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wankohouse · 11 months ago
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浦添中学校 中学相撲 沖縄タイムス他
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写真:玉城(浦添)全国準優勝 全国中学相撲の個人軽量級で準優勝した玉城伝紳 ( 引用元:沖縄タイムス)
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写真:山城(浦添)全勝で制覇
2次予選リーグ戦 浦添の山城咲武斗が上手投げで有銘翔(安慶田)を破る=中部農林高校(田嶋正雄撮影)
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写真:県代表8強入り 全国都道府県中学生選手権で(左から)狩俣弥央望、内間悠天、玉城伝紳(提供)
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大将の玉城伝伸=2年=左から切り返し
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重量級選手を投げ飛ばす玉城君
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琴棒杯小学生相撲大会6年生の部決勝 玉城伝紳が上地安起を「引っ掛け」で破り、1年生から6連覇を達成
こんな記事もあるよ!『浦添中の玉城伝紳はレスリングの九州王者でもあります』 『 「今年で相撲は終わりで、レスリングに集中するんですけど、今年はまだ大会があるので、そこでしっかり勝って終わりたいです」 』 引用元:OTV 沖縄テレビ放送>沖縄ニュース: https://www.otv.co.jp/okitive/news/post/00009645/index.html
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日本レスリング協会ドン・キホーテ杯全日本ビーチ沖縄大会 中学生の部 男子軽量級 優勝玉城伝紳(RISE)
小学生の時から連続優勝
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玉城君の小1の時の写真があったよ!
ところで ↓ この人・・・
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玉城悠君。ジュニア修斗選手から、高校でレスリングに進んだ。レンズを見る目つきに共通点が・・・
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marugatsu · 2 years ago
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第12回定期演奏会のお知らせ
※当演奏会は多くの皆様のご支援をいただき、盛会のうちに終えることが出来ました。
多数の関係者様、応援してくださっている皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。
日にち:2023年10月22日(日)
時間:14時30分 開演 (14:00開場)
場所:江東区文化センターホール(東京都江東区東陽4-11-3)
地図:https://goo.gl/maps/yNaVaSo6g2DvQhNNA
料金:1,000円 (全席自由)
曲目:第1ステージ Beethoven Choral Collection
   第2ステージ 混声合唱組曲「終わりのない歌」
   第3ステージ Disney Medley
   第4ステージ Breath of Song
お申込先:当イベントは終了しました。次回演奏会をお待ちください。
お問い合せ [email protected]
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ご来場、お待ちしております!!
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marugatsu-blog · 2 months ago
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ラ・フォル・ジュルネTOKYO終演!
ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2025 でのステージを 無事に終えることができました! 今年は以下のステージに立たせていただきました。
2025年5月3日(土・祝) 17:20〜17:40 無料コンサート/ホールEキオスクステージ @東京国際フォーラム 地下2階 ホールE キオスク (エルミタージュ)
2025年5月5日(月・祝) 18:30~19:10 LFJエリアコンサート @東京ビル TOKIA 1階 ガレリア 世界最大級のクラシックの音楽祭の熱気に後押しされて、 どちらのステージもたくさんのお客様と、素敵な時間を 過ごすことできました。 おかげで打ち上げのお酒も美味しかった!🍺 この体験を力に変えて、またみんなで歌っていきます! ありがとうございました!
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listentothevoiceofwind · 9 months ago
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2024年7月7日放送分 満点DAMミュージックレジェンズ 文字起こし(前半)
Opening theme♪ワタユタケ「惑星」
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MC 横田岳史(ヨコタタカ��)さん 
満点DAMミュージックレジェンズ、この番組はカラオケDAMでおなじみの第一興商の提供で札幌FMしろいしが制作し、ただいま和歌山県エフエムマザーシップ、山形県酒田ハーバーラジオ、新潟県エフエムピッカラ、秋田県ACB秋田コミュニティ放送の5局ネットでお送りしております。
てことでお聴きの皆さん、お元気ですか?番組MCエフエムしろいし“何にもせんむ(専務)”こと横田岳史です。この番組は安全地帯ギタリスト武沢侑昂レジェンドとともに心揺さぶる音楽を求めてタイムトリップしちゃう、そんな番組なんですが武沢さん元気ですかッ⁉︎
安全地帯ギタリスト 武沢侑昂さん
♪「Rockin’ Down the Highway」(The doobie brothers )のフレーズをギターで演奏
【ふっぢーさん他皆さん、曲名探しにご協力有難うございました!】
おはようございます!
横田さん
おはようございます、かっこいいギターですね、またコレ。
武沢さん
これ、知らないですか?
横田さん
この曲はあ、あの、既存の曲ですね、安全地帯のじゃなくて。
武沢さん
そうです。僕がよく、その頃聴いてた曲です。
横田さん
あー、その頃…、その頃というのはいつ頃のことで…しょうか。
武沢さん
前回と同じ、
横田さん
ああ前回と。
武沢さん
前回と同じ、ブラック・サバスとかやってた頃に。
横田さん
はい。
武沢さん
あの、玉置がブラック・サバスで、安全地帯になった時にブラック・サバスのボーカルをやってくれて、あの曲のね。
横田さん
うんうん。
武沢さん
それで僕がギターを弾いて、玉置のアニキがドラム叩いてたのか?
武沢俊也(兄)さん
そうだよ。
横田さん
はい。
武沢さん
そうだよね、で、お兄ちゃんはやることがないんで、
武沢(兄)さん
そう。ステージの真ん中で。じっとして(笑)
横田さん
てかあの、当たり前のように紹介もなくあの〜…ワッハッハ(笑)
武沢(兄)さん
クックックック(笑)ごめん(笑)
横田さん
いや、いいんですよいいんですよ。というわけでなんか先週に引き続き今週も来て頂きました。あの安全地帯のなんていうかね、事始めというか。
武沢さん
そうですね。
横田さん
その頃の話をたっぷり聴かせて。頂きたいなと。
武沢さん
順繰り順繰り思いつつ、ちょっとやってみましょうかと。
横田さん
ま、先週どこまで何を話したかっていうのもあまり、記憶が(笑)覚えてないですけども。
武沢さん
たしか、安全地帯の名前になって玉置の兄貴が参加して、で、ポプコンに、あ、ポプコンをやってたんだけど、
横田さん
うん。
武沢さん
何回もやってるうちに、��チイ楽器の酒井さんが一人づつ出たらどうかと。いう話までしたんでしたよね、たしか。
横田さん
そうですね。それで、一人づつ挑戦したら玉置さんの「昔にみたもの」が…
武沢さん
が、通って。当たり前ですけど。
横田さん
あのお兄さんがね、先週、まぁ当然だよねみたいなことを、やっぱ当時から玉置さんはすごかったという話を…
武沢さん
そうですね、そうです、そこを…だいたいその辺まで話してその曲、「昔にみたもの」ですね、それを聴いて、た、ところぐらいまでの話でしたけど。で今日は、その後僕たちは、たぶん、これも酒井さんの提案だったと思うんだけど、六土開正グループってのがいて、これマチイ派のミュージシャンですね。クニハラ楽器じゃなくてね。
横田さん
あー!楽器、楽器屋さんで色々あるんだ?
武沢(兄)さん
フッフッフッフ(笑)
武沢さん
楽器屋で完全にあの、二手に分かれてたんですよ、当時。
横田さん
あー、そうなんだ。国盗り合戦みたいな事を旭川でやってたんだ?
武沢さん
そうなの。で、前も言ったんですけど、マチイ楽器系は僕らとその主に六土開正になったその、カキ君と六ちゃんと、その他何人か居たんだよね、たしか。その、よく楽器買いに来たりとか、あのずっとマチイ楽器に居たりしてね。アルバイトやってたのかな?!ちょっと忘れたけど。それを、あ、そういうそのミュージシャン、マチイ楽器に、多分ね5〜6人とか7〜8人とか分かんないすけど、居たと思うんですよ。
武沢(兄)さん
いつもたむろしてる連中が居たよね。
武沢さん
そうそうそう。で、そこにあるギターをずっと弾いてる人とか…、そういう人もいて。
武沢(兄)さん
そういう人もいたね。
武沢さん
同じく、マチイ楽器よりおっきい、もうちょっとおっきい楽器屋だと思うんですけどクニハラ楽器ってのが多分、旭川で一番おっきくて、そこは、そこには行かないんです、僕たち。あの同じ楽器屋なのに。それは何故かっていうと、クニハラ楽器派のミュージシャンって全然違ってて。ほら、ギター弾いてる感じでどういう人達なんだろうって分かるじゃないですか?
横田さん
そうですね。うん。
武沢さん
んね。何が好きなのかなぁとか。全然僕たちと違うロック系じゃない人達が多くて…、
横田さん
ああ〜。そうなんですね。
武沢さん
そういう人も居るのかもしれないけど、なんかあっちにはあっちでバンドとかやってる人たちが居て、そういう人たちもやってたんですけど、僕たちはマチイ楽器派、に居たと。で、そのマチイ楽器派の六土開正(バンド)になる3人ね、と、今の安全地帯と合併したらどうかと言ったんだっけな。
横田さん
あー、そうかそうか。
武沢(兄)さん
その話になるのはね、あれだよね、玉置の兄貴が辞めてからの話だよ。
武沢さん
あ、それをね、聞きたいんだよね。ちょっと僕その辺のね、よく覚えてない。
横田さん
玉置さんのお兄さんが何故抜けられたんですか?
武沢(兄)さん
それはね、練習中に、まぁあの俺とあのまぁ喧嘩しちゃって(笑)
武沢さん
ああ、そうだっけ。
武沢(兄)さん
ッハッハッハッハ!
武沢さん
なんで喧嘩したの?
武沢(兄)さん
そりゃ、玉置の兄貴が途中で、まぁムラッ気だったから途中で練習しなくなっちゃうんだよな。で、全然練習できないから、「じゃ、帰ったら?」って言ったんだ俺が。ックックックック(笑)…うん、で帰れば?って
武沢さん
練習場でね?
武沢(兄)さん
練習しないんだったら帰ればいい(笑)
武沢さん
マチイ楽器の練習場で、
武沢(兄)さん
スタジオで。そうそうそう。
武沢さん
あの頃はマチイ楽器のスタジオって確かなんかあの建物の上の方にあったよね。
武沢(兄)さん
そうだね、上か、地下にあったこともあるんだけどね。まぁその頃は上だったね。
武沢さん
上で、
武沢(兄)さん
あの国劇ビルの屋上にあった、そうそうそう。映画館あったね、映画館とか飲み屋街が入ったあの、なんていうんだろ、そういう雑居ビルの。ま、旭川で結構有名なビルなんだけど、国劇ビルって、映画館もあったし。
武沢さん
うん、ああ。
武沢(兄)さん
でなんか旭川興行だかなんかそういう芸能事務所みたいなのも入ってたし。
武沢さん
うん。
武沢(兄)さん
そこの屋上のあの、いつも家具とか放り込んである倉庫みたいな所、
武沢さん
そこ、で…、
武沢(兄)さん
マチイ楽器で、練習させてくれてたんだよね。
武沢さん
練習、タダでね。
横田さん
ふううん。
武沢(兄)さん
当然俺ら金なんてなかったから(笑)
武沢さん
うん、使わせてくれて。それは酒井さんだよね多分。
武沢(兄)さん
そうだね。酒井さんが店長の頃かな?
武沢さん
うん。
武沢(兄)さん
それでそこで練習してて、
武沢さん
そういうことがあって。玉置の兄貴とちょっとトラブって。うん。で、玉置の兄貴が練習に来なくなったと。いう事もあって、まあ、抜けた、という事で、ま、メンバーどうしようか。これからどうしていこうか、ってその酒井さんが結構やっぱり相談役になってくれてたと思うんですけどね。たしか。
武沢(兄)さん
うん
横田さん
うん
武沢さん
でそん中でそういう話を、してくれて、カキくんとか六ちゃんとかはどうなんだろう?って事をちょっと話をまとめてくれたんですよね確かね。
武沢(兄)さん
でもその前にあれだよね、その前に大平が、ほら、
武沢さん
あ、大平くんは
武沢(兄)さん
去年亡くなった大平、いっちゃん。大平市治くんが。ドラムの。
武沢さん
ドラムの。やってもらって。
武沢(兄)さん
うん、
武沢さん
とりあえずね。
横田さん
あ!大平さんはじゃあ、玉置さんのお兄さんが抜けた…後入ってきたの、
武沢(兄)さん
玉置の兄貴が辞めた後に、そう。
武沢さん
大平くんも多分ドラムやってなかったんだよ。
武沢(兄)さん
そうそう、ベースやってたんだよ。
武沢さん
そうだよね。
横田さん
ふううん。
武沢(兄)さん
でまぁ、玉置と大平と、ま、ユタカとかその辺が話し合って、探したんだけど居なくって。俺がやりたいと名乗りを挙げたのがいっちゃんだったんだよね。
横田さん
はー、そうなんだ…。
武沢(兄)さん
でまぁ、猛烈に練習し出したよね、大平くんはね。
武沢さん
そうだね。
武沢(兄)さん
でまぁ、とりあえずまがりなりにそれなりに叩けるようになって、それこそ、あのこないだやった、札幌のヤマハの楽器スタジオに…
横田さん
ああ。
武沢(兄)さん
何曲か録音したことあるよ。大平入ってから。
武沢さん
ああ、ああああ。はいはいはい。
武沢(兄)さん
3曲ぐらい録音してるわ。その頃の音源は無いかもしれないけど。
武沢さん
うん…
横田さん
ふーん…
武沢(兄)さん
だからそれなりに、まぁ叩けるようにはなったんだけどー。だけど、ちょうどその頃、大平が入って、ま、一年もしないうちに、六ちゃん達との合併話が、出てきたよね。
武沢さん
うんうん。
武沢(兄)さん
で一生懸命練習するんだけど、やっぱりその、ね、当然、要求されるレベルまでにはなかなかならないし。
武沢さん
うん。
武沢(兄)さん
うん。まぁ限界あるだろうなっていうね。うん。
武沢さん
そうだね。だから多分、色々面倒見てくれた酒井さんがその、��うせだったらま、プロを目指してやるんだったら、こういうね、玉置みたいなボーカルがいるチームと、六土開正みたいなロック系で、すごい上手いバンドが合体、一回してみたらどうかっていうことだったと思うね、多分ね。
横田さん
うん。
武沢さん
うん、その、ま、強力なバンドにしようと。という事になっていって、それからその後に、この…は止めて、もうあの、自分達でデモテープを作るの。要するに、楽曲を自分達で作って、そのポプコンに出すんじゃなくて、とにかくコンサートと、まぁデモテープを作っていこうと。いう作戦…
武沢(兄)さん
そこからね、誰かが観に来てくれるような、うんまぁ、そういうバンドになれるぐらいのものを地元で作っていこうや、出来るはずだよ、っていうコンセプトだった。
武沢さん
うんうん、そうだね。
武沢(兄)さん
それでMFPっていう名前も作ったの。ミュージカルファーマーズプロって。その頃、うん。ま音楽的にそこに旭川に根差してやっていこうって話だったから。簡単に東京に出てってダメになっていく人達たくさん居たし。っていうのが、酒井さんのコンセプトで。そういう人達何十人も見てきただろうから。才能ある一人二人で出てっても、だいたいダメになって戻ってきちゃうから。
武沢さん
うん、ああ。あ、そうそうそう。思い出した、そだ、東京に行って、そうなんだよね。東京に行く人が結構居たんだよね。
武沢(兄)さん
うん、居たんだよ、旭川でも若い人達、居たんだよ。
武沢さん
プロ目指してね。でも、行っても、そうなんだよ。行ってもなかなかその東京でプロになって、そのままヒット曲出せるかっていったら全然そんなうまく行かなくて。
横田さん
うん。
武沢さん
ていう事があって、まず、自分達でちゃんとその、コンサートやってもお客様を集めれる、ね、その状況をまず作って、で、段々そっから広げていって、で、作品もどんどん増える良い作品を増やしていこうと、いう事で。じゃ、どこでどうやってそれを、そういうスタジオを作った方がいいんじゃないかって話もこの頃出てきた。
武沢(兄)さん
そうだ、その頃だな。うん。
武沢さん
だよね、うん。
武沢(兄)さん
合併の話と一緒になり出した頃にスタジオの話も具体化していった。
武沢さん
そうそう。そして、それが現実になって、農家を、永山っていう町…、ナガヤマチョウっつーの、あれ?
武沢(兄)さん
そうだね。永山な、旭川の郊外。田んぼしか無いような所だった。
武沢さん
そうそうそう。田んぼが、ま、割とそこの…なんかあれ、元々あった家なんだよね、あれたしか。
武沢(兄)さん
元々あった家なんだよ、農家。
武沢さん
農家、
武沢(兄)さん
ベースの宮下くんの、お父さんの、お知り合いの家。
武沢さん
ああ、ああ、なるほどね。
武沢(兄)さん
うん、廃屋じゃないけど、もう誰も使ってない家だったんだよね。
武沢さん
うんうんうん。
武沢(兄)さん
うん。
武沢さん
じゃ、そこをまぁ使わしてもらって、
武沢(兄)さん
そうそうそう。
武沢さん
で、一応そこを全然田んぼの中の一軒家みたいな所だったから音だって別に…あの、防音しなくても、
武沢(兄)さん
迷惑にならないだろう…、
武沢さん
ならないけど、でもちゃんと、一応工事して、楽器とかもちゃんと買わないとPAとかね。
武沢(兄)さん
うん。自前でコンサート出来るようにね。
武沢さん
そうそうそう。
武沢(兄)さん
いつも借りてたから。
武沢さん
という事もあって、酒井さんのおかげもあって、そ��、木内さん、
横田さん
うん、
武沢(兄)さん
優佳良織工芸館(ゆうからおりこうげいかん)の館長だった木内さん。社長だった人。
武沢さん
社長だった人ね。の、その協力もあって、その。で、お金をその頃貸して頂いて。
武沢(兄)さん
銀行から借りて。保証人は木内さんでな。
武沢さん
そうだよね、たしか。それで。で、そのスタジオを作って、そこから始めた頃から、デモテープを作り出したんですよ。やっとその出来上がったものね。
横田さん
ふうううん〜。
武沢さん
という、事で、その頃はあのちょうどメンバーが、六ちゃんと、カキくんと、大平くん。
武沢(兄)さん
むこうのメンバーは4人さ。
武沢さん
むこうのメンバー4人居たんだっけ。
武沢(兄)さん
そうだよ。カキくんでしょ、宮下くんでしょ、六土でしょ、田中くんでしょ。
武沢さん
あ、田中ちゃん居たんだね。
武沢(兄)さん
田中は居たから!田中のドラムが凄かったんだから!(笑)
武沢さん
そうそうそう。
武沢(兄)さん
田中のドラムがめちゃ凄いから、くっ付くっちゅー話になったのよ。リズムがこう、めっちゃ凄くて、オリジナルが作れないけども、リズムはプロだろうって話になって。
武沢さん
ああ。
武沢(兄)さん
そのままアメリカ行っても通用しそうなリズムだったから。
武沢さん
そうだね、確かにその通り。
武沢(兄)さん
うん。もう全然レベル違い。
武沢さん
そだ、ちょっと勘違いしてたんだ。その後田中ちゃん一旦離れたんじゃ、なくて、最初居たんだよね。
武沢(兄)さん
最初居たよ。最初むこう4人だからねだって。
武沢さん
うん。
武沢(兄)さん
でもそのままくっ付くとダブルドラムスの、
武沢さん
ダブルドラムスの、ダブルベースの、ね。
武沢(兄)さん
ダブルベースの、うん、そうそうそう、なんかとんでも無い、どうやってやっていいか分かんない様なバンドになりそうだった。
武沢さん
8人編成とかそんな。
武沢(兄)さん
8人編成。訳分からんもん。とりあえずくっ付いて、みたいな(笑)
武沢さん
でもとりあえずくっ付いてやっていこうと。
武沢(兄)さん
そうそうそう。
武沢さん
と、いう事で、まぁアルバイトしながら。まぁそれだいぶ後になってからなんだけど、定期的にアルバイトして、で、できる時は、そのスタジオにこもってずっと練習したりデモテープ作ったりとか、玉置も曲作って。ていう風にやり出した頃の曲をまず、今日聴いてもらおうかなと。
横田さん
というわけでこれもなかなか貴重な音源ですよね?
武沢さん
そうすね、まぁ音は悪いんですけど。うん。
横田さん
うん、とはいえ皆さんやっぱり楽しみにして頂いてるんじゃ無いかと思います。
武沢さん
はい。
横田さん
というわけで、一曲目は、こちらです。
【ネット上には音源見当たらず。FMしろいしさん、貴重な音源の放送有難うございました!】
「♪この星に生まれて」
作詞 武沢俊也
作曲 玉置浩二
何が出来るか 考えたことはあるかい
みんなのために 泣いたことはあるかい
人は夢を一つ持って この星に生まれてくる
遥かな宇宙の彼方から 時間の羽根拾ってくる
疑惑に埋もれた 耳慣れぬ囁きに
人が気づく時は 長い旅路の果て
人は夢を一つ持って この星に生まれてくる
俺たち花を咲かせよう いつかこの星の上に
人は夢を一つ持って この星に生まれてくる
俺たち花を咲かせよう いつかこの星の上に
俺たち花を咲かせよう いつかこの星の上に
俺たち花を咲かせよう いつかこの星の上に
俺たち花を咲かせよう いつかこの星の上に
横田さん
はい、というわけで。ええ、「この星に生まれて」というタイトルだと、おそらく思われる、みたいな(笑)感じなんですけども。
武沢さん
たぶん。たぶんそうですけども。
横田さん
お!これは、俊也さんが書かれてるという事でいいですか?
武沢(兄)さん
そうですね、この詞はね、書いてましたね。
武沢さん
うん。
横田さん
はぁあ。
武沢(兄)さん
この時のねこの時のドラムはもう大平になってるね。この時はもう5人、あ、6人か。6人になったところだね。あの、スタジオ作ったのが、この年の春っていうか、冬なんだよね。この年の1月か2月くらいにスタジオ作ってて、で3月にスタジオが完成して、8人で入って、スタジオが出来た日に8人で入ってあの、スタジオにこもったんだけど、その最初の日の夜に宮下くんと玉置が大喧嘩しちゃって…、そそそ。
横田さん
え!?ほんっとですか?!
武沢(兄)さん
もう合宿の初日からもうそんな状況だったんだよ。それで玉置、1ヶ月くらいあの、全然合宿に入れなくて。で、合宿の頭は、玉置抜きで、楽曲作ってて。して、玉置が復帰して、そして夏。夏で第1回目のコンサートかなんかやったんだよね。
横田さん
うんー
武沢(兄)さん
だけどその前に、今度は、俺が、なんか、ま色々あって辞めちゃうことになって。ま、辞めさせられちゃう事になって。その年の夏にね。
武沢さん
ああ、ああ。
武沢(兄)さん
8月ぐらいに。
横田さん
ふーん、そうなんですね。
武沢(兄)さん
で俺は、一回辞めちゃうんですよ。そうそうそう。
武沢さん
うーん。
武沢(兄)さん
そしてー。俺が辞めた後に今度は7人になって、その、くっ付いた当時はドラムが2人いて、えっとキーボード…、ベースが2人ってわけにいかないので、六ちゃんは、あの、キーボードやってたんだよね。
武沢さん
うんそうだ。
武沢(兄)さん
俺が弾いたりして。して、俺とダブルキーボードのダブルドラムスの、っていう感じの8人だったんだけど、で、俺が辞めて、で俺が辞めた後になんか知らないけど俺が辞めた後だったんで俺はもうあんまりよく覚えてないんだけど、俺が辞めて、俺アルバイトしてたんだよね、2〜3ヶ月。
武沢さん
おうおう。
武沢(兄)さん
そしたらなんか、秋、もう冬になる頃かな。8月に辞めて、ちゅーか辞めさせられて、3ヶ月間くらいまあ働いてたんだけどそしたら11月ぐらいに玉置と矢萩が俺を迎えに来たんだよ。
武沢さん
ふーん。
武沢(兄)さん
また戻ってくれって言われて(笑)ッハッハッハッハ!で、何故か聞いたら、あの、田中と宮下くんが突然辞めたって(笑)
武沢さん
あー。
武沢(兄)さん
居なくなっちゃったって。
武沢さん
あー、そこで田中ちゃん居なくなっちゃうのね、最初は居たんだけど。
武沢(兄)さん
そうそう。うん、秋口に辞めたらしいんだよ。そして、それからなんだよ、実は。あのそれから…、
武沢さん
それから作品をたくさん作り、
武沢(兄)さん
作品書けるように、うん、どうにか落ち着いて、うん、その後大平と六ちゃんのリズムセクションと、ユタカと矢萩のダブルギターと、俺のキーボードと玉置のボーカルっていうスタイルになってからようやっと、あの本当に、んーまぁ充実した曲ができる様になってた、な。だからやっと落ち着いたっていうか。うん。
横田さん
ふうううん。
武沢(兄)さん
田中くんと宮下くんが何故辞めたかってのは僕は彼らじゃないのでよくわからないんだけど、まぁとにかくそういう状況の時期に作った曲が、さっき掛かった曲だよね。その時期から次の年のユタカは事故でー、次の年の秋に?次の年の1月ぐらいにもうユタカ事故っちゃってまた居なくなっちゃうんだけど。
武沢さん
居なくなっちゃうから、
武沢(兄)さん
その3ヶ月ぐらいの間に7〜8曲出来たんだよね。
武沢さん
そうだよね。ああ、そう、3ヶ月か。
武沢(兄)さん
そう、3ヶ月ぐらいの間なんだよ。だけど、あの後の、東京のデモテープ、東京で認められるデモテープの元になった曲はその時代、その頃にバババババッと出来たんだよ。
武沢さん
だから、そうだよね。
武沢(兄)さん
「一度だけ」とか。
武沢さん
僕が入院する前の、に、結構だから、その、落ち着いてガーッとやり出したのがだからもう秋ぐらいって事だよね?
武沢(兄)さん
そう、秋ぐらい。秋から冬にかけて。で、冬の間に作ってたの。
武沢さん
冬の間に作って。
武沢(兄)さん
年明けの、その年の年越しも、正月皆んなだいたいスタジオにこもってたし。
武沢さん
そうだよね。
武沢(兄)さん
良い曲いっぱい書いてたあの頃。
武沢さん
で、その年、その冬、に僕は事故ったの?
武沢(兄)さん
その冬、そう、その年、年が明けて正月が明けて、そう合宿解散して家に戻ったその日に。
武���さん
そうか。
武沢(兄)さん
うん、その日におまえが事故に遭ったんだよ。
武沢さん
もうちょっと後かと思った。そこなんだ?
武沢(兄)さん
そうなんだよ、目まぐるしいんだよあの年。
武沢さん
早いんだね。
武沢(兄)さん
うん、色々あった一年満たない間に(笑)
武沢さん
うん。
横田さん
おー、そうですか…、
武沢(兄)さん
そうなんです。
武沢さん
で、だけどこの時にその集中して作ってたその、6人でやってたのかなじゃあ。
武沢(兄)さん
6人でやってた。うん。
武沢さん
そうだよね。
武沢(兄)さん
うん。
武沢さん
で、やってた曲が、今の曲とか、これから掛けるあの、安全地帯がデビューしてからちゃんとレコードにした曲も、作ってたって事に、
武沢(兄)さん
なるね。
武沢さん
ね。その短い間に。
武沢(兄)さん
そうだね。
武沢さん
なんですよ。
横田さん
そうなんですね。いやあ、有難うございます。武沢さんの確か事故った日っていうのは、あの記録が残ってるんですよね。
武沢さん
ああ。ウィキペディアに書いてありますからね。
横田さん
ええ、そして…
武沢さん
たしか冬だよ、
横田さん
これ、冬は冬なんだけど11月くらいじゃなかったっけかなぁ?…
武沢さん
…。
横田さん
まあまあ、いいんですよ。
武沢(兄)さん
よく分かんない。
横田さん
まぁいいんですわ。
武沢さん
僕もね〜、さすがにあの辺の記憶ってもう一年やってからなんか作った…、
横田さん
【 11月26日、武沢豊が飲酒運転の車に衝突され、肋骨全部の骨折 】っていう、11月26日って書いてある。
武沢さん
11月だっけ?
武沢(兄)さん
え〜?そうだっけ。
武沢さん
違う、その、本当に…
武沢(兄)さん
俺の記憶違い?
武沢さん
ひょっとしてその一年後じゃ、
横田さん
いやでもね、ちなみに記憶違いじゃ無いかも知れませんよ。このウィキペディア自体が信頼出来なくて、あの、前回も、あの俊也さんが、入った頃はまだインベーダーって名前だったみたいな、風にこれには書いてあるんですけども、この前のお話だと、インベーダー、あの、とは武沢さんと玉置さんとがやってて、そいで俊也さんが入ってきて安全地帯の名前��変わったってこの前言っておられたので、ウィキペディアに書いてあることはもうこれは間違いです。
武沢さん
間違いで。僕もウィキペディアに騙されて、そう思い込んでたんで。
横田さん
うん。うん、だから、その武沢さんの11月26日ってこう書いてあるけど、ま、この情報が正しいかどうかはちょっと微妙です。
武沢さん
まぁ、微妙ですが、要はここででも、良い作品を作り出したっていうことで、でも色んな事があって僕がその後一年間以上入院してしまいまして。
横田さん
そうですねぇ。うん。
(後半へ続く)
1 note · View note
ars1ty · 4 months ago
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【箱根移動運用】「大雪の箱根で6mFM交信!旅の合間のQRV」
2025/03/08~09 家族旅行の合間、雪の箱根で電波を飛ばしてみました。
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旧道から芦ノ湖へ上がると雪が降り出したので、大雪になる前に見晴らしの良い大涌谷へ移動。雪と霧の大涌谷は圧巻でした。 大涌谷では早めの昼食をとり、家族がお土産物を見ている間、車へ戻り運用しました。
使用機材はVX8DとSG-M911。
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大涌谷でまずは6mFM2.5WでCQを出すと3回目くらいでコールがありました。市川市の局とつながり57のレポートを���きました。 最近の6mFMの状況を考えると、私にとっては快挙でした。
2mFMは空振りに終わり、430MHzでは1Wで横浜市の局とつながり59のレポートを頂きました。
昼から降り始めた雪はその後どんどん積り、ここは何県?という様相で、素晴らしき白銀の世界が広がる中、ドライブを堪能しながら仙石原の宿泊先へ移動。
宿泊先のベランダにSG-M911をマグネット基台で設置するものの、手すりの材質のせいでマグネットが付かず、設置に苦戦しました。 理想的な設置とはならず手すりの少し内側に設置。
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夕食後に雪景色が堪能できる温泉を楽しんだ後、再びQRV。430MHzでは静岡の局とつながりました。この局長さんとは以前QSOをしたことがあるのですが、こちらがモービル移動だった影響で最後が尻切れになってしまい、いつかまたQSOしたいと願っていた方でした。偶然つながり大変うれしい思いです。 アマチュア無線の活動の中で、別のバンドやモード、そして別の場所での再会は本当に嬉しいですし特別感があります。
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翌朝のんびりと朝食を楽しんでから、各バンドCQを出しました。アンテナ設置がいまいちなのか空振りに終わりました。
その後、雪の朝湯を頂いてチェックアウト。家族と美術館巡りを楽しんだ後、山伏峠へ移動。各バンドCQ出すも430MHzのみ静岡から数局コールがありました。 家族での美術館巡り、短時間の運用でも成果が出たのは、やはり箱根という立地の良さのおかげでしょう。改めて箱根のポテンシャルの高さを感じました。
雪見温泉、移動QRV、美術館、どれも最高でした。 次回はもう少しじっくりQRVもできる旅もしたいですね。
 
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sawaki-col · 1 year ago
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どのおみくじを引く?
初詣に行くと、色々なおみくじが並んでいる。ここ湯島天神には他にも金運みくじ等が並んでおり、周囲の人がどのおみくじを引くかで揺れていた。今年の初めは大吉を、そう願うほど当たらないものである。
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etr · 30 days ago
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Amazonで購入した周波数カウンターのバッテリーが、まさかの006P! 買ってこなければ。9V電池なんて使うの、ピコ6以来かもしれない・・・40数年ぶり?
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nipponokasi · 5 months ago
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アマチュア無線 31年間の歩み ♪
私は 1994年6月10日からアマチュア無線を始めました ♪
1月22日に 「QSOパーティのヘビステッカー」が 届きました ♪
31年間の歩みのステッカーを見て欲しいね (笑い)
私のyoutube (4,499本) も見てね ♪
お願いよ ♪
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takaki2 · 1 year ago
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koch-snowflake-blog · 1 year ago
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虹のコンキスタドールのメンバー
ニックネーム あいりちゃん
出⾝地 東京都
生年月日 2004年3月5日
身長 158.5cm
趣味,特技 趣味:
・ゲーム
・人間観察
・寝ること
特技:
・激辛料理を食べられる
・アマチュア無線(資格期限切れ)
  
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wankohouse · 2 months ago
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千葉禎介 農夫 第一回東京オリンピック前の日本
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説明文の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 千葉禎介(ちばていすけ、1917年10月19日 - 1965年)は、昭和の日本におけるアマチュア写真家である。秋田県仙北郡角館町に生まれ、2歳のとき横手市に転居した。1932年、高校卒業後、呉服店に勤務。コニカの蛇腹カメラBaby Pearlを手に入れて、1940年代~60年代に、主に横手市や平鹿郡の農村風景を撮影していた。2017年12月から2018年1月にかけ、千葉の生誕100年を記念し、彼の故郷に近い秋田県立近代美術館において、「生誕100年 千葉禎介写真展」が開催された。
こちらの ↑ macecho さんのブログで見た画像です。
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marugatsu · 3 months ago
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一緒に歌う仲間を募集しています!
丸の内合唱団では いつでも!見学を受付けています(^^) 合唱初めて!という人から、 合唱大好き!という人まで、 みんなで一緒に歌っています。 気になったらまずは、一度見学にいらしてください。 お待ちしております。 https://marugatsu.tumblr.com/recruit
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marugatsu-blog · 5 months ago
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2025年!始まっております!
早いもので2025年が始まって、もう4回目の練習です! まるがつのこの季節は毎年新しい楽曲との出会いの季節🎶 どんな景色が見られるのか、楽しみです(^^)
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listentothevoiceofwind · 9 months ago
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2024年6月30日放送分 満点DAMミュージックレジェンズ 文字起こし(後半)
武沢さん
すごいねぇ。で、これで安全地帯は、この曲この頃ね、その、僕がエレキギター弾き出して、ま、どっちかというとサウンド���にはこの前がアメリカン、まCSN&Yとかほら、あのアコースティック系のコーラスやってるようなバンドとか、ま、ドゥービーもそうか、ドゥービーはこの後かな。
武沢(兄)さん
ドゥービーはこの後だね。
武沢さん
ね、そうだね。で、ま、この曲とか次にかける、どっちかっていうとウエストコースト系のね、アメリカのね、
横田さん
はいはいはい。
武沢さん
Eaglesとかあの。
横田さん
Eaglesとかのね。うん。
武沢(兄)さん
Eaglesの前だね。CSNのアルバムに入ってそうな曲だった(笑)ハハハハ。
横田さん
うーむ。
武沢さん
それはあれでしょ、だからこの、前っていうか。
武沢(兄)さん
そうね。だから今も「昔にみたもの」のたぶん、時期的にはそんなに違わないけど、そのポプコンに出るのやめた頃に、その一年間ぐらいの間にあの10曲以上作ったけど、その頃にそれまでは玉置は玉置の自分の曲、それぞれ3人の曲書いてたけど、玉置は玉置の、玉置のメロディで玉置の作詞で。って俺は俺のメロディで俺の作詞で作詞作曲それぞれ違ってたんだけど。その曲は初めて玉置のメロディに俺が詞を付けた曲だったな。
武沢さん
え、それが「昔みたもの」?
武沢(兄)さん
じゃなくて。「昔にみたもの」は玉置の作詞作曲だけど。次にかかる曲はね、玉置の曲で。玉置のメロディで玉置が作曲して俺が作詞したやつ。
武沢さん
ああ、ああ。
横田さん
これ、こういうコラボレーションが起こるときっていうのはどんな感じで始まるんですか?玉置さんが曲作って来たんだけどこれちょっと詞を付けてくんないかな?みたいな話から始まるんですか?
武沢(兄)さん
だったかなぁ。うんちょっとなんか多分。うんとね、なんていうかね、これを言うと…。まだまだ玉置がまだ幼くって、まだそんなに作詞をする力が無かったんだよ当時はまだね。それで、ま、酒井さんだったかな。ちょっともう忘れちゃったけど、うん。俺は作詞が、やっぱりどっちかっていうとまだ書けたから、それで俊也、曲つけてみないかっていう話になったんだと思うな、いや、その玉置の曲に。二人でやってみて、みたいな、覚えてないんだけど、多分ね。
武沢さん
そういう提案したんだ。
武沢(兄)さん
うん、それで、持ち寄った感じだね。
武沢さん
なるほど。
武沢(兄)さん
ただ、その後に六ちゃんたちとくっついて、六土開正バンドとくっ付いた時に、コージ&トシボーでずーっと作り続けるんだけど、ま、それの先駆けの曲になったような曲だね、多分ね。二人でやり出したのはね。
横田さん
あ。ああ〜!コージ&トシボーって感じの、要するにビートルズのレノン&��ッカートニーみたいな感じで、やってたんだ?
武沢(兄)さん
そうそうそう。それの最初の曲だ。
武沢さん
だから、この後はわりとそのパターンが多くなったんだよね。
武沢(兄)さん
多くなったね。うん。
横田さん
ふうううん。
武沢さん
という事でその曲もまず聴いてみましょうか。
横田さん
そうですね、もうここまで聴いちゃったら聴かないではいられないですよね。じゃあ、聴かせていただきましょう。へぇえ、これも貴重な音源ですよね。まぁ何処で録音したのかとかこの聴いた後に教えていただくとして。えぇ〜、こちら貴重な音源です。「ポプラの見える街まで」
【ネット上には音源見当たらず。FMしろいしさん、貴重な音源の放送有難うございました!】
「ポプラの見える街まで」
作詞 武沢俊也 作曲 玉置浩二
谷合の村が飛び去る 鏡のよう��ガラス窓から 吸いさしのタバコ差し出す 見知らぬ人が僕の火を受けとる
君の街まで 空を映す青い沼の上に 金色に燃えた月が今昇る こんなにボロボロの僕の心が もう一度静かに息を吹き返す 君の街まで 僕と君のあいだの道のり 今の果てない白い地図の上 信じる心を突き抜けて 張りつめた愛の網を引き裂く 君の街まで 広い荒野を渡っていく 小さな綿くずは命を乗せている 色づくポプラの高い梢が この旅の終わりに僕には見える 君の街まで
君の街まで 
横田さん
と言うわけでもうー。貴重な音源ございました!「ポプラの見える街まで」という事で、これは、まぁ俊也さんがピアノを弾かれて、武沢さんがギターを弾かれて、ベースが宮下さんで、玉置さんのお兄さんがドラムを叩いてるという。
武沢さん
ドラム…。基本そうですねこれね。で、札幌のスタジオで録ったんだよね。
武沢(兄)さん
これね、当時、今でもまだあるかどうかわかんないけど、ヤマハセンターっていうヤマハの札幌支店が中島公園の横にあって、
武沢さん
当時ね。
武沢(兄)さん
うん、そこの、そこにスタジオがいくつかあって、録音ブースがね。そうそう、レコーディングスタジオがね。で、4トラック…、8トラックだったかな、ちょっとわかんないけど、当時としては…
武沢さん
そうだね、こんだけコーラス簡単に録ってるって事は。
武沢(兄)さん
コーラスこれ、そんなにいっぱい録ってるわけじゃないよ?
武沢さん
ああ、そっか。
武沢(兄)さん
3人は一発録りだよ。ただそれを2回重ねてるだけ。
武沢さん
ああ〜、はいはいはいはい。
横田さん
すごおいねぇ〜!もうー。
武沢さん
ね。これも、なかなかやってるよね。これ、玉置の兄貴のドラム、良いじゃないね(笑)
武沢(兄)さん
なかなか良いよね。
武沢さん
味のある。
武沢(兄)さん
味のある(笑)
武沢さん
ダンダカダンダンダン…ドッタンタン…
武沢(兄)さん
(笑)オカズの回し方がスゴイ。ワッハッハ!特徴的だよね。
武沢さん
うーん。
武沢(兄)さん
オリジナリティがある。
武沢さん
そうそうそう。味のある、ドラム。
武沢(兄)さん
だって玉置の兄貴、アレだもん、その最初に入ってくる時、ちょっと話戻るけど、インベーダーから安全地帯になって、秋になって玉置の兄貴入ってくる時、僕はフーのロジャー・ダルトリーかなんかドラムが好きだとか言って、本当にそんなオカズの回し方するんだよ(笑)
武沢さん
それから(ドラムを)始めたってことかい?じゃ。
武沢(兄)さん
そこから始めたんだよ。
武沢さん
そうだよね。
武沢(兄)さん
だから練習したんじゃない、うん、やっぱり。
武沢さん
そりゃぁ練習しないとね。
武沢(兄)さん
うん、練習してたよ、やっぱり。
横田さん
まあせっかくちょっとね、前に戻ったんで実は聞きたいことがあるんですけど、やっぱりあのもっと前に戻って小学生とか、俊也さん、まぁ武沢さんとかやっぱりお兄さんから色々聴く音楽とか影響を受けたと思うんですけど、俊也さんとかって、小学校の頃にはどんな音楽を聴かれてたんですか?
武沢(兄)さん
最初は、や、二人はね、ユタカはどう思ってるか分からないけど俺は共通の音楽体験は最初はやっぱ母親だ。母親がコーラスやってる人だった、ずーっと。
横田さん
��ぇぇ。
武沢(兄)さん
マミーコーラスって覚えてる?
武沢さん
やってたやってた。
武沢(兄)さん
学校のさ、お母さんコーラス。
武沢さん
コーラス…、通ってた。
武沢(兄)さん
通ってたし、家でもずーっと歌ってる人だったな。
武沢さん
うん。
武沢(兄)さん
ずーっと歌ってたね、色んな歌。だいたい唱歌がが多かったけどね。ノンビブラートで、正確な音程で(笑)ま、由紀さおりみたいな感じでね。まぁあそこまでじゃないけど、でも歌の上手なひとだったよ。
武沢さん
そうだねぇー。
武沢(兄)さん
それでマミーコーラスやってる時に、あの、なんだろ、家で練習する時にユタカと俺に、コーラスやってる人だから、あのハモリのパートを教えてくれてさ、で、3人でハモるっていう、うん。それが楽しかったね。母親は練習のつもりだったんだろうけど俺たちにも歌わしたかったのかもしれないけどなんかね。で、俺はそれがすごく楽しくってなんか。イイなぁって思ったな。素敵だな〜って思って。
武沢さん
それは…、僕が小学生ぐらいの時?
武沢(兄)さん
そうだね、おまえが…
武沢さん
だよねきっと。
武沢(兄)さん
結構俺とユタカが小学校出てもまだ母親あの人数足りなくってコーラスグループに追われて行ってたぐらいだからずっと俺たちが小学校時代はずっと行ってたよ。
武沢さん
うーん。
武沢(兄)さん
うん、だからそれからってこともないけどまぁ、それから洋楽とか聴き出す前はやっぱりあれじゃない?グループサウンズだったんじゃない?聴いてたの。
武沢さん
グループサウンズね。
武沢(兄)さん
うん〜。タイガースとかテンプターズとか。
武沢さん
小学生ぐらいだね、僕が。
武沢(兄)さん
うん。で、ユタカと俺がちょうど共通の音楽体験をするようになったのはあれだわ、やっぱりビートルズ。
武沢さん
そうだね。中学生ぐらいだね。
武沢(兄)さん
2人でうちにはレコードプレーヤーとかステレオっていうものが無くって、
武沢さん
FM…、
武沢(兄)さん
そうそう。でもめっちゃめちゃそのビートルズのシングルが欲しくなって、夏休みにユタカと2人でお小遣いを出し合って、「ヘイ・ジュード」のシングル買ったんだよ。
武沢さん
ああ、そうか!!全然忘れてたけど…
武沢(兄)さん
へっへっへっへ(笑)
武沢さん
なるほど。
武沢(兄)さん
「ヘイ・ジュード」のシングルだった。
武沢さん
レコード、シングルを買った。
武沢(兄)さん
そう。A面が「ヘイ・ジュード」でB面がなんか「レボリューションズ」だっけジョン・レノンが作った。で、それ、まぁ聴きまくったよね。友達の家に持って行ってねシングル。フッフッフッフ(笑)自分ちに(プレーヤーが)無いから。うん。
武沢さん
ああ、初めはそうだったね。
武沢(兄)さん
それが最初だね。それから2人で少しずつまたお小遣いったってあまり無いんだけど2人で出し合って、16センチの…16センチLPとか、あ、当時17センチLPつった、一枚のシングルに4曲入ったレコードが。
武沢さん
うーん。
武沢(兄)さん
次に買ったのが、覚えてるのが「ミッシェル」と「yesterday 」と…
武沢さん
4曲入ってる?
武沢(兄)さん
ああ、4曲入ってるやつ。カップリングになってるやつ、買ったなぁ。オトクな気分で。
武沢さん
それは、え、シングルと同じ大きさ?
武沢(兄)さん
あ、シングルと同じ大きさ。
武沢さん
と同じ大きさ、に、4曲入ってる。
武沢(兄)さん
4曲入ってる。LPだから。
武沢さん
あー。なるほど…、
武沢(兄)さん
だから17センチLPとかって言ってたな。当時ね。シングルって17センチで裏表1曲ずつじゃん?その17センチLPは、4曲入ってる。
武沢さん
うん。
武沢(兄)さん
うん。裏表2曲ずつ、フフフ(笑)
武沢さん
ふうーん。
武沢(兄)さん
それがなんか、始まりだったような気��するけどね。
横田さん
楽器、楽器は?俊也さん、楽器は?
武沢(兄)さん
あ〜、楽器はね。まだその頃は家には…、オルガンはあったな。
武沢さん
オルガンはあったけど、家にはギターは…
武沢(兄)さん
ギターはまだなかった。
武沢さん
僕が、クラシックギター練習し出した頃に、なんとか調達したんだよきっと。
武沢(兄)さん
いや、あのね、最初はね。そのクラシックギターはね、ユタカと俺が親父の転勤で北見から旭川に移ってくる時に、俺の幼なじみの友達がくれたんだよ。
武沢さん
くれたの!?
武沢(兄)さん
俺弾かないからおまえにやるって。ギター。クラシックギター。
武沢さん
お兄ちゃんの友達がくれたの?
武沢(兄)さん
そうそう。
武沢さん
うん。
武沢(兄)さん
そのギターは、当時トンボ学生服のあのトンボ学生服を買うとキャンペーンで、フォークギターが付いてきたんだよ。そういう時代があったんだよ(笑)
武沢さん
ふーん、
横田さん
おあー。そんな時代があったんだ。
武沢(兄)さん
うん、学生服を買ったら、ギターもらったんだよねって話をされて(笑)ハッハッハッハッハ!
武沢さん
でも弾けないから。
武沢(兄)さん
うん、弾けないけど、おまえ弾くべ?って言われて、もらったんだよ。でも全然弾けなかったけどね、最初はね。しょうがないからもらったら最初は「長い夜」とかあの、Chicagoの「長い夜」、ガンガンガンガンガン、…あれを耳コピしてたのをなんとなく弾いてたんだけど、そのうちにユタカが、東京音楽アカデミーっていう通信教育…、覚えてる?
武沢さん
そうそうそう、覚えてるよ〜。
武沢(兄)さん
ハッハッハッハッハ(笑)
武沢さん
クラシックギターのなんか、練習曲みたいなのを。
武沢(兄)さん
それこそあのペラッペラのソノシートってあの教材送ってきて。楽譜送ってきて。それを1ヶ月に…。それを半年くらい。
武沢さん
そうそう。半年だか一年だか。
武沢(兄)さん
一年ぐらいやってたんじゃ無いか?俺は2〜3ヶ月で辞めちゃったんだけど、ユタカはコツコツ弾いてて、一年もしないうちに「アルハンブラ宮殿の思い出」弾けるようになったんだよ。(※「アルハンブラの思い出」です)
横田さん
アルハンブラ…!?
武沢さん
そうそうそうそう。出来るようになったんだけども、自分でそこで行き詰まって辞めたんだよ。僕はね。
横田さん
ふうん。
武沢さん
ダメだ、と思って。いやいや、気に入らなくて。でもね、あの時の練習した曲のガットギターのね、練習曲って結構イイ曲あんのさ。
武沢(兄)さん
そうだよ。
武沢さん
名前は練習曲なんだけど。あのアルハンブラみたいなちゃんとした名前付いてない曲でも、すごいイイ曲あって、それでなんか結構ね、そのクラシック系の影響ってそっから受けてんだよね。あの、音楽的にも。イイんですよ。と、言いながら。さっきの話に戻ると、その戻るって何処まで戻るかというと…、
武沢(兄)さん
ハハハハ(笑)
武沢さん
えー、安全地帯が、そのさっき掛けた「ポプラ(の見える街まで)」「昔みたもの」とかやってる頃は僕はあの、もちろんこれバンドでこういうことやってるんだけど、ま、ビートルズを含めてロック、が大好きになってて。
横田さん
うん。
武沢さん
ブラックサバスとか聴いてたんだよね。
横田さん
ホアーッ⁉︎…ブラックサバスね、また随分激しいとこ行きますねぇ。
武沢さん
そ(笑)そうなの、それが���イントロで弾いた(♪ギターでフレーズを弾いて)コレなんですよ。
横田さん
あ!あの曲はブラック・サバスの曲なんですね⁈
武沢さん
そう、ブラック・サバスのあの世界でもそうだけど、最初のヒット曲。シングルね、売れた曲で。ちょっとタイトルは忘れてしまいましたけど、これが大好きで、ずーっとこれコピーして。ずーっと弾いてました。
武沢(兄)さん
それ、安全地帯でコピーしたやつだよ。
武沢さん
あ、そうそうそう。安全地帯でコピーして、玉置も歌ってくれたんだよこれ。
武沢(兄)さん
そうそうそう。コンサートでやったよ、多分一回。ヒヒヒハッハッハ(笑)
横田さん
え!?安全地帯でブラック・サバスなんてやったの!?
武沢(兄)さん
そう、ブラック・サバスのコピー、最初にやってたの。その…
横田さん
えええぇ〜!?
武沢(兄)さん
その、なんだろ、リズム練習するのに。
武沢さん
そうそうそう。(♪ギターでフレーズを弾いて)
武沢(兄)さん
良い練習になった?
武沢さん
良い練習になったよ。
横田さん
ふうーん…、
武沢さん
これ、ソロもね、ずーっとコピーしたの。(♪ギターで長いフレーズを弾いて)こういうソロを(笑)へへ。
横田さん
ほおお!かっこいい。
武沢(兄)さん
アッハハハ(笑)
武沢さん
ちゃんと、今でも覚えてるんだよね。
横田さん
凄いですね⁉︎今でも覚えてるんだ?!
武沢さん
もう何十年も弾いてなかったけど、覚えてましたね(笑)
横田さん
(昔)弾いてたからね?うん。
武沢さん
うん。という、頃ですね。このね、さっき弾いた曲の。
武沢(兄)さん
そうね。
武沢さん
うん。それでなんでイントロであんな曲を弾いてるのかっていう、まあ一応。
横田さん
そーいう!あ、それでであの曲がイントロだということだったわけですねぇ!?
武沢さん
そうですね!あの、安全地帯で練習してる時はそんな事はやってないんだけど。まだ、六土開正と付く前は、ほら、みんなこういうアコースティック系でちょっとだけリズム入ってるような曲が多かったんで。もちろん僕がやって。ま、玉置とこの曲をやってた時は練習して、で、一曲玉置もちゃんと歌ってくれて。あの、ヘヴィロックって、当時ヘヴィロックって言ってね、ハードロックとか。
横田さん
あ、ヘヴィロックって言ってたんだ。
武沢さん
うん。で特にブラック・サバスは、今でもそうだけど、オカルト系の。ヘヴィな、幽霊が出そうな。映ってるジャケットでね。おどろおどろしい感じ。
横田さん
でも、僕も高校生の時に初めてバンドでやったのは、オジー・オズボーンの「Mr.Crowly」なんで。(笑)
武沢さん
あ。似てるじゃない。
横田さん
ええ、はい(笑)やっぱり、憧れるんですよ。まぁちなみにあの、人気は出なかったですけど、「Mr.Crowly」なんかやった所で誰も聴いてはくれなかったですけれども、でもあの、まぁ憧れるんですね���バンドやってる頃はああいうのに。うん。
武沢さん
そうね、もうとにかくロックが流行り出して、ちょうど良い時代だったんでねビートルズから始まって、あの、70年代でしょ?ちょうど。だから今洋楽特に70年代の聴いても素晴らしいの多いしね。
横田さん
そうですね。
武沢さん
当時ま、そういう影響もあって、僕らの安全地帯というバンドも、今こうやって(昔の作品を聴いて)、ま、音はひどいですけどなかなか面白いですよね、作品、でしたね。うん。
横田さん
いやぁ…。
武沢さん
他にも聴かせたいのたくさんあるんですけど。うん。
武沢(兄)さん
うん。
横田さん
いやでも俊也さんもビートルズあの、お二人で���タカさんとお二人で聴いてらっしゃったっていう事で。我々も最近ビートルズ特集をやってるんです、ずっと。
武沢さん
そう。今日は休んでるけどね。
横田さん
うん、で、ぜひ、今度はその付近も来てもらいたいくらいですなんかね。ビートルズの話もね、二人でどんな風に聴いてたのかっていう話も聴けたりなんかしたら良いなっていう。って思いますけどね、うん。
武沢さん
で、プラス、このアマチュア時代のね、音源って今日2曲しか掛けてないけど、他にも本当に素晴らしい曲があって。で、そういうのでもまたお兄ちゃんに…
横田さん
いやぁ、ぜひね、あのー、この番組で安全地帯の歴史をアーカイブしたいと。私は考えておりまして。
武沢さん
全然記憶力が(笑)お兄ちゃんの方が。
武沢(兄)さん
まだ足りない(笑)
横田さん
いや、はるかにたくさん(笑)だからぜひぜひ可能でしたらですね、出ていただきたいと思うのと、今回はね、お二人にしっかり話してもらいたかったんで、あのリスナーさんから質問なんていうのは受け付けなかったんですけども、今度はリスナーさんから武沢さんのお兄さんに聴きたい事っていうのを、あの質問を受け付けてですね(笑)その質問に答えてもらうというコーナーみたいなのをやりたいぐらいです、はい。
武沢さん
うん。
横田さん
はい、というわけですいません、もう今日は大変楽しい時間です、大変勉強になりました。という事で、本日もあっという間の一時間でありましたけど、本当にありがとうございました!
武沢(兄)さん
ありがとうございました〜。
武沢さん
ありがとうございました〜。
横田さん
またお越しください。じゃ、武沢さん、今日もありがとうございました!
武沢さん
ありがとうございました、じゃあね、またね!
Ending theme ♪安全地帯「ひとりぼっちのエール」
youtube
文責:mamacan 
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ars1ty · 29 days ago
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【登って、食べて、呼ばれて】 ― 家族で行くQRV峠紀行
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中央高速の合流で2時間もの事故渋滞に巻き込まれ、私と家族は車の中で既にぐったり状態。登山口についたのは既に10時を過ぎていました。途中休憩も入れながらの移動ではあったものの、到着時には家族も疲弊してしまいました。
今年のGWは飛び飛びでうまく連休をつなげることが出来ません。私は無理にでも休暇を取ることも出来ましたが、子供たちは通学があるためそうもいきません。
いつもは数日間キャンプ登山であったり旅行に行ったりでしたが、今年は日帰り登山の計画となりました。 目指すは大菩薩嶺。ここなら日帰りで周回コースを楽しめ、山頂付近でQRV出来る。そんな目論見の計画です。
コースの難易度も低く危険な場所もない。ハイキングレベルでありながら2000mクラスに登り稜線歩き。途中眺望の良い場所からQRVする予定でした。
遅めの到着になってしまったので、一番アプローチの良いロッジ長兵衛小屋付近には、車を止めることが出来ず菩薩湖北岸駐車場(第4駐車場)になってしまいました。 ここで荷物や登山靴の準備を整え、ハンディもセットし準備OK。
移動の疲れも出て、若干グロッキー気味でしたが、天気も上々。駐車場から軽く登り本来の登山口へ移動します。
短いながらちょっと急な登りを超えると、木漏れ日差し込む木道に出ました。そして、気持ちの良い森を抜けると、一旦舗装路に合流し、ロッジ長兵衛が目の前に現れました。 ここで小休止し、再スタート。
その後もペースが上がらず、福ちゃん荘へはやや遅れ気味。ここでも休憩を多めにとって体制を整えました。この後は1811m小ピークあたりから調子が出て、川を渡るところで家族で川遊びを楽しみながら休憩。家族にも笑顔が増え本調子となりました。
登れば上るほど調子も出て、ハイキングコース並みに整備された登山道をどんどん上がっていきます。
もうすぐ尾根に出るところまできたとき、上昇風が斜面を吹き上げて来ました。いわゆるサーマル風ですがものすごく獣臭が混じっていて、鹿かな?今はクマも多いしな、登山客も多いし大丈夫か、などと考えながら大菩薩峠までもう一息のところに来ました。
そして、小屋を回り込むように峠へ到着です。もう腹ペコ状態だったので小屋前にある食事スペースを確保し、売店で昼食を選んでいると、麺類は売り切れとわかり、おでんを2つ頼むことにしました。あとは持参した食料とで賄います。大抵の登山の場合、水分、食料、おかしなどは少し多めに持って上がります。コンパクトストーブやコッヘルもありますのでお湯を沸かしモンベルのリゾットとミニサイズのカップ麺を順次作っていきます。
問題はもうお昼を回っていることです。
何が何でもピークを踏むというスタイルではなく、時間で決めると��うスタイルをとっているので今回はここで引き返すことにしました。
余談ですが、日帰り登山でも雨具はもちろんの事、一晩のビバークが出来る程度の装備は持って上がっています。そういった意味でもコンパクトストーブやライト類は必ず持っているという事です。
ここで引き返すことになったので、逆に時間的余裕はできました。ゆっくりと昼食をとった後、見晴らしの良いところに出てQRV。
大菩薩峠の石碑があるのでその近くに腰掛け、持参したリグをセットアップしました。今回のリグセットはVX8DとMH-74(GPS付き純正SPマイク)、アンテナはSRH940を組み合わせた構成でした。
スマホを取り出し、電波が入るかをチェック。ギリギリ、、途切れます。クラウドで利用しているAIR HAMLOGは今回諦め、スマホにログのメモを取ることにします。
430MHz1WでQRVすることに決め、スピーカーマイクをセットしサブチャンネルを探します。やはりロケーションの良いところだけあってなかなかチャンネルが空いていません。メインから少し離れたところでチャンネルチェック。問題ないようです。
早速まずはこのチャンネルでCQを出してみましたが反応なし。メインチャンネルに移動しCQを出します。「CQ CQ FOURTHIRTY こちら・・・」サブチャンネルに移動し改めてCQを出したところ、恐らく5~6局から同時に呼ばれコールサインは誰も聞き取ることができませんでした。二文字くらい聞き取れた局から順にピックアップしていきました。
スピーカーマイクとイヤホンを使いトランシーバーを持っている手を上に伸ばすとSが1~2上がります。ですのでSを確認するとき以外は腕を伸ばし、スマホで入力しつつ、若干あわただしい状況でした。
しかしながら、さすが大菩薩峠、久々のパイルをありがたく体験いたしました。
主なQSOレポートは以下の通りです ・竜ヶ崎の局:RS 56/受信 RS 54 ・杉並の局:RS 59/受信 RS 56 ・世田谷の局:RS 59/受信 RS 54
数局QSOしたところで午後の強風に代わり、ちょうど家族にも呼ばれ、運用終了です。
短い時間でしたが大変楽しいQRVが出来ました。
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帰り支度をして、下山です。1時間ほどで長兵衛小屋まで下山し、家族みんなでアイスクリームを食べました、サイコーですね。
車まで戻り荷を解き、登山靴を履き替え一路ふもとの日帰り温泉へ。
立ち寄りの湯は「やまと天目山温泉」。PH10.3の高アルカリ温泉で肌がつるつるになりました。時間帯のせいか温泉はほぼ貸し切り状態となっていたので、のびのびと休息できました。利用料金もお手頃、登山の汗を流すのにも最適。 次回もぜひ立ち寄りたいお気に入りの一つになりそうです。 一昨年の夏の家族山行で瑞牆山のバリエーションルートに行ったのですが、クライミングがらみの個所もあり、かなり時間も要したので子供たちからは不評でした。その件もあり昨年は伊豆七島でのシュノーケリングデビューでリフレッシュし、今回は楽で眺望の良い山行を選んだ次第でした。
昔、若気の至りで、一度だけビバークをしたことがあります。 その時も、きちんと装備を整えていたおかげで、無理な判断をせずにすみ、事なきを得ました。 一見すると“余計な装備”と思われがちですが、登山においては「転ばぬ先の杖」。 おかげさまで、大きな事故や遭難に見舞われることもなく、今では家族で山行を楽しめるようになりました。
登って、食べて、呼ばれて── 澄んだ空と澄んだ電波、そして家族の笑顔が重なった一日。 湯けむりに包まれながら、次はどんな山に呼ばれるのか── 静かな余韻とともに、またひとつ、思い出がそっと増えました。
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sawaki-col · 1 year ago
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枝の流れに沿うように
小さな一輪の梅。枝の流れに沿って咲くこの花は、桜のような華やかささはないが、物静かで可憐な淑やかさを見せる。花弁の淡い色彩と、爽やかな香が早春の訪れを告げている。
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