#七転び八起き弁当
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Recently enjoyed (2024/01-12)
Can't believe that I haven't updated here for a whole year! I usually take ntoes of what I enjoyed literally on a notebooks by handwritings as the fresh records of how I thought about them. I usually try to upload positive reactions as much as I can, thus I need the "one-cushion" process before updating here.
去年は転職後初のフルビジネスイヤーでてんやわんやでした。そんな中でも都合をつけては映画館に足を運んだり、新たにU-NEXTまで契約しちゃったりなんかしてますます物語と作品の世界に浸っていました。今年も色々いっぱい楽しみたいな〜。
映画作品
カラオケ行こ!(映画館で鑑賞):一緒に鑑賞した人が関西出身で私は関東出身で、それぞれ作中でクスッとするタイミングが違ったのが印象的でした。声変わりの表現がすごいなあと思ってたら齋藤潤さんガチ変声期だったっぽくて驚きました…!
夜明けのすべて(映画館):映画を観る時間を大切にしたい時、今後の人生で何度も鑑賞するんだろうなと思いました。主題はもちろん、映像や空間、音までが優しく柔らかくて、配信や円盤で見る時も手元にスマホなどを持たずに没頭したいなあの気持ちです。別記事で語りまくってた気がするな………と思ったらやっぱ書いてた
関心領域(映画館):見終わってすぐ本屋さんに飛び込んで原作小説を買いました。読了できていないのですが、これも折に触れて見返したい作品でした。A24の作品で現時点一番心に深く残っているかも……
告白 コンフェッション(映画館):90分未満なんだ!と思って軽い気持ちで映画館に入り、5時間くらい経った気持ちがしました。濃縮版「最後まで行く」。もう許して………て見ながら500回くらい唱えてました。笑 主題歌のMVがめちゃくちゃかっこいい。
ディアファミリー(映画館):大泉洋の涙は反則ですってぇ……(探偵はBARにいる2で号泣した人間の感想です)。福本莉子さん、見るたびにどんどん作中での空気感が素敵になっていくので今後もいっぱい見たいです。今年は「お嬢と番犬くん」が楽しみ!
言えない秘密(映画館):最高でした。京本大我氏、ひたすら歌がうまいイメージだったのですが作中で一度も歌わなかったことに普段だったら即気づきそうなのですが、作品に没頭しすぎてて3回くらい見るまで気づきませんでした。深く澄んで純粋な愛情に触れたくて劇場に通いました。いい時間だった………円盤の特典映像が三年後の湊人の話らしいんですが、まだ見れてないです。見たら完結しちゃいそうでもったいなくて………あと三年くらい見れなさそう………
ラストマイル(映画館):アンナチュラルとMIU404大好きだった勢にはご褒美すぎるアベンジャー作品。初日の朝一番の回を見に行ったのですが劇場が八割くらい埋まっていてファンの熱量の高さを感じました(誰目線❓)。シークレットキャストの中村倫也にビビりすぎて思わず息を呑んだのですが、多分劇場の人全員息を呑んでたので瞬間的に室内の酸素濃度が5%くらいになってたと思います。
劇場版アクマゲーム 最後の鍵(映画館):面白かった〜〜!!ドラマの劇場版として最初から最後まで徹頭徹尾、ずっと大正解を叩き出していました。おそらくドラマを見てない人でも冒頭20分くらい見れば大体の人間関係やそれぞれのキャラがわかる構成、そしてスケールの大きさと結末に向けての盛り上がり………本当に面白かった………!円盤予約したらトランプもらえるみたいでめちゃ喜んでしまいました。これを機にポーカーとかブラックジャックとか覚えようかな………(なぜ?)
正体(映画館):これも良かった……!藤井道人監督×横浜流星だったのでヴィレッジのことが脳裏をよぎって劇場で見るのは迷っていたのですが(ビビりすぎる)、公開2日前だか3日前だかに公式SNSから主題歌がヨルシカである旨が発表された瞬間迷わずムビチケを買いました。本当に、本当に良かった……パンフレットを読んで原作者インタビューの部分でさらっと原作ネタバレを喰らったのですが、それでも小説を読みたくて本屋さんに駆け込みました。映画版のアレンジ、すごく良かった………亀梨和也さん主演のドラマ版もあるそうなのでそちらも今年中には見たいなあ。
DUNE 砂の惑星①(配信)
ウ・ヨンウ弁護士は天才肌(配信)
ウソ婚(配信):ドラマをリアタイしていたのですが、懐かしくなってもう一回見たくて配信で見ました。Netflixってちょっと画質良かったりするのかしら?ねるちゃんも菊池風磨さんもお肌が綺麗すぎる………
ミラベルと魔法の家(配信):激推しされて見た作品でこんなに刺さったの初めてでした。普段私のとりとめもない話を丁寧に聞いてくれる知人が「劇場公開がコロナ禍真っ最中でごく短期間しか上映されずあまり日本で知名度がない作品なのが悔しい」と熱量高く語ってくれたのが嬉しくてその日に見て、心に深く刺さりました……おそらく知人と私とでは刺さった部分が違うのも面白かったです。その後さらに別の友人が拙宅に泊まりに来てくれた際にソファに縛り付けて布教したのですが、友人にも刺さってくれたようでした。(その友人の刺さりポイントも違ったので面白かったです)
リメンバーミー(配信)
地面師たち(配信)
グレートプリテンダー(配信)
舞台作品
バサラオ(福岡・東京):福岡の初日を鑑賞し、その後東京で3回ほど鑑賞しました。初日後半でちょっとセリフがかぶったりしてるなあと思っていたら、そもそも台本が締め切りを二ヶ月勘違いした状態の急ピッチで制作されラストシーンは通しで2回ほどしかできていない状態での本番だったそうでやばすぎました。背景を全く感じさせない最高の盛り上がりでした………!なるほどこれが劇団☆新感線………!西野七瀬さんを初めて生で見たのですが、ガチで、ガチで可愛くて頭抱えました。「恋マジ」などのドラマ作品で見ていた時は身長170cm台のモデルさんだと思っていたのですが、顔が小さくて頭身がえらい高い小柄な方で本当に可愛��った………アイドルってすごい………
ドラマ作品(最終話まで追えたもののみ)
君が心をくれたから(フジテレビ)
新空港占拠(日テレ):大病院の続編ということでこちらもリアタイで毎週楽しませていただきました。地味にレッドアイズと世界線が繋がっているのもアツいですよね………
大奥 Season 2(NHK):最後まで最高でした。毎回枯れるほど泣いてたので体力のある時に見返したいです。本当に良かった・・・
厨房のありす(日テレ):門脇麦さん目当てで見始めて前田敦子さんに撃ち抜かれました。かわいい……ちょいギャルというよりヤンキー感のある幼馴染、最高すぎる………
さよならマエストロ(TBS):月並みですが芦田愛菜さんがバイオリンを弾くシーンが大好きです。スマホいじりながらぼーっと見ていたのですが、あの夕日の差し込む部屋に足を踏み入れる前あたりから空気が変わったのを感じてソファにきちんと座り直して見てました。
アクマゲーム(日テレ):シンプルに面白かった〜〜!!お恥ずかしながら原作漫画を全く知らず、間宮祥太朗・古川琴音・竜星涼・田中樹の布陣と特撮感を期待して見始めてそれはそれは大盛り上がりしてしまいました。毎話友人と通話しながら見ていたのも相まって楽しい思い出も伴った作品でした。起承転結の爽快感というか、ドクターXや水戸黄門などを見ている時にも感じる予定調和的なエンタメ感が好きなのかな……安心して見られる作品でした……
アンメット ある脳外科医の日記(カンテレ):生涯の好きなドラマランキングの上位三作品を塗り替えられました。最高すぎる……杉咲花さんも年々お芝居の空気感が素敵になっていくな〜と思っていたのですが、こちらの作品は本当に刺さりました。ずっと綺麗だった………ミヤビの魂の美しさに触れたくて毎週見てたかも………連動したインスタもずっとフォローして時々見に行ってます。本当に大好き………
ダブルチート 偽りの警官(テレ東)
街並み照らすヤツら(日テレ):だが情とナンバの森本慎太郎が主演!と思って見始めて頭抱えたりハラハラしたり毎週楽しく過ごさせていただきました。
海のはじまり(フジテレビ)
ビリオン×スクール(フジテレビ):山本涼介、年々美しくなってませんか・・・?昔左目探偵だったか探偵学園だったかを見ていた時はフラットに見ていた気がするのですが、今作では画面に映るたびに「うお、顔が良」と思っていました。笑
西園寺さんは家事をしない(TBS):やんごとなきで知った松本若菜さんの様々な表情、倉田エマさんの無邪気な様子に松村北斗さんの若パパ感、まるっと愛しい空気感と関係性でずっとニコニコで見てました。
GO HOME 警視庁身元不明人相談室(日テレ):主題歌のヨルシカがあまりにもマッチして毎回ラストシーンでシャバッシャバに涙流してました。MVも最高………
Shrink 精神科医ヨワイ(NHK):続編が期待できる終わり方だったので岸辺露伴的に時々また新作エピソード出ないかなあと思ったりします。
全領域異常解決室(フジテレビ):日本神話に全く造詣が深くないので勉強になりました………!面白かったあ。
海に眠るダイヤモンド(TBS):ガチでずるすぎる。最終話コスモスの咲き乱れる庭はずるいですって。リアタイで毎週ハラハラ追ってましたが、結末を知った上でまた最初からゆっくり見たい作品でした。軍艦島の話を大学の頃にちょっとだけ画集で見たのですがインパクトがすごかったことだけ覚えているのでまた改めてちゃんと調べたいなあ。
さよならのつづき(配信):アザレアが名曲すぎました。生田斗真、元彼の遺言状でもそうだったんですけど、今は亡き素敵な元彼がハマりすぎる。
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2025/1/8 13:00:20現在のニュース
<能登地震1年> 県内社寺 復興支える([B!]読売新聞, 2025/1/8 12:57:43) 七草がゆ 健康な年に([B!]読売新聞, 2025/1/8 12:57:43) 見聞録:氷室神社(奈良市) 朝鮮半島由来、舞楽の拠点 宮司一族、ひっそり伝承 /奈良 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/1/8 12:57:22) 芳香漂い春を呼ぶ ロウバイほころぶ 葛城・当麻寺西南院 /奈良 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/1/8 12:57:22) 心も温か七草がゆ 春日大社の茶屋 奈良 /奈良 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/1/8 12:57:22) 幸運呼ぶ白蛇の姿 奈良・往馬大社で干支絵画展 「穏やかな1年になってほしい」([B!]産経新聞, 2025/1/8 12:57:20) 雨漏りに瓦は落下、壁の崩落も…豊臣秀長の菩提寺春岳院 改修工事の費用をCF([B!]産経新聞, 2025/1/8 12:57:20) 酒に酔った知人男性へわいせつ容疑 元東京・府中市議を3度目の逮捕、余罪も捜査([B!]産経新聞, 2025/1/8 12:57:20) 栃木・日光いろは坂にロープウエー導入検討 渋滞解消へ県が東武鉄道交���検討会([B!]産経新聞, 2025/1/8 12:51:14) 体ポカポカ、冬限定駅弁いかが 沼津と三島で1日40食販売 桃中軒 /静岡 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/1/8 12:51:10) 野村HD・奥田健太郎社長「国内に割安企業」 M&A助言を安定収益への転換の軸に - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 12:51:08) 長期金利1.170%まで上昇、13年半ぶり水準 米金利上昇で(毎日新聞, 2025/1/8 12:48:58) USスチールCEO「彼は賢い人物」 トランプ氏の買収承認に期待(毎日新聞, 2025/1/8 12:48:58) ファクトチェック廃止 メタ社内では批判の声「言論の自由と混同」(毎日新聞, 2025/1/8 12:48:58) 沸騰直後のみそ汁飲ませ、大やけどさせた疑い 特養ホーム元職員逮捕(朝日新聞, 2025/1/8 12:47:16) 関東車両基地にリニア駅を 相模原の本村市長、新年インタビュー /神奈川 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/1/8 12:45:44) 新年に杉本昌隆師匠があわや「二手指し」、藤井聡太竜王の初笑い誘う…名古屋将棋対局場で初の指し初め式([B!]読売新聞, 2025/1/8 12:44:04) 藤井聡太竜王、新しくなった将棋会館で初対局…八冠中で唯一失った叡王戦へ初陣([B!]読売新聞, 2025/1/8 12:44:04) ECサイトで情報流出相次ぐ 33万件超、注文装い細工か:東京新聞デジタル([B!]東京新聞, 2025/1/8 12:42:30) 「生きててよかった」 ホンダ新EV、OS名称にASIMO ファン歓喜(毎日新聞, 2025/1/8 12:41:31) JR七尾線観光列車「花嫁のれん」3月再開 団体専用で /石川 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/1/8 12:39:32) 門司港駅関連遺構 「工事中止、正規調査を」 JRきょう再開 日本イコモスが声明 /福岡 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/1/8 12:39:32) トランプ氏への「擦り寄り」透けるメタ ファクトチェック廃止を発表(朝日新聞, 2025/1/8 12:39:27) ファクトチェックと独立財政機関 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/1/8 12:39:20) 奥日光アクセス強化へ 知事方針 25年度予算に調査費 /栃木 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2025/1/8 12:33:28) 小池知事の資産、預貯金「0円」 2期目より140万円増える:東京新聞デジタル([B!]東京新聞, 2025/1/8 12:31:05) 熊本市電の脱線事故、市長「年末年始に運行できずおわび申し上げる」「今年は1件も事故起こらないように」([B!]読売新聞, 2025/1/8 12:30:56) 熊本電鉄が平日25%減便へ…運転士不足、運行間隔を広げて始発繰り下げ・終電繰り上げも([B!]読売新聞, 2025/1/8 12:30:56)
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詩集「獅子の食卓」

詩集「獅子の食卓」
1. 「サラダチキンの風に乗って」 2. 「飲めずに終わったタピオカミルクティーのように」 3. 「ブラックコーヒーが飲めなくても」 4. 「チョコレート狂詩曲」 5. 「愛ゆえに餃子」 6. 「マカロニで行こう!」 7. 「幕の内弁当がいいじゃない」 8. 「イタリアンの名を借りて」 9.「マリトッツォってどんな味?」 10. 「バターチキンカレー」 11. 「おにぎり、あなたは何が好き?」 12. 「ワンライス!」
1.サラダチキンの風に乗って
コンビニの傍を通り過ぎ 近所の河原で食べたサンドイッチ 隣には貴女の寝顔 それだけで幸せになれる気がした
初めて講義をサボりたくなった このまま風に乗れたらいいのにな 始まったばかりの青春に 俺の胸はときめくばかりだった
ちょっとした一言がきっかけで すべて拗れてしまった関係 あの日あの時あの瞬間をやり直せたらとか こう言ったら良かったとか
尽きない後悔がぬるいビールのよう しとしと降る雨は後悔の味 戻れない過去に想いを馳せたとき 大人になったことを悟ってしまった
どうでもいい言葉で違和感を埋めようとした ただ沈黙を言葉で繕おうとした なんでもない日々を青春で美化しようとした 時が止まったままの器で生きようとした
レジャーシートを蟻が行進する 三つ葉のクローバーは時を止めたがる 必死に生きようとする彼らを見て 俺は何にも感じなかった こんな大人に俺達もなってしまったのだ
シャンペンサイダーは瓶がいい そんな夏に貴女はいない
後輩に自分語りをしても そんなことで何も変わりはしないのに
2.飲めずに終わったタピオカミルクティーのように
愛せなくなって 夢中になれなくなって 風に流されるようになって 大切な人の声も聞けなくなって
悠久の時を経て 大好きだったのだと気づく もう遅すぎて 嫌になってしまったその刹那 こちらを向いたのはナイフだった
人はみんな永遠を信じているような気がする 変化するくらいならこのままで良いやって すべてを諦めているような気がする
街中の看板が好きなアーティストのイニシャルに見えた 物差しに合わない人を否定したくなった 自分自身さえもこの世から消し去りたくなった
悲しい夢を見た時の残像によく似ている 内容はよくわからなくても 嵐のような罪悪感が胸に湧き踊り したたかな安らぎを淘汰する
それが人間なのだ 人間とは非常にちっぽけな生き物だ 虚飾と背伸びが大好きなとても醜い集団だ
こうやって主語ばかりが大きくなって 自らのもっとひどい醜さを責任転嫁で誤魔化そうとする 平均的が醜いのであれば 私などもっと醜くて当たり前のはずなのに なぜか綺麗であることにこだわってしまうのだ
まっすぐ生きたいだけなのに 夢を叶えたいだけなのに 愛を信じてみたいだけなのに いつ散ってもおかしくない そんな危うさの中で この世界の少年少女たちは生きている
3.ブラックコーヒーが飲めなくても
子どもの頃は出来ないことの方が多かった いつも助けてもらうばかりで 半径五百メートルが世界のすべてだった
そんな不自由な世界なのに 子どもの頃の方が楽しい���感じていたのは何故だろう 世界を知れば知るほど つまらなくなったと感じるのは何故だろう
わからないことに嗚咽し わかることに狼狽する そんな大人になりたくなかったのに 無邪気に声を上げることしか出来ない
かつて愛がすべてだと信じていた時があった 愛さえあれば 夢さえあれば なんでも前へ進められると信じていた時もあった
雪印のミルクコーヒーに大人を見出し ちょっとした悪戯で勝った気になっていた
大袈裟などではなく 僕らが生きていた小さな世界の中で どんなものでも一番になることが嬉しかった 一番になりたかった 一番がよかった
どんなに今が辛くても 数年先の未来が希望だった頃に戻りたい 大人になんてなりたくはない 大人ごっこをしていたい
切なさの中に秘められた欺瞞に気づかないまま 僕らはここまで来てしまった もう戻れない 還れない 嗚呼……
4.チョコレート狂詩曲
チョコレートが嫌いになった 食べすぎてしまったからだ 虫歯予備軍が出来るほどに食べてしまい 数キロほど太ってしまった
これが毎年のことで いつしかチョコレートそのものを 自分の周りから避けるようになった
今年の冬 初めて本命の子からチョコレートを貰った その子は本当にかわいくて 性格はちょっぴり癖があるけど面白くて 僕も彼女のことが好きだった
だが彼女はチョコレートを渡した 僕はチョコレートが嫌いだ ほんの些細なことかもしれないが 「嫌い」と公言しているものを渡すなんて
一瞬の傲慢が抱えきれなくなり そのチョコレートを捨ててしまった
僕の行動を知った彼女は号泣した 顔面蒼白でこちらに迫ってきた
確かに僕が悪い 僕は悪い子かもしれない だが嫌と言っているものを渡す方も悪いじゃんか 心のナイフをむき出しにする彼女を サッと交わすように閉じ込めてしまった もう彼女と付き合う気なんて微塵もなかった
彼女とのいざこざを知った教師は 僕のことをこっぴどく怒鳴り散らした 人生で初めて殴られた
ささやかな拘りがこんな結末を招くとは 出血した唇が心と身体でシンクロした
愛なんてもういいや 彼女をまた傷つけようと決めた瞬間だった
5.愛ゆえに餃子
昔から冷凍餃子が好きだった 店では天津飯と小籠包ばかり食べるのに そのコーナーを通りかかると冷凍餃子を入れてしまう
どうしたものか うちの家族では冷凍餃子は中途半端な個数 ジャンケンしよう 口喧嘩しよう そうしよう 子どもたちの間で争いが起きる
こんな時は歌を唄おう 餃子の歌を唄おう
青春時代の味 冷凍餃子は私の青春 愛の甘さも 失恋の酸っぱさも すべてこの餃子みたい
餃子こそがすべて 冷凍餃子は私の青春 悲しい時は餃子を食べよう だから今こそ 愛ゆえに餃子
呆然とする子どもたちの前で ひと口餃子を食べる そしたら皆笑顔になって 慌てて餃子を食べ始めたのです
一件落着 三寒四温 七転八倒 明日は晴れのち曇り
つづく!
6.マカロニで行こう!
男も女も誰もが想う そんなことは中々ないけど カッコつけたくなったり 可愛くなりたいと思ったり 人は人生の中で失敗する
おんなじくらい成功もする 上手くいったことも 上手くいかなかったことも だいたい半分くらいになればいい 人生10勝10敗くらいでいい
マカロニで行こう! ほどよく幸せで行こう! やりたいことは全部やってやればいい やりたくないことはやらなくていい
マカロニで行こう! 好きな人に好きと言おう! 嫌いな人には嫌いと言っていい 合わないものを合うようにしなくていい
自分の人生は自分で責任を取るんだ ひとりひとつの物語の主人公 プリマドンナ ワンシーンの顔役 人それぞれ適役がある
マカロニで行こう! カッコつけていこう! 人の目なんか気にしてる暇などない 誰もが100年くらいしか生きられないぜ
マカロニで行こう! かわいくなっていこう! タフに生きようぜ 愛のままにやろうぜ 誰にも邪魔はさせない
7.幕の内弁当がいいじゃない
普通になることを やたらダメって言う 嫌われる勇気とか 本音を言う尊さとか そんなものはどうでもいい
ひとつまみの幸せ それは天ぷらうどんを食べる幸せ 宝石でもブランドでもなく ささやかな喜びだろう
ささやかでもささやかじゃない そんな喜びかもしれない
美味しさにプライスタグがないように ずっと良いものにトレンドはない 時代が変わっても同じように愛される それこそが本当の良品ではないか
イギリスのコメディアンが言った 本当に良いものはちゃんと使え��ものだ まともな枕こそ真の高級品なのだ
私は賛同する どんなに高級でも ちゃんと使えなければ意味がない 長く使えたらもっと良い
環境の話だってそうだ ひとときのエコのために 今までの良いものを否定していく それが本当にエコかどうかもわからないのに
私たちは何のために 正しさを好むのだろう では誰がどのように 正しさを決めるのだ?
ちっぽけな正義より自分の視点で この世界を自然色で照らして 幕の内弁当みたいに
8.イタリアンの名を借りて
ミラノ風ドリアの“ミラノ”ってなんだろう? そんなことが割とある イギリス風とかブルターニュ風とか ジャポネーズなんて言葉もあるらしい
カリフォルニアの寿司屋で 食べた加州巻きが美味しかった 意外と悪くないな 心が解れた瞬間だった
リオのレストランで 食べたテリヤキチキンが美味しかった どんな味付けでも美味しいんだな 良さを再発見した瞬間だった
旅の途中で食べるご飯には いつもと違う発見がある かつては受け入れられなかったけれども ここで食べたら美味しかった そういうこともあるだろう
何かを否定する前に 魅力を探してみなよ 誰かに伝える前に 自分で噛み砕いてみなよ
西洋料理に出逢い 肉じゃがが生まれた トマトソースに出逢い ナポリタンが生まれた
私は料理が好きだ 作るたびに新しい発見に出逢う そんなに巧くはないが 美味しく出来たら嬉しい 小さな成功が続く秘訣だろう
イタリアンの名を借りて 新しい幸せが生まれていく
9.マリトッツォってどんな味?
教室の片隅で 流行りそうなミュージシャンの 新曲が聞こえた
若者だけではなく 大人が声に出した時 初めて流行りって奴の意味を知った
さも知ってるような顔で 新しい単語を叫ぶ そんな友をかつては笑ったけど 僕も似た者同士だった
マリトッツォ 突拍子もない言葉が どんどん次から次へ現れる
エモいがすっかり定着した頃 トレンドは遥か彼方へ消えていった
これイイでしょ? 普通の言葉が 普通に聞こえなくなった時
無理やり合わせてることに やっと気づいたよ
永遠じゃない今日 変わりゆく時代の中で 僕が僕であることの意味を探そう
マリトッツォ どんな味かわからぬまま 明日にはまた次の流行りが始まる
普通の売り場に並んだ頃 トレンドは次のスターをすくい上げて 僕らの知らない明日を映し出すんだ
マリトッツォ 自転車立ち漕ぎで買いに行ったあの味
10.バターチキンカレー
猫がこちらを見ています その眼は透き通ってて 長らく見ていない眼でした
私は猫を追いかけて その背中に着いていきました 草むら 原っぱ 気にならなかったのです
這いつくばって森を進んだ先には 誰も知らないレストランがありました
猫に促され 靴と上着��脱げば 彼女が指差す方角には “バターチキンカレー” たった一言
誰か人に出逢うこともなく 私はカレーをひと口ふた口と 口に運ぶうちに涙が止まらなくなり 猫におかわりを懇願しました
それはまるで 悲しみが落ちていくように カレーを食べる手は ちっとも止まりませんでした
そして店のカレーを食べ尽くして 支払いを済ませて 店を出た時には 外はすっかり暗くなっていました
私をここに連れてきた猫は 遠く離れてこっちを見ています 私はどうやって帰ればいいのでしょうか 何度森へ歩こうともここに辿り着くのです
電波は四本しっかり立ったまま いつの間にか増えた財布を握りしめて あの店で毎日食べるカレーは 時を繋ぐ魔法 二度と出られませんでした
11.おにぎり、あなたは何が好き?
恋人とのランチタイム 互いにおにぎりを作ってくることにした 綺麗な三角は作れなかったけど 僕なりに頑張ってみた
中庭でランチボックスを広げると 恋人は僕のおにぎりに驚いた 高菜と昆布を入れたのだが その組み合わせが不思議だったらしい
コンビニのおにぎりなら 梅とツナマヨがいい でも折角自分で作るのなら いつもと違うものを作ってみたかった
そんな話をすると 恋人はおひさまのように微笑んだ この笑顔が好きだ 君を好きになった理由を思い出した
恋人がつくったおにぎりは やさしい味がした 恋人も同じように思うのだろうか 表情と仕草が気になった
青空に雲がぷかぷかと浮かんでいるように 穏やかな時は流れていく いつか別れが来るかもしれないが 今はこれでいい
恋人と過ごす この瞬間が好きなのだ だからこれでいい ずっとこのままがいい
12.ワンライス!
あるアイドルの話に共感した 彼女は自分で注文が出来ないという
私もずっとそうだった 食券なら機械と対話するだけでいいから いつの間にか食券スタイルの店を選ぶようになった
明るくなりたかった 輪の中に入りたかった 尽きない後悔を自分の糧にして 今日を生きていく
切ないほどに 残酷な時の中で 狂おしいほどに 言葉を紡ぐのは
愛を忘れぬために 輝いていたあの日々と 未来の君のためか
いつの間にか大人になった だから…… いつの間にか年を取るのだろう
認めたくないけど 認めるしかない 私の未来は終わった
君が好きだった 私が好きだった すべてが愛おしかった
もう戻れない日々を 懐かしむ季節が嫌いだ さよなら私たちの時代よ
詩集「獅子の食卓」
Written / Produced by Yuu Sakaoka Special Thanks to My Family, my friends and all my fans!!
2021.8.18 Yuu Sakaoka
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去る4月、中国の温家宝総理が訪日した際に発出された日中共同プレス発表の第三項に、「台湾問題に閲し、日本側は、日中共同声明において表明した立場を堅持する旨表明した」という一文がある。ここでいう「日中共同声明において表明した立場」とは、具体的にどのようなものなのか。英語でInstitutional memoryという言葉がある。特定の組織が、当該組織に属したことがある個人ではなく、組織として継承している過去の記憶のことである。今年は、日中国交正常化35周年に当た���。35年前に国交正常化を合意した日中共同声明の主要な争点の一つであった台湾問題についての日本政府の当時の交渉記憶が正確なものかどうかを、この機会に改めて検証してみる必要があるように思われる。 「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」 右に引用したのが、台湾の地位について合意された日中共同声明第三項である。同項は、1972年9月、北京での国交正常化交渉において最後まで残った争点であり、また、共同声明の中で今日でも実体的意味を持っている唯一の規定なのである。(当時筆者は、条約課長として、田中総理、大平外相に随行し、高島条約局長を補佐して中国側との交渉に参画した。) そもそも、中国との国交正常化を公約に掲げて72年7月に登場した田中内閣が対応を迫られたのが、当時中国政府が国交正常化の前提条件として提示していた対日復交三原則であった。このうちの第一原則、すなわち中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府であると認めることは、戦後わが国が外交関係を維持してきた台湾に存在する中華民国政府との公的関係を、「一国一政府」という国際法の原則に従って終了させることを意味した。これは、日本政府にとって、大きな政治的���断を必要とする問題であったが、中華人民共和国との国交正常化を実現しようとするのであれば、いずれにせよ避けて通ることはできない関門であった。 対日復交三原則の第三原則は、わが国が1952年に中華民国との間に締結した平和条約は、不法、無効であり、廃棄されなくてはならない、とするものであった。この主張は、中華人民共和国 (1949年に樹立宣言) の立場からすれば当然とも言えるが、他方、わが国としても、戦後わが国の国際社会復帰の枠組みの一環であった日華平和条約が不法、無効と認めるわけにはいかないことは明白であった。この双方の立場の違いを克服するには、交渉当事者の現実主義と外交的智恵を要したが、決して不可能なことではなかった。実際にも、この問題は、共同声明発出直後に行われた記者会見において、大平外務大臣が「日華平和条約は、日中国交正常化の結果として、存続の意義を失い、終了したものと認められる」との一方的声明を行う(これに対し、中国政府が意義を唱えない)ことにより解決したのである。 第二原則は、台湾の地位に関し、先に引用した共同声明第三項の前段に述べられている中華人民共和国政府の立場を認めることを求めるものであった。この台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の立場を受け入れることには、三つの基本的問題が存在した。第一は、1949年に誕生した中華人民共和国は一度も台湾に実効的支配を及ぼしたことはなく、同地域は、中華人民共和国の支配を拒否する国民党政権 (当時) によって継続的に統治されてきている、という政治的現実である。第二は法的な問題である。台湾の法的地位に関しては、サンフランシスコ平和条約がわが国の領有権を含む「すべての権利、権原」の放棄を規定するに止まり、同地域の最終的帰属を定めなかったという経緯がある。これは、1949年以降の中国が、大陸を支配する中華人民共和国と台湾を支配する中華民国の二つに事実上分裂した事態の下で、サンフランシスコ平和条約の当事国である米国その他の連合国の間で、台湾をいずれの中国に帰属させるかについての合意が得られなかったことによるものである。そして第三が、日米安保体制に係わる問題である。 日中国交正常化に先立つ同じ1972年の5月に沖縄の本土復帰が実現したが、沖縄返還交渉において米国との間で最大の争点となったのは、返還後の同島の米軍基地に、安保条約に基づく事前協議制度が変更なしに適用されるのかどうか、という問題であった。これが、いわゆる「本土並み」返還の問題である。 事前協議制度の下では、わが国が攻撃されていない状況において、米軍が戦闘作戦行動を目的として在日基地を使用するためには、事前に日本政府の許諾を得る必要がある。日本政府は、当然この事前協議制度はそのままの形で沖縄の米軍基地にも適用されるべきである、との立場で対米交渉に臨んだ。しかし、韓国、中華民国(台湾)との間に相互防衛条約を結んでいる米国としては、万一朝鮮半島あるいは台湾海峡有事の際に、事前協議に基づく日本政府の許諾が得られず、沖縄の米軍基地の使用が著しく制約されれば、韓国、中華民国に対する防衛義務を効果的に果たせなくなることが懸念され、そのような事態は是非とも避けなくてはならない、という軍事上の要請があった。 そもそも安保条約は、日本防衛と同時に、条約上は極東と呼ばれる、わが国を含む東アジアの安全を確保する地域的安全保障システムの中核という性格を併せ持っている。しかし、この地域的システムは、朝鮮半島や台湾地域の平和と安全の重要性について日米両国が共通の認識を持たなくては機能しないことは明らかである。したがって、沖縄の「本土並み」返還を実現するためには、事前協議制度は維持しつつ、別途何らかの方法で、地域的システムとしての安保体制が、いざというときに機能不全に陥ることはないことを示すことによって、米国の懸念を取り除く必要があった。そのために考え出されたのが、1969年11月の佐藤栄作総理(当時)の訪米時に発出された日米共同声明である。(この間の経緯については、東郷文彦「日米外交三十年」に詳述されている。) 同共同声明の第四項において、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」と同時に、「台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとって極めて重要な要素である」との総理大臣の認識が表明されている。更にこれを受けて第七項は、次のとおり述べている。 「総理大臣と大統領は、施政権返還にあたっては、日米安保条約及びこれに関連する諸取決めが変更なしに沖縄に適用されることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日本の安全は極東における平和と安全なくしては十分に維持することができないものであり、したがって極東の諸国の安全は日本の重大な関心事であるとの日本政府の認識を明らかにした。総理大臣は、日本政府のかかる認識に照らせば、前記のような態様による沖縄の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではないとの見解を表明した。大統領は、総理大臣の見解と同意見である旨を述べた。」 すなわち、極東の平和と安全についての日米の認識の共有を確認することにより、日本側は、事前協議に際して「ノー」と言う(戦闘作戦行動のための基地の使用を認めない)権利を留保しつつも、実際にその権利を行使する可能性は極めて小さいという政治的保証を米側に与え、「本土並み」返還への合意を取り付けたのである。なお、訪中の一ケ月前の八月未にハワイでニクソン大統領と会談した田中総理は、中国との国交正常化は安保条約と関わりない態様で行う旨を述べて、同大統領の了解を得た経緯があるが、これは、右に触れた日米共同声明を念頭に置いてなされたものである。 以上の背景を踏まえながら、わが国として、台湾問題に関しどのような立場をとるべきであろうか。これが、当時の外務省事務当局に与えられた課題であった。 台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の主張を受け入れた場合は、台湾に対する中国の武力行使は国際法上内戦の一環(正統政府による反乱政権に対する制圧行動)として正当化され、他方、台湾防衛のための米国の軍事行動(中国の国内問題への違法な干渉)をわが国が支援する法的根拠が失われてしまう。これは、まさに地域的安全保障システムとしての安保体制の崩壊を意味する。わが国がこのような立場に立たされることは、中国が武力による台湾「解放」の可能性を排除しないとの立場をとっている以上、どうしても避けなくてはならないことは明らかであった。そこでわが方が中国側に提示した共同声明の台湾問題に関する原案は、まず前段において、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国の立場を引用し、後段で、「日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」としたのである。北京の人民大会堂で開催された第一回外相会談において、日本側は共同声明案を提示し、高島条約局長(当時)が大平大臣の指示に基づいて逐条的に案文の説明を行った。台湾については、サンフラン シスコ条約の下で全ての権利、権原を放棄したわが国は、同島の地位について発言する立場にないとの認識を述べた。 日中交渉の七ヶ月前の二月にニクソン大統領が訪中し、米中和解を謳う歴史的な上海コミュニケが発出された。その中で台湾問題について、米側は、「米国は、台湾海峡の両岸のすべての中国人は、中国は一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを認識する(acknowledge)」と述べるに止まった。日本としては、この米国の立場から踏み出すわけにはいかない、というのが共同声明案を起草した外務省(条約局) の考えであった。(ちなみに、わが方の照会に対する米側の非公式の説明は、「アクノレッジ」とは、文字通りアクノレッジという意味であり、それ以上のものではない、とのことであった。すなわち、中国人が主張している事実を認めたのであって、主張そのものを認めたものではない、という意味であると理解されたのである。) さて、「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」とのわが方案に対し、中国側の回答は、「ノー」であった。このような厳しい反応は、台湾に対して強い影響力を有している国は米国に次いで日本との実情を考えれば、予想されないことではなかった。したがって、訪中前に条約局は、中国がわが方案を拒否した場合に備え、ぎりぎりの第二次案を考えておく必要があると判断したのである。そして、そのような案としてわれわれ事務当局がポケットに入れておいたのが、当初案の末尾につなげて「ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」との一文を加えたものであった。 わが国が降伏に際して受諾したポツダム宣言 (日本の降伏条件を規定した宣言として、1945年7月26日付で米・英・中華民国三国首脳により発出)は、その第八項 (領土条項)において、「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルべク」と規定している。そして、同じ三国の首脳が1947年11月に発出したカイロ宣言は、台湾、膨湖諸島は中華民国(当時)に返還することが対日戦争の目的の一つであると述べている。「一つの中国」という立場から、中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の正統政府と認めるのであれば、カイロ宣言にいう「中華民国」とは、中華人民共和国が継承した中国である。したがって、カイロ宣言の履行を謳っているポツダム宣言第八項に基づく立場とは、中国すなわち中華人民共和国への台湾の返還を認めるとする立場を意味するのである。 姫鵬飛外相を通じてわが方の第二次案を受け取った周恩来総理は、これを受け入れる決断をした。中国側の同意を知らされたわれわれは、筆者を含め、これで正常化交渉はまとまったと感じた。ポツダム宣言第八項に基づき、台湾の中国への返還を認めるとの立場は、次の二つのことを意味している。第一に、台湾の最終的地位は未解決であるとの認識である。これは、台湾が中華人民共和国の領土の一部になっているとする中国の立場とは異なるものである。しかし、中国にとってより重要な第二の意味は、台湾が中華人民共和国政府によって代表される中国に返還されるのをわが国が認めることであるから、「二つの中国」あるいは「一つの中国、一つの台湾」は認めない(すなわち、台湾独立は支持しない)、ということである。周総理は、この日本の第二次案を正確に理解し、台湾の地位に関する法律論よりも、日本が台湾の中国への返還にコミットしたことが持つ長期的かつ政治的意味を重視したものと思われる(すくなくとも筆者はそのように考えている)。また同総理は、結局台湾問題の鍵を握っているのは米国であり、その米国が譲れない線を越えて日本が譲歩することはあり得ない、と判断したのであろう。 このようにして合意された日中共同声明第三項については、時の経過と共にinstitutional memoryが薄れ、不正確な理解の侭に議論が行われる傾向がある。 誤りの第一は、同項の日本国政府の立場表明の重点は、後段のポツダム宣言への言及部分ではなく、前段の「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し」の部分にあり、かつ、その趣旨は、中華人民共和国政府の立場を受け入れたものとする解釈である。この解釈が正しくないことは、すでに述べたとおり、当該部分がまさに中国が拒否したわが方の第一次案であったという交渉経緯に照らせば明白である。中国は、「十分理解し、尊重し」の表現は不満足と考えたからこそ、受け入れなかったのである。 第二の誤りは、同項全体が中国の立場を認めたものであるから、台湾の地位をめぐる問題は中国の国内問題と認識されるべきであり、したがって、台湾は安保条約の対象外(同条約で言う「極東」 の範囲から除かれる) とする議論である。この点については、政府統一見解として行われた、次のような大平外務大臣の国会答弁(1973年衆議院予算委貞会議録第五号) があることに留意する必要がある。 「中華人民共和国政府と台湾との間の対立の問題は、基本的には (傍点筆者) 中国の国内問題であると考えます。わが国としてはこの問題が当事者間で平和的に解決されることを希望するものであり、かつこの問題が武力紛争に発展する可能性はないと考えております。なお安保条約の運用につきましては、わが国としては、今後の日中両国間の友好関係をも念頭において慎重に配慮する所存でございます。」 右の統一見解は当時慎重に準備されたものであり、これをより平易な表現に書き直すと次のようになる。 「台湾問題は、台湾海峡の両岸の当事者間の話し合いによって平和的に解決されるというのがわが国の希望であり、その結果、台湾が中華人民共和国に統一されるのであれば、わが国は当然これを受け入れる(それが共同声明第三項の意味である)のであって、当事者間の平和的話し合いが行われている限り、台湾問題は第三者が介入すべきではない中国の国内問題と認識される。 「基本的には」とは、そのような意味である。こうした認識を踏まえれば、武力紛争の可能性がないと考えられる現状では、台湾をめぐり安保条約の運用上の問題が生じることはない。しかし、将来万一中国が武力を用いて台湾を統一しようとして武力紛争が発生した場合には、事情が根本的に異なるので、わが国の対応については、立場を留保せざるを得ない。」 多少説明が長くなったが、以上が日中国交正常化に際して政府がとった立場であり、日中共同声明第三項の意味である。その後35年の間に二つの変化が生じた。一つは、米中国交正常化が実現し、米国の条約上の台湾防衛義務は消滅したことである。しかし、米国の行政府は、国内法(台湾関係法) によって、有事に際しては適切な対応を義務づけられているから、米台関係の問題の本質は変わっていない。二つ目の、そしてより重要な変化は、台湾における民主主義の定着である。その結果、台湾住民の圧倒的多数は政治体制に関する基本的価値観が異なる本土との統一を望まない、という現実を無視することの不条理が一層明らかになってきている。このような状況の下で東アジアの平和と安定を確保していくためにわが国がとるべき道は、一方において、本稿冒頭で言及した4月の日中共同プレス発表のとおり、日中共同声明に表明されている立場を今後とも堅持する(必要に応じ、わが国は台湾独立を支持しない旨を台湾当局に明確に伝えることを含む)ことであり、他方中国に対しては、台湾問題の平和的解決が日中両国が目指す「戦略的互恵関係」に欠かせない要素であることを訴え続けることであろう。 国際関係においては、時にはいかに努力しても解決できない問題が存在する。そのような場合の唯一の策は、無理に現状を変えようとせずに、辛抱強く時が経つのを待つことである。時間が現状を変え、当初は見えなかった解決策が浮かんでくることが期待できるようになる。台湾問題は、そのようなケースのように思われる。 (編集者注. この論文は『霞関会会報』2007年10月号に掲載されたもので、同会報および執筆者の了承を得て転載しました。)
台湾問題についての日本の立場-日中共同声明第三項の意味-栗山尚一(元駐米大使)JIIA -日本国際問題研究所-コラム/レポート
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(注)、これは、本編となる別途作成予定ファイルの資料編です。1952年5月1日のメーデー事件から50年以上経った現在も、人民広場における戦闘状況、その前後の様子は、「藪の中」にあります。このファイルは、その真実解明のための第一次資料7篇と解説です。添付地図は4枚とも、『メーデー事件裁判闘争史』にあります。写真9枚は、『昭和史14』(毎日新聞社、1984年、絶版)、『グラフィック昭和史11』(研秀出版、1960年、絶版)、『メーデー事件写真集』(メーデー事件被告団、1967年、絶版)からの複写です。
〔目次〕
1、解説(宮地)
1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
2、資料編題名『広場における戦闘』 人民広場地図
3、広場の七人が語る〔真相〕
2、資料編
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
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『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士��像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
1、解説(宮地)
〔小目次〕
1、芥川竜之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
2、資料編題名『広場における戦闘』
3、広場の七人が語る〔真相〕
1、芥川龍之介『藪の中』と黒澤明『羅生門』
この小説と、それを原作とした映画は、平安の乱世、都に近い山科の藪の中で、旅の武士が殺された事件をめぐるストーリーです。そして、その経過をめぐって、7人または4人が、それぞれの視点で語る〔真相〕をそのまま描いて、結論を出さないというユニークな構成になっています。
『藪の中』の7人が語る〔真相〕 登場人物は、木樵り(きこり)、旅法師、放免、媼(おうな)、多襄丸(たじょうまる)の白状、清水寺に来れる女の懺悔、巫女の口を借りたる死霊です。
『羅生門』の4人が語る〔真相〕 映画のシナリオは、それらを、多襄丸(三船敏郎)、真砂(京マチ子)、巫女の口を借りた武士(森雅之)、杣売り(そまうり、志村喬)に絞っています
いずれも、一つの事件について、関係者めいめいが主張する〔真相〕通りに、繰り返し描いています。しかし、かんじんなところでは、全員が食い違っています。人間、誰でも自分をかばうエゴイズムから、どこかで嘘をつき、結局、真実はわかりません。私(宮地)は、気に入った映画を繰り返し観るのがくせで、一番多いのは、エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』の7回ですが、『羅生門』も5回観ました。黒澤明のダイナミックな演出や、宮川一夫の微妙な光と影を写し撮る撮影技術には、その都度引き込まれます。
1952年5月1日、サンフランシスコ講和条約発効から3日目、米軍占領終結後初の首都メーデー中央集会が、神宮外苑で開かれました。そこから5つのコースでデモ隊が出発しました。そのうち、日比谷公園で流れ解散する予定の中部・南部コースのデモ隊が、人民広場と呼ばれる皇居前広場に入りました。その広場で起きた事件が、メーデー事件です。
このメーデー事件の〔真相〕については、数百の記事、証言が語ってきました。このファイルは、資料編と解説であり、広場の7人が語る〔真相1~7〕を、結論を出さずに提出します。
��、資料編題名『広場における戦闘』
ただ、資料7篇とはいえ、それらの資料選択をした私(宮地)の価値判断をまったく出さずにおくわけにもいかないので、ここに、本編の骨子一部のみを書きます。この内容は、メーデー事件の全体像・真実を描くんだとする、大それた意図に基づくものではなく、私が50年後に主張する〔真相8〕に該当します。私自身を、『藪の中』の8人目として登場させるわけです。その視点は、ソ連崩壊後に発掘された朝鮮戦争をめぐるスターリン・毛沢東・金日成らの膨大な秘密暗号電報・公文書(アルヒーフ)データや、50年間で判明してきた後方基地武力かく乱戦争行動実態資料から、メーデー事件を、ソ連共産党・中国共産党の朝鮮戦争参戦軍事命令に完全従属していた日本共産党の広場突入軍事行動という一側面から捉え直すことです。ソ中両党の思惑とアメリカ「軍」・GHQの動向とを合わせて、国際的視野から、メーデー事件を位置づけることです。その詳細は、本編で分析します。
それを分析する上で、まず、メーデー・吹田・大須事件などの武装闘争を実践した主体は、徳田・野坂分派という分裂した共産党の一部なのか、それとも、“統一回復”をした日本共産党そのものなのかを、明確にしておく必要があります。1951年10月初旬、宮本顕治は、スターリンの「宮本らは分派」との裁定に屈服しました。国際派とは、スターリン直筆の「コミンフォルム批判」の即時無条件受諾=暴力革命路線への転換と武装闘争即時遂行を強烈に主張したスターリン盲従派だったのです。その国際的隷従体質が、国際派と呼ばれる所以(ゆえん)です。なかでも、宮本顕治のスターリン盲従・崇拝度は、あまりにも極端だったので、中央委員の80%、専従の70%、党員の90%が、彼に反発を抱き、国際派は、まったくの少数分派に転落していました。スターリンは、日本共産党を朝鮮戦争に参戦させ、後方基地武力かく乱戦争行動を展開させるために、もっとも熱烈に自分を信奉してくれている“愛すべき”宮本顕治ら10%少数派を切り捨て、ソ連NKVDスパイ野坂参三と徳田球一らの主流派に軍配を上げたのです。
スターリン崇拝者・宮本顕治は、やむなく、自分の少数分派=全国統一会議を解散し、主流派・軍事委員長の志田重男に、「新綱領(スターリンが直接書いた51年綱領)を認める」との自己批判書を提出しました。彼の屈服により、反徳田5分派はすべて主流派に屈服・復帰し、日本共産党は、“統一回復”をしました。
宮本屈服数日後の1951年10月16日、五全協は、軍事方針をさらに具体化し、武装闘争の実践に踏み出しました。それ以後、1953年7月26日の朝鮮戦争休戦協定成立日までの1年9カ月間の武装闘争とは、まさに、ソ中両党の軍事命令に隷従した“統一回復”日本共産党が、朝鮮戦争に参戦した後方基地武力かく乱戦争行動でした。
『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの動向、宮本顕治のスターリン盲従度
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』たった8字の宮本顕治の自己批判書
人民広場とは、皇居前広場のことで、日本国民は、米軍占領下でも、メーデーなどに40数回使っていました。ところが、吉田内閣とGHQリッジウェイ最高司令官は、スターリン・毛沢東・金日成ら3カ国共産党・労働党が仕掛けた朝鮮侵略戦争が勃発すると、その10カ月後の1951年4月27日、その兵站補給後方基地日本における治安維持のために、人民広場のメーデー使用を禁止しました。よって、それ以来、「人民広場奪還」スローガンは、東京・関東地方における正当な国民的要求になっていたのでした。
一方、アメリカは、日本を反共の永久的な不沈空母基地にするために、占領をやめ、独立させることのほうが上策との東アジア支配・米ソ冷戦戦略に転換しました。そこから、熱い朝鮮戦争最中にもかかわらず、1952年4月28日に向けて、単独講和条約締結の準備を進めました。その日本国内では、ソ中両党が出した朝鮮戦争参戦命令に盲従していた日本共産党の四全協・五全協による武装闘争・軍事方針とその遂行が勃発していました。それだけでなく、北朝鮮系在日朝鮮人45万人と、在日朝鮮人日本共産党員を中心とする祖国防衛隊(祖防隊)が、金日成らによる朝鮮侵略戦争を、祖国解放戦争ととらえて、総決起していました。当時、在日朝鮮人の活動家は、朝鮮労働党ではなく、日本共産党に入党し、共産党中央の民族対策部(民対)の指導下にありました。アメリカ「軍」は、朝鮮半島で、最終的にアメリカ兵3万4千人(アメリカ国防省発表数字)を戦死させる激戦を続けていました。片や、日本経済は、朝鮮戦争特需によって、急速に復興しつつありました。4月28日講和発効後の日本国内治安対策こそ、アメリカの日本占領「軍」と吉田内閣にとって、最重要課題の一つに浮上してきました。なぜなら、まさに、その3日後には、「人民広場奪還」をめざすメーデーが計画されていたからです。政府・警視庁とGHQは、日本共産党が、五全協軍事方針の最大の実践として広場突入軍事行動を決定し、3カ月前から周到に準備し、突入部隊の軍事訓練をしていることを、公安調査や中核自衛隊員・祖防隊員などの中から飼育したスパイ情報によって、刻々とつかんでいました。
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階
1952年4月末時点、朝鮮半島で、朝鮮侵略戦争を遂行しているマルクス主義前衛党「軍」は、朝鮮労働党人民軍10万人、中国共産党人民義勇軍のべ300万人、ソ連共産党空軍のべ1万数千人でした。後方基地にいるソ中両党従属下の日本共産党「軍」は、結成途上でした。それでも、都市部の中核自衛隊500隊1万人、独立遊撃隊、山村工作隊、在日朝鮮人の祖防隊数千人がいました。共産党の軍事指令が浸透する大衆団体には、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組、産別の金属労組、前進座、および、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)などがありました。
朝鮮侵略戦争を遂行中のソ中両党、および、その完全従属下にある日本共産党北京機関と中央軍事委員会にとっても、1952年メーデー「人民広場奪還」作戦こそは、6カ月前に決定した五全協の軍事方針を実行する最初で最大の後方基地武力かく乱戦争行動会戦に浮上したのでした。アメリカGHQ・吉田内閣・警視庁の7つの方面本部部隊数千人と、ソ中両党・徳田野坂の北京機関・日本共産党軍事委員会とは、それぞれ正反対の思惑を秘めて、五全協後の半年間、メーデー人民広場会戦に向けて、戦争作戦準備と戦闘体制を整え、5月1日、デモ隊鎮圧治安行動と広場突入行動とを激突させたのです。これら準備の詳細については、本編ファイルで分析します。
しかし、共産党の戦闘作戦は、敵=政府・警察軍と共産党「軍」だけによる人民広場会戦ではなく、メーデー参加の一般国民を、どれだけ、いかに巻き込むのか、それによって首都東京で革命的情勢をいかに人為的に醸成するのかという戦略目的を持つものでした。言い換えれば、共産党は、講和3日後に50万人が参加するメーデーこそ、共産党による一般人民利用の絶好の舞台であると設定したのです。なぜなら、共産党は、最初から、広場突入作戦を、自分たちの共産党「軍」だけでやり、警視庁の7つの方面本部部隊数千人との戦闘をやる意図・計画などをまるで持っていなかったからです。
5月1日の人民広場における戦闘の参加者と、その比率を確認します。
第一、共産党系大衆団体を合わせた日本共産党「軍」数千人
中核となる共産党員部隊は、中核自衛隊、独立遊撃隊、山村工作隊、祖防隊です。党中央軍事委員会が、馬場先門を突入入口とする中部デモ隊に配備した大衆団体は、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員、前進座などでした。そして、祝田橋を第2の突入入口とする南部デモ隊の先頭には、一般国民を広場突入に誘導する目的で、産別の金属労組、都学連一部、北朝鮮系在日朝鮮人組織の民戦2000人を配備しました。さらに、前進座には、陣太鼓10個以上を持ち込ませ、その鳴らし方で、広場突入または一時後退の合図とする指令を、各中核部隊に周知徹底させていました。前進座陣太鼓の後に設置した、広場突入指令のメーデー会場内秘密共産党本部には、東京都内5地区・三多摩地区軍事委員会から、各数名づつの軍事レポ要員(各戦闘部隊への連絡員)を配備しました。表にでる本部代表には、岩田英一を任命しました。
桜田門 二重橋
馬場先門
第二、人民広場に入った中部・南部コースのデモ一般参加者2万数千人
中央メーデー大会参加者は、50万人でした。デモ5コース中、日比谷公園で流れ解散予定の中部・南部コースのデモ一般参加者は、十数万人です。彼らは、東京地裁の使用許可決定が出ているのに、なお人民広場を使用させない政府の対応に怒りを持ち、人民広場奪還の要求を正当と認めつつも、大会実行委員会による抗議声明と広場進入をしないという決定に賛成していました。実力で、広場突入をすべきと考えた一般参加者は、日本共産党「軍」数千人を除けば、ほとんどいなかったでしょう。ましてや、彼らは、軍事委員会の広場突入作戦計画の存在などまったく知りませんでした。共産党の扇動・誘導部隊が突入したので、かつ、馬場先門・祝田橋において、警察が阻止行動を謀略的にほとんど行なわなかったので、自然発生的に人民広場に入ったというのが、一般参加者2万数千人の実態です。よって、警視庁の7つの方面本部予備隊が、警棒・催涙弾・ピストルで、3次にわたる違法な先制襲撃をしてくるなどとは、予想もしていませんでした。その激戦になることを予想し、準備していたのは、日本共産党「軍」数千人だけでした。ただ、違法な襲撃を受けた一般参加者が、それに怒って、投石・プラカードなどで反撃したのは、当然で、正当防衛の行為といえます。
第三、政府「軍」=警視庁7つの方面本部予備隊4100人
中部コースからの全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員が、馬場先門から突入しようとしたとき、馬場先門の阻止線に配備されていた警察隊は、450人でした。祝田橋阻止線の警察隊も120人でした。二重橋前の本部でも、210人でした。不思議なことに、馬場先門の警察隊長は、警視庁本部から「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通せ」との命令を受けていました。その裁判証言どおり、彼らは、若干の小競り合いを演技しただけで、さっと左右脇に引き下がって、全学連・都学連数千人、民青、全日土建労組員らを、人民広場に“逆誘導”したのです。祝田橋でもほぼ同じでした。
中部コース隊が、人民広場に入っていった時点で、警視庁は、第3の桜田門から、続々と警視庁第2~第7方面本部予備隊を、広場に投入しました。全体で4千人以上の警視庁予備隊・約28個中隊は、警棒・催涙弾・ピストルなどで、完全武装していました。予備隊とは、現在の警察機動隊のことで、7つの方面本部は、この時すでに、その下に各4個中隊の首都治安維持・デモ鎮圧目的の機動隊を結成・配備していました。そして、警視庁本部の襲撃命令に基づいて、3次にわたる違法な先制攻撃という戦闘を遂行しました。そこでの攻撃対象は、日本共産党「軍」部隊と一般国民との区別をまるでしません。それは、まさに、警察側の全武器を使った無差別テロ襲撃でした。
政府・警視庁の意図・目的を露骨に示した証言があります。それは、田中栄一警視総監が、事件の翌日5月2日、東京都議会で行なった報告です(『メーデー事件裁判闘争史』闘争史編集委員会、1982年、P.173)。「各署それぞれ自己の勢力によって自衛体勢をとるということを建前にいたしまして、予備隊その他メーデーに直接関係のある、あるいは出発地、あるいは開催地などの署員を合算いたしまして、大体四千百名の勢力によってこの五つのメーデーを取締りするという計画を立てたのであります。そして皇居前広場にこれを導入いたしまして、やがてこの五つのメーデーが逐次解散をするとともに勢力を引き上げまして皇居広場にこれを注入いたしまして、そしてこの大集団を処理するという予定を立てておったのであります。ところがこのメーデーの行進がきわめて迅速であり、またそうしたために勢力を集中することが時間的に若干ずれが生じました」。
これは、政府・警視庁の意図と具体的な広場戦闘作戦が、「先頭部隊である学生集団は、阻止しないで通」し、「皇居前広場にこれを導入」し、「四千百名の勢力を、順次、皇居前広場に注入」し、「この大集団を処理するという予定」だったことを、翌日、誇らしげに報告したものです。彼らは、共産党「軍」の明白な朝鮮戦争後方基地武力かく乱戦争行動の目的とは別個に、講和条約発効3日後のメーデーにおいて、人民広場突入会戦を仕掛けた側を、わざと皇居前広場に導入しておいてから、完全武装の警視庁「軍」の3次にわたる先制攻撃によって、無差別の集団処理をし、それを通じて、日共の戦争犯罪を国民の前に暴露し、同時に、日本の治安体制を、独立3日目から一挙に打ち立てようという壮大な目的に基づく人民広場会戦にしたのです。
彼らは、警視庁本部に刻々と入る公安・スパイ情報を分析しながら、共産党「軍」が広場突入軍事作戦を決行してくれることを逆手にとり、首都の治安確立をし、かつ、警察予備隊=機動隊28個中隊に暴徒鎮圧大戦闘を初めて実体験させる上で、願ってもないような絶好のチャンス到来であるとして、待ち構えていたのでした。
さらにもう一歩踏み込んだ別の言い方をすれば、日本共産党「軍」は、広場突入会戦において、一枚上手の政府「軍」のわなに見事にひっかかったといえます。なぜなら、メーデー事件の全経過を見ると、政府・警視庁は、警視庁隊4100人を待ち伏せさせ、共産党「軍」を、2つの門の阻止線を空にして、人民広場に突入させるという逆誘導をしておいてから、解散警告なしに警棒を使った第一次先制襲撃をしたのです。そして、桜田門側から続々と注入した新武装部隊による催涙弾・ピストルを使った第二次包囲殲滅・広場追い出し襲撃に移行し、さらには広場外へも大追撃戦を展開して、大量逮捕の第三次掃討戦闘を遂行するという、3段階にわたる緻密な戦闘作戦を、事前に持っていたと推定できるからです。
それにたいして、志田ら共産党軍事委員会は、広場突入後の敵の出方、敵「軍」が3段階にわたって、日共「軍」殲滅作戦をするのではないかという想定をまるでしないままで、一般国民2万数千人を、“自分たちの戦争”の道連れにしたのではないかと推定できます。
戦争において、敵「軍」の侵略・突入作戦計画を事前に十分知りつつ、敵「軍」をして、先に戦争を仕掛けさせておき、国際・国内世論を味方につけ、それから、完璧な戦争システムで“正義の反撃戦争”に進むという手口は、アメリカ「軍」が得意とする常套手段です。第1のケースは、日本海軍によるパールハーバー突入・奇襲攻撃です。ルーズヴェルトが、日本「軍」の暗号電報解読などで事前に知っていて、突入をやらせ、「Remember Pearl harbor!」で、アメリカ世論を参戦に転換させる謀略作戦をとったということは、今や常識に近いでしょう。第2ケースは、スターリン・毛沢東・金日成の共謀による朝鮮人民「軍」10万人の38度線突破侵略戦争です。トルーマン・マッカーサーが事前にその情報を得ていて、先に侵略をやらせたことについては、萩原遼が『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋社)で、アメリカ側データの分析により、完璧に論証しました。
メーデー事件当日は、朝鮮戦争の真っ最中であり、かつ、3日前まで、アメリカ「軍」が日本を軍事占領していました。吉田内閣・警視庁だけでなく、GHQも、アメリカ「軍」がたたかって、5万人ものアメリカ兵が最終的に戦死した激戦状況において、日本共産党「軍」の広場突入作戦が、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動であり、かつ、それは、ソ連共産党・中国共産党による日本共産党への軍事命令に基づく一大会戦の性格を持つことを認識��ていました。そもそも、敗戦後40数回も使用してきた人民広場を、朝鮮戦争勃発の10カ月後に、使用禁止の占領軍命令を出したのは、GHQです。GHQは、人民広場使用または突入の政治的軍事的意味を、もっとも正確に理解していました。したがって、このメーデー事件めぐる動向は、アメリカ「軍」の常套手段としての第3のケースになるというのが、国際的視野から見た私(宮地)の見解です。この事件の背景には、GHQと政府・警視庁トップらによる、朝鮮戦争がらみの共同謀議が、メーデー当日前に成立していたと判断できます。
占領・行政・反乱鎮圧体験を豊富に持つ米日権力「軍」にたいして、日本共産党「軍」は、ソ中両党の完全従属下にあり、敗戦7年後で戦争拒絶の国民意識を自主的に分析する能力に欠け、中国共産党「劉少奇テーゼ」という植民地型の人民解放戦争スタイルを、発達した資本主義国日本でやれとの毛沢東・劉少奇の軍事命令に盲従した軍事方針で立ち向かったのです。人民広場における武器量・武装力の違いだけでなく、広場突入会戦の戦略・事前作戦計画・相手方の情報収集戦の段階から、共産党「軍」は、敵の出方のわなにはめられていたといえます。メーデー事件に関するGHQレポートが、アメリカ政府・国防省に送られ、保管されているはずです。それが発掘されれば、『藪の中』の真実解明に一歩近づくでしょう。
3、広場の七人が語る〔真相〕
以下の七人(組織)以外に、マスコミ報道、映像、メーデー参加者の発言、裁判における検察側・弁護側証人の証言、第一審・二審判決文という資料が膨大にあります。それらの内容は、概況的なものから、各個人の断片的な体験記など、それぞれ数百人が語る〔真相〕です。その中から、このファイルでは、広場の七人が語る概況的な〔真相〕のみを、資料編として抽出します。
ただ、芥川龍之介も黒澤明も、各自が主張する〔真相〕のうち、いずれが「真実」なのかを結論づけず、多面的な視点をそのまま提出して、小説・映画を終えています。『羅生門』の視点は、日本国内上映当時、不評でした。それにもかかわらず、ヨーロッパ近代個人主義の風土において、1951年、ベニス国際映画祭グランプリをとったのは、各自が主張する〔真相〕と、事件の「真実」とは異なり、真実は『藪の中』にあり、そのいずれかを絶対的真理と断定することを拒絶するという相対化思考がありました。メーデー事件は、この受賞の8カ月後でした。
私(宮地)も、メーデー事件から50年以上を経過した現在、別ファイルの本編において、〔真相8〕宮地健一『メーデー事件における広場突入軍事行動―志田・宮本が隠蔽した裏側の真相』を書いて、藪の中の「真実」解明の一員に参加する予定です。
2、資料編
〔小目次〕
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他 写真3枚
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他 写真2枚
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』 地図3、写真4枚
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
〔真相1〕 日本共産党中央軍事委員会『メーデー事件の軍事的教訓』他
(注とコメント)、これは、共産党中央委員会発行の非合法機関誌『国民評論40号』(1952年7月1日)に、軍事委員メンバーが、ペンネーム大橋茂で発表した���文です。この全文を捜しましたが、私(宮地)の手元にまだありません。よって、大井廣介『左翼天皇制』(ぺりかん社、1976年、絶版)に載っている抜粋文(P.104~108)の全文を転載します。他1篇は、同じく、非合法機関誌『組織者11号』(1952年6月1日)に発表された論文の一部で、大井著書(P.108)にあります。この論文は、日本共産党が、広場突入を、まさに人民広場戦争と位置づけていたことを示す証拠文書であり、その内容は、共産党「軍」側が描いた広場突入会戦の生々しい戦記レポートといえます。
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『メーデー事件の軍事的教訓』 『国民評論40号』
中核自衛隊、行動隊による宣伝は会場内の空気を変え、全大衆を人民広場へみちびく雰囲気をつくりあげた。……このメーデー事件の全体をつうじて行動隊の宣伝活動がひじょうに大きな役割をはたしている。(中略)
○時四十分にデモがはじまった。中核自衛隊、行動隊等は大衆を人民広場へ導くために全力をつくした。日比谷にむかう南部、中部デモ隊のほかに、渋谷にむかう西部デモ隊は七千が渋谷へ、一万二千が人民広場へむかった。北部でも、愛労に指導され新宿にむかうものと人民広場へむかうものとに別れた。……デモ隊はアメ公帰れ、吉田を倒せ、戦争反対等のスローガンを叫び、自由党本部前では石を投げて攻撃し、パトロールカー、首相官邸前交番等へも石による攻撃を行い、革命的に行動した。(中略)
この大衆の人民広場への行動を弾圧するために、敵は周到な計画を立てていた。かれらは日比谷交叉点、GHQ前、丸ノ内署前に、丸ノ内署長の指揮する約三百名の警官を待機させ、馬場先門には三田署長の指揮する水上中隊、祝田橋入口には高輪中隊、桜田門には小田小隊等総数二百をあて、そのほか第一方面予備隊三箇中隊を出動させていた。それらの部隊ではデモ隊をそ止しえないことは明らかである。
かれらの計画は、この少数の警備隊によって、デモ隊を人民広場の中央にゆう動し、ここで包囲攻撃をすることにあった。かれらはそのために、第三方面予備隊四箇中隊、第四方面予備隊四箇中隊、第五方面予備隊四箇中隊、第六方面予備隊四箇中隊、第七方面予備隊三箇中隊を人民広場の周辺に待機させていた。しかも、これらの部隊には、ガス班長の指揮する約十名単位のガス班も数十組も組織していた。
デモ隊は、二時二十分頃日比谷交叉点および馬場先門で警官隊と小ぜりあいを行ない、この警官網を突破して馬場先門から二重橋前に到着した。ここで大衆は万歳を叫びアカハタをたてた。大衆は大会を開き、解散する準備をはじめていた。ところが、敵は皇居警護官約百名、第一方面予備隊三箇中隊、三田署部隊約二百名の他に、さらに第七方面三箇中隊を増強し、これを一つに集中した。かれらは乱暴にもコン棒をふるって攻撃を開始した。大衆はこれを二重橋前に押しつめた。敵と味方の間隔は数米しかない状態だった。
この対峠したなかで、デモ隊から「さがれ���という号令を叫ぶものがあった。大衆はうねるようにしてさがった。官憲は前進してきた。すると大衆は、これを引きずりこみ、プラカード等で攻撃を加えた。あわてた敵の指揮官は「警官隊さがれ」と叫ぶ、敵が後退する。デモ隊はふたたび包囲環を縮めた。このような前進と後退が数回くり返された。そのたびに敵は打撃を受けた。これはまったく創意的な戦術だった。
しかし、この時期は戦術的にはもっとも重要な時だった。敵の兵力は約九百、味方の行動実勢力は約五千とみられる。しかも敵は動揺し、味方の志気はたかかった。したがって、ここで集中した敵の力を分散させ、これを個別的に攻撃することは可能だった。ところが、この有利な条件を戦術的に運用することがなされなかった。弱い敵の集中にたいし、味方の体制も密集体形から変化させることができなかった。この結果敵はだいたい八十名よりなる一箇中隊を単位に最後まで組織的に行動することができた。かれらは全滅する条件にさらされ、指揮官自身があわてて発砲するようななかで、部隊として大きな被害を受けなかったのである。
いま一つ味方の弱点は、全体がデモ隊のなかに解消し、予備行動のための強固な遊撃部隊を組織していなかったことである。このために、敵の弱点を機動的に集中的に攻撃することができず、また敵の増強部隊にたいしてそなえることができなかった。
包囲された敵は、不法にも拳銃を発射し、ガス弾を使用した。第一方面の長岡第二、永井第四部隊が攻撃の主力になっていた。かれらはこの時五十発のピストルと六十八個のガス弾を使っている。デモ隊は勇敢にもガス弾を投げ返し、敵に損害をあたえたが、全体としては相当の犠牲を受け後退した。この後退した場合も敵を引きこみ、包囲することは可能だったが、密集体形のまま祝田橋通りを挟んで敵と対時した。この戦闘において味方の弱点は味方の部隊を大きく動員し、敵を包囲する体制に指揮することができなかったことである。
この対峠したなかで、デモ隊は敵にたいして、「お前達は何しに来たのか」「泥棒をつかまえろ」「アメ公の番犬」「どちらが悪いか考えてみろ」「税金つぶし」などと叫んで攻撃を加え、敵にたいする憎しみをバク発させていた。敵がコン棒を振るとデモ隊は石を投げて攻撃した。敵のなかからも「片っぱしからつかまえろ」「あいつをやれ」など号令をかけてきた。とくに、四十歳位の頭髪の薄い指揮官が六尺棒を振って大衆をなぐりながら指揮していた。見物している者もこの官憲の残酷さにあきれ、全体がデモ隊を支持していた。見物の大衆のなかから官憲にたいしてバ声や石つぶてが飛んでいた。先遣デモ隊は人民広場に入ってからこの時まで約一時間にわたって勇敢に闘い抜いたのである。このことは国民武装の可能性を事実によって示した。(中略)
先遣デモ隊がガス弾ピストルの攻撃を受け、祝田橋通りへ後退しつつある時、中核自衛隊の一部は後続デモ隊に急を知らせるために走った。後続デモ隊でも「人民広場へ」「仲間を孤立させるな」が大衆の声となった。社会民主主義者はこの大衆を押え先頭の速力をおとして先遣デモ隊を孤立させようとした。しか��大衆はかれらをツルシあげながら三時二十五分頃から続々と祝田橋を渡り人民広場へ入った。広場の大衆は熱狂してこれをむかえた。新しい部隊を加えてデモ隊は馬場先門通りをはさんで大きく二つの群に別れた。この時、敵もまた増強しつつあった。先ず第六、第七、第三各方面予備隊七箇中隊が桜田門より入り、第一方面予備隊と合流した。大衆は再び体勢を整え、風上へ風上へと向いながら二つの群が一つとなり敵を二重橋前に圧迫した。これによってデモ隊は第二の勝利をかちとった。この闘争の中で最も重要と思われる時機をつかんだのである。しかし、誰も敵を圧迫した重要なこの時に更に何を行なうべきかを大衆に示すことが出来なかった。デモ隊を指揮していた人々も、この瞬間に何をやるのか決断がつかず躊躇した。従って、大衆の意志と行動を一つの方向にむけることができなかった。この結果大きな戦術的な行動を組織する機会はにげ去ってしまったのである。
この時敵の兵力は、予備隊十五箇中隊を主力とする約千五百、味方は敢闘して結集しているもの約一万、同調的なもの約二万合計三万とみられる。従ってここで開いながら革命的な大会を持ち、解散することも不可能でないし、これを妨害し、攻撃する敵を第一回に敵を圧迫した時と同じように分断して攻撃することも可能であった。ところがこの大きな機会を失ない味方を守勢に立たす危険に陥ったのである。この闘争全体を通じてこの高揚した大衆を指導する能力と体制に欠けていた。これが決定的な弱点であった。この弱点をすくったのは、大衆の革命的な行動であった。敵は、再びガス弾とピストルでもって攻撃を開始した。中核自衛隊を中心とする大衆は、この攻撃に勇敢に抵抗した。石、プラカード、旗竿等を武器にして、敵を引きこんではこれを打ちのめし、反撃しては敵に打撃を与えた。敵も味方もここで大きな犠牲を出した。この闘いの中で見物に集まった大衆の数は数万に及び、益々増えつつあった。この大衆もデモ隊に声援を送った。
敵は祝田橋を占拠し、大衆とデモ隊を断ち切り、デモ隊を包囲する作戦であった。そのための行動が数回にわたってくり返された。しかし、これは成功しなかった。この包囲をゆるさなかったのは、デモ隊の勇敢な攻撃力と祝田橋から馬場先門に及ぶ見物している大衆の圧力であった。デモ隊は敵のピストルと闘いながら祝田橋通りを通り抜けようとする占領軍の車輌にもしばしば攻撃を加えた。味方は一つの密集部隊として攻撃しているのに対して敵は一箇中隊を単位として行動していた。このことは敵の弱勢を補った。この戦闘中に敵は更に第三方面四箇中隊、第四方面四箇中隊、第五方面四箇中隊、その他参議院警備中の予備隊等約十三箇中隊を増強した。その他四時過ぎには、各署から召集されたもの約二千名が加わった。この部隊を大きく横隊に組み両翼と中央の三方面から圧迫を加えてきた。大衆は、これを三回はね返した。
四時十五分頃デモ隊から流れでた一部が、日比谷公園側で占領軍の乗用車を襲い、これに火をつけた。これは、人民広場事件の政治的な性格を最もあざやかに示したものであり、大きな意義ある出来事だった。しかもこれは人民広場の中で闘っているデモ隊にとって行動の新しい方向を示したことになった。敵の圧迫によって、デモ隊の一部は祝田橋から電��通りへ退却した。これに続いて全デモ隊が見物の大衆に擁護されながら馬場先門と祝田橋から街頭に流れ出た。敵は残虐にもこの後退するデモ隊を背後からねらい打ちにした。特に見物の少い馬場先門寄りで最も残虐な攻撃を加えた。このためデモ隊には多くの犠牲者が出た。
占領軍の乗用車を焼きはらった経験は、すぐ一般化した。大衆は十五人位が一組にたり、次々と車を倒し、流れるガソリンに火をつけた。このため祝田橋から日比谷までの間に、米軍の自動車十三輌、警察の白バイ一台が焼きはらわれた。この事件の全体で八十三輌の事輌を襲撃している。もえあがる車輌を消火するために、丸ノ内、有楽町、永田町をはじめ各消防署から二十台の消防車と米国消防隊三隊が出動した。しかし大衆はこれを妨害し、ほとんど到着させなかった。デモ隊は丸ノ内一八二中隊の消防車を破壊し、中崎署長、長井司令補等十名をたたきのめした。有楽町一八二中隊のホースはほりに投げこみ、五中隊のホースは切断した。
この人民広場の事件で、敵は危篤四名・重傷七三名・軽傷七四三名・占領軍の負傷者四名と発表している。味方の死者、負傷者等正確な数字はわからないが千名近くにおよんでいる。この大闘争の中で国民救援会は大きな役割を果した。救援会救護班のトラックは、プラカードを立てて、ガス弾とピストルの飛ぶ中で負傷者を収容し、病院にはこんだ。見物の大衆は、カンパを行なってこの救援活動を援けた。
街頭に流れ出たデモ隊の一部は、日比谷公園や三信ビルの横に結集し、ここで小さなしかし鋭い闘いをくり返した。それは夜八時過ぎまでつづいた。(中略)
米帝と吉田の一味共は、この事件によって新しい敗北をなめた。これは全世界の平和勢力を勇気づけ、新しい国際的な実力闘争のノロシになろうとしている。日本の労働者階級は、この闘争によって、勝利の確信を固め、武装行動を目指す実力闘争を前進させつつある。この実力闘争、武装行動に守られ、広汎な国民の民族解放民主統一戦線は前進しつつある。われわれは、この闘争をいろんな角度から分析し、戦術的にも幾多の教訓をくみださねばならない。それによって発展しつつある闘争に役立てることが必要である。
『人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について』 『組織者11号』
日比谷公園の市街遊撃戦は前後三時間に亘って行われた。敵はジリジリと押してき、遂にその一角をすて日比谷映画附近から有楽町に至り、解散後も全都的に行われたものである。この闘争では、完全に敵をホンローした。敵はつかめないデモ隊に極度に神経を疲らせ、日比谷では映画見物帰りのアベック二組がなぐり倒され、中年婦人が意識不明に陥り、大衆の罵倒の的となった。(中略)
当夜デモ隊側でつかんだ彼我の損害は次の通り、
警官死亡三(うち一名は丸の内久保次���)重傷二八、負傷五三。堀へ投げこまれたもの六。ブル新カメラマン一名のばさる。
アメ兵、水兵二名、GI一、ガード一、堀へ投げこまる。高級車炎上十台、日比谷~馬場先門~都庁前のもの軒なみガラス破カイ。アメ公大型バスガラス破カイ(三台)。
自由党本部、明治ビルガラス破カイ。
デモ隊側死亡-都庁高橋正夫氏、東大一、法大一、をふくむ五名。うち一名はMPに射殺(当夜国救しらべ)。負傷者約三〇〇名(重傷多数を含む)。
〔真相2〕 警察庁警備局『皇居前メーデー騒擾事件』他
(注とコメント)、これは、警察庁警備局『戦後主要左翼事件・回想』(1967年、絶版)に載っている17事件の一つの「メーデー事件の概要」全文(P.132~134)です。別に、回想として、警察官3人の手記があります。それらの内容は、広場にいた警察官側からのメーデー事件です。共産党「軍」側から見れば、警視庁「軍」は敵であり、警察側から見れば、共産党「軍」と一般参加者は暴徒となります。他一篇は、警察文化協会『戦後事件史』(1982年、絶版)第7章「日本の独立―破防法の成立」にある「血のメーデー・検察側の見解」(P.362~367)です。
ただ、警視庁・東京地検側の『メーデー騒擾事件の総括』に関する極秘文書があり、そこには、メーデー事件裁判でも隠蔽した詳細なデータや、公安・スパイ情報が含まれているはずですが、現在まで、外部に漏れていません。これが、発見されれば、『藪の中』の「真実」にぐっと近づくのですが。というのも、『吹田・枚方事件の総括』に関する大阪府警・大阪地検の極秘文書が漏れ出て、枚方事件被告の脇田憲一が入手し、その秘密データも含めて、『吹田・枚方事件』を執筆・出版する予定になっているからです。
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『皇居前メーデー騒擾事件』
昭和二十七年のメーデーは、日米講和条約発効後初めてのメーデーであったが、当時は、破壊活動防止法反対闘争直後のことであり、また、朝鮮人団体は出入国管理法実に強く反対していたなどの情勢に加えて、厚生省が皇居前広場の使用を禁止したことなどもあって、革新系諸団体の気勢が大いにあがっていた。
大会は、午前十時三十分より明治神宮外苑において約一五万が参加して行なわれ、午後零時十分閉会、ついで五コースに分かれて会場を出発し、デモ行進に移った。当初、北部コースに編入されていた日本共産党員、学生、朝鮮人ら約三、〇〇〇人は、デモ出発の直前、急にコースを変更し、日比谷を解散地とする中部コースに加わってその先頭に立ち、途中、各所で投石やジグザグ行進などを行なって日比谷公園にはいった。
その後、この梯団は、気勢をあげながら皇居前広場をめざして不法デモに移り、これを阻止しようとした警察部隊に対し、竹槍(やり)、こん棒をふるって阻止線を突破し、さらにGHQ(連合軍総司令部)前で自動車一九台を破壊するなど、暴徒と化し、一気に皇居前広場に殺到した。さらに、三々五々、皇居前広場にはいった者もこれに合流し、暴徒の数は約四、〇〇〇人に達した。
午後二時三十五分ごろ、各所に配備されていた警察部隊は、急拠、二重橋前に転進集結し排除に当たったが、暴徒は、激しい投石を浴びせ、竹槍、こん棒などをふるって部隊に突入し、ついにけん銃を強奪するという事件にまで発展した。このような状況から警察側は、催涙ガスを使用するなどしてこれが鎮圧に当たり、遭遇戦さながらの状況を呈するに至ったが、暴徒の圧倒的勢力に押され、警察官に多数の重傷者が続出したため、やむを得ずけん銃を発射してこれを威嚇し、午後二時五十五分ごろ、一応、祝田橋通りまで制圧した。
一方、同時刻ごろ、南部コースの先頭梯団にいた朝鮮人約二、〇〇〇人が、日比谷公園から皇居前広場へ向って殺到し、祝田橋でこれが阻止に当たった警察部隊四八人全員に重軽傷を負わせてこれを突破し、さきの暴徒と合流した。このため、暴徒の数は七、〇〇〇から八、〇〇〇人となった。膨張した暴徒は、ますます気勢をあげ、竹槍を構えた朝鮮人約二〇〇〇人を先頭に激しく投石を加えながら攻撃をかけてきたので、警察部隊は、再度、催涙ガスを使用して、一せいに前進、制圧を加え、彼我(ひが)入り乱れて激しい攻防を展開し、ついに午後四時十五分ごろ暴徒を皇居前広場から排除した。
排除された暴徒は、付近に駐車中の外国自動車および警察車両十数台を次々に破壊、または放火炎上させ、日比谷公園内外および有楽町駅付近、馬場先門外等の各所において小部隊の警察官を襲い、重軽傷を負わせるなどの残忍な暴力を振るい荒れ狂ったが、午後七時ごろに至ってようやく平穏に復した。
メーデー騒擾事件における被疑者の逮捕は六九三人にのぼったが、一方、警察官も八三二人が負傷(生命危篤八、重傷七一、軽傷七五三)したのである。
『血のメーデー』 検察側の見解
計画的に会場から 先鋭分子が誘導 秘密会議で決定
皇居前事件について佐藤検事総長は、「デモ隊がコン棒その他をもっていた点などからみて、一部のものの計画的犯行だと思う」むねを語っているが、検察当局はこの事件を左翼先鋭分子の仕組んだ“計画的暴行事件”の色彩が強いとみている。ではデモ隊の一部はどのようにして“デモ終点”の日比谷公園から皇居前広場へ誘導されたか――以下は当局の調べ、目撃者の話などから総合したそのいきさつである。
○警視庁の情報では、今回の事件は去る二十九日、東京工大内で日共系先鋭分子により秘密のうちに決定された予定の行動だという。それによると、同日午前十一時から午後六時の間に同大地下食堂で日共系青年祖国戦線の主催により「反戦権利擁護労働青年全国会議」が開かれ全学連、祖防隊、民青など四十四団隊、七十五名が集って「人民広場を労働者の実力をもって奪取しよう」との決議を行い、全国の日共系先鋭組合と各種団体に指令したという。
○この指令を裏書きするように、この日、外苑の中央会場では午前十一時半すぎ、組合代表の演説が後二、三人で終ろうとするころ、共産系組合員、全学連、日傭労務者とみられる一群の約二百名が中央ステージに殺到「人民広場へ行こう」と騒ぎはじめた。重盛議長が「この度は統一メーデーだから統一的行動をしよう」と説得に努めたが、聞き入れられず、演壇は一時、この一群の人たちに奪われ混乱した。しかし、日共幹部の岩田英一氏が両者の間に入って代表に一席演説させることで混乱は収まり、式は終了した。
○かくて〇時二十分、デモ行進に移ったが、この時に学生、朝連系団体とみられる一群は、外苑の道路にピケラインを張って「人民広場へ行こう」とアジリはじめた。渋谷コースを行進していた西部デモ隊のうち学生を主力とする約二百名の一団は、これと呼応するように、青山四丁目角に差しかかると隊列をはなれ、日比谷の方向へ転進、日比谷コースを進んでいた中部デモ隊も赤坂表町付近にさしかかったころ、全学連の約五千名がデモ隊の先頭を追い越して口々に「人民広場へ行こう」と叫んだので、デモ隊の足並みは乱れてきた。
○虎の門コースを進んでいた南部デモ隊も文部省にさしかかった午後一時半ごろ金日成氏の肖像をプラカードにかかげていた北鮮の一隊が「人民広場へ」と叫びつつジグザク行進に移り、警官隊と小ぜり合いを演じ、外人乗用車に石を投げたりしはじめた。このころ中部デモ隊も永田町付近で自由党本部に小石を投げ、正面窓ガラスを破ったが、先鋭分子ははじめから小石をポケットに相当用意していたと見られるという。
○赤坂表町付近で行進の先頭に抜けがけして行進のイニシアチブを握った都学連、北鮮人、日傭労働者などの一群は、二時ごろ日比谷公園に入ると一応音楽堂付近に集った。この時十五、六のグループに分れて整列していた全学連の五、六番目に並んでいた「民主青年西部地区」というプラカードの一隊が「人民広場へ行こう」という叫びをあげた。これをキッカケに、デモ隊はドッと公園外に流れ出し、馬場先門方面へと濁流のように押して行き、これが時間の経過とともに、ふくれ上がって行ったのである。
正しく血のメーデーとなってしまった。働く者の祭典であるはずが、暴行集団となってしまったことは、世界中の電波に乗った。中でもアメリカ人にすれば恩を仇で返される思いがしたことであろう。メーデーの歴史を汚した事件として記録されている。
〔真相3〕 メーデー事件被告弁護団『メーデー事件裁判闘争史』
(注とコメント)、これは、メーデー事件裁判闘争史編集委員会編の822ページの大著(白石書店、1982年、絶版)から、事件の概要を書いた「序章」(P.12~16)の全文転載です。事件・裁判記録については、被告団長岡本光雄『メーデー事件―昭和史の発掘』(白石書店、1977年、絶版)があり、そちらでも事件概要を詳しく書いています。いずれも、被告・弁護団側からのメーデー事件と裁判闘争史です。検挙1232人、騒擾罪起訴被告261人でした。上記の解説でのべましたが、さらに区別すれば、これは、4種類の被告からなっています。
第一、広場突入軍事命令を遂行した日本共産党「軍」メンバーです。広場に入った3万人中、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・山村工作隊員・日本共産党員である北朝鮮系祖防隊員や、それらが突入の指導をした大衆団体は、数千人います。しかし、被告261人において、彼らが何人いるのかは、共産党が公表しないので、分かりません。日本共産党は、広場突入軍事作戦計画の存在を、裁判開始時も、六全協後も、全面否認しました。日本共産党は、共産党員被告だけのグループ会議を秘密に開き、否認を指令しました。共産党「軍」の被告も、その軍事方針については、党中央命令に従って、完全黙秘しました。よって、広場突入軍事命令を出した党中央軍事委員は、誰一人逮捕も、起訴もされていません。
第二、共産党「軍」以外の共産党員で、たまたま人民広場に付いて行き、警視庁「軍」の3次にわたる違法襲撃に怒って、反撃し、逮捕・起訴された被告です。共産党中央委員会は、第一と第二の比率を当然知っています。なぜなら、共産党中央委員会・党中央法規対策部は、共産党員被告の秘密グループ会議を、20年7カ月間の裁判過程で、何回も招集しているからです。もちろん、被告団の共産党細胞指導部(LC=Leader Class)も、党中央法規対策部員と共産党員弁護士・国民救援会細胞とを合わせて、結成し、裁判対策を、一般被告団会議の前に決定していました。この裁判グループ細胞結成は、吹田事件・大須事件においても、常識です。
第三、北朝鮮系在日朝鮮人の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)2000人と祖国防衛隊員(祖防隊員)たちで、逮捕された131人の内、起訴された日本共産党員です。彼らは、金日成らが仕掛けた朝鮮侵略戦争を祖国解放戦争ととらえ、朝鮮民主主義人民共和国国旗を先頭に、人民旗数百と金日成の写真プラカードを掲げ、第2の広場入口である祝田橋の先頭部隊の一つとして突入しました。彼らは、1955年の六全協まで、日本共産党員でした。同時期に、民戦は、朝鮮総連に組織転換し、それとともに、在日朝鮮人日本共産党員は、離党し、朝鮮労働党に入党し直しました。日本における朝鮮労働党組織は、学習組(がくしゅうそ)になりました。朝鮮総連も学習組も、本国の朝鮮労働党の直接指令を受けます。よって、1955年以降、メーデー事件裁判被告団は、その中に、朝鮮労働党員被告を含み、彼らは、朝鮮労働党の指導下で行動しました。
第四、共産党の広場突入「軍」に扇動・誘導されて、人民広場に自然発生的に入り、警視庁「軍」の3次にわたる無差別襲撃を受け、それに怒って反撃したが、広場突入作戦などまるで知らなかった一般参加者2万数千人の中で、逮捕・起訴された被告です。261人中、これら4種類の被告の比率は、共産党軍事委員会と六全協後の野坂・志田・宮本らごく一部幹部だけが知っています。メーデー事件の大弁護団も、グループ会議に参加する一部の共産党員弁護士以外は、これらの比率を知らされていないでしょう。
被告・弁護団の裁判闘争方針は、共産党「軍」の広場突入戦争作戦が現実に遂行されたのにもかかわらず、その存在を否認しつつ、騒擾罪無罪のたたかいをすることを強いられました。そこには、かなり無理がありました。なぜなら、メーデー人民広場突入事件の裏側の一側面は、政府・警視庁「軍」4100人の違法な先制襲撃という面だけでなく、ソ中両党の軍事命令に盲従した日本共産党「軍」が、まさに、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動として行なった最初の大会戦そのものだったからです。2つの『裁判闘争史』を読むと、その苦渋、停滞、被告団内の対立がにじみでています。共産党員以外の第四の被告たちは、警視庁「軍」の襲撃に怒るとともに、共産党「軍」の広場突入戦争作戦の存在と実態を明らかにせよと、共産党に強烈な批判と要求とを突き付けました。
私(宮地)の立場は、『裁判闘争史』の内容について、共産党の広場突入会戦遂行の諸事実問題とそれに関する記述以外では、『裁判闘争史』の見解と、騒擾罪無罪の判決内容を支持するものです。ただ、被告弁護団側が、4種類の被告を抱えて、被告団の統一を維持していくためには、「メーデー事件は、極左冒険主義の実践ケースではない」とする立場を貫かざるをえなかったことを理解します。といっても、それは、共産党が、広場突入軍事行動に関して、具体的な総括をし、それを公表すべきであるという前衛政党としての結果責任の取り方とは、別問題です。その結果責任には、“統一回復”共産党が、自分たちの朝鮮侵略戦争参戦のために、一般国民2万数千人を利用し、道連れにし、被告216人中の何人かを、20年7カ月間メーデー事件裁判の第四の被告にしたという道義的責任も含みます。これは、警察・検察側による弾圧、でっち上げ裁判という問題とは異なる、かつ、それに解消させることのできない共産党側の政治的道義的問題です。
私は、名古屋市生れ育ちで、大須事件の現場を熟知しています。また、愛知県の民青・共産党専従15年間において、大須事件の被告たち十数人を個人的に知り、話を聞いています。その裁判闘争においても、4種類の被告を含み、同様な問題が発生していました。大須事件検挙者は、日本人119人、在日朝鮮人150人でした。実刑判決確定で下獄した3人中、1人は在日朝鮮人でした。大須事件の共産党員被告だけのグループ会議が、私の共産党専従時代、所属する名古屋中北地区・愛知県委員会事務所の3階会議室で開かれるのを、私は何度も目撃しました。私は、騒擾罪判決が唯一確定した7・7大須事件も、5・1メーデー事件と6・25吹田事件と同じく、騒擾罪無罪であると確信しています。それだけでなく、3番目の事件として、警察・検察側による騒擾罪でっち上げの謀略性という面では、大須事件がもっとも悪質だと判断しています。大須事件の一端については、HPファイル『「武装闘争責任論」の盲点』で分析してあります。なお、下記文中の太字は、私(宮地)がつけました。
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一九五二年(昭和二十七年)五月一日――首都の労働者は第二十三回メーデーを迎えた。明治神宮外苑のメーデー会場から五つのコースに分れてデモが出発した。中部・南部二つのコースは日比谷公園を解散予定地としていた。いくつものデモ隊がそのまま日比谷公園を通り過ぎ、人民広場(皇居外苑広場)へ向かって進んだ。シュプレヒコールが湧きあがった。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
三日前の四月二十八日、「単独講和」と呼ばれ、その賛否をめぐって世論を二分した「平和」条約が発効した。七年に及ぶ占領は終った。だがアメリカ軍は帰らなかった。朝鮮戦争が続いていた。占領時代の抑圧政策もそのまま引きつがれていた。メーデー会場に人民広場を使うことは許されなかった。「独立」後最初のメーデー――禁じられていた言葉、いや「占領政策違反」という「犯罪」でさえあった、人民の叫びがほとばしり出た。ゴー・ホーム・ヤンキー! 人民広場をとり返せ!
午後二時二十分過ぎごろ、先頭のデモ隊が馬場先門に到着した。
この時馬場先門には約四百五十名の警官隊が配置されていた。二重橋へ向かう車道入口に阻止線を張った、わずか一個小隊三十数名の警察官もなぜか左右に開いた。デモ隊の前に人民広場への道がまっすぐに通じていた。車道一杯に広がり、スクラムを組んで広場へ入ったデモ隊は、広場へ入ったというその喜びのおもむくまま、やがて駈け足に変って行った。
二重橋前の砂利敷広場は、たちまち、万歳の声と打ち振られる赤旗、そして笑顔、握手、踊りの人波で埋まった。人びとは、二年間禁じられていたこの広場の土をその足で踏んだ。誇らかな満足感、解放感、ほっとした安ど感、疲労感。それぞれにかみしめながら、談笑し、歌い、あるいはひと息入れて、人びとは集っていた。
午後二時四十分。事態は急変した。
全く突如、警官隊が襲いかかったのである。馬場先門からデモ隊を追尾してきた警官隊が、デモ隊の先頭に回り込むやいなや、全体を二重橋側の堀際に押しつめるように、警棒をふりかざして殴り込んだ。一瞬にして起こる大混乱。警棒で頭を割られ倒れろ者、眼前に迫る警察官の形相におびえて後退する者、つまずき倒れる者。逃げまどう者の頭に、背にめった打ちされる警棒、傷つき倒れる者をさらに踏みにじる泥靴。
混乱するデモ隊の中に、二分後催涙ガス弾が、五分後拳銃弾が撃ち込まれた。数千のデモ隊は、多くの負傷者をかかえて、銀杏台上の島から楠公銅像島へ後退した(第一段階)。法政大の学生近藤巨士は、この時警察官に後頭部を強打された。五月六日未明、慈恵医大東京病院で、彼は二十二歳の生涯を閉じた。
午後三時過ぎごろ、新しいデモ隊が祝田橋から人民広場へ入った。中部コースの後続隊と、つづいて南部コースを行進してきたデモ隊である。
祝田橋上には約百二十名の警官隊がいた。一応阻止の隊形をとった警官隊と、デモ隊の先頭のごく一部との間で小ぜり合いがあった。だが、警官隊はすぐ広場の中へ引きあげてしまい、デモ隊の大半はなんの抵抗もなく祝田橋を渡った。中部コース後続のデモ隊の多くは、祝田橋を入ってすぐ右手の芝生、楠公銅像島に上がった。そこには、二重橋前で警官隊の襲撃に会い、追い散らされてきた人びとがいた。
そのころ、楠公銅像島上のデモ隊に対峠(じ)する形で、中央自動車道路をはさむ反対側の芝生、銀杏台上の島には、三個中隊約三百名の警官隊が隊列を整え、警戒配置についていた。つづいて祝田橋から入った南部コースのデモ隊は、この警官隊の前を通って中央自動車道路をまっすぐ行進し、やがて左折中央自動車道路に面した楠公銅像島上のデモ隊に対峙していた警官隊は、この時いっせいに引きあげ始め、二重橋前の砂利敷十字路付近に移動した。二重橋前砂利敷十字路……一九四六年(昭和二十一年)の第十七回メーデー以来、そこが大きな大衆集会の会場となった。つまり人民広場の中心であった。
楠公銅像島にいたデモ隊の中で、警官隊のいなくなった銀否台上の島へと移って行く動きが起こった。「解散集会だ。」「集会に集まろう。」呼びかけが伝わった。銀杏台の島に上がったデモ隊の一部も、銀杏台上の島の方へ移動し始めた。人びとは、この日人民広場へ入ることができたというだけで、満足だった。禁じられていた場所をとり戻した、という勝利感でもあった。目的はもうすぐ達せられる。しめくくりの解散集会だけが残っていた。
その期待で、デモ隊は、二重橋前砂利敷十字路をなかばとり囲むように、銀杏台上の島を中心に、右は銀杏台の島へ、左は桜田濠沿い砂利敷路面へと延びる形で、結集していった。祝田橋から人民広場へと入るデモ隊は、まだあとを絶たなかった。広場にはもう三万を越えるデモ隊の人びとがいた。一方、警官隊も続続と増強されていた。
三つの方面予備隊(当時、全都を七つの方面に分け、それぞれに警備実施を主任務とする予備隊がおかれていた。いまの警視庁機動隊にあたる)から動員された八個中隊約八百五十名が、二重橋前砂利敷十字路に横隊で整列し、その三分の一は桜田門方向に、三分の二は馬場先門方向に面する形をとった。L字型隊形である。後方二重橋の前に二個中隊約二百名が控えた。
二重橋砂利敷十字路に展開 ―→ 警官隊の攻撃開始 ―→ 警官隊の攻撃と
した警官隊のL字型隊形 とデモ隊の崩壊 デモ隊の抵抗
(これら3地図は、『メーデー事件裁判闘争史』P.193、195、199に掲載されたもの)
午後三時二十五分ごろ、再び警官隊の襲撃が始まった。警官隊の前に立った指揮官が、高くかかげた警棒を前に打ち振り、「進め」と号令した。L字型隊形のうち桜田門方向に向かっていた警官隊が、まず前面のデモ隊に殺到した。解散集会をめざして集まりつつあったデモ隊にとって、それは突如始まり、そして全く一方的なものであった。桜田濠沿いの砂利敷にいて、この突然の攻撃を受けたデモ隊は、たちまち蹴散らされた。理不尽な暴挙をまのあたりにしたデモ隊の一部は、警官隊に向かって進み、抵抗した。
だが、この時、密集するデモ隊の中へ催涙ガス弾が撃ち込まれた。攻撃開始前ガス班があらかじめ桜田濠に沿って進み、デモ隊の後方に回っていたのである。催涙ガスが急速にデモ隊の上をおおった。全警官隊がいっせいに警棒を振りかざして突進した。あちこちで拳銃も発射された。
デモ隊全体はまたたくまに総崩れとなり、潰走した。逃げまどう人びとの頭を割り、肩といわず腰といわず、全身を打ちのめす警棒。目をのどを痛めつける催涙ガス。誰かれかまわずに突きつけられ、そして発射される拳銃。倒れる人びとを踏みつけて、警官隊は進んだ。デモ隊の多くは再び楠公銅像島に逃げた。芝生の上のいたる所に負傷者が横たわり、これを介抱する人や、互いにかばいあう人たちの群れがあった。祝田橋から広場を出た人も少なくない。警官隊は銀杏台上の島を猛進し、中央自動車道路の線で停止し、再び隊列を整え直した。この間十数分である(第二段階)。
午後三時四十四分ごろ、日比谷公園に沿う都電通りの祝田橋近くで、一条の黒煙がのぼった。アメリカ軍人の自動車に火がつけられたのである。警官隊の攻撃を受け、広場から逃れ出た人たちのうちごく少数の者が、怒りのおもむくがままにとった行動でもあろうか。しばらくあとのことになるが、都電通りのもっと日比谷交差点寄りに駐車してあった十台近くの自動車が、同様ごく少数の人たちによって、ひっくり返され、火を放たれた。どれもアメリカ軍人の乗用車である。こうしたできごとの中でも、広場内への警官隊の増強がつづいていた。
午後四時。広場の中では、さらに残虐な警官隊の総攻撃が、いっせいに開始された。新たに広場に投入された二つの方面予備隊七個中隊六百名余を加え、警官隊は徹底した暴力で、デモ隊を一人残らず広場から追い出そうとしたのである。二度にわたる警官隊の先制攻撃は、非道な暴力に抵抗する力をさえ、デモ隊から奪っていた。デモ隊はもはやちりぢりにされた群衆であった。
警官隊は、ほんの数分間で、楠公銅像島の群衆を一掃し、その大半を日比谷濠土手に押しあげ、追いつめた。狭く逃げ場もない土手の上で、人びとは混乱し、警棒の乱打を浴び、無気味に向けられる銃口で脅かされながら、やがて最後に、警察官の悪ばを背に馬場先門から追い払われた。それは、文字どおり袋のねずみを追うむごたらしさであった(「掃討戦」)。
この総攻撃開始の直後、東京都の職員高橋正夫は、背後から拳銃弾で心臓を射ち抜かれ、即死した。二十三歳である。
警官隊は、広場から追い立てられ逃げ散った群衆を追って、組織的暴力を市街地にまで拡大した。ただの通行人も、アベックも、老人も、婦女子も、見さかいのない暴力の対象であった。警官隊の暴行脅迫は、日比谷公園、有楽町一帯、丸の内から東京駅付近に及び、午後六時ごろようやく終わった。
この日、警官隊が発射した拳銃弾七十発、投じた催涙ガス弾七十三発。デモ隊側のぎせい、死者二名、重軽傷千数百名である。一九五二年五月一日人民広場の内外で起こったできごと――メーデー事件そのものがまぎれもない政治的弾圧である。
そして、メーデー裁判は政治的弾圧の継続である。その日午後三時四十分ごろ、警視庁と東京地方検察庁は、デモ隊側の計画的集団犯罪として、この事件に騒擾(じょう)罪を適用すると決めた。人民広場の中で警官隊の組織的暴力がまだつづいている、その時である。疾風のように大量検挙が始まった。警官隊がその手で加えた傷害こそ、まずなによりの目印とされた。二週間で逮捕者は八百三十八名にものぼった。総検挙者数千二百三十二名。東京地方検察庁が騒擾罪で公訴を提起した被告人の総数二百六十一名である。
第一審・・・・・
東京地方裁判所は、当初、八合議部による分割審理方式を提示した。被告・弁護団はまずこれとたたかわなければならなかった。獄中被告の出廷拒否、合同面会など新しい経験を重ねながら、ともあれ刑事第十一部による統一審理方式がかちとられた(もつとも不幸ながら「分離組」と呼ばれる人たち二十余名がいた)。
第一回公判一九五三年(昭和二十八年)二月四日。判決まで実に十七年。その間公判を開くこと千七百九十二回。取調べた証人は、検察側五百四十九名(総論関係二百四十四名、各論関係三百五名)、被告・弁護側三百四十四名(総論関係二百七十一名、各論関係七十三名)、合計八百九十三名(延べ千三百二名)に達している。そして、十四人の被告たちが世を去っていた。判決言渡し一九七〇年(昭和四十五年)一月二十八日(「分離組」は二月十三日)。
判決は、二重橋前の第一段階における警官隊の実力行使を違法としたが、第二段階以降についてはデモ隊側に騒擾罪の成立を認めた。無罪百二十名。有罪百十七名(ただし十五名は騒擾罪以外で有罪)。一月二十八日統一して判決を受けたうちの有罪被告は、全員控訴を申立てた。その日の被告団総会は、無罪となった者もそのまま被告団にとどまり、ともにたたかうことを誓い合った。「分離組」で有罪となった中から三名の人たちが控訴を申立て、この被告団に加わった。控訴審における被告人は、結局百名になった。
第二審・・・・・
一九七一年(昭和四十六年)九月三十日東京高等裁判所第六刑事部に控訴趣意書が提出された。第一回公判同年十二月十四日。審理はかなり迅速に進んだ。公判回数二十二回。取調べた証人は、被告・弁寺側の請求した二十六名である。判決言渡し一九七二年(昭和四十七年)十一月二十一日。判決は、第二段階における警官隊の実力行使をも違法と断定し、騒擾罪の成立を全面的に否定し、騒擾罪については全員に無罪を言渡した(公務執行妨害罪などで十六名が有罪となった)。一九七二年十二月五日――騒擾罪全員無罪の判決は確定した。検察官が上告を断念したのである。
二十年七か月――たたかって、たたかい抜いてかちとった勝利である。被告・弁護団が一貫して主張したこと、それは「つくられた騒擾罪」ということである。本書は、「つくられた騒擾罪」とのたたかいの歴史である。
〔真相4〕 総評常任幹部会『声明』他
(注とコメント)、総評常任幹事会声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.20)にあります。労働界を二分する意見の分裂内容は、増山太助『血のメーデー』に書かれています。これは、〔真相6〕増山太助ファイルから抜粋しました。
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総評常任幹事会声明 1952年5月2日
五月二日総評は常任幹事会を開いて声明を発表した。その政治部長島上善五郎は第二十三回中央メーデー実行委員長であった。
「(一)第二十三回メーデーは、平和と民主主義を守る国民的行事として全国労働都市において未曽有の大動員をえて、日本民主化の主柱がいよいよ強大となったことを示した。
(二)しかるに中央メーデー行事解散ののち日本共産党分子がおこなった集団的暴力行為は遂に流血の惨事をまきおこした。このことについては総評労闘が何ら関知するところではないが、民主的労働組合の責任において甚だいかんにたえない。
(三)今次事件は民主的労働組合が営々としてつみあげてきた民主主義をいっきょ後退させ、反動ファッショ勢力を誘発するに至る危険があり、明らかに階級的裏切り行為と断ぜざるをえない。われわれは極左極右のいずれをとわず、かかる一切の暴力行為にたいし厳正な批判を加え、断固排撃するものである。
(四)わが総評は今日まで反動資本と共産党支配とに抗争する民主的統一戦線を強化拡大し、破防法案、労働法改惑などにあらわれた吉田政府の逆コースに対して整々たる三〇〇万の労闘ストをもってたたかってきたが、その間共産党勢力のシュン動を許さずいよいよ全国民の信頼をかちえてきたところである。
(五)しかして吉田政府は、必ずや破防法の必須を訴えるであろうが、すでに本事件はソウジョウ罪をもって対処しているのであって、みづから破防法の不要を証明しているではないか。
(六)いまや今次事件を口実として破防法案、労働法改悪等をもつて基本的人権をじゅうりんし総評の打ちだす労働運動を弾圧しようとするならば、いよいよ内外与論に訴え、さらに頑強な実力行使をもつて、これらを阻止するところまでたたかい、吉田政府の反動政策をあくまで追及し対決するであろう。
一九五二年五月二日 日本労働組合総評議会」
労働界を二分する意見の分裂
記者団に囲まれたメーデーの実行委員長、総評政治部長の島上善五郎は、「この事件はメーデー行事が終った後に共産党系分子と、その影響下にあると思われる一団によって行われた不��事で、実行委員会としては関知しない。これは反労働者的行為である」「しかし、政府が、破防法をはじめとする露骨な弾圧政策をとり、とくに皇居前広場の会場問題について裁判決定を無視した態度は暴力行動に絶好の条件をあたえたもので、さらに警察の発砲、催涙弾の乱射は事態を激化させたもので、政府の反動政策強行には断乎反対する」と語った。なお、総評の高野事務局長は沈黙を守り、「民族感情の爆発だ」といった副議長の太田薫にたいし、炭労の諸富義高は、「予定した共産党の暴動演習だ」とくってかかったのが、労働界を二分する代表的な意見であり、民労連はもちろん、新産別も後者の意見に組した。
〔真相5〕 日本共産党中央委員会『日本共産党の65年、70年、80年』他
(注とコメント)、3つの資料を載せます。いずれも、日本共産党中央軍事委員会が準備・計画し、広場突入指令を出した事実について、完璧に隠蔽しています。そして、軍事委員会作戦・広場突入命令を、下記にある「一部の人」にすりかえる詭弁を使っています。
第一、日本共産党国会議員団声明は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.21)にあります。議員団の中に、党中央軍事委員会メンバーはいなかったので、彼らは、広場突入作戦を、事前に知らされていなかった可能性があります。
第二、メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会、その内容は、『メーデー事件裁判闘争史』(P.285)に載っています。懇談会に出席した野坂参三答弁は、軍事作戦発令者による真っ赤なウソです。というのも、朝鮮戦争2年目の真っ只中において、後方基地武力かく乱戦争行動の最初で最大の戦闘となる広場突入会戦は、少なくとも3カ月前に決定されており、その最終的作戦計画決定権者は、志田重男一人であるはずがありません。朝鮮半島における激戦を指揮しているソ中両党のスターリン・毛沢東・劉少奇と、北京機関の徳田・野坂、日本国内軍事委員長志田らによる戦争作戦計画だったからです。しかも、この当時、暴露されていませんでしたが、野坂参三は、1945年以来のソ連共産党NKVDのスパイでした。野坂共産党第1書記・軍事委員長志田・指導部復帰者宮本顕治らは、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇らから、「六全協で、武装闘争の具体的総括をすることを禁止する。極左冒険主義と抽象的に誤りを認めることだけは許す」との命令に屈服していました。スパイ野坂第1書記は、当然のように、ソ中両党の利益・命令を上に置き、メーデー事件被告・家族をあざむいたのです。
第三、共産党の公認党史である『日本共産党の65年、70年、80年』(80年は、P.120)は、いずれも、この分量しか記述していません。しかも、メーデー事件と広場突入作戦との関連を隠蔽しています。そこから、まったくの第三者的で、広場突入会戦の戦争責任を放棄した書き方になっています。〔真相7〕石田雄ファイルにあるように、丸山眞男が、この事件を念頭に置いて、『戦争責任論の盲点』を書き、日本共産党が、戦前だけでなく、メーデー事件についても具体的な総括を公表して、前衛政党としての結果責任を果すべきと批判したという石田雄の推論は、さもありなんという説得力を持っています。
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日本共産党国会議員団声明 1952年5月1日
日本共産党国会議員団は、即日「本日の事件は人民広場の使用を吉田内閣が不法にも禁止したことから起こったもので事件の一切は吉田内閣が負うべきものである。今日の弾圧こそ破壊活動防止法案をすでに実行に移したもので、わが党は日本国民の自由の名において厳重に抗議する」旨の声明を発表した。
メーデー事件被告・家族と共産党との懇談会 1955年10月24日
十月二十四日夜メーデー事件被告、家族と共産党との懇談会が産別会館講堂で開かれた。日本共産党から第一書記の野坂参三のほか松本三益、長谷川浩が出席した。
懇談会は、その名に比してはかなり激しく、メーデー事件の評価に関する意見、疑問、共産党に対する批判、不満が交わされる場となった。党員被告を名指しで非難したり、被告同士で論争する場面も見られた。二、三の人から、敵の挑発というだけでは納得出来ない、あの日のメーデーに極左冒険主義の方針があったのではないか、という疑問が出た。野坂らはこう強調した。メーデーに対する党の方針とメーデー事件と呼ばれているものとは客観的に区別して評価すべきである。党が騒擾事件を計画、指導したことは断じてない。「人民広場へ行こう」というのは広範な人びとの当然の要求であった。問題は、これを全体的行動に組織するという観点に立つのでなく、一部の人たちの行動に頼ろうとしたところにあり、極左冒険主義の誤りの影響と言ってよい。権力はこの弱点を利用し、挑発・弾圧を加えた。人民広場へのデモの正当性とともに、警官隊の攻撃に抵抗した行動の正しさも消えるものではない。
日本共産党中央委員会『日本共産党の80年』 2003年1月20日
(メーデー事件に関する全文)……六全協後における唯一の公的な事件評価記述
この闘争のさなかの五二年五月、いわゆる「血のメーデー」事件がおこりました。占領軍と吉田内閣は、五〇年六月いらい、「人民広場」とよばれた会場(皇居前広場)をメーデーその他の集会に使用することを禁止していました。この日、中央メーデーに参加したデモ隊の一部が、この不法な措置に抗議しながら、「広場」に行進しました。警察当局は、デモ隊を「広場」内に誘導したうえで、数千の武装警官隊をもって攻撃し、警官隊のピストルなどで二人が殺害され、千人をこえる重軽傷者がでました。
(『日本共産党の65年、70年』の上記同一記述から削除した文) ……削除の理由は不明
この事件は、占領支配と単独講和にたいする大衆的な怒りと抗議の一つの反映であった。
〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
(注とコメント)、ここには、4つの資料を載せます。増山太助は、入党後、党中央文化オルグ・全国オルグを経て、関東地方委員、1950年初頭から東京都委員、「50年分裂」のときには、主流派内の東京都ビューロー幹部であったが、裏側で、武装闘争反対の活動を行なっていました。
第一、彼は、主流派に所属しつつも、当時の日本の情勢、労働運動の状況、国民の意識実態から、武装闘争を遂行することは誤りであると考え、ビューロー幹部5人を中心として、主流派非公然ビューロー内における非公然グループを作り、武装闘争実践を骨抜きにする面従腹背行動を組織し、展開していました。その組織・行動内容については、『武装闘争責任論の盲点』の「2派1グループの実態」で分析しました。
第二、武装闘争を行なった幹部たちについて、8人の人士群像を描きました。これは、HPに転載してあります。
第三、メーデー事件の概況を『血のメーデー』で描きました。これも、HPに転載しました。
第四、増山太助は、メーデー前日の東京都ビューロー会議にも出席して、人民広場突入作戦に猛反対しました。東京生え抜きのビューロー員も、全員が反対しました。激論の末、結局、他のビューロー員も含め、突入方針は否決され、人民広場使用不許可にたいする抗議だけにすることが全員一致で決定されました。その決定を裏切って、志田軍事委員長は、その深夜から5月1日早朝にかけ、規定方針どおり広場突入せよとの軍事委員会命令を徹底させたのです。当時の共産党組織は、4つに分かれていました。(1)北京機関と自由日本放送、(2)合法の臨時中央指導部(臨中)、(3)非合法の地下政治指導部ビューロー、(4)非合法の地下軍事委員会Yです。
非合法地下の都ビューロー会議で、広場突入軍事行動が否決されたのに、志田軍事委員長→非合法地下の東京都軍事委員会Yというルートで、広場突入軍事方針が決行されました。増山証言は、共産党が広場突入軍事行動を行なったことを証明する重要なデータの一つです。この資料は、増山太助『五〇年問題覚書(下の二)、―「柴又事件」の前後から「血のメーデー」へ―』(『運動史研究8』、三一書房、1981年、P.100~125)の内、「五」(P.120~125)を、一部中略して、ほぼ全文を転載したものです。このHPへの転載については、増山太助氏の了解をいただいてあります。
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第一、『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの実態=増山太助らの武装闘争反対グループ
第二、増山太助『日本共産党の軍事闘争』軍事闘争の先頭に立ち、指導した8人の群像
第三、増山太助『血のメーデー』メーデー事件の概況
第四、増山太助『都ビューローの広場突入反対討論・決定』
ところで、五二年という年は、年頭から荒れ模様の情勢となった。スターリンは、元旦のメッセージで、日本人民の総決起をうながし、臨中は、これにこたえる声明を発表して呼応した。一方、占領軍と日本の支配階級は、四月二八日に予定された、単独講和・安保両条約の発効と、それにともなう総司令部(GHQ)の廃止にそなえて、つぎつぎと積極的な手をうってきた。労働者階級は、年末闘争にひきつづき、“占領終決”という画期を前にして、いよいよ“不屈な面魂”をもって決起しはじめた。一月一六日、賃金共闘は、弾圧法規反対で、総評と統一行動をとることを決定し、一八日には、労働法規改悪反対闘争委員会が代表者会議をひらいて、当面する情勢の分析と戦術をねった。
ところがその三日後の二一日に、突如、北海道で白鳥警部射殺事件がおきた。そして、これが敵側に利用されて、いっそう弾圧体制が強化され、「新たな従属・支配体制」を強める契機となった。だが、労働者階級は前進しつづけ、二六日には、総評、労闘、官公労共催の弾圧法規反対労働者総決起集会がおこなわれ、三万人を結集した。吉田首相は、三一日に、警察予備隊を切りかえて、防衛隊をあらたに設置するという、威嚇的な方針を言明。二月一三日には、安保条約に基づく日米合同委員会の設置が本決りとなった。そして、一五日から、日韓両国の正式会談が開始され、米・日・韓の防衛体制を強めながら、国内弾圧諸法規の整備に馬力をかけはじめたのであった。
一方、二〇日には、東大でいわゆるポポロ事件―ポポロ劇団発表会に私服警官が潜入―がおき、京大では第一次京大事件―小林多喜二祭に警官が潜入―が同時多発して、その摘発闘争・弾圧反対のたたかい��燃えあがった。さらに、翌二一日の反植民地闘争デーには、全国二六カ所で高揚した集会が決行され、激しいデモが敢行された。その結果、五七名もの検挙者を出したが、たたかいは持続する様相をしめした。なかでも、東京・南部の反植民地闘争デーの集会には、武器を持った労働者の集団が公然と姿をあらわし、一時、蒲田・椛谷地区を解放地区にした。政府は、二八日に、日米行政協定に調印、日米合同委員会を発足させた。二月末日現在、『アカハタ』弾圧以来の後継紙で発禁処分になった紙種が八一八に達した。まさに、彼我の攻防は目にみえてつばぜり合いの形になってきたのであった。
こうした状況のなかで、二月以降、五全協の「軍事方針」がつぎつぎと具体化され、下部に浸透していった。その代表的なものは、「中核自衛隊の組織と戦術」「軍事行動の前進のために」であり、「組織と戦術」のなかでは、「武力革命」の段階を三つに分け、第一段階では、軍事委員会の指導下に中核自衛隊を組織し、大衆闘争に武装行動の必要性を認めさせつつ、これを革命的闘争へひきあげていくこと。第二段階では、中核自衛隊の指導下に、広範な大衆を抵抗自衛組織に組織していくこと。第三段階では、大衆闘争を国民的規模にまで拡大し、抵抗自衛組織を人民軍に発展させ、武力革命に突入する、という構想をあきらかにしていた。そのために、『栄養分析表』で、(一)時限爆弾、(二)ラムネ弾、(三)火焔手榴弾、(四)タイヤパンク器、(五)速燃紙(硝化紙)などの構造や製法が、軍事委員会の単線指導で下部に流されていった。
前述したように、“単独”講和、「独立」ということは、軍事占領下にあって制約されていた政治的自由を、一定のカッコつきではあるが「国民のもの」にしなければならない、ということであるから、それ以前に、占領軍と日本政府は、革命勢力とその組織を出来るだけ弱体化させておかなければならない。そして、総司令部廃止後、かれらがいっきょに政治的進出をはかれないようにしておかなければならない。だから、この時期におこなわれた一連の弾圧措置は、朝鮮戦争前夜の軍事的予防措置とはことなり、「独立」を保持するための政治的予防措置であったわけだ。したがって、この措置のあとには、当然、党の合法的活動の拡大が予想されていたにもかかわらず、党中央は、むしろ、これを逆にみて、「サンフランシスコ体制と安保条約」による「占領制度の永久化・制度化」に「軍事行動」を対置して、突破しようとしたのであった。
三月に入ると、たたかいはにわかに激動した。一日、総評、労闘主催の弾圧法粉砕総決起大会が開催され、これには一〇万人の労働者が結集、全国的には延一千万人以上の労働者が、事実上ストライキをうって参加した。そして、わが国最大の政治的示威行動を展開した。これにたいし、政府は、二七日に、「治安維持法」の復活といわれた、破壊活動防止法案要綱を発表して対決し、また、これを撃って、翌二八日と三一日の両日、総評、労闘合同拡大戦術委員会が、破防法反対に、断固、ゼネストをもってたたかう方針を決定した。
こうした攻防のなかで、党の「軍事行動」は、いよいよ発動しはじめたのであった。関東地方では、神奈川県委員会が先頭を切り、三月一九日の未明、横浜の進駐軍物資集積所へ火焔ビンが投げ込まれ、二九日の夜八時には、吉河特審局長宅へ火焔ビン投入の襲撃がかけられた。これにたいし、国警は、二八日に、後継紙『平和と独立』の印刷所、配布所など、全国で一、八五〇カ所を捜査。二九日には、三多摩の山村工作隊にはじめて手入れがおこなわれた。これに反発して、三一日には、川崎の米軍資材置場、横浜市の「エリア・2」とよばれる進駐軍住宅付近に時限爆弾をしかける攻撃がおこなわれた。また、同日、総評、労闘は拡大戦術会議をひらき、破防法反対のゼネスト第一波を四月一二日、二波を一八日に決定して、対決の決意を表明した。
私は、この時期、宣伝・教育部門を担当していたが、破防法反対の宣伝活動に全力をあげ、このたたかいを広範な大衆自身のものにするために努力した。(中略)
しかし、四月から五月へかけて、私たちは、ビュー・ロー・キャップの枡井トメを中心に、連日、たたかいの指導に没頭していた。そして、四月一二日の破防法反対の第一波ゼネストには、三〇万人の労働者を結集、破防法案が国会に上程された翌日、一八日の第二波には、政府の恫喝をけって、一一〇万人がゼネストに参加するという、成果をおさめた。また同日、これに同調する都学連一五〇〇人の国会請願デモが組織され、全学連は二八日に破防法反対のストを決行した。いうまでもなく、この日、一九五二年四月二八日は、対日平和・安保両条約が発効した日であり、第二次世界大戦に敗北した日本が、七年間の占領から、沖縄を残して、一応とき放たれた日であった。だが、私たちは依然として潜行をつづけ、この二八日の前後には、メーデーの開催方法をめぐって、都ビューロー内部で深刻な討議をくり返していた。
五二年の中央メーデーは、前年同様分裂メーデーになったが、それだけではなく、会場も皇居前広場の使用が許可されず、結局、神宮外苑に押し込められてしまったことが、破防法反対闘争の高揚のなかで、戦闘的な労働者の憤激をよびおこした。そして、その怒りは、占領時代における軍事的・植民地的支配にたいする反抗のあらわれでもあり、同時に、日本が一応「独立国」になって、占領法規が効力を失った途端に、占領軍を肩代りして前面におどり出た、国家権力の暴力装置にたいする反抗でもあった。それだけではなく、その底流には、反革命戦争としての朝鮮戦争にたいするうっ積した怒り、とくに在日朝鮮人組織の抜きがたい不信と激怒があった。
中央メーデー準備委員会周辺の討論を反映して、都ビューローが討議をくり返した問題点は、戦後“革命期”に、“人民広場”と呼称されて、たたかう労働者・人民の“意志の確認”“決起”の場所となっていた皇居前広場を、「独立」を機に、実力で「奪還すべきだ」という意見にたいする賛否をめぐる問題であった。当初、キャップの枡井は、「占領下の制約はなくなった」「其のメーデーは人民広場で」の主張であり、組織部を担当していた浜武司や、労対の益子正教らもこれに同調していた。しかし、東京はえ抜きの他のビューロー・メンバーのほとんどが、これに反対する立場をとった。私は、メーデーの主力部隊である総評の意向を尊重すべきだと考えていたし、なかでも、「平和四原則」を守り、総評を“ニワトリからアヒル”に変えるために奮闘していた高野実ら左派の立場を強めることが、「独立」後の彼我の状況を有利に展開するポイントであると確信していたから、共産党が系列下の組合や全学連をつかって、「人民広場」に固執し、実力で“奪還”することには反対であった。これにたいし、枡井らは、「少なくとも、共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張しつづけた。
しかし、真剣な討論の末、しかもメーデーの前日に終日の討議をおこなった結果、全員の意見が完全に一致し、「人民広場には入らないこと」、「中央コースのデモ隊は、広場側を通過の際、シュプレッヒコールで人民広場使用不許可の不当性を訴えて、抗議の意思表示をおこなうこと」、「人民広場突入を強く主張する自労や学生部隊などをデモ隊の先頭に立たせず、後部に回し、市民を先頭に立てて、予想される敵の挑発から大衆を守るために、金属労働者や官公労の労働者たちによる統制を強めること」などを決定した。私たちは、この決定を生み出してホッとした。そして、「独立」後第一回のメーデーが、労働者、人民の血気さかんなメーデーになることを期待したのであった。
私は、メーデーの当日、会場にいけない無念さを晴らすために、メーデー終了後、妻と娘たちに会い、せめて家族水入らずの祝盃をあげる予定を組み、その連絡をとった。そして、その文面のなかに、「人民広場へは入らないことになった。僕の分もふくめて、先頭に立って堂々と行進して下さい」と書いた。ところが、周知のように、メーデーはいわゆる「軍事行動」を展開して、“血のメーデー”になった。先頭に立っていた妻と娘は、祝田橋よりはるか手前で警官に襲われ、妻は頭部を殴打されて三針ぬう重傷、娘は腰部を打たれて大きなアザをつくった。二人は通りがかりのひとに助けられ、傷の手当をして、私の友人の家に逃げ込み、かくまわれた。私がこのことを知ったのは、夕飯を食べないで待っていた夕刻近くであったが、私は、思いもよらない“血のメーデー”に驚き、家族がそれにまき込まれたことに愕然とした。同時に、「ついに、東京都委員会の決定は守られなかったのか」と残念に思い、ともかく現場近くまでいって情報をつかもうとした。そして、私が友人の家に駆けつけたときには、まだ、その周辺にも、この日の昂奮が無気味な余韻を残していた。みると、友人宅の戸棚のなかにかくれていた妻の顔は青ざめ、娘はおびえてふるえていた。私は二人を見守りながら、まんじりともせずに一夜を過したが、ひさしぶりに会う妻と娘に、こういう状態で会おうとは夢にも思わなかった。やたらと涙があふれ出て、複雑な怒りが全身に充満し、どうすることもできない感情にさいなまれつづけた。
翌日、東京都委員会は緊急ビューロー会議をひらき、善後策を協議した。��だ、現場の情報が十分収集できなかったが、何人かのビューロー員は、「あれほど慎重に討議し���決めたのに……。なぜ、東京の党組織はああいう行動に出たのだろう」「これは、Yのひとり歩きではないか」と、Yを兼任していた枡井に、「おばさんだけは知っていたのではないか」と質問するひともいた。しかし、枡井も「知らなかった」といい、「ともかく、こうなったからには……、不当弾圧抗議の声明を出そう」ということになり、枡井が執筆することになった。その内容は、メーデーの日から放送を開始した、北京からの「自由日本放送」と趣旨が一致していたので、後日、枡井は得意気であった。この放送原稿は、NHKをレッド・パージになり、中国へ渡って「自由日本放送」の仕事にたずさわっていた藤井冠次の証言(『伊藤律と北京・徳田機関』)によると、伊藤律が書いたということであるから、枡井と伊藤律の評価は、だいたい一致していたことになる。
また、六全協後の東京都委員会の総括のなかで、私は、“血のメーデー”における「軍事行動」の責任を追及したが、そこであきらかになったことは、前日ひらかれた東京都委員会のビューロー会議終了後、浜武司が中央へよびつけられ、「人民広場へ突入せよ」と指示されたという。これを伝えたのは、志田の命をうけた沼田秀郷であることも、本人の証言によってあきらかになった。浜は、夜を徹して各地区を歩き、「中核自衛隊」の動員手配をおこない、「全く自分の責任で、当日の行動を組織した」と証言していた。
だから、私の推測では、中島誠が書いているような(『流動』一九七八年一一月号)「メーデーをきっかけに、『人民広場』を奪い返し、日本の首都のどまん中に一種の革命的状況をつくり出そうと計画し、動員を組織し、広場へのなだれ込みの順序、入り口の分担、隊列の組み方、そしてそこでの『戦闘』のやり方に至るまで何日も前から綿密に計画を練り、練習をも積み、『人民広場』での革命的状況をさらにどのようなものに展開してゆくかまで展望していた」というようなものではなかったと思う。もし、中央軍事委員会にそのような机上プランがあったとしても、“血のメーデー”は、党の「中核自衛隊」と党員を主力としてたたかわれたもので、大衆の蜂起を党が下から支えて、組織したものではなかった。だから、「革命的状況」を「展開」し、「展望」をきりひらくことは、全く不可能なことであった。
ついでに付記しておくと、この総括会議をおこなっていたときには、志田の「お竹事件」はまだ“闇”のかなたにあり、志田と官本顕治はアベックで全国の党大会に出席していた。したがって、この“協力体制”をくずさないために、「志田の政治的責任は追及すべきではない」というのが、反“主流派”のひとたちの共通した意見であった。つまり、このときには“分裂した一翼”の“極左冒険主義”について、“国際派”のひとたちも“関わらない”のではなく、“不問に付する”態度であった。
(中略) 血のメーデーにつづく「五・三〇事件」記念日の岩の坂、新宿、大阪吹田などの交番襲撃事件―火焔ビン闘争が多発して、ようやく盛りあがった大衆的な労働運動―破防法反対闘争に水をさす結果をもたらした。すなわち、破防法反対闘争の中心部隊を形成していた社会党や総評左派を動揺させ、右派単産幹部を狼狽させて、多数の部隊を脱落させた。(中略) こうして破防法は、七月四日の衆議院において可決成立し、二一日に公布され、同時に公安調査庁も発足したのであった。
〔真相7〕 石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
丸山眞男のメーデー事件に関する日本共産党批判
(注とコメント)、これも、HPに転載してあります。石田雄現東大名誉教授は、メーデー事件当日、東大職組の一員として、人民広場に入りました。警察は、東大職組の2人を逮捕しました。丸山眞男は、広場にいませんでしたが、東大法学部教授会として、その対応にあたりました。日本共産党宮本顕治は、丸山眞男の『戦争責任論の盲点』にたいして、異様なほどの丸山批判キャンペーンを13回も展開しました。宮本顕治は、それによって、その丸山論文だけでなく、共産党批判をする丸山眞男の全学問業績の否定とその社会的抹殺を謀ったというのが、私(宮地)の判断です。共産党の丸山批判キャンペーンの実態と本質については、2つのファイルで分析してあります。
石田雄論文は、丸山眞男論文の一背景に、メーデー事件に関する日本共産党批判があったとする証言です。
――――――――――――――――――――――――――――――
石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『共産党の丸山批判・経過資料』13回の丸山批判キャンペーン
『志位報告と丸山批判詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部
以上 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
『「武装闘争責任論」の盲点』2派1グループの実態と性格、六全協人事の謎
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説
滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部に聞く
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21~24
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翌日、千明は未だ眠りの中にいたが、隣の部屋から声が聞こえた。どうやら、彰が寝坊をしたらしい。その声に千明も起きた。彼は、
「どうしたの!?」
と声をかけた。目前には灰色のタンクトップと白いビキニブリーフだけの彰が、慌ててワイシャツを羽織っていた。
「嗚呼、寝過ぎちゃった!」
「ちょ、ちょっと、スラックス穿かないと!」
「あッ、これじゃ変態じゃん!」
本当に寝起きなのか、彰の股間は隆起していた。ようやくボタンを閉めたワイシャツの裾からチラッと覗き、千明は赤面した。彼は彰の部屋に入り、クローゼットに入っていた紺色の背広を取り出し、
「とりあえず、これでイイんじゃん!?」
と差し出した。
「サンキュー、有難う!」
と、彰はその場でスラックスを穿き、ベルトを締めた。
この日は雨が降っていた。普段であれば自転車で通勤するのだが、彰は車に乗った。ネクタイを首に引っ掛けた状態で、「行って来ます」の一言もせずに出発していった。
千明は、まるで雑踏に揉まれたかの様な感覚がした。とりあえず雨戸を開けようと、彼は家の中に入った。仏壇のある居間の雨戸を開け、ぐっと背伸びをして軽くストレッチをし、そるから聡の遺影に声をかけた。
「聡、おはよう」
お鈴を鳴らし、線香をあげて合掌をした。宗派は判らなかったが、
「南無阿弥陀仏」
と三回唱えた。
千明は、聡が生まれ育った家であるとは言え、冷蔵庫の中を開けるのは��石に戸惑ったが、朝食は摂らなければなるまいと、台所に入った。一応、炊飯器にご飯はできていた。冷蔵庫には味噌汁を今朝作るつもりだったのか、白菜はざく切り、ねぎは小口切りにされてザルに入っていた。その奥には、いつでも食べられるよう常備菜が二、三種類タッパーに入っていた。意外と彰はまめな性格なのだなと、千明は思った。彼は、一人前の味噌汁を準備されていた具材から作り、それ以外にも卵焼きを付けた。仏前にも供え、台所のテーブルで食べた。
朝食を摂ると、彼は洗濯機を回した。その間に家中を、掃除機をかけた。意外ときれいに整理整頓され、千明は感心した。一通り掃除機をかけ終わると洗濯も済み、縁側の隅に仕舞ってあった室内干しに洗濯ハンガーを掛け、干した。二泊三日分の衣類と下着だったが、ビキニブリーフが二、三枚余分にあるのは何故なのだろう?ふと疑問には思ったが、あまり深くは考えずに彼は洗濯ハンガーに吊るした。
時計は午前十一時を回っていた。携帯電話が鳴った。着信を確認すると、柴崎からである。千明は電話に出ることにした。
「はい、千明です」
「あ、オレだけど」
「ご迷惑おかけしてます」
「大丈夫かなと思って。元気か?」
「うん、大丈夫。有難う」
そう言えば、療休をもらってから一週間経ったんだっけと、千明は時間が過ぎるのが早いと思った。未だ診断書ができたと言う連絡は、心療内科からはかかって来ていなかった。もし連絡があったら取りに行かなければならない。とりあえず、柴崎には居場所だけでも伝えておこうか?千明は言った。
「実は今、東京にはいないンだ」
「え、そうなンだ」
「ちょっとね…。茨城にいる」
「茨城?」
「うん…。気分転換に、ちょっとね」
「まァ、たまにはイイんじゃないか?」
電話越しの柴崎の声は、穏やかだ。違和感もない様子である。千明は安心した。柴崎は言った。
「仕事については、気にするな。ゆっくり休めよ」
「うん、有難う」
そう言って千明は電話を切った。
外では相変わらず雨が降っていた。彰を送り出した頃から比べると、ひどくなった気がした。道路に人気はなく、車も時折二、三台通り過ぎる程度である。東京と比べると、本当に静かだ。
千明は聡の部屋に戻った。八畳の洋室で、東側には掃き出し窓があり、ベランダに出られる様になっていた。その部屋にベッドとライティングビュロー、本棚が一つあった。彼は、ライティングビュローの扉を開けた。左隅には手帳が年号別に並んでいた。日記だろうか?何だか聡の秘密を知ってしまう様で申し訳ない気もしたが、
「勝手に御免ね」
と言いながら、そのうちの一冊を手に取った。
その一冊の表紙には、「一九九九年」と書かれてあった。この年は、千明が聡が出会った頃に当たる。確か、七月下旬だっけ…。彼は頁をペラペラとめくった。「七月二七日」と言う頁で彼はめくるのを止めた。
"この日は職場の飲み会との事で、部下を何人か誘ってM百貨店のビヤガーデンへ行った。予約がこの日しかとれず、集まったのは十人程度。部下の一人が今月いっぱいで「寿退社」しすることもあり、沢山飲んでやろうと思った。
M百貨店は、三種類のカレーが食べられるし、その割に値段も安い。オレは食べては飲み、酔いが程よく回っていた。嗚呼、イイ男がいれば誘っちゃいたい!部下に、
「宇佐見さん、大丈夫ですか~?」
と言われながら、オレはビールのお代わりをもらいに行った。
その時、肩にビシャッと冷たくかかるのを感じた。
「き、気を付けろ!」
と怒鳴ると、目前には一七〇センチぐらいの男が蒼ざめた表情をして立っていた。片手には黒ビールの入ったジョッキを持っていた。彼は近くのテーブルにそのジョッキを置き、スラックスのポケットからハンカチを取り出し、ビールのかかったワイシャツの袖を拭き、
「御免なさい!よ、酔っちゃって…。嗚呼、シミになっちゃう!」
と慌てていた。
オレも突然の展開に、片手に持っていたジョッキを近くのテーブルに置き、
「だ、大丈夫!クリーニングに出しゃア、大丈夫だっぺ!?」
と、茨城弁モロ出しで言ったが、彼は謝り続けた。
この時、オレの中で温かいものを感じた。何だろう、この感覚は?もし独りだったら一緒に飲みたいなァ…。そのまま食べちゃおうか?でも、今日はいけない。部下もいるし…。
彼は、
「弁償しなくちゃ…」
と、スラックスのポケットから財布を取り出そうとしたので、
「どうせ、D百貨店のイージーオーダーで安いやつだから!」
と財布を仕舞ってもらった。
畜生!もし独りだったら肉体でチャラにしてあげたのに!
酔いのせいでオレのムスコも硬くなったが、彼を食べるのを諦めた。
今夜は、彼をおかずに独りで処理するか…"
この日の日記は、これで終わっていた。千明は、聡の意外な一面を垣間見た気がした。嗚呼、なんて猟奇的なのだろう!彼は独りで笑っていた。
確か、一週間後にオレは聡と再会したンだっけ…。彼は「八月二日」の頁を開いた。しかし、その日付の日記はなく、翌日の方はあった。何故だろう?嗚呼、そう言えば…。思い出そうとしながら、彼は読み始めた。
"昨夜は日記を書き損ねた。なぜなら、「千明透」と言う男の子と寝たからだ。新宿のビジネスホテルで、彼は男も女も知らない「ヴァージン」だったが、キスすると顔をすぐ赤らめ、乳房を撫でると女の様に感じていた。
M百貨店のビヤガーデンで再会し、この日は独りだったから心置きなくグイグイ飲み、その後も新宿の「思い出横丁」ではしごした。オレは、この日のうちに水戸に帰らなきゃならなかったが、終電を逃したので翌日帰ると、彰に電話をした。
何故、土日はオレが親父の介護をしなきゃならないンだ?流石に、香には頼む訳にはいかなかった。痴呆がひどくてすぐガキの様に泣き出すし、小便の臭いが家中に充満して堪らないし…。彰は養老院にでも入れようと市役所に相談した様だが、すぐには入れないとの事。もしお袋が脳幹出血でポックリ逝かなければ、親父はボケることはなかっただろう。
オレは親父のコネでM銀行に入行したが、営業成績も良くて生真面目だった親父が…。お袋も中学校で英語の先生をし、校長も任されたほどだったのに…。嗚呼、神も仏もない。
そんな鬱憤が、オレに透君のヴァージンを奪わせさせたのだ。このクソ暑い中でネクタイを締め、汗だくになった肉体にオレは彼の羞恥心を気にせず、二万四千回のキスを浴びせかけ、用を足すしか能がなかった彼の穴に手指を入れ、
「ダメ、汚い!止めて!」
と、恥ずかしがる彼の懇願も無視し、オレは反りに反ったムスコを挿入した。彼は、最初は悲鳴を上げていたが次第に、
「抜かないで!」
と、オレの身体にしがみついて離れようとしなかった。
オルガスムスにはすぐ到達した。透君は乳白色の愛液をぶちまけながら歓喜の声を上げ、オレも彼の「女体」に子種を撃ち込んだ。嗚呼、このまま彼を妊娠させてしまいたい。妊娠させ、オレは彼の子どもを産まさせたい。香や隆と彩には申し訳ないが、オレは透君と契りを交わしたい。もう、親父なんてどうでもいい。
翌朝、オレは現実から逃れる為に彼を抱きしめ、数多のキスを浴びせた。彼は、
「こんなの初めて…。こんなに愛されるの初めて…」
と言った。
オレたちはエリジウムのど真ん中にいた。そのエリジウムから離れたくなかった。離れたら永久に戻れるかもしれないから…。
ホテルを出て別れる時、オレは透君を抱きしめ、キスをした。もう一度、彼とエリジウムに還る為に"
日記を読み終え、千明は深くため息をついた。嗚呼、自分を愛してくれた時は、聡は疲れていたのだなと、彼は思った。聡は現実から逃避するのにこのオレを愛したのだ。否、愛してくれたのだ。
千明は読んでいた日記を抱きしめ、その場に座り込み、しばらく泣いていた。
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『シチューションズ 「以後」をめぐって』
シチュエーションズ
1。百年の失語
「新潮」の四月号に、「震災はあなたの〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」という特集が載っていた。総勢二十八名の作家が、編集部が投げ掛けた先の二つのアンケートに答えている。中でも印象的だったのは、「ワイルドサイドを歩け」というタイトルの付いた、町田康による回答の一節だ。
いま小説を書ける奴は小説家じゃないですよねぇ、と死んだ父に語りかけて小説を書いている。四月号と言いながらその実、三月に出て、そこに載る文章を一月に書いていること。その矛盾がいま露になってなにも言えない。
ここでは二つの問題提起がされている。「いま小説を書ける/書く」とは如何なることなのか、という、端的かつ直截な問い。それから「月刊」である文芸誌の制度的な慣習���の違和感の表明。「いま露になってなにも言えない」と言うのだから、二つ目の問題は一つ目と実は繋がっている。読者の側からみれば、この三月に、四月号と記された誌面で、一月には書かれていた言葉を読んでいるという「矛盾」は、もちろん今に始まったことではないし、文芸誌だけのことでもない。だが、このささやかなタイム・パラドックスは、この企画が「100年保存大特集」と銘打たれていることによって、一挙に加速拡大することになるだろう。「100年」という数字は、或る途方も無さとリアリティとを併せ持っている。百年後の未来は、それほど遠くはなく、それほど近くもない。 なぜ「100年」なのか、という時間についての説明は、なぜか「新潮」には無いのだが、たとえば、アンケートに回答を寄せてもいる古川日出男が、十七人の作家・詩人の「3・11」をめぐるアンソロジー『それでも三月は、また』のために書き下ろした短篇「十六年後に泊まる」の中に、ひとつの答えを見つけることが出来るかもしれない。二〇一一年の五月、十六年目の結婚記念日に、作家は妻を伴って、約一年ぶりに福島の実家へと帰郷する。その経緯を綴ったエッセイ風の小品だが、小説の最後にふたりは東京に戻るべく、ホテルを出てタクシーに乗る。
僕はどんなタイミングで思い出してもよかったのだが、実際にはこのタイミングで、イギリスの科学誌『ネイチャー』になる論文が掲載されたとの報道を思い出した。福島第一原発の廃炉には数十年から一〇〇年かかる、と、その論文は指摘していた。たとえば三十年後か四十年後ならば、僕にも廃炉を見届けられるチャンスはあるだろう。妻にもあるだろう。しかし、一〇〇年後には? 僕は、自分はこの地上にはいないし、妻もいないし、この運転手もいないな、と感じた。いや、理解した。われわれは誰もいない。
この後一行で、小説は終わる。つまり「一〇〇年後」とは、ひとつには、たとえば「福島第一原発の廃炉」が完了するまでに要するかもしれない時間のことである。 私たちは、今から百年前に書かれた小説を、そこに書かれた言葉を読むことが出来る。もっとずっと昔に書かれた言葉だって読むことが出来る。だが、百年前に何かを書いていた人々は、百年後か、それ以上先の未来に、自分の言葉が誰かに読まれていることを、たとえそう望んでいたとしても、確信することは出来なかった。それは百年後には廃炉が成されているのかどうかを、そう願う人々の誰ひとりとして確かめることが出来ないのと同じである。 保坂和志は、新しいエッセイ集『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』の中で、こんなことを書いている。
私は自分の本が一〇〇年後にも読まれているとは思っていない。一〇〇年後に読まれていると想像することができたら、幸福感か満足感を味わうことができるかもしれないが、私はそういう風には楽天家ではない。
いかにも保坂氏らしい、率直な発言だが、「しかしそれでは何故、なぜ自分は小説を書くのか?」と、すぐさま氏は続ける。
小説家が小説を書くのは、小説を書くという行為を通じて何かを考えたいからだ。そして、できるなら人間の考えるという営みに関わりたい。 ここで注意してほしいのだが、私は作品という形で残りたいと思っているのではなく、考えたり感じたり記憶したりするプロセスに小説を書くことで関わりたいと思っているのだ。
保坂氏が言っているのは、特に「いま」には限らない普遍的なことだろうが、作家たち、言葉の使い手たち、あるいは、言葉に限らない諸芸術表現の作り手たちの多くが、あれからの一年間を、一種の失語症に直面しつつ過ごし、今もなお、そこから完全には出てこられていない者もいる、という事実を鑑みると、「いま」こそ「考えたり感じたり記憶したりするプロセス」に立ち戻ってみること、そこからふたたび始めるしかないのではないか、とも思う。それは未来の他者に向けて、タイムカプセルに「保存」される言葉を、後悔抜きに紡ぎ出すためにも必要とされている。百年後の読者は、ことによると、いま以上に、失語への動揺と絶望を乗り越える術を求めているのかもしれないのだから。 ところで、もうひとつ押さえておかなくてはならないのは、町田康が韜晦まじりに記した「いま小説を書ける奴は小説家じゃないですよねぇ」に対して、それでも書いてしまった者はどうなのか、という問題である。それは、鈍感にも難なく書けてしまえた、ということなのか。失語症への共感が強化される場では、ともすればそれは短慮による仕業と解されかねない。ならば、失語の強迫と誘惑に抗い、勇気を奮ってようやく言葉を発した、ということならば赦されるのか。失った言葉を取り戻した者と、言葉を失わなかった者の差異は、何処にあるのか。あるいは、こう言ってしまってもいい。短慮で何が悪いのか? 高橋源一郎の『恋する原発』は、二〇一一年に書かれ出版された「純文学」のなかでも、もっとも倫理的な作品のひとつだった。無論、「3・11」のチャリティーAVを作ろうとする話だなんて、不謹慎という物議=ウケを狙った火事場泥棒的な無恥の所業であるという非難もあっただろう。各章が全部途中から日本語吹き替えミュージカル仕立てになるだなんて、幾らなんでも悪ノリが過ぎるという批判もあり得るだろう。軽挙妄動、正に短慮そのもの、あんなのは不誠実のフリをした誠実さのフリをした不誠実だよ、と。だが私はそうは思わない。あれは不誠実のフリをした誠実さのフリをした不誠実のフリをした(…)やはり紛れもない誠実さなのだ。言い換えればそれは、自分の紛れもない不誠実さを隠さない、ということでもある。重要なことは、高橋氏が「短慮」を怖れず、そこから逃げもしなかったということだ。私が感銘を受けたのは、演技でもいいから真面目にやってないと誰もまともに受け取らないだろう状況において、演技ではない不真面目を丸出しにすることでしか表現され得ない何かがあるのだということに、たぶんあの時点では『恋する原発』だけが意識的だったからである。 二〇一一年に高橋氏がツイッターに投稿した「つぶやき」に、同時期に書かれたエッセイや評論、小説などの断片を挟み込んだ本『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』の「おわりに」に、高橋氏はこう書いている。
いつもの年より、ずっとたくさんの「ことば」を、ぼく��書いた(発した)。いつもなら書かないだろう、そんな「ことば」も、ずいぶんあった。 中には、いいものも、たいしてよくないものも、つまらないものもあるだろう。繰り返しや、混乱もあるだろう。でも、ぼくは、その「ことば」たちと一緒に、真剣に、なにかを探ろうとしたのだった。
若干いい子ぶってるように読めなくもない。だが、それでもやはり、ここには「失語」に抗する「ことば」の遣い手であるひとりの作家の姿がある。「ひとりの人間が、なんの準備もなく、ある事件に巻き込まれる。その様子を、正確に再現してみたかった」と高橋氏は記している。そしてそれは、書くこと、書き始めること、書いてしまうことによってしか試行されないのではないか。 失語が抱える問題は、わたしは言葉を失った、とは言えてしまうということである。これはいわゆる「表象不可能性」のパラドックスに似ている。「表象不可能なもの」は「表象不可能」として、実質的には表象されている。真正の「表象不可能」とは、けっしてそう呼ばれてはならないし、呼べもしないものなのだ。同様に、くだんの「震災」と「原発」によって惹き起こされた失語症もまた、そう表明し告白されることによってパラドキシカルな発話として機能し、発語を選んだ者を無意識に断罪する。そして、それはそれで無理もないことだとも思うのだ。だが、忘れられてはならないのは、わたしは言葉を失った、とさえ口に出来ない者たちへの想像力と、短慮の謗りを恐れず発語を選んだ者たちへの真っ当な理解である。そうではないか?
2。「後ろめたさ」と「みっともなさ」
映画『311』には、ドキュメンタリー作品としては些か例外的なことだが、監督として四人の名前がクレジットされている。森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治。森にかんしては説明は不要だろう。綿井は、アフガン、イラク、東ティモール、(津波被害の)パプアニューギニア等々を現地取材してきた国際派の映像ジャーナリスト。四名の中で最も若い松林は気鋭のドキュメンタリー映画作家。そして森の『A』『A2』、綿井の『Little Birdsーイラク戦火の家族たち』、松林の『花と兵隊』のプロデュースを務めたのが安井である。 二〇一一年三月二六日から三一日にかけて、彼らは一台の車に同乗し、東北へと向かった。岩手県陸前高田、大船渡、遠野市、宮城県仙台、石巻、東松島市、福島県三春、浪江、大熊町と廻り、四名が各々ビデオカメラでその一部始終を記録した。そうして残った五〇時間強の素材を、追って安井が編集し、一本の長篇ドキュメンタリー映画として完成したのが『311』である。だが四人とも、それぞれの動機によって、とにもかくにも「現認」するために行ってみよう、というだけで、当初は作品にするつもりなどなかったという。映画化へと至る顛末については、公開に合わせて刊行された四人の共著『311を撮る』に詳しい。 『311を撮る』の中でも、ロードショー公開に先んじて山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された際の観客からの激しい反応について触れられているが、確かにこの映画の評価は賛否両論が真っ二つに分かれるだろう。「震災」と「原発」をめぐっては、すでに夥しい数の映像作品が撮られているが、その中でも『311』は極めつけの問題作だと言える。その理由を安岡卓治は一言でこう述べる。「この映画は、被災地を取材しているが、主人公は取材した我々自身だ」。 作品にするつもりがなかったのだから当然と言えば当然かもしれないが、映画の冒頭、被災地へ出発してまもない頃の四人の言動は、まだどこか緊張感を欠いている。確かに『311』の「主人公」は、四人の監督自身である。だが、それとは別に、実はこの映画には前半と後半で、それぞれ「主役」が居る。前半の主役は「線量計」である。福島第一原発から約150kmに位置する東北自動車道で計ってみると、見る見るうちに数値は上昇していく。東京とは比較にならない、その上がりっぷりに驚きと戸惑いを隠せない彼らだが、それでもその言葉の端々には、びびりながらも面白がっているような雰囲気が窺える。「健康への影響は?」「直ちに?」「直ちに、あると思います」という、当時何度も繰り返されていた枝野官房長官の言い草をもじったやりとりは、まだ軽口の次元を出ていない。しかし道中が進むにつれて、線量は飛躍的に上がっていく。線量計が発するピコピコという電子音がずっと聞こえている。防護服を買い、マスクとゴーグルで顔を覆った彼らは、福島第一原発を目指すが、8kmのあたりでタイヤがパンクしてしまい、敢えなく引き返すことになる。その修理の間も、ビニール袋に包まれた線量計は、ピコピコを発している。すでに数値は東京の百倍を超えている。 作戦(?)を練り直した彼らは、今度は津波被害に遭った地域を目指す。陸前高田で、あまりにも圧倒的な被害の甚大さに茫然とする四人。まだ地震から二週間ほどしか経っておらず、あちこちで行方不明者の懸命な捜索が続けられている。仙台で共同通信の多比良孝司記者と合流して、石巻の赤十字病院や避難所となった高等学校などを取材し、石巻市立大川小学校に辿り着く。まるで爆撃に遭った跡のような壊滅的な光景がひろがっている。ふと気づくと、四人の中でも森達也が画面に映し出されることが増えている。森が被災者に話しかけ、インタビューする様子を、別の者が撮影し、そのカメラのファインダーを、もうひとりが撮影していたりもする。だが、映画の後半の「主役」は、この過程で唐突に映し出される「豚の死骸」である。いつしか四人の暗黙の目標は、遺体を撮ることへと収斂していっている。なぜならば、どこに行っても、すでに遺体はすべて運び出された後であり、その不可解といえば不可解な事実への微妙な違和感が募っていったからだ。人間の遺体が撮れなかったので代わりに豚の映像を置いたのだと言えば、不謹慎と思われても仕方がないが、それでもおそらく間違いなく、確実に、しかも大量に存在していた筈であるのに、イメージとしては徹底して不在の「人間の死」を代補するものとして、無造作に土の上に横たわる「豚の死」は、編集段階で残されたのだと思われる。 『311』の賛否両論を二分する重大な出来事が起きるのは、この後である。青いビニールシートで覆われた、おそらくは遺体を運んでいる様子を、やや後方から撮影していた彼らは、その場に居た男性から突然、木片を投げつけられる。なぜ撮ろうとするのか、撮らないでくれ、どういうつもりなのだと詰め寄る男性に、森が抗弁する姿を、ドキュメンタリストとしてのあるべき態度だと捉えるか、何もそこまでやらなくても、流石にみっともないの��はないかと思うかで、この作品への評価は真逆になる。実際、あまりにも後味の悪いラストであるという感想も、映画を観た者から多々寄せられたという。その中には、森たちと同じ、取材する立場の人間も居た。 ひとつ確実に言えることは、しかしこの後味の悪さは、安岡卓治が編集作業を通して発見し、四人の合意の上で、意図的に刻印されたものだということである。『311を撮る』は、四名が一章ずつを書き下ろした共著であり、内容的な擦り合わせや統一は敢て行なわなかったという。結果として、それぞれの考えや受け取り方の違いが鮮明に出ている。綿井健陽は、百戦錬磨のジャーナリストらしく冷静な熱意をもって取材に当たりながらも、過去に経巡ってきた戦場をも超える被災地の惨状に茫然とする。彼は遺体を撮ることに強く執着し、後になって自らの執着について省察を続ける。彼はその後も何度か別のチームで福島へと向かうことになるだろう。松林要樹は、映画祭や試写で浴びた批判について「褒められるよりけなされたほうが、どこか納得のゆく気持ちが起きる」と記している。「消化不良の感情はいまだにある。この生煮えの感覚をどう乗り越えていくのか」。彼は『311』の取材から東京に戻った四月一日の翌日、南相馬市に支援物資を届ける旧友の車に同乗し、ふたたび被災地に向かった。彼はそれから幾度も南相馬を訪ね、そこに生きる人々と触れ合いながら撮影を続け、やがて『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』という一本の映画として完成させ、『311』と同じく山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映するに至る(私はこの作品を未見だが、必ず観るつもりでいる)。プロデューサーであり編集者でもあるという、他の三人とは異なる立場を背負った安岡卓治は、何よりもまず、これを作品として完成させること、そして完成した映画を公開することにかんして、その是非について悩み続ける。その時、彼の頭を過ったのは、ジョナス・メカスの「われわれの欲しいのは血の色をした映画なのだ」という言葉だったという。彼は書いている。
映画『311』は、何もなしえなかった我々の無力さを描いている。ネガティブなスタートラインだと思う。それは、二〇一一年三月時点の我々の姿をはっきりと刻み込むことだ。この無念さを消したり、何かキレイごとで覆い隠したりはしない。
森達也は、あの日のあの時間、「ドキュメンタリー番組企画コンペ��ィション」の審査会のため、六本木の高層ビルに居た。仕事は中止され、交通機関も動かないので、地震と津波が東北に齎した、今まさに齎しつつある悲劇を知らぬまま、居酒屋で泥酔した森は、夜になってから被害の規模を知って愕然とする。彼はそれから二週間近く、自宅に閉じこもってひたすらテレビを見続けた。他には何もせず、時には泣いたりしていた。だから綿井健陽から被災地への同行を求められた時も、最初は「無理だよ」と答えている。だが、森はその直後、自分から綿井に電話して「行く」と告げたのだった。
心変わりした理由は、自分でもよくわからない。このま家でテレビを観続けながらメソメソしていても仕方がないと思ったことは確かだ。(略)被災したわけではないし家族が津波で流されたわけではない。食べるものに困っているわけでもないし、寒さに凍える夜を過ごしているわけでもない。 つまり僕は非当事者なのだ。 ところが気分的には当事者になりかけている。最も悪いパターンだ。ならば現地に行くべきだと考えた。もちろん現地に行ったとしても、当事者になれるはずはない。でも非当事者には非当事者の役割がある。自分にも自分の役割がある。
森は完成した映画を「被災者たちを後景にしてセルフ・ドキュメントを撮るようなもの」と認めている。それは安岡がいう「我々の無力さを描く」ということでもある。無力な非当時者であるしかない自分は、そのままの存在として、被災地にカメラを向け、カメラを「反転」させて、無様でみっともない自らの姿を映し出す。善意の取材者を装い(と敢て書くが)、何とかして被災地に在る者たちから「悲劇」を聞き出そうと、それを無理にでもカメラに記録させようとする森の物腰は、ともすればトゥーマッチな露悪趣味のように見えなくもない。映画の中盤から、水を得た魚のように活躍し出す、このような森の態度は、大川小学校のシーンで、いわば負のクライマックスを迎えることになる。だが、森は自分の非道ぶりを、誰よりもよくわかった上で、そうしているのだ。彼はただ「自分の役割」に忠実たろうとしているだけだ。
自覚すること。自分は残酷な存在なんだと思い知ること。撮ったり取材することは鬼畜の所業なのだと認めること。後ろめたさを引きずること。
森は、英語で「Survivor's Guilt」と呼ばれる感情について書いている。それは、生き残った者、死ななかった者の罪の意識、後ろめたさのことだ。彼はアウシュヴィッツを生き延びた作家プリーモ・レーヴィの死に触れ、Survivor's Guiltを特権意識とパレスチナへの憎悪に転化させたイスラエルについて述べる。そして、大切なのは、「sens of guilt」を引きずること、引きずりながら前に進むことだ、と書く。 四人の監督の認識は、少しずつ、部分的にはかなり異なっている。だが、全員が認めているのは、『311』という映画が、「後ろめたさ」についての映画であるということだ。それは「非当事者」であるがゆえの感情である。だが、何をどうしたとしても「当事者」にはなれない事態というものが、この世界には存在している。だから出来ることと言えば、背負ってしまった「後ろめたさ」をけっして手放さず、それと向き合い、むしろ凝視するようにして、そしてそれでも何ごとかをやるつもりがあるのなら、ただやればいいだけだ。それはしかし、当事者ではありえないからこそ出来ることがある、などといった、やはり綺麗事というしかないような言い訳とは違う。そうではなく、それはあたかも鈍感であるかのような表情で、他人に晒け出されるのはもちろんのこと、自分自身にも翻って突き刺さってくるだろう、ある歴然とした、みっともなさに耐えることなのだ。 『311』は、どうしようもなくみっともないドキュメンタリー映画である。だが私は、こう言ってよければ、ある爽やかさを感じた。それは「後ろめたさ」が乗り越えられているからではなくて、まったく反対に、そこに「後ろめたさ」がくっきりと映っているから、四人の監督が、それぞれの「後ろめたさ」を大事に抱え持っていることが、正にその後味の良くない「みっともなさ」ゆえに、よくわかるからである。
3。「俺だって考えてる」
『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』の「まえがき」で、保坂和志はこんなことを書いている。
この連載が終わりに近づいたところで三月十一日の地震と津波があった。福島第一原発の事故もあった。私は当然それについて書くことになるのだが、それはそんなに“当然”だったのだろうか? 私はあの地震のことも津波のことも原発のことも本当に書かないではいられなかったんだろうか、そのとき私の関心は他のほとんどの人と同じくそのことにしかなかったんだからそういう意味では当然なのだが、それでもやっぱりそのことが私の心のすべてを占めていたわけではないことを考えると、結局私はまわりの人というよりもむしろ私自身に向かって、 「俺だって考えてる」と、言い訳したりポーズを取ったりしていただけなんじゃないか。
「俺だって考えてる」と言いたいがためにだけ書かれたと思しき「ことば」は、間違いなく数多ある。むしろそれを言いたい相手が「まわりの人」ではなく「私自身」であるだけましではないかと思う。私はかなり早い時点から、多少とも社会的な発言を求められていると自認しているらしき連中による「俺だって考えてる」に辟易させられていた。何かを思うこと、何ごとかを考えるということと、それを他者に伝えること、公に発言することは、まったく別の次元にある。無論、外に出さなければ誰にもわからないわけだが、ひとは考えてもいない/思ってもいないことだって口に出せるし、書けてしまう。それに「俺だって考えてる」と誰かに思われたくて書かれるようなことは、保坂氏も言うように、大概は退屈である。だが時として、とりわけ非常時には、ひとは「退屈」を真摯さと取り違える。それで益を得る者も居る。 だから私は、長らく「震災」と「原発」にかんする発言に、たぶん人一倍警戒的であったし、シニカルでもあった。その種の求めは、ほぼ全て断った。私の目と耳には、多くのそうしたものは「俺だって考えてる」に翻訳されたし、だから自分がそうしても結局は「俺だって考えてる」になってしまうのではないか、と思っていたからである。この自分でも幾分神経過敏ではないかとも思える感覚は、いまも基本的には変わっていない。だが、多少の変化はある。 スガ秀実の『反原発の思想史』は、戦後の「反核=反原子力=反原発」の歴史を専らニッポンの左翼運動/思想史の視点から読み直すことで、従来の了解に野太い楔を打ち込む刺激的な一冊だが、全体の論旨からするとやや傍系に属する部分に、ごく短い和合亮一への言及がある。一九五四年に編まれた『死の灰詩集』に鮎川信夫が浴びせた痛烈な批判にかんして触れた箇所で、スガはいささか唐突に、こう書く。「在住地福島からツイッターによって発信され、詩集として刊行されている和合亮一の詩(『詩ノ黙礼』、『詩の礫』、『詩の邂逅』、いずれも二〇一一年)は、震災・原発事故以後の「国民感情」におもねっただけのものではないのか、どうか」。 「国民感情」というのは、鮎川信夫が、詩人の代表的団体である現代詩人会による「反核」の表明である筈の『死の灰詩集』が、執筆者の顔ぶれとしても、また本質的にも、大東亜戦争総力戦体制下における愛国的/戦争賛美的な「文学報告会編『辻詩集』の戦後版」だと喝破したこと、両者に共通するのは、その時々の「国民感情」におもねってみせる姿勢だとしたことに因っている。そしてスガはこう続ける。
和合の詩は、たとえば、宮沢賢治という東北出身の「国民的」詩人を頻繁に参照することで適当にソフィスティケートされており、適当に「つぶやき」であり適当に「叫び」である。「南相馬市を見捨てないで下さい」と言うことは、実際にそうであるか否かは問わず、「見捨てる」と言うはずもない、「国民感情」におもねっているのではないのか。そのソフィスティケーションは、震災直後から公共広告機構のCMでいやというほど流された、金子みすゞ程度のゆるいものである。そのゆるさが、おもねりの証明なのだ。
スガは和合の「ツイッター詩」を、あくまでも「詩」として、あるいは「詩集」として、つまり「作品」として評価し審判しているが、それは現実には、余震と放射線量に脅えながら毎日毎晩、携帯からきれぎれに発された「つぶやき」の集積である。もちろんそれらは和合自身によって明確に「詩」であると宣言された上で、ネット上に送り届けられたものではある。詩の言葉として客観的に読めば、そこに「ゆるさ」があることは確かだが、現代詩の中でもアバンギャルドな作風であった和合が、あのようなナイーブでストレートなフレーズの数々を書き付けざるを得なかったという事実が意味するものを、和合の「詩」の「以前」と「以後」の落差をこそ読むべきではないか。「南相馬市を見捨てないで下さい」という台詞に、「国民感情」は「見捨てる」と言うわけがない、と返すのは、あまりにも和合に酷ではないだろうか。絶対に見捨てられる可能性などないと、あの時点で和合に確信出来た筈がないのだから。 たとえば「以前」の和合亮一の「詩」とは、次のようなものである。
(「GO NO GO」、冒頭より「ゲームオーバー/リセット」まで) (「爆笑悶絶反転大龍」、冒頭より「驚天動地の現実に取り残される一行としての龍」まで)
二〇〇五年に刊行された和合の第四詩集『地球頭脳詩篇』の二篇から抜粋した。すこぶる「現代詩」らしい書法と言っていいだろう。和合はもともと、ヴァラエティに富んだ主題を、先行世代のさまざまな達成を踏まえた華麗なテクニックを駆使して作品化して��た。彼は「現代詩」の「現代詩らしさ」に、極めて敏感な詩人である。そんな彼が、二〇一一年三月十八日深夜の「ツイッター詩」では、こう書きつける。
あなたの街の駅は、壊れていませんか。時計はきちんと、今を指していますか。おやすみなさい。明けない夜は無いのです。旅立つ人、見送る人、迎える人、帰ってくつ人。行ってらっしゃい、おかえりなさい。おやすみなさい。僕の街に、駅を、返してください。(『詩の礫』)
これを前掲の諸作と同じ次元にある「詩」として読むならば、むろん明らかに弛緩している。それは間違いない。それに和合の振る舞いの内に、スガをして先の批判を綴らせるような部分がまったく無いとは、私も思わない。けれども、もっと重要なことは、かくのごとき「ツイッター詩」が、自分が過去に書いてきた「現代詩」とは較べるべくもない水準にあることを誰よりもよく知っている筈の和合自身が、それを敢て「詩」と呼んだ、ということなのではないか。それは「現代詩」としての純然たる価値判断とは別の、だが切実極まりない理由によって為されたことだ。「失語」に必死で抗するために、どうしても発さざるを得なかった言葉なのだ。これもまた「短慮」かもしれない。だが、和合は「これは詩ではない」と述べることだって出来たのだ。しかし彼はそうしなかった。このことの意味を考えなくてはならない。 ところで、スガ秀実は、こんなことも書いている。
アドルノは、「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」(『プリズメン』)という有名な言葉を残した。しかし、「福島」以降の「詩」の問題とは、おもねることのない野蛮な詩を書くことなのである。そのような詩を書ける詩人は、今の日本において皆無に近いだろう。
「野蛮な詩」が必要とされているという指摘は、あまりにも正しい。「詩」に限らずとも、今こそ「野蛮」さが必要とされている。だが、その「野蛮」さとは、単純な意味で「国民感情」と逆立すれば、そう見えればいいわけではないだろう。「短慮」や「後ろめたさ」や「みっともなさ」だけではないのはもちろんのことだが、「俺だって考えてる」に陥らず、「失語」をも回避するためには、一見「野蛮」とは思えないような、新しい「野蛮」が要請されているのではないか。このことは今後、時間を掛けて考えていきたい。
4。「三月一一日」と「三分一一秒」
『反原発の思想史』の和合亮一への言及に続けて、スガ秀実は、「映画においても、似たような事態が発生している」と書き添えている。
『殯の森』で二〇〇七年のカンヌ国際映画祭グランプリを獲得したことで知られる映画監督の河瀬直美は、三月一一日の「福島」に際し、世界の著名な映画監督に三分一一秒の短篇を作ってもらい、それを集めてオムニバスの六〇分にして、被災地を巡回上映すると呼びかけた。この試みが愚劣なのは、まず何よりも、「三分一一秒」という言葉の無意味な美学化にある。
ここでもスガの言っていることは正しい。だが同時に、やはりどこか不十分であるとも感じる。私は河瀬直美企画のオムニバスは観ていないが、同じく「三分一一秒」の短篇映画四十二本から成る、仙台短篇映画祭映画制作プロジェクト作品『明日』を観ることが出来た。「ショートピース!仙台短篇映画祭」は、従来は短編映画の一般公募をメイン・プログラムとする映画祭だが、震災によって昨年度の開催が危ぶまれる中、発足十一年目にして、はじめてとなる映画制作に踏み切った。映画祭実行委員の菅原睦子が『明日』のパンフレットに寄せた文章は、「映画祭をやりたい。ただ、その思いだけだった」という一行から始まる。
そのとき久しぶりにスタッフが顔を合わせ、みんなで寄り添いながら確認したことは、「予算も会場もなくなったけれど、今年も映画祭をやりたい」、「できることなら、上映する映画を新たにつくってもらおう」ということだった。 映画をつくってもらうなんてことが、本当に頼めるのか。つくってもらうなら、どんな内容がいいのか。躊躇していた私を、4月7日、2度目の大きな地震が襲った。春の訪れとともにやっと回復の兆しを見せ始めた街から、再び電気が消えていく。そんな光景を目の当たりにし、私はどこか壊れてしまったのかもしれない。「つくってもらうぞ!」という勢いで、本当に勢いだけで、監督や制作に携わっている70人近い方々にメールを出した。 けれども、勢いでメールを出した元気は、翌日にはあっけなくしぼんでいた。映画をつくるなんてことを、こんな時に言っていいのか。能天気な発想ではなかったか。沿岸部の大変さや福島のことを考えると、あまりに考えなしの行動と映るのではないだろうか。やってしまったことに不安が跳ね返ってきて、一気に気持ちが悪くなってしまった。 そんなとき、ひとつ、ふたつと返信が届き始めた。「やりましょう」。何度も何度もメールを見た。小さなノートパソコンのモニターが、闇を照らす光のように思えた。
こうして四十一人の監督による四十二本の短編映画が完成した(ひとりだけ二本制作した者がいるのだ)。決まり事は二つだけ、テーマは「明日」、そして「三分一一秒」であること。当然のことながら内容は非常にヴァラエティに富んでいる。参加した監督も、塩田明彦、山下敦弘、篠原哲雄、鈴木卓爾、入江悠、瀬田なつき、真利子哲也、甲斐田祐輔、佐藤央、濱口竜介、堀江慶、内藤瑛亮、田中羊一、等々、若手から中堅まで注目の才能が揃っている。河瀬直美もいる。だが私がもっとも印象深かったのは、唯一、二本を監督している冨永昌敬の作品だった。 二つの「三分一一秒」は連作になっており、どちらも冨永監督が手を変え品を変えつつ継続しているシリーズ「シャーリー・テンプル・ジャポン」で主人公シャーリーを演じている俳優(福津屋兼蔵)が映画監督に扮している。最初の『妻、一瞬の帰還』は、監督が病院から退院してきた妻を迎えに行くと、どうやら嫉妬心のあまり精神に異常を来していたらしい彼女はすぐさま自分が入院中の夫に疑いの目を向けて錯乱し、そのまま自ら「病院」へと引き返す。『武闘派野郎』は、その翌日の話である。前日の妻の台詞の中で語られていた若い女性(妻の前夫の妹)が男友達を連れて監督の家を訪ねてくる。単細胞丸出しの男友達は映画に出たいと言って初対面の監督に不躾な質問を浴びせ続けたあげく、腕相撲で勝負しようと挑みかかる。 何しろ「三分一一秒」しかないので、どうしてもコントみたいになってしまうし、実際かなり笑えるのだが、しかしよく考えてみると、かなり巧妙に出来ていることがわかる。二本立てなのは、一本目の翌日が二本目ということで、これによって「明日」というテーマをクリアしたということだろう。人を食っているといえばそれはそうだが、企画を逆手に取った、冨永昌敬らしい発想だと思う。また映画のラストは二本とも、家に居候している友人の「何かあったの?」という問いかけに対して、監督が「何でもない」とぶっきらぼうに答えるというものである。ではこの友人はどこから来たのか? ひょっとすると被災地かもしれない。そう考えられる証拠は映画のどこにもないのだが、しかしこの二本が『明日』というオムニバス映画の一部であるということが、観客にそのような想像力を働かせることを許している。 じつは先ほどの菅原氏の文章の中で、彼女に『明日』の製作を決意させたのは、冨永昌敬であったことが明かされている。冨永監督の映画『パンドラの匣』のロケ地は南三陸町であり、彼は二〇一一年四月一日に同地を見舞った帰りに仙台へも立ち寄り、かねてより親交のあった映画祭のメンバーと再開した。引用部分冒頭の「そのとき」とは、冨永監督の来訪時のことを指している。『明日』のパンフに彼は「映画制作のこと」という文章を寄せているのだが、そのとき、彼は「企画上映やりましょう。みんなで短い映画を持ち寄れば大きなプログラムになりますよ」「どんなに忙しい監督だって5分や3分の短編だったら撮ってくれるでしょ」などと叫んだのだという。そこから、いつしか「三分一一秒」の短篇オムニバスという企画が立ち上がっていったということらしい。
だからこの企画は、不特定多数の被災者や被災地に向けて発案されたものではないと僕は思っている。ましてやこの未曾有の国難下の日本に救いをもたらすような殊勝な意志でも決してない。何よりも願うべくは仙台短篇映画祭の健全な開催なのであって、そのためならばと、多くの作り手たちが手製の小品を持ち寄ったというのが正確なところではないだろうか。(中略) その中身がどんな「3分11秒」であろうと、積み重ねれば「6分22秒」にも「9分33秒」にも「12分44秒」にもなる。いや、いずれ「3日11時間」くらいの大作にまで膨張するかもしれない(いったい何年後だろう?)。まあともかく、うずたかく積まれた小さな固い石の集まりが、やがて強固な防波堤となり、映画を愛するこの美しい町を人知れず囲んでしまうことを僕は夢想する。
真に感動的な文章だと思う。なぜ冨永作品だけ二本あるのか、という素朴な疑問への答えも、これで明らかだろう。もちろんそれは「三分一一秒」を「六分二二秒」に、そしてそれ以上に「膨張」させていき、遂には「強固な防波堤」を築くという「夢想」を実践的に示唆するために行なわれたことなのだ。ほとんど巫山戯ているとしか思えない内容の二本の「三分一一秒」によって、冨永昌敬は仙台の映画の友人たちの想いに応えようとしたのである。明日には「明日」が存在しているということ。無数の「三分一一秒」が「防波堤」にだって成り得ること。このふたつの事実を示すことによって。そう考えれば、監督と友人による「何かあったの?」「何でもない」の反復も、また別の意味を帯びてくるのではないか。 ここでようやっとスガの指摘に戻るが、ひとつ確実に言えるだろうことは、もしも「三分一一秒」という言葉の「無意味な美学化」と言える作業が為されているのだとしたら、それは「三月一一日」を「三分一一秒」に短絡的に変換することだけではなく、そうして現れることになった「三分一一秒」を殊更に問題化してみせることによって完遂されるのだということである。菅原睦子の文章には「三分一一秒」にかんする言及は一切ない。冨永昌敬が書いているように、それはいわば単なる思いつきでしかない。「三」と「一一」という数字=言葉には、何の意味もありはしない。もちろん「三月一一日」についての「三分一一秒」の映画というと、すぐに思い出されるのは、「九月一一日」をめぐって世界十一カ国の監督たちがそれぞれ「11分9秒1フレーム」の短篇を撮ったオムニバス映画『セプテンバー11』である。おそらく河瀬直美には、あの作品のことが頭にあっただろう。だが『明日』は違う。それはただ「どんなに忙しい監督だって5分や3分の短編だったら撮ってくれる」ということなのだ。四十二本の「三分一一秒」は、無意味ではあるが美学化されてはいない。そこには「三」と「一一」という数字=言葉によって悲劇をシンボライズするという意図は存在していない。それはただ、誰かに撮ってもらえたらと願う、未だ見ぬ映画へのささやかなきっかけとして差し出されているだけなのだ。 スガ秀実の言う「「三分一一秒」という言葉の無意味な美学化」は、その批判としての正当性、有効性を十分に認めた上で尚、それ自体も「美学的」であると私には思える。それは「三月一一日」から「三分一一秒」を抽出するという行為に対する趣味的価値判断であるからだ(「無意味」というのは言い換えれば、美しくない、醜い、ということだろう)。だが『明日』における「三分一一秒」は、要するに只の口実に過ぎない。四十一人の監督の誰ひとりとして「三分一一秒」に「意味」を感じてはいなかっただろう。けれども、この無意味で美しくはない「口実」がなければ、仙台短篇映画祭の菅原睦子は、依頼のメールを送ることは出来なかったのだ。
5。切り返しとオーバーラップ
『なみのおと』は、「仙台短篇映画祭」と同じく、せんだいメディアテークを拠点とする「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の活動の一環として、東京藝術大学大学院映像研究科によって製作された長篇ドキュメンタリー映画である。ともに同大学院を修了した濱口竜介と酒井耕の二人は、二〇一一年七月から幾度か三陸沿岸部を訪ね、六つのインタビューを撮影した。この映画では(『311』とは対照的に)被災地の光景は、まったく映されない。津波の跡も瓦礫も原発も登場しない。二時間半近い上映時間のほとんどは、自らの被災体験を話す人々を捉えた映像である。昭和八年の三陸大津波を体験した老姉妹、気仙沼の消防団員たち、かけがえのない親友を喪った初老の女性、石巻市議会議員の男性、津波で家ごと流されたが九死に一生を得た夫婦、相馬市で働く若い姉妹。それぞれ数十分の長さを持った各シーンの間に車での移動のショットが挟み込まれる以外は、他の要素は一切ない、シンプルな佇まいの作品である。 この映画は「オーラル・ヒストリー(口述による歴史)」の試みであるとされている。「この“語り”は、実際は過去や未来のためという以上に、今まさに起こっている「復興」の活動そのものなのではないだろうか、という気がしています。それは、瓦礫をただの瓦礫にしないための、個人と共同体の歴史を取り返す作業であるからなのです」(「作者のことば」山形国際ドキュメンタリー映画祭・東日本大震災復興支援上映プロジェクト「ともにあるCinema with Us」カタログ)。実際、全体としては淡々とした雰囲気を保ちながらも、だがしばしば抑えようとする感情が否応無しに溢れ出すこともあるインタビューイたちの話は、いずれも実感と今だ生々しい記憶によって語られているだけに、現在形���歴史性とでも呼ぶべき強度を備えている。 だが、それと同時に、この映画を観る誰もを少なからず戸惑わせることになるのは、インタビューの撮られ方である。通常のドキュメンタリー映画において、インタビュー場面は、基本的に長廻しで撮影するか、一連の語りを複数のカメラで撮影しておいて編集するという形が取られることが多い。だが、この映画では、まるで劇映画のように、いや、もっと精確に言うなら、まるで小津安二郎の映画のように、いわゆる「切り返し」が多用されているのである。 最初の老姉妹のシーンを例に説明しよう。インタビューイが複数居る場合、別々に撮影するか、横に並んでもらって話を聞くのが普通である。だが『なみのおと』では、二人は互いに向かい合って坐っている。つまり対話をしているように見えるのだが、にもかかわらず、二人をそれぞれ真正面から撮ったショットが細かく挟まるのである。だが二人の話は切れ目なしに続いている。対面する二者を正面から捉えた画面が交互に編集されることを「切り返し」という。これは劇映画においては特に珍しいことではないが、ドキュメンタリーでは奇妙な印象を与える。明らかにインタビューである筈なのに、あたかも緻密なカット割りが施されているように見えるからである。この奇妙さは、インタビューイが更に多い消防団員のシーンでは、より強調されることになる。また、インタビューイが一人しかいないシーンでは、聞き手を務めているらしき監督が対面して「切り返し」が行なわれている。 一体どのようにして、このような場面が撮られたのだろうか。推測の域を出ないが、おそらく各々のインタビューは二度(もしくはそれ以上)行なわれている。監督たちはまず普通にインタビューイに話を聞いて(二名以上の場合は個別にインタビューして)、その上で各シーンの構成をカット割りまで含めて或る程度準備してから、本番(?)の撮影に臨んだのだ。その際、インタビューイは、同じ体験談を二度以上することになるが、それゆえに個々の話は反芻され、整理されて、却ってリアリティを増しているのである。二名が対面するシーンでは、各々の真向かいからややずれた位置にカメラを据えて撮影したと思しきショットもあるが、しかし「切り返し」が引き絵になった時にはカメラは消えている。これは相当に計算して撮影していないと不可能なことである。 濱口竜介と酒井耕は、いずれも元々はフィクション映画を撮ってきた監督であり、『なみのおと』が初めてのドキュメンタリー作品である。「切り返し」という劇映画的手法の導入が意図的なものであることは明白だが、ではなぜ彼らはこのような(おそらくはかなり面倒な)方法をわざわざ取り入れたのだろうか。もちろん、まず第一に、人の顔を真正面から撮ることによって得られる美学的側面ということがあるだろう。この映画の感想をネットで幾つか読んでみたが、この点にかんする言及はやはり多かった。だが、表情をつぶさに映し出すということのみならば、ドキュメンタリーであれば「切り返し」を用いなくても出来ることである。だからむしろ、より重要なことは、カメラに、ではなく、生身の誰かに語りかける、誰かと語り合う、ということだったのではないか。インタビューはその本性上、問いと答えの応酬という形式を取る。だが問われる前から、インタビューイの内には、誰かに向けて語られるべき記憶の物語が潜在している。如何にしてそれを、出来る限りそれそのものに近い姿で掴み出すか。逆説的なようだが、劇映画的「切り返し」は、そのためにこそ召喚されたのだ。「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言ったのは森達也だが、その反対側には「フィクションは現実を晒す」という真理が存在している。『なみのおと』における「切り返し」は、いうなればフィクションとドキュメンタリーとハイブリッドである。先ほど、インタビューは二度以上行なわれたのではないかという仮説を述べたが、だからといって一度目が本物であり、二度目以降は演技ということではない。そうではなく、一度目から多少は演技であり、二度目以降にも真実は宿っている。『なみのおと』では撮る側も撮られる側も、そのことに意識的にならざるを得ない。ただカメラを回して質問を口にするだけでは、或いはカメラの前で自由に会話してくださいと求めただけでは、どうしても露わにならないことがある。それは「切り返し」のようなあからさまな作為の介入、フィクション性の導入によってこそ、画面に現れてくるのである。 これと似た感覚を、『311』の監督のひとりである松林要樹の単独作品『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』でも味わった。前回も触れておいたように、『311』のロケから東京の下宿に戻って間もない四月三日、松林は支援物資を届けるという友人の車に同伴して、ふたたび被災地に向かい、福島県南相馬市原町区を訪ねた。彼はそこで偶然に南相馬市議会議員の田中京子と知り合う。地震と津波による被害のみならず、福島第一原発から20キロ圏内に自宅がある為に避難所生活を余儀なくされている田中夫妻と南相馬市原町区江井地区の人々との交流は、思いがけない継続的な撮影へと松林監督を誘っていった。そうして一本の映画として出来上がったのが『相馬看花』である。 成立の経緯だけではなく、これはまさしく『311』の「続編」と呼ばれるべき作品である。『311』への「消化不良の感情」を隠そうとしていなかった松林監督が、自分なりの落とし前をつけようとした映画であると言っていい。田中氏の導きによって、震災と原発事故によって生活を根こそぎ損なわれた人たちとの幾つもの出会いがあり、彼は只管それをカメラに記録していく。それはやがて、この土地に深く刻印された、原子力発電所との、必ずしも望まれたわけではない共生の歴史=記憶を遡っていくことになる。「第一部」と題されているということは、当然「第二部」以降も予定されているのだろうし、事態は今現在も刻々と変化しているのだから、文字通りのドキュメントとしての役割を、この映画が担っていることは間違いない。だが私は、そればかりではなく、一編の「映画」として、『相馬看花』は紛れもない傑作であると思う。それは何よりもまず、この映画における「映像=イメージ」の複雑��つ繊細な用いられ方による。 『相馬看花』には、松林要樹が撮影したもの以外にも、複数の「映像=イメージ」が登場する。田中夫妻と親しくなった彼は、警戒区域への一時帰宅が認められた際に、居住者ではない自分は同行が許されないため、ビデオカメラを貸して撮ってきてもらうことにする。映画には田中氏の撮影による一時帰宅の一部始終が、ほぼそのまま取り入れられている。また、そのとき松林監督は、田中夫妻に自宅から一枚の写真を持ってきてくれるように頼む。それは原発から約15キロにある小高神社であげた夫妻の結婚式の記念写真である。まだ立ち入りが可能だった或る日、田中久治氏に桜を撮ってくれと言われて、その神社を訪れた折に想い出話を聞いたことがあったのだ。数十年も昔のモノクロ写真には、若かりし頃の田中夫妻と一緒に、すでに松林もよく知っている人達の姿が映っている。小高神社は、東京電力が原発の安全祈願を行なう所でもある。 結婚式の写真だけではなく、この映画には数枚の写真が画面に現れる。興味深いのは、それら写真の幾つかが、まず説明抜きにカットインやオーバーラップで提示されるということである。たとえば若き田中京子氏と子どもたちが写った写真は、最初に出てきた時には何であるかわからない。彼女の回想がその写真に記録された過去へと差し掛かると、ふたたび画面に写真がオーバーラップしてきて、ようやく観客はあれはこれだったのか、と納得することになるのだ。このようなカットバックならぬカットフォワードとでも呼ぶべき手法が、この映画では何度か使用されている。 もっとも印象的なのは、粂という老夫婦のエピソードである。足の不自由な妻のため、避難勧告が出てからも自宅に留まっていた二人を、田中氏と共に松林は訪ねる。水道も電気も止まった屋敷で、夫妻は炭で暖を取って生活していた。酒が足りないと話す粂氏に、次に来る時は一升瓶を持ってくると約束した松林は、ふたたび友人の写真家を伴って被災地を取材した折に、酒を土産に粂家を再訪する。粂氏は引退してから既に二十数年が経っているが、かつては福島第一原発の安全専任者として働いていた。帰りがけに写真家は夫妻を屋敷の軒先で撮影する。レンズに向かって穏やかに微笑む二人の背後に原発の鉄塔が見えている。それからまた暫く経って、粂夫妻は避難所に移っている。松林は写真を渡しに二人に逢いに行く。粂氏はとても喜んで、お返しだと言って自分のカメラで松林を撮る。だが現像されたその写真が画面に映し出されることはない。 このように『相馬看花』は、直截的なテーマとはまた別に、「映像=イメージ」と「見ること」をめぐる映画という側面を持っている。複数の古い写真や、作者とは異なる者による映像の意図的な挿入が、この映画に豊かな時空間的膨らみを与えている。それらはいずれも、いつかどこかで誰かが見た光景である。更には、素性がすぐにはわからないイメージのオーバーラップ/カットフォワードが、観客の「見ること」への意識を刺激する。そもそも題名からして「相馬で花を看る」という意味である。看ること。見ること。テーマとは別だと言ったが、しかし松林要樹にとっては、あの『311』の「続編」として、自分はいったい何を撮れるのか、撮るべきなのか、という現在進行形の内省と、南相馬の人々との親密なかかわりの中で、原発に蝕まれた土地の記憶=歴史への問題意識の深まりと共に、自然と導き出されてきたものであることも、また確かだろう。 『なみのおと』と『相馬看花』、二本の映画に共通しているのは、ドキュメントするためにこそフィクションが必要なのだ、という意識もしくは無意識である。「映画」に記録されているのは、常に既に嘗て「現在」であった「過去」であり、そうでしかない。だがそれが見られるのは常に「現在」である。だから「過去」を「現在」へと呼び戻すためには、その回帰に真の意味での切実さを与えるためには、何らかの仕掛けが要るのだ。それをフィクションと、ここでは呼んでいる。それは冨永昌敬の、一見したところ何とも不真面目な二本の「三分一一秒」に宿っていた誠実さとも響き合っている。そして私は、このあたりに「野蛮」へのヒントがあるような気がしているのだ。
6。算数・距離・測定
「群像」の五月号に掲載されていた大澤信亮の評論「出日本記」を読んで、あれこれ考えた。「言葉が出てこない。問いが定められない。何を考えても嘘になる。そういう状態が九ヶ月間続いた」という驚くほどに率直な「失語」の告白から、この文章は始まっている。
何が自分を立ち止まらせているのか、わかっている。未曾有の大災害という事件ではない。一人の他者だ。二〇一一年三月二十四日。福島の農家の方が自殺した。六十四歳の男性だった。三十年以上も有機農業を続けてきた人だった。そんな人が「もうだめだ」と自ら命を絶った。もう生きることが出来ないと。ここが出発点だと思った。 (中略)何かを書こうとすると、いつも男性のことが頭をよぎった。津波や地震で亡くなった方たちには、自然な同情も共感も抱けない私が、どうしてこの出来事にこうも囚われるのか。自殺と背中合わせの働くということ。そこに届く言葉が自分に言えるのか。そう考えてしまう。
このような述懐をナイーヴと取るか真摯と取るかは読み手によるだろうが、ここで自問されている「どうしてこの出来事にこうも囚われるのか」への答えは明らかだと思う。地震や津波は基本的には自然災害だが、農家の男性の自殺には間接的ではあれ下手人が居るからだ。撃つべき敵が特定されているからだ。だからここで言われているのは数万人の死者たちと一人の自殺者の対立ではない。ひとりの背後に無数の人々を見ているのである。だが敢てこのような、受け取り方によっては如何にも不謹慎な言い方を挑発的にしてみせることで、大澤氏は百二十枚に及ぶ自身の論考の発進力としている。だが同時にこういうことも言える。たとえば「東日本大震災の犠牲者は二万五千人。だが日本の毎年の自殺者は三万人」というような言表がある。この数字は正しいのだろう。しかし、このデータによって提示されているのは、数が多い方が相対的に深刻だということではもちろんない。当然のことである筈だが、私たちはしばしば、この点を見誤る。数が問題なのではない。数万人だろうが、たった一人だろうが、望まれざる死であったことには変わりない。二万五千よりも三万の方が多いという算数は、たとえ生真面目な心性に基づくものであったとしても、してはならない。世の中には、数えてはいけないことがあるのだ。 今回の地震は千年に一度の大地震だった。そういう出来事に対して普通の感覚だけで考えてはいけないと思った。千年に一度の出来事には、千年を超える思想だ。
こんなことを真っ直ぐに書き付けられるのが大澤信亮という批評家の個性���あり、才能だとも思う。千年は「100年保存」の十倍、「あれから一年」の千倍である。無論こんな算数もしてはならない。ここで言われていることは、俺は「千年を超える思想」のつもりで書いてみせる、という個的な決意表明であって、それ以外ではない。だから私はひとりの読者として、その意気やよし、と思いつつ、この論考を読んだ。だが、その感想を述べるのは、ここでの目的ではない。千年と書いてあったから読む気になったわけでも、千年とあったのに読む気をなくさなかったのでもない。ただひとつ言っておきたいのは、次のようなことである。 震災後、百年後であれ、千年後であれ、自分が綺麗さっぱり居なくなってしまった後の「この世界」に向けて何事かを語るという仕草が、以前にも増して散見されるようになった。そしてそれらは多くの場合、或る種の「責任」の意識とワンセットで語られているように思う。しかし私は、こうなる以前から、そういった言説には微妙な違和感を禁じ得なかったのだ。それはまず第一に、百年後に向けて何かをすることと、「百年後に向けて何かをするべきだ」と語ることの間に横たわる断層が、どうしても気になってしまうからである。そこには欺瞞の萌芽がある。「自分が存在しなくなった未来」を云々したがる者ほど、実のところは「今」に強く拘泥し、責任感の披瀝の陰で、目先の利得に汲々としていることがあるのではないか。そして今度の出来事が、そのような者に都合の良い言質を与えたということなのではないか。私にはそう思える。断っておくが、大澤信亮がそうだというのではない。むしろ逆だ。「出日本記」を通読すれば誰にだってわかるように、大澤氏にはパフォーマティヴな戦略性がほとんどない。いや、戦略の有効性と限界を十二分に知悉した上で、敢て潔く毅然として勇ましくそれを捨ててみせている、というのが、彼の唯一のパフォーマンスと言うべきかもしれない。 先の引用のもう少し先で、大澤氏は平野啓一郎による「被災地への距離」と題された「被災地見学記」を取り上げ、批判している。自身の体験に照らして、平野氏の文章には、臭い、すなわち「潮の強烈な臭気と、瓦礫の下の死体の腐臭」の描写が存在していないことに触れ、「それは、主体に否応なく侵入してくる外部の経験を、氏の「書くこと」自体が遠ざけているからではないか」と大澤氏は述べる。
もし、書くということが「距離」を作るだけだとしたら、恐ろしいことだ。
「その距離は被災地と東京の距離以前に、作家と現実との距離のように思えた」。私は平野氏の文章を読んでいないので、この批判がどの程度当たっているのか、或いはまったくの言いがかりであったりするのかどうかは知らない。それよりも目に飛び込んできたのは「距離」の二文字である。 『震災とフィクションの“距離”』は、「2011年3月から9月の期間に15人の小説家が執筆し、期間限定で著作権を解除、転送自由のチャリティ作品として「早稲田文学」サイトで発表された16作品を一挙収録。並行して公開された英中韓3カ国語のバージョンと、執筆者たちによる対談・座談も同時収録(オビ文より)」された単行本である。参加している作家は、古川日出男(二編)、阿部和重、円城塔、福永信、芳川泰久、青木淳悟、松田青子、村田沙耶香、中村文則、木下古栗、中森明夫、牧田真有子、川上未映子、鹿島田真希、重松清の十六名。震災にかかわる小説アンソロジーとしては、古川、阿部、川上、重松の四人の執筆者が重なっている『それでも三月は、また』と並ぶものである。 個々の作品については、また後で触れることがあるかもしれないが、さしあたり私は、書名にもなっている座談会「震災と「フィクション」との「距離」」を、色々な意味で興味深く読んだ。「フィクション」には「言葉・日常・物語…」とルビが振られている。出席者は阿部和重、川上未映子、斎藤環、辛島デイヴィッド、市川真人。かなり長い鼎談で、さまざまな事が語られているのだが、たとえば「百年後」ということに対して、川上氏はこんな風に問うている。「たかだか三百キロ離れた福島のことを想像できなかったわけでしょう? 百年後のことを想像できる人がいると思う?」。
市川 それこそが、作家の責任なんじゃないのかな。百年後について、想像力を駆使して書けるじゃないですか、作家たちは。 川上 でも、想像力を駆使して書いたことは、結局、解決にはならないんじゃないですか。フィクションが寄り添うものだったり耐え難い現実の緩衝剤だったり、そういう役割はできても、そういう存在をつくることと、百年後の未来を想定していま現実的にどう振る舞うかを考えることは、似ていて違うことだと思うんです。
この座談会は二〇一一年六月三日に収録されたものなので、その後、意見が多少変わったことだってあり得るが、右のやりとりを経て、市川氏は、文芸評論家であり編集者の「読む者」としての立場から、関東大震災後の坪内逍遥の発言に批判的に言及し、今こそ「癒し」としての矮小な「私」性への逃避を是とすることのない「大きな作品」を読みたいのだと述べ、川上氏は「大きな話には大きな話にしか達成できないものがあって、小さいものには小さいものの役割がある」と躱しつつ、では「書く者」である自分は、小説によって何を成せるのか、という心境を具体的に語ってゆく。 大小はともかく、ここで「書くこと」と「読むこと」の両極から交叉的に測られているものが「距離」である。それは「作家と現実との距離」であり、出来事と「フィクション」を隔てる「距離」である。では、この「距離」は、果たして測定可能なのだろうか? 頑張れば踏破出来るのだろうか? もしも、書くということが「距離」を作るのだとしたら?
7。ベルリン・レクチャー
佐々木敦です。日本の、東京の、渋谷という街から参りました。 僕は三年前にも、ここでレクチャーをしたことがあります。そのときは日本の九〇年代以降のポップ・ミュージックについて、実際に音楽を掛けながら色々とお話しました。僕は複数の芸術・文化について文章を書いているのですが、しかし今日は、このイベントでただひとりの日本人スピーカーとして、やはり昨年の三月十一日以降の出来事にかんして語らないわけにはいかないだろうと思います。これから皆さんに幾つかの映像をお見せします。いずれもおそらく海外ではまだあまり知られていない、日本の新しいクリエイターによる作品です。まず最初は、ドキュメンタリー映画作家松江哲明による長篇映画『トーキョードリフター』の予告編です。
(『トーキョードリフター』予告編、YouTubeによる上映)
この映画は、どういう作品かと言いますと、前野健太というシンガーソングライターが、昨年の五月の或る日の夕方から翌日の早朝にかけて、東京のあちこちを移動しながら、ギターで弾き語りをする、その模様をひたすら記録した、ただそれだけの、たった一晩のドキュメンタリー映画です。 実はこの作品は、以前に同じ組み合わせで作られた映画の続編ともいうべきものです。二〇〇九年の一月一日に、松江監督は、東京の吉祥寺という街を、前野健太がギターで弾き語りをしながら歩き続ける様子を、八〇分間ワンカットで撮影し、一本の映画として発表しました。『ライブテープ』という作品です。『トーキョードリフター』は、それと同じように、やはり前野さんが歌うだけの映画です。 松江監督は、日本で「セルフ・ドキュメンタリー」と呼ばれている、従来のドキュメンタリー映画が題材としてきた社会的、あるいは政治的な主題というよりも、自分や自分の周囲のささやかな事象にフォーカスして映画を撮る、ここ数年の新しいドキュメンタリー作家たちの潮流の中心人物といわれている人です。予告編の中で松江さんが話していたのは、こんなことです。ドキュメンタリーを撮る者ならば、なぜ福島に行かないのか、行くべきではないのかと、たくさんの人から何度も言われてきた。だが、福島を撮ることだけが、ドキュメンタリー作家としての使命を果たすことなのだろうか。自分はむしろ、この暗い東京を、映画に記録しておきたいと思ったのだ。 ご存知の方もおられるかもしれませんが、福島第一原発の事故によって、電力供給が不足するとのことで、東京では、かなり大がかりな節電を行なわなければならない状況が生じました。その結果、たとえば渋谷という街の駅前、ハチ公前というのですが、そこはもともと交叉点に位置するビルに設置された複数の屋外大型ビジョンに絶えず映像が映し出されており、色とりどりのイルミネーションに彩られた、大変に明るく賑やかな場所なのですけれども、節電によってほとんどの照明が落とされて、非常に暗くなっていました。渋谷に限らず、東京の繁華街は、この頃はどこも暗かった。 そもそもヨーロッパに較べると、東京の夜は明る過ぎるので、多少明るさが減ってもいいような気もしますが、ともあれ以前に較べると、異常と呼んでもいいほどの暗さであったわけです。この映画は、そんな暗い東京の姿を捉えています。節電対策がほぼ解除されて、以前の明るさが戻ってきたのは、九月半ばのことでした。つまり半年間くらい、東京は暗かった。この映画が撮影された五月の段階では、まだ人々は暗さに慣れていなかったのではないかと思います。しかもこの日は雨も降っていて、全体として、うら寂しい感じを受けます。松江監督は、この暗い東京を撮っておきたいと考えたのです。 この映画は昨年の十二月に劇場公開されましたが、僕もそのときに見て、大変に驚きました。なぜなら、東京がこんなに暗かったということを、僕自身、いつのまにか忘れかかっていたからです。明かりが戻って来てから、まだ三ヶ月しか経っていないにもかかわらず、暗い東京の記憶は早くも薄れかかっていた。いや、もちろん覚えていたのですが、映像で見ることによって、あらためて強い衝撃を受けたのです。僕は渋谷に事務所を構えているので、日々の変化は目の当たりにしていた筈なのですが、それでも非常に驚いた。このことだけでも、この映画には存在意義があると思います。 予告編の最後で、松江監督はこんなことを言っています。「映画って、どんなにネガティヴな状況でも、もう撮った時点で、絶対ポジティヴになるんですよ」。この作品は、夜が明けて、雨が上がって、朝を迎えたところで終わります。そこには、明日は必ずやって来る、というメッセージが込められているようにも思えます。これを単なる楽観主義と言ってしまえば、それはそうかもしれません。実際、この作品は松江監督の以前からの支持者の間でも賛否両論があるようです。でも僕は、この試みは、とても貴重なものだと思います。 去年の三月十一日以後、日本のアーティスト、芸術家たちは、それぞれにショックを受けて、自分が属しているジャンルにおいて、さまざまな形で、このかつて体験したことのない事態に応接しようとしてきました。それは、僕がかかわっている分野だけでも、音楽、映画、美術、演劇、小説など多岐にわたっています。僕は、そうした沢山の表現を、必ずしも自分から進んで、ということではありませんが、結果として数多く体験、鑑賞してきて、色々なことを考えるようになりました。 当然、よいと思えるものもあれば、これはどうかなと思うものもあります。中には、あの日以前の自分の問題意識の欠落に対して、誰に向けてということなのかはわかりませんが、一種の言い訳をしているかのように思える表現もありました。僕はそれは欺瞞だと考えざるを得ない。その中で、僕が自分として好ましいと思えたものは、あの一連の出来事、地震、津波、原発事故というものを、必ずしも直截的に扱ったものではない、ことによると、一見する限り、ほとんど無関係にさえ見えるようなものが多かったのです。それは、どういうことなのでしょうか? ここで、次の映像を見ていただきます。
(『福島でゴドーを待ちながら』、YouTubeによる上映)
いまご覧になったのは、かもめマシーンという、まだとても若い劇団による公演『福島でゴドーを待ちながら』の抜粋です。チェーホフの『かもめ』と、この国の偉大な劇作家ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』を合体させたユニークなネーミングですが、まだ日本でも知名度が高いとは言えません。出演者一名、観客一名、たった五回の公演ですとか、オーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクの『雲。家。』をビルの屋上でひとり芝居で上演するとか、実験的なアプローチを取ることが多いカンパニーです。 ビデオにもあったように、彼らは去年の八月に、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を、福島第一原発から20.5キロの路上で上演しました。現在も半径20キロ圏内は警戒区域となっており、法律で立ち入りを禁じられ、自宅のある住人たちも戻ることが出来ません。彼らはそのぎりぎりの場所で、演劇の公演を行なったのです。 彼らはのちに、この公演のドキュメント・ブックを制作しています。それによると『ゴドー』という選択には、二〇〇三年にスーザン・ソンタグが、サラエヴォで『ゴドー』を上演したということが、ひとつのインスパイアになっていたようです。また、それだけでなく、この戯曲の内容、ゴドーという男をずっと待っているのだが、いつまで経っても現れない、という設定が重要であったのだろうとも思います。 しかしドキュメント・ブックによれば、この公演はいわば思いつきのノリで実行されたようです。『ゴドー』は割と長い戯曲で、そのまま上演したら二時間を優に超えてしまうだろうと思いますが、かもめマシーンの主宰で演出家の萩原雄太は、登場人物の数を三人に減らして(もとは五人)、更に台詞を極端に削って、約三十分の作品に切り詰めました。上演場所は、とにかく福島まで一台の車に同乗して行って、それからロケハンをして決めたそうです。 公演といっても、このようなものですから、とにかくやること自体に意義があるのだと考え、観客ゼロであっても上演はするつもりで、ほとんど告知もしなかったらしいのですが、当日になると、なんと東京からたったひとりだけ観客がやってきたそうです。台詞を削ったと言いましたが、それどころか実際には、これはこの戯曲でもっとも有名なくだりであるとは思いますが、ウラジーミルとエストラゴンの「もう行こう」「ダメだよ」「なぜさ?」「ゴドーを待つんだ」「ああ、そうか」というやりとり、これが何度か繰り返される以外は、ほぼ完全に無言劇にしてしまったそうです。そうして一度きり上演された様子が、先ほどの映像です。三人の若い役者は、ただぼんやりと突っ立っているように見えますね。 20.5キロというのは、放射線量的には、おそらくはかなり高い地域です。そんな危険な場所まで東京からわざわざ行って、まだ二十代の役者たちが、ひとりしか観客の居ない、もしかしたら誰も観なかったかもしれない芝居を演じる、この明らかに無謀と言ってよいだろう試みは、ひとりよがりで自己満足的な行為かもしれません。いえ、それは確かにそうなのです。松江哲明は、敢て福島には行かずに、震災以後の問題を描くことを選んだ。反対に、かもめマシーンは、福島に行かなければならないと考えた。それは彼らが演劇という営みによって、この出来事に応答しようとするためには、どうしても必要なことだったのです。両者のアプローチは対照的ですが、しかし動機の部分、なぜ映画を、演劇をやるのか、という根っこのところに存在しているものは、実はかなり近いのではないかと思うのです。 先ほども述べたように、僕はあの日以来、数多くの「震災以後の表現」に接してきました。思うに、それらの表現に潜在している問いは、次のようなものだと思います。今、あの日以後である今、わたしたちに「何が出来るのか?」「何をすべきなのか?」「何がしたいのか?」。これらの問いへの答えは、それぞれに誠実であったり、真摯なものであったりします。だが、中には僕の目には欺瞞に映るものもあります。それは、これらの問いが、自らの内側から発されているというよりも、その者と外界との関係というか、社会とか公とか呼ばれているようなものから暗に強いられている、この出来事にダイレクトに応じる責任感の披瀝を求められている、そう思うがゆえに提示されていると思える場合です。 常々思うことですが、芸術というものは、本来的には、究極的には、あってもなくてもいいものです。そしてしかし芸術は、それでも存在し、作り出され、生まれてくるものであり、それによって、ある人の生そのものが救われたり、大きく変わったりすることだってある、そういうものだと思うのです。ただ単純に、震災以後の状況に対して、意味のあることをしたいと考えるのであれば、募金やボランティアをすればいいのです。その方が有意義だし実利的です。だが、それはそれとして行なったりもしつつ、それでも芸術の名において何かをするというのであれば、それは自分だってこの問題について真面目に考えているのだというアリバイ工作のようなものでなくてもいい筈です。あってもなくてもいいものであるからこそ、それでも芸術を為そうとするからには、「何が出来るのか?」「何をすべきなのか?」「何がしたいのか?」という問いよりも、むしろ「何をしないではいられないのか?」という問いの方が重要なのではないかと僕は思います。松江哲明は暗い東京を撮らずにはいられなかった。かもめマシーンは福島の路上でベケットを上演せずにはいられなかった。どちらも、誰に求められたのでも強いられたのでもなく、しかも結果として自分にとって益や誉れにはならないかもしれないような危うい試みであるのに、彼らはどうしてもそうせざるを得なかったのです。そのことに僕はむしろ本当の意味での誠実さを感じます。しなくてもいいのにしないではいられない、ということ。これこそが僕は信用に足るものだと思っています。 それでは三つ目、先の二つとはまた趣きの異なる作品を見ていただこうと思います。東京デスロックという劇団の『再/生(RE/BIRTH)』という作品です。東京デスロックは、多田淳之介が主宰、演出を務めるカンパニーです。『再/生』は、スラッシュのない『再生(REBIRTH)』として二〇〇六年に初演された作品の改訂版です。しかし、このふたつの作品は、結果として大きく違ったものになっています。ではまず、最初のヴァージョンの『再生』から御覧ください。
(DVDを再生しながら)照明が暗めの部屋に若者たちが集って、食べ物をつまんだり飲み物を呑んだりしながら、他愛のない話をしています。一見すると、ホームパーティ、いわゆる呑み会の光景です。やがて彼ら彼女らは音楽に乗ってダンスをし始めます。ドイツでも知っている方が多いと思いますが、日本を代表するテクノ・ユニット電気グルーヴのヒット曲「Shangri-La」が爆音で流され、若者たちは激しく踊り狂います。そして、こういう展開になります。 (早送りして)踊っていた若者たちが突然、一人ずつぶっ倒れていって、遂に全員が床に倒れ伏します。そう、実は、これは集団自殺の場面だったのです。これだけでもショッキングですが、この作品の凄いところはこの先です。 (更に早送りして)ふたたび音楽が流れ出すと、死んでいた筈の若者たちはむくりと起き出して、劇のいちばん最初から、まったく同じ芝居を繰り返します。『再生』というタイトルは、ここからきています。そしてやがてまた踊り出し、音楽が最高潮に達したところで、床に突っ伏して皆、死ぬ。そしてまた音楽が始まると共に最初のシーンに戻ります。この作品は、この一連のプロセスを、精確に三度、反復する、というものです。
『再生』は、舞台上での死は常に虚構の死でしかないという、演劇という表現が持っている絶対的な条件を逆手に取った作品だと、まずは言えます。また、こちらの方がより重要だと思いますが、繰り返しも三度目になると、毎回、全力で踊っていた役者たちはさすがに疲れてきて、死んでいる演技をしなくてはならないのに息があがってしまい、虚構の死がより強調されてしまう。ここには、演劇という一種の反復表現に潜むアポリアが垣間見えています。僕は以前、或る本で、この作品について分析したことがあります(『即興の解体/懐胎』)。多田淳之介は、このように、演劇を根本から凝視め直し、批判しようとするユニークな作風で知られています。では、昨年の七月に初演され、今年の三月に早くも再演された『再/生』では、どのように変わったのでしょうか?
(DVDを再生しながら)最初に女優がひとり舞台に出てきて、観客にこう語りかけます。「今は、幸せについて考えています。そもそもなんでそんなこと考えて、考え始めたのかというと、ずっと前から考えていたような気もするんですが、考え始めたきっかけといえば、あるとき、といってもいつだったかもうわからないんですが、過去のあるときのわたしは、幸せではなかった、と思ったんですね。過去のあるときのわたしは、幸せじゃなかった、と思って、じゃあそれじゃあ今、わたしは幸せなのか、という逆説?、がふっと湧いて来たのが、そもそものきっかけといえば、そうです」。この台詞はリアルタイムで録音されていて、すぐに再生されます。女優はアルカイックな微笑みを浮かべながら、今しがた発したばかりの自分の声を黙って聞いている。そしてそれもまた録音されていて、再生される。そうしているうちに、他の役者たちが現れて、音楽が流れ出し、彼ら彼女らは踊り始めます。しかしそのダンスは『再生』とは違って、きわめてアブストラクトというか、なんとも奇妙な踊りなのです。こんな風に。 (早送りして)いま流れているのは、日本で非常に人気のあるバンド、サザンオールスターズの「TSUNAMI」という曲です。これは昔の曲ですが、昨年の三月十一日以降、日本ではよくあることなのですが、一時的にテレビやラジオ等でのオンエアが自主規制されました。見ていてわかると思いますが、役者たちは奇妙なダンスを踊りつつ、唐突に床に倒れ、また起き上がるという仕草を繰り返しています。全員バラバラに踊っていますが、そこだけ共通している。そして何曲かを経て、Perfumeの「GLITTER」が始まります。Perfumeは中田ヤスタカという天才肌のプロデューサーが手掛けている三人組の人気女性ユニットで、三年前のレクチャーでも紹介しました。アップテンポのエレクトロ・ポップが大音量で流れる中、ダンスもヒートアップしていきます。 (早送りして)曲のラストで、役者たちは全員、床に倒れて動かなくなります。しかし暫くすると、曲が最初から再生され出して、彼ら彼女らは起き出して、また奇妙なダンスを踊り始める。やがて音楽は盛り上がって、全員が倒れる。これが何度も繰り返されます。つまり『再/生』は『再生』とはほとんど別の作品と言ってもいいと思いますが、ここだけは同じなのです。音楽も違うしダンスも全然変わっていますが、この反復という方法だけは、前作を踏襲している。僕は『再/生』を実際に劇場で観ましたが、一曲丸ごとフルに踊って、死んで、すぐにまた踊り出すという反復は、『再生』以上にハードなもので、何度目かになると、役者たちは息も絶え絶えになっていて、ほんとうにこの場で死んでしまうのではないかと心配になるほどでした。しかし、また曲が流れ出すと、彼ら彼女らは必ずまた起き上がり、奇妙なダンスを始めるのです。上演が終わったとき、役者たちは汗だくでした。僕を含む観客は、彼ら彼女らに惜しみない拍手を送りました。実際、僕は、涙が出るほど感動していたのです。しかし、この作品のどこが、それほど感動的だったのでしょうか? 僕は『再生』から『再/生』へのアップデートは、二〇一一年三月十一日に起こった幾つかの出来事と、その後に生じ、今なお続いているさまざまな出来事と、無関係ではないと思います。倒れて死んで生き返る、その機械的でやみくもな反復という要素において、二作は繋がっている。二〇〇六年のヴァージョンでは、それは集団自殺を示唆したものであり、また演劇へのラディカルな批判を含むものだった。 しかし去年の夏に上演された『再/生』になると、描かれていることは更に抽象化され、ほとんど演劇というよりもパフォーマンスのようなものになっている。でも、僕はこれはやはり演劇だと思うのです。単なるナンセンスで巫山戯た作品のように思われる方も居るかもしれませんが、ここには間違いなく、あの日以後のわれわれの生と、そしてわれわれ以外の人たちの数多の死に対する、演劇という芸術からの応答が存在していると僕は思います。倒れて死んで生き返る、倒れて死んで生き返る、というひたすらな、ひたむきな反復が、役者たちの酷使される身体によって演じられることによって、多田淳之介という人が、いったい何を表現しようとしたのか、そのことをよくよく考えてみなくてはならない。 東京デスロックの『再/生』は、僕が出会ってきた「震災以後の表現」の中でも、際立って印象的な作品でした。もっとも感動した作品と言ってもいいと思います。確かに、ここには明確な問題提起や、わかりやすい主張はありません。しかし、真顔でストレートに語ってみせている者が真にシリアスであるとは限らないのと同様に、一見すると迂遠だったり無関係とも思えるような表現の内に、切実なメッセージが隠されていることもあると思うのです。 以上、駆け足で、三つの作品を見てきました。僕の考えは、おそらく日本人の中でも、また芸術や文化に携わる者の中でも、かなりマイナーなものかもしれません。しかし、僕は敢て、このドイツという特殊な場所で、こういう話をしたいと思いました。ご清聴を感謝します。ありがとうございました。
8。ベルリン・レクチャー補記
前節は、五月五日にベルリンの劇場HEBBEL AM UFER(HAU)で催されたフェスティバル「APOCALYPSE NOW (AND THEN) ーTHE END OF THE WORLD IN POP CULTURE」で行なった講演の採録である。いささか大仰なタイトルだが、フェス全体のコンセプトやプログラムの内容にかんして、私はほとんど知らないままだった。正直に言っておくなら、聴衆はけっして多くはなかった。一時間足らずのごく短いレクチャーであったし、やや舌足らずなところもあると思うので、以下に幾つかの事柄を補足的に記しておきたい。 私のレクチャーはこの日の二つ目のプログラムで、その前に話したのはドイツ人アーティスト、ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニだった。二人は長年、チームで活動を続けており、札幌市立大学准教授として日本に長期滞在したこともある。私は以前、東京・初台のインターコミュニケーション・センター(ICC)等、幾つかの機会に、二人の展示を観たことがあった。ICCでの《ニーチェが洗礼を受けた教会》というインスタレーションは、かなりミスティックな作風だったが、二人は一方で、きわめてアクチュアルな問題意識に沿った映像作品も手掛けている。長崎県の端島=軍艦島を題材とする《サヨナラ・ハシマ》や、成田空港拡張反対運動を描いた《成田フィールド・トリップ》など、日本で制作された作品も多い。 二人は昨年の九月から年末にかけて京都に滞在し、原発事故にかんする一連の取材を行なった。レクチャーは、そのインタビュー映像の一部や、福島から一時避難してきた若い主婦が京都の街頭でマイクを握って脱原発を訴える様子、渋谷の駅前に貼られた東北地方への観光キャンペーン・ポスターの映像(私が自分のレクチャーの始めにわざわざ「渋谷から来た」と言ったのは、先に渋谷の光景が映されていたからである)、あるいは黒澤明監督のオムニバス映画『夢』に一篇で、富士山の噴火と原発の爆発が描かれるカタストロフィックな「赤冨士」というエピソードなどを上映しながら行なわれた。二人の明確にアクティヴィスト的なスタンスからすると、私が用意した三つの作品は、ややもすればなまくらなものだと感じられたかもしれない。 二つのレクチャーの後、これまたごく短い時間ではあったが、ニナとマロアン、男性の評論家と女性のモデレータ(いずれも名前は忘れた)、私の五名でパネル・ディスカッションも行なわれた。こうした場のパネルにありがちなことだが、やはり議論は特に深まることなく散漫なまま終わってしまった、という印象だったが、ニナとマロアのどちらかが話していたことで(パネルは録音しなかったので記憶を頼りに書いているのだ)、日本の若いアーティストたちは、ダイレクトにこの問題を扱うことを避けているのではないか、という感想があった。それはそうかもしれない。だが、そうとばかりも言えないし、私が紹介した『トーキョードリフター』『福島でゴドーを待ちながら』『再/生』は、いずれもけっして避けているのではない。むしろ、かくのごときあり方こそが、事態に真正面から全力で向き合おうとした結果なのだ。だが、日本の現状に深い知識と理解を持ち、初対面の私に対しても終始すこぶる感じの良かったニナとマロアンにさえ、私が言いたかったことが、どの程度ちゃんと伝わったのかはわからない。何しろ日本人相手にだって、しばしば、あまりわかられてはいないのではないかとも思っているからだ。 それは、詰まるところ、こういうことだ。どうせ言いたいことは変わらないので、以前に書いた文章の一部を、そのまま引用する。「あれだけの出来事があったのだから、ニッポンのありとあらゆる表現は、否応無しに、意識するとしないとにかかわらず、大なり小なり、何らかの影響を受けることになるのは間違いない。一見まるで無関係無関心に思えるものであったとしても、けっして「あの日以後」であることから逃れられてはいない。むしろ、あからさまにそのことを問題にしているものよりも、もしかしたら影響は深刻かもしれないのだ。「あの日以後」を自分なりに受け止めて、内面化し、これから自分がやっていくことに繋げてゆこうとすることと、そのことを他者に対して公的に宣言することのあいだには、やはり大きな違いがある。どうして、わざわざ問いを口にしなければならないのか。それは問いに答えようとする以前に、すでに一種のパフォーマンスなのではないか。そう思うと僕はそこに微かな欺瞞の芽を感じ取ってしまう。しかもそれは、いまや或る絶対的な正しさによって保証されているパフォーマンスであり、真っ向から批判することが、どうにも許されないような欺瞞なのだ」(「「音楽に何ができるか」と問う必要などまったくない」、季刊アルテス1号)。 ことによると、いや、間違いなく私は、この「欺瞞」ということに、おそらく必要以上にこだわっているのだろう。それは認める。だが、私が批評を生業とする者の端くれとして、自分の役目というと大袈裟なようだが、実際そう思っているのは、「以後」であることに、はっきりと自覚的な表現よりも、ほとんどそのようには見えなかったり、真面目にやっているとは思えなかったり、表現者自身でさえ、その意味をよくわかっていなかったりするような試みや営みの中に、他ならぬ「以後」の徴を、その刻印を、その傷を読み取っていくことこそが、いまや必要なのではないか、ということなのだ。なぜなら、いずれにしろ、すべては「以後」なのだし、そうであるしかないのだから。避けるも避けないも、逃げるも逃げないも、望むと望まざるとにかかわらず、われわれはあまねく「以後」を生きているのである。省みるまでもなく、これが端的な事実なのだ。だとすれば、殊更にそのように標榜することはなくても、しかし実は「以後」を全身で受け止めてしまっている、そう思える表現を、繊細かつ大胆に、時には無理にでも見出してゆくことの方を、私はやりたい。それは「以後」の無意識を探ることにもなるだろう。 毎年、秋から冬にかけて、池袋近辺を中心に催されている舞台芸術のフェスティバル「フェスティバル/トーキョー」の昨年度「F/T11」のドキュメント・ブックが送られてきた(私も寄稿している)。F/Tでは会期中に何度かシンポジウムが行なわれるのだが、その内の一つ、宮台真司、黒瀬陽平、鴻英良(司会)とのパネルにおいて、宮沢章夫が、次のような発言をしているのを読んだ。
われわれが目にしている表層に演劇があるわけではない。その向こう側に描くべき対象があるから、目の前に黙っている人がいても、僕たちはそこに何か別の言語が出現していると考えます。ですから僕は「語らなくてはいけないことのためにこの方法がある」とは考えません。僕は、そこに立つ人の内面より、その表層的なシルエットがどんな劇言語を発するか、それによって空間がどう変化するかを知りたいし、それが、僕が舞台上で、何かを表現することなんだと思います。 (「日本・現代・アート〜「終わりなき日常」の断絶から」)
これは「演劇」にかんしてだけのことではないだろう。別の芸術、別のジャンルをここに嵌め込んだとしても、宮沢氏の言っていることは正しい。むろん「語らなくてはいけないことのためにこの方法がある」がすべてよくないということではない。ただ、それはあやまちも生むこともあれば利用されることもあるということは知っておかなくてはならない。そういうことだ。 或る芸術、或る表現が、私たちの前に示されるとき、それはいずれにしろ「表層」として現れる。だがしかし「表層」が只の表層に留まり切ることは、人間に想像力と思考力がある限り、あり得ない(だからこそ、かつて「表層批評」なるものは力を持ったのだった)。ひとは必ずそこから意味を引き出す。それがどんな意味であれ。しかし、ならば「表層」の向こう側に鎮座する「意味」から、その表現、その芸術が生まれてきたのかというと、そうとは限らない。まず、どこからかどうしてか、ふと、或る「表層」が出現し、しかし如何なる理由でそれが出現したのか、それが何なのか、誰にも理解できず、それがどのような「意味」を持っているのか、次第にわかってくるのは、誰か他者へと送り届けられてから、ということだってある。こんなことはわざわざ言うまでもない大前提である筈だが、いつのまにか周りを見渡すと、創造や���現をコミュニケーション・ツールとしてのみ考え、そうであるからには誤解抜きに十全に伝わらなくてはならないとする、一種の神経症めいた感覚が蔓延しているようにも思えるのだ。「表層」に、ありうべき「意味」すなわち「語らなくてはいけないこと」を何もかも染み込ませずにはいられない作り手の心性には、生真面目さとともに、弱さと疾しさが仄見えている。それは強さと責任感を装うこともある。 「震災以後の無意識」は、あらゆるところにある。それはわれわれ全員を覆っている。ありとあらゆる芸術表現は、まるでそうは見えなかったとしても、その影響下にある。たとえ「以前」と少しも変わっていなかったとしても、そこには変わらなさという論じられるべき問題があるのだ。そう考えるならば、「以後」にかかわる批評の対象は、視界と同じだけのひろがりを持ってゆくことになるだろう。 ベルリンのレクチャーで、私が「何をしないではいられないのか?」が重要だと述べてみたのは、あってもなくてもいいのだが、しかし不断に生み出されている芸術と呼ばれる営みは、つまりは別にしてもしなくてもいいものなのだが、だからこそ、やるからには何らかの強い動機づけがあって欲しい、パブリックな視点からしたら、取るに足らないような個人的な動機であったとしても、それが切実なものとして迫ってくれば、そこには必然性が生じる。そのような必然性こそが試されているのだ、ということを言いたかったのである。それはささやかなものであるかもしれないが、しかし当人にとっては、けっして譲ることのできないものでもある。自分でもよくわからないが、どうしてもそうしないではいられない、ということ。必ずしも結果を見越して為されるわけではないそれは、いわば実験である。そんな「以後」の「実験」の数々を、私は見届けたい。 ところで、このように論を繋いでくると、お前はそうやって「以後」というタームをやたらと述べ立てることで、何かを語ったつもりになっているようだが、そのような「以後」の強調こそが一種のフレームアップであり、お前が忌み嫌う「欺瞞」を招き寄せることにもなっているのではないか、という物言いがつけられるかもしれない。さんざん「以後」的な振る舞いをした者からそう言われるのだとしたら噴飯ものだが、しかし「以後」という問題設定について、その有効性をはかるところから、より踏み込んだ精査が必要であることは確かだろう。「以後」というからには「以前」があるのである。いや、むしろ「以後」によって「以前」は形成される。次回、私はこのことを、何篇かの小説を取り上げて論じてみたいと思う。
9。「以後」との遭遇
今、あなたが目にしている「文學界」には「二〇一二年八月号」と記されている筈である。だが、この号が出るのは八月にはまだ一ヶ月近くある七月七日であり、私がこれを書いているのは六月の二十日過ぎのことだ。前に町田康の「四月号と言いながらその実、三月に出て、そこに載る文章を一月に書いている」という文を引用したが、どういうわけかは省くとして、雑誌にはこのような慣習があり、したがって「一月号」とあるならば、それはおおよそ前年の十一月下旬に入稿されていることになる。 ということは、単行本の奥付に「初出「群像」2011年1月号〜2012年1月号(2011年8月号を除く)」とある多和田葉子の『雲をつかむ話』は、実際には二〇一〇年十一月から二〇一一年十一月にかけて入稿されており、「文學界」の「二〇一〇年一月号〜二〇一一年十二月号」に連載された保坂和志の『カフカ式練習帳』は、二〇〇九年十一月から二〇一一年十月にかけて書き継がれていたわけである。もちろん連載小説だからといって、毎月の入稿時に合わせて書かれたとは限らない。何回分か纏めて執筆されていたり、実は連載開始前に全て完成していたということだってありえる。けれども、執筆期間のある日以前には絶対に書かれ得なかっただろう言葉がそこに読まれる場合、ひとつづきの小説の内に、時間の切れ目のようなものが挿し込まれているさまを、われわれ読者は目撃することになる。 『雲をつかむ話』は、近年の多和田葉子の長編小説の例に漏れず、先の展開の予測がまったく不可能な、奇怪にして優美なロマネスクであるが、全十二章の最後から二番目のチャプターの終わりがけ、やや唐突に、次のような記述が現れる。
地球の一部ではあっても、ある国の一部としてすぐに受け入れられるとは限らない。仙台からわざわざバンコクに飛んで、用もないのにしばらく滞在してからロンドンに飛んだのも、疑われないようにと用心を重ねた結果だった。わたしは欧州連合のパスポートを持っているわけだから、すっとパスポート審査をパスできるかと思えば、向こうはわたしの顔をじっと見てパスポートの出生地の欄に「東京」と書かれているのを発見して眉をひそめ、「アジアですね」と注意深く言う。これが第一の罠だ。出生地が東京ですね、と言うのでもなく、今バンコクから来たんですね、と言うのでもない。アジアという場所があるわけではないのに、わざと曖昧な言葉を使って泳がせて尻尾を出させて捕まえようとしているのだ。
語り手の「わたし」は、飛行機から降りて入国手続きをしようとしている。この章は、『雲をつかむ話』という極めて謎めかした小説が、一種の種明かしへと急速に収斂していくパートであり(尤も種が明かされるからといって謎が解けるとは限らない)、さながら探偵小説のような、或いは訝しい夢のような暗合に満ちている。しかし、このパスポートをめぐる挿話には、それらとはまた違った、妙に生々しい不穏さが纏わり付いている。「パスポート審査官の目が成田のスタンプにとまったのが分かった。眉が寄せられ、わたしを見る目が豹変した」。ああ、そういうことか。やはりそうなのか。
案の定、制服の女性が二人すぐにあらわれた。身体が触れないように左右からわたしを連行する二人の緊張した表情には、哀れみのようなものも混ざっていた。Rと書かれたドアの前まで来ると、英語で書かれた説明書を持たされ、部屋には一人で入るように言われた。中には機械があって、どのようにその機械を使えばいいのかは説明書に書いてある、と言うのだ。読まなくても分かる。身体に放射性物質がついていないか調べる機械なのだろう。一人その部屋に入れば、外から鍵をかけられてしまうかもしれない。しかも調べた数値は外からしか読めないようになっているかもしれない。そしてもしも数値が高かった場合は監禁されて、その後いったいどうなるのか。
『雲をつかむ話』の「わたし」は、長年ドイツに住む日本人の小説家で、日本語とドイツ語の両方で作品を発表している。数年前にハンブルグからベルリンに転居した。最近は学会や講演でアメリカに行くことも多い。つまりは、限りなく「多和田葉子」に近い人物なのだが、しかしこの小説が、いわゆる「私小説」とは似て非なる、いや、似ても似つかぬものであることは、読めばわかる。だが、虚実というより虚に虚を織り重ねてゆくかのごとき幻惑的な語り/騙りのなかで、この箇所だけが、陳腐な表現を許していただけるなら、無闇とリアルなのだ。無論、作者である「多和田葉子」が現実に同様の体験をしたのでは、などと言いたいわけではない。そうであろうがなかろうが、読者には関係のないことである。しかし、このシーンが「二〇一一年三月十一日」以前に書かれていなかったことだけは間違いない。そしてこの端的な事実は、「人は一生のうち何度くらい犯人と出逢うのだろう」という魅力的な一文によって開始され、「わたし」が思い出すままに時間と空間を自在に経巡ってゆくこの小説の、フィクションとしての臨界点を露わにしているように思えるのだ。 ところで、これと酷似した場面を、多和田はアンソロジー『それでも三月は、また』に書き下ろした短篇「不死の島」でも書いている。
パスポートを受け取ろうとして差し出した手が一瞬とまった。若い金髪の旅券調べの顔がひきつり、唇がかすかに震えている。声を出すのは、わたしの方が早かった。「これは確かに日本のパスポートですけれどね、わたしはもう三十年前からドイツに住んでいて、今アメリカ旅行から帰ってきたとこです。あれ以来、日本へは行っていませんよ。」そこまで言って言葉を切り、それから先、考えたことは口にはしなかった。「まさか旅券に放射性物質がついているわけないでしょう。ケガレ扱いしないでください。」受け取ってもらえないパスポートを一度手元に引き戻して、今度は永住権のシールを貼ってあるページを開いて改めて差し出すと、相手はふるえる指先でそれを受け取った。
言葉遣いは更にリアルで、ますます実際の体験談のような気がしてしまうが、しかし実はこの小説の舞台は二〇二三年なのだ。掌編というべき「不死の島」が描く「日本の未来」は、おそろしくグロテスクなものである。二〇一三年に天皇主義者による脱原発クーデターが起こり、それがきっかけで勃発した政変の果てに日本政府自体が民営化され、すべてが経済合理性と隠蔽体質に覆われる。放射能汚染に対する疑惑と忌避もあって、日本国は世界から孤立してゆく。二〇一七年に「太平洋大地震」が起こったが、すでに日本への渡航は途絶えていたため、それでどうなったのかはわからない。二〇二三年、日本に密航してきたポルトガル人の旅行記が出版される。それによると、二〇一一年に福島で被爆したとき百歳を越えていた老人たちは「死ぬ能力を放射性物質によって奪われて」、全員がまだ生きている。その代わり、当時子供だった者たちは重篤な障害を発症した。「若いという形容詞に若さがあった時代は終わり、若いと言えば、立てない、歩けない、眼が見えない、ものが食べられない、しゃべれない、という意味になってしまった」。老人が若者を介護する社会が訪れる。そんな中、ふたたび巨大地震が起こったのだった。「わたし」は二〇二三年の今になって思う。「福島で事故があった年にすべての原子力発電所のスイッチを切るべきだったのだ。すぐまた大きな地震が来ると分かっていたのに、どうしてぐずぐずしていたのだろう」。 「不死の島」は「震災以後」を主題とする数多の小説の中でも、際立った問題作である。だが「日本国のパスポート」をめぐる挿話にかんしては、連載が「震災以前」に始まっていた『雲をつかむ話』の最終回直前に語られたものの方に、むしろ不意撃ちのようなインパクトがあった。それは、小説家が書くつもりではなかった、小説が書き始められたときには書かれる筈ではなかったことが、現にここに書かれてある、という静かな衝撃だった。 保坂和志の『カフカ式練習帳』は、フランツ・カフカが遺した膨大なノート、そこに記された創作メモや随想、身辺雑記、日常の観察、小説の一部、等々のような種々雑多な断片を、連載小説という枠組みの中で意識的に書いてみるという、特異な方法意識に支えられた「長編小説」である。「思いついたらいつでも書けるように家の中のあちこちにノートを置いておいてその場で書き出す」。そうして数冊のノートに徒然に書かれた断片群が、毎月編集者によって回収されてランダムに並べられることで、連載の各回が構成されたのだという。したがって長短さまざまな断片と断片のあいだには基本的に連続性や一貫性は存在していない。それでも一冊となった際に、れっきとした「長編小説」としての佇まいを持っているのは、保坂和志の「小説家」としての技量と才覚、そしておそらくそれ以上に「小説」という営みに隠された神秘というべきだろうが、しかし同時に、このことは、ずっと昔から長い時間をかけて書き貯められていたのではなく、あくまでも連載期間の責務(?)として日々書かれていったものであるということも深く関係していると思われる。つまり『カフカ式練習帳』の断片群は、すべてが、ある具体的な時間のフレームの内に収まっているのだ。 『カフカ式練習帳』に「地震」という単語がはじめて登場するのは、連載も三分の二を過ぎようとしたあたりである。 二月五日午前十時五十六分に起きた地震は、震源が千葉県南島沖で、マグニチュード5・2。震源の深さは六十四キロ。東京二十三区は震度3だった。ちょうどそのとき私は外にいた。震度3とはとても思えない強い揺れを瞬間感じ、揺れと同時に、私の右のスガスガから左のスガスガにピアノ線がピンッと張られたような、右から左に弾丸よりずっと小さな粒子が貫通したような、感覚があった。痛みというよりも電気にちかいか、右のスガスガから左のスガスガは方角としてはほぼ南から北だった。私はやや上体を屈めて、外の猫たちに餌を出していた。
この断片を含む回は「文學界」の「二〇一一年五月号」に掲載されている。したがって、それは二〇一一年の三月下旬に入稿された筈だ。おそらくは「三月十一日」以後のことである。だが、ここに書かれているのは「二月五日」にあった千葉県沖を震源とする震度3の地震のことである。「三月十一日」の「地震」に言及した断片は、この回にはない。 『カフカ式練習帳』が、日記やエッセイのようにも読める断片が多くを占めているにもかかわらず、れっきとした「長篇小説」であるということは、たとえばこうした点にも現れている。ここには書くこと、書かれること(読まれること)の選択と操作がある。しかしそれでも、これ以降の連載には、「三月十一日以後」を、さまざまな形で刻印された言葉が紛れ込んでゆく。たとえば、こんな断片がある。
津波が迫ってきたが、もう逃げられないので娘と二人で二階に駆け上がるしかなかった。駆け上がっている途中で、津波が足許から膝までどんどん上がってきて、二階に上がったときには津波が背より高くなり、二人とも完全に津波にのみ込まれた。いったんは観念したが体を沈めると足が床についた。床を思いきり蹴ると顔が天井と水の隙間に出た。窓が開いているのが見えた。そこから出られると思い、娘と窓からでて屋根に這い上がった。這い上がると今度は引き波で屋根が沖に流された。二人で屋根に載ったまま沖を漂ううちにあたりは夜になった。娘が携帯を出すと、通話はできないが機械は壊れていなかった。携帯のライトは何も明かりのない海の上ではすごく明るい。娘と二人でそれぞれの携帯を手に持って必死に振っていると、津波を逃れて沖に行っていた漁船がもどってきたところに発見された。
保坂氏に娘はいない筈である。勿論いたとしても変わりはないが。私は、この断片が、ノートに手書きの文字で書かれてある光景を想像する。保坂和志が、こんな断片を、ノートに書きつけている姿を想像する。 「大地震の日にもうジジは生きていなかった」と始まる比較的長めの断片は、「三月十一日以後」を刻印された断片群の中でも、最も重要なものだ。ジジとは猫の名前である。言うまでもないことだが、保坂作品において、猫たちとは、生と死、そして時間という不可思議なるものの象徴でもある。
あの大地震のときにジジは生きていないで良かった。スマトラの大地震と津波にあれだけ反応したジジの反応が、今回どれだけ激しかったことか。しかし、生きていないで良かったということが本当にありうるのか。いくつもの苦痛を抱えて生きていることと死ぬことのどっちがより望ましくないことなのか。 生きていないで良かったと思うのはジジがもう生きていないからだ。
誤解を畏れずに述べよう。前言を覆すようであるが、これは「小説」ではない。精確に言うと、この断片のみを読むのなら、それは「小説」と呼ばれる必要は、おそらくない。そして、そんなことは重々わかった上で、保坂氏は、これを書いている。そう思える。
震度3程度で「余震におびえる」というのは言葉の綾にすぎず、気持ちの連続が中断したり、やっていたことが中断したり、気持ちが平静になりきれなかったりしていた日々、私と妻で何度も口にし合った「ジジが生きてなくて良かった」という言葉は、誰のために何のために言われていたのか。被災者の中に血縁も友人もいないのに一日一度は涙ぐむような、今もこれからも楽観的になることが難しいときに、せめてもの良かったことが、ジジがもう地震や津波と呼応して具合が悪くならずにすんだことだと、悪いことばかりじゃなく、いいことだってあるじゃないかと二人で確認し合っていたのか。 それとも、 「今はジジが生きていなくて良かった。でもジジが生きていたときはもっとずっと良かった」 と、ジジが生きていた日々は巨大地震が起きる以前の世界だったと一緒にしているのか。
ここに書かれているのは、最早どうしたって「以前」には戻れない、という酷薄な真理である。巨大地震が起きる以前、ジジが生きていた日々には、もうけっして戻れない。猫の死と大災禍は、到底受け入れ難いが受け入れるしかない事実という意味では同じことなのである。つまり保坂氏は、ほんとうは単にこう言いたいのだ。ジジが死んでいなければよかったのに。巨大地震が起きていなければよかったのに。両方とも起こっていなければよかったのに!……この反実仮想の無意味さをやり過ごすためには、彼は「今はジジが生きていなくて良かった」と言うくらいしか出来ないのだ。 『カフカ式練習帳』には、「不死の島」の「わたし」と同じ怒りを抱え持つ、こんな直截な断片さえある。
『日本人はなぜ戦争を止められなかったのか』という番組名を見て、 『日本人はなぜ原発を止められなかったのか』という番組が、三十年後、五十年後に作られる恥を感じた。
10。「徹底的に推敲しろ」
こんな時に思い出すのはプーラのことだ。 言葉づかいは少し間違っているかもしれない。こんな時に思い出せるのは、と訂正したほうが真っ当なのかもしれない。しかし、真っ当とは何だろう? あらゆるイメージがあらゆる人たちに〝その日〟の以前と以後とで異なる感情を与えている。だとしたら、この瞬間、この今に忠実に回顧するしかない。ふり返るしかないのだ。
古川日出男の「プーラが戻る」の冒頭部分である。この短篇小説は、二〇一一年三月二十五日に「早稲田文学」のウェブサイトに掲載され、のちに単行本『震災とフィクションの��距離”』に収録された。中学校のプールの底に棲み、冬になって水が抜かれるとともにどこへともなく消えてしまった怪獣プーラの想い出を語るこの愛すべき小品は、おそらく古川が「三月十一日以後」に書いた最初の小説である。周知のように、その後、古川は中編小説『馬たちよ、それでも光は無垢で』を「新潮」二〇一一年七月号に発表する。すなわち入稿されたのは五月下旬ということになるが、では書き出された日時はというと、他ならぬ小説の中で告げられている。
この文章を起筆したのは二〇一一年の四月十一日だ。十枚ほど書き進めて、すると、福島県の浜通り地方で余震があった。最大震度は6弱。 巨きな余震があるたびに、私は推敲する。 余震が、私に何かを許さない。「徹底的に推敲しろ」との声がする。
『馬たちよ、それでも光は無垢で』は、『雲をつかむ話』の「わたし」とは異なり、作者の「古川日出男」自身であることを至ってストレートに明示してみせる「私」が、まだほとんど福島第一原発の事故の状況がわかっていなかった四月のある日(だが、それが「四月十一日」以前の何日であったのかは記されていない)、新潮社の編集者数名とともに出身地である福島へと向かう、一種のドキュメント小説の体裁を採っている。だが、興味深いことは、出来事の時系列が、今まさに書かれつつある小説の時間の内にバラバラにされて溶かし込まれ、前後の脈絡を脱臼されているばかりか、余震のたびにどこからか聞こえてくる「徹底的に推敲しろ」という何ものかの命令に従って、書かれた筈の言葉が度々廃棄され、幾度となく書き直されて、しかもそれを逐一、小説の中で告白してゆくという、独特なスタイルが選ばれていることである。「推敲」とは、確定されかかった過去=小説を絶えず未了へと追いやっていく、原理的には終わりのない作業のことである。結果として、この小説にはきわめて重層的な時間が畳み込まれており、それはほとんど混乱の一歩手前に到っているようにさえ見える。ところが、そのような錯綜した語りによって、現実の記録であった筈のこの小説に、あのメガノベル『聖家族』の虚構の登場人物である「狗塚牛一郎」が忽然と立ち現れるという離れ業が成されるのだ。つまり「牛一郎」は「推敲」の渦中から召喚されてくるのである。それは古川にとっては『聖家族』の舞台となったフィクショ��ルな世界を、どうしようもなくリアルな「以後の世界」と、強引にも接続させる、というミッションを意味してもいただろう。 やはり『震災とフィクションの“距離”』に収録されている重松清との対談「牛のように、馬のように」において、古川は「以後」に自分を襲った恐慌について、驚くほど率直に語っている。
古川 (…)震災前から書いてる作品が三つあったけれど、ひとつはもう駄目になりました。もう書けない、だから最終回にする。しかも最後に、ぜんぜん関係ないのに福島の話をして終わろうとしている。もう一個は、書けなくなると思わなかった作品だけれど、それすら突っかかってしまった。でも、本になるのは二年後になるかもしれない長いものだから、震災から二年経った人々が読みたいものに変えられるんじゃないか、そこに必死に縋っています。もう一作は現代を舞台にしていて、そのぶんもしかしたら逆にこのままいけるかもしれないけれど…… 重松 震災も取り込んじゃって。 古川 そう、消化していけるかもしれない。でも、いまもう通じない作品があり、二年後に出しても通じない部分が見えたとき、「お前がやっていたことは、地震が来たら崩れる程度のことだったんだよ」と認めざるを得なかった。単純に、エゴのために書いていたものがあるとわかったんです。「自分はすごいんだ」と人に言わせたかった、そういうものを書いていたんじゃないか。そのことにガッカリしました。 重松 そこまで言うのは、自分に厳しすぎる感じもしますけれど……あれらの作品はぜんぶエゴですか? 古川 わからないです、ほんとうのところは。ただ、そのことについてはいまも考えます。周囲では、だんだん震災や被災の空気がなくなって、復旧に向かっていると思うんです。でも、自分のなかでは進行形のまま、小説家として小説に対して内部被爆している。これを認めていくしかないと思っています。
ここで語られている三つの作品とは、駄目になったひとつ目が『黒いアジアたち』、二つ目が『ロックンロール十四部作』、そして「このままいけるかもしれない」という三つ目が『ドッグマザー』のことだと思われる。三部から成る長篇小説『ドッグマザー』は、第一部「冬」が二〇一〇年七月号、第二部「疾風怒濤」が二〇一一年二月号、第三部「二度目の夏に至る」が二〇一二年二月号、いずれも「新潮」に発表された。近年、驚異的な速度で次々と新作を世に問うてきた古川日出男としては、かなりじっくりとしたペースと言えるが、当初の予定では、第三部は二〇一一年の夏には発表されることになっていたらしい。だがそれは右の発言にある理由により遅延することになった。「冬」と「疾風怒濤」は、明確に「以前」に書かれたものである。だが「二度目の夏に至る」は「以後」であるしかない。物語の時間は連続している。この小説は、更に以前に書かれた『ゴッドスター』で登場した少年が、同志のような偽の母親の庇護を離れて、東京の埋め立て地から京都へと移動し(同じく京都を舞台とする『MUSIC』ともシンクロする)、前世を売る謎の「教団」と出会うことで、奇怪にして神聖な成長を遂げてゆく、というものである。畝るような息の長い文体といい、液体的とも言うべき濃密な描写といい、それ「以前」の作風とは大きく変化しており(それは『ゴッドスター』と比較してみるだけでもわかる)、デビュー以来、絶えざるヴァージョンアップを重ねてきた古川日出男が、これまで以上のアップデートに挑んだ、紛うかたなき野心作である。古川はたびたび村上春樹への畏敬の念を語っているが、ここで彼がターゲットにしているのは「日本・現代・文学」を造り上げたもうひとりの人物、中上健次だと思われる。古川は中上が直視しようとした「天皇」を自分なりの仕方で生け捕ろうとしている。『ドッグマザー』は、その第一歩である。 「二度目の夏に至る」は、二〇一一年四月に始まり、六月で終えられる(ただし「母親」からの手紙という形で、あれから「二週間とか三週間」の時期のことも語られる)。「三月十一日以後」に起こった、起こりつつある出来事は、小説の世界に必然的に取り込まれている。だが、この「必然」は、当然のことながら、これに先立つ「冬」と「疾風怒濤」の時点では、欠片さえ存在していなかった。したがって、たとえば次の文章は、書かれていなかった筈なのに、書かれたのだ。
平等な慈悲とは何か。 これは日輪子の考えか。日輪子が僕の分身とするなら、これは僕の考えか。僕の? 因果の法則をすっかり受け入れてしまって、その夥しすぎる死が、前世の報いなのだと仮定してみる。これらを天罰なのだと仮定してみる。いま現在の被災死亡者は一万四千人か。行方不明者はやはり一万と数千人か。詳細なデータ、人数は日輪子ならば日々把握しているのかもしれないが僕はそうではない。変動も激しい。けれども、それでもわかる。ここには無辜のものが混じっている、この一万、二万という数は罪のなさをも偶然的(アクシデンタル)に内包するからこそ夥多だと感じられる、直観される、数には数の生理があるのだ、ならば。そうであるならば、その無辜の人々はいったい何に(「何に」ダッシュ)生まれ変わる? 前世はある、と受容したのならば来世はどうだ? この応報は、どうなる?
『馬たちよ、それでも光は無垢で』において「私」の耳に何度となく鳴り響いていた「徹底的に推敲しろ」という「声=命令」は、すでに「以後」となった世界で発されていたものである。だが『ドッグマザー』で、古川日出男は、いわばあらかじめの「推敲」を求められることになったのだ。われわれが読む、読むことの出来る「二度目の夏に至る」は、もしも世界が「以前」のままであったなら、確実に違う姿をしていた筈である。これは『聖家族』の「牛一郎」が、福島へと向かう車内にいつのまにか坐っているという離れ業の、いわば裏返しの所業である。古川は「以前」に胚胎されていた世界を「以後」へと「推敲」することによって、『ドッグマザー』という物語を、こう言ってよければ、なんとか書き終えることが出来たのだ。それはほとんど、生きるか死ぬかの綱渡りのようなものだったのではないか。連載も回数を重ねており、すでに大作となっていた『黒いアジアたち』が、にもかかわらず放棄されることになったのは、このあらかじめの「推敲」が、どうにも不可能だと判断されたからだろう。 「推敲」ということで思い出されるのは、言うまでもなく、川上弘美の『神様2011』である。あの誠実にして真摯な、そして切実きわまる試みが、同時に、ある途方もない痛ましさを放っているのは、あの書き直しによって、川上にとってデビュー作であった『神様』が、決定的に「以前」のものになってしまったから、そして、そうなることがわかっていながら、川上自身が、そうすることを選んだからに他ならない。小説が、小説家が、想像力が、書くことが、「以後」に向き合おうとするとは、なんと過酷なことなのだろうか。
11。「以前」の「以後」
阿部和重は、新潮社のPR誌「波」の二〇一〇年十二月号から二〇一二年二月号まで、『幼少の帝国ーー成熟を拒否する日本人』という評論を連載していた。この論考は、戦後日本社会の特徴を「こどもっぽさ」すなわち「大人になること(=成熟)への拒否」に見出すという口実=フィクションを戦略的に引き受けてみせることにより、それ自体すでにクリシェと化している「日本=成熟拒否」論の耐久力をはかり直そうという、如何にも阿部和重らしい捻れまくったコンセプトを持っており、しかも最初からそのように宣言した上で開始されたものである。小型化や軽量化によって世界を席巻した日本の「ものづくり」を評価するのはまだわかるとしても、やがて「成熟拒否」を「アンチエイジング」と無理矢理読み替えて、あの高須クリニックの院長へのインタビューを行なうなど、論旨は(明らかに意図的に)暴走してゆく。ところが、連載開始前には予想もしなかった事態が起こったことで、この評論は当初の計画から大きく逸れていった。そのあたりのことについて、阿部は単行本の「あとがき」で、次のように書いている。
東日本大震災が発生したのは、連載なかばの頃だった。わたしたちの企画にとっても、ここが大きなターニングポイントになった。 テーマ自体が借り物だったこともあり、それまではどこか他人事のように「現代日本」に目を向けていたところがあった。戦後史というフィクションを、一定の距離を起きながら振りかえるつもりで、例によってわたしたちはひとつの偽史的なストーリーを組立てようとしていた。 ところが3・11を経たことにより、この国で今なにが起きているのかをだれもが否応なく直視せざるを得ない状況が生まれてしまった。先端的な文化や産業の現状を通じて「現代日本」の粗描を試みていたわたしたちも、例外ではなかった。連載の途上にあったわたしたちにとり、選択肢はふたつしかなかった。二〇一一年三月一一日金曜日になにごともなかったかのように振る舞うか、あるいはそうではないかのどちらかだ。わたしたちはただちに後者を選んだ。
私の知る限り、阿部和重という小説家は、ひとつの作品を書き出す前に、あらかじめ緻密な設計図を引いておき、実際の執筆作業では、ひたすらそれをリアライズすることに務めるという、完璧主義者というべきタイプである。それは『幼少の帝国』でも基本的には同じだったろう。だがしかし、不測の出来事により、設計図は破棄されることはないまでも書き換えられることになった。「二〇一一年三月一一日金曜日になにごともなかったかのように振る舞うか、あるいはそうではないか」という二つの選択肢は、多和田葉子が、保坂和志が、古川日出男が直面したものと同じである。そして阿部もまた、三人と同じ選択をしたのだった。 高橋源一郎は、選考委員を務めた第48回文藝賞の選評の中で、受賞作となった今村友紀の『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』について、こんなことを述べている。
『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』を、ぼくは、3月11日以降に書かれた小説であろうと思って読んだ。それは、ぼくの勘違いだったのだが、そのことがわかった後も、やはり、「以後」の小説である、という感想に揺るぎはなかった。この小説は、「以後」を描いている。主人公の「私」は、突然、ある大きな事件(「戦争」?)に巻き込まれる。そして、その事件について、この小説の最後��で知ることはないのである。それにもかかわらず、「私」は、前へ進む。たとえば「私」はいくつものパラレルワールドと関わる。そこでは、既成のどんな論理や倫理も役に���たない。だから、「私」は全く新しい論理や倫理を作り出さねばならない。「以後」の小説の課題は、そこにしかないのである。
実をいえば、高橋氏と同じ誤解を、私は北野勇作の『きつねのつき』という小説にかんしてしていた。「以後」に書かれたものだとばかり思っていたら、二〇一〇年には脱稿されていたのである。しかしそれでも私は、高橋氏が『クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰』に感じたのと同様に、『きつねのつき』を、すこぶる優れた「「以後」の小説」だと思っている。時間的に「以後」に書かれたものだけが「以後」であるわけではない。「以前」から「以後」を語っていた言葉がある。つまり「以前」にも「以後」はあったのだ。 「以前」の「以後」。これには、もうひとつの意味がある。「二〇一一年三月十一日」より「以前」を描いた、しかし歴然と「以後」の小説というものがあるのだ。次回、私は二人の小説家の最新作を取り上げる。阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』と柴崎友香の『わたしがいなかった街で』。二作とも、舞台は二〇一〇年である。
12。「廃棄物最終処分作戦」
『クエーサーと13番目の柱』は、奇妙な小説である。それはつまり、いかにも阿部和重らしい小説ということだ。この物語で描かれるのは、タレントへの監視行為、いわゆるパパラッチである。だがそれは芸能マスコミによるものではない。主人公と呼んでいいだろう、元写真週刊誌記者のタカツキリクオと、彼が属する様々な出自の人間から成るパパラッチ・チームは、カキオカサトシという資産家のアイドルオタクに雇われて、カキオカが「Q」というコードネームで呼ぶアイドルを二十四時間モニタリングしている。「Q」とは、KINGを自認するカキオカ=KAKIOKA=「K」にとっての永遠に結ばれることのない精神的伴侶=執着の対象としてのQUEENの頭文字であると同時に、「地球から観測できるぎりぎりの、物凄く遠いところにあって、凄まじいエネルギーを放ちながら宇宙一明るく輝いている天体」である「準恒星状天体(Quasi-steller-object)」=クエーサーの頭文字でもある。カキオカは、けっして成就されない、それゆえにこそ絶対的な強度を持ち得る「天体観測者の愛」を「Q」に注ぐための道具として、タカツキたちを使っている。だが(というべきか、だから、というべきかわからないが)そのパパラッチは、盗聴、盗撮、張り込み、侵入行為等、スパイさながらのチームプレイと種々の最新テクノロジーを駆使した、ほとんど荒唐無稽とさえ思える大仰さであり、映画シナリオ或いはノベライゼーションを想起させる、いつにも増してドライで無機質でぶっきらぼうな文体で綴られてゆくタカツキたちの過剰なミッション・インポシブルぶりが、この作品の前半の読みどころであると言ってよい。 また、それと同時に、この小説は、かねてよりタカラヅカ、ジャニーズ、モーニング娘。(特にゴマキ)等への偏愛を表明してきた阿部和重が著した、一種の「アイドル論」でもある。いや、精確には「アイドルオタク論」だろうか。カキオカのクイーン=クエーサーへの倒錯した愛情は、にもかかわらず彼が「Q」をあっけなく別のアイドルに変更してしまえるということによって、その倒錯ぶりをより際立たせることになる。当然、パパラッチ・チームの監視対象も更新されるのだが、その新しい「Q」は、人間、ボーカロイド、アンドロイドの三人組新人アイドル・ユニット、エクストラ・ディメンションズ(ED)の、唯一の生身の人間のメンバーであるミカである。ところがミカは、EDの中でもっとも「アンチ(特定のアイドルに敵対し、ネット上などで「叩き」をするファンのこと)」が多いメンバーなのだ。このあたりの設定の実に捻くれた考え抜かれ方は、まさしくいかにも阿部和重である。二〇一二年のニッポンは、誰もが数年前には予想だにしなかったような形で、史上何度目かの「アイドル黄金(戦国)時代」を迎えているわけだが、阿部はこの作品において、彼が長年推してきたモー娘。以後に登場したPerfumeと初音ミク(後者は実際には音声合成ソフトウェア=VOCALOIDの商品名であるが、私は彼女も「アイドル」の一人であると考えている。何故って実体の無い、ユーザー各自が勝手に脳内でイメージを醸成できるキャラクターとしてしか存在していない声=ソフトウェアこそ、究極の執着の対象、あの「天体観測者の愛」が差し向けられるアイドルではないだろうか?。ちなみにほぼ同時期に登場したPerfumeとミクは明らかに相補的な存在である)、そして現在のマーケットにおける圧倒的な覇者であり、ことによると日本の「アイドル史」の最後の輝き(或いはとどめの一撃)になってしまうかもしれぬAKB48までを射程に収めつつ、それらの固有名詞を出すことなく、その「アイドル」としての人気の構造を解き明かそうとしている。阿部の「アイドルオタク論」��極めて批評的であり、それゆえ辛辣かつアイロニカルなものだが、既に別の場所でも述べておいたように(*)、だからといって単に高みの見物を決め込んだ意地の悪いお遊びというわけではない。そこには阿部和重の「フィクション」という得体の知れないものに対する独特の明察が潜んでいるのだ。 だが、われわれの論議にとって重要だと思われるのは、一見すると本筋とはあまり関係のない、オープニング・シーンともいうべき次の場面である。「二〇〇九年一二月一七日木曜日、午後一一時三八分」、タカツキリクオと相棒のサワザキコウタは、路駐したSUVの車内に居る。サワザキが「今まで見つかったなかでいちばん地球に似てるスーパーアースが発見された」というネットで拾った話題を振る。張り込み中の無駄話といったところだ。二人はスーパーアースの生き物の有無について意見を戦わす。地球上の常識に照らすとそれは無理っぽいのだが、別の天体にはまったく異なる生命の可能性だってあるかもしれない。ひょっとすると「ウルトラマンの怪獣みたいにバカデカいの」だっているかもしれない。
「しかしいくらスーパーアースつっても、ウルトラ怪獣はいないんじゃないのか。だいいち、ウルトラ怪獣がいるのならウルトラマンもいなくちゃ釣り合いがとれない。宇宙の真実はそこまで器デカくない気がするけどな」 「そうすかね」 「おそらくな」 「でも、気がするってのも、結局は常識的判断にすぎない。それだって真実を見落とすきっかけになっちゃいますよ」 「まあ、それもそうだな」 「でもやっぱり、ウルトラマンはいないだろうな」 「いやいるさ」 「あんなのいるわけないじゃないですか。所詮は絵空事ですよ」 眼鏡の男は依然外を見ながら笑っている。 「しかし人間の科学の常識が、間に合わせの真理じゃなくなる日ってくるのかな」 「どうだろうな。そもそも神の視点に立てない以上、人間には真理を真理と判定する術がないからな」 「どういうことですか?」 「模範解答集がなければ、テストの答え合わせはできないだろ。人間は真理の模範解答をしらないんだから、答え合わせも不可能だ」 「なるほど。答えが出せても自己採点はできないから、試験にパスしたかどうかは永遠に分からないわけか。しかしそいつは切ない話だな。布きれ一枚しか身につけてなかった時代から、人間は必死こいて真理の追究に明け暮れてきたってのに……あれ今、地震あったのか。伊豆で震度五弱て、かなりデカいな」 丸刈りの男は、いつの間にか画像検索をやめていて、ニュースサイトの閲覧に戻っている。地震情報を眺めながら、中身が半分になったペットボトルを彼は上下に振っている。 「そんなに揺れたのか。こっちはいくつだ?」 スマートフォンからいったん目をそらし、ペットボトルのなかで弾けまくる炭酸のあぶくを凝視しながら、丸刈りの男が答える。 「いや、東京はちっとも揺れてませんね。せいぜいイチとか、そんなもんです」
『クエーサーと13番目の柱』は、「二〇〇九年一二月一七日木曜日、午後一一時三八分」に始まり、「二〇一〇年八月三一日火曜日、午前零時二三分」に終わる(阿部和重の小説の例に漏れず、この作品においても日付は重要な、だが秘密めかした意味を担わされている)。この小説は「群像」の二〇一二年二月号から四月号まで三回にわたり分載された。したがって引用部分を含む第一回は二〇一一年十二月中旬に入稿された筈だが(年末進行を考慮するともっと早かったかもしれない)、実はこの作品は、そこから一年半以上遡った時期に、すでに執筆開始されていたか、少なくとも構想されていたことがわかっている。というのも、私は『ピストルズ』の刊行の際、阿部和重と公開インタビューを行なったのだが、その対話の最後で、次回作の予告として、この作品のことが語られていたのだ。
阿部 (前略)ここだけの話でチラッと言いますと、講談社の百周年の記念の作品なので、講談社の社員が主人公なんです。「フライデー」の元記者が主人公になって、色々とダメな感じの出来事が起こります! 佐々木 (爆笑) 阿部 という企画になっておりますんで、そういう問題に関心のある方は是非。僕の二〇〇〇年代のフィールドワークが全てそこに投入される予定になっておりますので。 (『小説家の饒舌』)
このインタビューが行なわれたのは二〇一〇の四月一六日である。理由はともあれ、結果として発表が遅れた『クエーサーと13番目の柱』には「講談社百周年記念」という銘記は見当たらず、タカツキリクオの前職も「フライデー」とは書かれていない。だが、これが同じ作品のことであるのは間違いないだろう。となると、次のような推測が成���立つ。阿部和重は、のちに『クエーサーと13番目の柱』と題されることになる小説を、二〇一〇四月一六日の時点で「ちょうどまさに今書き始めてるところ」だった。だが同作が入稿されたのは、二〇一一年末のことだった。もちろん脱稿がいつだったのかはわからない。ことによると、先の発言から程なく二〇一〇年中には書き終わっていて、何らかの理由で一年ものあいだ寝かせられていたということだってあり得ないことではない。だが、もしも先に引用した場面を阿部が「以前」に書いていたのだとしても、二人の登場人物の雑談の最中に取ってつけたように起こる地震が、二〇一一年三月一一日の「以後」を生きる読者に、なんらか特別な意味合いとともに受け取られるだろうことを、彼が意識していなかった筈はない。そう考えるなら、サワザキコウタがふとした思いつきのようにタカツキリクオに言う「しかし人間の科学の常識が、間に合わせの真理じゃなくなる日ってくるのかな」という台詞も、明らかに「以後」の色彩を帯びた問いかけとして聞こえてくるのではないか。 同様のことが考えられる箇所が、『クエーサーと13番目の柱』には少なくとももう一つある。物語の後半、タカツキたちは、インターネット上の電子掲示板でカキオカサトシとその下請け一味を敵視するオタたちと物理的な闘争を繰り広げるのだが、オタたちは自分たちの妨害工作と攻撃をこう呼ぶのだ。「廃棄物最終処分作戦」。ご丁寧にもこの九文字はゴチック体で強調されている。この語が当然のごとく喚起する連想は述べるまでもないだろう。私はこの九文字だけは、二〇一一年三月一一日以後に書かれたことを確信している。もちろん、このネーミングは小説全体の中では、さして重要な意味を持ってはいない。けれども、物語の時間が二〇一〇年の夏に設定されていることを考え合わせるなら、これは「以後」に書かれた「以前」を舞台とする小説に「以後」をあからさまに投げ入れる、という作業であったことになるのではないか。しかも、驚くほど単純明快な手口によって!
*「DAYDREAM BELIEVER」ー「群像」八月号
13。「引き寄せ」の法則(の捏造)について
『クエーサーと13番目の柱』の奇妙さを担う重大な要素として、物語全体を貫く「引き寄せの法則(ロー・オブ・アトラクション)」というものがある。パパラッチ・チームの最年長だったミドリカワユウゾウは、外為取引=FXで儲けたからと仕事を抜ける。株のことなど無知だったというミドリカワをFXの勝者に導いたものこそ「引き寄せの法則」だった。ミドリカワはタカツキにも勧めてくるのだが、そういうのってやたらと情報量が膨大で初心者は尻込みしてしまうとタカツキが言うと、ミドリカワはこう答える。
「ところがそういうのはまったく問題ないんだわ。なぜかっていうとさ、引き寄せの法則ってことでは、根本の部分はみんな一緒だからね。つまりさ、たとえ話でもなんでもなく、本当に『思考は現実化する』ってことなのよこれは。願えばなんだってかなうっていうのが、この法則の大原則。要はね、その大原則が絵空事じゃない当たり前の物事なんだって、自分の頭んなかにしっかりと根づかせること。それさえできれば、効果はおのずと出てきちゃうわけ。そうすればさ、好きなだけ儲けられるしなんでも手に入れられるし病気だって治せちゃうのよ。なにしろ思ったことがどれも実際に起こるんだもん。不思議だよねえ。でもこれは、神秘現象なん��じゃなくてさ、いわゆる自然の摂理なんだよタカツキちゃん」
思考は現実化する。この俄には信じ難い(し最終的にも信じられない?)法則、大原則、摂理が『クエーサーと13番目の柱』の世界を統べている。ミドリカワと交代でチームに加入し、EDに詳しいことから重宝されるが、次第にその悪魔的(?)な正体を露にするニナイケントも、偶然にも「引き寄せの法則」を口にする。彼はこう説明する。
「(前略)要するに、宇宙にはデータベースみたいなものがあって、そこにはこの世界で生じる、あらゆる出来事や物事の可能性がデータとして記録されていて、時々刻々と更新されているわけです。そしてその可能性のデータというのは、だれでも常に取りだして使うことができる。というよりも、だれもかれもが例外なく、常にそれを使って人生を組み立てている。なぜなら願望を抱くということは、その後に起こり得る出来事に直結する、なんらかの可能性を引き寄せるということだからです。人は皆、こうなりたいとかああなりたいと念じることで可能性のデータを宇宙からたぐり寄せ、現実の形にする。そのときに、正しく願いさえすれば、その願望にいちばん近い可能性のデータがこの世界に引き寄せられて、実現するという運びです」
このようにニナイの話は一挙にオカルトじみてくるのだが、彼の理屈は、素朴に言い直せば「強く信じれば夢はかなう」ということであって、とりたてて特別な考え方ではない。というよりも、大方の自己啓発本の類いは、ほぼこんなものである。ニナイは嬉々として続ける。
「でも願い方が間違ってると、本来の願望とはズレた形で現実化してしまう。たとえば念願の成就にわずかでも疑いや否定的な印象を持っていたり、思念の中身にどっちつかずなところがあったりすると、宇宙はそれを忠実にトレースしてしまう。宇宙のデータベースには、文字通りあらゆる出来事や物事のデータが収納されているわけです。だから細かい点までぴったり一致してる可能性のデータが見事にそろってて、願う者の思いを鏡のようにそのまま反映してしまう。したがって、たとえ毎日願ってても、いやそれだからこそ、あなたの借金はいっこうになくならない。なぜならあなたの思念には、そんなバカなことあるわけねえという否定の先入観が絶えず混ざり込んでいるから。そのために、本当に望んでいる出来事の可能性をいつまで経っても引き寄せられない。そもそもそれは、あなた自身が、そのことを自分が本当に望んでいるのだと思い込んでいるだけのことであって、結局はちゃんとした願望にすらなっていないんですよ。どうです? 心当たりありませんか?」
しかしこうなると、誰もが思うことだろうが、何だってありにも出来れば、なしにも出来る、何事であれ、起こすことも起こさないことも可能だ、そういうことにならないか。しかしニナイは、引き寄せ的には、出来事を起こさないことは起こすことよりもずっと困難なのだ、と言う。
「事情に暗い人はそんなふうに考えたがるものです。しかしそれは現実的な方法とは言えない。実際にはまだ起こってもいないことを想定して、それが起こらない可能性を引き寄せるというのは、当てはまるシチュエーションが無限にありすぎてイメージをまとめにくいんです。宇宙のデータベースは、構文ではなくイメージによる抽出データの指定を好みます。そのためこちらが思い描くイメージがぼんやりとしたものになっていると、可能性を引き寄せる力はそれだけ弱まってしまう。だったらより具体的に、起こるとわかっていることを想定して、そのなかのひとつの可能性を引き寄せるほうが間違いがないんです」
こうしてニナイは或る陰謀(?)に着手し、タカツキはそれに巻き込まれる。そしてそれは物語のクライマックスを惹き起こすことになるのだが、未読の方に配慮して、これ以上は述べない。ともあれ、いささか唖然とさせられるのは、繰り返すが、この突拍子もない理屈が、この小説を駆動する内的な論理でもあるということなのだ。こうして前代未聞のパパラッチ小説であり、卓抜な「アイドルオタク(論)小説」でもあった『クエーサーと13番目の柱』は、きわめて奇妙な「可能世界(論)小説」としての顔を晒け出すことになる。それは「思考は現実化する」「信じればかなう」という狂った論理が本当に現実化する異常な世界の物語である。 阿部和重は、すでに何度か名前を挙げたアンソロジー『それでも三月は、また』と「早稲田文学ウェブサイト(→『震災とフィクションの“距離”』)」の両方に、同じ一本の短篇小説を提供している。「RIDE ON TIME」と題されたその短篇は、或る金曜日、十年ぶりの巨大な波=グランド・スウェルがやってくるのを待ち望むサーファーの「ぼく」を語り手としている。「一〇年前のライディングでは、ぼくらは総じて撃沈されはしたものの、皆どうにか陸に戻ってこられた」。さあ、だが今回は、果たしてどうだろうか?
そろそろぼくも、あの大いなるうねりの頂点に立つべく舟を漕ぎ出してみようかと思う。 たとえまたもやライディングに失敗したとしても、そのありさまが、三〇〇人もの人たちの目に留まれば、ひとつの意味がどこかに浮かびあがりはするだろう。 ひとつの意味がどこかに浮かびあがれば、それも突破口をこじ開ける、力の一部に生まれ変わるにちがいない。 そうすれば、いつもとはまったく異なる金曜日を、いつも通りの金曜日に変えることができるかもしれない。
この後一行で、小説は終わる。二〇一一年三月一一日が金曜日だったことを覚えていない者は居まい。だからビッグ・ウェンズデイならぬビッグ・フライデイを描いたこの掌編は、大津波でサーフィンをするという、ある紛れもない不謹慎さを身に纏ってみせているのだが、そんなことより読み取るべきなのは、この「ぼく」のやみくもな想い=願いが『クエーサーと13番目の柱』の「引き寄せの法則」と、まったく同じものであるということだ。「いつもとはまったく異なる金曜日を、いつも通りの金曜日に変えること」。それが「できるかもしれない」という無根拠な希望は、ニナイケントが言っていた「正しく願いさえすれば、その願望にいちばん近い可能性のデータがこの世界に引き寄せられて、実現する」というのと、そっくりなのだ。それは保坂和志が『カフカ式練習帳』の断片に記していた「今はジジが生きていなくて良かった。でもジジが生きていたときはもっとずっと良かった」という言葉、そしてその裏に隠された「ジジが死んでいなければよかったのに。巨大地震が起きていなければよかったのに。両方とも起こっていなければよかったのに!」という反実仮想を思い出させる。「引き寄せの法則」に貫かれた『クエーサーと13番目の柱』は、一編のファンタジー、フェアリー・テールである。何故ならば、信じれば叶う、可能性を引き寄せる、などというのは幼稚な絵空事であることを、私たちはよく知っているからだ。だが、そんな狂った論理が通用する狂った世界の提示は、望んだわけでもない酷薄な現実の世界で生きるしかないわれわれに、次こそはうまくやってみせる、巨大な波にだって乗ってみせる、必ず生き延びてみせる、という想い、そんな「ひとつの意味」を浮かび上がらせるのだ。 『クエーサーと13番目の柱』が「震災以前」の物語であることにこそ「以後の小説」としての意味が込められている。つまり、奇跡はすでに一度は起こった、ということなのだ。「無数に分岐して展開してゆく可能性が折り重なる、ホログラムのような像」から「とうに決めてあったひとつの可能性」を引き寄せ/選び取ること��、ひとたびは出来たのだから、それはもう一度、いや、何度だって出来るかもしれない。そういうことなのだ。『クエーサーと13番目の柱』は、希望と奇跡と再生の物語である。ほとんどそのようには見えなくても、これはすぐれて切実な「以後の小説」なのである。
14。「距離」のパラドックス
柴崎友香の『わたしがいなかった街で』は、「新潮」の二〇一二年四月号に掲載された。物語の舞台は二〇一〇年の初めから夏にかけて、である(偶然にも『クエーサーと13番目の柱』と、ほぼ重なっている)。三十六歳のOLである「わたし」は、離婚してひとりで住むためのアパートに引っ越してきた。この小説は、「わたし」の日々を淡々と記録していきながら、中途から別の登場人物、三人称で綴られる「葛井夏」の存在が迫り上がってきて、遂には「わたし」と入れ替わる、という特異な構造を持っている。ほとんど異様なものと言っていいこの仕掛けにかんして謎解きめいたことを書くのはさしあたり慎んでおく。柴崎友香の小説のヒロインはいつもそうだが、この「わたし」も普通のようで普通ではない。それは小説の中で彼女が耽溺する二つの習慣(?)に如実に現れている。まずひとつ、「わたし」はiPhoneで六十五年前に書かれた『海野十三敗戦日記』を読んでいる。それは彼女が越してきたのが東京の世田谷区若林であり、戦時中、海野十三がそこに住んでいた、という事実がきっかけと記されているのだが、それにしても些か奇異ではある。彼女はiPhoneで海野日記の空襲の記述を読みながら近所を歩いたりもする。 もうひとつは「わたし」のささやかな趣味であるドキュメンタリー映像鑑賞である。やや長くなるが、最初に突然それが登場する場面を引用する。それはこの小説の叙述の風景を、それまでとは一変させるインパクトを有している。
三十二インチの液晶画面を、装甲車のタイヤが横切った。タイヤが踏んで行ったアスファルトには、真っ赤な血だまりができている。銃声が何度も響き渡った。サラエヴォの中心市街の大通りに伏せていた民衆たちが、建物のほうへと逃げ惑う。撃ち合いが始まり、警察の装甲車が出動し、人々は手を叩き拳を突き上げて口々になにかを叫んでいた。 ユーゴスラヴィアの内戦の過程を追った全六回のドキュメンタリーの四回目だった。各勢力の指導者たちの証言が差し挟まれてから、国境近くの山間の小さな町が映し出された。既に戦車に包囲され、並木の新緑が芽吹く川沿いの道から、砲撃を受けていた。春の花が咲く茂みで、普段着の民兵たちは、ベルト状につながれた尖った弾丸を機関銃に装填して応戦の準備をしている。検問では、怯えた顔の人々が兵士たちになんとか身分を証明しようとしていた。村では、車から降りた迷彩服の男たちが、それぞれ片手に自動小銃を持って、これから殺す人を探し出すため、脅し文句を叫びながら、白い家の敷地に入っていった。ベージュのトレンチコートを着た白髪の男が、迷彩服たちに連れられて出てきた。迷彩服たちは、片手の自動小銃を体の一部になったように一瞬も離すことはなく、もう片方の手で男のトレンチコートを引っ張り、小突いて、連れ出した。トレンチコートの白髪の男は、不安げに、ちらっとカメラを見た。映像はそこで途切れ、次の映像に切り替わると、別の男たちが死体を片付けていた。中年の女の死体を、一人が右肩、一人が左肩、一人が足を持ち、道路脇に停められたトラックへ向かって、庭の小道を下っていった。肉付きのよい中年の女の死体は、地面に伏せた姿勢のまま、完全に固まっていた。男たちが服を引っ張って持ち上げても、死後硬直した両方の肘は外に突き出されたまま宙に浮いていた。手の上に顔を伏せ、腰から不自然な方向に曲がった、殺される直前のその形のまま空間に浮かび、運ばれ、トラックの荷台に放り投げられた。荷台にはすでに、同じような形で固まった男の死体があった。また別の場所が映る。草地の上に、さっき運ばれた女とよく似た体型の老女が、さっきの女とよく似た体勢で倒れていた。セーターの背中の真ん中には、銃弾の跡が丸く開いていた。しかし血は見えない。横向きになった顔と、通常の関節とは逆方向にまがった腕の先のては、灰色に変わっていた。誰かの持ち物だった鞄やノートが、道に散らばっていた。ところどころ、インタビューを受ける国連職員の証言が差し挟まれる。わたしのジープは曲がり角にあった血だまりで横滑りしました。死体を積んだトラックを何台も何台も見ました。
「なにかきっかけがあって急に見続けるようになったわけではない。しかし、見る時間は確実に少しずつ増えている。減ることはなく、増えていく一方だった。一人になってから。この数ヶ月のあいだ」。このあと「わたし」は幾度もこの種のDVDを再生するだろう。そこには、ここから遠く離れた場所での悲惨と災厄が映っている。あらゆる映画=映像は必然的/不可避的/運命的に「過去」の記録であるが、ドキュメンタリーはその中でも一際、歴史=時間に穿たれた出来事の目撃者としての使命を帯びている。「わたし」が凝視めるのは「過去」の内でも、とりわけその取り返しのつかなさが悲劇的である出来事の記録である。それが何故なのかは彼女自身にもわからない。ただ、ひとつのことは言える。ここには時空間の断絶と連続のアンヴィヴァレンスが働いている。つまり、いま目の前で展開している���ラエヴォの光景は、わたしが居合わせたわけでも赴いたことがあるわけでもない、こことは完全に断絶した土地で、こうしてDVDの映像に刻まれている以上は、すでに遥かに過ぎ去った、けっして巻き戻すことの出来ない或る時において生じていた出来事である。だがそれは同時に、疑いもなく、わたしが今いるここ、ここにある今と、繋がっている。それは別の世界の出来事ではないのだから。それは虚構ではないのだから。 時間と空間の断絶と連続、その両義性、言い換えればそれは「距離」のパラドックスである。「わたし」は、今ここ、と、或る時或る場所で、の間に横たわる、踏破不能な、だがけっして計測不可能というわけではない「距離」に囚われている。このような感覚は、彼女が読み続ける『海野十三敗戦日記』との「距離」にも現われている。「わたし」は終戦の年の海野の記述を追いながら、その時彼が実際に居た同じ土地を歩く。「日記」という形態の特殊なところは、後から手を加えたりしていない限り、日々の記録は、当然ながらその時々のものでしかないので、それ以後に起こるだろう出来事にかんしては、多少は予想出来ることもあったりはするとしても、それがそのまま現実化するとは限らないし、突発的に生じる事件だって無論ある、だから結局、日記はいわば不連続な連続性の中で書き継がれるしかなく、それを後から読む者にとっては、時としてそれはパラドキシカルに思えもする(何故なら読者はその先のことを既に知っている場合があるから)ということだ。日記はフィクションではないのだから、それを書いている誰かは、未来を知っているわけはない。だからこのとき、日記の書き手よりも読み手の方が「作者」と呼ばれる存在に近い、と言ってもいいのかもしれない。 『わたしがいなかった街で』は、次の一文で始まる。「一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた」。だからもうその頃のことを祖父に尋ねることは出来ない。「わたし」は祖父が料理をするところさえ見たことがなかったのだ。一九四五年八月六日午前八時一五分、周知のように、広島は米軍による原爆投下を受け、十四万人ものひとびとが瞬時に死亡した。もしもあと二ヶ月、祖父が広島で働いていたら、彼は原爆で命を落としていたかもしれない。だが、そうはならなかった。そのようなことは、けっして起こらなかった。 一九四五年八月十四日の昼、京橋駅周辺は空襲を受けた。爆弾は現在の環状線の線路を貫通し、その下を交差して走る片町線のホームに避難していた大勢の乗客を直撃した。死者の数は六百人以上とも言われているが、その後の混乱もあってほとんどが行方不明のままだ。 八月十四日? 明日、戦争が終わるのに。 三月の大阪大空襲のことは知っていたが、八月のそんな時期にまで大規模な空襲があったとは知らなかった。 八月十四日、明日戦争が終わることを、その日の人たちは知らなかった。 八月十四日に京橋で空襲があったことと、祖父が八月六日に広島にいたかもしれなかったことは、たぶんわたしの中で一対になっている。そこにいたのにその日はいなかった祖父と、たまたまその日にそこにいた人たち。あとから考えれば、生死を、その後の人生を左右した決定的な偶然は、実際に爆弾が投下されたそのときまでは、生活の一部として特別重大なこととは意識されないできごとだったと思う。 祖父がいた場所で起こったこと、何度も自分自身が乗り降りした駅で起こったこと。そこにいて死んだ人、いなくて助かった人。そうしてたまたま、私は生きている。存在しなかったかもしれないわたしが、京橋駅のホームに立っている。 八月十四日に空襲があったのは、大阪の京橋だけではなかった。山口県岩国と光、そして十四日夜から十五日未明にかけて、群馬県伊勢崎と太田、埼玉県熊谷、神奈川県小田原、東京都青梅、秋田県土崎……。 戦争が終わることはすでに決まっていて、しかし多くの人がまだそのことを知らなかった時間に。 そう思うのは、戦争が終わったことをわたしが知っているから。終わったあとで、その前の日のことを考えるから。
ここには、複数の、きわめて複雑な「距離」のパラドックスが、畳み込まれるようにして記されている。そして次第にこのパラドックス群は、否応なしに「わたし」を覆い尽くしてゆくだろう。それは最初から『わたしがいなかった街で』という題名によって予告されている。「存在しなかったかもしれないわたし」は、しかし存在し��いる。今ここに、存在してしまっている。この当たり前の、そして残酷な事実認定は、阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』における「無数に分岐して展開してゆく可能性」から引き寄せられる「ひとつの可能性」と、明らかに共鳴し合っている。
15。「わたしがいなかった」ということ
阿部和重は『クエーサーと13番目の柱』で、オカルトまがいの自己啓発と思われかねない「引き寄せの法則」を闇雲に肯定してみせることで、いったい何をしようとしていたのか。 「無数の可能性」から、ありうべき「ひとつの選択肢」を掴み取る、ということは、あくまでも未来へと向かう問題である。どれだけ強力な「引き寄せの法則」を駆使しようとも、確定された過去を改変することだけは出来ない。残念なことに、タイムマシンは未だ発明されてはいないのだから。むしろこの残酷な事実認定こそが「引き寄せ」を引き寄せているのだと考えるべきなのだと思う。変えられる可能性があるのは、これから起こる出来事だけであり、起こってしまった出来事に対しては、ただそれをどう過ぎ越してゆくか、どう受け止められるか、どう解釈するか、ということにしかならない。過去が過去であるがゆえのこの無情さを、如何にして未来の希望へと反転させるか、阿部和重の目的は、この一点に集中していると言ってもいい。それゆえにこそ『クエーサーと13番目の柱』は、表面的な荒唐無稽さや不謹慎さを超えて、ひどく切実なのである。 「わたしがいなかった街で」の柴崎友香もまた、過去の改変不可能性と、けっして変えられない過去が、他ならぬ現在とひと続きであるというもうひとつの残酷さに、真摯に向き合おうとしている。ベトナム戦争のドキュメンタリー映像を観ながら「わたし」は考える。
何度も何度も、別のヘリコプター、別の飛行機から撮影された映像が、繋ぎ合わされ、光の塊が空中を進む時間が、重ねられていく。また別の村、別の橋、別の道路、森、田畑が、銃撃され、爆撃され続けた。 新しい場所が現れては破壊されていくのを見ているうちに、もしかしたら、人間は、この時間のことを考えることしかできないのかもしれない、という思いが湧き上がってきた。 発射された弾丸や爆弾が空中を進んでいき、地上を爆破するまでの、そのあいだのわずかな時間。破壊は決定されているにもかかわらず、まだその破壊が訪れない、その何秒かの、しかし最後に向かっていく限りなく永遠に近く感じられるその時間。 爆弾がおちてくることがわかっているのに、そのときはすでに爆弾は投下されていて、誰も止めることができない。時間はあるのに取り消すことはできない。少しでも遠くへ逃げるか、なんとか物陰に隠れて、すでに決められた破壊を見ることしかできない。 目撃した人は、考え続ける。もし、あれが発射されていなければ、もし、あの場所にいなければ、もし、戦争が起こらなければ。 起こらなかったことについて考えるのは、難しい。 それでも、思い続ける。 もう少し早く、ほんの少しでも早く、気づくことができたら。 そうしていつかは、引き金が引かれるより一瞬でも早く、爆弾投下のスイッチが押されるよりほんのわずかな時間だけでも早く、伝えられるようになれば。撃たないで! 落とさないで! と叫ぶことができたら、叫び声が向こう側まで聞こえたら、と願い続けている。 変えることのできない過去、取り戻すことのできない時間、絶対に行けない場所。それらを、思い続けること。繰り返し、何度も、触れることができないと知っているから、なお、そこに手を伸ばし続ける。
起こらなかったことについて考えるのは、とても難しいし、おそらくは無意味なことでもある。だが、それでもわれわれには、考えてみることは出来る。しかし悲惨の只中にある者には、今起こっている出来事を顧みることさえ出来ない。その結果、この世界から消えてしまった人々には、それを過去として思い出すことも、忘れてしまうことも叶わない。われわれはしばしば、その時その場にたまたま居合わせてしまったがゆえに、取り返しのつかない事件や事故の犠牲となった者に対して、偶然や意思の働きがほんの僅か違っていたら、自分がそこに居合わせていたかもしれない、悲劇と遭遇していたかもしれない、という可能性に思い当たり、震える。そのとき、それは私であったのかもしれないという想像は、しかしそれは私ではなかったのだという事実と、裏腹になっている。だが、それは私だったかもしれないが私ではなかった、とは、ほんとうは、どういう意味なのか。そのような認識が齎す、紛れもない自責の念とは、結局のところ、安心の別名ではないのか。 「わたし」の祖父は、一九四五年八月六日の広島に居たかもしれなかった。もしもそうであったなら、「わたし」は存在していなかったかもしれない。だが事実としては、祖父は「そこにいたのにその日はいなかった」のだし、そのかわりに「たまたまその日にそこにいた人たち」が消えてしまったのだ。ここには交換可能性は無い。無いからこそ「居たかもしれない」が生まれてくるのだから。だが、だからといって、この「かわりに」という錯覚の強迫を、真っ向から引き受けてしまったなら、われわれは到底生きてゆけないだろう。 あらゆる過去は必ず、現在から遡行していった時間の系の内に属している。起こらなかった過去は、そのどこにも存在してはいない。それはただ現在という時点から、かりそめに想像されているだけである。だが、それを言うなら、現実に起こったことにしたって、実はほとんど同じことではないのか。忘却がそうさせるということだけではなく、そもそも記憶されなかったこと、自分が体験しなかったことは、思い出すことも忘れることも出来ない。それはせいぜいが、ただ知ることが出来るだけである。 「わたしがいなかった街で」で柴崎友香は、明らかに意識的に、以前の彼女だったら敢て書かなかっただろう、たとえ行間には存在していたとしても進んで言葉にしようとはしなかっただろう事柄を、たくさん書いている。思うにそれは、かなり勇気が必要な行為だったに違いない。「新潮」の二〇一二年九月号に掲載された岡田利規との対談「〈わたし〉がいない過去と未来へ」の中で、彼女は次のように言っている。
柴崎(前略)これまで私が書いてきた小説は「何気ない日常を描いてる」と言われることが多くて、私自身はずっと「そんなつもりじゃないのにな」と思っていて……。 岡田 「日常」という言葉を当てはめられることに、違和感を持ってたんですね? 柴崎 「当てはめられることに」というよりは、おそらく人が「日常」と呼ぶものが、たとえば「普通の、変わらない毎日」とか「何でもない毎日」だとしたら、私のそれとは多分、違うものなんじゃないかと疑問に思っていました。 岡田 ああ、既にそこからずれてるってことですね。 柴崎 だから私の作品がそう受け取られてしまうのはどうしてなのか、そして私は何故それを違うと思うのかを考えて、作品の中で形にしないといけないのではないか、という思いがここ何年かのうちに、強まっていたんです。
岡田利規の演劇ユニット、チェルフィッチュの公演『ゾウガメのソニックライフ』を観劇した際、英語字幕の「日常」の訳が「day-to-day」になっていたことに触れ、柴崎は「自分が思う「日常」と近い」と述べている。一日また一日。その連鎖を「日常」と呼んでいる。それは端的に「時間」のことでもある。明日が今日になり、昨日となり、過去になってゆくという、不可逆的なプロセス。同じ一日などなく(必ず何かは違っている)、何も起こらない日もありえない(必ず何事かは起こっている)。そのような「day-to-day」が蓄えてゆく「過去」は、常に二重のものとしてある。「わたし」の中にある「時間」と、「時間」の中にある「わたし」。言い換えるなら、記憶と歴史。この二重の「過去」は並走しつつも完全には重なり合うことはない。ミクロとマクロ。「わたしがいなかった街で」の「わたし」は、彼女の「日常」の中で、記憶に穿たれた歴史と、歴史と共振する記憶を、幾度となく喚び起こし、反芻する。
どんな大きな事件も悲惨な戦争も、最初の衝撃は薄れ、慣れて、忘れられていく。また事件や戦争が起こったら、忘れていたことを忘れて、こんなことは経験したことがない衝撃だ、世界は変わってしまったと騒ぐけれど、いつのまにか戻っている。戻ったみたいに、なっている。 世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだときの映像を見た���、それを思い出したりすると、あのときは父が生きていた、と必ず思う。わたしは勤め先を辞めた直後で東京に引っ越す荷造りのために、実家にいた。自分の部屋にいた父が駆け下りてきて、すごい事故が起きてる、と言ってテレビのスイッチを入れた。ラジオでニュースを聞いたらしかった。食卓に母が座っていた角度も、床に転がっていた自分がそのときめくっていたファッション誌のページも覚えている。 「事故」ではない、とわかったのはその数分後に二機目がもう片方のビルに突入する映像が映ったときだった。そこで日付が変わるくらいまで見て、あとは自分の部屋のテレビで一晩中見ていた。大きな戦争が始まるのではないかと、怖くて眠れなかった。戦争が始まったことを自分はテレビで知らされるだろう、と子供のころから明確なイメージがあった。何か起きて、テレビをつけるともう世界は元に戻れなくなっていて、わたしは二度と家から出られない。翌日から、アメリカのニュースチャンネルには「UNDER THE WAR」の文字が並んでいた。 父が死んだのはそれから一年以上あとで、そのあいだに父と話したり病院に通った記憶もいくつもあるのだが、あの瞬間にまだ生きていた、はっきりと実感するのは二〇〇一年九月十一日、日本では夜の、父が階段をどたどたと下りてきて「すごい事故が起きてる」と言ってテレビをつけた、その一連の動作と時間だった。だから二つの高層ビルが煙を上げる映像を見ても、その日の話題が出ても、わたしにとっては必ず「父がまだ生きていた時間」として蘇る。「事故」ではない、とわかるまでの時間、北棟が崩れ落ちるまでの時間、南棟も崩れ落ちてそこにタワーがなくなってしまうまでの時間、そのあと一人でテレビを見続けていた時間。
ここには、極めて繊細な、それと同時に驚くほどにざっくりとした印象もある、独特の時間感覚が働いている。「わたし」は「二〇〇一年九月十一日」の他にも「一九八九年一月七日」のことや「一九九五年一月十七日の朝」のことを思い出す。今日のこの日から「day-to-day」を巻き戻してゆけば、その日は必ず、そこにある。「わたし」には、その日の記憶が、確かにある。そこでは記憶と歴史は、歴史と記憶は、かろうじてとはいえ、繋がっている。けれども海野十三の日記を繙くとき、海の向こうの戦場の映像を見るとき、「一九四五年八月十四日の昼」や「一九四五年八月六日の広島」を思うとき、そこに刻み付けられた時間と空間に「わたし」は見当たらない。だが、それは確実にあったのだし、あるのだ。ということは、今ここにいる「わたし」と、いつかどこかの「わたしがいなかった街」は、やはり繋がっている。この断絶と連続のパラドックスが「わたしがいなかった街で」という小説を駆動している。そうして「わたし」は、やがて「日常」にかんする次のような省察へと至る。
日常という言葉が指す何かがあるとしたら、あのときも、現在も、遠い場所でも、ここでも、同じ速さの時間で動き続けている街の中に、ほんのわずかのあいだだけ、触れたように感じられる。だが、その次の瞬間には、もうそれがどんな感じだったか伝えられなくなってしまうような、そういう感じ方のことだと、思い始めている。 見たり忘れたり現れたり消えたりしたあとで、わたしの中に残っている数少ない確かなことは、自分が今、この世界で生きていると思うこと。わたしは生きているし、映画のセットや張りぼてみたいに思えても、今この網膜に映っているものは、そこにあって、近くまで行けば触れる。そして、しばらく見ていてもなくならなかった。
「わたしは、かつて誰かが生きた場所を、生きていた」。だがしかし、この作品がおそろしいのは、すでに述べておいたように、「わたしがいるここ」から「わたしがいなかったそこ」を、「わたしが生きている今」から「わたしがかつて生きていたその時」と「わたしがまだいなかったその時」を透かし見る、この小説の進みゆきの果てに、他でもない「今ここ」から「わたし」が消滅してしまう、ということなのだ。「わたし」の一人称に、物語の中途から彼女の旧い友人の妹である「葛井夏」を視点とする三人称が紛れ込み始める。この三人称はどこか奇妙なものであり、一見ごく変哲のない文章であるようでいて、まるでそのすべてが「わたし」の主観の内部に閉じ込められているようにも思えてくるのだが、しかし東京に居る「わたし」と大阪に住む「夏」は一度も出会うことなく(二人は共通の知人である「中井」を介してのみ互いのことを知る)小説は終わってしまうのだ。全二四章から成る「わたしがいなかった街で」は第二三章の途中から三人称に変わり、最終章には「夏」しか出てこない。だが、そこで語られるエピソードを読めばすぐに気づくことだが、そのとき「夏」には「わたし」が溶け込んでいるのだ。 岡田利規との対談の中で、柴崎友香は『わたしがいなかった街で』について、「自分がいない場所のことを考える」ことが一番大きなテーマだった、と語っている。「別の時間が同時に存在するように、読む人の中で混ざり合うように」書こうとした、とも。
柴崎(前略)場所にしても時間にしても、人間は二箇所に同時にいることはできない、というのが、たぶん自分のいちばんのテーマです。「今」「ここ」からは、時間的にも空間的にも、どこかとの距離が必ずある。絶対に越えられないその距離と、距離を越えようとすることの、両方を書きたいです。
二〇一〇年の初めから夏の終わりにかけての出来事が綴られた「わたしがいなかった街で」を読む私たちは、ちょうど「わたし」が『海野十三敗戦日記』を読んでいたのと同じように、それから数ヶ月後に何があったのか、二〇一一年の三月一一日に何が起こったのかを知っている。意識していなくとも、常に頭のどこかにはある。そして柴崎友香は、そのことをよくよくわかった上で、この小説を書き上げたのだと私は思う。物語の末尾から「day-to-day」を繋いでゆけば、やがてその日になり、そして今日になる。だが、このときはまだ、それは起こっていないし、起こることを誰も知らない。この作品に幾重にも畳み込まれた「時間」をめぐる断絶と連続のパラドックスは、こうして未来に、この現在にまで延びている。「わたしがいなかった街で」が、「以後」に書かれた、しかし「以前」を舞台とする、すぐれた「以後の小説」であるというのは、ざっと以上のような理由による。 書いておくべきことは、まだある。単行本『わたしがいなかった街で』には「群像」二〇一一年十月号掲載の短篇「ここで、ここで」が併録されている。このごく短い小説は、阿部和重の「RIDE ON TIME」が『クエーサーと13番目の柱』に対して持っていたような位置を、本篇(?)に対して持っている。舞台は「わたしがいなかった街で」から約一年後の二〇一一年の夏、今度ははっきりと「以後」である。大阪出身だが今は東京住まいの「わたし」は、神戸の三宮で催されるトークイベントに出演するついでに里帰りをする。彼女がこの仕事を受けたのは、「三月の地震以来、わたしは何度も神戸のことを思い出していた」からだ。この「わたし」は「柴崎友香」に限りなく近い人物と思われ、そのせいかややエッセイ的な雰囲気を感じさせもする(のだが、もちろん書かれてあることが事実とは限らない)。「わたしがいなかった街で」と最も強くシンクロしているのは、幼い姪のエピソードである(タイトルもここから採られている)。「わたし」が与えた動くぬいぐるみに吃驚して床にひっくり返って頭を打った姪は、しかし泣き出しはせず、むくっと起き上がってテーブルの縁を指差し「ここでここで」と言い、続いて椅子の脚を指差して「ここでここで」と言う。
「ここで? 頭打った?」 指をくわえたまま、姪は三回頷いた。 「前に?」 さらに二度頷いた。それから頭を打ったことは忘れたように、台所へ歩いて行った。そのあとについて行きながら、わたしは動揺していた。一歳八ヶ月の姪に、すでに過去の時間があって、彼女がそれを理解していることに。彼女が、過去のできごとをわたしに向かって説明しようとしていることに。自分は前にこことここで同じようなことを経験した、と。 わたしはそれを聞いてしまった。
もうひとつ、姪は母親に言われて、仏壇に向かって正座をして、会ったことのない「じいちゃんにちーん」をする。
自分が生まれる前に祖父が死んだということを、姪が理解するのはいつごろだろう、と小さな背中を見ながら思った。もしかしたら、もう知っているのかもしれない、 それでも変わらないのは、父が、彼女が生まれたのを知らないこと。
「過去」の存在と「時間」の不可逆性。越えられない「距離」と、それでも「距離」を越えようとすること。ここには紛れもなく「わたしがいなかった街で」のエッセンスがある。だがそれと同時に、この短篇は「わたしがいなかった街で」よりも半年早く発表されており、舞台は一年後なのだ。二篇が一冊の単行本に収められることで、更なるパラドックスを形成している。それは、小説の内側だけでなく、今ここで読んでいるこちら側にも働きかけてくるのだ。
16。「現在地」から遠く離れて
さて、そろそろ話を変えていかねばならない。どこに向かうべきか暫し思案したが、ちょうど接続もいいので、岡田利規のチェルフィッチュが二〇一二年の四月下旬に初演した舞台『現在地』のことを書こうと思う。先の柴崎友香との対談で、岡田は「わたしがいなかった街で」が「戦争」という題材に思い切って踏み込んでみせた蛮勇(?)を讃えつつ、自分自身が経験していない出来事を書くことの難しさを語っている。
岡田 経験してる人は、書けるじゃないですか、経験してる、というごく単純だけれど強力な理由から。でも、戦争を経験もしていなければ、それにまつわる歴史についてだって大した教養があるわけでもない僕なんかが、作り手としていったいどういうことができるのか? そういうことは割としょっちゅう考えていて、それでよく落ち込むんですけど(笑)、でも結局行き着く答えって、そんな自分の考え方がどうやって変化していったかを示すこととか、そういうところにしか僕は自分の可能性とか価値とかを見いだせない、ってことなんですよ、いつも。というか、そこには可能性があると無理矢理思い込むことでなんとか首の皮一枚つながってることにしようとしてるんだと思いますけど。
だから「僕にやれることがあるとしたら、僕らがどうやって現代を生きてて、そしてそこにどうやって歴史に対する想像力を挿入させていくか、その試行錯誤のプロセスを晒すこと、それにはかろうじて、ある種のドキュメントとしての意味があるかも」と岡田は述べている。確かに岡田利規とチェルフィッチュは、一貫してそのようなことをやってきた。ほぼ無名と呼んでよかった彼らが一躍注目を浴びた、岸田國士戯曲賞受賞作『三月の5日間』は、二〇〇三年の三月、米軍のイラク爆撃の真っ最中に渋谷のラブホテルで四連泊するゆきずりの男女を描いたものだったし、二〇〇六年末の『エンジョイ』では、急速に社会問題化していた非正規雇用者=フリーターたちの生態を、当時勃興していたフランスの学生デモと絡めて作品化し、二〇〇八年の『フリータイム』では、引き続き雇用と労働を主題にしつつ、より抽象化された舞台で岡田独自の演劇的方法論を更新し、二〇一〇年の『わたしたちは無傷な別人である』では二〇〇九年八月末の衆議院選挙の前日を舞台に、持てる者と持たざる者の相克、すなわち格差問題へと踏み込み、二〇一一年二月に上演された『ゾウガメのソニックライフ』は、それまでの作品群で描いてきたリアルな現状認識を持ったまま、現在のニッポンで生きること、生きてゆくことを肯定するためには、果たしてどうすればいいのかと問うたものだった。『現在地』は、前作以来一年二ヶ月ぶりに発表された、チェルフィッチュの長篇最新作である。公演にあたって、岡田利規は次のように書いている。 『現在地』は変化をめぐる架空の物語です。SFみたいな。 わたしたちは、状況を変化させたいと強く望んだり、変化させなければと焦ったり、怒ったり、実際に変化に身を投じたり、それはできずにためらったり、常に冷静で穏やかであろうと努めたり、変化するしないを勇敢さ臆病さの問題として考えたり、考えなかったり、開き直ったり、自分の考えていることが正しいのかどうかの確信をどうしても欲しいと思ったり、正しい人間でいたい過ちを犯したくないと思ったり、たとえばその気持ちを過去に人類が起こした取り返しの付かない過失に準えようとしたりします。 『現在地』というフィクションの中の人物たちも、そうやって生きます。
多くの点で『現在地』は、それ以前のチェルフィッチュの作品とは明確に違っている。まず、七人の出演者は全員女優であり、それ以前の全作品に出演してきた看板俳優の山縣太一をはじめ、男性はひとりも出てこない。また、��田利規の得意技である役柄の非固定化や移動/交換、時空間のあからさまな操作/変形、或いはチェルフィッチュのトレードマークだった異様にきょどった発話や動きも、ほぼ皆無となっている(これらの点については拙著『即興の解体/懐胎』を参照)。もちろんそれらは『三月の5日間』以降の作品群において次第に変化してきていたのだが、『現在地』には、それまでの方法を敢て封印してでも新たな作風に向かおうとする、はっきりとした意志が感じられる。そこで鍵となるのは、���の文章の最後にも出てくる「フィクション」の一語である。 「新潮」の本年四月号のアンケート特集「震災はあなたの〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」には、岡田利規も回答を寄せている。「僕はかなり変わったと思う」と題された文章は「フィクションを作る想像力を欲しいと思うようになった」という一言から始まっている。「こう書くと驚かれるかもしれない。(略)お前は持ってないの? はい。持っていません。それでも小説を書いている。それでも書けるから。現実を自分なりの仕方で見るブラウザみたいなのを用いることで、僕は小説を書いている」。文芸誌なのでもっぱら小説が話題にされているが、もちろん事は演劇でも同じである。そして「以前」は、それでも別によかったのだ。だが、心境の変化が訪れた。
想像力は、現実とたとえ無関係でもかまわない。現実と拮抗する何かを作るということ。現実のオルタナティブを作るということ。僕はそんなふうに書いたことがこれまでない。少なくともそのように書こうという意志の在り方が僕にはなかった。けれども今の僕が興味があるのは、そういうことだ。この興味に従うとしたら、僕は変容することになる。その変容を成功させる自信は今のところないけれども、変容してしまうことへの恐怖はほとんどまったく持ってない。どうにでも変わってしまえばよい、と思っている。想像力、という問題に自分自身をできるだけ強く押しつけていき、その界面で自分をこすり続けていったらどうなるか? そんなことを考えるようになったのが最大の変化です。
現実の対抗物足り得るフィクションと、それを作り出すための想像力。時期的にいって、この回答を書いている頃、岡田利規はまさに『現在地』の準備中であった筈である。「ドキュメント」から「フィクション」へ。ならば『現在地』は、どのような演劇作品だったのか? すでに述べたように、この作品の登場人物は七人の女性である。そしてこれも述べておいたが、チェルフィッチュには極めて珍しく、七人の女優がそれぞれひとりずつ、名前のある(こともチェルフィッチュでは非常に珍しい)、固定された役柄を演じている。つまり、ごく普通の演劇と同じ形態になっているわけだが、しかし実際の舞台から受ける印象は、ごく普通のドラマとは、かなり異なっている。これは岡田作品の例に漏れず、幕間や舞台転換などは一切無く、役者は全員が最初から最後まで舞台上に居るのだが、全体は登場人物の数と同じ七つのチャプターに分かれており、章が変わるごとにメインの語り手となる人物が変わる(台本では各チャプターに、その章で中心となる役柄の名前が記されている)。章ごとに数人が入れ替わり立ち替わり、それぞれの場面を演じ、その間、台詞のない他の女優たちは、黙ってその様子を見守ったり、退屈そうにしたり、ぼんやりしたりしている。これが奇妙というか、どこか不気味なのだが、しかしこの極度に形式化された構成と、メタ演劇的な趣向は、過去のチェルフィッチュと相通ずるものだとも言える。この作品の新機軸は、やはりあくまでも「SFみたいな架空の物語=フィクション」としての佇まいにこそある。それはほとんど寓話と呼んでもいいようなものである。 どことも特定されていない「村」。ある土曜日の夜、ナホコは恋人と湖にドライブに行った際、青く光る巨大な雲を目撃する。ナホコはそれを村で噂になっている怪しげな占い師の予言、とつぜん何かが起こり、それが原因となって村が滅び、それどころか世界がまるごと破滅してしまうかもしれない、そしてそれには予兆となる現象がある、という恐ろしい予言の兆しではないかと疑い、そのことをカスミに話す。カスミはそんな予言は信じるに値しないと言う。だがナオコは、あの雲はひょっとしたら兆しではなく、村を、世界を破滅させる「何か」そのものではないかとも思い、それがきっかけで恋人とも別れてしまう……これが物語の発端である。ナホコとカスミと同じように、予言をめぐって村は二分されているようだ。ところで、どうやらこの「村」は、おじいちゃんおばあちゃんの世代が、荒廃して内戦が続いていた「日本」という国から脱出してきて作ったものらしい。もっともそれも「これからする話は、おとぎ話みたいにして話すわ」と宣言されてから語られるので、真偽のほどは定かでないのだが。カスミは、あるときハナを連れてきて姉のアユミに紹介する。だが二人はすでに顔見知りだった。道端でハナはアユミに声を掛けていたのだ。ハナは少し変わっている。彼女は噂をひどく怖がっている。だが同時に「たぶん私が今怖がってるのは、そんなものを怖がる必要はほんとうはないものを怖がってるんじゃないか」とも言う。「自分がそれを怖がらなくなるのも、やっぱり怖い」とも。カスミはハナに、不安に捉まえられないように忠告していたかと思うと、とつぜん首を絞めて殺してしまう。カスミはハナの死体に「私たちは、今みたいに世の中がそわそわしているときは特に、不安に陥らないように心がけなければいけないのよ。不安は、人から正気を失なわせるからよ」と言う。やがて、湖の水位が下がり始める。原因不明の出来事に、村人たちは恐怖する。カスミはハナの死体を湖に沈めていたので、別の意味で不安になるが、事故として片付けられる。湖が完全に干上がると、その地中から大きな乗り物が現れる。村人たちはそれを「船」と呼ぶが、どうやら宇宙船のようなものらしい。間近に迫っているやもしれぬ破滅を前にして、人々は選択を迫られる。「船」に乗って「村」を脱出し、遠い場所に行くか、それとも一か八か、この場に留まるか。「船」に村人全員は乗れない。それにそもそも予言が真実であるのかどうかも、まだわからない……実に複雑な余韻を残すラストシーンは記さないでおこう。『現在地』は、ざっとこのような物語である。 『現在地』の戯曲には、役名指定のない「声」とだけ書かれたパートの台詞が何度か出て来る。たとえば「声」は、こんなことを語る。「ときどき世の中に噂が流れると、私たちはそのたびに、選択をせまられるの、その噂を信じるか、信じないのか?」「でも、それよりもっと大事な選択もせまられるの。それは、自分が決めたその噂との付き合いかたと違う付き合いかたを選択した人と、どう向き合うのか?」。或いは、こんなことも言う。「村にこれから悲惨な出来事が起こると言ってる人もいるし、いやもう悲惨なことは日曜に起こってしまってもう取り返しが付かないと言っている人もいるし、それが起こったのは日曜じゃなくて土曜だという人もいるし、何ひとつ起こってないしこれからも起こらないという人もいる。本当はどうなのか、というのは誰にも分からないの。本当はどうなのかは誰にも分からないから、それを尋ねることには意味がないの」。「寓話」と呼んでおいた理由がわかっただろうか? あまりにもあからさまではないか? 誰もが気づくように、『現在地』の物語は、福島第一原発の事故以降、被災地のみならず関東在住の人々のあいだにも巻き起こった、さまざまな紛糾や騒動を、ほとんどダイレクトに思い出させる。このことは、岡田利規自身が、震災後に妻子と共に横浜から熊本に転居した事実を考え合わせるなら、より切迫した問題提起として受け取られるかもしれない。だが、彼はけっして作品の中で結論を出そうとはしていない。現実の行動はどうであれ、あくまでも「変化をめぐる架空の物語」であり「現実と拮抗する何か」でもある「フィクション」として、観客に問いを差し出してみせているだけである。あなたは「予言=噂」に対して、どう振る舞うのか? あなたは迫りくる「破滅」を前にして、何が出来るのか? あなたは「村」を出ていくべきなのだろうか? それともここに居るべきなのか? この作品で岡田利規は、これらの問いを問うこと、このような問いを観客と共有すること、それしかしていない。これは極論ではないと思う。私はむしろ、彼が『現在地』という「フィクション」を使って、ただそれだけしかしようとしなかったということに、少なからぬ衝撃を受けたのだった。もしかするとここには、問い自体よりも重要な何かが顔を覗かせているのではないか、そう思えるのだ。
17。せんだいメディアテークで交わされた言葉、その1
仙台に行ってきた。せんだいメディアテークで毎年九月に開催されている「仙台短篇映画祭」のプログラムのひとつとして行なわれた「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」に参加するためである。本連載の第二回で、私は同映画祭の映画制作プロジェクトによる、四十一人の映画作家が撮った四十二本の「三分一一秒」の短篇映画から成るオムニバス作品『311明日』について、やや詳しく述べた。このことがきっかけとなって、同作にたった一人だけ二作を出品していた冨永昌敬監督ともども、トークのゲストとして招かれたのである。驚かれるかもしれないが、私にとって初の仙台だった。 「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」は、仙台短篇映画祭とは別に、有志によって継続的に運営されている「てつがくカフェ@せんだい」との共同企画によるもので、九〇年代にフランスで生まれた、専門家とアマチュア、学者と一般人との垣根を取り払った、ジャーゴンを使用しない哲学的な語らいの場である「てつがくカフェ」の特別編だった。いわゆるパネルディスカッションの形式とは違い、一応ファシリテーターが交通整理はするものの、基本的にはその場に集った全員が同じ立場で自由に発言し、対話を交わし、議論を深めてゆくというものである。当然、冨永監督と私も、その中の一員として話した。これはとても貴重な経験だったと思う。 当日配布されたチラシに、「てつがくカフェ@せんだい」の西村高宏氏は次のように書いている。
震災以降、被災地の〈リアル〉を伝えようと数多くのドキュメンタリー映画が制作されつつあります。しかしながら、作り手の意図によって世界が切り取られ編集されていく以上、映画という表現手法にはどこまでも〈フィクション〉の要素が付き纏っているとも言えます。 『311明日』ーー今回のシネマてつがくカフェで取り上げるこの映画は、そういった震災のドキュメンタリー映像ですらありません。41人の映画監督1人ひとりが「3分11秒」という条件、そして「明日」というキーワードをもとに多様な切り口で震災を描いた、まさに〈フィクション〉としての映画です。それは、震災を敢えて〈フィクション〉として描くことで、ドキュメンタリーやニュース映像では捉え切れない震災が持つ問題性をあらためて���たちの前に焙り出そうとする、〈映画表現による震災理解の試み〉とも言えます。
「震災から1年半を迎えた今、あなたは、この映画をどのように受け止めるでしょうか?」。トークが開始される直前に上映が終わるように『311明日』がプログラムに組まれていた。この作品は昨年の映画祭でも上映されているが、一年という時を経て、どのように見え方が変わったか、或いは変わっていないのか、を問い直そうということである。その際に、映画における「リアル(ドキュメンタリー)」と「フィクション」の関係性という問題意識が踏まえられていることも、あらかじめ告げられている。 ここでひとつ付言しておかなくてはならない。冨永昌敬監督の二本の「三分一一秒」ーー『妻、一瞬の帰還』『武闘派野郎』ーーは、前にも述べておいたように連作になっているのだが(そしてこの「連作」ということ自体に深い意味が込められているのだということも前に書いた)、今回の上映にあたって冨永監督は、彼が教えている映画専門学校の卒業生六名にメガホンを握らせ(彼自身は全作品でカメラマンを担当している)、なんと「三分一一秒」×六本もの新作を引っさげて、映画祭に乗り込んできたのである。それも誰に求められたわけでもなく、完全に自発的に。そしてこの六本は当然のごとく冨永監督の二作の続編になっていたのだ。以下に作品名と監督名を挙げておく。『ライバル』堀切基和/『居候』市来聖史/『野郎釣り』鈴木薫/『行くも千里、戻るも千里』岡部徹/『背水』松尾圭太/『捲れる』増田和由。ストーリーは、この順番で続いている。冨永監督は、この内の三名を伴って仙台にやってきた。こうして、出来立てほやほやの新作六本に最初の二本を加えた「三分一一秒」×八本による「武闘派野郎サーガ」(と勝手に命名しておく)を『311明日』とは別に一挙上映してから、この日の「シネマてつがくカフェ」は開始されたのだった。 「武闘派野郎サーガ」の第三話以降では、第二話で登場した「武闘派野郎」こと単細胞な俳優志望のミュージシャンが、第一話、第二話の映画監督に代わって主役(?)となっている(映画監督も出て来るが)。彼はどう見てもカラオケボックスにしか思えない映画のオーディション会場で沢田研二を熱唱したり、そこでライバルと出会ったり、釣った小物の魚をめぐって謎の青年と喧嘩したり、俳優をめざすべくバンドを脱退しようとしたら後釜が例のライバルだったり、悪夢になぜか第一話に登場した映画監督の妻が出てきたりするのだが、総じて言えることは、もともと『311明日』の中でも特に「震災」と関係がなさそうに見えた最初の二本にも増して、「311」と「明日」から遠ざかっていってしまっているように思える、ということである。もちろん、この連作には、冨永昌敬の「仙台短篇映画祭」に対する想いが込められている。以前にも引用した彼の言葉を、ふたたび引いておく。
その中身がどんな「3分11秒」であろうと、積み重ねれば「6分22秒」にも「9分33秒」にも「12分44秒」にもなる。いや、いずれ「3日11時間」くらいの大作にまで膨張するかもしれない(いったい何年後だろう?)。まあともかく、うずたかく積まれた小さな固い石の集まりが、やがて強固な防波堤となり、映画を愛するこの美しい町を人知れず囲んでしまうことを僕は夢想する。 (「映画制作のこと」、『311明日』パンフレット)
冨永監督とその弟子たちは、この「夢想」を実現するべく新作を撮ったのだ。それは間違いない。八本だから「25分28秒」まで来たわけである。だがそれにしても、前二作以上に、一見しても何度見ても、ほとんど巫山戯ているとしか思われないだろう「武闘派野郎サーガ」の後で、仙台のひとびとによって、いったいどんな「震災と映画」にかんする言葉が交わされるのか。私は正直、いささか緊張して「シネマてつがくカフェ」に臨んだのだった。 せんだいメディアテークの一階、オープンスクエアと呼ばれている吹き抜けのスペースで「シネマてつがくカフェ」は始まった。エントランスにはカフェやショップが併設されており、マイクで話す声はフロアに丸聞こえだから、興味を感じた人はいつでも加わることが出来る。約三十分の「武闘派野郎サーガ」上映後、やはりというべきか、会場は当惑まじりの奇妙な静寂に覆われていたように思う。てつがくカフェ@せんだいのファシリテーターの方が、まず今観終えたばかりの映画への率直な感想を求める。暫しの沈黙の後、ひとりの中年の女性がおずおずと手を上げた。彼女は言葉を絞り出すようにして、ここ仙台から、被災地から遠く離れた、いわば無関係で安全な土地に住む、冨永監督をはじめとする映画作家たちが、このような機会にこうして映画を撮ったということ自体について、率直な感謝の意を述べた。しかしそれにしても、今の映画は何だったのだろう?。そんな戸惑いの空気がいまだ会場に流れていたのは事実だ。その空気を取り払おうとするかのように、冨永監督が比較的長い発言を行なった。語り口調を残しつつ、以下に再構成してみる。
「これは若干説明が必要な作品だなと、僕自身さっき観ながらしみじみ思ったので、ちょっと説明させていただいてもよろしいでしょうか。「震災と映画」というテーマの中で、こういった作品、内容的には震災とまったく関係のない作品を観ていただいたわけですが、なんでこんな作品が出来たのかということをお話させていただければと思います。 遡れば、震災以前になるんですけれども、去年の仙台短篇映画祭で、映画祭にゆかりのある監督何人かに、宮城県内で短篇映画を撮らせるという企画があって、僕も声を掛けられていたんです。それで、どういう映画を作ろうかアイデアを練っていたのですが、主人公を映画監督にして、まあ僕自身がモデルになっているとまではいいませんが、とにかく監督が主人公で、彼が映画を撮るのに些細な日常に邪魔されるといいますか、映画作りをする上で、日々のあれこれに色々と揺さぶられながらやっているんだということを描こうと考えたんです。映画を作っている人間の生活を描くということですね。そこで、その監督のところに俳優志望の男、しかも物凄く自己主張の強い男がやってきたら、一体どうなるか、というストーリーを思いついた。というのは普段、僕なんかがオーディションや俳優学校の教師をやる際にも、そういう人はよく現れるわけです。かなり誇張はしてますけれども、あの「武闘派野郎」は、われわれにとってはかなりリアルな人物で、よくいる厄介な男という奴なんですね。自分が如何に映画俳優として優れているかをアピールするのならまだしも、どういうわけか、自分が如何に優れた男であるか、演技とは無関係な一芸に秀でた男であるか、あまつさえ強い男であるか、といったことをアピールしてしまう人ってのが実際にいるわけです。どこの世界にもいるかもしれませんけど、一言でいうと、これは馬鹿な人であるわけです。それで、いつかこれを映画にしてやろうと思ってたんですね。 その機が遂に来た、と思ったわけなんですが、そんな時に震災があった。震災後一ヶ月くらいの頃ですか、まだ今年の映画祭が開けるかどうかわからない時期があったんです。当然、僕が依頼されていた企画も断念さぜるを得なくなった。それでスタッフの方達が相談している場に僕がたまたま居合わせた際に、ごく短い映画であれば、みんな何かしら撮ってくれるのではないか、それを集めて上映したらどうか、と提案させていただいて、それはあくまできっかけに過ぎませんけれども、それが最終的に『311明日』になった。 「三分一一秒」の映画を、と依頼されて、それぞれの監督たちが考えたのは、震災と映画ということだけではなくて、震災と映画祭と自分、ということだったと思うんです。あのまま映画祭が中止になってしまっていたら、ある意味で、自分たちも被災することになってしまう。それだけは食い止めなくてはならない。そういう思いで、皆さん映画を撮った。だからまず参加すること、とにかく間に合わせることが何よりも重要なことだった。結果として、皆さん好き勝手な映画を作っているようにも見える。まったく別の理由で撮りつつあった映画を「三分一一秒」に編集して提出した方もいただろうと思います。だから内容的に震災とまったく関係のない作品も沢山ありましたし、僕の作品もそうだと思います。 僕自身が意識していたのは、先ほどお話した、そもそも東日本大震災があろうとなかろうと撮るつもりだった映画を、そのまま撮ろうということでした。これはひとつの考え方でしかありませんが、そうしないと震災に負けたような気持ちになってしまうと思ったんです。震災の前からやると決めていたことをやる。だから作品の内容自体は、震災などなかったかのようになっていると思います。去年、僕だけ二本、フライングみたいに出したわけですが、ほんとうは、もしも作品の集まりが悪かったら、僕ひとりで十本でも撮りますよ、とか言ってたんです。なのにたった二本だったということに僕自身、しこりを感じていまして、ずっと反省としてあったんです。だからこれは翌年、翌年と繋げてゆくしかない、そう思った。三作目からは、最初の計画の映画監督ではなく、俳優志望の愛すべき馬鹿を描いてゆこう。だから今年、新たに六本持ってきたのは、映画祭から求められたわけでは全然なくて、これはもう自分で決めて勝手にやったんです。だからこそ、この場では、まず続編を観てもらわないと、僕としては話を始められない。なぜなら、これが僕にとっての、震災と映画と自分、震災と映画祭と自分のかかわり方であるからです。震災が起こってから、僕もいろんなことを考えながら生きてきました。けれども、生活人としての自分と、映画人としての自分は混同しないようにしたいのです。 もうひとつだけ言っておきますと、これで完結ではありません。来年もきっと新作を持ってくると思います。僕はさっき、もしも映画祭が中止になっていたなら、東京に住んでいる自分も被災していた、と言いました。映画祭スタッフの皆さんが大変な努力をしてくれたおかげで、僕らは被災しなくてすんだわけです。でもそれは去年で終わりではない。去年の開催は、震災が起こる前から当然決まっていたわけです。しかし今年は明確に震災後です。むしろ今年の方が中止される可能性があったのではないか。今こうして正常に開催されているという事実を、僕は嬉しく思います。だからこそ続編を作って持ってくるべきだと思ったのです。だから来年も再来年も撮ります。どれだけ撮ればいいのか、考えてみたんですけれども、少なくとも最初に集まった本数と同じだけ、四十二本までは撮り続けなくてはならないのではないか、そう思っています。そして四十二本に辿り着く頃には、ようやくこの連作は震災と関係してくるのではないか、そうも思っています。だから来年、再来年もここに来ますので、末永くお付き合いをお願い致します……」
冨永監督の長いスピーチを聞きながら、私は彼が言っていること、彼の話しぶりに、ある紛れもないパフォーマティヴな含意が隠されていることに気づき、静かな感銘を受けた。彼は昨年の仙台短篇映画祭を中止にしないために「三分一一秒の映画」に至る提案をした。それは自分自身が「被災」しないためだと言った。そして彼だけが「三分一一秒」を二本撮った。今年、彼は弟子たちと六本もの「三分一一秒」を自発的に撮って仙台にやってきた。そして彼は来年も再来年も新作と共にここに来ると宣言した。つまり、彼は来年以降も映画祭が中止されることがないように「三分一一秒」を連ねていこうとしているのだ。彼の発言は、弁明でも韜晦でもない。彼はただ、これからも「三分一一秒」は延々と繋げられてゆくので、上映の場であるこの映画祭はちゃんと開催されて欲しい、と祈願しているのだ。なぜならば、そうでないと、たとえ時間が経っていっても、やがて「被災」してしまうから、震災に負けてしまうから。冨永昌敬は本気で「防波堤」を築くために「小石」を積んでいくつもりなのである。 私も発言した。だがそれは、ほとんどが本連載でこれまで書いてきたことの繰り返しなので、ここでは再現しない。私は「震災と映画」というよりも「震災と芸術(表現)」全般についての自分の考えとして、いや「震災」とのかかわり以前に「芸術(表現)」について常々思うこととして、内的な必然性、切実さ、の話をした。「せねばならない」ではなく「しないではいられない」ということ。「こうあるべき」ではなく「こうしかできない(こうしかならない)」ということ。やらなくてもよい、そうしなくてもよい、という当然さを乗り越えて現れるもの。否定(やらない/ではない)の否定としての能動性。責務として引き受けられる(押し付けられる)ものではなく、無為の権利を無根拠に逆転して露出する行為。私には『311明日』という映画の試みが、そしてその中でも冨永昌敬がやろうとしたこと、やったこと、これからやろうとしていることが、そのような意味での切実さ、内的必然性を強く帯びていると思った。誤解を畏れずに言ってしまえば、それは内容やテーマとは別個に存在しているのだ。 今年の仙台短篇映画祭のサブタイトルは「継続ーー物語を続けよう」である。私はパンフレットにテクストを寄稿した。会場でしか配布されなかったものなので、以下に再掲しておきたい。
「明日の映画と映画の明日」
震災以後、誰であれ自分は何も変わっていないとうそぶくのなら、それはもちろん嘘だ。だが、すべてが変わってしまったとか、変わらざるを得ないとか変わるべきであるとか、変わろう変えよう、変えろ変われ、などと言われると、それもどこか間違っているような気がしてしまう。われわれは皆、多かれ少なかれ、否応無しに、すでに変わっており、変わり続けている。認めると認めざるとにかかわらず、われわれ全員が、あの日の「以後」を生きているのだから。何をするにしたって、それはなんらか影響してこざるを得ないだろう。むしろだからこそ、殊更に変化を強調するわけではない、ごく淡々とした営みの中にこそ、不可逆的な変化が滲んでおり、本人自身も気づいていないかもしれない、そんなありさまを見て取ることこそが、たとえば自分のような仕事にやれることなのかもしれないと考えたりしている。 こんにち映画を撮るということは、昔よりもずっとお手軽で簡単なことになっていると同時に、ますますむつかしさを極めていっているようにも思える。デジタル機材の充実は、間違いなく映画制作の現場を変えたし、それは日進月歩を続けてもいる。だが、映画監督として身を立てるとか、自分の映画を不特定多数の観客=他者へと向けて差し出し、後世へと残してゆく、といった事となると、以前より困難になっているのかもしれない。作り手だけでは作品は完結しない。スクリーンを介してカメラと瞳が出会わなくては、映画はほんとうの意味で、この世界に生まれ落ちたことにはならない。だが、メジャーな映画の業界を見回してみると、ゼロ年代を通じて完全に覇権を握った製作委員会の名のもとに、テレビ局やら大手芸能事���所やら広告代理店やら巨大出版社やらの利権と思惑に突き動かされるメディア・ミックスしか、映画が生まれる方法はなくなってきているとさえ思えてくる。そういう、たかだか「商品」でしかないもの(もちろん、それにも良し悪しはあるにせよ)と、われわれが本当に観たい映画とは、同じ「映画」と呼ばれてはいても、もしかすると全然違うものになってきているのではないか。そんな疑いさえ頭をもたげてくる。そろそろ違う名前を用意するべきなのかもしれない。 僕が観たいのは、ある紛れもない必然性をもって生まれてくる映画だ。この必然性は、切実さを伴っていなくてはならない。撮らずにはいられなかった映画、生まれてこないわけにいかなかった映画。切実さは、個人的なもので構わない。それは使命感とか責任感とは違う。もっとある意味では取るに足らない、他人にすぐには伝わらないような、こだわりのようなものでもいい。作られる価値がある映画というよりも、出来はともかく兎に角作りたいという動機だけは煌煌と輝いている映画。役に立つとか立たないとか、ウケるとかウレるとか、そういうことはもうどうでもいい。ただひたすら、ああ映画が撮りたかったのだな、ああこの映画が撮りたかったんだな、と納得してしまうような、強い動機と必然性を帯びた映画が観たいのだ。この気持ちは、前からそうだったけれど、去年の三月一一日以後、ますます増してきている。 仙台短篇映画祭は、そんな動機と必然性を持った映画たちを送り出す、ささやかなプラットホームのごとき映画祭だと思う。誰かのカメラと誰かの瞳が出会う場所としての映画祭。 他のあらゆる芸術と同じく、今のこの状況下で「映画」に何が出来るのか、なんて問い直す必要はない。ただ撮られ、観られるだけでいい。いちばん大切なことは、明日に映画が生まれること、明日も映画が生まれること、明日の映画が生まれることなのだから。大きくなくていい、小さな映画でもいい。小さくてもとても強い映画はあるのだから。そしてそんな映画たちには、われわれ全員が今もその渦中を生きている、あの日からの不可逆的な変化が刻印されていることだろう。僕はそれを、けっして見逃さないつもりだ。
18。せんだいメディアテークで交わされた言葉、その2
ファシリテーターの方から、彼女自身が昨年『311明日』をはじめて観た時の感想として、ついていけない、と思ってしまった、という発言があった。「三分一一秒」はあまりにも短すぎて、次から次へと矢継ぎ早にスクリーンを駆け去ってゆく小さな映画たちが、忙しなさや焦燥のような感覚を抱かせたということだろうか。これに対して冨永監督は、「三分一一秒の映画」は、実はとてもむつかしいのだ、と応じた。確かにそれは手早く作ることが出来る短さではある。けれどもその短さで一本の映画=物語をまがりなりにも完結させるためには、やはり相応の技術が要る。たぶん自分はまだ「三分一一秒」の正しい使い方を学んでいる途中なのであり、それが次第にわかってくるのと、「震災と映画」についての当事者としての感覚が芽生えてくるのは、同じ時期であるかもしれない、と。これに対して、てつがくカフェ@せんだいの西村氏が発言し、ついていけない、という感覚の意味は、長い短いの問題という客観的な時間よりも、まだ震災から半年しか経っていない時期に、被災した仙台という場所で、フィクションが大量に眼前を通過してゆくのを、何よりもまずからだ自体が受け付けなかったということなのではないか、と述べた。何しろわれわれは、はっきりとフィクションを凌駕してしまったと思える現実の映像を、のべつまくなしに見させられていたのだ。冨永監督はもっぱら映画の作り手の側から話してくれたが、われわれ観客にとって映画とは当然ながら見るものなのだから、そこには身体的なタイミングとマッチングが、やはりあるのだ、と。そしてそれを受けて、ふたたびファシリテーターの方が、あれから一年が経って、今回は少し観た感じが変わった。思えば一年前は、映画だけではなく、他のジャンル、書かれたものも含めて、作品としての良し悪し以前に、すべてがフラットになってしまったような感じがあった。あの頃に較べると、今は中身を咀嚼する余裕が出来てきたように思う、と語った。興味深い応酬である。 このあたりで、やっと場も熟れてきたのか、来場者からもぽつぽつと発言が出て来るようになった。それらは私にとっていずれも、さまざまな意味で示唆的なものだった。幾つかランダムに、仙台の人たちの声を拾ってみたいと思う。 「昨年の映画祭でこの作品を観ました。たくさん映画があって、いろんな感情が次々とわき起こったんですが、もちろん作り手の方々はそれぞれに勇気の要ることだったと思います。でも、観ているこちら側も、感情を揺り動かされること自体が、後ろめたい、という気持ちを感じながら観ていたという印象があります。観ているものに対して、なにかしら自分の感情が変化してゆく,そのこと自体が後ろめたい。その繰り返しの中から、先ほど言われていた「追いつけない」という感覚が生じてゆく感じが、自分にもあったと思います」(女性)
「わたしはずっと映画とか必要じゃないと思っていて、ほとんど観ないで育ったんです。それがたまたま、震災よりずっと前のことなんですけど、冨永監督の短篇映画を観て、そのとき、何かすごい理由があったわけではないんですけれども、親にも悪いし、震災で亡くなった方たちにも申し訳ないのですが、ただわけもなく死にたくてしょうがないと思っていたときに、その映画が、何も考えなくてもいいんだよって言ってくれている気がしたんです。監督がそう思っているということではないと思うんですけど、死にたい死にたいと思っていた頃に、何も考えなくても過ごせる時間があるということを、教えてくれたっていうか。 震災でいろいろあって、大切なひとが亡くなってしまったりした人が、たとえ一時でも、何も考えないで過ごせる時間があって、その時間を楽しめたりするということは、それだけでも映画って必要だな、と思ったんです。だから映画祭が開かれたことが嬉しいし、冨永監督にも来年も来てほしいし、新しい映画を作ってほしいです。短篇映画でも長い映画でも、震災と関係があってもなくても、いろんな映画が撮られて、ここで観ることが出来ること、いろんなものが存在していることが、幸せなんだと思います」(女性)
「ピカソに『ゲルニカ』という絵がありますけども、ピカソの郷里が空爆にあって、その哀しみを描いた絵と言われています。完成した絵は人物が手を広げていて、叫びや哀しみを表しているとされていますが、下書きでは握り拳をしていて、元は怒りの絵だったと言われているんです。わたしは映画ってメッセージだと思うんです。メッセージの伝え方にはいろいろあると思う。いま、震災の哀しみが怒りに変わってきた気がしています。それが次は諦めに変わっていってしまうのが怖いんです。だから怒りを維持させてくれるような映画が観たい。映画は観れなかったのですけれども、���たしは、そう思っています」(男性)
「震災があろうとなかろうと、自分が作りたい作品を撮るしかないという冨永監督の気持ちには賛成しますし、それと同時に、震災の記録を残して欲しいという気持ちもよくわかります。でも、いつか必ず、わたしたちは震災を忘れる必要もあるのではないか。そのための時間が必要なんじゃないか。かなしみや怒りにばかり時間を使っていると、気持ちが過去にばかり向かってしまって、未来をクリエイトできないと思うんです。だから、いずれ忘れるということも大事なのではないか、そう思います」(男性)
「『三月一一日』について、ここ仙台では、被災した東北では、もはやひとつのイメージが出来上がってしまっていると思うんです。わたしたちの誰もが、震災についてのイメージを共有している。そして何を見ても、ついついそのイメージを探してしまって、それを確認しようとしてしまう。でもこの映画を見ても、そんなイメージは見当たらない。探せど探せど、そんなものはどこにもない。それに監督自身が、映画と震災は関係ないって仰っている。でもそれが逆に、わたしたち当事者だけでは打ち破ることのできないイメージの展開を生んでいると思ったんです。映画というものが持っている可能性として、ずいぶんと固くなってしまった構造を壊すような出来事として「三分一一秒」があった、今はそんな気がしています」(男性)
発言された方々は比較的年配の方が多かった。震災を忘れる必要もあると話した男性は、まだ若く見えたし、そう思って発言を読むと、字面だけとはまた異なる印象があるのかもしれない。皆さんそれぞれの立場で、『311明日』について、「武闘派野郎サーガ」について、そして「震災と映画」について、意見を述べられた。ふと気づくと、予定時間をかなり超過していた。最後に手を挙げて発言されたのは、初老の男性だった。同心円状に配置されたベンチの一番外周のあたりに坐っておられた方である。
「一言でも喋って帰らないと、なんだか具合が悪くなりそうなので、ひとに語ることでもないのかもしれませんが、少しだけ話してみたいと思います。映画は去年の九月に観ました。ほんとうは今日の二度目も観たかったんです。一年間が過ぎて、同じ映画をどう見る自分がいるのか確かめたかったんですが、仕事のために来られませんでした。とても残念です。 一年前に見た時のことを思い出すと、作り手たちと似通った感情を持っていたのだという気がします。戸惑いとか迷いとか、もしかしたら照れのようなものとか、あるいは妙な力みとか、そのような感情を、映像を見ながら作り手と共有していた、そんな気がします。ある意味、作る側も見る側も、すごく無理をしている、ある種の無理をしている、それを映画というものを通して共有していた。先ほど、ついていけない、追いつけない感覚、ということを仰った方がいましたが、そういう感覚を私も持ちました。けれども、こういうものを観ようとしている自分って何なんだろう、というのが、ずっと自分の中で引っかかっていて、それはどこかで、震災というものと向き合う自分を確認したい、それを言葉にしていきたい、いろんな感情を通して、真面目腐っていえば、自分を見つめていきたい、みたいなところがあったのだと思います。 先ほど、作り手としての内的な必然性、切実さという話がありました。それだけではなくて、私たち観る側、オーディエンスにも、観る側の必然性ってものがあると思うんです。それは自分にとって何なのだろう、とずっと問いかけながら、『なみのおと』とか『測量技師たち』とか、色んな映画を震災後、観てきました。どうして観るんだろうかと自分に問うてみると、それはやっぱり、震災と自分との距離感を推し量りかねてるんですよね、ずっと。あれから一年半も経っても、一年半しか経ってないっていう言い方もあるかもしれませんが、そこに答えを見つけかねている。たまたま被災地にいるということで、何かを清算できない自分を抱えたままでいる。 冨永さんの今日の映画も、正直いって全然理解できないんです。でも、理解できないから投げ出してしまうのではなくて、わからない自分も大切にしたいな、というか。何かを清算できない、震災との距離感をはかりかねている、ずっと戸惑ったままの自分っていうものを、そのままちょっと抱えていきたいというか。変にわかりたくない、わかったつもりになりたくない、という気持ち。だからきっとこの先もずっと、自分は冨永さんの作る映画を観ていくのだろうと思います」
こうして「シネマてつがくカフェ『震災と映画』」は終了した。最後の男性の言葉に、私は深く感じ入っていた。彼は答えを必死で探しているのだが、それは見つからない。答えはなかなか得られない。そしてどうやらそんなものはないのだろうということにも、彼は薄々(最初から?)感づいていることだろう。それでも彼は探すことを止めることはないし、止められない。東京から来た若造の映画監督たちがこしらえた映画を見たって、さっぱりわからない。だがこのわからなさは、単純な理解や了解の問題や、世代や時代の差異に還元出来るようなこととは、どこか違っている。どうしてこいつらは、よりにもよって、この機会に、こんな折に、こんな映画を、誰かに頼まれたわけでもないのにわざわざ自力で撮って、ここ仙台まで持ってきたのか。何の責任も関係もありはしないのに、どうしてギリギリまで編集や音声の調整を行ない、一台のクルマに同乗して、ボスである冨永昌敬が自ら運転して、東京から数時間を費やして、せんだいメディアテークにやってきたのか。ほんとうにさっぱりわからない。だが確かに、そういうことがあったからこそ、自分は今、ここでこうやって喋っているのだ。正直言って全然わからない。だが、わかったつもりにもなりたくない、そう語っているのだ。 19。「フタバ」から遠く離れて
『フタバから遠く離れて』は、『Big River』『谷中暮色』��ど、これまではもっぱら劇映画を撮ってきた舩橋淳監督が、はじめて発表した長篇ドキュメンタリー映画である(もっとも彼はニューヨークを拠点として主にテレビ用のドキュメンタリー作品は数多く作っている)。フタバとは福島県双葉町のこと。同町には東京電力福島第一原子力発電所の5号機と6号機があり、更に7号機と8号機の招致も進んでいた。二〇一一年三月一一日、1号機の水素爆発によって、双葉町は全面立ち入り禁止の警戒区域に指定され、一四二三人の町民全員が、埼玉県の旧騎西高校へと避難し、現在も同地での生活を余儀なくされている。原発事故によって、ひとつの町が丸ごと移転したのは、被災地でたった一件、フタバだけである。この映画は双葉町民たちの「以後」の生活を、舩橋監督が九ヶ月間にわたって記録したものである。 この映画の題名には複数の意味が込められていると私は思う。まず空間的な側面から述べると、ここには少なくとも三つの「遠く離れて」がある。まず第一に無論のこと、それは福島県双葉町と埼玉県旧騎西町(現在の加須市)を隔てる約250kmもの物理的な距離のことである。否応無しに故郷から引き離され、途方も無い距離を抱え込まされた双葉町のひとびとの境遇を、この言葉は表している。だがそれだけではない。映画で「から遠く離れて」と聞いて、すぐに思い出されるのは、言うまでもなく『ベトナムから遠く離れて』である。ジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、クロード・ルルーシュ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イヴェンス、アニエス・ヴァルダの六名の監督がベトナム戦争をテーマに撮り上げた一九六七年のオムニバス作品。“Loin du Vietnam”という原題には、不毛で悲惨な戦いの続くベトナムと映画作家たちとのあいだに横たわる或る絶対的/絶望的な距離(それは具体的なものだけではなく、非=当事者性とでも呼ぶべき認識ともかかわっている)と、その距離を越えて発言しようとする意志とが共に表現されている。舩橋監督もまた、フタバから遠く離れてある、そうあらざるを得ない自分を絶えず確認しつつ、それでも/それゆえにカメラを構えて撮り続けたのに違いない。彼は広島の被爆二世であると映画の資料には記されているが、そのことがこの作品の動機と関係あるのかないのかは、実のところ本質的な問題ではない。そうではなく、長くNYに住み、現在は東京で暮らす彼が、フタバとの距離をしかと自覚しつつも、距離を何らかの仕方で縮めようとするのではなく(それは結局、どこまでいっても不可能なことだ)、むしろ距離を丸ごと受け止めることによって、この映画を完成させた、ということが重要なのだ。それは報道や記録という行為にかかわる責務の意識というよりも、こう言ってよければ、本能や衝動といったものに属している。何者としての本能や衝動なのかと問われたら、ドキュメンタリー作家としての、映画監督としての、表現者としての、ひととしての、と答えよう。したがって「遠く離れて」の第二の意味とは、舩橋淳の立つ場所を指している。そして第三に、それはこの映画の観客が意識する距離のことでもある。この作品は、東京・渋谷のミニシアターでロードショー公開された。ある場所を定点観測したドキュメンタリー映画が、そこから遠く離れた場所で赤の他人たちによって観られるということ。観客に、彼ら彼女らがスクリーンを見据えている渋谷の映画館と、そこに映っている埼玉の廃校となった高校と、そこに映っているひとびとが引き剥がされてある福島県双葉町、その二重となった途方もない距離をどうにかして実感させること。それは安易な共感や憐憫の発動によっては果たされない(むしろそれは真逆に振れるだけだろう)。フタバから遠く離れて映画を観ている、言ってしまえばただそれだけの者たちに、如何にしてその距離を受け止めさせられるのか。 遠く離れてあるのは空間だけではない。時間的な距離もまた、そこには複層となって横たわっている。映画とは常に過去の缶詰であり、昔にしか行けない、しかも傍観することしか出来ない、いわば一種の欠陥タイムマシンの機能を有している。映画を観るたびに、そこではあの日ある場所で現実にあったこと(それはドキュメンタリーでもフィクションでも同じことである)が何度でも繰り返される。そして必然的に、撮影されることで反復再生可能とされた過去の時間と現在との時間的距離は、刻々と開いてゆくことになる。この映画が「二〇一一年三月一一日以後」の約九ヶ月を描いていることは既に触れたが、それだけの期間にわたり撮影され記録されたフッテージが、編集作業を経て一本の映画として完成し渋谷の映画館で公開されたのは「二〇一二年十月十三日」のことである。ここにある十九ヶ月余という時間。『フタバから遠く離れて』に記録された時間は、永遠にこの内にある。そしてそれは、常にその時々の現在において再生されることによって撮られた過去の時間から、しかしそこにいつまでも同じ時間が佇んでいることでその都度の現在からも、どんどん遠く離れてゆく。今後幾度となく上映されることになるだろう未来の時間の中で、この映画に留められた過去の或る時間は、そのままであり続けることによってこそ、その意味を変えてゆくのだ。 実際のところ、現時点でも、双葉町のひとびとが故郷に戻れる時期はおろか、それがいつかは可能であるのかどうかさえわかっていない。埼玉県への町ごとの避難を決定し主導した双葉町の井戸川克隆町長は、映画の中で名前と肩書きのテロップと共に登場する最初の人物であり、国と東電に極めて 厳しい態度で臨む首長として報道メディアにもたびたび取り上げられている方だが、彼が旧騎西高校内に移転している町役場の仮の町長室(そこはおそらく校長室だったのだろう)で、地図や資料を示しつつ淡々と語る双葉町の歴史は、日本の原子力行政が抱える問題の縮図である(この映画の英語題名は“Nuclear Nation”)。七〇年代、福島第一原子力発電所の5号機6号機を迎え入れることによって巨額の「原発マネー」が入り込み、「福島のチベット」とも呼ばれた農業の脆弱と過疎による税収の低下に伴う困窮から一時救われ、ハコ物やインフラ整備などを次々と行なうなど繁栄したが、その後は原発を抱え続けることで得られる固定資産税も年々減少し、二〇〇七年には財政破綻目前となってしまう。新たに町長となった井戸川氏は、国からの交付金と新たな固定資産税以外に町を救う手立てはないと決意し、二〇〇二年の東電によるトラブル隠しがきっかけで長年棚上げされていた7号機8号機の誘致を決定、それは事故が起こる一ヶ月後には着工されることになっていた。つまり明確な原発推進派だった井戸川町長は、しかし今では、それはすべて間違いだったのだと、原発の功と罪を較べてみるならば、罪の方が圧倒的に多かったのだと語る。 映画の後半には、全国原子力発電所所在市町村協議会の事故後初の会合の模様も描かれる。当時経済産業大臣だった海江田万里が挨拶に立ち、すぐに公務のためだと言って退席、次いでマイクを握った細野豪志内閣府特命担当大臣(当時)も発言を終えるやいなや退席という光景には唖然とするしかない。関係省庁の席の前列がほとんど空席となった異様な状態で発言に立った井戸川町長が「なぜこのような思いをしなくてはならないのか、はっきり言って悔しい」と語り出し、被爆検査さえ遅々として進まない現状を訴え、やがて静かに怒りを爆発させる場面は、ネットやテレビでも伝えられた。なぜ自分らの家に住めなくなってしまったのか、悔しい。映画のラスト近く、次の字幕が映し出される。「2011年12月、日本政府は、福島第一原子力発電所が冷温停止状態に達し、事故は収束したと発表」「さらに放射性廃棄物の中間貯蔵施設を双葉郡内に設置する計画を打ち出した。除染が進まないかぎり、町へは5年以上帰還できないといわれている」。 二〇一二年十月十五日、井戸川町長は、いわき市東田町の福島地方法務局勿来出張所跡地に双葉町の役場機能を移す方針を町議会臨時会で明らかにした。年内にも仮庁舎建設に着工し、二〇一三年三月までには移転する計画だという。だが、関東地方に避難している町民も多いことから、旧騎西高校の避難所は当面継続するとのことである。十月十八日には、旧騎西高校の双葉町役場を長浜博行環境大臣と園田康博副大臣が訪問し、井戸川町長に就任の挨拶と意見交換を行なった。町からは十一項目に及ぶ要望書が手渡されたが、長浜環境相は「持ち帰って検討させて下さい」とだけ述べて、具体的な内容については言及しなかったという。かくのごとく状況は推移している。『フタバから遠く離れて』と「今日」との距離は、一日一日広がってゆく。その距離を測定し続けること。 舩橋監督は、映画のプレスシートに寄せた文章にこう書いている。
この映画は、避難民の時間を描いている。1日や1週間のことではない、延々とつづく原発避難。今回の原発事故で失われたのは、土地、不動産、仕事…金で賠償できる物ばかりではない。人の繋がり、風土、郷土と歴史、という無形の財産も吹き飛んでしまった。それに対する償いは、あいにく誰も用意していない。用意できるものでもない。 そして、僕たちはその福島で作られた電気を使いつづけてきた。無意識に、加害者の側に立ってしまっていた。いや我々は東電じゃないんだから、加害者じゃない、というかもしれない。本当にそうなのか。地方に危険な原発を背負わせる政府を支えてきたのは、誰なのか。そんな犠牲のシステムに依存して、電気を使ってきたのは誰なのか。 いま僕たちの当事者意識が問われている。
避難民の時間。フタバから遠く離れて生きるひとびとの姿は、当然ながら一通りではない。それぞれの家庭が抱える事情や問題、補償の現状、将来への展望などによって、双葉町民の「距離」の認識は異なるし、それはまさに時間とともに変化してゆく。映画はそうした違いもつぶさに描いている。校舎の入口に飾られた七夕の短冊に幼い手書きの文字で「ふたばに帰りたいです」などとあるのを見ると胸が詰まるが、後半では、避難所生活からマンション暮らしとなった老夫婦が、もう双葉に戻るつもりはない。戻れないだろうし、たとえ戻れたとしても、今より生活が良くなるとは思えない。それに、もうこちらの生活に慣れてしまったのだ、と語ったりもする。二〇一一年七月中旬に東京・日比谷公園で行なわれた抗議デモのシーンでは、数十人の避難民たちが「双葉を返せ!」「俺たちは双葉に帰るぞ!」などと叫びながら路上を練り歩き、最後は自民党本部前でのほとんど戯画的というしかない陳情の場面となる。デモ隊の人たちが必死で訴えているのに、通り一遍の笑顔と握手、空疎な言葉によってしか応じようとしない自民党代議士たちの不気味さ。映画の製作日誌を基にした書籍『フタバから遠く離れてーー避難所からみた原発と日本社会』の中で、舩橋監督はこのデモの直後、抗議に参加した知り合いの女性に「事故がまだ収束しない中で、政府にどうやって双葉を返して欲しい、と思うのですか?」と率直な質問をぶつけてみたと書いている。それに対する女性の答えはこういうものだ。
「あたしらだって、知ってるわよ、帰れないって。今度一時帰宅があるけど、行っても家の中ぐちゃぐちゃで何か持ってこようって気にもならないと思う。あそこに行ったら、もう戻れないだろうなって思う。それはわかっててやってるのよ……無駄だってわかってやってるのよ」
もちろん双葉に帰る願いが永久にかなわないと決まっているわけではないし、その望みを諦めてしまったわけでもないだろう。だがおそらくはもう「帰れない」と、だからデモをしても「無駄」だとわかっていながら、頭の中ではそう認識していながら、故郷を返せ、故郷に帰りたいと、声を上げずにはいられない、そうせずにはどうにもやり切れないという気持ち。この叫びと、もう帰らない、帰らなくてもいい、という発言は、正反対のようだが、どちらも或るひとつの出来事、誰一人として望んだわけではない出来事を端緒としている。「遠く離れて」を自ら選んだのではないという点で、双葉のひとびとは全員が同じ条件に属している。そこから先が異なるのは当たり前である。そこから先しか彼らは選択の余地がないのだから。だからむしろそのような個々の選択を強いられるという事に悲劇があるのである。フタバから遠く離れて、あなたはどうしますか? この問いこそが悲劇なのだ。 『フタバから遠く離れて』は、森達也他の『311』とも、松林要樹の『相馬看花ーー第一部 奪われた土地の記憶』とも、まったく違う感触を持ったドキュメンタリー映画である。『311』の賛否両論をものともせぬ突撃精神も、『相馬看花』の詩的とも思える叙述も、この映画にはない。あるのは対象に対する適切な、きわめて適切な「距離」感である。この「距離」は先に述べておいたように複層的なものである。舩橋監督は『フタバから遠く離れてーー避難所からみた原発と日本社会』で、次のように書いている。
震災後、多くの映像ディレクターが東北に向かった。何かを撮らなければいけないという使命感、もしくは義務感に駆られてキャメラを手にした人がほとんどではないだろうか。告白すると、私も同じように感じ、気仙沼や南三陸町へ訪れもした。何かを撮らなければいけないという衝動ばかりだったのだが何をどう撮ってよいのか、正直わからなかった。地震で無惨に崩壊した家々を写す者、津波に呑まれた死体を写す者、ガイガーカウンターをカメラの前にかざし、どれだけの高い値か興奮して話す者など、さまざまな震災映像があった。しかし、私のケースでいうと、「未曾有の大災害のものすごい映像」を見せることに抵抗があった。車からレンズを突きだして、トラッキングショットで荒野をなめてゆくのは、何も知らない部外者による物見遊山以外の何ものでもないと思った。「見せたもん勝ち」という感性にいかに抗うかが、震災ドキュメンタリーの肝だろうと考えたのだ。
作品名は書かれていないが、これはおそらく『311』への批判でもあるだろう。これに続く記述で、舩橋淳は故・佐藤真監督のドキュメンタリー論に触れ、佐藤による「ジャーナリズム=言語情報として要約できる映像」と「ドキュメンタリー=言語情報でまとめられないもの」という定義と分類を自分も踏襲したいと述べたのち、だが実際にはジャーナリズム的なドキュメンタリーやドキュメンタリー的なジャーナリズムも数多く存在するし、実のところは前者が大勢を占めているのが現状である、しかし自分はジャーナリズム的ではないドキュメンタリー映画を志向��ると書いている。映像の力に頼り切るのでもなく、言語化の誘惑になびくのでもない、映画であるがゆえの剰余や冗長性を武器とすること。だが同時に映画であるからこその制約や有限性も大切にすること。その結果『フタバから遠く離れて』は、けっして怒りを露わにすることなく「怒り」を表現し得た、すぐれた「ドキュメンタリー映画」となった。 十月十四日、日曜日の夜、私はオーディトリウム渋谷における『フタバから遠く離れて』上映後トークショーのゲストに招かれて、舩橋淳監督と話した。初対面だった。公開翌日である。観客は十数名だった。トークの前に帰った観客もいただろう。この日の昼間は井戸川克隆町長と双葉町の方々がゲストだったので、そちらは盛況だったのかもしれない。私の人気がないだけかもしれない。六月二十四日、日曜日の午後、私は同じ映画館で『相馬看花』の松林要樹監督とも話した。このときも観客の数は少なかった。やはり私のせいなのかもしれない。だが私は、舩橋淳の文章にあった「当事者」という言葉を、そして「遠く離れて」ということ、「距離」ということを、考えざるを得ない。考え込まざるを得ない。
20。『希望の国』のエクソダス
『希望の国』は、古谷実の十年前の原作を「震災以後」に設定し直して撮り上げた傑作『ヒミズ』に続く、園子温監督による「以後の映画」第二弾である。福島第一原発の事故が未だ真の収束には至っていない今から数年後、架空の「長島県」(長崎+広島+福島)で、ふたたび大規模な原発事故が起こる、という設定の下、或る家族の物語が描かれる。 『ヒミズ』は震災以前からの企画だったが、舞台を被災地にすることによって、紛れもないアクチュアリティと切実さを獲得すると共に、物議を醸しもした。物議は園監督の専売特許とも言えるが、これまでの監督人生を回想した書物『非道に生きる』の中で、彼は「震災直後に被災地を映像に収めること」の是非を多くの人から問われたこと、罪悪感は感じないのかという反応があったと述べてから、こう書いている。
しかし僕が感じていたのは罪悪感ではなく、緊張感に近いものでした。目の前に広がるあまりにも悲惨な情景に、現実的な既視感が生まれ始めた今となっては、それを自分と無関係な場所として見ることはできない。
この「現実的な既視感」は、舩橋淳のいう「当事者意識」と一続きのものだろう。『ヒミズ』の冒頭は瓦礫の山が延々と続く長回し、文字通りの荒野をなめてゆくトラッキングショットである。それはけっして確信や自信をもってやれたことではなかっただろう。だが、園監督は被災したスタッフの実家や親戚の家を撮らせてもらった際、意外な声を聞く。
そこで僕が聞いたのは想像していたのとまったく違う言葉でした。「片付けられてしまう前に記録を残してもらってよかった」。さらに1年後に同じ場所で聞いたのは「『いまだに津波の映像を流したりすると、思い出すからやめてほしい』と言う人たちは、忘れても大丈夫な人たちなんだ」という意見でした。
空間的な距離は他人事という感覚をどうしたって強めるし、時間的な距離は忘却のツールとして作用する。この二重の距離を埋めるためのひとつの道具として、たとえば映画というものはある。距離はどこまでも開いていくだろうが、それでもそれを測ることが出来るということには、なにがしかの意味がある筈だ。そう思わなければ、そこにカメラを向けることは出来なかったに違いない。
大事な人を亡くし、直後に大きな被害を受けた人たちは、その現実を忘れたくても忘れようがないと思います。かつて家があった場所は更地になり、やがて国が買い取ってセメントが入り、永遠に住めない土地になるかもしれない。自分が住んでいた愛する土地を記録に残しておきたいし、人々の記憶にも留めてもらいたい。被災された方がそう思うのは自然ではないでしょうか。 「思い出すからやめてくれ」というのは、被災の映像を見なければ思い出さないということでもある。被災地ではなく、たとえば東京で報道を見て、そう言う人もいる。しかし本当に被災者は、自分は被災者だと声高に叫ぶ人ではないのではないか。僕はそう思いました。10年後、20年後と歳月が経った後に『ヒミズ』を見た人が「やっぱり、あのとき撮ってくれてよかった」と言ってくれることを願っています。
こうして『ヒミズ』を完成させた園監督は、しかしこれでは終われない、と思ったのだという。前作では「震災」を間接的にしか描き得なかった。次はそこでは語れなかった「原発事故」を、正面切って取り上げる。『希望の国』は、このような強い動機によって生み出されることになった。それはしかし、相当な難産であったという。この問題を扱うということだけで、映画への出資を尻込みする者が多く、なかなか製作資金が集まらなかったのだ。しかしなんとか映画は出来上がった。そして『希望の国』は『ヒミズ』と、いや、過去の園子温の映画のどれとも似ていない新たな作品となった。映画のシナリオと製作日誌と後日譚とを合体させた、かなりユニークな書物『希望の国』に、園監督はこう書き付ける。
映画は、ゆっくりと撮れば良いものが撮れるわけではない。一瞬の内に気持ちのまま撮る時もある。 被災地の感情を撮りたいと思っていた。 報道が記録なら映画は記憶。 報道やドキュメンタリーが「真実の記録」なら、「情感を記録する」装置が映画。情感をカメラに記憶させたいと思った。
佐藤真=舩橋淳が示した「ジャーナリズム」と「ドキュメンタリー」に加えて、園子温による「フィクション」としての映画の定義が、ここには端的に述べられている。だが「情感を記録する」とは、間違っても(時に園監督が誤解されがちなように)いたずらにエモーショナルでスキャンダラスなだけの、いわゆるセンセーショナリズムを意味してはいない。『非道に生きる』で彼は「震災直後に被災の当事者が何度も思ったのは「寒い」だったろうし、その最中は寒すぎて「この寒さの原因は東電のせいだ、けしからん」なんて論理的なことを考えている暇はなかったと思うのです。出来事の追想ではなく、出来事の真っただ中にいるときの気持ちや情感を、貧弱な言葉でもいいからそれで綴ること、それがドラマ映画にあるべきスタンスだと思います」と述べている。 では『希望の国』は、どんな物語なのか。長島県大原町で酪農を営む小野泰彦と、認知症を患うその妻・智恵子、父親の仕事を手伝う息子の洋一と妻のいずみの四人が主人公である。ある日、マグニチュード8.3の巨大地震がとつぜん襲い、大原町内にあった原発が事故を起こす。この経緯はすべてが現実に福島で起きたことの再現である。原発から半径20キロ圏内が避難区域に指定され、小野家はギリギリでその範囲には入らなかったが、道を一本隔てた隣家は避難を強いられる。かねてから原発の安全性に疑念を抱いていた泰彦はガイガーカウンターを出し、洋一夫妻にここから遠くに逃げろと命令する。父親を愛する洋一は最初は嫌がるが、いずみが妊娠していることがわかり、息子夫婦はオオハラから遠く離れた町で暮らし始める。いずみは泰彦から貰った原発関連の本を読み、医者からも恐ろしい真実を聞かされることで放射能への不安を募らせ、宇宙服で外出するノイローゼ状態に陥る。一方、泰彦と智恵子は静かな生活を続けようとするが、強制退避命令と牛の殺処分命令が届き、遂に泰彦は或る決意をする。 こんな物語のどこが『希望の国』なのかと思うことだろう。誰もが引っかかる「希望」という言葉の含意を、なぜこの題名を付けたのかを、園監督はさまざまな機会に繰り返し説明している。きっかけはやはり『ヒミズ』だった。
(『ヒミズ』の取材で)「絶望に勝ったのではなく、希望に負けた」と僕は何度も言いました。絶望的な状況で「参りました」と白旗を上げる、敗北宣言です。普段は「希望なんてクソくらえ」と思って生きていても、水も食べ物も酸素もなくなって、落ちるところまで落ちたときに、「仕方がないんだ。希望が欲しくなっちゃったんだよ」と言ってしまうようなもの。
だが「それは、やさしい面をした希望ではなく、とても残酷な希望です」とも園監督は言う。「それは「負けた」というネガティヴな表現でしか言えないのです」。『希望の国』は、最初は『大地のうた』という仮タイトルを持っていたという。言うまでもなくサタジット・レイの名作と同じ題名である。園監督はまず、被災地に何度も長期間赴き、現地のひとびとへの取材を行なった。無論、希望などという言葉を被せられるような話はまったくと言っていいほどなかった。当初は現実と地続きの話にするつもりだったが、複数の土地で何人もの被災者から聞いたエピソードをバラバラのまま提示するのは不可能と判断し、架空の町を設定することにした。だがシナリオはなかなか進まなかった。自分が撮ろうとしている映画に確信が持てなかった。そんな折、二〇一二年元旦の早朝、南相馬に居た園子温は、ふと思い立って、20キロ圏内の柵を乗り越えて、海へと向かった。初日の出を見ようと思ったのだ。そして啓示の瞬間が訪れた。
真っ赤な、真っ赤な初日の出でした。こんなに美しい太陽を見たことがない。そう思うくらい感動しました。昨年、人々を襲った津波を生み出した「張本人」のあの海から静かに立ちのぼる朝日。その真っ赤な美しさを息を殺して見つめているうちに、放射性物質をいっぱいに含んだこの大地に到来した新しい息吹を感じ取るようになり、力一杯呼吸をしました。その瞬間、そうだ、『希望の国』というタイトルの映画が作れるぞ!と思ったのです。このタイトルにしたのは、たくさんの論理的な理由を超えて、これが一番です。 『希望の国』と言いながらも、僕は「これが希望だ」と提示するつもりはありません。この映画に描かれたものを希望だと思えるならそう捉えてもらっていいし、希望じゃないと思うのであればそれでいい。こちらから一方的に何かを「希望」だと言うのは強引です。僕は映画が「答え」を出してはダメだと思っています。映画は巨大な質問状です。「こうですよ」という回答を与えるものではないと思うのです。
この映画のタイトルにひとが否応なく抱くだろう疑問は、だから園監督によって敢て選び取られたものなのだ。「あの日の出こそ、僕に突きつけられた巨大な質問状でした。そして心の底で自分は答えを出した。その答えをあえて映画の中では口に出したりはしません」。園子温という映画作家には、とかく「確信犯」という評語が付きまとってきた。だが彼にかんしては、それは自分の正解を持っている者のことではない。彼は「僕は基本的に「想像力を羽ばたかせる」というのが嫌いなんです。なぜなら、想像する自分があてにならないから。「想像力」と言えば聞こえはいいけれど、それは断定とか独りよがりといった言葉にも置き換えられるものだと思います」とも言っている。或いはこうも。「僕の映画は主張しすぎだと言う人がよくいますがーーたしかに僕は映画の中でたくさんのことを「しゃべり」ますがーーそういう人は、僕がそもそも「答え」を用意していないことに気づいていないのです」。巨大な質問状としての映画。『希望の国』という作品が、なぜこのような物語なのか。こんな物語の映画が、なぜ『希望の国』という題名なのか。その答えはすべて観客に委ねられているのだ。 『トーキョードリフター』の監督、松江哲明は、園子温の『奇妙なサーカス』の���イキング映像や『夢の中へ』『紀子の食卓』の予告編を手掛けており、園監督とは公私ともに親しい人物である。彼は最近、映画評論家のモルモット吉田氏と共著で出した『園子温映画全研究1985ー2012』において、『ヒミズ』と『希望の国』について語っている。
松江 園さんが『ヒミズ』で「希望に負けた」という言い方をしましたが、すごく誠実だと思ったんですね。それで『希望の国』を観たときに、これは否定的な意味で捉えてほしくないんですけど、初めて園さんがフィクションに負けた映画だと思ったんです。あんなにノンフィクション至上主義を嫌って、「実在の事件は結末がわかっているからつまらない」と言っていた人が、今回の震災と原発事故に触れて、初めて自分のフィクションを捨てたと思いました。過剰なフィクションを入れ込むことでものを作ってきた人たちが、そんなことさえできないくらいに、現実に圧倒されてしまった。でもその態度は、とても誠実だと思いました。
いかにも松江哲明らしい、それ自体とても誠実な発言だと思う。もちろん園監督は「自分のフィクションを捨てた」とまでは思っていないだろうが、しかしノンフィクション(ドキュメンタリー)であれフィクションであれ、その厳格な定義にてらして、自分は常に完璧な整合性をもって対応していると断言する映画作家が居たとしたら、そんな者の方がずっと信頼に足らない。そうではなくて、迷いながら悩みながら、圧倒されたり負けたりしながら、それでも撮る、それでも作る、ということの中にしか、映画が現実と切り結ぶ術はないのだ。そしてこれは映画以外の芸術にかんしても同じである。 書物『希望の国』の末尾には、詩人でもある園監督が「クランクインの直前に書いた、二〇一一年最後の詩」が据えられている。題名は「数」。この詩は、次のように始まる。
まずは何かを正確に数えなくてはならなかった。草が何本あったかでもいい。全部、数えろ。 花が、例えば花が、桜の花びらが何枚あったか。それが徒労に終わるわけない。まずは一センチメートルとか距離を決める。一つの距離の中の何かを数えなくてはならない。例えば一つの小学校とか、その中の一つの運動場とか、そこに咲いている桜が何本とか、その桜に何枚の花びらがあったとか、距離と数を確かめて、匂いに近づける。その距離の中の正確な数を調べれば匂いと同調する。たぶん俺達の嗅覚は、数を知っている。匂いには必ず数がある。 その町の人口が何人だとか、その小学校に何人いたか、とか、例えばその日のその時間に何匹の虫が、何匹の蝶が、何匹の芋虫が、いたか、をきっかり、調べるべきだ。俺の嗅ぐ匂いは詩だ。政府は詩を数字にきちんとしろ。
詩はまだ続く。私は強く揺さぶられている。園子温という表現者の凄みに、今更ながら瞠目せざるを得ない。「今度またきっとここに来るよという小学校の張り紙の、その今度とは、今から何日目かを数えねばならない」。数。数えること。計測の意志。そこに流れる紛れもない叙情。叙情を喰い破る強さ。ただの抵抗の身ぶりとは根本的に異なる勇気。「数値に出せないと政治家に言わせるな、数値で出せ、と訴えろ。全てを数えろと言え、数値で出せと言え」。そして園子温は、よく読め、彼は最後に、こう書いているのだ。
「膨大な数」という大雑把な死とか涙、苦しみを数値に表せないとしたら、何のための「文学」だろう。季節の中に埋もれてゆくものは数え上げることが出来ないと、政治が泣き言を言うのなら、芸術がやれ。一つでも正確な「一つ」を数えてみろ。
21。『言葉』
村川拓也は、毎秋都内で催されている舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー(F/T)」の二〇一一年公募プログラム(主催演目とは別に新進カンパニー向けにエントリー形式で行なわれている)として『ツァイトゲーバー』という作品を発表した。実際に介護の現場で働く男性が全身不随の障害者と過ごす一日を普段通りに淡々と再現する、基本的にはそれだけの内容なのだが、障害者の「フジイさん」を公演毎に観客席の女性から募って演じてもらうという特殊な趣向の一点によって(やらせは一切ないという)、意想外の卓抜にして深遠な劇的効果を上げることに成功していた。この作品はかなりの評判を呼び、まだ無名と言ってよかった村川拓也は一挙に注目されることになった。『ツァイトゲーバー』は二〇一二年九月にも東京都近代美術館で再演されている。 『言葉』は、今年の「F/T」の正式プログラムとして上演された、村川拓也の新作である。この夏、彼は出演者の前田愛美と工藤修三(彼は『ツァイトゲーバー』の「介護士」だった人物である)と一緒に被災地を一週間ほど廻った。各地ではバラバラに別れて行動し、各々が毎日平均六時間もあちこちを歩き続けながら、見たもの聞いたもの感じたこと考えたことなどをメモしていった。台本は、出演者二人のメモに記された膨大な「言葉」を村川が再構成することによって作られている。舞台にはマイクスタンドとスピーカー以外には何もない。工藤と前田はほぼ交互に、過去に自分自身が記した「言葉」を台詞として発話する。連続しているように思えるところもあるが、基本、二人の発話は断絶しており、対話を構成しない。ほとんど何も無い舞台上に「言葉」が響いてゆく。『言葉』は、言ってしまえばこれだけの作品である。前作と同じく、極めてシンプルな作りと言えるだろう。村川は、公演パンフに附されたインタビューの中で、「被災地に限ったことではないと思いますが、現地を訪ね、目の前の様々な印象を捕まえて言葉にしようと突き詰めて考えていくと、どんどん深みにはまっていく感じがあり、それを回避するために“歩き倒す”というような過酷な行程を敢て組みました。歩き疲れてヘトヘトになった身体と頭からは、シンプルで正直な言葉しか出て来ませんから」と語っている。実際、工藤と前田の「言葉」は、文字で書かれたものというよりも、その時その場で二人の脳裡に浮かんだとりとめの無い心象そのままであるかのように思える。青森から福島まで移動しながら、毎日毎日ただ只管歩き続ける中で書き留められた、被災地の今なお残る傷跡への素朴な驚きであるとか、ふと出くわした風景に突き動かされた想像、それだけでは何を意味しているのかよくわからない呟き、単なるぼやきとした思えないような一言、などなど。いったい何故、村川拓也は、このような方法を選んだのだろうか。同じインタビューで彼は、宮本常一からの影響について述べている(私は観ていないが、村川には『移動演劇 宮本常一への旅 地球4周分の歌』という作品もある)。宮本の著作に記録された「過去」の言葉を、現代に生きる人間が語ろうとする際、まず出て来るのは「喋れなさのリアリティー」ではないかと村川は言う。それは「過去」と「現在」のギャップそのものを提示するということである。
僕が以前創った作品はそこまで止まりだったかもしれません。でも、本当はもう少し違うことをやりたいと思っていました。それは、「過去」に書かれた言葉の、その時の情景をそのままダイレクトに舞台上で再生できないか、ということです。それは単に役者が役にのめり込んで喋れば達成されるものでは絶対にないと思いますし、ひょっとするとその言葉を使わない方が、その時の情景に迫れるのかもしれませんが、とにかくその「過去」に書かれた言葉の、その時の「現在」をどうやったら今の「現在」で再生できるかといったことを探究したい。(略)過去を現在との距離から語るのではなく、過去の現在性を再生させるという、演劇ではほとんど不可能な領域に向かっているのかもしれません。
実は『言葉』には、対になる作品が存在している。映像作家でもある村川が今年完成した中編映画『沖へ』。甚大な被害を受けた宮城県本吉郡南三陸町で、江戸時代から続く互助会「伊里前契約会」の会長を務める千葉正海氏の日々を追ったドキュメンタリーである。村川はカメラを携えて千葉氏とその家族の生活に寄り添い、畏まったインタビューというよりも単なる会話のようにして被写体に話し掛け、千葉氏も気さくに村川の問いに答えてゆく。取り戻しようのない災禍を経て日常を維持しようとする被災地の人々の姿を等身大で捉えた、魅力的なドキュメンタリー映画である。船で沖へ出ていき、当のこの海が襲われた津波について語る千葉氏。クルマに乗って帰り際、不意に村川を呼び止め、カーステで曲を聴かせながら「これ何かわかる?」などと尋ね、まったく唐突にCAROLの想い出を語り出す千葉氏。東京新橋での講演会の帰りにカラオケで熱唱する千葉氏。そんな何でもない場面の数々が不思議な感動を催させる。それは間違いなく、監督である村川拓也と被写体である千葉正海���の距離感の適度な縮まりに由るものだと思える。しかしこの映画を制作しながら、村川は一種のジレンマに苦しんでいたという。
『沖へ』の撮影のためのインタビュー中、僕は「全然会話ができていない」という感覚にずっと囚われていた。被災地では色んな方と喋り、また基本的には皆さんよく喋るのですが、その言葉に行き先がない感じがしたんですね。切れ切れでどこにも届かない、行き場のない言葉が、津波で更地になった所にビッシリ生い茂る夏草のように充満し、溜まっていく。そんなイメージを再現できるような対話や言葉を抽出し、舞台上に乗せることで、観客の中にも無数の言葉が生まれ、むさ苦しいほど充満していくような作品を創りたいと思っています。
やはりインタビューから引いた。こうして村川拓也は『言葉』を創ったわけである。ところで、先には触れなかったが、この舞台には工藤修三と前田愛美以外にも出演者が居る。それはいずれも黒服に身を包んだ(工藤と前田は限りなく普段着に近い服装である)手話通訳の女性たちである。女性たち、と書いたが、彼女たちは三名居り、交替で現れて工藤と前田の「言葉」を翻訳する。最初は舞台脇で控え目に立っているのだが、最後に登場した通訳の女性は、出演者二名が上手と下手の端に座って語っているのに、ただひとり真ん中に立って手話で語り出す。ここに至って観客は、彼女たちが単に公演の為に用意された通訳ではなく、紛れもない「出演者」としてそこに居るのだということに気づかされる。だから『言葉』のキャストは、二名ではなく五名なのだ。手話を解さない私には、彼女たちの身ぶりは(もちろん多少は推察できるところはあるとしても)文字通りの「身ぶり」でしかない。だがそれは「言葉」なのだ。その言葉が私たちにはわからないが、それが言葉であることは知っている。むろん通訳なのだから、今しがた彼か彼女が話した言葉が手話に翻訳されているのだろう。それは知っている。だがそれは「発話」ではない。そこには音がない。私を含む観客のほとんどにとって、それはただ見ることしか許されない「言葉」なのである。 『ツァイトゲーバー』でも、全身麻痺の「フジイさん」役の観客に最初に願い事を尋ね、本番中に三度、任意のタイミングで、その願い事を「台詞」として呟かせる、という「演出」が、驚くべき効果を発揮していた。「介護士」はその言葉に一切反応しない。それは彼が普段からそうしているのか、何を言っているのか聞き取れなかったのか、それともそもそも「フジイさん」の心中で呟かれただけだったのか、観客には判別出来ない。しかし「介護士」役である工藤修三にも、「フジイさん」がいつ、どのタイミングで「台詞」を発するのかは予期出来ないのだから、その「言葉」はいつも不意撃ちのように舞台と客席に響くことになるのだ。 聞こえる/聞かれるべき音として発される言葉と、聞こえない/聞かれない言葉との、矛盾と照応。この意味で、『言葉』は明確に『ツァイトゲーバー』の問題意識を引き継いでいる。手話通訳の「出演者」化によって浮き上がってくるのは、確かに発された言葉が聞かれておらず、発されていないかもしれない言葉が聞こえる、という前作が炙り出した事態に対して、聞こえていえないかもしれないが確かに発されている言葉の実在、である。このことは、この舞台のもうひとつの仕掛け、舞台前に客席に向けてマイクが数本立てられており、無言の場面になると観客の立てる咳や身じろぎが集音され、増幅されてスピーカーから返されるという、やはりシンプルだが秀抜な趣向にも込められている。 被災地に生きる者の「行き場のない言葉」を、そこから遠く離れた舞台上で、当事者ではない「出演者」の声によって響かせる、ということは、結局のところ、不可能なことである。これは「演劇」の限界なのかもしれない。だが、だからこそ「過去の現在性を再生させる」ために、村川拓也は『言葉』の、一見すると迂遠とも思える手法を選択したのだ。彼と工藤、前田の旅は、どこまでいっても(言葉は悪いが)物見遊山の謗りを免れないものではある。『言葉』上演後、映画監督の想田和弘を迎えて行なわれたアフタートークの冒頭、村川自身が「作品を作るために被災地に行った」と語っていた。どれだけ真摯な想いが��の内にあり、どれほどの震撼がそこに待っていたのだとしても、それはやはり、そうなのだ。だからむしろ問題は、そのことに背を向けない、ということだったのだろう。二人の「出演者」によってメモに書き付けられた「言葉」は、被災地の、被災者の「言葉」ではない。そうではない、そうではありえない、そうなりえないという歴然たる事実を上演すること、それが『言葉』がしていることであると思われる。その「言葉」たちにはーーこう言ってしまってよければーー然程の深い意味も価値もない。ただしかし、そこでは「「過去」に書かれた言葉の、その時の「現在」をどうやったら今の「現在」で再生できるか」が、無骨なまでに真正直に問われている。そしてそれは、けっして完全なる「非当事者」ではあり得ない筈なのに(それは舩橋淳も言っていたことだ)、しかし「当事者」を自ら標榜することはけっして許されはしない者が、如何にして「当事者」の「言葉」を通訳出来るのか、という取り組みでもあるのだ。 だからこそ、一個の作品としての『言葉』には不満がないわけではない。中盤に、突然スクリーンが降りてきて、ランディ・ニューマンのペーソス溢れる軽やかな歌声をバックに、旅行時のスナップショットがスライドショーで映写される場面があるのだが、旅のドキュメントとしての要素を残しておきたいという意図は汲めるとしても、全体の中では小休止というか、緊張感を緩める結果になっていることは否めない。また、先に述べたように「言葉」は殆どランダムに並べられているのだが、ラストに至って、現地で催される花火大会で離散していた一行が落ち合おうとする展開となる。事情あってそれは果たせないのだが、前田の「言葉」は花火の模様を描写する。そしてラストの一言は「あれ、今揺れた?」。この「言葉」によって『言葉』という一編の芝居が終われたということはあるだろうし、絶妙な余韻が残されたことも確かだ。それにこれらは全てがもともとメモにあった「言葉」である。そこには作為も虚構もない。だが私には、少々上手に終わり過ぎてしまっているように思えた。村川拓也が排したいと思っている(と私が思う)ドラマツルギー的な感覚が入り込んでいるように思ってしまったのだ。もっといつ終わったのかわからないような「言葉」でもよかったのではないか。極論かもしれないが、『言葉』の「言葉」それ自体は、含蓄や情動を持たない、いや、持てない、ということにこそ意味があるのだと思われるからである。
22。「言葉」
『言葉』を含む本年度の「フェスティバル/トーキョー」のテーマは「ことばの彼方へ」である。舞台芸術において言葉=言語は特異な位置を占めている。戯曲やテクストは重要だし、しばしば最初に書かれるものだが、読めば済むのなら上演の必然はなくなってしまう。だが、かといって「言葉」が二義的な要素というわけではない。内外含めて十数本から成るプログラムは、総体として「言葉」と「舞台」をめぐるアクチュアルな問題系を形成していた。その中でも呼び物は、劇作家としても名高いオーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と原発事故をテーマに書き下ろした『光のない。』と『光のない II〜エピローグ?』の上演である。今年のF/Tは、他にイェリネク解釈の第一人者といわれるドイツのヨッシ・ヴィーラー演出による『レヒニッツ(皆殺しの天使)』、公募プログラムで重力/Noteによる『雲。家。』と、さながらイェリネク祭の様相を呈していた。 村川拓也は「行き場のない言葉が、津波で更地になった所にビッシリ生い茂る夏草のように充満し、溜まっていく」と述べていたが、この表現はそのままイェリネクにも当て嵌まる。だがそのあり方は正反対かもしれない。『ピアニスト』『したい気分』『死者の子供たち』といった小説では、引用と参照に満ちた高度に知的な企みの内に遊び心溢れる闊達さやポストモダン文学的なサービス精神(?)も披露するイェリネクだが、とりわけ戯曲は難解さをもって知られている。彼女の劇言語は(やはりオーストリアの小説家、劇作家トーマス・ベルンハルトと同じく)たとえ複数の登場人物が配されていたとしても本質的にはモノローグ的であり、断言と韜晦が奇妙に共存する台詞は強固に閉じた印象を与えつつ、同時に異様な、バロック的と呼んでもいいような過剰な意味性へと開かれてもいる。たとえばそれは、こんな具合である。
ああ、わたしにはあなたの声がほとんど聞こえない、どうにかしてほしい。あなたの声を響かせてほしい。わたしはわたしを聞きたくない、あなたにわたしをかき消してほしい。ただ、少し前から思っている、わたしはわたしも聞こえない、耳を制御盤にあて、つかもうとしているのに、音を。あなたもそのくらいはできるはず! もっと強く弾いてほしい、難しいはずはない。ここは喚き声ばかり、わたしにはわからない。畜舎? 設備の停止? 設備が停止したならどうして叫ぶのだろう。力づくで押さえているのか。自動停止? だがそれはすべて静まることを意味しない。力は消えることができない。なにかが消えることなど決してない、まだ叫んでいる、怪物の腹の中で、蝉のように、喰われても猫の腹で叫びつづける蝉のように。 (「光のない。」、林立騎訳)
イェリネクはこの度の上演に当たって日本の観客に向けて書かれたテクストにおいて、自分の生活は「ほとんど日本に囲まれているようなもの」だと述べる。なにしろ庭も日本風に竹を植えているのだ。彼女は竹を「地下茎=リゾーム」と言い換え、自らの言葉の様態を重ね合わせてみせる。そして歌舞伎については詳しくないと断わりつつ、たとえば「長いモノローグや技巧的に歪めた声」という点で自分の作風は歌舞伎と似ていなくもないのだと述べる。歌舞伎には「様式化された人工美の規則」がある。「観客は作品を見て読み解き、なにがなにを意味するか知るのでしょう。わたしの作品にそれは不要です。言わばわたしの作品は、過剰に規定されています、わたしは開かれた余地を残しません、竹が隙間を残さず、土があればどこまでも広がるように。竹は必ず防根シートで囲まれ��す、しかしそれを越え出ることさえあります。なんらかの感覚が、なんらかの意味が、わたしの地下茎を越え出ることはあるでしょうか。あってほしいと思います」。実際のところ、何が主題の芯に据えられているのか、どこから作品が書き出されているのか、という意味では、イェリネクの戯曲は常におそろしく具体的である。即物的とさえ言ってもよい。『光のない。』の「光」とは、福島第一原子力発電所の事故によって施行された計画停電のせいで一時的に関東地方から失われた、松江哲明監督の『トーキョー・ドリフター』に不在の形で映し出されていた光=明かりのことであり、と同時に原発の発電システムそれ自体のことでもあり、ピカドンのピカのことでもある。イェリネクはケルンの劇場から、より抽象的なテーマ(「デモクラシーの黄昏」)で委嘱されたものだったというが、彼女は敢てこの題材を選び、追ってホームページで全文を公開した。そして震災ー事故から一年と一日が経った二〇一二年三月十二日に、「エピローグ?」と題された続編を、やはりHPで発表した。 イェリネクは自分の「言葉」は「過剰に規定されて」いると言う。それは「規則」に従った読解や意味の抽出を必要としていない。言い換えるなら、それは完膚なきまでの誤解/誤読の余地の無さ、ということだろう。だがしかし、だからといってそれは明解であるわけではない。むしろ逆である。竹。夏草。繁茂。どこまでも即物的で直截的足ろうとする意志こそが、見る間に視界のすべてを覆い尽くしてしまうほどに「言葉」を生い茂らせてゆく。イェリネクの文学の全てに言えることだが、膨大な文学的/歴史的引用や参照が多重露光のごとく入り込み、即物性と斥き合うように、テクストを濃密に、息苦しいほどに濃密にしてゆく。二本の戯曲はこうして書かれた。では、日本の演出家たちは、そのようなイェリネクの「言葉」を、どう受け止めたのか? 『光のないII〜エピローグ?』から語ろう。何故なら私が鑑賞したのが、こちらが先だったからである。構成、演出はPort Bの高山明。ここ数年のF/Tの常連アーティストである彼は、劇場という固定されたトポスから脱して、インターネットや移動手段を駆使したさまざまな方法論で、「日本」というコンテクストにおける「ポストドラマ演劇」を試行している。今回の公演は、このようなものだった。事前にエントリを済ませた観客は、一人ずつ新橋の駅前にある「ニュー新橋ビル」から街へと送り出される。持たされるのは十数枚のポストカードが入ったビニールケースと短波ラジオ。ポストカードには次に向かう場所への経路と地図が印刷されている。観客はそれをガイドに新橋駅周辺に設置された「舞台」を経巡る。指定されたポイントに着いたら、観客はカードに記載された周波数に短波ラジオを合わせる。すると、その都度異なる若い女性の声が(それらは被災地の高校生たちの声である)「エピローグ?』のテクストを朗読している声が聞こえてくるのである。ポイントは雑居ビルの一室であったり、小公園だったり、路上だったり、パチンコ屋の店先であったり、空き地であったりする。ポストカードを裏返すと、土屋伸一による被災地の人々や原発作業員たちの写真があしらわれている。一時間ほどの「観劇」を終えて、ふたたび出発点に戻ってくると、一階上でラストシーンを体験してくださいと言われる。そこはビルの最上階である。同じポストカードが大量にある。雲間から光が射し込む青空の写真。一枚お取りくださいとある。裏返すと、そこにはこう記されている。「ニュー新橋ビルから135km、福島第一原子力発電所から91km」。距離。計測。そこにある光。そのイメージ。
真実の言葉は一つとして、言われないままにはしなかった、と彼らは言う、彼らが見たはずはない。目撃証言としてわたしは言う、真実の言葉はどれも、言われないままになっている。容器の水は足りてない、もういい! わたしたちの運命は他の誰でもないわたしたちだけのもの、だが容器の中のあの水が、そう、鉄琴は溶け落ちた、多くの人間が焼け出されたように、だが活発な活動は止まない、ひどく加熱され燃えている、わたしたちの都市の近く、わたしたちは一見無傷な家畜、あの水がわたしたちの運命をもたらすだろう。わたしたちはそれをつかめない。わたしたちのまわりには水しかない、だがそれはまた別の水。さまざまな水! (「エピローグ?[光のない II]、林立騎訳)
延々と続くモノローグ。短波ラジオから聞こえるイェリネクを読む音声は、それぞれのポイントから離れると次第に遠ざかっていき、やがてホワイトノイズに呑み込まれてしまう。私は移動中もイヤホンを耳から外さずにいたので、聴覚は視覚をあっけなく凌駕して、新橋の雑然とした町並みは鈍いノイズに塗れ、そのままの姿で刻々と変容していった。ポイントの幾つかには被災地を如実に想起させるセットもあったのだが、私にはむしろ何でもない新橋の夜(夜だったのだが)の風景の方が「舞台」のように見えたし、誤解を恐れずに言えば、短波ラジオが発するホワイトノイズも、イェリネクのテクストの一部であるかのように思えた。それはとても不思議な体験だった。公演パンフに掲載された土屋伸一との対談の中で、高山明はこう述べている。「福島のある風景を東京のなんの文脈も共有していない空間に再構成した結果は変に決まってます。でも、その不協和音の中にこそ、自分が福島にいないこと、今東京にいるということ、その距離がはっきり見えて来るんじゃないか。演劇を作る時にも観る時にも、感情移入はつきものですが、でも今は、それよりも、僕らの前に現実にある距離を測り、感じることの方が重要なんじゃないのかな」。 「エピローグ?」の末尾には参考文献(?)として、ソポクレース「アンティゴネー」と共に、次の一文が添えられている。「多くの、多くの報道を読んだ」。引きこもり的な生活を続けているというイェリネクは、インターネット経由でそれらを読んでから(読んだから)書き始めた。そうして書かれたドイツ語は、林立騎によって極めてマシーナリーに日本語へと翻訳され、いわき総合高校演劇部の女子部員たちによって朗読され録音された。ここにも複数の距離と複数の翻訳が介在している。高山は対談で、こんなことも言っている。
ウィーンの郊外にツベンテンドルフ原発という、一度も使われないまま、国民投票で廃炉になった発電所があるんです。そこに行くと、「未来のエネルギー」と書かれた垂れ幕がかかったままで、時間が止まっちゃって、未来もフリーズしたような奇妙な感覚に捕らわれる。あの感じはもしかしたら、福島の避難区域の、蒲団がはがれたままの、突然誰もいなくなってしまった部屋と似ているんじゃないかと想像します。僕が『光のないII』を読んで、いちばん表現したい、掴みたいと思ったのは、そういう、時間が失調してしまうような感覚です。それは、原発が欲しいと思って、それが実現して、でも津波で壊れてしまって、今度は原発を止めたいっていう別の願いを持つことになって……と、時間が錯綜して振り出しに戻ったかと思えば、全く別の場所に出ていたりするような感覚でもあります。
「それは〈福島/フクシマ〉が、もはや言葉だけのものとして、終結させられつつあることへの批判でもありますが、それ以後全く違う時間が始まったという意味でもあるんじゃないか」。フクシマから遠く離れて。その時間的空間的距離の自覚。『光のない II〜エピローグ?』の舞台が新橋であったことは恣意的な選択だったかもしれないが(そういえば村川拓也の『言葉』で千葉正海氏が赴いたのも新橋だった)、それは福島や被災地であってはならなかった。そこから絶対的絶望的に遠隔された場所でなくてはならなかった。それはエルフリーデ・イェリネクが、ウィーンの自宅のコンピュータがアクセスするインターネットやテレビ、報道媒体などから得た映像と文字の情報のみを頼りにテクストを書いた、という事実と対応している。しかし同時に、絶対的で絶望的な距離が、安全で無責任な傍観者であることを保証するわけではない、ということも高山は勿論わかっている。これはフィクションではない。別の世界の出来事ではない。われわれは、残念なことに、同じひとつの世界にしか居ない、イェリネクに筆を執らせたのも、遠く離れたアジアの島国で起こったことが、自分の生きる同じ現実の内にある、という実感によるものだったのではないか。「距離」の測定は、連続性の把握でもあるのだから。 観劇を終えて、ニュー新橋ビルの屋上に出てみた。ちょうど歓楽街が賑やかになってくる時間だ。ポストカードを夜空にかざして、私はこう考えた。ここから135km離れた場所の、或る日の空に、この雲と光があった。そして、そこから91km離れた場所に、福島第一原子力発電所がある。
『光のない。』は、京都に拠点を置く劇団、地点を率いる三浦基が演出を担当した。彼は自ら劇作は行なわず、チェーホフの四大戯曲を始め、既存の劇作品を極めて独創的な解釈で上演することによって国際的な注目を集めてきた。また近年は、太田省吾、ジャン・ジュネ、アントナン・アルトー、太宰治などのテクストを再構成した野心的な舞台を次々と発表している。今回も同様で、イェリネクのテクストは役柄にかんする指定のないAとBが交互に語るというものだが、三浦はその全部は採用せず、彼自身の取捨選択によって六割ほどに編集している。そして戯曲では二つの声となっている台詞を、地点の五人の俳優に分散して演じさせている。このことについて、三浦は二→五という処理に意味があるわけではないと語っている。単に彼が信頼を寄せる役者の数が目下のところ五名なのだ(つまり現在の地点は基本いかなる人数の戯曲であっても五人で演じられる)。 地点の演劇をはじめて観る者は、何よりもまず、役者たちの異様な発話にしたたか驚かされることになる。時に「地点語」などと評されるそれは、戯曲に書かれた台詞を、いわゆる自然な口調とは完全に真逆の、シラブルの切断や語の強調、イントネーションの付け方などによって、徹底的に異化してしまう。それは確かに日本語である筈なのに、まるで外国語のように聞こえる。意味性を解体/変容し、異なる次元へと絶えずパラフレーズしてゆくこの手法こそ、演出家三浦基の最大の発明であり、武器でもある。その手腕は今回も遺憾なく発揮されており、私がこれまでに観た地点の公演の中でも、圧倒的な高みに至っていた。それは戯曲に書かれた「言葉」を舞台上に響く「音声」へとメタモルフォーズする。イェリネクの、それ自体過剰なまでに濃密なテクストを、役者の身体によって加圧し、彼らの声を通して煮詰め、何か更に奇怪な、だがおそるべき生々しさを放つものに仕立て上げている。 だが、これだけならば、言ってしまえばいつもの地点である。今回は、そこに厄介な前提が纏わりついている。言うまでもなくそれはエルフリーデ・イェリネクに『光のない。』というテクストを書かせた具体的現実的な出来事のことである。この作品を演出することは、なかば必然的にこの出来事に対する何らかの意見表明を意味してしまう。幸いなことに、この点にも鋭敏な三浦は、公演パンフに附された「演出ノート」において、まず政治と政治性を分割して、自分が問題にしているのは「政治性という普段からちりちりとくすぶっているよくわからない人間の性」の方だと述べる。
政治性とは関係性と言ってもよい。劇は関係性によって成り立つ。誰との? ロミオとジュリエットとのではない。イェリネクは、わたしとあなたとのでもないと言っている。わたしはあなたであり、わたしたちでありあなたたちだと一見、ふざけたことを言っている。イェリネク作品での主語に「わたしたち」が頻出するのは、政治性を問うた結果である。つまりイェリネクが書くのは、物語ではなくわたしたちに起こった「出来事」についてなのだ。残念ながら、震災があった。それに伴う原発事故があった。
そしてこうも述べる。「この劇が、みなさんに反原発を訴えるはずはないし、そんなつもりは毛頭ない」。誤解のないよう言い添えておくが、三浦が言っているのは、悪しき芸術至上主義の標榜ではないし、日和見主義でもない。「政治」は行動とメッセージだが、「政治性」は思考と内省である。そして芸術は、演劇は、後者を追求すべき営み/試みなのだ。 ところで『光のない。』の達成に貢献しているのは、演出家三浦基と地点の俳優たちばかりではない。今回はそこに新たな才能が加わっている。音楽監督を務めた作曲家の三輪眞弘である。私は個人的に、この起用には感嘆を禁じ得なかった。なんと見事な人選だろうと舌を巻いたものである。ひとつには、三輪はコンピュータを駆使した、いわゆるアルゴリズミック・コンポジションの研鑽を経て、演算もしくはその遂行が生身の身体(それはプロフェッショナルな楽器演奏者であることもあれば、ただの素人であることもある)によって行なわれる「逆シミュレーション音楽」という独自のアイデアに辿り着き、近年めざましい作曲活動を継続しているのだが、そのユニーク極まるアプローチは、そういえば確かに地点と相通じるものがある、と思えたからだが、もうひとつは他でもない、三輪眞弘が「中部電力芸術宣言」の起草者であったからである。
いついかなる時でも電気が必ず供給され続けることを前提として、人類が未来を考えるようになってから、ほぼ半世紀が経った。この前提は、近現代の、テクノロジーによって生み出された数々の地球的規模の危機はテクノロジーによってでしか解決できないと考える思想、すなわちひとつの「信仰」の全面化を意味すると同時に、人々が自らの責任と子供達の未来を考えることが、そのまま「今よりもさらにテクノロジーを進歩させること」へと回収される、まったく新しい時代を産み出した。我々はこの状況を、厳然たる事実として認めつつも、この事実に対して自覚的かつ批判的であるために、人類史におけるこのような発展段階を「電気文明」と名付け、そこから生まれる様々な視聴覚及び演算装置による創作一般を「装置を伴う/による表現」と呼ぶことにする。
と始まり、「確認しよう。なぜ電気なのか?・・それは、電気エネルギーがすでに我々の社会の、思考の、そして身体の一部であるからに他ならない」と結ばれるこの「宣言」は、二〇〇九年八月二十五日には一旦脱稿されていたが、一年半のあいだ公表されることはなく、二〇一一年三月十三日に突然、三輪のホームページ上にアップされた。東日本大震災と原発事故を受けての公開であったことは疑いない。「電気文明」の時代における「芸術」と「音楽」について、一読する限りでは突拍子もない主張が述べられているようにも思われるこの宣言文は、しかしながら検討すべき内容を多々有している。そしてここにこそ、三輪眞弘がエルフリーデ・イェリネクと、三浦基と、『光のない。』というテクストと切り結ぶ最大のクリティカル・ポイントが示されていると思われる。
23。「電力芸術宣言」のジレンマ
三輪眞弘が「中部電力芸術宣言」によって俎上にあげようとしたもの、それは「テクノロジー」と「音楽/芸術」の関係性をめぐる本質的な問題、そしてその前提を成す「テクノロジー」と「(人類の)生」の問題である。三輪はこの「宣言」において、至って即物的に、今日の「テクノロジー」を、その駆動力たる「電力」がなくては維持も進歩も最早あり得ないものと定義する。そして「人類史におけるこのような発展段階を「電気文明」と名付け、そこから生まれる様々な視聴覚及び演算装置による創作一般を「装置を伴う/による表現」と呼ぶ」。この呼称は、つまり「芸術」の別名である。
その際、活動の、いや、そもそも人間生存の大前提となった電力供給に我々は常に意識的であらねばならない。一体、電気がどのような物理的特性において、どこから、どのようにして提供されているのか? その実態を把握せずに我々はもはやこの世界を決して語り得ないにもかかわらず、人々はそのことの持つ意味についてあまりに無自覚である。例えば、日本では現在10の電力会社によって(家庭用は)100V/200VAC電力が供給されており、その電力網は県境を越えた「地方」という単位に対応している。つまり地方文化と電力会社はほぼ1対1の対応関係にあるという事実、さらに、東日本と西日本というふたつの領域が50Hzと60Hzの二種類の交流周波数によって峻別されているという事実は、「地方文化の差異」を、それとは本来まったく無関係なはずの、電力各社の電力網区分が代表していることでもある。さらに、それら各地方電力会社が供給する電力の起源に我々は注目する。すなわち、それが太陽由来の電気なのか、そうではないのか?
そして三輪は「太陽エネルギーに由来しない電気はすべて、人間が「資源」という名の下に自然環境に対して行う地球規模の略奪行為として今後断固拒否する」と述べる。過激な主張と言っていいだろう。だが無論「水力、風力、太陽光発電等の太陽由来の電力は容認せざるを得ない」し、現実として「太陽由来の電力」とそれ以外の「電力」を峻別することはわれわれには困難である。そこで差し当たり次のような立場が表明されることになる。「以上のような自覚に基づき、我々はまず、発起人の在住する中部電力が供給する電気によって電力芸術活動を開始し、「装置を伴う/による表現」を電力会社名として名付けられた各地方文化において運動を展開させていくことを目標とする」。こうして「中部電力芸術」が「宣言」されることになったわけである。
言うまでもなく、電気の地域性によって作品が変わることはない。しかし、西洋音楽において、たとえば現代の管弦楽作品が、世界中の都市に遍在するオーケストラという、地域文化の固有性を越えたグローバル・スタンダードを前提として作曲家独自の表現を可能にしていることと同様、グローバル化社会における究極の前提であるユニバーサルな電気を我々がどのように捉える/扱いうるかこそが今、我々に問われているのである。それは地域文化の固有性や作家の独自性を、現在考え得るもっともニュートラルな条件の下に映し出す、ひとつの鏡となるに違いない。
自分の「音楽」が何によって生かされているのか、自分が何によって生かされているのか、そのことにもっと意識的にならなくてはならない。「宣言」の末尾に、三輪は「中部電力芸術家の目標、条件、他」として、以下のような要項を挙げている。
- 電気文明における電気を利用した「装置を伴う/による表現」を電力芸術と呼ぶ。 - 中部電力芸術家は電力芸術を実践する。 - 中部電力芸術家は、浜岡原子力発電所を含む火力、水力発電によって中部電力から供給される60Hz/100VAC電力によって活動を行う。 - ただし、中部電力芸術家は、非太陽由来の電力、すなわち火力発電及び、物質それ自体からエネルギーを収奪する究極の技術としての原子力発電に対して常に批判的である。 - 中部電力芸術の趣旨に賛同する限り、他の電力文化圏(50Hz地方を含む)在住芸術家の、電力会社の壁を越えた積極的な参加を歓迎する。 - 中部電力芸術宣言は作曲家、松平頼暁氏の立ち会いのもと、湯浅譲二氏八十歳の誕生日に構想された後、坂本龍一氏の批判を受けて改訂された。
繰り返しておくが、この「中部電力芸術宣言」は、二〇〇九年八月二十五日には第一稿が書かれていた。従って三輪眞弘が、この特異と言っていい「宣言」を起草するにあたっての動機には、彼自身の生活や信念といった個人的な条件がかかわっていたのかもしれない(三輪は以前から、CD等のメディアに記録され流通することを本願とする「録音芸術」としての音楽ーー「録楽」と名付けられているーーの様態には鋭い疑問を呈していた)。だがそれはいったん開示されることなく封印され、二〇一一年三月十三日にはじめて公表された。どうしてこのタイミングだ���たのかを問う必要はないだろう。重要なことは、これが「以前」に書かれた「以後の言説」であったという事実である。そして私たちは、いまだに「東京電力芸術宣言」を持ってはいない。 では『光のない。』の音楽監督として三輪眞弘は何をしたのか? 「電気文明」に拘束された「装置を伴う/による表現」=「芸術」=「音楽」。この等号を射抜くために、三輪は二つの戦略を採った。ひとつ目は、舞台中盤に役者全員がやおら互いの両腕に電極を装着したかと思うと、それぞれ鈴を持つ、そして電気ショックで不随意に手が動くことによって間歇的な音楽が奏でられる、というものである。それはつまり「電力芸術」としての「音楽」が暴力的な直截さによって表現された場面だった。もうひとつ、より重要であったのは、この作品に召喚された異様な「合唱隊」の存在である。舞台前方、左右にしつらえられた陥没に客席を背にして仰向けに横たわり、全員が両足の先しか見えない総勢十数人による混声コーラスは、意味のわかる歌詞=言葉をうたうことは一度としてなく、囁きや呟き、かすれた叫びやかそけき呻きのような声=音を発する。それら複数の音=声はランダムに聴こえるが、実は三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」の代表的な作品である「またりさま」の応用によって、合唱隊のメンバー自身が一種の演算装置となってリアルタイムで作曲=演奏されているのだ。作曲ー演奏ー出音に至るまで「電力」は一切関与していない。それは「電力」が途絶えても、「光のない」世界でも、生まれ/生きることの出来る音楽なのである。合唱隊の「声=音」は、地点の五人の俳優の、エルフリーデ・イェリネクによって書かれ林立騎によって日本語に翻訳され三浦基によって演出された「台詞=言葉」の発話と混在しながら、舞台空間を音響的に埋め尽くしていった。 三輪眞弘は「フェスティバル/トーキョー」のフリーペーパー「TOKYO/SCENE」No.1に「魔法の鏡 または、三浦基氏に宛てた『光のない。』の私的パラフレーズ」と題した長めのテクストを寄せている(「「中部電力芸術宣言」の続きとして」 という註釈が添えられている)。そこではイェリネクにも『光のない。』にも地点にも直接言及されることはないが、先にも触れた「音楽」と「録楽」の異なりについて、より詳しい思弁が述べられている。「魔法の鏡」とは、「この世」の営みを複製する「あの世」を可能にする「テクノロジー」のことを指している。
わたしは本当に音楽を聴きたいのか? わたしに音楽は必要なのか?……そうだ。「録楽」ではなく、「音楽」は決して「魔法の鏡」によって分身し、再現され、反復されることはない。 音楽は常に記号から逸脱するからだ。
私には、その奇妙と呼ぶしかない「合唱隊」の、意味性を欠いた、しかし同時に意味生成性が充満してもいる摩訶不思議なサウンドは、Port B『エピローグ?』の、あのFMラジオのホワイトノイズと似た機能を担わされていると思えた。ただし、ラジオは電池が切れたら、音はしなくなってしまう。ただし、ヒトは生命を失ったら、音がしなくなってしまう。「装置」と「人間」は、何によって生かされているか、の違いはあれど、何かによって生かされている、という点は同じである。そして結局のところ「電力」は、双方に深くコミットしている。『光のない。』にしても、光のない、電力のない空間での上演は、無論のこと不可能である。だから「電力芸術宣言」は、自ずからひどくアイロニカルなものにならざるを得ない。ここには明らかに、声を上げつつ口ごもっているような晦渋さがある。それは起草者の三輪眞弘自身、百も承知のことだろう。もしかすると、それが公開されなかった理由のひとつであったのかもしれない。だが、それでも敢て「宣言」する必要が、新たに生じたのである。とはいえ、アイロニーが解消されたわけではない。むしろそれはより深刻度を増し、強力な難問として我々の目の前に立ちはだかっている。「浜岡原子力発電所」という単語があるからといって、この「宣言」はストレートな「反原発/脱原発」を謳っているわけではない。そうであったらむしろ話は簡単だったろうが、そうであればここで検討するには値していない。何故ならば、ここにある紛れもないジレンマこそ「電力芸術宣言」の真の問題提起だと思われるからだ。 ところで、先の「魔法の鏡」は、こう結ばれている。
Lux aeterna luceat eis, Machina(機械よ、永遠の光を彼らの上に照らし給え)。しかし、わたしは祈れるのか? 光はどこから来るのか? 「彼ら」とは誰か? 被災地に置き去りにされた家畜たちのために。
「Lux aeterna luceat eis, Machina」とは、三輪眞弘が二〇一一年十月にサントリー芸術財団の委嘱作品として発表した『永遠の光…オーケストラとCDプレーヤーのための』のラテン語題名であり、本来はMachinaではなくDomine、すなわち「Lux aeterna luceat eis, Domine(主よ、永遠の光を彼らの上に照らし給え)」。グレゴリオ聖歌のレクイエムの一節である。
24。「アクチュアリティ」と「わたしたち」
オーストリアのウィーン在住で、日本には一度も来たことのない作家エルフリーデ・イェリネクが、東日本大震災と福島の原発事故にかんする「多くの、多くの報道を読んだ」ことによって、何ものかに突き動かされるようにして書いてしまった二つのテクスト。それらをそれぞれの方法で現実の舞台へとリアライズした高山明と三浦基という二人の演出家と、三浦に随伴した三輪眞弘という作曲家。彼らはいったい、何をしていたのか?……いや、こんな問い方はいかにも理由ありげでいささかみっともないが、しかしそろそろ、これまでここで私が書いてきたことの全部とかかわって、要するに彼ら(というのは彼ら彼女ら全員のことだ)は何をしているのか、何をしようとしているのか、あらためてじっくりと考えてみる必要があるように思う。たとえば三浦基は、前にも引用した『光のない。』の公演パンフレットの「演出ノート」に、次のように書いている。
リアリティという言葉は、いつの間にかアクチュアリティにすり替わってしまった。私のリアリティとみんなのリアリティなんてかわいい感覚ではもう駄目で、もっと大きな文脈を背負うべきという強制的な響きをもって私には聞こえる。「君にはアクチュアリティがないなぁ」と言われたらちょっと困る。「君にはリアリティがないなぁ」と言われたら、相手を睨むことができるだろう。つまり対話が始まる。が、どうもそんな対話は古いので人々は敬遠する。誰だがわからない立場で、アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術を持った。
「私は、だからアクチュアリティと闘うつもりだ。口が裂けてもこの言葉を簡単には使わないようにしたいと思う」と続けておきながら、すぐさま三浦はこう述べる。「『光のない。』は、東日本大震災と福島の原発事故がテーマになっているアクチュアリティ満載の作品です。嘘です。イェリネクがこうしたテーマを選んだことがアクチュアリティなのではなく、この出来事に彼女が「わたしたち」の一員だと宣言したことが、アクチュアルなのである」。 確かに「アクチュアリティ」の一語は現在、以前の「リアリティ」に成り代わって、特権的な地位を占めているかに思える。それはほとんど一種のマジック・ワードと化していると言ってもよい。わたしたちはアクチュアリティに真摯に対峙し得ているか? わたしたちは如何にしてアクチュアルであり得るのか? この自問に「芸術」に携わる者たちはひとしなみに晒されている、そのように映る。だがそれがマジック・ワードであるということは、あたかもそれが口に出される/書き付けられるだけで魔法が成立してしまうかのような誤解と錯覚がまかり通っているということでもある。三浦が辛辣な語調で違和感を表明しているのはそのことだ。彼の言う「アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術」の問題、つまり「アクチュアリティ」と「わたしたち」との相関が、ことによると事態をより不分明に、悪しき曖昧さに追いやっているということもあるのではないか。 「アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術」とは、「わたし」が「わたしたち」に変換される回路のことである。イェリネクの戯曲には「わたしたち」という主語が頻出する。それは『雲。家。』に最も顕著だが(この作品には「わたしたち」しか登場しない)、『光のない。』『エピローグ?』でも多くの言葉が「わたしたち」によって語られる。それはたとえば、こんな具合である。
わたしたちはどうして沈黙するのか。わたしたちは正しくなかったのか。それはわたしたちの役に立ったのか。まったく、わたしたちは何も決められない、わたしたちは残らないから。別のなにかが残る。別のなにか! わたしたちが決めていたらわたしたちはわたしたちが今もつものをもたなかった。わたしたちはなにももたかなった、だがなにものでもないものをもつこともなかった。呼びかけに応えわたしたちはなにかを手に入れた。それがわたしたちみなを今ここから引き離す。どうすればわたしたちはわたしたちのあとに来る者たちのことを決められるだろう。だがもう誰も来ないのか。あれほど時間があったのに! (「光のない。」、林立騎訳)
『光のない。』には、ソポクレース「イクネウタイ」とルネ・ジラール「現実的なものの埋もれた声」からの引用がある。『エピローグ?』にも同じくソポクレースの「アンティゴネー」が参照されている。つまりイェリネクは彼女の他のテクストと同様、単一の「アクチュアリティ」へと還元され得るような「言葉」として二本の戯曲を書いているわけではない。それらは常に過剰なまでに多層である。従って、ここでの「わたしたち」もまた無数のレイヤーを成しているに違いないが、それでもやはり、これが他でもないわたしたちのことで(も)あると思わないわけにはいくまい。そして疑いなくイェリネクだって、そのつもりで書いているのである。とはいえ、ここにはおそらく或る種のギャップがある。それはイェリネク的な「わたしたち」とわたしたちの「わたしたち」の間に横たわる懸隔である。たとえば『雲。家。』であれば、そこでの「わたしたち」は第一義的には「ドイツ人」のことであると思われる。だが、それ自体が既に実は単数ではない。それは「ドイツ人」というカテゴリー以外の者を指していることもあるし、そもそも「わたしたちドイツ人」の内にレイヤーがあるのだ。つまり、さまざまな「ドイツ人」が居り、それらが入れ替わり立ち替わり「わたしたち」として語ってみせるのである。こうしてイェリネクの戯曲は、モノローグにしてポリローグという独特の様態を獲得することになる(それゆえ彼女の戯曲は「声」の数がキャストの数を規定しない)。『光のない。』『エピローグ?』でもそれは同じことで、たとえ「東日本大震災と福島の原発事故」がなければ書かれることはなかったのだとしても、二本はいずれもそのことだけに収斂/拘泥しているわけではない。そこで行なわれているのは、こう言ってよければ、もっと複雑且つ豊かな営みなのである。もちろん三浦基の言うように「この出来事に彼女が「わたしたち」の一員だと宣言したこと」は重要なことではある。けれども「わたしたち」を名乗ること、「わたしたち」の一員となるということは、常に「わたしたち」以外を措定すること、「わたしたち」ではない誰かを弾き出すことでもある。 たとえば私も批評文を書きながら、時として「私」を「私たち」「我々」などと書いてしまうことがある。これは私に限らず、フィクション以外の文章では散見される現象だろう。ここにはたぶん、素朴な心理学的考察が妥当する機制が働いているのだとも思われるが(独善的になることへの抵抗心と自信のなさ、その反転としての共感や同意の強要…)、それと共に無視することが出来ないのは、日本的と言ってよいかもしれぬ、同胞(無)意識というか、自ら進んで陥る同調圧力というか、複数形一人称で語ることに潜在する奇妙な安心感である。ここには明らかに「個をいち早く捨てる術」の効用のような���のがある。しかし、こうして選ばれた主語としての「わたしたち」には、イェリネク的な多数性が欠けている。それは幾つもの「わたし」が代入し得る可能態としての「わたしたち」ではなく、いわばた��ひとりの特権的主体を志向する「わたしたち」なのである。ここには罠がある。もちろん三浦基も高山明も、その演出において「わたしたち」をポリローグへと開くことを果敢に実践しているし、それは高いレヴェルで成功してもいる。だが「わたしたち」が「アクチュアリティ」という語のもとに彼らの試みを語ろうとする際、知らず知らずの内に、いつのまにか「罠」に嵌まってしまっていることがあるのではないだろうか? 三浦基が書いていたのは、このことだと思われる。 只の「わたし」が「わたしたち」を標榜することによって、或いは「わたしたち」から承認されることによって、やっとのことで獲得されるような「アクチュアリティ」とは、今ここにある「問題」から目を背けない覚悟や認識や勇気から、甘えた協調の構造や危険な他者排除へとたやすく転じかねないものである。「わたしたち」という呪文が「アクチュアリティ」というマジック・ワードを呼び寄せるだけだとしたら、誰にでも出来る簡単な魔法を使って、もうひとつの魔法を可能にしているだけのことではないのか。このような「わたしたち」は別の言葉にも言い換えられる。それは「当事者」という言葉である。
25。いわゆる「当事者性」について
「フェスティバル/トーキョー」の関連企画として行なわれた「F/Tシンポジウム」のパネルの第一部は「演劇における「当事者の時代」 」と題されていた。登壇者は高山明、村川拓也、『アンティゴネーの旅の記録とその上演』で参加したマレビトの会の松田正隆、写真家の畠山直哉、司会はパフォーミングアーツ・ジャーナリストの岩城京子だった。二時間のあいだにさまざまな話題が出たが、私を含む聴衆の多くがもっとも感銘を受けたのは、ゲスト・スピーカーとして招かれた畠山直哉の発言だったのではないかと思う。 畠山氏は、岩手県陸前高田市気仙町の生まれである。二〇一一年三月十一日のあの時、彼は東京のスタジオに居た。その数日後、氏はオートバイを駆って郷里への旅を敢行する。実家に程近い気仙川周辺を長年にわたり撮影していた未発表の写真と、震災後の写真、「気仙川へ」と題された旅の道程を綴った文章を一冊に収めた『気仙川』は、個人的な感慨を極力排した無機質で形式的な写真作品によって国際的な評価を受けてきた畠山直哉の従来のイメージを大きく塗り替える、きわめて「私写真」的な作品集である。 「気仙川へ」は、このように書き出される。
何かが起こっている。いまここではない遠いところ、ほら懐かしいあの場所で、何かとてつもないことが起こっている。その様子がいま僕のいるところからでは、よく見えない。誰かが教えてくれるかもしれないと思って、少し期待して待っていたが、誰も何もしてくれなさそうだ。だから僕は自分で、それが見えるところまで動いて行くしかない。でも動きとは時間だ。あの場所にたどり着くまでには時間がかかる。おそらく数日。でも数日後、僕は見ているだろう。そしてすべてを理解しているだろう。僕の町が、家が、家族がどうなったのかを、僕は残らず理解しているだろう。だがそこへたどり着くまでの数日間、僕には何も見えないままだ。僕は何も知らないまま、進まなければならない。
道中、姉からの電話によって、行方の知れなかった母親が津波によって命を落としていたことを知らされた畠山氏は、二〇一一年三月十九日、亡き母と対面することになる。だが「気仙川へ」という文章は、その前日、彼がほんとうの意味で故郷へと辿り着く直前で終わっている。『気仙川』に刻まれた悲嘆は、アーティスト畠山直哉が長い年月をかけて培ってきた美学と倫理によって抑制されながらも、むしろそのことによってこそ、透明な痛ましさを放っている。 「F/Tシンポ」の「演劇における「当事者の時代」 」に畠山直哉が招かれた理由は、あまりにも明らかだろう。パネルの冒頭で、登壇者はそれぞれに「当事者(性)」にかんする立場表明をしたのだが、畠山氏は「この中では自分がいちばん「当事者」に近い存在ということになるのだろう」と語った。関西で生まれ育ち、自分の映画と演劇の取材で被災地を幾度か訪ねただけの村川拓也、同じく被災地出身でも在住でもない高山明、松田正隆と、当然ながら彼の意識/認識は根本的に異なっている。そしてこの座談会は終始、この差異に引き裂かれたままであったように私には思われた。 誤解なきように言い添えておくが、もちろん畠山氏自身は彼の「当事者性」に対して、ほぼ一貫して客観的足ろうと努めているように見えた。彼はけっして個人的な体験のみを軸に語ろうとはせず、著書『話す写真』で詳しく述べられている原理的な「写真」論に依って立ちつつ、率直な物言いで他の登壇者や「演劇」へのコメントを行なっていた。 問題は、にもかかわらず、つまり畠山直哉自身の意志と或る意味では無関係に、その発言の数々が、そこでの最も「当事者」と言える者によるものであることを、私たちの方が勝手に強調的に受け取ってしまうということである。たとえば畠山氏は「フェスティバル/トーキョー」のここ数年の傾向にも明確に現れている「ポストドラマ演劇」「ドキュメンタリー演劇」について、何故それほどまでにイリュージョンやスペクタクルを拒否しようとするのか、自分にはよくわからないと疑問を呈した。それは拒否というより断念ではないのか。旧来の良く出来た「劇」をこしらえられない才能や努力に乏しい者たちが、これ幸いと取りすがった方便ではないのか。どうしてよりによってわざわざ「震災」や「原発」を主題にして、フィクションとも呼べないような奇妙な「演劇」を作ろうとするのか。この指摘は非常に鋭い。実際、会場は一瞬、いっそう静まった気さえしたものである。畠山氏は疑いなく、アクチュアルな演劇に対するこのような批判意識を以前から抱いていたのだと思う。つまり彼が表明した疑念は「震災」とも「原発」とも関係はない。だがしかし、それでも彼の問いかけは、その場で「当事者」の濃度が一番高い者による言葉として響いてしまう。いうなれば「アクチュアリティ」による審判の声として聞かれてしまうのだ。繰り返すが、これは畠山氏の意志とはまったく別個の問題である。だが、ここには「当事者性」をめぐる厄介なパラドックスが露わになっていると私は思う。 「当事者」というマジック・ワードの困った所は、同じひとつのイシューについてでさえ、その線引きがまるっきり一様ではない、ということにある。「F/Tシンポ」の第二部は「演劇の言葉はどこにあるのか?」と題して、三浦基、三輪眞弘、林立騎、大澤真幸の四名を登壇者に迎え、私の司会で行なったが、その中でも「当事者性」は暫し話題となった。そこで大澤氏が「究極の当事者とは死者を置いて他には居ない」という意味の発言をしていた。その通りだと私も思う。しかし、だからこそ問題は「究極の当事者」である「死者たち」を除いた「当事者性」のグラデーションになってしまうのではないか。つまり、わたしとあなたの、彼と彼女の、どちらが、より「当事者」と呼べるのか、という問題である。『311』の森達也は、こう書いていた。
被災したわけではないし家族が津波で流されたわけではない。食べるものに困っているわけでもないし、寒さに凍える夜を過ごしているわけでもない。 つまり僕は非当事者なのだ。 ところが気分的には当事者になりかけている。最も悪いパターンだ。ならば現地に行くべきだと考えた。もちろん現地に行ったとしても、当事者になれるはずはない。でも非当事者には非当事者の役割がある。
冨永昌敬は「仙台短篇映画祭が中止になってしまっていたら、自分たちも被災することになってしまう」と語っていた。『フタバから遠く離れて』の舩橋淳は「いま僕たちの当事者意識が問われている」と書きつけた。園子温は「目の前に広がるあまりにも悲惨な情景に、現実的な既視感が生まれ始めた今となっては、それを自分と無関係な場所として見ることはできない」と書いていた。それぞれの、さまざまな、幾つもの「当事者性」が、ある。「わたし」は「当事者」なのか「非当事者」なのか? どの程度まで「当事者」であり、どのくらいそうではないのか? おそらくこんなことが言える。「わたしは当事者である」と述べても「わたしは当事者ではない」と述べても、やがて必ず「わたし」には違和感や不足感、そして森達也の言っていた、あの「後ろめたさ」が生じる。「当事者性」の相対比較に晒されるか、それとも他人事を決め込んだ謗りを受けるか。「わたしは当事者である(のではない)」と「わたしは当事者ではない(のではない)」。このまるで正反対のカッコ付きの否定辞が、語るや否や、必ずやってくる。それは具体的な何者かによって齎されるとは限らない。そうであることもあるが、たとえ誰からも何も言われなかったとしても、他ならぬ「わたし」自身が、すぐさま自問を開始し、否定辞を付け加え始めるのだ。 それは避けられない。避けようがない。「究極の当事者」が「死者」であるとしたら、もう一方で、この出来事とは完全に無関係な他人、すなわち「究極の非当事者」もまた、この世界にはひとりも存在していない。エルフリーデ・イェリネクに筆を執らせたのは、そんな遠く離れた、だがヒリヒリと肌を刺すような「当事者意識」であった筈だ。我々は皆、程度は違えど幾らかは「当事者」であり、と同時に、常に中途半端な「当事者」でしかあり得ない。要するに、これが真実である。だがそれでも、私たちはどうしても「当事者性」を問うことを止められない。誠実である者ほど、そうあろうとする者ほど、そうなってしまうのだ。そして自ら問うておきながら、そこに宿る「後ろめたさ」や疾しさ、やるせなさに堪え切れなくなり、「わたし」を「わたしたち」へと昇格させ、あの魔法、あの「個をいち早く捨てる術」によって、「アクチュアリティ」を獲得したと思い込もうとするのではあるまいか。 だが、私が「わたしは当事者なのか?」と問うた時、この問いを自らに向けて発してしまった時、ほんの僅かでもいい、踏み止まって考えてみなくてはならない。この問いは、本当はいったい誰が口にしているのか、と。それは確かに「わたし」であるには違いない。だが、では「わたし」の中の何者がそれを問うているのか。「究極の当事者」である「死者」か、延々と続くグラデーションのどこかに位置する相対的な「当事者」たちか、それとも「社会」とか「世間」などと呼ばれている何かか。それとも「あなた」、つまり自分自身なのか? 畠山直哉は、『気仙川』の「あとがきにかえて」の終わり近くに、こんなことを書いている。
今でも心ある人たちが発している「忘れるな」という呼びかけは、「震災という出来事を忘れるな」「被災者のことを忘れるな」「死者のことを忘れるな」という意味だけで発せられているのではない。あの時僕らの多くは、真剣におののいたり悩んだり反省したり、義憤に駆られたり他人を気遣ったりしたではないか。「忘れるな」とは、あの時の自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを「忘れるな」ということなのだ。
素朴な意見と断じる人もいるかもしれない。しかし私は、このくだりに二度出て来る「自分」という二文字こそが、何よりも大切なものであると、あらためて思う。それは「忘れるな」よりも、或る意味では重要だ。だがそれは「わたしたち」を拒絶して、単なる「わたし」に留まれ、などというエゴイズムの奨励では無論ない。私が「わたし���であることに堪えられないがゆえに「わたしたち」を目指したとしても、そこに待ち構えているのは「わたしたち」という名の単数でしかない。エルフリーデ・イェリネクのように、真の複数形で「わたしたち」と語り出すか、さもなくば「わたし」へと、ありうる限りの勇気を奮って、ふたたび立ち戻ること。「わたし」が「当事者」であり得るのは、究極的には「わたしであること」の他にはないのだから。これは詭弁ではない。私たちは、自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを、自分が自分であり自分でしかないという明白にして厳然たる事実を、もう一度、何度でも、思い出してみなくてはならない。
26。「わからなさ」を撮るということ
ひと月ほど間が開いてしまったが、年の初めに仙台に行ってきた。せんだいメディアテークで一月半ばまで催されていた志賀理江子の個展『螺旋海岸』を観るために、約四ヶ月ぶりに東北新幹線に乗った。昨年九月に「仙台短篇映画祭」に呼んでいただいた時、まだ開催前だったが既にチラシが置いてあり、そこにあしらわれた漆黒の中に浮かび上がる艶やかで謎めいたイメージに、強い興味をそそられた。これは時間をやりくりしてでも絶対に来ようと思った。そして予感した通り、展示はおそるべきものだった。 私は志賀理江子という写真家のことをほとんど知らなかった。まとまった数の作品を見たのはこれが初めてである。だからこそ、出会い頭の衝撃は過激なものだった。せんだいメディアテークの六階にある「ギャラリー4200」には、宮城県名取市北釜在住の志賀が、同地でこれまでに制作した243点もの写真が展示されていた。それほど広い空間ではないのだが、エレベーターを降りてまず驚いたのは、ディスプレイのされ方である。スペース中央の柱を軸に、文字通り螺旋状に膨大な写真が配されているのだが、それらは大半が大きく引き延ばされており、通常の写真展のようにシールドされてもおらず、まるで立て看板のように鬱蒼と切り立っている。キャプションは全く無い。確かに一番から九番まで、一応のゾーニングはされてあり、受付で写真家自身による説明文が附された場内配置図のような紙片を渡されるのだが、それ自体があまりにも謎めいていて、マップに振られた番号もあちこちに散らばっているので、順番通りに見て廻ることは難しく、またそれが真に望まれているのかどうかもわからない。いきなり気圧された私は結局、何度も場内をぐるぐると経巡りながら、見落としている作品がまだ何処かに隠れているのではないかという奇妙な不安と緊張に絶えず支配されながら、小一時間ほどを掛けて、とりあえず(おそらくは)全ての写真を見終えたのだった。 志賀理江子は東北の出身ではない。彼女は一九八〇年に愛知県岡崎市で生まれた。ロンドン大学チェルシーカレッジ・オブ・アート卒業後、写真家として活動を始め、最初の作品集『Lilly』で第三三回木村伊兵衛写真賞を受賞した。以来、国内外を頻繁に移動しながら作品を創ってきた。彼女が北釜に居を構えたのは二〇〇八年のことである。その経緯については後で触れるが、まず端的に事実を記せば、彼女は二〇一一年三月十一日の地震と津波を北釜の地で体験した。津波によって、それまでに撮った写真の大半は失われてしまった。このことについても後述する。従って『螺旋海岸』の写真群は、実際には志賀理江子が「震災以後」に北釜で撮り上げた作品から成っている。しかしかといって、直截的にあの出来事が描かれてはいるわけではない。そこに写っているのは、『Lilly』や、その後に発表された写真集『CANARY』と共通する、志賀理江子独特の、徹底的に作り込まれた、こう言ってよければ、きわめてシアトリカルな写真である。たとえば、そこにあるのは、幾つもの正体不明の手が中空に横たわる子供を持ち上げて運びつつある様子であり、夜に映える草木とともに正装をしてこちらを見据える男性の姿であり、地面に横たわる銀色の宇宙服に包まれた何者かであり、砂浜に巨大な渦巻きが幾つも描かれている無人の光景であり、仲睦まじく腕を絡めて闇に立つ老夫婦の、男性の胸を切り株が貫いてるとしか見えない映像である。それらはいずれも奇異と呼んでいい幻想的なイメージであり、少なくとも日常的/現実的なものではまったくない。一言でいうなら『螺旋海岸』の写真群は、いわゆるドキュメント的な作品ではない。 写真家は、先のマップに附されたテキストに、次のように書いている。
写真のなかにいる人々はカメラを意識し、なにかを演じ続けています。 演じることは枠のなかからまったく違うところへ飛躍する行為です。 その姿は、日々の生活の様子を切り取ったものではなく、北釜の土地と一体化し、あらゆる物語を表象します。 つまり、写真のなかの身体には「土地」と「物語」が混在しており、後にこれらの写真を見た人に無意識に読み解かれていきます。
この文章には志賀理江子独自の写真観が凝縮されている。個展に合わせて出版された、彼女がせんだいメディアテークの(私も別の企画に参加した)「考えるテーブル」の一環として、個展の準備期間中に七回に分けて行なわれた連続レクチャーの採録を元にした『螺旋海岸|notebook』と、その他幾つかの資料やインタビュー記事などによれば、志賀は写真家としての出発点から、ドキュメント的要素にはほぼ関心がなかったようである。いや、精確に言うと、通常思われているようなスナップショット的アプローチや、場所や出来事を客観的/主観的な視座から「記録」するといったやり方では、「現実」や「世界」に対峙したことにはならない、と彼女は最初からわかっていた。『螺旋海岸/notebook』を繙くと、たぶんに身体的・生理的な感覚から生じたものであったろう違和感や確信を、彼女が多くの経験と学習によって深く煮詰めてきたことがわかる。私の考えでは、ここにはフィクションとドキュメンタリーの二項対立、或いは相互浸透という従来的な思考法を乗り越えるポテンシャルが隠されている。だが今は北釜のことに戻ろう。 志賀は二〇〇五年から機会を得て、仙台、オーストラリア、シンガポールの三箇所でアーティスト・イン・レジデンスとして制作を行ない、その成果を『CANARY』として刊行した。だが彼女自身、「一つひとつの写真を見ても、そこでなにが起こっているのかまったくわからなかった」。その「わからなさ」とは、彼女が十代を捧げたバレエを諦めてカメラを手にした瞬間から始まった「自分(私)」と「イメージ」との間に穿たれる「わからなさ」である。志賀はこの「わからなさ」ゆえに写真を撮るのだと言ってもいいのだが、だからといって彼女は、それをそのままにしておくことは出来ない。彼女は「イメージ」が抱える「わからなさ」と格闘し、それを咀嚼し、我有化しようとして、さまざまな試行錯誤をする過程で、すこぶる興味深いことだが、「言葉」を発見する。そこで彼女は『CANARY』の写真群を自ら見直し、問い直し、それらに「言葉」を付与した一種の姉妹篇『カナリア門』を発表する。それから志賀は、もう一度、東北に、宮城に赴き、そこに長く住んで、作品を制作しようと決意する。だが、なかなか適切な場所が見つからなかった。そこでふと、以前の滞在制作ではあまり立ち寄らなかった海岸の方に行ってみた。そして彼女は、北釜と呼ばれる土地に辿り着いた。
本当になんとなくという感じで、三陸のリアス式海岸、松島や塩龜、七ヶ浜、そして仙台港を抜けて、ひたすらに長い海岸に着いた。誰もいないんです。海と並行するように松林がだーっと広がり「ああ、いい場所だなぁ」って最初はぼんやり思った。そしてどんどん南に行くうちに、いままで訪れたことがない土地(「いままで訪れたことがない土地」に強調濁点)に私は来ているという確信めいた、胸が高鳴るような気持ちになったんです。探検するように周囲を歩き回っていたら、松林は夕日に照らされてむちゃくちゃ幻想的になっていった。とにかくこの場所にずっといたくなるような、やっとここに来られたような、私はここを探していたような……
北釜の海岸の松林に魅せられた志賀は、その足で突撃的に同地のひとびとに当たっていき、さまざまなハードルと手続きを経て、この場所に住まいとアトリエを構えることとなった。どうせ住むなら土地の行事や祭りを公式に撮影する「専属カメラマン」にならないかと言われ、よろこんで引き受けた。こうして彼女は北釜の人間となった。あらためて記すと、それは二〇〇八年の冬のことである。それから彼女は北釜のひとびとと触れ合いながら、少しずつ新たな創造へと歩み始める。だが、一足飛びに記せば、それから二年としばらくして、彼女は同地で地震に遭遇した。やってきた津波は、たくさんの物と人を押し流していった。『notebook』には、震災後まもなくして彼女が知人友人たちに送ったメールの文面が掲載されている。「四月五日 心配してくださったみなさまへ」と表題のついた文章の、前半部分を引用する。
私の住む集落(約三七〇名)では五三名が亡くなりました、現段階で七名はまだ見つかっていません。津波は自然のありのままの姿だったと思います。恐怖の限界を遥かに超えていました。だからあの恐怖の絶頂で息絶えて流されたたくさんの人のことを思うとなにも考えられなくなる。どんな苦しい思いで水にのまれて意識を失っていったのか、一人ひとりのことをどれだけ想っても届くことがないです。 * ただあの日一瞬だけ、時間、生、死、感情、物の価値などが崩壊して、そこにあったすべてが見渡す限り真っ平らになった。そして大雪が降って真っ暗な夜になりました。ラジオで沿岸部では数百人の遺体が見つかったと知り、ここから約八〇キロしか離れていない福島第一原発の事故の状況が繰り返し流れるなか、揺れつづける地面の上でいろいろなことを覚悟した。私は体がはち切れたようで、��らゆることに違和感を感じなかった。けっこうどうでもいいことが次々頭に浮かんできて、体とはこういうものかと思った。 * そしていま、あの均一な暗い夜を取り戻すことばかり考えて、二度と絶対に嫌だけど、でも同時にあの時間が体から消えてしまうのが怖いのです。
志賀は自宅とアトリエにあったハードディスクを津波に持ち去られてしまったが、北釜の集会場に行事を撮った二冊のアルバムが保管されていたことを思い出し、瓦礫の山となった集会場に赴き、それらを必死で探した。運良くアルバムは、「一冊は集会場付近から見つかり、後に北釜の人が見当もつかなかった場所からもう一冊を見つけてくれ」た。それから、瓦礫が撤去された集会場には、志賀の撮ったものだけではない、誰のものとも知れない、拾われた写真が、膨大に集められてくるようになった。「瓦礫に混じって落ちている写真に、なにか無視できない、拾わせてしまう力があるんだなと思いました。そう思わせるぐらい写真というのは風景のなかで目立つのです。いろいろなものが刷り込まれたあの小さな紙というのはぐーっと現実世界に異様に抗っている」。彼女のものらしい大きな写真があったよと言われて行ってみたら、展示で使ったプリントの塩水や泥と写真の薬剤が溶けて混じり、異様な臭いを発していたこともあった。やがて彼女は、写真の洗浄を始める。「おおよそ三万枚強の写真が集会場には集められていました。北釜は一〇七世帯で、一軒に約一〇〇〇枚ほどの写真があったと仮定したら、その約三割が発見され集会場に集められたと認識しています」。『notebook』には集会場を撮った写真も載っている。それはまるで部屋全体が祭壇のように見える。
津波で娘さんを亡くされたあるお母さんは、娘さんの写真を毎日集会場に探しに来ていました。家も流されてしまったから写真が一枚もない。私はその方と肩を並べて写真を探すうちに「彼女が探しているのは写真ではない、娘さんそのものなんだ」と猛烈に身に沁みた。彼女のなかで「娘の写真」が「写真」ではない次元にまで振り切れていたんです。写真はそこになにが写っていようがいまいが、写真であるだけで拾われましたが、その価値は「ただの紙切れ」から「自分の娘そのもの」にまで激しく変化する。その。触れ幅によって写真の価値のあり方を身をもって知らされた気がしました。
こうした体験は、志賀の写真観、彼女の「イメージ」論に、当然のことながら甚大な影響を与えた。それ以前から彼女は、北釜の老女から「遺影」を撮影してくれと請われ、躊躇いながらも初めてそれを行なった経験から、新たに「作品」を撮り始めるための手がかりを得ていた。そして今や、亡くなった「娘の写真」を「娘そのもの」と考えるひとがいる。彼女はかねてより自分の中にあった「無鉄砲な仮定」に或る確信を得る。すなわち写真の撮影は「過去現在未来の時間から解き放たれる空間のための儀式」なのだと。そして彼女は、のちに『螺旋海岸』と題されることになる個展のため、ふたたび撮影を始めた。写っているのは北釜の海岸、砂浜、松林。被写体となっているのは北釜の土地のひとびとである。だが、既に述べておいたように、それらはいずれも著しく非日常的、非現実的な風景となっている。志賀は北釜のひとびとにさまざまな、しばしばかなり奇妙と言ってよい依頼を行ない、ひとびとはよくはわからないまま、だがけっして不審がることはなく、それに快く応じていった。たとえば先に触れた「切り株」の作品の志賀による説明は、次のようなものである。
最近まで松くい虫の害に遭った松は被害の拡散を防ぐために切られていたので、松林には切り株がたくさんあるんです。土地の持ち主の方に「切り株を掘り起こしてみてもいいですか?」と聞いたら承諾してくれたので掘ってみた。砂地だから想像していたよりも簡単に掘れたのだけども、小さめの切り株だと思っていたら根がびっしり生えていた。まだ水分が含まれていたし、ひたすら長くいろいろなところにつながっていて、私にはその木の根が古い写真の中のお父さんのように思えた。それで「掘ってみたんですが、私、お父さんに会ったような気がしました。この松の根と一緒に写真を撮らせてもらえませんか?」と伝えたんです。 木の根が血管にも思えて、おじいさんの体とつながっているようにしたかった。そこで半分に切って身体の前後で挟み込むようにして。大きな根の塊はおじいさんのお孫さんがクレーン車で引き上げてくれて、おじいさんはもう片方の根の断面で体を支えていたから「楽に立ててるよ」と言った。この方の奥さんはこの根を見上げながら「旅行に来たみたいだね」と、おじいさんの隣にそっと寄り添って背中をぎゅっとつかんで背筋を伸ばして立っていてくれた。 (竹内万里子との対話より抜粋)
これに限らず志賀の写真は、いずれも一種のシアトリカルな、フィクショナルな体裁を持っている。しかしそれはよくあるような、芸術家が自分の内なるイマジネーションやヴィジョンに耽溺し、他者や外界を覆い尽くそうとする独善とはやはり違っている。「まずは写真のなかのわからないものをわからないままにしておきたいのです。発酵させるように寝かせておきたいんです」と彼女は言う。「わからなさ」との格闘は続いている。それは志賀理江子という個体と身体の内側にも外側にも、内外をめぐる回路にもある。���〇一一年三月十一日の出来事は、そんな「わからなさ」を丸ごとキャンセルするようなものであったとも言えるし、或いは「わからなさ」の極点だったと言うことも出来る。志賀は「あの日」以後、決定的に変わったとも言えるし、何も変わっていないとも言える。そうした解釈や分析が、いずれも届かないところに(それゆえに、それらの全てが可能になってしまうだろうところに)彼女が相手取る「わからなさ」はある。ただひとつ確かなことは、彼女は撮ることを辞めるつもりはない、ということである。「写真のなかにいる人々はカメラを意識し、なにかを演じ続けて」おり、そして「演じること」とは「枠のなかからまったく違うところへ飛躍する行為」である。ここでいう意識や演技とは、カメラを向けられた者から決して消えることのないものだ。志賀はそれらを無視したり隠蔽したりする欺瞞を拒絶し、むしろそれらを増幅し、変調しようとする。そうして、撮る者と撮られる者、見る者と見られる者が一緒になって「まったく違うところ」へとワープすることを希う。 写真に定着された「イメージ」とは、いわば「現実」に織り重なった「虚構」である。それは「虚構」に織り重ねられた「現実」と言っても同じことだ。『螺旋海岸』には、ストレートに震災と関連付けられるような写真は一枚もない(先の集会場の写真も展示はされていない)。にもかかわらず、それは凡百の「震災写真」を凌駕する力を備えている。それは「出来事」の強度に立ち向かおうとする「虚構」としての自覚と信念に依っている。志賀の言う「土地」と「物語」が混じり合うさまとは、正しくこのことである。そして無論のことだが、それは彼女が「現実」を生きていない、という意味ではない。
このあいだ久しぶりに、北釜でお世話になったあるおばあさんと話す機会がありました。彼女は、「わたしね、ここが好きだから、またね、石を拾って、それを積むことから始めたいの、だからそれができるようにいまは草取りしてる」と言って更地になった家の周りの草取りに通っていました。彼女はあらゆる復興計画から自立して自分がどうしたいか自分の頭で考え、それを軸にしてその手で石を拾い、草をむしって、野菜を植えている。もうここには住めないことを十分理解したうえで本気でやっている。社会と欲望の矛先ばかりを考えてしまって、そのことにがんじがらめになってしまった私にとって、社会の一部でどう生かされるかを考える前に、生きることの根底にある生活の小さなことを淡々と実行する彼女に目を覚まされるような気持ちになって、私も彼女のようになりたいと思った。そういう長い時間を生きてきた人、自然に寄り添った人が目の前にたくさんいることはすばらしいことで、教わることが日々あるんです。食べものがないときは芋の蔓を食べたこと、堆肥をつくり背負って売りにいったこと、暗くなったら寝て日が射したら起きること、道ばたに花が咲いているのを見るとうれしくて疲れが吹き飛ぶこと……。彼女が昔のことを話してくれたことを必死に思い出すんです。
「おばあさん」が積もうとしている石は、「仙台短篇映画祭」の映画『明日』のパンフレットに冨永昌敬が書きつけていた「うずたかく積まれた小さな固い石の集まり」と、確かに響き合っているように、私には思える。もちろん疑いなく志賀理江子は、たとえ北釜に住まなかったとしても、震災を自ら体験しなかったとしても、非凡な作品を作り続けていただろう。彼女が北釜に住むことになったのは、いわば偶然と成り行きの産物である。けれども、それを運命と呼ぶのだ。彼女は、彼女にしか可能でないやり方で「あの日以後」を生きている。それはとても複雑な内実を持った行為、営みである。だが同時に、それはとても素朴で単純なことでもある。
北釜の人が遠くから私を見つけては手を振ってくれて話しかけてくれること。「なにやってんの〜。今度なにつくるの〜」って目を見つめてにっこり笑ってくれること。なによりもまずここにいさせていくれること。失敗しても許してくれること。その途方もない優しさみたいなものを彼らから受けるたびに、そのことがあまりにも尊すぎて体が破裂しそうになります。いろいろなところからたくさんの救いの手が私たちの生活に差し伸べられたことによって、この世にはその手が差し伸べられない領域がたくさんあることを実感します。どこかの国で助けられもせず死ぬ人がたくさんいるということ。そしてそれはどうしようもなくそういうこととしてあること。生きていることはあまりに強い。
こう述べてから彼女は、まるで今ふと思ったことのように、次の言葉を言い添える。「だから、これらのことがどのように「芸術」とつながりをもつかなどは全然わかりません」。
27。「0円ハウス」から遠く離れて
『ZERO COST HOUSE』は、岡田利規がアメリカのPIG IRON THEATRE COMPANYに書き下ろした戯曲である。オガワアヤによる英訳台本を用いて、岡田の立ち会いの���、リハーサルが重ねられ、二〇一二年の九月に同劇団が拠点とするフィラデルフィアで初演された。戯曲の日本語オリジナルは「群像」の二月号に掲載されている。そこに添えられた覚書によると、岡田は「この日本語テキストを用いた上演を、私は想定していませんし、望んでもおりません」とのこと。日本公演は二〇一三年二月、神奈川芸術劇場(KAAT)で、PIG IRONによって行なわれた。この作品は多くの点で、同じくKAATで上演された(本連載でも以前取り上げた)岡田率いるチェルフィッチュの現時点での最新作『現在地』の続編もしくは姉妹篇と看做しうるものとなっている。 事前に戯曲を読んでいたものの、あくまでもアメリカ人の俳優によって英語で演じられることを前提に書かれたこの作品は、実際に舞台で観てみると、日本語で読んだ際には感じなかった、じつに複雑きわまりないニュアンスが込められていることがわかる。まず、この作品には原作が二つある。ひとつ目は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン(森の生活)』。そしてもうひとつはタイトルからも明らかなように、坂口恭平の一連の著作(言動)である。そしてこの舞台には、「ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」と「坂口恭平」、そして「岡田利規」と「過去の岡田」と呼ばれる人物が登場する。 全三部から成る『ZERO COST HOUSE』は、要約することがなかなか難しい作品である。いや、それはもちろん可能だが、そうすると重要なニュアンスが失われてしまうおそれがある。しかし無理を承知でかいつまんで内容を記すと、第一部「二〇一〇年」の冒頭では、「岡田利規」が『ウォールデン』を読みふける「過去の岡田」を眺めつつ、自らの過去に思いを馳せる。いわく自分は劇作家であり、現在は「気鋭の」とか「十年に一度の逸材」などと呼ばれるような評価を得ている。だが今から十五年前、まだ大学を出たばかりだった頃は、既に芝居はやっていたものの、単純なデータ入力のパートタイムをしていて、そのことに不満は持ってもいなかった。むしろ下手にやりがいのある仕事に就くよりも、余った時間を好きに使えるだけましだと思っていた。そんな「過去の岡田」は、ソローの『ウォールデン』を愛読していて、そこに書かれたライフスタイル、人生哲学に私淑していた。「現在の岡田」は、アメリカの劇団からコラボレーションを依頼されて(それがこの作品なのだが)彼自身の「自伝」を作品化しようと思い立ち、それには『ウォールデン』が不可欠だと考えた。と、そこに突然、見知らぬ男が現れて「ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」と名乗る。「現在の岡田」と「ソロー」は会話をかわす。いちおう「現在の岡田」は感激してみせるのだが、どこかいまいちノリが悪い。「ソロー」と別れてから、どうせなら十五年前の「過去の岡田」に会わせたかった、正直今は『ウォールデン』を読んでも昔ほど(というか実はちっとも)感動しないのだ、という自分の気持ちを彼の「マネージャー」に述べる。そこに更に男が登場する。名乗るのは第三部になってからだが、男は「坂口恭平」である。「坂口」は「過去の岡田」と対話し、『ウォールデン』は理想主義的な本じゃなく「マジで現実的な本」だと言い放つ。ここまでが第一部。第二部「「ベイカー農場」より」では、「ソロー」が、『ウォールデン』の重要な章である「ベイカー農場」を書いているところに「現在の岡田」がやってくる。ところで第一部から、舞台上には、ここまで述べていない登場人物が何度か出て来ている。それは「ウサギ」の「夫妻」で、どうやら「過去の岡田」「現在の岡田」そして「ソロー」が書いている人物であるらしい。「ウサギ夫」と「ウサギ妻」が「ヘンリー」(「ソロー」が書いている「ベイカー農場」に出て来るソローのこと)とのやりとりを語ると「現在の岡田」は違和感を表明する。それはarrogant(傲慢)という言葉で表現される。『ウォールデン』で示される哲学は、やはり一種の傲慢ではないのか。だが、ここで「過去の岡田」が、しかし「現在の岡田」にとっても、『ウォールデン』はふたたび大事なものになりかけている、と言う。ここで第二部は終わり、第三部「二〇一一年」が始まる。「坂口恭平」が現われて、延々と「岡田利規」との馴れ初めを語る。最初は二〇〇六年、東京で彼の芝居を観たのがきっかけだった。その時からずっと機を伺っていた。「彼と俺が知り合いになるべきときかいつか?」と。それは二〇一〇年にやってきた。やはり「岡田」の芝居を観た後、「坂口」はロビーで「岡田」に握手を求め、「岡田さんの作る芝居くらいヤバい本です」と言って、自著を手渡した。それは「都市の中でゼロ円で家を作って、ゼロ円で暮らしていくための本」、抽象的に言うと「この世界に存在する別のレイヤーをとらえることを読む人にそそのかす本」である。その時の「岡田」の態度は当然ながら微妙だったが、そういう反応には慣れているので大丈夫。そこで「マネージャー」が話し出す。「二〇一一年三月十一日」の「午後二時四十六分」に地震があって、そのとき自分は「岡田」とたまたま山口に居たのだが、それから二週間後、とつぜん「岡田」が九州に引っ越すと言い出したのだ。もちろん「放射能の影響」が心配だから、である。というか「岡田」は実際に転居し、かつては真っ向からは語らなかったような社会的な発言をするようになる。「マネージャー」は、それはちょっと危険なことではないかと意見を述べるが、「岡田」は「自分がarrogantになってるかもしれないってことを恐れちゃだめだよね」と妙に毅然とした様子である。この「変化」に合わせて、「岡田」が書いているらしき「ウサギ夫妻」も「震災以後」に生活していることにされる。そこでは放射能汚染への恐怖が非常に直截に語られる(ここでの「ウサギ夫婦」のやりとりは、園子温監督の『希望の国』の息子夫婦を思い出させる)。そこで「坂口」がふたたび登場し、彼自身の「自伝」を語りながら、このような「岡田」の「変化」を促したのは、他ならぬ自分なのだと述べる。地震の五日後、福島第一原発事故の推移を見守ってきた「坂口」は、事の深刻さに気づいて家族を伴い東京から避難し、三月中には出身地である熊本に戻って、ツイッターで放射能の危険性をエネルギッシュに訴え続けるとともに、西への避難を呼びかけた。それに応じて妻子を連れて熊本に移住したのが「岡田」だったというわけである。「坂口」は『ウォールデン』を題材に、「思考の解像度」を高めることで世界の「別のレイヤー」を見出す意義を語り、そうして見出された「ゼロ円ハウス」「ゼロ円生活」の可能性を、そしてそのような考え方が「震災以後」に明らかに重要度を増すことになった事実を語り、自分は「新しい政府」を樹立し、自ら「初代内閣総理大臣」に就任することにした、と宣言する。「マネージャー」は、「坂口」のカリスマティックな行動と理念にも、それに過敏に反応した「岡田」にも百パーセント同意することは出来ない。だがどうも「岡田」は本気で「坂口」に共感しているらしい。なにしろ「岡田」は「坂口総理大臣」のスピーチライターまで買って出たのだから。この舞台は「ウサギ夫妻」が「新政府首相」の「坂口恭平」のもとにやってきて「亡命申請」をする場面で終わる。 いちおう付言しておけば、劇中で語られる「坂口恭平」の哲学は、坂口恭平の一連の著作、とりわけ『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』『独立国家のつくりかた』に書かれているものと同じであり、現実の「震災後」の坂口恭平と岡田利規の行動も、ほぼ同じである。チェルフィッチュの『現在地』との連続性は明白だろう。ここではまたもや、あの作品で問われていた「村を出ていくべきか否か」というアンヴイヴァレンスが、重要な主題のひとつとして掲げられている。だがSF的と言ってもよい抽象的な物語だった『現在地』に対して、『ZERO COST HOUSE』は「岡田利規」の「自伝」だとされ、いわばセミ・ドキュメンタリー的な作品として、あからさまに現実との共通項をもって描かれている。けれども、もちろん事はそれほど単純ではない。劇のほんとうのラストは、「マネージャー」の次の台詞で締めくく���れる。
マネージャー みなさん、これで岡田利規の自伝的内容の、このお芝居は終わりです。でもみなさん、ここでお話ししたことの全部が実際に起こったことではなくてですね、たとえば実際の岡田さんは坂口さんのスピーチライターなんてやってないですから。岡田さんは劇作家です。
この作品でもっとも重要なのは、この「岡田さんは劇作家です」という、言わずもがなの断言である。この一言によって、この芝居の中で語られたあらゆる事どもが、一挙に虚構化されて、宙吊りにされてしまうのだ。もちろん、繰り返すが劇中で語られる多くの事がらは、現実にほぼそのままの参照点を持っている。だが、かといって『ZERO COST HOUSE』は、岡田利規による何らかの立場表明や自己肯定を企図した作品ではない。たとえそのように見える部分があったとしても、それらは全て「岡田さんは劇作家です」という断わりによって相対化されることになる。しかしそれは当然、虚構に安住していられるわけでもない。それはすぐさまふたたび相対化され、現実へと投げ返されることになるだろう。そして間違いなく、この絶えざる相対化という運動こそ、岡田利規がこの作品をこのようなものとして提示した理由なのだ。 ひとはなんらかの選択を迫られた時、それもAor Not Aというような決定的な二者択一を強いられた場合、自らが選んだ選択肢の正しさを、まず誰よりも先に自分に対して強弁しようとするし、選ばなかった方の選ばれなくてもよさを妥当なレベルよりついつい強調してしまいがちである。そのようなケースにおいて、フィクションという装置が出来るのは、両論併記、それも単なる「どちらも正しい(=どちらも正しいわけではない)」とは異なる、それぞれの選択の不可逆性を踏まえて、双方の決断の不可避性を共に示してみせることだと思う。岡田利規は、彼ならではの非常にユーモラスかつアイロニカルな方法によって、それをやってのけたのだ。しかもここでは、それらが英語でアメリカ人によって演じられるという巧妙な仕掛けが加わっている。いや、というよりも、その条件があったからこそ、このような特異な作品が構想されたのだ。日本の外で、日本語以外で、これが物語られること自体が、相対化の極端な徹底ということだったのである。だからこそ、それを日本で観るという体験は、私に或る居心地の悪さを催させたのは事実である。それはなんというか、相対化のリミットから、もう一度こちらに想定外に巻き戻ってきてしまったかのような感覚だった。なぜなら私は、われわれは「劇作家」ではないからである。
28。そこに残る者たち
「大地のゲーム」は「新潮」の二〇一三年三月号に一挙掲載された、綿矢りさの長編小説である。舞台はおそらく今から数十年後の近未来の大学キャンパス。女子大生である語り手の「私」は、すでに働いている兄と同居する集合住宅に戻ることなく、他の大勢の学生たちとともに、大学構内に住んでいる。それは夏休みに入る二日前のことだった。「未曾有の大地震が私たちを襲った。そして、また年内に巨大な地震が来ると政府は警告している。夏の大地震よりひどいか、同程度の揺れが私たちを襲うと断言し、対象地域一帯に避難勧告を出した。この大学ももちろん対象地域に含まれている」。帰る家がないわけではない。キャンパスの方が安全ということでもない。だが、それにもかかわらず「私」も、地震で両親を亡くした「私の男」も、他の多くの学生たちも、そのまま大学に居残り続けている。 巨大地震の被害はあまりにも甚大なものだった。「わずか二分の間にこの国の半分が破壊されて五万人が命を失った。その後に亡くなった人間が二万人追加されて、震源地で生活していた私たちのなかに、親族や知り合いを一人も亡くしていない人間など一人もいない」。それは「有史以来最悪の自然災害」として世界中に報道されたほどの規模であった。そしてもう一度必ず、巨大な揺れはやって来る。政府はその時のために特例警戒ベルを設置したが、まだ一度も鳴らされたことはない。避難シェルターがあちこちに作られているが、余程の揺れでもない限り、最早いちいち逃げ込んだりはしなくなっている。大学生たちは無責任な政府や自分たちを見捨てた教授たちをもう信用しようとはせず、キャンパス内で緩やかな自治を行ないながら、それなりに平和に生活している。もちろんトラブルはあるし危険もあるが、それは外の世界でも同じことである。 その中で、俄に頭角を顕わした男子学生がいる。彼はリーダーと呼ばれている。大地震の後の混乱の中で図抜けた行動力とカリスマ性を発揮したリーダーは、学生理事という役職を得て、「私」や「私の男」を含むグループを率いて学内のさまざまな事案にコミットしてゆく。彼は自らの組織を「反宇宙派」と名付ける。「実体のない大きな世界をなんとなく信用する時代は終わったのです。国家を疑い地球を疑い、宇宙をも疑う」というのが命名の理由である。彼はまもなく開催される大学祭で演説をして、外から来た一般の人々にも反宇宙派としての理念をアピールしようとしている。「私」はリーダーの弱点や欺瞞にうすうす気づきながらも、彼に否応のない魅力を感じてしまっている。やはりリーダーとは因縁のある「私の男」も彼女の気持ちの揺れをわかっているが、時おり揶揄するだけで、強く咎め立ては出来ないでいる。 この小説の舞台は、いうなれば「以後の以後」の世界である。「不死の島」の多和田葉子や、『希望の国』の園子温と同じように、綿矢りさは、東日本大震災を直接的に描くのではなく、その後(これから)どうなるのか、そして災禍がもう一度起こったとしたら、果たしてどうなるのか、という想像力を駆使して、物語を構築している。したがって「大地のゲーム」は、一種のディストピア小説の様相を呈することになる。原子力エネルギーを諦めた日本は、全土的に自然エネルギーに転換することで、低エネルギー社会を実現させたが、その代償として、都会から明かりは消え、ひとびとから活気は失われた。リーダーは演説でこう言う。「相次ぐ急激な気象の変化、それに伴う衣食住の変化、また不安定な国内情勢により、私たち国民の平均寿命は年々短くなり、去年、ついに女性は七十代後半、男性は六十代後半となりました。しかし思い出してください、もともと我々は百年を軽々と生きられる民族だったのです。男女とも平均寿命が百年近くまで上がる、確かにそんな時代も過去にはあったのです」。更には巨大地震が、この国を襲った。そして次の揺れも、遠からずやってくる。この状況を生き抜き、かつて日本人が持っていた、百年も生きられたような生命力を取り戻すためには、大きな仕組みや力にすがるのを止め、「頼れるのは自分と周りの人間だけ」という「超個人主義」に目覚め、何事にも「勇気」をもって臨むことが必要だ、とリーダーは訴える。「私たちに足りないのは勇気です。ほかのなにものでもありません。外に出て行く勇気、殻を破る勇気。大きなものを疑う勇気から始めましょう!」。 「私」と見知らぬ女子学生が校舎の屋上で会話をする場面がある。災害案内板にアクセスし、連絡の取れなかった父親とメール出来たという。彼女は言う。「でも、父親が〝おれたちの昔経験した地震災害も同じくらい規模が大きかった。地震のあとに津波が襲ってきた分、もっと悲惨だったといってもいい。でもあのときからも立ち直れたから、今回も絶対に大丈夫だ〟って書いて送ってきたの。私、それに腹が立って」。「分かる。すごくよく分かる」と「私」は応える。そんな遥か昔の知りもしない出来事と、いま自分たちが直面していることを、どうして比較出来ようか。「いっしょにしないでほしい。どんな昔の体験とも、どんな痛みとも」。 ここで述べておかなくてはならないことは、綿矢りさは京都出身であり、十一歳の時に阪神淡路大震災を体験しているということである(このことは何度かインタビューでも語っている)。つまり「私」と女子学生の会話には、東日本大震災と阪神淡路大震災の関係が重ねられている。災害の規模が問題なのではない。それはあくまでも客観的な視座からの、往々にして無関係な第三者(非当事者)による認識でしかない。重要なことは、それが「私」の体験であるかどうか、なのだ。このような感覚をエゴイズムと断じることは出来ない。むしろ正反対である。なぜならば、柴崎友香の『わたしがいなかった街で』の「わたし」と同じく、ここでの「私」とは「生き残った=死ななかった私」のことであり、その裏側には「死んでいたかもしれない私」が、そして更にその背後には無数の「(私以外の)死んでしまった人たち」が控えているのだから。私は思う。「私より偉い人も、できる人も、美しい人も、みんな死んだ。大地に強い根を張るのはいま生き残った、これからの私たちだ」。煎じ詰めれば偶然と確率の結果でしかない寄る辺なき生存を、「私(たち)」は権利として、また義務として、未来に向けて行使していかなくてはならない。 リーダーはその言動において何よりも「勇気」を強調し、「私」もそれに突き動かされる。しかしこの言葉はけっして単純なものではない。象徴的と言えるのが、前半に置かれたバンジージャンプの挿話である。リーダーに言われるまま、「私」は屋上から飛び降りる。リーダーがすぐさま続く。それはまさしく純粋に「勇気」を試す遊びなのだが、そこには別の意味もある。「あの日のあと、近親者を亡くしたショックや激変した環境になじめずに自殺する人間が、後を立たない。死んだ親族、死んだ仲間たち、考えれば考えるほど引きずり込まれそうになる。大人たちは人の心の傷つきに麻痺して、さらに麻痺させようとしてる。頭をスリルで痺れさせないと、私たちだって危ない。死なないために、飛び降りている」。このように、やみくもな勇気とギリギリの保身は、じつは裏腹になっている。そもそも「外に出て行く勇気」と言いながら、彼らは大学から出ていこうとはせず、巨大地震が来るとわかっているのに、そこから離れようとはしない。物語の最後に、当然のごとく、ふたたび大地震はやってくる。その後、またもや生き残った「私」は、自らに問いかける。
(……)なぜ私たちは、わざわざ危険な土地に、危険と知りながら残ったのだろうか。土地に愛着があったから、土地に執念があったから、大切な人がいたから。土地を踏みしめているときには、そのような理由だと自分で信じ込んでいたが、実は違ったのではないか。 私たちは、何度でも大地の賭けに乗る。 Bet. 地球全体に広大な敷地を持ちながらも、大地はあの土地にばかり執拗にコインを積み重ね、賭け金の倍率をつり上げる。ディーラーのよく手入れされた細くなめらかな指先、からからと回るルーレットを凝視する賭博者たち、視線の先には今後活発に動くと予想される、大注目の活断層。 天上知らずに集まるパワーとテンションが一等賞の賞金の額を膨大に増し、四方八方からぎゅうぎゅうに押されて耐えきれなくなった地面が口を開き、私たちはその裂け目から暗闇へと飲み込まれる。 でも私たちは、この地から動きたくない。動けない。どれだけ大穴の危険地帯となっても、ここで自分の人生を紡ぎたい。
「大地のゲーム」という題名の意味が、ここでは述べられている。それはどこかバンジージャンプに挑む感覚と似ている。もちろんバンジーは「死なないために、飛び降りて」いたのでもあった。だがバンジーだって事故が起こる可能性はゼロではない。「死なないために」と言いながら、そこには「死ぬかもしれない」が、僅かではあれ常に含まれている。スリルを味わうなどといった皮相な話をしているのではない。ここには、なぜここから逃げないのか、なぜここに留まっているのか、という、おそらく誰もが「あの日以後」に意識的無意識的に問うたことのあるに違いない、あのパラドキシカルな問いへの、答えとは言わないが、ひとつの切実な思弁が存在していると思う。彼女たちは、「私たち」は、私たちは、なぜ、まだ、ここに居るのか? 『現在地』と『ZERO COST HOUSE』の岡田利規が抱えていた問題が、ここでは反対側から問われているのである。 だが惜しむらくは、最後の最後で、綿矢りさは、この思弁を、「私」と「私の男」の、まさに私的な物語に回収してしまっているように、私には思えた。いや、或る意味でそれこそが綿矢の作家としての武器なのだが。とはいえ「勇気」がそうであったように、そこで示されるポジティヴさや希望も、作者自身の考えはどうであれ���やはり一筋縄ではいかない。この小説の末尾は「私は私が抱えられるだけの命を、一つも落とさずにこの道を歩もう」という一文である。この宣言には、いわば毅然とした諦念のようなものが感じられる。その外側には、私が抱え切れない、抱えることの出来ない命たちが、明らかに沢山、存在しているのだからだ。
29。そこに向かう者たち
「In A Large Room With No Light」(最近の阿部小説の例に漏れず、これは曲名で、元ネタはプリンスである)は、「文學界」の二〇一三年三月号に掲載された、阿部和重の短編小説で��る。二〇一一年の四月、福島の警戒区域内のどこかに秘匿された、埼玉の運送会社の金庫から強奪された五億円を探しに、「日山昭伸」「美里剛洋」「崔哲生」の三人の小悪党が、被災地へと出張ってゆく。映画的と言ってもいいスピーディーな展開と、抜群のリーダビリティを誇る、阿部和重ならではのピカレスクの佳品である。そしてまた、あの「RIDE ON TIME」とはまた別の意味で、確信犯的に不謹慎な小説でもある。震災と原発事故から間もなく、津波によって居住者が亡くなったり、避難したりして無人となった家々や、使用する者の居なくなったATMなどに残されたままの金を盗みに、少なからぬ犯罪者たちが被災地を訪れたことは、その後の報道でも知られることになった。彼らは文字通りのハイエナだが、それもまた震災後の現実である。火事場泥棒の景気のいい話を耳にしながら、その恩恵に浴すチャンスになかなか出会えなかった「日山昭伸」に、小生意気だが頭のキレる舎弟の「美里剛洋」から、奪われ隠された五億円の話が齎される。話を立ち聞きされたせいで仲間に加えざるを得なくなった在日韓国人の「崔哲生」とともに、彼らはミニバンで福島に向かう。おそらくは『幼少の帝国』執筆時の取材に基づくものだろう、具体的な土地勘に彩られた描写は、きわめてリアルなものである。三人のチームは、当然のごとくまるで一枚岩ではない。嘘と策謀と裏切りが連続し、あれよあれよという間に、読者は思いも寄らないラストシーンに辿り着くことになる。大きな余震が起こる。何しろ地震から一ヶ月足らずのことである。「美里剛洋」に裏切られた「日山昭伸」は、致命傷に近い傷を負った「崔哲生」とともにミニバンの車内に居る。そこに大津波がやってくる。それからどうなるかは書かないが、やはりすこぶる映画的な、じつに印象的な幕切れであるとだけ言っておくことにする。 小説的な仕上がりとしては、百戦錬磨の阿部和重にすれば、手慰みの範疇と言っていいのかもしれない(実際、彼はこのような作品なら幾らでも量産出来るだろう)「In A Large Room With No Light」が、書かれた動機とは何だろうか? それは「RIDE ON TIME」の傍らに、この小説を置いてみることで明らかになる。この二編はいずれも、間違いなく他の小説家には絶対に思いつきもしないだろう、きわめて独創的な「津波小説」なのである。阿部和重は、小説によって「津波」を、それが持つ意味を、徹底的に解体しようとしているのだ。 物語の最後に「日山昭伸」は、或る決断をする。それはやむにやまれぬものではあるが、それでも以前の彼であれば、およそありえない選択である。それは「悪党」であればけっしてしないであろう選択である。しかし彼がそれをすることによって、この小説は終わる。そして見事というしかないのは、このエンディングが、そのまま一種の「メッセージ」になっているということなのだ。それは「以後の世界」へと向けた、ほんとうに大切なものとは何なのか、という、ほとんど素朴とさえ呼んでいいようなメッセージである。「RIDE ON TIME」と同じく、阿部和重は言葉にすれば余りにも単純過ぎる、それゆえに賢しい者ほど表立って言おうとはしない、だが紛れもなく重要な真理を、じつに彼らしいヒネクレたやり方で、語ってみせているのである。
30。そこに留め置かれた者
こんばんは。 あるいはおはよう。 もしくはこんにちは。 想像ラジオです。
いとうせいこうの『想像ラジオ』は、こんな呼びかけから始まる。この小説は「文藝」の二〇一三年春季号に掲載され、その後、単行本として刊行された。いとうは震災後、哲学者/小説家の佐々木中と、東日本大震災へのチャリティとして、ヒップホップの流儀で交互に即興的に小説を書き継ぐという試みを行ない、のちに『Back 2 Back』として刊行した。また「今井さん」(「すばる」二〇一二年三月号)、「私が描いた人は」(「文藝」二〇一二年夏季号)という二編のごく短い小説を発表しているが、本格的な作品としては『去勢訓練』(一九九七年)以来、十六年ぶりである。 喋っているのは、DJアークと名乗る人物である。彼はひたすら喋っている。どこか素人ぽくはあるが、それなりに軽妙なトークが、小説ののっけから始まる。だが、すぐさま読者は疑問にとらわれることだろう。「想一像一ラジオ一」というジングルも高らかに、DJアークはノリノリで喋り続けているが、この「ラジオ」とは一体何なのか? その答えはすぐに与えられる。「この想像ラジオ、スポンサーはないし、それどころかラジオ局もスタジオもない。僕はマイクの前にいるわけでもないし、実のところしゃべってもいない。なのになんであなたの耳にこの僕の声が聴こえてるかっていえば、冒頭にお伝えした通り想像力なんですよ。あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、つまり僕の声そのものなんです」。だから「想像ラジオ」。なるほどそれはわかったけれど、でもだからそれは何なのか? そもそもDJアークとは誰で、彼は一体どこから放送しているのか? だが、この疑問にもすぐに答えが与えられる。彼は三十八歳、「三流大学に入って東京に出ると仕送りでエレキギター買って、アフリカのビートを取り入れたちょっとひねくれたバンドに加入して、けっこう評判はよかったもののメジャーデビュー出来ずに裏方として小さい音楽事務所入りましてね」、「そこそこインディーズで売れたメートルズとかマイティ・フラワーとかアトム&ウランとか新人アーティストを色々マネージメントしてるうちに、なんか嫌になっちゃって、といっても十数年やった上でですよ。まあ、そこで見切りをつけて昨日実家に帰ってきたんです。年上の奥さん連れて。川も山も海のあるこの町に」。妻の名前はミサト=美里。彼にはアメリカのジュニア・ハイスクールに通うソウスケ=草助という中二の息子もいる。つまりいわゆるUターン組というわけである。だが、昨日郷里に戻ってきたばかりの彼が、なぜいま「想像ラジオ」の「DJアーク」として喋りまくっているのか? しかも「高い杉の木の上に引っかかって、そこからラジオ放始めるはめになった」とは、どういうことなのか? そして、この当然の疑問に、痛みと悲哀と慈愛に満ちた答えが与えられるのが、要するに『想像ラジオ』という小説なのである。 この小説が載った「文藝」のいとうせいこう特集の一環として行なわれた星野智幸との対談の中で、いとうは震災後の自分の行動について、こんな風に述べている。
(……)世界観が崩壊しましたからね。震災後は映像ばかり見てしまってどうしていいか分からないし言葉なんて一つも役に立たないと思ってたんですよ。でも震災の二日後というタイミングで、ラリー・ハードがDommuneでDJをやったんですよ。ット・ット・ット・ットって四つ打ちで全部インストだったんだけど、四次元に脳が連れて行かれて、そこで何かのエネルギーが補填されていくのを感じた。自分は四つ打ちの音楽は作れない、だけど同じことを言葉でやらなければいけないなと思って、文字DJというツイッターのアカウントを作って、YouTubeもラジオも聴けない状況だったけどツイッターだけは機能してたから、その中でありもしない曲から実際の曲までつぶやいていたんですね。想像すれば絶対に聴こえるはずだ、想像力まで押し潰されてしまったら俺達にはあと何が残るんだと思っていた。
この「文字DJ」の延長線上に「想像ラジオ」という発想が生まれたのだろう。「まず僕は被災したわけじゃないから、絶対的な断絶がありますが、でも世界を自分が出来る限り真正面から引き受けて、そのかわり全部想像しますからね、という姿勢でした」。佐々木中との『Back 2 Back』は即効性を何よりも第一とする試みだった。ツイッターによる「文字DJ」もまたリアルタイム性を最優先させるものだった。だが一編の小説、それも或る纏まりと長さを持った小説は、それらとは異なる。小説は遅い。小説は遅くなる。小説は遅れる。遅れてくる。遅れざるを得ない。だから「遅さ」こそを武器にしなくてはならない。そこでいとうが選んだのが、一言でいえば、死者の声を聴くことを想像する、それも徹底的に、出来うる限りの技を用いて、必死で想像する、ということだった。そして彼はそのことだけを書いたのである。 DJアークは、高い杉の木の上に引っかかったまま、彼の「想像ラジオ」を続ける。ラジオであるからには、リスナーからの電話もあれば、メールだって届く。音楽だってかかる。番組はなかなか賑やかである。しかし読み進むほどに、否応無しに読者は、それらが、あの地震と津波にかかわっているということ、いや、すべてがその話なのだ、ということに気づかされることになる。作者はもちろん、そのことをいつまでも隠したりはしない。DJアークに何が起こり、彼が語りかけている「想像ラジオ」のリスナーたちとは誰なのか、読者には程なく分かる。だから私はそれを書かない。この小説は五章立てであり、第二章と第四章にはDJアークとは別のSという作家が登場する。彼はどこか(というかあからさまに)作者いとうせいこうを思わせる人物である。Sはボランティアに行った宮城と福島で、非常によく似た「樹上の人」の噂を耳にした。大津波が何もかもを押し流していった後、しばらく杉の木の上に引っかかっていた人がいた、という話。それぞれの「樹上にいたのが同じ人であるはずもないが、私にはふたつの体が同一のように思えて仕方なくなったし、それどころかありとあらゆる場所にその体があって我々を見下ろしているように感じられた」。彼は「樹上の人」の声を聴きたいと思うが、しかし「その声が私には聴こえない」。だから「私はもっと集中するべきだと思う」。 第二章で、福島からの帰路、車中でボランティアたちが交わす議論がある。リーダー格の若者が「樹上の人の声」にこだわるSに対して、こう言う。「あのですね、俺らは生きている人のことを第一に考えなくちゃいけないと思うんです。亡くなった人への慰めの気持ちが大事なのはよくわかるんですけど、それは本当の家族や地域の人たちが毎日やってるってことは体育館でも仮設住宅でもいくらでも見てきたじゃないですか。(中略)その心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、直接何も失ってない俺らは何か語ったりするよりもただ黙って今生きてる人の手伝いが出来ればいいんだと思います」。これを聞いて、Sは自分を軽々しい人間だと思って恥じ入るが、それでも事態に無関係な者は、他人の死にかかわる「心の領域」に入り込むこと、すなわち「想像」などするべきでない、という考えに完全には納得出来ない。そると別のボランティアの青年が、バイト先の植木職人の親方から又聞きした東京大空襲の話を始める。
……亡くなった人が無言であの世に行ったと思うなよ、とおやじさんが仕事帰りに植木道具を置きに行くと奥の座敷から廊下に出てきて茶碗酒片手で俺によく言うんだよ。叫び声が町中に響き渡ったはずだし、悔しくてどうしようもなくて自分を呪うみたいに文句を垂れ続けたろうし、熱くて泣いて怒って息を引きとるまで喉の奥から呻き声あげたんだぞって。先代の親方は、自分が知らないその夜のことをおやじから聞いて、しょっちゅう夢見て飛び起きたんだって言ってたけど、先代は話を聞いて公開したことねえぞって言うんだ。 俺は亡くなるまでのその声を考えるのと、亡くなったあとを想像するのにそれほど差があんのかって思う。恨みはあるし、誰かに伝えたかったこともあるし、それが何だったか考える人がいてもいいし、いやいなくちゃいけないし、それがSさんだったりするんじゃないかって……
しかしボランティアのリーダーは反論する。「それは遠い過去になったから語る人が色々でもむしろ事実を忘れないためにいい」のだが、しかし直近の震災で「自分一人だけ生き残った人に対して、あなたのご家族は今あの世でこんなことをつぶやいてるんじゃないかなんてことを、いくらなんでも口に出来ない」のではないか。その上で彼はSにこう告げる。
これは失礼な言い方でほんとに申し訳ないんだけど、Sさんは元は博多の人で長く東京に住んでて、親戚の誰一人東北にいないし、友達が亡くなったわけでもないと聞いています。そういう人が死者への想像を語る時期でも、そもそも語る問題でもないと俺は思うんです。まして亡くなった人のコトバが聴こえるかどうかなんて、俺からすれば甘すぎるし、死者を侮辱してる。
ボランティアという行為自体が、「甘い想像で相手に接してる限り何度でも、お前に何がわかるんだとつっぱねられるんですよ」と彼は厳しく言う。そこに、更にもう一人のボランティアが話に加わってくる。確かにその通りだ。生半可な同情や想像など、被災地の人たちからしたら、単なるこちらの自己満足、自己欺瞞以外の何でもない。「問題は役に立つか立たないかで、あとは全部考えをやめる」という態度は正しい。だが、それでも「亡くなった人の声を自分の心の中で聴き続けることを禁止にしていいのか」とも思う。「行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか」。
作家っていうのは、俺よくわかんないけど、心の中で聴いた声が文になって漏れてくるような人なんじゃないのかと思うんですよ。その場で霊媒師みたいに話すんじゃなくて、時間かけてあとから文で。しかも確かにそれが亡くなった人の一番言いたいことかもしれないと、生きている人が思うようなコトバをSさんは、なんていうか耳を澄まして聴こうとしていて、でもまったく聴けないでいるってことじゃないか。
これこそ「遅さ」の効用というべきものである。だがリーダーは「禁止してるんじゃない」と応じつつも、それでもやはり、こう述べる。「いくら耳を傾けようとしたって、溺れて水に巻かれて胸をかきむしって海水を飲んで亡くなった人の苦しみは絶対に絶対に、生きている僕らに理解出来ない。聴こえるなんて考えるのはとんでもない思い上がりだし、何か聴こえたところで生きる望みを失う瞬間の本当の恐ろしさ、悲しさなんか絶対にわかるわけがない」。 このように第二章は、当事者性と想像という行為にかんするディスカッションと言えるものになっている。無論それは作者自身の自問自答でもあるだろう。ところで、第一章の終わりで、DJアークは一曲かけていた。アントニオ・カルロス・ジョビンの「三月の水」。ボランティアたちの車内に沈黙が降りたとき、それまでずっと黙っていた運転席の、中一の時に阪神淡路大震災を体験し、それから何年か言葉を喋らなかったという青年が、カーラジオのスイッチは切ってある筈なのに、なぜか音楽が聴こえてくる、と言う。それはジョビンの「三月の水」だ。繰り返しかかっている。誰か男の声も聴こえたと言う。だが、Sには何も聴こえない。 『想像ラジオ』は、痛ましさとやり切れなさに覆われた小説である。十六年ぶりの本格的な小説の題材として、このようなものを選んだ、選ばざるを得なかった、いとうせいこうという作家の勇気に、私は静かに戦慄する。ここでは想像すること、書くことへの、強い動機と強い疑いとが、同時に存在し、激しく鬩ぎあっている。「震災小説」を、「以後の小説」を、ただタイミング良く、小器用に書いてみせるのとは、わけが違うのだ。作者には、この小説が必然的に帯びてしまうだろう、隠しようもない欺瞞が、最初から見えていた。たとえ感涙する読者が居るとしても、その感涙の内にこそ、当事者でないがゆえの、安全地帯から見守っているがゆえの、無傷な憐憫というしかないものが仄見えていることを、書き出す前からよくよくわかっていた。それでも、どうしてもこれは書かれなくてはならなかったのだ。書けない/書かないことへの、ギリギリの否定/逆転としての、書くこと。 先の星野智幸との対談で、いとうせいこうはこんなことを述べている。 死者の声を聴くっていうことが、やっぱり歴史なんだと思うんです。批評家がよくこの小説には歴史がないとか言いますけど、その歴史って小説で考えたら、死者の声でしかないんですよ。相手が大勢であっても、たった一人であっても、死者の声にじっと耳を傾けることにしか歴史はない。もちちん死者っていうのは今生きていないっていうことでいえば、未来の人の声でもある。だからリアルな今の状況を写せば小説家といったら決してそうではなくて、小説が作れる現実というのは死者の声を過去からも未来からも聴いて、その時間が渾然一体となって同じ平面に出ることなんだと思うんです。同じ平面ということでいえばそれが小説のきわめて不自由な側面でもあり、しかし同時に多声的に読める自由さでもあるんですよね。
死者の声を聴く小説。いや、小説とは死者の声を聴くことなのだ。けれどもこの発言は、他でもない『想像ラジオ』を書き終えたからこそ出来たものでもある。いとうせいこうは、あの紋切り型の問い、けっして安易に問われるべきではないのに誰彼無しに何度となく問われてしまった問い、すなわち「〜に何が出来るのか?」という問い、つまり、小説には何が出来るのか、という問いを、真っ向から引き受けるために、ほとんどただそれだけのために、長いブランクを経て、ふたたび小説を書いたのだ。このことは強調しておかなくてはならない。小説は遅くて不自由なものだが、それでもやれることはある。小説にしかやれないこと、小説だけが切り拓く自由が、確かにある。だったらば、やってみる価値はあるのではあるまいか。誰もそれをやっていないようであれば尚更。 しかしもちろん、それは同時に、小説という形式に耽溺すること,小説という行為に安住することを意味しているのではない。いとうはこんなことも言っている。「特に純文学をやっていらっしゃる方々は、間接性しか取らないんですね。直接的にものを言うことを避ける。3・11の後、「とにかく募金を集めよう」って普通に各々のサイトとかにデカデカと書けばよかったように思う。それをやらずに間接的なやり方が目立った。エンターテインメント畑は違ったと思う。ストレートであることを恐れなかった」。『想像ラジオ』の作者は、アクティヴィストでもある。だからこそ彼は、こんな小説を書いた/書けたのだ。「文学者が直接的に言葉を使わなかったということは、逆に言うと作品が間接的に書けていないからじゃないですか? 間接的に書けてこそ、直接性が怖くなくなるんじゃないでしょうか?」。この問い、いや挑発に、一体どれだけの「文学者」が抗弁出来るのだろうか? 小説の終わり、DJアークの「想像ラジオ」は、遂に放送終了の時を迎える。彼はおもむろに「この機会にしゃべっておきたいこと」を語り出す。 今日も明日も想像を求める新しいDJが次々と世界にあらわれる。何人も何人も、日々あらわれる。それどころか、あらわれない日がないんです。いや、今この時もすでに無数のDJたちがやかましいくらいに自分の番組をオンエアしてる。彼らはゴキゲンな放送を続けるでしょう。僕だっていつでも戻ってくる。語りかけるし、話を聴く。その声に必ず耳を澄まして欲しい、リスナーたちよ。また新たに生まれるリスナーたちよ。
この後どうなるのか、もちろん私はそれを書かない。
31。「午後二時四十六分十八秒」
山下澄人の「水の音しかしない」は「文學界」の二〇一一年十二月号に発表され、現在は作品集『ギッちょん』に収録されている。他の山下作品と同様、小説による/小説における「野性の思考」をまざまざと体現したかのような、自由奔放かつ繊細精緻な書法によって、或る出来事が描かれる。 「出勤途中によく駅で会う男がいた。土日をのぞいてほぼ毎日、その男に会った。だからお互い、顔をあわすといつの頃からか、軽く会釈をかわすようになっていたのだけれど、わたしはそれが実は鬱陶しくて面倒くさくて、だから今朝、電車の時間をひとつ早いのに変えた」。それにもかかわらず、彼はその男と今朝もやはり会ってしまい、仕方なく初めて挨拶を交わし、車内で話をする羽目になる。「わたし」は「斉藤」、男は「中嶋」と名乗る。ふたりの家族構成は子どもの年齢も含めて、まったく同じだった。「わたし」は、明日は電車を更に一本早めようと考えつつ、「中嶋」と別れ、会社に着くと、何故か自分の机が移動されている。そればかりか、隣席の「真島」をはじめ、同僚たちの姿がひとりも見えない。課長の「溝口」だけが、昨日と変わらずに居る。怪訝に思って「わたし」が尋ねると、おもむろに「溝口」は答える。
「昨日だよ。すべてが変わったのは。斉藤はいなかったっけ? 昨日の午後、何時だ? 二時過ぎか?」 知らない女が来た。髪が金髪だ。溝口はその金髪の女に 「昨日のあれは、何時だったかな」 と聞いた。女は 「二時四十六分です」 といった。 「だって」 と溝口は私にいった。わたしは話がまったく見えなかったので、それは何ですか、と溝口に聞いた。 「それが何だ、といわれても、それはそれだ、だから何だ、としかいいようがないよ斉藤ちゃん。昨日の午後二時、ええと」 「四十六分」 とわたしはいった。 「そう。四十六分。その時、すべては変わったんだよ。すべてというのは、すべて。全部。全部というのは何もかも。一切合切。外も中も全部。ただ」 溝口はのっそりと立ち上がって、ホワイトボードに黒いペンで「ただ」と書いて、ふたつの字の上に傍点をつけた。
ああ、これはそういう話なのか、と読む者はここでいきなり気づかされることになるのだが、当然のごとく、山下澄人は、この作品をあからさまな「震災小説」として書こうとはしていない。 翌日の朝、電車をもう一本早めたのに、「わたし」はやはり「中嶋」と会ってしまう。ふたりは一昨日の帰宅困難について語り合う。職場に行くと、「溝口」と金髪の女「森林サリー」に加えて、新しい人間が居る。「わたし」と同じ名前の巨漢の男「ビッグ斉藤」と、「わたし」の妻の「ナオミ」によく似た若い男。山下澄人の小説は、通常われわれがリアリズムだと思い込んでいる常識を、あちこちであっさりと逸脱しているが(そして同時に、こっちの方が真の意味でのリアリズムなのではないか、と強く思わせもするのだが)、このあたりからこの作品も、視点や時制や描写が、ゆるゆると解けてゆく。あの日の「二時四十六分」に起こったことを、「わたし」は忘れてしまったのか思い出せないのか、それとも覚えているのだが自分で留め金を架けているのか。あの日のあの時間、一体「わたし」はどうしていたのか。それからどうなったのか。「わたし」以外の連中はどうなったのか。そして「わたし」は今、ほんとうはどうしているのか。何もかもが曖昧にされており、どうにもよくわからない。 それでもどうやら読み進むにつれて、事の次第らしきものが少しずつ推察可能になってくる。「水の音しかしない」が、他の山下澄人の小説と一線を画していると思えるのは、誰もがどうしたって明確な事実性と結びつけざるを得ない、他ならぬ「二時四十六分」に因っている。それゆえに、ここは評価の分かれるところかもしれない。事実は虚構の支えになるが、同時に重石でもあるから。そして確かに『緑のさる』や「ギッちょん」や「トゥンブクトゥ」のような過激な跳躍ぶりを、この小説は必ずしも見せてはいないようにも思える。しかし、それでもこれは山下澄人にとって、どうしても書かなくてはならなかった、書かれなくてはならなかった作品なのだと私は思う。 後半には、次のような場面が現れる。 溝口はタクシーの中にいた。現場に向かうつもりが、そこでの作業は早々と終わったことをタクシーに乗る前に溝口は真島から聞いて、そのまま帰っても良かったのだけれど。せっかくここまで来たのだからと、浜へ向かっていた。運転手にはなまりがあった。午後二時四十六分ちょうどだった。 その十八秒後、突然、広大な土地にいる人間、猫、犬、うさぎ、ネズミ、いたち、ゴキブリ、等々のからだ、建物、電信柱、木、草、地面が、山が、海が、揺れた。 同時に香山が声をあげたから、からだが揺れたのはわたしだけではなかったのだとわたしは思った。揺れる中わたしはカモメが何羽も飛ぶのを見た。揺れがおさまり、興奮した真島が十年以上前に経験した遠い土地での大きな地震の話をはじめた。真島にいわせると、そこでの地震のほうがずっと激しいものだったらしい。 「縦に揺れてから、横に揺れたからな」 わたしたちは浜からあがって、溝口を待った。溝口はタクシーの運転手とさっきの地震の話をしていた。運転手がつけたラジオはどこも地震のニュースだった。「津波」とアナウンサーがいうのが確かに聞こえた。しかしほとんど溝口も運転手も聞いていなかった。わたしはそんなニュースが流れていることすら知らなかった。香山が携帯電話を見ながら原口と何か話していたけれど、その時も確かに「津波」と聞こえた気がするけれど、わたしは飛び交うカモメを見ていたので、ちゃんと聞いてはいなかった。頭の禿げた男が寝グセのついたきれいな女の肩を抱いて浜を上がって来た。女は泣いていた。どこかでサイレンが鳴った。しかしわたしには、というかわたしたちには何のサイレンかわからなかった。
この部分だけを読んだら、紛れもないリアリズム小説の一節だと思われるかもしれない。そしてこのあと、阿部和重の「In A Large Room With No Light」の「日山昭伸」が、いとうせいこうの『想像ラジオ』の「樹上の人=DJアーク」が見舞われたのと同じ事態が、「わたし(たち)」を襲う。 だがしかし、かといってこの小説は、あの日の「午後二時四十六分十八秒」へと遡行してゆき、取り返しのつかない出来事へと収斂していって、悲劇が露わになって、それで終わるわけではない。むしろそこで、むやみと混乱した、だが同時にすこぶる透明な筆致で描かれているのは、あの『想像ラジオ』とはまた別のかたちで、そこにいつまでもいつまでも留められて、繋がれてあるさま、である。そして、そうあるしかないのは、他でもない「わたし」というものが存在しているからである。山下澄人の場合、それは「存在していた」と、過去形で言ってもまったく同じことだし、「わたし」ではない誰か/何か、と言ってしまっても、おそらく同じである。さしあたり「わたし」は「斉藤」という名前を持っているのだが、それは誰もがとりあえず名前を持たされているからに過ぎず、何よりも重要なことは、この体験をした者が現に居た(かもしれない)ということなのだ。「現に」というのも一通りの意味ではないのだが。 結末に向かって、この小説はふたたびしどけなく解け始める。時間が弛み、記憶が変調し、「わたし」の意識が、意識と呼ばれる何かを表す言葉たちが、段々と溶け始める。ふと気づくと「わたし」はまた「中嶋」と、電車内で話している。
「あれからどうしてた?」 あれからというのは、どれからかわたしにはわからなかったけれど、適当に見当をつけて話し始めた。いつも会う男と話すようになった事、会社から真島たちがいなくなっていた事、かわりに森林サリーとビッグ斉藤とナオミに似た若い男がいた事、溝口までいなくなった事、そして結局、会社からいなくなった溝口や真島たちの行方はわからずじまいであり、その事を気にしていても仕方がないと、それ以上考えないようにした事。 「うん」 あとは、ナオミに似た若い男が倒れて、ビッグ斉藤と食事をして、終電に乗り、記憶喪失の夢を見て、終点まで寝過ごしてしまい、公園でそこに住む事を妄想して、そこに住む男を妄想して、妄想した男と会話して、港へ出て、その前に商店街で若い女と子供を見て、港で海に浮かぶ木材を拾い上げて、そこに真島たちがあらわれて、みんなで行った焼き鳥屋でさっき別れたビッグ斉藤が働いていて、ホテルでは森林サリーが働いていて、隣にいた男の顔が思い出せなくて、明くる日みんなと海に行って、原口が何度もはねる魚を見て、地震が来て、揺れて、その後、津波が来て、そしてその津波にのまれた事などを話した。
これはそのまま、この小説の簡潔なあらすじになっている。だが、では、そしてそれからどうなった? どうなったのかを「わたし」は言うことが出来ない。それを言えるのは一人称の話者である「わたし」しかいないにもかかわらず、それからどうなったのかを適当に見当をつけて話すことが「わたし」には出来ない。そうすることがどうにも出来なくなってしまっている、ということが、この小説に書かれていることだと言ってもいいかもしれない。かろうじて可能なのは、解け切った「わたし」の、たとえば次のような混乱した述懐だ。 空は曇っていた。わたしから見える限りの空はねずみ色だった。雨が降っていた気がわたしはしていたが、わたしのからだはたえず濡れていたから雨をあまり意識出来ていなかった。というか、わたしはわたしのからだが濡れているのかどうかさえ、ほんとうはよくわかっていなかった。しかしまだ、濡れるのはよくない、という意識だけはかすかにあったから、わたしは水につかっていた足をわたしのからだが乗っている、わたしが、何か、としか認識していない青い屋根の上に面倒くさいと思いつつ、さっき上げた、と思っていたが、しかし実際はそれは昨日の事だった。わたしは水に飛びかかられた事はおぼえていた。その轟音も。何度も「ごうおん」という音が、なのか、言葉が、なのか、轟音の中、わたしの頭に点滅した。どれくらいの時間、わたしはこうしているのか、わたしはわかってはいなかった。何度か暗くなった事はおぼえていたが、その記憶もわたしからは消えかけていた。それでもわたしは生きていた。息を吸い、吐いていた。心臓は休みなく鼓動し、他の臓器もそれぞれの役目をまだきちんと果たしていた。わたしはまだ生きていた。
「わたしはまだ生きていた」。だから、今、こうして過去形で語っているのである。だが「今」とはいったい何時のことなのか? そもそも「過去形」とは何なのか? 「中嶋」が「あんたとは駅で話すようになんなきゃいけないんだから、元気出してよ」「まだほんとうは俺はあんたに名乗ってもいないんだからさあ」と「わたし」に話し掛けてくる。「この事、思い出せるかな」と「わたし」はふと口に出す。「電車で会った時にさ」。男はもういない。水の音しかしない。 32。良いニュースと悪いニュース
二〇一三年四月十二日、村上春樹は書き下ろしの長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を発表した。発売当日まで、題名以外の一切の情報は明らかにされていなかった。小説としては前作に当たる『1Q84 BOOK 3」が出たのが二〇一〇年四月十六日だったので、ほぼ三年ぶりの新作ということになる。それは、次のような物語である。 タイトルにある通り、主人公の名前は多崎つくる。三十六歳の独身男性で、西関東の鉄道会社の駅舎設計管理部門に勤めている。彼はどういうわけか、幼い頃から「駅」が大好きだったので、夢をかなえたのだと言ってもいい。実際には関東地方に新たに駅を作ることは稀であり、ほとんどの仕事は改修工事絡みなのだが。実家のある名古屋での高校時代、つくるには四人の親友が居た。頭脳明晰な優等生のアカこと赤松慶、熱血漢のラグビー部キャプテン、アオこと青海悦夫、誰もが認める美人で、ピアノを流麗に弾きこなすシロこと白根柚木、熱心な読書家だが、さっぱりとした性格のクロこと黒埜恵理。五人は高校のクラスのボランティア活動を通じて仲良くなり、あっという間にどんな時にも行動を共にするほど親密になった。まったくと言っていいほど性格やキャラクターは異なっていたが、むしろそれゆえにこそ彼らは他の四人に魅力を感じ、必要とし、惹かれ合ったのだ。ただ、つくる以外の四人は、姓に色を示す字が入っていた。だから互いに色のあだ名で呼び合うようになったのだが、色彩を持たないつくるだけは「つくる」だった。そのことにつくるは少しだけ疎外感のようなものを感じていたが、だからといって五人の関係に歪みはまったくなかった。それはまるで正五角形のように完璧な友情だった。 つくるは「駅」を造るという将来の夢のために東京の大学に進学した。他の四人はそのまま名古屋に留まった。それでも五人の仲に変わりはなかったが、大学二年の夏、二十歳を目前に帰省した折、つくるは何の前触れもなく、四人から絶交を告げられた。理由は説明されず、彼にも思い当たることは皆無だった。つくるは甚大なショックを受け、絶望し、放心して、引きこもり、一時は死を強く願うほどの状況に陥る。そしてギリギリの窮地から現実に引き返して来た時には、彼は激痩せして別人に見えるほどの変貌を遂げていた。それからの十六年間、彼は五人の元親友たちと一度も再会していない。そしてこの経験は、つくるの他者へのかかわり方に、当然のことながら多大な影響を及ぼした。その後の大学時代に、たまたまプールで知り合った年下の大学生、灰田文紹(言うまでもなく、ここにも色が含まれている)と親しくなったが、灰田もまた唐突に、つくるの前から姿を消す。それからつくるは、けっしてそう決めたわけではないものの、男女を問わず、誰かと一定以上に距離を詰めることなく生きてきた。だがつくるは最近、仕事の関係で知り合った旅行会社に勤める二歳年上の女性、木元沙羅から、十六年前の五人組からの追放の真相を、今こそ確かめるべきだと言われる。彼女はつくるに「あなたはたぶん心の問題のようなものを抱えている」と指摘し、それを解決しなくては二人の関係は先に進めないと告げる。こうしてつくるは、長い時間封印していたパンドラの匣を開けるべく、彼の「巡礼」の旅に赴くことになる。 多崎つくるの「巡礼」は、故郷名古屋へ、そしてフィンランドの町ハメーンリンナへと、彼を誘う。そこで俄に明らかにされる遠い過去の思いがけない秘密と、そこから掘り出されてくる幾つもの新たな謎、それらに宿る途方もないやりきれなさと不条理、そしてつくると沙羅の関係の展開にかんしては、これ以上は述べない。それよりも、なぜこの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が、ここで取り上げられているのか、ということについて語らなくてはならない。全十九章から成るこの小説の第三章、つくるが死の間際から何とか生還し、だが体重が七キロも落ちていたという記述に続いて、次のような文章が置かれている。
死にかけているように見えたとしても、それは仕方ないかもしれない。彼は鏡の前で自らにそう言い聞かせた。ある意味では、おれは実際に死に瀕していたのだから。木の枝に張りついた虫の抜け殻のように、少し強い風が吹いたらどこかに永遠に飛ばされてしまいそうな状態で、辛うじてこの世界にしがみついて生きてきたのだから。しかしそのことがーー自分がまさに死にかけている人のように見えることがーーつくるの心をあらためて強く打った。そして彼は鏡に写った自分の裸身を、いつまでも飽きることなく凝視していた。巨大な地震か、すさまじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離せなくなってしまった人のように。
この小説において、「二〇一一年三月十一日」に多少ともかかわっていると読める言及は、ただこの一箇所のみである。そしてこれは読んでの通り、喩えに過ぎない。周知のように村上春樹は、現代作家としては例外的なほどに比喩を多用する作家だが、ここでの「のように」は、この小説にも膨大に投じられている他の無数の「のように」とは、どこか性質が異なっているように思える。それは言うなれば、いささか唐突に、取ってつけたように見えるのだ。だがそれゆえにこそ、妙に気になってしまう。 もちろん、この点を取り上げて、村上春樹が自身のフィクションを無理矢理「震災」に結びつけようとしているとして批判することは可能かもしれない。ほんとうは全くの無意味な、単なる仄めかしでしかない、真摯さを欠いたはしたない行為であると。だが私は、それとは正反対のことを、これから主張したいと思うのだ。 物語がまだ始まったばかりの第二章で、つくるは沙羅に十六年前の出来事、これまで誰にも話したことのなかった辛い想い出を告白する(それはそのまま読者に対する過去の説明にもなっている)。彼女は当然のごとく、どうしてその時にちゃんと理由を問いたださなかったのか、と尋ねる。
「なにも真実を知りたくないというんじゃない。でも今となっては、そんなことは忘れ去ってしまった方がいいような気がするんだ。ずっと昔に起こったことだし、既に深いところに沈めてしまったものだし」 沙羅は薄い唇をいったんまっすぐ結び、それから言った。「それはきっと危険なことよ」 「危険なこと」とつくるは言った。「どんな風に?」 「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を変えることはできない」。沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を消すのと同じだから」
「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」。沙羅の言葉は、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説の通奏低音として、物語の深い所に潜行しつつ、静かに鳴り響いてゆくことになる。タイトルにもある、かつてシロがよく弾いており、灰田がつくるにレコードをくれたフランツ・リストのピアノ曲集『巡礼の年』のように。それはつまり、一度起こったことは二度と消えない、ということである。あったことはなかったことにはならない。これはいわば当たり前のことだ。だがひとはしばしば、さまざまな理由から、時にはやむにやまれぬ事情によって、歴史=過去から目を背けようとするし、忘却どころか記憶や記録からの抹消を試みさえする。そしてそれに成功することもある。しかし、ほんとうは過去は消えてはいない。それはずっとそこにあり、あり続けるのだ。 だがしかし、それはそうであるとしても、なぜわざわざ、忘れた筈の、思い出すことをやめた筈の、ほとんどなかったことになりつつあった筈の過去への「巡礼」に向かわなくてはならないのか。それは、しなくてもいいのではないか。しなくていいのなら、しないままの方が幸せな場合だってあるのではないか。むしろそうすることによって、過去と現在が一直線で繋げられてしまうことによって、過去が現在に襲いかかり、すべてを台無しにしてしまうことが起こり得るのではないか。過去の中には、そっとしておくべきことが、誰にだってあるのではないか。そうも思える。そして実際、つくるの「巡礼」の旅は、世界そのものの悪意と呼んでもいいような、あまりにも酷薄きわまりない事実を明らかにする(登場人物のひとりは「それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった」と表現する)。それでも、それを知らぬままに済ますことは「あなたという存在を消すのと同じ」だというのだろうか。最後まで知らずにいた方がいいことだって、人生には確���に存在しているのではあるまいか。 つくるは名古屋でアオ、アカと十六年ぶりに再会する。アオはレクサスの販売代理店でディーラーとして働いていた。つくるは彼から十六年前の絶縁の理由を聞かされる。それは想像もしていなかったものだった。アオはつくるに謝罪する。十六年経っても、彼は真っ直ぐな人間のままだ。東京の有名大学に十分受かるだけの優秀な成績でありながら、敢て名古屋大学に進学し、大手銀行に就職したものの二年でサラ金へと転職し、更にそこも辞めて自己啓発セミナーまがいのビジネスを始め、大成功をおさめているアカは、表面的には高校時代とはずいぶん人間が変わっていたが、それはむしろ時間と共に彼の芯の部分が露出してきたということかもしれない。アオはアカの商売を快く思っていないようだったが、つくるはアカの率直な話しぶりから、優等生の顔の裏に反骨精神を隠した昔の友人の姿を感じ取る。別れ際に、アカはつくるにふと、こんな話を披露する。 「おれがいつも新入社員研修のセミナーで最初にする話だ。おれはまず部屋全体をぐるりと見回し、一人の受講生を適当に選んで立たせる。そしてこう言う。『さて、君にとって良いニュースと悪いニュースがひとつずつある。まず悪いニュース。今から君の手の指の爪を、あるいは足の指の爪を、ペンチで剥がすことになった。気の毒だが、それはもう決まっていることだ。変更はきかない』。おれは鞄の中からでかくておっかないペンチを取りだして、みんなに見せる。ゆっくり時間をかけて、そいつを見せる。そして言う。『次に良い方のニュースだ。良いニュースは、剥がされるのが手の爪か足の爪か、それを選ぶ自由が君に与えられているということだ。さあ、どちらにする? 十秒のうちに決めてもらいたい。もし自分でどちらか決められなければ、手と足、両方の爪を剥ぐことにする』。そしておれはペンチを手にしたまま、十秒カウントする。『足にします』とだいたい八秒目でそいつは言う。『いいよ。足で決まりだ。今からこいつで君の足の爪を剥ぐことにする。でもその前に、ひとつ教えてほしい。なぜ手じゃなくて足にしたんだろう?』、おれはそう尋ねる。相手はこう言う。『わかりません。どっちもたぶん同じくらい痛いと思います。でもどちらか選ばなくちゃならないから、しかたなく足を選んだだけです』。おれはそいつに向かって温かく拍手をし、そして言う、『本物の人生にようこそ』ってな。ウェルカム・トゥー・リアル・ライフ」
いかにも自己啓発セミナー的に思えるこのエピソードは、先の沙羅の言葉と組み合わされることにより、この小説の核心を成す、重要なテーマを示すものだと、私には思える。この話が表している世界観/人生観のようなものは、読んでのごとくきわめてペシミスティックである。だが、ポイントは話される順番にある。まず「悪いニュース」が提示される。それはおそろしく惨い仕打ちである。出来ることなら回避したい。逃げ出したい。だが「それはもう決まっていることだ。変更はきかない」。この宣言は、明らかに沙羅の言葉と対になっている。彼女が「過去=歴史」について述べていたことを、アカは「未来」について語っているのだ。とにかく途方もなく惨いことが、これから行なわれるのである。それから「良いニュース」が提示される。だがしかし、そこには選択の余地がある。確かにそれはどちらを選ぼうと惨事には変わりなく、だから選択自体が虚しい行為と呼ぶべきかもしれない。だが選ばなければ、自分で選択しなければ、事態はもっと確実に悪くなるのだ。この場合、選択肢の決定それ自体には、実のところほとんど意味はない。そうではなくて、それでも選択する意志を持てるかどうか、悲惨の渦中にありながら、欠片ほどの自由を行使することが出来るかどうかが問題なのだ。どっちもたぶん同じくらい痛い。でもどちらか選ばなくちゃならない。だからしかたなく選んだだけ。そんなおおよそ積極的とは言い難い選択に対して、ウェルカム・トゥー・リアル・ライフという言葉が与えられることの意味、そこにこそ、どうして村上春樹が、突然この小説を書いたのか、という謎へのヒントがある。 最終章、つくるはフィンランドへの「巡礼」から戻ってきたが、沙羅にはまだ会えていない。彼女に報告することが、そして彼女にどうしても問わなくてはならないことが、彼にはある。物語は終わりに向かっている。だが、まるで終着駅の手前で急に電車が点検に入ったかのように、この小説は奇妙な停滞を見せる。つくるはJR新宿駅に来ている。彼はこの駅を眺めるのが好きだ。彼は朝のラッシュアワーの雑踏のことを考えている。「よく暴動が起きないものだ。事故による流血の惨事がもたらされないものだと、つくるはいつも感心する」。そこで、次のような記述が現れる。 もしそんな極端に混雑した駅や列車が、狂信的な組織的テロリストたちの攻撃の的にされたら、致命的な事態がもたらされることに疑いの余地はない。その被害はすさまじいものになるだろう。鉄道会社で働く人々にとっても、警察にとっても、もちろん乗客たちにとっても、それは想像を絶する悪夢だ。にもかかわらず、そのような惨事を防ぐ手だては今のところほとんどない。そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ。
村上春樹が、オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者たちに取材して著したノンフィクション『アンダーグラウンド』は、一九九七年三月に書き下ろしという形で刊行された。地下鉄サリン事件が起きたのは一九九五年三月二十日だから、ちょうど二年後のことだった。先にも述べておいたが、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、二〇一三年四月十二日に書き下ろしで刊行された。二〇一一年三月十一日の東日本大震災から二年と一ヶ月が経っていた。二つの出来事と二冊の本は、ほぼ同様の時間的な関係を持っている。このことは何を示唆しているのだろうか。何かを示唆しているのだろうか。『アンダーグラウンド』が地下鉄サリン事件に対して有していた位置と意味を、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は東日本大震災に対して有している、たとえほとんどそうは読めなくても、ほんとうのところは、そうなのではないか。いや、むしろすぐにはそうと思えないからこそ、それはやはり、そうなのではないのか。そう考えてみると、この小説の物語、この物語のあらゆる挿話、それらの挿話の細部の何もかもが、実はすべて、あのことを語っている、語ろうとしているのではないかと思われてくる。 私はこれを穿ち過ぎだとは思わないし、殊更に好意的に解釈してみせているのでもない(何度も繰り返し述べてきたように、小説であれ何であれ、私は「震災」を取り上げること自体に意義があるとは全然思っていない)。村上春樹という作家の最大の特長は、彼の書く小説が、リアリズムからも私小説からも限りなく遠い、という点にある。村上春樹の作品には、現実がそうであるように意味性を欠いた要素はひとつとして存在していない。その意味が明らかにされないことはあっても、そこには必ず、それがそこにあり、それがそうであるということの理由が存在している。この意味で、村上春樹の小説は、基本的に現実世界との接点を持っていない。それは最初から最後まで作家の脳内にあるのだ。村上春樹の小説はリアリズムとは関係がない。それは常に一種のファンタジーなのである。そしてまた、彼の小説における主人公、一人称ならば「僕」と称し、三人称なら固有名詞で呼ばれる人物は、その物語を語り、この小説を書いている「村上春樹」自身と、他の作家とはかなり異なる形で、曖昧に混じり合っている。それは初期の「僕」たちよりも、近年の作品群、この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のような三人称小説において、その特異性を露わにする。たとえば先ほどの引用の最後の「その悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」の「実際に」には強調を示すダッシュが振られているが、それは誰がしているのか? むろん、村上春樹がしているのである。この小説は、多崎つくるという主人公の視点と主観によって綴られていくわけだが、結局のところ、彼はいわゆる物語の主体とは、かなり違っている。つくるは自分を「色彩を持たない」空っぽの存在と感じているが、それを言うなら一色ずつを配された他の登場人物たちは、それぞれの役割と機能を作者から割り振られた、いわば叙述上の要素であるに過ぎない。色を持っていないつくるは、空だからこそ、彼にかかわる人物=要素たちが齎す、さまざまな真実や秘密や嘘や謎を、丸ごと包含することが出来る。そうして、多くの線路が交叉する「駅」をつくるのである。 「巡礼」の最後には、こんな場面が置かれている。
そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。
私小説とは、作者が自分自身と同一か、でなくとも限りなく自分に近い存在を小説の中心に据えることにより、むしろ逆に「私」を虚構化してゆくプロセスのことだ。村上春樹がしているのはこれとは真逆である。彼は「多崎つくる」というあからさまな虚構の存在を拵え、その周囲にやはりあからさまに虚構の何人かを拵えて、その関係性の内側に幾つかの虚構の事件を配して、そうすることで、そうすることによってしか可能ではないやり方で、紛れもない現実に起こった、けっして忘却も消去も出来ない過去に起こった、二年前のあの出来事に対して、小説家として、言葉を差し伸べようとしている。彼には言いたいことがあったのだ。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は「以後の小説」である。
33。「言葉たち」、イントロダクション
あれから二年と数ヶ月が過ぎた。あの日に起こったこと、あの日から起こったこと、今もまだ続いており、いつまで続くのか、いつ終わるのか、いつか終わるのか、いつか区切りが付けられるのかどうか、そもそも何をもって区切りと呼んだらいいのかもわからない、ひと繋がりの、だがけっしてひとつではない、無数の出来事にかんして、たくさんの言葉が、対話が、鼎談が、議論が、さまざまな機会に交わされてきたし、今も交わされている。私は、そうした「あの日」と/の「以後」にかかわる「言葉」の応酬を、幾つも読んできたし、時には直接耳にしたこともあれば、時には(ごく限られた機会にではあるが)自分自身が語ったこともあった。 それらの「言葉たち」の中から、幾つかの断片を拾い出して、以下に並べてみたいと思う。配列はランダムだが、読み進む内に、前後の文脈から抜き出された「言葉たち」が、本論がこれまで辿ってきた道程と、さまざまに響き合ってゆくさまに気づかれることだろう。尚、引用はひとつのまとまりごとに行なっており、基本的に省略はしていない(一箇所だけ中略した部分は「*」で示しておいた)。
34。「言葉たち」その1、ノイズ
高橋源一郎 このあいだ、千宗屋さんていうお茶の武者小路千家の次代の宗主になる人の茶室に招かれたんですけど、その茶室は麻布にあって、東京タワ−向きに窓が作ってあって、反対側には六本木ヒルズが見えるんですけど、茶室って行ったことあります? いい茶室。 大友良英 お寺とかにあるのを見学させてもらったことくらいしかないですね。 高橋 茶室って、千利休が基本形を作ったんだけど、まず狭い、そして暗い。入る時に狭いにじり口から入って、暗いのに窓もない。そしてこれがおかしいんだけど、茶室には掛軸がかけてあって、お茶の作法では、最初にそれを見なくちゃいけない。見て何かを言うわけです。だったら、合理的に考えたら、「明るくしろよ!」ってなる(笑)。鑑賞するっていうのが作法に入ってるのに、わざわざ暗く、ほとんど見えない状況にしている。「なんでこんなことしてるのかね?」って訊いたら、「感覚を鋭くするためです」と。 つまり普段の僕たちは、実は何も見てないんです。明るい中で目に入ってくるものを受け止めているだけ。見るっていうのはお茶で言う「拝見の型」みたいに意識を働かせて、対象に前身して、全神経を込めて見るっていうのが、本当の「見る」。だから普段の「見る」は、見ているうちに入らないっていうのが茶室の思想なんですね。音についても、茶室は真っ暗だから目の次に頼るのは聴覚です。茶室ではお湯を沸かしてるでしょ? 茶を立てる時に何をしてるのかと言うと、お湯がどういう状態かをずっと聴いてるんだって。ずっとシーンとしてるので、聞こえてくるのは自分の鼓動とお湯の音だけ。それではじめてものを考える、と。ここにはある種の合理性がありますよね。一瞬ノイズと反対のような感じがするけど、でも、これは暗くしてノイズを増やして、そして見る、ということ。 なんでこんな話をしたかというと、これを社会にあてはめると、社会のノイズっていうのは弱者なんです。障害を持っている人とか老人とか病気の人とかっていうのはノイズで、そういう人がいないほうがいいって考える。でも、それだと殺さないといけないので、どうするかと言うと、施設に入れちゃう。つまり遠ざける。昔はみんな家にいたでしょ。だから、ノイズが周りにあった。これは実は全部同じ問題で、近代というのは、すべてのノイズをなくそうとする時代です。するとどうなるかと言うと、わかりやすくなって、強い人だけが残る。意味があるものだけ。そうしたかたちが続いてきて、それが今の社会を作っている。だからね、音楽のノイズが一番正当的なんですよ、大友さん!(笑) 大友 いやいや(笑)。でも、ノイズの世界にいる人たちってやっぱりどこか感覚的にそれがわかっているところがあると思うんです。そうやって社会が不要としてたものの中に、自分にとっての大切なもんが実はいっぱいあって、そのことを感覚的に、もしかしたら身体感覚のような感じで知ってるんですね。どうもみんな、強いものとか権威のあるものに対して牙をむくクセがついちゃってるのは、そのためだと思うんです。それは反体制とか、政治的なポジショニングとは明らかに違う。もっと生きてくことの原始的な感覚として、そうなってるような気がします。 (大友良英×高橋源一郎「世界のノイズに耳をすませて」、『シャッター商店街と線量計−ー大友良英のノイズ言論』)
35。「言葉たち」その2、花火
中沢新一 日本のデモの様式は、本当に「様式」です。型がもう決まってしまってるんですね(笑)。僕が学生のときにデモというと、もう「序破急」みたいな……。何か、そういう独特のスタイルがあった。 國分功一郎 (笑) 中沢 でも、外国のデモを見ていると、あまり様式がないでしょう。道端までいっぱいに拡がって、みんな勝手にシュプレヒコールを叫んでいる。そういうのを見ていると「やっぱり日本は様式の国なんだな」と感じますよね。安保闘争のときのデモにもはっきりした様式があって、これに対する機動隊も様式的に振る舞っていた。しかも、そういうデモってだんだん組合主導になってくるじゃないですか。組合主導のデモの様式というのが、また気に入らなかったなあ。 國分 たぶん、みんなそれが嫌で、だんだんやらなくなったんでしょうね。 中沢 センスが悪いから(笑)。それでセンスのある人たちはデモに行くのが嫌になっちゃった。でも、この間の首相官邸前デモではずいぶん風景が違いましたね、半分くらいが「ファミリー・エリア」にいて、「どこが一番よく見えるの?」とか会話していて、これはもしかして花火大会なのかなと(笑)。近年のデモの様式の変化には、高円寺の「素人の乱」のサウンド・デモの影響も大きかったとは思います。 國分 流れている音のリズムや雰囲気もお祭りに近いものでしたね。 中沢 花火大会とデモが接近しているんです。花火大会だと、みんな動かなくていいじゃないですか。デモにおいては「動く」ということは重要な要素ですが、同時に動くと危険性も発生します。歩いていると、押されて警官にぶつかったりして、場合によっては公務執行妨害で逮捕されますからね。でも、花火大会の場合は動かない。動いてくれるのは花火ですから(笑)。集まっているだけで動かなくてよかったというのが、官邸前デモが拡がった大きな要因の一つじゃないかな。 (『哲学の自然』中沢新一、國分功一郎)
36。「言葉たち」その3、アクチュアル
相馬千秋 今回の『光のない。』『光のない II 』の上演は、震災へのいち早い、演劇からの応答でした。しかし、それを持ってアクチュアリティがある、だからよいというふうに受け取られるのは本意ではないんです。では、単なる内容主義や時事ネタではない形で、社会に演劇が必要とされるためにはどうすればいいか。演劇はどのように他のメディアと拮抗し、その特性を発揮できるか。そういった演劇の「政治性」について皆さんはどう考えられていますか。 高山明 僕は結構、『国民投票プロジェクト』なんて名前のせいもあって、政治的なものをモロに扱う作家だと勘違いされるんですよね(笑)。でもあれだって実際は中学生のインタビューを見せているだけで、内容として政治的なところはないし、そもそも政治運動に興味があるわけでもない。それよりは、さっきの「迷子」の話みたいに(註:これに先立つ部分で高山は、迷子になった外国人が道を尋ねているのを見て、奇妙な感覚に襲われたと語っている。「そこで感じたのが、この失調感覚は、震災後、僕が一時パニックになった時の感覚と似ているなということでした。秩序の崩壊を目の当たりにして、何かがおかしいけれど、それが何かは分からないまま過ごしていた頃の、放射能を体に感じられるくらいのビリビリとした感覚が、その時蘇ってきたんです」)、作品を通じてその人の置かれた環境や思考に亀裂を入れたり、溝を作ったりするようなことができれば、その方が政治的なんじゃないかなと思います。ですから「アクチュアリティ」という言葉は、僕の中では「距離」という言葉と結びつきます。三浦さんも以前発言されていましたが、みんなが共有している時事ネタを扱って、「これがアクチュアルだ」というような舞台は僕も勘弁です。むしろ、そういう距離のない状態になってしまったものに、いかに距離を入れられるかを考えていった方がいい。たとえば、新橋を歩いていても、一九七一年という年を思い出すことはない。でも、『光のない II 』の出発地であるニュー新橋ビルと、福島第一原発が、同じ年に作られたというふうに並べられることで、一九七一年が呼び起こされてくる。そうやって「いま」という時間に中断や亀裂が入ることをアクチュアルと呼びたいし、政治的と呼びたいなと思っています。 三浦基 僕が批判したのはマスメディアで「絆」とかいってお金を集め、思潮社を動員するような、安いモラルのことなんです。もちろん演劇だって政治に利用されることはあるし、いろんな宣伝文句を使って動員したりもします。特に日本人はみんなで集まってワーッと盛り上がりたいってのがあるし。でもそういうことに歯止めをかける効果は必要だし、意義のあることです。それも税金を使って、経済としては絶対に無理なことをすることに意味がある。ダメな芸術家は「経済効果にはならないけどやる価値があるんです」って言う。もっとダメな人は「少しでも興行収入を増やして、半官半民でやります」って言っちゃう。でも、そういう経済の論理に呑み込まれること、その議論に参加すること自体、絶対にしては行けないと僕は思います。基本的には、現代演劇は無駄。でもしょうがなくて、やるしかない(笑)。それが豊かなことなんだと、私たちは言っていかなくてはいけない。イェリネクの上演にしても、原発の問題を扱うのは辛い。でもそれは日々、われわれが問われていることだし、うすうす抱いているマスメディアへの違和感を提示するきっかけにもなる。それがまず必要なことなんです。 (高山明×三浦基×林立騎×相馬千秋「ことばの彼方へーーイェリネクの演劇言語をめぐって」、『フェスティバル/トーキョー12ドキュメント』)
37。「言葉たち」その4、儀式
磯部涼 小熊さんが言う官邸前デモの達成とは、著書『社会を変えるには』のあとがきで柄谷行人氏の言葉を引いて書かれているように、「デモをやって何が変わるのか」と問われれば「デモができる社会が作れる」ということですよね。そこをどう評価するのか、という問題にようにも思えるのです。 東浩紀 僕は、「デモをやることによってデモができる社会が作れた」というのはトートロジーなので、意味はないと思う。たとえば、「ゲンロンカフェを作ることによって、こういうスペースができる東京になりました」などと言っても仕方がないわけで、スペースを作ったらその次のステップを駆動するために別の目標を決めなくてはいけない。 小熊英二 それについての私の意見は『社会を変えるには』でもっと詳しく書きましたから、ここではくりかえしません。東 言い替えれば、僕はある種の「儀式」を求めている。形式主義者なんだと思います。僕は脱原発というのは「メッセージ」でいいと思っている。「何年までに全廃」とか具体的な行程の話になると、必ずいろいろなところから異議が出て潰れてしまう。そうではなくて、「福島という悲惨な事故があった以上、われわれは基本的に原子力をなくす方向でいきます」という、極めて抽象的なメッセージを掲げて、それを国是としていくというのが大事なんです。 いま政治というとすぐ実現性を求められる。実際にスケジュールを切って、「何年までに脱原発できるの?」と問われれば、いくらでも反論が出てくる。でも僕は原発の問題に関しては、「基本なくす」ということをきちんと宣言し、抽象論として共有するということこそ、政治の役割だと思うんですね。 * 東 民主主義は、そもそもそういう儀式がなくては成立しないものだと思います。 小熊 私の言い方に翻案すれば、「原発が止まることだけが目的なのではなくて、『自分たちの力で止めた』と思える事が大切だ」ということですね。それは冒頭に私が言った運動の二つの評価基準(註:「ひとつは、政策的な運動の目的を設定して、それに即して手段を考えるということ。もうひとつは、目的達成のために人々が参加して、それを通じて成長していくということ」)で言えば、政策的な目的を実現できればいいだけではなくて、みんなが力をつけて政治決定に参加できた自覚を持てることが大切だということです。儀式が必要だというのは、ある意味ではロマンティシズムかもしれないけれど、それがないがために、政治や運動に対する無力感を現実以上に広げてしまったことの影響は大きいですから。 東 日本では99までは成果が積み上がるんだけど、最後の1個のピースがいつもない。僕がこの5、6年ずっと思っているのは、ある種のビジョンを立ち上げることが必要だということです。ビジョンと言うと「大きな物語」のようで悪い印象がありますが、それは「最後の一歩」のことなんですよ。実質をずっと積み上げていった時に、最後にそれをどう名付けるか。そういう儀式が必要なんです。この名付けるという行為がないと駄目なことってあるんです。 (小熊英二×東浩紀「どう“社会を変える”のか」、『踊ってはいけない国で、踊り続けるためにーー風営法問題と社会の変え方』磯部涼編著)
38。「言葉たち」その5、パノラマ
伊東豊雄 2012年の初めに東京都写真美術館で畠山さんが展覧会をされて、最後の部屋で被災前の陸前高田と被災後の陸前高田の写真を同時に展示しておられましたね。ヴェネチアでも同じように被災前と被災後の展示をされて、さらに、会場全体を取り巻くパノラマ写真で被災後1年以上経った陸前高田の写真を展示されました。 畠山さんの写真は、僕が今まで見た畠山さんの写真の中で最も感動的というか、こんなに沈黙してる写真はないと思ったのです。カタストロフィの悲惨な風景でもなく、かといって日常的でもない、あの写真が沈黙すれば沈黙するほど、逆に何かそこに込められている思いみたいなものがすごく伝わってくる。 畠山さんは、昨年お願いした時点では「僕はまだ写真を撮る期になれないんですよ。とてもそんな前向きな気持ちにはなれません」と言われました。決して前向きにとらえた写真ではないのですが、でもあの会場(註:第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展。伊東豊雄のディレクションの下、乾久美子、藤本壮介、平田晃久の三人の若い建築家と、写真家の畠山直哉が参加した。この展示は彼らが陸前高田で取り組んできた「みんなの家をつくろう」プロジェクトのドキュメントとなっている)を覆っていた写真1枚によって、畠山さんはきっとまたひとつ新しい境地に到達したんだなということを実感したのですが、ご本人がいかがですか。 畠山直哉 写真家はとても不思議な立場に置かれている人種です。自分の行為をよく理解できないんですね。 私は今回、4人のアーティストのひとりとしてクレジットされていますが、同時に国際交流基金のカメラマンを奉仕で兼ねました。それで会場設営作業なども撮っていたのですが、展示が完成して「じゃあ、みんな並んで撮りましょう」というときに、僕はカメラの後ろにいるでしょう。そうすると、参加アーティストとしての僕がフレームの中にいないことになる。伊東さんたちがあわてて「畠山さんも入ってくださいよ。こっち、こっち」と呼ぶんですが、もし僕がそっちに行ったら、シャッターを切る人がいなくなる。 まぁ、そのときは、僕もにこにこ笑いながらみんなの間に入って、誰かにシャッターを切ってもらったのですが、そういうときに、カメラマンというのは、やっぱり出来事の外に出なくちゃ仕事にならないんだな、ということを深く感じます。 僕は常に出来事の外に出るという癖がからだにしみついています。だから、大変な出来事を前にしても、自分で意識しないままに、ついそこから外に出ちゃうという態度で振る舞っていることがあまりに多くて、自分でもちょっと精神的にこれは危機ではないのかと思える瞬間がたくさんあります。 日常そういうふうにして写真を撮っていますから、実際に写真を褒められても、ピンとこないわけですね。たぶん時間が経つと、あのときの自分の行為はこういうことだったんだなとわかる瞬間がくるかもしれませんが、今、伊東先生がおっしゃったパノラマ写真で新しい境地に達したかどうかは、今のところ、あまり自分では分析できていないです。 伊東 畠山さんが、写真家はそうやって外側に立たなくてはならないと。そのことをさっきナレーターという言い方で言われたのだと思いますが、あのパノラマ写真は、写真技術の問題としてどうか、あるいはカメラの使い方がどうかという問題を抜きにして、今年の初めに写真美術館で見た畠山さんの被災後の写真は、外側に立てていないという感じがすごくしましたが、今回派もう一度外側から見ることができるようになったのかな、という気がしています。それと畠山さんには陸前高田とほかの場所を撮るのではまったく違う想いがあって、やはりそこがビエンナーレの写真の感動に繋がっているのではないでしょうか。 畠山 そのパノラマ写真について補足しておきますと、あれは今年の6月24日にもと陸前高田駅があった場所のそばにある瓦礫の丘から撮ったものです。撮影をしながら気がついたのですが、カメラをパノラマ雲台に載せてパンニングしていたら、県立高田病院の建物がファインダーに入ってきて、その4階の破れた窓にファインダーの中心線がピタッと合った。そのときに僕は、「あっ、そういえば、あそこまで津波が来たんだっけ!」と思い出したんですよ。カメラは完全に水平が出ているわけですから、僕がそのとき立っているところ、僕のカメラのレンズから下も、水だったんだ!と、その瞬間想像できました。 そう想像しながら、360度のパノラマ写真を24カットに分けて撮影しました。ですから日本館の壁に写真を展示したときは、そのことを英文で入れました。「この写真は津波が来た高さと同じ高さから撮られています。ここから下はすべて水没していたのです」と。目の高さにその文章がありますから、読み終えた瞬間に、自分の目から下が水没しているという想像を観客に与える。そういう効果もあの写真にはあります。 (『ここに、建築は,可能か』伊東豊雄、乾久美子、藤本壮介、平田晃久、畠山直哉)
39。「言葉たち」その6、消失/喪失
和合亮一 自分が消滅するということをどうして求めるのかなってずっと考えてきたんですが、今回の震災で少しわかった気がするんです。消滅する、消えていく、消失する、言葉を失う、家族を失う、平穏な日常を失う、……いろんなものを失ってきたし、あるいは失ったひとをたくさん見てきた……。だからこそ、よりはっきりしてくる「生」といったらいいのかな。一回、一回、そういうものを求めたい、はっきりとした存在を求めたい、確然とした世界を求めたいから、自らの手で消滅させるんだなって思った。言葉を失って、写真を撮ってもう一度、言葉を取り戻した感覚を持ったとき、震災前までは自分の言葉にしがみついてたんだなってわかったんです。やってきたことにしがみついていて視界を狭くしていた。でもすべて消し去って、ぜんぶ投げ出したときに、すごく拙い何かが自分のなかに現れてきた。そういうことを能楽師のかたはおっしゃっていたのかもれないって(註:この直前に、和合は能楽師の津村禮次郎と会話に言及している。「能楽でいちばん自分がうまくいっているときってどんなときですかってお聞きした。そうすると即座に、自分がこの世界にいないって思えたときだっておっしゃった」)。 吉増剛造 言葉を変えると、本当に巨大な喪失、底知れない喪失、あるいは巨大な虚無みたいなもの、……それが世界の次の光を見せるんだよね。……その声を聞かせるんだよね。だからそれは作品、とくに詩をつくっていると必ずぶつかります。いろんな雑音が出てくるし、いろんな言説が出てきますよ。だけどね、それを突破するようなときと、生きかたを与えられたんだよね、……。歌声とシャッターから、何かが詩の傍に出てきた、……ヴィジョンが出てきた、……だから今度の詩集がたいへんな評価を受けるとかさ、芸術家ってそういうことを考えるし、そういうことも大事ではあるけれども、本当はそれだけじゃない、……もっともっと大きな洞穴の眼みたいなものを見たからさ、……だから、これからダンテの『神曲』みたいなものを書かなくちゃいけないのかもしれないし、……だね(笑)。 (吉増剛造×和合亮一「四辻の棒杭、つぶやきの洞穴」、現代詩手帖二〇一三年五月号)
40。「言葉たち」その7、アート
宇川直宏 デモの話なのですが、まず3・11に関するデモはエクストリームである必要性がないのではないか? と。今回の場合は、別に社会的に威圧された少数派の主張を公の場に唱えているわけではないですから。「反原発!」「NO NUKES!」これは八〇年代のハードコアパンクのクリシェでもありましたが、放射性物質によって生活環境が汚染されてしまって、健康が脅かされ、内部被爆の危険に晒されている現状、脱/反原発は大衆の生の声であり、すでに全体意志である訳だから、別にここでエクストリームな主張はむしろ必要ないとさえ思います。マイノリティを含め様々な立場に存在する日本国民が連帯して、法で定められたルールにのっとったうえで、原発問題と対峙して、広く大衆にその主張を知らしめることが目的ですから、逆にマジョリティとしてのアピールが必要なんですよ。つまり暴走しないほうが国民の声として拡散されて行くし、賛同者も増える。DOMMUNEではデモの番組をたくさんやっていますけど、表現のスタイルとしてのエクストリームはけっこうありますよ。このまえ「怒りのドラムデモ」というのがあったんですが、とりあえず打楽器を持っている人たちだけがただ叩いているだけ(笑)。もちろんスネアでもジャンベでも和太鼓でも、自転車のベルでも、フライパンでも、クッキーの缶でもなんでもいい、利権を守っているやつらの鼓膜をぶち破るように、抗議の感情でドラムを叩き続ける!(笑)これは表現として、ある意味エクストリームですよね。 東浩紀 うーん。しかしそれははたしてデモなんでしょうかね。 宇川 デモです。つまりデモは社会の注目を集めて、公共の側に主張を拡散していく、それを世論に変えて行くことが目的なので、怒りや悲しみが、大衆に伝わるのであれば、どんな表現方法をとってもいいわけですよ。しかも現代のデモは、ゴミ拾いも同時に行なわれているので、デモ隊が通ったあとの路上は綺麗になっています。これって巨大な掃除機ですよ。デモ隊はダイソン以上の吸引力(笑)。これって現代アートの世界では赤瀬川原平さんたちハイレッド・センターが、メンバー全員白装束で、とにかく掃除して街並みを綺麗にしてみせた「首都圏清掃整理促進運動」という直接行動と同じで、暴力的なパフォーマンス以上にむしろ異質、ゆえにアピールとして成功しているのだと捉えることもできます。 東 ちょっと意見が違うかな。 僕は、むしろそういう行動は、逆に世の中で許されている感じがするんですよね。居場所が確保されたうえで変なことをやっている。そもそもいまでは、「アート」という言葉自体、本来はエクストリームだったものに社会的な承認を与え、馴致するために使われるものになっているでしょう。要は、「アート」と名づけられた瞬間、攻撃性を失ってしまうわけです。デモにも同じことが言えないですか。だから僕としては、『思想地図β』で震災特集号を作ることを選んだのだけど。 たとえば柄谷行人さんが、反原発デモで「デモをすることによって、日本の社会は変わる。なぜならば人がデモをする社会に変わるからだ」と演説をしていました。僕はちょっと待てと思うわけです。いま柄谷行人に求められるのは、そんな自己肯定的な演説をして聴衆に拍手されることなのか。むしろ柄谷行人は本を書くべきではないのか。デモに一〇回行くよりも本を書くほうがずっと大変なはずではないのか。これはいま、言論人やアーティストがなにをやるべきなのか、一般的な問題と関わっています。政治運動、イコール、デモみたいな発想は疑問です。 宇川 仰るとおり、3・11以降、東さんのような言論人、そして僕のようなアーティストは、どんなアクションを起こすのか? 社会示唆的な価値を問われているのは確かです。とくに自然災害のような人知の及ばない強大な力を見せつけられたあと、作家の本質は炙り出されますからね。でも僕らはそんなステージに本来立っていたのだし、それは作家の宿命だとも言えます。なので、柄谷行人さんは、本を書きながらデモに参加すればいいのだと思います。 (宇川直宏×東浩紀「「ばらばら」から始まるエクストリーム」、東浩紀対談集『震災ニッポンはどこへいく』)
41。「言葉たち」その8、言語
山田亮太 3月11日の後に、詩人の中でもいま詩人は何をすればいいのかと多くの人が考えました。沈黙する人もいれば、いまこそ詩の力をと積極的に行動する人もいました。外からも詩の言葉が求められることが多かったと思います。そんな状況を谷川さんはどう考えられていたのでしょうか。 谷川俊太郎 僕は被災者じゃないから書かないという立場ですね。出来る限り平常心を保った方がいいと考えているから、津波とか震災のことを気にしないようにしてるんだけど、意識下にはあるから、書くと自然にそういうものが出てきてるとは友人に言われましたね。詩ってそういう多義的なところがあるから、流行ったんじゃないかと思うね。 山田 書きたいという衝動はなかったですか? 谷川 ないですね、ぜんぜん。僕は自分から書くとかないんだもん。「どういう気持ちで書いてますか」ってよく聞かれるけど、「原稿料いくらかなと思って書いています」って言うと凄いしらけるのね(笑)。僕はあまり言語を信じていないんですよ。だから書けたところがあって、ああいう災害があった場合に自分の詩が役に立つっていう意識では書けないんです。和合(亮一)さんは自分も被災者として何か言いたくて仕方がなかったし対話したかったというのは凄く理解できるんですが、僕は災害について詩を書くことには後ろめたさがあります。いくつかは書きましたけどね。詩を書くくらいならお金を出した方がいいという立場です。 (現代詩手帖特集版『はじまりの対話 Port B「国民投票プロジェクト」』)
42。「言葉たち」その9、日本語
高橋源一郎 震災の直後、作家たちはみんな「書きにくい」という話をしていました。なぜ書きにくいのかというと、自分の書いたものが読めないんです。日常生活の底に潜む危機とか夫婦の不安とか、存在の不安とか、バカバカしくて書けないし、読めない。つまり、いままでの書き方では危機に対応できない。ただ、これは震災に始まったことでもないという気がします。どういうことかと言うと、ちょうど一週間前に、同じ会場で古井由吉さんの作品集の刊行を記念してトークイベントがありました。僕も登壇したのですが、そこでおもしろいなと思ったのは、古井さんはいま七五歳で、震災以降も書き続けていて、日本文学の王道を行くような人にもかかわらず、自分では全然そう思っていないと言ったんです。僕はその理由を聞いてびっくりしたんですが、自分より若い作家たちは文章がきれいすぎると。彼はいわゆる「内向の世代」に属する作家ですが、彼ら以前の作家たちは、そもそも文法的に誤りがあったり、てのをはが間違っていたりと、文章がめちゃくちゃだった。それに比べて若い作家たちはなぜ、みんなきちんとした日本語を書いているのだろう、と疑問に思ったと言うんです。すごく繊細に、細かな違いを描き出そうとしているのだけれど、その前にもっと考えるべきことがあるだろうと。たしかに古井さんの小説は、いま読んでも日本語が変なところがある。 なにを言いたいのかというと、僕はやはり三月以降、ほとんどの小説が読めなくなりました。自分のなかで言葉に対する感覚がものすごく鋭くなっていて、まさに危機対応の状態なので、ほとんどの小説が読めなかった。たとえば和合亮一さんの詩も、すごくまじめに書かれているのだけれど、だからこそ読めない。一方で、古井さんの文章は読めたんですよ。なぜかと言えば、いろいろなものが間違っているから。つまりどういうことかと言うと、きちんと書けるということは、文章のことしか見ていないということでもあるのではないでしょうか。この世界についてもっと知りたい、それを書きたいと思うと、言葉がおかしくなるはずです、もちろん、小説家は技術によって言葉を整えるのだけれど、そういう、言葉しか見ていない作家の文章は読めなくなってしまった。僕は3・11以降とくに顕著になったのだけれど、本当はいつでもそうでなきゃいけないのかもしれない。 ��高橋源一郎×市川真人×東浩紀「3・11から文学へ」、『震災ニッポンはどこへいく』)
43。「哲学」に何が出来るか?
最初からそのつもりだったわけでは必ずしもないのだが、結果として本連載は、二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災と、それに続く福島第一原発事故、ふたつの固く結びついた出来事によって分割されたとされる時間軸をめぐって、より精確に言うなら、あの日「以後」ということ(「問題」という語は敢て使わないでおく)へのかかわり合い、コミットメントのありようをめぐって、とりわけ広義の「芸術」や「表現」或いは「言論」と呼ばれる領域において、私なりに思考を巡らせてみる、というものになっていた。それはもとより何らかの答えなり結論なりを目指してきたわけではない。私はただその時々に出会った/見知った「芸術」や「表現」や「言論」から対象を選び、言葉を書き連ねてきただけである。そしてその道程も、まもなく終わろうとしている。 デイヴィッド・ヒューム研究を出発点とする一連の因果論(『原因と結果の迷宮』『原因と理由の迷宮』『確率と曖昧性の哲学』など)で知られる哲学者の一ノ瀬正樹は、茨城県南部の自宅二階の書斎で、あの日あの時を迎えた。「最初はいつものこととたかをくくっていた。しかし、揺れが激しさを増す。ド��の敷居のところに行って身を守ろうとする。まもなく、生まれて初めて経験する大きな揺れが襲ってきた」。
ここから新しい世界が始まった。まもなく水道が止まり、電気もストップした。私はラジオを持っていなかったので、その日の晩遅くに車載のワンセグでテレビが見られることに思い至るまで、一体何が起こったのか分からずにいた。ようやく情報を得て、東北地方でとてつもないことが起こったことを知る。巨大地震と大津波、東日本大震災である。下半身から力が抜けていくような感覚を覚える。数日間、ロウソクともらい水の生活をした後、ようやくライフラインが復旧するかと思った頃、津波震災の結果として、福島第一原子力発電所一号機から四号機までが次々と爆発した映像を目の当たりにすることになる。三月十二日から十五日にかけてのことである。
それから約二年の時を経て、一ノ瀬正樹は『放射能問題に立ち向かう哲学』という書物を上梓した。右はその「はじめに」から引いた。このように(誰もがそうするように)自身の体験と実感の記述から始めながら、この本の著者の姿勢は、他の数多の「以後の論者たち」とは、かなり異なっている。この本は「東日本大震災と原発事故に起因する放射性物質拡散の問題について、原発それ自体の是非をめぐる政治的問題性やイデオロギー性から一旦切り離して、あくまで放射線被爆の健康影響にまつわる事実認識・事実評価を論じるというスタンスから、哲学専攻の著者が少しずつ書きためてきた哲学ノート」なのである。 『放射能問題に立ち向かう哲学』で展開/吟味される主張は主として四つ、それらはあらかじめ「はじめに」に提示されている。以下に掻い摘んで記すと、(1)「たとえかりに被災地からやや離れた地域に住む人が、放射線被爆によって二〇年後に病死するという事態が発生したとしても、二〇一一年三月十一日に津波によって溺死や打撲死したという人々の方が、圧倒的に余命が短かった」のだし、また「避難生活や仮設住宅暮らしを余儀なくされている方々の、そうした生活に起因する苦悩も、現在進行形の物理的な苦しみであり、晩発的な苦しみよりずっと実在的である」。従って「放射能問題」ばかりクローズアップすることは、却ってマイナスになりかねない。(2)「放射能が原発から漏れ出してしまったという事実はすでに起こってしまったのであり、キャンセルできない」。ゆえに「日本に暮らす限りは、以前よりなにがしか多い不必要な放射線被爆をする蓋然性がやや高いという事態(現存被爆状況)に向き合うしかない」。だからこそ「現存被爆状況」を「程度の問題(a matter of degree)」として冷静に認識しつつ、「この環境の中で私たちはどのように生き抜いていくか、どのように社会を構築し、復興していくか、ひいてはどのように生きる目標や喜びを見いだしていくか」を課題にするべきである。(3)だが「少なくとも放射線被爆という生体的影響に関わる点では、外部と内部の両方の被爆に関して、最初に懸念されていたほどには深刻にならずにすんだという事実も確認するべきである」。「被爆線量の情報からして、余計な被曝はせいぜい胸部CTスキャン一回の医療被曝と同程度」か、それ以下である。そしてこれは国や電力会社の責任や原発の是非とは別個の問題である。 (4)しかしながら「津波震災そして原発事故が人々の心に及ぼした影響は、大変に甚大である」ことは言うまでもない。それゆえに不安や不快や不信、不当な差別や不毛な論争などといった「不の感覚」が、今も大量に社会全体を覆っている。「もしかしたら、この事態こそが放射能問題がもたらした困難の核心、最大の有害性かもしれない」。このような事態の克服をこそ目指さなくてはならない。そのためには「一つの発言、一つの行動には、良い面と悪い面の両方が伴う」という「道徳のディレンマ」に敏感であることが必要である。 これら四つの論点を、一ノ瀬氏は本文で「専門家や有識者の見解に学び、それに沿って考えていく」。『放射能問題に立ち向かう哲学』に先立ち、伊東乾(音楽)、影浦峡(情報論)、児玉龍彦(分子生物学)、島薗進(宗教学)、中川恵一(放射線医学)の諸氏と交わした討議と論考を纏めた『低線量被曝のモラル』も出版されている。各論点の詳細には立ち入らないが、かくのごとき一ノ瀬氏の主張が、少なからぬ反論や疑問に晒されるであろうことは想像に難くない。とりわけ「反原発」をエモーショナルに信奉しているような者には、おそらく大いに不満だと思われる。『放射能問題に立ち向かう哲学』の「おわりに」で、一ノ瀬氏は、現在の状況下では「安全性の度合いを高めること」と「度合いが高められないことが判明したものは少しずつなくしていくこと」、すなわち「度合い」と「少しずつ」という二つの概念が必須であると述べ、だがこのことがなかなかわかられていないと書く。「しかし、どうも私とは異なる捉え方をする方々がおられた。「度合い」と「少しずつ」という論点などは関係なしに、「いかなる被曝も危険」とか「不安を抱くのは当然」といった言説が流通し、そういう捉え方がむしろ社会正義を体現するかのような報道が多々なされたのであった」。
放射線を徹底的に避けること、そういう行動が容易に実行可能であり、しかもそうすることで別の害を発生させないのであるならば、そういう行動を取ることはまったく個人の自由だし、むしろ推奨されるだろう。けれども、残念ながら、私たちの世の中の多くのことは、もっと複雑なのである。一つの害を避けるという行為はそれ自体としてはの労力を必要とするのであり、そのことによって、別の害を産み出してしまうことがあるのである。(略) 放射線被曝を避けようとする「避難」という行為に、まさしくこのことが当てはまる。正直なところ、(中略)いかなる被曝も危険だと主張する方々が何を述べたいのかが私には本当の意味では理解できないのだが、もしそれが、福島原発周辺の広範な地域に住む人々に「避難」を勧めているということだとするならば、それは、現状に関するこれまでのデータからして、有害な勧奨であることはほぼ間違いない。人々を救うどころか、かえって人々を苦しめ、場合によっては死に至らしめてしまいかねない、迷惑な、そして危険な勧めである。(略)ネットなどを通じて、子どもを守るのは親の当然の務めだとして、避難したり、福島産の産物を忌避することなどを宣言している人がいるが、それは、長い目で見るならば、結果として、自分自身に、そして他人にも、害を及ぼす恐れのある危険な行為であることに気づくべきである。せめて、人に語ることなく、自分だけで実行するところでとどめてほしい。他人を巻き込まない行為は、自身が受ける害益はどうあれ、基本的に自由だからである。
この、ほとんど静かな憤怒ともいうべき文章の意味するところを、どう受け止めるかも、読む者によってかなり異なるだろう。私自身はといえば、一ノ瀬氏の主張に概ね同意すると同時に、極私的な「不の感覚」の膨張に突き動かされて、「度合い」と「少しずつ」を頭で理解はしても採用することが出来ず、やみくもに「避難」や「忌避」を表明したがる心性を、やはり否定することは出来ない。私自身はまったくそうは思わないが、そうなってしまう人が存在することを前提にしないで、「以後」を考えることは不可能だと思うからである(一ノ瀬氏の立場も実際にはこれに近い)。ともあれしかし、繰り返しておくが、『放射能問題に立ち向かう哲学』という本の主題はあくまでも「放射線被曝の健康への影響」であり、著者はその中で「原発」にかんして肯定/否定いずれのステイトメントも述べてはいない。そして「放射線」にかんして、科学的なデータや資料、専門家による多数の研究を援用しつつ、論述の構えとしては、一ノ瀬氏が「あの日以前」から長年継続してきた「因果」や「パラドックス」についての思考、すなわち「哲学」を駆使している点が、この本の最大の特長である。つまり一ノ瀬正樹は、こう言ってよければ、単に自分にやれることをやったのである。それはしかし、哲学者としての責務でもなければ、もちろん権利でもありはしない。書名に選ばれた「立ち向かう」という言葉の意味を、私たちは、よくよく考えてみなくてはならない。
44。「私小説」に何が出来るか?
佐伯一麦の『光の闇』と『還れぬ家』は、これまで幾度か取り上げてきた「以後の小説」の風景に、また新たな光を投げかける。どちらも「二〇一一年三月十一日」を挟んで書き継がれたものである。『光の闇』は「欠損感覚」をテーマとする連作として雑誌「en-taxi」に数年がかりで発表された七編の短編に、やはり「欠損」が描かれているが「私小説」ではない「二十六夜待ち」を加えて一冊としたものである。「鏡の話」では聴覚、「水色の天井」では左足、「髭の声」では視覚、「香魚」では嗅覚、「……奥新川。面白山高原。山寺」では声の欠損が、それぞれ主題とされている。佐伯一麦の多くの作品と同様に、それらは作者自身の実人生に想を得ていると思しく、各編に登場するさまざまな欠損を負った人物たちも、おそらくは実在している。健常者であれば、ごく普通に身体に備わっている筈の感覚を何らかの理由によって失った人たちが、しかし「欠損」を殊更に否定的にも肯定的にも捉えることなく、いわば人生のありのままの現実として静かに受け止めている姿が、いつもながらの淡々としつつも鮮やかな筆致で描かれている。 連作が五作目まで発表された後、あの日が訪れた。その後に書かれた「空に刻む」は、一作目の「鏡の話」の後日談である。仙台在住の作家である「僕(「茂崎皓二」という名前を持っている)」は、市民センターの文学講座で知り合ったろうの老人の「堀井さん」が、やはりろうの夫人と二人で住む海に近い自宅を「鏡の話」で訪問していた。「堀井さん」は講座に熱心に通ってきて、「僕」と筆談で会話を交わすようになり、やがてFAXでの個人的なやりとりも始まった。「ろうの人が自分で書き記した体験の話は少ないんです。それを、私は書き残してから死にたいんです。ですから文章の指導をお願いします」と、ある時のFAXにはあった。「鏡の話」では、堀井宅でのひととき、「僕」がロンドン土産に買ってきた万華鏡を夫妻に手渡しつつ、染めた糸を編んで服やアクセサリーを作るアーティストである妻が工芸展に出店するのに同行したロンドンで、急に入り用になった大きな鏡を探して町中を奔走した際の苦労話を筆談で物語る。言葉がちゃんと通じない外国での体験と、耳の聞こえないろうの人々の日常感覚が、穏やかに、やんわりと織り重ねられる。 それから三年近い月日が過ぎた「空に刻む」は、震災後、「僕」が宮城県立美術館で、聴覚障害者でもある画家の松本竣介が一九三七年に描いたとされる『郊外』を見た時のことから語り起こされる。「何層もの深いみどりの森の中にある白い建物は小学校だろうか。その校庭で子供たちが遊んでいる。犬もいる。瀟酒な家々も緑の中に見え隠れして点在している」。それは「メルヘンチックとさえも感じられ、正直のところこれまでは、その絵の前に立つと僕は、多少の気恥ずかしさを覚えないでもなかった」。ところが、あらためて見た『郊外』は、印象がまるで変わっていた。
そこには、震災以後、何度となく想像させられることになってしまった光景が描かれているように、僕には感じられた。 左右に黒っぽい青と深い緑の海藻がゆらめく海の底に、小学校らしい白い建物が沈んでおり、その校庭では子供たちが遊んでいる。犬もいる。そして、背後の“みどりの波間”に、津波に浚われた白い瀟酒な家々が見え隠れしている……、というふうに、同じ画面が、震災前に目にしていたときとは、一変して見えた。 もちろんその風景は、絵を描いた当時に住んでいた東京の落合とも、幼少年期を過ごした岩手県の花巻や盛岡とも言われているが(現実を自由に再構築する名手だった松本竣介だけに、そのどちらでもあったのだと僕には思えるが)、ともかく地上の郊外を描いたことは確かだ。だが、そのときの僕には、地震の後に津波に襲われて流され、海の底に存在しているもう一つの世界の光景と思われてならなかったのだった。
その絵の前で立ちつくしながら「僕」は「堀井さん」のことを考える。海沿いの土地に住んでいた「堀井さん」と奥さんは「家から一キロほどの距離の中学校に逃げ込んだものの、奥さんのほうが津波に呑み込まれて行方不明となっている」。そして「堀井さんは、娘さんの所に身を預けることになったが、いまは誰とも会いたくない、と固く心を閉ざしている」。震災から十日ほど経った頃、「僕」は「鏡の話」と同じように、以前に「堀井さん」の自宅があった場所に行ってみようとする。だが、津波の被害はあまりにも惨く、そこまで辿り着くことさえ出来なかった。 「空に刻む」は、震災から四ヶ月後(それはつまりこの小説が書かれた時のことだ)に「僕」が「堀井さん」に宛てた手紙で終わる。「堀井さんはいま、どこでいかがお過ごしでしょうか」と書き出される文面は、やがて美術館で松本竣介を見たことを語る。『郊外』と一緒に『白い建物』という作品も見た。「絵の中の建物の上には青空が描かれていました。その受苦の色の青を目にして、以前堀井さんから教わった空文字のことを思い出していました」。「空文字」とは、筆談用の紙がない際に、宙に文字を書くことをいう。この言葉を「鏡の話」で「僕」は「堀井さん」から教わったのだった。
堀井さんが、樹々の緑や草花、そして青空に目を留めるようになるのはいつのことになるでしょうか。そのとき、青空に空文字を一文字書くとしたら、どんな文字となるでしょうか。
言うまでもあるまいが、この短編の幕切れがこの上なく感動的なのは、筆談で会話を交わしてきた「堀井さん」に向けて、小説の中の手紙という形で、「僕」が、いや、佐伯一麦自身が、声を投げ掛けているからに他ならない。誰とも会おうとしない、どこに居るとも知れない「堀井さん」は、だがしかし、もしかしたら、これを読むかもしれない。たとえ返事はなかったとしても、この小説の姿を纏った手紙を(それは「手紙の姿を纏った小説」と言っても同じことだ)読んだかもしれない。そんな微かな希いが、この「空に刻む」という小説が書かれた動機であり、存在理由となっている。つまり、この「手紙=小説」も、一種の「空文字」なのである。 連作の末尾となる表題作「光の闇」では、「髭の声」に登場した「僕」の旧友である盲学校教師の「棚橋」が、東北地区の盲学校の弁論大会の審査員を「僕」に依頼してくる。あいにく「棚橋」自身は異動となり、大会には不参加だったが、「僕」は引き受け、盲学校の生徒たちの弁論に耳を傾ける。震災時の体験が聞けるかと思っていたのだが、実際には「すべてが自分の障害に関するエピソードを語ったものだった。自分がいつ、どこで失明したのか。そこからどう立ち直ったのか」。震災から一年後、「僕」は「棚橋」、そしてやはり「髭の声」に登場していた盲学校の「吉岡先生」と「中山先生」、そして初対面の「太田先生」と居酒屋で語り合う。三人の先生いずれも全盲者である。「僕」は気づかなかったが、じつは三人とも、あの弁論大会に出席していたのだった。彼らは「僕」が聞きたかった震災体験を、それぞれに語る。七つの短編小説から成る連作は、こうして幕を閉じる。 長編小説『還れぬ家』は「新潮」の「二〇〇九年四月号」から連載が始まり、約三年半にわたり書き継がれて「二〇一二年九月号」で終了した。途中何度か休載が挟まるが、「二〇一一年四月号」から「二〇一一年七月号」まで二ヶ月のブランクがある。もちろん震災によって中断したのである。連載が再開されたのは第八十章からだと思われる。その間の事情について、やはり佐伯一麦とほぼイコールである「私」は、作中に登場する「二〇一一年三月十五日火曜日」という日付の付いた「震災以後の出来事のメモ」に、こう記す。
電話がようやく繋がるようになり、S編集部より見舞いの電話あり。「還れぬ家」、今月は取りあえず休載とさせてもらうことにしたが、これから先を書き継ぐことが出来るのか、大いに不安となる。連載の今の時点では、作中の「私」は、二〇〇八年八月を生きているところ。そして、父は、連載を始めた翌月の二〇〇九年三月十日に死んだ。あと数回を費やして、その父の死までの半年余りを、現在進行中の出来事として再現させるつもりだった。だが、三月十一日の大震災によって、小説の中の時間も押し流されてしまったのを痛切に感じる。もはや、前に続けて書き進めることは無理かもしれない。父のことが、急に遠景に退いたように感じられる。その実感に就き従って、小説に段差が生まれるのを恐れずに、現在進行中の出来事から回想へと表現を変えるべきか。
そして実際、重度の認知症に陥った父親と、息子の「私」、「私」の妻、母親という四人の家族(他に兄と姉も居るのだが、実家の近隣には住んでいない)の数年間を克明に描いてきたこの小説は、第八十章以降、いきなり父親の死後に記述が跳び、それからは当初の予定であった「父親の死へと至る時間」と、執筆時の現在である「震災以後の時間」が、並行して語られてゆくことになる。それは当然、唐突さを拭えないし、いささか混乱した印象も与えている。それでもやはり、作者はそうすることを選んだ。そうせざるを得なかったのだ。 右の「メモ」とほとんど同じ心境を、佐伯一麦は二〇一二年二月三日に東京大学本郷キャンパスで行なわれた公開講義『震災と言葉』(岩波ブックレットで冊子化されている)の中で語っている。この講義の時、まだ連載は継続中だった。「僕が主に書いている小説は「私小説」と言われるジャンルです。(略)その時に思ったのは、自分の実感を裏切りたくない。ということでした。それを裏切らないことが、自分の小説表現の一つの立場であろう、と。そうすると、その前に書いていたやり方では書けなくなってきたという実感が、やはりどうしようもなくあるわけです」。
もう少し具体的に言いますと、例えば小説を書いている時には、時間の流れというものがある。明日とかあさってとか、三ヶ月後とか、あるいは三年前に父はこうだったとか、時間の流れみたいなものがあるわけです。すると、着々と時間の経緯というものがある場合は、それで通用するのだけれども、明日、といってもまだ余震がずいぶん続いているような状況で、明日どうなるか分からない。二週間後とか三週間後とか書いても、自分自身が二週間後や三週間後を信じられない、そういう言い方を、肉体の方が信用していないわけですね。自分自身が、三週間後はこの状態のまま続くとはとうてい思えないという場合に、その三週間後とはどういう意味合いを持つのか。一年後、二年後というのも同様です。
「時間の流れみたいなものを書こうとするだけで、手がこわばるといいますか……」。「メモ」にあった「段差」という言葉が、講義では「断層」とも言い換えられる。「時間の断層」によって「小説」が塞き止められてしまっているのだ。「小説の言葉というのはあくまでも時間の推移というものが信じられるぐらいの日常性がないと、そもそも出てこないということです。それがないと、言葉による表現は成り立たないのではないか」。だが「日常性」は失われてしまった。
さすがに今回の震災みたいなものだけは、事前に考えようにも考えられなかった。いくら仙台では三十年以内に九十九%の確率で大きな地震が起こると言われても、こんなふうになるとはやはり考えられなかった。しかし、それについて僕自身は、書き手としても何となく敗北感のようなものをいまだに持っているのです。ただし、そういう状態の中で、この作品を最後まで書き切るということでしか、これは自分としても乗り越えられないのではないかと思っています。
そして佐伯一麦は、こう語ってから残り数回の連載を経て、『還れぬ家』を完結させた。小説は第百八章まで続いたのち、「早瀬光二の手記」と題されたエピローグで終わる(「早瀬光二」とは作中の「私」の名前である)。「平成二十年三月十一日に、アルツハイマー型の認知症である、と診断された父は、それからきっかり一年の余命を送り、翌年の三月十日に亡くなりました。父の存命中に筆を起こしたときには、これほど早く父が逝くことになってしまうとは思っていませんでした」という述懐から始まる。前に述べたように「新潮」で連載が開始されたのは「二〇〇九年四月号」だった。同誌が発売されたのは三月初旬、雑誌に入稿されたのは二月、ということはつまり、ほんとうに「これほど早く」父親は亡くなったのだ。『還れぬ家』は、その出発時から間もなく、既に一度、或る「断層」を超えていたのである。 この小説自体が「私=早瀬光二(=佐伯一麦)」による一種の「手記」と言えるのかもしれないが、その最後にあらためて「早瀬光二の手記」として置かれた文章には、それまで描かれていなかった父親の葬式、そして震災後に重篤な被害に遭った地域に赴いた時のことが語られている。そこに「聴覚障害者のMさん」の話が出てくる。「ご主人が運転する車で避難所に指定された中学校の建物へ辿り着いたものの、車を駐車場に入れようとした夫が、突然襲ってきた津波に目の前で流されてしまい行方不明となってしまった」という「Mさん」は「震災以降、誰とも会いたくない、と娘のところに身を寄せている」という。「Mさん夫妻」の家には「大きな鏡」があったというのだから、いやがうえにも「鏡の話」と「空に刻む」の「堀井さん」を思い出してしまう。だが、頭文字は異なるし、津波で行方不明になったのが夫なのか妻なのかも違う。しかしそれは、何らかの配慮によるというよりも、「私小説」とは、「小説」とは、そういうことをするものなのだ、ということなのではないか。「堀井さん」や「Mさん」が、実はまったくの虚構の人物であったのだとしても、その事実によって、これらの作品の意味が根こそぎ損ねられてしまうわけではない。なぜならば、そのようなひとは、間違いなく現実に居たに違いないからだ。
45。「世界」が君に救われるように
稲川方人の『詩と、人間の同意』は、『彼方へのサボタージュ』と『反感装置』(いずれも一九八七年刊行)以来、およそ四半世紀ぶりとなる詩人の随想集である。『彼方』は詩論、『反感』は映画を中心とした評論の集成だったが、この本は、ちょうどその中間の表情をしている。 もともとは、もっと前に出る筈だったのが、著者自身の意向によって、この二〇一三年の五月まで、刊行が遅らせられた。更に、当初の予定から書名を変更し、内容や構成も一部改められている。稲川方人は、その理由を、冒頭に据えられた「はじめに」で明確に述べている。
本書の初校ゲラが二〇一一年三月以前に組まれてあったからである。一年ほどゲラを手にすることも避けていて、二〇一二年六月になってようやく目を通した。この「まえがき」も改めている。書名を変えたからといって何が変わるわけでもない。初校に組まれてあったいくつかの文章を割愛したりもしたが、変えようとすること、そして、だが変わらないことーー二〇一一年三月から一定の時間を経たいまの苦い心象だ。ただ、私個人を吐露すれば、変わらないことと「詩」の終わりとはもはや同義にしか思えなくなった。
稲川方人という詩人は、登場した時から「詩の終焉」と共にあった。それは「文学の終焉」と言い換えてもよい。だがその「終焉」は、いつまでも真の幕引きを迎えることはなく、「終わり」の儀式を限りなく引き延ばしながら上演してきた。稲川の言葉は「詩=文学」を終わらせる決意を漲らせながら、しかしその終わらなさから目を背けることもなく、数十年の時間を過ぎ越してきた。そして「二〇一一年三月」があった。そこで何かが決定的に変わったのではなく、それでも変わらなかったということが、終焉が竟にやってきたのではなく、それでも終わらなかったことが、言葉が失われたのではなく、それでも言葉が今なお延命していることが悲劇なのだ。「私の個人的な任意でしかないことだが、「人間の同意」を希求しながら「同意」自体が詩から(文学から)奪われていく過程がこの二十数年だった。二〇一一年三月の出来事がそれを明らかにしたのではなく、以後の時間がそれをあからさまに象徴したのである。そして、その被剥奪の象徴はまだ完了してはいない。この認識をできるだけ直線的に了解したいと私は思う。詩的な(文学的な)当為が無意味かどうかを問うことにたしかにいまは消耗しているが、それが「震災以後」という言説の特権であろうはずはない。また「震災以後」という言辞をめぐる理性的かつ知的な議論も消耗である」。そして詩人は、一切の勿体抜きに、おもむろにこう告げる。
私は福島県南部の区域に生まれ、ある年齢までそこで暮らした。そこが私の「郷里」であり(無意味なことを言うが)それゆえ、自分の生に唯一、同一性を持つ場所である。個人的で超越的なその場所とそこでの経験に即して私は二篇だけ随想を書いたことがある。当初はそれも収めてあったが、削除した。国家/資本の余りにも脆弱な根拠による、余りにも無造作と言うよりほかない「殺戮」と「暴力」から、自分のなけなしの同一性を避けておきたいからだ。また、何ら特異でもなく、なんら特殊でもない「福島」という地名の、この間の異様な顕現にもいっさい与したくない。
この本の最後には、書き下ろしの文章が収められている。「郷里が避難区域になったら、俺はそこに戻って被曝しながら抵抗するよと、オーストラリアン・リトルホースに耳打ちした」という長いタイトルの付けられたその文章は、それ自体かなり長いものだが、読点は一つきり、つまりひと続きの一文である。「国家・共同体そして生命領域に決定的なことが起こっているし、いまこの時刻にもさらに決定的なことが起こりつつあり、またこれ以後も次々に決定的なことが起こるというのがいまわれわれが経験している震災からの予断のない日々であり、その決定的ななにものかは、「以後」とか「以前」とかの理性的なチャートが無意味だと拒んでいるようにも思えるので……」という書き出しを読みながら、私は背筋が伸びるような気がする。そして「私は、ただ私が見るべきものを見て、知るべきものを知るということにしか自分の態度はないと思うようになり、その狭い意志の範囲でも、見るべきもの、知るべきものは多くあって、そのひとつ、ほんとうなら断じて見たくはないし、断じて知りたくはない事象なのだが」、福島第一原発の近くで、罪なき生きものたちの殺戮が起きていることを、詩人は見て、知ってしまった。それから詩人は、かなしみと怒りに打ち震えながら、二十数年ぶりに編まれつつあった本の作業を中断したのだった。
福島第一原発から七十数キロの地に位置する、福島県中通りにある小さな町に生まれ育ち、いまは無産者のひとりでしかない私は、何をするべきかではなく、何を考えるべきなのかと、それを自分の重責とするよりほかないそんな折りふと思い出すのは、子供のころ、と言っても十代の終わりのころは自分には二十一世紀は関係ないと思っていたことであり、一九四九年に生まれている私の年齢が五十歳を越えるのと二十世紀が終わるのとはほぼ同じで、五十歳を越えるころに自分はこの世からいなくなるのが妥当だと子供のころは確信していたので、余分な二十一世紀が始まって間もなく、たとえば二〇〇一年の九月には、ほらやっぱり無用に生きているから見る必要のないものを見てしまうことになるんだと昔の自分のいかにも文学的な感性が正しかったかを痛感したが、それから十���経って、しかし今度は、見るべきものを見る必要に直面している自分を、やはり無用な生を生きてしまったのかと思いながら、
読み続けながら私は、このような文章を、詩人が何を思いつつ書いているのだろうかと考える。ここにあるのは諦念でも断念でもない。それは限りなく絶望に似ているが、しかし彼は、それでも書くことを選んでいる。いったい何のためになのか。そんな問いには、何の意味もありはしない。ただ彼は書いたのであり、だから私はそれを読んでいるのだ。 私は、この連載を、『詩と、人間の同意』の終わりの、長い長いひと続きの文章の終わりで終えたいと思う。
子供や猫や小さな生き物には暮らし難い私の住む借家のある住宅地から多摩川上流へ、いつものように自転車を走らせていると、黒と茶のなんとも優しい顔をした柴犬に出会い、声をかけると、名前はチャミオだと教えてくれたその飼い主の訛りのイントネーションが間違いなく私の郷里の近くだと分かり、「棚倉ですが」と言うと「須賀川だよ」と答えたその声に涙を堪えるのが精一杯で、苦難にある互いの田舎のことを話す気にはまるでならず、行儀よく足下に座ってふたりを見上げていたチャミオに、世界が君に救われるようにと言うしかなかったが、須賀川にいる兄弟たちに見舞金を出すのに苦労したよと言う飼い主のおじさんはもちろん理解してはくれなかったし、「世界」という言葉がいかにも虚しく響いて苦笑いもできなかった。
(了)
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国を蝕み弱める五つの害虫 聖人のまねをしても、昔と事情が違う今の世の中で上手くいくはずがない。野良仕事を止め、 以前 ( まえ ) に兎が 打 ( ぶ ) つかって 転 ( ころ ) んだ木の根っこを見守り続けて、次に兎が 打 ( ぶ ) つかるのを待つ男の 二の舞 ( にのまい ) になる。 ⦅興国四具[韓非]から続く⦆

[国を滅ぼす害虫]は、次の五つ。王様が駆除せず放置していたら、遠からず国は滅びる。 1_学者:今になっても昔の聖人をたたえて[仁義]を看板に使い、もっともらしい服装や態度、飾り立てた言葉によって、現行の法に異議をとなえ、王様の心を乱している。 〖仁徳者の意味〗 王様の個人的仁徳に頼る儒家の「教え]は、国を 保 ( たも ) つ上で、有害無益(因みに、「焚書坑儒」は、韓非の思想を実行したものだと言われている)。 孟子は「幼児が深い井戸の側を歩いていて、その中に落っこちそうになるのを見れば誰もが手を伸ばして助けようとする。これは、幼児の親に恩を売ろうとか、他人に褒めてもらいたいとかではなく純粋に善意から出た行い。人には無償の善意がある」と言ったが、明らかに間違っている。「人は性悪。偏った考えで不正をし、無秩序になれば困るので、王様を尊敬させ、礼儀を教えたり、法律を作って犯罪を取り締まったりして、社会の安全を守れば、[善]となる」と 説 ( と ) く聖人も居た。 糠 ( ぬか ) さえ腹いっぱい食べられない者が白米や肉を食べたいと思うだろうか。 粗末な 木綿 ( もめん ) も着られない者が色鮮やかな絹を着たいと思うだろうか。 政治を行う場合にも、火急の問題が解決しないうちに、不急のことに力を用いるべきではない。 高尚で 難 ( むずか ) しい言葉を使う者は賢者と言われ、人をだまさない[貞信]な人物は仁者と呼ばれているが、広く国民に知らせるべき法を、難しい言葉で書いても、国民が理解することはできない。高尚で難しい言葉など無用だ。 無位無官の者なら、人を利益で動かす財力も押さえつける権力もなく、人をだまさない人物に頼りたくなるかもしれないが、王様は、人を統率し、国の財力を使うことができる。賞罰を加える権限を使い、[術]によって家来の正体を見抜こうとすれば、たとえ相手が 田常 ( でんじょう ) や 子罕 ( しかん ) のような 姦臣 ( かんしん ) だろうとも、だまされるわけがない。 数少ない[貞信]な人物だけでは何千何百とある官職を 充 ( み ) たすことはできず、官吏が少なくなれば、犯罪の取締りが行き届かなくなって、治安が悪化する。 [法・術]に 長 ( た ) けた王様に必要なのは、法の確実な執行であって、人徳者を求めたり、人の誠実さに頼ったりすることではない。 〖天網恢恢〗 子産 ( しさん ) (���子に評価されている人物)が外出したときのこと、彼の馬車が 東匠 ( とうしょう ) の村の入口を通りかかると、死者を 悼 ( いた ) む女の泣き声が聞こえてきた。 子産は御者の手をおさえて車をとめ、しばらくの間聞きいっていたが、役人をさし向けると、女をとらえて尋問した。 女は自分の夫を絞殺したことを白状した。 後日、御者はこう尋ねた。「どうしておわかりになったのですか」。 子産はこう答えた。 「あの泣き声におそれがあったからだ。人は自分と親しい者が病気になると、まず心配し、死ぬときはおそれ、死んでからは悲しむ。ところがあの女は、死んだ者を悲しんで泣いているはずなのに、泣き声には悲しみがなくおそれがあった。さては何かがあるなと思ったのだ」。 ある人が言った、「子産の政治のやり方は、ご苦労なこと。自分の耳や目に頼らなければ悪事がわからないようでは、鄭の国では捕まる悪者はさぞ少なかろう。刑吏にまかせず、比較検討の方法によらず、法の基準を明らかにせず、ただ自分一人の耳と目を使い、知恵をしぼって、悪人を見つけようというのだ。策のない話ではないか。それに、対象としなければならない物は数多いのに対し、自分一人の知恵はわずかなものだ。少ないもので多いものに勝つことはできない。人間の知恵では、物を知りつくすことはできないのだ。だから、物は物によって治めねばならない。同様に、下にいるものは多いが、上にいるものは少ない。少ないものは多いものに勝てない。すなわち、王様は���来を知りつくすことはできないのだ。だから家来のことは家来自身によって知らねばならない。こうしてこそ、体を使わなくても万事は治まり、頭を使わなくても悪者を捕まえることができる。 宋 ( そう ) の国にこういう言葉がある『雀が一羽空を飛ぶ それを必ず落とすのは いくら 羿 ( げい ) (弓の名人)でも無理なこと天下に網をめぐらせば 逃げる雀はいなくなる』。悪人を見つけるにも、天下に張りむぐらした網があれば、一人として逃がすものではない。この理を知らず、自分の推察を弓矢として使うのでは、いくら子産でも必中は無理だ。『知恵で国を治める者は国に害を及ぼす』という老子の言葉は、子産にあてはまるだろう」と。 〖恥を 雪 ( すす ) ぐ〗 斉 ( せい ) の 桓 ( かん ) 公が酒に酔って、冠をなくした。 それを恥じてひきこもり、三日たっても朝廷に姿を見せなかった。 宰相の 管仲 ( かんちゅう ) が桓公をこう 諭 ( さと ) した。 「こんなことは、王様としての恥とは言えない。善政をもってつぐなえばよろしいのです」。 「なるほど」。と言って、倉を開いて貧しい国民に 施 ( ほどこ ) しをし、囚人を調査して、罪の軽い者を釈放した。 三日たつと、国民はこんな歌を歌った。 「お殿様、お殿様、どうか、もう一度冠をなくしてくださいな」。 ある人が言った、「管仲は 小人 ( しょうじん ) に対しては桓公の恥を雪いだが、君子に対して新たに恥をかかせたのだ。桓公が貧困者のために倉を開いて食料を与え、囚人を調査して罪の軽い者を釈放したことが[義]でないとすれば、それで恥を雪ぐことはできない。ところがそれが[義]であるとすれば、桓公は[義]を行わずに保留しておき、冠をなくすのを待っていたことになる。つまり、桓公は冠をなくしたから、[義]を行ったのだ。すなわち、小人に対しては冠をなくしたという恥を雪いだが、君子に対して、新しく、[義]をおろそかにしていたという恥をかかせたわけだ。そればかりではない。倉を開いて貧乏人に食料を与えることは、功績のない者に賞を与えること。囚人を調査して罪の軽い者を釈放するのは、悪人に罰を加えぬこと。功績のない者に賞を与えれば、国民はつけあがって高い望みを持つ。悪人に罰を加えなければ、国民は平気で悪事をはたらく。これは世を乱す 本 ( もと ) だ。恥を雪ぐなどと言えたものではない」と。 〖矛盾〗 歴山 ( れきざん ) で農民が 田地 ( でんち ) の境界を争っていた。 舜 ( しゅん ) が出かけてともに農耕にしたがったところ、一年にして境界のあぜは正しく定まった。 黄河の漁師が釣場を奪いあっていた。舜が出かけて漁師の仲間に加わると、一年で釣場は年長者に譲られるようになった。 東夷 ( とうい ) の陶工が作る陶器は粗悪だった。ところが舜が出かけて一緒に作るようになると、一年で陶器は立派になった。 この話を聞いて孔子は感嘆した。 「農業といい、漁業といい、陶器作りといい、本来の職分ではないのに、舜自ら赴いたのは、間違いをなおすためだ。これは何と立派な[仁]だろうか。自ら労働を実践することによって、国民を習わせたのだ。これこそ聖人の徳の力というものだろう」。 ある人が儒者に尋ねた。 「このとき、 堯 ( ぎょう ) は何をしていたのか」。 「堯は天子だった」と、儒者は答えた。 そこで、ある人が反論する、「それならば、孔子が堯のことを聖人というのは、どんなものだろうか。すべてを見とおす聖人が天子の位にあれば、天下からすべての悪を追い払えるはずだ。もし天子として堯がそうしていたのなら、農民も漁師も争うわけがないし、陶器が粗悪なはずもない。そうなれば、舜は徳を施すすべがない。だから、舜が間違いを正したことは、堯に失政があったことを意味する。舜を賢人というならば、堯がすべてを見とおす聖人だったということはできない。堯を聖人というならば、舜が徳を施したということはできない。両立は不可能である」と。 楚 ( そ ) の国に 盾 ( たて ) と 矛 ( ほこ ) とを売る男がいた。 男はまず自分の売る盾の宣伝をした。 「この盾の丈夫さときたら、たいしたものだ。何で突いたって、突き通せるものではない」。 次に、男は矛の宣伝をした。 「この矛の鋭さときたら、たいしたものだ。どんなものだって、突き通せないものはない」。 ある人が尋ねた。 「その矛でその盾を突いたら、どうなる」。 男は返答できなかった。 何よっても突き通すことのできない盾と、何でも突き通すことのできる矛とが、同時に存在することはできない。 堯と舜とを同時に誉めたたえることができないのは、この盾と矛の例えと同じだ。 また、舜がなおした間違いは一年にひとつ、三年で三つだ。 舜は一人しかいないし、その寿命には限りがある。ところが、世の中の間違いには限りがない。限りがあるもので、限りのないものを追求したところで、いくらも防げるものではない。なおせる間違いはものの数ではない。 ところが、賞罰によるならば、世の中の間違いは必ず防ぐことができる。 「法にかなう者には賞を与え、はずれる者には罰を加える」と、命令を出せばその日のうちに、国民はこれに従うようになる。 十日も経てば、命令は国中に行き渡るだろう。一年もかけることはないのだ。 舜は、堯に賞罰をつかわせようとせず、わざわざ自分で出かけた。 知恵のない話ではないか。 それに、自ら労働を実践して国民を導くことは、堯や舜にとってさえ難事業だった。 だが、権威の力によって国民を正すことなら、[法・術]に 長 ( た ) けた王様でなくともできる。 政治を行うのに、どんな王様にでもできる方法をとらず、堯や舜でさえ難しい方法を使おうというのだ。 〖昔と今の違い〗 大昔の世、まだ人間は少なく、獣や蛇の方が数多くいたから、人間はそれらに対抗することはできなかった。そこに一人の聖人が現れた。彼は木の上に鳥の巣のような家をこしらえて、人間が獣や蛇の害を避けるようにしてやった。 国民は喜んで、彼を王として迎え、 有巣 ( ゆうそう ) 氏と呼んだ。 また、人間はそのころ草木の実や貝類を 生 ( なま ) のままで食べていた。 食べ物は生臭く、悪臭をはなち、胃腸をこわして病気になる者が多かった。 そこに一人の聖人が現れ、木をこすりあわせて火をおこし、生の食べ物に火を加えるようにした。 国民は喜んで、彼を王として迎え、 燧人 ( すいじん ) 氏と呼んだ。 時代はくだり、天下に大洪水が起きたことがあった。 そのとき、 鯀 ( こん ) と 禹 ( う ) が排水路を切り開いた。 もし、 禹 ( う ) の時代になってから、木の上に家をこしらえたり、木をこすりあわせて火をおこしたりする者がいたら、 鯀 ( こん ) と 禹 ( う ) に笑われたに違いない。 さらに時代はくだって、 夏 ( か ) の 桀 ( けつ ) と 殷 ( いん ) の 紂 ( ちゅう ) が暴政をしいたときのこと、殷の 湯 ( とう ) と 周 ( しゅう ) の 武 ( ぶ ) がそれぞれ彼らを倒した。 殷・周の時代になってから、排水路を切り開く者がいたら、湯と武に笑われたに違いない。 とすれば、昔の聖人である 堯 ( ぎょう ) ・ 舜 ( しゅん ) ・ 湯 ( とう ) ・ 武 ( ぶ ) のとった方法を、現在世の中でそのまま手本にする者が、新しい時代の新しい聖人に笑われることも、またたしかだ。聖人とは、昔にとらわれ一定不変の基準に固執する者ではない。現在を問題とし、その解決をはかる者をいうのだ。 宋の国で、ある男が畑を耕していた。そこへウサギがとびだし、畑の中の切り株にぶつかり、首を折って死んだ。それからというもの、彼は畑仕事をやめにして、毎日切り株を見張っていた。もう一度ウサギを手に入れようと思ったのだ。でも、ウサギはそれっきり出てこない。彼は国中の笑い者になったという。 昔の聖人のやり方のまねで、現在の政治ができると思っている者は、この切り株を見張った男の同類だ。 昔は男が畑仕事をしなくても、食べ物は草木の実で足りた。女が布を織らなくとも、着る物は鳥の羽根や獣の皮が十分あった。働かなくても生活にこと欠かず、人口は少なく、財物はありあまっていたので、国民の争いはなかった。だから、厚賞重罰を用いるまでもなく、国民は自然に治まっていたのだ。 ところが今は違う。一人で五人の子持ちはめずらしくないから、子供の子供がまた五人ずつとして、祖父の在世中に孫が二十五人もいることになる。こうして人口が増加する割りに物資が増えないから、いくら働いても生活は楽にならない。そのため、国民の間に争いが起こる。どんなに賞罰を強化しても、世の中は乱れずにはすまない。 かって 堯 ( ぎょう ) が王だったときには、王のすみかは、屋根切りそろえないままの 茅 ( かや ) で、たる木は丸太のままの 櫟 ( くぬぎ ) という粗末な家だった。また、王の食べ物は、粗末な 粥 ( かゆ ) とアカザや豆の葉の煮汁であり、王の衣服は、冬は鹿の皮、夏は 葛 ( かずら ) だった。 今なら門番の暮らしでさえこれほど質素ではない。 禹 ( う ) が王のときには、みずからすきくわを手にして国民の先頭に立ち、ふくらはぎの肉がなくなり、すねの毛がすり切れるほど働いた。 現在の奴隷の労働でさえこれほど苦しくはない。 こうしてみると、昔、天子の位を譲ることは、門番の暮らし、奴隷の労働を捨てることにほかならなかった。天下を譲るとはいっても、たいしたことではなかったわけだ。 ところが今では、県知事ともなると、自分が死んだ後も子孫が馬車を乗りまわすほどだ。今の県知事が重視されるのはこのためだ。 つまり、人が地位を退く場合、昔の王は簡単にやめ、今の県知事がなかなかやめないのは、位の実益があるからだ。 水を谷まで汲みに行かねばならない山の住民は、 髏臘 ( ろうろう ) の祭に水を贈り物にするという。 ところが、水害に苦しむ低地の住民は、反対に人をやとって排水路をつくっている。 また、不作の年があけた春には、いとけない弟にさえ食べ物を分けてやらないのに、豊作の秋ならば、通りすがりの旅人でも必ずもてなすが、これもけっして肉親を粗末にし、旅人を大切にするわけではない。現実に食べ物の量が違うからだ。 これと同じく、昔、財物を軽んじていたのも、[仁]という徳目のためではなく、財物そのものがありあまっていたからだ。現在、財物を奪いあうのは、道徳が低下したのではなく、財物そのものが少なくなったからだ。 王位をやすやすと譲ったのも、人格が高潔なのではなく、王位そのものの権威が低かったからだ。 現在、県知事の座を争うのは、争う人の人格が下等なのではなく、県知事そのものの実権が大きいからだ。 量・実益の多少こそが、今、新しい聖人が政治を行うにあたっての基準だ。 昔、罰が軽かったのは、治める者が慈悲深かったからではない。今、罰が重いのは、治める者が残虐だからではない。世の中の変化に応じて、そう変わったのだ。だから、「時代とともに、物事は変わり、物事に応じて、対処の仕方もかわる」ことを知らなければならない。 [ 仁 ( じん ) ]は、儒家の説く最高徳目。慈愛、博愛の意味に近い。それは堯・舜など古代の天子が実現していたとされる。儒家は、堯・舜の時代の[仁]にならうことを主張した。 昔、周の 文 ( ぶん ) 王は、 豊 ( ほう ) ・ 鎬 ( こう ) の間に百里平方の領土を持ち、[仁義]による政治を行って野蛮な 西戎 ( せいじゅう ) をてなづけ、天下を統一した。 その後、 徐 ( じょ ) の 偃 ( えん ) 王は、漢水の東に五百里平方の領土を持ち、[仁義]の政治を行い、その結果、領土を献上して徐に朝貢する国は三十六を数えた。自国を攻められるのを恐れた 楚 ( そ ) の文王が、先手を打って徐を滅ぼした。 つまり、周の文王は[仁義]の政治によって天下を統一したが、徐の偃王は[仁義]の政治によって、国を失ったのだ。 昔役に立った[仁義]が、今では役立たないということが、これでわかる。 舜の時代、 有苗 ( ゆうびょう ) という蛮族が反乱をおこした。 禹 ( う ) が征伐しようとすると、舜はこう言った。 「それはいけない。こちらの道徳ができていないのに武力を使うのは、正しいやり方ではない」。 それから三年というもの、修養に努めてから、舜が 盾 ( たて ) と 斧 ( おの ) をとって舞楽を舞うと、それだけで有苗は帰順したのだった。 ところが、その後、 共工 ( きょうこう ) (伝説中の舜の対立者)との戦いでは、鉄の 槍 ( やり ) は敵陣に届くほど長くなり、堅固でない甲冑では、体を傷つけられたという。盾や斧の舞いは昔は役に立ったが、今では役に立たないというのがわかる。 古くは、国は道徳を競いあい、次に智謀を競いあい、今や、競いあうのは力だ。 斉 ( せい ) が 魯 ( ろ ) を攻めようとしたときのこと、魯では 子貢 ( しこう ) (孔子の弟子)を使者として斉に送り、魯を攻めることの不利益を説かせた。斉の答えはこうだった。「あなたの言葉はごもっともだが、我々が欲しいのは領土であって、あなたの言葉ではない」。そして、斉は魯にむけて兵を起こし、魯の城門から十里の所まで領土を拡げた。 [仁義]の政治を行った徐は滅ぼされ、子貢の雄弁に関わらず魯の領土は削られたことからも、[仁義]や雄弁は、国を保持する力ではないことがわかる。徐や魯が[仁義]や雄弁を使わず、力によって立ち向かったとしたら、相手がいかに大国の斉や 楚 ( そ ) でも、この二国を思いのままにはできなかっただろう。 儒家 ( じゅか ) や 墨家 ( ぼくか ) の学者どもは、「昔の聖人は天下の国民すべてを愛し、わが子を見る親のようだった…刑吏が刑を執行するとき、王は音楽を慎んだ。死刑の判決を知ると、涙を流した」と言って、昔の聖人をたたえている。 しかし、王様の国民への愛で政治が行えるというのは 幻想 ( げんそう ) にすぎない。 刑をのぞまず涙を流したのは、[仁]によったからだが、それにもかかわらず、刑を執行したのは、法によったからだ。昔の聖人でさえ、涙を流しながらも結局は法に従ったではないか。 天下にかくれのない聖人である孔子でさえ、自らの体得した学問道徳を天下に説いたとき、彼の説く[仁義]に感服して弟子となった者はわずか七十人、[仁義]を身につけたのは孔子一人だった。 一方、[法・術]に 長 ( た ) けた王様とはいえない 魯 ( ろ ) の 哀 ( あい ) 公でさえ、ひとたび王位につくや、領民のうち誰一人としてその支配を拒む者はなかった。 国民はもともと権力のままになびくもの。権力はたやすく国民を服従させるものだ。 だからこそ、孔子が家来、哀公が王様という関係ができあがった。 孔子は哀公の[義]にひかれたのではない。その権力に服従したのだ。 つまり、[義]という点では、哀公は孔子に及びもつかないが、権力を使えばその哀公でさえ孔子を家来とすることができるのだ。 今の学者どもは、王様に、権力を使うことを薦めず、[仁義]に努めるよう 説 ( と ) いている。 王様という平凡な人間に孔子の弟子のようになれと言ってもムリな話だ。 スープを用意できないのに、餓えた人に食事を進めるのでは、餓えた人を生かすことにならない。草地を切り開き穀物を作ることもできないのに、民に物を貸し、施し、また褒美をあたえることを勧めるのは、民衆を豊かにさせることにならない。今の学者の言葉は、根本を論じないで、末端にこだわり、空虚な聖人のことばを唱えて民衆を悦ばすことしか知らない。これは絵に描いた餅と同じである。このような議論を、[法・術]に 長 ( た ) けた王様は決して受け入れたりしない。 墨子の博愛主義は絵空事、深遠広大な論は実用できない。墨翟は、天下に明察と認められたが、世の乱れを解決できなかった。 墨子が雄弁ではない理由を問われて田鳩は答えた、「昔、秦伯がその娘を晋の公子に嫁がせたとき、行列を飾り立て、美しい刺繍を施した衣を着た腰元七十人を従えて晋に行かせました。晋の人々はその腰元の中の妾を大切にして公女を大切にしませんでした。これでは妾を立派に嫁がせたと言えるのであって、公女を立派に嫁がせたとは言えません。楚の人で宝玉を鄭へ売る者がおりました。木蘭の櫃を作って入れ、桂椒の香で香りづけし、真珠を綴ったものをかけ、玫瑰で飾り、翡翠を連ねました。鄭の人はその櫃を買い、中の宝玉を返しました。これは立派に櫃を売ったと言えるのであって、立派に宝玉を売ったとは言えません。今の世の論説を見ますに、皆言葉巧みに飾り立てたものばかりです。世の君主はその飾られた文ばかりに気を取られ有用かどうかは考えません。墨子の言説は先王の道を伝え、聖人の言葉を論じ、人々に告げ知らしめるものです。もしその言葉を巧みにしますと、恐らく人々はその飾られた文に気を取られ、その本質を考えないでしょう。飾られた文によってその有用性が損なわれてしまいます。これは楚の人が宝玉を売り、秦伯が娘を嫁がせるのと同じことです。ですから言葉数は多くても雄弁には致しません」と。 墨子が木鳶を作ったとき、三年かかって完成したが、飛ばしたところ一日で壊れた。 弟子が言った、「先生の技巧は木で作った鳶を飛ばせてしまうほどです」と。 墨子は言った、「私は車の梶棒を作る者の技巧には及ばない。八寸か一尺の木材を用いて、ひと朝ほどの時間もかけずに作り、しかも三十石の荷を引き、遠くへ運べるほど力が強く、長い年月保つことができる。今、私は鳶を作ったが三年もかかって作り、飛ばしたところ一日で壊れたのだ」と。 恵子がこれを聞いて言った、墨子は技巧というものを心得ている。梶棒を作ることを技巧であると言い、鳶を作ることを拙いと言ったのだ」と。 郢 ( えい ) ( 楚 ( そ ) の都)の人が、夜、 燕 ( えん ) の宰相にあてて手紙を書いていた。 灯りが暗いので、燭台を掲げている係りに、「灯りを挙げよ」と命じた。 その時つい間違って手紙の中に、‘灯りを挙げよ’と書きこんでしまった。 燕の宰相は手紙を受けとると、「灯りを挙げよとは、明をたっとべということだ。つまり賢人を任用せよということだな」。 よろこんで国王に上奏した。 国王も感心して賢人を用いたので、国はよく治まった。 治まることは治まったが、それは手紙の言わんとすることではなかった。 くつを買おうとした 鄭 ( てい ) の男の話。 この男は、足の寸法を計ってひかえておいたのに、くつを買いに行くとき、持っていくのを忘れてしまった。 くつを買う段になってこの男、「寸法書きを忘れてきたから」といって、家に取りに戻った。 寸法書きを持ってきたときには、店はもう閉まっていて、くつは買えなかった。 誰かが、「その場で、足に合わせてみればいいのに」と言うと、男の答えるには、「足なんか信用できない。寸法書きの方が確かだよ」。 子供たちがままごと遊びをしているときには、土が飯であり、ドロが汁であり、木片が肉だ。 しかし、夕方、家に帰って食べるのは、本当の食べ物だ。 土やドロは玩具であって、実際に食べることはできないからだ。 大昔の伝説を誉めたたえる者は、言葉はりっぱだが実際の役には立たない。 昔の聖人の[仁義]を口にしても、国を治めることはできない。 これも玩具であって、実際の役に立たないのだ。 伯楽 ( はくらく ) (伝説的な馬の鑑定・調教名人)は嫌いな相手に名馬の鑑定法を教え、気に入った相手には駄馬の鑑定法を教えた。 名馬は、そうめったに現れるものではないから、鑑定人の利益も少ない。 ところが駄馬となると毎日のように売買されるから、利益が大きいというわけだ。 周書 ( しゅうしょ ) に「程度の低い言葉が、ときとして高度の役に立つ」というが、これもその一例だろう。 桓赫 ( かんかく ) がこう言った。 彫刻をするときには、鼻は大きいほどよく、眼は小さいほどよい。 大きすぎる鼻は小さくできるが、小さすぎる鼻は大きくはできない。 小さすぎる眼は大きくできるが、大きすぎる眼は小さくはできない。 [仁義]に 惹 ( ひ ) かれて国を弱めたのが、 三晋 ( さんしん ) (韓・魏・趙)だ。 [仁義]に惹かれることなく、国を強大にしたのが、 秦 ( しん ) だ。 その秦が今になっても天下を統一できないのは、まだ政治が完全でないからだ。 鄭 ( てい ) 県の 卜子 ( ぼくし ) という者が、妻にズボンをつくらせた。 妻が尋ねた。 「今度は、どんなのがよろしいでしょう」。 「前のと同じにしてくれ」。 妻は新しいズボンを破って、はきふるしたズボンと同じにした。 卜子の妻は町に行って、スッポンを買った。 帰り道、 潁 ( えい ) 水まで来た。 スッポンも喉が渇いているだろう、水を飲ませてやろうと思って、水の中に放した。 スッポンは逃げてしまった。 ある男が、年寄りの相手をして酒を飲んだ。年寄りが一杯飲むと自分も一杯飲んだ。 また、 魯 ( ろ ) の国に、行儀を気にする男がいた。年寄りが酒を口に含んだが飲めずに吐き出した。それを見て、男もまねをして吐き出した。 また、宋の国に行儀よく見せようとする男がいた。年寄りが飲みっぷりよく 盃 ( さかずき ) を干すのを見て、飲めないくせに自分も干そうとした。 2_遊説家:うそ八百を並べ立て、外国の力を借りて私欲をとげんとし、国の利益を忘れている。 外交について意見を述べる家来は、 合従 ( がっしょう ) 派か 連衡 ( れんこう ) 派か、さもなければ個人的うらみを国の力を借りて晴らそうとする者。 合従とは、六つの弱国を連合して 秦 ( しん ) に対抗しようとする策。「小国を救ってともに秦を討たなければ、天下すべてを失う。天下が秦のものになれば、自国を保つことも難しくなり、王様の権威は失われる」と言うが、秦に小国が連合してむかう場合、小国間の連合がくずれないとはかぎらない。連合がくずれれば、秦に乗ぜられ、兵を進めて戦えば敗れ、退いて守れば城は落ちる。 連衡とは、秦に従属して、他の弱国を攻撃しようとする策。「秦に従属しなければ、諸国から攻撃を受け、国の安全はおびやかされるだろう」と言うが、秦に従属すれば、 版図 ( はんと ) (戸籍と地図)を献上して領土をまかせ、 印璽 ( いんじ ) を献上して保護を 乞 ( こ ) わなければならない。版図を献上すれば領土は削られ、印璽を献上すれば国の名誉は地に落ちる。領土が削られれば国は弱まり、名誉が地に落ちれば、政治は乱れる。 連衡策をとって秦に従属すれば、この策を進言した者は、秦の力を借りて国内の官職を手に入れるだろう。 合従策をとって小国を救えば、この策を進言した者は、国の威を借りて小国に対して自己の利益を求めるだろう。国家の利益は未確定でも、彼らは領地をもらい厚い俸禄を手に入れる。 進言した結果が成功すれば権力を握っていつまでも重んじられるし、たとえ失敗に終わっても、財産を蓄えて引退するだけのことだ。 このように、王様が家来の進言を受けたあと、成功しないうちに進言した者の爵禄をあげ、失敗しても罰を加えないとしたら、遊説家たちがあてずっぽうの説をたてて、まぐれ当たりを期待しないわけがない。 国を滅ぼし、身を破滅させながら、王様が遊説家のでたらめに乗せられてしまうのは、王様が公益と私利の区別を知らず、遊説家の言葉の当否を察することができない上に、失敗しても罰を加えないからだ。 「外交こそは、大きくは天下に王たるの道、さらには内政を安定させる道である」という遊説は偽りだ。 他国を攻める力を持っている国でも、内政が安定し、治安が保たれている国を攻めることはできない。 国内の政治で[法・術]を用いなければ、富国強兵は不可能、外交に頭を使っても意味がないのだ。 「袖が長けりゃ舞はじょうず、銭が多けりゃ商売繁昌」という 諺 ( ことわざ ) がある。 何か計画を立てた場合でも、国がよく治まり兵力が強大であれば簡単に成功するが、政治が乱れ兵力が弱い国では失敗し易い。 同じ計画を立てても、秦のような強国では、十回 躓 ( つまづ ) いても失敗に終わることはまれだが、 燕 ( えん ) のような弱国では、一回 躓 ( つまづ ) いただけで成功ののぞみはほとんどなくなる。差は、家来の力量ではなく、内政という元手にあるのだ。 周は秦から離れて 合従 ( がっしょう ) 策をとたことがあったが、一年にして秦に滅ばされてしまった。 衛 ( えい ) は 魏 ( ぎ ) と離れ秦と結ぶ 連衡 ( れんこう ) 策をとったが、半年で滅んでしまった。 もし、周と衛が、合従・連衡といった外交策に頼らず、内政の強化に努めていたら…法を明確に示し、賞罰を確実に行い、土地を開発して経済を豊かにし、国民に死力をつくして国を守らせていたとすれば、どんな強国でも、この堅城の下に兵を疲れさせ、乗ぜられ反撃をくうような愚挙を試みるはずがない。侵略しても利益少なく、戦えば大きな損害を被っただろうから。 楚 ( そ ) の王が 呉 ( ご ) を攻めたとき、呉は 沮衛 ( そえい ) と 厥融 ( けつゆう ) を慰問の使者として、 楚 ( そ ) 軍の陣に送った。 ところが 楚 ( そ ) の将軍は、こう言った。 「こいつらを縛れ。出陣の儀式だ。 犠牲 ( いけにえ ) として血を太鼓に塗ろう」。 二人を縛りあげて尋ねた。 「呉は 占 ( うらな ) いをしてから、お前たちをよこしたのか」。 「その通りだ、吉と出た」。 「殺されて、血を太鼓に塗られるのだ。それでも吉か」。 「だからこそ吉なのだ。呉が我々をよこしたのは、もともと将軍の出方を見るためなのだ。 将軍が怒れば、呉は堀を深くし、 砦 ( とりで ) を高くして備える。 怒らなければ、あわてることもない。 だから、わたしが殺されれば、呉は守りを堅くするはずだ。 また、国が占いをするのは、一臣のためではない。 一臣が殺されることによって一国が救われるなら、まさしく吉ではないか。 またもうひとつ。死人に魂がないとしたら、血を太鼓に塗ったところで何になる。もし魂があるとしたら、いざ戦いというときに、我々は太鼓が鳴らないようにして見せよう」。 楚 ( そ ) の将軍は、これを聞くと二人を殺すのをやめた。 宋 ( そう ) の雄弁家である 児説 ( げいえつ ) は、「白馬は馬でない」という 詭弁 ( きべん ) によって、 斉 ( せい ) の 稷下 ( しょくか ) に集まった学者たちを屈服させていた。 その彼が、白馬に乗って関所を通ったことがあった。 ところが、やはり馬として通行税を取りたてられた。 すなわち空論によって国中の学者を屈服させることはできても、実物に当たって点検すれば、関所の役人一人だ���すことさえできないのだ。 「白馬は馬でない」…「馬」という概念には、白馬も栗毛も黒馬も含まれている。ところが、「白馬」という概念には、栗毛や黒馬は含まれない。故に、「白馬は馬でない」。このような論法は 名家 ( めいか ) という学派の 公孫竜 ( こうそんりゅう ) が唱えた。 鋭い矢じりをさらに 砥 ( と ) ぎ、 弩 ( いしゆみ ) にかけて射れば、眼をつぶってでたらめに矢を放っても、矢の先端は必ずひとつの点に突き刺さる。 だが、直径五寸の的を設置し十歩離れて狙うとすれば、 羿 ( げい ) や 逢蒙 ( ほうもう ) のような弓の名人でなければ必中させることはできない。 基準がなければやさしく基準があれば難しいのだ。 だから、王様が基準を持たずに聴けば、進言する者はでまかせ放題に、長広舌をふるうが、基準を持った上で聴けば、どんな知恵者でも失言をおそれ、でたらめは言わない。 王様が、進言に対して基準を持たず、ただ言葉の巧みさに感心するようであれば、口先の巧みな者が甘い汁を吸い続けることになる。 斉 ( せい ) 王の食客の一人に、絵 描 ( か ) きがいた。 あるとき、斉王が彼に尋ねた。 「いったい何を描くのが難しいか」。 「犬や馬でございます」。 「では何がやさしいか」。 「化物でございます」。 誰でも犬や馬は知っていて、毎日その物を目にしている。 だから、いい加減には描けないのだ。 一方、化物の類は、もともと形がなく、誰も見たことがない。 どう描いてもいいからやさしいというわけだ。 3_遊侠:徒党を組んで義侠を結び、暴力による抗争をして名をあげようする。 犯罪者として処罰されながら、兄弟に危害を加えた相手に復讐すれば 廉 ( れん ) として賞讃され、友人を辱めた相手に友人と一緒に報復すれば 貞 ( てい ) として賞讃される。世間の評判を気にして「廉」や「貞」を処罰の対象としなければ、国民が力を競って争い、役人の手にあまるようになる。 暴力によって国法を 蔑 ( ないがし ) ろにする遊侠の徒を赦してはならない。 4_側近:私財を蓄え、賄賂によって有力者にとりいり、戦士の功労を握りつぶしている。 衛 ( えい ) のある男が、娘を嫁にやるとき、こう教えた、「できるだけへそくりをためることだ。嫁に行っても追い出されるのはごく当たり前のこと、ずっと居られる方がまれだからな」と。 娘は嫁入り先で、こっそりへそくりをためていったが、やがてそれがばれて、姑に追い出されてしまった。しかし、娘が家に帰ったとき、持ち物は嫁に行ったときの倍となっていた。 親父 ( おやじ ) は娘に教えたことが間違っていたと悟るどころか、財産を増やしたのは、賢明だった、と自慢した。近ごろの官僚連中も、みなこれと同じ穴のムジナだ。 楊朱は宋国の東を通ったとき、宿屋に泊まった。そこには召し使いの女が二人いたが、同じ召し使いでも醜い方が格上、美しい方が格下だった。 不思議に思った楊朱がわけを尋ねると、宿屋の主人がこう答えた、「美しい女は、自分でも自分のことを美しいと思うておるもの。わしにはそんな女、美しいとは思えなんだ。一方醜い女は、自分でも自分は見にくいと思うておる。わしにはこんな女を醜いとは思えなんだ」と。 これを聞いた楊朱は弟子に言った、「行いがりっぱであり、しかも決して自分のことを立派だと思わぬような人は、どこへ行っても必ずその真価が認められようぞ」と。 5_商人:ろくでもない容器や贅沢品を買いだめし、時期をみてはそれを売って、農民が苦労して得るのと同じ利益を、労せずしてむさぼっている。 国民は、危険を避けるため有力者を頼って兵役を逃れようとし、要職者に賄賂を贈って便宜を図ってもらおうとする。その思惑が叶えられるなら、利己をはかる者がはびこり、国に尽くす者はいなくなる。 側近を通して請願すれば爵位が金で買えるようでは、商人らの身分を下げることはできない。 不正に 儲 ( もう ) けた金が市場で通用すれば、商人の数は減らない。 儲けが農業の倍あって農民や兵士よりも身分が高いとなれば、節操ある人物が減り、商人が増えるのは、当然だろう。 [法・術]に 長 ( た ) けた王様は、商人や無為徒食する者の身分を低くして、その数を減らそうとする。 ⦅洞察六兆[韓非]に続く⦆
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She Broke Japan’s Silence on Rape
彼女は日本のレイプに対する沈黙を破った

[写真] 伊藤詩織さんは警察に、当時TBSワシントン支局長で、安倍晋三首相の伝記作家である、山口敬之氏によりレイプされたと訴えた。(ジェレミー・スーテイラットが本紙のために撮影)
(東京 29日)日本の最も著名なテレビジャーナリストに数えられる人物が伊藤詩織さんを飲みに誘ったのは、春先の金曜の晩のことだった。東京の通信社でのインターンが終了するからと、その人物の局で新たなインターンをやる機会を探っていた。[訳注: 探していたのはプロデューサー枠の仕事]
二人は、東京都心にあるバーでは焼き鳥とビールだけで済ませ、その後夕食を共にした。のちに伊藤さんが警察で供述したことによると、彼女が最後に記憶しているのは、気分が悪くなってトイレに行かせて貰い、そこで意識を失ったことだった。
伊藤さんは、その夜が終わる頃にはその男のホテルの部屋に連れていかれ、彼女が無意識である間に男にレイプされたと主張している。
当時TBSワシントン支局長で [のちの] 安倍晋三首相の伝記作家であるジャーナリストの山口敬之氏は、起訴内容を否認。二か月にわたる警察の捜査の結果、検察は事件を不起訴処分とした。
すると伊藤さんは、日本の女性のほぼ誰もがけっして行わないことを実行に移した。声を上げたのである。
5月に行った記者会見と10月に出版された著書で伊藤さんは、山口氏が意識を失っている彼女を抱え上げ、ホテルのロビーを通り抜けた様子がわかる防犯カメラの映像を警察が入手したと述べた。また警察はさらに、彼女が気を失っていたことを証言したタクシー運転手を特定して事情聴取を行っていた。伊藤さんによると、警察の捜査官らは山口氏を逮捕すると彼女に告げていたのだが、突如、取りやめとなったのだという。

[写真] 伊藤さんは自身の経験を綴った手記を出版した。写真提供、文芸春秋株式会社。
他の国ならば、彼女の訴えは騒動を引き起こしていただろう。だが、ここ日本では、わずかに耳目を集めたにすぎなかった。
米国が政界、芸能、産業、報道の各界における性的加害行為の噴出に直面しているのとは対照的に、伊藤さんの身に起きたことは、日本において性暴力がいかに忌避される話題であるかを如実に物語っている。
統計上、日本は比較的低い性暴力の発生率を誇る。14年度に内閣府が実施した世論調査では、日本で生涯を通じてレイプを経験したことがあると答えた女性が15人に1人であるのに対して、米国でレイプされたことがあると答えた女性は5人に1人であった。[訳注: 但し、米国の統計は2010年度のもの]

(参考)内閣府男女共同参画局、14年度調査の結果報告書 『男女間における暴力に関する調査』報告書(平成26年度)より
しかし研究者らは、日本女性は西洋の女性に比べて「同意なき性行為」を「レイプ」と表現することがはるかに少ないと言う。また日本の対レイプ法には同意に関する記載がなく、「デートレイプ」は外来の概念で、日本では性暴力に対する教育も最低限しかされていない。
むしろ、本来ならば性教育を行うための文化的に重要なチャンネルである筈の漫画コミックやポルノという素材において、 性的欲求を満たす延長としてレイプが描かれることがよくある。
警察や裁判所はレイプを狭義に捉える傾向があり、一般的には、物理的な暴力が確認でき、自衛の努力 [抵抗] が行われたことの痕跡がある場合にのみ訴追を行い、 加害者・被害者のいずれかが飲酒していた場合は告訴を思い留まらせようとする。
先月、横浜の地方検察局は、女子学生の一人に酒を飲ませた後で性的暴行を加えた容疑で書類送検された6人の大学生を不起訴処分にした。
レイプ犯が起訴され有罪判決を受けても、日本では懲役刑すら課せられないこともある。法務省の統計によると、およそ10件に1件が執行猶予付きの判決で済まされるという。
たとえば今年、東京近郊の千葉大学で二人の学生が女学生を輪姦した事件では、被告の一部は懲役刑で収監されたが、他の共犯者らは執行猶予付きの判決となった。昨年秋、別の輪姦事件で有罪判決を受けた東京大学の学生にも執行猶予付きの判決が下された。
「活動家たちが「ノーはノー」というキャンペーンを立ち上げたのはごく最近のことです」
東京の上智大学で政治学を教える三浦まり教授はこう語った。
「だから日本の男性は、同意に対する意識が浸透していない現状にあぐらをかけるのだと思います」
内閣府の世論調査で「レイプを経験したことがある」と答えた女性のうち、その3分の2以上が友人や家族にさえも、けっして「誰にも言わなかった」と答え、「警察に相談した」と答えたのは4%をわずかに超える程度だった。対照的に、米司法統計局がまとめたところによると、米国ではレイプ経験の約3分の1が警察に報告されている。
「女性に対する偏見は根深く、深刻です。性犯罪による被害はまったく真剣に受け止められていません」
早稲田大学でジェンダーと法を教える谷田川知恵教授はこう語る。
山口氏に対する民事訴訟を起こした伊藤さん(28)は、日本で性暴力に悩む女性たちが直面する数々の課題に光を当てるために、本紙に自身の事件の詳細を語ることを承諾してくれた。
「私がこのことを語らなければ、性暴力をめぐる酷い状況はけっして変わることはないだろうと感じたのです」
伊藤さんは語った。
山口氏(51)も、取材に応じることを承諾した。レイプを行ったことは否定し、次のように語った。
「性的暴行は行われていない。あの夜、犯罪行為は行われなかった」

[写真] シェラトン都ホテルの外に停車するタクシーの車両。警察は、伊藤さんと山口氏をホテルに送り届けたが、女性は電車の駅に行くことを要求していたと証言するタクシーの運転手を事情聴取した。本紙のためにジェレミー・スーテイラットが撮影。
‘Not a Chance’ 「あなたが勝つ事はあり得ない」
2015年4月3日に再会する以前、伊藤さんは山口氏に二度会ったことがある。ニューヨークでジャーナリズムを学んでいる間のことだ。
伊藤さんによれば、彼女が東京で再び山口氏に連絡をとると、山口氏は自身の支局で仕事を見つけてあげられるかもしれないと答えたという。山口氏は彼女を飲みに誘い、その後で流行りの恵比寿界隈の寿司屋『鮨の喜一』に食事に連れて行った。
伊藤さんが驚いたのは、ビールと酒を飲んだ後の食事も二人きりだったことだった。彼女は途中で気分が悪くなりトイレに行かせてもらったのだが、トイレの給水タンクに頭をもたれかけながら、そのまま意識を失ってしまったという。
意識を取り戻した時には、ホテルの部屋のベッドの上で山口氏が自分に覆いかぶさっていたという。彼女は裸で、痛みを感じていた。
日本の法律では、"quasi-rape"(準強姦罪)を当該女性の「心神喪失若しくは抗拒不能」に乗じて当該女性と「姦淫すること」と定義している。米国では州によって法律には差異があるが、同じ犯罪を第二級の強姦罪もしくは性的暴行罪と定義している州もある。(参考)旧刑法第百七十八条2「女子の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、姦淫した者は、前条の例による」
警察はのちに、伊藤さんと山口氏を乗せ、山口氏の宿泊先である『シェラトン都ホテル東京』で二人を降ろしたタクシーの運転手を特定した。
運転手の証言記録によれば、伊藤さんは、最初は意識があり、地下鉄の駅に連れ行ってほしいと運転手に懇願していたが、山口氏にホテルに向かうよう指示されたという。
運転手は、山口氏がまだ二人で仕事の話をしなければいけないと話したことを記憶しており、また山口氏が「何もしないいから」というようなことを言っていたと証言している。
運転手によると、ホテルに着いた頃には伊藤さんは5分ほどの間「静か」になっていて、その時に彼女が後部座席に嘔吐していたことに気付いたのだという。
記録によると、運転手は次のように証言している。
「男は彼女をドアの方向に動かそうとしたんですけど、彼女は動きませんでした。そこで男は、先に降りてカバンを地面に置いてから、女性の脇の下に肩を通して、車から彼女を引き出そうとしました。彼女は1人で歩けそうには見えませんでした」
警察が入手したホテルの防犯カメラに映る伊藤さんも、意識がないように見える。本紙が入手した動画の写真からは、午後11時20分頃に、山口氏が彼女を抱えながらロビーを通り抜けていく様子がうかがえる。
伊藤さんによれば、彼女が意識を取り戻したのは午前5時頃だったという。彼女は山口氏の下からなんとか這い出して、トイレに駆け込んだ。トイレから出てくると、「彼は私をベッドに押し付けようとしました。やはり男性なので、力がかなり強く、押し付けられてしまったので私は彼を怒鳴りつけました」
いったい何が起こったのか、男は避妊具を使ったのか、伊藤さんは答を要求した。男は彼女に落ち着くようにいい、モーニングアフターピルを買うことを提案した。
彼女はこれに応じることなく、服を着て、ホテルから逃げ出した。
伊藤さんは薬物を飲まされたと確信しているが、この疑惑を証明する証拠は何もない。
山口氏は、彼女がただ飲み過ぎただけだ、と主張する。
「居酒屋で彼女は相当なペースで飲んでいたので、私は実際こう聞いたんですよ。『大丈夫かい?』と。でも彼女は「私はけっこうお酒強いんです。それに喉が渇いているので」と答えました」
「彼女も子どもではないので、自分をしっかりコントロールさえしていれば、何も起こらなかったでしょう」
山口氏はこう述べ、彼女をホテルに連れて行ったのは彼女が家に帰れないかもしれないと思ったからで、ワシントンの仕事の締め切りに間に合わないから急いで部屋に戻らなければならなかったからだと語った。
山口氏は、伊藤さんを部屋に連れ込んだのは「不適切だったかもしれない」と認めつつ、「彼女を駅やホテルのロビーに置き去りにすることも不適切だと思った」と語った。
山口氏はその後で何が起きたかについては弁護士の助言により語ることを控えた。伊藤さんの民事訴訟に提出された書類によると、山口氏は伊藤さんの衣服を洗い流すために彼女の服を脱がせ、ホテルの部屋のベッドの一つに寝かせたという。山口氏は、さらにその後、伊藤さんが目を覚ましてベッドの脇にひざまずき、彼に謝罪したことを付け加えた。
提出書類では、伊藤さんにベッドに戻るように伝えたが、自身で彼女のベッドに腰掛け、性行為を始めた、とある。彼女に意識はあったが、抵抗も拒絶もしなかったという。
ところが、その夜以降に伊藤さんとの間で交わされたメールで山口氏が語った内容は、これとは多少異なる。
彼女が自分で彼のベッドに潜り込んできたと書いているのだ。
「だから、意識不明のあなたに私が勝手に行為に及んだというのは全く事実と違います」
2015年4月18日付けのメールにはこう書いてあった。

(参考)伊藤詩織著『Black Box』88頁における実際の記載。
「私もそこそこ酔っていたところへ、あなたのような素敵な女性が半裸でベッドに入ってきて、そういうことになってしまった。お互いに反省することろはある」[※著書『Black Box』記載の原文ママ ]
別のメールで山口氏は、レイプの訴えを否定し、互いに弁護士に相談するべきだと提案する。
「あなたが準強姦の主張しても(原文ママ)、あなたが勝つ事はありません」


(参考)伊藤詩織著『Black Box』112-113頁における実際の記載。
本紙が一連のメールについて尋ねたところ、山口氏は、伊藤さんとのやりとりの全記録が、自分の立場を利用して彼女を誘う「意図はなかった」ことを証明するだろうと答えた。
「彼女に迷惑をかけられているのは私のほうです」
山口氏はそう付け加えた。

[写真] 「私は何も違法なことはしていない」「性的暴行は行われていない。あの夜、犯罪行為は行われなかった」と山口氏は語った。本紙のためにジェレミー・スーテイラットが撮影。
Shame and Hesitation 恥とためらい
伊藤さんはホテルを出た後、急いで自宅に帰り体を洗い流したという。
彼女はいま、そのことを後悔している。
「警察に行くべきでした」
彼女のような「ためらい」は典型的といえる。
「性的暴行の被害に遭った日本女性の多くは『私のせいに違いない』と自分を責めます」
お茶の水女子大学でジェンダー法学を研究する戒能民江名誉教授はこう語る。
性暴力救援センター・東京(SARC東京)でレイプ・カウンセラーを務める田辺久子氏は、ホットラインに電話してくる女性に警察に行くように勧めても、警察が信じる筈がないと拒まられることがよくあるという。
「彼女たちは、自分が間違ったことをしたと指摘されると思っているんです」
伊藤さんも、自らを恥じ、口を閉ざしつづけることを考えた。男社会の日本のメディア業界で成功するためには、このような扱いでも耐え忍ばなければらないのかと、悩みつづけた。しかし、事件の5日後、彼女は警察へ行くことを決心した。
「真実と向き合わなければ、私はジャーナリストとしてやっていけないと思ったんです」
伊藤さんは当時を振り返った。
伊藤さんが相談した警官らは当初、彼女が泣かずに話を伝えたため彼女を疑い、被害を届け出ることを思い留まらせようとしたという。ある警官は、山口氏の業界での地位を考えると、事件の追及は困難であろうという見方すら示した。
しかし伊藤さんがホテルの防犯カメラの映像を確認してほしいと訴えつづけた結果、警察は最終的に彼女の話を真剣に受け止めたのだという。
二か月にわたる捜査の末、フリーランスとしてベルリンでプロジェクトに参画していた伊藤さんに捜査主任から連絡が入った。捜査官は彼女に、タクシー運転手の証言やホテルの防犯カメラ映像、そして彼女の下着(ブラジャー)に付着したDNAが検出されたことから、山口氏を逮捕する準備を進めていることを伝えた。
捜査官は、2015年6月8日にワシントン発東京行きの便で空港 [訳注: 成田空港] に到着する山口氏を逮捕する計画なので、取り調べへの協力のために日本に帰国するよう伊藤さんに要請したという。
しかし当日になると、その捜査官が再び電話をかけてきた。空港内にいると言う捜査官は、たったいま、上から逮捕を行わないよう指示を受けたと伊藤さんに伝えた。
「私は彼に尋ねました。『どうしてそんなことが可能なのですか?』と。でも、彼は質問に答えることができませんでした」
伊藤さんはその捜査官を守りたいと、捜査官の名を明かすことを拒んだ。
警視庁の広報官は、山口氏を逮捕する計画がとん挫したことについては言及を控え、次のようにコメントした。
「われわれは法令に基づき必要な調査を行い、すべての文書と証拠を東京地方検察庁に送付しました」

[写真] 恵比寿界隈に佇む「シェラトン都ホテル東京」。本紙のためにジェレミー・スーテイラットが撮影。
‘I Have to Be Strong’ 「私が強くあり続けなければ」
最新の2016年度の政府統計によると、警察は日本国内989件のレイプ事件が起きていることを確認している。女性10万人当たりおよそ1.5件の割合で事件が生じているということになる。これと比較して、米連邦捜査局(FBI)の統計によると、米国内では11万4730件のレイプ事件が発生しており、男女含めた全住人の10万人当たりおよそ41件の割合で事件が生じていた。
研究者らは、日米の犯罪率の差は、実際の犯罪率ではなく、被害者による過小な報告や日本の警察・検察の態度を反映したものだ主張する。
日本の国会は今夏、この110年間で初めて、性犯罪処罰法の改正を受け入れ、 レイプ [訳注: 新罪名「強制性交等罪」] の定義を拡大した。口淫と肛門性交が加えられ、潜在的な被害者 [訳注: 客体] に男性が含められた。また最も軽い処罰の刑期を増やした。ただし、同意については依然として明記せず、執行猶予判決を下す余地も残した。
また、最近事件が起きたばかりであるにも関わらず、大学構内での性暴力に関する啓蒙はほとんど行われていない。千葉大学の新入生を対象とした講義では、最近起きたばかりの輪姦事件を『不幸なケース』と教えるのみで、「犯罪を行ってはならない」と漠然と促すに留まっている。
伊藤さんの事件では、果たして山口氏が首相との繋がりによって特別に待遇されたのかという点についても疑問が残る。
伊藤さんが事件のことを公に訴えた後、ほどなくして日本人ジャーナリストの田中敦(あつし)氏が警視庁の最高幹部に直撃した。
幹部の名は中村格(いたる)。安倍首相の官房長官を務める菅義偉官房長官の元秘書官で、捜査官らが山口氏を逮捕する準備を進めていたところ、それを差し止めたことを中村氏自ら誌面で認めた。『週刊新潮』にその記事を書いたのが、田中氏だった。
伊藤さんの訴えは山口氏のTBSでの立場には影響しなかった。ただ、山口氏は昨年、問題となる記事を発表したことで局から辞職に追い込まれた。現在はフリーランスのジャーナリストとして日本で活動している。
10月、伊藤さんは自身の経験を綴った手記を出版した。だが、日本の主要メディアはあまり関心を寄せていない。
伊藤さんの事件を調査する数少ないジャーナリストの一人である望月衣塑子(いそこ)氏は、自身も職場の報道フロアの同僚男性らの抵抗に遭っているという。彼らは、伊藤氏がただちに病院に赴かなかったことを理由に事態を軽視していた。
「メディアは性的暴行に関することをほとんど報道しようとしません」
望月氏は言う。
だからこそ、声を上げたのだと、伊藤さんは言う。
「私はまだ強くあり続けなければならないのだと、そう感じます。そして、なぜこれを容認できないか、語り続けなければならないのだと思います」
執筆協力:上乃久子
本記事の紙面版は2017年12月30日付けのA1面ニューヨーク版に「彼女は訴えた。彼女の母国はこれを黙殺した」と題して記載されている。
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ひとみに映る影シーズン2 第二話「高身長でわんこ顔な方言男子」
☆プロトタイプ版☆ こちらは無料公開のプロトタイプ版となります。 最低限の確認作業しかしていないため、 誤字脱字誤植誤用等々あしからずご了承下さい。 尚、正式書籍版はシーズン2終了時にリリース予定です。
(シーズン2あらすじ) 私はファッションモデルの紅一美。 旅番組ロケで訪れた島は怪物だらけ!? 霊能者達の除霊コンペとバッティングしちゃった! 実は私も霊感あるけど、知られたくないなあ…… なんて言っている場合じゃない。 諸悪の根源は恩師の仇、金剛有明団だったんだ! 憤怒の化身ワヤン不動が、今度はリゾートで炸裂する!!
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☆キャラソン企画第二弾 青木光「ザトウムシ」はこちら!☆
དང་པོ་
時刻は十四時三十分。MAL五八便が千里が島に到着してから既に五分以上経過した。しかし乗客はなかなか立ち上がれない。体調を崩して客室乗務員に介抱される人や、座席備え付けのエチケット袋に顔を突っ込んでいる人も見受けられる。機内に酸っぱい臭いが充満してきたあたりでようやく、私達したたびチームを含め数人がフラフラと出口に向かった。 機体と空港を繋ぐ仮設通路は『ボーディングブリッジ』というらしい、という雑学を思い出しながらボーディングブリッジを渡る。ある先輩俳優がクイズ番組でこれを『ふいごのトンネル』と珍回答して笑いを取っていたけど、なるほど確かにこれはふいごのトンネルだ。実際に歩きながら、言い得て妙だと感じた。 空港に入って最初に目についたベンチに佳奈さんが横たわった。ドッキリ企画の時から着っぱなしだったゴシックタキシードのボタンを外し、首元の���ラヒラしたスカーフで青い顔を拭う。 「うぅ、吐きそう……もらいゲロかも……」 「おいおい、大丈夫ですかぁ? トイレまで歩けます?」 一方ケロッとしているタナカD。口先では心配しているような言い草だけど、ちゃっかりカメラを回し始めた。 「やめろー撮るなぁー! ここで吐くぞー……うぅるぇっ……」 「ちょっと、冗談じゃなく本当に吐きそうじゃないですか! 大惨事になる前にトイレ連れてってきます」 私は佳奈さんに肩を貸してトイレへ向かう。タナカDの下品な笑い声が遠のいていった。洋式の個室で彼女を降ろし、自分も二つ隣の空いている洋式個室に入る。チャンスだ。まず壁にかかったスイッチを押し、滝音と鳥のさえずりが合わさったエチケット音声を流す。次にトートバッグから小さなクナイ型の物を取り出す。これは『プルパ龍王剣(りゅうおうけん)』という密教宝具だ。私が過去に浄化した悪霊を封じこめてあり、そいつから何時でも力を吸い出す事ができる。 「オム・アムリトドバヴァ・フム・パット」 口を閉じたまま、他人に聞こえるか聞こえないかギリギリの声で真言を唱える。すると、ヴァンッ! プルパは私から黒々とした影を吸い上げ、龍を刺し貫いた刃渡り四十センチ程のグルカナイフ型に変形した。 「う……うぅ……」 プルパに封印された悪霊、金剛倶利伽羅龍王(こんごうくりからりゅうおう)が呻き声を漏らす。昔こいつは人を呪ったり、神様の振りをして神社を乗っ取ったり、死んだ人の魂を監禁して怨霊に育てたりと悪行の限りを尽くしていた。ご立派な名前に似合わず、とんでもない奴だ。 <機内での騒動を聞いていたな。あの毛虫みたいな化け物は何だ?> 影を介したテレパシーで、私は威圧的に倶利伽羅に囁く。ついでに壁のボタンを押し直し、エチケット音を延長。 「ア……? 俺様が知るわけがぼがぼぼごがぼごがガガガ!?」 しらばっくれようとした倶利伽羅の顔を便器に沈めて水を流した。 <どこからどう見てもお前と同類だったろうが! その縮れた灰毛、歯茎じみて汚い皮膚、潰れた目! もう一度問う。あれは何だ?> 「げ、っほ、うぉ゙ほッ……! あ、あれは散減(ちるべり)……『母乳を散り減らせし虫』……」 <母乳?> 「母乳とは……親から子へ引き継がれる、『血縁』のメタファーだ。母乳を奪えば子は親の因果を失い……他人の母乳を飲ませれば、子とその相手は縁で結ばれる」 縁。そういえば千里が島の旧地名は散減島で、縁切りパワースポットだったか。あの怪物、散減は、どうやらその伝承と関係があるようだ。それにしても、 <ならその散減とお前には如何なる縁がある? またお前を生み出した金剛有明団(こんごうありあけだん)とかいう邪教の仕業か> 「知らん! だいたい貴様、そうやって何でもかんでも金剛のせいにがぼろごぼげぼがぼげぼろこゴゴポ!!?」 流水。 <資源の無駄だ。節水に協力しろ> 「ゲッ、ゲエェーーッ! ゲホガホッ! 本当に知らな」 <それとも次は和式の水を飲みたいか> 「知らないっつってんだろぉ!! 確かに散減も母乳信仰も金剛の叡智だ。だがそれをこの田舎島に伝来したのは誰か知らん! 少なくとも俺様は無関係だ!!」 残念だけど、こいつから聞き出せる情報はこの程度のようだ。私は影の炎で倶利伽羅を熱消毒して、洗面台でプルパと自分の手を洗った。 「ぎゃああああ熱い熱い!! ぎゃああああああ石鹸が染みるウゥゥ!!」 霊的な炎にスプリンクラーが反応しなくて良かった。 ベンチに戻ると、佳奈さんは既に身軽なサマードレスに着替えていた。脱水防止に自販機でスポーツドリンクを買い、大荷物を待っていると、空港スタッフの方が私達のスーツケースを運んできてくれる。 「ようこそおいでなすって、したたびの皆さん。快適な空の旅を?」 「いやあ、それがとんでもない乱気流��入っちゃいましてね。だぶか墜落せずにここまで運んでくれた機長さんは凄いですなぁ」 「乱気流が! ははぁ、そいつぁコトだ。どうか島ではごゆっくり」 尻切れトンボな口調でスタッフの方がタナカDと会話する。これは『南地語(なんちご)』と呼ばれる、江戸の都から南方にあるこの島特有の方言だ。『~をしましたか?』が『~を?』、『~なのです』が『~ので』、といった調子で、千里が島の人は語尾を省略して喋るんだ。 「佳奈さん、私南地語を生で聞くの初めてです。なんだか新鮮ですね」 「千里が島スタイルでは南地語(なっちご)って読むんだよ」 「へえ、沖縄弁がうちなーぐちみたいな物なので?」 「そうなので!」 「「アハハハハ!」」 二人でそれらしく喋ってみたけど、なんかちょっと違う気がする。案外難しい。それより、佳奈さんがちょっと元気になったみたいで良かった。今日この後はホテルで企画説明や島の情報を聞くだけだから、今夜はゆっくり休んで、気持ちを切り替えていこう。
གཉིས་པ་
空港出入口の自動ドアを開いた途端、島のいやに生ぬるい潮風が私達を出迎えた。佳奈さんがまた気分を悪くしそうになり、深呼吸する。私も機内の騒動で平衡感覚がおかしくなっているからか、耳鳴りがする。 「ともかくお宿に行きたいな……」 そう独りごちた矢先、丁度数台の送迎車がバスターミナルに列をなして入ってきた。特に目立つのは、先頭を走るリムジンだ。白く輝く車体はまるでパノラマ写真のように長い。 「わぁすっごい! 東京からテレビが来たってだけあって、私達超VIP待遇されてる!」 「いえ、佳奈さん、あれは……」 ところがリムジンは大はしゃぎする佳奈さんを素通り。入口最奥で待機していた河童の家一団の前に停車する。すかさず助手席からスーツの男性がクネクネしながら現れ、乗降ドア前に赤いカーペットを敷き始めた。 「どうもどうもぉ、河童の家の皆様! 私めはアトムツアー営業部の五間擦(ごますり)と申します。さあさ、どうぞこちらへ……」 アトムツアー社員は乗車する河童信者達の列に跪いて靴を磨いていく。全員が乗りこむと、リムジンはあっという間に去っていった。 「……あーあ。やっぱ東京のキー局番組じゃないってバレてたかぁ~。リムジン乗りたかったなぁ」 「ただの神奈川ローカルですからね、私達」 「こう言っちゃなんですけど、さすがカルト宗教はお金持ってますなあ」 「タナカさん、今の台詞はカットしなきゃダメですよ」 「あっ一美ちゃん! 私達の、あっちじゃない?」 リムジン後方から車間距離を空け、一糸乱れぬ隊列を組んだバイク軍団が走ってくる。機体はどれも洗練されたフォルムの高級車で、それに乗るライダー達も全員眩しくなるほど美少年だ。 「「「千里が島へようこそ、お嬢様方! アトムツアー営業部ライダーズです!」」」 彼らは私達の目の前で停車すると、上品なダマスク柄の相乗り用ヘルメットを取り出し白い歯を見せて微笑んだ。 「えーっ、お兄さん達と二ケツして行くって事!? やーんどうしよ……」 佳奈さんがデレデレと伊達眼鏡を外した瞬間、 「きゃー!」「ライダー王子~!」「いつもありがとぉねぇー!」 加賀繍さんのおばさま軍団が黄色い悲鳴を轟かせ、佳奈さんを突き飛ばしてイケメンに突進! 一方イケメンライダーズは暴れ牛をいなす闘牛士の如く、キャーキャー飛び跳ねるおばさま達にテキパキとヘルメットを装着し、バイクに乗せていく。ところがおばさま軍団の殿を堂々たる態度で歩く加賀繍さんは、彼らを見るや一言。 「ヘン。どれもこれも、モヤシみたいのばかりじゃないか。コールもろくに出来なさそうだねぇ」 イケメンライダーズには目も合わそうとせず、一番大きなバイクにどかっと着席。バイク軍団は颯爽とリムジンを追いかけていくのだった。 「……あーあぁぁ。やっぱ小心者モデルじゃイケメンバイクはダメかぁ~」 「腹黒極悪ロリータアイドルじゃダメって事ですねぇ」 「加賀繍さんも稼いでるもんなあ。コールですって、きっとホスト狂いですよぉあの人」 「タナカD、その発言OA(オンエア)で流したら番組打ち切りになるよ」 三人で管巻いていると、少し間を置いて次の送迎車が現れた。トココココ……と安っぽいエンジン音をたてて走る小型シャトルバスだ。私としては別に河童の家や加賀繍さん方みたいな高級感はいいから、さっさとホテルで休ませて欲しい。ランウェイを歩いていた午前中から色んな事が起こりすぎて、もうヘトヘトなんだ。「あ、あの……」しかしバスは残酷にも、私達の待つ地点とは反対側のロータリーに停車。玲蘭ちゃんと後女津一家を乗せて去っていった。「あの、もし……」小さくなっていく『アトムツアー』のロゴに、佳奈さんが中指を立てた。私もそれに倣って、親指を 「あの! お声かけても!?」 「ふぇ!? あ、は、はい!」 声をかけられた事に気がつき振り返ると、背の高い男性……を通り越して、日本人離れした偉丈夫がいつの間にか私達の背後に立っていた。しかも恐縮そうに腰を屈めているから、まっすぐ立ったら少なくとも身長二メートル以上はありそうだ。 「遅くなっちまって失礼を。僕は千里が村役場観光事業部の、青木光(あおきひかる)です。ええと、したたびさんで?」 「ええ。しかし、君が青木君かい!? 大きいなあ、あっはっは!」 タナカDが青木さんの胸のあたりをバシバシと叩いた。青木さんはオドオドと会釈しながら後込む。身体が大きいから最初は気がつかなかったけど、声や仕草から、彼は私と同い年か少し年下のようだとわかる。 「あ、あのォこれ、紅さんがいつも髪にチョークされてるので、僕も髪色を。ど、どうです……派手すぎで?」 「あ、ヘアチョークご自分でされたんですか? すごくお似合いですよ!」 「い、いえ、床屋のおばちゃんが! でも……お気に召したなら、良かったかもだ」 青木さんは全体をホワイトブリーチした目隠れセミロングボブを、毛先だけブルーにしている。今日は私も下半分ブルーだからおそろいだ。ただ、このヘアメイクに対して彼の服装はイマイチ……素肌に白ニットセーター直着、丈が中途半端なベージュカーゴパンツ、ボロボロに履き古された中学生っぽいスニーカー。確かに、『都会からテレビが来るから村の床屋さんが髪だけ気合い入れすぎちゃった』みたいな情景がありありと目に浮かんでしまう。もうロケそっちのけで青木さんを全身コーデしたくなってきた。 「それより青木君、私達の車は?」 佳奈さんが荷物を持ち上げる。 「え。いえその、言いにくいんですけど……」 青木君は返答の代わりに、腕を左右にスイングしてみせた。まさか…… 「徒歩なんですか!?」 「すす、すみません、荷物は僕が! 役場もコンペに予算とか人員を削がれちまって、したたびさんのお世話は僕一人などと。けど僕、まだ仮免だから……」 「「コンペ?」」 首を傾げる佳奈さんとタナカD。私は飛行機内で聞いた除霊コンペティションの話をかいつまんで説明した。 「困るよぉそれ! 除霊されたらこっちの撮れ高がなくなるじゃんかよ!」 「ゲ、やっぱり! 聞いて下さい青木さん。この人達、宝探し企画とか言っておきながら、本当は私を心霊スポットに連れて行く気だったんですよ!?」 「ええっ肝試しを!? 島のお化けはおっとろしいんだから、それはちょっとまずいかもけど!」 目隠れ前髪越しでもわかるほど冷や汗を流しながら、青木君は赤べこみたいにお辞儀を繰り返す。 「そら見なさい、触らぬ神に祟りなしですよ。私達だけ徒歩になったのだって、きっと罰が当たったんだ」 「そーだそーだ! 青木君に謝れタナカD!」 「なんだと? あなただって紅さんを地上波で失禁させるって息巻いてたじゃないか!」 「佳奈さん!!」 「そこまでは言ってないし!」 「ややや、喧嘩は!」 「あ、気にしないで下さい。私達これで平常運転ですから」 この罵り合いはホテルに到着するまで続く。したたびロケではいつもの事だ。私達は良く言えば忌憚なく話し合える仲だし、悪く言えば顔を合わせる度に言葉の殴り合いをしている気がする。それでも総括的には……仲良しなのかな、どうなんだろう。 空港からホテルへは、石見サンセットロードという遊歩道を行く。海岸沿いの爽やかな道とはいえ、心霊スポットという前情報のせいか海が陰気に見える。船幽霊が見えるとかそういう事はないけど、島の人も霊も全く外を出歩いていなくてだぶか不気味だ。 到着した『ホテル千里アイランドリゾート』はそこそこ広くて立派な建物だった。それもそのはず。青木さんによると、ここは島で唯一の宿泊施設だという。但し数ヶ月後には、アトム社がもっと大規模なリゾートホテルを乱造するんだろう。玄関に到着すると、スタッフの方々が私達の荷物を運びに…… 「って、玲蘭ちゃんに斉一さん!?」 「あっ狸おじさんだ! ……と、誰?」 そうか、普段メディア露出をしない玲蘭ちゃんを佳奈さんは知らないんだった。 「この方は金城玲蘭さん、沖縄の祝女……シャーマンですね。私の幼馴染なんです」 「初めまして志多田さん、タナカさん。金城です。こちらの彼は……」 玲蘭ちゃんが話を振る直前、斉一さんの中にさりげなく、ドレッド狸の斉二さんが乗り移るのが見えた。代わりに斉一さんらしき化け狸が彼の体から飛び出し、 「どうも、ぽんぽこぽ���ん! 幸せを呼ぶ地相鑑定士、毎度おなじみ後女津斉一です!」 彼はすっかりテレビでお馴染みの風水タレントの顔になっていた。芸能界で活躍していたのはやはり斉二さんだったみたいだ。 「あの、どうしてお二人が?」 客室へ向かいながら私が問いかけると、二人共苦笑する。 「一美、実は……私達、相部屋だったんだ」 「え!?」 すごすごと玲蘭ちゃんが襖を開けると、そこはまさかの宴会場。河童の家や加賀繍さん達で客室が埋まったとかで、したたびチームと玲蘭ちゃん、後女津家が全員大部屋に押しやられてしまったのだという。 「はぁ!? じゃあ私達、川の字で雑魚寝しなきゃいけないワケ!? 男女分けは……まさか、えっこれだけ!?」 「すみません、すみません!!」 佳奈さんが宴会場中央の薄っぺらい仕切り襖を開閉するリズムに合わせ、青木さんはベコベコと頭を下げる。 「やめましょうよ佳奈さん、この島じゃ誰もアトムには逆らえないんですから」 「ぶっちゃけ俺や金城さんも、半ばアトムに脅迫される形でここに連れてこられたんだよねぇ……あ、これオフレコで」 「いやいや狸おじさん、もう全部ぶっちゃけたっていいんですよ。うちのタナカが全責任を負って放送しますから」 「勝手に約束するんじゃないよぉ! スーパー日本最大手の大企業に、テレ湘なんかが勝てるわけないんだから!」 「「「はあぁぁ……」」」 全員から重たい溜め息が漏れた。
གསུམ་པ་
簡単な荷物整理を終え、したたびチームはロビーに移動。改めて番組の企画説明が始まった。タナカDが三脚でカメラを固定し、語りだす。 「今回は『千里が島宝探し編』。狙うはもちろん、徳川埋蔵金ですからね。お二人には明後日の朝までに、埋蔵金を探し出して頂きます」 「見つからなかったらどうなるんですか?」 「いつも通り、キツい罰ゲームが待っていますよぉ」 「でしょうねぇ」 埋蔵金なんか見つかりっこないのは分かりきっている癖に。完全に出来レースじゃないか。 「もちろん手掛かりはあるよ」 佳奈さんが机に情報フリップを立てかけた。書かれているのは簡略化された千里が島地図だ。 「山の上にあるのが噂の縁切り神社、『御戌神社(おいぬじんじゃ)』。そこから真下に降りたところ、千里が島国立公園のところに書いてあるこのマークが『ザトウムシ記念碑』。一美ちゃんは、民謡の『ザトウムシ』は知ってるよね?」 「もちろん知ってますよ。お店で閉店前によく流れる曲ですよね? あれって千里が島の民謡なんですか」 「そうなの。そしてザトウムシの歌詞は、一説によると徳川埋蔵金のありかを示す暗号だと言われてるんだ!」 「へえ、そうなんですね。じゃあ暗号は解けてるんですか?」 「それはこれから考えるんだよ」 「はぁ……」 なんだか胡散臭い手掛かりだ。 「だいたい、埋蔵金なんて本当にあるんですか? そもそも、千里が島と徳川幕府に関係性が見えないんですが」 「じゃあまずは千里が島の歴史を知るところからだね。青木君ー!」 「はい、ただいまー」 佳奈さんが呼びかけると、大きなホワイトボードを引きずりながら青木さんが画角内に入る。実はさっきから、彼は私達の真横でずっとスタンバイしてくれていたんだ。青木さんはホワイトボードにゴシック体みたいな整った字で『千里が島と徳川家の歴史』と書き、解説を始めた。 千里が島、旧地名散減島。ここは元々江戸時代に都を脅かした怨霊を鎮めるためだけに開拓された地で、その伝説が縁切りや埋蔵金の噂に繋がる起源なのだそうだ。 事の発端は一六七九年。徳川幕府五代将軍、徳川綱吉が男の子を授かった。名を徳松という。しかし徳松は一歳を過ぎても母乳以外なにも飲み食いできず、見るからに虚弱だった。これを訝しんだ綱吉が時の神職者に相談してみると、徳松は江戸幕府征服を目論む物の怪によって、呪われた悪霊の魂を植え付けられていたと判明する。 「物の怪は徳松の体のミルクから、縁を奪ってたんですだ」 「ミルクから……縁?」 既に倶利伽羅から軽く説明を受けていたけど、番組撮影のためにも改めて青木さんから話を聞く。 「昔の伝承じゃ、おっかさんのミルクにゃ親子の縁が宿るなど。ミルクをとられた子は親と縁が切れて、バケモノになっちまうとか。だから徳松は、本能的にいつまでもミルクを」 「へえ、そういう信仰があったんですね」 神職者が提示した儀式は、三歳、五歳、七歳……と二年毎に分けて行われる。魂が完全形成される前の三歳の時に悪霊を摘出し、代わりに神社の聖なる狛犬の魂を素材として魂を作り直す。五歳になったら身を守るための霊能力を与えて修行を積ませ、七歳で悪霊退散の旅に向かわせる。それが幕府と神職者が本来描いていた運びだった。 「ちなみにこれが七五三参りの起源なんだよ……だがしかしィーっ!」 佳奈さんがフリップに貼ってある付箋を勢いよく剥がす! 「デデン! なんと徳松は五歳で死んでしまうのです!」 「えぇ? 七五三参りの起源になった子なのに、七歳まで生きられなかったんですか!?」 「まあ現在の七五三参りは、男の子は五歳しかお参りしませんけどね」 タナカDが画面外から補足した。徳松は修行の途中物の怪に襲われ、命を落としてしまったんだ。それでも彼は物の怪を体内に封印し、二年間耐え抜いた。しかし物の怪は激しく縁に飢え、徳松の精神をじわじわと狂わせる。そして一六八五年、人の縁を完全に失った徳松の魂は大きな狛犬のような怨霊となって江戸中の縁を貪った。徳松に縁を食われた人々は不幸にみまわれ、家族や仕事を失ったり、人間性を欠きケダモノめいて発狂したりと大パニックだ! ついに諦めた幕府と神職者は、徳松を江戸から追い出してしまう。彼らは江戸中の女性から母乳を酒樽一斗分集め、それを船に乗せて江戸から遥か南の無人島に運んだ。徳松も船を追って海を渡ると、そのまま神職者は島に神社を建て、徳松の魂を神として奉った。以降徳松は悪縁を食べてくれる縁切り神として有名になり、千里が島は今日も縁切りパワースポットとして名を馳せているんだそうだ。 「では一美ちゃん、ここでクイズです! 怨霊事件から更に二年後、一六八七年。怨霊がいなくなった後も徳松の祟りを思い出してノイローゼになっていた綱吉は、ある法律を制定しました。それはなーんだ?」 「え、法律!?」 急に佳奈さんがクイズを振ってきた。歴史は得意でも苦手でもない方だけど…… 「ええぇ、徳川綱吉で法律といえば、生類憐れみの令ぐらいしか……」 「ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん!!」 「え、生類憐れみの令でいいんですか!?」 「その通り! 綱吉は犬畜生を見る度に徳松を思い出してしまう! そして祟りを恐れて動物を殺さないように法律を作った。それが生類憐れみの令の真実なのだあ!!」 ババババーン! と、オンエアではここで安っぽい効果音が入るのが想像に難くない。しかし七五三参りだけでなく、あまつさえ生類憐みの令まで徳川徳松が由来だったなんてさすがに眉唾な気がする。 「徳松さんってそんなに歴史的に重要な人だった割には、あまり学校じゃ習わないですね」 「今青木君と佳奈さんが説明した伝承は、あくまで千里が島に伝わる話ですからな。七五三も生類憐れみの令も、由来は諸説あるみたいですよ」 タナカDが蚊に食われた腕を掻きながら再び補足した。すると佳奈さんが反論する。 「でもだよ! もし千里が島の伝説が本当なら、法律にしちゃうほど当時の江戸の人達が徳松を恐れてたって事だよね! だったら幕府は、だぶか大事な物は千里が島に隠すと思うんだ。まさに埋蔵金とか!」 「うーん、百歩譲ってそうだったとしても、それで私達が埋蔵金を見つけて持って行っちゃったら、徳松さんに祟られませんか?」 「もー、一美ちゃんは相変わらずビビりだなあ。お化けが怖くて埋蔵金がゲット出来るかっ!」 「佳奈さん。そんな事言ってると、いつか本当にとんでもない呪いを背負わされますよ」 「その子の言う通りさね」 「え?」 突然、誰かがトークに割り入ってきた。私達が顔を上げると、そこにいたのは加賀繍さんと取り巻きのおばさま軍団。なんてことだ。恐れていた展開、ついにアサッテの霊能者に絡まれてしまった。
བཞི་པ་
ホテルロビーの椅子と机はフロントより一段低い窓際に位置する。フロント側に立つ加賀繍さんとおばさま方に見下ろされる私達は、さながら熊の群れに追い詰められた小動物のようだ。 「あんた、志多田佳奈だっけか? いい歳して幼稚園児みたいな格好して、みっとみないね。ご先祖様が泣いてるよ」 「ですよねぇ先生、大人なのに二っつ結びで」「嫌ーねー」 初対面で早々佳奈さんを罵る加賀繍さんと、それに同調するおばさま軍団。 「これはゴスロリっていうんですーっ」 佳奈さんがわざとらしく頬を膨らませた。こんな時でもアイドルは愛想を振りまくものだ。 「ゴスロリだかネンネンコロリだか知らないけどね。あんた、ちゃんとご先祖様の墓参りしているのかい? この島は特別な場所なんだから、守護霊に守って貰わなきゃあんた死ぬよ。それこそネンネンコロリだ」 出た、守護霊。日頃お墓参りを怠っていると、ご先祖様が守護霊として仕事をしなくなり不幸になる。正月の占い番組でよく聞く加賀繍さんの常套句だ。更に加賀繍さん直営の占い館では、忙しくてお墓参りに行けない人に高価なスピリチュアルグッズを売りつけているという噂だ。現に今も、おばさま方が怪しい壺やペットボトルを持って、私達をじっとりと見つめている。 「それから、そっちの黄色いの。あんたはちゃんとしてるのかい?」 黄色いの? ……ああ、アイラブ会津パーカーが黄色だから私の事か。佳奈さんは芸名で呼ばれたのに、ちょっと悔しい。 「定期的に帰ってますよ。家のお仏壇にも毎日お線香をあげてますし」 実家では、だけど。ここは彼女を刺激しないようにしたい。 「ふぅんそう。けどそれだけじゃあ、この島じゃ生きて帰れないだろうさ。仕方ないね、今回はあたしが特別にエネルギーを分けてやるよ」 そう言い加賀繍さんは指を鳴らす。するとおばさま方が私達のテーブルからフリップや資料を勝手にどかし、怪しい壺とペットボトル、銀のボウルをどかどかと並べ始めた! 慌ててタナカDが止めにかかる。 「ちょっと、加賀繍さん! 困りますよぉ、撮影中です!」 「はあ? 困るですって!?」 「あなた! 加賀繍先生が直々に御力添えして下さるのを、まさか断るってんじゃないでしょうね?」 「あ、いえ、とんでもございません」 「もー、タナカD~っ!」 しかしおばさま方に気圧されてあっさりと机を譲ってしまった。佳奈さんがタナカDの頭をペチッとはたいた。おばさまの一人がペットボトルを開け、ボウルに中身を注ぎ始める。ボトルには『悪鬼除滅水』という何やら物騒な文字が書かれている。横で加賀繍さんも壺の蓋を開ける。何か酸っぱいにおいが立ちのぼり、佳奈さんが私にしがみついた。 「エッヤダ怖い。あの壺、何が入ってるの!?」 小声で佳奈さんが囁く。加賀繍さんはその壺に……手を突っ込んでかき混ぜ始めた! グシュ、ピチャ、ヌチチチチ。まるで生肉か何かを攪拌しているような不気味な音がロビーに響く。 「やだやだやだ! 絶対生モノ入ってる! まさか、ご、ご、ご先祖様の……ご、ご、」 「ご遺体を!? タナカさん、カメラ止めにゃ!」 気がつくと青木さんまで私にしがみついて震えていた。かく言う私はというと、意外と冷静だ。あの壺や水からは、なんら霊的なものは感じない。強いて言うなら加賀繍さんご本人の中に誰かが宿っている気がするけど、眠っているのか気配は薄い。それより気になるのは、ひょっとしてこの酸っぱいにおいの正体は…… 「ぬか漬け、ですか?」 「そうさ」 やっぱり! 加賀繍さんは壺から人参のぬか漬けを取り出し、ボウルの悪鬼除滅水でぬかを洗い落とした。 「あたしん家でご先祖様から代々受け継がれてきたぬか床さ。これを食えばあんたらも家族と見なされて、いざという時あたしの強力なご先祖様方に守って貰える。ほら、食え」 加賀繍さんが人参を佳奈さんに向ける。でも佳奈さんは受け取るのを躊躇った。 「うわぁ、せ、先祖代々って……なんか、それ大丈夫なんですか?」 「なんだって!?」 「ひい!」 「し、しかしですねぇ加賀繍さん、お気持ちは有難いんで大変申し訳ないんですが、演者に生ものはちょっと……」 「カメラマン、あんたも食うんだよ」 「僕もですか!? いえ、僕はこないだ親戚の十三回忌行ったばっかだから……」 「美味しい!」 「一美ちゃん!?」「紅さん!?」 誰も手をつけないから私が頂いてしまった。これは普通に良い漬物だ。塩気や浸かり具合が丁度よくて、野菜がビチャッとしていない。ぬか床が大切に育てられている事がよくわかる。 「美味しいです加賀繍さん! 福島のおばあちゃんの漬物を思い出しました。佳奈さんも食べてみればいいじゃないですか」 「一美ちゃん案外勇気あるなあ……。じゃ、じゃあ、いただきます……エッ美味しい!」 「でしょ?」 「はははははっ!」 私は初めて、ずっと仏頂面だった加賀繍さんがちゃんと笑う所を見た。 「あんたは本当にちゃんとしているんだね、黄色いの。よく墓参りをする人は、親や祖父母の実家によく帰るだろ。だから家庭の味ってやつをちゃんと知っている。人にはそれぞれ家族やご先祖様がいて、それが良縁であれ悪縁であれ、その人の人生を作るのさ。だから墓参りはしなくちゃいけないんだよ。この島の神様は縁を切るのが仕事のようだけど、あたしゃ自分に都合の悪い縁を切るなんて愚かだと思っているのさ」 「そうなんですね。ちなみに私、紅一美です。覚えて下さい」 「あ? 紅? じゃあ何でそんなに黄色いんだい。今日から黄色ちゃんに改名しな! ハハハハ!」 どうやら私は加賀繍さんに気に入られたようだ。地元を引き合いに出したのが良かったみたいだ。それにしても、彼女の話はなかなか説得力がある。どうする事もできない悪縁を切るために神様を頼るのが間違っているとまでは思わないけど、そうする前に自分のご先祖様や恩人との縁を大切にする方が大事なのは明白だ。彼女がアサッテだからって偏見の目で見ていた、さっきまでの自分が恥ずかしくなった。ところが…… 「じゃあ、これ御力添え代ですわ。ほい」 おばさま方の一人がタナカDに請求書を渡す。するうちタナカDは「フォッ」と声にならない音を発し、冷や汗を流し始めた。あの五百ミリリットルサイズの悪鬼除滅水ボトルに『¥三,〇〇〇』と書かれたシールが貼ってあった気がするけど、人参のぬか漬け一本は果たしていくらなんだろう。それ以外にも色々な手数料が加算されているんだろうな……。 「加賀繍さんにパワーを貰えてラッキー! 果たして埋蔵金は見つかるのか!? CMの後、急展開でーす! はいオッケーだね、じゃ私トイレ!」 佳奈さんは息継ぎもせず早口でまくし立て、脱兎のごとくホテル内へ去っていった。 「あっコラ極悪ロリータ! 勝手に締めて逃げるなぁ!!」 「青木さん、私ぬか漬け食べたらお茶が飲みたくなっちゃったなー!」 「でしたらコンビニなど! ちぃと遠いかもけど、ご案内を!」 「おい青木と黄色! この裏切り者ーーーっ!!」 私と青木さんもさっさと退散する。まあタナカさんには、演者への保険料だと思って何とかして欲しいものだ。でも私は内心、これで番組の予算が減れば今後大掛かりなドッキリ演出が控えられるだろうと少しほくそ笑んでいた。
ལྔ་པ་
新千里が島トンネルという薄暗いトンネルを抜けた所に、島唯一のコンビニ『クランマート』があった。アトム系列の『プチアトム』ではなくて良かった。私はカフェインが苦手だから紙パックのそば茶を選び、ついでに佳奈さんへペットボトルのピーチサイダーを、タナカDへは『コーヒーゼリー味』と書かれた甘そうな缶コーヒーを購入した。青木さんも私と同じそば茶、『おおきなおおきなエビカツパン』、梅おにぎりを買ったようだ。青木さんが持つエビカツパンは、なんだかすごく小さく見えた。 外は既に夕日も沈みかけて、夕焼け空が夜に切り替わる直前になっていた。黄昏時……そういえば、童謡『ザトウムシ』の歌い出しも『たそがれの空を』だったな。私はコンビニ入口の鉄手すりに腰掛け、先程タナカDから渡されたペラペラのロケ台本をめくる。巻末の方に歌詞が書いてあったはずだ。するとタイミング良く、クランマートからも閉店ミュージックとしてザトウムシが流れ始めた……。
【童謡 ザトウムシ】 たそがれの空を ザトウムシ ザトウムシ歩いてく ふらついた足取りで ザトウムシ歩いてく
水墨画の世界の中で 一本絵筆を手繰りつつ 生ぬるい風に急かされて お前は歩いてゆくんだね
あの月と太陽が同時に出ている今この時 ザトウムシ歩いてく ザトウムシ ザトウムシ歩いてく
おうまが時の門を ザトウムシ ザトウムシ歩いてく 長い杖をたよって ザトウムシ歩いてく
何でもある世界の中へ 誰かが絵筆を落としたら 何もない灰色を裂いて お空で見下ろす二つの目
ああ月と太陽はこんなに出しゃばりだったのか ザトウムシ歩いてく ザトウムシ ザトウムシ歩いてく
「改めて読むと、確かに意味深な歌詞だな……」 私が独りごつと、隣の鉄手すりに座ってエビカツパンを咀嚼していた青木さんが口を拭った。 「埋蔵金探しは、したたびさんより前にも何度か。大体皆さんザトウムシ記念碑からスタートされて、『ザトウムシ』という歌詞の数だけ歩くとか、夕焼けの時間にどっちの方角を向くなどと……。けど、それらしい物が見つかったのは一度もだ」 「そうなんですね」 「そもそもどうしてザトウムシを……徳松さんに縁があるのって、どちらかと言えば犬では? けど何故か、島ではザトウムシを特別な虫だなどと」 「言われてみれば、生類憐みの令といえばお犬様! ってイメージがありますね。……ていうか、なんか、すいません。余所者のテレビ局が島のお宝を荒らすような真似して、島民の青木さんはいい気持ちしないですよね」 「そ、そ、そんな事! だぶか!」 青木さんは慌てた様子で私の方を向き座り直した。 「僕は嬉しいんだから! だって今まで、おっとさんらは島のこと僕に何も教えてくれないし、何もさせてくれなくて。けど今回は、社会人として初めて仕事を任されたので……ので……」 緊張したような様子で青木さんの姿勢が丸まる。コンビニから流れるザトウムシのメロディに一瞬振り返った後、彼はパンの袋を両手で抱えて更に縮こまった。 「……僕だって縁切りやお化けなんか、ただの迷信と。だけどこの島の人は実際、内地に比べてよそよそしいかもだ。何も言わず友達が引っ越してたり、親戚がいつの間にかおっ死んじまってたりなど……。それで内地の人と関われる役場の観光課に入ったのに、アトムさんがリゾート開発おっ始めて公務員は御役御免。僕は島に縁を切られたので?」 「青木さん……」 私も会津の田舎町で育ったから、彼の気持ちはわかる。狭いコミュニティに住む人々は、距離が近いようで時にとても排他的になるものだ。それは多かれ少なかれ互いを監視し、情報共有し合っているから当たり前の事だけど、縁切りで有名なこの島は特にそういう土地柄なのかもしれない。 「したたびさんのおかげで、やっと僕にバトンが回ってきたんだから。僕達で絶対埋蔵金を見つけにゃ。それで島のおっとさん方もアトムも、お化けも霊能者の先生方も……」 青木さんは腰を上げ、猫背をやめて私の前にまっすぐに立った。 「僕達の縁で、みんなを見返してやるんですだ!」 その瞬間、風が彼の重たい前髪をたくし上げた。彼の子犬みたいな笑顔を見た私は初めて、以前雑誌のインタビューで適当に答えた『好きな男性のタイプ』と青木さんが完全に一致している事に気がついたのだった。
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海南島記
一日目
海南の空は螺鈿色に湿っていた。私が海口(ハイコウ)に到着したのは夕暮れ時で、それは街が最も騒がしくなる時間帯であった。空港から延びる道路にはわずかの隙間も空けずに車が並び、クラクションがひっきりなしに鳴らされる。私が乗る車も同様、運転手がそれに負けじと鳴らす、詰める、怒鳴る。その横を、日本で言う「原付」型の電動自転車が列をなして通り過ぎ、屋台では店番の女が電話に向かって何事か喚き散らす。笠を被って自転車に乗る果物売り、地べたに座り込む男たち、商店の前で遊ぶ子ら、通りを行き交う人々、その生活のすべてが喧騒に満ちていた。ただ、亜熱帯特有のねっとりとした甘ったるい空気と、何とも言えない暖色の空がそれらを包み込むことで、雑多な街にも不思議な円みがあった。
渋滞とともにのろのろと市街中心部へ移動し、ホテルにチェックインする。その後レストランで夕食だ。円卓でイノブタ、ハト、ガチョウ、アヒル、空心菜、牡蠣、麺など様々な中華料理を食べた。アヒルが一番うまかった。小ぶりな茶碗に入った白飯は日本のものと大差なかったが、箸は先が尖っておらず、さながら細い木の棒のようだった。たらふく食べた後はしばし町をぶらついた。ぎらつくネオンが私の目を刺す。やはり中国だ。見慣れない漢字が多く、一部は読めるが発音ができない。サービスセンターを意味する「服務中心」など、簡単なものだけわかった。まるでパラレルワールドに迷い込んだかのような感覚に陥る。幹線道路沿いを歩いていったが、ほとんどの店が夜遅くまで開いていた。というより、商売っ気がなく売れないので、起きている間中開けているというべきか。店内の黄色がかった薄暗さは、ちょうどそこで働く人の肌の色に似ていた。なんとなく遠い昔を思わせるような、谷崎潤一郎が言うところの「玉(ぎょく)」の色だろうか。その前を電動自転車が歩道も車道も関係なく我が物顔で走り回る。さらに逆走もする。無音なので普通に危ない。そういえば昼間には子供が三人乗りしていた。もちろんバイクも走ってはいるが、それに比べて数が少ない。この電動自転車の普及のせいで、島民の肥満化も問題になっているとか。
ホテルに戻った。ナントカ大酒店という名前だ。中国のホテルは飲食屋でもないのに「飯店」とか「酒店」とかいう。食事は「菜」というそうだ。部屋はかなり広かった。バスルームも綺麗だ。そのぶん値段も高いが。煙草を吸ってから、中に置いてあった「椰树」という名のかすかに甘いミネラルウォーターを口に含み、バスローブにくるまって寝た。
二日目
ホテルの朝食はバイキング形式だった。色々食べたが、フォーのような麺が一番気に入った。言えばその場で茹でてくれる。パクチーやピーナッツ、味噌、細切り肉を入れて食べるのだが、うまいので2回もおかわりした。この日は会合に陪席してから、レクチャーの記録写真撮影を行った。同行者、というよりも随行させていただいている方々とともに壇上で紹介されたのは想定外で、分不相応の扱いに緊張をする。昼飯を済ませ、会議を継続。仕事を終え、地域の様子を見に行く。巨大なアパートの共用部分で麻雀やおしゃべりに興じる老人たち。なかなか活気があった。しばらく歩き、萬緑園という緑地公園へ。民主・富強・文明・和���・自由……というスローガンが書かれた看板や文字のモニュメントを道中のあちこちで見かけた。主張が強い。道には、おそらく春節用に建てられた大きなオブジェが打ち捨てられていた。赤地に黄色い文字。読めそうで読めない。張りぼてがむき出しになっている。そこには何か私を強く惹きつけるものがあった。置いてけぼりになるのも構わず、しばらくじっと眺めていた。そしてふと周りを見渡せば、街中の色んなものが赤かった。共産主義社会を肌で感じた午後だ。
夕食を取るため、小さな島に渡る。めちゃくちゃに広いレストランだった。歓迎会などというやさしい表��で済めばよかったのだが、やはり例によって白酒の洗礼を受けることに。乾杯の発声と同時に全員のショットグラスが空になる。一瞬、咽喉が焼けるように熱くなるが、後味に不思議な爽やかさがある。乾杯はこれで終わりではない。今度は全員の席を回り、向こうは歓迎の挨拶代わりに、こちらは謝意を込めて一杯また一杯と飲み干す。そして、隣り合った人々とはこれを気の済むまで繰り返し、会話の折々に煙草を勧め合うのだ。私は下戸なのでこの儀式にはほとほと参ったが、なんとか六~七杯で勘弁してもらい、青島啤酒に切り替えて難を逃れた(逃れてない)。そうして一息入れようと、もらった煙草に火を付けた。フィルターには「珍品」と書かれていた。
ちなみに、こちらでは食事の初め、各々の小皿に醤油を注ぎ、輪切りの唐辛子、パクチー、刻んだニンニクを入れ、金柑のような小さい柑橘類を搾って好みの調味料をつくる。味の足りないものはそれで補うのだ。ウズラのまる茹でやら海藻入りのすっぱいスープやら、ヤギ、豚、鶏、特産のピーナッツ等が出てきた。全部うまかったが、酒を飲んで以降は味もヘッタクレもなかった。赤くなった私の顔を見て、皆はしきりにスープを飲めと言った。帰りのことは良く覚えていない。とにかく酔っていた。日本人には酒が飲めない人が多いらしいね?と聞かれ、それは私だと返す。白酒はきついが花のような香りがしたと言うと褒められた。ホテルに戻って「中華」という煙草を買い、部屋で吸った。うまくはないが、旅行中はこれで足りるだろう。腹が膨れて苦しかったが、落ち着くために茶を一杯飲んで寝た。
旅について思う。自分をポケットに入れて旅に出る。旅する身体には普段とは違った意識が宿る。というのも、見知らぬ土地を歩く時、 人は積極的に自身の位置を探ることで、次なる一歩、それもその場において適切な一歩を踏まねばならないからだ。個人的な目的を設定し、それを達成するために地図を広げ、標識を読み、道を尋ね、馴染みのない言語文化に全身を投じて彷徨う。それはまだ見ぬ自分への巡礼なのだ。……
三日目
朝に海南島の田舎、澄萬(チェンマイ)に移動。昼から飲むことに。横に座った男がやたらと酒を勧めてきたが、聞けば現地の医者だという。飲めないという言い訳はなぜか通じない。野郎ばかりの狭くむさくるしい部屋で豚とヤギの鍋をつついた。あまりに大量の肉。山ほどパクチーを食べ、ビールも飲んだ。途中、福山(フーシャン)珈琲に立ち寄ってブレイク。コンデンスミルクを大量に入れて飲むのが東南アジア流だ。少々粉っぽく、八ツ橋のような味がした。亜熱帯気候の海南は日中ずっと暑いので、昼休みが2時間半ほどもあるらしい。そのせいか、福山珈琲館にいた客はしばしの休憩でくつろいでいると言うよりも、椅子の上にグダーっと伸びてひたすらダラダラしている印象を受けた。
ここの環境は良い意味で適当で大らかだ。どこでもタバコが吸えたり、店員がお釣りをちょろまかしたり、交通警官が飲酒運転を黙認していたり、原付が歩道を走っていたり、日本で生活している自分からするとありえないことが多い。しかし、人々は皆楽しそうで、私自身も日本のように気疲れすることは少なかったように思う。なんというか、町中に散らばった漢字の看板も相まって、そこには古き良き時代という言葉がぴったりな気がした。人々と同じように、ほんの少しだけ歩く速度をゆるめるだけで、普段とは違った景色や時間の流れを味わえることに気づく。せかせかした日々を送る私たちだが、ふと立ち止まって空を見上げたり、仕事中でも遠くの緑を眺めたりしてみるといいのかもしれない。忙しくとも気持ちだけはゆっくりいこう。
次の目的地までの移動中トイレに立ち寄ったが、小便器の前にはこう書かれていた。「向前一小歩 文明一大歩」。世界中どこでもメッセージは同じなのだ。ちなみにこちらのトイレでは紙を流してはいけないことになっている。簡単に詰まるからだ。使用済みのものは目の前のくずかごに入れる。紙がない場合、シャワーヘッドが壁にかかっていることがあるが、言わずもがなそれで洗えという意味だ。そして、紙もシャワーもない場合は、単に絶望だ。一度そういうトイレに遭遇したが、同行者からティッシュをもらって助かった。日頃からカミに感謝しよう。
昼過ぎに、福山近くの黄竹村へ。家々の扉には旧正月の名残で倒福がかかっていた。家の前でおしゃべりをする高齢の女性たち。子供もおり、のどかな雰囲気だった。しばしの滞在の後、海南島の最高峰である五指山近くの町へ向かう。午後四時。運転手が中華ポップをガンガンかけながら飛ばすので車内からは悲鳴に近い声が上がったそうだが、私は心地よく眠っていたので知らない。目を覚ますと山道に入るところだった。道幅が狭くなるものの、相変わらず運転は荒い。と、右前方の道端で巨大なタンクローリーが横倒しになっているのが見えた。崖がごっそりとえぐれており、デペイズマンかと思うほどすごい絵だった。警察はまだおらず、運転手と見られる男が乗員とともに困り果てた顔をしていた。これは大事故だ。と思う間もなく、私たちはビュンと通り過ぎた。運転手はあまり驚いていなかった。きっと日常茶飯なのだろう。私たちは無事に山を越えられるだろうか。
日が暮れてきた。相変わらずくねくねとした山道だが、車同士が容赦ないスピードですれ違う。出発から二時間が経とうとしていた。さっきから少し車のスピードが落ちてきたように思う。安全運転にシフトチェンジしたのかと安心するも、何か変な音がすると運転手が言い出す。確かに坂続きで馬力がなくなってきているようだ。そうこうするうちにヘッドライトの先だけが道となり、不安を抱えたまま夜へと乗り入れる。なんとかなるだろうと思っていたものの、いよいよ異音が大きくなる。そうして急カーブに差し掛かったところで、車は静かに止まった。一度降りて様子を見るのかと思いきや、最初の悪い予感が的中する。どうやら故障したようだ。同乗者がすぐに助けを呼んでくれたが、町からは相当な距離がある。途方にくれた。とりあえずあたりの木の枝を折って車の周辺に置くことで停止表示板の代わりにし、安全確保のため路肩に避難する。蚊がぶんぶんとうるさい。聞けば、ここらへんの蚊は昔マラリアを持っていたらしい。今ではもう終息したそうだが、やはり気は抜けない。手を振り回したり、煙草を吸って身体に吹きかけたり、タイガーバームを塗ったりした。そんな絶望的状況から約一時間半後に救援車が到着。なんとか闇のジャングルから脱することができたが、運転手はレッカーを待たねばならない。後から聞けば、彼が帰着できたのは午前零時を超えてからだったそうだ。
さて、私たちが五指山麓の町に着いたころには午後九時を回っていた。出発してからざっと五時間以上かかったことになる。ホテルにチェックインして部屋のカードキーを受け取ったが、錠の反応がなかった。フロントで入れない旨を伝えようとしたが、スタッフは困った顔をしている。仕方なく紙とペンで偽中国語筆談を試みようとしたところ、英語の通じるスタッフが一人いたのでなんとか解決できた。こちらではほとんど英語が通じない上に、たいてい中国人と勘違いされるせいで怪訝な顔をされる。海外からの観光客が少ないせいか。
レストランで遅い夕食を取る。ここでもやはり白酒だ。終わることのない乾杯に、謝謝!と杯で応える。もうどうにでもなれといった感じだ。だがやはり途中で青島に変え、限界がきたので最後には茶を飲んでいた。薬酒のような茶色い酒も飲んだが、口に合わなかった。料理は、薄いオムレツ、ヤギ、鶏、菜心、ピーナッツなどが出た。炒め物を口にした時、ゴリッという音がしたので出してみると、それは鶏の頭だった。くちばしも付いている。トサカだけ噛みちぎって食べた。脂っぽい。食べられるものは何でも食べるんだなと思った。こちらに来てからは毎食、食べきれないほどの量で料理が出てくる。残すのは嫌なので無理にでも詰め込もうとしたが胃袋には限界というものがある。食後にしゃっくりが止まらなくなった私に、同行者は、これはもてなしの表現であり中国の文化であると教えてくれた。また、皆食事中に煙草を吸い、互いに勧め合っていたが、それも慣習であることを知った。灰皿がない席では、吸い殻は床に捨てていた。相手方のうち一人が酔いつぶれたので、助っ人にホテルまで送ってもらった。べろべろになりながらも、貰った煙草に火を点け、人間の生について考えた。
四日目
朝、ホテル近くの市場を見に行く。果物を売っていたり、路上で占いをしていたりと、活気がある。道では放し飼いにされた犬がじゃれあっていた。檳榔売りもいて、歩道にこびりついた血のような赤い点々はそれが吐き捨てられた跡だった。町を出発し、五指山中へ。五指山市は中国で唯一の貧困都市で、特に山間部の村が貧しいということを聞く。途中で車を降りると、山頂が雲に隠れているのが見えた。少数民族である黎族(リー族)の村へ赴く。同行者が、土地の名物だという竹筒入りの炊き込みご飯を村人から買っていた。熱帯植物の生い茂る山道を進む。家々の扉には未だ福(倒れていない福)の赤い紙が掛かっている。途中、飯屋に立ち寄りイノブタと菜心を食べる。村は最近観光開発が進んだことで、麓と展望台をバスがひっきりなしに往復しており、ラフティング等のアトラクション施設もあった。鶏は放し飼いにされていて至る所にいたが、人の姿はほとんどなかった。仕事のために山を降りているのだろうか。家の前には農具が散らばっていたり、材木や乾物、ぼろぼろのトラックが置かれていたりする。乱雑ではあるが、今の日本が忘れてしまった、アジアの穏やかな昼間があった。
山を降り、昨夜と同じレストランで夕食。白酒はそこそこにして、後はビールで勘弁してもらえた。こちらの熟鮓を食べさせてもらう。少々クセはあるが、日本のものと似ている。日本酒があればいいのにと思った。豚のしゃぶしゃぶのようなものと海藻入りのスープを食べる。スープは酸っぱく、辛い。しかしトムヤムクンとはまた違う。味わったことのない味。料理は全体的に油が多く、それでコクを出しているといった印象だ。日本でいうダシの代わりだろうか。食後、オーナーのトウさんが身振り手振りで電話番号を教えろと言ってきた。また連絡するから、とのこと。連絡をくれたとしてもどうやってコミュニケーションを取れば良いのかわからなかったが、なんとなく面白かったので、番号を名刺に書いて交換した。トウさんは人の良さそうな兄ちゃんで、たぶん同い年くらいだ。奥さんも子供もいて、手伝い半分世話半分で店内をうろうろしていた。
腹ごなしに町をぶらつく。最初に比べ、黄色い街灯やネオンも心地良くなった。明日で最後かと思うと少し寂しい。カバン一つで来たが、叶うなら滞在を延長したいと思った。名残惜しさを噛み締めつつ、橋から川を眺める。紫、赤、白、黄の灯りが水面に反射し、サイケデリックに揺らめいていた。
五日目
朝、昨日買った竹筒入りのご飯と鳥の足の唐揚げを食べる。うまい。五指山からまたも五時間かけて海口へ戻り、海口の旧市街を見に行く。石畳が敷いてあり、ヨーロッパの古い都市を思わせる町並みに驚く。ここは文革でも破壊を免れたそうだ。洋風の建物を良く見ると、その壁に書かれた文字が全て中国語なので不思議な印象を受ける。中洋折衷だ。なぜか道端のいろんな場所にココナッツが置いてあった。特産超市(スーパー)には民芸品とともにドリアンが並んでいた。資料館で町のジオラマや歴史年表を見た後、昼飯に豚の内臓入りの麺を食べた。地元ではポピュラーな料理だ。こちらに来てから食べ過ぎのせいで顔がむくんだ。体重も2kg増えた。しかし飯がうまいのだから仕方ない。好き嫌いが少なくて良かったと思う。
海南の気温は2月でも30℃近くあったが、この日は雨が降り10℃台まで冷え込んだ。私はシャツにジャケットを羽織って終日過ごしたが、町ではダウンを着た人をよく見かけた。どうやら、一年中春のような気候のせいで海南人は寒さにかなり敏感なようだ。滞在初日、厚手の服を売っているお店の前を通りがかった時には、こんなもの一体誰が買うんだと思っていたが、案外需要があるもんだなとそこで納得した次第だ。
さて、もう日本に帰らねばならない。海口の空港で土産を買った。真空パック入りのサラダチキンのような鳩肉と鶏足の揚げ物だ。店員に英語で値段を聞くとなぜか爆笑された。無言でレジに表示された数字を指差す。別の店で煙草も買ったが、無愛想なジェスチャーで釣りがないと言われた。面倒なのでいらないと答える。行きと同じく広州経由の便に乗る。海南よ、さようなら。飛行機の中で、萬緑園に放置されていた、夢の跡のような春節の残骸を思い出した。
後記
この旅行記は、平成29年2月20日~24日の出来事を、約一年の期間を経てか��綴ったものである。旅の主な目的は仕事であったため、内容には多少のフィクションも含まれている。
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“473 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:42:46.07 ID:ueZjaXuC [1/10]なんかもうバカすぎるだろこれ。RT 正気を疑う!東京新聞…扱いは小さいが見逃せない記事。3月17日の自衛隊ヘリコプターによる散水は、地上からの放水より映像効果が期待できるとの判断で出された大臣通達による…東電文書により明らかにhttp://t.co/C23kH7H481 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:50:02.00 ID:sjs/bruF»473任務がパフォーマンス(茶番)のために被爆か文民統制が崩壊してるじゃねえか488 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:52:20.54 ID:CWdJ3r0G [2/3]いわや草未満か・・・・ここで話題になってしまうのは我が党に是非とも欲しい人材だしラ党に置いておくには勿体ないという研究員のラブコールだよ(はぁと»473パフォーマンス・イミテーション・イリュージョン・イリーガルで生きてきた政党だし正気もド正気なのに何を驚いているのか501 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:57:43.18 ID:c+SJ+AtZ»473その件 当時 隊長がついったーで色々話してたな「北澤うんこ大臣による特攻命令」だと俺も思ってたよヘリに鉄板(?)つけて真上から特大被ばく覚悟の無意味な水散布被ばくしたシーベルト量もつぶやいてたと思うたしか凄い数値だった公式記録はたぶん発表してないと思うわ隊長はそこのところ、うんこ大臣に国会で追及したことあるかもしれない。503 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:58:33.68 ID:m4JIc2Kg [2/2]»473確か高千穂ニムが貼ってくれたWILL覆面座談会のこれを思い出すなw・近くにいると、民主党は国民にいい場面だけを見せようという魂胆が見え見え。 国会答弁で言葉に詰まった長妻に後で「なぜ自民党時代のように後ろからメモを差し出して助けないのか!」 と怒鳴られてばかばかしくなった。この政権は政治主導ではなく「テレビカメラと小沢さん」が行動原理だ。・「朝ズバで取り上げられるかどうかが勝負だ」と真顔で言う三役がいる。(厚労)・会議の様子を取材させることになったらリハーサルをやると古川副大臣が言い出した。そういう戦略性はある。・何かニュースになりそうな出来事があるとすぐに「記者さんに電話しろ」という命令があって総出で電話をかけまくる(内閣府)・テレビ栄えがするようにという理由でアシモをたくさん借りた。そのために数千万かかった。 同じ額を事業仕分けで削るのにあれだけ大騒ぎしたのに。566 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 03:49:57.49 ID:sZLfPeft»473映像が冷却すると聞いて飛び起きました映像から怪しい音波でも出るんですかね?572 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 04:12:06.74 ID:S+7vPCbV»473書き起こしてくれた方のブログより2011/06/25 土 東京新聞 夕刊 (2)放水車より映像効果 一転ヘリ放水に 東電文書福島第一原発3号機の使用済み核燃料プールから白煙が上がり。一刻も早い水の注入が必要だった三月十七日朝、政府が大臣通達を出し、既に準備が進んでいた警視庁の放水車より、自衛隊ヘリコプターによる水の投下を優先させたことが二十四日、原子力安全・保安院が公開した文書で判明した。三月十七日午前九時三分に第一原発から保安院に送られたファクスでは「高圧放水車による放水作業を予定していましたが、8時30分大臣通達により、ヘリコプターによる上部からの放水を実施した後に、実施することとなりました」と手書きで記されていた。当日は午前十時すぎから、菅直人首相と米オバマ大統領との首脳電話会談を予定。ヘリによる水投下の効果は少ないとみられていたが、テレビ中継などを通し「米側に事故収束に取り組む真剣な姿をアピールする狙いがあった」(政府関係者)とみられる。午前九時四十八分から、ヘリによる投下を開始。高圧放水車は午後七時五分からの放水となった。596 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 06:49:04.95 ID:c7W9hff0»572青山氏がアンカーでこのこと言ってたようなアメリカに原発対策の本気度を見せるためとかなんとか603 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 07:27:29.69 ID:6qKUk7F7»572アメの考え方からしたら、正直こんなアピールするくらいなら最初から協力要請でもして、常識的対応をしてくれたほうが評価できると感じると思うのだが・・・俺がずれてるのか我が党がずれてるのか・・・”
— 丁寧語とか、礼儀正しく書いてみる日記2: 06/27 新たなる旅立ちへと いま始まる復興伝説 -劇終- (via s-hsmt)
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ご家族の高齢化もあり(ということは被害者も高齢化していくということで)、ここしばらく、救出運動の中で「もう待てない」という言葉が何度も語られてきました。
しかし、今回の米朝首脳会談を基礎にして拉致問題の今後の対応を進めるなら「いつまでかかるか分からないが、まだ待て」ということになります。ストックホルム合意の二の舞です。日朝でやるといっても米国が体制を保証し、米韓合同軍事演習も中止して、場合によっては在韓米軍も撤退させるというのでは北朝鮮の最大の脅威はなくなったわけで、真面目に交渉に応じるはずはないからです。
日本がカネを出さないといっても、トランプ大統領が「非核化のカネは日本と韓国が出す」と言ったのは安倍総理も何らかの言質を与えたからでしょう。「そのうちうまいこといくからさあ、今は我慢して出しといてよ」と言われても、米国頼みでやってきたのですから断ることはできないでしょう。やり方はどうするのか知りませんが、国民が止めなければ結局その方向に向かうはずです。
トランプ大統領が米韓合同軍事演習を「挑発的な戦争ゲーム」とし、「カネがかかるからやめる」と言ったのは米国の中でも驚きをもって受け入れられているようです。予測不能な大統領ですからこれからも何をするか分かりません。本当に「もう待てない」なら、今回の米国頼み戦略(?)は失敗だったという認識の上に新たな戦略を立てるべきです。そうしなければミッドウェーの後の帝国海軍のような結果になるのではないでしょうか。
北朝鮮船・船体の一部・遺体の着岸漂流一覧(平成30年6月1日現在確認分) 《平成28年(2016)以前》------------------------------------------------- ※確認出来たものを逐次入れていますが、あくまで氷山の一角です。実際には遥かに多くの事件が起きています 昭和62年(1987) 1月20日 福井沖 漁業資源監視船「ズ・ダン9082号」(約50トン・鉄鋼船)が男女11人を乗せて亡命。(620201読売東京) 平成2年(1990) 10月28日 福井県美浜町久々子海岸 ベニヤ板製の工作子船と思われる船(長さ8.3m幅2.5m 船底からビニール袋に密封された乱数表2枚と換字表1枚、日本製とみられる白紙の手帳)(021030読売東京) 11月2日・11日 美浜町沖合や海岸 遺体2体(20代~40代) 平成10年(1998) 12月2日 島根県隠岐郡西ノ島町 遺体1体(男性) 12月16日 島根県浜田市 遺体1体(女性) 12月16日 島根県隠岐郡五箇村(現隠岐の島町) 遺体1体(北朝鮮軍兵士)(110127読売大阪夕刊) 12月21日 石川県河北郡七塚町(現かほく市)遠塚海岸 遺体1体(女性兵士・労働党候補党員証を身に着けていた)。 12月25日 福井県大飯郡高浜町和田海岸 丸太組みのいかだとロープでつながれた男性遺体3体(軍服姿、腐乱し一部白骨化、死後1~3カ月 30~50代、身長1m60~70センチ 胴体と足に直径約20センチの球形ブイ数個が付いていた)。(101225読売大阪夕刊) 平成11年(1999) 1月14日 福井県三方郡三方町(現三方上中郡若狭町) 遺体1体(北朝鮮軍上佐とみられる。「私たちの船は朝鮮人民軍26局4地区副業船、船籍は元山市」「昨年11月に兵士ら15人が乗船して出港したが機関故障で冠水、漂流した」と書かれたメモや航行に関する書類)(110127読売大阪夕刊) 1月22日 鳥取県鳥取市浜坂鳥取砂丘 遺体1体(北朝鮮軍兵士)(110127読売大阪夕刊) 平成13年(2001) 12月16日 遺体1体(男性・30~60歳 一部白骨化 紺のランニングシ��ツと緑色のパンツ 死後2~3カ月 数百m離れた場所に男性の北朝鮮公民証)(131231読売東京) 12月 新潟県佐渡市鷲崎海岸 木造船(ハングルで洪原と記載)・遺体1体(赤十字の照会で「1955年生まれで昨年10月8日漁に出たまま行方不明になった」とのこと)(140129読売新潟北版) 平成14年(2002) 1月4日 石川県能美郡根上町(現能美市)山口町グリーンビーチ 木造船(長さ約6m)(140108読売石川版) 1月5日 石川県羽咋市一ノ宮海岸 木造船(長さ約6m 前方にハングルと数字)(140108読売石川版) 1月9日 石川県河北郡宇ノ気町(現かほく市)大崎海岸 木造船(長さ約3m、幅約1.5m 後方にハングルと数字)(140110読売石川版) 1月11日 石川県羽咋市大川町釜屋海岸5日の木造船漂着地の南500m 鉄製船(長さ約5.9m幅約1.5m船首に文字らしきもの) 3月19日 石川県輪島市小池町海岸 木造船(長さ6.5m幅2.5m 後部に発動機。船首部分内側にハングルが書かれたプレート)(140320読売石川版) 4月11日 北海道爾志郡熊石町(現二海郡八雲町)見日海岸 木造船(長さ約6m70センチ幅約1m50センチ 船尾にスクリューがあったがさびて動かずエンジンも付いていなかった)(140411読売札幌版夕刊) 12月28日 石川県河北郡内灘町宮様海岸 遺体1体(身長約1m62、20~50歳、死後1~6カ月、金日成バッジ) 平成15年(2003) 1月10日 新潟県岩船郡粟島浦村釜谷の消波ブロック 遺体1体(頭部白骨化、身長約1m70、黒の長袖シャツと黒の靴下)・木造船(長さ約9m幅約2m船首部分に漁網) 3月5日 新潟県柏崎市海岸 遺体1体(男性・20~40歳 下半身のみ 165㎝ 茶色作業ズボン、青色ももひき、黒色半ズボン、北朝鮮紙幣死後半年前後) 平成16年(2004) 12月2日 新潟県佐渡市 遺体1体(男性 40~60歳 152.5㎝ B型カーキ色軍服様長袖、カーキ色軍服様長袖シャツ、グレーハイネックセーター、青色長袖シャツ、茶色ベルト) 平成18年(2006) 1月4日 京都府舞鶴海上保安部管内 木造船(180131読売大阪朝刊) 1月 鳥取県内に4隻の木造船が漂着(180126読売大阪朝刊) 1月24日 鳥取県西伯郡大山町 木造船(180126読売大阪朝刊) 1月25日 鳥取県鳥取市伏野海岸 木造船(長さ5.65m幅1.4m)(180126読売大阪朝刊) 1月30日 京都府京丹後市久美浜町箱石海岸 木造船(180131読売大阪朝刊) 平成19年(2007) 6月 青森県西津軽郡深浦町 木造船・生存者4人 (191227読売東京夕刊記事)11月中旬以降北朝鮮からの木造船16隻が漂着、新潟と石川の海岸が大部分。 平成20年(2008) 1月10日 福井県福井市西二ツ屋町海岸 木造船(長さ約6m幅約1.5m 船尾に船外機、船首にハングルが彫られていた)(200112読売大阪朝刊) 3月26日 秋田県男鹿市北浦入道崎海岸 木造船(長さ約5.8m幅約1.4m 側面や船尾にハングル)(200326読売秋田版) 平成23年(2011) 9月 輪島市沖合で木造船に乗った脱北者9人を救助(後に韓国に移送) 9月26日福井県三方郡美浜町関電美浜原発敷地内の岩場 木造船の一部(230927読売大阪朝刊) 平成24年(2012) 1月6日 島根県隠岐郡隠岐の島町那久岬沖 木造船・生存者3人(9日に北に引き渡し)・遺体1体(241224読売島根版) 1月19日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 2月22日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 2月27日 島根県隠岐郡海士町 木造船(241224読売島根版) 4月4日 島根県隠岐郡隠岐の島町 木造船(241224読売島根版) 11月28日 新潟県佐渡市大小海岸 木造船(長さ約12.8m幅約3.4m エンジン 船首にハングル 捕った魚を保管するスペース)・遺体5体(成人男性 雨具とみられるビニール製のズボンを履き、船内に長靴 死後2~3カ月 一部白骨化 長時間海水に漬かっていた形跡があり、船が一度沈没した可能性 1体は推定年齢30~40歳代前後、身長約170cm、長袖灰色シャツ、紫色ハイネックセーター、赤色半袖Tシャツ、 下衣は紺色ナイロン製ズボン、灰色ズボン、水色スウェットズボン、 黒色ボクサーパンツ、黒色靴下ほか紳士用黒色デジタル腕時計着用)(241129読売新潟版他) 12月1日 新潟県佐渡市赤泊杉野浦の海上 木造船(長さ約10m 船内からイカ釣り用の針)・遺体1体(年齢40~50歳前後の男性 死後1~2カ月 胃の中に食べ物なし 遺体は屍蝋化 身長約167cm、 着衣は緑色ニット帽、紺色フード付長袖ジャンパー、黒色長袖作業着、紺色ベスト、 胸に鷲マーク入り紺色長袖トレーナー、紺色ランニングシャツ、 下衣は灰色防寒ズボン、ホック式ベルト、紺色ビニール製ズボン、こげ茶色股引、 緑色ブリーフパンツ、両足に白色と小豆色の格子柄靴下、 ゴム製長靴(サイズ25.0cm、上部中央ハングル)着用) 12月1日 新潟県佐渡市北鵜島の海岸 木造船の一部(右舷部分とみられる長さ約4メートルの木片 船首付近にハングルと数字) 上記の者は、平成24年12月1日午後0時13分頃、佐渡市において、 転覆した木造船内にて遺体で発見され死後1~2カ月経過していると推定されます。 遺体は火葬に付し、遺骨は当市の真楽寺にて保管)。12月12日 石川県輪島市 木造船(長さ約11m幅約3.5m 船首両横にハングル、漁網や釣り針)内から遺体1体(一部白骨化) (270110読売記事では「輪島市沖合で木造船の漂着や漂流が相次ぎ、漂流した船体の近くで3遺体が見つかる」) 平成25年(2013) 11月15日 新潟県佐渡市沖の海、姫津沖約5.5キロ、木造船(船尾水没 操舵室上部に赤い塗料でハングル、ジャンパーのような衣類) 12月18日 新潟県岩船郡粟島浦村 木造船(長さ約12m・幅約3.5m 船首にハングル 船内からイカ釣り漁の針や「朝鮮平壌」と書かれた箸)・遺体1体(身長約1m75センチ、防寒ジャンパー着用・死後数週間)(251218読売東京朝刊) 12月25日 秋田県男鹿市北浦湯本 木造船(長さ約12m幅約3.5m船内に漁網など)・遺体3体(251225読売秋田版)※300512時点でも現存 12月28日 新潟県長岡市寺泊野積海岸 木造船(長さ8.25m幅2m 船首に数字やハングル)(251229読売新潟南版) 12月29日 新潟県柏崎市西山町石地海岸 木造船(長さ6.6m幅1.7m 船首に数字やハングル)(251230読売新潟南版) 平成26年(2014) 8月 石川県珠洲市沖合で北朝鮮船の乗組員4人救助(後に大連経由で帰国) 平成27年(2015) 1月9日 石川県羽咋郡志賀町安部屋漁港北400m 木造船・生存者1人(服などが入っている透明ビニール袋を所持 61歳 後に帰国) 7月23日 青森県下北郡佐井村矢越漁港 木造船1隻(271209読売) 10月27日 青森県下北郡佐井村福浦漁港 木造船1隻・遺体1体(271209読売) 11月1日 秋田県山本郡三種町沖 木造船(271209読売) 11月2日 秋田県男鹿市 木造船(271209読売) 11月14日 新潟県佐渡市岩首漁港沖 木造船(長さ約13m幅約3m 黒ずんだ船体にハングル リュックサックに金正日バッジ)・遺体1体(上下黒の衣服)荒天のため12月2日に海保が引き揚げ発表 11月 石川県輪島市沖木造船3隻・遺体10体(産経ニュース・ TBS動画ニュースサイト・毎日新聞11月28日) 11月6日 北海道松前町沖 木造船・遺体2体(271107読売東京朝刊) 11月14日 新潟県佐渡市沖 木造船・遺体1体(271209読売) 11月19日 秋田県能代市沖 木造船・遺体2体(271209読売) 11月20日 石川県輪島市沖 木造船3隻・遺体10体(271209読売) 11月22日 福井県越前町沖 木造船・最低でも7人とみられる遺体・遺骨(271209読売) 11月22日 新潟県佐渡市沖 木造船(271209読売) 11月23日 石川県輪島市沖 木造船の一部(271209読売) 12月2日 青森県下北郡佐井村長後牛滝漁港 木造船(船内にハングルの書かれた救命胴衣)・遺体4体(海保の司法解剖結果で死後1~6カ月経過 靴にハングル)(271207・1209読売東京朝刊) 12月2日 兵庫県美方郡新温泉町沖 木造船の一部(271209読売) 12月7日 石川県金沢市沖 木造船(271209読売) 平成28年(2016) 5月20日 青森県下北郡風間浦村易国間桑畑漁港近く 木造船(長さ約6.7m幅約1.5m 左舷船首部分にハングル)(280522読売青森版) 6月5日 青森県むつ市大畑町大畠漁港沖 木造船(全長約9m幅約2.3m 船体に海藻が付着 右舷船首部分にハングル)(280607読売青森版) 10月17日 青森県西津軽郡深浦町沖(十二湖駅近くの岸壁に引航) 木造船(281018読売青森版) 10月18日 青森県下北郡佐井村沖 木造船(長さ12m ズック、手袋、靴下など)(281029読売青森版他) 10月29日 青森県下北郡佐井村牛滝漁港 木造船(長さ6.2m幅2.53m)(281029読売青森版) 10月30日 青森県つがる市七里長浜 木造船(長さ16.2m幅4m 船首に赤色数字 船内にロープや網)(281101読売青森版) 12月5日 京都府舞鶴市 木造船(北朝鮮5000ウォン紙幣2枚、漁具など)・遺体9体(一部白骨化)(TBSあさチャン) 《平成29年(2017)以降》--------------------------------------------------- ※出典については逐次書き加えています。石川関連のほとんどが北國新聞、新潟関連の大半は新潟日報の記事です。 平成29年(2017) 1月1日 新潟県糸魚川市筒石 木造船の一部 1月6日 新潟県上越市柿崎区 木造船 1月6日 福井県三方郡美浜町菅浜弁天崎南1キロ 木造船(船体にハングルのような文字 船内にエンジンの一部とドラム缶)(290106読売大阪朝刊) 1月7日 福井県小浜市犬熊 木造船 2月7日 島根県隠岐郡隠岐の島町神尾 木造船 2月11日 石川県金沢市 木造船 2月15日 京都府京丹後市間人 木造船 2月15日 京都府舞鶴市瀬崎海岸 木造船 3月8日 島根県隠岐郡隠岐の島町油井 木造船 3月14日 石川県輪島市門前町 木造船の一部 3月18日 石川県羽咋郡宝達志水町 木造船(長さ約5m幅約1.5m 船尾の白い板にハングル)(271209読売) 3月22日 石川県羽咋市寺家町 木造船 3月28日 京都府京丹後市 木造船 4月28日 秋田県男鹿市入道崎灯台西300m 木造船(長さ約10m幅約5m)・遺体1体 5月1日 北海道函館市函館港 木造船の一部 5月2日 新潟県佐渡市石名地区 木造船 6月1日 新潟県佐渡市鷲崎地内 木造船 6月26日 兵庫県香住町余部海沖 木造船(「0제16749」と記載 男性遺体1体身長約168センチ) 7月31日 島根県隠岐郡隠岐の島町福浦 木造船の一部 8月9日 島根県隠岐郡西ノ島町三度埼 木造船 9月6日 青森県西津軽郡深浦町大間越 木造船 9月25日 北海道室蘭市東町 木造船の一部 11月7日 新潟県佐渡市羽茂三瀬地区 木造船(長さ13.7m幅3.7m 「888-88879」の数字記載) 11月15日 秋田県西400キロ沖(大和堆北方EEZ外)転覆した木造船 3名救助 11月16日 秋田県西沖(大和堆)木造船 遺体4体 11月16日 秋田県にかほ市 木造船 11月19日 青森県北津軽郡中泊町小泊 木造船(長さ8.7m) 船体にハングル表記 11月20日 青森県西津軽郡深浦町大間越 木造船(長さ12.6m 「913185」の数字記載。スクリューやエンジンが残っていた)周辺で救命胴衣6個発見 11月21日 山形県鶴岡市暮坪海岸 木造船(長さ7m) 船体にハングルや「89829」の数字が記載(庄内ブルーリボンの会資料には全長10mとの記載あり) 11月23日 新潟県佐渡市南片辺 木造船(長さ約10m幅約2m 船体にハングルと数字が記載 エンジン 周辺から漁網やイカ釣り針、防寒具など) 11月23日 秋田県由利本荘市マリーナ 木造船(長さ20m) プレートにハングルで「チョンジン」と記載。生存者8名 内2名が近くの民家に行ってインターフォンを鳴らしたことで上陸が分かる(従って検疫を受けずに上陸した9。証拠品である船はマリーナに係留していたが県警が見失い、後に破片の一部を回収。 11月24日 秋田県男鹿市宮沢 木造船(長さ約14m幅約3.2m 船首付近に「556-60756」と記載)・遺体8体(白骨化)・北朝鮮製たばこ等 11月25日 新潟県佐渡市藻浦崎 木造船の一部(「88737」の記載)・遺体1体 11月26日 新潟県佐渡市石花 遺体1体 11月26日 北海道松前郡松前町小浜 木造船の一部(船首部分長さ4m 黒く塗られ数字のようなもの記載) 11月26ないし27日 青森県西津軽郡深浦町艫作(へなし)椿山展望台西200m 木造船(船首部分に「2093」の数字が記載) 11月27日 石川県羽咋郡志賀町西海 木造船の一部 11月27日 石川県羽咋市 木造船 11月27日 石川県珠洲市三崎町小泊沖 漂流船(長さ12m幅2.5m 船内に「264軍部隊 軍船」と記載された紙片) 11月27日 青森県下北郡佐井村 木造船(長さ12.3m幅3.6m 船首に115489 エンジン付き 後部は一部破損するも櫓はほぼ原型) サイズ24センチ男物革靴(ヒールの高いシークレットブーツ様のもの)と英文の書かれたジャケット(要確認) 11月28日 北海道松前郡松前町松前小島 木造船(長さ約10m 「朝鮮人民軍第854部隊」との記載)・生存者10名 11月28日 山形県鶴岡市鼠ヶ関沖 木造船・遺体3体(うち2体の衣服に金日成バッジ) 12月2日鶴岡市温見漂着、12月4日遺体漂着 11月28日 石川県輪島市舳倉島沖 漂流船2隻 11月30日乗組員21名が北朝鮮僚船に救助される。 11月30日 新潟県佐渡市藻浦崎 遺体1体(地元で聞いた話では遺体はなかったとのこと) 12月1日 青森県西津軽郡深浦町森山海岸 木造船(長さ約10m幅約2.4m) 12月1日 新潟県佐渡市両津湾 木造船 12月1日 山形県鶴岡市鼠ヶ関マリーナ 木造船の一部 12月2日 新潟県佐渡市小木江積海岸 木造船(長さ約9.8m幅約2.3m)・遺体2体 12月2日 秋田県山本郡八峰町八森岩館付近海岸 木造船(ハングルの書かれたバケツ)・遺体1体 12月2日 山形県鶴岡市米子漁港 木造船(長さ10m弱)遺体3体(4日に漂着 庄内ブルーリボンの会) 12月4日 新潟県柏崎市西山町石地付近 木造船の一部 12月4日 新潟県長岡市寺泊大和田 木造船 12月4日 ��潟県新潟市西蒲区角田浜沖 木造船 12月4日 秋田県にかほ市海水浴場 木造船の一部(ハングルの書かれたバケツ、缶詰)・遺体1体 12月4日 青森県西津軽郡深浦町北金ヶ沢 木造船(12日に遺体→別記) 12月5日 新潟県佐渡市高千漁港 木造船(幅約3.1m) 12月5日 新潟県新潟市 木造船漂流(ブロックに衝突し大破)・遺体2体 12月5日 山形県鶴岡市マリーンパーク鼠ヶ関 木造船の一部(庄内ブルーリボンの会) 12月6日 青森県西津軽郡深浦町入良川河口付近 木造船(「915430」と記載) 12月7日 秋田県男鹿市五里合漁港北100m砂浜 木造船(「913300」と記載)・遺体2体 12月7日 秋田県山本郡三種町 木造船1隻(ハングル表記のライフジャケット) 12月7日 新潟県佐渡市北狄(きたえびす)地区海岸 木造船・遺体1体 12月7日 新潟県佐渡市和木沖 木造船・遺体1体 12月7日 福井県坂井市三国町サンセットビーチ 木造船の一部 12月7日 山形県鶴岡市マリーンパーク鼠ヶ関 木造船の一部(庄内ブルーリボンの会) 12月8日 新潟県佐渡市水津漁港 木造船の一部(幅約2.8m)・後に男性の遺体1体発見 12月8日 石川県珠洲市長橋町 木造船の一部(後に流出し2月22日珠洲市大谷町海岸に漂着) 12月9日 石川県珠洲市笹波町 遺体1体(一部白骨化し性別不明 死語数か月 セーター、シャツ着用 12月9日 新潟県村上市府屋海岸 木造船 12月9日 新潟県佐渡市岩谷口海岸 遺体1体 12月9日 新潟県佐渡市姫崎沖 遺体1体 12月10日 山形県鶴岡市堅苔沢海岸 遺体1体(上半身のみ) 12月10日 新潟県佐渡市石名沖 木造船(幅約3m) 12月12日 新潟県柏崎市荒浜 木造船・遺体2体遺体は白骨化しており、服や身の回りの物も無かった。船はその後産業廃棄物として処理。白骨化した遺体は火葬後、無縁仏として埋葬。 12月12日 新潟県村上市沖 木造船 12月12日 青森県西津軽郡深浦町十二湖海浜公園 木造船(「912358」と記載) 12月12日 新潟県佐渡市宿根木 木造船の一部 12月12日 青森県西津軽郡深浦町北金ヶ沢千畳敷橋付近海上 遺体3体(12月4日の漂着船が岩にぶつかって破損し中から流れ出たものと思われる) 12月12日~13日 石川県羽咋市 木造船の一部 12月13日 山形県遊佐町吹浦西浜海岸周辺 遺体1体 12月13日 山形県鶴岡市鼠ヶ関マリーナ 木造船の一部 12月13日 秋田県潟上市出戸浜海水浴場付近 木造船・遺体2体 12月13日 秋田県男鹿市北浦入道崎灯台南約2km 木造船(長さ7m幅1.9m) 12月13日 秋田県秋田市浜田 遺体1体 12月13日 新潟県村上市瀬波温泉海岸 木造船(「632-90452」と記載) 12月13日 新潟県胎内市松浜海岸 木造船 12月14日 秋田県秋田市雄物川河口近く 木造船2隻・遺体6体 12月14日 青森県西津軽郡深浦町白神浜 遺体1体 木造船の一部 12月14日 新潟県長岡市寺泊郷本海岸 木造船・人骨5本 12月14日 新潟県佐渡市鵜ノ瀬鼻沖 木造船(全長約13.5m幅約3m) 12月14日~15日 石川県羽咋市志賀町 木造船の一部 12月15日 石川県金沢市金沢港沖 木造船 12月15日 新潟県佐渡市下相川 木造船(長さ約13m幅約3m 岩場で大破したがそれ以前はイカを干すヤグラや集魚灯の一部も残っていた) 12月15日 青森県下北郡佐井村津鼻崎南 木造船(船首に「567-66341」)1週間前の漂流時には船全体の形があったがその後時化で崩壊し海岸に各部分が海岸に漂着) 12月15日 山形県鶴岡市五十川海岸 遺体1体 12月16日 石川県羽咋市千里浜インター付近 木造船の一部 12月16日 青森県深浦町田野沢 木造船(「547-66205」と記載) 12月17日 石川県珠洲市 木造船の一部 12月18日 新潟県佐渡市鷲崎沖 木造船 12月18日 山形県鶴岡市湯野浜海岸 木造船(長さ10m弱) 12月19日 秋田県にかほ市飛字餅田海岸 木造船・遺体2体 12月19日 石川県羽咋郡志賀町 漂流船(海保は発見できず) 12月20日 石川県羽咋郡志賀町 富来漁港(西海漁港) 漂着船 12月21日 新潟県佐渡市関岬 木造船(長さ11.6m幅2.75m 船首にハングル表示) 12月21日 新潟東港沖18キロ 木造船 12月21日 新潟県岩船郡粟島浦村釜谷 木造船の一部(縦1.5m横1.2m) 12月21日 青森県下北郡佐井村沖 木造船(転覆した状態で網にひっかかっていた 船尾に「0-세・98180단천」)・遺体4体(佐井村資料には記載なし)佐井村資料には女性もののようなビニールと思われるバッグ、ライフジャケットなどが写っている。バッグの中身はタバコ、タオル、歯ブラシ、書類らしきものなど) 12月23日 石川県羽咋郡志賀町 木造船(長さ約8.4m幅約2.2m 15日に金沢港沖を漂流していた船と同じ番号が船体に記載) 12月24日 新潟県新潟市 新潟港沖12キロ 木造船(21日のものと同じ可能性あり) 12月24日 山形県鶴岡市油戸漁港付近 木造船の一部・周辺に遺体4体 12月24日 山形県酒田市浜中海水浴場周辺 遺体1体(星型マークがバックルに付いた布製ベルト) 12月25日 新潟県佐渡市羽茂大橋 木造船(長さ約10m、幅約2.2m) 12月29日 鳥取県鳥取市気高町奥沢見海岸 遺体1体(ハングルが書かれたタグのついた黒い長袖ジャージと長袖Tシャツ、ズボン下着用。身長約170センチ、頭部はほぼ白骨化) 12月29日 新潟県新潟市西蒲区越前浜海岸 木造船の一部(長さ3m幅1.6m高さ1.43m 煙突あり) 平成30年(2018) 1月2日 新潟県村上市馬下(まおろし)地先海岸 木造船(長さ10.5m幅3.0m) 1月4日 秋田県山本郡三種町釜谷浜海水浴場 木造船の一部(長さ約8.1m幅約2m 船底及びスクリュー) 1月4日 新潟県佐渡市北田野浦 木造船の一部 1月4日 新潟県柏崎市西山町大崎地先海岸 木造船の一部(船尾部分長さ1.9m幅1.9m) 1月4日 秋田県山本郡三種町釜屋浜海水浴場南側 木造船の一部(船底部分長さ8.1m幅2.0m) 1月4日 石川県羽咋郡志賀町 遺体1体(推定年齢30~50歳・身長約164センチ・黒色系のジャンパーやシャツ、ズボン着用。ハングルが書かれたタバコ、腕時計、電池、紙束などを所持。 1月5日 新潟県佐渡市相川鹿伏 木造船の一部 1月5日 石川県白山市沖 木造船(長さ約13m幅約3.5m 船首にハングル) その後不明 1月6日 秋田県由利本荘市松ヶ崎漁港 木造船の一部(長さ4m幅約2m 白地に赤の数字) 1月7日 京都府京丹後市網野町 木造船(長さ約10m幅約3m ハングルのような文字の書かれた板が付近に漂着) 1月7日 新潟県佐渡市入桑漁港 木造船の一部 1月8日 新潟県新潟市西蒲区間瀬海岸 木造船(長さ約5m幅約1.5m) 1月8日 秋田県男鹿市野石申川海岸若美漁港南1km砂浜 木造船の一部(長さ約7.7m幅約1.9m船底とエンジン) 1月10日 金沢市下安原町安原海岸 遺体1体(年齢不詳顔などの一部が白骨化。黒色のジャンパーと青色のズボンを着用。身元や国籍の分かるものは身に着けていなかった) 木造船(遺体から15mの距離 長さ16m幅高さともに3m 船尾にプロペラ 船体にハングルや数字などの標記見つからず 船内から16日7遺体発見 船首付近に4人、真ん中あたりに3人が折り重なるように倒れていた。セーターやトレーナーを着ており目立った外傷はなかった。 金日成と金正日の並んだバッジ1個) 1月21日 新潟県粟島八幡神社から200mの海岸 木造船の一部(船尾 長さ1.2m幅1.3mのコの字型 赤字でハングル2文字が書かれていた) 1月24日 石川県羽咋郡志賀町西海千ノ浦海岸 木造船(長さ8.15m幅1.9m高さ1m平底型 船体に白く614という番号記載 コールタールのようなもので塗装、傷み激しく長期間漂流したものと推定 近くに「10465료대」と書いた木片あり) 1月24日 山形県鶴岡市湯野浜海岸 木造船(長さ5.45m幅1.5m) 1月28日 石川県羽咋市新保町(志雄パーキングエリアの北約400m)木造船(長さ5.871m、幅1.87m 船体に黒い塗料。目立った損傷なし ハングルと「9-964」の記載) 1月30日 石川県羽咋郡志賀町大津、上野の境界近くの海岸 木造船の一部。不鮮明だが「3682370」と白い文字で船体に記載。 1月31日 山形県鶴岡市マリンパーク鼠ヶ関 木造船の一部 2月2日 石川県金沢港北西約64キロ沖 木造船。船体に文字や数字とみられる表記。 2月2日 秋田県由利本荘市出戸字浜山の海岸(西目漁港北東1キロ) 木造船の一部(長さ4.5m幅約2.7m 船体に赤い字で「556-60269」と記載 2月4日 秋田県由利本荘市親川河口付近 木造船の一部(長さ約5.4m幅約1.9m 赤い数字のような文字が記載) 2月7日 石川県輪島市名舟町海岸 木造船(長さ約5m幅約2m 「760-75200」と船体に記載) 2月9日 石川県かほく市白尾海岸 木造船(船体に番号表記) 2月10日 石川県羽咋郡志賀町 木造船2隻(1隻は海士崎灯台北500m、長さ約12m幅約2m 船首部分に「505-64271」の番号記載があり1日に金沢港沖で発見された漂流船と思われる。もう1隻同灯台北約200m、長さ約5.4m幅1.5m 船尾破損 文字番号等記載なし) 2月11日 石川県加賀市美崎町漁協加賀支所から400m海岸 木造船(長さ約18m幅約5m 船首右舷に「504-66272」と記載)(300212北國) 2月13日 石川県羽咋市一ノ宮町一ノ宮海岸 木造船(長さ約7m幅約1.85m)(300214北國) 2月13日 石川県輪島市門前町池田海岸 木造船(長さ約4.35m幅約1.08m 船体にハングルと番号表記)(300214北國) 2月13日 石川県羽咋郡志賀町西海千ノ浦海士崎灯台近くの海岸 木造船(長さ約5.6m幅約1.4m 船首と船尾にハングルと番号表記)(300214北國) 2月13日 秋田県男鹿市野石字五明光海岸三種町との境から南約1.3キロ 木造船(長さ約10.1m幅約2.1m 船内にエンジンと漁網を巻き上げる機械 船体に「29488」とハングルの記載) 2月15日 石川県羽咋郡志賀町百浦海岸 木造船(長さ9.7m幅約2.19m スクリューとエンジンあり) 2月20日 石川県金沢市金沢港北西20キロ沖 木造船(長さ約6m幅約1.5m 船首に「4233」の記載) 2月21日 石川県輪島市塚田長塚田橋付近の岩場 木造船(長さ5.75m幅1.83m 無動力船)(300222北国) 2月21日 石川県輪島市門前町鹿磯漁港付近砂浜 木造船の一部(平底部長さ3.81m幅1.83m左舷側一部が残る プロペラ軸受け部金属を確認。(300222北国新聞) 2月22日 石川県輪島市深見町海岸 木造船(全長10m幅2.65m 船尾にスクリュー)(300223北國) 2月24日 秋田県能代市浅内字砂山海岸能代ロケット実験場南西約5キロ 遺体(北朝鮮との関連不明、一部白骨化した男性、身長約165センチ、着衣や履き物はなかった)(300225秋田魁) 3月6日 石川県輪島市名舟海岸 木造船の一部(全長4.5m幅2.2m遺留品は見つからず)(300307北國) 3月10日 石川県羽咋郡志賀町大島(おしま)漁港南側約180m海岸 木造船の一部(最大長5.2m 赤い数字「5129-61247」 船首に日本製ゴムタイヤを使った緩衝材)(300311北國) 3月12日 石川県羽咋郡志賀町安部屋海岸 ハングルと数字の書かれた木製標識・人民軍軍帽・究明浮輪(300313北國) 3月13日 石川県金沢市内灘海岸 木造船の一部(船首部分 長さ2.1m コールタールのような塗料・範読できない文字が表記)(300314北國) 4月17日 石川県珠洲市能登町布浦(ぬのうら)海岸 木造船(長さ6.1m、幅1.7m、深さ0.8m 船体にハングルや数字が記載)。 5月16日 北海道爾志郡乙部町 木造船の一部 5月31日 青森県中泊町小泊漁港付近 木造船
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「しがや」でごはん。
――はじまりは「味噌豆」だった。
底の深いフライパンに油を敷き、軽く水洗いした大豆を入れながら、志賀真幸(しがまゆき)はそう思う。 ゆっくりとへらでかき混ぜて��豆に油をまわし、強火にかける。十五分ほど煎っていると、豆がしわしわになっていく。さらに煎り続けていけば、しわがなくなって、ぱちぱちと音をたてはじめる。表面が少し割れてもくる。 ちょっとずつ焦げ目がつく、この過程が真幸はとても好きだ。 どんなメニューを組む日でも、「味噌豆」は必ず作ってタッパーに入れておく。あまり甘くしないから、ごはんのおともにも、お酒のアテにもなる。 真幸がひとりで切り盛りする『しがや』は、昼の十二時から夜の十一時までが営業時間だ。ランチが午後二時まで。三時間の休憩を挟んで、午後五時から再開する。 八人でいっぱいになるカウンター席と、二人かけのテーブルがふたつに四人かけのテーブルがひとつの小さな店。 夕方からの営業には、食事だけでなく、お酒をメインにする常連さんも多いため、「味噌豆」を含むお通し三点付けはとても喜ばれる。もっとも、真幸はアルコールには詳しくなくて、ごく普通のビールと廉価な焼酎、日本酒しか置いていない。こだわりのある飲兵衛には向かない店だ。 それでも、『しがや』の個性や、ある法則をもったメニューのほうが重要だと言ってくれるお客さんに守られていた。 いまは、ランチあとの休憩時間。 ランチの片づけをして、食材のチェックをしてみたら、今朝作った「味噌豆」がこころもとない残量になっていた。夜の営業で足りなくなるのは困るので、追加で作っている。 中火にし、砂糖と味噌を入れて擦り合わせつつ混ぜはじめたとき、まだ暖簾を出していない店の引き戸が開いた。
「姐さん、これ置かせて」
挨拶もなく入って来た青年がよく通る声で軽やかに言う。
「ちょっと待って」
真幸は声の主を見ようともせず、ちゃっちゃとフライパンの中の豆を仕上げていく。砂糖も味噌も焦げやすいので、眼を放せないのだ。
「おう」
青年は短く答えると、カウンターの角席に腰かけたようだった。椅子を引き、とんとなにかを置く音が聞こえた。 彼はその席が好きだ。絶対にそこでなければいやというわけではないのだが、何人かの仲間と顔を出してもテーブル席ではなく、角席を含んだ数席を選ぶ。 胡麻を加えて「味噌豆」を完成させてから、真幸はカウンター内を移動した。青年の真ん前に立った。
「見せてよ」 「あ、おう」
青年はまた短く答えて、手元にあったA4サイズの封筒を真幸に差し出した。一センチほどの厚みがある。 真幸は受け取った封筒からぺらっと一枚引っ張り出してみた。「ふうん」と呟いて紙を見つめる。
「正之丞(せいのすけ)さん、出世したよねぇ」 「出世ってこたぁねぇですよ」
正之丞と呼ばれた青年はへっと鼻先で笑い、カウンターに支度されている透明なポットに手を伸ばした。トレイに並んだグラスをひっくり返し、冷えた緑茶を半分ほど注ぐ。ごくごくと咽喉を鳴らして一気に飲み干した。
「でも、たいしたもんだよ。菱野ホールってキャパ二百五十くらいあるでしょ。そこで毎月やれてるんだもん」
真幸の手にある紙は、いわゆる宣伝チラシだ。青っぽい背景の中央に着物姿の正之丞がいて、寄席文字と呼ばれる独特の太い筆致の文字で『日月亭(たちもりてい)正之丞月例独演会』と二行に分けで書かれていた。 ちなみに、寄席文字とは、提灯や半纏に使用されていた字体と、歌舞伎などで用いられていた勘亭流の字体を折衷して編み出したビラ字をもとにしている。天保年間に神田豊島町にあった藁店に住んでいた紺屋の職人が改良したものらしい。 たくさんの客が集まって、空席が少なくなるようにとの縁起を担いで、文字と文字の間隔を詰め、隙間を最小限にして書く。その際になるべく右肩上がりにもする。
「次からはチラシデザイン、もっと凝ったら? 正之丞さんイケメンなのにふつうのデザイン過ぎてつまんないよ、これ」
真幸は淡々と言うと、チラシを封筒に戻した。 正之丞はもう一杯緑茶を注ぎながら、「だったら姐さんがやってよ」と唇を尖らせた。
「じょーだんでしょ。もうわたしは引退したのよ。いまはただの食堂のおばちゃん」
自嘲気味に笑って、真幸はできたばかりの「味噌豆」といんげんと山芋のおひたし、小女子の佃煮入り卵焼きを三点付け用の小皿に盛り合わせ、正之丞の前に置いた。 正之丞は「うまそう」と呟いて、割り箸を手に取った。
「おばちゃんだなんて思ってないくせに」
まず卵焼きを口に運び、正之丞はにっと口角を引き上げた。
「わたし、何歳だと思ってんの?」 「おれより四歳上だっけ?」
正之丞はもぐもぐと咀嚼しつつ、首を捻った。真幸はすぐに「五歳」と返した。 正之丞は、スポーツ医療系専門学校卒業後に日月亭正治(せいじ)に弟子入りし、八か月の見習い期間のあと、前座として寄席に入った。四年半務め上げ、五年前に二ツ目となった。確か、早生まれの三十歳だったはずだ。 二ツ目になってからしばらくは、三十人キャパ程度の会場で勉強会を繰り返していたが、ある新鋭監督の映画に準主役で期用されてから注目されはじめた。 端は整った見た目ばかりが話題にされていたものの、ネタ的にほうぼうに呼ばれているうちに噺家としての実力もあがっていった。 真幸は、集客に苦労していた姿も知っているから、とんとん拍子に飛ぶ鳥を落とす勢いの存在となっていく正之丞に圧倒された。 多くの注視は自信の裏付けになると同時に、敵も生まれる。諸刃の剣だ。ファンの好意はちょっとしたボタンの掛け違いで嫌悪に変わってしまう。 そして、それを含め、目立ってナンボの世界だ。潤沢とはいえない客の数を多くの噺家たちで食い合いするのだから、売れていて、魅力がなければ勝ち抜けない。 真幸は『しがや』を開店するまで、日本橋にあるデザイン事務所に所属して、多種多様のチラシをデザインし、寄席文字を書いていた。売れはじめるまえの正之丞のチラシを作ったことも、独演会用に高座のめくりを準備したことも一度や二度ではない。 真幸のデザインするチラシは、噺家たちにも落語会に足を運ぶ客たちにも好評だった。 母が亡くなり、『しがや』を継ごうと決めて一線を退くとき、相当に残念がられたものだ。事務所を辞めても個人的に仕事を請け負ってほしいと頼まれたけれど、それではなんだか示しがつかないような気がして、すべて丁重にお断りをした。 仕事としてかかわらなくなっても、落語そのものは好きだったから、『しがや』のメニューに演目にちなんだものを出すようになった。 「味噌豆」も落語の演目からきている。 主人が隠れて「味噌豆」を食べようと便所にこもる。使用人もやはり隠れて食べたくて、椀によそった「味噌豆」を持って便所へ向かう。そこには主人がこもっているから鉢合わせになり、使用人は機転をきかせておかわりを持ってきたと言い放つというオチを迎える噺である。 もともと「味噌豆」という言葉の響きが妙に好きで、どんなものなのか興味があって個人的に調べて作って食べていた。いろいろなパターンのレシピに挑戦し、自分なりに改良を重ね、『しがや』の落語にちなんだ新メニューのトップバッターに決めたのだ。 真幸が作っている「味噌豆」は、落語に登場するものとはちょっと違うのだけれど。 「味噌豆」が好評だったから、真幸は少しずつ落語の演目絡みのメニューを増やしていった。 「目黒のさんま」にちなんださんま料理、「かぼちゃ屋」や「唐茄子政談」に絡めてかぼちゃ料理、「二番煎じ」に出てくる味噌味の肉鍋風煮物、などなど。 あとは、ランチ時には「時そば」にちなんで、もみ海苔を散らした花巻そばや、玉子焼き、蒲鉾、椎茸、くわいなどをのせたしっぽくそばを常に出している。 夏場には「青菜」に登場する鯉の洗いを用意したこともある。 つまり。 これが『しがや』のある法則をもったメニューなのだ。 このおかげで、母の代からのお馴染みさんや地元だから贔屓にしてくれるお客さんとともに、落語好きの常連さんが多くなった。飲みながら、落語話に花を咲かせているお客さん同士も、落語会帰りに一杯というひとたちもいる。 そのため、多くの噺家たちがチラシを置かせてほしいと言ってくる。去年からは頼まれて彼らのCDや著作物なども販売するようになった。置いてあるチラシやCDなどを目当ての客も結構いた。 正之丞の初CDが出た際には、サイン会を兼ねた特別落語会を開催もした。二百五十のキャパをコンスタントに埋められる正之丞なのに、二十程度の席しかないため、チケットはとんでもない争奪戦となった。 この会がうまくいけば、隔月くらいで落語会をやってみてもいいかなと思ったけれど、ファンの血眼ぶりがトラウマで、尻込みしている。正之丞ほどの動員能力を持つ噺家ばかりではないし、まだまだこれからの若手を呼べば、あんなことにはならないだろうとは頭ではわかるのだが。 思い切るにはもうちょっとの勇気が必要そうだ。
「正之丞さん、まだ時間ある?」
真幸はチラシの入った封筒をカウンター下の棚に収めてから、ふわっと訊いた。
「ん? あるよ。今日は寄席の昼席二か所だけだから、夜は空き。なんで?」
山芋のおひたしを口に入れて、正之丞は訝しそうな顔をした。眉間に薄く皺が寄る。
「さんまのつくね食べる?」
「ランチ残ったの?」
正之丞はいたずらっぽく眉を上げた。
「あーー、やな言い方するなぁ。そういう態度だと出してあげないよ」
真幸はむっとしている振りをした。 正之丞とはついじゃれ合いをしてしまう。異性であることを意識したことは、少なくとも真幸側からはない。きょうだいか喧嘩友達みたいな関係をずっと続けている。 真幸には大勢の噺家の知り合いがいるが、たぶん正之丞がいちばん親しい。家族関係もつきあっていた女性のことも知っている。 そして、ひとつひとつの恋愛があまり長く続かないことも。 正之丞がいろいろな女性と交際をしている間に、真幸は取引先の会社にいた相手と恋愛をし、シンプルな式を上げて結婚した。二歳上の物静かな男性だった。軽口を叩き合うような関係性ではなかったけれど、しっとりと静かに穏やかに時を重ねていけると思っていた。 だが、ともに暮らしはじめて三年目に突入して間もなく、「好きなひとがいる」と離婚を切り出された。相手が女性であればもっと引き止めたり、もめたりしたかもしれない。 でも、夫が選んだ相手は同性だった。 それも、高校時代からひそやかに続いていた。「女性の中ではいちばんきみが好きだけど、それ以上にどうしても彼がいとしい。もう嘘はつけない」と言われれば、もう返す言葉はなかった。 惚れていたぶんだけ、離婚直後は恨みめいた気持ちもあったものの、真幸といっしょにいるときよりも自然に幸せそうに、よく笑う元夫を見ているうちに、これで良かったのだと思えるようになった。 元夫は、いまでもあの彼氏とともに生きているらしい。 真幸は、職場ではずっと旧姓で通していたから、たぶん正之丞は結婚離婚を知らないだろう。
「食べる?って訊き方したんだから、ひっこめんなよ。オトコに二言はねぇだろ」
正之丞はぶんっと割り箸を回した。
「行儀悪いことしないっ!」
真幸は腕を伸ばして、正之丞の割り箸を掴んで止めた。
「あと、誰がオトコだ!」
そのまま握り締めて拳にすると、正之丞の額を小突いた。正之丞はでへへっと笑った。
「いしる汁、ひとりぶんにちょっと足りないくらいなんだけど」 「いしるってどこの料理?」 「料理っていうか、能登の調味料ね。いしる出汁っていうの」 「能登かぁ。能登ねぇ」
正之丞が感心したように頷き、「一昨年呼ばれて行ったなぁ」と続けた。
「噺家はいろんなとこ行けていいねぇ」 「行くだけで観光もうまいもの食うのも、めったにできないけどね」
真幸の拳の中から割り箸を奪い返し、正之丞は今度はいんげんのおひたしを食べた。 噺家たちは、確かに地方公演は多いが、余裕をもったスケジューリングにはされていない。 たとえば、福岡公演の翌日の昼に東京公演が組まれていたり、昼は名古屋、夜は仙台なんてむちゃくちゃなことになっていたり。その合間に師匠方に稽古をつけてもらいに行ったり。 噺家は、大抵は個人事業主で、事務所などがマネージメントしているわけではないのに、ファンの多い人気者や名人ほど大事にされていない。ひっぱりだこと言えば聞こえが良いが、ただの過重労働だ。 売れ出して以降の正之丞のスケジュールもそうなっている。昼席のあと、空いているというのは珍しい。
「正之丞さん。もうあとがないんなら、ごはんも食べて呑んじゃう? 奢るよ」
真幸は断っても問題ないのだという隙間を持たせて、言ってみた。
正之丞は性格的に年上や先輩からの誘いにノーと言わない。多忙な売れっ子をやっかむ先輩たちや、人気者を連れまわしたいタニマチ風の主催者たちにも従ってしまう。 だから、落語を離れたプライベートの場では気にせずに首を横に振っていい。つまらない上下関係や重圧を離れて、羽根を伸ばせばいい。夜が空いているのなら、彼女とデートだってしたいだろう。 そんな思いも内包していた。 まあ、もっとも、いまの正之丞に交際している女性がいるかどうかは知らないが。
「いいの?」
正之丞は間髪あけずに返してきた。 真幸の見る目が歪んでいなければ、だが、正之丞にいやがっている様子はない。年上からの誘いだから仕方なく了解したという感じもしない。 正之丞の如才なさの賜物で、うまく本音を覆い隠している可能性もあるな、なんて臍の曲がったことを考えつつ、真幸は薄く笑みを浮かべた。
「ランチの残りと、普段、大皿で出してるような料理しか、まだ用意できないけど」 「充分充分。助かるよ」 「そう? じゃあ、ビール? 焼酎?」 「う~~ん。焼酎かな。ここの緑茶で割るから、グラスに氷と焼酎だけ入れてくれたらいいよ」
真幸は「おっけー」と答えて、大きめのグラスに氷を四つと七分目ほどの焼酎を注いだ。正之丞の手元近くにグラスを置く。 正之丞はいかにも嬉しそうに「ありがと」と笑んだ。 正之丞は結構酒が強い。深酒も泥酔もしないし、醜態も晒さないが、酒量はいつも多いほうだ。真幸も酒飲みだから、ふたりで飲めば長くなる。 正之丞が緑茶で軽く割った焼酎を飲みはじめるのを見やり、真幸は残りが少ないので小鍋に移してあったいしる汁を火にかけた。汁には、つくねの他に大根、人参、牛蒡、三つ葉が入れてある。 さんまのつくねは、「目黒のさんま」にちなんだ料理のひとつとして作っている。 あの演目だと、「さんまは目黒に限る」で形容されるさんまの丸焼きがメインだ。もちろん『しがや』でも九月に入るとさんま焼きを提供する。 それ以外の時期に出すのが、さんまのつくねなのだ。演目の後半に、殿様が屋敷に戻って「さんまが食べたい」と言ったときに、使用人たちがさんまの脂っぽさや小骨をとりまくってぼろぼろになったものを椀に入れて出す場面を参考にしている。 汁に入れる以外では、揚げたり照り焼きにしたり、にんにくたっぷりでソテーにしたりする。 さんまを使ったメニューとしては、他に味噌煮、蒲焼き、野菜あんかけ、竜田揚げなど、我ながらレパートリーに富んでいると思う。お客さんにも人気がある。 真幸はいしる汁とごはんをカウンターに置くと、続けて、大皿料理として常に用意している筑前煮、かぼちゃの煮付、きんぴら、切り干し大根、肉じゃが、小松菜とツナと玉子炒め、オクラの豚肉巻き、鶏の唐揚げを少しずつ取り分けて出した。 ひとつひとつは凝ったものではなくても、全部が並ぶと途端に贅沢な食卓となる。和食中心の店だから、どうしても色合いが茶色っぽくなってしまうのは否めないが。
「こりゃ豪勢だな。ありがてぇ」
落語の登場人物の江戸弁めいた口調で喜んで、正之丞は箸をつけていく。 緑茶割を飲みながら、ほんとうに美味しそうに平らげる。細い身体のどこに入ってしまうのかと思うくらいの食欲だった。見ているだけで楽しくて、嬉しくなる。 よく食べる人間は好きだ。ひとは食べたもので作られるのだから、気取って小食のふりをするよりも、食べるべきものをちゃんと食べる姿のほうが素敵なのは当然なのだ。
「おかわりする?」
グラスの中身が残り少なくなったのを見て、真幸は訊いた。正之丞は「う~~ん」と低く唸って、グラスの底の薄い緑色と、皿に残った惣菜を見比べた。
おかわりを頼むには、つまみが足りないということか。
「えっとさ」 「うん?」
真幸は、珍しく歯切れの悪い正之丞を見つめた。
「おれね、真幸……姐さんの料理好きなんだ」
正之丞は、真幸の呼称代わりにしている姐さんの前に名前を入れた。これも珍しいことだ。
「このいしる汁も肉じゃがも筑前煮も豚肉巻きもぜんぶ美味いし、どれも好きだ。ほんとに口に合う」 「あ、ああ。そうなんだ。ありがとう」
淡々と、だが、真摯に料理を誉める正之丞の口調が妙に照れくさくて、真幸はさり気なく目線をずらした。正之丞を正面から見ているのが、なんともいたたまれない気分だった。
「実家のおふくろのメシより好きだ」
正之丞の「好き」は更に続く。真幸はかあっと顔が熱くなるのを感じた。 いま、彼が言い続けている「好き」は、あくまでも真幸の料理に対するものなのに。
すべてが自分に直接跳ね飛んでくるみたいな感覚だった。
「できれば、これからもずっと姐さんのメシを食いたい」
「……う、うん」
真幸は小刻みに頷いて、「いつでも食べに来てよ。毎回は奢らないけど」と続けた。 正之丞はふうっと深く大きなため息を吐いた。こんなに誉めたのに奢らないと言われて、つまらないと思ったのかもしれない。 でも、正之丞みたいな健啖家を毎回ロハで食べさせていては、『しがや』が立ち行かなくなってしまう。
「そうじゃないよ」
少しの間を置いて、正之丞は低く言った。 なんとなく怒っているように聞こえて、真幸はちらっと正之丞を覗った。正之丞はまっすぐに貫くように真幸を見つめていた。
「『しがや』の客としても、だけど、それ以上に個人的にって意味」 「え、え? あ?」
あまりに意外な言葉で、真幸は間抜けな反応しかできなかった。声もいびつに裏返った。
「どういう……」 「おれ、姐さんが好きだよ。何人かの女性とつきあってみて、余計にはっきりとわかった。おれは姐さんが好きだし、おれに合うのは姐さんだけだ」
訊き返そうとした真幸の声に被せて、正之丞は一気に言い切った。手にしていた割り箸を肉じゃがの小皿に置いた。
「え、いや、でも、ほら、わたし年上だし」
間抜けな動揺を色濃く残したまま喋るから、真幸の声は自分でも笑ってしまいそうなくらいに上擦っていた。 きょうだいや喧嘩友達のような存在の正之丞からこんなことを言われるなんて、想像したこともなかった。いまのふたりの関係に変化が起こるわけがないと、ずっと思って��た。
「五歳くらいどってことないんだけど」
すかさす正之丞が答えた。
「え、でもね」
なおも否定を続けようとした真幸に、正之丞は「姐さんのでもでもだっては、ぜんぶ打ち返せると思うよ、おれ」と微かに笑みを浮かべた。
「いますぐに答えがほしいわけじゃないんだ。おれの言葉を聞いた今日から、考えはじめるんでいい。姐さんの恋愛対象におれがいなかったんなら、これから加えてほしい。そういうことなんだよ」
「……でも、正之丞さん……」 「でもは、もうなし」
うだうだと「でも」を並べる真幸を迷いなく見つめ、正之丞はびしゃっと切り捨てた。噺の中で誰かを叱りつけたときのような口調だった。 思わず背筋が伸びた。 真幸はぎくしゃくと正之丞に向き直った。正之丞は微笑みを湛えたまま、その動きを待っていた。
「考えてみて」
正之丞は真幸と眼が合うのを待って、ひどく穏やかにそう言った。
「たくさんたくさん考えてみて。姐さんとおれがいっしょに生きていけるかどうか。真剣にちゃんと考えた結果がごめんなさいなら、おれは受け止めるから」
あまりに真剣な口調に、真幸は唇を引き締めた。 いままで正之丞と自分を男女として意識したことはなかったけれど、ここまでしっかりと伝えられた以上、直視しないわけにはいかない。誤魔化したり予想外だからなんて言い方で逃げてはいけない。
「時間はいっぱいかけていいよ」
正之丞は、これまで一度も見たことがないくらい穏やかに優しく頷いた。笑みの形になったままの表情がひどく美しかった。
――考えよう。これから、きちんとまっすぐに。
真幸は言葉にはのせずに、ただ強く頷いていた。
「……良かった。ありがとう」
心底から嬉しそうに、正之丞が頭を下げた。
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【小説】JOKER 第一部
プロローグ
〈1〉
深夜零時。
ロレックスに目を落とした緒方進(おがたすすむ)はブリーフケースを手に、生ぬるい海風を受けながら水銀灯の明かりで照らされた新庄市郊外の公園に立っている。
海に面した絶好のデートスポットなのだが、残念な事に交通の便が悪い上に駐車場すらなく、昼間でも子供でさえロクに遊びに来る事が無い。
緒方の両隣りに二人、公園の入り口と四メートル道路に停めたベンツに運転手代わりが一人貼りついている。
全員原色のスーツに金ネックレスならプロ野球選手の夜遊びと言えない事も無いだろうが、広域指定暴力団矢沢組の組員は落ち着いたビジネススーツが常だ。
そしてブリーフケースには二百万円分のメタンフェタミン――覚醒剤が入っている。
取り引き相手は調子に乗っている街の半グレ。
昔で言うストリートギャングだ。
半グレと言っても若者ではない。若い頃にやんちゃをしたがいいが足抜けに失敗し、ヤクザになる器量も無いチンピラだ。
麻薬が若者に蔓延している、というのは半分正解で半分間違いだ。
昨今の若造は非正規労働などで麻薬に金を渋るどころか、タバコにさえ金を落とさない。
麻薬を使っているのは女を薬で縛って風俗で働かせるか、末端の構成員を薬で縛り付けるかのどちらかだ。
スポーツ選手や芸能人は大金を落とすが、それは表沙汰にしない為の口止め料としての意味合いが強く、普通に流通している薬はそこまで高くない。
そんな価格設定をしたら麻薬依存症患者は年収五千万円以上に限られてしまうだろう。
そしてスポーツ選手や芸能人などの成り上がりはともかく、そんな高所得者は基本的に麻薬など嗜む事は無い。
麻薬というのは貧乏人を貧乏人に縛り付け、思うがままに操る道具なのだ。
緒方がそれでも月収に相当する額のブリーフケースの重みを感じていると、年甲斐もなくスウェットを来た男が軽のワゴンで公園に乗りつけた。
逆向きにかぶった野球帽はヤンキースなのに、スウェットはボストン大学という統一性の無い男の後ろに三人の若造が続く。
間違いなくアメリカのストリートギャングを意識しているが、残念ながらエミネムにもJAY-Zにも見えない。
オーバーサイズの服をだらしなく来た日本人だ。
「緒方さん、金持って来ました」
ヤンキース帽がポケットから雑に札束を出して見せる。
それでクールだと思っているのだからタチが悪い。
「ブツはある」
緒方が顎をしゃくると若い衆がヤンキース帽の札束を確認する。
帯どめしてある訳でもなく、おおよそでしか金額は分からない。
しかし、金額が違っていれば差額を血肉で支払う事になる事はヤンキース帽も理解しているだろう。
若い衆がざっと金を数えた所で、水銀灯の下にトレンチコートの男が忽然と姿を現した。
紫色のどぎついトレンチコートに西洋風のピエロのマスク。
「ハッピー、ハロウィーン」
おどけたような合成音声が響いた時、緒方は背筋から嫌な汗が滲むのを感じた。
遭遇するのは初めてだが、ヤクザや半グレをターゲットにしたハッピートリガーの噂は緒方も聞いた事がある。
トレンチコートに突っ込んだ手が引き抜かれた瞬間、銃声と共に足下と背後の遊具で火花が爆ぜる。
「緒方さん!」
若い衆の一人が銃を抜いてピエロ――ジョーカーに応戦しようとする。
ジョーカーのトレンチコートが開いて、内側から映画でしか見た事の無いショットガンより大振りな銃器――グレネードランチャーが姿を現す。
「ハロウィーン? 失敬、まだ五月だ」
ジョーカーのグレネードが火を噴くと同時に地面が爆発して公園に身体が投げ出される。
半グレがへっぴり腰で公園の外に出ようとした瞬間、ジョーカーのもう一方の手に自動小銃が握られていた。
「屋根よぉーり高い、鯉のーぼーりー」
自動小銃が瞬き、公園の出口付近に無数の弾丸がばら撒かれる。
隙を突いて緒方は裏手に停めたベンツに向かって走る。
初対面とはいえ、こんな火器を狂ったように撃ちまくる狂人を相手になどしていられない。
自動小銃が向きを変え、ベンツの防弾ガラスに傷が穿たれる。
それでも緒方がベンツに戻る間に、半グレの連中は軽のワゴンに向けて疾走している。
ジョーカーのグレネードがベンツに向けられる。
助手席に転がり込んだ緒方は叫んだ。
「出せ!」
猛スピードで走り出すベンツをジョーカーは追って来なかった。
緒方はあの猛烈な砲火の中、生き延びた事を奇跡のように感じていた。
〈2〉
午後八時。
没個性的なダークスーツに身を包んだ三浦清史郎(みうらきよしろう)は新庄市駅前にある新庄商店街の場末のバー『サイレントヴォイス』を訪れている。
新庄市は首都圏のベッドタウンとして栄えている太平洋に面した、人口八十万の町だ。
駅前の商店街では二百を超える店舗が活況を呈しており、湾岸という事もあり工場地帯も存在する。
耳に心地よいJAZZが流れる中、清史郎がショットを二杯開けた所でパリッとしたスーツを粋に着こなした慶田盛弁護士事務所の慶田盛敦(けだもりあつし)が現れた。
互いに若手と呼ばれる頃に知り合い、今では二十年の付き合いになる。
「待たせたようだな。今幾つか案件を抱えていてね」
慶田盛弁護士事務所は警察の冤罪事件を扱う事で、その道では知られている弁護士事務所だ。
日本では警察が立件した裁判では99%の確率で検察が勝利している。
その検察がでっち上げたものを、証拠を積み上げ無罪に、更には真犯人を警察に突き出して解決する。
それが慶田盛弁護士事務所の仕事であり、清史郎の三浦探偵事務所は裁判の為の情報である事件の調査依頼を受けている。
売れ筋である浮気調査などはしていない為、懐には常に隙間風が吹いている。
「最近はこっちも忙しくてね」
清四郎はスコッチを注文した慶田盛とグラスを合わせる。
『サイレントヴォイス』のマスターは、以前ヤクザに恐喝されていた所をジョーカーに扮して助けたという経緯がある。
もっとも通い続けて十五年だから隠す事もありはしない。
気のおけない古い友人のようなものだ。
「吉祥寺の死体遺棄事件の件は進展はあったのか?」
吉祥寺の死体遺棄事件とは、富山純也二十五才宅で、川上千尋二十二才が自傷行為で死んでいたというものだ。
死後二日後に近所の人間に通報された事から、警察は富山を死体遺棄事件の容疑者として逮捕。書類送検した。
富山は無罪を主張し、慶田盛弁護士事務所に泣きつき、慶田盛が三浦探偵事務所に調査を依頼したのだ。
「川上は富山と同棲していた。富山の証言では自傷行為など考えられない」
同棲していた富山が被害者の死亡時に出張で家を空けていた事はアリバイとして記録に残っている。
「それは本人から直接聞いている」
慶田盛の言葉に清史郎は頷く。
「川上は都内の建築会社で事務をしていたが、実は裏で足つぼマッサージをしていた。これは歩合給で明細書も無い手渡しだ。小遣い稼ぎには丁度良かったんだろう」
清史郎は店舗の写真を慶田盛に見せる。
富山も都内の広告代理店に勤務していたが収入はお世辞にも良いとは言えず、川上としては将来を考えても副収入が欲しかったという所だろう。
その辺りの事情はマッサージ店の同僚から聴取住みだ。
「富山は言っていなかった。どうやって調べたんだ」
慶田盛が驚いた様子で写真を手に取る。
「足で稼いだんだよ。で、マッサージ店には川上に執着している、大野正則という客がいた。この男は二十歳でコンビニでアルバイトをしていたが、その給料のほとんどをマッサージ店の指名につぎ込んでいる」
清史郎は大野と、彼がコンビニで働いている写真を見せる。
大野という男が川上に執着し、横恋慕していた事は他の店員からも話が聞けている。
「じゃあ、そいつがストーカー化して川上を殺したのか?」
やりきれないといった様子で慶田盛がスコッチに口をつける。
「このコンビニには別に野原椎名という二十五才のアルバイト店員がいる。この女は大野と交際していると公言しており、ストーカーの気質もあるようだ。大野は全面的に否定しているけどな」
清史郎は野原と、野原が大野を尾行している写真をカウンターに乗せる。
追っている者は追われている事は忘れがちなものだが、大野が川上を付け回し、その大野を野原が追い回していたという訳だ。
そして道ならぬ恋に破れた野原は凶行に出た。
「じゃあ、野原が大野と川上の関係を勘違いして……」
話を整理するようにして慶田盛が言う。
「川上の切創は手首と腕に集中している。これは自傷行為というより防御創だ。更に他に傷跡も無い事から自傷行為の常習という事も考えられない。仮に大野が殺したとするなら、体格差から刺殺になった事だろう。つまり傷跡から考えても同程度の体格の相手から切り付けられたと考えないと成立しないんだ」
警察から入手した傷跡の写真には古い傷跡は一つも無い。自傷行為が常習性を持つという事を考えれば自殺の線は消えたと考えていい。
「川上は外に助けを求めに出ようとは思わなかったのか?」
「手のひらも切られていたんだ。普通の神経ではドアノブを握る事もためられただろうし、本人も富山が帰ってくれば助かると思ったんだろう」
富山は残業や出張が多く、帰宅時間は一定していなかった。
富山が出張を被害者に伝えていなかった事も証言から明らかになっている。
清史郎は資料の束を慶田盛に渡す。
「毎度仕事が早くて助かるよ。これで検察の容疑を晴らして真犯人を起訴できる」
慶田盛が満足そうに言う。探偵業をしていて良かったと思える一瞬だ。
「で、娘の学費の件なんだが……」
清史郎は慶田盛に話を切り出す。
大学を卒業してすぐに結婚し、娘ができて半年と経たずに妻が離婚を申し出た。
不倫である事は分かっていたが、彼女の名誉の為に黙って養育費を受け入れた。
とはいえ、慶田盛弁護士事務所の依頼者の多くは金銭的に厳しい者が多く、その仕事を更に下請けする三浦探偵事務所の実入りはとても良いとは言えない。
一年で五十件の冤罪事件を解決した年もあったが、その年の収入でさえ四百万を少し上回る程度だったのだ。
テナント料と養育費を払ってしまえば食費もロクに残らない。
半ば商店街の好意で事務所を置かせてもらっていると言っても過言ではない。
そしてようやく養育費を払い終わったと思ったら、元嫁が娘の学費を請求して来たのだ。
慶田盛いわく法的には支払いの義務は無いとの事だが、娘を大学に進学させてやりたいという思いはある。
「示談にするのが一番じゃないか? 向こうも本気で学費を巻き上げられるなんて思ってない」
「敏腕弁護士が中途半端な事を言うじゃないか」
「君の元奥さんは金が欲しいだけで最初から娘を大学に行かそうなんて思っていない」
慶田盛の言葉に清史郎は石を飲んだような気分になる。
「私が支払うと言えば嫌でも大学に行かせなくてはならなくなるだろう」
元嫁に対する愛情など欠片も無いが、娘に対する愛情は残っている。
「そんな金が君のどこにあるって言うんだ。夕食を場末のバーボンで済ませる男の食生活がこれ以上荒むのは見るに堪えない」
慶田盛の言葉に清史郎はため息をつく。
確かに慶田盛の言う事に間違いは無い。
――あの女のせいで自分も娘も……――
ジョーカーとして稼いだ金を出せば解決可能だが、帳簿に乗らない金を出したなら国税局に乗り込まれる事になる。
結局私生活は何一つ変わっていないのだ。
「しばらくしたら仕事の量を増やすさ」
ジョーカーを演じ始めたのは与党と矢沢組が推し進める新庄市再開発計画を阻止する為だ。
その行方を占う知事選挙が四か月後に控えている。
「もう歳なんだ。いい加減町を騒がすハッピートリガーなんてやってられないだろう」
「これはそこいらの冤罪なんてモンとは次元が違う。新庄市に生きる人々の生活がかかっているんだ」
清史郎が言うと慶田盛が苦笑する。
「相変わらず正義感だけは人一倍だな」
「皮肉を言うならお前も大手の弁護士事務所に転職したらどうだ?」
清史郎の言葉に慶田盛が笑みを浮かべる。
「それこそ真っ平だ」
清史郎は笑みを交し合うとグラスの底に残ったバーボンを飲み干した。
慶田盛も自分も世間で言う所の真っ当な大人にはなりきれていないのだ。
〈3〉
今年で二十七才になる円山健司はマンションの部屋のボタンを適当に押していた。
『はい、どちら様ですか』
「amazon様からの御届け物です」
本物のamazonの箱を抱え、配達員の服装をしているのだから疑う者も無いだろう。
――注文客以外は――
マンションのオートロックをパスしようと思ったら、住人について行くのが一番手っ取り早い。
しかし、それ以上に手堅いのが郵便物の配達員になりすますという方法だ。
amazonであればほとんどと言って良い人間が利用しており、世帯主では無くてもファミリー向けマンションなら家族が注文している可能性もある。
そしてオートロックをパスしてしまえば、実際にその部屋にものを届ける必要など無いのだ。
健司はオートロックをパスすると非常階段で配達員の服装を箱に収め、ビジネススーツに身を包んだ。
どこに居ても違和感を感じさせないという点で、ビジネススーツはほぼ最強のアイテムと言える。
健司は時刻が二十二時になるのを待って、十四階の廊下にクリスマス用のランプを天井から垂れ下がるように飾り付けた。
全て両面テープで一瞬で剥がせるようにしてある。
更に待つ事一時間、程よく酔ったスーツ姿の男がエレベーターから出て来る。
健司は息を飲んで男の背後につけ、クリスマスの飾りつけを一斉に点灯させる。
男の胡乱な目と意識が飾り付けに向いた瞬間、健司は男の両足を抱えるようにして廊下から外に向かって放り出していた。
悲鳴を上げる間も無く、鈍い音が階下から響く。
八階以下なら死亡の確認も行うが、十四階で生きている事はまず無い。
飾り付けの一方を引っ張って仕掛けを回収し、箱に収めてエレベーターで悠々とマンションを後にする。
明日には会社員自殺の報が流れるかも知れないし、流れないかも知れない。
いずれにせよ、目的を果たした健司は『殺し屋』へと足を向けた。
『殺し屋』は歌舞伎町の風俗ビルの一室にある。
夜更かししてまで仕事をする気は無い為、殺し屋と書かれた看板の電源を入れ、のれんをかけるのは明日の朝九時になってからだ。
ボックス席が二つにカウンターが六脚。
お品書きには殺し方のメニューが書かれている。
客はその中から死因や死体の放置の有無などを選択し、健司は見積もりを出してターゲットを殺す。
ごくごくシンプルなビジネスだ。
今日のターゲットはヤクザに貸し渋りをした銀行の支店長で、死因は自殺で死体は放置で良いという事なので仕事としては楽なものだった。
とはいえ、調査に四日かけて二百万の報酬。
ヤクザが稼ぐ額に比べれば雀の涙だが、踏み倒される事を考えれば前払いでささやかに仕事をする方が余程いい。
殺し屋も楽な仕事ではないのだ。
〈4〉
渋谷のクラブ『クイーンメイブ』で、三浦清史郎は所在無げに立っていた。
本日のDJはKENこと前田健だ。
アップテンポのR&Bと若い男女の支配する空間で、中年の疲れたサラリーマンといった体の清史郎は明らかに浮いている。
健がボックスのVIP席を用意してくれているが、一人でそんな所に座っていても落ち着かないだけだ。
健のパフォーマンスが一段落した所で、清史郎は二十歳過ぎのTシャツにデニムのショートパンツといった服装の女性に声をかけられた。
「ジョーカー、何疲れてんの?」
「仕事とここの空気のダブルパンチだ」
声をかけて来たのは長い髪を茶色に染めた飯島加奈というコンビニの店員だ。
快活な女性で、見ている限り店長より仕事をテキパキとこなしているように見える。
仕事さえ違えば有能なのかも知れないが、このご時世では仕事があるだけでも儲けものだ。
「ノれば楽しいって」
加奈がしなやかな身体を動かしてダンスらしきものを踊って見せるが、清史郎には真似をする事もできそうにない。
「俺の頃、ダンスは学校の授業に無かったからな」
清史郎はカウンターでアーリータイムズを注文する。
酒屋ではボトルで買っても千円程度なのに、クラブではショットで四百円取られるのだから暴利もいい所だ。
「私の頃だって無かったってば」
加奈がカシスオレンジを注文しているとパフォーマンスを終えた健が近づいて来た。
「どォよ、俺のパフォーマンスはよ」
「毎度疲れるよ」
清史郎は肩を竦めて答える。
「釣れねぇ態度、クイーンはどうだった?」
健が加奈――クイーンに話題を振る。
「いいんじゃない? ここではナンバーワンなんでしょ?」
楽しんではいたが加奈もDJの良し悪しは良く分かっていないようだ。
「だろ? 俺、最高にクールだったよな?」
言って健がスクリュードライバーを注文する。
健だけは店舗でDJをしている為にドリンクが無料だ。
「センスがいいのは認めるけど、ここのクラブで一番でも他所で一番って事にはならないから」
ぴしゃりとした口調で加奈が言う。
「これだけで食っていけるとは思ってねぇよ」
悄然とした口調で健が肩を落とす。
DJを優先している為、不規則な生活の彼は普段は日雇いのバイトをしている。
全員が飲み物を手にした所でダンスフロアを横切ってボックス席に向かう。
「に、してもよジョーク、昨日のヤクザ連中のビビりっぷりは最高だったな」
楽しそうな口調で健が合皮のソファーに腰を下ろす。
「エースは機械いじってただけでしょ? 仕込みをしたのはあたしとジョーカーなんだから」
加奈が健――エースを叱責するような口調で言う。
「俺は俺で神経使ってんだって。第一お前らだけじゃWi-Fiのクラッキングもままならねぇだろ」
「その危険地帯にジョーカーが踏み込んで機材を仕掛けてるんじゃない」
清史郎はITに関しては門外漢だが、昔ながらの盗聴や盗撮、ピッキングといった技術は職業柄身につけている。
しかし、大手の情報企業と契約していない為、早いという利点は存在しない。
現在一般的な興信所は大手情報企業と契約しており、端末の通信履歴からクレジットの支払い履歴まで二十万円から六十万円でパッケージで購入している。
ETCの履歴まで買えるのだから、全て現金で賄い、更に携帯電話もスマートフォンも持たないので無ければ市民の生活は筒抜けだ。
だが、情報企業に頼るという事は、利害が密接に絡んでいる対象を調査できなくなるという事も意味している。
従って検察を敵に回している清史郎は情報企業を利用できないのだ。
その清史郎がジョーカーという仕事をするに当たって健をスカウトしたのは、単にDJは複雑な機材を器用に使っているという思い込みだけだった。
最初はヤクザに嫌がらせをするただの乱射魔演出という構想だったのだが、健のITスキルが想像以上に高く、健の元同級生で実務能力に長けた加奈が加わり、神出鬼没のハッピートリガー、ジョーカーが誕生する事になったのだ。
「そこはWINWINじゃね? 俺の真似は二人ともできないんだろ?」
勝ち誇った様子で健が笑みを浮かべる。
「現金回収したの私なんだからね」
封筒を手にした加奈が健に向かって言う。
昨夜のヤクザの取り引きでジョーカーが登場した時、どさくさに紛れて半グレの落とした金を拾ったのは加奈なのだ。
「で、幾らになったんだよ」
「がっつかないの。バラけてたので百十一万。ジョーカーが三十一万でいいって言ってるから四十万」
「あざーっす!」
健が笑顔で加奈から封筒を受け取る。
「に、してもボれぇよな。俺なんて一日工事現場で働いても七千円だぜ」
「私だって八時間みっちりシフト入って八千円行かないんだから。あんたは税金の天引きが無いだろうけど、私はガッツリ取られるんだから」
加奈が小さくため息をついて言う。
「私は確定申告で青息吐息だよ」
清史郎は苦笑を浮かべる。
本業の探偵は労力の割に儲かっているとは言い難い。
その中で臨時でも帳簿に乗らない収入があるのはありがたい事だった。
「ジョーク、辛気臭ぇ話は無しにしようぜ! 今日は俺のおごりだ」
健がバーテンにボトルを注文する。
――今日の所は好意に甘えておこう――
清史郎は明日から始まる地道な仕事に思いを馳せた。
第一章 殺し屋VSジョーカー
〈1〉
「まさかお前まで手玉に取られるとはな」
純和風の邸宅の四十畳ほどの上座から、矢沢組組長矢沢栄作の声が響く。
矢沢は東大出身で大手の組の金庫番をしていた経済ヤクザだったが、手腕を見込まれて盃を受けて新庄市を任された男だ。
大型カジノ施設と契約し、建設費用だけで二千億円を超える大規模開発事業に着手。
地域活性を謳ってケツモチをしている与党の知事を、市民公園を作ると言って与党の市長を当選させ、財務局を握って人口八十万程度の町である新庄市の経済活性としてカジノ施設を呼び込む段階まで運び込んだ。
しかし、新庄市には古くからの商店街があり、カジノ施設に一斉に反対。
この動きを野党が連合して支援した事で、矢沢組の工作虚しく市会議員選挙でまさかの野党大勝与党過半数割れとなった。
そこで組として商店街に圧力をかけ、一方で麻薬や売春で治安を悪化させて風紀を乱すという策に出た。
そこに商店街からの刺客のように出現したのがジョーカーだ。
従って、今回の取り引きでたかだか百万程度の損失を出した事は問題ではない。
手足となる半グレが震えあがり、商店街が盛り返してしまう事の方が問題なのだ。
ジョーカーは確実にドラッグか銃のある時にしか出現せず、空取り引きで警察を使って捕えようとしても決して出て来ない。
支配下にある警察でも公安とマル暴がジョーカーを追っているがかすりもしない。
「完全に俺の失態です」
緒方は畳に額をこすりつける。ジョーカーが来るかも知れないと備えていても、圧倒的な火力を見せられて対応できる組員など存在しなかった。
「お前で駄目なら誰が行っても同じだろう。幸いヤクは複数のルートでさばいている。一か所の取り引きが潰れたくらいでプランに変更は無い」
矢沢の言葉に緒方は頭を下げ続ける。
ジョーカーに遭遇すれば十中八九取引どころではなくなるし、組員の士気の低下につながるだろう。
しかも、ジョーカーの正体はまるで分らない。
ヤクザが取引の現場に発砲魔が現れたと被害届を出せば、警察と幾ら緊密な関係にあるとはいえジョーカー逮捕の前に麻薬取引や銃刀法で御用となる。
警察が味方と言っても、捜査させる理屈が見つからないのだ。
従って、科捜研を動かしてジョーカーを特定するという事もできない。
かと言って、ジョーカーらしき人物は大手の情報企業のデータベースにも存在しない。
そもそも個人が特定できていないのだから、企業から情報を購入しようが無い。
「カジノ施設反対派は金で分断しろ。一億二億なら建設の際に財務局の法で水増しできる」
矢沢の言葉を緒方は脳裏で反芻する。
これは緒方の裁量で動かして良いのが二億円程度という話だ。
商店街含め、新庄市でカジノ施設に反対している事業者は七百に上る。
二��万円づつ配ったところで効果は見込めないし、家業と住み慣れた町を捨てさせるには最低でも二千万は必要になり、十人買収したところで七百の事業者から見れば雀の涙だ。
二億という金をどう効果的に使うか。
麻薬の売買で風紀と治安を乱そうとしたところで、商店街が機能して失業者も少ないという環境にあっては大きな効果を見込めない。
警察は見逃してくれても市民に監視されているようなものなのだ。
――いつまでもこの状況を引き延ばす訳には行かない――
半年後の知事選で知事が敗れ、反対派の知事が誕生すればカジノ施設誘致契約が破談となり、二千億を超える金が利益ではなく損失として計上される事になるのだ。
それは矢沢組の滅亡を意味していた。
〈2〉
午前八時半。
『殺し屋』に出勤した健司は店舗の掃除を始める。
明るく綺麗な店舗は客商売の基本中の基本だ。
『殺し屋』を訪れる客は決して多くはないが、だからと言って手を抜いて良い理由にはならない。
風俗ビルの一室というどうにもならない立地上の限界はあるにせよ、一国一城の主として近隣の風俗店や飲食店と比較して店舗が清潔かつ快適であるという自負がある。
カウンターとボックス席を磨き上げ、店の前に出した看板の電源を入れて暖簾をかける。
健司はカウンターの中で客の訪れを待つ。
健司が『殺し屋』を始めたのは大学卒業から四か月が過ぎてからだ。
在籍中に内定を取る事ができず、無職のまま卒業を迎えて露頭に迷う事になった。
住んでいたアパートも追い出され、頼ったのは風俗嬢になった同級生。
働いているという店舗を訪れ、偶然奥のテナントが空いているのに気付いたのだ。
幸運な事に鍵は開いたままで、住む所の無かった健司はそのままそのテナントを利用する事にした。
しかし、いつまでも居座る訳にも行かず、就職する必要があったが卒業した後では求人がほとんど無かった。
そこでテナントを利用して自営業を始めようと考えたのだ。
偶然町で見かけた『冷やし中華はじめました』という張り紙をヒントに、テナントのドアに『殺し屋はじめました』というビラを貼ったのだ。
それまで人間を殺した事は一度もなかったが、どんな仕事にも初めては存在すると割り切った。
最初の客は風俗ビルで働く風俗嬢だった。
ターゲットはストーカー化した客。
苦労はしたものの、一か月で痕跡を残さずに殺す事に成功した。
以後、口コミで話題となり、多くの人が『殺し屋』を訪れるようになった。
依頼を二百もこなす頃にはだいぶ勝手が分かってきて効率的に殺す事ができるようになってきた。
四年が過ぎた今ではオプションサービスも充実させ、店もリフォームした。
今では年収一千万を超えている。
ヤクザに比べればささやかなものだが、悪事を働いているわけではないから商店主としてはこの不景気にあって良い方ではないかとも思っている。
健司がカウンターに立っていると、一人の客が暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ! ご注文がお決まりになりましたらお申しつけください」
言って冷茶を注いだグラスをカウンターに座ったビジネスマン風の男の前に出す。
男がお品書きを見て目を細める。
「殺しの注文というのは相手の氏名が分からないと無理なのか?」
「素行調査であれば興信所を使われるのが一番です。当店では速やかな仕事を心がけておりますので本業以外の仕事は見合わせております」
健司は男の様子を観察する。一見するとビジネスマンに見えるが、作り笑いに慣れていない、否、笑わない職業である事が見て取れる。
能面のような顔の裏に押し殺した暴力的な雰囲気は、警察か暴力団員かそれに近い者だろう。
「前金で二千万」
男がにこりともせずに言う。
「当店は誠実がモットーでございます。確実に殺せないターゲットをお引き受けする事はできません」
「それなら総理大臣でも殺せるのか?」
「名前と住所どころか一日のスケジュールまで手に入りますから、さほど難しく無いターゲットだと考えております。ただし知られている通り警備も厳重ですから時間も必要となり費用も高くなります」
健司が言うと男が低く唸る。
「総理大臣でも不可能ではないと?」
「もちろん、オーダーが首つり自殺などですと難しい案件にはなります」
「首つり自殺は難しいか……面白い事を言う」
男の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「二千万はターゲットの調査費用という事でどうだ? 成功報酬は四千万」
健司は小さく息を飲む。
金払いがいい相手である事は確かだが、それだけの力の持ち主でもあるという事だ。
――失敗すれば命は無い――
しかし、ヤクザを敵に回せばテナントから追い出されるだけでは済まないだろう。
「繰り返しになりますが当店は殺し屋でして、興信所ではありません。ターゲットの補足は素人のようなものです。その二千万円でターゲットを補足されましたら確実に殺させていただきますが、二千万円を頂いてもターゲットを補足できるとは限りません」
「二千万を手に高跳びとは考えないのか?」
「飛んだ先で失業すれば同じ事です。地域の皆様に愛される店づくりが当店のモットーです」
健司の言葉に男が破顔する。
「俺は矢沢組の緒方。二千万はここに置いていく。ターゲットはジョーカーと言われている銃の乱射魔だ。俺はお前が気に入った」
言って冷茶を飲み干した緒方が席を立つ。
――これは大変な事になってしまった――
健司はジョーカーという謎の相手を探るために、出したばかりの看板と暖簾を引っ込めた。
〈3〉
午前五時。
健は薄汚れた作業服を着て、年季の入った肉体労働者の列に混じっている。
ホームレスも珍しくないが、ホームレスでもとび職になると一日に二万円以上稼いでホテルに泊まっていたりするから、定住しないのは税金対策といった事情が大きいだろう。
午前六時半、一台のワゴンが健の前に停車する。
「おい、若ぇの、乗れ」
「うぃっす」
筋肉隆々といった古参の肉体労働者に囲まれていると既にやる気が萎えてくる。
労働者ですし詰めのワゴンで移動する事小一時間、朝日が白々と空を照らす中健は自分には一生縁の無さそうな高級マンションの現場にいた。
現場監督のどうでもいいような話に続き、ラジオ体操をさせられる。
眠いだけならまだいい、ラジオ体操が終わってからが地獄だ。
「コンパネ運んで来い! トラック入れねぇじゃねぇか!」
自分に向けられた言葉と気付いた時には、組まされるらしい土工の目が険悪になっている。
男がコンパネと呼ばれる90cm×180cmの板を十枚程抱えて通用口に出ていく。
健の腕力では精一杯頑張った所で三枚だ。
この板を敷いてその上をトラックが走れるようにするのだが並べるだけでも容易ではない。
健はもともと運動神経が良い方ではない。
高校では情報科学部でLinuxを使用してITの全国コンテストで優秀賞を手にした生粋のインドア派だったのだ。
PCの扱いと音楽好きなのとでDJには一定の技術も知識もあったが、一般科目では赤点スレスレで奨学金がもらえるような成績でも無かった。
そんな中、PCを触れて音楽もできるDJという職種を選んだ。
しかし、一晩パフォーマンスをしても六千円程度にしかならないし、他にもDJはいるのだから毎日入る事などできはしない。
従って一人暮らしのワンルームの家賃を払っていく為には、DJの仕事を妨げない、時間にゆとりのある職業に就くしかなかった。
「チンタラ運んでんじゃねぇ! 三枚しか運ばねぇってタマついてやがんのか」
年配の作業員がヤニの混ざった唾を吐き捨てる。
健が運んだコンパネをトラックの通路に並べていると、いら立った様子の作業員が近づいて来る。
「シャベル持って付いて来い」
「シャベルってどこにあるんスか?」
「ふざけてんのか! テメェで見つけろ! 遅れたら承知しねぇからな」
健は屈辱にも似た気分に耐えながら、建設現場をうろついて乗ってきたワゴンでシャベルを見つける。
今日拾われた工務店はどうやらマンションの裏手に穴を掘っているらしい。
「ここに管通すんだからな、掘れたら石詰めだ」
幅は四十センチ程、深さは六十センチは掘らなくてはならない。
総延長は二十メートルにはなるだろう。
小型のユンボを使って欲しいが、既に他の管と入り組んでおり不可能らしい。
配管の順序が逆になるという事は設計ミスの可能性も高いだろう。
健はだるくなる腕を支えるようにして必至でシャベルで穴を掘る。
要領の良し悪しなど分からない。分かるのは掘らなければ怒号と罵声が飛んでくるという事だけだ。
昼過ぎに作業が終わったと思いきや、
「ネコでガラ片付けて来い」
「ネコって何っスか」
反射的に首を竦めながら健は尋ねる。
「手押しの一輪車だ! この使えねぇボンボンが……」
健は奥歯を噛みしめながらネコを探して歩きまわる。
ネコを見つけてもガラ運びという重労働が待っている。
健は暗澹とした気分で工事現場を歩き回る。
――俺だってジョーカーの一員だってのに――
〈4〉
「暑っつ~い! ったく、エースのヤツ今日は土建屋だなんて……」
加奈がマイナスドライバーで水銀灯にへばり付いたガムを剥がしながら言う。
ガムの中には火薬と小さな信管が仕込まれている。
「休みがお前だけだったんだから仕方ないだろう」
清史郎はシャベルで地面に埋まった火薬を穿りながら言う。
乱射魔ジョーカーには秘密がある。
それは実際にはモデルガンしか持っていないということだ。
そこで、予め花火で集めた火薬をセットしておき、ヤクザが商売をしようという所で爆破して妨害する訳だ。
モデルガンには赤外線カメラが搭載されており、Bluetoothで健の端末とつながっている。
清史郎が引き金を引くと同時に健が火薬にセットされた信管を反応させ、銃撃のように見せかけているというだけなのだ。
だからグレネードランチャーの爆発と言っても、実際には大きな花火が地面の下で爆発しているだけで殺傷能力など存在しない。
とはいえ、撃たなかった方向にも埋め込んだ火薬はあり、子供などがうっかり触って怪我をしてしまう可能性もある。
従ってジョーカーとしての仕事の後は必ず後始末が必要になるのだ。
「まぁ、ジョーカー一人に炎天下で作業させるわけにも行かないし。歳だし」
加奈の言葉に清史郎は苦笑する。
加奈と健は二十一歳だが、清史郎は四十五歳だ。
肉体的に無理のきかない歳という事は重々承知の上だ。
炎天下でひたすら火薬を撤去する事四時間。
仕事を終え、加奈と一緒にたこ焼き屋の店先で麦茶を飲む。
近年おおだこが当たり前にな��ているが、清史郎が行きつけにしている昔ながらのたこ焼きはピンポン玉より少し小さい程度で味も良く、言えば店のおばちゃんが麦茶を出してくれるというサービスがついてくる。
「おばちゃん、最近ヤクザはどうだい?」
清史郎は店主兼店員の初老の女性に声をかける。
「あんたに相談したらそれっきりだよ。派手なドンパチがあったみたいだけどね」
おばちゃんの言葉に清史郎は笑顔を返す。
警察や興信所に相談してもヤクザ絡みの事件は解決しないが、しがらみの無い三浦探偵事務所とジョーカーなら不可能も可能になるのだ。
商店街や商工会の中でも事情は不明だが、清史郎に依頼をすればヤクザが引っ込むという都市伝説めいた話が広がっている。
だが、あまりに知られ過ぎると清史郎がマークされ、ジョーカーを出現させられないという事になる。
従って三浦探偵事務所は慶田盛弁護士事務所とは緊密な関係にあるが、地元の商店街とは付かず離れずの関係を続けているのだ。
加奈と一緒にたこ焼きを食べているとスマートフォンが着信を告げる。
健が清史郎が仕掛けた無線wifiのクラックシステムで、ヤクザの新たな取引を察知したのだ。
――健が稼ぎたがるのも分かるがな――
火薬を調達し、設置し、身体を晒す身としては、ヤクザが本腰を入れない為にもジョーカーの出番は抑えておきたいところだった。
〈5〉
健司は朝のラッシュアワーで意図的に駆け込み乗車に失敗した。
健司に乗車を妨害された形のスーツ姿の男性が、苛立った様子で最前列に立つ。
山手線の次の列車が来るのは四分後だ。
健司はポケットからsimフリーのスマートフォンを取り出す。
simフリーではあるがsimも入れていなければ、個人情報にかかわる情報も一つとしてインストールしていない。
健司はスマートフォンを操作するフリをして考える。
ジョーカーは新庄市から出ていない。
矢沢組から健司の得た情報は散文的なものだった。
ヤクザが取引をしようとする、もしくは刀や銃で武装した状態で市民を脅そうとする。
ヤクザが警察に通報できない時に、狙ったようにジョーカーが出現している。
単純に考えて情報が筒抜けになっているという事だろう。
乱射魔と支離滅裂な口調という仮面が狂人を作り上げているが、警察を巧みに避けている事からもジョーカーが充分過ぎる程に理性的な人物である事が分かる。
相手は狂気の人間ではない。恐ろしい程の知能犯だ。
健司は矢沢組から入手したドライブレコーダーの映像を繰り返し『殺し屋』のカウンター内のPCで再生した。
ヤクザが出ていき、しばらくして銃火がひらめき、慌てふためいたヤクザが逃げてくる。
どの映像も流れは同じだ。ヤクザがドライブレコーダーを使っているというのは不思議なものだが、ヤクザも交通事故では警察の世話になりたくないという事だろう。
ジョーカーの紫のトレンチコートとピエロの仮面にはモデルが存在する。
アメコミ最高の悪役とも言えるバットマンに出てくるジョーカーだ。
相手の頭脳から推し量ってもそれくらいの事は分かってやっているのだろう。
敵を混乱させるという意味ではジョーカーは最高の仕事をしていると言っていい。
では、ジョーカーの行動にロジックは存在しないのだろうか。
その最大の理由は新庄市に活動を絞り、矢沢組と戦っているという点に存在するだろう。
ジョーカーの動機が判明すればその正体を絞り込めるはずだ。
健司の後ろに列ができ、周囲が人垣と言っても良い程になる。
ほとんどの人が急いでいるかスマートフォンを操作している。
毎日このような息苦しい思いをするのが分かっていて、どこの会社も出社時刻を一緒にしているのか謎だが、このような状況が起きる事で仕事を円滑に進められるのも事実だ。
駅のホームは渋谷のスクランブル交差点のように混雑しており、点在する監視カメラからも死角になっている。
列車が見えた所で健司はsimフリーのスマートフォンを線路に放り投げた。
「落ちましたよ」
健司の言葉に周囲の人間の視線が線路に落ちるスマートフォンにくぎ付けになる。
健司が乗車を邪魔した男が慌てた様子で胸ポケットに手を当てる。
健司はスマートフォンを拾おうとするかのように踏み出しながら、素早く男の背を押す。
男が線路に転がり落ちるのと列車が到着するのは同時だった。
ブレーキ音と悲鳴が駅のホームを支配する。
――これで今日もお客様を笑顔にできた――
健司は動揺を装いながら駅員の誘導に従って満足感と共にホームを後にした。
〈6〉
潮風が香る深夜の埠頭の倉庫街。
緒方は三十人の組員を伏せさせ、更に暴走族を張り込ませて取引に臨んだ。
捌くドラッグの金額は一千万。
ジョーカーが金を狙っているならこの好機を逃すはずが無い。
半グレの三団体の代表がベンツで乗り付け、ヘッドライトの光を背に向かってくる。
――どうするジョーカー――
傍から見ればこれ以上のカモは無いだろう。
しかし周囲には銃で武装した構成員と、それに数倍する人数の暴走族がいるのだ。
仮に強襲に成功したとしてもこの包囲網を抜け出る事は不可能だろう。
金をアタッシュケースに入れた男たちが近づいて来る。
ジョーカーは金を見せた時に最も多く出現する。
緒方はドラッグの詰まったスーツケースを手にヘッドライトに身を晒す。
「緒方さん、ご苦労様です」
半グレの代表のスーツ姿の男が言う。
アタッシュケースが開かれ、帯どめされた札束が姿を現す。
緒方もスーツケースを開いてロシア経由の最高級品を見せる。
と、緒方は場違いな程騒々しいエンジン音を聞きつけた。
『奢れるヤクザもコンバンハ』
拡声器の声と共に波を蹴ったボートが一直線に突っ込んでくる。
船首に立ったジョーカーが銃を抜いて問答無用で撃ち始める。
緒方の周囲で火花が散り、半グレが慌てた様子でアタッシュケースを取り落とす。
伏せていた緒方の部下がジョーカーに向かって応射を開始する。
ジョーカーがグレネードランチャーを構えて砲火を閃かせる。
ベンツの車体が火を噴いて浮き上がる。
倉庫街の至る所で爆発が起こり、火の手が上がる。
ただの撃ち合いなら警察も黙っているが、火災が発生したのでは消防が動き追って警察も出動を余儀なくされる。
ボートが埠頭の岸壁を掠め、ジョーカーが猛火の中を歩んでいく。
「今宵のコテツは鉛に飢えて、オイラの引き金も軽くなるゥ~」
相変わらずの意味不明な言葉でジョーカーが戦場となった埠頭を蹂躙する。
雄たけびを上げた半グレの一人が鉄パイプを振り上げてジョーカーに向かっていく。
鉄パイプの一撃を受けたジョーカーの動きが鈍る。
「あの世の旅も道連れ世は情け、痛いの痛いの焼死体」
ジョーカーが鉄パイプを奪い取って半グレを路上に蹴り飛ばす。
ジョーカーが怒り狂ったようにグレネードを乱射する。
緒方は炎で崩れ落ちる倉庫を避けて部下のベンツに向かって走る。
この乱射の中では同士討ちが危ぶまれるどころではない。
まずは消防がやって来る前に現場を離脱しなければならない。
取り残される組員や半グレには悪いが、矢沢組としても幹部が尻を蹴飛ばされたままブタ箱に入る訳には行かないのだ。
〈7〉
「……ッ」
清史郎は左腕を押さえたままボートの床に腰かけている。
夜の海から見えるのは照明で浮かび上がる工場の幻想的とも言える光景。
酔狂なカップルなら観光に来るのかも知れないが、現在の清史郎にその余裕は無い。
ボートが揺れる度に左腕が痛み、肩から背中までもが痛むように感じられる。
――腕を折られたか――
折れたと言っても粉砕骨折では無いだろう。
粉砕骨折なら幾ら警察OBの探偵から護身術を習っているとはいえ、鉄パイプを奪って蹴り飛ばす事などできてはいない。
問題なのは常識的に考えて鉄パイプを持った敵に対してなぜ発砲しなかったかという事だ。
客観的に見ればこれほど奇妙な事は無いだろう。
狂気の道化師、ジョーカーなのだからと見逃してくれる輩ばかりではないだろう。
「ジョーカー、大丈夫?」
気遣う様子で加奈が声をかけてくる。
「今回の作戦はリスクは織り込み済みだったんだ。鉛弾を食らわなかっただけでもいいってモンだ」
清史郎は虚勢を張って言う。
健が入手した情報は矢沢組が最も警戒している取引、もしくはジョーカーをおびき出そうとしている作戦だった。
当然もっと楽なターゲットを探す事も可能。
しかし、健がこの難度の高い作戦にこだわり、清史郎もジョーカーの名を上げる為に乗ったのだ。
「ジョークには悪かったけど今日だけで六百万だぜ? 一人二百万ってすごくね?」
ボートを運転しながら健が言う。
百人以上が動員されている取引を強襲する為に海路を選んだのは正解だった。
通常は予め現場に潜んでいるが、今回はヤクザが張り込む事が分かっていた。
脱出の目途もたたないのに予め潜むという手段は使えない。
と、なれば相手が考えてもいない方向から強襲して、対応されるより早く逃げるという方法だ。
「アタッシュケース拾って来るのも命がけだったんだから。あんたは安全な所でPCたたいてるだけだからいいかもしれないけど」
加奈がボートでPCを操作していた健に向かって言う。
清史郎が派手に暴れている隙に半グレが落としたアタッシュケースを回収したのは加奈だ。
ヤクザが銃で応戦して来る中で拾ったのだから、生きた心地がしなかったのであろう事は想像に難くない。
「ジョークだって腕を切り落とされたとかじゃねぇんだし、保険証が使えねぇなら金あんだし海外で手術とかもアリじゃね?」
楽観的な口調で健が言う。確かに健の案もいいが致命的な欠陥がある。
「ジョーカーは左腕を殴られている。保険の記録に残らなくても俺が左腕をギプスで吊っていたら正体を宣伝してまわるのと同じことだ」
「あ、そうか」
「あ、そうかじゃないでしょ! だいたいあんたが怪我してるわけじゃないんだから」
加奈が虚を突かれた様子の健に向かって言う。
「腕は町の獣医に頼んで治してもらうよ。問題は探偵事務所の方だな」
町の獣医であれば顔なじみだし、保険の記録に残る事も無い。
「事務所はほとんど客来ねぇからOKじゃね?」
相変わらず楽観的な様子で健が言う。
「エースってば本当に失礼なんだから」
「本当の事だからいいんだけどな。でも選挙が近づいているからカジノ反対派の人たちが現職知事の裏情報を求めてくるかもしれない」
情報が盗まれたものなら裁判では証拠にならないが、盗み出して内部告発の形をとって匿名でばらまくという事は可能だ。
「与党の現職知事って矢沢組がカジノ呼ぶ為に当選させたんだろ?」
健の言葉に清史郎は頷く。
元々災害避難地域指定だった公園の指定を解除し財務省に許可を発行させ、企業が進出できるよう実際に動いたのは与党だ。
暴力団が本体か与党が本体かというのは、鶏と卵のパラドクスを解くに等しい。
「でも物的証拠が無い。音声データやメールは改ざん可能だから決定打にはなり得ない」
「手書きのサインの入った書類が無いと証拠にならないって訳ね」
加奈が話を要約して言う。
「それって探偵とかの仕事じゃねぇのか?」
健の言葉に清史郎は痛みを感じながらもため息をつく。
「私はその探偵なんだよ。儲かっていないだけで」
「とりあえず一人二百万入ったし、ジョーカーはひとまずお休みするしかないわよね」
加奈は状況を落ち着いて観察できているようだ。
「でもよ、選挙が終わって反対派が勝ったら出番も無いんじゃね?」
「そもそも反対派を勝たせる為に始めたんだよ。目的を忘れないでくれ」
商店街と探偵事務所を守る為のジョーカーなのだから脅威が消えれば戦う必要は無い。
もともと町を守る為の義賊として、健も同意して始めた事なのだ。
「あ~、キャデラックに乗りたかったぁ~」
船の縁に寄りかかって健が空に目を向ける。
「外車ディーラーで試乗でもすればいいでしょ」
「そういう事じゃねぇんだよ。こう、リッチな気分でパーッとやりたかったって言うかさ」
「気持ちは分からなくも無いけどさ、私らもともと何千円で一喜一憂してたんだからね」
「へぇ~い」
加奈に言われた健がため息をつく。
二人のやり取りを聞きながら清史郎は考える。腕を折られたジョーカーが休養すれば、不死身の化け物のようなイメージが揺らぐ事になる。
双方の総力戦の様相を呈した今回の戦いで、相手もジョーカーが手傷を負った事は分かっているはずだ。
――大人しく休養というわけには行かないか――
清史郎は加奈に目を向ける。
IT機器を素早く操作できない以上、空白期間にジョーカーを演じられるのは加奈だけだ。
〈8〉
ジョーカーは手傷を負った。
店内の観葉植物の葉を丁寧に拭いながら、健司は緒方からの情報の意味を考える。
圧倒的な火力を持ちながら、鉄パイプを手に向かって来る敵に対してジョーカーは無策と言っても良い状態だったのだ。
これはこれまで一人も死者を出していないというジョーカーの姿勢と符合する。
その後の乱射により埠頭は混沌と化し有益な情報は集まっていないが、ジョーカーが現金の入ったアタッシュケースだけを手に海に逃れた事は間違いない。
――ジョーカーは人を殺さないという前提で考えたら――
単純にヤクザを驚かせたいという、愉快犯の姿が浮かび上がる。
だが、愉快犯ならリスクの高いヤクザを狙う理由は少ない。
銃器を振り回さなくても、健司のような一般市民相手に全裸になって見せるだけで充分に他人を不快にする事ができる。
ヤクザに警察に通報できないという弱みがあったとしても、それ以上にリスクは大きいはずだ。
ヤクザに恨みがあるのだとしても、それならば落ちた金だけ拾うという点では実質的にダメージはほとんど与えられていない。
収入として考えているなら猶更ジョーカーの行動は不可解過ぎる。
愉快犯でありながらそれは副次的なものでしかなく、目的の為の手段に過ぎない。
だが、愉快犯である事を手段とする目的とは一体何だろうか。
――僕のような常識人では手が届かないと言うのだろうか――
健司は観葉植物の葉に霧吹きで水をかけながら考える。
矢沢組は一体誰に何をし、その結果ジョーカーを生み出したのだろうか。
健司は店内の照明を切り、暖簾と看板を店内にしまう。
店を出て新宿のチェーン店の居酒屋に向かう。
健司が一杯のビールと焼き鳥を二本腹に収めていると、三人の男が連れ立って店内に入ってきた。
健司は三人組がボックス席に入るのを確認してアタッシュケースを手にトイレに向かう。
三人組が毎回このチェーン店を使う事と、最初にビールを注文する事は分かっている。
健司はスーツを脱ぎネクタイを外してケースに収め、代わりにエプロンを身に着ける。
保冷剤で冷やしておいた缶に入ったビールを、同じく冷やしておいた100均で買ったグラスに注ぐ。
そのうち一つにはシアナミドを混入してある。
シアナミドは無色透明の抗酒剤で、副飲する事でアルコールアレルギー反応を引き起こす禁酒用の薬品。
一言で言えば一口飲む事で急性アルコール中毒症状を引き起こすのだ。
健司は三人の席におしぼりが置かれ、店員が去るのを待ってビールジョッキを手に席に向かう。
「お待たせしました」
健司はターゲットにシアナミドを混入したビールを手渡し、両手にビニールの手袋を嵌めてトイレの傍に潜む。
ややあって鍵をかけていないトイレに青ざめ、脂汗を流したターゲットの靴が覗いた。
健司は入れ替わるようにしてすれ違いながら様子を確認する。
シアナミドにより意識は朦朧としているようだ。
「介抱しますよ」
健司は男を抱きかかえるようにしてトイレのドアを後ろ手に閉じる。
男が便器に前のめりになって嘔吐する。
健司は男の頭を掴んで便器に押し込むと首の頸動脈にシャープペンシルを突き刺す。
男の首から血が噴き出すのに合わせてトイレの水を流す。
音消し水とはよく言ったものだ。
窒息と出血の双方で男が瞬く間に衰弱して行く。
相手がプロレスラーだろうとこの状態で健司に抗する事はできはしない。
健司は男の脈を取って死亡を確認するとエプロンとシャープペンシルを放置し、元通りスーツに身を包んで会計を済ませて店を出た。
殺害方法は分かっても誰が殺したのかは目撃されていない限り分からないだろう。
――小さな仕事でも手を抜かない事が顧客満足度につながるんだ――
第二章 二人目のジョーカー
〈1〉
「矢沢組のヤツら慎重になってやがんな。もう大口取引はしねぇらしい」
清史郎の耳には爆音と左程変わらない音が響いている、クイーンメイブのボックス席で健が言う。
清史郎は獣医に頼んでギブスなしで左腕を固定している。
診断は骨にヒビが入っているとの事で、二週間は安静にする必要があるらしい。
「そりゃ百人集めて失敗したなら、もう大口でジョーカーを誘おうなんて思わないでしょ」
言って加奈がカクテルで唇を湿らせる。
「一回の取引でせいぜい百万円。しかも街中でやってやがる」
健がラップトップを開いて矢沢組の予定表を表示させる。
「儲けが少ないからやらないって話にはしない約束でしょ?」
加奈が健に睨みをきかせる。前回の襲撃は加奈は反対だったのだ。
「でもよ、ジョークは骨折してるし、街中でグレネードはさすがにヤベェだろ」
カクテルをチビチビ飲みながら健が言う。
確かに街中では自動小銃がせいぜいといったところだ。
仮にグレネードを使ったとしても、見た目が派手なだけで破壊力が無い事が露呈する。
「自動小銃でも相手を驚かすような事はできるだろう。演出次第だ」
清史郎は頭を巡らせながら言う。
今となっては拳銃を抜いて撃つくらいではヤクザは驚かない。
下手をすれば一人二人射殺されても驚かないかも知れない。
と、なればどうやって驚かせるかが問題になってくる。
「演出って言うけど、ジョーカーは左手が使えないんでしょ?」
「そこだ。連中は俺が腕を怪我するのを見ている。ここで動きを止めればジョーカーというキャラクターの怪物性が損なわれてしまう。そこで今回は加奈にジョーカーを依頼したい」
清史郎の言葉に加奈が驚いたような表情を浮かべる。
「町の人たちがカジノに反対できているのは、ヤクザがジョーカーを恐れているという漠然として安心感があるからだ。ジョーカーが怪我で動けないとなったらヤクザを恐れて寝返る住人が出てくるかもしれない」
清史郎の言葉に加奈が思案顔になる。
「……そういう事なら……でも策はあるの? 私はジョーカーみたいに相手を脅せないよ?」
加奈の言葉に清史郎は頷く。
「喋るのはマイクで私が担当する。元々ボイスチェンジャーを使ってるからスピーカーから音を出してもヤクザには分からないだろう」
清史郎は矢沢組のリストの一つを指さす。
雑居ビルの屋上での取引。
金額は百万だが人が多く割かれている訳ではない。
そしていざとなれば清史郎も右腕一本で戦うのだ。
〈2〉
「ありがとうございました」
客の手に両手を添えるようにしてつり銭を渡す。
我ながら流れるような動作だと加奈は思っている。
品物は働き出してから一週間で覚えたし、二か月で発注も任されるようになった。
オーナーが発注していた頃に比べて売り上げは八%上昇している。
業者のパレットに乗った商品が運び込まれ、そこに緩慢な動作で大塚という中年女性が向かっていく。
大塚はこのコンビニに長く勤めているが、何をするにも動きが遅く、やる事が雑だ。
加奈は母子家庭ではあったが高校時代は生徒会長を務めていた。
生徒会の切り盛りでは過去最高の生徒会長だったという自負もある。
奨学金を借りて大学に入学したいと何度思った事か分からない。
しかし、その度に返済の目途が立たないという現実で踏みとどまった。
加奈が借りる金額では返済する頃には五十代。
キャリアウーマンとしてバリバリ働いて行けるならいいだろうが、男社会の中で目立っても左遷されるのがオチだ。
奨学金を諦め、近所のファミレスとコンビニの双方を天秤にかけた時、ファミレスの厨房は嫌だったし、発注のような頭を使う仕事がしたかった事からコンビニで働く事にした。
しかし、今現在、視線の先では大塚が商品を手前から、しかも違う棚に並べている。
新しい品物を後ろに、古い品物を前にしなければ賞味期限切れで廃棄になる。
それはコストとすら呼べるものではない。
注意した事は一度や二度ではないが、返ってくるのは「今時の若い子は」という恨みがましい言葉だけだ。
仕方なく業務の合間を縫って品物を並べなおす。
そうすると今度はレジに長蛇の列ができる。
大塚はバーコードの読み込みも遅ければ、テンキーの打ち込みもできない。
公共料金などの支払いも一々店長にやらせている。
店長は一体何の弱みがあってこの女を雇っているのか分からない。
それでも、このリスクを織り込んだ発注で収益を上げたのは自分の手腕だ。
「飯島くん、これじゃ困るよ。お客さんを待たせているじゃないか」
抜き打ちでやって来たマネージャーの言葉に加奈はため息をつき���くなる。
自分がレジにいればこのような現象は起きないのだ。
そして、レジにいれば大量の食品を廃棄しなくてはならなくなる。
「分かりました。棚の商品を並べなおしてもらえますか」
チクリと言い返し、立ち仕事で痛む足を引きずって加奈はレジに向かう。
こんな事をこの先何年続けて行けばいいと言うのか。
少なくとも大塚がクビにならない限りは、ただでさえハードなコンビニの仕事すらまともにこなす事ができないのだ。
――ジョーカーとしてならもう少し有能に働けるのに――
〈3〉
深夜、ビルの屋上に銃声が響き火花が散る。
ビルの給水塔の上で清史郎が見ている下で、四人の男たちが手にしたバッグを胸に抱える。
「迷えるヤクザよコンバンハァ!」
二階分高いビルの屋上から、ワイヤーを伝って自動小銃を乱射しながらジョーカーが降下して来る。
ヤクザの一人が屋内に逃れようとした所でジョーカーの自動小銃が火を噴いてドアを蜂の巣にする。
恐慌状態に陥ったヤクザの前に、床の上で一回転したジョーカーが立つ。
この辺りの動きは加奈の方が本家よりいいと言える。
ジョーカーの自動小銃が火を噴き、ヤクザたちの動きが止まる。
清史郎はありあわせの材料で作った分銅でヤクザの手からケースを叩き落す。
「金は天下の猿回しぃ~、回る回るよ目が回るぅ~」
床を滑ったケースがジョーカーの足元で止まる。
ジョーカーがケースを手に屋上のフェンスを乗り越える。
「それでは諸君ごきげんようそろ、面舵一杯腹八分目ぇ~」
ジョーカーがフェンスを乗り越えてビルの外に姿を消す姿をヤクザたちは茫然と眺めている。
加奈はほぼ完ぺきに、運動神経という面では清史郎以上にジョーカーを演じて見せた。
ヤクザたちがスマートフォンを取り出して連絡を取りながら屋内へと消えていく。
加奈は当初隣のビルの屋上に潜んでおり、ヤクザの取引するビルとの間にはワイヤーが取り付けてあった。
清史郎の合図で火薬を爆発させ、加奈は小型の滑車を使ってビルの屋上に降り立った。
予定通り混乱に乗じて清史郎がヤクザの金のアタッシュケースを叩き落し、それを回収した加奈は予め用意されていた脱出用のワイヤーで一目散に逃げ去ったという訳だ。
清史郎がヤクザの去っていった通用口を見ていると、二人のヤクザが姿を現した。
痕跡を確認するか、ジョーカーを追跡しようという考えかもしれない。
「イナイイイナイバウアアァァァァッ!」
万が一に備えてジョーカーに扮していた清史郎は、咄嗟の判断でショットガンを手にヤクザたちの前に飛び降りる。
銃声と共にドアを吹き飛ばす。
今度こそ恐慌状態に陥ったヤクザたちは階下へと消えていった。
〈4〉
健司は『殺し屋』のカウンターでグラスを磨きながら考える。
ヤクザは取引を分散させるという戦術を取ったが、ジョーカーは確実に一か所一か所を狙い撃ちにしている。
被害総額は大きくないのだろうが、心理的な影響は大きい。
――ここで敵の目的は明らかになったと言っていい――
これは心理戦なのだ。
矢沢組が恐れるに足りない存在だと思わせる為のデモンストレーションなのだ。
実際矢沢組の構成員たちも明日は我が身と必要以上に警戒しており、結果として街中での暴行などで警察に捕縛されるケースも散見し始めている。
警察もヤクザと事を構える事はしたくないだろうが、暴行は立派な犯罪だ。
矢沢組を弱体化、もしくは弱体化して見せている目的。
これは幾つかのケースが考えられる。
例えば同格の田畑組がシマを狙っているケース。
しかし、これでは全面戦争がしたいと言っているようなものであり、そうなれば別の第三の組が弱った二つの組を併合してしまうだろう。
更に言えば『本物』の銃器を使っているのだとしたら、これまでに過失で殺してしまった人間が居てもおかしくはないはずだ。
これまであれだけ派手に銃を乱射していて軽度のやけどくらいしか負傷者がいないというのは、空砲かモデルガンかのどちらかだろう。
そして犯人がヤクザであるなら、モデルガンなどという恥ずかしいものは持ち歩かないだろう。
第二の敵が政治結社だ。
現在矢沢組の推す現職与党の代議士が知事を務めている。
三か月後には知事選が予定されており、野党は連合して対立候補を立てている。
現在新庄市には土地の価値だけで二千億を超える空き地が存在し、そこに巨大カジノカジノを誘致するか、市民公園にするかで市民の世論が割れている。
カジノが実現すれば莫大な金額が動く事になり、矢沢組は軽く数百億は稼ぐ事になるだろう。
一方、野党が勝利してしまえば議会も野党に握られた事から市民公園が確定。
造園業者や、スタンド付きの運動公園を造る建築業者がいくらか儲かるにせよ、利権はほとんど存在しない事になる。
本来矢沢組こそが野党を攻撃しそうなものだが、野党のカルト的な集団ないし、狂信的な人間が矢沢組を狙っている可能性は否定できない。
しかし、カルトや狂信的な人間がここまで綿密な計画を練り、実行に移せるだろうか。
そこが政治結社を敵に想定した場合のボトルネックとなってくる。
第三の相手は想定が難しいがカジノに反対している市民だ。
市民の大半は再開発計画に興味を持っていないが、商店街や商工会は地場産業が脅かされるとして強硬に反対している。
矢沢組はこの商店街の切り崩しを行っていたのだが、その矢先にジョーカーが出現するようになり、商店街を攻略するどころではなくなってしまったのだ。
そう考えると、人のいい商店街の人々こそが実は矢沢組の最大の敵という事になる。
――商店街がジョーカーの可能性――
だが、それなら情報漏洩が少なからずあるはずだ。
――もし商店街の誰かがジョーカーで、他の人間は知らないのだとしたら――
ジョーカーは一方的に守るだけで損をしているように見えるが、最終的には商店街が守られるのだから自分の仕事も守る事になる。
――商店街の何物かが、か――
健司はPCで商店街の店舗の情報を検索する。ほとんどが個人事業主でHPもまともに作れているとは言い難い。
そんな中、健司は気になる存在を発見した。
――人権派弁護士、慶田盛敦――
直接の関与の有無は別にして、慶田盛が商店街や町を守ろうとするのはありそうな事だった。
〈5〉
「急な訪問で恐れ入ります。慶田盛先生の事務所は意外と質素なんですね」
新庄市の雑居ビルの一室を訪れた健司は慶田盛敦に向かって言う。
「君は……殺し屋との事だが……」
当惑した様子で慶田盛が応接用の合皮のソファーに腰かけて言う。
「屋号のようなものです。ただの飲食店ですよ。保健所で営業許可も取っています」
健司は爽やかな笑みを浮かべる。
「で、歌舞伎町の飲食店がここに一体何の相談なんだい?」
敏腕弁護士という割にはお人よしなのだろう、慶田盛が問うて来る。
「店が襲われたんです」
健司の言葉に慶田盛の視線が険しくなる。
「それは警察に訴えるべき案件なんじゃないのかい?」
「歌舞伎町で店が襲われた程度で警察が動くと思いますか?」
健司が言うと慶田盛が思案気な表情を浮かべる。
「相手に目星はついているのかい? 組関係だと厄介だぞ?」
歌舞伎町という事を意識しているのか慶田盛が言う。
「ピエロのマスクに紫のトレンチコート、銃撃で店は蜂の巣です」
慶田盛の表情が一瞬硬直する。
――慶田盛はジョーカーを知っている――
「最近はそういった愉快犯が流行っているようだね」
「慶田盛先生はご存知ないのですか? ジョーカーと呼ばれているようなのですが」
慶田盛の顔がポーカーフェイスに変わるが遅すぎだ。
今更表情を消した所で知っていると言っているようなものだ。
健司はさり気なくソファーの隙間に盗聴器を滑り込ませる。
「噂で聞いている程度だね。でも、弁護士だからといって探偵の真似事ができる訳じゃない」
「慶田盛先生は懇意にしている探偵などはおられないのですか?」
「古い付き合いの探偵はいるけどね。彼を紹介するにはそれなりの理由が必要だよ」
慶田盛が慎重に言葉を選ぶ。
「店が襲撃された以上の理由が、ですか?」
「僕はその破壊された店舗の写真すら見ていないんだよ? 被害実態が明らかではないのに探偵の手を煩わせると思うかい?」
「随分と庇われるんですね。逆に興味が湧いてきましたよ」
健司は切り上げどころと判断してソファーから立ち上がる。
「貴重なお時間を頂きありがとうございました」
健司は慶田盛と握手しながら唇の端が吊り上がりそうになるのを堪える。
――これで慶田盛が探偵に連絡を取ればその相手がジョーカーである可能性は高い――
〈6〉
「いやぁ~俺たちマジ凄くね? もうハリウッドレベルだって」
クイーンメイブのボックス席で健がいつものように能天気な口調で言う。
「たちじゃなくて身体張ってる私たちが凄いの」
「お前PCなんて触れないだろ」
健が加奈に言い返す。
「PCコンビニの使えてるし!」
「ンなの使えてるうちに入らねーよ。な、ジョーク」
健の言葉に清史郎は肩を竦める。加奈と比較すればPCを使える方だろうが、ITというレベルには程遠い。
ヤクザの事務所に仕掛けた盗聴器をBluetoothで飛ばしたり、WIFIでデータを引き抜いたりといった芸当は清史郎には不可能だ。
しかも従来の興信所の盗聴器探知は電波の周波数帯で探っている為、健のカスタムした機材を探知する事ができない。
健は新庄市のヤクザの誰よりも彼らの動きに詳しいと言っても過言ではないのだ。
その中から清史郎が獲物になりそうな案件を選び出し、加奈と下準備を行っているのだ。
「なぁ~んか納得行かない」
加奈が口をとがらせるが、こればかりは健の能力を素直に認めるしかない。
「エースの情報収集能力がなければ火薬を仕掛けにも行けないだろ」
「土建屋の癖に何かムカつく」
「土建屋じゃなくてDJだっつーの」
「DJで食ってる訳じゃないでしょ? なら土建屋じゃない」
「ンだとコラァ!」
声を荒げる健を清史郎は慌てて宥める。
手を挙げるような青年ではないが、つまらない事で耳目を引くのは得策ではない。
「俺は二人におんぶにだっこだ。二人がいなければジョーカーなんてやってられない。そうだろう?」
「私もジョーカーやったしね。やってないのはエースだけ」
「俺がいなかったら起爆できねぇじゃねぇか」
むっつりとした口調で健が言う。
「裏方の仕事があっての晴れ舞台って事もあるんだ。もっとも、舞台役者が良くなか���たらどんなに裏方の仕事が良くても芝居にはならない」
清史郎の言葉に加奈がため息をつく。
「ジョーカー人間できてるわ」
「単に口の上手いオッサンってだけかもな」
健が悪童のような笑みを浮かべる。
「多分エースの言う通りだろう。で、いよいよ選挙まで三か月を切った訳だ。矢沢組だけじゃない、カジノ関連の企業が再開発計画に群がってきている」
清史郎は話を本来の筋道に戻す。
「それは分かるけどさ、ヤクザは脅せても民間企業はどうにもならないんじゃない?」
加奈の言葉に清史郎は頷く。
「そこは商店街と市民の手に委ねる。俺たちが考えなきゃいけないのは、矢沢組をあと三か月どう騙し抜くかって事なんだ」
最終的にカジノ施設を選ぶか、市民公園を選ぶかは市民の手に委ねられるべきだ。
ジョーカーはそこに介入しようとする矢沢組をけん制しているに過ぎない。
「一年以上見破られてねぇんだし、今更どうって事も無いんじゃね?」
健が楽観的な口調で言う。
「一年って言っても綱渡りだったじゃない。ジョーカーも怪我したんだし」
常に現場を見て来た加奈が健に向かって言う。
「人生にはスリルがつきものだろ」
「必要ないのにスリルをつける必要ないでしょ?」
「人生にはロマンが必要だよ。なぁ、ジョーカー」
「私の人生にはロマンらしいロマンは無かったよ」
明らかに会話を楽しんでいる健に清史郎は苦笑する。
「人生堅実が一番なの。あんたみたいのが一番ホームレスに近いんだから」
「お前だってコンビニ店員以外何ができるよ」
「ちょっとジョーカー、何とか言ってやってよ」
怒った様子の加奈が話を振ってくる。
「景気が良くなったら事務所で求人でも出すよ。それより今は仕事をやり抜く時だ」
清史郎の真剣な言葉に二人が頷く。
――後三か月――
この凸凹コンビと一緒に駆け抜けなければならない。
〈6〉
「ここの探偵事務所では人探しをしたりはしないんですか?」
健司は三浦探偵事務所の安普請の椅子に腰かけて、所長兼調査員の三浦清史郎と向かい合っている。
慶田盛は健司が面会した翌日に同じく新庄市に居を構えている三浦に連絡を取った。
探られている事を多少は警戒しているだろうが、昨日の今日で会いに来るとは思っていないだろう。
「今の所請け負ってはいないね。知っているかどうか知らないが、日本の年間行方不明者は二十万人。警察が民事だと言ってサジを投げるレベルだ。うち毎年六千人前後が死体で発見される。これが日本の行方不明の実情だ」
四十五歳、探偵というより疲れたサラリーマンを思わせる風貌だが、どこにでもなじめるという点ではこの風貌は役に立っている事だろう。
「携帯電話の通信記録を探ったりしないんですか?」
「そういう情報は大手の情報企業が握っているんだ。契約していなければ盗み出すしかないだろうし、それをすれば犯罪だ」
「企業が形はどうあれ本人の同意なしに情報を持っている事は犯罪ではないと」
「正当だと思えば契約している、と、答えたら君に私の考えは分かってもらえるかな」
清史郎はかなり真っ当な昔気質の探偵であるらしい。
三浦探偵事務所は商店街の噂では浮気調査などではパッとしないが、事件性のある案件だと警察を出し抜く腕前なのだと言う。
「独り言だと思って聞いてもらえればいいんですが、ジョーカーという男をご存知ではないですか?」
「知っているよ。少なくとも片手には余るほどね」
掴みどころのない口調で清史郎が言う。
――だが、他の商店街の人間はジョーカーと聞けば逆に動揺したものだ――
「ヤクザ相手にモデルガンを振り回す愉快犯。前金で一千万。正体が分かれば更に一千万」
健司はリュックサックから帯留めされた札束の入った紙袋を押し出す。
「これだけ流行らない事務所だ。一千万を受け取って私が雲隠れするとは考えないのかい?」
「見つけられなくても差し上げますよ」
健司は内心で清史郎がジョーカーであるとの確信を強めながら言う。
「そういう事であれば遠慮なく預かろう。所でジョーカーについてもう少し詳しく話を聞けないかな? さすがに名前だけでは調査にならない」
「僕もまた聞きでしか知らないんですが、ヤクザが武装しているか麻薬を所持している時に出現し、モデルガンを利用してあたかも本物のように見せかけて驚かせ、ヤクザが金を落としていけばそれを拾っていく。そういう話です。被害に遭っているのは主に矢沢組で、矢沢組は現職与党知事のケ��モチをしている」
「つまり、君の推理が正しければ現職知事と利害関係にある人物が選挙で優位に立つべく矢沢組を攻撃している、攻撃しているように見せかけているという事だね?」
「そう、その人物の特定が難しいんですよ。ヤクザの情報を自分の家のPCのように自在に覗き見て、常に有利な状況でモデルガンによる脅迫を行っている」
そこが健司が最も解せない所だ。
この三浦清史郎という男は探偵としては優れているように察せられるが、ITに強いようには見えない。
情報を買っている訳でも無いのだとしたら、一体どのようにして情報を得ているのか。
更に情報を得たとしてそれを整理し、取捨選択する事も必要になる。
事務員の一人もいないこの事務所のどこに実務を取り仕切る人間がいるというのか。
自分はこの男の何かを見落としているとでも言うのだろうか。
「つまり、ジョーカーという人物にはハッカーとしての側面もあるという事だね?」
「そう考えないと辻褄が合いません」
「では、ハッカーであり、モデルガンでヤクザを脅すジョーカーという愉快犯を特定してほしいという事だね」
「結論としてそういう事になるかと」
「プライバシーに踏み込むつもりはないが、そのジョーカーという人物の特定にどういった動機があるか聞かせてもらえるかな? 参考までにという事で構わないが」
「僕が矢沢組に依頼されたからですよ。でも僕の力だけでは見つけられそうに無い」
健司はチェスを指すかのような心境で言葉を選ぶ。
目の前の男がジョーカーである可能性は限りなく大きいのだ。
「君も探偵なのか?」
清史郎の言葉に健司は肩を竦めて名刺を差し出す。
「歌舞伎町で殺し屋を営んでおります円山健司と言います」
言った瞬間、清史郎の顔に何かグロテスクなものでも見たかのような表情が浮かぶ。
健司はその表情をこれまで嫌という程見てきたのだった。
第三章 殺し屋
〈1〉
清史郎は拙いとは知りつつ、円山健司を尾行していた。
尾行を知られたとしても、探偵が依頼者の事を知ろうとする事に問題は無い。
そもそもがジョーカーなどという得体の知れない人物を探せという無理難題なのだ。
例え自分がジョーカーであったとしてもだ。
電車を乗り継ぎSUICAのチャージマネーが尽きそうになった時、円山は新宿の歌舞伎町にある『殺し屋』という店舗に入っていった。
信じられない事だが、冗談でないとするなら殺人を生業とする人間が看板を出して店を営業しているのだ。
円山は自ら隠れるという事が無い。
本当に殺人が生業なのだとしたら、その手段に余程自信を持っているという事なのだろう。
清史郎は逡巡しながらも暖簾を潜る。
相手にその気があればビルに入った瞬間から監視カメラで自分を監視していても不思議ではないからだ。
「いらっしゃいませ! ご注文がお決まりになりましたらお気軽にお申しつけ下さい」
円山が人が違ったような口調で声をかけてくる。
「さっき会ったばかりだろう? それよりこのお品書きというのは本当なのか?」
お品書きには殺人方法や死体を残すのか残さないのかなど様々なオプションサービスが書き込まれている。
「はい、迅速丁寧をモットーに確実にターゲットを殺させて頂いております」
「例えば、この絞殺で死体を残すというオプションにした場合、警察に犯人特定されやすいんじゃないのか?」
「企業秘密にはなりますが、TPOに応じて柔軟に対応させていただいております」
「ジョーカーはどうやって殺す事になっているんだ?」
「お客様の情報を開示する訳には行きませんが、強いて言うなら殺し方は問わないとの事です」
円山の言葉が事実なら矢沢組はなりふり構っていないという事だろう。
ジョーカーは確実に矢沢組に打撃を与えているのだ。
「じゃあ俺も注文したいんだが構わないか?」
「どのようなご注文でしょうか?」
爽やかな笑顔で円山が言う。
「ジョーカーをオプションサービスで九月三十一日に殺してほしい」
清史郎の言葉に円山の目が見開かれる。
「前金で一千万。不足なら五百万を追加する」
清史郎は受け取ったばかりの一千万をカウンターに乗せる。
「ジョーカー殺害日時の指定は確かにオプションで追加可能ですが……」
「ジョーカーを殺す日時の指定は矢沢組からは無かったんだろう?」
清史郎が言うと円山が顎に指を当てて思案気な表情を浮かべる。
「依頼が重複した事は初めてで、対応致しかねます」
「いや、重複していない。私が矢沢組の手先で、追加でオプションを申し込んでいるとしたならどうなんだ? 君は依頼主の事をどれだけ調査しているんだ?」
清史郎の言葉に円山の表情が曇る。
「お客様のプライバシーを優先して営業しております。業務上必要な情報は収集致しますが……」
「九月三十一日、ジョーカーは新庄市商店街の外れ、たこ焼き屋千夏の前に現れる」
清史郎の言葉に円山の表情が強張る。
「もしお客様がジョーカーだった場合……」
「自分を殺してくれという依頼はこれまでなかったのか?」
円山が何かを試すような視線を向けてくる。
「もちろん、そういった依頼もございました」
「なら問題は無いだろう?」
「……つまり、あなたは探偵としての任務を全うし、殺し屋に仕事を依頼しに来た。そういう事ですね」
「そういう事になるな」
清史郎が笑みを浮かべると円山の口元に笑みが浮かぶ。
「矢沢組がそれ以前の日時を指定して来たら?」
「それこそ二重契約は無効だと言えばいいだろう?」
「矢沢組がジョーカーの正体を教えろと言ってきたら?」
「ここは興信所ではないのだろう? それに私は九月三十一日にジョーカーが現れるとは言ったが、私がジョーカーだとは一言も言っていないぞ」
円山は殺しという商売にプライドを持っている。
そのプライドに反する行為はできないはずだ。
「了解しました。九月三十一日に現れるジョーカーを殺します。しかし、他に機会がある場合もありますので悪しからず」
円山が一千万の入った紙袋を掴んでカウンターの内側に置く。
これで円山の精神には一つのストッパーがかかった事になる。
後はいかに円山を寄せ付けないように立ち回れるかだ。
〈2〉
してやられた。
健司は先制に成功したつもりが、乗り込まれて悪条件を飲まされた事を今更ながらに実感していた。
三浦の期日を守れば選挙は終わってしまうだろう。
矢沢組は選挙で勝利する為にジョーカーを殺したいのだから、仮に殺せたとしても契約違反と言いかねない。
そもそも条件は問わないという話だったのだから構わないと言えば構わないのだが、ヤクザがそのような道理を飲むとは思えない。
――そもそも乗り気な仕事では無かったのだ――
とはいえ、呑気に構えていてはヤクザに消される事になる。
九月三十一日に殺せたとしても、それは報復の意味しか持たない。
そして九月には三十日までしか存在しない。
十月一日を無理やり九月三十一日と解釈できない事も無いが、完全に手玉に取られたとの感を禁じ得ない。
緒方が猶予として見るのは何週間だろうか。
幸い緒方は健司が三浦と接触した事を知らない。
まだジョーカーを探していると言えば時間稼ぎはできるだろう。
最悪二千万はドブに捨てたのだと言うくらいの器量は緒方にはあるだろう。
しかし、それでは殺し屋の看板に傷がつく。
創業四年、地道に仕事を続けて来た実績に泥がつくのだ。
――三浦清史郎を殺すか――
それを考えて健司は三浦の余裕が気にかかる。
三浦がジョーカー本人だというならそれで構わないだろう。
しかし、ただの連絡役だったり複数犯だったりした場合はどうなるだろうか。
ジョーカーは死んでも蘇る。
その事の方が矢沢組にとって脅威だろう。
ジョーカーのテンプレートが商店街で共有される事にでもなったら、矢沢組は人的物量的に無数のジョーカーに襲われて新庄市を撤退しなくてはならなくなるだろう。
その時、ジョーカーを殺せと依頼されたなら、一体何人を殺せばよいのか分からず、それだけの数を連続で殺せば証拠を残す事になりかねない。
そうなれば警察に捕らえられて全てが水の泡だ。
――そう、殺すのは三浦清史郎ではなくジョーカーである必要がある――
その為にはジョーカーの仕事の実態を掴まなくてはならない。
これまでのジョーカーの襲撃箇所と状況を再確認する。
ジョーカーは神出鬼没のように見えるが、確実な逃走経路のある場合以外は出現していない。
ジョーカーは矢沢組の取引の全てを俯瞰し、最も有利な形を作り出している。
と、なれば健司も事前に情報を収集しなくてはならない。
以前緒方が入店した時、店内のシステムでスマートフォンはクラックしてある。
緒方のスマートフォンを経由して矢沢組組長矢沢栄作の端末に潜入する。
ホストを掌握して矢沢の端末から矢沢組の取引データを吸い上げる。
半グレたちは無料WIFIに接続している者が多く、セキュリティも糞も無い。
健司は新庄市の地図を広げ三浦の心理を読もうとする。
正面切っての対決の後で、あの食わせ物が仕掛ける事は間違いないのだ。
〈3〉
始発電車で歌舞伎町を訪れた清史郎は街路を歩き回りながら、人通りの少ない場所や人目につかない場所にトランプのジョーカーのカードを置いていく。
『殺し屋』がテナントに入ったビルの前の壁にはスマートフォンと接続したラズベリーパイの監視カメラを設置した。
監視カメラの映像は近場の喫茶店でタブレット端末で見ようと思ったのだが、歌舞伎町には静かに端末を見る事のできるような喫茶店が見当たらなかった。
仕方なく新宿駅前のコーヒーの不味いチェーン店に足を向けた。
電波は良好、通勤前の客も訪れておりタブレット端末を見ていても不審には思われない。
スマートフォンを操作して朝のニュースをチェックするが、特に気になるような情報は無い。
八時二十四分、円山が風俗ビルにスーツ姿でやって来た。
一見地味なスーツ姿に見えるがバーバリーにリーガルのシューズといったいで立ちだ。
見る人間が見れば逆に趣味が良いと答えるだろう。
屋内の監視カメラを警戒して清史郎はビルには監視カメラを仕掛けていない。
九時きっかりにスーツ姿にアタッシュケース姿の円山がビルから出てくる。
清史郎は円山が新宿駅に向かったのを見て小走りに店を出る。
円山を捕捉し、充分に金をチャージしたSUICAで改札を潜る。
円山を尾行する事二十分、新庄駅で円山は列車を降りた。
チャージマネーで改札が通れて良かったと思える一瞬だ。
昔なら駅によっては乗り越し清算をしなくてはならないところだ。
円山は商店街を突っ切り、三浦探偵事務所にほど近い喫茶店に入っていく。
清史郎は更に離れた喫茶店で画像を喫茶店のものに切り替える。
商店街の店にはセキュリティの名目で三浦探偵事務所の監視カメラが取り付けられているのだ。
円山が注文するより早く、店員がコーヒーにトランプのジョーカーを添えて差し出している。
円山の表情が一瞬硬直する。
清史郎は商店街の店に予めジョーカーのカードを配り、前払いで商品を出すよう話をつけておいたのだ。
これで円山は自らが監視対象である事を知る。
コーヒーを飲み干した円山が喫茶店を出て周囲を見回す。
――追われる気分はどうだ、円山――
円山は午後六時になると歌舞伎町のビルに戻り、吉祥寺の自宅であるらしいマンションに帰宅した。
清史郎は吉祥寺界隈の店に金とトランプのジョーカーを配り、路地裏などにカードを仕掛けて帰路についた。
〈4〉
「って事は正体バレちまったのかよ」
相変わらず騒々しいクイーンメイブのボックス席で健が声を上げる。
「殺し屋って名刺出してる殺し屋って狂ってるとしか思えないけど」
「腕に余程の自信があるんだろう。今の日本じゃ老衰や自殺や病死や事故死以外の異常死が毎年十七万件発生しているんだ。死体なんかあった所で警察の手が回る状態じゃない」
「ジョークと話してて思うんだけどさ、警察って何してんだ?」
「総資産一億円以上の人間の事は守ってるだろうさ。後は交通違反の取り締まりだな」
清史郎は答える。実際警察が殺人や行方不明を事件化する基準は分からないのだ。
確かなのは毎年日本では殺人事件は百件前後しか起こってはならず、検挙率は96%を下回ってはならないという暗黙の了解があるという事だ。
「どっちみち最初から警察は味方じゃないでしょ。矢沢組が商店街に嫌がらせをしても見て見ぬふりだったんだし」
「だよな。俺たちジョーカーが正義の味方なんだ。そうだろ」
「多少稼がせてもらってるけどね」
健も加奈もジョーカーという仕事には少なからず誇りは持っている。
士気が高いという点では矢沢組と戦っていく上で大きなアドバンテージになるだろう。
殺し屋円山健司がジョーカーの核心に近づいたとは言っても、健と加奈まで特定している訳ではないのだ。
そして健のITを見て警戒していた為、あの新宿の風俗ビルにはスマートフォンも時計も持ち込んでいない。
顔は間違いなく撮影されているだろうが、顔認証は広範なエリアから自在に情報を引き抜けるようなものではない。
いつ、どのカメラに映っているのか分からなければどのカメラをハッキングすれば良いのか分からない。
本当の所は分からないが、公には警察でも店舗など個人のカメラの映像は捜査協力や令状で記録を閲覧しているのだ。
健のIT技術にした所でカメラを特定し、通信可能な距離で『物理接触』しない事にはデータを閲覧する事などできないのだ。
「円山って野郎の鼻を明かしてやろうぜ。こっちは天下御免のジョーカーなんだ」
「でもさ、ジョーカーを探り当てたって事は相当の切れ者なんじゃない? 殺し方だって一つや二つじゃないからこれまで捕まってないんでしょ?」
加奈が慎重論を述べる。この慎重さがチームの要になっていると言ってもいい。
「じゃあどうするってんだよ。まさか止めるとは言わねぇよな」
「多少趣向を変える必要はあるだろうな」
清史郎はカバンからジョーカーマスクをのぞかせる。
「マスク……一体何枚あんだ? 量産して成功すんのは北朝鮮のモロコシくらいだろ」
「そっか……これをこれまで被害に遭った半グレに匿名で送り付ければ……」
ITには弱くても頭の回転の早い加奈には分かったようだ。
「確実な取引情報を手にした本物の銃を持ったジョーカーが出現するんだ」
清史郎の言葉に健が唖然とした表情を浮かべる。
「さっすがジョーカー。でもよ、俺たちと鉢合わせにはならねぇのか?」
「一応発信機は取り付けてある。合成音声のスイッチを入れれば起動する仕組みだ」
「じゃあ信号がなかったら作戦決行って訳ね」
「それに送り付ける相手はこっちが選べるんだ。事前に動きを掴む事も難しくないだろう」
清史郎はこれまでの取引の状況から矢沢組に逆らいそうな半グレをリストアップしている。
表立って逆らう事はしないだろうが、ジョーカーとしてなら薬をガメるくらいの事はしかねない連中だ。
「でも、それって少ししたら矢沢組に露見するんじゃない?」
「ああ。でも矢沢組は確実に疑心暗鬼に陥るし、本物の銃弾が飛んでけが人でも出ればジョーカーに対して慎重にもなるだろう」
「最高にクールだぜジョーカー! ジョーカーが犯罪者だったら今頃大金持ちだぜ」
健の笑みに清史郎も笑みで答える。
「じゃあ今日の仕事もクールに決めましょ」
加奈の突き出した拳に三人の拳がぶつかる。
本家ジョーカーは最高のチームなのだ。
〈5〉
自宅まで嗅ぎつけられたとは。
午前七時、健司は朝食を食べようと吉祥寺の喫茶店に入った所で、ジョーカーのカードと対面する事となった。
もっとも、ずっと尾行されていたなら自宅が特定されるのは不思議でも何でもない。
一番の問題は探偵に四六時中張り込まれたらジョーカーどころではなく、他の仕事も一切できないという事だ。
動揺を押し隠し、それでも周囲を警戒しながら歌舞伎町の店舗に向かう。
ドアに挟んだ髪の毛が落ちた様子は無く、侵入者はいないようだ。
店内に入り、一通り掃除を終えると鋭利に削ったシャープペンシルをカウンターから取り出す。
殺しの方法はいくらでもある。
相手が尾行しているなら、人通りの少ない所に誘い込んで始末するという方法も取れるのだ。
健司は尾行のプロである三浦を警戒する事を止め、路地裏へと足を踏み入れる。
一定歩いた所で振り向き、シャープペンシルを引き抜く。
が、そこには三浦の影も形も無かった。
四六時中張り込んでいるという訳ではないという事だろうか。
健司が安堵しかけた瞬間、路上に落ちているトランプのカードに気付いた。
――ジョーカー!――
三浦はこちらの考えを見抜いて行動に出ているのだ。
と、言う事は人通りの少ない所は三浦本人に監視されない反��、ヤクザを監視しているような遠隔装置で監視している可能性が高いだろう。
――この僕が身動き一つ取れないと言うのか――
健司は拾い上げたトランプのジョーカーを握りつぶした。
〈6〉
深夜の路地裏、半沢芳樹はジョーカーマスクと紫色のどぎついトレンチコートに身を包んで、汗が出るほどにトカレフを握りしめている。
部下二人が矢沢組とヤクの取引をする事になっており、そこをジョーカーのフリをして襲撃するのだ。
成功すればタダでドラッグが手に入り、失敗してもジョーカーのせいだ。
うだつの上がらない半グレの四十代、ヤクザに昇格できる見込みも無い。
忠義を示せと言う方が無理というものだ。
視線の先には金を手にした部下の姿、ヘッドライトで周囲を照らす矢沢組のベンツがある。
部下が金を出し、組員がスーツケースを開いてドラッグを見せる。
半沢はそのドラッグを見ているだけで身体にアドレナリンが駆け回ったような気分になる。
「動くんじゃねぇ! こっちにヤクを寄越せ」
取引成立の寸前に半沢は銃を手に飛び出す。
矢沢組の構成員がスーツの内側から銃を抜く。
「金もヤクも俺のモンだっつってんだ!」
半沢は先制して引き金を引く。轟音が響き矢沢組の構成員が気圧されたように見える。
立て続けに引き金を引いて距離を詰める。
矢沢組の構成員が引き金を引き、半沢の頬を掠める。
ジョーカーの姿で出ていけば怯むと思っていたのだが、反撃は想定外だ。
それでもここが正念場と半沢は引き金を引く。
一発の弾丸が矢沢組の構成員の鎖骨の辺りを貫く。
凶悪な一瞥をくれて矢沢組の構成員たちが引き上げていく。
半沢は両手でヤクを掴んで高笑いする。
こんなにチョロい商売にこれまでどうして気付かなかったのだろう。
――ジョーカーを続ける限り俺は無敵だ――
〈7〉
事務所に次々に凶報が舞い込む中、矢沢組の緒方は状況の変化を理解していた。
ジョーカーの模倣犯は自然発生的に生まれたものではない。
本当に模倣する脳があるなら金や麻薬を要求する訳が無い。
と、すれば中身は町の半グレや暴走族と察しがつく。
とはいえ、数は厄介であり、ジョーカーの真似をすれば処刑だと言った所で本物のジョーカーもどこかにいるのだろうから半グレは高をくくって矢沢組の命令に従おうとはしないだろう。
そして更に厄介なのはちゃんとジョーカーを模倣できている者もいるという事だ。
ジョーカーを見たら撃てというのは簡単だが、半グレが連合して矢沢組に反旗を翻したら手足を失った矢沢組に抵抗する術は無い。
矢沢組は権力と金と麻薬は持っているが、マンパワーが多いという訳ではないのだ。
ジョーカーはその弱点を的確に突いて来たのだ。
「緒方、考えは無ぇか?」
電話越しの矢沢の言葉に緒方は頭を巡らせる。
「ジョーカーマスクに百万の懸賞金をかけてはいかがでしょう?」
マスクをつけている人間の罪を問わず、マスクを差し出せば百万やると言えばわざわざ危ない橋を渡ろうという連中は少なくなるだろう。
その上でジョーカーの撃滅を図ればいいのだ。
「その手は使えそうだな。問題はマスクがどれだけ出回っているかだが」
「数は多くないと考えます。そもそも同時多発的にジョーカーが出現したという事は、誰かが創意工夫して模倣されたのではなく、何者かが意図的に行ったと考える方が自然です」
言って緒方は組員たちに通達を出し、ついでに警察にも懸賞を知らせておく。
公権力が銃刀法で取り締まりを開始すれば半グレは震えあがってジョーカーの真似などしていられなくなるだろう。
〈8〉
健司は新庄市のホテルの床に落ちた髪の毛を拾いながら、事態の急変と自分の読みが正しかった事を知る。
三浦は健司に捕捉された事で作戦変更を余儀なくされた。
健司も身動きできなくなったが、それはお互い様なのだ。
そこで今回のジョーカー量産化計画を演出したのだろう。
しばらくの間町中にはジョーカーがあふれる事になる。
矢沢組が引き締めを行っているものの、偽ジョーカーの模倣犯も出現し本来の偽ジョーカーより多くのジョーカーが出現しているのが現状だ。
――でもこの狂騒はすぐに終わる――
健司は日が暮れるのを待ってアタッシュケースを手にホテルを出る。
三浦が四六時中張り付いている訳ではない事も分かっている。
いずれにせよ仕事を迅速に済ませれば証拠も残りはしないのだ。
深夜の人気の消えたオフィス街を歩きながら手に手術用のビニール手袋をはめる。
靴のサイズは自分の標準よりワンサイズ大きく、髪型は大きく変えていないが頭にはカツラをかぶっている。
一般で売られているカツラには、インドの仏教徒やヒンズー教徒が出家する時の髪の毛が使われている。
そして、インド人の髪の断面は日本人が楕円であるのに対し正円に近い。
仮に髪が現場に落ち、科捜研が調査したところで出てくるのは謎のインド人という事になるのだ。
健司は予定していた地点にたどり着くと、持ってきたボルトを電柱の穴に差して二・五メートル程の高さにまで登って電柱に寄り添うようにして立つ。
予定通りスポーツバッグを手にしたジョーカーが走ってくる。
中身は半沢という三下の半グレだ。
正面だけに注意を向け、自分の身長より上には注意が向いていないらしい。
健司はボルトに引っ掛けたテグスを引っ張る。
ジョーカーの首にテグスが食い込み、仰向けに倒れかかる。
アイスピックを手にした健司はジョーカーに圧し掛かるようにして飛び降りる。
アイスピックがジョーカーのマスクと頭蓋骨を貫き、脳を攪拌する。
健司はアイスピックをその場に放り捨てて、テグスもそのままに歩き去る。
アイスピックもテグスも殺人犯を特定する決定的な証拠とはなり得ない。
少し歩いた所で歩きやすい靴に履き替え、手袋を脱いでしまえば何一つ痕跡は残らない。
意識していたが三浦に行動を監視されていた様子は無い。
三浦はマスクをばらまいた事でジョーカー業を一定退いたのかも知れない。
それならそれで……
――ジョーカーを名乗れば問答無用の死が訪れる――
それでもジョーカーを続けられる者がいるだろうか。
健司の受けた依頼はジョーカーの殺害であって三浦清史郎の暗殺ではないのだ。
〈7〉
緒方は苦い気分で事務所でTVを見ている。
一週間で九人のジョーカーが殺され、四人のジョーカー、三人の組員が射殺された。
ワイドショーは死体にピエロのマスクをかぶせる愉快犯として報道している。
常識的に考えればそうなのだろう。
だが、現実にはジョーカーの模倣犯が跋扈し、殺し屋円山がジョーカーを殺しまくっているのだ。
この問題の裏が表ざたになれば矢沢組に捜査の手が伸びる。
組長が事情徴収という事にでもなれば、知事選敗北は必至だ。
この銃弾飛び交い殺し屋が闊歩する状況は、客観的に見れば矢沢組の内部抗争なのだ。
――やってくれたなジョーカー――
日用品を用いて鮮やかに殺しを遂行する健司に対する恐怖は広がっており、それなりの数のジョーカーマスクが届いてもいるが、それでも自分だけは大丈夫と考えるのが人間の性であるらしい。
「兄貴、県警本部長が来ています」
部下の言葉に緒方は舌打ちしたくなるのを堪える。
何人か人身御供に出す必要はあるだろうが、それでジョーカー問題が片付く訳でも無い。
今の新庄市はさながらギャングの蔓延る六十年代のニューヨークだ。
このネガティブイメージの中ではカジノ施設の誘致も集客の為だなどという言葉で誤魔化せない。
――だが、商店街も打撃を受けているはずだ――
緒方は次善の手を考えながら県警本部長を待たせてある応接室に向かう。
「緒方です。この度はお騒がせしております」
「いや、そうかしこまらんでくれたまえ。私がこうしておれるのも矢沢組あっての事だ」
県警本部長の茨木義男が本革張りのソファーから腰を上げて言う。
茨木は東大卒のキャリアで矢沢の後輩に当たり、同じゼミを受講していた間柄だ。
「殺人事件は起こせない。それが警察の不文律でしょう?」
「今回のカジノ施設建設は内閣肝いりでもあるんだよ。情報操作で反対派が工作しているように演出する事は可能だろうよ」
転んでもタダで起きないのが政治家やエリートというものであるらしい。
「つまりはカジノ施設反対派が、賛成派の人間を殺してピエロのマスクをつけていると?」
「そういう報道になっているだろう?」
茨木の言葉に緒方は唖然とする。
当事者としての立場で見ていた為に気付かなかったが、一般視聴者の目線で見るとそういう風に見えるのだ。
「で、私の在任中にこれだけの死者を出しているんだ。票は囲い込めているんだろうね」
「固定票は押さえております」
実際の所、矢沢組は内紛に近い状態で票を囲い込めるような状態ではない。
大手のチェーン店などでは本部通達で票の取り込みができているが、個人事業主は依然として反対の姿勢を崩していない。
――やる事成す事裏目に出る――
「死人は出る、カジノ施設はできないでは私の本庁復帰が危うくなるんだよ。その意味は分かっているだろうな」
「はい」
不満げな茨木に緒方は短く答える。
――県警本部長が殺害されれば流れが変わるかもな――
緒方は脳裏にあのとらえ所のない殺し屋の姿を思い描いた。
第四章 トリックスター
〈1〉
「最近俺たちが出てもヤクザもビビらねぇのな」
クイーンメイブのボックス席で健がぼやく。
本物の銃を撃つジョーカーもいれば、ジョーカーを狙い撃ちにする殺人鬼も存在する。
実際に死人も出ているのだから今更驚かす程度ではヤクザも怯みはしないだろう。
「銃で撃たれるって不安。前より遠慮なく撃たれてる感じ」
加奈が沈んだ様子でカクテルに口をつける。
「おいおい、私たちの本来の目的を忘れたんじゃないだろうな。私たちの目的はカジノ施設誘致の妨害だ。今の状況でカジノ施設がオープンしたとして誰がテナントに入るんだ? 暴力がこれだけ蔓延る状況を許した現職知事は窮地に立たされている。住民の安全と地域の活性に誠実に取り組む人物が取って代わらなければ市民が納得しない」
ショットのバーボンを口に運んで清史郎は言う。
「いや、確かにジョーカーの言う事は分かるんだけどさ、昔は良かったっつーか、実入りが少ないのは我慢するとしてもよ」
「私たちの本当の目的に近づいているんだから喜んでいいはずなんだけどね」
「選挙の公示まで三日、世襲できそうな人間がいない以上与党は今更候補者を変更できないし、現職のまま選挙を戦う事��なる。野党には追及の材料が掃いて捨てるほどある。これで負けるようなら本当に世の中が腐りきってるってだけだ」
健と加奈の気持ちを察しながらも清史郎は言う。
「もう少しで全部終わっちまうんだよなぁ~。何か微妙だぜ」
「コンビニも忙しいって言えば忙しいんだけど、税金は取られるのに退職金も無いし年金のアテもないし」
健が仕事にやりがいを感じられないのも、加奈がお先真っ暗だと言うのも理解できる。
「そうは言っても九月三十一日にはジョーカーは死ぬんだ」
「してやられましたよ。九月に三十一日なんて無いじゃないですか」
ボックス席に当たり前のように現れた円山が言う。
「誰だテメェ!」
健が身を乗り出す。
「歌舞伎町で殺し屋を経営している円山健司と言います。ここが三浦さんの本当の事務所だったんですね」
「まさか一週間で九人も殺したのって……」
「やだなぁ~僕はもっと殺してますよ。警察だって報道内容には気を遣うんです」
涼しい表情でグラスを手にした円山がボックス席に座る。
「人殺しだってバラすぞ、テメェ」
健が円山に向かって噛みつきそうな声と表情を向ける。
「ご自由にどうぞ。何か一つでも証拠が存在するならね」
「で、その殺し屋さんがここに何の用?」
「いや、本家のジョーカーはどうしているのかと思ってね。偽物でも��れだけ殺せば本家も仮面を捨てるんじゃないかって思って」
「おたくの言う通りだ。こんな凄腕の殺し屋がいるならジョーカーなんてやるだけ損だ」
「本当にそう思っていますか? 本家はまだ何か隠し玉を持っているんじゃないかって思うんですけど」
「随分と余裕かましてんじゃねぇか。ジョークを殺ったらテメェを殺す」
「殺しはしたくないけどジョーカーを殺させる事は絶対にしない」
「人望があるんですね。いっそ事務所でこの二人を雇ったらどうです? 今より金回りはよくなるんじゃないですか?」
「殺し屋より儲かるとは思えないね」
「それはリスクを負っていますから」
「テメェは嫌味を言いに来たのか。悪いが俺たちはテメェになんざ負けねぇ」
頭に血の上った健が言う。
「そうそう、一つプレゼントがあるんです」
「あんたがくれるものなんてロクなものじゃないと思うんだけど」
「野党連合の候補を殺すように県警本部長から依頼を受けたんです」
笑顔で言った円山がグラスを空ける。
突然の事に健と加奈が硬直する。
選挙期間中に候補が殺されてしまったら票が分散して現職が有利となる。
どれだけ黒い噂があったとしてもだ。
「それは俺たちに守って見せろと言っているのか?」
「さぁ、気まぐれですよ。僕はこれでもあなたの事が嫌いではないんですよ」
言った円山が席を立って去っていく。
加奈と健が茫然とその背を見送る。
「私たちと候補者をまとめて葬るつもりか……」
清史郎は思案する。候補者を守る為に張り付けば二人まとめて殺される可能性がある。
しかし、候補者を放置しておけば間違いなく殺されるだろう。
具体的な殺人予告という訳ではなく、あったとしても警察はアテにはならない。
市民は自衛するしか無いのだ。
――どうする……――
「なぁ、ジョーク、どうすんだ?」
「あんたも少しは考えなさいよ」
「考えてるって。頭の中じゃあの野郎を三十回は殺してる」
非生産的な事を考えている健が言う。
「ジョーカー、私、どうしていいか……」
加奈は追い詰められた様子だ。
「こうなったらお望み通りにしてやろう。ジョーカーの最期を見せてやるんだ」
清史郎は一抹の寂しさを感じながら笑みを浮かべて見せた。
円山を前にして取れる手は一つしか無いと言っていい。
――あの男はこの結果を望んでいたのだろうか――
〈2〉
『……皆さん、この町の惨状は突然起きたのでしょうか? その根幹には市の中央にある広大な県の土地があります。この土地は江戸時代に火災の延焼を避ける為に作られた防災の為の土地でした。しかし新庄市が栄えるに従い、土地の価格が上がり莫大な利益が生まれる事が分かってきました。ヤクザやギャング、財界の人間はその利権に群がっているんです。もし、彼らの思い通りにさせるなら彼らの存在を容認する事になります。二百年前の先人の知恵に従い、ここを防災を兼ねた市民公園にする事こそが行政の成すべき事です……』
夕暮れの新庄市の駅前で野党候補の峰山春香が声を上げる。
聴衆はさほど多くはないが商店街や青年団が集まって盛り上げようと四苦八苦している。
清史郎はオープンカーのハンドルを握りながらタイミングを計っている。
『ジョーカー、スタンバイOKよ』
イヤホンから加奈の声が聞こえてくる。
『警察は野党の候補に人は割いちゃいねぇ、殺るなら今だ』
健の声を受けて清史郎は紫のどぎついトレンチコートを羽織り、ピエロのマスクをかぶる。
「そこのお前……」
演説を警備していた警官が警棒を手に近づいて来る。
「制服ギャングも久しからず」
清史郎は銃を引き抜く。
警官の足元で火花が爆ぜる。
聴衆だけでなく、夕暮れの帰宅ラッシュの人々の足が止まる。
「綺麗ごとでマニィをロンダリィ! 俺はハッピーにトリガー、堅実な人生が諸行無常!」
清史郎は自動小銃を抜いて選挙カーに銃弾を浴びせかける。
銃声が響き至る所で火花が散る。
ガードマンに守られて逃れようとする峰山の背に向けて引き金を引く。
血を噴出させた野党候補が倒れる。
「こんな時には正露丸! キャベジンがあれば国士無双ゥ! ユンケル飲んだら夜金棒!」
峰山が選挙カーに運び込まれ、現場から離脱しようとする。
『ジョーク、サツが動いた。射殺してもいいって言ってやがる』
健の言葉に清史郎は生唾を飲む。想定してはいたが、想像以上に警察もなりふり構っていないらしい。
清史郎はオープンカーで選挙カーを追い、グレネードランチャーで後ろ半分を吹き飛ばす。
煙を上げた選挙カーが路肩で停止する。
清史郎は高笑いしながら選挙カーの脇をすり抜け、オープンカーで町を駆け抜ける。
無数のパトカーが清史郎のオープンカーを追う。
『ジョーク、法定速度は無視してくれ、俺がナビゲートしてんだし、今更ネズミ捕りが怖いって訳でもねぇだろ』
健のナビゲーションでパトカーを避けて清史郎は埠頭へと向かう。
銃声が響き、音速より早く飛んだ弾丸がオープンカーに襲い掛かる。
警察が矢沢組の懸賞を狙っている事は健のハッキングで知っている。
制止する警官の声と銃撃を受けながら、フルスロットルのまま岸壁から海上へと車体を躍らせる。
肩と背中に銃弾を受けた清史郎は冷たくなり始めた海の中へと沈んでいく。
清史郎が意識を失いかけた時、淀んだ海の中にウェットスーツに身を包んだ加奈が姿を現した。
〈3〉
警察が捜査した結果、海で手に入れる事ができたのは一台の盗難車とピエロの仮面と紫色のトレンチコートだけだった。
知事候補が襲撃された事もあり、今後清史郎がジョーカーの扮装をすれば正体が露見する可能性は極めて高くなるだろう。
――本家ジョーカーは死亡した――
健司は病院の廊下を歩きながらポケットの中のビニール手袋の感触を確かめる。
野党候補は銃創を負って病院に入院している。
実際には銃創など負っていないのだろうが、ジョーカーと候補が一芝居打つのだとしても病院は避けて通れない。
――悪いけど僕は殺しの依頼は完遂する――
健司は候補の部屋の前のボディガードの様子を観察する。
「すみません。新庄市後援会の青年団の円山と言います。先生はご無事でしょうか?」
「先生はご無事だ」
鉄面皮のボディガードが返答する。
「それを聞いて安心しました。一言無事をお祝い申し上げたいのですが構いませんか?」
「十分だ」
ボディガードの言葉に笑みを返して健司は一人部屋に足を踏み入れる。
両手にビニール手袋をはめ、小銭袋を握りこむ。
「やぁ、先生、ご無事なようで何よりです」
「無事なものか。ポリの弾丸を四発も食らったんだ」
そこで見た光景に健司は言葉を失った。
「お陰で選挙が終わるまで退院できそうにない」
三浦が笑みを向けてくる。
「バカな……あなたは……」
身を隠さなくてはならないはずだ。
治療する為にも……。
――治療する為に候補に成りすましたと言うのか――
入院している間は世間の目は避けられる。
それでは候補はどこに消えたと言うのか。
「お前は野党候補を殺せというオーダーを受けたはずだ。今彼女は立候補しているが、生死不明で野党の統一候補ではない。今は慶田盛弁護士事務所で事務の手伝いはしているが選挙活動はしていない。それでもお前は殺すのか?」
健司は清史郎の言葉に笑いがこみあげてくるのを感じた。
「詭弁にも程がありますよ。ほとんど屁理屈じゃないですか」
「屁理屈でも君は依頼に忠実なんだろう? あと面会は手短に頼むよ。これでも歳でね、銃創って言うのは堪えるんだ」
銃創が堪えているのは本当らしい。
「それでも最後には候補は復活しなきゃならない」
「死んでいなければね」
カーテンの影から姿を現した女性がグレネードランチャーを構える。
「まさか……」
「ジョーカーは死んだ、ヒットマンは来た。これで充分だ。なぁ、ジョーク」
ラップトップコンピューターを小脇に抱えた青年が言う。
「ゲームオーバーだ」
清史郎が不敵な笑みを向けてくる。
健司は小銭袋を窓に投げつける。
砕けたガラスの破片を拾い上げて身構えながら退路を探る。
ガラスの破片で候補の命を絶つつもりだったが今三浦を殺した所で意味が無い。
今は割れた窓の外に逃れる隙さえあればいい。
女性の指がグレネードランチャーの引き金にかかる。
猛烈な爆音と閃光が室内に満ちる。
健司は窓の外に身体を躍らせた。
――これで知事候補が殺された事になるのか――
健司は地面を転がり、人目を避けながらバッグから出した白衣を羽織る。
――僕は最期までジョーカーに踊らされたって訳か――
敗北感より、どこか清々しさを感じながら健司は病院を後にした。
〈3〉
「慶田盛弁護士事務所では峰山候補を歓迎しますよ」
新庄市にある、冤罪に強いと噂の弁護士事務所で峰山春香は未だに自分の身に起きた事が信じられないでいる。
峰山が候補に決まったのは公示二日前、そこから慌ただしく野党の党首などと会談を交わし、選挙戦の流れになったのだが、その直後に慶田盛敦という弁護士が現れたのだ。
慶田盛の噂は峰山も聞いており、信頼できる人物であるとは感じていたが、話の内容は想像のはるか斜め上を行くものだった。
新庄市の乱射魔ジョーカーの本家は、冤罪事件の解決を主に行っている三浦探偵事務所の所長三浦清史郎だったのだ。
三浦は知事選を前に町に大量のジョーカーマスクをバラまいて一時的に身を引いた。
しかし、ジョーカーと野党知事候補は確実にターゲットを仕留める円山という男に命を狙われているのだ。
更には矢沢組がジョーカーに懸賞首をかけており、警察も生死を問わないという条件でジョーカーを狙っているという。
そこで三浦が出して来た案がジョーカーに候補者が襲われて入院、ジョーカーは警察に追われて死亡、更に候補者の運び込まれた市民病院に現れる円山を三浦が撃退するというものだったのだ。
三浦は警察に追われて手傷を負う事は間違いなく、それならば知事候補と入れ替わって入院してもゆっくりと治療ができる。
一方春香は慶田盛弁護士事務所で投票日三日前まで、事務職として短期採用される。
円山のターゲットは知事候補であり、事務員殺害ではなく、その一線を越えてこないのも円山という男なのだという事だった。
「何もかもが信じられないわ。生死不明で選挙戦を戦うなんて……」
「野党の党首が連日新庄入りするって話になったじゃないですか」
春香は慶田盛弁護士事務所の安普請の椅子に腰かける。
「それはいいとしても、いいえ、大きな借りを作る事になりますし……」
「市民に対して不誠実だと?」
春香の心中を察した慶田盛が言う。
「その通りよ。三日前に復活なんて話が良すぎるし」
「でも、実際問題あなたを救う手立ては他に無かった」
事務所の電話が鳴り、慶田盛が受話器を手に取る。
ボタンを押してスピーカーに切り替える。
「私だ。円山が知事候補殺害に現れたよ。こっちで見かけだけは派手な爆薬を爆発させて追い出した。これで知事はテロリスト��まで襲われた事になるわけだ。しばらく身を隠さなきゃならない理由が増えたんじゃないか?」
「三浦さんですね? あなたが身体に銃創を負ったという話は聞いています。あなたはどうしてここまでやったんですか?」
「若い連中と付き合いがあると、柄にもない正義感なんてものも持つものなのさ」
三浦の言葉に春香はため息をつく。
実際の傷はどうあれ、体面上知事候補は集中治療室にかくまわれるだろう。
「市民病院が告発したらどうするつもり?」
「それは無いさ。与党の市長になってから予算を削減されて、市民病院では上から下まで味方しようなんてヤツはいないんだから」
慶田盛が肩を竦めて見せる。
「あと、仕事柄マスコミの相手をするのは苦手じゃないんだ」
「ああ、こいつは口先だけは有能だからな」
二人の言葉を聞いていた春香は苦笑する。
悪だくらみのような作戦だが、この二人にとってはこれは健全な正義のスポーツのようなものなのだ。
〈4〉
野党候補の入院先で爆破テロが起こった事で、与党候補に対する疑惑は大きなものとなった。
野党候補は生死の境を彷徨っていると報道されている。
清史郎は病院で何不自由なく治療生活を送っている。
のだが……。
「なぁ、ジョーク、ここで寝てるってのは何かの冗談だろ?」
「怪我してるのは事実なんだから無茶言わないの」
健と加奈は連日競うようにして病室を訪れている。
「お前ら、もうジョーカーの出番は無いんだぞ? 知事選も候補が無事を表明すれば一発で決まる。もうやる事は無いんだ」
清史郎が言うと健が叱られた犬のような表情を浮かべる。
「いやさジョーク、俺、土建屋辞めたんだ」
「私も……その、コンビニ辞めたんだ」
清史郎は二人の言葉に唖然とする。
このご時世に仕事を自ら捨ててどうしようと言うのか。
「ジョーク、儲からないっつってるけどよ、俺が手伝ったら何とかなんじゃね?」
「先に言わないでよ。採用するなら私の方が得なんだから。多分」
清史郎は額に手を当ててこみ上げてくる笑い声を抑える。
傷に響くが笑いたくなるのだから仕方がない。
「お前ら、馬鹿じゃないのか? こんなオッサンと組んだって心中するようなモンだろ」
「それでもいいくらい楽しかったんだよ」
「またスリル、くれるんでしょ?」
清史郎は笑い声をあげて身体を起こす。
傷が引きつるが痛みなど気にならない。
「資本金はお前らと合わせて裏金三千万円。社員は三人。一人はオッサン。ジョーカー探偵事務所とでもするか」
「何かダセェ。中年は変に英語にするから逆にカッコ悪いんだよ。三浦探偵事務所でいいだろ」
「中年のセンスが悪いのは今に始まった事じゃない」
清史郎は憮然として健に言い返す。
「じゃあ新しい門出に」
加奈がバッグからワインのボトルを取り出す。
若い二人は自分に老ける暇を与えてくれないらしい。
清史郎はコップに注がれたワインを掲げる。
「乾杯」
紙コップが音もなく打ち合わされ、新しい何かが動き始めた。
エピローグ
清史郎は健と加奈を引き連れて病院の廊下を歩いている。
向かいからスーツ姿の峰山春香が歩いてくる。
握手しようと峰山が手を差し出してくるのを無視して清史郎は右手を軽く上げる。
峰山が応じて右手を挙げてハイタッチすると、清史郎と峰山は入れ替わるように方向を変える。
清史郎の背後でフラッシュが瞬き、峰山が光とシャッター音に包まれる。
生死不明から無傷での生還。
これほどの宣伝も無いだろう。
ジョーカーはカジノ施設を阻止するというその使命を果たしたのだ。
選挙戦は野党党首が連日交代で訪れるという形で、野党が攻勢を強めていた。
そして投票日三日前に野党候補が無傷で出現。
暗殺者に狙われていた事を告げ、改めて支持を訴えた。
緒方は事務所で出来の悪すぎる茶番劇を見せられたような気分を味わっている。
ジョーカーという乱射魔が出現、殺し屋に依頼をしたらジョーカーの模倣犯が大量に出現。野党候補を狙ったら本家ジョーカーに命を狙われ、生死不明から一転蘇った。
市民の心理を考えるまでもなくこの選挙は完敗だ。
何処で何を間違えたのかなど分からない。
否、最初からこの町には矢沢組を受け入れない何かが存在していたのだ。
近々上層の組から矢沢更迭が告げられるだろう。
だが、緒方は矢沢にとって代わろうなどとは思わない。
――この町にはジョーカーという化け物が存在するのだから――
十月一日、健司はいつものように殺し屋のカウンターの内側にアルコールを吹きかけている。
もしも、九月に三十一日が存在しているならジョーカーが殺されてやると言っていた日。
新庄市では市民の支持を得た新知事の誕生でお祭り騒ぎらしい。
と、殺し屋の戸口に宅急便の配達員が現れた。
「殺し屋様ですか? Amazon様からのお届けものです」
記憶には無いが健司は笑顔で箱を受け取り、伝票にサインする。
ナイフで慎重に箱の封を開けるとそこにはピエロのマスクが収まっていた。
健司は口元に笑みが浮かぶのを感じた。
――確かにジョーカーは死んだ――
健司はその自然な笑みを機械的な笑みの後ろに隠し、カウンターを磨き始めた。
今日も新たな客がやって来るに違いないのだ。
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