Tumgik
#旭山記念公園
yotchan-blog · 2 months
Text
2024/7/25 12:59:29現在のニュース
観客乱入で2時間中断の末に同点ゴール取り消し パリ五輪サッカー男子でアルゼンチン黒星([B!]産経新聞, 2024/7/25 12:57:39) 百条委、元局長作成の陳述書を公開 兵庫県知事パワハラ疑惑 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/7/25 12:57:07) 斎藤元彦・兵庫知事の音声データ パワハラ疑惑告発した元局長残す | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/7/25 12:57:07) 貧困・DVなどで出産・育児困難 「特定妊婦」の孤立防げ 法改正で自治体が住居支援 隠れた例、把握なお課題 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:54:25) 「子どもと相性悪い」 背景に気質 特性に合わせた工夫を - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:54:25) 斎藤元彦・兵庫県知事、首長の県政混乱懸念に「申し訳ない」 辞職は否定 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:54:25) 値上げ続くオリーブオイル 品薄なのに安価な商品 何が違うの? | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/7/25 12:51:03) 前橋育英が準決勝敗退 選抜優勝の健大高崎に延長戦で敗れる(朝日新聞, 2024/7/25 12:46:51) 熊本工が3年ぶりの夏の甲子園へ 決勝で熊本国府を破る(朝日新聞, 2024/7/25 12:39:43) 林官房長官、最低賃金の引き上げを「力強い目安、歓迎したい」(毎日新聞, 2024/7/25 12:39:39) 貿易センタービル27年開業 オフィス、高級ホテル入居 モノレール浜松町駅も建て替えへ([B!]産経新聞, 2024/7/25 12:39:33) 羽田空港アクセス線の「臨海部ルート」令和13年度開業へ 羽田―新木場を20分で結ぶ([B!]産経新聞, 2024/7/25 12:39:33) 公立小中高の教員「高ストレス」11% 昨年度最多に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:36:33) 小中の学習端末、リサイクル促す 環境省、1人1台配備分 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:36:33) 女性の健康課題、語って発信 タブーにせず知恵出し合う - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:36:33) 第3号被保険者の是非(上) 就業調整、賃金も年金も損 権丈善一・慶応義塾大学教授 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:36:33) 第3号被保険者の是非(下) 被扶養配偶者の奨励 是正を 永瀬伸子・お茶の水女子大学教授 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:36:33) 近未来ロングノーズ「500系新幹線」 3年後めどに引退へ “世界最速”も老朽化に抗えず([B!]産経新聞, 2024/7/25 12:33:47) JR山陽線で貨物列車脱線、一部区間で終日運転見合わせ 山口([B!]産経新聞, 2024/7/25 12:33:47) 湖西線50周年「開通時の盛り上がり知って」 大津市歴史博物館で企画展([B!]産経新聞, 2024/7/25 12:33:47) 伝統の特急「つばめ」が1981年に復活運転 「リバイバルトレイン」のさきがけに あの日の鉄道風景([B!]産経新聞, 2024/7/25 12:33:47) 塩狩駅100年、記念切符発売 旭川の三浦綾子記念文学館とJR北 新たなファン開拓へ連携協定 /北海道 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/7/25 12:33:39) イオンの「未来の物流」拠点、福岡市に…AIで等間隔に荷物載せるロボットや水素で走るトラック配備([B!]読売新聞, 2024/7/25 12:33:24) 関東キッチンカー初代王者の白いクレープ 千葉・船橋発、首都圏へ(毎日新聞, 2024/7/25 12:32:18) 個人情報、保護強化に逆風 課徴金・団体訴訟導入に企業反発 法改正、公開で議論へ - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/25 12:30:15)
0 notes
blogmikimon · 6 months
Text
涅槃
こんにちは😃
もうすぐ3月が終わるらしいですが、なんだか色々と早すぎますね!皆様お元気でしょうか?
私は花粉で毎日泣いています😭(それ以外は元気です。)
さて、最近涅槃に至ったのでご報告です😱
スープカレーのお土産を食べたら無事涅槃に至れたのでした!いや〜、瞑想修行続けてきて良かったでー😂
なんの話かと言いますと… これです!
じゃーん↓
Tumblr media
マジックスパイスという北海道のカレー屋さんのカレーでしたー🤭
これに辛味の素という小袋がついてきて、それをちょっと入れると覚醒して、半分入れると瞑想になって、全部入れると涅槃に至れるそうなんです。
Tumblr media
おぉ〜✨
wikiによると涅槃とは、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のことだそうで、なんだか知らない間に煩悩滅しちゃってたんですねー😅
瞑想中に湧き上がる煩悩にお悩みの方は、こちらのカレーぜひいかがでしょうか?💡
とはいえこの辛味の素、えげつなく辛かったです😭 涅槃を目指して全部入れましたが、痛い感じの辛さです。
私は去年話題になったCoCo壱の20辛も無事美味しく完食しまして、辛さは結構行ける方ですが、これは唇が痛くてちょっとつらかったです… 入れる方はちょこっとずつをおすすめいたします!
入れないと逆に少し甘めの味付け���、色んな種類のスパイスの香りが豊かでとても美味しかったです😋
ちょっと高いけどAmazonで買えるみたいなので、皆様も是非是非🤭
北海道限定 マジックスパイス 元祖スープカレーの源
このマジックスパイスというお店はなんと、スープカレーの元祖のお店だそうです。すごい!
皆様スープカレー好きですか?私は大好きです😍
横浜の関内にラマイというお気に入りのスープカレー屋さんがあって、年に2回ぐらい食べに行きます。本当に美味しいんです😋
ご縁あって旭川の本店にも行ったことがありますよー🍛
ちょっと前にプロフィールの記事で載せたパンダと一緒に写っている写真も、ちょうどそこで撮りました。
(言い訳:私は公園にボールとかフリスビーとかスピーカーとかぬいぐるみとか、たくさんおもちゃを持ってみんなで出かけるのが大好きです。あの後山下公園に遊びに行ったので、たまたまパンダを持っていて、記念に一緒に撮りました🐼 いつもぬいぐるみを持ち歩いてるわけじゃないので、びっくりさせてたらごめんなさいですー😅)
あの写真は、食後にラマイティーというスパイシーな緑茶を飲んでるところです。ラマイティーもめちゃくちゃ美味しいからティーバッグ売ってくれないかなぁ?っていつも思います。
関内のラマイはこちら↓
Asian Bar RAMAI
マジックスパイスは世田谷にもお店があるそうです。
マジックスパイス 東京店
たまにレトルトをインスタで激推ししてる福岡のスリランカカレー屋さん↓
不思議香菜 ツナパハ
みんな大好きCoCo壱♡
カレーハウスCoCo壱番屋
ビリヤニが美味しい南インドカレー屋さん↓
エリックサウス
!お願い!
皆様。これは切実なお願いで、たまにクラスでも申し上げておりますが、私はエスニックな食べ物を食べにいくのが大好きです!特にカレーは遠出しても食べたい!!
おすすめをぜひ教えてくださいませ🙇‍♂️
サラサラ系もドロドロ系も、タイのココナッツ系も、蕎麦屋のだし効いてる系もなんでも大好きです🙆‍♀️
何卒何卒!よろしくお願い申し上げます🙇‍♂️
ではではお読みいただきありがとうございました🙏
おすすめカレーの件、是非よろしくお願いいたします〜♡(しつこい😅)
0 notes
historysandwich · 8 months
Text
Tumblr media
【常威近代史】(八百三十回)
大東亞共榮圈
1940年7月18號,《新華日報》載文介紹列寧著作《帝國主義是資本主義的最高階段》一書(有人翻譯了),依一本作品寫於1916年,係列寧批判資本主義嘅經典之作,內中説明帝國主義經濟本質。列寧認為,“壟斷代替自由競爭,是帝國主義的根本經濟特征,是帝國主義的實質”,“帝國主義就其經濟實質來說,是壟斷資本主義。簡單來講,壟斷資本主義出現,根據唯物辨識法,最終就會發展到帝國主義,亦係戰亂之源,《帝國主義是資本主義的最高階段》一書放喺今時今日,亦有相當價值,雖然時代唔同咗,人類嘅生產力同物質條件亦比100年前百倍上昇,但為何貧富仍然懸殊?眾生仍無法避免受苦受難?列寧有關金融寡頭壟斷同資本全球流動等理論,係研究世界資本市場同世界性金融危機等問題重要嘅理論依據,呢本書大概可以比大家一啲提示,基本上《帝國主義是資本主義的最高階段》只係一本小冊子,篇幅唔多,絕對睇得過,網上到處可以下載。
7月18號,英國迫於日方嘅壓力,喺東京同日本簽訂《英日關於封閉滇緬公路的協定》。滇緬公路係中國西南地區嘅重要國際通道,中華民國之前耗用咗大量人力物力打通依條運輸路線,亦係重慶中華民國政府賴以生存嘅生命線,大量外援物資、軍用器材都經由滇緬公路輸入中國,響法國封閉滇越鐵路之後,滇緬公路成為西南地區嘅唯一國際交通線。1940年開始,日本多次要求英國封閉滇緬公路,甚至以破壞英日關係作威脅。
大英帝國喺歐洲忙於對付張牙舞爪嘅納粹德國,泥菩薩過江,已經無力東顧,響中國問題上亦不得不同日本妥協,講好聽啲叫妥協,真正嘅講法叫出賣盟友,英國人亦都明白滇緬公路對重慶政權嘅重要性,英國此舉中斷咗中國西南唯一嘅國際交通線,令到中華民族抗日戰爭陷於更艱難嘅境況,呢個亦都唔使講。大家要記清楚一點,喺抗日戰爭上,無可否認,美國係中華民國對付日本人嘅好朋友,但英國絕對唔係,唔好撈埋一齊嚟講。除咗依單嘢之外,大英帝國嘅傑作仲有鴉片戰爭,仲有英法聯軍、太平天國之亂,單單封喉,嘢嘢攞命,真係唔係講笑。當然不得不提,仲有殖民地香港呢個歷史問題。
7月19號,國軍空軍幼年學校開始招生;同日,上海《大美晚報》發行人張以旭被汪偽政權特工刺殺,殺死新聞相關工作者,響當時係日常生活嘅一部分,小菜一碟。7月20號,相信大家都未聽過,在華日本人反戰革命同盟會喺重慶成立,黑社會都有愛國,同樣,日本人中都有人企出嚟反日本軍國主義者,人性有好多面,千萬唔好一竹篙打一船人。因為某個膚色、某個民族、某個國家或某種階級就全盤否定對方,或作出敵意行為或歧視,本身係極度幼稚嘅民粹主義,不過依類事情太常見,不足為奇,依種想法或行為去到究極去到最右極端,就有個名叫法西斯主義者。不過如果你覺得「希特拉殺500萬猶太人」係人類史上最大罪惡之一無可饒恕,咁你就要經常反醒自己有冇犯上相同嘅思想錯誤?響中日戰爭發生期間,其實日本國內亦都有好多人反對日本侵略中國,尤其是係文人知識份子,不過響軍國主義高壓極權嘅戰爭環境底下,亂咁講嘢有時候會人頭落地,非常狀態下保持沉默,好多時候係救命靈丹。忍一時,風平浪靜;退一步,海闊天空,從來都係最高人生智慧,明就明,唔明就黎明。
7月22號,行政院農林部正式成立,曾經於三十年代叱吒廣東嘅南天王陳濟棠(1890-1954)任部長。當然去到1940年,陳濟棠響廣東嘅勢力已經全部瓦解,齊天大聖已經俾如來佛祖蔣介石收復咗,武功全廢,叫你返中央任職,管理郊野公園,叫做俾返個安慰獎你,大家好好睇睇。7月24號,國民政府頒佈《非常時期維持治安緊急辦法》,7月25號,美國擴大對日本禁運,汽車、廢鐵、油產品及破碎金屬被列入禁運品,日本係一個缺乏天然資源嘅島國國家,所有能源同原材料都要靠外國輸入,美國嘅禁運措施令日本人敵意加重,加速雙方攤牌嘅速度。
7月26號,日本近衛之麿內閣確立咗《基本國策大綱》,提出「控制南方,建立大東亞共榮圈」嘅鴻圖大計。「大東亞共榮圈」呢個概念,早響20世紀初期已經出現,國父孫中山旅居日本嘅時候都贊成過。不過正式落實並以實際手段推行計劃,係中日戰爭發生之後,正確嚟講應該係918事變之後。該計劃以「共存共榮」為號召,企圖響亞洲太平洋地區建立一個以日本為中心,包括中國、朝鮮、印度支那、緬甸、泰國、馬來西亞(未有新加坡)、菲律賓、印尼等地區在內嘅龐大勢力範圍,從而確立日本喺亞太地區嘅龍頭統治地位,以東風壓西風,趕絕紅鬚綠眼帝國主義者殖民主義者如取如攜,而全面侵華戰爭,即係計劃嘅重要一環,1940年以後,日本帝國亦大規模入侵東南亞地區以實現大計,香港亦都好快難逃一劫,經歷三年零八個月。
7月28號,蔣介石對啱啱訪問完延安嘅大慈善家陳嘉庚講,如欲抗戰勝利,需先消滅共產黨,抗日不忘反共,蔣介石始終如一。同日,「中日文化協會」喺南京成立。7月29號,陳毅(1901-1972)等率領蘇北指揮部東進黃橋。7月30號,陳家庚致函蔣介石,對國民黨嘅政治、經濟同交通等問題頗多指摘,作為金主之一,當然有權出聲。1940年7月,晉察冀邊區發展為華北最大嘅解放區。
#常威💀 #蔣介石平反系列  #佛經抄寫員 #中日戰爭 #中華民國
0 notes
siteymnk · 9 months
Text
2023年の文化活動(一覧)
昨年もたくさん行脚しました。特筆すべきはコロナ禍からの本格的な脱却、夏休みの北海道旅行、勤続30年目のリフレッシュ休暇で西日本周遊、だろうか。行きつけの美術館は展示替えの都度、再訪するルーチンが確立。思ってたよりコンサートにもたくさん行ってた(クラシック系が多い)。地方の美術館(県立レベルの)を攻略する楽しさを知ってしまったので、今年も隙を見て行ってみたい。
星野道夫 悠久の時を旅する@東京都写真美術館
プリピクテジャパンアワード@東京都写真美術館
野口里佳 不思議な力@東京都写真美術館
パリ・オペラ座─響き合う芸術の殿堂@アーティゾン美術館
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台@東京都現代美術館
MOTコレクション コレクションを巻き戻す 2nd@東京都現代美術館
DOMANI・明日展 2022-23@国立新美術館
クリストとジャンヌ?クロード 包まれた凱旋門@21_21 DESIGN SIGHT
ハンドメイドジャパンフェス冬2023@東京ビッグサイト
室内楽・シリーズNo.22 デュオの世界 <チェロとピアノのための>@東京文化会館
驚異の声、驚異の言葉─未体験の音空間へようこそ!@横浜みなとみらいホール
Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎@東京オペラシティーアートギャラリー
3331によって、アートは『    』に変化した@3331 Arts Chiyoda
恵比寿映像祭2023@東京都写真美術館へ
同潤会アパート渋谷@白根記念渋谷郷土博物館・文学館
引き寄せられた気配@トーキョーアーツアンドスペース 本郷
東京都水道歴史館
開館60周年特別展「横山大観と川端龍子」@龍子記念館
0~8848M・地上の紋――中国空撮写真展@日中友好会館美術館
毎年恒例の岡本太郎現代芸術展@岡本太郎美術館
六本木クロッシング2022展:往来オーライ!@森美術館
わたしたちは生きている!セタビの森の動物たち@世田谷美術館
それぞれのふたり 萩原朔美と榎本了壱@世田谷美術館
平原まこと 50周年 メモリアルコンサート@東京国際フォーラムCホール
吉松隆オーケストラ傑作選 吉松隆の<英雄>@東京芸術
動物会議 緊急大集合!@ギンザ・グラフィック・ギャラリー
VOCA展2023@上野の森美術館へ
藤子不二雄のまんが道展@豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
昭和レトロ館
ヴォクスマーナ 第49回定期演奏会@豊洲シビックセンターホール
第52回邦楽演奏会@国立劇場
ダムタイプ|2022: remap@アーティゾン美術館
アートを楽しむ 見る、感じる、学ぶ@アーティゾン美術館
画家の手紙@アーティゾン美術館
重要文化財の秘密@東京国立近代美術館
明治美術狂想曲@静嘉堂@丸の内
今井俊介 スカートと風景@東京オペラシティアートギャラリー
収蔵品展076 寺田コレクションハイライト(前期)@東京オペラシティアートギャラリー
ブルターニュの光と風@SOMPO美術館
情景の地 ブルターニュ モネ、ゴーガン、黒田清輝が見た異郷@国立西洋美術館
エドワード・ゴーリーを巡る旅@松濤美術館 応挙と蘆雪@東京黎明アートルーム
「ラ・フォルジュルネ2023」 公演番号:313止まらない!若き活力の横溢と抒情 公演番号:324大作曲家に楽器の制約ナシ!SAXカルテットによる名曲の解答
島じまん2023@竹芝桟橋
デザインフェスタ vol.57@東京ビッグサイト
東京みなと祭@東京国際クルーズターミナル
ルーヴル美術館展@国立新美術館
清澄庭園
大阪の日本画@東京ステーションギャラリー
第63回 海王祭@東京海洋大学 越中島キャンパス
マティス展@東京都美術館
都美セレクション グループ展 2023
夢と自然の探求者たち―19世紀幻想版画、シュルレアリスム、現代日本の作家まで@群馬県立館林美術館
原始神母 THE DARK SIDE OF THE MOON 50th ANNIVERSARY@日比谷公園大音楽堂
本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語@東京都写真美術館
TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見@東京都写真美術館
田沼武能 人間讃歌@東京都写真美術館
発掘・植竹邦良 ニッポンの戦後を映す夢想空間@府中市美術館
プレイプレイアート展@ワタリウム美術館
下町七夕まつり@かっぱ橋本通り
モネ・ルノワール 印象派の光@松岡美術館
フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン@東京都庭園美術館
川崎水族館
F.A.T.2023 Summer Concert FireBird & AzBand & TAKEBAN@月島社会教育会館ホール
山下清展 百年目の大回想@SOMPO美術館
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ@アーティゾン美術館
野又 穫 Continuum 想像の語彙@東京オペラシティー アートギャラリー
没後10年 映画監督 大島渚@国立映画アーカイブ
熊谷守一美術館
三井高利と越後屋@三井記念美術館
北海道旅行 ファーム富田 旭山動物園
恋し、こがれたインドの染織@大倉集古館
ブラチスラバ世界絵本原画展@うらわ美術館
特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティワカン@東京国立博物館
誰かのシステムがめぐる時@TOKAS本郷
東京大学総合研究博物館
第21回東京音楽コンクール(ピアノ部門)の本選@東京文化会館
テート美術館展@国立新美術館
ガウディとサクラダファミリア展@国立近代美術館
ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会@森美術館
コレクション展2023-3@青森県立美術館
大巻伸嗣 地平線のゆくえ@弘前れんが倉庫美術館
弘前昇天教会
旧五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)
旧東奥義塾外人教師館
旧弘前市立図書館
山車展示館
弘前城
津軽藩ねぷた村
カトリック弘前教会
荒木珠奈 展@東京都美術館
ARTBAY TOKYO アートフェスティバル2023 CIRCULATION -ひともまちもせかいもめぐる‐@臨海副都心エリア
生誕140年 モーリス・ユトリロ展@横浜高島屋ギャラリー
全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト
デヴィッド・ホックニー展@東京都現代美術館
「あ、共感とかじゃなくて。」@東京都現代美術館
ステファン・サグマイスター ナウ・イズ・ベター@ギンザグラフィックギャラリー
福田美蘭 「美術ってなに?」展@名古屋美術館
生誕120年 安井仲治YASUI NAKAJI: PHOTOGRAPHS@愛知県美術館
フランク・ロイド・ライト  世界を結ぶ建築@豊田市美術館
漆の彩り・黒と金の幻想 - 高橋節郎@豊田市美術館(髙橋節郎館)
コレクション展 歿後20年 若林奮@豊田市美術館
2023年度 第2期 コレクション展@豊田市美術館
山田寅次郎展@ワタリウム美術館
Japan Mobility Show 2023@東京国際展示場
黒田記念館(特別室開室)
横尾忠則 寒山百得展@東京国立博物館
東京国立博物館の寒山拾得図
デザインフェスタ vol.58@東京ビッグサイト
永遠のローマ展@東京都美術館
上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす ―菌類、植物、動物、人間@東京都美術館
動物園にて ―東京都コレクションを中心に@東京都美術館
第64回 日本版画会展@東京都美術館
「今こそ、ルーシー!」 ~LUCY IS HERE~@スヌーピーミュージアム
大原美術館
そして船は行く@高知県立美術館へ。
大塚国際美術館
コレクションハイライト@福岡市美術館
芥川龍之介と美の世界 二人の先達─夏目漱石、菅虎雄@久留米市美術館
遠距離現在 Universal / Remote@熊本市現代美術館
第3期コレクション展:宮崎県立美術館
MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ@東京都現代美術館
MOTコレクション歩く、赴く、移動する 1923→2020 特集展示 横尾忠則―水のように 生誕100年 サム・フランシス
大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ@国立新美術館
第4回カルチャー芸術展@国立新美術館
第12回 躍動する現代作家展@国立新美術館
21世紀アートボーダレス展(2023)@国立新美術館
JAGDA国際学生ポスターアワード2023@国立新美術館
第63回全国矯正展@東京国際フォーラム
ゴッホと静物画―伝統と革新へ@SOMPO美術館
ピカレスク・ニュー展 Vol.8@ピカレスク
モネ 連作の情景@上野の森美術館
0 notes
nccwa · 11 months
Text
旅遊/來去澎湖 聽大海呼喚
旅遊亞洲
魯秋琴 2023-10-15 02:01 ET
Tumblr media
旅行,就是去和一個陌生的地方談一次戀愛,不論時間長短,氣候如何,那獨特的邂逅都會留下難忘的印象。
四面環海的澎湖像是一位脾氣古怪的冰山美人,偶而露出驚人的美艷,卻在瞬間消逝得無影無蹤。大自然在此展開鬼斧神功,不遺餘力地揮灑在各種地形中。澎湖以天仙菊為名,風裡來、雨裡去,島上遍地開花。
外子的大學同學來自澎湖,每回見了面,總是熱誠地邀約。2022年底,我們迫不及待地出發,卻趕上了東北季風。
馬公高中 榕樹展生機
馬公高中的校園中有一株小榕樹,樹幹被風吹得彎成90度了,依然努力地站崗,它是那樣謙卑而執著,盡管不能挺立,卻像鐘樓怪人卡西莫多一般,展現了一種執著的生命力,令人由衷生敬。
沿著樓廊走向校史室,在轉角看見「禮義廉恥」的匾額,興奮地要求老師們一起合照,一個已經逐漸淡出本島的國寶竟然相遇於離島,可見,在千萬尺之下,陸地是相通的,文化價值也是。
校史室顧名思義是介紹學校的創建、演進,我們卻看見一張張畢業證書和紀念冊,莘莘學子成了學校的一部份,而學校也被牢牢地刻在心版上。畢業生把證書交還給校史室,是一種回饋、也是感恩,翻著紀念冊,看見許多政商名人,也看到天才洋溢的歌星,學校因此源遠流長。走出校門時,我很認真地拍攝下那一株榕樹。多年後,他將會長鬚飄飄,枝葉蔓蔓,東北風不斷,吹彎了樹幹,卻吹不斷那堅毅的樹根。
眷村風情 外婆澎湖灣
眷村日常都圍著「反攻大陸」、「毋忘在莒」運行,澎湖的篤行十村更是。小店的石椅上漆著國旗,電線杆上寫著標語,村口的榕樹被東北季風颳得斜倚在郵筒上,紅色郵筒的裝限時, 另一座綠郵筒則是平信,郵件得等船期,小島上信件的收發是由風浪來控制。
Tumblr media
https://pgw.worldjournal.com/gw/photo.php?u=https://uc.udn.com.tw/photo/wj/realtime/2023/10/11/26033041.jpg&x=0&y=0&sw=0&sh=0&sl=W&fw=800&exp=3600&q=75
潘安邦把童年譜成了「外婆的澎湖灣」 ,將那份濃郁的祖孫情舖下了一張大網,用輕快的音符攬住了人心。
「澎湖灣 澎湖灣 外婆的澎湖灣
有我許多的童年幻想
陽光 沙灘 海浪 仙人掌
還有一位老船長」
除了潘安邦外,眷村裡還有一位天才洋溢的張雨生,這位英年早逝的歌手永遠定格在他年輕的音樂夢中,那高亢的歌聲在巷陌中流轉,歲月也就放慢了腳步,大榕樹悄悄地把鬍鬚覆蓋著石板路,輕輕撫慰著千瘡百孔。
漁翁島 嘗炸蝦憶往事
Tumblr media
多年前的一個午後,呂老闆瞇著眼,瞧著遠方,這是他午休時刻,狂風吹走了「暫停營業」的告示。 「反正不會有客人,不如早點兒收攤」,他自顧自地取了酒瓶和小菜,一轉身,門口竟然出現一群人。
「 可以炒些小菜嗎? 」為首的那位笑瞇瞇地問。
「 附近幾家店都休息了,我們要求不多,填飽了就走。」
呂老闆打量來客,簡樸的外出服搭上小夾克,乍看不是本地人,估計不容易找到歇腳處,不如破例開竈,也算交個朋友。他推薦炸大蝦,客人點了炒麵、海膽、旭蟹、石蚵和石斑魚湯,呂老闆駕輕就熟地擺出一桌的海鮮。
在客人邀請下,加了座位,他也打開了話匣子,「因為父親愛喝酒,所以取名酒瓶。」那客人風趣地接了腔,「因為我父親姓蔣,所以我也跟著姓蔣。」天南地北聊得十分暢快,賓主盡歡後,客人離席。這個偶發事件也就被淡忘了,人來人往,一切如常。有一天,郵差送來了一封信,寄信人竟是總統府,這會兒,連郵差都忍不住好奇地探頭瞧一下究竟。
讀了公文用箋,才恍然大悟,那天笑咪咪地打招呼的竟然是蔣經國先生,除了感謝老闆為他們犧牲了午休,更為那桌菜餚讚不絕口,他將呂酒瓶當作自己的民間好友,最後建議改個同音而雅致的「九屏」。
不論呂酒瓶或呂九屏,他依然勤勤懇懇地守著店,守著那封信的情誼。上回去澎湖時還和呂先生聊了會天,他依舊神采奕奕,愉快地和我們拍了照,爽朗的笑聲中,透露著不卑不亢的氣度,他說:「 好朋友就要交心,我去總統府說的話都是真心實意的,好壞都有。」引起大夥一陣掌聲和喝采。2012年,呂先生仙逝,這會兒,他應是和經國先生在一起把酒話當年了。
傍晚時分,走進飯店,享受著呂先生的傳家手藝,炸大蝦酥脆的表層輕落,彷彿在叨唸著陳年往事 。女老闆熱誠地介紹:「這是我阿公的店。」是的,我們都有個了不起的阿公,一位建了橋,另一位做得一手好菜,所以我們有幸能在東北季風下跨海享受美食。
沒能如願的仙人掌冰化為一種思念,下回去澎湖,還得繼續找,也許藏著另一個雋永的小故事。
二嵌聚落 咾咕石打造
二嵌聚落保留了整個族群的生態,走近一瞧,四處都是建材和工具,繞了幾圈才找到入口,直奔杏仁茶店,先暖了胃才繼續走入村落。
Tumblr media
2009年,二崁陳家古厝後代回鄉重建,採用三間三進宅式,刻意地把古蹟和古董收藏成了傳家之寶,因此在這一個方圓幾畝地,不時與悠悠古風邂逅,古厝原建於大正元年(1913),翻新後改成磚瓦,精緻的門庭中鑲嵌著磁磚,咾咕石牆環抱著典雅的建築,像是呵護著愛女的龍王,塑造了二嵌的建築特色。
居民不多,招牌不少,唸著古語古辭,忽然領悟到台語發音的妙處,家家戶戶將那古拙樸實的格言嵌進石壁,大夥兒努力採用 「 正港」 的台語唸出真理格言,趣味盎然。
中央老街 中藥鋪飄香
每個城市都想留下一些古老的痕跡,證明自己的身分,記錄歲月的痕跡和曾經的輝煌。 中央老街承載著300年來的文化,短短一條街依然維持著往昔的風華。
https://pgw.worldjournal.com/gw/photo.php?u=https://uc.udn.com.tw/photo/wj/realtime/2023/10/11/26033038.jpg&x=0&y=0&sw=0&sh=0&sl=W&fw=800&exp=3600&q=75
https://pgw.worldjournal.com/gw/photo.php?u=https://uc.udn.com.tw/photo/wj/realtime/2023/10/11/26033040.jpg&x=0&y=0&sw=0&sh=0&sl=W&fw=800&exp=3600&q=75
放學歸來的孩子踩著石板路,四處找尋玩伴和食物,而他們的母親,從不遠的布行中走出來,優雅的步履拖著長長的身影,瞬間日子就有了重心,故事一代一代地延續了下來。在一陣恍惚中,我們也跌入了童年往事,一條長長的臍帶,永遠繫著天涯遊子。
傳統市場 買海鮮紫菜
Tumblr media Tumblr media
20多年前,第一次去澎湖,飛機才落地 ,一位老船長吆喝著:「趁早上船,快起風了,釣小管去囉!」那個晚上,熠熠繁星照著海面,船長忽而撒網,忽而卸貨,一轉眼,新鮮的小管都溜進了胃裡。那一聲吆喝,注定了這個離島在我心中的位置,她的座標就是距離心跳最近的地方。
https://pgw.worldjournal.com/gw/photo.php?u=https://uc.udn.com.tw/photo/wj/realtime/2023/10/11/26033039.jpg&x=0&y=0&sw=0&sh=0&sl=W&fw=800&exp=3600&q=75
1 note · View note
diveterrys · 1 year
Text
8\6 移動日と大瀬崎と。
86 移動日と大瀬崎と。 今日は移動日と大瀬崎。 とりあえず北海道チームの様子。 #PADI #JAPAN #ダイブテリーズ
小雨の降る札幌です。 今日は移動日。 浜松に戻ります。 こんにちは! PADI インストラクターの我妻です。 北海道の海と湖を潜ったチームは今日は移動日。 浜松に戻ります。 大瀬崎チームはいつものようにゴミ拾いをしながら、ファンダイブ。 札幌チームは朝イチ、レンタカーで出発! 大倉山に上がりたいリクエストで行ってみたら、大会でクローズ。 仕方なく旭山記念公園。 降りてきて藻岩山へ行ったら営業前。 大倉山での時間がごそっとなくなったからなあ。 そしてスープカレーのリクエスト。 澄川の住宅街にあるお店。 おいしいカレーでした。 そのあとはちょっとドライブ。 ここも小雨だけど行ってきました。 大瀬崎の様子は帰着後にきっと。 明日はお昼から通常営業です。
Tumblr media
View On WordPress
0 notes
t-ohkubo-0115 · 2 years
Photo
Tumblr media
先日にはなりますが 懸垂のできる公園探すサイクリング🚴‍♀️ やっと旭山記念公園まで侵攻し 中央区制覇✌️ これで白石区、豊平区に続き 中央区まで制覇✌️ 現在では南区を侵攻中で 藤野方面へ侵攻中… 熊🐻には注意して 可能なら定山渓温泉♨️まで 侵攻したいと思う今日この頃… #サプリメント #健康食品 #食生活改善 #体質改善 #ヘルスケア #不眠 #リラクゼーションサロン #リラックス #リフレッシュ #癒しの空間 #美容 #健康 #整体 #カイロプラクティック #オイルリンパマッサージ #ウォーキング #スキンケア #ストレッチ #エクササイズ #筋トレ #美肌 #アンチエイジング #美白 #ヒップアップ #免疫力 #腹筋 #女性の健康 #女子力アップ #ダイエット (Sapporo-shi, Hokkaido, Japan) https://www.instagram.com/p/CjQfQwxppvL/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
gear87 · 5 years
Photo
Tumblr media
#夜景 #夜景ら部 #札幌 #展望台 #旭山記念公園 #ふぁいんだー越しの私の世界 #一眼レフ #一眼レフ練習中 #sapporo #instagram #instapic #instagramjapan #photo #japan_night_view https://www.instagram.com/p/B7qn1NRnkKf/?igshid=1fl0mmoz3vbdi
2 notes · View notes
sato09 · 5 years
Photo
Tumblr media
札幌旭山記念公園 2019.5.30 暗〜いのが好きです #札幌#旭山記念公園#噴水#nikond750 https://www.instagram.com/p/ByIYYHqguSM/?igshid=1dgs3cdsbju4k
23 notes · View notes
kamiton · 2 years
Photo
Tumblr media
. 週末の散策。 #建築 #建築デザイン #建築設計事務所 #スタッフ募集 #北海道長崎県人会 #北海道 #札幌 #旭山記念公園 #森林浴 #ヒグマ #熊出没注意 #札幌市ヒグマ出没情報 #forestbathing #brownbear #sapporosightseeing #hokkaido #sapporo #architects #architecture #architecturedesign #recruit https://www.instagram.com/p/Ceyb6pnpjf-/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
micchanharusame · 4 years
Photo
Tumblr media
@tsukimisou0320 #月見草珈琲店 #メロンパフェ #水出し珈琲ゼリー #珈琲ゼリーパフェ #スイーツテロ #スイーツスタグラム #パフェ #sweet #カフェ巡り #メロン #melon #スイーツ部 #sweetheart #旭山記念公園 #旭山記念公園からの眺め (月見想珈琲店) https://www.instagram.com/p/CDW_hQdpeDI/?igshid=qua5qdk29ise
0 notes
tetsu47 · 7 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
珍しく視界がスッキリ。。
10 notes · View notes
flhq · 4 years
Text
旭山記念公園で雪板
みなさん、こんにちは。
昨日、札幌市内にある旭山記念公園で雪板で遊んできました。
動画を4分に編集してみました。
今の札幌市内の公園の様子など確認できます。
youtube
1 note · View note
nuthmique · 10 years
Text
構成・演出
額田大志 Masashi Nukata 作曲家、演出家。1992年東京都出身。 幼少期より、母親の影響でリトミックを始める。中学二年生の頃、友人の影響でロックバンド『UNICORN』にのめり込みバンド活動を開始。20歳までは主にドラムを演奏。高校時代に作曲、編曲の面白さに気付き、朝まで打ち込みをしては授業中に寝るという生活を送ったため、成績が学年で下から二番目になる。一般大学への道のりは絶望的だったが、音大なら進学できるかもしれないと思い立ち、運良く東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科に入学。 その後、複数のロックバンドでドラムを叩き、ライブハウス『下北沢屋根裏』などに定期的に出演するも中々上手くいかず、大学二年生の冬に8人組バンド『東京塩麹』を結成。同バンドは活動を継続していく中で様々な機会に恵まれ、ツアーやフジロックの出演などで注目を集める。現在は主にシンセサイザーを演奏。 また、大学時代に友人の演出する舞台に衝撃を受け、自らもダンス公演を主催するなど舞台芸術の活動を開始。とはいえ厳しい道のりであり、プロのアーティストの道を諦めて大学留年の後に音楽企業へ就職。しかし、誘われたライブ活動で有給(厳密には特別休暇)を即座に使い切ってしまい、なし崩し的に休職。そして、休職中にのんきに金沢観光していたことがSNS経由で上司にバレて、勤続7ヶ月でスピード退職。活動を本格化。 就職と同時に演劇カンパニー『ヌトミック』を結成(こちらは継続)。カンパニーは現在5人のメンバーで活動。舞台音楽や広告音楽も手がけるが、その便利屋的な立ち回りに、そろそろ自分の軸を持たなければと焦りながら創作を続ける。
演奏
※出演を予定していたCharさんは、ご家庭の事情により不参加となりました。何卒ご了承くださいませ。 波岡康之 Yasuyuki Namioka パフォーマー。 まず私の人生で最初に影響をあたえたのはブルース・リーです。 そして空手をはじめました。私の通っていた道場には、少年部はなかったので、大人と一緒にトレーニングしていました。そのせいかみるみる体力がつきました。以前は学校でほとんど選ばれることのなかったリレーの選手に選ばれるようになりました。そしていろいろなことに積極的に取り組めるようになりました。 役者にも挑戦しました。アルゼンチンタンゴもやりました。 そしてよく行くようになったJAZZ喫茶のとなりの座っていた方が有名なサックスプレイヤーで、その人に習い、サックスも吹けるようになりました。 ブルース・リーの有名な言葉に“Don’t think feel”というのがあります。 そしてジークンドーに、型はないというのがあります。私も既成概念にとらわれず格闘技にARTにTRYし続けていきます。 遠山ひかり Hikari Tohyama 1997年生まれ。東京都出身。幼少期から一日中絵を描き続けたり、5歳からピアノを習うなど芸術全般に多く興味を示す子供であったが、小学校3年生の学芸会で主人公『負けうさぎ』を演じたことが深い興奮として記憶に残る。芝居の世界への憧れから、中学時代は邦画を観漁るようになる。そうして高校では念願の演劇部に入部。この頃から、小劇場の公演に足を運ぶようになる。晴れた日は高校の屋上で寝て過ごしていたのでクラスで浮いていたが、文化祭のクラス演劇で主演女優賞を獲得したことから急に人に話しかけられるようになった。すっかり演劇以外にやりたいことがなくなっていたので、桜美林大学芸術文化学科演劇専攻に進学。学生団体に出演したり、作・演出・出演の一人芝居に挑戦したりして過ごすが、様々な出会いを通して学外の活動が盛んになり大学から足が退く。何か続けられる仕事を始めたくて、憧れていたバーテンダーの求人に応募。アルバイト生活をしながら2019年に同世代の劇団に俳優として加入するも、現在は活動休止している。演劇や生活に挫折する日々ではあるが、救急車で運ばれた際に生死を彷徨いながら「女優です!」と叫んだ自分を信じ、舞台活動を続けたいと思っている。 小又旭 Asahi Omata 学生。1997年生。自己紹介に苦手意識がある。小学校時代には図書室によく通い、アルセーヌ・ルパンなどの冒険譚や、ハリーポッターなどの長編ファンタジーが好きな少年だった。 図書室に折り紙が常設されていたことをきっかけに、小3から中学校くらいまでは折り紙に傾倒していた。そのころは学校で配布されたプリントを折ってしまい、ぐちゃぐちゃになっていた。高校に入り演劇を始めるとともにほとんど折り紙を折らなくなったが、自己紹介の際に「折り紙好き」という情報が使いやすいので頼りがちである。 その後、演劇系の大学に入学。他学科との関わりや実習など、校内施設を使った授業の多さに惹かれて入学したものの、体調を崩したためほとんど参加できない日々が続く。 今年に入り、二年間の休学から復学した。しかしコロナの関係であまり実習もないので、家で折り紙を折ってSNSにアップすると割と反響があるのでたまにやる。現在はサボテンを育てはじめた。 カワイサンホ Sanho Kawai 会社員。1992年生まれ。長野県出身。 実家はスキー場近くの山の中。両親が脱サラ後に自分で建てた丸太小屋で育つ。自然と動物に囲まれ、近所に子供がいなかったので一人遊びをして過ごすことが多かった。西日の当たる部屋で絵を描きながら眠るのが幸せだった。 運動はてんでダメで、その代わり音楽はずっと好きだった。中学生では吹奏楽部でバリトンサックスを吹いていたが、その傍らロックやバンドという概念に強く惹かれ、自分もバンドを組んでみたいという思いが日に日に強くなる。 高校生の時にエレキベースを購入。念願の軽音楽部に入る。大学時代はコピーバンドサークルに入り、ソウル、ファンク、R&Bなど様々なジャンルの音楽に触れる。 社会人になっても音楽活動をゆるく続けている。去年は「Cutty Scooner」というユニットで音源をリリースし、ベースで参加している。 今回、粘土という素材で参加した理由は、会社員で調子を崩してしまった時に、たまたま家にあった粘土で造形を始めてみたら気持ちが楽になったことがきっかけ。現在も気が向いた時にオリジナルの作品を作っている。Instagram:@__pumo 八木佑平 Yuhei Yagi 1996年3月28日生まれ、香川県出身。現在は都内にある建築デザイン事務所に勤務。普段全くと言っていいほど音楽を聞かなかったのだけれど、3年前くらいから音楽というより音に興味を持ち始めた。 それは大学4年の冬、友人の研究の手伝いで音楽を制作したことがきっかけで。 ある音とその音がもつイメージとの関係についての研究だったように思う。 1人用の特殊なドームの中で、ヘッドホンとVRゴーグルをつけてその制作は始まった。まずセミの鳴き声・海の音・風の音を同時に聞いて、夏が見えるでしょうと友人はサンプルの音源聞かせてきた。 うん、確かに。VRはウユニ塩湖みたいな映像になっていたけれど、いわゆる夏感を音によってイメージさせられた。音も、ある体験の重要な要素なのだ。 音によって感情が引き出される。日常でもよくある事だ、音楽を聞く目的のほとんどと言ってもいい。 その音に対する自分の認識。解像度が様々なイメージまでくっついている。黄色を見て「黄色」と言う。その共通認識ゲームは音にも言えるのだと改めて知覚したことは大きな衝撃だった。 次は100種以上あるサンプリングされた音源を自由に組み合わせ、あるイメージを実現させる音楽を作ってみる。雨音なら「小雨」から「豪雨」まで、鳥のさえずりは複数種の鳥の鳴き声があり、車や人混みなどの騒音も用意されていた。 何をイメージしてどの音源を組み合わせたかは忘れてしまったのだけれど(悲しい…)、それは生きてきて聞いたなかで一番不快な音楽になってしまったのだ。 自分が聞きたい音を6種くらい、ある程度風景のイメージ(=絵とそこになる音の成立)も持って組み合わせたその音楽は、とにかく聴き心地が良くない。不快。 雑多な音が同時に存在する日常はなぜここまで不快にならず成立しているのだろうか。耳が慣れているのだろうか。ある音が許容値を越えると異常事態化し(うるさいなど)不快になる。 ましてや音楽を作るなんて、なんて難しい制作なんだ。とここ数年悶々としていたところ今回のWSを知って参加してみた。 ひろすえゆうた Yuta Hirosue 介護福祉士。先天性の心室中核欠損症で運動が出来なかったのですが、音楽の授業で自分を表現する楽しさを知り、中学、高校と吹奏楽部でパーカッションを担当しました。 高校卒業後は福祉の専門学校へ進み、保育士、幼稚園教諭、介護福祉士の資格を取得し、福祉施設で働いています。現在は福祉施設で働きながら、児童館で小学生から高校生を対象としたドラム講師のアルバイトをしています。 お笑いが好きで、ライブを観に行くことやラジオにハガキを送ることが好きです。昨年からは自分も何かやってみたい、という気持ちが強くなり、自分自身もエピソードトークやフリップネタでお笑いライブに出演するようになりました。 コロナ禍で自分にとっての幸せは人と出会うことだと思い知り、「一度きりの人生、出来ることは何でもやってみよう」と前向きになることができました。 共演者との出会い、私が鳴らす「物体」との出会い、観てくださるお客様との出会い、全ての出会いへの感謝と幸せを噛みしめて演じます。  長沼航 Wataru Naganuma 俳優。ヌトミック所属。幼稚園くらいまではそこそこ内気なシャイボーイ、保健室のれいこ先生と仲良しこよしでお届けしておりましたが、家では風呂から出てくるやいなやソファに飛び込み「おもしろ劇場」を開催する陽気な一面もある男の子でした。小学3年生からはマーチングバンドに所属してユーフォニアムとチューバを担当、朝練はよくサボっていた。中学校では一旦科学部に鞍替えするも、母親の友人経由で週末にゴスペルを歌い始める。高校ではオリエンテーションでかっこいい演奏をしていた吹奏楽部に入ろうと決意し仮入部に行く。すると、「久しぶり、ビリー!」と会ったこともない先輩にいきなり抱擁され、そこからあだ名は基本的にビリーで統一している。また、その人とは別の打楽器の先輩につかまり実はずっとやりたかったパーカッションに転向する(ちなみに人生のどこかでベースもやってみたい)。高校は笑いにシビアなところだったので、文化祭や合唱祭のたびに漫才やコントのコピーをやっていた。高2の定期演奏会で寸劇をやり、ウィンクキラー役を務めたのが演劇に目覚めたきっかけ、ではないのだが台本係の後輩と帰り道にフィクションのことばかり話している時間は楽しかった。大学に入って下北沢・本多劇場で観たヨーロッパ企画『来てけつかるべき新世界』が衝撃的に面白くそこから演劇にハマり、いつの間にか舞台の上に俳優として立っている。今年度からは横浜国立大学大学院の修士課程に在籍し、作品制作という形で研究を行っている。ちなみに、順調ではない。 深澤しほ Shiho Fukasawa 俳優。ヌトミック所属。山梨県出身。母親がドラマを見るのが好きで、小さい頃、一緒に寝るまで横で見ていたことをきっかけに「テレビの中の人になったらお母さんが喜んでくれる!」と思い「テレビの中の人」になることを目指す。 田舎の小さな中学校・高校には演劇部が無く、地元には映画館も無く、俳優になることを本格的に意識し始めたのは高校2年の進路提出のとき。 社会人としてなりたいものが本当に浮かばず、どうしたら俳優になれるのかもわからず、とりあえず学校帰りに「月刊 デ☆ビュー」を買って、当時人気だった小池徹平が「君も応募しよう!」と微笑みかけてきたのでこっそり応募。俳優養成所に合格するも、よくあるぼったくりの養成所だと気づくのは5年後。 心理学を学べる大学に通いながら、俳優養成所に通い、大学ではなぜか図書館司書の資格を取得するというブレブレの時代を通過する。「タマビ」「ムサビ」「オウビリン」という美術系の大学もあることを教えてくれなかった高校3年の時の担任・本多の顔は忘れない。そしてそういう大学があることを調べもしなかった当時の自分の怠慢を今でも根に持っている。 ようやく人生の軌道修正するのは大学を卒業して3年後、養成所で奇跡的に知り合うことができた〝師匠〟から「これを読め」と『東京ノート』(平田オリザ著)を渡され、以降は青年団関連の舞台を片っ端から見に行く。 アーツ千代田3331でやっていた、わっしょいハウス『木星の運行』を見に行ったとき、出演していた浅井浩介さんの佇まいに度肝を抜かれ、今まで私が養成所で教わっていた〝それら〟が一気に崩れ去る音を聞く。ぼんやりしていた心の目がついに開眼し、青年団の俳優が講師をしてくれるという「映画美学校アクターズコース」を受講。その後のスピード感は自分でもよくわからないが、生粋の下克上精神は維持しつつ、人生遠回りしてもまあいいじゃないか、と楽観的な思想も持っている。 << 公演トップページ << 無料楽譜公開
1 note · View note
xf-2 · 5 years
Link
最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフ���リピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎな��立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細���、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
10 notes · View notes
sato09 · 5 years
Photo
Tumblr media
札幌旭山記念公園にて 2019.5.30 #札幌#旭山記念公園#たんぽぽ#綿毛#nikond750 ドラえもんコミックス第18巻 タンポポ空を行く 大事なことはドラえもんから教わりました https://www.instagram.com/p/ByIWzzmA07L/?igshid=nwuj0alu5xxv
16 notes · View notes