Joe Hisaishi - Sonatine ソナチネ (1993) FULL SOUNDTRACK
Emma Zoia puts pretty good music on Youtube
00:00 Sonatine I ~Act Of Violence~
03:40 Light And Darkness
10:30 Play On The Sands
15:13 Rain After That
15:40 A On The Fullmoon Of Mystery 1
8:09 Into The Trance
1:27 Sonatine II ~In The Beginning~
28:01 Magic Mushroom
30:53 Eye Witness
36:20 Runaway Trip
37:53 Möbius Band
42:39 Die Out Of Memories
45:33 See You....
47:30 Sonatine III ~Be Over~
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"『ソナチネ』(93)では夜、車が走るシーンを撮影したんだけど、カメラが少しグラグラしちゃったのね。失敗したからもう一回やらせてって柳島さんが言ったんだけど、俺はOKをだして、嫌だって言ったの。そしたら「お願いしますよ、これ腕が下手なだけですから」って(笑)。結局そのままのカットを繋いで完成したら、そのシーンが海外で褒められたりしててね。「あのカメラワークの不安な状態が、暴力の世界に入っていく不安な状況を映し出した、あのカメラワークは凄い」って書いてあって、ただ失敗しただけなんだけど(笑)。本人に見せたら頭掻いて言ってた、「失敗したのにしょうがないなー。上手く撮ったら何も言われないのにねえ」って笑ってたけど。"
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「ソナチネ」はDVDも持っているのですが、劇場で観ることができたのは初めて。ありがとう新文芸坐。
自室とは違うノイズの無い空間で体験できるたけしワールドは至高の時間。今まで感じたことない緊張感でソナチネと向き合えました。「緊張と緩和」こそがたけし映画の醍醐味だし。
有名なロシアンルーレットのシーンや、拳銃を用いた打ち上げ花火合戦、死神のように現れる南方英二師匠。
常に「死」への意識をさせられるからこそ、退廃的な日常が美しい。
まったくもって救いの無い話だしグロシーンも多い映画なのに、ひたすら画面は儚く美しく感じてしまう。
やっぱり大好きな映画です。
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2023年5月27日 相米慎二、ニヒリズム、繰り返し
朝、頭がぐるぐると回転する変な虫が部屋の中を歩いていて、その虫を追いかけていたら、いつのまにかその虫が黄色っぽい縞模様の猫に変わっていて、その猫を部屋から締め出そうとするものの、液体のようになって入り込んでくる、という夢を見た。
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相米慎二の「夏の庭 The Friends」を見た。相米慎二の映画を見るのは「台風クラブ」、「お引越し」に続いて三作目。「夏の庭 The Friends」は湯本香樹実の同名の小説が原作であることもあり、ストーリー���分かりやすく、相米作品としては比較的マイルド(?)な印象を受けた。
「お葬式どうやった? 面白かった?」
と聞く子供に対して、別の子供が「面白いわけないやろ、人が死んでんねんで」、「お葬式は、ただのお葬式やった。ほんで、人は死ぬと焼かれるねん」と答える。
死に興味を持った子どもたちは、ボロボロの家屋に一人で住む老人をのぞき見して、死ぬところを見ようとするものの、結果として、その孤独な老人との交流が始まり……。あと、言うべきこととしては、商業施設の柵みたいなところを歩いていくときのカットが好きだった。あとは、夏休みの生命力に溢れる雑草たちの香り。
「台風クラブ」「お引越し」でもそうだったけれど、相米作品の子供の描き方は、徹底して子供視点な感じがしていい。まったく同じ場所(たとえば学校、住宅街)でも、大人が見る世界と子供が見る世界は根本的に異なっている。
ただし、今回の「夏の庭」の場合は、「台風クラブ」等の作品ほど子供の側の視点が徹底されているわけではなく、いくらか大人の視点も描かれる(その意味で、「台風クラブ」はほんとうに、徹底して子供の側から見た世界なのがよくて、あの「遊び」性の火花みたいなもので、心がヒリヒリと焼かれるような感覚がある)。
「遊び」性という意味では北野武の『ソナチネ』も間違いなくそうで、沖縄で次々と殺されていくヤクザたちが海岸で花火をするときの、あの一瞬の遊びにだけすべてが賭けられている感じ。あえて「台風クラブ」と比べるのなら、子供の場合は、見ている世界すべてを「遊び」へと転化することができる(たとえば「台風」)ものの、大人の場合はそう簡単にはいかず、しかし、生と死が入り混じったような特殊なあの沖縄の海岸ではそれが偶発的に起きる、と言ってみることもできる。
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思考を分節する能力が低いので、自分の悩みをほとんど切り分けられていないし、それぞれの悩みの優先順位や重要性などの整理が一切できていないので、「悩みは何ですか?」と聞かれても、どれが自分にとって話すべき悩みなのか分からない、みたいなことがよくある(というツイートをした)。
表層的かつ重要なことを挙げれば「お金」の悩みというのはあって、考えている時間はかなり長い。自販機でジュースを買うとか本を買うとか映画を見るとか薬をもらうとか、自由に移動するとかそういうことができない、という不便さはあるものの、日本で生きている限り、衣食住��すべて失う、みたいなことにはならないので、「どうにもならない」という線を超えないという保証はある。
もう少し内面的なところで言うのなら、すべてがむなしい、すべてに等しく価値がない、というある種のニヒリズムが完全に身体化されていること。別に、単なる思想や思弁として考えているだけならよいのだけど、身体感覚としてすべてに等しく価値がなく、むなしい、ということが刻まれている以上、どうすればよいのだろう。
生きることにも働くことにもキャリアアップすることにも等しく価値はない、ということはずっと前からこの身体に刻まれていたことだったけれど、それでも、文学や芸術だけは特権的に価値を持っていた。人生には価値も意味もないものの、文学や芸術にはある種、特権的な価値があった。
でも、今はその文学や芸術という特権的な価値すらも揺らいでいて、なぜなら、文学にしろ芸術にしろ、社会とは根本的に異なった原理で動いているわけではなく、たとえば会社や学会やスポーツがそうであるように、何らかのゲームのルールに従って価値が生じているだけだから、という感覚に抗えなくなってきたからかもしれない。
サッカーはサッカーというゲームのルールに従って勝ち負けが決まるし、会社は会社というゲームのルールに従って運動し、勝ち負けが決まったり、価値が定められる。同様にして学会(あらゆる学問)であれば学会というゲームのルールに従って価値が定められ、結局のところ、芸術や文学においてもそれは変わらない。文壇、というほど固定的なシステムは解体されつつあるとはいっても、文学というゲームの内部の権力関係やルールに従って価値が定められる。
だから、すべては単に既存のゲームのルールに従って上手くやる、ということでしかない。もちろん、芸術や文学の場合、ゲームのルールそのものを変更できるわけで、それは一つの光なのかもしれないけれど、それでもやっぱり虚しいな、と思う。
ただ、この話はある意味当たり前のことでもあるし、すべてのことに等しく意味も価値がなくたって別にただそれだけの話なのだけど、問題なのはそうなると、この世界が根本的に無根拠で底のない、得体のしれないものとして見えてくる、感じられているということで、そのとき、意味を持たない、無根拠な世界が自分の中へと浸透してくるような怖さ、こわさ、を感じる。
たぶん、自分の場合には離人症(depersonalization/derealization)の問題もその背後にある気がしていて、どうすればよいのだろう、という感じ。更に言えば、物事の「内側」に入ることができず、常に外側から眺めてしまうということに対して、唯一そうではない状態として眠剤の時間がある。
離人症については、その起源がいつなんだろうと思って調べた(というより、英語版のWikipediaを見た)ことがあって、英語版wikipediaによるのなら、Henri-Frédéric Amielというスイスの哲学者・詩人が1880年に
「私は自分自身の存在を、あたかも墓の向こう側、別の世界から来たかのように感じています。私にとってはすべてが奇妙だ。いわば、私は自分の身体や個性の外側にいます。私は人間性を失い、孤立し、漂流しています。これは狂気ですか?」(I find myself regarding existence as though from beyond the tomb, from another world; all is strange to me; I am, as it were, outside my own body and individuality; I am depersonalized, detached, cut adrift. Is this madness?)
と書いていることが一つの起源みたいで、離人症(Depersonalization)という言葉が初めて使われたのは、1898年にudovic Dugasが臨床用語として使った時らしい。
(離人症の歴史については、Depersonalization: A conceptual historyという論文が詳しいです)。
英語版のwikipediaを読むのはけっこう楽しくて、他にも「Existential crisis(存在の危機)」や、「Ethereal wave(エーテルの波)」のページを見たりしていた。
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ここまでで3000文字くらいだから、少し書きすぎてしまった。今は午前4時20分で、外は暗いのに、鳥のさえずりが聞こえてくる。
いまは筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』を読んでいるけれど、これを読み終えたら村田紗耶香の『地球星人』を読みたい。あとは何だろう、とりあえずの目標は何とかしてお金を集めて、薬をもらうことかもしれない。
最後に、いま聴いている音楽は、ある種のポエトリーリーディングである「ポストずんだロックなのだ」という曲。そこにはすでに自分の中では壊れているはずなのに、何事もなく繰り返し、リフレインされ続ける日常の平坦さ、世界の恒常性みたいなものが歌われていて、ポエトリーリーディングであることの強さみたいなものを感じる。
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1日1日を大切にしなきゃならないのに、そんなこと考える余裕ねえよなー
どうしたらこれからも一緒にいられんだろうね。〝ずっと〟とか〝永遠〟とか無いのにさ。
ありきたりな言葉で構わないから、嘘でもいいから信じさせて欲しいよな。神様はとんでもなく意地悪だね
まあ、俺は御前が望む限りずっといるから安心しろよー。
明日も生きろよ、ちゃんと生きろよ
君はソナチネ/ドラマチックレコード
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