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#カメラ目線が強いりおたむ
shunya-wisteria · 4 months
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秋旅2023 小海線 HIGH RAIL 1375 ~ 野辺山・小諸
JR線で最も標高の高いエリアを走る路線 小海線にのって、一路 小諸へ。
今回も前々から一度 乗ってみたいと思っていた小海線、せっかくなのでJR東日本ののってたのしい列車シリーズの HIGH RAIL 1375 にて小淵沢から小諸までを乗り通してみた。普通列車で途中下車しちゃうと次の列車はいつだろう…… となってしまいますが、このような観光列車は見所の駅では少し長めに停車してインスタント途中下車を楽しむのを待ってくれる、というのがシンプルにこの子を選んだ理由なのです。あわせて紅葉が楽しめそうな小諸城跡の懐古園も散策します。
朝、ほどほどの時間の特急あずさにて小海線の起点 小淵沢へ。小淵沢駅に降り立つと、キリっとした冷たく澄んだ空気がお出迎え。やっぱり都内とは違うね。ありきたりな言葉ですが空気がおいしい。改札横からのお出汁の香りに誘われ立ち蕎麦へ、遅めの朝食として軽く腹ごしらえ。寒いときには格別!の駅そばをいただいた後、列車の出発時刻まであたりを散策。列車内でのお楽しみ、お弁当とお酒を丸政さんで仕入れる(食べてばかり)。
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程よい時間に、改札を抜けホームへ。青色に塗装されたキハ100系気動車へ。最近 キハ100系に乗ることが多いような…、非電化のローカル線だと自ずとそうなってしまうか。今回は私は窓側を向いた1人用のシングルシートをセレクト。隣を気にすることなく大きな窓を独り占めできるリクライニングシート。
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ほどなく列車は出発、急な勾配を進みどんどん高地へ。別荘地帯を抜けJRで2番目に標高の高い駅 清里に到着、しばしの停車。かっこいいHIGH RAIL 1375の車両でも撮影しておきましょう(PhotoshopとPixelの消しゴムマジックで他の乗客を消しているのは内緒です)。清里を出発すると次は野辺山。この区間にはJR最高地点 標高1,375mの地点が。列車は速度を落とし、乗客は皆 カメラを構える(ガラスの反射で変な模様なでちゃった 涙)。数分で野辺山に到着。
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JRで最も標高の高い駅 野辺山。ここでもしばし停車時間があり、改札外出ることも可能。白く一見教会を思わせるような駅舎を見学。駅正面には冠雪した山々の美しい姿を拝むこともできます、写真は失敗しちゃいましたが…。観光バスでお越しの外国人観光客がたくさん。小海線に乗るわけではなく、駅だけを見に来ている?不思議な感じでした。
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まもなく列車は発車。野辺山をあとにすると、列車は高原を下り佐久盆地を目指します。後半の見どころは、右へ左へと移り変わる千曲川。お弁当を食べながらのんびり楽しみましょう。長野側の主要駅にいくつか停車し、列車は北陸新幹線との接続駅 佐久平を経て、終点 小諸に到着。2時間強の列車旅でした。
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小諸では小諸城址に整備された庭園 懐古園へ。戦国時代、武田信玄の軍師 山本勘助によって設計されたという言い伝えの小諸城。城郭が城下町よりも低地にあることから穴城とも呼ばれていたとか。懐古園は大正時代に町によって整備された史跡の自然景観を活用した公園。ちょうど紅葉シーズン真っただ中ということで、空気の澄んだ青空のもとで映える色づいた葉にシャッターをきってみた。不思議とここは人が少なく空いていましたねぇ。これくらいが写真を撮る身としてはありがたいものですが。
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ひとしきり園内を回り身体も冷えてきたので、足早に小諸の街を散策しつつ帰路へ着きました。
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ari0921 · 2 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)3月3日(日曜日)
  通巻第8158号  <前日発行>
TSMCが熊本に半導体工場を開設。メディアは度を超えた過熱報道
   しかし第一工場は28ナノ量産、第二工場は7ナノ半導体でしかない
*************************
 TSMCが熊本に半導体工場を開所した。報道の過熱ぶりたるや、開所セレモニーには百台のカメラ、台湾の主要テレビもこぞって取材にやって来て、いわく。
「日本に黒船。台湾TSMC日本進軍、日台協力意義強固、帯来復興」などとお祭り騒ぎのように報じた。しかしこの工場、日本政府が4760億円を助成したのだ。
 熊本県菊陽町にTSMC工場は東京ドーム4・5個分の広さを誇り、地下4階建て。付近の道路に大渋滞が発生、台湾の技術者がすでに350名。将来は700名、また日本国内での技術者も大量に採用されたため第一に人口増加、第二にショッピングモール、レストランの台湾食材シフト、第三に住宅価格の暴騰。第四が賃金の大暴騰となった。
 2月24日の開所式に台湾からはTSMCの創設者=張忠謀(モリス・チャン。92歳)、CEOの劉徳音、CCOの魏哲家らが顔をそろえ、日本側は蒲島県知事、斉藤健・経産大臣、歴代の甘利明、萩生田光一らが馳せ参じて壇上でのテープカット。
またトヨタ、ソニー、デンソーの経営トップの顔が並び、岸田首相はオンラインで画面にあらわれ、TSMCの第二工場には7320億円の日本政府助成金を公約した。翌日の『熊本日日新聞』は一面トップ記事。ただし、TSMC第二工場は「熊本県内。東京ドームの七個分」と発表されただけで、場所の明細は伏せられたまま。
 
 開所式で注目はモリス・チャンの発言である。かれは台湾を代表してAPECにも出席する世界の顔だが、こう言ったのだ。「いまから56年前に、わたしはTI(テキサス・インスツルメント)のエンジニアとして初めて来日した。ソニーの盛田昭夫氏と半導体の将来を語り合った。その夢が、56年後に実現した。この半導体工場は『第一の波』であり、日本の『半導体ルネッサンス』になる」。
 
 正確を期すとTSMC熊本工場というのは正しくない。正式社名はJASMである。
日本と台湾TSMCの合弁企業(日本半導体製造会社)でTSMSが86%の筆頭株主だが、トヨタ(2%)、デンソー(5%)、ソニー(6%)と日本企業も株主である。
 工場は鹿島建設が請け負い、24時間の突貫工事、二年足らずで完成した。とくに半導体の生命線である地下水の配慮が入念になされている。一日の水消費は8500噸、このうち75%がリサイクルされるという。
 半導体に欠かせないウエハ、部品、半導体製造装置の維持管理など、台湾からTSMCの下請け、孫請け企業が17社。同時に熊本へ進出した。このため賃金が暴騰し、付近のレストランで求人募集しても時給1300円では人が集まらず、1500円(熊本県の最低賃金は898円)となった。
 ▼理工系のエンジニアが足りない
 人材不足は熊本に理工系大學がすくないため佐賀、福岡、長崎、大分、宮崎、鹿児島県にも人材を求める。住宅価格は戸建てが3000万円だったのに、5000万円台に跳ね上がった。賃貸マンション、アパートの家賃も棒上げとなり、通勤列車は超満員。駅からバスになるので不便なため、バイク通勤も目立つ。
 菊陽町は人口が43673人(23年末)を突破し、市制へ移行が日程に上った。
 第二工場は第一工場より規模が大きくなり、7ナノを生産するが、1700名従業員予定のうち700名は台湾から呼び寄せることになる。
台湾ではすでに「新チップスクール」を設立し、留学生に奨学金を提供し、大學の新学部・大学院の充実を急ぎ、現在、国立台湾大学(NTU)、国立成功大学(NCKU)、中山大学(NSYSU)を含む9校のチップカレッジが設立された。
 中国の電子メディア「THINK CHINA」はTSMCをして、「王冠の宝石」と書いた。
 さてぬか喜びはこのくらいにして国家安全保障問題に視点を移すと、TSMCの熊本工場は2028年頃までに全ラインが量産にうつっても28ナノから7ナノまで、EV自動車、家電、スマホ用であり、このレベルの半導体は中国でも生産している。
 ハイテクの半導体は1ナノ~2ナノである。TSMCは、台湾で2ナノ半導体を年内にも開始し、2028年には1・4ナノを生産する予定。米国アリゾナ工場では3ナノ生産を予定するが、地元労組が強く反対し、かなり遅れるだろう。
 
千歳に工場を建設中の日本のラピダスが2ナノの生産開始は2027年が目途である。日本の半導体ルネサンスはまだ遠いのである。
台湾の計画では、日本の量産はあくまでも差プラインチェーンの安定のためであり、最先端の半導体はあくまでも台湾で生産するということである。
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gobangiri-news · 5 days
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4月23日(火)完成披露舞台挨拶付先行上映会オフィシャルレポート!
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このたび、映画『碁盤斬り』の豪華キャストが勢ぞろいし、4月23日に完成披露舞台挨拶付先行上映会を開催いたしました!本作は、草彅剛さんが冤罪に貶められた浪人・柳田格之進役に挑み、時代劇を初めて手掛けることとなった『孤狼の血』の白石和彌監督との強力なタッグが実現した感動のリベンジ・エンタテイメントです。本日は、草彅剛さん、清原果耶さん、中川大志さん、奥野瑛太さん、音尾琢真さん、市村正親さん、斎藤工さん、小泉今日子さん、國村隼さんというオールスターキャストと白石和彌監督が登壇した舞台挨拶を実施しました。撮影中のエピソードや、映画の内容にちなんで《リベンジ》したいことなどについてトークが展開され、大盛り上がりの舞台挨拶となりました!
寡黙な武士、柳田格之進を演じた草彅さんは、舞台挨拶冒頭から満面の笑みを浮かべ、充実感を漂わせました。撮影以来となる共演者との再会をよろこび、「みんなのグルーヴがすごくいい!」とニッコリ。自分の持っているものすべてを出し切れたと話した草彅は「幸せな環境で映画が撮れました」と報告し、大きな拍手を浴びました。撮影現場は作品に関わるすべての人、職人のこだわりが詰まっていたとし「みなさんのおかげで(格之進を)ちゃんと演じられました。代表作になったと思います!」と役を演じ切ったと胸を張っていました。格之進の娘・お絹役の清原さんは「現場で草彅さんを見かけるたびに、“父上”という気持ちになって。格之進として佇んでいらっしゃって、とても支えられました」と感謝。父・草彅さんの背中を「追いかけられたらいいな、支えられたらいいなという思いで見つめていました。草彅さんのおかげでお絹ちゃんとしていることができたと思います」との清原さんの言葉に草彅さんは「その言葉、一生大事にします!忘れません」と返し、父娘のほっこりトークで和ませました。萬屋の亭主・萬屋源兵衛役の國村さんは「タイトルにもあるように碁盤を挟んだシーンがたくさんあります。碁がテーマでもありま��が、碁のシーンを通して、格之進の性格を伝えていくという意味合いもある作品です。碁のシーンで格之進の中身が変わっていくのを感じられると思います」と笑顔でアピールしました。萬屋の手代・弥吉役の中川さんは「すごくピュアで真っ直ぐな武士の子。小さい時に源兵衛に拾ってもらい、息子のように育ててもらった青年です。映画の中で起きる事件に大きく関わるという役どころ。囲碁がベースになっていますが、とても親近感のある、身の回りで起きるような出来事を描いた作品です。弥吉のポジションは苦しいけれど、応援したくなるような弥吉になればいいなと思いながら演じました」と役作りを振り返りました。音尾さんが演じた萬屋の番頭・徳次郎はトラブルの発端となる役どころでいわばトラブルメーカー。中川さんが「あの人のせいです!」とトラブルを引き起こした音尾さんを指さすと、「トラブルを起こして申し訳ありませんでした」とお詫び。中川さんと音尾さんのトークのコンビネーションで会場を沸かせました。撮影現場で印象的だったのは座らない草彅さんの姿と明かした音尾さんは「神経が研ぎ澄まされているのでしょうか。本番に合わせてググッとフィットしていくために、研ぎ澄まさせている姿を見ていました。今日は現場と違ってかなりふわっとしています」と撮影中とイベントでの草彅さんのギャップを指摘。音尾さんのコメントに「ありがとうございます、高倉剛です」と撮影現場で座らないことで有名だった高倉健さんになぞらえ、キリッとした表情を見せ笑いを誘った草彅さんは、座らない理由について「5秒で眠くなっちゃう(笑)。みんなよく眠くならないよね。僕は夜10時には寝るけれど、座ると眠くなっちゃうんだよね」とマイペーストークを展開し、会場を笑い声でいっぱいにしました。すべてのキャストと絡みがあった草彅さんは、撮影中のエピソードを次々と披露。音尾さんについては「ずっと写真ばっかり撮っているカメラ小僧」とニヤリ。「この話でいいの?」と確認しつつ、カメラトークは止まらず、中川さんに至っては音尾さんにすすめられたカメラを購入したことも明かされました。自身のトークの順番だったにも関わらず、どんどん共演者とのエピソードを話し続ける草彅さんに時折ツッコミを入れ笑わせた音尾さんはしっかりと作品に触れる場面も。「いい役をもらいました。今年も白石監督にお歳暮を送ります」と白石監督作品常連の音尾さんならではのおなじみのフレーズで盛り上がりました。國村さんとの共演シーンを振り返ると、「春のシーンだったけれど、実はすごく寒くて。映像では綺麗に映っているけれど本当は寒いんです!」と草彅さんが撮影時の裏話を暴露。國村さんが「きっと寒かったんやろうな、って思いながら観てください」と舞台挨拶後に鑑賞予定の観客に呼びかけると、草彅さんは「僕(格之進)と國村さん(源兵衛)のラブストーリーにも注目してください!」と本作のおすすめポイントを伝えました。格之進と因縁のある武士・柴田兵庫役の斎藤さんは「ずっとかっこいい!」と大絶賛の草彅さん。「佇んでいるだけですごくクール。なんでいつもそんなにかっこいいだ、チクショー!という気持ちを込めました」と対峙シーンへの意気込みを解説し笑わせました。町の親分・長兵衛役の市村さんについては「すごく気遣ってくれる大先輩」と感謝した草彅さん。「いつも元気ですごい。役者として見習いたいので、健康法を教えてくださいと訊いたら、親が元気なので、と言われて(笑)。遺伝だからって。元も子もない!」と大先輩からのアドバイスを期待しましたが、まさかの回答があったことも明かし、笑い飛ばしていました。彦根藩の藩士・梶木左門役の奥野さんについては「ずっと途方に暮れていた」と撮影現場での様子をレポートした草彅さん。共演者全員との撮影を振り返り「僕はみんなと交流があったので!」と一緒のシーンがなく、今日が初めての顔合わせとなるキャストへの気配りで、いろいろなエピソードを公開したと説明しました。「役柄としては非常にクソ野郎です…」と小声で話した斎藤さんの役作りは「正義への考え方」だと解説。正義の反対は悪ではない。もうひとつの正義という気持ちで兵庫なりの悪を演じたとし、格之進役の草彅さんとは「最小限の動きの競技である囲碁と殺陣。静と動、2つの対峙をやらせてもらいました。どんなに熱を沸騰させた状態でいても、格之進と対峙すると水が変わるというのでしょうか。研ぎ澄まされた空間になってしまう。そういう格之進に静かに鳥肌を立てながら撮影していました」と語りました。このコメントを聞いた草彅は「かっこいい…。“静かに鳥肌を立てながら”っていうセリフもらいます!」とニヤニヤ。これまでの斎藤さんとの共演経験を踏まえ「(対峙の)集大成のようなシーンが撮れました。感謝しています」と深々とお辞儀をしました。演じた役柄について奥野さんは「格之進に常につきまとっている役。格之進が実直で、健気で、武士らしい姿を見せてくれるので、全幅の信頼をおきながら、ただただついていく。彼の背中をただただ執拗に追いかける役です」と独特の表現で分析し笑いを誘いました。草彅とは29年ぶりの共演となった小泉さんは「まだ剛くんが20代前半だった頃。少年っぽさが淡く残っていた時にテレビドラマで共演して。放送が始まって剛くんのキャラクターが人気になって、出番が増えていき、キャラクターが大きくなっていったのを覚えています」としみじみ。「当時から演じることを楽しんでいたし、すごく素敵でした。久しぶりにお芝居を一緒にしたけれど、背中が素敵で。主役としてすべてを背負って引き受けている姿に感動しました。この背中の役に立ちたいと思いながら、お庚という役を一生懸命演じました」と話す小泉さんに草彅は「キョンキョン大好きです!」と答え会場を盛り上げました。さらに草彅は17年ほど前に小泉さんからプレゼントされたTシャツにサインをしてもらったエピソードも明かしました。「和柄で、今回の作品に合っていて。撮影中の2週間、パジャマにしてました、洗わずに(笑)」と付け加え、さらなる笑いを誘いました。「春の撮影で花粉症がつらそうだった」と撮影中の草彅の様子を思い出した小泉さん。すると草彅が「かゆいし、鼻をかむと髭がとれちゃう。鼻をかむたびに(メイクの)直しが入って。それが1番大変だったかも」と撮影時の苦労を明かす場面もありました。市村さんとは「いつか一緒にミュージカルを!」という話で盛り上がったみたいで、イベントで草彅がその話を続けようとしたところで「今日は『碁盤斬り』の話をしましょう!」と市村さんが脱線を防ぐナイスなフォローを見せて会場を笑わせました。本作で時代劇に初挑戦した白石監督は「日本の映画史は時代劇とともに発展しました」と切り出し、「スマホの寄りを撮らなくていいなど、(現代劇とは違う)発見がいろいろとありました。今後もぜひ、時代劇に挑戦したいです」と充実感を漂わせました。こだわったのは江戸時代の光源だとし、限られた光源でどれだけの表現ができるのか、かなり攻めたとも話しました。さらに「普段はフレームからはみ出るような荒々しい映画をと思っているけれど、今回は美しい映画をという思いがありました」と初時代劇への見せ方にも触れ、注目してほしいポイントです。作品にちなみ“復讐したいこと”を尋ねられた草彅さんと清原さん。草彅さんは「今日の舞台挨拶をもう1回やり直したい。リベンジしたい(笑)」と少し俯き、「テレビカメラとかいっぱい入っているのに、どこが切り取られるんだろうと急に不安になってきて…」とここまでの自由なトーク展開を苦笑い。「では、私はそのリベンジを応援します!」と気合いを見せる清原さんに草彅さんは「清原さんはちゃんとしてたよ」と優しく返答。「これだけ(キャストの)みんなが集まるのは最初で最後かもしれないのに…」としながらも「映画をたくさんの人が観てくれたらリベンジできるかも!」と、今後もイベントが開催されることを願いつつ、たくさんの鑑賞を呼びかけるというナイスなPRで大きな拍手を浴びました。最後の挨拶では本作の宣伝を務める観客に向けて、SNS投稿時の「#(ハッシュタグ)」も発表。「#碁盤斬り」もしくは「#ごばんぎり」とのこと。「漢字は難しいから、ひらがなでもいいです。ご飯じゃないよ、ごばんだよ。このフレーズ気に入っているけど、いまいちウケなくて…」としながらも、最後までしっかりと映画を宣伝し締めくくりました。  
■英語タイトル“BUSHIDO(ブシドウ)”として 4月に開催されるイタリアのウディネ・ファーイースト映画祭のコンペディション部門での上映も決まっております。 さらに、フランスの配給も早々に決定しました。フランスの配給会社、ART HOUSE FILMS(アートハウス・フィルムズ)社の社長エリックさんからコメントをいただきました。 「演出も俳優陣の芝居もとてもいい。この映画は侍映画の伝統を引き継いでおり、とてもエレガントでよくできている」
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kennak · 2 months
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酒に酔って路上や電車内で寝込み、財布などを盗まれる被害が増えている。 昨年は全国で3000件を超え、前年から3割増となった。コロナ禍の行動制限がなくなり初めての年度末。本格的な歓送迎会シーズンを控え、警察は警戒を強めている。(石沢達洋、小川朝煕) 「寝込むほど飲まなければよかった……」。神奈川県に住む40歳代の自営業男性は、学生時代の友人とプロ野球観戦した昨年10月の夜のことを後悔している。  横浜スタジアム(横浜市)で生ビールを5杯飲み、試合後も居酒屋でさらにハイボールなどを15杯あおった。午前0時頃に友人と別れ、駅に向かう様子をスマートフォンでライブ配信中、激しい眠気に襲われた。 目が覚めたのは午前2時頃、駅に近い繁華街の路上だった。スマホと財布がなくなっていた。携帯ショップで端末を買い直し、手がかりを得ようとライブ配信の映像を確認して驚いた。 道路脇で眠る自分に2人組の男が近づき、ショルダーバッグから財布を盗み取る様子が映っていた。男性は神奈川県警に被害届を提出。今月、2人組を含む40~50歳代の男3人が窃盗容疑で逮捕された。 警察庁によると、寝込んだ人から財布などを盗む「仮睡者(かすいしゃ)狙い」の被害は昨年、全国で3215件発生し、前年の2507件から708件増えた���コロナ禍前の2019年(4177件)に徐々に近づいている。 このうち4割に当たる約1300件は東京都内で起きていた。警視庁によると、場所別では電車内が半数で、繁華街周辺などの路上が2割、駅構内と公園が合わせて1割だったという。 新型コロナウイルスの感染症法上の分類が5類に移行した5月以降の発生が目立ち、都内のターミナル駅周辺では酔いつぶれて終電を逃した人の被害が相次いだ。介抱を装って声をかけたり、物色した上で短時間で荷物を持ち去ったりと、その手口は巧妙だ。 JR山手線車内では昨年6月、酔って寝ていた30歳代男性が高級腕時計「ロレックス」(約100万円相当)を盗まれた。防犯カメラは、隣に座った男がわずか1、2秒で男性の左手首から腕時計を外して電車を降りる姿を捉えていた。警視庁は1月、窃盗容疑でこの男を逮捕した。 都内では繁華街や電車内の巡回が強化されているが、摘発に至るケースは被害の約1割にとどまる。捜査幹部は、「飲酒の影響で被害に気付くのが遅れがちな上、時間や場所の特定が難しいケースも目立つ」と話す。 路上などで寝込むと、交通事故やトラブルに巻き込まれる危険性も高まる。 東京都大田区の区道では昨年11月21日夜、飲酒後に路上で寝ていた男性(31)が乗用車にはねられて死亡した。警視庁によると、都内では昨年、路上で寝てしまう「路上横臥(おうが)」による交通事故で12人が死亡し、31人が重軽傷を負っている。 地方都市でも同様で、富山市では昨年11月24日未明、飲酒後に県道で寝込んでいたとみられる派遣社員の男性(44)が車にひかれて死亡する事故があった。 警察庁によると、路上横臥が原因の死亡事故は毎年各地で発生しており、一昨年では歩行中の事故で死亡した895人のうち1割超の109人に上った。 酒に酔って路上でふらついたり寝そべったりする行為は、交通の妨げになれば道路交通法違反で罰金5万円が科される恐れもある。 警視庁によると、今年に入ってからも都内の繁華街では酔いつぶれて警察署で一晩保護される人が相次いでいる。警視庁幹部は、「路上で寝込むと、犯罪や事故に巻き込まれる恐れがあり極めて危険。貴重品を紛失するケースも多い」と注意を呼びかけている。
路上や電車内で酔いつぶれ、財布やスマホの盗難増加…介抱装い声かけ・短時間で持ち去り手口巧妙化 - ライブドアニュース
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geniusbeach · 1 year
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石の言葉
 名古屋を巡る車の中で、静岡に砂丘があることを友人から教わった。鳥取以外に砂丘が存在することは意外だったが、私はちょうど、ぼうっと眺めるだけで済む単調な風景を欲していたところだった。というのも、このところ雑事に追われていたせいで、精神は干された雑巾のように疲弊しきっており、何事に関しても乾いた考えしか浮かばなくなっていたからだ。友人に請うて予定を変更し、翌日足を伸ばしてみることにした。
  三月某日。朝から曇天。連休の中日であるせいか車道はしばしば滞った。昼過ぎにようやく浜名湖に着き、そばにある店で鰻を食べつつ、私は植田正治が撮影した写真を思い出していた。白い空と白い砂に二分された画面の中央に、黒い服を着た人物が立っている。現実から遊離した夢のような断片。まるでタンギーの時空にぽつんとある、マグリットのオブジェ。新しいのにどこか懐かしい、シンプルで強烈なイメージだ。そんな不思議な光景が、この先で待っているだろうか。重箱の蓋を閉め、肝吸いをすする。椀のなかにある黒い背景と白い肝のネガポジを反転すれば、近くて遠い異世界が現れるだろう。思いもよらぬ効果は、そのように簡単な操作で得られるのかもしれない。携えたカメラで何かを撮ってみよう。
 中田島砂丘は浜松の南部に位置し、遠州灘に面している。砂は、その東端が接する天竜川の上流から運ばれてくるそうだ。駐車場に車を停め、滑り止めが敷かれた小道を歩いて登って行く。林を抜けると視界が開けた。友人が声を上げる。空と、一面の砂が広がっていた。砂原へと続く急斜面を、足を取られながら興奮ぎみに降りる。すると、不意に下方から視線のようなものを感じ、私は立ち止まった。目を凝らすとそれは人でも動物でも虫でもなかった。石であった。坂の下に、じっとこちらを見つめている石があったのだ。遠ざかる友人をよそに、砂に顔を打たれながら、私はそれを見た。あたりにごろごろ転がる石とは何かが違う。風と波の果てしない響きのなかで、その石は白くきわだち、寂しそうだった。
 私たちにはどこか通じ合うものがあった。ルートを外れ、靴にざばざばと砂が入り込むのも構わず、石のもとまで無心で下って行った。拾い上げると、それは花崗岩であった。美しい卵型をしており、側面に少し平べったい部分がある。表面はチョコチップアイスを思わせる、白にわずかな黒のまだら模様。握ってみるとたしかな重みがあり、旧知の仲でもないのに、手にしっくりとなじんだ。持ったまましばらく考え、その石を散策の相棒にすることに決めた。
 石は、大人しい。しかしその性質はなかなか気難しい。浜を東へ歩いていく途上、こいつをどう扱おうかと悩んだ。ぐっと握りしめたり、持ち上げたり、掲げたり。ときに置いたり、立てたり、回したり。はたまた投げたり、落としたり、転がしたり。その全面が顔ともいえる、しかしいっさい動いてくれないカタブツをなだめすかしながら、何枚も写真を撮った。そのうち何やら、石の言葉が聞こえてくるような気がした。しかしその言葉とはいったいどんなものだろう。
 雨に濡れて。/独り。/石がゐる。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。
 そう書いたのは詩人草野心平だが、なんでもない石について、石そのもののごとく簡潔に、そこに秘められた歴史と存在の必然性を言い表している。なおかつ映像的でもあり、事物を外部から見た限界ぎりぎりのところを巧みに描写している。とはいえ、それは石の発した言葉ではなく、あくまで人間から見た石の姿にすぎない。最終的にその主張を想像して汲み取るのは我々読者だ。詩人石原吉郎によれば、詩とは「沈黙を語るための言葉」だという。結局、我々が読めるのは「書かれた詩」でしかない。ほんとうの詩は事物と感興との沈黙の関係にあり、口にしたとたん霧消してしまうたぐいのものなのだ。ただしその意味で、カメラは言葉と同等に詩をつかみ得る道具となる。
 石の言葉の意味は石にしかわからないが、聞くことはできる。それは生成と漂着の場所にこだまする音に根ざしているはずだ。ここは砂丘。海と空と砂と風がある。それらを組み合わせて固めた言語が質量となって、いま手のなかにある。石の組成、つまりこの風土の中心に改めて石を据えてみようと思った。空へと放り投げて、あるいは、太陽と重ね合わせたシルエットに向けて、シャッターを切る。一連の試行錯誤の末、徐々に一個の石の多様な側面が見えてきた。浜にある無数の石の中、風紋を斜めに切る光彩と陰影の間、人の足のような流木の上、それぞれの関係性の中で石は表情を変え、異なる何か訴えかける。それは静かだが、熱のこもった対話であった。
 石のようになかなか動こうとしない私に友人はやきもきし、途中からどんどん先に進んでいった。帰りがけに走って追いついたところ、持って帰るつもりかと聞かれた。私は黙って首を振り、堆砂垣の向こうにそっと転がした。ホテルに戻ると、お気に入りを見つけたと言って、友人はポケットから小さな黒い石を取り出してみせた。彼は彼で写真を撮っていたらしい。そうしてにやりとしながら差し出されたカメラの画面には、私と石の出会いが切り取られていた。少し笑うと、名残惜しさが込み上げてきた。ふたたび永遠の海亀の卵へと還った石は、満月とともに夜を語り明かすにちがいない。ここちよい疲労に包まれてほんとうの石となった私は、夢幻のなかでその会話を聞いただろうか。
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jinsei-pika-pika · 5 months
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ファッション業界歴「40年」、スタイリスト北村道子の哲学
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北村道子:1949年、石川県生まれ。10代の頃にサハラ砂漠やアメリカ、フランスを放浪した後、30代でスタイリストの道へ。「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」で第62回毎日映画コンクール技術賞を受賞。著書に「衣裳術《新装版》」「衣裳術 2」がある。今年の夏に「衣裳術 3」を出版予定 PHOTO:KAZUSHI TOYOTA
 日本を代表するスタイリストとして地位を確立しているのが、現在73歳の北村道子だ。10代の頃にサハラ砂漠、アメリカ大陸、フランスで過ごした後、30代でスタイリストのキャリアをスタート。初期は広告や資生堂の企業文化誌「花椿」でスタイリングを担当していたが、森田芳光監督の映画「それから」に主演だった松田優作の指名により参加することになった。以降、「キッチン」や「幻の光」「東京日和」など数々の映画の衣装に携わるほか、雑誌「流行通信」や「スタジオ・ボイス(STUDIO VOICE)」などでも活動するようになる。
 切りそろえられたグレーヘアにメガネという佇まい。そして独自の人生論やファッションに対する考えを、まるで哲学者のように語る北村の言葉には、人を惹きつける強いパワーがある。業界歴40年以上という彼女に自身のキャリアをはじめ、変化するファッションの価値観や、最前線で活躍するために大切にしていることについて語ってもらった。
映画が自分の基盤
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PHOTO:KAZUSHI TOYOTA
WWD:衣装を手掛けるようになったきっかけは?
北村道子(以下、北村):金沢の美大で比較人類学を教えている先生がいたんです。その先生が調査で海外へ行くことになり、私がどうしても一緒に行きたかったので、親に懇願して同行することができました。それからアメリカ大陸の横断を経て、最後は南米のグアテマラにたどり着いたんです。そこに住むネイティブアメリカンのオジブワ族の村で民族衣装やビーズ付けを学び、衣装を作ることに興味を持ち始めました。
WWD:10代の頃から世界中を旅していますが、海外を経験して得たことは?
北村:危険を瞬時に肌で感じること、そこの地の宗教を調べて旅をすること、子どもたちと仲良くなり情報を交換することが大事だということを学びました。当時はiPhoneがない時代でしたが、今でもこれらのことを実行しています。
WWD:一日一本は映画を見るというシネマホリックな北村さんですが、衣装づくりやスタイリングは映画からインスピレーションを受けることが多いですか?
北村:映画監督ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)の作品のカメラマンとして知られているロビー・ミューラー(Robby Muller)に影響を受けています。彼は撮影を行う際、長回しをするのでセットは作らず、自然光のみを使い、カメラのために特別な装飾美を施さないんです。彼のようにリアリティを追求したいので、私も撮影現場でヘアメイクの微調整はしないようにクリエーターたちにお願いすることが多いですね。
WWD:衣装や写真など、「モノクロ」にこだわる理由もミューラーの影響でしょうか?
北村:ミューラーが言うように、モノクロというのは色がつかない世界であり、想像なんです。たくさんの色で溢れているこの世界でモノクロのものを使うと、実際に目に映る色は色か黒だけれど、想像力を豊かにさせてくれるんです。だからこそ、映像の細部や着るモデルの個性に目を配ることができると思います。
「価値とは何か?」を問うこと
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PHOTO:KAZUSHI TOYOTA
WWD:ジェンダーレスやサステナブルなど、世間のファッションへの価値観が以前と今とでどう変化していると感じますか?
北村:ジェンダーレス化やサステナブルはもはや当たり前のこと。特に環境問題について、私たち人間は脆く、弱い生き物であるということをまず理解し、地球の問題というよりも人間の問題という視点を持つことが重要です。だから価値観という言葉にくくるべきではありません。むしろ今、「価値とは何か?」を自分自身に問うべきではないでしょうか?
WWD:憧れだったファッションが環境問題により悪者になっていますが、今ファッションの何を信じればいいのでしょうか?
北村:一概にファッションが悪者にされているとは思わないです。例えば、量産型のファストファッションが環境にダメージを与えているかもしれませんが、若い子たちが低価格で服を購入できるじゃないですか。そういう手段があることで、Z世代の子たちはトレンド関係なく自分のスタイルを作ることができる。「かっこよくなりたい」という感情ではなく、「かっこいいとは何だろう」と問いながら、自分の中の“かっこよさ”を見つけることが重要です。まずは一歩引いて、俯瞰で自分を見てみること。そうするとあなたの“姿”が見えてくるはずだから。
WWD:それは、さまざまな仕事にも通じる部分がありますか?
北村:仕事に対しての考えを言うならば、一旦決めたことはぶらさないこと。最初に、その仕事をエンジョイできているかを自分に問うてみてください。もし楽しめていないのなら、仕事は一人ではできないので���関わる相手をどう見るかという観察をしてみるといいでしょう。
WWD:戦争やコロナ禍という情勢が揺れる中、ファッションが持つ力とはなんでしょうか?
北村:ファッションの力については分かりませんが、服の力はあります。人々はデコラティブなものから機能美のある服を頼りにしています。それは、地球が変化していることとパラレルな関係です。
WWD:ファッション業界の最前線で活躍する上で心掛けていることは?
北村:自分の道を失わないことです。例えば、歌手のビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)がいつもオーバーサイズの服を着ていること。周りに流されることなく、彼女は自分だけが知る「自分」というものをちゃんと理解し、独自のスタイルを貫いていると思います。また情緒を養うことも大切です。「人の中心は情緒である」と言う数学者の岡潔の理論があるように、情緒を育むことで共感力や思いやりを持つことができ、豊かな人生を築くための大きな力になってくれるでしょう。
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patsatshit · 6 months
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東京滞在日記。
◆Day1
12:45 新横浜到着。寒いと思ってヒートテックやらネックウォーマー、起毛したパジャマを持っていったにも関わらず、気温25度で照り返しがきつく汗ばむ気候。東京に住んでいた頃、関東は体感温度が関西よりも5度くらい低い気がしていたのに。レイジアゲインストザマシーンのウィズアウトアフェイス。かっこええー。96年発売の曲の中で一番好きかもしれないな。いや分かんないけど。終わるのが悲しくてリピートしてしまう。
12:57 京急に乗って雑色へ。「ぞうしき」と読むらしい。聞いたことも見たこともない地名。最近友人が引っ越したというので、おじゃまさせてもらうことになった。ありがとう。大田区。飛行機に乗らない私にとってはあまり縁のない地区。東京タワーからは程遠く、都会とは縁のなさそうな樹々が生えていて、なんだか良さそうな街。昔ながらの商店街もある。バックナンバーからaiko、いきものがかりと平成J-popが次々と流れてくる。結構長そうな商店街。天六ほどではないだろうけど、先が見えないので抜けられるのかドキドキする。突然見覚えのある走り方をする人影が見えてきた。
13:55 友人宅到着。ちょっと駅からは離れているけど、立地は最高。大きな窓からは多摩川が見えていて、開放感でいっぱい。空港が近くにあって、すぐにここを飛び出してアメリカへでもいけそう。
14:30 友人は1日在宅ワーク。ずっとパソコンに向かってタイピング&会議私は後ろでひたすらゴロゴロ。ヒモみたいになってた。
16:00 夕方、仕事終わりの友人と茶をしばくため虎ノ門へ。むっちゃ薄暗い照明のお店。店内はマスターのオキニが詰まった宝庫みたいになっていて、グレングールドがかかっている。ライトな雰囲気のカフェと聞いていたけど、かなり荘厳な感じ。バカ話できるかな?友人登場。私が今ちょうどほしかったcasetifyのiPhoneケースを使っていてテンションが上がる。「ちょうど昨日藤原ヒロシが『便利』って言ってたよ」という話から佐川急便男子の話まで途切れることなく2時間強話しまくる。酸味の効いたコーヒーと濃厚なチョコレートケーキ、淡白なチーズケーキの相性がそれぞれ完璧だった。友人の背後からフライヤーの三島由紀夫が鋭い眼光でこちらを睨んでいた。ずっと怖かった。
19:10 『ざっくりYouTube』で見ていた池尻大橋の「喜楽亭」へ。ジュニアさんが座った席と同じところに座れてテンションが上がった。料理はもちろん極上。こう言っちゃなんだけどまずいハンバーグカレーとかあるのかなぁ。ルーとライスを綺麗に分けずに「親父ガケ」して「親父グイ」(ルーを皿一面にかけぐちゃぐちゃにして食べること)してしまう癖、治したい。というか治す。いやだわー。無意識って怖い、気をつけよう。
22:00 帰宅。友人と話す。思い出話2割、今後の話8割。昔は覚えてもないようなどうでもいい話しかしなかったのに、キャリアとか結婚とか出産とか、切ないね。けど仕方ないね。そうそう、何で雑色に引っ越したのか聞いてみた。いい場所だけど都心からはだいぶ離れているし…。友人曰く、最近の日本にますますいやけが差してきたので、すぐ海外に飛べるように空港付近にしたとのこと。かっこえ。昔から彼女の意思&意志が強くてすぐ行動に移せるところ、尊敬してる。
◆Day2
12:00 13時からの打ち合わせに向けて横浜へ。ほどよい都会感。建物の感じもどこかオシャレに見える。今日は風が強い。ふわっと香るくさいにおい。もう銀杏の季節か。『トークサバイバー2』で(シソンヌ)じろうさんが叫んでた「銀杏〜!くせえからうめえのか、うめえからくせえのか?」っていう素朴な疑問、私も思う。いつか教えてくれ。
15:30 一旦帰宅。友人会議中。多摩川を少し散歩する。『セトウツミ』の舞台ってここかなぁ?とかあらゆる平成ジャパニーズ映画のロケ地に思いを馳せながら歩いてみる。
16:50 半年ぶりに代田橋へ。行く場所は決まっているのに常に緊張する。Fat Boysを聴いて喝を入れる。
17:01 ジャスミンティー購入。手鏡にてデコに大きなおできと小さなニキビを確認。
17:10 緊張で首が左上右下に動いてる感じ。つまり吐きそう。
18:01 代田橋到着。とりあえずトイレに行く。
18:03 緊急事態。一旦酒を入れなければと彷徨う。
18:09 「納戸」は閉まっていた。がっくし。
18:18 「ジュークボックス」へ入る。マスターに挨拶するも覚えていない様子。半年ぶりだし2回目だから仕方ないかと思ったが、zineの話をしたら思い出してくれた。髪型とファッションで人は変わるということが分かる。コーヒー焼酎のロックを2,3杯入れる。美味い。
19:40 マスターに教えてもらった「大天狗」というお店に入る。焼き鳥がぶりぶりで美味しかった。この書き方だと不味そう。身が大きくて味付けも辛すぎず無すぎず、つまりちょうど良くて美味しかった。特にレバー塩。
23:39 終電に乗れた。代田橋に来る時はいつも終電と共にお別れだ。はー。終電といいながら蒲田までしか行かない。代田橋のお兄さんにもらったハイボールを片手に電車に揺られる。
0:16 蒲田駅から多摩川沿いを歩いている。��歩22分。結構近い。友人に連絡する。川沿いで合流することに。
...
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↑記憶なし
◆Day3
12:47 起床。若干頭痛。友人は会議中。
17:18 山手線に乗っている。今日学んだこと。二日酔いでも酒は飲め。但し、酒がないと話せない場合に限る。つまり緊張状態に縛られる状況の場合。
17:46 綺麗な夕焼けを写。肝心な時にカメラを持ってきていない。そして非常に落ち込んでいる。
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↑夕焼け
19:15 友人とご飯に行く。カジュアルなフレンチビストロ。ここで「人生の目標」とか「働くこと」とか「死ぬこと」などシリアスな話を熱く語り合う。
20:39 多摩川散歩。酔っ払っていたので写真がすべてぶれている。
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↑彗星到来。ネオ東京
◆Day4
8:45 朝から餃子を作る。大学時代から彼女とはずっと餃子パーティーをしていた。餃子で繋がる友情と言っても過言ではない。彼女の家族たちと餃子パーティーをしたこともある。今後誰と会ってもそうマウントをとっていく。味噌ダレで乾杯。パートナーの話で盛り上がる。いくつになっても色恋の話は楽しいな。しかし外食が多くて、胃が悲鳴を上げ始めてる。
10:45 多摩川の写真を撮る。毎日多摩川を見ながら生活できる幸せ。噛み締めた。川のある生活っていいなぁと実感。天気も良くて雲の形もポテトフライみたいでよかった。
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↑ マンションの広告にありそうなくらい完璧な景色。うまく言えないけれど。
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↑パノラマで撮った
11:00 友人と別れの時。でも12月にまた会える。でも帰り道少しツンときた。それくらい居心地が良くて、一緒にいて落ち着ける存在だったのだと改めて思う。会うのは半年ぶりだったけど、しっかり話すのは2年半ぶりくらい。彼女はすごく…さらにいい方に変われていて、刺激をもらうと同時にすこし、自分に対して不安になったりもした。同じ歩幅で歩いてると思っていたから。全然違ってたんだ!今、小さい頃に遠方の祖父母の家に何泊かして帰らなければならない時の悲しさで涙が止まらなくなるあの感じが襲ってきてる。嬉しいのに少し寂しいな。
12:02 有楽町駅到着。映画館の前を通り、スコセッシの新作今日公開だと思い出す。でも今日は無理。ノーマネーソーリー。
12:06 ある人と待ち合わせ。その後ランチ。
15:33 新幹線到着。いよいよ帰る。おセンチな気持ちなのでブレッドのプレイリストを聴いている。ただ、ウォークマンのプレイリストは厄介。
16:03 『Dumb and Dumber』(ジムキャリーはMr.ダマー)をみる。百面相最高。we love jim carrey!!!
18:40 帰宅
.
おしまい。
東京ってやっぱり刺激のある街。ずっといたら飲み込まれそうで怖いけど。昔からそう思っている。昔東京に数年住んでみたけど、まぁ仕事とか色々なことがあって、いい思い出は全くなかった。でもきっと、その頃の自分は視野が狭くて未熟で卑屈ですごく保守的だったのだと思う。その頃の自分のことを…ようやく客観的にみれるようになった気がした。離れてみるとやっぱ東京って面白い街だと思うし、会いたい人がいれば誰にだって会いに行けるし、刺激の宝庫だなと思う。
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chiaroscuro-lily · 8 months
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皆様ごきげんよう、またまた私です。
はい、そうです祈織です。🖋🌓
今回からメンバーブログというものを始めることになりまして、やはり1番手はお前だろうということでこうして記事を書いている訳であります。
メンバーブログというのはそれぞれメンバーが自分のことや考えたことをテーマに沿って自由に更新していくものとなっております。
更新は不定期となりますが、皆様の暇な時にでも楽しんでいただけたらなと思っております。
テーマはその都度皆と話し合って決めていくのですが、今回は初回ということもありまして
⒈自己紹介・好きな物
⒉主催祈織との馴れ初め(主催はメンバーのことでも語ってろ)
こんなラインナップとなっております。
……いやその2番目のやつ何??と私も思うのですが…
何故か皆がノリノリであるが故に…ご了承くださいませ(?)
では早速自己紹介から始めていきましょう。
名は祈織(きおり)、由来は私がキリスト教系の高等学校へ好奇心で入学したことからはじまります。
まあそのうち語るかもしれないので今回は割愛しましょう。
小さい頃から本が好きで…と言っても読む量はたかが知れていますが…
小学校3~4年生の時に図書館の伝記を読み尽くし(今となっては何も内容を覚えていない)、何か暇だなと思ってファンタジー小説を読み始めてから、脳内ファンタジーや厨二病(?)を患うようになります。
陰キャだし友達居ないし…ってことで、グラウンドに出て健康的に遊べと圧をかけてくる小学校教師に聞き分けのいい子供の演技をしながら教室を出て、そして図書館に入り浸る…そんな人を欺く術を取得しつつある子供時代です。
私が思う子供時代はこんな感じですが、はるたんに聞くとどうやらそうでもないらしく。
彼女が私との馴れ初めを語る回を楽しみにしている自分がいます。
創作を始めるようになったのは中学生の時で、その時からはるたん含め当時のいつめんと言う名の身内の間で創作が大ブーム。
皆で交換小説を書いたりイラストを書いたり(私は描けない)、私は曲を作ってみたりと楽しい日々を過ごしていました。
当時ボーカロイドが流行っていた関係もあり、そうか…!一般人でも曲って作っていいんだ…!(それはそうだろう)といたく感動した私ですが、そうして始めた曲作りは大した機材もないのでピアノでリズムを作って五線譜に書き殴って無料ソフトに暗号化して打ち込んで…みたいな感じです。どこに出す訳でも無く完全に自己満足の世界でしたね。私のクソ雑魚ピアノスキルでは弾けないような曲を演奏させてニコニコするだけの遊びです。
ピアノに関しては幼稚園からやっているというのに一向に成長しません。練習も飽きてしまいますし。
自分ってもしかして才能ある…?と気づいたのは小学生高学年から管楽器と出会ってからです。私の担当はアルトサックスでしたが、学校の楽器に『華子』と名付けて可愛がるまでになります。
どんな時間も楽器触りたい!と思っていました。
今振り返ってみても吹奏楽部時代はもう一度やりたいと思えます。それくらい楽しかったです。
百合が好きになったのは高校時代の環境と見ていたアニメ等の影響だったかと思います。
男女間の仲が悪いクラスで、男子との関係で何度も病んでゆく友達を見て絶対同性同士で過ごした方が平和なのに…などと言うある意味若さともとれる穿った考え方で視聴したアニメ作品はどれもキラキラして見えたものです。
今となっては人が人を想う気持ちはどれも尊いでしょうけれど、女の子が複数人いて互いに抱くどんな感情も何にも代えがたい尊さを持つ唯一無二のものであるなぁという気持ちです。
百合万歳。
最近好きなものは各国の神話や美術、科学など所謂マニアックなものばかりで、中々今は商業百合作品を楽しむところまで時間の関係でも行けておりません。
根が考察ヲタクなので考えることができるコンテンツに沼りがちですね。
例えば某夢の国。普通に行っても楽しいのですがやれあの山の柱状節理が気になるだの、あの島の発電システムが気になるだの、歴史的背景を踏まえた備品の数々、そしてその関係性。
それらを見に行くために年パスを買って一人で行くなどしたこともありましたね。
ショーやパレードも素晴らしく、演者の演技力を堪能し、いつしか写真に残しておきたくなった私はここでカメラを始める訳です。
勢いで一眼レフを購入し、誰に教えられる訳でも無く勘とフィーリングとノリで弄り倒す私ですが最初の写真の酷いこと酷いこと。それでもあの時は綺麗に撮れた!なんて喜んでおりました。
音楽やカメラで分かったことですが、努力することを苦だと思った時点で成長は見込めないのだなぁなどと思う訳であります。楽しいと思うことは才能であると、そんな気がしますね。
楽しいから私は本の世界でファンタジー脳や厨二病を拗らせるし、一人で美術館に行くし、神話や神社の御祭神を調べてはニヤニヤするし、一人で某夢の国行って一日中遊んで帰ってくるし、一人でカラオケ行くし、曲だって作るわけです。
こんな感じで人からよくズレてるだの癖が強いだのと言われる主催ですが、次のテーマである主催からみたメンバーのことにでも触れてみようかと思います。
まずは柘榴。☕️🍎
第一印象は何この美少女。です。
最近気づきましたが私実はメガネフェチだったらしく、彼女と初めて会った時にしていた縁の太いあのメガネが忘れられません(?)。
後から聞いたら花粉症でコンタクト入れられなかったってだけだったそうです。おお神よ…。
あと柘榴は某夢の国での私の考察(奇行)に付き合ってくれた1人でもあります。
好きになるものは大体同じで、カフェ巡りしたりバレエ見に行ったり一緒にロリィタ服買ったりお揃いのアクセ買いまくったりと色んなところに行ったなあ…。運命共同体ですし。
そんな彼女が最近めざましい成長を遂げているのがアクセサリー作り。撮影で使うロザリオとブローチを短期間で全員分自作したのはこいつです。なんつー集中力だ…。
店でもやるんか?って位のクオリティまで持ってきて頂いてただただ感謝。引き続きグッズ制作の程宜しくお願いします。
柘榴が心血を注ぎ作った小物…そのうち特集してもいいかもしれませんね。
次ははるたん。🫧‪🐑
第一印象?ンなもん忘却の彼方です。
彼女とは幼稚園からの仲ですし最古の記憶を辿っても何も思い出せません。気づいたら隣にいたタイプの人です(?)。
でもはるたんは私よりも過去の記憶があるらしいです。ごめんて。
とりあえず昔から彼女の言葉選びや画力には目を見張るものがありましたし、性格も良いし、可愛いし。
人を絶対攻撃しないタイプです。 その代わりめちゃくちゃ抱え込んで我慢するけど。口堅いし。
あとめちゃくちゃ私を褒めてくれるので好き。
なんで?君の方が凄いよ才能あるよ天才だよ!!…という言い争いが日常的に巻き起こります。これが愛と平和。
心が荒んだ時ははるたんを見��しょう。きっと貴方を癒してくれるはず。全人類のラッキーアイテムははるたんの短歌。はるたんのTwitterにて掲載中。是非待ち受けにしましょう。
次はいーちゃん。🎪🍫
彼女とは柘榴経由で知り合った子です。
まだ知り合って日が浅いというのに大分濃い絡みしてる気がする。当社比。
彼女は思慮深く、頭が良いという印象。あとかわいい。
この前とある企画展に2人で遊びに行ってきたのですが、その対象の歴史を完璧に予習してきていてめちゃくちゃビックリした思い出。
どうやら歴史や民俗学に興味があるらしく、神話の情報極振りの私とは違って非常にバランスが良いです。
考察が捗ります。感謝。
私服もめちゃくちゃ可愛くて…というか私の好みすぎて、大体いーちゃんとの待ち合わせで私の第一声は「かわいいいいい( ´ཫ`)」です。
あとはセルフプロデュース能力が高いです。
今後小説のキャラクターのビジュアルを公開する予定ですが、その全てが天才的。確実に作りこんで、仕上げてくる…しかも創作未経験で。是非そのキャラデザも皆様に見ていただきたい所。お陰様で私とはるたんの推しは彼女の担当キャラクターです。何卒我らが推しを宜しくお願いいたします。
次はみけ。🍓🎀
みけとは最初某夢の国ヲタクと言う点で仲良くし始めた子でしたね。
ハキハキしていてコミュニケーション能力が高め。
知らない人とでも臆せず話せちゃうって才能だよな…とか思います。でも別にグイグイ来るような不快感は一切ない。
きっと他人を思いやる姿勢が初期装備であるんだろうなぁなんて思います。あと顔が良い。
今後いくつ作品を作ろうとも彼女を主人公に当てたくなる…!そんな感じです。
そして私との距離が一気に縮まったのはお互い百合ヲタクだということに気づいた時。
お互いになんでそんな話題になったんだっけ???となってる訳ですがこれはもう導きということで。
鬼スケジュールをこなしてる大人気コスプレイヤーさんなので遊べる機会は今となってはあまり無いですが、一緒に創作しよ!と言ったら快く乗ってくれました。感謝。
顔も可愛くて声も可愛くてイラストも可愛い彼女のTwitterは必見です。全員フォローせよ。無料で幸せになれます。
次はゆーやさん。🥀🦋
出会ったきっかけは確かTwitterのロリィタさんと繋がりたいタグとかその辺だった気がする…。
…え?そうですよね?(急に不安になるやつ)
私がゴス会に憧れを抱いていることを知りわざわざゴス会を開催してくれたという聖人。
いいんですか?そんな、わざわざ主催してくれるなんて…!!と言った私に「いいんですよー、その代わり祈織さんが何か主催してくれた折には私も参加させてもらえれば」と言ってくれたゆーやさんが私が作った百合創作サークルに参加してくださっているのはなんの因果なのか。
…っていうかこれで合ってる?
そうして数年越しに再会したきっかけがこのサークルという私にとってなんとも運命的な方です。あと顔がいい。
センスが良くて気遣いもカメラの腕も一流なので創作でめちゃくちゃ助けられています。感謝。
撮影時のメインカメラはほとんどゆーやさんがされていますのでご覧いただけたらプロの所業が分かっていただけることかと思います。Twitterの投稿写真や今後公開するHPの素材として使っているので是非見てください。一瞬だけでも!お願い!
次はゆう。🌕🦊
ゆうは百合好きという共通点から知り合った子ですね。
百合を表現する、という点であの時はよく2人で撮影したり企画話し合ったりしましたね。
これがやりたい!という要望を沢山出してくれるし、レスポンスも爆速で返してくれるのでめちゃくちゃやりやすかった印象。
そんなゆうですが、本人談では本来重度の人見知りらしく。
初対面で一日中遊んだっていうこともあり私は全然そんなこと感じなかったですね。
そして顔が良い。彼女の撮影時の表情が好きなんですよね、あの時は専ら私がカメラマンでしたから。
特に憂いを帯びた表情が破壊力強めです。今ここに公開してやりたいくらいです。
今後の撮影に乞うご期待です。暫しお待ちを。
最後にゆしあさん。
彼女は唯一会ったことがないメンバーです。
メンバーブログ等SNSの発信は今の所やる予定がありませんが、一応私目線だけは綴っておきましょう。
会ったことはないですが、きっと誰よりも私の性格や本質を把握していることだろうと思います。
なぜなら人生や価値観について彼女と電話で語っていたらいつの間にかオールしてたみたいな事を何回も繰り返しているからです。
こんな深い話人としないでしょうよって事を長時間話しているのです。いや、そりゃぁお互いに把握してしまいます。
しかも楽しくて時間が経ってる、みたいな体感なので余計に私の中で唯一無二の存在ですね。
私は早寝の民なので途中寝落ちて復活してを繰り返していますが…彼女はずっと変わらぬクオリティでお話してくれます。いつか勝ちたい。
性格は明るくて話しやすくて。あとすっごく真面目。
私の身に起きた嫌な思い出に自分の事のように怒ってくれる優しい人でもあります。
そして博識。彼女自身の環境的な側面もあるでしょうが、彼女の体験談や知識は非常に興味深いです。
彼女の知識は創作、シナリオの面でかなり活躍してくれています。感謝。
彼女のおかげで小説の世界観はかなり深みのあるものとなったのではないでしょうか。
小説に乞うご期待、ですね。私も頑張る。(白目)
さてさて、私はここまでで一体何字書いたのか…字書きとしては気になり始めるレベルまできていますね。
ここまで長くするつもりは無く、軽い気持ちで読めるブログを目指すはずだったのですが……はて。
ここまで読んだ人は居るのでしょうか…。
もし居るのならばスクロールしたその手は腱鞘炎にでもなっていることでしょう。
ありがとうございます。お疲れ様です。
今日は湿布でも貼ってゆっくりと休んでください。
最初は 自分のこともメンバー全員分のことも書くんかい!と思いましたが、皆様に主催目線のメンバーのことを知っていただくいい機会になったのではと思います。
如何だったでしょうか?
他にも皆でこんなテーマを話して欲しい等希望がありましたらコメント欄でお聞かせいただければと思います。
次のメンバーブログの担当は柘榴☕️🍎です。
きっとここまでの長文にはならないでしょう。多分ね。
貴方のその手の腱鞘炎が治ったらまた遊びに来てください。
ではまた。
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dvdhappycom · 9 months
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囁き淫語で初めての脳イキ体験。手で口でおっぱいでムクムク反応するを可愛がる仮面。連続寸止めさせてもらえい屈辱敗け... - 無料動画付き(サンプル動画)
囁き淫語で初めての脳イキ体験。手で口でおっぱいでムクムク反応するを可愛がる仮面。連続寸止めさせてもらえい屈辱敗け... - 無料動画付き(サンプル動画) スタジオ: FC2 更新日: 2023/05/05 時間: 48分 女優: こんにちは!素人Rendezvousのプロデューサーです。 前回を余すところなく根こそぎ搾り取られた仮面ちゃん 男のプライドを取り戻すため、再び呼びつけて再戦!! 前回の雪辱を晴らすため、強引にマンコをケツ穴を拡張してカメラの前に晒します。 そのままパイパンマンコにむしゃぶりつき イヤらしい目線のフェラ 巧みな言葉責めでがみるみる 我慢汁タラタラ~ 脳イキ寸前の囁きパイズリ デカチンだけが取り柄の男が経験豊富な隠語責め むっちりマンコに勝てるはずがありません。 【DVDハッピー】 https://dvd-happy.com/ ストリーミング・ダウンロード・DVD $1.49~ 正規品最安値保障 ***********************************
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cookingarden · 1 year
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三宅唱 監督『ケイコ 目を澄ませて』
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『ケイコ 目を澄ませて』はちょっと変わった映画だ。映画につきものの起承転結がない。聴覚障害のあるボクサーの日常が、ひたすら丁寧に描かれる。
しかし、その視線は障害やボクシング、家族や仲間をスルスルと通り過ぎていく。カメラが追うのはただひとつ、主人公ケイコそのものだ。カメラは執拗にケイコを見詰め、ズームとパンを繰り返す。機械がケイコに目を澄ませている。
映像に引き込まれるうちに、自分の感情が濾過されていく。ドラマチックなものへの期待を忘れ、風景から華飾が消えたとき、下町の点光と暗闇に目が馴染みはじめる。音もそうだ。気がつくと、夜闇を走る電車や家の明かり、ジムの引き戸が閉まる音までが、鉄の硬さ指先の記憶を引き出している。
その原始的な光景を圧倒的な強度で埋めるものがある。ボクサーのキレ長の目、グローブが皮を弾く音、薄い耳、床を打つロープの音、小さな手、歯に滲む血の唾液を吐き出す唇と口。
 「ペッっ!」
耳の聞こえないボクサーを通じて、自分の感覚に原画と原音が満たされる。『ケイコ 目を澄ませて』には、静かだが強力なリアリズムがある。しかし、ここで終わらないのがこの映画の面白さだろう。純化された光景はこの映画の入り口に過ぎない。
シンプルで強い外装の内側で何かが動いている。ケイコの目の奥に何物かがいる。耳を澄ますことができない者は目を澄ます。耳が聞こえないボクサーにとって、目は健常者よりはるかに重要なセンサーだ。彼女はすぐれた目を持っている。しかし、ケイコが見ているのは対戦相手だけではない。ケイコの内奥こそがこの映画の鍵だろう。
人が耳や目を「澄ます」のは、何かをよく知ろうとするときだ。だが、目や耳そのものが何かを知ることはない。人間には五感を統べるものがある。ケイコはボクシングを通じて目を鍛えている。目は耳を補い、ボクシングがその能力をさらに高めた。それは、暮らしを共にする弟、脳梗塞に倒れるジムの会長、そして対戦相手との関係をも純化させ、つながりを鍛える装置になった。
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 「ケイコには、なんて言うか・・・器量がある」  「お前は嘘がつけない。正直やなお前は」
試合で負けたように、ケイコはまだ人間関係の初心者だ。しかしケイコは、ボクシングを通じて人間の深部を見る者になろうとしている。正直で嘘がつけないケイコを目と器量が育てている。この映画を見て、ボクシングの恐ろしさを思った。恐怖と引き換えに、人間の奥底を見せている。
やがてケイコは、心の底にある器を磨き上げるだろう。統べるものを鍛え上げた強い人間になるだろう。知ろうとするのは目ではない。目を澄まし心を磨くのは自分なのだ。志のある者をボクシングと人々が育てる。『ケイコ 目を澄ませて』は、日常に仕組まれた深さの正体をストレートに教えてくれる映画だった。
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tutai-k · 1 year
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2022年のこと
2021年の今日、レンズが届いたことを覚えている。家の裏山で、メジロを撮影して感動したことを思い出した。 今日は朝から、探鳥会で案内してもらったルートで猛禽を見た。風が強かったので、チュウヒやミサゴがよく飛んでいた。 十二月は鎌倉旅行と友人とアフタヌーンティーにいった以外は本当にひどい月で、自分の身にも、家族の身にもろくでもないことばかり起きていたのだが、のこすところあと三日でなにも起きないだろうと思っていたら、またよくない知らせが飛び込んできた。さいごまで気を抜けない月になりそうだ。
世のひとびとが、2022年の振り返りの記事を書いている。わたしもそろそろ書こうかと思ったのが昨日。 体調が悪くて取りかかれなかったが、今日は大丈夫そう。
鳥写のこと 新しいレンズ(Canonの100-500mm)と手探りで鳥を撮りまくった一年間だった。 このレンズを持ってヒレンジャクを見ていたら、野鳥の会の人に声をかけられて(いままでは全国会員だけだったのが)三重県支部会員に入ることにもなって、再来年、探鳥会のサブリーダーを任されたり……。 バードウォッチャー憧れの島舳倉島に、30分だけだが渡ったり、山本山のおばあちゃんをこの目で見たり……。車中泊も二度した。経験をたくさん積めた年だったと思う。 鳥写の本も2冊作った。 『囀声を聞いている』初めての鳥写エッセイブック。 『つばさの方へ旅をする』鳥写エッセイブック第2段。旅がメイン。
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小説のこと
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鳥写エッセイブックを2冊つくっているので、小説はそんなに書いていない……というか鳥の写真しか撮ってない一年だったので…… 作った本&書き上げた小説は↓の2冊。 『浜辺の村でだれかと暮らせば』田舎の漁師の家に都会からの移住者がやってくるお話 『山梔の處女たち』少女小説短編集 『山梔~』は、来年の新刊じゃないのか? とも思うのだが、電子書籍版は12月刊行なので、今年の本に入れておくことにする。物理の本はまだ手元に来ていないけれど。『山梔~』に収録した「魔女の選択」、迷いながら書いて何度も何度も書き直してどうにかこうにかかたちにしたけれど、いまでも迷いと後悔が大きい。この悔しさと、力不足はやはり次の小説に任せるしかないんだろう。 書いた小説はすごく少なかったのだが、「小説を書くこと」では動きがあった一年だったようなきがする。 本を書店においてもらえることになったり、三重県のローカル情報誌『NAGI』に本を紹介してもらったり、それが縁なのか、県立図書館に『浜辺~』を収蔵してもらえたり……。 わたしの小説を書いていくなかでの大きなしるべとして「地方で文学をやっていく(小説を書いていく)」というのがある。小説を書くなら都市部へ出て行ったほうがいいとか、地元でクリエイティブなことをしていると「(都会からきた)移住者ですか」と聞かれたりとか、そもそも地方の人間が地方の言葉で何かをつくること・つくっていくことが「想像されない・透明化されている」。 「ここに生まれて・ここで生きて・ここでつくっていく」そうして「それを糧に生活していく」。今年はそれに対して「一歩進む」がたくさんあって、気づいたら思いもよらない遠いところにまで行けそうな予感もある。 書くこと、書き続けること、本をつくることを諦めなくてよかった・報われたという年だった。 来年つくることが決まっている本は、コウノトリの幻想小説だ。タイトルを「悠久のまぎわへ渡り、」とすることに決めた。 コウノトリと言えば、赤ちゃんを運んでくる(のはヨーロッパコウノトリで厳密には日本のコウノトリではないのだけれど)というイメージが強い。わたしはこの目でコウノトリを何度か見る機会にめぐまれているが、それはまだつがいを見つけていない(つがいをさがす旅をしている)個体だ。ひとりでだれともパートナーシップを結ばずにいきようと決めている人間なのに、田んぼでタニシをつついているところをみると「孤独ではないのか」と思い、またその個体数の少なさから繁殖を望んでしまう。人間のその自然へ対するまなざしの一方的さへの疑問は、『幻想生物保護官日記』を書いているときから持っているものなんだろう。いままで出会った鳥たちのことをあわせて、コウノトリという鳥をまなざす視線そのものの角度をずらせる物語を作るつもりである。
読書のこと 毎年一年で100冊以上本を読んでいるのだが、今年は100冊を超えそうにない。というのも、本を読んでいるよりも鳥を撮っている時間が長くて(小説のときもそうなんだけど)本を読む時間を減らしていた。 ものを作っていると、インプットと言えば「創作物を鑑賞すること」(小説だと)「本(小説)を読むこと」を指すように錯覚をしてしまうが、鳥を探すことも、慣れないカメラの操作をすることも、登山をすることも(木曽駒ヶ岳に登山してしまった!)、車中泊をすることも、すべてがインプットじゃないのかと最近は思っている。 とくにわたしはネイチャーライティングという表現技法を目指しているので、自然界での経験を積むことは、そのまま小説を書くことのインプットでもあると思う。 今年読んで印象に残っている本 『光や風にさえ』(八束) 『やたらめんどくさい同居人の件』(KaL) 『片喰と黄金』(北野詠一) 『平家物語 犬王の巻』(古川日出男) 『美徳と悪徳を知る紳士のためのガイドブック』(マッケンジー・リー) 『複眼人』(呉明益) 『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』(ジェレミー・マーサー) 『極北の動物誌』(ウィリアム・プルーイット) なかでも、『光や風にさえ』、『片喰と黄金』、『美徳と悪徳を知る紳士のためのガイドブック』には、「このような表現をわたしもしたい」と思える力をもらった。人生の岐点になるような本だと思う。 そして、印象深かったのは、二十年ほどのときを経て、『指輪物語』を読み返したこと。ギムリとレゴラスの友情にはあいかわらずどきどきしたけれど、ピピンとガンダルフってこんなに仲よかったの?!とかナズグルさま……とか、大人になってからの再発見がたくさんあった。大人になって読むと、三浦しをんが指摘した「男ばかりの旅の仲」という言葉が刺さる。わたしはアルウェンやエオウィンになりたかったんじゃないんだよな……指輪の仲間になりたかったんだ、と思う。 そろそろ、女というもの、それから、民族というものを乗り越えたファンタジーが書かれる時代が来てほしいと思う。これは、『指輪物語』という優れたファンタジーを苗床に生まれるものだろうと思っているけれど。読む行為は、いつでも「次」を臨める、求められる。 そして、臨まれ、求められるものを「書く」ことだって、わたしにはできる可能性がある。 書き続けることと、読み続けることを、これからも諦めずに生きたい。
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quiye · 11 months
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チケット敗北戦
ちょっと PC で調べ物をして、マウンテンブレンドという名前のコーヒー豆を挽いて淹れ、バナナの蒸しパンを食べた。それ以外は、坂本慎太郎とコーネリアスのライブのチケットの応募をしたくらいの午前中だった。
坂本慎太郎は以前一回だけ恵比寿でライブを観たことがあり、その時はゆらゆら帝国ではなくソロアルバムの曲を演奏していたのだが、ライブアレンジが絶妙で、ジャジーでエロスな雰囲気が出ていた。ソロの曲の、ただそこにある異物のような感じがすっとなくなり、じんと染み入る味わいの音楽になっていて凄いもの聴いたと思った記憶がある。
去年出たアルバムもアレンジでまた違う聴こえ方になるだろうと思って、観に行きたいと思ったのだった。あとコーネリアスも最近は普通に聴いているので得だと思った。
で、発売開始が 10:00 でそのタイミングを 5 分程度前から待ち伏せし、発売丁度にアクセスしたが、サイトがサーバーエラーの挙動になり購入に進めなくなった。リロードしたら売り切れていた。
今回は先行抽選が事前にあり、その残りの券を販売するようだったので、枚数が少なく限られた人しかチケットを手に入れられないようだった。
不安定なネット回線で申し込んだとか、クレカの情報確認で戸惑ったとかそういう反省点はあるが、まあそこが上手にできていたとしても自動購入の bot や運が強い人には勝てないので、あまり気にしても仕方がないし気にしない。
この経験を次に生かせればいいと思うが、最近あまりライブに行っていないので次のときにはまた忘れてしまっているのだと思う。
チケットが取れない時には、自分はあまりライブを観ることに魅力を感じていないのではないか?と考えたりする。
立ち続けて演奏や歌を聴かなければいけないこと、混んでいるライブであれば自��に移動ができな��こと、自分の前にいる人の身長によってはステージが見えないこと、音量調節ができないこと(これは耳栓を使えば多少調整できる)、ロッカーに荷物を置けるかわからないところ、演者と観覧者が身内ばかりのときに場違いなところに来てしまったと感じること、などがある。なんか思い出すとチケットのもぎりの人の態度もたいてい悪かった気がする。
あーでもライブアレンジ聴きたい。ライブアルバムが聴きたい。
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うちの冷蔵庫の中には切らしてはいけない食材のコーナーがあるが、そこの食材がかなり減ってきたので、午後に買い出しに行った。
自分はどのスーパーでもたいてい良いところを見つけることができるのであまり店を選ばないのだが、今日は他にも買いたいものがあったのでショッピングモールに行って全てを揃えてしまうことにした。
事前に買う荷物が多いことが予想される場合、徒歩や自転車よりスクーターで向かう方がよい。スクーターには荷室が 2 つ+袋を吊り下げるフックがあるので木材とか扇風機を買わない限り大抵のものは積み込むことができる。
途中、初めて通る道の先に信号のない丁字路があり、目的地に向かうには半分渋滞になっているそこを右折で合流する必要が出た。こんな時、どのタイミングで入ればいいのだろうか?
あまりわからないが、今回は一瞬渋滞が途切れたのでそこに割り込ませてもらった。無理やりファスナー合流のように入れてもらうのが一般的なのか?とも考えた。
ショッピングモールまで距離は遠くないのですぐ着いた。
中に入っているカインズというホームセンターで布団の敷きパッドと枕パッドを購入した。通年で使いたいので冷感ではないものにした。
カインズには家で使う多種多様なアイテムが陳列されていて、歩いて眺めるだけで家の質を向上させるアイデアを沢山補充できそうだった。しかし買い物の前半からそんなことをしていたら体力が持たないと思ったのでやめた。
ビニール手袋を買うために上階にある 100 円ショップに向かった。予定には入っていなかったバターのケースとカカオのパンも買ってしまった。100 円ショップにパンが置いてあると意外で面白くついつい買ってしまう。
この店舗に隣接してゲームセンターがあり、このあたりがモールの中で最も混んでいたと思われる。
個人的には不快に思うレベルの混雑だったが、これを不快に思わない人が多ければこれがスタンダードになり、逆に混雑せず快適に過ごせる店は面積を広げた費用の分が価格に転嫁されるようになるだろう、と当然のことを考えていた。
最後に 1F のスーパーで食材を補充した。
自分には家に常に備えておきたいものとして食パン、牛乳、ヨーグルト、卵、バター、チーズ、豆腐、ハチミツなどがあるが、昼の時点でこのうち半分程度を食べきってしまっていた。なのでこれらの補充を行い、さらにグラノーラ、トマト、ジャガイモ、冷凍しめじ、冷凍ほうれん草、バターレーズンパン、豚肉切り落とし、焼売、ちくわ、きゅうり、キウイ、サラダ、エナジーゼリー、サバの煮物、インスタントコーヒー、イタリアンパセリ、ウインナーをカートに入れ、5000 円を超える会計を iD で支払った。
レジに向かうために通り過ぎただけのお菓子のレーンで「明日はうちで映画祭りだから」と話していた家族のことを妙に憶えている。雨の中の暗い部屋でテレビ画面にうつる映画を眺める一家のことを想像した。
この店のバイク駐輪場は排気量 125cc までのバイクしか駐車できないと書いてあったので、面倒だと思いながらも車の駐車場に移動してスクーターを停めたのだが、これが最新式の駐車場で、駐車券がなく、入庫と出庫の際にナンバープレートをカメラで読み取って、それを使って支払い確認を行う仕組みになっているものだった。
買い物袋3つの取っ手を手の内側に食い込ませながら、出庫の手続きのために支払い機のタッチパネルを操作し、スクーターのナンバーを照合するが、車体前面のナンバープレートを読んで管理しているらしく、前面にナンバーがない自分のスクーターは画面に表れなかった。管理外になっているようだった。
そのため、係員に出庫方法を聞いたり、管理会社のコールセンターに電話したのだが、結局次から気を付けてくれとのことを言われただけで出ることができた。帰宅後に調べたら、実は反対側の入り口から入れば大排気量のバイクも停車できるスペースがあったことが今更わかった。
どうすればいいかよくわからないことがあった時には疲れる。しかもあまり考えずに選んだ帰り道が一方通行で、思ったように家に向かえなかった。駅前のその道は慢性渋滞のようなありさまで、なかなか抜けられなかった。
途中で図書館が経路上にあることがわかったので、寄って予約していた小説を回収することにした。
ガラガラの駐輪場にスクーターをサッと停めてハンドルにロックをする。ヘルメットを手に持ったまま本を借りて図書館を出たタイミングで閉館のお知らせが放送された。
あまり気にしていなかったが、あと少し遅かったら本を借りることにすら失敗していたらしい。
今回はちょうど放送があって自分がラッキーだったことに気づけたが、もう 1 分早く出ていたらそれもなかったのだろうと思った。
ツイていること、ツイていないことは無数にあるものの、そのうち自分が把握できているものはそのうちのごく僅かなのだろうと思った。バイクに乗るために防寒対策をしなければいけない季節は過ぎていて、サンダルに素手の恰好でそのまま乗れているという幸運も忘れていた。
別にそれがいいとか悪いとか、そういうことを今考えてはいない。
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ari0921 · 1 year
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異常な人事が示す習氏のプーチン化
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         櫻井よしこ
10月22日に閉幕した中国共産党大会、その直後に開かれた中央委員会第1回総会(1中総会)で決定された人事は習近平国家主席が絶対的権力を確立したことを示していた。但し、一見堅固に思える習氏の権力基盤には、一枚皮をめくると権力の崩壊につながりかねない不穏な要素も少なくない。
大会冒頭の政治演説で注目を浴びたのは全分野にわたる習氏の強硬路線だった。とりわけ台湾問題では強気ぶりが突出していた。「祖国の完全統一が中国共産党の確固不動の歴史的任務」だとし、統一のためには「決して武力行使の放棄を約束せず、あらゆる必要な措置をとるという選択肢を残す」と宣言した。党大会の政治宣言で台湾併合のために武力行使もあり得るとしたのは初めてだ。
習氏以外の党政治局常務委員6名と中央軍事委員会委員6名は習氏の側近とイエスマンで固められ、「習独裁体制の完成」を印象づけた。これを産経新聞台北支局長の矢板明夫氏は「異様な人事」と呼び、次のように語った(「言論テレビ」10月28日)。
「岸田文雄首相が岸田内閣全員を岸田派で固めるようなものです。他派閥から強い不満が噴出するのは当然のこと。それを習近平氏は力で押さえつけて断行したのです」
中国共産党の権力闘争の一端が世界の報道カメラに晒された。今年80歳になる前国家主席、胡錦濤氏が習氏に苦言を呈そうとしたのだ。胡氏は周知のように人民大会堂の晴れがましい舞台から連れ出されてしまったが、この突発事故を理解するには大会最終日の日程に沿って見ていく必要があると、矢板氏は語る。
「閉幕日の10月22日、午前9時から非公開で中央委員205人の選挙が行われました。中国は常務委員7人の下に政治局員が25人、その下に中央委員205人がいます。205人の選出は、共産党大会の参加者約2300人が222人の名簿から17人を外す、つまり17人に×印をつける形で行います。それを集計した新中央委員の名簿が赤いファイルに入れられ大会参加者の手元に配られた。この時点で海外メディアも含めて全メディアが人民大会堂に入った。丁度11時です」
習氏の大失態
世界中の報道カメラが待ち構えたところで、突如胡錦濤氏の行動が開始されたというのだ。
「11時13分です。胡氏は自分の手元の赤いファイルを開こうとしてそれを取り上げられました。次に右隣りの習近平氏の赤いファイルに手を伸ばしたら、なんと習氏が指で押さえて渡さないようにしたのです。その後、胡氏は連れ出されたわけですが、一連の動作がくっきりと映像に残って世界に拡散されたのです」
胡氏は習氏に抗議したかったのだと思われる。自分が権力を委譲した10年前から、習氏は中国共産党の基本的な統治哲学に反して個人崇拝を強いた。自分が引き立てた中国共産党青年団(共青団)出身の李克強首相や汪洋全国政治協商会議主席らは新体制の要職から全て外された。何故なのかなど、不満は山積だったろう。
これが22日、共産党大会閉幕日に起きた大事件だった。矢板氏はこの異常事態がさらなる仰天人事を引き起こしたと見る。大会閉幕日の翌日、1中総会で新体制の人事が発表されたが、文字どおり、世界は驚いた。そのひとつは李強氏という、中央政界での勤務経験が全くない人物が序列2位に大抜擢されていたことだ。完全なるイエスマンの電撃出世だった。出世があれば失脚もある。次期国家主席の候補者とさえいわれた胡春華副首相は政治局員からも外れていた。
「政治局は本来25人の政治局員で構成されますが、今回24人でした。あり得ない数字です。決をとるときに同数になり決まらない可能性を考えて、中国の委員会の人数は全て奇数です。常務委員会も中央軍事委員会も7人です。ところが政治局員は24人でした。胡錦濤氏の側近中の側近の胡春華氏を、胡錦濤氏の一件で、怒り狂った習氏が急遽、外したのではないか」
だとすると、政治局という重要な組織の人事は、胡春華氏排斥で埋め合わせの人物の調整もつかないまま、見切り発車したということだ。中国共産党内部の権力闘争が世界に曝露された。習氏の大失態だ。
習氏の怒りは、しかし、胡春華氏排除にとどまらない。中国共産党機関誌「求是」から、胡錦濤氏の論文の全てが一夜にして削除されたのだ。習氏にとって胡氏はその全てを消してしまいたいほど憎むべき存在になったわけだ。新たな粛清の嵐の前兆か。
習氏の人事の異常さは中央軍事委員会に関しても同様だ。習氏は台湾への武力行使に関して「放棄を約束しない」、つまり「あり得る」と語ったが、軍事委員会の顔ぶれから感じとれるのは台湾侵攻に意欲満々の野蛮な空気だ。
判断を間違う危険性
中央軍事委員会は習氏が主席をつとめ、その下に2人の副主席がついている。その1人、張又侠氏は72歳で、中国式人事の法則では引退する年だが、筆頭副主席として残った。「張氏は70年代末、中国がベトナムに攻め入ったとき、下級将校として前線で戦いました。また彼は後年、総装備部のトップになりました。台湾に侵略戦争をかけるとき、実戦の経験があり、装備にも詳しい軍人をトップに置きたいと、習氏は考えているのでしょう」と、矢板氏。
もう一方の軍副主席は何衛��という人物だ。18歳で入隊し、以来台湾の対岸にある福建省で対台湾前線に張りついてきた。台湾併合こそが中国の取るべき唯一の台湾政策だと信ずる勢力の筆頭である。
もう1人、李尚福・装備発展部長にも注目したい。次期国防大臣と目されているこの人物は、トランプ政権下で制裁対象とされた。アメリカには入国できない。制裁を受けている人物を中央軍事委員会の要職につけるのは、習氏の側に米国と台湾問題で交渉する気がないことを示すのではないか。
政権を側近ばかりで固め、反対意見を述べる人物を排除した習氏に、全体を見た正しい情報は入るのだろうか。習氏の聞きたい偏った情報しか入らないとしたら、プーチン氏と同じく、判断を間違う危険性が高まる。冷静な情勢分析が必要ないま、習政権の第三期人事から見えてくるのは、台湾侵攻の意志が以前よりかなり強くなっており、状況の読み違えで侵略戦争に踏み切りかねないということだ。
ロシアをジュニアパートナーとして従え、ユーラシア大陸で力をつけ続ける習近平氏の中国は、台湾のみならず、わが国にとっても最大の脅威だ。私たちは中国に対して、これまでにない強い抑止力を構築し、決して中国に誤解させないことが大事だ。それには米国の考えや戦略を正確に読みとり、日本の軍事力を強化し、国防意識を高めることだ。
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79nihs · 1 year
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日記 / 5.7 / 写真を再び
どうもここ数ヶ月、写真が撮れなかった。半年前から撮っている写真のシリーズについてのことだ。製本ワークショップに参加して製本してみて、一度立ち止まって俯瞰的に見てみようと試みたが、これがまさかの急ブレーキとなってしまった。本の形になった高揚感に浸りつつ、「足りない」こと探し、粗探しを繰り返した結果、撮影を始めたときに抱いていた前のめりな感覚を忘れてしまっていたように感じていた。
京都国際写真祭でそれに拍車がかかった。凄みのある作品を三日三晩浴び続けることで、着眼点や撮影の技量、熱量、我が事とする力強さ、数え切れないポイントと比較ばかりして苦しくなってしまっていた。正直、息ができていない状態に陥っていた。1年前は「制作」をしていなかったから、どの作品も憧れのような対象だった。尊敬する写真家の自宅に訪ねて相談させてもらったり、他の写真家の方には、勤務中に彼の働く会社まで足を運んで助言を請うたりした。ようやく、自分なりの視点を持って撮影してこれたのではと、思った今年のはず…と思っていたのだが、違った。「作品をつくるようになった若い人」(と言われるようになった)は、先人たちから厳しいレビューを受け、落ち込んでしまったのだ。この落ち込みを誰かに解消してもらうことなんてできないし、親しい友人に話しても、結局情けをかけてもらいたいという気持ちから始まってしまうわけで、健全ではなかった。
先週には、撮影をお願いしていた方と長い時間お茶をして撮影に望んだが、正直に伝えた。「今は撮れるような状況ではない」と。相手からも、見透かされたような気がして、ブローニーフィルム一本を撮り切ることだけにしか集中できなかった。つまり被写体との対話ができていたとは言い難い。きょう、現像から上がってきた写真たちは、それなりに撮れているのだが、撮ったときの感情をまだ記憶しているので素直に見ることができないことで思い知らされた。現像があがるまでの高揚感、ポジティブな気持ちを抱いていなかったことに気づいた。
ここまでネガティブなことばかり書き連ねているのだが、ようやくトンネルを抜け出せそうな感覚をきょうは覚えた。一日を振り返りながら、いろいろ考えてみようと思ったからきょうは書こうと思う。
まずは、久々に早朝に起床できたことに始まる。朝マックに足を運び、エッグソーセージマフィンのセットを食し、スイッチを入れる。朝ごはんを食べると血糖値が高まり、血の巡りを感じる。ファストフードとはいえ、気持ちが前向きになったようだった。その勢いで、都内の展示へ。本当は丸木美術館に行きたかったが、せっかく晴れている日、2時間も電車に乗るのがもったいないと思い、終了日前日なのに諦めた。
昨日、WHOがコロナ緊急事態宣言の終了を発表。週明けにはコロナが第5類に移行する。パンデミック下に置かれていた日常は、ようやく活気づいてきたことを武蔵小杉から乗り換えた行楽日の総武線快速で感じた。先月行った京都も、外国人観光客が戻ってきて、マスクをしている人がほとんどみなかったので、不思議ではないのだが、東京にもコロナ前の日常が戻りつつあった。そんなことを思いながら、上野に着くとすごい人だった。動物園に並ぶ人々の姿も見えた。美術館前で記念撮影をする人。にぎやかな声が聞こえてくるから、自然と触発される。
向かったのは東京芸術大学陳列館。「解/拆邊界 亞際木刻版畫實踐」(脱境界:インターアジアの木版画実践)(※)を見るためだった。初夏の日差しに浴びる青々とした葉をつけた木々が陰をつくる上野公園がこんなに気持ち良いとは思わなかった。陳列館の2階は、天窓から優しい日光が注ぎ込み、版画がすられたキャンバスや布がゆらゆらとしていた。版画は力強かった。日本、韓国、中国、香港、台湾、フィリピン、インドネシアのアーティストの作品をゆっくり何周もしながらみる。印象的だったのは、タイトルの通り、ボーダーを越えていくことの希望だ。
點印社(香港)の「私たちは輪になって食べる、刷る」は横長の大きな版画。テーブルでご飯を食べる様子を描いているのだが、そこに描かれているのは、人間だけでなく、シャチや、犬など動物もいる。コロナ禍によって幾多の国境が閉ざされた世界で、異なる国籍や民族やルーツ、バックグラウンドを持つ人々の間に境界線が引かれるようになったことを忘れてはいけない。そんな時代だからこそ、他者との時間を共有することを肯定し続ける力強さを感じた。登場する人々や、動物の表情は笑顔で豊かで、美しかった。決して丁寧に、きれいにつくられたわけではないけれど、その雑然さを版画で刻む描くことの尊さを感じた。
韓国のキム・オクさんが制作した7枚の版画からは、いつか未来で消える朝鮮半島の南北の境界線を想像させた。30年以上に渡り、朝鮮半島南部をくまなく歩き、フィールドワークしてきたというキムさん。農���地帯など韓国の原風景が描かれた7枚は、南北統一という先に続きがうまれるはずだという期待を抱かせ、そしていまだ解決しない南北問題について、極東の島国にいる自分をハッとさせた。
何よりエンパワーメントされた。この展示の作家の多くが社会運動に参画し、運動を活性化させたり、アジテーションを強化するという目的を持ったりしながら制作しているということを掲示されているテキストで知る。政治的抑圧に抵抗する。それは大きな主語を語りがちのように感じられるが、版画を刷るということによって我が事として捉える身体性が一層増していくように感じた。何より、作家自ら社会に対して、異議申し立てをするまでのプロセスを、自らの生活実践の場において果たそうとする姿勢が感じられた。だからこそ、「私たちは輪になって食べる、刷る」のカラフルな描き方に心が揺さぶられたのだろう。
何より、描いて、版を作り、刷るという繰り返しを諦めない。その先に、社会的に生じている苦しさから解放されるように思えた。新聞記者として多くの時間を、社会的課題について考えようとしながら、当事者性があるかどうかなど悩み、写真撮影においても強度があるかないかなど気にしていた自分にとって、今までの悩みがちっぽけに思えたし、何よりそうだ、自分が言いたいことを言えばいいんだと思えた展示だった。
彫り続ける作家たちの姿勢に刺激をもらい、浅草に移動してから入ったタリーズで本を開いた。坂口恭平の「継続するコツ」だ。数ヶ月前に綴方で購入したまま開いていなかったが、効果てきめんだった。「才能という言葉」の呪いにかけられたように、他者の作品を羨望の眼差しで見ていた。そして、撮影ができない状態に陥っていたけれど、それは「比較が始まり、否定が始まり、手が止まる」という項で正体が書かれていた。ある程度、自分がやりたいことを続けていくと「慣れ」が生じるというのだ。「慣れ」。なるほど。確かに、慣れてきた。こうして撮っていけばいいのだ。こう進めていけばいいのだという実感は、いつしか、「見る人に伝えるには○○が足りない」と完成度ばかり気にすることに変わっていたからだ。
製本して、足りないことが見えて、評価を受ける作家のアーティストブックやダミーブックに圧倒され、到底その領域に達していないのにと自分を卑下して、比較をし続けていたなと気付かされた。なんか自分が馬鹿らしくなった。撮っていく。それだけでまずは十分じゃないか。当初抱いていた撮りたい写真への気持ちは、いろんな人の助言や苦言や励ましで少しずつ変容したりしているけど、自分の撮りたいという気持ちに正直になれるのは自分しかいないわけなんだから。
そうだ。去年の7月、アレック・ソスに「SLEEPING BY MISSISSIPPI」にサインを入れてもらったとき、メッセージをお願いして書いてもらった言葉を思い出した。「Don't ever forget the feeling when you first piched up a camera」。そうだよね。初心忘れずって言うよね。いま撮っているカメラは別に「First」じゃないけれど、このカメラで撮っていくぞって嬉々としていたときのことを思い出した。小さな1Kで、千尋からも「買ってよかったね」なんて言われて、ファインダーを覗いて初めて装填したネガフィルムに彼女を焼き付けたんだっけ。うまく扱えず、フォーカスと露出を決めるのに時間がかかって切ったシャッターによって写し取られた千尋のふと力の抜けた表情が自分は好きだったんだなと。あの感覚があったから、静かに被写体となる他者に正対する感覚を今でも大事にしているのかもしれない。
そんなことを思いながら、ベトナムの写真作家たちのダミーブック展をあとにしたあと、ブローニーを装填した。ゴールデンタイムの日差しが当たる街にカメラを向けてシャッターを数枚着る。隅田川に沿って歩いていくと、ふと人を撮りたいなという気持ちが湧いた。
ふと、目が止まった。若い男女が微動だにせず、静かに抱き合っている姿に見とれてしまった。高校生か、大学生かな、と思い、声をかけさせてもらった。こうやって街にいる人に声をかけて撮りたいって伝えるの久々だな。心のなかで自分に語りかけていた。それに、やっぱり最初は緊張する。「ティックトックですか?」と聞かれたけど、「いえ違いますよ」という。最近、インスタやYou Tubeのショート動画で確かに「ストリートスナップ撮っているんですけど」という動画が流れてくるなと思い出した。それのおかげなのかな。恥ずかしがっていた彼らは、少し悩むそぶりを見せてくれたけれど快諾してくれた。撮らせてもらえる。高揚感が全身に走った。
マキナで露出を決め、フォーカスを固める。透明の四角いファインダーの向こうで、静かに佇む二人に引き込まれる。女性は恥ずかしいからマスクをしたままだったけれど、風になびく黒髪の隙間から見える青いカラーコンタクトをつけた瞳から向けられる視線が、まっすぐ力強く凛としていた。男性の方も、無表情ながら芯の強さを感じさせていた。
撮影後に聞くと、二人は15歳の高校1年生。男性はぼくの父とおなじ江戸川区で生まれ育ったという。在日朝鮮人の母を持ち、インスタグラムには日本と韓国の国旗アイコンを掲げる。聞きづらかったけれど在日コリアンかどうかを聞いてしまったが、「そうですよ」とさらりと答える。僕がこれまで川崎で取材をしてきたことなども伝えると、親しげな感じを見せてくれた。そして、なにより自分のルーツに誇りを持っているようだった。スケートボードが好きで、スケートボードが「バ先」だといって、店長のインスタグラムアカウントを見せてくれた。女の子はシャイだ。ファインダーの奥に見たあの視線の強さとは相反するのか、不思議だった。
街で声をかけ写真を撮る。撮影時間を入れても、賞味10分ほどしかなかったかもしれない。写真はSHOOTだ。池澤夏樹によると、「Shoot」は銃撃か撮影でしか使わない。だから、若い彼らをカメラの前に立たせる行為というのは、主従関係が生じ、抑圧・被抑圧の関係性が生まれることにほかならない。それでも、撮影を許容してもらうために、僕は彼らに誠意を伝えようとする。そして彼らも受け入れるために覚悟をする(覚悟を強いている可能性も忘れてはいけない)。そのわずかな時間でも、僕と彼ら彼女の間に一定の緊張感が生まれ、正対することによって他者を信じ切るしかないのだ。嘘偽りがないとは言い切れない。それでも、1/500秒という膨大な時間軸における一瞬、フィルムに焼き付ける行為そのものが、僕がこの社会に接点を築いていくことに必要なプロセスなのだと言い聞かせるには十分なんだ。そのことを、二人との出会いによって改めて認識させられた。
これが、明るい兆しだ。写真を諦めなくてよかったと思えた撮影だった。写真を撮ることでしか、僕は社会を知るすべがないことも知っている。それが、なにか明確なメッセージや、スローガンがなくても、そこに写し込まれた人々の姿によって、この社会の輪郭が際立ち、描かれていくことを信じたいから撮っている。僕にとって人を撮ること、正対してポートレートを撮ることとは、その決意表明みたいなものなのだ。沈みかけていた気持ちが、ようやく前を向き始めた。
※参考)近年、アジア各地で木版画による芸術・文化実践が再び注目を集めています。20世紀初頭の中国で魯迅によって始まった近代木版画運動は、民衆自身が社会や現実を表現する運動/方法としてアジア各地に伝播しましたが、20世紀後半になると社会構造やメディア環境の変化により下火となっていきました。しかし、2000年代から2010年代にかけてアジアの芸術家や社会活動家たちの一部は木版画を通じて社会や政治の問題を表現し、文化的直接行動や集団的創造の実験、さらには国境を越えた交流・ネットワークを生み出してきました。 本展は《「解/拆邊界 亞際木刻版畫實踐」(脱境界:インターアジアの木版画実践)》と題し、アジア各地から12の作家・活動団体による木版画を紹介します。とりわけ2020年に始まったパンデミックでは、人やモノの移動を一元的に管理する国境の問題や、差別や排外主義などの社会的、心理的な排除や断絶の問題を現前化させました。本展はわたしたちの生きる世界や社会に張り巡らされた「境界」を改めて主題化し、これらの境界からの離脱・解体を志向するトランスナショナルなアジアの木版画実践とそのネットワークについて紹介します。同時に、コロナ期に各地で制作された木版画を比較することで「アジア」という地理的/政治的概念への批判的認識と、さらなる理解・議論の可能性を開くことを目指しています。
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memory-of-hiroshima · 2 years
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77回目の8月6日が来ました。 あの日、そしてその後の“ヒロシマ”を知ってもらうことが、核兵器廃絶への道につながることを信じたいのです。 2年前に書いた文章ですが、読んでいただければ嬉しいです。
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胎内被爆者の綴り方
<はじめに>  長い間、私は不特定多数の人に被爆体験を語ることにとまどいを覚えておりました。胎内被曝のため、実際に被爆の被害・惨状を見たわけでもなく、肉親を失ったわけでもなく、私自身もこの年齢まで生きてこれた幸運もあり、大きな嘆きの人々に比べれば語る資格がないと思っていました。  しかし、ここ数年、特に日本政府は広島・長崎の被害の事実をなかったものかのように動き始め、核兵器禁止条約に対しても、日本の代表とは思えぬ動きで、私は不安でたまりません。  今まで、生協の平和行進や集会、そして募金に参加したことがあるくらいで、平和や反核に対する運動をほとんどしていません。平和公園での座り込み運動にも、心をよせてはいても、ただの傍観者でした。私が育った戦後、ついこの間までは多くの活動をする人がいて、私も黙っていてもよかったのです。ただ被爆者の会も高齢化で消滅解散する中で、何かしなければならないのではと思い始めていました。  そんな時、オーラルヒストリーを研究しておられる元TBSアナウンサーの久保田智子さんの講演を聞く機会がありました。私が記憶を語るとしたら客観的事実ではないかもという懸念をもっていたのですが、久保田さんは「その人が感じ考え思ったことをいっしょに述べること、主観的事実でいい」と言われました。「複雑でいい、矛盾していい、個人的なものを社会的なものに関連づけて解釈するのだ」と。これは私を勇気づけました。  また、ピラミッドの一番上に直接被爆者がいて、その下にいろいろな人が階層的に存在し、それぞれに思うこと感じ考えることがある、それも大切だと。「ああ私の位置はヒエラルキーの二番目だ、それでも語っていいのだ」と強く励まされました。  それから1ヵ月後、ニューヨークの2020年NPT(核兵器不拡散条約)会議に広島生協の代表として行くことになった友人が、胎内被爆者の会が証言集を出す予定であることを教えてくれました。思い迷った末に、証言集に応募するしないにかかわらず、記憶がうすれる前に一度整理してみようかなとの思いに至りました。
<8月6日>  1946年1月24日生まれの私は、1945年8月6日原爆の炸裂したあの日、母の胎内にいました。予定より早く生まれたと聞いていますから、妊娠4ヵ月位ではなかったでしょうか。悪阻が激しく空襲警報がなっても「このまま死んでもいいから」と逃げるのが億劫だと言っていた母は、朝の洗たくものを干すため両手をあげた時、原爆の光を浴びたといいます。あっと思った時は、胸と腕に火傷をしたようですが、幸いにも「天ぷら油をぬったらいい」と教えてもらい、ケロイドにならずにすみました。借家だった家の前はごぼう畑が広がり、己斐駅がすぐ目の前に見渡せました。光線をさえぎるものは何もありません。爆心地から2.5kmとS42年(1967年)2月18日取得の被爆者手帳にはしるされています。  その時父は観音町の三菱重工の工場、爆心地から4kmの所で被爆。父がどのルートでどのように己斐まで帰ってきたのか全く知りません。9月に4才になる姉は、家の中の布団で寝ており、布団ごと部屋の端から端まで飛ばされていました。壁が少し崩れたくらいで、家は倒れずにすみ、姉も無事でした。  これらの話を父や母から直接聞いたという記憶はなく、どこでどのように知ったのでしょう。母が黒い雨にうたれ、髪の毛が抜け寝こんだこともどうして知ったのでしょう。それには一つの類推があります。
<近所の人々との思い出>  私が小学校低学年の頃住んでいた家はやはり己斐ですが、被爆した時とは違う近くの家です。家の前にも横にも40cm位の側溝に水が流れ、夏には青い露草の花が咲き蛍もとんでいました。暑い暑い8月6日の前後には、近所の人々が涼を求めて集まり、石垣に座って思い思いに語ります。クーラーも無い時代、手にはうちわがあります。冷蔵庫も氷で冷やす木の冷蔵庫です。家には西瓜が待っており、私たち子供は浴衣を着て、大人のまわりをうろちょろしています。そんな時大人の話が聞こえるともなく聞こえるのです。 「ようけえ逃げてきたのお」「おう、水あげりゃあえかったのう、どうせ死ぬんじゃったらのお」「Tさんの家は壊れたらしいのぉ」「下敷きになって男ん子が死んだんよ」「Nさんの奥さんは今年も日傘さして行きよっちゃったよ」「式典なんじゃろう。姉妹や親はえっとこ亡くなったって」  話が聞こえてくるうちにだんだん恐くなります。帰ってトイレに行くのも、夜寝るのも恐くなります。こんな会話の中で私の母の話も語られ、私が覚えたのだという気がします。  Nさんとは、私を実の娘と同じようにかわいがって、お風呂に入れて身体をごしごし洗ってくれたり、焼きリンゴを作ってごちそうしてくれたおばちゃんです。あの優しいおばちゃんが大きな悲しみを抱えておられたのに深く気づくのはずっと後です。このおばちゃんは小学生の女の子2人を残して腎臓病で、身体をパンパンにむくませて亡くなられました。きっと被爆の影響だったと今なら思いますが、当時小学生だった私は、おばちゃんの変わり様に恐ろしかっただけです。  あの夏の日々は、あらためて語り部と言わなくても、みんな思い思いに自然に語って、私たちに伝承されていたのだなあと改めて思います。
<己斐小学校でのこと>  伝承というと小学校の担任を1年から6年まで受け持ってもらったY先生のことが思われます。8月6日宝町の自宅から己斐小学校へ通勤した日のできごと。爆心地近くから相生橋、本川を通ってひたすら己斐へ歩く途中に見た被災の光景。川の中に浮かぶたくさんの人々、横たわる死者たち。その話を聞いた記憶がしっかり残っています。教壇に立って語る先生の息づかい。並ぶ生徒たちの机。写真のようにまぶたに残っています。先生はその日どのように自宅へ帰られたのでしょうか。全く知りません。Y先生はその後私たちが4年か5年生の頃、だから戦後10年くらいでしょうか、肝臓を悪くされ長く入院されたことがありました。きっとこれも原爆と関係があるに違いないと今は思います。  私の小学校は己斐小学校ですが、己斐はたくさんの被災者が流れ込んできて、小学校の校庭ではたくさん人を焼いたと言います。春秋に運動会があったのですが、グランド整理で土をならすと骨が出るというのをよく聞きました。私は直接拾ったことはないのですが恐くてたまりませんでした。それに春は校庭の桜が葉桜になる頃の運動会でしたから、毛虫がぞろぞろはい回ります。私は大の虫嫌い。二重に恐くて――。今と違って素足でかけっこですものね。
<ABCCの記憶>  私が唯一当事者として語れるのはABCC(現・放射線影響研究所)のことかもしれません。小学校低学年の時だったと思います。母と、あるいは近所の友と、そして級友と何回かABCCが近所まで迎えに来て出かけました。学校まで迎えに来たこともあります。黒塗りの大きなハイヤーが来るのですが、私はすぐ酔うので苦手です。行くと、全てがすんだあとクッキーやサンドイッチ、紅茶などをご馳走してくれるのです。異文化への興味や憧れのようなものがありました。けれども何しろアンパンやジャムパン育ちで偏食も多かった私は、なれないものを何とか口にし、帰りの車でまた気分が悪くなるのでした。  さて、ABCCの記憶で長く私が語れなかったことが一つ。検査に行くとズロース(パンツ)の上に白いスモックのようなものを1枚かぶるのですが、それを着てある部屋に一人連れて行かれます。大きな机、私には3m×4mぐらいにも思われましたが、その端に足をぶらんと下ろして、入口のドアに向かって不安そうに座っている自画像が脳裏に残って消えません。そして、立つように促されたのでしょうか。服を脱いでズロース1枚でテーブルに立ったと思うまもなく、大きな180cm位の白人男性がこれまた大きなカメラを抱えて10人近くどたどたと入って、テーブルの回りから、四方八方カメラのフラッシュをたきました。驚きと恥ずかしさと何があったかわからないのとで呆然としていたのでした。一番大きかったのはたぶん恥。何かいけないことのように思ったのでしょう。この話は帰りの母にも友にも誰にも話しませんでした。話せば自分一人の体験ではなかったことがわかったかもしれません。後に語れるようになり、友人夫妻にこの体験を話した時「つらい話をさせてしまった」と言われ、ああそうだったのかと納得したものです。映画のワンシーンのようなこの記憶は今後も決して消えることはないと思います。
<病気に思うこと>  私が生まれたのは、母の母・未亡人だった祖母のいた広島県北部の旧・山縣郡千代田町壬生です。大雪で2階の窓から出入りするような日だったということです。戦後の広島を避けてお産をしたのでしょう。私は乳を飲んでもすぐ吐き、胃の入口の調子が悪くて薬を飲んで治したといいますが、詳しいことはわかりません。その後10カ月位の時には百日咳の激しいのにかかり骨と皮になりました。母は父の実家の香川県高松市鬼無町にひきあげました。そこで祖父から「こんな子を連れて帰って」と非難されたことを相当うらめしく思ったようで、時々同じ話をしてくれました。父の家の事情もあり、結局両親と私たちはまた己斐に戻りました。  そこで成長して22才の大学卒業まで暮らすのですが、父も母も被爆者でしたが、特に母の身体が弱かった気がします。家事だけの人でしたが、一日中かかって掃除・洗たく・食事の支度をし、少し動くと休みながらという具合です。おまけに度の過ぎた清潔好きで、洗たくもハンカチを洗って次は上のもの、下着はその次、そのあとパンツ…といったくらいに丁寧でした。今思えば、それもこれも細菌におびえていた事情もあったかもしれません。私は母の身体の弱いのは偏食のせいと思っていましたが、ひょっとすると被爆の影響があったかもしれません。父は61才、母は57才で亡くなりました。二人とも脳内出血ですが、母は一度肺ガンということで、広島市のM病院で放射線治療を受けたこともあります。  私はよく熱を出し、決して強いとは言えず、身体も細く背も前から一・二・三を争うくらいのチビでした。それでも高校時代は皆勤賞をもらいました(授業中寝てばかりの子でしたが)。  それが結婚して1ヵ月ちょっとだったでしょうか。盲腸になり、夫も手術をしたこともあり夫の家族の中では名医と呼ばれていたN外科で手術をしました。なぜか2、3日眼が覚めず熱も出て、私が被爆者手帳で受診したからでしょうか、先生は慎重になられ結局1ヵ月入院しました。  また、二人目の子のお産の時、妊娠5ヵ月くらいから妊娠中毒症になりとうとう7ヵ月ころ入院。そして子供が9ヵ月に入った時母体がもたないということで早く生みました。お産がすめば蛋白尿がよくなるということでしたが、数値は4本プラスが2本プラスになっただけで入院がその後も続きました。家族を心配して泣き、食事もとれなくなり、そんな私を心配した先生が退院させてくれました。1年位かけて漢方薬をせんじて飲みながら治ることができました。この2回のトラブルで、人がスムーズ��できることが上手にできないのは被爆と関係があるのかなあと思ったりしました。これが被爆者共通の心理かもしれません。
<家族の中で>  私が被爆者であるということを夫に初めて言ったのがいつかは覚えていません。当時は手帳取得が結婚にさわるという風評もあり、姉などは「いらない」とすぐにはとらなかったような気がします。私はそんな思いもなく所持していたのですが、夫が戦争の責任とか社会のものの見方などで、私よりはるかに反戦の意識が強かったので何も心配ありませんでした。広島・長崎の式典中継でも私より深く正座してみるような人で、これは幸いでした。  家庭の中で被爆体験を話せたこと。それを淡々と聞いてくれる家族がいたことはうれしいことです。  初孫が5才のころでしょうか。我が家には「原爆の図」「ひろしまのピカ」「ピカドン」(いずれも丸木位里・俊作)や原爆ドームの本など夫が集めた本がたくさんあります。それら���持って帰るほど興味をもち、「原爆ドームに行きたい」と親にねだるほどの孫娘。ホロコースト記念館にも何回か行き、私たち夫婦にもアンネの部屋を丁寧に教えてくれ、「ああこの子は平和の担い手に」と期待をこめて見守っていました。なにしろ8月15日生まれですから。そしてその孫に、佐々木禎子さんについてまとめたダイジェスト版の本を夫は作りました。それを読んだ孫は「禎子さんちは散髪屋さんだったんだね」と。夫はその一言に苦笑していました。2、3年もすると興味を失った孫娘が、いつの日かまた興味と関心を持ってくれれば幸いです。  孫娘が小学校1年生くらいの夏に遊びに来て、寝物語に被爆体験の話をしたところ「おばあちゃん(生きてて)よかったね」と言われ、私ははっとしたのを覚えています。「生きてて申しわけない」という被爆者のことばがよく言われます。私に明確にあるのではありませんが、いくらか私にも長生きへの申しわけなさみたいなものがあります。でも「よかったね」というのはありがたくかみしめたいと今では思っています。
<最後に>  たまたま2020年3月15日付の中国新聞に、「被爆オリンピアン肉声現存・広島市出身36年出場故高田静雄氏」という見出しを見ました。その人は小学校時代の級友の父親です。また、米兵たちの被爆をほりおこし追悼してオバマ大統領にハグされた森重昭さんも級友のお兄さんです。佐々木禎子さんが白血病で亡くなられたころ入院した級友もいます。でも、私たちは戦後60年、還暦を迎えた同窓会でほんの少し被爆のことを話したことがあるくらいで、級友でも詳しいことはほとんど知りません。日々衰えていく記憶と、語りあう機会も減っていく中で、今回書き残してみたのはよかったように思います。記憶とは不思議なもので、自分流にゆがめているかもしれません。この主観的な記録がどのように伝えられていくのか少し楽しみです。長生きすれば「最後の被爆者」となる可能性もある人間の記録ですから。そのためにも両親からもっともっと話を聞いておきたかったです。
<さらに>  この原稿のパソコン入力を娘がひきうけてくれました。彼女は幼い頃、原爆資料館のろう人形母子を見ておびえましたが、私と平和行進に参加したことや、大会で「青い空は青いままで子どもらに伝えたい。燃える八月の朝…」と歌ったことは覚えています。8月6日の式典で峠三吉の詩を子供代表が語ったのに感動して、東京から電話をかけてきたこともあります。彼女には彼女のヒロシマとの歴史が作られているのですね。いろいろな形でヒロシマが伝承され続け、子や孫・その先まで、この愚かなことがくり返されぬように祈ります。私の胸を今でもゆさぶる歌「原爆許すまじ」を心に銘じて。
(2020年4月記/上村洋子)
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tanakadntt · 1 year
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三輪隊と出水の小説(二次創作)
【三輪隊+出水】ディズニーランドに行ってみた
「ディズニーに行ったことがない? マジで?」
三輪隊作戦室の和室である。本部の中でも和室がある作戦室はここしかない。今は、打ち合わせを兼ねたお茶の時間だ。
ナチュラルに馬鹿にされた気がして、三輪秀次はむっとして、言い返した。
「だって、遠いだろう?」
「三門からバスが出てんじゃん?」
米屋陽介である。
バスと言っても、夜行バスだ。夜を徹して走るそのバスに三輪は乗ったことはない。
夏休みの話だ。正確には夏休みのシフト申請の話だ。今年は、まとまって休みがとれるかもという話の延長上で、ディズニーランドに行きたいなどと米屋が言い出したのだ。個人ランク戦をやっていれば満足、という彼にしては珍しい発言である。
「えー、じゃあさ、章平はいったことある?」
「一応、ありますね。上の弟がスターウォーズが大好きなので」
「ちょっとまて、スターウォーズとミッキーとどう繋がるんだ」
「そこからかよ」
まあ混乱しますよね、と古寺章平に場を取りなすようになだめられても、ますます納得のいかない気持ちになる。
なんだ、ディズニーランド、全国民が行かねばならないのか。ミッキーに挨拶を義務付ける法律でもあるのか。
「俺も行ったことがないな」
奈良坂透が口をはさむ。
思わぬ方向からの援護だ。
「ほら見ろ」
「俺はスター・ツアーズがあるのは知ってるけど」
「スタ…?」
「奈良坂もかよ」
「玲がいるから、なんとなく行きそびれたな」
奈良坂の従兄妹である那須玲は体が弱い。ボーダーに入隊以前は、夏はほぼ外には出られなかったらしい。
「私は小さい頃に何回か行ったわね」
月見蓮は急須から三煎目を淹れながら、話を引き戻した。
「楽しいところよ。行ってみたら?」
「三輪隊現着ぅ」
「出水、現着ッ」
初めて乗った夜行バスは消灯してしまえば、すんなり眠れた。ステップを降りて、荷物を受け取る。朝日が眩しい。
あれよあれよという間に決まったディズニーランド行き。こんなに気軽に行けるのか。
最初に話が出た三輪隊に、米屋から話を聞いた出水公平が俺も行きたいと乗っかった。これ以上、誘うとシフト全体に影響が出そうだったので、先着順で出水までとした。組織はつらい。
三輪隊は元々、仲のよい部隊ではないつもりだ。隊の戦略があり、役割があり、そのために必要な実力があって成立している。こうして三門市以外に全員で出かけるのも、任務外は初めてかもしれない。
紅一点の月見はやんわりと断ってきた。今度、友人と行くことにしたらしい。
バスから降りて、人の流れが同じ方向に向かっていく。
「暑くなりそうだな」
「コンビニでおにぎり買って並んでる間に食べとくぞ」
出水が慣れている。出水は、家族でよく行くのだそうだ。米屋は三輪にマウントをとっておきながら、小学生以来だという。
「なあ、これ恥ずかしくないか」
「中に入れば普通だって」
三輪がさっきからソワソワしているのは、男子高校生五人の格好が白いシャツと黒のパンツ黒のスニーカーで揃えてあるからだ。ご丁寧にリュックも黒の指定だ。正直、バスにのるときも違和感ありまくりだったのだが、隊服と思えばいいじゃんと説得されたのだ。
さて、入場である。入場してすぐ、スマホアプリをいじっていた出水が大体の計画を立てている。
「ファストパスとったから、まず…」
「あの、もしかして、ボーダーのイズミさんですか?」
「え!?」
突然、高校生らしき女子に声をかけられて、出水は固まった。見知らぬ女子に声をかけられたこと、身バレしていること、この二つが彼を混乱させていた。
まずい。三輪も内心あせる。奈良坂が離れた途端にこれなのか。現在、奈良坂は古寺とともにポップコーンを買いに行かされている。イケメン圧力で、集団の第一印象を彼がかっさらっているうちはよかったが、実は出水は有名人である。
嵐山隊ほどではないが、ボーダーA級一位はメディアへの露出が多いのだ。何人かがスマホを構え始めた。ボーダー隊員の露出は根付がコントロールしている。もちろん、隊員と明かしたSNSは公式以外は禁止だし、個人でアカウントを持っていたとしても監視される。年頃の青少年を抱える組織にも関わらず、恐ろしいことにネットにおけるトラブルは今まで皆無である。根付は有能な男なのだ。
ある程度は仕方のないこととはいえ、囲まれてパシャパシャとシャッターを切られるのは面倒なことになりそうだった。
脇に控える米屋に一瞬目配せする。米屋もわかっている。出水の腕をひっつかんでダッシュしようとしたところに、空気が動いた。
「あ、ミッキー」
何人かが呆けたような声を出した。
夢の国の王様の登場である。グリーティングだ。反対方向からはパートナーであるミニーマウスもご登場である。
全方向に手をふる二人に、カメラと視線は向いていく。
そこに、
「ミッキーいるね」
それぞれ両手にポップコーンを入れた紙箱を持った奈良坂と古寺が帰ってきた。
「どう? 初ミッキー」
「…あいつ、スゴイな」
「は?」
「いや、マジで」
出水も同意見のようだった。
出水情報が拡散された様子はなかったが、念の為、変装とはいかないまでも、印象を変える目的で服を着替えることになった。
ワールドバザールで売っている派手なTシャツと派手なサングラスだ。変装になるのか甚だ疑問だったが、周りをみわたすに、この国ではこの服装が通常運転らしい。
「え、俺だけ?」
「いや。全員で買おう。そういうものなんだろう?」
「カチューシャも買おうぜ」
「暑そうだな」
「ヘアバンドもありますよ」
着替えてしまったあとは、もう、並んで乗って食べて歩いて、また並んで。
「換装体、ミッキーにするとよくね?」
「最強感あるよな」
「畏れ多いな」
「…三輪」
「頭が大���いから狙いやすいな」
「狙撃手コワ」
「著作権的に言うと難しいですね。コラボすれば別ですが」
「根付さん、太刀川隊だけやりそうじゃねえ?」
「うわ、やりそう」
モンスターインク・ハイドアンドシーク前である。
「…俺はやめておく」
「あー、わかる。目玉」
「ネイバーにしか見えない」
マイク・ワゾウスキを始め、目玉を強調したデザインのモンスターたちがトリオン兵に見えるのだ。
昼のパレードの時間だ。
バズ・ライトイヤーのアストロブラスターでレベル7をカンストした狙撃手二人は今はボソボソとミッキーの狙撃位置を相談している。
「やめろ」
「仮定ですよ、意外と射線が切られていて上手く作ってあるので、面白いです。でも、ほら救護所の屋根あたりからだと」
「狙撃手コワ」
シンデレラ城前で、奈良坂が那須に動画を送るという。約束らしい。
「玲、見てる?」
イケメンは石畳の上で、スマホを持ったまま、ぐるっと回ってみせた。三六〇度の景色が伝わったはずだ。
『とても素敵ね。今度は行ってみたいわ』
「案内できるようにしておくよ」
『あ、ごめんなさい、透くん。那須隊で行こうって約束しちゃって…』
「…そう」
日はもう沈んでいる。
「けっこう疲れたな」
米屋がそんなことをつぶやいた。当たり前だが、今日はトリオン体ではない。
「そうだな」
彼にしては今日はおしゃべりが少なかったように思う。
「やっぱり個人ランク戦のほうがよかっただろう」
「と思うじゃん? 」
それ以上は続けず、彼はニヤリとしただけだった。先ほどの夜のパレードで見たチェシャ猫のような笑い方だった。
ここは、何度か通る羽目になるシンデレラ城前の広場だ。あちこちに灯されたランプが眩しく、計算して創られたであろう配置が美しかった。
締めくくりはとにかく、お土産である。
月見ヘは当然、ボーダー幹部、太刀川隊面々、家族に他の部隊にスタッフと、送り出してくれた人々に感謝を。
古寺は、スターウォーズ関連を買いまくっている。弟ではなく、自分用ではないだろうか。
自分用か。
確かに、何か記念が欲しいかと考える。
「え?これ?」
「バスに持ち込めるのか?」
三輪は最後にミッキーの形をした風船を買った。
帰ってから、自分の部屋で手を離してみる。風船はふわりと浮き上がり、天井にくっついて、さらに上昇しようとする。その姿は、ちょうど朝、目が覚めると一番最初に目に入り、何日かの間、三輪に幸せな目覚めをもたらしたのだった。
終わり
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