カモを見たあとで鴨を食べ損ねた
文学フリマ京都7に参加してきた。
感染症が始まる直前、最後の文フリの参加が文学フリマ京都だった。あの頃はまだ感染症が流行して三年もイベントに参加できなくなるなんて思っていなかった。
仲のいい友達とアフターを楽しんで、また普通に会えると思って別れたから、そのとき、ドトールみたいなチェーン店でゲームの話をしたことを鮮明に思い出そうとしても思い出せない。
去年9月、文フリ大阪に久しぶりに参加しているから、これが「復帰1発目!」というイベントではないのだけれど、去年は始発で出かけて大阪城公園で鳥を撮りまくってからの参加だったから、眠くて眠くて仕方がなくてほとんどイベントの記憶がない。
だから、記憶があるイベントとしては1発目。
ここでも書いたけど、前泊で参加した。
1日目は奈良・京都でずっとお話をしたいと思っていたひとたちに会った。一緒にイベント参加しようねって言いながら感染症でずっと無理だった人、感染症の蔓延しているさなか、出国まぎわに地元に来てくれて、鳥の写真を撮りながらおしゃべりしようと言いながら天気が悪すぎて、キャンプ場でスモアをつくったり、おしゃべりが楽しかった思い出をくれた人……。
「イベントに行けば会えた」人たちは、イベントに参加できなくなってしまうとなかなかあえなくなってしまって、地元の友達のようには気軽に「遊びに行けない」人なんだ、ということにびっくりした。
「誰かに会う」ということは、じつはとても困難だ。リモートで遠方のひととも気軽に会話できる、Twitterでは毎日のようにわちゃわちゃエアリプしている、でも「会う」というのは、いろんな要素と条件をクリアしていないとできないのだと言うことを、その要素と条件を簡略化してくれるのがイベントだったんだと思った。
文フリ当日の京都は曇りだった。
もう少し天気が回復すれば、オシドリで有名なところへ行こうと思っていたのだが、いつも使っているミラーレスではなく小さなコンデヂでは警戒心がつよく遠いところにいるオシドリは撮れない。
せっかく京都まで来たのに、とぶつぶついいながら、文フリ会場の近くを検索したら、平安神宮のお庭にカワセミが飛んでくるらしい。
カワセミとかべつにどこでも見られるのだが、せっかくカメラも持ってきたんだし、神宮のお庭という素敵な景観のカワセミとか撮れたらうれしいじゃないか!
ホテルでごろごろしているのをやめて、大急ぎで平安神宮へ向かった。
お庭は600円で入れた。曇天で、しかも早朝、お庭はほとんど人がいなくて、カワセミもいなかった。
でも池がたくさんあって、カルガモがたくさんいた。ようすがちがうカルガモを発見する。カルガモとマガモの交雑種(ハイブリッド)。「マルガモ」という俗称があることをそのときはしらなかったので、「カルマガモ」と名付けた。ずっと観察していると、カルマガモは自分のことをカルガモに分類しているらしく、カルガモたちと行動を共にしている。マガモの群もあったのだが近寄ろうとはしていなかった。
庭を巡り終えたあと、文フリの会場のみやこめっせへ。
すごく久しぶりだったのに、体って普通に動くものなんだね。前日に会った人に「自転車の乗り方は体が覚えているというけれど、三年前の自分がイベントセットを用意してくれていたし、やらなければならないことのために体が動く」と言っていたが、本当にそう。
設営本能
としか言えないものがわたしを動かしていく。宅配搬入の段ボールをさっさと持ってきて、机から椅子を下ろし敷布を敷き、段々ボールを組み立て、本を並べていく……まるで前世の記憶! 私ってこんなにできる女だったのか?!
まあ前々日の支度のときに「京都 野鳥」「京都 野鳥スポット」「鞍馬山 野鳥」とか調べまくっていてサークルチケットの存在を完全に忘れ去り、八束さんに「サークルチケット忘れてきたんですけど、持ってませんか」とDMをもらって(電車の中だった大和八木くらい)「サーーーーーーーークルチケット!!!!!」とその存在を思い出した。ちなみに八束さんはサークルチケットを忘れてきていなくて、ちゃんと持ってて、八束さんがサークルチケットをめぐんでくれた。だから前世からちょっと成仏しかけてたね……。
見本誌も提出し終えて、まったりしていると隣接の鹿紙路さんがやってくる。鹿紙さんとは感染症が蔓延してからもじつはいろいろ旅などしているので結構会ってる。とはいえ久しぶりに会えるのでうれしい。
鹿紙さんは会場ぎりぎりにやってきたが、颯爽と組み立てていく。
みんな体が覚えているのだ設営を……。(鹿紙さんはイベント結構参加してるからね)
イベントがはじまると、びっくりするくらい人がたくさん入ってきた。文フリ大阪もたくさん人が来ていた様な気がするけど、なにぶん始発で鳥(以下略)だったため、記憶がない。
今回は新刊『山梔の處女たち』を持ちこんでいた。初めての百合スペースだし……めちゃくちゃ緊張していたが、鹿紙さんが隣にいるのでしゃべりつづけて心を保った。
とはいえ、わたしは文フリのスペース内ではあまり接客はしない人間で、愛想のないやつだなあとたぶん思われているだろうと思う。
服を買いに行ったとき、自分に似合うものなのか・着られるものなのか、値段は支払えるものなのか、それはいろんな要素がせめぎ合った「選択」だろうと思うけれど、本選びもそうだろうと思う。
「本当に読みたい本だろうか」「読める本だろうか」という吟味をするとき、なるべくいろんな声(特につくっている人間の心情や期待など)を浴びたくはないとわたしは思うので、吟味する時間と立ち去りやすさを考えてそうしている。
まあ、接客をしなくても、愛想がなくても、立ち寄ってくれるというのは「いいなあ」という。
普段はひとに愛想を振りまいて、なんとかご機嫌を取って暮らしている人間だから、こうやって無愛想に座っていても「いい」空間はありがたい。新刊は持ち込みの三分の二、他の本も半分くらいは縁があったみたい。
無愛想でも、
見本誌を見て、表紙がとても素敵だったから、タイトルがよかった、前に読んだ本が面白かったから、おすすめしてくれる人がいたから。
本をえらんでくれる「理由」を話してくれるひとがときどきいて、そうすると小説ってひとりで書いて、ひとりで本にして、ひとりで売ってるわけじゃないんだなと思う。
イベントのあとは、鹿紙路さん、沙耶さん、らしさんと日本酒バーへ。
ほんとうはわたしも飲むつもりだったのだが、家のことが重なりすぎて後泊しないで帰ってきてほしいと言われて、酒は飲めなかった。
沙耶さんとウーロン茶を飲みながら、らしさんと鹿紙さんが日本酒を飲みまくっているのを眺め、鳥の話をたくさんした。
タメイーランドのこと、野鳥の会のこと、浜の鳥のこと、沙耶さんとゆっくり鳥の話をしたいと思っていたのでとてもいい時間を過ごせた。
近いうちに、一緒に鳥を撮りにいけたらいいなあと思っている。約束をした。
カモを見たあとで鴨を食べたいね~って話してたら鴨料理は売り切れていた。
カヤさんが教えてくれた「カモサブレ」を京都駅で買う。ますく堂さんがくれた「ハトサブレ」と見比べ・食べ比べをしようとおもう。
買い物も結構した。
買った本のリスト。
『LAZY MONDAY MORNING』あずみ(冬青)
あずみさんの新作を読めるのがうれしい!
『イサド住み』オカワダアキナ(ザネリ)
「魔女の選択」を迷いながら書いていたとき、おかさんのこの本のあとがきにどれだけ救われ��ことか。本を読むのが楽しみで仕方ない。
『貝楼諸島へ』(犬と街灯)
柳川麻衣さん、紺堂カヤさん、オカワダアキナさん、佐々木海月さん、穂崎円さん、正井さんのお話が読みたくて買った。
『吸血鬼は青年を伴侶に選ぶ』きよにゃ(招福来猫)
わたしのBLの教科書はきよにゃさんです!表紙がめちゃめちゃきれい~!
『百人のためのエンターテインメント~読書サロンにて『須永朝彦小説集』を読む~』ますく堂なまけもの叢書12(古書ますく堂)
わたしがこの本を買うのに特別な理由を必要とするとお思い??購入は呼吸です。
『稲麻竹葦 第6号 神々との治療』
スクナヒコナが推し神です!!!!
本の他に、緑色のカモノハシのぬいぐるみを買った。
新しい仕事の机に飾ろうと思う。
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ザ・パークハビオ
江戸川区の最大の特徴は、区民の平均年齢が41.4歳と23区の中で最も若いことです。 これは、特に子どもの数が数字に反映されるためで、平成24年1月1日時点の東京都の市区町村別年齢別人口統計によると、0歳~14歳の人口比率は約17%を占めています。 私はここにいます。 国勢調査のデータによると、28.3%が既婚子持ち世帯、19.0%が4人以上の世帯、3.35%が3人世帯で、いずれも23区の中で最も高い。 合計特殊出生率は 1.45 で、23 区平均の 1.16 を大きく上回っています。 江戸川区といえば、東京東部臨海部の繁華街を代表する区の一つですが、太平洋戦争では大型台風の直撃や家屋倒壊など大きな被害を受けました。 . 海抜が低い地域と揶揄され、津波や洪水の危険性が高いことが懸念されています。ザ・パークハビオ
臨海部の住宅開発により、子育てしやすい区として多くの若者の流入に成功しています。 ディズニーランドに行きやすいところも、子育てファミリーの魅力の一つかもしれません。 支援制度は子育て世帯だけでなく、中高年向けの「家賃補助制度」や高齢者向けの配食サービスなども充実。 区内のスポーツセンターも温水プールなど設備が充実しています。 やはり海抜の高い地域が多く、自然災害のリスクが高いからです。 しかし、家賃が安いので外国人も多く住んでおり、国際色豊かな街です。 492haの広大な敷地を持つ葛西臨海公園は緑豊かで砂浜もあり、日本の渚百選にも選ばれています。 動物園併設の公園もあり、区内の公園面積は756haと23区の中で最大です。 水族館では魚も見ることができます。 区内を流れる江戸川や那珂川でも自由に遊べます。 荒川沿いには2003年に小松川千本桜、2013年には新川千本桜が完成し、多くの市民に人気の花見スポットとなっています。 江戸川区は若者の流入が活発ですが、江戸時代から庶民の街として栄えた長い歴史を持つエリアです。 江戸川区には伝統工芸品や特産品もあります。
江戸切子は東京都の伝統工芸品の一つで、主に江東区、江戸川区、墨田区などで作られています。 ガラスの表面に金の板や砥石を使って様々な模様を刻む技法です。 18世紀初頭頃から鏡、眼鏡、風鈴などの製造が始まり、明治時代に入るとヨーロッパの技術が導入・近代化され、東京の地場産業となりました。 2002年には東京都の伝統的工芸品に、2014年には経済産業省より国の伝統的工芸品に指定されました。 もうひとつ、江戸川区を代表する商品が小松菜です。 江戸時代の将軍が江戸川区の小松川村に鷹狩りに訪れ、小松菜の入った澄んだ汁を好んだことから村名がついたと言われています。 江戸川区は今でも作付面積第1位。 カルシウムや鉄分を多く含み、今や全国どこでも一年中食べられる野菜になりました。 現在、江戸川区がこの小松菜のブランド化に取り組んでおり、生で食べられる新しいサラダ小松菜が誕生しています。 近年、急激な人口増加により若い世代に人気の江戸川区ですが、治安面で不安の声も多くあります。 子供が多く、ディスカウントスーパーもあり、都心へのアクセスも便利という利点から、空き巣や強盗などの犯罪が多発しています。 長い間、江戸川区は北側を鉄道しか通っていない交通アクセスの悪さから「孤島」と呼ばれていました。 1969 年の東西線開通、1983 年から 1986 年の都営新宿線開通以降、この問題は徐々に改善されてきた。
現在、都心と千葉エリアを結ぶ東西線は完成していますが、区の南北を結ぶ鉄道路線はなく、交通手段はバスのみ。 バスの路線数を増やすなどの対策がとられていますが、1世帯あたりのマイカー保有率は23区内で5位であることからもわかるように、クルマは生活の必需品です。 杉並区は23区の西部に位置しています。 区名は青梅街道沿いに杉の木が植えられたことに由来するが、現在はそのような木はない。 杉並区は、関東大震災後、多くの人が杉並区に移り住み、郊外住宅地として発展してきました。 緑被率は23区で3位、人口密度は11位というデータを見ると、広々とした住宅が立ち並ぶ街であることが想像できます。 震災後に杉並区に転居した者のうち、富裕層は防災のため都心部には戻らず、杉並区にとどまり、広々とした邸宅を建てて優雅な生活を送った。 戦前から文人や画家など多くの文化人が暮らしてきた。 杉並区は、専業主婦の就業率23位、専業主婦率1位、シングルマザー率1位、離婚率23位、高卒大学進学率が高い区です。 . 東京の山腹を代表する住宅地の多いエリアです。 そして杉並区の魅力はそれだけではありません。 沿線には若者が多く住むエリアがあり、安くて魅力的なお店が並んでいます。
意外にもレジャーマダムだけでなく、若い人も多いです。 杉並区は専業主婦が多く、広々とした家で優雅に暮らすだけではありません。 杉並区に住む年齢層別の住民比率を見ると、18~29歳の若者の割合は男性4位、女性2位、全体では3位です。 中央線沿線の吉祥寺、荻窪、西荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺エリアに多くの若者が住んでいます。 個性豊かな雑貨店や古着屋、古本屋、ジャズ喫茶、ライブハウスなどが軒を連ねるエリアです。 生活しやすい大きな商店街もあり、乗り換えなしで移動できる新宿へのアクセスも非常に便利です。 昭和の高度経済成長期に生まれ育った人にとっては、広大な土地を持つ一戸建てが杉並の生活かもしれませんが、20代の若者にとっては、音楽や古き良き文化、 、 バラエティショップに囲まれ、毎日刺激を受けながら生活を楽しめるのが杉並の魅力です。 この2つの特徴が、杉並区が住みたい街として人気の理由です。この2つの文化がうまく受け継がれ、融合し、独自の杉並文化が生まれています。 現在、杉並区では音楽を通じたまちづくりに積極的に取り組んでいます。 設備の整った公会堂や毎年恒例の音楽祭など、音楽の街としての地位を築いてきた杉並区。
アニメも地場産業の一つと捉え、その発展支援にも取り組んでいます。 荻窪音楽祭は杉並区を代表する音楽活動の一つです。 21世紀荻窪考える会が主催し、クラシックコンサートを通じて荻窪のイメージアップに貢献してきました。 荻窪駅周辺の銀行、協会、音楽スタジオ、喫茶店など様々な場所で期間限定で音楽フェスが開催されます。 運営スタッフを募集し、ボランティアで開催しています。 無給のスタッフに加え、街のバリアフリー化や音楽祭開催のスポンサーを募り、音楽祭の資金を募っています。 区民が運営側と出演者に分かれて開催する荻窪音楽祭は、2016年で28回目を迎え、町おこしの一大イベントに成長しました。荻窪音楽祭の他にも、 もう一つの有名な音楽イベントは阿佐ヶ谷ジャズストリートです。 1995年のスタート時は、小学校の体育館や企業ロビー、ライブ会場など13会場で開催されていましたが、現在では60会場以上に規模を拡大。 音楽の力で街を元気にするために始まったこのイベントも、地元の有志によって運営されています。 全国に600のアニメスタジオがあると言われ、そのうち70以上がここ杉並区にあります。 杉並区にアニメ関連の企業が多く設立されたのは、自社の住居を確保したことと、交通の便がよかったからです。
杉並区は都心へのアクセスが便利なだけでなく、静かで広々とした緑豊かな環境で仕事に没頭しやすい環境です。 杉並区は、日本で初めてアニメを地場産業として位置づけ、その発展を後押ししています。 2014年3月には、線路下にアニメ関連のショップが集まった施設「阿佐ヶ谷アニメストリート」をオープン。 日本のアニメーションの歴史を紹介するアニメーションミュージアムも開館し、展示のほか、ワークショップやアニメーションの上映会など、さまざまなプログラムが用意されています。 アニメウォークという街歩きイベントも。 アニメーション制作者と視聴者が交流する場として、アニメーション産業の発展をサポートするイベントです。 練馬区は、1947年8月に22区制であった板橋区から分離して設置されました。 練馬区は、東京都の北西部に位置し、23 区の中で最も標高が高く、面積は 23 区で 5 番目、人口は 2 番目です。 まだまだ畑が多いことから「緑豊かな区」というイメージを持たれている方も多いと思いますが、区は農地だけでなく公園もたくさんあります。 緑の多い練馬では、農業が主要産業の一つです。 2013 年 1 月現在、農地面積は 240ha で、23 区の中で第 1 位です。 農家数も372戸と1位ですが、33%の農家が農地面積0.3ha以下、約4割が農家収入0~49万円、500万円未満です。 9割のデータを見ると、大規模な農業をしている人は少ないことがわかります。 1975 年に 746 ヘクタールの農地と 1,342 戸の農家があったことを考えると、農業が衰退していることは明らかです。 農業以外にも、練馬の知名度を上げたアニメがあります。
練馬区には、90 を超えるアニメ関連企業、大学の芸術学部、音楽大学もあります。 都心へのアクセスの良さ、緑豊かな環境、家賃の安さは漫画家志望者の求める条件であり、日本を代表する漫画家が次々と誕生しました。 農業では地元の特産品をブランド化することが多いですが、かつて練馬には練馬を代表する野菜である大根がありました。 練馬大根は江戸時代から盛んに生産され、明治時代になると日清戦争や日露戦争により需要が高まり、その名は国内外に知られるようになりました。 大正時代になると、首都東京に人口が集中し始めます。 この頃から、練馬地区は都心部の農産物の供給拠点となり、その役割は年々強くなっています。 最近では大根の生産も盛んです。 練馬の農業は、鉄道の開通により流通が活発化し、拡大期を迎えました。 練馬大根の最盛期は、明治末から昭和初期の約25年と言われています。 昭和の終戦とともに、それまで大根漬けの一大供給地であった軍部の解体により、大根の生産は衰退し始めます。
大根の収穫は大変だったので、農家は大根からキャベツに主力生産を移しました。 現在、大根は練馬ではほとんど生産されていません。 農地面積は、1975 年の 745.6ha から 239.8ha へと減少し、2012 年度には 3 分の 1 以下となった。 練馬区内の農家・農家数は、1975 年の 1,342 世帯・7,232 人から 2012 年には 498 世帯・1,075 人に減少している。 、ブルーベリーとブドウ、およびその他の植物の 3,549 ヘクタール。 平成23年度東京都土地利用面積データによると、練馬区の農地利用率は区総面積の5.1%で第1位。 23区で最も農業が盛んな地域ですが、全体として農業の規模は縮小傾向にあります。 農産物の出荷量や作付面積は減少していますが、練馬区ではこれまで培ってきた農業のノウハウや既存の人材を活かし、農業を観光資源として活用しています。 大都市東京に近いという利便性を活かし、練馬区には現在約30のブルーベリー農園があります。 農業を観光資源化し、他地域から多くの観光客を呼び込む練馬の生き残り策の一つとして注目されています。 また、小学校での総合学習の一環として、区内の田んぼや果樹園を積極的に小学校に開放し、次世代への農業振興を積極的に行っています。 小中学校での田植え、カキやキウイの選別、受粉・収穫、野菜くず・残飯などの体験を通じて、子どもたちの農業への関心を高める活動。 肥料にリサイクルされています。 日本のアニメーションは、その技術とソフトウェアの両面で海外から高く評価されるようになりました。
練馬区は、日本一のアニメタウンとしてアニメ発展の歴史に深く関わってきました。 区内のアニメーションスタジオが日本初のアニメーションを制作し、1963年にはテレビでアニメの放送が始まりました。 当時の漫画家や後に有名になった漫画家のほとんどが練馬区で働いていました。 現在でも90社以上の関連会社が練馬に集まっています。 練馬区では、区が主体となってアニメ産業を戦略的に強化するための政策を策定するとともに、多数のアニメ関連産業を誘致することで区内産業全体の活性化に向けた活動を行っています。 国勢調査によると、2000年から2005年までの中央区の人口変化率は135.7%、2005年から2010年までは124.8%でした。 どちらのデータも、日本で最も高い人口増加率を示しています。 これを見ただけでも、中央区がますます人で賑やかになっていることが想像できます。 また、2020年のオリンピックに向けて、晴海に選手村が建設され、敷地内に約6,000戸の住宅が建設されます。 江戸時代から現在に至るまで、日本の文化・商業・情報の中心地として発展してきた中央区は、今後も人口が増加し続ける日本最大級のメガシティとして君臨しそうです。 順調そうに見える中央区ですが、紆余曲折がありました。 現在増加傾向にある人口は、1960 年から 1980 年までの 20 年間で 16 万 1000 人から 8 万 3000 人に減少しました。失われた人口を補うために、区は住宅建設を促進するためのさまざまな政策を導入しました。 中央区は区内定住者数の増加に成功したものの、その生活を支えるスーパーマーケットなどの商業施設や、子育て世帯が望む大規模な公園が不足しています。 便利で住みよい街を目指した地域づくりが今後の課題と言えます。 中央区だけでなく、現在の千代田区や港区などトップクラスの23区でも入居者が減少。ザ・パークハビオ
この時期は「都市のドーナッツ化現象」と呼ばれた。 高度経済成長期と呼ばれる1954(昭和29)年から1973(昭和48)年は、急速な都市化の時代でした。 石炭から石油へとエネルギーが変化する中、東京湾沿岸には次々と工場が建設され、産業が発展していきました。 都市部の工業化が進み、所得が増加した結果、裕福な人々はより良い生活を求めて広々とした家に住みたいと思うようになり、郊外に一戸建てを購入するようになりました。 私はそうでした。 この時期、都心部の大企業のオフィスや工場が集中する地域から、快適な住環境を求めて人々が離れていった。中央区では1957年から人口が減少に転じた。 バブル期に入り、中央区の地価が上昇したことで人口はさらに減少し、2000年1月1日現在、69,695人にまで落ち込んでいた。 バブル期の終焉後、都心部の不動産が大量に解放され、比較的安価な住宅が大量に供給されるようになり、都心部に住む人が増え始めました。 これがアーバンリターン現象の始まりです。 中央区は1981年に定住人口10万人を宣言し、1988年には定住人口回復の年を宣言した。 続々と紹介されています。 これらの施策により、長年減少傾向にあった中央区の人口は1998年から増加に転じました。 隅田川流域の住宅開発により、30~44歳の子育て世代の割合は33.9%を超えています。 これは、23 区の平均である 26.0% を大幅に上回っています。 2005 年から 2010 年までの 6 歳未満の子供の人口増加率は 56.0% と、23 区の平均である 5.7% をはるかに上回っています。 2020年東京オリンピックを控え、全国から注目を集めるエリアとなる中央区。 人口が増加の一途をたどる一方で、生活関連施設の整備が遅れています。 前述のように、日常の買い物ができる店舗はまだまだ不足しています。 大型スーパーはなく、食品スーパーも少ない。 ミニスーパーも増え、買い物の悩みも少しずつ解消されつつあります。 また、緑被率が23区内で最も低いことからもわかるように、緑のある公園の数は非常に少ないです。
浜離宮公園を除く公園面積率は23区中20位。 小さいお子さんがいるご家庭にとっては、外で遊べる場所がないというのは深刻な問題です。 現在、中央区内にはオリンピック選手村跡地や築地市場跡地など、いくつかの再開発候補地があります。 これらの広大な敷地を今後も住居専用にするのか、それとも緑の広場を追加するのかについては、議論の余地があります。 東京都が作成した東京都の人口によると、千代田区の人口は昭和35年以降減少傾向にある。 都心復帰の影響。 2016 年 1 月 1 日現在、千代田区の人口は 55,131 人です。 東京23区の中でも大きな役割を担う千代田区は、一言で言えば昼と夜の人口差が最も大きい区です。 昼間は人口が多く、夜間と夜間の差は20倍。 日本一にぎわうオフィス街には家がほとんどなく、夜もほとんど人がいません。 千代田区は23区の中で最も人口が少ない区です。 居住者が非常に少ない地域です。 夜間の人口が少なく、昼間の人口が多いということは、この区は昼間に多くの人が働きに来る場所です。 千代田区は業種別に分類しやすいです。 丸の内や大手町は大企業が集積するビジネス街であり、日比谷や有楽町は銀座の繁華街に近いため商業施設や娯楽施設が充実しています。
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春の高尾山 歩いて巡ろう 100回目のスタンプハイク 20日から開催(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/16 7:32:08)
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[ 緑の続く ] . . . 遠くまで続く、グリーンコキアの丘。 . . . ==================== 📸 2020.08 Hitachi Seaside Park, Hitachinaka, Ibaraki . Nikon D5300 🍃✨🍃✨🍃✨🍃✨🍃 . info. 国営ひたち海浜公園 コキア見頃(例年) - 緑葉 7月中旬~9月下旬 - グラデーション 10月上旬 - 紅葉 10月中旬 - 黄金色 10月下旬 ※ 国営ひたち海浜公園 ホームページ参照 ==================== . . . #japan #ibaraki #hitachinaka #hitachiseasidepark #hitachiseasidepark_kochia #hitachiseasidepark_greenkochia #kochia #greenkochia #hitachiseasidepark_bluesky #bluesky #茨城 #ひたちなか #国営ひたち海浜公園 #国営ひたち海浜公園_コキア #国営ひたち海浜公園_グリーンコキア #国営ひたち海浜公園_緑葉コキア #コキア #グリーンコキア #緑葉コキア #国営ひたち海浜公園_青空 #青空 #夏風に揺れるグリーンコキア #green_kochia_waving_in_the_summer_breeze #緑葉セカイ #scent_of_green_leaves #adobephotoshoplightroom #nikond5300 #photography #photo #instagram (国営ひたち海浜公園) https://www.instagram.com/p/CSrFVNTpPoE/?utm_medium=tumblr
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毎日絵を描く目標がなかなか難しいけど頑張ってる……でも最近は意気込みすぎなのか思うように描けなかったり、まずモチーフとかアイディアが浮かばなくなってきて……スランプなのか疲れてるのか。力み過ぎないのも大事なのかな
https://www.instagram.com/p/Bp_cAURlEc1/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=994sab07er4r
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「空と青の境界」
Canon EOS70D CANON EF 70-300mm f4-5.6L IS USM
f/5.6 1/1600s ISO100 +0.3step 300mm
2021/04/18 茨城県ひたちなか市 国営ひたち海浜公園
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉
との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー��
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがお��ゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記��館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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[友の会メール]大反響! 小松理虔『新復興論』関連のメディア掲載が続々と!
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[友の会メールvol.307]
大反響! 小松理虔『新復興論』関連のメディア掲載が続々と!
(2018年10月9日配信)
「友の会メール」はゲンロン友の会会員をはじめ、ゲンロンの書籍をご購入の方、
ゲンロンカフェにご来場いただいた方などに広く無料配信している広報誌です。
配信をご希望でない方は、末尾の案内をご覧ください。
☆**:..。o○o。:..**☆
こんばんは、スタッフの堀内です。
☆ 小松理虔『新復興論』関連のメディア掲載が続々!
先週から今週にかけて、小松理虔『新復興論』関連のメディア掲載が続いています。
10/6(土)発売の『新潮 2018年11月号』には作家・古川日出男さんによる書評、本日10/9(火)発売の『サンデー毎日 10月21日号』には文筆家・木村衣有子さんによる書評が掲載されました。
『新潮 2018年11月号』→ https://www.shinchosha.co.jp/shincho/backnumber/20181006/
『サンデー毎日 10月21日号』→ http://mainichibooks.com/sundaymainichi/backnumber/2018/10/21/
古川日出男さんは「震災だけでなく文学の『復興』のヒントが、この一冊にはある」との始まりから、文学の復興と本書を重ね合わせて、力強く激賞していただいております。
木村衣有子さんには本書の「食」への向き合い方に注目していただき、小松さんの「揺れる心を包み隠さず、きれいごとを廃そうとする姿勢」を丁寧に読み解いていただいております。
どちらも是非お読みいただきたい内容です!
10/2(火)には『現代ビジネス』のWebサイトに、ノンフィクションライター・石戸諭さんによる小松さんへのインタビューが掲載されました。
小松さんの震災後からの「現場の人」としての葛藤が『新復興論』にどのように繋がっていくのか、一つ一つの言葉を繊細に引き出していただきました。
『現代ビジネス』→ https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57718
また同日の『東洋経済オンライン』のWebサイトには、小松さんの寄稿「震災復興に必要なのは、『ふまじめ』な思想だ」が掲載されました。
『新復興論』を凝縮するような内容で、文化による地域づくりのための「ふまじめ」や「外部」といったキーワードを展開させています。
『東洋経済オンライン』→ https://toyokeizai.net/articles/-/239808
さらに、10/3(水)のゲンロンカフェでは、民俗学者・赤坂憲雄さんと小松さんとの対談イベントを開催いたしました(司会は石戸諭さん)。
赤坂さんも小松さんもお互いに真摯に向き合い、言葉を丹念に選びながら対話を重ねていきました。
『新復興論』と合わせて、これからの復興を考えるにあたって必見の対談です。
イベントの放送はタイムシフトで【10/10(水)】までご視聴が可能です(番組チケットのご購入は18時まで)。ぜひご覧ください!
赤坂憲雄×小松理虔 司会=石戸諭「復興と巡礼ーー『新復興論』から東北学へ」
→ http://live.nicovideo.jp/watch/lv315632507
* * * * *
☆ ゲンロン友の会第9期の更新は10/31(水)まで!
ゲンロン友の会第9期の更新・新規入会を受付中です!
現在、第8期会員の方は【10/31(水)】までに更新のお手続きをしていただくと、
更新特典として特別冊子『ゲンロン8.5』(非売品!)を進呈します!
表紙は、マンガ家の西島大介さん描き下ろし!(大好評!)
『ゲンロンβ』に掲載された人気記事や特別対談、インタビューなどを収録しています。
更新のお手続きをくれぐれもお忘れなく!
勿論、第9期への新規ご入会もお待ちしております!
https://genron.co.jp/shop/products/detail/183
* * * * *
それでは以下、今週のカフェ&編集部からのお知らせです。
◆◇ ゲンロンカフェからのお知らせ ◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◇◇ 今週・来週の放送情報 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆10/10(水)19:30-
【生放送】黒瀬陽平×佐々木敦
「展覧会評を執筆せよ――空間芸術(1st cycle)」
【ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第4期 #9】
【チャンネル会員限定・生放送】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315794132
【無料生放送・講評】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315794397
※無料放送分についてはタイムシフトの公開はありません。
◆10/11(木)13:00-
【再放送】福冨渉×松下隆志×上田洋子
「タイとロシアの新しい文学
――ポストモダン以後の言葉とアイデンティティ」
(2018/5/25収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315999518
◆10/11(木)19:00-
【生放送】海部陽介× 川端裕人
「我々はなぜ我々だけなのか
――サピエンス前史の人類学をめぐって」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315633913
◆10/12(金)13:00-
【再放送】三浦哲哉×北村匡平×渡邉大輔
「映画批評の新たなことばを探る」
(2018/6/8収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315999858
◆10/12(金)18:00-
【初配信!】小松理虔×三根かよこ
「価値観の潮目を作り出すために
――『新復興論』刊行記念トークイベント at 青山ブックセンター」
(2018/09/14)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316056670
◆10/16(火)18:00-
【再放送】大谷能生×速水健朗
「<俺による永久革命>の復活
――『平岡正明論』刊行記念イベント」
(2018/7/1収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316000030
◆10/17(水)18:00-
【再放送】小川哲×飛浩隆×東浩紀×大森望
「日本SFの新たな地平」
【大森望のSF喫茶 #26】
(2018/7/6収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316000182
◆10/18(木)13:00-
【再放送】大澤聡×黒瀬陽平×さやわか×吉田雅史 司会=東浩紀
「ゲンロンはどこから来て、どこに行くのか
――爆誕した四天王がおおいに語る批評の未来」
【四天王シリーズ #1】
(2018/5/14収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316056155
◆10/18(木)22:00-
【講評・無料生放送】法月綸太郎×大森望
【ゲンロン 大森望 SF創作講座 第3期 #5】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316053246
※タイムシフトの公開はありません。
◆10/19(金)13:00-
【再放送】平松潤奈×本田晃子×上田洋子
「記念碑はユートピアを記憶できるのか
――共産主義建築、その過去・未来・ディストピア」
(2018/3/22収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316057060
◆10/19(金)18:00-
【再放送】五木寛之×東浩紀 司会=沼野充義
「デラシネの倫理と観光客の哲学
――『デラシネの時代』(角川新書)刊行記念イベント」
(2018/4/20収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316074879
◆10/20(土)14:00-
【講評・無料生放送】飴屋法水×黒瀬陽平
「グループ展B「眩暈」講評会――講評会2」
【ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第4期 #22】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316055139
◆10/21(日)17:00-
【生放送】師走の翁×さやわか
「没入性――展開3」
【ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第2期 #12】
【チャンネル会員限定・生放送】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316076020
【講評・無料生放送】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv316076139
※無料放送分についてはタイムシフトの公開はありません。
◇◇ 現在視聴可能なタイムシフト ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆10/10(水)23:59まで
【生放送】赤坂憲雄×小松理虔 司会=石戸諭
「復興と巡礼――『新復興論』から東北学へ」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315632507
◆10/11(木)23:59まで
【再放送】西田亮介×辻田真佐憲
「なぜ自民党だけがうまくいくのか?
――古今のメディア戦略から政治を読む」
(2018/4/11収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315877084
◆10/11(木)23:59まで
【再放送】磯部涼×Kダブシャイン×吉田雅史
「ヒップホップは何を変えてきたのか」
(2017/12/26収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315877180
◆10/12(金)23:59まで
【再放送】塩崎悠輝×松山洋平
「現代イスラーム思想入門
――いま、イスラーム思想はなにを論じているのか?」
(2018/6/22収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315877277
◆10/12(金)23:59まで
【生放送】ダースレイダー×吉田雅史×さやわか
「フリースタイル・人称・コミュニティ
――ラップの言葉はどこから来て、どこに行くのか」
【四天王シリーズ #5】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315634402
◆10/16(火)23:59まで
【生放送】大澤真幸×吉川浩満×東浩紀
「いま、人間とはなにか?
――『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』刊行記念イベント」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315997371
※ご視聴は23:59まで可能ですが、ご購入できるのは視聴終了日の18:00までです。ご注意ください。
◇◇ 今週のおすすめアーカイブ動画 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆【vimeo】大山顕×東浩紀
「ショッピングモールはテロを誘発するのか?
――『スマホの写真論』から見たラスベガス」
【ショッピングモールから考える #7】
https://vimeo.com/ondemand/genron20180111
(2018/1/11収録)
◆【vimeo】夏野剛×東浩紀
「2020以前/以後
――東京はこれからどうすべきか」
【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #4】
https://vimeo.com/ondemand/genron20180221
(2018/2/21収録)
★ゲンロンカフェ Vimeo On Demand 公開動画一覧
https://bit.ly/2sybMGS
◇◇ 発売中の会場チケット ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆10/11(木)19:00-
海部陽介× 川端裕人
「我々はなぜ我々だけなのか
――サピエンス前史の人類学をめぐって」
https://peatix.com/event/428871
★New!★
◆10/26(金)19:00-
広野信嗣×星野博美
「消された信仰を訪ねて
――世界遺産登録から問い直す、キリシタンたちの足跡」
【星野博美『みんな彗星を見ていた』(文春文庫)刊行記念】
https://peatix.com/event/440804
◆10/29(月)19:00-
渋谷慶一郎×ドミニク・チェン×東浩紀
「アートとテクノロジーが出会う場所」
【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #12】
https://peatix.com/event/425839
◆10/30(火)19:00-
川島素晴×木石岳×藤倉大
「現代音楽のポピュラリティ」
【現音カフェ #2】
https://peatix.com/event/429358
★New!★
◆11/16 (金)19:00-
さやわか×大井昌和
「いまこそ語ろう、士郎正宗!
――ニッポンのマンガ #2」【四天王シリーズ #6】
https://peatix.com/event/446400
◆◇ 五反田アトリエからのお知らせ ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
開催予定の展示
◆2018年10月13日(土) - 10月21日(日) ※10月20日(土)は講評のため終日休廊予定です
ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第4期生展覧会グループB 「眩暈 」
開廊時間:平日15:00〜20:00 / 土日13:00〜20:00
出展作家:アイコ(SHU-TING CHANG) / 青木美紅 / 江原沙保梨 / すーちゃん / 杉本幸子 / 林修平 / 松浦香帆 / 松枝昌宏 / PHILIPP AUBERT
◆2018年10月27日(土) - 11月3日(土) ※月曜休廊
有地慈個展「スーパー・プライベートIII-約束された街で-」
開廊時間:平日15:00~20:00 / 土日13:00~20:00
※展示の一部は指定物販お買い上げの方のみご覧いただけます(¥500)
11月3日(土)クロージングイベント
・「ぷーちゃんのおたんじょうびパーティー」 13:00〜18:00
・「スーパー・プライベート・トーク」 18:30〜20:00 (ゲスト:太田充胤 / 渋革まろん / 伏見瞬)
新芸術校第4期生による展覧会、グループAにつづきグループBの展示がはじまります!
「サバイバル」型のプログラムが組まれている新芸術校では、4グループに分かれて4回の展示が行われ、その中で成績優秀者が最終成果展へ選出されます。
今もっとも注目される美術学校のひとつとなった新芸術校生徒たちの作品が、毎月ご覧いただけます。
どのグループの展示もどうぞお楽しみに、お見逃しなく!
また、 新芸術校第3期生最終成果展で東浩紀賞を受賞した有地慈さんの個展が10月末より開催されます。
こちらも要チェックです!
新芸術校について・新芸術校関連の予定についてはこちら↓
https://school.genron.co.jp/gcls/
(藤城嘘/カオス*ラウンジ)
◆◇ 編集部からのお知らせ ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
★小松理虔『新復興論』絶賛販売中!
ゲンロン叢書第一弾! 「課題先進地区・浜通り」から全国に問う、新たな復興のビジョン!
https://genron.co.jp/shop/products/detail/178
→『新復興論』特設ページはこちら!
https://genron.co.jp/books/shinfukkou/
★『ゲンロン8 ゲームの時代』絶賛販売中!
日本ゲーム盛衰史を語りつくす共同討議、充実のゲーム史年表など盛りだくさん!
https://genron.co.jp/shop/products/detail/160
→『ゲンロン8』特設ページはこちら!
https://genron-tomonokai.com/genron8sp/
★毎日出版文化賞受賞『ゲンロン0 観光客の哲学』絶賛販売中!
https://genron.co.jp/shop/products/detail/103
→『ゲンロン0』特設ページはこちら!
https://genron-tomonokai.com/genron0/
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暗闇の中に一つの窓を ―香港のコミュニティスペース「黒窗里」が再建に向けてクラウドファンディングを実施中―
2021年7月7日
宍戸友紀
2019年夏、私は友人に誘われて香港を訪ねた。「反送中」の運動が盛り上がっている最中で、その中で見聞きし印象に残ったことはたくさんあるのだが、それよりも今紹介したいのは、その時にお世話になった人たちが現在、コミュニティスペースの再建に向けて活動中ということである。
そのスペースは「黒窗里」という。 「黒窗」は「暗い窓」という意味だ。 進行中のクラウドファンディングのページを見ると、「黑暗中開一口窗吃一頓飯」(暗闇の中に一つの窓を開き、一度のご飯を食べる)と書いてある。
香港のメディア『明周文化』に、そのメンバーたちへのインタビューが載っていたので、以下に翻訳して紹介したい。黒窗里の理念や活動、関わっている人たちの雰囲気が伝わってくると思う。自由定価(投げ銭)という試み、集まれる場所があることの意味など、共感できたり参考になったりする点が多いのではないだろうか。
クラウドファンディングには下記のサイトから参加できる。今のところ目標額にはまだ遠いようだ。記事を読んで応援したいと感じた方は、少額でも構わないのでぜひ参加してみてほしい。
「黒窗里」のクラウドファンディングページ
https://www.indiegogo.com/projects/at-midday-a-window-opens-into-the-night
『明周文化』2021年5月26日
「蘇波栄」2.0 黒窗里が募金再開 共同生活の陣地を作る
記者: 何桂嬋・周耀恩
まだ内装工事中の新店で待ち合わせた。室内は暗い黄色の明かりが灯り、埃の積もったタイル張りの床と壁を照らしている。店の入り口はとりあえず木の板で囲っただけで、日没後も大通りにはまだ時々車が走り、がたがたと鳴る。一つの「陣地」が、今こんな荒涼とした所で立ち上がろうとしている。
この「陣地」を黒窗里1)という。
★心を許せる「団欒」2)空間
2011年、アメリカでウォール街占拠運動が始まって大きく広がり、金融覇権と社会の不公正を告発した。同年、一部の香港市民もこの運動に呼応し、「中環占拠」を開始した。中環の香港上海銀行本店に集まって座り込み、十か月近く続いたが、最初の勢いは続かず次第に参加者も減り、中文大学で反国教3)ストが始まったその日に「中環占拠」は強制排除された。そのうち一部の人々は油麻地徳昌里2号3号、名前もなく住所しかない実験空間に転戦し、その数年に起きた大小の抗争、港湾労働者のストライキ4)支援���新界東北開発反対5)、観塘海浜高架下再開発への抗議6)などに引き続き参加した。その後、ある仲間が隣の店舗で「蘇波栄」7)という串焼き屋を開いたが、自分では家賃を払いきれず、そこで徳昌里素食8)合作社と「活化星期日」9)が経営に加わり、自由定価(投げ銭方式)を導入した。その間参加者はしばしば入れ替わったが、最終的に「蘇波栄」は徳昌里素食合作社が主に経営することになった。
八年営業した「蘇波栄」は去年正式に閉店したが、これはしばしの別れだと実はみんなわかっていた。Yentlは言う。「八年やってちょっと惰性になりかけていたから、変わるべき時だと。」メンバーはそれぞれ働いてお金を稼ぎ、さらにネットで寄付を募って、現在の場所を借り再起の準備を始めた。
どんな思想や理念よりも先に、かれらは真摯にこう語る。「まず私たち自身が集まれる場所を求めていた。以前まだ店舗があった時は、用があってもなくても必ず店に戻ってきて喋って、いつも顔を合わせていた。私たちの他にも、この数年でみんなが大きな傷を負って、完全に心を許せる場所での「団欒」を求めている。みんな人と会って話して、思いを分かちあいたいのだ。」
黒窗里はもともと徳昌里素食合作社の上階にあるインフォショップの名前だった。当時黒窗里のメンバーは約十五人で、この新しい空間では共同意思決定の原則を守っていた。階下はベジタリアン食堂で、食べ物には定価をつけているものの、そのうち一つの主食メニューは投げ銭方式にしていた。また食べ物を媒介にして、世界で今起こっていること、たとえば海外の抗争を知ってもらいたいと考えていた。屋根裏はインフォショップで、版画作業室、図書室があり、上映会、読書会、音楽会、講座……気の合った人たちを集められるようなイベントは何でもできた。「この空間がいろいろなイベントを醸し出す培地になった」とYentlは言う。
徳昌里と蘇波栄に比べ、黒窗里はもっと「大衆化」しているようだ。Deniseは笑って言う。「今は食事の前にまず写真を撮ってSNSに上げますよね。こういうことを私たちもがんばってやっています。」かれらが新しく求めているのは、もっと広い受け手とつながることだ。「新しい空間はもっと外向きに、対象も前より広げたい。たとえば私は中学生に来て交流してほしいと思っています。」
★四十歳はまだ「アナーキー」でいられるか?
黒窗里は一つの空間というより、一つの生活方式という方がふさわしい。その宣伝動画にはこんな言葉がつけられている。「私たちは一つの陣地を作りたい。近くの人と集まって策を練り……友人たちと一緒に暮らし、互いに守り、支えあう。」十年前の「中環占拠」から開店まで、メンバーは共同意思決定の原則を尊重し、上司と部下の区別はなく、仕事も明確な分業はせず、メンバー間の自発的な相互補助に任せてきた。給料も均等に分けるとは限らず、それぞれの必要に応じて、余れば削り足りなければ増やす。すべてのやり方が私たちの知っている「現実」とは大きく違っている。
しかし、新店への経済的圧力は前より大きい。こういう信念は揺らいだりしないのだろうか? するとNinは冗談っぽく言う。「ある研究によると、自称左翼やアナキストの多くが三十過ぎると普通の勤め人に戻っているそうですね。でもここのメンバーにはもう四十過ぎてるのが何人かいるんですよ。(一同大笑い)」年齢を重ねるにつれて、人は多くの「現実」問題に直面する。家族が年をとってきたら安定した収入があるべきではないか? そろそろ責任というものを負うべきではないか? Ninについて言えば、徳昌里から蘇波栄、黒窗里と続けてきたことが、自分の信念に責任を負うことだった。「蘇波栄が始まった時、誰もこんなに長く続くとは予想しなかった。いわゆる信念は自分から来たものではなく、みんなが私たちにくれたものだ。私たちはこの道で出会った人と共にあり続けないといけない。」Deniseが補足して言った。「もっと重要なのは、私たちの信念をどうやってこの時空、この環境につなぐかということかもしれない。」
Yentlはこう指摘する。「私たちは一人一人大きく違っていて、それぞれ違う段階で人生のクライシスに出会う。仲間たちの重要性は、何かあれば私たちが相手を『受け止め』、感情面で支えたり、単に食事や一夜の宿を提供したりできるということ。私たちが『一緒に』いれば、それ自体がこの世界での一種の抵抗になる。これが私たちの作りたい空間です。」
Deniseは以前、強積金10)の仲介業者に投資や保険を勧められ、そうしないと生活に保障がない、「手術でもすることになったらどうするの」云々と言われたことがある。彼女は友人たちの間で急な出来事に見舞われた人がいた時、仲間たちがすぐに音楽会を開いて募金を集め援助したのを思い出した。「このコミュニティの中ではこんなことも起こりうるというのを目の当たりにして、何かあったらどうしよう?という心配がなくなった。そして私たちはこういうネットワークをもっと広げて、もっと多くの人を『受け止め』られるようにしたい。」
★抵抗としての「私たち」
十年前の「中環占拠」から黒窗里まで、かれらはずっと「私たち」を強調してきた。この概念は単純で簡単だが、強力なものでもあった。「『中環占拠』の時、私たちはいつも他の人に私たちに加われと呼びかけていた。私たちは世界を変えたいと強く思っていたけれど、『私たち』がいったい何かというと、抽象的イメージでしかなかった気がする。具体的な空間を手に入れてようやく、『私たち』は形のある、血肉のあるものになり、真の交流が生まれた。」
哲学を学んでいるNinはしばらく考えて、こんなふうに続けた。「『私たち』は一つのアイデンティティではなく、このコミュニティの仲間を指すのでもない。『私たち』の意味を広げると、香港だけでもなく、世界各地で起きている抗争も含む。香港では一連の社会運動の後、街頭活動は下火になり、人々は元の生活と仕事に戻り、それぞれ違う職責を果たすように迫られている。人々が作り出していたネットワークも緩み始め、もうこういう関係やつながりに人を引き止めることはできないように見える。資本主義に抵抗すると言う時、資本主義の核心は分離(separation)だ。誰もが独立した個体で、どんな問題があってもすべて個人の問題になる。でも『私たち』はまさに資本主義システムにおける人と人の基本的関係を転覆しようとする。」
かれらはこの空間を「陣地」と呼ぶ。陣地とは困難な時にこそ守り抜かなければならない場所だ。そして「私たち」が一緒にいることこそが、この陣地の最強の武器なのだ。近年こうした陣地はますます増えていて、黒窗里もその地図上の一点にすぎない。南涌で農夫をしているBrianは言う。「大きな政治には絶望しても、この数年ますます多くの人が隙間に入り込み、違う生活方式を試そうとしている。」
Ninは最後に言った。「インタビューの中で私たちはポジティブなことをたくさん言ったけれど、こういうことは愛だけではなく、怒りや恨みからも来ている。毎日目にすることには本当に怒りが湧く。これは認めないといけない。私は何度も自殺しようとさえ思ったし、もうだめだ、坊さんにでもなろうとも思った。もし私がこの友人たちに出会っていなかったら、本当にどうなっていたかわからない。そして私は運動の後、こういう人がたくさんいて、怒っていて、どうすればいいのかわからないのを知っている。この新しい空間は、私たちの怒りと恨みに形態(form)を与え、みんなで一緒に絶望に向き合い、絶望の中から何かを立ち上げようとするもので、一緒に悲しんだり、喋りあったり、顔を合わせたりできる空間になる。みんな一緒にいていい、一人ぼっちではないんだと。」
訳注
1)このスペース及びコミュニティの名前で、「黒窗」は「暗い窓」という意味。英語名はBlack Windowとなっている。
2)原語は「圍爐」、炉を囲むということ。年越しの会食など、親しい人々が集まって食卓を囲むことを指す語とのことで、ここでは「団欒」と訳した。
3)反国民教育運動。2012年、香港政府が学校教育に「徳育及び国民教育科」を導入したが、その「愛国心」を強調する内容に対して広汎な反対運動が起きた。
(参考記事)
https://jp.mobile.reuters.com/article/amp/idJPTYE86T02Z20120730
4)2013年3月に始まった葵青の港湾労働者によるストライキ。賃上げ等を要求して一か月以上続き、大規模なデモも行われた。
(参考記事)
http://www.labornetjp.org/worldnews/korea/intl/1367421202037Staff
5)新界東北開発(原文は「新界東北發展計劃」)とは、香港政府が進めている開発計画で、香港の新界東北部に位置する農村地域を住宅地などに整備しようとするもの。この計画は多数の住民の立ち退きを伴うこと、現地の生活や環境に影響を与えること、大陸側の深圳との「融合」を図る計画で「一国二制度」を損なう懸念があること、などの理由から反対運動が巻き起こった。2014年6月には準備工事の予算案提出に対して抗議者が立法会に突入、機動隊が出動し逮捕者が出る事態にもなった。予算案は結局強行採決され、この開発計画は現在も進行中である。
6)原文は「觀塘海濱橋底發展抗議」。九龍半島東部に位置する観塘の海浜地区に高架があり、その高架下(橋底)が人々の生活の場やライブなど表現活動の場として使われていた。しかし2012年に政府当局がこの高架下を「起動九龍東」という再開発計画の対象に含め、従来の使用者を排除して公園や消費施設にする「反轉天橋底」計画が持ち上がった。これに対して起こされた抗議運動。
7)店名。「蘇波榮」は英語の「So Boring」の音訳。英語名はそのまま「So Boring」。
8)「素食」は菜食、ベジタリアンという意味。
9)店名。「活化星期日」は直訳すると「日曜日を活性化する」という意味。
10)強制性公積金。香港で2000年から実施されている制度で、18歳から65歳までの住民が全員加入し、雇用者と被雇用者で分担して基金を積み立て、65歳になると年金が受けられるというもの。しかし実際には仲介する金融機関への利益保障ではないかという批判があるとのこと。
原文
「蘇波榮」2.0 黑窗里眾籌重開 建立共同生活的陣地
https://www.mpweekly.com/culture/%e9%bb%91%e7%aa%97%e9%87%8c-%e8%98%87%e6%b3%a2%e6%a6%ae-%e7%b4%a0%e9%a3%9f-180967
写真1 黒窗里のメンバー(左から)Karena、Nin、Denise、Yentl 。
写真2 黒窗里の前身、ベジタリアン投げ銭食堂「蘇波栄」。
写真3 新店は主にベジタリアン料理を出し、每日のメニューのうち主食一つを客の自由な価格設定に任せる。
写真4 先日、内装工事中の黒窗里で行われたオンラインライブ。
写真5 それぞれが自分の興味と才能を持ち寄って新空間の用途を考えたが、その中に版画工作室があった。
写真6 以前徳昌里の上階にあったインフォショップ。書籍、漫画、小冊子、インディペンデント作品などを並べていた。
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地元の伊豆熱川でココロ充電してきた話
こんにちは、今回はかなり前から計画していた伊豆熱川にお金を落としに行く話…もといスイッチを入れてきた話になります。
…念の為言っておきますが、私は静岡県内在住者です。連休明けの平日に訪れたのですが、一般道の電光掲示板などで県境を跨ぐ移動は自粛をと散々警告されてもなお、蔓延防止措置及び緊急事態宣言地域の該当地域ナンバーの車が沢山目につきました。お仕事であれば仕方ないですが、明らかに家族連れやカップルの旅行目的の人には言います。
私も 広 島 の 呉 に と て も 行 き た い 気持ちがありますが、今はお住まいの都道府県内で行動を限って地元の観光地やお店を応援しましょう。お互いを守る為にも。もちろん、コロナ禍が落ち着いたらぜひ静岡に遊びに来てくださいね。
追記に続きます。
(かなり辛辣な言い方してますが一県民並感の感想として熱海は神奈川、浜松は愛知だと思ってます。)
まさかの伊豆方面と推し作品異色コラボで、こんなに意気揚々としてた矢先にKOFGサービス終了なんですからね…本当にショックで何も考えられなかったし筆を持つ気力もどん底へ叩きつけられ、それが長引き進捗率も止まったままの日々が過ぎました。
思ってたより私の心はセロハンテープだらけで簡単に壊れやすくなってたことを思い知らされました。サービス終了から約2ヶ月が過ぎようとしてる今日この頃でも未だに私の傷は癒えず、とうとう旅程の日を迎える事になりました。
本当は原稿が仕上がってない状態で行くのもどうかと思って迷っていましたが、かと言ってキャンセルしてホテル側に迷惑をかけるわけにもいかず、パソコンと液タブを持ち込んで行くことに。
ということで、普段よりも感染警戒厳として行動する旅行をしてきました。
宿泊期間は曇りと雨の予報でしたが、天が雨女の私に温情を見出したのか、いいお天気に恵まれ、暫くはお預けだったドライブも楽しめました。雲の中を突っ切るような伊豆スカイラインの道も、青く輝く国道135号の海岸線も走れて気持ちも晴れやかになりました。特に訪れる場所がなくても運転してるだけで楽しい、久能街道付近の国道150号と同じぐらい好きです。天城山のループ橋にも行きたかったんですけど立ち寄る箇所は極力減らすと決めていたのでドライブ話はこの辺で締めます。
熱川プリンスホテルに到着してパソコンと液タブスタンバイしてテリーぬいとお茶を頂く。キャップは無くすと怖いので自宅に置いてきました。人に淹れてもらったお茶ってなんでこんな美味しく感じるんだろう。Qoomoのデイベッドキャビンから望める立ち上る湯煙、水平線を流れる雲、伊豆急行のホーム発車音やレールの擦れる音、稲取方面の道路を行き交う車、テラスに遊びにくるカワセミ。たとえ外の観光地巡りが出来なくても、部屋にいるだけで心が落ち着く空間に心の傷も少し修繕されていく。割引でも高かったけどこの部屋のプランを選んで良かった。
感染症対策として屋上の露天風呂もかなり遅い時間に貸切した。一人で利用するには高かったけど、晴れた夜空に静まり返った熱川の街、そしてテリーとゆかりちゃんが二人占めした満天の星空に思いを馳せながら浸かる温泉は何者にも代え難い30分でした。なんか泣きそうになった。推しと同じ空を同じ場所で見れる幸せを噛み締めて泣いた。この貸切風呂の存在をKOFGのテリーが知ってたら躊躇う事なくゆかりちゃん誘ってたんだろうなぁ…勿体無いなぁ…この貸切風呂はカップル・夫婦向けで混浴可能なのになぁ。お節介焼きの私が代わりにリザーブしといてやろうか。貸切風呂はいいぞぉテリー…。(ペニーワイズ)
2日目は熱川バナナワニ園を来訪。平日で開園時間と同時に入園したので周囲に人はおらずテリーぬいと園内で写真を撮れました。朝だからなのか、一部のワニ達はおねむの模様でそこまで姿を見ることはできませんでした。寝ぼけて顎がずれてるガビエル種のワニの姿も。テリーぬいに興味津々なコンゴウインコも、そしてマナティーのじゅんとくんも前来た時と変わらず元気そうでした、じゅんとくんは以前来園した時には体に藻が生えてたんですよ。あと園内に野生のリスが入り込んでインコの餌をドロボーしてました。なんかすごい場面に出くわしちゃったぞ。
そして!ここに来たんだよアンディとジョーの中の人が!!という現実を噛み締め、どうしてテリーの中の人も呼ばなかったんだよ!?!?という疑念も渦めかせ…今度は餓狼伝説シリーズとコラボして是非3人で来園してくれよな!!!!ハワードコネクションの社員旅行先できてもいいんですよギース様!!!!
植物園の熱帯スイレン室はいつ来ても飽きないですね、何度来ても写真に収めてしまいます。丁度洋ランが咲き頃だったのか温室の中がマスク越しでも良い香りが鼻腔をつきました、ジェードバインやショウジョウトラノオといった珍しい植物もまだ咲いていてくれ���した。待っていてくれてありがとう。自然界でこんな極彩色を得て生きる動植物って本当にすごいですよね…現実にこんな色存在するんだって感じ���す。
分園までは徒歩で行きました、結構な坂道ですが行けない距離ではないですからね。そしたらなんと、道中に山桜がぽつりぽつりと咲いているのが確認できました!(ゆかりちゃん!)この桜達はシャトルバスを利用していたら分からなかったでしょうね。レッサーパンダのかがやきくん(真ん中下)とこだまちゃん(右上)。そしてバナナ温室。分園の方が水遣りを終えたのか、床がいい感じに濡れ人の気配は無く幻想的な空間を散歩できました。
売店は平日休業とのことでしたが、なんとフルーツパーラーは通常営業してました!(売店諸共休業かと思ってたので…)
半ば諦めていたバナナビールと園内産バナナのスペシャルバナナパフェを美味しくいただく。乾杯!!ビールが苦手な私でもゴクゴク飲めて美味しかったし、バナナパフェは完熟バナナが品切れだったところを店員さんにお取り計らいを頂き、まだ酸味が残ってるバナナで用意させてもらうなど優しさが身に染みた一品になりました、本当にありがとうございます…!!完熟してなくても優しい風味で美味しかったです…!!また食べにきます…!!ヽ(;▽;)ノ
ちなみにバナナビールは8月頃に再販する様です。ネット注文できる日が来た暁にはぜひ遠方のマネージャーさん飲んでみてくださいね!!
無事に目的を達成しホテルに帰ればなんと雨になり本当に天気に恵まれた旅行になりました。残りの滞在時間は原稿の構図を書き出したりしてのんびり過ごしてました。
後から気づいたのですが、偶然にも私の泊まった部屋がテリーのカードスチルと同じ部屋だったり、意図せず感染対策として使用した貸切風呂の月明り・星明りがジョーとアンディの中の人も利用していたとか、知らず知らずのうちに私は餓狼チームの軌跡を辿っていました。
(サ終を迎える3月31日、テリーと最後のメッセ画面)
思えばこの2ヶ月間KOFGのサービス終了に深い傷を負わせられ、仕事のストレスと重なり体調も崩し、そもそもこのゲームをプレイするきっかけとなった格ゲーに再熱したと事を何度も後悔して何度も泣いたほどです。
けれど、振り返れば対外的に大小様々な沢山の幸せで満たされた旅になりました。ここまで餓狼伝説のキャラ達とKOFGの主人公の三峯ゆかりに思い入れを持たなければ、3ヶ月間という短い時間であってもプレイしなかったら為し得なかった感情だったと感じます。私の住んでる静岡に彼らが遊びに来てくれた事は、KOFGと餓狼のファンである私にとって本当に喜ばしい事で、彼らの存在や熱川で得たモノがこんなに私の心を満たそうとしてくれているのに、心の器にできたヒビから漏れ出てしまう事はさせたくないと、やっと思えるようになって、悲しみや辛さを乗り越えようと気持ちが前へ動いてくれました。
要はこの旅を経て悲しみよりも喜びが勝りカサブタができて、やっと自分の中のスイッチが入ってくれました。
当初発行を予定していた5月連休明けからかなりずれ込み、ダウンしていた2ヶ月間を加算して7月頃をめどにこれから頑張って描き上げていきます。一度ぶっ壊れた自分の心は思ってたより強くはなかったので、あんまり根を詰めすぎない程度に…。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
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[ 夏はまた廻り来る ] . . . 晩夏の空と、またまわり来る約束。 . . . ==================== 📸 2020.08 Hitachi Seaside Park, Hitachinaka, Ibaraki . Nikon D5300 🎡⛅🎡⛅🎡⛅🎡⛅🎡 ==================== . . . #japan #ibaraki #hitachinaka #hitachiseasidepark #hitachiseasidepark_ferriswheel #ferriswheel #hitachiseasidepark_bluesky #bluesky #hitachiseasidepark_nyudougumo #hitachiseasidepark_cumulonimbus #nyudougumo #cumulonimbus #茨城 #ひたちなか #国営ひたち海浜公園 #国営ひたち海浜公園_観覧車 #観覧車 #国営ひたち海浜公園_青空 #青空 #国営ひたち海浜公園_入道雲 #国営ひたち海浜公園_積乱雲 #入道雲 #積乱雲 #巨大な車輪はまわり続ける #giant_wheel_is_turning #adobephotoshoplightroom #nikond5300 #photography #photo #instagram (at 国営ひたち海浜公園) https://www.instagram.com/p/Ch2YtSGv1r7/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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PCの調子が悪いって毎月のように呟いてる気がする……
買える範囲で1番高性能のやつ買ったんだけど……世間一般から見れば、安物買いの銭失いなんだろうな……くぅ
https://www.instagram.com/p/Bp9c5V7lhaH/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=asw0erelkitz
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ネモフィラを見に行ってきましたー!✨ https://more.hpplus.jp/morehapi/article/samenyan/event_news/36515 見頃を過ぎちゃって、ちょっとまばらだったけど、写真は綺麗に撮れた♩笑 #ネモフィラ #ひたち海浜公園 #花畑 #青い空 #青い花 #茨城 #女子旅 #旅行 #花 #花のある暮らし #花見 #旅 #絶景 #nemophila #hitachiseasidepark #japan #blueflowers #bluesky #flowers #flower #flowerstagram #trip #travel #beautiful #写真好きな人と繋がりたい #撮られずにいられない … @oppojapan の #OPPOカメラフォン で撮影📸 (国営ひたち海浜公園)
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