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#南原千畳敷
jinken24 · 2 years
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地域の自然と文化を体感できる新しいツーリズム開発を、、、ということで、ご縁を頂いた八丈島、2回目の出張。 ひょうたん型の島は半分ずつ、できた年代も風景も空気感も全然違うのが面白い! 今回は若くエネルギー溢れるエリアへ。 大地のパワーを全身に浴びて、自分の中の何かがグツグツ、湧き上がるように再生していくのを感じました。 可能性に溢れたこの島の未来に関われること、ワクワクします! #八丈島 #南原千畳敷 #大地のパワー #∞ (南原千畳敷) https://www.instagram.com/p/CjxPapuOFs0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
 新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。  『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。  『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。  同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。  (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。  (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。  宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。  騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。  こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土��的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。  (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。  私の父・新田���郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。  (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。  (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。  武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。  「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。  (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。  こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。  世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。  (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。  (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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yamanoblog · 1 year
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kachoushi · 2 years
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各地句会報
花鳥誌 令和4年10月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和4年7月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
観音の御手炎天にやはらかく 佑天 跡地へと想ひありしか夏の蝶 三郎 白あぢさゐ少し離れて年尾句碑 和子 病院も看護記録も夏草に いづみ 小さく深き緑蔭が抱く年尾句碑 和子 息荒く仏へ寄りし暑さかな 光子 日盛の祠に生れし真の闇 和子 みづからを菩薩に添うて空蟬に いづみ
岡田順子選 特選句
面影は西日晒しの看板に はるか 夏草や記憶の中のナース服 三郎 朝涼の鎌倉よりの風頰に 慶月 息荒く仏へ寄りし暑さかな 光子 五輪塔とは緑蔭のただの石 俊樹 元禄も享保の墓も灼けをれり 佑天 暑き日を年尾の句碑のふところに はるか 観音は水の色して大酷暑 いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月7日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
浮き沈み女三代夏のれん 都 空つぽの香水びんの残り香よ 同 長茄子の悩ましきかな曲線美 同 パナマ帽明治の父の伊達姿 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月7日 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
白と云ふ色たゞならぬ半夏生 雪 前山の雪崩るる如く青嵐 同 やゝに老いやゝに夏痩せして在す 同 炎帝のどかりと座りたる越路 かづを 滝音に鳥語人語も呑まれたり 同 九頭竜と対峙し流る天の川 同 静もりて明智が墓碑に沙羅の花 笑 能登半島掻き消してゐる青嵐 千代子 悠久の光を抱へ滴れる 泰俊
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月8日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
子等見つつ弁当番や海の家 宇太郎 屠場へと曳かれるやうに炎天へ 都 死者送り窓に吹き込む青田風 すみ子 川に還す一夜を共にせし蛍 美智子 次の子に少し短かき古浴衣 宇太郎 病窓に影の騒ぎて青嵐 悦子 風紋は海へ傾れて雲の峰 宇太郎 先輩の墓碑に献杯原爆忌 益恵
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月9日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
戦なき広き空欲し雲の峰 三無 風ひたと止んで初蟬響きくる 百合子 夏蝶のげに句碑守のごと飛びぬ 同 雲の峰草の匂ひに樹の匂ひ ゆう子 ア��プスを小さく見せて雲の峰 白陶 菜園の胡瓜ピカソの絵に似たり 多美女 句碑に影落し戻り来黒揚羽 三無 供へればくらりと揺るる甜瓜 ゆう子 炎天に浄き閼伽水陽子墓所 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
七夕や竹切る音のとよもせり 時江 夏潮にロシア軍艦越境す 世詩明 うしろから八つ裂きに来る稲光り 信子 鷺草や鎮守の杜を結界に 時江 七変化寡黙な夫のいつもゐて 信子 生きる意義考へてゐる山椒魚 上嶋昭子 花擬宝珠通夜の灯うるみ傾きぬ 中山昭子 青田もう何も映さず靡きをり みす枝 浴衣の娘女工哀史のこと知らず 世詩明 風鈴を気楽な人と聴いてをり 上嶋昭子 黒南風や酒場は白きピアノ置き 同 見馴れたる山を見飽きず端居かな 中山昭子 昼寝人濁世を忘れ仏顔 みす枝 水打つて日本の地震を鎮めをり 信子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
武蔵野の風に目覚めし合歓の花 三無 羅や近より難き気を纏ひ 同 艶やかに羅笑みて同窓会 同 金魚鉢洗ふ役目の誇らしげ 貴薫 金魚掬ひ父の背中の逞しき 有有 旅先で出合ひて嬉し合歓の花 貴薫 慎ましく生きる姿の合歓の花 史空 羅の似合ふ真砂女に恋多き あき子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
七夕の雨に濡らしてハイヒール 登美子 片恋のラジオ相談星の秋 同 玉葱を貰へば娘吊るしをり 令子 夏座布団友の数だけ広げけり みえこ 天道虫後ろ姿の子らを撮る 裕子 たばこ屋の小窓に覗く扇風機 実加 忠霊場若きの墓は盆静か 令子 老いらくの母の見入れる天の川 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月15日 さきたま花鳥句会
炎天の小江戸の街や車夫の愚痴 月惑 老いてなほ一鞭入れて草を引く 八草 空蟬や何も語れず逝きし友 裕章 夏空へ磴駆け上る柔道部 とし江 厳かにお祓ひ後の心太 ふじ穂 紅芙蓉誉め合ふ笑みの立ち話 恵美子
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令和4年7月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
此の先は教へぬつもり道をしへ 雪 野地蔵も息をひそめる炎天下 英美子 日盛りに息をひそめてゐる地蔵 同 母の影盆灯の後見え隠れ 山田和子 羅やさらりとまとひ香の立つ 真喜栄 バス降りて一人一人の夏終る 世詩明 短夜や夢幻の如くなる 同 めまとひを払ひて無人切符買ふ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
大蟻の車輪のごとく駆け抜けし 久子 炎天の武蔵野の底滑る蝶 三無 変ること厭ふ白紫陽花の白 久 水光り羽黒蜻蛉は神の使者 慶月 古座敷や行くあて知れぬ茄子の馬 軽象 水音を真中に抱きて森涼し 慶月 大蟻も小蟻も参ず地蔵塔 眞理子 夏空を映す水たまりを蹴上げ 久 天牛の角ふりかざす古戦場 眞理子 紫陽花の絞り出したる終の藍 圭魚 甘味屋の蓮を描きし夏暖簾 同 民家古りただ現し身の黒揚羽 千種 森深く闇に添ひゆく黒揚羽 斉
栗林圭魚選 特選句
水音を真中に抱きて森涼し 慶月 ハケの家夏炉の湿る匂ひかな 要 大蟻も小蟻も参ず地蔵塔 眞理子 紅蓮の今日崩れゆく命かな 久子 夏空を忽ち縮め潦 斉 みがかれし床に朝採り茗荷の子 久子 式台に雨跡ありて風涼し 同 茅葺きの土間の暗がり死蛾美しき 炳子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月19日 萩花鳥会
みちのくの吾娘が来たるや月見草 祐子 炎帝や必殺狙撃動天す 健雄 一面の葉に見え隠れはすの花 恒雄 夏山はこれで十分梅むすび 俊文 夏料理語り尽くして持て成さる ゆかり 駄々つ子の泣きやんだらし夏の雨 陽子 痛風の足を投げ出し夏の月 吉之 頭垂れ雨乞ひしたるや庭の花 明子 法螺貝の響く城下や雲の峰 美恵子
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令和4年7月20日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
もくもくと九頭竜のぼる雲の峰 千代子 七夕や笹は願ひに撓るほど 千加江 幼きを呼び戻したる天瓜粉 同 かの人の垣根に高く酔芙蓉 昭子 三人の遺影の部屋も梅雨湿り 清女 七夕に女心の糸結ぶ 啓子 小石踏む音の近づく夏館 泰俊 夕立や濡れて礎石の薄明り 同 面も手も己れ矜恃の日焼かな 数幸 穴を出し蚯蚓一糸も纏はざる 雪 裸火に想ひの丈を飛べる火蛾 同 水の如く又火の如く人涼し 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月21日 鯖江花鳥俳句會 坊城俊樹選 特選句
風鈴の欲しいと思ふ風が今 洋子 右衛門に隣る左衛門夏構 同 鉈の音山の地肌に万緑に 同 賽銭を打つ音までも黴臭き 同 万緑や山相いよよ文殊山 雪 祭帯器用に結びくれし母 同 その人とカンカン帽に気付く迄 同 盆の月家系図のこと何もしらず 昭中山子 炎天に近道すれば転びけり 同 子が囃す夜空の証や地蔵祭 ただし 鳳仙花姉妹の話途切れ無し みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月24日 月例会 坊城俊樹選 特選句
零戦に少年口を閉ざす夏 和子 靖国へ四方より迫る雲の峰 要 夏蝶は翅で息して歩みたる 和子 空蟬の祈る形に落ちにけり 同 蓮花へと極楽の風触れて過ぐ 政江 静脈の巻きつく手首白日傘 和子 羅を纏ひかの世の話など はるか
岡田順子選 特選句
目の前を突然蟬の木となれり 千種 絵日傘のシスターの行く九段坂 眞理子 大きさの合はざる蟬の殻と穴 千種 礼拝の黙を蓮の解かれゆく 炳子 羅を纏ひかの世の話など はるか 炎帝の子の鉄棒や大鳥居 小鳥 見巧者の折紙付きや泥鰌鍋 幸風
栗林圭魚選 特選句
零戦に少年口を閉ざす夏 和子 熱砂踏む雀らの影ゆらゆらと 順子 横顔の考へてゐる団扇かな 同 病葉となるや社の奥に降り 眞理子 空蟬は拾ひ奉仕の竹箒 順子 最短の空行く鴉街灼くる 千種 大鳥居溽暑の穢土を寄せつけず 月惑 能舞台しづかに進む蝸牛 幸風
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年7月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
大鍋のたぷんたぷんと一夜酒 愛 悪童の頃瓜番に追はれしと 同 瓜番の灯りを返す獣の眼 同 この辺り魔法使ひの夜店らし ひとみ 甘酒のとろみも憂さも呑み込みぬ 久恵 蟬時雨遠くに聞けば海凪ぎて 桂 逆転か球は外野へ峰雲へ 由紀子 夕雲はマグマ色して浜万年青 久恵 咲き疲れてゐるかも知れぬ水中花 ひとみ 丁寧にハンカチ畳み恋語り さえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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fudeen · 18 years
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水平線の向こう側
 
 
将に今 陽が沈まんとする あの 水平線の向こうには どんな世界が 拡がっているのだろう 大海原を超えて いつかは行ってみたい まだ見ぬ世界に じっと静かに 想いを馳せる                 ------------------------ 水平線に沈む夕陽を、ちょっとクールに捉えてみました。 カメラ任せに撮った shot は、レッドエンハンサを使ったような、オレンジがかった shot だったんですが、自分のイメージ、というか記憶色としては、沈む太陽を追いかけるように、パープル系からブルー系へ、そして夕闇へと繋がるグラデーションがとっても美しかったので、空のくすみを取り除くよう、色温度を下げて、ソフトの指示より 1/3 ほどアンダーに現像してみました。 この日は高い位置の雲も少なく、焼ける、という状況ではなかったので、それを逆手にとって、水平線の向こうまで透き通るような、透明感の高い空気を表現するほうに、表現を振ってみました。 でも、水平線と太陽との間に、若干の雲が残っていたのは、撮影意図に反してちと残念でした。 西側に海岸のある地域の方にとっては、ごく在り来たりの日没かもしれませんが、私自身は水平線に沈む夕陽を滅多に見られない環境で生活してるので、こんなに透明感のある、焼けない日没もまた、とってもドラマチックに感じました。 眩しい晩夏の昼下がりから、徐々に光量を落として夜へと向かう、ゆったりと澄んだ時間は、日常に埋没して濁った心の澱を、綺麗に洗い落としてくれるようでした。   透き通った、クールな日没に乾杯です!     ☆ Shooting Data ------------------------ ○ camera : CANON EOS 20D with Olympus ME-1 ○ lens : CANON EF-S 17-85 mm F4-5.6 IS USM ○ focal length : 85 mm ( compared to 35mm format : 136 mm ) ○ shooting mode : Aperture-Priority AE ○ Tv ( Shutter Speed ) : 1/500 sec. ○ Av ( Aperture Value ) : F 8.0 ○ ISO speed rate : 100     ☆ Developing Data ( RAW ) ------------------------ ○ development : RAW image developed by SILKYPIX Developer Studio 3.0 beta ○ exposure compensation ( by camera ) : -1/3 EV ○ exposure compensation ( by developer ) : +2/3 EV ○ total exposure compensation : +1/3 EV ○ white balance : 3,500 K ○ sharpness : pure detail manual ( outline emphasis : 18/100, detail emphasis : 75/100, false outline control : 25/100 ) ○ tone adjustment : average contrast [ ±0 ] ○ saturation : a little vivid [ +1 ] ○ color mode : film color velvia ○ fine color controller : adjusted ○ high light controller : manual ( color tone - brightness control : 25/100, saturation - hue control : 70/100, high light compensation : 50/100 ) ○ dynamic range expansion : +2.0 EV     ☆ Location & Target ------------------------ ○ location : 南原千畳敷 ○ target : 海に沈む夕陽
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chikitam · 5 years
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八丈島最高でした👏
最終日は晴れたけど波が高くて足元しか入れなかった…でも海も山も景色めちゃくちゃ綺麗!
(Hachijo-machi Hachijojima, Tokyo, Japan)
https://www.instagram.com/p/B2rELp4HSTZ/?igshid=1klxxlz21x0dk
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aki0810 · 5 years
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『白浜旅行 (#旅行 ) 』 . . . 今日まで 南紀白浜へ旅行に 行ってます~😄 今回の旅行は いつもと違って いろんなところに行って 写真撮ったりの旅行ではなく 宿泊先近辺で のんびりするのが 目的の旅行です~🎵🎵 今までとは違う旅行でしたが 海でのんびり日焼けしたり 自転車で観光地をまわったりと 基本的に のんびりとした 旅行だったので 体力的にも精神的にも 落ち着かせることが できました~👍 ただ 名古屋から南紀白浜までが 300km以上なので かなり遠いですね~w 帰りも300km以上だから 適当にどこか寄り道して のんびり帰りますか~😅w 🚩#和歌山県 #田辺市 #白浜 ⌚#2019年 09月03日(火) ㊙️#白浜旅行 (#トラベル ) . . . #和歌山旅行 #南紀白浜 #のんびりとした旅行 #海  #白浜海水浴場 #千畳敷 #三段壁 #平草原展望 #チャリ旅 #自転車 #観光 #のんびり #リフレッシュ #いつもと違う旅行 #2泊3日 (和歌山県 南紀白浜) https://www.instagram.com/p/B161rnbgJ_n/?igshid=1s25h3ig31bzu
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xf-2 · 5 years
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQ���目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには��男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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鉢を選ぶ
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しばらく間があいてしまいました 書きたいこと、死ぬ程あるのに上手くまとまらなくて、それで億劫になって全然実行に移せないの…なんとかせな… 仕事だとある程度納期も目処もあってそういうことはないのに、個人一人で発信するものって自由ゆえに責任があるから凄くこだわってしまうなぁ😭
無駄な記事作ってもサイトが見にくくなっちゃうから厳選したい そのためのベストな映像や言葉が作れていない って感じで気付けば何日も経ってるので 過去を恥とせず糧にしてもっと気楽に発信できる自信を持たねば…と自己肯定力上げたくて、ここ数ヶ月そっちに全力になっていました (ブログ書いてないどころか人生迷子になってた)
年内のWeb内覧を目指してリハビリ記事���書こうと思います 今回は、“鉢”の話です^^
家づくりではインテリアでもエクステリアでも植物との関わりは重要ですよね まぁなくても問題ないんだけど… 特に我が家のようなミニマルな形状の家では、グリーン1本で表情が足されるので、私にとってはあればより良くなる、という存在です
地植え出来ない場合は、家と鉢との相性が凄く大事
でも土の入った植物は重いし、何より生きてるから、表情うんぬんよりも“管理”をどうやっていくかってネックだと思うのです
我が家には、バルコニーが南と北の2ヶ所にあって、それぞれ植物を置いているのですが、住んで3年目を迎える今、意匠的にも管理的にもやっと自分にとってベストだなぁって方法が見つかったので
地植えではなくて鉢植えならアリ…なんて方にこの記事がご参考になればなぁと思います^^
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まずは南側
こちらのバルコニーは公園の木々を借景していて、そもそもグリーンが不要なくらいなのですが 私の唯一といっていい趣味が園芸なので、日当りがいいこちらでいくつか植物を育てています 趣味でもあり、苗から徐々に大きくしてそれが将来地植えする際に自分に向いているのか実験する場でもあり、1度地植えしたら移植が難しい植物の養生の場でもある感じです 我が家の庭は減額のため完全にセルフなので、探り探り… 家づくりでの植栽は最初から完成させず時間をかけていいものだと私は思っています^^ それで、以前は上の写真のように、奥の植物にはスタンドを使って高さを出したりしながら“ナーセリーポット”という生産者さんが使う再生ポリエチレンの鉢で育てていました(我が家の建築家Wさんにおすすめ頂きました😊)
数年前は特定の場所でしか買えない印象だったけど 最近はホームセンターでも見るようになってきたかも サイズは限られますが無印にも取扱いがあるようです
シンプルで、安いし、軽いし 太陽光を吸収して根の生育も早いし 全体のバランス見て組み替えやすいし 茂れば鉢の存在感も最小限に出来るし 本当にメリットが多い鉢だと思います
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デメリットとしては
この方法、割と無限に鉢が増えちゃう…😂 苗って基本数百円だから、私つい買ってしまうんですよね 一年草は消耗品と考えて、ある程度咲ききったらダラダラ育てずにサクサク入れ替えるんだけど 好きな植物に偏りがあるので、次に欲しい品種を欲しいタイミングでっいうのは無理だからどうしても鉢が重複したりして… これは個人の物欲の問題もあるから買わなきゃいい話なんだけど、市場との兼ね合いもあるからけっこう難しい(言い訳) バルコニーの5分の1くらいを鉢が占領しだした時に このままじゃ大量の植木鉢で燐家の敷地までギリギリに攻める系の人になってしまうのでは?怖すぎでは???と思いました なにより、鉢単体でいくつも置くと、シンプルに掃除がめんどい😇
鉢と鉢の隙間に枯葉が入っちゃったり、受け皿の跡が床についちゃうのですが、当然、一回全部どかさないといけないから掃除の中でも大掛かりな分類になっていました
余談ですが、通常はマンションなどのバルコニーは汚れが目立たないようにグレーなどの中間色になっていることが多いのに対し、我が家はいずれウッドデッキを足す仕様&減額として浴室に使っているFRPと合わせたホワイトで仕上げて頂いているので、比較的掃除の頻度が多いと思います ただここで、ホワイト=汚れに弱いという解釈をして欲しくありません (白が好きだけど汚れやすいから諦めよう…という方のご参考まで!) 確かに何もしなければ汚れは目立つのですが 床でも壁でも、太陽の光が反射すると、逆にどの色よりも汚れが見えにくくなる、というのが私の実感です 素材にもよりますが、色落ち・色褪せという概念も気にせずに掃除出来るのもいいところ 私の場合は根底には何色だろうがマメに掃除すべきだと思っているのと、むしろホワイトだからこそ少しの汚れでも早めに掃除しとこうとハイペースでできている可能性もあって…いっそデッキ張らない方がいいかもレベルで自分に向いている状態です 白は汚れる、という固定概念はとても勿体ないです^^ 話をもどして… 私は、余計な苗を増やさないためにも 白い床の掃除ペースの相性のためにも 鉢を替えることで対策しようと思いました
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最終的に、長方形の大きな鉢を、2つ横並びで配置するのがベストでした
使ったのは、KONTON(by Yamatei)の ファイバークレイシリーズ/ラムダ・スリム 品番:FM-012K80E
高木(といっても低めに仕立てる)をメインに その間に低木と草を挟んで… 草類の中でも一年草は3カ所に絞り、買い替えるのはその分だけと決めることにしました
趣味といえる趣味がなかった私がちまちま園芸を続けた中で、自分に合う植物がだいぶ絞れて、絶対値が決まりました(このプロセスがあったからこそ…) 純粋に、ビジュアルもスッキリしたと思います^^ 大きな鉢を検討した際ひっかかっていたのが ・高額 ・移動が大変 な点だったのですが
KONTONに以前はなかったスリムタイプが増えて価格が少しリーズナブルだったのと、よく考えたらこんなバカデカくて量産しにくいもの、高くて当然なんだよなぁっていう納得ができたので踏ん切りがつきました😂 移動に関しては、キャスターで解決しました ダイソーの耐荷重20キロ(神すぎ)の花台キャスターがあるのですが、それがシンデレラフィットしてくれたので鉢底に2つ貼り付けています(屋外用ではないので自己責任)
写真はかなり低めの位置で撮っているので若干キャスターが見えますが、普通の目線からなら気になりません^^
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寄せ植え風だけど、そうではなくて 大きな鉢に直接植え込まず、今まで使っていたナーセリーポットのままポンポン入れているだけです^^
この方法がほんとにラク !!!!!!(120dB)
もしかしてわざわざ記事にするまでもなく既に皆やってるのかもしれないと不安になるレベルでラク…私が情弱なだけなのか?
土を鉢全体に入れるより全然軽いし、植物の組み替えも簡単 土質がアルカリ性だろうが酸性だろうが苗を隣りに出来るし 根が交わる事がないので寄せ植えみたいに痛む事もないです^^
以前はポット苗を買ったら出しっ放しにするのが嫌で即日植え替えていたけど、今はとりあえずバランス見よう〜とこの鉢の中に仮で入れておいて、余裕ができたタイミングでワンシーズン分の根を見越した鉢に植え替えるだけになりました キャスター分床から浮いてるから今までついてた鉢跡もなくなり 掃除の時は片手でサッと動かせます ファイバークレイは見た目に重厚感があるのに普通の鉢に比べ軽量なのが特徴で、台風の際も、キャスターの助け&テコの原理で私一人で普通に室内に取り込めました (でももしかしたら私が腕力ゴリラなのかもしれない) (夫は肉体系公務員で災害時は強制出勤なので基本私が一人で台風対策しますがゴリラなので大丈夫です)
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南側のバルコニーは、実は少し西に振っていて 時期によってけっこう陽の当たり方が変わります
陽の向きに合わせて植物を移動させるのも、本当に気軽に出来るようになりました 水やりの頻度が多い夏はバルコニーに出るのがめんどくさくて、窓をあけただけで管理が出来るように窓際に鉢を移動させます
普段はノーカーテンなのですが 夏は一時的な日よけとしてリネンカーテンをつけていて 窓際の植物の影が映り… 新しく見つけた好きなシーンになりました^^
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こちらは北側 とても小さいバルコニーなので、鉢は1つだけ置いています
南側はシルバーリーフやオージープランツが多いのですが 北側は日本らしい木を置きたいなと思って…(謎のジャパンマインドで) 日照条件的にもモミジにしています ただ、あまり和風すぎてもまわりと合わなくなるから 細長いラフな葉をした“青七五三”という品種にしました
今後、枝をもっと太くしてクセをつけるのと、土の化粧を苔にするのが課題
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鉢を1つだけにする替わりに、存在感がある鉢にしたくて 鈍い銅色の釉薬が塗られているものにしました
こちらもKONTONの ビトロシリーズ/ドゥオ 品番:VT-002D16P 高さ約50cm、16号のバカデカサイズです
大型の鉢ってちょっと号数が上がると一気に数千円高くなっちゃうんですよね😭 でもそれでチキって中途半端なサイズに下げると、置いてみたら意外に小さくて(というより高さ&安定感が出ず)植物が映えなかったりします もちろん置く場所の広さにもよると思うんだけど 一般のマンションよりもむしろ狭い(約一畳)くらいの我が家の北側バルコニーでも、高さ50cmくらいでやっとしっかり存在感を出せるなと感じたので 他に何も置かずに植木鉢ひとつで目立たせたい場合は特に、予算は下げない方がいいと思います 入れたい植物がまだ若木でも、鉢カバーとして使ってインナーポットの号数を少しずつあげればいずれ成長が追いつき、絶対元もとれるはず 単体置きだからバカデカサイズがいいけど、どうしても安く済ませたい・素材は二の次って方は、最初に出て来たナーセリーポットの持ち手付きが、個人的にはオススメできます とにかく、植物が成長し切っても根がまわらないくらい大きなものを思い切って選ぶのがベターだと思います…! 北側も、同じくキャスターに乗せているので掃除は簡単^^ ただ、こちらはファイバークレイではなく陶器で超!重いので、台風時は家に入れるのを諦め、キャスターから降ろしまわりをエアー緩衝剤でモフモフに包む&植物だけ抜き取って室内に取り込むという対策をしてます(壁に囲まれているのもあるかもしれないけど、風などないかのようにビクともしてなかった…岩かよ…)
このバカデカ鉢を一人で維持するためにも私は継続してゴリラでいる必要がある
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住んでから選んでも全然いいと思いますが 地植えしない方・バルコニーや室内に鉢を置きたい方は 家づくりで、大型の鉢の分の予算をとって���くと安心です^^
我が家はもうすぐ、竣工3年
自分に合うものが少しずつ見えてきています 家具も徐々に買い足し・買い替えしているので、またご紹介しますね
※大変遅くなりましたが、過去コメント頂いた方に、お返事致しました! 頂いたコメントは記事の更新のタイミングでお返事することが多くなり、お待たせしてしまい申し訳ありません…!
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2ttf · 12 years
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fudeen · 19 years
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海の向こうに...
 
 
海の向こうの 島影に 今にも 夕陽が 沈みます 沈んだ後も 残された雲を 染め上げたまま 静かに 時が 流れていきました きっと 穏やかな明日が 来ることを そっと 教えてくれているのでしょう                 ------------------------ 皆さんの夕景に刺激されまして、夕焼け空をUPしました。 今にも沈みそうな時から、完全に沈んで星が出てくるまで、 親しい仲間達と、じっと見つめていました。 ちょっとだけ、青春の頃に戻ったような気がしました。     ------------------------ ○ camera : CANON EOS 20D ○ lens : CANON EF-S 17-85 mm F4-5.6 IS USM ○ focal length : 44 mm ( compared to 35mm format : 70 mm ) ○ shooting mode : Aperture-Priority AE ○ Tv ( Shutter Speed ) : 1/40 sec. ○ Av ( Aperture Value ) : F 11 ○ ISO speed rate : 200
------------------------ ○ development : RAW image developed by SILKYPIX Developer Studio 2.0 ○ exposure compensation ( by camera ) : ±0 EV ○ exposure compensation ( by developer ) : -1/2 EV ○ total exposure compensation : -1/2 EV ○ sharpness : a little strong, strong [ +1 ] ○ tone adjustment : a little strong contrast [ +1 ] ○ saturation : a little vivid [ +1 ] ○ color mode : expected color 2
------------------------ ○ location : 南原千畳敷 ○ target : 日没直後の八丈小島
 
 
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canty-essay · 3 years
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洗濯大好き、私の幸せ
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 昔から家事の中では洗濯をするのが好きだった。と言ってもやたら家中のものを毎日全部洗うというようなことではなくて、自分なりにこれはこういう洗い方でと、洗剤を変えたり、水の温度を変えたり、ちょこちょこ工夫するのが楽しい。そうはいっても手洗いするものはわずかで、ほとんどのものは洗濯機に任せるのだが、洗う時間と脱水する時間をその都度変えてみたり、わずかの工夫をする。水のバシャバシャいう音も心地よい。
 洗いあがったものをパンと振って、干すのも楽しい。洗濯バサミにはさむ作業とハンガーにかける作業は洗濯機の上に渡した棒に吊るして行い、出来上がると2階のベランダに干しにいく。
 我が家のベランダは東側にあり、午前中が勝負だ。シーツなどの大物は直にベランダに持っていき、バサッと振ってロープにかける時の気持ちよさ。ベランダの目の前は雑森林で他に家もなく、まるで森に向かって洗濯物を投げるように干すのだ。これでお天気がいいと、気分は最高だ。
 ところが所詮は他人の土地。長年雑森林としてほっぽらかしてあった隣地の生産緑地の地主さんに相続が起こり、突然木々は切り倒され、あれよという間に化学物質のかたまりのような建売住宅が12棟も立ち並んだのである。
 あろうことか、私���愛するベランダの半分は境界線ギリギリに建てられた隣家に視界は遮られ、まさにその隣家の屋根が手の届くところに現れた。ものが干せるスペースも半減した。仕方がないので、枕を干すのに隣家の屋根の上に並べてみた。熱くなった瓦で、完全熱射消毒された感じにはなったが。
 洗濯干し場も半減したが、我が家の一階の部屋はさらに悲惨なことになり、朝になって雨戸を開けても、開けるのを忘れたかなと思うほど、暗くなってしまった。洗濯の楽しみを奪われ、色判断に大事な光もスタジオには届かなくなった。
 コロナ騒動が起こり、部屋も暗くなったが、世の中も暗くなってきた。「うーん、このままではいけない。これからの時代を生き抜くには、農業が大事かもよ?」何か打開策が見つかるかもと思い、山梨県での農業体験に申し込んでみた。
 がら空きのあずさに乗り、小淵沢に向かう。初めて会った農業体験仲間は、話してみると、山梨県北杜市への移住を考えている人が大多数だった。二日間の農作業を終え、帰りじたくをしていると、一人の女性が北杜市内の物件を見に行くという。おもしろそうなので、私も便乗させてもらうことにする。その女性は、自分も一緒に住めるシェアハウスをこの土地で始めたいということだった。
 まず一軒目はドームハウス。ドーム型の家だという。へーどんな家かしら。わりあい大きな幹線道路沿いのカフェを曲がって4軒目に、その家は現れた。木立の中に苔むしたようなドーム型の家が現れた。「物語の中のおうちみたい! なんてかわいいのかしら」
 案内の不動産屋さんが、家の鍵を開けるのももどかしく、家の中に飛び込む。そこは全て無垢の木組でできた、大きな空間が現れた。サッカーボールの内側のように、六角形と五角形が組み合わされてドーム型が形成されている。天井板というのは無くて、ドームのてっぺんからは、南国のような大きな扇風機が下がっている。
 玄関扉を開けてそのまま広がった空間には、左側に薪ストーブコーナー、右側に大きなダイニングテーブルが置かれ、その奥にはキッチン。キッチンを遮るように階段が伸びていて、ロフトへと続く。
 ロフトからダイニングにいる人に話しかけるのも容易どころか、ドームの不思議な音響効果で、独り言でも聞こえてしまいそうだ。プライバシーがあるのは、ドアのあるトイレと洗面所・お風呂、玄関横の寝室のみとなる、空間は大きいのに一体感のある作りだ。これから夫と二人暮らしになるのだったらいいかもしれない。機織りに来るお客さまも、この家の作りをおもしろがってくれそうな気がする。玄関前のデッキが広く、ここでお茶を飲んだり、機織り機を出してトンカラしたり、ちょっとした大工仕事とかなんでもできそう。敷地は300坪あり、様々な木が植えられ、隣地はレタス畑となっている。
「この家で暮らしたら、どんなに楽しいかしら」私にはここで自分がいろんなことをしている姿がまざまざと目に浮かんだ。すぐにこのことを家族に伝えようと思い、「今からなら、次のあずさに間に合うので、これで帰ります」といとまを告げて、東京の自宅へ急いだ。
 四日後、息子の運転で、普段は別に住んでいる娘も誘って、夫と愛犬も乗せて、北杜市のドームハウスへと向かう。
 「どうかしら、この家? これからこの家に住もうと思うのよ」「北杜市に住むの?」「そうよ。もう東京に住んでいる場合じゃないわ」「お金はどうするの?」「もうじき、おじいちゃんの遺産が入るわ。たぶん足りると思うの」
 かくして、私たちは北杜市に住まいを移した。標高千メートル、右を見れば八ヶ岳、左を見れば南アルプスと奥秩父。デッキにテーブルを出し、前の持ち主さんが植えたブルーベリーを摘んできて、朝食に並べる。「私たち、なんて幸せなのかしら。もう何もしなくて、ただ生きているだけで幸せだわ」
 新調した洗濯機を回す。今度の洗濯機は、おまかせボタンが幅を利かせて、洗濯時間や脱水時間は好きには変えられない。そのぶん、洗濯の一連の動作を丁寧にやってみる。洗濯そのものは洗濯機がするのだが、その前後を丁寧にしてみる。汚れているものは下洗いをしてネットに入れる。適温のお湯に環境に優しい洗剤を溶かして、よく泡立ったら洗濯物を入れる。洗濯が終わったら取り出し、洗濯物をひとつひとつはたき、さらに丁寧にする時は、閉めた洗濯機のふたの上で、洗濯物のシワを手で伸ばす。新しい洗濯機にしたら、宣伝文句通り、絡みにくくなり、取り出しやすくなったのが嬉しい。さらに洗濯槽内のごみ取りネットをきれいにして、他のネットと一緒に乾かす。槽内もきれいに拭く。
 洗濯はどこかお茶の作法に似ていると思うと言ったら、笑われるだろうか。その昔、中学生の頃、裏千家の先生のお宅に二年間ほど通った。母が行儀見習いを娘にさせようと思ったことに従ったというより、何かおもしろそうと思って仲のよい友だちと通った。
 実際には、足はしびれるし、ひとつひとつの動作の意味がわからなかった。それでも、一年ぐらい経つと一応、一連の動作はできるようになった。そっとひしゃくを釜に置いたり、四角く丁寧に畳んだ布で茶杓を拭ったり、パンと袱紗をはたいてみたり。
 あの中学生の時以来、茶道からは全く離れ、抹茶もカフェインが強く苦手になった。けれどもあの時意味のわからなかった動作が、お茶の作法にとどまらず、日常の全てに応用できるのだと、今勝手にそう解釈して、とても腑に落ちている。客人をもてなす気持ちも、洗いあがったものを使う家族やお客さま、ひいては自分自身をも大切にしているからと考えれば、気持ちがいい。当時先生はすでに高齢の方で、今はもうこの世にはいらっしゃらないと思うが、「先生が教えてくださったことは、このことなのですね?」と訊いてみたい。
 さて、洗濯機の横の勝手口を開けると、すぐ洗濯物を干す事ができる。庭にロープを張り、緑の木立の中に洗濯物を干す。洗濯物の重みでロープがしなり、服の裾が草地につきそうな中を蝶々が舞う。「ああ、なんて幸せなのかしら」
 デッキに折りたたみテーブルと椅子を出し、時間帯により動いていく木陰を求めて、テーブルと椅子をずらしながら、パソコンで原稿を書く。あ、パソコンの角にとんぼが止まった。風が木々を揺らす音が心地いい。足元では愛犬るりが、大あくびをして寝そべっている。庭のすみでは夫が畑を作ろうと鍬を振るっている。遊びに来た娘は、台所でみんなのためにズッキーニパスタを用意している。息子は庭にテントを張って、キャンプ気分を味わうことにしている。夢なら覚めないでほしいと思う、この幸せである。
  2020年8月
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kachoushi · 3 years
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各地句会報
花鳥誌 令和3年12月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和3年9月2日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
落し水音のみ聞こゆ闇夜なり 喜代子 新涼や見知らぬ人に会釈され 都 ほろ酔ひし色なき風に身をゆだね 同 紅さして女艶めく秋の夜 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
露の世の明かりを映す黒真珠 緑 聖ルカの塔に露けき鐘鳴る日 順子 JUNASHIDAをお召しに秋を麗らかに 光子 繋がれし手をいつほどく鰯雲 ゆう子 人形の家の中にも良夜かな いづみ 秋めくや海を見るとき横顔に 千種 猫過る秋霖の坂黒々と 慶月 秋潮のしづもる中を渡られよ 悠紀子 刃の触るる刹那はち切れたる西瓜 要 伊勢丹のリュック花野を遠ざかる 千種 一炷の揺らめきの香を黒葡萄 瑠璃
岡田順子選 特選句
草茂る中仏法も神託も 荘吉 目覚めたる百鬼へ夕風の風鈴 光子 蚊柱を抜けて主宰の幻に 三郎 いつときの片陰にあり先師墓所 梓渕 朴家てふ墓の木槿の夕かな 要 八月の某日祖父は屋根の上 伊豫 八月の海へ子浸す父と母 慶月 老人は老人を避け今朝の秋 千種 八月や肩怒らせてシャツ乾く 同 七夕を祀る一人の遊びとす 伊豫 故国より灼けイザベラの墓所の昼 梓渕 青山の一番強い蚊に出会ふ 三郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月9日 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
静かなる故山はみだす虫時雨 かづを 星月夜鳴き添ふもののある狭庭 同 赤とんぼ舞ふや軍馬の碑に 同 語り部となりて卒寿の原爆忌 笑 仰向けの蟬にひと声かけもして 同 天明と読めし地蔵に赤とんぼ 天空 赤とんぼつと休みきて飄と去る 同 頰杖を突きて来し方虫を聞く 雪 野仏に続くこの道曼珠沙華 啓子 故山訪ふ夕暮れはまづ赤とんぼ 希
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
芒芒と過ぎゆく夫のなき夜長 悦子 魚捌く鈴虫の音の近くあり 幸子 天空に静止蜻蛉は何を見る 佐代子 畦道を通せんぼして曼珠沙華 和子 声そろへ陸軍墓地のかなかなは 美智子 追悼の筆重き夜や蚯蚓鳴く 都 神域を蜩の声満たしをり 宇太郎 正しさは時々淋し白桔梗 都子
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令和3年9月11日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
三叉路��古りし地蔵や秋の蝶 晶子 いつまでも続く現役木の葉髪 同 振り向けば頰を掠めて秋の蝶 同 銀漢や規則正しき子の寝息 のりこ 一叢に残るぬくみや秋の蝶 岬月 農道は馬の優先蝦夷の秋 同 あつてよしなくてよき名や草の花 同 マンションてふ鉄琴の音や虫時雨 雅春 威し銃日本海へと鳴り響く 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
緑蔭に先客のあり風のあり 久子 月仰ぎ中子先生召されけり さよ子 裸婦像の肌赤銅に日焼けたる 世詩明 秋雨にぼんやり窓をながめをり 三四郎 甕墓の千年杉や盆の月 ただし 台風を呑んで白波岩を噛む 世詩明 サングラス案外臆病かも知れず 上嶋昭子 女には勝てぬ男や女郎花 世詩明 深み行く秋に地の声天の声 英美子 夕映えにますます赫し赤とんぼ みす枝 鈍行をゆれて見送る秋桜 上嶋昭子 鍬入れば抱へて重き八つ頭 三四郎 葛の蔓引けば一山曳く如し みす枝 蜑の焼く秋刀魚見守る猫のゐて 時江 虫時雨明日のいのちの知らざるに 信子 秋の暮回るを止めた観覧車 三四郎 中子師のご恩繙く秋灯下 みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月13日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
筆止まりおけら鳴く声戻り来る 秋尚 日替りの夜食に力受験生 エイ子 大漁の船団帰港鰯雲 せつこ 雨上がり重たき夜気におけら鳴く 秋尚 螻蛄鳴くや屋号で呼びあふ村の衆 あき子 ジャス風の蘇州夜曲や夜食とる 貴薫 仕入れ荷を解く祖父の背鰯雲 美貴
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月14日 萩花鳥句会
芸北の紅蕎麦畑目に浮かぶ 祐子 厨房に迷ひ込みたるコクワガタ 美恵子 米寿まで一年草の鳳仙花 健雄 秋雨や昔ばなしを二人して 陽子 みどり児の揺籃に添ふ月の秋 ゆかり 古戦場跡曼殊沙華曼殊沙華 克弘
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月15日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
中子師の色紙に似合ふ秋海棠 令子 満月に照らされる雲より白く あけみ とんばうの骸を庭に埋め供養 令子 覗き見る母の行李や蚯蚓鳴く 登美子 箸紙に深謝の一句月の客 同 秋薔薇の棘は淑女の指を刺す 同 中子師の思惟を偲べはちちろ鳴く 令子 虫を聴く早朝ヨガの息深し みえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月15日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
児を乗せて蜻蛉を載せてペダル踏む 世詩明 精霊蜻蛉見送る人の寄辺なき 同 露の世に女将と生きて今仏 千代子 秋風の優しき人を連れ去ると 昭子 母と子も面会できぬ秋思かな 令子 夕蜻蛉淋しき影を残しけり 啓子 新米や昭和は飢ゑと飽食と 泰俊 流し目の女描きし古団扇 雪 行燈に灯の点りたる簾かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
祭待つ皮貼り替へし大太鼓 かづを お入りと呼びゐる萩の寺なりし 同 犬の瞳のきらきら澄んで天高し 清女 柏翠忌終へし三国へ鰯雲 同 百畳の藺草の香り夏座敷 ただし 難破せし船の破片や秋の波 同 一枚の落葉にもある物語 みす枝 中子師と歩いた道に百日紅 千代子 母と娘の影の重なる暮の秋 真喜栄 小倉山銀河と名付く石も秋 雪
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令和3年9月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
森の音秋水の音として有り 幸子 一本の木道に添ふ花野かな 斉 音もなく降る雨に揺れ秋海棠 芙佐子 水澄むや虚子の元へとまたひとり 千種 蛇穴に入る人の背の遠ざかる ゆう子 釣舟草縺れもつれて藪の中 亜栄子 竹伐りて土留めの竹となりにけり 久子 花野にもならず遺跡の埋もれあり 炳子 寺奥の闇しんしんと竹の春 亜栄子 子規の忌や野にも水にも花赤し 千種
栗林圭魚選 特選句
風を呼ぶ高さ競ひて藤袴 秋尚 風ごとにゐずまひ正す蜻蛉かな 眞理子 糸瓜忌や花の名覚え歩き継ぐ ゆう子 水澄むや虚子の元へとまたひとり 千種 蛇穴に入る人の背の遠ざかる ゆう子 森深く法師蟬との別れかな 幸子 虫籠に松毬一つ持ち歩く 久子 葛咲きぬ遺跡の森の木牌に 炳子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和3年9月21日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
小次郎の燕返しの像涼し 雪 つゆけしや石の貌又石の声 同 浮世絵の女流し目古団扇 同 古扇かつて虹屋を謳はれし 同 灯を消せば闇ゆたかなり虫時雨 信子 六道の辻は坂道曼珠沙華 同 秋袷本音ばかりで生きられず 上嶋昭子 石徹白は元越の国稲実る ただし
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九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
大阿蘇の畝鋤上げて大根蒔く 朝子 月光の掌より零るる夜なりけり 桂 人波に呑まれ遠のく秋の人 久美子 名月や馬鹿も阿呆も照らしゐて 桂 秋夕焼莨くゆらす休み海人 洋子 命ふと消ゆると思ふ野分雲 朝子 行く夏や少年波に乗れぬまま 桂 柱状の窟をんをんと秋怒濤 千代 秋風や人差指に来る孤独 孝子 海光の一島飛魚を干しゐたり 佐和 爽やかにかみさまおはやう園児たち 志津子 波の穂の風に揃はぬ神の旅 佐和 水の秋水琴窟の遠谺 伸子
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令和3年8月14日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
いいですなあと句の評始む生身魂 秋尚 いつよりか雲高かりし法師蟬 百合子 新涼や机上に白き貝ひとつ 美枝子 南瓜畑草間彌生の絵のやうな ゆう子 せぐくまる墓碑に陽子の盂蘭盆会 幸風 一族の集ふ真中に生身魂 多美女 いくつかの夢はかなひて生身魂 美枝子 直売の幟の灼けて南瓜畑 三無 法師蟬啼き止む一ト日恙なく 多美女 力籠めビタミン色の南瓜斬る ゆう子
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naototanno · 6 years
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日本ではじめて世界自然遺産に登録された青森県の南西部と秋田県北西部に広がる白神山地。 世界最大級の規模を誇るブナの原生林をはじめとする多種多様な植物や、天然記念物のクマゲラ、カモシカやツキノワグマなど様々な生き物も生息する自然豊かな場所。 今回2泊3日で白神山地やその周辺、秋田青森にまたがる様々な見所を訪れ、大自然を満喫してきました。 訪れた場所: 岳岱自然観察教育林(秋田県藤里町) 白神山地世界遺産センター藤里館(秋田県藤里町) 峨瓏大滝(秋田県藤里町) 世界遺産の径 ブナ林散策道(青森県西目屋村) マザーツリー(青森県西目屋村) ビーチにしめや(青森県西目屋村) 白神山地ビジターセンター(青森県西目屋村) 十二湖(青森県深浦町) 日本キャニオン(青森県深浦町) 千畳敷(青森県深浦町)
Camera: Sony a7s + Pilotfly H2 3-Axis Gimbal Stabilizer Lenses: Sigma 24mm f1.4 Edit: Premiere pro Music: Music: Lots of Candy by Ian Post
facebook: http://www.facebook.com/solohikingLOG flickr: http://www.flickr.com/photos/132153639@N05/sets/ twitter: http://twitter.com/solohikingLOG Instagram: http://instagram.com/naoto_tanno Google+: http://plus.google.com/114025384503560347473
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photoconcerto · 4 years
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南アルプス大展望(南信州飯田市しらびそ高原) Viewing the South Alps Japan at Shirabiso Highland
南アルプス南部の大展望と中央アルプスが望める長野県飯田市上村、通称「遠山郷」のしらびそ高原(標高1900m)に行ってみました。しらびそ高原は美しい星空が見られることで有名で、付近には「天空の里」とも呼ばれる「下栗の里」があります。
それにしても、ここに行くのもなかなか大変です。飯田市内から県道83号線、251号線を経て矢筈ダム、三遠南信自動車道矢筈トンネルを抜けてようやく遠山郷の幹線道路である国道152号線に出ます。そこですぐにしらびそ高原に向かう「エコーライン」に入ることができます。しらびそ高原まで約16km、舗装はされていますが、狭い林道の様な道を走ります。途中、地蔵峠を経て大鹿村に抜ける分岐(現在、災害のために通行止め)があります。かなり走ったなと思う頃に、しらびそ峠(標高1,833m)に到着です。登山の出発点にもなっていました。荒川岳(荒川三山)を中心に南アルプスの南部が見えます。
ここからしらびそ高原の宿泊施設「天の川」まではすぐです。山の上にもかかわらず広い平坦地が広がり、確かに「高原」の様相です。ここからも正に南アルプスの大展望台です。左から、荒川岳(荒川三山、最高標高3,141m)、小赤石岳(標高3,081m。主峰の赤石岳 標高3,121mは陰になり見えない)、大沢岳(標高2,820m)、中盛丸岳(標高2,807m)、兎岳(標高2,818m)、聖岳(標高3,013m)、上河内岳(標高2,803m)などが見えています。反対側には中央アルプスの千畳敷カールを挟んで宝剣岳(標高2,931m)と木曽駒ヶ岳(標高2,956m)、そして遠くに乗鞍岳も良く見えています。
ホテル「天の川」は予想外に大きな施設ですが、この日は休業日だったのでしょうか、人影もなくひっそりとしていました。この大展望に見るためにクルマで登ってきた人たちが3~4人くらいでしょうか。静かな高原でした。これだけ広い場所があると、星空の写真(星景写真)が良く撮れそうな感じでした。
帰路は、エコーラインを「下栗の里」を経由し約20km��って、上村の中心部を抜ける国道152号線に再び出ます。「下栗の里」の少し上に、ロッジ・お食事処・駐車場があります。「下栗の里」では住民の方々の生活を守るために、外部の一般車両は集落内通行禁止になっており、集落には徒歩で向かうようです。しらびそ高原に行くには、この上村中心部から「下栗の里」経由でエコーラインを上った方が楽な様な気がしました。
遠山郷からの帰路も、国道152号線を南下するよりも、素直に飯田市に戻る方が行動の自由度が高いと思います。国道152号線は災害などであちらこちらで寸断されていて、いろいろと迂回する必要があり、結局豊橋方面まで出る羽目になります。
いずれにしても、クルマで行かれる方は道路(通行止め)情報に十分注意です。国道152号線、151号線、県道や林道、部分的に通行可能な三遠南信自動車道など、情報が散らばっていて全体が分かりにくいです。
道路情報 長野県飯田建設事務所  信州遠山郷交通情報 信州遠山郷ロードマップ                       道路に関するお知らせ・情報 浜松市                 国道152号全面通行止めについて 浜松市 
South Alps Japan   October 2020,  CONTAX645 P30+ Zonnar T* 210 mm F4.0   T* Mutar 1.4X Planar T* 80 mm F2 We can look at the enlarged images clicking the original ones.
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yagaikatsudo · 4 years
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北上川カヌー単独行① 盛岡~花巻
1997年9月23日~26日 4日間 初日・2日目 ■初日
午前10時過ぎ、曇天の空、よーやく東北の大河、北上川にカヌーを漕ぎだす。 川は2日前までの台風の影響で増水し流れもケッコウ早い。今まで何本か川を下ってきたが、全て車を使っての伴走ツーリングだったので空身での川下りだが、今回は初めてキャンプ道具一式を積んでの4日間のツーリング、しかも単独行だ。 ”いくぞ”と呟き自分自身に気合を入れ、盛岡市内中心部の開運橋の下から出発。
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↑出発地点の開運橋の橋の下 ”こんな”ハズじゃなかった”と思うくらいの川の流れの速さに少しビビったが、行くしかない。漕ぎ始めてすぐに右から雫石川、左から中津川が合流、速い流れの中でとにかく沈しないようしないよう、注意しながらパドルを動かす。 カヌーはファルト(布張りの折り畳み組み立て式)、もともと2人用で全長4.5m、最大積載量はいちよ200キロだが、僕の体重が80、キャンプ道具が30、合わせて110キロ、これは重い。こんなのが川で沈したら岸に上げるのが大変だ。それに水も冷たい。絶対、沈しない!と心に固く誓い、しぶきの立つ瀬に突っ込む。 南大橋で車イスのおばあさんを連れた男の人がずーーっと僕を見ていた。橋の下に差し掛かった時に手を振りながら 「どこまでですか~」 ときくので 「平泉までで~す」 と答える。 「ひゃ~~遠いですねぇ!お気を付けて!」 「どうも!」 と返す。 平泉は中尊寺で有名なところ。盛岡から約100キロだ。100キロと言えば東京から箱根ぐらいだ。遠いなぁ、本当に行けんのかな。。。自分で計画を立てておきながら不安になる。 更に不安なのは橋を抜ける時だ。橋脚が何本もあるため流れが左右に分かれ速さも増す。おまけに流木やゴミなど障害物が引っかかっていて面倒だ。橋脚と橋脚の真ん中を行くように少し緊張しながら漕ぐ。   で、ところによっては橋を越えたすぐそこに落ち込みがあり、勢いよく突っ込むと顔面にしぶきがかかる。ウッヒャ~~と叫びながらバランスを保つために必死にパドルを動かす。更にところによってはすぐその先が大きくカーブしていて、流れに身を任せてしまうと流れの外側へもっていかれ、対岸の岩や崖にぶつかり沈する可能性大なので、またまた必死に内側へ抜けるように漕ぐのだ。橋を通過する時は盆と正月が一度に来た時のように忙しい。 1時間もしないうちに中州へ上陸。やっぱり荷物の積み方が悪いらしく、バランスがうまく取れないので積み直す。水も少し入っているので抜く(岩で擦られて以前から何か所も船体布に穴が開いてしまい、修正布やガムテープで修理するんだけど、哀しいことに水は入ってくる)。 再び出発。 少しはバランスも良くなり、周りを眺める余裕も出てくる。後ろを振り返れば岩手山も見える。北上川は岩手県北部を源とし長さ243キロ、岩手、宮城の2県を縦断し石巻で太平洋に注ぐ。人口の集中する平野部を流れるため川の透明度はほとんど無いが、川幅も広くノンビリ下れるツーリング向きの川として有名だ。 昼メシ休憩でまた中州に上陸。コンビニおにぎりと十六茶、麦チョコで済ませる。夜行バスで東京から来たのでちょっと睡眠不足、ライフジャケットを枕に横になるとそのまま深い眠りに堕ちてしまった。気が付くとどんよりとした雲が真上にあった。目が開いて15秒ぐらいここがどこなのか分からなかった。1時間近く昼寝してしまったらしい、いいネムリだ。
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↑昼メシ休憩の中州 更に下る。 途中、子連れの釣り人と話をした。 「ひっくり返らないんですか?」 「川を下るのに許可はいらないんですか?」 朝、タクシーの運ちゃんにも 「北上を下る許可はもらったのか?」 と東北訛りできかれた。 許可を気にする日本人。 2時半ごろ、今日の目的地、日詰町の紫波橋で上陸。しかし驚いたことにスゴイ人だ。200人はいる。祭日なので河原のグラウンドで野球をしたり、応援したり、献血なんかもしてる。ここは店が近くてキャンプ向きだが、この人混みの中、突然川から上がって来た男がテントを張るのもマヌケなのでやめた。少し行くと地図に無い橋があった。2年ぐらい前にできた紫波南大橋だ。釣りをしているカップルに店のことを尋ねると、あるということなので上陸。開運橋から約22キロだ。
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↑北上川のノンビリとした流れ
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↑川幅も空も広い♪
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↑振り向けば岩手山
上陸した土手の向こうは田んぼ、カップル以外は誰もいない。 栗の木の下にテントを張る(下の写真)。
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ドライバッグに入れておいた寝袋や着替えは全く濡れていないのでホッとする。 店に食料買い出しに行こうとするとカップルの男子が、店はちょっと遠いので自分の車に乗ってて下さいと言う。おお~アリガタヤ~~。 一人旅では人の親切にドンドン甘えるべし、が僕のポリシーなので、早速、車に乗せてもらい大型スーパーへ連れて行ってもらった。 男子は千葉君と言い、今春、東京の大学を卒業して地元に戻り、高校で体育教師をしているそうだ。なるほど、あの太い腕っプシはそうだったのかと納得。大型スーパーの品揃えは完璧だった。刺身、肉、野菜、ビール、ウイスキーを買い込み、またテントまで送ってもらった。有難う。 河原では北上川の流れを眺めながら、サーモンの刺身を肴に一番搾りをグビグビ呑む。うまい!ビールはやっぱりキリンに限る♪ 豚汁の用意をし、日暮れ前に電話しようと思い、歩いて公衆電話を探す。10分ぐらい歩いて家がポツポツ見えてきたが、探し物は見当たらない。通りかかった車に止まってもらい尋ねると、70近いジイさんが出てきて車に乗れ乗れと言う。そのまま乗ると食堂に着いた、そこがジイさんの家だった。 食堂の前に公衆電話があり用を済ませると、ジイさんが座れ座れと言うので座る。クルミ餅、おはぎ(お彼岸なので)、キュウリの漬物とお茶が出てくる。食え食えと言うので食う。 ジイさんは僕がどこから来たのか、ここで何をしているのかを熱心にきいてくるので、盛岡からカヌーで下って来た、河原でテントを張ってる、等と説明すると、ジイさんは、君はたくましい、若いことはスバラシイを連発した。 続いて、家に泊まれ、風呂に入れ、テレビを見ろと言ってくれるので、ローカルニュースを見た。今日、下りながら見た北上川河川敷での凧揚げ大会もやっていた。気になる明日の天気は雨。 ジイさんは熱燗までつけてくれ、ラーメンまでご馳走になった。いやあ有難い!旅先での人情は身に沁みる等と思いつつ、ここまでは良かったのだが、やがて事態は恐ろしい方向へと進んでいった。。。 ジイさんは君がどんなところでテントを張っているのか見てみたい、車で送る と言うので助手席に座ると、たくましい、たくましいを連発しながら短パンの僕の太ももを触り始めた。。。 外はもう真っ暗。田舎なので灯りは無い。テント近くまで送ってもらったが、ここからの話はあまりにも恐ろしく、B級ホラーよりもいたたまれないので、これ以上書けない。今思い起こしても寒気がするぜ、エロじじい。
■2日目
予報通り夜半から雨が降り出した。今日は下るのをやめて停滞しよう、僕は寝袋の中で早々と停滞宣言をした。 雨の中でカヌーで下るほど僕の気持ちをストイックに駆り立てる大失恋もムンク的叫びも特に無かったので、テントの中でゴロゴロすることにしたのだ。昨日食べなかった豚汁を作り、読みたかった本を読み、朝からウイスキーをストレートで飲む。シアワセだ。 途中、恐ろしくもジイさんが僕の名前を橋の上から何度も何度も呼んだが、僕は死んだふりをして寝袋の中で酔っぱらいながら読書を楽しんでいた(実際、ジイさんは土手の傾斜がきつくて、ここまで降りてくることはできない♪)。ポツポツとテントを叩く雨音が気持ちよく、いつの間にかまた寝てしまう。 昼過ぎ、2本の足で立ち上がり、20分ぐらいかけてJRの日詰駅まで歩く。東北の9月末の雨は寒く寂しい雰囲気だ。小さな駅舎のベンチでボーッとする。夕方でもないのに高校生が多い。やっぱりルーズソックスだ。茶髪はいないがホソ眉毛はいた。つまらない。 そして再び恐ろしいことに、ジイさんが駅に向かって歩いてきたのを僕は目撃し、すぐに身を隠した。そう言えば昨日「明日はエヌテーテー(NTTの意)の集まりがあるから電車に乗って出かける」と言ってたなぁ。。。僕は何か追われる者のような気持ちで駅前の喫茶店に逃げ込み、何事も無かったかのようにコーヒーを注文した。 気分転換にコーヒーを楽しみながら友人に絵葉書を書き、マンガ「課長・島耕作」を読む。島耕作は仕事にかこつけ、しょっちゅうエッチばかりしている。そうか、やっぱ世の管理職はこんなことばっかしてるんだ、不器用なオレには到底務まらんなぁ、ヨカッタヨカッタなどと言いながら店を出る。 テントに戻る途中、ビールを買おうと小さな食料品店に入りキョロキョロしていると、店の妙齢の女性から「すみません、ビールは向かいのお店で売ってます」と言われた。どうして僕がビールを探しているのが分かったんだろ??露骨にビール・ビールという顔でもしてたのか??とにかくその女性の���力に圧倒されながら僕は向かいの店でビールを買ったのである。 テントへの帰り道、雨はやみ、雲の切れ間から月が顔を出していた。僕は美空ひばりの「川の流れのように」を口ずさみながら橋を渡った。橋の上ではなぜかヤンキーのニイチャンが2人、釣りをしていた。
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