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#ロスコ
tatsuyawindow · 2 years
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aka-tonic · 2 years
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本日はロスコ。今日もうるさいサラリーマンw サウナ室に入ってまで仕事の話は聞きたくないのよw でも、水風呂も外気浴もいいよなぁロスコは。俺が行き始めた頃は外気浴な感じじゃなくて、段差に座って外気浴してたなぁ。 #水風呂 #外気浴 #駒込 #ロスコ #サウナ #サウナー #サ道 #サ活 #サウナイキタイ (サウナロスコ) https://www.instagram.com/p/CnwkC6rvcrG/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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utaitemusic · 3 months
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KICK BACK (Cover) / Rosco Graves 【歌ってみた】
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kabukicat · 1 year
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最後に京橋のアーティゾン美術館へ。
抽象絵画のコレクション。セザンヌから始まり現代に至るまでの膨大な収集品に度肝を抜かれました。
マーク・ロスコなど新たな大物の収蔵にもびっくりですが、瀧口修造近辺のコレクションをはじめ日本の作品も多く集めていたり、抽象芸術への飽くなき情熱を感じる展示でした。
#art #museum #abstractart #tokyo
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bokurarri · 2 years
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ラーメン 味楽亭 駒込ロスコでサウナしてリフレッシュ。からの町中華でサ飯。これが大当たりで何を食べてもうまいのよ。油断してツマミは写真取り逃したけど、思わずラーメンも頼んでしまった。これがまた良かった。豚を感じさせ、仄かに甘さを感じさせる骨太なスープ。これが530円には驚きだが、全メニューが安くてとても大満足だった。サウナも良かったけど、このサ飯をしたいがためにまた駒込来ようと思った。 (味楽亭) https://www.instagram.com/p/Ck__KePSbWv/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ymyh · 1 year
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2023.4.5に見に行った展覧会(2):コレクション展 2023春@和歌山県立近代美術館
*出展作家:保田春彦、保田龍門、神中糸子、石垣栄太郎、原勝四郎、浜地清松、高井貞二、川口軌外、建畠大夢、村井正誠、野長瀬晩花、日高昌克、宇佐美圭司、湯川雅紀、小川朋司、ジョージ・シーガル、イサム・ノグチ、ドナルド・ジャッド、マーク・ロスコ、ルイーズ・ニーヴェルソン、アンソニー・カロ、ジャコモ・マンズー、アルマン、柳原義達、建畠覚造、木村賢太郎、今村輝久、清水九兵衛、森口宏一、山口牧生、福岡道雄、宮﨑豊治、北辻良央、戸谷成雄、川島慶樹、中西學、館勝生、中川佳宣、山崎亨、北堅吉彦、八木一夫、鈴木治、堀内正和、木村秀樹、田中孝、中路規夫、安東菜々、山本容子、柳原睦夫、坪田政彦、呉本俊松、杉山英之、津高和一、山田光、岸田劉生、萬鐵五郎、国枝金三、玉村方久斗、山口八九子、玉置照信、小野竹喬、大亦観風、木下孝則、木下義謙、硲伊之助、佐伯祐三、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ロート、フェルナン・レジェ、パウル・クレー、黒田重太郎、東郷青児、古賀春江、林康夫
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poetry-for-absence · 5 days
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2024.09.10_Eugen Gomringer, Silenceから派生したテキスト
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Eugen Gomringer, Silence.
芸術は治癒的にはたらく、と、この作品について思う。「沈黙」を言葉で記述しようとするとさらに言葉を呼び、沈黙は消えてしまう。そんなところに、このコンクリート・ポエトリーの作品は、沈黙や無・無為の自足、空間の空性をいともたやすく縮約して形としている。ロベルト・ベニーニの映画『ライフ・イズ・ビューティフル』の中での謎かけに、「私を見つけたとき、私はいない。私は誰?」というものがある。その答えは「沈黙」であるという。アウグスティヌスが、「時間について問われるとき、私は知らない。時間について尋ねられないとき、私は知っている」と述べたと伝えられている。時間や、流れる静寂の生命プロセスとは、言語的な、”反省的な”言語では遅れてしまう、または取り逃がす。(アンフラマンス)
では、沈黙を抱く言語、沈黙に根を張る言葉、世界をつくってゆく創造的な言葉ではどうだろうか?世界に流れる美に身を浸して、その流れが結晶したかのような沈黙と静寂を持つ言葉。―- Ontology・存在論があること。詩学・Poetics.
(個々人のOntologyの、コナトゥスのちがい → 詩学・Poetics - 技術・ミュートスのちがい、詩のトーンの違い)
「沈黙」については John Cage もこだわった。彼は、呼吸に、そのパルタージュに沈黙の意義を見出した。沈黙 - 静けき持続。「4’33’’」という禅的な、生命の流れからしてすでに音であり、響きであり、音楽であると悟ること。しかし、その沈黙の持続は手に触れると波紋を揺るがし、水面はゆれる。静かな水としての沈黙、生命の純粋持続。
意図・intention によって、形は作る端緒を得る。そのときにイメージするのは、静かな水面のこと。まず、静かな水面があり、それはまた白いページでもある。その静かな水面を、ひとつの音でデリケートに響かせる。そんな詩・建築・音楽を意志してみる。静かな美しさの持続を、詩・建築・音楽において結晶させる。
イメージやアナロジーとは、思考の向きをつくるゆえに重要である。イメージやアナロジーによって、行為や形の向きは決まる。そんなとき、「葉に露の結ぶように詩作する」というイメージとアナロジーにおいて書くことは、私にとって適切さがある。「形として小さくささやか、そして珠と美しい。」
「アナロジー」において、その作用する場所において起きていることは興味深く重要である。人の認識は、アナロジーの相互参照 - inter reference により成っている。向井周太郎の言う、” Constellation. ”  そこには、「近傍・レトラクト」の主題系もつながる。「近さ - 遠さ」における、言葉の星雲、それらのアモルファスなガス体が、星の物質体となり、また、その「遠き - 近き」において星座・Constellation という「形」を生ずる。そのとき生まれた「形」には、multi - perspective, multi - dimensional な時空が縮約されている。
本日(2024.0910)、Instagramの新建築のアカウントで、新森雄大 + ジェームス・ジャミソン ( Niimori Jamison ) の作品を見て、昨今の気分や今の自分の置かれた群馬・渋川(旧・小野上村)での建築的状況とひびきあう思いがした。「神戸市垂水区塩屋町の斜面地に建つ、築63年の住宅兼英語塾を設計者が購入し、小さな休憩所兼多目的スペース・ギャラリーにコンバージョン」 日常の、日々の生活のなかでの無名の建築物たち、非作家性のオーディナルさを持つ普通の建物に、少しだけ手を加えて風景を異化してゆく。この事例では既存部がそのままで一階部分がソリッドでミニマルな彫刻的なスペシフィックさにより成されている。
私の興味・関心には、ミニマル・アートや即物的な造形芸術があるが、そのような Absolute な形でもって世界の形を変えてゆくのは心愉しい。「物質化した幾何学と」身体の運動が響きあう形」 チリの Pezo von Ellrichshausen, そのセン。しかし彼らはややブルータル。 「純粋幾何学で感性的なものを」、そこをベースに作ってゆく。
ふつうに、「どデカい空間」という「だけ」でもよい。そこに良い光のトーンがあれば。アイ・ウェイウェイのアトリエの、簡素であっけらかんとした様子はすがすがしい。また、マーク・マンダース(彫刻家)の家もデカくてよい。アーティストの住まい・家に惹かれる。アンリ・マティスのアトリエでの姿を撮った写真に、その大空間を映すものがある。また、マーク・ロスコのロスコルームも。( DIC川村記念美術館、休館前に行かなくては。)  → なぜか? そこには Ontology・存在論があるから。光、物質、構築・構成と美。そして、そこで家・住まいが美術作品の産出の方へ方向づけられていること。Ontology・存在論とは、たやすく詩学・Poetics と脈絡する。Poetics と存在 ―- 生成・Genesis. 人が何か形を作るときは、そのひとの存在論・Ontology的な条件が土台となる。それは言葉の体系(=概念)もそうだし、物への感受性や好みなどの身体性の問題系もそうである。
「存在の条件」は、「制作」と往還させることで、学習や訓育、創造性の系ともつながる。最終的な目標は、「善く生きること」であり、善く生きることを目指すものが「善き技術」であるとする。「善き技術」「善き生のための技術」とは、大きな広がりを持つが、私はここでそれを、詩・建築・音楽に縮約して考えていく。
・詩 →  Correspondence, あわいの交感、呼吸のかさなり、相互性、呼吸の結晶
・建築→  「詩」を基底として、詩美・静けさ、静かな形、空白、空白と恩寵、優しい光
・音楽→   優しいトーン、ニュアンス、静けさ、空間、Atmosphere.
また、雑誌『住宅建築』の 鈴木恂先生 + 内木先生 ( AMS Architects )の特集号で、斜面に対して呼応する型流れ屋根の住宅について見た。鈴木恂先生のラインも、シンプリシティのラインだ。(そして、早稲田大学芸術学校のライン) 恂先生の建築物には「ジェスチュア」がある。(早稲田大学理工学部55号館 etc.) スタティックでいて、ニュアンスのあるgesture・ジェスチュア。「ジェスチュア」とは、「言語的な」動作という意味合いがつよい。つまりは、その無言なしぐさで何事かをデノート(��示・提示)している。沈黙によるデノート。これは建築「物」や、造形芸術一般にも言える。しかし、五感においてはまったく無言ではない。そこには音・雰囲気・Atmosphere もある。静寂も音感である。形の次元において沈黙しているということ。「詩(ポエマ)は世界の音楽の響く殻であり…」Octavio Paz 
ここで、詩性・ポエジーについて。詩性・ポエジーとは、沈黙し流れる静寂の生命のことである。それは、人間の身体 - 世界を貫いている。古代ローマでは、音楽は天文学と近い位置にあった。そこでは、音楽は、人が奏でるものだけではなく、世界の音楽( musica mundana )についても直観し考えられていた。それは、
・世界の音楽 - 天体の音楽 (musica mundana) 
・人間の音楽  (musica humana)
・器具の音楽  (musica instrumentalis)
の3区分である。( ボエティウスの音楽観 )
ここで、「人間の音楽 musica humana」とは、人間の身体の中での調和のことである。(これは古代の医術とも関連しそうだ。)これらを概括すると、世界流 - エネルギー - についての言であり、また、それは東洋医学での気功などと関連するだろう。ここで、「気功・東洋医学」のことに触れたい。西洋の物理学が「エネルギー」の概念を得たとき、その概念像は世界の実質を正確にとらえて、諸形態や諸様相間での変換の技術を得たという。しかしそれは、測定機器を用いてのことである。その「エネルギー」について身体のレベルから、「感じること」によって得た知を体系化したものが「気功・東洋医学」であった。そこでは概念像と世界の実質との符号が、身体で感じることをベースに体系化されることで生まれている。(概念像=世界モデルとは、ある種 仮設的なもので、その抽象度・具象度の度合いで適合する次元も違ってくる。世界モデルの数だけ世界はある。)
ここで、『気功・東洋医学的な建築』を考える。それは、物と空間の気韻生動についての問いである。気功・東洋医学では気脈の流れを扱う。それは身体と世界を「具体的に」流れている気・エネルギーの学知と実践知である。「物の構築により場所の気脈を整える」。『気功・東洋医学的な建築』を一言で言えばこれである。このことを、理論的な土台・体系をもって語る。(そのためには、自身にも気功・東洋医学への修練が必要。)
空間の雰囲気、空気感、Atmosphere, Stimmung・情緒のことを、スイスの建築家ピーター・ズントーは述べた。また、夭折の詩人・建築家の立原道造は、『方法論』にて”建築でいちばん良いものは空気”と、数名の文学者の文章から引用して述べた。詩性・Poesie とは息吹・プネウマのことでもあり、韻律化された気・エネルギーである。詩のエッセンスを建築として形にするには、肉体と息吹、物と情、物質と空間のエネルギーについて把握せねばならない。そのとき、気功・東洋医学が善きモデルとなる。たとえば、物・素材の配列によって空気・空間の質、流れが変わること。物や素材を空間に配することで方向性や求心性が生まれる。つまり、場のディメンションが変わる。
ここで、土井善晴について。彼の料理についての思想は、料理の技術を土台づける初めの見立てにそのポエジーがある。「一汁一菜」でよいという思想、それは方法論ともなっている。方法論は詩学・Poetics とつながる。また、詩学は存在論・Ontology ともつながる。存在論・Ontology とは、民族的、言語的、個人の身体的な条件から成る。土井善晴による最初の見立てによる料理のように、最初の見立てからは外在的体系たる技術を取り込むことで、個々人固有の「詩学」が現れてくる。その詩学は美学的なもので、それが実践に際すれば「方法論」となる。ここでの「方法論」という個々人の感受性・コナトゥスにより貫かれた技術知である実践的詩学は、個々人により異なる形を産んでゆく。この「実践的詩学」とは、作家に必須な方法論である。
私の方法論に関して述べると、それにはいくつかのレイヤーがある。まず一番大事なのが、『詩と建築』について。これは、私自身の詩作と建築設計(未然)において成されている。その際に、両者に共通するのは「トーン」である。それは、詩の作品においては優しく柔らかなトーン、建築の作品においては「澄んだ光とモノのトーン」である。そのトーンの構築(= tone composing )を基礎づけるのが、先ほど触れた気功・東洋医学的な見方なのであるが、その脈絡から少しずれて、よりニュートラルに、西洋生理学的にそのトーンの構築を扱うときに、「クオリア」(= 感覚質)という用語を用いたい。「クオリア」とは、「言葉によって捉えられない漠然とした感じ」のことである。茂木健一郎氏の本によれば、クオリアは「言葉によって捉えられないが、言葉と同じ構造を持っている」と書かれる。(ここでは、「無意識」という心理学の用語とは脈絡させない) クオリアは言葉によって離接的にポイントされる。しかし、クオリアには言葉によって指し示すことの出来ない無名性の領域が多くある。(このことは、私の方法論にとって重要な「余白」とも関連する) クオリアは、芸術作品において縮限されている。その縮限点においてノードとレイヤーが変わる。
クオリアと縮限はどう関係しているか?情報生理学を参照? 
ref.) マックス・ベンゼ『情報美学』
外材物によって内在(クオリア)が訓育される。(制作の深意)
ここで、「模型」の概念を。
エリー・デューリングによる「模型」の定義: 知覚可能な系に縮限された諸ディメンション
ここから、「クオリア模型」について。
クオリアオブジェクト(内在)⇆ 外在するオブジェクトのクオリア
言葉と物の変換点がクオリア
(世界の情報化?)
「クオリア模型」と「世界模型」はちがう
・クオリア模型 五感・感受性と対応
・世界模型  ex.) ベルベル人の住居 世界図式、見取り図、ダイアグラム
けれど、「建築学」や「詩学」というような、建築や詩といった外在的対象における外在的な操作と攻略が、結局、王道である。「クオリア模型」と言うことで、どのように展開できるか?
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toshimasa-kobayashi · 21 days
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衰弱について
自宅の室内灯のLEDの光が強すぎて、結構キツイときがある。それで部屋の電気を消して過ごすことも。いつごろからか分からないけども、視覚や聴覚における、ある種の刺激を受け付けなくなってしまった。自分がテレビを見なくなった最大の理由は、内容云々以前の、視覚的・聴覚的なもの。テレビ的なシャカシャカした音質が耳に障って聞いていられない。無数のテロップが画面を覆うような家電量販店的なヴィジュアルにもマイってしまう。これが自分のある種のナイーヴさだとの自覚はある。あるいは弱さか。
メンタルヘルスの問題なのか、そうでないのか。いずれにせよ精神的な弱さがあり、それゆえ外界の刺激にうまく対処ができない。そうなってしまった。そうした局面はこれまでもあったし、そうであっても生きていくには力が必要で、力を奮い立たせてきた。生活のよしなしごとがあり、それはつまり生活費を稼ぐとか、洗濯物を干すだとか。そうしたミッションをやりこなす必要があり、実際そうしている。そのうえで思うのは、いまの自分がさらに衰弱しているということ。
人は誰しも年齢とともにゆっくり衰弱していく。部分的には死んでいく。誰しもいずれは死ぬ。そのうえで死は、身体的なものだけでない。精神的な死もある。身体の死は一生に一度だけだとして、精神の死は何度も起こりえる。絶対的な絶望を経て精神が死滅しても、身体は生きながらえる。これは死んだ後に生きるということではないだろうか。それは”幽霊”とか”亡霊”みたいな詩的なレトリックではなく、たんに衰弱してしまうということ。それまでの可能性がなくなってしまうこと。精神の決定的な死滅を抱えながら、それでも生きながらえる身体を生きるということ。
よくいわれるとおり、タバコもアルコールも薬物もゆるやかな自死といえる。自分はタバコと薬物はやらないけど、アルコールはやる。生きることは苦役で、精神は徐々に死滅していく。だから人はタバコやアルコールや薬物を使って、身体も徐々に死滅させるのだろうか。どうなんだろう。精神の焼け野原みたいな場所で、それでも皆どうにかやってるのだろうか。立ち上がって配給の列に並ぶ気力もなく、衰弱し、それでも身体は生きながらえる。マーク・ロスコはそうした場所で描いたのかもしれない。でもいったいどうやって?完全に力が失われ、可能性がなくなってしまった場所で、それでもそこでしかできない踊りがある?本当に??
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rusksrusk · 22 days
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ロスコ・ルームは画というより目の前で現象があらわれているような感覚。目の前にみたこのない赤い扉や柱があらわれて別の世界に繋がっているような。そういうどこにもない感覚を想起させる展示だった。
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tatsuyawindow · 2 years
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aka-tonic · 2 years
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昨年の俺。12/29はロスコに行ったが、普段のロスコとは全然違う混み具合www 28日はどこも空いてると言ったが、逆に休みに入るとサウナは昼間から結構混む。都内には人が減ったはずだが混むのよ。多分、家で居場所ない男たち、里帰りできない男たちのたどり着く場所なんだろう。 ゆっくりできなそうだったのでさらっと2セットぐらいで出た。 なのでサウナ納めはロスコでした。 #駒込 #ロスコ ##サウナ #サウナー #サ道 #サ活 #サウナイキタイ https://www.instagram.com/p/CnQQGNQBhDu/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ryotarox · 23 days
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(DIC川村記念美術館の休館をめぐる世界の声。ロスコ「シーグラム壁画」などの名作は今後どうなる?|ARTnews JAPANから)
各メディアが報じている通り、DIC株式会社が所有・運営するDIC川村記念美術館が2025年1月末で休館される計画であることが明らかになった。同社と同館をめぐっては、今年4月、英フィナンシャル・タイムズが「多額の負債を抱え、赤字を垂れ流しているDIC、(中略)あるいはDICの拠点である日本は、同社が保有する美術品を株主の財産と考える覚悟ができているのだろうか?」と指摘していた。
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kennak · 23 days
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DIC(旧大日本インキ)は佐倉市にある研究所の一角に川村記念美術館を所有している。30年ほど前、この美術館の学芸員と話したことがあった。美術館は財団法人のような会社の別組織ではなく、大日本インキの一部門なのだという。なぜかと問うと、会社が不景気で困ったときに所蔵品を売却するためですと言われた。  2013年に川村記念美術館が、所蔵するバーネット・ニューマンの「アンナの光」を海外に103億円で売却したと発表した時、このことを思い出した。大日本インキの初代社長が日本の古美術を集め、その息子の2代目社長がヨーロッパの名品を収集し、孫にあたる3代目社長がアメリカの現代美術を集めた。ロスコの代表作やポロック、そしてステラのコレクションは世界1だという。バーネット・ニューマンは日本での知名度は低いが、抽象表現主義の第一人者で、アメリカでは一番人気があるという。その代表作「アンナの光」は縦274.3cm、横609.6cm、ほとんど一面赤で塗られ、左端に数cm白が、右端に30cmほど白がある。それ以外滑らかな赤一色。赤い壁の前に立った感じだ。これを当時60億円で購入している。  社長と言えども60億円をポケットマネーで買えるとは思えない。おそらく会社の資金で買って、株主や従業員向けには、会社が困ったら売れば良いのだと弁解したのだろう。初代から3代までの社長は創業家出身で、会社は自分の財産だと思っていただろう。困ったらコレクションを売れば良いとはつゆ思ってもいなかっのではないか。  しかし、1999年2代目と3代目が亡くなってしまう。経営は創業家から離れる。印刷インキが主体だった会社の業績は印刷業界の不振に伴い悪化していく。創業家を継いだ経営者たちにはもう美術館への特別な思い入れはない。そのとき、先代が言った「困ったら売れば良い」の言葉が蘇る。まして株主たちには会社の文化への思い入れなど全くないに等しいだろう。  2018年、DICは所有する安土桃山時代の絵師・長谷川等伯作の国の重要文化財を含む日本画の名品を、すべて譲渡(売却)する方針を決めたと発表する。  今回の発表はそれらの方針の延長線上にあることは不思議ではない。株主の意向に逆らうことはできないだろう。株主こそ自由主義経済の代表格であり、強欲資本主義そのものだから。
川村記念美術館休館か - mmpoloの日記
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siteymnk · 24 days
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更に詳しい記事。
マークロスコの作品がどうなるのか?確かに気になる。特別に用意された「ロスコの部屋」はもはや建築の一部であって移設は難しいんではないか。
今回の件の発端の一つは物言う株主だという。赤字企業が保有資産を十分に活用できていない、という指摘は真っ当だが、歴々たる作品群を「資産」と切り捨てる感じはやはり残念ではある。
逆説的に、高騰を続ける美術作品の価格も状況的な遠因なのだろうねぇ。高くなりすぎて資産として無視できなくなったというか。
とするとだ、バブル期に美術館を買い漁った日本企業は沢山あって、鑑賞する身としてはその恩恵に浴していたのだが、その体裁が保てなくなる可能性は十分に考えられる訳だ。あそことかあそことか。
やはり文化施設は公立でないと難しいのか?でも国立博物館は金なくてクラファンしてたしなぁ。最初に切り捨てられる文化的な諸々。そう言えばコロナ禍でも真っ先に見捨てられてたし。悲しくて寂しい。
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ymifune · 1 month
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ロスコの表紙
8月12日。できたことを中心に。 途中経過を書いておこう。 結構まだ頭に孫悟空の輪っかがハマった状態だと思う。昨日は再び母に八つ当たりをされた。先週の金曜日から母は血尿が止まらなくなったという。それで、土日祝日を挟んで、火曜日に精密検査を受けることになっているのだ。が、体調不良や病気まで人のせいにしたり、環境のせいにしたりするとは思わなかった。また、一緒に住んでいて、助けてくれる可能性がある人をどうして傷つけようとするのかが、私には本当にわからない。 できるだけ瞑想をして、足の先から地面に流してしまおうとしているのだが、まだ少し頭に強張りを感じている。この後でまた少し瞑想をして、頭の中にできた氷を溶かそうと思う。 形になるかどうかわからなくて不安に思っていたことにも着手はし始めている。 学校のスピーチコンテストでショータイムの担当になったのだけど、ショータイムの出演順、必要な機材などをまとめたプリント(配布用)を作った。午前クラスのものも、午後クラスのものもできるところまで作成はした。次の出勤日は8月23日金曜日なのだけど、出勤したら学校にある資料とも情報を揃えて、提出できる形にしておくことができるだろう。 だいぶ冷静にはなれていると思う。8月8日木曜日もG監督に会った。監督に初めてきちんと会った日にいたした時は、君が先に仕掛けたんだからなと言われたが、8日は確実にG監督から仕掛けてきたと思うので、まあトントンになったと思う。馬鹿正直に書くが、私もするならするのが先で、お出かけや食事をするのは賢者タイムのクリアーな頭になった状態でお出かけなり何なりをした方がいいと思っている。 一緒に虎ノ門ヒルズのPerfumeの展示を見に行ったのだが、なかなか面白くて見応えもあり実は結構長居してしまったと思う。
帰りにレセプション会場でシャンパンを飲んだ。彼が日本にいる間に一緒に旅行に行かないかと誘われたのだが、彼の8月中の予定の方が私の予定より忙しかったので、それは流れた。 初めて会った時に比べて、何というか、そわそわした感じがなくなった。何というか、お互いに何を話してもいい空気ができてきた様な気がする。 スペインの画家ロスコの表紙が描かれているノートを1冊くれた。私も何か気が利いたお返しをあげたいと思っているのだが、思いつかない。無印良品のくつろぎ甚平なんていいかなと思ったのだが、もうシーズンが終わってしまったらしい。ただ、物でも貸し借りでもなくて、東京でできるサポートをすることこそが私があなたにあげられるギフトなのだと思ってもらえればいいなと思う。(上野に行ってきたのだから、東京国立博物館の売店で何か買って来ればよかったな。) これからの予定は決まっていないが、毎週木曜日は空けてあると伝えてある。 8月11日日曜日に意を決して・・・というほどの意気込みはないが、Gyre Galleryと麻布台ヒルズギャラリーと、上野の知人がやっている書の展覧会の3箇所を梯子してきた。どれも悪くなかった。 あと美術館シリーズで残っているのはアーティゾン美術館とMOTだ。おそらく8月15日金曜日あたりに2つ梯子してくると思う。多分。 連休に入って、だいぶ体調は持ち直��ている。体組成計の話をすると、筋肉量が今週は+1.3kg、体脂肪量は-1.0%と出ている。毎日8時間とか寝られたらそれは調子はよくなるだろう。きちんと体の修復ができている。 登録日本語教員の出願は今日、証明写真を撮るところまではやった。 学生の成績、学籍簿のコメントも書けるところから書き始めた。 明日は通院と歯医者の定期検診をこなそうと思っている。歯医者は9時半に始まるので、午前中にできるだけ消化してしまいたいと思っている。 9月に出す新曲"Think About Me"のビデオを最後まで作ることができた。You TubeとVimeoに先行公開した。11月に出す新曲"Broke"のためのフッテージは今3つほどあって、これは夏休み中に完成させられるかなと思う。多分。 そんなところだろうか。 新曲にはまだ結局着手できていない。この夏休みの間に作り始められればいいのかな。 あと30分ほど仕事をしたら瞑想をして寝ようと思う。 これを読んでくれた方がいたら、どうか平穏無事なお盆休みを過ごしてほしい。 私も充実したお休みになるようにしよう。
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shelbybelly113 · 4 months
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