梢ちゃん、初めてのイリュージョン
1.
大阪から東京へ引っ越して、あっという間に1学期が過ぎた。
新しい学校で仲良しの友達もできたし、まあどんな環境にもすぐに適応するのがウチの強みやな。
弟の湊(みなと)は転校先の小学校に慣れなくてちょっと苦労している感じ。
それで母ちゃんが新聞の折り込みチラシで見つけた小学生向けの造形美術教室へ行ってみたらどうか、と提案してきた。
湊はウチと違(ちご)て繊細やもんね。
ゾーケイとかビジュツとか、そういうんは向いてると思う。
母ちゃんは教室へ電話を掛けて見学の予約をした。
土曜日午後のクラス。
「梢(こずえ)も一緒に来て」
「えぇー、ウチも?」
「湊は小2やし一人で行かされへんでしょ? いつもママが付き添えるとは限らへんし、そのときはあんたが連れてくの」
「あーん、貴重な週末やのに。母ちゃんのいけずー」
「そろそろ『お母さん』かせめて『ママ』って呼んでくれへん? いつも成○石井で母ちゃんって大声で叫ばれるの恥ずかしいんやけど」
「『おかん』って言われるよりええやろ? それに高級スーパーやゆうて恥ずかしがるんは田舎モンやで。だいたい成○石井くらいアベノ橋にもあったやんか」
「あ、そうか」
「分かったらよろしい、母ちゃん」
「そうやって親を煙に巻くの止めなさい」
2.
そんな訳で3人で見学に来た造形美術教室。
三田さんというおばちゃんの先生が教えていた。
生徒は10人ほどで、それに保護者のパパとママが何人か来ている。
この日はカラーキャンドルを作っていた。
使い古しのろうそくとクレヨンを削って湯せんにかける。
何色か溶かして好きな順番で型に流し込めばカラフルなキャンドルが出来上がる。
「桧垣湊くんね? よかったら一緒に作らない?」
先生に誘われて湊は頷いた。
「あのっ、ウチもやらせてもらっていいですか!」
「こら梢!」
母ちゃんが止めようとしたけど、先生は笑って許してくれた。
「湊くんのお姉さんね? もちろんどうぞ」
「桧垣梢ですっ。中学2年です! ヨロシクお願いします!!」
だってキャンドル作り、すごい面白そうなんやもん。
「うわぁー、綺麗やん!」
どや、この色のチョイスはなかなかのもんやろ?
「水色を入れたいの? ええで、お姉ちゃんが一緒に削ったげる」
クレヨンを削るのを手伝ってあげた。この教室、こんな小っちゃい子にもナイフ使わせるんか。
「ボク! そこ指入れたらあかんっ。熱いでぇ~!」
湯せんの中に指を入れかけた男の子を止めた。ホットプレートの扱いも注意させんとあかんなぁ。
気が付けばウチは子供たちの輪の中にいてあれやこれや世話をしていた。
先生は後ろに立って笑っていた。
3.
「この娘が一番楽しんだようで申し訳ありません」
他の生徒さんたちが帰った後、母ちゃんが謝った。
ま、ウチを連れてきたらこうなるのを予想せんかった母ちゃんのミスやな。
「いいんですよ。よかったらこれからも毎週来てくれたら助かるな、梢ちゃん」
「ええんですか?」
「子供、好きでしょ?」
「ハイッ、好きです! ・・母ちゃん、ウチの分の月謝もお願い」
「あのねぇ」
「月謝なんて要らないわ。むしろお給料払わないといけないくらいよ」
「えぇ! お給料もらえるんですか!」
「な訳ないやろ」
母ちゃんがウチの頭を小突いた。
「ところで、」
母ちゃんは先生に向かって聞いた。
「三田、静子先生ですよね?」
「はい」
「覚えてませんか? 30年以上前ですけど京都の中学校で」
「京都? 確かに昔、京都で教師をしていましたが」
「私、美術部でお世話になった鈴木です」
鈴木っちゅうんは母ちゃんの旧姓やな。
「・・鈴木純生(すみお)さん? あの、捻挫して松葉杖の」
「はい!」
「きゃあ~っ」「きゃあ~っ」
母ちゃんと三田先生は両手を握り合った。
それからハグして、その場で跳ねながら一回転する。よお息が合うもんやと感心した。
「チラシでお名前見て、もしかしたら思ってたんです」
「懐かしいわ!」
「よかったら、あらためて昔のお話させてください」
「そうね、そうしましょう!」
・・後ろのドアが開く気配がした。
「先生、これも倉庫に置かせてもらっていいですか」
振り返ると背の高いお兄さんが立っていた。
その後ろには可愛いお姉さんもいる。
お兄さんは大きな丸いモンを抱えていた。
イケてない兄ちゃんやな。この、もさぁっとした感じ。
ウチの見立てやと30は超えとるな。もちろん彼女いない歴イコール年齢や。
それと比べてお姉さんはずっと若くてキュート。きっとピチピチの女子高生。
「ああ、まだ生徒さんがいましたね。出直します」
「いいのよ。もう済んでるから。・・それで何を置きたいの?」
「このボールです」お姉さんが答えた。
「くす玉なんだって」
「正確には人間くす玉です」
人間くす玉って、いきなり謎のワード。
「くす玉っ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは母ちゃんだった。
「まさかそれ、S型の人間くす玉・・」
「よく分かりますね」
お兄さんが言った。
「あなた何者ですか?」
母ちゃんは両手で胸を押さえて深呼吸して、それから一人で叫んだ。
「きゃあああ~!!」
さっき三田先生とシンクロして叫んだときよりずっと大きな声だった。
皆が驚いて見守る中、母ちゃんだけが絶叫しながらぴょんぴょん飛び跳ねていた。
46歳の母ちゃんが急に若返ってハタチになったみたいに見えた。
4.
次の土曜日の教室。
ウチは一人で湊を連れて来た。
母ちゃんは前の晩からどこかへ出かけ、朝になって上機嫌で帰って来てグーグー寝ている。
ええ歳の主婦がそないな夜遊びしてええんか?
父ちゃんは笑ってたから許してるんやろうけど。
今日の造形美術教室の題材は千切り絵だった。
いろいろな色の和紙をハサミを使わずに裂き、糊で貼って綺麗な絵にする。
子供たちは一生懸命。ウチも一緒に絵を作る。
やっぱり楽しい。
ウチには造形美術の才能があるんやないか。
「みんなーっ、クッキーだよ! あたしの手作り!!」
れいらさんがお菓子を持ってきてくれた。
玻名城(はなしろ)れいらさんは先週出会ったあの高校生だった。
造形美術教室の卒業生で、ときどき子供たちに差し入れしてくれる優しいお姉さん。
「イッくんは二日酔いらしいです」
「男のくせに駄目ねぇ」
れいらさんが報告して三田先生が笑った。
イッくんとはあのお兄さんのことで、本名はえーっと、酒井功(さかいいさお)さんやったな。
れいらさんと同じく造形美術教室のOBで今もいろいろお手伝いしてくれているらしい。
「いったい何人で飲んだんですか? 先生」
「5人ね。イッくんと桧垣純生さんと私。それに桧垣さんの知り合いっていうモデル事務所の社長さんと、京都から来たイベント会社の社長さん。イッくん以外は全員女性よ」
「えっ、ウチの母ちゃんも一緒やったんですか?」
「そうよ。昔のお話が沢山できて楽しかったわ」
「社長するような人と母ちゃんが知り合いとか、知らなかったです」
「面白い人たちだったわ。皆さんお酒もぐいぐい飲むし、盛り上がっちゃった」
「先生もぐいぐい飲んだんでしょ?」
「おほほほ」
「イッくん可哀想。おばさんたちに飲まされて」
「んま、れいらちゃんったら失礼なこと言うわねー」
「ウチにも分かります。30過ぎのおじさんでも、おばちゃんたちから見たら若い男の子ですもんね。そら可愛がられますわ」
「梢ちゃんまだ中学生でしょ? 何でそんなことが分かるの?」
「えへへ、そうゆうんは得意なんです」
「でも30は可哀想よ。彼25歳だもの」
「うわぁ、ホンマですか~! ウチが言うたってチクらんといてくださいっ」
「あはは」「きゃはは」
5.
家に帰って、ウチは母ちゃんから若い頃の話を聞いた。
母ちゃんは京都の会社でイベントの司会やイリュージョンのアシスタントをしていた。
イリュージョンって、あのマジックのイリュージョンなのか。
二十歳のときの写真と言って見せてくれたのは、チャイナ服の母ちゃんが透明な箱の中に出現したところだった。
腰まで割れたスリットから生足出して、きらきら輝く笑顔で手を振っている母ちゃん。
今の母ちゃんと同じ人とは信じられないくらいに綺麗だった。
謎の『人間くす玉』についても教えてもらった。
人間くす玉は同じ会社のアトラクションで、中から女の子が飛び出すくす玉なんだって。
先週イッくんが抱えていたのは一番小さなサイズのくす玉。
「彼がクレクレしたから無料であげたって社長が言ってたわ。意味分からへんよね」
ウチにも意味が分かりません。
夜、れいらさんから LIME のメッセージが届いた。
『明日イッくん家に行くの。梢ちゃんも一緒にどう?』
『行きます!』
『イリュージョンを見せてくれるんだって』
またイリュージョン!?
後にして思えば、それはウチが新しい世界に足を踏み入れるお誘いだった。
6.
イッくんのマンション。
「いらっしゃいませ!」
ドアを開けて迎えてくれたのは綺麗な女の人だった。
「あなたが梢ちゃん? 酒井多華乃(たかの)です。よろしくね」
「多華乃さんはイッくんの奥さんだよ。先月結婚したばかり!」
ほぇ~。ばりばりの新婚さんやないですか。
多華乃さんは七分丈スパッツの上にニットのサマーセーターを着ていた。セーターの襟ぐりが大きくて谷間がちらちら。
こんなセクシーな奥様がいるやなんて、この間は「彼女いない歴イコール年齢」とか思てゴメンナサイ!
リビングに案内してもらうとイッくんが待っていた。
ちゃんとお話しするのはこれが初めてだった。
「お招きありがとうごさいます! ・・あの、ウチも『イッくん』って呼ばせてもらってええですか?」
「いいけど?」
「実はどう呼ぶか寝ないで考えました。『イッくん』はちょっとナレナレしい、『イサオさん』はヨソヨソしい、そやかゆうて『イッさん』やと大阪のおっちゃんみたいで」
多華乃さんがぷっと笑う。
「なんでやっぱり、れいらさんと同じ『イッくん』で行かせてください!」
「梢ちゃんって面白いね」
よっしゃ、ウケてくれた!
ウチは心の中でガッツポーズをする。
「イッくん、二日酔いは治った?」
れいらさんに聞かれてイッくんは頭をかいた。
「ああ、酷い目にあったけど、タカノがいてくれたから・・」
「熱いねーっ」
大喜びで冷やかすれいらさん。
いつものウチなら一緒に囃し立てるとこやけど、さすがに初対面で遠慮したのは我ながらエライと思う。
「・・んじゃ、さっそくやろうか」
「イリュージョン!?」
「うん、新作だよ。この場所に招かれたゲストだけが見れる限定イリュージョン。そして記念すべき最初のゲストが君たちだよ」
ぱちぱちぱち。れいらさんが拍手した。
今度はウチも一緒に思いきり手を叩いた。
7.
小さなテーブルを挟んで4人がソファに座った。
手前のソファにウチとれいらさん。
向かい側にイッくんと多華乃さん。
こちらから見て向かって左にイッくん、右に多華乃さんが座っている。
イッくんは多華乃さんの腰に左手を回すと、ぐいっと引き寄せた。
多華乃さんがイッくんに密着する。
ニットの襟がでろんと伸びて白い肩が出た。その肩にブラ紐はなかった。
あの、それはお客さんが男性のときに目を惑わすための演出ですか。
女でもドキっとするんですけど。
「これはサテンの袋。長さ2メートルあるのでうちの妻が全部入ります」
イッくんは多華乃さんを左手で抱いたまま、床の袋を右手で拾い上げた。
紫色でつるつるした光沢のある袋だった。
それを多華乃さんの頭から被せる。もぞもぞと右手だけで身体全体を覆ってゆく。
・・そやから、わざわざ密着してそういう作業をするのは何でですか。
すごくエッチに見えるやないですか。
足先まで袋を被せた。
「足あげて」
多華乃さんの膝がぴょんと伸びて、目の前に袋の先が突き出された。
「れいらちゃん、袋の口をくくってくれる」
「これでいい?」
れいらさんはサテン袋の口を絞って結んだ。
「ありがとう」
相変わらずイッくんは袋に入った多華乃さんを左手で抱いたままだった。
つるつるしたサテンの袋を右手で撫でる。
多華乃さんのボディラインがはっきり分かった。
膝、腰、頭。
うわ、そこは多華乃さんの胸。
いくら奥さんやからゆうて、人前でそないに揉みしだいたらアカンでしょ。
「次はこのシュラフ(寝袋)。梢ちゃん、シュラフって知ってる?」
「ええっとキャンプとかで使うモンですよね」
「そう、携帯用の寝具だね。綿が入ってて暖かいんだ。・・これを被せるから手伝ってくれるかい?」
イッくんに指示されてシュラフを今度は多華乃さんの足の方から被せた。
腰の下を通すとき、イッくんは左手に抱いた多華乃さんを持ち上げて通し易くしてくれた。
頭まで被せ終えると、脇のファスナーを上まで閉めた。
「こっちは縄で縛るよ。・・ん? どこかな」
右手で足元をまさぐった。
「れいらちゃん、そっちに紙袋が置いてない?」
「ええっと・・、あった!」
ウチとれいらさんが座るソファの後ろに紙袋があった。
「そこに縄が入ってるから、それでここを縛って。できるだけきつく」
れいらさんはイッくんのソファの後ろに回り、言われた通りにシュラフの口に縄を巻いて縛った。
「二人ともご苦労様でした。後は座って見てね」
ソファに座ったイッくん。
ウチとれいらさんはその反対側に座っている。
イッくんの左手はシュラフ(の中の多華乃さんの腰)を抱いたまま。
「いま、タカノは二重の袋の中。暖かい、というより暑いだろうね。呼吸するのも辛いかもしれない」
右手でシュラフを押さえた。多華乃さんのちょうど顔にあたる部分。
「この中で美女が苦しい思いをしていると考えたら、・・ちょっと興奮するよね」
「イッくん! そういうフェチな妄想してる場合じゃないでしょ! 梢ちゃんも見てるのに」
「え、ウチ? 何のことですか?」
分からないふりをしたけど、二人の会話は何となく理解できた。
じっと我慢してる多華乃さん。たぶん本当に苦しい。
そんな多華乃さんを抱きながら「興奮する」と言ったイッくん。ドSやんか。
「ごめんごめん。イリュージョンに戻ろう」
イッくんは右手でシュラフの口を縛る縄を掴んだ。
「いくよ。・・それ!!」
手前に引いた。
シュラフは腰の位置で二つに折れ曲がった。
「もう一回!」
すぐにシュラフの足先を掴んで持ち上げた。
二つ折りのシュラフが四つ折りになった。
「え」「え」
ウチとれいらさんは揃って声を上げた。
「二人で上から押さえてくれるかい」
言われた通りシュラフを押さえると、空気がしゅうっと抜ける音がした。
シュラフは四つ折りのまま潰れて平らになってしまった。
「えーっ、どうして!?」
「多華乃さんは!?」
二人で騒いでいると多華乃さんの声がした。
「お疲れ様、お茶にしましょ♥」
リビングに隣り合ったキッチンに多華乃さんがいた。
紅茶とケーキを乗せたトレイを持って笑っている。
少しだけ乱れた髪。少しだけ紅潮した頬。
とても色っぽかった。
8.
「いったいどうなってるの!?」
「それは内緒。今のところお客さんが来た時に見せられるのはこのイリュージョンだけだからね」
イッくんはタネを教えてくれなかった。
「あんなにたくさんあったイリュージョンの機材はどうしたの?」
「ほとんど人にあげるか倉庫に入れちゃったんだ。これからまた新しいのを作るよ」
「新居に汚いものを置くなって、三田先生に言われたみたい。私は気にしないんだけどね」
多華乃さんが補足してくれた。
「まあ彼のアパートにいろいろ怪しいモノがあったのは確かね」
「怪しいモノはないだろ、タカノ」「うふふ」
「イッくんはね、何でも自分で作っちゃうんだよ。イリュージョンの道具から吊り床まで」
「スゴイですね! 吊り床って何ですか?」
「あ、ゴホンごほんっ」「・・ちょっと早いかな? 梢ちゃんには」
「???」
いろいろ話をしてイッくんと多華乃さんのことを教えてもらった。
二人は同じ大学で知り合って、一緒にイリュージョン同好会を設立した。勤めるようになってからも仲間と活動を続けている。
マジックの競技会にオリジナルのイリュージョンを出して賞を獲ったこともある。
たまに造形美術教室の子供たちにもイリュージョンを見せてくれているんだって。
「最近はれいらちゃんも参加してくれてるんだ。梢ちゃんはイリュージョンをしてみたいって思わない?」
「やりたいです。ウチもあんなすごいイリュージョンができるようになりますか?」
「できるわよ。私も最初は何も知らなくて始めたんだもの」
「ならウチの親が許してくれたら。あ、日曜日しかダメですけど、いいですか?」
「ぜんぜん大丈夫」
「梢ちゃんを誘おうと思ったのは訳があるの」
れいらさんが説明してくれた。
「三田先生、10月に還暦を迎えるのよ」
「カンレキって?」
「60歳のことだよ」
「先生そんなお歳やったんですか」
「だからお誕生会を企画してるの。そこでイリュージョンも見せようって」
「ははぁ」
「いつもだったらイッくんが多華乃さんとやるんだけど、たまにはサプライズもいいでしょ?」
イッくんと多華乃さん、れいらさん。3人がウチを見て笑っている。
まさか。
「れいらちゃんがものすごく推すんだ。新しく来た梢ちゃんっていう中学生がとてもいい子だって」
「あのウチそんないい子では」
「僕も梢ちゃんと会って思ったよ。是非、誕生会のイリュージョンをやって欲しい。・・タカノはどう?」
「大賛成よ。私も梢ちゃんのことが大好きになっちゃった」
「決まりね。マジシャンはあたし、アシスタントは梢ちゃんだよ!」
れいらさんが宣言した。
どうやらウチはいつの間にかイリュージョンに出ることが決まっていたらしい。
母ちゃん、ウチ、母ちゃんと同じイリュージョンのアシスタントするんやで。怒らんといてな。
「実はこんなのを設計しているんだ」
イッくんはノートに描いた図面を見せてくれた。
スーツケース?の中に膝を曲げて入った女の人のシルエットが描かれていた。
「タカノ用に描いたんだけど、梢ちゃんなら問題ないはずだよ」
「もしかしてウチがこれに入るんですか?」
「そうだよ。それで外から剣を刺すんだ」
「えええ~っ!!」
9.
還暦祝いなんて勘弁してちょうだい。
はじめのうち三田先生はお誕生会を嫌がった。
それでも造形美術教室の卒業生がたくさん来る、保護者の皆さんもお金を出し合って準備してくれると聞いて抵抗を断念した。
「ありがとう! ・・でも赤いちゃんちゃんこなんて着せようとしたら、その場で逃亡するわよ」
母ちゃんはウチがイリュージョンするのを嫌がるどころか大喜びしてくれた。
「三田先生のお誕生日にイリュージョン? 素敵やないの!! それであんた衣装はどうするの?」
「んー、まだ何も決まってへん、と思う」
「マジシャン役はあの高校生の女の子ね? よーし、母ちゃんがまとめて面倒みたげる!!」
母ちゃんはイッくんの携帯の連絡先を聞いていたらしい。
勝手に電話して衣装製作の了解を取り、るんるん楽しそうに準備を始めたのだった。
10.
「スーツケースが手に入ったんだ。サイズをチェックしたいから来てくれる」
次の週、連絡があってウチは一人でマンションへ来た。
イッくんと多華乃さんが迎えてくれた。
さっそくスーツケースを見せてもらう。
「メ○カリで買った中古品なんだ。これをイリュージョンに使う予定」
それは思ったより小さかった。
立てて置いたら腰くらいの高さしかない。
「入ってくれるかい。梢ちゃん」
「あ、はい」
いきなりですか。
ええですよ。そのつもりでスカートやのうてショートパンツ穿いてきましたし。
イッくんが広げたトランクの中にお尻をついた。
「両手は後ろに回してくれるかい」
「後ろですか?」
「そう。手錠掛けるつもりだから」
「てじょう?」
「うん、後ろ手錠。動けないように」
!!
「イサオ! イリュージョン初体験の女の子にそんなストレートな言い方はダメっ」
多華乃さんが叱ってくれた。
「梢ちゃんフリーズしてるじゃない。・・心配しないで、梢ちゃん。マジック用の手錠だから自分で外せるわ」
「身の危険を感じました。ウチは生還できるんでしょうか?」
「んー、大丈夫だと思うよ。しらんけど」
イッくんがのんびり答えた。
ウチの関西人アンテナが反応する。
「あ、今『しらんけど』言いました? ウチも使うチャンス伺ってたんですけど」
「一度言ってみたかったんだよ『しらんけど』。今の使い方でいい?」
「グッドです。イッくん大阪でやっていけますよ」
「ナニアホナコトイッテンネン」
今度は多華乃さんが言った。
「多華乃さん、それは東京のヒトがやると割とスベるんで止めた方がええです。あとイッテンネンやのうてユーテンネンです」
「難しいのねぇ」「ドンマイです」
「ねえ、そろそろ続きをやらない?」
「イッくん人のギャグには冷淡ですねー」
「うふふ。冷たいのも彼の魅力よ」
はいはい、ごちそう様です。
トランクの中で横になった。
身体を丸くして両手を後ろに回す。
「もっと顎を引いて頭を下げてくれる」
「はい」
「あぐらを組む感じで。もうちょっとお尻下げて。・・OK、そのポジションをよく覚えておいてね」
「了解っす」
外にはみ出した髪を多華乃さんが直してくれた。
「大丈夫だね。では蓋するよ」
カチャ。
トランクの蓋が閉じて真っ暗になった。
頭の後ろが押し付けられて痛かった。
ぎゅっと折りたたんだ膝と脛、足の甲も前に当たってキツイ。
狭いやん!
「起こすよ」
ぐらり。
お尻に体重が乗った。
すっと身体が沈んで後頭部に余裕ができた。
足は全然動かせないけれど、少しだけほっとした。
「肩を捩じって、片手ずつ前に出してみて」
ごそごそ。
あ、出せた。
「右手で左の壁、左手で右の壁。触れるでしょ?」
はい、触れます。
「あとはまた両手を背中に戻す」
ごそごそ。
戻せました!
「ここまでできたら問題ないよ。ちゃんと生還できるから安心して」
はい!
「何度も練習して慣れてね。出してって言ってくれたらすぐに開けるから」
分かりました!
11.
「・・梢ちゃーん、大丈夫?」
声が聞こえた。
この声は、れいらさん!?
「はーい、大丈夫ですぅ。れいらさんですかぁ?」
「そうだよー。もう15分くらい経ったっていうから開けるよー」
え? 15分も?
ぐらり。
ウチを閉じ込めていた空間が横向きになった。
カチャカチャ音がして蓋が開く。
イッくんと多華乃さん、それにれいらさんがウチを見下ろしていた。
あ、えーっと。
「じゃーんっ、たった今、囚われの美少女が救出されました!」
あかん、誰も笑てくれへん。
仕方ないので、自分で「えへへ」とごまかして起き上がった。
「大丈夫みたいだね。静かなままだから、ちょっと心配になって」
イッくんが言った。
「ぜんぜん大丈夫です。・・何か馴染んでしもて、ぼおっとしてただけです」
多華乃さんとれいらさんが安心したように微笑んだ。
本当は、女の子を閉じ込めるってこういうことなんかと考えてた。
ちょっとえっちな妄想もしてドキドキした。
でんもそんなん恥ずかしくて言われへんやんか。ウチ純真な中学生やのに。
「そういえばれいらさん、いつの間に来てたんですか?」
「遅れてごめんね。梢ちゃんのお母さんに衣装の採寸してもらってたんだ」
「れいらさんちに行ってたんですか、ウチの母ちゃん」
それで朝からウキウキ出かけて行ったのか。
「面白いお母さんねぇ。あの人から梢ちゃんが生まれたのなら納得だわ」
「変な納得のしかた、せんといてください」
「そうだ梢ちゃんのお母さん、イリュージョンやってたって教えてくれたよ」
「え、そうなの!?」
多華乃さんが驚いた。
「らしいです。ウチも詳しくは知らんのですけど」
「むかし京都にいた頃、かなり本格的なイリュージョンをやってたらしいよ」
「なんでイサオが知ってるのよ」
「前に飲まされたときに聞いたんだ。・・あ、別にわざと教えなかったんじゃなくて、僕は余計なことは喋らないだけだよ」
「む」
多華乃さんはイッくんの首を肘で絞めて押さえ込むと、その耳の後ろをゲンコツでぐりぐりした。
「あれはスリーパーホールド。多華乃さんの得意技だよ」
れいらさんが教えてくれた。
その後イッくんがスーツケースイリュージョンの仕掛けを説明して、皆で進め方を相談した。
途中でれいらさんが「あたしもスーツケースに入りたい」と言い出して入ることになった。
「何時間でも閉じ込めていいよ」なんて言うもんやから「なら駅のコインロッカーにでも預けましょか」って返したら「うわーいっ!」と喜ばれてしまった。
多華乃さんまで「あらそれ素敵」なんて言う始末。
「手錠は?」「いいですねー」
「DID♥」「ですっ!」
もうやっとれんわ。
でも、これだけあけすけに話せるんは羨ましいな。
ウチもさっきスーツケースの中で興奮しましたって素直に告白したらよかったかな。
12.
お誕生会前日の造形美術教室。
子供たちがみんなで飾り付けをしていた。
ウチは湊と一緒にケーキを作っている。
ケーキと言っても食べられない飾りのケーキだった。
ダンボールの大きな筒に模造紙を貼って、その上から色紙で作ったクリームやフルーツをつける。
「姉ちゃんっ。そこはローソクやんか」
「あ、ゴメン」
「ここのチョコプレートはボクがやる」
「ならまかせるで」
「うん」
造形美術教室に来るようになって湊はずい��ん積極的になったと思う。
立ち上がって周囲を見渡す。
手伝って欲しそうな子は・・おらへんな。
それなら部屋の隅に座り込んでちょっとひと息。
明日はいよいよイリュージョンの本番か。
昨夜見た夢を思い出した。
スーツケースに入っている夢だった。
何故か学校の制服を着ていて、後ろ手に手錠を掛けられていた。
この頃、何度も同じような夢を見る。
ウチはいつもスーツケースに閉じ込められていた。
・・またか。
夢の中で考える。
・・それやったら、楽しまな損。
イリュージョンと言われてスーツケースに入ったウチ。
そのままどこかへ運ばれる。
街の雑踏が聞こえる中をごろごろ転がって、静かな場所に置かれた。
コインロッカー!?
スーツケースごと、コインロッカーに収納されたんか。
あの、このスーツケース、女の子が入ってるんですけど。
囚われのヒロイン。DID。
ずっと前からDIDの意味は知っていた。ウチはおませな少女なんや。
おませなウチは絶対絶命のピンチにも憧れる。
もう逃げられへん。どこかに売られてしまう。
そうや、可愛い女の子は拉致られて売られる運命にある。
諦めるってキモチ、ちょっとええと思う。
小さく折り畳んだ身体が動かせない。
もどかしい。もどかしくてウズウズする。
そやけど、このもどかしさに耐えるのが乙女の務めや。
身体じゅうが熱くなる。
「・・梢ちゃん!」
誰かに呼ばれて我に返った。
ウチの顔を覗き込んでいるのは、れいらさんだった。
「梢ちゃんがヒマそうにしてるのは珍しいね」
「ちょっと休憩中です。れいらさんはどうしはったんですか?」
「さっきね、衣装を試着してきたの」
「お~っ、どんなでしたか」
「セクシー! 自分でもびっくりしちゃった」
「母ちゃん、ウチの衣装よりもヤル気出してましたもん」
「恥ずかしいけど、あんな恰好めったにできないから頑張って着るよ。梢ちゃんの衣装は?」
「それは明日のお楽しみです。・・ええっと、あの、つかぬ事を伺いますが」
「はい?」
思い切って聞くことにした。
「れいらさん、こないだスーツケースに入ったでしょ? イッくんのところで」
「入ったねー」
「失礼なこと聞くって怒らんといてくださいね」
「うん、怒らない」
「れいらさんと多華乃さん、やっぱりマゾの人ですか?」
「へ!?」
「あのときのお二人、ドMトークで盛り上がってたやないですか。コインロッカーに預けてほしいとか手錠掛けられたいとか」
「そ、そんなこと口ばしったっけ」
れいらさんが顔を赤らめるのを見たのは初めてやないかな。
「『ICレコーダー梢ちゃん』の異名を持つウチですから間違いありません。あのトーク、なんぼかはノリで言わはった思うんですけど、羨ましかったです。あんな風に性癖を発散する女の人を見たのは初めてでしたから」
「中2のくせに性癖なんて言葉使うのね」
「ウチはおませな少女なんです」
「あははは」
豪快に笑われた。
「いいよ、教えてあげる。マジレスすると多華乃さんはドMだよ。自分でも公言してるわ。旦那様のイッくんはS」
「分かります分かります」
「あたしはMとS両方あるな。お相手によってどちらでも。・・あ、お相手って男性に限らないからね」
れいらさんはそう言ってウインクした。
「梢ちゃんはMだよね」
「あ、ウチはまだ・・」
「スーツケースに詰められて感じてるじゃない。もうみんな気付いてるわよ」
ぶわ。
冗談やなしに顔に火が点いた。
しばらくけらけら笑ってから、れいらさんは言った。
「それでいいんだよ! SとかMとか恥ずかしいことじゃないんだし」
「それやったらお願いがあるんですけど」
「何だって聞いたげるよ」
「これからはウチも多華乃さんとれいらさんのドMトークに参加していいですか? ウチもエロいこと言いたいです」
「そんなこと!? あはは、大歓迎!!」
「ありがとうございます。何かすっきりしました~」
「梢ちゃんて本当に面白くっていい子ねぇ。ますます好きになっちゃった。あたしが三田先生なら絶対にぶちゅ~ってしてるところね」
「ぶちゅう~!?」
13.
三田先生のお誕生会が始まった。
造形美術教室の生徒さん、保護者のパパとママたち、卒業生が何十人も集まっている。
イッくんと多華乃さん、それにウチの母ちゃんもちゃんと揃っていた。
司会のれいらさんが開会を宣言した。
続いてイッくんが卒業生代表として挨拶。・・その直後。
ぱーん!
正面にあったケーキからクラッカーが弾けて紙吹雪が舞った。
「三田先生っ。はっぴぃばーすでーぃ!!」
ケーキが上下に割れて、中から立ち上がったのはウチやった。
母ちゃんの作ってくれた白い衣装を着ていて、手には花束。
ケーキから出て花束を三田先生に渡した。、
子供たちは大喜び。他の人たちからも大きな拍手。
ウチが飛び出したのはケーキの形をしたびっくり箱。
その正体は前日に湊が作ったダンボール製のケーキだった。
これをイッくんがたった一晩で改造してくれた。
クラッカーを取り付けて紙吹雪が飛ぶようにした。
上下に分離できるようにして内部を補強し、小柄な女の子なら収まる空間を用意してくれた。
ホンマ、イッくんって何でもできるスーパーマン。
「ご苦労様!」
花束を渡して戻って来たウチをれいらさんが労ってくれた。
「ケーキの中でドキドキした?」
「はいっ。次にパーティするときは一緒にびっくり箱しましょ!」
「いいわね!」
ウチは皆が集まる前からケーキの中にずっと隠れていたのだった。
お誕生会はそれから子供たちが歌ったり踊ったり、造形美術教室の昔のビデオを上映したりして進行した。
そしてメインイベント。ウチとれいらさんのイリュージョンの時間になった。
14.
れいらさんが衣装を着替えて出てきた。
「うわあ」「れいらちゃーん!!」
「すごーい!」「キレイ!!」
大人も子供もみんなびっくりしてるなぁ。
「みんなー! お姉ちゃんこれから頑張ってマジックするよー。立ち上がったりしないで見てねー」
「はーい!!」
れいらさんは真っ赤なボディスーツとその上に短い黒ジャケットを着ていた。
ボディスーツはハイレグで胸のカットも深い。
バニーガールみたいにも見えるし、白いブーツを履いているからレースクイーンのようにも見える。
エロくて恰好いい。
母ちゃんが「萌える~!!」と雄叫びを上げながら作ったコスチュームだけのことはある。執念がこもってるわ。
何人かのパパが見とれてしまってママから叱られているのもお約束。
さすがにこれを女子高生に着せて小学生の前に立たせるんはええのかと心配やけど、三田先生が手を叩いて喜んでるから構へんのやろうね。
れいらさんが手招きした。さあ出番や。
「マジックをお手伝いしてくれる梢お姉さんです!」
「よろしくーっ」
ウチはスーツケースを引いて出て行く。
あの中古のスーツケースはイッくんが改造して外観が変わっていた。
正面と裏側に細長い穴が6つ。
これはサーベル(剣)を刺すための穴。
ギミックの都合でキャリーハンドルは上げたまま固定。
ウチはお客さんの方に背中を向けると両手を後ろで組んだ。
その手首にれいらさんが手錠を掛けた。
左右に引っ張って手錠が外れないことを示す。
それが済むと、れいらさんはスーツケースを倒して蓋を開いた。
スーツケースの中は仕切り類が全部外されていた。
代わりに蓋の裏に剣刺しのギミックがついて、少しだけ狭くなったけどウチが入るのには問題ない。
うちは靴を脱がせてもらって裸足になり、スーツケースの中に横になった。
膝を引き寄せて身体を丸くする。
簡単な所作やけど、一発で決まるように何回も練習したんやで。
れいらさんはスーツケースの蓋を閉じようとする。と、中身が大きすぎるのかなかなか閉まらない。
蓋にお尻を乗せて座って閉めた。パチンとロックを掛ける。
キャリーハンドルを両手で握り、重そうにスーツケースを立てた。
れいらさんが次に手に取ったのはサーベルだった。
これもイッくんの手作りで、長さ1メートルほど。
銀色のブレード(刃)と手元が束(つか)になっている。
れいらさんはブレードを指で撫でて痛そうな顔をした。
「怖い人は目をつぶってねー」
スーツケースの後ろに立ち、一番上の穴にサーベルの先端をあてがった。
何人かの子供が自分の手を目の前にかざした。
15.
カチャリと音がしてスーツケースが閉ざされた。
ウチはもう外へ出られない。
ぐらり。
スーツケースが立てられて世界が90度回転した。
いよいよここから本番。
ウチはスーツケースの中で深呼吸する。
こんな姿勢やから本当の深呼吸は無理やけど、大切なんは気持ちやからね。
スーツケースの中で身体を捩じった。
背中で手錠を掛けられていた両手を前に回した。
そんなことができるのは、左右の手錠が分離できるからだった。
手錠の鎖は紐で繋がっているだけで、その紐はリールで伸びるようになっている。
前に出した右手で左の壁をまさぐり、そこに6個並ぶレバーを探し当てた。
蓋の裏にはサーベルの一部、ブレードの先端だけが隠されている。
レバーを動かすとスーツケースの蓋の穴からその先端が突き出る仕組みになっている。
一方、れいらさんが持つサーベルは、スーツケースの穴に押し込むとブレードが縮んで束の中に収まる仕掛けになっているのだった。
「・・スチール製のメジャーがあるだろう? あれと同じ構造だよ。ブレードは硬いように見えて実は巻き取られてるんだ」
「?」「?」「?」
ウチもれいらさんも、一緒に聞いていた多華乃さんも、イッくんの説明はさっぱり理解できなかったと思う。
理屈は分からんでも、効果は分かった。
後ろからサーベルを押し込むのに合わせてレバーを操作したら、お客さんにはサーベルがスーツケースを貫通したように見える。
大切なのは二つ。
二人のタイミングを合わせること、それから6個ある穴の順序を間違わんようにすること。
それさえ守ればバッチリのはずや。
れいらさんが最初の穴に1本目のサーベルを押し当てた。
コツン。
スーツケースの中に音が響く。
ウチは1秒待ってレバーを下げた。
これでサーベルの先端がにょっきり顔を出したはず。
2本目、3本目。
ウチは順番にレバーを操作した。
後で聞いたら子供たちとパパママたちはビックリしていたらしい。
ウチが本当に刺されたって思った子が多かったんやて!
うわぁっ嬉しいぃ、って叫んでしもたよ。
4本目、5本目、6本目。
全部のサーベルがスーツケースを突き通った。
れいらさんはそのスーツケースをくるりと回してお客さんに全体を見せた。
今度は後半。サーベルを抜く演技になる。
レバーを逆の向きに動かせばブレードの先端が引っ込み、同時にれいらさんがサーベルを引き抜いたらええんやけど、実はこれはけっこう、ちゅうか、かなり難しい。
前半でサーベルを刺すときは、れいらさんがサーベルを押し当てる音を合図に、少し遅れてレバーを動かせばよかった。
「・・でも、抜くときに少し遅れるのは困るんだ。ちょっと考えたら判ると思うけど」
「?」「?」「?」
またしても女性3人はイッくんの説明を理解できなかった。
「後ろで引き抜いてるのに、前に出ている先端がそのまま残っているのは不自然だよ。あれ?って思われてしまう」
「そうか」
れいらさんが気付いた。
「前も後ろも同時じゃないといけないんですね」
イッくん細かい。でもその通りやな。
ウチとれいらさん、スーツケースの中と外でタイミングを完全に合わせないといけない。
何か合図が要る。でもどうやって?
イッくんのアイデアは単純やった。
「それならお客さんに合図してもらおう 」
16.
子供たちに向かってれいらさんが呼びかけた。
「みんなー、梢お姉さんが穴だらけになっちゃいました! 助けてあげたいですか?」
「助けてあげたーい!」
「じゃあ、この剣を抜きまーす! 何本抜かなきゃいけないかしら?」
「ろっぽん!!」
「1本ずつ抜くから一緒に数えてくれるー?」
「はーいっ」「数えるー!」
「数え間違ったり、声が揃っていなかったりしたら、梢お姉さんは死んじゃうかもしれないよ?」
「だめー!」「やだあっ!!」
「じゃあ練習しよう! いい? せーのっ、いーち、にぃーい・・。ああぁっ、ダメダメ揃ってないっ。もう一回!」
全員が揃って1から6まで数えられるまで練習させた。
「いくよ? せーの!」
「いーっち!」
れいらさんがサーベルを引き抜くと同時にブレードの先端が引っ込んだ。
「にぃーい!」
子供たちの声が響く。リズムもペースも綺麗に揃っていた。
「さーん!」
どんどんサーベルが抜けて行く。
「しいー!」
あと2本!
「ごぉー!」
これで最後!!
「ろぉーっく!!」
「はーい! 全部抜けたねー! 梢お姉さんは無事かなー?」
スーツケースを横に倒して、ロックを解いた。
カチャリ。
横になっていたウチが身を起こした。
「うわー!!」「あれー!?」
白い衣装がピンクに変わっていた。
立ち上がって一回転して見せた。
どうかな? 母ちゃんの作ってくれた早変わり衣装。
可愛いでしょ?
れいらさんに手錠を外してもらう。
小声で言われた。
「知らなかったよ。びっくり!」
「えへへ。黙っててスミマセン」
二人並んでお辞儀をした。
三田先生が駆け寄って来た。
「すごいすごいすごい!! どきどきしちゃった! ありがとう!!」
イッくんも来て握手してくれた。
「やられたよ。衣装チェンジとはね」
もう一度拍手を浴びながら皆でお辞儀した。
お客さんの中に母ちゃんと湊が座っているのが見えた。
湊は黙ってサムズアップしてくれた。
あんた、どこでそんなゼスチャー覚えたの。格好ええやんか。
ウチも笑って親指を立てて返す。
すると母ちゃんまで指を立ててウインクした。
母ちゃんっ、指が違う.
立てるのは中指やのうて親指やちゅうねん。
17.
それから二週間経った夜。
ウチと母ちゃん、れいらさん、イッくんと多華乃さん夫妻、そして三田先生がレストランの個室にいた。
三田先生がお誕生会のお礼にと招待してくれたのだった。
「ウチ、フレンチなんて初めて」「あたしもです!」
「お箸で食べるフレンチ、いいですねー」
「友人のお店なの。形式張らずに楽しんでちょうだい」
ワインとノンアルコールのスパークリングで乾杯。
「あら、あなたたちもノンアル?」
先生がイッくんと多華乃さんに聞いた。
「僕らは後でいただきます。今は、ちょっと」
「彼、リベンジする気なんです」
多華乃さんが言った。
「タカノ、いきなり言う?」
「いいじゃない。頑張るのは私だよ?」
「あ、ぴぴっと来たっ。イリュージョンするんでしょ!」
れいらさんが言った。
イリュージョン!?
「この人、梢ちゃんの衣装チェンジに全部持ってかれたこと未だに根に持ってのよ。子供みたいでしょ? うふふ」
「そんなことはないよ。僕は」
「うん、イッくんってそうだよね」「分かるわ」「イッくん、ホンマですか?」
「ぼ、僕は・・」
「あま���イサオを苛めないであげて。その分、私が彼に苛められるんだから♥」
謎めいた微笑の多華乃さん。
他のみんなは笑っている。母ちゃんまでウンウンって頷いて。
まさかこの二人、ムチとローソクでSMプレイしてたりする?
18.
「ええっと、やろうか」「はい!」
イッくんと多華乃さんは席から立ちあがった。
一度出て行って戻って来た。
持ってきたのはあのスーツケースと紙袋。それからサーベル、ではなくて金属の細い棒。
「先日とは趣向を変えたスーツケースイリュージョンをやります。・・これは」
イッくんはそう言って金属棒を持って水平に構えた
「ステンレスの丸棒です。直径5ミリ、スーツケースの穴をぎりぎり通る太さです。先端を円錐形に削り出しました」
イッくんはスーツケースを床に倒して蓋を開いた。
れいらさんが黙ってウチの肩を叩いた。それから開いた蓋の裏を指差す。
!!
あの剣刺しのギミックがない。
蓋の裏に張り付けられていた黒いパネルのような仕掛けがなくなっていた。
6個の穴がはっきり見えた。
多華乃さんがさっとシャツを脱いだ。
ブルーのスパッツ。その上は黒いブラだけ。格好いい!!
スーツケースの中に入って膝をついた。
そのまま身体を逆海老に反らしてスーツケースに収まる。むちゃくちゃ柔らかいやないですか。
イッくんが多華乃さんの肌を撫でる。ああ、また。
「あら♥」「まぁ♥」
嬉しそうな声を上げたのはウチでもれいらさんでもなく、三田先生と母ちゃんだった。
イッくんはにやりと笑うと蓋をぱたんと閉じた。
すかさずスーツケースを立てて起こす。
紙袋から縄束を出してスーツケースに巻きつけ、荷物みたいにきりきり縛った。
れいらさんがウチの耳元でささやいた。
「多華乃さん、頭下向き」
ホンマや!
あのポーズで逆立ち?
イッくんはスーツケースの後ろでステンレス棒を水平に構えた。
「前後の穴を一発で通すのが難しいんだ。・・練習の成果をご覧あれ」
息を整える。
いきなり穴に突き刺した。合図も何もしなかった。
反対側の穴から棒の先端が飛び出す。
すぐに引き抜き、別の穴に突き刺した。
抜いては刺してを何度も繰り返した。
むちゃくちゃ速かった。
今度はステンレス棒を6本、スーツケースの横に並べた。
まず1本を突き刺した。
すぐに次の1本を持って突き刺した。
立て続けに全部の棒を刺してしまった。
「・・おっと失礼」
テーブルにあった紙ナプキンで、一番下の棒の先端を拭いた。
ナプキンが血に染まったみたいに赤くなった。
ひょえー。
ウチらのイリュージョンより迫力ありまくり!
多華乃さんがどうなっているのか想像できなかった。
ぎちぎちに縄で縛ったスーツケースの中で、無理なポーズで逆立ちで。
「では助けてあげましょう。彼女が無事でいるかどうか心配です」
ステンレス棒を全部引き抜き、スーツケースの縄を解いた。
床に寝かせて蓋を開ける。
入ったときと同じポーズの多華乃さんが現れた。
ぐったりしているみたいやった。
イッくんが多華乃さんの背中に手を当てて起こした。
血!!
多華乃さんの胸と脇腹から真っ赤な血が流れていた。
ええ!!
まさか、大怪我!?
れいらさんも驚いて固まっている。
「・・ええっと、残念ながらイリュージョンは失敗したようです。妻は天国へ旅立ちました」
ガタ!
立ち上がったのは母ちゃんやった。
自分のナプキンを掴むと、二人に近づいて多華乃さんのお腹をごしごし擦った。
「ひ、・・きゃはははっ」
多華乃さんが身を捩って笑いだした。
「あーん、ごめんなさい!!」
「あんたら、やりすぎ! これ、ケチャップでしょ?」
母ちゃんが言う。母ちゃんの目も笑っていた。
「恐れ入りました」
イッくんが謝った。
「最後まで騙せると思ってたんですけど、さすがですね」
「昔よく使ったわ。匂いで分かるからお客さんと近いときは注意が必要なの」
「勉強になります」
19.
食事が済んで、三田先生がイッくんに聞いた。
「さっき、もし桧垣さんに見抜かれなかったらどうするつもりだったの?」
「そのときは蘇生措置をして生き返らせる予定でした」
「ウソ。スーツケースに入れて持って帰るって言ってたじゃない、イサオ」
「そっちの方がよかったかな?」
「そうね。私はまる1日詰められてもイサオのためなら耐えるわよ♥」
「多華乃ちゃん」「はい?」
三田先生がいきなり多華乃さんの頬を両手で挟んでディープキスをした。
「ん! んんん~っ!!」
「素敵よ、その心がけ。でも新婚だからってサービスしすぎると、彼、図に乗るわよ」
「はぁ、はぁ、・・はい」
「次は、」
三田先生が顔を向けたのは・・、ウチやった!
「一番頑張ってくれた梢ちゃん♥」
「は、はい」
ウチは顔を近づけてくる先生から逃げられなかった。
「本当に、一番お礼を言いたかったのはあなたなの」
「うわ♥」れいらさんの歓声が聞こえた。
「これからも、お願いね」
ちゅう。
マウスツーマウスでキスをされた。
女の人相手で快感やったというと変態みたいやけど、本当に気持ちよくてうっとりしてしまった。
ウチは皆が見ている前で60歳のおばちゃんにファーストキスを奪われたのだった。
・・それからウチは長いことイリュージョンの活動をすることになった。
イッくん夫妻とれいらさんにはまだ秘密があったけど、それを知るのはずっと先のことだった。
────────────────────
~登場人物紹介~
桧垣梢(こずえ):14歳、中学2年生。一人称は『ウチ』。
桧垣湊(みなと):8歳、小学2年生。梢の弟。造形美術教室の生徒になる。
桧垣純生(すみお):46歳。梢と湊の母ちゃん。旧姓鈴木。
三田静子:60歳。小学生向け造形美術教室の指導者。嬉しいと誰が相手でもキスする癖がある。
玻名城(はなしろ)れいら:17歳、高校2年生。造形美術教室の卒業生で教室を手伝っている。
酒井功:25歳。造形美術教室の卒業生。趣味でイリュージョンをやっている。通称イッくん。
酒井多華乃(たかの):25歳。功の新妻。身体が柔らかい。
4年前に書いた 多華乃の彼氏 と 多華乃の彼氏2 での仕込みをようやく回収しました。
仕込みとは、造形美術教室の先生の名前を三田静子にしたこと、そしてイッくんが京都に行って人間くす玉をクレクレしたことです。
大抵の場合、回収方法はまったく考えずに執筆時のノリだけで仕込むので、そのまま放置で終わることも多いです。
今回はAIで作成したイリュージョン絵(=スーツケースに女の子が入って笑っている絵)が中学生のように見えたことから、この女の子を純生さんの娘にして仕込みを回収することにしました。
純生さんと三田先生のエピソード(純生さん中学3年生のとき)は『三田静子』をサイト検索すれば出てくるはずなので興味のある方はお読みになってください。
今回のイリュージョンは3つ。
イッくんのマンションでやった袋詰めからの脱出は、現実に演じることが可能と想定しています。
ただし、あの部屋(正確にはソファと隣接してキッチンがある)かつ観客が少人数でないとできないので、舞台で演じるには向きません。
袋の上から多華乃さんのボディを撫でまわすのは夫婦のイリュージョンだからできることですね。
梢ちゃんのスーツケースイリュージョンは、前記の通りスーツケースに入った女の子をAIに描かせたので、それなら剣を刺してしまえと考えたものです。
ダンボールの剣刺しはよく見かけるイリュージョンですが、スーツケースは珍しいかもしれません。
サーベル回避のギミックは、これならできそう?というものをイッくんに考えてもらいました。
刺すときと抜くときのタイミングの相違は作者のこだわりです。お読みの皆さまには面倒くさかったら申し訳ありません。
梢ちゃんのスーツケースで仕掛けを凝ったので、多華乃さんのスーツケースは一切ギミックなしの命がけです(笑)。
ダンボールよりはるかに狭いスーツケースの中、軟体ポーズでその上逆立ち。いったいどうやって6本のステンレス棒をすり抜けたのでしょうか?
最後に母ちゃんが止めたのは本当はルール違反です。
元プロだから分かっているはずですが、レストランで血まみれは悪乗りが過ぎましたね。
本話の最後で梢ちゃんの今後を示唆しました。
イッくん夫妻とれいらちゃんの秘密とは、もちろん 前話 で描いたあの趣味です。
梢ちゃんがどんなM少女に育って行くのか作者の私も楽しみです。
挿絵は今回もすべてAIで生成して一部手修正を施したものです。
一番うまくできたのはれいらちゃんのマジシャン姿。やはりAIは単純な立ちポーズなら簡単です。
ここのところAIに描かせた絵にストーリーをつける小説が続きましたが、次回以降はストーリーを先に考えて挿絵をつける従来の手順で進めたいと思います。
しばらく時間が開くと思いますが気長にお待ちください。
最後に小説ページの体裁について。
tumblr の入力エディタが更新され、従来の入力方法(HTML入力)が使いモノにならなくなりました。
大きな変化がないように努めていますが、一部違和感があるのはお許し下さい。
(例えば、後書き前の区切り線が引けない~泣)
それではまた。
ありがとうございました。
[Pixiv ページご案内]
こちら(Pixiv の小説ページ)に本話の掲載案内を載せました。
Twitter 以外にここからもコメント入力できますのでご利用ください。(ただしR18閲覧可能な Pixiv アカウント必要)
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【小説】JOKER 第一部
プロローグ
〈1〉
深夜零時。
ロレックスに目を落とした緒方進(おがたすすむ)はブリーフケースを手に、生ぬるい海風を受けながら水銀灯の明かりで照らされた新庄市郊外の公園に立っている。
海に面した絶好のデートスポットなのだが、残念な事に交通の便が悪い上に駐車場すらなく、昼間でも子供でさえロクに遊びに来る事が無い。
緒方の両隣りに二人、公園の入り口と四メートル道路に停めたベンツに運転手代わりが一人貼りついている。
全員原色のスーツに金ネックレスならプロ野球選手の夜遊びと言えない事も無いだろうが、広域指定暴力団矢沢組の組員は落ち着いたビジネススーツが常だ。
そしてブリーフケースには二百万円分のメタンフェタミン――覚醒剤が入っている。
取り引き相手は調子に乗っている街の半グレ。
昔で言うストリートギャングだ。
半グレと言っても若者ではない。若い頃にやんちゃをしたがいいが足抜けに失敗し、ヤクザになる器量も無いチンピラだ。
麻薬が若者に蔓延している、というのは半分正解で半分間違いだ。
昨今の若造は非正規労働などで麻薬に金を渋るどころか、タバコにさえ金を落とさない。
麻薬を使っているのは女を薬で縛って風俗で働かせるか、末端の構成員を薬で縛り付けるかのどちらかだ。
スポーツ選手や芸能人は大金を落とすが、それは表沙汰にしない為の口止め料としての意味合いが強く、普通に流通している薬はそこまで高くない。
そんな価格設定をしたら麻薬依存症患者は年収五千万円以上に限られてしまうだろう。
そしてスポーツ選手や芸能人などの成り上がりはともかく、そんな高所得者は基本的に麻薬など嗜む事は無い。
麻薬というのは貧乏人を貧乏人に縛り付け、思うがままに操る道具なのだ。
緒方がそれでも月収に相当する額のブリーフケースの重みを感じていると、年甲斐もなくスウェットを来た男が軽のワゴンで公園に乗りつけた。
逆向きにかぶった野球帽はヤンキースなのに、スウェットはボストン大学という統一性の無い男の後ろに三人の若造が続く。
間違いなくアメリカのストリートギャングを意識しているが、残念ながらエミネムにもJAY-Zにも見えない。
オーバーサイズの服をだらしなく来た日本人だ。
「緒方さん、金持って来ました」
ヤンキース帽がポケットから雑に札束を出して見せる。
それでクールだと思っているのだからタチが悪い。
「ブツはある」
緒方が顎をしゃくると若い衆がヤンキース帽の札束を確認する。
帯どめしてある訳でもなく、おおよそでしか金額は分からない。
しかし、金額が違っていれば差額を血肉で支払う事になる事はヤンキース帽も理解しているだろう。
若い衆がざっと金を数えた所で、水銀灯の下にトレンチコートの男が忽然と姿を現した。
紫色のどぎついトレンチコートに西洋風のピエロのマスク。
「ハッピー、ハロウィーン」
おどけたような合成音声が響いた時、緒方は背筋から嫌な汗が滲むのを感じた。
遭遇するのは初めてだが、ヤクザや半グレをターゲットにしたハッピートリガーの噂は緒方も聞いた事がある。
トレンチコートに突っ込んだ手が引き抜かれた瞬間、銃声と共に足下と背後の遊具で火花が爆ぜる。
「緒方さん!」
若い衆の一人が銃を抜いてピエロ――ジョーカーに応戦しようとする。
ジョーカーのトレンチコートが開いて、内側から映画でしか見た事の無いショットガンより大振りな銃器――グレネードランチャーが姿を現す。
「ハロウィーン? 失敬、まだ五月だ」
ジョーカーのグレネードが火を噴くと同時に地面が爆発して公園に身体が投げ出される。
半グレがへっぴり腰で公園の外に出ようとした瞬間、ジョーカーのもう一方の手に自動小銃が握られていた。
「屋根よぉーり高い、鯉のーぼーりー」
自動小銃が瞬き、公園の出口付近に無数の弾丸がばら撒かれる。
隙を突いて緒方は裏手に停めたベンツに向かって走る。
初対面とはいえ、こんな火器を狂ったように撃ちまくる狂人を相手になどしていられない。
自動小銃が向きを変え、ベンツの防弾ガラスに傷が穿たれる。
それでも緒方がベンツに戻る間に、半グレの連中は軽のワゴンに向けて疾走している。
ジョーカーのグレネードがベンツに向けられる。
助手席に転がり込んだ緒方は叫んだ。
「出せ!」
猛スピードで走り出すベンツをジョーカーは追って来なかった。
緒方はあの猛烈な砲火の中、生き延びた事を奇跡のように感じていた。
〈2〉
午後八時。
没個性的なダークスーツに身を包んだ三浦清史郎(みうらきよしろう)は新庄市駅前にある新庄商店街の場末のバー『サイレントヴォイス』を訪れている。
新庄市は首都圏のベッドタウンとして栄えている太平洋に面した、人口八十万の町だ。
駅前の商店街では二百を超える店舗が活況を呈しており、湾岸という事もあり工場地帯も存在する。
耳に心地よいJAZZが流れる中、清史郎がショットを二杯開けた所でパリッとしたスーツを粋に着こなした慶田盛弁護士事務所の慶田盛敦(けだもりあつし)が現れた。
互いに若手と呼ばれる頃に知り合い、今では二十年の付き合いになる。
「待たせたようだな。今幾つか案件を抱えていてね」
慶田盛弁護士事務所は警察の冤罪事件を扱う事で、その道では知られている弁護士事務所だ。
日本では警察が立件した裁判では99%の確率で検察が勝利している。
その検察がでっち上げたものを、証拠を積み上げ無罪に、更には真犯人を警察に突き出して解決する。
それが慶田盛弁護士事務所の仕事であり、清史郎の三浦探偵事務所は裁判の為の情報である事件の調査依頼を受けている。
売れ筋である浮気調査などはしていない為、懐には常に隙間風が吹いている。
「最近はこっちも忙しくてね」
清四郎はスコッチを注文した慶田盛とグラスを合わせる。
『サイレントヴォイス』のマスターは、以前ヤクザに恐喝されていた所をジョーカーに扮して助けたという経緯がある。
もっとも通い続けて十五年だから隠す事もありはしない。
気のおけない古い友人のようなものだ。
「吉祥寺の死体遺棄事件の件は進展はあったのか?」
吉祥寺の死体遺棄事件とは、富山純也二十五才宅で、川上千尋二十二才が自傷行為で死んでいたというものだ。
死後二日後に近所の人間に通報された事から、警察は富山を死体遺棄事件の容疑者として逮捕。書類送検した。
富山は無罪を主張し、慶田盛弁護士事務所に泣きつき、慶田盛が三浦探偵事務所に調査を依頼したのだ。
「川上は富山と同棲していた。富山の証言では自傷行為など考えられない」
同棲していた富山が被害者の死亡時に出張で家を空けていた事はアリバイとして記録に残っている。
「それは本人から直接聞いている」
慶田盛の言葉に清史郎は頷く。
「川上は都内の建築会社で事務をしていたが、実は裏で足つぼマッサージをしていた。これは歩合給で明細書も無い手渡しだ。小遣い稼ぎには丁度良かったんだろう」
清史郎は店舗の写真を慶田盛に見せる。
富山も都内の広告代理店に勤務していたが収入はお世辞にも良いとは言えず、川上としては将来を考えても副収入が欲しかったという所だろう。
その辺りの事情はマッサージ店の同僚から聴取住みだ。
「富山は言っていなかった。どうやって調べたんだ」
慶田盛が驚いた様子で写真を手に取る。
「足で稼いだんだよ。で、マッサージ店には川上に執着している、大野正則という客がいた。この男は二十歳でコンビニでアルバイトをしていたが、その給料のほとんどをマッサージ店の指名につぎ込んでいる」
清史郎は大野と、彼がコンビニで働いている写真を見せる。
大野という男が川上に執着し、横恋慕していた事は他の店員からも話が聞けている。
「じゃあ、そいつがストーカー化して川上を殺したのか?」
やりきれないといった様子で慶田盛がスコッチに口をつける。
「このコンビニには別に野原椎名という二十五才のアルバイト店員がいる。この女は大野と交際していると公言しており、ストーカーの気質もあるようだ。大野は全面的に否定しているけどな」
清史郎は野原と、野原が大野を尾行している写真をカウン���ーに乗せる。
追っている者は追���れている事は忘れがちなものだが、大野が川上を付け回し、その大野を野原が追い回していたという訳だ。
そして道ならぬ恋に破れた野原は凶行に出た。
「じゃあ、野原が大野と川上の関係を勘違いして……」
話を整理するようにして慶田盛が言う。
「川上の切創は手首と腕に集中している。これは自傷行為というより防御創だ。更に他に傷跡も無い事から自傷行為の常習という事も考えられない。仮に大野が殺したとするなら、体格差から刺殺になった事だろう。つまり傷跡から考えても同程度の体格の相手から切り付けられたと考えないと成立しないんだ」
警察から入手した傷跡の写真には古い傷跡は一つも無い。自傷行為が常習性を持つという事を考えれば自殺の線は消えたと考えていい。
「川上は外に助けを求めに出ようとは思わなかったのか?」
「手のひらも切られていたんだ。普通の神経ではドアノブを握る事もためられただろうし、本人も富山が帰ってくれば助かると思ったんだろう」
富山は残業や出張が多く、帰宅時間は一定していなかった。
富山が出張を被害者に伝えていなかった事も証言から明らかになっている。
清史郎は資料の束を慶田盛に渡す。
「毎度仕事が早くて助かるよ。これで検察の容疑を晴らして真犯人を起訴できる」
慶田盛が満足そうに言う。探偵業をしていて良かったと思える一瞬だ。
「で、娘の学費の件なんだが……」
清史郎は慶田盛に話を切り出す。
大学を卒業してすぐに結婚し、娘ができて半年と経たずに妻が離婚を申し出た。
不倫である事は分かっていたが、彼女の名誉の為に黙って養育費を受け入れた。
とはいえ、慶田盛弁護士事務所の依頼者の多くは金銭的に厳しい者が多く、その仕事を更に下請けする三浦探偵事務所の実入りはとても良いとは言えない。
一年で五十件の冤罪事件を解決した年もあったが、その年の収入でさえ四百万を少し上回る程度だったのだ。
テナント料と養育費を払ってしまえば食費もロクに残らない。
半ば商店街の好意で事務所を置かせてもらっていると言っても過言ではない。
そしてようやく養育費を払い終わったと思ったら、元嫁が娘の学費を請求して来たのだ。
慶田盛いわく法的には支払いの義務は無いとの事だが、娘を大学に進学させてやりたいという思いはある。
「示談にするのが一番じゃないか? 向こうも本気で学費を巻き上げられるなんて思ってない」
「敏腕弁護士が中途半端な事を言うじゃないか」
「君の元奥さんは金が欲しいだけで最初から娘を大学に行かそうなんて思っていない」
慶田盛の言葉に清史郎は石を飲んだような気分になる。
「私が支払うと言えば嫌でも大学に行かせなくてはならなくなるだろう」
元嫁に対する愛情など欠片も無いが、娘に対する愛情は残っている。
「そんな金が君のどこにあるって言うんだ。夕食を場末のバーボンで済ませる男の食生活がこれ以上荒むのは見るに堪えない」
慶田盛の言葉に清史郎はため息をつく。
確かに慶田盛の言う事に間違いは無い。
――あの女のせいで自分も娘も……――
ジョーカーとして稼いだ金を出せば解決可能だが、帳簿に乗らない金を出したなら国税局に乗り込まれる事になる。
結局私生活は何一つ変わっていないのだ。
「しばらくしたら仕事の量を増やすさ」
ジョーカーを演じ始めたのは与党と矢沢組が推し進める新庄市再開発計画を阻止する為だ。
その行方を占う知事選挙が四か月後に控えている。
「もう歳なんだ。いい加減町を騒がすハッピートリガーなんてやってられないだろう」
「これはそこいらの冤罪なんてモンとは次元が違う。新庄市に生きる人々の生活がかかっているんだ」
清史郎が言うと慶田盛が苦笑する。
「相変わらず正義感だけは人一倍だな」
「皮肉を言うならお前も大手の弁護士事務所に転職したらどうだ?」
清史郎の言葉に慶田盛が笑みを浮かべる。
「それこそ真っ平だ」
清史郎は笑みを交し合うとグラスの底に残ったバーボンを飲み干した。
慶田盛も自分も世間で言う所の真っ当な大人にはなりきれていないのだ。
〈3〉
今年で二十七才になる円山健司はマンションの部屋のボタンを適当に押していた。
『はい、どちら様ですか』
「amazon様からの御届け物です」
本物のamazonの箱を抱え、配達員の服装をしているのだから疑う者も無いだろう。
――注文客以外は――
マンションのオートロックをパスしようと思ったら、住人について行くのが一番手っ取り早い。
しかし、それ以上に手堅いのが郵便物の配達員になりすますという方法だ。
amazonであればほとんどと言って良い人間が利用しており、世帯主では無くてもファミリー向けマンションなら家族が注文している可能性もある。
そしてオートロックをパスしてしまえば、実際にその部屋にものを届ける必要など無いのだ。
健司はオートロックをパスすると非常階段で配達員の服装を箱に収め、ビジネススーツに身を包んだ。
どこに居ても違和感を感じさせないという点で、ビジネススーツはほぼ最強のアイテムと言える。
健司は時刻が二十二時になるのを待って、十四階の廊下にクリスマス用のランプを天井から垂れ下がるように飾り付けた。
全て両面テープで一瞬で剥がせるようにしてある。
更に待つ事一時間、程よく酔ったスーツ姿の男がエレベーターから出て来る。
健司は息を飲んで男の背後につけ、クリスマスの飾りつけを一斉に点灯させる。
男の胡乱な目と意識が飾り付けに向いた瞬間、健司は男の両足を抱えるようにして廊下から外に向かって放り出していた。
悲鳴を上げる間も無く、鈍い音が階下から響く。
八階以下なら死亡の確認も行うが、十四階で生きている事はまず無い。
飾り付けの一方を引っ張って仕掛けを回収し、箱に収めてエレベーターで悠々とマンションを後にする。
明日には会社員自殺の報が流れるかも知れないし、流れないかも知れない。
いずれにせよ、目的を果たした健司は『殺し屋』へと足を向けた。
『殺し屋』は歌舞伎町の風俗ビルの一室にある。
夜更かししてまで仕事をする気は無い為、殺し屋と書かれた看板の電源を入れ、のれんをかけるのは明日の朝九時になってからだ。
ボックス席が二つにカウンターが六脚。
お品書きには殺し方のメニューが書かれている。
客はその中から死因や死体の放置の有無などを選択し、健司は見積もりを出してターゲットを殺す。
ごくごくシンプルなビジネスだ。
今日のターゲットはヤクザに貸し渋りをした銀行の支店長で、死因は自殺で死体は放置で良いという事なので仕事としては楽なものだった。
とはいえ、調査に四日かけて二百万の報酬。
ヤクザが稼ぐ額に比べれば雀の涙だが、踏み倒される事を考えれば前払いでささやかに仕事をする方が余程いい。
殺し屋も楽な仕事ではないのだ。
〈4〉
渋谷のクラブ『クイーンメイブ』で、三浦清史郎は所在無げに立っていた。
本日のDJはKENこと前田健だ。
アップテンポのR&Bと若い男女の支配する空間で、中年の疲れたサラリーマンといった体の清史郎は明らかに浮いている。
健がボックスのVIP席を用意してくれているが、一人でそんな所に座っていても落ち着かないだけだ。
健のパフォーマンスが一段落した所で、清史郎は二十歳過ぎのTシャツにデニムのショートパンツといった服装の女性に声をかけられた。
「ジョーカー、何疲れてんの?」
「仕事とここの空気のダブルパンチだ」
声をかけて来たのは長い髪を茶色に染めた飯島加奈というコンビニの店員だ。
快活な女性で、見ている限り店長より仕事をテキパキとこなしているように見える。
仕事さえ違えば有能なのかも知れないが、このご時世では仕事があるだけでも儲けものだ。
「ノれば楽しいって」
加奈がしなやかな身体を動かしてダンスらしきものを踊って見せるが、清史郎には真似をする事もできそうにない。
「俺の頃、ダンスは学校の授業に無かったからな」
清史郎はカウンターでアーリータイムズを注文する。
酒屋ではボトルで買っても千円程度なのに、クラブではショットで四百円取られるのだから暴利もいい所だ。
「私の頃だって無かったってば」
加奈がカシスオレンジを注文しているとパフォーマンスを終えた健が近づいて来た。
「どォよ、俺のパフォーマンスはよ」
「毎度疲れるよ」
清史郎は肩を竦めて答える。
「釣れねぇ態度、クイーンはどうだった?」
健が加奈――クイーンに話題を振る。
「いいんじゃない? ここではナンバーワンなんでしょ?」
楽しんではいたが加奈もDJの良し悪しは良く分かっていないようだ。
「だろ? 俺、最高にクールだったよな?」
言って健がスクリュードライバーを注文する。
健だけは店舗でDJをしている為にドリンクが無料だ。
「センスがいいのは認めるけど、ここのクラブで一番でも他所で一番って事にはならないから」
ぴしゃりとした口調で加奈が言う。
「これだけで食っていけるとは思ってねぇよ」
悄然とした口調で健が肩を落とす。
DJを優先している為、不規則な生活の彼は普段は日雇いのバイトをしている。
全員が飲み物を手にした所でダンスフロアを横切ってボックス席に向かう。
「に、してもよジョーク、昨日のヤクザ連中のビビりっぷりは最高だったな」
楽しそうな口調で健が合皮のソファーに腰を下ろす。
「エースは機械いじってただけでしょ? 仕込みをしたのはあたしとジョーカーなんだから」
加奈が健――エースを叱責するような口調で言う。
「俺は俺で神経使ってんだって。第一お前らだけじゃWi-Fiのクラッキングもままならねぇだろ」
「その危険地帯にジョーカーが踏み込んで機材を仕掛けてるんじゃない」
清史郎はITに関しては門外漢だが、昔ながらの盗聴や盗撮、ピッキングといった技術は職業柄身につけている。
しかし、大手の情報企業と契約していない為、早いという利点は存在しない。
現在一般的な興信所は大手情報企業と契約しており、端末の通信履歴からクレジットの支払い履歴まで二十万円から六十万円でパッケージで購入している。
ETCの履歴まで買えるのだから、全て現金で賄い、更に携帯電話もスマートフォンも持たないので無ければ市民の生活は筒抜けだ。
だが、情報企業に頼るという事は、利害が密接に絡んでいる対象を調査できなくなるという事も意味している。
従って検察を敵に回している清史郎は情報企業を利用できないのだ。
その清史郎がジョーカーという仕事をするに当たって健をスカウトしたのは、単にDJは複雑な機材を器用に使っているという思い込みだけだった。
最初はヤクザに嫌がらせをするただの乱射魔演出という構想だったのだが、健のITスキルが想像以上に高く、健の元同級生で実務能力に長けた加奈が加わり、神出鬼没のハッピートリガー、ジョーカーが誕生する事になったのだ。
「そこはWINWINじゃね? 俺の真似は二人ともできないんだろ?」
勝ち誇った様子で健が笑みを浮かべる。
「現金回収したの私なんだからね」
封筒を手にした加奈が健に向かって言う。
昨夜のヤクザの取り引きでジョーカーが登場した時、どさくさに紛れて半グレの落とした金を拾ったのは加奈なのだ。
「で、幾らになったんだよ」
「がっつかないの。バラけてたので百十一万。ジョーカーが三十一万でいいって言ってるから四十万」
「あざーっす!」
健が笑顔で加奈から封筒を受け取る。
「に、してもボれぇよな。俺なんて一日工事現場で働いても七千円だぜ」
「私だって八時間みっちりシフト入って八千円行かないんだから。あんたは税金の天引きが無いだろうけど、私はガッツリ取られるんだから」
加奈が小さくため息をついて言う。
「私は確定申告で青息吐息だよ」
清史郎は苦笑を浮かべる。
本業の探偵は労力の割に儲かっているとは言い難い。
その中で臨時でも帳簿に乗らない収入があるのはありがたい事だった。
「ジョーク、辛気臭ぇ話は無しにしようぜ! 今日は俺のおごりだ」
健がバーテンにボトルを注文する。
――今日の所は好意に甘えておこう――
清史郎は明日から始まる地道な仕事に思いを馳せた。
第一章 殺し屋VSジョーカー
〈1〉
「まさかお前まで手玉に取られるとはな」
純和風の邸宅の四十畳ほどの上座から、矢沢組組長矢沢栄作の声が響く。
矢沢は東大出身で大手の組の金庫番をしていた経済ヤクザだったが、手腕を見込まれて盃を受けて新庄市を任された男だ。
大型カジノ施設と契約し、建設費用だけで二千億円を超える大規模開発事業に着手。
地域活性を謳ってケツモチをしている与党の知事を、市民公園を作ると言って与党の市長を当選させ、財務局を握って人口八十万程度の町である新庄市の経済活性としてカジノ施設を呼び込む段階まで運び込んだ。
しかし、新庄市には古くからの商店街があり、カジノ施設に一斉に反対。
この動きを野党が連合して支援した事で、矢沢組の工作虚しく市会議員選挙でまさかの野党大勝与党過半数割れとなった。
そこで組として商店街に圧力をかけ、一方で麻薬や売春で治安を悪化させて風紀を乱すという策に出た。
そこに商店街からの刺客のように出現したのがジョーカーだ。
従って、今回の取り引きでたかだか百万程度の損失を出した事は問題ではない。
手足となる半グレが震えあがり、商店街が盛り返してしまう事の方が問題なのだ。
ジョーカーは確実にドラッグか銃のある時にしか出現せず、空取り引きで警察を使って捕えようとしても決して出て来ない。
支配下にある警察でも公安とマル暴がジョーカーを追っているがかすりもしない。
「完全に俺の失態です」
緒方は畳に額をこすりつける。ジョーカーが来るかも知れないと備えていても、圧倒的な火力を見せられて対応できる組員など存在しなかった。
「お前で駄目なら誰が行っても同じだろう。幸いヤクは複数のルートでさばいている。一か所の取り引きが潰れたくらいでプランに変更は無い」
矢沢の言葉に緒方は頭を下げ続ける。
ジョーカーに遭遇すれば十中八九取引どころではなくなるし、組員の士気の低下につながるだろう。
しかも、ジョーカーの正体はまるで分らない。
ヤクザが取引の現場に発砲魔が現れたと被害届を出せば、警察と幾ら緊密な関係にあるとはいえジョーカー逮捕の前に麻薬取引や銃刀法で御用となる。
警察が味方と言っても、捜査させる理屈が見つからないのだ。
従って、科捜研を動かしてジョーカーを特定するという事もできない。
かと言って、ジョーカーらしき人物は大手の情報企業のデータベースにも存在しない。
そもそも個人が特定できていないのだから、企業から情報を購入しようが無い。
「カジノ施設反対派は金で分断しろ。一億二億なら建設の際に財務局の法で水増しできる」
矢沢の言葉を緒方は脳裏で反芻する。
これは緒方の裁量で動かして良いのが二億円程度という話だ。
商店街含め、新庄市でカジノ施設に反対している事業者は七百に上る。
二十万円づつ配ったところで効果は見込めないし、家業と住み慣れた町を捨てさせるには最低でも二千万は必要になり、十人買収したところで七百の事業者から見れば雀の涙だ。
二億という金をどう効果的に使うか。
麻薬の売買で風紀と治安を乱そうとしたところで、商店街が機能して失業者も少ないという環境にあっては大きな効果を見込めない。
警察は見逃してくれても市民に監視されているようなものなのだ。
――いつまでもこの状況を引き延ばす訳には行かない――
半年後の知事選で知事が敗れ、反対派の知事が誕生すればカジノ施設誘致契約が破談となり、二千億を超える金が利益ではなく損失として計上される事になるのだ。
それは矢沢組の滅亡を意味していた。
〈2〉
午前八時半。
『殺し屋』に出勤した健司は店舗の掃除を始める。
明るく綺麗な店舗は客商売の基本中の基本だ。
『殺し屋』を訪れる客は決して多くはないが、だからと言って手を抜いて良い理由にはならない。
風俗ビルの一室というどうにもならない立地上の限界はあるにせよ、一国一城の主として近隣の風俗店や飲食店と比較して店舗が清潔かつ快適であるという自負がある。
カウンターとボックス席を磨き上げ、店の前に出した看板の電源を入れて暖簾をかける。
健司はカウンターの中で客の訪れを待つ。
健司が『殺し屋』を始めたのは大学卒業から四か月が過ぎてからだ。
在籍中に内定を取る事ができず、無職のまま卒業を迎えて露頭に迷う事になった。
住んでいたアパートも追い出され、頼ったのは風俗嬢になった同級生。
働いているという店舗を訪れ、偶然奥のテナントが空いているのに気付いたのだ。
幸運な事に鍵は開いたままで、住む所の無かった健司はそのままそのテナントを利用する事にした。
しかし、いつまでも居座る訳にも行かず、就職する必要があったが卒業した後では求人がほとんど無かった。
そこでテナントを利用して自営業を始めようと考えたのだ。
偶然町で見かけた『冷やし中華はじめました』という張り紙をヒントに、テナントのドアに『殺し屋はじめました』というビラを貼ったのだ。
それまで人間を殺した事は一度もなかったが、どんな仕事にも初めては存在すると割り切った。
最初の客は風俗ビルで働く風俗嬢だった。
ターゲットはストーカー化した客。
苦労はしたものの、一か月で痕跡を残さずに殺す事に成功した。
以後、口コミで話題となり、多くの人が『殺し屋』を訪れるようになった。
依頼を二百もこなす頃にはだいぶ勝手が分かって��て効率的に殺す事ができるようになってきた。
四年が過ぎた今ではオプションサービスも充実させ、店もリフォームした。
今では年収一千万を超えている。
ヤクザに比べればささやかなものだが、悪事を働いているわけではないから商店主としてはこの不景気にあって良い方ではないかとも思っている。
健司がカウンターに立っていると、一人の客が暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ! ご注文がお決まりになりましたらお申しつけください」
言って冷茶を注いだグラスをカウンターに座ったビジネスマン風の男の前に出す。
男がお品書きを見て目を細める。
「殺しの注文というのは相手の氏名が分からないと無理なのか?」
「素行調査であれば興信所を使われるのが一番です。当店では速やかな仕事を心がけておりますので本業以外の仕事は見合わせております」
健司は男の様子を観察する。一見するとビジネスマンに見えるが、作り笑いに慣れていない、否、笑わない職業である事が見て取れる。
能面のような顔の裏に押し殺した暴力的な雰囲気は、警察か暴力団員かそれに近い者だろう。
「前金で二千万」
男がにこりともせずに言う。
「当店は誠実がモットーでございます。確実に殺せないターゲットをお引き受けする事はできません」
「それなら総理大臣でも殺せるのか?」
「名前と住所どころか一日のスケジュールまで手に入りますから、さほど難しく無いターゲットだと考えております。ただし知られている通り警備も厳重ですから時間も必要となり費用も高くなります」
健司が言うと男が低く唸る。
「総理大臣でも不可能ではないと?」
「もちろん、オーダーが首つり自殺などですと難しい案件にはなります」
「首つり自殺は難しいか……面白い事を言う」
男の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「二千万はターゲットの調査費用という事でどうだ? 成功報酬は四千万」
健司は小さく息を飲む。
金払いがいい相手である事は確かだが、それだけの力の持��主でもあるという事だ。
――失敗すれば命は無い――
しかし、ヤクザを敵に回せばテナントから追い出されるだけでは済まないだろう。
「繰り返しになりますが当店は殺し屋でして、興信所ではありません。ターゲットの補足は素人のようなものです。その二千万円でターゲットを補足されましたら確実に殺させていただきますが、二千万円を頂いてもターゲットを補足できるとは限りません」
「二千万を手に高跳びとは考えないのか?」
「飛んだ先で失業すれば同じ事です。地域の皆様に愛される店づくりが当店のモットーです」
健司の言葉に男が破顔する。
「俺は矢沢組の緒方。二千万はここに置いていく。ターゲットはジョーカーと言われている銃の乱射魔だ。俺はお前が気に入った」
言って冷茶を飲み干した緒方が席を立つ。
――これは大変な事になってしまった――
健司はジョーカーという謎の相手を探るために、出したばかりの看板と暖簾を引っ込めた。
〈3〉
午前五時。
健は薄汚れた作業服を着て、年季の入った肉体労働者の列に混じっている。
ホームレスも珍しくないが、ホームレスでもとび職になると一日に��万円以上稼いでホテルに泊まっていたりするから、定住しないのは税金対策といった事情が大きいだろう。
午前六時半、一台のワゴンが健の前に停車する。
「おい、若ぇの、乗れ」
「うぃっす」
筋肉隆々といった古参の肉体労働者に囲まれていると既にやる気が萎えてくる。
労働者ですし詰めのワゴンで移動する事小一時間、朝日が白々と空を照らす中健は自分には一生縁の無さそうな高級マンションの現場にいた。
現場監督のどうでもいいような話に続き、ラジオ体操をさせられる。
眠いだけならまだいい、ラジオ体操が終わってからが地獄だ。
「コンパネ運んで来い! トラック入れねぇじゃねぇか!」
自分に向けられた言葉と気付いた時には、組まされるらしい土工の目が険悪になっている。
男がコンパネと呼ばれる90cm×180cmの板を十枚程抱えて通用口に出ていく。
健の腕力では精一杯頑張った所で三枚だ。
この板を敷いてその上をトラックが走れるようにするのだが並べるだけでも容易ではない。
健はもともと運動神経が良い方ではない。
高校では情報科学部でLinuxを使用してITの全国コンテストで優秀賞を手にした生粋のインドア派だったのだ。
PCの扱いと音楽好きなのとでDJには一定の技術も知識もあったが、一般科目では赤点スレスレで奨学金がもらえるような成績でも無かった。
そんな中、PCを触れて音楽もできるDJという職種を選んだ。
しかし、一晩パフォーマンスをしても六千円程度にしかならないし、他にもDJはいるのだから毎日入る事などできはしない。
従って一人暮らしのワンルームの家賃を払っていく為には、DJの仕事を妨げない、時間にゆとりのある職業に就くしかなかった。
「チンタラ運んでんじゃねぇ! 三枚しか運ばねぇってタマついてやがんのか」
年配の作業員がヤニの混ざった唾を吐き捨てる。
健が運んだコンパネをトラックの通路に並べていると、いら立った様子の作業員が近づいて来る。
「シャベル持って付いて来い」
「シャベルってどこにあるんスか?」
「ふざけてんのか! テメェで見つけろ! 遅れたら承知しねぇからな」
健は屈辱にも似た気分に耐えながら、建設現場をうろついて乗ってきたワゴンでシャベルを見つける。
今日拾われた工務店はどうやらマンションの裏手に穴を掘っているらしい。
「ここに管通すんだからな、掘れたら石詰めだ」
幅は四十センチ程、深さは六十センチは掘らなくてはならない。
総延長は二十メートルにはなるだろう。
小型のユンボを使って欲しいが、既に他の管と入り組んでおり不可能らしい。
配管の順序が逆になるという事は設計ミスの可能性も高いだろう。
健はだるくなる腕を支えるようにして必至でシャベルで穴を掘る。
要領の良し悪しなど分からない。分かるのは掘らなければ怒号と罵声が飛んでくるという事だけだ。
昼過ぎに作業が終わったと思いきや、
「ネコでガラ片付けて来い」
「ネコって何っスか」
反射的に首を竦めながら健は尋ねる。
「手押しの一輪車だ! この使えねぇボンボンが……」
健は奥歯を噛みしめながらネコを探して歩きまわる。
ネコを見つけてもガラ運びという重労働が待っている。
健は暗澹とした気分で工事現場を歩き回る。
――俺だってジョーカーの一員だってのに――
〈4〉
「暑っつ~い! ったく、エースのヤツ今日は土建屋だなんて……」
加奈がマイナスドライバーで水銀灯にへばり付いたガムを剥がしながら言う。
ガムの中には火薬と小さな信管が仕込まれている。
「休みがお前だけだったんだから仕方ないだろう」
清史郎はシャベルで地面に埋まった火薬を穿りながら言う。
乱射魔ジョーカーには秘密がある。
それは実際にはモデルガンしか持っていないということだ。
そこで、予め花火で集めた火薬をセットしておき、ヤクザが商売をしようという所で爆破して妨害する訳だ。
モデルガンには赤外線カメラが搭載されており、Bluetoothで健の端末とつながっている。
清史郎が引き金を引くと同時に健が火薬にセットされた信管を反応させ、銃撃のように見せかけているというだけなのだ。
だからグレネードランチャーの爆発と言っても、実際には大きな花火が地面の下で爆発しているだけで殺傷能力など存在しない。
とはいえ、撃たなかった方向にも埋め込んだ火薬はあり、子供などがうっかり触って怪我をしてしまう可能性もある。
従ってジョーカーとしての仕事の後は必ず後始末が必要になるのだ。
「まぁ、ジョーカー一人に炎天下で作業させるわけにも行かないし。歳だし」
加奈の言葉に清史郎は苦笑する。
加奈と健は二十一歳だが、清史郎は四十五歳だ。
肉体的に無理のきかない歳という事は重々承知の上だ。
炎天下でひたすら火薬を撤去する事四時間。
仕事を終え、加奈と一緒にたこ焼き屋の店先で麦茶を飲む。
近年おおだこが当たり前になっているが、清史郎が行きつけにしている昔ながらのたこ焼きはピンポン玉より少し小さい程度で味も良く、言えば店のおばちゃんが麦茶を出してくれるというサービスがついてくる。
「おばちゃん、最近ヤクザはどうだい?」
清史郎は店主兼店員の初老の女性に声をかける。
「あんたに相談したらそれっきりだよ。派手なドンパチがあったみたいだけどね」
おばちゃんの言葉に清史郎は笑顔を返す。
警察や興信所に相談してもヤクザ絡みの事件は解決しないが、しがらみの無い三浦探偵事務所とジョーカーなら不可能も可能になるのだ。
商店街や商工会の中でも事情は不明だが、清史郎に依頼をすればヤクザが引っ込むという都市伝説めいた話が広がっている。
だが、あまりに知られ過ぎると清史郎がマークされ、ジョーカーを出現させられないという事になる。
従って三浦探偵事務所は慶田盛弁護士事務所とは緊密な関係にあるが、地元の商店街とは付かず離れずの関係を続けているのだ。
加奈と一緒にたこ焼きを食べているとスマートフォンが着信を告げる。
健が清史郎が仕掛けた無線wifiのクラックシステムで、ヤクザの新たな取引を察知したのだ。
――健が稼ぎたがるのも分かるがな――
火薬を調達し、設置し、身体を晒す身としては、ヤクザが本腰を入れない為にもジョーカーの出番は抑えておきたいところだった。
〈5〉
健司は朝のラッシュアワーで意図的に駆け込み乗車に失敗した。
健司に乗車を妨害された形のスーツ姿の男性が、苛立った様子で最前列に立つ。
山手線の次の列車が来るのは四分後だ。
健司はポケットからsimフリーのスマートフォンを取り出す。
simフリーではあるがsimも入れていなければ、個人情報にかかわる情報も一つとしてインストールしていない。
健司はスマートフォンを操作するフリをして考える。
ジョーカーは新庄市から出ていない。
矢沢組から健司の得た情報は散文的なものだった。
ヤクザが取引をしようとする、もしくは刀や銃で武装した状態で市民を脅そうとする。
ヤクザが警察に通報できない時に、狙ったようにジョーカーが出現している。
単純に考えて情報が筒抜けになっているという事だろう。
乱射魔と支離滅裂な口調という仮面が狂人を作り上げているが、警察を巧みに避けている事からもジョーカーが充分過ぎる程に理性的な人物である事が分かる。
相手は狂気の人間ではない。恐ろしい程の知能犯だ。
健司は矢沢組から入手したドライブレコーダーの映像を繰り返し『殺し屋』のカウンター内のPCで再生した。
ヤクザが出ていき、しばらくして銃火がひらめき、慌てふためいたヤクザが逃げてくる。
どの映像も流れは同じだ。ヤクザがドライブレコーダーを使っているというのは不思議なものだが、ヤクザも交通事故では警察の世話になりたくないという事だろう。
ジョーカーの紫のトレンチコートとピエロの仮面にはモデルが存在する。
アメコミ最高の悪役とも言えるバットマンに出てくるジョーカーだ。
相手の頭脳から推し量ってもそれくらいの事は分かってやっているのだろう。
敵を混乱させるという意味ではジョーカーは最高の仕事をしていると言っていい。
では、ジョーカーの行動にロジックは存在しないのだろうか。
その最大の理由は新庄市に活動を絞り、矢沢組と戦っているという点に存在するだろう。
ジョーカーの動機が判明すればその正体を絞り込めるはずだ。
健司の後ろに列ができ、周囲が人垣と言っても良い程になる。
ほとんどの人が急いでいるかスマートフォンを操作している。
毎日このような息苦しい思いをするのが分かっていて、どこの会社も出社時刻を一緒にしているのか謎だが、このような状況が起きる事で仕事を円滑に進められるのも事実だ。
駅のホームは渋谷のスクランブル交差点のように混雑しており、点在する監視カメラからも死角になっている。
列車が見えた所で健司はsimフリーのスマートフォンを線路に放り投げた。
「落ちましたよ」
健司の言葉に周囲の人間の視線が線路に落ちるスマートフォンにくぎ付けになる。
健司が乗車を邪魔した男が慌てた様子で胸ポケットに手を当てる。
健司はスマートフォンを拾おうとするかのように踏み出しながら、素早く男の背を押す。
男が線路に転がり落ちるのと列車が到着するのは同時だった。
ブレーキ音と悲鳴が駅のホームを支配する。
――これで今日もお客様を笑顔にできた――
健司は動揺を装いながら駅員の誘導に従って満足感と共にホームを後にした。
〈6〉
潮風が香る深夜の埠頭の倉庫街。
緒方は三十人の組員を伏せさせ、更に暴走族を張り込ませて取引に臨んだ。
捌くドラッグの金額は一千万。
ジョーカーが金を狙っているならこの好機を逃すはずが無い。
半グレの三団体の代表がベンツで乗り付け、ヘッドライトの光を背に向かってくる。
――どうするジョーカー――
傍から見ればこれ以上のカモは無いだろう。
しかし周囲には銃で武装した構成員と、それに数倍する人数の暴走族がいるのだ。
仮に強襲に成功したとしてもこの包囲網を抜け出る事は不可能だろう。
金をアタッシュケースに入れた男たちが近づいて来る。
ジョーカーは金を見せた時に最も多く出現する。
緒方はドラッグの詰まったスーツケースを手にヘッドライトに身を晒す。
「緒方さん、ご苦労様です」
半グレの代表のスーツ姿の男が言う。
アタッシュケースが開かれ、帯どめされた札束が姿を現す。
緒方もスーツケースを開いてロシア経由の最高級品を見せる。
と、緒方は場違いな程騒々しいエンジン音を聞きつけた。
『奢れるヤクザもコンバンハ』
拡声器���声と共に波を蹴ったボートが一直線に突っ込んでくる。
船首に立ったジョーカーが銃を抜いて問答無用で撃ち始める。
緒方の周囲で火花が散り、半グレが慌てた様子でアタッシュケースを取り落とす。
伏せていた緒方の部下がジョーカーに向かって応射を開始する。
ジョーカーがグレネードランチャーを構えて砲火を閃かせる。
ベンツの車体が火を噴いて浮き上がる。
倉庫街の至る所で爆発が起こり、火の手が上がる。
ただの撃ち合いなら警察も黙っているが、火災が発生したのでは消防が動き追って警察も出動を余儀なくされる。
ボートが埠頭の岸壁を掠め、ジョーカーが猛火の中を歩んでいく。
「今宵のコテツは鉛に飢えて、オイラの引き金も軽くなるゥ~」
相変わらずの意味不明な言葉でジョーカーが戦場となった埠頭を蹂躙する。
雄たけびを上げた半グレの一人が鉄パイプを振り上げてジョーカーに向かっていく。
鉄パイプの一撃を受けたジョーカーの動きが鈍る。
「あの世の旅も道連れ世は情け、痛いの痛いの焼死体」
ジョーカーが鉄パイプを奪い取って半グレを路上に蹴り飛ばす。
ジョーカーが怒り狂ったようにグレネードを乱射する。
緒方は炎で崩れ落ちる倉庫を避けて部下のベンツに向かって走る。
この乱射の中では同士討ちが危ぶまれるどころではない。
まずは消防がやって来る前に現場を離脱しなければならない。
取り残される組員や半グレには悪いが、矢沢組としても幹部が尻を蹴飛ばされたままブタ箱に入る訳には行かないのだ。
〈7〉
「……ッ」
清史郎は左腕を押さえたままボートの床に腰かけている。
夜の海から見えるのは照明で浮かび上がる工場の幻想的とも言える光景。
酔狂なカップルなら観光に来るのかも知れないが、現在の清史郎にその余裕は無い。
ボートが揺れる度に左腕が痛み、肩から背中までもが痛むように感じられる。
――腕を折られたか――
折れたと言っても粉砕骨折では無いだろう。
粉砕骨折なら幾ら警察OBの探偵から護身術を習っているとはいえ、鉄パイプを奪って蹴り飛ばす事などできてはいない。
問題なのは常識的に考えて鉄パイプを持った敵に対してなぜ発砲しなかったかという事だ。
客観的に見ればこれほど奇妙な事は無いだろう。
狂気の道化師、ジョーカーなのだからと見逃してくれる輩ばかりではないだろう。
「ジョーカー、大丈夫?」
気遣う様子で加奈が声をかけてくる。
「今回の作戦はリスクは織り込み済みだったんだ。鉛弾を食らわなかっただけでもいいってモンだ」
清史郎は虚勢を張って言う。
健が入手した情報は矢沢組が最も警戒している取引、もしくはジョーカーをおびき出そうとしている作戦だった。
当然もっと楽なターゲットを探す事も可能。
しかし、健がこの難度の高い作戦にこだわり、清史郎もジョーカーの名を上げる為に乗ったのだ。
「ジョークには悪かったけど今日だけで六百万だぜ? 一人二百万ってすごくね?」
ボートを運転しながら健が言う。
百人以上が動員されている取引を強襲する為に海路を選んだのは正解だった。
通常は予め現場に潜んでいるが、今回はヤクザが張り込む事が分かっていた。
脱出の目途もたたないのに予め潜むという手段は使えない。
と、なれば相手が考えてもいない方向から強襲して、対応されるより早く逃げるという方法だ。
「アタッシュケース拾って来るのも命がけだったんだから。あんたは安全な所でPCたたいてるだけだからいいかもしれないけど」
加奈がボートでPCを操作していた健に向かって言う。
清史郎が派手に暴れている隙に半グレが落としたアタッシュケースを回収したのは加奈だ。
ヤクザが銃で応戦して来る中で拾ったのだから、生きた心地がしなかったのであろう事は想像に難くない。
「ジョークだって腕を切り落とされたとかじゃねぇんだし、保険証が使えねぇなら金あんだし海外で手術とかもアリじゃね?」
楽観的な口調で健が言う。確かに健の案もいいが致命的な欠陥がある。
「ジョーカーは左腕を殴られている。保険の記録に残らなくても俺が左腕をギプスで吊っていたら正体を宣伝してまわるのと同じことだ」
「あ、そうか」
「あ、そうかじゃないでしょ! だいたいあんたが怪我してるわけじゃないんだから」
加奈が虚を突かれた様子の健に向かって言う。
「腕は町の獣医に頼んで治してもらうよ。問題は探偵事務所の方だな」
町の獣医であれば顔なじみだし、保険の記録に残る事も無い。
「事務所はほとんど客来ねぇからOKじゃね?」
相変わらず楽観的な様子で健が言う。
「エースってば本当に失礼なんだから」
「本当の事だからいいんだけどな。でも選挙が近づいているからカジノ反対派の人たちが現職知事の裏情報を求めてくるかもしれない」
情報が盗まれたものなら裁判では証拠にならないが、盗み出して内部告発の形をとって匿名でばらまくという事は可能だ。
「与党の現職知事って矢沢組がカジノ呼ぶ為に当選させたんだろ?」
健の言葉に清史郎は頷く。
元々災害避難地域指定だった公園の指定を解除し財務省に許可を発行させ、企業が進出できるよう実際に動いたのは与党だ。
暴力団が本体か与党が本体かというのは、鶏と卵のパラドクスを解くに等しい。
「でも物的証拠が無い。音声データやメールは改ざん可能だから決定打にはなり得ない」
「手書きのサインの入った書類が無いと証拠にならないって訳ね」
加奈が話を要約して言う。
「それって探偵とかの仕事じゃねぇのか?」
健の言葉に清史郎は痛みを感じながらもため息をつく。
「私はその探偵なんだよ。儲かっていないだけで」
「とりあえず一人二百万入ったし、ジョーカーはひとまずお休みするしかないわよね」
加奈は状況を落ち着いて観察できているようだ。
「でもよ、選挙が終わって反対派が勝ったら出番も無いんじゃね?」
「そもそも反対派を勝たせる為に始めたんだよ。目的を忘れないでくれ」
商店街と探偵事務所を守る為のジョーカーなのだから脅威が消えれば戦う必要は無い。
もともと町を守る為の義賊として、健も同意して始めた事なのだ。
「あ~、キャデラックに乗りたかったぁ~」
船の縁に寄りかかって健が空に目を向ける。
「外車ディーラーで試乗でもすればいいでしょ」
「そういう事じゃねぇんだよ。こう、リッチな気分でパーッとやりたかったって言うかさ」
「気持ちは分からなくも無いけどさ、私らもともと何千円で一喜一憂してたんだからね」
「へぇ~い」
加奈に言われた健がため息をつく。
二人のやり取りを聞きながら清史郎は考える。腕を折られたジョーカーが休養すれば、不死身の化け物のようなイメージが揺らぐ事になる。
双方の総力戦の様相を呈した今回の戦いで、相手もジョーカーが手傷を負った事は分かっているはずだ。
――大人しく休養というわけには行かないか――
清史郎は加奈に目を向ける。
IT機器を素早く操作できない以上、空白期間にジョーカーを演じられるのは加奈だけだ。
〈8〉
ジョーカーは手傷を負った。
店内の観葉植物の葉を丁寧に拭いながら、健司は緒方からの情報の意味を考える。
圧倒的な火力を持ちながら、鉄パイプを手に向かって来る敵に対してジョーカーは無策と言っても良い状態だったのだ。
これはこれまで一人も死者を出していないというジョーカーの姿勢と符合する。
その後の乱射により埠頭は混沌と化し有益な情報は集まっていないが、ジョーカーが現金の入ったアタッシュケースだけを手に海に逃れた事は間違いない。
――ジョーカーは人を殺さないという前提で考えたら――
単純にヤクザを驚かせたいという、愉快犯の姿が浮かび上がる。
だが、愉快犯ならリスクの高いヤクザを狙う理由は少ない。
銃器を振り回さなくても、健司のような一般市民相手に全裸になって見せるだけで充分に他人を不快にする事ができる。
ヤクザに警察に通報できないという弱みがあったとしても、それ以上にリスクは大きいはずだ。
ヤクザに恨みがあるのだとしても、それならば落ちた金だけ拾うという点では実質的にダメージはほとんど与えられていない。
収入として考えているなら猶更ジョーカーの行動は不可解過ぎる。
愉快犯でありながらそれは副次的なものでしかなく、目的の為の手段に過ぎない。
だが、愉快犯である事を手段とする目的とは一体何だろうか。
――僕のような常識人では手が届かないと言うのだろうか――
健司は観葉植物の葉に霧吹きで水をかけながら考える。
矢沢組は一体誰に何をし、その結果ジョーカーを生み出したのだろうか。
健司は店内の照明を切り、暖簾と看板を店内にしまう。
店を出て新宿のチェーン店の居酒屋に向かう。
健司が一杯のビールと焼き鳥を二本腹に収めていると、三人の男が連れ立って店内に入ってきた。
健司は三人組がボックス席に入るのを確認してアタッシュケースを手にトイレに向かう。
三人組が毎回このチェーン店を使う事と、最初にビールを注文する事は分かっている。
健司はスーツを脱ぎネクタイを外してケースに収め、代わりにエプロンを身に着ける。
保冷剤で冷やしておいた缶に入ったビールを、同じく冷やしておいた100均で買ったグラスに注ぐ。
そのうち一つにはシアナミドを混入してある。
シアナミドは無色透明の抗酒剤で、副飲する事でアルコールアレルギー反応を引き起こす禁酒用の薬品。
一言で言えば一口飲む事で急性アルコール中毒症状を引き起こすのだ。
健司は三人の席におしぼりが置かれ、店員が去るのを待ってビールジョッキを手に席に向かう。
「お待たせしました」
健司はターゲットにシアナミドを混入したビールを手渡し、両手にビニールの手袋を嵌めてトイレの傍に潜む。
ややあって鍵をかけていないトイレに青ざめ、脂汗を流したターゲットの靴が覗いた。
健司は入れ替わるようにしてすれ違いながら様子を確認する。
シアナミドにより意識は朦朧としているようだ。
「介抱しますよ」
健司は男を抱きかかえるようにしてトイレのドアを後ろ手に閉じる。
男が便器に前のめりになって嘔吐する。
健司は男の頭を掴んで便器に押し込むと首の頸動脈にシャープペンシルを突き刺す。
男の首から血が噴き出すのに合わせてトイレの水を流す。
音消し水とはよく言ったものだ。
窒息と出血の双方で男が瞬く間に衰弱して行く。
相手がプロレスラーだろうとこの状態で健司に抗する事はできはしない。
健司は男の脈を取って死亡を確認するとエプロンとシャープペンシルを放置し、元通���スーツに身を包んで会計を済ませて店を出た。
殺害方法は分かっても誰が殺したのかは目撃されていない限り分からないだろう。
――小さな仕事でも手を抜かない事が顧客満足度につながるんだ――
第二章 二人目のジョーカー
〈1〉
「矢沢組のヤツら慎重になってやがんな。もう大口取引はしねぇらしい」
清史郎の耳には爆音と左程変わらない音が響いている、クイーンメイブのボックス席で健が言う。
清史郎は獣医に頼んでギブスなしで左腕を固定している。
診断は骨にヒビが入っているとの事で、二週間は安静にする必要があるらしい。
「そりゃ百人集めて失敗したなら、もう大口でジョーカーを誘おうなんて思わないでしょ」
言って加奈がカクテルで唇を湿らせる。
「一回の取引でせいぜい百万円。しかも街中でやってやがる」
健がラップトップを開いて矢沢組の予定表を表示させる。
「儲けが少ないからやらないって話にはしない約束でしょ?」
加奈が健に睨みをきかせる。前回の襲撃は加奈は反対だったのだ。
「でもよ、ジョークは骨折してるし、街中でグレネードはさすがにヤベェだろ」
カクテルをチビチビ飲みながら健が言う。
確かに街中では自動小銃がせいぜいといったところだ。
仮にグレネードを使ったとしても、見た目が派手なだけで破壊力が無い事が露呈する。
「自動小銃でも相手を驚かすような事はできるだろう。演出次第だ」
清史郎は頭を巡らせながら言う。
今となっては拳銃を抜いて撃つくらいではヤクザは驚かない。
下手をすれば一人二人射殺されても驚かないかも知れない。
と、なればどうやって驚かせるかが問題になってくる。
「演出って言うけど、ジョーカーは左手が使えないんでしょ?」
「そこだ。連中は俺が腕を怪我するのを見ている。ここで動きを止めればジョーカーというキャラクターの怪物性が損なわれてしまう。そこで今回は加奈にジョーカーを依頼したい」
清史郎の言葉に加奈が驚いたような表情を浮かべる。
「町の人たちがカジノに反対できているのは、ヤクザがジョーカーを恐れているという漠然として安心感があるからだ。ジョーカーが怪我で動けないとなったらヤクザを恐れて寝返る住人が出てくるかもしれない」
清史郎の言葉に加奈が思案顔になる。
「……そういう事なら……でも策はあるの? 私はジョーカーみたいに相手を脅せないよ?」
加奈の言葉に清史郎は頷く。
「喋るのはマイクで私が担当する。元々ボイスチェンジャーを使ってるからスピーカーから音を出してもヤクザには分からないだろう」
清史郎は矢沢組のリストの一つを指さす。
雑居ビルの屋上での取引。
金額は百万だが人が多く割かれている訳ではない。
そしていざとなれば清史郎も右腕一本で戦うのだ。
〈2〉
「ありがとうございました」
客の手に両手を添えるようにしてつり銭を渡す。
我ながら流れるような動作だと加奈は思っている。
品物は働き出してから一週間で覚えたし、二か月で発注も任されるようになった。
オーナーが発注していた頃に比べて売り上げは八%上昇している。
業者のパレットに乗った商品が運び込まれ、そこに緩慢な動作で大塚という中年女性が向かっていく。
大塚はこのコンビニに長く勤めているが、何をするにも動きが遅く、やる事が雑だ。
加奈は母子家庭ではあったが高校時代は生徒会長を務めていた。
生徒会の切り盛りでは過去最高の生徒会長だったという自負もある。
奨学金を借りて大学に入学したいと何度思った事か分からない。
しかし、その度に返済の目途が立たないという現実で踏みとどまった。
加奈が借りる金額では返済する頃には五十代。
キャリアウーマンとしてバリバリ働いて行けるならいいだろうが、男社会の中で目立っても左遷されるのがオチだ。
奨学金を諦め、近所のファミレスとコンビニの双方を天秤にかけた時、ファミレスの厨房は嫌だったし、発注のような頭を使う仕事がしたかった事からコンビニで働く事にした。
しかし、今現在、視線の先では大塚が商品を手前から、しかも違う棚に並べている。
新しい品物を後ろに、古い品物を前にしなければ賞味期限切れで廃棄になる。
それはコストとすら呼べるものではない。
注意した事は一度や二度ではないが、返ってくるのは「今時の若い子は」という恨みがましい言葉だけだ。
仕方なく業務の合間を縫って品物を並べなおす。
そうすると今度はレジに長蛇の列ができる。
大塚はバーコードの読み込みも遅ければ、テンキーの打ち込みもできない。
公共料金などの支払いも一々店長にやらせている。
店長は一体何の弱みがあってこの女を雇っているのか分からない。
それでも、このリスクを織り込んだ発注で収益を上げたのは自分の手腕だ。
「飯島くん、これじゃ困るよ。お客さんを待たせているじゃないか」
抜き打ちでやって来たマネージャーの言葉に加奈はため息をつきたくなる。
自分がレジにいればこのような現象は起きないのだ。
そして、レジにいれば大量の食品を廃棄しなくてはならなくなる。
「分かりました。棚の商品を並べなおしてもらえますか」
チクリと言い返し、立ち仕事で痛む足を引きずって加奈はレジに向かう。
こんな事をこの先何年続けて行けばいいと言うのか。
少なくとも大塚がクビにならない限りは、ただでさえハードなコンビニの仕事すらまともにこなす事ができないのだ。
――ジョーカーとしてならもう少し有能に働けるのに――
〈3〉
深夜、ビルの屋上に銃声が響き火花が散る。
ビルの給水塔の上で清史郎が見ている下で、四人の男たちが手にしたバッグを胸に抱える。
「迷えるヤクザよコンバンハァ!」
二階分高いビルの屋上から、ワイヤーを伝って自動小銃を乱射しながらジョーカーが降下して来る。
ヤクザの一人が屋内に逃れようとした所でジョーカーの自動小銃が火を噴いてドアを蜂の巣にする。
恐慌状態に陥ったヤクザの前に、床の上で一回転したジョーカーが立つ。
この辺りの動きは加奈の方が本家よりいいと言える。
ジョーカーの自動小銃が火を噴き、ヤクザたちの動きが止まる。
清史郎はありあわせの材料で作った分銅でヤクザの手からケースを叩き落す。
「金は天下の猿回しぃ~、回る回るよ目が回るぅ~」
床を滑ったケースがジョーカーの足元で止まる。
ジョーカーがケースを手に屋上のフェンスを乗り越える。
「それでは諸君ごきげんようそろ、面舵一杯腹八分目ぇ~」
ジョーカーがフェンスを乗り越えてビルの外に姿を消す姿をヤクザたちは茫然と眺めている。
加奈はほぼ完ぺきに、運動神経という面では清史郎以上にジョーカーを演じて見せた。
ヤクザたちがスマートフォンを取り出して連絡を取りながら屋内へと消えていく。
加奈は当初隣のビルの屋上に潜んでおり、ヤクザの取引するビルとの間にはワイヤーが取り付けてあった。
清史郎の合図で火薬を爆発させ、加奈は小型の滑車を使ってビルの屋上に降り立った。
予定通り混乱に乗じて清史郎がヤクザの金のアタッシュケースを叩き落し、それを回収した加奈は予め用意されていた脱出用のワイヤーで一目散に逃げ去ったという訳だ。
清史郎がヤクザの去っていった通用口を見ていると、二人のヤクザが姿を現した。
痕跡を確認するか、ジョーカーを追跡しようという考えかもしれない。
「イナイイイナイバウアアァァァァッ!」
万が一に備えてジョーカーに扮していた清史郎は、咄嗟の判断でショットガンを手にヤクザたちの前に飛び降りる。
銃声と共にドアを吹き飛ばす。
今度こそ恐慌状態に陥ったヤクザたちは階下へと消えていった。
〈4〉
健司は『殺し屋』のカウンターでグラスを磨きながら考える。
ヤクザは取引を分散させるという戦術を取ったが、ジョーカーは確実に一か所一か所を狙い撃ちにしている。
被害総額は大きくないのだろうが、心理的な影響は大きい。
――ここで敵の目的は明らかになったと言っていい――
これは心理戦なのだ。
矢沢組が恐れるに足りない存在だと思わせる為のデモンストレーションなのだ。
実際矢沢組の構成員たちも明日は我が身と必要以上に警戒しており、結果として街中での暴行などで警察に捕縛されるケースも散見し始めている。
警察もヤクザと事を構える事はしたくないだろうが、暴行は立派な犯罪だ。
矢沢組を弱体化、もしくは弱体化して見せている目的。
これは幾つかのケースが考えられる。
例えば同格の田畑組がシマを狙っているケース。
しかし、これでは全面戦争がしたいと言っているようなものであり、そうなれば別の第三の組が弱った二つの組を併合してしまうだろう。
更に言えば『本物』の銃器を使っているのだとしたら、これまでに過失で殺してしまった人間が居てもおかしくはないはずだ。
これまであれだけ派手に銃を乱射していて軽度のやけどくらいしか負傷者がいないというのは、空砲かモデルガンかのどちらかだろう。
そして犯人がヤクザであるなら、モデルガンなどという恥ずかしいものは持ち歩かないだろう。
第二の敵が政治結社だ。
現在矢沢組の推す現職与党の代議士が知事を務めている。
三か月後には知事選が予定されており、野党は連合して対立候補を立てている。
現在新庄市には土地の価値だけで二千億を超える空き地が存在し、そこに巨大カジノカジノを誘致するか、市民公園にするかで市民の世論が割れている。
カジノが実現すれば莫大な金額が動く事になり、矢沢組は軽く数百億は稼ぐ事になるだろう。
一方、野党が勝利してしまえば議会も野党に握られた事から市民公園が確定。
造園業者や、スタンド付きの運動公園を造る建築業者がいくらか儲かるにせよ、利権はほとんど存在しない事になる。
本来矢沢組こそが野党を攻撃しそうなものだが、野党のカルト的な集団ないし、狂信的な人間が矢沢組を狙っている可能性は否定できない。
しかし、カルトや狂信的な人間がここまで綿密な計画を練り、実行に移せるだろうか。
そこが政治結社を敵に想定した場合のボトルネックとなってくる。
第三の相手は想定が難しいがカジノに反対している市民だ。
市民の大半は再開発計画に興味を持っていないが、商店街や商工会は地場産業が脅かされるとして強硬に反対している。
矢沢組はこの商店街の切り崩しを行っていたのだが、その矢先にジョーカーが出現するようになり、商店街を攻略するどころではなくなってしまったのだ。
そう考えると、人のいい商店街の人々こそが実は矢沢組の最大の敵という事になる。
――商店街がジョーカーの可能性――
だが、それなら情報漏洩が少なからずあるはずだ。
――もし商店街の誰かがジョーカーで、他の人間は知らないのだとしたら――
ジョーカーは一方的に守るだけで損をしているように見えるが、最終的には商店街が守られるのだから自分の仕事も守る事になる。
――商店街の何物かが、か――
健司はPCで商店街の店舗の情報を検索する。ほとんどが個人事業主でHPもまともに作れているとは言い難い。
そんな中、健司は気になる存在を発見した。
――人権派弁護士、慶田盛敦――
直接の関与の有無は別にして、慶田盛が商店街や町を守ろうとするのはありそうな事だった。
〈5〉
「急な訪問で恐れ入ります。慶田盛先生の事務所は意外と質素なんですね」
新庄市の雑居ビルの一室を訪れた健司は慶田盛敦に向かって言う。
「君は……殺し屋との事だが……」
当惑した様子で慶田盛が応接用の合皮のソファーに腰かけて言う。
「屋号のようなものです。ただの飲食店ですよ。保健所で営業許可も取っています」
健司は爽やかな笑みを浮かべる。
「で、歌舞伎町の飲食店がここに一体何の相談なんだい?」
敏腕弁護士という割にはお人よしなのだろう、慶田盛が問うて来る。
「店が襲われたんです」
健司の言葉に慶田盛の視線が険しくなる。
「それは警察に訴えるべき案件なんじゃないのかい?」
「歌舞伎町で店が襲われた程度で警察が動くと思いますか?」
健司が言うと慶田盛が思案気な表情を浮かべる。
「相手に目星はついているのかい? 組関係だと厄介だぞ?」
歌舞伎町という事を意識しているのか慶田盛が言う。
「ピエロのマスクに紫のトレンチコート、銃撃で店は蜂の巣です」
慶田盛の表情が一瞬硬直する。
――慶田盛はジョーカーを知っている――
「最近はそういった愉快犯が流行っているようだね」
「慶田盛先生はご存知ないのですか? ジョーカーと呼ばれているようなのですが」
慶田盛の顔がポーカーフェイスに変わるが遅すぎだ。
今更表情を消した所で知っていると言っているようなものだ。
健司はさり気なくソファーの隙間に盗聴器を滑り込ませる。
「噂で聞いている程度だね。でも、弁護士だからといって探偵の真似事ができる訳じゃない」
「慶田盛先生は懇意にしている探偵などはおられないのですか?」
「古い付き合いの探偵はいるけどね。彼を紹介するにはそれなりの理由が必要だよ」
慶田盛が慎重に言葉を選ぶ。
「店が襲撃された以上の理由が、ですか?」
「僕はその破壊された店舗の写真すら見ていないんだよ? 被害実態が明らかではないのに探偵の手を煩わせると思うかい?」
「随分と庇われるんですね。逆に興味が湧いてきましたよ」
健司は切り上げどころと判断してソファーから立ち上がる。
「貴重なお時間を頂きありがとうございました」
健司は慶田盛と握手しながら唇の端が吊り上がりそうになるのを堪える。
――これで慶田盛が探偵に連絡を取ればその相手がジョーカーである可能性は高い――
〈6〉
「いやぁ~俺たちマジ凄くね? もうハリウッドレベルだって」
クイーンメイブのボックス席で健がいつものように能天気な口調で言う。
「たちじゃなくて身体張ってる私たちが凄いの」
「お前PCなんて触れないだろ」
健が加奈に言い返す。
「PCコンビニの使えてるし!」
「ンなの使えてるうちに入らねーよ。な、ジョーク」
健の言葉に清史郎は肩を竦める。加奈と比較すればPCを使える方だろうが、ITというレベルには程遠い。
ヤクザの事務所に仕掛けた盗聴器をBluetoothで飛ばしたり、WIFIでデータを引き抜いたりといった芸当は清史郎には不可能だ。
しかも従来の興信所の盗聴器探知は電波の周波数帯で探っている為、健のカスタムした機材を探知する事ができない。
健は新庄市のヤクザの誰よりも彼らの動きに詳しいと言っても過言ではないのだ。
その中から清史郎が獲物になりそうな案件を選び出し、加奈と下準備を行っているのだ。
「なぁ~んか納得行かない」
加奈が口をとがらせるが、こればかりは健の能力を素直に認めるしかない。
「エースの情報収集能力がなければ火薬を仕掛けにも行けないだろ」
「土建屋の癖に何かムカつく」
「土建屋じゃなくてDJだっつーの」
「DJで食ってる訳じゃないでしょ? なら土建屋じゃない」
「ンだとコラァ!」
声を荒げる健を清史郎は慌てて宥める。
手を挙げるような青年ではないが、つまらない事で耳目を引くのは得策ではない。
「俺は二人におんぶにだっこだ。二人がいなければジョーカーなんてやってられない。そうだろう?」
「私もジョーカーやったしね。やってないのはエースだけ」
「俺がいなかったら起爆できねぇじゃねぇか」
むっつりとした口調で健が言う。
「裏方の仕事があっての晴れ舞台って事もあるんだ。もっとも、舞台役者が良くなかったらどんなに裏方の仕事が良くても芝居にはならない」
清史郎の言葉に加奈がため息をつく。
「ジョーカー人間できてるわ」
「単に口の上手いオッサンってだけかもな」
健が悪童のような笑みを浮かべる。
「多分エースの言う通りだろう。で、いよいよ選挙まで三か月を切った訳だ。矢沢組だけじゃない、カジノ関連の企業が再開発計画に群がってきている」
清史郎は話を本来の筋道に戻す。
「それは分かるけどさ、ヤクザは脅せても民間企業はどうにもならないんじゃない?」
加奈の言葉に清史郎は頷く。
「そこは商店街と市民の手に委ねる。俺たちが考えなきゃいけないのは、矢沢組をあと三か月どう騙し抜くかって事なんだ」
最終的にカジノ施設を選ぶか、市民公園を選ぶかは市民の手に委ねられるべきだ。
ジョーカーはそこに介入しようとする矢沢組をけん制しているに過ぎない。
「一年以上見破られてねぇんだし、今更どうって事も無いんじゃね?」
健が楽観的な口調で言う。
「一年って言っても綱渡りだったじゃない。ジョーカーも怪我したんだし」
常に現場を見て来た加奈が健に向かって言う。
「人生にはスリルがつきものだろ」
「必要ないのにスリルをつける必要ないでしょ?」
「人生にはロマンが必要だよ。なぁ、ジョーカー」
「私の人生にはロマンらしいロマンは無かったよ」
明らかに会話を楽しんでいる健に清史郎は苦笑する。
「人生堅実が一番なの。あんたみたいのが一番ホームレスに近いんだから」
「お前だってコンビニ店員以外何ができるよ」
「ちょっとジョーカー、何とか言ってやってよ」
怒った様子の加奈が話を振ってくる。
「景気が良くなったら事務所で求人でも出すよ。それより今は仕事をやり抜く時だ」
清史郎の真剣な言葉に二人が頷く。
――後三か月――
この凸凹コンビと一緒に駆け抜けなければならない。
〈6〉
「ここの探偵事務所では人探しをしたりはしないんですか?」
健司は三浦探偵事務所の安普請の椅子に腰かけて、所長兼調査員の三浦清史郎と向かい合っている。
慶田盛は健司が面会した翌日に同じく新庄市に居を構えている三浦に連絡を取った。
探られている事を多少は警戒しているだろうが、昨日の今日で会いに来るとは思っていないだろう。
「今の所請け負ってはいないね。知っているかどうか知らないが、日本の年間行方不明者は二十万人。警察が民事だと言ってサジを投げるレベルだ。うち毎年六千人前後が死体で発見される。これが日本の行方不明の実情だ」
四十五歳、探偵というより疲れたサラリーマンを思わせる風貌だが、どこにでもなじめるという点ではこの風貌は役に立っている事だろう。
「携帯電話の通信記録を探ったりしないんですか?」
「そういう情報は大手の情報企業が握っているんだ。契約していなければ盗み出すしかないだろうし、それをすれば犯罪だ」
「企業が形はどうあれ本人の同意なしに情報を持っている事は犯罪ではないと」
「正当だと思えば契約している、と、答えたら君に私の考えは分かってもらえるかな」
清史郎はかなり真っ当な昔気質の探偵であるらしい。
三浦探偵事務所は商店街の噂では浮気調査などではパッとしないが、事件性のある案件だと警察を出し抜く腕前なのだと言う。
「独り言だと思って聞いてもらえればいいんですが、ジョーカーという男をご存知ではないですか?」
「知っているよ。少なくとも片手には余るほどね」
掴みどころのない口調で清史郎が言う。
――だが、他の商店街の人間はジョーカーと聞けば逆に動揺したものだ――
「ヤクザ相手にモデルガンを振り回す愉快犯。前金で一千万。正体が分かれば更に一千万」
健司はリュックサックから帯留めされた札束の入った紙袋を押し出す。
「これだけ流行らない事務所だ。一千万を受け取って私が雲隠れするとは考えないのかい?」
「見つけられなくても差し上げますよ」
健司は内心で清史郎がジョーカーであるとの確信を強めながら言う。
「そういう事であれば遠慮なく預かろう。所でジョーカーについてもう少し詳しく話を聞けないかな? さすがに名前だけでは調査にならない」
「僕もまた聞きでしか知らないんですが、ヤクザが武装しているか麻薬を所持している時に出現し、モデルガンを利用してあたかも本物のように見せかけて驚かせ、ヤクザが金を落としていけばそれを拾っていく。そういう話です。被害に遭っているのは主に矢沢組で、矢沢組は現職与党知事のケツモチをしている」
「つまり、君の推理が正しければ現職知事と利害関係にある人物が選挙で優位に立つべく矢沢組を攻撃している、攻撃しているように見せかけているという事だね?」
「そう、その人物の特定が難しいんですよ。ヤクザの情報を自分の家のPCのように自在に覗き見て、常に有利な状況でモデルガンによる脅迫を行っている」
そこが健司が最も解せない所だ。
この三浦清史郎という男は探偵としては優れているように察せられるが、ITに強いようには見えない。
情報を買っている訳でも無いのだとしたら、一体どのようにして情報を得ているのか。
更に情報を得たとしてそれを整理し、取捨選択する事も必要になる。
事務員の一人もいないこの事務所のどこに実務を取り仕切る人間がいるというのか。
自分はこの男の何かを見落としているとでも言うのだろうか。
「つまり、ジョーカーという人物にはハッカーとしての側面もあるという事だね?」
「そう考えないと辻褄が合いません」
「では、ハッカーであり、モデルガンでヤクザを脅すジョーカーという愉快犯を特定してほしいという事だね」
「結論としてそういう事になるかと」
「プライバシーに踏み込むつもりはないが、そのジョーカーという人物の特定にどういった動機があるか聞か��てもらえるかな? 参考までにという事で構わないが」
「僕が矢沢組に依頼されたからですよ。でも僕の力だけでは見つけられそうに無い」
健司はチェスを指すかのような心境で言葉を選ぶ。
目の前の男がジョーカーである可能性は限りなく大きいのだ。
「君も探偵なのか?」
清史郎の言葉に健司は肩を竦めて名刺を差し出す。
「歌舞伎町で殺し屋を営んでおります円山健司と言います」
言った瞬間、清史郎の顔に何かグロテスクなものでも見たかのような表情が浮かぶ。
健司はその表情をこれまで嫌という程見てきたのだった。
第三章 殺し屋
〈1〉
清史郎は拙いとは知りつつ、円山健司を尾行していた。
尾行を知られたとしても、探偵が依頼者の事を知ろうとする事に問題は無い。
そもそもがジョーカーなどという得体の知れない人物を探せという無理難題なのだ。
例え自分がジョーカーであったとしてもだ。
電車を乗り継ぎSUICAのチャージマネーが尽きそうになった時、円山は新宿の歌舞伎町にある『殺し屋』という店舗に入っていった。
信じられない事だが、冗談でないとするなら殺人を生業とする人間が看板を出して店を営業しているのだ。
円山は自ら隠れるという事が無い。
本当に殺人が生業なのだとしたら、その手段に余程自信を持っているという事なのだろう。
清史郎は逡巡しながらも暖簾を潜る。
相手にその気があればビルに入った瞬間から監視カメラで自分を監視していても不思議ではないからだ。
「いらっしゃいませ! ご注文がお決まりになりましたらお気軽にお申しつけ下さい」
円山が人が違ったような口調で声をかけてくる。
「さっき会ったばかりだろう? それよりこのお品書きというのは本当なのか?」
お品書きには殺人方法や死体を残すのか残さないのかなど様々なオプションサービスが書き込まれている。
「はい、迅速丁寧をモットーに確実にターゲットを殺させて頂いております」
「例えば、この絞殺で死体を残すというオプションにした場合、警察に犯人特定されやすいんじゃないのか?」
「企業秘密にはなりますが、TPOに応じて柔軟に対応させていただいております」
「ジョーカーはどうやって殺す事になっているんだ?」
「お客様の情報を開示する訳には行きませんが、強いて言うなら殺し方は問わないとの事です」
円山の言葉が事実なら矢沢組はなりふり構っていないという事だろう。
ジョーカーは確実に矢沢組に打撃を与えているのだ。
「じゃあ俺も注文したいんだが構わないか?」
「どのようなご注文でしょうか?」
爽やかな笑顔で円山が言う。
「ジョーカーをオプションサービスで九月三十一日に殺してほしい」
清史郎の言葉に円山の目が見開かれる。
「前金で一千万。不足なら五百万を追加する」
清史郎は受け取ったばかりの一千万をカウンターに乗せる。
「ジョーカー殺害日時の指定は確かにオプションで追加可能ですが……」
「ジョーカーを殺す日時の指定は矢沢組からは無かったんだろう?」
清史郎が言うと円山が顎に指を当てて思案気な表情を浮かべる。
「依頼が重複した事は初めてで、対応致しかねます」
「いや、重複していない。私が矢沢組の手先で、追加でオプションを申し込んでいるとしたならどうなんだ? 君は依頼主の事をどれだけ調査しているんだ?」
清史郎の言葉に円山の表情が曇る。
「お客様のプライバシーを優先して営業しております。業務上必要な情報は収集致しますが……」
「九月三十一日、ジョーカーは新庄市商店街の外れ、たこ焼き屋千夏の前に現れる」
清史郎の言葉に円山の表情が強張る。
「もしお客様がジョーカーだった場合……」
「自分を殺してくれという依頼はこれまでなかったのか?」
円山が何かを試すような視線を向けてくる。
「もちろん、そういった依頼もございました」
「なら問題は無いだろう?」
「……つまり、あなたは探偵としての任務を全うし、殺し屋に仕事を依頼しに来た。そういう事ですね」
「そういう事になるな」
清史郎が笑みを浮かべると円山の口元に笑みが浮かぶ。
「矢沢組がそれ以前の日時を指定して来たら?」
「それこそ二重契約は無効だと言えばいいだろう?」
「矢沢組がジョーカーの正体を教えろと言ってきたら?」
「ここは興信所ではないのだろう? それに私は九月三十一日にジョーカーが現れるとは言ったが、私がジョーカーだとは一言も言っていないぞ」
円山は殺しという商売にプライドを持っている。
そのプライドに反する行為はできないはずだ。
「了解しました。九月三十一日に現れるジョーカーを殺します。しかし、他に機会がある場合もありますので悪しからず」
円山が一千万の入った紙袋を掴んでカウンターの内側に置く。
これで円山の精神には一つのストッパーがかかった事になる。
後はいかに円山を寄せ付けないように立ち回れるかだ。
〈2〉
してやられた。
健司は先制に成功したつもりが、乗り込まれて悪条件を飲まされた事を今更ながらに実感していた。
三浦の期日を守れば選挙は終わってしまうだろう。
矢沢組は選挙で勝利する為にジョーカーを殺したいのだから、仮に殺せたとしても契約違反と言いかねない。
そもそも条件は問わないという話だったのだから構わないと言えば構わないのだが、ヤクザがそのような道理を飲むとは思えない。
――そもそも乗り気な仕事では無かったのだ――
とはいえ、呑気に構えていてはヤクザに消される事になる。
九月三十一日に殺せたとしても、それは報復の意味しか持たない。
そして九月には三十日までしか存在しない。
十月一日を無理やり九月三十一日と解釈できない事も無いが、完全に手玉に取られたとの感を禁じ得ない。
緒方が猶予として見るのは何週間だろうか。
幸い緒方は健司が三浦と接触した事を知らない。
まだジョーカーを探していると言えば時間稼ぎはできるだろう。
最悪二千万はドブに捨てたのだと言うくらいの器量は緒方にはあるだろう。
しかし、それでは殺し屋の看板に傷がつく。
創業四年、地道に仕事を続けて来た実績に泥がつくのだ。
――三浦清史郎を殺すか――
それを考えて健司は三浦の余裕が気にかかる。
三浦がジョーカー本人だというならそれで構わないだろう。
しかし、ただの連絡役だったり複数犯だったりした場合はどうなるだろうか。
ジョーカーは死んでも蘇る。
その事の方が矢沢組にとって脅威だろう。
ジョーカーのテンプレートが商店街で共有される事にでもなったら、矢沢組は人的物量的に無数のジョーカーに襲われて新庄市を撤退しなくてはならなくなるだろう。
その時、ジョーカーを殺せと依頼されたなら、一体何人を殺せばよいのか分からず、それだけの数を連続で殺せば証拠を残す事になりかねない。
そうなれば警察に捕らえられて全てが水の泡だ。
――そう、殺すのは三浦清史郎ではなくジョーカーである必要がある――
その為にはジョーカーの仕事の実態を掴まなくてはならない。
これまでのジョーカーの襲撃箇所と状況を再確認する。
ジョーカーは神出鬼没のように見えるが、確実な逃走経路のある場合以外は出現していない。
ジョーカーは矢沢組の取引の全てを俯瞰し、最も有利な形を作り出している。
と、なれば健司も事前に情報を収集しなくてはならない。
以前緒方が入店した時、店内のシステムでスマートフォンはクラックしてある。
緒方のスマートフォンを経由して矢沢組組長矢沢栄作の端末に潜入する。
ホストを掌握して矢沢の端末から矢沢組の取引データを吸い上げる。
半グレたちは無料WIFIに接続している者が多く、セキュリティも糞も無い。
健司は新庄市の地図を広げ三浦の心理を読もうとする。
正面切っての対決の後で、あの食わせ物が仕掛ける事は間違いないのだ。
〈3〉
始発電車で歌舞伎町を訪れた清史郎は街路を歩き回りながら、人通りの少ない場所や人目につかない場所にトランプのジョーカーのカードを置いていく。
『殺し屋』がテナントに入ったビルの前の壁にはスマートフォンと接続したラズベリーパイの監視カメラを設置した。
監視カメラの映像は近場の喫茶店でタブレット端末で見ようと思ったのだが、歌舞伎町には静かに端末を見る事のできるような喫茶店が見当たらなかった。
仕方なく新宿駅前のコーヒーの不味いチェーン店に足を向けた。
電波は良好、通勤前の客も訪れておりタブレット端末を見ていても不審には思われない。
スマートフォンを操作して朝のニュースをチェックするが、特に気になるような情報は無い。
八時二十四分、円山が風俗ビルにスーツ姿でやって来た。
一見地味なスーツ姿に見えるがバーバリーにリーガルのシューズといったいで立ちだ。
見る人間が見れば逆に趣味が良いと答えるだろう。
屋内の監視カメラを警戒して清史郎はビルには監視カメラを仕掛けていない。
九時きっかりにスーツ姿にアタッシュケース姿の円山がビルから出てくる。
清史郎は円山が新宿駅に向かったのを見て小走りに店を出る。
円山を捕捉し、充分に金をチャージしたSUICAで改札を潜る。
円山を尾行する事二十分、新庄駅で円山は列車を降りた。
チャージマネーで改札が通れて良かったと思える一瞬だ。
昔なら駅によっては乗り越し清算をしなくてはならないところだ。
円山は商店街を突っ切り、三浦探偵事務所にほど近い喫茶店に入っていく。
清史郎は更に離れた喫茶店で画像を喫茶店のものに切り替える。
商店街の店にはセキュリティの名目で三浦探偵事務所の監視カメラが取り付けられているのだ。
円山が注文するより早く、店員がコーヒーにトランプのジョーカーを添えて差し出している。
円山の表情が一瞬硬直する。
清史郎は商店街の店に予めジョーカーのカードを配り、前払いで商品を出すよう話をつけておいたのだ。
これで円山は自らが監視対象である事を知る。
コーヒーを飲み干した円山が喫茶店を出て周囲を見回す。
――追われる気分はどうだ、円山――
円山は午後六時になると歌舞伎町のビルに戻り、吉祥寺の自宅であるらしいマンションに帰宅した。
清史郎は吉祥寺界隈の店に金とトランプのジョーカーを配り、路地裏などにカードを仕掛けて帰路についた。
〈4〉
「って事は正体バレちまったのかよ」
相変わらず騒々しいクイーンメイブのボックス席で健が声を上げる。
「殺し屋って名刺出してる殺し屋って狂ってるとしか思えないけど」
「腕に余程の自信があるんだろう。���の日本じゃ老衰や自殺や病死や事故死以外の異常死が毎年十七万件発生しているんだ。死体なんかあった所で警察の手が回る状態じゃない」
「ジョークと話してて思うんだけどさ、警察って何してんだ?」
「総資産一億円以上の人間の事は守ってるだろうさ。後は交通違反の取り締まりだな」
清史郎は答える。実際警察が殺人や行方不明を事件化する基準は分からないのだ。
確かなのは毎年日本では殺人事件は百件前後しか起こってはならず、検挙率は96%を下回ってはならないという暗黙の了解があるという事だ。
「どっちみち最初から警察は味方じゃないでしょ。矢沢組が商店街に嫌がらせをしても見て見ぬふりだったんだし」
「だよな。俺たちジョーカーが正義の味方なんだ。そうだろ」
「多少稼がせてもらってるけどね」
健も加奈もジョーカーという仕事には少なからず誇りは持っている。
士気が高いという点では矢沢組と戦っていく上で大きなアドバンテージになるだろう。
殺し屋円山健司がジョーカーの核心に近づいたとは言っても、健と加奈まで特定している訳ではないのだ。
そして健のITを見て警戒していた為、あの新宿の風俗ビルにはスマートフォンも時計も持ち込んでいない。
顔は間違いなく撮影されているだろうが、顔認証は広範なエリアから自在に情報を引き抜けるようなものではない。
いつ、どのカメラに映っているのか分からなければどのカメラをハッキングすれば良いのか分からない。
本当の所は分からないが、公には警察でも店舗など個人のカメラの映像は捜査協力や令状で記録を閲覧しているのだ。
健のIT技術にした所でカメラを特定し、通信可能な距離で『物理接触』しない事にはデータを閲覧する事などできないのだ。
「円山って野郎の鼻を明かしてやろうぜ。こっちは天下御免のジョーカーなんだ」
「でもさ、ジョーカーを探り当てたって事は相当の切れ者なんじゃない? 殺し方だって一つや二つじゃないからこれまで捕まってないんでしょ?」
加奈が慎重論を述べる。この慎重さがチームの要になっていると言ってもいい。
「じゃあどうするってんだよ。まさか止めるとは言わねぇよな」
「多少趣向を変える必要はあるだろうな」
清史郎はカバンからジョーカーマスクをのぞかせる。
「マスク……一体何枚あんだ? 量産して成功すんのは北朝鮮のモロコシくらいだろ」
「そっか……これをこれまで被害に遭った半グレに匿名で送り付ければ……」
ITには弱くても頭の回転の早い加奈には分かっ��ようだ。
「確実な取引情報を手にした���物の銃を持ったジョーカーが出現するんだ」
清史郎の言葉に健が唖然とした表情を浮かべる。
「さっすがジョーカー。でもよ、俺たちと鉢合わせにはならねぇのか?」
「一応発信機は取り付けてある。合成音声のスイッチを入れれば起動する仕組みだ」
「じゃあ信号がなかったら作戦決行って訳ね」
「それに送り付ける相手はこっちが選べるんだ。事前に動きを掴む事も難しくないだろう」
清史郎はこれまでの取引の状況から矢沢組に逆らいそうな半グレをリストアップしている。
表立って逆らう事はしないだろうが、ジョーカーとしてなら薬をガメるくらいの事はしかねない連中だ。
「でも、それって少ししたら矢沢組に露見するんじゃない?」
「ああ。でも矢沢組は確実に疑心暗鬼に陥るし、本物の銃弾が飛んでけが人でも出ればジョーカーに対して慎重にもなるだろう」
「最高にクールだぜジョーカー! ジョーカーが犯罪者だったら今頃大金持ちだぜ」
健の笑みに清史郎も笑みで答える。
「じゃあ今日の仕事もクールに決めましょ」
加奈の突き出した拳に三人の拳がぶつかる。
本家ジョーカーは最高のチームなのだ。
〈5〉
自宅まで嗅ぎつけられたとは。
午前七時、健司は朝食を食べようと吉祥寺の喫茶店に入った所で、ジョーカーのカードと対面する事となった。
もっとも、ずっと尾行されていたなら自宅が特定されるのは不思議でも何でもない。
一番の問題は探偵に四六時中張り込まれたらジョーカーどころではなく、他の仕事も一切できないという事だ。
動揺を押し隠し、それでも周囲を警戒しながら歌舞伎町の店舗に向かう。
ドアに挟んだ髪の毛が落ちた様子は無く、侵入者はいないようだ。
店内に入り、一通り掃除を終えると鋭利に削ったシャープペンシルをカウンターから取り出す。
殺しの方法はいくらでもある。
相手が尾行しているなら、人通りの少ない所に誘い込んで始末するという方法も取れるのだ。
健司は尾行のプロである三浦を警戒する事を止め、路地裏へと足を踏み入れる。
一定歩いた所で振り向き、シャープペンシルを引き抜く。
が、そこには三浦の影も形も無かった。
四六時中張り込んでいるという訳ではないという事だろうか。
健司が安堵しかけた瞬間、路上に落ちているトランプのカードに気付いた。
――ジョーカー!――
三浦はこちらの考えを見抜いて行動に出ているのだ。
と、言う事は人通りの少ない所は三浦本人に監視されない反面、ヤクザを監視しているような遠隔装置で監視している可能性が高いだろう。
――この僕が身動き一つ取れないと言うのか――
健司は拾い上げたトランプのジョーカーを握りつぶした。
〈6〉
深夜の路地裏、半沢芳樹はジョーカーマスクと紫色のどぎついトレンチコートに身を包んで、汗が出るほどにトカレフを握りしめている。
部下二人が矢沢組とヤクの取引をする事になっており、そこをジョーカーのフリをして襲撃するのだ。
成功すればタダでドラッグが手に入り、失敗してもジョーカーのせいだ。
うだつの上がらない半グレの四十代、ヤクザに昇格できる見込みも無い。
忠義を示せと言う方が無理というものだ。
視線の先には金を手にした部下の姿、ヘッドライトで周囲を照らす矢沢組のベンツがある。
部下が金を出し、組員がスーツケースを開いてドラッグを見せる。
半沢はそのドラッグを見ているだけで身体にアドレナリンが駆け回ったような気分になる。
「動くんじゃねぇ! こっちにヤクを寄越せ」
取引成立の寸前に半沢は銃を手に飛び出す。
矢沢組の構成員がスーツの内側から銃を抜く。
「金もヤクも俺のモンだっつってんだ!」
半沢は先制して引き金を引く。轟音が響き矢沢組の構成員が気圧されたように見える。
立て続けに引き金を引いて距離を詰める。
矢沢組の構成員が引き金を引き、半沢の頬を掠める。
ジョーカーの姿で出ていけば怯むと思っていたのだが、反撃は想定外だ。
それでもここが正念場と半沢は引き金を引く。
一発の弾丸が矢沢組の構成員の鎖骨の辺りを貫く。
凶悪な一瞥をくれて矢沢組の構成員たちが引き上げていく。
半沢は両手でヤクを掴んで高笑いする。
こんなにチョロい商売にこれまでどうして気付かなかったのだろう。
――ジョーカーを続ける限り俺は無敵だ――
〈7〉
事務所に次々に凶報が舞い込む中、矢沢組の緒方は状況の変化を理解していた。
ジョーカーの模倣犯は自然発生的に生まれたものではない。
本当に模倣する脳があるなら金や麻薬を要求する訳が無い。
と、すれば中身は町の半グレや暴走族と察しがつく。
とはいえ、数は厄介であり、ジョーカーの真似をすれば処刑だと言った所で本物のジョーカーもどこかにいるのだろうから半グレは高をくくって矢沢組の命令に従おうとはしないだろう。
そして更に厄介なのはちゃんとジョーカーを模倣できている者もいるという事だ。
ジョーカーを見たら撃てというのは簡単だが、半グレが連合して矢沢組に反旗を翻したら手足を失った矢沢組に抵抗する術は無い。
矢沢組は権力と金と麻薬は持っているが、マンパワーが多いという訳ではないのだ。
ジョーカーはその弱点を的確に突いて来たのだ。
「緒方、考えは無ぇか?」
電話越しの矢沢の言葉に緒方は頭を巡らせる。
「ジョーカーマスクに百万の懸賞金をかけてはいかがでしょう?」
マスクをつけている人間の罪を問わず、マスクを差し出せば百万やると言えばわざわざ危ない橋を渡ろうという連中は少なくなるだろう。
その上でジョーカーの撃滅を図ればいいのだ。
「その手は使えそうだな。問題はマスクがどれだけ出回っているかだが」
「数は多くないと考えます。そもそも同時多発的にジョーカーが出現したという事は、誰かが創意工夫して模倣されたのではなく、何者かが意図的に行ったと考える方が自然です」
言って緒方は組員たちに通達を出し、ついでに警察にも懸賞を知らせておく。
公権力が銃刀法で取り締まりを開始すれば半グレは震えあがってジョーカーの真似などしていられなくなるだろう。
〈8〉
健司は新庄市のホテルの床に落ちた髪の毛を拾いながら、事態の急変と自分の読みが正しかった事を知る。
三浦は健司に捕捉された事で作戦変更を余儀なくされた。
健司も身動きできなくなったが、それはお互い様なのだ。
そこで今回のジョーカー量産化計画を演出したのだろう。
しばらくの間町中にはジョーカーがあふれる事になる。
矢沢組が引き締めを行っているものの、偽ジョーカーの模倣犯も出現し本来の偽ジョーカーより多くのジョーカーが出現しているのが現状だ。
――でもこの狂騒はすぐに終わる――
健司は日が暮れるのを待ってアタッシュケースを手にホテルを出る。
三浦が四六時中張り付いている訳ではない事も分かっている。
いずれにせよ仕事を迅速に済ませれば証拠も残りはしないのだ。
深夜の人気の消えたオフィス街を歩きながら手に手術用のビニール手袋をはめる。
靴のサイズは自分の標準よりワンサイズ大きく、髪型は大きく変えていないが頭にはカツラをかぶっている。
一般で売られているカツラには、インドの仏教徒やヒンズー教徒が出家する時の髪の毛が使われている。
そして、インド人の髪の断面は日本人が楕円であるのに対し正円に近い。
仮に髪が現場に落ち、科捜研が調査したところで出てくるのは謎のインド人という事になるのだ。
健司は予定していた地点にたどり着くと、持ってきたボルトを電柱の穴に差して二・五メートル程の高さにまで登って電柱に寄り添うようにして立つ。
予定通りスポーツバッグを手にしたジョーカーが走ってくる。
中身は半沢という三下の半グレだ。
正面だけに注意を向け、自分の身長より上には注意が向いていないらしい。
健司はボルトに引っ掛けたテグスを引っ張る。
ジョーカーの首にテグスが食い込み、仰向けに倒れかかる。
アイスピックを手にした健司はジョーカーに圧し掛かるようにして飛び降りる。
アイスピックがジョーカーのマスクと頭蓋骨を貫き、脳を攪拌する。
健司はアイスピックをその場に放り捨てて、テグスもそのままに歩き去る。
アイスピックもテグスも殺人犯を特定する決定的な証拠とはなり得ない。
少し歩いた所で歩きやすい靴に履き替え、手袋を脱いでしまえば何一つ痕跡は残らない。
意識していたが三浦に行動を監視されていた様子は無い。
三浦はマスクをばらまいた事でジョーカー業を一定退いたのかも知れない。
それならそれで……
――ジョーカーを名乗れば問答無用の死が訪れる――
それでもジョーカーを続けられる者がいるだろうか。
健司の受けた依頼はジョーカーの殺害であって三浦清史郎の暗殺ではないのだ。
〈7〉
緒方は苦い気分で事務所でTVを見ている。
一週間で九人のジョーカーが殺され、四人のジョーカー、三人の組員が射殺された。
ワイドショーは死体にピエロのマスクをかぶせる愉快犯として報道している。
常識的に考えればそうなのだろう。
だが、現実にはジョーカーの模倣犯が跋扈し、殺し屋円山がジョーカーを殺しまくっているのだ。
この問題の裏が表ざたになれば矢沢組に捜査の手が伸びる。
組長が事情徴収という事にでもなれば、知事選敗北は必至だ。
この銃弾飛び交い殺し屋が闊歩する状況は、客観的に見れば矢沢組の内部抗争なのだ。
――やってくれたなジョーカー――
日用品を用いて鮮やかに殺しを遂行する健司に対する恐怖は広がっており、それなりの数のジョーカーマスクが届いてもいるが、それでも自分だけは大丈夫と考えるのが人間の性であるらしい。
「兄貴、県警本部長が来ています」
部下の言葉に緒方は舌打ちしたくなるのを堪える。
何人か人身御供に出す必要はあるだろうが、それでジョーカー問題が片付く訳でも無い。
今の新庄市はさながらギャングの蔓延る六十年代のニューヨークだ。
このネガティブイメージの中ではカジノ施設の誘致も集客の為だなどという言葉で誤魔化せない。
――だが、商店街も打撃を受けているはずだ――
緒方は次善の手を考えながら県警本部長を待たせてある応接室に向かう。
「緒方です。この度はお騒がせしております」
「いや、そうかしこまらんでくれたまえ。私がこうしておれるのも矢沢組あっての事だ」
県警本部長の茨木義男が本革張りのソファーから腰を上げて言う。
茨木は東大卒のキャリアで矢沢の後輩に当たり、同じゼミを受講していた間柄だ。
「殺人事件は起こせない。それが警察の不文律でしょう?」
「今回のカジノ施設建設は内閣肝いりでもあるんだよ。情報操作で反対派が工作しているように演出する事は可能だろうよ」
転んでもタダで起きないのが政治家やエリートというものであるらしい。
「つまりはカジノ施設反対派が、賛成派の人間を殺してピエロのマスクをつけていると?」
「そういう報道になっているだろう?」
茨木の言葉に緒方は唖然とする。
当事者としての立場で見ていた為に気付かなかったが、一般視聴者の目線で見るとそういう風に見えるのだ。
「で、私の在任中にこれだけの死者を出しているんだ。票は囲い込めているんだろうね」
「固定票は押さえております」
実際の所、矢沢組は内紛に近い状態で票を囲い込めるような状態ではない。
大手のチェーン店などでは本部通達で票の取り込みができているが、個人事業主は依然として反対の姿勢を崩していない。
――やる事成す事裏目に出る――
「死人は出る、カジノ施設はできないでは私の本庁復帰が危うくなるんだよ。その意味は分かっているだろうな」
「はい」
不満げな茨木に緒方は短く答える。
――県警本部長が殺害されれば流れが変わるかもな――
緒方は脳裏にあのとらえ所のない殺し屋の姿を思い描いた。
第四章 トリックスター
〈1〉
「最近俺たちが出てもヤクザもビビらねぇのな」
クイーンメイブのボックス席で健がぼやく。
本物の銃を撃つジョーカーもいれば、ジョーカーを狙い撃ちにする殺人鬼も存在する。
実際に死人も出ているのだから今更驚かす程度ではヤクザも怯みはしないだろう。
「銃で撃たれるって不安。前より遠慮なく撃たれてる感じ」
加奈が沈んだ様子でカクテルに口をつける。
「おいおい、私たちの本来の目的を忘れたんじゃないだろうな。私たちの目的はカジノ施設誘致の妨害だ。今の状況でカジノ施設がオープンしたとして誰がテナントに入るんだ? 暴力がこれだけ蔓延る状況を許した現職知事は窮地に立たされている。住民の安全と地域の活性に誠実に取り組む人物が取って代わらなければ市民が納得しない」
ショットのバーボンを口に運んで清史郎は言う。
「いや、確かにジョーカーの言う事は分かるんだけどさ、昔は良かったっつーか、実入りが少ないのは我慢するとしてもよ」
「私たちの本当の目的に近づいているんだから喜んでいいはずなんだけどね」
「選挙の公示まで三日、世襲できそうな人間がいない以上与党は今更候補者を変更できないし、現職のまま選挙を戦う事になる。野党には追及の材料が掃いて捨てるほどある。これで負けるようなら本当に世の中が腐りきってるってだけだ」
健と加奈の気持ちを察しながらも清史郎は言う。
「もう少しで全部終わっちまうんだよなぁ~。何か微妙だぜ」
「コンビニも忙しいって言えば忙しいんだけど、税金は取られるのに退職金も無いし年金のアテもないし」
健が仕事にやりがいを感じられないのも、加奈がお先真っ暗だと言うのも理解できる。
「そうは言っても九月三十一日にはジョーカーは死ぬんだ」
「してやられましたよ。九月に三十一日なんて無いじゃないですか」
ボックス席に当たり前のように現れた円山が言う。
「誰だテメェ!」
健が身を乗り出す。
「歌舞伎町で殺し屋を経営している円山健司と言います。ここが三浦さんの本当の事務所だったんですね」
「まさか一週間で九人も殺したのって……」
「やだなぁ~僕はもっと殺してますよ。警察だって報道内容には気を遣うんです」
涼しい表情でグラスを手にした円山がボックス席に座る。
「人殺しだってバラすぞ、テメェ」
健が円山に向かって噛みつきそうな声と表情を向ける。
「ご自由にどうぞ。何か一つでも証拠が存在するならね」
「で、その殺し屋さんがここに何の用?」
「いや、本家のジョーカーはどうしているのかと思ってね。偽物でもこれだけ殺せば本家も仮面を捨てるんじゃないかって思って」
「おたくの言う通りだ。こんな凄腕の殺し屋がいるならジョーカーなんてやるだけ損だ」
「本当にそう思っていますか? 本家はまだ何か隠し玉を持っているんじゃないかって思うんですけど」
「随分と余裕かましてんじゃねぇか。ジョークを殺ったらテメェを殺す」
「殺しはしたくないけどジョーカーを殺させる事は絶対にしない」
「人望があるんですね。いっそ事務所でこの二人を雇ったらどうです? 今より金回りはよくなるんじゃないですか?」
「殺し屋より儲かるとは思えないね」
「それはリスクを負っていますから」
「テメェは嫌味を言いに来たのか。悪いが俺たちはテメェになんざ負けねぇ」
頭に血の上った健が言う。
「そうそう、一つプレゼントがあるんです」
「あんたがくれるものなんてロクなものじゃないと思うんだけど」
「野党連合の候補を殺すように県警本部長から依頼を受けたんです」
笑顔で言った円山がグラスを空ける。
突然の事に健と加奈が硬直する。
選挙期間中に候補が殺されてしまったら票が分散して現職が有利となる。
どれだけ黒い噂があったとしてもだ。
「それは俺たちに守って見せろと言っているのか?」
「さぁ、気まぐれですよ。僕はこれでもあなたの事が嫌いではないんですよ」
言った円山が席を立って去っていく。
加奈と健が茫然とその背を見送る。
「私たちと候補者をまとめて葬るつもりか……」
清史郎は思案する。候補者を守る為に張り付けば二人まとめて殺される可能性がある。
しかし、候補者を放置しておけば間違いなく殺されるだろう。
具体的な殺人予告という訳ではなく、あったとしても警察はアテにはならない。
市民は自衛するしか無いのだ。
――どうする……――
「なぁ、ジョーク、どうすんだ?」
「あんたも少しは考えなさいよ」
「考えてるって。頭の中じゃあの野郎を三十回は殺してる」
非生産的な事を考えている健が言う。
「ジョーカー、私、どうしていいか……」
加奈は追い詰められた様子だ。
「こうなったらお望み通りにしてやろう。ジョーカーの最期を見せてやるんだ」
清史郎は一抹の寂しさを感じながら笑みを浮かべて見せた。
円山を前にして取れる手は一つしか無いと言っていい。
――あの男はこの結果を望んでいたのだろうか――
〈2〉
『……皆さん、この町の惨状は突然起きたのでしょうか? その根幹には市の中央にある広大な県の土地があります。この土地は江戸時代に火災の延焼を避ける為に作られた防災の為の土地でした。しかし新庄市が栄えるに従い、土地の価格が上がり莫大な利益が生まれる事が分かってきました。ヤクザやギャング、財界の人間はその利権に群がっているんです。もし、彼らの思い通りにさせるなら彼らの存在を容認する事になります。二百年前の先人の知恵に従い、ここを防災を兼ねた市民公園にする事こそが行政の成すべき事です……』
夕暮れの新庄市の駅前で野党候補の峰山春香が声を上げる。
聴衆はさほど多くはないが商店街や青年団が集まって盛り上げようと四苦八苦している。
清史郎はオープンカーのハンドルを握りながらタイミングを計っている。
『ジョーカー、スタンバイOKよ』
イヤホンから加奈の声が聞こえてくる。
『警察は野党の候補に人は割いちゃいねぇ、殺るなら今だ』
健の声を受けて清史郎は紫のどぎついトレンチコートを羽織り、ピエロのマスクをかぶる。
「そこのお前……」
演説を警備していた警官が警棒を手に近づいて来る。
「制服ギャングも久しからず」
清史郎は銃を引き抜く。
警官の足元で火花が爆ぜる。
聴衆だけでなく、夕暮れの帰宅ラッシュの人々の足が止まる。
「綺麗ごとでマニィをロンダリィ! 俺はハッピーにトリガー、堅実な人生が諸行無常!」
清史郎は自動小銃を抜いて選挙カーに銃弾を浴びせかける。
銃声が響き至る所で火花が散る。
ガードマンに守られて逃れようとする峰山の背に向けて引き金を引く。
血を噴出させた野党候補が倒れる。
「こんな時には正露丸! キャベジンがあれば国士無双ゥ! ユンケル飲んだら夜金棒!」
峰山が選挙カーに運��込まれ、現場から離脱しよ��とする。
『ジョーク、サツが動いた。射殺してもいいって言ってやがる』
健の言葉に清史郎は生唾を飲む。想定してはいたが、想像以上に警察もなりふり構っていないらしい。
清史郎はオープンカーで選挙カーを追い、グレネードランチャーで後ろ半分を吹き飛ばす。
煙を上げた選挙カーが路肩で停止する。
清史郎は高笑いしながら選挙カーの脇をすり抜け、オープンカーで町を駆け抜ける。
無数のパトカーが清史郎のオープンカーを追う。
『ジョーク、法定速度は無視してくれ、俺がナビゲートしてんだし、今更ネズミ捕りが怖いって訳でもねぇだろ』
健のナビゲーションでパトカーを避けて清史郎は埠頭へと向かう。
銃声が響き、音速より早く飛んだ弾丸がオープンカーに襲い掛かる。
警察が矢沢組の懸賞を狙っている事は健のハッキングで知っている。
制止する警官の声と銃撃を受けながら、フルスロットルのまま岸壁から海上へと車体を躍らせる。
肩と背中に銃弾を受けた清史郎は冷たくなり始めた海の中へと沈んでいく。
清史郎が意識を失いかけた時、淀んだ海の中にウェットスーツに身を包んだ加奈が姿を現した。
〈3〉
警察が捜査した結果、海で手に入れる事ができたのは一台の盗難車とピエロの仮面と紫色のトレンチコートだけだった。
知事候補が襲撃された事もあり、今後清史郎がジョーカーの扮装をすれば正体が露見する可能性は極めて高くなるだろう。
――本家ジョーカーは死亡した――
健司は病院の廊下を歩きながらポケットの中のビニール手袋の感触を確かめる。
野党候補は銃創を負って病院に入院している。
実際には銃創など負っていないのだろうが、ジョーカーと候補が一芝居打つのだとしても病院は避けて通れない。
――悪いけど僕は殺しの依頼は完遂する――
健司は候補の部屋の前のボディガードの様子を観察する。
「すみません。新庄市後援会の青年団の円山と言います。先生はご無事でしょうか?」
「先生はご無事だ」
鉄面皮のボディガードが返答する。
「それを聞いて安心しました。一言無事をお祝い申し上げたいのですが構いませんか?」
「十分だ」
ボディガードの言葉に笑みを返して健司は一人部屋に足を踏み入れる。
両手にビニール手袋をはめ、小銭袋を握りこむ。
「やぁ、先生、ご無事なようで何よりです」
「無事なものか。ポリの弾丸を四発も食らったんだ」
そこで見た光景に健司は言葉を失った。
「お陰で選挙が終わるまで退院できそうにない」
三浦が笑みを向けてくる。
「バカな……あなたは……」
身を隠さなくてはならないはずだ。
治療する為にも……。
――治療する為に候補に成りすましたと言うのか――
入院している間は世間の目は避けられる。
それでは候補はどこに消えたと言うのか。
「お前は野党候補を殺せというオーダーを受けたはずだ。今彼女は立候補しているが、生死不明で野党の統一候補ではない。今は慶田盛弁護士事務所で事務の手伝いはしているが選挙活動はしていない。それでもお前は殺すのか?」
健司は清史郎の言葉に笑いがこみあげてくるのを感じた。
「詭弁にも程がありますよ。ほとんど屁理屈じゃないですか」
「屁理屈でも君は依頼に忠実なんだろう? あと面会は手短に頼むよ。これでも歳でね、銃創って言うのは堪えるんだ」
銃創が堪えているのは本当らしい。
「それでも最後には候補は復活しなきゃならない」
「死んでいなければね」
カーテンの影から姿を現した女性がグレネードランチャーを構える。
「まさか……」
「ジョーカーは死んだ、ヒットマンは来た。これで充分だ。なぁ、ジョーク」
ラップトップコンピューターを小脇に抱えた青年が言う。
「ゲームオーバーだ」
清史郎が不敵な笑みを向けてくる。
健司は小銭袋を窓に投げつける。
砕けたガラスの破片を拾い上げて身構えながら退路を探る。
ガラスの破片で候補の命を絶つつもりだったが今三浦を殺した所で意味が無い。
今は割れた窓の外に逃れる隙さえあればいい。
女性の指がグレネードランチャーの引き金にかかる。
猛烈な爆音と閃光が室内に満ちる。
健司は窓の外に身体を躍らせた。
――これで知事候補が殺された事になるのか――
健司は地面を転がり、人目を避けながらバッグから出した白衣を羽織る。
――僕は最期までジョーカーに踊らされたって訳か――
敗北感より、どこか清々しさを感じながら健司は病院を後にした。
〈3〉
「慶田盛弁護士事務所では峰山候補を歓迎しますよ」
新庄市にある、冤罪に強いと噂の弁護士事務所で峰山春香は未だに自分の身に起きた事が信じられないでいる。
峰山が候補に決まったのは公示二日前、そこから慌ただしく野党の党首などと会談を交わし、選挙戦の流れになったのだが、その直後に慶田盛敦という弁護士が現れたのだ。
慶田盛の噂は峰山も聞いており、信頼できる人物であるとは感じていたが、話の内容は想像のはるか斜め上を行くものだった。
新庄市の乱射魔ジョーカーの本家は、冤罪事件の解決を主に行っている三浦探偵事務所の所長三浦清史郎だったのだ。
三浦は知事選を前に町に大量のジョーカーマスクをバラまいて一時的に身を引いた。
しかし、ジョーカーと野党知事候補は確実にターゲットを仕留める円山という男に命を狙われているのだ。
更には矢沢組がジョーカーに懸賞首をかけており、警察も生死を問わないという条件でジョーカーを狙っているという。
そこで三浦が出して来た案がジョーカーに候補者が襲われて入院、ジョーカーは警察に追われて死亡、更に候補者の運び込まれた市民病院に現れる円山を三浦が撃退するというものだったのだ。
三浦は警察に追われて手傷を負う事は間違いなく、それならば知事候補と入れ替わって入院してもゆっくりと治療ができる。
一方春香は慶田盛弁護士事務所で投票日三日前まで、事務職として短期採用される。
円山のターゲットは知事候補であり、事務員殺害ではなく、その一線を越えてこないのも円山という男なのだという事だった。
「何もかもが信じられないわ。生死不明で選挙戦を戦うなんて……」
「野党の党首が連日新庄入りするって話になったじゃないですか」
春香は慶田盛弁護士事務所の安普請の椅子に腰かける。
「それはいいとしても、いいえ、大きな借りを作る事になりますし……」
「市民に対して不誠実だと?」
春香の心中を察した慶田盛が言う。
「その通りよ。三日前に復活なんて話が良すぎるし」
「でも、実際問題あなたを救う手立ては他に無かった」
事務所の電話が鳴り、慶田盛が受話器を手に取る。
ボタンを押してスピーカーに切り替える。
「私だ。円山が知事候補殺害に現れたよ。こっちで見かけだけは派手な爆薬を爆発させて追い出した。これで知事はテロリストにまで襲われた事になるわけだ。しばらく身を隠さなきゃならない理由が増えたんじゃないか?」
「三浦さんですね? あなたが身体に銃創を負ったという話は聞いています。あなたはどうしてここまでやったんですか?」
「若い連中と付き合いがあると、柄にもない正義感なんてものも持つものなのさ」
三浦の言葉に春香はため息をつく。
実際の傷はどうあれ、体面上知事候補は集中治療室にかくまわれるだろう。
「市民病院が告発したらどうするつもり?」
「それは無いさ。与党の市長になってから予算を削減されて、市民病院では上から下まで味方しようなんてヤツはいないんだから」
慶田盛が肩を竦めて見せる。
「あと、仕事柄マスコミの相手をするのは苦手じゃないんだ」
「ああ、こいつは口先だけは有能だからな」
二人の言葉を聞いていた春香は苦笑する。
悪だくらみのような作戦だが、この二人にとってはこれは健全な正義のスポーツのようなものなのだ。
〈4〉
野党候補の入院先で爆破テロが起こった事で、与党候補に対する疑惑は大きなものとなった。
野党候補は生死の境を彷徨っていると報道されている。
清史郎は病院で何不自由なく治療生活を送っている。
のだが……。
「なぁ、ジョーク、ここで寝てるってのは何かの冗談だろ?」
「怪我してるのは事実なんだから無茶言わないの」
健と加奈は連日競うようにして病室を訪れている。
「お前ら、もうジョーカーの出番は無いんだぞ? 知事選も候補が無事を表明すれば一発で決まる。もうやる事は無いんだ」
清史郎が言うと健が叱られた犬のような表情を浮かべる。
「いやさジョーク、俺、土建屋辞めたんだ」
「私も……その、コンビニ辞めたんだ」
清史郎は二人の言葉に唖然とする。
このご時世に仕事を自ら捨ててどうしようと言うのか。
「ジョーク、儲からないっつってるけどよ、俺が手伝ったら何とかなんじゃね?」
「先に言わないでよ。採用するなら私の方が得なんだから。多分」
清史郎は額に手を当ててこみ上げてくる笑い声を抑える。
傷に響くが笑いたくなるのだから仕方がない。
「お前ら、馬鹿じゃないのか? こんなオッサンと組んだって心中するようなモンだろ」
「それでもいいくらい楽しかったんだよ」
「またスリル、くれるんでしょ?」
清史郎は笑い声をあげて身体を起こす。
傷が引きつるが痛みなど気にならない。
「資本金はお前らと合わせて裏金三千万円。社員は三人。一人はオッサン。ジョーカー探偵事務所とでもするか」
「何かダセェ。中年は変に英語にするから逆にカッコ悪いんだよ。三浦探偵事務所でいいだろ」
「中年のセンスが悪いのは今に始まった事じゃない」
清史郎は憮然として健に言い返す。
「じゃあ新しい門出に」
加奈がバッグからワインのボトルを取り出す。
若い二人は自分に老ける暇を与えてくれないらしい。
清史郎はコップに注がれたワインを掲げる。
「乾杯」
紙コップが音もなく打ち合わされ、新しい何かが動き始めた。
エピローグ
清史郎は健と加奈を引き連れて病院の廊下を歩いている。
向かいからスーツ姿の峰山春香が歩いてくる。
握手しようと峰山が手を差し出してくるのを無視して清史郎は右手を軽く上げる。
峰山が応じて右手を挙げてハイタッチすると、清史郎と峰山は入れ替わるように方向を変える。
清史郎の背後でフラッシュが瞬き、峰山が光とシャッター音に包まれる。
生死不明から無傷での生還。
これほどの宣伝も無いだろう。
ジョーカーはカジノ施設を阻止するというその使命を果たした���だ。
選挙戦は野党党首が連日交代で訪れるという形で、野党が攻勢を強めていた。
そして投票日三日前に野党候補が無傷で出現。
暗殺者に狙われていた事を告げ、改めて支持を訴えた。
緒方は事務所で出来の悪すぎる茶番劇を見せられたような気分を味わっている。
ジョーカーという乱射魔が出現、殺し屋に依頼をしたらジョーカーの模倣犯が大量に出現。野党候補を狙ったら本家ジョーカーに命を狙われ、生死不明から一転蘇った。
市民の心理を考えるまでもなくこの選挙は完敗だ。
何処で何を間違えたのかなど分からない。
否、最初からこの町には矢沢組を受け入れない何かが存在していたのだ。
近々上層の組から矢沢更迭が告げられるだろう。
だが、緒方は矢沢にとって代わろうなどとは思わない。
――この町にはジョーカーという化け物が存在するのだから――
十月一日、健司はいつものように殺し屋のカウンターの内側にアルコールを吹きかけている。
もしも、九月に三十一日が存在しているならジョーカーが殺されてやると言っていた日。
新庄市では市民の支持を得た新知事の誕生でお祭り騒ぎらしい。
と、殺し屋の戸口に宅急便の配達員が現れた。
「殺し屋様ですか? Amazon様からのお届けものです」
記憶には無いが健司は笑顔で箱を受け取り、伝票にサインする。
ナイフで慎重に箱の封を開けるとそこにはピエロのマスクが収まっていた。
健司は口元に笑みが浮かぶのを感じた。
――確かにジョーカーは死んだ――
健司はその自然な笑みを機械的な笑みの後ろに隠し、カウンターを磨き始めた。
今日も新たな客がやって来るに違いないのだ。
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