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#神戸からアジアへ
ari0921 · 8 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月27日(土曜日)
   通巻第8107号  <前日発行>
 ミャンマー国軍のクーデターは「西郷なき西郷軍」?
  軍と仏教高僧との融合統治が機能不全に陥ったのではないか
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ミャンマーで「本当は」何が起きているのか?
 大手メディアは投票箱民主主義至上史観だから、本質的なことが見えてこない。
 2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターに打って出た。ところが、ミャンマーの民衆が想定外に強く反発し、「民主主義を蹂躙した」として大規模な抗議集会が開かれた。抗議デモに軍が出動、多くの死傷者がでたため国際社会から批判に晒された。
 欧米の傀儡といわれたアウン・サン・スー・チーを支持する人たちは外国のメディアが同情的に報道したので、鮮明に反政府の旗を掲げた。こうなると正義はどちらにあるのか、よく分からない政権運営が続いた。因みに2021年のミャンマー経済はGDPがマイナス18%、通貨は暴落し、庶民は生活苦に喘ぐ。
 クーデターから三年が経った。欧米のメディアの複写機である日本は「国軍=悪」vs「民主主義団体=善」のスタンスを依然として維持している。スーチー政権のときにロヒンギャ70万をバングラデシュへ追い出すと、欧米メディアは一斉にスーチーを「人種差別主義」「ノーベル賞を返還せよ」と猛烈な批判に転じたが、日本はそのまま、ミャンマー国軍批判である。
 この価値基準は「イスラエル=悪」vs「ハマス=善」、「ゼレンスキー=善」vs「プーチン=悪」と、リベラルな西側政治家やメディアが作り上げたフェイク図式に酷似している。ミャンマー国軍ははたして悪魔なのか?
ミャンマーの社会構造は宗教を抜きに語れない。
仏教徒が90%をしめ、しかも上座部(小乗仏教)である。僧侶が800万人もいる。
軍隊は徴兵制で43万人(実態は15万に激減)。
つまりこの国は軍と仏教世界との融合で成り立つ。軍は元来、エリート集団とされ、国民からの信頼は篤かったのだ。それが次第にモラルを低下させ、徴兵ゆえに軍事訓練は十分ではなく、そもそも戦意が希薄である。愛国心に乏しい。
 軍クーデターは伝統破壊の西欧化に反対した政治的動機に基づく。単なる権力奪取ではない。つまり「西郷軍が勝って、近代化をストップした」ような政治図式となるのだが、現在のミャンマー軍(ミン・アウン・フライン司令官)はと言えば、「西郷隆盛なき西郷軍」である。権力は握ったものの何をして良いのか分からないような錯乱状態にあると言える。
 軍人は経済政策が不得手。コロナ対策で致命的な遅れをとり、猛烈インフレに襲われても、適切な対応が出来ず、外資が去り、自国通貨は紙くずに近く、闇ドルが跋扈している。
国民は外国で反政府活動を活発に展開する。国内各地には武装組織が蠢動を始めた。
 ▼まるで「西郷のいない西南戦争」でクーデターが成功した
 西南戦争は『道義国家』をめざし、挫折した。戦略を間違えた。というより勝利を計算に入れずに憤然と立ち上がったのだ。
佐賀の乱、神風連、秋月の乱、萩の乱から思案橋事件が前哨戦だった。城山で西郷は戦死、直前に木戸が病没、大久保暗殺がおこり、明治新政府は「斬新」な政策を実行に移した。しかし行き過ぎた西洋化、近代化。その象徴となった「鹿鳴館」に反対して国学派が復興した。
 ミャンマーの仏教鎮護国家の復活が国軍指導者の目的だった。
しかし彼らは広報という宣伝戦で負けた。都会は西洋民主主義、グローバリズムに汚染され、若者は民族衣装を捨てていた。西洋化は、あの敬虔なる仏教との国ミャンマーにおいてすら進んでいた。
 となりのインドでは巨大なモスクを破壊し、その跡地に大きなヒンズー寺院建立した。竣工式にはモディ首相自らが出席した。
 ミャンマー国軍に思想的指導者は不在のようだ。だからこそ、国軍は仏教の高僧を味方にしようとしてきた。しかし国内的に厄介な問題は同胞意識の欠如である。そのうえ山岳地帯から国境付近には少数民族各派の武装組織(その背後には中国)が盤踞している。中国はミャンマー国軍政府と「友好関係」を維持しているが、背後では武装勢力に武器を供給している。
 主体のビルマ族は70%だが、嘗て国をまとめた君主はいない。カチン、カレン、モン、シャン、カヤ族と、それぞれ少数の武装組織が国軍と銃撃戦を展開しているものの、反政府で連立は稀である。カチン、カレン、モン族は博くラオス、カンボジアにも分散しており、ラオスでのモン族は米軍について共産主義と闘った。敗戦後、17万人のモン族は米国へ亡命した。
 2023年10月27日、ミャンマーの反政府武装組織が初めて三派共闘し、シャン州北部で「国軍」と戦闘、驚くべし国軍が敗走した。国軍兵士数百が投稿した。
 中国の秘密裏の仲介で停戦状態となったが(24年1月26日現在)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、西部ラカインのアラカン軍(AA)の「三派」の共闘はこれから「連立」となるか、どうか。
この三派以外にも不明の武装組織(なかにはギャング団、麻薬シンジケートも武装している)。なにしろミャンマーは五つの国と国境を接し、130の少数民族がいるとされる。 
 
国境問題の複雑さが問題をさらに複雑にする。ミャンマーが国境を接する国々とは、インド、中国、ラオス、タイ、バングラである。地域によっては少数民族が多数派となる。
西海岸の古都シットウエイはインドとの海路の拠点であり古代遺跡があるため外国人観光客が多い。
チャウピューは中国へのパイプラインがミャンマーを斜めに横切り雲南省へと繋がっている拠点、ここには中国企業が進出し、工業団地を建設中で、ロヒンギャとの暴動になった場所、行ってみる、と放火されたモスクの無残な残骸があった。やや東側の中部、マンダレーは雲南華僑の街である。
旧首都のヤンゴンと新首都ネピドーはアクセスが悪い。マンダレーは国際空港こそ立派だが、翡翠やルビーの商いはほぼ華僑が握る。そうした三都三様の物語が付帯する。
 ▼麻薬王
ラオス、タイ国境に拡がるのが統治の及ばない「黄金の三角地帯」である。
アフガニスタンにつぐ麻薬産出地域で、ギャング団と武装組織と博打場である。治安の安定はあり得ないだろう。
黄金の三角地帯の形成と発展、その後の衰退は国民党残党という闇とCIAの奇妙な援助があり、やがて彼らへの弾圧、そしてミャンマーとタイとの絶妙な駆け引きをぬきにしては語らない深い闇である。
国共内戦に蒋介石は敗れて台湾に逃れたが、南アジアで戦闘を継続したのが国民党の第27集団隷下の93軍団だった。およそ一万もの兵隊が残留し、シャン州をなかば独立国然とした。モン・タイ軍(MTA)は『シャン州独立』を目指した軍事組織で、ビルマ共産党軍が主要敵だった。
国民党残党の軍人とシャン族の女性のあいだに産まれたのがクンサ(昆沙)。
のちに『麻薬王』と呼ばれる。中国名は張奇天で、一時はモン・タイ軍の2万5000名を率いた。軍資金は麻薬だった。
CIAが背後で支援した。アルカィーダを育て、やがて裏切られたように、ムジャヒデン(タリバンの前身)を育てたのもCIAだったように、やがて米国はクンサに200万ドルの懸賞金をかけた。
『麻薬王』と言われたクンサは紆余曲折の後、麻薬で得た巨費で財閥に転じ、晩年はヤンゴンにくらした。2007年に74歳で死亡した。米国の身柄引き渡し要求にミャンマー政府は最後まで応じなかった。
もうひとつの有力部族=ワ族はモン・クメール語を喋る少数民族で、いまワ族の武装組織は中国の軍事支援がある。
 ▼ミャンマー進出の日本企業は、いま
さて安倍首相が二度に亘って訪問し、日本が投じたティワナ工業団地はどうなったか。
ヤンゴンの南郊外に位置し、コンテナターミナルを日本が援助した。しかし国軍クーデター以後、西側が制裁を課し、日本政府が同調したため、日本企業の10%がミャンマーから撤退した。住友商事、KDDIなどが残留しているとは言え、投資のトップはシンガポール、中国、そして台湾、韓国が続く。
日米印の企業投資は実質的にぼゼロ状態だ。
拍車をかけているのが外交的孤立である。ミャンマー軍事政権を支持するのは中国である。背後では、ロシアが接近している。
 仏教界は分裂している。将軍たちと協力し、仏教とビルマ文化の両方を外部の影響から守る必要があるという軍の理念に共鳴した高僧もおれば、「ラカイン州で地元の仏教徒とイスラム教徒のロヒンギャ族の間で暴力的な衝突が起きると、『過激派僧侶』といわれるウィラトゥ師は、「ビルマ仏教はイスラム教徒によって一掃される危険にさらされている」とし、「イスラム教徒経営の企業のボイコット」を奨励した。
 軍事クーデターに反対するデモに参加した僧侶たちも目立った。シャン州北部の主要都市ラショーでは国軍の統治が崩壊した。
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ashi-yuri · 8 months
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トマス・M・ディッシュ「SFの気恥ずかしさ」
神を信じないあなたが贈るSFへの信仰告白
昨年国書刊行会から出たSF評論集。ディッシュのSF短編集「アジアの岸辺」をむかし読んで、すごく露悪的だし悪意に満ちてるけれど、どこかさわやかなところが印象に残っていたので買って積んでた。
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同業他者の本をこう評す文章が楽しめる人は楽しめるとおもう。わりと楽しかったです。
この本は小説ではなくて治療的読書の英語で書かれた空想である。それが私にはうまく働かない。
ディズニーランドに行った疑り深い人間のように、私はつい本物でない細部に目が向かう。つまり椰子の木のコンクリートの幹だとか、すりきれた人工芝だとか、人造ライオンの生気のないうなり声だとか。しばらくすると旅行者ばかりが気にかかる。つまり、どこのどいつがこんなに手順通りのにせものを楽しめるのだろうか、楽しめるのだとしたら、本物でないから楽しいのだろうか、それとも、とても信じられないが、あえて虚構性に目をつぶっているのだろうか、と。
「SFの気恥ずかしさ」
実験・思弁小説としてではなく、いわゆる大衆小説としてのSF批判なんだと思う。現代日本に置き換えると需要層に向けてもっとピーキーになった「なろう小説」批判に近いように思える。
ただ、ここで批判される子供っぽい欲望や恨みという感情、さらにそれに対する複雑で変わりゆく眼差し自体を消費させながらすごい速度で大量の情報と欲望を集めて、メディアミックスを駆使しテキストをお金集約装置へと変えていくあまりにもファストなシステムを横目で見てると、本編は大衆小説批判としては少し古びてしまった印象
それとはまったく別にSFへの信仰告白としては100点
いまいったようなことは、どれも重要ではないと。そして、結局のところ、こういう調子で締めくくって、どこがいけないのでしょうか?たとえ完全な真実ではなくても、それは良い本をかこうとするものの信仰の祈りでなければならない。わたしはそれを信じます。みなさんもそれを信じるべきなのです。
「アイデア」「壮大なアイデアと行き止まりのスリル」
古今東西のさまざま文学と結びつけ、するどい言葉でさくさく刻んでいくのが読み物として楽しい。個別の作品がわからないので適切な批評かはよくわからない。ポーへの批判がすごい。ディックは高評価。
ポーは昔読んだきりだけど、これ聞いてなるほどと思うとともに、奇想と雰囲気いいのでポーっぽい一人称ホラー短編ゲームは楽しそうと思った。
「ポーのあきれた人生」「テーブルいっぱいのトゥインキー」
ポーとかブラッドベリとかに半分自己嫌悪に近い形で悪口言ってるときのが筆が乗ってていきいきしていて魅力的。以下、ブラッドベリの悪口から引用。
たくさんの大人たちにとってこうした短編は早すぎる埋葬をこうむった十一歳の自分に戻る戸口となり、子供たちは(ずっと昔、私がそうだったように)まるで本物であるかのようにこの魅力にとびつくのだろう。―ホステスのトゥインキーやキャンディー・コーンやストロベリーのクール・エイドが、どれもギラギラと火星のように赤色二号の怪しい光を放って並ぶビュッフェであるかのように。
「レイバーデイグループ」「聖ブラッドベリ祭」
二流作品(ディッシュ評)お焚き上げの会。文章も性格もわるくていいですね。
「ヴィレッジ・エイリアン」「最初の茶番」
ベストセラーとなったUFO連れ去り事件ノンフィクションor小説?についてのフィクション込みの論考。往年の高橋源一郎の文学探偵みたいで、嫌味と紙一重のもってまわった技巧含めて楽しかった。 ディッシュ、すごくSFを愛してるからこそSFづらして出てくるいい加減な作品のこと許せないんだろうな。
「『未知との遭遇』との遭遇」
スピルバーグの未知との遭遇の解題。宇宙戦争とかもそうだけど、結構宗教的だなあと思うスピルバーグをよく説明してくれている。最後の皮肉っぽさ、ディッシュだなという感じ。
それが本当に映画のサブテクストだとしたら、どうしてこんなにヒットしたのだろう。(中略)観客が映画の教訓に感銘を受けたからではなく、迫力ある映像、金色の仔牛としての神という、印象的な神の実像を描いてみせたからだ。我々は神の顔を見たいと渇望しても、神のために狂人になる覚悟はない。大勢の宗教者が狂気は神にいたる道だとくり返し説いてきたが、凡人にできることではない。しかし、それを映画のシミュレーションで見るなら楽しめるし、しかもその映像がSFのお約束のイメージで無菌化されていれば、なおさら考える必要はない。SFはその定義からして、重要なことを決して意味しないのだから。
「SF ゲットーへの案内」
欧米SFをくさすレムに、もっとちゃんと現代欧米SFを読んでくれ!という訴え
ディッシュは無神論者だったらしいけど、全体的にSF信仰を強く感じる。SFの価値を信じてて、SFかくあるべしというのが強固にあるからこそ、各作品をきちんと読んだうえで駄作という批判も傑作という賛辞も強く示していくそういう文章はきらいじゃない。
ディッシュの破綻してしまった人生最後の支離滅裂な小説「The Word of God」が、SFへの殉教だったのかなとSFロマンチストとしては考えてしまうところ。参照Wiki
ところで、マンハッタンについてのインタラクティブテキストであるところの「アムネジア」というテキストADVゲームの脚本書いていたのははじめて知った。
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kennak · 19 days
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在留資格「永住者」を有する外国人が、生活保護法に基づく生活保護の申請をしたところ、大分市福祉事務所長から申請を却下する旨の処分を受けたとして、却下処分の取消し等を求めた事件について、最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)は、2014年7月18日、これを認めた福岡高等裁判所の判決(福岡高判平成23年11月15日判タ1377号104頁)を破棄し、外国人は生活保護法に基づく生活保護の受給権を有しないとの判断を示した。 最高裁判決は、背景も含めて検討すると、生活保護法、行政事件訴訟法の解釈にとどまらず、日本における外国人の権利を考えるうえで重要な示唆を与えるものであるが、判決に至る経緯に関する正確な知識と一定の法的なリテラシーがないとやや理解に難しい面がある。筆者は、本稿を書くにあたり、インターネット上の判決に対する反応を少しながめてみたが、生活保護受給者、外国人に対する根強い偏見も手伝ってのことか、不正確なとらえ方をする向きも少なくないようである。そこで、以下、この判決の背景、ロジック、判決によって明らかになった課題について、できるだけわかりやすく解説を試みよう。 争点の所在 「処分の取消しの訴え」(行政事件訴訟法3条2項)にいう「処分その他の公権力の行使」について、判例は、公権力の主体である国または公共団体が行う行為のすべてを指すものではなく、「その行為によって、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているもの」をいうとしている(最判昭和39年10月29日民集18巻8号1809頁)。 したがって、行政庁に対して諾否の応答を求めて「申請」をした場合であっても、それが法律上の権利ではない場合は、「申請」は任意の行政措置を求める趣旨に過ぎず、これに対する行政庁の応答も処分としての性格を持たない。そこで本件では、外国人に対する生活保護制度の適用について、法律上の根拠の有無が問題となった。 踏まえておくべき前提知識 それでは、戦後の生活保護制度は、外国人に対して、法律上どのような態度をとってきたのであろうか。簡単にその歴史を振り返ってみることとする。 1946年に成立した旧生活保護法は、「生活の保護を要する状態にある者」の生活を、国が差別的な取り扱いをなすことなく平等に保護すると規定し(同法1条)、その適用対象を日本国民に限定していなかった。しかし、生存権(憲法25条)を保障した日本国憲法の成立を経て、1950年に施行された現行生活保護法は、憲法25条の理念に基き、国が生活に困窮する「すべての国民」に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障し、自立を助長することを目的とする旨定め(同法1条。さらに2条も参照)、生活保護受給者の範囲を日本国籍者に限定した。 ところが、新法施行直後に、「放置することが社会的人道的にみても妥当でなく他の救済の途が全くない場合に限り」外国人を保護の対象として差し支えない旨の通知がされる(昭和25年6月18日社乙92号)。さらに1954年5月8日、厚生省から各都道府県知事に宛てて、外国人は生活保護法の適用対象ではないとしつつも、生活に困窮する外国人に対しては日本国民に準じて必要と認める保護を行い、その手続については不服申立の制度を除きおおむね日本国民と同様の手続によるものとする通知が発せられた(「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」昭和29年社発第382号厚生省社会局長通知。以下「昭和29年通知」という)。 昭和29年通知は、「当分の間」とあるとおり、サンフランシスコ講和条約を機に法務省民事局長が出した通達(「平和条約の発効に伴う朝鮮人、台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」(昭和27年4月19日民事甲第438号法務府民事局長通達)による旧植民地出身者の国籍剥奪を背景に、在日コリアンを中心とする多くの在留外国人が差別と貧困に苦しんでいたことに対する応急措置であった。しかし以後、予定されていたはずの抜本的な改正はされないまま、現在までこの通知に基づいて外国人に対する生活保護の措置が行われている。 1976年、世界人権宣言を発展させた「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(以下「社会権規約」という)」と「市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「自由権規約」という)」」が発効すると、日本でも民間レベルでこれらの規約の批准を求める声があがった。 日本政府はこうした声におされるようにして、1979年にいずれの条約も批准した。社会権規約2条2項には、規約に規定する権利について「国民的若しくは社会的出身」によるいかなる差別もなしに行使されることを保障する旨の条項があり、公共住宅関係法の運用に存在していた国籍制限を撤廃させるなど国内法制に少なからぬインパクトを与えた。また、批准に際して、保護の対象を日本国民に限定していた生活保護法も、同規約9条が「社会保険その他の社会保障」について、11条が「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準」「生活条件の不断の改善」について、いずれも「すべての者」の権利を認めていることとの関係が問われた。 当時の国会審議で、政府委員は、規約9条に関して、社会保障について外国人を差別してはならないという趣旨の回答をしたうえで、生活保護法と9条、さらに11条との関係については、昭和29年通知を根拠に、支給される保護の内容、保護の方法は、すべての点で国民の場合と同じ仕組みで保障されている(したがって社会権規約には必ずしも反しない)と答弁した。 さらに、支給内容が同一であっても、権利として構成されておらず、不服申立の制度を欠く点が、社会権規約の精神に反しないかという質問に対しては、「人権規約の……精神面に着目いたしますると、そういう法の方向に沿った御検討を願いたい」(外務省委員)「外国人に対しましても……実態的な面につきましては、いささかもその待遇につきまして変わるところがないかと思うわけでございますが、確かに形式的にはいま御指摘の問題があろうかと思います。今後とも、十分に検討をしてまいりたいと思います。」(厚生省委員)と答えている(第87回国会参議院外務委員会会議録13号・1979年5月28日)。 1975年4月、ベトナム戦争の終結にともなって大量のベトナム人が国外へと避難した。当初日本は、避難民に対して一時的な在留しか認めなかったが、こうした排他的な態度は内外から強い批判を浴び、1978年には、日本定住を認めるように方針を転換する。こうした流れの中で、日本は1981年に「難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という)」に加入するのだが、「締約国は、合法的にその領域内に滞在する難民に対し、公的扶助及び公的援助に関し、自国民に与える待遇と同一の待遇を与える」と定める同条約23条と、社会保障関連法中の受給資格を日本国民に限定する、いわゆる国籍条項の関係が問題となった。 結果として、国民年金法や児童手当3法に規定されていた国籍条項は削除されたのに対して、生活保護法の改正は見送られたのだが、国会審議において、政府委員は以下のように答弁している(第94回国会法務委員会、外務委員会、社会労働委員会連合審査会会議録1号・1981年5月27日)。 「生活保護につきましては、昭和25年の制度発足以来、実質的に内外人同じ取り扱いで生活保護を実施いたしてきているわけでございます。去る国際人権規約、今回の難民条約、これにつきましても行政措置、予算上内国民と同様の待遇をいたしてきておるということで、条約批准に全く支障がないというふうに考えておる次第でございます」 「すでにもう昭和20年代に、外国人に対する生活保護の適用ということで明確に通知をいたしております。かつまた、予算も保護費ということで、国内の一般国民と同じ予算で保護費の中で処置をいたしておるわけで、特にそれを改める必要はないわけでございますが、こういった難民条約の批准等に絡めまして、一層その趣旨の徹底を図るという意味での通知、指導等はいたしたいと考えておるところでございます」 1989年、バブル経済に伴う人手不足を吸引力とするアジア諸国からの出稼ぎ労働者の増大等、日本社会における外国人のプレゼンスの増大を背景に「出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という)が改正され(施行は翌90年)、現行法へ引き継がれる在留資格制度の基礎が作られた。さらに1991年には「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」が施行され、在日コリアンを中心とする旧植民地出身者とその子孫について、新たに制定された「特別永住者」としての地位が保障された。 このような状況のなかで、1991年10月25日、厚生省社会局保護課企画法令係長の口頭指示により、生活保護の対象になる外国人が、入管法別表第2に掲げられた者(「永住者」、「定住者」、「日本人の配偶者等」、「永住者の配偶者等」)に限定された(以下「平成2年口答指示」という)。この指示は、高度な専門知識を有する者としておおむね一定以上の収入をともなう仕事に就くことが在留の条件とされている別表1に該当する外国人について、自立助長を旨とする生活保護の対象に含めないこと、さらに非正規(不法)滞在者を生活保護の対象から除外すること(昭和29年通知は外国人の範囲に特に限定をくわえておらず、通知後に作成された問答事例によると、外国人登録をしていない外国人が退去強制手続に付された場合であっても仮放免許可証による住所の認定に基づき保護を実施することとされていた。昭和57年1月4日社保第1号による改正参照)を意図していた。 厚生労働省による2012年度被保護者調査によると、日本の国籍を有しない被保護世帯数は1ヶ月平均で45,855世帯、被保護実人員のそれは74,736人(ただし相当数の日本国籍者が含まれている)とされている。 福岡高裁と最高裁~それぞれのロジック 以上の前提知識は、歴史的事実であり、福岡高裁、最���裁ともその認識に異なるところはない。それではどうして二つの裁判所で異なる結論が導かれたのであろうか。 福岡高裁は、生活保護法が「少なくともその立法当時」は生活保護受給権者の範囲を日本国民に限定していたことを前提に、昭和29年通知以来、外国人に対する生活保護が日本国民とほぼ同様の基準、手続により認められてきたことを踏まえ、難民条約加入及びこれに伴う国会審議を契機として、一定の範囲の外国人に対し日本国民に準じた生活保護法上の待遇を与えることを立法府と行政府が是認し、これによって生活保護を受ける地位が法的に保護されるに至ったものと構成し、外国人も生活保護法の準用による法的保護の対象になると判断した。平成2年口頭指示の内容が、自立助長を旨とする生活保護法の趣旨に沿ったものであったことは、同法の準用を前提としたからこそであるとしたのである。 しかしながら、本来立法で解決すべき問題が、行政庁の通知や政府委員の国会における答弁、果ては担当係長の口頭指示で処理されることと「法律による行政の原理」の関係もさることながら、一連の経緯を、生活保護を受ける地位を生活護法に基づいて保障したと読むことはできるのだろうか。むしろそこからあきらかになるのは、立法による解決の必要性を認識しながらも、問題を先送りにし、時代により大きく変化する外国人の状況に、場当たり的に対応してきた姿ではなかったか。 かくして福岡高裁のロジックは最高裁を説得するところとはならなかった。最高裁は、現行の生活保護法が制定された後、現在に至るまでの間、保護の対象を一定の範囲の外国人に拡大するような法改正は行われておらず、保護の規定を外国人に準用する旨の法令も存在しないこと、昭和29年通知は、外国人に対し、生活保護法が適用されず、法律上の保護の対象とならないことを前提にしていることを指摘し、難民条約等に加入した際の経緯を勘案しても、外国人は生活保護法に基づく保護の対象とはならない、としたのである。 形式的には、最高裁の解釈に分があるのは認めざるを得ない。生活保護法が「国民」と規定し、昭和29年通知も外国人は保護の対象ではない旨明示している以上、法令の文言を字句通りに解釈すれば、外国人を生活保護法の保護対象として認める余地はないはずである。 しかしながら、福岡高裁が、「適用」ではなく「準用」、「法的権利」ではなく「法的保護」という語を用いてまで、このような解釈をした趣旨には注意を要する。日本は条約批准等を通じて「外国人に対する生活保護について一定範囲で国際法及び国内公法上の義務を負うことを認めた」(福岡高裁判決)にもかかわらず法改正を怠り続けてきた。現在、外国人に対する生活保護の実態は、日本人のそれに対するものと変わらず、いったん受給が開始された場合の指導・指示に従う義務や、これに従わない場合の保護の廃止(生活保護法27条、62条)、支給された保護費の返還(生活保護法63条)や不正受給に対する制裁(生活保護法78条、刑法246条)も日本人の場合と異ならない。社会的な認識として、支給する側の「権力性」を完全に否定することは困難で、現在の実務は、本来対等な私人間で行われる「贈与契約」(福岡高判の原審である大分地判平成22年10月18日参照)で説明しきれるものではない。 本件の原告(被上告人)は、1932年に日本で出生して以来、日本で教育を受け、日本で結婚し、日本で生活をしてきた女性である。国籍国である中国には一度も行ったことなく、中国語も知らない。そんな彼女が、義弟の暴力によって着の身着のままで自宅を追い出され、いわゆる社会的入院状態にあったことから、自立した生活を送るために生活保護を申請したのである。単に外国人であるというだけの理由で、彼女の生存権に関わる利益を法の保護の枠外におくことは、果たして妥当なのか。福岡高裁判決の不合理や矛盾を指摘することは、さほど困難な作業ではないが、現行生活保護法に、裁判所が苦しい解釈をしてまでも解決しなければならないと考える程の問題点が存在することも、また認識しなければならない。福岡高裁の判断について解釈の限界を超えると批判する者は、こうした現実をどう解決すべきかという問題に答えなければならないのである。 残された課題 最高裁判決により、外国人が生活保護法に基づく保護の対象ではないことは法律上確定した。しかしながら、生活保護法に基づかない行政措置として、外国人を日本人に準じて生活保護の対象としつつ、それを法律上の権利として扱わない現在の構成が、社会権規約2条2項、9条、11条、難民条約23条の規定に適合するか否かについては未だに決着がついていない[*1]。 [*1] なお、国民年金法の国籍条項削除については、自由権規約に関して、規約委員会から、不遡及であることが規約26条の差別禁止規定との関係で不十分であるとの指摘を受けている。「規約第 40 条に基づき締約国から提出された報告書の審査-国際人権(自由権)規約委員会の総括所見」パラグラフ30。 条約批准時の答弁からもあきらかなとおり、社会保障における外国人に対する差別が原則として禁止されること、少なくとも一定範囲の外国人に日本人と同様の生活保護を認めることが条約の要請で、これを剥奪することが条約違反にあたることは、条約批准当時から日本政府によっても認識されていた。しかしながら、支給内容が同等であっても、不服申立の手段がない点は、窓口における違法な生活保護申請拒否がめずらしくない現状では、決して見過ごすことのできない不利益である[*2]。 [*2] 生活保護開始申請の却下を違法とする近時の裁判例として東京高判平成24年7月18日平成23年(行コ)第399号、大阪地判平成25年4月19日平成22年(行ウ)第35号・平成22年(ワ)第3293号、大阪地判平成25年10月31日平成21年(行ウ)第194号など。なお今後外国人については非申請型義務付け訴訟を検討する余地はあろう。 国際人権条約の保障する社会権は、条約批准のみによって直ちに具体的な請求権となるものではなく、2条2項が規定する差別禁止規定が直ちに履行しなければならない即時的義務であるとしても[*3]、在留外国人には出生地、滞在期間の長短、在留資格の有無、日本における生活歴や家族的結合の有無、本国とのつながりまでさまざまな社会的・法的地位があり、いかなる範囲の外国人に生活保護を認めるのかは、立法に委ねなければならない要素が多い。法による保障がなき現状は、平成2年口頭指示がそうであったように、いかにそれが条約違反であったとしても、行政担当者の見解次第で享受していた利益が直ちに剥奪されかねない危険もはらむ。 [*3] 社会権規約委員会は、一般的意見3において「規約は漸進的実現を規定し、利用可能な資源の制限による制約を認めるが、即時の効果をもつさまざまな義務をも課している。……このうちのひとつは、……関連の権利が『差別なく行使される』ことを『保障することを約束する』ことである」とし、さらに一般的意見20でも「無差別は、規約の中でも、即時かつ分野横断的義務である」「国籍という事由は、規約上の権利へのアクセスを妨げるべきでない」としている。なお「開発途上にある国」にのみ、外国人に対する経済的権利の別扱いを認める2条3項も参照 最高裁判決によってあらわになったのは、条約批准等を通じ、外に向かって、あるいは国内の事情に通じない層に対しては、日本国民と外国人の平等原則を掲げながら、外国人が享受すべき生活上の利益を「権利」として構成することを拒み、あくまでも恩恵にとどめようとする、日本社会の姿である。最高裁判決は、問題を最終的に解決するものとはならなかった。わが国の政治部門、さらには社会が取り組むべき課題を示したのである。 (参考文献) 「賃金と社会保障」(旬報社)1561号、1562号掲載の各論文。 社会保障における国籍要件とヨーロッパ人権条約14条の差別禁止の関係については Gaygusuz.v. Austria, 16 September 1966, Reports 1996-Ⅳ 最高裁判決全文については http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/07/post-299.html
永住外国人生活保護訴訟最高裁判決を読む――あらわになった日本社会の姿/山口元一 - SYNODOS
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blogmikimon · 2 years
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鼻うがい2
こんにちは😃
久々の更新になってしまいましたが何をしていたかと言いますと、確定申告です!😭
今年も難しかったー!毎年どんどんweb化されて便利にはなってるんだけど、毎度やり方が違うので戸惑いますねー💦💦
なんとか終わって良かったです… 自分で自分を褒めたいです😭(言い過ぎw)
さてさて、前回は鼻うがいについてのブログで、次回は鼻うがいのメリットを書きます。と予告していたのですが、そのメリットとは “炎症を予防して鬱々とした気分を吹き飛ばす” ってことです✨
鼻うがい自体のメリット(呼吸がしやすくなる、頭がスッキリする、風邪の予防などなど)はあちこちで書かれていると思うので、さらにプラスして心も元気になるんじゃ?ということを書きたいと思います。
これは私が本を読んで実際にやってみて思ったことで、かなり偏った意見かもなので、ご参考程度にお読みいただけたら嬉しいです🙆‍♀️
こう考えるに至ったのは下の3冊を読んだからなのですが、それぞれどの本に載っていたのかも示しながら、箇条書きでまとめてみます。
(最後に※でAmazonのリンクをあげているので、もしご興味わいたらぜひそちらをご覧くださいませ🙏)
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ではではさっそくまとめです↓ (やさしく簡単にと思い、自分の言葉に書き直しているので、もし間違いがあれば教えてくださいませ🙇‍♂️)
・鼻うがいで洗うところ(上咽頭)は体の中と外が直に触れ合う入り口なので、炎症が起こりやすい。※1
・その炎症により鼻以外にも様々な場所に不具合が起きてくる。
これは炎症のあちこちに移動する性質によるもので、鼻の炎症を抑えるBスポット療法により腎臓など身体の慢性的な不調が改善した例がたくさん挙げられています。※1 ※3
・炎症にはありがたい炎症と、ありがたくない炎症があって鼻にはありがたくない炎症もよく起こる。※1 ※2
例)風邪の時に熱が上がって病気をやっつけてくれるのはありがたいけど、自分の関節を攻撃してしまうリウマチはありがたくない🙅‍♀️
・私たちの祖先がサバンナに住んでた頃は、抗生物質はなかったので、炎症の原因の多くは感染だった。※3
・感染症になり炎症が起きると、治療のために体力を温存すべく引きこもりがちになる。※3
・私たちのDNAには自分が生き延びるプログラムの他に、種を保存するプログラムも書かれている。※2 ※3
・炎症が起こると、感染症を他人にうつさない(種の保存)ためにも引きこもりがちになるのかもしれない。※3
・炎症が直接の原因と思われる鬱病のエビデンスが揃ってきており、それに沿った新薬や治療法の研究が進んでいる。※3
ということで、炎症が起きると社交性がなくなるのは、病気を他人にうつさないよう太古からプログラムされたDNAによる、生理反応かもしれない!
鬱の原因のひとつに炎症があるかもしれない!
という画期的な本を読んで、ほぅほぅそうなのかぁと思ったのでした。
この説を書かれているのは、ケンブリッジ大学の精神医学科長のすごい先生なのですが、おそらくみんなが共感できるご自身の体験をあげられていたので、一部引用してみます↓
数年前、奥歯の古い詰め物が腐ってそこから感染し、歯医者に歯根の奥までドリルで穴を開けてもらう羽目になった。
素直に診察椅子に飛び乗り、口を大きく開けたときはすこぶる元気だった。ところが、治療がすべて終わったとたん、家に帰って寝床に入って誰とも口をききたくないと思ったのだ。
そして、家で1人きりになると眠りにつくまで、気づけば死について暗い思いを巡らせていた。
翌朝、目覚めて仕事に出かけたときは、死への思いは消えていた。
ドリルで歯を削られ、歯肉を傷つけられる行為に耐えた後に、少しの間だけ、倦怠感、引きこもり、暗い思考の反芻といった精神症状と行動症状を呈していたのだ。軽いうつ状態だったと言えるだろう。※3
こういうこと、ありますよね。
約束があるのに頭とか関節とかが痛くて、痛み止めを飲んだら痛みはすっかり治ったんだけど、なんだか憂鬱で結局約束を延期してもらったり…
これも炎症による軽いうつなのかなぁとこの本を読んで思いました。
以前、花粉症がひどくて春は東南アジアに移住する。というブロガーさんを見たことがあって、大袈裟だなぁなんて思っていたのですが、呼吸器症状以外に炎症による鬱症状もあったのかもしれませんね!
ま、鬱でなくても花粉症はそれだけでもうめちゃくちゃ辛い… ご飯の味がしないのは悲しいですしね😭 花粉症デビューした今は、ブロガーさんの気持ちもわかります。
鼻うがいが炎症を予防して、炎症による憂鬱な気分ももしかしたら予防してくれるかもしれません💡
グジュグジュの春をなるべく爽やかに、お友達と楽しく過ごすためにも、鼻うがい、頑張りたいですねっ✊
鼻うがいと炎症についてはNHKの番組で放送された内容が、鼻の中の腫れがひいてる写真もあってわかりやすいかなぁと思ったのでリンクしてみます。
こちらの耳鼻科の先生のブログは、慢性炎症を改善するのに近道はなくて “継続は力なり” と書かれています。
調子が悪い時だけでなくいい時もやるのが理想だそうです。鼻うがい、普段からコツコツと。です!水道の近くに置くのがポイントです🙆‍♀️
一緒に頑張りましょうー✊
ではでは、花粉症の皆様お大事になさってくださいませ😭♡
何かご参考になりますように☆彡
お読みいただきありがとうございました🙏
(参考)
※1 堀田 修
よくわかる最新療法 病気が治る鼻うがい健康法 体の不調は慢性上咽頭炎がつくる
※2 アランナ コリン 他2名
あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめた
※3 エドワード ブルモア 他1���
「うつ」は炎症で起きる
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jaguarmen99 · 2 years
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目次の表示・非表示を切り替え 野茂英雄 13の言語版 مصرىDeutschEnglishEsperantoEspañolفارسیSuomiFrançais한국어MalagasyРусский中文Bân-lâm-gú他 4 言語 ページノート 日本語 閲覧編集履歴表示 その他 閲覧編集履歴表示 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: "野茂英雄" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年3月) 野茂 英雄 2011年2月16日 日南市天福球場基本情報国籍 日本出身地 大阪府大阪市港区生年月日 (1968-08-31) 1968年8月31日(54歳)身長体重 6' 2" =約188 cm220 lb =約99.8 kg選手情報投球・打席 右投右打ポジション 投手プロ入り 1989年 ドラフト1位初出場 NPB / 1990年4月10日 MLB / 1995年5月2日最終出場 NPB / 1994年8月24日 MLB / 2008年4月18日経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) 大阪府立成城工業高等学校 新日本製鐵堺 近鉄バファローズ (1990 - 1994) ロサンゼルス・ドジャース (1995 - 1998) ニューヨーク・メッツ (1998) ミルウォーキー・ブルワーズ (1999) デトロイト・タイガース (2000) ボストン・レッドソックス (2001) ロサンゼルス・ドジャース (2002 - 2004) タンパベイ・デビルレイズ (2005) カンザスシティ・ロイヤルズ (2008)国際大会代表チーム 日本五輪 1988年野球殿堂(日本) 殿堂表彰者 選出年 2014年得票率 82.4%(324票中243票)選出方法 競技者表彰 この表について[表示] この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート オリンピック 男子 野球 銀 1988 野球 野茂 英雄(のも ひでお、1968年〈昭和43年〉8月31日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。MLBのサンディエゴ・パドレスでアドバイザーを務める。 概要[編集] 「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産し、日本プロ野球(以下:NPB)とメジャーリーグベースボール(以下:MLB)で活躍した。 NPB時代はパリーグ初の沢村栄治賞を受賞(大阪近鉄バファローズが存在した時代に受賞した唯一の近鉄出身投手でもある)、平成初の投手三冠王を達成、パ・リーグ最多タイ記録となる最多勝利を4回獲得している。 MLB時代にはノーヒットノーランを2回達成、最多奪三振を2回獲得、新人王受賞といういずれもアジア人史上初の偉業を成し遂げている[1][2]。 NPB/MLB通算最多奪三振(3122)記録保持者。 2016年2月からサンディエゴ・パドレスのアドバイザーに就任[3][4][5]。 長男は2015年から2018年まで北海道日本ハムファイターズの球団通訳を務めた野茂貴裕[6][7][8][9]。また、シンレンサイのメンバー、三戸キャップは遠戚にあたる。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 小・中学校時代は全くの無名選手であったが、「体を捻って投げると直球の威力が増す」と理解し、後のトルネード投法の原型となるフォームで投げていた。高校は近大附など名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格となり、大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)に進学する。高校では2年生からエースとなり、1985年7月19日に全国高等学校野球選手権大阪大会2回戦の大阪府立生野高等学校戦で完全試合を達成。3年時はベスト16(5回戦)進出などの成績を残す。高校時代の監督は後年その投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味で「つむじ風投法」と名付けた。 高校卒業時に既にプロから誘いがあったが、新日本製鐵堺へ入社(勤務先は子会社の新日鐵化学の総務部)。新日鐵化学での当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万円ほど。新日鐵堺での1年目にはスライダーを習得できなかったため、最大の武器となるフォークボールを習得。2年目の1988年には都市対抗に出場。1回戦でNTT東京に完投勝ち、2回戦でも延長17回を投げ抜き大昭和製紙にサヨナラ勝ちを飾る。準々決勝は東芝の菊池総と投げ合うが早々に打込まれ敗退[10]。同年のワールドカップ日本代表に選出され、ソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。1989年の都市対抗も準決勝に進出するが、大昭和製紙北海道に敗れる[10]。同年のインターコンチネンタルカップ日本代表となる。 名実共にアマチュアNo.1投手となった進路が注目される中で行われた1989年のNPBドラフトでは史上最多の8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックス・ブレーブス、近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。 近鉄時代[編集] 1990年4月10日の西武ライオンズ戦でプロ初登板。その後勝利の付かない試合が続くが、4月29日のオリックス戦で日本タイ記録(当時)の1試合17奪三振を記録し、完投でプロ初勝利を挙げた。同年は新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった(2010年までに新人王と沢村賞を権藤博・堀内恒夫・上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。ただし木田は、当時の沢村賞の選定がセ・リーグのみだったため受賞対象者ではなかった)。奪三振に関してはシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、三振奪取率10.99(パ・リーグ最高記録)など従来の記録を次々に更新し、「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。 1991年には自身の記録を塗り替える6試合連続2桁奪三振を記録した。オールスターゲームでは第1戦(東京ドーム)に全パの先発投手として登板し、先頭打者の立浪和義をはじめ6奪三振を記録(1990年代の球宴では最多)する。第2戦(広島市民球場)では秋山幸二が自打球で負傷退場し、他に野手がいなかったため、代打で出場。結果は見逃し三振だったが、秋山が既に2ストライクだったため、記録上は秋山の三振。この時オリックスの中嶋聡のヘルメットを被って打席に立った。 1992年も18勝を挙げ、2年連続で最多勝や最多奪三振などのタイトルを獲得した。 1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成(新人からの4年連続最多奪三振は他に江夏豊がいるが、当時はタイトルではなかった)。 1994年は開幕戦の西武戦で4回までに11奪三振、8回まで無安打に抑えたが、9回に先頭の清原にヒットを打たれてノーヒットは途切れた。その後2四球で満塁となったとこで赤堀元之に交代したしたが、この試合前監督の鈴木啓示は「今日は野茂と心中や」とマスコミに発言しておりその言葉を聞いてた赤堀もそれを鵜呑みにしていたこともあり準備不足の中登板し伊東勤に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びて敗戦した[11](野茂も鈴木の言葉を信じていただけにこの降板でモチベーションは下がった[12])。7月1日の西武戦では1試合16与四球の日本記録を作ったが、191球を投げて3失点完投勝利を挙げた。8月に右肩痛のためシーズン途中で戦線を離脱したため8勝、126奪三振に留まり、最多勝と最多奪三振の連続記録も途切れた。 近鉄退団の経緯[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: "野茂英雄" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年11月) 球団との確執[編集] 1994年の契約更改では複数年契約と、団野村を代理人とした代理人交渉制度を希望したが、球団は肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に拒否。この際球団は「君はもう近鉄の顔ではない」と告げたとされている。球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」と楽観視していた。これに対し野茂は「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対してはマスコミも近鉄の意見に同調し、次第に孤立していった。更に球団フロントに対しては後に確執が表面化することになる球団OBの投手出身鈴木啓示に対して鈴木が監督になる以前の仰木彬監督の時代から不満をいだいていたと語っている。 開幕投手であるにも関わらず、球団関係者に本社の人間が来るので車を動かすよう要求された(藤井寺球場には選手専用駐車場が無かった)[13][14]��� 観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため、契約更改の席で「(10.19決戦のように)熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた。 4年連続最多勝のシーズンオフに現状維持の年俸を提示された[15]。 球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、トレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。自由契約にならない限り他球団でのプレーは出来ないためであるが、これがMLBへの挑戦を決意する1つ目の理由となった。代理人団野村は、野茂は当初からメジャー移籍を模索しており、近鉄球団から任意引退を引き出したのは作戦であったと後に明かしている[16]。 監督との確執[編集] もう1つの理由は、仰木の後任である鈴木啓示との確執だった[17]。野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督仰木彬はこれを快諾し[18][19]調整方法も本人に任せたため、野茂は仰木を信頼して尊敬するようになった。これに関してはメジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。更に1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝という実績を挙げた投手出身ということもあってか、フォームや調整法など様々な事に関して干渉した。また選手指導としても厳しい姿勢を見せつけていた。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求していた。立花龍司とのマンツーマン指導で遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと鈴木は「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんや」と持論を押し通した。近鉄投手陣は立花に信頼を寄せていたが、立花が鈴木の冷遇によって1993年に近鉄を退団したため、投手陣の反発を買うこととなった。 監督就任直後、鈴木は道上洋三のラジオ番組への出演時に野茂について「三振は取るが四球が多すぎる。(投球)フォームを改造しなければ」「いまのフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と野茂の制球力の悪さに不満を持ち、完全に野茂のフォームを否定していた。 こうした指導法が元で鈴木と対立するようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。当時野茂とチームメイトだった金村義明は著書「勝てる監督 負けるボス」で、野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という発言を紹介している。 これらの要因が重なった結果、野茂は球団フロントの制止を振り切り近鉄を退団しMLBに挑戦することとなった。自由契約ではなく任意引退扱いなのでNPBに帰った場合、近鉄に保有権があることになった。当時の野球協約68条第2項には「全保留選手は、他の球団と選手契約に関する交渉を行い、または他の球団の為に試合或るいは合同練習等、全ての野球活動をする事は禁止される」 となっていたが、任意引退前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、MLB球団と契約することが可能になった(その後、任意引退による日本人選手の流出に危機感を感じたNPB側が1999年に協約を改正し「外国のいかなるプロフェッショナル野球組織の球団をも含め」という条文を追加したため、現在ではNPBのみならずMLB球団を含め、任意引退した選手は世界各国のプロ野球球団と契約することが出来なくなった)。なお、近鉄は2004年にオリックスと合併したため、保有権はオリックスに移行したと解釈されている。
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shintani24 · 3 days
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2024年9月21日
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スポーツカー「RX―7」と四半世紀 79歳女性が免許返納を決意 愛車は意外な「第二の人生」へ 長崎(長崎新聞)2024年9月21日
身長148センチの小柄な女性が運転席から降りてくると驚きの視線が集まるという。長崎市の主婦、西本尚子さん(79)が四半世紀乗り続ける愛車はマツダのスポーツカー「RX-7」(セブン)。マニュアル車を難なく操る西本さんは、12月に迎える80歳の誕生日を機に免許を返納する予定だ。残り3カ月。“友だち”と過ごす最後の時をかみしめ、きょうもハンドルを握る。
米映画「ワイルドスピード」に登場するなど世界的に知られ、数あるスポーツカーの中でも人気の高いセブン。マツダによると、2002年に製造を終えており、「今は手に入れることが難しい車。しかも、女性オーナーは全国的にも珍しい」と希少性を認める。
「頭文字(イニシャル)D」がきっかけ
車を好きになったきっかけは「思い出せない」が、好きな理由は「スピード感」だと即答。歴代の愛車との思い出を振り返る西本さんの言葉は躍った。
初めて車を買ったのは21歳の時。ボーナス一括払いで、トヨタの「パブリカ」を手に入れた。当時はまだ女性ドライバーが少なかったといい、「車ですれ違うと、通行人が振り返って見ていた。『女が運転してる』って驚いている顔をバックミラーで見るのが楽しみで」。23歳で結婚。子どもが生まれ、しばらくはトヨタのファミリーカー「コロナ」「コロナクーペ」を乗り継いだ。
24年前、自宅で次男とテレビを見ていた時、カーレースをテーマにしたアニメ「頭文字(イニシャル)D」が流れ、そこにセブンが登場。「(直感で)これだ、と」。次男にマツダの車だと教えてもらい、そのまま店へ向かい、銀色に輝く1台を迷わず選んだ。
若者が「いいね」
高速道路でスピードを出すと「道路と車と自分の体が一体化するような感じ」。それがたまらなく気持ちいいと魅力を語る。ただ、5匹のネコの世話や庭いじり、コーラスや朗読の教室にも通い、スマホでの脳トレも日課。毎日忙しく、愛車で走り回る時間はない、と笑う。普段の目的地は、近所のスーパーやドラッグストアがもっぱらだ。
街中を珍しい車が走れば、車好きがほっとくわけもない。愛車をほめられることが何よりうれしく、セブンを通じた日々の出会いに楽しみを感じている。最近、自宅近くの道路で信号待ちをしていると、隣車線に2台の大型バイクが並んだ。若い2人は車体をじっくりと眺め、運転席に向かって親指を立て「いいね」のポーズ。「私もつられて、つい親指立てちゃって」
「路線バスに乗ったことがなくて」
セブンと最後の思い出をつくるため、この春、次男と一緒に県内の桜の名所を巡った。夏には入道雲を目指し、海へ、山へ。「私が好きなのは後ろ姿。羽根(リアウイング)下の丸みが何とも言えないでしょ」。スマホのカメラで愛車のかっこいい姿を撮影。たくさんの写真を見返し、生活を支えてくれた愛車に感謝しつつ、「やり残したことはない」と穏やかに言った。
運転操作への不安はないが「(事故など)何もないうちに」と80歳での免許返納を決断した。この先に待つ新たな日常。「実は路線バスに乗ったことがなくて」と明かし、頭の中では「車のない生活」のシミュレーションも始めた。「駐車場がなくて諦めていた店も結構あって。そんな場所に行くのが楽しみ。友だちと一緒に行こうって、もう約束してるんですよ」
愛車を受け継ぐ人募ると…「最高の結末」
西本さんが大切にしてきた愛車は、製造元のマツダに受け継がれ、「広報車」として“第二の人生”を歩んでいくことになりそうだ。専門メカニックがメンテナンスを担い、「この先もずっと元気に走り続ける」(同社)。西本さんは「これからもたくさんの人に見てもらえる。最高の結末」と喜んだ。現在、買い取りに向け、協議が進んでいる。
先日、地元テレビのニュース番組で西本さんの愛車が特集され、車を受け継いでくれる人を募集したところ、メールが殺到。約400通の中の一通がマツダから届いた「思い」だった。「(もし譲ってもらえれば)『クルマの持つ力でいつまでも元気にいきいきと生きる』という物語で、多くの方々に元気を与えられると思っています」
同社国内商品マーケティング部商品広報チームシニアエキスパートの田中秀昭さんによると、広報車は撮影用にマスコミに貸し出したり、イベントの際に走らせたりする。5年前に当時90歳の女性オーナーから譲り受けたスポーツカー「初代ロードスター」も広報車として活躍しているという。田中さんは「それぞれの車の歴史も紹介しながら車の楽しさを伝えていきたい」と西本さんの思いも大切に受け止めている。
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J1にみるお金と順位 2023年王者の神戸は人件費2位(日本経済新聞 9月22日 編集委員 田中克二 スポーツよもやま話)2024年9月21日に追記
お金をかけないと勝てないけれど、お金をつぎこんでも勝てるとは限らないのがスポーツの難しさであり、面白さだ。経営情報を公開しているJリーグのデータはその現実を教えてくれる。7月末に出そろった2023年度の数字をもとにお金の話で昨季のJ1を振り返った。
チームの強化費に直結するのはトップチームの人件費だ。23年度、この額は浦和が38億6000万円で最多だった。浦和は23年春にあったアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)決勝に勝ち、アジア制覇という偉業を遂げた一方、昨季のJ1は4位だった。
この人件費、浦和が最多になったのは16年以来、7年ぶりのことだった。17年から22年まで6年連続で人件費トップだったのは神戸だ。その6シーズン、リーグ制覇は遠かった神戸なのに、トップチーム人件費が2番手に後退した昨季、初めてJ1王者に輝いた。
といっても神戸のトップチーム人件費は38億円。浦和との差は6000万円だけ、ほぼ同額だ。浦和は23年秋からのACL1次リーグに向けて、より選手層を厚くする必要があった。そこを加味すると23年も事実上、神戸がJ1で勝つために最も強化費を投じたとの見方もできる。これまでの努力がようやく実った末の初戴冠と表現できそうだ。
お金の面でJ1をリードする両クラブの22年からの変化は対照的だ。22年度のトップチーム人件費は神戸の48億3900万円に対し、浦和は28億5300万円。23年、浦和は10億円増やしてACL王者になった一方、神戸は10億円減らしてJ1を制した。神戸は18年から在籍したスペインの名手、イニエスタが23年夏に退団したことも関係したとみられる。
23年のデータをもとに、縦軸に順位(1位が一番上)、横軸にトップチーム人件費の順位(最多チームが一番右)をとってグラフをつくった。
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23年、確かな成果を上げたのは2位横浜Mと3位広島だ。横浜Mのトップチーム人件費は4番手の30億4200万円ながら、23年秋開幕のACLでは1次リーグを突破、24年春の決勝まで進んだ。広島の人件費は10番手の24億3500万円なのに、昨季のJ1では3位だ。
福岡と新潟の健闘も目を引く。トップチーム人件費の順位から実際の順位を引いた値を比べてみると、7位福岡(トップチーム人件費15位)、10位新潟(トップチーム人件費18位)の2チームが最大の「8」だった。
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福岡のトップチーム人件費は16億1100万円だ。J1平均の23億4700万円を大きく下回りながら、昨季はルヴァンカップを制覇、クラブ初のタイトルも手にした。
新潟のトップチーム人件費はJ1勢で唯一10億円を下回る8億8900万円。J2平均の8億600万円に近い数字だ。J2でも10億円を超えたクラブが5つあった中、この資金力で存在感のある戦いをしたことに驚かされる。パスをしっかりつなぐ個性的なスタイルを確立している新潟だからこそ、できたことなのだろう。
「(トップチーム人件費の順位)-(実際の順位)」の値は広島、福岡、新潟の3チーム以外の15チームは「4」以下におさまった。Jリーグは海外のリーグに比べて、上位と下位の力量差が小さいと指摘される。それでも人件費で後れをとったクラブが優勝争いに加わることは容易でない、という現実は数字が物語っている。
投入した資金が順位につながらなかったチームはどこか。23年度、苦戦が目立ったのは16位G大阪(トップチーム人件費6位)と17位柏(トップチーム人件費7位)だ。両チームともJ2降格枠が1つ(18位横浜FC)だったことに救われた形となった。
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収入面を見てみよう。23年度の売上高が50億円以上あったのはJ2の清水を含めて9クラブで、浦和がクラブ史上初めて100億円の大台に乗せた。J1の優勝は1度だけながら(ACLは優勝3度)、他クラブにない確かなものを築き、J1随一のビッグクラブへの道を歩んでいるといえそうだ。
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今季のJ1は22日に第31節を終え、残り7節となる(未消化試合のあるチームは残り8〜9試合)。売上高50億円以上のクラブの中から優勝チームが出るのが順当なはずだし、16年以降は表にあるクラブのどこかがJ1を制してきたが、今年はそうでもなさそうな様相だ。
現時点で神戸、鹿島、G大阪以外の50億円超クラブは首位から遠い。J1初参戦の町田(J2にいた23年度は売上高34億900万円)や、23年度売上高41億9800万円の広島が今季の優勝争いの主役を演じてきた。
町田は23年、トップチーム人件費18億600万円でJ2を制した。果敢に補強を進めるクラブの24年の人件費は「23年の2倍には届かない見通し」(原靖フットボールダイレクター)という。開幕前に掲げた「5位以内」という目標に見合う資金を投じたら期待以上の成果が出ている、というのが現状のようだ。
9月に出版された町田の黒田剛監督の著書「勝つ、ではなく、負けない。」には、クラブの社長であり、親会社のサイバーエージェント社長でもある藤田晋氏と黒田監督の対談も掲載されている。そこで藤田氏はグローバリゼーションの必要性を強調し、以下のように述べている。
「この選手がJリーグにいるから見たいと思われる外国人選手を多く連れてきて活躍させないと世界に売れないです」「世界中から見られるリーグにしていかないといけない」
Jリーグは成長戦略の一環として世界に通じるクラブを生むことを目標に掲げている。そんな心意気を持つクラブの台頭がJ1に良き競争をもたらすことを期待したい。
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yotchan-blog · 11 days
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2024/9/13 8:00:07現在のニュース
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hegotthesun · 1 month
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『龍馬が通る!』
~明治維新と欧米化~
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■2012年6月9日 - 高知にて撮影
■坂本龍馬 - Wikipedia 1836年に坂本龍馬は、土佐藩下級武士の次男(末っ子)として生まれた。子供の頃の龍馬は泣き虫で、周りの友達によくからかわれていたそうな。
12歳の頃、龍馬は塾に通い始めたが、上士の同級生と喧嘩をして喧嘩両成敗という名目で父に塾をやめさせられた。その年に母が亡くなり龍馬は継母の伊与(いよ)に教育を受けた。
家族の中で龍馬と最も仲の良かった三歳年上の姉・乙女(とめ)と、よく二人で「ヨーロッパ」というあだ名を持つ“川島猪三郎”(いさぶろう)の家に遊びに行き、欧州の話を聞かされていたのだとか。
龍馬が姉の勧めで剣術を習い始めると、その天賦を早くも発揮し始めた。
1853(嘉永6)年に、龍馬は18歳より剣術を学ぶ為に江戸に留学。その時、偶然にもアメリカ合衆国より艦隊を率いたマシュー・ペリー提督の黒船が来航し、藩の命令で品川の警備を命じられた龍馬もそれを間近に見る機会があったのだ。
黒船のあまりの大きさに龍馬は慄きながら、同時に「日本の剣術では海外とは渡り合えない」と即座に覚り、龍馬は西洋式の技術を学ぶことを決意した。
江戸時代の町人は「江戸が最も文明の発達した国」と考えていた。しかし、この黒船来航により、西洋の文明が予想以上に進んでいると流石に気付くことになった。
ペリー提督が提出した開国の要求書は「漢文」「オランダ語」「英語」の三種類で書かれた���ので、貿易で馴染みのある漢文とオランダ語に関しては解読できたが、当時の日本人にとって英語だけは見慣れない文字だったようだ。
ちなみに「オルゴール」はオランダ語(英語ではミュージック・ボックス)だが、これは鎖国時代もオランダから来る商船は受け入れていたため、江戸にオルゴールが持ち込まれた際そのままオランダ語で定着したもの。
また、鎖国の背景にはオランダが日本貿易を独占するため、スペインやポルトガル等の《カトリック教》の国が日本植民地化の意図を持っており、危険であることを徳川幕府に助言していた事情もあるようだ。
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▲「キリスト教を信仰しない異教徒は野蛮」として先住民を大量虐殺するスペイン軍
戦国時代の時点で日本はヨーロッパ全土の火縄銃を上回る数の銃を保持する残虐非道な戦闘部族という評判もあり、当時は「太陽の沈まない国」と呼ばれ、世界全土を次々に植民地支配して君臨したスペインさえも警戒して日本侵攻に至らなかったのだろう。
そうして、今の幕府では日本を護れないと考えた龍馬は「打倒、江戸幕府」を掲げ奔走することになる。
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安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国。在郷中、日根野道場の師範代を務めながらも、絵師“河田小龍”宅を訪れて国際情勢について学び、海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる“近藤長次郎”や“長岡謙吉”らを紹介されている。
27歳で脱藩した後に幕臣・勝海舟を訪ね、海軍を作ってアジア諸国と連帯するという話を聞いた龍馬は、そのスケールの大きさに感激し、海舟の弟子となって神戸海軍操練所の創設の為に行動を起こした。
その後、1864年以降に何度か長崎を訪れ、慶応元年(1865年)に幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩や商人(長崎商人小曽根家など)の援助を得て、長崎の亀山に日本初の会社となる「亀山社中」が結成された。
ちなみに"西郷隆盛"の勧めにより日本で初めて新婚旅行をしたのは坂本龍馬だが、その時の出来事をイラストも交えて手紙に書いて姉の乙女に送り続けたらしく、連絡がマメな龍馬の手紙は実に130通以上も残っているという。いやはや、驚愕である……。
ところで1841年にアメリカ合衆国を目指して航海中だった"ジョン万次郎"は、生まれて初めて世界地図を見た時に、世界における日本の小ささに驚いたという。
このように大きく広い世界の中の「小さな自分」に気付くことは、客観的に自己認識することに直結する。世界地図による世界認識の拡大=地理教育は、人々の視野を広げ、人を積極的な思考に変える力を持つのだろう。
ちなみに坂本龍馬の逸話として、初めて世界地図を見せられた時に「日本はどれだと思う?」と問われ「これが日本じゃろう!」とアメリカ大陸を指さしたという話がある。 黒船来航の前にペリーは琉球王国と交流し、江戸幕府の情報を収集しており、それにより江戸との開国交渉に至った。当時は鎖国していた江戸と異なり、琉球王国は長崎や神戸と同様に欧米・日本・中国・韓国・東南アジア等を相手に貿易を行う東洋経済の中枢だったのだとか。
ある日、坂本龍馬は「土佐の海が世界に通じていると思うと愉快ぜよ」と語ったという。
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欧米化について
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日本の近代化、つまり西洋化は「明治維新」より本格的に始まりました。
西洋化の手始めに、まずはヨーロッパ(特にドイツとイギリス)の言語、及び学問が片っ端から翻訳されましたが、現代の日本において馴染みのある「技術水準(technical level)」「概念(concept)」「哲学(philosophy)」「芸術(art)」「愛(love)」「変態(abnormal)」等の単語は、当時の日本語に該当する語彙がなく、この翻訳過程で新たに作られた語句でありました。
夏目漱石は英語、森鴎外はドイツ語の翻訳に貢献しました。
当初の日本では病院のカルテはドイツ医学に則り、ドイツ語で書かれていたのは有名でしょう。
たとえば「技芸」や「恋」等の単語は江戸時代の日本にもあ��たようですが、「芸術(art)」や「愛(love)」は本来の日本語にはなかった語彙なので、上辺だけは理解したふりをできたとしても、これらの概念や価値観が日本男児にとって根深く馴染まない根本的な理由が、遺伝子と文化的な要因にあると解釈できるのではないでしょうか。
明治維新以降、日本政府は先進国(白人の国々)の技術水準に比肩したいがために西洋化を推し進めてきましたが、「アキレスと亀」という詭弁があるように、追い続けるだけではどこまで行っても追い抜くことはできないと慮る次第であります。
medicine (西洋)医学 physics 物理学 philosophy 哲学 geography 地理学 psychology 心理学 economics 経済学 politics 政治学 mathematics 数学 chemistry 化学 biology 生物学 astronomy 天文学 ethics 倫理学 archeology 考古学 linguistics 言語学
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森鴎外
"森鴎外"は、夏目漱石と並び「明治の二大文豪」と称される作家です。ドイツ語の翻訳家としても活躍し、西洋文化を感じられる作品を手掛けました。
当時の日本社会や思想を客観的に描写した物語も多くあり、見識の広い森鷗外ならではといえます。
森鴎外がドイツ留学の実体験をもとに書いた日本人留学生とドイツ人女性の非恋『舞姫』は森鷗外の代表作です。
森鷗外の作品は古文で書かれたものが多く、さらに文中にフランス語やドイツ語が織り交ぜられるなど、格調高い文体が特徴。
西洋文化を取り入れた言葉や文体は、後の多くの作家に影響を与えました。
夏目漱石『吾輩は猫である』
日本の教員・小説家・英文学者"夏目漱石"の著書「吾輩は猫である」読了後、どうしても腑に落ちなかった点があります。
それは主人公の吾輩君が最後は酩酊して水瓶に落ちて溺死することに他なりません。
『吾輩は猫である』は、明治維新以降の急速に西洋化する日本を猫の視点から描いた風刺・滑稽噺ですが、それにしてもこの終わり方は死を美化する日本文化の象徴とも言えなくもありません。
また、私が二十代の頃に読んだドストエフスキーと比較して、日本文学はロシア文学より劣っているのではないかと落胆したこともありました。
しかしながら夏目漱石が三十代の頃に国費で英国留学したものの人種差別に遭い、己の醜さから鬱になり自室に引きこもっていたら、「外に出て自転車にでも乗ったらどうだ」と勧められて自転車に乗る猛特訓をしたのに、結局は乗れなかったという訳の分からない滑稽なエピソードを読んで、どうしても夏目漱石を嫌いになれず、吾輩君の死も無駄には思えなくなりました。
きっと吾輩君は読者諸君の心の中で生き続けているのである。
それはさておき、推奨されるがままに始めた自転車の猛特訓中に"英国紳士"から「チン・チン・チャイナマン!」と侮辱された夏目漱石も、日本に居た頃は自他共に認めるほど容姿がいい部類だとされながらも英国の街を歩いた際に「背の低くて醜い奴が歩いていると思ったら、硝子窓に映った自分の姿で落胆した」とのこと。
それでも"英国淑女"からは「ハンサム・ジャップ。ご一緒にサイクリングでもいかがかしら?」と誘われたので、「怒るべきか喜ぶべきか悩んだ」と悲痛な葛藤を手記に残していたそうな。
日本の英文学者で初めて英国に渡航した上で、有色人種に対する人種差別を体験した夏目漱石ですが、江戸時代末期に生まれた上役達には、このような人権にかかわる諸問題についての理解は当然ながら及ばなかったのだと慮る次第であります。
ちなみにスマホや腕時計もない明治以前の日本人にとって、例えば「2時集合」とは「大体2時~3時までの間に集合しよう」というウチナーのような寛容なニュアンスでしたが、鉄道の運用が開始されてから新聞などで大々的に「文明社会にとって時間の厳守は重要」と宣伝され、そうして現代の「5分前集合」が浸透したようです。
「おはよう」と「さようなら」の語源
「おはよう」の語源は、「今日もお早うございます」の略なのは有名です。
海外で最も有名な日本語の「さようなら」の語源は、「左様ならば、これにて御免」というお侍さまの別れの挨拶の略です。
今もなお、お侍さまの語感が残されるとは、まさに《武士道》の本場だからだといえるでしょう。
ちなみに"I Love You"を中国語で言うと、英文法と品詞の並びが一致する"我爱你"(ウォー・アイ・ニー)になるようですが、日本語だと“私はあなたを愛してる”と非常に多くの文字数を消耗するので140文字以内に収めるのも困難かと慮る次第です。
いずれにしても、中国の"爱"には心がありませんが、日本の"愛"には友がおりません。
ステレオタイプの欧米のように、"愛と友"に恵まれないものでしょうか……?
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「です」の変遷
◆江戸時代からあった助動詞「-でござる」「-でござります」は次第に「-でございます」に変化し、さらに明治時代に「-であります」から「-である」に縮まり、そうして現代の「-です」に落ち着きました。
一人称の「吾輩」は「私」のへりくだった言い方。 明治時代から活用され始めた「-である」は「-であります」の略。
つまり「吾輩は猫である」を現代風に書くと「わたくしめは猫であります」というへりくだった言葉使いになります。
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芥川龍之介『あばばばば』
大正時代の文豪"芥川龍之介"著『あばばばば』という短編があります。この小説を読んで、情緒を感じて芥川龍之介を見直した思い出があります。
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ある日のこと、学生の保吉は行きつけの煙草屋に足を運びました。ところがいつもの店主の親父の姿はなく、代わりに若い女が店番をしていました。 不慣れなのか彼女は恥ずかし気な初々しい接客で、注文とは違う煙草を取り出して赤面してしまうほどでした。 その後いつ行っても彼女が店番でしたが、応対はつかえ、品物は間違え、時々赤い顔をされました。しかし、保吉はだんだん彼女に好意を感じたようです。といっても恋愛感情ではなく、いかにも人なれないところに気軽いなつかしみを感じたとのこと。 ところがある日から突然、彼女が姿をくらまします。わざわざ不愛想な店主の親父に行方を尋ねるわけにもいかず、その後は何事もなく過ごしました。 それからさらに歳月の流れた後、大学の授業(英語講演会)のあと煙草屋の前を通ると、両手に赤子を抱えた若い母親がいました。 「あばばばばばば、ばあ!」 現代でいうところの「いない、いない、ばあ!」の意です。 女は店の前を歩き、面白そうに赤子をあやしています。そうして保吉と目が合いました。保吉は赤面する彼女を想像しましたが、しかし彼女は澄ましたままでした。のみならず、揺り上げた赤子に目を移すと、人前も恥じずに繰り返し「あばばばば」とあやしたのです。 「女はもう『あの女』ではない。度胸の好い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、恐ろしい『母』の一人である」
そういえば、子供の頃に常連だった個人サイトのチャットでよく「あばばばばば!」と書くお調子者がいましたが、元ネタが芥川龍之介だと気付くのに十数年ほどかかりました。
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作家を大きく分けると、毎回異なる性質の登場人物が多種多様な物語を繰り広げるシェイク・スピアタイプと、毎回同じような登場人物が同じような問題に直面して一つの題材を深く掘り下げて行くドストエフスキータイプに大別できるようです。
ドストエフスキー著  『カラマーゾフの兄弟』
『カラマーゾフの兄弟』◆あらすじ ある日の朝、修道院の見習い僧侶"アリョーシャ"(アレクセイのあだ名)のもとに、14歳の"リーズ"(リーザ)という車椅子の少女が訪れました。リーズはここ最近に病を患い車椅子に乗っていますが、修道院の長老から治療を受けて順調に快復に向かっていました。 アリョーシャは子守りとして、二年前にリーズと接したので久しぶりの再会でもありました。 再会 リーズは事実、ずっと悪戯に夢中だった。彼女はアリョーシャと顔を合わせた時から、彼が自分を見るとひどくどぎまぎし、なるべく目を合わせないようにしているのに気付いた。彼女はそれが面白くて、相手の視線をとらえようとじっと身構えていた。 するとアリョーシャは、自分にそそがれる視線に堪えきれなくなり、自分��らふいにリーズにちらりと目���やると、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、彼の方をまっすぐ視線を向けてくるのだった。 アリョーシャは、またどぎまぎして、ついにリーズからすっかり顔をそむけて修道院の長老のうしろに隠れた。しばらくして自分を見ているのか確かめると、彼女は車椅子から身を乗り出すようにして、こちらを振り返るのを一心に待ち受けているのがわかった。そうしてアリョーシャの視線をとらえるとまた大声で笑った。 それを見た長老がリーズを注意すると、彼女は顔を赤らめ、きらりと目を輝かせ、真面目な顔つきになった。そして今度は熱っぽい訴えをこめて、早口で話し始めた。 「どうしてアリョーシャはぜんぶ忘れちゃったの? 前は小さなあたしを抱っこしてくれたり、一緒に遊んでくれたりしたのに。だって、あたしに読み書きを教えてくれたのはアリョーシャよ。二年前にさようならをした時に、アリョーシャは『ぼくたちは永遠の友だちだよ。永遠の友だちだからね。ぜったいに忘れないから』って言ってくれたわ。なのにあの人、今になって急にあたしのこと怖がり出して。あたしがあなたのこと、取って食べちゃうとでも思ってるのかしら? どうしてそばに寄ってくれないの、どうしてお話してくれないの? どうしてうちに来たがらないのかしら」 リーズはこらえきれなくなって顔を手で覆うと、急にはげしく笑い出した。長老が話を聞き終えると優しさをこめて十字を切った。 すると今度は彼女がいきなり泣き崩れたのだった。 リーズの手紙 その日の夜に、アリョーシャが道中でリーズの母の使者から手渡された封筒を開くと、そこには「リーズ」と署名のある手紙が入っていた。 「アレクセイさま。誰にも内緒でこの手紙を書いています。ママにも、わたしの心に生まれたこの気持ちを告げずに、わたしもわかっているつもりです。でも、わたしの心に生まれたこの気持ちを告げずに、わたしはもう生きられないんです。このことはわたしたち二人以外は、その時期が来るまで誰にも知られてはいけません。でもわたしの気持ち、どうやってあなたにお伝えしたらいいでしょう? 便箋は赤くならないって言いますよね。でも本当を言うと、それって嘘なんです。便箋だって、わたしと本当に同じように赤くなるんです。 大好きなアリョーシャ、あ��たを愛しています。小さい時から、ずっと好きでした。あなたが今とはまるで違っていたモスクワ時代から、ずっと好きでした。わたし、あなたを心の友って決めたんです。あなたと一緒になって、年を取って、一生を伴に終えると。もちろん、修道院から出ていただくことが条件ですわ。年齢のことを言うと、わたしたち、法律で許される時まで待ちましょう。それまでにわたしも必ずよくなって、ちゃんと歩けるようになるし、ダンスもできるようになります。そんなこと当然ですよね。これでわたしがずっと何を考えていたかおわかりになったでしょう。ただ一つだけ、わからないことがあります。この手紙を読んだら、あなたはわたしのことをどう思うのかしら。わたしはいつも笑ったり、ふざけてばかりいるんですもの。今朝もあなたを怒らせたでしょう。でも本当を言うと、こうしてペンを執る前に、わたし聖母さまの像にお祈りしたんです。そして今もお祈りをしながら、ほとんど泣き出しそうなんです。 わたしの秘密はもうあなたの手に握られてしまいました。明日おいでになった時、どんなふうにあなたにお目にかかったらよいか、わたしにはわかりません。アレクセイさま、わたしまた馬鹿みたいに自分が抑えられなくなって、今朝みたいにあなたを見つめるうちに、吹き出したりしたらどうしよう。だってあなたはわたしのことを、いやらしい冷やかし屋って思うでしょうし、この手紙だってまともには受け取ってくださらないでしょう���ら。ですからお願いがあるんです。もしこのわたしをかわいそうって思ってくださるなら、明日わたしの家にいらっしゃった時、どうかわたしの目をあまり見つめないでください。だってわたし、あなたと目が合ったらぜったいに笑い出してしまうし、おまけにあなたはあんなに長い服を着ているし……今でもそのことを考えると、体が冷たくなってしまうくらいなの。ですから家に入ってくる時は、わたしのことはしばらく見ないでくださいね。ママか窓の方を見てくださいね。 わたしとうとうラブレターを書いてしまいました。ああ、なんてことをしてしまったのかしら! アリョーシャ、どうか軽蔑しないでくださいね。何かひどく馬鹿なことをしてあなたを怒らせても、どうか許してくださいね。こうしてわたしの秘密はあなたに握られてしまったのです。わたしの評判は、もしかしたら永久に地に落ちてしまったのかもしれません。わたし、今日はずっと泣いてしまうでしょう。さようなら、次のおそろしい出会いまで。 P.S. アレクセイ、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに来てくださいね! リーズより」
あとがき
その後、アリョーシャとリーズがどうなったのかは、各自でドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』を読むか、グーグル検索をしてご確認くださいませ。
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自己実現や己の幸の為もあれば、自己犠牲を冒してまで目的を成す為に時間・労力・生命を捧げる者も居ます。人は生まれた瞬間から死を迎えることが確定しています。どれほどの富や名声を得ても最期を迎えれば遺産相続者が居なければ「財産はすべて銀行の資産」となります。
誰もが"エジソン"並みの発明王である必要はないし、"レオナル・ド・ダヴィンチ"ほどの叡智が必要な訳でもありません。誰か一人が発見して突破口を拓けば後続が可能なのだと思います。
どこかには人々を導く為に生まれた者も居るのでしょう。
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■2012年6月9日 - 高知にて撮影
《和》の中に《個》はあるから、どちらか一方を尊重するべきか独断は出来ません。
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nyantria · 2 months
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陰謀論
2024年8月9日 by Lars Meler
Edwin
他人の行動や表明された、あるいは推測された動機に注意を払うことは、集団生活において生存に値する。しかし、それが乱暴に誇張され、他者に対する根拠のない不信感によって煽られるなら、パラノイアである。(重度の)被害妄想は狂気である。そして狂気の場合、判断力が損なわれる。
では、ヨーロッパへの第三世界からの移民が、言論の自由、議会主義、法の支配を含む、われわれが知っている西洋文明の終焉をもたらすための秘密工作であるという視点に賛同する人はいるのだろうか?そして、キリスト教を根絶し、イスラム教をその代わりに据えるというマスタープランは考えられるだろうか?
あるいは、陰謀論は嘲笑によって否定することを意図したあざとい主張だと考えることもできる。冷戦時代には、未来は進歩的前衛(とソビエト帝国または中華帝国)のものだと確信していた左翼知識人の間で、共産主義の全体主義に警告を発する人々を嘲笑することが好んで行われた。
それ以来、(オーストリア出身の哲学者カール・R・ポパーが定義した)「開かれた社会」に共産主義者が広く浸透しているという疑念は十分に根拠のあるものであり、芸術界、教育制度、公務員における日々の優先順位に影響を及ぼしていたことがわかった。典型的な知的優越感をもって行われる嘲笑は、全体主義への反対、つまり自由の声を封じ込めるためのものだった。すでに外敵と手を結んでいる者たち(例えば共産党の党員)は、理想主義的な純朴さと正義の憤りを装うが、内心は冷笑的であり、開かれた社会を破壊する破壊活動が、広範囲ではないにせよ、どれほど集中的なものであるかは十分すぎるほど承知していた。
第二次世界大戦後、西ヨーロッパには外国人が押し寄せた。大陸の一番外側を見違えるほど変貌させた巨大な人口移動の人的要因となった彼らは、波状的に流入してきた。もともとは、政治的独立を果たそうとしていたヨーロッパの植民地から生まれた人々である。アフリカやアジアからやってきた人々のなかには、単にかつての臣民に与えられた植民地支配後の特権によるものもある。文化的統合の見込みがどうであれ、世界で最も遠い場所から来た人々は、大規模な社会実験の一環として快く受け入れられ、帰化を勧められた。
根深い部族主義的感情、経済的優遇、暴力的迫害の犠牲者は、旧植民地支配者に避難しなければならなかった。しかし徐々に、移民は別の形態をとるようになった。
1960年代、アナトリアの恵まれない地域から村人たちが西ヨーロッパ各地の政府によって輸入され、産業における非熟練労働に従事した。当時は経済が活況を呈しており、労働力に対する需要もそれに比例して逼迫していた。大量移民の第二波をもたらした外国人求職者たちは、素朴に "ゲスト・ワーカー "と呼ばれた。この呼称が暗示するように、彼らは村に家を建てるだけの資金を貯めたら祖国に帰ることになっていた。
しかし、西側諸国は自らの "寛容の罠 "にはまった。軽率な楽観主義を特徴とする当時の政治家たちは、自分たちの決定が長期的にどのような結果をもたらすかを理解できなかった。アナトリアの労働者たちは故郷に帰る代わりに、大家族を連れてきた。この点については、産業の一時的なニーズに対応するために自由化された法律によって許可され、彼らは「家族の再統合」などを申請した。
西側諸国の政府によって奨励されたわけではないにせよ、異質な共同体、いわゆる「飛び地」は、急成長するディアスポラの橋頭堡となった。その多くは、信仰と自由に対して不寛容な第三世界からの移住者たちであり、彼らの出現は、「過渡的社会」、すなわち、(a)滅びゆくキリスト教、(b)革命的イデオロギー(社会主義やイスラム主義など)に対するヒューマニズムの最終的な敗北、(c)社会的激変を特徴とする不安定な歴史的実体への共同参入を意味した。
アラブの石油国家の専制的な政府が、アジア人を家事奴隷のような条件で雇っているのとは異なり、ヨーロッパ人は「ゲスト労働者」を自由に処分できないことが証明されている。いったんヨーロッパに定住すれば、外国人は生粋のヨーロッパ人と同じ権利を享受できる。だから、彼らは滞在するようになったのだ。
1980年代、移民の第三の波が西ヨーロッパに押し寄せた。かつての植民地大国だけでなく、西側諸国全般が、国境で「亡命」を主張する者を受け入れることで、過去の不正義(すなわち人種差別主義、植民地主義)を発展途上国に償うことを期待されたようだ。おそらく政治的な懺悔(と罪悪感)の表れであろう、このジェスチャーは西側諸国特有のものだった。
狡猾で気まぐれな暴君の典型であるムアンマル・カダフィは、キリスト教の古くからの拠点(そして中東やアフリ���で迫害されているキリスト教徒の避難所)であるヨーロッパは、いずれイスラム教徒に征服されるだろうと予言した。2006年4月10日にティンブクトゥで行われた演説で、彼はこの問題を次のように要約した:
「ヨーロッパには5千万人のイスラム教徒がいます。剣も銃も軍事征服もなく、アッラーがヨーロッパでイスラムに勝利をもたらす兆しがある。ヨーロッパの5千万人のムスリムは、数十年以内にヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう。アッラーはトルコというイスラム国家を動員し、EUに加える。これでまた5千万人のイスラム教徒が増える。ヨーロッパには1億人のイスラム教徒がいることになる。イスラム教国のアルバニアはすでにEUに加盟している。イスラム教国のボスニアはすでにEUに加盟している。国民の50%がイスラム教徒だ。ヨーロッパは苦境に立たされている。」
時間は紛れもなくイスラム主義者のために働いている。ヨーロッパ中のイマームたちは、歴史的な特権である二枚舌(「タキーヤ」の概念を参照)で話しながら、日常的にホスト国のいわゆる「開国」(すなわち征服)を祝福し合っている。彼らは「進歩的エリート」(黒い戦闘服に身を包んだ議会外のストームトルーパーは言うまでもない)の狂信的な支持を当てにすることができ、社会に対する信徒の忠誠を厳粛に保証することができる公共の議論において、伝統的な犠牲者の役割を引き受ける一方で、彼らはアラビア語、ウルドゥー語、ペルシャ語で、西洋の弱点と差し迫った没落について仲間の信者に指導する。
まともな神経の持ち主であれば、国境に出頭してきた一人一人が陰謀に加担していると疑うことはないだろう。移民は、自分たちの生活環境を改善するためなら、あらゆるものを捨ててでも別れ、犠牲にすることを厭わない。結局のところ、「より緑豊かな牧草地」を求めて外へ出ようとする衝動は、人間の根源的なものなのだ。しかし、人身売買業者の手によって、多くの移民が命がけでヨーロッパを目指している。だから正直なところ、小柄なティーンエイジャーも、妊娠中の母親も、ぽっちゃりしたほっぺの幼児も、犯罪の疑いがあるわけではない。
少数派になりつつある非西洋人は、遅かれ早かれ(民主的な能力を持つ)多数派となり、近隣や都市全体を占拠し、抗しがたい権力基盤を構成する。そして、宗教的なひねりを加えた公民権運動家(すなわち「社会的不公正」や「人種差別」に反対する運動)を装う者も含め、外国人の支配の拡大に熱心な人々の多くは、それを利用する用意がある。彼らは一般的な妬みや不信を煽ることをためらわない。社会の分裂は、彼らが支配権を得る究極のチャンスなのだ。対立と混乱を好む彼らは、真の陰謀家として振る舞う。
しかし、エイリアンの陰謀は、日和見主義的なもので、いわば「二次的なもの」にすぎない。したがって、はるかに憂慮すべき別の陰謀が存在する。権力のために自分の家庭や家族を無慈悲に犠牲にするヨーロッパの進歩主義者たちの意欲を中心に展開する、これが「第一の」陰謀である。この陰謀の本質は、世間知らずの域をはるかに超えている。強力な政治家と意思決定者が関与しているのだ。
1997年5月の総選挙と政権交代の後、地滑り的勝利で勢いづき、長期的な成功計画を立てる準備が整ったイギリス新労働党の指導部は、第三世界の大衆に門戸を開き、それによって有権者の構成--そして政治的気質--を永久に変えようと決めた。党中央顧問のアンドリュー・ニーザーはその後、指導部が(明白な理由で)国民に秘密にしていたこの運命的な政策は、「......右派の多様性を鼻にかける」ために明確に考案されたものだったと明らかにした。
つまり、英国の民族構成を変えるという戦略的な目的だったのだ。指導部はその見返りとして、党に対する無限の大衆(つまり外国人)の支持を期待した。そのような背信的な計算があったのだ。それ以来、元ビジネス担当国務長官のマンデルソン卿は以下のように告白しており、その罪深さは天に泣いている:
2004年、私たちはこの国に働きに来る人々を歓迎するだけでなく、捜索隊を派遣していた。
権力を維持するために自国を売り渡す!何世紀もかけて築き上げてきた高信頼社会が解体されようとしている。反対側には無政府状態が待っている。- ホワイトホールの責任者たちの名が、悪名高きものとなりますように。
Conspiracy Theories - Edwin’s Newsletter #1
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bearbench-3bun4 · 2 months
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「虚無への供物」中井英夫 2241
第二章
24好ましくない容疑者(亜利夫の日記1)01
二月七日(月曜)、 殺人があった翌日のことです。 この節は、亜利夫の日記ということになっています。
つまりここに書かれていることは、 すべて、亜利夫の目線ということになるのしょう。
亜利夫は、会社を休みます。 午後から目白の氷沼家へ行き、お通夜やあすの葬式の準備を手伝うつもりです。
ところで、奈々からハガキで、流行りのインフルエンザで寝込んでいると知らせてきました。 1951年から官報において“インフルエンザ”を公式の用語として使用する事が決まっています。 1957年には、俗に「アジア風邪」と言われたインフルエンザのパンデミックがおきてます。 これを考えるとただの風邪も、“インフルエンザ”と言ってたのかも知れません。 亜利夫も、奈々の見舞いに行こうかと考えているくらいですから、十分ありえますね。
亜利夫は、一旦目白に連絡して状況を確認しますが、特に進展はないようです。
その後、とりあえず日記を書くことにします。
・真名子刑事は三十がらみの手首にまで剛毛の密生したような男。 ・鑑識係か監察医は、事実だけを丹念に調べその事実の積み重ねの上に結論を出す。 ・嶺田医師からは事前に廻ってきた。 ・蒼司君から前夜の状況やわれわれの関係を聞き取る。
で、現場の状況です。
・台所のメータコックから天井裏へ這い上がる二階へのガス管は、化粧室と書庫と書斎の三か所にだけつながっている。 ・化粧室のは富士A3号とかいうガス湯沸かし器につながっていて、これの導火用の焔が消えてしまっていた。 →お湯を使う場所でお湯を作るのが「湯沸器」です。代表的な例が台所などに設置する小型湯沸器です。残念ながら探しても出てきませんでした。 富士1号湯沸器 【昭和初期】が見つかりましたから、この系列なんでしょうね。
・化粧室のは書斎のストーブと同じく十二時に階下で元を締めたため消され二時半にまた開かれたためと思われる。 →書斎のストーブと同じだといってますが、ガス湯沸かし器もずっと使っていたということなんでしょうか?だから、元を締めたあと、また開かれてガスが充満することになった? ・書庫は北西の隅にカランがでていていまはカランの口にもゴムのキャップを冠せて塞いだなり久しく用いられていない。 →書庫はガス臭くなっていなかったのだから、これはうなずけます。 ・問題の書斎では書庫側のドアに近く家庭用3/8吋というカランが頭をだしそこからまだ新しいゴム管で大型のガスストーブに接続していた。 →大型のガスストーブって、どのくらいの大きさなんでしょう?一人で抱えられるくらいなんでしょうね。 ・このストーブは紫司郎氏の代から使っている古風な型のもので台の上には一二本の新しく擦られたマッチの燃えさしが転がっていた。 ・(憶測)橙二郎氏は十一時にこの書斎に引き取って、ストーブをつけて、うとうとしてついそのまま寝込んでしまったという状況である。 ・これは、常用のブロムラール系の睡眠薬を飲んだ形跡があって、パジャマに着替えていることから推察する。 この睡眠薬は、1908年ドイツのクノール社でブロムラールの商品名で初めて発売され、日本ではブロバリンやカルモチンの商品名で使用されたらしいです。
刑事が、書斎の元栓を確認しますが、 やはり一階の台所のメータコックを開けてしまったことが原因だろうと考えているみたいです。 それで、メータコックを開閉した時間と人名だけを刑事はききとります。
続いて、刑事は今度は戸締りの方を調べ始めます。 はっきり書いてないのですが、蒼司を中心に聞き取りや確認をしているみたいです。 ナイトラッチもさしてあったので、階段側のドアの合鍵は使かっても意味がない。 そこで書庫のドアから入ろうとして、その途中で、洗面所もガスが漏れていると気づいたと。
ここまでで、亜利夫は舞台奇術のことを思い浮かべ、 書斎に書庫から入ったことに、奇術と同じでなにかの意図が有るのではと考えます。 まあ、答えは出ないんですけど。
書庫の中で刑事は北に向いた窓が長い間と閉ざされたのを確認します。 蒼司は書庫側のドアを合鍵で開けた顛末をもう一度実演して見せます。 で、皆で書斎に入ってみると、亜利夫が見かけた赤い上衣の人形がありません。
紅司が死んだときには、紅い毬が現れ、 橙二郎が死んだときには、赤い上衣の人形が消えた。 蒼司や藍ちゃんに聞いてみてもつれない感じです。 これが、後々どう影響してくるのかチェックですね。
一通り調べた刑事は、誰でも気なるであろう“密室殺人”ということよりも、 どうして、こうまで念入りにドアも窓も鍵と鉄格子に護られていたのかと、そちらの方を気にしています。 誰かに襲われることを怖れていたためではないかと、聞きます。
それに、蒼司が書庫側のドアは前から締め切りになっていた。 窓の鉄格子は祖父の代からの盗難除け、戸棚に並んでいる薬物や毒や劇薬も扱うため留守にするときはドアに鍵をおろしている。 それが習慣になっていたのではないかと答えて、納得するみたいです。
その後、刑事は個人個人に話を聞きます。 最初に、蒼司、次は、亜利夫でした。
昔の“青の���屋”、今は、藍ちゃんの部屋に入ってみるとひとり煙草をもてあそびながら真名子刑事が待っていました。
一人で待ってるんですね。 何となく、刑事さんは二人で行動するのかと思ってました。
亜利夫は、刑事の問に、ゆうべの親族会議から麻雀の経過、橙二郎氏が二階へ引き取った前後の様子など、 あまり詳しく覚えすぎていると思われない程度にぼつぼつと答えます。
と、刑事が急に、紅司の死について問いかけます。 亜利夫は、顔が硬張りながらも、その時の状況を答えます。 ただ、氷沼家はアイヌの蛇神の祟りをうけているとか黒月の呪い、薔薇のお告げだという話はしません。 現実的な利害関係を確認したかったのでしょう。
今まで読んできたこと内容は変わってないような気がします。
現実に、八田皓吉などは家の売買に絡んでしつこく聞かれたらしいが、氷沼家に関する限りまず何も出てくる望みはないと思う。
密室内の死という点からだけでも他殺は不可能で、自殺も無いとすると、 動かしてはならぬメータコックをあけたてしたために起こった不慮の災難ということになる。
で、 亜利夫はこの事件が紛れもない他殺であり真犯人が自在にこの密室へ出入りした証拠を見つけ出さなければ、 ぼくが殺人者となるとしています。
まあ、事故では小説になりませんから、他殺なんでしょうけど、この完璧な密室をどう破るのか楽しみです。 それにしても、化粧室のガスの説明が無いのが気になりますね。
つづく
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ari0921 · 7 months
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<正論>自虐教育は日本の没落を招く 
麗澤大学特別教授、元空将・織田邦男
「汚染水」「強制連行」
報道によると日本教職員組合(日教組)が開催した教育研究全国集会(教研集会)で、東京電力福島第1原発から放出される処理水を「汚染水」とした教材を使用した授業例が発表されたという。「日本の資源・エネルギーと電力」と題する中学校の授業で、原発事故や廃炉工程を取り上げた教材には「汚染水の放出を強行」と記載したという。
福島の場合、自然界にもあるトリチウム以外の放射性物質を除去した処理水である。海洋放出については、国際原子力機関が「国際的な安全基準に合致」し、人や環境への影響は「無視できる」との報告書を公表している。
原発で生じたトリチウムを含む排水の海洋放出は、中国を含む全世界の原発で恒常的に行われている。中国は「核汚染水」と呼んで日本を非難するが、外交的手段として非難しているのであり、その不合理さは当の中国が一番理解しているはずだ。日本政府は「科学的根拠に基づかない主張」と抗議している。学習指導要領は教員に対し、科学的観点での指導を求めている。だが教員はなぜ、こういう中国側に立った非���学的教育を実施するのだろう。
また小学校教員が漫画「はだしのゲン」を教材として「アジアへの侵略や強制連行」について取り上げ、広島への修学旅行の事前学習を行ったことが発表された。「はだしのゲン」は、史実かどうか未検証の行為も描かれており、教材の適切性を巡っていまだに議論が割れているものだ。そもそも歴史をこれから学ぶ児童に対し、いきなり「アジアへの侵略や強制連行」を教えることが適切な教育と言えるのか。
迷惑するのは子供たち
これであることを思い出した。約40年前、筆者は米空軍大学に留学した。その際、同じ留学生の英空軍将校に質問をしたことがある。「英国ではアヘン戦争をどのように教えているか?」と。一瞬、彼から笑みが消え、飲んでいたビールジョッキを置いて、筆者を凝視して静かに答えた。「義務教育では教えていない」。彼は続けてこう言った。「なぜ、義務教育でアヘン戦争を教える必要があるのか。義務教育での歴史教育は、子供に対し先人が示した気概を教え、国家との一体感を育成し、大英帝国のために尽くそうという志を育むのが目的だ。アヘン戦争は英国の歴史の中でも義務教育の題材としてはふさわしくない」と。これを聞いて目から鱗(うろこ)が落ちる思いがした。英国人の誇り高さの源泉はここにあるのかと。サッチャー政権が、教育の立て直しに懸命になっていた頃である。
同じ時期、米国ではレーガン大統領が米国教育の現状に危機感を抱き、教育の立て直しに躍起になっていた。彼はこう言った。「もし非友好的な外国勢力が米国に対して今日のような凡庸な教育をするように押しつけたとしたなら、それは戦闘行為に相当するとみなせるものだ」
「汚染水」教育の結果、「総理の怠慢」「首相退任してほしい。責任をとれ」といった生徒の意見がみられたそうだ。また児童が「日韓併合で連れてきて働かせる」とメモを取る様子が自慢げに発表されている。事実誤認や未検証の行為を子供たちに教育し、堂々と教研集会で発表するという屈折した心理。レーガン流に言うならば、このような教育は「戦闘行為に相当する」だろう。
迷惑するのは子供たちである。「青少年を見れば、その国の未来が見える」と言われる。こういう自虐教育がいまだに行われている現実を知り、将来を憂慮せざるを得ない。
国への誇りを失えば
戦後教育は敗戦のトラウマから「国家」や「公」より、「個」「私」を優先した。国家と歴史、民族と文化を貶(おとし)め、国歌、国旗を拒否し、祖先、両親への敬慕、師弟の礼節まで、あらゆる伝統的価値観に背を向けた。マルクス史観の影響を受け、権威、権力の否定が底流にある。
国際連盟事務次長を務めた教育者、新渡戸稲造は米国で名著「武士道」を著し、日本人の高邁(こうまい)な精神を紹介した。美術史家、岡倉天心はニューヨークで「茶の本」を出版し、日本の伝統文化について広く紹介した。かつて日本人は日本に対する誇りを持ち、強烈なアイデンティティを保持していた。海外で優れた日本の文化や伝統について紹介し、命懸けで日本のために情熱を燃やした。報道のような自虐教育が続けば、日本に誇りを持つ日本人は育たない。
欧米にこんな言葉がある。「英国人を自慢しているやつは英国人だ。ドイツの悪口を言っているやつはフランス人だ。スペインの悪口を言っているやつはスペイン人に決まっている」。かつて世界を席巻したスペインはなぜ没落したのか。子供たちに対しスペインはインカ、マヤを滅ぼした悪い国だと自虐教育を続けた結果、スペイン人から誇りが消えた。これが没落の主因だという。決して人ごとではない。(おりた くにお)
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reallypaleninja · 4 months
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一同は聖霊に満たされ、話しだした。
使徒言行録2・1-11
一同は聖霊に満たされ、話しだした。
使徒たちの宣教
2・1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギァ、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住��者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
答唱詩編
詩編104・1b+24、29+30、31+34
神よ、あなたのいぶきを地のおもてに。
詩編104
104・1b主なる神、 あなたはまことに偉大なかた。 24あなたは数えきれぬほどのものを、 英知に満ちて造られた。
29あなたがいぶきを取り去られると、 死が訪れてちりにもどる。 30あなたは霊を送ってすべてを造り、 地上を新たにしてくださる。
31神にとわの栄えあれ。 神がみわざを喜ばれますように。 34わたしの思いが神の喜びとなりますように。 わたしは神を喜びとする。
第二朗読
ガラテヤ5・16-25
霊の結ぶ実
使徒パウロのガラテヤの教会への手紙
皆さん、5・16霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
または
①コリント12・3b-7、12-13
皆一つの体となるために、一つの霊によって洗礼を受けた。
使徒パウロのコリントの教会への手紙
皆さん、12・3b聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。4賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。5務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。6働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。7一人一人に〝霊〟の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
福音朗読
ヨハネ15・26-27、16・12-15
アレルヤ、アレルヤ。聖霊来てください。信じる人の心を満たし、あなたの愛の火を燃やしたください。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。15・26「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
16・12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
または
ヨハネ20・19-23
アレルヤ、アレルヤ。聖霊来てください。信じる人の心を満たし、あなたの愛の火を燃やしたください。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
20・19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
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kennak · 2 years
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押し寄せる近代・怒濤の国際化  大正最後の年となる大正15(1926)年の年末、大正天皇が崩御され昭和と改元、「昭和」という時代が始まります。大正時代から続く資本主義経済の急速な発展や近代化の象徴ともえいえる学校制度の拡充発展期ではあったものの、翌昭和2(1927)年の未曾有の農村不況や金融大恐慌に見舞われ、さらに昭和4(1929)年にアメリカで勃発し全世界が巻き込まれた世界大恐慌にも襲われた重苦しい始まりとなりました。  国内外を巻き込む暗い影響は、1930(昭和5)年のロンドン軍縮会議、右翼社会主義の台頭、統帥権干犯問題、昭和6(1931)年の満州事変、昭和7(1932)年の満州国建国、五・一五事件、オタワ会議、昭和8(1933)年の国際連盟脱退等、日本帝国主義の矛盾を拡大させていきます。さらに昭和11(1936)年の二・二六事件、昭和12(1937)年の盧溝橋事件、日中戦争等を経て、昭和14(1939)年の第二次世界大戦の開戦となります。  そして昭和15(1940)年に日独伊三国同盟と翌年には日ソ中立条約が締結された一方、ABCD包囲網が始まります。さらに昭和16(1941)年にハル・ノートの提示と日米交渉決裂、真珠湾攻撃をもって日米開戦となり、日本も第二次世界大戦禍に飛び込んでいくことになります。翌年以降はミッドウェー海戦と東南アジア侵攻が開始され戦禍は拡大を続けますが、昭和20(1945)年の東京大空襲、アメリカ軍の沖縄上陸、原爆投下、日ソ中立条約破棄を経て、ポツダム宣言を受諾。第二次世界大戦は終結し、日本は敗戦国となります。  敗戦後の日本はGHQの占領政策下に置かれます。婦人の解放、労働組合の結成奨励、学校教育の自由主義化、専制政治の廃止、経済制度等の民主化が進められるなか、昭和21(1946)年には東京裁判が行われ、日本国憲法が制定されます。  また、戦争と敗戦による食糧難とインフレの昂進に苦しむ一方で、昭和25(1950)年に始まった朝鮮戦争の影響も受けて、特需による好景気が始まります。そして世界的には、東南アジア諸国の独立運動が活発化を始めます。 加速する大衆・列島の平準化  昭和26(1951)年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が締結し、さらには翌年のサンフランシスコ講和条約の発効と同時にGHQは廃止され、日本は主権回復となりました。しかし安保闘争や自衛隊問題など、その後に続く日米安保体制下の新たな課題を生むことになっていきます。  一方、神武景気とも称される好景気を迎え、昭和30(1955)年代には、「国民所得倍増計画」が掲げられ、関門トンネル開通、東京タワー完成、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催など、戦後復興が開始されたカラーテレビ放送によって、全国に届けられます。他方、イタイイタイ病、水俣病、四日市ぜんそくなどの公害問題が大きくなるなど、高度経済成長の功罪が浮き彫りになっていきます。  また世界に目を向けると、昭和28(1953)年に朝鮮戦争休戦協定成立後に平和共存の潮流が活発化し、アジアだけでなくアフリカ諸国民の植民地主義への反対や、民族独立を求める力が強まっていきます。そして、昭和35(1960)年のベトナム戦争、昭和37(1962)年のキューバ危機、昭和40(1965)年の日韓基本条約締結など、国際的な戦争と平和への動きに各国がより深刻な影響を及ぼしあうようになっていきます。  昭和43(1968)年には東名高速道路開業し小笠原諸島が返還されます。昭和44(1969)年に東大安田講堂事件が発生した同年、アメリカはアポロ11号による人類初月面着陸に成功します。翌年の昭和45(1970)年に日本初となる人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功し、日本万国博覧会(大阪万博)は大盛況をおさめます。しかし同年のよど号ハイジャック事件、翌年のあさま山荘事件など、過激な事件も目立ちました。  昭和47(1972)年からは「日本列島改造論」による政策が実施され、いよいよ列島が平準化されていきます。札幌オリンピック開催、沖縄返還、オイルショック、ロッキード事件、成田空港開港、日中平和友好条約締結など、社会的に関心が高い出来事が起こる一方、昭和58(1983)年には東京ディズニーランドが開園し、ファミリーコンピューターが発売されるなど、大衆化された娯楽も変化していきます。  昭和60(1985)年頃からは、資産価額の高騰によるバブル経済に突入します。筑波万博の開催、青函トンネル開通、瀬戸大橋開通など科学の進歩を体感する一方で、日本航空123便墜落事故やチェルノブイリ原発事故が発生します。  そして、昭和最後の年となる昭和64(1989)年の年明け早々に宝算87歳をもって昭和天皇が崩御。平成に改元され、「昭和」という時代が終わることとなりました。
「昭和」とはどういう時代だったのか? | テンミニッツTV
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1003books · 5 months
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6/7 台湾のネイティブと仲良くなるためのゴガク教室「カルチャーゴガク 全国全力巡回講座」
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この春から全国各地を巡回して開催される、台湾華語の入門講座が1003にもやってきます!
13年を超える⻑きにわたって日本に台湾カルチャーを届けてきた「カルチャーゴガク〜ニーハオのその先へ。 台湾旅を楽しむための田中式コミュニケーション術〜」の著者・田中佑典による、全く新しい台湾華語入門! 先ごろ、台湾を独歩で1周する旅・微遍路を完了させた著者。観光地のみならず地方を巡ったその経験もプラスされ、さらに仲良く、深く入り込むメソッドを手に入れ、次は著書を携え「カルチャーゴガク講座」の全国巡業を行います。
台湾旅行をお考えの方、台湾のカルチャーに興味のある方、台湾人と仲良くなりたい方、ニーハオのちょっと先にあるもう一言、そして文化を知りに、ぜひお越しください。
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【講座概要】
台湾のネイティブと仲良くなるためのゴガク教室「カルチャーゴガク 全国全力巡回講座」
日時:2024年6月7日(金)19:00-20:30(受付18:30〜)
場所:1003 (神戸市中央区栄町通1丁目1−9 東方ビル 504号室)
参加費:前売り2,200円 当日2,500円
※前売りは1003店頭または、インセクツのサイトで受け付けております
持ち物:筆記用具(あるとベター、なくても可)
定員:25名
参考図書:『カルチャーゴガク 〜ニーハオのその先へ。 台湾旅を楽しむための田中式コミュニケーション術〜』
事前にお読みいただくと、より講座が楽しめます!読まなくても内容は理解できますし、受講はできます。ご安心ください。 ========== 【講師プロフィール】
田中佑典 職業、生活芸人。 アジアにおける台湾の重要性に着目し、2011年から日本と台湾を行き来しながら、日本と台湾をつなぐカルチャーマガジン『LIP 離譜』の発行をはじめ、台日間での企画やプロデュース、執筆、クリエイティブサポートを行う“台日系カルチャー”のキーパーソン。2017年12月には東京・蔵前に台湾カルチャーを五感で味わうTaiwan Tea & Gallery『台感』をプロデュース。その他語学教室「カルチャーゴガク」主宰。著書に『LIP的台湾案内』(リトルモア)。2018年度ロハスデザイン大賞受賞。2023年「カルチャーゴガク 〜ニーハオのその先へ。 台湾旅を楽しむための田中式コミュニケーション術〜」を上梓。
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qofthequinine · 5 months
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美しさと綺麗について
父親にこんなことを言われた記憶がある。
「綺麗」と「美しい」は全然違うんだよ。例えば、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケは、綺麗ではない。むしろグロテスクな想像さえ掻き立てる。しかし、美しい。綺麗なものは、印象に残ることもない。こざっぱりとしていても、面白くない。さらにはこの「面白い」にも難しさがある。例えば、あるアイデアを「面白いやないか」と称賛したり、作ったものを「面白い」と評価すると、「バカにするな!」と怒る人に接したことがある。ここで自分が発話した「面白い」は「興味深い」「発展しそうだ」という意味であるんだが、「バカにするな!」と怒った人はおそらく、嘲笑しか知らない人なのだろう、と思うよ。
その記憶をさっき話した。「うん。たぶん言うたんやろうし、自分が思ってることと一緒やから、確実に話したと思う」と。
そして、映画を見ていても思う。どれだけ残酷な描写でも美しい瞬間があるし、愛が結ばれたように見えるキスシーンが綺麗なだけだった途端に興醒めする。
で、父は友人に一人や二人、そういう価値観を共有する人物がいると、話してくれた。
自分もまた、「綺麗やけどつまらん」「飲みやすいけど面白くない」「こざっぱりしてるけどダサい」「読みやすいけど芯食ってない」などの意見を共有できる友人が少なくとも3名いる。表向きには真っ当なんだが、対話を深めるうちに美学といえば大袈裟だが、なんだか見ている世界が一緒だなあと思う。おそらく、綺麗すぎる世界よりは美しい世界を見たいのだと思う。
ここからは、いろんな問題を掘りながら、結局内心の吐露になる。
綺麗すぎる場所には誰も住めないだろう。その人は綺麗の基準を満たさなければ排除されてしまう。汚すぎてもいけない。それは衛生学の専門だ。あるいは��理的嫌悪。でもこれを「嫌だから無くなってしまえ」と��うなら、我々が食べている畜産物を飼育している場所に赴くといい。動物の臭いが充満している。糞尿の臭いもする。しかし、この環境で飼育された肉を食わなければ、人間には無理が生じる。ヴィーガンとか言って動物性タンパク質を忌避する人もいるが、あれは南アジアの環境として宗教に衛生学がくっついたものだ。「動物を食べるなんてかわいそうに!」と言いながら、植物をものすごく残酷に扱う。桜の枝を手折るのは、本当にやめてほしい。綺麗な花を飾りたい気持ちは理解するが、その桜が来年咲かなくなったらどうしよう?その花が花を摘んだことによって死んでしまったら?弱肉強食までは言わない。食わねえと死ぬ。それだけである。知らなかったから美しいものを奪った、とは恐ろしいことである。
そうなってくると、「清い水には魚が棲めない」と話が発展する。
純水を思い起こして欲しい。全くの水だ。不純物はない。理科の先生が言っていたのは、「飲んでも害はないけど、めちゃくちゃ美味しくないよ」と。ミネラルウォーターにはある程度のミネラルが含まれているから飲める。硬水だとか軟水だとか、聞いたことあるはずだ。また、植物に水やりをする場合にも、おそらく純水では無理で、浄水器の水をやっても枯れてしまう。可能なら井戸水がいい。そうして、純水に放り込まれた魚は、割とあっけなく死んでしまう。そもそも酸素も二酸化炭素も含まれていない純水だから、水の中に生きる魚も呼吸が止まる。呼吸が止まるというよりも、いくら鰓呼吸してもしんどくなるばかりだ。実は今まさに、藻場を喪失した海では、これに近いことが起こっている。
藻場は、魚の産卵する場所だ。卵はやはり、酸素を必要とする。二酸化炭素を酸素に変換するあの場所がなくなれば、魚なんていなくなる。植物でさえ、酸素呼吸が必要だが、そこをうまいこと自己解決してしまった植物。しかし、彼らにも栄養が必要で、その栄養は窒素リンカリウムと覚えているように思うが、それ以外にもたくさんある。降雨とともに雨粒に含まれて土壌から河川に流れ、海に到達し、吸収される。
しかしまあ、そもそも山を管理する人はもう機能していない。林業はほとんどボランティアである。儲けようとすれば大量に伐採しなければならない。大量に伐採すれば山は崩れる。戦後すぐには、住宅の確保のために、まっすぐに伸びて資材として使いやすい杉の木を植えなければならなかった。致し方のないことである。
で、ここからは悪循環が始まった。戦後すぐに、蚊の多さゆえに殺虫剤を散布して蚊がいなかった時期があるらしい。しかし、蚊に刺される小児がいなくなったことで、若いころに形成されるべきアレルゲンへの抗体が少なくなった(真偽のほどは定かではない)と聞き及ぶ。蚊に刺されて痒いのは当たり前だ。しかし蚊はああいうアレルゲンを運びつつも少しずつ抗体を作り、蚊のみならずあらゆる害虫さえ、少量のアレルゲンを注入して慣れさせていたらしい。DDTを散布したらしく、即効性は虫に強くあったとのこと。花粉症は日本で初めて確認されたのだ。
もちろん全く良くなかった方法ではない。フェイタルな感染症は少なくなっただろう。衛生学として当時は正しい方法だったと思う。今度はコロナ禍である。
コロナ禍で、病原菌やウイルスは忌避された。手洗いとアルコール消毒とマスク。未知の病気に対する方法として、自明に正しい。ワクチンもちゃんと4回打った(5回目は都合がつかなかった)。マスクもしていたし、手洗いも入念にした。およそ三年間、無菌室にいたのと同様である。大人の振る舞いとして正しい。
じゃあ子供は?呼吸器がまだ不安定で、免疫を獲得する過程にいる。亡くなった子には哀悼を示すが、今生きている若い人たちは、もしかすると三年間、恋した人の顔を見なかったかもしれない。もしかすると両親の顔さえ、生まれてすぐに見れなかったかもしれない。こんなに悲しいことがあるだろうか?
医療を否定したいわけではない。医療は与う限りの尽力をして、命を救い、そのために自分自身が不安定になるリスクさえ犯している。人間、わからないことに飛び込むのは怖いことだ。よほどの胆力がなければできないし、もし間違えば診察室で対面している彼の命が明日費えてもおかしくない。命がけのルーチンワークだ。その精神力に敬意を表する。
最近の子供を見ていると、真っ直ぐ歩いていないような気がする。軌道の予測ができない。顔が右を向きながら足は左に向かうような。理解できるだろうか?
と、防疫と救急の違いを述べてみた。防疫は行政が行い、医療は医療法人の管轄だと理解している。研究は国立機関か製薬会社だ。
ブルーハーツの曲に『人に優しく』がある。人に優しくある以前には、人を守らなければならない。その「人」とは誰だろうか?と考えると、小生意気なガキである。気に食わない。が、守らなければ、と思う。理由はない。考えもない。ひとつだけ感覚するならば、「自分たちより不幸にならないでほしい」。
この言葉を発するためだけに長ったらしく書いていたのだ。こんなバカっているんだろうか?頭ハッピーなヒッピーだったとしてもこんなことは言わないだろう。「色即是空」とは言うものの、全部虚しいと悟るのは死に際であってほしい。全部楽しかったと思うのも、最期の瞬間であってほしい。
美しい瞬間をずっと覚えていてほしい。苦労した記憶も、悲しかった記憶も、楽しかった記憶も、怒り散らした記憶も、どこか美しいはずだ。随分前に亡くなった曽祖母が言っていた。「冬は凍えるようでなあ、藁草履に服着て半纏着て、みんな鼻水ズルズルやから袖なんてカピカピでなあ、でもあのとき一緒に行きよったみんなはよう覚えとるなあ、苦しいけど楽しかった」
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orhpee-annex · 6 months
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少年時代のココナッツ
 北千住の有名なタイ料理店「ライカノ」へ赴いた。ココナッツミルクの甘味が優しい牛すじとじゃがいものムスリムカレーと、タイ酢をかけて頂く海老のすり身のトーストを食べて、さて渇いた喉を潤して舌を洗う為にココナッツのアイスクリームを注文した。アイスを口に運ぶと、ココナッツの風味豊かな上品な甘味がひろがった。そして小学生の頃、地元で開催された博覧会の夜店の並びを思い出した。
 北九州博覧祭2001という地方博覧祭が、かつてわたしの地元で開催された。市の要請だったのか、三か月あまりの開催期間に何度も社会科見学と称して出向いた上、実家からも近かった所為で家族とも訪れた記憶がある。当時は知る由もなかったことだが、1981年神戸ポートアイランド博覧会を嚆矢に、地方振興イベントとしての博覧会開催の機運が通産省の後押しのもと依然続いていた、その一環だった。
 当時、漫画家の松本零士がイベントポスターを描き、GLAYが野外ライブを催したと公的な記録には残っている。何も憶えていない。辛うじて、「銀河鉄道の夜」の影絵アニメで有名な藤城清治が監修した映像作品は断片的に憶えている。向日葵のようなイメージキャラクターも。
 催しは北九州市の産業や環境の取り組みといった沿革――街の物語を博物館の形式で見せようとするものばかりだった。社会の教科書の隅に載っていた、シャベルが洞海湾のヘドロを除去する映像ばかり再三目にした。
 夜はすこしだけ愉しいこともあった。
 交流のあるアジアの国々の屋台が、芝生のある広場に立ち並び、子どもの眼には近づきがたくも魅惑の光だった。中でも腕まくりをした男が売るココナッツの実を刳り抜いたジュースが、母親の難色にも拘らずどうしても飲みたかった。小さい手には余るココナッツの実を抱えると、ふくらんだ期待のように重い。ストローに口をつけた。
 美味しくない。
裏切られた気分だった。親は、ほら言わんこっちゃない、という反応をした。わたしは泣きたかった。本当に泣いたかも知れない。その後、様々なココナッツの風味を飲み物を口にしても、本物のココナッツは不味いという思いが去来していた。そしていつしかそんな記憶も薄れた。
 北九州市博覧会の跡地にはイオンモールが建って久しい。祭りの痕跡は一夜のサーカスのように消え失せ、街は時に圧されるように静まりかえっている。わたしは東京の北千住にいる。
 「ライカノ」のココナッツアイスクリームは美味しかった。これが、子どもの頃に本当に期待したココナッツの味だった、とおもった。その風味を味わうまで、それが少年期から続く未練だとは気づいていなかった。でも、それは確かに小さな未練だった。わたしはふたたび朧気に、あの夜店の並ぶ影絵のような風景を思い出した。20年以上の間隔を経て、わたしはようやく少年時代のわたしの舌と心を充たしてあげられた。
 長く生きるとこういう日もあるらしい。
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参考: http://www2.ngu.ac.jp/expo/4/no4-1.htm
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