[翻訳] Pretend (You Do) by leekay #7
「うそぶく二人」
第7章
屋上の約束、帰還限界点
原文 A Rendezvous on the Rooftop and A Point of No Return
スイス 2018年
「クリス?」
電話越しに聞こえたヴィクトルのパニック声に、クリスはすぐにまずいな、と悟った。
「ヴィクトル? 何があったの、大丈夫?」寝ぼけた声で答えながら、クリスは隣で眠るダミアンを起こさないよう静かにベッドから這い出た。アドレナリンと疲労の相混じった体で、キッチンへ移動する。
「遅くにすまない」。クリスが壁の時計を見るとまぶしい電子文字が午前2時20分を告げている。ロシアはさらに遅い時間だろう。
「構わないよ、どうしたの」
電話の向こうではヴィクトルの呼吸���震えている。「誰かと話したいんだ。今日も練習中、何度も何度もジャンプに失敗して……それでまた、手を」
「どういうこと?」
「その……怒りで」
「抑えられなかったの、ヴィクトル?」クリスの胸が痛んだ。氷上でうずくまる彼の姿が蘇ったのだ。血を流し、傷ついたその手。病院でクリスがヤコフに嘘を並べ続ける間、うつろに漂っていた彼の目。
「ヤコフには言わないで、頼む。もう滑れなくなる」
「言うべきだよ、ヴィクトル」
「でももう俺にはこれしかないんだ」
ヴィクトルのその声でクリスは現実に帰った。「分かってる、分かってる。それに前ほどひどくない」
ヴィクトルが落ち着いて話せるようになるまで、クリスはしばらく黙っていた。スツールにひっかけてあったローブを取り、水を飲む。
「どうしてスランプから抜け出せないんだろう、クリス」
「傷ついているからさ」
「それは勇利も同じだろう、でも彼は平気だ」
「ヴィクトル、もう動画は見るなって言ったよね?」
「仕方ないだろ!」
「そうすけなんてくだらない奴だよ」クリスは彼がアップした動画すべてに目を通していた。新しい投稿を見るたび、怒りのような、かなしみのような感情が確かに胸にこみ上げた。勇利のとなりで話し、画面に映る二人の顔を見ると、クリスは氷に拳を打ち付け悲痛に勇利の名を呼んだヴィクトルを思い出さずにいられなかったのだ。
「でも勇利は……前よりずっと楽しそうにしている。俺たちが一緒に居たことがどれだけお互いに悪影響だったか思い知らされるよ」
クリスはため息をついて髪をかき上げた。「“悪影響”だったなんて本当は思ってないだろう、ヴィクトル。問題を何とかしようと苦戦しているうちに、事が悪化したってだけ」クリスは慎重に言葉を選びながら続けた。「君はいつもちゃんと話してくれないよね。愛し合っていたかと思えば突然バンケットから立ち去った。どうしてそうなったのか……まだ話してくれないの?」
クリスはヴィクトルが口を開くのを待っていた。この男はもう、今に全部を投げ出してしまうかもしれない。ヴィクトルは閉じられた、鍵をかけられきつく縛られた本のような存在だ。クリスは他人よりはその中身を垣間見ていたけれど、それでもまだ知らないことがありすぎる。ヴィクトルについての、誰も知らないたくさんのことが。
「全部俺のせいだよ。勇利は俺を助けようとして、俺はそれを拒んだんだ。疲弊した俺を見て、何とかしようとしてくれたのに。だけどそれが……耐えられなかった」。そうヴィクトルが語り始めると、クリスは少し驚いた。
「あの時の気持ちが忘れられない。勇利は俺を信じて、いつだって側にいて支え、愛してくれた。今まであんなふうに愛されたことなんてない。だから新しいコーチのことを聞いた時は忘れようがないほど辛かった。我慢できなかったし、今だってそうだ。勇利は二人のことを考えてたんだ。あれはお互いの関係のためにやったことだったんだ。だけどそれはまるで、勇利が俺を諦め出したようにしか思えなかった。愛していないと言われるよりひどいさ、信じてもらえなかったのだからね」
「そうじゃない、ヴィクトル」。クリスの声は弱々しかった。
「最悪だったのは彼を突き放したことさ。ちゃんと話せばよかったんだ、一緒に新しいコーチを探すことだってできたんだ。なのにすべてを閉ざして突き放した。太陽に近づきすぎたってわけさ、それで俺は焼け死んだ」
ヴィクトルの息遣いがだんだん重たくなっている。この友人がこれだけ自分の思いを話してくれたことなんてなかった。それはクリスを安心させ、同時に怖くもなった。
「スケートはやり続ける。両方を手放したら、もう俺には何も残らない。でも勇利とどう接していいのかはわからない。そうすけとも。二人が一緒に話してトレーニングをして、キスクラから俺が滑るのを見ると思うと……」
「ヴィクトル、大丈夫だから」
「だけど俺は雨の中に勇利を置き去りにして走り去ったんだ」
「誰だって間違いは犯すよ、ばかげたことにね」
「人生をめちゃくちゃにするほどの間違いでも?」
クリスは笑いながら答えた。「毎日ね」
ヴィクトルが少しだけ笑ったような気がした。少しだけ。
「冗談はさておき、なんとかなるさ。恋人だった人とパーティーで鉢合わすようなものだよ。僕もセルジュと別れた後に何かのプロモーションで出くわしてさ、一晩中他人の振りをしていたし」
「大昔のことだろ、それ」と、電話越しにヴィクトルの笑いが聞こえた。その声はさっきよりも明るく、クリスは安心した。涙はかろうじて食い止められたようだ。
「五年前かなあ」。クリスは手で欠伸を抑えながら答えた。
「ごめん、こんな時間に。もう君をダミアンに返してあげないとね」
「電話ならいつでも気にせずかけて。いつだってここに居るから」
「クリス、ありがとう」
「念のため言っておくけど、ヴィクトル、僕は君を信じているよ」
***
ミラノ 2018年
首元に冷たい空気を感じながら街を見下ろすのは、その夜二度目のことだった。ヴィクトルは今ホテルの屋上に居て、そこには古風できれいなハーブガーデンとブランコみたいな吊りベンチが置かれている。
たったこれだけの間に、どうしてことごとく物事は良くない方向へ進むのだろうか。たった四分の間に、再び勇利と近づき、そして失うなんて。あの時カラオケで、ヴィクトルは勇利から体を離した。正しくないと思ったのだ。勇利は酔っていて、正しい判断ができないと思った。だけどもし二人がしらふで、あそこが友人たちの前でなければ、二人は何かを修復できていたかもしれない。
屋上の扉が開いて、ヴィクトルは思わず体をこわばらせた。ここで会おうと誘ったのは勇利だった。近づく足音に耳をこらし、勇利の気配をすぐ間近で感じると、今度は体が震えた。
勇利はヴィクトルと鏡合わせになる格好で手すりにもたれた。「会ってくれてありがとう」。離婚調停に現れた元夫のような言い方だ。
ヴィクトルの咳払いが冷たい空気に響く。「そうすけのこと、すまなかった。そんなつもりはなくて……」
「わかってる、あれば事故だよ」
勇利の不愛想な言い方に、ヴィクトルは驚きながらも頷いた。
居心地悪そうに重心をずらして手すりに腕をかけたけれど、肌越しに伝わる金属の冷たさは、首元にこみ上げる熱を冷ましはしなかった。
「なぜここで会おうと?」
ヴィクトルは視界の端で、勇利の口元がわずかに上がるのを見た。「分かってるんでしょ、ヴィクトル」。勇利の悲哀を帯びたその笑みは、ヴィクトルにこんな期待をもたらした。近づいてキスをして、そうすけのもとに行ったのはどうしようもない間違いだったと勇利は言う、という期待。
「話さなくちゃと思ったんだ。今日一日で、僕たち感情がめちゃくちゃになってる。終わりにするには話すしかないと思って」
ああ。
ヴィクトルが何かを返す間もなく、勇利は続けた。「座る?」
ヴィクトルは頷くと、二人でベンチの方へ向かった。
「どこから始めたらいいかもわからないよ」と、勇利は太腿の辺りで手をこすりながら不器用に笑った。ヴィクトルは勇利の首のカーブや、そのぎこちない作り笑いをじっと見つめた。かつての二人の近すぎる距離感や、液体��ように体が溶け合い永遠に流れているかのような感覚を思い出すと、胸が痛んだ。
緊張が張りつめた静寂の中で、ヴィクトルが切り出す。「まずは謝りたい。バンケットの日、あんなふうに君を……置き去りにして……卑怯だった」
勇利は驚いてまばたきをしてから、少し表情を緩ませた。「僕の方こそいろいろとごめん、あんなふうに酔っぱらって、みんなの前で裸になったりして」
ヴィクトルは弱々しく笑う。
勇利の顔は真剣だった。「そうすけさんのこと、黙っていてごめん」。目をそらす。ずっと前からそうすけが絡んでいたかのような、その言い方がヴィクトルは気に食わなかった。たぶん勇利と険悪な関係になる前から、二人は連絡を取り合っていたのだ。
「ヴィクトルのためにも二人のためにも、これが正しい判断だって思ってたんだ。なのにそれを全部台無しにしてしまって」
ヴィクトルは視線をそらしたまま首を振った。「俺もあんな態度を取るべきじゃなかった」
勇利はヴィクトルをどことなく不安にさせるような目つきで彼の方を見るとこう言った。「ねえ、なんであんな反応をしたの? 僕はてっきりもっと……わかってくれると……喜んでくれるものかと思ってた。ヴィクトルはすっかり疲れ切っていたし、一緒に夕飯を食べることすらままならなかったよね」
ヴィクトルは口元を固く結ぶとまっすぐ前を見つめた。手は吊りベンチのレールをぎゅっと握りしている。あの頃の疲弊感や、その疲れが骨や意識にまで染み渡ってくる感覚を思い出した。勇利のコーチをすること、勇利が調子よく滑るのを見守り、二人で考えたプログラムを一緒に完璧に練習することで、なんとか自分をつなぎとめていたことを。
ゆっくりと、そして慎重に、ヴィクトルは答えた。「疲れなんてどうだってよかった。君の調子さえ良ければね、勇利」秘密を打ち明けるような話し方だった。「引退しようと思っていたんだ」
そう言って勇利の方を向くと、その顔はショックで蒼白になっていた。足元に視線をそらし、言われた言葉の意味を探しているようだった。
「じゃあ……でも、どうして。どうして引退せず競技に戻ったの?」
「バンケットであんなことがあった後で引退なんてできないよ。タイミングが悪い。それに勇利を失ったら、もう俺にはスケートしかなかったから」
勇利は視線をそむけたが、その頬はわずかに赤らんだようにも見えた。「わからないよ……引退するならなおさら、なんで新しいコーチのことであんなに怒ったのか……」
「勇利が勝手に決めたからだ。あんなのまるで、なんていうか……俺を信じていないように思えた。二人の関係すら」
勇利は全身の奥から深く、疲れ切ったようなため息をついた。「ヴィクトル、そうじゃないってわかってるだろ。二人のためにやったことなんだよ」
自責の念が急にヴィクトルの胸中に押し寄せて、勇利の足もとにすがって許しを請いたい衝動に駆られた。代わりにヴィクトルはしっかりと勇利の目を見つめ、最初から伝えたかった言葉を吐き出した。「あんな態度を取るべきじゃなった。君を突き放したりして本当にすまなかった、勇利。人生で最大の過ちだ」
二人はしばらく黙ったまま、互いに熱い視線を交わし合っていた。やがて勇利が小さく頷くと、ヴィクトルの緊張は一気に溶けだした。体を勇利のほうに近づけると、勇利はわずかに体を離す。緊張の帳が二人を包み、だけどそれはもはや心地よさすら感じさせた。
「その手はどうしたの」。しばらく間を置いてから、勇利が静かに聞いた。
ヴィクトルは動揺した。控室で勇利とそうすけに包帯を見られていたことをすっかり忘れていたのだ。
「ああ……これなら大丈夫」
「何があったの?」勇利が静かに聞く。心配そうなその声にヴィクトルの胸が痛んだ。
どう答えるべきだろか。嘘はつきたくない、でも勇利がどう反応するかわからない。心配するか、あるいは激怒してしまうかもしれない。
「氷でやったんだ」。答えとしてはそれで十分だろうと思い、ヴィクトルはそう返した。
「すごく悪そうに見えるけど……ジャンプで失敗して?」
「そんなところかな」。勇利は横目にヴィクトルを見た。本当のことを話していないと確信しきった眼で。
「ね、ヴィクトル、言いたくないなら言わなくてもいいよ。不躾にごめん」。だけどその声は少し苛立っていた。
「そうじゃなくて、ただ……心配させたくなくて」
���勇利は大きく息を吸うとヴィクトルの方を向いた。「それならもう遅いよ、とっくに心配してる」
その言葉に、ヴィクトルの体は小さく波打つように震えた。その目を見つめ返すと、だけどすぐにこれはよくない、絶対によくないと言い聞かせた。心配げな唇、伏せられた目元。それらが吸い込まれそうなほどすぐそばにあって、膝が崩れるには十分すぎるのだ。どう答えていいのかわからず、ヴィクトルは少しの間黙っていた。
「ジャンプを失敗して」と、ゆっくり冷静に続ける。「なんていうかその時はすごく……イライラしていて……その、怒りを氷にぶつけてしまったんだ」
ヴィクトルの言葉を拾いながら勇利は唖然と大きく目を開いた。口を小さく「O」の字にしたまま、しばらく固まっている。
「なんでそんなこと」
「もう済んだことだよ」
「でも自分でそんなことするなんて、どうなるかわかってるのに!」 戸惑いと、心配と、そして怒りが入り混ざった声だった。
「冷静に考えられなかったんだ」
「じゃあ何を考えてたの!」声を荒げる勇利に思わずヴィクトルもカッとなった。
「お前のことだよ勇利! くそっ! 勇利とそうすけが子どもたちと笑って写真を撮っていたこととか、俺が勇利を雨の中に置き去りにしたこととか、なのにあんなに写真じゃ楽しそうにして……そういう……そういうこと全部だよ!」
一瞬、ヴィクトルには勇利の感情が読み取れなかった。数か月間の痛みと戸惑いを隠すかのように、彼の目は暗く伏せられていた。すると勇利の手がゆっくり、ゆっくりと、おびえた子犬に触れるようにヴィクトルのほうへ差し出された。ヴィクトルの胸の中で何かがぐっと膨れ上がる。差し出されたその手を掴むと、冷たく冷え切った自分の頬へと運んだ。
二人の呼吸は荒く、永遠にも感じられる時間の中に閉じ込められたようだった。静寂の中でシンクロするかのように二人の体が動くと、勇利はもう片方の手でヴィクトルの反対側の頬を包み、ヴィクトルは勇利の腰へと腕を回してぐっと自分の胸へと引き寄せる。眼下の街を焼き尽くしそうな熱をもって、二人の唇が触れ合った。勇利の感情が身体に流れ込むことを許したその瞬間、ヴィクトルの中に欲望が沸き上がった。
勇利は片手をヴィクトルの髪にからませ、もう片方の手でシャツのボタンをなぞり冷たい指先でヴィクトルの肌を求めた。ヴィクトルは喉の奥から声を漏らすと震える指でボタンを外す。勇利のジャケットは地面に脱ぎ捨てられ、その上にすべての服を重ねるまでヴィクトルはもう止めたくなかった。
ヴィクトルが最後のボタンに手をかけたとき、ふいに勇利の唇がヴィクトルから離れ、勇利はベンチへとよろめいた。
ヴィクトルは戸惑いにゆがんだ顔を隠せなかった。痛みで胸がびしょぬれになる。ヴィクトルは勇利の目が自分を見透かしているように感じた。まるで自分が、脆く、透明な、ガラスの柱にでもなったかのように。
「勇利?」 なんとか押し殺すように出されたその声が、二人の間で震えていた。
「だめだよ、ヴィクトル」。勇利は息をついて、二人の間にさらに距離を取った。「僕たち変わりすぎたんだ」
「何も変わってないよ! 勇利があのクソ野郎をコーチと呼ぶこと以外は!」 冷たい夜風が素肌を撫で、ヴィクトルは慌ててシャツのボタンを閉めた。その指は今度は怒りに震えていた。
勇利は口元をきつく食いしばって、この後どうすればいいのかわからない様子だった。ヴィクトルにとってその様は完璧で、ほとんど嫌気がさした。乱れた髪、よれたシャツ、ヴィクトルに噛みつかれピンクに腫れた唇。「あいつがお前を見る目や、あの教え方、あんなのでまかせだろう勇利。サギ野郎だよ」
「なんでそんな言い方……20分だって一緒に過ごしたこともないのに……そうすけさんはよく見てくれている。僕のために尽くしてくれて。嫉妬心がなくなればヴィクトルにだって分かると思う」
「嫉妬!? それ本気で言ってるの? 嫉妬なんかじゃない、あんな奴と一緒にいるのが心配なんだよ! 現役時代にどんな奴だったか知らないだろう、何のうわさも聞かなかったのか?人の弱みに巧みに付け込んで、何もかも自分の思い通りにするような奴なんだよ」
勇利は苦笑を漏らした。怒りで目元を震わせ、まるでヴィクトルの吐く毒から身を守る盾のように胸の前で腕を組んだ。
「ヴィクトルの言ってること、何も信じられない。そんな嫉妬なんて痛々しいだけだよ。前もそうだったよね」
「痛みがどんなものか勇利に何が分かるんだ! つい二分前に俺はすべてを差し出した。勇利と元に戻るために。全部俺のせいだと信じてね。でもそんなの間違いだった。あいつの元に帰れよ、もう全部が限界だ。限界だ」
勇利はただヴィクトルを見つめていた。いつも通りの静かな視線で、ヴィクトルの肌を鈍く刺すように。
「これではっきりした。人は変わるんだね、ヴィクトル」
穏やかにそう言うと、勇利は背を向け立ち去った。屋上を出て、階段を下り、そしてヴィクトルの“Life”の外へ。
その時の勇利の、死人のように無になった表情は、瞼の裏に彫り込まれたままこの先きっと一生消えない。ヴィクトルはそう確信した。
屋上はしんとして、道路を行き交う車の騒音も遠く、耳の奥で自分の血が流れる音が聞こえる。体は硬直したまま。ヴィクトルはたった今自分が思ったことを振り返った。勇利なしの人生なんて残されているのだろうか? なんとか想像しようとしてみても、彼に見えるのは霧のようにぼんやりと重たい、夜のような暗闇だけだった。
どうしたら毎回こんな馬鹿げたことになるのだろうか。
うつむいて手で顔を覆うと、熱い涙が鼻を伝い足元のコンクリートに零れた。けれど、それが何の涙なのかヴィクトルには分らなかった。勇利を失うことへのありふれた悲しみか、あるいは不安から来る涙なのか。勇利を取り戻したいと思うあまり、ヴィクトルはもうそのことしか考えられなくなっていたのだ。妄想は目の前で砕け散り、なんとかやり直せるという望みは消え去り、代わりに立ち直れる見込みもない痛みがやってきた。
「GOD DAMNIT」 突然そう叫ぶと、その声は夜の帳をずたずたに引き裂いた。一度怒りが湧きあがると、ヴィクトルは髪を引きちぎり地面を殴りつけたい衝動に駆られた。だめだ、だめだ。二度とあんなふうになってはいけない。今はそれくらいの分別はついた。
**
屋上の扉が開く音がして、ヴィクトルは咄嗟に袖で涙を拭いて身構えた。誰かが低いため息を漏らしながら屋上にやってくる。伸びすぎた銀髪のすき間から凝視すると、そこには先ほどのヴィクトルと鏡写しの姿勢で手すりにもたれかかるユーリ・プリセツキーがいた。
「カツ丼がここにいるって」
ヴィクトルの耳が犬みたいに反応した。「勇利と話したの?」青年は頷く。
「彼は……その……」。声は次第に小さくなり、質問は発せられる前にもみ消された。
「サイテーだな」。ヴィクトルの方を向きながらユーリが言った。
「そうだね」
「飽きねーんだな。どうにかなると思ったのにまたこのザマかよ」
ヴィクトルは何も言わずユーリの隣に来ると、涙が風で顔に染みた。
「それで俺のこと無視してたの?」
「馬鹿に付き合ってる暇なんてねーし」
ヴィクトルは悲し気に笑うと顔の下に手を当てた。
「だけどまじで、なんで毎回こんなことになるんだよ。そもそもバンケットであんな茶番演じるとか」。ユーリはあの夜からずっとそれを聞きたかったけれど、あまりに腹が立ちすぎて話したくもなかったのだ。
「分からないんだ、ユーリ。もう自分のすべてが分からない」
ヴィクトルはユーリが意地悪に返してくるのを待ったけれど、金髪の彼はしばらく黙ったまま、返事はなかった。そして「わかる」とユーリが言ったので、ヴィクトルは驚いた。眉を上げて見つめるヴィクトルにユーリは続ける。「オタベックとさ、なんていうか、そういう関係で……」だけど目は合わせない。「だから意味が分からなくもない。コントロールが効かないんだろ」
ヴィクトルから思わず笑みがこぼれた。「君とオタベックが、ねぇ? 驚きだな」。わずかにいたずらっぽい目でユーリの方を見る。ユーリは肘でヴィクトルを突きつつも、少し笑っていた。
「それにしてもおめでとう、ユーリ。愛する人を追いかけるのはすごいことだよ」
「それ自分に教えてやれよ。二度と言わねーけど、お前が勇利にしてたことは尊敬してんだ。世界中を前にしてちゃんと好き合って……だから俺はあのバンケットの夜、サイテーのことになる前にあいつに言ったんだよ。さっさとなんとかしろって」
ヴィクトルの胸が急に熱くなった。「待って。あの夜勇利と話をしたの? 何があったか勇利は話したの?」
ヴィクトルを見つめ返すユーリの目は迷っているようだった。数秒間黙っていたが、堪えられず打ち明けた。
「ああ」とゆっくり息を吐き、目の前の霧を見つめながら続けた。「ディナーの後、あいつトイレで泣いてやがった」
ヴィクトルは胃が絞られる思いがして手すりを握る手に力を込めた。トイレの個室でまるまって、傷つき混乱しながら静かに泣いている勇利を想像したのだ。ヴィクトルが思っていたよりもずっと、勇利は傷ついていたのだ。
ヴィクトルは震えるように息をつくとユーリを見た。夜の灯りに華奢な身体が浮かび上がって、その口元は怒っている。突然、ヴィクトルは今自分がすべきことがはっきりとわかった。目の前に封筒が差し出されたかのように、人生の次のステップが見えたのだ。“次”だけじゃない。その次も、その次も、そしてその次も。
「ユーリ、お願いがあるんだけど」
「は?」
「髪を切りたいんだ」
※作者の方の了承を得て翻訳・掲載しています。
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