Tumgik
#世界の暮らしと文化365
takahashicleaning · 9 months
Text
TEDにて
ジェームス・ハンセン:なぜ気候変動について叫ばなければならなかったか!
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
気候科学の第一人者のジェームス・ハンセンが、彼自身がどのように地球温暖化の科学や議論に関わってきた話をします。
この話のなかで、温暖化が起こっている膨大な証拠を見せ、なぜ?この証拠から彼が将来を非常に危惧しているのかを示します。
地球全体のエネルギーの不均衡の問題。地球にふりそそぐ太陽光エネルギーと地球から放出されるエネルギーの量の差です。
ジェームズ・ヴァン・アレンは、アメリカ合衆国の物理学者。地球高層の放射線帯であるヴァン・アレン帯の発見で知られる。この人が、師匠だそうです。
そして、気候変動の原因として、地球の公転運動の何万年もの誤差の蓄積で、氷河への太陽光の照らす面積が増えて氷解しているため、二酸化炭素などが放出されてしまうということを、くり抜いた氷河を調べた結果から発見したそうです。
増幅していくメカニズムの他に、人間の放出する二酸化炭素も加わり、さらに悪い循環が始まってしまいます。
だからこそ、世界で二酸化炭素を抑制した方が良いという理由のひとつになっている。詳しくはご覧ください。
温室効果は、1世紀以上にもわたり十分に理解されています。1850年代に英国の物理学者ジョン・チンダルは、研究室内で赤外線放射を測定する方法を確立しました。
赤外線放射は熱を意味します。彼は二酸化炭素のような気体が熱を吸収することを示し、この吸収が地球の表面を温める布団のように作用していると示しました。
私は他の科学者とも共同研究して、地球気候変動の観察結果を分析しました。そして、1981年にはサイエンス誌に研究論文を発表しました。
その結論は、過去1世紀で気温が摂氏0.4 度上昇した!という現象が増加した二酸化炭素量が起こすと想定される温室効果の 計算値と一致するという結論でした。
結論では、地球は1980年代に恐らく気温上昇を迎えて、20世紀末にはこの気温上昇が 天気の変動が確率的誤差を超えるだろうとしていました。
この不均衡を総計すると、1平米あたり10分の6ワットになります。それほど多く聞こえないかもしれませんが、全世界分となるとおびただしい電力量になります。
これは、全人類が利用している電力量よりも20倍も大きいものなのです。これは1日あたり40万個の広島型原子爆弾を爆発させたエネルギー量に相当します。
1年では365日分になります。これだけのエネルギー量を地球は毎日蓄積しているのです。
もし、気候を安定させるとしたら現在の不均衡の状態は二酸化炭素濃度が、391ppmから350ppmへと減らされなければならないことを意味しています。これはエネルギーの均衡を取り戻し、将来の気温上昇を防ぐために必要な変化です。
地球の気候変動の歴史を考えてみましょう。
解決策は、何千億単位の規模で大量に植樹をするだけ!!
解決策は、何千億単位の規模で大量に植樹をするだけ!!
解決策は、何千億単位の規模で大量に植樹をするだけ!!
この表は、地球全体の温度曲線と大気中二酸化炭素濃度曲線と海面曲線で、海や南極圏の氷のボーリングサンプルと海の堆積物や雪片から割り出しました。
これらは、これまで80万年かけて序々に積み重なって2マイルの厚さの氷床を地球に形成しました。
見て分かるように、温度と二酸化炭素と海面に高い相関性があります。詳しく見ると、温度の変動が起こった時は必ず数世紀遅れで二酸化炭素の変動が起こっています。
気候変動否定派は、この事実を使って大衆を混乱させ誤って導こうとします「見てください。温度変動が二酸化炭素変動を起こしました。逆ではありません」と言うでしょう。
しかし、この遅れは私たちが予測している結果と完全に一致するものです。
地球公転軌道の小さな変化が100万年もの年月の間に起こり、地球上に降り注ぐ。太陽光の当たる面積を変えたのです。ここで重要な点は、この拡大して再度取り込む増幅作用は、現代でも発生するのです。
物理法則は変わりませんから、地球の温度上昇が起こると私たちが大気に放出する過剰部分の二酸化炭素が原因となって、永久凍土や海を温めることで、氷が解けて二酸化炭素やメタンが放出されるのです。
この取り込んで増幅される状況が、どれほど早く起こり始めるのか?私たちは正確には分からないですが、温暖化を止めない限り、確実にこの増幅される状況が起こります。
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
SDGsや気候変動対策は、再生可能エネルギーのことではありません。パンデミック対策の一環です!それ以外の活動は派生物。権力濫用の口実に注意!
SDGsや気候変動対策は、再生可能エネルギーのことではありません。パンデミック対策の一環です!それ以外の活動は派生物。権力濫用の口実に注意!
SDGsや気候変動対策は、再生可能エネルギーのことではありません。パンデミック対策の一環です!それ以外の活動は派生物。権力濫用の口実に注意!
技術が、すべてのことを解決できると言いますが、我々が、100倍エネルギー効率のいい乗り物を作ることができるとすれば、大枠としてこれは正しい意見です。
しかし、エネルギー効率ではなく、生産性を高めた結果、イギリスは見事に産業が空洞化してしまいました。
参考として・・・
月面は、太陽風によりもたらされたヘリウム3が、鉱物資源として豊富に存在していることが確認されています。原子力発電や核融合に最適です。
注意事項として、基礎技術にリープフロッグは存在しません。応用分野のみです!
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて国家や権力者は透明性を究極にして個人のプライバシーも考慮)
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教科書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「倹約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。 要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との 戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
続いて、トリクルダウンと新自由主義
インターネットの情報爆発により隠れていた価値観も言葉となり爆発していくことになった。
しかし、法定通貨の方が、その価値、概念に対する通貨量拡大として価格で応じることができず、圧倒的に通貨量が足りない状況が生まれていたのが、2010年代の問題点のひとつでした。
リーマンショックの後に、新自由主義が誤りであることが、ピケティやサンデルによって指摘され、当時のFRBバーナンキ議長が、通貨供給量を大幅に増やした対策により、ベースマネーの金融、銀行間の相互不信を解消して収束した。
それでも、まだ足りないが、適正水準に収まったことで、さらに価値も増幅され、マネーストックの財政政策から再分配、事前分配を大規模に行い、さらなる通貨供給量が重要となっている現在の日本国内。
例えば
Googleがしようとしてた事は、まだ新産業として、基礎研究から発展できない機械学習の先端の成果をすべて持ち込んだ社会実験に近いこと。
シュンペーターの創造的破壊は、一定数の創造の基礎を蓄積後に、未来を高密度なアイデアで練り上げてから破壊をするのが本質です。
こうして、憎しみの連鎖や混乱を最小限にする。
アルビン・トフラーの言うように、法人と行政府とのスピードの違いが縮まらないのは、構造上の違いであって、それを補うためにプラスサムな連携するということが、必要になってくることを説いています。
三権分立が、規制のないGAFAMを非政府部門としてMMT(現代貨幣理論)からプラスサムに連携したらどこで均衡するのか?という社会実験も兼ねています。
このような前提で、あらゆるインターネット企業が、創業時、貢献するためコンセプトの中心であったものが、今では、悪性に変質して違う目的に成り下がっています。
再分配、事前分配の強化がスッポリ抜けてる欠点があり、ここに明かしたくないイノベーションの余地があります!!
2021年には、新自由主義のような弱肉強食では自然とトリクルダウンは生じないことは明らかになる。
確かに、トリクルダウンは発生しないが、法律で人工的に同じ効果は、貨幣の再分配、事前分配という形にできる可能性は高い。
再分配や事前分配をケムにまく「金持ちを貧乏にしても、貧乏人は金持ちにならない」「価値を生み出している人を罰するつもりがないのであれば税に差をつけないほうがいい」(サッチャー)
とあるが、新自由主義は誤りで、ピケティやサンデルによると違うみたいだ。
(個人的なアイデア)
プラネタリー・バウンダリー提唱者のヨハン・ロックストロームもSDGsに採用されてる。
SDGsは、一神教での法人倫理を統合し数値化している可能性もあります。
多神教ではブッダの八正道です。
SDGsや気候変動対策は、再生可能エネルギーのことではありません。パンデミック対策の一環です!それ以外の活動は派生物。具体的にSDGsの数値を示さない権力濫用の口実に注意!
これらの源流は、Spaceship Earth(宇宙船地球号)のバックミンスターフラー。
バックミンスターフラーは、思想家というか製品デザイナー?
ガイア理論の方が馴染みがあって、こっちの方が腑に落ちるが、それがスティーブジョブズに継承し、今のAppleParkに繋がる影響を与えた。
AppleParkは、バックミンスターフラーの弟子が建築しています。
そして
電気を作る熱力学のサイクルで熱効率は、ほぼ50%、45%~50%の効率まで高めることは可能ですが・・・
高温の物体から熱を受け取り、電気という「使えるエネルギー」に変換できる機械を一般的に「熱エンジン」と呼んでいる。
高温の物体から受け取った熱エネルギーのうち、どれだけ活用できたかという比率を「効率」と物理学では定義している。
この効率は、原理的に超えられない「カルノー効率」という上限があることが知られている。
カルノー効率が達成されると、効率は上がるが、同時に仕事率がゼロになる現象。
つまり、熱エンジンの効率を最大限に上げると出力がほぼゼロになることを意味しています。そして、効率100%は物理的に不可能ということです。
中世で試行錯誤が行われたことに終止符が示され、機械での永久機関は作れないことが、この現象から理解できます。エネルギー保存の法則からも理解できます。
他には、燃料の持つエネルギーをどれだけ動力として取り出すことができるか?これをエンジンの熱効率と定義しています。
2020年の段階で、ガソリンエンジンの熱効率は最高で40%前後あり、10年くらい前までは30%程度。低燃費の技術競争もあるけどカルノー効率から限界も見え始めています。
だから、ガソリン自動車から電気自動車へ世界中の法人が開発を加速して切り替えている潮流があります。
さらに
経済学者で、ケンブリッジ大学名誉教授のパーサ•ダスグプタが、イギリス政府に提出した報告書の中に登場。
経済学を学ぶと、登場する資本や労働などの生産要素の投入量と算出量の関係を示す生産関数があります。
こうした関数は、様々な前提条件に基づきますが、経済学者は、収穫逓減の法則と言うものをよく知っています。
このような人工的な生産関数とは、他に天然由来の生産関数。
つまり、自然から収穫できる生産関数を導き出し、地球全体の生産関数というエコシステムを数値化することでバランスをコントロールできるかもしれないというアイデア。
ここでは、自然資本と呼びます。
自然資本を加味すれば現在の経済成長ペースがどこまで持続可能かを分析することもできます。
人間は、国内総生産GDPを生み出すため、自然から資源を取り出して使い、不要になったものを廃棄物として自然に戻す。
もし、自然が自律回復できなくなるほど、資源が使われて、廃棄されれば、自然資本の蓄積は減少し、それに伴い貴重な生態系サービスの流れも減っていくことになります。
さらに、教授は、経済学者も経済成長には限界があることを認識すべきだと説いています。地球の限りある恵みを効率的に活用しても、それには上限があります。
したがって、持続可能な最高レベルの国内総生産GDPと言う臨界点の水準も存在するということが視野に入るようにもなります。これは、まだ現時点では誰にもわかりませんので解明が必要です。
なお、地球1個分は、ずいぶん昔に超えています。
<おすすめサイト>
ジョン・フランソワ・バスタン:地球に1兆本多く木があったら?
ヨハン・ロックストローム:繁栄する持続可能な世界SDGsを築く5つの革新的な政策?
リサ・ジャクソン:2030年までにカーボンニュートラル(気候中立)達成を目指すAppleの誓い
グウィン・ショットウェル: 30分で地球を半周するSpaceXの旅行プラン
アラン・セイボリー:砂漠を緑地化させ気候変動を逆転させる方法
(原子力)
スチュワート・ブランドとマーク・Z・ヤコブソンが討論:原子力発電は必要か?
ジョー・ラシター:気候変動の解消に向けた原子力発電の必要性?
「フロート式原子力発電所」について
テイラー•ウィルソン:僕のラジカルな計画 ― 小型核分裂炉で世界を変える!
劣化ウランゼロへのイノベーション:ビル=ゲイツ、エネルギーについて語る
(再生可能エネルギー)
レイ・カーツワイル:今後現れるシンギュラリティ(技術的特異点)を学ぶ大学
Solar Roadways(道路としても敷き詰めて活用できる太陽光発電パネル)
「考えるクルマ」が世界を変える―アーバン・モビリティの革命
Powerwall 2 & Solar Roof Launch - Teala Motors
デイビッド・マッケイ: 再生可能エネルギーの現実
ベティーナ・ウォーバーグ: ブロックチェーンが経済にもたらす劇的な変化
量子コンピューターの基本素子である超電導磁束量子ビットについて2019
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
東京都北区神谷のハイブリッドな直送ウェブサービス(Hybrid Synergy Service)高橋クリーニングFacebook版
0 notes
lvdbbooks · 3 years
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
2021年6月25日
【新入荷・カレンダー】
「モノとイトナミ 世界の暮らしと文化365」
価格 :3,960円(税込)
/
一日一つ、モノをとおして世界を旅する日めくり万年カレンダーです。 国立民族学博物館の特別協力のもと、世界の人びとの暮らしに関わるモノ366点を、7つのカテゴリーから紹介。 各地の生活道具や音楽、芸術、信仰に関わるモノなどについて、厳選された写真とともに、17名の様々な分野の専門家に解説いただいています。 いまはなかなか旅することが叶いませんが、めくりながら、世界のどこかの、見知らぬ誰かの暮らしに思いをめぐらせてみませんか。
<売上の一部を難民・避難民の支援に> このカレンダーの売り上げの一部は、特定非営利活動法人 国連UNHCR協会を通じて、世界の難民・避難民支援のために役立てられます。
◎モノとイトナミ –世界の暮らしと文化365- ・編者:八木 百合子(国立民族学博物館) ・特別協力:国立民族学博物館 ・撮影:松本 祥孝(有限会社マット) ・デザイン:小澤 成美+大西 未紗+オンデザイン/伊藤 彩良 ・発行:フロッグス株式会社 ・総ページ数:400P ・紙面サイズ:99×142mm(A6変形) ・パッケージサイズ:縦161×横103×厚43mm(重さ約450g) ・JANコード:4573595250021
◇万年タイプですので、いつからでも、いつまでもお使いいただけます。
◇外箱を変形し、台座としてお使いいただけます。
<執筆者> (本文執筆者記号のアルファベット順)
福内 千絵 大阪芸術大学。民族芸術学、美術史研究 古川 不可知 九州大学。文化人類学、ヒマラヤ地域研究 古沢 ゆりあ 滋賀県立美術館。美術史、文化人類学 二ツ山 達朗 香川大学。文化人類学、中東地域研究 神野 知恵 国立民族学博物館。民族音楽学 小西 賢吾 金沢星稜大学。文化人類学、チベット地域研究 笠井 みぎわ la chiave blue店主。文化人類学、イタリアの刺繍文化研究 野上 恵美 神戸大学。文化人類学、在日ベトナム人研究 中川 千草 龍谷大学。社会学、地域研究 長嶺 亮子 沖縄県立芸術大学附属研究所ほか。民族音楽学、中国と台湾の音楽文化 丹羽 朋子 国際ファッション専門職大学。文化人類学 緒方 しらべ 京都精華大学。文化人類学、アフリカ地域研究 大石 侑香 神戸大学。社会人類学、北極地域研究 大澤 由実 青山学院大学。民族植物学、食の人類学 田村 うらら 金沢大学。モノ研究、経済人類学、トル��研究 鳥谷 武史 金沢大学。日本中近世宗教文化史 (2021年4月30日現在)
https://mono-to-itonami.net/
2 notes · View notes
oooooooo · 3 years
Photo
Tumblr media
モノとイトナミ -世界の暮らしと文化365-
8 notes · View notes
rakkanoyukue · 3 years
Text
Tumblr media
Tumblr media
Tumblr media
Tumblr media
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
1 note · View note
gallery-fall · 4 months
Text
メディア掲載と執筆
Tumblr media
絵:得地直美
2024 店
◎ 本と雑誌
◎ ウェブ
◎ イベント、その他
-
2024 個人
◎ 寄稿、インタビュー
『クロワッサン(1115号)』マガジンハウス ●
  POPEYE Web > ポッドキャスト番組「スモールアレイ・チャット」●
『波打ちぎわの物を探しに』(晶文社)●
◎ 書評
 『波打ちぎわの物を探しに』
  青山ブックセンター 選書フェア「330人が、この夏おすすめする一冊。」(評:菅野康晴)
『図書新聞(3649号)』(武久出版)>「2024年上半期読書アンケート」(評:長谷正人)●
  ウェブ『Subsequence』>「Topics & Stories」●
  ウェブ『GINZA』>「5月のG’s BOOK REVIEW」(評:北村浩子)●
『週刊金曜日(2024年3月29日号)』金曜日(評:五所純子)●
『散歩の達人(2024年4月号)』交通新聞社 >「今月のサンポマスター本」●
  京都新聞(3月16日)書評欄「本屋と一冊」(評:和中整)●
  シラス「浅子佳英のPRINT&BUILD RADIO」(評:浅子佳英)●
   -
 『雑貨の終わり』
   -
 『すべての雑貨』
『綴葉 ていよう』(京大生協 綴葉編集委員会)●
◎ イベント、音楽活動、その他
増田書店+文喫『波打ちぎわの物を探しに』フェア ●
------------------------------------------------------------------------
2023 店
◎ 本と雑誌
『散歩の達人(2023年8月号)』(交通新聞社)●
  目黒雅也『西荻さんぽ』(亜紀書房)●
◎ ウェブ
◎ イベント、その他
-
2023 個人
◎ 寄稿、インタビュー
『なnD 10』(nu)「だれもいない海」●
『Tea Time vol.15』(ティータイム)「猪熊さんのTシャツ」
『Hanako(2023年7月号)』(マガジンハウス)●
『Tea Time vol.14』(ティータイム)「われらみなデザイナー」●
  文庫版『すべての雑貨』(筑摩書房)●
◎ 書評
 『雑貨の終わり』
   -
 『すべての雑貨』
『men’s FUDGE(2023年7月号)』(三栄)●
「webちくま」>「小さく、遅く、むなしい、遁走」(評:荒内佑)●
◎ イベント、音楽活動、その他
ブックファースト新宿店「名著百選2023」●
------------------------------------------------------------------------
2022 店
◎ 本と雑誌
『OZ magazine(2022年11月号)』(スターツ出版)●
『吉祥寺↔西荻窪 まち歩きガイドブック』(武蔵野市観光機構、中央線あるあるPROJECT)●
◎ ウェブ
中央線あるあるPROJECT「あの人と中央線で杉並へ 西荻窪」●
◎ イベント、その他
-
2022 個人
◎ 寄稿、インタビュー
『&Premium 特別編集 喫茶店のこと、そしてコーヒーの話。』(マガジンハウス)●
『POPEYE特別編集 本と映画の終わらない話。』(マガジンハウス)●
『Tea Time 13』(ティータイム)「ミランダ・ジュライと双子の作品」●
『なnD 9』(nu)「本はすべてか」●
『星々 vol.1』「フランク・ザッパと本屋の石」●
『Tea Time 12』(ティータイム)「フォートナムズで午後ティーを」●
『& Premium(2022年4月号)』「喫茶店、100のこと。」(マガジンハウス)●
◎ 書評
 『雑貨の終わり』
『& Premium(2022年5月号)』「センスを磨く、ブックガイド。」マガジンハウス(評:チェルシー舞花)●
   -
 『すべての雑貨』
ウェブ「&Premium.jp」>「本屋が届けるベターライフブックス。」マガジンハウス(評:曲線)●
◎ イベント、音楽活動、その他
ブックファースト新宿店「名著百選 2022」●
------------------------------------------------------------------------
2021 店
◎ 本と雑誌
『STORY(2021年5月号)』(光文社)●
◎ ウェブ
Hanako「【東京】個性派アイテムが集まるおしゃれ雑貨店5選。」●
◎ イベント、その他
-
2021 個人
◎ 寄稿、インタビュー
『BRUTUS 特別編集 すべては、本から。』(マガジンハウス)●
『Tea Time 11』(ティータイム)「暗い部屋」●
『なnD 8』(nu)「善福寺川右岸のコレット」●
  webちくま「くだってはのぼるもの」   (ほしおさなえ『東京のぼる坂くだる坂』書評)●
『ちくま(2021年6月号)』(筑摩書房)「くだってはのぼるもの」●
『Tea Time 10』(ティータイム)「マイクとMD」●
『草木鳥鳥文様』(福音館書店)推薦コメント ●
  LIXILウェブ「雑貨化する社会と未来の住まい」●
『群像(2021年4月号)』(講談社)「おむかえのあとさき」●
『広告(vol.415)』(博報堂)「てのひらのなかの流通」●
『& Premium(2021年4月号)』(マガジンハウス)●
◎ 書評
 『雑貨の終わり』
『ピエリア(2021年春号)』東京外国語大学出版会 ●
『芸術新潮(2021年2月号)』新潮社(評:山内彩子)●
   -
 『すべての雑貨』
◎ イベント、音楽活動、その他
ブックファースト新宿店「名著百選 2021」●
------------------------------------------------------------------------
2020
◎ 本と雑誌
『OZ magazine(2020年7月号)』(スターツ出版)●
『& TRAVEL』(朝日新聞出版)●
◎ ウェブ
◎ イベント、その他
-
2020 個人
◎ 寄稿、インタビュー
『BRUTUS(No. 930)』(マガジンハウス)●
『Tea Time vol.9』(ティータイム)「私の部屋」●
『なnD 7.5』(nu)「境界」●
『Tea Time vol.8』(ティータイム)「遊歩者たち」●
『雑貨の終わり』(新潮社)●
◎ 書評
 『雑貨の終わり』
『POPEYE(2021年1月号)』マガジンハウス(評:江原茗一)●
『本の雑誌(12月号)』本の雑誌社(評:石川美南)●
『週刊読書人(11月13日号)』読書人(評:荻原魚雷)● 
『GINZA(11月号)』マガジンハウス(評:鳥澤光)●
『FUDGE(11月号)』三栄 ●
 朝日新聞デジタル「&w」(評:八木寧子)●
 共同通信社 配信 書評欄 (評:北田博充)●
『UOMO(11月号)』集英社(評:宮田文久)●
『週刊新潮(10月1日号)』新潮社(評:中江有里)●
  産経新聞(9月20日)書評欄 ●
『波』新潮社(評:堀江敏幸)●
   -
 『すべての雑貨』
 朝日新聞(12月8日)「折々のことば」(評:鷲田清一)●
◎ イベント、音楽活動、その他
  B&B「雑貨の地図と断片化する世界」●   前篇(すべてが「雑貨化」するというパースペクティブ)●   後篇(スモールビジネスをつなぎとめるささやかな倫理)●
  ポッドキャスト番組「音読ブラックスワン」●
  ポッドキャスト番組「新・雑貨論」●
  今野書店「『雑貨の終わり』を考える20冊」●
『波』(新潮社)   著者インタビュー「雑貨界の地図をつくる」●
------------------------------------------------------------------------
2019
◎ 本と雑誌
『散歩の達人 No.284』(交通新聞社)●
『Hanako CITYGUIDE やさしい、吉祥寺。』(マガジンハウス)●
◎ ウェブ
◎ イベント、その他
「赤坂蚤の市 in ARK HILLS 5th Anniversary」●
-
2019
個人
◎ 寄稿、インタビュー
『Subsequence(volume 02)』(キュビズム) 「魚の釣れない日」●
「考える人」ウェブ連載(新潮社) 「雑貨の終わり」●
『Tea Time vol.7』(ティータイム) 「想像のスリランカ」●
『POPEYE(No. 865)』(マガジンハウス) 「本と映画のはなし。」●
『なnD 7』(nu) 「彫刻と占い」●
『図書(2019年3月号)』(岩波書店) 「地図のないメニルモンタン」●
『Tea Time vol.6』(サンサンサン) 「モンクと渦巻き」●
◎ 書評
『工芸批評』新潮社(評:井出幸亮)●
『波』(新潮社)「編集長から」(評:松村正樹)●
◎ イベント、音楽活動、その他
2018
◎ 本と雑誌
 増山かおり『東京のちいさなアンティークさんぽ』 (エクスナレッッジ)
『4駅 GUIDE BOOK』(中央線あるあるプロジェクト実行委員会)●
『ひとり中央線さんぽ』(スターツムック)●
『TOKYO CRAFT MAP 2018』●
◎ ウェブ
◎ イベント、その他
-
2018
個人
◎ 寄稿
『Tea Time vol.5』(サンサンサン) 「ミルクティー」●
『Tea Time vol.4』(サンサンサン) 「おしどり」●
『Tea Time vol.3』(サンサンサン) 「マリアージュ・フレール急行」●
『なnD 6』(nu) 「厨房より遠くはなれて」●
『小説新潮(2018年3月号)』(新潮社) 「宇都宮にて」●
『Tea Time vol.2』(サンサンサン) 「しだれ柳の林をぬけて」●
◎ 書評
ブックファースト新宿店10周年記念「名著百選2018(私が今年、出会った一冊)」(評:若林恵)●
FM J-WAVE「BOOK BAR」(評:笈入建志)●
『CLUÉL(2018年3月号)』THE BOOKS Publishing(評:NADiff)●
◎ イベント、音楽活動、その他
伊藤園子『リードオルガン・ヒム』(POIESIS)●
V.A.『PENGUIN CAFE ORCHESTRA tribute』LPレコード(HMV record shop)●
往来堂書店「さよなら雑貨」対談:若林恵 ●
工芸青花「すべては雑貨?」対談:井出幸亮 ●
2017
◎ 書評
  WEBRONZA「書評 2017年 わがベスト3」(評:渡部朝香)●
『365日のほん』河出書房新社(評:辻山良雄)●
『母の友(9月号)』福音館書店(評:編集部) ●
『暮しの手帖(第89号)』暮しの手帖社 (評:田島良子=編集部)●
「inVisible Voice」NPO法人インビジブル(評:中田一会) ●
『週刊読書人』読書��(評:辻山良雄)●
『週刊新潮(7月6日号)』新潮社(評:渡邊十絲子) ●  
  共同通信社 書評欄 (評:佐藤俊樹)●
  ほんのひきだし「万城目学さんの読書日記」(評:万城目学)●
  現代ビジネス「消え行く田舎の「エロ本自販機」を追った、   稀有な民俗書」(評:武田砂鉄)●
『週刊現代(五月二十七日号)』講談社(評:武田砂鉄)
『すべて雑貨』(夏葉社)●
◎ 本と雑誌
『Tea Time vol.1』(サンサンサン)●
『OZ magazine(2017年8月号)』(スターツ出版)●
『東京うつわさんぽ(改訂版)』(光村推古書院)●
『なnD 5』(nu)●
『TOKYO CRAFT MAP 2017』●
『天然生活(2017年3月号)』●
◎ ウェブ
  Time Out TOKYO「西荻窪、ご近所ガイド」●
「2016年の3つの物」●
◎ イベント、その他
森岡書店「すべての雑貨」●
B&B「雑貨化する社会について考える」●
今野書店「雑貨化する社会を考える20冊の本」●
2016
◎ 本と雑誌
・『POPEYE(No. 828)』(マガジンハウス)●
・『なnD 4』(nu)●
◎ ウェブ
・「Experience Suginami Tokyo」(中央線あるあるPROJECT)●
・「2015年の3つのもの」新春企画 ●
◎ イベント、その他
・おおたようへいトリオ『WNDR』リミックス ●
・ FALLはんこ(11周年記念) ●
・ 西荻茶散歩(チャサンポー)●
2015
◎ 本と雑誌
・『OZ magazine(2015年12月号)』(スターツ出版)●
・『菊池亜希子ムック マッシュ vol.8』(小学館)●
・『岸本かや 染色作品集 -will to live-』●
・『荻窪・西荻窪・阿佐ヶ谷本』(エイ出版社)●
・『吉祥寺を極める!2015-16』(アスペクト)●
・『なnD 3』(nu)●
・『Hanako(2015年3月号)』(マガジンハウス)●
◎ ウェブとアプリ
・「街さんぽ 第11回:西荻窪(TOKYO DANCE LIFE no.11)」●
・「甲斐みのり『コンフォート雑貨のある暮らし』会いたくなる店主。」●
・「INDIE GUIDES TOKYO」●
・ 大沼ねこひ日記「花と音楽」●
・「本「と」本を読む人vol.6」●
・「2014年の3つ」FALL新春WEB企画 ●
◎ イベント、その他
・ まいわい『ことほきす』●
・ 西荻茶散歩(チャサンポー)●
◎ お知らせ
・移転のお知らせ ●
◎ 過去のメディア掲載 → ●
◎ FALL
167-0042 東京都杉並区西荻北3-13-15-1F
地図 | 12:00 - 20:00 | 月・火お休み
gallery.fall at gmail.com | fall-gallery.com
Tumblr media
2 notes · View notes
tubotyao31 · 3 years
Photo
Tumblr media
: 「念願だったペットを迎えた部屋」 : ダイニングルームの隣にあるのが、ペットの文鳥の部屋。住み始めて1年が経った頃、念願だったペットを迎え入れるタイミングで化粧室だった空間を変えられたのだそう。 : (写真2) 「四畳半ほどの小さな和室に2羽の文鳥を飼っています。仁平古家具屋で購入した古道具の長机(寺子屋机)の上に、鳥かごとお手製のアスレチックを置いて遊ばせていますね」(鹿熊さん) : (写真3) こちらのアスレチックも既製品ではなく、DIYで作成。ご主人の創作意欲で完成されたものなのだそうですが、ツリーハウスの世界観の完成度に驚かされました。これは文鳥も喜びそう。 : 「基本のパーツは庭の木を切って熱湯消毒してつくりました。つくると言った時は妻も半信半疑でしたが、完成したものを見て喜んでくれたので、よかったですね」(ご主人) : 小さめのソファーやミニテーブルを文鳥のカゴのすぐ前に配置し、お茶を楽しみながら文鳥を観察したり触れ合って遊んだりして癒されているというおふたり。 在宅での仕事が増える中で、おうち時間を豊かにする大切な家族の一員との憩いの空間になっていました。 : : 和室を活かしてセルフリノベーション。家族の歴史を受け継いだ、夫婦と文鳥が住む5LDK(千葉県流山市)|みんなの部屋 : : “Bird's Room” Chiba,Japan,2021 150/365 : : #千葉 #リビング  #文鳥  #bird #ペット #セルフリノベーション #リノベーション  #一人暮らし #インテリア #DIY (千葉県流山市) https://www.instagram.com/p/CPdAezvr2Gw/?utm_medium=tumblr
0 notes
temsit-blog · 3 years
Text
こころの時代~宗教・人生~「地域がつなぐ“こころとこころ”精神科医・高木俊介」
https://vimeo.com/541201456
♬~ 精神科医の高木俊介さん。 高木さんは 医師や看護師 精神保健福祉士などと チームを作り 重い症状を抱える精神障害者が 地域で 生活できるよう支援を続けています。 どうも おはようございます。 高木さんが この活動を始めたのは 2004年。 患者の多くは 「統合失調症」という 幻覚や妄想が特徴的な 精神疾患を抱えています。 差別や偏見のため 自宅ではなく病院での 長期入院を強いられるケースも多い中 高木さんは 自宅での生活を優先し 地域との接点を保つことが 重要だと考えています。 (読経) 今回 高木さんに話を聞くのは 僧侶の 釈徹宗さん。 宗教学者としても 幅広く活動しています。 地域のつながりを大切にしながら 統合失調症への支援を続ける 高木俊介さん。 その半生に迫ります。 ♬~ ここは 高木さんが 在宅訪問医療の 拠点としている 京都のクリニックです。 本日は おつきあい どうぞ よろしくお願いいたします。 こちらこそ よろしくお願いします。 このお部屋っていうのは どういうふうに 普段 使われてるところなんでしょうか? このお部屋はですね 普段のスタッフの会議とか それから改まって 当事者さんや その ご家族が来られた時に ゆっくり話をするための お部屋ですね。 その他にも 勉強会に使ったり スタッフ以外の よその人たちを呼んで ここで勉強会を行ったりしてます。 高木さんの 現在の活動について 少し お話を伺いたいんですが。 重度の精神障害を持った人に 訪問診療っていうのを行ってます。 その訪問診療も ただ往診行って 診察するっていうんじゃなくて 福祉と医療を総合して いろんな 多職種の人がいるチームで 訪問して 生活の現場で その障害に なっているものを 取り除いていったり 外に出られない人と一緒に出たり それから 病気が急に悪くなった時の 応対をするということで 24時間 365日の体制で やるんですけれども これは アメリカで始まった方法で アメリカが 大きな精神病院を 解体していく中で 地域に戻って 支えがなくなってる人を どうするかということで始まった 「ACT」っていう やり方なんですね。 地域に積極に出ていく 「Treatment」支えですよね 支援。 そういう やり方を取り入れた 活動をやってます。 ACTとは 患者が 地域で生活できるよう 医療と福祉の両面から 支援する仕組みです。 高木さんは 一人の患者に対し 医師 看護師の他 生活に必要な能力を回復させる 作業療法士や 社会への自立をサポートする 精神保健福祉士らと チームを作って ケアに当たっています。 スタッフが それぞれの専門性を生かすことで 多彩な支援ができるように しているのです。 治療や支援の方針は 高木さんが指示するのではなく それぞれが 話し合って決めます。 20人ほどのスタッフで 京都市内を中心に およそ150人をケアしています。 いろんなスタッフでやる。 医者なら医者の見方 医者は その病気っていうのは 薬で何とかなるもんだと どうしても 思っちゃってるから 薬だけになる。 でも例えば ケースワーカーは この人は こういう経済的なことの不安で 困ってるなということが 見れるわけですよね。 そうしたら 医者が薬を出さなくても その経済的な不安なところを 手当てしてあげるだけで 幻覚や妄想の世界にまで 行っちゃわなくてすむ。 あるいは 幻覚や妄想があっても とりあえず 現実生活が安心できる。 そしたら 一緒に やっていけるじゃないですか。 そういうことを考えてます。 在宅訪問医療を受けている人のほとんどは 統合失調症を抱えています。 何を言うてんの? あっ もう何をするのよ。 ふざけやがって。 統合失調症とは 幻覚や妄想が特徴的な精神疾患で 100人に1人は 発症すると言われています。 周りの人には 理解しづらい症状に苦しみ 誰のことも 信用できなくなるといいます。 統合失調症の人は 現在 80万人いると言われ 地域で生活するための 理解や支援を受けられないことで 病院での長期入院を 余儀なくされる人もいます。 統合失調症というような病気 どのようなものなんでしょうか? まず分かりやすいもので言えば 幻覚。 つまり 目の前にいない人の声が聞こえる。 それから妄想ですね。 自分は 何かに いじめられている。 何か自分を襲ってくるものがあると。 自分の家の部屋の中にいても そういう感覚が起こってくる。 特徴的なのは 何か分からない世の中の 全てから 自分が排斥されてる。 世間の何か大きな組織があって そこが 自分を狙ってるとかですね 何かこう 世の中 組織 世界っていうものに対して 何かこう すごくこう 不信感があるんですね。 だから世の中 社会から籠もってしまう。 それ以外で言えばですね 思考のまとまりが悪くなるし 我々が 物事を順序立って 考えていったり 冷静に 周りのことを認識するって いうことが すごく しにくくなります。 そのためもあって 感情的に すごく不安定になりますね。 そういうことも含めて 統合失調症というんですけれども これ 決して 珍しい病気ではなくて 今 現在 100人に1人はいるだろうと 言われてます。 おおよそ1%くらい。 1%ぐらいの人が。 今 お話伺ってると 人間社会という 大変複雑なゲームの中に 放り込まれてる 我々としましては 一度や二度 精神の変調を起こしたり あるいは バランスを崩したりっていうのを 恐らく ほとんどの方が 経験するような事態じゃないかと。 例えば 山で遭難したりしたら みんな 幻覚 見るわけですよ。 それから 何も刺激のない部屋に ず~っと 2日3日 監禁されたら 幻覚 妄想 起こります。 そういう誰もが経験して 誰もが ちょっと おかしくなる。 誰もが ちょっと世の中から 引き籠もりたく なってしまうことに対して 我々以上に より過敏なところがある方 じゃないかなと思いますね。 そうなってくると その方の人生全般を 見なきゃいけない部分もあるでしょうし その症状だけを 何かでグッと抑えると うまくいくっていうもんでも なさそうな気がするんです���ど。 ないですよね。 例えば その人が ほんとに何か言いたいこと ほんとに苦しいことがあって 病状が出る。 で 周りが あっ これは大変だと思う。 何とかしなきゃと思う。 それを 薬で その病状の部分だけ抑えちゃうと じゃあ 周りは これでよかった。 薬をのんでさえいれば それで いいんだと思うと 今度は その背後にある問題や その人の人生の 全部の生きづらさとか そういうことを ほったらかしにしちゃう。 そういうことに対して 目が向かなくなるから その人にとっては 余計に苦しいですよね。 あっ また再発しちゃったと。 やっぱり これは再発して どんどん 悪くなる病気なんだっていうふうに 本人も 周りも思っちゃう。 統合失調症の経過というのは 非常に バラエティーに富んでて 本当に 予測もつかないし 一人一人 違うんですよね。 中には 幻覚や妄想が全く消えてしまって 外から見たら 全く病気じゃない 治ってるなと 思えるような時もあります。 そういうふうなのが 続く人もあれば また不安定になるという人があって ほんとに 非常に それぞれなんですけども どんなに悪い人でも すごく落ち着いて 穏やかな時が来るわけですよ。 そういう時っていうのは どういう時なのかなと思うと 何者からも脅かされずに 安心してるところなんですね。 もし 自分が ちょっとでも頑張って 自分が 「これをしたい」っていうことを 言った時に すっと受け入れてくれる人が 周りにいる そういう安心感を得てる時 それで穏やかでいる時っていうのが 統合失調症の人が 楽にいられる よくなってる時じゃないかと思いますね。 完全に 症状がなくなってるわけじゃなくても 症状があっても 安心して暮らせる。 そうですよね。 それが いわば 目指すべき方向 ということでしょうか。 安心して暮らせるし ほんとに 自分のしたいことが言える自由ですよね。 1957年 高木さんは 広島県 因島に生まれました。 医師だった父が 開業することになり 一家は 岡山に移ります。 母は 病院を懸命に支え 高木家は 地元の名士と うたわれるようになりました。 うちが 病院 内科と小児科の開業医だったんですね。 家は 家と病院が一緒で 1階が全部病院で 2階に家族が住んでて 高度成長に乗って どんどん 町も大きくなって 病院も大きくして ちょうど開業医が ほんとに いくらでも お金が 入ってくるっていう時だったですね。 だから 大当てして おやじは そのお金を 湯水のように使って まず 写真が趣味で そこら辺じゅう 写真機だらけで 車は 車も趣味だから 外車が 5台ぐらい並んでるわけですよ。 診察は 患者さんと看護婦さんだけが 何か話してて 親父は 庭で 大きな池つくって 錦鯉 飼ってて その錦鯉に バンバンって 餌やっているという 田中角栄ですよね。 おふくろはですね 東京の人なんですね。 東京から岡山に来て 知り合いいなくて 棟梁の娘で 気位は すごく高かったですよね。 どうも その岡山という土地が 水に合わなかって 自分は 都落ちしてきたんだと。 しかも 結婚したはいいけど ものすごい
道楽者の夫でしょう。 でも その開業だから 夫婦でその 妻としては その 経営 守らなきゃいけないわけですよ。 岡山に住んでるっていうことを すごく何か悔やんでるところがあって おふくろは それを嘆いてるのしか 聞かないじゃないですか。 自分の人生が うまく 自分の不本意だったことを 全部 僕に ぶつけてきてたようなとこがあって 僕は そっから 逃げたかったですね すごく。 もう ず~っと おふくろから 逃げることばっかり考えてた。 だから おふくろや おやじとも 口をきかないっていうのが ほぼ何年も続いて 今になってみればね 感謝するしかないですけどね。 自分を取り巻く環境から逃れたかった 高木さんは 岡山を離れ 1977年 京都大学 医学部に進学します。 大学に入ってからも そういう医学が やりたくて入ったんじゃないんで 文化人類学の教室に入り浸って アフリカに行ったり それから 友人に 水俣病の告発する会 いうのを やってる人がいて それに誘われて 水俣に行って ちょっと その支援に のめりこんでたり。 授業とか 大学の授業なんて ほとんど出たことないですよね。 医学部に進学したあと 精神科医を 目指すことになるんですが この辺りは 個人的な思いというのは おありだったんじゃないですか? 京大の精神科と東大の精神科だけが 当時も学生運動の時のやり方を守ってて 教授を追い出して 自分たちで 自主運営を供出してたんです。 もう そういう学生運動も かなり下火に なってる頃じゃないかと思うんですが。 そうですね 下火でした。 でも 京大は ちょっと特殊で まだ昼休みになると ヘルメットとマスクで ゲバ棒 持って 軍事訓練 やってましたけどね。 そういう連中とも 何だか知り合えるわけですよね。 その彼らが 医学部で そういう活動をしてて 勉強して 精神医学をやることは 精神障害者に対する抑圧になるから 精神科に行って遊べと言われたんですよ。 すごい理屈ですね。 本気で言ってるんです 向こうも。 京大の精神科っていうところ 入ってみると ものすごく牧歌的なところで 広~い敷地があって 庭があって 真ん中に噴水があって 病棟は 開放化されてるから で 古~い患者さんたちが多いんですよ。 そういう患者さんと 散歩しながら のんびり遊んでて あっ これは精神科って いいところ じゃないかって思ったんですね。 高木さんが 医師になって すぐの1984年。 精神医療を問う 衝撃的な事件が起きます。 宇都宮市の 900床ある大きな精神病院で 看護職員の暴行によって 2人の患者が死亡した いわゆる「宇都宮病院事件」です。 病院内での日常的な暴力や 患者を強制的に働かせていた事実なども 明らかになり 国際的にも 大きな批判を浴びました。 日本では まだ 病院に 完全に収容主義で その病院は 完全に密室で その中では 医者や スタッフからの 患者さんへの暴力っていうのが もう日常茶飯事だった。 それまでも 小さな事件は いっぱい あったけど 表沙汰にならなかったですね。 で まあ そういうことが 他の病院でも 同じようなんだよっていうことが どんどん明らかになって 日本は 精神医療 このままでいいのかって いうのが 宇都宮病院事件で分かって それはね ちょっと やっぱり ショックでした。 戦後の高度経済成長期 労働需要が高まった都心に 人が集中します。 同じ頃 精神障害者の 病院への隔離 収容が 国策として進められ 病床数は 増加の一途をたどりました。 1950年代に 戦後の復興から 高度成長が始まって その高度成長が始まる中で 障害者を どんどん隔離していくようになった。 これは 産業構造が変わって 地方にいた労働力を 都会に集めなきゃいけない。 そのために 地方で 家族や コミュニティーが障害者を見てたら そういう人口移動が できないんで 国策としてやったんですよ。 精神障害者は 特に そのころは 精神病だから 施設ではなくて 病院が必要だということで 日本中に ばく大な数の 精神病院つくったんです。 いっぺんに 10年~20年で それまで 1万 2万という ベッドしかなかった精神病院が 35万ベッド できるんですね。 病院全体の病床数の 4つに1つです。 宇都宮病院事件で 衝撃を受けた 高木さんは 京大病院を出て 大阪の病院に勤務します。 そのころは 精神病院を いかに開放化するか。 その閉鎖的な精神病院で 患者さんは 一歩も外に出れない。 そういう病院から 患者さんが 自由に外に出てもいい 病院にしようという動きが 全国に ようやく広まった頃なんですね。 精神障害者の人権を守ろうということを 考えて 活動している病院というのがありまして そこの病院に就職したんです。 そこで ちょっと精神医療改革について やっぱり 自分 ちょっと やろうと。 これ やらなきゃ駄目じゃんかと。 ご自身も志を持って 勤務に着任された。 行ったんですね はい。 で びっくりしました。 着任して すぐに 鍵の束 持たされるわけじゃないですか。 各病室の鍵ですか? 病棟の鍵の束。 で この鍵を 絶対になくしたらいかん というようなことから 教えられるわけですね。 で 開放的な病院のはずなんだけど そういう鍵のかかってるところは まだ たくさんあって で その鍵を 自分は開けて 病棟に まずは新人ですということで 紹介されに行くんだけど まあ その病院でも 閉鎖病棟っていうのは ものすごく何というか 狭くて においもするし 「えっ これが病院?」 というような感じですよね。 その病棟の中に入れば 狭いところに ベッドが ずらっと並べられてたり そのベッドと ベッドの間は ほんとに 野戦病院みたいなもんですよね。 カーテンも何もない ベッドがある部屋は まだましで 多くの部屋は 畳部屋ですよね。 大きな畳部屋で 10人以上の人が 雑魚寝してる。 当時 あとで知ったんですけども 「超過入院」っていって 病床の120%ぐらいの患者さんを 入れているのが 当たり前だったんです。 もう定員を超える人を 入れている。 そうです はい。 畳部屋の中では そこも 私物を置く場所ないから 押し入れのとこに それぞれの人の固まるようにして 自分の乏しい私物を 置いてるわけじゃないですか。 どこに 誰が布団敷くかも 決まってないから しょっちゅう 場所の取り合いとかで ケンカが起こっちゃうわけです。 私物を取った 取られた 触ったって。 廊下で寝てるような人もいるんですよね。 そういうところで 当然 すごい もう 密なんてもんじゃないですよね。 ものすごいところに 閉じ込められてて 自由に 出入りはできない。 しかも たばこ一本もらうにも 看護師さんに 頭下げなきゃいけない。 そういう状態だと 精神疾患を 持ってない人でも 大変なストレスで 異様な行動に走ってしまいそうな 気もしますけども。     なると思います。 大変だったのは そんな中で 勤め始めて すぐの頃の当直で ケンカがあって 頭が割れちゃった人がいて 救急車を呼ぼうかというような 今だったら すぐ そうするような 看護の人も平気で 「けが人が出ましたから 先生 縫って下さい」って言ったんですね。 医学部の学生だったからといっても 今でも縫えるわけじゃない。 そこで 本人の処置をするけど これ 家族に言わないわけに いかないじゃないですか。 ところが 次の日の朝に その加害者 被害者の家族が 両方とも飛んでくるわけですよ。 ああ 来た。 どうしようと思ってたら こっちが何か言う前に 家族の方が 「先生 お願いですから 病院を追い出さないで下さい」と。 「このことは 絶対に責任も問いませんし 公にもしませんから この病院に置いて下さい」って。 どっちの加害者の方も被害者の方も それ言うんですよね。 もう何が起ころうが 捨てられた人たちなんだなと思った。 しょっちゅう暴力沙汰が起こったりしてて ちょっと聞いたら 「なんだ やっぱり精神障害者って 怖いんじゃない」って 思われる方が いるかもしれないけど 僕が辞める前ぐらいに 病院が きれいに改装したんですね。 それで 超過入院というのもなくなって どこも ちゃんと プライバシーが ちゃんと保たれたベッドの部屋になって そういう病棟に 5~6年目でしたかね なったんですよ。 もう見事に 暴力沙汰が減ったんです なくなりました。 患者さんが そうやって荒れている。 ほんとに 荒れた状況というのは 実は 環境のせいだったんだなって…。 患者を取り巻く過酷な環境を 目の当たりにした 高木さん。 疑問を持ちながらも 患者に対して 次第に 強い態度をとるようになったと言います。 そのころは 往診に行って 患者さんを連れてくるわけですけど 入院のための往診というのは たくさんしました。 入院して治療することは いいことだと思ってたから。 で そういう時でも 自分で 自分で まずは患者さんの家に入って そこで 最終的に 連れていく時は 自分で手を引っ張ると。 そうやって 自分は いいことをするために そうやって 力を使ってると思うから いい気になっちゃうんですね。 だんだんと。 いい気になるとは どういうことですか? 自分は いいことしていると。 自分は
これは暴力じゃなくて 必要な力だと思ってるから。 必要なことなんだと。 こうやって 治療に乗せたら それで 薬のんでくれたら 患者さん よくなって 家族からも それから地域の その頑張ってた 保健師さんたちからも お礼 言われちゃうじゃないですか。 ああ 大変な往診だったけど してよかったなと。 中には 患者さん自身も あの時 先生に 無理やり 連れてきてもらわなかったら 自分は 大変なことになってましたって。 どれだけ嫌がってても 無理やりでも 入院させるのが 家族のためでもあり 本人のためでもある。 そうそうそう。 そういう信念で 自ら先頭に立って やっておられたということ。 そうですよね。 でも 自分が辞める時に 自分が連れてきて 急性期の病棟で治療して 収まったから 慢性期の病棟に行ってもらった人って いうのが たくさんいたんです。 そういう人は みんな 例えば 薬は 絶対のまないとか 看護者とも 誰とも話さない。 うずくまって じ~っとしてたり…。 そういう人を 自分が いっぱい作っちゃってたなというのを 気付いたんですよね。 じゃあ 僕が やってたことって 何だったんだろうなってね。 誰かが誰かに 何かをしないと いけないっていうことは それが 病院の中でもあるんだと思って やってたけども そういう力っていうのは 本来 英語で言えば forceであって 人を動かす力 人間同士の中で お互いに使う力なんですね。 ところが それを病院の中で 十分な 説明もなく それをする時っていうのは 同じ力でも violenceになる。 この violenceは 一方が 一方的に振るう力。 日本語では 同じ「力」になっちゃうんだよね。 病院という「力」を利用して 個人に バイオレンスしてたんだなと。 1993年 日本の精神医療に 大きな転機が訪れます。 「精神分裂病」という病名は 差別的として 精神障害者の家族会の全国組織が 学会へ 病名の変更を要請します。 当時 精神医療の在り方に 疑問を抱いていた高木さんも この運動に 参加しました。 私が 精神科医になった頃には 統合失調症というのは 精神分裂病 というふうに言われてたんですね。 この用語に じゃあ問題ありというふうに お感じになられたんですね? そうですね。 もともと その感じた きっかけは 統合失調症の人たちの 家族会の活動でしたね。 精神障害者家族連合会っていうのが 当時ありまして 1992年ぐらいに いろんな精神障害に対する 差別をなくそうという運動の中で 精神分裂病という名前を変えてほしい という要望書を 家族会が出したんです。 精神が分裂してる。 「あなたは 精神分裂病ですよ」って言ったら 「俺の精神は 分裂してるのか?」でしょう。 「あの人 精神分裂病だよ」と言ったら 「あっ 分裂してるんじゃ ちょっと 話はできないよね」って。 そうですね。 何かもう コミュニケーション不可能のような 印象を持ちますが。 精神分裂病などという 病名を付けられたことによって 本人も家族も 病気の苦しみと 病名の苦しみの 二重の苦しみを負ってるんだと。 自分たちは こういう病気を持ってます。 自分たちは こういう家族を持ってます ということを 誰にも言えないっていう。 で それが出た時って 「インフォームド コンセント」っていうのが 日本で言われだした頃だったので インフォームド コンセントを やっていけば 当然 どの医療でも 患者中心っていうこと。 患者自身が 自分の病気について 自分で知っていく。 自分は こういう病気である ということを知って 医学を利用していかなきゃ いけないですよね。 これからは そういう時代になると。 で 医学の病名も 我々が いろんなところで聞く 一つの情報になるはずだと。 大事な情報になるはずなんですね。 差別をなくすとかと同時に これは 研究者 学者 医者としても その名前を使って インフォームド コンセントが できるように ならなきゃ おかしいだろって。 2002年 「精神分裂病」という名称は 「統合失調症」に 変更されることになりました。 さまざまな誤解や偏見をなくしたいという 家族たちの思いが 実を結んだのです。 僕たち人間っていうのは みんな 常に常に 感覚に入ってくるものを 何らかの その場に そぐった形で 統合してるんですね。 統合っていうのは 世界を まとめ上げていくことなんですね。 今 ここが こういう場所で 今 前にいるのが釈さんだということも ほんとは 僕の刺激に入ってるものが 声も目も バラバラじゃないですか。 それを 今ここで 釈さんという 人間として まとめ上げているのは 僕たちの 精神の働きですよね。 そういう統合を 常に常に していってるわけ。 ところが その統合って 例えば 僕たちは 酔っ払った時に ふにゃっとなりますよね。 何か いろんな原因で 実は崩れるんですね。 はい。 統合失調症っていう病気は 何かの原因で その統合が いきなり崩れちゃうことがある。 そうすると 世界に裂け目が出来ちゃって 今 目の前にあるもの ここにあるものが何なんだと。 こういうふうに 釈さんだったら 釈さんとして まとまってる以外の いろんなものが入ってきて どう まとめ上げていいか分からない。 自分の経験の中に ないものになってしまうんですね。 それを 何とか 言葉で まとめ上げようとすると 妄想になったり 「何か とても不気味なことが起こってる 大変なことが 世界で起こってる」に なったりするんですね。 そういう統合が 何らかの原因で 崩れてしまったもの。 そこに見える世界が 統合失調症の人が見てきた 世界じゃないかなと…。 ただ 統合失調症っていうのは ず~っと そうじゃないから やっぱり戻るんですね 元に。 元に戻って また あっ 現実 こう 釈さんじゃないかって分かるわけです。 そういう 一貫して ず~っと あるわけじゃなくて 「失調」っていう言葉だから 失調する時と しない時がある。 崩れる時と 崩れない時があるんですね。 そういう 一貫して この人が ず~っと そんな状態。 精神分裂の状態なんではないよ という意味が 「失調」にはある。 私たちも 常に 物事を統合しようとしてる。 でも 時々 その統合が 意識せずに外れることがある。 そういう意味では 僕たちも 統合失調症の人も ず~っと 薄~く 連続してるはずですね。 統合失調症の人の見てる 世界っていうのは 全く 僕たちと別だ 僕たちから隔絶してるわけじゃなくて どっかで連続してて 言ってしまえば みんな 浅く統合失調してると うん。 明確に こう 線引きができるもんじゃ なさそうな気はいたします。 そういうことも 統合失調症という名前と共に 広まってくれたらいいなと 思いますね。 2004年 高木さんは 統合失調症の在宅訪問医療を始めます。 統合失調症の人を 病院に入院させるのではなく 自宅での生活を続けながら 地域が支えていく仕組みを 作りたいと考えたのです。 ♬~ おはようございま~す。 (一同)おはようございます。 高木さんは より多彩な支援ができるよう 医師や看護師だけでなく 社会への自立をサポートする 精神保健福祉士などを集めました。 それぞれが 専門性を生かしながら 24時間365日 支援ができます。 高木さんは 患者と 信頼関係を築くことを大切にしています。 出会った当時 高木さんの問いかけに 全く反応をしなかった男性に対して 高木さんは ある行動に出ます。 妄想などからくる 緊張で こわばった体を ほぐしてもらう男性。 その隣で 目線を合わせて話しかけます。 男性の心は 少しずつ解きほぐされ その後 高木さんと一緒に 食事や外出を楽しめるまでになりました。 では どうも失礼します。 一人一人に合った 寄り添い方をすることで 患者が 心を開くきっかけを 探しているのです。 統合失調症の方にとって こう 望ましい環境っていうのは どういうものを 考えられるもんなんでしょう? やっぱり その人が住み慣れて その人が ちゃんと自分で コントロールできる そういう環境。 その中で 病気と対決するのが いいんだっていうことを 言ってるんですよね。 世界も そうだけど 日本の精神医療は 特に 全然やらずにきたんですね。 で そういう 暮らし慣れたところで 自分が顔見知りの 自分の歴史やら 自分の いろんなことを知ってる なじんだ人たちが 周りにいる中で 自分が安心できる生き方っていうのを 見つけていく。 幻覚や妄想があったとしても それと つきあいながら 現実も現実として ちゃんと見ていけるような生活を 探していくっていうことだと思いますね。 どうも おはようございます。 高木さんたちが 在宅訪問医療を始めた当初に出会った 育子さん。 中学生の頃のいじめが きっかけで 精神的に不安定になり 高校に進学して すぐ 病気が明らかになりました。 (泣き声) 支援を受けるまでの育子さんは 絶えず襲ってくる 妄想や幻覚に苦しみ 何度も 自ら命を絶とうとするなど 入退院を繰り返していました。 おはようございます。 は~い。 しかし
高木さんたちが 在宅ケアを続ける中で 少しずつ変わっていったといいます。 ♬「約束を守れたなら」 ♬「願いを叶えてあげる」 育子さんっていう方なんですけれども 中学生の頃に 発病されたんですね。 それまでの 発病前の写真を見ても もう とっても はつらつとして 笑顔がよくて スポーツマン。 中学生の発病っていうのは 早い方になるんですね。 ちょっと早いですね。 まあ 最初… 発病の 初めの頃かな… で 中学生ぐらいの発病っていうのは 思春期で 自分とは何かっていうことに すごく悩んでる。 誰でも。 そういう時代じゃないですか。 そこに そういう悩みは 誰でも持ってるところに 統合失調症の人の 統合が 一度 崩れるっていう 衝撃的な感覚を持たれたんですね。 それによって ものすごく こう 興奮したり 感情不安定になったり 興奮したり もう訳が分からないから 暴れるしかなくてって症状が激しくて 何回も 入院を繰り返されてる方なんですが 入院を繰り返しても なかなか ほんとに合う薬もなくて 合う環境もなくて 入院すると 症状が激しいから まあ え~… 隔離されちゃうわけですね。 でも 入院になると ず~っと個室に閉じ込められてる。 で あるいは 大量の薬で ボーッと なってしまってる。 お父さん お母さんも そういう娘の姿に見かねて… で もう 病院で まだ保護室… 病院からの隔離室の中から 出れないような状況でも もう 自分たちも耐えられない ということで 退院させるんですね。 病院は とても退院なんて無理だろう ということで 言ってたんだけども おうちに戻られて で もう お父さんお母さんが それぞれ寝ずに うん 交代で 付きっきりで 見ておられたんです。 付きっきりで見てても まあ 本人が興奮したりすると暴れて 壁には 穴は開くわ 夜中でも飛び出すし それから 何か その辺にあるもの 危ないものでも すぐに 口に入れてしまうっていう 病状があって。 育子さんの書いた詩があるっていうふうに 伺ってるんですけども ご紹介頂けますでしょうか。 はい。 この育子さんの詩は 彼女が発病して… 発病の初期ですから 最初は 非常に また よくなる… 一度 よくなったり また再発したりですけど 再発して すぐの頃かな 再発して すぐの頃に よくなった時に書いた詩なんですね。 恐らく 彼女が 病気が発病した時に見た世界 統合が崩れてしまった時に見た世界の 孤独感 そういう世界を 自分しか持ってない孤独感。 そして今でも こういう世界を ほんとは 抱えてるんだと思うんです。 ただ それを 僕たちに通じる言葉で 今は言えない。 何とか言葉にしたのが この詩だと思います。 で ちょうど その時に 私が ACT 始めるということで。 我々 私も含めて おうちに行くんですけど それは大変で まずは ちゃんと 話をしてくれるなんてないですよね。 というか 言ってることが 何を言ってるのか さっぱり分からない。 で 突然 こう ピュッと どっかに飛び出しちゃうから。 でも まあ あの… お父さん お母さんも含めて もう一緒に とにかく 見きろうということで うちの いろんなスタッフが 交代交代で行って とにかく 何があっても じっと そばにいると。 で 「大丈夫よ」と安心させてあげる。 そういうことを繰り返してて ようやく 少しずつ言葉が 何か月も繰り返して 言葉が よくなったのか こちらが 彼女の言葉を 少しでも 分かりやすくなったのかな。 そういうことですか。 うん 小さな言葉も 小さなことが 少しずつ 分かるようになって。 それが出てくるまで 皆さんが こう じっと そばに居続けたっていう この期間が 恐らく 相当大事。 相当だったと思います。 ご家族は その間 大変だったと思いますけどね そこから だんだんと いろんなことが できて もちろん 病気も 相当 悪い時もあったり 薬にも かなり頼らなきゃいけない時も あったりしたんだけども だいぶ よくなってから 今度は また 2年後3年後かな 「何がしたい?」っていう時に 「成人式」 ポロッと出たんですよね。 成人式 じゃあ二十歳の時に 出られなかった?            してない。 病院の中ですよ。 病院の中だったんですね。 で 彼女に着物を着せて 化粧もして 何人かのスタッフと一緒に 成人式だけど 4月にやりましたけどね。 成人式で 桜の下でね パチッとこう… そしたら もう ほんとに満面の笑顔で。 そうですか。 このように 具体的な事例を お伺いすると ACTの活動っていうのが うまく こう… 我々も こう イメージすることが できてきました。 例えば 病院にいると しなくてもいい苦労が 自宅 あるいは在宅で暮らしてると さまざま 襲ってくるんじゃないか そんな気もするんですけども。 病院にいると 確かに苦労はないと思いますよね。 3食 ベッド付きで。 でも その分 管理されてる者に従えばいい そんな生活に どんどん慣れてきたら 病院の中にいてすら その中で起こることに 対処できなくなってくるじゃないですか。 人間というのは やっぱり 生活する場の中で いろんな苦労が 襲いかかってきて それを じゃあ どうしようかということで 乗り越えなきゃいけないもの ほったらかしとかなきゃ しょうがないもの 誰かに 助けを求めなきゃ いけないものって そりゃ いろいろ あるわけで じゃ それを それぞれ どうしていくか っていうことで成長していく。 「成長」っていうことが おかしければ それが 人生の生きがいみたいな 何か 生きてるっていう感じに つながっていくわけでしょう。 苦労が なかったら 生きてる感じもないですよね。 暮らしていれば 当然 引き受けなければいけない苦労を 病院は奪ってしまってる。 奪ってしまってると思いますね。 で もちろん その苦労は 統合失調症のような病気を 持ってる人にとっては 大きすぎる苦労だったかもしれない。 病院で守ってあげることが よいかもしれない。 でも 生活の場の方に 「じゃ それだけの苦労でも 一緒に苦労しましょうよ」いう人がいたら いいわけですよ。 一緒に苦労する 一緒に乗り越え方 考えよう あるいは そこは ちょっと こっちが取ってあげるから みたいな。 何でもいいんだけど そういう人たちが 一緒にいるっていうことが 大事なんじゃないかと思いますね。 そう考えますと 家族だけが 全て負担するっていうのも かなり 困難なことになりますね。 そりゃそうだと思いますね。 よく 病院の人が言うのは 退院させたいけど 退院させようとしても 家族が受け入れないよっていうことが よく言われますよね。 で 例えば ACTの活動 大変 すばらしいと思うけども もう 入院してくれた方が 楽なんだっていう ご家族も 恐らく おられるんじゃないですか? たくさん いますね。 それだけの苦労をしてきたし 恐らく 今の日本の精神医療の体制が ご家族には そういう苦労を強いてきたと 思うんですけども あの… だから ご家族も 実は SOSを持ってるんだと。 その ご家族に対する支えが 必要なんだっていうことを していかなきゃいけないけども 病院に… 病院は そこまでのね 生活の… 家族は 病院の外側にいるから 病院は そこまでのことができないし。 そのために いわば 地域が関わるっていう そういう面が 必要となってくるわけですね。 ACTが ご家族の支援を 同時にしてもいいし ご家族を支援するような… 支援できる人や 組織を 私たちが 家族のもとに 引っ張ってきてもいいし。 お話を聞いてると 何かこう 病気を 何とか治さなきゃいけないって いうような 何か 結果を出そうというよりは むしろ そのままで暮らしていけば いいじゃないかという そういう方向に聞ける… お伺いするんですが 私 認知症の方の介護に 関わってるんですが 最初に 認知症って 自分でも知識もありませんし 経験もないんで ものすごい怖いものだって 思ってたんですよね。 山の斜面に お寺 建ってるでしょ? はい。 釈さんは 2003年 寺の裏にある古民家を利用して 認知症の人のための グループホームをつくりました。 昔ながらの 木造の日本家屋での共同生活は 地元の人が遊びに来たり 中学生が ボランティアに来たりするなど 一つの大きな家のようです。 釈さんが目指すのは 認知症の人も 地域の中で 共に暮らせるような施設です。 とにかく まあ 「認知症だけにはなりたくない」 そのぐらいの気分だったんですけども ず~っと関わってるうちに ある日 ふと 「あれ 認知症 あんまり怖くなくなってる」 っていう自分に気が付いて ちょっと びっくりしたんですよね。 認知症を ひたすら見ないようにしたり 隔離したり あるいは 恐れるのではなくて 認知症になったら 認知症者としての暮らしがある。 あるいは 統合失調者は 統合失調者としての暮らしがある。 そういう こう ものの見方といいますか 取り組みの在り方っていうのは ACTにはあるんじゃないかと 思うんですが…。             そうです。 だから 「これは 病気の症状だから それを取ってしまおう」というのとは 違うし また
取ってしまおうとして 取れるもんじゃないんですね。 今 いろんな薬が出てて 「この薬で 脳の この活動を抑えれば 病気の活動を抑えれば 治りますよ」と いうふうに 製薬会社は言うけども それで治ってる人は 僕は いないと思うんですね。 治ってる人は いろんな偶然 いろんな いいことが いろんな うまくいくことがあって 薬も含めて その偶然の いろんな出会いの中で たまたま よく いってる。 で 僕たちが関わってる重度の人 つまり 今まで よくなりたいと思ってきたけども そうじゃなくて この病気と つきあっていかんといかん この障害を抱えて 生きていかんといかんというふうに 腹くくった そういうふうにせざるをえない そういう方に対しては 僕たちが その人が 少しでも楽になる 少しでも 現実を うまく受け止めて 現実の中で やっていくための 僕らの関わりも含めて たくさんの偶然を こう寄せ集める。 地域での生活 家での生活 いろんなことがある。 先ほど おっしゃった かえって苦しいこともある。 そんな生活の中で 偶然の力を集めていく。 その偶然の力が どっかで 彼 彼女を楽にする。 それを 僕らは 引き寄せることを 仕事にしてる感じですね。 さまざまな出会いや 人との関わり合いから生まれる 偶然の力。 高木さんは この偶然の力を 母の看取りで実感したと言います。 実は 私の母も認知症で 最期まで 家で看取ったんですね。 その時の話を ちょっと させて下さい。 気位の高い母でしたから 介護者に対しても ものすごく 被害的になったり 攻撃的になったりして 大変だったんですけど 経験や知識もあるケアマネージャーさんと 一緒にやってて そういう ケアマネージャーさんに いろいろ組織してもらって で 24時間体制にしたんですね。 そうしていくと だんだんと こう ケアを受け入れてくる中で 気位の高い人でしたから かえって いろいろ ズバズバ 物 言ったりするのが 好かれちゃって。 例えば ヘルパーさんたちが 自分の自宅に うちの親を連れていって パーティーやったり…。 そうなんですか。 そういうことを してくれるようになったんですね。 でも それから がんになって まあ 最期を看取るいう時に まあ だんだんと 胃がんで食事が入らなくて 水分だけで 見ていってるわけですけども 最期まで すごく機嫌がよくて ニコニコして ヘルパーさんたちや 訪問看護の人たちに かわいがられる存在。 で いよいよ最期だなっていう 時がきて まあ 呼吸が 下顎呼吸になって ちょっと乱れてきたと。 これは もう 息子さんを 呼ばなきゃいけないというふうに 皆 思ったらしいんですね。 僕としては すごく もう覚悟はしてたし みんなが これだけ よくやってくれるんだから いつ 亡くなっても そりゃいいよねと。 別に 死に目にあわなきゃいけない というような考え方 なかったから のんびりしてたんですよ。 だけど ケアする方は 気が気じゃないわけ。 「息子さんが帰ってくるまで 死ねないわよね」みたいな。 よくある話ですけど。 それで みんなで 「頑張れ お母さん 頑張れ もうすぐ来るから」つって。 「もうすぐ 息子さん来るよ」つって。 で こっちは のんびり行って まあ そろそろ もう駄目なのかなって 思って パッて開けたら 「ようやく来た~」っちゅうことになって。 で 僕が 母の前に行くんですけども まあ 母は こっち見たような 見てないような 僕は よく分かんない。 だけど そこで ことっと 息が切れたんですね。 僕には よく分かんないんだけど でも 周りから見たら やっぱり 「息子さんの顔を見て 安心して逝かれました」つって 「すごく穏やかに にっこりしました」。 来るのを待ってた! 「待ってましたよ お母さんは」って 言うんですよ。 どう見たって そうじゃなくて。 たまたま? 偶然 今 僕が…。 でも それ ほんとに偶然なのか どうなのかって考えるんですよね。 もしかしたら 周りの 緊張して 「これは もう あなたは 息子さんに 会わなきゃいけない 会うべきだ 息子さんが間に合うように来てる」って。 「頑張って 息子さんも 今 走ってるよ」 みたいな そういう 何か場の力がですね 彼女の… 母の命を 生かしてきたんじゃないかと そこまで。 ところが 僕が パッと入っていった途端に 周りの人たちの方が安心しちゃって その 命を支えてた力みたいなものが ふっと緩んだんでしょうね。 で 母も一緒に緩んで ふっと 逝ったと。 じゃあ その場に集った全員で その臨終の場を演出したっていう。 そうでしょうね。 それには もう 死んだ時刻まで関わってるっていう すごい偶然だと思います。 偶然の力が そういう必然の物語を 呼び込んだんだと思うんですね。 ♬~(ピアノ) 高木さんたちが支援し続ける 育子さんです。 ♬~(ピアノ) 終わり?          (育子)うん。 終わりか そうか。 ヘルパーの支援を受けながら 1人暮らしを始めています。 これまで面倒を見てきた 父は3年前 そして 母は 5か月前に 病気で入院しました。 重い症状を抱える育子さんが 1人でも この家で暮らしていけるよう 福祉分野の専門家も 支援に加わりました。 今 福祉制度を利用することで ヘルパーが2人 24時間交代制で 育子さんの暮らしを支えています。 わ~… やややや~! 高木さんたちが出会った 17年前には 親しい人以外には 心を閉ざしていた育子さん。 地域とのつながりを持ちながら 歩み始めています。 偶然でしか うまく いかないんだけど 偶然を待ってるだけではいけない。 で 偶然は起きるんですよね。 うまくいった時には 必ず 偶然 いい結果をもたらす偶然。 いい結果をもたらす偶然というのは 僕は 奇跡と言っていいと思うんだけど それは起きるけども それが起こった時に それを ちゃんと次に また同じことを 少しでも同じことをできる そういう見極めが できる力がないといけない。 ♬~ ♬~
0 notes
honyakujp · 3 years
Text
ベトナム人女性の幸せはどのように定義されていますか?
Tumblr media
1.ベトナム人女性の幸せについて基本的なコンセプト
1.1.幸せとは
1.2.幸福の構成
1.3.結論
2.喧嘩後のやるべきこと
2.1.認識を変えること
2.2.コミュニケーション
2.3.行動
3.家族の幸福を守るための重要な要素
3.1.お互いを愛し、共感し、気遣う
3.2.一緒に時間を作る
3.3.共有し、耳を傾ける
3.4.一緒に面白いことをしましょう
4.結局、ベトナム人女性の本当の幸せは何でしょう? 5.ベトナム人女性の概念から、幸せな人であるという兆候
5.1.毎日前向きに
5.2.人生の喜びを作る
5.3.良い考え方
5.4.家で財政を管理する方法を知っている
5.5.ささいなことを気にしない
5.6.振る舞い方を知っている
5.7.自分の力ですべてをしなさい
5.8.自分のスペースを持っている
5.9.健康的なライフスタイルを開発する
6.結論
1. ベトナム人女性の幸せについて基本的なコンセプト
ベトナム人女性と出会いたい、ベトナム人女性と結婚したい、ベトナム人女性と幸せな家族を作りたい でもベトナム人女性の事を良く知っていますか? ベトナム人女性に対して、何が必要でしょうか? ベトナム人女性の幸せなことは何でしょうか? 次の内容をご参考下さい。
1.1 幸せとは
幸せはみんなの希望のものです。 しかし、誰も希望のように幸福を持っているわけではありませんが、具体的には、現代生活でベトナム人女性の幸福には多くの異なる意見があります。 それでは、ベトナム人女性の幸せはどんな事でしょうか? ベトナム人女性の幸せについて説明する前に、幸せとは何かを知る必要があります。 幸せは男性と女性の両方にとって普遍的です。常識によれば、幸せは感情であり、喜びに満ちた、満足のいく瞬間です。
1.2.幸福の構成
研究によると、幸福感は2つの部分で構成されています。 最初の部分は、感情を調整し、ポジティブな感情とネガティブな感情のバランスを取ることです。 次は、その人が自分の人生のさまざまな側面に満足していることです。
1.3.結論
上記の定義を使用し、ベトナム人女性を現在の社会的および文化��文脈に置くと、 ベトナム人女性の幸せは夫、子供、両側の家族、仕事との関係に満足していると感じなければなりません。 さらに、ベトナム人女性の幸せは、体重、容貌、性生活に関連していることなど非常に特定の部分が示されています。 ベトナム人女性の幸せをもたらすことができるものはたくさんあります。 しかし、完全な幸福を得るには、ベトナム人女性は自分の結婚生活で幸せでなければなりません。 実際、多くのカップルは愛を持って集まり、最初はお互いの違いを受け入れますが、対立があると、もはやそうではありません。 何故ですか?
一つのことは、多くの問題は結婚後 起こるということです。 ストレス、特に家族の経済的問題は、夫婦の幸福に非常に悪い影響を与えます。
2番目の要因は、相互に通信する方法を知らないことです。 そして、お互いにコミュニケーションをとるとき、しばしば否定的な言葉、侮辱または名誉毀損を使用します。
三つ目は、夫が妻に対して暴力を振るう傾向があります。 また、子育ての違い、時間を共有しないなど、他の要因もあります。 それらは家族の幸福の喪失につながる要因です。
2. 喧嘩後のやるべきこと
2.1.認識を変えること
調査によると、適切な人を選び、結婚したのでもう何もしなくても大丈夫だと多くの夫が思っています。 しかし、結婚は発展するために育てられる必要があります 。特にベトナム人女性に対して、結婚は永遠を意味し、人生の終わりまで一緒に暮らすことを意味します。一方的だけで頑張っても意味がありません。 夫婦は一緒に頑張ること必要があります。
2.2.コミュニケーション
「男性は目で愛し、女性は耳で愛します 」ことわざ があります。 他の国の女性に対して、このことわざは合ってるかどうか分からないですがベトナム人女性に対して、合っています。 ベトナム人女性は愛する男性からの甘い言葉を聞くのが大好きです。 穏やかな言葉を使って、コミュニケーションを取り、相手の助けを借りて 感謝の気持ちを表すことは 夫婦間の喧嘩を迅速に解決するための鍵です 。
2.3.行動
上記の言った通り、ベトナム人女性は甘い言葉を聞くのが大好きです。しかし、言葉だけでなく行動も欠かせません。多くの場合、行動は言葉よりも重要です。 子供を迎えたり、料理をしたりするような家族の仕事だけではありません 。 私たちは一緒に平和な夜を強調するだけでなく、特別な研究は、感情、興奮、興奮、冒険などの機会を探す必要があることを示しています。そうすれば、それは愛を育むことができます。
多分あなたは興味があります:
3. 家族の幸福を守るための重要な要素
3.1.お互いを愛し、共感し、気遣う
オンラインで情報を探すと、贈り物、花束、短い旅行など 沢山ポイントがあります。それはすべて、壊れた結婚には何の意味もありません。それはただのヒントです。 本当に重要なのは、両方とも何を感じますか? ベトナム人女性はロマンスが大好き、それは本当です 。でも何もより大切な事は夫の愛し、共感し、気遣う です。 ある日、相互の共通点がなくなると、接続が切断され、結婚も壊れちゃうと思っています。
3.2.一緒に時間を作る
ベトナム人女性に対して、家族は第一です。家族と一緒に時間を過ごす事は重要です。 「仕事が忙しくても、妻に時間を作りましょう」世界で全ての夫へ届いて送りたいと思います。
3.3.共有し、耳を傾ける
結婚では、両者はお互いを尊重し、よりよく理解することに耳を傾ける必要があります。 言うのは良いことですが、静かにする必要がある場合もあります。 ベトナム人女性は、男性に甘やかされたとき、相手へ見返りにもっと欲しがる傾向があります。 謙虚な夫が妻を愛している限り、ベトナム人女性は夫のために最善を尽くし、常に非常にうまく行動します。 喧嘩の時は「夫が怒ったら妻が言葉を少なくし、夫婦が幸せになる」という言葉を覚えておかなければなりません。
3.4.一緒に面白いことをしましょう
言った通り、ベトナム人女性はロマンスが大好きなので、退屈は結婚関係において非常にタブーであり、浮気以上に夫婦の恋を殺す可能性があります。 忙しくても仕事はストレスがたまりますが、どちらも人生の面白いことを計画しましょう。 興味深いのは、人生をより「豊か」にスパイスすることです。 浮き沈みを経験したことで、あなたはその瞬間を一緒に鑑賞する方法を知るでしょう。 結婚するのは簡単ですが、婚姻を守るのは挑戦的で、一緒に愛し、家族の幸せを築きます。
4. 結局、ベトナム人女性の本当の幸せは何でしょう?
ベトナム人女性には幸福が必要であり、その幸福は単に敬意を払い、思いやりがあり、誠実な愛です。 それは、女性であるために彼らが恥をかかされていないときです。 それは彼らが犠牲にし、分かち合うことを強制されない時です。 それは彼らが経験している困難に彼らの男性に同情しているときです、時々ただ認めることは女性に満足を感じさせそして私のためにサマーディアリと闘い続けることができます。 それは自身であり、他人のロールモデルではなく、美しい体格やお金を稼ぐ能力のためではないので、周りの人々が本当に彼らを愛しているときです。 なぜベトナム人女性は花や贈り物が好きなのですか? 簡単に言えば、花や贈り物は、365日のうち1回でも、相手の世話を示しているからです。 あなたの女性に喜びをもたらすことは、あなたの家を平和に保つことだけでなく、あなた自身に幸せをもたらすことでもあります。 人生は恨みや非難だけではないので、どんなに小さくても喜びが必要です。 だから、それでは毎日必要はありません、あなたが機会があればいつでもどこでもあなたの周りの女性に愛、共感、そして尊敬を与えてください。 彼らの幸せはあなたの幸せでもあります 。
5. ベトナム人女性の概念から、幸せな人であるという兆候
愛され、幸せに暮らす女性の違いは何ですか? ベトナム人女性が幸せかどうかは、人と接するときの笑顔や、自分の人生について言う時、ことではありません。 ベトナム人女性は、愛の中で生き、自由を持ち、心から慰めを得ることができる場合にのみ、本当に幸せです。 幸せな女性だけができる9つのことは次のとおりです。
5.1.毎日前向きに
幸せな女性は、幸福と富が直接関係していないことを常に知っています。 財布にたくさんのお金があるのは幸せかもしれませんが、お金があるからといって幸せになるわけではありません。 代わりに、それは楽観的な精神です。 楽観主義は、ベトナム人女性が前向きに考え、常に幸せになり、すべての人に喜びをもたらすのに役立ちます。
5.2.人生の喜びを作る
自分のために喜びを生み出し、好きなことをし、愛する人に喜びをもたらす女性は、幸せな女性でなければなりません。 多くのベトナム人女性がそうだと思っています。
5.3.良い考え方
比較と懸念は常に暗い角度で私たちを拘束し、最終的には人生に不満を持った悲しい精神を生み出すだけです。 計算をしなくても、思考の「よりオープン」な生活は、人生の不幸の中でも常に快適さを見つけることができ��それによって持っている幸せで強い精神を生み出すことができます 。
5.4.家で財政を管理する方法を知っている
良いのベトナム人女性とは、どれだけのお金を稼ぐか、社会でどのような立場にあるかではなく、お金を稼ぐための努力、大変なことを知っており、財務管理と支出の合理的な方法を持っている人です。 結婚したときだけでなく、独身でも、自分の財政を管理する方法を知っている女性は貧しいことはありません。 お金は私たちを幸せにしませんが、貧困は私たちを苦労させ、私たちの生活も幸せになれません。
5.5.ささいなことを気にしない
悲しい考え方のように、小さなことを気にしすぎると、あなたの人生を「灰色」に変えています。 心の中にオープンスペースを与え、小さなことや重要でない人々にあまり注意を払わないでください...そして自分自身のために時間をかけてください。
5.6.振る舞い方を知っている
ベトナム人女性は周りの誰もが甘やかすことができますが、彼女が恩返しし、注意深く行動し、他の人を気遣うならば、彼女は幸せになります。
5.7.自分の力ですべてをしなさい
幸せなベトナム人女性は、そこに座って自分や親戚を他の人と比較する代わりに、目標を達成するために最善を尽くすことがよくあります。 彼らが失敗した場合、少なくとも彼らは彼らの努力のおかげで幸せです。
5.8.自分のスペースを持っている
経済的に自立していて、夫、子供、または社会的関係から離れたライフプランを持っているベトナム人女性は、他人に依存している人よりも常に幸せに感じるでしょう。 ベトナム人女性は自信があり、楽観的で、独自の懸念を持っています。 幸せな女性、彼らは自分の人生の唯一の焦点として残りの半分を置くことはありません。 ブレースは立つために常に多くの足を必要とします、そして幸せなベトナム人女性もそうします。
5.9.健康的なライフスタイルを開発する
健康的なライフスタイルとは、健康的なライフスタイルに満足したら、それを他の人と共有し、周りの人たちも自分たちの生活を改善しているという喜びを感じるために広めるべきものです。
6. 結論
Tumblr media
男性と女性はお互いを補う2人の個人です。女性が幸せでなければ、すべての男性も幸せではありません。 妻、母、祖母、姉妹であるすべてのベトナム人女性に幸せを願っています。 幸せのない人生では、人生の他のすべてのものは意味ではありません。 この記事の内容がベトナム人女性の事についてもっと理解するのに役立つことを願っています。 いつも幸せになりますように
Tumblr media
多分あなたは興味があります:
0 notes
tausendglueck · 4 years
Text
2020年 / 20201231
20代の間、あまり恋愛をしなかった。もちろん結婚も妊娠も出産もしなかった。そのことに何も思わないわけではない。そのことは、確実にわたしのコンプレックスだった。でも別の領域で、多分幸せだった。来年のスローガンはまだ考えていないけれど、ただひたすらに、より善い人になりたいと思う。本を読み知識を得て、映画や演劇、音楽で自分が持たない人の感性に触れ、自分の言葉で考えて、たくさん考えて、生きていきたいと強く思う。 善い人になりたい。誰に押し付けなくてもいい、誰に還元されなくてもいい、誰にわかってもらわなくてもいい、ただ自分の尺度で、2020年の暮れに「少しはましな人間になったな」と思えるような1年にしたい。 わたしは、30歳になる。
20191230 note(つまるところ2019年)
これを書いているころには1/1になっていましてあけましておめでとうというかんじなんですが、私は朝からの低気圧により鼻水が止まらず朝からずっと寝込んでおり朝から何も食べずぎりぎりまで寝てたわけです そうこうしているうちに知らん間に弟が帰ってきてもういよいよ心が死ぬ気配がしてきた。誤字が多いのは眠剤を飲んだせいやと思うんですがいつまで経っても寝れませんこれは一体なぜ。紅白も見るのやめて休むのに専念したのになぜこんな深夜になってこんな日記を書かねばならんのでしょう。死にたい。できることならわたしの生涯は2019年で終わってほしかった死にたい。もうわたしは弟と口も聞きたくないし顔も見たくないしもう縁を切りたい。もう耐えられない。 心は死ぬ。今日温泉上がりに体重測ったら40.5kgだったすごい 食べてないからですけど。図書カード¥3,000分当たった。これ使ってさっさとどっか消えてしまいたい。なんで4時間も前に薬飲んだわたしよりお父さんの方が秒で寝てしまうの信じられない。 善い人になりたい。なんでも許せる人になりたいけど今の私ではきっとムリ。死にたい。もういいです。つかれた。こんな日記でこのノートを終えるのはかなしいことではあるけれどしょうがない。もう大阪帰りたい。つらい。ねれん。死にたい。もうイヤ。でもあけましておめでとう。このノート、1年間ありがとう。いつか読み返したときに何を思うでしょう。こういう2019年だったよ。いろんなことがありました。2020年は善い人になりたいです。でも今は死にたいです。それでもおやすみ。一睡もできなかったとしても朝は来るからね。
20200101(20191231 24:30) 日記帳
2020年の年明けは前日の大晦日から派手に体調を崩しておそらく熱も出していたのだけど毎年恒例の年越し温泉プチ旅行に行かないわけにはいかなくて、温泉はいいお湯で大変よろしかったのだけど出されたご飯はほとんど食べられずしんどすぎてひとりで部屋に戻って従弟妹たちや叔父叔母、両親と弟が隣の部屋で紅白を見ながら二次会をするのにも当然付き合えず、布団に丸まってテレビもつけずに眠れないまま過ごしていたことを思い出す。年末に弟が帰省してくることを聞いてから私の鬱は深まる一方でつまるところ2020年の始まりというのは最悪でどん底でひとりで地獄を眺めていて、元日の夜からすでに私は実家の自室でひとりで泣いていた。
それから365日が経過して2020年の大晦日、私は帰省を諦めて大阪の自室でひとり静かに過ごしている。大つごもりの大阪は綺麗に晴れているけれど故郷は惨憺たる冬の嵐が吹き荒れていることだろう。私が帰省する日というのは、通年に亘り何らかめちゃくちゃ天気が悪かったり爆弾低気圧が接近したり大寒波が襲来したりするので私は自分のことを大寒波の女と呼んでいる。今年、帰省していたとしたら自分からその大寒波の女という称号を取りに行くところだった。行きは良くても戻りの特急が動かなかったら私は仕事に戻ることができない。
2020年はどん底の鬱で迎えて、そこから少しずつ、光の見える方へゆっくりゆっくり歩いていった年だったように思う。もちろんコロナ禍という世界的混乱の中を生きていた、というのは避けては通れない事実だけども、緊急事態宣言、外出自粛要請、文化施設の閉鎖、百貨店の休業、その他諸々、こんなことが起こるとは2019年のド鬱年の瀬には、いやド鬱であろうとなかろうと想像できなかったことだろうけれど、そのおかげで導入されたテレワークのおかげで仕事上のストレスは減ったようなそうでもないような。もともと経理とテレワークは相性が悪いので週2回ほどが限度かなという感覚もありつつ、春を感じながらテレワークで過ごした4月の終わりは私にはとても安らかだった。
いつか何かに役立つかもと思い、去年の倍以上の数の日記をnoteに綴っていたけれど、その日その日を切り取って読んでみるならそれは特に代わり映えのない一日の連続で、案外、そんなもんだった。
東京オリンピックも大阪万博も山積する諸課題は全て積み残されたままに今年は終わっていく。そして私も多くを積み残したまま今年を終えようとしている。9月から書き始めた二次創作小説はあと2章を残すだけなのに今年中に書き上げられなかったし、久しぶりだけどまだ諦めたくはなくて文学賞に応募するための小説を書き始めてはみたけれどやっぱりこれじゃないなと全部書き直すことにしてそのまま放置していて、2018年に熱心に作り込んでいたプロットを読み返してみてやっぱりこれも別に悪くないんだよなあと未練がましいことを思ってみたり、イメージは散乱するばかりで組み立てられないまま。���うしているうちに私はまた年を取って、私よりも若く勢いも才能もある人が受賞してその人の本が書店に並んで、そういう日々に、生きていくのだろうな。
20代に書いて、本にした小説たちを祖母にあげたとき、彼女はとても喜んでくれて2回も通して読んでくれたそうだけど、「もう書かないんでしょ?体壊してまですることじゃないでしょ?その前に彼氏探さないとダメでしょ?」と言われてザッと気持ちが冷めてしまった。体を壊してまで書くものではないというのはおっしゃる通りでも私が小説を書くことと彼氏を探さなくてはならないというその押し付けは関係ない。夢を捨てられずに未練がましく生きている私の恥ずかしさをそんな形で見せてくるな。
彼氏なんていらないよ。人生に男がいなくても十分満ち足りて生きていけることをいちいち証明しなければならないこのくだらなさを刺し殺せよ。私個人じゃない、私じゃない個人でもない、社会構造、お前がそのくだらなさを刺し殺してみせろよ。
「あんたは本当によく人を見る子やったぞ」と叔母は言った。
「大人みんながあんたの弟にかかりきりになっても、あんたやって一つしか違わん子供ながに、じっと大人の顔を見て静かにしとる子供やった。でももうあんたも大人なんやから、もう人の顔なんて見んと、好きなことをしたらいいがよ」
そう言ってくれた叔母はそれでも、私が今女性に恋してるかもと打ち明けたらすごい顔をするんだろうなあと思うといきなり顔がずぶ濡れになった。とりあえずティッシュで全部拭いた。好きなこと、と言っても、その人が許容できる好きなことと私が許容できる好きなことというのは当然違うわけで、そこに差があるということ自体に、覆しようもない、消滅させようもない圧倒的な孤独の存在を感じずにはいられない。
それでも好きなことをしたらいいと、言ってくれる人がいるのは幸いなことだ。だから今年は割と、好きなことややりたかったことができたような気がする。 気になっていたけどなかなか踏ん切りがつかなかったつみたてNISAの開設手続きを先日済ませてきた。私の三大苦手なこと、1家事・2金について考える・3将来設計 のうち2が前進した。あと最近『プリンセスメゾン』を最終巻まで読んでいたく心が震えたので、「家を買う」という目標がなんとなく出来上がりつつある。3も前進した。漫画の力はすごい。
あと誰にも言わなかったけれど、タトゥーを入れた。左肋骨に沿うようにしてカズオ・イシグロの言葉を入れた。今年知り合った、本当に美しい文章を書く人から贈ってもらった言葉を入れた。
“you become a real writer at that point when you found your voice”
小説を書く書かないの選択にも投資信託を始めるのにも自分の体にタトゥーを入れるのにも、自分以外の意志は必要ない。思えば私の人生の舵取りを、他の誰かの手に任せるわけにはいかない。誰も触るな私の人生だ。あなたの話は聞こう、あなたの話を聞いて私もよく考えよう、だけど私の人生に、あなたが直に触れることを、私は、絶対に許さない。
私は私をいつまでも持て余す。どう扱っていいのかいまだにわからない。2021年の抱負と言われても、「死なない」くらいに思いつくことがない。だから私が死なずにいられたら、どこかで会いましょう。今年会えなかった人も、今年初めて知り合った人も、来年知り合うかもしれない人も。
2020年は、鬱の底にいた私に新しい人たちが次々手を差し伸べてくれて、光の方を指差して、私を引き上げてくれた年でした。去年の今頃には思いもしなかった、まさか繋がるだろうとは思わなかった人たちとやりとりができた年でした。才能と知性豊かな人々に感化されて、私もまた、少しだけ豊かになれた年でした。善い人に近づけたかはわかりません。けれどこれは一生の命題であるので、来年もまた、善い人であろうとする意志だけは手放さず、そして途中で死ぬことなく、生きてみようと思います。
わたしとあなたにご縁があるならば、いつかどこかで会いましょう。 わたしが死なずにいられたら、いつかどこかで会いましょう。
Tumblr media
今年選んだ映画 2020年に選ぶ映画たち -never give up your beautiful life- 『燃ゆる女の肖像』 『シカゴ7裁判』 『レ・ミゼラブル』 『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』 『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』 『行き止まりの世界に生まれて』 『ダンサー そして私たちは踊った』 『ジョジョ・ラビット』 『ソワレ』 『星の子』
今年選んだ本 『掃除婦のための手引書』/ ルシア・ベルリン 『ザリガニの鳴くところ』/ ディーリア・オーエンズ 『息吹』/ テッド・チャン 『回復する人間』/ ハン・ガン 『すべての、白いものたちの』/ ハン・ガン 『ギリシャ語の時間』/ ハン・ガン 『菜食主義者』/ ハン・ガン 『海をあげる』/ 上間陽子 『三つ編み』/ レティシア・コロンバニ 『彼女たちの部屋』/ レティシア・コロンバニ 『他者を感じる社会学』/ 好井裕明 『最愛の子ども』/ 松浦理英子 『さすらう者たち』/ イーユン・リー 『白の闇』/ ジョゼ・サラマーゴ 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』/ 加藤陽子
0 notes
theatrum-wl · 5 years
Text
【アンケート企画】 「ふりかえる私の2019年」
WLでは恒例の2019年に見た舞台作品の中で印象に残った3本をその理由などを書いたふりかえりのコメントとあわせて募るアンケートを実施しました。 WLスタート以来毎年行っているこの企画、5回目の今回は10名の方にご参加いただきました。ご参加いただいたみなさんどうもありがとうございました。 こうして眺めてみるとなんとなく2019年の舞台芸術界が蘇ってくるようです。他方まだまだピックアップできていない作品もあると思っています。是非今年はあなたもご参加いただくつもりで舞台を見つめていっていただければと思います。
まなぶ(司書) ・ふたば未来学園『あの子にみかんを投げないで』(ふたば未来学園) ・いわき総合高校『平面的な世界、断片的な部屋 いわき総合高校ver.』 (いわき芸術文化交流館アリオス、space EDGE) ・新聞家『屋上庭園』(つつじヶ丘アトリエ) いま福島で立ち上げられる演劇(特にフィクション色が強いもの)が「震災」や「原発」といった特定の時代や状況へなんのためらいもなく素朴に結び付けられ受容されるとしたら、それはその演劇にとって不幸なことだろう。 ということを『あの子にみかんを投げないで』をみながら思った。 演劇部ではなく芸術・表現系列という学びの場から『平面的な世界、断片的な部屋 いわき総合高校ver.』が生まれたということがわたしにとってとても重要で、ひとが生きることと演じることの距離を考えさせられた。 都市の演劇人と地域にある(高校)演劇との化学反応というフォーマットはいろんなところでみてみたい。 台詞とかはぜんぜん思い出せないけど、『屋上庭園』のあのアトリエに満ちていた光の感じを反芻している。 (年間観劇本数:51)
北村紗衣(研究者) ・DULL-COLORED POP『マクベス』(KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ) ・カクシンハン『薔薇戦争』(シアター風姿花伝) ・ブラックフライアーズ劇場『アントニーとクレオパトラ』 (アメリカ、ヴァージニア州スタントン) 2019年は「私が見たいシェイクスピア」を具体化してくれるような公演がいくつかあり、豊作でした。 (年間観劇本数:106)
kiki(地方公務員) ・扉座『新浄瑠璃 百鬼丸〜手塚治虫「どろろ」より〜』(座・高円寺) ・あやめ十八番『しだれ咲きサマーストーム』(吉祥寺シアター) ・Mrs.fictions『月がとっても睨むから』(すみだパークスタジオ倉) 好きな団体がガチでどストライクに来た、意外性のカケラもない3作品。それぞれ他と替えがたい個性とクォリティで、自分にとって迷う余地のない納得のチョイスとなった。 新浄瑠璃 百鬼丸:じっとしていられなくてつい劇場に駆けつけてしまう感じを久しぶり味わった。再々演ながらキャストも大きく変わり、より力強く心を揺さぶる作品となっていた。 しだれ咲きサマーストーム:江戸風俗が現代まで続く架空の日本で、落語家の跡目争いから始まる色と欲との物語。趣向盛りだくさんで舞台の面白さ大盤振る舞いという印象の舞台だった。 月がとっても睨むから:少年に対する性的犯罪というデリケートな題材をこの団体らしい軽やかさと誠実さで描き出し、罪を抱えて生きることと赦すことあるいは赦さないことについての物語に昇華させて魅力的だった。 (年間観劇本数:138) 
薙野信喜(無職) ・シティ・オブ・ドリームズ『ザ・ハウス・オブ・ダンシング・ウォーター 』 (シティ・オブ・ドリームズ:マカオ) ・ロバート・ウィルソン『“無”のレクチャー』(利賀大山房) ・ストップギャップ ダンスカンパニー『エノーマスルーム』(北九州芸術劇場 小劇場) ベスト3は海外のものばかりになってしまったが、ベテラン演劇人の作品を九州で観られたのはありがたかった。ケラリーノ・サンドロヴィッチの『ドクター・ホフマンのサナトリウム』と『キネマと恋人』。野田秀樹の『Q : A Night At The Kabuki』。三谷幸喜の『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』と『虹のかけら~もうひとりのジュディ』。松尾スズキの『命、ギガ長ス』。これらの作品が楽しめた。利賀で観た鈴木忠志の『世界の果てからこんにちは』も楽しんだ。 大阪で観た谷賢一の福島3部作の通しでは、第二部「1986年:メビウスの輪」が特によかった。 九州の劇団では、きらら、ジャカっと雀、最新旧型機 クロックアップ・サイリックスの舞台と、熊本でロングランしたミュージカル『饗宴』が印象に残った。 (年間観劇本数:139)
 町田 博治(会社役員) ・中野劇団『10分間2019 ~タイムリープが止まらない~』(こまばアゴラ劇場) ・RoMT『十二夜』(若葉町ウォーフ) ・ホエイ『喫茶ティファニー』(こまばアゴラ劇場) 「10分間」 10分前に戻るループを繰り返す、凡庸であらば同じシーンが10回反復されると飽きるだろうが、リスタートのきっかけとなる台詞が始まると次に何が変化するのかを見極めるために引き込まれ前のめりになる。こまばアゴラ劇場でのあれだけ途切れない笑いの無限ループ状態は初めての経験。笑いだけではなく戯曲の質が極めて高く、強度を持った作品だった。 「十二夜」 12人の俳優が素晴らしく、田野さんとシェイクスピアの『十二夜』を鮮やかに描き出す。特に太田宏が凄い。太田さんのマルヴォーリオが居なければあの強度は保てなかったのでは。いや、でも皆さん素晴らしかった。 「喫茶ティファニー」 この作品が取り上げる韓国人・朝鮮人の問題は深く複雑であり、右傾化する現政権、差別を繰り返す人々、現政権と韓国、北朝鮮との関係が拗れる今、この作品を上演した意義は大きい。手練れの9人の役者が素晴らしく、役が活きていた。 (年間観劇本数:327)
本儀拓(舞台音響家) ・進藤則夫(銀色天井秋田)『なまはげシラノ』 (せんだい演劇工房10-BOX box-1『INDEPENDENT:SND19』参加) ・重力/Note 『LOVE JUNKIES』(せんだい演劇工房10-BOX box-1) ・言言 第五回公演 『東京裁判』(せんだい演劇工房10-BOX box-1) いずれも、小さな空間ながら濃密な空気で埋まる、俳優の身体と声の力の活きた作品だったように思います。 (年間観劇本数:67)
りいちろ(会社員) ・犬飼勝哉『ノーマル』(三鷹芸術文化センター 星のホール) ・青年団リンク  キュイ『景観の邪魔』(こまばアゴラ劇場) ・RoMT 『十二夜』(若葉町ウォーフ) 舞台に様々なベクトルでの新たな研がれ方や豊かさを感じた1年、中でも特に惹きこまれた3作品を。犬飼勝哉から訪れた時空間の立体感、キュイが浮かび上がらせた日々を過ごす無意識の領域での感覚、RoMTが紡いだシェークスピア戯曲の新たなビビッドさ、それぞれに異なって強く心に残った。他にスペースノットブランク、ヌトミック、したため、akakilike、しあわせ学級崩壊などの舞台も理をもって斬新な空間の構築や表現のメソッドだったし、木ノ下歌舞伎、モモンガコンプレックス、waqu:irazなどの身体が紡ぐ空間の呼吸にも捉われる。月刊根本宗子、第27班、ハチス企画、キコなどの世界の語り口に驚き、ときめき、ふくよかさを感じたりも。制作山口ちはるプロデュースの諸作品も秀逸だった。その他様々な団体が留まらず自らの色を紡ぎ続けていることがとても力強く思えた。 個人的には初めて演劇を製作、本当に良い経験になりました。 (年間観劇本数:319)
かいらくえんなつき(演劇ウォッチャー) ・ロロ『グッド・モーニング(ストレンジシード静岡2019ver.)』(静岡市民会館前駐輪場) ・モダンスイマーズ『ビューティフルワールド』(東京芸術劇場 シアターイースト) ・福島県立いわき総合高等学校総合学科第16期生『平面的な世界、断片的な部屋 いわき総合高校ver.』 (space EDGE) ロロは本公演もありましたが、あえて再演のいつ高シリーズから。実際の駐輪場を使っていたこともありますが、公演を重ねているせいか、登場人物2人の心の通じ合う過程がすごく繊細かつクリアに感じられて、何とも心を打たれました。 モダンスイマーズを挙げたことについて、観劇者としての最高の瞬間の一つは、哀しみで涙が出ているのに笑ってしまっているような、形容のしがたいえもいわれぬ気持ちになる瞬間だと思っており、そんな瞬間がこの作品にあったから。 いわ総については、今この瞬間、このメンバーだからこそというものの極みを見せて頂きました。高校生の作品を楽しんでしまうことの是非はあるとは思いますし、自分の中でその結論が出せていないのですが、この作品を見せていただいたことには、一先ず精一杯の感謝と敬意を表したいと思います。 観劇への姿勢が保守的になっている気がするので、2020年は、新たな出会いを期待したいです。 (年間観劇本数:180)
でんない いっこう(自由業) ・穂の国とよはし芸術劇場PLAT『荒れ野』(ザ・スズナリ) ・PARCO人形の家PART2』(紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA) ・新国立劇場『タージマハルの衛兵』(新国立劇場 小劇場) ①小さな団地の一部屋に他人同士の3人が居て、そこに家族だがばらばらの3人が夜に飛び込んでくる。関係も胸の内も露わになる。亡者との対話も聞える。リアルな暮らしの舞台装置が展開を助け、暖かいものが流れ引き込まれた。 ②こちらは広いロビーの様な一室。15年前にこの家を飛び出した主婦が訪ねて来た。自分が生きるという意志を持つ人として。抜け目のない召使と、昔のままの元夫と、結婚間近の娘と、関係性が見える図形を描きながら配置されて会話が続く。そして凛として去る。この勇気に我目を閉じ思い我に聞き長い静寂の時。 ③皇帝の衛兵として働く幼馴染み2人。絶対的な命令を受け任務を遂行するのだ。かたや父親の影響から逃れず、かたや空想夢想に飛び回る。手,血,手品,木の上の秘密基地,羽ばたく鳥たち。汚れた衣装,冷たい水,素早い転換着替えとやり取り。役者冥利に尽きる。 他に『夢ぞろぞろ』『サド侯爵夫人』玉三郎のシネマ『鷺娘』 (年間観劇本数:81)
小泉うめ(観劇人・WLスタッフ) ・DULL-COLORED POP『福島三部作』(東京芸術劇場 シアターウエスト) ・犬飼勝哉『ノーマル』(三鷹芸術文化センター 星のホール) ・鳥公園『終わりにする、一人と一人が丘』(東京芸術劇場 シアターイースト) 1月の大分、8月の上田と2回の劇作家大家が開催された年として記憶に残る。地方都市における演劇の果たすべき役割を見つめなおすとともに、演劇の現在地を確認する機会ともなった。 3本は戯曲の完成度で選んだ。『福島三部作』は福島の話ではあるが人間の普遍を描く所に届いている。『ノーマル』は終盤の展開と跳躍が驚くほどに鮮やかだ。『終わりにする、一人と一人が丘』は鳥公園の大きな区切りになる作品としての執念を感じた。 戯曲の独創性とその強度という意味では、綾門優季(キュイ)、松原俊太郎、カゲヤマ気象台、村社祐太朗(新聞家)などが読むだけでもその力を感じさせてくれる。 ダンスでは、白神ももこ(モモンガコンプレックス)、きたまり(KIKIKIKIKIKI)、倉田翠(akakilike)など中堅コレオグラファーの活躍が目覚ましい。ヌトミックやスペースノットブランクなどジャンルの境界にとらわれない創作をする団体の活躍も嬉しい。 (年間観劇本数:365)
(掲載は到着順)
1 note · View note
takahashicleaning · 4 years
Link
TEDにて
ジェームス・ハンセン:なぜ気候変動について叫ばなければならなかったか!
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
気候科学の第一人者のジェームス・ハンセンが、彼自身がどのように地球温暖化の科学や議論に関わってきた話をします。
この話のなかで、温暖化が起こっている膨大な証拠を見せ、なぜ?この証拠から彼が将来を非常に危惧しているのかを示します。
地球全体のエネルギーの不均衡の問題。地球にふりそそぐ太陽光エネルギーと地球から放出されるエネルギーの量の差です。
ジェームズ・ヴァン・アレンは、アメリカ合衆国の物理学者。地球高層の放射線帯であるヴァン・アレン帯の発見で知られる。この人が、師匠だそうです。
そして、気候変動の原因として、地球の公転運動の何万年もの誤差の蓄積で、氷河への太陽光の照らす面積が増えて氷解しているため、二酸���炭素などが放出されてしまうということを、くり抜いた氷河を調べた結果から発見したそうです。
増幅していくメカニズムの他に、人間の放出する二酸化炭素も加わり、さらに悪い循環が始まってしまいます。
だからこそ、世界で二酸化炭素を抑制した方が良いという理由のひとつになっている。詳しくはご覧ください。
温室効果は、1世紀以上にもわたり十分に理解されています。1850年代に英国の物理学者ジョン・チンダルは、研究室内で赤外線放射を測定する方法を確立しました。
赤外線放射は熱を意味します。彼は二酸化炭素のような気体が熱を吸収することを示し、この吸収が地球の表面を温める布団のように作用していると示しました。
私は他の科学者とも共同研究して、地球気候変動の観察結果を分析しました。そして、1981年にはサイエンス誌に研究論文を発表しました。
その結論は、過去1世紀で気温が摂氏0.4 度上昇した!という現象が増加した二酸化炭素量が起こすと想定される温室効果の 計算値と一致するという結論でした。
結論では、地球は1980年代に恐らく気温上昇を迎えて、20世紀末にはこの気温上昇が 天気の変動が確率的誤差を超えるだろうとしていました。
この不均衡を総計すると、1平米あたり10分の6ワットになります。それほど多く聞こえないかもしれませんが、全世界分となるとおびただしい電力量になります。
これは、全人類が利用している電力量よりも20倍も大きいものなのです。これは1日あたり40万個の広島型原子爆弾を爆発させたエネルギー量に相当します。
1年では365日分になります。これだけのエネルギー量を地球は毎日蓄積しているのです。
もし、気候を安定させるとしたら現在の不均衡の状態は二酸化炭素濃度が、391ppmから350ppmへと減らされなければならないことを意味しています。これはエネルギーの均衡を取り戻し、将来の気温上昇を防ぐために必要な変化です。
地球の気候変動の歴史を考えてみましょう。
解決策は、何千億単位の規模で大量に植樹をするだけ!!
解決策は、何千億単位の規模で大量に植樹をするだけ!!
解決策は、何千億単位の規模で大量に植樹をするだけ!!
この表は、地球全体の温度曲線と大気中二酸化炭素濃度曲線と海面曲線で、海や南極圏の氷のボーリングサンプルと海の堆積物や雪片から割り出しました。
これらは、これまで80万年かけて序々に積み重なって2マイルの厚さの氷床を地球に形成しました。
見て分かるように、温度と二酸化炭素と海面に高い相関性があります。詳しく見ると、温度の変動が起こった時は必ず数世紀遅れで二酸化炭素の変動が起こっています。
気候変動否定派は、この事実を使って大衆を混乱させ誤って導こうとします「見てください。温度変動が二酸化炭素変動を起こしました。逆ではありません」と言うでしょう。
しかし、この遅れは私たちが予測している結果と完全に一致するものです。
地球公転軌道の小さな変化が100万年もの年月の間に起こり、地球上に降り注ぐ。太陽光の当たる面積を変えたのです。ここで重要な点は、この拡大して再度取り込む増幅作用は、現代でも発生するのです。
物理法則は変わりませんから、地球の温度上昇が起こると私たちが大気に放出する過剰部分の二酸化炭素が原因となって、永久凍土や海を温めることで、氷が解けて二酸化炭素やメタンが放出されるのです。
この取り込んで増幅される状況が、どれほど早く起こり始めるのか?私たちは正確には分からないですが、温暖化を止めない限り、確実にこの増幅される状況が起こります。
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
SDGsや気候変動対策は、再生可能エネルギーのことではありません。パンデミック対策の一環です!それ以外の活動は派生物。権力濫用の口実に注意!
SDGsや気候変動対策は、再生可能エネルギーのことではありません。パンデミック対策の一環です!それ以外の活動は派生物。権力濫用の口実に注意!
SDGsや気候変動対策は、再生可能エネルギーのことではありません。パンデミック対策の一環です!それ以外の活動は派生物。権力濫用の口実に注意!
技術が、すべてのことを解決できると言いますが、我々が、100倍エネルギー効率のいい乗り物を作ることができるとすれば、大枠としてこれは正しい意見です。
しかし、エネルギー効率ではなく、生産性を高めた結果、イギリスは見事に産業が空洞化してしまいました。
参考として・・・
月面は、太陽風によりもたらされたヘリウム3が、鉱物資源として豊富に存在していることが確認されています。原子力発電や核融合に最適です。
注意事項として、基礎技術にリープフロッグは存在しません。応用分野のみです!
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて個人のプライバシーも考慮)
<おすすめサイト>
リサ・ジャクソン:2030年までにカーボンニュートラル(気候中立)達成を目指すAppleの誓い
グウィン・ショットウェル: 30分で地球を半周するSpaceXの旅行プラン
アラン・セイボリー:砂漠を緑地化させ気候変動を逆転させる方法
(原子力)
スチュワート・ブランドとマーク・Z・ヤコブソンが討論:原子力発電は必要か?
ジョー・ラシター:気候変動の解消に向けた原子力発電の必要性?
「フロート式原子力発電所」について
テイラー•ウィルソン:僕のラジカルな計画 ― 小型核分裂炉で世界を変える!
劣化ウランゼロへのイノベーション:ビル=ゲイツ、エネルギーについて語る
(再生可能エネルギー)
レイ・カーツワイル:今後現れるシンギュラリティ(技術的特異点)を学ぶ大学
Solar Roadways(道路としても敷き詰めて活用できる太陽光発電パネル)
「考えるクルマ」が世界を変える―アーバン・モビリティの革命
Powerwall 2 & Solar Roof Launch - Teala Motors
デイビッド・マッケイ: 再生可能エネルギーの現実
ベティーナ・ウォーバーグ: ブロックチェーンが経済にもたらす劇的な変化
量子コンピューターの基本素子である超電導磁束量子ビットについて2019
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教科書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「倹約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。 要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との 戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
<個人的なアイデア>
電気を作る熱力学のサイクルで熱効率は、ほぼ50%、45%~50%の効率まで高めることは可能ですが・・・
高温の物体から熱を受け取り、電気という「使えるエネルギー」に変換できる機械を一般的に「熱エンジン」と呼んでいる。
高温の物体から受け取った熱エネルギーのうち、どれだけ活用できたかという比率を「効率」と物理学では定義している。
この効率は、原理的に超えられない「カルノー効率」という上限があることが知られている。
カルノー効率が達成されると、効率は上がるが、同時に仕事率がゼロになる現象。
つまり、熱エンジンの効率を最大限に上げると出力がほぼゼロになることを意味しています。そして、効率100%は物理的に不可能ということです。
中世で試行錯誤が行われたことに終止符が示され、機械での永久機関は作れないことが、この現象から理解できます。エネルギー保存の法則からも理解できます。
他には、燃料の持つエネルギーをどれだけ動力として取り出すことができるか?これをエンジンの熱効率と定義しています。
2020年の段階で、ガソリンエンジンの熱効率は最高で40%前後あり、10年くらい前までは30%程度。低燃費の技術競争もあるけどカルノー効率から限界も見え始めています。
だから、ガソリン自動車から電気自動車へ世界中の法人が開発を加速して切り替えている潮流があります。
さらに
経済学者で、ケンブリッジ大学名誉教授のパーサ•ダスグプタが、イギリス政府に提出した報告書の中に登場。
経済学を学ぶと、登場する資本や労働などの生産要素の投入量と算出量の関係を示す生産関数があります。
こうした関数は、様々な前提条件に基づきますが、経済学者は、収穫逓減の法則と言うものをよく知っています。
このような人工的な生産関数とは、他に天然由来の生産関数。
つまり、自然から収穫できる生産関数を導き出し、地球全体の生産関数というエコシステムを数値化することでバランスをコントロールできるかもしれないというアイデア。
ここでは、自然資本と呼びます。
自然資本を加味すれば現在の経済成長ペースがどこまで持続可能かを分析することもできます。
人間は、国内総生産GDPを生み出すため、自然から資源を取り出して使い、不要になったものを廃棄物として自然に戻す。
もし、自然が自律回復できなくなるほど、資源が使われて、廃棄されれば、自然資本の蓄積は減少し、それに伴い貴重な生態系サービスの流れも減っていくことになります。
さらに、教授は、経済学者も経済成長には限界があることを認識すべきだと説いています。地球の限りある恵みを効率的に活用しても、それには上限があります。
したがって、持続可能な最高レベルの国内総生産GDPと言う臨界点の水準も存在するということが視野に入るようにもなります。これは、まだ現時点では誰にもわかりませんので解明が必要です。
なお、地球1個分は、ずいぶん昔に超えています。
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
東京都北区神谷のハイブリッドな直送ウェブサービス(Hybrid Synergy Service)高橋クリーニングFacebook版
1 note · View note
lubitelecaster2 · 5 years
Text
韻、偶然性、並行世界 ーー相対性理論の歌詞における主体性の変容と分離
 はじめに、相対性理論という音楽ユニットについて少し説明をしておく必要がある。ここで取り上げる相対性理論とは、アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)によって提唱された物理学における理論のことではなく、2006年に日本で結成されたポップミュージックユニットのことを指す。結成当時は四人組のバンド編成であったが、現在、当初のメンバーとしてはやくしまるえつこ(Vo)と永井聖一(Gt)のみが所属し、他メンバーは入れ替わったりパートの数を増やしたりしながら活動を続けている。
 結成時から一貫してユニットの中心人物として存在しているのがボーカル担当のやくしまるえつこである。初期(1stアルバム『シフォン主義』(2007))の頃にはメンバー全員で作詞作曲を行なっていたが、初期メンバーであった真部脩一(Ba)と西浦謙助(Dr)の脱退以降(4thアルバム『TOWN AGE』(2013)~)、ほとんどの楽曲の作詞作曲を手がけるようになる。2009年以降、やくしまるはソロ活動も積極的に展開しており、他アーティストへの楽曲提供や共同制作などを精力的に行なっている。
 以下では相対性理論による楽曲の歌詞における「主体性の変容と分離」という点に注目して論を進めていく。特に本稿ではやくしまるの作詞に焦点を当てて考察を行う。2ndアルバム『ハイファイ新書』(2009)以降、彼女は作詞作曲時の名義をティカ・α、あるいはTica・αに変更しており、やくしまるえつことは別の人格を設定している。その名義の使い分けと彼女の歌詞における主体性の問題は、同期的なものとして考えられるからだ。
 
◇エイドーロンーー”idol”の語源的考察
 以下では具体的な楽曲を取り上げてその歌詞の構造を分析していく。本節では『TOWN AGE』から、三曲目の「YOU & IDOL」という一曲を中心に見てみよう。
相対性理論『YOU & IDOL』MV https://www.youtube.com/watch?v=FYtBA-1eXhE
――――――――――
【サビ】 あなたそれはYOU 有名人なの
     わたしそれはI 愛のラビリンス
【A】   気づかないような気づいてるような
     勘違いかな本当かな
     キスしたいなら貢いじゃってね
     段違いな夢 見せてあげるわ
【B】        好き・嫌い・好き・嫌い・好き・嫌い・好き・嫌い・好き
                  好きみたい・好きじゃない・好きって何だろう
【サビ】 あなたそれはYOU 優柔不断な
     わたしそれはI 愛の戦士な
     あなたそれはYOU 憂鬱気取った
     わたしそれはI 愛のラビリンス
【A】   見た目上々 味は濃厚
                  味見ついでにグラス空ける
【B】   あなたは来る・来ない・来る・来ない・来る・来ない・来る
                  狂ったように繰り返す 夏のエンドロール
【C】   お茶して笑い合って喧嘩する
                  あたりまえの青春に恋してた
【サビ】 あなたそれはYOU 有名人なの
     わたしそれはI 愛の戦士な
     あなたそれはYOU 夕日に隠れた
     わたしそれはI 愛のラビリンス
――――――――――
 上記に歌詞の全文の引用と、メロディの振り分けがどのようになされているかを示した。まずはサビの部分について見てみよう。三回繰り返されているサビの歌詞では、「わたし」と「あなた」の混交および循環が起こっている。どういうことだろうか。
 冒頭、一回目の���ビでは「あなた=YOU=有名人��わたし=I=愛のラビリンス」となっており、「あなた」と「わたし」はそれぞれ独立した存在として記述されている。ところが二回目のサビにおいては「あなた=YOU=優柔不断なわたし=I=愛の戦士なあなた=YOU=憂鬱気取ったわたし=I=愛のラビリンス」、三回目のサビでは「あなた=YOU=有名人/わたし=I=愛の戦士なあなた=YOU=夕日に隠れたわたし=I=愛のラビリンス」となっている。
 つまり太字で記した部分の主体を「わたし」=「あなた」として読み取ることができる。それは「優柔不断な」や「憂鬱気取った」というフレーズが、次行の「わたし」や「あなた」という主体を修飾する形容詞句として機能しているからだ。
 このように歌詞を見てみると、「わたし(I)」と「あなた(YOU)」という二人の主体のみがあるように見える。しかしこの楽曲のタイトルは「YOU&IDOL」となっている。そこでこの”IDOL"とは一体どの主体を指しているのだろうか。
 ”idol”とはもともと、崇拝の対象となる偶像や聖像のことを意味する語であるが、現在の日本においては、理想の対象となるいわゆる有名人や芸能人といった人物を指す方が一般的だ。そこでこの曲のサビにおける「あなたそれはYOU 有名人なの」というフレーズに注目してみると、「あなた」は閉じた主体性として提示されていると捉えることができる。このフレーズを素直に受け取るならば、曲名の”IDOL”とは「あなた=YOU」である。しかし二、三回目のサビを見てみると、「わたし」と「あなた」の主体性が相互に溶け合っている部分がある。「あなた」は「優柔不断なわたし」であり、「わたし」は「愛の戦士なあなた」なのだ。ここで再び”idol”という語についての検討を行ってみよう。
 “idol”の語源はギリシャ語の”eidôlon(以下、エイドーロン)”であり、またその語源は”eidos”まで遡る。”eidos”はアリストテレスによる哲学用語として「形相」と訳されるのが一般的だが、外見、見た目といった意味も含んでいる。そしてエイドーロンは、幻や映像、理想像といったような意味を示す語である。古代ギリシャ、ヘレニズム期の哲学者であるエピクロス(B.C. 341-270)はこのエイドーロンについて、原子論について論ずる流れの中で思索を展開している。彼はその定義について、ある固体と類似した形に象られたもの(テュポス)であり、もとの固体が持つ一連の順序だった配列と秩序を保ち続けている希薄な剥離物(アポスタシス)であると記している[1]。さらにあらゆる表象像(パンタスマ)は、このエイドーロン(映像)が凝集して生じるのだとも述べている。[2]
 ここで注目すべきは、エピクロスが表象像に先立つものとしてエイドーロンの存在を認めていることである。エイドーロンとは私たちが何かしらの対象を認識する際にその対象から発せられるものであり、それが私たちの感覚器を通じて内部に入り込むことによって、対象を知覚可能なものとする。彼は表象を作り上げるこのエイドーロンの特徴として、もとの対象に備わっている属性がそのままエイドーロンにも受け継がれることの連続性を強調している(この考え方は、絶対的に安定して存在するアトムについて述べる彼の原子論に由来している)。
 さて、エピクロスによるエイドーロンについての思索を概観したところで先ほどの歌詞へと戻ることにする。ここで起きている「わたし」と「あなた」の境目が曖昧になるという事態は、正確には「わたし」による「あなた」のイメージの取り込みである。「あなた」という対象から放たれるエイドーロンは「わたし」の内部へと入り込むことで、相互の主体性は混ざり合い、循環する。それはあくまでも「わたし」の視点において、その内部で起こっていることだ。その根拠となるのは、全てのサビを締めくくるフレーズが「わたしそれはI 愛のラビリンス」で一貫しているという点だ。「わたし」は、映像としてしか捉えることができない偶像化した「あなた」に同一化したいと願うことしかできず、迷宮の中に囚われている。
 そしてもう一つ、この歌詞における迷宮の構造を別の形で言い換えている部分がある。それはBメロにある「狂ったように繰り返す 夏のエンドロール」という箇所だ。この二箇所における反復という主題およびエンドロールというモチーフによって、「わたし」の思いの届かなさが強調されているとともに、失恋後の心情を綴ったものであるという解釈が可能となる。さらには先ほど太字で示したサビの部分において、「わたし」を修飾する語が「優柔不断な」、「憂鬱気取った」、「夕日に隠れた」と比較的ネガティヴな意味合いを帯びていることもその解釈に至ることを助けていると言えるだろう。
 ここまで、楽曲における語の意味とその循環的な構造を中心に考察を行ってきたが、その構造を作っている形式的な特質についても論じておこう。今ほど例に挙げたBメロの「狂ったように繰り返す」というフレーズは、直前にある「来る」という語の音(=kuru)と韻を踏み、接続されている。そして「狂ったように繰り返」されているのは「好き・嫌い…」、「来る・来ない…」というBメロのフレーズでもあるのだ。そしてまたサビにおける「I」は「愛の戦士」の「愛」の音(=ai)で結びつき、「YOU」は「優柔不断」、「憂鬱」、「夕日」の頭文字である音(=yû)によって接続されている。
 こうした韻を用いた偶然性によって異なる意味を持つ語が接続され、その間に新たな意味を発生させるという操作は他の楽曲においても頻繁に行われている。以下では他の楽曲における歌詞も具体的に検討しながら、その操作がどのように行われているのかを見ていこう。
◇韻と偶然性
 上記の「YOU&IDOL」を含むアルバム『TOWN AGE』は、全曲を通じて都市における日常性とでもいうべきものが主題となっている。例えば十曲目の「たまたまニュータウン」(多摩ニュータウンを想起させる)では、「ニュータウンで暮らす 2DKの入れ物で ミュータント増殖 なんてことない核家族」と皮肉めいたフレーズを織り交ぜながら、具体的な都市名を引用しつつ(他の曲では上海、ガンダーラ、ジャカルタなど)、単調な毎日の様子を綴るフレーズが目立っている。そのようなコンセプトを含むアルバムの中で、「YOU&IDOL」はかなり私的かつ「わたし」視点の内的な詞になっているように見える。
 一方、5thアルバム『天声ジングル』(2016)においては日常性と超越的なものの往復へと、そのスケールは拡大しているように見える。曲名だけをとってみても、一曲目の「天地創造SOS」や六曲目の「弁天様はスピリチュア」、十曲目の「おやすみ地球」など、都市から宇宙や神的なものへと、主題の拡張が見て取れる。しかしこのアルバムにおいても、「わたし」の内的な視点に焦点を当てた一曲がある。それは四曲目の「わたしはわたし」である。
――――――――――
【A】       昨日真夜中のコンビニで君を見かけたの 
      だけど昨日はもう今日じゃないから 
                   声はかけられなかった
【B】       明日にはきっと 
      今日も今日じゃないし 
                   いつもがいつもどおりでも 
                   なんか違う ちょっと違う
【A】       今日も真夜中のコンビニで君を見かけたの 
                   だけど明日はもう週末だから 
                   声をかけてみたい
【サビ】  ミッションコンプリートで深夜のハイテンション 
      ミッションコンプリートで深夜のハイテンション 
      いつかはコンビになりたいの 
      ふたりでコンビニ行きたいの
【B】         確かめてみたい 
                   今日が今日であるのかを 
                   いつもがいつもどおりでも 
                   なんか違う ちょっと違う
【A】       昨日真夜中のコンビニで君を見かけたの 
         もしかしてわたしがもうわたしじゃないなら 
                   声をかけられるかも
【サビ】  ミッションコンプリートで深夜のハイテンション 
      ミッションコンプリートで深夜のハイテンション 
      いい気分はふたり分ほしいの 
         いい気分にふたりでなりたい
    
       Why I am me? I don't know who I am 
       Why I am me? I don't know who I am 
       誰かがわたしになっていく 
       わたしがわたしになりたいの
――――――――――
 以上が「わたしがわたし」の歌詞とメロディの振り分けである。この詞において「わたし」と「君」が出会うのは超越的な場所などではなく、真夜中のコンビニという極めて日常的な場である。昨日見かけた「君」に声をかけられなかった「わたし」が、今日もコンビニで「君」を見かけ、声をかけてみようと決心するのだが、その心の変化はなぜ起こったのだろうか? 歌詞を追ってみよう。
 まず初めのAメロにおいて声をかけられなかったのは、それが昨日のことだからだ。今日から見て過去である、昨日の出来事を率直に反省していると解釈できる。そして二回目のAメロで「わたし」が声をかけてみたいと決心するのは、「明日はもう週末だから」である。これは、週末には「君」がコンビニに来ないことを「わたし」が知っているのだと推測することもできるが、その理由はあまり明確ではない。そして三回目のAメロでは、「わたし」がもう「わたし」でないのであれば声をかけてみたい、と思うのである。これはどういうことだろうか。
 これらの理由を考察する際に手がかりとなるのは、二つのAメロの前に共通して存在する、Bメロの「いつもがいつもどおりでも なんか違う ちょっと違う」というフレーズである。二回目のAメロにおいては、明日が週末であるということに加えて、単純に昨日から時間が進んでいるという事実が前提となっている。モーリス・ブランショ(1907-2003)によれば、日常的なものとは「再び見ることしかできないもの[3]」、つまり反復されることによって初めて認識できるものである。この歌詞における「わたし」は、そうした日常性、つまり「昨日と同じであること」を求めてはいない。昨日とは「なんか違う ちょっと違う」今日を求めているのだ。それは三回目のAメロで、「わたしがもうわたしじゃない」ことと対応する。したがって、時間が経過して昨日が今日に変わることが、「わたし」の変容と一致する。最後のサビ後半四行の歌詞における「誰かがわたしになる」とは、今日の「わたし」が昨日の「わたし」とは異なる主体に変容することを意味していると捉えられるだろう。だがそこには何ら必然的な結びつきはない、つまり「わたし」の偶然的な変容が起こるということだ。
 この偶然性による主体の変容という出来事は、言葉の繋がりの形式的な側面、つまり韻の持つ効果としても現れている。それは一回目のサビにある「いつかはコンビになりたいの ふたりでコンビニ行きたいの」に含まれている「コンビ」と「コンビニ」という二つの語において作動している。「コンビ」と「コンビニ」の間には、本来必然的な意味のつながりは何もないが、「コンビになる」ことと「コンビニに行く」ことが同じ文脈の中で並置されることで、「わたし」と「君」との恋の成就を示す連帯的な意味を帯びるのだ。
 こうした言葉の押韻が持つ偶然性の効果は、先ほどの「YOU&IDOL」のサビでも確認した通りだ。偶然性という問題について研究していた九鬼周造(1888-1941)は、偶然性を「独立なる二元の邂逅」と定義している。彼は主として日本の詩歌における押韻について考察した「押韻論」という論考を遺してもいるが[4]、韻とはまさに「独立なる二元の邂逅」なのだ。
 また彼は「偶然化の論理」の冒頭において、偶然性の哲学の意義についても述べている[5]。九鬼における偶然性への関心は、現実の世界が「他のあり得たかもしれない無数の世界の中の一つ」であることと、その現実を「動的に肯定する」ことと切り離せない。こうした思想の背景として、彼は一元論的汎神論を展開したバールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の思想を、「実体が一つしかないから、神も一つしかないといふ論理は単にスピノザの独断に過ぎない[6]」と批判した後で、ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)の用いる共可能性(compossibility)という概念の重要性について触れている。共可能性とはまさに九鬼が述べている、現実とは異なる「他のあり得たかもしれない無数の世界」の可能性だ。さらに千葉雅也(1978-)は、九鬼による偶然的な時間とは、現在への徹底的な内在であるのだと述べる[7]。韻や地口の非因果的な形態の結びつき、つまり押韻も、九鬼はこの現在という時間への内在によって捉えているのだと千葉は続ける。過去からも未来からも自由である、事実としての現在。その現在における可能性としてのあり得たかもしれない世界は、別の名で並行世界(パラレルワールド)と呼ばれることがしばしばある。
 やくしまるえつこ=ティカ・αの作詞を含め、相対性理論の歌詞においてはこの並行世界の様相が、日常的な出来事や恋愛感情の描写とともに置かれることが最も重要な特徴であるように思われる。ここまで考察してきた二曲の歌詞においても、「わたし」という主体の変容あるいは分離が、韻を含む言葉の形式的な偶然性によって起きている。そこでも「わたし」が内在しているのは、昨日や過去を思い返している今日あるいは現在だ。
◇「わたし」の変容=世界の変容
 すでに考察した二曲では、日常の外にある世界というものは直接出てくることはないが、「わたし」の別の容態としての「あなた」、または昨日の「わたし」とは異なる別の「わたし」が描かれている。対して「わたし」のいる場における並行世界が描かれている、というよりもまさに文字通り、並行世界そのものが主題となっている楽曲を取り上げて本論を締めようと思う。それは3rdアルバム『シンクロニシティーン』二曲目の「ミス・パラレルワールド」という楽曲である。
相対性理論『ミス・パラレルワールド』MV https://www.youtube.com/watch?v=t2nTZrPQFFc
――――――――――
【A】       ひみつの組織が来て
       8時のニュースは大変
                 都会に危機がせまる
                 巨大な危機がせまる
                 暇ならわたしときて
                 こわれた世界を体験
                 時代の危機がせまる
                 稀代の事態になる
【B】     放課後 ふとよぎるテレパシー(シンパシー)
         わたし遠い未来にあなたとまた出会う
【サビ】   東京都心は パラレルワールド
【A】        ひみつの組織がきて
                  8時のニュースは大変
                  地球に危機がせまる
                  夜中にブザーがなる
【B】        十日も思いつめてジェラシー(くやしい)
                  わたし 遠い未来にあなたとまた出会う
【サビ】  東京都心は パラレルワールド
【C】         あなたはちょっと開けた
                   わたしの心のドアを
                   あなたはドアを開けた
【サビ】  まるで世界はパラレルワールド
                   パラレルワールド
――――――――――
 この歌詞においては、危機が迫る「地球」と、「わたし」の心のドアを開ける「あなた」という、スケールの異なる別の場における変容が比較的明確に描かれている。ここで既に考察した二曲とこの楽曲の共通点を確認してみよう。それは「あなた」、「YOU」、「君」といった二人称の相手の存在によって、「わたし」という主体に揺らぎが生じ、最終的に二者の関係性が安定しないということだ。「わたし」は変容の途上にある。それぞれの歌詞から抜粋すると、「当たり前の青春に恋してた」、「いつかはコンビになりたいの ふたりでコンビニ行きたいの」、「わたし 遠い未来にあなたとまた出会う」といった部分から、完全な恋の成就が達成されているわけではないことがわかる。
 「わたし」という主体の揺らぎが、「あなた」という二人称的存在によって引き起こされ、その揺らぎは同時に外部としての「世界」に訪れる変容と一致するのだ。それまでは日常的であった「わたし」のあり方と「世界」のあり方が、「あなた」の出現という偶然的な出来事によって変容してしまうこと。あるいは外部的な「世界」が描かれない場合には、それは歌詞の中の「韻」という形で現れるだろう。別々の語における意味の外側に現れる「韻」も、また「あなた」の存在によって新たな文脈のなかで意味を与えられるのだ。
 先ほど少しだけ歌詞を取り上げた「たまたまニュータウン」は、そうした変容だけでなく日常的な現実もまた、全く偶然的な出来事によって起こりうるのだということを端的に主題にしている。「たまたまわたしがそこにいただけ それだけ たまたまあの日に目が合っただけ それだけだったんだ」(「たまたまニュータウン」Bメロ1番) 
 そのように歌うやくしまる自身にもまた、並行世界における別の主体がある。それがティカ・αである。彼女は自身が歌ったり、話したり、姿を見せてパフォーマンスを行ったりするときはやくしまるえつこの名を用いるが、作詞作曲を行う際にはこのティカ・αという名を用いる。二つの名義の間には身体の有無という差異がある。いわば前者は表舞台における名であり、ティカ・αは裏方の存在なのだ。したがって楽曲提供をする際にも、その作詞者あるいは作曲者名はすべてティカ・αとなっている。当然、実際はこの二つの名を持つ人間は同一人物なのだが、主体の分離という形をとっているやくしまる=ティカという構造は、その分身として楽曲の歌詞の中で繰り返されている。
 しかしやくしまるえつこという具体的な一人の人物のことを考えるとき、現実に存在するのは身体を伴うやくしまるえつこの方だけなのだ。なぜなら「他のあり得るかもしれない」並行世界におけるティカ・αと、現実におけるやくしまるえつこは同時に存在することはできないのだから。「YOU&IDOL」を再び思い出してみるとき、これもまた「わたし」の異なる二つのあり様、分離する「わたし」の片割れとして「あなた」があるという解釈が新たに可能になるだろう。「わたし」とあり得たかもしれない別の「わたし」=「あなた」は、「やくしまる=ティカ」という現実の主体に対して、無数にありうる並行世界の一つにおける主体のあり様なのだ。
[1] ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』加来彰俊訳、岩波書店、1994年、238頁。
[2] 同上、242頁。
[3] モーリス・ブランショ「日常の言葉」西山雄二訳、『終わりなき対話II』、筑摩書房、2017年、305頁。「…パノラマ的な視野のうちに閉じ込めることができないという意味で、日常とは知覚されえないものである。日常とは私たちが第一回目にけっして見ることのないもの、再び見ることしかできないものだからである」
[4] 九鬼周造「邦詩の押韻に就いて」天野貞祐、澤瀉 久敬、佐藤明雄編『九鬼周造全集 第五巻』、259頁において九鬼は、「語呂合わせ」が韻の上での偶然的な符号一致であり、またポール・ヴァレリーの言葉を引用しつつ、詩が言語の音響における偶然的な関係に基づくと述べている。
[5] 九鬼周造「偶然化の論理」天野貞祐、澤瀉 久敬、佐藤明雄編『九鬼周造全集 第二巻』、354頁。「偶然生の哲学の形而上学的展望は、この現実の世界が、唯一可能な世界ではなく、無数の可能な世界の中の一つに過ぎぬとして、現実の世界を動的に肯定することに存する。」
[6] 同上、365頁。
[7] 千葉雅也「此性を持つ無ーーメイヤスーから九鬼周造へ」『意味がない無意味』、河出書房新社、2018年、219-220頁。
0 notes
itunesjap5 · 5 years
Text
フランス流気取らないおもてなし アペリティフ - 吉田菊次郎
アペリティフとは、飲み物とおつまみで友人たちとおしゃべりを楽しむこと。 美食家で暮らしを楽しみ、人と人との交わりを大切にする現代のフランス人にとって、日々の生活に欠かせない習慣になっています。 「アペロしない?」が仲間を誘うときの定番フレーズ。 仕事終わりや週末のひとときに、自宅やカフェや公園などで、気の置けない人たちと軽い食事をしながら交流しています。 フランス政府は、毎年6月の第一木曜日を「アペリティフの日」と定め、世界中でイベントを開催。 日本でも「アペリティフ365」と題して、代官山をはじめとして日本全国でアペリティフの習慣の促進、普及を目指したイベントが開催されています。 本書は、日本で初めてのアペロレシピ本。 クレープ、キッシュ、ベジネーズ、パピヨット、ポップオーバー、サンドイッチ、ラングドシャ、マカロン、タルトタタン、マドレーヌなど、ひと口サイズのおつまみとドリンクのレシピ約120品を紹介しています。 各レシピには、著者ならではの料理の歴史や背景、文化などのミニ情報付き。 アペロに欠かせないお酒とチーズを解説したミニ事典も付いています。 ホームパーティを楽しむ人から、自宅サロンで料理やお菓子の教室を主宰する方まで、人をもてなし機会のある人におすすめの一冊です。 ■目次 1野菜・フィンガーフード 2肉・魚のおつまみ 3小腹が満たせるおつまみ 4お菓子・デザート アペリティフがもっと楽しくなるドリンク事典 アペリティフに欠かせないチーズ事典 http://bit.ly/2HZdsCC
0 notes
finds-tokai · 7 years
Text
北欧映画レビュー
FINDS今年度初のイベントは、北欧映画(北欧に関する映画)鑑賞でした!
北欧が舞台の映画の中から様々なジャンルのものを選び、色々な視点から北欧各国を研究しました。
以下、今回鑑賞した映画とそれぞれに対する感想です。
『好きにならずにいられない』
(2015年)アイスランド
youtube
あらすじ:43歳独身、空港の荷物係として勤務する巨漢のフーシ(グンナル・ヨンソン)は、人付き合いが苦手で女性経験もなく、戦車や兵士の小さなフィギュアを集めてジオラマを作るのが唯一の楽しみ。そんな息子を見かねた母親とその恋人は、出会いの機会を作ろうと誕生日祝いにダンススクールのクーポンをプレゼントする。気が乗らないもののスクールに向かったフーシは、小柄な女性シェヴン(リムル・クリスチャンスドウティル)と出会い、瞬く間に恋に落ちるが……。
https://www.cinematoday.jp/movie/T0020997
メンバーの感想
現実を突きつけられた感
起承転……で終わった
北欧らしいと思った点
町並みが北欧らしい
寒そう
評価:☆☆☆★★(3.0)
『特捜部Q 檻の中の女』
(2013年)デンマーク
youtube
あらすじ: コペンハーゲン警察殺人課の刑事カールは、新設されたばかりの未解決事件班「特捜部Q」に左遷させられてしまう。捜査終了と判断された事件の資料を整理するだけの仕事にやる気を見出せないカールだったが、資料の中から5年前に世間を騒がせた美人議員失踪事件の捜査ファイルを発見し、その捜査結果に違和感を抱く。助手アサドと共に調査に乗り出したカールは、やがて議員がまだ生きている可能性にたどり着く。
http://eiga.com/movie/81346/
メンバーの感想
痛かった
オチが良かった
特捜部Qシリーズを観たくなる終わり方
面白かったけど今まで見た中で一番エグい監禁モノだった
面白かったけど舞台が北欧でなくてもよかった…?
北欧らしいと思った点
相棒のアサドのように、多民族が当然のように登場する点
また、警察署にイスラム教の礼拝室があるのも、多文化主義の北欧ならでは
コーヒー好き(北欧は世界でも有数のコーヒー消費国)
主人公の息子は義理の息子で、その妻とは離婚している(離婚率,再婚率が高い)
スウェーデンにすぐ捜査に向かう
評価:☆☆☆★★(3.2)
『365日のシンプルライフ』
(2013)フィンランド
youtube
あらすじ:ヘルシンキに暮らす26歳の青年ペトリは恋人との破局を発端に、さまざまな物にあふれた生活を変えることを決意。持っている物を全部倉庫に預け、倉庫から持ち出すのは1日に1個、1年間継続、1年間何も買わないという四つのルールを課す。今、自分に必要な物を選ぶという日々の決断を通じて、彼は人生で大切な物は何かと模索するようになっていく。
https://www.cinematoday.jp/movie/T0019080
メンバーの感想
ドキュメンタリーっぽいから好みが分かれそう
会話のリアクションだったり、間が良い → リアリティが増す
おばあちゃんと仲がいい 弟とも仲がいい 人柄が良い
記録する姿勢が良い
北欧らしいと思った点
「明るくて眠れない」というセリフから 白夜? 日が沈むのが遅い
二重窓
自転車社会
おばあちゃんのセリフ「じゃがいもの茹で方と剥き方、靴下の穴を直せるかで女は見なさい」という考え
評価:☆☆☆☆★(4.2)
『LIFE!/ ライフ 』
(2013)アメリカ
アメリカの映画だが、アイスランドとグリーンランドが登場するため
youtube
あらすじ:雑誌「LIFE」の写真管理部で働くウォルター・ミティ(ベン・スティラー)は、思いを寄せる女性と会話もできない臆病者。唯一の特技は妄想することだった。ある日、「LIFE」表紙に使用する写真のネガが見当たらない気付いたウォルターはカメラマンを捜す旅へ出る。ニューヨークからグリーンランド、アイスランド、ヒマラヤへと奇想天外な旅がウォルターの人生を変えていく。
https://www.cinematoday.jp/movie/T0013965
メンバーの感想
景色が綺麗
開放された景色→LIFE!の世界観にぴったり
北欧らしいと思った点
ビール多すぎ、大きすぎ
温泉パイプ(アイスランドでは、温泉を町へ運び、暖房や生活用水として活用されている。劇中のパイプはディルダルトゥング温泉?)
スケートボードに北欧神話の神オーディンが…
パブで食べていたのはタラ?ニシン?
総評:☆☆☆☆★(3.75)
『雪の女王』
(1986)フィンランド
あらすじ:ある所にカイという少年とゲルダという少女がいた。二人はとても仲良しだった。しかしある日、悪魔の作った鏡の欠片がカイの眼と心臓に刺さり、彼の性格は一変してしまう。その後のある雪の日、カイがひとりでソリ遊びをしていたところ、どこからか雪の女王が現れた。そして、魅入るようにして彼をその場から連れ去ってしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/雪の女王
メンバーの感想
インパクトが強すぎて眠気が飛んだ
さらわれる理由が原作と違う
カイの服がT.M.Revolutionみたいだった
児童向けにしては長い
北欧らしいと思った点
山賊がロックバンド、メタルバンドみたいだった
評価:☆☆☆★★(3.2)
「北欧映画」というとあまりイメージがないかもしれませんが、これを読んで興味を持っていただければと思います…!!
0 notes
honyade · 7 years
Text
『「365日」のパン暮らし』(世界文化社)発刊記念トークイベント 「365日」のオーナーシェフ・杉窪章匡さんに聞く、これからの日本のパン屋のこと。
大人気のパン屋である「365日」。 店名そのまま、1年中、休み無く、毎日の食卓にパンを提供しています。 「毎日の食事が、ココロとカラダを育むから」とオーナーシェフの杉窪さん。 彼が目指しているのは、おいしくて、安心・安全なパンを作ることだけでなく、日本人のパンのある生活を豊かにすること。 新しい日本のパン屋を目指す杉窪さんに、お話を伺います。 「365日」のパンのお土産付きです。
*イベント終了後、サイン会があります。当店で新刊本『「365日」のパン暮らし』を購入された方がご参加できます。 ※サイン会のみのご参加はできません。
【参加条件】 参加費税込1,620円をお支払いいただいたお客様に「365日」のパン付き参加券をお渡しします。 *イベント終了後、サイン会があります。当店で、新刊『「365日」のパン暮らし』(税込1,620円)をご購入された方のみ、参加できます。
【お申込み方法】 以下の方法でお申込みいただけます。 ①代官山 蔦屋書店店頭(3号館1階レジ) ②オンラインストア
【対象商品】 ・イベント参加券 「365日」のパン付き参加券 税込1,620円 ・サイン会対象商品  新刊『「365日」のパン暮らし』(税込1,620円、世界文化社)
【ご注意事項】 *参加券1枚でお一人様にご参加いただけます。 *会場はイベント開始の15分前からで入場可能です。 *当日の座席は、先着順でお座りいただきます。 *サイン会に参加される方は、イベント当日、当店で対象本をご購入されたときのレシートをお持ちください。
【プロフィール】 杉窪章匡(すぎくぼあきまさ) 1972年生まれ。両祖父が輪島塗職人という職人家系の血統。高校を中途退学後、辻調理師専門学校に入学、パティシエとして職人の道を志す。卒業後、神戸や東京で修業をし、24歳でホテルのシェフ・パティシエに就任。2000年、渡仏。2つ星「ジャマン」1つ星「ペトロシアン」を経て’02年に帰国。数軒のパティスリーやブーランジュリでシェフを務める。’13年に独立。日本各地にパン屋をプロデュースする傍ら、同年12月に自身がオーナーシェフを務める「365日」をオープン。国産小麦のみを使い、無添加、無農薬・減農薬にこだわり、副素材まで手作りしたパン、ワインやチーズも楽しめるイートイン、国内外からセレクトした食回りのアイテムが揃う店は、新しいパン屋のスタイルとして注目され、朝から行列が途切れることのない人気店となる。’16年、カフェ「15℃」を「365日」の姉妹店としてオープン。料理人、パティシエ、ブーランジェの視点から常に新しい形の「日本のパン」を考え、パンの世界を豊かにクリエイトする新世代の食の職人である。
会期:2017年05月18日(木) 時間:19:30~21:00 定員:60名 場所:蔦屋書店1号館 2階 イベントスペース 主催:代官山 蔦屋書店
問い合わせ先 03-3770-2525
チケットのご予約はこちら
オンラインストアでの受付は2017/5/16(火)午前9時の受注分までとさせていただきます。
イベント情報の詳細はこちら
from honyade.com http://ift.tt/2pcUfUI
0 notes
theatrum-wl · 6 years
Text
【アンケート企画】 「2018年の3本」
WLでは読者のみなさんから2018年に見た舞台作品の中で印象に残った3本を、その理由などを書いたコメントとあわせて募るアンケートを実施しました。WLスタート以来毎年行っているこの企画、4回目の今回は17名の方にご参加いただきました。掲載は到着順です。
まなぶ(司書) ・北海道余市紅志高等学校『おにぎり』(サントミューゼ) ・志賀澤子『ROSE ローズ』(シアターΧ) ・スペースノットブランク『舞台らしき舞台されど舞台』(カフェムリウイ) 『おにぎり』高校演劇を観始めて1年半くらいたつが、初めて全国大会に参加することができた。何回も反芻してもう一度観たいのは『おにぎり』で、野球部員が黙々とおにぎりを握るあの静けさをまた体験したい。と思ったら東京学芸大が再演するそうなのでたのしみ。で、高校生たちのうち何人が演劇/観劇を続けるのだろう。 『ROSE ローズ』3回鑑賞して、演者だけでなく観客としての私自身の変化を定点観測的に感じることができた。安すぎる価格設定や毎回のアフタートークなど、シアターΧの取り組みは素晴らしいと思う。両国門天ホールを含めて両国によく通った一年だった。再演文化の定着は私も希望したい。 『舞台らしき舞台されど舞台』信頼があるからこそ演者や観客に負荷をかけることができる。せんがわ劇場演劇コンクールや高松アーティスト・イン・レジデンスへの参加など、積極的に外に出ようとする姿勢が創作の源泉になっているのだと思う。(年間観劇本数:83)
中西理(演劇舞踊評論) ・劇団ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』(こまばアゴラ劇場) ・青年団『日本文学盛衰史』(吉祥寺シアター) ・範宙遊泳『#禁じられた遊び』(吉祥寺シアター) 山田百次(青年団演出部、劇団ホエイ)の劇作家・演出家・俳優としての八面六臂の活躍ぶりには凄いものがあった。作・演出・出演を兼ねる劇団ホエイでは北海道三部作の完結編として夕張の炭鉱町に生きた男たちの群像をみごとに描き出した「郷愁の丘ロマントピア」を上演した。俳優として出演したオフィスコットーネ「山の声」も忘れがたい名演であった。青年団はこの山田を代表に演出部の作家たちの群雄割拠の活動が目立ったが、平田オリザの新作「日本文学盛衰史」も明治の文学者たちの生き様を現代と重ね合わせた傑作。青年団以外では範宙遊泳の山本卓卓も引き続き存在感を見せた。(年間観劇本数:250)
野呂  瑠美子(一観客) ・東京ハンバーグ『夜明け前、私たちは立ち上がる』(シアターサンモール) ・ナショナル・シアター・ライヴ『Young Marx』(TOHOシネマズ日本橋) ・西瓜糖『レバア』(テアトルBONBON) 過疎化している貧乏な地域が狙われるという鉄則通り、標的の町となった三重県芦浜原発の、地元有志による37年に渡る白紙撤回闘争の有様が、懐かしい伊勢弁とともに心に滲みた「夜明け前、私たちは立ち上がる」。札びらで頬を撫でられて、次々と屈服していく人々や、それでも闘志をかきたててピケを張りに行く人々の姿が沖縄やフクシマと重なった。また、西瓜糖「レバア」も敗戦後の日本人のたくましさや惨めさをリアルに描き、半壊した洋館など舞台美術も役者の演技も秀逸。イギリスの舞台はどれを見ても水準が高く、俳優の層の厚さ、舞台美術、斬新な演出など、どれをとっても素晴らしいものが多いが、「Young Marx」は舞台装置と場面転換の妙、俳優たちの名演で、深刻な話を明るくコメディタッチで描き、最初から最後まで楽しめた。(年間観劇本数:70)
kiki(地方公務員) ・iaku『粛々と運針』(こまばアゴラ劇場) ・青年団リンク やしゃご『上空に光る』(アトリエ春風舎) ・MCR『櫻井さん』(OFF・OFFシアター) 自分の好みが変わったことを気づかされる3本。それぞれに、人が生きていく中で出会う行き場のない想いを鮮やかに切り取っていた。 粛々と運針:題材・構成・演出・俳優等がとてもよく噛み合って、芝居というものの面白さってこういうことだよなぁ、と思わせられた。 上空に光る:正解なんかない、それぞれの抱えたものは抱えたままで、それでも生きていくしかない人々の物語。特定の状況を丁重に描きながら、その中に普遍的なものが息づいていた。 櫻井さん:変な奴ばかり出てくるのに、どうしてこんなに刺さるんだろう。声を立てて笑ってるのに、いたたまれないくらい遣る瀬ない。ヒリヒリするほど酷い話なのに、登場人物たちへ向ける眼差しはどこかやさしい。この奇妙な物語を観ることができてよかった。(年間観劇本数:139)
青木  克敏(地方公務員) ・iaku『逢いにいくの、雨だけど』 ・iaku『梨の礫の梨』 ・オーケストラ・アンサンブル金沢『ペリアスとメザリンド』 iakuの横山拓也さんの活躍、そして深化が著しかった。3作品全て横山作品としたいぐらいでしたが、8月に上演されたボルドー国立歌劇場との共同プロダクションが素晴らしかったので。(年間観劇本数:40)
北村  紗衣(研究者) ・東宝『おもろい女』(シアタークリエ) ・『ヴェニスの商人』(ユタ・シェイクスピア・フェスティヴァル) ・ナショナル・シアター・ライヴ『ジュリアス・シーザー』 舞台を撮って映画館で上映するという形式がどんどん力を��しているように感じます。(年間観劇本数:118 )
矢作  勝義(劇場プロデューサー) ・mizhen『溶けない世界と』(日暮里d-倉庫) ・スペースノットブランク『ネイティブ』(せんがわ劇場) ・iaku『逢いにいくの、雨だけど』(三鷹市芸術文化センター星のホール) 今年の3本は、さらなる活躍が期待される3つのカンパニーの作品を選びました。並びは観劇順。mizuhenの作・演出の藤原佳奈は世界を切り取る独特な視点の面白さが秀逸。スペースノットブランクの小野彩加と中澤陽はオリジナリティーに溢れ、今後どのような作品を見せてくれるか楽しみ。特に小野さんの身体能力の高さは注目。iakuの横山拓也は、繊細かつ緻密に物語を紡ぎ出し、三鷹の大きな空間を生かした美術と演出により、iakuの作品の可能性をさらに広げた。 もちろん、先行世代も素晴らしい作品を上演した一年でした。穂の国とよはし芸術劇場で上演された糸井幸之介と木ノ下裕一による「とよはしの街の物語」、桑原裕子によるKAKUTA「ねこはしる」をはじめ、岡田利規、長田育恵、金山寿甲、柴幸男、詩森ろば、高木登、谷賢一、タニノクロウ、中村暢明、野木萌木、藤田貴大などのアーティスト達の2019年が楽しみです。(年間観劇本数:169)
和哉  遊柘 (観客) ・ヨーロッパ企画『サマータイムマシン・ワンスモア』(本多劇場) ・TEAM NACS『PARAMUSHIR~信じ続けた士魂の旗を掲げて』(森ノ宮ピロティホール、赤坂ACTシアターほか) ・くによし組『ケレン・ヘラー』(王子小劇場) ・精緻で巧みでそして何より面白い。前作より登場人物が増えたのに魅力が増してるのはマジックとしか言い様がない。傑作。 ・このカンパニーで今できるベストの公演かつ演出家として森崎博之の持ち味のエモーショナルさ・ダイナミックさが遺憾無く発揮されている。 ・切実で突き刺さる物語とその疾走感もいい上に、二人一役の必然性のある演出もぴったり嵌っていた。 他、次点で、ブラボーカンパニー『タイトル未定2018』『サムシング・ロッテン!』は、ほぼ同時期に福田雄一が関わる作品で双子のような作品でセットとして観ても面白い。 今年は良作は多数あったが傑作は少ない印象で物足りないのが正直なところ。また中~大劇場規模の演出が出来る演出家やその規模の客席を埋められる人材不足が目に付く。中~大規模の舞台を観る身としては、早急に見直しをお願いしたい。特に演出家は急務では。(年間観劇本数:103 )
薙野  信喜(無職) ・ヨーロッパ企画『サマータイムマシン・ワンスモア』(西鉄ホール) ・フィリップ・ドゥクフレ/DCA『新作短編集(2017)―Nouvelles Pièces Courtes』(北九州芸術劇場) ・KERA•MAP『修道女たち』(北九州芸術劇場) 2018年もいい舞台が九州で観られたのはありがたかった。選んだ3本以外にも、二兎社「ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ」、「老いと演劇-OiBokkeShi《オイ・ボッケ・シ》の活動から学ぶ「人生100年時代」の生き方!」、中村敦夫一人芝居「朗読劇 線量計が鳴る」、SPAC「寿歌」などのすばらしい舞台が多かった。九州の劇団では、 最新旧型機クロックアップ・サイリックス「上下左右」、go to・Theちゃぶ台「愛の讃歌」がおもしろかった。九州で作られた、北九州芸術劇場プロデュース「彼の地Ⅱ」、ニコちゃんの会「走れ!メロス。」も楽しめた。(年間観劇本数:129)
町田  博治(会社役員) ・静岡県立三島北高校演劇部『またね。』(山梨県立県民文化���ール) ・青年団『日本文学盛衰史』(吉祥寺シアター) ・モメラス『反���と循環に付随するぼんやりの冒険』(北千住 BUoY)  3作品を選ぶのはかなり難しい。初見の作品を選ばせていただいたが、再演の作品にも、SPAC『マハーバーラタ』、iaku『粛々と運針』、劇団こふく劇場『ただいま』など素晴らしい作品が多くあった。今年の3作品以外にも、ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』、千葉県立松戸高校『Time After Time (「インディアンサマー」より)、iaku『人の気も知らないで』、『逢いに行くの、雨だけど』、うさぎストライプ『空想科学Ⅱ』など素晴しかった。 『またね。』高校生達の葛藤を深く掘り下げた見事な脚本と演技で魅せられた。女性、女子高生だから書けた女子同士の関係性や友達関係が崩れたあとの女子の葛藤を、受験を柱に深く掘り下げた見事な作品。 『日本文学盛衰史』日本文学と演劇への青年団からのエール。 『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』これぞ演劇。観終わったあとの高揚感が凄かった。役者の演技も出色だった。(年間観劇本数:316)
りいちろ (会社員) ・マームとジプシー『BEACH』(VACANT) ・iaku 『逢いにいくの、雨だけど』(三鷹市芸術文化センター星のホール) ・マコンドープロデュース『空と東京タワーの隣の隣』(下北沢 スターダスト) 3本は演劇だから受け取りうる、言葉に為しえない細微で立体的な記憶の感触に深く染められた舞台。 演劇だからということでは、シリアルナンバーや劇団チョコレートケーキなどの作品たちが編む世界観にも心揺さぶられた。長田育恵戯曲達の強さと確かさにも痺れる。RoMT『ギャンブラーの為の終活入門』、MCR『親展』、サカサマナコ『静かな欠片』なども圧巻だった。 モダンスイマーズ、シリアルナンバー、MCR、泣かないで、毒きのこちゃんなどによる過去作品群の再演があり、回顧ではなく作り手の踏み出しと感じることがとても豊かに思える。qui-co、月刊根本宗子、くによし組、ピヨピヨレボリューション、キュイ、mizhen、第27班、アナログスイッチ、牡丹茶房、日本のラジオ、肋骨蜜柑同好会、劇団普通、遠吠え、やみ・あがりシアター、ワワフラミンゴ、書ききれない程多くの作り手たちの企てや進化が心強く思えた一年でもあった。(年間観劇本数:330)
片山  幹生(WLスタッフ) ・ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』(早稲田大学演劇博物館) ・ゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』(彩の国さいたま芸術劇場 大ホール) ・iaku『逢いにいくの、雨だけど』(三鷹市芸術文化センター星のホール) ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』は2018年に見たなかで最も印象的な舞台だった。早稲田大学演劇博物館という空間の特性を十全に利用した見事な演出。リンドバークを引き受けた河原舞は観客たちをかの地への旅へと誘う魅力的なパイロットとなった。彼女の身体と声が伝えるリンドバークのことばに観客はさまざまな隠喩を読み取ったはずだ。ノゾエ征爾演出の『病は気から』は数百人の素人老人俳優のエネルギーに満ちた驚異的な規模と発想のモリエール劇だった。今年はiaku/横山拓也の年だった。アクロバティックでスリリングなせりふのやり取りのなかから生まれるドラマの豊かさが横山戯曲の魅力だ。上演作品はいずれもせりふ劇の面白さを堪能することができる傑作だったが、ここでは彼のこれまでの劇作術の成果が集約されたような『逢いにいくの、雨だけど』を特に挙げておきたい。(年間観劇本数: 118)
中村  奏太(プロデューサー) ・高松桜井高校演劇部『わたしの星』(綾歌総合文化会館アイレックス 大ホール) ・OM-2『ハムレットマシーン』(d-倉庫) ・青年団『銀河鉄道の夜』(さいたま市 プラザノース ホール) 今年は高松桜井の『わたしの星』が圧倒的だった。二年前、同校が初演版の『わたしの星』を上演したときも3本に挙げた。今回は代替わりをし、再演版の『わたしの星』を上演。人間の美しさ、一瞬の煌めきが世界に広がり、鼓動のように心に響く60分。驚くほどのクオリティだった。 OM-2『ハムレットマシーン』は、テキストでしか読んだことのなかったこの作品世界の深さ、広がりを体感できた。 青年団『銀河鉄道の夜』は、広い舞台に立ち上がる美しい世界と、ジョバンニ役の井上みなみの好演により、心が宇宙と一つになった風景が見えた。 2018年は、演劇の時間のなかで、世界の広さを体感できる作品に特に心を動かされた。(年間観劇本数:200 )
でんない  いっこう(自由業) ・パルコプロデュース『チルドレン』(さいたま芸術劇場 大ホール) ・新国立劇場『スカイライト』(新国立劇場 小劇場) ・風姿花伝プロデュース『女中たち〉』(シアター風姿花伝) 意識はなかったが3人のみの芝居に充分に惹かれた。決して内向きになる訳ではない。①は”心の痛み”が人を動かし、②は”生きるということ”の違いを出し、③は”嫉みの愛情”の結末。それぞれが社会、教育、権力などについて考えさせられる。他には台詞の面白さで『忘れる日本人』一人芝居の凄さで『FULLY  COMITTED』老いの日常で『うん、さようなら』正義の歪さで『わたし、と戦争』国が人を殺す戦争以外の死で『善悪の彼岸』を挙げたい。(年間観劇本数:58)
森岡  実穂(大学教員) ・KJプランニングス『ザ・モニュメント 記念碑』(プロト・シアター) ・世田谷パブリックシアター『岸 リトラル』(世田谷パブリックシアター) ・パルコプロデュース『豊饒の海』(シアターコクーン) 順番は上演順で、演劇・ダンスのみからの選択。小劇場の上演からは川口典成演出、コリーン・ワグナー『ザ・モニュメント』(翻訳:神保良介)。娘を奪われた母親(西田夏奈子)の、理性を超えた「忘却」への抵抗があまりに強烈で、2018年はほかの作品を観てこの作品を思い出すことが何度もあった。外国戯曲上演の中では上村聡史演出、ワジディ・ムワワド『岸 リトラル』(翻訳:藤井慎太郎)。これも豊かなイメージで喪と記憶、残された者たちの生が語られた。ムワワドの作品はぜひ今後も紹介してほしい。世田谷パブリックシアターでは森新太郎演出『The Silver Tassie 銀杯』など、他では難しそうな翻訳戯曲を積極的に上演してくれてありがたい。日本で書かれた戯曲上演では、素晴らしい役者陣を揃えて壮大な物語を美しい構造で語ったマックス・ウェブスター演出、長田育恵『豊饒の海』。長田は『海越えの花たち』も素晴らしかった。(年間観劇本数:50 )
今井  克佳(大学教員) ・渡辺源四郎商店×(一社)おきなわ芸術文化の箱『ハイサイせば~Hello-Goodbye~』(こまばアゴラ劇場) ・こふく劇場『ただいま』(こまばアゴラ劇場) ・地点+空間現代『グッド・バイ』(吉祥寺シアター) 多くの優れた演目、記憶に残る舞台を2018年も見ることができた。大劇場や高額の演目および新劇系統にももちろん優れた上演がたくさんあったが、サイトの特質上避けて、小劇場中心に選んでみたところこの三本となった。いずれもやや前衛的な演出傾向のある演目となった。『はいさいせば』はウチナーグチと津軽方言という発想が印象深く、『ただいま』は古典芸能の道具立てで展開していく家族ドラマのスタイルが興味深い。『グッド・バイ』地点と空間現代の共演のレベルが一つ上がり、言葉と音楽と身体が一体化したパフォーマンスを楽しんだ。また出演俳優の力量も三本とも優れていた。いずれも東京で鑑賞したが、発信地は、青森、沖縄、京都、宮崎と全て地方である。演劇における周縁(地方)の力を再認識するとともに、うち二本が上演されたこまばアゴラ劇場が果たしてきた役割の重要性にも思いが至る。(年間観劇本数:118)
小泉 うめ(観劇人・WLスタッフ) ・なかないで、毒きのこちゃん『やっぱり!おれたちにあすはないっすネ』(ザ・スズナリ) ・制作「山口ちはる」プロデュース『恋愛監獄』(小劇場 楽園) ・地蔵中毒『「淫乱和尚の水色腹筋地獄」改め「西口直結!阿闍梨餅展示ブース」』(王子スタジオ1) 選んだ3団体はいずれも驚異的なペースで創作を続けており、また単に多産というだけでなくどれもが秀作揃いで団体を選んでから作品を選ぶのもまた大変だった。なかないで、毒きのこちゃんのこの作品は地方公共劇場のプログラムディレクターに是非知って欲しい。この3団体は2019年も継続して活躍が期待できると思う。2018年を概して言えば、遅筆騒動が多く、またそれを扱った作品も多かった。それが理由とは感じていないが、新作戯曲に目を見張るものが少ない。これは2019年に更に期待したい。(年間観劇本数:365)
0 notes