On today’s drawing board #studiowall #contemporarypaintingdaily #contemporarydrawing #nolaart #secondstorygallerynola #worksonpaper #rhizomatiks #wanker (at Some Place on Planet Earth) https://www.instagram.com/p/CnXrNnlSSll/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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イレブンプレイとライゾマテックスのダンスパフォーマンス公演を観てきました。 午前中に整骨院に行って先生と筋肉と可動域について話していたのでそんなことを考えながら圧倒されっぱなしで感動。 昨日は公演後に真鍋氏とMIKIKO先生による解説があったらしく、それを聞けばより理解できたかもしれない。 せっかくなので大阪城公園内を散歩すると西の丸庭園では関西ジャニーズJr.が大阪城野外音楽堂ではフェスが城ホールではK-Popアーティストがライブをして女子トイレが大行列していて大変みたいw 環状線を天王寺駅で降りて歩いて帰ったので今月最高の歩数になりましたw おつかれさまでした😊 #japan #osaka #prfm #elevenplay #MIKIKO #rhizomatiks #discretefigures2022 #真鍋大度 #クールジャパンパーク大阪 #大阪芸術大学 #wwホール #大阪城 #散歩 (Wwホール) https://www.instagram.com/p/CkBMx1NLhZL/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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¿Hay un inicio y un fin en el rizoma? ¿O eso es el pensamiento lineal al que me acostumbré?
Si pensamos en el mundo como un caos, la erudición toma distintos caminos: pensar en la unidad, buscar una verdad, una interpretación, y en términos más idealista: transformar el caos en un cosmos.
Lo rizomático de Deleuze es como si cada uno fuéramos parte de un mismo árbol y queremos distanciarnos de él. Dejemos de pensar en una unidad donde todo el mundo está conectado a un mismo árbol. Pensemos en multiplicidad donde cada rizoma puede tomar un camino distinto, o en la mayoría de los casos, está en potencia.
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【参加情報】 #ライゾマティクス 石橋素と柳澤知明が京都市京セラ美術館の「跳躍するつくり手たち:人と自然の未来を見つめるアート、デザイン、テクノロジー」に参加。 明治8年創業の開花堂の茶筒を使ったキネティックなインスタレーションを制作します。 3月9日〜6月4日 https://t.co/gUd0ftEdDY
— Rhizomatiks (@rhizomatiks) Mar 6, 2023
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10/2
Motionを語るうえで行くべき展示だと思いました。
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ダンスとは何か
しばらく前にコンテンポラリーダンスのダンサーを主人公とした小説『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を読んだ。
小説『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は2050年頃の東京が舞台のSFなのだが、今より少しロボットやAIが進歩していて生活で当たり前に使われているとか、義肢がAI等によって今より高度な技術・機能になっているぐらいの未来である。ビーム打ったり強大な敵と戦ったりAIが人間を脅かしたりはしない。人間の生活を支える技術である。
コンテンポラリーダンスのダンサーである主人公が事故で片足を失いAI制御の義足になり、そのコントロールと格闘する……という導入ではあるがそこがメインではない。この小説で取り組まれているのは、ダンス表現をして何かを伝えたいというとき、ロボット(AI)にはなく人間にはあるもの、「ダンス」とはなにか、それを理解した上で出現させる「ロボットのダンス」はいかにして可能か、ダンサーが生きるとはどういうことかで、ものすごくダンスについてを記述する小説だった。
ダンスを集中的に見ている者にとって「ダンスとは何か?」は常に頭の上に掲げられている問いである。この小説では一つの仮定をしていてそれが「速度」と「距離」という言葉で表されている。
「ダンスについてを学習したAIが作り出す振付を踊るロボット」と「人間のダンサー」が共演してダンス作品をつくるという内容なのだが、「ロボットのダンス」は人間の模倣である必要がない。小説では、鑑賞に堪えられる作品として成立させるために何を「ダンス」として、どんなことが必要であるか? を技術的に発展させて解決して表現としてゆき、公演当日を迎える。
そもそもこの小説の出発点が大橋可也&ダンサーズの公演とのコラボなので『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』というロボットと踊るダンスは実際にある。
この公演について小説中では「昔こういう作品が上演された」という過去のものとして扱っている。
コンテンポラリーダンスをめちゃめちゃ見てる人は、作中で主人公たちが試行錯誤しているダンスとは何か? という問いと、AIを使用した振り付けの試みはいくつか見た事があると思う。
例えばYCAMで行われたプロジェクトがある。フラメンコのダンサー、イスラエル・ガルバンのダンスを学習させたAIとイスラエル本人が踊るというもの。
フラメンコがもともとそうであるように、ダンスではあるが同時に音楽である。舞台上で共演するのはロボットというよりほぼ��ズムを刻む装置的なものだ。人型のロボットが人間のように踊るのではなく、空間に、イスラエルと絡む踊りであり音楽が出現する。ロボットのダンスが人間そっくりのものまねである必要がない、のはこういうところからも感じられる。「ダンス」はある条件下で出現するのだ。それを、小説では「速度」と「距離」と言い表して「ダンス作品たりうる」状態を目指していく。
Rhizomatiksがやっている『discrete figures』などもAIを利用したダンス作品で、人間の動きを取り込んでどのように出力して観客に見せるか、というバリエーションは様々ある。
AIを利用した試みは当然海外にもあり、ウェイン・マクレガーの振り付けを学習したAIなどもある。
現代、AIという語が様々なニュアンスで使われる。今ここで話題にしているAIというものの大雑把な理解の仕方のひとつとしては、「膨大な情報をどのように扱い、どのように出力するかの仕組み」である。なので一様ではない。仕組み・方法は様々ある。
AIを使った振り付けの試みは舞台上に表現として出現させるだけが目的ではなく、ダンスについて理解するための手段の一つとしても利用されていくだろう。
ダンス作品は基本的に「人間が人間を観る」ために作られている。私たちはなんらかの情報伝達、コミュニケーションをしたいからだ。
では作品ではない「ダンス」の発生はどうだろう。「ダンスが発生する」というのは「観る者」の意識の問題である。または踊っている者の意識上にあるものである。「ダンスが発生する」のが観測者の意識の問題であるなら、踊っているものが人間である必要はない場合も当然あるだろう。
小説『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』の主人公がアームロボットと踊るところはアレキサンダー・マックイーンの1999年のショーのラストを思い出しながら読んでいた。
当時の機械操作は小説のようなAI生成のダンスなどではなく人間がやっているものだろうが、機械の動きにダンスを見出すことはある、という実感がこのショーの映像を見た時にたしかにあった。
そのせいか小説中の「機械・ロボットとのダンス」に新規性を感じることは特になかったのだが、小説ではそのダンスの機微というものをかなりのボリュームで記述しており、ダンスをずっと読み続けることになる。現実にあるダンスの批評でもどんな踊りが踊られているのかはかなりふんわりした言い方で済ますものがある中、小説という形式だからこそというべきか、延々とダンスの状況が描き出される。
ロボットとAI方面の話を続けてしまったがこの小説の結構な部分がダンサーである主人公と、舞踏の大御所である父との関係を描いている。主人公は痴呆症になった父を介護する生活に突入し、追い詰められていく。ダンサーの老後とそれを支えるダンサーのリアルな生活が描かれる。
父子ともに踊る以外のことを選択してこなかった人生で、不幸な事故や社会や制度の谷間に落ちそうになる感じや家族間の温度差や理解できない諸々のことをとても実感ある調子で描かれており辛さや悔しさが折り重なっていく。物語の後半、父と子が一緒に踊ることになる場面で、ダンスが相手への理解という形で出現する。ダンスのコンタクトインプロビゼーションについては作中でも説明があるが、触れた相手と言葉を交わすのではなく、信頼をしあうこと、自身の重さを相手に預け、または相手の重さを支えることで動き続けられるダンスが行われる。
父の痴呆がよくなることはなく、生活が劇的に楽になるというわけでもない中で、このダンスが二人のダンサーの「生きる」ということをくっきりと表現している。ここで踊られている、特に父親の踊りは大衆向けのきらきらした素敵なものではなく、舞踏の、うねるような動きや地面に近い踊りやコンタクトだろうが、それに応える息子の踊りとともに、あまりにもまばゆい、人が生きることの重みを感じるダンスシーンである。
この作品は最後の一行まで、踊ることと相手とコンタクトすることを描いたダンスについての小説だった。
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(Perfume Countdown Live 2023→2024 “COD3 OF P3RFUM3” ZOZ5 | Work | Rhizomatiksから)
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