20231231
2023年、あまり記憶がない。記録や写真を見たらああそうやったなとは思うけど、自力で思い出そうとすると何してたっけな……と。できる限り自力で月毎に振り返ってみる。
●1月:年末年始は岩手。追いかけていた大阪の案件がやっと契約。成長。
●2月:神戸の案件を引き続きやってた。失注したけど。やっと少しだけ暇になって資格勉強をしてた。
●3月:資格試験受けた。沼津に小旅行。下旬からまた仕事が忙しい。
●4月:引き続き仕事が忙しい。役所の書類仕事に追われる。GWに帰阪。
●5月:この1ヶ月は本当に仕事を辞めたくなるくらい忙しかったし報われなさを感じてた。頑張って何の意味があるんと思いながら頑張ってた。
●6月:5月に頑張ってた福岡の案件が実った。この時点で今年度の目標達成。自信が更についたと共に周囲に怒りを覚えていた。少し傲慢にもなった。
●7月:忙しさを振り切って台北旅行。暑かったけど楽しかった。年一回は海外行きたいな。刺激を受ける。
●8月:何してたっけ……。夏休みは大阪に帰った。サマソニにも行った。あと誕生日。おいしいイタリアンをご馳走になった。
●9月:初めて自分が契約した案件が完工。一人前になれた気がした。出張が多かった。客ともバトった。疲労。
●10月:前半忙しかった。ちょっとずつ暇になったような気がする。
●11月:ややゆとりが出てきた。ペルシア語を読んだり、展示を見に行ったりができた。初めて外語祭にも行けて満足。
●12月:年末挨拶で出張も飲み会も多かった。謎の体調不良。異動が確定する。
え、なんかやっぱり忙しかったな。私より大変な人が居るのはわかってるが上を見てもキリない。私のキャパシティから考えて忙しかった。人間のことが何回も嫌いになった。笑
一応2023年の目標を立てていたので振り返りたいと思う。下記が1月頃にしていた私のツイート。
仕事量は減る方向に持っていけてると思う。後進のために業務マニュアルも作り始めた。本の感想は一部だけになるけど、ある程度の長文で記録することができた。継続したいな。資格はひとつだけ、受験資格期限がギリギリのやつがあって勉強して合格した。ペルシア語もいちいちカウントはしてなかったけど読めてた方かな。適度に無関心でいられたかは微妙。ホットヨガ最近行けてない……行きます。
2023年の読んでよかった本も挙げておきたい。語学系の2冊は本当にモチベーションが上がったし読み物としても非常に面白かった。
種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』
山崎ナオコーラ『ベランダ園芸で考えたこと』
長澤信子『台所から北京が見える』
村田沙耶香『殺人出産』
市川沙央『ハンチバック』
実はTumblrの更新をもう辞めようと思ってる。使いづらくなってきてしまった。自分でアーカイブは残して良いタイミングになったら記事も消すつもり。2024年からはnoteで更新する。もし読んでくれている人がまだ居たらこちら(https://note.com/iunfe)を覗いてみてください。読んでる人おるかな? たまに「読んでるよ」と言われることがあるので、一応……。Tumblrには浪人生を終える頃からお世話になったので約10年使ってたんかな。Tumblr、本当にありがとう! また戻ってくることがあればそのときはよろしくね。
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#04 池田小百合
一日の流れ
平日は朝6時半に起きて、洗濯物があれば洗濯機のスイッチを押します。7時に子どもたちといけっち(夫)が起きてきて、そこから朝ご飯、着替え、ご飯の片付けをして8時に家を出ます。子どもは5歳と3歳の女の子2人です。子どもたちは幼稚園に通っていて、いけっちの職場と方向が同じなので、いけっちが園まで送っていきます。
私は保育園に勤めていて、仕事をなるべく早く終わらせて18時までには家に帰ってこようと頑張っています。幼稚園のお迎えもいけっちに任せていて、いけっちが忙しいときは私が迎えに行ってから家に帰ります。帰宅してすぐ晩ご飯を作って、20時半ぐらいに子どもたちをお風呂に入れて、保湿クリームを塗って、21時すぎには寝かしつけをして、21時半までに寝ます。遅いときは22時ぐらいに子どもたちが寝て、寝かしつけた後、自分は起きようと思うけど、起きれず朝まで寝ていることが多いですね。
休みの日は8時〜9時の間に起きて、いけっちが作ってくれた朝食を食べて、お昼は外にご飯を食べに行ったりすることが多いです。17時〜18時ぐらいには家に帰ってきて、晩ご飯を食べてお風呂に入って、21時ぐらいには寝る感じですね。休日は家族4人で過ごすことを楽しんでいます。今日来た中山高原も、家族でよく遊びに来ます。晴れた日は、私たちの大好きな北アルプスが一望できるから、お気に入りの場所なんです。
いけっちとの出会い
いけっちと出会ったのは18歳の時です。私たちが住んでいた大阪の高槻市では、市の青少年育成事業として、毎年夏と冬に子どもを対象にしたキャンプを開催していて、いけっちも私もそのキャンプにボランティアリーダーとして参加したことがきっかけで知り合いました。お付き合いを始めたのは19歳からです。夏のキャンプは小学校5年生から高校3年生までが対象で、高槻市の姉妹都市の福井県若狭町から高槻市までの、直線距離125キロの道のりを1週間かけて歩いて帰ってくるという内容です。
それまで私はキャンプなんて全然やったことがありませんでした。だけど、8歳の頃から「リーダー」という存在に憧れがあったんです。妹が通っていたYMCAの送り迎えを母��一緒にするたびに、妹の担当のリーダーが生き生きとしていて、「いいな~、素敵やな~。私もいつかこういうリーダーになりたいな~!」って幼いながらも憧れを抱いていたんですよね。
その思いはずっと変わらず、私が高校3年生になった春、「リーダーやりたい!」と本気で思って、その話を学校の帰りのバスの中で友だちにしたんです。そしたら、当時、妹の担当だったリーダーがたまたま後ろにいらっしゃって、「あの子のお姉ちゃんだよね?リーダーは大学生でないとなれないけど、今年の夏に市がやってるキャンプがあるから、それに参加者として参加してみたらどう?大学生になったらそのままリーダーになれるよ!」って教えてくれたんです。そのリーダーと会ったのも10年ぶりなんですよ。あの時リーダーと再会できてなかったら、いけっちとも出会えてなかったと思うと、あの再会は奇跡でしかないと、今も思います。
結婚・新婚旅行
私の母には「30歳になったら家を出ていく」という謎のルールがあって、私が30歳になる年の3月頃から「家決まった?早く家を探しておいでよ〜」って頻繁に言われていたんです。最初はウソやと思ってたんですけど、いつしか「あっ!これは、ほんまに出て行かなあかんやつやな?」と気づいて、それなら誕生日が来る8月までには、いけっちに結婚をお願いせねばと考えはじめました。
そんな時、上から2番目のお兄ちゃんが、4月の半ばに上海に転勤することが決まって、その前に家族全員でご飯会をすることになったんです。すぐにいけっちに連絡して、「私、8月に誕生日が来るから入籍しよう!30歳になったら家から出されちゃうからお願い!!!!」と伝えました。いけっちは、「えーーー!急すぎるって!」と驚いていましたが、さらに「もう一つお願いがあって、1週間後に家族全員でご飯会するから、そこで結婚することをみんなに発表しよう!お兄ちゃんが上海行っちゃうから!お願いっ!!」って頼んだんです。
いけっちは「えー!いろいろが急すぎるって~!」と困惑してたけど、最終的には「なんかわからへんけど、わかった!結婚しよう!」と話がまとまり、ご飯会の2日前(いけっちに結婚をお願いしてから3日目)に、私の両親に手紙を書いて挨拶に来てくれました。いけっちの手紙の内容を聞いて、両親は喜んで結婚を承認してくれて、いけっちと出会ってから10年後の8月8日に入籍届けを出しました。
入籍届けを出したその足で新幹線に乗って新潟の親不知(おやしらず)に向かい、北アルプスの縦走10日間に入りました。新婚旅行のスタートです。栂海(つがみ)新道という、海抜0mからスタートして一気に3000mまでかけ上がる夢のコースがあるんです。登り始めは意気揚々だったんですが、次第に「なんで登るって言ってしまったんやろう……」と自問自答してしまうぐらいハードでした。でも、自分のペースで一歩一歩進みました。
体力ギリギリで1泊目の無人小屋へ到着。食事を済ませて17時頃には寝袋で就寝。翌朝は2時起床、3時出発で、9時間から長いときで13時間ほど歩きました。しかも、山に入って数日後に台風が近づいてきて、登山口が封鎖されてしまったんです。すごい嵐で、風速30m以上の風と、弾丸のような大粒の雨が山の上の私たちを襲いました。立っていられず、ほふく前進でしか進めません。岩陰で一瞬風をしのいで地図を見ると、先へ1時間進むと山小屋があって、後ろに2時間半戻ると小さな谷に着くことが分かりました。やむなく後ろに戻ることを選択し、安全な場所にテントを張り一夜を過ごしました。水場がなく、嵐で濁った水を沸かして食べた温かいラーメンが、なんともおいしかったのを覚えています。
翌朝は歩ける程度の風と雨だったので、びしょ濡れのテントを片付けて出発しました。翌日になって、新婚生活で最初の選択が、生と死を分ける選択だったと気づいたんです。いけっちも私も「いい選択だった」とうなずきながら、引き返した道をまた進みました。あのとき生きて帰れたからこそ、貴重な経験ができたと感じています。最後に、またいつか晴れたときにリベンジしようと言って新婚旅行を終えました。
結婚祭
入籍した年に結婚式を挙げていなかったので、次の年は結婚式をしようと、私たちらしい「結婚式」を模索しはじめました。私たちがひな壇にあがって、みんなに「おめでとう」と言われるより、みんなに「ありがとう」を伝えたい。フェスやお祭りのように、できれば1泊2日で楽しくできたらという思いから、「結婚祭」というネーミングで結婚式を作ることにしました。普通の式場では叶わなかっただろう私たちの夢を叶えてくれたのが、高槻市の森の中にあるイタリアンレストラン「キッチンスヌーグ」さんです。
そのレストランとの出会いも面白いんですよ。ある晩、いけっちがお気に入りの公園で一人でギターを弾いていたら、通りすがりの男の人に話しかけられて……。その男性が「僕の庭に来ませんか?」と言うので「庭ってどこですか」と聞いたら、「そこのイタリアンです」って。そのイタリアン、私たちが前から気になってたところだったんですよ。その場でいけっちから「森の奥にある、“あの”レストランの人から声かけられて、今から庭で焚き火しよって言われてんねんけど、来ーへん?」って電話がかかってきて。私は「行きたい!今、車がないから30分かかるけど自転車で向かうわ!」と即答して、夜に自転車を飛ばして焚き火に合流しました。その日から週2回ほど焚き火をする仲になり、店主に「実は結婚式をやりたいんだ」と話したら、「うちの店でやっていいよ」と言ってもらえて、そこで結婚祭をすることに決まったんです。この出会いも奇跡的でした。本当に素敵なレストランなんですよ。
せっかくの機会だからお店の応援がしたいと思って、結婚情報誌の『ゼクシィ』が募集している結婚式の密着取材に応募したんです。実は応募締切を過ぎていたんですけど、これまた奇跡的に結婚祭を取材してもらえて、お店への恩返しも出来ました。結婚祭では、みんなで千羽以上の鶴を折ってガーランドにしたり、演奏会をしたり、子どもたちもワイワイ走りながら楽しんだり。夜は焚き火をして、みんなで火を囲んで語らい、テントに泊まって朝ご飯を一緒に食べる……そんな温かい結婚祭になりました。
結婚・出産・移住
結婚祭をやりきった次の年は、新婚旅行のリベンジをしようと、8月にもう一度親不知から北アルプスを10日間縦走しました。その年は大当たりで、天気が良くて全日晴れだったんです。でも、実はそのとき、てん(長女)がお腹にいたんですよ。出発前に「あ、これは(お腹に赤ちゃんが)いるな」と思って検査薬で調べたら、そのとおりで。
いけっちには出発前日に「お腹にたぶん赤ちゃんいるっぽくてさ。でも、お腹圧迫せえへんようにして、なるべくちゃんとしたご飯食べれるようにして行こうと思うから!」と言って10日間、気を張りながら歩ききりました。北アルプスを共におなかの中で過ごした子が生まれてきたときは、なんだか不思議な気持ちとうれしい気持ちでいっぱいでした。生まれてからも「よくついてきてくれたね!」って、生まれたてのてんに話しかけていました。5歳になったてんは、今、山が大好きです。
てんの幼稚園入園と、私の仕事復帰を控えたタイミングで、今度はのい(次女)がお腹にいることがわかり、仕事復帰できなくなっちゃってどうしよう!と頭を抱えていたら、結婚祭をさせてくれたキッチンスヌーグさんから「ウェディングプランナーをやってくれへん?」って話が舞い込んで来たんです。「なんでも頑張る!」と返事をして、早速ウェディングプランナーの勉強をはじめようとしました。その頃、いけっちは、知り合いのカフェの定休日にお店を間借りして、カレー屋さんを開く準備をしていました。それが2019年1月頃の話です。
そんな時にふと携帯を見ていたら、(長野県)大町市の地域おこし協力隊の募集を見つけたんです。私たち、夏は大町市から見える北アルプスの山に登り、冬は白馬にスノーボードを楽しみに来てて、北アルプス国際芸術祭も遊びに行って楽しかったから、いつかは大町市に住めたらいいなってずっと言ってたんですよ。募集を見つけたのが締切前日だったんですけど、いけっちに「一か八かで応募するっきゃないやろ?!」と言って、その日の夜に、履歴書と応募動機を書いてもらって、翌朝速達で出しました。
後日、大町市で面接を受けたら、なんと選ばれて3月末から大町市に住むことが決まりました。「お腹の子が生まれる前に移動したほうがいいな。よし、行こう!」ってことで、ウェディングプランナーも、いけっちのカレー屋も、やむを得ずオープン前にやめて、みんなに感謝しつつ大町市に移住しました。
すべてはタイミング
京都に「すべてはタイミング」って書いた暖簾がかかっているおにぎり屋さんがあるんですけど、私たちも「タイミングを逃さんとこうな」ってずっと言ってます。約束事があっても、いい波が来てると思ったら、そっちの波に乗ったほうが面白くなるから、いい波には乗っていこうって感じでずっと来ていて。綱渡りではあるんですけど、その綱渡り自体を楽しめています。
私たちの夢は、家族4人でずっと一緒にいることです。子どもが生まれたことで、自分たちが楽しくなくなるのは嫌だから、自分たちが楽しみながら子どもも楽しめる生活スタイルにしていこう!っていう考え方がベースにあります。子どもがいるから山に行けへん、ボードに行けへんって言う人は結構いるんですよ。けど、子どもがいてもやれる方法は絶対あるから、その方法を編み出していこう!ってやってます。
私たちの大好きな長期の山登りは、子どもがオムツの間は、使用済みのオムツを背負い続けなくちゃいけなくて大変だから、生まれたときからトイレトレーニングをしていました。生後1日目から、おしっこがちょっとでも出たら「今、出た?」って聞いてすぐオムツを替えるんです。そうすることで、生後3日目ぐらいから、おしっこが出たら「うぇーん」って言うようになったんです。意思疎通を重ねることによって、1歳半くらいでスムーズにオムツを卒業することができました。オムツが早く外れることで、私たちも早い段階で山に行けるようになったし、長期的に見たら経済的なんです。
子どもの発達段階をしっかり見ながら、森の匂いを嗅いだり草を触ったり、リアルな体験を通して、しっかりとした感覚を身に着けさせたいと思っています。進学ありきじゃなくて、自分のやりたいことにフィットする先生を見つけられることが大事だと思うので、幼少期にいろんな大人と関わって、どういう大人が好きか、どんな人といたら自分らしくいられるか、感覚的に知ってもらいたいと思ってます。子どもたちが何にならないといけないとか、なってほしいとかは思ってなくて、ただ、いい人と出会って楽しく生きていってくれたらそれが一番いいなと思ってます。
(2022年10月8日収録)
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「岩田さん」について“いま”思うこと
どうも。
「ドクターマリオ ワールド」で、どれだけ魔法陣をつくっても、課金しても、最推しのガボンが出ず、それならばと京都でガチャをしようと試みるも、ダイヤもコインも調達に間に合わず、結局何もできなさそうなめぐめです。
前置きはさておき、今回は「岩田さん」について“いま”私が思うことを書いていこうと思います。
自分語り中心ですね。
ここに来られているかたは、私の言う「岩田さん」というのが、どの岩田さんを指しているのか、ご存知かと思いますが、まぁ、任天堂の社長だった岩田さんのことですね。
ご命日が7月11日なので、この日をきっかけに、今年も岩田さんに思いを馳せるかたたちが、ちらほらいらっしゃいました。
かく言う私も、今年も定番の麦チョコと、ケーキを買って、食べてました。イタリアンがお好きだったということで、夕飯はパスタにしました。
去年は、11日に合わせて京都に旅行してました。今年も、日にちこそズレましたが、京都に旅行します。
今年はちょっと特別なんです。
なぜなら、「岩田さん」の本が出るからです。
今度、ほぼ日さんから出る岩田さんの本は、今まで出た岩田さんに関するどの本とも、ちょっとまた違うんですよね。
今までのもみんな特別だし、こっちも特別なんですけど。
この、ほぼ日さんから出る「岩田さん」という書籍。ご存知でないかたは、とにかくホームページに飛んで詳細を確認していただきたいのですが、もう、大事件ですよね。だって、「岩田さん」という、ひとりの人物そのものの本が出ると言っても過言ではない、そんな内容ですよ。
https://www.1101.com/books/iwatasan/index.html
書籍に関する私の感想は、別途場所を設けて述べる予定です。
そして、書籍の予約開始日……というか、命日に合わせて更新されていた、編集者の永田さんの言葉を読んでいて、とにかく、同意の連続で……。
https://www.1101.com/books/iwatasan/editor/2019-07-08.html
今回、私がこのように、場所を設けて岩田さんのことを書き始めたのは、この永田さんの言葉がきっかけです。
ほぼ日の糸井さんも、ダイヤモンドオンラインにて、岩田さんのことを語っています。
https://diamond.jp/articles/-/208327?display=b
こちらも読んでいて、涙が出たんですが……やっぱり、目線が、岩田さんに近しい、糸井重里という人物によるものなんですよね。
どちらかというと、永田さんの目線や言葉が、私の感じていたものに、ちょっぴり近い。この4ページにわたる永田さんの言葉に触発されまして、私もちょっと書いてみようかなと思ったわけです。
……最近の私は、もう滅多に岩田さんのこと、喋らないですからね。昔はあれだけやっていたのに……。
その……永田さんがおっしゃっていた言葉で、個人的に引っかかった部分があったんです。
以下、引用も、私の言葉も、とても長くなってしまいますが、ご了承ください。
“岩田さんが亡くなってから、SNSなどを通じて、ほぼ日やぼく個人のところへ、岩田さんの本をつくってほしいという声はいくつも届いていた。正直にいえば、ぼくもすぐそれを思った。けれども、即座に打ち消す自分もいた。
岩田さんご自身が、希望されないだろうなぁと思ったからだ。
岩田さんは自分が前に出るとき、つねに「私がそれをやるのがいちばん合理的だから」というふうにおっしゃっていた。大勢に自分の考えを発表したいわけではなく、個人の名を広めたい気持ちなんてなく、そうするのがいま進めていることにとっていちばんいいと判断して、岩田さんは行動していた。
もしも岩田さんに本を出していいですかと訊いたら、「永田さんの時間をそれにつかうのはベストな選択でしょうかね?」なんておっしゃるのだろうとぼくは思った。
それでも、とぼくはずっと考えていた。たぶん、ぼくは、岩田さんについて、なにかしたくてたまらなかったのだと思う。なんでもいいからなにかしたくて、そうでないと全部がすっと通り過ぎていきそうで、追悼の一文をどこかに書いても半端に当事者を気取ったごまかしになりそうで、なにかできないかとずっと思っていた。
大きな喪失があったとき、人はきっとそういうふうになるのだと思う。ぼくに「岩田さんの本を出してください」と言ってきたたくさんのゲームファンの人たちも、あるいは、いま、岩田さんの本が出ると知って、それを自分に向けたものだと強く感じている人たちも、きっと同じように、あの日から大きな喪失を抱えて、自分なりになにかしたいと、ずっと思ってきたのだと思う。
https://www.1101.com/books/iwatasan/editor/2019-07-08.html”
そして、こちらが、岩田さんが亡くなられた直後から約半年間の私です(記事自体は2017年のものです)。
“何を迷っていたかですが、当時の私は岩田さんが亡くなってからの約5ヶ月、どうしていけばいいのか分からずにいました。私は少なくとも、それまでの5年ほどは、岩田さんのファンとして活動していましたし、ファンでいることが自分の存在意義の1つでもありました。
しかし岩田さんが亡くなり、確実に、今までしてきたことはしづらくなりました。私は、「できるかぎり今まで通りでいたい」と思っていました。世の中、亡くなってからその人物が偉人のように扱われ始める風潮が少なからずあると思いますが、私自身はそうではなく、自分が見聞きしてきた岩田さんという存在を、そのままの形で心の中に残しておきたいと思っていました。
ほかの人から見て少なくとも不快にはならないような、私にしかできない、ファンとしての活動とは何か。私は約5ヶ月の間、試行錯誤を繰り返し、考えてきました。その答えのひとつが、ブログ内にある「岩田聡氏追悼記事ピックアップ」だとか、162ある発言のソースを全て調べ直してまとめた「岩田 聡botツイート一覧」という記事なのです。
それでもなお道筋をみつけられたわけではなく、絵を描くのはどうだろうかとか、いろいろ考えてはいました。しかし、本当はやらなくてもいいことを、使命感に駆られてやることに対して、基本的に自由人な私は、心の底では少し不自由に感じていました。不自由に感じていても、何もしないのはもっとイヤでしたし、自分がファンとして動いていることが1番だと信じていました。
https://megumeedamame.tumblr.com/post/162825480859/不思議な夢の話”
思ったんです。
あぁ、永田さん、あの時の私と同じようなこと考えてる、と。
“岩田さんについて、なにかしたくてたまらなかったのだと思う。なんでもいいからなにかしたくて、そうでないと全部がすっと通り過ぎていきそうで”
そう、私も、なにかしたくてたまらなかったんです。
“私にしかできない、ファンとしての活動とは何か。私は約5ヶ月の間、試行錯誤を繰り返し、考えてきました”
“それでもなお道筋をみつけられたわけではなく、絵を描くのはどうだろうかとか、いろいろ考えてはいました”
こんな風に思い悩んでいて、心の片隅に常にある、ちょっとした悩みのタネでもありました。
“もしも岩田さんに本を出していいですかと訊いたら、「永田さんの時間をそれにつかうのはベストな選択でしょうかね?」なんておっしゃるのだろうとぼくは思った”
これに関しても、似たようなことを私も感じていて、
“本当はやらなくてもいいことを、使命感に駆られてやることに対して、基本的に自由人な私は、心の底では少し不自由に感じていました”
本当はやらなくてもいいことやる……その、本当はやらなくてもいいことに費やした時間は、別のことに使えた可能性もあるわけで、はたして、その時の選択はベストなのか? ……当時の私は、自分でやっておきながら、腑に落ちないところがあったんでしょうね。だから、不自由に感じていた部分もあったんです。
そして、当時の私はこう続けています。
“不自由に感じていても、何もしないのはもっとイヤでしたし、自分がファンとして動いていることが1番だと信じていました”
そう、自分がやるのが1番だと。自称群馬一の岩田さんのファンとしてやってきた、その立場(?)で、引き続き自分にしかできないことをするのがいいと、信じていたんです。
ただ……「合理的だから」、というより、ただしいのかどうか、納得できてない自分を動かすために、「言い聞かせていた」という意味合いが強いと思います。悩みのタネにも、なりますよね。
一応言っておきますが、この悩みのタネは今はありません。夢に岩田さんが出てきて、いろいろあったからです。
夢に出てきただなんて、頭おかしいと思われますでしょうが、私の言葉の引用元の、2017年の記事で経緯を綴ってますので、ご興味のあるかたはまたそちらで……。
話を戻しまして……まぁ、ほぼ日の永田さんと、岩田さんにお会いしたこともない私を比べるなどと、月とスッポン……とても比べられるものじゃないのは、承知なんですけどね。でも、同じように考えていた人がここに居たんだという、安心感があったんですよね。
そんな、永田さんが編集を務めた岩田さんの言葉をまとめた本が、遂に出るわけですが、永田さんがこの「岩田さん」という本に感じていることも、本当によくわかる。
https://www.1101.com/books/iwatasan/editor/2019-07-11.html
この4ページ目に書かれていること、全てに同意したい。引用できるレベルじゃないほどまで、同じ思いなんです。
商品ページを読んだときから、永田さんがおっしゃっているように、「この本は名言集ではない」と感じていました。
“ほぼ日刊イトイ新聞に掲載されたたくさんのインタビューや対談、そして任天堂公式ページに掲載された「社長が訊く」シリーズから重要なことばを抜粋し、ひとり語りのかたちに再構成しました。
https://www.1101.com/books/iwatasan/index.html”
単に岩田さんの名言集を作りたいのであれば、例えばこの有名な言葉、
“On my business card, I am a corporate president. In my mind, I am a game developer. But in my heart, I am a gamer.”
“私の名刺には社長と書いてありますが、頭の中はゲーム開発者です。でも、心はゲーマーです。”
この、GDC 2005の基調講演で言った言葉は必須なはずですし、承諾を得るにしても、任天堂に話をつければいいと思います。任天堂の社長としての講演でしたし、どこかの経済誌がとってきた言葉でもないですし。
しかし、そうはしなかった。
それどころか、範囲がグッと狭く、「ほぼ日」と「社長が訊く」限定なんですよね。つまり、ネット上で、誰でも無料で読めるものを、まとめて書籍にして売るわけなんですよ。
この判断は、とても素晴らしいと思います。ほぼ日さんでないとできないことだとも思います。
“たぶん、私たちは、私たちの知っている「岩田さん」の話をしたいのです。
ひょいとオフィスに遊びにくる「岩田さん」を。こんな本を読んだんですけどね、とうれしそうに語る「岩田さん」を。目の前のお菓子をぱくぱく食べる「岩田さん」を。雑談なのに聞いてる人が思わず手帳を開いてメモしたくなるような見事な仮説を披露する「岩田さん」を。会話の中でわからないことがあったときにふっと黙ってその理由を考えている「岩田さん」を。うれしいことを報告するときずっとニコニコ笑っている「岩田さん」を。
https://www.1101.com/books/iwatasan/editor/2019-07-11.html”
そうなんです。私も、そんな岩田さんの話がしたいし、みたいんです。
「ほぼ日」で、糸井さんたちと面白い話題を、面白そうにおしゃべりする岩田さん。
「社長が訊く」で、開発者のかたたちと、ゲームの話をしつつ、興味津々に、楽しそうに語り合う岩田さん。
この2つのコンテンツの岩田さんは、「岩田さん」という人物の“色”が、よく表れていると私は思います。
だから、例えば私個人が、岩田さんに関する好きな読み物をいくつか挙げるとすれば、「ほぼ日」か「社長が訊く」になると、断言できます。
いろんな場所で、いろんな言葉を残されています。でも、岩田さんという人物を語るのであれば、まずは、この2つです。
だから私は……このほぼ日さんの行動が、「岩田さんの本を出す」というような、ただの“出版”ではないと感じます。岩田さんというひとりの人間を、いろいろな手段がある中で、本という手段をとって、かたちにして、この世に残した……そういう姿勢まで、たったちょっとのリリースで感じとれるんです。
本のタイトルだって、まずは「岩田さん」なんですよね。正式名称は、「岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。」ですけれど。
“岩田さんのことをいまも思う人が、思うときに呼びかける名前がこの本のタイトルなのだと思います。ですから、なんだか煙に巻くようですが、岩田さんのことを「いわっち」とこころで呼んでいる人にとっては、この本は「いわっち」でいいのだと思います。
https://www.1101.com/books/iwatasan/editor/2019-07-11.html”
そうです、私も岩田さんのことを思うときは「岩田さん」です。任天堂の社長としての岩田さんを語るときは、「岩田社長」です。親しみを込めて呼ぶときは、一般的ではないですが、「[岩田]」と呼んでます。
存命の頃に「[岩田]」と呼んでいたら、直接関係があるのかは不明ですが、岩田さん本人が4Gamerの対談企画で「なんで俺、呼び捨てにされてるんだろう?(笑)」なんて言ったことがありまして……それを見た時は戦慄しましたけど……でも、呼び名ひとつでも思い出があって、強く岩田さんのぬくもりを感じられるのが「岩田さん」という呼び名なんです。
……だから、この本のタイトルも、すごく簡潔なんですけれど、それでいてこれ以上のない表現で、適切なタイトルなんですよね。
私も……過去に岩田さんの言葉をまとめたことがありました。ツイッター上で、岩田さんの言葉を定期的に投稿し続ける、「岩田 聡bot」のことです。今でも稼働しているbotですが、もう、新しく言葉を登録することはないだろうと思っていますので、過去形です。
私がbotをつくろうと思ったあの頃、身の回りでbotをつくるのが流行っていたと記憶しています。定期的に投稿するだけでなく、返信すると、それに対して自動で返信する。それが、若かった私には羨ましくて、自分もやってみたいと思った。それが、最初の動機でした。8年前のことでした。
8年前の2011年というと、当時は3DSが発売して間もない頃で、社長が訊くはありましたが、まだニンテンドーダイレクトはありませんでした。だから、岩田さんの知名度は、ゲームファン全体からすれば、「知る人ぞ知る」という感じだったのではないかなと思います。
実際、岩田 聡botのフォロワー数は、ダイレクトが始まってしばらくして、岩田さんという人物が多くの人の目に触れるようになってから、増えだしたように記憶しています。岩田 聡botと、姉妹botである宮本 茂botのフォロワー数は、今は岩田さんのほうが700近く多いですが、確か最初の何年かは、宮本さんのほうが多かったんです。
まぁつまり……需要があってつくったわけじゃなかったんです。8年前のうっすらとした記憶ですが、周りの友人は制作について推してくれたと思います。でも、最初はまず、自分がやりたいからだったんです。
botをつくるにしても、なにを題材にするか。そこで出てきたのが、「岩田さんの言葉」だった。
自分の好きな岩田さんの、言葉を集めようと思ったんです。いわゆる“名言”と称されるものから、ふとした瞬間に出た、岩田さんらしい素敵なものまで……その言葉にどんなに意味がなくても、「岩田さんの言葉」であるのに変わりないから……魅力を感じましたし、取りあげていきました。
ほぼ日さんの「岩田さん」の詳細が公開されて、正直ドキッとしました。
生まれた経緯こそ違いますが、コンセプトが、私のbotと似てますから。
こんな表現はシャクにさわるかもしれませんが、私のbotはこれで役目が終わって、畳むときが来たのかなと、思ったんです。あれは、私が“勝手に”やってるものですから……。
漬物が苦手な岩田さんを、ちゃんとした形で世に残せるのは、ほぼ日さんしかいないんです。そのほぼ日さんが成し遂げたなら、私はそれを推すだけです。
ただ、こう言ってはなんですが、既に書いたとおり、ほぼ日さんの本には「ほぼ日」と「社長が訊く」しか載��ていません(宮本さんと糸井さんの対談もありますけど)。だから、“隙間”があるんですよね。その“隙間”に、私のbotが居ても、いいかな、なんて、今は思っています。
すぐに居なくならなくても、いいかなと。もうしばらく、図々しくしてみようかなと。もう、言い訳や、甘えですけど、居ます。追い出されそうですけど。
漬物が苦手な岩田さんを、ちゃんとした形で世に残せるのは、ほぼ日さんしかいない。
それと同時に、岩田さんのキーホルダーを正規の方法で出せるのも、ほぼ日さんしかいない。
岩田さんのキーホルダーが付くストアは限られてますが、とにかくかたちとして存在していることが、なにより嬉しくて……自分で、自分のためだけに勝手に作るのもいいんですけど、それはそれ、これはこれ……本と同じくらい楽しみにしてて、どこに付けようか、ずっと考えてます。
あれから4年が経って、私は岩田さんのことは滅多に口にすることはなくなりましたけど、今でも心のなかに、居ます。
具体的に細かいことを思い出すのは、正直難しくなりましたが、心の基盤となった「岩田さん」という人物を忘れることは、絶対にありません。
任天堂という大きな企業の社長で、社長になってからは直接ゲームを作っていたわけではなかった岩田さん。お客であった私にとって、とても遠いところに居た存在なのに、すごく身近に感じていました。
岩田さんの言葉や姿勢からはぬくもりを感じたし、親近感もあったし、可愛らしさもあったし、とにかく楽しく面白い人物だった。
あれから4年。そんな、私にとってとても大切な人物に、今また“会える”。
あの本が世に出たら、今度はなにが起きるだろうか。みんなにとっての「岩田さん」が、また聞けるだろうか。
きっと、楽しいことが起きるに違いないと、楽しみにしています。
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