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#屈原の舞扇
0219dec · 2 years
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YouTubeでアガベなどの動画をアップしています✨動画はプロフィール欄から飛べます! 今日もアガベとパキポディウムは絶好調✨ 今で保有してる株の写真を投稿してなかったので不定期にアップしていきます(^^) アガベ 屈原の舞扇 Agave 'Kutsugen no Maiougi' 1枚目 2023年03月03日時点 1枚目 2022年11月01日時点 子株は植え替えました🌱 大事に育てていきます✨ #アガベ普及委員会 #アガベライフ #アガベ好き #植物生活 #植物男子 #植物男子ベランダー #植物好き #塊根植物初心者 #塊根植物が好き #youtube #youtuber好きな人と繋がりたい #youtuberlife #アガベイシスメンシス #イシスメンシス #屈原の舞扇 #屈原之舞扇 #アガベ屈原の舞扇 #宝物 #アガベ #용설란 #agave #龍舌蘭 #龙舌兰 #ดอกโคม #チタノタ #Titanota (Nagoya-shi, Aichi, Japan) https://www.instagram.com/p/CpTo9jHr-mr/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tagong-boy · 2 years
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strelitzia reginae (sep. 2021)
alocasia odora (jul. 2021)
morning glory (sep. 2021)
spear head (sep. 2021) spider catches a bee
agave - kutsugen no maiougi (jul. 2021)
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🌱 ◆ Mangave X M.'Blood Spot'× A.palmeri ◆ . . . . . . . #mangavebloodspot #agavepalmeri #hybridagave #succulent #mangave #agave #多肉 #アガベ #竜舌蘭 #多肉植物 #plantplant #屈原の舞扇 #tukkajakukka #tukkajakukka_plants #plantsmakepeoplehappy https://www.instagram.com/p/B-Jt_WNl0Ly/?igshid=15277w9f9aevu
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hairroomconsento · 6 years
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もうダメかな?って思ってたけどなんとか新芽が出てくれてるのを発見‼️ そんな土曜日のひととき。 今のところ日曜日、月曜日共にお昼以降にまだ空きがあります。 よろしくお願いしますm(._.)m #hairroomコンセント #ヘアールームコンセント #北大路#美容室#プライベートサロン#屈原の舞扇 #アガベ (ヘアールームコンセント) https://www.instagram.com/p/BtpTRSEghCJ/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=nadsw23gzz1q
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vinyl-explorer77 · 5 years
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. . #bsjmeeting_osaka 戦利品① . Agave T's 001 Grex (victoriae-reginae × palmeri 'Kutsugen no Maiohgi') ~笹の雪 × 屈原の舞扇~ 本邦初リリース‼️夢の純国産ブランニュー ハイブリッド🌱 . 3つゲット🤩 . #agaveholic #agavelife #agave #agavets001grex #agave_ts001grex #agavevictoriaereginae #agavepalmeri #agavehybrid #agavejapanhybrid #plants #bizarreplants #bizarre_plants #botanical #botanicallife #botanical_life #plantagram #plantstagram #アガベ #笹の雪✖️屈原の舞扇 #純国産ハイブリッド #bsj #bsjmeeting_osaka https://www.instagram.com/p/B2j65w3FN2L/?igshid=kla9owhlq9nw
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dreamingtime96 · 3 years
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馬鹿げてる。
何でなったこともない、男性の体で生きたことがない経験したことがないのに自分は男だと確信をもってそう思えるのかわからない。
ジェンダーアイデンティティなんていうのは心理的な枠組みであって、心の中のものだ。それを身体という自分自身を��作る表面に放出したところで性別は変わらない。あなたの臓器や骨格や体内の水分量や臓器の脂肪分なども含めた性差は変わらない。性別は心で感じているものが全てで体を蔑ろにしたセルフIDの考え方が浸透しきっているから性別を変えられる、異性になって生きていくことはできると思い込んでしまう。そんなの間違いだ。心は体じゃない。今の社会は境界のないイメージの世界だとわたしは思う。何でもかんでも共感し合い、感受性も何もかも同じチャンネルを共有しているように思い込む。イメージの中で私たちは他者と共存していると思い込み、イメージの中の他者に怒り悲しみ絆を感じている。そのことを無視している。自分の境界も希薄であり、窮屈である。自分の感じているものの違和感や苦しみの正体を知ろうとせず、それを全て心の中に感じているぼんやりした何かやあるいは不安や疎外感から、原因を直接性別のせいだと思い込もうとする。それを形成する性役割やその生きづらさや生きにくさが
実体としての臓器や遺伝子を含めた身体があるのに、男性的女性的といった社会から要求される性役割やそれに応じた女性像男性像に従うことが苦痛である場合、逆の性別になれば解決できるだとか自分は望まない体で生まれてきてしまった異性なのだと感じ取り、そうして異性として扱われたり自認を尊重されることでその人がようやく安心感をえたり救われるという社会ってどうなのだろう?
自分の感じるジェンダーやジェンダー表現が噛み合わない、ジェンダー表現を受け入れない社会に苦悩することもあるだろうが、そもそも
しかし、そうした適合することに拒否感を覚えたり自身のジェンダー表現を受け入れようとしない社会をひもとくとそこにはミソジニーと女性差別、ホモソーシャリティの問題が基盤に存在する。男性主観で男性の感じ方のみが正しい社会の中で、女性がそうした差別の実態や構造にアクセスすることは難しい。
また、感じ方だけが全てであり、それを直接今感じている原因であるかのように
そもそもまず異性のジェンダー表現は身体性別に等しいものと見なすことは全くの間違いだ。
本当の性別人々が生きにくい枠組みがすでにこの社会に存在していて、その人たちが旧的な枠組みから外れた新しいトランス ジェンダーという枠組みを用意することも正しいと思えない。
なぜならばトランスジェンダーの人々は結局異性のジェンダー規範を再生産しているだけでジェンダー規範を強化しているからだ。
性役割をただ異性のものに交換しているだけ。その性役割というのは搾取や支配を正当化する構造であり、性役割そのものがそうした支配と隷属の関係と、それらの歴史を見えなくする蓋のようなものである。それらが差別であると認識されず、差別を受けている女性という当事者が軽んじられ、差別を受けていることや男たちは間違っていると告発するだけで「それはあなたの思い込みだ」「そんな言い方はないんじゃないか」「男性への差別だ」と言われる。トランス差別だ!を唱える人たちもこれと全く同じだ。
性の多様性だとかいっているけれど全く多様ではない。
異性の性役割やジェンダーに適合したいのに社会が云々、孤独だ孤立しているトランス差別だ云々と唱えている人たちをみていると、本当に無神経でさすが男だと言いたくなる。あの人たちはなぜセクシーな女性的な振る舞いがしたいのだろう。それが差別的な記号であると知らないからだ。そのような記号を踏襲した女性ヒロインやそれが好きな物なら尊重してあげようよと言っているのも男だ。それは女からしたら差別なのだ。それを求められ、そのような記号的な存在とみなされ、男にとって快い範囲内の振る舞いやあからさまな蔑視や使い捨ての性対象として私たち女は男に用いられてきたからだ。いまだに女性は金にがめつい、イケメンには股を開く、性犯罪加害者でもイケメンなら無罪だというような蔑視は至るところで見受けられる。女性差別を主張する女性は醜い年増で若い女に嫉妬している。男側に視野を広げて男性も辛いですよね、という配慮や優しさが無いと賢い女ではない。至るところで私たち女性は無知だという設定で上から目線の説教を食らわされたり事あるごとにマンスプレイニングを食らう。鬱病で苦しい時病院に行った時ほとんど話も聞かず、怪しい治療のセールスをされたり「その程度のことで苦しいのか」という対応をされる。女性の性犯罪被害の話や性的対象とみなされる苦痛を訴えても、怒りを直接語ると感情的だと嘲笑される。女性の痛みに対して医療は鈍感であり、医療の性差が考慮され研究されるようになったの。男が女性に対して接する時の親切の中にも、見下しや蔑視感情がある。自分の気持ちを満たしたいための感情の吐口である場合や、ただ女と話したい、気分良くなりたいという感情があることもしばしばだ。それは女性にしかわからない感覚だが、それは思い込みだ、繊細すぎる、病院に行ったほうがいいなどと言われる。常に女性の感受性はずれがあるものという前提があり、気に食わないものをただ非難したいだけだとか���イケメンなら許すんだろうなどという偏見を飛ばされる。女性はしたたかで計算高く、高飛車で、あるいは男をたぶらかし、コケティッシュな振る舞いで翻弄するファムファタール的な記号は都合よく従ってくれる、暴力によって屈服させられることが可能な男からしたら、許容する範囲でワガママに振るまう可愛い女(でも自分がいなければ生きられない弱い存在)は素晴らしい存在なのである。長くファッションではそのような被虐的な立場であることを喜ぶように見せる観念が女性ジェンダー服に染み込んでいる。それは男ウケのいい服装として堂々としている。胸元だけ穴が空いていたりオフショルダーだったり、肩だけ透けていたり、ホットパンツだったり。コルセット風ワンピースやボディハーネスだったりの類もそうだ。そうした適度に『扇情的』な要素を含んだ服が女性を縛り付ける価値観であることをかわいさで覆い隠している。女性は展示品である。自分の個性を表明するために、わざわざそのような隷属的な価値観の服装を可愛いもので個性的で自分らしく生きることを肯定してくれるものと思わされている。逆に自分の個性や癒しや自己表現が自身の才能や能力やバックボーンなどに由来するものではなく、ファッションやメイクなどの装飾でしか自信を得られない。それは全て女性が装飾、それも男目線で構築された女性を支配するための記号で作られた価値に沿っていなくては人間以下であると社会的に定められていることと同義である。私たちは差別のプールに浸かりながら、自らその水を自分たちで再生産するよう、プールから出られないように仕向けられている。
しかし、私の見たところトランスパーソンの自認女性はそうした扇情的な(男から見て)服装やロングヘアだったりといいったホットな女性像をまといたがる。そうした扇情的な服などを女性のみがきることを許された服だという思い込みがあるのか?そうした性的な意味も含めて男から見た男の価値観に沿った魅力に満ちた女性こそが本当の女性であるという発想があるからなのではないだろうか。つまり、かれらもまた同じように女性を固定化された家父長制に都合のいい支配の記号だけを抽出した存在として、表面だけを女性とみなしているのである。また、トランスパーソンの自認女性は完全な女性だと支持している人々にとっても女性とは着飾る生き物であり、性的魅力に溢れた姿が正しい女性の姿で、女性というのはファッションやロングヘアであるとみなしているからだ。そのような女性像はメディアや創作、映画にも氾濫している。しかしそうした表現こそが女性差別で女性憎悪だと公然と言われることがない。ドラマでは高飛車でヒステリックな金持ちの女性は面白おかしく描かれ、舌足らずで幼稚でワガママな女性が男性を振り回す。いつも考えが足りなくて幼く、考えが足りずに失敗を繰り返す。それすらも可愛さの中に収納される。ハニートラップをしかける女性や財産目当てで玉の輿を狙うしたたかな女性キャラクターや、マウントを取ることを生きがいにしている女性や、素顔を隠して女性は足りない方がいいという発想がある。逆に馬鹿な方がいい、男の前で馬鹿を演じている女性はしたたかで賢いという想像を生身の女性たちが演じている。そうしたあざとい女性を同性がいやがったり、逆にあざとさをうまく演出する女性を同性が素晴らしいと支持することもある。世の中は腐っている。それはアニメの中でも同じだ。女子学生の制服の胸や股間の線が生地から浮き上がった絵が普通に存在し、それらが表現の自由というマジックワードによって擁護される。そうした絵がどれほど女性の尊厳を害するものであるかそうした表現が表現として成立していることは正しいのか?女性が怒りを語るとそのような絵を描いている人たちの仕事をフェミニストは軽視しているだ、絵に込められた思いを馬鹿にしているだ、いやなら見るな、絵に人権はないことを理解していないだと男たちは反発する。そしてお決まりのお気持ちだお気持ちだの連呼である。女性が差別を発信するだけで嫌がらせの対象となる。個人情報をばら撒かれる。執拗に自分の納得できるデータを出せと要求され、粘着される。馬鹿フェミだキチフェミとよばれ、精神病院に行けと言われる。性犯罪と結びつけるな、被害者を自分の主張のために利用するなんておぞましい。やっぱりおんなの敵は女だと性犯罪被害に遭わない立場からものをいう。アニメの中では女性たちが胸の大きさを比べて嫉妬し合う様子が当たり前にベタなネタとして描かれる。お互いの体型で嫉妬し合い、体重で一喜一憂し、潰そうとしていて、承認欲求の塊で、知性がない存在のように描かれる。痴漢被害を告発した女性や夫のDVで苦しんでいたり、妻が家事全てをやるべきという価値観から夫の世話や片付けをしないことや全ての尻拭いを無償でさせられている妻がSNSで怒りを投稿すれば女性器呼ばわりされて『マンカスゴキブリ』『専業主婦は寄生虫』『養ってもらっている分際で文句を言うな』というコメントが相次ぐ。挙句発言者の女性アカウントの顔や他の日常の投稿なども掲示板で晒されて品評される。アイドルをプロデュースするゲームには女子小学生や中学生のアイドルまでいる。女性差別的な価値観は当たり前に蔓延し現実の女性もアニメキャラクターのように属性化された存在として分類されている。自分の「需要」を理解してあざとく振る舞う女性は喜ばれる。男性の立場になって発言する弁えられるエマワトソンのようなフェミニストが真のフェミニストとして讃えられ、そしてそれ以外の男に奪われた権利を取り戻そうとする女性は女性の敵で足りない存在で、恋人も結婚もできない負け組で嫉妬している哀れな存在だと笑っている。けれど、そうした表明をしないだけで男は皆そのような幻想の中の女の姿やステレオタイプで女は足りない存在なのだというふうにこの社会が決めた通りに女を人間以下の存在と見做しているし、自分が単に不快になった時に突然黙ってみたり突然不快な態度をとって女性に機嫌を取らせようとしたり、女性が差別を語るとその発想や発言は間違いだと自動的に決めつけて笑ったり、女性が間違っているという前提で呆れた態度を発露する。社会的にも優位な立場であることは知覚している。アニメの中にはなんでも男の主人公に頼って甘える幼馴染がいて、すぐキレるのに短絡的な発想で失敗ばかりを繰り返し、生意気な態度をとっても結局は愛情の裏返しなだけで、突飛で無理くりな理由をつけて幼稚な発想で女性キャラクターたちは男性主人公が自分に好意を持つように迫る。女性たちに生理はなく、妊娠や流産や死産や中絶、同性愛者や性犯罪被害者は存在しない。また、そのような露骨な差別に満ちたキャラクターやなんでもいうことを聞いてくれる服従が約束された二次元の女性たちはその設定だけでも差別の結晶である。また、そのようなコンテンツは女性憎悪を招く。アニメやドラマや映画のように女性とは未熟で感情をコントロールできず、男に守ってもらわなくては生きていけない寄生虫で感情的な生き物だというふうに学ぶのだ。反発しても結局主人公を愛し主人公のことを必要とする女性キャラクターの存在は男がいなければ自力では生きていけないのだ。けれど、男にとってみればそうした女性は当然のようにコントロール可能な対象である。女性の隷属や無条件的な男に対する同意や賞賛や感謝を前提とし、そうした精神的ケアも含めた男にとって都合のいい存在であるとみなした関係性の構築をより強化する。社会的に蔓延している女性をコントロール可能な対象とする価値観がまた濃縮されるのだ。ストーカーが絶えないのも好意があるのにわざと反発して主人公を女性が創作物に多く、女性がコントロール可能な存在として描かれ女性をコントロール可能な対象として物扱いする社会だからこそ憎悪犯罪が絶えないのだ。アニメやドラマ、その制作者たちも当然女性を商品として扱っている。演じる女性の尊厳ではなく、キャラクターのことも女性を生きている人間としてみなさなち。実体のある尊厳のある人間ではなく、胸や尻や脚や扇情的なキャラクターと言ったようにバラバラの属性として分断し切断している。妊孕性でさえ性的なパーツである。実際アダルト業界では膣内射精やいやがる実の娘や生意気な上司を無理やり強姦して膣内に射精したり監禁して輪姦すると言った内容のビデオがシリーズ化され、レイプや盗撮や女子高校生がジャンルとして存在されている。酔わせてレイプしたり、女性に写真をばら撒くと脅すリベンジポルノが題材になることも知っている。トランスパーソンの自認女性は性犯罪被害の危険があるから身体女性と共闘できるはずで分かち合うことができるというのは大嘘だ。実際女性は身体が女性であるから差別をされ妊孕性でさえ性欲や征服欲を満たす存在として性的な利用価値を見出され、女性の恐怖心や絶望に陥れる様を見て楽しむ映像が出回っていて、盗撮映像がインターネット上で売り買いされ、身体が女性であるがために感情ケアを当然のように男たちは自分の周囲の女性に無言で求めてくる。性犯罪被害者の人権は皆無だ。電車には乗ることができない。酒を呑んで酔って自分を誤魔化して乗り切っても駅構内でぶつかられるし街中で空いた道を歩いていても後ろから突き飛ばされたりすれ違い様にジロジロと体型や顔を見られる。その苦痛やそれらが全て差別から派生した女性憎悪が引き金になっていることなどを告発しても思い込みだ自意識過剰だお気持ちだと言われる。女性が結婚するとキャリアが絶たれることや不利な状況に追いやられることが覆い隠され、家事などを無賃でこなすことをもとめられ、体調不良だろうとなんでも家事を妻任せだ。会社の上司や友人にはしないのに、妻の話を遮ったり妻がつわりで寝込んでいても平気で食事を作るよう要求して起こしたり名もなき家事を全て妻にやらせるのだ。そうした夫の無関心には女性差別が根底に存在する。私の父が家族共用パソコンでそうした履歴やビデオを保存し、家族写真のフォルダの中にさえ女性を強姦しているビデオの画像を保存していたように、言わないだけで多くの父親が女性の家族を疎ましい存在として邪険に扱いながらも精神的なケアを求めている。妻の都合や感情に対する配慮どころかそれすらも夫の視界にはない。それ以下の存在で、都合のいい時にプレゼントをわたしたり愛を伝えたりすればいいと思っているか、勝手に些細なことで怒っているんだと自分を哀れんでいたりするのだ。妻は同意なく自分の好きなタイミングで体に触れてもいい存在で、同意を得る必要さえないと思っている。選択の権利も余地も最初からない。私が同級生から性的な加害を受けた数日後も父は女子高生逆ナンパというタイトルの動画を見ていた。
トランスパーソンの自認女性と身体女性は全く違うどころか、女性であると認識し、女性になろうとして行っているメイクや服装、女性的と社会でみとめられた振る舞いをすること自体が女性への差別なのである。また、身体男性であることで意見や主張を間違っているものと咎められたり懲罰されてきたことから意見を話すことを恐れずにすんできた。直接的な感情の発露を認められてきた。また、身体男性として生きた経験は女性差別の蓄積でもある。もし単に性別違和があるならそれは脳の病気だ。しかし、性別は変えられる(実際は臓器に性差があるからそんなことは絶対に不可能だが)という幻想は徹底的に粉砕するべきだ。性別役割が徹底した社会の中にいきぐるしさがある人が自身をトランスジェンダーだと思うのならそれはこの社会が間違っているだけ、ともいえない。それは家父長制の影響とその本流から細分化した支流を含めた差別の複雑さや複合的な差別を無視したことになる。トランスパーソンの身体男たちは男だと。家父長制の中で優遇されてきたのだから、女性をコントロール可能な対象とみなす文化も当然疑問なく受け入れることができ、現在だって感情的な女性としての規範的な金型に沿わない女性を懲罰し、暴力で支配することや暴力をちらつかせることがどれだけ女性に『効き目』があるかも彼らは理解している。女性差別に染まっていない人間はいない。男は誰でも女性差別に対して無関心でいることや無関心でも生きていける立場を守られている。ケア要員として努めることを要求している時点でトランスジェンダーの人々は被差別対象ではない。好きな格好をしているだけで偏見の目で見られるなんて言う甘っちょろい苦痛なんかではない。それを人によって感じ方が違うから苦痛に客観的な視点や重さはない、どの人も守られるべきだと言う主張で、差別のもたらす弊害や女性の死を曖昧にするな。誤魔化そうとするな。お前らの感情なんかで私たちは消されてしまう存在ではない。共生という耳障りのいい言葉を使って侵襲しようとするな。お前たちにとって心地よい共生の中に私のような性犯罪被害者など存ないのだろう。反吐が出る、何が共闘だ。感じ方なんていう個人によって尺度の違うものなんかで、実在している差別の重みは消えない。お前らの感受性や視野にもその基礎や道徳観の根にあるものは家父長制を培養した憎悪が刻まれている。男としてどれほど優遇されているか?それなのに自分は弱者だと思い込むのは傲慢だ。そして優位性に基づいた感覚で女を裁量するな。女を名乗るな、女を奪うな。彼らの枠組みを保護することは自分を女性と認めない女性を懲罰的に見つめる視点や暴力性を沸騰させるだけだ。そうして守ろうとして配慮して譲ってやればやるほどヒロイズムに浸ってシス女性には私たちの苦しみなんてわからないだなんだと悲劇ぶるだけだ。女性憎悪に満ちた社会に対抗するために女性はどれほど傷ついても戦うことを強いられる。その中で死を選ばず生きることがどれほど過酷か。女性憎悪は解決されたものであるとみなし、露骨な差別以外は全てを除外し、女性の性犯罪被害そのものを例外視し、コントロール可能な対象とみなされ発言も全てを男より劣った亜流の存在とみなされ、花柄やハートや心配りや親切といった女性ならではの発想や特性をことあるごとに求められ制限されてきた私たち女性を別席に置いてきた男たちから、全てを奪い返さなくてはいけない。家父長制のその首を切り落として、私たちが生きる権利を取り戻しにいかないといけない。時計の針を逆回しにすることはいつでもできる。男たちこそ変われ!と言って何もしないでいるくせに男が少し平等だなんだとポーズをとっただけで理解してくださってありがとうございますと尻尾を振って理解してくれる男性を立派だと神聖視して救世主のように扱って応援するのはやめるべきだ。男の言葉を持ち上げるのも男こそ正統であるという思い込みによるものだ。その価値観こそ家父長制が作り出した女を支配下に置くことを許してきた足枷である。足枷をありがたがるのをやめよう。男が変わっているならとっくにこの世は変わっている。それでもこの世は変わっていなかった。そいつらは性風俗店で女を買い、スマホで女を虐待するビデオを見ることもできれば妻を無賃で搾取していながらそれを当たり前と思っている男たちだ。彼らは性風俗で溢れかえる繁華街や日々女性が殺されるニュースを見ても物騒な世の中になったとしか思わないし、それを見てもなんとも思わず素通りすることができる。そして電車の中では大股を開いて座り、大学進学は優遇され、高く設定された合格点に届かず志望校に行けなかった優秀な女性よりも劣った成績で進学し、妊孕性がないために就職や昇進も過大評価されている。男は無条件的にできて当たり前で成果を出せばそれは傘増しされる。女性の人権を奪ってあぐらをかいている男を見ながら男の認証や同意を求めようとするな。家父長制を処刑台に送り込まなければ私たちは殺され続けることを忘れてはいけない。差別を長らえさせることとは、私たちの今ある現実を無視することだ。
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uzurakoromo · 4 years
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「彼よ、賢くも風を生ずる外はたえて無能にして」ってなんだよって話
 新年の初めに書く記事。このマイTrumblr(?)のタイトルにしている 「彼よ、賢くも風を生ずる外はたえて無能にして」ってなんだよって話(そもそもこれが今回のタイトル)
これは、私が中学生の時に読んだ江戸時代の俳文集、「鶉衣(うずらころも)」に書かれた「奈良団扇賛(ならうちはのさん」という項の一文である。中学生のくせに随分と古臭いのを、と、思われるかもしれないが(事実、当時でも言われた)、学校で使う「国語便覧が好き」っていう人はそれなりにいたであろう。当時、その中で紹介されていた一文が「これ」だったのだ。
 「賢く」と「無能」という、矛盾している言葉を平気で並べているこの作者の意図が気になって、後に図書室で本文を全部読んでみる事にした。すると、それが縁あってか、自分にとってかなりお気に入りの文となったのである。
 それでは、どういう所が気に入ったのか。まずは原文と合わせ、私独自のニュアンスを込めたその部分の現代文を紹介する。
【原文】
奈良團贊(ならうちわのさん)            
 青によし奈良の帝の御時、いかなる叡慮にあづかりてか、此地の名産とはなれりけむ。
 世はただ其道の藝くはしからば、多能はなくてもあらまし。
「かれよ、かしこくも風を生ずる外は、たえて無能にして」、一曲一かなでの間にもあはざれば、腰にたたまれて公界にへつらふねぢけ心もなし。
 ただ木の端と思ひすてたる雲水の生涯ならむ。さるは桐の箱の家をも求ず。ひさごがもとの夕すずみ、晝ねの枕に宿直して、人の心に秋風たてば、また来る夏をたのむとも見えず、物置の片隅に紙屑籠と相住して、鼠の足にけがさるれども、地紙をまくられて野ざらしとなる扇にはまさりなむ。
 我汝に心をゆるす。汝我に馴て、はだか身の寝姿を、あなかしこ、人にかたる事なかれ。
袴着る日はやすまする團かな
【現代文】(※超意訳※)
 青によし、奈良の都のなんちゃらと、歌に詠まれる奈良時代の時から、何の理由があってか、この団扇(うちわ)ってのは此処の名産になっているよね。
 そして団扇ってのは、ただ仰ぐためだけにある、と、みんな知っているから、扇の様に芸事の小道具とか、祭りごとの飾り物なんかに使われる事はない。それがいいんだよなあ。
 奴ってのは賢い事に、風を生じる以外は全ての事に無能でさ、歌だの舞だのつまんねえ慣れ合いにも付き合わないし、扇の様に、誰かに折り畳まれて媚びへつらう様子もなく、ぴーっんと紙を張ったまま、堂々と背筋のばしていやがんだ。格好良いよねえ。
 んで、その使い勝手の悪さから、飽きられ、見捨てられる運命になろうとも、それに未練は残さない訳よ。その様はさながら、悟りを開いた仙人の様。だから浅ましく扇の様に、桐の箱の家をも求めやしない。
 瓢箪の下で夕涼みや昼寝の枕にお共して、涼しくなって人の心に団扇への秋風(飽き風)が立っても、また来年の夏にも頼むと、思われることもないのが団扇の性さ。物置の片隅に紙屑の籠と相住して、鼠の足跡に汚されても、使い尽くされ(交換のために)表の地紙をまくられて野ざらしにされる、あんなみっともねえ扇よりはずっとずっとマシさ。俺はあいつらみたいにはなりたくない。
 だから、団扇よ、俺はお前に心を許す。俺はお前が好きだ。本当はお前の様に生きていたいんだ。でも、残念な事に、俺はお前に憧れても、お前になりきれない――人に媚びないと生きる事も出来ない、弱くて、卑怯で、矮小な男だ。だから頼むよ、団扇よ。お前は何にも媚びないけれど、どうか、こんな俺だけは哀れに思って、こうして裸でお前と涼む俺を、嫌いなあいつらには決して話してくれるなよ。
 そうして俺は今日も、来たくもない服を着て、つまらない所に行って、会いたくもない奴に会って、言いたくもない事を言う。そんな日々をいく。その手に持ちたくもない、お飾りの扇を片手にさ。
 団扇よ、次はまた裸になった時に会おう。本当の俺の時には、側にはどうかお前がいてくれ。俺の代わりにお前はどこまでも、自由にいてくれ。そう思えば、憂鬱なこの日も、なんとか乗り越えられる様な気がするんだ。
そこで一句。
『 袴着る日は やすまする 団扇かな』
(畏まった日には 団扇を休ませて扇を持つ 自分の真性は家に隠して)
***
ちょーーーっ、好き。好きな理由は以下の通りである。
①とてつもない反逆精神。くそったれ精神。
 ここでは団扇の絶賛と共に、それと対比して扇がとことん貶されているのも印象的である。一方で扇は本来、神聖なものとして扱うべきとされている物である。人間と神の世界を隔てるもの(紙なだけに)という神物として、だから芸事でも扇を粗末に扱うと、お師匠の雷が落ちる事になる。そして何より、扇は貴重品として見た目も豪勢だし機能性も抜群、値段も高く人から有難がれる。逆に団扇は不便、貧乏臭いなどと、扇と比べてこき下ろされるのが常である。それをよりよってここでは逆に、扇をこき下ろすのである。作者は多分、そうやって扇を有難がる人達全てが嫌いなんだろう。
つまりは扇を扱える上層部、作者を含めた下々を従える、彼らの生殺与奪の権を持っている者たちか。または、そうして言われた事ばかりしか見ない、自分の頭で考えない人達か。その様な屈辱的な思いや苛立ちを――、露骨に逆らうと殺されるから、自前で培った教養と感性とで、彼らの有難がる「扇」をメタファーにして表現した。そうして彼らに中指を突き立てては、誰も守ってくれない自分の尊厳を、逞しく自分自身で守り抜いていたのだ。
②自分の立場や感性と非常に似ているから
 初めてこれを読んだ当時から、私も「扇」でなくてはならない人生だった。軽薄で浅墓な同級生達と過ごす時間は苦痛だったが、彼らに合わせないと無視されて、いじめられて更に辛い学生生活が強いられる。それを恐れては、言いたくもない事を言って、言いたい事も言えなくて我慢する、非常に息苦しい小、中学校生活を過ごした。その時に読んだ「奈良団扇賛」は「ほんとそれな!」って気持ちになったのだ。それを解消したのは20歳の時、成人式の案内と共に送られてきた小・中学校の同窓会の案内を受け取った時だった。私はそこで欠席の印をつける間もなく、どちらの招待状もビリビリに破り捨ててゴミ箱に捨てた。その時に私はやっと「団扇」になれたのだ。成人式のその日は、一日中寝て過ごして快適だった。
③捻くれた言い回しと美しい情景描写、どちらも自分の琴線に触れた。
 昔から「真実の嘘」とか、「優柔不断というのだけは一貫している」とか「皮肉にも間違った方法に突き進む事には一人前」とか、相反する言葉を並べて意味深に表現するフレーズが好きである。この奈良団扇賛にも「賢くも、風を生ずる以外は無能」と書かれ、それが「媚びない」という姿勢への賛美を絶妙に表現している。それが個人的に好きで、このTumblrのタイトルにする事にした。また、この文を読むにあたって、団扇の涼し気な青い色(私にはそう見えた)や、路地に打ち捨てられボロ切れになった様、そしてさんさんと照らす太陽に翳されて透き通った、緑の房を垂らす瓢箪など――、決して具体的には書かれていないのに、一瞬にしてその情景を思い浮かべる事が出来、心が震える程に感動したのだった。
 そもそも、自分の俳文集を「鶉衣」( 継鶉の羽毛のように、見栄えのしない粗末な文章の集まり )と称するこの捻くれ方もたまらん。大好きな「エクスペンダブルズ(消耗品)」みたい。ちなみに私も別ジャンルのアカウント名を、その業界で「不要な物」という意味合いのある用語をアカウント名にしている。(ここもそうだね)
 こうして、あまりにも好きすぎて、長く紹介する事になってしまった。あまりにも好きすぎるので(二回目)、おそらく何かの創作でまたこの話を引き合いに出すのかもしれない。次回は、もうすでにそうしたまた別の好きな文章を取り上げたいと思う。
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zienyo · 6 years
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明日の山頂は−8℃らしいから . 霧氷綺麗だろうなぁ… . プチ氷瀑するかもなぁ… . でも明日はパス。 . #アガベ #多肉植物 #屈原の舞扇 #agave #agavelovers #succulents https://www.instagram.com/p/BrXpw5vHyPJ/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1iikkbvhlp5v2
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2ttf · 12 years
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kkagneta2 · 5 years
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逆の関係
長身女性もの。14k文字。
妻の美雪と出会ったのは高校の入学式だったろうか、出会ったというよりも姿を見た程度ではあったが、今でもあの時の衝撃を忘れることはない。スクールバスから降り立って、上級生に案内されて、体育館にずらりと並んだ生徒たちの中でひときわ突き抜けた、――周りは高校一年生の女子なのだから、遠目からでも胸から上が丸ごと見えてしまっているほどに背の高い女生徒、――もう心臓が張り裂けそうでならなかった。あまりにも現実離れしている。見間違い? それとも台に乗っている? いやいや、何度目を擦っても一人だけ浮いたように胸から上が出てしまっている。他の女子がちょっと大きめの160センチだとしても、明らかに190センチは超えている。……
残念なことに美雪とは違うクラスであったから、心配されるほどに落胆してしまったのだが、嬉しいことに彼女と声を交わしたのはそれから2、3日もしなかった。
ちょっとここで、話を分かりやすくするために説明しておきたいことがあるので、回り道を許していただきたい。私たちの高校では、クラスは分かれるけれども、実のところ授業はそれとは関係なく、選んだ先生の元に生徒が行って、そこで授業を受けると云う、要は大学みたいな授業の受け方なのである。だから毎時間、本来の教室に教科書やらを取りに戻りはするけれど、だいたいあっちへ移動して、こっちへ移動して、それが終わればここへ移動して、……と云うように、学生からすると面倒くさいだけのシステムを、私はこなしていた。
で、私は最初の週の木曜日、うっかり教室を間違えてしまって、微妙に食い違った席順に違和感を覚えながら座っていたのであるが、チャイムが鳴る少し前、目の前に黒い人の気配を感じて目を上げると、――彼女が居た。
「あ、あの、……」
と鈴のような綺麗な声が私にかかる。
「は、はい?」
ときっと変な声を出してしまっていただろう。何せ目線よりもずっと上に彼女のスカートと裾の切れ目が見えるのである。それに、天井を見るように顔を上げると、「美雪」と云ふ名にふさわしい綺麗で大人びた顔つきが見え、私は必死で歯が震えるのを抑えていた。
「もしかして、間違えてませんか? そこ私の席だと思うんですけど、……」
「あれ? えっと、もしかして、次は化学ではない?」
「そうですね。次はここ古典になってます」
ペロリと彼女が席順等々を記している紙を見せてくれる。
「えっ、あっ、ほんとうだ。……ご、ごめん。通りで変だと思った。……」
と、私は立ち上がった。――のだが、立ち上がった感覚がまるでしなかった。私の眼の前には彼女の豊かな胸元があったし、ぐいと見上げないと彼女と目が合わせられないし、私の腰と彼女の太ももの腹がだいたい同じ位置に来ているし、……要は座った状態で人を見上げる時の景色が、そこには広がっていた。――
「いや、ごめんね。どうぞ」
と足早に過ぎようとしたのであるが、焦りが顔に出てしまっていたのか、
「くすくす、……次からは気をつけてね」
と、柔らかな笑みを浮かべられた彼女に、私は手を振られながら教室を後にした。
ただただ恥ずかしかった。一目惚れをした相手に笑われて、第一印象が肝心なのにこれでは、……と思って、次の授業中泣きそうになっていた。
ところが話はこれだけではないのである。明くる日、教室を移動していると廊下に彼女の姿が見えたので、自然私は隠れるように次の授業の教室に入ったのであるが、なんとそこに彼女が、扉の上に頭をぶつけないよう身をかがめて入って来た。しかも私の横の席に座ってくるのである。私は窮屈そうに横へ放り出されている彼女の足の筋と肉の織りなす芸術に見とれつつも、教科書と、ノートと、筆記用具を取り出す彼女を眺めていた。――と、その時、ひらひらと、扇のように大きな手が右へ、左へ。
「こんにちは。今日は間違えてませんよね?」
とくすくすと笑ってくる。
「たぶんね。誰もここに来なかったら、大丈夫だろう」
この時の私はなぜか冷静だった。それでも彼女のくすぐったい笑いに顔を赤くしてはいたが、……
「ふふ、そうなってからは遅いんじゃありません?」
「ま、でも、同じ教科書を出しているあたり、間違ってはいないんだろうな」
「ですね、――」
とチラリと時計を見た。
「自己紹介、……しましょうか」
「だな。でも、その前に、俺に敬語なんて必要ないんだけど?」
いえ、これは癖なので、……と云ってから彼女は自分の名前を云い出した。旧姓は笹川と云う。私はどこそこの中学校から来た者で、地元はあそこで、今はスクールバスで通っている身で、家で飼っている兎がたいへん可愛くて、……などなど意外にも自身のことをたくさん喋る。
「へえ、笹川さんはあの辺りから来たんだ。俺もお爺ちゃんがあそこらへんに住んでるから、よく行くよ」
「それなら、すれ違ってるかもしれませんね。――ところで、笹川〝さん〟はやめてください」
「笹川さんが敬語をやめたらね」
「うぅ、……橘さんのいぢわる。ひどいです。……」
とわざとらしく手を目元にやるので、私はその見た目とは反対のお茶目っぷりに声を出して笑った。
  この日が契機となって、私たちは週に一度だけ、それも10分だけある休み時間のみではあるが、よく話をしたものだった。私の緊張も次第に溶けていって、一ヶ月もすれば、ごく自然に美雪の前で振る舞えるようになっていた。が、彼女の長身ぶりは半端なものではなく、毎回教室をかがんで入ってくるし、普通のボールペンやらシャーペンがミニチュアサイズに見えてしまうし、相変わらず私の頭は彼女の胸元にしか辿り着いてないし、何より足を前に伸ばせば前の席からかかとが出てしまうのには、驚きで目を見開いてしまった。すると美雪はハッとなって足を引っ込めるのであるが、その仕草がまたいじらしくて、辛抱するのも限界であったかもしれない。
当然、彼女の身長については様々な憶測が飛び交っていた。180センチだの190センチだの、はたまた2メートルは超えているだの、何度聞いたことか。一応男子で180センチはある同級生が居たから、わざと並ぶように立ってもらい、それを色々な角度から見て目算で美雪の身長を見積もると云う方法をやったことがある。が、彼女は話している時には下を向くのと、体を使って話そうとするから上手くはいかなかった。それでもなんとか見てみると、182センチの男子生徒の頭の天辺が、彼女の顎程度にしか辿り着いてないのである。ということは、彼女が小顔であることを考慮すると190センチと、もう少しあるぐらい、とにかく190センチは超えている、――という結論に至った。
私はこの話を馬鹿らしいと思いながら聞いて、その実どれほど心を踊らせていたか。たった一ヶ月前には中学生であった女子高生が、男よりも遥かに高い、190センチを超える身長を持っている。……これだけ分かれば、もう夜のおかずには困らない。しかもめちゃくちゃかわいい、奥ゆかしい、麗しい、……
より私の心を踊らせたのは、中学生時代から美雪の友達だと云う女子の話であった。聞くと彼女は小学生の時にすでに180センチ以上あり、ランドセルが背負えないからトートバッグか何かを持って通学していたと云う。それで中学に入ると、身長の伸びは鈍くはなったが、身体測定のたびに先生を驚かせていたから190センチ以上と云うのは確かだと思う。色々あるけど、すごいのはプールの授業の時で、水深1メートル10センチだったから、みんな胸元に水面が来ていたんだけど、彼女だけ股のあたり、――腰にも水面が届いてなかった。笹川は背が高いけど、本当に恐ろしいのは足の長さなんだよ。君も座ってると別にあの子があんなに背が高いとは思わないでしょ? と云うのである。
たしかにその通りである。私は当時、美雪と基本的に話をすると云えば、互いに座ったまま声を交わすことだったから、しばしば目が合ってしまって顔が赤くなるのを感じたものだった。彼女の上半身は普通の、……少し大柄かな? と思う程度、……恐らく原因は豊かな乳房にある、……裸を見ることの出来る今だから云えるが、背が高いとは云っても、少なくとも私よりは細い。……いや、やっぱり胸はちょっと大きすぎるかもしれない。……
それで、だいたい彼女の身長は190センチ台だということが分かったのであるが、あまりにもはっきりしないものだから、なぜか私に白羽の矢が立ったのであった。恐らく私があまりにも楽しげに美雪と話していたからであらう。
「あー、わかんね。たちばなー、お前聞いて来てくれよ」
「えっ、何で俺なんだよ」
「だって俺たちっていうか、1年の男子の中で、笹川と一番仲が良いのってお前じゃん?」
「それは、まあ、自負してるけど、……だけどこういうのはコンプレックスになってるかもしれないから、良くはないだろ」
「けどお前も、もっと仲を縮めたいだろう? ならいつかは聞かなくちゃいけないから、ほら、ほら、行くぞ」
「あ、ちょっと、まっ、………」
と、俺は昼休みの時間、まだ食べ終えていない弁当を尻目に連れ出されてしまった。
とは云っても、他人のコンプレックスになってるかもしれない事柄に口を出すのはご法度であるから、もぐもぐと色鮮やかな弁当を食べている美雪の前に立たされた私は、頭が真っ白になっていた。ニヤニヤと笑いながら見てくる友人には、今思い出しても腹が立つ。
「あ、……」
「うん? どうしました?」
「あ、いや、なんでもない。あー、……こ、今度の日曜にユニバでも行かないか?」
なぜ、デートの誘いになったのかは、私自身も分からない。ニヤニヤと笑っていた友人は口を開けて止まっているし、彼女の周りに居た女子数名もパントマイムのように動きが止まっているし、そもそもの話として教室中がしいんと静まりかえってしまった。なんでこんなことを云ったんだ、今すぐにでも教室から出て行きたい、……そんな思いがあって、誤魔化すように頬を爪でかいていたけれども、美雪だけは、あの柔らかい笑みを浮かべていた。嫌味も嫌悪も全くない、今でも私だけに見せるあの、純粋に好意に満ちた笑みを。
そんな美雪だったから、当然デートには行くことになったのであるが、私としては出来るだけその時の事は思い出したくない。それまで恋愛の「れ」の字も味わったことのない小僧が、いきなり女性とデートだなんて、――しかもほとんど自分の理想と云っても良いほどの体と性格を持っているのだから、それはそれはひどい有様だった。
まず、会話が上手く続かない。彼女が頑張って話題を振ってくれるのを感ずる度に、逃げ出したくなった。実は友人数名がこっそりとついてきていたらしく、あの後かなり揶揄されたのもきつい。それに、歩幅が違いすぎて、始終小走りでなくては彼女についていけなかったのが、何よりも情けなくてつらい。
それほどまでに、彼女の足は長いのである。具体的に云えば、彼女の膝下と私の股下がおおよそ同じなのである。裸足であれば言い過ぎなのであるが、あの日美雪は底のあるブーツを履いており、並んでいる時にこっそりと比べてみたところ、足の長さが倍くらい違う。目線を落とすとすぐそこに彼女の豊満なお尻、……が見えるのはいつものことなのであるが、あの日はタイツかストッキングで包まれた彼女の膝が、ほんとうに私の足の付け根と同じ位置にあった。
デート後半になると、私が息をきらしながら遅れてついてくるので、美雪はとうとう手を繋ごうと提案した。承知した私の手を包む彼女の手の暖かさは、初夏であってもやさしく、一生忘れられない。……が、却って大変であった。彼女は意外と力が強く、疲れて足取り重くなった私の手をしっかりと握って引っ張るものだから、感覚としては無理やりマラソンをさせられているのに似る。グイグイと他の客をかき分けて行く彼女に、けれども手の心地よさを味わいたい私は、無理でもついていくしかなかった。
その様子がどんなものであったかを知ったのは次の日であった。勝手についてきた連中が写真を撮っていたと云うので、見せてもらったところ、――いや、もう忘れたい。お姉ちゃんに無理やり連れてこられた小学生の弟が、手を繋がれてやっとのことで歩いている様子が、……あゝ、今でも時折その写真は見ることがあるのだが、まさに大人と子ども、……周りの人々にそういう風に見られていたと云うだけでも、私はもう我慢できなくなる。違う写真には、私が疲れて下を向いていた時の様子が映し出されていたのであるが、それもむくれてしまった子どものように見える。……私は美雪に嫌われたと思った。せっかくデートに誘ったのに、こんな情けない男と出歩くなんてと、思っていた。
が、彼女は彼女でかなり楽しんだらしい。明くる日のお昼休みにわざわざこちらの教室にまで出向いて、昨日は楽しかったです、お誘いありがとうございました、ところで次はどこに行きましょう? 金曜日に言い合いっこしましょうか。では、ほんとうに昨日はありがとうございました。と云って、呆気にとられているうちに出ていってしまった。
  美雪とはそれからどんどん心を寄せ合って行った。とは云っても、私も彼女も非常な奥手で、弁当を一緒に食べることすら一年はかかった。キスをするのには丸ごと二年はかかった。お互い奥手過ぎて告白というものをせず、自然の成り行きにまかせていたせいなのだが、だからこそ初キスの耽美さは際立っていた。それは私たちが高校3年生に上がる頃だっただろうか、すっかり寒さが和らいで、桜もほとんど散っていたから4月ももう後半と云った頃合いだらう。どうしてキスなどと云うものをしようと思ったのかは分からない、それすらも成り行きに任せていたから。だが、確かに憶えているのはどんどん近づいてくる彼女の唇である。
確か、キスをしたのは階段の踊り場であった。ベタな場所ではあるが、学校の中であそこほど気分を高めてくれる所はなかろう。奥手な私たちにはぴったりな場所である。階段を二段か、三段上がったところで美雪は私を呼び止めた。
「優斗さん、……あ、そのままで。……」
相変わらず「さん」付けはしていたが、その頃にはすっかり、私たちは下の名で互いを呼び合っていた。
「どうした?」
と云っているうちにも美雪は近づいてくる。――不思議だった。いつもは下から見上げる美雪の顔が今では、――それでも彼女は私を見下ろしてはいたが、まっすぐ目の前に見える。
「……目を閉じてください」
いつの間にか頬を、顔を、頭を彼女の大きな手で包まれていた。薄目を開けてみると、もう目の前まで彼女の顔が近づいてきている。あっ、と思った時には唇と唇が触れ合っている。……
頬から暖かい手の感触が無くなったので、目を開くと、顔を赤くしてはにかむ美雪と目が合った。きっと私も同じような顔をしていたに違いないが、その時はもう目の前に居る女性が愛おしくて愛おしくて、このまま授業をサボって駆け出したい気持ちに駆られた。
「さ、早く行きましょう。もう予鈴が鳴りましたよ」
と一息で私の居た段を飛び越すと、こっちの手を取ってくる。
「ああ、そうだな。……」
私はそれくらいしか言葉を発せられやしなかった。
それからの���年間は、美雪との勉強に費やした。もっとも私は教えられるばかりではあったが、そのおかげで、受験はお互い無事に突破できて、お互い無事に同じ大学へ通うことになった。残念ながら大学時代は一つの事を除いて特筆すべき事がまるでない。全くもって平々凡々としたキャンパスライフだった。
さて、その「一つの事」なのであるが、それは何かと云うと、ついに彼女の身長が判明したのである。大学二回生の時の健康診断の時だったのはよく憶えている。私は長い行列に並ぶのが面倒で飛ばそうかと思っていたのだが、朝方下宿先へとやってきた美雪に、それこそ姉弟のように引っ張られる形で、保健センターへと向かった。レントゲンこそ男女別だったものの、血圧身長体重を測る列に並ぶ頃には、私はまた美雪の後ろにひっついて歩いていた。
彼女は相変わらず女神のような存在だった。後ろに居る私は云うまでもないとして、列に並ぶ誰よりも頭二つ三つは突き抜けている。みんな、彼女からすれば子どもである。誰も彼女には敵わない、誰しもが彼女の弟妹でしかない。ただ私だけが彼女の恋人であった。
事が起こったのは私が身長を測り終えた時である。美雪は私を待っていてくれたのだが、ちょうど私たちの間には微妙な段差があって、胸元にあった彼女の診断結果が見えてしまっていたのである。苦い顔をしながら眺めていたから、横から来た私に気が付いていなかったのかもしれない。だが普段は気が付かなかったところで何も見えない。彼女の胸元と云えばちょうど私の頭の天辺なのだから、背伸びをしなければ、何があるのかも分からない。――が、とにかく、その時の私には、小さいカードに刻まれた下から二つ目の数字がなぜかはっきりと見えた。そこには198.8と云う数字が刻まれていた。余裕があったから私のカードを見てみると、167.4と云う数字が刻まれているからきっとそれは身長で、なら彼女の身長は198.8センチ、……もうあと2センチも大きくなれば2メートル、……2メートル、2メートル、………
胸の高鳴りは、しかし保健センターの職員に邪魔をされてしまって、その後教科書を買いに行くと云う美雪に引っ張られているうちに消えてしまった。が、その日私の頭の中にはずっと198.8と云う数字がめぐりにめぐっていた。あの時の、高校生の時の、190センチ以上は確実にあるという話は確かであった。美雪の身長は198.8センチ、多少の違いはあるとしても、成長期を終えようとしている女の子の身長が、そう違うことは無いはずである。ならば、少なくとも高校に入学した時の美雪の身長は195センチはあったはずである。なるほどそれなら182センチの男子が並んだところで、顎までしか届かなかったのも頷ける。扉という扉を〝くぐる〟のも頷ける。自販機よりも背が高いことも頷けるし、電車の荷物棚で体を支えるのも頷けるし、私の下宿先の天井で頭を打ったのも頷ける。私はとんでもない女子高校生と、あの日出会い、あの日お互いを語り合い、そして、あの日恋に落ちたようである。
結婚をしたのは私たちが特に留年することもなく、大学を卒業したその年であった。恥ずかしながら美雪と初めてしたのは初夜だった。服を脱いで、下着一枚となり、私の前であの大きな乳房を隠そうと腕をもじもじさせる彼女の姿は、いつもと打って変わって、まだ年端のいかない少女のものであった。私はゆっくりとブラジャーを取って眺めた。カップの左下にあるタグには65P と云う英数字が並んでいた。天は美雪に何もかもを与えていた。体も頭脳も美貌も境遇も、何もかもを彼女は持っていた。P カップのブラジャーは途方もなくいい匂いがした。私は実際に彼女の乳房に包まれたくなった。美雪は私を受け入れてくれた。乳房のあいだに辛うじて見える私の頭を撫でてくれた。力の入らない私の背を撫でてくれた。私は彼女の恋人でも弟でもなかった。ただの赤ん坊であった。私はいつしか彼女をこう呼んでいた。
「まま、……」
と。――
一度やってしまえば美雪も私も枷が外れたのか、週に一度とか、月に一度のペースではあるけれども、性行為に勤しんだ。殊に嬉しかったのは彼女が私の様々な要望を答えてくれることであった。もうすでにお分かりの通り、長身女性そのものを性癖として持つ私はずっと昔からそういうプレイをしたくしてしたくてたまらなかった。時には男が床でするように、彼女の太ももにモノをこすり付けたり、時には壁際で圧迫されながら素股、――と云ってもほとんど膝のあたりにしか届かなかったが、彼女の乳房の匂いを嗅ぎながら情けなく太ももで扱かれたり、時には上から押さえつけられるようなキスと手コキだけで射精に至ったり、様々な長身プレイを楽しんだ。
特に、私が気に入ったのは美雪の腕力に任せたプレイだった。先にチラリと出てきたのであるが、彼女の力は強い、……いや、強すぎる。もう何度、ひょんなことで体を浮かされたか。朝眠気にかまけて眠っていたら、ふわり。電車で倒れそうになったら、ふわり。性行為の時に「だっこ」と云ったら、ふわり。重くはないのか? と聞くと、優斗さん軽いんだもん、全然重くないよと云う。私も身長こそ167センチで止まっているが、体重は55キロあるから決して軽くは無いはずである。それを軽いと云って、ふわりと持ち上げられるのは驚異的であるとしか言いようがない。
一度、遊びだからと云って、握力計を握らせたことがあった。3000円ほどの玩具のような握力計ではあったが、100キロまで測れると云うので、さすがにそのくらいあれば良いかと思って買ってきたのである。案の定、美雪は全力を全く出してくれなかった。デジタル表示を見ながら、ちょうど25キロか30キロほどで測定を止めて、手渡してくる。ちゃんとして、と云っても笑ってごまかされる。結局その日は諦めて、また機会があればと思って、それっきりになっていたのであるが、数カ月後のある日、部屋の片付けをしている時に件の握力計が出てきたので、そう云えばあの時自分が測ってなかったなと思って握ってみると、なぜかスカスカする。握力計だから、握ると手応えがあるはずだが、……? と思いながらもう一度握ると、やはりスカスカする。不思議に思って適当にボタンを押していると、100、28、31、27、……と云った数字が出てくる。2つ目以降の数字はまさにあの日美雪が出した結果であった。と、云うことは最初の100と云う数字は一体、……? あの日以来、自分はこの握力計には触っていない。それにこの壊れた取手の部分も気になる。……そこで私はある結論に至り、背筋を寒くした。美雪を怒らせてしまったら、一体どうなる。……? 本気で手を握られでもしたら、……? 私の股間は熱くなる一方であった。
だが、彼女の力の強さを実感するに従って、漠然とした物足らなさが私を襲っていた。美雪にその力を存分に発揮させて、己の無力さを味わいたい。行為に到る時、彼女はどこか一歩引いたような風采(とりなり)で私を痛めつけるのである。それは本来美雪の性癖がそっちでは無いからでもあるし、まさか夫にそういうことをするわけにはいかないと云う思いもあるのであらう。赤ちゃんごっこはそこを上手くついてはいるが、やはり彼女にはその力でもって、私を嬲ってほしい。もっともっと、私を蔑んでほしい。……
とは云っても、美雪は完璧な良妻賢母である。何時に家に帰ろうとも起きていてくれて、しかも笑顔で迎えてくれるし、ご飯は物凄く美味しいし、家事は何一つ抜かり無く行うし、夫への気遣いはやりすぎなほどである。私はとんでもない女性を嫁にもらったようであった。毎日が幸せで、毎日が楽しく、充実している。――
  だが、そんな私と美雪のしあわせな結婚生活は終わりを迎えようとしていた。なぜなら、……
「パパ! パパ! 居るよね、聞いて聞いて!」
と娘の詩穂里が、〝腰を折り曲げながら〟書斎に入ってくる。全てはこの娘とのいびつな関係が原因なのである。――
詩穂里が生まれたのは結婚してすぐのことであった。まさかこんなに大きな女性から生まれたとは思えない、小さな可愛らしい存在に、私たち夫婦は胸を打たれた。授乳のためにさらに大きくなった美雪の乳房から母乳を飲む姿は、天使のようにも思える。
詩穂里はすくすくと成長した。それこそ退院時にはすでに同年代の子よりも一回りほど大きかったのだが、美雪が痛がっても母乳を求め続けた結果、離乳期はもとより幼稚園に入る頃には、一人だけ小学生が紛れたかと思うほど、娘は大きくなっていた。妻は、私もそんな感じだったから、別にいじめられていなければ気にするでもない、と云うので見守っていたのであるが、詩穂里とその組の集合写真を見てあろうことか、私は明らかに娘に、――それもまだ小学生にも至っていない女の子に向けるべきでない欲望が芽生えるのを感じた。美雪が撮って見せてくれる写真や動画もまた、かわいいかわいいとは口で云いながらも、その実私はその、他の子と比べて倍はあろうかと云う体格をした娘に股間を固くしていた。
小学生に上がった娘は相変わらず大きかった。他の子と比べるのは云うまでもないが、小学三年生になる頃には男の先生と比べても遜色なくなっていた。その時にはもうすでに身長160センチ近かったであろうか、気がついた時には私も詩穂里に背の高さで追いつかれつつあった。小学生のまだあどけない顔つきが日を追う毎に高くなって行く。……私はこの年になって久しぶりに、負けて悔しいという感情を抱いていた。
結局負けたのは詩穂里が小学四年生のときであっただろうか、立った時にやたら目線が合うかと思いきや、次の週には少し上から、次の月には娘ははっきりと私を見下ろしていた。そしてあろうことか、
「あれ? パパなんか小さくない?」
と云って、自身の頭から手をすっと横へずらしてくる。その手は明らかに数センチは私の上をかすめていった。
「ふふん。パパに勝っちゃった。ほめてほめて!」
「あ、あぁ、……よくやった。……」
私の声はかすれ声となっていた。
「ダメよ。そういうことしちゃ。パパだって意外と気にしてるんだから。ほら、ごめんなさいは?」
「あ、……えと、ごめんなさい」
詩穂里は美雪の云うことは聞くと云った風で、そこには妻の背の高さに対する尊敬の念が含まれているらしかった。
次の年、つまり詩穂里が小学5年生となった時、娘の身体測定の結果を見た私は愕然とした。そこには182.3センチという数字が並んでいた。180センチオーバーの小学5年生、……それが我が娘だなんて信じられやしなかった。
もうその頃には詩穂里は私よりも頭一つ以上は大きく、親子三人で出かけると決まって間に挟まることになる私のみすぼらしさは計り知れなかったことであろう。方や2メートルまであと一歩の美女、方や小学5年生にして180センチを超えた美少女。しかもヒールのあるブーツを履くので、外では二人の身長差はなくなる。……私は小人になった気分で、両者に手を引かれてついていくしかなかった。いや、小人と云うよりは囚われた宇宙人と云った方が正しいか。ある時、公衆の面前で、いきなり詩穂里が手を上げて、
「ほら、お母さんも」
と云うので、美雪も手を挙げる。私はあっさりバンザイの格好になったのであるが、肩に痛みを感じるや、次第に地から足が浮く感覚がする。――
そういう時がもう何度もあった。それに、二人とも、私の耳が自分たちの口の30センチは下にあることを利用して、コソコソとこちらをチラリと見つつ話をするのである。そして大概の場合、私は二人に挟まって、前からは美雪が、後ろからは詩穂里がという風にどんどん圧迫してくるのである。二人の長身美女に挟まれて身動きの取れない男、……想像したくもないが、一体どのように傍からは映っているのであろう。
そんな娘との関係が歪になり初めたのは、このペースで身長が伸び続ければ190センチも軽いと思っていた矢先のことであった。これは私たち夫婦の落ち度なのであるが、どうも夜の営みと云うものを見られたらしい。とは云っても、そんなに重いものではなくて、ただ妻に持ち上げられて背中をぽんぽんと、……要は赤ちゃんをあやすように抱っこされていた光景を見られたらしかった。
だが、小学5年生の女の子にとっては衝撃だったのであろう。明くる日、ちょうど折り悪く土曜日だったから、昨晩の余韻に浸りつつ、ソファに寝転がって本を呼んでいたところ、突然、
「パパ」
「ん? どうした?」
「ちょっと立って」
とニヤニヤと笑いながら云ってくる。手を伸ばして来ていたので、掴んで立ち上がると、
「そのまま立っててね」
と云われる。相変わらず小学���らしからぬ圧倒的な体つきであった。私の背は娘の肩までしか届いていなかった。目線は彼女の胸元であった。神々しさを感じていると、詩穂里は唐突に脇の下に手を入れてきた。そして、気がついた時には、――私は彼女と目が合っていた。
「え、……うわ! しほ、下ろしてくれ!!」
とジタバタと、地につかぬ足を動かすが、娘には何の抵抗もなっていないようである。そもそも私を持ち上げるのに全然力を使っていないようであった。無邪気な声で、
「あははは、パパかるーい」
と私を上下させながら云う。
「や、やめてくれ!!」
「ふふふ、わたし昨日見ちゃったよ。たかいたかいしてあげよっか」
「やめろ、たのむ、詩穂里!!」
「えー? やだ」
私の叫び声を他所に、詩穂里はさらに手を上へ。
「ほーら、たかいたかーい」
「うわああああああ!!!」
脇腹に感じる激しい痛みもあったが、それ以上に、天井に頭をぶつける恐怖の方が強かった。私はとにかく手も使って暴れたが、妻譲りの怪力を持つ娘には全くもって通じていない。
「ふふん、どう? もう一回?」
「や、やめて、……やめてくれ」
「やだ。それ、たかいたかーい!」
それが幾度となく繰り返された。小学生の娘にたかいたかいをされる恐怖と屈辱に私は涙を流しそうにもなっていた。――と、その時、折良く野暮用から美雪が帰ってきたらしく、部屋に入ってくる。
「あら? 二人とも何やってるの?」
「パパにたかいたかいしてあげてるの!」
「そう、ならもっとしてあげてね」
「美雪、……助けてくれ。……」
「優斗さん、実は楽しんでるでしょう? 私はまだやらないといけないことがあるから、もうちょっとしほの相手をしてあげて。大丈夫、怪我しないように手加減はしてくれるから、ね? しほちゃん?」
「うん! じゃあパパ、もう一回行くよー?」
――全く、私はとんでもない女の子を娘に持ってしまったようである。小学生なのに、背は私よりもう30センチ近くは高い、顔は可愛い、力は怪力、……それに生まれつきのサディスティックな性質。……この時、詩穂里にたかいたかいをされながら、私は美雪では満たされ得なかった何かが自分のなかに満ちていくのを感じた。
そして、その感覚は以来、続くことになった。と、云うのも、詩穂里はこの日以来、しばしば私を相手にたかいたかいやら、美雪のように抱っこをして背中をぽんぽんと叩いてくれたりするのである。彼女からするとごっこ遊びの一種なのであろう。体つきこそ大人顔負けなのに、心は小学生のままである。
そう云えば、家族三人で海に出かけた時は特にひどかった。私は沖に出る二人について行ったのであるが、あっという間に足が底につかなくなってしまった。見かねた美雪に引っ張られて抱きかかえられたものの、それに嫉妬した詩穂里に、
「ほら、パパおいでおいで」
と無理やり妻の柔らかい体から引き剥がされる。そして、
「もう、小さいのに無理して出てきて、溺れたら困るでしょ?」
と云う。もはや子供扱いだったが、さらに、
「なら、溺れないように詩穂里お姉さんと一緒に特訓しよう! ほら、まさとくん、手は離さないからゆっくりと浮いてごらん?」
と、本当に泳ぎの練習が始まってしまった。極めつけには、妻と娘よりも私が先にバテてしまって、注目を浴びる中、詩穂里の胸に抱きかかえて海から上がったのである。
公衆の面前で、小学生の娘に抱きかかえられる父親、……もうたまらなかった。私は妻よりも娘の方にすっかり好意が移ってしまった。まだ未発達な詩穂里の乳房を感じながら、その力強さと、その優しさに酔いしれていた。この時はまだ、あんなことになるとは思ってはいなかった。
あんなこと、と云うのはそれから実に一年が経った頃合いの出来事である。詩穂里は小学6年生、春の身体測定では身長はほとんど妻と変わらない193.4センチだと云う。顔つきもどこか妻に似て、おしとやかである。もう私では背伸びをしても娘の肩に届かない。寝る時は湯たんぽにしかなっていない。普段はほとんど子供をあやすような甘い声しかかけられない。
そんな中、私はある日曜日、大学の同級生とちょっとした遊びに出かける予定があって、支度をしていたのであるが、いざ出かけようと自室の扉を開こうとした時、向こう側から勢いよく詩穂里が入ってきた。当然、屈んで扉をくぐる。
「パパ、どこへ行こうとしてるの?」
いつもとは違うトゲトゲしい調子に、私は相手が娘だと云うのに怖かった。
「いや、ちょっと友達とな。……」
「へえ、そう」
「あ、遊びに行くから、……」
「ふぅん? そうなんだ。わたしとの約束よりもパパは友達との遊びを優先させちゃうんだ」
約束、……たしか先週か先々週に詩穂里と一緒に、――思い出した時には遅かった。私は壁際に追い詰められていた。
「ま、まって、それはまた来週、来週に行こう、な?」
「パパ」
「だ、だから今日は、家でおるすば、……」
「パパ?」
「は、はい」
私を追い詰めた詩穂里はどんどんと近寄って来て、一人の小さな男をその体でもって潰そうと云わんばかりに密着してくる。彼女の胸と壁に挟まれた頭に激痛が走り、私は呻き声をあげる。
「やっぱいいや、行ってもいいよ。許してあげる。でもそのかわり、わたしはずっとこうしてるから」
「うがああああ!!」
「あ、思いついた。じゃあ、こうしよう。このままパパがわたしから逃げられたら、約束のこと無しにしてあげる。でも、出来なかったら。……」
「あ、ひっ、うああ!!!」
と私は詩穂里の体を跳ね除けようとしているのであるが、それは約束云々と云うよりも、この激痛から逃れられたい一心からであった。
「ふふふ、よわいよわいパパ。小学生の娘にも勝てないなんて、……ほら、頑張って、頑張って」
と詩穂里は馬鹿にしたように云う。そのうちにもどんどん彼女の力は強くなっていく。
「ね、パパ、今日はさ、わたしと一緒にいけないことしようよ。お母さんには内緒で。あと10分で逃げられなかったら、そうしようね」
と、その「いけないこと」を暗示するように、太ももを私の股間にこすりつける。
もうどうしようもなかった。気がついた時には私は手を取られてバンザイの格好をしていたし、娘の太ももに座るようにして足は宙に浮いていた。抵抗する気なぞ、とうに消えていた。
結局、その日は本当に美雪には適当を云って、大学の友人には子どもが熱を出したと云って、詩穂里とホテルへ向かった。……この先は云うまでもなかろう。彼女の初めてとは思えない手付きや言葉遣いで、私の娘に対する長年の欲望は全て搾り取られてしまった。行為の最中、私に主導権はなかった。ただひたすら、歳の離れた実の娘のなすがまま、存分に嬲られ、痛めつけられ、挙句の果てにはその余りの神々しさに彼女をこう呼んだ。
「まま、……」
と。――
  「パパー? 聞いてるー? 今日ねー、――」
と詩穂里は私の眼の前に腰掛けた。つい数週間前に中学生になったばかりの彼女はもう妻よりも大きい。私からすると二人とも巨人のように見えるのであるが、明らかに詩穂里の頭の方が、美雪よりも高い位置にある。少し前に、とうとうお母さんよりも大きくなっちゃった! と、はしゃいでいたのは記憶に新しい。
――その時、嬉しいことを思い出した。娘は今日、身体測定だと云って家を出ていっていた。
「久しぶりに身長測ったんだよ! 聞きたい?」
「あ、ああ。……」
グイと近づいてくる、詩穂里は、誰にも聞こえぬと云うのに、私だけに伝わるよう耳打ちをする。
「2メートルと、7センチ、……だよ!」
「2メートル、2メートル、7センチ、……2メートル、2メートル。……」
「そんな何度も云わなくていいじゃん。もう、パパはお馬鹿さんだねぇ」
と、云いながら詩穂里は私の体を抱きしめる。
「ね、約束、覚えてる?」
「も、もちろん」
「良かった。ほら、おいでまさとくん」
と私の顔を豊かになりつつある胸元に抱き寄せる。私は彼女に体をすっかり預けて、その甘い匂いに頭をとろけさせた。
「まま、……」
「んふふ、また今夜しようね、まさとくん」
だらりと垂れた私の体を愛おしく抱きしめながら、詩穂里は子守唄を歌った。それは鈴のように美しく、よく通る音色だった。
 (おわり)
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(注)、これは、本編となる別途作成予定ファイルの資料編です。1952年5月1日のメーデー事件から50年以上経った現在も、人民広場における戦闘状況、その前後の様子は、「藪の中」にあります。このファイルは、その真実解明のための第一次資料7篇と解説です。添付地図は4枚とも、『メーデー事件裁判闘争史』にあります。写真9枚は、『昭和史14』(毎日新聞社、1984年、絶版)、『グラフィック昭和史11』(研秀出版、1960年、絶版)、『メーデー事件写真集』(メーデー事件被告団、1967年、絶版)からの複写です。
 〔目次〕
   1、解説(宮地)
       1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
       2、資料編題名『広場における戦闘』 人民広場地図
       3、広場の七人が語る〔真相〕
   2、資料編
     〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
     〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
     〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
     〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
     〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
     〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
     〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
             丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
 (関連ファイル)               健一MENUに戻る
    『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
    八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
 1、解説(宮地)
 〔小目次〕
   1、芥川竜之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
   2、資料編題名『広場における戦闘』
   3、広場の七人が語る〔真相〕
 1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
 この小説と、それを原作とした映画は、平安の乱世、都に近い山科の藪の中で、旅の武士が殺された事件をめぐるストーリーです。そして、その経過をめぐって、7人または4人が、それぞれの視点で語る〔真相〕をそのまま描いて、結論を出さないというユニークな構成になっています。
 『藪の中』の7人が語る〔真相〕 登場人物は、木樵り(きこり)、旅法師、放免、媼(おうな)、多襄丸(たじょうまる)の白状、清水寺に来れる女の懺悔、巫女の口を借りたる死霊です。
 『羅生門』の4人が語る〔真相〕 映画のシナリオは、それらを、多襄丸(三船敏郎)、真砂(京マチ子)、巫女の口を借りた武士(森雅之)、杣売り(そまうり、志村喬)に絞っています
 いずれも、一つの事件について、関係者めいめいが主張する〔真相〕通りに、繰り返し描いています。しかし、かんじんなところでは、全員が食い違っています。人間、誰でも自分をかばうエゴイズムから、どこかで嘘をつき、結局、真実はわかりません。私(宮地)は、気に入った映画を繰り返し観るのがくせで、一番多いのは、エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』の7回ですが、『羅生門』も5回観ました。黒澤明のダイナミックな演出や、宮川一夫の微妙な光と影を写し撮る撮影技術には、その都度引き込まれます。
 1952年5月1日、サンフランシスコ講和条約発効から3日目、米軍占領終結後初の首都メーデー中央集会が、神宮外苑で開かれました。そこから5つのコースでデモ隊が出発しました。そのうち、日比谷公園で流れ解散する予定の中部・南部コースのデモ隊が、人民広場と呼ばれる皇居前広場に入りました。その広場で起きた事件が、メーデー事件です。
 このメーデー事件の〔真相〕については、数百の記事、証言が語ってきました。このファイルは、資料編と解説であり、広場の7人が語る〔真相1~7〕を、結論を出さずに提出します。
 2、資料編題名『広場における戦闘』
 ただ、資料7篇とはいえ、それらの資料選択をした私(宮地)の価値判断をまったく出さずにおくわけにもいかないので、ここに、本編の骨子一部のみを書きます。この内容は、メーデー事件の全体像・真実を描くんだとする、大それた意図に基づくものではなく、私が50年後に主張する〔真相8〕に該当します。私自身を、『藪の中』の8人目として登場させるわけです。その視点は、ソ連崩壊後に発掘された朝鮮戦争をめぐるスターリン・毛沢東・金日成らの膨大な秘密暗号電報・公文書(アルヒーフ)データや、50年間で判明してきた後方基地武力かく乱戦争行動実態資料から、メーデー事件を、ソ連共産党・中国共産党の朝鮮戦争参戦軍事命令に完全従属していた日本共産党の広場突入軍事行動という一側面から捉え直すことです。ソ中両党の思惑とアメリカ「軍」・GHQの動向とを合わせて、国際的視野から、メーデー事件を位置づけることです。その詳細は、本編で分析します。
 それを分析する上で、まず、メーデー・吹田・大須事件などの武装闘争を実践した主体は、徳田・野坂分派という分裂した共産党の一部なのか、それとも、“統一回復”をした日本共産党そのものなのかを、明確にしておく必要があります。1951年10月初旬、宮本顕治は、スターリンの「宮本らは分派」との裁定に屈服しました。国際派とは、スターリン直筆の「コミンフォルム批判」の即時無条件受諾=暴力革命路線への転換と武装闘争即時遂行を強烈に主張したスターリン盲従派だったのです。その国際的隷従体質が、国際���と呼ばれる所以(ゆえん)です。なかでも、宮本顕治のスターリン盲従・崇拝度は、あまりにも極端だったので、中央委員の80%、専従の70%、党員の90%が、彼に反発を抱き、国際派は、まったくの少数分派に転落していました。スターリンは、日本共産党を朝鮮戦争に参戦させ、後方基地武力かく乱戦争行動を展開させるために、もっとも熱烈に自分を信奉してくれている“愛すべき”宮本顕治ら10%少数派を切り捨て、ソ連NKVDスパイ野坂参三と徳田球一らの主流派に軍配を上げたのです。
 スターリン崇拝者・宮本顕治は、やむなく、自分の少数分派=全国統一会議を解散し、主流派・軍事委員長の志田重男に、「新綱領(スターリンが直接書いた51年綱領)を認める」との自己批判書を提出しました。彼の屈服により、反徳田5分派はすべて主流派に屈服・復帰し、日本共産党は、“統一回復”をしました。
 宮本屈服数日後の1951年10月16日、五全協は、軍事方針をさらに具体化し、武装闘争の実践に踏み出しました。それ以後、1953年7月26日の朝鮮戦争休戦協定成立日までの1年9カ月間の武装闘争とは、まさに、ソ中両党の軍事命令に隷従した“統一回復”日本共産党が、朝鮮戦争に参戦した後方基地武力かく乱戦争行動でした。
    『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの動向、宮本顕治のスターリン盲従度
    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』たった8字の宮本顕治の自己批判書
 人民広場とは、皇居前広場のことで、日本国民は、米軍占領下でも、メーデーなどに40数回使っていました。ところが、吉田内閣とGHQリッジウェイ最高司令官は、スターリン・毛沢東・金日成ら3カ国共産党・労働党が仕掛けた朝鮮侵略戦争が勃発すると、その10カ月後の1951年4月27日、その兵站補給後方基地日本における治安維持のために、人民広場のメーデー使用を禁止しました。よって、それ以来、「人民広場奪還」スローガンは、東京・関東地方における正当な国民的要求になっていたのでした。
 一方、アメリカは、日本を反共の永久的な不沈空母基地にするために、占領をやめ、独立させることのほうが上策との東アジア支配・米ソ冷戦戦略に転換しました。そこから、熱い朝鮮戦争最中にもかかわらず、1952年4月28日に向けて、単独講和条約締結の準備を進めました。その日本国内では、ソ中両党が出した朝鮮戦争参戦命令に盲従していた日本共産党の四全協・五全協による武装闘争・軍事方針とその遂行が勃発していました。それだけでなく、北朝鮮系在日朝鮮人45万人と、在日朝鮮人日本共産党員を中心とする祖国防衛隊(祖防隊)が、金日成らによる朝鮮侵略戦争を、祖国解放戦争ととらえて、総決起していました。当時、在日朝鮮人の活動家は、朝鮮労働党ではなく、日本共産党に入党し、共産党中央の民族対策部(民対)の指導下にありました。アメリカ「軍」は、朝鮮半島で、最終的にアメリカ兵3万4千人(アメリカ国防省発表数字)を戦死させる激戦を続けていました。片や、日本経済は、朝鮮戦争特需によって、急速に復興しつつありました。4月28日講和発効後の日本国内治安対策こそ、アメリカの日本占領「軍」と吉田内閣にとって、最重要課題の一つに浮上してきました。なぜなら、まさに、その3日後には、「人民広場奪還」をめざすメーデーが計画されていたからです。政府・警視庁とGHQは、日本共産党が、五全協軍事方針の最大の実践として広場突入軍事行動を決定し、3カ月前から周到に準備し、突入部隊の軍事訓練をしていることを、公安調査や中核自衛隊員・祖防隊員などの中から飼育したスパイ情報によって、刻々とつかんでいました。
    『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階
 1952年4月末時点、朝鮮半島で、朝鮮侵略戦争を遂行しているマルクス主義前衛党「軍」は、朝鮮労働党人民軍10万人、中国共産党人民義勇軍のべ300万人、ソ連共産党空軍のべ1万数千人でした。後方基地にいるソ中両党従属下の日本共産党「軍」は、結成途上でした。それでも、都市部の中核自衛隊500隊1万人、独立遊撃隊、山村工作隊、在日朝鮮人の祖防隊数千人がいました。共産党の軍事指令が浸透する大衆団体には、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組、産別の金属労組、前進座、および、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)などがありました。
 朝鮮侵略戦争を遂行中のソ中両党、および、その完全従属下にある日本共産党北京機関と中央軍事委員会にとっても、1952年メーデー「人民広場奪還」作戦こそは、6カ月前に決定した五全協の軍事方針を実行する最初で最大の後方基地武力かく乱戦争行動会戦に浮上したのでした。アメリカGHQ・吉田内閣・警視庁の7つの方面本部部隊数千人と、ソ中両党・徳田野坂の北京機関・日本共産党軍事委員会とは、それぞれ正反対の思惑を秘めて、五全協後の半年間、メーデー人民広場会戦に向けて、戦争作戦準備と戦闘体制を整え、5月1日、デモ隊鎮圧治安行動と広場突入行動とを激突させたのです。これら準備の詳細については、本編ファイルで分析します。
 しかし、共産党の戦闘作戦は、敵=政府・警察軍と共産党「軍」だけによる人民広場会戦ではなく、メーデー参加の一般国民を、どれだけ、いかに巻き込むのか、それによって首都東京で革命的情勢をいかに人為的に醸成するのかという戦略目的を持つものでした。言い換えれば、共産党は、講和3日後に50万人が参加するメーデーこそ、共産党による一般人民利用の絶好の舞台であると設定したのです。なぜなら、共産党は、最初から、広場突入作戦を、自分たちの共産党「軍」だけでやり、警視庁の7つの方面本部部隊数千人との戦闘をやる意図・計画などをまるで持っていなかったからです。
 5月1日の人民広場における戦闘の参加者と、その比率を確認します。
 第一、共産党系大衆団体を合わせた日本共産党「軍」数千人
 中核となる共産党員部隊は、中核自衛隊、独立遊撃隊、山村工作隊、祖防隊です。党中央軍事委員会が、馬場先門を突入入口とする中部デモ隊に配備した大衆団体は、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員、前進座などでした。そして、祝田橋を第2の突入入口とする南部デモ隊の先頭には、一般国民を広場突入に誘導する目的で、産別の金属労組、都学連一部、北朝鮮系在日朝鮮人組織の民戦2000人を配備しました。さらに、前進座には、陣太鼓10個以上を持ち込ませ、その鳴らし方で、広場突入または一時後退の合図とする指令を、各中核部隊に周知徹底させていました。前進座陣太鼓の後に設置した、広場突入指令のメーデー会場内秘密共産党本部には、東京都内5地区・三多摩地区軍事委員会から、各数名づつの軍事レポ要員(各戦闘部隊への連絡員)を配備しました。表にでる本部代表には、岩田英一を任命しました。
桜田門    二重橋
        馬場先門
 第二、人民広場に入った中部・南部コースのデモ一般参加者2万数千人
 中央メーデー大会参加者は、50万人でした。デモ5コース中、日比谷公園で流れ解散予定の中部・南部コースのデモ一般参加者は、十数万人です。彼らは、東京地裁の使用許可決定が出ているのに、なお人民広場を使用させない政府の対応に怒りを持ち、人民広場奪還の要求を正当と認めつつも、大会実行委員会による抗議声明と広場進入をしないという決定に賛成していました。実力で、広場突入をすべきと考えた一般参加者は、日本共産党「軍」数千人を除けば、ほとんどいなかったでしょう。ましてや、彼らは、軍事委員会の広場突入作戦計画の存在などまったく知りませんでした。共産党の扇動・誘導部隊が突入したので、かつ、馬場先門・祝田橋において、警察が阻止行動を謀略的にほとんど行なわなかったので、自然発生的に人民広場に入ったというのが、一般参加者2万数千人の実態です。よって、警視庁の7つの方面本部予備隊が、警棒・催涙弾・ピストルで、3次にわたる違法な先制襲撃をしてくるなどとは、予想もしていませんでした。その激戦になることを予想し、準備していたのは、日本共産党「軍」数千人だけでした。ただ、違法な襲撃を受けた一般参加者が、それに怒って、投石・プラカードなどで反撃したのは、当然で、正当防衛の行為といえます。
 第三、政府「軍」=警視庁7つの方面本部予備隊4100人
 中部コースからの全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員が、馬場先門から突入しようとしたとき、馬場先門の阻止線に配備されていた警察隊は、450人でした。祝田橋阻止線の警察隊も120人でした。二重橋前の本部でも、210人でした。不思議なことに、馬場先門の警察隊長は、警視庁本部から「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通せ」との命令を受けていました。その裁判証言どおり、彼らは、若干の小競り合いを演技しただけで、さっと左右脇に引き下がって、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員らを、人民広場に“逆誘導”したのです。祝田橋でもほぼ同じでした。
 中部コース隊が、人民広場に入っていった時点で、警視庁は、第3の桜田門から、続々と警視庁第2~第7方面本部予備隊を、広場に投入しました。全体で4千人以上の警視庁予備隊・約28個中隊は、警棒・催涙弾・ピストルなどで、完全武装していました。予備隊とは、現在の警察機動隊のことで、7つの方面本部は、この時すでに、その下に各4個中隊の首都治安維持・デモ鎮圧目的の機動隊を結成・配備していました。そして、警視庁本部の襲撃命令に基づいて、3次にわたる違法な先制攻撃という戦闘を遂行しました。そこでの攻撃対象は、日本共産党「軍」部隊と一般国民との区別をまるでしません。それは、まさに、警察側の全武器を使った無差別テロ襲撃でした。
 政府・警視庁の意図・目的を露骨に示した証言があります。それは、田中栄一警視総監が、事件の翌日5月2日、東京都議会で行なった報告です(『メーデー事件裁判闘争史』闘争史編集委員会、1982年、P.173)。「各署それぞれ自己の勢力によって自衛体勢をとるということを建前にいたしまして、予備隊その他メーデーに直接関係のある、あるいは出発地、あるいは開催地などの署員を合算いたしまして、大体四千百名の勢力によってこの五つのメーデーを取締りするという計画を立てたのであります。そして皇居前広場にこれを導入いたしまして、やがてこの五つのメーデーが逐次解散をするとともに勢力を引き上げまして皇居広場にこれを注入いたしまして、そしてこの大集団を処理するという予定を立てておったのであります。ところがこのメーデーの行進がきわめて迅速であり、またそうしたために勢力を集中することが時間的に若干ずれが生じました」。
 これは、政府・警視庁の意図と具体的な広場戦闘作戦が、「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通」し、「皇居前広場にこれを導入」し、「四千百名の勢力を、順次、皇居前広場に注入」し、「この大集団を処理するという予定」だったことを、翌日、誇らしげに報告したものです。彼らは、共産党「軍」の明白な朝鮮戦争後方基地武力かく乱戦争行動の目的とは別個に、講和条約発効3日後のメーデーにおいて、人民広場突入会戦を仕掛けた側を、わざと皇居前広場に導入しておいてから、完全武装の警視庁「軍」の3次にわたる先制攻撃によって、無差別の集団処理をし、それを通じて、日共の戦争犯罪を国民の前に暴露し、同時に、日本の治安体制を、独立3日目から一挙に打ち立てようという壮大な目的に基づく人民広場会戦にしたのです。
 彼らは、警視庁本部に刻々と入る公安・スパイ情報を分析しながら、共産党「軍」が広場突入軍事作戦を決行してくれることを逆手にとり、首都の治安確立をし、かつ、警察予備隊=機動隊28個中隊に暴徒鎮圧大戦闘を初めて実体験させる上で、願ってもないような絶好のチャンス到来であるとして、待ち構えていたのでした。
 さらにもう一歩踏み込んだ別の言い方をすれば、日本共産党「軍」は、広場突入会戦において、一枚上手の政府「軍」のわなに見事にひっかかったといえます。なぜなら、メーデー事件の全経過を見ると、政府・警視庁は、警視庁隊4100人を待ち伏せさせ、共産党「軍」を、2つの門の阻止線を空にして、人民���場に突入させるという逆誘導をしておいてから、解散警告なしに警棒を使った第一次先制襲撃をしたのです。そして、桜田門側から続々と注入した新武装部隊による催涙弾・ピストルを使った第二次包囲殲滅・広場追い出し襲撃に移行し、さらには広場外へも大追撃戦を展開して、大量逮捕の第三次掃討戦闘を遂行するという、3段階にわたる緻密な戦闘作戦を、事前に持っていたと推定できるからです。
 それにたいして、志田ら共産党軍事委員会は、広場突入後の敵の出方、敵「軍」が3段階にわたって、日共「軍」殲滅作戦をするのではないかという想定をまるでしないままで、一般国民2万数千人を、“自分たちの戦争”の道連れにしたのではないかと推定できます。
 戦争において、敵「軍」の侵略・突入作戦計画を事前に十分知りつつ、敵「軍」をして、先に戦争を仕掛けさせておき、国際・国内世論を味方につけ、それから、完璧な戦争システムで“正義の反撃戦争”に進むという手口は、アメリカ「軍」が得意とする常套手段です。第1のケースは、日本海軍によるパールハーバー突入・奇襲攻撃です。ルーズヴェルトが、日本「軍」の暗号電報解読などで事前に知っていて、突入をやらせ、「Remember Pearl harbor!」で、アメリカ世論を参戦に転換させる謀略作戦をとったということは、今や常識に近いでしょう。第2ケースは、スターリン・毛沢東・金日成の共謀による朝鮮人民「軍」10万人の38度線突破侵略戦争です。トルーマン・マッカーサーが事前にその情報を得ていて、先に侵略をやらせたことについては、萩原遼が『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋社)で、アメリカ側データの分析により、完璧に論証しました。
 メーデー事件当日は、朝鮮戦争の真っ最中であり、かつ、3日前まで、アメリカ「軍」が日本を軍事占領していました。吉田内閣・警視庁だけでなく、GHQも、アメリカ「軍」がたたかって、5万人ものアメリカ兵が最終的に戦死した激戦状況において、日本共産党「軍」の広場突入作戦が、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動であり、かつ、それは、ソ連共産党・中国共産党による日本共産党への軍事命令に基づく一大会戦の性格を持つことを認識していました。そもそも、敗戦後40数回も使用してきた人民広場を、朝鮮戦争勃発の10カ月後に、使用禁止の占領軍命令を出したのは、GHQです。GHQは、人民広場使用または突入の政治的軍事的意味を、もっとも正確に理解していました。したがって、このメーデー事件めぐる動向は、アメリカ「軍」の常套手段としての第3のケースになるというのが、国際的視野から見た私(宮地)の見解です。この事件の背景には、GHQと政府・警視庁トップらによる、朝鮮戦争がらみの共同謀議が、メーデー当日前に成立していたと判断できます。
 占領・行政・反乱鎮圧体験を豊富に持つ米日権力「軍」にたいして、日本共産党「軍」は、ソ中両党の完全従属下にあり、敗戦7年後で戦争拒絶の国民意識を自主的に分析する能力に欠け、中国共産党「劉少奇テーゼ」という植民地型の人民解放戦争スタイルを、発達した資本主義国日本でやれとの毛沢東・劉少奇の軍事命令に盲従した軍事方針で立ち向かったのです。人民広場における武器量・武装力の違いだけでなく、広場突入会戦の戦略・事前作戦計画・相手方の情報収集戦の段階から、共産党「軍」は、敵の出方のわなにはめられていたといえます。メーデー事件に関するGHQレポートが、アメリカ政府・国防省に送られ、保管されているはずです。それが発掘されれば、『藪の中』の真実解明に一歩近づくでしょう。
 3、広場の七人が語る〔真相〕
 以下の七人(組織)以外に、マスコミ報道、映像、メーデー参加者の発言、裁判における検察側・弁護側証人の証言、第一審・二審判決文という資料が膨大にあります。それらの内容は、概況的なものから、各個人の断片的な体験記など、それぞれ数百人が語る〔真相〕です。その中から、このファイルでは、広場の七人が語る概況的な〔真相〕のみを、資料編として抽出します。
 ただ、芥川龍之介も黒澤明も、各自が主張する〔真相〕のうち、いずれが「真実」なのかを結論づけず、多面的な視点をそのまま提出して、小説・映画を終えています。『羅生門』の視点は、日本国内上映当時、不評でした。それにもかかわらず、ヨーロッパ近代個人主義の風土において、1951年、ベニス国際映画祭グランプリをとったのは、各自が主張する〔真相〕と、事件の「真実」とは異なり、真実は『藪の中』にあり、そのいずれかを絶対的真理と断定することを拒絶するという相対化思考がありました。メーデー事件は、この受賞の8カ月後でした。
 私(宮地)も、メーデー事件から50年以上を経過した現在、別ファイルの本編において、〔真相8〕宮地健一『メーデー事件における広場突入軍事行動―志田・宮本が隠蔽した裏側の真相』を書いて、藪の中の「真実」解明の一員に参加する予定です。
 2、資料編
 〔小目次〕
   〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
   〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
   〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
   〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
   〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
   〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
   〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
           丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
 〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他
 (注とコメント)、これは、共産党中央委員会発行の非合法機関誌『国民評論40号』(1952年7月1日)に、軍事委員メンバーが、ペンネーム大橋茂で発表した論文です。この全文を捜しましたが、私(宮地)の手元にまだありません。よって、大井廣介『左翼天皇制』(ぺりかん社、1976年、絶版)に載っている抜粋文(P.104~108)の全文を転載します。他1篇は、同じく、非合法機関誌『組織者11号』(1952年6月1日)に発表された論文の一部で、大井著書(P.108)にあります。この論文は、日本共産党が、広場突入を、まさに人民広場戦争と位置づけていたことを示す証拠文書であり、その内容は、共産党「軍」側が描いた広場突入会戦の生々しい戦記レポートといえます。
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 『メーデー事件の軍事的教訓』 『国民評論40号』
 中核自衛隊、行動隊による宣伝は会場内の空気を変え、全大衆を人民広場へみちびく雰囲気をつくりあげた。……このメーデー事件の全体をつうじて行動隊の宣伝活動がひじょうに大きな役割をはたしている。(中略)
 ○時四十分にデモがはじまった。中核自衛隊、行動隊等は大衆を人民広場へ導くために全力をつくした。日比谷にむかう南部、中部デモ隊のほかに、渋谷にむかう西部デモ隊は七千が渋谷へ、一万二千が人民広場へむかった。北部でも、愛労に指導され新宿にむかうものと人民広場へむかうものとに別れた。……デモ隊はアメ公帰れ、吉田を倒せ、戦争反対等のスローガンを叫び、自由党本部前では石を投げて攻撃し、パトロールカー、首相官邸前交番等へも石による攻撃を行い、革命的に行動した。(中略)
 この大衆の人民広場への行動を弾圧するために、敵は周到な計画を立てていた。かれらは日比谷交叉点、GHQ前、丸ノ内署前に、丸ノ内署長の指揮する約三百名の警官を待機させ、馬場先門には三田署長の指揮する水上中隊、祝田橋入口には高輪中隊、桜田門には小田小隊等総数二百をあて、そのほか第一方面予備隊三箇中隊を出動させていた。それらの部隊ではデモ隊をそ止しえないことは明らかである。
 かれらの計画は、この少数の警備隊によって、デモ隊を人民広場の中央にゆう動し、ここで包囲攻撃をすることにあった。かれらはそのために、第三方面予備隊四箇中隊、第四方面予備隊四箇中隊、第五方面予備隊四箇中隊、第六方面予備隊四箇中隊、第七方面予備隊三箇中隊を人民広場の周辺に待機させていた。しかも、これらの部隊には、ガス班長の指揮する約十名単位のガス班も数十組も組織していた。
 デモ隊は、二時二十分頃日比谷交叉点および馬場先門で警官隊と小ぜりあいを行ない、この警官網を突破して馬場先門から二重橋前に到着した。ここで大衆は万歳を叫びアカハタをたてた。大衆は大会を開き、解散する準備をはじめていた。ところが、敵は皇居警護官約百名、第一方面予備隊三箇中隊、三田署部隊約二百名の他に、さらに第七方面三箇中隊を増強し、これを一つに集中した。かれらは乱暴にもコン棒をふるって攻撃を開始した。大衆はこれを二重橋前に押しつめた。敵と味方の間隔は数米しかない状態だった。
  
 この対峠したなかで、デモ隊から「さがれ」という号令を叫ぶものがあった。大衆はうねるようにしてさがった。官憲は前進してきた。すると大衆は、これを引きずりこみ、プラカード等で攻撃を加えた。あわてた敵の指揮官は「警官隊さがれ」と叫ぶ、敵が後退する。デモ隊はふたたび包囲環を縮めた。このような前進と後退が数回くり返された。そのたびに敵は打撃を受けた。これはまったく創意的な戦術だった。
 しかし、この時期は戦術的にはもっとも重要な時だった。敵の兵力は約九百、味方の行動実勢力は約五千とみられる。しかも敵は動揺し、味方の志気はたかかった。したがって、ここで集中した敵の力を分散させ、これを個別的に攻撃することは可能だった。ところが、この有利な条件を戦術的に運用することがなされなかった。弱い敵の集中にたいし、味方の体制も密集体形から変化させることができなかった。この結果敵はだいたい八十名よりなる一箇中隊を単位に最後まで組織的に行動することができた。かれらは全滅する条件にさらされ、指揮官自身があわてて発砲するようななかで、部隊として大きな被害を受けなかったのである。
 いま一つ味方の弱点は、全体がデモ隊のなかに解消し、予備行動のための強固な遊撃部隊を組織していなかったことである。このために、敵の弱点を機動的に集中的に攻撃することができず、また敵の増強部隊にたいしてそなえることができなかった。
 包囲された敵は、不法にも拳銃を発射し、ガス弾を使用した。第一方面の長岡第二、永井第四部隊が攻撃の主力になっていた。かれらはこの時五十発のピストルと六十八個のガス弾を使っている。デモ隊は勇敢にもガス弾を投げ返し、敵に損害をあたえたが、全体としては相当の犠牲を受け後退した。この後退した場合も敵を引きこみ、包囲することは可能だったが、密集体形のまま祝田橋通りを挟んで敵と対時した。この戦闘において味方の弱点は味方の部隊を大きく動員し、敵を包囲する体制に指揮することができなかったことである。
 この対峠したなかで、デモ隊は敵にたいして、「お前達は何しに来たのか」「泥棒をつかまえろ」「アメ公の番犬」「どちらが悪いか考えてみろ」「税金つぶし」などと叫んで攻撃を加え、敵にたいする憎しみをバク発させていた。敵がコン棒を振るとデモ隊は石を投げて攻撃した。敵のなかからも「片っぱしからつかまえろ」「あいつをやれ」など号令をかけてきた。とくに、四十歳位の頭髪の薄い指揮官が六尺棒を振って大衆をなぐりながら指揮していた。見物している者もこの官憲の残酷さにあきれ、全体がデモ���を支持していた。見物の大衆のなかから官憲にたいしてバ声や石つぶてが飛んでいた。先遣デモ隊は人民広場に入ってからこの時まで約一時間にわたって勇敢に闘い抜いたのである。このことは国民武装の可能性を事実によって示した。(中略)
 先遣デモ隊がガス弾ピストルの攻撃を受け、祝田橋通りへ後退しつつある時、中核自衛隊の一部は後続デモ隊に急を知らせるために走った。後続デモ隊でも「人民広場へ」「仲間を孤立させるな」が大衆の声となった。社会民主主義者はこの大衆を押え先頭の速力をおとして先遣デモ隊を孤立させようとした。しかし大衆はかれらをツルシあげながら三時二十五分頃から続々と祝田橋を渡り人民広場へ入った。広場の大衆は熱狂してこれをむかえた。新しい部隊を加えてデモ隊は馬場先門通りをはさんで大きく二つの群に別れた。この時、敵もまた増強しつつあった。先ず第六、第七、第三各方面予備隊七箇中隊が桜田門より入り、第一方面予備隊と合流した。大衆は再び体勢を整え、風上へ風上へと向いながら二つの群が一つとなり敵を二重橋前に圧迫した。これによってデモ隊は第二の勝利をかちとった。この闘争の中で最も重要と思われる時機をつかんだのである。しかし、誰も敵を圧迫した重要なこの時に更に何を行なうべきかを大衆に示すことが出来なかった。デモ隊を指揮していた人々も、この瞬間に何をやるのか決断がつかず躊躇した。従って、大衆の意志と行動を一つの方向にむけることができなかった。この結果大きな戦術的な行動を組織する機会はにげ去ってしまったのである。
 この時敵の兵力は、予備隊十五箇中隊を主力とする約千五百、味方は敢闘して結集しているもの約一万、同調的なもの約二万合計三万とみられる。従ってここで開いながら革命的な大会を持ち、解散することも不可能でないし、これを妨害し、攻撃する敵を第一回に敵を圧迫した時と同じように分断して攻撃することも可能であった。ところがこの大きな機会を失ない味方を守勢に立たす危険に陥ったのである。この闘争全体を通じてこの高揚した大衆を指導する能力と体制に欠けていた。これが決定的な弱点であった。この弱点をすくったのは、大衆の革命的な行動であった。敵は、再びガス弾とピストルでもって攻撃を開始した。中核自衛隊を中心とする大衆は、この攻撃に勇敢に抵抗した。石、プラカード、旗竿等を武器にして、敵を引きこんではこれを打ちのめし、反撃しては敵に打撃を与えた。敵も味方もここで大きな犠牲を出した。この闘いの中で見物に集まった大衆の数は数万に及び、益々増えつつあった。この大衆もデモ隊に声援を送った。
 敵は祝田橋を占拠し、大衆とデモ隊を断ち切り、デモ隊を包囲する作戦であった。そのための行動が数回にわたってくり返された。しかし、これは成功しなかった。この包囲をゆるさなかったのは、デモ隊の勇敢な攻撃力と祝田橋から馬場先門に及ぶ見物している大衆の圧力であった。デモ隊は敵のピストルと闘いながら祝田橋通りを通り抜けようとする占領軍の車輌にもしばしば攻撃を加えた。味方は一つの密集部隊として攻撃しているのに対して敵は一箇中隊を単位として行動していた。このことは敵の弱勢を補った。この戦闘中に敵は更に第三方面四箇中隊、第四方面四箇中隊、第五方面四箇中隊、その他参議院警備中の予備隊等約十三箇中隊を増強した。その他四時過ぎには、各署から召集されたもの約二千名が加わった。この部隊を大きく横隊に組み両翼と中央の三方面から圧迫を加えてきた。大衆は、これを三回はね返した。
 四時十五分頃デモ隊から流れでた一部が、日比谷公園側で占領軍の乗用車を襲い、これに火をつけた。これは、人民広場事件の政治的な性格を最もあざやかに示したものであり、大きな意義ある出来事だった。しかもこれは人民広場の中で闘っているデモ隊にとって行動の新しい方向を示したことになった。敵の圧迫によって、デモ隊の一部は祝田橋から電車通りへ退却した。これに続いて全デモ隊が見物の大衆に擁護されながら馬場先門と祝田橋から街頭に流れ出た。敵は残虐にもこの後退するデモ隊を背後からねらい打ちにした。特に見物の少い馬場先門寄りで最も残虐な攻撃を加えた。このためデモ隊には多くの犠牲者が出た。
 占領軍の乗用車を焼きはらった経験は、すぐ一般化した。大衆は十五人位が一組にたり、次々と車を倒し、流れるガソリンに火をつけた。このため祝田橋から日比谷までの間に、米軍の自動車十三輌、警察の白バイ一台が焼きはらわれた。この事件の全体で八十三輌の事輌を襲撃している。もえあがる車輌を消火するために、丸ノ内、有楽町、永田町をはじめ各消防署から二十台の消防車と米国消防隊三隊が出動した。しかし大衆はこれを妨害し、ほとんど到着させなかった。デモ隊は丸ノ内一八二中隊の消防車を破壊し、中崎署長、長井司令補等十名をたたきのめした。有楽町一八二中隊のホースはほりに投げこみ、五中隊のホースは切断した。
 この人民広場の事件で、敵は危篤四名・重傷七三名・軽傷七四三名・占領軍の負傷者四名と発表している。味方の死者、負傷者等正確な数字はわからないが千名近くにおよんでいる。この大闘争の中で国民救援会は大きな役割を果した。救援会救護班のトラックは、プラカードを立てて、ガス弾とピストルの飛ぶ中で負傷者を収容し、病院にはこんだ。見物の大衆は、カンパを行なってこの救援活動を援けた。
 街頭に流れ出たデモ隊の一部は、日比谷公園や三信ビルの横に結集し、ここで小さなしかし鋭い闘いをくり返した。それは夜八時過ぎまでつづいた。(中略)
 米帝と吉田の一味共は、この事件によって新しい敗北をなめた。これは全世界の平和勢力を勇気づけ、新しい国際的な実力闘争のノロシになろうとしている。日本の労働者階級は、この闘争によって、勝利の確信を固め、武装行動を目指す実力闘争を前進させつつある。この実力闘争、武装行動に守られ、広汎な国民の民族解放民主統一戦線は前進しつつある。われわれは、この闘争をいろんな角度から分析し、戦術的にも幾多の教訓をくみださねばならない。それによって発展しつつある闘争に役立てることが必要である。
 『人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について』 『組織者11号』
 日比谷公園の市街遊撃戦は前後三時間に亘って行われた。敵はジリジリと押してき、遂にその一角をすて日比谷映画附近から有楽町に至り、解散後も全都的に行われたものである。この闘争では、完全に敵をホンローした。敵はつかめないデモ隊に極度に神経を疲らせ、日比谷では映画見物帰りのアベック二組がなぐり倒され、中年婦人が意識不明に陥り、大衆の罵倒の的となった。(中略)
 当夜デモ隊側でつかんだ彼我の損害は次の通り、
 警官死亡三(うち一名は丸の内久保次席)重傷二八、負傷五三。堀へ投げこまれたもの六。ブル新カメラマン一名のばさる。
 アメ兵、水兵二名、GI一、ガード一、堀へ投げこまる。高級車炎上十台、日比谷~馬場先門~都庁前のもの軒なみガラス破カイ。アメ公大型バスガラス破カイ(三台)。
 自由党本部、明治ビルガラス破カイ。
 デモ隊側死亡-都庁高橋正夫氏、東大一、法大一、をふくむ五名。うち一名はMPに射殺(当夜国救しらべ)。負傷者約三〇〇名(重傷多数を含む)。
 〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他
 (注とコメント)、これは、警察庁警備局『戦後主要左翼事件・回想』(1967年、絶版)に載っている17事件の一つの「メーデー事件の概要」全文(P.132~134)です。別に、回想として、警察官3人の手記があります。それらの内容は、広場にいた警察官側からのメーデー事件です。共産党「軍」側から見れば、警視庁「軍」は敵であり、警察側から見れば、共産党「軍」と一般参加者は暴徒となります。他一篇は、警察文化協会『戦後事件史』(1982年、絶版)第7章「日本の独立―破防法の成立」にある「血のメーデー・検察側の見解」(P.362~367)です。
 ただ、警視庁・東京地検側の『メーデー騒擾事件の総括』に関する極秘文書があり、そこには、メーデー事件裁判でも隠蔽した詳細なデータや、公安・スパイ情報が含まれているはずですが、現在まで、外部に漏れていません。これが、発見されれば、『藪の中』の「真実」にぐっと近づくのですが。というのも、『吹田・枚方事件の総括』に関する大阪府警・大阪地検の極秘文書が漏れ出て、枚方事件被告の脇田憲一が入手し、その秘密データも含めて、『吹田・枚方事件』を執筆・出版する予定になっているからです。
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 『皇居前メーデー騒擾事件』
 昭和二十七年のメーデーは、日米講和条約発効後初めてのメーデーであったが、当時は、破壊活動防止法反対闘争直後のことであり、また、朝鮮人団体は出入国管理法実に強く反対していたなどの情勢に加えて、厚生省が皇居前広場の使用を禁止したことなどもあって、革新系諸団体の気勢が大いにあがっていた。
 大会は、午前十時三十分より明治神宮外苑において約一五万が参加して行なわれ、午後零時十分閉会、ついで五コースに分かれて会場を出発し、デモ行進に移った。当初、北部コースに編入されていた日本共産党員、学生、朝鮮人ら約三、〇〇〇人は、デモ出発の直前、急にコースを変更し、日比谷を解散地とする中部コースに加わってその先頭に立ち、途中、各所で投石やジグザグ行進などを行なって日比谷公園にはいった。
 その後、この梯団は、気勢をあげながら皇居前広場をめざして不法デモに移り、これを阻止しようとした警察部隊に対し、竹槍(やり)、こん棒をふるって阻止線を突破し、さらにGHQ(連合軍総司令部)前で自動車一九台を破壊するなど、暴徒と化し、一気に皇居前広場に殺到した。さらに、三々五々、皇居前広場にはいった者もこれに合流し、暴徒の数は約四、〇〇〇人に達した。
 午後二時三十五分ごろ、各所に配備されていた警察部隊は、急拠、二重橋前に転進集結し排除に当たったが、暴徒は、激しい投石を浴びせ、竹槍、こん棒などをふるって部隊に突入し、ついにけん銃を強奪するという事件にまで発展した。このような状況から警察側は、催涙ガスを使用するなどしてこれが鎮圧に当たり、遭遇戦さながらの状況を呈するに至ったが、暴徒の圧倒的勢力に押され、警察官に多数の重傷者が続出したため、やむを得ずけん銃を発射してこれを威嚇し、午後二時五十五分ごろ、一応、祝田橋通りまで制圧した。
  
 一方、同時刻ごろ、南部コースの先頭梯団にいた朝鮮人約二、〇〇〇人が、日比谷公園から皇居前広場へ向って殺到し、祝田橋でこれが阻止に当たった警察部隊四八人全員に重軽傷を負わせてこれを突破し、さきの暴徒と合流した。このため、暴徒の数は七、〇〇〇から八、〇〇〇人となった。膨張した暴徒は、ますます気勢をあげ、竹槍を構えた朝鮮人約二〇〇〇人を先頭に激しく投石を加えながら攻撃をかけてきたので、警察部隊は、再度、催涙ガスを使用して、一せいに前進、制圧を加え、彼我(ひが)入り乱れて激しい攻防を展開し、ついに午後四時十五分ごろ暴徒を皇居前広場から排除した。
 排除された暴徒は、付近に駐車中の外国自動車および警察車両十数台を次々に破壊、または放火炎上させ、日比谷公園内外および有楽町駅付近、馬場先門外等の各所において小部隊の警察官を襲い、重軽傷を負わせるなどの残忍な暴力を振るい荒れ狂ったが、午後七時ごろに至ってようやく平穏に復した。
 メーデー騒擾事件における被疑者の逮捕は六九三人にのぼったが、一方、警察官も八三二人が負傷(生命危篤八、重傷七一、軽傷七五三)したのである。
 『血のメーデー』 検察側の見解
 計画的に会場から 先鋭分子が誘導 秘密会議で決定
 皇居前事件について佐藤検事総長は、「デモ隊がコン棒その他をもっていた点などからみて、一部のものの計画的犯行だと思う」むねを語っているが、検察当局はこの事件を左翼先鋭分子の仕組んだ“計画的暴行事件”の色彩が強いとみている。ではデモ隊の一部はどのようにして“デモ終点”の日比谷公園から皇居前広場へ誘導されたか――以下は当局の調べ、目撃者の話などから総合したそのいきさつである。
 ○警視庁の情報では、今回の事件は去る二十九日、東京工大内で日共系先鋭分子により秘密のうちに決定された予定の行動だという。それによると、同日午前十一時から午後六時の間に同大地下食堂で日共系青年祖国戦線の主催により「反戦権利擁護労働青年全国会議」が開かれ全学連、祖防隊、民青など四十四団隊、七十五名が集って「人民広場を労働者の実力をもって奪取しよう」との決議を行い、全国の日共系先鋭組合と各種団体に指令したという。
 ○この指令を裏書きするように、この日、外苑の中央会場では午前十一時半すぎ、組合代表の演説が後二、三人で終ろうとするころ、共産系組合員、全学連、日傭労務者とみられる一群の約二百名が中央ステージに殺到「人民広場へ行こう」と騒ぎはじめた。重盛議長が「この度は統一メーデーだから統一的行動をしよう」と説得に努めたが、聞き入れられず、演壇は一時、この一群の人たちに奪われ混乱した。しかし、日共幹部の岩田英一氏が両者の間に入って代表に一席演説させることで混乱は収まり、式は終了した。
 ○かくて〇時二十分、デモ行進に移ったが、この時に学生、朝連系団体とみられる一群は、外苑の道路にピケラインを張って「人民広場へ行こう」とアジリはじめた。渋谷コースを行進していた西部デモ隊のうち学生を主力とする約二百名の一団は、これと呼応するように、青山四丁目角に差しかかると隊列をはなれ、日比谷の方向へ転進、日比谷コースを進んでいた中部デモ隊も赤坂表町付近にさしかかったころ、全学連の約五千名がデモ隊の先頭を追い越して口々に「人民広場へ行こう」と叫んだので、デモ隊の足並みは乱れてきた。
 ○虎の門コースを進んでいた南部デモ隊も文部省にさしかかった午後一時半ごろ金日成氏の肖像をプラカードにかかげていた北鮮の一隊が「人民広場へ」と叫びつつジグザク行進に移り、警官隊と小ぜり合いを演じ、外人乗用車に石を投げたりしはじめた。このころ中部デモ隊も永田町付近で自由党本部に小石を投げ、正面窓ガラスを破ったが、先鋭分子ははじめから小石をポケットに相当用意していたと見られるという。
 ○赤坂表町付近で行進の先頭に抜けがけして行進のイニシアチブを握った都学連、北鮮人、日傭労働者などの一群は、二時ごろ日比谷公園に入ると一応音楽堂付近に集った。この時十五、六のグループに分れて整列していた全学連の五、六番目に並んでいた「民主青年西部地区」というプラカードの一隊が「人民広場へ行こう」という叫びをあげた。これをキッカケに、デモ隊はドッと公園外に流れ出し、馬場先門方面へと濁流のように押して行き、これが時間の経過とともに、ふくれ上がって行ったのである。
 正しく血のメーデーとなってしまった。働く者の祭典であるはずが、暴行集団となってしまったことは、世界中の電波に乗った。中でもアメリカ人にすれば恩を仇で返される思いがしたことであろう。メーデーの歴史を汚した事件として記録されている。
 〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』
 (注とコメント)、これは、メーデー事件裁判闘争史編集委員会編の822ページの大著(白石書店、1982年、絶版)から、事件の概要を書いた「序章」(P.12~16)の全文転載です。事件・裁判記録については、被告団長岡本光雄『メーデー事件―昭和史の発掘』(白石書店、1977年、絶版)があり、そちらでも事件概要を詳しく書いています。いずれも、被告・弁護団側からのメーデー事件と裁判闘争史です。検挙1232人、騒擾罪起訴被告261人でした。上記の解説でのべましたが、さらに区別すれば、これは、4種類の被告からなっています。
 第一、広場突入軍事命令を遂行した日本共産党「軍」メンバーです。広場に入った3万人中、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・山村工作隊員・日本共産党員である北朝鮮系祖防隊員や���それらが突入の指導をした大衆団体は、数千人います。しかし、被告261人において、彼らが何人いるのかは、共産党が公表しないので、分かりません。日本共産党は、広場突入軍事作戦計画の存在を、裁判開始時も、六全協後も、全面否認しました。日本共産党は、共産党員被告だけのグループ会議を秘密に開き、否認を指令しました。共産党「軍」の被告も、その軍事方針については、党中央命令に従って、完全黙秘しました。よって、広場突入軍事命令を出した党中央軍事委員は、誰一人逮捕も、起訴もされていません。
 第二、共産党「軍」以外の共産党員で、たまたま人民広場に付いて行き、警視庁「軍」の3次にわたる違法襲撃に怒って、反撃し、逮捕・起訴された被告です。共産党中央委員会は、第一と第二の比率を当然知っています。なぜなら、共産党中央委員会・党中央法規対策部は、共産党員被告の秘密グループ会議を、20年7カ月間の裁判過程で、何回も招集しているからです。もちろん、被告団の共産党細胞指導部(LC=Leader Class)も、党中央法規対策部員と共産党員弁護士・国民救援会細胞とを合わせて、結成し、裁判対策を、一般被告団会議の前に決定していました。この裁判グループ細胞結成は、吹田事件・大須事件においても、常識です。
 第三、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)2000人と祖国防衛隊員(祖防隊員)たちで、逮捕された131人の内、起訴された日本共産党員です。彼らは、金日成らが仕掛けた朝鮮侵略戦争を祖国解放戦争ととらえ、朝鮮民主主義人民共和国国旗を先頭に、人民旗数百と金日成の写真プラカードを掲げ、第2の広場入口である祝田橋の先頭部隊の一つとして突入しました。彼らは、1955年の六全協まで、日本共産党員でした。同時期に、民戦は、朝鮮総連に組織転換し、それとともに、在日朝鮮人日本共産党員は、離党し、朝鮮労働党に入党し直しました。日本における朝鮮労働党組織は、学習組(がくしゅうそ)になりました。朝鮮総連も学習組も、本国の朝鮮労働党の直接指令を受けます。よって、1955年以降、メーデー事件裁判被告団は、その中に、朝鮮労働党員被告を含み、彼らは、朝鮮労働党の指導下で行動しました。
 第四、共産党の広場突入「軍」に扇動・誘導されて、人民広場に自然発生的に入り、警視庁「軍」の3次にわたる無差別襲撃を受け、それに怒って反撃したが、広場突入作戦などまるで知らなかった一般参加者2万数千人の中で、逮捕・起訴された被告です。261人中、これら4種類の被告の比率は、共産党軍事委員会と六全協後の野坂・志田・宮本らごく一部幹部だけが知っています。メーデー事件の大弁護団も、グループ会議に参加する一部の共産党員弁護士以外は、これらの比率を知らされていないでしょう。
 被告・弁護団の裁判闘争方針は、共産党「軍」の広場突入戦争作戦が現実に遂行されたのにもかかわらず、その存在を否認しつつ、騒擾罪無罪のたたかいをすることを強いられました。そこには、かなり無理がありました。なぜなら、メーデー人民広場突入事件の裏側の一側面は、政府・警視庁「軍」4100人の違法な先制襲撃という面だけでなく、ソ中両党の軍事命令に盲従した日本共産党「軍」が、まさに、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動として行なった最初の大会戦そのものだったからです。2つの『裁判闘争史』を読むと、その苦渋、停滞、被告団内の対立がにじみでています。共産党員以外の第四の被告たちは、警視庁「軍」の襲撃に怒るとともに、共産党「軍」の広場突入戦争作戦の存在と実態を明らかにせよと、共産党に強烈な批判と要求とを突き付けました。
 私(宮地)の立場は、『裁判闘争史』の内容について、共産党の広場突入会戦遂行の諸事実問題とそれに関する記述以外では、『裁判闘争史』の見解と、騒擾罪無罪の判決内容を支持するものです。ただ、被告弁護団側が、4種類の被告を抱えて、被告団の統一を維持していくためには、「メーデー事件は、極左冒険主義の実践ケースではない」とする立場を貫かざるをえなかったことを理解します。といっても、それは、共産党が、広場突入軍事行動に関して、具体的な総括をし、それを公表すべきであるという前衛政党としての結果責任の取り方とは、別問題です。その結果責任には、“統一回復”共産党が、自分たちの朝鮮侵略戦争参戦のために、一般国民2万数千人を利用し、道連れにし、被告216人中の何人かを、20年7カ月間メーデー事件裁判の第四の被告にしたという道義的責任も含みます。これは、警察・検察側による弾圧、でっち上げ裁判という問題とは異なる、かつ、それに解消させることのできない共産党側の政治的道義的問題です。
 私は、名古屋市生れ育ちで、大須事件の現場を熟知しています。また、愛知県の民青・共産党専従15年間において、大須事件の被告たち十数人を個人的に知り、話を聞いています。その裁判闘争においても、4種類の被告を含み、同様な問題が発生していました。大須事件検挙者は、日本人119人、在日朝鮮人150人でした。実刑判決確定で下獄した3人中、1人は在日朝鮮人でした。大須事件の共産党員被告だけのグループ会議が、私の共産党専従時代、所属する名古屋中北地区・愛知県委員会事務所の3階会議室で開かれるのを、私は何度も目撃しました。私は、騒擾罪判決が唯一確定した7・7大須事件も、5・1メーデー事件と6・25吹田事件と同じく、騒擾罪無罪であると確信しています。それだけでなく、3番目の事件として、警察・検察側による騒擾罪でっち上げの謀略性という面では、大須事件がもっとも悪質だと判断しています。大須事件の一端については、HPファイル『「武装闘争責任論」の盲点』で分析してあります。なお、下記文中の太字は、私(宮地)がつけました。
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 一九五二年(昭和二十七年)五月一日――首都の労働者は第二十三回メーデーを迎えた。明治神宮外苑のメーデー会場から五つのコースに分れてデモが出発した。中部・南部二つのコースは日比谷公園を解散予定地としていた。いくつものデモ隊がそのまま日比谷公園を通り過ぎ、人民広場(皇居外苑広場)へ向かって進んだ。シュプレヒコールが湧きあがった。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
 三日前の四月二十八日、「単独講和」と呼ばれ、その賛否をめぐって世論を二分した「平和」条約が発効した。七年に及ぶ占領は終った。だがアメリカ軍は帰らなかった。朝鮮戦争が続いていた。占領時代の抑圧政策もそのまま引きつがれていた。メーデー会場に人民広場を使うことは許されなかった。「独立」後最初のメーデー――禁じられていた言葉、いや「占領政策違反」という「犯罪」でさえあった、人民の叫びがほとばしり出た。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
 午後二時二十分過ぎごろ、先頭のデモ隊が馬場先門に到着した。
 この時馬場先門には約四百五十名の警官隊が配置されていた。二重橋へ向かう車道入口に阻止線を張った、わずか一個小隊三十数名の警察官もなぜか左右に開いた。デモ隊の前に人民広場への道がまっすぐに通じていた。車道一杯に広がり、スクラムを組んで広場へ入ったデモ隊は、広場へ入ったというその喜びのおもむくまま、やがて駈け足に変って行った。
 二重橋前の砂利敷広場は、たちまち、万歳の声と打ち振られる赤旗、そして笑顔、握手、踊りの人波で埋まった。人びとは、二年間禁じられていたこの広場の土をその足で踏んだ。誇らかな満足感、解放感、ほっとした安ど感、疲労感。それぞれにかみしめながら、談笑し、歌い、あるいはひと息入れて、人びとは集っていた。
 午後二時四十分。事態は急変した。
 全く突如、警官隊が襲いかかったのである。馬場先門からデモ隊を追尾してきた警官隊が、デモ隊の先頭に回り込むやいなや、全体を二重橋側の堀際に押しつめるように、警棒をふりかざして殴り込んだ。一瞬にして起こる大混乱。警棒で頭を割られ倒れろ者、眼前に迫る警察官の形相におびえて後退する者、つまずき倒れる者。逃げまどう者の頭に、背にめった打ちされる警棒、傷つき倒れる者をさらに踏みにじる泥靴。
 混乱するデモ隊の中に、二分後催涙ガス弾が、五分後拳銃弾が撃ち込まれた。数千のデモ隊は、多くの負傷者をかかえて、銀杏台上の島から楠公銅像島へ後退した(第一段階)。法政大の学生近藤巨士は、この時警察官に後頭部を強打された。五月六日未明、慈恵医大東京病院で、彼は二十二歳の生涯を閉じた。
 午後三時過ぎごろ、新しいデモ隊が祝田橋から人民広場へ入った。中部コースの後続隊と、つづいて南部コースを行進してきたデモ隊である。
 祝田橋上には約百二十名の警官隊がいた。一応阻止の隊形をとった警官隊と、デモ隊の先頭のごく一部との間で小ぜり合いがあった。だが、警官隊はすぐ広場の中へ引きあげてしまい、デモ隊の大半はなんの抵抗もなく祝田橋を渡った。中部コース後続のデモ隊の多くは、祝田橋を入ってすぐ右手の芝生、楠公銅像島に上がった。そこには、二重橋前で警官隊の襲撃に会い、追い散らされてきた人びとがいた。
 そのころ、楠公銅像島上のデモ隊に対峠(じ)する形で、中央自動車道路をはさむ反対側の芝生、銀杏台上の島には、三個中隊約三百名の警官隊が隊列を整え、警戒配置についていた。つづいて祝田橋から入った南部コースのデモ隊は、この警官隊の前を通って中央自動車道路をまっすぐ行進し、やがて左折中央自動車道路に面した楠公銅像島上のデモ隊に対峙していた警官隊は、この時いっせいに引きあげ始め、二重橋前の砂利敷十字路付近に移動した。二重橋前砂利敷十字路……一九四六年(昭和二十一年)の第十七回メーデー以来、そこが大きな大衆集会の会場となった。つまり人民広場の中心であった。
 楠公銅像島にいたデモ隊の中で、警官隊のいなくなった銀否台上の島へと移って行く動きが起こった。「解散集会だ。」「集会に集まろう。」呼びかけが伝わった。銀杏台の島に上がったデモ隊の一部も、銀杏台上の島の方へ移動し始めた。人びとは、この日人民広場へ入ることができたというだけで、満足だった。禁じられていた場所をとり戻した、という勝利感でもあった。目的はもうすぐ達せられる。しめくくりの解散集会だけが残っていた。
 その期待で、デモ隊は、二重橋前砂利敷十字路をなかばとり囲むように、銀杏台上の島を中心に、右は銀杏台の島へ、左は桜田濠沿い砂利敷路面へと延びる形で、結集していった。祝田橋から人民広場へと入るデモ隊は、まだあとを絶たなかった。広場にはもう三万を越えるデモ隊の人びとがいた。一方、警官隊も続続と増強されていた。
 三つの方面予備隊(当時、全都を七つの方面に分け、それぞれに警備実施を主任務とする予備隊がおかれていた。いまの警視庁機動隊にあたる)から動員された八個中隊約八百五十名が、二重橋前砂利敷十字路に横隊で整列し、その三分の一は桜田門方向に、三分の二は馬場先門方向に面する形をとった。L字型隊形である。後方二重橋の前に二個中隊約二百名が控えた。
二重橋砂利敷十字路に展開 ―→ 警官隊の攻撃開始      ―→ 警官隊の攻撃と
した警官隊のL字型隊形        とデモ隊の崩壊          デモ隊の抵抗
(これら3地図は、『メーデー事件裁判闘争史』P.193、195、199に掲載されたもの)
 午後三時二十五分ごろ、再び警官隊の襲撃が始まった。警官隊の前に立った指揮官が、高くかかげた警棒を前に打ち振り、「進め」と号令した。L字型隊形のうち桜田門方向に向かっていた警官隊が、まず前面のデモ隊に殺到した。解散集会をめざして集まりつつあったデモ隊にとって、それは突如始まり、そして全く一方的なものであった。桜田濠沿いの砂利敷にいて、この突然の攻撃を受けたデモ隊は、たちまち蹴散らされた。理不尽な暴挙をまのあたりにしたデモ隊の一部は、警官隊に向かって進み、抵抗した。
 だが、この時、密集するデモ隊の中へ催涙ガス弾が撃ち込まれた。攻撃開始前ガス班があらかじめ桜田濠に沿って進み、デモ隊の後方に回っていたのである。催涙ガスが急速にデモ隊の上をおおった。全警官隊がいっせいに警棒を振りかざして突進した。あちこちで拳銃も発射された。
 デモ隊全体はまたたくまに総崩れとなり、潰走した。逃げまどう人びとの頭を割り、肩といわず腰といわず、全身を打ちのめす警棒。目をのどを痛めつける催涙ガス。誰かれかまわずに突きつけられ、そして発射される拳銃。倒れる人びとを踏みつけて、警官隊は進んだ。デモ隊の多くは再び楠公銅像島に逃げた。芝生の上のいたる所に負傷者が横たわり、これを介抱する人や、互いにかばいあう人たちの群れがあった。祝田橋から広場を出た人も少なくない。警官隊は銀杏台上の島を猛進し、中央自動車道路の線で停止し、再び隊列を整え直した。この間十数分である(第二段階)。
 午後三時四十四分ごろ、日比谷公園に沿う都電通りの祝田橋近くで、一条の黒煙がのぼった。アメリカ軍人の自動車に火がつけられたのである。警官隊の攻撃を受け、広場から逃れ出た人たちのうちごく少数の者が、怒りのおもむくがままにとった行動でもあろうか。しばらくあとのことになるが、都電通りのもっと日比谷交差点寄りに駐車してあった十台近くの自動車が、同様ごく少数の人たちによって、ひっくり返され、火を放たれた。どれもアメリカ軍人の乗用車である。こうしたできごとの中でも、広場内への警官隊の増強がつづいていた。
 午後四時。広場の中では、さらに残虐な警官隊の総攻撃が、いっせいに開始された。新たに広場に投入された二つの方面予備隊七個中隊六百名余を加え、警官隊は徹底した暴力で、デモ隊を一人残らず広場から追い出そうとしたのである。二度にわたる警官隊の先制攻撃は、非道な暴力に抵抗する力をさえ、デモ隊から奪っていた。デモ隊はもはやちりぢりにされた群衆であった。
 警官隊は、ほんの数分間で、楠公銅像島の群衆を一掃し、その大半を日比谷濠土手に押しあげ、追いつめた。狭く逃げ場もない土手の上で、人びとは混乱し、警棒の乱打を浴び、無気味に向けられる銃口で脅かされながら、やがて最後に、警察官の悪ばを背に馬場先門から追い払われた。それは、文字どおり袋のねずみを追うむごたらしさであった(「掃討戦」)。
 この総攻撃開始の直後、東京都の職員高橋正夫は、背後から拳銃弾で心臓を射ち抜かれ、即死した。二十三歳である。
    
 警官隊は、広場から追い立てられ逃げ散った群衆を追って、組織的暴力を市街地にまで拡大した。ただの通行人も、アベックも、老人も、婦女子も、見さかいのない暴力の対象であった。警官隊の暴行脅迫は、日比谷公園、有楽町一帯、丸の内から東京駅付近に及び、午後六時ごろようやく終わった。
 この日、警官隊が発射した拳銃弾七十発、投じた催涙ガス弾七十三発。デモ隊側のぎせい、死者二名、重軽傷千数百名である。一九五二年五月一日人民広場の内外で起こったできごと――メーデー事件そのものがまぎれもない政治的弾圧である。
 そして、メーデー裁判は政治的弾圧の継続である。その日午後三時四十分ごろ、警視庁と東京地方検察庁は、デモ隊側の計画的集団犯罪として、この事件に騒擾(じょう)罪を適用すると決めた。人民広場の中で警官隊の組織的暴力がまだつづいている、その時である。疾風のように大量検挙が始まった。警官隊がその手で加えた傷害こそ、まずなによりの目印とされた。二週間で逮捕者は八百三十八名にものぼった。総検挙者数千二百三十二名。東京地方検察庁が騒擾罪で公訴を提起した被告人の総数二百六十一名である。
 第一審・・・・・
 東京地方裁判所は、当初、八合議部による分割審理方式を提示した。被告・弁護団はまずこれとたたかわなければならなかった。獄中被告の出廷拒否、合同面会など新しい経験を重ねながら、ともあれ刑事第十一部による統一審理方式がかちとられた(もつとも不幸ながら「分離組」と呼ばれる人たち二十余名がいた)。
 第一回公判一九五三年(昭和二十八年)二月四日。判決まで実に十七年。その間公判を開くこと千七百九十二回。取調べた証人は、検察側五百四十九名(総論関係二百四十四名、各論関係三百五名)、被告・弁護側三百四十四名(総論関係二百七十一名、各論関係七十三名)、合計八百九十三名(延べ千三百二名)に達している。そして、十四人の被告たちが世を去っていた。判決言渡し一九七〇年(昭和四十五年)一月二十八日(「分離組」は二月十三日)。
 判決は、二重橋前の第一段階における警官隊の実力行使を違法としたが、第二段階以降についてはデモ隊側に騒擾罪の成立を認めた。無罪百二十名。有罪百十七名(ただし十五名は騒擾罪以外で有罪)。一月二十八日統一して判決を受けたうちの有罪被告は、全員控訴を申立てた。その日の被告団総会は、無罪となった者もそのまま被告団にとどまり、ともにたたかうことを誓い合った。「分離組」で有罪となった中から三名の人たちが控訴を申立て、この被告団に加わった。控訴審における被告人は、結局百名になった。
 第二審・・・・・
 一九七一年(昭和四十六年)九月三十日東京高等裁判所第六刑事部に控訴趣意書が提出された。第一回公判同年十二月十四日。審理はかなり迅速に進んだ。公判回数二十二回。取調べた証人は、被告・弁寺側の請求した二十六名である。判決言渡し一九七二年(昭和四十七年)十一月二十一日。判決は、第二段階における警官隊の実力行使をも違法と断定し、騒擾罪の成立を全面的に否定し、騒擾罪については全員に無罪を言渡した(公務執行妨害罪などで十六名が有罪となった)。一九七二年十二月五日――騒擾罪全員無罪の判決は確定した。検察官が上告を断念したのである。
 二十年七か月――たたかって、たたかい抜いてかちとった勝利である。被告・弁護団が一貫して主張したこと、それは「つくられた騒擾罪」ということである。本書は、「つくられた騒擾罪」とのたたかいの歴史である。
 〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
(注とコメント)、総評常任幹事会声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.20)にあります。労働界を二分する意見の分裂内容は、増山太助『血のメーデー』に書かれています。これは、〔真相6〕増山太助ファイルから抜粋しました。
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 総評常任幹事会声明 1952年5月2日
 五月二日総評は常任幹事会を開いて声明を発表した。その政治部長島上善五郎は第二十三回中央メーデー実行委員長であった。
 「(一)第二十三回メーデーは、平和と民主主義を守る国民的行事として全国労働都市において未曽有の大動員をえて、日本民主化の主柱がいよいよ強大となったことを示した。
 (二)しかるに中央メーデー行事解散ののち日本共産党分子がおこなった集団的暴力行為は遂に流血の惨事をまきおこした。このことについては総評労闘が何ら関知するところではないが、民主的労働組合の責任において甚だいかんにたえない。
 (三)今次事件は民主的労働組合が営々としてつみあげてきた民主主義をいっきょ後退させ、反動ファッショ勢力を誘発するに至る危険があり、明らかに階級的裏切り行為と断ぜざるをえない。われわれは極左極右のいずれをとわず、かかる一切の暴力行為にたいし厳正な批判を加え、断固排撃するものである。
 (四)わが総評は今日まで反動資本と共産党支配とに抗争する民主的統一戦線を強化拡大し、破防法案、労働法改惑などにあらわれた吉田政府の逆コースに対して整々たる三〇〇万の労闘ストをもってたたかってきたが、その間共産党勢力のシュン動を許さずいよいよ全国民の信頼をかちえてきたところである。
 (五)しかして吉田政府は、必ずや破防法の必須を訴えるであろうが、すでに本事件はソウジョウ罪をもって対処しているのであって、みづから破防法の不要を証明しているではないか。
 (六)いまや今次事件を口実として破防法案、労働法改悪等をもつて基本的人権をじゅうりんし総評の打ちだす労働運動を弾圧しようとするならば、いよいよ内外与論に訴え、さらに頑強な実力行使をもつて、これらを阻止するところまでたたかい、吉田政府の反動政策をあくまで追及し対決するであろう。
 一九五二年五月二日   日本労働組合総評議会」
 労働界を二分する意見の分裂
 記者団に囲まれたメーデーの実行委員長、総評政治部長の島上善五郎は、「この事件はメーデー行事が終った後に共産党系分子と、その影響下にあると思われる一団によって行われた不祥事で、実行委員会としては関知しない。これは反労働者的行為である」「しかし、政府が、破防法をはじめとする露骨な弾圧政策をとり、とくに皇居前広場の会場問題について裁判決定を無視した態度は暴力行動に絶好の条件をあたえたもので、さらに警察の発砲、催涙弾の乱射は事態を激化させたもので、政府の反動政策強行には断乎反対する」と語った。なお、総評の高野事務局長は沈黙を守り、「民族感情の爆発だ」といった副議長の太田薫にたいし、炭労の諸富義高は、「予定した共産党の暴動演習だ」とくってかかったのが、労働界を二分する代表的な意見であり、民労連はもちろん、新産別も後者の意見に組した。
 〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
 (注とコメント)、3つの資料を載せます。いずれも、日本共産党中央軍事委員会が準備・計画し、広場突入指令を出した事実について、完璧に隠蔽しています。そして、軍事委員会作戦・広場突入命令を、下記にある「一部の人」にすりかえる詭弁を使っています。
 第一、日本共産党国会議員団声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.21)にあります。議員団の中に、党中央軍事委員会メンバーはいなかったので、彼らは、広場突入作戦を、事前に知らされていなかった可能性があります。
 第二、メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会、その内容は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.285)に載っています。懇談会に出席した野坂参三答弁は、軍事作戦発令者による真っ赤なウソです。というのも、朝鮮戦争2年目の真っ只中において、後方基地武力かく乱戦争行動の最初で最大の戦闘となる広場突入会戦は、少なくとも3カ月前に決定されており、その最終的作戦計画決定権者は、志田重男一人であるはずがありません。朝鮮半島における激戦を指揮しているソ中両党のスターリン・毛沢東・劉少奇と、北京機関の徳田・野坂、日本国内軍事委員長志田らによる戦争作戦計画だったからです。しかも、この当時、暴露されていませんでしたが、野坂参三は、1945年以来のソ連共産党NKVDのスパイでした。野坂共産党第1書記・軍事委員長志田・指導部復帰者宮本顕治らは、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇らから、「六全協で、武装闘争の具体的総括をすることを禁止する。極左冒険主義と抽象的に誤りを認めることだけは許す」との命令に屈服していました。スパイ野坂第1書記は、当然のように、ソ中両党の利益・命令を上に置き、メーデー事件被告・家族をあざむいたのです。
 第三、共産党の公認党史である『日本共産党の65年、70年、80年』(80年は、P.120)は、いずれも、この分量しか記述していません。しかも、メーデー事件と広場突入作戦との関連を隠蔽しています。そこから、まったくの第三者的で、広場突入会戦の戦争責任を放棄した書き方になっています。〔真相7〕石田雄ファイルにあるように、丸山眞男が、この事件を念頭に置いて、『戦争責任論の盲点』を書き、日本共産党が、戦前だけでなく、メーデー事件についても具体的な総括を公表して、前衛政党としての結果責任を果すべきと批判したという石田雄の推論は、さもありなんという説得力を持っています。
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 日本共産党国会議員団声明 1952年5月1日
 日本共産党国会議員団は、即日「本日の事件は人民広場の使用を吉田内閣が不法にも禁止したことから起こったもので事件の一切は吉田内閣が負うべきものである。今日の弾圧こそ破壊活動防止法案をすでに実行に移したもので、わが党は日本国民の自由の名において厳重に抗議する」旨の声明を発表した。
 メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会 1955年10月24日
 十月二十四日夜メーデー事件被告、家族と共産党との懇談会が産別会館講堂で開かれた。日本共産党から第一書記の野坂参三のほか松本三益、長谷川浩が出席した。
 懇談会は、その名に比してはかなり激しく、メーデー事件の評価に関する意見、疑問、共産党に対する批判、不満が交わされる場となった。党員被告を名指しで非難したり、被告同士で論争する場面も見られた。二、三の人から、敵の挑発というだけでは納得出来ない、あの日のメーデーに極左冒険主義の方針があったのではないか、という疑問が出た。野坂らはこう強調した。メーデーに対する党の方針とメーデー事件と呼ばれているものとは客観的に区別して評価すべきである。党が騒擾事件を計画、指導したことは断じてない。「人民広場へ行こう」というのは広範な人びとの当然の要求であった。問題は、これを全体的行動に組織するという観点に立つのでなく、一部の人たちの行動に頼ろうとしたところにあり、極左冒険主義の誤りの影響と言ってよい。権力はこの弱点を利用し、挑発・弾圧を加えた。人民広場へのデモの正当性とともに、警官隊の攻撃に抵抗した行動の正しさも消えるものではない。
 日本共産党中央委員会『日本共産党の80年』 2003年1月20日
 (メーデー事件に関する全文)……六全協後における唯一の公的な事件評価記述
 この闘争のさなかの五二年五月、いわゆる「血のメーデー」事件がおこりました。占領軍と吉田内閣は、五〇年六月いらい、「人民広場」とよばれた会場(皇居前広場)をメーデーその他の集会に使用することを禁止していました。この日、中央メーデーに参加したデモ隊の一部が、この不法な措置に抗議しながら、「広場」に行進しました。警察当局は、デモ隊を「広場」内に誘導したうえで、数千の武装警官隊をもって攻撃し、警官隊のピストルなどで二人が殺害され、千人をこえる重軽傷者がでました。
 (『日本共産党の65年、70年』の上記同一記述から削除した文) ……削除の理由は不明
 この事件は、占領支配と単独講和にたいする大衆的な怒りと抗議の一つの反映であった。
 〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
 (注とコメント)、ここには、4つの資料を載せます。増山太助は、入党後、党中央文化オルグ・全国オルグを経て、関東地方委員、1950年初頭から東京都委員、「50年分裂」のときには、主流派内の東京都ビューロー幹部であったが、裏側で、武装闘争反対の活動を行なっていました。
 第一、彼は、主流派に所属しつつも、当時の日本の情勢、労働運動の状況、国民の意識実態から、武装闘争を遂行することは誤りであると考え、ビューロー幹部5人を中心として、主流派非公然ビューロー内における非公然グループを作り、武装闘争実践を骨抜きにする面従腹背行動を組織し、展開していました。その組織・行動内容については、『武装闘争責任論の盲点』の「2派1グループの実態」で分析しました。
 第二、武装闘争を行なった幹部たちについて、8人の人士群像を描きました。これは、HPに転載してあります。
 第三、メーデー事件の概況を『血のメーデー』で描きました。これも、HPに転載しました。
 第四、増山太助は、メーデー前日の東京都ビューロー会議にも出席して、人民広場突入作戦に猛反対しました。東京生え抜きのビューロー員も、全員が反対しました。激論の末、結局、他のビューロー員も含め、突入方針は否決され、人民広場使用不許可にたいする抗議だけにすることが全員一致で決定されました。その決定を裏切って、志田軍事委員長は、その深夜から5月1日早朝にかけ、規定方針どおり広場突入せよとの軍事委員会命令を徹底させたのです。当時の共産党組織は、4つに分かれていました。(1)北京機関と自由日本放送、(2)合法の臨時中央指導部(臨中)、(3)非合法の地下政治指導部ビューロー、(4)非合法の地下軍事委員会Yです。
 非合法地下の都ビューロー会議で、広場突入軍事行動が否決されたのに、志田軍事委員長→非合法地下の東京都軍事委員会Yというルートで、広場突入軍事方針が決行されました。増山証言は、共産党が広場突入軍事行動を行なったことを証明する重要なデータの一つです。この資料は、増山太助『五〇年問題覚書(下の二)、―「柴又事件」の前後から「血のメーデー」へ―』(『運動史研究8』、三一書房、1981年、P.100~125)の内、「五」(P.120~125)を、一部中略して、ほぼ全文を転載したものです。このHPへの転載については、増山太助氏の了解をいただいてあります。
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 第一、『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの実態=増山太助らの武装闘争反対グループ
 第二、増山太助『日本共産党の軍事闘争』軍事闘争の先頭に立ち、指導した8人の群像
 第三、増山太助『血のメーデー』メーデー事件の概況
 第四、増山太助『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
 ところで、五二年という年は、年頭から荒れ模様の情勢となった。スターリンは、元旦のメッセージで、日本人民の総決起をうながし、臨中は、これにこたえる声明を発表して呼応した。一方、占領軍と日本の支配階級は、四月二八日に予定された、単独講和・安保両条約の発効と、それにともなう総司令部(GHQ)の廃止にそなえて、つぎつぎと積極的な手をうってきた。労働者階級は、年末闘争にひきつづき、“占領終決”という画期を前にして、いよいよ“不屈な面魂”をもって決起しはじめた。一月一六日、賃金共闘は、弾圧法規反対で、総評と統一行動をとることを決定し、一八日には、労働法規改悪反対闘争委員会が代表者会議をひらいて、当面する情勢の分析と戦術をねった。
 ところがその三日後の二一日に、突如、北海道で白鳥警部射殺事件がおきた。そして、これが敵側に利用されて、いっそう弾圧体制が強化され、「新たな従属・支配体制」を強める契機となった。だが、労働者階級は前進しつづけ、二六日には、総評、労闘、官公労共催の弾圧法規反対労働者総決起集会がおこなわれ、三万人を結集した。吉田首相は、三一日に、警察予備隊を切りかえて、防衛隊をあらたに設置するという、威嚇的な方針を言明。二月一三日には、安保条約に基づく日米合同委員会の設置が本決りとなった。そして、一五日から、日韓両国の正式会談が開始され、米・日・韓の防衛体制を強めながら、国内弾圧諸法規の整備に馬力をかけはじめたのであった。
 一方、二〇日には、東大でいわゆるポポロ事件―ポポロ劇団発表会に私服警官が潜入―がおき、京大では第一次京大事件―小林多喜二祭に警官が潜入―が同時多発して、その摘発闘争・弾圧反対のたたかいが燃えあがった。さらに、翌二一日の反植民地闘争デーには、全国二六カ所で高揚した集会が決行され、激しいデモが敢行された。その結果、五七名もの検挙者を出したが、たたかいは持続する様相をしめした。なかでも、東京・南部の反植民地闘争デーの集会には、武器を持った労働者の集団が公然と姿をあらわし、一時、蒲田・椛谷地区を解放地区にした。政府は、二八日に、日米行政協定に調印、日米合同委員会を発足させた。二月末日現在、『アカハタ』弾圧以来の後継紙で発禁処分になった紙種が八一八に達した。まさに、彼我の攻防は目にみえてつばぜり合いの形になってきたのであった。
 こうした状況のなかで、二月以降、五全協の「軍事方針」がつぎつぎと具体化され、下部に浸透していった。その代表的なものは、「中核自衛隊の組織と戦術」「軍事行動の前進のために」であり、「組織と戦術」のなかでは、「武力革命」の段階を三つに分け、第���段階では、軍事委員会の指導下に中核自衛隊を組織し、大衆闘争に武装行動の必要性を認めさせつつ、これを革命的闘争へひきあげていくこと。第二段階では、中核自衛隊の指導下に、広範な大衆を抵抗自衛組織に組織していくこと。第三段階では、大衆闘争を国民的規模にまで拡大し、抵抗自衛組織を人民軍に発展させ、武力革命に突入する、という構想をあきらかにしていた。そのために、『栄養分析表』で、(一)時限爆弾、(二)ラムネ弾、(三)火焔手榴弾、(四)タイヤパンク器、(五)速燃紙(硝化紙)などの構造や製法が、軍事委員会の単線指導で下部に流されていった。
 前述したように、“単独”講和、「独立」ということは、軍事占領下にあって制約されていた政治的自由を、一定のカッコつきではあるが「国民のもの」にしなければならない、ということであるから、それ以前に、占領軍と日本政府は、革命勢力とその組織を出来るだけ弱体化させておかなければならない。そして、総司令部廃止後、かれらがいっきょに政治的進出をはかれないようにしておかなければならない。だから、この時期におこなわれた一連の弾圧措置は、朝鮮戦争前夜の軍事的予防措置とはことなり、「独立」を保持するための政治的予防措置であったわけだ。したがって、この措置のあとには、当然、党の合法的活動の拡大が予想されていたにもかかわらず、党中央は、むしろ、これを逆にみて、「サンフランシスコ体制と安保条約」による「占領制度の永久化・制度化」に「軍事行動」を対置して、突破しようとしたのであった。
 三月に入ると、たたかいはにわかに激動した。一日、総評、労闘主催の弾圧法粉砕総決起大会が開催され、これには一〇万人の労働者が結集、全国的には延一千万人以上の労働者が、事実上ストライキをうって参加した。そして、わが国最大の政治的示威行動を展開した。これにたいし、政府は、二七日に、「治安維持法」の復活といわれた、破壊活動防止法案要綱を発表して対決し、また、これを撃って、翌二八日と三一日の両日、総評、労闘合同拡大戦術委員会が、破防法反対に、断固、ゼネストをもってたたかう方針を決定した。
 こうした攻防のなかで、党の「軍事行動」は、いよいよ発動しはじめたのであった。関東地方では、神奈川県委員会が先頭を切り、三月一九日の未明、横浜の進駐軍物資集積所へ火焔ビンが投げ込まれ、二九日の夜八時には、吉河特審局長宅へ火焔ビン投入の襲撃がかけられた。これにたいし、国警は、二八日に、後継紙『平和と独立』の印刷所、配布所など、全国で一、八五〇カ所を捜査。二九日には、三多摩の山村工作隊にはじめて手入れがおこなわれた。これに反発して、三一日には、川崎の米軍資材置場、横浜市の「エリア・2」とよばれる進駐軍住宅付近に時限爆弾をしかける攻撃がおこなわれた。また、同日、総評、労闘は拡大戦術会議をひらき、破防法反対のゼネスト第一波を四月一二日、二波を一八日に決定して、対決の決意を表明した。
 私は、この時期、宣伝・教育部門を担当していたが、破防法反対の宣伝活動に全力をあげ、このたたかいを広範な大衆自身のものにするために努力した。(中略)
 しかし、四月から五月へかけて、私たちは、ビュー・ロー・キャップの枡井トメを中心に、連日、たたかいの指導に没頭していた。そして、四月一二日の破防法反対の第一波ゼネストには、三〇万人の労働者を結集、破防法案が国会に上程された翌日、一八日の第二波には、政府の恫喝をけって、一一〇万人がゼネストに参加するという、成果をおさめた。また同日、これに同調する都学連一五〇〇人の国会請願デモが組織され、全学連は二八日に破防法反対のストを決行した。いうまでもなく、この日、一九五二年四月二八日は、対日平和・安保両条約が発効した日であり、第二次世界大戦に敗北した日本が、七年間の占領から、沖縄を残して、一応とき放たれた日であった。だが、私たちは依然として潜行をつづけ、この二八日の前後には、メーデーの開催方法をめぐって、都ビューロー内部で深刻な討議をくり返していた。
 五二年の中央メーデーは、前年同様分裂メーデーになったが、それだけではなく、会場も皇居前広場の使用が許可されず、結局、神宮外苑に押し込められてしまったことが、破防法反対闘争の高揚のなかで、戦闘的な労働者の憤激をよびおこした。そして、その怒りは、占領時代における軍事的・植民地的支配にたいする反抗のあらわれでもあり、同時に、日本が一応「独立国」になって、占領法規が効力を失った途端に、占領軍を肩代りして前面におどり出た、国家権力の暴力装置にたいする反抗でもあった。それだけではなく、その底流には、反革命戦争としての朝鮮戦争にたいするうっ積した怒り、とくに在日朝鮮人組織の抜きがたい不信と激怒があった。
 中央メーデー準備委員会周辺の討論を反映して、都ビューローが討議をくり返した問題点は、戦後“革命期”に、“人民広場”と呼称されて、たたかう労働者・人民の“意志の確認”“決起”の場所となっていた皇居前広場を、「独立」を機に、実力で「奪還すべきだ」という意見にたいする賛否をめぐる問題であった。当初、キャップの枡井は、「占領下の制約はなくなった」「其のメーデーは人民広場で」の主張であり、組織部を担当していた浜武司や、労対の益子正教らもこれに同調していた。しかし、東京はえ抜きの他のビューロー・メンバーのほとんどが、これに反対する立場をとった。私は、メーデーの主力部隊である総評の意向を尊重すべきだと考えていたし、なかでも、「平和四原則」を守り、総評を“ニワトリからアヒル”に変えるために奮闘していた高野実ら左派の立場を強めることが、「独立」後の彼我の状況を有利に展開するポイントであると確信していたから、共産党が系列下の組合や全学連をつかって、「人民広場」に固執し、実力で“奪還”することには反対であった。これにたいし、枡井らは、「少なくとも、共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張しつづけた。
 しかし、真剣な討論の末、しかもメーデーの前日に終日の討議をおこなった結果、全員の意見が完全に一致し、「人民広場には入らないこと」、「中央コースのデモ隊は、広場側を通過の際、シュプレッヒコールで人民広場使用不許可の不当性を訴えて、抗議の意思表示をおこなうこと」、「人民広場突入を強く主張する自労や学生部隊などをデモ隊の先頭に立たせず、後部に回し、市民を先頭に立てて、予想される敵の挑発から大衆を守るために、金属労働者や官公労の労働者たちによる統制を強めること」などを決定した。私たちは、この決定を生み出してホッとした。そして、「独立」後第一回のメーデーが、労働者、人民の血気さかんなメーデーになることを期待したのであった。
 私は、メーデーの当日、会場にいけない無念さを晴らすために、メーデー終了後、妻と娘たちに会い、せめて家族水入らずの祝盃をあげる予定を組み、その連絡をとった。そして、その文面のなかに、「人民広場へは入らないことになった。僕の分もふくめて、先頭に立って堂々と行進して下さい」と書いた。ところが、周知のように、メーデーはいわゆる「軍事行動」を展開して、“血のメーデー”になった。先頭に立っていた妻と娘は、祝田橋よりはるか手前で警官に襲われ、妻は頭部を殴打されて三針ぬう重傷、娘は腰部を打たれて大きなアザをつくった。二人は通りがかりのひとに助けられ、傷の手当をして、私の友人の家に逃げ込み、かくまわれた。私がこのことを知ったのは、夕飯を食べないで待っていた夕刻近くであったが、私は、思いもよらない“血のメーデー”に驚き、家族がそれにまき込まれたことに愕然とした。同時に、「ついに、東京都委員会の決定は守られなかったのか」と残念に思い、ともかく現場近くまでいって情報をつかもうとした。そして、私が友人の家に駆けつけたときには、まだ、その周辺にも、この日の昂奮が無気味な余韻を残していた。みると、友人宅の戸棚のなかにかくれていた妻の顔は青ざめ、娘はおびえてふるえていた。私は二人を見守りながら、まんじりともせずに一夜を過したが、ひさしぶりに会う妻と娘に、こういう状態で会おうとは夢にも思わなかった。やたらと涙があふれ出て、複雑な怒りが全身に充満し、どうすることもできない感情にさいなまれつづけた。
 翌日、東京都委員会は緊急ビューロー会議をひらき、善後策を協議した。まだ、現場の情報が十分収集できなかったが、何人かのビューロー員は、「あれほど慎重に討議して決めたのに……。なぜ、東京の党組織はああいう行動に出たのだろう」「これは、Yのひとり歩きではないか」と、Yを兼任していた枡井に、「おばさんだけは知っていたのではないか」と質問するひともいた。しかし、枡井も「知らなかった」といい、「ともかく、こうなったからには……、不当弾圧抗議の声明を出そう」ということになり、枡井が執筆することになった。その内容は、メーデーの日から放送を開始した、北京からの「自由日本放送」と趣旨が一致していたので、後日、枡井は得意気であった。この放送原稿は、NHKをレッド・パージになり、中国へ渡って「自由日本放送」の仕事にたずさわっていた藤井冠次の証言(『伊藤律と北京・徳田機関』)によると、伊藤律が書いたということであるから、枡井と伊藤律の評価は、だいたい一致していたことになる。
 また、六全協後の東京都委員会の総括のなかで、私は、“血のメーデー”における「軍事行動」の責任を追及したが、そこであきらかになったことは、前日ひらかれた東京都委員会のビューロー会議終了後、浜武司が中央へよびつけられ、「人民広場へ突入せよ」と指示されたという。これを伝えたのは、志田の命をうけた沼田秀郷であることも、本人の証言によってあきらかになった。浜は、夜を徹して各地区を歩き、「中核自衛隊」の動員手配をおこない、「全く自分の責任で、当日の行動を組織した」と証言していた。
 だから、私の推測では、中島誠が書いているような(『流動』一九七八年一一月号)「メーデーをきっかけに、『人民広場』を奪い返し、日本の首都のどまん中に一種の革命的状況をつくり出そうと計画し、動員を組織し、広場へのなだれ込みの順序、入り口の分担、隊列の組み方、そしてそこでの『戦闘』のやり方に至るまで何日も前から綿密に計画を練り、練習をも積み、『人民広場』での革命的状況をさらにどのようなものに展開してゆくかまで展望していた」というようなものではなかったと思う。もし、中央軍事委員会にそのような机上プランがあったとしても、“血のメーデー”は、党の「中核自衛隊」と党員を主力としてたたかわれたもので、大衆の蜂起を党が下から支えて、組織したものではなかった。だから、「革命的状況」を「展開」し、「展望」をきりひらくことは、全く不可能なことであった。
 ついでに付記しておくと、この総括会議をおこなっていたときには、志田の「お竹事件」はまだ“闇”のかなたにあり、志田と官本顕治はアベックで全国の党大会に出席していた。したがって、この“協力体制”をくずさないために、「志田の政治的責任は追及すべきではない」というのが、反“主流派”のひとたちの共通した意見であった。つまり、このときには“分裂した一翼”の“極左冒険主義”について、“国際派”のひとたちも“関わらない”のではなく、“不問に付する”態度であった。
 (中略) 血のメーデーにつづく「五・三〇事件」記念日の岩の坂、新宿、大阪吹田などの交番襲撃事件―火焔ビン闘争が多発して、ようやく盛りあがった大衆的な労働運動―破防法反対闘争に水をさす結果をもたらした。すなわち、破防法反対闘争の中心部隊を形成していた社会党や総評左派を動揺させ、右派単産幹部を狼狽させて、多数の部隊を脱落させた。(中略) こうして破防法は、七月四日の衆議院において可決成立し、二一日に公布され、同時に公安調査庁も発足したのであった。
 〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
          丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
 (注とコメント)、これも、HPに転載してあります。石田雄現東大名誉教授は、メーデー事件当日、東大職組の一員として、人民広場に入りました。警察は、東大職組の2人を逮捕しました。丸山眞男は、広場にいませんでしたが、東大法学部教授会として、その対応にあたりました。日本共産党宮本顕治は、丸山眞男の『戦争責任論の盲点』にたいして、異様なほどの丸山批判キャンペーンを13回も展開しました。宮本顕治は、それによって、その丸山論文だけでなく、共産党批判をする丸山眞男の全学問業績の否定とその社会的抹殺を謀ったというのが、私(宮地)の判断です。共産党の丸山批判キャンペーンの実態と本質については、2つのファイルで分析してあります。
 石田雄論文は、丸山眞男論文の一背景に、メーデー事件に関する日本共産党批判があったとする証言です。
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   石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
   『共産党の丸山批判・経過資料』13回の丸山批判キャンペーン
   『志位報告と丸山批判詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部
以上  健一MENUに戻る
 (関連ファイル)
    『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
    八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
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0219dec · 2 years
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YouTubeでアガベなどの動画をアップしています✨動画はプロフィール欄から飛べます! 今日もアガベとパキポディウムは絶好調✨ 今で保有してる株の写真を投稿してなかったので不定期にアップしていきます(^^) アガベ 屈原の舞扇 Agave 'Kutsugen no Maiougi' 1枚目 2023年01月17日時点 大事に育てていきます✨ #アガベ普及委員会 #アガベライフ #アガベ好き #グラギリス #パキポディウム #植物生活 #植物男子 #植物男子ベランダー #植物好き #塊根植物初心者 #塊根植物が好き #youtube #youtuber好きな人と繋がりたい #youtuberlife #アガベイシスメンシス #イシスメンシス #甲蟹 #甲蟹交種 #甲蟹錦 #宝物 #アガベ #용설란 #agave #龍舌蘭 #龙舌兰 #ดอกโคม #チタノタ #Titanota #屈原の舞扇 (Nagoya-shi, Aichi, Japan) https://www.instagram.com/p/CnfyD7xPgtw/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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cosmicc-blues · 4 years
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コロナの時代の愛
これまでずっと新型コロナウイルスについては冷淡な姿勢を貫いてきたが、5時半だった定時が4時半に短縮され、ついには昨日から最低限の人員でまわす電話番のシフト体制が組まれ、それ以外の者は自宅待機となった。聞けば、もうとっくの昔に死語になっているものと思われたチェーンメールが勃興し、首都ロックダウン寸前という噂まで実しやかに流布していたという。どうやら大変なことになっているらしい、という気持ちがここでようやく高まってきた。たしかに列車内でふと周りを見渡してみれば、マスクをしていないのは自分だけなんてことも増えてきている。
非常事態で思い出すのは、やはり3・11の大震災のことだ。その当日は都内から少し外れた山あいの町にある家(当時付き合っていた恋人のアパートに居候していた)にひとりで居て、ベットに寝ころがってマンガを読んでいると、それまで体験したことのない激しい揺れに見舞われた。まるで巨人が虫かごを手に取って上下左右に振っているような揺れだった。揺れがおさまると、電気ガス水道のすべてが止まっていた。携帯電話で情報を得ようとするものの、運の悪いことにちょうど充電が切れてしまい、ひとまず割れた食器類などの後始末をつけ、外に出てみると、最寄りのコンビニエンスストアに暴徒のようにひとびとが群がっていた。それを目にすると、なんだか急に気持ちが冷めてしまい、部屋にもどってマンガのつづきを読んだ。まだ日の短い時期だったから、すぐに空は暗くなって、とうとうマンガのつづきが追えなくなった。これではもうフテ寝する以外は仕方なかった、きっと目が覚める頃には電気もガスも水道も復旧しているだろう、と。あるいは隣町の実家へ用を済ましに行った恋人が帰ってきて「大変だったねえ、心配したよう」と肩を揺すって起こしてくれるかもしれない。こんな非常事なのにもかかわらず図太くフテ寝している姿を恋人に発見されるのかと思うと笑みがこぼれた。
ところが、目が覚めても恋人の面影はどこにもない。部屋はすでに真っ暗闇で、目を凝らして時計をみると、すでに帰ってくるはずの時刻を大幅に過ぎている。電気もガスも水道も依然として復旧していない。さすがに心配になった。それと同時にまた機会を逸してしまったという落胆を背負った。変なはなしだが、子どもの頃からずっと、こうした非常事に愛し合うもの同士で身動きもとれず、唯々しんしんと身を寄せ合っていたいと思う願望があった。また機会を逃すどころか、一生に一度のまたとない大チャンスを逃したように思われた。
いまいちど外へ出ると、夜闇に沈んだ町は空怖ろしいまでに静まり返り、時折、手持ちライトの光が道路に走っていた。いったい何が起こっているのやら。ひとまず、すれちがえば挨拶を交わす程度の住人の部屋のドアを叩いた。そこでようやく津波をはじめとする大惨事を知った。それから電気は都内を優先して供給しているらしいということを知った。山向こうにあるギリギリ都内のショッピングモールには電気が通っているらしいとのことだった。
それならばということで、携帯電話の充電器を持って山を越えることにした。歩けば1時間、自転車なら30分で行けるところにショッピングモールはあった。あいにく自転車は恋人が駅まで乗って行ってしまっていたので歩くはめになった。道ですれちがうひとはほとんどなく、所々に点在する公衆電話にだけひとが群がっていた。
ショッピングモールは閉鎖され、営業こそしていなかったが、窓ガラスから店内を覗くとたしかに薄灯りがともっていた。そこで店舗の壁面の電光看板なんかの電気をとるためのコンセントを借用すると、ようやく携帯電話にひかりがともった。電話とメールこそ回線のクラッシュで使えなかったが、SNSのほうは生きていた。異様なタイムラインだった。ここぞとばかりに140字のなかで扇情的な文句が謳われていた。そのなかに「地震発生から恋人が行方不明で連絡がとれません。安否を知っているひとがいたら云々」と、これまたずいぶんと大袈裟で扇情的な文句の恋人の言葉があった。その言葉に寄せられて通知欄には何人ものひとから安否を心配する便りが届いていた。マンガを読んで、フテ寝していただけなのに、何だか申し訳ない気持ちになった。恋人のほうは、電車も止まり余震も絶えないので実家に泊まることにしたということだった。その場でしばらく明日以降のことについて幾人かと事務的なやり取りをして、そろそろ帰ろうというときには、時計はすでに0時をまわっていた。
深夜になると電気の供給が間に合ってきたとみえ、24時間営業なんかのコンビニエンスストアが一部で営業を再開していた。急にお腹が減った。思えば、朝から何も食べないまま日付けをまたいでいた。とはいっても品薄のため陳列棚はガラガラで、冷凍食品のコーナーにだけ辛うじて食べ物が残っていた。とてもお腹が空いていたので、思い切って炒飯と唐揚げとの二種の冷凍食品を買った。
アパートに帰り着くと、電気が復旧していた。ガスと水道はまだだった。携帯電話をみると、回線のクラッシュが落ち着いたらしく、不在着信の通知とメールとがいっせいに届いていた。そのなかには原発事故による放射能汚染についてのチェーンメールがたくさん混じっていた。トイレが流れないし、うんこをしたくなったら困るから、その日は炒飯と唐揚げを平らげるとすぐに眠りに就いた。
翌日は大忙しだった。昨夜のやり取りで、こんな非常事態だからこそ束の間でも不安を忘れるための場所を、楽しみの場所を提供しようということになり、予定通りの決行がアナウンスされた。すでに必要最低限の電気の使用は不謹慎だとする風潮が世を賑わしていたが、そもそも決行は夜から朝にかけてのひとが寝ている時間だし、クラブはほぼ真っ暗なんだから電気は使わないだろ、というわけで決行の運びとなった。実際、唯一のミラーボールの光はコンセントからではなく電池式のペンライトを当てていたから、あとは機材と空調と冷蔵庫の電力だけでいいことになる。まったく強引なこじつけではあるが、これで倫理的な面はクリアということになった。
朝になって実家から帰ってきた恋人との感動の再開も束の間、昼過ぎには完全に運休している電車以外の交通機関を乗り継いで都内某所の雑居ビルの地下一階を目指した。夕方にはどうにか都内に辿り着き、水道の止まっていない友人宅で風呂に入り、うんこを思う存分に出して、パワプロの試合をしながら決行の時を待った。
さすがに平時ほどの大盛況とはならなかったが、こんなときでも楽しもうとする気合い入った連中、いわば少数精鋭が雑居ビルの地下一階に集結し、忘れがたい熱狂のひと晩となった。日付けをまたいでしばらく経った頃、はじめは行き渋っていた恋人が車持ちの大学の友人ほか数名をたきつけてやって来てくれたのにはさらに心が踊った。まったく愉快なひと晩だった。
さて、朝もとうに過ぎて、泥のように疲れ果てたし、そろそろ仕舞いになったところで、出入口のドアが開かない。もともとがオンボロの雑居ビルなうえに、酔っ払いが乱暴に開け閉めするから建て付けが悪くなっていたところに、地震と余震とウーハーの振動が上手い具合に重なったのか、二重扉の手前のドアがうんともすんとも言わなくなってしまった。みんなで大笑いしながらズッコケた。(昼過ぎになって、先に車で休んでいた恋人の友人が救出しにきてくれた。地震で外れた板が上手い具合にドアにつっかえていたらしかった)
まあ、しかし、震災は至るところに大きな爪痕を残した。自分の身に起こったことでいえば、震災の騒ぎがすこしずつ収縮し、日常生活が戻ってくると同時に復興の始まりだした時期にある変化が訪れた。周囲の友人知人がこぞって反原発をはじめとする政治運動に目覚めてしまったのだ。そのなかには賛同できる意見もあれば、そうでないものもあった。なので自分としては積極的に運動には参加せず、どちらともつかずな曖昧な態度を通すようにしていた。そうこうするうちに当初こそ「声を上げるべきだ」からはじまった運動が「声を上げないやつはダメだ」に変貌してきた。夜明けの飲み屋で運動への疑問点を呈して言い争いになることもしばしばだった。これまでニッチな趣味をともにする仲間と思っていたひとたちが急に窮屈に感じられた。しまいには声を上げないやつにレベルミュージックを聴く資格はないとまで言われてしまい、そこまで言うのならもうひとりで勝手に聴くわ、ということで放蕩と名誉ある日々をかなぐり捨て、かねてより誘いのあった定職に収まることとなった。かつての仲間との交流は徐々に少なくなり、いまではごく僅かなひとたちを除いてはすっかり疎遠となった。
それでも、あの夜の熱狂や、そのほかにも幾夜とあった熱狂の炎は、いまも胸のうちで燻って燃え続けている。
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eidolon1087 · 7 years
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十六夜 01  (佐櫻 / 第二子妄想注意)
十六夜     いざよい
     今宵,月は海を渡る君の想い運んでゆく.
今夜,月色映照著海洋,將你的思念傳遞了過來。
  一名深藍色髮的男人閉眸,以手為枕,側躺於和室,紙拉門渲染了花散月的光影,他熟睡著,俊俏白皙的容顏倒映著木格窗紋,薄唇微抿,幾綹髮絲半掩於面龐。
  這裡,是水之國,執行任務的暫居所。
 空蕩的左袖之下,粉緋色髮的嬰孩躺落於他的懷抱,稚氣白皙的睡臉是如此柔和。
  同じようにまた朝がきて, 同じようにまた夜がくる.
早晨如同往常一般到來,夜晚如同往常一般到來。
  「爸爸,你當公主。」
 清朗的嗓音笑著說,一名粉緋色髮的小男孩倚坐於簷廊,以雙手拿起了故事書繪本,他穿著火扇家紋的立領上衣,相似於母親的綠眸與男人對視,笑彎著眼。
  宇智波朔也(うさはサクヤ),5歲。
  ……….。
 佐助沉著臉,閉眸,小朔也執以一只紅色髮夾,將幾綹深藍色髮絲抓起,紮成了束,湛藍色天空之下,父親與兒子坐在簷廊,櫻花飛落,紙障子映照著兩人的剪影。
  羽色黑黃相間的鷹隼,絆(キズナ),圓亮的黑瞳注視著他們。
  頼りなく,風に揺られるだけの不安定な愛で.
沒��依靠,只能感受到風的吹拂搖曳,這不安定的愛。
  「兔王子要騎著馬去拯救公主了,呼啊呼啊呼啊。」
 小朔也抱著兔子玩偶,將娃娃騎在絆身上,牠驚嚇的拍動著羽翼,掙扎的想逃。
  離れていても,傍にいても.
即使離開了,即使在身邊。
  幽深的玄黑色眼眸倒映著兒子的笑顏,回憶著妻子、以及女兒,悵然輕掩。
  いつも,いつも,君を守りたくて.
一直、一直,想守護著你。
    *
    「小絆,爸爸快要回來了,我們必須做好準備才行。」
  一名粉緋色髮小男孩抱著兔子玩偶,可愛白皙的容顏相似於父親,抬眸,笑彎了眼,他穿著火扇家紋的立領上衣,小小的背影走入和室,木格窗渲染了黃昏的微光。
  宇智波朔也,7歲。
  羽色黑黃相間的鷹隼,絆,鳴叫著,拍動了展開的羽翼,跟隨於他的身後。
  「第一個工作是,擦地板。」
 稚氣白皙的容顏輕咬著唇緣,小朔也執以一方白色毛巾,沾濕了木桶的清水、擰乾,他將毛巾放在地面,以腳部的力量,推著前進,來回擦拭於簷廊,以及茶室。
  「然後是、洗衣服……」
  庭院,粉緋色髮小男孩坐在木椅,哈、哈啾,搓揉衣物的泡泡讓他忍不住打了噴嚏。
  夕染暮色的光影之下,鷹隼拍動著羽翼,以嘴喙扣著白色床單的一角,幫忙曬衣服,小朔也佇立於一只架高的木梯,將洗好的衣物懸掛於竹竿,卻不自覺驚呼。
  「啊,不好了、不好了,我忘記準備晚餐了。」
 誒?搖晃的木梯傾斜著,哇啊、他重心不穩的摔了下來,跌落於草地。
  廚房,小小的指尖於水盆中搓洗著葉菜。
  小朔也站在椅凳,穿著尺寸有些過大的白色圍裙,將洗好的蔬菜瀝乾,放置於盤中,嗯?他回眸,似乎是聽見紙拉門輕啟的聲響,可愛白皙的臉容綻放了笑顏。
  「我回來了。」
 一名深藍色髮男人走入玄關,閉眸,幾綹髮絲半掩於輪迴眼。
  他抬手,以指尖解開了黑色斗篷的搭釦,俐落的卸去外衣,將懸掛於身的刀刃取下,俊秀白皙的容顏抬起,幽深的玄黑色眼眸望著執行任務的暫居所,薄唇輕抿。
  宇智波佐助不語,傾聽著門廊傳來奔跑的腳步聲,嘆了口氣。
  「爸爸,歡迎回來。」
 小朔也笑著,飛撲於父親的懷中,以雙手抱緊了他,尺寸過大的圍裙下襬拖於地面。
  「……說了很多次,不要那樣抱我。」
 佐助沉著臉,嘆息,以手心撫著兒子的髮絲,反身脫離了他的懷抱,走入客廳。
  嘿嘿,粉緋色髮小男孩笑了,將雙手放在身後。
  晚餐時間。
  年幼白皙的容顏噘起了嘴,澄澈的青綠色眼眸看著瓷盤之中,一尾細長的烤秋刀魚,他坐在餐桌的椅子上,左看、右看,就是無法喜歡這個魚刺很多的食物。
 唔……
 小朔也吐舌,以雙手捂著嘴,推開了盛裝著烤秋刀魚的盤子。
  柔和的燈光之下,佐助坐在餐桌的另一側,閱讀著忍術卷軸,用餐的空碗放在桌緣。
  「爸爸。」
 稚氣的嗓音輕聲說,小朔也羞怯的笑了,小小的雙腳在椅邊盪著,眼神是如此期待。
 「你答應我的,今天要告訴我媽媽和姊姊的事。」
  ……….。
 幽深的玄黑色眼眸抬起,佐助怔忡著,與那雙相似於櫻的綠眸對視,一時語塞。
  他嘆了口氣,俊秀白皙的容顏別開了視線,黯然的歛下目光,幾綹髮絲半掩於面龐,簷廊,父親與兒子坐在桌緣的身影倒映於紙障子,螢火飛散,夜顏之花凋落。
  「朔也,地板擦了嗎?」
 佐助放下卷軸,閉眸,似乎在思忖著如何開口。
  「擦了。」
 小朔也收拾著餐桌的空碗盤,笑彎了眼。
  「衣服洗了嗎?」
 拖延戰術。
  「全部的衣服都洗好了、也曬好了,我知道爸爸一定會這麼說,所以家事都做完了。」
 小朔也笑著說,小小的背影走進了廚房,將空碗盤放入水槽之中。
  ……….。
 完敗,佐助沉著臉,無奈的嘆了口氣,幾綹深藍色髮絲半掩於白皙側顏。
  「吶,爸爸,媽媽是怎樣的一個人呢,長得很漂亮嗎?」
 小朔也走近了父親,以雙手撐著桌緣。
  「姊姊喜歡玩偶嗎?我有好多的玩具哦,等我回村了,就可以和姊姊一起玩……」
  佐助沉默著,幽深的玄黑色眼眸望著兒子的笑容,悵然輕掩,隱忍的別開了視線,他深吁了一口氣,俊秀白皙的容顏與粉緋色髮小男孩對視,溫柔,卻悲傷。
  修長指尖像是要輕戳小男孩的額頭那般,抬起。
  小朔也怔忡著,害怕的閉眸,以雙手蓋住了額頭,躲避似的向後退。
  「不行不行,不給你戳,爸爸每次都這樣敷衍我,我會討厭爸爸的。」
  他哭喪著臉,澄澈的青綠色眼眸與父親對視,以雙手護著額頭,小小的唇瓣緊抿。
  ……….。
 佐助一時語塞,黑瞳倒映了與櫻相似的綠眸,雙指併起的指尖顫抖著,停止於空中。
  沉默。
  他放下手,幾綹深藍色髮絲掩去了白皙側顏。
  「……朔也,你該睡了。」
 低沉嗓音輕聲說,佐助起身,穿著紫色立領上衣的身影與兒子錯肩,走出和室。
  小朔也怔忡著,澄澈的青綠色眼眸濡濕了淚痕,視線逐漸模糊,淚水緣著側緣落下,他咬著小小的唇瓣,失落的低下頭,以指尖緊扣於手心,隱忍著不哭出聲音。
  澡堂。
  熱氣之中,一名粉緋色髮的小男孩抱著膝,浸泡於浴缸,小小的裸背沾染了泡沫,稚氣白皙的容顏半掩於水面之下,青綠色眼眸看著自己的倒影,悵然輕掩。
  他失神的抬眸,一只紅色的泡澡玩具小鴨漂浮著,鴨嘴碰觸了小男孩的鼻尖。
  今天,7月20日,是宇智波朔也的生日。
  「爸爸,為什麼我的頭髮、眼睛的顏色,和你的不一樣呢?」
 回憶之中,小朔也好奇的說著,澄澈的青綠色眼眸望著男人的側顏。
  「……那是你的母親,櫻的髮色,瞳色。」
 佐助沒有回頭,走入森林的綠茵深處。
  「姊姊也是嗎?」
 他追著父親的腳步,黑色立領上衣的背影穿越了枝梢,火扇家紋隱沒於樹叢之中。
  「紗羅妲是黑髮,黑瞳。」
  兩人走出了森林,羽色黑黃相間的鷹隼,絆,拍動著翅翼,飛翔於蔚藍色的天空,溪涼之間,生苔的踏腳石浸染於水中,悠游的魚影倒映了柔和的微光,水紋粼粼。
  「我們什麼時候可以回去找媽媽和姊姊呢?」
 小朔也欠身,以雙手撐於膝蓋,喘著氣息,似乎有些吃力。
  「任務結束之後。」
 佐助步上了踏腳石,穿越杉之國的河川,黑色立領斗篷的身影倒映於水中。
  「那、那,我可以再多問一些媽媽和姊姊的事嗎?」
 哇啊,他驚呼了一聲,踉蹌著,重心不穩的跌坐於河中,濺出了水花。
  ……….。
 幽深的玄黑色眼瞳、以及輪迴眼,凝望著兒子,深藍色髮絲飛舞於風中。
  小朔也喘息著,稚氣白皙的容顏抬眸,粉緋色髮絲沾染了飛濺的水花,滴落水痕,他跌坐於河川的淺水中,澄澈的青綠色眼眸與父親的黑瞳對視,無聲的顫動。
  ……爸爸的表情,好悲傷。
  佐助不語,俊秀白皙的容顏是如此悵然,卻又一瞬間掩藏了情緒,別開目光。
  如果問了更多媽媽的事,爸爸就會沉默,一次又一次……
  對不起,小朔也失落的輕聲說,低下了頭,像個做錯事的孩子。
  「朔也。」
 佐助輕輕的嘆了口氣,穿戴著黑色手套的指尖招了招手。
  涓細的水流之中,小朔也怔忡著,稚氣白皙的容顏綻放了笑容,有些吃力的起身,他踩著生苔的踏腳石,穿著黑色立領上衣的身影倒映於水中,奔向了對岸。
  下一秒,修長指尖抬起,以雙指輕戳了小小的額頭。
  唔、小朔也閉眸,停下了腳步,以指尖撫著額頭的戳痕,有些不解的看著父親。
  「下次再告訴你。」
 佐助輕聲說,收回了指尖,旋身,黑色立領斗篷的背影走入森林之中。
  ……我,一直期待著「下次」,想像母親的容貌,嘴角,就會不自覺勾起了笑容。
  臥室。
  一名粉緋色髮的小男孩整理著床褥,稚氣白皙的容顏是如此的失落,拭去了淚痕,他反身,仰躺於枕心,以衾被掩去了小小的身影,蜷縮在其中,隱忍著哭泣。
  這裡,是執行任務的暫居所,只有簡單的家具,以及隨身可以帶走的用品。
  「……你和櫻,很像。」
 低沉嗓音輕聲說,一名深藍色髮的男人斜倚在門旁,俊俏白皙的容顏渲染了月色,他嘆息著,幽深的玄黑色眼眸歛下目光,空蕩的左袖垂落於身側,環抱著雙臂。
  佐助看著散落於和室的紙張,畫上了一家四口的塗鴉。這是……?
  「爸爸?」
 小朔也怔忡著,坐了起來,白色的被單於髮絲之間滑落。
  紙張上,以彩色的蠟筆畫著像是火柴人的塗鴉,父親的黑髮遮去了側顏,穿著斗篷,想像的母親容貌是粉緋色長髮,以及黑髮、黑瞳的姊姊,戴著紅色的眼鏡。
  宇智波一家,四個人牽著手,簡單的線條畫上了有些歪斜的微笑。
  「爸爸,請告訴我,媽媽是怎麼樣的一個人呢?」
 小朔也端坐著,澄澈的翠綠色眼眸是如此堅定,與父親抬起的黑瞳對視。
  ……….。
 佐助不語,似乎是在思忖著如何開口那般,閉上了眼眸,回憶著妻子的一切。
  波之國。
  粉緋色長髮垂落於少年的蒼白容顏,千本刺穿了他的身體,血痕沾染著立領上衣,石橋,她俯身於他的胸膛,單薄的肩膀顫抖著,小小的唇瓣緊抿,放聲大哭。
  佐助失神的睜開了眼眸,與櫻的泣顏對視,她淚崩著,抱緊了他。
  死亡之森。
  求求你,快住手……
  狂烈的紫焰之中,佐助回首,血紅色眼眸倒映了濡濕的綠瞳,淚水落下於白皙側顏,櫻哭泣著,以雙手從後方緊抱著他,顫然的臉容沾染著塵泥,削去了長髮。
  他不語,俊俏白皙的側顏放緩了神色,咒印退去,暴戾之息逐漸消散。
  月下離別。
  清冷月銀之下,一名深藍色髮少年手插口袋,立領上衣的背影瞬即出現在她身後,他傾身,低沉嗓音輕聲說,翠綠色眼眸無語的顫動著,淚水濡濕了長睫。
  ……謝謝妳。
  第四次忍界大戰。
  粉緋色髮的少女無力倒落,他抬手,於後方抱住了她,指尖撫觸於酸蝕灼傷的肌膚,兩人對視著,沙漠之風吹散了迷離的視線,一只褪下的中忍背心遺落在異空間。
  佐助平靜的歛下目光,寫輪眼倒映了櫻的綠眸,沉默、卻溫柔。
  旅立之日。
  木葉忍者村的阿哞正門之下,一名深藍色髮少年走出了村子,黑色立領斗篷翻飛,他面對著她,幽深的玄黑色眼眸悵然輕掩,低沉嗓音訴說著自己的決定。
  抱歉,佐助輕聲說,櫻懊喪的低下頭,沒有關係嗎……她失落的低語。
  修長指尖抬起,以指尖輕戳了她的額際。
  ……下次吧。
  粉緋色長髮的少女屏息著,絕美白皙的容顏羞紅了臉,澄澈的翠綠色眼眸無語顫動,他淡笑,深藍色髮絲飛舞之間,黑瞳、輪迴眼與她的綠眸對視,眼神是如此柔和。
  謝謝妳……
  「你的母親,櫻,是一個充滿著愛的人。」
 佐助回憶著妻子的笑顏,黯然的歛下目光,緊扣著手心,指節泛白。
 「我,做了不被原諒的事,一直到現在,仍然身負著罪咎,可是,她……」
  現在已經沒有人恨你了,櫻微笑著,雪白的側顏躺落於佐助的胸口,與他對視。
  「……不被原諒的事?」
 小朔也輕聲說,澄澈的青綠色眼眸望著男人的身影,父親從未談論自己的過去。
  「我曾經是木葉忍者村的敵人。」
 ��助啞著嗓音,閉上了眼眸。
  「宇智波一族滅亡之後,我背棄了村子,被列為叛逃忍者。」
  ……爸爸、背叛了村子?
 粉緋色髮小男孩怔忡著,太多陌生的名詞衝擊了內心,一時之間無法反應。
  「媽媽一定原諒爸爸了,對吧?」
 小朔也有些急切的說,起身,小小的指尖緊扣著手心。
 「如果我做錯事了,爸爸也會原諒我,所以,沒有什麼事情是一定不能被原諒的,爸爸很溫柔的,這不是你的錯……」
  他低聲的說,稚氣白皙的容顏別開了視線,悲傷的歛下目光。
  ……….。
 原諒、嗎,佐助伸出了手,幽深的玄黑色眼眸看著自己的手心,失神的掩起。
  不,或許櫻從未恨著這樣的我……
  「姊姊呢?」
 小朔也走近了父親,姊姊是怎麼樣的一個人?他輕聲說,小小的唇瓣緊抿著。
  佐助沉默著,俊秀白皙的容顏歛下目光,與兒子對視,搖了搖頭。
  「我在紗羅妲懂事之前就離開村子了。」
 他說,俊秀白皙的容顏別開了視線,似乎是隱忍著掩藏於心中的情感。
  ……….。
 粉緋色髮的小男孩怔忡著,有些失落的低下頭,看著散落於房間的紙張塗鴉。
  沉默。
  「……我,很開心,爸爸願意告訴我媽媽和姊姊的事。」
 月色之中,小朔也以手背拭去了側顏的淚痕,稚氣嗓音輕聲說,溫柔的笑了。
  他欠身,小小的指尖拿起了塗鴉,紙張上畫著一家四口的歪斜微笑,牽著手。
  「對我來說,這樣……」
 小朔也微笑著,閉起了眼眸,以指尖戳了自己的額際。
 「……就像是爸爸和我的約定一樣,爸爸沒有忘記這個約定,所以我,真的很開心。」
  粉緋色髮的小男孩輕聲說,年幼白皙的容顏笑了,澄澈的青綠色眼眸是如此柔和。
  ……….。
 佐助怔忡著,幽深的玄黑色眼眸與他對視,放緩了神色,嘴角,是一綹好看的淡笑。
  「吶,爸爸和媽媽有沒有親嘴呢?」
 小朔也笑著說,一臉期待的注視著父親。
  「朔也,你該睡了。」
 下一秒,佐助沉著臉,有些困窘的以雙手抓著門想逃走,卻被兒子抱住了雙腳。
  「不行!」
 小朔也大喊著,小小的雙手緊抱了父親,拼命的不讓他逃跑。
 「爸爸不怕媽媽被其他的男人拐走嗎?」
  ……….。
 佐助不語,有些僵硬的回眸,深藍色髮絲之下,黑瞳與兒子的綠眸對視,瞇起了眼。
  「水、水月叔叔說的……」
 小朔也低聲說,噘著嘴,心虛的別開了視線。
  那傢伙……
 佐助煩悶的嘆了口氣,捂著臉,一面想著自己為何要帶孩子去大蛇丸的根據地。
  「爸爸不想念媽媽和姊姊嗎?」
 小朔也拉扯了父親的衣角,澄澈的青綠色眼眸望著他,小小的唇瓣緊抿。
  「忍者以任務為第一,私人情感只會妨礙任務的進行。」
  低沉嗓音輕聲說,佐助垂首,悵然的閉上了眼眸,幾綹深藍色髮絲半掩於白皙側顏,月色之中,父親與兒子站在門旁,兩人的剪影倒映於紙障子,螢火飛散。
  小朔也沮喪的歛下目光,看著手中的塗鴉,媽媽與姊姊的輪廓被指尖暈開了顏色。
  「爸爸,你愛著媽媽和姊姊嗎?」
 他啞著嗓音,如果爸爸深愛著她們的話,為什麼都不回家呢……?
  沒有回答。
  .………。
 小朔也怔忡著,澄澈的青綠色眼眸濡濕了淚痕,無聲的顫動,隱忍著別開了視線。
  不愛、嗎……?
 小小指尖緊扣著手中的塗鴉,淚水落下,沾染了蠟筆的線條,歪斜的笑臉模糊不清。
  佐助沉默著,幽深的玄黑色眼眸望著兒子的泣顏,悵然輕掩。
  他欠身,穿著紫色立領上衣的背影跪落,一手環抱了小朔也的肩膀,將他擁入懷中。
  「……這就是我的答案。」
 佐助輕聲說,閉上了眼眸,深藍色髮絲半掩於側顏,傾聽著兒子的心跳聲。
 「朔也,對於你、紗羅妲,以及櫻,我的回答都是如此。」
  小朔也偎身於父親的懷中,小小的唇瓣顫抖著,視線逐漸模糊。
  「如果有一天,我可以回去木葉忍者村,再次與紗羅妲見面的話,我也會……」
 佐助回憶著妻子與女兒的笑顏,將兒子抱緊了些。
  「嗯……」
 小朔也哭著說,伸出手,緊抱了父親,兩人的剪影倒映於紙障子。
    *
    你知道嗎?五隻手指代表著家人。
  和室,一名粉緋色髮的小男孩躺落於枕心,稚氣白皙的容顏渲染了金魚缽的光影,他回憶著書中看到的字句,伸出手,澄澈的青綠色眼眸望著小小的指尖,笑了。
  ……大拇指代表著我們的父母,食指代表兄弟姐妹、中指代表自己,小拇指是子女,無名指則是夫妻。
  「朔也,該走了。」
 另一名深藍色髮的男人走入玄關之中,穿上了黑色斗篷,懸以刀刃。
  「來了。」
 小朔也笑著說,起身,羽色黑黃相間的鷹隼,絆,拍動了翅翼,跟隨於他的後方。
  絕對不可以自己出門,是父親唯一要求的,必須遵守的規定。
  水之國的街巷,霧氣暈染著天空,攤商的市集擺放了漁獲、水產,帆船繫於港灣,海鷗在船桅鳴叫著,漁夫站在船尾收起魚網,進口的外國貨物堆放在木棧道。
  這裡,是忍者五大國之中的島國,居民以傳統的漁業為生。
  「小絆,好久沒有出來玩了呢。」
 小朔也奔跑著,穿梭於人群之間,稚氣白皙的容顏抬眸,與鷹隼對視,笑彎了眼。
  佐助走入聯絡點,詢問著是否有木葉忍者村的信息。
  「哎呀,粉緋色的頭髮好可愛呢,是女孩子嗎?」
 攤販之中,一名老婦人微笑著,慈藹的面容佈滿了皺紋,幾綹白髮垂落於側顏。
  「婆婆,我是男孩子哦。」
 小朔也笑著說,鷹隼,絆,飛落於他的肩膀,收起了羽翼。
  「真是有精神呢,小弟弟,你叫什麼名字?」
  「宇智波朔也。」
 他羞怯的輕聲說,將雙手放在身後,可愛白皙的側顏渲染了淡淡的紅暈。
  「……誒?」
 老婦人推了推眼鏡,傳說,木葉忍者村的火扇一族都是黑髮黑瞳,擁有強大的瞳術。
 「宇智波一族的人,不是黑髮?你有寫輪眼嗎?」
  小朔也張口,想說些什麼的時候,卻被父親推著離開了市集。
  「……不要說一些多餘的事情。」
 佐助沉著臉,幽深的玄黑色眼眸歛下目光,嘆了口氣,逕自走向前方。
  街巷之中,市集的人影錯落,父親、以及兒子,兩人的身影逐漸拉開了距離。
  「爸爸,你的右眼可以變成紅色,是叫做寫輪眼嗎?」
 小朔也站在原地,澄澈的青綠色眼眸望著父親的背影,小小的唇瓣緊抿著。
  佐助沉默著,停下了腳步。
  「我是不是沒有寫輪眼?我的眼睛,是綠色的……」
 小朔也輕聲說,有些失落的歛下目光,以手心半掩著相似於母親的眼眸。
  宇智波一族的人,不是黑髮……
  我,真的是宇智波一族的人嗎?他看著自己在水坑中的倒影,青綠色眼眸悵然輕掩。
  「寫輪眼,是強烈的情感在大腦產生特殊的查克拉,反映於視覺神經發生的變化,與虹膜的顏色沒有關係。」
 佐助沒有回頭,穿著黑色斗篷的背影向前走去。
  ……….。
 小朔也怔忡著,稚氣白皙的容顏垂首,火扇家紋的背影隱沒於人群之中。
  夕曛的微光暈染了天空,孩子們踢著足球,笑聲、打鬧聲,拉長的影子映照在牆垣。
  街巷,小朔也注視著一群與自己年齡相仿的孩子,小小的背影不自覺停下了腳步,他沉默著,澄澈的青綠色眼眸望得出神,似乎是渴望與孩子們一起遊戲那般。
  佐助不語,幽深的玄黑色眼眸看著兒子的側顏,悵然輕掩。
  「朔也,如果你想要和那些孩子一起玩的話……」
 他說,未被深藍色髮絲掩去的黑瞳歛下目光,欲言又止。
  小朔也看著踢足球的孩子們,微笑的,搖了搖頭。
  「沒關係的,這樣會延誤到爸爸的時間吧?」
 他輕聲說,澄澈的青綠色眼眸抬起,與父親對視,笑彎了眼。
  「我可以自己玩……」
 小朔也望著孩子們最後一眼,別開了視線,有些寂寞的笑笑,嘴角的弧度逐漸黯淡。
  .………。
 佐助不語,深藍色髮絲飛舞之間,黑瞳與輪迴眼看著兒子,心,好似隱隱的痛著。
  你是一個脆弱的孩子,怕黑、愛哭,總是想著撒嬌,就像是下忍時期的櫻一樣。
  霧凝之風吹動著兩人的足跡,鳶尾花搖曳,烏鴉飛散。
  夕染暮色的光影之中,一名深藍色髮的男人走入森林,回眸,觀察兒子是否跟上,山坡,粉緋色髮的小男孩欠身,喘息著,鷹隼拍動了羽翼,飛翔於黃昏的天空。
  你也是一個溫柔、堅強的孩子,忍受與母親、手足,同儕疏離的孤獨,卻仍是笑著。
  佐助回憶著兒子撐起的笑顏,幽深的玄黑色眼眸悵然輕掩。
  ……就像是櫻一樣。
  寂靜之森,一名棕髮的男人隱身於岩壁,山洞入口以蛇首的燈飾照亮了陰暗走道,他穿戴著臉部的護具,有些蒼老的容顏回眸,黑瞳倒映著男人與孩子的身影。
  「佐助、嗎……?」
 低沉嗓音輕聲說,木葉忍者村之暗部,大和,負責監視大蛇丸的據點。
  佐助欠身,小朔也緊挨著父親,稚氣白皙的容顏半掩於黑色斗篷之下,羞怯的回望。
  「……你的兒子已經這麼大了啊。」
 大和微笑著,放緩了神色,小朔也羞紅了臉,瑟縮著躲入父親的身後。
  「我需要查詢一些機密的資料。」
 佐助走近了山洞的入口,昏黃的燈光映照於蛇紋石柱,曲折的走道不斷延伸。
  「我明白了。」
 大和低聲說,穿戴著護具的容顏歛起了神色,側身,讓出道路。
 「抱歉,我無法離開這裡,如果發生什麼事的話,我會在這裡支援。」
  佐助點頭,走入大蛇丸的據點之中。
  「……這裡可不是帶孩子出來郊遊的地方啊。」
  地下室,一名銀髮男人走出了黑暗,清秀白皙的容顏抬起,紫瞳注視著男人與孩子,他穿著黑色的立領襯衫,繫以白色的腰帶,忍靴在冰冷的地面踩出了聲響。
  大蛇丸之下屬,鬼燈水月,瞇起了眼,率性的以手扣於身側。
  「好久不見,佐助。」
 他哼笑,唇緣咧開了一整排的尖牙。
  另一名橘髮的男人沉默著,穿著長袍的身影倒映於牆垣,走近了男人與孩子。
  「佐助,你是來找大蛇丸的嗎?」
 天秤重吾低聲說,橙橘色眼瞳與男人對視。
  佐助不理會水月與重吾,俊秀白皙的容顏閉眸,與他們錯肩,走入據點的深處。
  小朔也緊挨著父親,稚氣白皙的容顏半掩於黑色斗篷之下,有些畏怯的看著兩人,他咬著唇緣,澄澈的青綠色眼眸與紫瞳對視,似乎很害怕這個陰暗的地方。
  「哦,長高了呢。」
 水月輕浮的笑了,上次看到這個粉毛的小鬼是……兩年前?
  地下室的燈光之中,小朔也瑟縮著,別開了視線,與父親一起步入走道的轉角處。
  「那傢伙,真的是佐助的兒子嗎?」
 水月沉著臉,紫瞳看著他們走入轉角的身影,以手心半掩於側顏,向重吾抱怨。
  「每次來這裡都一臉快嚇哭的樣子,看起來超弱的啊……」
  玻璃圓缸,實驗中的克隆人沉睡著,液體的氣泡模糊了屈起的裸身。
  「哎呀,佐助,沒想到你還會再次光臨。」
 實驗室,一名黑長髮的男人放下了試管,蛇目般的金眸望著男人與孩子,瞇起了眼,他穿著寬鬆的綁帶和服,柔美白皙的容顏微笑著,勾玉的飾品懸掛於耳垂。
  大蛇丸走近了他們,金眸注視著黑色斗篷之下的小男孩,意味深長的笑笑。
  「晚上好。」
 他柔和的笑了,沙啞的嗓音輕聲說,小朔也顫抖著,躲入父親的身旁。
  佐助無視於黑長髮的男人,走向書櫃,以指尖取下了一本厚重的書,翻找著資料。
  「因為是沒有寫輪眼的孩子,所以才帶在身邊嗎?」
 大蛇丸斜睨著他的背影,蛇目般的金眸歛下目光,瞇了起來。
  粉髮、綠瞳……宇智波的基因就這麼淡化了呢,他輕輕的哂笑,看著小男孩的身影。
  修長指尖緊扣著書本,指節泛白。
  佐助沉默著,回眸,俊秀白皙的容顏目光一凜,幽深的玄黑色眼瞳幻化為寫輪眼,他放下了書本,似乎是隱忍著怒氣那般,與大蛇丸對視,冰冷的瞪視著他。
  ……沒有寫輪眼的、孩子?
 小朔也怔忡著,澄澈的青綠色眼眸無聲顫動,有些失神的踉蹌了幾步,說不出話來。
  所以才帶在身邊……
    *
    「爸爸。」
  稚氣的嗓音輕聲說,兩人走出了實驗室,蛇首的燈飾照亮著長廊。
  「我是不是……很弱?」
 小朔也啞著嗓音,低下頭,小小的唇瓣緊抿,粉緋色髮絲掩去了白皙側顏。
  「我長得和宇智波一族的人不一樣,沒有寫輪眼,也不會忍術……」
  「……媽媽是因為這樣,才不要我這個孩子的嗎?」
 他哭喪著臉,濡濕的青綠色眼眸抬起,淚水緣著側顏落下,沾染了黑色的立領上衣。
  佐助沉默著,停下了腳步。
          _To be continued.
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usamin0325 · 5 years
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世相に関する覚書
ものぐさでいい加減な私は人をまとめたり動かしたりするのが極端に苦手な性分で、今でも人と仕事をするのが苦痛で仕方なく、例えば、ある作品の評論を書いてくれと依頼があっても、依頼主の意向を無視したものを書き上げてしまい、折角の仕事の話を頓挫させてしまったことが幾度となくある。
「井原西鶴はスタンダールやバルザックと同じリアリズム文学の創始者であり、当時、大阪はパリに匹敵する文化都市だった、だからこそ、大阪維新の会のような文化破壊をあたかも道徳のように行う政党は決して許してはならない」と書いて、失笑されること数回。十三の風俗嬢とその馴染み客の恋愛を書けば、織田作の模倣に過ぎないと馬鹿にされ、踏んだり蹴ったりの私。それでも井原西鶴や織田作、宇野浩二、武田麟太郎、葛西善蔵、林芙美子を見習い、軽佻浮薄にケラケラ笑いながら私は生きている。
こんな愚図な私はどうにもならん、いくら賞レースに参加したとて、風俗壊乱の下卑た作品しか書けないので、富と名声までは程遠い。いつまで月給取りをしなくてはならないのだと不甲斐ない自身を罵りながら日常を過ごす。
そんな私だから、音楽なんてとうの昔に辞めて正解であった。もともと不器用なんだから音楽なんてそれはとても私の技量にかなうものではなかったのだ。
退屈で無為な学生時代、セカンドスクールだがなんだかに通い詰めたりして「お前は挫折したことないから、そこへ行ってる俺の真剣さなんて分かりっこない」などと威張り散らし、自身の優越を誇示するのに必死な連中との付き合いに疲れ果て、私はそんな窮屈な人間関係から逃れるために読んだスタンダールの「赤と黒」とバルザックの「ゴリオ爺さん」などの古典文学にこそ、私の居場所があった様なものだった。人間の矛盾に満ちた本質など変わりはしないし、それを責めても何も生まれないのだと思うと、多少、卑屈な思いも鎮まるものである。どうにかしてこのクソ退屈で屈辱に満ちた時間と場面をやり過ごすことしか他はなかったのだ。
そもそも世渡り下手でなにかと不器用な私であったし、といってそれほど学術的に優秀でもない。それに取り柄なんてない。皆の様に明確に目指すものなんてあるわけもない。
私には捉え難いものを追うことしかできず、厄介なことに迷うことでしか多くの物事が分からないのだ。取り返しのつかない失敗と破綻の上に、私の思考が成り立つという厄介さ。
頭のいい方々は羨ましいものだ。路頭に迷い、誰からも必要とされない孤独感や他人との協調が上手いがために疎外感を知らずに、ただ、目の前にある課題をこなすだけで満足そうなのだから。
私の場合はそうはいかない。満足なんてどこにもなく、何かを知れば知るほど、何かをやればやるほど、現実が差し迫って来て、理想は遠く離れていく様に見える。それ故に、常に何かに迫られるような切迫感があって、何処にも落ち着きそうがない。自嘲的にいえば、私はいつまでも年相応の生き方に馴染めず、ただ、当て所なく迷うのだ。放蕩無頼とはよくいったもので、私もそれに近いものがある。
ただ、こんな私でもこれまでの時代は西成の薄暗い商店街の路地裏にいる八卦見にでも見てもらえばよかった。
モーパッサンの「女の一生」の最後、召使いが仕えていた婦人に言うようなことを彼なら答えると分かってる、この言葉を第三者から聞ければ、満足だった。
「結局、未来なんて期待していたほど良くもなく、といって失望していたほどのものでもない」
ところがこんな楽観が成立していた時代が徐々にこの日本から消えつつある。しかもその消失速度はここところ否応無しに増すばかりで、いくら愚図で鈍間な私でも分かる。
実際、私はこのことについて直感的に分かっていたといっていいか。白状するが、大学のキャンパスだろうが、風俗店の受付だろうが、ジャンキーやヤリ目のパリピー野郎ばかりが屯するクラブだろうが、今の職場であろうが、どんなに目を背けても直視せざるを得ない危機が迫っていることだけは分かっていた。
だからといって自身を逞しくしたり資格の勉強をしようとまで思わなんだ。何故って、それは余りにも私には不自然なことだった。所詮、資格なんて役に立たないし、専門性を持てば結局自身の無謬性を過信することとなり大きく判断を見誤るからだ。
例えば、精神科医が大量の薬を出し、多くの薬害を生み出すことは、自身の無謬性を一瞬たりとも疑ったことがない所以ではないか?
かつて私は自身の特殊性ー頭の構造がおかしいのか、頭が時折人との会話や目下の作業についてこれず、注意散漫になって、思考が筋から大きく違う方向へ逸れてしまうーのために、若干精神を病んでしまい、頭に喝を入れるアンフェタミンと精神状態を穏やかにするセロトニンの混合薬欲しさに医者に行ったことがある。そこで医者にこんなことを聞かれた。
「このまま消えたいとかそういった希死念慮はありませんか?」
別に死にたくもないのにどうしてこんなことを聴かれねばならないのかと不貞腐れた私は、
「別にないです。私が欲しいのはただ穏やかさと覚醒だけですがね」
すると、医者はこの答えに不満ありげに、
「おかしいですね?本来なら自殺願望がこういった抑うつ症状の場合にはみられるのですがね…本当はどうです?実際はあるでしょう?」
こう聞く医師の目にどこか見当違いの既視感があるように私には思えてた、抑鬱ならばこの答えではなくては困るといったような、そんな雰囲気を醸し出されており、私は些か困惑した。
まるで鬱に憔悴した人は皆自殺願望でもあるかのように患者に決めつけるところなぞ、なんという傲慢さだろうか。
後々分かったことであるが、私はうつ病でもなければ統合失調症でもなかった。何たる誤診だったろう。こういった行き違いばかりの診察で出された薬に手もつけなかった。私の精神状態が脳の問題であれば、脳波でも見れば良いものを、なんたって本人との面談だけで、あれだけ易々と薬が出せたのだろうか、それが不思議でならなかったのだ。
恐らく医者はその説明を拒むだろう。自身の無謬性に一つでもケチが付けば、彼の自尊心は忽ち崩れ、そして、これまでの経歴を自ら疑わずにはいられなくなる。となると、皮肉なことに、彼こそが向精神薬のお世話になる羽目になるのだ。
ーこうした精神運動が権威と集団に結びつき、少数からの真っ当な非難を論拠なしに厳しい口調や態度で退け続け、悲惨な結末をもたらす自身の行為を改めずに続けること、これをセンメルヴェイス反射という。日本社会に起きている多くの弊害はこうした心理現象に由来するとも言える。他にも合成の誤謬、認知的共同体などが挙げられる。ー
こんな例はいくつもある。
幸か不幸か、私の身内の多くは精神障害者であり、精神科医の被害者である。その多くは医師の言いつけ通りに処方された薬を飲み続け、文字通り、ヴォガネットの作品に出てくる登場人物のように頭がどっかーんとぶっ飛んだ。
通院すればするほど、会話が支離滅裂なものとり、動作がどんどん鈍くなっていく。
その結果、ある者は還暦を前にしてすでに手足の関節の膠着が見られ、自身で排泄と食事すらできなくなるほど衰弱し、その上、会話も成立しない。そして尿道にはチューブが繋がれ、病床に臥したきりになっている。
誰も指摘しないが、これは薬害ではないかと私は思う。
こんなことが頻発しているのであれば、日本の精神医療は最低といっても過言ではない。
地獄への道は善意で彩られているとはよく言ったもので、このほかにも政府や官僚、エリートたちが社会保障の充実のための増税だと、将来世代にツケを残さないためだとかなんとか、美辞麗句ばかり並びたてている。だが、結局、消費税を上げるたびに、日本人は総じて貧乏になり、その供給能力(即ちそれは国家の経済力を指す)は著しく毀損された。
介護医療、土木建設などの生活の根幹をなす業界の現場は、「無駄を減らせ」「民間の知恵を入れろ」との美辞麗句に彩られた合言葉から始まった目的のない緊縮財政と構造改革の煽りで、その運営手段は民営化されたために、作業効率はかえって悪くなり、報酬は減り続けた結果、廃業にまで追い込まれるところが相次ぎ、人手不足で相当悲惨なことになっている。
鈍感ではあったが、世の中が見る見る悪くなると察した私は、将来に向けて努力する同級生を見ても焦りもしなかった。そもそも私が無気力な状態であったことは言うまでもないが、ただ、その焦りは結局、何らかの��ジネスに利用されるということを感じたからでもある。
実質賃金が漸次的に減少し、全体のパイが縮小していくデフレ経済下で勝てるのは持てる者だけで、多くは頑張れば頑張るほど燃え尽きるのだ。浮かばれない自身をSNSにでも投稿して憂さを晴らす姿はなんとも惨めったらしくて遣る瀬無い。そしてこの無為とも思われる努力の過程で積もり積もった妬みは政治家や官僚、メディア、詐欺師などに巧みに利用されて、自身の立場を知らず知らず危うくしてしまう。
公務員を叩いて何が良くなった?
何一つ良くなっていない、災害があれば、都市機能は一瞬で麻痺し、復旧には多くの時間と労力を要するだけで、日常生活に以前よりも支障を来すだけの結果にしかならず、何の足しにもなっていなかった。
リーマンショックの時、何か重大な機構の歯車が外れて未来への軌道が逸れた気がした。これまで是としてきたことがすべてまやかしだったというようなことが仄めかされたといっていい。世間の空気が少しだけ冷たくなり、より一層協調を求め、画一化されていくことを人々に強要していた。
「負け組にならないために、空気を読まねばならない。」
その空気とはなんであったか、今でも私には分からない。ただならぬものが何か一定の思考を強いるようなものであったのは確かだった。
後にトクヴィルの「アメリカの民主主義」という書物に出会い、朧げに見えてきたのは、「多数派の専制」がこの日本で行われつつあることであった。
階級や中間共同体が撤廃されて、人々が一様に平等となったとき、慣習や伝統を見失い、模範とすべき対象がないと多く嘆かれる。その時、頼るべきものを見失った人々はメディアが喧伝するイデオロギーや合言葉を、それが正しいかどうかなど関係なく、一斉に飛びついて信じてしまう。そして少数派の非難や意見はことごとく無視され、多数派がその社会を支配する。この多数派の専制が更に進めば、思考の自由すら人々は手放し、多数派の思考に隷属していく。
つまり、全体主義と民主主義は表裏一体。
私が物心ついた時からすでに社会はこの「多数派の専制」のメカニズムを順当に辿っていたのではないか。
阪神淡路大震災以後の日本文明は、何かと言えば、「無駄を省け」「これからは金融の時代だ」「規制緩和して市場を活性化すれば、より経済は活発になる」といった根拠なき意見が散見される次第、しかも何処にも確証もなければ論証もない。これらの試みが失敗したところで誰も責任を取らないどころか、「改革を十分に徹底していなかったから良くなかった、だからより抜本的に行う必要がある」という意見が支配的で、もう手の施しようがない。
つまりこの日本では健全な民主主義が機能していないのだ。
東日本大地震になると、この民主主義の機能不全は輪をかけて酷くなり、福島原発の爆発を見て、人々は恐れおののき、科学的根拠もなく、メディアの扇動だけで直ぐにでも脱原発と声高に多数派は叫ぶ有様。
正直にいって私も当初煽られてしまった。追い追い情報を精査すると、この事故はやむを得なかった。何しろ、想定外の事が起きたのだから。だったら、この想定外を上回る危機にも耐え得る原発を作れば良いではないか。しかしそんな議論は無かった。あったのは原発廃止、それだけ。
しかも脱原発に煽られて、人々は一斉に原発を叩き、根拠なき恐怖心は再エネビジネスに利用されたのだった。
結果、電気代に再エネ促進費用を上乗せされて支払う羽目になり、そのままその金は外資規制もなく再エネ事業者に横流し。しかもビジネス目的で山の斜面に多く作られたソーラーパネルのせいで、豪雨が見舞えば、土砂崩れは頻発する有様。
敗戦のショック同様に、このショックは人々の思考を停止に至らしめ、その隙間を邪なビジネスマンや工作勢力に利用されたのだった。
これをショックドクトリンという。
大惨事が起きるたびにこの国ではビジネスチャンスとなるわけだ。
過去の大戦の原因の一つが、石油をめぐるアメリカに対する我が国の過度な依存であったと分かれば、自ずと、結論は、エネルギーを自前で賄える可能性を有した原発を日本は国を挙げて維持すべきといった意見に傾く。この事故をあくまで日本の宿命と受け止めるべきではなかろうか。自立するために、多少の犠牲を払わなければならない日本の運命的境遇を理解できれば、何でもかんでも反原発と騒ぐのは話があまりにも飛躍しているのではないか。
しかし、こんな私の意見なんて多数派には届くはずもない。多くの人たちは、東電の管轄下にあったものが事故を起こしたのだから、その責任を国が東電に押し付けて当たり前と考え、異論すら聞き入れなかった。
想定外の事が起きているところへ、責任問題として、この事故を扱うこの国のエリート層の知性の劣化にはこの私でも舌を巻くものだった。これは誰の責任でもなく、その負担は政府をはじめとする国家全体が負うべき種類のものだろう。
しかし、政府はその負担を東電に押し付けた。メディアは、また放射能の被害を被った福島の農家に東電職員が土下座する写真を新聞の一面に載せたのだった。
どこまで煽られないと人々は気づかないのか。
その年行われたロックフェスは、従来通り、大量の電力を消費する大規模なものであったのに、ステージに立つ連中は悉く脱原発のイデオロギーに染まり、ある政治集団に至ってはジョンレノンに憧れてるのか、そこで夜中、大音量で音楽をかけながら、環境保護を標榜する集会を開いていた。60年代後半のウッドストックにいたヒッピーの幻想に頭がヤラレだのだろう、原発の利権構造が悪など偉そうな事を言う一方、大量の電力がなければ成り立たない生活をしている自身の矛盾には目を背け、偉そうに騒ぎ立てる姿は、自己欺瞞そのもので、実におめでたい姿だった。この光景をみて、こんな軽薄な連中とつるむのが気恥ずかしくなったものだ。私もそれだけ歳をとったのかわからぬが、彼らに言い知れぬ違和感を覚え、これ以降、私は音楽をやっている連中に関心を寄せなくなったのは事実だ。
一体、奴らの政治的主張のどこに耳を傾ける必要があろうか?実際、彼らの歌詞を仔細に読めば、その内容の空虚さ、幼稚さ、軽薄さが目につくだけで私は、彼らの音楽の不協和音も相まって、一層不快になってしまう。まさにこの自己欺瞞は滅びの兆候といってもいいのだろう。
こんな自己欺瞞ばかりの音楽の世界から遠ざかりたい一心で文学へと関心を移したわけだけど、これと同じことが文学でも起きていると分かった時の落胆は相当深刻なものだった。なんたって文学者の多くは音楽のそれと違って政治力まであるのだ。
私はそれでもこのクソみたいに高慢で自己欺瞞している連中の間で軽佻浮薄な振る舞いをして、世間の失笑と顰蹙を買うことだろう。
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vinyl-explorer77 · 5 years
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. . 2株目(木浴さんからのお迎え株)を植え付け。 化粧石は寒水石にした。 あと1株、地植えにしてみたいけど条件的に無理な環境なので鉢植えかな。良く見たら裏刺出てきてるし。 . Agave T's 001 Grex. (笹の雪 × 屈原の舞扇) × PCPオリジナル伝市黒釉黒泥鉢 . #agaveholic #agavelife #agave #agavejapanhybrid #agavets001grex #ts001grex #bromeliadsocietyofjapan #plants #bizarreplants #bizarre_plants #botanical #botanicallife #botanical_life #plantagram #plantstagram #plantsofinstagram #plantcontainerproducts #PCP伝市黒釉黒泥鉢 #伝市鉢 #アガベ #植物 #珍奇植物 #植物のあるくらし #植物のある暮らし #日本ブロメリア協会 #関西棘植保安狂会 https://www.instagram.com/p/B5U2K5flyMS/?igshid=1gx2ndadr3o9h
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