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#仏御前の滝
yamada50 · 2 years
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江戸時代まで唯一勅許を得て伊勢の神宮から勧請された山口大神宮 西のお伊勢さま山口大神宮です 外宮と内宮がそれぞれ鎮座していますが神宮以外で式年遷宮のための古殿地を持つ神社は見たことがありません 創建当初は神宮同様20年毎に式年遷宮が斎行されましたが直近では平成12年に10回目の遷宮と諸々事情で延期や縮小、中止となっています 時は戦国時代、周防大内氏の15代当主大内義興が永正16年(1519)に外宮、翌年に内宮を造営し、第104代後柏原天皇の勅許を得て神宮より勧請し創建されました 応仁の乱後、神宮は財政難により朝廷よりの勅使参向の停止や大祭の中止、式年遷宮の中断など衰えていた時期でした 一方庶民による伊勢信仰が広がり今神明や飛び神明が流行し各地に神明神社が創建されている流れの中で勅許を得ての勧請は前例がなくはじめてのことでした 当時周防大内氏は周防長門の他に筑前、豊後、安芸の守護を担い、その経済基盤は明や李氏朝鮮との交易独占と石見銀山の銀産出によってすでに日本一で西国一の戦国大名でした 応仁の乱で荒廃した京より公卿を招き入れ山口は小京都ともよばれる町並みから後の義隆の時代には山口遷都計画すらあったほどです 義隆も筥崎宮再興、現在の厳島神社の初代大鳥居、宇佐神宮の再建など寺社再建を多く行っていますが最終的に周防守護代陶晴賢の下剋上により自刃、大内氏は実質的に滅亡します その陶晴賢も後に毛利元就によって滅ぼされました 大神宮号を持つ神社は現在の東京大神宮を筆頭に明治期の神宮教院(のちの神道神宮派、神宮奉賛会、神社本庁)の出張機関の後継が多いですが皇大神宮より勧請した神社も大神宮号を称することも多いです 一方出雲大神宮や伊野皇大神宮、日向大神宮など例外もあります また伊勢原大神宮や芝大神宮など江戸期以前の伊勢からの奉斎の由緒を持つ神社もありますが勅許を含め確かな記録が残るのは山口大神宮のみといわれています #山口大神宮 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 山口大神宮(やまぐちだいじんぐう) 鎮座地:山口県山口市滝町4-4 主祭神:天照大御神、豊受大御神 社格:県社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#神社フォトコンわたしと神社#神社とわたしの思い出#御朱印#御朱印巡り#御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築#神社仏閣#パワースポット#山口県#山口市 (山口大神宮) https://www.instagram.com/p/CnPF418PpWl/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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bsamngodangbralba · 10 months
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし���采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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yotchan-blog · 1 month
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2024/8/23 13:01:00現在のニュース
「優勝の瞬間、つらいこと全部報われた」京都国際主将 夏の甲子園(毎日新聞, 2024/8/23 13:00:52) 注文はジェスチャー、筆談で 静寂を楽しむ「会話禁止」カフェ スタッフと手話でやり取りも([B!]産経新聞, 2024/8/23 12:54:19) 京都国際・中崎琉生、決勝で9回無失点「100点です」 夏の甲子園(毎日新聞, 2024/8/23 12:53:17) ハリス氏「独裁者に寄り添わない」 北朝鮮政策でトランプ氏批判(毎日新聞, 2024/8/23 12:53:17) 宇都宮LRT、駅西側延伸後は東武宇都宮駅再開発 乗り入れは西川田までか 開業1年 宇都宮LRT⑤ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/23 12:45:19) 【横浜】原鉄道模型博物館の車両模型、香港へ 原寸大で繁華街に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/23 12:45:19) 古民家巡り風鈴連想ゲーム([B!]読売新聞, 2024/8/23 12:39:36) 7月コロナ増 病床逼迫([B!]読売新聞, 2024/8/23 12:39:36) 日本「旅した」仏像 奈良博に([B!]読売新聞, 2024/8/23 12:39:36) ハリス氏受諾演説 「胸が張り裂けそう」 ガザ停戦合意に意欲(毎日新聞, 2024/8/23 12:39:00) 京都国際が初優勝、京都勢68年ぶり頂点 延長タイブレーク制す([B!]産経新聞, 2024/8/23 12:36:26) ハラスメント防止条例案を再提案へ、職員アンケート3割「受けた」 奈良・生駒市([B!]産経新聞, 2024/8/23 12:36:26) 今夏の新型コロナ「第11波」、入院患者増で複数医療機関が病床逼迫 奈良県医師会([B!]産経新聞, 2024/8/23 12:36:26) 皇室も利用の畝傍駅 奈良・橿原市、駅舎保存し民間活用へ方針転換 事業者を募集([B!]産経新聞, 2024/8/23 12:36:26) ロボット制御のMujin、海外展開加速 滝野一征CEO「日本の5倍稼ぐ」 NEXTユニコーン - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/8/23 12:33:23) 民間事業者を公募 JR畝傍駅舎、保存活用 戦前建築 「橿原市の象徴に」 /奈良 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/8/23 12:33:20) 高速船浸水、第三者委 JR九州社長「危険な判断」謝罪 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/8/23 12:33:20) JR四国 給与低く、若手離職増 人手不足で17本減便 /香川 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/8/23 12:33:20) 機関車5両、雄姿見納め 群馬・来月15日からラストラン /東京 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/8/23 12:33:20) ハリス氏受諾演説  「中産層の支援が最重要目標」(毎日新聞, 2024/8/23 12:31:29) 京都国際が夏の甲子園初優勝 京都勢では68年ぶりの頂点(朝日新聞, 2024/8/23 12:31:28)
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tsuntsun1221ts · 2 months
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2024.06 武甲山
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山頂からの眺めは非常に良いが、空気が澄んでいるとなお良い
友人と一緒に武甲山へ。数年前に一度登ったことがあるが、そのときは浦山口駅からの往復だった。今回は横瀬駅からスタートするルートにしてみる。
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横瀬駅から武甲山。ちょうど電柱とかぶってしまった。
横瀬駅から登山口まではタクシー使用(片道2400円、歩くと40分くらいか?)。タクシーの車窓からは石灰岩関係の大きな工場がたくさん並んでいて壮観だったが、砂埃や排気ガスがかなり濃い道を延々と何十分も歩くのはちょっと苦痛だな、特に気温が高い日は。タクシーで正解。
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約10分くらいの乗車で一の鳥居登山口到着。30台ほどが停められる駐車スペースあり。
【コースタイム】一の鳥居(0905)→不動滝(0935)→武甲山(1050-1110)→橋立林道終点(1220)→橋立鍾乳洞(1255)
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しばらくは舗装された歩きやすい道。
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登山道に入りそれらしい道になる
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約30分歩いたところにある不動滝、ここでは山頂トイレで使用される水を汲み上げるための、水が入ったペットボトルがたくさん用意されており、ボランティアで山頂まで運ぶ。自分は一番大きな3Lくらいのを2本両手に持って進んだ(なので6kgくらい?ザックには入らない)。日帰り登山で荷物は軽量だったため、トレーニングとして自ら修行を課す。ずっと手に持っていたのだがさすがに指がつかれてきて、肩の上に乗せるように運んだら非常にラクだった。重量物を頭の上に乗せて運搬する人たちの写真をよく目にするが、あの運び方はかなり都合がいいらしいと身を持って実感。
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少し急であったり緩やかだったりと緩急交互だが、総じて初心者にも優しく登りやすい。
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スタートから2時間もしないで山頂に到着。水をおろしたらトイレ脇のマンホール開けて水を全量流し込む。約6kgの荷重が無くなり、足がかなり軽い。
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山頂は晴れていれば抜群の景色。けどやはり空気が澄んでいる時期のほうがきれいだな。山頂はオオスズメバチがずっと登山者に接近してくるので、危ないのでササッと写真をとってその場を離れる。
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山頂の少し下に寺社と休憩スペースあり。ちょうどお昼時なので少し休憩。
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帰りは前回も通ったことのある浦山口駅へのルート(といってももう何も覚えていないが)。まずは青い草が斜面全体を埋め尽くし、まるで草原のような非常に気持の良い緩やかな下り坂。樹林帯だがところどころ景色も良い。
その先はかなり狭く急な道が5分ほど続く。初心者は危険と感じるかもしれないが、焦らずに進めばなんの問題もない。今回のルートの核心部はここかな。
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その先はずっと緩やか。石灰岩を採掘している山だけに、看板には「発破」とか書いてある。
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この日は麓が30℃くらいに達するかなり高温の日で、半分以上下山したら気温も高くなるわ風はほとんど吹かずで暑い。
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最後は深い谷を蛇腹のように折り返し下るだけの単調な道。ここを通過するのに体感で15-20分くらいかかっていたような気がするが、景色が全く同じでとても長く感じる。終わりに近づくころには川の音が聞こえてくるので少し涼しさを感じる。
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長い下り坂が終わると清流が現れる。気温高く風がほとんどなかったので、川べりに寄って水を浴びて体を冷やす。水が冷たくて気持ちいい!!
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川の上にかかる橋を渡ったり、滝があったり、こちらの道は変化に富んで面白い。
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ここは林道終点だったか?このしばらく前から道は舗装されていたが、あとはラクな道に・・・コンクリートの道は熱の輻射で非常に暑い。
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浦山口駅に向かう途中で寄り道。見上げるとものすごい岩の壁があり、その真下に食事処や鍾乳洞が現れる。鍾乳洞は入場料たった200円なので、事前に下調べせずなんとなく入ってみたが、これがすごかった。真っ直ぐ立っていられないくらい低い天井のトンネルに一歩足を踏み入れた瞬間、嘘みたいな冷気に包まれる。トンネルを下降していく最中も、狭いが周りは今なお成長中の鍾乳石だらけ。途中からぐんぐん上昇していってトンネルを抜けるのだが、これ200円って嘘でしょと思うくらいのアトラクション。トンネル内の写真は写真撮影禁止のため何も見せられないが、近くに行ったら必ず立ち寄るべし!
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あとはすぐちかくの寺社仏閣だったり、小洒落たカフェ、休憩処「土津園(はにつえん)」。土津園でくるみそば食べたが、まず蕎麦そのものがかなり美味しい。そして細かくしたくるみと一緒に食べると、これまたくるみの風味が足されて美味しい。この周辺はくるみ蕎麦が名物なので、鍾乳洞とセットでぜひ(すぐ隣同士)。
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浦山口駅で秩父鉄道に乗り御花畑駅で下車、徒歩で西武秩父駅に移動。さっき登ってきた武甲山が、山が削られている側を向いてよく見える。西武秩父駅の隣接する施設で休憩し、特急に乗って帰宅。
武甲山は見るだけでも面白いという珍しい山。下山後は西武秩父駅でくつろげるし、西武秩父駅までがそもそも安い・都心から近いのでオススメである。
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kachoushi · 3 months
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅶ
花鳥誌2024年7月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
12 紅梅の莟は固し不言
 初出は『玉藻』昭和八年四月号。続いて『ホトトギス』九年年二月号。「」と前書き。『五百句』には、「昭和八年二月二十二日 臨時句会。発行所」と注記。『喜寿艶』には、「紅梅の莟が固い。恰も女の口を開かぬやうに」と自解している。
 この句については立子の解説を引こう。
 紅梅の赤い莟はまだふくらんでゐるといふほどでなく固く結ばれてをります。その固い紅梅の莟を詠じた句であります。それを美人に譬えて、その美人はにこやかに情がありげに見える、併し固く口をつぐんで一言も云はない。そのさまに似てゐる紅梅の莟であるよ、といったのであります。清楚なそして艶な句であります。
 これに対して、本誌令和五年二月号(「恋の季題」)に、この句についての解釈は提出しておいたので、再記しておく。梅に恋の気分を込めたものである。口が堅いだけ、恋の意志は強く、開花を待っている。開いた時の色香は余計に強いのだ。いざとなれば女性の方が強く、果敢なのだと虚子は言いたげである。「不言」という表記は、まずは漢文風の改まった言い方で、品格を保ったと見える。ただし、取り澄ましただけではない。言葉に出されないからこそ、かえって思いは募ることも匂わせているのだ。
 立子もこういうことは心得ていて、あえて余計な説明までは加えなかったのかも知れない。なお、『喜寿艶』では、掲句の後にはこの句を配している。
  鶯や文字も知らずに歌心 虚子
 無学の女だが、かえって上手に言おうとする野心がなく、イノセントな歌声が届く。聞いている男は、その声に歌の心、即ち恋の心を呼び覚ました。梅に鶯の連想もあり、両句並べて、無言の意志から、恋の囁きへの展開を確認できる。『虚子百句』でも次は鶯の句である。
13 鶯や御幸の輿もゆるめけん
 『ホトトギス』昭和九年四月号に「懐古」と題して初出。『五百句』に「昭和八年四月十二日 中辺路を経て田辺に至る。中辺路懐古」と注記。
 中辺路(なかへち)とは、熊野三山に至る参詣道のうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路のことで、特に平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が延べ百回以上も繰り返した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道、すなわち御幸道となった。
 その当時の旅は、人影の少ない長く険しい山道を越えるだけでなく、たとえ寒い早朝であっても水垢離(水浴び)をして心身を浄めながら、ひたすら熊野の神々や仏の救いを心に念じ熊野三山へと向かうもので、山岳修行の色が極めて濃厚だった。
 虚子は参詣とは逆コースを、楠目黄橙子・松尾いはほ等とたどったようで、近野村の茶店に休んだ折の句である。  虚子の「中辺路」という文章にはこうある。
 中辺路といふ名前がなつかしかつた。―昔後鳥羽上皇などが熊野に御幸になつたのも此中辺路を通られたのであつて、「道成寺」の安珍なども此道を取り、それのみならず蟻の熊野詣りといふ諺があるやうに、此道をぞろぞろと熊野詣の群衆の通つたところでもあつたのであつた。其山路だと思ふと何となくなつかしく――今は淋しい山路で、私達に行違ふ旅人は一人も無い位であつたのである。――私はカラコロカラコロと足駄の音を響かせながら歩いた。
 虚子の脳裏には、謡曲「道成寺」で、美形の僧安珍がこの中辺路を経て、清姫に見初められ、恋の激情の蛇体となって襲われる悲劇となったことや、院政期貴賤群衆の信仰を集めた様が去来していた。
 なお、年尾が解説しているように、秀衡桜という一本があり、句を得たのは、そのあたりのことという。平安時代後期、奥州の豪族、藤原秀衡が滝尻の岩屋に残したわが子の無事を祈念して、そこにあった桜を手折り、別の木にその桜を継いだという伝承がある。
 先にも述べたように、前の句の鶯の連想から、この梅の句を揮毫したことも容易に想像される。となれば前の句は紅梅を美女に比し、恋に文字通り身を焦がした清姫の連想も働いたか。
 さて、そろそろ図版の揮毫の見方についてコメントしておこう。図版に挙げた右の「栞して」の句は、「虚子」の落款(署名)が句の左に配置されている。対する左の「紅梅」の句の落款は、句の真下に位置する。
 それを確認した上で、一句の字配りを確認すると「栞して」の句は全体に筆が左から右に流れ、それと対置する形で、左に「虚子」の署名が置かれているのである。バランスをとっているわけだ。
 対して「紅梅」の句にそれほどの傾きはない。つまり、虚子は「書」の基本である字配りのバランスを常に意識して書いていたことになる。よって、晩年の眼が弱り、力も減じた筆勢とはいえ、中心線はぶれていないことになる。
 次の「紅梅」の句の「紅」の字は、一句全体を統御する強い字となっている。次々号にも「紅梅」の句を掲出する予定だが、そちらは優しい書き方である。
 また、「栞して」の句の「山」の字は、整った字形で西行へのリスペクトも感じられるが、『虚子百句』に「山」の字を使った句は十指に余る頻出ぶりで、一つとして同じ書き方はない。二月号に挙げた「山寺」の「山」の字など、句の内容の滑稽を反映して字も、剽軽な俳諧味のある「山」になっている。「書」には眼目となる字が必ずあるが、虚子は確実にそのあたりを意識して筆を振るっていたようだ。まず、虚子の揮毫は序文に記すように、手習いをしなかったとはいうものの、いい字を見てそれを覚えていた可能性は高く、あとは修練で、晩年には自在の境地を得たようである。
 便利堂がこの企画を持ってきたのも、虚子の字のその辺の高度な在り方を、ある程度意識していたからだと推察できるのである。
『虚子百句』より虚子揮毫
13 鶯や御幸の輿もゆるめけん
14 道のべに阿波の遍路の墓あはれ
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国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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aizumin · 1 year
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ムー旅 平将門巡り「胴と首をつなぐ」崇敬の旅 ・その1
6月18日(日)参加して参りました。ローソントラベルと月刊ムー編集部のコラボツアー第2段です。実は昨年の第1段も気になってはいたのですが、コロナ下ということと1泊ツアーだったこともあって断念😢
今回は元々が大好きな平将門さんなのと、パンフレットに作家の加門七海女史が寄稿されているということで、読んでみたい意欲も重なりまして。6月過ぎているというのに申し込みをポチってしまいました💦
集合場所は新宿センタービル。Twitter等の情報を見てなかったんですが、何か集合時間ギリギリになって最後に現れた方が松原タニシ氏のコスプレ?すごい似てるけどまさかな~😅
……そのまさかで、ご本人様でした💦💦
※後から松原タニシ氏の参加が、公式Twitterで告知されてるのを確認して脱力しました。何だよー、ちゃんと把握しとけよ😂>自分
さて、1時過ぎに定刻通り出発した🚍が向かった先は、茨城県の國王神社でした。
将門さんが討ち死にされた跡地?に創建された神社です。ここがめっちゃ居心地がいい😊💕空気が違うと言うか、清々しいんですね。糺の森クラス。
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駐車場から境内に入ったのですが、ちょうど狛犬さん辺りからになるので、改めて⛩️をくぐって入ろうと思い、⛩️は何処だと見渡したら遥か彼方!!
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参道長っ😳
急いで⛩️まで行って、改めて参道を歩いてから本殿に二礼二拍一礼しましたが、端から見たら多分変な人でしかなかったと思うの😰
ここから、郷土史家の方の簡単な将門さんの生涯と神社の縁起の説明がありまして、将門さんの三女の如蔵尼-ー歌舞伎の滝夜叉姫のモデルになった方ですねーーによる建立とのこと。御神体は如蔵尼自らが将門さんの三十三回忌に彫られた坐像だそうですが、盗難にあった関係で現在は本体は蔵に安置してあり写真のみパネルで公開。
余談ではありますが、私の家の氏神様というか守護神様?が谷保天神(ウチは神道なんで、祭礼関係をお願いしています)なんですが、由来がほぼ同じ💦💦
あちらも菅原道真さんの三男にあたる道武公が、配流先で薨去の知らせを聞いて刻んだ道真さんの坐像を鎮座したのが縁起なんですよねー。3番目の子供と坐像……ちなみに、将門さんが新皇と名乗るきっかけになった神託は道真さんが下したものなので、これも深い因縁があるように思えます。
境内には数々の石碑や、建立当時から植わっていた樹木があり、歴史が感じられました。
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こちらの拝殿の屋根は茅葺きなんですが、所々傷みが……💦💦本来だと茅は数十年おきに葺き替えるのが常識です。京都のみやまのかやぶきの里でも岐阜の白川郷や五箇山でも、保存会の方々が総出で葺き替えている映像を見かけたことがあります。傷みがあれば、茅を継ぎ足します。こちらもそろそろ葺き替えの時期が来てると思うのですが、資金不足だそうで😰お詣りしたご縁もあるからと、些少ではありますが授与所で寄付をさせて頂きました。もっと早くに知っていれば、💴を下ろしていったのにーー😩
参拝を済ませ境内を散策した後、再び🚍に乗り込み次の目的地の神田山延命院へ。こちらには将門さんの胴塚があります。大体15分くらいで到着。🚍の前には畑と竹林が拡がり、こちらも落ち着いた雰囲気の場所。
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でもってですね。☝️を見て仰天。こちらの宗派は真言宗智山派ですと!?
何を隠そう、将門さんの調伏をしたとされる成田山新勝寺が同門なんですよ!!そういうこともあって、将門さんを信仰される方は新勝寺には行かないそうなんですが、よりによって何で同じ宗派に葬った!!
朝廷は調伏を全国の仏門に命じたそうなので、新勝寺がしたということはその宗派全体に命令が下っている筈なんですね。にも拘らず、胴塚が築かれている。何じゃそれ。
ともかく、境内に入ります。
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将門さんの胴は、最初このカヤの巨木の根元に埋葬されたそうです。かなり存在感がある。胴塚にはペットボトルがたくさん置かれておりまして、信仰の篤さが伺えます。
神田明神もそうですが、神田山は元々はからだ山がなまってかど山⇒かんだ山となり、現在の山号になったそうです。将門山とも称するそうなので、かど山=将門さんの「かど」から来てるのかと思ってた😅その身体は何かと言えば、当然のことながら胴塚の胴ですね。
ちなみにこちらの石碑。
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右の「南無阿弥陀仏」と書かれたものは、元々大手町の将門塚(首塚)にあったもので、それが盗難に遭い将門塚の方は新しく造り直して設置した後に戻ってきたそうで。既に設置し直したものを破棄する訳にもいかず、それならこちらの胴塚に奉納しようということで、将門塚保存会から寄贈されたとのこと。それはいいとして、何で浄土宗もしくは浄土真宗なんだろう🤔(南無阿弥陀仏は“阿弥陀仏に帰依する”ということで、浄土宗&浄土真宗の所謂「念仏」なんですよ)
旗の上にある九曜紋は、毘沙門天(多聞天)=大日如来を表すそうで……そういや、境内にちゃんと毘沙門天を祀ったお堂があったじゃん😭(画像撮らんかったんです)
この左の石碑、ん?と思う方もあるんじゃないかと。「大威徳将門明王」なのに、梵字がキリークではなく不動明王を表すカーンなんですよ(その辺りの考察は、高田崇史氏がQ.E.Dシリーズの御霊将門で書かれています😊)
ちなみにこちらの金堂は1964年(東京オリンピックの年ですね)に不審火で焼失してそのままだとか。胴塚のすぐ横の↓がその跡地になります。
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こちらも信仰を集めている割にちょっと荒れているというか。國王神社と延命院、どちらも常駐の神主さん&住職さんが居られない😥正直うちの近所の村社とあまり変わりがなくて驚きました。
取りあえず前半戦はこの辺までで。
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【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】5箇所目 番外編その2 2021/6/28
見玉不動尊 《 中魚沼郡津南町秋成 》 見玉不動尊(正宝院) 見玉山(みだまさん)正宝院(見玉不動尊)町内の見玉にある、天台宗のお寺です。その由来は、文治元年、壇の浦の合戦で平家が滅びた翌文治二年、平清盛の家臣宮本清左ェ門がお告げによって平家の守護神である不動明王を奉持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院が誕生しました。したがって本尊は不動明王で、像の裏に「清盛内知見」の文字があったと伝えられています。 文政五年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より何をのがれました。その後不動堂も大正三年焼失、大正八年に現在の不動堂が再建されました。本尊・不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています 北方高所の中腹に登る石段七〇段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ二メートル半の金剛力士の仁王門を構えています 本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた、郡内屈指の霊地と言われています。
真夏はクーラーが聞いている部屋のように涼しいため、涼みにくる人が絶えません。 また、地元では隠れたパワースポットとして知られています。
【不動明王】 密教では如来が怒りの姿変じたのを教令輪真(きょうりょうりんしん)と呼び、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)が大日如来(だいにちにょらい)として現れた、その教令輪真が不動明王と説かれています。 その威厳に満ちた姿から、すべての災いを屈服させるといわれ、さらに難行苦行に立ち向かう修行者を守ると信仰されています。
【仁王門】 寺院の門で左右の金剛座に仁王(金剛力士)像が配されているものは、建築様式にかかわらず仁王門といわれています。
【金剛力士(仁王)】 上半身は筋骨隆々とした裸体で、下半身に裳をつけて裾をたくしあげて、手には金剛杵(こんごうしょ)とよばれる仏具をもっている一対の像。 口を開いているものを阿形(あぎょう)、閉じているものを吽形(うんぎょう)と呼び、いずれも発声する時の口の形によります。 密教ではすべての法の始まりを「あ」として、世の中の一切のものを発生させるとし、終りを「うん」として、一切のものの帰着する徳があるといわれています。日本の「五十音」の始めと終りでもあります。 「あ」と発し「うん」とうける「相向守護」ともいわれています。 一般的には威厳のある顔や力強い体格に憧れ、健康を祈る信仰が強く、俗信でちぎった紙を口中で噛んでつばでまるめ、仁王の自分の身体の悪い部分や発達させたい部分に投げつけ、当たるとなおったり、強くなるといわれている。見玉不動尊の仁王にもいたるところに、ちぎった紙が貼り付いています。※現在、投げつけは行っておりません。 また、仁王は健脚を守ると考えられ、大小のわらじが奉納されてます。
【大火渡り護摩(防災招福祈願)】 毎年11月3日に境内で開催される行事です。裸足で火渡りをする山伏の気迫溢れる表情を間近でご覧いただくことができます。 火渡り護摩への一般参加も可能ですが、その際は実行委員の指示に従い、ご参加くださいますようお願いします。
観光時期 通年(期間:4月~12月 冬期:一部閉鎖) 料金 無料 定休日 無休
秋山郷の入口見玉にある天台宗のお寺です。その由来は、文治元年、壇ノ浦の合戦で平家が滅びた翌文治2年、平清盛の家臣宮本清左衛門がお告げによって平家の守護神である不動明王を捧持して見玉村にいたって安置し、自ら初代住職となって正宝院(しょうほういん)が誕生したとされています。 文政5年、伽藍四棟及び平清盛願文を焼失しましたが、本尊・不動明王は火災より難をのがれました。その後再び大正3年に焼失、大正8年に現在の不動堂が再建されました。本尊不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っています。北方高所の中腹に登る石段70段の上に本堂である不動堂が建ち、石段下の参堂入口に本堂を護持する正宝院と高さ2メートル半の金剛力士の仁王門を構えています。本堂と参道は老杉巨木におおわれ、本堂へ登る石段に沿う岩石の間を流れ落ちる清水は各所に滝をつくり、境内は真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた霊地と言われています。 なお、この寺の本山は比叡山延暦寺です。
駐車場から歩いて1分、お土産屋を横目に鳥居をくぐり見玉不動尊の聖域へ入ります。
鳥居をくぐった左手が正宝院。見玉不動尊のご利益について住職のありがたいお話を聞きながら御礼受付。正宝院の上には大黒殿がそびえ建ちます。
大黒殿の上にある六地蔵とボケ除け観音 大黒殿の上にあるお願い地蔵 お願い地蔵の写真です お願い地蔵の説明看板です 一般的には威厳のある顔や力強い体格に憧れ、健康を守る信仰が強く、俗信でちぎった紙を口中で噛んでつばでまるめ、仁王の自分の体の悪い部分や発達させたい部分に投げつけ、当たるとなおったり強くなると言われています。仁王は健脚を守ると考えられ、大小のわらじが奉納されています。
上半身は筋骨隆々とした裸体で、下半身に裳をつけて裾をたくしあげて、手には金剛杵(こんごうしょ)と呼ばれる仏具を持っている一対の像、金剛力士像。口が開いているものを阿形(あぎょう)、閉じているものを吽形と呼び、いずれも発声する時の口の形によります。
仁王門をくぐって本堂へ向う。急勾配な70段の石段。途中には「延命水」というご利益の高い水で喉を潤すことができます。
石段と平行して流れる7段の滝。その優雅な姿が癒しの空間を演出してくれます。仁王門の大杉3本は樹齢700年余りの古木で、400~500年前からの杉も幾本かあり、その大杉の間をぬって7つの滝(7段の滝)が冷たい浄水をおしげなく流して、夏も涼しくすこぶる美観です。
本堂脇には、眼病治癒をはじめ、多くの参拝者の願いが書かれた絵馬が並びます。
見玉不動尊の脇にはお土産屋さんもあり、津南町、秋山郷の特産品などここでしか買えない一品を手に入れることができます。
眼病治癒の逸話が残る見玉不動尊にはメグスリの木があります。メグスリの木を煎じたお茶もお土産として販売されており、しぶみの効いたおいしいお茶です。
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photoconcerto · 1 year
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奥多摩 浅間尾根トレッキング 2023年春 Mt. Sengen-Rei in Okutama area, Tokyo, Spring 2023
浅間尾根登山口 バス停~浅間尾根〜浅間嶺~時坂峠~払沢の滝入口 バス停のトレッキングです。
西東京バス 浅間尾根登山口 バス停下車、ごちゃごちゃと看板が乱立している所から小さな舗装道路に入り、浅間坂と呼ばれる急坂を登りながら、小さな山荘を通りすぎ、しばらく登るとようやく登山道らしい小径に入ります。ここから緩やかな登りとなり、しばらく行くと、もう浅間尾根(西)コースの主稜線に到着です。ちょっと、あっけないほどです。
この日、武蔵五日市駅では、「都民の森」(三頭山登山口)行きの急行バスが3~4台増便されましたが、浅間尾根登山口で下車した登山客はごくわずかで、休日にもかかわらず静かな山行となりました。
浅間尾根(西)コース主稜線に入ると、馬頭観音、伐採跡地からの御前山展望、「さる石」、藤倉分岐、一本松の馬頭観音、旧道崩壊による高巻き地点、そして人里(へんぼり)峠を過ぎると再び伐採跡地からの大展望が現れ、御前山と大岳山が見られます。鳥さんのさえずりが、実に賑やかです。ブイログ (Vlog) カメラを持った若い女性も鳥さんのさえずりを盛んに撮って(録音して)いました。こここまで来ると浅間嶺まで、もう少しとなります。
今年の首都圏の春は高温傾向が著しく、歩いていると周辺の山々もすでに眩しい新緑に覆われていますが、実際の森の中では、まだほとんど冬の状態で落ち葉が大量に残っている場所、道端のあちらこちらで落ち葉の下から新芽が出ている場所、もうまさに新緑!という場所と、さまざまです。
今回は浅間嶺(標高903m  小岩浅間、浅間神社、展望なし)には寄らずに巻道で、鞍部にある東屋・広場に到着です。この付近は新緑に溢れて山桜などの花が咲いていました。ここには団体さんも含めて大勢の登山者が休憩中でした。ここから、ちょっと登ったところにある展望の良い小ピーク(標高約900m)で大休止・昼食です。意外と休憩中の登山者が少なかったでした。御前山、鋸山~大岳山~馬頭刈尾根コースの大展望が見られます。
正確な言い方ではないかもしれませんが、「浅間嶺」は2つあります。山の鞍部(凹み)にある東屋・広場の西側のピークの「浅間���」は地図上に表記されており、小岩浅間とも呼ばれ、標高903m、そばに浅間神社がありますが、展望はありません。もう一つの「浅間嶺」は鞍部の東側のピークで標高約900m、立派な山頂(山名)の標識があり、御前山、鋸山~大岳山~馬頭刈尾根コースの大展望が見られ、ベンチもたくさんあって休息に良い場所です。
この山頂から東に向かって松生(まつばえ)山への分岐までは、幅広い尾根道を緩やかに下りますが、新緑の美しさと相まってたいへん気持ちの良い山の小径でした。先ほどの東屋・広場から下の巻道を東へ歩いてこの尾根道に入り、西に向かって浅間嶺に到達するのも悪くは無いと思いました。
「時坂古道コース」を下ります。途中、伐採跡地からの大展望があり三頭山~御前山方面がよく見えます。大山祗神社周辺では廃屋も多く、しばらく林道を歩いてようやく時坂峠に到着です。風化した石仏と道標のみです。このコースで行き交う登山者はごくわずかでした。最後に時坂の集落を通り過ぎながら、最後に払沢(ほっさわ)の滝の駐車場に出ます。ついでですので、バスの時間を気にしながら、払沢の滝まで往復して、払沢の滝入口 バス停到着です。
ちなみに、この古道「甲州中道」は江戸時代、炭・米・塩などが牛馬で運ばれた幹線道あったそうです。旧代官お休み所なども残っており、往時の雰囲気が偲ばれます。ただ、払沢の滝入口 バス停へのバスの便は多少良いのですが、払沢の滝入口から浅間嶺に登るのは遠いですね(笑)。
Sengen Ridge〜Mt. Sengen-Rei〜Hoxtusaw Fall  April 2023,  SONY DSC-RX1R  Zeiss Zonnar T* 35mm F2.0   We can look at the enlarged images clicking the original ones.
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kanglo · 1 year
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人間、修行の身。
未熟で産まれ、人間の間が取れ、人になる。
これ、人として生きること。
人としての務め。
人としての責任。
人間としてこの世に生まれ出たことの意味、訳、自覚。
お主、何のために存在している?
なぜ生きている?
「え?あ、まあ、人生修行っていうやつですかね。生きることは楽ではないですね。寧ろ苦しい。だけど、仕方ないですね。人間は修行をするために生きているのだから」
「いやあ、勘弁!修行、修行って、そんなに真面目にストイックに生きてたら、疲れ果てて死んじゃうよ。もっと楽しもうよ!眉間に皺寄せて生きるより、たくさん笑って生きた方が人間らしくていいんじゃん?」
「私、修行って、お坊さんや禅僧のやることだと思ってた。え?私も修行が必要なの?どんな修行?それっていつまで続ければいいの?教えてほしい!」
「みんな阿保やな。そんな真面目くさって生きるから騙されるのよ。この世は、いかにうまくやってラクに生きるか。損か得かしかないでしょ?うまく生きたもん勝ち!不労所得の方法、教えまっせ!」
「私は、社会的責任を果たすことが、人間としての務めだと思っています。それが修行といえばそうかもしれません。だけど、私は、それを苦しいとか大変だとか思ったことはありません。物心ついた時から、当たり前だと思って生きていますから」…。
今にして分かること、これ修行の意味。
人間、絶えず悩み、絶えず苦しみ、気の休まる暇がない。
これが修行。
何も、滝に打たれたり、座禅を組んで念仏を唱えたり、身体を扱いたり、やりたくないことをただ只管にすることが修行ではない。
それは、何も特別なことでも儀式でもなく、日々の日常であり、普通のこと。
人間生きていれば、悩み絶えず、苦労が無くならない。
これが実相。
これがいつまで続くのか、修行の内容な何なのかは一切明かされない。
云えば尻込みし、逃げ、拒絶する。
分からないからこれまでやってこれた。
人間は、人として仕上がるまで、楽になることはない。
それを分かって自ら生まれ出てきていることを推して知るべし。
修行の僅かな合間の一瞬の光、感動の涙の積み重ねが、人間を強くする。
そのことを肝に銘じ、生涯、修行の身であることを自覚し、死ぬまで生き続けます。
有難う御座います。
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shokobekki · 2 years
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【年末日記】
12月の山 晴れた日に、盲点だった近くの古道や、奥三河の小さな里山を歩いた。
(写真1~3) 姫街道は、旧東海道の脇往還で、浜松から浜名湖北岸を通り、豊川御油宿まで続く約60kmの道。大半は道路になってしまっているけれど、本坂峠を含む県境のあたりは山道が残っている。江戸時代以前からの古道で、万葉集の東歌にも読まれているとか。 初めて歩いたけど見どころが多い。薄暗い山道の途中、立派な一里塚が残っていたり、脇道にひっそりと不動滝があったり、足元に時折光る青白い石も、いつから転がっていたのか、何か言いたげできれいだ。
(写真4~6) 奥三河のK山は、これまでにも何度か登っているけど、たくさんの石仏(観音様90体と弘法様88体)が並ぶ登山道。1日でお遍路旅ができる感じ。でも、見る風景は毎度新しい。森の入り口は、ひょんなところにあったりする。木漏れ日も、切り株も、降りてきた荒れ地も、何かを発している。
(写真7~10) 最後に。 今年は画文集を作ることができ、幸いでした。これを区切りに、来年は、こうしたテキストや、ジオ的な石からは一旦離れてみるつもりです。忙しい年末にご検討いただき、お求めくださった皆様、ご感想を寄せてくださった皆様、本当にありがとうございました。
余談ながら、10年前にも『礫語り』という、ひとまわり小さな冊子を出しております(写真7左)。今以上に力不足で、決して上手には販売できませんでしたし、名刺がわりに差し上げたことも多かったように思います。色々と反省もあります。が、それでも、どこかでこれを手にした方が、個展にお越しくださるようになったりと、折々に結び目となってくれた大切な冊子です。自身とても気に入っていて、デザインや紙種は今年もこれに則って、簡素でも、手触りが良く、分厚く重くならないように、心掛けてつくりました。ただ、10年前は、wood engravingとはとても書けなかった。 今改めて見ると、モチーフやことばに、雰囲気ばかりの西洋趣味が散見され、個人的に鼻につく所もありますが、考え方はさほど変わっていないようにも思えます。それに、木口木版というもの自体が、西洋の書物由来の技法。普段は意識していませんが。 でもその後、日々を重ね、山を頻繁に歩くようになり、石をモチーフに彫るうちに、それまで私の中にあった何かが薄れ、新しいものを掴みつつあるような感触が、あるような、ないような…。ぼんやりとしてはいますが、それはとても大切な、良いものだという気がしています(そう思いこむ)。来年は、木口木版×里山で、どんな新しい景色が見られるのか、引き続き、楽しんで取り組んでゆきます。
冊子はいずれも今後、 “期間限定の直販”を基本にお届けしていくつもりです。時期は未定ですが(だいぶ先になるかもしれませんが)、またお知らせを出します。
が、ありがたいことに、さっそくお店用に仕入れてくださった方が数名おられます。情報はとくに出しませんので、どこかで見かけましたらご縁。ぜひ、お手にとって見てください。
2022は制作の年でした。 まだまだ続きます。 2023春夏は、愛知と東京で個展予定です。 仕上げと準備に集中してゆきます。 もちろん山素補給は忘れずにb 良い新年をお迎えください。
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ulftorio · 2 years
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11月3日の旧明治節は、御幣納めに天照の滝へ。 天気もよくハイカーと何組か遭遇しつつも、行の時だけは人祓いして頂いてたのは流石。 前から考えていましたが、おそらくここは条件が揃うと虹輪が滝に大きく出るんだろうなと思わせる虹の出方が時々起こる。 爽やかな見た目とは裏腹に、滝の中は非常に厳しく。 法螺を吹くと強風が吹き荒れ、大きく滝が動き、時々左右に揺れる。 陰陽反転やら、何か色々引っこ抜かされた。 中間選挙もまもなく終わりますが、年末から荒れそうな予感です。 ※11月3日は晴れの特異日らしいですね。確かにそうかも。 #祓い清め #山と法螺貝 #明治節 #山と法螺貝 #陰陽反転 #特異日 #天照 #虹 #神仏習合 #神社 #霊神 #天狗 #naturephotography #waterfall #shugendo #rainbow #harai https://www.instagram.com/p/CkmZl8wv7fg/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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papatomom · 4 years
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20201101(日)
仏御前の滝 平安時代、平清盛の寵愛を受けた白拍子(しらびょうし)、「仏御前(ほとけごぜん)」。滝名の由来は仏御前がこの滝で髪や顔を洗ったという言い伝えが残っていることから。出生地も近くにある仏原ダムの湖底に沈んだ仏原の字(あざ)栃沢の集落とのこと。 もっともWikipediaによると、「仏御前」は「永暦元年1月15日(1160年2月23日)、加賀国原村(現:石川県小松市原町)に生まれ」たらしい。
この滝が2018年の大雪で遊歩道が壊れ通行止めになっていましたが、ようやく復旧工事が完了したということで、見に行ってきました。 久しぶりに見た迫力のある滝に嬉しくなりました。紅葉もこれからなのでいい時期に滝開きができよかったんだけれど、滝の手前にロープが張られそれ以上近づけないようになっていた。危ないからなんだろうけど、そこがちょっと残念かな。
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dtmfree · 4 years
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早く、この雄姿を撮りに行きたい。
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oniwastagram · 4 years
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📸當麻寺 西南院庭園 [ 奈良県葛城市 ] Taimadera Sainain Temple Garden, Katsuragi, Nara の写真・記事を更新しました。 ーー江戸時代に #一音法印 が手掛けた、 #国宝 “西塔”を借景にのぞむ苔と紅葉の美しい池泉回遊式庭園。関西花の寺二十五ヵ所。 ........ 奈良は引き続き當麻寺の庭園を紹介。當麻寺の塔頭寺院「西南院」(さいないん)には国宝“西塔”🗼を借景にのぞむ #池泉回遊式庭園 や2つの国宝の三重塔を眺められるみはらし台があります。 国指定名勝の『中之坊庭園』に負けず劣らずの素敵な庭園は #関西花の寺 二十五ヵ所 の第21番霊場。7月に約5年ぶりに訪れました! . その歴史は古く、飛鳥時代の683年(白鳳12年)に建立。平安時代に入り823年(弘仁14年)に弘法大師空海が訪問・滞在して以来高野山真言宗の寺院になり現在に至ります。 その時代に作られた御本尊の十一面観音菩薩像、聖観音菩薩像、千手観音菩薩像は“西南院 三観音”と呼ばれいずれも #国指定重要文化財 。 . この池泉回遊式庭園は江戸時代初期に作庭され、その後江戸中期に一音法印により改修されたもの。ちなみに“法印”というワード、真言宗では役職の一つみたいな感じ? . 周囲の苔が美しい心字池を中心に、その池と鶴亀島🐢の周囲に飛び石が配され、斜面を活かした大きな滝が落ちている💦 その姿は書院でお抹茶🍵をいただくとより美しく感じられます。書院から眺めるには別途400円かかりますが正面から見た庭園もすごく良いのでオススメ。 . 前回訪れた5月も今回訪れた7月にも緑一色に染まっていて、何より斜面から池泉に向かって振りかかる #青もみじ が美しい!秋もきっと圧巻の紅葉なんだろうなあ🍁 そして“花の寺”たるゆえんは、春にはシャクナゲやボタンの花💐が咲きほこるため。あと5月下旬頃は多く植わっている小さなサツキに花が咲いてきれいなんだろう。 . 心字池には晴れた日には西塔が写り込むそう。この日は雨だったのでそれはわからないけど…雨に濡れた飛び石や苔、モミジが好きです。ここは今後何度も訪れたい庭園! ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/taimadera-temple-seinanin-garden-%e7%95%b6%e9%ba%bb%e5%af%ba%e8%a5%bf%e5%8d%97%e9%99%a2%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #jardinjapones #jardimjapones #japanischergarten #японскийсад #landscapedesign #zengarden #naragarden #naratemple #japantemple #japanarchitecture #japanesearchitecture #庭園 #日本庭園 #奈良 #葛城 #taimadera #寺社仏閣 #苔庭 #mossgarden #おにわさん #oniwasan (當麻寺西南院) https://www.instagram.com/p/CDY9m4FJZaC/?igshid=i13en8ftctdr
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kachoushi · 2 years
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各地句会報
花鳥誌 令和4年10月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和4年7月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
観音の御手炎天にやはらかく 佑天 跡地へと想ひありしか夏の蝶 三郎 白あぢさゐ少し離れて年尾句碑 和子 病院も看護記録も夏草に いづみ 小さく深き緑蔭が抱く年尾句碑 和子 息荒く仏へ寄りし暑さかな 光子 日盛の祠に生れし真の闇 和子 みづからを菩薩に添うて空蟬に いづみ
岡田順子選 特選句
面影は西日晒しの看板に はるか 夏草や記憶の中のナース服 三郎 朝涼の鎌倉よりの風頰に 慶月 息荒く仏へ寄りし暑さかな 光子 五輪塔とは緑蔭のただの石 俊樹 元禄も享保の墓も灼けをれり 佑天 暑き日を年尾の句碑のふところに はるか 観音は水の色して大酷暑 いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月7日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
浮き沈み女三代夏のれん 都 空つぽの香水びんの残り香よ 同 長茄子の悩ましきかな曲線美 同 パナマ帽明治の父の伊達姿 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月7日 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
白と云ふ色たゞならぬ半夏生 雪 前山の雪崩るる如く青嵐 同 やゝに老いやゝに夏痩せして在す 同 炎帝のどかりと座りたる越路 かづを 滝音に鳥語人語も呑まれたり 同 九頭竜と対峙し流る天の川 同 静もりて明智が墓碑に沙羅の花 笑 能登半島掻き消してゐる青嵐 千代子 悠久の光を抱へ滴れる 泰俊
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月8日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
子等見つつ弁当番や海の家 宇太郎 屠場へと曳かれるやうに炎天へ 都 死者送り窓に吹き込む青田風 すみ子 川に還す一夜を共にせし蛍 美智子 次の子に少し短かき古浴衣 宇太郎 病窓に影の騒ぎて青嵐 悦子 風紋は海へ傾れて雲の峰 宇太郎 先輩の墓碑に献杯原爆忌 益恵
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月9日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
戦なき広き空欲し雲の峰 三無 風ひたと止んで初蟬響きくる 百合子 夏蝶のげに句碑守のごと飛びぬ 同 雲の峰草の匂ひに樹の匂ひ ゆう子 アルプスを小さく見せて雲の峰 白陶 菜園の胡瓜ピカソの絵に似たり 多美女 句碑に影落し戻り来黒揚羽 三無 供へればくらりと揺るる甜瓜 ゆう子 炎天に浄き閼伽水陽子墓所 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
七夕や竹切る音のとよもせり 時江 夏潮にロシア軍艦越境す 世詩明 うしろから八つ裂きに来る稲光り 信子 鷺草や鎮守の杜を結界に 時江 七変化寡黙な夫のいつもゐて 信子 生きる意義考へてゐる山椒魚 上嶋昭子 花擬宝珠通夜の灯うるみ傾きぬ 中山昭子 青田もう何も映さず靡きをり みす枝 浴衣の娘女工哀史のこと知らず 世詩明 風鈴を気楽な人と聴いてをり 上嶋昭子 黒南風や酒場は白きピアノ置き 同 見馴れたる山を見飽きず端居かな 中山昭子 昼寝人濁世を忘れ仏顔 みす枝 水打つて日本の地震を鎮めをり 信子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
武蔵野の風に目覚めし合歓の花 三無 羅や近より難き気を纏ひ 同 艶やかに羅笑みて同窓会 同 金魚鉢洗ふ役目の誇らしげ 貴薫 金魚掬ひ父の背中の逞しき 有有 旅先で出合ひて嬉し合歓の花 貴薫 慎ましく生きる姿の合歓の花 史空 羅の似合ふ真砂女に恋多き あき子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
七夕の雨に濡らしてハイヒール 登美子 片恋のラジオ相談星の秋 同 玉葱を貰へば娘吊るしをり 令子 夏座布団友の数だけ広げけり みえこ 天道虫後ろ姿の子らを撮る 裕子 たばこ屋の小窓に覗く扇風機 実加 忠霊場若きの墓は盆静か 令子 老いらくの母の見入れる天の川 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月15日 さきたま花鳥句会
炎天の小江戸の街や車夫の愚痴 月惑 老いてなほ一鞭入れて草を引く 八草 空蟬や何も語れず逝きし友 裕章 夏空へ磴駆け上る柔道部 とし江 厳かにお祓ひ後の心太 ふじ穂 紅芙蓉誉め合ふ笑みの立ち話 恵美子
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令和4年7月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
此の先は教へぬつもり道をしへ 雪 野地蔵も息をひそめる炎天下 英美子 日盛りに息をひそめてゐる地蔵 同 母の影盆灯の後見え隠れ 山田和子 羅やさらりとまとひ香の立つ 真喜栄 バス降りて一人一人の夏終る 世詩明 短夜や夢幻の如くなる 同 めまとひを払ひて無人切符買ふ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
大蟻の車輪のごとく駆け抜けし 久子 炎天の武蔵野の底滑る蝶 三無 変ること厭ふ白紫陽花の白 久 水光り羽黒蜻蛉は神の使者 慶月 古座敷や行くあて知れぬ茄子の馬 軽象 水音を真中に抱きて森涼し 慶月 大蟻も小蟻も参ず地蔵塔 眞理子 夏空を映す水たまりを蹴上げ 久 天牛の角ふりかざす古戦場 眞理子 紫陽花の絞り出したる終の藍 圭魚 甘味屋の蓮を描きし���暖簾 同 民家古りただ現し身の黒揚羽 千種 森深く闇に添ひゆく黒揚羽 斉
栗林圭魚選 特選句
水音を真中に抱きて森涼し 慶月 ハケの家夏炉の湿る匂ひかな 要 大蟻も小蟻も参ず地蔵塔 眞理子 紅蓮の今日崩れゆく命かな 久子 夏空を忽ち縮め潦 斉 みがかれし床に朝採り茗荷の子 久子 式台に雨跡ありて風涼し 同 茅葺きの土間の暗がり死蛾美しき 炳子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月19日 萩花鳥会
みちのくの吾娘が来たるや月見草 祐子 炎帝や必殺狙撃動天す 健雄 一面の葉に見え隠れはすの花 恒雄 夏山はこれで十分梅むすび 俊文 夏料理語り尽くして持て成さる ゆかり 駄々つ子の泣きやんだらし夏の雨 陽子 痛風の足を投げ出し夏の月 吉之 頭垂れ雨乞ひしたるや庭の花 明子 法螺貝の響く城下や雲の峰 美恵子
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令和4年7月20日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
もくもくと九頭竜のぼる雲の峰 千代子 七夕や笹は願ひに撓るほど 千加江 幼きを呼び戻したる天瓜粉 同 かの人の垣根に高く酔芙蓉 昭子 三人の遺影の部屋も梅雨湿り 清女 七夕に女心の糸結ぶ 啓子 小石踏む音の近づく夏館 泰俊 夕立や濡れて礎石の薄明り 同 面も手も己れ矜恃の日焼かな 数幸 穴を出し蚯蚓一糸も纏はざる 雪 裸火に想ひの丈を飛べる火�� 同 水の如く又火の如く人涼し 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月21日 鯖江花鳥俳句會 坊城俊樹選 特選句
風鈴の欲しいと思ふ風が今 洋子 右衛門に隣る左衛門夏構 同 鉈の音山の地肌に万緑に 同 賽銭を打つ音までも黴臭き 同 万緑や山相いよよ文殊山 雪 祭帯器用に結びくれし母 同 その人とカンカン帽に気付く迄 同 盆の月家系図のこと何もしらず 昭中山子 炎天に近道すれば転びけり 同 子が囃す夜空の証や地蔵祭 ただし 鳳仙花姉妹の話途切れ無し みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月24日 月例会 坊城俊樹選 特選句
零戦に少年口を閉ざす夏 和子 靖国へ四方より迫る雲の峰 要 夏蝶は翅で息して歩みたる 和子 空蟬の祈る形に落ちにけり 同 蓮花へと極楽の風触れて過ぐ 政江 静脈の巻きつく手首白日傘 和子 羅を纏ひかの世の話など はるか
岡田順子選 特選句
目の前を突然蟬の木となれり 千種 絵日傘のシスターの行く九段坂 眞理子 大きさの合はざる蟬の殻と穴 千種 礼拝の黙を蓮の解かれゆく 炳子 羅を纏ひかの世の話など はるか 炎帝の子の鉄棒や大鳥居 小鳥 見巧者の折紙付きや泥鰌鍋 幸風
栗林圭魚選 特選句
零戦に少年口を閉ざす夏 和子 熱砂踏む雀らの影ゆらゆらと 順子 横顔の考へてゐる団扇かな 同 病葉となるや社の奥に降り 眞理子 空蟬は拾ひ奉仕の竹箒 順子 最短の空行く鴉街灼くる 千種 大鳥居溽暑の穢土を寄せつけず 月惑 能舞台しづかに進む蝸牛 幸風
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
大鍋のたぷんたぷんと一夜酒 愛 悪童の頃瓜番に追はれしと 同 瓜番の灯りを返す獣の眼 同 この辺り魔法使ひの夜店らし ひとみ 甘酒のとろみも憂さも呑み込みぬ 久恵 蟬時雨遠くに聞けば海凪ぎて 桂 逆転か球は外野へ峰雲へ 由紀子 夕雲はマグマ色して浜万年青 久恵 咲き疲れてゐるかも知れぬ水中花 ひとみ 丁寧にハンカチ畳み恋語り さえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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覆される常識、日本美術の「独自性」は縮小していた 「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──?  美術史の研究が進むにつれて、日本美術に関するさまざまな常識が塗り替えられつつある。西洋や中国に目を向けて日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか?  美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。(全2回・前編/JBpress)  (※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。 ■ 多くの美術品が現存する幸運な国、日本 日本は各時代にすばらしい美術作品を生み出し、今でもそれらは世界じゅうの人々に親しまれている。しかも、それらの多くが遺(のこ)っている幸運な国である。 隣国の中国や朝鮮半島、あるいはベトナムの場合、相次ぐ戦乱や侵略のため、古い時代のものは遺っていないことが多く、時代によってはきわめて大きな欠落がある。そうした時代の美術は、文献資料やのちの模本から想像するしかない。これに対し外国の侵略をほとんど受けたことのないわが国は、戦災や天災で多少のものが失われたとはいえ、縄文時代以降、各時代の重要な作品のほとんどは現存しており、きちんと美術の流れをたどることができる。世界を見渡すと、そのような幸運な国のほうがめずらしいのである。 明治期に近代国家が成立すると、国家の伝統や歴史を見直す作業の一環として日本美術史というものが構想され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に際して日本最初の美術史と目される『稿本日本帝国美術略史』が編集された。以後、日本美術史は何度も書き換えられつつ徐々に精度を増し、部分的に更新され修正されることはあっても、そのストーリーの大枠はおおむね定着しているようにみえる。 ■ 「日本美術の特質」への問いかけ このような日本美術史を通覧し、現存する作品群を見ると、中国や西洋などさまざまな外来の美術に影響され、目まぐるしく変化してきたことがわかるが、同時にその底に流れる一貫した日本美術の特質というものが浮かび上がってくる。 たとえば和と漢、あるいは雅と俗という二面性が併存したかのよう見えるが、両者は複雑に融合していた。そして、中国や西洋の美術という外来文化の影響やそれに対する古来の様式という二項対立だけでは説明できない日本美術の独自性があると思われるのだ。 1925年、大著『サンドロ・ボッティチェルリ』をロンドンで出版して評価され、東西の美術について高い見識をもっていた美術史家の矢代幸雄(やしろ・ゆきお)氏は、著書『日本美術の特質』(1943年)において、日本美術の特質は、「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」の4つにあるとした。また、日本美術史の碩学、源豊宗(みなもと・とよむね)氏は、『日本美術の流れ』(1976年)で、西洋美術、中国美術、日本美術を象徴するモティーフをそれぞれ「ヴィーナス」「龍」「秋草」であるとした。日本美術を貫くのは、繊細な秋草の美学だというのである。 日本における中国美術の影響について先駆的な研究を遺した戸田禎佑(とだ・ていすけ)氏は、『日本美術の見方 中国美術との比戦による』(1997年)において、日本美術のもっとも重要な特質は「平面性」にあるとしている。 近年、『日本美術の歴史』(2005年)を書き下ろした辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、日本美術の特質を、「かざり」「遊び」「アニミズム」という3つのキーワードで説明しようとした。日本美術にはつねに装飾性が見られ、遊戯性があり、自然崇拝の系譜があるというのである。また、東京大学で辻惟雄氏の後任であり、旺盛な活動を続けている美術史家、河野元昭(こうの・もとあき)氏は論文「日本美術の素性」(2010年)でこうした先学の見解を検証しつつ、日本美術の最大の特質は「シンプリシティー」にあると論じている。いずれの見解も傾聴に値するものであり、的を射ているように思われる。 ■ 縮小する「日本美術の独自性」 18世紀末から20世紀初頭にかけて流行したジャポニスムは、浮世絵を中心とした日本美術の絵画や工芸がフランスなど欧米の美術に作用し、日本美術が欧米の先進的な美術に影響を与えた稀有な現象であった。浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性は、西洋で伝統美術の様式を打破して新たな造形を生み出そうとしていた芸術家にとってタイムリーであったため、大きな刺激を与えることになった。しかし、皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を継承することはほとんどなかったのである。 また、これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら影響を与えたことはまったくなかった。 12世紀初めの『宣和画譜(せんながふ)』に、徽宗(きそう)皇帝(在位1100~25年)の所蔵する日本の屏風3点について、「金碧(きんぺき)を多用」しているが、「真」に欠けると批判されている。中国や朝鮮の人々にとって、日本美術は中央様式の地方化したものとしか映らなかったのである。 明治以前の日本で、海外で活躍した美術家は知られておらず、中国・元で客死した禅僧画家黙庵(もくあん)やマカオに追放されたキリシタン画家ヤコブ丹羽(にわ)の活動がわずかに推測されるくらいである。 さらに、日本美術の独自性というのは、たまたま日本には中国や朝鮮半島よりも多くの美術作品が遺っているために、そう思われてしまう場合も多いのである。 たとえば、平安時代のやまと絵は、かつては遣唐使廃止による国風文化の産物だとされてきたが、中国美術史の研究が進んだ現在では、やまと絵とされるものの大半は失われた唐宋美術を反映したものであって、その特徴のほとんどは和様化とはいえないということが明らかになっている。截金(きりかね)を多用した繊細で工芸的な平安時代後期の美麗な仏画も、かつては日本化の極みだとされて賞賛されてきたが、じつは、ほとんどが失われた宋代の仏画の技法を模したものであるということもわかってきた。 近年ブームとなった若冲(じゃくちゅう)や蕭白(しょうはく)ら江戸中期の奇想派については、京都の成熟した町衆文化が生み出したものであっても、明(みん)代の奇想派や長崎の来舶清人(らいはくしんじん)の影響によるものも大きいということが指摘されている。 つまり、日本美術の独自性と呼べる要素は、美術史研究の進展とともにどんどん縮小していっているのである。日本美術を正しくとらえようとすれば、その独自性や美質などにこだわらず、東アジア文化圏を中心とする世界の中で位置づけて眺める必要があろう。 宮下 規久朗 JBPRESS 7/8(月) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=2 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=3 >「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──?    美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、  日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。 笑www この文章読んでいて、宮下 規久朗とかいう美術史の大センセーの、 自虐的なシナ事大主義的な独自性のないアホぶりがわかった。 この程度で大学教授なら、私にでもできそうな簡単なお仕事だなw この時代になっても相も変わらず、日本文化はシナ朝鮮より劣る的な、 或いは独創性はない的な、みたいなシナチョンスタンスの屁理屈を 大学のエラいセンセーがまことしやかに語っているのに笑った。 そもそも、世界のどの時代のどの文化においても、 完全無欠の民族の文化的オリジナルなどというものはない。 シナ文明も大陸の雑多な民族の文化的要素の集合体ではないか。 それを総称してシナ文明だの、エジプト文明だのと称しているだけである。 そしてその文化もまた他の様々な文化的要素と融合して発展し、 同時にまた、他の民族や地域の文化にも影響を与えるのである。 いわば文化文明は相互に影響しあって発展するものである。 それにこの宮下 規久朗とかいう神戸大学のセンセーって、 美術史が専門だそうだが、シナチョンに何か思い入れがあるのか? ちなみにこの宮下 規久朗センセーのツイッターはこんなの・・・            https://twitter.com/kikuroma         現在の大学にはこの手の人士が多いみたいですな・・・ この論評の■ 「日本美術の特質」への問いかけまでは、 いろいろな学者の日本美術の特質の紹介で、それぞれの説にも整合性があり、 またこれらの説のすべてがまた日本美術の特色ともいえるだろう。 問題はその次である・・・ ■ 縮小する「日本美術の独自性」って何なんだ? 宮下センセーの論文に通底しているのは・・・  日本美術など所詮シナの物真似、  日本美術のオリジナリティなんて、  元々からないも同然なのだから、  特筆評価などする価値すらない、         ・・・ということらしい。
果たしてそうだろうか? >皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を  継承することはほとんどなかったのである。 そうだろうか? 私は浮世絵に代表される日本美術はその後の日本人も立派に受け継ぎ、 欧米の美術界に対しても少なからぬ重要な影響を与えつつ、 その後の日本美術にもまた、それを逆輸入してきた経緯があると思う。 「浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性」は現代日本画の世界においても、 日本のサブカルチュアを代表する漫画やアニメーションの表現においても、 グラフィックデザインの表現にも立派に受け継がれているではないか。 一応宮下センセーは明治以降の日本美術がジャポニズムと呼ばれ、 西欧の美術工芸界に大きな影響を与えた事は認めていらっしゃるが、 このことだけでも美術史における日本美術の価値は特筆に値する。 浮世絵に代表される日本美術がフランス・パリ万博からジャポニズムとして 全欧州に発信され、印象派(新印象派、後期印象派)やアールヌーヴォーが生まれ、 それがさらに発展してアメリカ現代美術に発展した経緯が美術史の流れである。 ジャポニズムがイズム=主義として表されている思想は無視できない。 それはシノワズリーという東洋趣味の流行とは大きく一線が引かれるべき、 いわば西欧美術思潮の一つのコンセプトでもあったからだ。
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       セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」        様々な角度から描いたヴィクトワール山の連作は、        北斎の富岳三十六景からインスパイアされたらしい。
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      ゴーギャン「マハナ・ノ・アトゥア」       この平面的な色面構成的な表現は浮世絵からの影響だ。
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        クリムト「接吻」
       金箔を多用した大きな空間をとり単純化されたフォルム、        これも明らかに障壁画などの影響がうかがえる作品だ。
中でも西欧美術に影響を与えたのは江戸の町人文化だろう。 しかし宮下センセーはこれとてもシナ文化の影響にあるというが、 一部にそれらしきものがあっても、それがすべてではないと思う。 仮にシナの影響があったからといって、それが何だというのだ? シナの各王朝文化だって周辺の民族の様々な影響があったのだ。 先に述べたように、元来何の影響もなく発展した文化文明など皆無である。 北斎、広重、歌麿などの浮世絵師はもちろんのこと、尾形光琳の琳派系絵師、 伊藤若冲や丸山応挙などは現代美術を先取りしたコンセプトが確立していた。 立体造形でいえば安土桃山時代の織部好み陶器などはまさに現代美術だ。 以下に掲載した当時の巨匠たちの作品には、 現代美術の概念を先取りしたような先進性を感じるが、 宮下センセーのいうようなシナの影響下にあったがゆえに、 日本美術の独自性は縮小(ない)しているのだろうか? 
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         尾形光琳「紅白梅図屏風」        川や梅の木を特徴を残して単純化させる意匠概念は、        のちに日本のデザインにも多大な影響を与えている。
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    伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」 この絵は升目描きという、升目ごとに色をいれてモザイク画のように表現した。 現代風にいえばドット画像みたいなもので、このような手法は同時代にはない。 あえていえば新印象派のスーラの点描が近いが、概念が全く違う。
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伊藤若冲「鶴図屏風」
墨をつかった白線描の作品。鶴の様々な姿態が単純化されたフォルムと
勢いある線の筆勢がいかされた、ある意味現代の漫画にも通じる作風だ。
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   丸山応挙「大瀑布図」 この絵は円満院というお寺の住職に贈られたものだが、この寺の庭に滝がなかったので、応挙はこの絵を庭木の枝に掛けて垂らし、下三分の一は地面に寝かせて滝つぼを表した。このような平面絵画を立体的に鑑賞するインスタレーション的手法はこの時代になかった。
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   丸山応挙「氷図」   湖面に張った氷のヒビを線一本のみで見事にあらわした傑作である。   無駄な要素を一切排除した究極の単純化で凍てつく寒さを表現している。
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織部好み茶器 武将古田織部のプロデュースとでもいう「織部好み」の陶器は、「へうげもの」と称され、わざと歪めたフォルムや幾何学模様をあしらった伝統や形式にとらわれない実に現代的な表現だ。                 ↑         これら一連の様式もすべて、         シナの模倣だというのか!? 以下はほとんど日本美術を腐すだけの屁理屈。 >これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら  影響を与えたことはまったくなかった。 当たり前じゃないか(笑) そもそも・・・ 日本は江戸時代に265年も鎖国をしていた国なのだから、 明治以前に日本の文物そのものが諸外国に輸出されることもないし、 あってもごくわずか、だから影響も与えるものではなかった。 こんな事日本の歴史をみれば高校生でもわかる話だ。 しかしだからそれ何だというのだ?  いったい宮下センセーは何が言いたいのだ? この人は文化は影響を与えれば、 「エライ」と思っているようである。 だから明治以前の日本美術はシナ朝鮮に影響を与えていないから、 シナ美術の物真似レベルの評価に値しないものといいたいのだ。 宮下センセーの「影響を与える、与えない」にこだわる意図は何なんだ? じゃあ、明治以降の日本美術は先進国の西欧に大いに影響を与えたから、 すご~く特筆大書すべき価値があって、西欧より優れているということか?  そうではあるまい。上述したように「文化は相互の影響で発展するものだ。 どちらの文化は優秀とか劣っているという問題ではないのだ。  宮下センセーの御説はまるで朝鮮人が  「これはウリジナルニダ~♪」というのを思い出す。 ルネサンス期の西洋美術も西域のイスラム教文化や遠くは、 インドやシナの様式にも影響を受けてきたことは近年の研究、 特に田中英道東北大学名誉教授の研究で明らかになっている。 しかしルネサンス絵画がその後のシナ絵画に影響を与えなかった事は、 西欧絵画が明朝や清朝の絵画より劣っているという事なのだろうか? 宮下流のコンセプトで見れば、こういう事ではないのか? さらに首をかしげたくなるのはシナと朝鮮を同列に置いて語っている事だ。 朝鮮など千年以上も歴代シナ帝国の属国属領に過ぎなかった植民地だ。 こんな国にオリジナルがあろうはずがなく、自ら小中華と誇った事大主義国だ。 なぜ宮下センセーはシナと朝鮮を同等に置きたがるのだろうか? 所詮は事大主義のシナの劣化コピー版が朝鮮に過ぎないのである。 まさか小中華思想が日本より優れている?というのではあるまいな?
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