今日から月も変わるというのに、東京は生暖かい湿気がぬるま湯のように身体に絡みつく。そんな10月、忙しくてセックスの回数が減っているとか、自分で友達や後輩をうちに呼んだわりに私が料理するとか、コロナ明けで義両親が東京に来る頻度が多いとか、結婚4年目に相応しい(?)夫への不平不満がぽつぽつ出てきて少しモヤモヤしている今日この頃。東京に出てきてそこそこ経つけれど、こっちでできた友達がもともと少ないのに加え、職場で知り合った人も地方出身者が多くここ数ヶ月で数名が地元に帰ってしまったりで、こんな話ができる人も今や近くにいない。結局文章にするという悲しいストレス発散法しか取れなくなっている。
喧嘩はほとんどないけれど、孤独や不安で少し悲しくなったとき私は必ずTumblrを開いて昔自分が綴った文章を読む。こっぱずかしくなるという副作用はあれども、東京に二つ返事でついていくほど好きになった気持ちが鮮明に思い出せるから。もちろんこの対処法、夫には秘密。今日も自分のページをスクロールして、今の私はもうこんなこと書けないなぁと少しだけ寂しくなる。頭のネジがどっか外れてて、男の人に口説かれたり褒められたりすることが大好きで、週の半分セフレの家かラブホテルに入り浸っていたあの頃。23〜25歳くらいの私は、酒と煙草とセックスで細胞できてます!を地で行く(?)見ているとこっちがむずむずしてくるやつ。いわゆる若気の至り、遅い反抗期。 当時も普通に書いていたけれど、あの頃は常に彼氏以外に2人はセックスできる人がいて、男の人相手ならいくらでも嘘が吐けた。でも本当に付き合っている人には触れられるのすら嫌で、本当に好きな人には振り向いてもらえなくて、エモいバンドのMVかってくらいラブホで煙草吸いながら泣いて自分に酔っていた。 結婚した今、不倫なんてもっての外で、夫にされたら泣き喚いてブツちょん切ると思うけど、あの頃は元カレに対しての罪悪感なんて微塵も持っていなかった。今考えてみれば、少しプライドが高いこととプレゼントのセンスが皆無、以外はいたって普通の人だったと思う。愛してくれていたとも感じていたはずなのに、それだけでは承認欲求は埋まらなかったのだろうか。(こう感じるようになっただけ大人になれているの…か…?)
承認欲求といえば最近、自分の中のアダルトチルドレンの気配を確かに感じている。自分の意見が分からなくなったなという感覚、結婚してから強くなった。今の夫と結婚したことについて、間違えた、こっちじゃなかったなんて微塵も考えたことがなくて幸せだと思うけど、この関係を守っていかなくちゃって独りでジタバタしているのも事実だ。母と父のような関係性には死んでもなりたくないって気を張っている。あのふたりの血が流れているのだから可能性はあると思って、そっちのルートに行かないように、行かないように、私は日々ちいさく頑張って、ちいさく消耗している。もっと身軽になれたらいいのにと考えても、勝手に気合い入って空回りしていたりする。せっかく実家から離れたのにこの有様。呪いだ、呪い。そんな感じで最近ちいさく疲れているので、寝ます。急にぶった斬ってごめんね。また顔出す。
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恋愛で思い出すこと。
1.試す人はクソ
2.3日もすれば忘れられる
3.多くを求めないっていうほど多くを求めてくる
それと同時に実らなかった恋に対する執着みたいなものを自分の中に見つけて嫌な気持ちになる。
損得勘定でもいいとか、足蹴にされてもこの人とやっていきたいとか、この人のためになら臓器をくれてやるって思えるほど好きになれなかったら、自分は誰かと付き合うのはやめたほうがいいんだなと思う。
でもそういうふうに人を好きになったら気持ち悪いとか相手にされないけどね。それも知ってる。
前も書いたけど、相手の心を弄んてドキドキさせるようなタイプでないと好かれないんだよ。
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なんか、そんないろんなこと考えると人間って気持ち悪いなと思う。
心を弄ぶのもそうだけど、好かれたくて自分でない人間にアプリでなってみたり、こんなに面積の小さい服でないとこの人は他人から好かれないのかと思ったり、権力者にへばりついて幸せを得ようとしたり、何かを呪って自分を確立しようとしてみたり、そりゃその人の人生だから知ったことか、好きにしろと思うけど、気持ち悪いと思うのも内心の自由だ。
多分僕は普通の人間とあまり接触がないからそう思うのかなと思うけど、X をみたりすると、そんなことを思う。
僕は多分アダルトチルドレンだけど、多くの人から嫌われることに全く抵抗がない。そもそもどうでもいい人間から好かれたくない。コンビニの店員さんとか、よく行くお店の店員さんとか、そういうお世話になる人からは好かれたいよ。でも、どこの誰かも知らない人なんてどうでもいい。
人間の 99.9999999% から好かれなくていいと思ってる。嫌ってくれとすら思う。
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子供嫌いの理由
世間一般の子供がうっすらと苦手だ。苦手なあまり、虫の居所が悪い時に未就学児を見ると意味もなくイライラする。電車や店内で金切り声を上げるガキがいると口をガムテープで塞いで黙らせることはできな��ものかと辟易するし、イヤホンの音楽すら貫通してくる甲高い声が不快なので、可能であれば車両を変えたりと距離を置くようにしている。親も親であやす気もなく放置している様を見ると、躾という製造責任を果たす気もないのになぜ娑婆に命を生み出したのかと問い詰めたくなる。
もちろん全ての子供が嫌いというわけではない。幼児特有の容姿は子猫を見た時と同様可愛らしいと思うし、生後数年のボキャブラリーから発せられる言葉は面白くてついつい聞き耳を立ててしまったりする。親戚の子供は特に可愛く、従弟が小さい時はつきっきりで自転車の乗り方を教えたりもした。キャンキャンと吠える子犬はうるさくても苛立たないのに、なぜ同じく愛らしい人間の子供の存在はこんなにも不愉快なのか。
思うに、この不快感の原因は自分の中にある。物心つく前の子供は甘えと依存の天才だ。欲しいものがあれば買ってくれとせがみ、気に入らないことがあれば喉が枯れるまで泣き喚いて自己主張する。人目があろうと腹が減れば泣き、疲れれば泣き、寂しければ泣き、不快を叫び周囲の人間を使役しようとする。
常に人目を気にして生きてきた小心者の私は、正気を失ったりでもしない限りそんなことは到底できない。嫌なことがあれば、酒でエチゾラムを飲み下して眠り、それでも怒りが収まらなければ若い時は腕を切って己を落ち着かせて生きてきた。心の中の自分が泣き叫ぶとき、私は無意識にガムテープでその口を塞ぐ。典型的なアダルトチルドレンである。
幼い子供を見て苛立ちを感じるのは、その姿に己のインナーチャイルドを重ねるからかもしれない。そういう意味では、幼児を見ても苛立ちを覚えなくなった時こそが私にとっての真の成長なのだろう。
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新社会人が覚えておくべきこと
・名刺交換
・お茶の出し方
・上座下座
・役職の順番
・気配り
とかじゃなくて、
・有給取得は(本来)理由が必要ない
・有給取得は(本来)自由に取れる
・パワハラ等があった時の相談先
・いざと言う時の休職&退職方法
辺りではないかと思う今日この頃。
— ナナチル@アダルトチルドレン (@burytheold) September 3, 2019
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こんなことでイライラしたくないのに、生理前なのもあってかイライラして仕方がない。例の如く、一番はイライラする自分にイライラしている。今日は誕生日なのにね、誕生日だから、なのだけれど。私が起きているであろう時間までには帰ってきてほしかった。実際はイライラして眠れなかったし彼が帰ってきてからも、電気を消した部屋でわざと見えるようにブルーライトあびていた。感情の表出が0か100なの、子どもでしかない。23歳にもなってなさけない。 “アダルトチルドレンの特徴”にあてはまりすぎていて辛い。かっこわるい。親からも愛されているのにね。自分が弱いだけ。
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受けとめる人、つきはなす人
両方必要なんだよね、きっと。
受けとめてくれる人と、つきはなす人人生の長いスパンで見てみるとその両方が愛なのかもしれません。
みんなが愛されている。なんかの宗教みたいに聞こえる言葉かもしれないけど真理なのだろうと思います。
私がAC(アダルトチルドレン)を自認し、カウンセリングを受け始めた20歳頃のことです。私のことを「止まっているように見える」と別れを告げた人がいました。
当時は、自分の事もACの事も、上手く説明することができず、また、ACだからと言って言い訳にしている自分がいるのではという気持ちもあり私も詳しい説明を彼にしてはいませんでした。
でもその時、別れを告げてくれたからこそ、私を幸せにするのは私なんだと、心の底から思えました。
それまでは、親や周囲の気持ちを優先させていたけど、自分は自分のペースで、自分を大切に生きることにした切っ掛けとなった失恋でした。
もちろんそこには、カウンセリングで溜まっていた想い…
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・ 【愛着障害、ネグレクト】 愛着は大切ですね! ネグレクト(意図的な無関心)や 虐待 を受けてきた子供たち への脳のダメージがわかってきました。 褒めるだけではダメらしいです。 安心できる 安全地帯が大切なんですね。 ネグレクトに関しては 不安、解離、回避などが起こることがあります。 対策があります。 効果的なタイミングもあります。 しっかりと 状況判断して対応してまいります。 #ネグレクト #虐待 #インナーチャイルド #アダルトチルドレン #超自我 #認知の歪み ・ 【当院の理念】 ・ 不調のために諦めていたことや、 やりたかったことを 気兼ねなくできるように なっていただき 一緒に��顔になっていただく ・ 【ご挨拶】 ・ いつもご覧くださいまして ありがとうございます😊 心より感謝いたします🙌 ・ 病院に行っても 原因がわからない場合は 自律神経の不調かもしれません。 ・ 《あなたのお悩みを解決します!》 自律神経の症状、お悩みを解決するブログを書いております。 ・ どうぞプロフィールから一番上のブログをタップしてご覧ください。 ↓↓↓ @wakae_ookuma_seitai ↓↓↓ タップしてください ↓ 一番上の「ブログ」をタップ! ↓ 記事をご覧ください❗️ ・ また 自律神経症状の解決の 体操などを動画にしております。 ・ ホームのプロフィールから YouTube動画のチャンネル登録を お願いいたします。 ・ どうぞ よろしくお願いいたします🤲 ホームページはこちら 東大阪市の自律神経専門整体のおおくま整骨院|若江岩田駅徒歩3分 ・ 🌟私が今できるベストを尽くすことをお約束いたします🌟 ______________ あなたが心身ともに健康になれる ✨情報を更新しております✨ ・ ブログはこちらをご覧ください❗️ ブログの一覧 | 東大阪で自律神経の整体なら【おおくま整骨院】|駅徒歩3分 ・ フォローよろしくお願いいたします。 ↓↓↓ @wakae_ookuma_seitai ・ Instagramのプロフィール欄のリンクを タップしていただきますと 悩み解決ブログがご覧になれます。 ・ 《ご相談・ご予約》 ご相談などございましたら LINE@への登録お願いいたします。 https://line.me/R/ti/p/%40vtd9415n ______________ 東大阪市若江岩田の自律神経専門整体 おおくま整骨院 東大阪市瓜生堂1-3-27リベラルコート1F 完全予約制 📞 072-968-8139 施術時間 ☀️10:00〜12:30 🌠15:00〜20:00 休:日曜日・祝日、土曜日午後18:00まで HPはプロフィール欄からご覧ください。 ______________ 【こんなことでお困りではないですか】 #自律神経失調症 #パニック障害 #頭痛 #めまい #不眠症 #更年期障害 #冷え症 #息苦しい #うつ病 #強迫性障害 ______________ 【当院の場所や特徴など】 #若江岩田整体 #東大阪市整体 #若江岩田整骨院 ______________ 【好きな歌手は】 #ミスチル #福山雅治 #浜田省吾 #尾崎豊 #MISIA ______________ 【趣味は】 #マウンテンバイク #ガンプラ #サッカー #釣り ______________ #まちスキ #snsでつながる東大阪 https://www.instagram.com/p/CjJsSFnJuL9/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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2023年6月13日 村田沙耶香、概念からこぼれ落ち続ける生について
起立性低血圧が関係しているのか分からないけれど朝起きてから、日が沈んで18時頃になるまでの間、ずっとぼうっとしていて頭が回らず、気力も出ないので、実質的には一日が18時以降の時間しか存在していないような心地になる。どうしても、起きてから8時間くらいは経たないと本調子が出ない。
***
小説の話。村田紗耶香の「地球星人」を読み終わった。
村田紗耶香は以前から『コンビニ人間』『消滅世界』『しろいろの街の、その骨の体温の』など色々読んでいたのだけど、『地球星人』を読みながら、自分にとって村田紗耶香という作家は思っていたよりも重要かもしれない、と気が付く。
村田紗耶香には読んでいて波長が合うというか、自分の感性に直に刺さるような部分が確かにあって、それが何なのかを言語化するとすれば、人間を脱すること、脱-人間化へと向かっていくというその方向性だと思う。
たとえば、『コンビニ人間』において主人公はタイトル通りの「コンビニ人間」になるわけだけど、それは従来の人間でもなく、男でもなく、女でもなく、「コンビニ人間」という新たな種類の人間。そして、常識的に考えればそれは資本主義と消費社会によって生み出された哀れな存在にも見えるものの、村田紗耶香はむしろ「コンビニ人間」という新たな人間の誕生を徹底して肯定的に描いて祝福しているように見える、その両義性。
もう少し「コンビニ人間」について書くと、「コンビニ人間」は消費社会におけるコンビニというシステムに過剰に適応することによって逆に、社会を攪乱するような不条理な存在になっている点や、結婚という制度を読み替えてひそかにやり過ごしながら反抗するような態度に、ドゥルーズの言うマゾヒズム的な戦略を感じることがある。
「地球星人」には「メッセージを送る相手の絵文字や文体を真似する」というくだりがあるし、「コンビニ人間」でも「他の店員の言葉遣いを真似る」という場面があったと思うのだけど、そこにはASD(自閉症スペクトラム)的なコードへの適応の運動と、しかしそこから逸脱していくような側面があって、既存の法に対してうわべだけは忠実に従おうとしながらも攪乱していく動きが村田紗耶香らしさだと思う。あと、いまASDという単語を出したものの、だからと言ってこれが「ASDの主人公の物語です」と言い切ってしまうことにも抵抗があって、「コンビニ人間」は文字通り、「コンビニ人間」という新しい特異的な人間を描いた小説に他ならない。
「地球星人」においては、主人公は生殖および恋愛という規範を持った地球星人(人間を作る「工場」)に対して徹底的に抗い、そのような自分たち(夫や由宇を含めて)をポハピピンポボピア星人と称する。しかも、幼い頃の主人公は「変身」のためのステッキを持った魔法少女でもある。
そんな中で主人公は性行為も恋愛感情もない相手と合意の元で結婚をすることによって、家族や友人からの圧力をやりすごす。この、「性愛も恋愛感情もない、契約としての結婚や同棲」というのは『コンビニ人間』にもあったはずで、好きな関係性だと感じる。
あと、村田紗耶香を読んでいると、彼女がどこまで「本気」なのかな、ということも考える。
たとえば『消滅世界』で描かれる世界がディストピア的だと言われることはわりと多かった印象があるのだけど、主人公はその世界をむしろユートピアとして見ていたはずで、そのとき、村田紗耶香が「ディストピア小説」としてあれを書いているのか、もしくはもっと純粋に「ユートピア」として書いているのかというのはどちらとも取ることができる。
ああいう世界をディストピアとして風刺的に書く、というスタンスはありうるけど、村田紗耶香はそうではなくて、もっと透明な意識で書いているような気がする。肯定か否定かというより、ある前提において世界を考えた時にこうなる、というのをただただ純粋に書いていく。
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文學界5月号の『ハンチバック』、読み終えているけれど、まだ消化しきれていないので、もう一度読めたら読みたい。
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今日、これから自分が書こうかな、と思う小説の候補ができた。
最近、自分は小説には向いていないのかもしれないと思うことも多いけれど、今はとにかく賞に出すことを目標として書こうとは思う。2024年3月31日締め切りの「文藝賞」が本命だけど、2023年10月15日締め切りの「群像新人文学賞」および2023年9月30日締め切りの「文學界新人賞」も可能性としてはある。
正直に言って、ここ最近は「小説」として書くべきことがあるのか分からなかった。小説として書くということは、単なるエッセイでも論説文でも日記でも表現できないものを書くということで、それは虚構の世界という枠を用意することによって可能になる何か。
内容としては以前から「書いてもいいかな」とぼんやり考えていたことだけど、今日になって、それを他ならない「小説」として書かないといけないことに気が付いた、天啓のように。自分の中には何もないと思っていても、必ず何かはあって、でもそれは「社会的に書いてはいけないこと」であるがために抑圧されていたり、単純に、「こんなことを書いても文学にはならない」と思ってしまうようなことが多いけれど、文学は「社会的に書いてはいけない」ような間違ったことをこそ書かなければならないし、「こんなことを書いても文学にはならない」ようなものも、その切り出し方によって文学になりうる。
***
文学の特異性、その価値みたいについて、ある種のラベリングという観点から考える。たとえば、現代において問題になる(なりうる)ようなラベリングはいくらでも挙げることができる。「女性」「男性」「同性愛者」「障害者」「黒人」「弱者男性」「トランスジェンダー」「鬱病」「発達障害」「ロリコン(ペドフィリア)」「無性愛者」「レズビアン」「ゲイ」「ASP」「マゾヒスト」「サディスト」「犯罪者」「処女」「売春婦(娼婦)」「夫」「妻」「子ども」「フリーター」「反出生主義者」「アダルトチルドレン」「吃音者」「精神病者」……(etc)
でもここで、こうしてラベリングされた概念というのは概念でしかなくて、抽象された、単なる一般的な、そして空虚な概念にすぎない。「女性」と言われるときそれは一般的な「女性」を示してしまうわけだけど、言うまでもなく、実際にはこの世界に数限りない無数の女性が存在していて無限に差異のある、そして深さをもった固有の、特異的な生がある。逆に、特異的な生しか存在しない。
「精神病者」でも「犯罪者」でもでも何でもよいのだけど、そこには本来特異的な、生きられる生としての内面性、ひとつの世界、深さのようなもの(そのように行動すること必然性、内的な世界の法則のような)があって、しかし概念は外的な、一般的な形でしかそれを語ることができない。あるカテゴリーに属する人間の生きられた生そのもののようなものを捨象することでしか、それについて語ることができない(Twitterを上記のようなラベリングについて議論が行われている風景を見ていると、どうしてもそのことを考えてしまうし、不毛な気持ちになる)。
そのとき、文学というのはそのような人々の生きられる生そのものを内側から、その複雑性をできる限り捨象することなく、ひとつの世界として提示する方法であり(人生を追体験する)、それは単なる外的な語り(哲学にせよエッセイにせよ)では不可能なことだと思う。
私たちが普段使う言葉、概念、ラベリングは決して現実を正確に写しとることなんてできなくて、常にそのラベリング(およびそれによってイメージされるもの)からこぼれ落ち続ける側面がある。あるいは、そのラベリングから超え出る側面。
平均的な「人間」が存在しない(統計学的に平均を取ることはできるだろうけれど、すべての人間はその統計学的な平均から必ず逸脱する)ように、ラベリングされた者はそのすべてが必ず、そのラベリングから逸脱する。
書きながら考えているのでまとまりがないかもしれないけど、結局のところ、哲学にせよ心理学にせよ社会学にせよ、この現実そのものの、人間の生そのものの複雑さ��捉えることが決してできなくて、(もちろん文学にだってそれはできないのだけど)、生そのものの複雑さ、生の特異性に最も近い位置にあるのが文学だと思っている、信じている(たとえば映画だってこの意味での「文学」でありうるものの、それを語るのが「言葉」である、という点には重要な何かがあると思う)。
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ドゥルーズの『批評と臨床』(Gilles DELEUZE "CRITIQUE ET CLINIQUE")を読んでいる。出版されたのは1993年なのでほんとうにかなり晩年だけれど、実際のところ、いつくらいに書かれた文章なのだろう(論集としては、未発表のものと再録のものの両方がある)。
第1章「文学と生」の17ページまでを読んでいて気になった箇所は二か所あって、一つ目は「非差異化のゾーン」という言葉遣い、そして二つ目は[健康」という言葉の特殊な使われ方について。
〈生成変化とは、ある形態(同一化、模倣、ミメーシス)に到達することではない。そうではなく、それは、人がもはや一人の女、一匹の動物、あるいは一つの分子とみずからを区別し得なくなるような近接のゾーン、識別不能性あるいは非差異化のゾーンを見出すことなのだ〉(p13)
ドゥルーズが言うには、まず書くことは生成変化であり、そして生成変化は、「非差異化」のゾーンを見出すことでもある。ドゥルーズといえば「差異」の哲学だけど、生成変化はむしろ「非差異化」のゾーンにあって、そこでは特異性と非差異化が並立しているはずだけど、それはどういう状態なのだろう。
二つ目は、ドゥルーズが「健康」という言葉に込めている特殊な意味について。
〈文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。それはなにも、作家が必ず大いなる健康の持ち主であるということではない(ここには先の運動競技におけるのと同じ両義性があるだろう)。そうではなく、作家はある抗し難い小さな健康を享受している。その小さな健康とは、彼にとってあまりに大きくあまりに強烈な息苦しい事物から彼が見て聴き取ったことに由来しており、その移行こそが彼を疲弊し切らせているのだが、しかしながら、太った支配的健康なら不可能にしてしまうようなさまざまな生成変化を彼に与えてくれてもいるのである〉(p17)
作家が享受している「小さな健康」と「太った支配的健康」というのは対比されていて、一般的には前者(小さな健康)とはむしろ病の状態であり、後者(太った支配的健康)は、一般的に「健康」であるとされているもの。
もっと言えば、「小さな健康」を享受するのはマイナー文学のことで、問題なのは「病」として見なされうるようなマイナー文学がどのような意味で「健康」であるのかということ。
「エクリチュールに仮託された生 : ドゥルーズ『批評と臨床』における方法と動因」
「芸術における真理とは何か : ドゥルーズの fêlure とハイデガーの Riß」
「健康としての狂気とは何か : ドゥルーズ『批評と臨床』試論」
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「世界仰天ニュース」で富士銀行行員顧客殺人事件が特集されていた。何となく、他人事に思えないように感じる。ブラックコーヒーを流し込む。朝ご飯をろくに食べずにストラテラを飲むと気持ち悪い。夢の中で人を殺して、そのあとじわじわと警察に追い詰められていくときのあの緊張感。
最近、小説を読んでいて面白くないときに、自分の頭の中で神経伝達物質(セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン……)がうまく分泌されていないから面白くないのか、それともその小説自体が根本的に面白くないのかの区別がつかなくなってきている。
***
今日聴いた音楽。空廻「黒眼青影」、未来電波基地「立体駐車場」、TOOBOE「錠剤」、ビリー・アイリッシュ「all the good girls go to the hell」、ザ・スミス「Bigmouth Strikes Again」、ハチ「パンダヒーロー」
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水溶液回す
私はもしかして…なにか、こう、外界からの刺激を、大きく受けとりすぎている…!?そもそも肉体疲労が…!?といういつもの暗黒思想を経て、なんというか、それに加えて今回は自律神経が変調をきたしているのではないかと思いました。寒暖差。そして部屋の温度調節にいまだ慣れていないこと。引っ越して20日は経ちました。
外界からの刺激をたくさん受け取ることが私の健康維持のためにはかかせないのだが、それが許容量を超えるとおそらく、ばた…。と受容のための神経が死んで、急激なうつ状態がやってくる。そこに肉体疲労が加わっていると薬の効きが悪くなるので、とにかく疲れすぎないこと、あまり大きな「(肉体疲労を伴う)体験」をしないことでうつ状態を回避できるのだと思うが、社会的にそうもいかない場合というのがあり、もうどうにもこうにも。ここ何日かうつ状態が寄せては引いてを繰り返しているし軽度の希死念慮も来たし、とくにストレス要因と思われるものもないのに、ご苦労なこった。ほんとによ。はあ。対抗策として、体力を徐々にでいいから増強していくこと。かすかに、少しでも、運動量を増やしていくこと。まず朝、ラジオ体操とフォームローラーをやろうと思うのだが、夜風呂に入ってから寝るというのも大切だと思う。風呂に入るとかなり疲れるし発汗するので。また風呂に入った時にシャワーを浴びながらストレッチするのが習慣なので、風呂に入らないと肩が凝ってしまう。まあ頭を洗うのは1日置きでいいとしても、運動量のために風呂は毎日入った方がいい。ということに今気づいた。
今日何か日記に書こうかなと思ったことがあったが、忘れた。その程度のことだったのだろう。増田(はてな匿名ダイアリー)の「子供を産まなくて本当に良かった」というエントリを見て(非常に頭が良く冷静な書き口でおもしろい)、なんとなく、まあこういう考えの人は多くいるよなあと思う。みんな自分の好きなように生きる選択をして、それでも社会が成り立っていくようにするにはどうしたらいいんだろう。私は人間1人あたりが新しい人間1人を生み出さないと、次の世代の負担が爆増してもっともっと厳しい貧しさが到来するぞと思ってすぐ悲しい気持ちになってしまうのだけど(既に私たちの世代が厳しい貧しさを体験している)、次の世代の痛みなど知らぬ、という人もそりゃいるか。とは思った。確かに。でもそれってあんまり大人らしい態度じゃないなと思った。自分が属するグループ、組織、社会の将来を良くする=人類を良くするために生きるのが、人間ってもんじゃないのか。もちろん、次の世代の苦しみが少なくなるように政治でなんとかしようという動きが今後出てくるかもしれないし、団塊、そしてその次に団塊Jrの世代が死に絶えてやっと人口分布がまともになり、若い世代が苦しまなくなる、という、その時代到来までの半世紀くらいで、日本人の貧しさによる精神ズタボロ度はすごいことになってしまうんじゃないか。心配である。私は人口が漸減していくことには概ね賛成だが(そんなに多くの子供をかかえる余地はもはやこの国にはないし、実際的に仕事に必要な人間の数はこれからどんどん減っていく)、ドデカい退役世代を、細々とした現役世代が養うというのは、無理があるし、つらい。今の退役世代はまだ貯蓄があるからいいが、団塊Jrが退職し非労働人口になった時に、彼らの生活を金銭面でも身体面でも、現役世代が支え切れるのかは本当にわからない。年金制度の崩壊と言われる2025年は2年後に迫っていて、そこから本当の地獄が始まると思う。すごく極端で非倫理的な話をすれば、老人達が長生きしすぎで、これは現行の年金制度を作った時には想定されていなかったと思う。そして、老人というのは家や車を新しく買うことはないので、まとまったお金があってもそれを経済に返還できない。子世代の建てる家や土地にどんどん老人たちがお金を出してやればいいと思うのだが、それはそれでしがらみになりそうで、難しい問題だと思う。そうして遺産相続の時が来る頃には、子世代ももはや退役している。長生きしすぎである。頼むから70くらいで死んでくれ。私も70くらいで死にたい。70くらいなら子世代もまだ40とか50のはずで、孫世代の教育費に遺産を宛てたり、新たに家を建てたりできる。ただ、孫の世話をまかされている祖父母を考えた時に、70は早すぎる。かもしれない。私の祖父は80で死んだ。祖母は認知症を発症し、施設でまだ生きているが90を過ぎ、これは生きすぎだと思う。ただ、戦前生まれの体が頑丈なのであって、敗戦後に生まれた人々はもっと軟弱で、そんなに長生きはしないと思うし、生活習慣が変わったことによる病気も多いと思うので、平均寿命は現実的には80弱くらいになって欲しいと思う。介護現場の人手不足は国の縮図で、少ない現役世代が、自分たちの数倍の人数の入居者の世話をしている。
下の世代が苦しみながら、「もうじゅうぶん生きた、早く死にたい」と言っている世代を支え続ける構図は続く。ただでさえ老人の数が多いところに、出生率1.3というのは、「1.3人の人間の働きで(金銭的にも身体的にも)2人の老人を養う」ことであるから、国が必死になって子供を産ませようとしているのは確かに理論としてはスタンダードだ。しかし、子供を産み育てる土壌があまりにも貧しくなってしまったために、子供を持つことはかなり難しく、私にはもはや特権化しているように見える。経済面、また、身体面および精神面で一定の条件をクリアし、他人(異性)と生計を一にすることができる人、というのが、現在この国で子供を持つ権利がある人々である。ここがもうかなり狭き門のように思える。異性愛者または子供のために異性と性交することができる人、かつ、健康で共働き+家事+育児ができ、子供の教育費を過不足なく捻出できる人。で、できねェ〜〜〜〜〜。こんな…ハードモードすぎるってばよ。加えて出産(初産)は30までに済ませておいた方が体の負担が少ないので(と私は思っている)、20代で仕事をしながら、人生のパートナーが誰なのかを見極め、その人と着実な関係を構築しなければならない。ウワーーー!難しいよ。私は友人からもきつく「お前は子供を持ってはならない」と言い含められているとおり、そもそも治療薬の関係で妊娠ができないし、おそらくこの病状では育児にも耐ええないだろう。その前にパートナーがいないことも大きな問題だ。私のような「外れ物」が子供を持てないのはまあ当然として(本当は「家族」というものが欲しかったが…)、それなりに普通の生き方をしている多くの人が、上述のなんらかの条件をクリアしていないために、30年前なら結婚出産をしていたであろう結構なボリ��ーム層が、非婚のままである。ただ、30年前のように誰でも彼でも結婚出産しましょう、という風潮だと、本来その能力のない人が親になり、私のようなアダルトチルドレンおよび精神障害者が大量発生してしまう。正直、親世代の雑な育児のツケが回って「結婚できない」という人もかなり多いと思う。それを言い出したらキリが無いかもしれないが、ちょうど戦後に生まれた人達というのは、目まぐるしく変わった価値観を土台にする社会を生きながら、親は戦前の四角四面な道徳観念をもっており、それによって躾けられるという、かなり不安定な人達なのである。既にこの世代からして。大人の「未成熟」というのは、敗戦後生まれた人達から始まる問題だと思う。「未成熟」という言い方はよくないかもしれないが、大人としての役割のひとつだと私が思っている、「子供が1人で生きていけるように育てる能力」を有していない人が、この辺りから大量に出てくる。または、戦前はそこまで個人の責によらず、社会全体でなんとか、どんな子も生きられるようにしよう、という、厳しさ前提の優しさがあったのかもしれない。たとえば子供がだめでも、孫が優秀かもしれない。そうやって、とにかく世代を繋いでいくことが優先されていたのは、日本の古来よりの習慣(家制度)である。敗戦により、新自由主義、個人主義が「日本人なりに」受け入れられた結果、家制度は解体され、本人の希望によってパートナーを見つける形に変わった。それが時代の進歩というもので、これが「自由」である。どんなに下の世代が辛い思いをしようと、私たちは「自由」を手放してはならない。破れ鍋に綴じ蓋だったり、不均衡だったり、時には大きな問題のある相手を宛てがわれてする結婚は終わり、自分にとっての最上の相手を探す時代が訪れた。そこで、今まで「宛てがわれて」結婚していた層の「問題のある人達」は結婚できなくなり、子供の数は減っている。これは、その人たちの遺伝子が淘汰されるならいいのでは?と一瞬思うが、遺伝というのはそう単純なものではなく、最悪な親からでもまともな子供が生まれたりするので、とりあえず宛てがって産ませよう作戦は、生物の生存戦略としては優秀賞だと思う。ただし私たちは人間なので、やはり「自由」を捨ててはならない。子供を持たない人間たちは、その仕事によって次世代になんらかのものを残すしか手がない。私たちは「自由」だと体を張って証明すること、そして、自分より後に生まれる命のために、少しでも貧困の構造や社会制度をよりよいものに作り替えておくこと。これは子供を持っている人ももちろんやっていると思うが。私は結局子供は社会で育てるものだと思っているので(親個人の責任はそこまで重くするべきではない)、実際に子を持たない人でも、その働きはひいては次世代のためのものなのだから、誰が子供を持っているとか持っていないとかで揉めるべきではないと思う。
さて、寝ましょう。
2023.6.5
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アダルトチルドレンの話を友だちとした。
その人の知り合いのアダルトチルドレンがなくなった。
同士が死んでしまったねと。
僕はどこかサイコパス的だなと思う。
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毒親、機能不全家族、家族の、道化師役、ピエロ🤡|シンゴ
で、自分の、守護神はさ、その、ご先祖様では、ないんだよ😂つまり、未来の、亡霊の、自分自身、が、助けな、あかんわけよ😂おかしな、方向に、すすまん、ように😂つまり、これはさ、自分を、信じる、と、いうことが、とても、大切に、なってく、わけよ😂つまり、アダルトチルドレンで、自分が、嫌いで、リストカットとか、繰り返してるということは、その、未来の、亡霊の、守護神が、守ってくれて、ない、わけよ😂で、クラウディア・ブラックが、書いた、書籍で、インナー・チャイルドつまり、内なる、自分を、肯定する、つまり、アダルト・チルドレンを、克服せな、あかんわけよ😂みんなは😂特に、あのは😂で、アダルトチルドレンは、機能不全家族、つまり、毒親から、育てられたら、家族の、道化師役の、ピエロ🤡に、なる、わけよ😂暗い、家庭環境を、自分が、馬鹿に、なって、明るく、していく、子供な😂で、そもそも、聖書に、書いてあるとおり、人類は、産まれながらに、罪人、つまり、それは、遠回しでは、あるけども、子供を、作るな、と、いうことな、わけよ😂そもそもさ、野生動物って、子供、生むとき、助産婦さんなんか、おらんで、一人で、生むやんか😂
そう、もう、その時点で、人間は、弱いし、寄生獣そのものな、わけよ😂
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