Tumgik
#つば九郎神社
sayasaan · 1 year
Photo
Tumblr media
♡ ⁡ ⁡ #ドアラさん東京来てるのに ⁡ 先日、神宮へ行った時久々に寄ってきた #つば九郎神社 ⁡ びっくりするぐらい誰もいない… ⁡ とりあえず? 昨シーズンのヤクルトのような快進撃で ドラゴンズが優勝できるよう願ってきました。 ⁡ ⁡ #あやかれるものならあやかりたい #神宮は相性悪すぎるので今年は頼むよ ⁡ ⁡ ⁡ ✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧ ⁡ #ドラゴンズ #ドラゴンズファン #ドラゴンズファンと繋がりたい #ドラゴンズ愛 #中日ドラゴンズ #ドラゴンズ好き #ドラゴンズ大好き #ドラゴンズ頑張れ #くまこさんと散歩 #東京散歩 #さんぽ #東京さんぽ #神宮外苑 #信濃町駅 #アトレ信濃町 #つば九郎 #東京ヤクルトスワローズ (信濃町付近) https://www.instagram.com/p/Cn1298YPD31/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
hirasen · 2 years
Photo
Tumblr media
#つば九郎神社 #つば九郎 #神社 、#最初にココで必勝祈願すれば #ヨカッタのか !? (信濃町駅) https://www.instagram.com/p/CkVVLvGuzYq/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
kennak · 2 months
Quote
一  問題の所在   一  教会から銀の燭台を盗んで警察につかまったジャン・バルジャンをかばって、司教はそれはかれに与えたものだという嘘の供述をした。これがきっかけで、バルジャンは改心することになる、というのが、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」の冒頭シーンであった。   ところで、窃盗罪において被害者の承諾は、もちろん、窃盗行為の前に存在しなければならないし、そもそも、教会の財産である燭台を処分する権限が、無条件で司教に与えられているかどうかも、疑問の余地がある(1)。したがって、事後に司教が贈与の意思を表明したとしても、バルジャンの窃盗罪は否定されず、ゆえに、司教は窃盗犯人をかばって嘘の供述をしたということになろう。仮にこの司教の行為が、盗みはなかったと嘘をつくことで犯罪者を警察から隠避させ、もしくは虚偽の供述をすることで「証拠の偽造」を行ったという理由で、刑法一〇三条の犯人隠避罪や一〇四条の証拠隠滅罪という「司法作用に対する罪」に当たるとしたら(2)、「レ・ミゼラブル」のストーリーは相当に違ったものになっていたかもしれない。つまり、市民は処罰の危険を犯してまであわれな犯罪者をかばうことはなく、バルジャンは人の善意を信じて更生することもなく再び刑務所に収容され、場合によってはまた脱獄を繰り返していたかもしれない。   二  ところで、わが国の実務では、証拠隠滅罪(3)に関して、近年、つぎのような主張がなされることがあるようである。すなわち、他人の刑事事件の参考人が被疑者をかばうために捜査機関に対して虚偽の供述をすることは証拠隠滅罪にあたり、とりわけ、参考人の取調官がその供述内容を録取した調書を作成した場合には、その内容が虚偽であることを知らない取調官を利用した「証拠偽造罪の間接正犯」に当たるというのである(4)。   実際、この見解に基づいて、他人の刑事事件について取り調べの捜査官に虚偽の供述をした者が証拠偽造罪で起訴されるという事件があった。その事案はつぎのようなものである。すなわち、被告人は、覚せい剤取締法違反容疑で勾留中に、同房のTから、Tの被疑事件について彼を不起訴にするために、被告人がTに風邪薬だと言って覚せい剤入りのカプセルを渡し、それをTが覚せい剤と知らずに飲んだことにしてくれと頼まれ、その旨を取調べに当たった捜査官に供述した。捜査官はその内容を録取し、被告人に誤りのないことを確認させ署名指印をさせて、供述調書を作成した。もっとも、嘘はすぐばれたようである。この行為が証拠偽造罪(5)の間接正犯に当たるとして起訴されたのである。   もっとも、昨(一九九五)年、千葉地裁は、これについて、虚偽供述それ自体は証拠偽造罪に当たらないとする従来の判例を根拠にして、供述調書が作成されるに至った場合であっても、やはり、それが証憑偽造罪を構成することはあり得ないと述べて、本罪の成立を否定した(6)。しかし、この判決をめぐっては、証拠偽造罪の成立を認めるべきだとする実務家らの批判が表明されている(7)。   三  そこで本稿では、このような参考人の虚偽供述が証拠隠滅罪に当たるか、とくに、それが供述調書に録取された場合に証拠偽造罪が成立するか否かを、本罪の沿革や訴訟の構造などの視覚から検討してみようと思う。その際、とくに論点となるのは、第一に、刑法一〇四条にいう「証拠」の意味であり、第二に、同条にいう「偽造」の意味である。 (1)  わが国には、寺の建設資金を得るため、檀家総代の同意も主務官庁の許可も得ずに仏像を処分した住職に、横領罪の成立が認められたケースがある。大判大正一五・四・二〇刑集五ー一三六。 (2)  もちろん、窃盗犯人の魂を救済するという司教の「正当業務行為」に当たるか否かは別にしてである。わが国には、警察に追われていた少年をかくまって更生させようとした牧師の行為を、正当な牧会活動であって犯人蔵匿罪の違法性は阻却されるとした判例がある。神戸簡裁昭和五〇・二・二〇刑月七ー二ー一〇四。もっとも、このような「特権」に頼ることができるのは、宗教の職にある者だけであるから、司教や牧師などでない被害者がバルジャンをかばったときには、正当化は認められないことになろう。 (3)  以下では、隠滅や偽造、変造を含んだ刑法一〇四条の罪を総称する場合には「証拠隠滅罪」の語を用い、特に偽造だけを意味するときは「証拠偽造罪」の語を用いる。 (4)  小島吉春「証人・参考人の虚偽供述の刑法的評価について」研修五一八号(一九九一)二五頁、加藤康榮「「参考人の虚偽供述と証憑湮滅罪の成否」研修五二六号(一九九二)八七頁。なお、十河太郎「犯人蔵匿罪と証憑湮滅罪の限界に関する一考察」同志社法学二三九号(一九九五)一一四頁以下も同旨。 (5)  厳密には、九五年改正前の事件なので、証憑偽造罪というべきであるが。なお、以下では証拠と証憑を同じ意味で用いる。 (6)  千葉地判平成七・六・二判時一五三五ー一四四。判決はつぎのように述べている。すなわち、「参考人が捜査官に対して虚偽の供述をすることは、それが犯人隠避罪に当たり得ることは別として、証憑偽造罪には当たらないものと解するのが相当である・・・。それでは、参考人が捜査官に対して虚偽の供述をしたにとどまらず、その虚偽供述が録取されて供述調書が作成されるに至った場合、すなわち、本件のような場合には、どうであろうか。この場合、形式的には、捜査官を利用して供述調書という証憑を偽造させたものと解することができるようにも思われる。しかし、この供述調書は、参考人の捜査官に対する供述を録取したにすぎないものであるから・・・、参考人が捜査官に対して虚偽の供述をすることそれ自体が、証憑偽造罪に当たらないと同様に、供述調書が作成されるに至った場合であっても、やはり、それが証憑偽造罪を構成することはあり得ないものと解すべきである。」と。本判決は、別件の覚せい剤取締法違反のみを理由に、被告人に懲役一年六月執行猶予三年を言い渡した。なお、本件は確定している。 (7)  尾崎道明「参考人が被疑者に有利な虚偽の供述をし、これを録取した供述調書に署名・押印した場合における証拠隠滅罪又は犯人隠避罪の成否」研修五六九号(一九九五)一五頁、河村  博「参考人が取調官に対し、積極的に虚偽内容の供述をし、これを録取した供述録取書を作成させた場合と証拠偽造罪の成否(消極)」警察学論集四八巻一二号(一九九五)一七〇頁。学者のものとしては、奥村正雄「参考人の虚偽供述を録取した供述調書への署名・押印と証拠隠滅罪の成否」法学教室一八六号別冊判例セレクト'95(一九九六)四〇頁。もっとも、尾崎論文は捜査機関に対する供述も本罪の「証拠」に含まれると解するのに対し、河村論文は供述録取書を供述そのものとは独立した保護の客体たる証拠と解している。これに対し、本判決を支持する消極説としては、大山  弘=松宮孝明「参考人が捜査官に対して虚偽の供述をしその内容を供述調書に録取させた行為は証拠偽造罪に当たるか(消極)」法学セミナー四九〇号(一九九五)八一頁、前田雅英「参考人の虚偽供述と証拠偽造罪」研修五七四号(一九九六)八頁。もっとも、消極説の中でも、その理由づけは分かれる。前者は、およそ書証の「偽造」は文書偽造罪の場合と同じく「有形偽造」に限るべきだとして、虚偽内容の上申書の作成も、名義冒用がない限り、「偽造」に当たらないと主張するのに対し、後者は、上申書の場合には「証拠を偽造した」といいやすいとして、両者を分けようとする。なお、伊藤司「参考人の虚偽供述と証拠偽造罪の成否」平成七年度重要判例解説(一九九六)一四一頁も消極説である。 二  「証拠」概念   一  前述のように、検察実務家の中には、すでに四、五年前から、この問題について本判決とは逆に積極説を主張するものが見受けられた。そこでは、従来、証拠隠滅罪等にいう「証拠」は証拠物および証人などの「証拠方法」に限られるとされてきたが、そこには証人や参考人の供述といった「証拠資料」も含まれるべきであり、その結果、参考人が捜査機関に対して虚偽の事実を供述した場合には証拠隠滅罪が成立し、とくに虚偽供述が調書に録取された場合には、証拠偽造罪の間接正犯になるものと解すべきだと主張されたのである(1)。また、学説にも、以前から、証人に偽証させることも証拠隠滅行為の一種であり、ただ、偽証罪が成立する場合は法条競合の特別関係によって本罪が成立しなくなるにすぎないとするものがあった(2)。このように考えると、本件のような事案では、証拠隠滅罪の成立可能性を考える余地が出てくることになる。   そこで問題は、捜査機関に対する供述(公判外での供述)は刑法一〇四条にいう「証拠」に当たるか否かと、証拠隠滅罪と偽証罪とは一般法・特別法の関係にあるか否かにあることになる。とくに重要なのは、一〇四条の「証拠」の意味である。   二  この問題を考察するために、証拠隠滅罪の沿革を尋ねてみよう。現行刑法一〇四条は、旧刑法一五二条を引き継ぎ、対象となる行為を拡大したものであった。旧刑法一五二条は、「罪証となるべき物件を隠蔽したる者」に対して十一日以上六月以下の軽禁錮と二円以上二〇円以下の罰金を規定していた。ところが、旧刑法の明治一〇年草案では、隠蔽の対象はさらに限られ、刑事事件の証拠となる死体のみとされていたのである。周知のように、旧刑法は、フランス人ボアソナードの下、フランス刑法の影響を強く受けて成立したものであるが、本国のフランスでは、さらに、重罪の不告発罪はあるが、およそ証拠隠滅関係の規定はなかった。また、ドイツ刑法でも、二五七条以下の犯人庇護罪が反射的に刑事司法作用を保護するものであったが、司法作用を正面から保護法益とする規定は存在しなかった(3)。   このように、証拠隠滅罪はヨーロッパ刑法に淵源を持たない、わが国独特の規定として成立したのであるが、その客体は、広げられたとはいえ、旧刑法では「罪証となるべき物件」に限られていた。そしてまた、これを受け継いだ現行刑法一〇四条も、その提案理由によれば、旧法が「単に罪証隠蔽の場合のみを規定し、その適用甚だ狭きに失するをもって、本案はこれを修正し、総て他人の刑事被告事件に関する有罪もしくは無罪の証憑を湮滅し又は偽造、変造しもしくは偽造、変造の証拠を使用したる場合に関して広くその規定を設けた(4)」ものにすぎない。つまり、旧刑法から現行刑法への改正の過程で広がったのは、客体ではなくて行為態様のみだったのであり、「証憑」とは証拠物件つまり有体性のある証拠に限られていたのである。   さらに、「証憑」という概念は、治罪法・明治刑訴法における「証拠徴憑」と同じく(5)、証拠と徴憑を総称するものであるが、そのドイツ語訳は”Beweismittel つまり「証拠方法」だったようである(6)。要するに、旧刑法でも現行刑法でも、証拠偽造罪の客体は「有体物たる証拠」、つまり「証拠方法」だったのである。加えて、現行法制定後の立案関係者による注釈では、「証憑」には証人は含まれないものとされていた(7)。   三  もっとも、立法者意思は、必ずしもそのまま実務に支持されるとは限らない。しかし、この問題では、大審院以来の判例は、「証拠」には供述は含まれないとする立法者の判断を支持してきている(8)。それでは、判例が供述を除外してきた理由は何であろうか。大審院や最高裁のリーディングケースは、いずれも、刑事被告人が自己の刑事責任を免れるため(9)、あるいは被告人の親族が被告人に刑事責任を免れさせるために(10)、証人に対して偽証を教唆したというものである。そこでは、自己や親族の刑事事件の証拠を隠滅しても処罰されないため(11)、供述もまた証拠に含まれるとすると、偽証を教唆した被告人らを不処罰とするかその刑を免除しなければならないのではないかという厄介な問題に遭遇したのである。供述を「証拠」から除外するのは、その意味で、偽証教唆で有罪とされた被告人側からの上告を斥ける意味を持っていた。   しかし、供述が「証拠」に含まれないとする解釈は、一貫すれば、被告人に有利に働くこともあった。たとえば、宣誓義務のない被告人である娘に虚偽供述を教唆した父親や(12)、他人を庇うために参考人に虚偽を供述するよう求めた者や(13)、捜査官に対して虚偽の供述をした参考人は(14)、供述が「証拠」に含まれないことを理由に無罪とされたのである。 (1)  小島・前掲研修五一八号三〇頁以下。 (2)  大塚  仁『刑法概説(各論)(改訂増補版)』(一九九一)五七九頁。大谷  実『刑法講義各論(第四版補訂版)』(一九九五)五五三頁以下は、罪質を異にするから観念的競合だとしている。 (3)  偽証罪は、文書偽造罪と同じ偽造罪の一種とされていた。この点では、わが国の現行法の規定順序もおなじである。なお、偽証罪と文書偽造罪や詐欺罪との関係については、成瀬幸典「文書偽造罪の史的考察(一)」法学六〇巻一号(一九九六)一二三頁以下参照。 (4)  倉富勇三郎ほか編・松尾浩也増補解題『増補刑法沿革綜覧』(一九九〇)二一七〇頁以下。 (5)  団藤重光『刑法綱要各論(第三版)』(一九九〇)八六頁。 (6)  Vgl. Beling, Begu¨nstigung und Hehlerei, VDB 7. Bd, 1907, S. 196.  そこでは、一八九九(明治三二)年と一九〇三(明治三六)年草案のドイツ語訳が掲げられている。残念ながら、この二つの草案を直接参照することはできなかったが、田中正身『改正刑法釋義』(一九〇八)二〇九頁以下によれば、証拠隠滅罪の規定には、第二案から一九九五年改正前の現行法に至るまで、文言上の変化がないので、この訳語は現行法にも対応するものと思われる。 (7)  田中・前掲書二二七頁は、「その湮滅または偽造変造は実質上物件に限り、証人を隠避せしむる場合のごときは之を包含せざることは論をまたず・・・」と述べている。にもかかわらず大判明治四四・三・二一刑録一七ー四四五は証人を、最決昭和三六・八・一七刑集一五ー七ー一二九三は参考人を「証憑」に含めている。 (8)  大判大正三・六・二三刑録二〇ー一三二四、大判昭和八・二・一四刑集一二ー六六、大判昭和九・八・四刑集一三ー一〇五九、最決昭和二八・一〇・一九刑集七ー一〇ー一九四五、大阪地判昭和四三・三・一八判タ二二三ー二四四、宮崎地日南支判昭和四四・五・二二刑月一ー五ー五三五。 (9)  前掲・大判大正三・六・二三、最決昭和二八・一〇・一九。 (10)  前掲・大判昭和八・二・一四。 (11)  一九四七(昭和二二)年までは、親族による証拠隠滅は、今日のような任意的な刑の免除事由ではなく、処罰阻却自由であった。 (12)  前掲・大判昭和九・八・四。 (13)  前掲・大阪地判昭和四三・三・一八。 (14)  前掲・宮崎地日南支判昭和四四・五・二二。 三  「偽造」概念   一  もっとも、供述自体は「証拠」に含まれないとしても、それ以外の刑事事件の処理に関する一切の資料は含まれるので(1)、捜査官の作成した供述調書も本罪の対象になることは否定できない。したがって、供述調書自体を隠滅したり偽造したりすれば、一〇四条に該当することは明らかである。しかし、なされた通りに録取された供述に虚偽が含まれていた場合にも、証拠を「偽造」したといえるのだろうか。   これについては、民事裁判の被告が、他人の刑事裁判の証拠に利用するため、虚偽の債務の請求を認諾しこれを口頭弁論調書に記載させた場合に、証拠の偽造を認めた一九三七年の大審院判決がある(2)。もっとも、これはあくまで、裁判官の面前での供述に関するものであり、その限りで、捜査機関に対する虚偽供述についての先例ではないことに注意しなければならない。   しかし、戦後にはこれと逆に、示談の成立を装うために被告人が送付した現金書留の受領証は送付の事実を証明する証拠にすぎず、証拠の「偽造」には当たらないとした下級審判決がある(3)。受領書が証明するのは、送金の事実そのものであって、その点に偽りがなければ、受領書の作成は証拠の偽造ではないというのである。この見解によれば、供述調書もまた供述者の供述の存在とその内容を証明する「証拠」であって、供述内容に嘘があっても、供述者が現にそのように供述している限り、調書の内容に「虚偽」はないと見るべきことになる。その場合、供述者の署名・押印は、録取が正確になされたことの確認を意味するにすぎない。   このように見ると、供述内容を他人が録取する場合に「偽造」を認める先の大審院判決(4)は疑問となる。供述調書が捜査官による供述の録取であることを重視する千葉地裁判決も、このような見解に依拠しているのかもしれない。なお、この場合、取調官が、調書に供述者の供述したとおりの内容を書かないときは、虚偽公文書作成罪の余地があることになろう。より罪責の重い虚偽公文書作成罪が成立するのだから、証拠偽造罪の成否は重要でないことになる(5)。   二  もっとも、この見解でも、参考人が内容虚偽の上申書を自分で作るときは、証拠の「偽造」に当たる余地がある(6)。事実、供述調書について証拠偽造罪の成立を否定する見解の中にも、上申書や供述書については、本罪の成立を認める見解がある(7)。しかしさらに、裁判例には、刑法一〇四条にいう「偽造」を、刑法一五五条や一五九条の文書偽造罪の場合と同じく、「有形偽造」と解したのではないかと思われるものがある。文書がその日付当時その名義人によって作成されたものであれば、たとえその内容に虚偽の記載があったとしても証拠の偽造に当たらないとした一九一六年の東京地裁の判決である(8)。   講学上は、一般に、「偽造」には広義と狭義があり、広義の偽造は「虚偽作成」の意味での「無形偽造」を含むのに対し、狭義の偽造は「名義の冒用」の意味での「有形偽造」であり、しかも「有形偽造」はさらに、「変造」とこれを除く「最狭義の偽造」に分かれると説明されている。しかし、現行法の条文本文を注意深く見ると、文書偽造の罪では、立法者は「偽造」を常に「最狭義の偽造」の意味で用いており、「無形偽造」は常に「虚偽作成」と表現されていることは明らかである。また、一五五条や一五九条の客体には図画も含まれており、さらに通貨偽造に関してもこれを「有形偽造」と解する見解もあることから、現行法上の「偽造」概念を、すべて「名義の冒用」つまり「有形偽造」解することは、十分に根拠のあることだと思われる。   三  もっとも、このような見解に対しては、大審院に、書類作成権者による記載事項の変更に刑法一〇四条を適用した大審院判決(9)のあることが、批判として持ち出されるかもしれない。実際、下級審判例には、虚偽内容の上申書の作成を証拠「偽造」とみなす際にこの判決を根拠にしたものがある(10)。また、学説は一般に、この判決を根拠にして、一〇四条においては「文書偽造罪のばあいの『偽造』・『変造』とはちがって文書についての作成権限の有無は無関係であり、また、文書としての内容の真否も問うところではない(11)。」とする解釈を展開してきたのである。しかし、この判例は実は、証拠「変造」罪に関するものである。そして、「変造」は作成権限の有無や内容の真否にかかわらず成立するとする解釈を採れば、右の判例は証拠「偽造」に関する先例にはならないことになる。   たしかに、わが国の通説は、文書変造罪の場合、変造行為を「名義の冒用」と解しこれを「有形変造」と称しているので、それを前提にすれば、文書変造と証拠変造とでは「変造」概念は異なることになろう。しかし考えてみると、名義の冒用があれば、それはすでに「偽造」であって「変造」ではない。むしろ、固有の「変造」とは、名義人による場合も含めて、真正に成立した文書の内容を関係者に無断で変更することである。たとえば、債務者が、債権者に差し入れた借用証書を一時的に借り出して、その金額を勝手に書き換える場合がこれに当たる(12)。したがって、名義人による証拠変造罪が認められたとしても、名義人による証拠偽造罪を認める論拠にはならない(13)。むしろ、証拠偽造もまた「有形偽造」であると見て、文言解釈の統一を図った方がよい(14)。   四  それでは、虚偽内容の供述書や上申書はまったく問題にならないのであろうか。それは、やはり捜査を妨害するという点で、単なる虚偽供述より始末が悪いのではなかろうか。   しかし、その際我々は、口頭による嘘よりも「書面による嘘」の方が本当に悪質なのかどうかを、再度考えてみる必要があろう。これは、現行法上、虚偽文書の作成がなぜ、公文書や公務所に提出する医師の診断書等に限られているのかを考えれば、答えが出るように思われる。つまり、現行法は、公務員や公務所提出用の診断書を書く医師のように、自らの知覚した内容をそのまま文書にするよう制度上義務づけられている主体に限って、初めて真実記述義務を科しているのである。したがって、たとえば捜査官が供述通りの内容の調書を作らなければ、それはこの特別の義務に反するものとして、虚偽文書作成罪に当たる。したがって、このような特別の義務を負わない一般の市民が、たとえ書面で嘘をついても、それを処罰する規定は、現行法上存在しないのである。   それでは、このような一般の市民の嘘から刑事司法作用を守るには、どうすればよいのであろうか。その答えは簡単である。証人として公判で宣誓の上供述させればよい。こうすれば、嘘の供述は偽証罪に当たる。言い換えれば、「書面による嘘」が重大だと感じられてしまうのは、刑事事件について公判前に実質的な決着をつけようとする考え方に影響されたものだといえよう。つまり、裁判所よりも捜査機関に決定的な役割を演じさせようとする姿勢である。つまり問題は、論者の刑事訴訟観にまで広がるのである。 (1)  大判昭和一〇・九・二八刑集一四ー九九七。 (2)  大判昭和一二・四・七刑集一六ー五一七。 (3)  仙台高判昭和三五・五・一七下刑集二ー五=六ー六六五。 (4)  前掲・大判昭和一二・四・七。 (5)  田中・前掲書二二九頁は、文書偽造罪と証拠偽造罪とが観念的競合となる余地があるとする。もっとも、同時に、一〇四条の対象は主として文書以外の偽造であるとしている。そうだとすると、証拠偽造罪は文書偽造罪とは補充関係に立つことになろう。 (6)  東京高判昭和四〇・三・二九高刑集一八ー二ー一二六。偽造教唆を認めたものとして千葉地判昭和三四・九・一二判時二〇七ー三四。 (7)  前田・前掲研修五七四号一三頁参照。 (8)  東京地判大正五・九・三〇法律新聞一一八〇ー二九。 (9)  前掲・大判昭和一〇・九・二八。 (10)  前掲・東京高判昭和四〇・三・二九。 (11)  団藤『刑法綱要各論(第三版)』八七頁。中森喜彦『刑法各論(第二版)』(一九九六)三一七頁も「文書偽造罪におけるとは異なり、作成権限の有無は問題にならない」と述べる。 (12)  このような場合に文書「変造」罪を認めるのは、ドイツでは判例・通説である。Vgl. BGHSt 13, 383;Scho¨nke/Schro¨der/Cramer, StGB 24. Aufl., 1991 § 267 Rn. 64 u. 68;K. Lackner, StGB 21. Aufl. 1995, § 267 Rn. 21.  この意味で、「変造」は文書などの「確定性」を害する行為なのである。もっとも、クラマーらは、文書変造も名義の冒用のある場合に限るべきであるとして、通説に反対している。わが国の判例には、他人所有の文書を名義人が勝手に書き換えた場合に文書毀棄罪を認めたものがあるが(大判明治三七・二・二五刑録一〇ー三六四)、他人の権利・義務に関する自己所有の文書の場合には、この方法は使えない。もっとも、監督官庁の書記が正当な手続を踏まないで選挙人名簿を修正した行為に対して、内容が真実に適合すると否とを問わず文書変造罪が成立するとした大判大正四・九・二一刑録二一ー一三九〇は、文書変造罪を文書の確定性を害する罪と見た可能性がある。なお、植松  正『再訂刑法概論II各論』(一九七五)一四九頁、内田文昭『刑法各論〔第三版〕』(一九九六)五四〇頁注(8)、浅田和茂ほか『刑法各論』(一九九五)二八八頁〔松宮〕参照。 (13)  それにもかかわらず、内容虚偽の上申書の作成を証拠偽造と見た前掲・東京高判昭和四〇・三・二九は、大判昭和一〇・九・二八をその根拠としている。 (14)  大山=松宮・前掲法学セミナー四九〇号八二頁。その場合には、証拠偽造罪は、主として、文書以外の証拠の偽造を捕捉することになる。事実、立法当時は、書証の偽造は文書偽造罪に当たるものと考えられていた。田中・前掲書二二七頁参照。そうすると、証拠偽造の典型は、捜査官が犯行現場に凶器を埋めておいて、それを被疑者が埋めたものだと主張した「二俣事件」のような場合ということになろう。もっとも、これもまた、証拠の作成者を偽るという意味では「有形偽造」の一種である。 四  証拠隠滅罪と訴訟構造   一  そこで最後に、積極説の政策的論拠と訴訟構造との関係を検討してみよう。積極説は、その政策的論拠を、証拠隠滅罪が国家の適切な刑事司法作用を保護法益とすることから、「証拠方法であろうと証拠資料であろうとその湮滅により国家の適正な司法作用を害する点では何ら差はない(1)」という点に求めている。しかし、現行刑事訴訟法における「証拠」概念は、いわゆる「証拠資料」を含みつつも、捜査機関に対する供述は含まないようである。というのも、刑訴法三二〇条以下には、「証拠」として、「公判期日における供述」や供述書、供述録取書という言葉は出てくるが、捜査機関に対する供述は出てこないからである。証拠とされているのは、「供述を録取した書面」ないし「他の者の供述を内容とする供述」にすぎない。   それは、おそらく、「証拠」概念が、あくまで裁判官の五感の作用に訴えるものとされているからであろう。いわゆる「直接主義」「口頭主義」は、それを言い換えたもののように思われる。したがって、仮に刑法一〇四条にいう「証拠」を「証拠資料」にまで広げても、それは「裁判官に認識ないし知覚された証拠の内容」にすぎないから、裁判官の面前でなされたものでない供述は「証拠資料」にもなりえない(2)。  ���二  このように、「証拠資料」という概念は裁判官に認識された証拠の内容を意味するから、証拠資料を一〇四条の客体に含めたところで、捜査機関に対する供述が自動的に「証拠」となるわけではない。つまり、およそ供述一般が「証拠資料」というわけではないのである。したがって、このような主張によって捜査機関に対する供述を一〇四条の客体にするためには、捜査機関に対する供述は、法廷での供述と同じく、「証拠資料」であるといえなければならない。それは、捜査機関に対して、裁判官に引き継がれて判決に結実するような心証形成の権限を認めることになる。   しかし、いかなる職権主義も、捜査機関の心証を裁判官に引き継がせることを正当化しうるものではない。それは「予断の排除」や「無罪の推定」に明らかに矛盾するものである。予審制度下でも、予審判事の心証が公判裁判官を拘束するものではなかった。その意味では、まさに捜査機関に対する供述をも「証拠資料」と解する見解こそが、予断排除や無罪推定を建前とする現行法下の刑事司法の適正な展開を歪めるものとなろう。それにもかかわらず、捜査機関に対する参考人の供述も「証拠」だというのであれば、それは司法権の担い手を、憲法七六条の明文に反して、裁判所ではなく捜査機関にあるとするものである。虚偽内容の供述を正確に録取した調書を「偽造された証拠」だとする解釈も、同じ結論に至る。   三  もっとも、ドイツ刑法にあるような処罰妨害罪(ドイツ刑法二五八条)では、捜査機関に対して犯人に有利な虚偽供述をした場合も含まれる(3)。しかしこれは、司法作用を保護法益とするものではなく、あくまで犯罪者を援助する「犯人庇護罪」の一種なのである。したがって、わが国の証拠隠滅罪と異なり、犯人に不利益となるような行為、たとえばアリバイを証明する証拠方法の隠滅は含まれない。また、庇護される相手方は真犯人でなければならない(4)。この場合には、処罰妨害罪の目的は、犯人を庇護することで犯罪を助長する結果になるのを防止することであり、心証形成の資料を保護することではない。そして、ここにいう心証形成の資料とは、あくまで公判に出てくる証拠なのである。このように見ると、偽証罪と証拠隠滅罪とでは、前者が公判での証人の供述を、後者が証拠方法を対象とするという点で、すでに行為の客体が異なるのだから、両罪を法条競合と見たり観念的競合と見たりすることはできないものといわなければならない。 (1)  小島・前掲研修五一八号二九頁。 (2)  付言すれば、「証拠資料」(Beweisstoff)という概念自体、ドイツの主要な刑訴・民訴の教科書・注釈書には出てこない。この概念自体が、その出自を疑われてもおかしくない状態なのである。 (3)  十河・前掲九三頁以下、Scho¨nke/Schro¨der/Stree, § 258 Rn. 17f. (4)  条文の文言解釈上は無理があるように思われるが、すでに立法直後から、犯人蔵匿・隠避罪の対象には「有罪の嫌疑を受けたる者」を含むとする解説がなされていた。田中・前掲書二二六頁参照。 五  むすびにかえて   一  かつて平野龍一博士は、「偽証教唆も証拠湮滅の一種であり、法条競合として重い偽証罪で処罰されるとする見解もあるが、そうなると参考人を教唆して捜査機関に虚偽の供述をさせることも、証拠湮滅になることになる。さらに進んで参考人が虚偽の供述をすること自体、証拠湮滅ということにもなりかねない。」と述べた(1)。そこには、捜査機関に嘘をついただけで刑事罰の対象となるのは論外だとする価値判断がある。言い換えれば、真実供述義務があるのは、法廷で宣誓をした場合だけだということである。しかも、偽証罪の場合には、裁判確定前等に自白すれば、刑法一七〇条により任意的な刑の減免がある。冒頭に掲げた事件では、被告人の嘘はすぐにばれたようであるが、それにもかかわらず、彼は証拠偽造罪で起訴された。仮に偽証罪を証拠隠滅罪の特別法と見ると、証人は偽証を自白しても、なお、証拠隠滅罪で処罰されることになり、刑の減免の意味がなくなる。   二  同じような問題は、犯人に有利な虚偽供述を犯人隠避罪で処罰する近年の判例にも見られる。判例には、「犯人」の偽のアリバイを警察官に供述した場合(2)や、「身代り」で出頭したが「犯人」が釈放されなかった場合(3)に、犯人「隠避」罪を認めたものがあるが、これでは、真実供述義務を捜査段階にまで広げたに等しい(4)。犯人隠避罪を一般的な捜査妨害罪にしてしまうという学説の批判を想起すべきであろう(5)。ましてや、捜査機関に対する供述を証拠隠滅罪の客体とするわけにはいかないのである。「レ・ミゼラブル」のストーリーを台無しにしてしまう解釈は、やはり、無理だといわなければならない(6)。 (1)  平野龍一「刑法各論の諸問題18」法学セミナー二二八号(一九七四)四〇頁。 (2)  最決昭和四〇・二・二六刑集一九ー一ー五九。もっとも、被告人らには犯行現場を偽装工作した行為も認められるので、証拠偽造罪の成立は可能であったかもしれない。 (3)  最決平成一・五・一刑集四三ー五ー四〇五。 (4)  平野・前掲四〇頁。 (5)  前掲・最決平成一・五・一に対する日高義博「逮捕勾留中の犯人の身代り自首と犯人隠避罪」法学教室一〇八号(一九八九)八八頁、井田  良「逮捕勾留中の犯人の身代りを出頭させる行為と犯人隠避罪の成否」『平成元年度重要判例解説』(一九九〇)一六二頁、振津隆行「逮捕勾留中の犯人の身代わりを出頭させる行為と犯人隠避罪の成否」法学教室一一三号別冊判例セレクト'89(一九九〇)三九頁、真鍋  毅「身代り犯人と犯人隠避罪の成否」平野ほか編『刑法判例百選II各論(第三版)』(一九九二)二二八頁の反応、さらに松宮「すでに本犯の嫌疑で逮捕勾留されている者に対する犯人隠避罪の成否」南山法学一二巻二=三号(一九八八)七五頁を参照されたい。 (6)  憲法は、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と規定する(憲法七六条一項)。つまり、司法作用は裁判所に属する権限なのである。ところが、わが刑事訴訟法は、「公訴は、検察官がこれを行う」と定めている(刑事訴訟法二四七条)。したがって、犯人隠避罪や証拠隠滅罪のような司法作用に対する罪が犯された場合でも、裁判所に訴えを起こすのは、検察官である。しかし、検察官は他方で、捜査および訴追の機関として、通常の刑事裁判の一方当事者でもある。この、一方当事者が司法作用に対する罪の裁判を開始できるという制度の問題性が端的にあらわれたのが、一九五一年に山口県八海村で発生した「八海事件」であった。この事件では、有罪判決が最高裁によっていったん破棄された後、検察官は捜査をやり直して、被告人のアリバイを供述した五人の証人たちに、それを否定する供述をさせた。そして、嘘に耐えきれずに法定で再度アリバイを認める供述をした証人を、偽証罪で逮捕したのである。そのため、その証人は再び、供述をひるがえすことになった。結局、「八海事件」の裁判は、このような「捜査のやり直し」からさらに九年かかって、一九六八(昭和四三)年一〇月二五日の最高裁無罪判決(刑集二二ー一一ー九六一)によって、ようやく決着がついたのである。   このような事例を見ると、偽証罪についても公訴権は、刑事裁判の一方当事者である検察官に委ねるべきではなく、裁判所あるいはその委任を受けた特別の告発機関に委ねるべきではないかとさえ思われるのである。ましてや、現状のままで、法廷で「偽証」した場合ばかりでなく、警察や検察などの捜査機関に「嘘」をついただけでも、証拠隠滅罪や犯人隠避罪で処罰しようとすれば、刑事訴訟のバランスをますます歪める結果になるのは想像に難くない。逮捕や起訴の際に「嘘」と判断するのは誰なのかを考えてみれば、これはすぐにわかるであろう。
捜査機関に対する参考人の虚偽供述と証拠隠滅罪(松宮)
3 notes · View notes
myonbl · 1 month
Text
2024年5月18日(土)
Tumblr media
上方落語協会が主催する<彦八まつり>、4年ぶりのリアル開催ということで初めてやって来た。お目当ては<奉納落語会>の第4部、露の新治師匠の出番があるからだ。とは言え真夏のような暑さ、夕方までの時間つぶしに<高津神社><四天王寺>へお詣りしてきた。私にとっての大阪は点は理解できても、面としての把握は難しい。おかげで大分地理的理解を身体に染み込ませることができた。しかし暑かったなぁ、会場でビールを我慢した自分を褒めてやりたい!
Tumblr media
4時45分起床。
日誌書く。
洗濯機回す。
Tumblr media
朝食。
珈琲。
酢タマネギ仕込む。
麺つゆ仕込む。
今日は<彦八まつり>、17時開演の<奉納落語会>のチケットをとっているので昼頃に出発する。
Tumblr media
会場は<生國魂神社>、以前にも来たことはあるが谷町九丁目駅から来るのははじめてのこと、少し迷って到着。<米澤彦八の碑>にお詣りする。
軽口噺[かるくちばなし]や役者の物まねを演じていた米澤彦八は、京の人気者、露の五郎兵衛とともに元禄年間(1688~1703年)にここ生玉さんの境内で活躍した。五郎兵衛が「聴衆を前にして口演する」というスタイルを打ち出し、現在の落語の形態をつくる。このため「上方落語の祖」と仰がれ、彦八は「大坂落語の始祖」と位置づけられている。二人の芸風はどう違ったか。「五郎兵衛が先行の噺から材料を多く得ていたのに反し、彦八のは創作が多く、この点などに彦八の意気ごみがうかがえる。彦八はただ軽口噺を口演するだけでなく、むしろ身振りをまじえた『しかた物真似』を本領とした」と、大阪の郷土研究家・肥田晧三氏は『上方学藝史叢攷』で考証する。 (https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/05_vol_99/feature03.html)
まずは腹拵え、<笑福亭仁鶴一門>でたこ焼きを購入、8個で400円、二人で半分こ。<桂米二一門>でふぐの唐揚げ、800円といい値段。
この熱気の中で夕方まで過ごすのは辛い、落語に縁のある場所ということで<高津神社>と<四天王寺>へと向かう。
Tumblr media
お詣り済ませてから再び生玉さんへ、なぜか鳥取県八頭町のブースがあって、ツレアイは<エリンギつかみ取り>に挑戦している。
Tumblr media
会場の日射しを避けて<参集殿>前で待機していると、イベント会場からNさんが出てこられてご挨拶、近くのビジネスホテルが取れたとのことで明日も楽しまれるそう。
奉納落語会、前から2列目で楽しんだが、畳敷きの和室では1時間���限界だ。
月亭秀都「秘伝書」、桂八十八「釜猫」、露の新治「中村仲蔵」。
新治さん、十八番を途中で絶句するハプニング、<柳島の妙見>が出てこない。流れでMRIの結果で脳梗塞が起こっているとの説明で会場びっくり、何とかサゲまでたどり着いたが汗の掻き方も酷くて一寸心配。
Tumblr media
自宅に戻ったのは19時50分、あり合わせで晩酌開始。
録画番組視聴。
桂三幸「天井高い」
初回放送日:2024年5月18日 土曜の早朝は関西の笑いをたっぷりと!▽今回は桂三幸の創作落語「天井高い」▽第1回「あさわら“まくら”大賞」視聴者投票で優勝が決まる…投票は番組ホームページから!
秋田 真夜中のそば屋で
初回放送日:2024年5月17日 秋田市にあるちょっと変わった、おそば屋さんが舞台。開店は夜の10時で、夜通し営業して閉店は翌日お昼ごろと、まさに昼夜逆転。そばだけでなく、お酒とつまみもいっぱいある。ここにはさまざまな人たちが集う。お酒を飲んだあと、そばをシメにという人たちや、歓楽街で接客の仕事を終えた人たち、また3月は就職や転勤での別れを惜しんで飲みあかす人たちの姿も。なごり雪の舞う季節、真夜中のそば屋に密着する。
片付け、入浴、体重は二日前から350g減、順調だ。
Tumblr media
連日の12,000歩越えは嬉しい。
4 notes · View notes
petapeta · 1 year
Quote
六麓荘町(ろくろくそうちょう)は、兵庫県芦屋市の町名及び同地の高級邸宅街。「丁目」のない単独行政地名。 神戸市、大阪市および阪神間の市街地と瀬戸内海を俯瞰する六甲山地の南東麓斜面の海抜200 - 250メートル地点に位置する。1928年に払い下げられるまでは国有林で[5]、現在も芦屋市の自然環境の一部分を形成している。 芦屋の一部は元々、大阪財界人の別荘地として開拓されていた。六麓荘町の開発は、明治後半から大正時代にかけ、日本一の富豪村[6]と呼ばれた住吉村(現・神戸市東灘区)や夙川、香櫨園など近隣地域の影響を受けた延長上のものであった。1928年(昭和3年)から富商・内藤為三郎ら大阪財界人の手によって、国有林の払い下げを受けて当初197区画、数万坪にのぼる宅地造成を行ったことから始まった。六麓荘という地名は「風光明媚な六甲山の麓にある別荘地」に因み名付けられた。電線類地中化など先進的な街づくりが取り組まれた[5]。 六麓荘の開発は、1928年(昭和3年)に大阪財界人のひとり森本喜太郎が発起人になって、土地開発・住宅造成の会社である「株式会社六麓荘」を設立したことが始まりである。社長には上記の内藤為三郎、専務に森本喜太郎が就任した。この当時は、資金があまり準備できず、2人は協賛金や株の手付けなどの資金調達に専念した。 この地帯も国有林であったので、国有林の払い下げなどの運動については、法律に長けた取締役の瀬尾喜二郎が国との交渉にあたったとされる。 六麓荘開発のコンセプトは、この地を「東洋一の住宅地」とすべく香港の九龍半島やその対岸の香港島の白人専用街区をモデルに開発が行われた[5]。南斜面の起伏のある恵まれた地形を有効に利用し、スケールの大きな住宅地が形成された。例えば、細い山道にすぎなかった道を幅6メートル以上に拡幅して、1区画につき少なくとも300坪から400坪以上を標準とした。また、自然の地形を尊重した曲線道路により、住宅地全体が構成され、造成時に切り出された石材は石垣や石橋、庭石に利用。山林の赤松もできるだけ残されて庭木などに活用された。 敷地内に流れる山からの湧水を小川として取り込むほか、溜池や道路を流れる川には橋をかけた。さらに、特色として上水道は経営地の最高部に貯水池を設け、下水道はヒューム管を埋設。都市ガスも導入している。また、電気については、電柱が著しく風致を損なうとして、多額の費用をかけて日本で初めてとなる電線類の地中化が行われた。道路の保全と美観上の問題を含めて全面的な道路舗装を行い、安全面にも留意している。開発当初の1区画の敷地規模は、平均300 - 1000坪以上である。 六麓荘最大の特色として「六麓荘町内会」が開発直後から組織されていることが挙げられる。なお、「町内会」を別に「自治会」と称する事もある。町内会は環境保護・景観保護の為に、ある意味においては、治外法権的な役割を果たしており、町の住民は、開発当初から町内会独自の協定を設けて高級住宅街の維持に努めてきた。協定では、建物は一戸建ての���人宅に限り、新築と増改築には町内会の承認が必要である。 町内での営業行為は一切禁止しているため、マンションや商店、自動販売機は全くない[5]。町内会員により構成される六麓荘町内会(六麓荘土地有限会社)は、道路部分の土地所有権を有している��開発当初は道路を区分所有していたが、管理に限界があり、有限会社を設立することで共有財産とした。しかし、有限会社での自主管理にも限界があったために、芦屋市に無償貸与して市による管理が行われることになった。 新規居住者は、入居時に、町内会の入会金を支払いとともにこれとは別に月々の管理費を支払っている。これらの資金は、共有施設がある駐在所兼公会堂施設の維持・管理と町内会の活動経費に充てられている。新規入居者は、計画時に芦屋市から申請の内容が町内会に伝えられ、町内会でこれを承認するという手続きをとっている。セキュリティー面では、1930年(昭和5年)に町内会が無償で建物を提供して、芦屋警察署の六麓荘駐在所が開設された。 現在の建築条例(旧建築協定)は敷地面積を400平方メートル(121坪)以上とし、400平方メートル未満の面積への分筆も禁止され、用途は2階建以下の一戸建個人専用住宅に限られる。建物の高さは最高10メートルで、軒の高さは7メートル以下とし、営業行為も一切禁止で他にも色々な制限がある。 上述の厳しい制約から、賃貸契約や会社名義(社宅)としての利用が不可であると勘違いされる事も多いが、建築条例を充たした建物であれば居住形態の制限等は無い。賃貸(借家)住まいや社宅住まいの住人も数多く存在している。 バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災以後の近年では世代の交代や高額の相続税の支払いが原因で、土地を手放すケースが増加した。そのうえ前述している紳士協定に過ぎない「建築協定」では風致を維持することができなくなることが懸念されるようになる。そのため住民は強制力のある条例による景観保護を市に求めることとなった。 住民の要望を受けて芦屋市は「建築協定」をそのまま「条例」に格上げした「景観保護条例」を市議会に提出した。「景観保護条例」は、2006年(平成18年)12月22日の芦屋市議会で全会一致で可決されて、2007年(平成19年)2月1日から施行となった。通称「豪邸条例」として話題になった[5][7]。
六麓荘町 - Wikipedia
21 notes · View notes
gupaooooon · 10 months
Text
・Nagasaki Peace
「An atomic bomb exploded over Nagasaki on August 9, 1945, three days after the explosion of the first atomic bomb over Hiroshima. The bomb was assembled at Tinian Island on August 6. On August 8, Field Order No.17 issued from the 20th Air Force Headquarters on Guam called for its use the following day on either Kokura, the primary target, or Nagasaki, the secondary target. That same day, the Soviet Union declared war on Japan. The B-29 bomber "Bockscar" reached the sky over Kokura on the morning of August 9 but abandoned the primary target because of smoke cover and changed course for Nagasaki, the secondary target, and detonated the atomic bomb at 11:02 a.m.」
・NO MORE HIROSHIMA & NAGASAKI MUSEUM
「The nuclear weapons dropped on Hiroshima and Nagasaki burned the victims to unrecognizable forms, and brought suffering from illness, poverty and discrimination unto the survivors. Nuclear weapons and humanity cannot coexist.
We want people around the world to know about the consequences of nuclear weapons, and the journey of the Hibakusha - the atomic bomb survivors. As Hibakusha of Hiroshima and Nagasaki, we have held exhibitions at the United Nations four times to date, at the timing of the NPT Review Conferences. As the risk of the use of nuclear weapons is today at its highest, we have decided to open this exhibition as an online museum.」
・Hiroshima and Nagasaki: A Multilingual Bibliography
「ABOUT US: The Aim of Our Project In 2014, a year before the 70th anniversary of the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, we started our survey and research into the multilingual publication of atomic bomb literature. Our goal is to make a comprehensive survey into the process of worldwide acknowledgment of Hiroshima and Nagasaki for 70 years.」
・2023長崎平和宣言 全文
・外国人戦争犠牲者追悼核廃絶人類不戦碑
「八月九日の原爆 によって七万余の日本人、数千の朝鮮人、中国人労働者、華僑、留学生、連合軍捕虜(イギ リス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、インドネシア等)が犠牲となった。特に浦上刑務所のあった隣接する丘では、三十二名の中国人、十三名の朝鮮人が、日本人 受刑者とともに爆死し、また香焼や幸町の捕虜収容所では、被爆前に病気や事故などによ って数百名の連合軍兵士が死亡した。」
・「長崎の原爆ドーム」なぜ解体されたのか? 浦上天主堂が幻の世界遺産になった理由【長崎原爆の日】(22/08/09)
「8月9日は「長崎原爆の日」。長崎市内への原爆投下で、1945年だけで7万人以上が亡くなった。長崎では平和祈念像が犠牲者に黙禱を捧げるモニュメントとして知られているが、実は広島の世界遺産「原爆ドーム」に匹敵する原爆遺構が、かつて長崎市内に存在していた。爆心地からわずか500メートルの位置にあったカトリック教会の大聖堂「浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)」だ。」
・«さもしいといって下さいますな» 福田須磨子さんの思い 原爆を背負って(30)(20/08/06)
「 《何も彼(か)も いやになりました 原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です》1955年8月、被爆詩人・福田須磨子さん=74年に52歳で死去=が詠んだ詩「ひとりごと」です。」
・祈りと異質な巨大芸術 平和祈念像 法王は今回も立ち寄らず(19/10/27)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/554327/
「長崎新聞の元論説委員長、高橋信雄さん(68)によると、浦上教会の主任司祭だった故川添猛神父は生前、高橋さんの取材に対して「私自身は平和祈念像の前には決して行かない」「巨大な芸術品の前で祈りをささげることなどできない。いくら像の名前に平和を冠していても、被爆者として、あの像とは相いれない」と語っていたという。」
「北村は戦前戦中にわたり、戦意高揚のための軍人像などを数多く手がけた。反核、反戦の美術評論家、故針生一郎氏は、北村について「戦後一転して平和や自由をうたいあげる公共彫刻に意欲を燃やしたが、戦前戦中の自作についての深い反省もなく百余歳まで生きたので、各地に醜悪無残な彫刻公害を残している」と酷評。その代表格が、北村の戦前戦中の作風そのままの男性裸像、平和祈念像ということなのだろう。」
「祈念像の周りをぐるりと歩くと、像の裏には北村の言葉が刻まれ、こんなくだりもあった。「山の如き聖哲 それは逞(たくま)しい男性の健康美」。祈りとはかけ離れた異質なもの。」
・「存在しない」とされた残留放射線、内部被ばくの被害を認めない政府(22/09/05)
「長崎の「被爆地域」は、原爆投下時の行政区域をもとにしている。爆心地から12キロ圏内で原爆に遭っても、国の指定する「被爆地域」外にいた人々は「被爆体験者」として、被爆者と線引きされてきた。」
「原爆投下から1ヵ月後、マンハッタン計画の副責任者であるトーマス・ファーレル氏は、下記のような声明を発表したとされる。 「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬において、原爆放射能の余燼ために苦しんでいる者は皆無だ」 残留放射能が存在しないとした理由について記者からの質問を受け、ファーレル氏は「相当の高度で爆発させた」ことを挙げていた。」
「広島の「黒い雨」訴訟で、国側は国際放射線防護委員会(ICRP)国内メンバーが記した論文を引用した上で、「内部被ばくをより危険とする根拠はない」などとしていた。国が政策で依拠するICRPとはどのような成り立ちなのだろうか?この組織は1950年、米国放射線防護委員会(NCRP)議長らが中心となって組織された。NCRPは1946年に発足しており、あの「人体実験」にも携わったマンハッタン計画の医学部長らが執行委員となっていた。中心メンバーも、マンハッタン計画に従事した科学者たちだった。」
「「日本政府は核兵器の残酷さや非人道性を訴えるどころか、その“威力”を重視し、原爆攻撃をした米国と一緒になって、核兵器の有効性を世界に向けて訴えてきたといえます。核の“パワー”の肯定的イメージを拡散してきた、世界に対する責任は重いと思います」」
・核廃絶専門委、長崎の被爆者落選 禁止条約に否定的な政府支援なく(23/07/23)
「【ニューヨーク共同】核兵器禁止条約の諮問機関「科学諮問グループ」の専門家委員に推薦された長崎の被爆者が落選していたことが23日、国連関係者への取材で分かった。核廃棄や被害者支援など「核なき世界」実現の方策を締約国に助言する「要」の機関。核実験の影響に苦しむカザフスタンが推したが、条約に否定的で非加盟の日本政府の支援は得られず、外交筋は落選への影響を指摘した。」
・NHK長崎放送局 WEB特集 原爆
3 notes · View notes
medickalmalpractice · 11 months
Text
混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
 新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。  『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。  『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。  同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。  (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。  (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。  宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。  騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。  こう書くと外国のものが多いよう���が、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。  (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。  私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。  (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。  (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。  武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。  「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。  (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。  こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。  世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。  (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。  (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
5 notes · View notes
azariy · 9 months
Text
本田宗一郎・ざっくばらん
【真理に徹す】
今度うちは三重県の鈴鹿に新工場をつくることになった。
僕は、この工場も浜松や和光の工場と同じように、エア・コンディション付の無窓工場にするつもりだ。
これなら外気の温度や湿度に影響されずにすむからだ。
日本にはずい分のん気な人がいる。
無窓工場なんてトランジスター・ラジオやカメラみたいな精密工業には必要だが、自動車なんてものにはゼイ沢だと思っている。
自動車はそんなにヤワなものではないということらしいが、精度を問題にしないその神経の図太さには恐れ入るほかはない。 それだけではない。
海辺に工場を建てようと考えている人がいる。潮風は、製品に悪影響があるだけでなく、機械そのものを傷める。
日本は島国だから、どこへ行ったって潮風はくるさとタカをくくるのはよくない。
あるピアノ会社が、社長の出身地だからという理由で、海岸のそばにピアノ工場を建てて失敗したことがあるが、これこそ音痴的なものの考え方である。
製鉄所みたいに、精密度はあまり要求されず、運送費の多寡がそのまま利潤の大きな部分を占めるというのなら話も分かるが、自動車みたいに高度な加工をやる工場を、単に運賃が安いとか、土地が安いということだけで海辺に建てるのはどうかと思う。
話を戻すが、エア・コンディションは、機械や製品にいいだけでなく、なによりも工場で働く人たちが気持ちよく働けるという利点がある。
最近は、冷暖房をする会社が多くなったが、それは本社だけ、あるいは重役室だけの話であって、工場の方は旧態依然たる有様である。夏は汗をかき、冬は吹きっさらしの中で仕事をしているところが多い。
これでは自由にして平等だとはいえない。第一、工場で働く人間を大事にしないような企業は長持ちしない。僕は自分が大事にされたいから、みんなを大事にする。
愉快に働いてもらって能率をよくしてもらった方が、どれほどいいか分からない。
設備は一度やれば一生なんだから、充分にしてもたいしたことではないと思う。
日本のように温帯にある国では、夏と冬の温度差が激しいから、余計働く人たちに気をつかう義務がある。
ドイツみたいなところなら、冬はべらぼうに寒くても、夏は窓を開けなくても仕事ができる程度だから、暖房だけあれば事足りる。
外国の工場も暖房しかないとそのままウのみにしては困る。
それから従業員に休息を与えるということを、何かマイナスになるというか、罪悪視する人がいる。
仕事というものは、何か目をつり上げて息もつかせずにやらなければいけないという固定観念にとらわれている人がいる。
TTレースに行ったうちの河島監督が帰って来ていうことには、うちのチームは、日曜も夜遅くまで仕事をやるし、風呂に入るにも順番を決めて、廊下にプラン表をぶら下げていた。
それをみたイギリス人が、日本人は何て能率の悪い国民だろうといったそうだ。
二宮尊徳流に薪を背負って本を読まなければならない国民にとって、団体生活をするときに、入浴の順番を決めることなんて普通のことだが、個人主義が徹底しているイギリス人からみればミリタリズムの変形にみえるのは当然かも知れない。
TTレースの期日は何年も前から分かっているのに、夜明かししなければならないというのでは、非能率にみえるのは無理もない。外国人の考える能率とは、働くべき時間にいかにたくさん働くかということで、休み時間に働くのは能率ではないわけだ。
この間、楠トシ江と対談したときにも話したが、僕が床屋に行って十五分でやってくれと頼んだら、やっと四十分でできた。いつもなら一時間もかかる。
そこで床屋のおやじ曰く
「あんたは遊ぶひまがあるんだから、その時間に床屋に来てくれれば、こうせかせないでゆっくりキレイになる」
そこで僕は 「冗談いうな、遊ぶために働いているんだから、床屋にきて一時間もかかってたまるかい。こんな能率の悪い床屋なら一生来ない」 と言ってやった。
本当のことをいって、人間は八〇%ぐらいは遊びたいという欲望があって、それがあるために一生懸命働いているのでないだろうか。それを働け働けといってヤミクモに尻を叩いても能率が上るわけはない。
よくイミテーション・パーツが問題になるが、イミテーション・パーツが出るのはメーカーの純正部品が高いか、高い割に性能がよくないか、潤沢に出回っていないかの三つの条件が満たされていない場合である。
この点は、うちも大いに反省しなければならない。しかしそのためにかくしナンバーを打つようなことはやらない。
そんなことをすれば、手間が多くなって能率が悪くなる。ならばその分だけ安くする方が先決である。
人間は疑り始めたらキリがない。
コップ一杯の水を飲むのにいちいち毒が入っていないかどうか疑い出したら、自分で井戸を掘って、毎朝水質を調べなければならない。
これはいささか極端な例だが、人は信用した方が得である。
うちは、クレーム部品の判定権をディーラーに任してしまった。
代理店といっても数が多いから、いい人ばかりではないかも知れない。
中には悪い人もいるかも知れない。
しかしそれはあくまでもごく少数である。そのごく少数の人のレベルに合わせて、何かいかめしく、人を頭から疑ってかかるような検査制度をつくっては、大多数のいい代理店は気分を害してしまう。
検査制度なんてものは、警察や検察局がそこら中やたらにあるのと同じことで、気持ちよく仕事はできない。
こういうものは非生産的なものだから、生産の中にたくさんあればあるだけ、モノが高くなるのは当然である。
また人間というものは信用してまかせられれば、悪い人も悪いことができなくなるものである。
逆に四六時中疑われれば、反感からいい人も悪いことをしたくなるものである。
そういう意味から、うちはディーラーに判定権をまかせてしまったわけである。
もちろん統計は一応とってあるから、ある一店だけ特定のクレーム部品がべらぼうに多く出るということになれば、チェックできるようにはしてある。
近ごろ、わが社は厳重な検査をやっています、といった広告が新聞によく出る。
しかし厳重に検査をやっているから、品物がいいというのはおかしい。
初めからつくる目的はわかっているのだから、つくってしまってから検査するのを、オニの首でもとったように宣伝するのはうなずけない。
つくってしまったものはあとに戻らないのだから、つくる前に、検査しなくてもいいようにすることがいちばんいいわけだ。
本当は検査なんかやらなくてもミスがないというのが理想である。その理想に近づくために検査員がいるというのならいいが、検査しなければいけないような品物をつくっていて、それを検査しているからといって自慢しているのではスジが通らない。
うちでも検査設備は、もちろん完璧なものにするよう努力しているが、それに頼ってはいない。検査員だってよそよりは相当少ないはずだ。
それに僕は、ミスを出すたびに検査員を一名ずつ減らすといっている。
人間が多すぎると検査はミスが多くなる。シビアな感覚がうすれてくる。
自動車というものは、人命を預かる機械だから、つくる側に徹底した慎重さが欲しい。
科学技術というものは、権力にも経済的な圧力にも屈してはいけないものである。
ガリレオが「それでも地球は回っている」とつぶやいたように、権力をもった者が、どんなに真理を否定しても、真理は真理として残る。
真理は一見冷たい。しかしその真理を押し通すところに、熱い人間の面目がある。
工場には、その冷たい真理だけがある。
真理だけが充満していなければならぬ。 こういう体制を押し通していけば、少なくとも機構上の欠陥からくる事故はほとんどなくなるはずだ。
悪いところに気がついても、いま変更したら金がかかるとか、混乱するとか、発表したばかりのものを改造するのはみっともないとか、変な面子がからんで、ズルズルと見て見ぬ振りをするところがある。
うちは面子がないから、悪いところを見つけ次第改造してゆく。ラインに乗せてからも一日に数回変更することもある。
そのために、工作機械の位置を大幅に移動させるようなことも少なくない。工場の連中も、初めは面喰らったようだが、いまでは、いつでも変更に対処できるような準備ができている。
とにかくお客さんには、うちで考える最良の品を提供しなければならないのだから、無理はあくまでも通すつもりだ。
いささか古い話だが、昭和二十八年に、うちの新車につけたキャブレターの性能が思わしくなかった。そこで売ってしまった一万台の車のキャブレターをすぐ取り替えた。
そのときの僕の考え方は頭をペコペコ下げたって、悪いものは悪いのだから取り替えるより仕方がない。
たとえそのお客さんと親戚になったって、夫婦になっても、キャブレターの悪いのが直るわけではない。
このとき、うちが取った処置が実に早かったし立派だったといってくれる人がいるが、僕はまだ遅かったと思っている。
よそとの比較でいえば早いかも知れないが、お客さんにとってはまだ早くない。
比較対照でいえば、カラスが白いのと同じである。いまだに僕はクレームの処理が遅いとどなることがある。
お客さんにとっては、取り替えるのに一分しかかからなくても、壊れれば遅いわけである。待っている時間は永久に帰ってはこない。壊れることは、壊れないことよりも絶対に悪い。
それからもう一つ考えなければいけないことがある。
それは、この工場の製品は九九%の合格率だからすばらしいと賞める人がいるし、賞められて鼻を高くする人がいるということである。
ところがお客さんは、自動車にしてもオートバイにしても、百台も買いはしない。
買ってもせいぜい一台か二台である。
もしその一台の車に、残りの一%の悪い車が当ったとしたら、そのお客さんにとってその車は一〇〇%悪いことになる。
だから工場というのは最低一〇〇%、理想的にいえば一二〇%くらい合格しないと話にならない。
お客さんというのは、金を払って自分が目的地に行くために走っている。
もしエンコすれば、ほかに直す人がいないから自分でいじらなければならない。
それが人里離れた山の中ででもあれば、分らないなりに全知全能を費やしてひねくるわけである。それだけにエンコしたという意識は痛切である。
うちがいちばん最初の五〇ccのバイクエンジンを売っていたころ、お客さんから電話がかかってきてエンコして動かない、こんなものを売りやがってとガンガンどなられた。
慌てて飛んで行ったら、ガソリンがなくなっていた。しかしそのお客さんは、二度とガソリンがないのをエンコと間違う失敗はやらなくなる。そこでそのお客さんは一段進歩したわけだ。したがって、売ったりつくったりする僕らが、お客を馬鹿にしていると反対に遅れてしまう。
ところが工場の連中は、案外こういった感覚が抜けている。
どうしてかといえば、その道の専門家が、その辺にいっぱい控えているからだ。
この故障は電気部品だと思えば、電気屋を引っ張ってきて、自分は知らん顔をしている。みんな技術屋でありながら、依頼心が強い。
そして実際のレベルは低くても、俺たちがつくっているのだということで、いかにも自分たちが専門家であると錯覚を起こしやすい。
お客さんから苦情が出ても、やれ使い方を知らないからだとか、それは一部であって全部ではないとか、勝手な屈理屈をつけて、真剣にその苦情の内容に取り組もうという気を起こさない。
このうぬぼれが技術屋をいちばん危うくする。
会社そのものを危うくする。
1 note · View note
nakiselu · 12 days
Text
日本生命セ・パ交流戦 2024東京ヤク���トスワローズ 対 埼玉西武ライオンズ2回戦はたらくひと応燕シリーズ
ハロー、僕は元気じゃないまま、まだ生きてます。
シーズン初観戦は駅直ぐのつば九郎神社と球団設立55周年特別企画「歴代ユニホーム展示」を眺めてから向かった。いきなり相手のエラーで出塁するも牽制死からの先制を許す絶望的な展開だったが中盤に逆転。逆転のシーンは相手の大ファインプレーかと思いきやフェンスに当たってたようでタイムリー。相手のリクエストもなく得点となった。その後も不甲斐ない投球満載で大ピンチが度々だったが何とか最少失点で抑えてる内に駄目押し点が入って見事勝利。もう1回くらいは行きたいな。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
0 notes
yotchan-blog · 12 days
Text
2024/6/6 8:00:00現在のニュース
社会問題には沈黙 「物言わぬ企業」主流に(NY特急便) - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/6 7:57:22) ラピダスと北大が協定 人材育成や研究、幅広く 最先端半導体、校内に評価分析拠点 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/6 7:57:22) 神戸牛など20億円分を香港に不正輸出 貿易会社社長ら男女4人を再逮捕 兵庫県警([B!]産経新聞, 2024/6/6 7:52:02) 「信頼関係を大切にしてきたつもりだが…」兵庫県の斎藤知事、最大会派自民の百条委設置提案の方針で 斎藤兵庫県知事の告発文書問題([B!]産経新聞, 2024/6/6 7:52:02) どちらが打診? 小池百合子都知事への3選出馬要請で波紋 知事選告示まで2週間([B!]産経新聞, 2024/6/6 7:52:02) 技術者の倫理観欠如 和歌山・八郎山トンネル施工不良問題で報告書([B!]産経新聞, 2024/6/6 7:52:02) 蓮舫氏は批判ばかりか? 阿比留瑠比の極言御免([B!]産経新聞, 2024/6/6 7:52:02) 「維新は嫌いじゃない」 激戦制した大阪・大東市長、就任1カ月インタビュー([B!]産経新聞, 2024/6/6 7:52:02) スルメイカ、今季も不漁か 11隻が初出漁、3隻水揚げなし 函館 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/6/6 7:51:56) イーロン・マスク氏、少子化で「日本消滅も」 再び警告 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/6 7:51:47) JR東日本、新幹線で「ゆうパック」輸送 日本郵政と実証 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/6 7:51:47) 命の賛歌 正木ゆう子さんが第6句集『玉響』刊行([B!]読売新聞, 2024/6/6 7:51:07) 最後の英語落語 笑ってお別れ 米出身の語学補助教員 アレックス・レイ(鹿鳴家・光)さん15日帰国へ(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/6 7:46:02) 吉野彰さんが講演会 来月8日開催 つくばで参加者募集(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/6 7:46:02) 日本の経済安全保障の有望株 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/6 7:45:57) ドラフト会議でPR大使 Jリーガーが自治体の魅力を競い合って発信(朝日新聞, 2024/6/6 7:40:38) 米国版はやぶさが持ち帰った砂、JAXAも分析開始へ 施設を公開(朝日新聞, 2024/6/6 7:40:38) ウクライナの子ども 戦争の現実訴える 加須で絵画展が開催 8日から3日間(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/6 7:38:23) 春日野部屋が入間で合宿 豊岡保育所の園児と交流 稽古を見学、相撲体験楽しむ(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/6 7:38:23) 高3の大学進学など後押し 受験料や入学一時金支給 さいたま市、今秋から新事業(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/6 7:38:23) 漫画が爆速で完成する…韓国発「ウェブトゥーン」 生成AIで作画アシスト 目指すは「漫画界のネトフリ」:東京新聞 TOKYO Web([B!]東京新聞, 2024/6/6 7:36:21) 九州電力系、個人情報10万件漏洩か 不正アクセスで - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/6 7:33:39) 「日本一生み育てやすい」掲げる県 出生率の4年連続低下に危機感(毎日新聞, 2024/6/6 7:32:33) 「マック」巡る商標権争い、マクドナルドが敗れる 勝ったのは…(毎日新聞, 2024/6/6 7:32:33) <未来は変わる ちばのSDGs>館山・沖ノ島 消えた「命のゆりかご」アマモ場を再び NPOが17年から苗植え活動(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/6 7:30:08) 干潟を守った半世紀の歩み 千葉県野鳥の会が写真展 シギ・チドリなど紹介(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/6 7:30:08) 先生はトップリーガー 船橋の小学校でタグラグビー教室 スピアーズ選手「エネルギーもらった」(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/6 7:30:08)
0 notes
kachoushi · 3 months
Text
虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅳ
花鳥誌2024年4月号より転載
Tumblr media
日本文学研究者
井上 泰至
6 葛城の神臠はせ青き踏む
 大正六年二月十日、松山に帰省の途中で京阪に寄った。白鳥吟社主催堺俳句会(於開口神社)で出句。西山泊雲・野村泊月・岩木躑躅・原田濱人・島村はじめ・久保田九品太・青木月斗・大橋櫻坡子らが出席。『ホトトギス』の同年三月号「堺俳句会の記」に詳しい。
 この句会は、大阪の『ホトトギス』派の旗揚げに位置する記念碑的な一件で、その詳細は櫻坡子の『大正の大阪俳壇』に詳しい。この句は『新歳時記』にも登録された、虚子の自信作である。大和と河内の国境に位置する葛城山の神一言主は醜貌の女体と言い習わされ、夜しかお出ましにならなかったと謡曲にも出てくる(「葛城」)。
 その引きこもった神に向かって、麓の春を足で確かめて野遊びしております。「山の上からせめて密かに御覧ぜられ度い」(虚子自注「俳句朗読原文」)と悪戯っぽく詠んでみせたのである。「みそなはす」とは、「ご覧になる」の最上級敬語表現で、これまた謡曲に神を主体とした用例がある(「高砂」など)。
 「臠」の字は画数も多く、呪術的なイメージを本来持つが、虚子の字は軽く「糸」の二か所が崩されていて、内容の「滑稽」と対応している。これは活字でなく、虚子の書によってこそ鑑賞が可能で、「臠」は一句の眼目であったことが了解される。
 神や霊魂に命令形を以て呼びかける表現は、江戸俳諧からある。
  塚も動け我泣声は秋の風 芭蕉
  五月雨の空吹き落せ大井川 芭蕉
  笈も太刀も五月にかざれ紙幟 芭蕉
 これらの芭蕉句は、痛切な哀しみや祈りが託されているが、虚子は次にあげる蕪村の例などに学んだか(『蕪村句集講義』)。
  裸身に神うつりませ夏神楽 蕪村
 蕪村の敬語表現「うつりませ」は、祈りとともに一種の滑稽というか余裕があって、そこが夏の禊を「裸身」で具象化する視線と対応している。虚子も、「野遊」の軽々と晴れやかな気分を、この敬語の命令形に託した。命令形は、祈りではあるが、痛切なそれと、軽い挨拶の二種があって、この句は山本健吉の言う俳句の本質「滑稽と挨拶」の典型例と言ってよい。
 ちなみに水原秋櫻子系の俳人の命令形には、自己に執着し、自己に言い聞かせる気分の命令形が多い。
  木の葉降りやまず急ぐな急ぐなよ 加藤楸邨 
  柿若葉多忙を口実となすな 藤田湘子 
  逝く吾子に万葉の露みなはしれ 能村登四郎
 このあたり、命令形の二系統は、俳人の質や俳句観をも照らしだす「鏡」と言ったら言い過ぎだろうか(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
7 雨の中に立春大吉の光あり
 大正七年二月十日、『ホトトギス』発行所句会のものと『五百句』に注記される。
 実景は雨だが、「立春大吉」の御札とその文字に、心中春の光を予感し、見て取る主観句である。もちろん、雨や雨粒にはわずかな光はあるかもしれない。だとしても、それを読み取ろうとする構えから生まれた心象を詠んだ句であることに変わりはない。特にこの句で詠まれた「光」に対する予感は、「立春大吉」の文字から触発されたものであることは、肚にとめておく必要があろう。
 虚子の揮毫では、この「立春大吉」をことさら御札めいて、黒々と墨書したりはしていない。ただし、注意深く見ると「大吉」の「大」の撥ねと、後に来る「光」の字の撥ねとは、対応している。
 そもそも「大」の字の運筆は、先に左に筆先を払い、取って返して右に払うもので、本来撥る字ではない。ところがこの句の虚子の「大」は右の払いの最後が若干撥ねていて、後にくる「光」の右撥ねの呼び出しになっている。こうして一句の眼目は、「光」であることが視覚的にも確認できるところに、虚子の揮毫で句を鑑賞する醍醐味が出てくる。
 「立春大吉」とは、立春の時期に玄関や部屋の入口に張る厄除け札のことである。あたりは雨だが、外界との通路である門口に貼られた「字」から、眼には見えない「光」を感じた。その意味で中七を字余りにする「の」はこの句の重要なレトリックである。
 一般に「中八」の言葉通り、字余りの中でも、中七を字余りにするのは禁忌とされる。俳句のリズムの研究は、五七五が実は休拍・無音の一拍を加えて、六八六であること、さらに前と後の六は伸びる傾向にあることを計測・実証した(別宮貞徳『日本語のリズム』)。これを前提にすれば、中七は延ばして詠まないものなので、ここでの字余りは、おおむねダレるのである。
 ただし、上五で既に字余りがある場合、続く中八は字余りの反復となり、このダレが感じられない。所詮リズムとは反復と同義なのである。
  春や昔十五万石の城下哉 子規
 掲句も上五・中七の連続の字余りだが、掲句の「立春大吉」に、わざわざ「の」を加えた意図は何だったのだろう?類例を挙げよう。
  春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎
 やはり「中八」を、堂々とやっているばかりか、上五に字余りはない。しかし、この句は「槍投げ槍に」ではいけない。あえて「て」を入れ、ひと呼吸を置くことで、投げた槍に歩み寄る主人公に焦点があたる。「槍」の繰り返しが独自のリズムを作っており、中八も気にならない(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
 掲句で言えば、まず上五に「雨の中に」と「の」が用意周到に置かれている点が注目される。この字余りを際立たせる「の」の印象を引き継いで、「立春大吉の」の「の」があることが了解される。
 加えて、「の」の繰り返しは、求心性をもたらす。
  ゆく秋の大和の国の薬師寺の      塔の上なる一ひらの雲 佐佐木信綱
  この庭の遅日の石のいつまでも 虚子
 掲句も字余りの「の」の反復を行うことで、光など一切ない春の雨の中、「立春大吉」の文字にのみ「光」を感じたことを焦点化して見せたのである。
 最後に、先の「葛城」の句との関係で言えば、神仏への祈りというテーマのつながりもある。このあたりに編集の妙を認めることも可能かと思う。
『虚子百句』より虚子揮毫
7 雨の中に立春大吉の光あり 
8 さしくれし春雨傘を受取りし
Tumblr media
国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
0 notes
bearbench-tokaido · 3 months
Text
五篇 下 その三
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 上野の町で、一人の男に話しかけられた。
「突然ですが、あなたがたは、お江戸の方でございますかな。」 弥次郎兵衛が、 「ああ、そうだが。」 と、答える。その男が、 「私は白子辺りから、あなた方の後ろをなんとなくついてまいりましたが、道々の御狂歌を承りましておよばずながら感心いたしました。 とても、上手でございますな。」 と、褒める。 「いやなに。口から出任せでございます。」 と、弥次郎兵衛はまんざらでないように答えると、 「いや、驚きいりました。 ついこの前、お江戸の尚左堂俊満(しょうさどうしゅんまん)先生が、当地へお出ででございました。 あの先生も素晴らしかったが、あなたもさぞ名の通ったお方なんでしょうね。」 と、その男はなおも聞いてくる。 「はあ、なるほど。さようさよう。」 と、弥次郎兵衛は尚左堂俊満という名前を、なんとなく聞いたことがあるなと思いながら答える。
「それで、あなたの御狂名は、何でございます。」 弥次郎兵衛は、 「私は、十返舎一九と申します。」 と、江戸で人気の滑稽本の作者の名前を言う。 「ははあ、御高名は、かねがね承っております。 あなたが、十返舎先生でござりますか。 私、南瓜の胡麻汁ともうします。さてさて、いい所でお目にかかりました。 この度は、御参宮でござりますか。」 胡麻汁というこ男は、ちょっとびっくりして、聞いてきた。 弥次郎兵衛が、 「その通り。このひざくり毛という著述の事でわざわざ出かけました。」 と、適当に答えている。 「ああ、あれですか。あれは、傑作でございます。 ここへお越しになる道すがらも、吉田、岡崎、名古屋辺りの俳諧や狂歌をやる連中が、さぞうるさかったんでしょうね。」 胡麻汁が、聞いてくる。 「いや。東海道は宿場ごとに残らず立よるつもりですが、顔を出すと引きとめられまして、饗宴になるので気の毒ですから、みな素通りしました。」 と、��れまた、弥次郎兵衛は、適当に答える。
「それにご覧の通りわざとこんな小汚い身なりをして、やはり神社仏閣に参詣する巡礼の旅行者のようにみせかけ、気楽でのんびりと風雅を第一と出かけました。」 「それは、お楽しみでございますな。 そうだ、私の宅は雲津でござりますが、どうぞ、お招きしたい。」 と、胡麻汁が、誘ってきた。 これは、面白くなってきたと、弥次郎兵衛が、 「ご迷惑でなければ、それはありがたい。」 と、答えると、 「まことに御珍客。近所の狂歌連中にも、ぜひお引き合わせしたいのですが。」 と、胡麻汁は、何かを考えている様子である。 「まあ、今夜、一泊していただくとしよう。 全く、不思議な御縁でいい人にあったもんだ。」 と、先にたって歩き出した胡麻汁は独り言を言ったあと、 「ところでここが、小川と言うところで饅頭が名物でございます。 一つ食べて、行きませんか。」 と、誘う。
しかし、弥次郎兵衛は顔をしかめて、 「いや、饅頭は懲りています。すぐに、参りましょう」 と、さっさと通り過ぎてながら、一首詠む。
名物の うまくて名高い 饅頭に くいつかんのは いかにせんかと
その歌を聞きながら、胡麻汁も慌ててついて行く。 それからほどなく、津の町の手前の高田の御堂についた。 右の方に見えるのが石井殿だ。
まな板の 上にて鯉の おどるさま これ佐用姫の 石井でんかも
左のほうには、如意輪観音堂もある。 また、国府の阿弥陀というのもある。
ここは上方から参宮に来た人が落ち合うところなので、往来はことに賑わしく、なかでも都の若い人々は普通の衣服の上にそろいの浴衣を着て、芸者のような格好をしている。 そのうえ、飾り立てた荷台を載せた馬をひきながら、歌を歌っている。 「ちちち、ちんちん。えい~い、ござれ。都の名所を~、見せよう~。 祇園、清水、やれ音羽山~。やあ、とこなあ~、よういやさあ。 ありゃあこりゃあ~、このなんでもせえ~、ちちち、ちんちん、えい~い。 地主権現の~、さくらにまくを打まわし~、霞がくれに~もの思わする~。 やあとこなあ、よういやさあ~、ありゃやこりゃや~。このなんでもせ~。」
弥次郎兵衛は黙ってその連中を見ていたが、 「おい、北八。見てみろ。すごい別嬪が見える。」 と、急に、北八のそでを引っ張る。 胡麻汁が、ポカンと見ている弥次郎兵衛と北八に、 「ありゃ、みな京都の連中じゃ。 あんなに立派な身なりをしていても、金は一文も使わねえ。」 と、言い捨てる。
その連中の一人が、胡麻汁に近づいてきた。 「すいませんが火を一つ、貸してくれませんか。」 「さあさあ、お点けなさい。」 と、胡麻汁はくわえていたキセルを差し出すと、その京の男は自分のキセルで吸い付け出した。 「ぱっぱっ。」 あんまり長いようなので胡麻汁が、 「まんだ、点かんのかいな。」 と、問いかけるが、京の男は、 「ぱっぱっ。」 と、平気で、吸っている。 胡麻汁が、 「なんじゃ、お前のキセルには、煙草が入っていないではないか。 はあ、わかった。吸い付けるふりをして、人の煙草を吸っていたな。 やめんかい。」 と、自分のキセルを取り上げる。
「ほらお江戸の先生。ご覧になりましたか。 京の連中はとんでもないケチな連中だ。 ところで先生。さっきの連中のせいで煙草がなくなった。 もう一服ください。」 弥次郎兵衛は、あきれたように、 「京の者をケチだというが、お前もさっきから、俺の煙草ばかり吸っている。」 と、ふところから煙草を取り出す。 胡麻汁が、したり顔で、 「それは当然。私は今、煙草入れを持っていません。」 と、弥次郎兵衛の煙草を自分のキセルに詰め始める。 「忘れてきたってことかい。」 と、弥次郎兵衛が、聞くと、 「いいや、忘れたわけじゃなくて、 本当のことをいうと、煙草入れを持っていないんです。 その訳は私は、えらい煙草好きで五分おきに吸いつけるくらいだから、こりゃ自分で買って吸ってしまってはたまらんと思いまして、それから煙草入れはやめてキセルだけ持ち歩いております。」 と、胡麻汁は、自慢げである。 「それで、人のばかり、吸っているんだな。」 と、弥次郎兵衛は、すっかりあきれている。 「まさに、その通り。」 「そりゃ京の連中に輪をかけて、お前がケチというもんだ。」 と、胡麻汁が自分のふところに入れようとしていた煙草入れを、ひったくるように取り返した。 胡麻汁は、 「はあ、そうかいな。ははは。」 と、笑って、 「ところで少々、遅くなったようだ。急ぎましょうか。」 と、足を速めて行く。
周りは薄暗くなってきて、月もはっきり見えるほどになってきた。 この辺りから、良洲(からす)の宮へいける道があると聞いて、
照わたる 秋の日本 ならば今 うかれまいらん 鳥御前に
などと一首詠む。 やっと雲津について南瓜の胡麻汁が自宅に案内した。 どうやら旅館のようだ。 運良く客は泊まっていないようで奥の間に請じ入れ、かれこれともてなしてくれる。
北八は、弥次郎兵衛が自分の名前を偽っていて、どうせ又酷い目にあうのだろうがそれも面白いと、共々奥の間に上がりこんだ。 やがて湯にも入ってしまい、ゆうゆうと座敷に座っていると、やがて亭主の胡麻汁がやってきて、 「これは、おくたびれでございましょう。ようこそお出でくださいました。 しかし折あしく、この頃は悪い天気で時化が続いておりまして、いいお魚がございません。 それで当地では、コンニャクがうまいので、まあこれでもお召し上がりいただこうかと申しつけておきました。」
弥次郎兵衛は、 「もう、おかまいなされるな。」 と、主人をねぎらうと、 「そういえばこの者をまだ、紹介しておらなかったな。」 と、北八を指差す。 「そういえばそうでした。あなた様は。」 と、胡麻汁に問いかけられて、 「私は十返舎の秘蔵弟子、一片舎南鐐と申します。 ふしぎなご縁で御やっかいになります。」 と、北八は、口から出任せを言う。 ちなみに、小判一両の八分の一を南鐐(なんりょう)といい、これをまた一片とも言う。
胡麻汁はちょっと首を傾げたが、北八の話は聞き流して、 「いやいや、何にもないですから、構いたくても構えませんって。 じゃ先生、ごゆっくり御くつろぎください。」 と、弥次郎兵衛に言う。
それを待っていたかのように入ってきた女中が、 「お食事を、お持ちしました。」 と、二人の前に膳を据えると、 「御ゆるりと、めしあがりませ。」 と、ならべられた膳を見回し満足そうにうなずき、女中になにやら言って部屋を出て行った。
つづく。
1 note · View note
toshiki-bojo · 5 months
Text
「虚子への俳話」168
「花鳥」令和5年2月号より転載
Tumblr media
「金子兜太・黒田杏子 対談」2017年5月30日・NHK学園にて
 この対談はかつてNHK学園で私が第一部として虚子の講演をした、その後第二部としておこなわれた金子・黒田氏の対談の模様を私が会場で速記をしたものです。このお二人とも故人となられた。誤謬などはご容赦を。
坊城俊樹
「俳句人生」
金子兜太・・
 旧制水戸高校・十九歳のとき俳句の道へと考えた。一九三八年のことだった。まもなく結社「海程」は白寿をもって閉づるつもり。これは私一代のみのもの。当初は自分の句を作るため、作らせるためのものだった。  しかしここに来て終刊を宣言せざるを得なかった。いまは生き苦しいから。しかし来年の白寿にすれば良かったかも。発表が早かった。本当の自分の腹はまだ出来ていない。しかし生き場所が無い思いも。淋しいがさっぱりとしたかった。でも一年様子を見たかったが。今後は一人ぶらぶら、二人ぶらぶらでやる。自由で行くつもり。
黒田杏子・・
 朝日新聞俳壇の選者を六十代でなされたときは伝統俳句派の新聞不買運動もありました。(金子氏は対立する現代俳句派の頭領と目されていた)今でこそ無いですが。  八十代まではハングリーでやると。お顔も元気だが顔面神経痛もされたとか。しかしジャンギャバンに似て来られた。つまり人間が深化されたのでは。  私は十九歳年下で、かつて戦場経験をされた時の聞き役もしました。長生きの道を柔軟に歩くこと。そんな生き物の先輩であられる。俳句も一句一句だから一九一九。そんな人生なのではないですか。
金子兜太・・
 答えられんよそんな質問、難しすぎて。  ともかく旧制高校に入ってから俳句を作った。わたしは母が十七歳のときに産まれた子。母は紙問屋の番頭の子だつた。母は徳利のような体でビア樽のような尻をしてた。  なんでも宇都宮聯隊の浜田という友人のとこにビア樽のような娘が居ると言うことで父と結婚することに。父(もとはる)は無理矢理開業医にされた人。本当は新聞記者になりたかった。嫌で試験は白紙で出したのだが、結局京都府立医大にはいった。 そして軍医となる。
 やがてビア樽は未婚のままで兜太を産む。まさに偶成。ちなみに私の「造形論」も偶成の句の作り方。名前は「兜太」で役場登録。中国では東方の太い気性の意味らしい。しかし父はあそこが太いと勘違いしていたらしい。私は魂もそんな太くない。すけべではあるが。  兎に角私は母が十七歳で生まれた子、法的にも最少出生は女性で十六歳とかの頃。子供は十代で産めという時代だったのか。父は上海の学校の校医もしていた。妹も上海で生まれた。兄弟は六人もいた。 その後帰国し秩父で開業をする。
 少年期のころから母が気の毒だった。農家の大家族に生れ、旧姓は島谷。姉妹は四人。母はいじめられたらしい。子供なのに饂飩打ちの麺棒で打たれていたとか。  母はその棒で饂飩を作り、私が小学校のころから父は俳句を作りはじめた。  秋桜子は父の同級生。医者同士で俳句の「馬酔木」をやることに。会は月に一二回か。もっとも、饂飩を食って・酒飲んで・俳句会。それは母がすべて差配した。
 母は大家族制度の女性の立場を見てきた人。医師嫌いになった、たぶん俳句も。そのため私は母のいじめの理由を調べるために帝大で経済学を学んだ。しかし俳句を憎む母は父らわれわれをずっと「人非人」と呼んだ。句会の人たちもまた。  私は実際のところ、正式には俳句は出沢三太郎という友人の影響で作り出す。最初の句は、
  白梅や老師無心の旅に棲む 兜太
 これは句会の最高点だった。そこから病みつきに。水戸時代の色街が舞台で、女衒の舞台でケヤケヤ踊りというのがあり、その際どい踊りを詠った。(筆者拄、この句とあまり関係無いような気がするが、私の記録違いかも)  今後のことについて。今となっては、家族や友人たちとの「牧歌的な回想」がある、しかし「独りの道」というように切り替えてみれば、昔の私などはどうでもよい。
 今後は「一人でどんな俳句が出来るか」「うまく行けばノーベル賞まで」と考えている。こんな野心こそがエネルギーかと。なんのこともない、結局母は百歳の時も俳句を作った。波郷、石塚友治の「鶴」のころも投句していた。  その金子ハルこそもっとも私の尊敬する人なのである。
0 notes
yomiyasumi · 5 months
Text
Tumblr media
さて少々遅くなりましたが、あらためて先日26日(金)の“8時だョ!レトロボードゲーム”でプレイした『桃太郎電鉄ボードゲーム 大どんでん返しの巻』(以後、桃鉄)のプレイレポを。 . 今回は親子で参加のAさん、Bさんと最後に桃鉄をもう一度と今月3度目の参加のCさん、そこに店主を加えた以上4名でプレイすることに。 . まずあらためて簡単にゲームの内容を紹介すると、テレビゲーム版の桃鉄と同様で、プレイヤーはそれぞれ鉄道会社の社長となって、サイコロで移動しながら、日本各地の目的地を目指します。その際、プラスの駅でお金をもらったり、目的地で物件を購入したりして資産を増やし、決められた年数で一番多く資産を貯めたプレイヤーが勝者となります。 . また今回は3人とも桃鉄経験者ということで、このイベントでは初の貧乏神ありモードでプレイすることに。 . なお今回は3年間モードでプレイ。1年目の4月からスタートして、4人がそれぞれサイコロを振り1周すると1か月。それを繰り返し3年目の3月で終了となります。 . ということで、最初に所持金2億円を持って東京駅からゲームスタート。目的地カードをめくり、出た駅はなんと“岡山”! . そう、わかる人はわかると思うんですが桃鉄の最高物件“桃太郎ランド”がある岡山です。ということで、まずはここを目指すことに。サイコロの出た目で好きな路線ルートを選んで岡山を目指します。その際に、青いマス目に止まればルーレットでお金がもらえ、赤いマスに止まると逆にお金を支払うことに。そして黄色のマスに止まるとイベントカード。 . 東京からそこそこ距離はありますが、いち早くサイコロ圏内に入ったのはBさん、そしてその勢いのまま岡山にピッタリ止まれるサイコロの目を出し見事ゴール。おめでとうございます。到着ボーナス3000万円をゲット。ただ岡山の物件“桃太郎ランド”の物件価格は10億円。さすがに現段階での所持金では足りないため購入できず。次回以降、10億円貯めたプレイヤーが、再び岡山に止まったときに買えることに。 . そして今回は貧乏神ありバージョンなので、この時点でもっとも目的地に遠かったAさんに貧乏神が付くことに。貧乏神が付いたプレイヤーは毎回サイコロを振る前に貧乏神カードを山からめくり、その指示にしたがうことになります。なお、貧乏神は誰か別のプレイヤーのコマを追い抜かすとなすり付けることができるので、ここからいよいよ波乱のなすり付け合戦がスタート。 . と、いうことで再び目的地カードめくり、次の目的地“徳島”を目指します。と思いきや、Bさんだけは執拗に“福の神チャンス”のマスを狙う行動に。というのも、福の神チャンスのマスに止まれば、サイコロ振って出た目×5000万円がもらえるので、場合のよっては目的地を目指すより効率よく所持金が増やせるんですよね。この辺りはさすが経験者、戦い方を知ってます。そして狙い通り4億円ほど稼いでおそらくこの段階ではトップに。 ただその間も他の3プレイヤーは目的地を目指しており、今度は店主が“徳島”にゴール。ここで貧乏神は一番遠かったBさんに。 . その後、3月を迎え1年目の決算終了&2年目突入。このあたりから貧乏神が猛威を振るいだします。とはいえBさんは九州地方に狙いを定め、目的地を目指さない作戦を決行するんですが、まさかの3回連続、関東地方が目的地に。これにはさすがの資産も底をつき、このゲーム始まって以来の最初の借金生活に。 . そしてようやく目的地が“那覇”になり、そこを目指すことに。なお、ほかの3人は基本の目的地目指す作戦なので、那覇近辺で貧乏神のなすり付け合いが激化。しかも那覇は回り道ができずサイコロ調整がしにくく、代わる代わる貧乏神の被害を受けることに。このあたりから貧乏神カードもキングボンビーやハリケーンボンビーが出現し出し、Cさんは物件を捨てられ、気がつけば店主以外全員、借金生活に。 . そしてなんとか店主がゴールしたところで2年目が終了&決算。ここで物件を持っていたAさん、Bさんはなんと��借金生活から脱出。特にAさんは東京の電波塔物件(3億円)を所有していたのでだいぶ持ち直す結果に。 . そして3年目。これまで比較的有利に展開していた店主だったんですが、ここに来て貧乏神の餌食に。しかも3月の決算間近で、Aさんが温存していた乗っ取りカードで物件の取引がされ、終わってみれば・・・。 . Aさん 14億7000万円 Bさん  7億2000万円 Cさん  -4000万円 店主  7億8000万円 . ということで、Aさんおめでとうございます! やっぱり東京の電波塔(物件価格3億円)を手に入れたのが大きかったですね。ということで来月はまた別なレトロボードゲームをプレイしてみようと思いますすので、よかったら参加してみてください。 . なお、今月プレイした『桃太郎電鉄ボードゲーム 大どんでん返しの巻』は、来月から“21時のレトロボードゲームFP(フリープレイ)”の方のラインナップにも追加しますので、今後プレイしてみたい方はこちらからお申し込みください。 . 【21時のレトロボードゲームFP】 https://yomiyasumi.tumblr.com/event2
0 notes
shintani24 · 5 months
Text
2024年1月24日
AFCアジアカップ カタール2023 グループステージD組 第3節 日本代表 3-1 インドネシア代表@Al Thumama Stadium/6分 PK 上田 綺世、51分 上田 綺世、88分 オウンゴール、90+1分 Sandy Walsh
Tumblr media
能登半島地震で原発は「警戒事態」だった…政府と自治体の対応を振り返る 指針に書かれた「避難の準備」は(東京新聞 1月24日)
能登半島地震では北陸電力志賀原発を巡る危機も看過できない。実は今回、立地する石川県志賀町で震度6弱以上を記録したため、国の原子力災害対策指針が定める緊急事態区分の一つ「警戒事態」に当たると原子力規制庁は判断していた。関連情報の周知や避難の準備が求められたが、震災対応に追われた地元自治体は手が回ったのか。複合災害に対応できるのか。(曽田晋太郎、西田直晃)
◆自治体職員も多くが被災して登庁ができない大混乱
「阪神大震災の経験が生きなかった。経験を生かす以前の話だった」
そう話すのは神戸市危機管理室の課長、渡辺智明さん(58)。6日から11日にかけて能登半島先端にある石川県珠洲市役所に入り、避難所運営のニーズ調査を担った。都市部で起きた阪神大震災とは異なる混乱ぶりがあったという。
珠洲市は地方の過疎地。人口は約1万2000人。職員数も神戸が2万人だったのに対して400人ほど。3〜4割は被災して市役所に来られない状況だった。
渡辺さんが現地入りした段階でも被害の全体像がつかめておらず、避難所の数や避難者数も不明だった。情報発信もままならず、飲料水などの物資が必要量以上に届く事態に陥った。
「珠洲市は人手不足で満身創痍だった。体系的に動けておらず、機能不全の状態だった。初動の局面からなかなか先に進めない状況になっていた」
◆震度6弱以上で「警戒事態」 原子力災害対策指針
震災対応で大混乱した今回の地震。原子力災害でも重要な局面が迫っていた。
志賀原発は停止中だったものの、立地する志賀町では元日に震度7、6日に6弱を記録した。その一方、原子力災害対策特別措置法に基づく原子力災害対策指針では「原発所在市町村で、震度6弱以上の地震が発生した場合」などを「警戒事態」と判断する基準の一つに定めている。
警戒事態は事故対応の初期段階に当たる。住民対応を円滑に進める名目で規制庁や自治体は少なくない業務を強いられる。指針などによれば、職員の参集、関連情報の収集や周知のほか、環境モニタリングや避難の準備が必要になる。
避難の準備で対象になるのが、原発の5キロ圏の高齢者や妊婦ら。搬送先や輸送手段の確保も求められる。
◆警戒本部を約5時間半で「廃止」 何を急いだのか
規制庁によると、警戒事態に該当するかの判断は同庁が行う。今回のケースでは、志賀町で震度6弱以上を観測した2回とも警戒事態に認定し、原子力規制委員会・内閣府原子力事故合同警戒本部が設置された。
ただ警戒本部は1日が約5時間半、6日が約40分で廃止された。この間、原子炉の「止める・冷やす・閉じ込める」の機能や使用済み核燃料の冷却状態を確認したという。
富山大の林衛准教授(科学技術社会論)は「志賀原発に異常はないとしつつ、変圧器の油漏れや電源喪失などの情報がどんどん出てきた。規制庁は異常の把握を途中でやめ、『大丈夫でしょう』と決めたように見える。なぜ本部を急いで廃止したのか。信頼性を失う判断ではなかったか」と疑問を呈する。
「情報が錯綜すれば自治体の混乱を招きかねない。不具合の原因が究明できていないので、いつ危険な状態になるか分からない。規制庁はきちんと地震の影響をチェックすべきだった」
◆石川県「国からの指示が特になかった」
国もさることながら気になるのが、志賀原発を巡る地元自治体の動き、特に石川県の対応だ。
志賀町出身で社民党県連代表の盛本芳久県議は「県は北陸電力の発表を追認するだけで、原発に関する独自の情報発信がほとんどない」と不信感を示した上で「タブー視されているかのようで、県の動きが見えないことに不安を感じている」と嘆く。
実際のところ、県はどのように動いたか。
県原子力安全対策室によると、元日の地震発生の約45分後、「事故現地警戒本部」の設置を国から文書で要請される直前、県独自の判断で拠点の志賀オフサイトセンターに職員2人を派遣した。地域防災計画では震度5以上なら全職員登庁と定め、担当者は「すぐに県庁の受け入れ態勢をとった」と説明する。
その後、北電から安全性の情報提供を受けながら、周辺の空間放射線量を測る緊急時モニタリングの準備を整えたが、道路の陥没や隆起が相次ぐ中で様子見に徹した。担当者は「初動の迅速さ」を強調し、原子力災害対策指針が定めた通りの対応を説明。「規制庁と相談しながら対応を判断していた」とのことだった。
ただ、5キロ圏の高齢者や妊婦らの避難準備は、立地町の志賀町に呼びかけていない。「国からの指示が特になかった」(県危機対策課の担当者)ためという。
◆地震に原子力災害が加わると「対処できるレベルをはるかに超える」
志賀町によると、警戒事態で避難準備する対象者は少なくとも233人(2023年11月時点)が該当し、5キロ圏で生活する住民の約7%を占めている。実際に避難となると、震災対応と並行した動きが求められる。
今回の地震でこうした原発対応に追われた県と志賀町に対し、盛本氏は「災害対応は本当に大変だった」とねぎらいつつ「原発の様子が気になる県民は多い。余震の際には『原発は大丈夫か』と不安が募る。もっと情報を集約してほしかった」と注文する。
警戒事態からさらに状況が悪化すると、自治体などの負担がはるかに増す。
避難を強いられた住民の誘導、避難者の体に付着した汚染の程度を調べるスクリーニング、甲状腺被ばくを軽減する安定ヨウ素剤の配布なども必要に。目の前の災害対応の中、対処しきれない事態が待ち受けている可能性が高い。
新潟国際情報大の佐々木寛教授(政治学)は「能登半島地震では、水道破裂や道路陥没、電気不通が相次いだが、そこに原子力災害が加わると、単一の自治体が対処できるレベルをはるかに超える」と指摘する。
「原発事故は十中八九、地震や津波と併発する複合災害。どの自治体も人員、物資ともに不足する」
◆国民を守るための方策が「簡略化」される懸念
さらに佐々木氏は「原発事故の対応に手が回らないという理由を付け、防護策の簡略化に向かうのが怖い」とも警戒する。
5キロ圏を例に取れば、今の指針では警戒事態よりも深刻な「施設敷地緊急事態」や「全面緊急事態」で避難の開始を想定するが、労力の問題から「5キロ圏でも屋内退避になってしまうかもしれない」と見通す。
5キロ圏外でも「頑丈な建物に退避」が原発対応の基本とされかねない一方、今回の地震で建物の損壊リスクが明らかになっている。そんな中、屋内退避で難を免れるのに限界があるのは明白だ。飛散した放射性物質にさらされたり、体内に取り込んだりすることで、被ばくを強いられる可能性が高くなってしまう。
佐々木氏は「原発が重大な事態に至らなくとも近くに住む人は不安を抱え、外に逃げてもいいか、屋内にとどまるべきか、迷いを生じさせる。それほど原発は厄介な存在だ」と訴える。
◆デスクメモ 地震や津波の対応に奔走する自治体には頭が下がる。自身や身内が被災した例もあるだろう。彼らに原発対応まで求めるのは申し訳ない。災害時に負担を強い、疲弊を加速させるのが原発という存在。佐々木さんの言うように厄介であり、罪深くもある。そんな原発は本当に必要なのか。 (榊)
Tumblr media
【速報】岸田総理 北陸4県を対象に旅行代金を割り引く「北陸応援割」を実施すると明言(TBS NEWS DIG 1月24日)
能登半島地震を受け、岸田総理は北陸4県を対象に旅行代金を割り引く「北陸応援割」を実施すると明言しました。
岸田総理「ゴールデンウイークまでの3月・4月を念頭に北陸4県を対象として、1泊2万円を上限として旅行代金を割り引く『北陸応援割』を実施する」
参議院予算委員会で岸田総理は「北陸地方には営業が可能な地域でも予約のキャンセルが相次いでいる宿泊施設が多数存在している」と指摘したうえで、3月から4月にかけて石川・新潟・富山・福井の北陸4県への旅行代金を最大で1泊2万円割り引く「北陸応援割」を導入する考えを表明しました。
あす、政府がとりまとめる被災者支援のためのパッケージに盛り込むとしています。
Tumblr media
”自衛隊の初動に遅れ”との批判に反論 岸田総理「迅速に取り組んだ」(テレ朝news 1月24日)
岸田総理大臣は、能登半島地震で自衛隊の初動が遅かったとの指摘に対し、「遅れがあったということは当たらない」と反論しました。
立憲 杉尾秀哉参院議員「自衛隊の派遣。今回は明らかに遅いし少ないというふうに言わざるをえません。人災の要素があったということについての総理の受けとめを伺います」
岸田総理「発災直後から自衛隊も含めて救命救助に迅速に取り組んだところであります」「地理的な制約の中でも初動対応に遅れがあったということは当たらないと考えております」
岸田総理は、地震発生が日没直前で、半島という地理的な制約もあり「情報収集に大きな困難が生じた」と振り返りました。
そのうえで、「夜を徹して情報収集し現地に速やかに入るよう指示した」と強調し、自衛隊は救命救助や物資の輸送に即座に取り掛かったと反論しました。
Tumblr media
食事提供めぐり2次避難断念 被災住宅で生活続ける人も 石川(NHKニュース 1月24日)
石川県の被災した地域では、2次避難を希望しているものの避難先で食事が提供されないことから、被災した住宅での生活を続けているという声が上がっています。
石川県珠洲市の沿岸部に住む80代の両親がいるという40代の女性によりますと、両親の自宅は地震の揺れにより屋根が落ちたり、壁が崩れたりしたため、一度は避難所に行きましたが、母親が足が悪く歩行に介助が必要で、トイレのたびに避難所を移動する負担が大きく、現在は自宅に戻って生活をしています。
これまで両親の食事や洗濯などの世話をしていた別の親族の仕事の都合で珠洲市内から出られずにいましたが、このまま壊れた自宅に住み続けるのは危険なため、2次避難をしたいと、今月20日に石川県の窓口に相談しました。
しかし、担当者から「県内に食事が提供できる2次避難先はない」と説明を受けたため、食事付きを希望したところ、「2月下旬から1か月間であれば石川県加賀市で食事付きの2次避難先がある」と提案されたということです。
珠洲市から加賀市までは車で3時間以上かかり、親族でサポートすることが難しくなることから2次避難を断念し、現在は、民間の賃貸住宅を活用した「みなし仮設住宅」など、別の制度の利用を検討しているということです。
40代の娘は、「国は『2次避難先でも、被災地の避難所と同じように衣食住の提供などの支援が行われるよう徹底する』と発信していますが、実際にはそれが徹底されていないと感じた。余震によっていつ自宅が崩れるかも分からず、高齢者など避難を希望する人たちが安心して生活できる避難先を確保してほしい」と話していました。
0 notes
endekashi · 5 months
Text
Wind is blowing from the Asia
Tumblr media
ジュディ•オングさんの「魅せられて」の歌詞、昔からずっと「Wind is blowing from the Asia」だと思ってだけど、Asia(アジア)じゃなくてAegean(エーゲ海)だったって知ってました?
でも我々ほうてい野郎にとっては、アジア大陸からの風のおかげでこうして楽しませてもらってる訳でやっぱり、このままAsiaでいいんじゃないかと思う訳です。
でもね、たまーに、もうええっちゅーねんって位吹いちゃうんですよねえ。
Tumblr media
本日のカスタマー。なにやら顔出しNGの人がいますねえ。まあ、みんな色々ありますからね。あんまり詮索せんで下さいな。
遥々高知からいらした方も!先日の九州といい、やたらウェッサイづいてるえんでかしです。
Tumblr media
Acharmの店長さんも言ってたけど、山の世界では都会という白馬。降雪後のピーカンっちゅー事で色々芸能人いましたよ(山の)。
まずはフォトグラファーニッシー率いるヤングガンズ。みんな10代だとか。これから要チェックや!
Tumblr media
こいやのうなP、ケータ、ドラゴン、ホーリー。
Tumblr media
更にRED EYE FILMのシブチンさんに村瀬姉妹、コクボ君とー…一番左は…うちのお客さんかーい。しれーっと入ってました。
他にも色々、(山の)芸能人いました。
Tumblr media
風はボーボーですが山は大賑わい。我先へと上を目指す人々。
Tumblr media
我々は飯森神社奥社にワッツアップかましながらゆっくり向かいます。なんかいいとこ余ってねーかな〜。
Tumblr media
あっちは結構風当たってそうだな〜。
かと言って風の影響の少なそうな大岩周辺はすでに大賑わい。
Tumblr media
初八方だっつーもんで散歩がてら奥の方まで行ってみますか。
Tumblr media
絶えず風は強かったけどたまにお休みになる時間もありましてなんとか進むと…
Tumblr media
あら、意外とまだ誰も入ってない。みんな結構上を目指す人もいたようで。
ウィンドスラブに警戒しながらドロップイン!
Tumblr media
いいスプレー上がっていい写真になりそうだけど遠い〜。一人ガイドの辛いところ。
Tumblr media
多少パックされてるものの、全然気持ちいいほうていでありました。
Tumblr media
ピーカンでほうていなら最高なわけですよ。
Tumblr media
スキーヤーはちと難しそうだったけど、上手く乗りこなしてました。
Tumblr media
いや〜良かったね〜なんて喜びを分かちあっていると、尾根を移動していた二人組がリモートで雪崩を誘発。
サイズ1.5~2位かな?幅50m 厚さ20cmくらいでした。
別に自分達のところには来ない感じだったけどちょっと焦りました。
やっぱこんだけ吹いてればウィンドスラブ出来ますよね。気をつけていきやしょう。
Tumblr media
そうは言っても最高な訳ですよ。
Tumblr media
下に下がれば風の影響なくなるかなーって期待してたけど沢の中までばっちりパック。抜け目のない仕事をされてますね。
Tumblr media
谷を脱出。
Tumblr media
どこにいてもボーボーでゆっくり休むとこがねえ〜。
Tumblr media
あまり人の入ってなさそうな場所を狙ったらまたも小規模ながらもウィンドスラブ。
Tumblr media
面つるは面つるだけど風で飛ばされた面つるです。
Tumblr media
雪があればスイスイ降りられる谷も、カリカリじゃがいも畑でシーズン最初の身体にこたえます。
Tumblr media
上では山の雰囲気に飲まれていたのか口数の少なかった彼女。普段、居酒屋でカウンターの守護神と呼ばれる程の呑んべえらしく、標高が下がるにつれ、次第に調子を発揮してきましたが、みんなが欲しがる場面では魅せてくれませんでした。
Tumblr media
てな訳で無事終了!初八方いかがでしたでしょうか?まあ、八方らしい八方でしたね!
白馬は他にも色んなルートが楽しめますんでまた来てくださいね!
お疲れ山でした!&おしょっ様でしたー!
P.S 新潟LOWクルーのみんな!高知の重鎮にもフォトブック渡しておくように頼んどいたぜ!
0 notes