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#若狭海浜公園
papatomom · 11 months
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2023.11.04(sat)
若狭路をぶらりドライブ。
「海のある奈良」「小京都」と呼ばれている小浜市。紅葉にはまだ少し早かったけれども、初めて訪れる寺院は見ごたえがあってよかった。
昼食は「うなぎ料理 徳右ェ門」さん。
他でもちょこちょこ食べたいものがあるかもっていうことで、ほどほどの量の「うな丼」を食す。肝吸いもついてます。三方五湖で獲れる鰻は、薄皮で身はふっくら絶品です。
家のお土産は、敦賀の「天清酒万寿店(てんせさかまんじゅうてん)」さんで酒饅頭、自分用に「小浜酒造」さんの「純米吟醸わかさ」を購入。
〇高野山真言宗 石照山 多田寺(御本尊:薬師如来)
この御本尊は眼病に効き目があるらしい。
〇比叡山天台宗 霊応山 神宮寺(御本尊:薬師如来)
3月2日に神宮寺の境内にある「閼伽井戸(あかいど)」で汲まれた水を、1.8km先にある「鵜の瀬」から流し(お水送り)、3月12日に奈良東大寺二月堂で「お水取り」が行われる。1300年以上続いている。
神仏習合のお寺でもある。
〇高野山真言宗 延宝山 萬徳寺(本尊 阿弥陀如来坐像)
高齢の名誉住職 田中寛孝(かんこう)さんが説明をして下さいました。
埋石式枯山水庭園が有名。庭園横の座敷の欄間には、小浜藩藩主 酒井忠貫(ただつら)公の水墨画が残されている。また高野山関連で有名な吉祥宝来の切り絵が3点ほど掲げられていた。写真は今年の干支の「兎」
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chibiutsubo · 10 months
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#おでかけ #レインボーライン山頂公園 #たべもの
日差しが強かったので、ソフトクリームでクールダウン。公園内には中央にカフェと、もう一箇所若狭湾側に和風カフェもありました。しっかりしたご飯は下の駐車場横のお店に。軽食とスイーツなら山頂のカフェでも十分楽しめそうです。
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山頂には小さなバラ園もあって、秋のバラの季節にはまだ早かったのですが、種類によっては咲いているものも。
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アゲハチョウを発見。
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公園内にはそれぞれの方角が見えるテラスがいくつもあって、これは三方五湖がよく見える美浜テラスからの風景。こちらは足湯もあるので、足湯に浸かりながら景色を眺めることができます。
それぞれのテラスごとに全然雰囲気が違うので、全部周るだけでも面白いです。といってもそれほど広くはないので、短時間でさくさく周れます。
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日本海を眺める。
空が霞んでいて、海と空の境目がぼやけてよく分からなくなっていました。一面の青です。
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yotchan-blog · 2 months
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2024/7/24 9:59:30現在のニュース
京都観光、さらに混雑 府内入込数が最多7518万人 コロナ禍前超す(毎日新聞, 2024/7/24 9:48:41) 防災マップ GIS活用…豊中第一中生、専門家招き操作方法学習([B!]読売新聞, 2024/7/24 9:48:07) クレディセゾン、クレジットカードのリボ払い手数料上げ 金利上昇で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/24 9:43:08) 中国メーカー、米制裁対象企業に部品供給 対ロシア軍事支援疑い - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/24 9:43:08) トランプ前大統領、カマラ・ハリス氏との討論会「何回でも受ける」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/24 9:43:08) 沼津で藤井聡太七冠 祝勝会 対局の振り返りや棋士座談会 「棋聖戦 新鮮で楽しかった」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 黒柳徹子さんら輩出、トモエ学園校長 小林宗作の業績を後世に 出身の東吾妻町で顕彰会発足(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 災害時のペット問題で啓発 「同行避難」足利市が指針 栃木県内市町初(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 茨城県出身2人目、真打ち講談師 松林伯知さんはこんな人 地元愛強く、歴史好き 9月凱旋公演は発売初日完売(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 被災地のアスベスト被害を防ぐため さいたまの市民団体 能登で調査、マスク配布(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 炎暑でも 元気で伸びやか 大宮花の丘農林公苑でサルビア満開(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 大釜まぜまぜ おいしくなぁれ 児童ら、狭山市のセンターで給食作り体験(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 埼玉県警・サイバーボランティア団体 日本語学校などの生徒参加 「外国人が被害遭わないように」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 鴨川市の太海周辺 南房総の自然と野鳥をご案内 元公務員の武田健治さん(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 戦後、外貨獲得の重要輸出品 GHQ占領下に作製 陶磁器製の小物171点 東金の城西国際大水田美術館(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) あす準決勝 東京学館−木更津総合 市立船橋−市原中央<高校野球・千葉>(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 攻守の要「やりきった」 中央学院(3年)・颯佐心汰(さっさ・ここた)選手<高校野球・千葉>(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 横浜と東海大相模 激闘制し、きょう頂上決戦<高校野球・神奈川>(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) プール管理体制 文科省通知受け 川崎市長「今後は市教委で検討」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 前理事長の献金を返金 川崎市長「母子育成会」問題で(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 等々力渓谷の保全、再生へ 剪定、伐採費用の一部 ふるさと納税を活用(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 「すみだの歩き方 葛飾北斎」 「地球の歩き方」と区がコラボ第2弾(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 東西東京大会準々決勝 ベスト4 出そろう<高校野球・東京>(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 踏ん張れず、悔い残る 東亜学園(3年)・深野汰生(たお)投手<高校野球・東東京>(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 2人でやり切れ、後悔なし 修徳(3年)・斎藤純捕手、紘選手<高校野球・東東京>(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) <行ってみたら>生誕130年 武井武雄展(上)《星曜日》童話の脇役から「童画」へ(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 違法な舟券購入…1人で数千万円の職員も モーターボート競走会が内部調査 発覚22人全員を解雇(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/7/24 9:42:21) 日本生命vs日本通運 スタメン発表 都市対抗野球(毎日新聞, 2024/7/24 9:41:02) <視点>精神障害者解放を訴えた生涯 「当事者の誇り」忘れない 論説委員兼編集委員・田原牧:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/7/24 9:33:55) 国内最後のUFO型信号機、撤去へ 惜しむ声も…実は名古屋に進化版(毎日新聞, 2024/7/24 9:33:54) 「こんなやつに…」と思われたい 詐欺犯を警官が熱演、被害防止(毎日新聞, 2024/7/24 9:33:54) グーグル親会社、増収増益 広告が好調 AI検索は「若者の利用増」(朝日新聞, 2024/7/24 9:32:45) 米金融・映画界にカマラ・ハリス氏支持 反トランプ前大統領勢が献金再開 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/24 9:30:45) Heartseedの福田恵一社長「心不全治療の扉、iPS細胞で」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/7/24 9:30:45)
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kachoushi · 1 year
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各地句会報
花鳥誌 令和5年7月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年4月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
一葉の家へ霞の階を きみよ 春昼や質屋の硝子なないろに 小鳥 伊勢屋質店今生の花とほく 光子 菊坂に豆煎る音や花の昼 和子 一葉の質屋は鎖して春��闇 はるか 本郷の亀を鳴かせて露地住ひ 順子 おかめ蕎麦小声で頼み万愚節 いづみ 文士らの騒めきとすれ違ふ春 三郎 一葉を待つ一滴の春の水 光子 物干に如雨露干したり路地の春 和子
岡田順子選 特選句
一葉の家へ霞の階を きみよ 金魚坂狭め遅日の笊洗ふ 千種 菊坂の底ひの春の空小さし 光子 坂の名のみな懐かしき日永かな 要 赤貧の欠片も少し春の土 いづみ 本郷の間借りの部屋の猫の妻 同 質店の中より子規の春の咳 俊樹 止宿者の碑のみ残すや蝶の舞 眞理子 本郷の北窓開く古本屋 きみよ かぎろひの街をはみ出す観覧車 いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月1日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
花冷の背後より声掛けらるる 美穂 幾年も陽炎追ひて遊びけり 散太郎 濃きほどに影のやうなる菫かな 睦子 化粧水ほどの湿りや春の土 成子 画布を抱き春の時雨を戻りけり かおり 昼月は遠く遠くへ花満開 愛 シャボン玉の吹雪や少女手妻めく 勝利 麗かや砂金三つ四つ指の先 睦子 成り行きの人生かとも半仙戯 朝子 鞦韆の羽ばたかずまた留まらず 睦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月3日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
花吹雪卍色と云ふが今 雪 花冷に後姿の観世音 同 そぼ降りてひと夜の契り花の雨 笑 観世音御手にこぼるる花の寺 同 お精舎やこの世忘れて糸桜 啓子 逝きし友逢へないままに朦月 同 裏木戸を開ければそこに花吹雪 泰俊 御仏と咲き満つ花の句座に入る 希 愛子忌や墓にたむけの落椿 匠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月5日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
縋りつく女心や桃の花 世詩明 肌寒く母の手紙はひらがなぞ 同 啓蟄や鍬突き立てし小百姓 同 日野河原菜花の香る祭りかな ただし 菜の花や石田渡しの蘇る 同 雛祭ちらしずしそへ甘納豆 輝一 ぽつたりと落ちて音なき大椿 清女 花吹雪路面電車の停車駅 同 大拙館椿一輪のみの床 洋子 花の山遠く越前富士を抱く 同 吉野山日は傾きて夕桜 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月6日 うづら三日の月 坊城俊樹選 特選句
花の下天をを仰げば独り占め さとみ 春陰やおのが心のうつろひも 都 春耕や眠りたる物掘り起す 同 左手の指輪のくびれ花の冷え 同 園児等のお唄そろはず山笑ふ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月8日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
膝をまだ崩せずにをり桜餅 秋尚 登り来て本丸跡や花は葉に 百合子 葉脈のかをり弾けて桜餅 同 桜餅祖母の遺せし会津塗り ゆう子 売り声も色つややかに桜餅 幸子 木洩日の濡れてゐるやう柿若葉 三無 春愁や集ふふる里母忌日 多美女 伍しゐても古草の彩くすみをり 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
心経をとなへ毛虫に火をはなつ 昭子 マンホール蓋の窪みに花の屑 昭子 栄螺売潮の香りを置いてゆく 三四郎 金の蕊光る夕月てふ椿 時江 禅寺の読経流るる花筏 ただし 若者の髭に勢や麦青む みす枝 龍が吐く長命水の春を汲む 三四郎 花吹雪受けんと子等の手足舞ふ みす枝 土器の瓢の町や陽炎へり ただし 海遠く茜空背に鳥帰る 三四郎 紅梅のことほぐやうに枝広げ 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月10日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
片棒を担いでをりぬ四月馬鹿 三無 薬草園とふ門古りて松の花 和魚 だんだんと声ふくらみて四月馬鹿 美貴 四月馬鹿言つて言はれて生きてをり 和魚 松の花表札今も夫の居て 三無 白状は昼過ぎからや四月馬鹿 のりこ 一の鳥居までの大路や松の花 秋尚 松の花昏き玄関応へなく 美貴
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月11日 萩花鳥会
京よりの生麸草餅薄茶席 祐 不帰のヘリ御霊をおくる花筏 健雄 ただ一本ミドリヨシノの世界あり 恒雄 堂々と桜見下ろす二層門 俊文 猫に愚痴聞かせて淋し春の宵 ゆかり 杵つきの草餅が好きばあちやん子 美惠子
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令和5年4月13日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
便り待つポストをリラの房覆ふ 栄子 畑打つや鍬を担ひし西明り 宇太郎 軒下の汚れし朝や燕来る 都 桜蕊降る藩廟の染まるまで 美智子 桜蕊降るももいろの雨が降る 悦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
何氣なく来て何気なく咲く花に 雪 神御座す杜の新樹に聞く鳥語 かづを 老の踏むひとりの音や落椿 ただし 野辺送り喪服の背に花の蕊 嘉和 夜ざくらのぼんぼり明り水あかり 賢一 喝采の微風を受けて花は葉に 真喜栄 生きる恋はぜる恋ととや猫の妻 世詩明 葉ざくらに隠されてゐる忠魂碑 同 眩しさを残して花は葉となれり かづを
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月16日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
極大と極小としやぼん玉宙へ 要 穴出でし蟻の列追ふ園児どち 経彦 頰􄼺をつく石仏の春愁 貴薫 酸模を噛む少年の今は無く 要 稲毛山廣福密寺百千鳥 同 瑠璃色を散らし胡蝶の羽ばたきぬ 久 春陰の如意輪仏へ女坂 慶月 棕櫚の花年尾の句碑に問ひかくる 幸風 朴の花仏顔して天にあり 三無
栗林圭魚選 特選句
蝌蚪の群突くひとさし指の影 千種 峠道囀り交はす声響き ます江 美術館三角屋根に藤懸かる 久子 こんもりと句碑へ映るも若葉かな 慶月 微かなる香りや雨後の八重桜 貴薫 朝の日に濃淡重ね若楓 秋尚 落ちてなほ紅色失せぬ藪椿 経彦
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月19日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
通勤のバスから見ゆる日々の花 あけみ 花馬酔木白き房揺れ兄の家 令子 亡き鳥をチューリップ添へ送りけり 光子 偲ぶ日の重く出たるや春の月 令子 あの頃の記憶辿って桜散る 美加
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月19日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
矢車の音きしみ合ふ幟竿 世詩明 風よりも大きく揺れて糸柳 啓子 花万朶この世忘れて花の下 同 あたたかやお守りはねるランドセル 同 甘き香の女ごころや桜餅 千加江 春場所や贔屓の力士背に砂 令子 落椿掃きゐてふつと愛子忌と 清女 春の虹待ちて河口に愛子の忌 笑子 散りそめし花の余韻も愛子の忌 同 城の濠指呼の先には花の渦 和子 花筏哲学の道清めたる 隆司 故郷の深き眠りや花の雨 泰俊 山道の明るさを増す百千鳥 同 ほころびて色つぽくなり紫木蓮 数幸 花桃に出迎へられて左内像 同 瞬きは空の青さよ犬ふぐり 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
忠直郷ゆかりの鬱金桜とぞ 雪 椿てふ呪縛の解けて落つ椿 同 春愁や言葉一つを呑み込んで 同 御襁褓取り駈け出す嬰や麦は穂に みす枝 鶯の機嫌良き日や鍬高く 同 ただならぬ人の世よそに蝌蚪の国 一涓 あの角を曲つてみたき春の宵 日登美 春の果次も女に生れたし 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月21日 さきたま花鳥句会(四月二十一日)
清冽な水は山葵を磨き上げ 月惑 連写して柳絮の舞ふを収めけり 八草 天守閉ぢ黙す鯱鉾朧月 裕章 行き先は行きつく所柳絮飛ぶ 紀花 南無大師遍照金剛春の風 孝江 揚浜に春の虹立つ製塩所 とし江 柳絮飛ぶ二匹の亀の不動なり ふじ穂 筍堀り父編むいじこ背負ひ来て 康子 花吹雪ひと固まりの風の道 恵美子 満天星の花揺らしつつ風過ぎる 彩香 夢叶へ入学の地へ夜行バス 静子 啓蟄やピンポンパンの歌聞こゆ 良江
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令和5年4月23日 月例会 坊城俊樹選 特選句
真榊はあをばの中に立つてをり いづみ 水の上の空のその上鳥の恋 順子 掌の中の春の蚊深き息を吐き 炳子 耳朶を掠めて蝶のうすみどり 緋路 仕上りの緻密なる蒲公英の絮 秋尚 手放して風船空へ落ちてゆく 緋路 春の闇より声掛けて写真館 順子 零戦機日永の昼の星狙ふ ゆう子
岡田順子選 特選句
玉砂利の音来て黒揚羽乱舞 和子 耳朶を掠めて蝶のうすみどり 緋路 仕上りの緻密なる蒲公英の絮 秋尚 風光る誰にも座られぬベンチ 緋路 緋鯉とて水陽炎の中に棲み 俊樹 手放して風船空へ落ちてゆく 緋路 蜂唸る神の園生に丸き井戸 炳子 佐保姫は夜に舞ひしか能舞台 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
つかまへし子亀に問へり亀鳴くか 美穂 亀鳴くや拷問石にある哀史 ちぐさ 亀鳴ける賓頭盧尊者撫でをれば 美穂 板の戸に志功の天女花朧 喜和 連子窓に卯の花腐し閉ぢ込めて かおり 大人へのふらここ一つ山の上 光子 ふらここや無心はたまた思ひつめ 同 ふらここや関門海峡見下ろして 同 さくら貝ひとつ拾ひて漕ぎ出しぬ かおり 午後一時直射にぬめる蜥蜴の背 勝利 花冷の全身かたき乳鋲かな 睦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月4日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
落城の如く散りたる落椿 世詩明 三人の卒業生以て閉校す 同 双葉より学びし学舎卒業す 同 氏神の木椅子はぬくし梅の花 ただし 鳥帰る戦士の墓は北向きに 同 草引く手こんなですよと節くれて 清女 雛あられ生きとし生くる色やとも 洋子 官女雛一人は薄く口開けて やす香 露天湯肩へ風花ちらちらと 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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atsushi2015 · 3 years
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20210315 福井県小浜市 #小浜海浜小公園 #1分間腕立て伏せ 542日目 #いきなり腕立て伏せ #フルレンジプッシュアップ #トレーニングたのしー #腕立てたのしー #福井県たのしー #敦賀若狭たのしー u 53 柴犬 #岳 #柴犬岳 #柴犬ガク#gaku #shibainugaku #shiba #柴犬岳の敦賀若狭旅 (Obama, Fukui) https://www.instagram.com/p/CNAsjVkLqOu/?igshid=o1uqqrnfqge4
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【福井県謡曲古跡めぐり若狭/嶺南編】12箇所目  2021/3/18
世阿弥船出の地
台場浜公園
《福井県小浜市川崎》
能の大成者「世阿弥」に世阿弥十六部集と言われる著作があります。「風姿花伝」「花鏡」「至花道」「珠玉花」「金島書」などが在ります。世阿弥は足利将軍義教の怒りを買い、永亨6年(1434)、74歳の時佐渡に流されました。「金島書」の金島とは佐渡の事であり、佐渡へ流されていく道中、配所佐渡の国情、島における知見や心情などを紀行ふうにつづった「小謡曲舞集」です。
 八つの詞章から成っていて、先ず「若州」から書き始められています。若州とは福井県の旧国名で、永亨6年5月4日に都を出て次の日に小浜の港に着いた事が記されています。「海路」では日本海を北上していく船旅が記されています。東を見れば雪の白山が仄見え、続いて能登・珠洲の岬・七つ島と出てきて富山湾に入ります。立山も見えて5月下旬に佐渡の大田の浦に着きます。「配処」では笠取という峠を越えて、長谷寺へ詣でて新保の万福寺に着いています。
 現在、佐渡の金井町の正法寺に「世阿弥の腰掛石」が残っています。以前に訪れてこの石に腰をかけて世阿弥を想った事があります。世阿弥はこの書が絶筆で、以後まったく消息不明となります。許されて都へ戻ったという説もありますが、はっきりしない様です。
 小浜市の「そとも巡り遊覧船」の出る港の前の、台場浜公園に「世阿弥船出の地」の記念碑があります。金島書の若州に基づいて、地元出身の観世流能楽師の「武田小兵衛」師が昭和62年に建てられたものです。
#能楽 #能 #Noh #申楽 #猿楽 #狂言 #風姿花伝 #世阿弥 #芸術論 #幽玄 #歌舞劇 #演劇 #能面 #マスク #文化 #旅行 #トラベル  #名所旧跡 #神社 #寺院 #像 #碑 #巡礼 #古跡 #謡曲 #福井 #若狭 #嶺南 #Travel #GoTo #ruins #wreckage #exile #deportation #配流 #流刑 #追放 #古典
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celebswhogetslepton · 5 years
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@jamjam0386: 仕事前に若狭海浜公園に来ました。台風一過のサイゴノ夏を満喫しようと、日焼け。
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xf-2 · 5 years
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小��を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見��ばどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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kadookanobuhiko · 6 years
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たびたび★スリランカ
   先月末、仏教関係のグループと一緒に、スリランカに行ってきた。機中と空港での2度の日付け変更を含む、1週間弱の短い旅行である。私は99年、11年に続いて、3度目だった。
 初めて訪れたのは、最初の本を刊行した直後だった。私にとって、書く仕事は苦行である。何もかも終ったら、旅に出ることだけを夢見て筆を進めていた。
 69年に公開されたニューシネマの傑作『真夜中のカーボーイ』の中で、テキサスの田舎から冬のニューヨークに出てきたジョー(ジョン・ヴォイト)は、病に苦しむ半失業者のラッツォ(ダスティン・ホフマン)と貧しい共同生活を送る破目に。何をやってもうまくいかないふたりは、一旗挙げるべく、長距離バスで温暖なフロリダに向かう。車中、ラッツォの病は悪化していくのだが、太陽が燦々とふりそそぐフロリダの砂浜を、ふたりが駆け抜けるシーンが挿入される。両者の願望をあらわしたカットである。
 取材がうまくいかないとき、また執筆がはなどらないとき、私はいつもこのシーンを思い浮かべる。陽光が降り注ぐ中、砂浜をひた走る自分を・・・。
 初めてひとりで訪れたスリランカは、まさに楽園だった。南部にある海辺の町ヒッカドゥワは、素もぐりするだけで、驚くほどの量と種類の熱帯魚を見ることができた。海に面した宿は、美味い食事付きで1泊3000円ほど。バルコニーで飽きるほど青い海を眺めた。夢にまで見た”フロリダ”である。行ったことはないけれど。
 移動はもっぱら、バスか鉄道だった。高速バスや特急はなく、旅をするにはおそろしく時間がかかった。
 今回は団体旅行。エアコン付きの貸し切りバスで移動したため楽だったが、現在もほとんどの道路は整備されていなかった。大都会のコロンボを離れると信号はなく、2車線道路が延々と続く。交通に関しては、まだまだこれからといったところである。
 とはいえ空港からコロンボまでの約50キロは、高速道路が整備されていて、これには驚いた。中国の援助で建設されたとか。ツアー中に乗車した貸し切りバスも中国製だった。
 以前は日本との関係が深かっただけに、この10年、20年でずいぶん変わったなあと思った。
  *   *   *
 最初の旅では、海辺に長く滞留した。私はまだ30代半ば。砂浜を目にすると走りたくなり、海を見るとバシャバシャと泳ぎたくなる”ヤングマン”だった。漁師のごとく毎日海に出ていたので、日焼けし過ぎて肌が荒れ、帰国後に皮膚科で診療を受けなければならなかった。とんだ大馬鹿野郎である。
 2度目の旅は、大学の先輩ふたりと主に内陸の古都・キャンディに滞在した。ハーブオイルを使ったマッサージ・アーユルヴェーダを体験したいと、美容関係の職に就く先輩(女性)が言うので、森の中のコテージを予約したら、街中からトライシクルで1時間もかかる辺鄙な場所だった。
 先輩と私は、さっそくアーユルヴェーダを体験してみたが、大した効果は得られなかった。だが、人里離れた森の生活は、心身に心地よく、生まれ変わったような気がした。
 キャンディ観光の白眉は、美しい湖と湖畔に建つ仏歯寺である。釈迦の歯がまつられていることからこの名がついたらしい。
 ご本尊は、釣り目で背の高い金ぴかの仏像だった。2度目の旅に対面したとき、寺の関係者とおぼしき人物が、仏像の裏側に手招くではないか。日本から贈られた木彫の仏像を近くで見せたかったようだ。それはいいのだが、布施を要求されたのには苦笑した。見せてくれとは頼んでへんで。あんたが勝手に連れてきたんやがな。
 今回は熱心に経を読み、祈りを捧げる老若男女のスリランカ人の姿が印象的だった。その表情が、なんとも慎み深く、かつまた美しい。この国に限らず、これまでに何百回と宗教施設に訪れているが、こんな神々しい光景を見るのは初めてだった。ひとびとの信仰心が篤いからだろうか。
 キャンディからバスで約1時間余りのダンブラの石窟寺院には、5つの石窟・石仏があった。古いものは紀元前、新しいそれは20世紀に入って建設されたとか。
 最古の寝釈迦は、趣きがあってたたずまいに威厳がある。ところが時代が新しくなるにつれて仏像のつくりが雑に見え、ありがたみがない。
 考えてみれば、日本の新しい寺院建築や仏像も同じで、莫大な予算をかけてつくっても、昔のものにはとうていかなわない。古ければいいというものではないが、新しければいいというものでもない。やはり時間を経ないと落ち着いた色、質感にはならないのだ。
   *   *   *
 私は現在、大阪市内に住んでいる。7年前、家の近くに、キャンディ出身者がシェフを務めるスリランカ料理店がオープンした。気になって入ったら、当地のカレー・ギャミラサが抜群に旨かった。昭和時代の小さなスナックを居抜きのまま使っているのも一興だった。
 カレーと言えばインド。ここは合計すれば3ヶ月くらい旅しているが、スリランカのギャミラサは、インド・カレーとはまったく違う。米飯の上に、数種類のカレーと具が乗せてあり、それらを混ぜて食べるのだ。辛味、甘味、酸味が口の中に次々とあらわれ、心とからだを刺激する。
 インドやスリランカ、ネパールを旅し、向こうの料理を何百回と食べているが、家の近くで食べたギャミラサがいちばん美味だった。以後、北川景子とたびたびこの店に通っている。
 オープン当初、客はそれほど多くはなかったが、SNSや雑誌のカレー特集で頻繁に紹介され、今では昼時ともなれば行列ができる繁盛店になった。いつだったか、カウンターで隣りの席の客に話しかけたら、千葉から来たと言っていた。
 今回の旅行では、かなりいいホテルに宿泊した。団体ツアーの強みである。朝・夕食のバイキングは、どこも合格点だった。
 私は食べることが生きがいだ。仕事は手を抜いても(嘘です)、食事を適当にやりすごすことはない(本当です)。
 今回、ホテルで色んなカレー、具を混ぜて、自分流にギャミラサを試みたが、味がぼんやりとして、大阪の贔屓店にはかなわなかった。ホテルのように万人向けではなく、野性味があるところがいいと改めて思った。
 今回のツアーでは、宝石店や食材店、紅茶専門店にも立ち寄った。スリランカは、ルビーやサファイヤなどの宝石の採掘で有名で、英国帝国主義が残した紅茶の産地でもある。
 私は家でカレーをよくつくる。立ち寄ったスパイスガーデンで、カレーに必要な食材、香辛料をたんまり買った。気合を入れて物色、購入しているのは私だけだった。
 数ヶ月前、高知県の知り合いから、大量の生姜を送っていただいた。近所におすそ分けし、生姜を使った料理をつくってもつくっても、なかなか減らない。ふと、インドなどで飲まれているミルクティー・チャイに、たっぷりの生姜を入れることを思い出した。
 ミルクティー用の紅茶の葉、おろし生姜、シナモンスティック、カルダモン、クローブ、少量の水を入れてぐつぐつ煮たあと、濃厚な牛乳を入れる。ピリピリするくらい大量の生姜を入れると、本格的なチャイができる。
 毎日嗜んでいたら、大量にあった生姜が、またたくまになくなった。ないと寂しくて仕方がない。チャイ(無し)シンドロームである。
 そんなときにスリランカに行った。帰りのトランクは、カレーとチャイの食材、香辛料でパンパンになった。私の目的は達成された。
  *   *   *
 団体ツアーには、スリランカ人のガイドが行動を共にしてくれた。流暢な日本語で、国の歴史や文化を教えてくれる。
「スリランカの道路には、エクボがたくさんあるんです」
 エクボは、道路のくぼみを指すらしい。比喩が巧みな上級者だった。そのガイドによると、国民は教育・医療費は無料だという。
 巨大な岩山シギリア・ロックの階段を登っていたときのこと。あるスリランカ人の一行が、登り専用の階段を降りようとしていた。
「これだからスリランカ人はダメなんですよ。恥ずかしいですね。教育がなってないんですよ!」
 ガイドが日本語で私たちに訴えた。するとすかさず、我らがツアーの一員が返した。
「そら、教育費はタダやもん!」
 ガイドの厳しい言葉を和ませる、絶妙のツッコミだった。実際に、その場は和んだ。
 私たちのグループは、関西のメンバーが中心で、ガイドの説明にメンバーがいちいちツッコミを入れる。そのやりとりが、聞いていて可笑しかった。なるほど、私はこういう文化の中で育ったのかと改めて思った。
 団体ツアーの参加者は、集合時間にはきわめて正確で、遅れて行ったこともある私は、肩身が狭かった。ツアーに参加すると、自分が帰属する社会の特質がわかって、それはそれで面白かった。
 1、2度目の個人・少人数の旅とは違い、団体ツアーは、スリランカ人民と接する機会は少なかったが、日本社会をじっくりと体験できた。フリー(ライター)は、団体で行動することが稀である。
 常夏の国から帰国し、現在は酷寒の関西にいる。覚悟はしていたが、めちゃくちゃ寒い。日常生活に戻り、私は再び、陽光が降り注ぐ中、砂浜をひた走る自分を思い浮かべている。<19・2・12> 
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benediktine · 3 years
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【【3.11アーカイブ】新型コロナウイルス、大地震…。想定外の危機に必要な為政者の心構え 「危機管理」が揺らぐ安倍政権。不安の悪循環から脱するため、過去から何を学ぶか】 - 論座 - 朝日新聞の言論サイト : https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020022500007.html : https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020022500007.html?page=2 : https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020022500007.html?page=3 : https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020022500007.html?page=4 : https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020022500007.html?page=5 : https://archive.is/E7ORx : https://archive.is/6Qtih : https://archive.is/mM7w2 : https://archive.is/QA5Za : https://archive.is/s25Bc 曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当) 2020年02月29日
 {{ 図版 1 : 新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で発言する安倍晋三首相(中央)=2020年2月26日、首相官邸 }}
 新型コロナウイルスの感染拡大への対応をめぐり、安倍晋三政権がこの7年余の長期政権下でかつてないほどの本質的な批判にさらされている。
 中国からの入国者の規制から、感染者が大量発生した大型クルーズ船に対する検査・隔離、あるいは感染防止のための暮らしの規制に関する指針づくりに至るまで、実効性のある初動対応を怠ったとの批判である。
 官邸主導が極まったことの反作用といえようか、菅義偉官房長官ら内閣官房に懸案処理が集中し、厚生労働省をはじめ現場との結節点に立つ組織の現実対応が後手に回る状況も否めない。
 その結果、危機がいつまでどこまで続くのか、国民が先を見通せず、不安を募らせるといった悪循環に陥っている。
≫――――――≪
■《一斉に噴出した長期政権の歪み》
 事実、たとえば日本経済新聞社の世論調査によれば、初動の屋内避難指示が批判を浴びた2016年の熊本震災の直後、政府の対応を「評価する」が53%で「評価しない」が35%だったのに対して、今回の新型肺炎に関しては、「評価する」40%、「評価しない」50%と逆転する。さらに熊本震災の場合は、内閣支持率を押し上げる効果がみられたが、今回はそれも真逆である。
 つまり、長期政権を下支えしてきた「危機管理」の確かさ自体が揺らいでいるのだ。
 くわえて、これも政権が選択した消費増税の影響もあり、昨年10?12月期のGDP(国内総生産)は予想を超えるマイナスを記録。さらに、国際市場も軒並み株価を下げ、もうひとつの身上だった「アベノミクス」も揺らぐ。「桜を見る会」や検察の定年延長問題をめぐっても、国会で疑惑は晴らされることはなく、ここにきて長期政権の歪(ひず)みが一斉に噴き出した観がある。
■《新型肺炎の不安除去を求める世論》
 このままでは、悲願の憲法改正はもちろんのこと、自民党総裁「4選」を含め、首相の政権戦略は根底から覆ることになろう。だいいち、これまで状況をリセットし政権をテコ入れして来た衆院解散・総選挙さえも、自在にその時期を選ぶ能力を失ってしまうに違いない。
 もっとも直近の世論調査を見れば、内閣支持率は急落するものの、立憲民主党など野党の政党支持率は一向に上がる様子はない。世論は無党派層の増大という「踊り場」に依然としてとどまる。
 どの政党の誰が、この政権に代わって新たな将来への道筋を示し得るか、安倍政権が立ち直る可能性はないのか――。世論は全体状況を冷静に見極めようとしているように見える。政権の打倒や擁護といった極端な政局論は別にして、なにより世論はいま、景気と深く連動し始めた新型肺炎危機への不安を除去する確かな方策を希求しているはずだからだ。
 ならば、この局面で為政者に必要な心構えとは何か、それを見定める必要があろう。
 {{ 図版 2 : 衆院予算委で答弁する安倍晋三首相=2020年2月28日 }}
≫――――――≪
■《阪神大震災を仕切った2人の官房副長官》
 {{ 図版 3 : 地震後、燃え上がる神戸市長田区(中央道路上)と須磨区(中央道路下)の住宅街=1995年1月17日、 朝日新聞社ヘリコプターから }}
 そのための教材、そして教訓が、近年の日本にはある。ひとつは1995年の阪神大震災だ。
 同年1月17日午前、地震発生から数時間後の首相官邸。社会党の村山富市氏を首相に担いだ自社さ連立政権にあって官邸を取り仕切ったのは、2人の官房副長官だった。事務方のトップである石原信雄氏と、新党さきがけの園田博之衆院議員(故人)だ。2人には一昨年、平成政治史を振り返る企画でインタビューをした(詳細は {{ 論座「二人の官房副長官が語る平成政治史」 : https://webronza.asahi.com/politics/articles/2018051100001.html }} で読める)。想定外の危機に臨んで為政者が何に悩み、いかに判断したかがありありと浮かぶ、生々しい回顧談である。
 石原氏は証言する。
 {{ 図版 4 : 石原信雄さん }}
 「午前10時からの閣議の前に月例経済関係閣僚会議があり、予定してた案件について議論していたんですけど、秘書官か誰かから死者が100人か150人出たという情報が途中で入ってきたので私は席を外して、当時の国土庁防災局長を呼んで聞いたら、たいした情報が入っていない。そのうち警察庁から、大変な状態だと、死者が相当な数がのぼると。なぜ国土庁に情報が入って来なかったかというと、兵庫県の防災用の電話がひっくり返って通じないわけですよ。通常の行政ルートの電話は来ないが、警察ルートは別なんです。警察電話で人的被害がどんどん入る。そこで急きょその日の閣議は震災にどう対応するかの話に変わった。すぐ必要な手段を取ろう、何でもやらなきゃいかんとなった」  「被災地で消防は現地にいるから救助活動がテレビに映るが、自衛隊が全然映らなかった。私の部屋にも電話で随分抗議が来た。村山さん(富市首相)が社会党の左派出身だから自衛隊嫌いで出してないんじゃないかと。そんなことないよとだいぶ言ったんですけど。村山さんはとにかく何をさておいても自衛隊にやってもらわにゃいかんというので、私は防衛庁に電話した。防衛庁で中部方面 総監部から姫路駐屯地の部隊に命じて出動させたが、かなり時間がかかった。神戸まではかなり距離があり、近づくと道路が寸断状態で車両が止まったりしてな かなか到着できなかった」
 一方、園田氏の証言はこうだ。
 {{ 図版 5 : 園田博之さん }}
 「朝8時から経済関係の政府与党会議がありましたが、話題は二信組問題。 震災はぜんぜん話題にならなかった。9時から閣議があり、担当大臣の小沢潔さんが『死者は2人』と報告したが、さすがに閣僚の間から『こんなところにいちゃまずいんじゃないのか』という声が上がり、現地に向かうことになった」  「そうしたら昼休みに、竹下登(元首相)さんから私に電話があった。『亡く なった人が500人を超えた。国の一大事だ。総理記者会見をしないといけない。国を挙げて取り組まないといけない』と言う。すぐ執務室まで行って村山さんに伝え、午後2時から記者会見をすることになりました」
 こちらから、「今ならそういう情報は官房長官に集約され、官房長官から総理に伝えると思いますが、そうではなかったのですね」と聞くと、園田氏はこう答えた。
 「だから、その後、法律も変えたし、官邸の中に危機対応のチームをつくった。そういうシステムになっていなかったので、自民党官邸だったとしても同じようなものでしょう」
■《改正された災害対策基本法》
 政府の災害対策本部の立ち上げも情報収集の方法も自衛隊の災害派遣も、平時に定められた煩瑣な手続きがあり、想定外の危機には限界があった。ただ、ここで想起すべきは、その年の暮れに災害対策基本法が改正された事実である。骨子は以下の通りだ。
============≫ ○災害が「著しく異常かつ激甚な場合」は、これまで必要だった「災害緊急事態の布告」がなくても、全閣僚による緊急災害対策本部を設置できる。 ○ 県知事の持つ自衛隊の出動要請権を事実上、市町村長にも認める。 ○災害現場では、自衛官に警戒区域設定や土地・建物の一時使用などの権限を認める。 ○国会閉会中でも海外からの支援受け入れに必要な政令を制定できる。 ≪============
 いずれも、危機対応を現実に合わせようとする行政と立法府の努力の末の「果実」であった。
≫――――――≪
■《忘れられない東日本大震災後の国会議員対談》
 {{ 図版 6 : 東日本大震災。津波にさらわれ、土台だけが残った家々=2011年3月19日、仙台・若林区の荒浜地区 }}
 もうひとつは、菅直人民主党政権下だった2011年3月11日の東日本大震災である。
 震災発生からほぼ1カ月後、筆者は田原総一朗氏が司会をするBS朝日の番組に呼ばれ、被災地である宮城県選出の民主、自民両党の国会議員2人の対論に立ち会った。一人は内閣府副大臣だった平野達男参院議員、もう一人は後に防衛相に就く小野寺五典衆院議員である。
 このときの対論は、自分の政治記者体験の中でも忘れることのできない豊かなものだった。語られたのはすべてが現場の体験に基づく具体論であり、政局臭は微塵もなかった。
 {{ 図版 7 : 小野寺五典さん=2018年9月18日 }}
 「これはぜひ今後の反省点にしていただきたい」と断った小野寺氏が、「(震災発生の)翌日、車で入った時にガソリンスタンドが全部しまっていて、オーナーに聞いたら『政府が緊急車両以外に販売するなという指示が出ています』と。給油待ちの車の列ができて緊急車両が通れなかった」と指摘。そして、高速道路も緊急車両以外は通れず、現場は重機の油がない。自家発電に頼る病院では重篤患者が亡くなりかねない瀬戸際だった、と続ける。  これに対し、平野氏は「当初は灯油も売らなかった。政府に電話して元売りに働きかけてすぐに放出してもらった。緊急車両を優先したのは一つの危機管理の考え方だと思うが、ガソリンスタンドで当初売らなかったのは私もいきすぎだと思う」と語り、さらに「最初の5日間は小野寺さんが言われるように、官邸は原発対応で精一杯だった」と認めたのである。
 {{ 図版 8 : 平野達男さん=2019年6月21日 }}
 さらに、小野寺氏が「家族の遺体を確認したいが車がないので中古車屋で買おうとしたら、車庫証明と住民票がないと売れない、と。かけあってようやく3日前、無くても買えることになった」と言うと、平野氏は「私も役所は今回の震災の凄まじさ、異常さを認識していなくて通常モードで仕事をしていたと思う」と応じた。  なかでも驚いたのは、政権の危機対応組織の新設とトップ人事に、自民党が知恵を出した一件だった。
 小野寺氏が「実は仙谷由人官房副長官(故人)に被災者支援対策本部長になってくれと申し入れたのは自民党。原発対応と震災対応を分けてやったらどうか、窓口を作って下さい、と。大島理森副総裁に同行し官邸に行って、この仕組みが出来た」と明かした。
 平野氏はどう答えたか。「自民党さんから言われたのは本当にありがたい。私どもも同じことを考えていた。このままでは窓口も分からない、必要なものを送り届けることが出来ない、と」。そして、「自民党さんとは政策協議をやって小野寺さんの言うように方向はほとんど一致している。政党の垣根を越えていろんなことが出来る可能性は高い」と言い切ったのである。
■《超法規措置は最低限。法整備を遅滞なく施す》
 石原、園田両氏が証言したように、想定外の危機に際して、為政者は二つの命題の狭間で厳しい選択を迫られる。
 何でもありとばかり超法規措置をなし崩しで連発するようでは、法治国家の原理原則は損なわれる。さりとて平時に定められた法制度に依拠するばかりでは危機は取り返しのつかない規模に拡大してしまう。あれかこれかでは、国民の不安を払拭(ふっしょく)することはできまい。
 むろん、そこに簡便なマニュアルなどあろうはずがない。ひとつ言えるのは、絶対的に必要な場合でも、超法規措置は最小限にとどめ、そのうえで遅滞なく法整備を施す、あるいは施す意思を明らかにする。そうした二枚腰の姿勢こそが、二つの命題の矛盾を解きほぐす道ではないか、ということだ。
 そのときに、政権・与党と野党に必要な姿勢は、平野、小野寺両氏の言葉に明らかである。すなわち、野党は将来に向け政権担当能力を示すうえでも、具体的かつ現実的な問題提起と対案をぶつける。政権・与党は自らの限界を深く認識し、野党の提起に耳を傾ける余裕を持って、オールジャパンの総合力を目指す――。
 教訓とすべきは、政党政治の本質に戻ることなのだ。
≫――――――≪
■《党利党略ではなく政党政治の本道を》
 実はあの時、背景に民主と自公の大連立を策する動きがあった。民主には政権延命の、自公には政権復帰という政局上の目論みはあっただろう。だが、危機に臨んでそうした党利党略が国民の心を掴(つか)むはずもなく、菅首相が乗り出した途端に、大連立の動きは雲散霧消した。
 党利党略では危機は乗り越えられない。繰り返すが、必要なのは、政党政治の本道を貫くことに尽きる。
 もちろん、それは目の前にある危機にも当てはまる。今からでも遅くはない。
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kachoushi · 2 years
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各地句会報
花鳥誌 令和4年9月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和4年6月2日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
愛猫の裏声しきり猫の恋 喜代子 吾が枕かすかに匂ふ梅雨の夜 都 忘られぬ都忘れの名も色も 同 君待ちていつもの位置に置く円座 同 夏至の日の夕日急がず海に落つ 同 雨上る藍より青き四葩かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
老頭児の浜灼けさらし雲の峰 順子 サンドレスのボタン外して眠りをり 和子 又ひとつ汽笛と薔薇の香を混ぜて 三郎 海風に揺れて売らるるあつぱつぱ 光子 夏暖炉婦人の長き留守を待つ 慶月 又違ふ汐風と薔薇の香りと 三郎 もう薔薇は厭きたと銀髪の女 千種 開港の跡ことごとく薔薇として 同 ロザリオを石のクルスに掛くる夏 炳子
岡田順子選 特選句
枇杷のなるフランス軍の駐屯地 きみよ 又ひとつ汽笛と薔薇の香を混ぜて 三郎 丸窓を過ぎるマダムの夏帽子 眞理子 乳母車より乗り出してあぢさゐへ 光子 十字架と昼を沈めて夏の蝶 和子 麦秋の港から来る貨物船 いづみ 海風を拾ひ歩きの夏帽子 はるか 開港の跡ことごとく薔薇として 千種 潮の香も薔薇の香もある司祭館 炳子 客死せりそよぐバナナの葉の下に いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
鯉幟降ろされ空は日常に 佐代子 久々に人の気配や四葩咲く 益恵 漁期終り蜑六月の浜に立つ すみ子 青嵐一往復に果つ鉄路���益恵 若きらは羽化登仙に夏の町 悦子 骨酒となりて香の立つ岩魚かな 宇太郎 沼に立つ青鷺衛士の貌をして 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
梅雨蝶の低くころがるやうに飛び 秋尚 十薬の花の展ごり年尾句碑 美枝子 天辺から影の崩るる栗の花 秋尚 紫陽花や湿りを帯びし杖の音 三無 やとの風静かに流る菖蒲園 瑞枝 梅雨曇陽子の墓所に赤き供花 亜栄子 河鹿鳴く信濃の里の蒼き夜 美枝子 錆色に形とどめて朴の花 亜栄子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
太陽の金色に燃え麦の秋 中山昭子 夏潮の深き浅きに海女の息 世詩明 麦秋や金の波打つ十町歩 英美子 耳すませ月下美人のひらく音 同 夏燕影を落とさぬ速さかな みす枝 神楽笛青田の波を操りて 時江 ひとところ湧くがごとくに蛍舞ふ 信子 気が付けば妻は近くに蛍の夜 三四郎 田植済み一村深き寝息かな みす枝 句友逝き麦秋の野の遺さるる 中山昭子 刻刻と力漲る植田かな みす枝 水現れて二つに割れて女滝かな さよ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
路地裏に古書店短夜のデジャヴ 登美子 十薬の花を巡りて隣家かな 紀子 赤い服着て子らの行く夏の森 あけみ 通院の道すがらとは薔薇に眼を 令子 薔薇園のアーチを出れば此岸なり 登美子 薔薇の園老い就く母を飲み込むる 同 薔薇園へ行きしアーチを潜りきし 令子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月15日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
夜には夜の風の匂ひや遠蛙 雪 はつきりと蛙となりし声に啼く 同 庭下駄に僅かな湿り梅雨の宿 千代子 時鳥雄島の森を鳴き交し 同 十字架の見えつづく道薔薇咲ける 令子 ジューンブライドも年かさね老いてゆく 同 藍深き防具の少年青嵐 笑子 寺の蟻行き着く先は経机 泰俊 放課後の曲は窓より万緑へ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
涼しさを木々が集めてゐる故山 かづを 日本海梅雨てふ黙のありにけり 同 靴脱ぎに僧の下駄ある走り梅雨 たいし 能面の深さ秘めたる梅雨の宿 同 涼しさは江戸の名残りの箱階段 千代子 観音は金色にして梅雨の中 和髙畑子 剣持ちと神の使ひの伊勢神楽 やす香 白きものばかり干されて夏に入る 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月17日 さきたま花鳥句会
片削ぎの武甲の嶺や夏霞 月惑 菖蒲田や八ッ橋傘を除け合ひて 一馬 五月雨や氷川の杜を浄めける 八草 ほむら立つ大地哀しき麦の秋 裕章 白絣母の遺品の鯨尺 とし江 白蓮と言へどほのかに紅を乗せ ふじ穂 水匂ふ闇をひきずり蛍狩 康子 水に映ゆ早苗見下ろす浅間山 恵美子 赤き薔薇ノスタルジーと名のありき ミトミ
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令和4年6月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
青蔦に窓を狭めて駐在所 斉 頂上に遺跡眠らせ夏木立 慶月 あどけなく谷戸の早苗のそよぎをり 幸風 悠然と闇ゆるがせて黒揚羽 軽象 古の山気を纏ひ黒揚羽 炳子 蟻行くや弥生時代と同じ道 佑天 釣鐘を五つぶら下げ茎傾ぐ 白陶 木下闇鎮もり眠る木霊達 眞理子 くるぶしを立ち上りくる草いきれ 千種 乗り換へし草のさ揺れやかたつむり 同
栗林圭魚選 特選句
蜘蛛の囲や無防備なりし腹見せて 亜栄子 十薬や森の􄼱間を埋め尽し 同 雨後の朝でで虫のそり弛むかな 同 しやぼん玉子等の高さに風集め 同 塗り残したるが気掛り半夏生 秋尚 緑陰に尺八びやうと流れをり 佑天 朝方の雨も上りて破れ傘 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月20日 萩花鳥句会
ホトトギス啼きし裏山雨後の夜 祐子 夢うつつ公金一獲明易し 健雄 夜通しの仕事となりし辣韮漬け 恒雄 梅雨寒や足元摩るひと夜かな ゆかり 坂道を蹴上がり来るや青嵐 陽子 地下足袋で踏んばる竿に鮎跳ねる 美恵子
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令和4年6月25日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
大緑蔭佇む人も青みたり 三無 公園の何処を歩すも涼風に 怜 雛鳥の如く口開けかき氷 史空 半夏生あふれて白き風光り ます江 見送りは紫陽花揺れる線路傍 エイ子 日に向かひ一途に咲くや苔の花 貴薫 緑陰や木々のざわめき鳥語落つ エイ子 紫陽花に圧倒されてしやがみても 和魚 一歩ごと紫陽花の色変りゆく ことこ 梅雨晴れや台地の風の心地良き エイ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
神池は母なる海へ蜻蛉生る 慶月 炎天へ神の鳩にはなれずして 順子 雅楽笛浮遊してゐる風死せり いづみ ぬつと黒く太く鳥居が茂より 和子 灼くる杜かの海鳴りのはるかより はるか 籐寝椅子かつては海の見えし部屋 要 短夜の狛犬の見た海の夢 いづみ 玉砕はこんな日かとも油照 慶月
岡田順子選 特選句
濠ひとつ蓮の樹海となりしかな 俊樹 弟も妹も亡く合歓の風 梓渕 ぬつと黒く太く鳥居が茂より 和子 枇杷落ちて錆びゐるままの男子校 要 短夜の狛犬の見た海の夢 いづみ 海千山千の漢汗ぬぐふ 政江 神池は母なる海へ蜻蛉生る 慶月
栗林圭魚選 特選句
アッパッパ気怠い午後の瞼なる 政江 灼くる杜かの海鳴りのはるかより はるか 白鯨のやうな雲ゆく日の盛り 順子 黒揚羽気怠き昼の残りけり 炳子 迷ひ出し土偶めきたるサングラス 順子 神池の石灼け鳩の足赤く 要 海千山千の漢汗ぬぐふ 政江 鮮らけく小雨に浮ぶ濃紫陽花 幸風
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月31日 鯖江花鳥俳句會 坊城俊樹選 特選句
文机に古き艶書や多佳子の忌 一涓 江戸見遣る梅雨入も漂と佐内像 同 還俗の一人となりてサングラス 同 笠深く垂れて編笠百合となる 雪 芍薬の花の何処かにいつも蟻 同 昔から好きに生きてる単帯 昭上嶋子 蛍の灯恋の暗号送りをり みす枝 口閉ぢしままの狛犬苔の花 たゞし
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
暁に鳴るは鉄砲百合の花 成子 花楝仏心遠くけぶらせて 久美子 紙飛行機飛んで戻らぬ夏の海 ひとみ 少女らの腿でわけ入る青山河 佐和 海酸漿鳴らす少女の私へと ひとみ 白玉や雨の過ぎたる城下町 喜和 指鳴らす彼は嫌ひで空梅雨で 由紀子 乾坤の弾みさながら雨蛙 朝子 あめんぼの踏むは魔法の水ならん 睦古賀子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年6月 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
団子虫ころりころりと梅雨に入る 雪 此の辺りかつて洗ひ場初蛍 同 九頭竜の瀬に囮鮎てふ哀れ 清女 草や木も梅雨の暗雲塗りこめし 希 葭切の物申すかに急かしをり 笑
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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okinawagram · 4 years
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那覇散歩 福州園~若狭海浜公園~波の上ビーチ~波上宮 県庁前から、ゆっくりと散歩! パシフィックホテル沖縄でランチ! #那覇散歩 #那覇市 #福州園 #沖縄を楽しむ #沖縄を盛り上げたい #沖縄旅行 #沖縄好き #沖縄大好き #沖縄好きな人と繋がり ..
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ronpe0524 · 4 years
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いよいよ映画祭シーズンな10月(2020年10月の日記)
■2020/10/1 木曜日。最近の朝食はサラダチキン&ミックスチーズのサンドと、ハム&チェダーチーズのサンドを交互に食べている。いつ娘が飽きるか、それが問題だ。『VIDEOPHOBIA』のクリアファイルが届いた。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭のパンフも届いた。SKIPシティについては前日に行われたオンラインQ&AのアーカイブがYouTubeにきたので見てみる。事前に自分が送った質問にも答えてもらえていてありがたい。今年はじめてオンラインで映画祭を行われているSKIPシティだと思いますが、ラインナップ、配信方法、価格、トークなどの準備や仕組みも含めてオンライン映画祭の完成形なんじゃないかと思える。かなり優秀なスタッフがいるんじゃないだろうか。見る時間が足りないことが残念だ。夜はそのSKIPシティ国際Dシネマ映画祭 の配信で『コントラ』を見る。
■2020/10/2 金曜日。 お昼、かつやの 豚すき煮肉うどんチキンカツ丼を食べたくてまぁまぁの距離を自転車で行ってみる。以外と近くて20分ぐらいで到着した。夜はオンライン試写で『靴ひも』を視聴。
■2020/10/3 土曜だけど娘は土曜登校日。給食はないのでお昼には帰ってきてしまうのだけど、9時開始の回であれば映画に行ける!ということでイオンシネマむさし村山で『小説の神様 君としか描けない物語』鑑賞。舞台挨拶中継付き。映画終わったら急いで帰宅。娘の下校には間に合った。娘とお昼を食べてから、午後は娘とNintendo Switchで配信された「スーパーマリオ35」をやってみる。Switchは通常、奥さんの「どうぶつの森」専用機だけど、これは娘がやったみたいというので特別にやらしてもらった。娘は自分ではプレイしないのでもっぱらお父さんがプレイすることになる。久々にゲームをする、というか、まともにSwitchのコントローラーを握るのがはじめてなのでそれに対してなかなか慣れない。基本的にラスト1人になれば良いゲームなんだけど、最高でもラスト3人になるとこまでだった。でも娘はなかなか楽しめたようで何より。さらに図書館に行き娘の読む本を借りてくる。宿題とかピアノとかもやらせて、それでも寝る準備が早くできたので、「9時には寝るんだぞ」と云い聞かせて僕はもう1本映画を観に再びイオンシネマむさし村山へ。『ヒットマン エージェント:ジュン』鑑賞。あと松重豊さんがはじめたYouTubeに向井秀徳がゲスト登場したので見る。これが最高だった。見ようと思っていた『ザ・ボーイズ』S2E7は消えてしまっていて見れず。くそー。
■2020/10/4 日曜日。今日は娘と実家へ。のんびり過ごす。お昼ご飯を食べたあと、キンザザのイシヤマさんが企画してくれたZoom座談会的なのに参加。オンラインとはいえイシヤマさんとははじめて話す。ただテキスト上だとまぁまぁ話している感じなのでほぼ違和感なし。いつもチャットルームでおみかけする どどんぐりさん、お久しぶりのHOKUTOさんとも話せて楽しかったです。もうちょい話すネタを考えていけば良かったなぁと思ったので次回があれば何か準備しておこう。あとイシヤマさんが僕がだらだら書いている日記を読んでくれてるみたいで嬉しかった。DAZNで湘南×FC東京戦を見る。このメンツで勝てたのはでかい。夕飯までご馳走になって帰宅。夜はヨーロッパ企画の『京都妖気保安協会』ケース4をすべり込みで見る。いやー見逃さないで良かった。いろいろな意味で今年なくなってしまったヨーロッパ企画の本公演を埋めるような作品になっていて、終盤はちょっとゾクゾクしてしまった。復活したAmazon Prime『ザ・ボーイズ』S2E7を見る。stillichimiyaの新しいラジオ番組を聴いたらどうかしてる内容だった。これを毎週やるのかな。
■2020/10/5 月曜日。うーん、天気はどんより。気持ちもなんだか重い。今週は仕事でやなきゃいけないことがいろいろあるので気持ちが重くなっているのだろう。メールを開いてもめんどくさそうなやつが複数ある。今週は午前半休も2回ほど取りたい。僕モテの原稿も完成していない。いろいろ焦ってしまうがひとつひとつやっていこう。オンライン映画祭の狭間、やっと通常の映画が見れる。U-NEXT『悪魔の毒々モンスター 東京へ行く』を見る。若きラビの雄姿。日本の描写は楽しいけど、アメリカの場面はつまんなくてたしかに眠くなりますね。
■2020/10/6 火曜日。午前半休で八王子の病院へ。先日の検査の結果を聞く。問題なくて良かった。まぁ問題あれば通院日とか関係なく電話かかってくるでしょうけどね。スーパーで買い物して昼には帰宅。午後からは仕事。ミーティングの連続。ミーティングしながら下校した娘におやつを出して、英会話に行かせる準備。あわただしい。TIFFのスケジュールが出て、TIFF Studioも見る。予定を立てはじめる。夜はAmazon Prime『ブラック・ボックス』を見る。ブラムハウス×Amazonの企画その1。ブラムハウスらしい1作。ちょっとインターバルがあったがAmazon Prime『ある家族の肖像/アイ・ノウ・ディス・マッチ・イズ・トゥルー』E5を見る。見てない間に日本語タイトルがついていた。
■2020/10/7 水曜日。午前中は海外の上司と1時間ほどのミーティング。疲れる。午後は国内のエンジニアとミーティング。日本語は楽だ。夜はオンライン試写で『パピチャ 未来へのランウェイ』を見る。これも監督のトーク付き。Fan’s Voiceさん、いつもありがとう。ルヴァン杯の準決勝、FC東京は川崎に完勝。やったぜ。Amazon Prime『ある家族の肖像/アイ・ノウ・ディス・マッチ・イズ・トゥルー』E6を見る。これで完走。よくある表現過ぎるけど、これは6時間の映画だ。たぶんこういう結末なんだろうな、という安易な予想通りにはならないラスト。つまりミスリードだったわけだ。つらい話だけど面白かった。
■2020/10/8 木曜日。午前半休もらってTOHOシネマズ立川立飛へ。劇場では初鑑賞となる『フェアウェル』。オンライン試写と同じ場面でグッときた。雨の日に観るには良い作品。買い物をして帰宅。午後から仕事。夜はTIFF Studioを見る。週末にシネマクティフ東京支部の音声配信を収録するのでどの作品について話すかを考える。そろそろDOKUSO映画館の無料期間が終わるので『LUGINSKY』をもっかい見る。
■2020/10/9 金曜日。夜はVimeoで『km』鑑賞。TIFFの予習である。日本代表の試合を久々に見る。久保君をもっと見たかった。Amazon Prime『ザ・ボーイズ』S2E8を見る。これでS2完走。けっこう意外な真相だったよ。
■2020/10/10 土曜日。DOKUSO映画館とスターチャンネルEXを解約。いままでありがとう。そのうちまたお世話になります。台風が心配だが娘と吉祥寺の眼科へ。天候のせいかめちゃくちゃ空いててすぐに終わる。ありがたい。娘を習い事におくってから僕は立川へ。キノシネマ立川で『エマ、愛の罠』鑑賞。タイミング良い上映回があり観れて良かった。娘を迎えに行って帰宅。今夜は娘の好きな かにかまを使った料理ばかりをつくるかにかまパーティ。僕の低レベルな料理スキルでもできるものを全部つくる。娘は満足したようで何より。娘を寝かしつけ、AKIRA君が出演するというラジオを聴く。こういうローカルな映画番組があるのはいいな。生放送ってことにもびっくり。途中までしか聴けなかったけど。シネマクティフ東京支部のメンバー3人で音声配信収録。1時間半ほどで3本。疲れたが1本だけ編集して寝る。
■2020/10/11 日曜日。午前中から実家へ。お昼にピザをご馳走になる。娘を両親にたのんで僕は池袋へ。弟が車で飯能駅まで送ってくれたので西武池袋線でのんびり向かう。駅名を見てるだけでシャーマンキングな気持ちになります。シネマロサで先行上映となる『VIDEOPHOBIA』鑑賞。舞台挨拶付き上映とか久々で、やっぱこういうのは楽しい。実家に戻り夕飯をいただいてから娘と帰宅。BS録画『名探偵ポワロ』E27を見る。ベネズエラ映画祭(オンライン)『アリーナ』を見る。もう1本ぐらい映画を見たかったがものすごい睡魔がやってきて寝落ち。寝ても寝ても眠い。
■2020/10/12 月曜日。仕事でいろいろ依頼されていることがたまってきていて申し訳ないです。映画祭期間はちょっと休みたいのでそれまでにすっきりしたいのだけど。娘の英会話、いま担当している先生が家族の都合もあり帰国してしまうとのこと。ちょっとさみしそうだったので「お手紙を書いてみれば」といったらせっせと書き出した。発音やヒアリングが(僕なんかバカにされるぐらい)良いのはわかっていたけど、ゆっくりだけどすでに文章が書けることに驚愕。たまにスペルがわかんなくって「〇〇」ってどう書くだっけ?と云われるが、僕は娘の発音が良すぎて聞き取れない。よく聞いてみたら「with」だった。手紙を書いていたからいつもより寝る時間が15分遅くなってしまったがほめてあげる。このまま英語がナチュラルに使えるようになると良いなぁ。綾辻行人先生のトーク配信をアーカイブで見る。「来年執筆開始予定の新作」の話だけでも見る価値はあった。いよいよか。ベネズエラ映画祭(オンライン) 『グアコをすべて』を見る。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E1を見る。
■2020/10/13 火曜日。ちょっと寝坊。朝、友人からおめでたい報告が。こういう報告をわざわざしてくれることが嬉しいよ。早く気軽に会えるようにならないかなぁ。昼は仕事を抜け出し図書館に行ったりスーパーで買い物したり。東京支部の音声配信をupしたり。忙しい忙しい。仕事も忙しいし。娘はアメリカに帰国してしまう英会話の先生にお手紙を渡せたようだ。「本当はダメなんだけど特別にハグしたんだ」と話していた。うーん切ない。娘の夕食はセブンイレブンの「炭火で焼いた牛カルビ焼き 100g」。冷凍のやつ。最近週一で食べている。たしかにうまいし娘もよく食べる。そして楽。TIFF Studio、TOKYOプレミア2020(略してトープレと云うらしいな)の日本映画の紹介回。やっぱ面白そうなの多い。日本映画はその後観ることができる可能性が高いけど、今年は貴重なゲスト来場作品が多いだろうし1本は観たいな。サッカー日本代表の試合を観ていたけど途中で寝てしまった。ベネズエラ映画祭の映画も途中までになってしまい、『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』も見れず。ぜんぜん時間がない。
■2020/10/14 水曜日。なんかスマホのアラームが鳴っていない気がする。なんでだ。娘に起こされてなんとか起きる。小学校の運動会はパートごとに分割開催。僕は仕事で見にいけなかったが、今日は徒競走(の練習)をやったらしい。うちの娘は意外の速く入っていたらしいが、終盤で転んでしまったとのこと。かわいそうに。映画祭のスケジュールを仮組みした。去年以上に観れないですけど仕方ない。あとはうまくチケットが取れるかだなぁ。夜は娘の寝る準備を早めに完了。「9時には寝るんだぞ」と云い聞かせて僕は映画を観に行く。イオンシネマむさし村山で『シカゴ7裁判』鑑賞。すごい集中力で映画を観た。TIFFのガイドもGET。帰宅してから「映画秘宝」の企画である『ラヴクラフトカントリー』S1E1のオンライン試写。これはちゃんと配信されたらお金払ってみます。シネマクティフ東京支部の音声配信でPFFのことを話したら、PFFの公式さんとhaiena監督からコメントをもらっていた。恐縮です。
■2020/10/15 木曜日。今日もせっせと自宅業務。ミーティングがない日は平和だ。お昼は運動もかねて図書館まで歩いていったりコンビニで食料を買い足したり。フィルメックスのオンライン上映作品が発表された。多少無理して鑑賞予定に入れていたフィルメックス作品を外す。TIFFを増やす。娘の習い事、木曜日はオンラインの英語授業となり、いままで行ってた英会話が1日減った。この変更により僕は木曜の夜も映画に行けるぞ!ということで娘の寝る準備をしてからイオンシネマむさし村山へ。『UFO真相検証ファイルPart.1/戦慄!宇宙人拉致事件の真実』鑑賞。なんだろうこれは。まぁまぁ大きいスクリーンだったけど客は僕ひとりであった。ベネズエラ映画祭(オンライン)『パピータ・マミ・トストン』を見る。京都国際映画祭(オンライン)『利用規約の男』『アルム』を見る。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E2を見る。あとPodcast『女ふたり、映画のばなし』におたよりを送ったら読まれてました。いえーい。
■2020/10/16 金曜日。娘の小学校の運動会。分割開催のDAY1。今日は親が見に行けない日。いつもより30分ぐらい早く登校するというので5時45分ごろに起きた。眠い。お昼はマックで食べる。娘が欲しがっているおまけのハッピーセットが今日からはじまるからである。テイクアウトしようと思ったけど空いていたので店内で。伊集院光のラジオを聴きながら。オフィスで働いていたときもこんな感じでたまにマックで食べていたなぁと。いつになったら通常勤務に戻るのだろうか。もう戻らないのだろうか。とりあえず先月、オフィスの席が引っ越されたはずなので一度開梱をしに行かなければならないのだけど。午後、娘が帰宅。徒競走は転ばなかったらしい。あと最下位ではなかったらしい。もうお父さんはそれだけで満足です。頑張ったのでハッピーセットのおまけをあげたら喜んでおりました。WOWOWオンデマンド『おいしい家族』を見る。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E3を見る。日付変更と同時にフィルメックスのチケ取り。4作だけなのですぐ終わる。朝日ホール分はシステムが変わったけどピンポイント指定ができずブロック指定に。今年は1作だけだけど、ちょっと改悪ですね。
■2020/10/17 土曜日。朝から雨。娘に英会話をやらせて朝食を食べながら小学校のサイトをチェック。やはり本日の運動会は中止(延期)とのアナウンス。しょうがない。学校がなくなったので娘と実家に遊びに行きのんびりすごす。夕飯は娘のリクエストでスシローへ。回転寿司にハマっているうちの娘です。京都国際映画祭(オンライン)で『ブラック』『ハチワン結婚相談所』『zaco』を見る。Netflix『40歳の解釈:ラダの場合』を見る。
■2020/10/18 日曜日。なんとか晴れました。無事に運動会・後半の開催。娘の花笠音頭を観に学校へ。もうピンポイントでここだけしか観に行けない。みんな元気に踊っていて良かった良かった。お弁当はなしで昼には帰ってきてしまうので、娘のリクエストであったマックのハッピーセットを買っておく。食べながらスマホで撮っておいた花笠音頭の動画を見たり。午後は自宅でのんびり。京都映画祭(オンライン)『SHUKKA』、『ロイドの神出鬼没』を見る。DAZNでFC東京×横浜FCを見る。負けたー。エリア内のハンド3回ぐらいありましたけどね。。あと娘の本棚やレゴの整理を手伝う。部屋がすっきりしただろう。まぁまたすぐにたくさんのレゴ組み上げてしまうんでしょうけどね。夜、娘の寝る準備をして、「9時には寝るんだぞ」と云い聞かせてMOVIX昭島へ。『スパイの妻』鑑賞。なるほど映画『鬼滅の刃』効果で人が多い。稼げるだけ稼いでくれ映画館。僕も早く観たい。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E4を見る。
■2020/10/19 月曜日。雨だ。娘は運動会の振り替えで休み。僕は仕事。けっこう仕事がやりにくいぞ。まぁ4月とかはこんな感じだったなぁと思いだす。yukaさんに買っておいてもらったケリー・ライカート本が京都から届く。ありがとうありがとう。イメフォフェスには行けなかったけど、キノコヤで上映のある1本だけでも観たい。ソフト化などされている過去作については全部見ておりますケリー・ライカート。夜はオンライン試写で『ストックホルム・ケース』を見る。Fan's Voiceさんは今回も監督トークまで付けてくれていてありがたいです。ロバート・バドロー監督、TIFFで上映された『ブルーに生まれついて』のQ&Aを見たのがもう5年前。忘れもしないバルト9での上映だ。上映後Q&A中にメモを取ろうとスマホの電源を入れたら母からのメールあり。祖母が亡くなったとの内容で、すぐ会場を出て実家に向かったのを思い出す。なんか遠い昔の記憶のようだ。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E5を見る。管理人ハナ・グロースの回であり、E1からのふわふわとしていた彼女がどんな状況に置かれていたのかがわかるエピソード。面白い。
■2020/10/20 火曜日。お昼は早めに家を出て「かつや」にするつもりだったんですけど留守番をたのまれてしまい出遅れ。でも「かつ」な気持ちだったのでセブンイレブンでカツ丼を買って食べる。夜、娘の寝る準備が問題なく終わったら映画を観に行こうと思っていたが無事に終わらなかった。自分と娘がいくら頑張ってもしょうがない要素があるとイライラしてしまう。娘を寝かしつけながらもういいやって感じで寝てしまった。
■2020/10/21 水曜日。朝4時ぐらいまで娘の部屋で寝てしまっていた。体が痛い。そのまま起きてジミソ的スタイルで朝活。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E6を見る。話の裏にあったものが見えてきた。WOWOWオンデマンド『ヘルボーイ(2019)』を見る。去年、手術・入院期間で観れなかった映画だ。今日は娘が生活科見学、いわゆる遠足。昭和記念公園に行くらしい、電車で。僕は2ヵ月ぶりぐらいの出勤。電車が遅れて最寄り駅のベンチに座って待っていたら小学生たちがわらわらと到着してしまった。離れた場所からめざとく僕を見つけた娘が手をふってくれている。がんばって昆虫探しとかしてきてくれー。出社。9月に自席が引っ越されていて、そのあと初の出社となり荷物の開梱をがんがんする。だいたい荷物を出して気づいたのだけど僕の袖机が見当たらない。他の人の席にはある。ざっとフロアを見てまわったが見当たらず。困ったな。荷物も入っていたのですが。セクレタリの人に連絡、捜索してもらうことに。無事に見つかるだろうか。お昼は会社の近所の丸亀製麺で。前は週2ぐらいで食べてたのになー。午後は帰宅し在宅勤務に切り替え。娘が帰宅する前には戻れて良かった。夜は映画『VIDEOPHOBIA』のZOOM前夜際に参加。こういうトークも面白い。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E7を見る。
■2020/10/22 木曜日。お昼は「かつや」でがっつり食べる。午後はややお腹の調子が悪い。あんま食べれなくなってきたなぁ。夜は『水上のフライト』をオンライン試写を見る。インターバルなしでMCTOSお題映画『40歳の解釈:ラダの場合』に参加。これまた面白かった。ラロッカさんがいま映画館に行くのは躊躇してる理由もなんとなくわかった。なるほど。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E8を見る。
■2020/10/23 金曜。ミーティングの連続でやや疲れる。夜、なんとか娘の寝る準備が早く終わる。「9時になったら寝るんだぞ」と云い聞かせてMOVIX昭島へ。『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』鑑賞。満席ではなかったけどまだお客さんいっぱい。 映画館(シネコン)はこの一作でかなりの延命になるだろう。他の作品がシネコンでかからなくなってしまうとか、劇場が混んでいて他の作品のパンフが買えないとか、普段から映画館に行っている人の声が聞こえてくるけど、今はそんなことを云っている場合ではないと思うし、この状況を心から歓迎しなくてはいけないと思います。映画館はここぞとばかりに上映回数を増やして儲かってほしい。難しいかもしれないけど、年に1作(できれば2作)鬼滅映画を公開して、映画館の経営が安定するようにして、僕らも安心したいです。これで『鬼滅の刃』という作品が変な作品であるならば微妙な気持ちにもなるんだろうけど、面白い作品だと思うので応援したい気持ちしかないです。Netflix『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』E9を見る。これで完走。素晴らしいです。
■2020/10/24 土曜日。本日は娘の英会話のハロウィンパーティ。朝から。うちの両親が車で送ってくれるというのでいっしょに行く。今年の娘はレトロなナースになっておりました。マスクしてても違和感なし。ハロウィンが終わるタイミングで迎えに行く。車にのせてくれた先生の仮装がスターバックスだった。店員ではなく、ラテかなんかのドリンクの仮装だった。今度は別の習い事に送る。この移動のタイミングで10時になりTIFFのチケット発売。スマホのみでなんとか7本購入。車の中だったのでやや気落ち悪くなってしまった。そのあと渋谷へ。P.O.N.D. ~パルコのあたらしいカルチャーフェスティバル~ @ GALLERY X。グッチーズのブースでカードダス・マシンまわしてムビ札を買う。店番してた降矢さんにも挨拶。ユーロスペースで『アイヌモシㇼ』鑑賞。娘を迎えに行って、スーパーのイートインスペースでTIFFのチケ取りその2。16時は9枚購入。やや繋がりにくかったけど、あらかじめすっきり購入順を決めておいたのでなんとかなりましたね。夕飯の焼き鳥買って帰宅。夜はP.O.N.D. の配信トークをがっつり見る。これまた面白かった。Netflix『クイーンズ・ギャンビット』E1を見る。
■2020/10/25 日曜日。娘と実家へ遊びに行く。この実家でのんびりできる時間があるから僕らはやっていけてる気がする。お昼はデニーズのテイクアウト。すみっコぐらしのキャンペーンでクリアファイルとかノートをもらう。まぁこれをもらうためにデニーズのテイクアウトなのですが。娘を両親にみてもらい久・々・散・髪!だいたいいつも日曜の14時に散髪に行く。「山下達郎のサンデー・ソングブック」が聴きながら散髪できて楽しい。床屋のおじさんがめちゃくちゃしゃべるのであまり聴こえない部分もありますが。ちなみに「山下達郎のサンデー・ソングブック」は読者からのリクエストとかおたよりをけっこう読み上げますが、みなさん本名ですよね。なんかそういう決まりがあるのかしらん。さっぱりして実家もどり。娘がどんぐりを拾いにいきたい、と云うので近所の公園やら森に行ってみる。両親もつきあってくれた。どんぐりはたくさん拾えたが、娘がほしがっていたクヌギのどんぐりは見つからず。今後また他を探してみよう。夜ごはんはワンタンの皮にかにかまやチーズ、ウインナーを入れたやつ。包むのは娘にやらせてみる。最近こういう料理の手伝いとかに興味をもっているが、時間に余裕がある日曜ぐらいしかできない。とても楽しそうで、こういう時間がもっと作れたら良いなぁと思う。夕飯後に帰宅。娘の寝る準備が20時ごろ完了。ふー。娘はあまった時間で動画を見たり本を読んだりできる。僕は映画を観にいける。ホッとして娘のベッドの上に座りながら目をとじた瞬間に時がとんでいた。目が覚めて、やっちまった!と思いながら時計を見ると20:38、観たい映画は21時開始。娘に「9時になったら寝るんだぞ」と云い聞かせて自転車でMOVIX昭島へ。間に合った。21時からの『スタートアップ!』を鑑賞。コンビニで買い物をして帰宅。あわてて家を出たのでエコバッグ的なものを持っておらずコンビニ袋に入れてもらった。たまにならぜんぜん良いですよね。Netflix『クイーンズ・ギャンビット』E2を見る。
■2020/10/26 月曜日。起床時間である6:15に起きたら、娘がもう覚醒していた。なんかいつもよりテキパキと朝の英会話をやったり朝食食べたり学校の準備をしたり。いつもこのぐらいのやる気で動いてくれればなぁ。娘が登校するまでに30分のラジオを聴く余裕すらありましたよ。お昼に再発されたTIFF『魔女見習いをさがして』のチケ取りにトライ。モノノフの会社の先輩の手伝いです。Netflix『クイーンズ・ギャンビット』E3を見る。映画『シュシュシュの娘』の生配信が急にはじまったのでそれを見る。まだ作品を観れるのは1年ぐらい先でしょうね。映画を1本見ようと思ったがあまりの睡魔に途中で撃沈。
■2020/10/27 やや寝坊の火曜日。娘が学校に向かったあと、僕モテ・メルマガの情報コーナー原稿を送信。映画祭の情報だらけ。いよいよですね。僕が働いている会社はアメリカの会社で、仕事上の1年の終わりが10月で、11月から次の1年の開始されることになります。つまり10月がいろいろな締めであり、いろいろをまとめなくてはいけなくて多少忙しい。めんどくさい。夜、娘を寝かしつけて、このまま寝てしまうかもなぁ、と思っていたらまんまと寝てしまった。映画とかドラマとか見たかったのに。
■2020/10/28 深夜に起きて自分のベッドに移動、また寝てしまった。結局朝6時まで寝ていたのでトータル9時間ぐらい寝ていたよ。体調悪いのだろうか。睡眠たっぷりではじまった水曜日。本日もラジオなどを聴きながら自宅仕事です。水曜は英会話スクールがなくピアノ教室に行くうちの娘。ピアノは30分程度なので他の曜日に比べてとても余裕がある。早く寝る準備が終わったので「9時になったら寝るんだぞ」と云い聞かせて僕はMOVIX昭島へ。『空に住む』鑑賞。『鬼滅』映画のおかげでシネコンにはまぁまぁ人がいる。コンセッションにも人が並んでいる。なんとかお金を稼いでくれMOVIX昭島。帰宅し矢田部さんゲストの「活弁シネマ倶楽部」を見はじめるがけっこう序盤で寝てしまった。前日あんなに寝たのに。『クイーンズ・ギャンビット』が進まない。
■2020/10/29 木曜日。今日もこつこつ自宅仕事。ふと考えてみるとここ最近風邪をひいた記憶がない。2月に再手術と入院をし、退院してから一度も風邪ひいてないのではないだろうか。マスク、手洗い、家からあまり出ない、でこれだけ違うんでしょうね。とてもラーメンが食べたくなったので近所のチェ��ン店でラーメンを食べる。OPENして4年ぐらい経つと思うけどはじめて行った。餃子セットにしたら1000円を超えてしまったが普通に満足しました。今年はほとんどラーメンを食べていない気がする。「AFURI」で2回、「一蘭」で1回、かもしれない。こんな数えられるぐらいしか食べていないなんて。夜は『シュシュシュの娘』クラファン最終日YouTubeを見る。なんか応援したい役者さんが増えてしまった。最後まで見れて満足。そしてまた映画やドラマは見れずに寝てしまう。
■2020/10/30 朝4時に目覚めジミソスタイルで朝活。オンライン試写で『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』を見る。朝に見る映画は集中できる。娘の登校のタイミングで僕も家を出る。今日は休暇をもらって日比谷へ。電車が遅れていてドキドキしたがなんとか遅刻することなくTOHOシャンテにてフィルメックス『無聲(むせい)』『アスワン』『死ぬ間際』の3本を鑑賞。2本目と3本目はけんす君と同回だったのでインターバル時間はマックに行って休憩。今日からリカちゃんのおまけがはじまったのでハッピーセットをしっかり食べる。けんす君といろいろ映画の情報交換。なんかこういう機会が貴重になってしまったな。『アスワン』と『死ぬ間際』はリモートQ&Aあり。やはりQ&Aあると良いです。映画観終わり夕飯も食べずに帰宅。娘は義母に見てもらっていたけど寝るときに付けてる視力矯正コンタクトは僕しかできないので娘の寝る21時までには帰宅しないといけないのだ。娘はおばあちゃんと楽しく過ごせていたようで何より。家で夕飯食べて、風呂入ってからオンライン試写で『詩人の恋』を視聴。ここまででもう限界。配信がはじまった『マンダロリアン』は見れずに寝る。
■2020/10/31 土曜日。東京国際映画祭の開幕である。今日も娘を義母にお願いして六本木方面へ。麻布十番のサンモリッツでパンを買ってヒルズで食べる。TIFFに来たなぁという気持ちになる。『アフター・ラヴ』と『愛しい存在』を10分インターバルで観る。この2回はけんす君と同回。同じ流れの人多かったのではないだろうか。そこからは有楽町へ移動。朝日ホールで『逃げた女』を観る。これはチートイツさんと同回。開演前にチートイツさんを見つけたので声をかけたらPFFの冊子をくれた。前に頼んでおいたやつだけど、会うチャンスを待って持参してくれたんだ。感謝です。あと某シネマシティの編成の人とか、某テアトルの編成部長とか、某行定監督とかを見かけました。これ観終わり今度は聖蹟桜ヶ丘に移動。キノコヤで『リバー・オブ・グラス』を鑑賞。キノコヤはじめて行ったけど、谷中の屋根裏シアターよりは広いですね。多摩川クラシコをDAZNで見ながら(また負けた。。)急いで帰宅。娘のコンタクトをやって寝かせる。Amazon Primeで途中になっていた『続·ボラット 栄光ナル国家だったカザフスタンのためのアメリカ貢ぎ物計画』を見る。ディズニー+で『マンダロリアン』S2E1を見る。あー面白い。とゆうわけで例年と違う映画祭シーズンを迎えていますが、こんな感じで10月はおわり。
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yoml · 7 years
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1612-1911 断片、その先(全章)
1-1612 三年前 
「俺が勇利のコーチじゃなきゃいいのに」 
 ヴィクトルがコーチになったその年のグランプリファイナル。試合後のバンケットも終わり、それぞれの部屋に戻る途中のことだった。何の文脈もなく発せられたその台詞に続く言葉が予想できなくて、勇利は少し身構えた。エレベーターのボタンを押して、ヴィクトルは続ける。 「ときどき思うんだ。例えば勇利が絶不調のときね。心がもたないよ。ただのライバルなら、今回は競争相手が一人減ったなって喜ぶだけで済むだろうに」  なんだ、とありがちな話に勇利は少し安心して、「ヴィクトルでもライバルが減るとうれしいと思うんだ」と笑って返した。 「思うさ。俺は勝利に貪欲だからね」 エレベーターの扉が開く。乗客は誰もいない。 「僕はヴィクトルがコーチじゃなきゃよかったなんて、思ったこと一度もない」  ヴィクトルが少し間を置いた。「うれしいことを言ってくれるね」と微かに笑う。 「だけどやっぱり俺は思うよ。コーチじゃなきゃよかったって。特にこういうときなんかは」 「銀メダルでごめんなさい……」 「うん、いや、そうじゃなくて」  ヴィクトルが勇利の目をまっすぐ捕らえた。青い目に違和感があった。 「勇利が欲しくてたまらないとき」  言われた言葉の意味がわからなくて、勇利は文字通りきょとん、とした。エレベーターの扉が開く。ヴィクトルが先に降りて、勇利は慌ててあとに続きながら軽く混乱する。今、この人なんて言った? 返事ができないまま歩いていると急にヴィクトルが振り返った。 「勇利の部屋はあっち」  ハッと気付く。 「おやすみ勇利。今回の滑りは最高だったよ」  コーチの部屋の扉が閉まり、オートロックの鍵が閉まる小さな機械音が廊下に響いた。  三年前のことだった。 
2-1710 新宿の夜 
 これはたぶん何かを超えてしまった。  そう勇利が悟ったのは、ロシアに拠点を移してから半年、スポンサーとの仕事で日本に一時帰国したときだった。一年間のコーチ生活ですっかり日本が気に入ってしまったヴィクトルは、ここぞとばかりに勇利に同行した。が、この時の彼はもう勇利のコーチではなかった。グランプリファイナルでライバルたちの勇姿を見た彼が浮かれた頭で思い描いたコーチ兼ライバルという関係は、とはいえ到底現実的なものではなかったのだ。それでも勇利がロシアに渡ったのはただ日本にふさわしいコーチがいなかったからで、その頃の勇利には、ヴィクトルのコーチであるヤコフ・フェルツマンの紹介で新たな(そして有能な)ロシア人コーチがついていた。  仕事の前に無理やり長谷津に立ち寄って、実家に一泊だけしてから東京へ移動しいくつかの撮影やインタビューを済ませると、たった四泊の慌ただしい日本滞在はあっという間に終わってしまった。日本にいる間は不思議な感覚だった。二人の関係は常に変わっていく。憧れ続けたスター選手とどこにでもいるスケーター。突然現れたコーチと再起をかけた瀕死のスケーター。そして、最高のライバルを得た世界トップクラスのスケーター同士。自分の立場の変化に、ときどき勇利の心は追いつかない。こんなに遠くまで本当に自分の足でたどり着いたのか、いまだに半信半疑でいた。「もしこの人を追いかけていなかったら」。ヴィクトルのいない人生を思うと、勇利はいつも自分の存在自体を疑いたくなるのだった。  日本滞在最後の夜、新宿のホテルの近くにある焼き鳥屋で、二人はだらだらとビールを飲んだ。小さな飲み屋が連なるそのエリアは外国人観光客で溢れていて、煙だらけの狭い店内に不思議と馴染んだヴィクトルは普段よりも一段と楽しそうに笑っていた。めったに味わうことのない観光気分が、彼の抱えるプレッシャーを和らげていたのかもしれない。「博多の夜を思い出すよ」なんて言いながら、コーチ時代の思い出を語り始める。妙に懐かしかった。あれから大して時間も経っていないのに、二人にはそれがはるか昔のことのように思えたのだ。 「ずっと聞きたかったんだけど」  店内の騒々しさを良いことに、勇利はこれまでずっと不安に思い続けてきたことを聞いてみた。 「コーチをしていた一年を、ヴィクトルは後悔していないの」  ヴィクトルはそれまで上機嫌に細めていた目を大きく見開くと、何を言ってる? と言わんばかりの顔で勇利を見返した。そしてすぐに、ふっと笑った。 「勇利はびっくりした?」 「した。今でもあの頃が信じられないし、ロシアに拠点を移した今の状況もまだ信じられないよ」 「俺もね、びっくりしたんだ」 「自分の行動に?」 「全部だよ」 「全部」 「そう、全部。勇利のコーチになれたことは大きな意味があったんだ」 「コーチになって良かった?」
「俺が勇利のコーチじゃなきゃいいのに」
 突然、頭の片隅で声がした。バルセロナで聞いたあの台詞。目の前のヴィクトルは何も答えず笑っているだけで、あの時のことを覚えていたかはわからない。だけどなぜかそれ以上聞いてはいけない気がして、勇利は飲みかけのビールを手に取った。
 その後もだらだらと話を続けた二人は、ホテルへの帰り道、どういうわけか、本当にどういうわけか、気付くとキスを交わしていた。何がそうさせたのか、勇利は今でもわからない。まっすぐ帰ればいいところを、なぜかわざわざ回り道をして、ときどき肩をぶつけては、時間を惜しむようにゆっくりと二人は歩いていた。ちょっとした流れのようなものだった。右足が出たら次に左足が出るように、それくらい自然に、歩く二人の距離が近づいた。それで唇が触れ合ったその瞬間、喧騒が消え、街灯が消え、視界は閉ざされ、過去から繋がってきた一つの線がそこで急にプツリと途絶えた。このあと一体どうすればいいのかわからない二人は、そのまましばらく唇の熱を分け合いながら、たぶんもう戻れない。そう思った。 
   ホテルの部屋は別々にとっていた。足早にエレベーターに乗り込むと、勇利はヴィクトルのフロアのボタンだけを押した。乗客は二人だけ。行き先は一つだけ。決定打を押したのも勇利だった。銀髪に触れるほどの距離で、彼は小さく囁いた。 「ヴィクトルはもうコーチじゃないよ」
 その夜、勇利は初めて男に触れられる感覚を知った。
3-1904 春を走る
 東京では浜辺を走れない。ランニングの途中で砂浜に降りて、ウミネコを眺めながらぼんやりする、そうした時間はここにはない。代わりに勇利は公園を走る。少年野球のチームや、体育大学の学生や、小洒落たウェアに身を包んだ若者や、犬の散歩をする老人に混ざって、長谷津よりもひんやりとした東京の春を彼は走る。トレーニングではない、ただの日課。帰り道、公園脇のカフェでショートサイズのコーヒーを買う。カップを持つ彼の右手に、かつてはめられていた指輪はない。マンションに着くと、シャワーを浴びて仕事のメールを確認する。マネージメントを任せているエージェンシーから、新しいアイスショーの話が来ていた。断る理由もないので、淡々と勇利は返信を打つ。
 新しい日々が始まっていた。一人のプロスケーターとして、日本のスケート史上に名を残したメダリストとして、人生の次のキャリアを進み始めた26歳の青年として、東京の勇利は忙しかった。
4-1908 ときどき思い出す
 スケートに関わっている限り、勇利がヴィクトルのことを避けて生きてくことはできない。お互いすでに引退した選手だとはいえ、レジェンドの称号を得た男がスケート界の過去になるには、まだまだ時間が足りなかった。    引退後のヴィクトルの活動は、悪い言い方をすれば多くの人の期待を裏切るかのように地味なものだった。セレブタレントの座に落ち着くことはなく、無駄に広告やメディアに露出することもなく、フィギュアスケート連盟の一員として選手強化と環境改善に従事した。もちろん天性のカリスマ性とスター性は裏方になってもなお人々の目を引き、解説者やコメンテーターとしてテレビに出れば視聴者は彼の一言一句に注目したが、いずれにせよ今のヴィクトルの活動は今後の主軸を定めるための調整期間のように見えていた。どこかふわふわしていたのだ。  コーチ業に転身しなかったことを不思議がる人もいなくはなかったが、多くのファンや関係者にとってヴィクトルが勇利のコーチをしていた一年間はラッキーな気まぐれのようなものとして記憶されていたし、あのシーズンの勇利が劇的な活躍を見せたのも、ヴィクトルのコーチ手腕というよりはライバル同士の妙なケミストリーの結果だと認識されていた。「コーチごっこ」とは当時の辛辣なメディアが何度も書き連ねた言葉だが、誰もが心のどこかでそう思っていたのだ。誰もヴィクトルにコーチになって欲しくなかった。まだ十分に戦える絶対王者として、華やかなその演技で自分たちの目を楽しませて欲しかった――ただ一人を除いて。勝生勇利、彼の教え子になり得たたった一人の男、彼の独りよがりな望みだけが、世界中の期待を跳ね除けたのだ。だけどそれも今となっては、たくさんの過去のひと幕に過ぎない。  今でも勇利が取材を受けるときは、決まってヴィクトルのことを聞かれる。ロシアで切磋琢磨した二年間(とはいえ勇利が渡露した一年後にヴィクトルはあっさり引退したわけだが)、帰国後の一年間、かつてのコーチでありライバルでもあった彼とはどんな関係を築いていたのか。それで今、二人はどんな関係にあるのか。そう言われても、と勇利は思う。  連絡は取っていなかった。取るわけがなかった。理由がないのだ。ロシアのスケート連盟と日本のプロスケーターが個人的に連絡をする必要はないし、人は二人を「元ライバル」なんて呼ぶけれど、正しく言うならばその関係は「元恋人」と言うべきもので、そんな二人が連絡を取らないことに説明は要らない。    勇利は昔から熱心にヴィクトルを追いかけてきたけれど、何かにつけて、彼を遮断するときがあった。自分のスケートに集中しきっているとき、成績が振るわずヴィクトルの栄冠を見るのがつらいとき、絶望しているとき、他に心奪われるものができたとき。今はそのどれでもないけれど、だから勇利はヴィクトルの遮断にわりと慣れていて、今もその最中だった。ヴィクトルのことはわからないし興味もないです、なんてことが言えるわけもなく、勇利は当り障りのない言葉でインタビュアーをごまかすのだった。  メディアで彼を見かけることもあった。勇利は別にそうしたものを一切視界に入れないようシャットアウトしているわけではない。見ても何も思わないよう、自分の心に遮断機を下ろすのだ。ヴィクトルは相変わらず美しく、今でも目を奪うには十分すぎる魅力がある。それでときどき、本当にときどきだけど、その細く乾いた銀髪を見ながら勇利はこう思う。 「僕はこの人のセックスを知っている」  だけどそれがどんなものだったか、あの途方もない感覚を勇利はうまく思い出せない。
5-1710 変化の朝
 初めて体の関係を持った新宿の夜、勇利はそれをセックスと呼んでいいのかすらわからなかった。ホテルの部屋のドアを開けるなり、二人は貪るかのようにキスをして、無抵抗の勇利はヴィクトルの手になぞられるままにその肌を露わにした。首筋から肩に流れるラインにヴィクトルの唇がひときわ強く吸い付くと、勇利はだけど耐え切れない恥ずかしさと緊張で相手の両肩をぐっと押した。「汗、かいてるし、においも、さっきの」。うまく繋がらない一言一言を、ヴィクトルはうん、うん、と逐一頷きながら拾って、どうしてもそれてしまう勇利の目をまっすぐ追いかけた。「じゃあシャワー行こう」と言って腕を引くと、バスルームの引き戸を開けてシャワーをひねり、自分はあっさりと服を脱ぎ捨てた。熱湯で一気に眼鏡が曇る。まだかけてたんだ、とヴィクトルは笑って、勇利からそっと眼鏡を外すと彼をシャワールームに引き連れた。肌を流れる水が、たくさんのものを洗い流していく。汗と、恥じらいと、ためらいと、キスと、手の感触。ぴったりと密着した下半身でどちらともなく硬くなったそこを感じると、勇利は思わず声を漏らした。ヴィクトルの大きな掌が二人のそれを握りしめる。流れ続けるシャワーの音が二人を世界から隔離したように思えて、勇利はただ耳だけを澄ませながら、見えない感覚に身を委ねた。腰が砕けたのはそのすぐあとだ。ヴィクトルの体にしがみつくと、水がベールのように二人の体を包み込み、発散しきれない熱にともすれば意識を失いかねない。立ち上る水蒸気に混じって、知らない精液のにおいがした。
 早朝に目を覚ました勇利は、しばらくベッドの中でぼんやりしていた。鼻の先にあるヴィクトルの肩は、まだ静かな眠りの呼吸に揺れている。頭が現実を取り戻してくると、突然今日のフライトを思い出した。慌ててベッドから起き上がり、銀髪の人を軽く揺らして声を掛ける。 「ねぇ、荷物まとめないと。僕、一度部屋に戻るよ」  ヴィクトルは目を開けなかったけれど、ん、と声を漏らしながら腕を伸ばすと、手探りで勇利の頬に触れた。 「キスをして」
 脱ぎ散らかした服を手早く身に付けると、勇利はヴィクトルの部屋を出た。誰もいないホテルの廊下を歩きながら、ああ、僕はゲイだったんだ、と思った。昨晩の衝撃と、今朝の納得と、変わりすぎた二人の関係に、勇利はどこかまだぼんやりしていた。ぼんやりしながら、踊り出したいくらいにうれしかった。
6-1909 走れない日
走りに行けない朝がある。 カーテンの端を見つめたまま、勇利の体はどうにも動かない。 一人分の体温と一人分の空白を抱えながら、ベッドの中で涙が乾くのをじっと待っている。
7-1812 男たちの別れ
 ヴィクトルが引退した翌年、勇利のロシア二年目のシーズン、勇利には今が自分のラストシーズンになる確信があった。それは別にネガティブなものではなく、肉体的なピークと精神的な充足感が奇跡的なリンクを成し、ごく自然なかたちで、彼は自分自身に引退の道を許したのだった。スケーターとしての勇利にとっては何の問題もない選択だったけれど、一方で一人の男にとって、ある種の偉業をなし得たとはいえまだまだ二十代も半ばを過ぎたばかりの未熟な男にとっては、巨大な不安がはっきりと顔をもたげ始めた瞬間だった。この先自分は何者として、どこで、誰と、どう生きていけばいいのだろう。
 その不安はヴィクトルとの関係において顕著だった。具体的に言えばその頃から、勇利はヴィクトルとのセックスを拒否するようになっていた。勇利の人生にとってスケートとヴィクトルは常にセットで、スケートを介さなければ決して出会うことがなかったように、スケートなしでは二人が恋人の(ような)関係になることはあり得なかった。だからこそ勇利はこわかったのだ。自分からスケート選手という肩書きがなくなったとき、すでに現役選手としての肩書きを捨てているヴィクトルと、果たして純粋に今の関係を続けられるのかが。  勇利が初めてヴィクトルと関係を持ってからの一年間、二人のセックスは、よく言えば情熱的な、悪く言えば無茶苦茶なものだった。スケートと同じくらいの情熱を持って何かを愛するという経験を持たなかった二人は、それまで溜め込んできた「愛する」という欲望のすべてを互いにぶつけ合った。セックス自体の経験値こそまるで違えど、ぶつかる熱の高さは競いようもなく、貪欲な絶頂に幾度となく体を震わせた。競技者という者たちが決定的に抱える孤独が、その時だけは確かに溶けていくと実感できた。その意味において、勇利にとってヴィクトルとのセックスは、特別な意味を持ち過ぎていたのだ。ヴィクトルなしでは成立し得ない彼の人生は、それまではスケートという枠組みの中だけに言えることだった。だけど今は、全部なのだ。全部。
「セックスがつらいから別れるの?」 「そうじゃない」 「わからない、じゃあなんで」 「ヴィクトルはそれでもいいの」 「セックスのために一緒にいるわけじゃない」   「違うよ、違う、だけどつらくて仕方がないんだよ」 「自分だけがつらいふりをして!」
 ヴィクトルにはわからなかった。勇利に惹かれ、勇利を求め、勇利といたい、それ以外の想いなんて彼にはなかった。肌を重ねるたび、互いの中に入るたび、全身でその気持ちを伝えてきたつもりだった。最初のためらいを超えて勇利がヴィクトルを受け入れるようになってからはなおさら、彼はどんどん自由になっているようにすら見えた。全身で愛されることの喜び、誰かを抱くことの自信、解放された感情、そうしたものは勇利という人間のあり方を確かにある面で変えていたし、スケーティングにおいてもそれは顕著だった。二人の関係を周囲が騒ぎ立てることもあったけれど、そんなノイズの一つや二つ、二人が気にするまでのものではなかったし、くだらないメディアに対して沈黙を貫く二人の姿勢は、彼らが作り出す領域の不可侵性を高める一方だった。なのに、なぜ。失おうとしているものの大きさに、ヴィクトルはただただ腹を立てていた。怒りに震えたその指では、掛け違えたボタンを直すことなんてできなかった。
 誰を責めるのも正しくはなかった。一度崩れたバランスが崩壊するのは不可抗力としか言いようがない。涙をためていたのはお互いだったけれど、それが嗚咽に変わることはないまま凍ってしまった。呆れるほどに強くなりすぎたのだ。外の世界と、あるいは互いの世界と、戦い続けている間に。
 ちょうどその頃、勇利は引退を発表した。そういうことか、とヴィクトルは思った。コーチでもない、恋人でもない、今となっては勇利の何でもないヴィクトルには、その勝手な引退の決意を咎める権利なんてなかった。コミットする権利を奪われたのだ。最愛の人に。ヴィクトルは何も言わず、勇利の帰国を見送った。本当はできることならもう一度、その黒髪に指を通し、こめかみに幾度となくキスを落としたかった。どれだけ腹を立てていようと、どれだけその後がつらくなろうと、もしかしたら何かが変わるかもしれない。そんな望みを、あるいは抱いていたのかもしれない。
 勇利の送別会が終わった翌日、ヴィクトルはベッドのシーツを剥ぎ取ると、壁に飾っていた一枚の写真を外した。どこまでも青く広がった、遠い異国の、風に揺れる、穏やかな海の景色だった。 
8-1807 ネヴァ川を見る
 サンクトペテルブルクに、海の記憶はあまりない。代わりに勇利は川を思い出す。いくつもの運河が入り混じる水の街の主流を成すネヴァ川。その川沿いに建ち並ぶ巨大で仰々しい建物の名前を、だけど勇利はなかなか覚えなかった。それが美術館だろうと大学だろうと聖堂だろうと、勇利にはわりとどうでもよかったのだ。ただこの景色がヴィクトルの日常であり、自分が今その日常の中でスケーティングを続けている、その事実だけが重要だった。  それでもいつだったか、早朝に川岸を走っていたときふと目をやったペテルブルクの風景は、日本からやって来た若い青年の胸を打つには十分な異国情緒があった。スマートフォンを取り出すと、普段めったに使わないカメラを立ち上げて、勇利は下手くそな写真を撮った。オレンジともピンクとも紫とも言えない朝日が、ついさっき暗くなったばかりのネイビーの空を、圧倒的な存在感で染め上げていく。混じり合う色と色のグラデーションが急速に消えていくのがなんだか妙に惜しくて、勇利はこのまま空を見続けていたいと思った。写真は全然素敵なものではなかったけれど、勇利は何年振りかに、それをスマートフォンの背景画像に変更した。  その日の夜、そういえば、と勇利はベッドサイドテーブルの上で充電ケーブルに繋がれていたスマートフォンを手に取って、ヴィクトルにネヴァ川の写真を見せた。 「これ、今朝の。きれいだった」  ヴィクトルは勇利が自分で撮った写真を見せてくれる、ということにまずおどろきながら、写真を覗き込む。 「勇利、写真にはもっと構図ってものが……」とヴィクトルがからかうので、勇利は彼の顔を枕でぎゅっと押しつぶす。 「うそうそ、ごめん、きれいだよ、本当に」 「あれみたいに飾れるレベルだといいんだけど」  ヴィクトルの寝室には一枚の海の写真が飾られている。コーチとして長谷津にいた頃、ロシアから雑誌の取材が来たことがあった。スチール撮影は海を背景に行われ、その時カメラマンが押さえた風景カットがとてもきれいで、ヴィクトルはスタッフに頼んでそのデータをもらったのだ。ベッドに寝そべるとちょうど目に入るくらいの位置に、大きく引き伸ばされたその海は飾られている。 「わかるよ、俺もそういう空が好き」  さっき枕を押し付けられたせいで、ヴィクトルの前髪は不恰好に癖がついている。そ��を気に留める様子もなく、彼は写真をじっと見つめる。 「あの時の衣装みたいだ」
9-1911 冬が来る
  玄関のドアを開けた瞬間、季節が変わった、と勇利は思った。寒さを感じるにはまだ少し遠い、それでも確かにひんやりと冷えた朝の空気。いつもと違うにおいをゆっくり吸い込むと、鼻の奥がつんとした。冬がやってくる。     四階の部屋から、エレベーターは使わず外階段をたんたんと駆け下りる。エントランスを抜けて通りに出ると、いつものランニングコースへ足を向ける。最初は少し歩く。駅へと向かう近所のサラリーマンたちとすれ違う。ぐいっと腕を上げて肩を回すと、おもむろに勇利は走り始める。もう一度風のにおいを嗅ぐ。十分ほど走って公園につくと、ドッグランを横目にそのままランニングレーンに入る。  一周二キロのコースの二週目に入ったあたりで、この日の勇利はなんだか急に面倒になって走るのをやめた。虚しくなった、というほうが正しかったかもしれない。普段あまり意識しない感情の重さに、勇利は少しだけうんざりした。それとほぼ同時に、ウェアのポケットに入れていたスマートフォンが鳴る。こんな朝から、と歩きながらスマートフォンを取り出した勇利の足が、突然ぴたりと止まる。手の中でバイブを続けるスマートフォン。動かない勇利の指。画面につと現れたあの名前。 「“Victor Nikiforov”」
10-1911 コーチの助言
「人というのは、自分が守られているとわかっているときにこそ心置きなく冒険できるものなんだ、ヴィーチャ」 ヴィクトルは時折この話を思い出す。大昔のことだ。 「お前の安心はなんだ? メダル? 名声? それとも尊敬?」  ヴィクトルは考えた。そのどれもが、彼にとっては確かに重要なものだった。 「もしお前の足が止まるようなことがあれば、そうしたものを一度見直してみるといい」  そう言われると、ヴィクトルは少し腹が立った。自分が心血を注いで獲得してきたものを、真っ向から否定されている気がしたのだ。 「自分を守ると思っていたものが突然自らの足枷になって、お前を縛り付けるかもしれないからな」
 目的地までの残り時間を告げる機長のアナウンスで、ヴィクトルは目を覚ました。モニターをタッチしてフライトマップを映し出す。飛行機はいよいよユーラシア大陸を超え、Naritaの文字まであと少し。あれからもう何年も経つというのに、いまだにコーチの助言は有効力を失ってはいなかった。まだ少し焦点が合わない目で明け方の空を眺めながら、ヴィクトルはその言葉を声に出してみる。
「安全基地を見失うな」
11-1911 ジンクスと可能性
 バゲージクレームのベルトコンベヤーの前で、ヴィクトルは荷物が出てくるのをじっと待っていた。レーンの先を真剣に見つめているのは、なにも焦っているからでも大切なものを預けているからでもない。ジンクスがあるのだ。ベルトコンベヤーに乗せられた自分のスーツケースが、表を向いていればその滞在はうまくいく。裏を向いていれば用心が必要。ベルトコンベヤーが動き出す。プライオリティタグの付いた彼の荷物が出てくるまで、時間はそんなにかからない。見慣れたシルバーのスーツケースが視界に入ると、ヴィクトルは思わず苦笑した。流れてきたスーツケースは、サイドの持ち手に手が届きやすいよう、行儀良く横置きされていた。  荷物を受け取ってロビーに出ると、時刻は朝の八時を少し回ったところだった。スマートフォンを取り出すと、ヴィクトルは自分でも少し驚くくらいためらいなく、勇利への発信ボタンをタップした。朝のランニングを日課にしている彼のことだから、今頃はそれを終えて朝食でもとっているか、その日の仕事に出かけるところだろう。だけど予想通り、その着信に答える声はなかった。スマートフォンをポケットにしまうと、ヴィクトルは軽いため息をついて成田エクスプレスの乗り場へ。「事前予告なんて俺らしくない」と思ってはみたものの、だけどヴィクトルには向かうべき先がわからなかった。東京に拠点を移したということ以外、勇利の居場所についてはなに一つ知らなかったのだ。唯一向かう先として確定している新宿へのルートを確認しながら、やっぱり羽田着にすれば良かったと思った。彼はいい加減に疲れていた。サンクトペテルブルクからモスクワ、モスクワから成田、成田から新宿。スムーズなルートではあるものの、これ以上時間をかけるのが煩わしい。その気持ちもあってかどうか、新宿に到着するのとほぼ同時に、ヴィクトルは勇利にメッセージを送った。 「しばらく東京にいる。可能性は?」
“可能性”?
 勇利がメッセージに気づいたのはその日の正午ごろだった。ヴィクトルの着信を無視して家に戻ってから、打ち合わせのためにマネージメント会社の事務所に向かった。スケジュール諸々の確認を済ませ、いくつかの事務的な話を終えて事務所を出ると、いつも無視するだけのSNS通知に混じってそのメッセージは届いていた。  精神的ヴィクトル遮断期の成果か、勇利は着信を見た時もメッセージに気づいた時も、思っていたほどのダメージを受けなかった。その代わり、「可能性」の文字が勇利の前に立ちはだかる。それはこの一年間、勇利がもっとも望み、同時にかき消そうと努めてきたものだった。メトロの入り口までの道を歩く間、勇利は逡巡した。が、地下に入って改札機にICカードをタッチすると、その瞬間に案外あっさり答えが決まった。募らせてきた孤独と愛おしさを開放するには、改札が開く小さなその電子音だけで十分だったのだ。 「どのホテル?」  メトロに乗り込む。5分ほどでヴィクトルからの返信。ホテルの名前を見た瞬間、勇利は一気に胸を掴まれた。スマートフォンをポケットではなく鞄に入れると、両手で思わず顔を覆ってひときわ大きなため息をついた。遮断機は壊れてしまった。抑揚のあるあの声を、肌に触れる乾いたあの髪の感触を、抱きしめたときの体の厚みを、汗と香水のにおいを、熱を、息を、そして氷上をしなやかに滑るあの姿を、勇利の体は鮮明に思い出した。メトロの中で、勇利はほとんど泣いていた。
12-1911/1812 言えなかった
 目が覚めると午後五時を回っていた。約束の時間まであと一時間。フライトの疲れはたぶん取れている。ヴィクトルはシャワーを浴びると、小ざっぱりとした自分自身を鏡越しに見つめた。現役時代と比べれば筋肉量は若干落ちたものの、傍目には変わらない体型を維持している。銀髪に混じる白髪は前からのことで、目の下のシワも見慣れている。だけどやはり変わったなと思うのは、その目元だった。ひとしきりの怒りとさみしさを通過したヴィクトルの目は、少し力なく、だけどそれ以上に、優しくなっていた。  話す言葉は何一つ用意していない。これからどうしたいかも決めていない。とにかく会えば、会えさえすれば、なんて甘えたことも思っていない。だけどヴィクトルは日本にやって来たし、勇利はそれをはねのけなかった。思えばあの時もそうだったのだ。自分が勇利のコーチになる可能性なんて本当はどこにもなかった。無茶苦茶なことをしている自覚もあった。持ち前の奔放さで周囲を驚かせてきた彼だったが、本当はいつだって、自分が一番驚いていたのだ。未知へと足を踏み入れたことに。不安を乗り越えられたことに。新しい安全基地を、確かに手に入れられたことに。ヴィクトルの冒険と不安を受け入れたのは勇利以外の何でもなかった。一緒に居れば何者にだってなれる。ただそれを、あの人に伝えたかった。 「ねぇ勇利」  鏡越しに独り言を呟く。
「今日から俺は勇利の何になる?」
 同じ台詞を、二人は別れる直前にも聞いていた。元師弟とも元ライバルとも恋人とも言える二人の関係を終わらせようとしている勇利の心を、ヴィクトルはどうしても知りたかった。いや、変えたかった。 「何だっていい。ヴィクトルはヴィクトルでいてくれたらいい」 「勇利は俺の何になる?」 「何だっていいよ」 「それがこわいのに?」  勇利は答えなかった。その通りだった。ヴィクトルがヴィクトルであること、勇利が勇利であること。口で言うには響きの良い台詞だけれど、その意味を、その事実を受け入れることは、思っていたよりたやすくなかったのだ。 「いつかこわくなくなると思う」 勇利は最後の最後になって、すがるようにヴィクトルの首元に腕を回し、鎖骨のあたりに顔を埋めた。自分勝手さなんて痛いほどわかっていた。ヴィクトルの手が軽く背中に触れたけれど、それはただ、触れただけだった。
「だからそれまで待っていて」とは、勇利はとても言えなかった。
13-1711 ゆだねる
「やっぱりこわい。ていうか……抵抗感がある」 「うん、無理にとは言わない」 「……ヴィクトルはどっちなの」 「どちらでも。勇利とならどっちでもいい」 「そういうもの?」 「俺はね。相手と一番気持ちいい関係でいたいから」 「どんな関係が一番かなんてわかんないよ」 「だから試さないと。そうだね、わがままを言うなら、俺は勇利に“受け入れる心地よさ”を経験してみてほしいかな」 「痛そうじゃん……」 「最初はね。でも相手にゆだねてしまえば、きっと良くなる。絶対に無理強いはしない」
 そう言いながら、これがハードルなんだろうな、とヴィクトルは思った。勇利は簡単に誰かに身をゆだねられるタイプの人間ではなかった。自信のなさはかつての彼の最大の欠点とも言えたが、言い換えればそれは一重にプライドの高さと自分への責任感であり、自分を支える存在を求めながらもその対象に依存するようなことは考えられないだろう。たとえそれが、氷上だろうとベッドであろうと。アスリートとして身につけてきた彼のストイックさを、怖れを超えたその先で解放される表現者としての素質を、だけどヴィクトルは何よりも愛していた。
「勇利の準備ができるまで、いつだって待つよ」
14-1910 空になったグラス
「どうせ誰かの専属コーチになることはないんだろ」  久しぶりに会った友人は、テーブルの企画書を片付けるとグラスに残っていたワインをゆっくりと飲み干した。 「おもしろいプロジェクトだと思う、君らしい。感情にさえ流されなければうまく行くんじゃない? まあそこが君の魅力だけど」 「余計な心配だ」  ヴィクトルの冗談を端的にかわすと、ポポーヴィッチは少し思案した後じっとヴィクトルを見つめた。 「真剣に聞いているんだ。このまま君が連盟の一員になっていくなんてとても思えない。コーチはしないまでも、その才能を裏方に回すなんて誰が望む? 凡庸なスケートショーに誘っているわけじゃない。一種のアートの試みだよ」  二年前、ポポーヴィッチはヴィクトルと同時期に引退し振付師へと転身した。もともと芸術家肌だった彼の野心は振り付けだけにとどまらず、最近ではショー全体のプロデュースに取り組みはじめ、スケート界の新しい動きとして一部から期待と注目を集めていた。 「とはいえ俺はアスリート気質だからねぇ。エンターテイナーでいることは苦手なんだよ、わかるだろ」 「エンターテイナーになれなんて言っていない。ヴィクトルという一人の人間として滑ってほしいんだ」 「ヴィクトルという人間、ねぇ……」  すでに空になっている自分のグラスを見つめながらそう呟くと、ヴィクトルはなぜか笑いたい気持ちになった。 「“お前は何者なんだ、ヴィクトル!”」  突然古風な芝居じみた口調で笑いだす友人に、ポポーヴィッチは呆れてため息をつく。 「本当に、ヴィクトル、これからどうするのかヤコフも心配している。最近じゃあのユーリですら……」  愛すべき友人の言葉を最後まで聞かずに、ヴィクトルはさっと立ち上がった。 「そろそろ決めてもらわないとね、俺が何者か」 「?」 「プロジェクトのことは考えておくよ、スパシーバ」  訝しげに見つめる友人の肩をぽんと叩いて、ヴィクトルは一人店を出る。帰りのタクシーの中でスマートフォンを取り出すと、ためらいなく成田行きのフライトを予約した。不思議なほどに、意気揚々と。
15-1911 それでも、なお
 ホテルのロビーで一人掛けのソファに腰を下ろした勇利は今、行き交う宿泊客をながめている。どうしていつも急に来るのだろうと、初めて彼が長谷津に現れたときのことを思い出す。頭の中で月日を数えて、勇利は思う。まだ4年も経っていないのか、と。どうしてヴィクトルが東京にいるのか、どうして勇利と会おうとしたのか、勇利には見当がつかない。これから会ってどんな話をするのか、勇利の方にだって何の準備もない。自分から離れた相手なのだ。どんな態度でどんな話をされたとしても、勇利はそれを受け入れるしかないとわかっている。それでもなお、勇利は思う。そこに可能性があるのなら。自分を失うこわさ���引き換えに、別の何かを見つけ出す可能性があるのなら。自分を定義づけてくれる存在を、もう手放すようなことをしてはいけない。
 新宿に来る前、勇利は一度マンションに戻っていた。まっすぐ寝室に向かうと、クローゼットの奥から彼の持ち物の中では異質な黒い小箱を取り出した。最後にそれを見てから、もう一年近くが経とうとしている。「この歳になってもまだおまじないか」と苦笑いを混ぜて呟くと、それでも最大限の愛おしさを込めて、乾いた右手の薬指に小さな金の環を通した。それから右手を唇にぐっと押し当てるようにキスする癖は、一年経っても忘れてはいなかった。
 賭けをしよう。あの人の指にも同じものがあるだろうか。あるいは祈りを、あるいは冒険、あるいは。
 エレベーターがロビーフロアに到着する。数人の宿泊客とともに銀髪の彼が現れる。青い視線が黒髪を見つける。聞きなれたあの声が、勇利の名前をまっすぐ呼ぶ。
fin
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petceremony-maizuru · 4 years
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