GKチェスタートンは「旅行は心を狭める」と書いた。ラルフ・ワルド・エマーソンは旅行を「愚者の楽園」と呼んだ。ソクラテスとイマヌエル・カントは、おそらく史上最高の哲学者であり、それぞれの故郷であるアテネとケーニヒスベルクからほとんど出ることなく、足で投票した。しかし、旅行を最も嫌ったのはポルトガルの作家フェルナンド・ペソアであり、彼の素晴らしい「不安の書」は怒りに満ちている。
[私は新しい生活様式や馴染みのない場所が大嫌いです。旅行するという考えは私を吐き気を催させます。ああ、存在しない人たちに旅行をさせましょう!旅行は感じることができない人たちのためのものです。想像力が極度に乏しい場合にのみ、感じるために移動しなければなりません。]
旅行に反対する理由 | ニューヨーカー
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2022年9月29日
図書館を歩いていたら偶然、そこにフェルナンド・ペソアの『不安の書』があったから読んでいるのだけど、あまりにもよくてびっくりしている。
〈確かにわれわれの創作する作品に何か価値があるとは思わない。確かにわれわれは閑つぶしのために創作を行なうが、運命から気を逸らすために藁を編む囚人とはちがって、ほかでもない閑つぶしそのもののためにクッションに刺繍する少女のようになのだ(フェルナンド・ペソア『不安の書』p19〉
〈夢のなかでは手に触れられるほど現実的なある種の現象が現実の空間にはありえない。現実の落日は測り知れないもので、束の間のものだ。夢の落日は固定され、永遠だ。筆のたつ者というのは、自分の夢をはっきりと見ることができ(実際そうしている)、夢で人生を見、人生を非物質的に見ることができ、幻想という写真機で人生の写真を撮ることのできる者だ。この写真機には、重いもの、有用のもの、限定されたものという光線は作用せず、心の感光板に黒く写る(フェルナンド・ペソア『不安の書』p27)〉
〈散文はあらゆる芸術を取り込める。その理由のひとつは、言葉は全世界を含むからであり、またひとつには、自由な言葉は全世界を表現し考えるあらゆる可能性を含んでいるからだ。散文は置き換えにより何でも表現できる。内面的な次元なしに絵画が直接そのものによって表現するしかない色彩と形を、それは表現できる。形のある実体も主題というあの第二の実体もなしに、音楽が直接そのものによって表現するしかないリズムを、それは表現できる。建築家が外界にある所与の固体で作らなければならない構造を、われわれはリズム、ためらい、絶え間なき流動性によって打ち建てる。後光も素材を変成させることもなしに、彫刻家が世界に残さなければならない現実を、それは表現できる。最後に、秘儀参入者のように詩人が、心から厳かにかしずく対象である詩さえも、それは表現できる(フェルナンド・ペソア『不安の書』p47)
〈現実の風景を眺めるのと変わらないほど鮮明にわたしは夢において風景を見る。夢の上に身を乗り出すなら、何か現実的なものの上に身を乗り出すことになる。実人生が過ぎゆくのを見るなら、やはり何かを夢見ているのである(中略)それぞれの生活――夢の生活と現実の生活――は、同じ固有の現実だが異なる現実をそなえている。近いものと遠いもののようだ。夢の姿はわたしにはいっそう近い、しかし(……)。(フェルナンド・ペソア『不安の書』p135)〉
***
志人/玉兎の「懐胎 解体 Special Episodes」を聴いていた。その歌詞。
「きみは塩水 生きる意味を問う 涙の味は 辛い塩水 母なる地球とわたしとのへその緒切ったメトロポリタン、ウミガメの産卵後この帰り路を阻むテトラポット、銀河結合レールよりもインターネットが進化せど、ほとんどはきみの夢をまるごと強盗する絵空事」
やっぱり自分はこの頃の日本語ラップ(あるいはclassicな日本語hiphop)が好きで、漢a.k.a.GAMIの「紫煙」や刃頭の「野良犬」、志人/玉兎の「懐胎 解体 Special Episodes」(これは最近の曲だけど)、「門外不出」、降神の「SUIKA」や、BHUDDA BRANDの「人間発電所」、なんかをいつまでも聴いてしまう。
***
夢について。何度も言っていることだけど、なぜか現実世界よりも夢の中の方が感情が鮮明でリアリティがあり、現実世界ではもはや何が起きても感情は曖昧なままほどけていってしまうのに対して、夢の中ではいつも強くて鮮明な感情を覚えている(そしてすべてを忘れてしまう)。
夢の中で覚えている感情というのは渇望であり、(存在しないものへの)恋であり、そして何よりも永遠の切なさだと思う。夢の中では、永遠に日が沈まないまま、夕焼けのような世界だけが続いている。切なさは持続し、消え去ることも解消されることもない。
数日前、夢の中で見ていた風景を覚えている。夢の中で目が覚めて(そこもまた夢の中なのだけど)、家の中の窓から外を見る。すると、雲は分厚く空は暗くもう夜になりかけているくらいなのに、時計を見るとまだお昼の14時くらいで驚く。
あらかじめ失われている夢の王国、ヘンリー・ダーガーの描いた『非現実の王国』と、ルイス・キャロルの『シルヴィーとブルーノ』について。
***
左翼は分裂症的(そして双極性障害的)なのに対して、右翼は偏執病(パラノイア)的、という話を聞いた。大雑把なのは間違いないけれど、実際、そうなのかもしれないと思う。浅田彰の『逃走論』はすべてから逃げ続けることを、分裂し続けることを肯定するわけだけど、右翼は逆にすべてを引き受けようとする。伝統を、国家を、天皇を、歴史を(だからこそ、右翼、と呼ばれる人間たちは『逃走論』を読むことでいらいらした心地になるはず)。
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2022.11.11
インターネットで面白いと思えるものがあまり見つけられない人間になってきました たぶん私が色々下手くそになった、あと頭がね、硬くなってきた 悪くなってきた。
ここに何か書くのはそういう手持ち無沙汰もあります というかそれがほとんどだったんですけど最近はそれよりもラブレターの意味が強いことが多かったですね(あなたのことですよ♡)。
最近はねー、タブッキよくひらいてます。住んでいる場所の気候が似た作家たちの絵や物語の傾向に共通するものが増える気がするのは何故かしら、というようなことを考えていた。まぁみる花や空、食べ物が近しいものだからでしょう、『レクイエム』『他人まかせの自伝』すきです。あと最近は『フェルナンド・ペソア最後の三日間』ひらいた、たぶんはじめてじゃないだろうか。ペソアは最近『ちいさな生存の美学』で引用されているのをみてからずいぶん気になっていて、いえ名前はね、もちろん知っていたけれどあまりひらこうと思ってこなかったんだけど、そろそろかしらと思います。でも『不安の書』は分厚いので向き合うにはまだしばらくかかります。
あとすごく久しぶりに『3月のライオン』をひらきなおしたら やっぱりとてつもなく面白かった。
ああ、今日随分お酒が残っている日だったのであまり何もないです。朝の7���に近くても月は丸くてとてもきれいだった。ずっとuami聴いてました。こころぼそくて、
心細いんですけど、
君島大空のインタビューよく読んでます。
私たぶんあんまり気が合わないと思う……ずっとそれは思っている、すきな人と気が合うことはすくない、だからいつも一方的にすきなばかり
渡せないラブレターをしたためては積んでいくような気持ち。渡したところで相手に何かしらの感想を求められるようなことを私は全然言えないから、でもほら 手紙だとあまりにも対象が定まっているからそこに感想を持たなくていいですよと言っても居心地を悪くしてしまうでしょう。
なので瓶に手紙を詰めて外に流すようなことばかりしてしまいますね これはわりと卑怯な振る舞いだと思います。その自覚はあります。
よろこばせたいと思わずに書くラブレターに宛先は要らない気がします、
だからどちらかというと それが自分以外に作用する可能性としては このような熱をあげさせる誰かというのはどんなもんだろうと第三者に興味を持ってもらうことだと感じていて、私がやっていることの全部はそれです。本屋、本屋だってそうだ。
映像喚起力が高い曲が僕は好きなのですが、それは、目からの情報からだけで生まれるのではなく、触感も含めた「感覚」から生まれることもあると思います。そういう意味では、自分の中に内在する映像に向けて音楽を作っています。そして、言葉へフォーカスするのは言葉と映像の「ずれ」を出すためのものなんですね。それが出ると、音楽がとても肉体的になると感じています。「耳から入ってくる映像」みたいなものを作ることが理想です。
そうでしょうね、と ずっと思っています 私がそこで喚起する映像は多分つくる人の中にあったものとは随分違うんだろうけど。
でもそれは私にとっていいもので、それを浮かべることができる音楽があることにとてもたすけられているんですよ。
このたすかりが決してうつくしいものではない、と思うんだけど。
身体から精神がもれていくことがとてもつらい。どれだけそれを慰めるために構造をみてもたいしたことはないとわかっても たえられない、と思う時間があまりにも長くて強い。
それをごまかすためだけに他の何かを傷めることが惜しくないくらい、
正気にかえった時いつも何かがボロボロになっていることにたびたび血の気が引いてしまっても それが別の苦痛に繋がっても その瞬間たえられない 生きられない をごまかすためには仕方なかったといつも思っている。
でも生きられない でいいのかもしれない その方がまだいいのかもしれない
というようなことを最近時々思います。しがみついてずれ、を直そうとしている。直したいと思う。直らなくてずらす人の話に慰めをもらう。故意のずれ、を そのぼけたピントだからみえる輪郭のない風景のうつくしさ、は 私をとても安心させてくれます。眼鏡をかけずに外を歩き回るたのしさ 照明に境界のない夜景のうつくしさ、
でもその光の先に人がいることを見ないことが卑怯だと わかっているんです わかってるんですよ
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誠に人はいじらしい。がんばれ大丈夫、とこの映画は励ます。傑作。(山﨑 努)
庄司輝秋監督「さよなら ほやマン」舞台挨拶付@フォーラム仙台_20231104
刺さった。じぶんにとって絶対よく判る映画だという気がして、みるまえに絵を描いて行ったが、果たしてそのような内容の映画であった。つまり、この映画は私たちの物語というコトだ。これほどの物証があるだろうか?
そこに時間があり、人びとがいて、それを代表する素晴らしい俳優がいて、よい映画監督がいて、映画が一本創られたというコトだ。
sayonarahoyaman
THE BOOK
「フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路」 [著]澤田直
ペソアは「異名者」と呼ばれる70もの別の人格を作り、生涯にわたって文章を書き分けていた。その量は膨大なもので、死後に見つかっただけで約2万7500点に達する。これは生前に発表した創作が何十分の一にも満たなかったことを意味する。ペソアにはこれらの詩を書物として完成する意思も希薄だった。だが、それは創作が未完だったことを意味しない。創作という行為が現実の自分からの脱出を意味するなら、脱出に完成などありえない。(椹木野衣)
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読んだ本 読み終わった本 新編 不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア 澤田直 訳 平凡社 ファドを読む あのメロディの印象がこの文章の印象で 箴言集のようでもあり 徒然なるままに、な時も有り 言葉に集中していくと 彼の孤独に 彼の夢の中へ引き摺り込まれる 章ごとに少し読んで 本を閉じても 昼寝明けのようにぼんやりする まどろみの中で触れた孤独が 思いの外深くて 他人の夢に居たと気づく #読書 #読了 #読み終わった本 #新編不断の書_断章 #フェルナンドぺソア #澤田直訳 #平凡社 #平凡社ライブラリー #此処は誰 #私は何処 https://www.instagram.com/p/CmWaOVSvENX/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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私は逃亡者 Sou um evadido
私は逃亡者。
生まれるとすぐ
私は自分の中に閉じこめられた、
ああ、でも私は逃げだしました。
おなじ場所にいることに
人が飽きるのであれば、
おなじ存在でいることにだって
飽きるのではありませんか?
我が魂は私を探している
だが私はあちこちを逃げ回る、
魂が私を
どうか見つけませんように。
自分であることとは牢獄、
私であるとは 存在せぬこと。
逃げ回りつつ 私は生きてゆこう
それが本当に生きることです。
──フェルナンド・ペソア 菅啓次郎訳
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なにも読まず、なにも考えず、眠りもしない。自分のなかを、川床を流れる川のように人生が駆けてゆくのを感じる。
彼方には、外には、大いなる沈黙がある。まるで眠れる神のように。
私はひたすらやり直すことで人生を過ごしている。——だが、どこからやり直すのか。
フェルナンド・ペソア『不穏の書・断章』
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頭に大きなツノがでたあ!
瞬間と永遠、中心と周縁、内部と外部、部分と全体、単一と複数、陰と陽など、いわゆる二元論的な命題をひとつに束ねるというのは私たちの夢であると思います。こと小説においては、『失われた時を求めて』のマルセル・プルーストが瞬間の中に永遠を見出したと言われ、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は、その一文々々が小説の全体を体現している、あるいは小説の全体が一文々々に収斂しているなどと言われている。
いきなり大作の名とともに大口を叩いてしまったことを後悔もしているのですが、それらの名が思い浮かんでしまったからにはどうしようもありません。そもそも、いまからそのことについて書き連ねようとしている『かおるクロコダイル』という小説を、上に挙げた二つの小説と比較する意図もとくにはありません。ただ、何がしかの指針には成り得るのではないか、そのような予感めいたものが冒頭の文章を書かせたのです。
-薫くんの頭から生えた黒くて長いものがぶーんぶーんと揺れるのだ。こう書き始められる『かおるクロコダイル』という小説は、-わたしはそれを陽だまりのなかから眺めている。と繋がれる。そして、その「黒くて長いもの」がクラスメイトから「ツノ」と呼ばれている描写をはさんで、-そういう薫くんの頭には黒くて長いかたまりが立派に生えていて、どう形容していいかわからずツノという名称はなるほどわかりやすいなと思う。と、一人称のわたしの目線から語られている。ここでまず驚くべきなのは、頭から黒くて長いものが生えてくるという異常な事態がさも当然のことのように書かれている点です。いや、さも当然のことのように書かれているのでもない。『かおるクロコダイル』という小説において、薫くんの頭から黒くて長いものが生えてくるのは至極当然のことなのです。あえて「驚くべきなのは」と強調しましたけども、それは驚くべきことでも何でもない。それはただ当たり前のものとして、そこでぶーんぶーんと揺れている。それは何かのために(そう、それはたとえば小説という舞台のために)与えられた条件ではなく、薫くんの頭からそれが生えてくるのにハナから理由なんか存在していないのです。そういった因果とはまるで無関係なものとして、その黒くて長いものは私たちの眼前にいきなり視覚的現実として提示される。
この時点で私たちは小説から置いてきぼりになっています。ふつう、全長3メートルは優にあろうかという巨大なオッサンの顔面が彼の目のまえに佇んでいた、と書かれるならば、彼は度を逸した近眼であったとか、彼はLSDをキメてとんでいたとか、それ相応の説明が為されるべきであり、全長3メートルのオッサンの顔面が常にわけもわからず彼の眼前にあったとしたらこれは大変なことになると思われます。すると、オッサンの顔が手のひらサイズになった。オッサンは腹が減ると小さくなる。手乗りオッサンは彼の手からご飯粒をついばんだ。と、仮に続けられたとしても、奇怪なオッサンがさらに奇怪になるだけで、これでは底なしの流砂の上に家を建てようとするのとあまり大差はないでしょう。それと同様に感情が高まると黒いツノが出ると書かれたところで事態はとくに変わるはずもなく、私たちは依然として底なしの流砂の上にいる。
こういった書き方をする人の代表として、フランツ・カフカがいると思います。カフカ本人もノートだったか書簡だったかに書いていますけども、読み手はおろか、書き手のじぶん自身が驚くようなものを書いていきたい、と。このようにして、ある朝、グレーゴル・ザムザは虫になっている。ここで驚くべきなのは、ザムザが奇怪な虫になったことそのものではなく、何の身に憶えもなしに虫になってしまったことだと思います。たとえ、ザムザが虫になったとして、そこに何かしらの理由があるのなら、なんだ、そういうことか、と腑に落ちることができる。カフカはその理由のなさを最初の一文で提示してみせる。どれも未完にして、彼の代表作となった長編三部作(アメリカ・審判・城)にしてもそうなのです。
ところで、これはもう歴史的な事実といってもよさそうですが、世代を超えて読まれ続けている小説にはふしぎと未完のものが多い。カフカの長編、それから最初に挙げた『失われた時を求めて』もそうですし、失われた時とジョイスの『ユリシーズ』とともに20世紀の三大小説に数え挙げられるローベルト・ムージルの『特性のない男』も未完に終わっています。このことから導きだされるのは、小説の書きはじめは、書きおわり以上に重要であろうということです。だいたいその小説がどんなふうに締められたのかはろくに憶えていないのに、ある小説のはじまりについては、その文字の連なりを一字一句まで記憶してはいないでしょうか。『変身』の冒頭は鮮明に憶えていても、この小説がどのように締められたのかを憶えている人はどれほどいるでしょうか。『雪国』の冒頭は鮮明に憶えていても、この小説がどのように締められたのかを憶えている人はどれほどいるでしょうか。
小説のはじまりとは、"それ自体が丸ごと"ひとつの契機であると思います。それがなければ小説はのっけから存在することもできない。
理由もなく虫になったグレーゴル・ザムザ、理由もなくアメリカに渡されたカール・ロスマン、理由もなく逮捕されたヨーゼフ・K、理由もなく城に呼ばれたK、これらはカフカにとっての"それ自体が丸ごとひとつの契機"だったと思うのです。これらの理由のない契機を発端に、カフカは小説という城を組み立てようとする。理由のない驚きの上に、さらにKが困惑を重ねるように書き続ける。しかしながら、それは底なしの流砂の上に城を建てるようなものです。当時、隆盛だった実存主義の立場から、カフカの小説は不条理だと言われます。カフカの小説的磁場の中では実存が揺らぐというのです。
それにつき、カフカさながらの理由のなさを"それ自体が丸ごとひとつの契機"とする『かおるクロコダイル』はどうでしょうか。そもそも、驚かない。何度も繰り返すようですが、薫くんの頭から黒くて長いものが生えてくるのは至極当然のことなのです。何か事が起こるたびに驚いて慌てふためくカフカのKとは打って変わり、そこでは実存が揺らぐこともなく"だいじょうぶ"なのです。薫くんはもとより、幼馴染のりんちゃんも、いじめっ子から理解者になった龍一くんも、その他クラスメイトのいじめっ子も、黒くて長いものが生えてくるという理由のない異常な事態をその通りに受け止めているのです。ただひとり薫くんのツノを"問題"として捉えている人のことは後述しますが、基本的には誰も彼もツノを問題だなんて思ってはいない。せいぜいイジりや虐めのネタにされる程度のしょーもない"理由"に過ぎないのです。しかも、より過激になる虐めにたいして、薫くんの意思とは無関係にツノがひとりでに反撃に出る。クラスメイトに怪我を負わせる。でも、そのことすらも当然のこととして受け止められているのです。この事件から、薫くんは学校に来なくなる。でも、ここでの問題は薫くんが学校に来ないということで、ツノがひとりでに暴走したことは、あくまでも薫くんが学校に来なくなった"理由"なんじゃないか? 程度のものに過ぎなくて、ツノのことは根本的な問題ではなく、ただの副次的な理由に過ぎなくて"だいじょうぶ"なのです。
実存は本質に先立つという言葉が示しているように、つくづくカフカの小説はその一文々々が"最前線"にあるように思えてなりません。Kはいつも最前線にて剥き出しの生身のからだを曝している。本質、それすなわち、たったひとつの真実、二元論を超えたところにKはいる。というか、毎度のこと、一文々々ごと、その移動のさなかで、どうにかギリギリでそこにぶら下がっているような具合だと思います。Kは困惑に困惑を重ねる、でも、そうやって実存が揺らいでも、Kはそのたびごとに根拠のない行動を、次のアクションを展開する。またそのことがKをさらなる困惑に陥れるわけですけども、こうした動機のない謎の元気ががむしゃらな推進力を生み、かろうじてKを最前線にぶら下げている。
真実というものは、水平線のような類いのもので、追えば追うほど遠ざかってゆくものだと思います。イタチごっこなんです。でも、あえて追わなければ遠ざかってもゆきません。その点、カフカはその距離をどうにか縮めようしたのか、本能的にそうしたのかは分かりませんけども、"理由"というものをのっけから廃することで、あらかじめその距離をゼロにした、それと引き換えに止まっていることが許されなくなり、あくなき綱渡りのような運動を強いられるようになるわけですけども。理由というものを追ってゆけば、その理由はまた何かの理由であり、またその理由は何かの理由であり、これから起こることもまた何かの理由によるものであり、今ここの現在は、過去と未来という名の無限小と無限大のはざまに常に取り残されることになります。この無限小と無限大が追っても追いつけない水平線なのでしょう。
では、カフカと同様に契機から理由を廃した『かおるクロコダイル』はどうか。ここにはサーカスのようにアクロバティックなアクションを持続させるKのような人物はいません。誰も彼も座布団に座ってお茶でもすするみたいに暢気なのです。薫くんが虐められていたとしても、せいぜいイタズラをする飼い猫を止めようとでもするみたいに、よっこらせと重い腰をあげる程度なのです。
いっぽうで、わたしことりんちゃんは、薫くんが心機一転して部活に入ったらしいという噂を聞かされたとき、へええ、ほおお。あの薫くんが写真! と、はじめて驚いている。あるいは龍一くんの「可能性は無限大なんだから、なんでもやってみればいい」という言葉にたいして「わたしたちはびっくりしているのだ。そのまっすぐな言葉選びに。そしてそれを信じて疑わない強い心に」と驚いている。何事もとくに問題視せず、驚くことのなかったりんちゃんたちにも、ある側面では驚く能力が備わっているのです。
それでも、やっぱり、虐めの火の粉が自分に降りかかってきても、例の事件から薫くんが学校に来なくなっても、りんちゃんたちはあくまでも落ち着いている。文化祭では落ち着いて自分たちの役目を果たし、スーパーで買ってきたジュースやお菓子を広げて打ち上げをはじめる。友達の令子が影で縁の下の力持ちをやっていたことにすこし驚く。そして、令子のお姉さんの目撃情報でギャラリーに行く。
このギャラリーで、『かおるクロコダイル』という小説において、はじめて"問題"が生じます。いったいどんな問題か。いっこうに誰からも問題視されなかった薫くんのツノが、写真部の小島さんにはじめて問題として捉えられ、ツノの写真が展示されているのです。展示について詰問を受ける小島さんは言い返します「黒木(薫くん)はわたしのパートナーでいいっていってるの。お互いが認め合っていれば、なにも問題ないじゃない!」。この時、『かおるクロコダイル』という小説を根底で支えていた"だいじょうぶ"がはじめて崩れ去る。それを象徴するかのように、りんちゃんと龍一くんは、肥大化したツノの内部で果てのない落下運動を続けます。
この肥大化したツノの内部で繰り広げられる"踊り"という主題については、それだけでまたかなりの文量が必要になってきてしまうと思われるので、ひとまず、踊りという儀式を経て、底の開いた小説がふたたび自足して立てるようになった、とだけ言うにとどめておきます。ただ、この一連の喪失からの救済を、書き手はツノの内部における踊りだけにとどまらず、外部からの視覚的現実として書いていることだけは加えておきたい。
まず、ツノがいままでになく巨大化する。ワニのような姿で聳え立つそれを、りんちゃんと龍一くんは見上げている。そして、ワニの巨大な口が二人を内部に飲み込む。真っ暗闇の空洞を二人はひたすら落下してゆく。当然、このときの落下は、たんにワニの大きさでは説明がつかない。どう考えてもそれ以上に落下しているように思えます。単純にワニの内部は空洞で底がないと考えたほうが合点がいく。では、どうして、ばふん! とクッションのようなものが二人の底に現れたのか。それはつまり、こういうことだと思うのです。さらに巨大化してグングン高さを増していったワニの大口が、花の咲くように末広がりに開いて、どんどん開いて、その大口はひっくり返るみたいにツノの全体をみずから包みこんで、宙に浮かんだ球体のようになった、と。単なる球体になっただけではなく、ツノの運動は依然として持続していて、球体の内部はたえず外側に花開き、その外部がまた内部に吸収されるような循環運動を繰り返しているように思えてならないのです。
最終章になっても、薫くんは相変わらず虐められています。
じぶんはこれまで約5千字もかけて、いったい何を書いてみたかったのかと反芻してみますと、それはおそらく"問題なんかありゃしない"ということについて書きたかったのだと思います。これはじぶんの基本姿勢でもあります。もちろん、目の前に何か問題があればでき得るかぎりの対処をしようと思います。それがじぶんの身に直接降りかかるものであれば、けっこう頑張っちゃう。なにしろ面倒臭がりで、楽したい、楽したい、ということばかり常に考えていますから、そのための努力には余念がないほうだと思います。じゃあ、じぶんに直接関わらないことはどうか。なにがじぶんに関わり合いのあることで、なにがそうではないか、その線引きは非常に曖昧なものだとは思いますが、具体的に目の前に困っている人がいるならば、でき得るかぎりのことはしてあげたいと思う。ただし、こんなことは傲慢な考え方だとは思うのですが、それを承知で言ってしまえば、その行為を優しさとして受け止めてもらいたくはない、という想いがある。優しさをあげているつもりもない、ただ問題にたいする一時的な対処をしているだけだという想いがあるんです。あえて、このことを"問題"というのなら、何か対処をするとかいう以前の問題なんです。すべてのあったこと起こったことは絶対に消えてなくならないということなんです。ふいに光った小さな埃でも、甲子園の劇的な瞬間でも、死んで詫びたいほどの大失敗でも、なんかこの世に産まれてきてしまったことでも、たまたま読んだ小説を心の底から祝福したいと思ったことでも、すべてのあったこと起こったことは絶対に消えてなくならなくて、それらをとにかくそのものとしてありのままに受け止めていたいと思うからなんです。そのなかには素通りされるものも、いずれ忘れ去られるものも、あり得べからずものとて対処されるものもあるかもしれない。でも、それはその後の話なんです。たんにそういったことがあったという事実とは関係がないと思うんです。その後に忘れてしまったり、対処することで別の形に変わってしまうとしても、まずはその事実をそのままの姿で見たい、受け止めたい、それが何がしかの"問題"として捉えられる以前の純粋な姿で。強いていうなら、全てのものごとを肯定したいということかもしれません。でも、そんな、神様みたいなことを。やっぱり傲慢なところがあるんだと思います。否定��って、一日に何度もしているように思います。ただ、肯定の反対は決して否定ではないと願いたい想いがある。まず、たんに見る、受け止めるという肯定がある。それとは関係のない次の段階に否定がある。あえて、肯定の反対をなにかそこに置くとするのなら、それはひとえに"問題"だと思うのです。
『かおるクロコダイル』の最終章を読んで、このような偏屈で傲慢で凝り固まったじぶんの考えがほぐされるような思いになりました。一時的な対処を、優しさと混同してほしくはない、それはそうかもしれないけども、ようは程度なのだと。あくまでも結果として、それが優しさに帰着するのなら、それはそれでいいじゃないか、と。
言葉というのはじつに不思議なもので、問題についてならいくらでも言葉を連ねることができるのに、こと問題を取り扱わないとなると、急に言葉足らずになってしまう。言葉は問題のないことを語る術を知らないらしいのです。問題がない、じゃあ、OK、だいじょうぶ、イエス、���い。そこで必然的に言葉を続ける必要はなくなり、あえて続けようとするならば同語反復的なことを繰り返すしかない。それじゃあ、問題らしい問題をあからさまに問題視しなかった『かおるクロコダイル』という小説は、どうしてここまで言葉を持続させることができたのか、ということなんです。問題以前のところに身を置くということ、それはたんに傍観すること、流すこととは似ているようでちがっている。問題というものは解決に向かう傾向があります。問題がすっきり解決されれば、それは嬉しいですよね。いっぽうで、問題以前のところに身を置くと、それは解決されるべき問題ではなく、程度の問題になる。程度といえば聞こえはいいですけど、それは問題のようにすっきり解決されるようなものではない。程度は程度としてそこに在り続け、晦渋とした状態が続くことでしょう。すっきりはしない、わだかまったものをそのまま受け入れていなければならないんです。そこに立つということだと思うんです。その上にはじめて小説をいう城を建設しようとしていると思うんです。このことは諦念でも、苦渋の選択でもないと思います。むしろ、より積極的で建設的な提案のように思えます。問題にわざわざぶつかりに行くよりも、何よりもの近道だと思います。面倒臭がりで、楽したがりのじぶんが���っているんだから信憑性はあると思います。
最後に、この素晴らしき作者のペンネームの由来になったであろう、フェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』からひとつの詩を引用して終わりにしたいと思います。ここまで長々と読んでくださった方、ほんとうにありがとう!!!
世界が作られているのは、われわれがそれについて考えるためではない。
(考えるとは、眼の病気だ)
そうではなくて、われわれがそれを眺め、それに賛成するためなのだ。
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2022/12/11
BGM: The Smiths "Bigmouth Strikes Again"
昨日は寝る前にずいぶん久しぶりにTwitterをしてしまった。後悔しているわけではないが、反省はしている。Twitterをこれからどう使うか考えたのだけれど、読書メモを公開できないかと思うようになった。自分の読書について、実況中継的に何を考えながら読んでいるか書いていく。他人と議論をすることや、自分の意見をラフな形で世界に提示することに前ほどには情熱が持てなくなった。雑にジャンルを跨いで何かを論じることは一種知的な冒険を冒すようで気持ちがいいが、それに慣れると暴論を開陳して悦に入るようでみっともないとも思うようになった。
この日記をどう書いているかなのだけれど、いつも私はマルマンから出ているメモパッドに英語でメモを書いている(日本語でメモを書いていた時期もあるのだけれど、どうしても長続きしなかった。試しに英語でメモを書くようにしたらストンと腑に落ちたようで続くようになったのだった)。そして、1日の始まりの朝に昨日起きたことをそのメモを読みながら振り返って、そして書き記しているのだった。日本語で書き終えてから、それを英語に訳していく。私の知り合いはフランスやインドネシアに住んでいて、英語しか読めない人もいるので英訳を始めたのだった。
青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀』を読み進める。日記というジャンルはなかなか味わい深い。ストーリーがあるわけではなく、ただ日々の出来事が五月雨式に続いていくだけだ。だが、そのデタラメとも言える日々の記録が読み進めるにつれて味わい深くなっていく。考えてみればジョン・アーヴィングを並行して読んでいるのもそうした、コンセプチュアルというか大掴みというか、頭でっかちに捉えられないデタラメな人生の実相が孕む偉大さ/深遠さを味わいたいからでもある。私の嗜好は今、そういう「世界のデタラメさ」を触れることに向いているようだ。
日記ということで言えば、アンディ・ウォーホルの日記を再読するのも面白いかもしれない。人から教わったスチュアート・マードックの日記はどうやら入手困難なようなのだけれど……自分は日記マニアというわけではないと思うが、それでもたくさんの日記を読んできたのだなと思った。私だってその読書の成果からこんな日記を(もう、初っ端に抱いた動機も忘れてしまったが)始めてしまったわけだ。考えてみれば私の大好きなフェルナンド・ペソア『不安の書』だって日記みたいなものだし、古井由吉やロラン・バルトだって日記のようなエッセイを書き残している……日記とはそうして考えていくと奥が深いもの、素晴らしいものなのかなとも思う。
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2022_08_02
日付変わって八月二日。あっという間に日々が過ぎる。何をしているわけでもないのに。日曜日は夕方から郵便局に行ったりと用事を済ませた。暑くてかなわない。母から桃が届く。福島産。岡山で生まれたのに私は福島とか山梨の固い桃のほうが好きだ。
今の部屋に住んで七年目にして、徒歩一分半の場所にあるバス停からバスに乗ることを覚えた。駅まで歩かなくていいし空いていて涼しいし快適。方向音痴なので新しいルートを覚えるのにこれだけかかる、というより保守的だから新しい道を覚える気がそもそもないんだろう。欲しい本が大きな書店にしかなかったので池袋に行った。三省堂とジュンク堂を梯子して五冊。夏のボーナスが出たので気が大きい。
・小野和子「あいたくてききたくて旅に出る」
・安西水丸「たびたびの旅」
・山田稔「某月某日 シネマのある日常」
・山田稔「こないだ」
・山田稔「コーマルタン界隈」
あまりにもわかりやすい山田稔ブームよ。
さっそく「シネマのある日常」を読み進めていたら須賀敦子の名前が出てきて、この二人がつながるとは思っていなかったので驚いた。須賀敦子のことをもっとも好きな作家の一人だと書いている。堀江敏幸、池澤夏樹、須賀敦子、山田稔、アントニオ・タブッキ、フェルナンド・ペソア。自分の好きな作家たちが、みんなどこかでつながっている。
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シャトー・ラコストの方へ 6
マルセイユ空港。三日前にこの空港に着いたとは思えないくらい、シャトー・ラコストの滞在は私たちを変えた。いつものエールフランスらしく、パリ行きの飛行機の出発は遅れていた。ゲートの前には大勢の人が待っている。予定から三十分くらい遅れて、ゲートが開いた。狭い通路をひとりひとりスタックしながら進んでいくため、 乗客が全て席に着くまで、さらに三十分もかかったのではなかろうか。 そんなに疲れていたつもりはなかったのに、座席に腰を下ろした瞬間に、私はすとんと眠りに落ちた。
やせっぽで優秀なココが隣りの座席でブランケットにくるまれて眠っている。彼女とはよく一緒に旅にでる。毎回びっくりするくらいの用意周到さで完璧な旅を企画する彼女だけれど、蛹のようなそのあり様はひどく儚くみえる。 今生でふたりが出会ったとき、ココはおさげだった。わたしはおかっぱだった。ふたりは15歳だった。ココはとにかく口数が少なく、バカな話をするのはいつもわたし。一緒にいてもあまりおもしろくないんだけど、、でもなぜかいつもとなりにいて、いつ のまにかそれがあたりまえのようになった。同じ大学に通い、いつしか社会人に。社会人(ってゆう言葉自体、ヒトの区分として不自然極まりないが)になる心の準備ができてるひとなんていないんだろうけれど、ふたととも全く準備なんてなく、ひどく無防備な状態に置かれていた。じぶんじしんのことを知らないままにいくつかの恋もして。その時点からさらに十年以上が経過し、ふたりはまた隣同士で旅にでる。物理的には近くにいるけれど、この十年間で経験した様々なこと、その時々に、彼女がわたしをほんとうに必要としたときに、わたしは彼女の心に寄り添うことができただろうか。ふと���そんなことがあたまをよぎる。
ねえねえ、先生、ココに南フランスに行こうって誘われているんだけど、行ってもいい時期かな?わたしは、約一ヶ月前、ここ何年かお世話になっている行きつけの鍼灸院で、治療を受けながら、先生に聞いた。先生は摩訶不思議な力を持った治療家だ。わたしは週に何日か治療をしてもらっていて、とりとめのないおしゃべりをしたり、あらゆる種類の相談ごとをしたりする。そんなわたしを先生はいつも適切な方向に導いてくれる。ねえねえ、先生、ココは文才がすごいの。おしゃべ りはさっぱりなんだけど、彼女が書く文章にはうんとチカラがあるの、むかしから。 先生は、ほんとだ、ココちゃんには文才があるね、という。先生には何でもお見通しだ。一瞬先生の手が止まった。あれ、ヴィジョンが見える。今回の旅・・・何かを解消するのかも。 え、なになに?わたしは食いついた。 そこからは堰を切ったように、先生は見えるものを語り始めた。南フランス、特にプロヴァンスだね、中世の時代に、シシィちゃんとココちゃんがいる、二人とも能力が高かった。けれど、女性であるがゆえに才能を活かせなかったんだろうな。シシィちゃん、去年の夏にフィレンツェでアルノ川のほとりので水の女神さまに会ったじゃない、それとつながっているみたい、水つながりかな。そう、わたしは去年の夏に、 姪と一緒にフィレンツェを旅して、先生の指示でフィレンツェを流れるアルノ川のほとりへと赴いた。そして、ある儀式をしたのだった。 先生は続ける。ムサ?ムーサ?ミュージックの語源なのかなあ。ムーサっていう芸術の女神さま、ご縁のある 女神さまがいらっしゃるんだけど。「ご作法」やります?やります!わたしは即座に答えた。 きっとふたりとも才能を発揮し易くなるよ。あと、ふたりのご縁そのものがよりよいものになるはず。女神さまは音楽と詩を司っているから、パリではオペラ座に行って下さい。いきますっ!オペラ座の前は何度も通っているけど実は中に入ったことがなくて、、きっとココも喜んで行ってくれると思います。 先生は、プロヴァンスの女神さまがいらっしゃる場所を特定しておいてくれると言う。わたしはわくわくして数日待った。
次の治療の日に、先生はこう言った。場所がわかりましたよ。あれ、なんだったっけ?えっとね、と先生は携帯電話を探る。「ふぉるかるきえ」ですね。聞いたことないよねぇ、この前もかれらが何てゆってるのか聞き取れなくて。 ふぉふぉるかるきえ??わたしもその聞いたことのない名前に戸惑った。 さらに数日後、先生からメッセージが届いた。「こんにちは。ご作法で、ローリエ葉七枚が必要です。あと、これもご作法なんだけれど、シシィさんは歌を、ココさんは詩の朗読をして、女神さまに捧げて下さい。」 そして、先生はお札を用意してくれた。お札は十七枚あって、古い魔法の呪文が書かれていた。シシィの歌とココの詩の朗読で発動するものだという。先生に言われたとおりにローリエの葉を七枚用意した。 あとは、現地で水500ccと白ワイン720cc以上を用意すればいいと言う。ローリエ、白ワイン、美味しそうな料理ができそうだけど、フランスならではのものだな。 女神さまが「待っていますよ」と仰っていますと先生が伝えてくれた。女神さまが待っている。わたしは、治療中もその後もしばらくその実感があって、ハートがじーんと熱くなる。見えない何かがつながった。そのつながりをたしかなものにするためのご作法をする。わたしたちは時空を越えてつながっているんだ。十年以上習っている声楽、いつもはうまいとか下手とかテクニックばかりが気になるけれど、この度はそんなの全然関係なくて、とにかく心を込めて歌えれば、それだけでいいのだとわかる。あたりまえだけれど、女神さまにはごまかしは一切通 用しないのだから。ありのままの今のわたしの歌を届けるしかないんだ。わたしの歌を待っていてくれるひとがいる、いや、より正確に言うと、わたしなんかの歌を待っていてくれる方、しかも人間より高次元、がいる。初めての感覚にただただうれしくて有り難くて涙が出てくる。歌うこと、表現すること。この巡り合わせにひたすら魂がよろこんでいる。音霊、言霊。
その日。わたしたちは小一時間ばかり迷った挙句、やっとその場所にたどり着い た。シャトー・ラコストで調達した白ワインのボトルをお部屋から借りてきたワインオープナーで器用にあけるココ。「このオープナー使いやすい。買ってよかったわ」と比較的切迫つまった状態でも感想をのべることを忘れない。わたしは日本から持参したご作法キットを下を流れているであろう小川に向かってまく。 そして、お水と白ワインをまく。
女神さまが潤いますように。シンプルなフランスものの歌を選んできた。フォーレのレクイエムよりピエ・イエス。この曲にイメージするのは、ヒトひとりひとりが地上における光の柱である姿、ひかりの柱が天高く届くように、 あるいは天から光が降り注ぐように、また弱くなったひかりを大事にまもり、ひかりをわけあたえるような。。 ところが実際のお作法の場面での歌はというと、、うんとあっけなかった。もっと味わいたかったのに時空の狭間にからめとられ、感覚が麻痺しているかのようだった。 こんなんで女神さまは満足してくださるのー??現実世界における時間的、物理的制約も意識される中での感覚の喪失。続いてココが朝に選んだフェルナンド・ペソアの短い詩を読み、そそくさと終えようとする。フォルカルキエくんだりまできてシャイになってる場合じゃなかろうがーーー!感覚はオンオフを繰り返す。オンになったわたしに喝を入れられたココは自作の文章を朗読。自分のことは棚に上げ、オンになったところで声がちいさーい!とまた一喝。はたして女神さまは喜んでくださったのだろうか。お作法は成功したのだろうか。
そのとき、ピンクの小さな花びらがふわりと舞ったのが見えた。いちまい、またいちまいと、その数は増え、日本の桜のように舞い上がり、わたしたちを包んだ。芳しい香りが漂った気がした。花びらの動きのなかに、わたしはシンプルで短いメッセー ジを読みとった。
わたしはここよ
ふたりともありがとう
とてもうれしいわ
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あたたかな雨が降り ページをパラパラする日 フェルナンド・ペソア詩選 ポルトガルの海 池上岑夫編訳 彩流社 フェルナンド・ペソア snsで知った詩人 140文字以上読みたくなる仕掛けに嵌る ポルトガル文学に触れる #読書 #読み始めた本 #詩集 #フェルナンドペソア詩選 #ポルトガルの海 #フェルナンドペソア #池上岑夫編訳 #彩流社 #週末の過ごし方 #雨の日の過ごし方 #積読消化 #晴耕雨読 https://www.instagram.com/p/CbjIsTvPjIp/?utm_medium=tumblr
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夢の続きを 2018.7.16
真の人生は 子どものころ夢みていたもの 大人になっても 霧のなかで見つづけているもの
(フェルナンド・ペソア)
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『夢の続きを 2018.7.16』
会場:nicolas(東京都世田谷区太子堂4-28-10 鈴木ビル2F)
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「Daydreaming Radio」*キャンセルが出たため、残り2名さま受付中です!
出演:扇谷一穂&けもの
アシスタント:トオイダイスケ
お菓子&飲み物:nicolas
開場:14時30分 開演:15時 終演:16時30分頃
料金:3700円(お菓子と飲み物付き)
「Daydreaming Radio」は白昼に夢を見ている人にだけ聴こえるラジオ番組。真昼の月明かりで繰り広げられている夢を、朗読、演奏、トークによって生中継します。ナヴィゲーターは扇谷一穂とけもの。アシスタントはトオイダイスケ。お菓子と飲み物はnicolas。
この番組では、扇谷一穂、けものへの曲のリクエスト(それぞれのオリジナル曲限定)を受け付けています。よろしければ、お申し込みのメールにリクエスト曲も明記してお送りください。また、ハッシュタグ #daydreamingradio #これは真昼の夢かもしれない で、真昼の夢体験を募集しています。ハッシュタグの投稿の中から、当日、ナヴィゲーターの2人が幾つか読ませて頂きます。
photo:ryo mitamura
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「夢を守る」*定員に達したため、キャンセル待ちとなります!
出演:寺尾紗穂(歌とピアノ)&平田俊子(朗読)
前菜&メイン&デザート&ドリンク:nicolas
開場:19時 開演:19時30分 終演:21時30分頃
料金:5000円(前菜&メイン&デザート&ドリンク付き)
世界は夢の反射。何度も夢を見て、何度も目をつぶり、何度も目を開けて、何度も道に迷い、踊りましょう。
photo:ryo mitamura
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「夢の続きチケット」:7700円(「Daydreaming Radio」&「夢を守る」)
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お申し込み:下記アドレスまで必要事項を明記のうえ、メールをお送りください。
件名「夢の続きを 2018.7.16」
1.お名前(ふりがな)
2.当日のご連絡先
3.ご予約人数
4.ご希望の公演名:Daydreaming Radio・夢を守る(キャンセル待ち)
5.リクエスト曲(Daydreaming Radioお申し込みの方。7月2日締切。)
*ご予約申し込みメール受信後、数日以内に受付確認のメールをお送り致します。
*メール受信設定などでドメイン指定をされている方は、ご確認をお願い致します。
*当日無断キャンセルの方にはキャンセル料を頂戴しています。定員に達し次第、受付終了いたします。
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プロフィール:
扇谷一穂(Oogiya Kazuho)
東京生まれ。幼少時より能とバイオリンを習う。中学生の時ジャズを夢中で聴くうちに、音としての自分の歌声の響きに面白さを感じ、大学在学中にオリジナル曲を作り始める。’02年オリジナル曲アルバム『しののめ』(midicreative)、にてアルバムデビュー。深く手触りのある歌声と、都会的なセンス溢れる詞と楽曲で注目を集める。’07年におおはた雄一プロデュースによる、スタンダードを中心としたカバーアルバム『Canary』(galactic)’10年に『たくさんのまばたき』(tropical)をリリース。3アルバムともにアートワークを自ら手がけ、個展・ライブを重ねる。CM曲やナレーション、客演作品も多数。ゴンチチのクリスマスアルバムへ作詞・歌唱で参加するなど多彩に活動している。近年は詩や文学作品の朗読にも力をいれており、子どもに向けて声のワークショップも行っている。2018年3月8年ぶりのニューアルバム「heart beat」をタワーレコードよりリリース。HP : www.kazuhooogiya.com
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けもの
©田里弐裸衣
シンガーソングライター青羊のソロプロジェクトが「けもの」。
2017年に菊地成孔プロデュースで「めたもるシティ」アルバムリリース。
2018年春、盛岡にて菊地成孔、柴田元幸とともに朗読と音楽のイベントに出演。
http://kemonoz.com/
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寺尾紗穂(Saho Terao)
シンガーソングライター、エッセイスト。1981年11月7日東京生まれ。
2007年のアルバム「御身」が各方面で話題になり,坂本龍一や大貫妙子らから賛辞が寄せられる。大林宣彦監督作品「転校生 さよならあなた」、安藤桃子監督作品「0.5ミリ」、中村真夕監督作品「ナオトひとりっきり」など主題歌の提供も多い。2015年アルバム「楕円の夢」を発表。路上生活経験者による舞踏グループ、ソケリッサとの全国13箇所をまわる「楕円の夢ツアー」を行う他、2010年より毎年青山梅窓院にてビッグイシューを応援する音楽イベント「りんりんふぇす」を主催。アルバム「わたしの好きなわらべうた」では、日本各地で消えつつあるわらべうたの名曲を発掘、独自のアレンジを試みて、「ミュージックマガジン」誌の「ニッポンの新しいローカル・ミュージック」に選出された。 2017年「たよりないもののために」を発表。
著書に『評伝 川島芳子』(文春新書)、『原発労働者』(講談社現代新書)、『南洋と私』(リトルモア)、「あのころのパラオをさがして」(集英社)、エッセイ集『音楽のまわり』など。
http://www.sahoterao.com
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平田俊子
詩や散文を書いて暮らしています。赤ん坊の頃から島根、鳥取、山口、福岡、京都、兵庫を転々と。1990年、何のあてもないまま35歳で上京し、いろんなことに難儀しながら今も東京に住んでいます。これまで『ラッキョウの恩返し』『ターミナル』『詩七日』『宝物』『戯れ言の自由』などの詩集を出し、晩翠賞、萩原朔太郎賞、紫式部文学賞などをいただきました。小説に『二人乗り』(野間文芸新人賞)『スロープ』、エッセイ集に『スバらしきバス』『低反発枕草子』など。2015年6月から読売新聞「こどもの詩」の選者をしています。立教大学で5年半、青山学院女子短期大学で5年、詩やエッセイの授業を担当していたこともあります。わたしの「富士山」という詩に寺尾紗穂さんが曲をつけて歌って下さっています。
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nicolas
三軒茶屋にあるカフェ。茶沢通り沿い、パン屋さんの2階です。
http://www.nicolasnicolas.com
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ビジュアル:扇谷一穂
企画:熊谷充紘
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詩人
一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。 ——— フェルナンド・ペソア
至言だと思う。現代思想や現代詩の、ナルシスティックでペダンチックな詩論は必要ない。僕はこの詩が好きだ。
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時(いつ)でもそれは寂漠(せきばく)だ。
僕はその寂漠の中にすっかり沈静(ちんせい)しているわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れている。
そのためにははや、食慾(しょくよく)も性慾もあってなきが如(ごと)くでさえある。
しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったため��はない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著(つ)く一か八(ばち)かの方途(ほうと)さえ、悉皆(すっかり)分ったためしはない。
時に自分を揶揄(からか)うように、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいうのであろうか?
中原中也の詩だけれど、全く思ったことを、バカ正直に書いたのだと思う。しかも綺麗だ。バカ正直で、綺麗なのが、一番いい。詩の勉強をして、他人の目を伺って、2ちゃんねるで賞の傾向を調べて、頭で詩を書く人間が人間だ。人間だ。そういう詩人より、小学生が書いたせんせいけらいになれという実際に感じたことを書いた詩の方が好きだ。これは人間じゃない。僕も今までさんざん夜やら絶望やら内臓やら思ってもないことをそれっぽく書きまくってきたが、嘘はやめようと思う。思ってることを、そのまま書こう。下手でも、嘘つきよりは、正直者のほうがいい。
円光
なんで生きてるの 死ぬのが怖いから
なんでそういうことするの 寂しいから
ほんとは寂しくないのに 孤独と虚しさが混じった感情
母親に教えてもらった 母親は母親の高校の先生に教えてもらった
「毎日綺麗なモノを観なさい」
母親は当時その意味が分からなかった 僕も分からなかった
今は分かった 僕もみんなに伝えたい 毎日綺麗なモノを観なさい
なんで愛されたいの 寂しいから
愛されたいときは 呼吸をしよう 植物からの 無償の愛
なんの世話もしてないのに 毎日踏みつけてるのに 美味しい空気をくれる
なんでそういうことするの お金が欲しいから
月並みな言葉だけど お金より大事なものはあるよ 例えば 月
月の円光を見てごらんよ 紙よりずっと綺麗だよ
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今週末に引っ越す。このコロナ禍に引っ越すというのがcorrectな選択なのかどうか不安はあるが、まあ緊急事態宣言も解除されそうな気配だし、26歳から27歳へ切り替える儀式として何かが必要だと感じたのですることにした。この四年間で五回も引っ越している。多すぎる。一度の引っ越しに40万くらいかかるとして、200万も引っ越しに使っていることになる。道理で同期より貯金が少ないわけだ。だいたい人生の転機に引っ越しているんだが、こんな毎年人生の転機があっちゃたまらない。そろそろ落ち着いた暮らしを営みたい。我ながらもうずっとはしゃぎすぎなんだ。別に老人ぶるつもりはないが、それでもこの頃は次のステージの人生をやってみたいという心持ちになっている。なんというか、俺にとって27歳は落ち着いているのが相応しい歳なのだ。27歳といえば27クラブであり、ジミヘンやバスキアやカートコバーンが死んだ歳だ。まあ死というのもある種の落ち着きではあると思うので、情熱に生きた人々がここで死を選ぶというのもわからなくはない。恐らく俺はかつての本とゲームとインターネットが人生の9割を占めた時代のルサンチマンの反動だけでここまで生きてきたが、そろそろその燃料も切れてきたのを感じる。26歳は、よく喋った。ルサンチマンの残滓を燃やし尽くすかのように喋った。一種の躁状態だったように思う。もういま、ほとんど話したいことはなくなった。Twitterも、この前までは心に急き立てられるように、胃の中を空っぽにした後、なお胆汁を吐くように言葉を押し出していたが、まったく呟きたくなくなった。この文章も、書き上げることに意義があったので公開する必要もないかと思ったが、惰性で公開しておく。人は、与えるために話すときと、受け入れられるために話すときがある。時に、後者は必要に駆られている。理解を得られない孤独で死ぬことがある。少し友だちについて話す。以前、永井均先生がTwitterで、フェルナンド・ペソアの「私にとって、美しい一本の樹よりも、人間の方が重要であったことはない」という文章に対して、「ではなぜそのことを言葉で言う必要があるのか?」と呟いていた。人間が重要でないなら、人間にしか理解されない言葉というものを用いて発信する必要もないのに、というわけだ。ペソアは、言葉とは裏腹に、言葉を用いるという行為そのものによって、どこかで人間に理解されたがっていたのかもしれない。
「言葉友だちとは世界友だちになれず、世界友だちとは言葉友だちになれない」
「言葉友だち」は、言葉を共有する友だちで、「世界友だち」は、世界を共有する友だちだ。さて、僕の友だちは、なべて「世界友だち」だったのかもしれないと最近思い直した。言葉は理屈であり、理屈は原因を求めるからだ。つまり言葉による友だちは、いずれ「なぜ私とあなたは友だちなのか?」という問いに突き当たる。「これこれこういう理由で友だちですよ」というならば、「じゃあもしそうでなければ友だちではないのか?」というふうに、条件を関係性に課す。だが、友だちっていうのはそうじゃない。無から宇宙が生まれる、その原初にある量子ゆらぎと同じなにかが、特定の人と人とのあいだに弾け、そして無根拠に無条件に友だちになっている。だからそれは常に事後的にしか観測できない。もし「友だちになろう」という宣言があったとしても、本当に友だちになったとしたら、それはその宣言の直前にもう友だちになっていたのだ。だから、先ほどの「なぜ私とあなたは友だちなのか?」という問いに対しては、「わからないし、わからないから友だちなんですよ」と答えるほかない。このprimitiveな矛盾を呑み込んだ限り、「友だちをやめる」という行為は有り得ない。それを共有しているということはすなわち世界を共有しているということであり、そのようにして成立した友だちはすべて「世界友だち」だ。いかに言葉を交わしていたとしても。じゃあ、友だちと交わす言葉はいったいなんのためにあるのか? 人は一般にコミュニケーションのため、彼我の溝を埋めるために言葉を用いたがるが、不完全な能力しか持ち得ない人間が各々のガラパゴス言語体系からガラパゴス言葉を応酬しても、実際は各々の思い込みが加速していくだけなんじゃないか。大抵の会話は、途中でなんとなくの合意という幻想にお互い納得し満足感を残していくが、もし答え合わせが可能なら実際は何光年レベルですれ違っていることが判明するだろう。もちろん答え合わせも言葉によるものである限り不可能だが。そのおかげですべての関係性は思い込みという砂上でフラフラとなんとか保たれている。しかし、絶望する必要はない。「世界友だち」にはなにも理解されなくていい。なにも理解することもない。しかしただお互いに在ることを認めるだけでいい。そういった関係の人と沈黙が続いても心地良さが損なわれないのは、互いに認め合っていることがわかっているので、理解の欲求が生まれないからだ。理解の欲求は、不安から生まれる。自分の実存が本当に正しいのかどうかわからなくなって、吐き出した言葉を誰かに「大丈夫だよ!」と肯定してもらうことで安心したくなる。そんな不安。そんな不安を埋めるための言葉、つまり「必要な言葉」なんてものは、友だちには必要ない。「わかりあえないことから」ではなく、「わかりあえないまま」共存する。友だちには、髪切った? とか、線香花火やろうよとか、『桐島』の神木くんがさあとか、夏の夜ってサイコーだよねとか、今度ロロ観に行かん? とか、人生ダルくね? とか、そういった他愛もない話こそが相応しい。そしてときどき、なにかしらの悪がその関係性を損なってきたときに、大丈夫なほうが大丈夫じゃないほうに「大丈夫」と声を掛けてやるくらいでいい。つまり友だちと交わす言葉は、常に与えるためにある…… こんな簡単なこと、皆さんはとっくに気づいていましたか。僕はつい最近気づきました。やっとわかってきたが、この文章は26歳の自分に向けている。与えている。必死に無様に走っていたわりに、取り繕って息が乱れていないフリをしていたようだが…… その実、足りない息で言葉を吐き続け、溺れるように理解されたがっていた。はあはあ。今年は自分のペースで歩く。ゆっくりと落ち着いて歩く。そのためにまずは新居で息を整える。深呼吸をする。息が乱れたままじゃ、大事な友だちと他愛もないお喋りなんてできないので。
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