言ノ葉ナイフ
その日はやけに暑くて、エアコンの効いた教室に居ないと倒れそうなほどだった。
幸いなことに今日の授業は体育も移動教室もなく、一日中この涼しい教室で過ごせる。
冷風を浴びながら、小学校や中学校にはエアコンが設置されていなかったのを思い出す。
高校生の俺は些細な事だが、それに対して幸せを感じていた。
七月上旬のそんな日。やけに暑い、今日。
小野悠は四時間目終了のチャイムと同時に大きく伸びをした。
教室のあらゆる場所から教科書やノートを閉じる音が鳴り響く。
学級委員長の号令と共に、立ち上がり礼をする。
数学の先生が教室から出ていくと、途端に騒がしくなり、耳がキーンと痛くなった。
四時間目の後、高校生にとって待ち遠しい昼ご飯兼昼休みの時間。
俺はこのたった35分間がどの授業よりも好きだった。
悠はしばらく頬杖をつきボーッとした後、背後の女子の咳ばらいで我にかえった。
退け、という合図だ。
ちらりと女子を見やったが、特に何も言われない。
無言でさっきまでの居場所を明け渡し、いつも通り自分の友達と一緒に弁当を食べる為、彼らの席へと移動した。
それから数分後、本当に小さなことだった。
いつも通りの口喧嘩。
ただ母の作った弁当を少し、笑われただけだった。
親友の内の一人と喧嘩しただけだった。
いつもの事じゃないか。
でも何となく今日は、怒りを鎮めることが出来なかった。
俺は急いで目の前の肉ばっかりの弁当の残りをお茶で強制的に胃の中に流し込み、逃げるように教室を飛び出した。
親友は追ってこなかった。
昼休みが始まって、まだ1��分も経っていない。
そんな中、廊下を歩くのは怒りを鎮められない悠だけだった。
通り過ぎる教室から響く大きな笑い声。
放送部の流す偏った選曲。
廊下に充満した蒸し暑い空気。
全てが全て、悠にとっては不快でしかなかった。
彼は階段を何段も飛ばして、駆け上がる。
息が少し��れるが、そんなのもお構いなしだ。
それよりも早く此処から逃げたい、その一心で急いだ。
階段を昇り切り、目の前の錆びれたドアノブを掴み、少し強引に押す。
ギギーっと鈍い音を立て、そのドアは開いた。
屋上。
普通の学校では、屋上に出れる方が少ないと聞いていた。
しかし、この学校は都心より少し離れている。
それが理由なのか、または放任主義なのか。
屋上へ通じる扉には鍵を掛けておらず、は誰でも自由に出入りができるようになっていた。
今の悠にとっては、それが好都合だった。
この蒸し暑い中、外に出たがる生徒も少ないだろう。
それに今日はエアコンがよく効いていたから猶更。
そう踏んでいた悠の考えは的中し、彼以外の生徒はいなかった。
悠は誰も居ないことを確認すると、アスファルトに無造作に寝転がった。
「やっと、一人になれた」
一息ついた彼の口から安堵の言葉が自然と出た。
寝転がって空を見上げると、嫌なくらいのコバルトブルーが目に飛び込んできた。
そして、オマケに刺すような日差しを浴びさせる太陽も。
今日はどうやら、午前午後と共に降水率は0%らしい。
喉が渇いた。
どうせなら水筒でも持ってくればよかった。
そう思って、目を閉じたら目の前は真っ赤だった。
太陽の日差しが暑い。
目を開けて、のそのそと日陰の方へ這っていった。
此処なら気休め程度だが、暑さを忘れられる。
再び寝転がって、目を閉じる。
昼休みが終わるまで、ここで眠っていようか。
残りの20分間、悠にとっては長くて短い時間。
眠りにつこうとしたその時、どこからか声が聞こえた。
「私も、一応屋上に居るんだけどな」
どこから聞こえたか分からない声に自然と身体が跳ねた。
変に反応したせいか、少し身体の節々が痛んだ。
痛む箇所を擦りながら、上半身を起こして辺りを見回す。
目のつくところに声の主は見当たらなかった。
あと見てない所は、と視線をペントハウスに目をやる。
居た。
その人物は暑い風が吹く中、その上に気持ちよさげに立っていた。
二つにきっちりと結んだ黒髪と優等生らしく長めに履いたスカートが風になびいていた。
すぐには気付けなかったがよく知った人物だった為、悠は安堵の溜め息を吐いた。
「なんだ、夕か」
「なんだとはなによ、なんだとは」
自分によく似た名前を持った少女―桐沢夕は、悠の幼馴染だった。
家が隣同士、親が昔からの親友同士、同じ幼稚園に小学校、中学校そしてこの高校。
悠と夕は切っても切り離せない仲だった。
溜め息を吐いた後、悠は再び寝転がった。
夕はペントハウスに固定している梯子を少し手間取っていたようだが、何とか降りて悠の近くにまで来て体育座りをした。
「なに、また喧嘩でもしたの?」
「……」
この幼馴染はいつも鋭い。
バツが悪くなり、顔を逸らす。
夕にはどうやっても隠し事は出来なかった。
10点を取ってしまったテスト、隠れて飼おうとしてた子犬、女子に書いたラブレター。
夕には全てがばれてしまっていた。
常に監視されているのかと思ってしまうくらいには、彼女は悠をよく見ていた。
微妙な空気が漂う。
言いたくないが、隠してもどうせバレてしまう。
悠は口を尖らせながら、言葉を吐いた。
「……和と喧嘩した」
「やっぱり和君か」
「やっぱりって……分かってたのか?」
「悠が怒って、治まらないのって和君くらいでしょ?」
昔からそうだよね、と夕は微笑んだ。
悠の親友と夕と顔馴染みだった。
彼らも家が近所で、同じ学校の出身だったからだ。
でも、一緒に遊んだことはない。
悠が彼女に出来事を話しただけの、話だけの存在という認識で間違いないだろう。
「それで、今日は何で喧嘩したの?」
夕は優しく笑いながら、問い掛けた。
「あいつ、母さんの弁当を笑ったんだ」
「うん」
「その歳になって、ウサギさんのリンゴかよーって。
タコさんウィンナーかよー……って」
「うんうん」
「それが、なんか、すごく悲しかったというか」
「笑われたのが?」
問い掛けに、悠はゆっくりと頷いた。
母親が朝早く起きて作ってくれた弁当。
悠にとって、母親の弁当は活動のエネルギーであり、毎日の楽しみだった。
例え、それの大半が冷凍食品だとしても、ウサギリンゴでもタコウィンナーだろうとそこに込められている愛情を悠は知っていた。
「俺、無性に腹が立ってさ。なんでかずっと考えてたけど分かった。
母さんの作ってくれる弁当が好きだったんだ」
「……そっか。
ねぇ、和君に言い返したりしなかったの?」
「そんな気力なかったから、何にも言ってない」
「そっか、ならよかった」
「よかったって、何が?」
聞くべきだったのか、聞かないほうが良かったのか。
その時の俺にはそれさえ、わかっていなかった。
蒸し暑い風が、一瞬冷えた気がした。
夕が先程までの微笑みを崩して、こちらを真っ直ぐと見据えて呟いた。
「言葉はさ、ナイフだから」
再び、蒸し暑い風が吹きだした。
でも、俺はずっと寒気がしていた。
質問しようか迷ったけど、気付いたら口から出ていた。
「言葉がナイフってどういうことだ?」
言葉がナイフ、と言うのはおかしくないか。
目には見えないんだから。
そう言葉を続けようとしたが、夕の顔を見て止めた。
夕は俺から視線を逸らして地面をじっと見つめ、唇を硬く噛み締めていたから。
しばらく無言が続いた。
遠くから聞こえてくる音楽が嫌に大きく聞こえる。
唇を噛み締めるのを止めた夕が俺をジーッと見つめ、言った。
「……言葉はね、人を幸せに出来るでしょう?」
「まぁ、そうだな」
人を幸せに出来るという点については納得できる。
実際に単純だとは思うけれど俺は言葉の一つだけで幸せになったりする。
何度か経験があったので、頷いた。
夕はそれに嬉しそうに笑ったが、すぐにその表情を曇らせた。
「でもね、それと同時に人を傷つけるナイフなの」
夕は寂しそうに笑って、そう言った。
とても寂しそうで、今にも消えてしまいそうだった。
少しの間。
隣で夕が息を吸い込む音が聞こえた。
「悠はさ、和君の言葉で傷ついたでしょ?」
「えっと、まぁ……傷ついた」
和に言われた言葉を思い返してみたら、胸がツンと痛くなった。
「それが、言葉のナイフ」
俺はそれに対してはすぐに頷けなかった。
しばらく考え込んで、夕の言葉の意味を探った。
ダメだ、分からない。
もっと時間を貰えたら分かったかもしれないけれど、その時の俺には言葉の意味を理解する事は出来なかった。
「えっと、でも…ナイフは言い過ぎじゃないか?」
「言い過ぎ?」
夕のどの言葉よりも、その言葉は重く聞こえた。
また夏に相応しくない冷たい風が二人の間を通り抜けた。
今度はその風があの蒸し暑い風には戻らなかった。
心なしか肌寒くなってきた。
それに、いつの間にか空も黒い雲で覆いつくされ、辺りには影が落ちていた。おかしい。
今日は午前午後と共に降水率は0%だった。
何かがおかしい。
夕はわざと大きな音を立てて、立ち上がり悠を見下した。
「悠には、見えてないんだっけ」
「見えないって……何が?」
「言葉のナイフのことだよ」
立ち上がった夕に釣られ、悠も上半身を起こした。
夕の背後の空がなぜか、今まで見た空よりも黒く見えた。
それはどこか、様子の変わってしまっていた夕を表しているようで少し身体が震えた。
「……じゃあ、見せてあげる」
「え?」
「悠にも見せてあげるよ、言葉のナイフ」
ついにおかしくなったか、そう声を出す隙も与えられず、夕は言葉を続けた。
「悠、目を閉じて」
強めの言葉に逆らうのも怖かったので、大人しく目を閉じることにした。
遠くから聞こえる音楽はいつの間にか止んでいた。
目を閉じろ、と言われてどれくらい経っただろうか。
時間としてはあまり長くないはずなのに、嫌に長く感じた。
夕はさっきからぶつぶつとずっと何かを呟いている。
俺には何を言っているのかは聞き取れなかった。
聞き取れたとして、その内容はいい物とは思えないけれど。
少しして、夕が言葉を呟くのを止めた。
しばらくの静寂の後、夕はいつも通りの声で言った。
「いいよ、目を開けて」
俺は、すぐに目を開けれなかった。
いや、開けたくなかった。
心のどこかで、目を開けることを恐れていた。
なんでなのかは分からなかった。
開いてしまったら、何かが変わってしまっているような気がして。
夕が夕でなくなってしまったのではないかと、怖かった。
けれど、このままでは埒が明かない。
きっと夕の事だから無理矢理目を開かせてくるだろう。
意を決して恐る恐る目を開いてみた俺の口から小さく、言葉にならない悲鳴が発せられたのはすぐだった。
夕の身体中におびただしい数のナイフが突き刺さっていたからだ。
目を閉じている間に何があったのだろうか。
嘘にしては、懲りすぎているし、たったの数秒間でここまでは出来ないだろう。
色々な思考が巡る中、夕が口を開いた。
「見えてるかな、悠。
これが、言葉のナイフだよ」
言葉のナイフと呼ばれたそれは、様々な色に光り輝いていた。
夕自体には血が付着しておらず、ただ肌に食い込んで刺さっているだけだった。
けれど、もしもそれが本当のナイフだった時の痛みを考えると……。
悠は目を逸らしそうになったが、なんとか夕を見続けた。
「信じてくれたかな?」
とても寂しそうで、今にも消えそうだった笑顔でも夕は言葉を吐いた。
「すごく痛いんだよ、このナイフ。
誰かに抜いてほしくなるくらい」
「誰が、そんなこと……」
「誰とかそんなのはないんだよ。
ナイフはどこにだって転がってるの。
あのね、言葉のナイフってね、人を傷つける最も恐ろしい武器なの。
身体を傷つけるのではなく、心を傷つける。
身体だったら刺さった瞬間に血が噴き出すけど、心だから外に現れることはない。
誰もそのナイフの存在に気付かない。
そんな恐ろしい物を誰もが所持しているんだよ」
夕は地面を睨みながら、そう言った。
本当は誰を睨みたいんだろうか。
何を思って、その言葉を吐いているんだろう。
夕の考えていることが分からなかった。
聴くのが怖くて、ただ夕の名前を呼んでやることしかできなかった。
夕はその言葉に反応して地面を睨んでいた目を緩め、俺の方を真っ直ぐ見てきた。
その目は、睨んでいた目よりも強い意志を含んでいた。
俺は昔から、この目が苦手だった。
この目で見られると、自分の全てを見透かされてしまう気がした。
実際にバレているんだけど。
けれど、俺の思いとは違って、夕の言葉は優しかった。
「悠は言葉のナイフで人を傷つけないでね。
約束、してほしいな」
そう言った夕は儚く微笑んだ。
今にも消えそうだった。
人が消えそうだなんて、おかしな話かもしれないけれど。
繋ぎとめておかないと、どうにかして繋ぎとめないと。
そう思って、俺は咄嗟に言葉を紡いだ。
「約束する、約束するよ。
だから」
続きの言葉を繋げる前に、チャイムが鳴り響いた。
なんて、間の悪いチャイムなんだ。
今日は清掃が朝にあった為、このチャイムは五時間目の予鈴だ。
あと5分で、次の授業が始まる。
確か、次の授業の担当は1秒でも遅れたら反省文を書かす先生だった気がする。
話の続きをしたかったが、また放課後にでもしよう。
そう思って、俺が立ち上がってズボンについた埃を叩く。
夕は再び地面を睨んでいた。
夕が何かを睨むなんて、やはりおかしい。
そう思って見つめていると、俺の視線に気付いたのかいつもの人の良さそうな笑みを浮かべた。
夕の腕を掴む。しかし、すぐに振りほどかれてしまった。
動揺が言葉に滲む。
「夕?教室帰るぞ」
「悠、先に戻ってていいよ?」
「え? いや、一緒に戻ればいいだろ? 同じ教室なんだから」
「いいから、いいから!
ほら、先に行って��
「お、おいっ」
いつの間にか背後回っていた夕に背中を押される。
何とか踏み止まろうとするが、力が強くて段々扉に近づいていく。
こいつ、こんなに力が強かったっけ?
「私もすぐ行くから、ね……お願い」
背後から聞こえる声は、弱々しく消えそうだった。
しばらく考えた後、夕の声に負けて渋々先に教室に戻ることを決めた。
気付いたら、目の前にはあの錆びれた扉。
入ってきたとき同様にドアノブを掴み、押す。
そして、ギギーっと鈍い音を立て、そのドアは開いた。
黙ってそのまま出て行ってしまってもよかった。
けれど、あの消えそうな声に寂しそうな笑顔が脳裏から離れなかった。
このまま、放っておきたくなかった。
だから、一言付け加えた。
「さっきの約束、絶対守るから。安心しろ」
「……うん」
夕が優しく微笑んだ。
扉を開いて、校舎の中へと入った。
チャイムが鳴って、2分。
そんな廊下を歩くのは、悠以外にもたくさん居た。
急ぎ足で教室に入る生徒、教室に入れと呼びかける教師、蒸し暑い空気。
全てが全て、当たり前。
毎日同じ風景、繰り返される日々。
悠はいつもより急ぎ足で、歩いた。
ふと窓から見た空は、いつの間にか晴れていた。
雲一つどこにもなかった。
ガラッと音を立て、教室の扉が開く。
あと少しで授業が始まるというのに、教室は雑音で溢れていた。
自分の席へ向かう途中、先程喧嘩をした和が声を掛けてきた。
「おい、悠」
「……なに?」
ハッキリ言うとまだ怒りは治まっていない。
顔を見られないように、少しだけそっぽを向く。
和は椅子に座り、俯いたまま「すまない、悪かった」とだけ、悠に言った。
謝ることの少ない和が謝ってくれただけでも、少しだけ怒りが和らいだ気がした。隣では空が嬉しそうに笑っていた。
良く言えましたーと空が褒めると、和は何とも言えない表情で空を睨んだ。
「もういいよ、謝ってくれたし」
ぎこちなく笑顔を作り、自分の席へ向かう。
椅子を引いて座り、和の席の方を向く。
後ろの席の親友が頭を小突いてきた。
少しだけ、口角が上がった。
チャイムが鳴った。
扉が開いた。
担任が険しい顔をして、づかづかと教壇の方へ向かう。
険しい顔はいつも通りだったが、どこか様子が変だった。
先生は教室中を見回した。
そういえば、まだ夕がまだ帰ってきていない。
あいつ、すぐに帰ってくるって言ったの。
「落ち着いて、聞いてくれ。そこ、静かに!」
担任は静まらない生徒に対し、少し声を荒げた。
何があったんだろうか。
胸騒ぎがした。
担任はしばらく生徒達を見つめていたが意を決したのか、告げた。
「桐沢が屋上から飛び降りた」
担任の言葉に教室中がざわめき出す。
静かに、と担任は大きな声で叫んだ。
それでも、生徒達のお喋りは止まらない。
寧ろ悪化していく一方だった。
聞こえるのは、本当に雑音になった声のみ。
今、なんて言ったんだ?
「第一発見者によると、桐沢が飛び降りたのは昼休みが始まってすぐらしい。
現在は病院に運ばれていて、意識不明だ。
かろうじて息はしていたらしいが、頭部に大きな―」
その後の言葉は耳に入ってこなかった。
俺は、ただただ呆然とするしかなかった。
辛うじて拾えた言葉が何度も頭の中で巡る。
昼休みが始まって、すぐ……?
重要事項を話し終わった担任は、教室で自主勉強しておけと吐き捨て、荒らしく教室の扉を開け、出て行った。
再び始まるお喋り。
雑音が五月蝿くて、たまらない。
ああダメだ、思考が停止したように上手く動いてくれない。
頼む、静かにしてくれ。
確か、夕は昼休みが少し過ぎた後、俺と喋っていたはずだ。
それは間違いないはずだろう。
けれど、第一発見者の証言ではそれは矛盾していることになる。
じゃあ屋上に居た夕は一体なんだったんだろうか。
生霊とでも言いたいのか。
訳が分からなくなって、頭が痛くて。
「……でもさ、居ても気付かなかったよね」
考え込んでいた思考を容易く覚醒させたのはそんな些細な言葉。
「だよねー、影も薄いし」
「うんうん! 地味だしね」
「居なくても別に平気でしょ」
「ちょっとぉ、それ酷くない?」
女子のけらけらとした不快な笑い声が耳を突き刺す。
彼女達にとっては何気ない言葉。
夕がもし目の前にいたとして、それを面向かって言えるのだろうか。
「俺、桐沢が同じクラスだってこと忘れてた」
「あ、お前も? 実は俺も」
嫌なくらいハッキリした会話が耳に届く。
雑音交じりの会話。
「欠席とかしてたんだし、仕方ないんじゃね?」
「いや、今年一回も欠席してねえぞ? 去年も皆勤賞で表彰されてた」
「あれ? 表彰されてたっけ……」
「ま、影薄いしな」
「別にいてもいなくても変わらないよな」
男子の不快な会話が胸を突き刺す。
彼らにとっては何気ない会話。
俺はただ、耳を塞ぐ事も出来ず、周りの雑音に耐える事しかできなかった。
『誰とかそんなのはないんだよ』
夕の言葉がふと、頭の中に浮かぶ。
そうか、そういうことか。
『誰もそのナイフの存在に気付かない』
言葉のナイフは目には見えないから。
誰も、自分の言葉の影響力の恐ろしさに気付かないんだ。
俺はようやく、同級生達の言葉が教室中を飛び交う何百ものナイフ��見えた。
気付いてやれなくて、ごめん。
お前は俺の事をよく見てくれてたのに、俺は何も気付けなくって。
親友達の言葉で我に返るまで俺はただ、鬱陶しく流れてくる雫を拭う事も出来ず、唇を噛んで、痛みに耐えた。
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