょうが、時代を考えれば本人に宣告しないのは当然としても、家族にも教えないものなんでしょうか。本人も家族も知らず、医者だけが知っているというのは、今の感覚からするとちょっと変な感じがしました。
渡邉は早くに妻を亡くし、一人で息子を育てました。息子は社会人になり結婚して、渡邉と一緒に暮らしています。
渡邉は市役所の市民課の課長です。ある地区に住む女性たち(その中には若き日の菅井きんもいます。こんなに可愛かったんだ、菅井きん)が空き地の水たまりをなんとかしてくれと陳情に来ていますが、市民課から公園課へ、公園課から土木課へたらい回しにされるだけで、一向に埒があきません。
渡邉も若い頃は仕事に熱意を持っていたようで、仕事場の机の引き出しには市役所の運営の改革に関する私案の書類が入っています。若い頃に渡部が書いたのでしょうが、結局提出しないままになってしまったということですね。必死に書いたはずの書類の最初のページを破ってペン先の掃除に使うシーンは、渡邉の現在と過去を一瞬で対比するいいシーンだと思いました。
癌で余命いくばくもないと知った渡邉は市役所を欠勤し、銀行から5万円おろして飲みに行きます。当時の5万円って今のいくらに当たるんですかね。100万くらい? まさか500万ということはないでしょうが、かなりの金額です。
でも、遊び慣れていない渡邉は何をすればいいかわかりません。彼は飲み屋で知り合った小説家(演じるは伊藤雄之助。痩せて精悍な感じで、まさに無頼派の小説家という感じです)に余命いくばくもないことを話し、パチンコやキャバレーに連れて行ってもらいます(この時代のパチンコって立ったままやるんですね。知りませんでした)。
キャバレーでピアニストに「リクエストはありませんか」と言われた渡邉は『ゴンドラの唄』をリクエストし、ピアノに合わせて歌います。
あ、ここでまず歌うんだ。
このシーンは凄みがあります。志村喬はうつむき加減で虚空の一点を見つめながら、口をほとんど動かさず、調子はずれに歌います(音をはずすというよりリズムをはずし、ピアノの伴奏と合わない歌い方です)。
彼の横に座っていたホステスは怖くなってどこかへ行ってしまいますが、むべなるかなーーそれほど鬼気迫る感じです。
いいなあこのシーン。当然ラストで志村喬はもう一度『ゴンドラの唄』を歌うのですが、私はこっちのシーンの方が好きです。
一晩中遊び歩いた渡邉は翌朝、自宅に帰る途中、市役所の部下の女性・小田切と偶然で会います。小田切は市役所の仕事は退屈だから転職する、ついては辞表にハンコが欲しいと言います。小田切の靴下が破れているのに気づいた渡邉は洋品店でストッキングを買って彼女にプレゼントします。
小田切は「これ欲しかっただけど高くて」、「もしこれを買ったら、1ヶ月間お弁当のおかずはメザシになってしまいます」と言って喜びます(彼女は二間のアパートに3家族で住んでいるとも言っていました。まだ日本全体が貧しかったということでしょうか)。
渡邉は小田切と一緒に遊園地やスケート場や映画館に行きます。息子や息子の妻は年甲斐もなく若い愛人を作ったのではないかと疑います。
渡邉は息子に病気のことを打ち明けようとします。しかし、息子は愛人ができたという話だと思っているので話が噛み合わず、渡邉は打ち明けるのをやめます。
一方、小田切は最初こそ渡邉と一緒に出かけるのを喜んでいましたが、だんだん不自然なものを感じて、もう出かけたくないと言います。渡邉は最後に一度だけと言って、小田切を喫茶店に連れて行きます。
渡邉は余命いくばくもないことを小田切に打ち明け、「私はミイラのように生きてきた」、「君はどうしてそんなに生き生きしていられるんだ」と尋ねます。小田切は「さあ」と言った後、バッグからウサギのおもちゃを取り出し(彼女は市役所を辞めておもちゃ工場で働いているのです)、「これを作ってるからかしら。どこかの赤ちゃんがこのおもちゃで遊んでいると思うと嬉しくなるの」と言い、「課長も何か作ったらどうですか」と言います。
でも渡邉は何を作ればいいかわかりません。小田切も「あの役所じゃ無理ですよね」と言います。しかし、渡邉は何か���いたように喫茶店を出て行きます。
その喫茶店は2階建てで中央に階段があり、渡邉と小田切は2階にいます。階段を挟んだ向こう側では、大勢の若者たちが仲間の誕生日を祝っています。
渡邉が階段を駆け降りるとき、ちょうど誕生日を祝ってもらっている女性が現れたのでしょう、若者たちは一斉に「ハピーバースデイ」を歌います。
次のシーンで渡邉は役所の部下たちに市民からの要望に応えて、空き地を整地し公園を作ると言うのですが、そのシーンでも「ハピーバースデイ」が流れます。
それまでミイラのように生きていた、本当の意味で生きているとは言えなかった渡部が、この瞬間生き始めるということを示す演出ですが、うーん、どうなんでしょうね、これ。わかりやすいだけに少しあざとさを感じてしまいました。
そこから時間が飛び、渡邉の葬儀の夜になります。これはちょっと驚きました。渡邉の死から遡る形で渡邉のしたことを描くわけですか。なるほど……これは予想していませんでしたが、なかなかいいですね。
同僚や上司が渡邉の自宅に集まっているところへ、新聞記者たちがやってきます。空き地に公園を作ったのは渡邉なのに、それを自分の手柄にした助役にインタビューしたいとのことですが、そんなことで葬儀の場にまで来るものですかね。
助役(演じるは中村伸郎)は「記者たちは役所の仕組みを知らないから困る。公園を作ったのは渡邉君ではない。渡邉君一人の力では何もできない」と言い、土木課長や公園課長も「取りまとめたのは助役ですから」とお追従を言います。
そこへ陳情に来た女たちが焼香にやって来ます。彼女たちは泣きながら焼香をしますが、何も言いません。この「何も言わない」ところがいいですね。下手に何か言うと艶消しです。
女たちが出ていくと、助役たちは居心地が悪くなったのか早々に立ち去ります。残った市民課の職員たち(藤原釜足がいて千秋実がいて左卜全がいます。いつものメンバーですね)は最初「あの公園ができたのは課長一人の力ではない」と助役たちと同じことを言いますが、若い課員が「いや、あれは渡邉課長の力だと思います」と言うのをきっかけに、渡邉が公園設置のために何をしたか、それぞれが思い出話をすることになり、最終的には「課長は立派だった」、「俺たちも課長のように頑張るぞ」と言います。
そこへ巡査が現れ、焼香します。巡査は前夜遅く、渡邉が一人で公園のブランコに乗り「ゴンドラの唄」を歌っていたと言い、あの時きちんと保護していれば亡くなることもなかったと悔やみます。
そこでフラッシュバックーーブランコに乗った志村喬が「ゴンドラの唄」を歌うシーンが流れるのですが、私は知っていたからかもしれませんが、このシーンよりキャバレーで「ゴンドラの唄」を歌うシーンの方が凄みを感じました。
翌日の市役所ーー職員たちは前夜「課長のように頑張るぞ」と言っていましたが、何も変わりません。以前と同じように陳情に来た住民をたらい回しにしています。
葬儀の場で渡邉を擁護した若い職員が、渡邉の作った公園へ行き、子どもたちが遊んでいる姿を見ているところで「終」とでます。
確かにいい映画です。批判はしたくないしできません。
黒澤が渡邉という人間の生と死を描くとともに役所の縄張り主義、硬直したシステムを批判しようとしたのはよくわかります。
でも、個人的にはそういう風刺はどうでもいい、渡邉だけにスポットを当てて欲しかったという気がします。
志村喬はもちろん名演です。猫背でオドオドして、病気が進むにつれてだんだん掠れ声になっていくところなぞ誰も真似できないと思いますし、『七人の侍』のリーダーと同じ役者がやっているとはとても思えません。
でもなあ……いつも濡れた目をしている(これももちろん役者としての技術ですが)のを見ていると「病気の犬」か何かに見えてしまうというのもまた事実です。
息子もかわいそうだよなあ。物語の流れとして息子夫婦には打ち明けない/打ち明けられないというのはわかるのですが、自分が息子なら「親父、どうして言ってくれなかったんだ!」と言いたくなります。
息子は知る由もありませんが、渡邉は初対面の小説家や職場の部下にすぎない小田切に癌のことを打ち明けています。他人には打ち明けられるのに息子には打ち明けられない……世の中にはそういうこともあるとは思いますが、息子としてはたまらないだろうと同情してしまいました。
『生きる』はミュージカル化(!?)されているそうです(渡邉役は市村正親と鹿賀丈史のWキャスト)し、最近イギリスでリメイクもされているそうですが、もしあの話を現代に置き換えるとどうなるんでしょう。
ちょっと見るのが怖い気がします。
追記:
志村喬は1905年生まれ。ということはこの映画のときには47歳。
え? 47歳?
とてもそうは見えません。
もっとも当時の定年は55歳ですから、渡邉はまだ50代前半ということになります。
今とは年齢の感覚が全く違うということでしょうか(『サザエさん』の波平だって50代前半、うっかりすると40代なわけですし)。
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堀部安嗣さん講演 (2023.02.22 於・前橋工科大学 演題『私のパッシブデザイン』
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積極的に受け身であること
理系・文系 ふしぎな分け方
他の言い方は無いのかな、
→時間の流れかた、概念が、理系と文系では違う
横で一定・理系 時間とともに成長していく、という概念
ぐるぐるぐるぐる循環・文系
理系の人が作り上げるもの・コンピュータ、エアコン、車etc.
文系 1000年前以上の、弘法大師の書
200年以上まえのモーツァルトの音楽
ドストエフスキーの文学
いつの時代でも良いものは良い
1日の循環
建築の世界 理系的・文系的のバランスのとれた世界 いろんなタイプの人がいる方がよい
警鐘を鳴らす、ブレーキをかける建築家
堀部さんは、文系的だと自覚
建築は、果たして進歩しているか、進化しているか。
防水技術、免震技術 進歩
それらが人の幸せに役に立っているか
…
映画 ファースト・マン
静謐な映画
ニール・アームストロング船長の自伝的な映画
人類の栄光の光の裏にある闇、影
地球上では、自然ゆたかな所での家族との暮らし 東西冷戦 生存確率の低いロケットに乗り、たどり着いたのは空気もない死の星
地球は緑豊かで美しい土地だったのに、なぜ危険をおかしてまで
瀬戸内海の美しい自然
いまでも200年前の風景の残る
東京のほうが進んでるよね、との劣等意識を持つことが多い。もったいないこと。
讃岐市のプロジェクト
やりたいこと、ただひとつ。
この土地を、国立公園にふさわしい土地に戻してゆく 建築もいらない、けど、建築の役割はあるし、できること、人々に安心を与えることは建築に出来る
東京の風景 東京の方が豊かだと、地方の人は錯覚してしまっている ふしぎなこと
富山 宝物があるのに
兵庫 20年前は森だったところ
中央へ、宇宙へ
侵略 キリがない
宮沢賢治の詩 僕は家族にほめられた、僕は世界に誉められた、その先にどこへ行けば?
コロナ禍 ステイホームの自粛のとき、自分の足元を見つめざるを得ない→自分の地域の良い点に気づいた 足元への評価
roots
根源
根のあるもの
足元にすでに持っているもの
どんなものを土台にして、私たちは思考しているのか
…
原風景
横浜の鶴見
色んな人が行きかうカオス
鶴見線 鉄ちゃんのあいだでは有名
中学のとき、ヨーロッパ 写真を撮った
国道駅のアーチとのかさなり
自作でも 意識したわけではない、原風景が滲み出る →設計という行為
曹洞宗大本山 近所に
お寺のもつ悠久の時間の流れ、不気味さ、幼少期触れて生きてきたことは幸運だった
大きなお寺は風景が変わらない
50年前の樹 祖父と一緒にみた
再訪するもき、私はここで生まれてきたのだ、と実感 そこでの、子どもと老人のことを祖父と私にかさねる
記憶 確かな記憶のない限り、未来を見出せない お墓 ショッピングセンターが立ったり、バイパスが通ったりすることはない
静岡県浜松市 趣のある素晴らしい日本家屋・庭に住んでいた。今、その場所は道路の下に眠っている 往時の記憶が甦らない、すべて破壊されている 道路による記憶の破壊
…
見たこともない、感じたこともないものは
つくれるのだろうか?
設計 それ以外はできない
見て感じたもの、記憶を頼りに、今へ状況へ再現する
いきなり_
幸せについて
同伴者と吹雪のなか、つらい登山のイメージ
つらい、眠い、衣服はびちょびちょに
そのなかで、暖かな山小屋を発見する
幸せに とても小さな建築で、いろいろなことが出来る。食べる、眠るetc.
人種のちがいも関係ない、歳の差も関係ない
信じている宗教も関係ない inclusiveな
外部環境が室内に入り込んで来たような建築でも、庇の出が陽を遮ったり、風通しがよかったり、床の肌触りがよい、など。自然環境を、変換している。 ホモ・サピエンスの
日本の庭のおもしろさ 私たちにはあたりまえ、だが、フランスの建築学生と京都のこうとういんに行ったとき、おもしろい、おもしろい、と。音がおもしろい。アプローチの石のヴァリエーション 靴を脱ぐ所スノコ、畳、めまぐるしく床の材料が変化してゆく。こんな小さなところで、これほどの変化していくのは面白い。
新緑の美しく見える秘訣 背後の常緑樹
新緑の淡さを引き立てる、背景としての濃い緑
全部が新緑、全部が常緑、というのがふつう
アメリカとか
コンビネーションのあるのは珍しい
…
人間の感情はどうして生まれたのか
生存のために必要となる、咄嗟の行動や判断のために進化の過程で作られた
森でクマに出会う。恐怖の感情を抱く、その後の行動の選択肢を広げていく 恐怖という感情を引き金にして
仲良しの友達、幸せ、喜びの感情
こいつと付き合っていると、自分は生存できるぞ、との。
生存のための引き金、スイッチ
雪の夜の暖かな山小屋
生存の喜び
反対に、もう生きていたくない、とか、生存のことを考えていない人は、感情の起伏がなくなってくる 感情の、生存における大切さ
ヒュッゲ デンマークの概念
これを日常生活でしているからこそ、世界でいちばん幸せな国とされる
日本 先進国のなかでは幸せ指数が低い
ヒュッゲの反対をやってきた
150年前・200年くらい前は、日本もそうしていた。
今の日本の住の風景
居住性の進歩 けれども、それらがある程度達成できたとき、この姿が、幸せな住まいの環境なのか、と。
使い捨てられるもので風景が構成されている。幸せ感の乏しいのは、使い捨ての時代だからでは?
竹富島 色んな不便、不都合、多々
住まいや環境はトータル 幸せ感としてはこちら
…
あるものを活かす
パッシブデザイン
あるものとは?
気候風土、自然エネルギー
歴史、文化
記憶
風景
ハードウェアではなく、ソフトウェア、手に触れられないもの
ブリコラージュ ありあわせのもので作る
→『和』では?
和風とは、有り合わせで作られる、非常にレベルの高い行為から生まれる
家庭料理 素晴らしいブリコラージュ
冷蔵庫の残り物、スーパーで買ってきたものと合わせて
和 足し算 引き算
ほうれん草の胡麻和え
和えている
明太子スパゲッティ
日本の人たちの得意としていた
極東 漂流物を、イノセントにあり合わせて組み合わせて作りあげた
cnt.) ないものをねだる
自分がすごく良いものをもっているのに、何か他を憧れる
→侵略や戦争へ
70数年前、わたしたちも痛い目にあった。資源、植民���
…
モーターボート アクティブ
ヨット パッシブ
これからは燃料も高いし、すべてヨットのような建築に、という訳ではない。
ふたつの要素を足し合わせる、共存させる
どっちか一方では足りない、幸せ感を感じる住まいにはならない
目的
幸せ感 心身が楽になる 健やかに暮らす
手段
アクティブ+パッシブ
ご利益
省エネルギー
光熱費削減
…
温熱デザインへの取り組み
まずはパッシブ 太陽の恵み、土地の持つポテンシャル
アクティブ 性能の良いエアコン それを活かす
建物の性能 断熱性能、気密性能
ねこ は、居心地の良い場所を見つける天才
猫が天才であるわけではない。
ホモ・サピエンスが何故、そう思うか。
ホモ・サピエンスと猫の心地よいと感じる場所が近い 犬の心地よいところとはちょっと違う
猫 生まれたところは、暑いところ。暑さにはつよい
犬 暑いところではハアハア
ホモ・サピエンス 暑さに強い
30℃越えでも走れる
寒さに弱い パフォーマンスができない
吾輩は猫である、で、人を評して、やかんみたい、と。
ホモ・サピエンス アフリカ起源
それからどんどん北上
ほとんどの歴史を暑いところで暮らしてきた
→住まいをあったかくしましょう、というのが、私の建築観
…
私たちは生存できるのか
孫の世代まで、良い環境はあるのか
狩猟採取時代もよりは生存の危機を感じないことが多くなった現代人
コロナ禍でそれを意識
ほんとうに、このさき建築をつくれるのだろうか
生存の危機を感じたこと
→しっかり認識して、どういう建築が出来るのかetc.を自問すべき
あるものを活かす、というのがおおきなヒント
熱容量の大きな家 非常に効果がある
住まわれている人たちの幸せ感がおおきいと感じることが増えた
あるものを活かす 壁からの放射温度が快適
…
安定した家に居ると、外に出たくなる
屋根のかかった屋外に出たくなる
両親の葉山の家
半屋外
→ヒント、韓国の民家
冬の部屋と夏の部屋が分かれている。
冬の部屋 紙、オンドル
夏の部屋 ふきっさらし
潔い構成だなー。
…
鎌倉 扇ケ谷の家
スタディ いろいろ
最後の決め手はパッシブデザイン
南面の窓を大きく
あれもこれもダメ、となると何の一歩も踏み出せない 太陽光発電は、戸建ての屋根に乗せるのは素敵なことと自分は考える
けど、美しい瓦の屋根にそれが乗るのは、というのもあった
情緒的なものと機能的なものを合わせる
デザインによってできうる
シンプルに、自宅の庭で野菜を作る、みたいに太陽光発電を考えている
電気、移動に莫大なコスト 自分の家で発電できることは爽やかなのではないかな
デザインの力です達成できる、との信念
…
南面 ソーラー
北側 庭的な グレアの少ない
アメリカ サンタモニカ
街区 太い道路 細い道路
太い 伝統 雑多なものが出ないように
細い サービス機能
(細い道路の方 日本の街の感じと似ている)
…
土地は親から譲り受けたものではなく、孫から借りているもの。ネイティブ・アメリカンの言葉
貰ったものなら汚してもよい
借りたものなら汚してはいけない
自身の所有の土地としても、その意識で
「土地を所有している」といっても、多くは所有していない、太陽、大地の奥、雨、風
原発
覚醒剤をやって人生を破滅した人が覚醒剤の怖さを語ると説得力がある
原子力の怖さ、ヤバさを、説得力を持って語れる 原発から10年、原爆から100年経っていない いま、原発が再稼働しようと。
…
↓私の質問への答え。堀部さんが書いていた、トタン小屋の形の美しさと、著書『建築を気持ちで考える』でのアスプルンドの章について
.
益子さん
住まいは掘立小屋くらいでいい
そこを整えいく
しかし、人の家を設計するとなると、、
自宅と人の家で設計が変わる
アスプルンドの章、気持ちが入っている
大好きな建築家
自分の設計は、形式性 構造の綺麗さ、コスト、施工性などから考えている。
正面性とか歴史性とかからではない
アスプルンドの建築、死者の声がする。彼の死生観が感じられる建築
…
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夏目漱石の『吾輩は猫である』は、「吾輩は猫である。」という書き出しで始まる。もともとは一話のみの読み切りとして執筆され、高浜虚子らの文章会で1904年12月に朗読される形で発表したところ、好評を博し、タイトルが未定であったものを高浜虚子が決め、1905年1月に雑誌『ホトトギス』で発表された。これも好評となり、翌年8月まで全11回の連載となった。『ホトトギス』は売り上げを大きく伸ばし、元々俳句雑誌であったが、有力な文芸雑誌の一つとなった。
『吾輩は猫である』は、ローレンス スターンやジョナサン スウィフトなど中世ヨーロッパの「脱線文学」あるいは「パロディ文学」と呼ばれる作品の系譜にあるとされ、そうした作品の影響を受けて書かれたとも考えられている。これは、当時の日本の文学の主流の傾向が西洋近代文学として自然主義を取り入れ私小説へと向かっていくのとは対照的で、漱石独自の、世俗を忘れ人生をゆったりと眺めようとするような作風は「余裕派」と呼ばれるようになる。が、そもそも、当時教師をしていて色々うまくいかずに悩んだ挙句に神経衰弱を患っていた漱石が、高浜虚子から治療のつもりで創作でもしてみたらどうかと勧められて書いたのが『吾輩は猫である』である。朗読される形での発表になるだろうからということで、落語などを参考にした口語文で書き、あらすじやストーリーめいたものは無く、いわば随筆だが、それを猫の視点から書くということでフィクションに仕立てている。漱石は、そうした文学の系譜があること自体は知っていたが、連載しながら読者と共に小説の読み方を作っていった。結果として、パロディ文学あるいはメタフィクションとして成立し、そして、そこには20世紀の文学が目指した方向性が示されてもいた。
20世紀の文学、特に小説が目指したものは何だったのかということは、作家や評論家によって様々な考察がされている。その一つに、「小説に特有のエッセーの技法」というのが挙げられている。これは、明白なメッセージをもたらそうとするのではなく、あくまで仮説的、遊戯的、アイロニー的なものとしてとどまるエッセーの技法であるという。
1905年2月に発表された『吾輩は猫である』の第二話に、「今年は征露の第二年目だから」という文がある。この「征露」というのは1904年に開戦した日露戦争のことで、戦争が足かけ二年になった1905年の元旦以降、「征露の二年目」「征露二年」というのが戦勝を祈願して年賀状に書かれるなどの形で流行語のようになったらしい。タイムリーな時事ネタとしてさりげなく書かれているだけで、それ以上の意図はないのかもしれないが、『吾輩は猫である』が書かれた時代的背景には日露戦争がある。
日露戦争は1905年9月に日本の勝利で終わる。日本はロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで日露関係も急速に改善する。相互の勢力圏は確定され、日本は朝鮮半島の権益を確保したうえ、南満洲鉄道を獲得するなど満洲における権益を得ることとなった。当時列強諸国からも恐れられていた大国であるロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来��課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与したのみならず、列強諸国の仲間入りをし、第一次大戦後には「五大国」の一角をも占めることとなる。その発展と成長への路線が示されたのが、日露戦争の勝利であった。
日露戦争の勝利は、日本の近代化の成功を象徴していた。が、『吾輩は猫である』には、ところどころ、滑稽さを出すためのアイロニカルな表現なのか、猫の視点から見ればバカバカしいということを表すためなのか、やっぱまだ神経衰弱結構きてたのか、なんだかよくわからない、ぼんやりとした不安のようなものが顔を出す。悲願だった近代化に成功したからこそ、もう後戻りできないのではないかということや、そもそもその成功した近代化というのは何なのかよくわからないが、もしかしたら誰もわかってはいないんじゃないか、みたいな。
ソ連時代のロシアの文芸批評家ミハイル バフチンは、「脱線文学」あるいは「パロディ文学」とも呼ばれる作品系譜を「カーニバル文学」と呼び、パロディなどに見られる両義性や価値倒錯の世界を創り出す効果を「カーニバル性」と呼んだ。バフチンはカーニバル性を持つ作品を「グロテスク リアリズム」とも呼んでいる。バフチンはグロテスク リアリズムの特徴として、カーニバル性を持っていることのほかに、「物質的、肉体的なものの肯定」を挙げ、「笑い」を極めて重要な要素であるとした。
バフチンは、近代文学における「パロディ」は、形だけの、否定的性格のものになっており、再生させるという両面的な価値を失っていることを批判し、近代文学における「笑い」についても、一面的にのみ理解された、もはや価値転換を起こすことのできない、純粋に娯楽的な笑いになっていることを批判した。
ちょっと前に、いくつかのポッドキャストやブログ記事などで、シニカルな笑いについて話題にしてるのを見た。それらで話されていたことの延長線上にあるような話は、シニカルな笑いにフォーカスしてるわけじゃないが、一層盛り上がったように思う。それらを聞いていて、たしかに「笑い」には二つの種類、あるいは相反する二つのベクトルがあるのかもなとも思った。それらを仮に「ソリタリー ラフター (独り笑い)」と「ラヴァーズ ラフター (恋人たちの笑い)」と呼ぶことにして、そのネーミングだとダサくて使いたくないみたいな感じは、拒絶を喜ぶ笑いで、シニカルな笑いであり、「独り笑い」である。もう一方の「恋人たちの笑い」は、同意を喜ぶ笑いということになるだろう。
同意を喜ぶ「恋人たちの笑い」が嬉しいのはもちろんだけど、「独り笑い」に救われることもあるっちゃあるよねみたいな感じの話が、「独り笑い」のようなものによって、偽の信念を拒絶するということはとても重要なことなんじゃないかという話になったのがちょっと前で、確かに似たような経験はあるとか、最近の出来事とかその解説とか聞いて、みんな真剣に聞いてたみたいだけど、なんかバカバカしく思えて笑えたみたいな話で盛り上がったのがつい最近なんだけど、これってなんか、「拒絶を喜ぶ笑い」が「同意を喜ぶ笑い」へと転換しているようでもあり、奇妙と言えば奇妙な感じというか、やっぱこの分類じゃ何言ってんのかわからない気もしてくる。そもそも誰かに「シニカルだ」「冷笑主義の差別者だ」「プロジェクト2025の共謀者だ」とか呼ばれることに対して、最後のやつ初耳だけど新ネタでたの?みたいなことを聞いてる人を見て噴き出したりってだけのことを、なぜか真剣に受け取りすぎていただけなのかもしれないが、何かの話題から別の話題に移るたびに、ついさっきまで考えていたことや感じていたことが一気にかけ離れていく感じで、何を考えようとしてたのかもわからなくなる感覚がある。
『存在の耐えられない軽さ』(1984)などで知られる小説家のミラン クンデラが、もう一つの代表作とも呼ばれる『笑いと忘却の書』(1978)で、「笑い」には「天使の笑い」と「悪魔の笑い」という2つの笑いがあると書いた。「天使の笑い」とは、世界の意味を確信した、生命の喜びとしての笑いであり、「悪魔の笑い」とは、何もかもバカバカしくなる、すべて無意味だということを表す笑いだという。天使の笑いは、それが極端にもたらされると、自分たちの世界の意味をあまりに確信し、自分たちの生の喜びに与しない者は殺してもよいという笑いになる。小説の語り手の耳には、悪魔の笑いのほうが、救済のかすかな約束のように響いた、という描写もある。
クンデラは、「プラハの春」で改革への支持を表明し、それにより、ワルシャワ条約機構軍による軍事介入の後、チェコスロバキアにおいて次第に創作活動の場を失い、著作は発禁処分となった。1975年には、フランスに事実上亡命。1979年には、チェコスロバキア国籍を剥奪される。『笑いと忘却の書』が国籍剝奪の原因だとも言われる。このことから、クンデラは共産主義や全体主義に立ち向かった作家だと言われ、「天使の笑い」というのも、全体主義化に警鐘を鳴らすための言葉として持ち出されることも多い。『笑いと忘却の書』には、共産主義者たちを無垢な残酷さを持つ「天使」に見立てて書いてる箇所もあるし、「あの天使たちの恐ろしい笑い声が響いている」という文などは、例えばジョージ オーウェル『1984年』(1949)の「ビッグブラザーの愛」のように、美しい単語に隠されているものの恐ろしさを暴くものだというような解説もされる。
しかしクンデラは、「共産主義体制で迫害を受けた」というような理解で作品が語られるのを拒み、また、『1984年』などの作品についても、それが政治へと「還元」されるのは容認できないとも書いている。この還元はプロパガンダとして役立つものだし、まさにこれこそが、人生の政治への還元、政治のプロパガンダヘの還元だからだという。
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望み、というのも、人間には理解する前に判断したいという生得的で御しがたい欲望があるからだと、クンデラは言い、さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望だと言う。世界中の人々が、今や、理解することよりも判定(ジャッジ)することを望んでいるようであり、問うことよりも答えることを大切だと考えてるように感じられる。神聖にして冒すべからざる「アンサーズ(答え。確信)の世界」には、小説のいるべき場所はない、とクンデラは言う。とにかくみんなすぐに、理解する前に理解することなく裁くという人問の慣行に反対し、道徳的判断を中断すること、それがクンデラにとっての小説であり、それは小説の不道徳なのではなく、それこそが小説の道徳なのだという。クンデラにとって小説世界とは、判断の中断の中にある世界であり、「クエスチョンズ(問いかけ)の世界」である。
「天使たち」というのは、輪になって踊りながら上昇するというイメージを表すものでもあり、「悪魔」というのは、その輪からはじかれて落ちていくイメージを表すものである。その輪というのは「党」の比喩でもあるが、それだけにとどまるものではない。「列」であれば、離れてしまっても戻ることができるが、輪は閉じるので、いったん立ち去ると帰れない。「惑星が輪を描いて動き、惑星から離れた石が遠心力によって容赦なく運ばれ遠ざかってゆくのは、偶然ではないのだ。惑星から引き離された隕石のように、私は輪のそとに出てしまい、今日でもまだ、落ちるのをやめていない。旋回のなかで死んでしまう定めの人々もいれば、墜落の果てにぺしゃんこになってしまう人々もいる。そして、後者の人々 (私もそのひとりだ) は、失われた輪への、遠慮がちな郷愁のようなものをつねに心のそこに宿している。それというのも、私たちはみな、万物が輪を描いて廻っている宇宙の住人なのだから。」
「小説の読み方」には、なんらかの「継続性」あるいは「持続性」が付随している。一つの作品を読む期間というもそうだし、しばらく読んでなくても、過去に呼んだ作品や読んでた時期を思い出したりとかというのもそうで、そのことを、「アクチュアリテ(今日性)に固定されない」とも言う。「アクチュアリテ」というのは「目下の現実」というような意味で、とりあえず「目下の現実」こそが最重要で、「アクチュアリテに固定されている」のが「ニュース」である。新しい出来事や新しく判明した事実によって「アクチュアリテ」が書き換わった後で、「昨日のニュース」を「今日」読むというのは、「ニュースの読み方」ではなく、別のニュアンスを持つものになる。
「アドボカシージャーナリズム(提言報道。政策決定などに影響を与えることを目的にしたジャーナリズム)」と呼ばれる形態に限らず、前面に押し出されて語られる出来事や議論などの奥には、提言団体の勢力図だったり、語るまでもなくよく知られた背��情報があったり、つまりどんな話題にも「奥行き」がある。が、フォーカスがぶれると伝わらない情報が多いため、どうしても焦点を定めた固定的な見方で語られる。どこかの視点に固定されたり、あるいは、昨日の視点と今日の視点があまりにかけ離れすぎたりすると、その「奥行き」も、奥行きを見るための「視差 (パララックス)」も失われてしまう。
「小説に特有のエッセーの技法」というのも、「アクチュアリテに固定されない」ためのものだと説明される。それは、今日起きたことを書くのだとしても、「今日の出来事」ではなく「持続し、過去と未来をつなげるべきもの」として書く姿勢だという。
日露戦争中、新聞以下マスコミ各社は、戦争に対する国民の期待を煽り、修正が利かなくなっていた。それもあって講和条約であるポーツマス条約は、国民の多くが考えていたものとは大きくかけ離れるもので、日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかった。全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれ、1905年9月5日の日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれるまでに至った。12月22日、桂内閣は総辞職した。
その時期をちょうど真ん中に置いて、その前後に、人の視点と猫の視点のパララックスが連載されていた。
2024年7月 イフ ザ ライン オブ サイト イズ パラレル トゥ
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薬の名称がカタカナで覚えられないのでキャラクターを作って「こいつ」としている。6月の日記。
Since I don't have memory that be able to remember the name of medicines, I create original character for them.
テスト結果で言及されたことでもありますが短期記憶(ワーキングメモリ)の容量少ない&ヴィジュアルで記憶する方が得意なのでそういう対策でもあります。この楽しそうな子はぶーちゃん。頓服薬でした。
感覚鈍麻が原因かはわからないですが、今処方されている薬の効果にずっと無自覚だったものが徐々に認識できるようになってきました。私にとってよく眠れた、という感覚は意識しないと自覚できることではありません。個人的には一番爆睡できるのは飲酒後だと思ってますがそれは良質な睡眠とは言えない“寝酒”という悪癖だそうです。まったくこのあたりの自分の感覚は当てにならない(だから困っている)。
ぶーちゃんは熟睡できるという効能がある薬で1〜2錠を調節して飲んでくださいと言われたわけですが、幻聴の症状に対して処方されたものなので調節の仕方がピンと来ず幻聴症状を自覚した時にだけ飲んでいました(そもそもの幻聴も自覚が難しい)。
しかし先日やっと夢により明らかな違いが出ていたのに気づきました。
・服用無しで寝た場合
①知らない女性と知らない探偵から何度も間違い電話がかかってきてとんでもなく怒られる夢を見る。恋愛沙汰のいざこざについて私に怒りを一通りぶつけてくるので言い返し弁明の為に過去の私の電話番号まで教える羽目になる。
②ダークサイド版ホグワーツに入学したら、校長がダークサイドスネイプ先生でたくさん厳しいこと言ってくる夢。夕飯は美味しそうなビーフシチューが出てくるのにスプーンに穴が空いているので食べれない。ちょっとした地獄。
・一錠飲んで寝た場合
①猫三匹と子羊と戯れる夢を見る。途中の急展開で空から落ちてきたラーメン皿に羊は首を切断されて死んでしまう。しかしラムチョップとしてみんなで食べることになる。解体前に目覚めた。
②ロンドンの天使からクリスマスカードを買おうとする夢を見る。天使を含めたみんなでわいわいクリスマス会をしている(私含め英語音声)。
文字起こしをしてみると、脳みそってこんなに単純で良いのか?ってくらい分かりやすかった。
私には過去のトラウマのフラッシュバックがあります。その関連の夢を見ると現実と夢がごちゃ混ぜになってとんでもなく疲れます。へとへとで起きた後も過去を思い出して気分が落ち込む始末なので、こいつは効いているようです。
それから薬を飲んだ方が思考が愚鈍になって、入眠がスムーズです。二錠服用した際は夢を見ているのか、夢は起きて数時間以内に忘れているのでわかりません。しかし次の日には活動的なこともあるのでより良い質の睡眠ができているのではないかと仮定、自分の中で安定した服用に変わってきました。
目覚めたら枕に点数がついてて睡眠の質を採点しておいてくれればいいのに。もしもシングルベッドで眠るようになったら睡眠アプリの導入もしてみたいです。
しれっとしてるの2人は効果が遅く出る薬でいまだに判りにくいです。コンタクトも取れない宇宙人のような存在なのです。いつか何かしてくれるのだろうか…。
自分の感覚を信じるのはやめたこの頃は睡眠時間を日々記録しています。数は何より記録として比べやすいなんて小学生レベルの常識に立ち返っています。
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【秋田出店】2024年5月あきた産デーフェア
↑始まりました!あきた産デーフェア。
会場へ到着して品出ししようとした途端、たくさんのお客様に取り囲まれて、あっという間に一瞬でたけのことわらびが売り切れてしまいました。お写真撮る暇もありませんでした。感謝。
↑品出し完了!
↑今回も手作りの自家製アイテムばかり!
ゆめおばこ(精米)・いぶり漬け・いぶり大根醤油漬け・きざみ味噌漬け・大根ピクルス・ばっけ味噌・山ふき佃煮・うるい浅漬け・乾燥ぜんまい・生わらび・たけのこ(根曲がり竹)・ゆべし・ほしもち・手作り小物 等を販売しました。
↑手作りマグネット達。
↑東京かっぱ橋散策の時にゲットしたまねきねこ前掛けを装備。まねきねこが持っている小判には「千客万来」。沢山のお客様にご来場いただけて、前掛けのご利益あったど~!
今年は山菜と田んぼと畑と出店が全部一度に重なって、準備がひいこら大変だったけれど、今回も田沢湖の手作りんめものを沢山お届けすることができて、ひとつ目標を達成することができ、また次回もがんばろうという目標ができました。秋田黒猫屋、がんばるでぃー!
■■■おまけ■■■
↑出発前朝7時のにゃむくま。じじ、謎のカメラ目線。
↑玄関の門のところで、それぞれくつろいじゃってるにゃむくま。
↑5分前までお布団で爆睡していたにゃむちゃん。ゴキゲンころんころんが止まりません。
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弦巻マキと私が怪談をする理由
「モカちゃんだよね?帰国子女でイギリス育ちって、マジ?」
転入初日の転校生の私の周りはきっとそういうセリフで溢れかえるのであろう。宮舞モカは、脳内で同じ景色のイメージを繰り返した。「モカ」という、自身の本名で弄られることもあるかもしれないが、その時は、「モカちゃん、モカ好きだったり?」と意地悪く聞かれてもこう答えるつもりだ、「まあ、実は」。
キャラ付けは、唐突な理由であったとしても、やぶさかではないのだ。
宮舞モカはいわゆる「陰キャ」だ。陰気なキャラ、陰の気を纏うキャラ、陰気な雰囲気なキャラ、陰険不粋支離滅裂……自分をそのように定義してきたのはモカ自身であった。
もしモカの守る強い自我が壊れるとするなら、陰を圧する程の陽気を身に纏った「陽キャ」によるものである、とはモカにとっては自明の理であった。陽の気を圧倒する陰の気で武装すればモカの自我は守られる。だから、モカは「陽キャ」に対抗できるだけの陰の気を使い、陰気に陰で人目につかないところで論理を講じれば良いだけだった。
それがモカの考え得る「最適の生存戦略」であった。モカは生き残らねばならなかった。
情報収集のためにモカは引っ越したばかりの土地で一人散策をした。
一人行動が肝で、これは「学校で一人で行動していても猫好きな自分は気質が猫的であるから」と上手く納得してもらうために、考えた設定だった。
母がイギリスで可愛がってた野良の黒猫は、その為に「モカの唯一の親友なのだ」とモカは母にわがままを言い、日本に連れ帰ってきてもらった。モカの唐突な強い自我に驚いて母親はもちろん、快諾した。
しかしもちろん、これは嘘だった。イギリスの話を聞かれたら、猫といたから寂しくなくて、友達が居ないんだとか、居なくても平気とか、自分の話を避けたくて作った設定だったのだ。別に猫が居たから友達を作らなかったんじゃなくて、アニメの話をする友達をネットでだけ作って、引きこもりを家族に心配させないためだけに家にいる趣味を作っていたら、こうなってしまったのである。
音楽を聴くのが好きだったわけじゃあない。黙っている言い訳が欲しかったのだ。ヘッドホンをつけて、下を向いていたい。しかし、そうやって快適に無挙動でいるために世界観を領域的に展開する完璧な選曲のプレイリストは、気付けば独自色が強く、自我を感じずに居られぬ趣味の様相を放ってしまった。ここまで蓄えた知識を、使わない陰キャではない。ネットDJを、始めた。ショート動画を投稿して、猫ミームに乗せた自分のニッチな趣味の、わかる人にはわかる感じがある、そういう音源を加速させたりノイズを入れたりした、ヤバい感じ、普通じゃない感じの音源がコメント欄で、「ヤバい」と賑わうのが、モカは爽快であった。
モカは承認欲求を醸造した。
一挙手一投足がキャラ立てしていなければならなかった。
それでないと全て夢が晴れてモカは現実が見える。嘘は少し真実が入っていて美化されていれば、趣味がいい表現方法になる。もしモカが、ただ単に英語を喋れるアニメオタクとバレてしまってはいけない。それをモカ自身も気づきたくないしモカが気付かなければ突っ込まれることもないだろう、だって陰キャだから。
そうやって、自我の強さを隠せぬまま、モカは新しい町の一角で寂れたカフェに入った。しかし、思ったより中が小綺麗であり、そこに予想外で慄いてから、顔涼しく自我論理を整理して気分を落ち着かせていた。ちなみにもちろん、モカを注文した。
気分が落ち着いてからモカは思い出す。時間差でジワジワ襲ってくる本当の問題はそのカフェモカを持ってきたのが金髪の少女だった事であり、しかも……
「(えっ……同じ制服なんだが……?)」
……モカのこれから通う、学校の制服を着ていた事であったのだ。
宮舞モカは、いわゆるハーフ、ではない。純日本人の「純ジャパ」であるから、「帰国子女」属性だった。
これはこれから通う学校で既に外国情緒枠が埋まっていて、しかもそれを外見で即捕捉出来てしまう「パッシブスキル」としての「外国情緒」枠である。宮舞モカ、彼女のように、「アクティブスキル」として、使う武器として、コマンドを押さないと発射されない「外国情緒」じゃない。ここまで来ると下位互換で呪いに近いのだ。「英語出来るマウント」で、押し通すしかないのだ。
しかしそれにはこのブロンドの少女が、英語ができるのかできないのかを判断しなきゃいけない。この日本で私以外に英語ができる人がそんなにいるわけないから、私が話しかけて判断しなきゃいけない。
ーーハードルが高すぎる……。それじゃあ、外見を。
「パッシブスキル」を盛るしか。それしかないのである。アニメ属性として、「海外育ちはエロくて無意識だ」なんてものがあるのだ。こいつは、使わない手は無いので、日本で「ドM」の象徴のチョーカーとか、日本育ちでは珍しい「谷間の露出」、そういう私が英国でもやってない格好を日本国でやることにした。
幸い髪も切って、インナーカラーを入れて(アニメでも流行ってる)、そうすれば、大人しくて怖く無いけど外国人的でかっこいい「私」が生まれ、金髪の子にも客だったのがバレず済む。今日起こったことは転生モノの小説の、転生前に突然起こるトラックの接触事故だったのだ。金のトラックに私は事故って、今、神の恩寵により理想の自分自身に生まれ変わったのだ。そういう流れで私の事前知識系チート人生が始まる。
……はずだったのだ。その少女は、私のクラスに居た。そして、帰国子女設定を盛り過ぎたせいで、陰キャ隠しのための「大人しいクール系」設定が化学反応を起こして、「日本語が苦手」だと先生に思われてしまった私は、クラスで唯一英語が出来るその少女の隣の席を任命されてしまった。そしてその少女にマシンガントークで英語で話され、私の「一目置かれる黒猫少女」という夢の学園生活は終わりを告げた。
ーー絶対今浮いてんじゃん。
ーー絶対怖がられたな。
もうキャラ変更が容易に出来なくて、脳内の自由が、アイデンティティの可変性が私からは消え去っていったと感じていた。思ってた流れではなく無意識に、「興味のなさそうな生返事をする無気力系無言威圧主人公」に私はなっていたのであった。
「日本語は、どれくらい出来る?今言ってること、わかるかなー?この後の授業とか、先生に相談する?あ、英語で言い直そう!えーっとねー」
「あ、えっと、弦巻、さん……だっけ、私、日本語出来るから……気を遣わないで、ね」
「うっわー!日本語ペラペラじゃーん!やばー!心配したの恥ずかしすぎる!みんな、モカちゃん日本語めっちゃうまい!」
ーー何故……
何故全てが、悪い方向へ行くんだ?「英語めっちゃペラペラ」の想定はしたが、「日本語めっちゃペラペラ」は想定せず、日本語のうまさで弄られるのも想定せずにいた。
「あはは……私、アニメ好きの陰キャですので〜……ははは……」
もうクソ喰らえで私は、自ら白旗を上げ、セルフハンディキャップという完全なる防御技を繰り出すに至った。セルフハンディキャップとは、自分自身の自我を守るために敢えて自分を「最初からできない奴」と定義して、自分や他人からの失望に先制して釘を刺す行為だ。
「マジで!?私、バンドやっててさー!アニソンめっちゃ弾いてるよー!ギュンギュンって、ムスタングでね!エレキギターなんだ!」と弦巻マキは金髪を振り乱して陽キャに語った。早口語りもこいつがやれば可愛く済むようだ。もう脳内にさえ私の居場所は無い。
「そうなんだ……なんか、すごいね、弦巻さん……私なんか、一人でネットでーー」
「あ、弦巻さんじゃなくってマキでいいよマキマキとかマッキーとか」
心が完全にポキリと折れた。三つの選択肢、多すぎる。私には何もわかることができない。
今、自分が猫だったら奇声をあげて飛び上がってそこら中にあるものにぶつかりまくり部屋を出ていた。本当に人間でよかったと思うし、もう黒猫女子なんてクソ喰らえと感じていた。人間万歳だ。
「じゃあ、マキ、さん、は……えと、沢山あるんだねえ、好きなこと……」
嫌味のつもりで言った。早口でうざい、と言うつもりで。弦巻マキは笑顔で頷いて、私は消えたかった。私が昔言われたことは、彼女にとっては褒め言葉に感じるのだ。私はやっぱり普通じゃ無いのだ。やはり私は新しい自我を創り出し、その中で完璧にキャラになり切って生きなきゃいけないのだ。
宮舞モカの肉体とキャラという棺桶に生きるアンデッドだ、私は。スクールカースト外の最下層で、人々に生かしてもらわなきゃいけない、精神的インプレゾンビなんだ。建物の中に生きている血肉の気配と音だけで駆けつけて必死に這い上がる腐乱死体だ。頭の中で一番大きな雑音の「弦巻マキ」に、本能で追い縋るしか私は出来なくなってしまっていた。
そんな風に、私は彼女の父親が営む「喫茶マキ」の常連になっていた。
放課後、隅っこで、店を手伝う弦巻マキの淹れたモカを飲み干し、おかわりを気付いて淹れてくれる弦巻マキとの無言の交流を「特別さ」の演出のために知らぬ顔で用意した。幸い、ノマドにオタク陰キャをさせてくれるだけの物質的優位性を私は確保出来ていて(スマホ、タブレット、ノートパソコン、ファイルのクラウド連携等)、私はずっと殻に篭ることができた。猫が懐く時のように、距離を置きながら空間を共有した。庇護欲に頼りたかったからだ。でも、弦巻マキは私を庇護しなかった。
「モカちゃ〜ん、今日も、閉店まで居てくれたね」
弦巻マキは笑顔で身を乗り出しながら、向かいに座る。これは、毎日の日課になった。彼女は、私が彼女のために閉店間際まで店にいると思っているらしい。そのポジティブな陽キャ思考の恩恵で私はほとんどの文脈を自分で作ること無しに受け身に築かれた、対等なる友情を享受した。
「うん……マキちゃんが居るから……えへへ……迷惑かなぁ……」
迷惑なわけがない。弦巻マキは、思っていたよりも、静かな時間を好むタイプだったからだ。
学校では明るく音楽や友達の話をし、ギターを練習して、時には歌ってから、家に帰る。父親のためと思われた喫茶店での手伝いは、むしろ自分のために行なっているようだった。コーヒーを淹れ、掃除をしながら、完全に「ここにいない」、空想の世界に旅立った虚な目をした弦巻マキを、そのうち地蔵のように意思なく座る宮舞モカに対して頻繁に見せるようになったからである。
そして、毎日毎日閉店後に自分の向かいに座る時、私に対して「何か」確認するような目線を向けることが増えていたのだ。
それが何かわからない。しかし、私にそれに同意する以外やることは無い。私は意思無く、彼女の意味のある目線に同意するように目を合わせ続けた。
……今思えば、猫同士がお互いの存在を確認し合う時にそうするようにだ。
「迷惑なわけないよ、私って……、学校での時が、全部の私じゃないし。それを見てる人がいると、ちょっと救われる、自分は普通じゃなくても居場所がありそうだから……なんちゃって。重いかも!」
どきり、とした、普通じゃない弦巻マキと言われると私もそうだと言われた気がした。
だから、私はそう言い、続けた。先に言って、認めちゃえばいいと思っていた。
「わかるよ。私も普通じゃない部分あるし、シャーロック・ホームズだってさ、普通じゃない……そう言う人が、普通じゃない視点だから普通じゃない事件を任されて」
シャーロック・ホームズが特段好きなわけじゃなかったが、その英国で一番愛された虚構の人物になれば、虚構の中に住む自分が愛せるきっかけになると思った。私は、自分を構成するもの全てが、消費され得る要素に格納されてなければ、安心して生きることは出来なくなった。
そして、シャーロック・ホームズを引用する私を弦巻マキはとても愛していた。引用する度に拡がる瞳孔を私は決して見逃しはしなかったし、それは私を安心させた。
「モカちゃん、詩人だよー!モカちゃんってシャーロック・ホームズ大好きだよね。流石、イギリスの帰国子女って感じ!私と違って、すっごい、頭いい感じする、教養っていうの?かな〜、うんうん」
また私は、安心した。私が持つものが弦巻マキに無い要素ならば、彼女は完全なる存在であるために私を必要とし続けるだろうと考える。
私が彼女を完全にする、ピースでなくてはならない。弦巻マキを構成する欠けたピースは、私が全て推理して突き止めねばならない。そして、それを全て合わせて、答え合わせをするのだ。今この時のように。犯人は、必ず全てを自白しなければならない。弦巻マキの罪は、私が一番知ることになる。
「それでさ、アーサー・コナン・ドイルって、すごいオカルティストだったっていうのもモカちゃん勿論知ってると思うんだけどさあ」
何?
「うん、そうだね、オカルトエンドの話とかあるしね」
心臓が早鐘を打つ。この入り方はなんだ?
「うんうんうん、そうそう!未知を探求して証明する人が、証明出来ない現象に対してこの世界以上の存在を認知して知覚してしまう、その在り方がすっごくいいと思うんだ!私の持論だけど……」
「わかるよ。私も、この世界がなんだよって思うし、さ……この世界の原理なんて、ぶっちゃけ超自然の前ではゴミカスに過ぎないしね、あはは」
「そうだよ!!」
えっ?弦巻マキは興奮している。私はこれが何かわかっていないが、彼女の呼吸、空気感、リズムを体の方が既にわかってしまっていた。
毎日毎日擦り合わされた充満された空気の密室で、私たちは重なり過ぎていた。
だから、口を突いて、彼女の求める事が体全体で勝手に出てきてしまっていた。私は言った。
「なんていうか、目に見えるものなんか全部虚で、全部幻想なんだよね。全部意味なんてないよね」
……弦巻マキの頬が紅潮してゆく。私は弦巻マキの何かのスイッチを押してしまったようだった。
金髪のエメラルドの瞳の、繊細で柔らかいマキ、頬の肉が幼さを感じさせる。
彼女の前で私は、彼女の肺を満たし続ける「空気」で居続けるしかない。彼女は大きく息を吸い言った。
「それって、本当そうだよねー!私も、たまに逃げ出したくなるの、私っていう存在から。でもね、私という存在って本当は儚くて……本当はすぐ消えちゃう、霧に映し出された幻想で、まやかしなんだって思うと救われるの。だから、この社会を生き抜くために私たちは、ぶっちゃけ非日常の真実に向き合い続けねばならない」
弦巻マキの本気の時だけ使うテナーの声が、私の鼓膜を揺らす。平衡感覚がおかしくなりそうであった。もし、私が猫だったなら、よぼよぼと足腰が不確定に揺れたであろう。
「モカちゃんって、猫ちゃんとしか仲良くないじゃん?特に黒猫って、不幸の象徴としてヨーロッパで狩られ続けたけど、私、それってモカちゃんがワトソンくんをすごく可愛がってる理由なんじゃないか?ってずっと思ってたの。自分を重ねるって言うのかな!?そして、それが今わかった、やっぱりそうだったんだ!すごいすごい!モカちゃんやっぱり詩人だ!詩は、オカルティストが暗号を隠す一番愛された手段だから!モカちゃんは、生き方がタロットカードでグノーシス的なのだ!」
金切り声を上げて、マキは大喜びした。マキの唐突なラップバトルに、私は加勢した。
「そうだよ!全ての生きとし生けるものの行為は霊的実現で、生命の樹を上に辿る知恵の道なのだ!」
もう弦巻マキは、ギターさえ必要としていない。ギュエェー!とギター顔負けのリフを喉から搾り出し、弦巻マキはのけぞり膝をついたのだ。ギターのムスタングは、彼女が社会的顔を保つための、彼女の身代わりで、ガワだったのだと思い知った。
もう彼女を止められる人はどこにも居ない。
マキは続けた。止まったらきっと、息が出来なくなって絶命する。
「私静電気すごい起こる体質でさぁ〜!たまに、静電気でビビッて髪の毛逆だっちゃってアンテナみたいになるんだ!妖気、感じてんのかな〜?人間はみんな体に電気が通ってるんだけど、霊もプラズマとか電気的エネルギーだって説があって、実際埃っぽいとこで出やすいらしいんだよね。だからモカちゃんもいつも埃っぽいの?」
「エッ、うんそうだよ当たり前じゃん!やっぱりその方がインスピレーション湧くから!チャンネル合うっていうのかな!すごいよね!」
はあー、と弦巻マキがため息をついた。これは私でも解るが絶対恍惚の吐息である。
「実はさ、モカちゃんといる時の方が静電気酷くなるんだよね」
前情報を元に弦巻マキの頭頂部に目をやると、やはり、毛が二本アンテナのように逆立っている。
嫌な予感がする。私はホラーは大の苦手なのだ。深夜に怖い話やスレを読み漁るのは自傷としてのホラー鑑賞なのに。
「これから毎日、うちで夜まで怖い話しよ!」
私は、完全に諦めた。
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本来の神道は共同体を繋ぐために 生活の外の保ち方こそだよな、その目的も。
急にそうなった、わけじゃない。
心の穏やかさって、歳をとるほどに楽な単純化とだけされがちだけど、当然そんなこともない 頭でどれだけ考えても考えても 奪われるくらいなら隠すような 子供と老人との葛藤なんかまさにこんなとこか? 私は乗り越えられるかも分からない知らないままといえど 方向づけは変わってもいくはず並走する思考と 憎しみや恐怖や畏れを、異論の言い張りにしたいだけの強さかもしれないだよ
道徳、で片付く命 そんなこと 繰り返せない
方便という言葉の柔軟に私もはっとなった時があったっけな 体系化を逸れていきたくて? 馬鹿にされたくないという思いが、相手を知らないまま続くのなんか 生きてる時だけでいい 潔さの罠もー 否定し尽くす方向も引用されてきた。あっ、金閣 消失の時代は?1950。 ほんっとーーに独りになるか、皆が死ぬしかなさそうな時とか、極限の二対が純粋に反動されていくイメージもなるほどだ 心のありようの色味と、無関心と、私も何にも頷けなくなって固まってどれくらい経つのか長いのか短いのか
死ぬ覚悟さえあれば恥かかなくていいのような。また、死にたくないや恥が嫌の会話は杉本的にはまだ、私。 ...でも恥を許さないも私な気も。シンプルな逆を否定だけしてしまうとこういうことなんだな、。 自分のありのままをまず確かめたいそれもままならないままで、いいの?どうでもいいの?と感じると、信じられないし怖いよ。綺麗事だと分かっても、棚に載り合っても、やっぱり刷り込み記憶の中の環境や影響をすり替えることなど無理だし 自責を塗ったとして受け入れられない��ととのはざまで極にだけ欲にだけ 乗り越えたと言い切った信仰にだけ、ぐいっと慣れてしまえるそのこと だけでも、エンパシー的に捉えたと思いたくなった 怖かったからこそ悩んだのにさ 外からの守り方も分かんないで いたよ
自分は金持ちだから貧乏な奴を
純粋な逆、を 追求、すると、「私なし」になる。そうだよな。or die. 命ならば皆、に ならされてしまう。
中島さん 杉本は1900年生まれ世代 子供の頃から将校に憧れていたという 大正時代は思想の形成期そのものの期間であったため、彼らは青年期を思い悩んだ世代という。どう生きたらいいか分かんない。大正時代から若者が哲学や宗教、文学などにアクセスしていった と。そっか中学生とかの頃バッと推奨されるレールが雑然となったんだ。認知的不協和を適応しうるかその応じ方はいかようか見ていくとするにも、困惑の非常時って何だっただろうここにあったろうとすごく 思った。ロストジェネレーションって繰り返しどんな割り切れない色の中にもあるとは感じてしまうけど、戦争ってそういうことなんだ 水木しげるスペの時も揺さぶられたのはこういう強い言い切りへの異論を育てたかった面の...反動や抵抗であったろうが、戦争のことを喩えに出すとやっぱり、より一層'死をそんな単純に容易くするのか?'という否定が生じてしまって、とても辛かったけど感情は正しいと思ったようなタイミングだったんだ。非常時だったらどうするんだ他人を傷つけるのか?という思いについても、自分の凍りついたままのものを突きつけられる。
たどり着くような東洋の無に、◯の中にね天皇を入れたら無じゃないのでは? 杉本的な合わせ技の曰く、天皇が無心だから、。幻想は飛躍、断絶だ。アイドルは... 本来は、神々と天皇は符号しない、政治の担い方もね。この非常時感と、引きずり感と、中空の輪郭はそのまま旧い心の層にあることと。 一人歩きしていくね。要約が拡散されていったんだね。借り物の意欲が楽なかたちを、どこかで許す、罰する。人の目や国の目。 貨幣の中身は空っぽだから覗いて取り込まれては危ない平時。廻り方は🪙純粋になってはいけない、原理だけでない、比喩の風呂敷だけでは(も)頭が追いつきそうにないけれど、机が何なのかからも逃れきれそうもないな 猫に小判なのかもしれないけど、それでも感情が あるいは現実と理想が 叩きつけられたところで、無いから
小さな哲学を 小さな、そして切り貼りでなくなれたらいいなぁと それ は 願う
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パレスチナ料理を食べてきました(前編):申しこみから入店まで
前回の投稿 から、あっという間に一ヶ月以上が経ちました。
イスラエルによるパレスチナへの攻撃はいまだに止まらないどころか、この瞬間も最悪が更新されつづけています。停戦しろ。虐殺をやめろ。民族浄化をやめろ。封鎖と占領を終わらせろ。同じ言葉を繰り返しながら、まとわりついてくる無力感をどうにかこうにかふりはらい、自分にできることに取り組む日々です。
この文章も、そうした試みのひとつとして書きました。
少し長いのですが、
・「パレスチナ料理を食べてきました(中編):高橋美香さんのスライドトーク」
・「パレスチナ料理を食べてきました(後編):いただきます!」
と併せてお読みいただけますと幸いです。
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●きっかけ
今から三週間ほど前のことです。友人のフェリックス清香さんのツイート で、「ランチトリップ」というNPO法人と、同名のイベントの存在を知りました。なんでもこのたび「パレスチナ西岸地区便」が出るとのこと。
“食と旅を通して、知らなかった世界を楽しく学び、自分のこととして考える体験を提供するNPO法人LunchTrip。10月7日以来、私たちはガザで起こっている人道危機を連日目の当たりにしています。ガザ地区だけではない、パレスチナで起こっていることをより身近なこととしてとらえるきっかけにするため、緊急開催します。パレスチナに通って20年以上、人々と交流して撮り続けてきた写真家、高橋美香さんをガイドに迎え、報道が少ないヨルダン川西岸地区の町にスポットをあて、人々の暮らしの実態について聞きます。 トークの後は、2011年から十条で営むパレスチナ料理店・ビサンの店主おすすめスペシャルコースで、本場の味をゆっくり楽しんでいただきます。目と耳と舌でパレスチナを体感する。ご搭乗をお待ちしています。” (https://peatix.com/event/3767575 より)
参加したい。すぐにそう思いました。
これだけ毎日パレスチナの情報を目にしているにもかかわらず、パレスチナの人たちが日頃どんなものを食べているのか、私にはまったくイメージがわきません。写真家の高橋美香さんがいらっしゃるのにも惹かれました。
高橋美香さんは、パレスチナの人々の暮らしを長年にわたって写真と言葉で伝えつづけてきた方です。私がパレスチナについて知るために頼りにしている本のリストにもご著書が複数入っており、信頼のおける方だと伺っていました。直にお話を伺える機会は貴重です。
ただ、申し込みをするには勇気が必要でした。
まっさきに頭をよぎったのは「今日の一日分の食糧はこれ」という言葉ともにSNSにアップされた、手のひらほどの小さなパンの写真です。現地の人たちが飢えに苦しむさなか、爆弾が降ってくる危険のない、銃を持った兵士が押し入って来る恐れもない、安心で安全な屋根の下でパレスチナのごはんを食べる? 今回の大虐殺がはじまるまでパレスチナに対してなんの関心も払ってこなかった私が? それは都合のよい消費ではないか。ひとたびそんな考えが浮かぶや、拭うことができなくなりました。(この批判はあくまでも私自身に対するものであり、ランチトリップに向けたものではありません。念のため)
そもそも、この期に及んでようやく「興味を持った」こと、それ自体が暴力にほかならないのではないか。自分が現在パレスチナに向ける視線を、私はそのように感じています。パレスチナの人たちは、シオニストによる追放と占領がはじまった1948年から今日に至るまでの75年間、ずっと声を上げつづけてきた。なのに私は無知と無関心からそれに気づかず、毎日毎日夥しい数の人が殺される異常事態になってから、ようやく目を向けるようになった。あまりにも遅すぎます。
そんな自分が、今起きているような事態を阻止しようと発信をつづけてきた高橋美香さんや、おそらくパレスチナ出身であろうお店の方に、どんな顔をして会いにゆけばよいのかが、わかりませんでした。
それでも最終的に参加しようと決めたのは、遺体や瓦礫ではない、生きているパレスチナの人たちとその暮らしを知ることが、自分には必要だと感じたからです。
どうしたらパレスチナの人たちが数でも記号でもなく名前と顔のある一人一人の人間であることを、実感をもって受けとめつづけることができるだろう。先日の”Lights for Gaza”をきっかけに抱くようになった問いに対し、ランチトリップはひとつの答えとなり得るように思われました。
●美香さん
そうして迎えたイベント当日。十条にあるパレスチナ料理店Bisan(ビサン)のドアを開けると、溌剌とした声が飛んできました。
「こんにちは!」
満開の笑顔を向けてくださったのは、なんと高橋美香さんご本人。参加者一人一人を「こんにちは」と「ありがとうございます」で出迎える表情はにこにこ明るく、スタッフの方と話す声もほがらかで、緊張気味だった肩からすぐに力がぬけました。オーガナイザーのKazueさんをはじめとする関係者のみなさんが、美香さん、美香さん、と呼ぶのを聞くうちに、私もおのずと美香さんとお呼びするようになっていました。
こんなにもやわらかく温かい空気をまとった方だったのか。胸を突かれるようにそう思ったのは、最近になってTwitterで美香さんを知ったばかりの私の目に、美香さんは常に怒り、苦しみ、悲しんでいる人として映っていたからです。
この二ヶ月のあいだ、パレスチナに友人や家族を持つ人たちが、SNSでリアルで、必死に叫びつづける姿を目にしてきました。かれらは常に怒り、苦しみ、悲しんでいる人として私の前に現れ、以降ずっとそうありつづけている。だけど違う、そうじゃない。そんな当たり前のことを、美香さんとお会いして思い知りました。本当は一人一人に喜びや楽しみがあり、大小さまざまな関心事があり、パレスチナに目を向けてと発信しつづけるかたわらで、上手にできたごはんの写真をアップしたり猫を吸ったり詩を綴ったりしながら、各々の日常を送っていたはずなのです。なのに今のこの状況が、そうしたすべてを塗り潰している。
悲しいです。やりきれないです。せめて、当事者にかぎりなく近いところに立つ人たちが血を吐くようにして上げる声を、少しでも遠くへ届けたい。
そんなことを考えているうちに、スライドトークがはじまりました。
▶︎「パレスチナ料理を食べてきました(中編):高橋美香さんのスライドト���ク」へつづく
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詭弁は無視が一番だけど
Twitterでいつものように感想を述べるために引用RTをしていたら、変な人に目をつけられてしまった。結論、私は反論も接触もTwitterではしない。
でも誤解されているのは嫌なものだ。気持ちの整理も兼ねてここで私の意見を述べる。冷静さを欠いている自覚があるのでブーメランになっている箇所があるかもしれないが。
内容まとめ:批判が詭弁(ストローマン論法、論点のすり替え、レッテル貼りなど)を含んでいた場合は相手にしないほうが吉、しかし分かっていながら抑え込めない私も幼いな。
0.目次
何が起こったのか?経緯を書く
出来事・情報の整理
情報操作の種類を簡単に説明
相手の発言の分析(どこが情報操作なのか)
私の感情
1.何が起こったのか?経緯を書く
ざっとまとめると、現在進行形でこのような出来事が起こっている。
S29真髄3のビクターUR衣装に、似合う/似合わないの意見と攻撃が発生(公式イラストに手を加えて修正を求める人もいた)。
ウィックのビジュアルが解禁。これまでのデザインとは大きく異なり、これに対しても意見と攻撃、修正要求の声があがる。
「文句を言うな」という、意見・攻撃に対する批判が起こり、炎上のような形になる。
公式がウィックのデザインを変更すると発表する。
公式の発表と意見・攻撃に対してさらに批判が集まる。
ビクターの衣装が公開されたとき、私はビクターの衣装が「好みではない」と言い、いくつか感想を述べた(詳細はリンク先で確認できる)。
次の日、私のツイートがいいねもなく攻撃的な文面とともに引用RTされていた。
2.情報の整理
【引用RTした人物(今後Aと表記)のツイートの要点】
イライと梟とアンの猫は衣装に応じて彼らの見た目も変わっているのに文句を言わないのならポストマンのウィックのデザイン変更についても文句を言うな
公式の発表したものが全てであり、文句を言うべきではない。公式にリプしても変わらないから諦めろ
ビクターはポストマンだから貰うより配る喜びが合っている
VALEオタクはキモイのしかいない
第五人格の女性プレイヤーはやばい奴しかいないと証明された
腐女子プレイヤーは最悪
【AがRTしたアカウントのウィックに関するツイート①】
【AがRTしたアカウントのウィックに関するツイート➁(リンク先が最後のツイート)の要点】
色んな犬になるウィックはすごい(デザインに対し肯定的)
他キャラの動物は見た目が変わってもポストマンにだけ文句を言うのはおかしい
見た目が嫌ならガチャを引かなければいい。文句を言うな腹が立つ。ポストマン推しの印象が悪くなる。ポストマン推しを名乗るな(公式に攻撃的なリプや引用RTしている人に対するツイート)
デザインを変更しなくてよかった、公式は謝罪すべきではない。配慮ではないしプレイヤーが勝手に喚いているだけまだ実装もされていない衣装にリプや引用RTで喚くな
3.情報操作の解説
情報操作とは何か。その一部を手短に書いていく。詳細はリンク先かブラウザで調べてほしい。
詭弁:意図的に誤った推論形式や前提を使用して主張を正しく見せかけること。
ストローマン論法:相手の意見の内容を歪めたり、一部のみを取り上げて拡大解釈したりして批判するもの。
論点のすり替え:名前の通り。
レッテル貼り:偏見で一方的に評価・分類・格付けし、型にはめること。ストローマン論法に用いられる。
誤謬:詭弁の無意識バージョン。間違えているだけ。
4.相手の発言の分析
Aのツイートでは様々な情報操作を行っている。先に述べるが、このようなタイプは対応すると事が面倒になる。触らぬ神に祟りなしという言葉のように無視したほうが吉だと判断し、Twitterで私は無視することにした。
なお、この項では情報操作を行っている箇所を取り上げる。
他キャラのデザイン変更を受け入れるならウィックのデザイン変更も受け入れろ
→詭弁。ストローマン論法(論点のすり替え)が含まれる。今はビクターとウィックの話をしているのであって、イライやアンは関係ない。
そもそも、ウィックのデザインは実装時URから一貫してボストンテリアのような犬種でデザインされてきた。しかし、イライは実装時からURで梟の羽角が取り払われがデザインになっており、たびたび別種の鳥としてデザインされてきた経緯を持つ。元から様々なデザインで提供されてきたため、プレイヤーもそういうものだと受け入れるだろう。アンに関しても、実装時URはともかく校監夫人の衣装では猫がスフィンクスのような品種に変更されていた経緯がある。これまでの経緯が異なるキャラクターを引き合いに出したところで、それは論点のすり替えに他ならない。
公式の発表したものが全てであり、文句を言うべきではない。公式にリプしても変わらないから諦めろ
→詭弁だ。前提が誤っており、ストローマン論法が使われている。公式が正しいとは限らないし、私は文句を言っていない。更に、公式へのリプも変更を求めているものばかりではない。
たとえば、公式が公開した象牙の塔シリーズの踊り子のイラストは他ゲームのイラストを模倣しているが、公式は批判に対応していない。法人であるネットイースが商用にイラストをパクっているのはいかがなものか。"私は"正しいことだとは思わない。
そもそも、概念に対する正しいか正しくないかの普遍的な判断基準は無い。主観的な物であり、人によってその判断は異なる。まして、第五人格はキャラクター像が曖昧なジャンルである。それらしい像は存在するが、正しいキャラクターそのものは存在しない。それは二次創作だけでなく公式の発表するものでも同様だ。複数の人が集まってキャラクターのデザインを考案しているため、そこにあるのは理想としているキャラクター像という概念だけであり、キャラそのものは存在しない。往々にして、その概念に近づくように作り上げることしかできない。
また、私がTwitterに書いたものは全て感想である。変更しろとは書いておらず、個人の好みの問題であると書いたうえで好きじゃないと言っている。更に、ウィックに関してもデザインを変えろとも言っていないし嫌だとも言っていない(文脈的に誤解されかねない書き方なのはこちらの落ち度である。文字数の都合でこうなった)。
公式のリプで意見をするなということに関しては同感である。定められた手順:問い合わせ機能があるのだから、公式へ何か聞きたい・物申したい場合にはこれを使うべきだ。
ビクターはポストマンだから貰うより配る喜びが合っている
→私からしたら誤謬である。少なくともそれは個人の解釈によって正しいか正しくないかは変わってくる。Aが私にそれを諭す道義はなく、逆もしかりである。ただ、個人的にこの解釈はビクターの核に触れるものなので、これに関しては次の項で詳しく扱う。
VALEオタクはキモイのしかいない・第五人格の女性プレイヤーはやばい奴しかいないと証明された・腐女子プレイヤーは最悪
→詭弁だ。前提の誤り、ストローマン論法(レッテル貼り)が含まれる。
キモイというのはAの個人的な感情であるが、これは攻撃的な文章であり、誹謗中傷にあたる可能性がある。全体をみずほんの一部のサンプルから全体を語る方法では現実から大きくかけ離れた"全体"しか見ることができない。
5.私の感情
少なくともアンチコメントは嬉しくないが、それだけなら無視で済む。ただ、誤解を生むような表現を広められたら苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべてしまう。だからこうして書いているのだ。一部を切り抜き、私の書いた感想とは異なる印象を与えるようなことをツイートしないでほしいと思う。
私がAに対応せずブロックして無視する理由は、①ストローマン論法を使う人とは会話が成り立たないことがほとんどだから(この時点ではこの考えもただのレッテル貼り)➁Aはビクター愛の強い人物だとは思えない③誰かを攻撃したいだけの人だという印象を受けた、の三つだ。
特に、ビクターの解釈が決定打となった。
Aは、ビクターは手紙や小包みを配って喜ぶ方が、貰っている姿よりも似合うと言っている。似合うかどうかは人それぞれで判断が異なり、それはAの意見である。私と違ったところで誤りを正せとは言わない。しかし、私はAがビクターのことを知っていたらそんな風には思わないだろうと考える。
ビクターはキャラPVで手紙を自分に送ってくれるような友人がいないことを悲しんでいる。また、クリスマスセレナーデでも誕生日の自分への贈り物がないことを悲しんでいる様子が描かれている。更に、秋の文通イベントでも同様に、手紙を貰ったことがないことを悲しみ、詩人の友人からもらったと思しき「ハーモニカを墓まで持っていきたい」と言っている。加えて、1年目の手紙でも目標は手紙であり、行動でみんなの信頼を得るしかない、(ウィックに対して)僕にも手紙を書いてほしいなと言っている。
一年前にツイートしたが、私はビクターが配達を頑張るのは本人の性格もあるが、その根底には誰かから信頼されてその人から秘密を手渡されたい、そして自分の手中に収めたいという願望があると考えている。少なくとも、私はビクターをそう解釈している。
その私からすると、ビクターの奥底にある願望や願いを知っていれば、ビクターというキャラクターを愛して理解しようとしているのなら、貰うより配るほうが嬉しいというような感想は持たないと思うのだ。だから、Aがビクターを好いているのではないと考えた理由だ。Aの書いた文からは因果関係がいまいちわからなかったが、「ポストマンであれば配る喜びの方が貰う喜びよりも大きい」という意図で書いているのなら、キャラ解釈を無しにしてもそのレッテル貼りは正しくない。
他にも、私以外の一部の人を取り上げて全体���レッテル貼りして攻撃していることからも、自分のビクターの解釈と違うと主張したいのではなく、ただ誰かを攻撃したいだけの人なのだと考えたわけだ。
そういうわけで、私はAをブロックした。もしかしたら「逃げた」と嗤われるかもしれないが、関わりたくないので仕方がない。分かり合えない悪意からは私は逃げる。
A以外にも、少しメンタルが削れたことがある。それは、Aのように私のツイートの一部を切り取っていいねと賛同したアカウントがあったからだ。そのアカウントは一部ユーザーの修正案をツイートしたり、攻撃的なツイートをしていた。私はそのアカウントの中の人と異なる意見を持っているので、私はせめて全ツイートを見てくれと思った。ツリーにしてまとめているのだから。
そしてもう一つ。引用RTを使って喚くなというアカウントがあったことだ。私に対して言っているのかは分からないが、仮にそうだとしても私は元々引用RTを使って感想を言うスタイルでTwitterを使ている。それは後から自分で自分のツイートを検索した時に何に対してそう思ったのかを見返しやすいようにするためだ。攻撃の意図はみじんも持っていない。それを今回の感想を取り上げて攻撃的だというのならそれはサンプルの取り方がおかしい詭弁である。
そもそも、引用RTは元ツイートへメッセージを送るための機能ではない。それはリプライという機能が担う。のちに自分が振り返るために引用RTを用いるという方法は誤った使い方ではなく、Twitter公式もその方法を提示している。引用RTで感想を書くことを悪だとするなら、それは一部の界隈で勝手に決められた偏見である。
一部の過激派と自分をひとくくりにして「同じポストマン推しを語るな、恥ずかしい」と書いているが、そうしているのは自意識の問題だろう。過激派と自分をポストマン推しという型に押し込めるからそう思えてしまうのだろう。自分の首を絞めるように苦しむのなら、同一視しない方が良いと思う。十人十色、皆どこか違うのだから。
更に、私は公式に対して変更を求めたような言葉はツイートしていない。"個人的な好みの問題"で"私は"好きじゃないが、ビクターのイメージには合ってるし納得しているとも書いている。
ウィックに関しては文字数の都合で誤解を招きかねない書き方になってしまったが、犬種が違いいつものような眼ではなくボタン目になっているのもイベントのストーリーでその理由が明かされるのではないかと考えていた。具体的に言うと、ビクターの理想の世界と言う現実とは異なる世界を見ているためフィルター作用によってウィックの姿が通常と異なっているのではないかと考えていた。
そして好きなところが無くなっているについては、私はビクターの耳の横にある少し長い髪の毛が好きだったのだ。自分の好きなところが無くなってしまったので悲しかった。しかしそれだけだ。何度も言うが、変更しろとか嫌いだとは言っていない。
衣装の名前に関しても、上記のようにプレゼントや自分への贈り物を渇望しているビクターが今回も本編のように何ももらえないまま「使い」として生きてい行くのかと妄想して悲しくなっていたのだ。そういうストーリーもエモいので良いのだが、幸せになってほしいという気持ちもある。
私個人に関しては第五人格を始めたのはS20からであり、その時すでにウィック以外の動物は他の品種としてデザインされていた。私からしてみればウィックが同じ犬種を保っていることは当たり前であり、それが公式の見解で、守られるべき系譜であった。
この主観的な経緯を取り払ってキャラ設定ではなくこれまでのキャラデザと経緯に目を向けて考えても、ウィックは他の動物たちとは異なるようにデザインされてきている。それを同一視されてもそれとこれは違うだろうと思う。
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本日1本目、KSJことコトバスラムジャパンの西東京大会に参加します。1回戦の出番はBグループの2番手。よろしくお願いします。
【西東京大会】
開催日:2023年10月28日(土)
主催・どぶねずみ男。・もるた
【開催形態】
現地会場有観客開催、現地出場制現地参加者の挙手制
11:30開場 12:00開演
【会場】
立川たましんRISURUホール内サブホール
(東京都立川市錦町3-3-20-B1F)
https://risuru.hall-info.jp/service/
【現地ご観覧】
¥2,000-
ご予約開始日時:2023年5月27日(土)18:00~
【現地観覧・西東京大会】WEST-TOKYO・Ticket for view at the Venue KSJ2023観覧チケット
https://kotobaslamjapan.stores.jp/items/643ec64e6cb68c002c1cbf54
【オンライン観覧・西東京大会】KSJ2023観覧チケット【見逃し】
¥500-
https://kotobaslamjapan.stores.jp/items/643ec7536cb68c00291cd46e
【出場エントリー】
エントリー費: ¥2,500- (当日現地精算)
エントリー開始日時:2023年5月27日(土)18:00~
下記「詳細・エントリーページ」より出場エントリーを受付
【カリブラージュ】(予行試合)
坂本樹 Miki Sakamoto vs もり Mori
【対戦組み合わせ】
Aグループ
1番手 葛原りょう
2番手 そにっくなーす
3番手 猫廃22
4番手 sato.
Bグループ
1番手 子供女
2番手 ムラカミロキ
3番手 ながとん
(※子供女欠場→佐藤yuupopic出場)
Cグループ
1番手 中野皓作
2番手 かんた(君らそんなんで委員会)
3番手 樋口三四郎
Dグループ
1番手 パルプフィクション
2番手 きりこ
3番手 毒林檎
4番手 NOCTUR
https://twitter.com/ksj_westtokyo/status/1712114781719769582
【全大会共通ルール】
KOTOBA Slam Japan 2023 全大会共通ルールは以下の通りです。
(※ルールは随時、更新する場合がございます。)
https://www.kotobaslamjapan.com/rule/
【出場者ルール】
1. 一部の特殊ルールを設定している大会を除き、特筆されていない場合は、各ステージの時間制限は3分となります。
2.会場またはオンラインでのオーディエンスの投票・採点により勝敗が決まります。
3. 一部の特殊ルールを設定している大会を除き、特筆されていない場合は、音楽、小道具の使用は禁止です。ステージへ持ち込めるのはテキストのみとなります。
4.現地・リモートの混合出場が発生する大会では、双方の平等を期す為に、パフォーマンス中のタイマーの使用を禁止します。
5.オンライン投票が発生する大会では、出場者は、自分の出場する大会でのオンライン投票を禁止します。
6.パフォーマンスは自作した作品に限ります。
7.ランナーズアップ vs 敗者復活大会を除き1つの予選大会にのみエントリーができます。
【オーディエンスルール】
1.オンライン投票での複数アカウントを使用しての投票を禁止します。
2.出演者のパフォーマンス中は原則お静かにお願いいたします。
3.出演者のパフォーマンスや表現に異議や疑問がある場合は、まず大会スタッフまでお声がけください。
【出場者&オーディエンスの共通ルール】
1.現地会場にて一般的な迷惑行為、公序良俗に反する行為は発見次第ご退出いただきます。
2.オンライン配信上にて、コメントを荒らす行為は運営スタッフの判断でコメントできないように措置をいたします。
3.大会に参加したご自身の肖像について、運営が中継や広報のためにSNS、動画配信サイト、本サイト、その他メディア等で掲載・発信することを了承するものとします。(現地観客様についてもなるべく映らない・声の乗らないようにいたしますが、アーカイブ動画として残る旨をご了承��ださい。)
4.本大会ではパフォーマンス内容に大きな制限を設けませんが、以下の行為はお控えください。
・個人や特定の団体を貶める誹謗中傷行為やヘイトスピーチ
・映像配信のできなくなるような脱衣行為
・インターネットエチケットに反する行為
・その他、公序良俗に反する行為
5.禁止行為の是非は主催者判断といたします。
6.当大会は出演者の個性を認めてパフォーマンスを尊重しますが、すべての行為や言葉に賛同しているわけではございません。あらかじめご了承ください。
その他、各大会で細かなルールは異なる場合がございます。
ルールの詳細は、各大会の発表に際して随時お知らせいたします。またSNSなどでも告知いたします。
ご不明な点はお気軽にメールフォームにてお問い合わせ下さい。
【西東京大会独自ルール】(詳細・エントリーページ)
https://www.kotobaslamjapan.com/kotoba-slam-japan-2023/%E8%A5%BF%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E4%BC%9A/
・出場者数16名(先着順・現地参加)
・現地参加者による挙手制によって勝者が決定いたします。
・優勝者1名が全国大会へ進出します。
・1回戦→(敗者復活の大喜利)→準決勝→決勝。各1回で最大で3回のパフォーマンスを行います(大喜利を除く)。
【1回戦】
・16名は4名ずつA~Dの4グループに分かれます。
ブロック分けとパフォーマンス順は、事前の大会PR配信内で、主催者によるくじ引きにて決定します。
・ブロックの得点上位1名、計4名が準決勝へ進出となります。
・全出場者が順番に1回パフォーマンスします。
各ブロックの終了ごとに、決勝へ進出する1名を発表します。
・挙手数が同点である場合は、同点者のみで再度、挙手投票を行ないます。
・再投票でも同点の場合は、先にパフォーマンスしていた方の勝利とします。
【敗者復活戦】
・負けた12名を「AB6名」「CD6名」に分けて、10分間程度の大喜利を開催します。
・大喜利は「笑い」の要素だけでなく、審査員の感情を動かしたものを採点要素とします。
・会場から選出した4名の審査員の内、3人が手をあげたら1本とし、2本先取で勝ち上がりとします。
・大喜利の回答は多くの方に出番を回すため、1回答10秒程度を目安としてください。
・勝者が決まらないまま制限時間が来てしまった場合は、会場全体の挙手制といたします。
・1回戦からの勝ち上がり4名+敗者
【準決勝】
・準決勝は、1対1の対戦方式となります。
・準決勝へ進出した6名の中で1回戦での挙手数が少なかった方から順に、対戦したい出場者をご指名いただけます(選ばれた方は拒否できません)。
・挙手数が同数の場合は、先行してパフォーマンスした人が優先で、対戦したい出場者をご指名いただけます。
・先攻/後攻の順は対戦者同士のじゃんけんで決定します。
・決定した順の通りに1回 、3分以内のパフォーマンスで対戦を行い、対戦ごとに投票を行って、結果を発表します。
・勝者3名が決勝へ進出となります。
・会場票数も同点だった場合は、先攻の勝利となります。
【決勝】
・決勝進出者3名には1回パフォーマンスをして頂きます。
・挙手数が上位の1名が優勝となります。
・挙手数が2名同数の場合は、該当者2名による挙手制再投票を実施し、優勝者を決定します。
・挙手数が3名同数の場合/または2名再投票で同数の場合は先行したパフォーマーの勝利といたします。
・優勝者1名は、2023年12月に東京で開催予定のKOTOBA Slam Japan2023全国大会に、西東京大会代表としてお進みいただきます。
【KOTOBA Slam Japan】
Web
https://www.kotobaslamjapan.com/
Facebook Page
https://www.facebook.com/kotobaslamjapan20202021/
Instagram: @kotoba_slam_japan
https://www.instagram.com/kotoba_slam_japan/
X(Twitter): @KOTOBASlamJapan
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YouTube Channel
https://www.youtube.com/@kotobaslamjapan3400
【KOTOBA Slam Japan 西東京大会】
Web
https://www.kotobaslamjapan.com/kotoba-slam-japan-2023/%E8%A5%BF%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E4%BC%9A/
X(Twitter): @ksj_westtokyo
https://twitter.com/ksj_westtokyo
【立川たましんRISURUホール(立川市市民会館)】
〒190-0022
東京都立川市錦町3丁目3−20
Tel: 042-526-1311
Web
https://risuru.hall-info.jp/
立川市
https://www.city.tachikawa.lg.jp/chiikibunka/shisetsu/bunkazai/001.html
X(Twitter): @risuru_hall
https://twitter.com/risuru_hall
Facebook Page
https://www.facebook.com/profile.php?id=100063804019745
徒歩
JR中央線立川駅南口より、徒歩13分。
JR南武線西国立駅より、徒歩7分。
多摩モノレール立川南駅より、立川南通りを直進。徒歩12分。
バス
立川バス「立川駅南口」より「国立駅南口」行き
立川バス「国立駅南口」より「立川駅南口」行き
タクシー・車
タクシーは立川駅南口より1メーター程度が目安です。
中央道国立府中IC下車、日野バイパス(国道20号線)を八王子方面に向かい、中央道をくぐった後の「石田大橋北」交差点を右折。突き当たりの「矢川三丁目」交差点を左折。しばらく進み「日野橋」交差点を右折。その後「市民会館前」交差点を右折すると左手にホール。
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1691472158785142786/pu/vid/1280x720/vxHF5L8uiJwhIWtS.mp4
#KSJ #KSJ西東京
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2023年11月のおしらせ
『貝がら千話⑦』を刊行しました
3(金)からイベント〈「おはなし」をぬろう〉
11(日)文学フリマ東京37
12(日)まで「図案とおはなし」展
18(土)-19(日)円頓寺 本のさんぽみち
25(土)から『貝がら千話⑦』刊行記念原画展
『貝がら千話⑦』を刊行しました
2020年9月28日から2021年1月5日までの100日間に制作した図案とお話をまとめた、『貝がら千話⑦』を刊行しました。
お取り扱い頂ける書店さまを探しています!発送は11月上旬を予定しております。ぜひお気軽にお問い合わせください。
『貝がら千話⑦』
四六判・204ページ
2023年10月28日刊行
1800円(税抜)
※現在⑥と⑦の在庫がございます。①から⑤は完売です。
11/3(金)「おはなし」をぬろう 蔵書室ふもとにて
善福寺公園周辺エリアで毎年秋に開催されている「トロールの森」にて、蔵書室ふもとさんと朗読とぬりえのイベント・個展を開催します。
ぬりえといっても、ただ絵を塗るだけではありません。イメージを膨らませて、余白にどんどん描き込んで、作品を完成させてください!
会期中、会期中、3日、12日、23日はわたしも在廊予定です。一緒におはなしとぬりえを楽しみましょう。
展示作品は、絵を描きたくなるような空間を作りたくて、いつもの線画のほかにあたらしく「いろいろな人」というシリーズを制作しました。
更に、出来上がったぬりえの作品をふもとの壁にどんどん貼っていきます!会期のはじまりとおわりでは全然違う空間になっているはず。朗読のない時間も、開室時間中ならいつでも本を読んだり休憩したり、のんびり過ごしていただけます。ぜひ何度でも訪れて頂けたら嬉しいです。
以下、トロールの森のイベント案内ページより抜粋です。
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「物語(おはなし)」をぬろう!
・日程 11/3〜23 (開室日時はSNSを参照)
・会場 蔵書室ふもと
ホーミーさんは、これまで、絵とそこから想起される物語を、「貝がら千話」として1000日ものあいだ描き続けてきました。
じゃあ、もし「絵→物語」をひっくり返したら何が起こるんだろう?
約5分の物語を朗読し、そこから得たインスピレーションを、ふもとに置かれたホーミーさんの図案(=未完成の絵)に描いたり、塗ったりしてもらったら、たくさんの新しい「物語」が生まれるはず!
そして、生まれた「物語」を室内の壁や柱にどんどん貼ることで、ふもともどんどん変化。そう、蔵書室もまた、物語で塗られていきます。
期間中は、部屋の至るところにホーミーさんの絵と物語も展示します。物語あふれる蔵書室へどうぞお越しください。
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トロールの森
日程:2023年11月3日(金祝)から11月23日 (木祝)
場所:都立善福寺公園、杉並区立桃井第四小学校、西荻窪-善福寺周辺店舗・ギャラリーほか
11/12(日)まで 「図案とおはなし」展開催中
海老名市立中央図書館にて
海老名市立中央図書館にて、図案から生まれたおはなし、そして原画作品を紹介する「図案とおはなし」展がはじまりました。
展示場所は図書館2階の、3階へと続く階段室の一角。貝がら千話から、半切サイズの水彩紙に図案を9点描きました。大きな図案がぐるりと並んでいます。
また、図案と一緒におはなしを読んでいただけるよう、おはなしを一篇づつ収録した閲覧用の冊子も制作しました。冊子はお手に取ってご覧いただけます。ぜひごゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。
「図案とおはなし」展
開催日:2023年10月25日(水)から11月12日(日)
時 間:午前9時から午後9時まで
場 所:海老名市立中央図書館
神奈川県海老名市めぐみ町7-1
小田急線・相鉄線・JR相模線 海老名駅より徒歩7分
展示期間中の11月5日(日)にはワークショップ〈「図案とおはなし」してみよう〉を実施します。図案を見て、どんなおはなしが思い浮かぶでしょうか?一緒にたのしい時間を過ごせたら、と思っています。
「図案とおはなし」してみよう
日時:11月5日(日) 16時30分から17時50分頃
場所:海老名市立中央図書館 1F学びのエリア
定員:12名 小学校高学年から
1F図書館カウンター、またはお電話にてお申込み下さい。
11/11(土)文学フリマ東京37
文学フリマ東京37に出展します!
モノ・ホーミーのブースは【K-7】です。
「貝がら千話」最新刊⑦と、⑥、線画集、『貝がら千話の猫の話』、『貝がら千話の鳥の話』、お風呂で読める長湯文庫『するべきことは何ひとつ』(出版社さりげなく)や、眠る前に読みたいお話『これがおばけの考えです』(タバブックス)、手製本の豆本『絵ニッキ』など持って行きます。
文学フリマ東京37
日時:2023年11月11日(土)12時から17時(最終入場16時55分)
会場:東京流通センター 第一展示場・第二展示場
入場料無料
11/18(土)-19(日)円頓寺 本のさんぽみち
円頓寺 本のさんぽみちにタバブックスさんと参加します!名古屋で開催されるイベントは初出店、とても楽しみです。屋外ですが、アーケードがあるため雨天でも開催されるそうです。ぜひぜひお立ち寄りください。
日時:2023年11月18日(土)-19日(日) 11時から16時
※10月は終了しました
会場:円頓寺商店街(愛知県名古屋市西区那古野)
11/25(土)から『貝がら千話⓻』刊行記念原画展
奈良 蔦屋書店にて
『貝がら千話⑦』の刊行を記念して、奈良 蔦屋書店にて原画展が開催されます!本のなかに登場する図案から描き起こした鉛筆画の作品などを展示。絵を見て、おはなしを読んで、お楽しみいただけます。
会期中、その他の刊行物もあわせてお取り扱い頂ける予定です。ぜひお手に取って頂けましたら幸いです。
『貝がら千話⑦』刊行記念原画展
日時:2023年11月25日(土)から2024年1月8日(月)
場所:奈良 蔦屋書店
奈良県奈良市三条大路1丁目691−1
近鉄奈良線「新大宮駅」より徒歩10分
JR線「JR奈良駅」より徒歩25分
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以上、どうぞよろしくお願いいたします。
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代行業者を通さない魔法少女系玩具タオバオ個人輸入レポ
⚠️注意⚠️
ここに書かれている内容はすべて2023年6月現在の情報です
これを読んで個人輸入をされてトラブルが起こっても当方は一切責任を負いません すべて自己責任の上行った個人のレポートというか日記というか覚書みたいなものです
今回買ったものです まじかわいい
・必要なもの
タオバオアカウント登録用電話番号、トラブルがあっても中国語or英語で対応する気合、翻訳アプリ、日本のクレジットカード、心の余裕
・代行業者を通さないメリット
→料金体系がわかりやすい、手数料と送料を水増し増しされない
前に何もわからず代行業者使ったときは相場の倍近く送料取られたので
→セール・クーポンの適用ができる!
・デメリット
→トラブルが起きたとき全部自分でやらないといけない これは気合と翻訳アプリがあればわりとどうとでもなると思う
これが無理なら素直に代行業者に頼みましょう、安心を金で買おう
→今回大きいセールのタイミングで買ったので荷物のロスト等のトラブルが起きる可能性があった
・登録はアプリから
→タオバオはアプリから登録するとアカウントロックされにくい(らしい)
→アカウントロックされると自力で問い合わせして解除してもらわないといけないみたい、英語は通じるらしい
・日本のクレカを使えば商品代も送料も日本円で支払える
・国を日本にしておけば商品価格に日本円も併記される
→TTSレートに為替手数料が上乗せされている?その日のレートベタ計算したよりは高い
→不正利用が心配だったのでわたしはLINE payのバーチャルプリペイドカード(VISA)をつかいました(銀行口座登録と本人確認が必要 審査は数時間で終わる、入金したぶんだけ引き落とされるので安心、おすすめ)
・天猫マークのあるセラー、商品を選ぶと安心
→いろんな厳しい審査をくぐりぬけたちゃんとしたセラーなので、ソシャゲ会社の公式ショップとかはだいたいこれ
→コスプレ衣装とか公式ぬいを扱うセラーは、有名なところでも天猫マークがないところがあるのでそこはレビュー口コミ等で自己判断
・日本への発送に使ったのはタオバオ公式転送サービス・官方集运
→運送業者は菜鳥(ツァイニャオ)と佐川急便
→複数のセラーで買った商品を上海の倉庫でまとめて、一括で日本まで発送してもらえる
→(‼️重要)送料は容積重量換算(重要‼️)
すべてまとめた大きさの分で計算されて国際送料の請求がきます
箱がでかくて軽いものは送料がすんごいかかる 今回は4000円くらいかかりました
箱物はサイズがだいたい書いてあるし、気になる場合は注文前にセラーに問い合わせたほうがいいと思う
→官方集运は禁輸品が多いのでよく調べたほうがいい(食品、化粧品、食器等は×)
以下余談
子供用のおもちゃは禁輸品になるとの情報が出てきてバクバクだったのですが、なりきりおもちゃや人形は大丈夫でした 食品衛生法が関わってくる乳幼児向けのおもちゃがアウトなのかもしれない
剣の形のおもちゃがアウトな転送業者さんもあったので、銃刀法にひっかかりそうなものもだめかも(禁輸品にならなくても税関を通れなさそう)
・注文してからの流れ
→5/31 注文・クレカで支払いをする
6/1 23時ごろ「注文した商品ひとつ在庫がないからまとめての発送になってもいい?」と連絡が来る
チャット返信したらBANされたので焦る
6/2 深夜0時ごろ 「ごめん在庫あったから発送するね!って連絡がくる」ただしこちらのチャットはBANされたまま(なんだったんだ…)
6/2 セラーから発送される
すごい詳細にトラックがトラッキングされててびびる
6/3 上海の倉庫着、国際送料の請求がくるのでカードで支払う→発送準備に入る
6/5 目的地に向かって発送されたお知らせが出る
6/9 国をこえたよ〜のお知らせが出る
(ここまでタオバオアプリ内で通知も追跡も見られる 便利〜)
おそらくこのあたりのタイミングから佐川の追跡がきくようになる
6/12 土日挟んでようやく日本到着
・関税について
→個人輸入は送料含まず16666円以下だと課税されません(品物にもよります!!調べよう) 今回はボーダーよりかなり下だったので課税されませんでした
調べてたら先方のミスで品目が間違えられてたり商業輸入と思われてガッツリ取られた人もいたので購入数とか運も関係してくるかも
・6/13 届いた
梱包が雑!やぶれてる!草
箱がベコベコどころかブリスターまでこわれててびっくりした、おもちゃの箱は捨てる派なのでいいんですが箱取っておく派の人とか神経質な人はしぬかも 中身こわれてなかったのはラッキーでした
他のセラーでなんか買って倉庫でまとめてぐるぐる巻きにしてもらったほうがよかったかな…と思いました
・謎
電池が入ってると関税で抜かれると聞いてたのですが、セラーが入れてくれた単4電池がダンボールにふつうに入ったまま届きました
なぜ
おもちゃ内に入ってなかったからセーフなのかEMSじゃなかったからなのか…
ボタン電池で絶縁シートが入ってるタイプのおもちゃもセーフでした
6/14追記
乾電池・新品のボタン電池の国際配送は問題なし
リチウムコイン電池、リチウムイオン電池(USB充電式の電化製品や小物とか)はアウト
・総括
→いつも中華スーパーの中華食材って高いな〜と思ってたけど、仕方ないな〜と思えた
→意外となんとかなったので閃暖陸服4周年で欲しいグッズが出ても安心だぜ!来い!!の気持ちになれた
→また輸入したいなァ 巴啦啦小魔仙のねこちゃんの杖とコンパクトがほしいんだ……
・役に立ったサイト
→ タオバオ備忘録・じゅりバオまとめ
先人の知恵が本当に役立ちました……ありがとうございます……このwiki見ればだいたいなんとかなる……
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