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nlg had a stunt double?? when did he have any stunts that needed doubling?? also xy face i love him
also shoutout to this blooper i'm a big fan it's got everything. yan su. quick maths. age facts. the slow pan over to famed youth general mimu qinbei-
(ETA: VIDEO IS DELETED augh if i predicted this would happen why did i not just download the video booo. vid title: 《大宋少年志2》花絮:野利皇后和宁令哥的母子年龄差(翁虹、闫肃))
for posterity:
ningling ge (ic): if you're going to pull a knife, in the future can you give me a heads up first
queen yeli (ic): this queen has gotten old, i forgot...
ningling ge (break char): 🤨 (looks at director)
(offscreen): maybe we shouldn't mention the age thing? because you really don't look old... (collective offscreen laughter)
queen yeli (break char): i'm playing his mom, how am i not old?
ningling ge, over her: it's because of your beauty... [the sweet-talking prince]
(offscreen): then that would mean probably you were 15-16 when...
queen yeli: so i'm 35-40, (motherly patting nlg) i mean how old is he? 17? 18?
ningling ge, played by fully late 30s actor yan su: ... i think that's a little ... let's say 24-25. (straight-faced -> starts cracking up, hiding face in scriptbook)
queen yeli, ignoring his crisis: 🤔 so if you're 25, and i was 15, so right now i'm 35?
[25+15=?]
ningling ge: hey aren't you supposed to be playing a youth general?
[pan over to s2 mqmb, also played by late-30s actor, bald with facial hair]
s2 miqin mubei: the youth got old, right
queen yeli, pointing: that miqin - even that mimu qinbei has grown to look like this, then i-
ningling ge, character once known as miqin mubei: it's miqin mubei!! mimu qinbei - qinbei~! [prince don't be naughty]
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汪志雄觀點:三流政客下流政黨,民主必敗的方程式,風傳媒,2021-06-19。
汪志雄觀點:三流政客下流政黨,民主必敗的方程式,風傳媒,2021-06-19。
✍️民粹無法解決問題,但是民粹可以解決提出問題的人。
作者:汪志雄美國伊利諾大學芝加哥分校教授
臺灣的民主之路不是典範,而是警惕。它見證了...一個壞黨的崛起,
一個庸黨的沒落。沒有優秀的人才從政,民主只會越選越爛。
在臺灣,特別是開放黨禁以後,兩個主要政黨的基因,從來不具備什麼高貴令人尊敬的血統,都是蒼蠅蟑螂,蛇鼠一窩。我討厭民進黨,但我也從來沒有欣賞過李登輝當權之後的國民黨。
先談國民黨。國民黨自李登輝以降,就是一批奸巧投機的機會主義者,見縫插針,明爭暗鬥。他們的基因,基本上就是好逸惡勞,坐吃山空的公子哥兒,是典型的「疾風無勁草,樹倒猢猻散」。這種李氏血統承襲下來的背骨奸詐,在其身邊的近臣身上,一覽無遺。從老宋、奸王、到詐吳,處處都可以看得到國民黨骨子裏這種「吃裡扒外,賣主求榮」的醜陋基因。也難怪這個黨走到今日,成了一個只能靠著洗腎換血,乏人問津的窮途書生。再來談民進黨。
民進黨自陳水扁開始,就是一群豪取強奪的虎豹豺狼。他們骨子裡多是流寇土匪,一旦掌權,便吃銅吃鐵,是典型的「國賊多祿鬼,裘馬喜聲色」。這種陳氏血緣一脈相傳的貪婪無度,其吃相之難看,只能讓人瞠目咋舌,嘆為觀止。從阿扁的海角七億、阿男的泰勞風雲、阿文的高鐵皮箱、阿菊的總統府私菸、到阿中超貴的高端疫苗,處處都可以看見民進黨這種貪惡的基因,到了蔡英文執政時,更是無以復加。
難怪柯P會説:「小英身邊的每一個都貪污。」
這個黨的基因「卑鄙齷齪,下流無恥」,幹的壞事實在是罄竹難書,流惡難盡。結果,當別人開大門走大路,努力革新邁向世界時,臺灣的民主卻孕育了一個壞黨、一個庸黨的「政黨輪替」,越走越封閉,越活越回去,越過越辛苦。整個國家社會越來越貪,越來越笨,越來越低俗。
今天臺灣最大的悲哀,就是劣幣驅良幣;君子隱於山林,小人汲汲於市。就如同作家卡爾維諾所寫的:「在一個人人都偷竊的國家裏,唯一不去偷竊的人,就會成為眾矢之的,成為被攻擊的目標。因為在羊群中出現了一隻黑羊,這隻黑羊就是另類,一定會被驅逐出去。」這正是經濟學的「格雷欣法則」,即「失信者得利、守信者受損」的最佳寫照。也難怪今日臺灣是:小人升天,君子落魄的荒謬場景了!所以,不要再講什麼「看好了世界」那種可笑自嗨的臺灣之光了!
在世界的鎂光燈底下,臺灣的綠螢微熹,唯諾乞憐,讓我感到無地自容,抬不起頭來。這個政府編了上兆的防疫預算,用了近兩年的時間超前部署,疫苗大部份是外國捐贈、和鴻海台積電、慈濟捐贈的。如今全臺灣人的一兆多納稅人的錢,你都用到那裏去了?沒人知道!也不准你查,國會改革5法立法院3讀通過,總統頒布了,他還是找大法官來阻擋。為什麼你用掉臺灣人民大筆、大筆的血汗錢,臺灣人民卻不能查。
這是不是皇帝制度,皇帝說了算,愛怎麼做就怎麼做,你再囉嗦,就殺你頭。你又説為了抗中保臺,讓臺灣的年輕人推上戰爭邊缘,又花了660億美元,等於是2兆臺幣,去買了66架美國戰場淘汰的老舊F16V,平均一架F16V要10億美元。這些飛機有用嗎?有人開嗎?新加坡買一架現役的第5代F35戰機,只花了一億多美元,我们卻要比人家多花10多億美元,當了寃大頭,買了充其量最多只能算4、5代戰機而己。
10億美金等於300億臺幣,買一架服役已經20多年的老舊款的美軍淘汰的F16V,這裏面若説沒有回扣貪污貓膩的存在,我相信神鬼都不會相信吧!這些臺灣人民的血汗錢像用水管灑草皮一樣,隨便用,隨便灑,臺灣人民卻是過著辛苦無希望的日子。如果你這個民進黨是真心的愛臺灣,怎麼忍心把臺灣的年輕世代推到戰爭邊缘呢?所以,結論就是民進黨跟本不會愛臺灣,更不會愛臺灣的年輕人。
如果你像日本、新加坡、以色列一樣,花個不到2億美元,買個第5代F35戰機,660億-132億 = 省下528億美元,是2兆5840億元臺幣,這樣我們健保不用漲價、勞保基金就不會破產、臺灣的小孩讀書不用繳學費,省下來的1兆5仟多億臺幣,還可以補助臺灣家庭,生一個小孩補助20-30萬元臺幣的獎勵,臺灣怎麼會少子化呢?就這麼簡單,臺灣人民就可以過好日子,民進黨就是不要,民進黨怎麼會愛臺灣?!
更好的治理臺灣的方法,是尋求國際的大國協調,讓中國大陸和我們中華民國簽定和平協定,才是最好的上策,而不是花那麼多納稅人的血汗錢,去買人家淘汰的老舊廢棄武器,還要讓臺灣及年輕世代處在不安全的戰爭風口浪尖之上。
治大國如烹小鮮,民進黨還要把臺灣淘空弄到破敗成什麼樣子?什麼時候才會讓全臺灣的選民覺醒?只怕臺灣到時候台積電也被美國挖走了,也搬去了外國,臺灣就變成了一個又敗又窮、只等中國大陸收復的次等公民了。臺灣人,臺灣殷實勤勞的臺灣人民,你為何不生氣?
還是麻木愚昧絕望到哀默等於心己死了!
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弥生時代
弥生時代(紀元前3~5世紀 – 3世紀)の西暦239年に、邪馬台国の女王"卑弥呼"が魏の都・洛陽に使者を送り「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を与えられたことから、歴史書『三国志〈魏志倭人伝〉』に邪馬台国の情報が記載されました。
しかしながら、その情報量は少なく約2,000文字の一節だけです。
◆三國志×横浜市交通局|4gamer.net
「卑弥呼は約30の国からなる倭国の都として邪馬台国に住居する」という内容が記されており、近代に入って日本もそれを正式な史実として認知しました。
倭国では内乱��絶えませんでしたが、女王・卑弥呼が統治することによって治まりました。
▽『魏志倭人伝』
原文:「其國本亦以男子爲王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歴年,乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼。事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自爲王以來,少有見者,以婢千人自侍,唯有男子一人,給飲食,傳辭出入。居處宮室,樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」
翻訳:「その国、以前は男子を王としていたが、70~80年ほど過ぎて倭国は乱れ、互いが何年も戦争をする事となった。そこで各国が共同で一人の女子を王とした。名を"卑弥呼"という。卑弥呼は《鬼道》に優れ、民衆の心を掌握することができた。女王となった時すでに成人だったが夫はなく、弟が居て国を治めるのを補助した」
「鬼(き)」とは、魏では死者の霊魂や霊的存在を意味したようです。《鬼道》はシャーマニズム的な呪術という解釈の他に、当時の文献では《儒教》にそぐわない体制を表現する用法があります。このことから呪術ではなく、単に儒教的価値観ではない政治体制を意味するという解釈もあります。
《鬼道》とは、《神道》の元にもなった原始宗教《シャーマニズム》と考えられます。シャーマンと呼ばれる人物がトランス状態(興奮して自我を失った状態)に入り、神と交信をしてそのお告げによって政治をおこなうというものです。シャーマンの卑弥呼は、神の言葉を聞くことが可能であったために、女王に選ばれたと考えられます。
本来の巫女は霊を自分に乗り移らせて、霊の言葉を代わりに話すことを得意としたという記録があることから、巫女とは本来はシャーマンのことであり、そもそも巫女の語源は卑弥呼という説もあります。
『魏志倭人伝』の「年已長大」を直訳すると「すでに年老いた」になりますが、この「長大」は「すでに成人になった」という意味にもなるそうです。学習サイトを読むと、一般的に「高齢」という翻訳が多いようですが、真相はいかに……?
「邪馬台国」と「卑弥呼」という当て字について
「邪馬台国」や「卑弥呼」という字は魏側のつけた当て字ですが、『日本書紀』には「夜摩苔(ヤマト)」という表記があります。
このことから、倭人の発した「ヤマト」の発音に当て字をした結果、「邪馬台国」という邪悪な字になったのだと推測できます。
・古代中国語音の「邪馬台」:[jya-mea-də]
・唐代の漢字音「夜摩苔」:[jya-muai-də]
・邪馬台国=ヤマト
・卑弥呼=日の御子
上述の通り、実際の政治は卑弥呼の弟が担当していました。弟は卑弥呼の側近として、表に顔を出せなかった姉の卑弥呼に代わり、表に出て卑弥呼の占いの結果を言伝として民衆に伝え、政治を取り仕切っていました。
ちなみに邪馬台国の位置について意見が分かれる理由として、『魏志倭人伝』には「邪馬台国は九州から船で三日間ほど南下した場所にある」と書かれていたことが挙げられます。その記述が事実だとすると、邪馬台国は太平洋沖にあったことになります。その所為で邪馬台国=沖縄説というとんでも説も生じました。
おそらく使者の報告や記載のいずれかにミスがあったと考えられるでしょう。もしくは、帰国が遅れた理由を問われて「思いのほか遠くにあった」と虚偽の申告をしたのか。たとえば邪馬台国を訪れた魏の使者のために三日三晩ほど祝杯の宴会が繰り広げられて帰りが遅れたとか。
三国志時代は「上役からくだされた目的を果たせなければ処刑(七歩のうちに漢詩を一句書かねば処刑〈曹植の逸話〉、海の向こうのどこかにあるという亶州という国〈倭国説あり〉を発見できなければ処刑〈孫権の逸話〉、三日までに十万の矢を集められなければ処刑〈小説『三国志演義』孔明のエピソード〉が当たり前だったので、嘘も方便ということでありえなくもないと思うしだいです。
▽『魏志倭人伝』に記述された邪馬台国の統治国
「対馬(つしま)」「一支(いき)」「末盧(まつろ)」
「伊都(いと)」「投馬(とうま)」「不弥(ふみ)」
「斯馬(しま)」「巳百支(しはき)」「伊邪(いや)」
「都支(とき)」「弥奴(みな)」「好古都(ここと)」
「不呼(ふこ)」「姐奴(そな)」「対蘇(つそ)」
「呼邑(こお)」「華奴蘇奴(かなそな)」「鬼(き)」
「為吾(いご)」「鬼奴(きな)」「邪馬(やま)」
「巴利(はり)」「支惟(きい)」「烏奴(うな)」
「蘇奴(そな)」「躬臣(くし)」「奴(な)」
卑弥呼のシャーマン(呪術師・巫女)としての能力は「大衆を惑わす」と評されるほど甚大でした。
倭の女王国・邪馬台国は周辺の30余国の中で最も大きく、政治的組織の官制が整っていましたが、武力ではなく共立された権力だったので、当初の政権基盤は弱いものだったとされます。
邪馬台国の男性は刺青をして髪を結い、頭に布を巻きつけており、女性は布の真ん中に穴をあけて、そこから頭を出す服を着て、髪はうしろで束ねていました。
ちなみに南宋の儒学者"金履祥"の著書『通鑑前編』に、「日本から来た使者が『我々は呉の太伯の後裔だ』と言った。呉は亡び、その子孫が海を渡り、倭国にたどり着いた」と書かれているそうな。そういえば「呉地域の遺跡で発掘された人骨のDNAが倭人のものと一致した」という記事を数年前に読みましたが、ソースが残ってないのか追々確認いたします。確かに呉の中には刺青を掘り、魚を食べる風習もあったそうです。それは弥生人や縄文人の文化とも一致しますが、真相のほどはいかがなものでしょうか。
「倭人の始祖が太伯の末裔」という説について、日本では南北朝時代の禅僧"中巌円月"が「日本は太伯の末裔」と論じました。一方の"北畠親房"は著書『神皇正統記』にて「日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云」とあるのを批判し、室町時代の"一条兼良"も『日本書紀纂疏』で太伯末裔説を批判しました。江戸時代に入ってからは、儒学者"林羅山"は『神武天皇論』で神武天皇の太伯末裔説を肯定しました。イエズス会宣教師"ジョアン・ロドリゲス"の『日本教会史』では、「神武天皇は太伯の2番目の弟の"季歴"の第6代の子孫」と記しました。
明治生まれの日本史学者"千々和実"氏は、綿密な考証を経て「3世紀の倭人が対内的に王権を強化するため、また対外的に威望を挙げるために、自分たちの民族の始祖を太伯に結びつけて名乗ったのだろう」と指摘し、この「倭人自称説」を肯定しました。
ちなみに「日本の始祖が太伯の末裔」という記述を見て憤慨した"徳川光圀"が『大日本史』を編纂させたとする伝説もありますが、これは事実ではないようです。
狗奴国の台頭
晩年の卑弥呼は、敵対勢力の「狗奴国(くなこく)」との戦の渦中に亡くなりました。
狗奴国は、邪馬台国の南(熊本周辺)にある男子を国王とする勢力でした。
断髪と刺青の習慣のある漁業民の国で、邪馬台国の統治下に唯一ならず、九州(邪馬台国の周辺)以外の西日本と、東日本の北陸・東海・信州までを武力で制圧していました。
また、この狗奴国が後の古代出雲になったとも推測されます。
◆オタクくんさぁ - ピクシブ百科事典
卑弥呼の亡き後の邪馬台国でも男王が専任されましたが、統治は難航し、諸国は分裂します。
各地で反乱が起こり、卑弥呼が統治する以前の混沌とした時代に逆戻りしてしまいました。
そんな最中に当時13歳の"壹与"(とよ)が女王となり、再び倭国は平和裏に治まりました。
その壹与を女王とした邪馬台国が、その後どうなったのかは、266年の遣使以後は不明です。
いわゆる空白の4世紀にその姿をくらましたのです。
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神武東征伝説を史実と考え、九州の邪馬台国が東遷して奈良の大和王権となったとする邪馬台国東遷説をはじめ、投馬国東遷説、騎馬民族説、ネオ騎馬民族説🏇などがあるようです。もう一つは逆説的に、大和王権によって邪馬台国は滅亡した、とする見解もあります。
蛇足ですが、平和であるほど縄文時代から弥生時代(邪馬台国)までの日本や、タイ王国のように女性の社会的地位が向上し、戦乱の世になると中世ヨーロッパや中国のように男性の社会的地位が向上する傾向があるようです。
男は女が育てる。女に利用されるのが男の宿命だし、それで成長を遂げるのも男だろう。
◆『千恋*万花』(c)YUZUSOFT/JUNOS INC.(著作権ゆずソフト二次配布禁止)
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三韓征伐
三韓征伐は、西暦200年頃に応神天皇(八幡神社に祀られる第15代天皇)の母"神功皇后"が、新羅国に出兵して三韓(百済・新羅・伽耶)を服属下においたとする日本の伝承です。
百済の救援要請を受け、新羅まで出兵した大和王権軍の軍勢を見た"新羅国王"は恐れおののき「吾聞く、東に神国あり、日本といふ。また聖王あり、天皇といふ。必ずその国の神兵ならん」と言い、白旗を挙げて降伏したとされます。
神功皇后は帰国後、神託を受けて兵庫県南部に神社をいくつか創始されました。
廣田神社
兵庫県西宮市の廣田神社は、日本初の海外遠征となった三韓征伐から凱旋途中の神功皇后により創始されました。
日本最古の国史書『日本書紀』に記される兵庫県第一の旧官幣大社。
生田神社
神功皇后の凱旋に伴い創始された生田神社は、神戸市内の有名な神社の一つです。神戸市中央区の一帯は社領で、神戸(かんべ)職と呼ばれる神社に貢物を奉納する人々が多くいました。それが「神戸」という地名の語源となりました。
長田神社
三韓より神功皇后が帰路の途中、船が先に進まなくなり解決策を占ったところ「我を長田国に祀れ」と恵比寿より神託を受けて長田神社が創始されました。
神社の行事として室町時代より続く古式の県指定無形文化遺産「追儺式神事」があります。
名称が古くからの地名そのままである神社は、その土地の産土神社の可能性が高いそうです。
「三宮の生田神社」「神戸駅前の湊川神社」「長田神社」を合わせて「神戸三社」と呼びます。
▲神戸駅前「湊川神社」
高取神社
出雲大社に初参拝した三日後、高取山の麓にて撮影。
鷹がカラスを押さえつけ人質にし、数十羽のカラスの群れと対峙。周囲のカラスはガアガア鳴くだけで仲間を助けられず膠着状態。鷹の方が速く高く飛べる上に、鋭い爪とくちばしを持つので手出しできなかったのでしょう。しばらくすると鷹はカラスを開放して飛び去りました。開放されたカラスも茫然自失としながら山に帰りましたとさ。
昔々の高取山は、猛禽類の鷹がよく巣をかけたので「鷹を捕獲する場所」という意味で「鷹取山」という山名が付けられましたが、江戸時代中期に山麓地域での「鷹」の字の使用は増税対象になり、やむを得なく「高」に字を変えたようです。この増税はあくまで山麓地域だけなので、今も周辺の住宅街では「鷹」の字が使われます。
古くは神が舞い降りる「神撫山(かんなでやま)」とも呼ばれました。
高砂神社
神功皇后が三韓遠征の際に、現・出雲大社の祭神オオクニヌシの神助を得て戦を治めました。帰国の途中に高砂の地に船を寄せ、国家鎮護のためオオクニヌシを祀られたのが高砂神社のはじまりです。
豊臣秀吉は朝鮮出兵の前、三韓征伐の功績をあげた神功皇后にあやかり、この高砂神社で戦勝を祈願したと伝えられます。
▲豊臣秀吉『戦国無双4』
とよあしはら の ちいほ の あき の みずほ の くに
大和朝廷とは、出雲族と天孫族の連合政権とされます。
「豊葦原千五百秋瑞穂国」
(とよあしはら の ちいほ の あき の みずほ の くに)
上記は『記紀』における日本の美称の一つで、「豊かに葦の生い茂る原」という意味になります。他にも美称として「葦原中国(あしはらのなかつくに)」もあります。
◆豊国(九州北��部)
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◆葦原(出雲〈島根〉)
+
◆千五百(長門・周防〈山口〉)
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◆秋(安芸〈広島〉)
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◆瑞穂(吉備〈岡山〉)
日向族(ひむかぞく)とは、日向国(宮崎)の高千穂に降臨した天孫族の血を引く部族。
日向族の数代目の族長"神武天皇"は、日向国から翁(おきな。老人)や、日本サッカー協会シンボルマークとして馴染み深い"ヤタガラス"に導かれ、東に向かい奈良盆地に到達したとされます。
それまで奈良盆地を支配していた出雲族は日向族に屈服し、以後は天皇を頂点とする大和王権が樹立されました。
当時の史料は数少なく憶測の域を出ませんが、出雲王朝の末期には王の座をめぐり二人の太子が覇権をめぐり争っていました。そこで一方が大和王権にくだり配下に収まりました。大和王権軍を味方につけられては適わないと判断したもう一方の勢力も大和王権にくだりました。こうして出雲王朝は大和王権と統合されたとのこと。
一説によると『日本神話』の"アマテラス"は邪馬台国の卑弥呼がモデル。下の弟の"スサノオ"は男王が統治した狗奴国の初代国王がモデルになったといわれます。
ここまで書けばお気付きになるかと思いますが、邪馬台国の政治を司った卑弥呼の弟が、アマテラスの上の弟"ツクヨミ"のモデルとなったとの見方があります。
広く一般的に「邪馬台国の情報は、日本側の歴史書には残っていない」とされますが、もし邪馬台国=高天原説が事実なら『日本神話』は邪馬台国をモデルに書かれたことになります。
もし、それが本当だとしたら、偏にロマンがあると言えるでしょう。
▼三種の神器
◇鏡(太陽)=邪馬台国=アマテラス≒卑弥呼
◇剣(武力)=狗奴国=スサノオ≒狗奴国王 or 難升米
◇勾玉(月影)=ツクヨミ≒卑弥呼の弟 or 天武天皇
「八咫鏡(やたのかがみ)」は、アマテラス(天照大神)の岩戸隠れの際に作られた鏡。アマテラスが岩戸を細く開けた時、この鏡でアマテラス自身を映し、興味を持たせて外に引き出すことに成功して、再び陽光がさして世は明るくなりました。今もこの八咫鏡は伊勢神宮に祀られています。
「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも称される剣の正式名称。スサノオが出雲で退治したヤマタノオロチの尾から出てきたとされる剣です。ヤマタノオロチ=八つの頭の蛇。「蛇」は「男」の比喩表現。つまり「八人の賊を一人で薙ぎ倒した」とは流石と言えます。
「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は岩戸隠れの際に作られ、八咫鏡とともに榊の木に掛けられました。
古来の《神道》は《イスラム教》と同じく、《仏教》の「仏像」や、《キリスト教》の「キリスト像」のように、偶像崇拝(信仰の対象を像=イメージ化して崇拝)はされませんでした。
神社の本殿に置かれる鏡は、「向き合う自分の心をありのまま包み隠さずに写し出す」ことを意味します。
◆山手線の路線図は太極図|都市伝説
農耕民族と狩猟民族
未来に備えて貯金や貯蔵するのは《ネガティブ(悲観的)》な行動原理で、貯えずにその場ですべて発散するのが《ポジティブ(楽観的)》な行動原理とされます。
貯蔵に通じる概念は「農耕民族」より発生しました。「狩猟民族」の主食である肉は保存が利かず、腐らない内に食さないとすべて無駄になりましたが、穀物は長期保存が可能なので当初の「米」は「金」と同等の価値がありました。その弥生時代において最も米を多く保有した氏族が天皇家であり、それ故に日本の皇帝陛下となられました。
天皇は《神道》における最高責任者で、一族の氏神でもある太陽神の女神・天照大神直系の子孫とされます。現在も元号を採用し続ける国は日本のみとなりました。世界最古の王朝として、同じく今も王朝を残すヨーロッパとの外交でご活躍になられております。
▲国産米『秋田県産あきたこまち』
日本列島における縄文人と弥生人
モンゴロイドを大別すると、「古モンゴロイド」と「新モンゴロイド」に区別できます。「古モンゴロイド」は東南アジアや中国の一部、南米~北米大陸、北海道のアイヌ人、約二千年前までの日本列島に分布した縄文人が含まれ、「新モンゴロイド」はモンゴル・中国・朝鮮半島・日本列島・北米にまで渡って広く分布しております。
画像左は三万年前から日本列島に住まった顕在遺伝子の多い"縄文人"と、右は二千年前から日本列島に渡来した潜在遺伝子の多い"弥生人"のイメージ画像のようです。
▼縄文人の特徴
全体的に大振りで、背が低く体毛が濃いのが特徴。顔の輪郭は四角形で眉が太く、目はぱっちり二重まぶた。耳たぶや鼻は大きく唇は厚い。耳垢は湿っている。血液型はO型とB型が多い。
▼弥生人の特徴
全体的に細くて背が高く体毛は薄いのが特徴。顔の輪郭は面長で、眉は細く、目は一重まぶた。耳たぶや鼻は細く唇は薄い。耳垢は渇いている。血液型はA型が多い。
現代日本人は縄文人と弥生人双方の遺伝子を引き継いでおり、遺伝子の比率は地方や個人により微差がありますが、弥生人の遺伝子80%に対して、縄文人の遺伝子は20%ほど残っているとの見方もあります。
遺伝子の解析により、本州では太平洋側の都市部(東京・大阪など)、九州では北部(福岡・長崎)は弥生人の遺伝子が多く残っており、反対に本州の日本海側や東北、九州南部や沖縄は縄文人の遺伝子が多く残っている傾向がわかりました。ちなみに調査団体によっては、最も弥生人の遺伝子の濃い都道府県は奈良県という先入観の強そうな統計もあるようです。
縄文人は外見的には古モンゴロイドに近いのですが、遺伝子を解析した結果は新モンゴロイドとほぼ同じ反応を示しました。また、縄文人と同じ遺伝子(Y染色体)を持つのは、日本以外ではチベット人とアンダマン諸島の人々だけとのことです。
■日本人 - Wikipedia
日本列島に住む"日本民族"は、三種類に分けられます。
・大和民族(狭義の日本民族)
日本列島には倭(近畿地方)を中心に、蝦夷(えみし。東日本人)や、隼人(はやと。鹿児島周辺)などの集団も居住していましたが、大和王権の成立後は同化が進み、これらを合わせて大和民族と呼ぶようになりました。
・琉球民族(大和民族の支族と分類する考え方が主)
・アイヌ民族(大和民族と異なる日本列島北部の集団)
■記者会見:日本列島3人類集団の遺伝的近縁性|東京大学
国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門と、東京大学大学院医学系研究科人類遺伝学専攻分野、東京大学大学院理学系研究科理学部を中心とする研究グループは、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)のゲノム解析により、現代日本列島人は縄文人の系統と、弥生系渡来人の混血であることを支持する結果を得ました。
日本列島人のDNA分析を行った結果、離れた地域に住む北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は琉球人の次にアイヌ人に近く、一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かりました。
▲原点(起源:origin)
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古代ギリシア時代
古代ギリシャ時代は紀元前3,000年頃に興りました。これがヨーロッパ内で最も古い文明と考えられています。人種的にはインド=ヨーロッパ語族に属し、バルカン半島からギリシア本土に南下して、エーゲ海域や小アジアに進出した民族です。地中海各地に植民活動を行い、起源前8世紀からアテネなどのポリス民主政を発達させ、美術・文学・演劇・哲学・数学などの文化や学問を形成しました。
◇幾何学 - Wikipedia
十二音律の算出
紀元前6世紀――まだ五線譜や音階のなかった時代に、古代ギリシャの数学者ピタゴラスは、音程を示す器具のモノコードで音の研究を開始しました。
研究過程でモノコードを半分の長さにすると、同じ響きのさらに高い音程になることをピタゴラスは発見しました。これが「1オクターブの発見」です。音程は周波数(1秒間で何回振動するか)で決定されます。これをHz(ヘルツ)と呼びます。A(ラ)=440Hzなら秒間440回振動する音。この回数が440Hzから2倍の880Hzになれば、1オクターブ高い音程になります。同じ要領で440Hzの1オクターブ下は220Hzになります。
これで1オクターブの原理は解明されましたが、次に12音律を導き出した方法を解説します。ルート(根音)の2倍が1オクターブ上ということは、4倍は2オクターブ上の音程になります。さらにルートの3倍は、2倍と4倍の間の新たな音程が出現します。それを半分の周波数にして割り出されたのが、最も濁りの少ない和音となる「完全五度」です。
次に他の音程を導き出します。まずルートを1、1オクターブ上を2、2オクターブ上を4として、3(完全五度)を半分にすると1.5になります。
A:E=(1:1.5)x2=2:3
新しい音の導き出し方
①3倍にする
②1≦f≦2になるまで2で割る
1.5(E5)を3倍にすると4.5になり、それを2で割ると2.25になります。さらに2で割ると1.125が算出されます。これが長2度になりました。さらにこの計算を繰り返すことにより今で言うアイオニアン・スケールが大まかに算出されました。
ピタゴラスは音同士の響きと相性にも気付きました。最初の計算から割り出された三つの音程で作れる〈ルートと五度の和音〉を「完全五度」と呼び、〈長2度と五度の和音〉を「完全四度」と呼びます。これが和音においてユニゾンの次点で濁りの少ない響きです。
12音律においてルートから五度は+7の音になります。また、五度の+7は長2度です。これを繰り返し、順序を整列したのが五度圏です。
十二平均律
現代の一般的な西洋音階における「十二平均律」とは、1オクターブ(周波数880Hz〈A4〉の2倍が1オクターブ上のA5〈1760Hz〉)を12等分にした音律。
十二平均律では、1度(ユニゾン)と8度を除いて整数比率による純正な音程は得られない代わりに、ピタゴラス音律や中全音律で生じる誤差の大きな音程に妨げられることなく、全ての調で演奏が可能で、カラオケのように転調や移調が自由に行えます。
弦楽器は弓で弾くことで真価を発揮できるのでしょう。
東アジアで十二平均律が算出されたのは以外と早かったようです。明代後期の"朱載堉"(1536年 - 1611年)は、伝統的な十二律の求め方である三分損益法を否定し、1584年に『律学新説』の中で新しい方法「新法密率」を提唱しました。これが2の12乗根に基づく平均律の最初の算出例です。
ヨーロッパで平均律を2の12乗根に基づいて最初に算出したのは"シモン・ステヴィン"(1548年 - 1620年)です。彼は未完成の手稿(1605年頃)でオクターブを10000:5000として平均律を記述。
彼の平均律の理論値からの誤差は±0.43セント未満で、後に"マラン・メルセンヌ"(1588年 - 1648年)が1636年にオクターヴを2000000:1000000として平均律を記述しました。
地動説
中世ヨーロッパでは、地球を中心に天体が公転する「天動説」と、地球は平坦で端は滝という地球平面説が通説でしたが、古代ギリシャでは、すでに「地動説」と地球は球状という説が証明されていました。
北極星の高さが緯度によって違うことから、地面が北極星に対して曲がっているということが発見されました。遠くからの光を平行と見なすと、確度が違うのは「地面が曲がっている」、つまり「地球は球体である」と言うことになるわけです。
エラトステネスは、この理論に基づき、夏至の日に井戸の中まで太陽の光が届く都市アレクサンドリア南部(南中高度90度)のシエネと、それ以外で鉛直に立てた棒の影が作る角度が、これら2ヶ所の緯度の差によるものとみなし、緯度の差は7.2度=地球の周囲1/50であることを突き止めました。
当時の単位が現代ではどのくらいの距離になるか正確には分かりませんが、彼が求めた地球の全周は一説には「46,250Km」となり、実際の地球より17%ほど大きな数字となりますが、当時としては異例の大体合ってる数値でした。
▼惑星の逆行
古代ギリシャ時代から科学者を悩ましたのが惑星の逆行現象。「天体の動きは等速円運動」と信じられていましたが、惑星は稀に地球から見て逆に動くことが観測されました。これを解決するために「導円と周転円」という概念が導入されました。当時は楕円の式が発見されておらず、地動説より天動説の方が惑星の動きを精度よく予測できました。
▼年周視差
年周視差とは、地球が動くなら1年のうちで恒星の見える角度が変わること。年周視差は目視では確認できず、望遠鏡の発明が必要でした。これが天動説の大きな「観測結果」になりました。年周視差が測定できるようになるのは19世紀になってからです。
▼ケプラーの法則
「天体の動きは等速円運動」と気付いた学者が16世紀のドイツの天文学者ケプラーでした。それまでの観測結果や数学の発展により、火星の観測精度が桁違いに向上しました。
▼「それでも地球は回る」
16世紀のイタリアの学者ガリレオ・ガリレイの名文句はとにかく「地球はなぜ動くのか」という議論に決定的な答えを出したのは、17世紀のイギリスの著名な学者ニュートンの「万有引力の法則」でした。
弥生時代の景観
▲古代ギリシャ都市国家「ポリス」
▲三国志「魏延の陣」
▲弥生時代「高床式住居」
▲高知県「水車」
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>縄文時代
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