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#にっぽん再鎖国論-ぼくらに英語はわからない
anamon-book · 11 months
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にっぽん再鎖国論-ぼくらに英語はわからない 岩谷宏 ロッキング・オン社 装幀=平野甲賀、表紙・イラスト=藤岡仁
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sorairono-neko · 5 years
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ナンパについていったことはなかった
 ヴィクトルがほの暗いバーに入ると、クリストフがカウンター席でかるく手を上げた。ヴィクトルはうなずき、彼のひとつ奥の席に座った。グレイグースを注文し、クリストフを見ると、「サンテ」と言ってグラスをかるく合わせた。 「ごめん。すこし遅れたかな」 「そうでもないさ。またコーチに叱られてたのかい」 「そう。ヤコフは説教が長いんだ。ひとつ始めたら、その話の中から別のことも言いたくなって、連鎖的に延々しゃべっている。俺、あんなにいい演技をしたのに」 「もっとできると期待されてるからでしょ」  クリストフはくすくす笑った。 「言われなくなるほうがこわいんじゃない?」 「確かに。物わかりのいいヤコフなんて恐怖でしかないな」 「金メダルおめでとう」  クリストフは素直にヴィクトルを祝福した。 「悔しいな。フランスでは絶対勝ちを譲らないつもりだったのに。もしロシア大会で一緒になったら、ロシアの国民にヴィクトルの銀メダルを見せてやるよ」  ヴィクトルはほほえんだ。 「なんだい、その『やれるもんならやってみろ』っていう顔は。自分がいちばんだと思ってるだろう。まったく……ヴィクトルはそうじゃなくちゃね」  クリストフはグラスを傾けた。 「帰りは明日? わりと厳しい日程じゃない? 誘ってよかったのかな」 「問題ないよ。まあファイナルでまた会えるだろうけどね」 「俺はこの大会できまったけど、ヴィクトルはまだでしょ」  クリストフがにやにやしながら言った。ヴィクトルは肩をすくめ、「日本大会がんばるよ」と答えた。 「そうか、次は日本だっけ。日本ということは……」 「なに?」 「いや、べつに」  クリストフはしばらくたわいない話をし、ヴィクトルは笑顔でそれにあいづちを打った。会話しながら、クリストフが扉のほうを気にしていることに気がつき、首をかしげた。 「どうかしたのかい?」 「できれば君に紹介したい子がいて」 「なに? 選手?」 「来るかどうか……」 「俺のファン?」 「さあねえ……」 「ずいぶん思わせぶりじゃないか」 「思わせぶりな子なんだよ」 「へえ。興味あるな。いつ来るんだ?」 「さあねえ……」 「また『さあねえ』」  ヴィクトルは可笑しくなった。 「なんだい、それ。そんなにひみつを帯びた子なの?」 「さあねえ……」  勇利はスケート連盟の役員と別れて部屋へ戻ると、時刻を確認し、急いで着替えた。クリストフに「飲もうよ」と誘われている。そんな気分ではないと断ったけれど、「こういうときこそだよ」とよくわからない励ましをされてしまった。 「でもぼく、連盟の人と話があるから遅くなるかも」 「来られなくてもいいよ。上のバーで待ってるからね」  そんな会話をしたのが数時間前だ。クリストフはもう帰ってしまっただろうか? 携帯電話を調べたけれど、何もメッセージは届いていない。帰るならそう言うだろうから、まだいるのだ、きっと。 「もう寝たいんだけどなあ……」  勇利はぶつぶつ言いつつエレベータに乗りこみ、上階にあるバーへと向かった。入り口にいる係員がうやうやしく迎えてくれる。こういう場所は苦手だ。クリストフがいなかったら絶対に入らない。こんなところでひとりで飲んでも緊張してしまうだけだ。バーが似合うような大人でもない。  ほのかなあかりを頼りに、店内を見渡した。客はそれほど多くなく、ところどころに人影が見えるだけである。比較的近いカウンター席にクリストフの姿をみつけ、ほっとして近づいた。隣に腰を下ろすと、バーテンダーがうかがうように勇利を見た。何を頼もうかと迷った。アルコールはよしたほうがいい。クリストフは何を飲んでいるのだろう? クリス、と呼びかけようとした勇利は、ふいに聞こえた「怒鳴るのが趣味なんだよ、怒鳴るのが」という言葉と笑い声にはっとした。この声は──。 「ヤコフはかえって楽しいはずさ。だから俺は彼のためを思って適当にしてるんだよ。そうしたら彼は俺を叱る口実ができるだろ?」  勇利は頭がくらくらした。聞きまちがえようもない。直接話すことはまずないけれど、インタビューをくり返し動画で見た。ヴィクトル・ニキフォロフの声である。 「向こうは向こうで、ヴィクトルは怒られるのが趣味だと思ってるんじゃない?」  クリストフがからかった。勇利はその声を聞きながら、とっさに立ち上がって逃げ出そうとした。その瞬間、勢いよく腕を引かれ、再び椅子に座りこんでしまった。クリストフがちらと目の端で勇利を見る。彼の瞳は笑っていた。  クリス! どういうことだよ! 勇利は非難をこめてクリストフをにらんだ。クリストフが機嫌よく片目を閉じる。彼はバーテンダーに向かい、フランス語で何か言った。バーテンダーがうなずき、すぐにグラスを勇利の前に置いた。 「どうしたんだい?」 「いや、隣のお客がフランス語ができないみたいだったから」  飲み物を置かれてしまっては帰るわけにはいかない。勇利はおそるおそるグラスに口をつけ、飲んでみた。アルコールは入っているのだろうか? 甘い口当たりだ。いや、飲み物の味などどうでもよい。勇利は、いつクリストフが「この子は日本の選手で君のファンなんだよ」とヴィクトルに言い出すか、気が気ではなかった。勇利を誘い、その店にヴィクトルも呼んだということは、紹介しようと思っているのだろう。勇利が日頃、ヴィクトルと話せるようにしてあげようかという誘いを「絶対にやめて」と断っているにもかかわらずそういうことをする。おせっかいというよりからかっているのだ。まったくゆるしがたい。いや──もちろん、クリストフとしては親切のつもりなのである。勇利があと一歩のところで表彰台を逃し、落ちこんでいるものだから、何か気を引き立てることを、と考えたのだろう。こんなときだからこそなおさら会いたくないというのに。こうして会って、「日本の選手だよ」と説明され、「へえ、そうなんだ。試合に出てたの? 何位だった?」なんて言われたら立ち直れない。まったくヴィクトルの記憶に残っていないことを知らしめられたくないし、残っていたらそれはそれで、あんな無様な演技を見られたのかとせつないし、四位でした、なんて金メダルを獲ったひとに言いたくない。  勇利はそわそわしながら、何度もグラスを口へ運んだ。クリストフが余計なことを言い出さないうちにここを出たい。勇利が来たときに「この子はね」と話し始めなかったということは、クリストフなりに��利の動向を見守っているのだろう。あれほどいやがる勇利をヴィクトルに紹介してよいものかと迷っているにちがいない。そういう気遣いができるなら、最初から呼ばないで欲しかった。もう、クリスは!  ヴィクトルをこれほど近くで見られる機会はそうそうないので、できればすこし観察したいのだけれど、いくらクリストフを盾にしていてもそういうことをする勇気はない。目が合ったら泣いてしまいそうだ。その代わり、彼の深みのある優しい声は存分に堪能することができたので、それはうれしかった。ときおりクリストフがちらと勇利のほうを見、来てよかったでしょ、というような目つきをするので、それにはふんとそっぽを向くことで意思を示した。 「ヴィクトル、気づいてる?」  ふいにクリストフが言い出した。 「何を?」 「とぼけちゃって。奥のテーブル。こっちをちらちら見てるでしょ」  勇利はどきっとしてそちらへ視線を走らせた。ふたり連れの女性客が、魅惑的にほほえんで秋波を送っている。勇利は、自分が誘われたわけでもないのにまっかになった。 「どうする?」 「どうするもこうするも」  勇利はうつむき、どきどきしながら頬を押さえた。ヴィクトル、一緒に行くのかな。こういうことってあるんだ。映画の中だけかと思ってた。でもヴィクトルだもんな。当たり前だよね。ヴィクトルは大人で、きっとこんな場面にも慣れてるんだろうな……。 「声をかけられたら、俺、フランス語がわからないふりをするから、クリスが断ってくれ」 「おやおや、いいのかい?」 「クリス」 「はは、冗談だよ。わかってるよ。声をかけられる前に退散したほうがいいかな」 「そうかもね」  勇利は、グラスの中身を飲み干しながら、ふたりが帰ったらぼくも帰ろう、と思った。でもこれいくらなんだろう。まあさすがにものすごい値段ではないだろうけど……。 「ここはおごるよ。俺が誘ったからね。ところで、電話を一本かけなきゃいけないのを忘れていた」 「そうなのかい? 早く戻らないと」 「俺はさきに行くから、君は」  クリストフがふいに勇利に視線を移し、ヴィクトルに言った。 「彼のめんどうを見てやってくれないか」 「え?」 「え?」  ヴィクトルと勇利の声が重なった。クリストフが立ち上がる。 「どうも酔っ払っちゃったみたいだ。部屋まで送ってあげてくれ。フランス語がわからないようだし、何かあったら大変だからね。俺が親切にしたついでに、君も優しくしてやってくれ」 「それは構わないが……」  ヴィクトルが戸惑いながらもうなずいた。勇利はというと、「ぼくはぜんぜんよくない!」という気持ちだった。クリス、なんてことを! ひどい! 「じゃあね。君もよい夜を」  クリストフは片目を閉じ、勇利に挨拶して店を出ていった。勇利は追いかけていってなじりたい気持ちだった。ヴィクトルが勇利の顔をのぞきこみ、「大丈夫かい?」と尋ねた。 「も、問題ありません」  勇利はまっかになって、かぼそい声で答えた。 「ああ、英語はわかるんだね。よかった」 「あの、ぼく平気です。お帰りになってくださって構いません」 「そうはいかないよ。友達と約束したし、それに言葉がわからないんだろう? 安心してくれ。俺はフランス語は話せるから。まだ何か飲む? それほど酔ってはいないようだ。クリスの見込みちがいだね。飲みたいなら付き合うよ」 「お、お気遣いなく」  勇利の声がふるえた。ヴィクトルと一緒に飲むなんてとんでもない。どんな失敗をするか��からないし、何を話せばいいのかも想像がつかない。 「もう戻ります。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」  ヴィクトルはほほえんだ。 「迷惑なんかじゃないよ。気にしないで」  勇利はぼうっとしてヴィクトルに見蕩れた。ヴィクトル、優しか……。 「ところできみ、いくつ? お酒飲んでいい年齢だろうね?」  失礼なことを訊かれたけれど、こくこくとうなずくだけで精いっぱいだ。ヴィクトルは支払いを済ませ、「さあ出よう」と扉を押した。勇利はうつむきながら彼についていった。 「あ、あの、お金」 「いいよ。俺のおごり」 「そういうわけにはいきません」 「俺のぶんはさっきの友達が払ったんだ。だから大丈夫」  どういう理屈かよくわからなかった。しかし勇利には、ヴィクトルに反論する頭の働きなど残っていなかった。 「どうしたんだい? 顔を上げたら?」 「いえ、いま、とてもみっともないので……」 「そんなに酔ってる? そうは見えないけど」 「あ、えっと、その、大丈夫です。もうここで……」  勇利はエレベータの前で断った。 「このホテルに泊まってるんだろう? 俺もだ。一緒に降りよう。何階?」  さいわい、宿泊している階はちがった。勇利はほっとしたが、ふたりきりでエレベータに乗っている時間は長かった。永遠に続いて欲しい気もしたし、早く終わって欲しい気もした。 「俺がさきだね。じゃあ、気をつけてね。気持ち悪くなったらホテルの人に言って」 「はい。ありがとうございます」 「おやすみ」  いつまでもうつむいていては失礼だ。勇利は最後におもてを上げ、ヴィクトルをまっすぐに見た。ヴィクトルは優しく笑っていた。勇利は全身がとろけそうな気持ちになった。 「お、おやすみなさい。さよなら」  勇利が挨拶すると、ヴィクトルはにっこりした。勇利は気恥ずかしくて、急いでエレベータのボタンを押した。扉が閉じてひとりきりになる。頬に手を当て、ぼうっとしていた。  な、何だったんだ……ぼく、ヴィクトルと話しちゃった……ふたりで……。  ぼんやりしすぎて、勇利はフロントのある階まで行ってしまった。  あの奇妙な会合はいったい何だったのか。勇利はあのあと、クリストフに電話をしてものすごい剣幕で抗議をしたのだが、「でもうれしかったでしょ?」と冷やかされて言い返せなかった。「もういいよ!」となげやりになった勇利にクリストフは陽気に笑った。  しかし、ヴィクトルにそう近づきになりたくはないのだ。勇利は、彼とはもっと別の出会い方があると思っている。ヴィクトル、この子はユーリ・カツキだよ。日本のスケーターさ。へえ、ユーリ。よろしくね。次の試合もがんばってね。なんて……そんな、社交辞令が欲しいわけではない。顔もスケートも知らないのに「がんばって」と言われるなど、あまりにもかなしいではないか。  ヴィクトルとは日本大会でまた会うことになる。勇利は、もう二度とあんな失敗──というほどではないのだけれど、勇利にとっては失態だ──はしないぞとこころぎめをしていた。勇利には、グランプリファイナルに進むことが大事だった。フランス大会では四位だったので、一位になれば──あるいは二位でも、可能性はある。そのことだけをこころにかけた。ヴィクトルはきっとまた金メダルを獲る演技をするだろう。ヴィクトルに勝てばグランプリファイナルは確実となる。ヴィクトルに勝ちさえすれば──。 「あとひと息でしたね」 「……また練習し直してがんばります」  試合を終えた勇利は、悔しそうにしている諸岡にそう答えるしかなかった。とぼとぼとホテルへ戻り、泣きながら眠りについた。エキシビションになんか出たくなかった。バンケットにも行きたくなかった。しかし、すっぽかすわけにはいかない。勇利は翌日、エキシビションの公式練習ではすみのほうでちいさくなり、本番でもそそくさと出番を終え、誰にもみつからないようにしながらヴィクトルの演技をそっと見た。バンケットでは挨拶だけをして早々に退散した。練習がしたいと思った。早くデトロイトに帰りたい。早く、早く……。  その夜は眠れなかった。勇利はベッドで寝返りを打っているのがいやになり、ホテルの庭を散歩しようと思いきって起き上がった。時計を見ると二十二時を過ぎたところである。バンケットがおひらきになったころあいだろう。勇利はそのあたりにほうり出していたホワイトシャツとバンケット用のスラックスを着こみ、そっと廊下へ出た。  エレベータホールでぼんやりしていたら、すぐ隣に誰かが立った。勇利は何気なくそちらを見て、急いで顔をそむけた。ヴィクトルだ。思わず口を押さえた。  え? どうして? なんでヴィクトルがここに? バンケットが終わったところでしょ? もう部屋に帰って寝るだけじゃないの? それにしても同じ階だなんて知らなかった。  エレベータが来るまでのあいだ、勇利はいろいろと考えながら、そっとヴィクトルの様子をうかがった。バンケットを終え、一度部屋へ戻ったのだろうか。ネクタイがゆるんでいる。くたびれているようではないけれど、なんとなくさびしそうに見えた。勇利はどきっとした。  バンケットはお祭りのようなものだ。勇利は苦手だが、写真を撮ったり、交流を深めたりする選手は多い。ヴィクトルは人気者だから、たくさんの選手が寄っていったことだろう。二時間半のあいだ、彼はずっとファンサービスをしていたようなものなのだ。ヴィクトルのファンへの親切心は有名だ。それは選手が相手でも同じである。  勇利は、大変なんだろうな、と考えた。ヴィクトルはファンを愛しているようだけれど、だからといって気疲れしないということはないだろう。ひとりでいたいこともあるにちがいない。最初からヴィクトルに声をかける気などなかったが、なおさら彼に話しかけてはいけないと思った。きっとこれからひとりで飲みに行くのだ。勇利にはできないけれど、ヴィクトルは大人だから、そういう時間で癒やしを得るのだ。  勇利は下に降りるが、ヴィクトルは上階へ行く。ヴィクトルとはそこで別れた。勇利は一階へ降り、庭園を気の向くままにぶらぶらしながら、ずっと上の空だった。  フランスでのことが思い出される。ヴィクトルとクリストフは女性に声をかけられていた。あんなことがまた起こっていたら、とそれが心配だった。日本でもヴィクトルはたいへん人気がある。この機会に近づきたいと思う者がいるかもしれない。ヴィクトルはもちろんしっかりした男だから、もしいやならきちんと断れるだろうが、彼は日本語が話せないのではないだろうか。きっと困る。だが、だからといって追いかけていくのもどうだろうか。勇利はヴィクトルと友人ではない。知り合いでもない。ヴィクトルはフランスでのことなんて忘れているだろう。そもそも、勇利の顔もおぼえていないはずだ。けれど……。  勇利は思いきってホテルの中に戻り、エレベータに乗りこんだ。ヴィクトルがおぼえているとかいないとかはどうでもよい。ただ、彼が困っていたら手助けをすればいいし、もしそうでないならそっと店を出るだけだ。そうしよう。それならヴィクトルも迷惑はしないはずだ。このままでは気になって仕方がない。  ヴィクトルはあのときのようにカウンター席で飲んでいた。勇利は彼からすこし離れて座り、オレンジジュースを頼んだ。アルコールを飲むつもりはない。  案の定、ヴィクトルのことを気にしている女性が幾人かいた。ちらちらと様子をうかがい、声をかける間合いをはかっている。勇利ははらはらした。静かに飲みたくてここに来たのに、またファンに声をかけられたらと思うと、なぜか勇利が困ってしまった。  とうとうふたり連れの女性が立ち上がり、ヴィクトルに話しかけた。サインをくださいとか握手してくださいとかではなく、部屋で一緒に飲みませんかという誘いだった。ずいぶん大胆だなと勇利は思った。きっとそのさきも期待しているのだろう。ヴィクトルにそんなふうに声をかけるなんて、勇利には一生できそうにない。  ヴィクトルが返事に困っている。彼が話せるのはロシア語、フランス語、英語のみだ。勇利は静かに立ち上がった。 「失礼ですが」  ヴィクトルの注意をそっと引く。 「よろしければ通訳しましょうか?」 「ああ、すまない」  ヴィクトルがほほえんだ。 「頼めるかな」  勇利は彼女たちの言い分を正確にヴィクトルに伝えた。ヴィクトルはうなずきながら聞き、女性たちにほほえんで、試合のあとで疲れているので、もうそろそろ部屋へ戻ろうと思っていたと話した。優しい口ぶりだった。勇利は彼のそのやわらかい物言いを壊さぬよう、丁寧に日本語にして彼女たちに伝えた。さいわいしつこくする様子はなく、「わかりました。試合すてきでした。ありがとうございます」と言って素直に引き下がった。 「どうもありがとう」  ヴィクトルが勇利に笑いかけた。 「助かったよ」 「いえ、お役に立ててよかったです」 「帰らなくちゃね。部屋へ戻るところだと言ってしまったから」  勇利が気の毒そうにすると、「いや、もともと、そろそろ帰ろうかと思ってたんだ」とヴィクトルが気軽に言った。 「助けてもらったお礼に、きみのぶんはごちそうさせてくれ」 「いいんです。たいしたことじゃありませんので」  勇利は、前も支払いをしていただいたので、と言おうとして口をつぐんだ。結局ヴィクトルが勇利のぶんも出した。 「オレンジジュース飲んでたのかい? こんなところで?」 「え、ええ……」  夜にバーまで来て、ひとりでオレンジジュースを飲む。ずいぶんおかしな行動である。 「ああ、まだ飲めない年齢なんだね?」  また言われた……。勇利はかぶりを振った。 「オレンジジュースが好きなだけです」 「そうかい?」  ヴィクトルが陽気に笑っ��。彼とは同じ階だけれど、一緒に戻るのはためらわれたので、勇利はエレベータホールで「ぼくは下ですので」とうそをついた。ヴィクトルがふとおとがいに手を当てた。 「どうされました?」 「いや……」  彼は勇利をまじまじと観察してつぶやいた。 「きみとは会ったことがあるような気がする」  ヴィクトルはひとりでバーに入った。ヨーロッパ選手権を連覇し続けている彼は、今季も同じように金メダルを獲ることができた。うれしいことはうれしいが、自分だけの喜びではないと彼はもう知っていた。ヴィクトルの金メダルを誰よりも心待ちにしているあの子に早く見せたい。  ヴィクトルはベルヴェデールに口をつけ、ほのかなバニラの香りを味わった。せっけん、バニラ、ミルク──そういう優しい匂いはいとしいあの子のことを感じさせる。ベルヴェデールウォッカの中でも、インテンスなので度数が五〇パーセントだ。やわらかな印象なのにそうして酔わせようとするところも彼のようだった。ヴィクトルはほほえみ、二杯目はグレイグースにした。  こうしてバーで飲んでいると、いつかのことを思い出す。フランスと日本。フランスではクリストフと、日本ではひとりで飲んでいた。しかし、どちらのときも途中から──。  左隣に誰かが座った。強い香水の匂いが漂い、ヴィクトルはそちらに顔を向けた。ずいぶんと派手な目鼻立ちの女性が、まるで勝ち誇ったかのような笑みを浮かべながらグラスを取り上げ、英語で言った。 「おごってちょうだい」  美人といえる容貌をしている。しかしヴィクトルは、もっとうつくしい者がこころにいるので、なんとも思わなかった。金持ち娘の遊びといったところか。男はみんな喜んで自分の言うことを聞くと思っている手合いだろう。ヴィクトルのことを知っているのか知らないのかわからないが、かなり自信を持っているようだ。確かに身に着けているものは一級品である。しかし、まったくヴィクトルの好みではなかった。ブランドも、彼女自身も。  ヴィクトルはなんと言って断ろうかと思案した。こういう性質の者は、事が自分の思い通りにならないとなると途端に大騒ぎを始める。めんどうごとは避けたい。 「あなたほどのいい男がひとりだなんて、何かのまちがいじゃないのかしら?」  物言いもずいぶん陳腐だった。君こそ、という言葉を期待しているのがわかる。ヴィクトルはつくり笑いを浮かべながら、さてどうしたものかと考えた。と──。 「失礼します」  かたわらに誰かが座り、清楚な香がふわっと香った。ヴィクトルははっとした。 「それ、なに? 高いお酒?」  右側に来たのは東洋の男の子だった。ヴィクトルは目をみはった。彼はヴィクトルのグラスをのぞきこみ、ちょっと舐めてから、「きつい」と顔をしかめた。 「もうこれだけで酔っちゃった! ぼく、酔うとすごいんです。好きなひとにダンスバトルを仕掛けたりするんだよ」  彼は無邪気そうに笑い、ヴィクトルをみつめて黒い瞳をきらきらと輝かせた。ヴィクトルは、ダンスバトルを仕掛けられたときのことを思い出した。青年が持ってきた自分のグラスには、オレンジジュースがすこしだけ残っていた。 「貴方、かっこいいしすてき。だからおごってあげる」  彼はささやいた。 「その代わり、貴方の部屋に行きたいな……」  純粋な目つきでけなげにヴィクトルをみつめる。 「そこでかわいがって欲しい……。だめ?」 「いいとも」  ヴィクトルは、ものすごく好みの子だったので、すぐに了承した。東洋の子はぱっと顔を輝かせ、ジュースを飲み干すと、「ありがとう!」とヴィクトルに抱きついた。ヴィクトルは彼の腰に手をまわし、青年はふたりぶんの料金を支払った。 「約束ができてしまったので、失礼」  ヴィクトルは、彼女が叫ぼうが騒ごうが、もうどうでもよくなった。バーテンダーが可笑しそうにヴィクトルを見送った。 「ヴィクトル!」  部屋に入るなり勇利はヴィクトルに抱きつき、ヴィクトルはおおはしゃぎで笑い声を上げ、「勇利!」と力いっぱい抱擁した。約束通り、たっぷりとかわいがった。 「来てたの、知らなかったよ」  ヴィクトルは勇利に腕枕をして、低く、優しく話した。 「うん。教えてなかったからね……」  勇利はくすくす笑いながら答えた。 「俺が声をかけられてなかったら、こっそり帰るつもりだった?」 「もちろん……。怒られるかもしれない危険は冒せないよ」 「ひどいな」 「いまから怒る?」 「それはあとで」 「こわいなあ」 「勇利、あそこでひとりでオレンジジュース飲んでたの?」 「そうだよ。ヴィクトルもひとりだったね。クリスがいるかと思ったんだけど」 「彼はバンケットではしゃぎすぎておやすみさ」  ヴィクトルは勇利の髪をさらりと梳いた。勇利がヴィクトルのくちびるをそっと吸う。ヴィクトルは幸福でいっぱいだった。あとで金メダルを見せてやらなければ……。 「勇利」 「んー……?」  勇利が眠そうに返事をした。ヴィクトルは彼のまぶたをくちづけで覆った。 「きみに助けられたのは、これで二度目だね」  勇利はぱちりと目を開けた。 「いつもオレンジジュースなんだね。あのときも、俺を助けようと思って来てくれたのかい?」  勇利は驚いてヴィクトルをみつめている。 「……知ってたの?」 「まあね」 「どうして?」  勇利が口をとがらせた。彼は目つきで「なぜわかったのか教えて」とおどしている。かわいい瞳だ。 「もうひとつ」 「なに? こわい」 「フランスで会ったのもきみだ」 「…………」  勇利はヴィクトルの胸に顔をうめた。彼はぼそぼそと言った。 「確かにあのとき、会ったことがあるってヴィクトルに言われたよ。でも……」 「勇利は『気のせいでしょう』と答えたね。よくもそんなでたらめが言えたものだ」 「だって……」  勇利はヴィクトルに顔を近づけた。 「……どうして? ぼくのことなんて知らなかったくせに」 「なんとなくずっと気になっていた」  ヴィクトルは笑いながら勇利の髪にくちづけた。 「クリスがなぜあのとき、きみの注文を通訳したのか。きみは英語が話せた。ああいう場所では、バーテンダーもいくつかの言語に対応できるものだ。なのにクリスは最初からそんなことには頓着していない態度で話し、そしてきみが英語を使う前に通訳した。変だな、とひっかかっていたんだ」 「だからって、それがぼくだなんて……」 「クリスはきみが来る前、俺に紹介したい子がいると言った。しかし来るかわからないとも言った。俺は来なかったんだと思った。だがちがう。来ていたんだ。きみだった。クリスが紹介したいと言うなんて、俺のファンだという選手しか思い浮かばない。だがその子は、どうも思わせぶりな性質らしい。クリスがそういう口ぶりだった。それから時が経って俺はきみと出会い、きみのことを考えているとき、ふとすべての謎が解けた気がしたんだ。そうだ、あれは勇利だった。どうしても俺に紹介されてくれなかった勇利。でも俺のことが好きで助けに来てくれる勇利。我慢できなくてコーチの試合を見に来てしまう、やっぱり俺を助けてくれる勇利。勇利、俺の勇利──」  ヴィクトルは勇利を抱きしめ、覆いかぶさって熱烈なくちづけをした。勇利がちいさくあえぎ、笑ってヴィクトルの首筋に腕をかけた。 「ぼくに『会ったことがある気がする』って言ったの、フランスでのこと? それとも会場で見たことがあったの?」 「どちらなのかわからない。どちらもかな……?」 「適当なんだから」 「おまえへの愛は真剣だよ」 「ヴィクトル、ぼくさ……、今日、初めて男の人をナンパしたんだ。どうだった?」 「初めてにしては、上手いね」  ヴィクトルは勇利の顔じゅうにキスするのに夢中だった。 「相手がきわめてたやすいせいかもしれないけど」 「ちょろい?」 「ちょろいね」 「でもね、ヴィクトル……」 「うん?」  勇利はいたずらっぽく笑った。 「日本でヴィクトルにファンの女性が声をかけてるのを見たとき、ぼく、自分は一生こんなことはできないなって思ったんだよ……」  ヴィクトルはすばやく答えた。 「俺もナンパなんてしたことがない。勇利、初めての相手になってくれる? 世界選手権のあとを楽しみにしてて。きみより上手く誘えるかな?」
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xf-2 · 5 years
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“──畜生! 人類がかぜをひいてほろびるなんて、なんて人を小馬鹿にした結末だ。アーメン”
 こちらは日本SF界の巨匠・小松左京が1964年に発表した『復活の日』に登場する一節だ。イギリス陸軍細菌戦研究所から漏れた新型ウイルス「MM-88」が全世界に拡大する物語を描いた名作である。
「MM-88」は3月ごろから世界に広まり、当初は「チベットかぜ」という新型インフルエンザだと思われていたが、強力な感染力と高い致死率、完治後も再発する、発熱症状がない者も突然コロリと死亡する――といった特徴を持っていた。やがて5月下旬にソ連首相が病死したころから、各国の医療体制やインフラの崩壊がはじまる。
 日本でも6月中旬から主要交通網や電気・水道網が寸断され、同月末には日本国民の8割が死亡する。事態の悪化は止まらず、7月第3週には大統領を含めたホワイトハウスのスタッフが全滅してアメリカ合衆国が崩壊。そして9月上旬までに、南極の基地にいた約1万人をのぞいて、全人類と陸上哺乳類の大部分が死滅してしまう。
新型コロナウイルスが「ウイルス研究所から流出」というデマ
 良質なパニック小説を読むと、大事件が起きたときに大局的な視点を保つ訓練ができる。ゆえに『復活の日』は私の座右の書のひとつで、過去にもSARS(2003年)やH1N1インフルエンザ(2009年)の流行のたびに読み返してきた。もちろん現在も再読中である。
 2019年12月に中国武漢市で発生した新型コロナウイルスCOVID-19(2019-nCoV)も、都市封鎖にともなう中国国内の深刻な混乱を招いている。ほぼ陰謀論とみていい話とはいえ、今回はウイルスが中国武漢市のウイルス研究所から流出したというデマも流れている。過去の再読時と比較しても、『復活の日』の内容にか��りのリアリティを感じる事態だ。
 人類にとってさいわいなことに、今回の新型コロナウイルスCOVID-19は『復活の日』のMM-88と違って、各報道を読む限りは致死率が2%程度にとどまる。おそらく今年夏までに、ウイルスの流行自体も収束するだろう。
 ただし、ウイルス禍が今後の中国社会に与える影響は甚大だ。今回の記事では、主に庶民層の動きと政治的な事情についてまとめつつ、今後の見通しを考察してみたい。
SARS当時よりも「のんき」に見えた庶民層
 新型コロナウイルスの流行は、昨年12月の時点から中国に詳しい外国人の間では知られていた。ただ、多くの中国人が深刻になるのは、1月20日に習近平が「重要指示」を出して情報公開にゴーサインを出し、さらに同月23日に武漢市が封鎖されてからである。
それ以前、中国国内の報道はゼロではなかったが、報道統制によりかなり小さな扱いだった。医療関係者たちが現場レベルでは認識していたヒト・ヒト感染の発生も隠蔽されていた。ゆえに大部分の中国人は新型肺炎に注意を払わず、リスクにも鈍感だった。
 これは17年前にSARSが流行したとき、公的なアナウンスがごく少ない時点から、庶民層でも口コミで危うさがジワジワ語られていたのとは大きな違いだ。「酢に予防効果がある」と謎の対策が噂されて商店の酢が品切れになったり、それなのに多くの人が公衆衛生にあまり気を使わなかったりと、突っ込みどころは多かったとはいえ、さておき中国人の危機意識自体は高かった。
 SARS当時の中国はよくも悪くも発展途上国で、政府や社会に対する庶民の信頼度がかなり低かった時代だ。新聞記事を含めたあらゆる公的情報は信用されておらず、国家権力が真相の隠蔽や捏造をおこなうのは常識以前の話。大事な話は口コミで共有された。これはデマが生じやすい社会環境だったのだが、反面で当時の中国人は、情報面では当局にコントロールされにくかったともいえる。
 いっぽう、今回は公的なアナウンスが出るまで、中国の庶民の反応はかなりのんきに見えた。理由のひとつは、現代の中国人が往年と比べて、報道や政府発表を信じやすい傾向が圧倒的に強まっていたからだろう。
自称「情強」になった中国人
 近年、中国ではスマホの普及によって、従来はしっかり新聞を読まなかった層の庶民まで気軽にニュースに触れるようになった。彼らがなんとなくダウンロードしたニュースアプリの今日頭条や新浪新聞、チャットアプリの微信(WeChat)、ショート動画アプリの抖音(海外市場では「TikTok」)などを通じて、大量の情報が流れ込んでくるようになったからだ。
 本来、中国の国内報道は2003~2013年の胡錦濤時代にかなりの自由度があり、対して習近平時代には大幅に制限された。だが庶民レベルの主観では、スマホ時代の習近平時代のほうが、自分たちが「情強」(情報強者)になったと考えられている。
 理由は彼らが触れるニュースの分量が往年の数十倍以上に増加したからだ。しかも新聞と違い、アプリを通じて配信されるネット記事は圧倒的に読みやすく、娯楽性も高くて頭に入りやすい。
 結果、統制下にある膨大なニュースを通じて当局的な価値観が庶民の頭に無意識に刷り込まれ、報道を信頼する人がぐっと増えた。いわば官製のエコーチェンバーが起こされていたと言ってもいい。
習近平の「中国の夢」に染まる人民
 また、中国経済の発展や中国人の海外旅行の拡大、スマホ普及と軌を一にした国内社会のスマート化などによって、「貧しい祖国を強くて豊かにした中国共産党」という当局のプロパガンダを、中国人自身がある程度は事実だと実感してしまったことも大きい。
たいていの人は、祖国が「偉大」で「富強」(強くて豊か)だと嬉しい。これも当局への信頼度が向上する理由になった。ネット世論においても、投稿内容の厳しい検閲も理由とはいえ、一昔前とちがって体制擁護的な意見が多数派になった。現代の中国を、漢や唐の絶頂期とならぶ「盛世」だと呼ぶ声も少なからず聞かれた。
 習近平政権の発足以来のスローガンである「中国の夢」(中国夢 Zhōng guó mèng)は、中国人民が当局のコントロール下にある情報を素直に信じ、体制を疑わないことでハッピーな幻想に酔える状態を出現させた点において、ある意味で実現していたのである。
 ……だが、2020年の1月20日以降、こうした従来のムードは大きく崩れている。
メディアやSNSが異例の活発化
 これまで習近平体制下の中国では、重大ニュースは「新華社」などの中央メディアの報道を他のメディアが転載する形式が推奨され、またあらゆるニュース内容が体制にポジティヴなメッセージを含む内容(「正能量」)に変換されてきた。
 だが、いまや各メディアによる独自報道や、不都合な事実を指摘する内容の報道が少なからず見られはじめている。当局側の情報統制や摘発が間に合わないのか、これまでは鳴りを潜めていた、ネットを通じた問題告発や政治主張の発表も活発化している。
 特に武漢市内や湖北省内からは、病院内で錯乱する医師・看護師の姿や数多くの遺体を映したとみられる現地の動画や、体制批判の演説動画などをSNSに投稿する例がかなり多く見られるようになった。
 保護者が強引な隔離を受けたことで1人残された脳性まひの少年が死亡した例や、病院の手が回らず治療が受けられない老人が死亡した例など、社会的弱者が犠牲になったことへの怒りを、遺族らがSNSに投稿する事例も増えた。
 2月7日にある医師の死亡が報じられたことで、同様の傾向はより強まった。この33歳の李文亮医師は、昨年12月末にいちはやく新型コロナウイルスの流行に警鐘を鳴らしたことで「デマを流した」と処罰され、やがて本人もウイルスに感染して死亡した人物だ。
 彼の理不尽な処罰と感染死はウイルスの流行の発生当初の当局の隠蔽体質を象徴するものと言ってよく、中国のネット上では(従来は反体制的ではなかった人も含めて)「李医師にノーベル平和賞を」という声まで出ている。
 中国のSNS・微博には言論の自由を求めるスレッドが立てられて多くの反応を集め、名門大学の教授や弁護士らが情報隠蔽の停止や言論の自由の実現を求める公開書簡を発表する例が複数出ている。いずれも昨年までの中国では、かなりの勇気を要した行動である。
すでに「都市封鎖」は70以上――「偉大な祖国」はダメダメだった
 武漢市内や湖北省内では、ウイルス禍による医療体制の崩壊と社会混乱、当局に対する不信感の強烈な高まりのなかで、他にも一般市民が従来の禁忌をあえておかすケースがあらわれている。
たとえば2月11日付けの『朝日新聞』は、武漢市内の「隔離ポイント」の残酷な実態を告発する記事を当事者の実名入りで掲載している。習近平体制下の中国では、当局に目を付けられそうな問題を一般市民が実名で外国メディアに告発する事例が激減していたが、そのタブーが破られた形だ。
「偉大」で「富強」なはずの祖国は、いざ自分や家族が本当にヤバい状況になると頼りにならない存在だった――。武漢市をいちはやく封鎖した習政権のウイルス対策は、客観的にはそう悪くないとみる専門家の声もある。だが、庶民レベルの感覚では、体制への強い不満と不信感を生むものになっている。
 ウイルスの広がりとともに、中国の言論状況はさながら7年前までの比較的自由な胡錦濤時代に逆戻りした感すらある。現在、「外出禁止」を含めた都市封鎖は70都市近くに拡大した。結果、不満や不安を持つ人は全国規模でどんどん増えており、おそらく新型コロナウイルス感染者の数十倍以上の規模に膨れあがっている。
 この傾向は短期的にはより強まっていくだろう。タブーの赤信号はみんなで渡れば怖くないのだ。
「GDP成長率0%」から逃げる習近平
 対して習近平政権は、初動段階での情報隠蔽を口実に、ウイルス流行が拡大した責任を湖北省や武漢市などの地方幹部に押し付ける方針をとっている。
 たとえば湖北省黄岡市では、2月2日までになんと現地の党幹部ら337人が処分された。政権は庶民の怒りが中央政府や党体制の全体に向かないように懸命だ。
 そもそも、ウイルス禍が予想以上の規模で広がってからの習近平は存在感が薄い。彼は1月28日にWHOのテドロス・アダノム事務局長と会談後、2月5日まで1週間にわたり表舞台に顔を出さなかった。2月10日には北京市内の病院視察が報じられたが、いまだに武漢入りはしていない。
 1月末に新設された国務院の新型コロナウイルス感染肺炎対策指導特別チーム(指導小組)の組長も、総理の李克強となっている。習近平は2013年の政権の発足以来、金融やネットセキュリティなどの大量の指導小組を作ってその組長を兼任し、李克強ら他の高官の権力を削いで独裁体制を固めてきたのだが、ウイルス問題だけは李克強に仕事を投げている形だ。
2月7日、著名なエコノミストとして知られるアメリカISIグループ会長のエド・ハイマンは、CNBCのインタビューに応える形で、2020年第1四半期の中国のGDP成長率が0%であると予測するコメントを出した。この数字の真偽はさておき、ウイルス禍が中国経済に天文学的な規模の損害を与えるのは間違いない。
 中国の中央銀行である中国人民銀行は、経済テコ入れのために1兆2000億元(約19兆円)を金融市場に供給すると発表したが、これは体調不良を覚せい剤で無理やり回復させるようなもので、副作用も大きいだろう。
 今回のウイルス流行は、もはや中国政府が何をやっても中国に巨大なダメージと民心の動揺を残すことが確実だ。習近平の顔の見えなさが、責任問題から逃げる目的ゆえだと推測するのは容易である。
 過去の台湾のヒマワリ学運(2014年)や香港の反政府デモ(2019年)への対処のまずさを見ても、習近平は突発的な大規模トラブルへの対処を苦手とする政治家ではないかとも思える。
ウイルス収束後、“大量処罰”が待っている
 新型コロナウイルス発生以来の習近平の動きは、中長期的にはすくなからぬ禍根を残すはずである。普段は大いばりをしていながら、本物のピンチの際には部下に責任をなすりつけて前線から逃亡する指揮官は人心を得られないからだ。
 習近平は政権の成立以来、従来の中国ではながらくタブー視されてきた個人崇拝や個人独裁を積極的に推し進め、毛沢東並みともいわれる強大な権力を手にした。結果、中国の官僚たちは保身と習近平への忖度が最優先課題になり、失点を犯さないために最低限の仕事しかしなくなったり(「不作為」)、まずい情報を上にあげる行為をためらう傾向が常態化した。
 ウイルス流行の初期段階で地方政府が情報隠蔽をおこなったことや、問題に言及した医師らへの処分は、習近平体制の負の側面が要因だとみていい。すくなくとも当局内部の常識的な人間や、知識人・メディア関係者、さらにネットユーザーにはそうした考えを抱いた人がかなり多い。
 おそらく数カ月後、ウイルス流行が収束したあとは習近平からの巻き返しがある。現在、必死で問題告発の声をあげている一部の武漢市民に対する大規模な処罰や、習近平に対して批判的な動きをみせた当局関係者やメディア関係者に対する猛烈なパージがおこなわれるはずだ(中国語で「秋後算賬」という)。
ただ、現在のウイルス禍が、これまで習近平の方針にいやいや従っていた一部の官僚やメディア関係者の心をさらに冷めさせているのは確実だ。今後の「秋後算賬」に対する庶民の反発もかなり強いだろう。これまで社会を包んでいた「中国夢」の甘い時代は、今回の事態によっておそらく終わる。
 もちろん今回の件だけで習政権は倒れない。ただ、数年後あたりに再びなんらかの大規模な突発的事件(地震やデモなど)が起こった場合、現在のウイルス対応問題が習近平失脚の伏線になる可能性も、それなりに高くなったように思える。
 毛沢東死後の1976年10月、実権を握る四人組を打倒した華国鋒や葉剣英らのクーデターは、庶民から支持された。中国人の価値観では、反乱には天下万民に対するなんらかの大義名分が��視される。今回、習近平は彼を引きずり下ろしたい勢力に対して、「民を苦しめた疫病蔓延の責任者」という非常にわかりやすい大義名分を与えてしまった。
「災厄が終わった時――」
 禍福はあざなえる縄のごとしだ。たとえば前回のSARSの流行は結果的にアリババの台頭を生み、近年の中国社会のスマート化のきっかけを作った。人々が屋内にいたままで商品を購入するニーズが高まり、従来は不信感が強かったオンラインショッピング市場が一気に人気を集めたためだ。近年のイノベイティブな「キラキラ中国」の出現は、SARSが流行しなければずっと遅れていたはずである。
 新型コロナウイルスの流行も、中国で先進国を大幅に上回るリモートワークのシステムが確立されて全世界的な働き方改革のきっかけになったり、ウイルス感染者の追跡に役だったことで中国の監視社会化に対する庶民の評価が現在以上に高まったりと、思いもよらぬ結果を生むかもしれない。
 人間は忘れっぽいので、もしかするとウイルス収束の3カ月後くらいには一切がなかったことになり、人々が「中国の夢」に酔う社会が復活する可能性もある。ことに中国であれば、これも意外とあり得るシナリオだろう。
 ただ、習近平政権が発足以来で最大の危機に立たされたことも確かだ。最後に『復活の日』から、私がいちばん好きなパートを引用してこの原稿を終えておこう。
“「──それよりも、このどたばたが終ったあと社会の勢力関係がどうなるかを考えといた方がいい(略)」”
“終った時──老人たちは、大ていこの災厄が終った時のことを考えていた。老人たちは災厄に出あった経験を豊富にもち、それがどんな形で終るか、終ったあと、どんなことになるかも知っていた”
“終った時──誰しも、この災厄が、いつかは終るものと考えていた。「人類」にとって、災厄というものは、常に一過性のものにすぎない、と”
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technocat1026 · 5 years
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また、山口組と旧後藤組の関与か。
しかも、フリーメイソン森喜郎の少女買春
他に覚醒剤利用してませんかね?
MDMAとかね。
押尾学冤罪事件のアレなw
以下引用
プチエンジェル事件は、今から16年前に東京で起きた児童監禁売春強要事件だが、「自殺?」したとされる容疑者の単独犯行とされ、2000名もの政財界の大物が羅列された名簿を警察が押収したにもかかわらず、犯行経過と名簿の具体的内を示す、ほぼすべてが警察によって隠蔽され、マスコミもこれを報じずに、見事にうやむやにされた、戦後最悪の権力による極悪犯罪隠蔽事件である。
 このとき、日本社会が腐敗した「法治国家」である現実が、世界に明らかになったといってよい。権力と金さえあれば、小学生少女を監禁、強姦しても、事件は隠蔽され、罪にも問われないと警視庁=警察権力が示したのである。
 現在、安倍政権によって、法治主義を無視、破壊する権力濫用が続いているが、こうした自民党政権による国家ぐるみのマフィア的犯罪は、すでに、このとき完成していたと考えるべきである。
 名簿を一部の記者が見ていて、そのなかに、自民党の現役政治家や元大臣、元警察官僚などが含まれていたと証言している。
 中には、森喜朗元総理の息子が含まれていたとの週刊誌の報道もあった。
 名簿の捜査は、警察上層部からの命令で停止させられ、その理由は「偽名が多い」というものだったが、捜査現場からのリーク情報では、携帯電話番号まで記載され、番号と公表された氏名が一致していることも多かったといわれる。
 この事件には、関わった少女や、事件を調査していたフリーランス記者などに数名の不審死者が出ているが、これらも、すべてうやむやに処理され、徹底した隠蔽が行われた。
 私は、この事件の真相について、いつか、まとめて報告したいと思っていたが、情報が少なすぎるため果たせず、今回、YouTubeに現場を取材した記者の証言がアップされて、はじめて詳細を知ることができた。
 https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g
 https://kirari-media.net/posts/454
 事件の経過
① 2003年7月上旬、稲城市に住む小学生少女が、渋谷周辺で女子高生スカウトから「アルバイトしないか」と誘われ、主犯とされる無店舗型少女売春クラブ経営者の吉里弘太郎(29)と接触、マンションの部屋を1時間くらい掃除して1万円を渡され「友達も連れておいで」と誘った。
 このとき、友達を連れてくれば、一人について3万円を渡すと約束していたようだ。
② 誘いに応じて、少女は友人3名を加えて、7月13日、再び吉里の元を訪れた。
 彼女らには二台のタクシーが用意され、7月11日に吉里が契約したばかりの赤坂のウイークリーマンションに連れて行かれた。(インターナショナルプラザ赤坂No.1最上階の11階1101号室)
 すると、吉里は態度を豹変させ、「ここに来たのは、どういう意味か分かってるな?」と、スタンガンを手に四人の少女を恫喝した。
 怯える少女たちに、手錠と目隠しをして、重しのポリタンクにつないで監禁が始まった。少女たちのなかには、逃げだそうとしてスタンガンで負傷させられた者もいた。
 吉里がマンションを短期契約した7月11日、彼は保有していた二代のフェラーリを売り払っていて、7月17日には、警察が以前の少女売春事件で、吉里に逮捕状を執行しようとしていた。つまり、死亡した7月17日以前に、吉里は自分が逮捕されることを知っていた。
③ 7月13日、夜になっても帰宅しない少女たちの家族は、不安にかられて、警察に通報、通常、この種の事件では、少女たちの命が危険に晒されるため、ただちに公益報道されるはずなのだが、この事件では、警察は、なぜか7月16日まで、マスコミにも公表せず、秘密裏に、学校教師と家族だけによる捜索が行われた。
 なぜ、警察が誘拐行方不明事件でありながら、公開捜査を拒否したのかは、まったく理由が分からない。
 また、警察上層部から、「少女売春事件であり、本人のプライバシー保護のため、周辺での聞き込み捜査は行うなとの指令が出た」ことで、稲城警察による聞き込み捜査が中断された。
 警察は、事件発覚前から、これが少女監禁売春強要事件であることを知っていたようだ。
 しかし、事態が進展せず、警察は、これ以上の隠蔽は無理と判断して、16日未明にマスコミに情報公開、やっと報道が始まった。
④ 7月17日、監禁された少女たちは、室内の物音がしなくなったことから、自分で手錠を外して部屋を逃走、裸足で逃げて、インターナショナルプラザ赤坂No.1の隣にあった花屋に駆け込んだ。
 通報を受けて1101号室に警察が立ち入ると、そこには、吉里が、椅子に座ってビニールを被って死んでいた。死後、十数時間を経過していたとされる。
 
⑤ 警察は、吉里の単独犯行で、発覚を恐れて自殺したと「断定」し、捜査を早期に打ち切った。
 死因は、ビニールテント内に置かれた七輪の練炭による一酸化炭素中毒という説明だったが、いくつかのメディアが検証したところでは、七輪は高熱を発し、ビニールテントなど、たちまち溶けてしまい、外気が侵入して死には至らないこと。
 また、吉里の死体には、ビニールが溶けたり、七輪の熱による火傷があるはずなのに、それらが一切なく、普通のきれいな死体であったこと。
 ビニールテントは、外部からテープで目張りされていて、中に入った吉里が外から貼ることは不可能であること、したがって、警察による自殺という結論は、極めて不可解であること、を明らかにした。(『真相報道 バンキシャ!』)
 つまり、吉里弘太郎は、事件を起こしてから、外部の人間によって、自殺を装って殺害された可能性が極めて大きい。吉里が逮捕されて、警察にペラペラと自白されては困る人物の指示によって殺害が行われたと考えられる。
 つまり、17日に吉里が逮捕されることを知っていた、警察関係の情報を得られる立場の人間によってである。
 不可解なことに、警察は、法医学解剖調査など遺体の詳細な調査を行わないまま、慌てて遺体を始末させた。
⑤ 吉里弘太郎は、無店舗型、非合法未成年者デートクラブ「プチエンジェル」を経営。女子高生数人をスカウトとして雇い、渋谷や新宿で「カラオケ5,000円、下着提供10,000円、裸体撮影10,000円」などと書かれたチラシを配ってローティーンの少女を勧誘し、男性客に斡旋、その他わいせつビデオの販売も合わせて多額の利益を得ていた。また本人も過去に買春で逮捕歴があり執行猶予中だった。
 吉里は、この種のデートクラブ経営者としては、破格の成功を収めていて、年収は、数億円以上に達していたとみられている。死後発覚した預金は35億円と報道されている。
 この金額は、一介のデートクラブ経営で得られるような額ではなく、背後に想像を超える大規模な組織があったことを示すものである。
 本人、自ら、小学生少女にしか興奮しないという児童性愛趣味者であり、小学生少女を多数、提供することで莫大な利益を得ていたが、おそらく組織的な活動だっただろう。
 その相場は、小学生なら、一回の性行為で、10~20万円というものだったようだ。当時、流行していた「援助交際」で、女子中学高校生との性行為が、一回1万円程度とされていた相場に比べれば、小学生の相場が、どれほど高額なものか分かるが、これに対し、全国の政治家・財界人・医師など社会的地位の高い者たちが、このクラブに殺到していたことが明らかにされている。
 この事件が、警察によって完全に隠蔽された理由は、顧客たちの社会的地位を守るためであることは明らかである。
 ⑥ 吉里弘太郎のプライバシーを調べると、とんでもない事実がたくさん出てきた。
 
 吉里弘太郎容疑者の父親は元警視庁幹部であり、朝日新聞に転職して幹部社員から西部本社社会部長に転属した。
吉里は東京芸術大学出身でデザイナーをしていたが、大学時代から複数の女性と交際しヒモ生活を送っていた。住所は「横浜市港北区篠原東1-2」や「埼玉県久喜市」だと言われている。
 吉里は、大学在学中の頃あたりから立て続けに肉親が自殺している。父親は1993年に難病指定されている頭頸部ジストニアを発症し、病苦によるものなのか、朝日新聞社西部本社に異動になったためか1996年に自殺している。
 その後、兄が1999年に自殺。母親は悲観して2001年に自殺未遂を起こした。
 吉里は、多摩地区を中心に主婦売春組織を運営していたことから警視庁にマークされていたという。
⑦「プチエンジェル事件」は、なぜか突然、メディアから消えて収束を迎えた。
 吉里弘太郎の単独犯行とされ、捜査も終了させられた。
「プチエンジェル事件」の顧客リストに、日本を代表する、2000名もの政財界、医療界、司法界、政府官僚などの大物が掲載されていたことが暴露されたが、なぜか警察当局は「偽名が多いため、捜査不能」と警察が発表し、警察も報道陣も示し合わせたようにこの事件から手を引いた。
「プチエンジェル事件」の翌日には警察による一斉補導が渋谷で行われ、約1500人もの少年少女が補導された。 
 吉里が借りていた埼玉にあるアパートからは1,000本以上の小学生少女が主役となった猥褻ビデオテープと2000人以上が記された顧客リストが押収されたが、警察は、一切摘発に動こうとしなかった。
 同時にマスコミも警察と示し合わせたように「プチエンジェル事件」について報道をしなくなり、突然のように事件は終幕を迎えた。
 被害に遭った少女たちの証言から、客引きの女子高生やマンションへの誘導役の男、部屋を借りた名義人である”ヤマザキ”という男など、確実に3人以上は共犯、関係者がいることが明らかにされていたが、なぜか、すべて吉里の単独犯行とされて、それ以上の捜査は行われなかった。
 1101号室に出入りしていたふたりの男女が目撃されており、ある捜査官は後に「男の方は警視庁幹部の息子だった」と暴露しており、「プチエンジェル事件」はその警視庁幹部の働きかけもあって捜査打ち切りになったとも言われている。
⑧ マンション「インターナショナルプラザ赤坂No.1」は小沢一郎の資金管理団体「陸山会」が所有する物件だと言われている。
 この事件について小沢一郎は一切触れていない。
⑨ 顧客リストに糸山英太郎も。
「プチエンジェル事件」顧客リストの人物として名前が上がったのが、糸山英太郎だった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%B1%B1%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E
 糸山英太郎は実業家であり個人投資家で、テレビ東京の大株主である他、過去には日本航空の筆頭株主だったこともある日本屈指の富豪で、2007年のフォーブス発表の「日本の富豪ランキング」では7位にランクインし、総資産額は4500億円だった。
「プチエンジェル事件」の筆頭顧客とも言える糸山英太郎は、事件が発覚する4日前の2003年7月12日に所有する自社ビル「ザ・イトヤマタワー」の18階にある自宅で、16歳の少女に15万円を支払って買春をした。
 この少女を斡旋したのは元暴力団組長で、警察の捜査にひっかかり組長ら3人が児童福祉法違反で逮捕されている。
 しかし、買春をした本人である糸山英太郎は「相手が18歳未満だとは知らなかった」と容疑を否認し、罪には問われなかった。
 当時、援助交際による女子中高生の性交渉の相場が一回1万円程度であることを考えれば、糸山が出した一回16万円が何を意味するか分からない者はいないはずだが、これも警察により無罪放免とされた。現在では、小学生相手の売春は重罪で強姦罪が適用され、最低でも5年程度の実刑判決となる。
 この事件は当時の五代目山口組若頭補佐だった後藤組組長の後藤忠政により揉み消されており、糸山は後に慰労金を支払ったといわれる。
⑩ フリージャーナリスト・染谷悟が殺される
 権力により封殺されてしまった「プチエンジェル事件」を暴こうとしたフリージャーナリストの染谷悟は、中国マフィアに殺された。
 「プチエンジェル事件」から約2ヶ月後となる9月12日に、東京都江東区東雲2丁目の東京湾に男性の死体が浮いているのを通りがかりのトラック運転手が発見し通報した。
被害者は「柏原蔵書」の名前で活動していたアングラ情報専門のフリージャーナリスト染谷悟で、背中8箇所を刃物で刺された痕があった他、頭部に2箇所殴られた痕があった。
 発見当時、染谷悟は岸壁から2メートルほどのところに浮いており、服の上から鎖で巻きつけられて縛られ、両手は紐で縛られている状態で、両足も紐の痕が残っていた他、腰には潜水用の重しの入ったベルトが巻かれていた。
「プチエンジェル事件」は中国人身売買に通じていた?
 染谷悟は殺される直前に周囲に「中国人マフィアに命を狙われている。殺されるかもしれない」とこぼしていた。
 警視庁東京水上署の捜査本部が染谷悟さんの刺殺体が発見された2日後の14日に発表した内容では、染谷悟さんは「プチエンジェル事件」が明るみになる前から身の回りに起こる不可解な出来事に悩まされており、2002年頃から自宅の窓を割られたり、空き巣に入られたりしていた。
 染谷悟は組織的な児童買春の実態を暴くために動いていたが、2002年9月には当時住んでいた豊島区のアパートで空き巣被害に遭い、取材で使っていたカメラやパソコンなど計77点が盗まれていた。
 染谷悟が殺害されてから2日後に、2ちゃんねるに大手出版社の編集員を名乗る人物が事件の詳細について語った。
 染谷悟は「中国マフィアのしっぽを踏んでしまった」と語っていたという。
 このことを編集員は「(「プチエンジェル事件」を追う内に)中国マフィアと日本やくざの児童売買ネタに当たってしまった」と解釈した。
 「プチエンジェル事件」には中国マフィアと日本のやくざが密接に絡んでおり、児童人身売買も疑われた。
 吉里が小学6年生の女児4人を拉致監禁した理由は中国マフィアに売り飛ばすつもりだったのかもしれない。
 少女らを監禁した翌日にはすでに警察が吉里弘太郎容疑者が犯人だと目星をつけて捜査を開始したため進展が早く、このままだと捕まるのは時間の問題だと踏んだ中国マフィアが吉里弘太郎容疑者を葬った疑いもある。
⑪ 2ちゃん書き込みログ
 赤坂署に配属になったから事件資料を調べようとしたら全て処分されていた」
染谷悟は、プチエンジェル事件発生の2003年7月に「歌舞伎町アンダーグラウンド」という著作を出版したばかりでした。次の題材として、プチエンジェル事件を独自に取材を進めていた。
 プチエンジェル事件の取材をしていく中で、周囲に「中国人マフィアに命を狙われている」と漏らし始め、プチエンジェル事件から2ヶ月後の2003年9月、染谷は東京湾に浮かんだ。
 プチエンジェル事件は赤坂で発生しているにも関わらず、当初「渋谷で発生した」と報じられた。これは永田町の近くでそういった醜聞が報道されるのをいやがった政治家からの圧力があったからだ、と言われている。
 参議院議員であった鴻池祥肇(当時:防災担当大臣)は、2003年7月18日の衆議院予算委員会にて、「少女4人も、加害者か被害者か分からない」という答弁を行った。鴻池は藤井孝男委員長から発言の真意を問いただされ、発言を撤回した。
⑦ 冒頭に紹介したリンク動画では、記者が、数百名といわれるプチエンジェルクラブに関係した少女たちに不審な死者が出ていると述べている。
 https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g
 また、関係者の家族全員が、稲城市などから遠方に引っ越してしまったとも言われる。この事件の闇は、とてつもなく深い。
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 以上が、16年前、2003年に起きた、大規模な児童売春事件の概要であるが、問題の核心は、犯人とされた吉里弘太郎が借りていたアパートから発見された、2000名もの顧客名簿に、日本の上流階級、権力者たちが、ずらりと顔を出していたことである。
 警察は「偽名」として捜査を中断したが、これを見た、一部の記者や捜査員は、誰でも知っている日本の顔が、そこにあったと証言している。
 つまり、大臣や行政官僚、医師、弁護士、警察関係者、著名人たちである。名簿は、ひどく早い捜査終了後、ただちに廃棄され、現在では行方不明になっている。おそらく証拠保全義務を無視して焼却処分されたのであろう。
 「日本を代表する権力者・著名人」の性癖が、このように卑しいものであったことに驚愕させられただけでなく、安倍晋三のお友達、山口敬之による詩織さん強姦事件を権力で揉み潰した、安倍官邸の警察官僚、山口格の行為にも通じるものがある。
 というより、戦後、日本の自民党権力は、長い間、自分たちに都合の悪い事実が発覚すると、権力を使って隠蔽し、潰してきたのである。
 つまり、日本の戦後権力は、中国共産党の悪辣な司法への介入と、それほど変わらないことを行ってきた。
 日本は、決して法治国家や民主主義国家とはいえない、深い闇に閉ざされた社会だったことを示している。
 この事件は、たとえ長い年月を経ようと、絶対に闇に葬らせてはならない。
 児童売春の顧客名簿に掲載された権力者たちは、たった今も、国家権力の第一線で政治経済に携わっていて、こんな犯罪者たちに日本を委ねることは許されない。
 あるいは、安倍政権の人脈、安倍首相自身も、もしかしたら名簿に記載されているかもしれない。
 もしも、この名簿が、どこかに保全されていて、それが明るみに出たならば、時効は経過しているが、懲役五年相当の犯罪に関与した者として、すべての信用を失う結果になるだろう。
 今の、自民党や経団連の体制は根底から崩壊することが避けられないのである。
 私は、それを強く期待したい。また名簿を覗き見た一部の捜査員や記者たちも、すでに引退した者なら、積極的に真実を公開してもらいたい。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-700.html
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【パトリック・バーン】 2021/2/19 11:34 JST
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https://www.tabletmag.com/sections/news/articles/the-thirty-tyrants
タブレットマガジン サーティータイランツ(※30僭主せんしゅ) アメリカのエリートが中国との取引を選択したことは、アテネとスパルタの歴史の中に前例がある。……
※続きで、記事の和訳をしてみた。けっこう長文。
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※オリジナル英文は元リンク参照。
サーティータイランツ(※30僭主せんしゅ) アメリカのエリートが中国との取引を選択したことは、アテネとスパルタの歴史の中に前例がある  2021年2月4日 リー・スミス による
『王子』の第5章で、ニコロ・マキアヴェッリは、征服した大国が戦争で敗北した人々をどのように扱うかについて、3つの選択肢があると述べた。第一は彼らを破滅させること、第二は直接支配すること、第三は「あなた方に友好的な状態を維持するために、少数者の状態を作り出すこと」である。
マキアヴェッリが最後の例として挙げるのは、紀元前404年の27年間の戦争の後、アテネを敗北させた際にスパルタが設立した友好的な政府である。すでに民主主義を軽蔑していたアテネの上流階級のエリートにとって、ペロポネソス戦争での敗北はスパルタのシステムが好ましいことを確認した。それは恒久的な召使階級、ヘロット、定期的に屠殺された彼らの人間以下のステータスを受け入れるためにそれらを条件とした上で、高奮発軍の貴族の支配であった。対照的にアテネの民主主義は下層階級にあまりにも多くの権力を与えた。親スパルタ派の寡頭制は、市民の権利を奪うためにパトロンの勝利を利用し、国内のライバルとの争いを解決し、彼らを追放して処刑し、彼らの富を没収することに成功した。
アテネの法律に不誠実で伝統を軽蔑するアテネ政府は「三十人の暴君」として知られており、その役割と機能を理解することは、現在のアメリカで何が起こっているのかを説明するのに役立つ。
前回のコラムでは、ニューヨーク・タイムズ紙のトーマス・フリードマン氏に、10年以上前のバラク・オバマ大��領就任1年目に彼が書いた記事について話を聞いた。彼の重要な記事は、アメリカのエリートが民主主義が自分たちのために機能していないと判断したまさにその瞬間を記録している。共和党のせいでアメリカ国民を蹂躙することができないと非難した彼らは、自分たちを豊かにしている関係を強化するために民主党に移った。
「グローバル化した世界で競争する必要性から、実力主義者、多国籍企業の経営者、東洋の金融業者、技術起業家は、共和党が何を提供するかを再考せざるを得なくなっている。原則として、彼らは党を離れ、現実的な連立ではなく、イデオロギー的な批判者の集団を残してきた」と、ある貿易コンサルタントはフリードマンに語った。フリードマンのコラムが発表されてから10年以上の間に、タイムズのコラムニストが特定した幻滅したエリートたちは、アメリカの労働者をさらに困窮させ、自分たちを豊かにしてきた。彼らが生きるようになった一言のモットーはグローバリズム、つまり、彼らがたまたま生計を立て、子供を育てている特定の社会の幸福に言及することなく、商業関係や社会的企業を構造化する自由であった。
グローバリスト企業を支えたのは、2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟したことである。何十年もの間、アメリカの政策立案者や企業クラスは、中国をライバル視していたが、フリードマン氏が述べたエリートたちは、啓蒙された中国の独裁政治を友人として、またモデルとしてさえ見ていた。なぜ彼らは権威主義的な政権と貿易をし、何百万ものアメリカの製造業の仕事を中国に送り込み、働くアメリカ人を困窮させたのだろうか。それは彼らを豊かにしたからです。彼らは、中国と取引する以外に選択肢がないと自分たちに言い聞かせることで、自分たちの良心を救ったのです。中国は大きく、生産性が高く、効率的で、中国の台頭は避けられない。それに、中国との取引で傷ついたアメリカの労働者は罰せられて当然だった。進歩のためには何が最善なのかを邪魔する反動的で人種差別的なイデオロギーの評論家を誰が擁護できるだろうか?
外国との戦争や不法移民を終わらせることと一緒に、これらの雇用をアメリカに戻すことは、ドナルド・トランプ大統領の大統領職の中心的な政策公約であり、2016年にトランプ氏が驚くべき勝利を収めた源でもある。トランプ氏は、企業や政界の確立された中国との貿易関係が一般のアメリカ人を売り渡したと主張したのは、ほとんど初めてではなかった。元民主党下院議員で1988年大統領候補のリチャード・ゲファードは、奴隷労働者を雇用している国家との貿易はアメリカの雇用を犠牲にし、アメリカの名誉を犠牲にすることになると警告した、重要だが最終的にはあまり影響力のない選出された民主党幹部や政策専門家のグループの第一線で活躍していた。トランプ氏の言うことを真に受けたのは、6,000万人以上のアメリカの有権者だけだった。
トランプ氏が「沼」と呼んでいるのは、最初は産業、機関、人物が無作為に集まっただけのように見えたが、それらが新大統領によって非難されているという事実以外には、何の共通点もないように見えた。しかし、トランプ氏の絶え間ないエリートへの攻撃は、彼らに集団的な自己認識と連帯のための強力な動機を与えた。彼らは、同じ偏見や憎しみ、文化的嗜好、消費習慣だけでなく、同じ重心である米中関係も共有している官民の利害の結びつきを代表していることがわかったのである。こうしてチャイナ・クラスが誕生したのです。
かつては、曖昧に見えた、あるいは存在しないように見えた関係が、トランプ氏の軽蔑と、トランプ氏を憎むエリートたちの相互の軽蔑の光の下で、鮮明になったのである。
10年前には、NBAのスーパースターであるレブロン・ジェームズとアップルのティム・クックCEOを同じファミリーアルバムに入れる人はいなかっただろうが、彼らは今、安価な中国の製造業(ナイキのスニーカー、iPhoneなど)と成長する中国の消費者市場のおかげで、素晴らしい富で結ばれている。デジタルサービスプロバイダーのテンセントとのNBAの15億ドルの契約は、中国の会社は、アメリカ以外のリーグの最大のパートナーになりました。感謝の意を込めて、これらの二股大使は無知な同胞に中国共産党の知恵を伝えた。NBAの幹部が香港の反体制派を擁護するツイートをした後、社会正義活動家のキング・レブロンはアメリカ人に「舌に気をつけろ」と言った。「たとえそうであっても、我々には言論の自由がある。それは多くのネガティブなことをもたらすことがある」とジェームズは言った。
トランプ氏が米中関係から贅沢な利益を得たアメリカ人に圧力をかけたため、これらの奇妙な相棒たちは、マルクス主義者が階級意識と呼ぶものを身につけ、反撃のために団結し、中国の後援者との関係をさらに強固なものにした。今では、これらの異質なアメリカの機関は、中国共産党が奴隷労働者収容所の囚人にどんな恐怖を与えようとも、中国のスパイサービスや人民解放軍が国家安全保障にどんな脅威を与えようとも、中国共産党からの小切手を現金化することについての慎重さや恥ずかしさの感覚を失った。大西洋評議会、アメリカ進歩センター、イーストウエスト研究所、カーターセンター、カーネギー国際平和基金、ジョンズ・ホプキンス高等国際問題研究所などのシンクタンクや研究機関は、中国の資金を食い物にしていた。世界的に有名なブルッキングス研究所は、中国の通信会社である華為技術を賞賛する中国の華為企業が資金提供した報告書を公表することに何の抵抗もなかった。
中国がアメリカの主要な研究大学、例えばスタンフォード大学に58,000万ドルのような数十億ドルを提供したことで、アメリカの法執行機関は、機密研究を盗むための中国の防諜活動に警告を発していた。しかし、これらの大学とその名の知れた教員は、実際にはその研究を販売するビジネスを行っていた。その多くは米国政府から直接支払われていた。
実際、学界の中国共産党とのペイ・フォア・プレイ取引の多くは、特に微妙なものではなかった。2020年6月には、1500万ドルの研究助成金を受けたハーバード大学の教授が、「中国の科学開発、経済繁栄、国家安全保障を促進する」ために、「ハイレベルな科学的才能を募集し、育成する」ために、中国共産党の機関に代わって月5万ドルの仕事をしていたと嘘をついたとして起訴された。
しかし、ドナルド・トランプ氏が米国と中国を切り離すことが、自分を憎み、米国の雇用を海外に送り出した寡頭制を解体する方法だと考えていたとしても、そのビジョンを実行に移すことはできなかった。米国のエリートの腐敗の原因、中間層の貧困化の理由、米国の平和に対する内外の脅威を正しく特定した後、彼はアメリカ人に彼を選んで戦ってもらうように頼んだ戦争に勝つためのスタッフを配置し、準備をすることに失敗した。
そして、中国がチャイナクラスの力の源であることは事実だったので、武漢から出てくる斬新なコロナウイルスは、そのクーデターのためのプラットフォームになりました。つまり、アメリカ人は反民主主義的エリートの餌食となり、コロナウイルスを使ってアメリカ人の気力を奪い、中小企業を荒廃させ、盗み、焼き、殺すのが自由な暴徒に弱いままにし、子供たちを学校から遠ざけ、死にかけている人たちを愛する人たちの最後の抱擁から遠ざけ、アメリカの歴史、文化を冒涜したのだ。そして、アメリカの歴史、文化、社会を冒涜し、普通のアメリカ人が実際にはエリートの民間部門と公共部門の代理人がすでに用意していた地獄に値する理由を説明するために、この国をシステム的に人種差別主義者として中傷している。
約1年の間、アメリカの役人たちは、中国経済がアメリカの上に乗っかっている間に、より多くの権力を自分たちに横領するという唯一の目的のために、意図的に我々の経済と社会を荒廃させてきた。中国の封鎖は結果の違いとは何の関係もない。封鎖はウイルスの蔓延を抑えるための公衆衛生上の措置ではない。だからこそ、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ知事やシカゴ市長のローリ・ライトフット氏のように、長期にわたる封鎖を繰り返している民主党幹部は、トランプ氏が無事に去った今、直ちに封鎖を再開させることが急務だと公に表明しているのだ。
民主党の役人が意図的に命を破壊し、老人ホームで高齢者に感染させるために病人を送り込むことで何千人もの命を奪ったことは、アメリカ版「三十人の暴君」とは無関係である。仕事は、トランプを倒すためにコロナウイルスの犠牲者を増やすことであり、彼らは成功した。アテネの反民主主義派と同様に、アメリカの優秀な人材はとっくの昔に道を失ってしまった。30人の暴君の先頭にいたのはクリティアスであり、ソクラテスの最高の弟子の1人であり、詩人であり、劇作家であった。彼は体制の怒りからソクラテスを救うのを助けたかもしれないし、まだ哲学者は彼の方法、すべてに質問するために、伝統のためのクリティアスの広範囲の軽蔑を供給したことを後悔したようである。権力を握った後、クリティアスはアテネの彼の虚無主義を回し、都市を破壊した。
----- アメリカのエリートと中国の間の毒された抱擁は、約50年前、ヘンリー・キッシンジャーが、当時敵対していた2つの国の間に関係を開くことで、中国とより脅威的なソ連の間の溝の拡大を暴露することになるだろうと考えたときに始まった。2つの共産主義の巨人の間の衝突の中心にあったのは、ソ連の指導者がスターリンを拒絶したことであり、これを中国はソ連共産主義体制の終焉の始まりと見なし、彼らが犯してはならない過ちであった。
一方、キッシンジャーの地政学的な作戦は、彼の歴史的遺産の礎となった。また、キッシンジャーは中国の高官にアクセスを売る大金持ちにもなった。また、キッシンジャーは、ビル・クリントン政権の国防長官ウィリアム・コーエンのように、他の元高官の政策立案者が自らの対外影響力を利用した身売り作戦に従事する道を開拓した。コーエングループは、4つの海外事務所のうち2つを中国に構えており、トランプ前国防長官のジェームズ・マティス氏をはじめ、多くの元高官が参加しているが、彼は最近、社説でトランプ政権の中国に対する「我々と一緒か、我々に反対か」というアプローチを批判した際に、コーエングループでの仕事を公表しなかった。「米国の同盟国やパートナーの経済的繁栄は、北京との強力な���易・投資関係にかかっている」と書いたマティスは、文字通り、まさにそのような立場を取るために中国から金をもらっていた。
しかし、1972年にリチャード・M・ニクソン大統領と一緒に欧米人が当時北京と呼んでいた中国の首都を訪れたとき、キッシンジャーが元アメリカ政府関係者のために中国を換金地にするとは考えられないだろう。「中国人は、毛沢東が死ななければ開国できないと感じていた」と、トランプ元政権関係者は言う。「ニクソンとキッシンジャーがいた時には毛沢東はまだ生きていたのだから、1979年に鄧小平の指導の下で始まったような改革を彼らが思い描くことはできなかっただろう」。しかし、1980年代になっても中国は米国と競争していたわけではない。中国が商業的なライバルになったのは1990年代に入ってからであり、「中国に貿易上の最恵国としての地位を与えることについて毎年議論が行われていた」という。
冷戦後の秩序の首席広報担当者はフランシス福山であり、彼は1992年の著書『歴史の終わり』の中で、ベルリンの壁が崩壊したことで、西欧の自由民主主義が最終的な政府の形になったと主張した。福山がベルリンの壁崩壊後に間違っていたのは、政治形態の強さの評価ではなく、彼の哲学的モデルの深さであった。福山は、半世紀近く続いた超大国の睨み合いが終わったことで、対立する政治モデルをお互いに対立させていた歴史的弁証法が解決されたと信じていたのだ。実際には、弁証法はまた別の方向に転じた。
ソ連で共産主義を破った直後、アメリカは生き残った共産党に新たな息吹を吹き込んだ。そして西洋の民主主義原理が中国共産党を変質させる代わりに アメリカの権威が東洋のテクノ独裁主義の味を手に入れたのです。ダイアン・ファインスタイン氏は、キッシンジャー氏に次いで、その後の20年間、米中関係を牽引した第二の影響力を持つ役人となった。
1978年、サンフランシスコ市長に就任したばかりのファインスタインは、当時の上海市長であり、後に中国の総統となる江沢民と親交を深めました。アメリカのハイテクの中心地の市長として中国との結びつきは、成長を続けるアメリカのハイテク産業に中国からの投資を呼び込み、中国を世界第3位の経済大国にしました。また、江氏との提携は、彼女の投資家である夫のリチャード・ブルムを大金持ちにした。上院議員として、彼女は中国の人権侵害を合理化して中国の最恵国待遇の恒久的な貿易地位の確立を推し進め、一方、友人の江氏は権力を強化し、天安門広場に戦車を送り込んで共産党総書記になった。ファインスタインは彼を擁護した。"中国には地元の警察がいなかった」と、ファインスタイン氏は江氏が彼女に語ったという。「それ故に戦車を送った。しかし、それは過去のことだ。人は過去から学ぶ。繰り返すことはない。中国は教訓を得たと思う」とカリフォルニア州の上院議員は安心して説明した。
しかし、実際には過去は、ワシントンのファインスタイン議員の聴衆に別の話を伝えるべきだった。米国はモスクワと貿易をしたり、ロシア人が多額の選挙献金をしたり、配偶者とのビジネス・パートナーシップを結んだりすることを許していなかった。冷戦時代のアメリカの指導者たちは、そのような行為がモスクワへの扉を開き、危険な方法でアメリカの政治や社会に直接影響を与えることを許してしまうことを理解していた。彼らの工場で私たちの商品を製造したり、私たちの商品を購入して海外に出荷したりすることは、技術や知的財産を脆弱なものにしてしまうことになる。
しかし、それは国家安全保障を危険にさらすだけではなく、アメリカの価値観に反するシステムにアメリカをさらすことにもなっていたのだ。この期間を通して、アメリカは、私たちが考えているソビエトに対する考え方とは反対の立場で自分たちを定義していた。ロナルド・レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と呼んだことで軽率だと思われていたが、第二次世界大戦末期から 1990 年までの通商・外交政策では、これがコンセンサスとなる立場であったことが反映されていた。
実業家のアルマンド・ハマーが有名だったのは、彼がモスクワと取引をしていたアメリカ人だったからである。彼の視点が役に立ったのは、ソ連社会、政治、ビジネス文化に関する彼独自の洞察力がアメリカのメディアとよく共有されていたからではなく、彼が政治局がアメリカの聴衆に広めたいと思っている見解を提示していたことが理解されていたからだ。今日、アメリカには何千人ものアーマンド・ハマーがいて、そのすべてが彼らの富、名声、権力の源を主張している。
それは、1994年にビル・クリントンが人権を貿易の地位から切り離すことを決定したことから始まった。彼は、ジョージ・H・W・ブッシュ政権とは対照的に、人権に焦点を当てることを約束してホワイトハウスに入り、就任2年後に顔を上げた。クリントン氏は「我々の関係をより大きく、より生産的な枠組みに置く必要がある」と述べた。アメリカの人権団体や労働組合は愕然とした。クリントンの決定は明確なメッセージを送った、と当時のAFL-CIO会長レーン・カークランドは言った。「アメリカが民主主義と人権について何を言おうと、最終的な分析では利益であって、人ではなく、最も重要な問題である」。当時の上院院内総務ジョージ・ミッチェル氏のような一部の民主党員は反対し、ジョン・マケイン氏のような共和党員はクリントン氏の動きを支持した。クリントンの国家経済会議のトップであるロバート・E・ルービンは、中国は「これまで以上に大きく、より重要な貿易相手国になるだろう」と予測した。
それから20年以上が経過した今、中国の技術をアメリカの技術から切り離そうとするトランプ政権の措置に反対してロビー活動を行ったアメリカの産業や企業の数は、相反する価値観や慣行を主張する2つのライバルシステムがどれだけ密接に統合されてきたかを示す驚異的な指標となっている。フォード、フェデックス、ハネウェルなどの企業や、華為にチップを販売し続けるために争ったクアルコムなどの半導体メーカーは、片足をアメリカに、もう片足をアメリカの地政学的に重要なライバルであるアメリカにしっかりと植え付けて存在している。両者のビジネスを守るために、彼らは中国を競争相手と呼ぶことで、危険なライバルを後押ししている自分たちの役割を隠蔽するために、この問題をソフトに売り込んでいるのだ。
アメリカのほ��すべての主要産業が中国との利害関係を持っている。ウォール街、シティグループ、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレーから接客業に至るまで。マリオットホテルの従業員が解雇されたのは、彼がチベットについてのツイートを気に入ったことに中国当局が異議を唱えたためだ。彼らは皆、中国共産党のルールに従うことを学んだ。
ランプ政権の元幹部、ロバート・スポルディング元退役軍人は、「中国に縛られていない人に聞いた方がいい」と言う。
当然のことながら、かつては頼りにされていた共和党の米国商工会議所は、トランプ氏の中国政策に反対する先頭に立っていた。関税案だけでなく、パンデミックが発生した場合でも、米国企業が重要なサプライチェーンを別の場所に移動し始めるよう求めたのだ。全米防衛産業協会は最近、防衛関連の請負業者が特定の中国の技術を使用することを禁止する法律に不満を表明した。同団体のスポークスマンは「連邦政府と仕事をしているすべての請負業者は、それを止めなければならないだろう」と述べた。
トランプ政権でさえも、タカ派と融和主義者に分かれており、前者は『パンダハガー』と皮肉っぽく呼ばれていた。トランプ政権の高官の大半は後者の陣営に属しており、特に元ハリウッドのプロデューサーであるスティーブン・ムニューシン財務長官はその中でも特に注目されていた。映画業界は、中国が知的財産を盗んでいると最初に声高に訴えていたが、最終的には北京と手を組むようになり、北京をなだめるようになった。スタジオは、中国共産党のレッドラインを守らずに、中国の巨大な市場に参入することはできません。例えば、「トップガン」の続編では、パラマウント社がトム・クルーズの「マーベリック」のジャケットに台湾と日本のパッチをぼかして中国で公開することを提案したが、中国共産党の検閲官は、世界のどのバージョンでもパッチを表示しないようにと主張した。
トランプ政権時代には、「中国との疑う余地のない協力を続けようという非常に大きな後押しがあった。反対側には、反発を望む少数の人々がいた」とスポルディング元顧問は言う。
アップル、ナイキ、コカ・コーラは、ウイグル強制労働防止法に反対するロビー活動までしていた。トランプ大統領就任最後の日に、マイク・ポンペオ国務長官は、米国が「中華人民共和国が中国の新疆ウイグル自治区で、ウイグル族のイスラム教徒やその他の少数民族・宗教団体のメンバーを標的に、大量虐殺と人道に対する犯罪を犯していると判断した」と発表した。2020年のオーストラリアの調査によると、ナイキ、アディダス、ギャップ、トミー・ヒルフィガー、アップル、グーグル、マイクロソフト、ゼネラルモーターズなど、ウイグル人の強制労働力を使用している多くのアメリカの主要ブランドがジェノサイドに加担していることになる。
基本的人権や民主主義を軽視している国が、アメリカの産業界から直接資金を提供され、アメリカ国民のものであるべきアメリカ政府の研究や技術の成果を特権的に利用できるようにすべきではないという考えは、党派的な考えとは言い難く、ドナルド・トランプ氏とはほとんど関係がない、あるいは関係がないはずである。しかし、歴史的な記録を見れば、アメリカと中国のエリートの融合はトランプ政権時代に頂点に達していたことがわかるだろう。ミッチ・マコーネル上院共和党党首の造船会社の億万長者の義父であるジェームズ・チャオ氏は、大学の同級生の江沢民氏をはじめとする中国共産党との関係から大きな利益を得ている。チャオ家からの贈り物は、マコーネルを、最も裕福な上院議員のリストの中で、ファインスタイン氏よりも数段下の地位にまで押し上げました。
トランプ憎しのメディアの津波に乗って、チャイナクラスは国家機関や安全保障官僚の中でその力を固めた。1990年代後半から続いている中国共産党政権の最悪かつ最も脅威的な側面への対応は、早送りになっていた。ナイキが中国の奴隷労働収容所でスニーカーを作っていたという話は、もはや流行らなくなった。中国がアメリカの科学機密や軍事機密を盗み、シリコンバレーで大規模なスパイ活動を行い、エリック・スワールウェルのような下院議員を危険にさらし、アイビーリーグのトップ教授に多額のリテイナーを払い、知的窃盗のプログラムを組織的に実施している、あるいは何らかの形で自国の国民や近隣諸国、さらにはアメリカの生活様式に危険をもたらしているというニュースは、トランプ支持のプロパガンダとしてミュートされ、却下された。
中央情報局(CIA)は、アメリカの制度を弱体化させようとする中国の努力を公然と保護していた。CIAの経営陣は、情報アナリストをいじめて、中国の影響力と私たちの政治プロセスへの干渉についての評価を変えるようにして、彼らがトランプ氏の政策に同意しない政策を支持するために使用されないようにしたのです。アメリカを守ることがCIAの経営陣にとって最も急務なことではないのは当然のことである。
中国の行動を実際に理解している人たちにとっては、党派性は明らかに二の次の関心事だった。中国の行動は、アメリカの中核的な安全保障機関がそれを真剣に受け止めていないように見えたことと同様に、真に憂慮すべきものであった。「1980年代までは、共和制政府の形態に反する考えを持つ外国勢力の利益を推進する人々は排除されていた」と、オバマ政権の元情報当局者は言う。「しかし、グローバリズムの出現で、彼らは中国を言い訳にし、自分たちの好みに合わせて情報を曲げた。ブッシュとオバマの時代、標準的な評価は、中国は青水軍を作る気がないというものだった。それは彼らの見方には不都合だった。中国は現在、第3の空母を生産中である。」
トランプ氏を憎むことは、彼らの政治的な言い訳になっているが、アメリカの安全保障と国防の確立は、中国を見て見ぬふりをすることに自分たちの利益を持っていた。ジョージ・W・ブッシュの「対テロ戦争」から始まった軍事作戦に人、金、名声を浪費してきた20年間は、米国にとって戦略的価値が低いことが証明されている。しかし、中東の殺戮現場にアメリカ人を派遣して安全を確保することは、北京にとって大きな利益となっている。先月、中国のエネルギー大手である善華は、イラク経済の低迷に乗じて、5年間の石油供給(日量13万バレル)に20億ドルを支払った。価格が上がれば、この取引で中国は石油を転売することができる。
アフガニスタンでは���大規模な銅、金属、鉱物の鉱山は、アメリカ軍が表向きの安全を確保しているが、中国企業が所有している。また、アフガニスタンは新疆ウイグル自治区と国境を接しているため、習近平は「米国がアフガニスタンから軍を撤退させた後、アフガニスタンやパキスタンの辺境に位置するテロ組織がすぐに中央アジアに侵入してくるのではないか」と懸念している。言い換えれば、米軍がアフガニスタンのような場所に海外展開しているのは、中国の「ベルト・アンド・ロード構想」のための安全保障よりも、アメリカの利益を守るためである。
「ソ連とのように中国とは対立しているわけではないという考えがある」とオバマ前大統領は言う。「しかし、我々はそうなっている問題は、民主党を中心としたアメリカの既成政党のほぼすべてが、断固として反対側にあるということだ。」
------ 2019年の夏の終わり頃、トランプ氏はホワイトハウスでの2期目に向かっているように見えた。経済が急騰し、失業率が記録的な低水準になっただけでなく、彼はまさに彼が選んだフィールドで対立候補と対決していたのだ。トランプ氏の北京との貿易戦争は、トランプ氏が本気でアメリカ企業にサプライチェーンの移動を迫ろうとしていることを示している。7月には、デルやHPのようなアメリカのトップテック企業が、生産の大部分を中国国外にシフトすると発表した。アマゾン、マイクロソフト、アルファベットもまた、製造の一部を他の場所に移す計画を立てていると述べた。
武漢の住民が通りを埋め尽くし始めたのは、2019年の6月下旬と7月上旬、まったく同じ瞬間だった、武漢の1100万人の健康と繁栄に責任を持つ役人が裏切ったことに怒りを覚えた。彼らは病気になり、病気になるのを恐れていた。高齢者は息を切らした。行進する人たちは、「毒されたくない、新鮮な空気を吸いたい」という横断幕を掲げていました。親たちは子供たちの命を心配した。病人が免疫系と神経系に永久的なダメージを受けていることを恐れていた。
当局はソーシャルメディアのアカウント、写真、抗議のビデオを検閲し、おとり捜査官はトラブルメーカーを監視し、最も声の大きい者を拘留した。企業は閉鎖を余儀なくされ、抗議者が隠れる場所はどこにもなかった。何人かはバンで運び出された。彼らは当局から「公安機関は悪質な扇動や挑発などの違法な犯罪行為を断固として取り締まる」と警告を受けていた。
当時、武漢の住民を街頭に送り出したのは、COVID-19ではなかった。2019年初夏、武漢の公衆衛生を脅かしたのは大気汚染の疫病だった。これは、アメリカの悲惨な最後の年の物語のこれまで語られてこなかった部分である。
大気を汚染するゴミの山に対処するため、当局はゴミ焼却場の建設を計画した(2013年、武漢では5つの焼却施設から危険な汚染物質が排出されていることが判明した)。他の都市でも同様に、2007年のシアメン、2015年の上海、2016年の成都、2017年の清原など、大気汚染に対する抗議行動が街頭で行われたが、その都度、中国共産党指導部にパニックの波が押し寄せた。不安が次から次へと広がり、14億人の国全体が制御不能に陥ったとしたらどうだろうか。
中国共産党は、騒動が流行らないようにする方法は、隔離することだと学んでいた。中国共産党は、中国の少数民族であるチベット人、そして最近ではトルコ系の少数民族であるイスラム教徒のウイグル人を、大規模な検疫や監禁によって無力化することに特に長けていたが、これは電子監視ネットワークによって管理され、刑務所や奴隷労働収容所への道を開いた。2019年までには、中国のウイグル人の悲惨な運命は、彼らの強制労働から大きな利益を得ている多くの人々の間でも、心からの関心事となっていたのか、それとも単に広報活動を重視していただけなのかを問わず、関心事となっていた。
新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)は、イランとほぼ同じ大きさの中国北西部に位置し、石炭や石油、天然ガスなどの資源が豊富な地域である。パキスタンと国境を接する新疆は、ベルト・アンド・ロード構想の重要な供給ルートの終着点であり、世界的な中国の利権圏を創造するための1兆ドルのプロジェクトである。BRIの潜在的な混乱は、中国の重要な利益への脅威を構成する。習近平は2014年4月、ウイグル族の戦闘員が駅で150人以上を刺した事件を、取り締まりの機会と捉えた。
「壊滅的な攻撃を備えよ」Xi は警察官および軍隊に言った。彼の副官は、一斉に命令を出した。「全員を切り上げろ」との命令が下された 情けをかけた役人は自ら拘留され、屈辱を受け、「新疆のための党中央指導部の戦略」に背くための手本とされた。
2019年11月のニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、中国当局が最も心配していたのは、省外の学校から帰宅したウイグル族の学生たちだった。学生たちは「国全体に広く社会的なつながりを持っていた」し、当局が恐れていた『影響力』が『広く、根絶するのが難しい』ソーシャルメディアを使用していた。任務は、収容所内で実際に起こっていることのニュースを隔離することだった。学生が愛する人はどこにいるのか、何があったのかと尋ねると、当局は「彼らの親族はイスラム過激主義の『ウイルス』に『感染』しているので、隔離して治療しなければならない」と学生に伝えるように助言された。
しかし、中国の封鎖政策の対象となったのは、テロ攻撃を実行する可能性の高い若い男性だけではなかった。文書によると、当局者は「暴力を振るうには年を取りすぎていると思われる祖父母や家族でさえも免れない」と言われたという。
2019年秋に本物のウイルスがヒットしたとき、中国当局は同じプロトコルに従い、問題を起こす可能性のある者だけでなく、武漢のすべての人を隔離し、わずか数ヶ月前に同じ都市で鎮圧したものよりもさらに大きな世論の反発を避けることを望んだ。
病気ではない者を隔離するロックダウンが、これまで公衆衛生対策として採用されてこなかったのには、それなりの理由がある。都市、州、または国の主要メンバーは、彼らが大規模な人口に集団的な罰を課していることを示すために意味がない限り、自分自身を投獄しない。政治的抑圧の手段として広く認知されているため、これまで公衆衛生対策として使われたことはなかった。
2019年12月末、中国当局は、新しいウイルスに言及したソーシャルメディアアカウントのロックダウンを開始し、それを警告したり、同僚とそれについて話したりした医師は叱責され、COVID-19に感染したとされる別の人が死亡しました。武漢を出入りする国内旅行はすべて停止されました。もし封鎖の目的が感染の拡大を防ぐことだったとすれば、国際便が継続していたことは注目に値します。むしろ、ソーシャルメディアの検閲と同様に、国内旅行の禁止は、政府の失態が中国全土に広がらないようにし、大規模な、おそらく制御不能な不安を招くことを防ぐためのものだったように思われる。
6月と7月に武漢の通りが埋め尽くされたのは、ある都市の人口を蝕む焼却炉の計画を隠していた当局の致命的な無能さに抗議するためだったとしたら、中国全土を蝕む運命にある呼吸器疾患の原因が、当局が主張するような湿った市場で起こった自然の偶然ではなく、中国共産党の武漢ウイルス研究所であることを知ったとき、中国国民はどのように反応するだろうか?
1月、トランプ政権の元国家安全保障副顧問マット・ポッティンジャー氏は英国当局者に、最新のアメリカの情報によると、COVID-19の最も可能性の高いソースは武漢のウイルス研究所であると語った。ポッティンジャー氏の発言を報じた数少ない欧米の報道機関の一つである英紙デイリー・メールによると、ポッティンジャー氏は、病原体が漏洩か事故によって逃げ出した可能性があると主張した。
1月に発表された国務省のファクトシートによると、米国は「武漢の研究室内の数人の研究者が2019年秋、最初に確認された感染例が発生する前に発病したと信じるに足る理由がある」としている。ファクトシートはさらに、中国政府の研究室が2016年からCOVID-19に最も類似したコウモリコロナウイルスの研究を行ってきたことを説明している。少なくとも2017年以降、WIVは中国軍に代わって機密研究を行ってきた。「米国は長年にわたり、中国の過去の生物兵器作業について公に懸念を表明してきたが、北京は生物兵器禁止条約の下で明確な義務を負っているにもかかわらず、文書化も実証もしていない。」
パンデミックが武漢の湿った市場で始まったのではないという証拠は、北京が1月23日に封鎖を実施した数日後の2020年1月に早くも発表されている。イギリスの医学誌「ランセット」によると、最初のものを含む41例のうち13例は市場との関連性がなかったという。5月には中国の疾病管理・予防センターの責任者が、COVID-19と湿潤市場を結びつけるものは何もなかったことを確認した。「新型コロナウイルスは、市場で発見されるずっと前から存在していた」と、中国の関係者は述べた。
ランセットの報告の後、トランプ政権に近い共和党当局者は、北京の公式アカウントに異議を唱えた。「我々はそれがどこで発生したかを知らないし、我々はそれの底を取得しなければならない」上院議員トム・コットンは2月に言った。「また、その食品市場から数マイル離れたところには、中国唯一のバイオ安全レベル4のスーパーラボがあり、ヒト感染症を研究していることも知っている。」コットン氏は、中国は二枚舌で不誠実だったと述べた。「私たちは、少なくとも証拠が何を示しているのかを確認するために質問をする必要があります。中国は今、その質問に対して何の証拠も提示していない」とコットン氏は述べた。
アメリカのマスコミは、コットンの答えを探す姿勢を軽蔑した。ジェフ・ベゾスのワシントン・ポスト紙は、コットンは「専門家によって何度も否定されてきた陰謀論の火種を撒き散らしている」と主張した。トランプ氏は、コロナウイルスが武漢の研究室で発生したものであると確信していると大統領が発言した時、アメリカのスパイサービスと矛盾していると嘲笑された。テッド・クルーズ上院議員は「パンデミックの起源についての明白な疑問を否定することで、マスコミは中国共産党のプロパガンダを作り出すために、ジャーナリズムのすべてのふりを放棄している」と述べた。
昨年の冬以来、トランプ氏とGOP当局者が行っていたのと同じケースを主張したニコルソン・ベイカー氏によるニューヨーク・マガジンの記事が1月に発表されたことは、有益な疑問を投げかけている。なぜジャーナリストたちは、北京のコロナウイルスの起源についてのトランプ政権の懐疑論を自動的に否定しようとしたのだろうか?なぜ選挙後まで待って、中国共産党の話が偽りであるという証拠の公表を許したのか。確かに、メディアはバイデン氏を好んでおり、何としてでもトランプ氏を追い出そうとしていたが、中国とCOVID-19についての真実をアメリカ人に伝えることが民主党の選挙にどのような影響を与えるだろうか?
中国はアメリカのマスコミに多くの友人を育ててきたからこそ、マスコミは中国政府の統計を素直な顔で伝えている。しかし、重要なのはこの事実である。中国共産党のナラティブを正当化する際に、メディアは主に中国のためではなく、中国から権力、富、威信を得ているアメリカ人階級のために報道しているのだ。いや、北京は悪者ではなく、国際的に責任ある利害関係者なのだ。実際、私たちは中国のリードに従うべきだ。そして3月までには、トランプ氏が最初に同意したことで、アメリカの当局者は、歴史上、独裁大国が自国民を黙らせるために使ってきたのと同じ抑圧的な措置をアメリカ人にも課した。
やがて、親中派の寡頭政治家たちは、封鎖がもたらした恩恵の全容に気づくようになった。ロックダウンは主要な寡頭政治家をより豊かにし、ベゾス単独の場合は850億ドルもの富を得たが、その一方でトランプ氏の中小企業基盤を困窮させた。市や州の当局は、不定法な規制を課すことで、独裁政治を正常化したのである。そして、少なくとも、アメリカの組織には、代議員の3分の1しか選ばれていない候補者に指名を与え、大統領選挙期間中は地下室に閉じ込めておくという、もっともらしい理由があった。しかし、ある意味では、ジョー・バイデンは、数十年続いた米中関係の軌道を正常に戻すことを意味していたのである。
----- バイデン氏の当選後、中国の外相は米中関係のリセットを求めたが、中国の活動家はバイデン氏の対中政策はすでに決まっていると言う。「私はバイデン政権に非常に懐疑的だ。なぜなら、彼が中国を21世紀のウイグル人の大量虐殺である正常な状態に戻すことを許すのではないかと心配しているからだ」と、ある人権活動家は選挙後、ニューヨーク・タイムズ紙に語った。バイデン氏が大統領になったことで、ある人権活動家は「ホワイトハウスに��近平氏が座っているようなものだ」と語った。
11月には、北京政府に近い中国のシンクタンクのトップが行った公開演説を記録したとするビデオがソーシャルメディア上で流通した。「トランプ氏は我々に対して貿易戦争を仕掛けてきた」と中国の聴衆に語った。「なぜ我々は彼に対処できなかったのか?1992年から2016年までの間、我々は常に米国との問題を解決してきたのはなぜか?それは、我々には上に人がいたからです。アメリカの中心的な権力の輪の中に、我々には古い友人がいるからです」と述べた。感謝する群衆は彼と一緒に笑った。「過去30~40年の間、私たちはアメリカの中心的な輪を利用してきました」と彼は続けた。「私が言ったように、ウォール街は非常に大きな影響力を持っています...私たちはかつてウォール街に大きく依存していました。問題は、2008年以降、彼らが衰退していることだ。最も重要なのは、2016年以降、ウォール街はトランプ氏をコントロールできなくなったことです...米中貿易戦争では、彼らは助けようとしました。アメリカの友人は、彼らは助けようとしたが、助けられなかったと言っていました。バイデンが選挙に勝った今、伝統的なエリート、政治的エリート、既成政党は、ウォール街と非常に密接な関係を持っています」
本当だろうか?ジャネット・イエレン財務長官がウォール街の聴衆の前で演説しただけで稼いだ小金は公の記録である。しかし彼女は先月の公聴会で北京に厳しい言葉を浴びせ、中国共産党のウイグル人に対する『恐ろしい人権侵害』を批判した。しかし、バイデン氏が国家安全保障のトップポストに指名した人物の履歴書は、別の話を物語っている。次期国家情報長官のアヴリル・ヘインズと国務長官のアントニー・ブリンケンは、選挙の直前に中国共産党のための仕事をウェブサイトから削除したWestExecというベルトウェイの会社で働いていた。
ペンタゴンの3番手に抜擢されたコリン・カール氏は、スタンフォード大学の研究所に勤務していた。この研究所は北京大学と提携しており、元中国共産党のスパイチーフが運営する学校で、欧米の諜報機関からは安全保障上のリスクがあると長い間見られていた。
アメリカ進歩センターのシンクタンクの責任者として、バイデンが管理予算局の長官に指名したニーラ・タンデンは、中国共産党の「政策と権威に対する潜在的な反対の情報源を共謀して無力化し、中国共産党の「海外の中国社会、外国政府、およびその他の行為者に影響を与え、北京を支持する行動を取るか、または立場を採用する」ための隠れ蓑として創設された米中交流組織と手を組んでいた。
バイデンの大統領人事特別補佐官トーマス・ジマーマンは上海社会科学院の研究員で、中国の国家安全保障省との関係があるとして欧米の諜報機関から注目されていた。
リンダ・トーマス・グリーンフィールド国連大使は、ジョージア州サバンナで開催された中国政府が出資する孔子学院で2019年の講演を行い、アフリカにおけるグッドガバナンス、ジェンダー・エクイティ、法の支配を推進する上での中国の役割を称賛した。「中国がこれらの価値観を共有できない理由はない。実際、中国はアフリカ大陸に強い足跡を残していることから、これらの理想を広めるためのユニークな立場にある」と述べた。
次期司令官の家族は、中国軍とつながりのあるビジネスマンから500万ドルの無利子融資を受けたと報じられ、バイデンの息子ハンターは中国のビジネスパートナーを『中国のスパイ長』と呼んでいた。ハンター・バイデンの中国共産党との結びつき疑惑の選挙前の報道をマスコミやソーシャルメディアが検閲したのは、彼を守るためではなかった-500万ドルは、ベゾスがパンデミックの間に毎時稼いでいた額よりも少ない。いや、親中派の寡頭制にとって、ジョー・バイデンを当選させたのは自分たちを守るためだったのだ。
バイデン政権はトランプ政権の積極的な中国の技術産業の巻き戻し努力を継続すると主張する報道は誤りである。新政権には、米中関係を軌道に乗せようと躍起になっているアメリカのハイテク産業のロビイストがいっぱいいる。バイデンのロン・クライン参謀長は、ワシントンのシリコンバレーを代表してロビー活動を行っている業界団体「テックネット」の元役員会メンバーでした。バイデンのホワイトハウス顧問はスティーブ・リチェッティで、弟のジェフは選挙直後にアマゾンのロビー活動のために雇われた。
イエレンは、「中国は明らかに我々の最も重要な戦略的競争相手である」と述べている。しかし、親中派の寡頭制は、富、権力、威信を得ている国と競合しているわけではない。中国の独裁政治が彼らのモデルなのだ。ワシントンD.C.全体に2万人以上の米軍メンバーを配備したことを考えてみよう。反乱やクーデターとされた散発的に暴力的な抗議デモ行進の結果、公の場ではほとんど姿を見せない大統領の就任式の警備のために、ワシントンD.C.に2万人以上の米軍メンバーを配備したこと、ソーシャルメディアからの反対の声の除去と、競合するソーシャルメディアのプラットフォーム自体の除去、トランプ支持者のアメリカの半分の人々が医療、クレジット、法的手段、教育、雇用へのアクセスから遠ざかるようにしたこと、現政権の政策への抗議を「国内テロリズム」として再定義するという究極の目標を持っていること、などを踏まえて考えてみてほしい。
明らかなのは、バイデン氏の就任は、中国との関係を自国の同胞に対する盾と剣と見なしているアメリカの寡頭制の覇権を示すものであるということである。アテネの「三十人の暴君」のように、彼らは、創造主によって与えられた全市民の自然権を認める政治システムを単に軽蔑しているのではなく、自分たちが支配している人々が、自分たちと同じ権利を持っているという考え方を特に軽蔑している。言論は、それを適切に使う方法を知っている賢明な少数の者だけが自由にできるものであるべきだ、という考えに対する彼らの新たな尊敬の念を見るといい。クリティアスや親パルタ派のように、新しいアメリカの寡頭制は、民主主義の失敗は自分たちの権力に対する独占的な権利の証明であり、自分たちの同胞を破壊するのを助ける外国の力と協力して統治することを喜んでいると考えている。
歴史はこの瞬間について何を教えてくれるのだろうか。悪いニュースは、30人の暴君がアテネの著名な民主主義者を追放し、アテネの人口の推定5%を殺害しながら彼らの財産を没収したこと。良いニュースは、彼らの支配は1年未満であったということだ。
[リー・スミスは、新たに出版された本『The Permanent Coup』の著者である。国内外の敵はどのようにしてアメリカ大統領を標的にしたのか』の著者である。]
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arthur-meursault · 7 years
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日記、ゲッベルス、タチカンツバキ
お昼を王将でオーダー。 例のごとく天津チャーハン。王将にいくと天津飯か天津チャーハン。 あと餃子一人前。 お腹いっぱいになる。 880円ちょいと値段的には大して食ってないが腹一杯になる。 とおもったが牛丼大盛りとミニサイズを食べてるようなものと思えばこれくらいはいくか。 毎度毎度想像力が欠如しているのか予想外の膨満感に苛まれることになる。 予想外もなにもない。まあお腹が膨れることは悪い気はしないけど。でも苦しいなあ…。 腹が減るたびにこの苦しみを求めてしまうのは何故だ? 食性生物は快楽を中継して痛みから痛みに行くことしかできないマゾ体質なのだと思われます。 永劫回帰であります。 もぐもぐ。うまい。 ゲッペルスの思想について再考。 嘘も100回繰り返せば真実になるとはゲッベルスの思想として語られるが、これ自体が名言なのは当然。 しかしながらナチスは現状報告を国民に怠ったりしているものの政略面で国民の支持を得る際には虚偽を謳っていない。 ユダヤ人の作る映画にはナチスは間違いだらけと言う描写しか出て来ませんが、少なくともドイツ国民がナチスを支持した理由は第一次世界大戦の敗戦国たる雪辱、ベルサイユ条約で課せられた負担に対する怒りがあるんですね。 その不満を上位搾取層を占める資本家・ユダヤ人たちに向けたのがナチスだったわけですが、これも社会主義が台頭して来た頃合いで資本家に市民や知識人の怒りが向くのは当然といえば当然だったわけです。 そうやって市民の心をうまいこと掴んだナチスは順繰りにドイツを支配していきました。 それだけならまだいいんですが、こうした急進派にありがちなことにナチスの思想は絶滅政策やらゲルマン人によるヨーロッパ支配やらとどんどん過激な方に向かっていきました。 まずもってこの時代は占領支配の思想が何よりも重視されましたので、各々の国がどう歴史観を最新の侵略論と結びつけようかと必死だったわけです。 日本の場合は、せっかく開国したわけだしどうせならアジア全域を牛耳ってアメリカやヨーロッパと対等にやってやろうか。ロシアは前に倒したし、ドイツもww1でやっつけたし、いけるだろ多分、という方向でうまくまとまりまして。 手始めに国王の溥儀が持ち込んで来た満州国を実験場及び拠点とし、植民地支配というやつをやってみようということになりまして。 この発想に白人のみなさんは大層お怒りになりまして。アメリカは手始めに貿易を妨害しまして、これに日本が切れまして。 めでたく第二次世界大戦へと相成るわけです。 そんな中でドイツが国民をまとめ上げるために他の民族の絶滅思想を流布しようと考えるのは、当時にしてみればそんなに不自然なことではないわけです。 なんせドイツは世界的な敗戦国でいじめられまくってましたし、誇りを取り戻すためならなんでもやるのが人間です。 よそ者のユダヤ人たちが豊かで自分たちが惨めな貧乏人だったらさすがに腹も立ちましょう。 そして���合良いことにドイツは職人層や技術者層が厚かった。ナチを支持する人々には高度な技術をもちなおかつ戦勝国にうんざりする労働者層が多かったんですね。 これが彼らの敗因ともなりました。 まず技術が高く、侵略行為も過剰であったため、兵站線を『延ばせすぎた』のです。 物資や兵の流通が叶わず本土と断絶した部隊が多かったことが敗北の主な原因として挙げられます。 技術と誇りがあっても物がなければ負けるのが戦争というわけですね。 そういうわけでドイツはww1、ww2と連続して負け、おまけに東西分裂するという日本より残念な敗戦国になってしまったわけです(原発投下を被ることは回避できましたが)。 当然いまは盛り返してきてますし、日本と同じく立派な技術国です。 僕はディーゼルエンジン好きですね。スターリングエンジンの次に好きなエンジンです。 余談ですが、 日本がGDP世界二位とかいうのはアメリカの威光が影響してる部分もあるので単なる国力としては語れませんが、もののない技術国としては国際的にかなり上位なのは間違いないです。 日本はこれから物量で中国に押し負けることが決まってるので残念ながら世界二位という日の目はもう見ることができないでしょうが、常に破裂寸前の中国のように国ごとぶっ潰れるような事態に陥ることもまあありませんのでそこそこでやって行くぶんには大丈夫でしょう。それこそドイツくらいのね。 下手なことせずに防衛力だけ維持して半鎖国状態で技術を提供しとけばいいわけです。 目障りなのは中国と北朝鮮とロシアでしょうか。 そのうち中国が周辺国の反撃でも食らって潰れてくれればいいんですけどね。難民は一切受け入れず既存の在日外国人を安い労働力として使えばいいわけです。 その時はアメリカの犬になる必要があるのでそれはそれで嫌ですけど。 まあ国と国の関係なんてそんなもんですけどね。日本も当然ながら防衛力としてアメリカを利用してるわけですから。 さて余談は終わり。 そんなこんなで宣伝に成功し戦争で負けたドイツですが、ゲッベルスがやったプロパガンダ戦略とはなんだったのかと言いますと、「国民に情報を与えて不安と不満を煽り、それに答えを提示する」のが骨子だったわけです。 嘘八百をでっちあげてコントロールするわけでもなんでもなく、単にムカついてる人たちに武器を与えて戦わせたというそれだけです。 それこそがプロパガンダの真価だとゲッベルスは言っています。 国民は決してバカではないのです。 子供が大人の嘘に案外気がついてるように、隠し事には気づくし、騙されたら怒ります。 騙してはいけないのです。真実を受け入れさせてからこっちの来て欲しいところに来てもらうのがプロパガンダなのです。 そして、そういう事実を利用したプロパガンダは批判しようにもなかなかできないもんなのです。 正しいことに量を与えたらスピードを伴ったエネルギーになります。 プロパガンダを否定するためには確固たる情報と理念信念を持たねばなりません。そして、往々にしてそう��ることができるのは国民とか市民とかそういう民草単位ではなく、個人だけなのです。 政治家と知識人の最大の違いはここにあります。政治家は公人で、知識人は個人です。国という公の場で個人は公人に対抗できません。できっこありません。 ドイツ国民には表面上の薄っぺらな敗戦国思想よりも血統を拠り所にする誇りある国政が欲しかった。それがナチスです。 アメリカ人にとっても、本音を言えば英語も話せないわけのわからない国の連中は切り捨てたい。 なんならオバマ大統領というポリティカルコレクトが働いた結果の有色人種大統領の直後にトランプ大統領というゴリゴリの保守派を連れてきたのも彼らの本音です。 国民全員の本音ですね。 そりゃそうですよ。だって言葉の違いってイライラするし。それは当たり前なんですよ。そこをどう維持するかに頭を悩ますのが普通なわけでして、アメリカも百点満点の答えなど出せるわけもなくいろいろ間違えてきました。 そしていまアメリカという大いなる偽善の国に国民が限界を感じ始めてる。 なんだかんだ言いながらビンラディンを射殺して喜んでるオバマとブッシュとなにか違いがあるのだろうかと。 そもそもアメリカ自体銃を手に取り先住民を襲い殺し奪うことでできた国なのに。 国民を騙すことはできません。 だから騙そうとしなかったトランプが勝ったわけです。ゲッベルスならそれが当然だというでしょう。 人は勝利を選ぶとき社会倫理を超越するもんです。 そういうわけで、もういまの時代ナチスはともかくゲッベルスの宣伝戦略思想を否定する人もいないでしょうね。 ヒトラーの我が闘争は規制本ですけどゲッベルスの本は普通に出とるので。 彼にはまだまだ学ぶところが多いなと感じた次第です。 帰りにスーパーですじこの醤油漬けとフリーズドライの雑炊を買う。 ここのところ宇宙食に興味がありましてなにか欲しかったのですが、ふとスーパーでセブン&アイ・ホールディングスのフリーズドライを目にしまして。業務提携してるんでしょうね。入り口のところにセブン銀行あったし。 宇宙食といったらフリーズドライをさらに厳しい環境に晒して、なおかつ液体がパッケージの外にこぼれないように工夫されたものなわけです。 ということは。 単なるフリーズドライの食品を不可視の入れ物でパッキングしてジュルジュルすすったら特殊宇宙食っぽくなるんではないでしょうか。 要は乾燥してて味気なくて無菌なら宇宙食っぽいわけです。 そういえば普通のレトルトカレーを国際宇宙ステーションに持ち込んだ海外のクルーの話もありました。 宇宙食ってそんな変なもんではないかも、ということで夕飯に試してみたく思います。 すじこはふつうに好物です。 スーパーの帰り道、近所の小学校の垣根に『タチカンツバキ』と札があった。 タチカンツバキ。 ツバキはわかるがタチカンとはなんだろう? 疑問がムクムク湧いてきまして、調べたらでました。 まず椿の一種ということで、寒椿(カンツバキ)というものがさきにあるそうです。 ツバキと同様日本固有種だそうですが、カンツバキが純粋にツバキを祖とする植物なのかどうかははっきりせず、中国由来のユチャとツバキの交配種だとか、サザンカの変異種だとかいろんな説があります。 実際ツバキとサザンカ両方の特徴を併せ持つ種らしいです。 寒椿ということで椿より寒い時期に咲く花なのかなと思いきや、ツバキ自体寒い季節の花なのでこれは当たらない。 というよりツバキは9月から5月ごろまで長いこと花期を経るわけですが、カンツバキは11月から2月ごろまで。 短いんですよ。 確かに寒い時期に集中して咲く花という意味でカンツバキとは当たってるかもしれませんが、寒さのトータルでいえばふつうにツバキの方が勝ってる気がして腑に落ちない感じもある。 そんななんだかもやもやするカンツバキのさきにタチカンツバキがあるのです。 立寒椿(タチカンツバキ)はカンツバキの中でも特に背が高いもののことを言うらしいです。 たしかに垣根になってるわけですからこれは納得ですね。 カンツバキの背の低いものを獅子頭(シシガシラ)といいます。 まあ椿の花はたてがみっぽく見えないこともないので当たりでしょう。 ところでシシガシラという名前は同名のシダ植物がありまして、こちらの方がポピュラーだという方も多いのではないでしょうか。 山菜採りとかいくと山の斜面に生えてるやつです。僕はどっちかといえばこっちのシシガシラの方が好きですね。 シダ植物シシガシラ科ヒリュウシダ属シシガシラというシシガシラの中のシシガシラであります。 シダ植物といいますとコケなんかの生える湿った森の中に鬱蒼としていて、葉の上に常に水滴をつけてて、特に鋭くもなく毒もない、かといって食べられもしない毒にも薬にもならない優しい植物というイメージがあります。 もののけ姫やナウシカのイメージですね。 森の中にコケやシダ植物が生えてるともののけ姫感が増しますよね。 神秘的で好きなんです。 植物のなかでも由緒ある方ですしね。 そういえば動物が滅ぶ時はまず広葉樹が絶滅して小動物が消え、済し崩しに大型動物が消え、次にわずかに残った小動物と共に針葉樹林が消え、最後に昆虫と一緒にシダ植物が消えるそうですよ。 シダ植物の環境下ではデボン紀以降に出てきた爬虫類や両生類だのといった通常の動物は生きていけないそうです。たしかにコケと虫とシダしかない環境下でどう生きればいいんでしょうね。虫をだんごにして食べますか。うおえっ。 でも、言われてみればたしかに昆虫とシダ植物はシルル紀に最初に陸地へ出てきたチャレンジャー二人組ですのでそれぐらいの優位はあっていいと思いますね。 たとえ軍事戦争の果てに核の炎で人類が滅びたとしてもタチカンツバキ含む広葉樹や動物は生き残ってくれるでしょう。 またもしタチカンツバキ含む広葉樹や大型動物が滅びても針葉樹林は残るだろうし、哺乳類や爬虫類が滅びたあとの世界でも昆虫とシダ植物とコケは残ってくれるだろうことを祈ってます。 核の炎で世界が滅びるリアリティってのも時代遅れ感ありますが、怖いもんはいつまで経っても怖いもんです。 それではまた。
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yurulog · 5 years
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2019年にヤったえっちげを振り返る。
この記事はアドカレの記事ではありません。参加してませんし。なんか書きたくなったので殴り書きしているだけです。
もう今年も残り10日程度と言うことで、月並みだけど今年もあっという間。だけどえっちげの消化は去年より少ないんじゃね…?と思っているところです。実際のところどうだろうね、振り返りながら数えていきたいと思います。
・プレイしたえっちげ
1. ハピメア -Fragmentation Dream-@Purple software
動機:遠野そよぎさんのキャラが相当人気あるから。
ぼくはえっちげ声優の遠野そよぎさんが大好きです。ハピメアに出てくる舞亜ちゃんが相当人気があるキャラで、そよぎさん好きなのにやったことないなぁと思い、原作をまず去年の10月頃にプレイした気がします。
ちなみにハピメア-Fragmentation Dream-は頭文字通り、Fan Discです。
主人公はある事件以降、夢の中で夢と気づいてしまう現象、明晰夢に悩まされるお話で、現実世界の明晰夢の2つの世界線で話が進んでいきます。そんな難しそうなハピメアも、難しいことは難しいけど、属性で言うと妹ゲーです。
実妹の舞亜、幼馴染の咲、後輩の景子と、年下の妹感あふれるキャラが3人もいます。そしてみんなおっぱい大きくないし、ロリっぽいし、ぼくにとっては最高のヒロインたちでした^_^
ネタバレになり過ぎるからうまく書くのは難しいけど、FDと言うよりも、原作の続編みたいな感じで、ボリュームも凄い凄い。Purple softwareのゲームは、ハピメアしかやったことないけど、これ以外にもプレイしたいなと思った。
2. ソーサレス*アライヴ! ~the World's End Fallen Star~@Fluorite
動機:体験版は低調な評価も、光るポイントを感じたため。それに花澤さくらさん。
FluoriteはDMM GAMESですね。この作品にも遠野そよぎさんがいらっしゃいますが、花澤さくらさんがいらっしゃるのもプレーした1つの理由です。
ただ、体験版は低評価で、誰も話題にしていない…そして1度だけ3ヶ月の発売延期(10月→翌年1月)しながら、12月上旬にはマスターアップと、「おいおい工程大丈夫か?納期長めにとったのはライバル作品避ける為か?」とオタクを不安にさせた記憶があります。
何故体験版が低調だったかと言うと、このゲームは2部制を敷いていて、面白くなったのは全員のルート終わった後の第2部のアライヴ編からで、第1部のソーサレス編の評価は正直そこまで高くありません。が、まぁ多少話長ったらしいところはあったけど、ソーサレス編も言うほど嫌いではないな…。
主人公が現代から古代の世界へタイムスリップする異世界転生ものですが、別に苦手ではなかった。文字通り、光るポイントがあり、後半戦で大化けしました。体験版やってみて、自分の中で良いポイント見つけることが出来れば、絶対面白い作品です。
基本的にメインヒロイン4人が魔法の団体競技で絆を深めていくお話だけど、この4人の行く末を見守りたくなったのも大きい。ただ、アライヴ編で驚きの展開が待っています。
キャラで言うと、花澤さくらさんが演じたユーミ・オーリエトちゃんが可愛すぎてもうダメ。白髪黄色目は性癖過ぎてダメだって。それでちょっと高飛車で、自信家で最強のキャラを演じたユーミちゃんが1番好きです。ちょっとSなところもあるし、花澤さくらさんって演技の幅広いなと思った作品です。
3. Sugar*Style@SMEE
動機:SMEEはラブラブルから全作プレイしているため。
自分が好きなえっちげブランドはSMEEと言うことは特に誰も知らないと思うのですが、1番好きです。ですが、今回は色々ケチをつけて、発売日にはSugarStyleではなく、ソーサレスアライヴ!を購入して、実際プレイしたのは発売から3ヶ月遅れでした。 
SMEEと言えば、宅本うとさん&早瀬ゆうさんのタックが強くて、早瀬さんがシナリオを担当する場合が多かったのですが、今回はモーリーさん&岸田ソラさんと言うシナリオライター2人体制で、ちょっとどうかなぁと思うところがありました。早瀬さんは一応いることはいるのですが、今回はディレクションに回ったので…。
悪くなかったのですが、SMEEでは案の定あまり評価していない作品になってしまいました。主人公が専門学校の女性寮に入る凄いお話でしたが、主人公としてそこまで魅力的に描いているとは感じなかったし、主人公が結構スレスレなボケかましているため、結構嫌われてない?なんで好きになったの?と思うところがありました。
ちなみにこのゲームにも花澤さくらさんがいて、勿論真央ちゃんも好きなのですが、それ以上に叶芽枢さん(一応新人えっちげ声優扱いです)が演じた冬月かなめさんが良かった。ビューティープリンセスながら可愛いものが好きで、だけどしっかり年下に当たる主人公の主導権は握っていて、とても羨ましい関係性だなと…。 
導入部分に疑問符はあるものの、イチャラブゲーとしてはやっぱりクオリティ高いのがSMEE。笑えるところも多々あり、しっかりSMEEの作風のゲームにはなっています。
ただ、初めてSMEEに手を出すなら、Sugar*Styleはおすすめしないかなぁ…。まぁ、かなめさんのおかげでそこまで低調な評価ではないです。
4. アオナツライン@戯画
動機:戯画っぽいところ。音楽にぬきたしやプレカノ作品で名を上げたえびかれー伯爵がいた。
今年プレイしたえっちげで1,2争うくらい好きです。なのに、発売日に体験版で光るポイント見つけることできず、購入を5月くらいにずらしたのは最大の失敗でした。
湘南が舞台のゲームで、海辺の学校を舞台とした学園ものえっちげです。まず、絵と雰囲気が最高に良かった。平凡なヒューマンドラマですが、学生男女グループの甘酸っぱい三角関係や人間関係の衝突など、人間臭さをうまく表現していたと思います。
最初は主人公、男幼馴染、ヒロイン幼馴染の3人だったけど、後輩、お嬢様を加えて、5人グループで夏を過ごすわけですが、ヒロイン幼馴染の海希ルートでは3人が仲良くなる生い立ち、共通ルートでは5人グループになる生い立ちがリアルさを交えて丁寧に描かれています。スクールカースト下位扱いの主人公と上位扱いの海希と男幼馴染の千尋。ここの話はスクールカーストの残酷さをうまく描いていると思います。
Blue,Summertime Blue.サブタイトルにもなっていますが、ED担当した紫咲ほたるさんが歌った「Blue,Summertime Blue.」も最高でした。実際、自分はプレーする前にライブイベントで聞く機会があり、感動して周りのオタクが泣いていました。正直、これもプレーする動機に繋がったと言えます。この歌の背景にあるストーリーってなんだろう、って。体験版で購入スルーしたものの、ライブイベントの後、すぐアオナツライン購入した良い思い出です。
5. 抜きゲーみたいな島に住んでる貧乳はどうすりゃいいですか? 2@Qruppo
動機:前作がシンプルに面白かった。綾瀬理恵さんもED担当として続投になった。
おそらく末代でぬきたしの存在を最初に示したのは自分と言う自負があります。なぜなら、原作のOP担当が大好きな綾瀬理恵さんになったと同時に注目していました。しかし、ここまでキチガイな体験版から話題を呼び、スプラッシュヒットを噛ますまでは想像できず、まさかFDではなく、ぬきたし2が発売されるとは…。
無印の勢いを考えれば、よく2の最後の最後まで突き抜けたなと言うのが感想で、全然マンネリ化を感じませんでした。ハイセンスな下ネタに磨きがかかる、流行りの異世界転生ものをまさかの形で使う、新キャラもメインどころで目立ったなど、とりあえずプレイヤーを飽きさせない趣向が存分に見てわかるゲームでした。
不満点と言えば、ビック3ルートのお話…なんだけど、これ突っ込み過ぎたらネタバレになるな。まぁ、できれば一部の結末の描き方をそれぞれ違った形にしてほしかった。まぁ、これはわかる人にわかってもらえればと思います。そのせいで、勿論評価は高いけど、アオナツラインほど評価は高くないです。今年プレイしたえっちげのなかでは、3番目にきます。あと、スス子攻略させろ!
無印のことが考えると、音楽にはえびかれー伯爵先生がいるし、声優は花澤さくらさん、そらまめ。さん、沢野ぽぷらさん、伊ケ崎綾香さんなどいて、アーティストも綾瀬理恵さんに綺良雪さん、そしてもはやえっちげーまーの間では全国区になった夢乃ゆきさんと、知る人ぞ知る実力派の方が多くて、キャスティングも100点満点と言えるゲームです。
そしてシナリオライターの倉骨治人さん、神近ゆうさん、企画のナガトサチさんはQruppoの方で、ぬきたしだけでは終わらない雰囲気がプンプンしています。次が1番難しいと思いますが、2作目のえっちげも全身を勃起させながら待っています。
6. 恋愛、借りちゃいました。@ASa Project
動機:大好きなアサプロだから。
HOOK系列のアサプロのなかでは賛否両論が1番別れるゲームで、最初はそこまで評判良くなかった記憶がありますが、批評空間で平均値と中央値照らし合わせても、比較的評判が良いかりぐらし恋愛が1,2点上回っている程度で、プレイする人は選ぶけど、良作に十分入る作品と言えると思います。
主人公の性格が嫌だ。なんで惚れたかわからないと言うのが合わない人の理由ですが、その背景を踏まえながら、高評価をつけた自分的には納得できるポイントがあります。
まず、主人公からヒロインまで常識人を探すことが難しいです。主人公は特殊な家庭環境から歪んでしまい、金を妹を幸せにすると信じ、一部ヒロインから金の亡者呼ばわりされます。高額バイトを探す中、レンタル人材派遣の仕事をする主人公ですが、本作のヒロイン4人から共通ルートから全員の仕事依頼を受けます。
その内容からしてヒロインから常識人を探すのほうが難しい気がして…。
・クラスメイトの絵未は彼氏の振りをして欲しいため、主人公に金銭を渡す。 ・同じくクラスメイトで絵未の幼馴染でお嬢様である八純はお友達が欲しくて、お友達料を主人公に渡す。 ・ちなつはお兄ちゃんが欲しいからって理由で、主人公に兄役の依頼として金銭を渡す。(妹のこなつはそれをひっかきまわす) ・予備校で講師をしている年上の椿は親に適当に男遊びしていると思われるために、主人公と愛人契約をする。
と、まぁ常人では理解できないお金の使い方をしているヒロインがたくさんいるわけです。歪んだ主人公vsキチガイな思考を持ったヒロインの構図で、主人公自体容姿は整っているので、ちょっと優しくされただけでバカ女が勘違いする要素は結構あると思います。  
現に絵未と八純はちょっとお花畑っぽいところあるし、双子のこなつは特に突き抜けている。こんな環境だから、主人公の人の悪さは別に気になりませんでした。
これが前途の通り、4人の依頼同時進行で進むわけだから、結構話のつじつま合わなかったりするかなと思いきや、そんなことも見受けられず、よくまとまったと思います。今回はシナリオライターが八日なのかさん1人体制だったので、ちょっと心配な点もありましたが、この作品で良い印象に変わりました。
そして、八純と絵未ルートに入る前のある選択肢は一見の価値ありです。札束と通帳。
7. 和香様の座する世界@みなとカーニバル
動機:みなと系信者だし、安く手に入ったのでとりあえずやっとこうと思った。
久々のタカヒロ作品。そしてRewriteぶりの田中ロミオさん。凄い組み合わせですよね。前作のみなとカーニバル作品である姉小路直子と銀色の死神は体験版から終わっていて、案の定オタクから凄い不評でタカヒロ限界説がささやかれていましたが、和香様は素晴らしい出来でした。
まず、このゲームの価格はミドルプライスで税別6800円とは思えない厚いボリュームで、絶妙な尺の長さ加減だったと思いました。基本的に1本道で、話の結末はTRUE ENDのみで、分かり易い道筋です。日本神話を基にした珍しいゲームで、タカヒロさんお得意の神奈川県が舞台。今回は鎌倉で、地の利を活かしている辺り、タカヒロさんらしいなと。
日本神話を基にしていて、神である和香様は人外的な能力を持ちますが、数千年封印されていて、それを解いた主人公が、和香様のお世話する流れです。これだけ聞くと王道ラブコメっぽいの連想しがちですが、さすが田中ロミオさんで、和香様が現代生活に慣れていく日常の描写とか、日本神話の妖怪についてうまく描いたり、これらがすべてテンポのがよかったので、スイスイテキストを読み進めることが出来ました。
アマテラスとかスサノオとか聞いたことある神について少しは詳しくなれたんじゃないかなと思います。それらと戦う和香様…。凄いスケールが大きい話なので、説明がいまいち難しいです。とりあえず、和香様の世話がしたいなと思ったゲームだし、オタクと和香様の聖地巡礼(鎌倉・江の島観光)するのが楽しみです。
8.どっちのiが好きですか?@HOOKSOFT
今年1番面白かったえっちげです。SMEEの宅本うとさん信者のくせに、HOOKは初挑戦でしたが、内容がほぼSMEEのゲームと変わりな��ったので、すぐに馴染めて、一杯笑えて、イチャラブっぷりを堪能することができました。
1ヒロイン2ルートあって、共通ルートは多少短めですが、その代わりルートがリードする・リードされるの2種類あって、ヒロインの魅力を余すことなく描くことが出来ていると感じました。  
特に同じクラスで生徒会長の英摩耶ちゃんは本当可愛かった…。主人公は風紀委員・クラス委員長と言う立場で、摩耶ちゃんとは優等生同士として凌ぎを削り合います。摩耶ちゃん、ドSなのに打たれ弱いところが結構あって、ギャップにやられてしまいました。この行だけやけに長いな。長くなっちゃうんです。
昔、HOOKのゲームで『HoneyComing』と言うゲームがあったらしいです。そのゲームのキャッチコピーが『純愛は、HOOKが完成させる。』と言うことで、これ聞いた瞬間、『あぁ、アイスキで純愛は完成したんだ…。』って真剣に感じました。
自分が求めるえっちげ象に本当に近いです。学校やバイト先でヒロインと笑って、仲を深めて、イチャイチャして、自分が学生時代成しえなかったことをほぼ全部やってくれる素晴らしいゲームです。不治の病である青春コンプレックスの処方箋として、HOOK系列のゲームはずっとプレーするんだなって思いました。
ちなみに、宅本うとさんが携わったHOOKのゲームは全部購入したので、来年は優先的に消化したいなと思っています。
最後に
今年プレイしたミドルプライス・フルプライスのえっちげは8作品と、去年と比べて4作品少ない寂しい数でした。個人的に新生活を迎えたことと、他の趣味が思ったより白熱してしまったり、2つの要因でどうしてもえっちげに時間を割くことが出来ませんでした。
ただ、来年は最低でも12作品プレイできればなと思っていて、どんなに忙しくても、1日30分最低プレイする習慣を再びつけることができれば、達成できると信じています。
現に去年は仕事と他の趣味と折り合いつけながら、最低1日30分ずつプレイはしていたので、そのおかげで月1本は消化することが出来ていました。現代ではえっちげは尺が長いし、PCがないとプレイできないので、手軽にプレイが出来ないと言う欠点を抱えています。そして、どうしても昔と比べると作品も減っていて、どんどんユーザーが減少してしまっているのが現状です。
それでも、昨年現れたぬきたしのように、やっぱり面白いえっちげには尺が長かろうとユーザーが着くんだなと再確認することができ、イベントに参加したときも、やっぱりまだまだ死んでないなと実感することができたのは凄いよかったです。
18禁ゲームにしか表現できないことって、まだまだたくさんあると思うんです。それが去年可能性を見出したぬきたしのように、この世には出てない18禁ゲームでしか表現できない面白いアイディアがまだまだあると思います。SMEEやアサプロの下品で笑えるテキストも、これもやっぱり18禁ゲームでしか表現できないと思うし。
いくら業界的に下火とは言え、システム的には進化しているし、シナリオ見ても、面白いゲームはあるし、HOOKのように16年連続発売延期なしと言うしっかりとしたブランドもあります。悪いニュースだけ見て、えっちげを貶されるのは仕方がないのことですが、やっぱり残念に感じてしまいますし、良い物を作っているブランドにはしっかり報われてほしいなと常に思っています。
最後のまとめ、全然まとまりのない文章だし、お前死ぬのかみたいな硬い文章でしたが、まぁあんまり自分は面白みがある人間ではないので…wここまで最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
追記 2020/1/1
9.アメイジング・グレイス -What color is your attribute?-@きゃべつそふと
動機:おわたんが推しているし、キャスト・制作陣から想像する作風が自分に合致と感じたから。
発売からほぼ1年遅れの2019年12月末にプレイ。そして、2020年1月1日に攻略完了し、1週間足らずでクリアしてしまった。そのくらいテンポよく進みました。
きゃべつそふとの処女作である星恋*ティンクルが低調な出来で低評価に繋がり、2作目であるアメグレの体験版プレイしても何故か自分の中で期待値が上がらず、プレイが1年もずれ込んだのは大きな間違いでした。そもそも、ランプのMagical charming!でお世話になった冬茜トムさんがいる時点で見送るのはちょっと…って感じです。
アメグレは表向きは異世界転生ものです。個人的に、最近のえっちげは異世界転生ものは外れがあまりないと思います。それでいて、トムさんはしっかり物語に伏線を忍び込ませ、驚きの伏線回収方法で、プレイヤーのことを楽しませることに長けています。実際、アメグレもその調子で物語が進んでいきます。
それに加え、伏線を忍ばせるポイントにタイムリープと言う手法を用いていて、少し景の海のアペイリアに近い雰囲気を彷彿とさせました。ただし、難解なアペイリアと違い、要点をまとめた遡り方なので、何層になっても難解にならないし、すっきりとした仕上がりです。
(アペイリアは普通に好きだし、難解と感じるわけにはすぐに理解できなかったら自分の飲み込みの遅さに原因があります。)
ちなみに、どのような世界かと言うと、日本のある寒い地域を模した所で、オーロラに包まれている町が舞台です。その町の住人はオーロラの外に出ることはなく、世界はこの閉鎖的な町しかないと言い伝えられています。なので、現代社会とは遠くかけ離れた所が舞台です。
原画は梱枝りこ先生だけど、最近のりこ先生の絵より昔のほうが好き…と思っていた勢ですが、プレイしていくうちに慣れました。そしてやっぱり可愛いです。サクヤが好きです。そして、お話進めていくうちに驚きの設定が明らかになるのではないかと思います。
アメグレは今年プレイしたえっちげの中では4番目に好みです。話の組み立て方だけ見たら、今年1番の出来かもしれません。良さを伝えようとするとネタバレに接触するから、気になる方はまず体験版プレイしてほしいです。
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groyanderson · 5 years
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ひとみに映る影 第四話「忘れられた観音寺」
☆プロトタイプ版☆ こちらは無料公開のプロトタイプ版となります。 段落とか誤字とか色々とグッチャグチャなのでご了承下さい。 書籍版では戦闘シーンとかゴアシーンとかマシマシで挿絵も書いたから買ってえええぇぇ!!! →→→☆ここから買おう☆←←← (あらすじ) 私は紅一美。影を操る不思議な力を持った、ちょっと霊感の強いファッションモデルだ。 ある事件で殺された人の霊を探していたら……犯人と私の過去が繋がっていた!? 暗躍する謎の怪異、明らかになっていく真実、失われた記憶。 このままでは地獄の怨霊達が世界に放たれてしまう! 命を弄ぶ邪道を倒すため、いま憤怒の炎が覚醒する!
(※全部内容は一緒です。) pixiv版
 ◆◆◆
 石筵霊山きっての心霊スポット、通称『怪人屋敷』。 表から見えるそれは、小さなはめ殺し窓が幾つかあるだけの灰色の廃屋で、さながら要塞のように霊山来訪者を威圧する。 でもエントランスに入ると、意外と明るくて開放感がある。 北側がガラス張りになっていて、外の車道から街灯のオレンジ光が射し込んでいるからだ。 そのコントラストはまるで、世間の物々しい噂と私の楽しかった思い出のギャップを象徴しているようだった。
 C字型の合皮張りソファで囲まれたローテーブルに、譲司さんはスマホを立てかけた。 煌々と輝く画面内には、翼の生えた赤いヤギが浮遊している。  「やあ、アンリウェッサ。何度もすまないね」 スピーカーから、男性的な口調のヤギの声が流れた。でもその声は人間の女の子みたいだった。 アンリウェッサとは、NIC内で使われる譲司さんのコードネームだ。 このヤギさんはNIC関係者なんだろう。  「姿を変えられたとはさっき伺いましたが…性別どころか、人間ですらなかったんですか」 譲司さんは分厚い眼鏡をつまんで画面を凝視した。
 「この方、お知り合いですか?」 私は画面を見たまま尋ねた。  「はい。彼はNIC元幹部のハイセポスさんです。 あの時中東支部でサミュエルに殺害された一人で…ほら、オリベ。キッズルームのガブリエルお兄さんや」  <ああ!もちろん覚えてるわ! 人を騙す脳力を持った、イタズラ好きの嘘つき先生ね!> 情報をまとめ���とつまり、ハイセポス元幹部は本名ガブリエルさん、 中東支部でサミュエルに殺害された被害者で、キッズルームの養護教諭の一人だったらしい。 ハイセポス元幹部はにっこり微笑むと一瞬発光して、恐らく生前の姿であろう、人間の男性に変身した。  「やあ、オリベにジャックも久しぶりだね」 本当の彼は、きりっと賢そうな三白眼を持つ、小柄な黒人さんだった。
 「ハイセポス元幹部は、さっき俺とポメが新幹線に乗っとった時に電話をくれたんや。 ファティマンドラのアンダーソン氏がジャックを目覚めさせた事とか、さっくり教えてくれはってな」  「それでさっき、皆して一美がアンダーソンと会ったって話に飛びついてきたのね」 私の影でくつろいでいたリナが、胸から上だけ出てきて話題に参加した。  「それで、ご用件は何でしょうか」 譲司さんが改めて伺う。
 「ああ。すまないが、僕はアンリウェッサの補佐として、ずっとこの端末から君達を監視させて貰っていた。 そこでどうしても確認したい事を聞いてしまって。質問してもいいかな…ミス・クレナイ」 え、私?  「な…何ですか?」
 「君はさっきから、この石筵に観音寺があると話しているね」  「はい。私が小さい頃、和尚様と住んでいたお寺さんです」  「その和尚の名を教えてくれるかい?」  「いいですよ。和尚様のお名前は…」 あれ?
 「その観音寺はどこにあるのかい?」  「あ、はい。ここからすぐ近くですよ。 外に出て、丁字路を右…いや、左…」 あれ?え!?
 「ヒトミちゃん?」 イナちゃんが訝しげに私の顔を覗きこむ。 おかしい、有り得ない。そんなはずはない。 観音寺と、和尚様に関する記憶が…ほとんど思い出せないなんて!  「ちょっと待ってください。忘れるはずないんです。 だって、最後に会ったのは上京する直前…」 いや、違う。
 『ひーちゃん、和尚様は今いないから、私がお土産を渡しておくね』 私の脳裏に、ファティマンドラの安徳森さんと出会った日の、萩姫様の言葉がよぎる。 そうだ。あの日は会えなかったんだっけ。 だから最後に会ったのは、玲蘭ちゃんとハゼコちゃんの事件の時…中学一年生。 中学時代に会っているんだから、せめて和尚様の顔ぐらいは…顔ぐらいは…顔は…
 ハイセポスさんはばつが悪そうに顎を引いた。  「ミス・クレナイ。とても言い難いんだが、石筵に観音寺はないんだよ」 観音寺が、ない?  「ああ…なくなっちゃったんですか?跡継ぎ不足とかで…」  「違うんだ。ないんだよ。 …そんな寺は、この地に歴史上一度も存在していなかったんだ」 そんな…  「そんな、バカな!」
 画面から顔を上げると、みんな私を怪訝そうに見ている。 リナはまた私の影に引きこもった。  「ち…違うんです、観音寺は本当にあったんです! だって現に、私は怪人屋敷の中に入った事があるし…あ!」 そ、そうか!オリベちゃんはさっき、ハイセポスさんを『人を騙す脳力を持つイタズラ好き』って言ってたじゃないか。  「な…なーんだ!ハイセポスさん、ドッキリはやめて下さいよ! そりゃあ私は『したたび』でいつも騙されてますけど、あれはテレビの演出でして…」  「嘘だと思うなら、探してみるといい。 すぐ近くなんだろう」
 ◆◆◆
 私は咄嗟にイナちゃんの手を引いて、怪人屋敷を飛び出した。辺りは既に暗くなっている。 灯りが必要だ。私は二人分の足元の影を右手の中に集めた。 影が圧縮されて行き場を失った光源を親指と人差し指で作った輪に閉じ込めると、『影灯籠(かげどうろう)』という簡易懐中電灯になるんだ。 なにかと便利なこのテクニックを教えて下さったのだって、和尚様だったはずなのに…。
 「イナちゃんは、信じてくれるよね?」 山道のぼうぼうの草を蹴りながら私は独りごちた。  「色んな事を教えてもらったんだよ。 知ってる?チベット仏教の本尊は観音菩薩様なんだよ。 だから観音菩薩様は、タルパとか人工霊魂も、ちゃんと救済して下さるんだ」 足元でバッタが一匹逃げた。
 「ヒトミちゃん…帰ろうヨ…」 振り返ると、イナちゃんは寒そうに肩を狭めていた。 早くお寺を見つけなきゃ。お蕎麦屋さんの予約時間も近づいている。  「ねえちょっと、一美…」 影灯籠からリナが滑り落ちる。  「あんまり気が進まないけど、この際だから言うわ。あんたの和尚は…」「真言だって!」 私は苛立って声を荒らげてしまった。  「…ちゃんと言えるもん。オム・マニ・パドメ・フム…」
 「ヒトミちゃん」  「念彼観音力、火坑変成池(観音様に念じれば、火の海は池に変わり)… 念彼観音力、波浪不能没(観音様に念じれば、溺れて沈むことはない)…」
 リナは私から離れ、イナちゃんの影に宿った。 私は足を泥だらけにして彷徨った。 何だか泣けてくる。でも両目から滲み出た涙は、すかさず乱暴な北風に掠め取られる。 もうリナとイナちゃんはついてきていない。
 「オム・マニ・パドメ・フム…オム・マニ・パドメ・フム…」 夜の山の寒さと焦りも、私をあざ笑っている。
 「オム・マニ・パドメ・フム…」 真言を繰り返す度に、思い出とか、影とか、自分の色々な物が剥がれていく。
 「オム・マニ・パドメ…あ」
 我に返って見ると、手から滴り落ちた影は一筋の線になって、私達の行くべき道を示していた。  「ほら…私、ちゃんと覚えてたでしょ?」 私は再びイナちゃんの手をとって、影が示す方向へ進んだ。
 ◆◆◆
 影の糸を回収しながら進むと、私達は怪人屋敷に戻っていた。 いや、糸の先端は…怪人屋敷に隣接する、ガレージの入口で途絶えているみたいだ。
 ガレージのシャッターはやすやすと持ち上がった。鍵がかかっていなかったんだ。 背後の街灯に中が照らされると、カビ臭い砂塵が舞い上がり、コウモリや蛾がパニックを起こして飛び出してきた。 街灯の光が行き渡るようにガレージ内の影を調節すると、そこには…
 「なに、これ…」 そこにあったのは、床に敷かれたままの小さな花柄の布団。錆びついたグルカナイフ。薪と木炭。鍋。 山積みの『安達太良日報』1994年刷。どこかの斎場のタオル。塩。干し柿。干しキノコ。干しイナゴ。 誰かがここで生活していた跡のようだ。何故かすごく懐かしい感じがする。
 壁に光を当てると、おびただしい枚数の半紙が貼られている。 写経、手描きのマンダラ、チベット守護梵字、真言、女の子と観音菩薩様が仲良く焚き火を囲う絵。 そして、それらに囲まれたガレージの中央最奥には、私の背より少しだけ大きな何かが、白い布で覆われていた。
 「ヒトミちゃん、ここ怖いヨ」 イナちゃんがガレージの入口から囁いた。  「怖い?なんでかな。あ、コウモリならもういないみたいだよ」 私は天井を照らしてみせた。でも、イナちゃんはまだ萎縮している。  「出てきて、ヒトミちゃん。ここやだヨ」 どうしてそんなに怯えてるんだろう。  「平気だよ!だってここは…ここは私が住んでた観音寺だもん!」
 私は壁の半紙を幾つか剥がして、イナちゃんに差し出した。  「ほら、これ。和尚様に書道を教わってたの。 凄いでしょ、幼稚園生でこんな難しい漢字書いてたんだよ! だから私、今でも字の綺麗さには自信があるんだ」 半紙を一枚ずつ丁寧にめくって見せる。『念彼観音力』『煩悩即菩提』、どれも仏教的な文章だ。  「なーんて、本当はね、影絵で和尚様の本を写しながら書くから、こんなに上手く書けてたんだけどね」 『而二不二』『(梵字の真言)』『(マンダラ)』『金剛愛輪珠』…  「オモナアァッ!!」 突然イナちゃんが後ずさった。 手元の半紙を見ると、書かれていた文字は… いや、これは…アルファベットの『E』と『十』の字に似た、記号… どうしてイナちゃんの手相がここに…?
 「イナ?紅さん?」 怪人屋敷から皆が集まってきた。 イナちゃんはリナと抱き合い、震えている。 皆もそんなイナちゃんの怯えた様子を見て、不穏な表情になった。  「だ…大丈夫だってば!そ、そうだ! 観音菩薩様の御本尊を見てもらえば、きっと怖くなくなるよね! すごく優しいお顔なんだよ。ほら!」 私はガレージ最奥の観音像にかかった白い布を、思いっきり引き剥がした。
 「あぃぎいぃぃやああああああああ!!!!!」 隣の安達太良山にまで響くほどの声で、イナちゃんが絶叫した。
 「え…?」 イナちゃんは白目を剥き、口の両端から泡を吹き出して倒れた。  「ガウ!ギャンッギャン!!」 歯茎を見せて吠えるポメラー子ちゃんの横で、オリベちゃんと譲司さんは腰を抜かしている。 するうちジャックさんが気絶したイナちゃんに取り憑き、殺人鬼や暴力団も泣いて逃げ出すような形相で私の胸ぐらを掴んだ。
 「テメェ馬鹿野郎!!この子になんて物見せてやがる!!!」 え…なに言ってるの、ジャックさん?  「ううっ…うっ…」<ヒトミちゃん、そ…それ、隠して…!> 嗚咽しながらオリベちゃんがテレパシーを送る。 私は真横にある観音像を見た。 金色の装飾品に彩られた、木彫りの…
 「は?」 私は真横にある観音像を見た。 それは全身の皮膚を剥がされ、金色の装飾品に彩られた、即身仏のミイラだった。
 ◆◆◆
 「なに…これ…」 私は一瞬、目の前にある物が何だかよくわからなかった。 変な話、スルメイカやショルダーハムでできた精巧な人体模型がお袈裟を着てネックレスをしているような、 それぐらい意味不明でアンバランスな物体に見えた。
 <と、ともかく…公安局に連絡を! さっきのファティマンドラの件もあるし…> 腰を抜かしたままのオリベちゃんが、譲司さんを揺さぶって電話を促す。  「あ…ああ!せやな!C案件対策班に…」  「やめてください!」  「<え?>」
 私は気がつくと叫んでいた。  「つ…通報はやめてください!だ、だって…」 だって、何なのか?自分でもわからない。 ただ、ここが警察に暴かれてしまったら、何かとてつもない物を失ってしまうような気がして。
 「何言ってやがる…。ここに変死体があるんだぞ! 花生やして腐ったミンチどころじゃねえ、マジの死体がだ!!」 ジャックさんがイナちゃんの身体で私を責める。  「ち…ち…違います!観音様を変死体だなんて、罰当たりな事言わないで下さい!! これは…この人は…このしどわあぁぁ…!」 嗚咽で言葉が出てこない。もう、本当はわかってるんだ。 この即身仏は…私の…和尚様なんだ。
 混乱と涙とガレージ内のハウスダストと鼻水で、私は身も心もぐしゃぐしゃになっていた。 皆はまだ何か怒鳴ったり喚いたりしているみたいだけど、もう何もわからない。 私はただ、冷たい和尚様の足元にすがりついてひたすら泣いた。
 「ジャック、もうええやん。やめよう」 すると譲司さんがガレージに入ってきて、私の髪を掴んで逆上していたジャックさんを宥めた。  「紅さん、わかりました。通報は後でにします。 その前に…紅さんの和尚様に、ご挨拶させて下さい」 彼は私の頬を優しく指で拭い、小さい子に向けるような微笑みで言った。 そして和尚様の前に立つと、うやうやしく一礼し、  「失礼します」と呟いて、合掌されている和尚様の両手にそっと触れた。
 譲司さんはそのまましばらく静止する。和尚様の記憶を、読んでいるみたいだ。  <ジョージ…> オリベちゃんがまたテレパシーによる視界共有を提案しようとする。 でも譲司さんは視線でそれを断って、  「紅さん」 私に握手を求める仕草をした。
 「行きなさい」 リナが私を促す。  「私も知らない真実。ちゃんとぜんぶ見届けるのよ」 私は頷いて、譲司さんの手を握る。 そのまま影移しで譲司さんの影に意識を溶け込ませ、彼と同じ視界へ飛んだ。
 ◆◆◆
 ザリザリザリ…ザザザ…。視覚と聴覚を覆う青黒い縞模様とノイズ音が晴れていくと、目の前が病院の病棟内のような風景になった。 VHSじみた安徳森さんの時と違って、前後左右を自由に見ることができる。
 「ずいぶん鮮明な記憶ですね」 気がつくと隣で、ノイズがかった譲司さんが私と手を繋いで立っていた。 今、私は彼の影だ。  「和尚様は、どこでしょうか…?」 辺りを見渡すと、昼間なのに全ての病室のドアが閉まっている。 案内板を見るに、ここは精神科の閉鎖病棟らしい。 ふと、私ば病室の一つから強い霊的な電磁波を察知した。  「譲司さん」  「そこですよね」 彼も同じ部屋にダウジングが反応したみたいだ。 ただ、空気で物を感知する彼が気付いた事は霊ではなかったらしい。 彼は『水家曽良 様』と書かれたドアプレートを指さしていた。
 意識体の私達は幽霊のように病室のドアをすり抜ける。 中にいたのはベッドに横たわるサミュエルこと水家曽良と、彼を見下ろす二人の霊魂だ。 私から見て左側の霊は、すらっとした赤い僧衣の男性。 顔は指でこすった水彩画のようにぼやけていて、よく見えない。 一方右の霊は、顔と股間の部分だけくり抜いた人間の皮膚を肉襦袢のように着ている、不気味な煤煙だ。 水家曽良はまだ子供の姿。日本国籍を得て間もない頃なんだろう。
 「この子の才能は実に惜しい物だった」 肉襦袢の霊が言う。喋り方は若々しいけど、声はおじいさんみたいだ。  「タルパはそう誰でも創造できる物ではない。 まして彼は、我々が与えた『なぶろく』のエーテル法具をも使いこなした。 それを享楽殺人の怪物を生み出すために使った挙句、浅ましい精神外科医共に脳力を摘出されるとは。 この子に金剛の朝日は未来永劫訪れないだろう」 なぶろく?と聞こえた箇所だけ意味はわからなかったけど、 どうやら彼は水家に何らかの力を与えた霊魂らしい。  「エーテル法具…NICで聞いた事があります。 エクトプラズム粒子を含んだ何らかのタンパク質塊、 人間の脳を覚醒させて特殊脳力を呼び覚ます、オーバーテクノロジー…」 譲司さんはそれに何か心当たりがあるようだ。
 「ともかく、これ以上損失を出す前に、彼の魂を楽園へ送るのは諦めましょう。 彼はまだ子供ですが、余りにも残虐すぎました」 赤僧衣の霊が、隣の肉襦袢の霊の顔色を窺うように言う。まだいまいち話が見えない。  「その通りだ。しかし、私達もただで金剛の地に帰るわけにはいくまい」
 すると肉襦袢は、眠っている水家の鼻に指を突っ込んだ。  「フコッ」 水家が苦しそうな声を発する。彼の耳から水っぽい液体が垂れ、頭の中で何かがクチャクチャと動き回る音がする。 でも水家は意識がないのか、はたまた金縛りに遭っているのか、微動だにしない。 やがて肉襦袢が鼻から指を引き抜くと、その指先には、薄茶色い粘液でつやつやと輝くタコ糸のような紐が五十センチほど垂れていた。  「どうなさるおつもりですか」 心配そうに赤僧衣が問う。 肉襦袢は紐を丁寧に折りたたむと、水家の病室から去っていった。 私達と赤僧衣は彼を追いかける。
 肉襦袢は渡り廊下を通って、違う病棟に移動した。 彼が立ち止まったのは、新生児のベッドが並ぶ、ガラス張りのベビールームだった。 彼は室内に入り、生まれたばかりの赤ちゃん達の顔を一人ずつ覗いていく。 そして、壁際から五番目の赤ちゃんの前でぴたりと静止した。
 「見なさい。この子だ」 肉襦袢は赤僧衣に手招きする。 赤僧衣は赤ちゃんを見ると、感嘆のため息をついた。  「この子の顔の周りだけ、不自然に影で覆われているだろう。 天井の光が金剛のように眩しくて、無意識に影を作っているんだ。これは影法師という珍しい霊能力だ。 この子は金剛級に強い素質を持っている」 安らかな顔で眠る赤ちゃんの頭上で、肉襦袢が興奮気味に語る。 あれ、そういえば…
 「譲司さん。水家曽良が日本に来たのって、具体的にいつなんですか?」  「日付までは覚えとりませんが…たぶん、1990年の十一月上旬です。 俺日本の家に引き取られて最初の行事が弟の七五三やったんで」 1990年十一月、影法師使いの赤ちゃん…偶然か? 私の生年月日は1990年十一月六日だ。 まさかここ、石川町の東北総合病院じゃないよね?違うよね!? そんな不穏な想像が脳内で回っている一方、肉襦袢は目を疑うような行動に出た。
「金剛の力は金剛の如く清き者が授かるべきだ」 肉襦袢はさっき水家から引き出した糸を広げると、その先端を…赤ちゃんの口に含ませた! チュプ、チュプ、チュパ…ファーストキスどころか、まだお母さんのおっぱいすら咥えた事もない新生児は、本能的に糸を飲み込んでいく!  「ほら、こんなに喜んでいるだろう」  「そ…そう…ですね…」 表情の見えない赤僧衣も露骨にドン引きしている。 譲司さんが真っ青を通り越して白塗りみたいな顔色で私を見た。  「あ、あの…紅さん、一旦止めま」「譲司さんうるさい!!」「アハイすいませェェン!!!」 背中から火が出そうだ。
 永劫にも思える時間をかけて、赤ちゃんは糸を全て飲み込んでしまった。  「これでこの子はタルパの法力を得た!」 肉襦袢が人皮の手で拍手する。  「失礼ですが如来、一度穢れた者の法具を赤子に与えるのは、この子の人生に悪いのでは…?」 如来?如来って言った今!?この赤僧衣、如来って言ったの!? こんなエド・ゲインみたいな格好したモヤモヤの外道が如来!?有り得ない有り得ない有り得ない!!
 如来と呼ばれた肉襦袢はキッと赤僧衣の方を向いた。  「ではどうしろと?サミュエル・ミラーの死後霊魂を収穫する価値がなくなったと確定した今、 これ以上金剛の楽園に損失を出しては���らないだろうが!」  「ですが…「くどいっ!!」 事情を知らない私にも赤僧衣の言っている事は正論だとわかるが、彼は肉襦袢に逆らえないようだ。
 「よかろう。お前がそこまでこの子の神聖を危惧するなら、この子に金剛の守護霊を与えてやろう」 肉襦袢は赤ちゃんの胸に煤煙の指を沈めた。  「な…待って下さい!肋骨なら、私の骨を!」 肋骨?  「ええい、既に『なぶろく』を捧げたお前に何の法力が残っているというのか?出涸らしめ! 『ろくくさびのひりゅう』は金剛の霊能力を持つ者の肋骨でなければ作れん!」 肉襦袢はわけのわからない専門用語を喚きながら、赤ちゃんの胸の中で… うそ、まさか!?  「この赤子に金剛の有明あれーーッ!」
 プチン!
 まるで爪楊枝でも折ったようなくぐもった軽い音がした後、  「ニイィィィーーーギャアァァアアアアァア!!!!!」 赤ちゃんは未経験の恐怖と激痛で雄叫びを上げた。  「みぎゃーーっ!」「あーーーん!」釣られて他の赤ちゃん達も阿鼻叫喚! すかさず看護師がベビールームに飛びこんで来るが、赤ちゃんを泣かせた原因を彼女らが知ることはない。
 「お前は石英で龍王像を彫り、この金剛の肋骨を楔として奉納するんだ。 さすれば『肋楔の緋龍(ろくくさびのひりゅう)』はこの子を往生の時まで邪道から守り、やがて金剛の楽園へ運ぶだろう。 象形は…そうだな、この福島の地に伝わる、萩姫と不動明王の伝説に因んで、倶利伽羅龍王像にするといい。 この子に金剛の御加護があらん事を…」 肉襦袢は赤ちゃんの小さな肋骨を赤僧衣に手渡すと、汚らしい煤煙を霧散するようにして消え去った。 霊的な力で肋骨を一本引き抜かれた赤ちゃんの胸には、傷跡の代わりに『E』『十』の形の痣ができていた。
 「すまない…ああ、本当にすまない…」 肋骨を奪われた赤ちゃんの横で、赤僧衣の霊魂は崩れ落ちるように土下座して咽び泣いた。 看護師さん達はそんな彼の存在を完全に無視して、この突然発生したパニックの対応に追われている。
「こんなん嘘やろ…」 譲司さんが裏返った声でそう呟いた時、私は『生まれつき一本少ない』と言い聞かされていた自分の肋骨のあたりを抑えて震えていた。 それから文字通り気が遠くなるような感覚を覚え、私達はこのサイコメトリー回想から脱出した。 不気味な如来を讃える赤ちゃん達の叫び声が、だんだんと遠ざかっていった。
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doanob1 · 5 years
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あいちトリエンナーレに行ってきた
あいちトリエンナーレに行ってきた。
夏休みにどこか行こ。電波の入らない離島に行って(コナンくんが来たら死ぬだろうな〜)って想像するのと、大阪に行って昔から興味があったみんぱくに行ったり美味しいものを食べたりするのとどちらがいいかな、と考えていた。
ぼんやり色々考えているうち、名古屋在住のフォロワーさんが東京に来た時、「ご飯を一緒にどうでしょう」と連絡をくださった(とてもうれしい)。そうして一緒に食事をしたりお散歩をしたり、なによりたくさん話したりした。
そして後日、その方が「自分の目に新宿がどう見えたか」を文章にして公開していて、これが新鮮で面白く、今思えばこのとき自分が見たものを書いておく・公開するってことの魅力にちょっと興味を持ったのだ。
今回私が名古屋に行って、また同じ方とお食事をしたりおはなししたりしたのだが、今度はその方の絵日記を少し見せていただいて、これもとても素敵だと思ったのだった。
私はいま新宿に住んでいるが、ここに住んでいるといろいろなことがわからなくなると思う。こんなにオリンピックの看板が出ていること、地下鉄で窓の代わりに光るモニターの広告、そうしたものにもう慣れてしまった。「こんなにオリンピックの広告がたくさんあって驚きました」と言われ、はじめて、「そうかこんなに広告があるのは異常だな」と気づいた。
自分が立っている場所のことは自分では見えない。だから、他の人と一緒に自分が住む街のことを聞いたり話したりすると、新鮮で面白くて、自分がどんどん鈍くなっていることを知って恐ろしい気持ちになる。
むかし、地方の天候不順や災害のニュースを見たとき、「今年は野菜が高くなるわね」と言った人がいた。私はこれを聞いて(地方はお前の畑じゃないぞ、住んでいる人間も誰かの生計もあるんだぞ)と思ったものだが、だんだん、私は都市の生活に慣れて、こう言いはなつ人間になってしまう気もする。
近しい人間に「私がこういう無神経な人間になったら頭を打ち抜いて欲しい」と頼むのは、半分冗談で半分本気だ。私が無神経な人間になってしまったとき、自分ではそれと気づくことができないだろうから。ゾンビのように、生きているように動いてももう人の心もなく、ただ他人にかみつこうとする存在はいくらでもいる。じぶんがそうならないなんて言い切れない。
旅行先は愛知にしよう、と決めたのはこのときだ。
ちょうどこの頃、あいちトリエンナーレに対しての脅迫が連日報道されていて、わたしは脅迫する側の気持ちがまったく理解ができなかった。ただ少女が座っているだけの平和的な像が「反日」で、戦時下の性暴力に反対する行為が「国に対する侮辱」?いまでももちろんまったくわからない。でも、いずれ私も彼らのような振る舞いをしないと言い切れるだろうか?この国は貧しくなりつつある。来月から消費税は大幅に増え、生活は確実に苦しくなる。その状況で心まで貧しくならないなんて言い切れない。いずれ私もゾンビになるかもしれない。
隣の国でも、遠くの地方であっても、どこであっても人間が住んでいることを忘れていたくはない。が、いずれわからなくなってしまうかもしれない。
私が毎日なにかを書いているのは、漂流中の人間が書く航海日誌のようなものだ。たったひとりで暮らしながら、正気を確かめながら書く。 書いている途中に、自分でも気づかないまま、もう人の心をなくしてしまうかもしれない。 そのときに、昔の自分が書いたものを読んで、少しでも思い出せればいいと思う。 これから書く旅行の話も、いずれ自分がゾンビになってしまったときに、人間(だった時代)を思い出すために書いていた日記をまとめたものであって、もともと公開するつもりはなかったがせっかくなので載せておく。冗長な描写が続くが元が個人的につけている日記なのでご容赦ください。
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1日目。 7:30にバスタを出て13:30にささしまライブ着。 今回はバスで行ったんだが、名古屋市内に近づくにつれて巨大な船舶が泊まる港が見え、整然と並ぶ輸出用の車が見え、そして現実味の希薄な原色のレゴランドが見え・・・という光景に妙な感慨を覚えてしまった。その後バスが走った市街地でも、看板が大きかったり(走る車からでもよく見えるようにだろう)、店の規模も駐車場も大きかったり、そもそも道路自体が大きかったり、車社会を感じる。この車社会・そしてトヨタとの関係は、トリエンナーレを巡る今回の旅程を通して実感することとなるのだが、それはまた後ほど。
ささしまライブに着き、ホテルまで歩いて荷物を預けて、名駅地下の適当な店で味噌カツを食べる。「味噌カツを食べた」という事実が欲しいがために適当な店に入ってしまったのだが、味噌カツ、高級なソースかつみたいな味がした。駄菓子のアレ。私が貧乏舌なのか、その店に原因があるのかは永遠の謎。
ホテルは安さだけを重視して選んだら「オーバールックホテルからオシャレさと清潔感を抜きました!」みたいなところだった。ホテル名をグーグルに入れると「(ホテル名) 幽霊」とサジェストされる。きっと実際に何かしらの事件があったんだろうな・・・怖くてクリックしてないけど・・・まあ泊まってみたら双子の幽霊も血まみれエレベータもなかったからヨシとしよう・・・。立地は名駅西側のところで、周りも水商売のお店が多く、あとで「西側は治安悪いところですよ」と言われる。新宿にも水商売密集地帯はあって、年季の入った建物の感じや路地裏の感じは似ているが、同じ古い風俗街でもちょっと印象が違うなと思った。新宿の場合、建物自体は古くとも、店の入れ替わりが激しく看板だけは新しかったりするのだが、名駅西側のあたりは「昔からあるのだろうな」というフォントの大きな看板が目立ったからだろうか。
そしてこの日は月曜日だったんだが、月曜はトリエンナーレ全体がお休みなのを忘れていて一度円頓寺会場まで行ってしまったよ。あほ。ホテルに引き返して、持ってきた仕事をしたりごろごろしたりしてたら夜。
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円頓寺の通り。
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円頓寺のかっこいい佇まいの一例。
夜。フォロワーさんと円頓寺で待ち合わせてご飯に行く。「連れて行きたいお店があるんですけど怖いおばあさんがいて・・・お酒を頼まないと怒られるんですよね・・・私はお酒が飲めないんですが、のぶさんお酒飲めますか?飲める人がいないと行けないので・・・」と聞かれたので元気よく「飲めます」とお答えして連れて行ってもらう。連れて行ってもらった先の居酒屋さんは、手の跡が残っているような木でできた煤けたたたずまいであった。店内から曇りガラス越しに見える通行人の影が、舞台装置のようでとてもよかった。通行人の影が傘を差しだして「あ、雨が降り出したんだな」とわかる光景。演劇の演出のようだった。
どて煮と手羽を食べ「これでナゴヤ飯を食べたと言えます」とフォロワーさんから太鼓判をいただく。やったね!「お酒飲んでもらってありがとうございます」とも言われ、(お酒飲んで褒められるなんて生まれて初めてだな!甘やかされてる!)と思った。
このお店で、隣り合わせたおじさんに話しかけられ、手羽からを食べろと渡されたり無視しても声をかけてきたりしたんだが、なんだかすごく寂しいおじさんだな、と思った。お店の人に「飲み過ぎだ、帰った方がいい」と言われても「帰ってもすることないねん」と答えていて、なんてさみしいひとなのか・・・と思ったのだが、この翌日、私ひとりで食事に行ったときも似たようなおじさんにまた話しかけられるのだった。この話も後述。
居酒屋さんのあと、ベトナム料理屋さんに行って、チャーっていうあのあまいやつを飲む。フォロワーさんと政治の話や芸術の話をたくさんできてうれしかった。SHERLOCKをきっかけに19歳からTwitterをはじめてもう八年経とうとしている。現実で出会っていたとしたら、こんなにいろいろな話をするまでに多くの時間がかかるであろう人とも、いやそもそも出会っていないであろう人とも、こうして会って食事をして政治の話をできることが不思議だ。
Twitterがあってよかった。
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2日目。
八時頃ホテル出て電車で名古屋城へ。 名古屋城、堀の幅が広くて深くてびっくり。整然とした石組み。お城へ行く道々に、忍者のかわいいお菓子がたくさん看板に載っていた。 この日は天守閣に入れず、本丸御殿に行ったのだが、本丸御殿だけでも十分満足してしまった。ゴテゴテしているわりに、描いてある鳥獣は間が抜けてたり廊下は異様に質素だったり、全体を通すと上品に見えるのが不思議。ネコ科の動物大集合のお部屋と金具のリスがよい。天井がきれい。質素な廊下を抜けるとキラキラ豪華絢爛な空間が現れて、森の中の滝やお寺みたいだ。
以下は本丸御殿の内部。これはネコ科の動物づくしという素晴らしいテーマのお部屋。トラやヒョウやジャコウネコがいるよ!
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ネコ科のお部屋パノラマ。
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↑これは鳥のお部屋。写りが悪いけれども鳥が色々描いてある。
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金具のリス。
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綺麗な天井。
帰りがけに忍者がいた。「よく参った!」と言われて笑ってしまった。名古屋城は忍者がおもてなししてるのね。そういえば昨日はフォロワーさんから「おもてなし武将隊」というライトな観光アイドル的なものも教えてもらったのだった。 私はいつも旅先からお手紙を送るのだが、ジャコウネコとや虎のポストカードを買ったので、明日、フォロワーさんに教えてもらったキッテで発送しよう。名古屋にもキッテがあるらしい。 ポップオーバーというお店でお昼を食��て移動。芸術文化センターへ。このあたりから暑さと日差しが辛くなってくる。 名古屋は車社会で道路が幅広な分、簡単に横断できず、歩道橋や立体通路や地下を経由する必要があってちょっと移動が大変。見えてるのに簡単にいけない感じがRPGっぽい。まあ近くなのに移動が面倒、という点に関しては東京もよそのこと言えないか・・・。
芸術文化センターの展示について。
慰安婦像の対応をめぐり、作家さんの意思で展示中止措置が行われたため、見られない作品も数多かった。その一連を報道した新聞で全体が覆われて隠されている作品もあった。
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これらの新聞記事は全て慰安婦像に対する抗議とその対応を書いた記事が載っている。
ウーゴ・ロンディオーネのピエロの作品、造形のみならず薄くて伸縮性のある布が表面を覆ってる感じとマスクの塗装が超リアル。入った瞬間ぞくっとした空間。でも、彼らの間を歩くうちにだんだん親しみがわいてくる。愛嬌のある一体、自分に近い一体を見つけていって、部屋を出る頃には最初の小さな戦慄がなくなっていた。
ペルーの作品は展示していなかった。クラウディア・マルティネス・ガライのやつ。見られなくて残念。とても興味深いディレクションが記してあったので。
あとラテンルーツの人びとがパーティする映像も公開されてなかったけど、暗い空間の中に残されたパーティグッズのもの悲しさそのものがいまの事態に対する静かな悲しさを示した展示のようだった。
石場文子の作品は自分のパートナーを思い出した。一部がマジックで強調してある日常の風景を移した写真。一見ただの写真に見えるが、一部が人為的に強調してあるので、ぱっと見たときに違和感があって詳しく見ていくとそれがだんだん明らかになってくる。 あれは本人/当事者たちにしかわからない「思い出」「時間」を強調して可視化しているのかしら。 人と暮らしていると、ただの日常の道具や風景でも、私たちにしかわからない特別な意味が生まれてくるものだなーと実感しているので、(おそらく)誰かと暮らしているのであろう風景をあのように表現した展示に自分たちの暮らしを思った。
永田康祐の三つの料理の映像は、レヴィストロースの料理の三角形論と、ローストビーフの由来を持たないローストビーフ(分子料理)のところがすごくすき!なるほどと思った! 私自身の住んでいる場所が多国籍な地域なので、いろんな国の料理屋さんに入った時のメニューを見ている感覚を思い出した。メニューに現地の文字による原語名と、日本語に翻訳した言葉が載っているけど、例えばタイ料理屋でも中華料理屋でもミャンマー料理屋でも日本語では「チャーハン」って書いてあるものがあって不思議だったんだ。日本語にするとそれが一番伝わりやすいからこう書いてるんだろうけど、実際葉もちろんそれぞれ別物なわけで、頼んでみるまで実際のものがわからないドキドキ感も思い出した。
田中功起の四人の家族の物語は自分の仕事や生活と重なる部分もあって、とても興味深かった(職がバレるので感想は割愛)。ただ、映像はいいと思ったけどドローイング部分がちょっとよくわからない。
伊藤ガビンのプロジェクションマッピングは、ちょっとネットノリな感じのギャグの部分と、揺れるカメラや遠近感を表現したような部分とで好みが分かれそう。私は後者の部分が好き。鉄骨のなかを降りるような映像が、ゴーグルをつけない空間VRって印象。
ヘザーデューイハグボーグのDNA再現は、過去の遺体を再現するような(アイスマン等)のロマンもあって怖さや気持ち悪さのみでない魅力も感じる。あとやっぱガタカを思うね。かつてここにいたけれどもういない人の痕跡をたどっていくのは、歴史や捜査ドラマのようで、少しわくわくするよ。
ガラスのドローイングは異様な奥行き感があって、「なんでこんなに立体的に見えるんだ?」とうろうろして眺めてしまった。ガラスに書いているという構造だけではなくて、直線と曲線を組み合わせているからあれほど立体的に見えるのだろうか?立体的に見える最大値を全部計算して書いているんだとしたらものすごい手間だ。
「その先を想像する」の大量の単純な映像、見ているうちに恐怖や怯えの予感に身構えてしまうような感覚を覚えた。殴られる前に身構えてしまう予感というか。例えば対面した相手が手を上げれば殴られると思って身構えてしまうが、それはある程度自分の学習に基づく予測なんだな、と考える。
「10分の遺言」日本的というか世界系というかエモい系というか、今回一番サブカル的わかりやすさを内包した作品だったなと思う。十分の時間制限をつけて、ネット上の不特定多数から「死ぬ前の文章」を収集してる作品なんだが、完成した文章そのものではなくそれを打ち込んでいる過程を映像にしてすべて流してるのね。削除したり、カーソルを戻したり、言葉を選んでいるのかためらったり、そういうての後を全て映像で記録して流している作品。映像キーロガー的なシステムはとても興味深かった。ああいう形で人が文章を書くのを記録できるのね。
ステルス機の白い枠線は、事件現場の死体をかたどった白い跡のようだった。(これが落ちてきたらみんななくなるんだろうな)とか(見えないけどいまも頭の上にあるのか)とか、DNA再現の展示でも感じた「痕跡の再現」を思った。
シルクスクリーンを一万回繰り返したやつ、3Dプリンターと同じ構造だけど遙かに手のにおいがするところが、アナログとデジタルの交差点という印象。
誰もいない台湾の町を延々とるやつ、ゾンビ映画の冒頭のようだった。(「28日後・・・」の全裸キリアンマーフィです)映像を見てから作品撮影の背景(軍事的な訓練のため誰も外出しない日であるため、街が無人)を知るとそれも含めてさらに映画的な印象を受ける。爆発する遊園地のほうは、ループものの作品のようで、まどマギを思った。
リングホルトの大きな時計は裏の構造が簡潔で理解しやすくてよい。ずっと見ていられる精神安定作用がある。
ガラスの箱を段ボール箱に入れて、輸送中に破損した実物を展示しているやつ、「これしか壊れないのか!」という驚きがあった。空輸であれだけしか壊れないなら御の字では?なにも梱包せずあれだけの損傷にとどまるのか。
空港のX線で現像した写真の展示は手法に納得し、中身に戦慄した。シリア大使館の荒れ果てた内部だったのか。見ることにできないはこの中をX線で現像して見せている。映画「アルゴ」の映像を思い出す。
木版画の巨大な虫たちの絵は、古代から伝わる壁画のような荘厳さがあった。神話的だ。細部まで書き込まれていて好み。
手にインクで番号を押すやつが閉鎖されていて残念。フォロワーさんが「国際的にも有名な展示で、匂いがするんです」と教えてくださっていたので期待していたんだけど、匂いって「��を流させる仕組み」のことだったのか。涙を流すべき事態にも泣かない人間のための装置、という説明があった。香港のデモの催涙弾使用のことを連想して、この作品が展示中止されている事態と香港の事態は地続きだなあ、と思い至る。
写真の中の謎の物体を調査するやつは、ちょっと構成がわかりづらくすぐ移動しちゃった。あんまり立ち止まってみられる感じでもなかったのが残念。
ミリアムカーンの美しい青、実に美しかったが、難民というテーマとあの人の他の作品と並べられていると異質に映ってしまう逆転現象。
キャンディスブレイツの「ラブストーリー」は、六人の難民の抱く壮絶な背景に圧倒されると共に、役者のスキル、そして人間の持つ先入観について見事に表現していると思った。俳優さんの演技力がすごい。すごい。「本物」の難民が持つ、どこか意識が遠くにいるようだったり少し曖昧だったりといった要素が剥ぎ取られて、説得力を与えるようコントロールされている役者の演技の方が「本物っぽい」矛盾。面接やなんかにも通じると思うが、よりそれらしい、本物っぽくみせる技術はお金を払ってまで習得するスキルとされている。でも、それを「見ている」側のジャッジってめちゃめちゃ一方的だ。それにしても役者さんの演技がすごかった。表情も仕草も言葉も間合いも、あんなにコントロールできるものなのか。どう見えるか・どう見せたいかを完璧に解体しそして表現するまでが役者の能力なのかと思うと、途方もない仕事だ。
このあと名古屋市美術館に移動。あつい。顔が溶ける。ヒースレジャーのジョーカーみたいになる。退館した後で気づいたけど、国旗が印刷された野外のゴミ袋も作品だったのか。オシャレな袋がかかってるゴミ箱だな~としか思ってなかった。
空から垂れ下がるオーガンジーの刺繍、一見ファンシーで商品のような明るい魅力があるけど、DNA構造に基づき一対になっているデザインや作品背景に気づくと深みが増す。シャーレの構造もそう。清浄で真っ白な空間と生命を生むシャーレが病院のような斎場のような雰囲気だった。
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陶器の展示、とても面白かったー!陶器としてのデザインと、静物や風景が立体化しているあの作品群は、今回のトリエンナーレでもっとも万人に通用する明確な魅力があると思った。いつまでも見ていられる立体的なだまし絵のような発想、繊細な古典的表現!わたしにとっての付喪神ってこんな感じだな。あと刀剣乱舞。山口晃さんの作品への好感につながる魅力を感じる。
いっぱい写真撮っちゃった〜。
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モニカメイヤーのピンクの付箋の作品、すでに書かれたものを破ったのではなく白紙のものを破ったのか。もはや書くことができない、声を上げられないという状況の表現。新しい作品表現。視覚的に痛々しい光景だった。
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ホドロフスキーの展示。 ホドロフスキーが考案したという心理療法を実践する様子をおさめた記録映像と、書簡、そして小冊子の三点で構成されている展示。 映像のなかでホドロフスキーの指導のもとセラピーを受けているのが白人ばっかりで驚いた。 ビートルズにしろホドロフスキーにしろ、芸術分野がスピリチュアルな組織構造と結びつくのはまったく珍しくないけど、広々とした古典芸術的な劇場の中で白人だけが集まって手を繋いだりトランス状態に陥っているのはちょっと異様な光景である印象。
人工授精と刺繍の展示。私はこれが今回一番よかった。 18歳の時、自分が人工授精で生まれたことを知って、史上初のクローン羊・ドリーに関心を抱いて実際に海を渡って取材したり、出産や育児について表現したりしている作家さんの展示。 ドリーが生まれた街の写真が拡大されて一面を覆っていて、その上に金糸銀糸のきらきらとした刺繍が施されていて、部屋の中央には人形の家のような小屋があり、内部を除くと家庭的な居間が見える。展示場所やその居間の中や至る所に、ゾートロープによるアニメーションで羊や作者自身の姿がゆっくりと回転している。 18歳の時に自分が人工授精で生まれたと知って以降、「幼い頃からの過剰な愛情が理解できた」「女である自分もいずれ出産することを期待されている」と書く作者の言葉に、私は今回のトリエンナーレの中で一番心からの共感を覚えた。 今回は「しんかぞく」といい家族や出産に関わる展示が多く見られたが、これも津田さんによる「男女同数の作家を呼ぶ」取り組み成果だと思う。
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部屋の壁の前面を覆う刺繍の様子。
知らない言語を書き取る様子を撮った映像作品では、言語の学習過程や異国になじむ過程のようだと思った。まったく知らない音や言葉を、すでに自分の中にある言葉で置き換えて咀嚼しようとする行為。学生時代に語呂合わせで英単語を覚えようとしたことや、自分の素地になんとか近づけて多言語を習得しようとしたことを思い出した。これもまた「異国に生きる」ということとつながっているんだな。
GIFの繰り返しの展示、ヨシキさんがトークイベントでよく紹介してくれたyoutube動画のようで、映像式現代版ドラッグのようだった。ずっと見てしまう。
終盤に、愛知県内の小学生とともに作った段ボールのお部屋があって、それが細部までずっと見ていられる空間だった。
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入り口を入ったところ。
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種々のダンボールから切り取ったらしきロゴが貼られたボード。これを作った子はロゴやフォントに興味があって気になって作ったのだろうか。
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おそらくシャチホコ。尻尾の表現が好き。
ここまでの展示は会場が美術館だったので、トリエンナーレの作品以外にも美術館の常設展示が観覧できた。この常設展示で裸婦像が多く展示されていたが、男女同数を実現し差別に関する問題や出産・育児についても多く扱っているあいちトリエンナーレと対称的だ。古典芸術世界における、女性の客体化と、それに対する問題提起としての現代美術。女性の意思を扱っているトリエンナーレ作品がある一方で、美術館の常設として古典的な裸婦像が山ほど飾られている部屋という、その対称性も象徴的だった。
ほかにも、常設展示では、児童文学の挿絵のような、会社に絡みつくドラゴンの像もあってこれがおもいがけず大好きになってしまった。紙幣=消費者から得た金で作られた、大量生産品を扱う会社とドラゴン。よく見ると窓や道にそれぞれ人間がいる。窓の清掃員やビルから現れる作者自身。ロアルドダールやティムバートンの作品のようだった。
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ここで円頓寺へ移動。あつすぎる・・・
一丁目長屋の中の古い写真を拡大したものは、祖父母のことを考えずにはいられなかった。祖父母のこうして誰かの持つ写真の中に背景として映っているのか。私の誰かのスマホで撮った写真に映り込んでいるのか。祖父母のことが大好きなんだけど、誰かのアルバムのなかでこうやって残っていてくれたらいいなと思うよ。ちょっとでも。
葛宇路は発想が好き。きっとこうやって生まれた道ってたくさんあるんだろうな。昔から。勝手に公共空間に作用していく人の行動が面白いと思う。古代から道の名前ってこうやって決まってたんじゃないだろうか。人の名前も、町の名前も。
移動する洋品店の展示も祖母を思わずにはおれなかった。それとここに限らず、展示場所が超狭い雑居ビルの二階だったり、趣ある巨大な古いお屋敷だったり、距離は大して離れていないのにまったく異なるのが面白い。異世界感。
弓指さんの、自動車事故の犠牲者である小学生六人をモチーフにした展示は、超車社会でトヨタ車がたくさん走っているのを見てここまで来た身からするとチャレンジングな展示だと思った。毒山さんの映像の中でも「トヨタ王国」「愛知からトヨタがいなくなったらやっていけない」との言及があったし。途中で運転席からの景色が見える展示構成がよい。
毒山さんの展示、おそらく私の祖父母と同年代の人びとの映像だが、その老人がいまでも子どもの頃に殴られたり屈辱を受けたりした経験を泣きながら語る様子がつらくて、見ながら泣いてしまった。いまでもこれを書きながら泣いてしまう。今回の展示のなかで唯一泣いてしまった作品。自分たちの祖父母だったら、と思うとつらくてつらくて仕方がない。 本人たちは「いい教育だった」と言っていても、それが本心だとは限らないし、それを疑う余地もない教育を施されたのだろうし、いまはもういない彼ら自身の父母の世代はどれほどつらかっただろうと思う。
円頓寺は最後に寄った伊藤家住宅がすごくよかった。中庭の感じとか蔵と蔵の間の空間の怖さとか。津田美智子の作品は不具合で見れなかったけど、蔵の中の岩崎さんの作品は緻密ながら空襲後の世界を思わせる光景で見入ってしまった。燃えた家財道具と建物と炭。どこかに通じる橋のような構造物がすき。三人しか入れない極小空間という処も含めて、秘密基地のような、子どもの頃にしか出会えない何かが住んでいる空間のような、魅力的な展示だった。
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全て炭で作られた作品の様子。
ゆざーんの演奏は、修行というのでもっと簡潔で寺院っぽい空間を想像していたら地下にあるライブハウスみたいなカラフルな壁画があってちょっと意外。タブラの音ってきれいだ。
ホテルに戻って、外食しようと思って外に出たらまたもや知らないおじさんに話しかけられ、「明日は絶対外に出ないで何か買い込んで宿で食べよ・・・」と堅く心に誓う。
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三日目。
朝起きて九時くらいまで昨日の日記書く。ポメラ毎日使ってるけど買ってよかった。旅行先でもいつもと変わらず書けるしバッテリーの持ちが最高。
チェックアウト後キッテへ。ハガキを発送して名古屋駅から東山線で栄駅、舞鶴線に乗り換えて豊田市駅へ。ホテルに荷物を預けて喜楽亭へ。
喜楽亭は建物自体も面白かった。料亭のようなことをしていたらしい。お寺のようだった。古くはあるけど清潔で使い込まれた空間。進むにつれてだんだんと輪郭や映像の出典がわかっていく構成と建物がよく合っている。映像の書簡形式。特に二階の構成がよい。日本のアニメ・漫画作家による二次大戦中のプロパガンダ作品と、それらが彼の記念館に収められていないこと、そして彼自身も特に後悔はしておらず「また政府から要請があったら同じことを行う」「国民としての責任を果たした」と語っている映像。そして、小津安二郎と彼の作品について論じ、作中の幼い兄弟が「大きくなったら軍人になりたい」と語っている映像とプロパガンダアニメが同時に背景に映り込む演出は素晴らしかった。小津安二郎の墓に「無」と刻んであるのはこの展示ではじめて知った。奥の巨大なプロペラの展示は舞台装置っぽい。カタカタ鳴る装置も舞台演出的だ。
ここから豊田市美術館へ。激坂のぼるの熱くてつらかった・・・。
美術館のレストランでお昼ごはん。
空から落ちる花が開くような展示は、みんなが上を見上げたり床に寝転がったりしながら作品を見て笑って話している空間自体が好きで、ずっと見入ってしまった。シャーレの展示もそうだが、美術館の広くしろい空間になにかが上から下がっているって独特の非日常。
豊田市美術館から歩いて近くの高校のプールの展示を見る。これもフォロワーさんから「友人がとても褒めていた」とのお話を伺っていたので期待して向かう。 実際に目にすると、青空にプールと廃校と夏の濃い緑、というのがすばらしい。エモい。バンタンの撮影に使用して欲しい。私はスクールもの時代のバンタンが好きだ。 垂直に立ったプールの壁面が真っ青な空に伸びている、という、飛び込みや空に落ちること・そしてもしかしたら飛び降りを連想させる光景がとてもよい。バンタンの撮影に使用して欲しい(2回目)
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青ずぎる空と校庭と合成のような鳥居が異世界っぽい。
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豊田市駅に移動して、架空のトヨタの遺跡モニュメントの展示三点としんかぞく(レンタル家族)を見る。 しんかぞくは正直、「実際に死産を経験したり子どもを失っている人から見たら残酷すぎる」と思った。流産を扱うことそのものを問題視しているわけではない。テーマパークという形にして、「エンターテイメントとして見せていること」・そして「実際に死んだわけではない想像上の子どもを作り出して、(おそらく)本物の水子と一緒に作品の題材にしていること」がちょっとひどいと思った。水に流す演出の意味や、最初に押すキーボードの意味などは「なるほど」と思ったけれど、原宿の店先に並んでいそうなポップな色合いで作品にするにはあまりに敬意がないのでは。 架空のトヨタの遺跡を再現する展示、発想と映像のなかのとってもうさんくさいおじさんのインパクトが強烈。最初あの胡散臭おじさんが作家さんかと思った。人為的に作られた出土品を見ているのが楽しく、また、「現実にも出土品を偽造していた考古学者がいたけど、こういう感じだったのかな」と想像を巡らせた。
なにかを売り出したいときや権威づけたいときに、古くからの神話や土地の歴史に絡めるのは常套手段だけど、これは逆にトヨタ神話を皮肉っているようでもあって、単純な「この土地と切っても切り離せないトヨタ」を礼賛しているわけではないと感じる。
アンナヴィッテのトヨタのダンスの映像も同じことを思った。あのダンスの映像は発想がとても好き。(明言はされていないがおそらく)トヨタの工場労働者たちを集めて複数回お互いの仕事について話し合う様子を撮っている。彼らは流れ作業で部品の点検等単純な労働に従事していて、「これから自分たちの仕事はどうなるか」「仕事は楽しいか」「なぜ仕事をしているか」といったことがらについて各々の意見を述べていく。そして、彼らが毎日繰り返している仕事の動作を再現してもらい、それを元にダンスを作り上げる。彼らが踊る映像と、自動制御のロボットがラインで単調な動作を繰り返しつつ車を作り上げていく映像が流れる。
ホテルに戻り、もうおじさんに話しかけられたくないなと思ったのでトヨタ駅近くの松坂屋地下でご飯を買って部屋で食べる。文章を書いて本を読んで眠る。
------------------------------------------------------------------------------------------- 四日目。 六時に起きてご飯食べてこれの下書きを書く。 チェックアウトして東岡崎駅へ。閑散とした駅にタピオカのスタンドがあり、まったく繁盛していないのを見て諸行無常を感じる。おごれるものは久しからず。高速バスでバスタへ向かう。 バスに乗ったら顔を覆うシェードがあった。はじめて見た。しかし使ってみると超快適で爆睡。隣の人の顔が見えない、見られないってこんなにもノーストレス!
いい旅行だったな。
街の中、しかもこれほど複数の場所に点在したトリエンナーレに初めて行ったので、土地と干渉し合う作品鑑賞も初体験で多く発見があった。
まず、��天下を歩いて回って、歩く道々で見る建物や風景や、だんだん暑くてボーッとしてきたころ突如現れる作品や、全て込みで作品のようだった。特に円頓寺は一区画入ると全く趣の異なる建物・作品が現れて、街の中に潜む異世界をめぐるようであった。
そして、トヨタに関わる作品も数多くあって、トヨタの影響が色濃い街を歩く中でそれらを鑑賞して「これはこの土地で見るからこそ意味があるな」と思った。単純にどこか別の都市の美術館に全部入れていてもこんなに意味合いを考えたりしなかっただろう。
バスに乗って愛知に来たとき、ミニカーのように整然と並ぶ大量の車や、輸出入の船がたくさん止まる港や、突如現れるレゴランド、幅の広い道、超車社会、等々を見て「あートヨタのちからよ…」と思った。事故の犠牲者6人を追悼する作品で「加害者、被害者、クルマ」を提示していて(トヨタのお膝元でやるにはチャレンジングだな)と思ったけど、酔客にグローバル企業のロゴをかぶせる映像展示では「トヨタがなかったら名古屋はやっていけない」と行ってたり、豊田市駅の展示では架空のトヨタの遺跡を発掘する展示があったり、そしてその会場に向かう駅の歩道には「交通死亡事故一位の汚名返上!」という(展示ではなく警察やトヨタによる本物の)巨大な横断幕があったり、街中を巡ってみる展示だからこその効果を感じた。街中を歩いて車社会を実感しながら作品に会いに行き、そしてその作品たちが相互に作用していく体験が初めてのもので、「自分の目が変わっていく」過程が新鮮だった。土地を体験した自分の目が作品に向ける眼に影響していく。人間はどんどん変化していくけど、これほどの短期間で明らかに変わっていくのがわかる体験は、あいちトリエンナーレの素晴らしい強みだと思う。これからいく方にはぜひ、なるべく多くの作品を歩いて巡ってみてほしい。
それから、私が道中でさびしいおじさんとフェミニズム作品について。1日目二日目と、夕食を食べに行ったら知らないおじさんに声をかけられ、うんざりして三日目はビジネスホテルでもそもそご飯を食べたのは前述の通り。はっきりいって不愉快だし、心底不快だけれど、それ以上に「この人たちはさびしいんだろうな」という気持ちが先に立った。これは愛知に限らず、東京でもあまた経験しているので、今から書くのは今回の旅だけではなく普遍的な話。
旅行先で食べてみたいものがあっても、おじさんに話しかけられると思うとうんざりする。男の人ならどこでも好きなところへ好きなものを食べに行って、話しかけられて嫌な思いをするかもなんて微塵も考えないのかしら。ここでわたしが「旅行先で隣になった人とめっちゃ盛り上がった笑笑笑!おごってもらった笑笑笑」って書くタイプならむしろ旅のいい思い出になるだろうし、「こう感じるタイプの方が生きやすいんだろうね」、って話はフォロワーさんともしたけれど、私がこうやって知らないおじさんに話しかけられてめちゃめちゃ不愉快になるのは、「さみしい」という気持ちを検知するからだと思う。たまたま隣に座った私に話しかけ、少しでもさみしさを埋めたい、というのは侮辱ではないのか。一方的に話したり、相手が立場上・性格上反論できない局面で話を押し付けたりするひとってめっっっっっっっちゃいる。
私は今回のフェミニズム作品、そして作品中止に至るまで作家さんの行動の一連も根本は「対話を行わない」という侮辱に対するものだと思っている。一歩的に作品の撤去を求めること。それに対し、作家さんたちと十分な対話を行わず、実際に撤去をしたこと。
侮辱されている、舐められている、と察知する能力は人間にとって能力だなmと今強く思っている。このまま私は進もう・・・
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sasakiatsushi · 8 years
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慟哭と吃驚ー小島信夫と小沼丹ー
 「第三の新人」と呼ばれた作家たちの中で、小島信夫と小沼丹は、理由は異なるが、どこか収まりの悪い存在に思える。  小島信夫については言うまでもなく、彼が一九一五年生まれと「第三の新人」では最年長であり、それどころか「第二次戦後派」とされる三島由紀夫(一九二五年生まれ)や安部公房(一九二四年生まれ)、井上光晴(一九二六年生まれ)や堀田善衛(一九一八年生まれ)よりも年上、「第一次戦後派」の野間宏や梅崎春生とおない年であるという事実に依っている。これは一九一七年生まれの島尾敏雄が「第三の新人」と「戦後派」のどちらにも入れられていることがあるのに似ているが、小島にかんしては「戦後派」とされているのは読んだことがない。  「第三の新人」という呼称は、山本健吉が「文學界」の一九五三年一月号に発表した同名の論文が初出とされるが、そこで山本が取り上げている作家は「第三の新人」とはあまり重なっておらず、実際にはその後、山本を含む文芸評論家やマスコミが、この時期に文壇に登場もしくは頭角を現してきた一群の小説家たちを、この便利なフレーズの下にカテゴライズしていったということだったのだと思われる。小島は五二年に「燕京大学部隊」と「小銃」(初の芥川賞候補)を、五三年に「吃音学院」を、五四年に「星」「殉教」「微笑」「馬」「アメリカンスクール」といった力作を矢継ぎ早に発表し、五五年に「アメリカンスクール」で芥川賞を受賞する。この経歴からすれば、���は如何にも「第三の新人」と呼ばれるに相応しい存在だった。  しかし最初期の作品集『公園/卒業式』(冬樹社/講談社文芸文庫)を繙いてみればわかるように、小島は戦前から小説を書いていたし、その中には「死ぬということは偉大なことなので」(一九三九年)のような重要な作品もある。でもまあ「小島信夫=第三の新人」という等号は、文学史的にはごく常識に属すると言っていいだろう。単に他の面子よりも年を取っていたというだけである。  これに対して小沼丹の場合は、もう少し微妙な浮き方をしている。彼も一九一八年生まれと「第三の新人」では年長組だが、そういうことよりもむしろ、存在感というかアティチュードというか、その小説家としての佇まいが、他の「第三の新人」たちとは、かなり異なった風情を持っていると思えるのである。小沼は井伏鱒二の弟子だったわけだが、彼が井伏から受け取った或る種の態度と、それは関係があるのかもしれない。比較的横の繋がりの強い印象がある「第三の新人」の中にあって、小沼は他の作家たちと親しく交流することもあまりなかった(庄野潤三とは付き合いがあったが)。年譜を見ても井伏鱒二と旅ばかりしている。しばしば言われることだが、小沼にとっては、あくまでも早稲田大学の英文学の教授が本職であって、作家活動は趣味というか余技というべきものだった、というのも、あながち間違った見方ではないだろう。もっともそれを言うなら小島信夫も英文学の明治大学教授だったのだが。  小島と同様に「第三の新人」ムーヴメントの頃の小沼の筆歴を記せば、一九五四年上半期に「村のエトランジェ」、下半期に「白孔雀のゐるホテル」、五五年上半期に「黄ばんだ風景」「ねんぶつ異聞」で、計三度、芥川賞候補に挙げられたが、受賞はしていない。ちなみにそれぞれの回の受賞者は順番に、吉行淳之介、小島信夫/庄野潤三(二名受賞)、遠藤周作と、見事に「第三の新人」で占められている。これ以後、小沼が芥川賞候補になることはなかった。ちなみに五五年下半期には石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞し、もはや「第三の新人」が新しかった時代は過ぎ去ってしまう。とはいえ翌五六年には「第三」の近藤啓太郎が「海人舟」で受賞するのだが。  小沼の第一作品集『村のエトランジェ』(みすず書房/講談社文芸文庫)は五四年刊だが、そこには収められている小説には、四〇年代後半には原型が書かれていたものもある。同時期に彼はスティーヴンスンの翻訳や『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』の子ども向け翻案などを手掛けており、大昔の異国を舞台とする「バルセロナの書盗」や「ニコデモ」(ともに四九年)や「登仙譚」(五二年)には、そういった仕事からの影響を窺うことが出来る。  先にも述べたように、小沼丹が「白孔雀のゐるホテル」で候補になり落選した一九五四年下半期の芥川賞は、小島信夫の「アメリカン・スクール」(と庄野潤三「プールサイド小景」)だった。両作の冒頭を引用してみよう。
 大学生になったばかりの頃、僕はひと夏、宿屋の管理人を勤めたことがある。宿屋の経営者のコンさんは、その宿屋で一儲けして、何れは湖畔に真白なホテルを経営する心算でいた。何故そんな心算になったのか、僕にはよく判らない。  ……湖畔に緑を背負って立つ白いホテルは清潔で閑雅で、人はひととき現実を忘れることが出来る筈であった。そこでは時計は用いられず、オルゴオルの奏でる十二の曲を聴いて時を知るようになっている。そしてホテルのロビイで休息する客は、気が向けばロビイから直ぐ白いヨットとかボオトに乗込める。夜、湖に出てホテルを振返ると、さながらお伽噺の城を見るような錯覚に陥るかもしれなかった。  コンさんは、ホテルに就いて断片的な構想を僕に話して呉れてから云った。 ーーどうです、いいでしょう? ひとつ、一緒に考えて下さい。 (「白孔雀のゐるホテル」)
 集合時間の八時半がすぎたのに、係りの役人は出てこなかった。アメリカン・スクール見学団の一行はもう二、三十分も前からほぼ集合を完了していた。三十人ばかりの者が、通勤者にまじってこの県庁にたどりつき、いつのまにか彼らだけここに取り残されたように、バラバラになって石の階段の上だとか、砂利の上だとかに、腰をおろしていた。その中には女教員の姿も一つまじって見えた。盛装のつもりで、ハイ・ヒールをはき仕立てたばかりの格子縞のスーツを着こみ帽子をつけているのが、かえって卑しいあわれなかんじをあたえた。  三十人ばかりの教員たちは、一度は皆、三階にある学務部までのぼり、この広場に追いもどされた。広場に集まれとの指示は、一週間前に行われた打ち合わせ会の時にはなかったのだ。その打ち合わせ会では、アメリカン・スクール見学の引率者である指導課の役人が、出席をとったあと注意を何ヵ条か述べた。そのうちの第一ヵ条が、集合時間の厳守であった。第二ヵ条が服装の清潔であった。がこの達しが終った瞬間に、ざわめきが起った。第三ヵ条が静粛を守ることだという達しが聞えるとようやくそのざわめきはとまった。第四ヵ条が弁当持参、往復十二粁の徒歩行軍に堪えられるように十分の腹拵えをしておくようにというのだった。終戦後三年、教員の腹は、日本人の誰にもおとらずへっていた。 (「アメリカン・スクール」)
 小島信夫は五四年だけで実に十編もの短編小説を発表しているのだが、個人的には「アメリカン・スクール」よりも「星」や[殉教」、そして「馬」の方がすぐれていると思う。単行本『アメリカン・スクール』の「あとがき」で、小島は実際に自分がアメリカン・スクールに見学に行った経験が出発点になってはいるものの、それはごく最近の出来事(「先年」とある)であり、しかも「事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった」と述べてから、こう書いている。「僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。そのために象徴的に、六粁の舗装道路を田舎の県庁とアメリカン・スクールの間に設定してみた。それから今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」。  その結果としての、主題的な、話法的な、一種の紛れもないわかりやすさが、芥川賞の勝因だったと言ったら怒られるかもしれないが、「終戦後二年間ぐらいの所」というのだから、一九四七年頃の物語を一九五四年に(五三年の体験をもとに)執筆したこと、それから「六粁」すなわち「往復十二粁」という「行軍」の設定、そして「僕」から「群像の中の一人物」への変換(右引用の少し先で、この小説の主人公というか狂言回し的な人物は「伊佐」という男だとわかる)という三種類の「距離」の導入が、その「わかりやすさ」に寄与していることは間違いない。もちろん小説とはこういうことをするものであるわけだが、「現実」を巧妙にずらすことによって却って「現実味」を増すという操作が、ここでは見事に上手くいっている。と言いつつ、であるがゆえに、わたし的には今ひとつ物足りない気もするのだが。兎角上手くいき過ぎているものはどうもつまらない。だがそれはとりあえず置く。  これに対して小沼丹の「白孔雀のゐるホテル」の場合は、ここで夢見られているホテルの「お伽噺」めいたイメージとは裏腹に、現実の宿屋は二軒長屋を若干改造しただけの古臭くて襤褸い代物で不便この上なく、何故だか自信満々の「コンさん」に驚き呆れた「僕」は、ひと夏の間に六人以上の泊まり客が来るかどうかの賭けをすることになるのだが、その賭けの顛末が綴られてゆく物語は、この時期の小沼小説の一大テーマというべき男女の色恋がメインに据えられてはいるものの、どこか牧歌的であり、こう言ってよければ妙に非現実的な「お伽噺」ぽさの内に全編が展開されるのである。つまりこの小説には「アメリカン・スクール」にあったようなリアリティへの配慮と戦略が著しく欠けている、というかそれはほとんど顧みられていないようにさえ見える。小沼丹がやろうとしているのは、もっとあからさまに「物語」らしい小説であり、その意味では「文学」らしからぬ小説なのである。そのせいで芥川賞を得られなかったのかどうかはよくわからないが、この作風は「第三の新人」においてはやはり異色である。  それは「村のエトランジェ」や、二編と同年発表の「紅い花」など、この頃に書かれた多くの作品にも言える。「エトランジェ」は衝撃的な殺人の目撃シーンから始まるが、現在の感覚からするとまだほとんど子供と言っていい「中学一年坊主」の「僕」の視点から、戦時中に田舎に疎開してきた美人姉妹と若い詩人とのロマンス、そのドラマチック過ぎる結末が、しかしやはりどこか牧歌的な雰囲気の中で物語られる。「紅い花」の舞台は「戦争の始る三年ほど前」だが、「大学予科生」の「僕」によって、郊外の山小屋を借りて独り暮らしを始めた「オスカア・ワイルドのように真紅のダリアを一輪飾った女」の波乱に富んだ恋愛模様が、おそるべきショッキングなラストに向かって物語られてゆく。いずれも極めて人工的なお話になっており、特に「紅い花」には一種の心理サスペンス風ミステリの趣がある。そして実際、この数年後の五七年から五八年にかけて、小沼丹は雑誌「新婦人」に「ニシ・アズマ女史」を探偵役とするユーモラスな短編を連作し、その後も何作かミステリ小説を発表している(「ニシ・アズマもの」は『黒いハンカチ』として一冊に纏められている。ミステリ作家としての小沼の側面にかんしては同書創元推理文庫版の新保博久氏の解説に詳しい)。ミステリに留まらず、五〇年代末から六〇年代頭の小沼はいわゆるジャンル小説にかなり接近しており、当時隆盛を迎えていた「宝石」「オール読物」「小説中央公論」などの中間小説誌にも作品を書いている他、六一〜六二年には新聞小説としてユーモア長編『風光る丘』を連載している。ジャンル的な方向性や出来映えの違いはあるが、デビュー以来、この頃までの小沼の小説は、おしなべて物語的、お話的なものであり、言い替えればそれは、どこか浮き世離れした雰囲気を持っていた。ところが、よく知られているように、この作風は、その後、大きく変化を見せることになる。  一九六三年の四月に小沼丹の妻・和子が急逝する。彼は娘二人と現世に残された。翌六四年には母親も亡くしている。そして同年五月に、のちに「大寺さんもの」と総称されることになる連作の第一作「黒と白の猫」が発表される。  この小説は、次のように始まる。
 妙な猫がいて、無断で大寺さんの家に上がりこむようになった。ある日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐っているのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届な無断侵入を試みた猫は何匹かいたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると素早く逃亡した。それが当然のことである、と大寺さんは思っていた。ところが、その猫は逃出さなかった。涼しい顔をして化粧なんかしているから、大寺さんは面白くない。  ーーこら。  と怒鳴って猫を追つ払うことにした。  大寺さんは再び吃驚した。と云うより些か面喰つた。猫は退散する替りに、大寺さんの顔を見て甘つたれた声で、ミヤウ、と鳴いたのである。猫としては挨拶の心算だったのかもしれぬが、大寺さんは心外であった。 (「黒と白の猫」)
 以前から身辺雑記的なエッセイは発表していたが、この作品によって小沼丹はいわば「私小説的転回」を果たしたとされることが多い。淡々とした、飄々とした筆致から「大寺さん」の、とりたてて劇的な所のない平凡な日常が浮かび上がり、いつの間にか自宅に上がり込むようになった猫の話が綴られてゆくのだが、小説の後半で「大寺さん」は妻を突然に亡くす。しかしそのことを伝える筆致もまた、どこか淡々と、飄々としている。事情を知る読者は、おそらく作家自身に現実に起こったのも、こんな感じであったのかもしれないと思う。そしてこの作品以後、かつてのような人工性の高い「お話」は、ほとんど書かれなくなってゆく。これが多分に意識的な「転回」であったのだということは、次の文章でもわかる。
 小説は昔から書いているが、昔は面白い話を作ることに興味があった。それがどう云うものか話を作ることに興味を失って、変な云い方だが、作らないことに興味を持つようになった。自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向けるようになった。この辺の所は自分でもよく判らないが、この短編集に収録してある「黒と白の猫」という作品辺りから変わったのではないかと思う。 (「『懐中時計』のこと)
 作品集『懐中時計』は一九六九年刊。右は九一年に講談社文芸文庫に収められた際に附された「著者から読者へ」より抜いた。この先で「黒と白の猫」についてあらためて触れられているのだが、それは(明記されていないが)一九七五年発表の「十年前」というエッセイの使い回しとなっている。なので以下は同エッセイ(『小さな手袋』所収)から引用する。「十年前」とは勿論「黒と白の猫」が書かれた時のことである。
 日記には「黒と白の猫」を書き終わ���て、一向に感心せず、と書いているが、これはそのときの正直な気持ちだろう。尤も書き終って、良く出来たと思ったことは一度も無いが、この作品の場合は自分でもよく判らなかったような気がする。よく判らなかったのは、主人公に初めて「大寺さん」を用いたからである。  突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない。「彼」でも不可ない。しっくりしないと云うよりは、鳥黐のようにあちこちべたべたくっつく所があって気に入らなかった。此方の気持の上では、いろんな感情が底に沈殿した上澄みのような所が書きたい。或は、肉の失せた白骨の上を乾いた風邪が吹過ぎるようなものを書きたい。そう思っているが、乾いた冷い風の替りに湿った生温い風が吹いて来る。こんな筈ではないと思って、一向に書けなかった。  それが書けたのは、大寺さん、を見附けたからである。一体どこで大寺さんを見附けたのか、どこから大寺さんが出て来たのか、いまではさっぱり判らない。 (「十年前))
 「兎も角「僕」の荷物を「大寺さん」に肩代りさせたら、大寺さんはのこのこ歩き出したから吻とした。しかし、出来上がってみると、最初念頭にあった、上澄みとか、白骨の上を吹く乾いた風の感じが出たとは思われない。それで一向に感心せずとなったのだろう」と小沼は続けている。ここでわたしたちは、小島信夫が「アメリカン・スクール」について「今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」と語っていたことを思い出す。つまり小島も小沼も、一人称を架空の固有名詞に変換することによって、或る転回を成し得ている。興味深いことに、「私」で/と書くのを止めることが、むしろ「私/小説」を誕生、もしくは完成させているのである。  「アメリカン・スクール」前後の小島信夫の小説で、一人称の「僕」もしくは「私」で書かれていないのは、他には「声」(一九五五年)など数える程しかない。一九五五年には初の長編小説『島』の連載が「群像」で開始されるが、これも人称は「私」である。そして長編小説にかんしてみると、続く『裁判』(一九五六年)、『夜と昼の鎖』(一九五九年)、『墓碑銘』(一九六〇年)、『女流』(一九六一年)は全て一人称で書かれている。そして小島が初めて三人称で書いた長編小説が、他でもない『抱擁家族』(一九六五年)なのである。その書き出しは、次のようなものである。
 三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れはじめた、と。そして最近とくに汚れている、と。  家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のままだ。清潔好きの妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。  自分の家がこんなふうであってはならない。…… (『抱擁家族』)
 この「三輪俊介」は『抱擁家族』から三十二年後の一九九七年に刊行された長編『うるわしき日々』に(それだけの年を取って)再登場する。当然のことながら、一人称で書かれているからといって作者本人とイコールでないのと同じく、三人称で書かれているからといって作者とまったく無関係とは限らない。小島の他の長編小説、たとえば大作『別れる理由』(一九六八〜八一年まで連載)の「前田永造」であるとか『美濃』(一九八一年)の「古田信次」であるとかも、基本的には「小島信夫」の別名であると言ってしまって構わない。これはあらためてじっくりと論じてみたいと思っていることだが、日本文学、少なくとも或る時期以降の「日本」の「文学」は、煎じ詰めればその大半が広義の「私小説」である。それは人称の別にかかわらず、そうなのだ。その中にあって小島信夫は、かなり特異な存在だと言える。何故ならば小島は、自身の人生に材を取って膨大と言っていい小説を書いたのみならず、それらの小説群によって自らの人生自体をも刻々と小説化=虚構化していったからである。だが本稿ではこの点にはこれ以上は踏み込まず、小沼丹との比較対照に戻ることにする。それというのも、言うまでもないが『抱擁家族』でも「三輪俊介」の妻が亡くなるからである。  『抱擁家族』は、前半では「三輪俊介」の妻である「時子」と、三輪家に出入りしていたアメリカ兵ジョージとの姦通(次いで三輪家の二番目の家政婦である「正子」と息子の「良一」も関係を持つ)によって生じた「家/族」の危機が、後半では「時子」が癌に罹り月日を経て死に至るまでと、それ以後が描かれる。現実の小島信夫の最初の妻・キヨは、一九六三年十一月に数年の闘病生活の末に亡くなっている。これは小沼丹の妻の死の半年後のことである。小島信夫の代表作、おそらく最も有名な作品であろう『抱擁家族』は発表以来、さまざまに読まれてきた。言わずもがなではあるが、よく知られた論としては、実質的に「第三の新人」論と呼んでいい江藤淳『成熟と喪失』(一九六七年)が挙げられるだろうが、今から見れば些か過剰に社会反映論的とも思えるそこでの江藤の立論は、たとえ当たっていたとしてもわたしにはあまり面白くはない。今のわたしに面白いのは、たとえば小島の最初の評論集である『小島信夫文学論集』(一九六六年)収録の「『抱擁家族』ノート」における、次のような記述である。
 時子の死ぬところがうまく行かない。つまらない。自然の要素が強すぎる。  しかし、ここをとるわけには行かない。一応こういう自然の時間を追うスタイルの小説だからである。
 小説の推移、一つ一つの会話がそのまま混沌としていて、しかも人生そのものというようにすべきである。そのくらい複雑でなければ、こういう問題を書く意味がない。 (「『抱擁家族』ノート」)
 二つの断片を引いた。この「ノート」は、小島が実際に『抱擁家族』執筆に当たって作成した創作メモがもとになっているそうだが、最後の一文に「俊介は狂っている」とあり、思わず戦慄させられる。周知にように、小島信夫は小説と同じくらい、ことによるとそれ以上の労力を傾注して多数の小説論を書いた作家だが、自作にかかわる論においては常に、右の引用に示された紛れも無いパラドックスをめぐる葛藤が旋回している。すなわち「小説」と「自然の時間=人生そのもの」との、ややこしくもあり単純でもある関係性が孕むパラドックスである。それは小沼丹が「突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない」と悩んだあげくに、ふと「大寺さん」を発見したのと同じことである。  それならつまり、小島信夫も小沼丹も、自らの実人生に起きた、たとえば「妻の死」という決定的な出来事、悲劇と呼んで何ら差し支えあるまい出来事を、如何にして「小説」という虚構に落とし込むかという試行に呻吟した結果、それぞれにとっての小説家としてのブレイクスルーを成す『抱擁家族』と「黒と白の猫」という「三人称の私小説(的なるもの)」が産み落とされたのだ、と考えればいいのだろうか。それはまあそうなのだが、しかし両者の対処の仕方は、一見すると対照的である。『抱擁家族』では、夫である「三輪俊介」が、妻である「時子」の死に対して激しく動揺し、狼狽し、慟哭するさまが執拗に描かれている。その様子は勿論シリアスなものではあるが、しかし同時に奇妙な諧謔味を湛えてもおり、そしてその諧謔がぐるりと廻って哀しみを倍加する、というようなものになっている。それは名高い「私の妻は病気です。とても危いのです。その夫が私です」という台詞に象徴されているが、そこに作家自身の生の感情が吐露されていると考えてはならない。「アメリカン・スクール」で施されていたのと同様の戦略と計算が、ここにはより大胆かつ精妙に働いている。  たとえば次の場面には、小島の独特さが現れている。
 病院での通夜までの間に一時間あった。その間、彼は病院の玄関に立っていた。涙がこみあげてきて、泣いているとうしろで廊下をするような足音がした。ふりかえるとカトリックの尼が、トイレから出てきたところで、トイレのドアがまだ動いているところであった。  二人の尼は俊介のところへおびえるようにして近よってきた。 「お亡くなりになったそうで」  眼から涙がこぼれおちてくる、と俊介は思った。 「先日はどうも」  と彼は口の中でいった。 「祈ってあげて下さい」  と若い女の方がいった。 「それは僕も祈りつづけてきたのですが、祈る相手がないのですよ。だからただ祈り、堪え、これからのことを考えるだけです」 「あなたは、今、神に近いところにおいでになりますよ」 「なぜですか」  俊介は尼について歩きはじめた。 「家内に死なれたからですか。これは一つの事業ですよ。その事業をぶざまになしとげただけのことですよ」  俊介の涙はとまった。 「ただ僕は子供がふびんで……これからどうして暮して行ったらいいのだろう。ずっと前から予想していたが、やっぱり思いがけないことが起きたのです」 (『抱擁家族』)
 「『抱擁家族』ノート」には、こうある。「カトリックの尼を出す。時子は求めているらしいのに、追払う。こういう錯覚、洞察力のなさが俊介にはある。神の問題は、この程度にしかあらわれない。そういうこと、そのことを書く」。これはつまり、敢て、故意にそうしている、ということである。小島は、あくまでも意識的なのである。小島は「演劇」にも関心の深かった作家だが、ある意味で「三輪俊介」は、演劇的に慟哭してみせているのだ。  小島信夫は徹底して方法的な作家であり、彼の方法意識は『抱擁家族』でひとつの極点に達し、それから数十年をかけて、ゆっくりと小島信夫という人間そのものと渾然一体化してゆくことになるだろう。従って、それはやがて「方法」とは呼べなくなる。だが、ともかくも言えることは、『抱擁家族』という小説が、たとえ表面的/最終的にはそう見えなかったとしても、実際には精巧に造り込まれた作品なのだということである。以前の作品と較べて、明らかにスカスカを装った文体や、一読するだけではどうしてそこに置かれているのかよくわからない挿話、あまり意味のなさそうな主人公の述懐さえ、周到な準備と度重なる改稿によって編み出されたものなのである。  小沼丹の「大寺さんもの」は、「黒と白の猫」に始まり、計十二編が書かれた。最後の「ゴムの木」の発表は一九八一年なので、実に十七年にわたって書き継がれたことになる。いずれも、ほぼ作家と等身大とおぼしき「大寺さん」の日々が綴られている。そこでは確かに、お話を「作らないこと」が慎ましくも決然と実践されているようであり、また「自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向け」られていると読める。この意味で、小沼の姿勢は小島信夫とは些か異なっているかに思える。  だが、ほんとうにそうなのだろうか。「黒と白の猫」の、今度は末尾近くを読んでみよう。
 大寺さんは吃驚した。  例の猫が飼主の家の戸口に、澄して坐っているのを発見したからである。大寺さんは二人の娘に注意した。娘達も驚いたらしい。  ーーあら、厭だ。あの猫生きてたのね。  ーーほんと、図々しいわね。  この際、図々しい、は穏当を欠くと大寺さんは思った。しかし、多少それに似た感想を覚えないでもなかった。大寺さんもその猫は死んだとばかり思っていたから、そいつが昔通り澄しているのを見ては呆れぬ訳には行かなかった。 (「黒と白の猫」)
 この短編を、そして続く「大寺さんもの」を読んでゆく誰もが気付くこと、それは「大寺さん」が、やたらと「吃驚」ばかりしていることである。もちろん小沼丹の小説には、その最初期から「吃驚」の一語が幾度となく書き付けられてはいた。たとえば「村のエトランジェ」の冒頭も「河の土堤に上って、僕等は吃驚した」である。『黒いハンカチ』の「ニシ・アズマ」も、一編に一回は「吃驚」している。だが、それでも「大寺さんもの」における「吃驚」の頻出ぶりは、殆ど異様にさえ映る。なにしろ「大寺さん」は、悉く大したことには思えない、さして驚くには当たらない小さな出来事にばかり「吃驚」しているのだ。そして/しかし、にもかかわらず「大寺さん」は、真に不意打ちの、俄には信じ難い、受け入れ難い出来事に対しては、むしろ淡々としている。その最たるものが、身近な者たちの「死」に向き合う態度である。「黒と白の猫」には「細君が死んだと判ったとき、大寺さんは茫然とした。何故そんなことになったのか、さっぱり判らなかった」とある。彼は「茫然」としはするが、そのあとはせいぜい「しんみり」するくらいで、取り乱すことも、泣くこともない。「茫然」は、あっさりと恬然に、超然に席を譲るかにさえ思える。演劇的なまでにエモーショナルな『抱擁家族』の「三和俊介」とは、まったくもって対��的なのである。つまり「大寺さん」の「吃驚」は、実際の出来事の強度とは殆ど反比例しているのだ。  「大寺さんもの」第三作の「タロオ」(一九六六年)は、タロオという飼犬のエピソードで、最後にタロオは知人のAの所に貰われてゆく。
 大寺さんがタロオを見たのは、それが最后である。タロオはその后十年以上生きていて死んだ。死ぬ前の頃は、歯も悉皆抜けて、耳も遠くなって、大分耄碌していたらしい。老衰で死んだのである。  その話を大寺さんはAから聞いた。  ーータロオが死んだとき、とAは云った。お知らせしようかなんて、うちで話していたんです。そしたら、奥さんがお亡くなりになったと云うんで、吃驚しちゃいまして……  ーーうん。  大寺さんの細君はその二ヶ月ばかり前に突然死んだのである。 (「タロオ」)
 ここには「吃驚」の一語があるが、それは「大寺さん」のものではない。この短編で妻の死が持ち出されるのはこのときが最初で、そしてこれだけである。あと数行で、この小説は終わる。「……タロオをルック・サックに入れて持って来て呉れたTも、五、六年前に死んだっけ、と思った。そして、みんなみんないなくなった、と云う昔読んだ詩の一行を想い出したりした」。この幕切れは寂寞としてはいるが、哀しみと言うにはやはり妙に飄然としている。  「大寺さんもの」を通して、小沼丹は繰り返し繰り返し、幾つもの「死」を話題にする。それは疑いもなく作家自身が「身近な何でもない生活」の中で現実に出逢った「死」がもとになっている。要するに「大寺さんもの」とは、死をめぐる連作なのだと言ってもいいくらいに、そこでは死者たちの思い出が語られている。しかし、にもかかわらず、小沼の筆致はその点にかんしては、いや、とりわけそれに限って、只管に抑えられており、そしてその代わりに、彼の言う「何でもない生活」の周囲に、夥しい数の「吃驚」が配されているかのようなのだ。  だとしたら、これは、これもまた、一種の「お話」と言ってしまっていいのではあるまいか。小沼丹は「黒と白の猫」で変わったわけではなかった。彼の創意と技術は、むしろ以前よりも研ぎ澄まされていったのだ。小島信夫とは別の「方法」によって、だが底の底では極めてよく似た動機に突き動かされて、小沼は「大寺さん」というキャラクターを造り上げていったのではなかったか。その「動機」とは、受け入れ難いのに受け入れなくてはならない出来事を受け入れざるを得なかった、この自分を虚構化=小説化する、ということだった。  「大寺さんもの」の最終篇「ゴムの木」の終わりを引用して、本稿を閉じることにしたい。「黒と白の猫」が「黒と白の猫」のお話だったように、「タロオ」が「タロオ」のお話だったように、これは「ゴムの木」のお話である。
 いつだったか、大寺さんの娘の秋子が、ちっぽけな男の子を連れて大寺さんの家に遊びに来たとき、何かの弾みで想い出したのだろう、  ーーウエンズさんに頂いたゴムの木、どうしたかしら? まだ、あります?   と訊いた。  ーーあれだ。  と大寺さんが教えてやると、  ーーまあ、驚いた。あんなに大きくなったの……。  と眼を丸くした。大寺さんも何となくゴムの木を見ていたら、青い葉の傍に恨めしそうな眼があったから吃驚した。 (「ゴムの木」)
 最後の「吃驚」に、わたしは思わず吃驚した。この「眼」はいったい何なのか、まったく説明はない。まるで「村のエトランジェ」の頃に戻ったかのようではないか。しかしこれ以降、小沼丹の小説は、ますますエッセイと見分けがつかなくなってゆく。彼は一九九六年、七七歳で没した。「ゴムの木」が書かれたのと同じ一九八一年、小島信夫は大作『別れる理由』の連載を終え、『女流』の続編である『菅野満子の手紙』の連載を始め、『美濃』を刊行した。小島は二〇〇六年、最後の長編『残光』を発表し、それから間もなく亡くなった。九一歳だった。
(初出:三田文学)
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thyele · 4 years
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2020年5月5日
にゃん吉さん「宮崎駿氏「自民党は過半数以上の支持を得たのではなく多くの人間が投票しなかった事によって天下を取った。安倍首相は自分で憲法の解釈を変えた偉大な男として歴史に残りたいのだろうが愚劣な事だ」 この緊急事態の時に、愚かな人間が首相っていうのが日本にとって不幸すぎる」https://twitter.com/nyankichi_uiy/status/1256824679374807040 松本人志さん「善意にケチを付ける人達がいます。 それは寄付や義援金をしたい人達の心を削ります。 そして回り回って自分や自分の大切な人達をも救えなくなるのです。 あーほー。」https://twitter.com/matsu_bouzu/status/1257183241028558848 ニューズウィーク日本版さん「経済と命の比較がすべてを狂わせる 新型コロナウイルス対策で、日本だけが世界で迷走を続けているのは、経済より命が優先と思考停止に陥って中途半端な自粛要請と腰の引けた経済対策ばかり繰り返しているからだ」https://twitter.com/Newsweek_JAPAN/status/1257187538919231488 毎日新聞ニュースさん「地域ごとの宣言解除「1、2週間後には検討も」 西村担当相」https://twitter.com/mainichijpnews/status/1257188527978065921 日本経済新聞 電子版さん「東芝、製造現場で週休3日制導入へ コロナで出社抑制」https://twitter.com/nikkei/status/1257187954952306688 ウォール・ストリート・ジャーナル日本版さん「フェラーリ再始動、従業員に新型コロナ抗体検査」https://twitter.com/WSJJapan/status/1257188238848122882 ロイターさん「【動画】近所の住民は、散歩に出かけるアルパカを見て大喜び。」https://twitter.com/ReutersJapan/status/1257188205318729728 ロイターさん「新型コロナ、中国研究所が発生源の「かなりの証拠」=米国務長官」https://twitter.com/ReutersJapan/status/1257185758768762885 読売新聞オンラインさん「軽症者らの就業制限、療養2週間で解除…検査も不要に #社会」https://twitter.com/Yomiuri_Online/status/1257184444982734850 戯画蛙さん「正常な判断ができているとは思えないので、専門家会議委員の総替えを希望します。 >このころ非公式に開いた専門家会議は「新規感染者数の下がり方がまだ少ない」との意見が相次いだ。1年延長すべきとの強硬論も交わされた。」https://twitter.com/giga_frog/status/1257148446768689152 池田信夫さん「その根拠になる「東京で8万人感染する」も「全国で42万人死ぬ」も「8割削減」の効果も、データを検証しないで「空気」で決める日本的意思決定。」https://twitter.com/ikedanob/status/1257148375889141760 ナカムラクリニックさん「"カリフォルニア州知事、全てのビーチと州立公園を閉鎖へ" 海辺や公園で日光に当たれば血中ビタミンD濃度が上がって、コロナ始め様々な感染症にかかりにくくなる、というエビデンスは完全無視っていうね´д`」https://twitter.com/nakamuraclinic8/status/1255994042254426112 毎日新聞さん「休校措置で自宅トレーニングを余儀なくされている子育て中のアスリートたち。子どもと触れ合う時間を大切にする一方、トレーニング時間を捻出するための工夫を凝らしています。」https://twitter.com/mainichi/status/1257190721754238977 arakawa+_+weaveさん「SNSで沢山の人がケンカしているのでクソ雑だけど見える化した。」https://twitter.com/mueniere/status/1256613748745179138 井上純一(希有馬)さん「8月の言い間違いであの字幕はリアルタイムで打ち込んでるってわかった。いやーでも驚いた。「8月!」と夫婦でハモってしまいました。」https://twitter.com/KEUMAYA/status/1257244344894930944 ロイターさん「米国の新型コロナ死者最大10万人も、ワクチンは年内=トランプ氏」https://twitter.com/ReutersJapan/status/1257246153109889025 朝日新聞(asahi shimbun)さん「神奈川で10人感染、3人死亡 累計感染者は1109人 #新型肺炎 #新型コロナウイルス」https://twitter.com/asahi/status/1257247112779055104 朝日新聞(asahi shimbun)さん「体制拡充を「ケチった」日本 少なさ際立つPCR検査数 #新型肺炎 #新型コロナウイルス」https://twitter.com/asahi/status/1257247109826220033 ウォール・ストリート・ジャーナル日本版さん「【寄稿】都市封鎖の効果、データは否定的 #新型肺炎 #新型コロナウイルス」https://twitter.com/WSJJapan/status/1257263783636066305 ロイターさん「バークシャー、米航空株全て売却 バフェット氏「世界は変わった」」https://twitter.com/ReutersJapan/status/1257265101243113473 毎日新聞ニュースさん「夏の甲子園開催可否 「引き続き情報収集」 緊急事態宣言延長で 高野連」https://twitter.com/mainichijpnews/status/1257264802147135488 郷原信郎【「深層」カルロス・ゴーンとの対話 起訴されれば99%超が有罪となる国で】さん「8日と8月を読み間違えるということは、「10万円を国民すべてに届ける」という最も重要なことすら、自分の言葉で話すのではなく、プロンプターに書いてあることを棒読みしているということ。」https://twitter.com/nobuogohara/status/1257250260151222272 読売新聞オンラインさん「感染した警察官が全国初の死亡…自宅療養を続け陽性判明した日、容体急変し自発呼吸できず #社会」https://twitter.com/Yomiuri_Online/status/1257264973111320577 毎日新聞さん「連休明けから子どもを預けフルタイムで働く予定の女性は、保育園から「本当に子どもの面倒を見られる人はいないんですか」と聞かれたといい、「預けることが悪いかのような雰囲気で、罪悪感を抱えながら働いている」と語りました。」https://twitter.com/mainichi/status/1257262548727918592 ニューズウィーク日本版さん「新型コロナ接触追跡アプリ、ドイツ政府はアップルとグーグル方式に <各国で感染者との接触を検知する「接触追跡アプリ」の開発に取り組んでいるが、ドイツ政府ではプライバシーに配慮したアップルとグーグルの方式が採用される......>」https://twitter.com/Newsweek_JAPAN/status/1257263798093742082 朝日新聞(asahi shimbun)さん「福岡市役所の派遣社員が感染 コロナ電話相談業務を担当 #新型肺炎 #新型コロナウイルス」https://twitter.com/asahi/status/1257264221030502401 毎日新聞ニュースさん「政府専門家会議「PCR検査少ないのは態勢が十分されず」 新興感染症少なく」https://twitter.com/mainichijpnews/status/1257264266354155522 日本経済新聞 電子版さん「[社説]感染抑止と経済の両立へ出口戦略を示せ」https://twitter.com/nikkei/status/1257264458952392704 読売新聞オンラインさん「NHK札幌の40代職員が感染、局内でVTR編集を担当 #カルチャー」https://twitter.com/Yomiuri_Online/status/1257264973010604033 ロイターさん「【動画】#新型コロナウイルス の構造を変換した曲。美しい出だしは、このウイルスがヒトの細胞に侵入しやすいことを示しているという。」https://twitter.com/ReutersJapan/status/1257263706976772096 はみだしっ子さん「安倍政権下で可決されたトンデモ法案のほんの一部です。 #俺たち自粛お前は辞職 https://t.co/o8lV6DssX5」https://twitter.com/thurdsdaynext/status/1257247511053361153 佐々木好き好きSSKさん「多摩川にてBBQを敢行する不届き者1組を激写するために密集する取材の皆さん https://t.co/tt3MWOwqg8」https://twitter.com/ssk0822/status/1256800253564481539 寺田恵子/SHOW-YAさん「今日も医療従事者、介護士、配送業、 スーパー、清掃業の皆さん、 リスク背負ってのお仕事本当にありがとうです 感謝と敬意です」https://twitter.com/KeikoTerada/status/1257317255676719105 本田由紀さん「「東京慈恵会医科大学が集中的にPCRを実施できるセンターを設置した。そのコストパフォーマンス、スピードが圧倒的だ。同大学が設置��た自前の「Team COVID-19 PCRセンター」では、1検体当たり実費700~800円で検査を行うことができる。検査依頼から完了までわずか半日だ」」https://twitter.com/hahaguma/status/1257116402642608128 ひろゆき, Hiroyuki Nishimuraさん「新型コロナウイルスは、アメリカで貧困層ほど死亡率が高いと言われて、イギリスでも同じ結果。 日本は厚労省が指揮してますが効果的な対策をしてません。 高齢者と貧困層を減らし、年金を持続可能にして、社会保障の費用を減らすという陰謀論もある種の説得力が、、、 https://t.co/12BsH77Miy」https://twitter.com/hiroyuki_ni/status/1257259146195451904 日本経済新聞 電子版さん「Jクルーが経営破綻、負債2100億円 新型コロナ追い打ち https://t.co/lF9c8Rgsea」https://twitter.com/nikkei/status/1257370910933291013 ABO FANさん「新型コロナは沈静化しつつある!?【5月5日・西浦氏の致命的なミス・リターンズ】 データからは「クラスター対策」「8割削減」「緊急事態宣言」の効果は読み取れない!?→5/4の提言にほとんど数��目標がないことと見事に符合します。我ながら本当だとは信じられません…。」https://twitter.com/ABOFAN/status/1257447579928989696 毎日新聞ニュースさん「米連邦最高裁が初の電話審理 判事、法廷に集合せず音声だけで」https://twitter.com/mainichijpnews/status/1257543077914271744 映画秘宝さん「『すべてをあなたに』に楽曲を提供、『ラブソングができるまで』『クレイジー・エックス・ガールフレンド』等の作品で音楽を担当したファウンテインズ・オブ・ウェインのアダム・シュレシンジャーが、新型コロナウィルスの合併症により52歳で亡くなった。RIP... #HIHOnews」https://twitter.com/eigahiho/status/1245486282190368769 HipHop Newsさん「3年間の癌の闘病の末に亡くなった11歳のElijahくん、死の直前に好きだったアーティストJ. Cole、Drake、The WeekndとのFaceTime通話が実現。」https://twitter.com/HotHipHopNews2/status/1245150585654927361 毎日新聞さん「兵庫県淡路市の巨大観音像(高さ約100メートル)について、財務省近畿財務局は1日、周辺施設と共に解体撤去すると発表しました。像は所有者が死亡した2006年以降は閉鎖・放置され、一部がはがれるなど劣化が著しく、地域住民から不安視されていました。」https://twitter.com/mainichi/status/1245330069108797441 毎日新聞ニュースさん「2000万年前の新種二枚貝 北海道・北見で展示津別の地層から発見」https://twitter.com/mainichijpnews/status/1245490453190856704 朝日新聞(asahi shimbun)さん「「グラブちょうだい」叫んだ少年、15年後にかなえた夢」https://twitter.com/asahi/status/1245489134296129536 矢野顕子 Akiko Yanoさん「合成じゃないんですって。すごい。」https://twitter.com/Yano_Akiko/status/1245493578186534912 蜷川実花さん「観たことのない小栗くんに出会いたくて、かなり長い間ラブコールおくり、実現した映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』。やっと Blu-ray&DVDが発売になります。 魂を込めてつくりました。是非ご覧になってください! 本日発売! #映画人間失格」https://twitter.com/ninagawamika/status/1245495830385049600 長州力さん「広報さん、ありがとうございます」https://twitter.com/rikichannel1203/status/1245527852654592000 片岡Kさん「テレビでは志村けんさんの追悼番組がたくさん放送されることだろう。だが、ボクはまだしばらくの間、志村さんのコントを見ても笑うことができないかも。 この動画は、カッコイイ志村さんだ。スカパラと共演したミュージシャンの志村さん。だけど、ラストのラストで…泣いてしまった。」https://twitter.com/kataoka_k/status/1244470736258863105 千葉功太郎(チバニアン)さん「うっわーーーー!!!!!!!!!!驚いた!!! 自分が生きてる間に、マイナス等級が見込まれる明るい尾を引いた「彗星」が来るなんて!!!まじすごい!やばい!コロナ吹き飛ぶ嬉しさ! アトラス彗星げ5月末に地球... #NewsPicks」https://twitter.com/chibakotaro/status/1245275492749475840 もふもふ動画さん「ニッコニコなワンコ」https://twitter.com/ru_ruru831/status/1245325279762898950 🔯100日後に死ぬタラオ🔯さん「【朗報】努力と才能の違いが分かり易すぎると話題にwwwwwwww」https://twitter.com/After100days/status/1245637091901538305 ねとらぼさん「ああ…… ついに「香川県民お断り」のサービスが現れ「こうするしかない」「差別を助長するのでは」と賛否 運営者に意図を聞いた」https://twitter.com/itm_nlab/status/1245679823076261889 映画ナタリーさん「柴咲コウが所属事務所の円満退社を報告、マネジメントは自身の会社へ(動画あり)#柴咲コウ」https://twitter.com/eiga_natalie/status/1245179158608535552 🕸𝔛𝔛𝔛𝔄𝔗𝔖𝔘𝔖ℑ🕸さん「今作っているDALLEの新作marchに入れている英文はカフカの変身からの抜粋です グレゴール・ザムザはある朝目を覚ますと自分が巨大な虫に変わっていた って話し 有名な本だけど読んでなかったら読んでみてね https://t.co/iIinLbN6GQ」https://twitter.com/xxxxvalentine/status/1257154917006888963 こもだまり/昭和精吾事務所さん「作業中。あたま混乱してきた! GWっぽいシロのかわいい画像みて元気出す!! https://t.co/ZylvujipJH」https://twitter.com/mari_air/status/1257158638415695873 🕸𝔛𝔛𝔛𝔄𝔗𝔖𝔘𝔖ℑ🕸さん「今月末の31日に新宿LOFTでやるはずだったHATEとdscのライブ 延期になってしまったんですが 時期を変えてやるので待っていて下さい 以前HATEとdscで2マンやったり 東名阪かな? そんなショートツアーやったり(やったよね?) そんなのを今またソールドアウトでやれるって嬉しいです https://t.co/pakLwcKBoP」https://twitter.com/xxxxvalentine/status/1257169485997305856 ガチタンバリン奏者大石竜輔さん「本当にごめんなさい https://t.co/uBBXawVkUi」https://twitter.com/ryu1300ryu/status/1257025365005852672 昇歌(sho-ka)さん「鳥(燕)を逃そう大作戦に立ち会ってしまった。 あげ!さげ!と連発していて面白かった( ^∀^) https://t.co/xi85Rb9LEF」https://twitter.com/si1002_official/status/1257190978391142402 杉本善徳さん「今度は、横長バージョンで攻めてきた(笑) https://t.co/MwWVyEdc4Q」https://twitter.com/ys1126/status/1257244220470878208 DÄLLEさん「[DALLE news] AVYSSさん発信のこちらのMIXにダルの"NOT IN LOVEが入っています 他にも刺激的な曲が沢山MIXしてありました みなさんも是非聴いてみて下さい https://t.co/cy9bZAWOpv」https://twitter.com/DALLEofficial/status/1257197934086549511 魚 住 英 里 奈 ( 独 唱 )さん「殴ってしまった壁へ謝罪 https://t.co/dIilmtKMOz」https://twitter.com/erina_chas/status/1257206469050556416 KISUIさん「暇すぎてこれを作ってました。 完成したらまたやる事ないな。笑 映画をまた見るかな。 https://t.co/vNyFphJ8WY」https://twitter.com/KISUIxxx/status/1257209220627197952 🕸𝔛𝔛𝔛𝔄𝔗𝔖𝔘𝔖ℑ🕸さん「COMME des GARÇONSの川久保玲さんの言葉 これ僕の指針で姿勢になってます もっと強烈にしないと話しにならないけど https://t.co/cFWw8o1WSA」https://twitter.com/xxxxvalentine/status/1257209845016440833 KINGRYOさん「#STAYHOME https://t.co/iaOOoE7wlJ」https://twitter.com/kingryoworld/status/1257212782069473280 KINGRYOさん「心穏やかに✨ 今だからできる事を!! https://t.co/9KwXfgrzye」https://twitter.com/kingryoworld/status/1257215101737680896 舜 NEiNフルアルバム発売中さん「WILLつなぎの時にこっそり撮ってたヤツ… カメラが気になってちょいちょいカメラ目線になってるのがもう動画初心者丸出し笑 極はテンポチェンジのところでうまく波に乗るのが大事です🎸✨ #NEiN #極 https://t.co/mRCl2fy7ZW」https://twitter.com/shun_thefuzzbox/status/1257225180868304896 鈴木 将太さん「【RT願】 2006年に渋谷AXにて開催されたUFOCLUBオープン10周年記念パーティーのステージフラッグのデザインを使用したTシャツ、ドリンク交換にも使える缶バッジがBASEにて販売中です‼️ 坂本慎太郎さんのイラストがとても素敵ですので是非🙇🏻 こちらからご購入頂けます。 https://t.co/rZ72HQ0rlD https://t.co/Tl26djx5IO」https://twitter.com/tekerettu_no_pa/status/1256920475403313152 YASSカレー(町田のロックなカレー屋)さん「【お知らせ】クラウドファンディングが始まりました。 5/1(金)8:00~5/29(金)23:59まで。 想いは全て込めました。読んでいただけたら嬉しいです。 https://t.co/bdnBlh4dOk https://t.co/U0kkXpYoUk」https://twitter.com/yasscurry1/status/1255996166560313344 キリ(luin/…。【サイレンス】)さん「RT 町田のYASSカレー 応援します。 想い伝わります! ↓ちょうど3年前に初めて食べた◎衝撃の美味しさと幸せ(๑°﹃°๑) https://t.co/fjL564iYyd」https://twitter.com/kiri_drums/status/1257235529998856192 大前多恵(Tae Omae)さん「平成最後の夜に取材したWaiveのライヴレポート! なんだかすごく遠い昔のような…皆さんお元気かな〜☺️ https://t.co/lfE0P9ZTSu」https://twitter.com/ta_ange/status/1255853143478251520 takuto_さん「2日間連続で池袋手刀より無観客配信ライブやります。 ◉5/6 ◉bugs flower head presents ◉5/7 ◉about tess presents [guest]Shinpei Morishige 【両日共に】 ■開始20時/終了22時予定 *配信は池袋手刀YouTubeより https://t.co/vFQC6j6CPR *投げ銭での開催 https://t.co/FTd2OHhLFJ https://t.co/gLQy6WIshE」https://twitter.com/takuto_/status/1257255192044507137 Yu~kiさん「自作マスク第1号完成 名付けて~刻を操る訪問者~(笑) 製作時間1時間ほど 素材はリネン&レザー ワイヤー入りで前部分は取外し洗濯可能 ボタンのみアンティークでその他はダメージ加工を施しました 焼いたりルーターで削ったり… んー意外に派手かも。。。 普段使いできます?ユーキ君(笑) Yu~ki https://t.co/XpRGZ2UQsA」https://twitter.com/Mother_of_Life_/status/1250029447299776515 Yu~kiさん「もはや何を作成しているのやら… とうとう完全に普段使い不可能なマスクに! というか外出自粛中ですけどね。。。 これ薔薇とチョコの香りがマスク内を循環します 装着すると高貴で甘い香りに包まれ穏やかで優しい気持ちになれますよ(笑) カルダモンでもgood! 貴方なら何をセットします? Yu~ki https://t.co/leP8NIAE8q」https://twitter.com/Mother_of_Life_/status/1257197400734658560 舜 NEiNフルアルバム発売中さん「ケンパーのOSアップデート中_(:3」z)_ フリードマンのリグも新たに入手したので、早速新作から試してみようと思います😊✨ https://t.co/gJsVQP50GS」https://twitter.com/shun_thefuzzbox/status/1257262306846625792 Shop Mecanoさん「一風堂はオリジナル・アルバム単体は入手できませんがベスト盤は在庫あり 一風堂 - Mysterious Night https://t.co/4B70A8wcuV」https://twitter.com/mecanonakano/status/1257267363092631552 U.F.O.CLUB(ライブハウス)さん「緊急事態宣言の延長を受けufoclubは5/31まで休業致します。 ufoclubを存続させる為、今一度皆様のお力添えを賜りたく、ドリンク缶バッジや新商品を随時販売して参ります。売上は運営資金とさせて頂きます。 何卒よろしくお願い致します。 通販https://t.co/YwZv6yqVBd 受注販売https://t.co/EhVZ62DrPd」https://twitter.com/UFO_CLUB_TOKYO/status/1257265187654004738 太三さん「「リモート」と聞くたびに池田貴族さんがよぎる」https://twitter.com/taizodiac/status/1257270785644924929 こもだまり/昭和精吾事務所さん「今年の5月4日はめずらしく雨でしたね。 昭和さん曰く、寺山さんの亡くなった日は「これぞ五月晴れのサンプルだ!」というくらい晴れていたそうですね。ジァン・ジァンでの命日公演当日もいつも快晴でしたが、今年は皆が家にいるからでしょうか? 曼珠沙華をお届けします。 #修司忌2020 #寺山修司 https://t.co/THrZAEewS1」https://twitter.com/mari_air/status/1257277686621167616 SATSUKI‐砂月-さん「健全なマインド、健全な身体維持の為、改めて不純物(あらゆる毒素、また情報を含む)をデトックスする事の重要性を再確認。余剰を削減する事で本当に大切なものが更に見えてくる。 https://t.co/m5jiqkdBZ7」https://twitter.com/Satsuki_Rociel/status/1257281443123785728 Aliene Ma'riage〜狂人の花嫁〜公式さん「自粛中 掃除をしていたら 懐かしの携帯ストラップが出てきた(☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎ 今も持ってる人なんているのかな? 早くライブしたいもんや! なんも活動出来ないが終息し終わったらいっぱい楽しもう^ - ^ それまで自粛して気をつけましょう。 MAST https://t.co/AJuwfqt1OM」https://twitter.com/LaMatinee2020/status/1257282117752418305 中島卓偉さん「力を合わせて乗り越えて、また必ずお会いしましょう! https://t.co/WWL0GYQMEU」https://twitter.com/takuinakajima/status/1257284263650582528 DC FACTORYさん「アップフロントグループ テレワーク合唱「愛は勝つ」「泣いていいよ」「負けないで」 https://t.co/mfEEWjRm5g #愛は勝つ #エッセンシャルワーカーの方に感謝 #頑張っている全ての皆様へありがとう #泣いていいよ #負けないで #stayhome #おうち時間 https://t.co/tzlMIOOlcN」https://twitter.com/dcfactory_inc/status/1257279727179456512 SATSUKI‐砂月-さん「Good mentality is essential to face difficulties. We need healthy mind and body in order to be stronger. The cleaning,detox of mind and body and even our environment is important. By remove everything that is not necessity in the end what remains,what is seen is what we need.」https://twitter.com/Satsuki_Rociel/status/1257285384444108800 思緋色に沈んでさん「【お知らせ】 5/13に高田馬場クラブフェイズにて行われる予定でした 深緋を覗く は延期となりました。 https://t.co/FLpJJLiTid」https://twitter.com/sinkinscarlet/status/1257281343303499776 思緋色に沈んでさん「【お知らせ】 5/24に池袋手刀にて行われる予定でした #Mi_MiNT_CARNiVAL は延期となりました。 https://t.co/9tipa4RzXC」https://twitter.com/sinkinscarlet/status/1257284197640593408 【貴族】Mörishige【KIZO-CLIMAX TOGETHER】さん「楽園手刀ドームより配信行為をします・・・† 5/6 bugs flower head(Mörishige+takuto) 5/7 about tess(+Mörishige) 久しぶりのギグ、ギターに鍵盤に弾きまくるYO! 【2デイズ共に】 開始20時/終了22時予定 配信は池袋手刀YouTube https://t.co/XXdgoF5zes 投げ銭での開催 https://t.co/8XOwHTVl2B https://t.co/8AQ5TRbA8a」https://twitter.com/KIZOKU_0927/status/1257286786981613570 イッキさん「お疲れ様です。リモートコントVol5アップしました。今回から所属事務所のアクロスチャンネルでアップする事にしました。こんな時こそ微力でも力を合わせる事ができたら。。。宜しくお願い致します。 #なめくじ劇場 【コント】「リモート飲み会」 https://t.co/fU96ee6zg4」https://twitter.com/IkkiNakusanai/status/1257273206513086469 ひろミサ✰剛田武さん「★日本時間5月5日(火)7:00PMまで繰り返し放映されています⇒【緊急決定!!!!】灰野敬二の誕生日を記念した映像作品『シルヴァー・ディナー』が本日5月3日(日)22時にストリーミング開始 #灰野生誕 #fushitsusha #keijiHaino https://t.co/YRufiHjZkh @mirokristelさんから」https://twitter.com/mirokristel/status/1257278189409206272 lucy+peter=esolagotoさん「び びびった・・・! 電車止まった・・・!」https://twitter.com/lucy_peter/status/1257296506089992192 魚 住 英 里 奈 ( 独 唱 )さん「おいちゃんが殴りまくった壁を隠そう と言われて 浮かんだ案が花を生けるだったので見せたら それをみて「すばらしい!」と言いながら 風呂上がりに写真を撮り始めた先生の図 家の四箇所に花が咲いてます、壁から https://t.co/Kj7RVOmntA」https://twitter.com/erina_chas/status/1257312184654168070 高木陽次郎さん「5月4日。魚住英里奈と出会ってちょうど1年。おいちゃん記念日。シクスシクス共催に堀さんが僕らふたりをブッキングしてくれた。ツーマンの写真は生誕祭終演後ふらりと遊びに来た英里奈ちゃんと撮ったもの。いちばん好きな歌は水の中。水の中、いいよね。英里奈ちゃん、大好き。https://t.co/e0Vdwkauzo https://t.co/5fanOdMWJU」https://twitter.com/takagiyojiro/status/1257318430383824899 藤田幸也 yukiya.tokyoさん「【動画公開!】 フォロワー8888名突破有難うございます企画… 1万字近く自分語りする狂気の長文ノートあり… https://t.co/ipsEkiJ8Lp https://t.co/V1QcX9nSoZ 次回9000名で新曲公開…汗 #JILS」 KINGRYOさん「実は昨日初めて使ったコンデンサーマイク、裏表が逆でして…w あの後コッソリと調整しておりました。 映像解放しておきますのでお暇でしたらコンデンサーマイクの本来の力をご覧ください٩( 'ω' )و https://t.co/OaSUpoCGx5」https://twitter.com/kingryoworld/status/1257321985085829120 三沢市寺山修司記念館さん「選んだ詩は「懐かしのわが家」。寺山の晩年に発表され、館長が一番好きな詩だそうです。 来年のGWには、また春フェスでお会いしましょう!🌷 #修司忌2020 へのメッセージは5月6日まで募集しています。 https://t.co/YOPUiZEYxG」https://twitter.com/shuji_terayama/status/1257205037270306816 kensummerさん「休業延長となりましたがUFOCLUBは営業再開に向け、今できる事をスタッフ一丸となり取り組んでいます。 素敵なアーティストの方々とコラボした様々なUFOグッズ達をこの機会にご覧頂けると幸いです。 https://t.co/s55OrGoz5x」https://twitter.com/untitled_end/status/1257327006422667264 キィさん「みなさまのリツイートがU.F.O. CLUB再開に向けての大きな支援に繋がります。 素晴らしいアーティストの方々によるオリジナルグッズをぜひこの機会にご覧いただけたら幸いです。 BASEとSUZURIの2種類のweb shopがございます。 いち早いコロナの収束と、みなさまとUFOでお会い出来ることを願っています。 https://t.co/KfGCpW08fG」https://twitter.com/kii1014/status/1257336187829858306 INORAN_OFFICIALさん「ブログ更新> THE BEYOND  https://t.co/qqBDfV1Sk2」https://twitter.com/INORAN_OFFICIAL/status/1257449513465380865 舜 NEiNフルアルバム発売中さん「【公式】JILS - 残懐 【Lyric Movie】 https://t.co/jyDU35segR 公開になりましたのでこちらも是非💁‍♂️✨✨ 間奏でちょいと垣間見える我々はもう10年近く前のもの… #JILS」https://twitter.com/shun_thefuzzbox/status/1257478169629650944 邪悪四弦LINAさん「こんにちは!(°_°) https://t.co/dhpjXQRRek」https://twitter.com/L_ch_vazm/status/1257513537976451072 kazuさん「マサカ逆様 https://t.co/FtG9QjqWgq」https://twitter.com/sckkazu/status/1257530100012027904 🕸𝔛𝔛𝔛𝔄𝔗𝔖𝔘𝔖ℑ🕸さん「Aviciiのfor a better day このMVのテーマを知ってからvideoを観ると こんな作品をtop artistが作るって本気で凄い 日本には知られていない闇が世界には沢山ある 今日は子供の日 https://t.co/ozqyKMxOj1 Avicii - For A Better Day https://t.co/IscZPdZPKn」https://twitter.com/xxxxvalentine/status/1257532240675782657 舜 NEiNフルアルバム発売中さん「今さらだけど、4/4はこのセトリで行くつもりでした。 新SE(要望があればYouTubeにアップしても良いかと) バースディ コーリング ジ・エンド イデア 警告 極 未来 廻 奈落 必ず実現させたいね。 #NEiN」https://twitter.com/shun_thefuzzbox/status/1257535605182873600 lucy+peter=esolagotoさん「御茶系は喉にきちゃうので普段は飲まない様にしてるんですが どの道しばらく唄えないのでたまにはいいかと思って飲んでみたら最高に美味しい・・・。」https://twitter.com/lucy_peter/status/1257546106067537920
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kuroda-kanbee · 7 years
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数年分のコピペ014
7月 16, 2017 9条教は   なぜか憲法1条~8条は守らない。   憲法96条も守らない。   1条~8条は天皇、96条は改正手続き。9条教が守らないのも納得。   19条(思想および良心の自由)、20条(信教の自由)、21条(集会・結社・表現の自由)あたりにも敏感と思われるが、   12条(自由・権利の保持の責任および乱用の禁止)のことは忘れている。      それより13条(個人の生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利の尊重)を忘れているほうが問題。   この条文は、アメリカ独立宣言由来の民主主義にとって一番重要な条文。   これに比べたら、平和主義は枝葉末節の思想。   89条(公の財産の支出又は利用の制限)が私学助成と矛盾しかねないのも無視する。   とにかく、9条だけは御題目のように毎日読むが、他の条文は目を通したことも無い。   憲法三大原理を理解しておらず、特に「国民主権」を守る気が無い。   「在日主権」は遵守する。   9条以外の憲法はどうでも良いが、「護憲派」を自称したがる。 過コピペ@2ch 生活のため真実に背く 他 【タブーかもしれないコピペ集】 (via realedge) (元記事: kakopipe.blog38.fc2.com (nawakatから))
7月 16, 2017 「南京大虐殺」ではない・・・これが「南京事件」です【日本人が襲われた】 覚書。私的ログ倉庫です。 2014年 8月29日 http://gofar.skr.jp/obo/archives/11404
58 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@:2014/08/27(水) 1926年7月から、ソ連の莫大な援助をもとに蒋介石(しょうかいせき)が、張作霖の打倒を目指して北伐を開始しました。 そして、3月の南京占領の際に、支那兵は突然、日本領事館を襲いました。 日本領事館内には、領事夫妻を始め、領事館員の家族や武官、南京市内に住む日本人が避難していました。 金庫はハンマーで叩き壊され、女性は服を剥ぎ取られ裸にされ、金目のものを持っていないか確認され、子供たちは泣き叫び、地獄絵図となりました。 領事夫人は、27人に輪姦(レイプ)され、 30数人いた日本人婦人は、少女に至るまで陵辱されました。 その際、日本領事館員も、日本軍人も、避難してきた日本人居留民も、まったく抵抗しませんでした・・・海軍陸戦隊は、武器も持たずに領事館にいたのです。 荒木大尉一行は、武器を持っていなかったため、茫然と見ているしかなく・・・後に、荒木大尉はそれを恥じて「申し訳ない」と自決することになります。
これが「南京事件」です・・・これこそが「南京事件」です。 ちかごろはインチキ、ウソ話の「南京大虐殺」ばかりが取り上げられるようですが、 それ以前に、南京攻略まで至る様々な出来事があったのです。 死者だけは出なかったので幸いでしたが・・・英、仏、米の領事館、民間人には死者が出ました。そのため、揚子江のイギリス軍艦は、南京城内へ砲撃しています。 しかし、日本の軍艦は何もしませんでした・・・なぜなら? 当時の幣原外交は弱腰で「支那(しな)を刺激しないように」という訓令があったためです。 日本の外務省は、事を荒立てないため、広報に「わが在住婦女にして陵辱を受けたるもの一名もなし」と、まったくの嘘(うそ)を書きました。 退去令が出され、揚子江流域からは、日本人は全員着の身着のまま、財産を放り捨てて内地に引き揚げざるを得ませんでした。 幣原外交は「日支友好」「不干渉主義」でした。 こうした外交は、支那(しな)の対日政策を増長させていき「ちょっと暴れれば、弱虫の日本は逃げていく」と思われ、 暴力はエスカレートしていったのです。
[ 捏造 南京大虐殺] 反証 いろいろ + 中国共産党工作  【朝日新聞は南京事件でも捏造していた】本多勝一、写真捏造を認める! [南京大虐殺] 捏造写真を 元朝日新聞記者 本多勝一が 捏造と認める 『週刊新潮』グラビア  南京攻略戦・兵士たちの証言 「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」[中国プロパガンダ「南京大虐殺」の真実] 日本人が説明した日中戦争の経緯と中国ネット + 支那大陸近代歴史&雑学 [日本人必修かも] 反日在日朝鮮・韓国人+サヨク の ディスカウントジャパンの論法  反日工作機関 [売国・朝日新聞] 従軍慰安婦捏造 以外の 悪行 [工作手法] 朝日新聞 外国メディアを使った 反日記事ロンダリングの仕組み [南京攻略戦] 南京事件で40万人虐殺…安倍首相、米歴史教科書の歴史歪曲に「本当に愕然とした」 「創作された『歴史』の修正を主張する時期に来た、反撃せよニッポン!」ケント・ギルバート 毛沢東と#・譿ホ + 抗日戦勝記念行事と習近平 + 南京 + 反日左翼 [アエラ・工作記事] 日本からの「独立論」強まる 描く青写真 「独立宣言し、各国に働きかけて国家承認を求める」「朝日新聞ウィークリー AERA」 支那(中国)大陸 歴代 南京大虐殺 一覧 [南京大虐殺問題・従軍慰安婦問題・靖国問題]日本国を貶める三大歴史カードの元凶  朝日新聞    [中国情報戦] 日米開戦とベトナム戦争の裏側で (元記事: gofar.skr.jp (rainbowflower-gardenから))
7月 16, 2017 拉致なんてないと言ってた人たちリスト 土井たか子 辻元清美  村山富市 田辺誠 田英夫 志位和夫 野中広務 中山正暉 朝日新聞 日教組 和田春樹 坂本義和 吉田康彦 河野洋平 Twitter|元気な日本を愛する日本国民 @ashitaninareba7 (via ashzashwash) (petakirinから)
7月 16, 2017 天皇制・天皇制度どちらも共産党が作った言葉。日本人なら皇室が正解 アカは、憲法上の仕組みがあって皇室が存在していると思いたいから 「制」「制度」と言う言葉にあてはめようと言葉遊びを繰り返す。 皇室は日本の文化そのものだから制度云々の前に継続して存在しているんだが。 761 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2005/09/22(木) 02:34:52 ID:yGde+St30 ≫740皇室を解体するために、アカが作った造語なんだよね?制度を廃止する!というニュアンスの『天皇制』という造語。 765 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2005/09/22(木) 06:35:10 ID:TZ79WnNw0 ≫740 かなり昔から天皇制って言葉になんとなく違和感を感じてたけど、あんたのおかげで氷解した。ありがとう。 過コピペ@2ch 小学生の頃 左翼教育受けてた奴 (via bochinohito) 「天皇家」という表現も同じようなものだね。 「天皇」を苗字みたいに思ってるやつw ただしくは血筋を表すなら皇室、皇統と書く。 そもそも一般家庭と一緒に論じてしまうのが間違ってるんだな。 あと、保守を名乗ってる奴でも間違いが多いのが「御皇室」という書き方。 Ch桜も「今週の御皇室」などとふざけたタイトル名のコーナーがあるが、「皇」の字の前に良かれと思って「御」の字を重ねちゃうのがいいと思ってる輩を増やしてしまう原因にもなるので本当にやめて欲しい。本来「皇」の字の上につける文字は「天」以外に存在しないため、頭に御の字をつけると逆に不敬であると言われている。つまり、庶民からみて「皇室」は十分敬った言い方だ。 また、崩御、薨去なども頭に御の字を付けないのが正しい。 (via lumpleteza)
7月 16, 2017 日本の皇室は現在の日本国につながる国家が始まって以来ずっと続いているため、たとえば中国の唐王朝などの歴代の王朝や、現存する日本国外のウィンザー朝(イギリス)、チャクリー王朝(タイ)のような「国内に存在した他の王朝と区別するための王朝の名前」を持たない。強いて言えば、「日本」という国名そのものが王朝名である。 皇室 - Wikipedia (via invoke)(元記事: Wikipedia (awarenessxxから))
7月 15, 2017 #トランプ大統領の政策を日本に置き換えてみる ・中国、韓国、北朝鮮からの入国禁止措置 ・反日思想の在日韓国朝鮮人を強制送還 ・安い中国製品に対して関税20% ・日本企業や外国企業に日本国内の雇用を増やさせる ・韓国との国境に壁を作る \最高じゃんwww/ 500円さんのツイート (via windsock)(元記事: twitter.com (windsockから))
7月 15, 2017 これが日テレの忖度かw→ 玉木の親は香川県獣医師会の副会長 玉木の弟は獣医師 玉木の秘書は元日テレプロデューサー 玉木の秘書の夫は日テレ報道番組制作会社の会長 獣医師会は玉木に100万円の献金 玉木は父親に1000万円の借金(無利子のため実質的な献金の疑い) 獣医師会は加計学園の獣医学部新設に反対 玉木は獣医師会の会合で獣医学部新設は潰すと発言 怪文書の出所は今以て不明だが、持ってきたのは玉木 怪文書を真っ先に本物だと肯定した北村元議員は現獣医師会顧問 玉木と獣医師会の関係が明るみになっても日テレの報道番組では不自然な安倍叩き (via shinjihi)(peckoriから)
7月 15, 2017 今日、伊集院さんがラジオで言っていた、『自分は無信心で神様も信じてない、だけどお地蔵さんを蹴れるかっていうと無理だし賞味期限切れのおにぎりを踏めるかっていうと無理』という話、なんか大事な気がする。 そういうのが根っこにあるものとして暮らすけど、たまにそれが無い人に出会うと怖い。 幸福太郎さんのツイート (via mug-g) 興味深い (via hispwsbi)(元記事: twitter.com (salazosulfapyridineから))
7月 15, 2017 「腰痛」は、経験した人しか分からない痛みと辛さがある。そして、痛みが酷い上に、「どうすれば完治するのか」がはっきり分からないため、絶望的な気持ちになるものである。 私もそんな経験をした1人。私の場合は腰椎の椎間板ヘルニアだった。それも「手術をした方がいい」と言われるレベルの。ところが、ある整体院で教わった体操を実践しているうちに、みるみる痛みがとれて治ってしまったのだ。今回は、その方法をご紹介しよう。 最初に断っておくが、この記事で紹介する方法は、私にとっては効果が大きかったが、腰痛に悩む全ての人にとって有効である保証はない。あくまでも「実践したら私は治りました」という話である。 ・26歳で椎間板ヘルニア発症 ちなみに私が椎間板ヘルニアになったのは、26歳の時。「腰の痛みが酷い」と思って病院に行ったら、「MRI検査が受けられる大きい病院に行ってください」とのこと。 言われるがままに行った病院で検査を受けると、「腰椎4番5番の椎間板ヘルニア」と診断されたのだ。MRIの画像を見ると、確かに背骨から軟骨が飛び出しているではないか! 「マジかよ」という気分に追い打ちをかけるように、「手術した方がいい」と整形外科の先生からのご宣告。 ただ、生来のビビりであることに加えて、「腰椎椎間板ヘルニアは手術しても治るとは限らない」程度の知識があった私は、なんとか手術なしで治そうと考えた。整形外科だけでなく、整体院や鍼灸院などに行けば、どこかに有効な方法があるのではないかと思ったのだ。 ・病院を何件も回る それからというもの、ネットで「ここの鍼灸院がいい」という評判を見つければそこに行き、腰の具合が変わらなければまた別のところに行くという生活。全部で10件近くまわっただろうか。保険が効かないところが多かったため、経済的な面でも相当な負担だった。 ・思い出したくない坐骨神経痛 当時は、腰の痛みも酷かったが、強烈なのは坐骨神経痛! 私の場合は座れないタイプだったため、仕事面でも生活面でも支障が大きかった。足の指先までしびれる神経痛は、今でも思い出したいくない程である。 そんな時、ある整体院に行ったところ、先生に「手術しなくても、今から教える2種類の体操をすれば大丈夫」と言われた。最初は「腰椎の椎間板ヘルニアが体操程度で治るわけない」と思っていたが、やってみると本当に治ってしまったのだ! その体操は以下の通り!! ・体操1 まず、仰向けになり膝を立てる。そのまま腰を動かさずに、膝だけ左右にゆっくりと振ろう。左側が床についたら今度は右側というように、膝を180度の範囲で動かす。これだけである。この時大事なのは、ちょうど腰の当たりがほぐれているような感覚があること。「気持ちいい0」とまで感じられればベストだ ・体操2 次の体操も仰向けの状態で行う。まず、膝をゆっくりと持ち上げて、両腕で抱え込む。ちょうど、寝ながら体育座りをしているような格好だ。それから膝をゆっくりと胸に近づけていき、「これ以上は無理」というところで姿勢をキープ。この体操は、腰の部分が伸びて心地いいような感覚を感じながら行うのが重要。痛みを感じない範囲で、ゆっくりとやろう。 ・体操をする時間は? 長時間体操を行う必要は一切ない。腰痛の酷さにもよるが、1つの体操につき5分で合計10分。それを朝と寝る前の1日2回行えばOK! 非常にお手軽である。 ・効果は徐々に出る ただ、この体操はやってすぐに効果が出るというものではない。私の場合は、1週間くらいすると「ちょっと楽になったかな」という感覚があり、1カ月くらいすると、確実に快方に向かっているという実感があった。3カ月くらいするとほぼ痛みを感じなくなり、完全に痛みを感じなくなったのは6カ月後である。なので、根気よく続けることが大事! ・痛みをおして行うのは厳禁 なお、痛みが強い場合は、体操を完璧にやらなくても大丈夫。痛みで膝を左右180度まで動かせなかったり、膝を抱え込もうとしても膝が胸に着かないかもしれないが、最初はそれでも問題ない。続けているうちに徐々に可動範囲が広くなっていくので、無理のない範囲で行うこと。むしろ痛みをおしてやるのは厳禁だ。 ・痛くて全く動かない場合はどうするのか? 私自身そうだったのだが、中には「痛みを感じない範囲って言われても、ちょっとでも動かしたら痛いわ!」という人もいるだろう。そんな時、使えたのは「牽引」だ。整形外科や整体院の器具を使って行う、腰痛持ちにとっては、おなじみの方法である。 私の場合、牽引だけをしていても効果は薄かったが、牽引するとほんの少しだけ痛みがマシになったので、それから体操をするという手順を踏んだ。腰痛に悩んでいる人からは「牽引しても治らない」という声をよく聞くが、私にとっては「体操できる程度に痛みを抑える方法」と考えると有効であった。 ただし、牽引器具は全ての病院や整体院にあるわけではない。「やってみよう」と思っている人は、事前に電話やホームページで確認して、設置している病院を選ぶのがいいだろう。 ・快方に向かっている感覚を得られたら? 体操を続けて、よくなっているという感覚を得られたら、次は腹筋と背筋の筋トレをしてみよう。体操を教えてくれた先生いわく「腹筋や背筋が衰えると背骨の負担が大きくなる。それも腰痛や腰椎椎間板ヘルニアが発症する一因」なのだそうだ。なので、腹筋や背筋をトレーニングすることで腰の痛みを和らげるともに、再発のリスクを軽減させるのである。 やり方は、よくある腹筋と背筋の運動と同じ。ただし、これも痛みのない範囲で、ゆっくりと行うこと。回数も、状態に合わせて無理のない程度で問題ない。腰の具合が快方になっていくのに合わせて、少しずつ回数を増やせばOKだ! ということで、以上の内容をまとめると、体操できる程度に体を動かせる人は、体操 → 腹筋・背筋の筋トレという流れであり、体操もできない程に痛みが強い人は、牽引 → 体操 → 体操である。 ・「体操なんかで治らない」という思い込みを捨てる 腰痛に悩んでいる人の中には「腰痛体操は知ってた」という人も多いだろう。ただ、知っていたとしても、どこかで「体操なんかでは腰のヘルニアは治らない」とか「ヘルニアを治すにはブロック注射や手術などの痛みを伴う治療が必要」思っている人が多いのではないだろうか?  確かにそのような人もいるだろう。だが、シンプルなこの体操でも、毎日続けることで私のように効果を発揮する例もある。時間もお金もかからないため、腰痛に悩んでいる人は、ぜひ試してみてはいかがだろうか。 【腰痛持ち必見】体操してたら腰椎ヘルニアが治った / 時間もお金もかかけずに腰痛を治す超簡単な方法はコレ! - ロケットニュース24 (via darylfranz) (元記事: rocketnews24.com (aki-zizi-memoから))
7月 15, 2017 まず言いたいのは、私たち一人一人が「アルコールは薬物である」ということをきちんと認識しなければならないということです。20歳以上は摂取できる合法的な依存性薬物です。コカインや大麻、覚醒剤やシンナー、睡眠薬の仲間で、中でも依存性が高いです。知ってほしいのはアルコールの薬理作用として、依存症までいかなくても、ひどい行為に及ぶことがあるということです。例えば自殺とアルコールは関係性が高い。DVや虐待などに、アルコールが介在しているというデータも出ています。お酒との付き合い方を考えるためには、まず子どものころからアルコールについてきちんと学ぶ教育や体制を整えることが必要です。 東海イズム:オピニオン 「インタビュー(42)アルコールによる社会問題 依存症者の支援研究 実践教育に生かす 健康科学部社会福祉学科 稗田里香准教授(特集企画)- 毎日新聞 (via gkojax)(元記事: mainichi.jp (gkojayから))
7月 15, 2017 212 :名無しさん@1周年:2017/03/06(月) 12:18:22.27 ID:Kg2VV5aU0 いやね、そもそも飲食店の10年生存率って15%程度なんだわ。 20年保つのは1%も無い。しかもこの不景気。 飲食って一見儲かる。だから簡単に参入する。が、ほとんど脱落する。 個人経営で出店して最初の2,3年は驚くほど儲かる。余程不器用でなければ。 新しい店で活気もある、店長も店員もやる気にみなぎってる。客は入る。 現金商売羽振りも良く、客のねぇちゃん引っ掛けて、ブイブイ。青年実業家気取り。 2年目くらいで最初のダレが出て来る。従業員。 飲食最大の敵は従業員の飽き。近隣店舗ではない。 毎日同じ作業で刺激も無いから。 手を抜く、質を落とす、ダレてるのは客にも伝わる。 ほんの少し質を落としても翌日の売上に直結するわけでは無い。 クレームになるわけでも無い。ジワジワと落ちる。 が、落ちる原因が分からない。 ヘタに成功体験があるから軌道修正もできない。 徐々に時代と合わなくなってくる。 なんとか10年もったとしても、今度は経営者も飽きてくる。 多店舗展開で刺激を求めるが目が届かなくなりリスクが増大する。 最悪は食中毒。 品質管理、売上管理。大企業で組織的にそれらの訓練をした経験が無い。 リーマン経験でちっと利口なヤツだと企業がそれら一見無駄に思える活動が 実は組織を長期的に維持する要であることを学ぶ。 が、それがわかるヤツは脱サラはしない。 飲食経営の分の悪さ、リーマンの気楽さも理解できるからだ。 若くして飲食初めて高級車に美女乗せてるヤツが不憫でならない。 10年後は85%の確率で借金まみれで逃走。 【飲食】 “マネーの虎”川原ひろし社長、ラーメン店全店舗閉鎖 [無断転載禁止]c2ch.net (via pinball-1973) (元記事: daily.2ch.net (fumi-tanoから))
7月 11, 2017 わかった!* 部落、皮製品、肉屋、精肉、焼肉店、屠殺業、野中広務、北朝鮮、辻元清美、獣医師、生コン、万景峰号、産廃業者、これらの利権、はぜーんぶ繋がってるのかな!?
7月 11, 2017 ■老眼が自然に治ることはない 【Yes】治ったように感じたら核白内障 ■ブルーベリーは目の健康にいい 【No】確かなエビデンスがない ■目が疲れたらマッサージ 【No】網膜剥離や白内障の原因に ■近視は病気ではない 【No】強度近視は病気 ■目に優しいコンタクトならドライアイでもOK 【No】ドライアイはコンタクトに向いてない ■コンタクトは保存液に入れておけば安心 【No】保存液に洗浄力はほとんどない ■眼球体操では目はよくならない 【Yes】よくなるどころか網膜剥離の危険 ■白内障は放置すると緑内障へのおそれが 【Yes】白内障は緑内障の始まり ■白内障の予防薬で進行が止まる 【No】白内障は薬では治らない ■手術は症状が悪化してからでいい 【No】早く発見手術をすれば視力が回復 ■白内障の手術はどこでも同じ 【No】執刀医によって結果は全く違う ■アトピーや花粉症でも網膜剥離になる 【Yes】目をこする、かくのは禁物 ■網膜剥離はすぐに手術��るべき 【Yes】最高の腕の眼科外科医を見つけて 詳しくはソースにてhttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170709-00010086-jprime-life まとめたニュース : 「眼球体操やブルーベリーが目にいい」はウソ 目のジョーシキがくつがえる! (via 774rider) (元記事: matometanews.com (nerazurinerazuriから))
7月 9, 2017 オウム真理教に殺された坂本堤弁護士が住んでいた団地の他の住人(7世帯)は、 全員事件の起こる半年前より後に越してきた人たちだった。 そのうち5世帯が創価会員。 神奈川県警は失踪事件当初、この住人達全員に行動確認をかけていた。 その矢先に突然県警本部長のレイプ疑惑や生活安全課幹部がノミ屋を張っていた疑惑が次々と出始め、行確をはずしたら、マスコミからの疑惑追及もとまった。 それで勢付いたオウムは脱会信者の家族らを次々とVXガス(今回の金正男殺害で使われたのと同じもの)で襲撃。 当時の官房長官だった野中広務は北朝鮮詣でから帰ると出所不明の大量の金を政界にばらまき始め、自民党の実質的な党首となって公明党を政権に引き入れた。 ネトウヨもまだいないし、韓流ブームもまだ無い頃だったけど、この頃から俺達の国はもうおかしかった。
7月 9, 2017 ▼母親と 「私の母は、口に出して約束したことは必ず守ってくれました。そして、自分に誤りがあるとわかったときは、大人に謝るのと同じように、はっきり子どもに謝りました。これは信用の根本であり、したがって『躾け』と『教育』の土台です。私はいま見習っています」 対話の中で - 恐山あれこれ日記 (via ginzuna)(元記事: blog.goo.ne.jp (esakiから))
7月 9, 2017 戦争をせずに国を侵略する方法 copipeism: スイス政府発行の民間防衛白書 第一段階 「 工作員を送り込み、政府上層部の掌握と洗脳 」 第二段階 「 宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導 」 第三段階 「 教育の掌握。国家意識の破壊 」 第四段階 「 抵抗意識の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用 」 第五段階 「 教育やメディアを利用して、自分で考える力を奪う 」 最終段階 「 国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量移住で侵略完了 」 (ds9-garakから)
7月 9, 2017 前にも書いたけど、従姉妹がマルチ商法にハマった時、辞めさせるのに効果的だったのはYoutubeで様々なマルチ商法がアップしている説明動画を逆に観せまくること。観せていくと「このやり方はうちだけって言ってたのに全部一緒だ…」と青ざめて一気に洗脳が解けた。 マルチ商法にハマった時辞めさせるのに効果的なのは「毒をもって毒を制す」的方法だった - Togetterまとめ (via 46187)(元記事: togetter.com (takeawalk365から))
7月 9, 2017 鎖国が教科書に復活するようですが、 これも鎖国がなぜ行われたのかそこを解説すべきでしょう。 ついでに島原の乱を起こした天草四郎どもがどういうことをやっていたのか きちんと教科書に書いてあげるべきだとも思います。 なぜか島原の乱については戦後は一方的な構図で書かれていますが、 むしろ幕府軍には多くの農民も参加していました。 子供を人質に取られかけたり、略奪や焼き討ちにあったりした事で 天草一党許すまじという意識があったからでしょう。 宗教を利用して分裂を作ってそこに付け入って植民地を獲得していく ということを当時はアジアのそこかしこでやられていたわけで、 日本でも同じ事をさせない必要が確かにあったのです。 教育分野を日本人の手に取り戻さねば (via kramerunamazu)(kay-ikegamiから)
7月 9, 2017 背乗り(はいのり)とは? & 背乗りは外国人スパイにとっては絶好の身分保障 北朝鮮が関与した背乗り事件の例で、もっとも有名なのは、辛光洙(シン・ガンス)事件だ。 この男は金正日の命を受けて日本に潜入し、大阪で暮らしていた日本人の戸籍を乗っ取って、日本で日本人の拉致を指揮していた。1978年に起きた13歳の横田めぐみさんの拉致を実行したのもこの男だった。 日本の警察や公安は、この辛光洙(シン・ガンス)の背乗りを把握していなかったが、背乗りとは一度成功すると、長期間に渡って身元が発覚しないことが多い。 同じく日本人拉致の実行犯だったチェ・スンチョルという北朝鮮の工作員は、1人のみならず、2人の日本人の戸籍を背乗りしている。 2012年に逮捕されたオウム逃亡犯の高橋克也や菊地直子も、やはり他人の戸籍を背乗りしていた。 日本にはスパイ防止法がないので、こういった背乗りは外国人スパイにとっては絶好の身分保障になる。日本人に「なりすます」悪意のある人間を、厳しく取り締まらなければならない理由はまさにここにある。 拉致も、スパイ行為も、扇動も、収奪も、情報漏洩も、何もかもがやりたい放題になって日本は何一つ対抗できない。 こういった「なりすまし」日本人が役所に就職すると、日本人の戸籍をすべて引き抜かれて国外に持って行かれ、さらなる背乗りが可能になる。 あなたの目の前にいる人間が、もしかしたら本人ではなくて、誰かの「なりすまし」だったら、薄気味悪くて仕方がないはずだ。しかし、そういった事態が日本の裏側でずっと起きているのである。 背乗り(はいのり)とは? ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8C%E4%B9%97%E3%82%8A 被災者の戸籍が、大量に乗っ取られる危険な事態になっている。DARKNRESSより。2013年 9月21日 https://darkness-tiga.blogspot.jp/2013/09/20130921T1536000900.html#OILSvfI.twitter_tweet_count_m%C2%A0 (via awarenessxx)(powliticsから)
7月 9, 2017 陸幕の人から聞いた「ここが変だよシン・ゴジラ」で笑って納得したのは「会議中のテーブルに菓子が山積みになっていない」です。今度はいつ食事できるかわからない状況なのに、会議時間を利用してカロリー補給しないことはありえないんだそうな。菓子なのは「調理時間なんかとれるか!」だそうな。 ねおんさんのツイート (via tar0)(kay-ikegamiから)
7月 9, 2017 日本って普通に、死刑廃止も菜食主義も全世界に先駆けて取り入れて、失敗こいた経験のある国だということが普通に見過ごされてると思う。 外人「なんで日本は死刑廃止も菜食主義も鼻で笑ってるんですかホワイ?」 日本人「死刑は1400年前、菜食主義は300年ぐらい前にやったら、死刑廃止では国が滅亡寸前になる程犯罪者が増え、菜食主義では結局ピグミー族レベルまで身長が縮んだからや!」 Herokey Aveさんのツイート (via toronei)(元記事: twitter.com (kunigakuから))
7月 9, 2017 引きこもり時代に人から言われて、心に響いた言葉。「助けてって言いなさい。勝手に遠慮して諦める前に言いなさい。今は、助けたくても、お節介が焼き辛い時代なの。伸ばされた手は取れるけど、手を伸ばしてくれないと掴めない。必ず掴んでくれる人はいるから、信頼できる人を探す努力をしなさい。」(via joy-fftl)(元記事: twitter.com (ryoh8218から))
7月 8, 2017 泉放送制作 サンモニ 金富 マスコミによる洗脳報道 2017-06-20 テーマ:腐れかけのテレビ フジテレビ  東京都 港区台場2-4-8 ※韓国MBC 東京都港区 台場2-4-8 18F      朝日新聞  東京都中央区築地5-3-2 (AFP、NYT) ※東亜日報  東京都中央区築地5-3-2      毎日新聞   東京都千代田区一ツ橋1-1-1 ※朝鮮日報  東京都千代田区一ツ橋1-1 4F     読売新聞   東京都千代田区大手町1-7-1 ※韓国日報  東京都千代田区大手町1-7-1 8F      日本放送協会  東京都渋谷区神南2-2-1 ※中国CCTV  東京都渋谷区神南2-2-1 ※韓国KBS   東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C           【日本のテレビメディアの外資比率 】      フジテレビ 29 . 8% ( 違法状態、外資が2 , 3位 ) TBS    13 . 5%( 上位2社が外資 )  日本テレビ 21 . 9%( 違法状態 ) テレビ朝日 12 . 5% 電通    19 . 6%( 筆頭株主は外資 ) MXテレビ  0% https://ameblo.jp/kiyosiro-e/entry-12285275614.html 泉放送制作 サンモニ 金富 マスコミによる洗脳報道|今日ボクが見た風景 Ⅱ (via worldwalker2)(toutiku-m44から)
7月 8, 2017 叔母の入院してる病院から「大部屋がいっぱいで個室に移すから差額ベッド代が一日に2000 円かかりますって。」電話がきました。 それで、「本人の希望以外の、病院の都合上の移動で個室に入るときは、厚生労働省が支払いの義務はないと言ってるよ」と抗議したら、ただになりました。(via otsune)(元記事: twitter.com (playwithから))
7月 8, 2017 背乗り(はいのり)とは?
犯罪的な行動を次々と企画・実行することが可能 そもそも、他人になりすまして、どんなメリットがあるのか。もちろん、いろんなメリットがある。 背乗り(はいのり)した人間が外国人だったら、当然、日本人になりすますことで、日本の行政サービスを受け、生活保護を受けたり、年金を受けたり、日本人として日本企業に就職することが可能になる。 また、背乗り(はいのり)した人間が犯罪者だったら、当然、過去の自分の犯罪を抹殺することが可能になる。 さらに、背乗り(はいのり)した人間の戸籍を使い捨てするのであれば、その人間になりすまして多額の借金をしまくり、最後にその戸籍を捨ててカネを持って逃げることが可能になる。 背乗り(はいのり)する戸籍が裕福な家系であれば、その家系を名乗ることによって身分詐称で箔を付けたり、遺産を乗っ取ったりすることもできるようになる。 あるいは、背乗り(はいのり)することによって元の自分の戸籍と、背乗りの戸籍をふたつ使い分けることができるので、マネー・ロンダリングも可能になる。 背乗り(はいのり)した人間がスパイだったら、日本人の国籍を取って日本人として安心させて政治家・公務員に近づき、情報を盗み取ることが可能になる。 要するに、背乗り(はいのり)するというのは、他人の戸籍を乗っ取って犯罪的な行動を次々と企画・実行することが可能になるのである。 だから、多くの犯罪者は背乗り(はいのり)の機会があれば、それを実行する。 実際に、背乗り(はいのり)の事件は多発している。北朝鮮・韓国系の犯罪者が、まず目指すのがこの「日本人なりすまし」なのである。 背乗り(はいのり)とは? ウィキペディアより。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8C%E4%B9%97%E3%82%8A
被災者の戸籍が、大量に乗っ取られる危険な事態になっている。 DARKNRESSより。 2013年 9月21日
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2013/09/20130921T1536000900.html#OILSvfI.twitter_tweet_count_m%C2%A0 (via awarenessxx)(xf-2から)
7月 5, 2017 「ドラゴンクエスト」の作曲家 すぎやまこういち さん 「日本が嫌いな、日本を壊したいというメディア、いわゆる反日メディアというものがあると感じています」 水島さん 「以前、参議院選挙でNHKが選挙前日に放送する『党首走る』という番組で、小泉さんは全て見下ろす形で撮り、岡田さんは見上げる形で撮った。そして小泉さんの顔はワイドレンズで撮った、微妙に魚眼レンズみたいにゆがむんです。岡田さんの方は50ミリの標準レンズできちっと撮る。こういうことをやっていたんです」 すぎやまこういち さん 「安倍晋三さんのスピーチの時だけ、僕が聞いて感じたのは、中音部以下のやや低音域にちょっとイコライザーをかけつつエコーをつけて、リバーブをつけて、もやもやっと聞こえにくくしている。僕は見てて商売柄、やってるなと思いました。音楽やって録音の作業はプロとしてやってますから、ハッキリそれは分かりました」(via shinjihi)(petakirinから)
7月 5, 2017 先生が、授業中に質問をします。普通に「分かるひとー」とだけやっちゃうと、手を上げる子が固定してしまうからなのか、ちょくちょく変則的な当て方をします。「じゃあ、今答えた〇〇の後ろに順番で当ててくぞー」みたいな。 で、当然のことながら、とっさに質問に答えられない子も出てきますよね。あーとかえーーと、とか言いながらしばらく黙っちゃうような子。 普通の先生なら多分、分からないことを責めないまでも、「あ、分かんないか?じゃあ他にわかるひとー」と言って、すぐに次に行っちゃうと思うんですよ。少なくとも、私が子どもの頃の先生はみんな、例外なくそうでした。
ところが、その担任の先生の場合、当てられた子が困っているのを見ると、こういうんです。 「じゃ、〇〇にアドバイス出来るひといるかー?」って。
で、はい!って答えた子は、決してその子本人が答えたりはしないんですね。わざわざ席を立って、分からなかった子のところまで行って、ひそひそ声で答えを教えてあげるんです。 で、最終的には、最初当てられた子が答える。で、先生は「その通り!××(教えてあげた子)もよく教えられたなー」といって両方褒める。
「え、そんなこと?」と思われるかも知れないですが、私、このやり方凄いと思ったんですよ。 ちょっと考えただけでも、 ・最終的に答えるのは最初に当てられた子なので、答えられなかった子の自尊心が傷つけられにくい ・教えた方は単純に「教えてあげられた!」ということで自尊心が満足する ・分からないことを生徒同士で教え合う、という習慣づけになる ・問題によっては、教え方を考えることで問題への理解が深まる ・生徒同士のコミュニケーションにもなる これくらいのメリットはあるなーと。
後���ら長男に聞いてみたところ、恐らく背景というか下準備として、「人の考えをちゃんと聞いて、考えて、受け入れられるというのは大事なこと」だということを、普段からその先生は言っているようなんです。 小学校の学校公開で目撃した、先生の工夫が凄かった | Books&Apps (via kikuzu)(元記事: blog.tinect.jp (akiocarsから))
7月 4, 2017 虐められて、暴行されたら、必ず病院へ行って、医師から『殴打による、○○負傷』とか何でもいいから、『診断書』を書いてもらえ。 そして、 警察に行け。診断書がある以上、『暴行の事実が確認できないので、被害届は受け取れない』とは警察は言えなくなる。 自ら死ぬな、殺してでも、生きろ。Twitter / kwan2nd (via yellowblog)(sananoteから)
7月 3, 2017 * 【事実】, 拡散希望, * 政治家、国会議員は日本国民が投票して政策や議論を委託した日本国民の代表です。, * マスコミは高い給与を貰っている、どこの国の人かは分からないサラリーマンであり、日本国民の代表ではありません。, (via shinjihi)(tra249から)
7月 3, 2017 うちの娘も夜中の1時過ぎまで会社にいた事があった。迎えに行って無理矢理帰宅させた。労基に行く、と言ったら、その後過剰過ぎた仕事が分散された。そういう時はモンスターペアレンツと揶揄されようが子どもが嫌がろうが親は介入していい。死んでからでは遅い。埒不埒さんのツイート (via do-nothing)(元記事: twitter.com (imajojoから))
7月 1, 2017 言っとくけどこれ民主党が改悪したせいで日本人の税金が使われてるからな(´・ω・`) 【爆病】 来日中国人が日本の医療制度に「タダ乗り」・・・経営ビザで国民健康保険に加入し3割負担で治療を受け帰国 | 保守速報 (via himmelkei)(元記事: hosyusokuhou.jp (aki-zizi-memoから))
7月 1, 2017 「マーク・ザッカーバーグはFacebookを19歳で作ったんだから若いやつらはもっと挑戦するべきで・・・」って説教してくる熟年には「ではカーネルサンダースは65歳でケンタッキーを作ったので年だからって言い訳できないですね」って反論するようにしている おもしろツイートさんのツイート (via gkojax)(hkjから)
7月 1, 2017 「ナポレオンは3時間しか寝なかった」というアレがブラックな労働環境を後押ししたことは間違いないので、対抗策として「シーザーは毎日必ず8時間寝た」とか「成吉思汗の9時間睡眠を邪魔した者は誰であれ首を刎ねられた」みたいなやつを広めていきたい。 前川誠さんのツイート (via gkojax)(hellisinyourbrainから)
7月 1, 2017 大学生がリビアについて、「なんで国連は市民への攻撃をやめさせないんですか?」と質問してきた。国連や国際法の勉強はしたことがないというから、やむを得ない疑問かと思ったので、私なりに説明してみた。そもそもね、から初めて。
・そもそも、人間社会が自然状態から社会契約によって成り立ったものと仮定するなら、国際社会というのは社会契約で成立した「国家」を一義的な当事者とし ている。これが古典的な考え方だ。国家とは(色々な定義の仕方があるが)、領土と国民と主権と政体によって成り立つ。主権が誰に属するかは国家の形態に よって違うが、国家の主権(state sovereignty)は絶対である――これが古典的な国際社会に対する考え方。
・それに対して、社会契約思想が成立した啓蒙主義の時代になると、「普遍的価値」や「普遍的人権」というものが世の中にはあり、君主がそれを侵害すれば社会契約は破綻し、君主は主権行使の正当な権限を失う――という考えがブームになった。これが、英米仏の革命を経て18世紀末以降にポピュラーとなった「革命」の思想だ。
・以来、国家主権vs普遍的人権のせめぎ合いが、現代国際社会における大テーマとなった。つまりは、普遍的人権を保護する為なら国家主権の侵害は正当化されるのだろうか、という命題だ。
・1945年までは一般的に、その答えはノーだった。国家主権>普遍的人権だった。人権とは、国家が社会契約に則り国民に保障するものだった。しかしニュルンベルク裁判などを通じてホロコーストの実態が明らかになり、それではダメだということになった。
・余談。たまに誤解されているのだが、第二次世界大戦において連合軍はホロコーストの被害を食い止めるためにドイツを攻撃したのではない。ナチス・ドイツ の領土拡張・侵略を食い止める為に反撃したのであって、ドイツ占領地域を解放してみて初めて、強制収容所の実態を知ることになった。ユダヤ人をはじめナチ スが迫害する人々を強制移住させ虐殺しているという情報を連合軍は得ていたし、ユダヤ人民族絶滅計画の情報も得ていて、非難声明も出していたが、実態が本 格的に明らかになったのは戦後の話。
・この経験を経て、国際社会は国家の枠を超えた普遍的人権を守るのだ、人権に対する最大の侵害は戦争である、よって国際社会は戦争の再発と人権侵害を防止しなくてはならないと、国際連合と世界人権宣言が作られた。
・けれども、理念は別として、国際連合は主権国家の集合体だ。加盟国(=主権国家)の多数意見に反したことを国連事務総長や国連職員が糧に決めて遂行できるような、そんな超国家的機関ではまったくない。
・そこに国連のジレンマがある。国家主権の枠を超えた普遍的人権の保護をミッションとしているが、主権国家の委任がなければ動くことはできない。そして国家主権を侵害することも、よほどの特例がない限り、できない。というか、ほとんどできない。
・その特例のひとつが、国連平和維持活動(PKO)だが、これも別に国連事務総長が「あの国に侵攻してその国民を守り なさい」と命令して動かすものではない。国連安保理や国連総会において、必要な数の加盟国の合意を必要とする。国連PKOというのは実は国連憲章に明確な 規定がなく、国連憲章の「6章半」と呼ばれ(これを説明しているとさらに長くなるので、検索されたし)。明確な規定がないので運用や解釈も時代によって変 化してきたが、大まかに言えば、国家間の紛争後の和平維持や、内戦調停後の平和維持に派遣される。内戦の真っただ中でどちらかの側にPKOが味方してドン パチやるわけでは、ない。そしてリビアの場合のように、まだ国際的に「政府」として認められているものが存在している状態で、PKOがその国の領内に侵攻 していって国民を保護したり、政府を倒したりすることは、今の国連憲章では認められていない。国際法も、国際機関がそんなことをするとは想定していない。 そして今更だが、「国連軍」などという、ウルトラ警備隊的なものは存在しない。PKO部隊とは加盟国が提供する部隊の寄せ集めだ。
・今の国際社会と国際法でそれが可能なのは、つまり一国の国家主権を侵害して領土に押し入りその国民を保護する、なんて行為ができるのは、同じく「国家主 権」をもつ「主権国家」だけだ。国家が他国の主権を武力で侵害すること、それはすなわち戦争だ。国家が国家に戦争を仕掛ける権利は、国家にとっての自然権 のようなものだ(生命・自由・財産などが人間にとっての自然権であるように)。そもそも国際法とは、国同士が戦争の法を定める過程で整備されていったもの だ。
・しかし現実主義(realpolitik)で動く世界では、国家が自国兵士の生命や納税者の血税を使って、他国に侵 攻しその国の国民を保護するからには、相当の理由が必要だ。「普遍的人権」という道義的理由だけで、兵士の命と巨額の軍事費を使って他国に戦争を仕掛けて もいいと国民合意が得られる民主国家は、現実にはそうはない。むしろ、独裁者を追放するために戦争したせいで民主国家の指導者が次の選挙で権力の座を追わ れたりする。なので、「大量破壊兵器の開発を防ぐため」「自分たちへのテロを防ぐため」「地域の安定を図るため」など、道義的なもの以外の実利的な大義名 分が必要となるのだ。
・それとは別に、国際社会が承認する実体ある統一政府がもう存在しない状態での介入がある。これは古典的な国際法でいうと「戦争」にはならない。「戦争」 とは古典的にはあくまでも国家vs国家のものだからだ(余談だが、「対テロ戦争(war against terror)」という抽象的なものに対する「戦争」とは本当なら、「war against hunger(飢餓に対する戦争)」とか「war against crime (犯罪に対する戦争)」などと同じレトリックや政策スローガンだったはず。なのに、「war against terror」に法的概念としての実体を与えようとしたのがチェイニーだったのだが、それを話すと長くなるので、よければ本を読んでください。なんて な)。
・たとえばユーゴスラビア内戦におけるボスニア紛争やコソボ紛争では、主権国家同士の軍事同盟機構=NATOが、周辺勢力に侵攻を重ねるセルビア勢力を空 爆・介入したわけだが、そのとき旧ユーゴスラビアは完全な分裂状態にあり、国際社会が認める「政府」は存在しなかった。ゆえにこれはNATOによる軍事介 入であって、同盟国の集団であるNATOが「主権国家」相手に(国際法的な意味での)「戦争」をしたわけではない。
・主権国家に対して戦争を仕掛けるのと、主権国家がもう正当に存在しない状態の地域に軍事介入するのとでは、その行為の重みがまったく違う。何より、自国 民にとっての、そして国際社会においての、イメージが違う。イメージなんて、と思うかもしれないが、国内政治や国際政治において「perception(ど ういうイメージで見られているか)」は実はすごく大事なことなのだ。イメージの善し悪しが、正当性を決めたりするのだから。それからイメージの問題とし て、軍事介入というのは数日や数週間で終わるとイメージがあるが、「戦争」となると(6日間戦争とかは別にして)短くても数カ月、下手をすると数年かかる というイメージがある。民主国家において、国民に「戦争」を受け入れさせるには、上記したように相当の大義名分と準備が必要となる。「限定的な介入」と言 えば、まだ議会の合意を得易い。民主国家とはそういうものだ。
・となるとリビアの場合、国際社会の大多数がカダフィ政権の正当性を認めず、かつカダフィ政権の代わりになれる対抗勢力がまとまった形で台頭しなければ、 つまりリビアは内戦状態にあってその主権は一時的に消失していると認定されなければ、軍事介入は難しいということになる。ぐるりと話を戻せば、一国の主権 というのは国際社会において古都ほど左様に強固な、尊重されるものなのだ。
・では、カダフィ政権が正当な政府であり続ける間、国際社会がその主権を侵害せずに何ができるか。それは残念ながら、制裁くらいしかない。禁輸とか、海外資産の凍結とか(飛行禁止空域の設定が議論されているとの情報もあるが、これは主権侵害にあたると思う。イラクに対しては第一次湾岸戦争後の武装解除を順守させるために実施したのであって、リビアに対してはそもそもの法的根拠がないのではないか?)。
・「responsibility to protect(守る責任)」の議論もある。つまり国家には国民の身体生命 人権を保護する責任あるのだから、それを脅かす国家に対して、国連をはじめ国際社会は人道上の理由から介入し、人々を守る責任があるという考え方だ。集団 虐殺、戦争犯罪、民族浄化、人道に対する罪――がその対象となる。カダフィ政権による反体制派虐殺は「人道に対する罪 (crimes against humanity)」に相当すると私は思う。アナン前国連事務総長が提唱し、05年に国連総会が宣言し、06年に国連安保理が支持し、09年に総会決議となって採択されたが、実施例はまだなく、定説になっているかは疑問。もしかしたらリビアが、初の明確な適用事例になるのかどうか。
・集団虐殺、戦争犯罪、人道に対する罪を国境を越えて裁く機関として2002年に設置されたのが、国際刑事裁判所(ICC)だ。しかし国家の主権を超えて、そうした行為を裁くことはできない。設置条約の締約国でない国に、ICCの司法管轄は及ばない。そして、はいそうです。リビアはもちろん、締約国ではないのだ。
・くどくどと書いてきたが私が今思うに、国際社会がリビアに軍事的に手を出す為には、カダフィ政権はもはや政府としての機能を失った、リビアは内戦状態に ある、ないしは無政府状態にあると宣言する必要がある。ただしそうした時に、いったいどの国が主導してあの国に軍事介入しようとするだろうか。アメリカや イギリスが、今一度ムスリム国家に軍事介入したがるだろうか。まさか。したくても、状況的にできるはずもない。ムスリム国家に軍事的に手出しできるのは、 同じムスリム国家しかないと思う。しかし同じように国内に反政府デモを抱える長期独裁政権の国々が、いったいどんな大義名分でリビアに介入できるのか。国 境の安定化とか地域の安定化しか思いつかない訳だが、となると今までだったらエジプトしかない。そのエジプトに今、そんな余裕はないはずだ。とすると国際 社会には、(いつもの)非軍事的な手段しかない。
・なので国際社会が国連を舞台に、非難声明とか経済制���を検討している間に、リビア国内の戦いは続く。
・もちろん、非軍事的手段→軍事的手段と段階的にエスカレートしていくのが外交の常識なのだから、いきなり軍事介入があるはずもなく。とはいえ、であるがゆえに、今そこにある虐殺に対して、国際社会は常に無力だ。
・誤解のないように。私は「さっさと軍事介入しろ」と言ってるわけじゃない。「なんで国連はさっさと国連軍を派遣して虐殺を止めさせないんだ」という声や 不満に対して、「いや、あのね」と言いたい訳だ。他国の国家主権を否定するなら、自国のを否定され侵攻されても文句は言えないのだし。
・ところで内戦といえば(私にとっては)日本の幕末なわけだが、あの時はイギリスが明確に薩長革命勢力を支援し、フランスが(あまり役に立たなかったが) 幕府を支援した。よってその結果、イギリス大使館は皇居の目の前にあり、フランス大使館は(当時は江戸の外で、別にオシャレな街ではなかった)広尾にあ る。カダフィを支える外国勢力はどこか。そして欧米各国は今、後押しするべき対抗勢力を見定めるのに、必死なのだろうと思う。 ・国連はウルトラ防衛隊じゃない - 水川青話 (via nakano)(quote-over100notes-jpから)
7月 1, 2017 麻生財務相はまた、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)が米格付け大手ムーディーズ・インベスターズ・サービスから最高格付けを取得したことに関しては、「ボツワナより日本の国債が低いと出したのは確かムーディーズじゃなかったか。その程度のところだと思っている。他に興味はない」と指摘した。 麻生太郎財務相が経済情勢について「経済政策は大きく変えない」 - ライブドアニュース (via rompers-heroine)(元記事: news.livedoor.com (impossiblemodelfactoryから))
7月 1, 2017 福岡市HPの市民からの意見で 「公共施設にハングル語の看板が多いのはなぜ?」との質問に 「韓国人はよく物を壊したり、トラブルが多いので ハングル語の注意書きが必要なのです」 って回答されてて、そういう事か!!と膝を打ちましたw U-1速報 : 公共施設にハングル語の看板が多いのはなぜ? (via isikasa)(元記事: u1sokuhou.ldblog.jp (gkojax-textから))
6月 30, 2017 「しかし、アリペイを利用するのはやめた方がいいと私は思います。「新潮45」でも詳しく描きましたが、アリババ・グループの創業者ジャック・マー(馬雲)は中国共産党とベッタリで、顧客の個人情報を平気で政府機関に引き渡すからです」 「たとえば中国では、人権派弁護士が地方で起きた事件の調査に行くためにアリペイで電車のチケットを買うと、その情報がすぐに当局に伝わり、駅で警察が待ち構えていて妨害されたりします。さらにひどくなると、突然アリペイが使えなくなる。困った弁護士が、家族のアリペイを借りて電車のチケットを購入したら、詐欺罪で逮捕されて晒し者にされたこともありました」 「私も中国政府に批判的な風刺漫画を描いていたら、ある日、突然アリペイが使えなくなり、非常に困りました。それ以来、私はアリババ・グループのサービスは一切使わないようにしています。日本の皆さんもぜひ気をつけて欲しいと思います」 「中国IT最大手アリババの決済サービスは使ってはいけない」中国人漫画家が日本人に警告 | デイリー新潮 (via dotnuke) (元記事: dailyshincho.jp (dotnukeから))
6月 30, 2017 今、ホテル・ルワンダを見終わって、一番あぁって思ったセリフが、「虐殺された映像を世界に流せば世界が救ってくれる」の返答に「いや世界はそれを見て「残虐ね」と言ってディナーを続けるよ」との部分でした。 nobさんのツイート (via hutaba)(元記事: twitter.com (kininaru10から))
6月 28, 2017 いま電車で後ろに立ってる二人のお爺さんが「敵の女房は味方」「使えない上司には使えないイエスマンを当てがうに限る」など心に響く謎の格言を次々と産み出しててヤバイ Twitter / kyrierich (via netinago99) (元記事: twitter.com (rainbowflower-gardenから))
6月 25, 2017 【きみがよ丸】  強制連行がウソであるという動かぬ証拠がきみがよ丸。
在日一世や二世は自分たちのルーツを知っています。 済州島と大阪を結ぶ定期便の名前が、 【きみがよ丸】だったからです。 日韓併合時代の済州島民にとって きみがよ丸の名前を知らない人はいなかったでしょう。
この船の名前がおおっぴらになると 在日朝鮮人達に何が起こるか。 強制連行がウソであるという動かぬ証拠がきみがよ丸。 (この出稼ぎ用の定期航路は大人気で、 のちに第二きみがよ丸も就航するほどだった)
・詳しく調べれば、きみがよ丸に乗ってきた  善良な人達はあらかた帰還事業で 帰国したことが解る。 ・さらに調べれば、朝鮮戦争当時に日本へ  密入国してきた朝鮮人達がクローズアップされる。 ・もっと調べれば、李 承晩ラインの時に釈放された  在日の凶悪犯達のことも 白日の下に晒される。 ・つまり自分たちの先祖達が凶悪犯だらけってのが、  実に論理的に判明してしまう。 在日朝鮮人達がなんとしても隠し通したい上記のことを、 君が代を聴いたり目にしたりするたびに思い出してしまうから 君が代をあそこまで憎む理由。
在日は君が代のメロディでも歌詞でもなく、 【きみがよ】という4文字を見たり聞いたりするのが 何よりもイヤだったのです。 君が代の出だしを聞くだけで 自分たちの祖先が悪人であると思い知らされる。 それが日本人にばれるんじゃないかと気が気ではない。
6月 25, 2017 フィンランドに行って一番驚いたのはバギーで子どもを連れている人は電車やバスの公共交通機関は無料、博物館や美術館も無料。子連れママができるだけ外出できるための政策らしい。国をあげて教育に力を入れるってこういうことなんだなって心底思った。邪魔とかそういうレベルの低い話じゃない。 tonkoさんはTwitterを使っています (via toronei)(元記事: twitter.com (another-gentlandから))
6月 25, 2017 性をアンタッチャブルなものとして扱うのは小学生までで、それ以上になったら、自身の性や性欲と向き合わざるを得なくなる。それを未成年は性について考えなくていいとか、性欲がないとか、綺麗事で蓋をして風通しを悪くするから健康的に受け入れることができず歪むんじゃないかな 音楽ナスカさんのツイート (via gkojax)(yellowblogから)
6月 25, 2017 独、仏の20倍!欧州で最もレイプ犯罪率の高い国はスウェーデン。 他のヨーロッパ諸国における、 レイプ被害の報告は、年間100件強に対し、 スウェーデンではなんと5000件以上である。 (´・ω・`)え?北欧がなんだって? 【マンガ規制】石原「北欧はキリスト教のおかげで倫理観がしっかりしてる」 (via peperon999)(元記事: instapaper.com (onibi-onibiから))
6月 25, 2017 任天堂の岩田前社長が残した言葉 「自分の長所を見つけるには、自分が楽にできることを探すこと」 感情的な人間が陥りがちな努力主義・苦労主義をぶっ飛ばす冷徹で理知的な言葉だと思います Twitter / nijieith (via drhaniwa)(enzoooooから)
6月 20, 2017 警察は告訴状の受理を非常に嫌うが、究極的には(法的には)拒めないことはさすがにわかっている。 だから、法律家としては、被疑者の行為が犯罪構成要件を満たすことを説得的に記述した、ビシっとした告訴状を書いて、 「これは犯罪事実の申告にはあたらないから告訴として取り扱いません」という逃げ道を塞いでやればよい。 そういった告訴状を持って、告訴人を同行して警察署に行くと、さすがに警察官も素直に受け取る。 と常識人なら思うだろうが、なんとそれでも受け取らないのである。警察は常識の通用する機関ではない。 「この、告訴状と書いてありますけど、これはひとまず、事実上、コピーだけ頂いて参考にさせていただきますので」 とか言って抵抗することが多い。 「告訴状の受理を拒絶されるということでよろしいですか。では警察署長宛に内容証明でお送りするしかないですね」 と言うと警察官は慌てる。しかし、私の場合は、その場で警察官と交渉した結果、きちんと捜査をしてくれる、進捗報告もしてくれるという内々の約束を得て、告訴状提出の強行はいったん引っ込め、コピーだけ取ってもらって帰ることが多い。 別にこちらの目的は、告訴状を受理してもらうことではない。捜査をしてもらうことが目的だから、捜査をしてくれる目処さえ立てば告訴状はどうでもよいわけである。きちんとやってくれなかったら、そのとき初めて内容証明で告訴状を出してもよい。 やりたくない事件にだけ「抑制的」な警察を動かす方法 - 弁護士三浦義隆のブログ (via otsune) (元記事: miurayoshitaka.hatenablog.com (ganeshstから))
6月 19, 2017 最近わかってきたんですが、なんかこう、(個人的な)価値観と異なる生き方をしている人を「あー自分とは違う生き方の人なんだな」とは思えず「あの人は非常識だ≒(社会の)迷惑だ」という構図に落とし込まないと納得できない人っているんですね。そういうの、本人も大変でしょうが周囲もしんどい。 Twitter / bono_kichi (via hutaba) (元記事: twitter.com (okatyo54から))
6月 17, 2017 【韓国】 李氏(りし)朝鮮の時代は、 本当に「韓国人にとって良い国といえたのか?」 ねずさんの ひとりごと | 2008年11月04日 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-220.html
辻本さんのブログ「中韓国を知り過ぎた男」(右側にリンクがあります)に、韓国に関する記事があり、そこに昨日僕は以下のようなコメントを掲載させていただきました。 現代の北と南に分かれる前の「李氏朝鮮」というのは、中韓戦争になった折、韓国側の将軍だった李氏が、戦闘中に自国を裏切り、中国と通じることで政権を奪って王位についたという、いわば泥棒政権なんですね。 以後400年にわたり、李氏は中国の属国として対中国土下座外交を行います。庶民の生活なんぞほったらかしだった。いわば同国人による植民地支配が行われていたのが李氏朝鮮の時代の韓国です。 政治体制は、いまの北朝鮮に似ています。ヤンバンと呼ばれる韓国人貴族だけが贅沢な暮らしをし、一般市民は貧窮のどん底。 下のURLをクリックして写真をご覧になるとわかりますが、半島一の大都市ソウルですら、その中心街である南大門前が、まるでホームレス広場となっていました。これが歴史の事実です。 当時の韓国庶民は、ヤンバンという貴族たちにとっての奴隷以下の存在でしかなかった。 そのあまりの下品さに、次々と東亜各国を植民地化した列強ですら韓国にはまったく手を出していない。なぜかといえば、国が貧しく、市民はコジキ同然で、植民地化する魅力がまったくなかったから、といわれています。 いまの韓国の歴史番組などを見ますと、まるで李氏朝鮮の時代は人々が王侯貴族のような生活をし、女性たちは美しいチマチョゴリを着て優雅に暮らしていたかのごとく描かれていますが、これも真っ赤なウソ。 当時のチマチョゴリは、ヤンバンが町にいる女性を我がものとするため、女性の乳を露出させるために着させた服でしかない。 どこの世界に温帯地方でありながら女性に乳を露出される服を着させた国がありますか。 長男を産んだ女性はその時点で乳を露出した。要するに女性が性の捌け口程度にしか扱われていなかった時代の産物がチマチョゴリで、国辱ものの服でしかない。 乳の露出を禁止したのは日本の朝鮮総督府です。 これも写真が残っている。そんなに昔の李氏朝鮮時代が良いのなら、現代韓国の女性も全員乳を露出して町を歩いてもらいたいものです。腹がたちます(怒)
少し解説します。 韓服は、男女共通の上着であるチョゴリと、巻きスカートであるチマ(裳)によって構成されます。 日本国内にある朝鮮学校でも、女子学生の制服としてチマチョゴリの様式を取り入れています。 もともとは、このチマ・チョゴリ、李氏朝鮮の後期から妓女服の影響で丈が短く袖の細いチョゴリ(上着)狭い袖が流行したものですが、19世紀にはチョゴリが乳房を覆えなくなったため、両班層の女性はチョゴリとは別に、胸覆いを使ったと言われています。 しかし、下級階層、特に男児を生んだ女性は乳房を露出するのが誇りとされていたそうです。 現在一般に見られるチマチョゴリは原色を使い派手な物が多いのですが、李氏朝鮮時代の韓国時代のチマ・チョゴリは、朝鮮民族が「白衣民族」と自称してきたように、白一色が標準だったようです。この点でも韓国の歴史ドラマの華やかな民族衣装は、史実と異なります。 さらにいえば、韓国朝廷は、庶民に対して色つきの服の着用を禁止していた。 ただし女性のチマはこの限りでは無く、娘と未婚女性は赤いチマ、既婚女性や中年女性は藍色のチマ、老女はあさぎや灰色のチマを着用するとされた時代もあったそうです。また、生成りの漂白されていないチマとチョゴリは主に未亡人や喪中の女性が着用したといいます。 問題は、現代韓国人の多くが誇りとするチマ・チョゴリが、実は、李氏朝鮮王朝における貴族階級(ヤンバン)たちが、自国の庶民に対し、女性が胸を露出した服を着用することを推奨していたという事実です。 ���鮮半島も温帯地方にあたりますから、冬はやはり寒いです。その寒い土地で育まれた衣装が、女性が胸を露出するもの・・・というのは自然に考えて、やはり考えにくい。 だいたい家事を行うのに、胸がぶらぶらしていたら邪魔でしょうがない。 李氏朝鮮は儒教国家であるといいますが、やはり、こうした胸の露出は、多くの儒学者の非難を受けたのだそうで、1910年日本総督府が置かれた後、1930年代に至って、ようやく女性の社会進出と相まってチョゴリの丈が長くなり、女性の胸の露出がようやくなくなりました。 この服が、ほんとうに民族の誇りといえる服なのか、どうにも疑問の残るところです。 韓国が教科書で、日本総督府の施政が国辱ものであり、それ以前の李氏朝鮮の時代が素晴らしい日々であったというなら、是非、��界を歩く際に、本来の韓服(白装束・胸出し姿)を現代韓国に復活してもらいたいものです。 おそらく自国の国民から猛烈な反発が起きると思いますが。。。。
もうひとつ言うと、朝鮮半島の人口は、 1753年:730万人 1850年:750万人 1906年:980万人(第二次日韓条約により1905年より朝鮮は日本の保護国へ) 1910年:1312万人(日韓併合条約により、1910年より朝鮮は日本の一部となる) 1920年:1691万人 1930年:1968万人 1940年:2295万人 1944年:2512万人(1945年、日本の敗戦により総督府の統治権は米軍へ移譲) 現代 約4600万人
李氏朝鮮は、1392年に建国されましたが、当時から日本統治の時代まで、韓半島の人口はほとんど増加していません。それが、1910年の日韓併合以降、わずか30年で人口は2.5倍に膨らんでいます。これは何を意味するのでしょうか。 ボクは韓国人が嫌いとか、そういう意識はまったく持ち合わせていません。 日本国民であれ、どこの国の人であれ、それぞれが幸せになろうと必死で生きている。 一生の間に、学び、恋し、妻子を愛し、家を育み、誰かが死ねば悲しむ。 それがあたりまえの、普通の人間の姿だと思っています。 世界中、人が人であるならば、対話によって、お互いに理解しあい、愛しあい、学びあうことが可能であると信じています。 しかし、そういう人間としてあたりまえの感情を阻害するものがあります。 それがイデオロギーの対立や、妙に植え込まれたプライド、自尊心です。 そんなくだらないものに染まり、非難しあい、果ては殺しあう。愚かなことです。 隣人同士、互いに反発しあうことより、互いに学びあう姿勢が第一だと思います。 田母神氏の論文もしかりです。歴史観は、ヒダリの人たちのもつそれとは大いに異なるものでしょう。しかし、そうした説もあるというなら、冷静に何が真実であったのか、互いに研究し、そこから何かを学び取るという姿勢が、まず必要なのではないでしょうか。 頭ごなしに否定するのは簡単です。でもそういう姿勢からは何も生まれない。 何も理解できない。偏狭なナショナリズムに凝り固まることなく、謙虚な気持ちで歴史を学ぶ。。。戦後60年・・そろそろそうした素直な気持ちをみんなが持ってもよい時代にはいってきたのではないかと思います。
【追記】 なにか言葉足らずな感じなので、もう少し細くします。 ねずきちは、李氏朝鮮の時代というのは、貴族であるヤンバンたちがもっぱら庶民から搾取をし続けた時代だと思っています。いまの北朝鮮と同じです。庶民は家畜奴隷以下の存在でしかなかった。当時の李氏朝鮮時代の庶民の平均寿命は24歳であったともいわれ、とにかく国民の多くを占める庶民は、食うことすらままならなかった。 これは人間の本能で、人は自己の遺伝子のコピーを残そうとする生き物ですから、飯が食えず若死にするしかないような環境の中で人が生き残ろうとすれば、てっとりばやいのが、男であればヤンバンの仲間に入れてもらうこと。女であればヤンバンに宮廷に連れて行ってもらいヤンバンの女になること。そのためには、ヤンバンが通りがかったときに胸を露出するくらい(生き残り子を残すためには)やむを得なかった。 そのヤンバンたちは、日本統治後、かなりの人数が国外退去した。 そして日本が敗戦となったあと、再び半島に戻ってきた。北にいる者は北の役人となり、南にいる者は政治、経済をとりしきった。 もどってきたかつてのヤンバン達にとっては、李氏朝鮮の時代は、まさに天国です。最良の時代だった。彼らにとって李氏朝鮮時代の王宮は、美しい女たちが着飾り、平和と富を謳歌した素晴らしい時代であった。そして日帝は、そのすべてを奪い去った・・・ 要するに現代韓国で語られる過去の栄光というのは、国民のほんの一握りのヤンバンの栄光の歴史なのだといいたいのです。 そのヤンバンのおかげで、半島の多くの人々(庶民)は約400年の長きにわたり、収奪され、殺され、富を奪われ続けた。その様相は、英国のインド支配どころの話ではない。庶民は人間とすら認識されていなかった。 その証拠と言ってはなんですが、韓国には、日本で言う「昔ばなし」がない。昔話、童話は、庶民の言い伝え文化です。これを言い伝えるのは庶民であり、老人です。庶民が老いるまで生きることが叶わなかった国には、童話はない。昔話もない。ちなみに日本でも、応仁の乱の頃や、戦国時代の「民話」というものはありません。 ドイツやデンマーク、オランダ、イギリス、スペイン、日本には、数多くの民話があり、童話があります。ちなみにフランスも、ルイ王朝の搾取時代によって、庶民が生かされず、このため、民話がほとんど伝承されていません。 ねずきちは思います。庶民が、ふつうの人々が、あたりまえに子を残し、老いるまで生きることができる国というのが、良い国なのではないかと。 ヤンバン達にとっては、自分たちの過去の栄光を奪い去った日帝は、未来永劫許されざる存在なのでしょう。 しかし、そのヤンバンたちは、韓国の多くの庶民に、いったい何をしてきたか。 そのことを多くの韓国のみなさんに冷静に振り返っていただきたいものだと思っています。
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robertfrank2017kobe · 7 years
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写真を見ること—ロバート・フランク『The Americans』を中心に(林田 新/写真論・写真史・京都造形芸術大学専任講師)
(註:本テキストは、展覧会開催に先立ち運営スタッフに向けて行われたレクチャーの内容を、同スタッフがウェブサイト掲載用に再編集したものです)
ロバート・フランクについて話す前に、みなさんにまずご自分が美術館やギャラリーに展覧会を見に行ったときのことを思い浮かべてほしい。そのとき、みなさんがひとつの作品を鑑賞するのにかける時間はどのくらいだろうか。
それぞれ思い浮かべていただいたところで、少々驚きのこんなデータをお伝えしたい。展覧会に来た観客がひとつの作品を見るのにかける時間は、実はわずか15秒程度だといわれている。もちろん個人差はあるし、作品によっても異なってくるのだが、平均するとその程度だという。対して作品そのものではなくそれに付いているキャプションを見る時間はもっと長い。鑑賞者の多くは、作品自体よりもキャプションに時間をかけて眺めているのである。
 美術館に足を運ぶ人であっても意外と作品を見ていない。展覧会を準備する際には、作品や作家についての知識や情報だけでなく、作品そのものをしっかりと見ることが大切なのは言うまでもない。
写真を見てみよう
 では、フランクが1958年に発表し出世作となった写真集『The Americans』に掲載されている写真を見ていこう。皆さんの中にはすでにロバート・フランクやこの写真集について勉強をして多くの知識を持っている人もいるかもしれないが、そういった事前情報は一旦取り払って、純粋に作品を見ることに注力してほしい。
 《Santa Fe, New Mexico》とだけキャプションが付けられた写真である。何が写っているだろうか?あるいは、どんなことに気づくだろうか?写真を見て気がついたこと、感じたことを話してみよう。
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Robert Frank, Santa Fe, New Mexico, from the book The Americans(1959 ) © Robert Frank
〈聴講者からの意見〉
-  周りに誰もいない。人間は写っていない。 -  ガソリン・スタンドがある。 -  ガソリン・スタンド以外に大きな障害物はなく、画面下には荒涼とした土地が、画面上には広々とした空が写っている。 -  アメリカのロード・ムービーに出てきそうな景色である。 -  給油機のシルエットが人に似ていて、「SAVE」と書かれた看板と相まって助けを求めているように見える。 -  地平線が傾いていて不安定な感じがする。 -  物体を正面から捉えていない。 -  轍がある。つまり車が通った痕跡がある。
 皆さんが話してくれたことに共通しているのは、寂しいであるとか、不安定であるとか、荒涼としている、といったイメージだといえそうである。
 この写真は横位置で撮られている。写真を撮るとき、縦位置にするか横位置にするかで、強調されるものが変わってくる。一般に縦位置の写真では高さが、横位置では空間的な左右の広がりが強調される。「荒涼とした土地」といった印象は、そこから来ていると言える。またこの写真に写っているガソリン・スタンドとは、目的地というよりは、移動の途中に経由する場所、束の間、立ち止まる場所である。
 そうするとこの横位置の写真では、横方向に轍が走っていることも手伝って、このガソリン・スタンドを中継地点にかつて来た場所と次に行く場所、すなわち過去と未来が示唆されている。過去にいた場所と今から向かう場所のそのあわい。束の間の現在に立つ「SAVE」と書かれた看板。実際にはうっすらと「GAS」という文字列も見え、元々は「ガソリンを節約してね」という意味だが、いまや「SAVE」つまり「救済」の言葉だけがやけに克明に、来し方行く末のあわいの荒涼とした現在の中に宙吊りにされている。
ロバート・フランクと『The Americans』
 次にロバート・フランクの経歴を簡単に振り返っておこう。ロバート・フランクは、1924年にスイスに生まれた。母がスイス人、父はドイツ国籍だったがユダヤ人で、戦争の影響で父子はドイツ国籍を失い、ロバートはスイス市民権を取得することとなる。
 1947年に渡米。最初の頃はファッション写真などを中心に撮っていたが、1955年、グッゲンハイム財団の奨学金を受けアメリカ横断の旅をする。道中、27,000枚にのぼる写真を撮り、そこから選び抜いた83枚を写真集『The Americans』として1958年に出版した。本作は出版当初は批判を受けもしたが、徐々に評価を獲得し、のちにフランクの代名詞とでもいうべき写真集となった。その後、彼は映画を中心に制作するようになる。
 さて、『The Americans』とはどのような写真集だったのか。形式面について述べると、ジャック・ケルアックによる序文の部分を覗いた全てのページが、見開きの片側に写真が一枚、もう片側にはごく簡単なキャプションがレイアウトされるという構成に統一されている。見開きに写真を二枚並べて配置すると、読者はどうしてもその二枚を一組として見ることになる。フランクはそれを避けるため、見開きに一枚ずつ写真を配置した。
 この本の編集にあたってフランクが腐心したのは写真集全体の構成であった。写真集という形式をとる限り、そこには複数枚の写真が掲載されることになる。しかもよりも明確に順番が固定されている。必ず始まりがあって、終わりがある。そのことを意識して彼は27,000枚という膨大な数の中から83枚を選択し、写真集に纏めたのである。
 フランクの写真を考える上で重要なのは、一枚の写真そのものだけではなくシークエンス、すなわち写真と写真の連なりなのである。先にも述べたようにフランクは60年代にはもっぱら映画制作に注力するが、映画もまさにシークエンスが鍵となる表現である。
 以上を踏まえて、次は別の作品を見てみよう。先ほどの《Santa Fe, New Mexico》のページをひとつめくると、《Bar—New York City》という写真が掲載されている。
〈聴講者からの意見〉
-  全体的に暗い。白黒写真であるためコントラストが強く明暗がはっきりしている。
-  横位置の画面の真ん中にジューク・ボックスがある。
-  しかし、ジューク・ボックスではないような撮られ方をしている。つまり、ジューク・ボックスという当時最先端の機械をそれらしく撮らず、なんとなくシニカルに捉えているように見える。
-  右側の人影が煙をくゆらせながら向かって右方向、つまりフレーム・アウトする向きに動いている。
-  映画『パリ、テキサス』を思い出すようなとてもアメリカ的な雰囲気を感じる。つまりアメリカ人自身が撮ったらこうはならない。美化された感じがある。
-  なつかしさを感じる。
 この写真は、先に見た《Santa Fe, New Mexico》の次に掲載されている。ぽつんと立つガソリン・スタンドが移動中に立ちよる束の間の場所だったことと相まって、このダイナーが、移動の途中に通過するひとつの場所として見えてくる。そこには止まっている人もいれば動いている人もいる。かたやガソリンスタンドの看板が「SAVE」という言葉を発し、かたやジューク・ボックスが音楽を奏でる。二枚の写真の連なりから立ち現れてくるのは、人が行き交う空間の真ん中に佇む機械の孤独である。
 もう一枚見開きをめくって、次の写真《Elevator—Miami Beach》を見てみる。これまでの写真の連なりの内にこの写真を見ると、この写真にも留まるもの—ボタン近くの女性—と去るもの、もしくは移動していくもの—下りていく人々—の対比が見えてくる。ここも移動する場所のひとつなのである。
 以上から分かるように、フランクの写真というのは、写真の連なりによって前の写真に対する印象や記憶が次の写真へ伝染していく。この響き合い、ぶつかり合いが、見る人それぞれに様々な読み取りを可能にしていく。彼の写真についてのひととおりの正しい読み方はないフランク自身が、写真を見る読者がそれぞれ何を読み解いていくのかに賭けている。読者は明確に伝わってくる何かを受けとるというよりは、読者自身が写真自体を見てそこから色々なイメージや意味をビリヤードの球がぶつかりあうように広げていくこと、それがロバート・フランクの写真を見る私たちに期待されていることだといえよう。
当時のアメリカの状況
 さてここからは、1950年代当時のアメリカの状況を概観していこう。とくにフランクがアメリカ横断をした1955年から56年当時というのは、アメリカが今日の私たちがイメージするような「アメリカ」になった時期だといわれている。
 具体的な出来事をみていこう。まず1956年、アイゼンハウアー大統領により連邦補助高速道路法が施行され、州と州をつなぐ長いハイウェイが整備されることとなる。これを機に生まれたのが、主人公たちが開けた土地で颯爽と車を飛ばしていくような、いかにも「アメリカ」らしいロード・ムービーである。州間高速道路の整備と関連するところでいうと、55年には往年のロック・スター、エルヴィス・プレスリーがデビューしている。ロックンロールの時代の始まりである。一説によると、ロックンロールが流行った理由のひとつは州間高速道路を利用したトラック物流の増加であった。トラック運転手は長距離運転の際に眠気覚ましのためにロックを聞いていたという。真偽のほどは定かではないが、この時期にロックンロールが興隆したことは間違いない。
 また、マクドナルド・ハンバーガーがチェーン展開をスタートさせたのも1955年、ミスター・ドーナツについても同様である。これらも今日私たちが非常にアメリカらしいと感じるモティーフである。さらにはディズニー・ランドが開園したのも1955年であった。
 以上から明らかなように、1955年から56年というのはまさにアメリカの象徴といえるものが始まった時期だったのである。
 総じて50年代はゴールデン・エイジ、つまり輝かしい時代と称され、安いものを大量に作り大量に売る消費社会が始まると同時に、夢や魔法といった非物質的なイメージが実際のモノを凌駕するほどの力を持つようになっていきつつあった。
 少し異なった角度からの話をすると、1955年は公民権運動の始まりの年ともいわれる。この年に起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件をきっかけに公民権運動が盛り上がり、後にかの有名なキング牧師の演説につながることとなる。
 そんな時代に撮られたフランクの写真の持つ雰囲気は、輝かしいアメリカのイメージとはかけ離れたものであった。ノリノリのロックンロール・ミュージックに似つかわしくない孤独なジューク・ボックス。大型トラックが行き交うハイウェイと対比をなすぽつんと佇むガソリン・スタンド、浮遊する「SAVE」という言葉。こうした時代状況と対象的なフランクの写真は、アメリカの現状に批評的な眼差しを向けたものだという評価を得ることとなる。
写真史との関連①
 次に、写真史という枠組みの中で1950年代の状況を見ていこう。当時の写真を語る上で外せないのは、1936年から1972年まで刊行されたグラフ雑誌『LIFE』の存在である。これは当時非常に栄えていた雑誌文化—1950年代には徐々にテレビが普及し始めるが、依然雑誌が根強い支持を得ていた—を代表する雑誌である。
 『LIFE』誌面を飾った内容は私たちの周りの、いや世界中のあらゆる現象であった。それは日常生活であったり、地球の裏側で起こっている戦争であったり、また動物についてや工場の特集であったりした。対象を取材して得た情報を写真とテクストを組み合わせることで視覚的に読者に伝えること、それが『LIFE』の役割であった。
 そんな『LIFE』の記事の代表作がドキュメンタリー写真家、ユージン・スミスによる「Country Doctor(田舎のお医者さん)」(『LIFE』誌1948年9月20日号掲載)という記事である。順を追ってみていこう。
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 まず最初の見開き。右に向かって歩く男が写った横位置の写真があり、その上部に「Country Doctor」とタイトルがレイアウトされている。この歩行の向きは読者が英語の文章を読む流れと同じであり、ここに左から右への流れができる。するとこの男性の歩む方向性が、テクストの流れと一致することで、「帰ってくる」ではなく、どこかへ向かって歩いていくという意味、左は過去、右は未来という時間性を帯びる。
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 次の見開きでは、「彼は多くの分野の専門医でなくてはならない」という見出しがある。一番左側に配された写真の中の男は、読者の視線に添い、右向きである。それに対して一番右側の写真の中の彼は左を向いている。被写体が向かい合う左右の写真で真ん中の六枚の写真をサンドイッチのように挟む作りになっている。挟まれた小ぶりな六枚には色々な分野の仕事をする様子が紹介されている。読者の視線がそのまま真ん中にとどまってしまうが、右下に位置する写真に右を向く男の写真をレイアウトすることで読者を次のページへ促す。
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 三つ目の見開きには「休んでいる途中に急病人が出たため急いで駆けつける、休憩は中断される」という見出しがおどり、写真の大きさが小中大の順番でレイアウトされている。この配置には音楽でいうクレッシェンドの効果、つまり物語を盛り上げていく効果が期待できる。考えるに、この記事を撮影編集したスミスは見開き右側の一番大きい写真を強調したかったのだろう。この見開きでは、右側に左向きの人物を配置している。本来なら読者の視線を押し戻すことになるが、そのことによって、読者の視線をこの大きな写真に留まらせ、じっくりと見せようとしている。
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 その次の見開きでもまた様々な治療の様子が紹介されている。今度はレイアウトが上下に分かれたかたちになっており、先ほどの左右にシンメトリーになった見開きから変化がつけられている。その次には「一人の老人が夜中に急死」という見出しに、三つ目の見開きとは逆に大中小の順で写真が配置されている。そこに生まれるデクレッシェンドの効果が、写された老人の死、次第に生命が消えていく様をレイアウトでも表している。三つ目から五つ目の誌面構成に目を向けると、写真のサイズが小中大、一定、大中小と、ページを渡ってきれいにシンメトリーになっている。
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 締めくくりには「このコミュニティには彼しか医者がいないので、彼はプライベートな時間をほとんど奪われてしまう」というテクストとともに、家族の写真、街全体の写真、一人で休む医者の写真が配置されている。最後の写真における医者の視線は右向きになっている。記事自体はここで終わるが、彼の仕事はまだ未来へと向かっていく、ということが示唆されているのである。
 このように『LIFE』では、写真とテクストのレイアウトによって読者の視線を丹念に誘導し、そこで語られる物語を非常に分かりやすく、きっちり理解してもらえるように作られている。このような構成を持つ写真付きの読み物を、一般的にフォト・エッセイ、もしくはフォト・ストーリーという。
 それがどういうものかもう少し詳しく分かってもらうために、冒頭でロバート・フランクの写真を見たときを思い出してほしい。写真だけを提示されると、同じ写真でも見る人の知識や経験、記憶によって色々に見え、様々な解釈を生み出す。写真とは本来そういうものである。それに対して、フォト・エッセイは、写真にキャプションを付けたり写真の組み合わせを工夫したりすることによって、読者の写真の読み取りをあるひとつの方向に誘導していく。例えば三つ目の見開きでは見出しに「休んでいるところに急病人の知らせが入る」と書かれている。するともうこの写真がそのことを語っているようにしか見えなくなったのではないだろうか。こうしたフォト・エッセイが、当時のドキュメンタリー写真の基本的なレイアウトの仕方であり、主流であった。そんな時代にフランク写真が人々に与えた衝撃は想像に難くないだろう。
写真史との関連②
 もうひとつ、写真史上の重要な出来事を挙げておこう。それは1955年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われた写真展「The Family of Man(人間家族)」展である。企画・監修を務めたのは写真家でキュレーターでもあったエドワード・スタイケンである。同展は開催とともに評判を呼び、のちに世界中を巡回した。その影響力の大きさは2003年にはユネスコの世界記録遺産に登録されたという事実が物語っているだろう。現在はルクセンブルクにて永久展示されている。
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 展示された写真はこの展覧会用に撮られたものではなく、それまでに雑誌掲載のために撮られたものや、有名写真家によって撮られたものが中心であった。それらがスタイケンによって集められ、選択・レイアウト・展示された。
 スタイケンは本展で、世界中の全人類をひとつの家族に見立てことを試みた。展示構成は、人間が経験する日々の暮らしやライフイベントを、恋愛・結婚・出産・労働・音楽・踊り・食事・勉強・瞑想(宗教的な行為・祈り)・死・苦難・信仰に分類し、テーマ別に見せたのである。
 本展の背後には、ある種の普遍主義的な考え方があった。つまり、世界には多様な民族・部族が存在し、中には対立もあるが、恋愛・結婚・出産といったライフイベント、あるいは食事・労働・ダンスといった行為は、民族や人種を超えて人間みなが等しく行うという着想が、本展の骨子となっている。本展は、そうした被写体が写った写真を選択し、グループとして展示することで、全世界に向けて「人間は本質的にみな同じである」「人間はひとつの家族である」というメッセージを発信した。
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 展示方法はいわゆるホワイト・キューブを使った一般的なやり方とは異なり、例えば写真を弧になった壁面に展示したり、柱に立体的に展示したりしていた。またガラスの壁に作品を貼るようなこともした。ガラスに写真を展示することによって、ガラスの向こうにいる鑑賞者もまた、人間として展示の対象となる。あるいはダンスのセクションでは、輪になって踊っている人々の写真を床に円形に配置することで、それを見る観客が写真に写る人々と同じように輪になって鑑賞するようになる。勉強のセクションでは大学の講義の様子や小さい子が宿題をする様子、アインシュタインが研究する様子が並列され、人はみな同じという主張が強調される。終盤には原爆の写真を扱ったセクションもあり、原爆を人類全体が抱える問題として提示している。最後に展示されたのは国連の写真であった。ここには、人類が一丸となって諸問題に取り組んでいこうというような、まさにグローバリズムの走りといえる理念が読み取れる。本展はグローバリズム、ヒューマニズムの精神が存分に現れた展覧会だったのである。
 ただし実際の1955年当時というのはまだ冷戦期の只中で、世界は真っ二つに分かれていた。そのような東西対立が激しかった状況下で西側が「人類はひとつだ」とうたったのだと思うと、また少し違った印象が出てくるかもしれない。
 『LIFE』と「The Family of Man」展は、雑誌と展覧会という形式の違いこそあれ、共通した特��を有している。それは、写真を効果的に組み合わせ、そこにキャプションを付けることによって、ひとつの大きな物語を語っているという点である。前者は「田舎のお医者さんはどのような毎日を過ごしているのか」という物語を、後者は「人類はこれまでどうやって生きてきて、これからどうやって生きていくのか」という物語をそれぞれ語るために、写真が用いられている。これが当時、一般的であった写真の組み方だったのである。
写真史を塗り替えた男の写真
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Robert Frank, Trolley—New Orleans, from the book The Americans(1959 ) © Robert Frank
 さて、以上を踏まえてふたたびフランクの『The Americans』に戻ることにしよう。《Trolley—New Orleans》という写真を見てほしい。撮られたのは公民権運動の少し前、バスの車内で白人席と黒人席が分かれている様子が写っている。その次にくる写真は《Canal Street—New Orleans》という一枚だが、この二枚にすぐに関連性が見いだせるだろうか?
 一枚目の《Trolley—New Orleans》がもし『LIFE』や「The Family of Man」展で取り上げられたならば、必ず写っている状況を説明するキャプションが付けられるだろうし、次に配置される写真は黒人差別についての物語が明確に示されるようなものになったであろう。
 しかし、『The Americans』にはそういった被写体を説明するキャプションはないし、次の写真との関連も明示されない。ここに私たちは何を見るのか。一通りの正解はない。むしろ、説明なしの写真の組み合わせから読者の読み解きに応じて、その都度、新しい意味が生まれてくる。上記の二枚の読み方の一例として、人の配置に注目してみるとする。《Trolley—New Orleans》の人の並びは一列で整然としている一方、《Canal Street—New Orleans》に写る人々は視線の方向が入り乱れている。またたくさんの人がいる中で一人だけ黒人女性の姿があることも、当時のバスの光景を写した前者との関係で強調されてくるかもしれない。
 このように、後者一枚だけで提示されると単なる群衆にしか見えていないものが、前者と関係付けることでそこに写る黒人女性の存在が際立ち、意味を帯びるのである。
 さらにその次の写真、《Rooming House—Bunker Hill, Los Angels》も加えてみるとどうだろうか。そこには階段の下、杖をつく老人が顔の見えない状態で写っている。これら三枚をどのように関連付けて読み取ることができるだろうか。繰り返しになるがそこに正解はない。ちょうど「この写真と掛けてこの写真と解く。その心は?」と、謎掛けのように答えを読者に考えさせるのが、ロバート・フランクの写真なのである。三枚の写真から孤独さを読み取るかもしれないし、特定の地域を思い浮かべるかもしれない。共通したモチーフや構図が連続した、あるいは離れた写真同士の間に見出される時は、それを手がかりにすることもできる。そのような前後の関係にとどまらない自由な連想によって、一枚の写真が一枚で完結せずに他の写真と様々に有機的に連鎖し、ぶつかりあうことで新しい意味や価値が生み出されていく。
おわりに
 ロバート・フランクの写真集は『LIFE』や「The Family of Man」 展といった当時の主流とは全く異なる写真の組み方がされている。後者を物語、フォト・エッセイだとすれば、フランクの写真は映像詩とでもいえるだろう。写真が並んでいて、そこから様々に連想し、見る人の頭のなかで様々にイメージを展開していく。そこでは、明確なストーリーが紡がれていくわけではなく、写真の響き合いにより様々に世界が展開していく。一枚一枚の写真が非常に私的な空気を帯びており、黄金期の「アメリカ」のイメージとは一見そぐわない疎外感を醸しだしている。私たちがそのような印象を受けるのは、フランク自身がスイスからの異邦人であることや、一度国籍を失った経験があること、そういった彼の寂しさを写真から読み取っているからかもしれない。
 ストリート=街や通りがスナップ写真のモチーフとして非常に豊かな可能性を潜在させていることを証明したこともまた、フランクの功績のひとつである。何気ないストリートが社会批評のトポスとなりえることや、個人的・主観的な内面をそこに投影できることに当時の人々は気づかされたのである。フランクはそうしたトポスとしてのストリートを発見したのであり、ストリート・スナップの可能性を切り開いたといえる。そういった意味で彼が後世に与えた影響は大きい。例えば日本の写真家である森山大道への影響は明らかである。1950年代当時、多くの写真家が出版社などどこか大きな組織のもとで活動していたときに、フランクはいわば一匹狼で写真を撮り続けた。どこかに所属しているカメラマンではない、アーティストとしての写真家の走りでもある。
 『The Americans』に収録された最後の一枚は、ともにアメリカ横断の旅をした家族が車に乗っている様子が写し出されている。それは、『The Americans』が当時のアメリカ社会に対する批評であると同時に、フランク個人のプライベートな旅行の記録であること、つまり、個人と社会が結びついた写真集であるということではないだろうか。
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sumihayashi · 7 years
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写真を見ること—ロバート・フランク『The Americans』を中心に(林田 新/写真論・写真史・京都造形芸術大学専任講師)
(註:本テキストは、展覧会開催に先立ち運営スタッフに向けて行われたレクチャーの内容を、同スタッフがウェブサイト掲載用に再編集したものです)
ロバート・フランクについて話す前に、みなさんにまずご自分が美術館やギャラリーに展覧会を見に行ったときのことを思い浮かべてほしい。そのとき、みなさんがひとつの作品を鑑賞するのにかける時間はどのくらいだろうか。
それぞれ思い浮かべていただいたところで、少々驚きのこんなデータをお伝えしたい。展覧会に来た観客がひとつの作品を見るのにかける時間は、実はわずか15秒程度だといわれている。もちろん個人差はあるし、作品によっても異なってくるのだが、平均するとその程度だという。対して作品そのものではなくそれに付いているキャプションを見る時間はもっと長い。鑑賞者の多くは、作品自体よりもキャプションに時間をかけて眺めているのである。
 美術館に足を運ぶ人であっても意外と作品を見ていない。展覧会を準備する際には、作品や作家についての知識や情報だけでなく、作品そのものをしっかりと見ることが大切なのは言うまでもない。
写真を見てみよう
 では、フランクが1958年に発表し出世作となった写真集『The Americans』に掲載されている写真を見ていこう。皆さんの中にはすでにロバート・フランクやこの写真集について勉強をして多くの知識を持っている人もいるかもしれないが、そういった事前情報は一旦取り払って、純粋に作品を見ることに注力してほしい。
 《Santa Fe, New Mexico》とだけキャプションが付けられた写真である。何が写っているだろうか?あるいは、どんなことに気づくだろうか?写真を見て気がついたこと、感じたことを話してみよう。
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Robert Frank, Santa Fe, New Mexico, from the book The Americans (1959 ) © Robert Frank
〈聴講者からの意見〉
-  周りに誰もいない。人間は写っていない。 -  ガソリン・スタンドがある。 -  ガソリン・スタンド以外に大きな障害物はなく、画面下には荒涼とした土地が、画面上には広々とした空が写っている。 -  アメリカのロード・ムービーに出てきそうな景色である。 -  給油機のシルエットが人に似ていて、「SAVE」と書かれた看板と相まって助けを求めているように見える。 -  地平線が傾いていて不安定な感じがする。 -  物体を正面から捉えていない。 -  轍がある。つまり車が通った痕跡がある。
 皆さんが話してくれたことに共通しているのは、寂しいであるとか、不安定であるとか、荒涼としている、といったイメージだといえそうである。
 この写真は横位置で撮られている。写真を撮るとき、縦位置にするか横位置にするかで、強調されるものが変わってくる。一般に縦位置の写真では高さが、横位置では空間的な左右の広がりが強調される。「荒涼とした土地」といった印象は、そこから来ていると言える。またこの写真に写っているガソリン・スタンドとは、目的地というよりは、移動の途中に経由する場所、束の間、立ち止まる場所である。
 そうするとこの横位置の写真では、横方向に轍が走っていることも手伝って、このガソリン・スタンドを中継地点にかつて来た場所と次に行く場所、すなわち過去と未来が示唆されている。過去にいた場所と今から向かう場所のそのあわい。束の間の現在に立つ「SAVE」と書かれた看板。実際にはうっすらと「GAS」という文字列も見え、元々は「ガソリンを節約してね」という意味だが、いまや「SAVE」つまり「救済」の言葉だけがやけに克明に、来し方行く末のあわいの荒涼とした現在の中に宙吊りにされている。
  ロバート・フランクと『The Americans』
 次にロバート・フランクの経歴を簡単に振り返っておこう。ロバート・フランクは、1924年にスイスに生まれた。母がスイス人、父はドイツ国籍だったがユダヤ人で、戦争の影響で父子はドイツ国籍を失い、ロバートはスイス市民権を取得することとなる。
 1947年に渡米。最初の頃はファッション写真などを中心に撮っていたが、1955年、グッゲンハイム財団の奨学金を受けアメリカ横断の旅をする。道中、27,000枚にのぼる写真を撮り、そこから選び抜いた83枚を写真集『The Americans』として1958年に出版した。本作は出版当初は批判を受けもしたが、徐々に評価を獲得し、のちにフランクの代名詞とでもいうべき写真集となった。その後、彼は映画を中心に制作するようになる。
 さて、『The Americans』とはどのような写真集だったのか。形式面について述べると、ジャック・ケルアックによる序文の部分を覗いた全てのページが、見開きの片側に写真が一枚、もう片側にはごく簡単なキャプションがレイアウトされるという構成に統一されている。見開きに写真を二枚並べて配置すると、読者はどうしてもその二枚を一組として見ることになる。フランクはそれを避けるため、見開きに一枚ずつ写真を配置した。
 この本の編集にあたってフランクが腐心したのは写真集全体の構成であった。写真集という形式をとる限り、そこには複数枚の写真が掲載されることになる。しかもよりも明確に順番が固定されている。必ず始まりがあって、終わりがある。そのことを意識して彼は27,000枚という膨大な数の中から83枚を選択し、写真集に纏めたのである。
 フランクの写真を考える上で重要なのは、一枚の写真そのものだけではなくシークエンス、すなわち写真と写真の連なりなのである。先にも述べたようにフランクは60年代にはもっぱら映画制作に注力するが、映画もまさにシークエンスが鍵となる表現である。 
 以上を踏まえて、次は別の作品を見てみよう。先ほどの《Santa Fe, New Mexico》のページをひとつめくると、《Bar—New York City》という写真が掲載されている。
〈聴講者からの意見〉
-  全体的に暗い。白黒写真であるためコントラストが強く明暗がはっきりしている。
-  横位置の画面の真ん中にジューク・ボックスがある。
-  しかし、ジューク・ボックスではないような撮られ方をしている。つまり、ジューク・ボックスという当時最先端の機械をそれらしく撮らず、なんとなくシニカルに捉えているように見える。
-  右側の人影が煙をくゆらせながら向かって右方向、つまりフレーム・アウトする向きに動いている。
-  映画『パリ、テキサス』を思い出すようなとてもアメリカ的な雰囲気を感じる。つまりアメリカ人自身が撮ったらこうはならない。美化された感じがある。
-  なつかしさを感じる。
 この写真は、先に見た《Santa Fe, New Mexico》の次に掲載されている。ぽつんと立つガソリン・スタンドが移動中に立ちよる束の間の場所だったことと相まって、このダイナーが、移動の途中に通過するひとつの場所として見えてくる。そこには止まっている人もいれば動いている人もいる。かたやガソリンスタンドの看板が「SAVE」という言葉を発し、かたやジューク・ボックスが音楽を奏でる。二枚の写真の連なりから立ち現れてくるのは、人が行き交う空間の真ん中に佇む機械の孤独である。
 もう一枚見開きをめくって、次の写真《Elevator—Miami Beach》を見てみる。これまでの写真の連なりの内にこの写真を見ると、この写真にも留まるもの—ボタン近くの女性—と去るもの、もしくは移動していくもの—下りていく人々—の対比が見えてくる。ここも移動する場所のひとつなのである。
 以上から分かるように、フランクの写真というのは、写真の連なりによって前の写真に対する印象や記憶が次の写真へ伝染していく。この響き合い、ぶつかり合いが、見る人それぞれに様々な読み取りを可能にしていく。彼の写真についてのひととおりの正しい読み方はないフランク自身が、写真を見る読者がそれぞれ何を読み解いていくのかに賭けている。読者は明確に伝わってくる何かを受けとるというよりは、読者自身が写真自体を見てそこから色々なイメージや意味をビリヤードの球がぶつかりあうように広げていくこと、それがロバート・フランクの写真を見る私たちに期待されていることだといえよう。
  当時のアメリカの状況
 さてここからは、1950年代当時のアメリカの状況を概観していこう。とくにフランクがアメリカ横断をした1955年から56年当時というのは、アメリカが今日の私たちがイメージするような「アメリカ」になった時期だといわれている。
 具体的な出来事をみていこう。まず1956年、アイゼンハウアー大統領により連邦補助高速道路法が施行され、州と州をつなぐ長いハイウェイが整備されることとなる。これを機に生まれたのが、主人公たちが開けた土地で颯爽と車を飛ばしていくような、いかにも「アメリカ」らしいロード・ムービーである。州間高速道路の整備と関連するところでいうと、55年には往年のロック・スター、エルヴィス・プレスリーがデビューしている。ロックンロールの時代の始まりである。一説によると、ロックンロールが流行った理由のひとつは州間高速道路を利用したトラック物流の増加であった。トラック運転手は長距離運転の際に眠気覚ましのためにロックを聞いていたという。真偽のほどは定かではないが、この時期にロックンロールが興隆したことは間違いない。
 また、マクドナルド・ハンバーガーがチェーン展開をスタートさせたのも1955年、ミスター・ドーナツについても同様である。これらも今日私たちが非常にアメリカらしいと感じるモティーフである。さらにはディズニー・ランドが開園したのも1955年であった。
 以上から明らかなように、1955年から56年というのはまさにアメリカの象徴といえるものが始まった時期だったのである。
 総じて50年代はゴールデン・エイジ、つまり輝かしい時代と称され、安いものを大量に作り大量に売る消費社会が始まると同時に、夢や魔法といった非物質的なイメージが実際のモノを凌駕するほどの力を持つようになっていきつつあった。
 少し異なった角度からの話をすると、1955年は公民権運動の始まりの年ともいわれる。この年に起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件をきっかけに公民権運動が盛り上がり、後にかの有名なキング牧師の演説につながることとなる。
 そんな時代に撮られたフランクの写真の持つ雰囲気は、輝かしいアメリカのイメージとはかけ離れたものであった。ノリノリのロックンロール・ミュージックに似つかわしくない孤独なジューク・ボックス。大型トラックが行き交うハイウェイと対比をなすぽつんと佇むガソリン・スタンド、浮遊する「SAVE」という言葉。こうした時代状況と対象的なフランクの写真は、アメリカの現状に批評的な眼差しを向けたものだという評価を得ることとなる。
  写真史との関連①
 次に、写真史という枠組みの中で1950年代の状況を見ていこう。当時の写真を語る上で外せないのは、1936年から1972年まで刊行されたグラフ雑誌『LIFE』の存在である。これは当時非常に栄えていた雑誌文化—1950年代には徐々にテレビが普及し始めるが、依然雑誌が根強い支持を得ていた—を代表する雑誌である。
 『LIFE』誌面を飾った内容は私たちの周りの、いや世界中のあらゆる現象であった。それは日常生活であったり、地球の裏側で起こっている戦争であったり、また動物についてや工場の特集であったりした。対象を取材して得た情報を写真とテクストを組み合わせることで視覚的に読者に伝えること、それが『LIFE』の役割であった。
  そんな『LIFE』の記事の代表作がドキュメンタリー写真家、ユージン・スミスによる「Country Doctor(田舎のお医者さん)」(『LIFE』誌1948年9月20日号掲載)という記事である。順を追ってみていこう。
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 まず最初の見開き。右に向かって歩く男が写った横位置の写真があり、その上部に「Country Doctor」とタイトルがレイアウトされている。この歩行の向きは読者が英語の文章を読む流れと同じであり、ここに左から右への流れができる。するとこの男性の歩む方向性が、テクストの流れと一致することで、「帰ってくる」ではなく、どこかへ向かって歩いていくという意味、左は過去、右は未来という時間性を帯びる。
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 次の見開きでは、「彼は多くの分野の専門医でなくてはならない」という見出しがある。一番左側に配された写真の中の男は、読者の視線に添い、右向きである。それに対して一番右側の写真の中の彼は左を向いている。被写体が向かい合う左右の写真で真ん中の六枚の写真をサンドイッチのように挟む作りになっている。挟まれた小ぶりな六枚には色々な分野の仕事をする様子が紹介されている。読者の視線がそのまま真ん中にとどまってしまうが、右下に位置する写真に右を向く男の写真をレイアウトすることで読者を次のページへ促す。
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 三つ目の見開きには「休んでいる途中に急病人が出たため急いで駆けつける、休憩は中断される」という見出しがおどり、写真の大きさが小中大の順番でレイアウトされている。この配置には音楽でいうクレッシェンドの効果、つまり物語を盛り上げていく効果が期待できる。考えるに、この記事を撮影編集したスミスは見開き右側の一番大きい写真を強調したかったのだろう。この見開きでは、右側に左向きの人物を配置している。本来なら読者の視線を押し戻すことになるが、そのことによって、読者の視線をこの大きな写真に留まらせ、じっくりと見せようとしている。
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 その次の見開きでもまた様々な治療の様子が紹介されている。今度はレイアウトが上下に分かれたかたちになっており、先ほどの左右にシンメトリーになった見開きから変化がつけられている。その次には「一人の老人が夜中に急死」という見出しに、三つ目の見開きとは逆に大中小の順で写真が配置されている。そこに生まれるデクレッシェンドの効果が、写された老人の死、次第に生命が消えていく様をレイアウトでも表している。三つ目から五つ目の誌面構成に目を向けると、写真のサイズが小中大、一定、��中小と、ページを渡ってきれいにシンメトリーになっている。
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 締めくくりには「このコミュニティには彼しか医者がいないので、彼はプライベートな時間をほとんど奪われてしまう」というテクストとともに、家族の写真、街全体の写真、一人で休む医者の写真が配置されている。最後の写真における医者の視線は右向きになっている。記事自体はここで終わるが、彼の仕事はまだ未来へと向かっていく、ということが示唆されているのである。
 このように『LIFE』では、写真とテクストのレイアウトによって読者の視線を丹念に誘導し、そこで語られる物語を非常に分かりやすく、きっちり理解してもらえるように作られている。このような構成を持つ写真付きの読み物を、一般的にフォト・エッセイ、もしくはフォト・ストーリーという。
 それがどういうものかもう少し詳しく分かってもらうために、冒頭でロバート・フランクの写真を見たときを思い出してほしい。写真だけを提示されると、同じ写真でも見る人の知識や経験、記憶によって色々に見え、様々な解釈を生み出す。写真とは本来そういうものである。それに対して、フォト・エッセイは、写真にキャプションを付けたり写真の組み合わせを工夫したりすることによって、読者の写真の読み取りをあるひとつの方向に誘導していく。例えば三つ目の見開きでは見出しに「休んでいるところに急病人の知らせが入る」と書かれている。するともうこの写真がそのことを語っているようにしか見えなくなったのではないだろうか。こうしたフォト・エッセイが、当時のドキュメンタリー写真の基本的なレイアウトの仕方であり、主流であった。そんな時代にフランク写真が人々に与えた衝撃は想像に難くないだろう。
  写真史との関連②
 もうひとつ、写真史上の重要な出来事を挙げておこう。それは1955年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われた写真展「The Family of Man(人間家族)」展である。企画・監修を務めたのは写真家でキュレーターでもあったエドワード・スタイケンである。同展は開催とともに評判を呼び、のちに世界中を巡回した。その影響力の大きさは2003年にはユネスコの世界記録遺産に登録されたという事実が物語っているだろう。現在はルクセンブルクにて永久展示されている。
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 展示された写真はこの展覧会用に撮られたものではなく、それまでに雑誌掲載のために撮られたものや、有名写真家によって撮られたものが中心であった。それらがスタイケンによって集められ、選択・レイアウト・展示された。
 スタイケンは本展で、世界中の全人類をひとつの家族に見立てことを試みた。展示構成は、人間が経験する日々の暮らしやライフイベントを、恋愛・結婚・出産・労働・音楽・踊り・食事・勉強・瞑想(宗教的な行為・祈り)・死・苦難・信仰に分類し、テーマ別に見せたのである。
 本展の背後には、ある種の普遍主義的な考え方があった。つまり、世界には多様な民族・部族が存在し、中には対立もあるが、恋愛・結婚・出産といったライフイベント、あるいは食事・労働・ダンスといった行為は、民族や人種を超えて人間みなが等しく行うという着想が、本展の骨子となっている。本展は、そうした被写体が写った写真を選択し、グループとして展示することで、全世界に向けて「人間は本質的にみな同じである」「人間はひとつの家族である」というメッセージを発信した。
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 展示方法はいわゆるホワイト・キューブを使った一般的なやり方とは異なり、例えば写真を弧になった壁面に展示したり、柱に立体的に展示したりしていた。またガラスの壁に作品を���るようなこともした。ガラスに写真を展示することによって、ガラスの向こうにいる鑑賞者もまた、人間として展示の対象となる。あるいはダンスのセクションでは、輪になって踊っている人々の写真を床に円形に配置することで、それを見る観客が写真に写る人々と同じように輪になって鑑賞するようになる。勉強のセクションでは大学の講義の様子や小さい子が宿題をする様子、アインシュタインが研究する様子が並列され、人はみな同じという主張が強調される。終盤には原爆の写真を扱ったセクションもあり、原爆を人類全体が抱える問題として提示している。最後に展示されたのは国連の写真であった。ここには、人類が一丸となって諸問題に取り組んでいこうというような、まさにグローバリズムの走りといえる理念が読み取れる。本展はグローバリズム、ヒューマニズムの精神が存分に現れた展覧会だったのである。
 ただし実際の1955年当時というのはまだ冷戦期の只中で、世界は真っ二つに分かれていた。そのような東西対立が激しかった状況下で西側が「人類はひとつだ」とうたったのだと思うと、また少し違った印象が出てくるかもしれない。
 『LIFE』と「The Family of Man」展は、雑誌と展覧会という形式の違いこそあれ、共通した特徴を有している。それは、写真を効果的に組み合わせ、そこにキャプションを付けることによって、ひとつの大きな物語を語っているという点である。前者は「田舎のお医者さんはどのような毎日を過ごしているのか」という物語を、後者は「人類はこれまでどうやって生きてきて、これからどうやって生きていくのか」という物語をそれぞれ語るために、写真が用いられている。これが当時、一般的であった写真の組み方だったのである。
  写真史を塗り替えた男の写真
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Robert Frank, Trolley—New Orleans, from the book The Americans (1959 ) © Robert Frank
 さて、以上を踏まえてふたたびフランクの『The Americans』に戻ることにしよう。《Trolley—New Orleans》という写真を見てほしい。撮られたのは公民権運動の少し前、バスの車内で白人席と黒人席が分かれている様子が写っている。その次にくる写真は《Canal Street—New Orleans》という一枚だが、この二枚にすぐに関連性が見いだせるだろうか?
 一枚目の《Trolley—New Orleans》がもし『LIFE』や「The Family of Man」展で取り上げられたならば、必ず写っている状況を説明するキャプションが付けられるだろうし、次に配置される写真は黒人差別についての物語が明確に示されるようなものになったであろう。
 しかし、『The Americans』にはそういった被写体を説明するキャプションはないし、次の写真との関連も明示されない。ここに私たちは何を見るのか。一通りの正解はない。むしろ、説明なしの写真の組み合わせから読者の読み解きに応じて、その都度、新しい意味が生まれてくる。上記の二枚の読み方の一例として、人の配置に注目してみるとする。《Trolley—New Orleans》の人の並びは一列で整然としている一方、《Canal Street—New Orleans》に写る人々は視線の方向が入り乱れている。またたくさんの人がいる中で一人だけ黒人女性の姿があることも、当時のバスの光景を写した前者との関係で強調されてくるかもしれない。
 このように、後者一枚だけで提示されると単なる群衆にしか見えていないものが、前者と関係付けることでそこに写る黒人女性の存在が際立ち、意味を帯びるのである。
 さらにその次の写真、《Rooming House—Bunker Hill, Los Angels》も加えてみるとどうだろうか。そこには階段の下、杖をつく老人が顔の見えない状態で写っている。これら三枚をどのように関連付けて読み取ることができるだろうか。繰り返しになるがそこに正解はない。ちょうど「この写真と掛けてこの写真と解く。その心は?」と、謎掛けのように答えを読者に考えさせるのが、ロバート・フランクの写真なのである。三枚の写真から孤独さを読み取るかもしれないし、特定の地域を思い浮かべるかもしれない。共通したモチーフや構図が連続した、あるいは離れた写真同士の間に見出される時は、それを手がかりにすることもできる。そのような前後の関係にとどまらない自由な連想によって、一枚の写真が一枚で完結せずに他の写真と様々に有機的に連鎖し、ぶつかりあうことで新しい意味や価値が生み出されていく。
  おわりに
 ロバート・フランクの写真集は『LIFE』や「The Family of Man」 展といった当時の主流とは全く異なる写真の組み方がされている。後者を物語、フォト・エッセイだとすれば、フランクの写真は映像詩とでもいえるだろう。写真が並んでいて、そこから様々に連想し、見る人の頭のなかで様々にイメージを展開していく。そこでは、明確なストーリーが紡がれていくわけではなく、写真の響き合いにより様々に世界が展開していく。一枚一枚の写真が非常に私的な空気を帯びており、黄金期の「アメリカ」のイメージとは一見そぐわない疎外感を醸しだしている。私たちがそのような印象を受けるのは、フランク自身がスイスからの異邦人であることや、一度国籍を失った経験があること、そういった彼の寂しさを写真から読み取っているからかもしれない。
 ストリート=街や通りがスナップ写真のモチーフとして非常に豊かな可能性を潜在させていることを証明したこともまた、フランクの功績のひとつである。何気ないストリートが社会批評のトポスとなりえることや、個人的・主観的な内面をそこに投影できることに当時の人々は気づかされたのである。フランクはそうしたトポスとしてのストリートを発見したのであり、ストリート・スナップの可能性を切り開いたといえる。そういった意味で彼が後世に与えた影響は大きい。例えば日本の写真家である森山大道への影響は明らかである。1950年代当時、多くの写真家が出版社などどこか大きな組織のもとで活動していたときに、フランクはいわば一匹狼で写真を撮り続けた。どこかに所属しているカメラマンではない、アーティストとしての写真家の走りでもある。
 『The Americans』に収録された最後の一枚は、ともにアメリカ横断の旅をした家族が車に乗っている様子が写し出されている。それは、『The Americans』が当時のアメリカ社会に対する批評であると同時に、フランク個人のプライベートな旅行の記録であること、つまり、個人と社会が結びついた写真集であるということではないだろうか。
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jimichinikasegu · 7 years
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ケーララ、お互いさまが彼岸
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谷崎潤一郎は、あこがれがMAXレベルにまで高まっていた中国の地を踏んだ時に「アレ?思ってたところと違うゾ?」という幻滅を覚えないでいられなかったはずだけれど、谷崎特有の現実肯定力、というか現実変容力を発揮して、かの地がこれ以上ないほどすばらしいところだと「信じ切って」、こころから楽しみ切って最高の思い出にした、それに比べて芥川の中国旅行記の暗さはどうだろうと野崎歓が書いていて、それは多分、人の資質によるところによるのが大きいのでしょうけど、どうせならどのような現実を前にしてもそれを良い方に、自分にとって価値のある尊いものだという風に感じられるならもうけものでしょう。
それが旅する前の心構えみたいなものでした。(旅人K)
ケーララ、その魅惑的響きにするどく反応するようになったのは、いつ頃からだったのだろうか。ケーララという響きを頭のなかで何度も転がしていた。ある夕方、駅前にとれたて野菜ととれたて果実を販売する屋台が立っていた。ダンボールに大きく、マジックで値段が書き込まれてある。手ぬぐいを頭に巻き付けた青年が立っていた。そこを通り過ぎた時にかすかに感じた芳香によってすら南国行きの切符を想像してしまったぼくは、そのとき、ケーララ・ランドに行くしかないことを受け入れていた。
青果店の軒先の熱帯の芳香に 南国行き切符を夢みる
地名は光でできていると大岡信はその卓越した詩「地名論」で語っている。ケーララという響きに魅了されたのなら、そこに行ってみるだけの正当な理由になる。「ぼくたちは清らかな光の発見を志す身」(ランボー)なのだから。覚悟を決めたらあとは簡単。一週間休暇を取り、一路インドへ。
✈✈✈
成田→北京→ムン��イ→トリヴァンドラム。まともに寝ていない。でもトリヴァンドラム空港に降りた時の開放感はどうだろう。冷凍都市から一気に南国の真ん中。ジェットエアウェイズの紺色の翼が太陽の光で輝いているのを背にぼくはトリヴァンドラム空港に入り、トイレでTシャツに着替えた。これはすべては南インドのグロリアス・サンの下における話。かれはすべての魔法を知っている/アンダー・ザ・サン。
空港を出て、トリ市駅前までとりあえずオートで向かう。うれしさしかない。オートの揺れ、ドライバーのハンドルの捌き方。ドアのない車の開放感。色あせた壁。看板。見える風景のひとつひとつが全部いい。青空に映える花々もいいし年代物のバスの群れもいい。駅までで降り、ふしぎなインディアンコーヒーショップでチャーイを飲んで休みながら、周囲の人たちの話す音を聞くのもいい。ガラスを必要としない窓からいい風が入ってくる。「いいぞ、いいぞ」と日本語でつぶやいては笑みを浮かべるぼくはすこし間が抜けていたはずだった。気分はすっかり高揚していて、疲れを感じない。
そのノリでカニャークマリまで行くことにする。最南端の近くまで来て、そこまで行かない手はないから。行かざるをえないといってもよかった。
ポリネシアは三角形なんだって? だったらそれぞれの頂点には行かざるをえないね。これは愚考だ、否定できない。地図を見たり、どこかで見かけた一枚の写真にとりつかれたり、何かの文章の一節が妙に気にかかったりして、無根拠に出発する愚者の一部族。ぼくはそのひとりだった。 管啓次郎『斜線の旅』
ぼくもそのひとりだった。列車を待つ間、駅ナカの軽食屋でサモサとチャーイをボウイに注文する。これが10年ぶりのインド。べっこう縁のメガネを掛けた初老のおじさんが、さりげなく僕の前に座り、僕たちは英語で話した。僕のまえに座る前から僕は彼を認めていた。リラックスの仕方が尋常じゃないというか、ストレスから完全に切り離されて独存しているような印象を受けていた。軽みをマスターした身のこなし。オランダ人だという。働かなくていいんですか?と聞くと、そうだ、もう働かなくていいんだという返事だった。各国の子どもの遊びを取材して、それをホームページに載せているということだった(kidsplaybook.comというもので、帰国してから見てみたらとてもよかった)。日本の子どもの遊びも取材したいんだけどね、と彼は言った。東京では子どもたちは外で遊んでいるかね?さあ、昨今は遊びが掌に収まり、片手間で消費されるようになってますからね。そんな彼らをこそ取材したらどうですか。まったく、それはもうどこの国も同じだよ。まったくクレイジーなことに。
プラットフォームでアナウンスする女性の声も変わっていないようだった。これはふしぎなことではないだろうか。案内に従い、車内に乗り込む。パックパックひとつ、肩から降ろし、空席に座るとまもなく動き始めた。全開の窓からいい風が入ってくる重厚な鉄の塊は誇らしげに汽笛をあげながら走る。すべて初めて目にする風景を通過していく。真っ白な画用紙の上に鉛筆でするりと一本線を引く、その線のあたらしさを、この列車は体現していた。鬱蒼と茂るヤシの木などからなるケーララの植生が全開で生きていた。ごろりと寝転ぶ青年のスマホからは軽快なヒンディー・ポップが流れていて、それが車内の暑さと完璧に調和していた。みんな穏やかに談笑している。幼女の着ている白いワンピースの赤い水玉模様が、薄暗い車内に差し込むあかるい光を受けてひときわ映えていた。すっかりリラックスした僕はサンダルを脱ぎ、裸足で前の席に足を載せる。そして窓枠に肘を載せて風に吹かれている。この自由さ。京葉線での通勤の日々が遠くにかすみ、すぐに消失した。まるでそんなことは始めからなかったかのような、あっさりとした消失。風景は鮮やかに彩られ、列車は力いっぱい加速している。その速度。あらゆる窓、あらゆる出入り口が世界に向かって開け放たれ、天井に据えられた無数のファンが唸っている。このオープンネスの比類なさ。鬱屈した島国だけに居たら一生感じることのできない経験だと断言できる。いろいろなものをじっとみるのが僕の仕事だという認識はずっと持っている。
インドの駅の表示版は、黄色に黒の文字。その書体はどう形容したらいいのか、とにかくインドの雰囲気に合う、普遍的で超時代的なフォント。英語、ヒンディー語、それから南インドの言葉が併記されてる。エラニエルという駅名が妙にふしぎな、インドっぽくない響きがした。プラットフォームのベンチに座ったままじっとしている人たちが、ひとつの腰掛けにひとりくらいの割合でいて、乗客や木陰の模様を眺めるともなしに眺めていた、そのもてあまされた時間そのものも、パンクチュアリティに統率された東京の電車時間や、何十分も遅れた上、バス停と遠く離れたところに雑に停車したバスに向かって殺到する北京のバス時間とも等質な時間なのだった。そしてそれを列車の窓から見つめる僕の目も、その時間とともにあった。僕もその人の隣にさりげなく座り同じ時間を共有したかったが、僕たちがお互いに話し合うことがあったとしても、そもそもお互いが触れ合うことのできない彼岸として存在しているだけなのかもしれなかった。それぞれがもつ自分という思いは此岸として感じられるが相手にとっては彼岸。その間にはガンガーがゆっくりと流れていて、川岸の風景は似ているけれど両岸は動けないので、お互いに手を振ることだけが精一杯なのだった。
平行線の二本だが、手を振るくらいは(中村一義)
カニャークマリが終点。それ以上南はないのだから。下車した時、すでにかすかに潮の匂いがしていた。駅から歩いて海に向かう。年代物の車があちこちを走っていたのは、カルカッタのようだった。そしてサダルストリートの安宿の屋上で瓶詰めのマンゴージュースを飲んで涼んでいた日々を思いだすのだった。でも今は初めての町にいて、サンダルつっかけてまっすぐ海まで歩いている。途中日陰でコーラを飲む。家々の塗装の色彩感覚が鮮やかで、そのどれもが強烈な日差しの中、充足していて調和しているように見えた。そんな光景の向こうから、着飾った少女たちがはしゃぎながら通り過ぎていったとき、自分はいま、亜大陸の最南端で一人いることに、ふしぎな気がした。
ふしぎな気がした、なんて言ってるけど、ここに来てみたくて、チケットやらなにから手配した自分が自分を連れてきただけじゃないか!
細い路地の先に海が見えた時の高揚感、あれはまるで初めてガンガーを、まるで迷路のように入り組んだ細い路地の彼方から認めた時の高揚感と少し似ていた。まっすぐ進み、サンダルを穿いたまま、ジーンズの裾をまくり上げ、砂浜に立ち、そのまま波打際で波に浸る。風は強いし波もある。しかしその風はいつまでも受けていたいと思わせるような温暖な風だった。砂礫は荒めで、素足での感触は日本の渚で感じるそれとは異なり、足の裏をチクチク刺した。海の色がなにかこう見たことのないような緑。午後二時の光を受けて、そんな光り方をしていた。そこにはただ、別の海があっただけだ。同じ空間に違うものが存在できないのだから当然だ。
木造の船、とすら言えないような、靴の型のような、船の中身。船の形を保つために不使用時に入れておく用なのかと思われた木型の上に座り(拝借します・・・)、風、スリランカ、そのはるか南に広がる広漠としたインド洋を通ってやってきた風を感じながら、足を乾かしていた。はるか洋上を見やりつつ(はじめて使ったことばだ!)、その足を乾かす間の時間、聞こえるのは風と波の音だけ。成田から一息に、インドの最南端というダイナミックな移動ができて満足していた。
よる八時の食堂でアールゴービー(じゃがいもとカリフラワーのカレー)とチャパティを食す。カレーがとてもスパイシーでホットであったが、認めないわけにはいくまい。今まで食べてきたカレーの中で最もうまかった。何が違うのか。北インド(といってもそんな大雑把な捉え方はどうなのだろうか)のやさしい味わいに比して、ここのカレーはぎっしりしている。ダイナミックに炒められスパイスともどもぐつぐつ煮込まれた刻み玉ねぎが主役級の活躍を果たしつつ、過激なスパイスのいろいろが身体を突き抜けてたとき、いまぼくは最もうまいカレーを食べていることに気づいていた。卓球玉より小さい、かわいいじゃがいもの旨さ、辛味を緩和しつつ、そのものの味もカレーのハーモニーに参加している。そしてカリフラワー。赤い衣で揚げてあり、そいつがあたかも唐揚げの衣のように味がついていて、ぱくつくと中のカリフラワーが迎える。まったく予期しない幸運の一皿。あまりに辛いため、チャーイ2杯、ミネラルウォーター1本なしでは食べ切れなかったのだけれど。上野の「デリー」のコルマカレーに近い味といえば伝わるだろうか。それを本場にした味。その後なにげなくPOLOを買い求め、舌先で転がしながら部屋に戻り、そうしてやっとぐっすり眠ったのである。
朝4時からお寺の拡声器からお経なのかなんなのか、ひたすら大音量で声が響く。ぼくはインド最南端のお寺、
トリ市に戻り、今度はシヴァナンダ・アーシュラムに向かう。まずバスターミナルでNeyyar Damに行くバスを探す。どのバスもタミル文字かなんかで書かれていて読めない。しかしNeyyar Damという文字だけは英語表記だったのは、そこを目指す旅人が多いからだろう。その、必要最小限の親切心がありがたかったし、どう見てもなれない旅人という風情を察知したのか座りやすい一人がけの椅子を勧めてくれた料金回収人のカインドネスもありがたく受け取った。ぼくは、これから山奥のアーシュラムでリトリートするのだ。たった3日間のつもりなんだけど。
アーシュラムにたどり着き、チェックインする時のフロントのイギリス女性(発音のしかたでなんとなく推測)が、なんともまぶしいウインクを交えながら施設の説明をしてくれていた。すでにここのやりかたに従い、受け入れるつもりでいる。なにか収穫があればいいと思うけど、ただまったく何も考えずtranquilityを楽しめたら気分転換にもなるだろう。枕や布団や蚊帳を渡され、ドミトリーの空いているベッドを探し、周りのひとにハイなんて挨拶する。みんな笑顔。笑顔を保つのがルールなのかっていうくらいみんな笑顔。
ベーシック・アーシュラム・スケジュールとはこういうもの。
05.20 AM Wake-up Bell 06.00 AM Satsang (Group Meditation, Chanting, Talk) 07.30 AM Tea Time 08.00 AM Asana Class (Beginners & Intermediate) 10.00 AM Vegetarian Meal 11.00 AM Karma Yoga 12.30 PM Coaching Class (Optional) 01.30 PM Tea Time 02.00 PM Lecture 03.30 PM Asana Class (Beginners & Intermediate) 06.00 PM Vegetarian Meal 08.00 PM Satsan (Group Meditation, Chanting, Talk) 10.30 PM Lights Out
ヨーガの先生になる人たちのコースは別にあって、上のはヨーガ・バケーションのコース。ヨーガ・バケーションは予約しないで直接行ってチェックインする。詳しくはシヴァナンダアーシュラムのHP参照。カルマ・ヨーガというのは、食事の準備とか宿舎の掃除とかそういったことの手伝い。アーサナクラスは、頭立ちのポーズができるくらいならいきなり中級クラスから初めていいと思った。初級、中級ともに、講師は日本人のときもあったりインド人のときもあった。中級だからといって頭立ちできなくても身体が固くてうまくアーサナができなくても何も言われないし、むしろできるように手伝ってくれる。あんたは初級でしばらくやってなさいなんて冷たいこと言うような雰囲気はなかった。生徒はみんなおだやかな気分を保つことに集中しているようだった。
毎日朝と晩に瞑想およびレクチャーの時間がある。瞑想に入る前にマントラみたいなものを太鼓やタンバリンやオルガンのメロディーと共に歌う。それが意外と楽しい。そのあと瞑想が始まり、時たま香炉を下げて講堂全体にすがすがしい柑橘系のお香の香り���撒いてくれる方がいて、その香りがたまらなくよかった。レクチャーはいろいろと話してくれたけれどなにぶんインドなまりがあってイマイチ聞き取れなかったが、欧米人は普通に理解できていて、ジョークがあれば笑っていた。通じるか通じないかは発音がすべてというわけではなくて、おそらくその話し方とか論理の持って行き方みたいなところ?が大切なんだろうか。
ヨーガが唯一だと思わないほうがいい、スキーも乗馬も楽しめばいいし、好きなスポーツチームを応援したっていい。実際、スワミ・ヴィシュヌ・デーワナンダはそうしていたし、飛行機を操縦するなどしてアクティブだったのだから。スポーツには相手がいるが、ヨーガにはいらない。スポーツには一定の筋肉の緊張を必要とするがヨーガ求めるのはフレキシブルなマッスル。ヨーガは内なるコームネスを追求するだけで競争やストレスとは無縁。セルフ・リアライゼーションを実現するために長く生きるのを目的としてヨーガはある。なんてところはメモった。
この美しいシヴァナンダアーシュラムはインドのヨーガアーシュラムを紹介する本(Yoga in India, kindle edition)で見つけて、その紹介文にパーフェクトなヨーガのイントロダクションとかって書いていたので調べていくうちに一度はこういうところで過ごしてみたいという気になったの。シヴァナンダヨーガは、12の基本アーサナを集中的に練習する。これは難しいアーサナを追求する苦行的なヨーガとは対照的に、初心者でもすんなりヨーガを実習していける、そして日常生活のちょっとした時間に実践できる、いわば開かれた形のヨーガだろう。その12のベーシックアーサナとは、大事に参照している伊藤武のヨーガ本で紹介されているアーサナとかなり重複して好感できた。頭立ち、肩立ち、犂、魚、前屈、コブラ、イナゴ、弓、ねじり、カラスまたはクジャク、立ち前屈、三角形。シヴァナンダのHPにわかりやすい紹介があります。特に、頭立ち(シールシャーサナ)の練習を推奨された。頭立ち、それはケルアックの『ザ・ダルマ・バムス』The Dharma Bumsに出てくる元海兵隊のニュージャージー州出身のホーボーが実践する健康法でもある。ケルアックはその男にLAで列車を待っているときに出会った。ディーガ・ニカーヤ(長部経典)のことばが書かれた紙の切れ端を大事に持っている理想家肌のホーボーだった。役に立てばいいなと思うので、唐突だけどケルアックから長めの引用。
「どうやって神経痛をなおしたのか知りたいね。実は、おれも、血栓症の気があっていけねえんだ」 「そうか、あんたもか。いや、きっとこいつは、あんたのやつにも利くにちげえねえ。なに、わきゃないよ。毎日三分ずつ、頭を地べたにつけて逆立ちをやりゃいいんだ。いや、五分の方がいいかな。おれはね、毎朝起抜けに、河原にいようが、ゴットンゴットン走ってる貨車の上にいようが、小さいマットを敷いて、逆立ちをして五百数えることにしてるんだ。それで、大体三分の勘定になるだろ、な、なるだろ」男は五百まで数えりゃ三分の勘定になるかどうかということをやけに気にしていた。へんな野郎だ。大方、小学校で、算数ができなかったので、自信がなかったにちがいあるまい。 「まあ、そんな見当だね」 「ともかく、こいつを毎日やってみろよ。おれの神経痛がなおったんだから、あんたの血栓症もきっとなおっちまうよ。おれは、今年四十になるんだぜ。ああ、それからね、毎晩寝る前に、あったかいミルクにハチミツを入れて飲むといいよ。おれは、いつもハチミツをビ��に入れて持ってるんだ(彼は、そいつをズダ袋の中から引っぱり出してみせた)。まず、ミルクを空きカンに入れて、それからハチミツを入れて、温めて、飲むわけさ。まあ、この二つだな」 「オーケー」
ジャック・ケルアック『ザ・ダルマ・バムス』
ケルアックはその助言を実践して、三ヶ月後には病気がすっかり治り、再発することもなくなったと書いている。そしてあの元海兵隊ホーボーがブッダだったのだと確信するのだった。頭立ちは確かにすばらしい。ここに来るまでは壁の補助がないとできなかったけれど、肘を肩幅と同じくらい、つまり両手で双方の肘を掴んだ時の幅で、肘をその間隔に保ち、三角形の底辺を形成し、頭頂をその頂点に据え、遼の手のひらでそれをサポートする。うまく説明できない!画像を見るのが一番手っ取り早いね。とにかくぼくも壁なしで容易にできるようになった。勢い良く地面を蹴って逆立ちするのではなくて、少しずつ腹筋で上げていくほうがコントロールし易いってこと。
それから、スーリヤ・ナマスカーラ(太陽崇拝)も重点的に実習する。12セットを毎回必ずきちっとやりきる。これが意外としんどい。関節が悲鳴をあげるようだけど、気持ちよくもある。慣れてくると身体も柔らかくなってどんどん楽しくなる。そうして熱中しているあいだ、ふと会社の様子を思い出したり、電車通勤のあの雰囲気を思い出したりするのだけれど、今ここにいることとあまり関係ないことのように思えた。リラ~ックス、コンプリートリー・・・と講師がやさしくくりかえす。 アーシュラム内はサンダルか裸足で歩く。慣れているひとは裸足が普通のようだった。足の裏がやわなぼくはサンダルなしじゃ痛い。犬がひだまりで眠っている。瞑想時に猫がぼくの膝下でくつろぐ。動物たちまでまったくリラックスしているのはすこし驚きだった。なんの警戒心も持っていなくて、そこにいる人たちも驚かせたりからかったりすることはなく、大事に接していた。自分が敵意を捨てたら相手も敵意を捨てるというようなことが『ヨーガ・スートラ』に書いてあったっけ。
アーシュラムには何も持っていかなくていいんですよ。お店があって、ヨーガマットからなにからなにまで買えるから。現金のやり取りはない。電子マネーみたいな、チャージ式のカードを使って購入する。水は、自由に飲めるしペットボトルに詰めることもできる。そしてこの水がたまらなくうまかった。なぜかわからないが、たぶんそこの雰囲気とかも影響しているんだろう。コーラなんて飲みたいとも思わなかったのは、そこが資本主義のイコンとも言えるコカ・コーラすら及ばない聖域なのかもしれなかった。食事もまた最高においしい。そのようにして、規則正しい生活を3日続けた。その短さに驚かれることもあったが、東京で仕事が待ってるんですよ、ぼくには。そのことが、幸せなのか不幸なのか、はっきり断定できなかった。仕事があるだけいいじゃないかと思う。働くことと好きなことをやることの間の広がりはいまだ測定できた例がない。
東京の会社員も年に一度、3日だけでもいいので来たらいいのにと思う(でもまた元の生活に戻ったらそうした感覚ってぜんぶわすれちゃうもんだな…)。時間も株価も為替もどうでもいい。会社は、あんたがいなくてもそれまで通り運営されていくことだろう。ぼくたちはあまりに自分を重要視していないか。迂回は逃避ではない、実践だ。会社員・・・、ぼくはそういう働き方を否定しない。そんなふうに思わないでくださいね。ここのやりかたが一番いいなんて言うつもりはないし。どちらもお互いぜったいに代わってあげることができない。だけどアーシュラム生活のほうが健康にはいい。
太宰治は、怒るときに怒らないと人間をやっている甲斐がありませんと書いていて、このあたりにぼくは太宰の文学的グルーヴを感じるわけだが、ぼくとしてはタゴールの「怒らないことによって怒りに打ち勝て」という考えに寄り添って生きていきたい。なんでって単純なことさ。怒りは健康にわるいから。おそらく日本の、世界の未来を想像すると、以下に気持ちよく生きていくかということにシフトしていきそうな気がする。この、健康にいいかどうかというのが重大な判断基準になる。たとえば世間一般的には当然怒るべき場面で怒らない。いらいらやもどかしさや欲求不満や面子や承認欲求を脇において、怒りは体に悪いということのみによって怒りをスルーすること。それは本人の健康にもいいことだけれど、同時に怒りの連鎖を止めることを意味する。怒る事になっている主体が、自主的にその「社会的役割」を捨てて、怒りをスルーする。『7つの習慣』にあるように、反応は自主的に選べるのだから。それは世界に対する貢献とすら言っていい。怒りの連鎖を止めることは並大抵のことではない。それにはおそらく修練が必要だけれど、試してみる価値はあるんじゃない? 「怒らないことによって怒りに打ち勝て」とベンガルの大詩人タゴールが言った。これほど深いことばも鮮い。そういうことができる文化で暮らしたかったね、できるかな、これから。
矛盾を受け入れ健康になる (YO-KING)
カルマ・ヨーガという行為について説明があった。それはバガヴァッド・ギーターでクリシュナがアルジュナに説く重要な教えのひとつである。仕事に精を出している無私の状態がそのままヨーガであるという。知識として知らなかったわけではない。それではわざわざ南インドの山奥にまで来ることもなかったのかもしれないが、これも僕のカルマなんだろう。そこまでしないとわからないなんて。日本でも周りを見渡せばそこらじゅうに見つかるはずだ、無私でやっている崇高な人々が。ヨーガということばの広がりかたに、あらためて念を深めたことでした。
少ない荷物をまとめてアーシュラムを辞すまえにもう一度お寺に行ってしばらく佇んでみる。おそらくここにはぎっしりと物語が詰まっているが、人生に意味を求めること自体ナンセンスなのか、人生は意味の外にあるのだとしたら?その人生を物語として理解するようにこの世の中はできているのだとしたら、意味は生の中にしかなく、生そのものを意味づけできるわけではない。人生の中身には意味があるが、人生そのものには意味はない、意味づけできない。そうならこの生は何なのか。ストップ・メイキング・センス。意味を求めないこと、ただあることで満ち足りるべきだ。そなことをなめらかな石の腰掛けに座って風を感じていたときに思った。その時は「エウレカ!」ばりにはっとしたくらいだが、今こうして書いていてもその時のエウレカ感は蘇らないようだ。日本で生活しているうちに消えてしまうような思念は、始めからなくてもいいものなのか?
無意味であることが救い。そう思ってみた。どんな宗教を持っていようと、その人の具体的生自体、意味を越えているのだとしたら、たとえばヨーガを修めない人たちもそうでない人たちも同等であって、意味のないということそのものによってすでに全員救われている。意味を求めるから苦しくなる。ぼくたちは何かを得たい、充実感や肯定感を得たい。そのような希求こそが苦の根源であるとブッダは説く。どんな神様や宗教を信じようと尊重します。でも意味を蒸発させる、自己すら否定するという宗教こそ、「そんなんじゃなしにほんとうにたったひとりの神さま」の教えなのかと、ものすごく心細い思考が、欠けた湯呑みの縁にそっと触れるように、かろうじて到達した。アーシュラムのお寺にはいろいろな聖人の絵が掛けられていて、パット見なにがすごいのかわからないのだが、そこには一遍上人のような聖性を生きた人たちばかりなのだろう。空港や機内で読んでいたこの本に導かれたのだろうか。ノートにメモった箇所はこんなとこ。
「誰もぼくの生を代わって死んでくれることができないのは、誰もぼくの生を代わって生きてくれることができないからなんだよ。とって代わってくれないっていう点では、死はちっとも特別なものじゃないさ」
「人生に意味を求める人が多いんだけど、あれは、まちがいだよ。人生の内側には、もちろんたくさんの意味付けができるし、生きがいはあるさ。でも、人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、ありえないのさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだからね」 永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』
タクシーとバスでトリバンドラムに戻る。Tranquilityの極地から、すぐに雑踏と喧騒と排気ガスの只中へ。この落差。早いとここの落差に対応すべく早速コーラを買い求めごくごく飲むありさま。トリ市のバスターミナルの混雑のなか、コーチン(エルナクラム)行きのバスを探す。普通の市内バスみたいなバスにその目的地が書いてあったけれど、こんなので6時間ガタゴト揺られるのはちょっと勘弁だな、と思いながらそのバスはやりすごす。リムジンバスがあり、非常に快適そうなバスがあり、乗り込む気が満々だったけれど、それは完全予約制のバスであった。俺達は違うみたいな雰囲気のエリートっぽい青年たちがスマホ片手に乗り込んでいった。そして、ついに中級かなっていうレベルのバスがやってきて、鼻息荒く一番乗りで乗り込んだのである。そしていちばん前の席に座っていたら、代金回収人から一番前は女性用なんだよと言われて、オーソーリーなんつってその後ろの席に移ったんだよ。
イ��ドのバスはケイオスなロードを突き進む。ホーンを鳴らし、道を切り開く。道中、車が市街地でつっかえて停止中に、鼻先を干魚の匂いが突き抜け、その懐かしい海辺を思わせる匂いの突然の到来に驚く。見ると、道端で各種干物を新聞の上に広げて商いをしている。干された魚たちの姿をなにげなく見つめていた時、売り主のおじさんと目が合う。おじさんは僕に向かって干物片手に「ほれ、ほれ」とでも言わんばかりに干物を手向けていたのだった。まさかバスを停めて買いに降りてくるとでも思っているのか?冗談でやっているのか?でも、バスが再び進むまでの間の10秒足らずの時間、おじさんの表情は陽気でありながらあくまでもまじめそうだった。ぼくが買いに降りてくると信じている風でもあったのかもしれなかった。バスの高みから、スプライトを飲んでいるという優雅な旅人である僕も、そのとき運転手に「停めて!干物買うの!」と懇願することを、もっともっとアクチュアルに考えてもよかったのではなったか?他の乗客を気にせずに。なんて真面目ぶらなくてもいいんだけどさ。そんなおじさんの仕草に、ぼくはその時苦笑を見せながら、やり過ごすことしかできなかった。かれが遠ざかってもしばらくその時の印象は残った。ちなみに生の魚は氷の上に載せられて、日にさらされながら売られている。ダイキンの次はホシザキの出番なのではないか。インドのあらゆる魚屋がホシザキの業務用冷凍庫を保有する日をぼくは幻視した。
大きめなバス停でしばらく停まる。そこをウロウロしていた開襟シャツ、丈の短いスラックス、へらへらしたソールのサンダルという出で立ち、いわば南インドのデフォルトスタイルといっていいようなおじさんが、見たこともない黄緑色した、食べかけの果実をさりげなく手にしながら、けだるそうにきょろきょろしていた。新聞売りが近づいてきた時、いかにも慣れきった仕草で1部買い求めた。買うという行為が完結するまでが長かった!片手に持っていた果物を咀嚼するペースを早めることも遅くすることもせず、ポケットの中の小銭を実にマイペースで探し、それが代金に足りないことが分かっても焦る素振りはまったく見せず、今度は後ろのポケットにある財布を取り出し、改めて小銭を探し、まるでこれくらいの小銭は当然あるし、別に惜しくもなんともない、だからおれのポケットのどこに小銭があるのか知らないんだよ、でもあんたはその小銭が欲しくて仕方がないんだろう?という仕草で、小銭を少年の手に渡す。その行程におよそ4分はかかっていて、その間新聞売りは神妙な表情で律儀に待っていた。そこにぼくたちはカジュアルな悠久と普遍的な経済原理を垣間見ていたのかもしれなかった。
Varkara、Kollam、 Amrithapuri、 Kayamkulam、 Harippad、 Alleppeyなど、時間があれば一つ一つ寄ってみたい地を通過していった。すぐに見えなくなったけれど、そこに行った気にさせて、納得してみた。そ熱帯雨林とバックウォーターの感じもバスの車窓から一瞥できた。時間があればバックウォーターの旅したかったなあ。
エルナクラム(コーチンの中心地。旅行者に人気のあるヒストリックなフォート・コーチンはそこからちょっと離れたところにある一区画)に着く直前の30分位はハイウェイが整備されていて非常にスムーズに進んだ。このハイウェイも将来ずっと南の方まで延ばすとの由。バスを降りたらすぐにフォートコチに向かうべく動く。ぼくの計画ではフェリー乗り場までオートで行き、そこからフェリーで向こう岸まで渡り、歩いてアゴダで予約してた宿まで行くというもの。でも流しのオートリキシャが、フェリーは故障しているので今日は出ない、だからぐるっと下から廻るルートで行くしかない、お代は300ルピーでよいと言う。つぎつぎと現れるオート運転手たちも同じことを言う。20年前の自分なら簡単に信じていたのではなかったか。そんなことあるかと思いながらウロウロしていたら、プリペイドのオート乗り場に出くわし、フェリーターミナルまで30ルピーとあっさり決まる。まったく気が抜けない。
船は8時半が最終のようだった、チケットを買えたのが8時28分、図らずもギリギリ間に合った格好。波でわずかに揺れている小さな船に座り、出発を待っていた。港湾都市特有の雰囲気というものはある。前方の若者連がSNSのメッセージ機能を使って盛り上がっている。好きな女の子にメッセージでも送っているのだろうか。薄暗い船内でかすかに揺れを感じながらだまって座っている。船の漕ぎ手が乗船してきたなと思っていたら、いつのまにか船はするりと進み始めていた。それはあまりにもさりげなかった。汽笛もなにも鳴らさずに。出入り口の扉は無造作に空いたまま。その空いた扉からゆったりとした夜の水がナトリウムランプのオレンジの光を受けて揺れていた。ぼくたちの乗った小さな船が巨大な船の船体の近くをするりと通り過ぎていく時、巨大な船の甲板の明るい光が遠く感じられた。
フォートの雰囲気は良かった。洗練されていたと言っても良かった。欧米人の姿が非常に多く、ここが一種のわりと快適な滞在場所として一定の人気があることを伺わせた。ニセコや青島や大理のような雰囲気にも似ていた。ぼくが泊まった安宿ですら、洗練された内装、親しげなスタッフを擁し、快適だった。そのスタッフはまだ少年のようだったけれど、ぼくなんかがロビーを通り過ぎるときすら、必ず立ち上がりにっと微笑んでくれる。ドアも先回りして開けてくれるのだった。
市内観光で見るべきところはたくさんあったけれど、これが見れたらそれでいいというのがあった。それはマッタンチェリーのユダヤ人街にある400年の歴史を誇るシナゴーグの床を埋める広東から舶来された青タイル(”It features an ornate gold pulpit and elaborate hand-painted, willow-pattern floor tiles from Canto, China, which were added in 1762.” Lonely Planet, South India & Kerala) 。この青タイルを見たいという気持ちはすごくあったのだが、あろうことか行ったときにはクローズしていた。シナゴーグの基礎知識として金曜の午後から月曜まで閉まるということすら調べていなかった自分がわるい。コーチンが舞台の小説、ルシュディの『ムーア人の最後のため息』に、ここの青タイルが登場するのだった。その美しい青タイルから物語がつぎつぎと立ち現れる、そんな魅惑的なお話。次回ここにくることはあるのかと思いながらユダヤ人街を散策した。そういえばカタカリダンスもインド武術もバックウォーターも観れなかったなあ。オートの運転手はサイナゴーグと発音したので、僕の中でいつの間にかサイナゴーグになっていた。アイランドはイズランドで、ナンバーワンはナンバルワン、サンキューベリーマッチはタンキューベルリマッチ(というかそもそもカタカナ発音の英語とインド風アクセントの英語はどちらがましなのか?)。そうやって、異国の響きに分け入っていくときの新鮮な驚き。そしてぼくの発音もまぎれもなく、彼らにとっては異質であるわけで、その異なる響きが交差することのおもしろさ。ぼくが突飛な思いつきをしてここに来ない限り決して発生しなかったこと。それはほとんど旅の経験の根幹をなすものだと思う。翌日、ビエンナーレという、まちなかや歴史的建物の中に現代アートを展示するイベントが開催されていて、そいつを見ながら、街を散策する。そしてフロントのお兄さんにウーバルことUBERで車を呼んでもらってコーチン国際空港へ向かった。特に結論のない旅だけど、結論のある旅なんてない。いつか必ず付せられる最後の句点があるだけ。だけど、連鎖を続けてゆくこと、とぎれさせないこと、最終ヴァージョンの存在を許さないこと(管啓次郎)、そのための旅。
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